1.
世界各地、それぞれの国には特有の「匂い」が在る。普段何気なく暮らしていると、すっかり忘れてしまい気づかないが、一週間も離れて帰ってくれば、あからさまに「祖国の香り」が嗅覚を刺激してくれる。内閣特務調査室、F資本対策班において最も海外出張が多いベテラン捜査官、五味章利(ごみ
あきとし)がそんな話を得意げにしていたのは、一年も前のことである。
「ちなみに日本の匂いはなんだと思う? 下水と紙オムツの混じったやつなんだよ。笑っちまうんだな、これが。ところが成田に着いた途端、それに気づくと、こう……なんていうのか実感が湧いてくるんだよ。あぁやっと帰って来たってな」
そう締めくくった五味は現在、猛威を振るっている謎の獣人ゲリラ調査のため、長期に亘ってパキスタンへ出張に出ている。
紙オムツに下水なんて、全然しないじゃない……五味さんも適当なんだから……
成田空港の第二ターミナルから道路に出た、黒いブラウスにタイトスカート姿の神崎まりかは、八月の猛烈な陽射しに小さく舌を出し、排気ガスの香りしか感じられない道路に眉を顰めた。
六日ぶりの日本である。思わぬ海外出張になってしまったが、それもこれもあの栗色の髪をしたサイキのせいである。洋酒の入った土産袋を抱えた彼女は、出迎えの車を探すために踵を浮かせ、辺りを見渡した。
「はいー!! まりーか!!」
微妙なイントネーションであるから、声だけで誰かはすぐに判別できる。路肩に停車している白いセダンカーの傍でCIA捜査官、ハリエット・スペンサーはボリュームのあるブロンドを揺らし、大きく手を振っていた。まりかは笑顔を向け、小走りで彼女のもとへ向かった。
「あれ? 柴田さんが運転なんですか?」
セダンカーの運転席に煙草を咥えた中年捜査官の姿を見つけたまりかは、意外そうに言いながら後部座席に乗り込んだ。
「那須はFOTの獣人製造施設を調査に行ってる……森村は新たに設置されたFOT連絡部会に出席……そーなると、俺ぐらいしかいないんだよ」
苦笑いを浮かべた柴田明宗は、煙草を灰皿に押し付けると、二人の女性が車内に乗り込んだことを確認して車を発進させた。
「この六日で二件だ……正義決行スケジュールが聞いて呆れるぜ……まったくのイレギュラーなんだからさ。こうなるとスケジュールにあった明日の通常国会だって、どうなるかわかったもんじゃない」
柴田の言葉に、まりかは顎を強く引いて黒いブラウスの襟を直した。
正義忠犬隊を名乗る犬頭に羽の生えた獣人集団は、真実の人(トゥルーマン)を名乗る白い長髪の青年に率いられ、初公判直後の連続幼女誘拐暴行殺害犯、阪上誠を斬首し、「正義決行スケジュール」なるビラを撒いた。それには八月十七日の通常国会をはじめ、数日、数週間おきに日付とその日行われる出来事が記されていた。
「刮目せよ諸君!! 怯えよ!! 心当たりのある者!! 誰にも我々を止めることなどできん!!」
真実の人はマスコミに向かってそう宣言し、F資本対策班でもこのビラの詳細について検討がなされたが、例えば「十月九日
鈴鹿サーキットF1グランプリ」などと記されてはいるものの、武装した獣人たちがいったいそのイベントでなにを決行するのかは一切明記されておらず、政治的な行事からエンタテインメントに至るイベントの羅列は共通する点も見出せず、その日になってみなければどうにもわからない、といった結果に陥っていた。
それほど、彼らの標榜する「正義」とは抽象的で実態の掴めないものだった。
最初は災害救助、次は斬首。正義忠犬隊の行動はあまりにも極端であり、八年前の破壊と殺戮を目的としたテログループのファクトとは、少々傾向が異なるようにも考えられる。だが非合法の武装集団である事実には変わりはなく、日本政府はあくまでも彼らをファクトの延長と規定し、摘発の対象として捉え続けている。だからこそ決行スケジュールに記されたイベントへそれぞれ対策を講じる必要があり、これまでの内閣特務室の枠組みを超えた、政府単位での連絡部会が設立されたのは当然の成り行きである。
また、全国中継で生放送されてしまった斬首と、それを行った半獣半人の異形は日本だけではなく全世界をも震撼させ、政府はその対応に追われ、隠蔽したはずの「ファクトの獣人」に関しても、やはりあれば実在したのではないかと追求の声がネットやアングラマスコミの間で沸きあがっていた。
蓋をしたつもりだった。金庫に鍵をかけたつもりであった。だが、あの青年はいともたやすく別の事実を晒し、突きつけ、国民の関心は当然のことながらそこに集中し、憶測やデマが飛び交う事態となっている。
決行スケジュールでもっとも早い明日の通常国会への注目は熱く、どの議員が斬首されるか、いや、国会そのものを爆破するつもりではないかと、連日にわたって予測がマスコミを賑わせていた。
威信というものがある。ここで弱さを見せれば相手は確実に付け上がる。内閣の判断はそうであり、だからこそ通常国会の中止や延期はされず、代議士たちには与野党の関係なく、当日の出席が政府より厳命された。
