1.
柔術完命流(かんめいりゅう)六代目師範、楢井立(ならい
りつ)の朝は早い。
目覚まし時計に頼ることなく午前五時半には起床し、四角い顔を洗面所で洗い、庭に出て準備運動を始める。早朝稽古は呼吸による体内調整と基本動作の反復が大半である。それを雨の日も欠かさず行うため、庭には鉄パイプの骨組みとビニール製の屋根が設置されていたが、その高さは設置者の身長に比例して低く、パイプの節々は腐食して錆が浮かび上がっていた。
三百六十五日、毎日ほぼ同じ時間に繰り返される、これが彼にとっての朝である。
道場での朝稽古は午前八時からの開始である。この夏休み中は体験入門者もそれなりの人数がいるため、師範代への指示や事務処理などで忙殺される時期ではあるが、早朝稽古後のシャワーと朝食は彼にとっては省くことの出来ない決まりごとであり、それは七月三十日の今日も同様だった。
頭をタオルで拭きながら楢井は台所へ向かい、電子ジャーを開け、炊けている米をしゃもじで何度かほぐした。
朝食は米に漬け物、味噌汁と納豆と、これも必ず固定されているメニューではあったが、漬け物の内容と味噌汁の具は週のうち数種類のバリエーションを用意している。楢井は大根の味噌汁を啜りながら、食卓に裏表紙を向けて置いたままの写真週刊誌をちらりと見た。
それは昨晩、道場帰りのコンビニエンスストアでセロテープと一緒に購入した雑誌だった。表紙は挑発的なポーズをとる女性タレントの写真と、極太ゴシック体のカラフルな見出しで埋め尽くされていて、武の道に生きる者が読むにはあまりにも俗すぎる内容であることは一目瞭然である。
「朝尾朋華熟女の輝き・デビュー二十周年ヌード!!」その見出しに魔物が棲んでいた。彼女がまだ十代でデビューしたばかりのころ、出演していたバラエティー番組を偶然見た楢井は、清純そうな雰囲気と礼儀正しい態度にすっかりやられてしまい、初主演ドラマもビデオに全話録画し、購入した写真集やEP盤も大切に保管している。その彼女が、最近めっきりテレビで見ないと思っていた朝尾朋華が裸体を見せたとあっては、多少の脱線も止む無しである。それでも二十分は熟慮した挙げ句の購入であり、わずか数百円の読み捨て誌だったにもかかわらず、楢井にとっては大いなる決断であった。
食事をしながらの雑誌閲覧など、これも行儀作法を考えればあまり褒められた行為ではないが、自室でじっくりと読むのも躊躇いがある。彼は左手そっとページをめくり、右手で納豆と玉子をかき混ぜた。
こ、こうも時間の経過とは……残酷なものなのかよ……!?
かつて胸をときめかせ、青春期の心の恋人だったアイドルは、肌も荒れ、スタイルもすっかり崩れ、なによりも目の周りが妙にどす黒くなっていて、憧れた清らかさは荒んだ淀みへと転落していた。
味噌汁がなんとなく塩辛い。涙でも入ってしまったのか。楢井は早く現実から目を背けたいため、ページをめくった。「立ち読み厳禁」などという貼り紙を愚直にも守った結果がこれだ。今日はよく晴れているのに、朝からなんと曇ってしまった心であろう。嘆く完命流師範は、なんとなくあるページで手を止めた。
凄惨!! 祇園祭が一転して死の祭りに!! 第二弾ルポ!!
そのような見出しよりも、楢井の目は見開きで掲載された事件現場写真の、ある一点へ釘付けとなった。
それは放下鉾(ほうかぼこ)に機動隊員が突入する直前を写した写真だった。櫓の上には倒れている全裸テロリストがいて、周囲には煙が立ち込め、すぐ隣のビルの窓ガラスは割れ、祭りの現場というよりは、中東の市街戦と見紛うばかりである。だが楢井の視線はそんな惨状より、煙の奥に小さく浮かぶ黒い影に注がれていた。
こ、これは……ま、まさか……
影は黒い仮面のようにも見え、それは髑髏のような、楢井にとっては忘れられない形をしていた。
あれは確か二月のことである。夜、品川駅へ向かう途中、これと同じ仮面をした者に辻から襲撃され、信じられない速攻の正面反り投げを食らわされた苦い記憶が、楢井の中で鮮明に蘇った。あの仮面の男は服装や体格こそ弟子の高川典之(たかがわ
のりゆき)に酷似していたものの、技の冴えは遥かに上回り、もしかすると自分をも凌駕している可能性もある。あの“柔術仮面”がいったい何者であるのか、二月以来ずっとそれが気になっていた楢井は、意外な形での再見に思わず唸り、再び味噌汁を啜った。
楢井の目覚めよりずっと遅く、朝陽もすっかり窓枠から抜け出し上ってしまった午前九時過ぎ、島守遼(とうもり
りょう)とその父、貢(みつぐ)が、目玉焼きにトーストといった、昼や夜にはまず食べない朝食らしいメニューの準備をしていた。
「今年もあんのか? 部活の合宿」
「ああ。長野のお寺でね。まだ先だけど」
「長野っていや……母さんの実家がそっちの方だよ……確か……浜松だったかな」
「静岡じゃんそれ……なんか思いっきり遠いんだけど……」
食卓にオレンジジュースの入ったグラスを置いた遼は、トーストを持ってきた小柄な父に首を傾げ、扇風機の角度を調整した。風は胸元から顎下にかけて吹き付けてくるが、涼しくもなくただ生暖かい。不快感にうんざりした彼は息を吐いた。
「そ、そうか……? まぁ……違う県だけど一応隣り合ってるだろ?」
「えっと……実家って……天津(あまつ)家の方? それとも“とうどう”家の方?」
息子の何気ない質問に父は表情を曇らせ、ゆっくりと席に着いた。
「天津の方だ……“とうどう”は東京だからな……」
よくよく考えてみると、自分は物心ついてから母方の実家というものを尋ねてみた記憶がない。しかし父の様子を見ていると、どうにも話したがっているようには思えず、おそらくはあまり触れられたくないことなのだろうと予想できる。ならばそのような話題を切り出さなければよいのに。遼はトーストにマーガリンを塗り、無口になった貢を一瞥した。
こちらから切り出しておいて無愛想になってしまうとは、どうにも後味が悪い。ただでさえ息子とは最近会話が減りがちだというのに。父は黙々とトーストを口にしながらも内心は焦り、なにか切り替えられる話題はないかと、食卓の上に畳んだままの朝刊へ視線を向けた。
「そ、そういや……阪上誠(さかがみ まこと)の初公判が十日にあるんだよな」
唐突な話題と聞き覚えのない名前に、遼は「誰それ」と短く聞き返した。
「ほら、三月に逮捕された、さいたまと大宮と……あとどっかの女の子を誘拐して、殺した……」
貢の説明に、遼は不鮮明な記憶を呼び覚まされた。
「えっと……あぁ……あの予告をメールで送りつけてた……連続幼女誘拐暴行殺害犯だっけ?」
「そうそうそれ。ひっでぇ事件だったよなぁ……その初公判」
「それがどうしたんだよ……」
「い、いや……新聞に初公判が決まったって書いてあったから……それにさ……なんつーか……そ、そうだ。ああいう有名な裁判だと、必ず同じジャーナリストが見てきた感想を新聞とかに書くよな!?」
「あぁ……佐々木……隆一とか?」
新聞で何度か目にしたことがある、著名な事件ジャーナリストの名前を口にしながら、息子は父が無関係な話題でもいいから、とにかく親子の対話を求めているのだと理解した。
「そうそうそう。傍聴席には限りがあるだろ? なんであの人がいっつも抽選に当たるのか不思議でよ」
「知らないよ……どうせ新聞社とかが余分に席でもとってるんじゃねぇの?」
「新聞社が!? なるほどその手があったか!!」
いくらなんでも話題に脈絡がなさ過ぎる。それにジャーナリストが傍聴席をいかに確保しているかなど知るはずもない。遼はすっかり興奮していた貢を無視して、オレンジジュースをぐびぐびと飲んだ。
この連続幼女誘拐暴行殺害犯に関しては、一度リューティガー真錠(しんじょう)との定例ミーティングで話題に出たことがあった。
誘拐した女児を犯し、殺害し、その順序が入れ替わることもあったが、遺体の一部を家族に送りつけ、次なる犯行予告をマスコミにメールする。この異常者による殺人事件とFOTの関連性について疑問を口にしたのは、“ガンちゃん”こと岩倉次郎だった。だがリューティガーは数日後これを否定し、それ以来教室でこの事件が話題に上ることはあっても、自分たちとはあくまでも縁のない凶悪事件としてあまり興味を持つこともなかったのは、島守家にテレビがないことも起因している。
それよりもエアコンである。昨年ほどではないが今年も猛暑であり、この首を振るスピードが妙に遅くパワーもないくたびれた扇風機では、朝食を食べるうちからすっかり全身は汗ばみ、とてもではないが快適とは言い難い。ボディビルジム「ビッグマン」でのバイト料と、現在も毎月支払われている賢人同盟からの協力料を足せば、最新式のエアコンを買うことは可能である。しかしそれをすれば、父から収入源を疑われるのは当然であるし、ちょうど昨年の今頃、父はその“異なる力”を使ったイカサマパチンコに精を出しすぎて過労により倒れていて、だからこそもっと稼いでくれとは頼めない遼だった。
波が岸壁に打ちつける音とカモメの鳴き声が、なんとも大らかな気持ちにさせてくれる。油断をすればバカンス気分にまでなってしまうだろう。しかしこれは休暇などではなく、面倒で厄介な報告任務である。賢人同盟の実戦部隊の長、白く腰の部分がくびれたジャズスーツ姿のガイ・ブルース司令は、断崖に向かって緩やかな坂道を進んでいた。
道楽や粋であると思いたいのか。だからこのような天井や壁のない大自然のもとで報告会などが開かれ、それはよくあることだとハルプマン作戦本部長は言っていた。ガイはまだ心にゆとりというものがあったため、断崖を目指す足取りもしっかりしていたが、事と場合によっては二度と呼び出しに応じない覚悟もできていた。
崖のすぐ側に設置された傘付きの白いテーブルと、やはり白いチェアに座る五人の姿が見えてきた。声が届くであろうと思われる位置まで来るとガイは足を止め、うやうやしく一礼した。
「ガイ・ブルースと申します……以後、お見知りおきを……」
英語での挨拶に小さく頷き返したのは、五人の中で最も年長であり、隻眼のブッフボルト議長である。
「取り逃がしたものの、御所での自爆を食い止めた手際は見事だったな……司令」
まずそう褒めてくれたのは、ブッフ議長の隣に座る小太りの中年、ライアである。彼は普段、米国に本社を構える証券会社のCEOを務めていて、賢人同盟の資金面においても直接的な支援を行える立場であるため、五人の中でも議長に継いで発言権が高い。唯一“異なる力”を持たぬどころか、戦闘技術といった面においても凡人以下ではあったが、同盟は軍事組織ではなく自由主義の影を担う秘密結社的な性格が強いため、このような人物は欠かせない存在であり、それだけにライア議員からの評価はガイにとって好都合と言える。彼は口の両端を吊り上げ、「もったいないお言葉です。ライア様」と返した。
二人の女性、ステファーニアとローズマリーは対照的な態度を見せていた。前者はテーブルの上で指を組み、険しい表情でガイを観察し、後者は肘をついてマニキュアを塗り続け、表面上は注意を向ける様子もなかった。念動の力と創生の力。それぞれ能力においても対照的である二人だったが、ガイにとっては性格的な内面までは察することができないため、彼は最後の一人、黒く長い髪の男、黎(れい)へと注意を向けた。
黎は腕を組んで目を閉ざし、じっと動かないままでいた。平時においては大学の教壇に立ち心理学を教え、それについての書籍も何冊か出版しているらしい。その知的エリートぶりは静かなる様子からも醸し出されていたが、実際のところは単なる面倒を嫌う不精という本性もあるらしく、ガイにとっては跳躍能力者という点を差し引いても興味のある議員である。
しかし、今日の報告で最も重要なのは人物観察などではなく、「言うべきを言う」といった自分の個性を五人の顧問に理解してもらうことにあった。もう切り出してしまおう。紫に塗った唇を舌で潤し、ガイは胸を張った。
「しかるに一つの疑問が残ります。よろしいですかな議長」
「言ってみろ……」
「なぜアルフリートの取り調べに、議長の高度な読心能力を使わなかったのかという点です。これについては拘束期間中、私よりの打診に返答がなかったことが誠に悔やまれますが」
前任者とは異なり、この男は怖じ気づかずに面白いことを言う。黎は口元にわずかだが笑みを浮かべ、目をうっすらと開けた。
「失礼とは思わんのか貴様……!!」
自分の立場は規律を重んじさせることにある。大体そのすべての指にはめたリングはなんだ。そのようなちゃらけたスタイルの司令など、あり得るはずもない。普段は祖国で軍務についているステファーニアが、厳しい口調でそう言った。
「失礼ですが……それだけは疑問のままであります!!」
波が崖を打ちつけ、カモメが六人の上空を周回した。少しの間を空けた後、ブッフが一つしかない瞳を輝かせた。
「かまわん……司令の疑問は当然だ……説明が必要だったな」
「ご理解感謝いたします議長!!」
「うむ……アルフリートほどの男ともなるとな……テレパスへの対策も訓練済みなのだ……奴の精神は強靭で、読心者の精神を逆汚染してくる可能性も高い……事実な、五年前、君の前任者が討伐に派遣した、ゲオルグという遠隔読心能力者がその手にやられ、彼は廃人と化した」
「ほう……そのような事例があったのですか……」
目を通していない資料はまだ山のようにある。ガイは議長の説明に納得し、大きく頭を下げた。
「それと……君の提出してくれた、同盟の改革案……中級管理職の権限を向上させ、代理機能を強化するという案な……イザヤ総理事も高く評価しているようだし、我々も賛成だ。君の手腕に期待する……最大限の速度で実現してくれたまえ」
議長のお墨付きに、頭を下げたままのガイは、「ありがたきお言葉でございます!!」と大声で返した。
賢人同盟に属する者は、誰もが大なり小なりあの五つの椅子に自分が座ることを目的としていると聞く。なるほど、心地のよい潮風に当たりながら、顧問権限で気楽に裁定や決定を下せるこのポジションは確かに魅力的ではある。
けどねぇ……僕的には……どうにも退屈ちゃんねぇ……
ずっと頭を下げたままガイは舌なめずりを繰り返し、マニキュアを塗っていたローズマリーはそんな彼の不遜な態度に気づき、呆れて鼻を鳴らした。
「紅西社(こうせいしゃ)の反乱については……どうなっている?」
ステファーニアの質問に、ガイはようやく頭を上げた。
「は……指導者の劉慧娜(リウ・ヒュイナ)に出頭を命じておりますが、現在のところ回答はございません」
「どうするつもりだ?」
なるほど、今回の呼び出しと改革案のお墨付きにはそうした方針の決定があったのか。ステファーニアの険しくも整った顔を見ながら、ガイは賢人同盟にとっても、下部組織である紅西社がFOTと結託したことに対して最大限の警戒をしていると判断した。
「は……まだ待ちます……ただし事を構える準備は現在も整えている最中であります……しかし……紅西社は知ってのとおり、下部組織の中でも一、二を争う巨大機関……できれば最小限の衝突で回避できるよう、作戦を立案中ですが……FOTの核弾頭についても依然その使用意図を把握できていない現在、慎重なる対応が得策かと思われます」
紅西社やFOTと憂いなく対決する。そのためには同盟の組織改革も必要であったから、準備が完了するまではあまり大規模な行動に出たくないのがガイの本音だった。もちろん即断即決は彼の戦場においての信条ではあったが、万全の体制をもってして作戦に望むという基本も当然のことながら重視している。及第点の答えに五人は納得し、それにしても在野にはまだまだ人材が漂っているものだと、ブッフ議長はすでにこの世にはない、ある日本人の小男を思い出して小さく頷いた。
2.
やはりどう見ても、あの体型は柔術仮面に酷似している。目の前で中学生の弟子を相手に一礼する高川典之を正座の姿勢で眺めながら、楢井立は四日前の朝に見た写真週刊誌の記事を思い出した。
頭から下が写っていなかったのが悔やまれる。もう一度体型を確認できれば、あれが高川かどうかの判断もできるというのに。しかし写真の現場は京都であり、そう考えると大田区在住の彼があの場所にいるはずはない。確かに七月十七日は稽古を休んでいたが、最近では演劇もはじめたらしく、そちらを優先した可能性もある。修学旅行の事実を知らない楢井は、やはりここは直接本人に尋ねてみようと足を崩した。
すると楢井の目に、胴衣姿の偉丈夫が彼よりずっと華奢で小柄な中学生に崩され、肘の関節を呆気なく決められてしまう醜態が飛び込んだ。
やはり違う。本来の腕前を隠した演技にはとても見えないし、あの剛直な高川にそのような真似は不可能である。入門当時の幼少期から彼の成長を間近で見てきた楢井にとって、最も頼りになる識別点は、柔術仮面と高川の武道家としての能力であり、その差はあまりにも歴然としていた。やはり聞くまでもない。楢井は再び腰を下ろし、角ばった顎に手を当てた。
なぜこうも呆気なく極められる。相手の朝茂田(あさもた)君は入門してから七年経つが、自分より三歳も年下の中学生である。その彼に“崩し”を呆気なく決められ、そのうえ関節まで極められてしまうとは。朝茂田君にしてみれば、まさしく赤子の手を捻るが如き容易さだったことだろう。
もちろん彼の才能は認めるが、まだ段位取得試験も受かっていない格下である。それほど自分自身が弱体化をしているということなのか。高川典之は畳の上で仰向けになったまま困惑し、にやにやと見下ろす年下の弟弟子を睨み返した。
道場では身体が硬くなり、師範をはじめとする先輩諸氏が自分をどう見ているかが気になってしまい、数々の実戦で敵を撃破している際の読みや動きがまったくできない。やはりなにか精神的な枷がかけられてしまっているのか。彼は逞しい上体を上げ、道場の壁に飾られた額の中の写真を見上げた。
きりりと引き締まった表情に、気高く品のある険しさ。それでいておおらかさと優しさを秘めた、そんな憧れの姉弟子だった。東堂かなめ。身体能力や技術だけではなく、高度の“読み”によって相手の挙動を完璧なまでに制する、完命流最高の天才と呼ばれた少女。八年前に行方不明となり、おそらくはテロ事件に巻き込まれ死亡したといわれている彼女の写真をじっと見つめ、高川は割れた顎を強く引いた。
かなめさん……噂では……ファクト機関と戦い……その若い命を散らしたと聞きますが……俺も……戦ってます……憎きテロリスト共と……かなめさん……あなたが戦っていた敵よりは、おそらく数段レベルも下がる全裸の破廉恥漢でしたが……はじめての牙命砕(がめいさい)も見事に決まりました……かなめさんが……こんなの苦手よ私に向いてない!!
と言ってたあの牙命砕です……かなめさん……俺……酒を呑みました……俺……かなめさんより年上になりました……かなめさん……
胸に手を当て、憧れの姉弟子に想いを馳せる偉丈夫だが、まさしくその記憶に対する憧憬こそが、彼の道場での枷となっていた。ついつい先人の動きを参考にしてしまい、まったく伴わない挙止や技を試すことも度々で、それに伴う周囲の目を気にして基礎に忠実にと、余計に固くなってしまい、組み手で隙を突かれて体勢を崩されることもある。高川典之にとって道場は、そんな憧れや気配りといった余裕を生じさせてしまうほど、のどかで平和な空間だったのだが、彼自身はその点を自覚しておらず、ただ単に修行不足だと痛感するばかりだった。
それにしても……はるみんの指示がなければ……あの破廉恥漢には勝てなかった……ガンちゃんはリバイバーとの戦いをすでに目撃していると言っていたが……
道場の隅に座り込んだ高川は、ミニペットボトルのスポーツドリンクで喉を潤し、半月ほど前の出来事を思い出していた。エロジャッシュ・高知(こうち)への対応をリューティガーに任されたものの、自分も岩倉も機関銃を乱射する奴にどう対応していいかわからず、それを導き出してくれたのは、神崎はるみの的確なる判断力だった。地下街を利用して大通りを渡り、放下鉾のすぐ隣にあった立体駐車場に潜み、彼女が高知の注意を下から引いているうちに三階より襲撃し、背後から制圧する。少し考えてみれば誰でも思いつくような策ではあったが、射殺された遺体があちこちに倒れ、煙と銃声と野卑な笑い声の充満したあの状況で、それを素早く指示として出せる神崎はるみはさすがである。彼にとって、彼女の存在はますます大きくなろうとしていた。それだけに、なぜリューティガーに対してこの事実を隠匿しなければならないのか、そしてその後の演劇の稽古ではるみはなぜ急に泣き出したのか、思えば不可解なことが続いている。高川は背中を壁につけ、もう一度美しき姉弟子を見上げた。
かなめさん……恋ってしたことがありますか……? 俺の初恋は……かなめさん……あなたでした……けど……いまの俺は……はるみんって子にぞっこんです……けど……なんかうまくいってません……かなめさん……恋って……したことありますか……?