ところが、事件は四日前、八月十二日に発生した。まるで八月十七日の封切りをあざ笑うかのような、それは衝撃的な出来事だった。
足立区新竹ノ塚駅。開かずの踏み切りでその名を知られる私鉄駅付近に、その巨大な建造物は姿を現した。
陸橋である。最善ではないものの、それは近隣住人にとって待ち望んでいた解決手段だった。
目撃証言によると深夜の午前三時、踏み切り付近に三台のトレーラーが到着した直後、陸橋が突如として踏み切りを覆う形で出現し、大きく手を広げた白い長髪の青年がその真下で高笑いを上げていたらしい。トレーラーがその高架を運んで来たのは間違いないが、積み下ろし工程が皆無であり、まさに突然の出来事である。
駅員が異変に気づいて到着したころにはトレーラーも青年の姿もなく、新竹ノ塚の踏み切りは、まるで数日前よりそうだったかのように陸橋による横断が可能となっていた。
現場にはトランプ大のカードが一枚残され、それには「FOT、正義忠犬隊の仕事である。渡るがいい。」と筆文字で記されていた。
そして、陸橋の屋根の上には二つの生首が乗せられていた。
生首の正体は開かずの踏み切りの要因となった鉄道会社の会長と、国土交通副大臣の両名だった。財、官の大物が真夏の夜に斬首され、晒される。この異常事態に警察と対策班は直ちに出動し、夜明けの時点で事実関係は明らかになった。
「怠惰なる報いを。正義はここに決行された」やはり筆文字で書かれたカードが、会長と副大臣の殺害現場に残されていた。目撃証言もいくつかあり、斬首したのは犬頭の怪物である点が一致した。
一方的な善意によって設置された陸橋ではあったが、警察はあくまでも事件の遺留品としてその使用を禁じ、撤去作業のため二日間に亘って鉄道は封鎖された。「使わせろよ」作業者をそうからかう市民も複数いたらしいが、その声に応じるほど政府も呑気ではなかった。
陸橋が出現したその翌日、今度は三つの生首が新たに晒された。時間と場所は早朝の新宿駅東口前。生首はいつの間にか地下街入り口の階段に現れ、やはり白い長髪の青年がすぐ近くで目撃されている。
中国人が一名に日本人が二人。それが生首の内訳であり、いずれも中年男性で、身元も判別できない「よくわからない人物」ではあったが、すべての表情が恐怖に戦慄したようであり、斬首が不意打ちでない事実を物語っていた。
現場に残されていたカードには、「この者ども、メールにて嘘八百を並び立て、市民を惑わしもの。安心せよ。info−getは消滅した」と書かれていた。“info−get”それはこの一年で最も送信数の多い迷惑メールの差出人アドレスの一部であり、事実その日の夕方以降、普段は大量に吐き出されていたinfo−getアドレスのメールは、誰のもとにも送られてくることはなかった。
その後の調べで、三人は幾多の犯罪経歴を持った暴力団崩れのやくざ者であり、info−getの迷惑メール配信と、それにまつわる架空請求や恐喝グループの主犯格である事実が判明した。
だがこの三人が死んだからといって、自動生成されるメールシステムが停止することはまず考えられない。おそらくは事前に手段を講じ、その上で斬首と晒しを決行したのだろうというのが専門家の見解だが、政府は惨殺された三人の素性は発表せず、決行されてしまった「正義」を明るみにすることは避けた。
「まるで義賊のつもりさ。実際、忠犬隊やFOTを支持する連中まで出始めてる。音羽会議っつー反米左翼グループなんだが……冗談じゃねぇぜまったく」
柴田の愚痴に、まりかは人差し指の関節を唇に当て、息を吸い込んだ。
「それでも……明日の通常国会は対策班総出でガードにあたるそうだから。予定外の行動に出たからといって、予定が決行されないとは言えないものね」
ハリエットの日本語はこの数ヵ月でかなりの上達を見せている。隣に座る彼女の言葉にまりかは頷いた。
八年前とは何かが違う。それは指導者のパーソナリティーによるものなのだろう。二人の真実の人を知る神崎まりかは、膝の上で指を組んで車窓を流れる景色をぼんやりとみつめた。テロの手法が柴田の言う義賊的な性質を秘めているのなら、FOTの真の目的はどこにあるのだろう。核弾頭を入手したという情報も入っているが、それでこの国を脅迫するのなら、真実の人自らが姿を現して陸橋を勝手に建築したり、迷惑メール業者の抹殺をしたりなど、あまりにも脇道にそれすぎている。
「で、そっちはどーだったの? コロンビアじゃ大活躍だったって聞いたけど?」
ハリエットの言葉に思考を中断されたまりかは、考え続けても仕方がないと苦笑いを浮かべ、後部座席に背中を押し付けた。
「よしてよ……麻薬組織の壊滅作戦に参加しただけなんだから……あくまでも助っ人よ」
「けどけど、念力で売人やら武装したガードやら、とにかく全部やっつけたんでショ!?」