真夏の稽古場は決して快適な空間ではなかったが、高川典之は尊敬する姉弟子を見上げることで、いつでも心を平穏にすることができた。ペットボトルの底が床板にわずかに触れ、彼はそれだけでも微笑ましいことだと思い、眩しげに目を細めた。
「バイトもなかったし、家にいても暑苦しいだけだと思ったからさ、誘いにも応じたんだけどさ……よく考えてみりゃ、ここってエアコンねーのな」
腰に両手をあて、白いTシャツ姿の島守遼が、道場の玄関までやってきた高川にそう言った。
「当たり前だ……ここは心身鍛錬の場……エアコンなどという軟弱な機器はない!!」
胴衣を着込んだ偉丈夫の怒気に、遼はうんざりして口元を歪ませた。
「お、怒るなよ……とにかくな、これ以上暑苦しいのは勘弁な……」
たまには道場に顔を見せたらどうだ? そんな朝の電話に応じてみたものの、これ以上汗だくになるのはとてもではないが御免こうむりたい。蝉の音に辟易としながら遼が高川に背中を向けると、その肘が強い力でつかまれた。
「な、なんだっつーの!?」
振り返ると、だがそこには高川ではなく、楢井のホームベースのような四角い顔が迫っていた。
「おぉ!! 手合わせだ手合わせ!! 確か島守君だったな!! 君が来るのを待っていたよ!!」
肘から遼の意識に、さわやかな平原の光景が入り込んできた。これは以前にも似たようなイメージを感じたことがある、完命流師範、楢井立という男の心象風景そのものだ。遼は玄関を強引に上がらされ、楢井に稽古場まで引っ張られてしまった。
「典之!! 胴衣を一着頼む」
「わかりました師範!!」
強引である。このような問答無用は日常生活においてはあまり経験がない。遼は心底後悔しながらも、同時にまあ仕方がないかと諦めもしていた。
胴衣を高川から受け取った遼は仕方なく稽古場の裏でそれに着替え、楢井の待つ暑苦しい熱気の渦へと向かった。なぜあの小柄な中年は自分との手合わせにご執心なのか。彼は原因もわからぬまま、どうにもだらしない襟元を正し、素足の裏に畳の感触を得た。
「さぁ、参るぞ!!」
組みついてきた瞬間、楢井は左足に体重をかけ、「さて……次に私が如何なる手に出るか……それが読めるかな!?」などと尋ねてきた。いきなりの出題に遼はぎょっとして姿勢を崩しそうになってしまったが、腰の力でなんとか踏ん張り、汗の臭いに顔を顰めた。
足を絡めて姿勢を崩しに来る……んなことは、こんだけひっつきゃ読めまくりだ……けどよ……
楢井がどのような意図で質問しているのかわからない以上、迂闊に正解を答えることはできなかった。遼は両腕を掴まれた身動きがとれず、倒れないようにと懸命だった。
「わからんのか島守くん……!? まだまだということかな!?」
嬉しそうに四角い顔の師範は言い放ち、彼は遼の足に自分のそれを絡めようとした。しかし意図をすでに読んでいた遼は楢井の左足を断り、一本足の姿勢になってしまった彼はバランスを完全に崩し、倒れこんでしまった。
体重を浴びせてきた遼に対し、楢井は払うようにして彼を畳に倒れこませ、自分はすぐに身構えた。
やはり……東堂かなめと同じだ……この島守遼という少年……私の崩しをすでに読んでいたということか……
あの四つに組んだ体勢からであれば、そう読むのは決して難しくはない。だがこの倒れている彼は格闘技に関しては素人であり、おまけに先ほどの軸足を左足にしていたケースであれば、通常は相手を崩すのに使うのは右足である。楢井の卓越した身体制御により、軸足を崩しに使ったセオリー破りの一手だったにも拘わらず、それを察知されていた。
そう、かつてここまでの読みを体現した天才が一人いた。その少女の姿を思い出した楢井は、島守遼が彼女と同様の才能があるのかと驚愕し、身構えながらも戦意は喪失していた。
前のめりになったため、畳とそれが吸い込んでいる汗の臭いに遼は胸が悪くなり、すぐに膝を立てて上体を起こした。楢井はこちらを凝視するばかりであり、なおも寝技に持ち込む気配ではない。拍子抜けした遼は、いったい彼がなぜ呆然としているのか理解できずにいた。
「うーむ……どうしても嫌だというのか?」
数十分後、道場の玄関先で楢井は腕を組んで、帰ろうとするTシャツ姿の遼にそう言った。
「いや……だってバイトに演劇部っスよ……とてもじゃないけど、道場通いなんて無理ですし……今日もたまたま暇だったからで……」
「その三件連立なら俺もやっておるぞ……」
隣から、袖のないGジャン姿の高川が胸を張って自信たっぷりに言った。楢井師範が遼に対してなぜこうも熱心に勧誘するのかはわからなかったが、今後のことを考えると戦力が増強するのは悪いことではない。“異なる力”などという訳のわからないものより、空手でも柔道でも射撃でも、現実として理解できる技術の方がずっと信用ができる。高川はそう考えていたが、遼は何度も「無理」という言葉を繰り返し、誘いを断り続けた。
帰って行く遼と高川の背中を玄関先から見比べた楢井は、顎に手を当てて疑念を深くした。あるいはあの黒い柔術仮面が島守遼という可能性も考えてはみた。しかし四つに組んだ段階で、あまりにも違う筋肉の感触にその疑惑は打ち消された。やはり体格と着ているものからして、どう考えてもあれは高川が最も近いのだが、ならばなぜ爪を隠すような真似をする。昇段試験も失敗し、年下の者にまで極められ、そうまでして本来の実力を見せない理由がいったいどこにある。やはり違う。柔術仮面の正体は別の誰かである。完命流ではなく、他流派の可能性もある。蝉の音がボリュームをさらに上げる中、楢井立はそれから十分以上、腕を組んで考え続けていた。
「電車なのか今日は?」
「ああ……ちょっと故障しててさ……修理に出してる」
「どこが壊れたのだ?」
「なんかさ……異音がひどいんだよ。あと全体的に揺れがひどくなってるし……まぁ、親父が中古屋で買ってきた古いやつだから……いつ壊れてもおかしくはないんだろうけどさ」
高輪の住宅街を品川駅に向かいながら、二人の男子高校生は強い日差しに当てられていた。遼はふと足を止め、高川は何事かと振り返った。
「どうした島守……?」
「あのさ高川……ここからだと……古川橋ってどんぐらいだっけ?」
「古川橋……? 二キロとないが……貴様の足にこの陽射しだ。行くのならバスを使った方がいい……二、三駅でつけるはずだが……なんの用だ?」
一言多い奴だ。そう思いながらも遼は路地から桜田通りを目指して再び歩き始めた。
「なんの用があると聞いているのだ!!」
返事のないままだとどうにも気持ちが悪い。高川は遼の後を追った。
「いやな……こないだの高速道路の事故現場がさ、近いんだったらもう一度見ておこうと思ってさ。まだ昼だし。どうせ家帰っても暑いだけだし」
エアコンが効いたバスの車内で吊革に掴まった遼は、ついつい乗り込んできてしまった高川にようやく理由を告げた。
「そ、そうか……俺もあの日は現場に向かおうとしたのだが……交通規制で、五反田駅から動けなんだ……ついたころには騒ぎも終わっていたが……どうだったのだ?」
高川の問いに遼は吊革に体重を預け、口を尖らせた。
「ひっでぇよ……遺体があちこちに転がっててさ……あと……呻き声がひでぇんだよ……なんか地獄って感じ……」
小声で言ったものの、そのショッキングな内容は椅子に座っていた老婆の聴覚を刺激し、彼女は思わず隣に立つ遼を見上げてしまった。
「地獄……か……しかし……よくそのような現場で救助活動ができたな……いや……大したものだ」
「どうなんだろうな……」
「つい最近ルディが言っていたが……貴様は彼に告げたのだろ? 現場にいてなぜ救助活動に参加しなかったのかと。俺もそれはそうだと思うぞ島守」
褒められたものの、遼の気持ちはどうにも釈然としなかった。それは高川のせいではなく、自分自身に原因があるように思えた。あの惨状での救助活動をしていた自分と、今の自分はどこか違うような気がする。
高川と共にバスを降り、ビニールシートで覆われた大鱒(だいます)商事本社ビル倒壊現場までやってきた遼は、まだ瓦礫が撤去しきれておらず、破壊の生々しさが残ったままの光景を眺めているうちに、釈然としないわけがどこにあるのかようやく理解した。
全裸野郎が人を撃ち殺していたのに……俺はそれよりも、連中の本命が気になってた……
理佳はあの銃撃事件には絡んでいない。そう判断しての、戦霊祭が本命であるとの提案だった。彼女と肉体を交わらせることによって、確実な言語情報を得ていたせいもあったから、あの判断は決して間違ってはいない。
しかし目の前にいた銃撃による被害者たちの存在を無視し、別の事件への可能性を提示してその現場に向かうなど、これではリューティガーを批判することなどできない。結果だけを客観的に見れば、兄を追い詰めるためにこの瓦礫の山とバラバラになった遺体を気に留めなかった彼と自分は同じである。
復旧もままならぬ現場周辺を歩きながら、遼は陽射しがもっと強くなってしまえと自棄になっていた。
そう、つまりは自分も「あちら側」の住人になろうとしている。だからより高いレベルの判断を下し、目の前の死傷者を無視することができた。まるで高知の銃撃で決意できたかのような錯覚に陥っていたが、あれはただの思い込みであり、冷徹で非情な、まるでいま演じている歴史上の人物のような計算で、自分は決めてしまっていたような気もしてきた。
本当のところはわからない。自分が何者であって、なにが正しいと信じているのかも。わかっているのは欲求だけだ。あの柔らかくしなやかな身体にもう一度触れたい。別にエアコンがない部屋でもまったくかまわない。そんな本能だけは疑いなく言葉にして思い浮かべることができる。
簡単にそれを可能にする手段もあった。だが、料亭を焼き、見物客を射殺し、あるいはこのビルの倒壊を仕掛けたりする。そのようなテロ組織に参加して得られる快楽など、あってはならない。
連中が何を目的に破壊と殺害を繰り返しているのかはわからない。だが少なくともいまの自分はこの「現状」というやつに対して大きな不満はなく、奴らもそれを変えたいのならもっと穏やかで痛みの伴わない方法でやればいい。それに、彼女が欲している自分はそうではないはずだ。だから戦い続ける。取り戻すしかない。考えを改めさせるために説得してもいい。その過程で、ひょっとしたら自分にとっての正しいものが見つかるかもしれない。
だが、やはり矛盾は矛盾だ。偉そうに人道を説くなど、結局は考えが足りないだけの安易なヒロイズムでしかない。
真錠に……謝らねぇとな……
完全に彼が正しいとは思えない。あの迷いとゆとりのなさは、どうしてもついていけないし許せない。それでも矛盾を抱えた以上、言ってしまったことに対しては謝罪するべきである。
ポケットに手を突っ込み、事故現場から離れて三田の路地を歩きながら、遼はずっとそんなことを考え続けていた。
「おい島守!! 貴様いったいどこまで行くつもりだ!?」
高川に背後から肩を掴まれた遼は、ようやく現実世界に意識を取り戻した。
「あ、う、うん……悪りぃ……」
「もう一の橋周辺だぞ……このような猛暑の中……どこを目指している!?」
「あ、いや……考え事……してた……つーか……ここって……?」
「あれがオースト……」
高川が指差した先を見た遼は、「ラリア大使館」とテンポよく言葉をつなげた。
「な、なんだ……貴様……来たことがあるのか?」
「ん……いや……なんだ……」
辺りをきょろきょろと見渡した遼は、立ち止まったまま記憶を巡らせた。
なんとなくだが見覚えのある街並みである。都会の真ん中の、それなりに閑静な住宅街であり、似た風景はいくらでもあるが、決定的な目印を発見した瞬間、遼はそれを指差して、「東京タワー!!」と叫んだ。
「め、珍しいのか東京タワーが?」
「いやいやいや……このアングル!! 確かすっげぇガキのころに見覚えがあるんだ……あっれー……いつだったかなぁ……!?」
何度も首を傾げた遼は再びなんとなく歩き出し、気の向くままに路地を進んだ。確かに記憶にある。一度自分はここを訪れたことがある。父が一緒だったのか、それとも一人だったか。それはわからないが、壁や塀の色、大使館の独特の外観など、普段は見慣れない光景だけによく覚えている。
どこに向かおうとしているのか、この地域に対して一際の思いいれがあった高川は、遼が吸い込まれるようにある一軒の豪邸へ向かっているのに、鼓動を高鳴らせた。
な、なぜだ島守……なぜ貴様がそこに向かうのだ……!!
あの豪邸は、そう間違いない。憧れの姉弟子、東堂かなめの生まれ育った東堂家である。
立ち止まりその表札を見た遼は、思わず「なんで東堂(とうどう)?」と素っ頓狂な声を上げた。
3.
夏休みに入ってから、リューティガーのもとには連日のように同盟本部からFOTに関する情報がもたらされるようになっていた。七月末には従者の陳
師培(チェン・シーペイ)も京都から帰って来ていて、そろそろ遼たちを招集して一度打ち合わせをしておく必要がある。
なにせ判明した拠点だけでも大小十五箇所もあり、進行中の作戦となるとその数倍である。すべての調査を行い、それが実在するものなのかを確かめ、一つ一つ潰していく必要がある。一時は彼らのような学生ではなく、あくまでもプロの戦闘集団を再編して残党狩りの任務につく必要があると感じていたリューティガーだったが、兄が本部から脱走し、あのような健在ぶりを見せ付けてきた以上、やはり最後の切り札となるのは時量操作を可能としたこの世界ただ一人の能力者、島守遼である。
あらゆる遮蔽、どのような隠蔽をも見通し、その急所を確実に内部から破壊するためには、自分の遠透視と彼の時量操作が不可欠である。それにしても最近彼とはうまく人間関係を保てていないと思えるが、いったい原因はどちらのどの点にあるのだろう。ふとそんなことを考えてみたものの、そもそも最初に腹を立てた原因は一体なんであったかと思い出そうとしても、そのようなことはあり過ぎてすぐには絞り込めなかった。
確か……バルチのあとだよな……そうそう……誘っても応じなかったんだ……僕はあれで遼という人間がわからなくなったんだ……
いまだによくわからないでいる。あれからもう一年も経ったのか。居間のソファに腰掛けたリューティガーは眼鏡をテーブルの上に置き、上体を投げ出した。
顔無しの化け物に襲われて……遼は戦いを決心したんだ……最近じゃ予知能力にも目覚めようとしてるみたいだし……連中の計画だって見抜けた……結果としてはいい方向に向いている……
なのにこの曇りはなんだ。なぜ気持ちが晴れない。そもそも自分は彼になにを期待しているのか。同じ“異なる力”を持つ者として、友人になって欲しいのか。
馬鹿馬鹿しい。
遂に核武装まではじめた兄が本格的な活動をはじめ、同盟本部もようやくその対応に本気になっているというのに、自分はなんと軟弱で情けない欲求に囚われている。友人など必要ない。兄を失う代償は自分が成長することしかないはずだ。
額に右手をあて、天井をぼんやりと見つめたリューティガーは、首から提げていた金のネックレスを左手に掴んだ。いまは亡き、ヘイゼル・クリアリーの遺体から遼が回収した、それは彼女の形見である。彼はそれを数日前から身につけるようにしていた。任務で来日し、非業の死を遂げた彼女たち十人の無念を思えば、兄を倒すという決心が揺らぐことはない。
しかし、あの十人を実際に殺害したのが誰なのか。兄やFOTではないことは判明しているが、そうなると自ずと容疑者は絞られる。遼は確か、赤いロボットのようで中が女と言っていた。
女……か……
あれほどの実力を持つ十人を倒せる女。リューティガーにしてみれば数名しか思いあたらず、地理的にも状況的にも絞り込むと、ある一人の人物しか想像できなかった。
神崎……まりか……
第二次ファクトを壊滅させた中心人物。圧縮空気爆弾を片手で生成し、巨大な岩をも宙に浮かすことができる、かつてのオルガや、現在のステファーニアとも匹敵すると言われている念動力使いの化け物。なんでもあり。死に神殺し。しかし彼女は現在日本政府の公的機関に所属し、同盟とは友好関係にある。
いや……どう情報を掴まされているかだ……中佐が絡んでいた以上、それ次第ではやりかねん……あいつは駒なんだからな……
しかし容疑者を絞り込んだところで、それがなんになるというのか。神崎まりかが犯人だとして、もし彼女が能動的に同盟のエージェントと知った上での虐殺であれば、これは同盟と日本政府間の問題として見過ごすわけにはいかないが、例えば中佐の謀略による生贄として、誰もが職務を全うした結果であれば、神崎まりかに対する憎悪は私怨でしかない。
私怨。リューティガー真錠が神崎まりかに対して抱く感情の、まさしくそれがすべてだった。幼いころ所属した傭兵部隊は彼女と仲間の手によって壊滅された。神崎まりか、金本あきら、東堂かなめ。その三人のうち誰かが、あのどこか間抜けではあったものの、大らかで男らしく、なによりも戦場で戦い抜くイロハを教えてくれた、マーダーチーム「カオス」隊長の、ロナルド・ハートレイを殺害したはずである。
いや、三人がかりでの可能性も高い。だが金本と東堂の二人は鹿妻新島での決戦において死亡したらしく、戦いにおいての死者までも恨む気持ちにはとてもなれない。むしろたった三人であのオーバーテクノロジーの集合体である第二次ファクトに挑んだという点は、尊敬してもよいとさえ思っている。
しかし神崎まりかだけは別だ。彼女は戦いのあと政府に保護を求め、現在ものうのうと生き続けている。仲間や敵があれほど死んだというのに、おそらくは恋をして、うまい酒を呑み、いまだに自分の正義が正しいと疑っていないはずである。
どうしてもあいつだけは許すことができない。その妹のはるみにしても、やはり好意など抱くことはできない。
この八年間で、何度か神崎まりかに対する感情は変化していた。時には許してしまってもいいと思うこともあった。だが来日して、あの妹がなんの屈託もなく部活動や文化祭を楽しんでいる様を見て、やはりどうしようもなく黒いなにかが胸の奥から湧いてきたようである。それに対して素直になるたび、彼は気持ちを沈ませ、呆然とするしかなかった。
「坊ちゃん……」
エプロンで手を拭きながら、陳が心配した様子で居間にやってきた。
「ちょっと……資料の検討で疲れちゃったみたいです……少し横になれば平気ですから……」
心配をかけまいと、用意したかのような言葉であり、それがこの従者にとってはさらに辛かった。
「一度……ひと段落したら本部まで跳ぼうかと思ってます……」
続いた言葉に、陳は「本部に?」と短く返した。
「急に情報の流れがスムーズになって……新司令に一度、会っておく必要があるかと思いまして……」
「そ、そうネ……ガイ・ブルースといったかネ。判断が速くて、行動力がある人物と見たね」
「知ってるんですか?」
リューティガーは栗色の髪を揺らしながら上体を起こし、白いワイシャツの襟を直した。
「会ったことはないけど、坊ちゃんと同じで私も通信を直接受けたネ。だからもう京都へ向かったヨ」
「そっか……そうでしたね」
「短いやりとりだったけど、私はそう思ったね。ウン。一度本部に行くのはいいネ。色んな人に会うといいヨ」
それには父や母も含まれているのだろうか。リューティガーは、「それほど長くは滞在しませんよ」と言おうとしたが呼び鈴が鳴って陳が玄関に向かったため、それを口にすることはできなかった。
オートロックのこのマンションで、インターフォンでなくドアベルが直接鳴ることは極めて珍しい。いかがわしい業者か、わずかに入居している別の住人だろうか。リューティガーが眼鏡を手にして着衣を調えていると、細い目を珍しく見開いた陳が戻ってきた。
「どうしました……誰です?」
「ぼ、坊ちゃん……本部には跳ばなくていいヨ……」
「え……?」
ダイニングキッチンの向こう、玄関を後ろ手に指した陳は、震えた声でそう言った。何事かとリューティガーが居間からダイニングキッチンへ向かうと、玄関に、白いスーツ姿の男が佇んでいた。
緑の髪はオールバックにまとめ、目は垂れ下がり、唇には紫をうっすらと塗り、それは長身で異相の者だった。インパクトは大きいがどうにも見覚えがない。なぜ陳はこのような男を中に入れたのか。リューティガーがそう疑問を抱くと、男は両手を広げ顎を上げた。
「私はガイ!! ガイ・ブルース!! 賢人同盟実戦部隊司令長官である!! お初にお目にかかるルディちゃん!!」
その甲高く、どこか太さを感じる声には聞き覚えがあった。リューティガーは硬直し、想像していたのとは少々異なるガイ・ブルースの外見に戸惑ってしまい、すぐには言葉や態度を返すことはできなかった。
三階建ての住宅など、雪谷の地元ではあまり目にすることがない。塀も高く、改築されたばかりなのか、真新しい「離れ」のような別棟も見え、港区の中心部ということも考慮すれば億を下回るはずがない豪邸である。門の前で二人の男子高校生は呆然と立ち尽くしていたが、その理由はそれぞれ異なっていた。
「なんでさ……ここが“とうどう”なんだ?」
遼の言葉に、高川は「ここは我が姉弟子、東堂かなめさんの生まれ育った東堂家だ……貴様は知らんとは思うが、東堂グループは有名なコンピューターソフトの開発と販売もしていてな。トードテックというブランド名ならわかるか?
あの蛙のマークのcmでアメリカに本社がある一流企業だ」と説明した。
「いや……違うんだよ……そ、それもそうかも知れないけどさ……」
母の旧姓は天津だが、どういったわけかそれは母の母方の姓であり、父方は東の堂と書く東堂(とうどう)であると貢は言っていた。おそらく母方の両親は離婚でもしたのだろうと、あまり深い事情には興味を示さなかったが、真夏の陽射しに照りつけられながら、島守遼はなぜここに東堂家があり、それを高川が詳しく説明してくれるのかと二重に驚いていた。
いや……こないだの朝……東堂家は東京だって言ってたし……たしかに高川はずっと前に、姉弟子を“とうどう”って呼んでた……たしかあのときは、“東堂じゃなくって藤堂だ”って思い込んでたんだ……親父に普通はそっちの漢字だろうって言われて……おい……おいおいおいおい……どーゆーこったよこれって……
それなら、なぜここに来たという既視感があるのか少しはわかる。母方の祖父がいるのなら、父と訪ねた経験もあるはずだ。遼は塀に肘を付け、落ち着くために何度も深呼吸した。
「ど、どうしたというのだ島守……こことお前はいったい……!?」
「い、いや……縁がないってわけでもないんだ……だから覚えてたみたいだし……」
その言葉に、高川は太い眉を上下させ、「なにぃ!?」と叫んだ。
「な、なあ高川……そのさ……かなめって人……あの道場の写真の人だったっけ?」
「あ、ああそうだが……」
「ここの家の娘さんなのか?」
「そうだ……一人娘だったはずだ……父上は東堂グループ会長の東堂守孝(とうどう もりたか)。母上はすでに亡くなられている……」
「かなめって……ひとは?」
蝉の音がいっそう強くなったのは、塀の内側にそれなりの土地を有し、そこに豊富な緑があることを意味していた。高川は塀にもたれる遼の肩を掴み、意識を伝えようと心を開いた。
聞こえるか……島守……拾っているか……?
あ、ああ……大丈夫だ……
かなめさんはな……八年前に行方不明になったのだ……
な、なんだと……?
はっきりしたことはわからんが……かなめさんは……テロリストと……ファクト機関と戦っていたという噂を道場で耳にしたことがある……楢井師範も強くは否定しておらん……
ちょ、ちょっと待てよ……それってその人がいくつのころだ!?
十六、七のころだと思うが……どうしたのだ島守……?
悪りぃ……そのうち話すわ……
遼は高川の手を払い、塀に手をつけながら真っ直ぐ路地を歩き始めた。
東堂家の一人娘……けど……お袋じゃない……年齢が合わなすぎる……どーゆーこった……なにが……どうなってる……
高川が一番事情に精通しているようだが、彼の剛直さはいまの自分にとって少々辛くも感じる。やはり父に尋ねるのが最適だが、それにしてももう少し輪郭をはっきりとさせる情報が必要だし、そのきっかけはじゅうぶんに得ていると思える。そうなると「彼」が最適だ。遼はポケットから携帯電話を取り出し、歩きながらアドレスリストを開いた。
縁があるとはどういった意味なのか。一人残された高川はもう一度豪邸を見上げた。遼と東堂かなめになんらかの関係があるとすれば、楢井師範の遼への熱心な勧誘も、もしかするとその真実につながりがある可能性も高い。しかしあの狼狽ぶり、うろたえようは尋常ではなく、迂闊に触れるのは躊躇われるし、彼はそうした柔軟さも最近では必要であると気づいていた。
「いいからぁ!! もうっ!! いいからぁ!!」
稽古の最中に泣き出した想い人に、だが遣ったはずの気は拒絶されてしまった。あれ以来、人の気持ちというものを多少なりとも考えるべきだと知った、高川典之だった。
いまはとりあえず「そのうち話す」という遼の言葉を信じてみるべきかと考え、偉丈夫は腰に右手を当て、左手で割れた顎を撫でた。
4.
司令自らが現地へ赴くことは決して珍しいことではない。前任者である通称「中佐」にしても、かつては来日した経験があると聞く。しかし食卓で、陳の用意した急ごしらえの料理に取り掛かっているこの男はあまりにも唐突である。事前の連絡もなくザルツブルクの同盟本部から来ることなどあり得た話ではない。
ガイ・ブルースは名乗ったあと同盟の身分証を提示し、それが本物であることもわかったし、事実を照会しようとPCに向かったらちょうど、参謀のクルト・ビュッセルから通信があり、「司令がそろそろ到着するころだと思います……」と恐縮した声でそう告げ、事情を聞くとどうやら平壌に交渉で訪れたあと突如としてこの訪問を思いつき、専用ジェット機で成田まで飛んできたというのだから、リューティガーは新司令の人となりをどうり理解してよいものかわからなかった。
「んまい!! もう最高ちゃんね!! どーやったらこんなに美味しく作れるの!!」
ガイは蓮華を何度も口に運び、その度に麻婆豆腐の味に感激した。
「し、しかしブルース司令……せめて連絡をいただければ、も、もっとちゃんとおもてなしができたネ……」
あの陳が言葉を詰まらせるなど、滅多にあることではない。猫背で四川料理に取り組む異相はじろりと視線を向けると、「もてなされにきたわけじゃない。一度顔合わせをしておく必要があると思ったのだよ。悪いけど帰りは成田まで跳ばしてくれるかな?」と、低い声でつぶやいた。
「まず……これまでにいくつかの施設、拠点と進行中と思われる作戦についての諜報部からの報告書が届いていると思う」
ナプキンで口を拭ったガイは、目を伏せたままそう切り出した。
「あれについては信憑性そのものに疑問がある以上、即時対応は要求しない……現地協力者に頼る現在の戦力的状況では難しいだろう。これについては増強後で構わん」
見かけによらず、随分とまともな指令を下す。直立不動のリューティガーは、髪を染めたこの中年男性から、前任者とは異なる物腰の柔らかさを感じた。
「それよりも……君達ちゃんグループが現在最も優先して行わなければならない任務……それはアルフリートのマスコミ露出阻止と、ロシア南軍よりFOTが非合法に購入した核弾頭の所在……およびその使用目的の追求だ……」
“君達ちゃん”その言葉にリューティガーと陳は一瞬聞き間違えかと顔を合わせた。そんな二人の困惑を無視したまま、ガイは食卓の上で指を組んだ。
「京都の調査引き継ぎとして、諜報部から三名のエージェントを送り込んだ……だからもう、そちらの事後調査は気にせずともよい……いいかなルディちゃん?」
「は、はい……となると……露出阻止ということなら、マスコミ対策が必要ですね……」
「そ。でもね、あいつらハイエナは、美味しそうな死臭に群がるのが習性だし、そうした下衆メディアはシビリアンコントロール上必要だから、どうしたって徹底的な統制はできない。だから報道サイドへの圧力はほとんど無駄だと思っててちょうだい」
「だとすると……出演を妨害ですか?」
「あのね。これは非情に消極的な要請なの。君ちゃんと……島守ちゃんとかいう現地協力者がちゃんと任務を果たして、またあのアルちゃんを僕の前に跳ばしてくれるのなら、今度は絶対に捕り逃さないから……」
なるほど、露出阻止などとは言っているが、兄の捕獲、もしくは抹殺は相変わらず継続している任務なのかとリューティガーは判断した。
「で、もう一方……弾頭の行方とその使用目的……これについては諜報戦がメインになると思うけど、今のルディちゃんグループだと、そちら方面はどうにも頼りない。けど、諜報部も紅西社の反乱対応で手が足りない……京都の派遣も、一週間ぐらいで本部に戻さないといけない人材だから」
諜報。その分野においてはもう一人の従者であり青黒い肌の怪人、健太郎がこれまで重点的に担っていた。しかし彼は主の不注意を庇う形で深手を負い戦線離脱していて、その件についても進言するべきだとリューティガーは紺色の瞳を輝かせた。
「司令……以前私の元にいた健太郎と、カーチス・ガイガーの両名を、是非とも戦列復帰させていただきたいのですが……」
「それには近々応じられるはずだが……あの二人と、さらにもう一人か二人は補充をつけるが、そのグループはできれば君配下の別働隊として、例えばガイガーに班長をやらせるとかして、例の拠点制圧と作戦潰しを担当して欲しいと思っている」
つまりそれが最初に言っていた“増強後”という意味か。リューティガーはガイの言葉に納得するしかなく、だがそれではどうやって核弾頭捜索などという難問に立ち向かえばよいのかと、仕方なく縁のない眼鏡を上げ直した。
「本部でもフォローはする……弾頭に関しては、僕自らが調査を続けるつもりだ。それにね……ルディちゃんは、既に同盟からもう一グループがこの東京に派遣されてきたのは……?」
言いかけたガイガーはリューティガーと陳を見比べ、二人が小さく困惑しているので息を吐いた。
「なるほど……やはりあの中佐の私的任務だったのね……しかしあの馬鹿……貴重な能力者を無駄遣いしおって……」
顔を横に向け、ガイは憎々しげにそう言ったが、リューティガーにとってそれは聞き捨てならない言葉だった。彼は中佐に向かって踏み込み、テーブルの上に両掌を置いた。
「な、何なんですか、そのもう一グループって……能力者って……!?」
「檎堂猛(ごどう たけし)に花枝幹弥(はなえだ
みきや)……こう言えばわかる……?」
前者は知らないが、後者については知っているどころではない。茶髪にたれ目の転入生を思い出したリューティガーは思わず、すぐ側のテーブルクロスを握り締めた。
横田良平にとって、今日はなにもない夏休みの一日だったから、突然の同級生からの電話にも驚きはしたものの、その来訪を断る理由は特になかった。
それが大事な約束をしたままである、島守遼であればなおのことである。
「東堂グループってさ……ネットで調べてみてくれよ。悪いけど今すぐ」
そのような急な要請であっても、頼られるのは悪い気がしないし、約束の条件がより有利になるのなら、恩はいくらでも売っていい。
「東堂グループのWebだ……この場合、企業情報が適当でいいな……」
素早いマウス操作で、良平は東堂グループの基本情報や沿革のページを表示し、それをベッドの縁に座ってた遼に見せた。
「あぁ……一番の利益は、トードテックってソフトメーカーか……」
勉強机の上に置かれた液晶モニタを覗き込み、遼は次々と表示されている情報を吸収し、やがてある写真に注目した。
白く、薄い髪。皺だらけの顔。表示されている年齢よりずっと老けて見えるその人物こそが、東堂グループ会長、東堂守孝その人である。場合によっては自分の祖父にあたる人物がモニターの中にいる。ネット慣れをしていない遼はその事実にひどく戸惑い、挨拶文をひとしきり読むと、再びベッドの縁に腰を落とした。
「なんなんだよ? 東堂グループがなんだ?」
「い、いや……なんでもねぇって……」
「確かさ、ここって政府の対テロ部門に、凄く寄付してるとかで有名なんだよな」
横田の何気ない言葉に遼は強い意を向けて、彼の座っていた椅子の背もたれを掴んだ。
「な、なんだよそれ」
「ほら、前のファクト騒乱のときだよ。あんときにすごく援助して、今も続けてるらしい……だから一時期業界で首位近くだったソフト部門だって、いまじゃちょっと低迷してる……」
「そ、それって異常なのか!?」
「い、いや……東堂グループの令嬢は、一度ファクトに身代金目当てで誘拐されてるんだ……無事に救出されたけど、それを考えれば仕方ないんじゃね?」
あくまでも良平にとっては他人事であり、なぜ遼がここまで食い下がって質問してくるのか不気味ではあったが、彼はネットで得た知識が少しは役に立っているようなのが楽しく、口も滑らかだった。
「けどさ、結局その令嬢はその後テロ事件に再び巻き込まれて、行方不明になったらしいんだ」
「どんな事件なんだ?」
「い、いや……そこまでは……行方不明も噂レベルで、きちんと提示できるソースはないし」
「わ、わかった……なぁ良平……今度は紙とインク代、払うからさ……その辺についての資料を集めてくれないか?」
「金はいいけど……どの辺を重点的に調べる?」
「グループ会長、東堂守孝って人の個人的なこととか、家族についてをできるだけ……それと、誘拐事件に関しても知りたい……後は、対テロの寄付先もだ……」
「随分多いな……」
そうぼやきながら、横田はテキストエディタで遼の要求を入力した。
液晶画面に再び視線を戻した遼は、ブラウザのブックマークにある名前のフォルダを発見した。
「“真実の人”……なんのブックマークだ?」
「あ? ほら、忠犬隊事件のとき、テレ関(かん)に出た自称真実の人(トゥルーマン)ってクラスで話題になっただろ。あれについてのスレとか検証サイトとか」
“スレ”と言われてもなんのことかさっぱりわからない遼だが、“検証サイト”はなんとなく意味が理解できたため、興味深そうに頷いた。
「ネットじゃさ……その自称真実の人って……どんな評価なんだ?」
「あんまりイマイチだなぁ……若すぎるしちゃらけてるし、忠犬隊との結びつきだってはっきりしてないからね……いまだに東テレが呼んだモデルだって噂も根強いし」
真実の人(トゥルーマン)。遼たち若い世代の一般人にとってその名は、リアルタイムでの記憶が薄い、八年前のテロリストの指導者である。テレビへの露出はほとんどなく、映像として残されているのも頭巾を被り宣戦布告をした際と、代々木の製薬工場跡地で篭城し、短銃自殺をした後の遺体のみである。しかしその希少性も手伝い、テロ騒乱終結宣言後もネットを中心に真崎実の評価とファクトのオーバーテクノロジーは称えられることがあり、いまなお信者に近い熱狂的な支持層が存在するらしい。良平の説明に遼は薄ら寒さを感じ、さきほどから全開で稼動しているエアコンを見上げた。
「真崎実(しんざき みのる)ねぇ……真実の人の本名って……冗談みたいだな」
「だからそう名乗ったんだよ。本名をもじったんだよ」
横田の説明が実は真実を指していないことを遼は知っていたが、それを指摘する気にもなれず、彼はブラウザに表示された頭巾姿の不気味な男を凝視し続けていた。
神崎まりかに……東堂……かなめ……
“異なる力”を持ち、現在では政府機関に勤めるはるみの姉に、おそらくは自分と血縁上のつながりがあるはずの、完命流柔術の天才と呼ばれた少女。この二人が八年前、共通する敵と戦った。それぞれに接点がなかったのか、それとも共に仲間としてだったのか、そして何のためにどういった理由で二人は戦っていたのだろう。遼はゆっくりと立ち上がり、考えるべき新たなテーマを得てしまった事実に呆然としていた。
「おい島守!!」
考え事をしながら部屋から出て行こうとする遼を、良平が呼び止めた。
「ん? あ、ああ……ありがとな。後はよろしく頼むよ」
「お前さ……あの……なんつーかさ……」
中々自分から切り出すのはみっともないような気がする。横田良平の愛好するネットの世界では、恥ずかしいことはすべて勝手に調べ、情報は拾い集めるのが当然だったため、わざわざ人に面と向かって尋ねたり告げたりするのはどうにも不得手な彼だった。しかし昨年末から八ヵ月が過ぎ、今日になってもなんのリアクションもないのはいくらなんでも冗談ではない。良平は勇気を振り絞り、長身の遼をぎょろりとした目で見上げた。
「忘れたのかよ。約束を」
「約束って……えっと……」
友達でもない彼と、なにか大切な約束でもしていたのだろうか。なぜこいつはこうも強い語調で、まるで借金取りのように迫ってくる。遼はさすがに危機感を覚え、良平の両肩をしっかりと掴み返した。
あっ!!!! やっべぇ!!
肩から掌に伝わってきた言語情報は、“蜷河理佳(になかわ
りか)についていい情報を提供すれば、その礼として可愛い彼女を紹介する”だった。遼はたまらず良平から手を離し、扉に背中をつけて口元を歪ませた。
「あ、あの件な……あ、ああ……はいはい……そうそう……」
ようやく思い出したのか。遼の様子をそう判断した横田は、一歩前に出て顎を上げた。
「ど、どうなってるんだよ……その後……」
「あ、ああ……現在交渉中……も、もちろんお前の名前は伏せてる……部活の子とか、バイト先とか、も、もちろんクラスでも……」
「な、なんだよ……そんなに候補がいるのかよ」
咄嗟の嘘は、だが良平を余計に期待させる結果になってしまったようである。遼は滑らかすぎる自分の舌を恨んだ。
「か、彼氏募集の子は、い、いるさ……もちろん……」
「け、けどさ……」
横田に詰め寄られ、遼は何度も「了解」の合図で頷いた。
「も、もちろん……可愛い子じゃないとしょーがねぇしな……に、二学期には誰か紹介できると思うぞ」
「べ、別にいいけどさ……そんなに焦ってねぇし……」
眼前の同級生と口調が被ってしまったことには気づかず、良平はただ、この夏休みも大したイベントもなく過ぎていくのかと、それだけが残念で仕方なかった。
檎堂猛の死亡は確認された。彼は「中佐」こと、アーロン・シャマス前司令長官の私的任務を帯び、六月十七日、アルフリートと柏崎グループ園田宗一との会談を傍受しに向かい、その先でFOTのエージェントに抹殺され、相方の花枝はそれ以来音信不通の行方不明である。ガイはリューティガーに淡々とそう告げた。
花枝の転校時期を考えれば辻褄が合う。リューティガーはまったく認知していなかった事実に驚愕し、ガイの言葉に耳を傾け続けるしかなかった。
「同盟の衛星回線を通じて、檎堂猛が花枝に送ったメールの文面がこれだ……」
内ポケットから封筒を取り出したガイは、それを食卓に放った。拾い上げた陳は中から一枚の用紙を取り出し、それには日本語による長い暗号文と、最後にはやはり日本語の平文で、「逃げろ花枝」と印字されていた。
「なんの暗号かネ……」
「さぁ……」
一読しただけでは、とても解読できそうにない漢字の羅列である。リューティガーは眼鏡をかけ直し、それだけに「逃げろ花枝」の平文が生々しいと感じた。
「諜報部でも現在解読中だけど、これは明らかにあの二人の間で取り決めた暗号のようだ……まぁ、現場での緊急事態ではよくあることだけど、だからこそ花枝との合流を急いで欲しいってわけ。情報は最大限に提供する……がんばってみてくれるかな?」
「わ、わかりました……」
そう返したものの、諜報専門のエージェントである彼が指示に従い全力で「逃げ」、その先が同盟本部でない以上、果たしてどうすれば接触ができるかと頭の痛い問題であったし、なによりも先方はこちらの正体を知っていたようである。それを前提にすると、これまで彼と過ごした学園生活を思い出してしまい、とにかくリューティガーはひどく混乱していた。視線を宙に浮かせた彼を、ガイは兄とは違いまだ経験が浅いと舌なめずりをした。
「とにかく……中佐は色んな企てをしていた……おかげで君達ちゃんにもあらゆる情報や物資が滞って苦戦を強いてしまった……その点については今後改善していくつもりだが、なにぶん状況が悪化しているから、万全というわけにはいかない。かえって今後はより大きな負担を強いることになるが、それについては了承していただきたい」
「了解です……」
即答した栗色の髪に、ガイはならこれはどうかと舌なめずりをした。
「現地協力者については、できるだけその活動範囲を広げさせるな……負担に対して矛盾する指示だとは思うが、そもそもが特例措置だ。今後、賢人同盟に正式所属するのならともかく……高川典之と岩倉次郎に関しては、中佐も知らなかったようじゃないか……」
「は、はい……あの二人は……自己判断で協力を要請しています……」
ついにその点への指摘をされたか。組織が健全化するということは、つまり暗黙の了解にも光が当てられるということである。ガイの忠告がまだ穏便であることがリューティガーにとって救いであり、また異相の新司令もある程度の融通を利かさねば事態への対応は難しいと判断していた。
「くれぐれも注意を怠るなよ……よく見極めることだ」
「はい……」
「よし……それとな……色々調べた結果わかったのだが……昨年の年末、十名のエージェントが派遣された件な……あれについても中佐の企てだってことが、ハルプマンの証言で明らかになった……」
この事実は流石に追い討ちとなるだろうか。ガイは面白がって視線を若きエージェントに向けたが、彼は真っ直ぐこちらを見据えたままであり、それが意外だった。
「知ってた……?」
「ええ……薄々は……ただ……襲撃者が具体的に何者であったか……それがいまだに確定しきれていません」
嘘である。つい先ほど、リューティガーは考えを整理することでその解答を導き出していた。しかし彼は、この新司令を多少は値踏みする意味も含め、表情を崩すことなく冷然とした態度のままそう告げた。
「F資本対策班だ……中佐が日本政府の外務省を通じて、FOTのエージェントが十名ほど埠頭から来日するとリークしたらしい……政治的な要請もあって、対策班も駒として動かされ……不幸な結果となってしまった……中佐はな、結局のところFOTすら私兵として取り込んで、同盟内部に自己勢力を作り、それを改革などと錯覚していたというわけだ……」
言った後、ガイはリューティガーの冷然さがまったく変化しない事実に再び舌なめずりをした。こいつ、僕を試していやがる。どこまで誠実かを試していやがる。なるほど、一応は奴の弟といったところか。おもしろい。
異相の新司令は椅子から立ち上がると、最後に右手をリューティガーへ差し出した。
「よろしく……ルディちゃんとはいい関係を結べると思うな……僕は」
「立場上それが当然です。ブルース司令」
指輪だらけの手を握り返したリューティガーは、“信用”と“信頼”という、二つの日本語を頭に思い浮かべ、不敵に微笑んだ。
5.
それはそうだろう。「可愛い彼女を紹介する」などと約束して、八ヵ月以上も放置されれば誰だって腹も立つ。そういった前提で考えれば、良平の態度はまだまだ奥ゆかしい。もっとも、自分の周辺に図々しい人物がいるかというと、なかなかいそうでいない。せいぜいリューティガーと高川が無遠慮な性格をしているだけだが、彼らの場合は剛直さからくる焦りのようにも感じられ……
遼は得心がいったため、「そうか」とつぶやいた。夏休みの部室は二基の扇風機によってなんとか人の過ごせる環境を維持してはいるが、これが立ち稽古ともなるとさすがに足りず、隣の裁縫部に三基目を借りに行くこともしばしばだった。部室の隅でしゃがみ込んでいた遼は、気持ちを切り替えて部室を見渡した。
仁愛高校演劇部の部員は、総勢二十二名の大所帯であり、そのうち男子生徒は遼をはじめたったの六名である。さて、この中で良平に紹介してやれる女生徒はいるだろうか。
目がぎょろりとして眉毛が太く、背は低くネットに精通していて習字がうまい。インターネットの掲示板でファクト機関に関する擁護的な何かをしたところ、それがテロで家族を失っていた近持(ちかもち)先生の逆鱗に触れ、その結果普段は温厚で暴力とは無縁である老教師の怒りを目の当たりにしたのは、もう何ヵ月も前のことである。横田良平について島守遼が記憶していることは、あとは学園祭で設営のため学校に泊まり込んだことぐらいしかない。それほど薄い縁であり、女性の好みなど知る由もなかった。
あーゆーネットオタクとかって……どーなんだ……やっぱ妹系とか、そんなのか?
って全然わからないぞ……
だとすれば自分が可愛いと思う子を紹介するしかないだろう。遼はぼんやりと部室を見渡し、まずは丸めた台本を手にあちこちを行ったり来たりする、ボランティア番組でよく見かける黄色いTシャツ姿の福岡部長に視線を合わせた。
年上は……だめだよなぁ……っつーかさ……横田って全然イケてないし……どう考えたってあいつに惚れてでもいない限り、可愛い子なんて吊り合いとれないっての……にしても……福岡部長……いくらなんでもあのシャツはねーよなぁ……ダッセぇ……
すぐに思案を諦めてしまうのは、この問題が根本的に「どうでもよいこと」だったからであり、切り揃えた前髪をいじりながら一年生の澤村奈美(さわむら
なみ)に演技指導をする部長を見つめつつも、その選定作業は早くも終わりを告げようとしていた。無論、結果は出ないままである。
「島守……そろそろ出番よ……」
低い声でそう告げてきたのは神崎はるみだった。表情は曇りがちであり、あの泣き出した稽古の日以来、夏休み中の部活で会ってもずっとこの調子である。遼は彼女を見上げ、「おう」と返して立ち上がった。
そもそも極端に愛想がいいタイプではなく、どちらかというと偉そうに注意してくることが多いものの、明るさだけはなくさない少女である。しかし最近のはるみはどうにも当たりがきついだけではなく、翳りのような暗さを醸し出しているように感じられる。
心当たりなら、多少なりともある。彼女は自分のことを好きだといっていた。だが、修学旅行の二日目、自分は蜷河理佳と再会し、一夜を共に過ごした。そのことを悲しんで、嫉妬しているとしてもなんとなくわかる。だが理佳の存在を自分に知らせてきたのはまさしくはるみであり、そういった意味において悲しまれるのはどうにも筋が違うように思える。
遼は彼女の勝負する気持ちなど、とてもではないが考えが及ぶこともなかった。
「はっはははは!! ばっか野郎!! 誰がてめぇらと剣を交えるかよ!!」
両手を広げ、遼が演ずる土方歳三は一年生が演ずる長州藩士にそう叫んだ。
「てめぇらの相手は、こいつがする。試衛館きっての天才がよ!!」
土方は澤村演ずる沖田総司の背中に手を回し、彼女を藩士たちに突き出した。
「はぁはぁはぁはぁはぁ……」
疲れきった呼吸の乱れを上手に演じた奈美は、テンポよく全身を伸ばして振り返りながら、「ひ、土方さん!? なんなんですかそれは!?」と叫んだ。
「だから、お前が相手してやれや」
「け、けど、さっきだって俺が突入したんですよ!?」
「あのな、副長の俺に万が一があったら、近藤先生は誰が護る? 剣だけじゃねぇ。先生はありとあらゆる策に狙われてんだ。だったらせめて、俺のことはお前が護れや」
「むちゃくちゃですよ土方さん!! もう肘だってロクに上がらないんですよ!?」
「行ってこい、天才!!」
「嫌です!!」
「もめている二人に、隙があると見た長州藩士が斬りかかる……」
稽古を見ながらそうつぶやいたのは、脚本担当の針越(はりこし)である。彼女の言う通り、長州藩士は土方と沖田に斬りかかり、背中を向けていた二人は振り向き様に刀を抜く芝居をし、一度の抜刀で絶命した藩士たちはその場にゆっくりと倒れこんだ。
「ひどい手ですね……毎度のことながら……」
「そーゆーな総司……これがいっちゃん効率がいい」
決め台詞もうまくはまったため、遼と奈美は互いに笑みを浮かべ場面の終了を確認して手を叩き合わせた。
「上手いなぁ澤村は……なんかほんとに少年剣士って感じだよ」
「まぁ……これぐらいはできて当然ですから……」
腰にぶら下げていたタオルで額の汗を拭った奈美は、すぐに遼から離れ、部室の隅で出番待ちをしていた同級生である春里繭花(はるさと
まゆか)のもとまで駆け寄った。
「案外きまってるじゃない。島守先輩の殺陣」
友人の論評に奈美はもう一度汗を拭き、「そりゃ、そうでしょうね」と答えた。
自分ほどではないが、あの島守遼に入り口近くで腕を組んでいる高川典之、そして今日はバンドの練習で不在だが、岩倉次郎の三人は本物の修羅場というものを経験している。演技という観点からすると派手さには欠ける面もあるが、命のやり取りをする挙動に関しては迫真となるのも当然であると奈美は考えていた。
稽古も終え反省会にも出席した遼は、ジャージからTシャツにジーンズの私服に着替えると、中央校舎二階の音楽室へ向かった。
今日は横田の相手の選定と芝居の稽古をするだけではなく、もう一つ重要な問題を片付けておきたい遼だった。彼は音楽室から楽器の音が鳴っておらず、だが話し声が聞こえてきたのでほっとした。
「あれ……島守くん?」
ケースに入ったベースギターを抱え、白いワイシャツ姿の岩倉次郎が音楽室から姿を現した。
「ようガンちゃん……」
「演劇部の方は稽古、終わったの?」
丸い目を何度も瞬かせ、岩倉は笑顔でそう尋ねた。
「戸締まりしとけよ」
「じゃーなガンちゃん」
どこか刺々しさを感じる口調だった。楽器を持った他のメンバーたちは、出入り口を塞いでいた岩倉の巨体をいかにも邪魔そうに、手で払う仕草をしながらわざとらしく大きな挙動ですり抜け、音楽室から廊下に出てきた。
二人の男子と一人の女子が、岩倉と対面していた廊下側の遼を一瞥した。三年生や、同学年でも違うクラスの面識に乏しい顔である。遼は下唇を突き出し、ポケットに手を突っ込み胸を張り、なんとなくそうすることで彼らに対してつまらない悪意を抱かないように自分を制御した。
「あ、ね、ねぇ……どうしたの? 高川くんは?」
「あ? あいつはまだ部室で片付け……いやな……ちょっとガンちゃんにしかできないことがあるんだよ。まだ音楽室使っていいんだろ?」
遼はそう言って、岩倉の脇をすり抜けて音楽室へ入った。
「な、なんだい……僕しかできないって……」
「俺の記憶を……ガンちゃんフィルタを通じて再確認したい……」
「え、え、え?」
「俺が手をつないで、自分自身の記憶をガンちゃんの記憶整理術を介して再確認……まぁいいや。とにかくさ、ガンちゃんフィルタで俺は自分の忘れかけている過去を見ときたいんだ……子供のころとかのね」
遼が言う、“ガンちゃんフィルタ”というのは岩倉次郎の卓越した記憶力の源である、ツリー構造を模した記憶整理術にあったのだが、そもそも岩倉自身がそれを意識したことがなく、何度か遼に利用されてはいるものの、その実自分にはなにが行われているのかまったく自覚がないため、彼はほとんど肉で埋まった首筋を撫で、瞬きを繰り返すしかなかった。
「ど、どうぞ……ご自由に……」
目を閉ざした岩倉は、両手を遼に差し出した。
「よっしゃ……さぁいくぜ……!!」
分厚い掌を握り返した遼は、岩倉の右手から彼の意識へ自分のそれを滑り込ませ、左手から獲得したフィルタを自分の意識へと被せて覗いてみた。
ははは……きたきたきた……!! これだこれ!!
自分の記憶のすべてが、Windowsのエクスプローラー画面のように脳内で展開され、それを俯瞰で閲覧するような、そんな光景が遼の意識に広がった。
岩倉は目を閉ざしたままであり、蝉の音を耳にしながら、この長身の友人はいったいどのような体験をしているのか興味が湧いてきた。
ごめんなガンちゃん……フィルタされた記憶構造をガンちゃんにも送ることはできると思うんだけど……
島守くん……
さすがに自分の全部は……いくらガンちゃんでも見せられない……ごめんなガンちゃん……なんか便利屋っつーか、道具みたいな使い方で……
遼の申し訳なさが岩倉の意識を満たしたが、巨漢の彼はゆっくりと首を横に振り、「いや……僕で役に立てることだったら」と優しい声で答えた。
友人の心遣いは嬉しかったものの、遼は最初の難関に躓いた。「過去」そうした名前のフォルダを開いてみたものの、中身は「ちょっと前」「かなり前」「わからないほど前」となっていて、なるほどこれなら間違いなく一番下のフォルダに違いないと思い、閲覧のレベルを深くしたものの、そこには膨大な数のファイルが詰め込まれていて、さてどこからどう手を付けてよいものかと途方に暮れてしまった。
ガンちゃんフィルタに検索機能の類はないのか。コマンドを確認してみると、「整理」「検索」「消去」のボタンが見つかったが、「検索」ボタンを押すと意識しても、なんの変化も起きなかった。
これまでにこのフィルタを使って行ったのは、閲覧と特定されたファイルの削除とコピーであり、検索機能はまだ試してみたことがなかった。ブラウザのように検索窓が出現するわけでもなく、このままでは暑い音楽室で茹で上がるだけである。遼は両目を閉ざしている岩倉を見上げ、一度だけ深呼吸した。
ガンちゃん……あのさ……ちょっと困っちまった……
ど、どうしたんだい?
ガンちゃんは知らないと思うけど……フィルタに「検索」って機能があるんだ……だけど使い方がわからねぇ……
あ? え? け、けど……
なにを尋ねられても、フィルタに関しては自分自身その存在を意識しないレベルで使っている以上、外部から機能として利用している遼に具体的なアドバイスなどできるはずがない。手を握られたまま、岩倉はただ困惑し、その感情は遼にも伝わった。
いまからガンちゃんにも、俺が感じているフィルタ越しの状態を共有してもらう……
け、けどそれじゃ……
ああ……俺の記憶は丸見えだ……けど仕方がない……俺は……自分のことをもっと知らなくっちゃいけない……そう思うんだ……
それに岩倉であれば、他の誰よりもずっと信用ができる。そんな気持ちを強く意識したまま、遼は岩倉の自意識、心の中の「目」を自分へと手繰り寄せてみた。
う、うわ……!!
これほど具体的にツリー構造に見えているとは。岩倉は自分のことながら、“ガンちゃんフィルタ”の効力に驚いた。
検索ってボタンが見えるだろ……押すって意識をしても……なにも反応しないんだ……
認識と知覚の上で、岩倉は自分が常に使っている記憶の整理方法をフィルタに当てはめてみた。よくわかる。なるほど自分の思考はこうやって具象化できるのかと、彼は興奮して息を呑んだ。
まず……検索したい言葉を思い浮かべるんだ……そして……そのあとにボタンを押す……
そ、そっか……なるほど……
遼は岩倉の指示に従い、“東堂 母 祖父 一の橋”というキーワードを強く思い浮かべてみた。するとそれは文字情報として空間に浮かび上がり、まるでなにかを待つかのように小さく上下に浮遊していた。
よ、よし……やってみる……まだ見ててくれガンちゃん……
う、うん……
「検索」のコマンドを意識の中で押すと、待機中のキーワードが輝き、それは回転しながらずっと高い場所へ舞い上がっていった。そして、もとの場所には「検索結果」と書かれたフォルダが出現していた。この中に該当する記憶が入っているのか。なるほどと感心しながらそれを開いてみると、中には二百以上のファイルが存在していた。かなり絞り込んだはずが、まだこれほどあるとは。遼はこの暑さではすべてを閲覧することは不可能だと判断し、とりあえず「三歳
父と共にどこかへ」と書かれたファイルにアクセスしてみた。三歳と言えば、ちょうど母を亡くしたころである。だが十七歳の遼にとって、もう遠く消えかけている思い出である。どのようなイメージが広がるのか、緊張による手の汗は岩倉も感じ、彼はやはり見てはいけないと思ったが、どうすることもできずにいた。
夏の日であることは、強い日差しと蝉の音でわかる。しかし、それにしてもひどくぼやけたイメージだ。手を引く父は今よりずっと若いのだろうが、その顔は確認できないほど曖昧であり、風景も定かではなかったが、二日前に訪れた一の橋の路地にどこか似ているような気もした。
どこなの?
そう尋ねる自分がいた。父は「母さんの父さんのところだ」と短く答え、その声は暗く沈んでいた。
急激な場面転換は、おそらくその間の記憶が完全に消失しているからだろう。光景は室内に変化し、妙に広いそこには一人の男が佇んでいた。
父と男は口論になっているようだ。何を言い合っているのかはわからない。今なら平気かもしれないが、幼少期の記憶は当時受けた感覚を増大しているようで、十七歳の遼にとってもそれはひどく恐ろしく、とてもではないがここにはいたくない気持ちになった。
そんな怯える小さな頭を、そっと撫でる細い指の感触があった。なんだろう。この細やかさは。修学旅行で過ごした一夜にも似ている。柔らかく、慈しみに満ちた女性の指。
坊や……大人同士の言い合いなんて、見たくないわよねぇ……
頭を撫でているのは少女であった。小学生中学年ほどに見える。当時の自分よりずっと年上だ。眉がきりりと締まり、だが目つきは穏やかで綺麗な美少女である。
あぁ……この子だ……道場で見た写真の子だ……
年齢的なずれはあったものの、この目に間違いはない。東堂かなめ。その少女と自分は一度会ったことがある。おそらく彼女の家で。父、貢が口論している相手は東堂守孝、つまりはかなめの父である。互いの父親同士が言い合いをしているのを、幼い自分は恐ろしいと感じ、この少女はそんな幼い存在を哀れんで慈しんでくれる。
最後に、父が守孝らしき人物に頬を張られ、床に倒れこむ光景が感じられた。
父は号泣していた。もう外だ。蝉の音がきつい。「娘が死んだんだぞ!!」そんな叫びはいまよりずっと張りがある声で、だが嗄れていた。
そっか……娘……か……
遼は岩倉から両手を離し、空いている適当な椅子に腰掛けた。
「あれがとうガンちゃん……今日はこれぐらいでいい……本当に助かったよ……」
そう言って見上げる遼に、岩倉は目を合わせることができず、しきりに坊主頭を撫で回していた。
「ど、どうしたガンちゃん?」
妙な反応に遼が不思議がると、岩倉は息を大きく吐きながら床に座り込み、「だ、だって……あんな光景……び、びっくりして……!!」と困り顔で返した。
「そ、そんなにビックリするイメージだったか? いや……俺はじゅうぶん過ぎるほど驚いたけど……」
「だ、だって……に、蜷河さん……」
「え?」
なぜここで彼女の名前が出てくるのか。遼は裏返ってしまった声に咳払いした。
「い、いつの……記憶なのかな……い、いいけどさ……べ、べつに……」
もじもじと巨体を左右に小さく回し、岩倉は耳まで真っ赤になって恥ずかしがっていた。なにがどうしたのか、しばらく思考を巡らせた遼は、よもやと思い至り腰を浮かせた。
「ま、まさか……お、おい……!?」
東堂かなめの感触と連動して蘇った蜷川理佳への想い。それが記憶の再生となって、共有していた岩倉に伝わってしまったのか。いや、そうとしか考えられない。遼は声を出して小刻みに笑い、そんな誤魔化しに岩倉も呼応して笑い出した。
「じ、実はさ……修学旅行の夜……か、彼女と会ったんだ……」
「そ、そうなんだ……」
「神崎も知ってる……結局……連れ戻せなかったんだけどさ……」
「も、もしかして……だから本命を知ってたの?」
「あ、ああ……予感なんて働くわけがない……」
「そ、そっか……」
彼になら隠し事をする必要はない。むしろすべてを話してしまい、力を頼りたいほどである。出生についても打ち明けてしまおうか、そう思った遼だったが、床に置いていた鞄から通信機のコールシグナルが鳴ったため、仕方なくそれを手に取った。
「あ、ああ……うん、ガンちゃんも一緒だ……わ、わかった……すぐに行く……」
通信機を切った遼は、まだ顔を赤くしたままの岩倉に、「リューティガーからだ……臨時ミーティングをやるから来てくれって……高川も呼び出したらしい」と告げ、視線を床に落として顎で弧を描き、眩しそうに窓の外へ視線を向けた。
6.
定例のミーティングもいつの間にかなくなっていたため、島守遼がこの代々木パレロワイヤルの803号室を訪れるのは六月以来一ヵ月半振りのことである。電車での訪問であり、最後に到着して食卓についた遼は、反対側の短い辺に着いているリューティガーや、左右の辺にそれぞれ座る高川と岩倉がいずれも険しい表情を浮かべていたため、もう自分を抜きである程度の話が進んでいるものと了解し、ジャスミンティーを運んで来た陳に一礼した。
「状況が一変した……これまであえて話さなかったが、兄は七月十七日の段階で同盟本部を脱走した」
七月十七日と言えば高知が銃撃をし、米兵が仮皇居に突撃したあの日である。遼は顎を引き、目を細めた。
「これについては僕も後日知らされた……そして……それと前後して賢人同盟の組織内でもいくつか……いや……もっと簡単に説明しよう。要は風通しが一気によくなって、僕たちの仕事は増えるってことだ」
ようやく笑みを浮かべたリューティガーだったが、高川と岩倉の表情は相変わらずである。遼は真実の人脱走以外にも、まだ重要な通達があるのだと気持ちを解さずにいた。
「司令長官が変わったんだ……ガイ・ブルース司令。彼はこれまでと違ってFOT壊滅に積極的で、拠点や作戦の情報が急に入るようになった。もっとも……これらを検証して潰していくのは僕たちの主要任務じゃない。そっちは復帰する健太郎さんと……あと何人か追加のエージェントが派遣されてくる。その彼らが担当する」
力強い声でそう告げたリューティガーは、ティーカップを手にして茶を一口啜った。
「僕たちがもっとも優先するべき任務は、兄がロシア南軍から購入した核弾頭の所在と、その使用目的を突き止めること、そして兄の拘束、もしくは抹殺だ」
「核弾頭……か……」
もしそれがこの日本に向けられるというのであれば、全力で阻止しなければならない。核の恐怖を具体的には理解していない遼だったが、知識としてはわかっている。しかし、あまりにもスケールの大きな大量破壊兵器である。高川と岩倉が緊張した様子を崩さない原因がそこにあるとわかったものの、今ひとつ現実味を感じられないまま、彼は熱い茶を啜った。
「弾頭の行方については本部でも行方を調査中だから、ある程度の絞り込みができるまで僕たちは動く必要はない。というか、専門のエージェントがすでにロシアや中国に派遣されているから、そちらに任せるべきだと僕も思う。逆に所在が判明したら総動員で奪取、破壊に向かう。その際は激戦が予想されるから、覚悟しておいてくれ」
「なら……当面の俺たちはどうすればいいんだ?」
「情報収集の権限が強化された。FOTは正義忠犬隊なんてふざけた組織まで別働隊で用意しているし、兄がテレビに露出した意図もまだわからない。日本国内でも調べられることはいくらでもある。それについては僕と陳さんで動くつもりだ」
リューティガーの素っ気ない言葉に、遼は慌てて身を乗り出した。
「いや……だから俺たちはどーすんだよ!?」
「諜報は訓練されてないだろ。例えば兄の取材をした関東テレビ……あれを調べるにしたって、君が行ったところで門前払いされるだけだ」
「そ、それならルディとてそうではないか……」
ようやく高川が口を開き、遼に同調した。
「僕は跳べますし、恐喝の技術だって習得してます。帰宅途中のディレクターを拉致して尋問するのだって、正体を知られることはありません。それに小規模の作戦には相応しい人数とシフトというものがありますから。もちろん兄の拘束と抹殺につながる作戦が立案できれば、これまで通りそれには中心構成員として参加してもらいます」
少しばかり困った笑みで、リューティガーは高川の強い意を受け止めた。
「現地協力者については、できるだけその活動範囲を広げさせるな」ガイの指示もあったが、彼は司令の命令に従順であるだけではなく、時期と状況を様々な角度から検証した結果、今のところはそうであるべきだと判断していた。
「だから……今度の演劇部の合宿とかは皆で行ってください。ひと固まりでいてくれた方が、緊急の作戦の際にも呼び出しやすいですから」
なにやらすべてが振り出しに戻ってしまったような気もするが、リューティガーの精神は安定しているようだし、賢人同盟もこれまでのような不透明さが解消されたのであれば、今後はより能動的に敵との戦いも増えるはずである。そろそろ何をどうするべきか、その考えがまとまりつつあった遼は、これは決して悪い展開ではないと思い、大きく頷き返した。
もちろん不安もある。例えばリューティガーや陳が諜報任務中に蜷河理佳を発見し、戦いになった場合はどうすればよいのか。遼は食卓の上で指を組み、小さく息を吐いた。
いや……全部をどうにかしようとしてもだめなんだ……
認めたくはないが、理佳とてFOTのエージェントであり、先日のテロでは具体的にどういった役割を担っていたのかわからなかった。それほど立場が低いのか、あるいは手際が鮮やかだったか。どちらにしても素人の自分が心配し過ぎたところで、彼女の方が立ち回りや自衛に関しては数段上なのだろう。そう開き直ると、遼はジャスミンティーを一気に飲み干した。
「け、けどさ……ほんと、僕たちで役に立てそうなことがあったら……いつでもいっておくれよ」
「ありがとうガンちゃん……もちろんそうするつもりです……それと……」
リューティガーは食卓の上で指を組み、深刻な表情を浮かべると三人を見渡した。
「ブルース司令によってもたらされた新事実があります……僕や陳さんたちの他に……すでに同盟は諜報専門のエージェントを日本に派遣していたそうです……本格的な活動も今年から行われていたそうなのですが……更迭された前司令の私的な野心から、その事実は僕に知らされていませんでした」
その口調は重かったが、遼たちにはそれほどの新事実とは思えず、取りあえずリューティガーに合わせて神妙な顔を作るしかなかった。
「いまは……どこにいるんだ? そのエージェントって」
遼の質問に、リューティガーは視線を食卓へ落とした。
「二人のチームだったのですが……一人は成田ロイヤルホテルでの諜報活動中に死亡しました……名前は檎堂猛……」
“死亡”その単語に三人は息を呑み、背筋を伸ばした。
「もう一人は……檎堂氏の諜報結果……おそらくは核弾頭に関係した暗号を受けたまま……行方不明……逃走中と思われます」
「逃走……!? じゃ、じゃあすぐに探さないと……」
岩倉の言葉は尤もではあったが、リューティガーはゆっくりと首を横に振った。
「これだけ時間が経過しているにも拘わらず、同盟本部や現地の僕にも接触をしてこないということは、何らかの事情があると思われます……容易には見つからないでしょう……もちろん暗号のこともありますし、彼は強力な“異なる力”の持ち主ですから、僕も全力で探しはしますが……勝手な動きは控えてください」
「“異なる力”!? 俺たち以外のか!?」
誰よりも興奮したのは、当然のことながら遼である。そんな彼に紺色の瞳を向けたリューティガーはうっすらと微笑んだ。どこか自嘲を込めた、そんな笑みだと感じた遼は片眉を吊り上げた。
「遼……君の直感……あれは当たってたんだよ」
「な、なんのことだよ……?」
「その能力者……潜入してたエージェントの名は……」
花枝の名前は三人に衝撃を与えたが、学級の違う岩倉においては小さく、転入当日から彼を異なる力の持ち主と直感的に認識していた遼にとっては、妙に納得がいった。
最も単純な衝撃を受けたのは、高川典之だった。決して人には話さなかったが、彼は花枝幹弥という転入生に対してあまりいい感情は抱いていなかった。
軽薄で無愛想、耳障りな関西弁で遠慮なく椿梢(つばき こずえ)のような穏やかでおとなしい少女にまとわりつく、まったくもってけしからん奴である。よもやそんな彼が人類の正義のために戦う賢人同盟のエージェント、つまり自分よりずっと格上の存在だったとは。ミーティングが終わり、玄関から廊下へ出て行く彼は、岩倉に気を遣われながらも全身に力が入らぬままだった。
「だ、大丈夫……?」
「う、うむ……」
「お、送って行こうか……予備のヘルメットあるし……」
「いや……それには及ばん……五反田で少々用事もある……いや……気持ちは嬉しいのだが……」
高川に続いてエレベーターに乗り込んだ岩倉は廊下に頭を出し、803号室の扉が閉ざされたままであることに首を傾げた。
「どうしたガンちゃん……?」
「うん……島守くん、こないなって思って……」
「ルディと話があるのだろう……奴は我々とは違い、ルディと同じ能力者だ……花枝がらみでなにかあるのではないかな?」
「そ、そうか……」
エレベーターが下がっていく音と震動を僅かに確認した遼は、扉のノブを握っていた手を離し、ダイニングキッチンの食卓に着いたままのリューティガーに振り返った。
「どうした遼……皆と行かないのか?」
「いや……ちょっとお前に話があってさ……」
「そうか……それはちょうどよかった……」
なにが“ちょうどよかった”のか、それはすぐにわかるだろう。遼は食卓に戻り、椅子に座っているリューティガーに頭を下げた。
「ど、どうしたんだ遼……なんの真似だ……?」
謝罪の態度にリューティガーは戸惑い、目を寄せて口元をむずむずと歪ませ、腰を浮かせた。
若き主のあまりのうろたえように、流しで洗い物をしていた陳は驚いてしまい、遼の行動は困惑の連鎖を生んでいた。
「古川橋の事件で……俺……お前のこと悪く言ったよな……なんで怪我人の救助を手伝わなかったって……」
「えっと……そ、そうだっけ?」
「それを謝りたい……あの考え方が全部間違ってるとは思えないけど……人には立場によってやるべきことがある……いや……できることが違う……それをこないだの修学旅行で思い知った……」
そこまで言われて、リューティガーはようやくこの長身の友人が何に対して謝罪しているのかよくわかり、嬉しく感じた。
「う、うん……そ、そう言ってくれると助かる……もちろん僕だって苦しんでる人がいたら放ってはいられない。だけど……戦場や訓練で慣れてしまっているから……鈍感なところもあると思うんだ……」
リューティガーは遼の手を取り、すぐ側の椅子に座るように促した。
「遼……今度は僕の番だけど……君に聞きたいことがある……」
腰掛けた遼に対し、リューティガーはそう切り出した。
「昨年の十二月二十四日……晴海埠頭で襲撃されたのは覚えているよね」
「ああ……忘れるはずがない」
「あの襲撃者……十人の仲間を殺した奴を、君は赤いロボットのようで中は女だと言っていたね……」
「そ、そうだっけ……」
「言ったよ……」
「そ、そーゆーのは見たけど、それが襲撃者かどうかは……確証はないぜ……」
それは嘘であった。確かに彼が倉庫に戻ってきた段階で十人は全滅し、赤い人型はその中央に佇んでいて、あれが、神崎まりかが襲撃者である確証はない。だが遼は、「いなば」での一件やはるみの仕組んだ出会いによって、あの異なる力の持ち主がなんらかの事情で出動し、クリスマス・イブの惨状を生み出したと思えて仕方がなかった。
「まぁいい……で……その女は……どんな顔をしてた……?」
「顔……?」
「誰なのかはっきりさせたい……予想はついているけどね……」
「い、い、いや……か、顔は……よく見えなかった……離れていたし……」
あれが神崎まりかだと知れば、リューティガーが怒りの矛先を彼女に向ける可能性が高く、それはいい事態だとは思えない。遼は用心し、言葉を選んだが“予想はついている”の一言がどうにも恐ろしい。
「なんでだ? 女って言ってただろ?」
「そ、それは……体型だよ……そ、そう……シルエットがこう……女そのものだった……」
「なるほど……」
一応は納得したのか、それとも単に追及を諦めたのか、リューティガーは椅子に深く座り直し、陳に茶のおかわりを頼んだ。
「どうするつもりだお前……襲撃者に復讐するのか?」
「さあね……ブルース司令は、あれが日本政府の、F資本対策班という組織の襲撃だと教えてくれた。どうやら前任者の野心に利用されたらしく、連中は晴海埠頭の倉庫に集まった僕たちを、FOTと勘違いしていたらしい」
「そ、そうなのか……!?」
遼は身を乗り出し、間に入ってきた陳の突き出た腹に肩が当たってしまった。
「中佐は日本政府に恩を売りたかったネ。それで坊ちゃんたちを、もう生贄に差し出したってわけヨ。おまけにどちらが勝ってもいいようにシナリオは設定済み……ほんと小策士ネ」
茶を注いだ陳は仕方なさそうにそう言い、流しに戻っていった。
「F資本対策班の目的はFOT検挙だ。そういった意味では僕たちと利害は一致する。騙されていた以上、間抜けさをあざ笑うことはあっても敵対はできない」
こいつの底知れぬ冷徹さもたまにはいい方向に作用する。政府機関と敵対するなどあり得た話ではないし、第一、神崎はるみの姉と戦うなど想像したくもない遼だった。
「ただね……もし襲撃者がある人物だった場合……僕はそいつに対して、恨みをより深くすることになる」
目を伏せ、ティーカップを手にしたリューティガーは、ひどく淡々とした口調だった。
「な、なんだよそれ……」
「いずれ話すよ。まぁ、けど顔が見えなかったんじゃしょうがないね……イメージを伝えてもらおうと思ってたんだけど」
いつか学校の屋上で、「神崎まりかとは関わるな」と彼は言っていた。冷たく、だが怒りを込めて。「ある人物」とは彼女のことを意味しているのは間違いない。いったいリューティガーはどのような恨みを抱いているのだろうか。それは謎のままだが聞きたいことは自分にもあったので、遼は気持ちを切り替えて注ぎたての茶を啜った。
「なぁルディ……今度は俺から聞きたいことがあるんだけどさ……」
「ああ」
「お前はここに派遣される前、俺のことを調査したって言ってたよな。で、異なる力を持ってるから接触するために転入したって」
「そうだよ。同盟は異なる力の持ち主の家系を常に調査している」
「俺は自分のことを知りたい……これまであんまり興味なかったんだけど……」
古川橋を訪れた際に偶然辿り着いた東堂家ではあったが、それ以来遼はあの家について強い興味を抱いていた。それは蜷河理佳を取り戻すことの具体的な道筋を見つけられないことからの逃げかもしれなかったが、意外とそれを知ることで突破口が開ける可能性もあると、彼は漠然とそう考えていた。
「東堂家って……俺のお袋の家も……当然知ってるんだよな」
「ああ……東堂グループについてもね……政府機関に多大な援助をしているという点において、彼らは自覚していないが親同盟の企業だと言える……けど……これまでの君を見てると、どうやら母方の家とは疎遠みたいだけれど……僕はそこまでの事情はわからないし……どうなんだい?」
「い、いや……お袋は俺が小さいころに死んじまったし……東堂家のことだって、つい最近知ったばかりなんだ……別に大金持ちだからってどうしようってことじゃない……親父だって話したがらないんだから、仲は冷え込んでるんだろうし……」
「君のお母さんは……東堂グループの長、東堂守孝の子だが、認知はされていなかったらしい」
言ってしまってよいものかわからない。だが知りたいのであれば、自分が事前に得ている情報は隠しておきたくない。リューティガーは表情を曇らせ、目を伏せた。
「そ、そうなのか……お、教えてくれ……知ってることがあったら……」
「う、うん……君の母、島守瑞希(とうもり みずき)は東堂守孝が愛人との間に作った子だ。夫人とはなかなか子宝に恵まれなかったものの、守孝は彼女を決して認知しなかった」
「そうか……で……なかなかってことは……」
「ああ……島守……天津瑞希が生まれて数年後、夫人との間に女の子が生まれ、愛人は捨てられた。天津瑞希はその母と共に暮らし続け、高校卒業後に島守貢と出会った……この辺も……聞いてない?」
「ああ……親父とお袋が高校卒業のあとに知り合って、すぐに結婚したってのはのろけ話で嫌ってほど聞かされてるけど……お袋がそんな生い立ちだったなんて……初めて知った」
となると、東堂かなめは母の腹違いの妹、自分にとっては叔母ということになる。遼は食卓に左肘を乗せ、視線を宙に泳がせた。
「大変だったんだな……お袋も……」
「ああ……そうだと思うよ」
「で……お袋の義理の妹……東堂かなめ……彼女についてお前……なにか知ってないか?」
遂にその質問がきたか。リューティガーは緊張し、手にしていたティーカップを置いた。
「もちろん……遼は……どこまで……?」
「高川が昔道場で世話になったって言ってた……一度ここでも話題に出たよな。そんときは知らなかったんだけど……完命流の天才だったって……それで……八年前のテロ事件に関わって……噂じゃ戦ってたって……その結果、行方不明になったって……」
知らない間に遼がそこまでの情報を得ていたとは思っていなかった。しかしこうなることは高川の存在上、時間の問題だったはずである。リューティガーは遼の目を見、眼鏡を直した。
「そうだ……噂じゃなく事実だ……君の叔母……東堂かなめは当時、金本あきら……そして神崎まりかの三人で……ファクトに対抗し……壊滅させた……」
その言葉に遼は椅子からずり落ち、床に尻餅をついてしまった。
な、なんだよそれ……どーゆーこったよ……叔母さんが……神崎のお姉さんと……!?
わけがわからないとは正にこのことである。遼は困惑し、口をぽかんと開けたまま全身を硬直させてしまった。そんな彼を見下ろしたリューティガーは、「ごめん……今まで黙ってて……」とつぶやき、頭を下げた。
「い、い、いや……な、なかなか言えねぇって……お、親父もたぶん……それは知らないだろうな……」
「だろうね。この事実は賢人同盟でも一部の者しかしらないし、僕も来日直前に父から聞いた非公式の情報だ」
一度会って話をしてみたい。父に対して頬を張るような関係ではあったが、東堂守孝とは顔を合わせておく必要がある。遼はなんとなく、だが強くそう思い、立ち上がった。
「俺……近いうちに東堂守孝って人に会いに行くわ……なんか……そうしないといけないような気がする……FOTとちゃんと戦うんなら……会っておかないと、なんか後悔するような気がする……」
「遼……」
「俺があいつらと戦うのは……どういうことなのか一度ちゃんと整理しておきたいんだ……これまで漠然とし過ぎてたし……」
いっそ、このまま勢いで蜷河理佳についての真実も語ってしまおうか。きちんと説明すれば彼も理解してくれるはずだ。しかしそう思った途端、遼の脳裏にある光景が蘇った。
毛皮のコートを着た少女は、ナイフを持ち殺意を剥き出しにしていた。あれは自分を殺そうとしていたのだろう。それはわかる。だが、出現した栗色の髪はなんのためらいもなく彼女のこめかみに向かって引き金に力を込めた。あのときの、冷たい紺色の瞳はおそらく今後も忘れることはない。
言い出せずにいる遼に対し、リューティガーは「僕も……行こうか……いや……付き合せてくれ……東堂かなめという人物には最近興味が出てきたんだ……」と漏らした。
「あ、ああ……いいけど……」
「最近興味が出てきた」というのはどういった意味なのだろう。遼はその部分にひどく違和感を覚え、リューティガーを見下ろした。
今後FOTとの戦いの状況が悪化してしまえば、いずれ神崎まりかに対する自分の感情は清算しなければならない。距離が近くなり、下手をすれば接触する機会もあり得るからだ。ならばその判断材料として、彼女の二人の仲間についてよく知ることは決してマイナスにはならない。リューティガーは栗色の髪を掻き、頬をひくつかせた。
リューティガーは、「バイクが修理中なら跳ばしてあげようか」と提案してくれたが、あの空間跳躍を日常的に使われるのはどうにも抵抗があったため、遼が電車を乗り継いで自宅に帰ってきたのは夕飯時になってしまった。
焼き魚の準備を台所で進める父に、息子は「ただいま」と言った後、すぐにその支度を手伝いだした。
傍らで焼き加減を確認する父に尋ねれば、いくつかの新事実も判明するかもしれない。だがこれまで固く口を閉ざしてきたのだ。横田から情報を手に入れ、直接東堂家で祖父から話を聞くことができれば、それだけで事実の大半を知ることができる可能性が高い。痩せて疲れた父の背中をふっと見た遼は視線を床に落とし、何度も小さく頷いた。
7.
連続幼女誘拐暴行殺害犯、阪上誠が逮捕されたのは今年の三月であり、彼はさいたま市の公園で幼女に声をかけていたところをやってきた母親に通報され、不審者として職務質問を受けた際、その行為が四件目の誘拐目的だったことが判明し、緊急逮捕された。
大鱒商事本社ビル倒壊事故、そしてつい最近起きた京都でのテロ事件と、あまりにも大きな事故、事件が続いているため、現在ではこの事件に対する世間からの注目度もそれほど高くはなかったが、幼児を白昼誘拐し、その身体を弄んだ上に殺害、遺族の自宅前に段ボールで遺体を放置するといった残忍な手口は三件ともに共通していて、市民や良識者の怒りを買っていた。
次なる犯行予告をメールにてマスコミに送る、いわゆる劇場型猟奇犯罪者である彼は、逮捕後も取り調べで「可愛かったからやった。ブスならスルー」「俺が女にしてやった。最後は向こうから欲しがった」「俺が無職だったのは社会のせい」「実はネギトロ星人に命令された。俺は悪くない」などとわざと煽るような発言を繰り返し、ニュースやワイドショーも来週八月十日の初公判をそれなりに注目していた。
阪上の担当であり国選の肥田(ひだ)弁護士は今日も拘置所での接見を終え、駅へと向かっていた。それにしてもあの男と会話をするのはひどく消耗する。毒舌にすっかり疲れ果て、真夏の陽をじりじりと浴びた肥田は名前の通りでっぷりとした体格で、額から流れ落ちる汗をハンカチでひっきりなしに拭いていた。
すると、歩道を歩く彼の背後から三度ほどクラクションが鳴らされ、彼が面倒くさそうに振り返ると、黒塗りのセダンカーの後部座席から見覚えのある吊りあがった目の男が手を振っていた。
「久しぶりだな金(キム)……名古屋拘置所以来か?」
「ああ……ちょうどあれが最後の担当事件だった……」
「なんだ……辞めたのか?」
「バッジはもうないよ。今は別の仕事をしている」
国道を走るセダンカーのエアコンのよく効いた後部座席で、肥田と金という男は並んで言葉を交わしていた。
「それにしても阪上の弁護とはついてないな」
金の抑揚のない言葉に肥田は苦笑いを浮かべ、丸い鼻をひと掻きした。
「まぁな……マスコミがうるさいから、今日も日付をずらしての接見だ……」
「どうなんだ、あの男は?」
「あ? 最悪だよ……完全に凝り固まっていやがる。全然反省してないし、なのに死刑はいやだ、精神鑑定のセンで頼むって繰り返しやがる」
「ほう……随分とムシのいいやつだな」
「ああ……そうそう、なんというか元気なんだよな……不気味なぐらいに。二十五歳なのにえらく図太い……だって初犯なんだぜ?」
狭い車内で手を広げる肥田を金は冷ややかに見つめ、運転席のジョーディ・フォアマンに、高速道路に乗るよう指示した。
「まだ横須賀なんだろ?」
「ああ。ローンだって二十年は残ってるしな」
「送っていくよ……これもなにかの縁だしな」
「助かる。正直、交通費だって馬鹿にならないからな。事務所は早めの盆休みに入ってるしよ」
「なぁ肥田……答えられる範囲でいいんだが……」
「なんだ金、お前マスコミにでも入ったのか?」
「まさか……」
青白い顔を少しだけ綻ばせた金は、「阪上はクロか?」と短く尋ね、肥田はその問いに表情を引き締め、静かに頷き返した。
横須賀までのドライブを終えたジョーディは、金が肥田を自宅前で下ろした後、都内を目指して再び高速道路へ車を向けた。
「もう夜か……道がすいてて幸運だったな」
助手席に座る金は、運転席のジョーディに声をかけた。
「ですな……それにしてもどうしてわざわざ担当弁護士にあんな質問を? 阪上が犯人だってのはもう当然のことでしょ」
野球帽を被っていたジョーディは、そのつばに手を当てると、アクセルを強く踏み込んだ。
「最終確認をしておくべきだと……藍田からの依頼だよ」
「はは……長助さんが……あの人らしいですな」
「これでGOが出せるというものだ……通信機はあるかね?」
「ダッシュボードの中です……電波は……たぶん届く場所にいると思います」
言葉に従いハンディタイプの通信機を取り出した金は、フロントガラス越しに高速道路の路面を見つめた。
「できるだけ湾岸を頼む……」
「わかってますって……」
ジョーディはハンドルを切り、車体を中央分離帯に近づけた。
「金です……はい……最終確認がとれました……作戦を開始してよろしいかと思います……はい……弁護士時代の知り合いなのですから笑ってしまいます……はい……了解、引き続きそちらの件を進めます……」
通信を切った金は、それを再びダッシュボードにしまった。
「よかったですね、通じて」
「ああ……」
「拠点にいてくれれば、連絡もラクなんですけどね」
ジョーディの愚痴めいた発言に、金は薄い眉をわずかに吊り上げ、膝の間で指を組んだ。
「いや……あのお方の作戦本部を置かないという発想は、現時点においては正しい選択だ……そもそも指導者が神出鬼没なのだ。無理にアジトを構える必要はない。拠点は生産用と倉庫に限定するべきだろう」
金の言葉は正しい。常に移動を続け、その所在を固定しないという考えは狙われる者にとっては理想の状態であり、狙うものにすれば情報の収集に困難がつきまとう。ジョーディーはかつて自分が後者の立場だったことを思い出し、死んでいった四人の仲間に黙祷した。
リビングのテレビでは、今夜のニュースが映し出されていた。それをぼんやりと眺めていた神崎はるみは、ソファの隣で同じようにしていた弟の学(まなぶ)に、「連続誘拐暴行殺害ってどーゆー意味?」と尋ねられ、答えに窮してしまった。
「え、えっとね……こーゆーのは言葉をばらばらにして、一つずつ考えればいいの。まず連続って……意味わかる?」
黒いタンクトップ姿の姉の言葉に、学は大きく頷き返した。
「知ってるよ。何回も何回もってことでしょ?」
「そうそう……で……暴行ってのはね……まぁいいやこれは……」
「えーどーしてー!?」
「学はまだ覚えなくっていい言葉なの。で、殺害ってのは人殺しってこと」
早口の説明ではあったが一応の理解を示した学は、何度も頷いて大きな目を輝かせた。
「次々と殺したんだ。ひっでーなー!! 幼稚園の女の子だろ?」
「そう……ほんとにひどいやつだね……」
「なんで、死刑にならないの?」
素朴な疑問だった。はるみはクッションを抱え込み、顎をそれに乗せ、考えを巡らせた。
「いきなりは無理なの。裁判をちゃんとやって、本当にこいつがやったかどうかを見極めて、それでどんな刑が適当かをみんなで決めるの……それが来週あるのよ」
「それで決まるの!?」
「たぶん無理っぽい……こいつってば開き直ってるってぽいし、長引くかもしんないな」
学はあからさまに顔を顰め、姉の説明に納得がいかない様子であった。
「単純にはいかないのよ……わたしだってさっさと死刑にしちゃえって思うし、クラスの皆だってそう言ってたけど……いきなり死刑にできるような仕組みだと、間違って捕まえたりしたときに取り返しがつかなくなるでしょ」
「じゃあ、間違えたやつも死刑にしちゃえばいいんだよ」
屈託なくそう言った学に、カウンターキッチンから出てきた母、永美(えいみ)が「こら!!
死刑、死刑って軽々しく言わないの!!」と叱った。
ニュースは、ある犯罪被害者の遺族へのインタビューに切り替わっていた。画面の右上には、「祇園祭銃撃事件の遺族が語る、凄惨現場の真実」という品のない見出しが躍っていたため、はるみは母と弟のやりとりから意識をそれへ切り替えた。
祇園祭の山鉾巡行を死の戦場と化したエロジャッシュ・高知。彼は護送中に自殺し、裁判を受けることはなかった。そもそもあれは現行犯というレベルを超えているから裁判云々以前の問題である。それが「戦い」というものなのだろう。遼たちはずっとそんな世界と普通の生活を行ったり来たりしている。自分はこれからどう関わればよいのか。そもそも蜷河理佳を助けるのを協力するというのがきっかけというか、関わってもよい条件だった。それについてはまだ継続しているのかどうか。
確かめる手段があるとすれば、再会して一夜を共に過ごした遼に聞くしかないが、今はとてもそんな失恋の傷口に塩を塗りこむような真似はできない。
「はるみ。長野の合宿は十七日からだったわよね」
母の質問に、はるみは「うん」と短く、テレビを眺めたまま答えた。
そうだ……合宿のときに……聞いてみよう……
あの少々特殊な環境であれば、おそらく切り出せるはずだ。少女はクッションを抱く力を強め、背中を丸めた。
「ここがねぇ……」
歌舞伎町のカプセルホテルにやってきた神崎まりかと相棒のCIA捜査官、ハリエット・スペンサーは、最下段のベッドを凝視し、共に首を傾げた。
「いま記録を確認したんですけど、二〇〇三年の五月七日から、真実太郎って名前で四泊してました」
支配人である中年男性は二人の背中からそう告げ、「真実太郎」という名前に、黒いブラウスに革のスカート姿のまりかは肩を上下させた。
「ふざけてるし……にしてもほんとあちこちを転々としてるわね」
まりかの言葉に頷き返したハリエットは、バッグから黄色い布とビニール袋を取り出すと筒状のベッドに潜り込み、足をばたつかせた。
「また拭き取り?」
「ええ。指紋とか残ってるかもしれないしね」
「まっさか……二年も経ってて、他の人が使い続けてるのよ」
あまりにも相棒が熱心に拭き取り作業を続けているので、まりかはあきれて腰に両手を当てた。
「一応……一応ね」
テレビで見た真実の人を目撃した。そのような報告はこの二ヵ月、東京を中心に日本各地から警察に寄せられ、信憑性の高いものからF資本対策班が調査に当たっていた。そのため現在の対策班は臨時増員で総勢百二十名の大所帯となっていて、内閣府別館に専用のフロアも用意され、その体勢は急速に整いつつあった。それでも、このように地味な現場検証や聞き込みをしなければならないのはまりかがまだ若く、序列として組織の下位にいるからである。
「晩御飯どーする?」
「これでラストだし……居酒屋にでも寄ってく?」
歌舞伎町の繁華街を歩くハリエットはまりかの提案に空色の瞳を輝かせ、「居酒屋いーねー!! Good!!」と親指を立てた。
CIAからの派遣であり、捜査協力を任務としているハリエット・スペンサーは、本来であればまりかより格上の存在であり、このような地道な仕事に付き合う必要はない。だが彼女は自分からまりかのパートナーを希望し、現場検証にも積極的に参加してくれる。まりかは正直なところありがたいと思い、最近ではこの米国人に対して仲間意識を超えた友情めいた感情を抱きつつあった。
「ねぇまりか。来週の水曜日に、青山二丁目に新しいカフェがオープンするんだけど、一緒にランチでもどお? アメリカンスタイルなんだって」
ネオンのまぶしさに目を細め、ハリエットは軽い気持ちでそう言った。まりかは小型端末を取り出すとスケジューラを起動させ、口元を歪めた。
「ごっめーん……ちょうどその日……朝から、私用入っちゃってる」
「へぇ……平日の日中に? まりかにしては珍しいね」
「先方がこの日しか空いてないのよ……」
残念そうなまりかに、並んで歩くハリエットは人の悪い笑みを浮かべた。
「先方……あはは……デート!?」
「まっさか……そんな相手、いまはいないわよ」
つまらなそうに答えたまりかは端末をバッグに入れ、夜の繁華街を静かに見上げた。
8.
VTRのマスターテープもバックアップも警察に没収され、関東テレビに真実の人を取材した映像素材はまったくなく、だから非公式に他局や同業者が素材の貸し出しを依頼してきても、「ネットで拾えよ。いくらでも落っこちてるから」などと無愛想な返事をすることしかできない。事実、真実の人にマイクを向けた北川洋輔も政府の対応があまりにも迅速なのに驚き、後にVHFの大手局に勤める業界の後輩から、「F資本対策班ってのもあるんですよ非公式ですけど」と教えられ、自分の在籍する関東テレビと中央マスコミの距離を思い知らされる結果となった。
あの独自ドメインからの密告メールは、放送後も数回に渡って北川のもとに送られてきているが、放送についての感謝や労いなど、どれも内容は具体的ではなく、それでも一応情報ソースとの関係性が保たれているという安心感を北川に与えていた。無論、彼から何度も返信は出してはいたが、それについての反応は皆無である。
局のITセキュリティ部門に差出人の解析を依頼したところ、ドメイン自体は台湾で取得されたもので、申請者は山容社という会社であり、これは渋谷区で登記された有限会社だが、記載された本社住所には事務所の形跡もないペーパーカンパニーという結果しか導き出せなかった。それ以上の調査に関しては興信所へ引き継がせ、現在は結果待ちの段階ではあるものの、北川ディレクターはあまり期待をしていなかった。
八月六日の早朝。そのメールの内容に、北川は愕然とし無精髭を撫でた。
「やるよ。久々に。忠犬隊と真実の人がやるよ。さいたま地裁、八月十日。改築されたばかりの裏手駐車場に登場だ。いい画を撮れよ」
短い文面ではあるが、その内容は圧倒的な情報量であり、北川はすぐに局長に電話をした。
「例のメールに予告が書かれていました!! そうです、あの白い長髪の男、真実の人(トゥルーマン)がさいたま地裁に現れるそうです!!
来週の水曜日、確か阪上って幼女殺害犯の初公判日です!!」
一度の実績だけでじゅうぶんだった。北川の取材班出動要請を局長はあっさりと了承し、最後に「根回しが必要だから、当日は他局との撮りあいになることを覚悟しとけ」と釘を刺された。なるほど、素材の没収を避けるための既成事実作りか。規模は縮小し閑職となってはいるが、手口の巧妙さは錆び付いていないと北川は上司の判断に感心し、すぐに取材スタッフへ電話をかけた。
なにをするつもりなのかはさっぱりわからない。今度は裁判所で事故でも起きるのだろうか。ローカル局であり、報道局も最小規模という現状では調査範囲にも限界があるため、どうしても受け身に回らざるを得ない。
もし局長の根回しが成功し、今度の一件が全国放送されることになれば、当局も情報をある程度は公開する可能性もあるし、そうなれば最初に取材に成功した実績があり、その行動予定を知らされている関東テレビの報道局は、現在のようにVTRの貸し出し業務だけではなく、以前のようにニュースの番組枠も復活し、自分も望み通りの仕事に舞い戻れる芽も出てくる。雪崩のような勢いで北川は楽観的な観測をしてみたが、これまでが不遇だったからそのぐらい思考の自由はあってもいいと、自分に言い聞かせていた。
紫がかった白き長髪の美青年を思い出した北川は、電話でカメラマンに事情を説明しながらも全身が震えているのに気づき、腿をさすって苦笑いを浮かべた。
真夏の太陽が真上に差し掛かったころ、一隻のヨットが東京湾洋上に浮かんでいた。
白い帆は折りたたまれ、デッキにはいくつかの椅子が置かれ、その中の一つに赤いワイシャツ姿の長身の青年が腰掛け、ミックスジュースをストローで啜っていた。
青年の鼓膜を、近づいてくるモーターボートの疾走音が震動させた。
「石原裕次郎のつもりかよ。いつ、あんなヨットを買ったんだ!?」
モーターボートから身を乗り出してヨットを確認したのは、「夢の長助」こと藍田長助(あいだ
ちょうすけ)である。彼はボートを運転してくれているジョーディーの肩を叩き、ヨットに横付けするように頼んだ。
「よくきたな長助!! ジョーディーもこっちに来いよ!! 冷たい飲み物があるから!!」
顔に包帯を巻いた青年、真実の人が椅子から立ち上がり、ヨットに乗り込んできた長助を歓迎した。
「身体の方はどうなんだ?」
適当な椅子に腰を下ろした長助は、同じように座った青年にそう尋ね、ポケットから煙草と携帯灰皿を取り出した。
「まだ痛むな。あのガイって野郎、長期戦を予想して上手く打ったつもりなんだろうけど、じくじくが止まらないし、寝付けないこともある」
「なのに十日は決行か?」
「もちろん。復帰第一弾は派手にやりたいからな。あの事件はそれなりに世間の注目が集まってる。いつまでも自作自演ってわけにもいかねぇから、今回は舞台を利用させてもらうさ」
ジュースを飲んだ真実の人は青空を見上げ、眩しそうに手で顔を覆った。そんな彼を見つめる長助の表情は曇り、彼は舌打ちして煙草を吸った。
「なんだよ……いいだろ。今回の作戦は民間人の被害だってゼロだ。お前の好きな、綺麗な仕事ってやつだろ?」
「まぁそうだが……これからのスケジュールを読ませてもらった……どうしたって流血が絡むのは避けられないのか? なんか無理矢理って作戦もいくつかあったぜ」
忠告に、青年は片方だけ包帯から露出させている赤い瞳を輝かせ、上体を起こした。
「死は治療とセットなんだよ。ウミやガンは摘出しなければならい。これについては西洋医学の思想を適用させてもらう。なぜならあまり時間はかけられないからね。ガイってやつはそれなりに有能で、例えるならこれまで停滞していた脚本内容を、一気に加速させるような馬力と私心のなさを持っている。こっちも本気でかかる必要があるからな」
淀みなく一気にそう言いきった真実の人は、目を閉ざしてジュースをひと飲みした。
「弟さんの方はどうするんだ……」
「ん……そうだな……あいつもそうだけど、高知は民間人の高校生グループにやられたんだろ?」
「ああそうだ……完命流の使い手と、神崎まりかの妹と、あと一人はよくわからねぇが、どうやら弟さんのグループらしい」
「なるほどね……戦力不足を上手い形で補ってるってわけだ……それにガイが追加戦力を与えたら、ちょっと軽視し難い存在になるな」
「お前」や「貴様」ではなく、最近の弟は自分と対面しても「兄さん」と素直に呼んでくる。いよいよをもって本気で対決する覚悟ができてきたと見て間違いない。兄はそう確信していたから、兄弟の戦いを快く思っていない長助に対しても、申し訳ないという気持ちなど微塵もなかった。
「篠崎十四郎(しのざき じゅうしろう)のチームを動かす……任務はもちろん暗殺だ」
真実の人が口にしたその名前に、長助は煙草の灰をデッキに落としてしまった。
「お、おい……篠崎って言ったら……」
「技が錆ついていないことを祈りたいけど……まぁ、あのご老体が鍛錬を怠るってのはあり得ない……完命流が相手と知ったら、感涙ってやつを流すかもな」
「あのじいさん……奴隷契約は誰と結んでるんだよ……」
「確か孫娘を僕にしたはずだよ。その子も技を学んでるらしいし」
「孫娘って……おい……まだ十二歳じゃなかったか?」
「そうそう。確かそんな歳だ」
平然と頷く真実の人に、長助は椅子から勢いよく立ち上がったが、ヨットの揺れにバランスを崩してしまった。
「慣れん洋上では身体のコントロールに神経をつかうべきですな」
よろける長助を背後から支えたのは、犬の頭を持つ正義忠犬隊隊長、我犬(ガ・ドッグ)だった。
「我犬隊長か……」
長助は巨体の我犬から離れ、椅子の背もたれに手を掛けて煙草を携帯灰皿にもみ消した。
「真実の人……忠犬隊への通達をただいま終えました……皆、水曜日が待ち遠しいと覇気を見せていましたぞ」
張りのある声で異形の怪物は報告し、真実の人は小さく頷き返した。
「ようやくこれを正義のために振るう日が来たのですな!!」
我犬は腰に提げていた日本刀を引き抜き、刃に反射した陽光に長助は顔を手で覆った。
「頼んだぞ隊長……据物というわけにはいかんからな……君の腕を信じているぞ」
口調だけではない、ロジックそのものが異なる。自分やライフェたちに対している際と、残党やこの我犬などに向ける顔をこの青年は使い分けている。それを承知していた長助は、だが面倒で複雑な青年の内面を無条件に認めたくはなかった。
「なぁ長助……本来の目的を果たしてくれよ。今日お前を呼んだのは、鞍馬の結果報告のためだったんだけどさ」
「あ? ああ……そうだったな……」
バランスをとりながら長助は真実の人の側まで近づき、ヨットの縁に両手を付いた。潮風が天然パーマのもじゃもじゃ頭を揺らし、彼は目を細めて横付けしたボートの運転席にいる白人男性を見下ろした。
ジョーディーもこっちにくればいいのにな……
そうは思ったものの、慎重なる運転手役である彼は、このような状況においては非常事態に備えて運転席を冷えさせるような真似を決してしない。それは長助も真実の人もよく知っていることであり、だからこそ無理に誘うつもりもなかった。
「ゴモラの起動実験は成功した。つまり完成したと言っていい」
「へぇ……素晴らしいなそれは」
「あとは弾頭をセッティングするだけだ……そっちはどうするつもりだ?」
「手は打ってある……配役は決まってるけど、役者がまだ揃っていないからな……まぁ、時間はかけないさ……」
「それとな……起動の震動で、エレアザールが目を覚ました。実はこれが最大のトラブルでな。寝かしつけるのに中丸(なかまる)隊長たちも相当苦労したらしい」
長助の報告に、真実の人は顎を上げて彼の横顔を見上げた。
「そりゃ……マジか……?」
「おかげで落石なんて不測の事態が発生したよ。もっとも高知やジャレッドの件で、ほとんど注目はされなかったがな」
「はは……落石ね……まぁ、獣人王のサイズを考えれば、それで済んだだけでも不幸中の幸いってかんじだけどな」
「まぁな……」
背後には物騒な犬頭の男もいるはずである。しかし長助は、こうして青年と会話が噛みあう時間を過ごすのは心地よく感じていたため、あえて無粋な怪物の存在は無視していた。我犬もそれはよくわかっていて、二人の会話に決して割り込むことはなく、差し出すための缶ビールを取りに船体後部へと下がっていった。
「それと……京都で拠点にしていたマンションの撤収は、その日のうちに終えた……理佳が手際よくやってくれてな」
「あぁ……見事な狙撃だったらしいね」
「あ、ああ……」
「どうした長助?」
微妙な態度の変化を真実の人は見逃さず、長助は失敗したと頭を掻いた。
「あ、あのな……理佳がな……」
「ああ。理佳がどうした?」
「女になった……」
「理佳は女だろ? なに言ってんだよ」
平然と返したきた真実の人を、長助はちらりと横目で見た。
「い、いや……これは日本語の揶揄的表現っつーか……そ、そのな……島守遼っているだろ?」
「ああ。ルディの相棒だろ。なんで俺たちと戦ってるのか、イマイチはっきりしない……まぁ、いい目はしてるけどさ。理佳の好きな少年だったよな?」
「あ、ああ……作戦の前の晩……二人は偶然再会してな……一晩を共に過ごした」
ようやく“女になった”という言葉の意味を理解した真実の人は、椅子からずり落ちそうになり、両足で懸命に踏ん張った。
「へ、へ、へぇ……そりゃ今日一番驚く報告だなぁ……」
「その上で奴を仲間に誘うこともなく、任務も成功させた……理佳は成長したよ。俺たちが思ってるよりずっとな」
「そうか……」
グラスを片手に青年は静かな笑みを浮かべ、「幸せにしてやりたいな」とつぶやき、長助も無言で頷き返した。
9.
コンビニエンスストア、「冬木堂」を過剰防衛のため一日でクビになった高川典之だが、夏休みという豊富な時間を無駄に過ごすのは本意ではなく、作戦もしばらくないということであれば、携帯電話と原付免許取得のため次なるアルバイトを探すのは必然だった。アルバイト雑誌を見て検討し、彼が労働の現場に選んだのは、池上線蓮沼(はすぬま)駅から三十分足らずの終点五反田駅から歩いて二十分。閑静な住宅街に位置する、「山賊プロダクション」という名の小さなアニメーション作画スタジオだった。
夏休みの間だけ、臨時という形式の雇用のため労働保険などの適用もなく、給料も出来高の週払いであり、銀行口座の有無も聞かれなかった。
小学四年生のころ写生大会で消防車を描き、それが佳作に入選したのが高川にとって唯一の図画自慢だったが、日本のアニメーションは世界に誇る品質であり、絵についての採用試験もなかったので、彼はおそらくお茶汲みや掃除の雑用をやらされるだろうと思っていた。
朝九時にスタジオを訪れた彼は、いきなりライトボックスの置いてある机に案内され、「鉛筆と消しゴムは?」と、面接も担当した制作進行の中上(なかがみ)という青年に尋ねられたため、何度も瞬きをした。
「だめじゃないか……って……俺、言ってなかったか……いやそうだわ、ごめん……近所の文具屋で2BとMONOの消しゴム買ってきてくれ……大正文具なら山賊スタジオって言えば、一割引きになるから」
一方的に中上はそう告げ、高川はわけもわからないまま従順に購入をすませ、スタジオに再び戻ってきた。
彼の着ていたTシャツの胸に、大きく「完命流」という文字が入っていることに気づいた中上は、いったいなんのアニメに登場する武術かと記憶を辿ったが、すぐには思い出せなかったのでひとまず机に促した。
「よし……じゃあトレスを教える……」
「ト、トレス?」
「ああ……原画をスキャンできる状態に清書するんだ……正確さを要求される仕事だけど、ある程度の器用さとセンスがあれば、えっと……名前なんだっけか?」
「た、高川典之でございます!!」
「はいはい……高川くんにもすぐにできるようになる。そうしたらタイムシートの見方とか、中割りを教えるから」
「ま、まさか、自分がアニメーターをやるということなのですか!?」
高川の大げさな物言いに、だが中上は眠そうな目もそのままで、まったく動じることはなかった。この程度のおかしさは彼にとって日常であり、もっと人格の破綻した人物を何人も見てきた。こいつは姿勢がいいぶんまだマシである。しかし勘違いはよくない。中上は前髪を鬱陶しそうにかき上げた。
「アニメーターで雇ったんだから当然だろ?」
「し、しかし自分はアニメはほとんど見たこともなく、絵にしても自信などは……」
「ダメならすぐクビにすっからいいんだよ。それに短期のバイトくんに犬の走りや鳥のはばたきなんてやらせんし、口パクとか大判止めとかその辺しか任せないから、あんま構えなくっていいよ」
納得のいく説明とはいえなかったが、収入になるのならこれ以上の反論は無意味である。高川は観念して中上の言葉に従うことにした。
一枚の練習用原画を渡された高川はそれを両手に持ち、描かれている人物をじっと凝視していた。
「見たことない? “漆黒のオーラムーン”……深夜に東テレでやってるの……」
中上の背後からの言葉に、高川は何度も首を横に振り、「こ、この少女はいったいどういった人物なのですか!?」と、およそトレスの練習に取り掛かる初心者には相応しくない的外れな質問をした。
だが、この中上という男はまったく動じず、まだ誰も出勤してこないガランとしたスタジオを見渡し、前髪をかき上げた。
「よかったなぁ……高川くん……まだ誰も来てなくって。笑われてたぞ」
「そ、そんなにも有名な人物なのですか!?」
「ああ……その鎧を来たのは少女じゃなくって少年……ビューティー・フールっていう、いま腐女子に大人気キャラなんだぜ」
確かに西洋風の革鎧は着ているが、描かれている人物の顔は顎も眉も細く、とても男性には見えない高川だった。しかし世間知らずの彼でも、少女漫画的な方法論というものに対して無知ではない。そういうものかと納得すると、まずは削った鉛筆を握り締め、原画をトレスボックスに置いた。
「剣の腕も一流で鬼神のごとき強さ。見かけによらず度胸があって、正義感の塊。そんな古風なキャラが受けてんだよ。まぁ、せいぜいキャラ崩れしないように、ビシっと決めちゃってくれよ。鉛筆の“払い”や“止め”はさっき教えた通りにやればいい。自在定規は使うなよ。それは後で教えるから」
ぺらぺらと説明した中上は、一階のガラス戸ががらがらと開く音を耳にし、すぐに階段を駆け下りていった。
け、剣の腕が一流……鬼神だと……あ、ありえん……かような細腕で……ならば薙刀などを持つべきではないか……それにこれはどう見ても度胸のある表情ではない……ルディも女の子っぽい見かけだが、ときどき恐ろしいまでの気迫を見せる……違う……違いますぞ中上先輩……!!
剣を構え、無邪気に微笑む天使のような笑顔なのだが、あまりにも線が細くて弱々しく見えてしまう。鉛筆を握る高川の指に力が込められた。
午後一時、昼休みを前後して、山賊プロダクションには続々とアニメーターたちが出勤し、がらんとしていたスタジオも窮屈な製作現場と化していた。外からやって来る者だけではない。誰もいないと思っていた机の下から毛布がもぞもぞと動き出し、そこから目つきの悪い浮浪者のような中年男性が起き上がってきたのをすぐ近くで目撃した高川は、気配に気づかなかった自身の不覚を恥じ、男の深かったであろう睡眠に感心してしまった。
その男は周囲から石野と呼ばれていたが、新入りの高川に挨拶する様子もなく、洗面所から帰ってくるなりスティックタイプの栄養食品を齧り、ライトボックスが埋め込まれている動画机へ向かった。
少々いやな体臭もするが夏場の泊まり込みであり、世界に誇る日本のアニメーション産業を、彼のような者が支えているのであれば仕方がない。高川はそう諦め、目の前のトレス練習に集中することにした。初めてのトレスになんとも苦戦を強いられているが、絵の上手なとある同級生のことを思い出した彼は、もっとリラックスするべきだと深呼吸をし、なんとも淀んだ空気にむせ返ってしまった。
ランニングに短パンの随所から肉のはみ出た小太りであり、長髪をゴムひもで結んだ石野というアニメーターが、机に向かって仕事をしたのは最初の一時間だけだった。彼はどこからかやってきた、痩せぎすの南という男と会話をはじめ、両者は早口でくぐもった声であるという点において同様だった。
「だからさ、こないだの皇室暗殺未遂はテロじゃねぇって。ありゃラリったパラノがやらかしただけだろ。それを“マスゴミ”が米兵の不祥事ってアングルで報道すっから、ウヨサヨ両方が岩国に押しかけたってことなんだぞ」
「いやけどさ。あの自爆兵の装備はどうなんだよ。アサルトライフルに手榴弾、ロケットランチャーなんてごっそり持ち出せるぅ!?」
石野と南の会話は、背中を向けてトレスに苦心する高川の耳にも嫌でも入ってしまい、だが先輩に対して私語を慎めと注意をすることもできず、彼は仕方なくようやくトレスの半分が終わったライトボックス上の、顔の崩れた美少年剣士に向かってため息をついた。
「だからさ、岩国には今はマリーナはいねぇんだってばさってばさ!! あの武装は別ルートの調達だっつーの!!」
「いやけどさ。個人調達のレベル超えてるっしょ。どー考えても」
先ほどからこの両名の会話は、「だからさ」と「いやけどさ」の出だしで交わされている。なにかルールがあってのことだろうか。それにしてもうるさい。なんにしてもまったく上手く線をなぞれない。おまけに暑いし臭いし腰も痛い。これはなかなか苛酷労働現場であると、高川典之は額から汗を流して思い知った。
やってきた制作進行の中上が注意したことで、二人の世間話はようやく終わった。これで少しは静かになる。高川が安堵して鉛筆を手動削り器で削っていると、背後に気配と呼吸を感じ、彼は息を止めた。
「だめだなぁ旦那……全然トレスできてないじゃない」
トレス台の動画用紙に描かれた、まったく似ていないビューティー・フールを、小太りの石野がそう論評した。
「は、はい……ど、どうにも……え、鉛筆は動くのです……し、しかし……なんというか……」
どうしても納得がいかなかった。このような少女然としたキャラクターが鬼神然とした剣豪とはあり得た話ではない。どうしてもその疑問が指を震わせ、トレスでもっとも重要である正確な挙動を阻んでいたための結果である。高川は先輩にそれを素直に打ち明けた。
なかなか面白い発想をする奴だ。例年この季節になると学生の臨時バイトを雇うが、今年のこいつはどう考えてもアニメ好きのオタクではなく、別世界から迷い込んできた謎の偉丈夫としか思えないし、事実それで正解なのだろう。石野は小さい目を輝かせ、無精髭いっぱいの顎を撫でた。
「旦那の思うように描いちゃえよ」
ぶっきら棒な石野の物言いに、高川は面食らった。
「し、しかしそれでは……正確に清書するのがトレスと……中上殿は……」
「岩崎駿命監督って知ってるか?」
その名は、高川の世代で知る人はいないといわれるほどの、大ヒットアニメーション監督であり、国際的な映画賞を数々受賞した名匠である。高川は何度も頷き返した。
「岩崎監督も最初は動画だったんだが……個性の強い人でな。原画を無視しては独自の動きを描き出し、結果的にそっちがいいから早く出世したんだ。なんだかんだ言っても最初は個性だよ。旦那の正しいと思う剣豪に仕上げりゃいいじゃないか」
腕を組んで早口でそう言った石野の向こうでは、あまりに出鱈目なホラ話に笑いを堪える後輩たちの姿があった。しかし高川はそれに気がつかず、胸に手を当てて口を小さく開けた。
「な、なるほど……個性を重視して……自分の正しいと思う絵を……なるほど……!!」
こいつは馬鹿だ。なんて面白い奴が来てくれたことか。しばらくブログのネタに事欠かない。石野は高川の素直さに感謝しながら、彼の肩を叩き自分の机に戻った。
結局、夜の七時までかかって高川が仕上げた練習課題はたったの三枚だった。煙草を片手にやってきた中上は、あまりに枚数が少ないので絶句してしまい、さらにその仕上がりを確認した途端、煙草を絨毯に落としてしまった。
シルエットが違う。顔が違う。線の密度が違う。何もかもが違う。そこに描かれているのは美少年剣士、ビューティー・フールではなかった。強烈なバイトキャラが来てしまった。中上は震える手で煙草を拾い上げ、Tシャツ姿の高校生を凝視した。
「いやぁ……なかなか難しいものですな。自分の個性を出すというのは。いっそ大和くんのように、写実的な世界へ……あ、大和くんというのは私のクラスメイトなのですが、これがいわゆる不良のくせに絵の上手い奴で……いやいや、ともかく頑張ってみたつもりですがいかがですかな!?」
照れていやがる。スポーツ刈りを掻いて、目尻を下げて照れていやがる。こいつにとって、この“七十年代劇画風、ビューティー・フール”は本気の結果であるということか。後ろから覗き込んできた石野を手で払い、中上は煙草の煙を吐き出した。
誰に吹き込まれたのかとんでもない勘違いをしているようだが、どうやら悪い奴ではないように見える。ロクでなしの集まる場末のスタジオに、このキャラはありかも知れない。中上はトレス台に高川の結果を放り、「明日同じ時間に来い……ちゃんとおしえっから」と、漏らすように告げ、前髪をかき上げた。
10.
この家を訪れようと最初に思ったのは、十八歳の夏だった。けど、そのころはまだ心の整理がつかず、なんと告げればよいのかわからなかった。相手の立場など想像できるはずもなく、ただ混乱してしまうだろうと躊躇するばかりだった。
きっかけは母の一言だった。「母さんは……まりかが生きてるってだけで幸せだから」それは大学を卒業後に、対策班へ入ろうと決めた二十歳の春だった。生きている者が伝えなければならないことがある。あの人はそれを待っている。
その夏、神崎まりかは東堂家を尋ね、守孝との出会いを果たした。
あれから毎年、日にちはばらばらだが八月になると東堂家を訪れるのが毎年の恒例行事となっている。相手は巨大グループ企業の会長であるからスケジュールの調整も難しいが、両者の会いたいという気持ちがそれを可能にしていた。
「かなめさんは……心を読めるのは便利だけど煩わしいって言ってました……」
広々とした客室で、ソファに腰掛けていたまりかは、対座する東堂守孝にそう言った。訪れる度に、かつての仲間であり最終決戦でその若い命を散らした、東堂かなめから聞いたことや、彼女にまつわる出来事を語るのがなんとなくの“きまり”になっていた。
「そうですか……触れた相手の心が読めてしまうということは……だっこするたびに、私の心も……」
「ええ……父に抱かれると、その度に母のイメージが浮かぶ……かなめさんはそう言ってました」
「そ、そうですか……い、いや……お恥ずかしい……!!」
家族のことより会社の利益や資産を優先する。経営者としては優秀だが家庭人としては冷血とも言えた父のことを、東堂かなめは憎しみにも近い感情で拒絶していた。その発言の最後にも、「それが嫌で仕方がなかった」という感想が続いたのだが、熱心に耳を傾け、すっかり白髪と皺の増えた守孝を見ると、まりかはすべてを語る気分には決してなれなかった。
最後は、おそらくこの彼を許していたのだと思う。娘の戦いを知り、政府の対テロ部門へ多額の援助を表明した際、かなめはもう一人の仲間である金本あきらに諌められ、その頑な心も多少は開かれているように感じられた。だが、彼女の複雑な経緯を語るのはまた来年以降でいいだろう。仲間として行動したあの数ヵ月は密度こそ濃かったものの、期間としてはわずかである。これから先も毎年こうして会うのだから、少しずつゆっくりと思い出話や彼に見せなかった面を伝えていけばいい。執事が用意してくれた紅茶を一口啜ったまりかは、照れている東堂守孝に対して小さく微笑んだ。
「しかし……テレビで見ましたが、またファクトどもが活動を再開したとか……」
「は、はい……」
「私はあの日会議だったので、真実の人を名乗る青年は雑誌でしか確認していないのですが……あれは本物なのですか? 西原(にしはら)委員は未確認だと繰り返すばかりで話にならんのです」
「ほ、本物だと思います……残党かどうかはわかりませんが、あの青年は明らかにファクトの流れを継承した真実の人に間違いありません」
数年に亘る訪問は過去にまつわる話題ばかりであり、現在のことを語ることはほとんどなかった。それだけに守孝の心配はまりかにとって、現在の状況を思い知るにじゅうぶんな出来事であり、彼女は黒いブラウスの襟を直し、小さく息を吐いた。
多少の機密漏えいは、この大手スポンサーであり遺族である東堂守孝に対しては許されるだろう。越権ではあったがまりかはそう判断し、ここ最近で自分の関わったFOT絡みの事件を彼に語った。守孝は葉巻を取り出し、それを見つめて頭を何度か振った。
「正義忠犬隊などと……ふざけた所業です……なにが正義だ……私は認めませんぞ……神崎さん……援助は惜しみません。奴らの陰謀を叩き潰してください……!!」
葉巻をガラステーブルに置いた守孝は、身を乗り出してまりかの両手を握った。最近ではネットを中心に真実の人や正義忠犬隊に対して、若い世代から肯定の意見も出つつあると聞く。だからこうした生々しい頼みは勇気づけられ、戦いに対しての疑問をより小さくする。まりかは力強く頷き返し、老人にさしかかった男の目を見つめた。
東堂家の執事である林によると、守孝は娘の死後、すっかり老け込んで苛烈だった性格も穏やかになり、尊大さが影を潜めたと聞く。巨大企業であった東堂グループも援助のためその規模を縮小し、あの八年前の戦いは東堂家をすっかり巻き込み続けている。自分はひょっとして、それを確認するために来訪を継続しているのではないか。まりかの脳裏に小さい影が走ったが、彼女は嘆願する守孝の真っ直ぐな気持ちを再確認し、それを払拭した。
横田が集めた資料は昨日受け取り、東堂かなめの誘拐事件をはじめ、東堂家の家族関係や資金援助先が対テロリスト部門の、それもF資本対策班であることなど、かなり詳しい情報は入手できた。「可愛い彼女はまだ選考中だ」そう告げた際、横田は恨めしそうに睨み上げていたが、そんな些細な厄介ごとよりも、叔母であるかなめを誘拐したのがファクトだったという衝撃がより強く、リューティガーと共に一の橋の路地を歩く遼は、来訪してまずなにを喋るべきか、ずっとそのことばかりを考えていた。
黒いTシャツ姿の遼に、白いワイシャツを着たリューティガー、並んで歩く両者は豪邸の前で立ち止まった。
「さすがに……僕は外で待ってた方がいいのかなぁ……」
曇り空のため陽光はそれほどではなく、午前ということもあって幾分涼しいが、真夏の都心はアスファルトから熱気を発し、リューティガーは少々うんざりとした顔で門の様子を窺った。
「い、いや……一緒に来てくれよ……ちょっと俺……びびってるみたいだし」
「そ、そうなの?」
「当たり前だろ? ほとんど記憶にない爺さんに会うんだ……初対面なんだぜ、緊張しまくりだっつーの」
苦笑いをした遼をリューティガーは無邪気な笑みで見上げ、やはりついてきたのは正解だったと嬉しくなった。
「わかった……付き添ってあげるよ」
東堂かなめに対して興味がある。それが同行の動機でもあったが、対テロについて積極的な援助をする東堂グループ総帥との対面は、同盟のエージェントとしての今後にもなんらかのメリットを生み出すはずである。無邪気な笑みの底にしたたかな計算も含ませ、リューティガーは門に近づいた。
庭から、燕尾服に白髪の老人が来訪者であるリューティガーに意を向けた。頭髪と同色の眉毛が豊かであり、その目つきまではわからないが、ホースを手に草木へ水をやる挙動はしっかりとしたものであり、背筋もぴんと張っていた。おそらくあれは執事だろう。リューティガーは会釈をし、遼を促した。
「あ、あの……東堂守孝さんは……ご在宅でしょうか……」
リューティガーの陰から姿を現した遼は、燕尾服の老人にそう尋ねた。すると男は一歩後ろに足を動かし、ホースを持つ手が震え出した。まるで遼に対して怯えているようでもある。リューティガーはこの執事は相当記憶力がいいのか、はたまた最近何か情報でも得たのかと警戒した。
「ぼ、坊ちゃま……」
老人のつぶやきは、二人の耳には届かなかった。東堂家に長く仕える彼は十数年ぶりに見た島守遼に対して、その面影を記憶にあった幼児期の姿と彼の母と完全に重ね合わせ、判断は正確を極めていた。彼の名は林(はやし)。東堂家については裏側までも完全に熟知した、忠実なる執事である。
「あ、あの……聞こえてますよね!!」
声量を増し、遼は叫んだ。その声に林はますますたじろぎ、ホースから出ている水を手元のリモコン操作で止めた。
「ど、どちら様が、な、なんの御用ですかな……ご、ご主人は接客中であらせますが……」
少しだけ震えた声で林は告げた。なぜよりによって神崎まりかが訪ねてきた今日、島守遼までやってくるのか。これは偶然なのか、それとも必然か。冷静沈着をモットーとする老執事の心が乱れた。
「えっと……島守遼っていいます……こっちは友達の真錠……い、いや……ちょっと守孝さんにお話があって……接客中って……お仕事ですか?
でしたら外で待たせてもらいますけど……」
ジムでのアルバイトで、年長者との会話にも慣れている遼だった。ぎこちないものの合格点の対応に、リューティガーは紺色の瞳に驚きの色を浮かべた。
「は、はい……しかし長い接客になると思われます……できれば日を改めて……事前に私めに連絡をしていただいた上で、お越しいただけませんでしょうか……」
いまはどうしているのか知らないが、島守貢という男が経済的な成功を収めたとは考え辛い。正直で間違ったことをするような人物ではなかったが、時間の経過でそれもどうなったかはわからない。貧すれば窮するという言葉もある。まさか孫ですと名乗り出て、金を無心しに来たのではないだろうか。林はあまりにも対応のできている遼をますます警戒した。
「あ……いや……こっちも今日ぐらいか都合のいい日がないんで……昼過ぎとかになってもかまいませんから、この辺で待たせてもらいます」
遼はリューティガーに顎を向け、門から離れた。おそらくあの老人は自分たちを怪しみ、主とはあわせるつもりがないのだろう。それなら事情を話して正面から交渉するしかない。その意図を背中に触れることでリューティガーに伝えた遼は、高い塀まで路地を歩き、それに背中をつけて腕を組んだ。
「客が裏門から出て行くってことはないから……ここで待ってりゃいいな……ちょうど日陰だし」
「そうだね……客って誰だと思う?」
「東堂グループの親玉だから、そりゃいろいろだろ? マスコミの取材とか、政財界の要人とか……」
横田の調査でも、愛人の存在や認知していない娘の情報は拾えなかった。だが遼は疑うことはなかったし、そのような大物が自分と血縁関係にあることが、正直なところ嬉しかった。
「会ってどうするつもりなんだい?」
「ん……それが全然考えてないんだよ……小遣いでもせびるか?」
わざとらしい笑みを作った遼は、隣で自分と同じように塀に背中をつけているリューティガーの肩に、自分のそれを当てた。
「すごい額がもらえたりして……バイト行く気がなくなるぐらいの」
「いいなぁそれ。そしたらルディに寿司、奢ってやるよ。特上の」
「へぇ……それは楽しみだなぁ。実は寿司って、あんまり食べたことないんだよね」
「陳さんは作らないだろうしなぁ」
「そうそう。四川の場合、魚を生ではほとんど食べませんから」
こうしてたわいない話をしている分には、いくらでもいい友人として付き合うことができる。上っ面かも知れないが、会話がスムーズであり愉しいことには疑いがない。できればこのような関係が望ましい。殺す、殺さないや、特定の人物との接触は禁ずるなどといった物騒な対立はできれば避けたい。その想いは二人の異なる能力者にとって、共通した希望だった。
だが、そんな平穏とした空気は長続きせず、正門から出てきた人物の姿に一人は驚き、もう一人は憎悪した。まったくの瞬時にである。蝉の音だけが無神経なほど騒々しく、だが二人はそんなことをまったく気にすることはなかった。
なぜ彼女がここから出てくる。いや、東堂かなめと共に戦っていたのであれば、それほど不思議ではない。ましてや東堂家は対テロ部門に資金援助をしているのだ。接点は多い。それにしても偶然もいいところだ。前で震えている栗色の髪は、彼女のことを嫌っているばかりか、「接触を禁ずる」とまでこちらに命令してきたほどである。驚きながらも、遼は咄嗟にリューティガーの前へ出た。
嫌な偶然だ。考えてみればその可能性とてあったはずである。それを考慮していなかった自分も迂闊だったが、さてどうする。まったく想定していなかった。自分が所属していた傭兵部隊を壊滅させ、いまも政府の庇護のもと、のうのうと生き続ける卑怯者が目の前にいる。考えるな。思うようにやってしまえ。リューティガーは遼を払いどけ、正門に向かって駆け出した。
「お前がー!!」
そう叫んで駆けてきた栗色の髪をした少年に、神崎まりかは驚いて足を止めた。見覚えなどないし、「お前」よばわりをされるなど心外である。テロリストの刺客かとも思ったが、それにしてはあまりにも正面から来過ぎであり、その可能性はきわめて低い。だが殺意も感じられるため、彼女は腰を軽くしてハンドバッグを抱える力を強めた。
「誰……なの……!?」
立ち止まり、睨み続けるリューティガーにまりかはそう尋ね、その向こうから走ってきたもう一人の少年に気づき、思わず口に手を当てた。
「と、島守遼くん……ど、どうして君が……!?」
「い、いや……な、なんなんだか……!!」
そもそも憎む原因を理解していなかったため、駆けつけた遼はまりかに適切な説明をすることができず、今にも襲い掛かりそうなリューティガーの側で様子を窺うことしかできなかった。執事の林も表の騒ぎに気づき、ホースを手にしたまま正門までやってきた。
「よくもおめおめと……!! お前のような奴が……!!」
「な、なにを言ってるの君……だ、誰なの?」
警戒しながらも、まりかの全身をある波長のようなものが迸った。
こ、これって……まさかこの子……
自分や彼の隣にいる遼と同様、この少年もサイキということなのか。理屈では説明のつかぬ感覚にまりかは震え、心当たりに記憶を辿ってみた。
誰の関係者……兄弟とか……息子……!?
恨みを抱かれる心当たりは、それこそ山のようにある。八年前に壊滅した真実の徒を大勢この手で抹殺した自分である。しかし、それがなぜ妹の好きな彼と一緒にいる。なにかが繋がっているということなのか。だが当面はこの殺気にどう対応するかである。まりかは顎を引き、いつでも能力が使えるように緊張した。
「いま……ここで決着をつける……死んでいった仲間の……無念を晴らす!!」
そう宣言しながらも、リューティガーはそれが自分の本心であるのか疑っていた。敵を同じくする味方である。冷静に感情さえ処理してしまえば、本来は手を取り合って共闘する相手のはずである。ましてや自分と同じ「異なる力」の持ち主なのだから、互いにわかりあえる存在のはずだ。
しかし、ネックレスの感触がより強い憎悪を生んでいた。ヘイゼルはまだ十九歳だった。無残な最後を迎えるにはあまりにも早すぎる。そんな憎しみを処理するには、この女の存在を消してしまうしか方法はない。知らぬうちの過ちだったと許すには、まだ彼は若すぎた。左手に持っていた小さな鞄のチャックを開け、リューティガーはその中に手を突っ込んだ。撃ち殺してやる。どのような結果になっても構わない。そんなことを考えていたら、心が壊れてしまうから。鞄の中で撃鉄を上げたその目は、殺害する対象をじっと見据え続けていた。
なにをするつもりかはよくわかってる。問題はどうやって止めるかだ。拳銃であればそれを破壊するか。しかしそれには数多く、何十回と能力を絶え間なく使わなければならないし、うまくいくとは限らない。なら体当たりか。両拳を握り締めた遼は、友人の暴挙に対するため、身を乗り出した。
そんな彼の肘に、冷たいなにかが触れた。なにごとかと小さく振り返ると、老執事がホースを差し出し、「緑のボタンがよろしいかも」とつぶやいた。遼はその意図を瞬時に理解し、ホースの先を受け取り、リモコンのスイッチを入れた。
あの鞄からなにを出すのかは明白である。PKバリアだと跳弾の危険性がある。ならば銃口を念動で曲げるか。しかしそれでは暴発し、この少年が大怪我をする。刺客としては未熟であり、だから殺すつもりなどはない。ならばPKレーザーで、グリップから上を切断してしまおう。できるか、そんな繊細な力の使い方など自分に。まりかは一瞬で判断し、意識を集中した。
行動が一番早かったのは、遼だった。全身を水浸しにされたリューティガーは、熱が一気に下がったかの如く呆けてしまい、まりかとの間に割って入った遼は「行ってください!!」と叫び、彼女はそれに応じて駆け出した。
「りょ、遼……」
「名刺でも差し出すつもりだったのかよ!? なんだよ無念って……いい加減にしろよな、お前!!!」
怒鳴られたリューティガーは鞄から手を出し、口元をわなわなと歪めた。彼をおかしいと思う原因の大半がここにあったのか。遼は水を止め、震えている彼を見つめてあきらかに情緒が安定していないと感じた。
「な、なにがあったんだ……俺にはさっぱりわからないぞ……お前のあの人や神崎はるみへの態度……説明しろよ……だってまりかって人は、俺たちと同じなんだぜ……」
傍らで様子を窺ってた林は、「俺たちと同じ」という部分に驚愕した。瑞希様の子供も、やはりあの不思議な力を受け継いでいるということなのだろうか。それともテロリストの残党と戦っているのだろうか。あるいはその両方か。そしてこの若者も、あの敬愛するかなめお嬢様のように戦いで若い命を散らしてしまうのか。林は眉を震わせ、胸に手を当てた。
「ご、ごめん……遼……僕は……どうかしてた……」
我を忘れた暴挙である。賢人同盟のエージェントとしては恥ずべき行為である。リューティガーは俄然とし、視点も定まらないぼんやりとした目で路地を歩き始めた。
「お、おい真錠!!」
「僕は……帰る……ごめん……」
歩いていく友人の濡れた背中に、遼はなんの言葉もかけられず、ホースを執事に返した。今日東堂守孝に会うのはやめておこう。とてもではないがこんなに荒れた気持ちで対面することはできない。彼はそう諦め、老人に頭を下げた。
正午過ぎ、空にはようやく晴れ間が見えてきた。さいたま地方裁判所は午後からの開廷を控え、長蛇の列が建物に吸い込まれていった。抽選の結果、その初公判を傍聴する権利を得られた者たちである。
このような重要事件の場合、テレビのカメラクルーは公判内容を告げるアナウンサーを撮影するため、何割かは正門前にて待機をするのが通例だったが、この日に限ってはそのすべてが裏手の改装された駐車場に待機し、一種異様な緊張感に警備員は何事かと首を傾げた。
法廷の傍聴席に次々と一般傍聴人や遺族、マスコミ関係者が着席し、その中に天然パーマのもじゃもじゃ頭と見事なまでの赤毛があった。
「はばたきはどうしてる?」
「上空で待機させてる……誘導役を任せておいたから……」
「なるほど……」
藍田長助は胸のポケットから煙草を取り出そうとしたが、法廷内は禁煙だったのに気づきそれを諦めた。
連続幼女誘拐暴行殺害犯、阪上誠の初公判は午後一時から開廷であり、それにはまだ十分ほど時間がある。ライフェは法廷に窓がないことにため息を漏らし、これではあの忠実なる僕の姿を確認できないと、それだけが不満だった。
11.
「母さんのこと?」
台所で火にかけたヤカンの様子を見ていた島守貢は、外出から帰ってきた息子の質問にどう答えるべきか困惑した。
「うん……いや……どんな人だったかって……そんなのでいいんだよ。天津家とか東堂家とかは別に知らなくてもいいから」
冷蔵庫からオレンジジュースの紙パックを出した遼は、その中身をコップに注いだ。
「んーそうだなぁ……なんていうかなぁ……」
記憶の中の妻は様々な顔をしていた。果たしてそのどれを息子に伝えるべきか、父は腕を組んで考えた。
「漠然とした質問だぞ、それって……どんな人かぁ……うーん……まぁ……明るいってよく人から言われてたな」
“明るい”最初に出た言葉に遼は意外さを覚えた。愛人の子で認知されなかったという事実は前提として暗い印象を抱かせるにじゅうぶんである。だが、まずなによりも優先して“明るい”とは。遼はなにやら嬉しくなってしまい、オレンジジュースを一気に飲み干した。
接触式読心をそれとなく使うのも考えてみた。だが、いまはそのような諜報まがいの手段より、純粋に父の伝えたい母の姿を知りたいと思っていた。それが、男手一つで自分を育ててくれた父に対する、息子としての真っ直ぐさであると信じたかった。
「それとな……そうそう、なんかすっごくカンのいいやつだった。俺の考えとか全部お見通しって感じでさ」
「え……?」
父の言葉に遼は衝撃を受け、思わず手にしていたグラスを食卓に落としそうになった。「考えとか全部お見通し」とはどういった意味なのだろう。まさか、そういうことなのか。彼は手の震えに奥歯を噛み締めた。
「俺が内緒で出かけたときも……帰ってくるだろ。で、あいつが出迎えて手を握ってくるんだよ。そして言うんだ“お金の無心なんてみっともないからやめましょう。パートに出るから安心してって”ぶったまげたよ。なーんでわかるんだってな!?」
頭を掻いて大笑いする父に息子は苦笑いを向けながらも、両手にはびっしょりと汗を掻いていた。間違いない、それは自分と同様の接触式読心である。この“異なる力”はすべて父から継いだものだと思っていたが、まさか母にまでそのような能力があったとは。いや、わからない話ではない。東堂かなめが神崎まりかの仲間だったということは、すなわち彼女も異なる力の持ち主だった可能性があるということで、それならば同じ東堂の血を受け継ぐ母もそうであったという解釈は成立する。
決定的な証拠はないが、もしこの接触式読心も父からの遺伝で彼も同様の能力があったとすれば、念動力を駆使したイカサマパチンコなどではなく、もう少し効率のいい稼ぎができるはずである。ひたすら誤魔化しの照れ笑いをする父は、人の心を読むことなどできない。その判断には消去法も加わり、彼はより確信を強くしていた。父の動かす力と母の読む力。その両方を自分は受け継いでいる。そんな濃い血統だからこそ、リューティガーも目をつけてきたのだろう。
二杯目のオレンジジュースをグラスに注いだ遼は貢に、「母さんは……綺麗だったの?」と、なんとなく尋ねた。しばらくして父は「目つきはお前にそっくりだったぞ」と、上ずった声で答えた。そうか、鋭かったのかと息子は納得し、二杯目を一気に飲み干した。
阪上誠の初公判は午後一時より開廷し、起訴状の読み上げの後、罪状認否で阪上が「悪いことをしたつもりはナッシング」と開口一番発言したため、法廷は騒然となった。傍聴席の藍田長助は眉を顰め、隣に座っていたライフェ・カウンテットはつまらなそうに裁判長の禿頭を見つめていた。
マットシルバーの四角いフレームの眼鏡に、だらしなく伸ばした長髪は後ろで結び、やや小太りの体型を猫背にし、目つきが鋭く肌が青白い阪上は、口元に薄い笑みを浮かべて落ち着きなく全身を小刻みに揺さぶる挙動のせいで、法廷内の誰に対しても、反省していないどこかふざけた印象を与えていた。
検察側の冒頭陳述は一時間という長さで行われ、裁判官に対して遠回しに求められた刑は当然のことながら死刑であった。初公判で論告段階まで到達するはずもなく、この日は証拠品の提出と説明に終始し、犯行に使われた凶器や撮影機材が運び込まれる度に、遺族たちからの呻き声が聞こえた。
「大切に扱えよ。βなんだからなβ」「中出しはもう最高って感じだったよ。あ、そっちは真理ちゃんのママ?
うわ!! ブサっ!! どーもごちそうさんっスね」「なんかさ、鼠人間が俺の中にいるんだよ。そいつがやらせたんだよね。え? パクリ?
インスパイヤって言ってよ」「少子化対策っス。早めに種付けして、国民を増やそうって意図。まーつまり愛国無罪って感じ?」
発言を求められてもいない状況で、阪上が勝手に口にした言葉の数々であり、その都度裁判は中断され、法廷内は怒号と泣き声に包まれ、阪上は引き攣った笑みで振り返り、法廷画家にピースサインを送ったりしていた。
「そろそろ閉廷だな……ライフェ……頼んだぞ……」
「ええ……」
先に席を立ったライフェが法廷の出口に向かって歩いていくと、阪上が見事なまでの赤毛を横目で認め、肩を大きく上下させた。
「萌え〜!! ツインテール萌え〜!!」
奇声を発した阪上はすっかり興奮状態であり、遂に肥田弁護士が席を立ち、彼の肩を掴んだ。ライフェはそんな揉め事にも歩みを緩めることなく、平然と法廷から廊下へと出た。
裁判長が閉廷を継げた後、阪上は二人の拘置所職員に連れられ廊下へと出た。まあまあの初公判だったろう。肥田弁護士はロクな仕事はしてくれないだろうが、次回はもっと気の違った演技でもして、なんとか精神鑑定に持ち込めればこちらのものである。夕方のニュースで、「妙なことを口走り」とでも報じられたら合格点だ。捕まってしまったのは痛恨のミスだったが、なんとかして生き延びてやる。そしてまた、あの幼い快楽に興じてやる。そんなことを考えながら廊下を連れられていた阪上の額を、突風が吹きつけた。
「あ……?」
真夏だというのに、なんという冷たい風だろう。なぜ目の前の拘置所職員は立ち止まっているのだろう。廊下の向こうに立つ、赤いワイシャツ姿の男はどうして包帯を巻いているのだろう。その隣にいる黒いツナギ姿の赤毛の小男は、なんのため両手に巨大な斧を握り締めているのだろう。阪上は突然変化した事態に困惑し、自分の身柄を守るはずの職員たちの腰が引けている事実に戦慄した。
「阪上誠……てめぇを生かしておくのは税金の無駄遣いだ……ここで死ね」
顔の半分に包帯で覆っていた青年は、赤い瞳に冷たい光を宿してそう告げた。
「な、なんだよ……お前は……!?」
「俺か……俺は真実の人(トゥルーマン)……真実を追究し、遂には真実そのもの……まぁ、どうだっていいや、んなこたぁ……死ねったら死ね。やっちまいな!!」
号令と同時に、青年の傍らにいた赤毛の小男が廊下を駆け出した。両手に握り締めた斧の一閃はあくまでも威嚇だったが、銃を持たぬ拘置所の職員にとっては許容範囲を超えた脅威であり、職務に対しては忠実である彼らだったが自らの命を盾にしてまで、阪上という変態を守る行為を咄嗟にはとれなかった。
悲鳴を上げて散り散りになった職員たちの背中を目で追った阪上は、眼前に迫る斧の鋭利さに恐怖を覚え、その場から駆け出した。
なんだあいつは、斧なんて裁判所に持ち込めるはずがない。テレビの企画か? それとも悪い夢か? 阪上は自分の常識に状況を当てはめたかったが、ワイシャツの背が斧の一振りで切り裂かれた瞬間、その考えは弾けとんだ。「殺される」それだけが確かな現実である。彼は階段を駆け下り、とにかく外を目指した。警察官に拘束されても構わない。なんとしてでも自分の命を保全してくれる存在と接触しなければならない。幼い命をいくつも奪った彼だからこそ、行き続けることの大切さはよくわかっていた。
さいたま地裁の裏手側駐車場では、民放各局のカメラクルーたちが携帯電話を手に声を荒らげていた。法廷側の廊下に斧を持った男と包帯姿の男が乱入。現在阪上誠は裁判所内を逃走中。包帯の男は真実の人と名乗っている。そんな散文的な情報が駆け巡り、関東テレビの北川ディレクターは、果たしてカメラを裁判所内へ突撃させてよいものか考えあぐねていた。
そんな彼らの上空で、数にして二十もの影が旋回した。そのうちの一つが急降下をはじめ、巨大な翼のはばたきに駐車場の空気が震動した。
カメラが一斉に、舞い降りてきた影へと向けられた。犬の頭、白い肌、鳥の足、腰から提げられた刀、それは大鱒商事本社ビル倒壊の事故現場に現れ、救助隊の協力をした異形の怪物に間違いなかった。前回は夜の出現だったが現在はまだ陽も高く、その現実離れした姿をあますところなく記録することができる。腕を組んで裁判所裏口を睨みつる雄姿を、ビデオカメラが包囲した。
「正義忠犬隊隊長、我犬(ガ・ドッグ)である!! 本日は正義の決行のため飛来した!!」
よく通る声で犬頭は叫んだ。すると裏口の扉が乱暴に開かれ、そこから破れたワイシャツ姿の阪上が、必死の形相で現れた。
「隊長!! 真実の人の名をもって命ずる!! 幼子の命をいくつも殺めたこの大罪人に、正義の刃を振るえ!! 断罪!!」
阪上に続いて裏口から出てきた赤いワイシャツを着た青年が、カメラ目線でそう叫んだ。阪上は背後からのアジテートに正気を失い、口元を歪ませながら報道陣に向かって走り出した。
なんなんだよ……どうしたってんだよ!! なんだよあれもこれも!!
なんで誰も助けにこない!!
おそらく、殺めた少女たちの思いも同一であったことだろう。だがこの連続暴行殺人犯に、そうした相対的な視点は皆無だった。
遼にホースで水を浴びせかけられ、跳躍でマンションまで戻ってきたリューティガーは、居間のソファにぐったりと全身を預けていた。
神崎まりかがあの場に留まらず、すぐに走り去ったということはこちらに対して身の覚えがないからなのだろう。ただの気がふれた若造と思っているかも知れない。だが遼とは面識があるとはいえ、「行ってください」の一言で指示に従うとはどういったことなのだろう。あの二人は自分が思っているより、もっと信頼関係を構築しているのか。
いや、どうでもいい。そりゃそうだ。遼は遼でいろいろやってんだ。神崎まりかと裏で結託しててもおかしくはない。そう、おかしいのは僕だ。僕はなんだ。感情に振り回されて、ふらふら上がったり下がったりで情けない……
神崎まりかに対する気持ちを整理する必要がある。兄と雌雄を決する前に、それをきちんとしておかなければ自滅するような気がする。ソファに横になっていたリューティガーは、だがその具体的な方法までは思いつくことができず、幼いころ極限状態を過ごし、大人たちに囲まれ鍛えられたバルチの灼熱の荒野を思い出し、口元に笑みを浮かべた。
だめだ……許せるはずがない……僕は……あいつを……
通信機のコールシグナルが鬱陶しい。だが任務とあれば、三回以内に出るのが規則である。若き指揮官は上体を素早く起こし、机上の通信機を手に取った。
「ガンちゃん……テレビ……? わ、わかった!! すぐ行きます!!」
突風が居間のカーテンを激しく揺らし、次の瞬間、その部屋に主の姿はなくなっていた。
霞ヶ関の内閣府別館、F資本対策班本部は騒然となっていた。第一報が民間テレビという点が事態の異常さを際立たせ、森村主任をはじめとする班員たちは緊張して液晶ディスプレイに注目していた。犬頭の怪物に、包帯姿の青年。その異様な姿は裁判所の殺風景な背景から妙に浮かび上がっていて、柴田捜査官は食べかけのカップうどんを机に置き、傍らで背中を向けテレビに注目していた、後輩である那須誠一郎(なす
せいいちろう)の肩を叩いた。
「神崎くんには連絡できたのか?」
「はい、ついさっきですが、渋谷で食事中のところを現場へ急行してもらいました……ただ……」
眉を顰めた那須は、フロアの隅に接地してあった大型テレビへ再び視線を向けた。
「渋谷からさいたまか……間に……合わないな……」
「ええ……」
F資本対策班は警察のヘリコプターも任意に利用する権限を与えられていたが、ヘリポートへの移動時間や緊急出動の準備をする時間を考慮すれば、関東であれば陸上の交通手段、それも場所によっては電車での移動が最も高速である。神崎まりかはこと念動力という点においては強力な能力者ではあったが、空間跳躍や高速移動といった能力は皆無であり、突発事態に対しての現場急行という課題は常に付きまとっていた。
阪上誠は、駐車場に停められているワゴン車に背中を貼り付け、股間からは大量の水分を分泌していた。彼の周囲はテレビカメラがいくつも並び、マイクを手にしたアナウンサーや、こともあろうかレフ板まで準備するスタッフの姿があったが、迫り来る犬頭と包帯姿から自分を守ってくれそうな者はどこにもいなかった。
「さぁ隊長……!! 人間のクズを始末するんだ!! 法律の壁があるのなら、真実と正義の名においてそれを突破する!!」
「かしこまりました真実の人……」
阪上に向かってゆっくりと歩いていく我犬は、鞘から日本刀を引き抜いた。
「正義決行!! 斬首断頭!! 真実の刃を受けてみろ!!」
警官隊も駆けつけたが、報道陣の分厚い壁に阻まれ、犯行現場への到達は困難を極めた。そんな混乱した駐車場で、日本刀を持った犬の目が輝き、鋭い軌跡が阪上の首筋に冷たさを伝えた。
蝉の音がする。それだけが妙によく聞き取れる。視界が急に上がり、回り、わからなくなった。
胴体から切り離された阪上誠の頭部は、我犬の後ろにいた真実の人の足元に落下した。
「隊長、お見事!!」
何回か拍手をした青年は、生首と自分に向けられたテレビカメラに向かい、右の人差し指を突き出し、胸を張った。顔に巻かれていた包帯は僅かにほどけ、その先が風になびいて彼の姿をより大きく演出しているようでもあった。
「さて!! マスコミ諸子に告ぐ!! 私の名は真実の人(トゥルーマン)!!
正義と真実の人である!! 新生ファクト、FOTと正義忠犬隊は、この日本の国益と正義を守るために存在する唯一の機関である!! 八年前の暴挙は繰り返さんとここで宣言する!!」
阪上の生首に右足を乗せた青年は曲げた膝に肘を当て、カメラに向かって不敵な笑みを浮かべた。
「今後、我々はこの正義忠犬隊に正義の決行を命ずる!! 上空に注目!!」
真実の人の言葉に従いマスコミが上空を見上げると、十九もの影がゆっくりと旋回をし、そこから無数の紙がひらひらと落ちてきた。
「あれに正義決行スケジュールが記載されている!! 刮目せよ諸君!! 怯えよ心当たりのある者!! 誰にも我々を止めることなどできん!!」
マイクもなく、腹からの叫びで宣言する青年を遼とリューティガーが心の目で捉えていた。二人は裁判所の正面玄関から建物を突き抜け、その惨劇後の光景を共有していた。
いきなりの呼び出しだった。アパートの外に出現した栗色の髪は、「とにかく来てくれ!!」と窓の外から叫び、遼はそれに応じるしかなかった。ここがどこであるのかはよくわからないが、とにかくイメージの中心に位置するのは包帯こそ巻いているものの、あの青年に間違いない。つまりこれからやることはたった一つである。犬頭の化け物が近くにいるが、どうやら事故や災害が発生し、その救助をしているようでもない。だとすれば集中できる。あらゆる混乱を生み出し、ごく普通の人々を巻き込んで命を失われる元凶、テロリストの指導者である彼を殺す。じきに光景が内臓に変わる。そうなれば一撃で仕留めてみせる。もう自分にも、手を握っている彼にも迷いはないはずだ。やつを倒して理佳の周りから狂気と異常さをすべて取り除く。それが彼女と当たり前の日常を過ごす、もっとも正しい方法である。
いいぞ、ルディ……もっと透視してくれ!!
ああ!! 頼んだぞ遼!!
決意は殺意に変わった。リューティガーは兄の急所を友人に示唆するべく、透視深度をさらに深めた。
だが、そこに広がった光景は、血に染まったアスファルトのみである。
どうしたルディ……!? なんだこれは!?
だめだ……遼……跳ばれた……
光景は騒然とした駐車場までズームダウンし、阪上の離れ離れになった遺体と鳥の羽が真夏の陽射しを浴びていた。
テレビカメラはその非日常をすべて映し、生放送として全日本に隠蔽されることなく事実が伝わっているはずである。マイクを手にした北川は興奮し、遂に来るべき日が訪れたとその場で飛び跳ねたくなっていた。
緊急事態であったため、狙う場所の選定に失敗したということか。遠透視を止めたリューティガーは、目を細めて上空を見上げた。二十もの影が飛び去っていくのが遼にもよく見えた。なるほど、あそこから丸見えだったというわけか。二人は顔を見合わせ、互いにため息を漏らした。
足元に一枚のチラシを発見した遼は、それを拾い上げた。
「正義決行スケジュール……だとよ……」
リューティガーは紙を受け取り一通り目を通すと、表情を険しくした。
「冗談じゃない……なんだこれは……」
タイトルは「正義決行スケジュール」であり、A4用紙一面に表組みされた内容は、“八月十七日 通常国会”など、今後一年間に亘る不定期な日付と、その日に行われる行事が、一つずつ記載されていた。
「何をするのかどこにも書いていない……こんな……混乱させるようなものを……!!」
「あ、ああ……」
裁判所を出た遼とリューティガーは、並んで路地を歩いた。時刻は午後四時になろうとしていたが強い陽光は相変わらずであり、蝉時雨は盛んなままである。手にした正義決行スケジュールをじっと見つめていたリューティガーは目を閉ざして何度も首を傾げ、その度に唸った。
「どうするんだ……一番早いので十七日……通常国会だろ?」
「ああ……」
遼の言葉にリューティガーは意を向け、スケジュールの一番上を確認した。
「もちろん阻止する……」
「となると……演劇部の合宿は無理だな……」
「いや……司令の話だと、近々健太郎さんと……僕の昔の先輩でガイガーって人がいるんだけど……あと何人かが追加戦力としてこっちに来る……もしそれが間に合うのなら、本来は別任務だけど、この十七日の通常国会と十八日の在日米軍再編協議……その二日間はそちらで対応できると思う」
「け、けど……合宿旅行なんて行ってる場合じゃないだろ……」
「嘘や陽動の可能性もある……それに今日のテロを日本政府が重視して、国会や会議を延期する可能性もある……もし力が必要なら跳んでいくさ……だから君たちはぎりぎりまで普通の生活を送っててくれ……かえってそっちの方がきついとは思うけど……しばらくあの新司令のやり方になれるまでは、僕も少し身軽でいたいんだ。今日みたいにね」
遼たち現地協力者の活動範囲を狭めるようにとの忠告もあったが、それだけではない。正義決行スケジュールがもしすべて実行されるのであれば、その阻止のために学校を休むどころか、下手をすれば退学しなければならないことになる。しかしまだ決行が暫定の現在において、遼をはじめとする仁愛高校組にあまり負担はかけたくはなく、その結果としての重圧も避けたいリューティガーだった。
駐車場で愉しそうにアジテートをする兄はこれまで以上に手ごわい存在となる。そして新司令のガイは徹底した態度でその野望を阻止するために動くことだろう。長期戦になり、組織戦となる。場合によっては日本政府との共闘も視野に入れなければならない。そんな予感がしたため、リューティガーの判断にも変化が起ころうとしていた。
「科研の合宿があるんだろ? そっちはどうするんだよ?」
遼に言われ、赤い縁の眼鏡をかけ、黒髪を後ろで結んだ同級生の姿がリューティガーの脳裏に浮かんだ。
「断るよ……さすがに僕まで旅行はできない」
「そっか……吉見さん、怒るんじゃないのか?」
怒るより哀しむだろう。リューティガーはそんな予想ができるほど、吉見英理子を理解しつつあった。
路地を抜ければ駅前の大通りである。どこか適当な場所を見つけて落ち着いて、裁判所で起きた事件を検討する必要がある。できればテレビのある店などが都合がいい。すぐに跳んで代々木に戻ってもよかったが、はじめて訪れる埼玉の地をもう少し記憶に刻んでおいたほうがいいだろう。リューティガーの判断はそうだった。
路地の果てから駆けてくる人影があった。黒いブラウスに革のスカート。両腕を大きく振り、表情からは懸命さが溢れている。遼はそれが誰であるのかすぐに気づき、すぐ隣にいるはずの友人が忽然と消えていて、突風が前髪を揺らしている事実に戦慄した。
空間跳躍。それはまりかにとって八年ぶりの衝撃だった。かつて知り合った二人とは異なる出現方法であり、空間を割って出るというよりは、まさしく風と共に颯爽とした現実空間への登場ではあった。なによりも眼前にいるこの少年が、つい先ほど東堂邸前で睨み付けてきたた者と同一人物であり、両手に拳銃を握り締めているのがあまりにも鮮烈であるため、まりかは身構えるのと同時に「誰がなぜ!?」と叫んだ。
「マーダーチームカオスを忘れたとは言わせない……!! 貴様たちが壊滅させた……カオスを覚えているだろう!!」
「カオス……!?」
その名は何度も耳にした。三ノ輪で、渋谷で、味方村で。重武装した傭兵集団との対決は八年前の戦いの一ページであり、忘れるはずもないまりかである。しかしなぜこのような少年が。それにしてもだ。こうやって銃口を突きつけられるのは二度目だったか。あれも確かカオスが絡んでいた。
「なに考えてるんだよ、真錠!!」
背後から近づいてきた声に、リューティガーは左の踵で地面を蹴り、腰を少しだけ落とした。
「こいつは僕の仲間を皆殺しにした……あぁ、わかってる……傭兵部隊としてファクトに雇われていた以上、どうせ民間人の虐殺でもしたんだろう!!
彼女たちが逆襲するだけの動機はじゅうぶんだし、どちらかと言えば君などはそちらに寄った立場や考えのはずだ!!」
吐き捨てるように言ったリューティガーは、鋭い眼光をまりかにぶつけた。
「だけどね!! 気がおさまらない!! 僕にとってこいつは汚点なんだ!! 僕だって怪我をせずにいたら日本での作戦に参加して、こいつに殺されていたんだ!!
十歳足らずの僕でもこいつは容赦しなかっただろうね!! そして今度は兄さんと対決しようとしている!! 僕は許せないこいつを!! 邪魔なんだ!!
こいつがいる限り、僕はいる必要がない!!」
早口の上、言っている内容がまったく理解できない。その様子から怒っているのはよくわかるものの、誰に対して何をなのかがよくわからない。しかし拳銃を出してしまったということは、昼前の遭遇より事態はいっそう悪化している。それだけは確かだ。今度は水をぶっかけるだけではすまない。遼はどうやって止めるべきか、その適切な方法を考えあぐねていた。
「恨まれるのは……なれてるから……」
ぽつりとそう漏らしたまりかは、両手を広げて胸を張った。意外な行動にリューティガーと遼は硬直し、彼女の目に鈍い光が反射していることに二人とも気付いた。
「撃ちたいのなら……わたしは逃げない……それで……君の気が晴れるのなら……そうすればいい……」
紺色の瞳に栗色の髪をしたこの少年は、決してテロリストたちのような否定すべき存在ではない。経験からそれを理解していたまりかは、だからこそ逃げるつもりも反撃する気もまったくなく、ただ無防備に身体を銃口へ晒した。
そういうことかよ……こいつ……そうなのかよ……
リューティガーは自分の手が震えている事実に気づいた。度胸を見せ、こちらの戦意を喪失させるつもりなのだろう。なんという策士だ。しかし事実、殺意は急激に薄れてきている。これが場数というものなのか。彼は大きく息を吸い込み、まだ撃鉄を上げていなかった拳銃を路地の隅に投げた。
「撃てる……はずがない……抵抗しない人間を撃ち殺す訓練は……まだ受けていない……」
八年前と同じだ。“彼”も拳銃を捨て、撃てないと言ってくれた。もちろん、殺される覚悟もできていた。無意識のうちに体内にバリアフィールドを形成していた可能性もあったが、少なくとも自分の意志は貫くことができ、結果的に誰も傷ついていない。
さてどうする。聞きたいことは山ほどある。まず彼は何者なのか、そして妹の同級生である島守遼とどのような関係にあるのか。それを知った上で対処する必要がある。跳躍の能力を持っているなら、対策班に力を貸してもらうという選択肢もある。まりかがそんなことを考えていると、なにも握られていないリューティガーの右手が、すっと突き出されてきた。
「え……?」
「ごめんなさい……突然……いいがかりをつけて……僕が間違ってました……あなたを……恨むのはおかしい……どうか……してました……」
謝罪の言葉も唐突だったため、まりかは困惑してリューティガーの顔を見た。
なんという無防備な笑い顔だろう。悪意や憎しみなど皆無で、そう、これは無邪気な笑みというものである。ならばそれに応えるべきだ。まりかは自分も右手を差し出し、二人は握手を交わした。
突風が路地の塵を舞い上がらせ、島守遼の眼前にはただ一人の姿しか残っていなかった。
12.
どこであるかなどわかるはずもない。どうやら谷間であることには間違いないが、遥か眼下に流れるオレンジ色のあれは、いわゆるマグマというやつなのだろうか。上空を見上げても空があまりにも小さい。活火山の火口か、はたまたクレパスの底か。
「ちっくしょー!!」
そう叫ぶことで少しは気も晴れたが、考えてみればあまりにも迂闊だった。跳躍能力者であれば、あれは最も単純な手口である。周囲に張り巡らせたバリアフィールドが酸素と常温を維持していたが、このままではじきに持たなくなる。早めに脱出をしなければ、ここは生物の生存できる領域ではない。まりかはバッグから黄色いリボンを取り出すと、その全体を高圧のフィールドで包み、硬化させた。
リボンはいかなる岩盤をも貫くピッケルとなり、まりかは念動力でそれを巧みに操り、はるか上空を目指して岩肌を登り始めた。
たぶん、日本じゃない。なんとなくまりかはそう感じていた。
「お、おい……真錠……」
遼は恐る恐るリューティガーの背後から声をかけた。すると彼はくるりと振り返り、その顔には晴れ晴れとした爽やかな笑みが浮かび上がっていた。
「はは……馬鹿な奴だ……」
「お、おまえ……まりかさんを……ど、どうした……跳ばしたのか……?」
あらためてそう尋ねられたリューティガーは、爽やかなる笑みを悪辣なものへと変化させ、拳銃を拾い上げた。
「くっくっくっ……」
「おい……」
「マグマの底か……運がよければ岩場の段差か……まぁとにかく、あらゆる生物が死滅する世界……そこに跳ばしてやった……」
彼のこのように悪意に満ちた様子を、遼は知らなかった。不気味に思ったり冷血と感じたりすることはあっても、決して悪の気配に満ちてはいなかった。違う。こいつは自分の知っているリューティガー真錠ではない。
「あーはっはっはっはっはっはっ!! マジで馬鹿な奴だ!! 仲間の金本あきらは跳躍者だったんだぜ!? だから咄嗟にフィールドを張れたんだろうけど、あまりにも愚かでお人よしとは思えねぇか!?」
口調もまったく異なる。外見とは不釣り合いな柄の悪さであり、それは遼にとって別の誰かから何度か与えられた違和感にも似ていた。
「どうなったんだ……まりかさんは……」
「あれぐらいじゃ死なないって!! だって死に神殺しのなんでもありなんだぜ!! やつは宇宙に跳ばされたって、生身で大気圏突入してくるだろうさ!!」
拳銃を鞄に入れたリューティガーは、再び大声で笑った。気持ちよさそうに、それは一分ほど続いた。遼は小さく「狂ってる……いまのお前は……」とつぶやき、今日のところはこれ以上相手をしたくないと、その場から立ち去った。
横田良平はモニタの左下で流れる緊急報道特番をチェックしつつ、ブラウザで掲示板への書き込みを続けていた。
生首が飛んだ。その先には例の真実の人である。興奮は事件開始から五時間以上が経過した現在も続き、彼は夕飯を食べることも放棄し、ひたすら外部へのアクセスに没頭していた。
犬頭の化け物。FOTと正義忠犬隊という名前。そして真実の人を名乗る包帯の青年。すべてが異常さに彩られ、おまけに今後の行動予定まで発表されたとあっては、ネット上で静かにしている者など少数である。掲示板に、ブログに、様々な手段で今日の出来事は検証され、評価付けられ、コメントが飛び交った。
正義の味方、真実の人を支持する。
最初にこう明言し、ネット界隈を賑わせたのは反米左翼団体、「音羽会議」のWebサイトだった。その掲示板には否定と肯定の意見がオセロゲームのように書き込まれ、それをウオッチする別の掲示板まで現れた。代表の関名嘉篤(せきなか
あつし)の名は瞬く間にネットを駆け巡り、日本刀を持ち、斬首断頭や国益を声高に叫ぶテロリストの集団と左翼団体のミスマッチさは嘲笑の対象にしかならず、この段階で音羽会議を脅威に思う者は皆無であった。
幼女連続暴行殺害犯である阪上誠の抹殺について、その違法性をもって真実の人や我犬を糾弾する意見は全体としてごく少数であり、立ち位置の違いは細かくあったものの、国民の大半が今回の決行に対して概ね肯定的だった。それはネット上に限った話ではなく、その日の夜の酒場などでも同様で、中には阪上の死に拍手喝采する者もいた。これまではその存在に今ひとつ信憑性が欠けていた「真実の人」を名乗る長髪の青年も、全国に生放送された生首を踏んだ映像のインパクトと地声のみでマイクを使わない宣言は強烈であり、音羽会議だけではなく、あくまでも興味本位のレベルではあったが賛同する者の意見も日没後には見られるようになっていた。
正義決行スケジュールの内容は、メジャー、アングラ、プロアマ問わず随所にて検証され、まずはもっとも間近である十七日の通常国会で、なにが起こるのかと盛り上がっていた。
やはり斬首断頭だろう。あの我犬が誰の首を飛ばすのか。通常国会ならいくらでもあり得る。忠犬隊は二十人もいるのだから、いっそのこと集団斬首という痛快な結果も期待できる。下世話な予想はヒートアップし、ついには特定議員の追悼画像までが捏造され、ネットで流されるという珍事まで生み出していた。忠犬隊のお披露目が倒壊事故現場での被災者救出であるという事実は、相変わらず彼らに対して好意的な世論を形成する基盤になっていたが、阪上の生首の衝撃は強く、助ける者というよりは成敗する者という印象が上回ろうとしていた。
真実の人は世間を騒がせるという意味において、まずまず好調な本格デビューを果たしたという感触を得ていた。多摩川沿いの、一つも灯りが外に漏れていないマンションを見上げた彼は包帯をほどき、絆創膏を剥がしながら階段を上った。
「これは三代目……」
白い胴衣に袴という着衣は、まさしく武道家のそれであった。居間に通された真実の人はなれない正座に苦しみながらも、やってきた老人に頭を下げた。
「テレビで見せていただきましたぞ……あっぱれなご活躍と宣言。八年前の興奮が蘇るような思いでした」
深く刻まれた皺、白く薄い頭髪、痩せぎすの身体。どれをとっても老人そのものではあったが眼光は鋭く、対座した彼に対して真実の人は威圧感を覚えた。
「まだまだだ……これからのことが多すぎる」
「なるほど……確かに下郎一人の首を刎ねたごときでは……真実の追究はいやはや難しいですな」
「うむ……妨害者も出てきたのでな……」
「ふむ……」
顎に手をあて、老人は青年が尋ねてきた理由をようやく理解した。
「敵は五名……いずれも高校生だが、一人を除けば実戦経験はそれなりで、柔術完命流の使い手もいる……これを始末していただきたい……篠崎十四郎殿……」
“柔術完命流”その言葉に胴衣の老人、篠崎十四郎は衝撃を受け体重を支えるために正座の姿勢のまま畳に片手をついた。
「おじいさま……」
居間に入ってきた着物姿の少女が、十四郎へと寄り添った。吊りあがった目、短くまとめた髪、まだ子供ではあったが内面の力強さが眼光に滲み出ている。真実の人は幼かったころしか知らない彼女の成長に、あらためて目を細めた。
「若木(わかぎ)殿……十四郎殿をしっかりとお手伝いするのだぞ……」
若木と呼ばれた着物の少女は老人の肩を支えたまま、「はい三代目!!」という言葉と共に、凛とした意を青年に向けた。
「なんと……完命流とは……遂に宿願を果たす日がきたということか……若木や……まずはそれから仕留めるぞ……!!」
「はい、おじいさま!!」
「段取りと順番はそちらに任せる……これが情報と当座の資金だ……鍵は開けておく、いつでもここを発つがいい……」
足の痺れを堪えながら、真実の人は立ち上がった。老人と少女も続いて腰を上げ、二人は深々と頭を下げた。
「戦いの日々が……再びはじまるこの至福……ありがや……ありがたや三代目!!」
十四郎は感極まって涙を流した。ほんとうに感涙が見られるとは。青年はすっかり呆れ果て、なにも言わずにその場から跳躍した。
深夜になっても、さいたまの地裁斬首断頭テロ事件の報道特番は終わることなく、正義決行スケジュールに関する検証が続けられていた。池袋の繁華街に出現した青年はワイシャツの袖をまくり上げ、とある居酒屋に入ってカウンターに着いた。
焼き鳥と冷酒を頼んだ真実の人は、店内のテレビを見上げた。包帯姿の自分は、中々妖美な映り具合だ。さてここで呑んでいて、いったいどの程度の時間で店員か酔客に気づかれるだろう。青年は財布から一万円札を取り出し、それをカウンターに置くことでいつでも脱出できる覚悟を胸に秘めていた。
「はい!! 生貯蔵酒お待ち!!」
中年女性の店員が、ロクに青年の顔も見ずにグラスと冷酒の瓶を置いていった。まあそんなものか。真実の人はグラスに酒を注ぎ、それを一気に呑み干した。
隣にやってきた客は、もう何軒もはしごしていたのか相当酩酊していて、青年が真実の人であることにも気づかず、仕事上の愚痴話を同僚にぶちまけていた。
「んなぁねーちゃんもそう思わない!?」
急に肩を掴まれた真実の人は、ぎょっとなって酩酊した男を睨み返した。
「悪いな。ねーちゃんじゃなくって」
「お、おぉう!? た、たすかにそーだぁ……お、男ですー!! ビジュアル系ってやつ!?」
「さあね」
真実の人は男の手を払うと、小さくため息をついて二杯目の冷酒をグラスに注いだ。
二人の会社員はそれからも仕事の不満を互いにぶつけ合っていたが、その表情は言葉とは反対に笑顔であり、だがそれも引き攣っていた。真実の人はこの八年間でもう何度もここと似たような大衆酒場で呑み続けてきたし、何百人もの酔客と肩を並べて猪口を傾けていた。最初は知りたいという気持ちが強かったが、最近ではここが自分にとって独りになれる場所のような気もしている。今夜は長助たちもいない。青年は隣の二人の会話がちょうど途切れたタイミングを見計らい、彼らに向かって左目を閉ざした。
「なぁお二人さん……ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「おぅ!? な、なんだい兄ちゃん」
「いま……一番困ってることってなんだい? そうだな……直接の仕事以外で」
しらふであれば、青年の質問に二人は答えることはなかった。しかし調子に乗っていた彼らは、「一番」という前置きにも拘わらず、通勤途中の開かずの踏み切りに困っているだの、info−getでアドレスがはじまる迷惑メールがひどすぎるだの、虚業家の球団買収に腹が立つだの、一人あたり一ダース分もの不満を引き攣った笑顔でぶちまけた。
結局その店には隣の二人が千鳥足で帰った後の、午前二時半の閉店まで滞在し、生貯蔵酒を四本に焼き鳥を二皿注文する結果となった。まだまだ自分の知名度も大したことがない。そう思い会計を済ませた彼は、店を出て池袋の繁華街を歩き始めた。
戦いの日々が再びはじまる。あの老人はそう言って涙した。そう、それが彼にとっての幸せならそれでいい。だが、その感じ方はやはり自分と異なる。弟のルディにしてもそうなのだろうか。あいつは既に戦っていると思っているのか。
「戦いははじまっちゃいねぇ……それに真実もな……」
正直な気持ちを、あえて口にしてみた。繁華街を行く真実の人は両手をポケットに突っ込み、少しだけ背を曲げ、今夜は気の向くまま歩き続けることに決めた。
第二十五話「正義の味方・真実の人」おわり
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