興奮して空色の瞳を輝かせたハリエットに、まりかはため息をついて背を曲げた。
気がつけばマグマの中にいた。空間跳躍能力によって他所に跳ばされる経験は、八年前に何度もしていたからある程度の予想もできていたし、だからこそPKフィールドといった保護空間を周囲に形成することも瞬時にでき、一命をとりとめたまりかだった。
フィールドを張ったまま地上まで這い上がり、山岳地帯を人里目指して降り、ようやくパストという街に辿り着くまでに丸一日を要し、首都ボゴタ市内の日本大使館に到着したのは十二日の朝だった。すぐに対策班本部に健在の連絡をしたまりかは、だが自分がなぜ遥かコロンビアにいるのか、その理由については「FOTエージェントらしきサイキと交戦、なんらかの能力によりガレラス火山火口まで跳ばされた」と、偽りの報告をしてしまった。
紺色の瞳は揺れていた。銃口はわずかに震えていた。あれは演技だったのだろうか。
「マーダーチームカオスを忘れたとは言わせない……!! 貴様たちが壊滅させた……カオスを覚えているだろう!!」
彼は憎悪を向け、そう叫んでいた。妹と変わらない年頃である彼が、なぜ八年前に壊滅させた傭兵部隊であるカオスを「僕の仲間」などと言っていたのだろう。あの島守遼(とうもり
りょう)は彼と知り合いのようであるし、なにやら突拍子もない人間関係が隠されているのなら、それがすべて明らかになるまでは、あくまでも個人的な出来事として留めておく必要がある。そう判断しての嘘だった。
いくつかの予想も立ててはいるが、それを証明するためには本部に帰って資料をそろえる必要がある。高速道路を行く車内から、彼女は今のところは変わらない都心の風景をぼんやりと眺めた。
「コロンビア政府から感謝状、こっちに届いてるぞ。班長も跳ばされたついでにしちゃ、外務省にいい貸しが作れたと喜んでいたぞ」
運転を続ける柴田の背中に視線を上げたまりかは、「いきなりだったんですよ」と口を尖らせてつぶやいた。
「大使館で連絡を取った直後だったたんです。急に現地の警察の人たちが面会に来て、明日シンジケートの一斉摘発がある。銃撃戦は必至なのでぜひ協力してくれって」
「へぇ!! まりかの噂は南米まで轟いてるってことなのね!?」
興奮気味なハリエットに、まりかは手を左右に気だるく振って苦笑いを浮かべた。
「知らないわよ……まぁ……どうしようかとも思ったんだけど……要請に来た刑事さんがね。なんてゆーか……バンデラスって知ってる? アントニオ・バンデラス」
まりかの問いに、ハリエットはきょとんとして瞬きした。
「スパイ・キッズの? もちろん知ってるけど」
「デスペラートのね……似てたのよ。だからついつい引き受けちゃった」
「バンデラスって好みなの!?」
ハリエットがあまりにも驚いてそう言ったため、まりかもぎょっとして身体を引いた。
「え? かっこいいじゃない。バンデラス」
「なーんか同性愛者っぽくて、ワタシは好きじゃないなー。ターフはどう思う?」
ハリエット流のあだ名で呼ばれた運転席の柴田は正面を向いたまま、「誰だ、それ?」と素っ気ない返事するだけだった。
その日の午後、霞ヶ関の対策班本部に帰還したまりかは、機内で作成しておいた報告書を班長に提出し、今日は徹夜になってでも班や関係機関のデータベースを利用して、あの栗色の髪をした少年について調べてみようと、そんな決意から購買で惣菜パンを買い込んできて、デスクの引き出しにそれを放り込んだ。
明日は正義決行スケジュールに記された初日であり、出動の準備もしなければならなかったが、跳躍能力を持ち自分に対して憎悪を向けるサイキの存在は任務と同様に重要である。さいたま地裁に向かう途中遭遇したという状況も偶然とは思えず、その調査は急務であると彼女は判断していた。
「一度帰った方がいいんじゃないのか?」
ハンカチで汗を拭きながらやってきた同僚の那須誠一郎(なす せいいちろう)に、ノートPCに向かっていたまりかは「官舎は一年放っておいても平気ですから」と返した。
仁愛高校2年B組……リューティガー真錠(しんじょう)……二〇〇四年六月転入。ドイツ人とのハーフ……はるみと、島守遼のクラスメイト……
データベースにアクセスしたまりかはブラウスの襟を直し、表示された顔写真が記憶と一致したために息を呑んだ。フロア隅の自動販売機でアイスコーヒーを購入した那須は、再びまりかのデスクまで戻って液晶モニタを覗き込んだ。
「仁愛か?」
「那須さん……このリューティガーって子……見覚えあります?」
「いや……名前は名簿で見たけど……この子がどうしたんだ?」
「いえ……ちょっと……」
那須は昨年クリスマス・イブの晴海埠頭の作戦現場に残されたノートPCより回収されたDVDの収録内容をもとに、仁愛高校に何度か聞き込み調査を行っている。その段階での調べではリューティガーという存在は引っかからずにいたということか。まりかはそう理解し、これから情報へどうアプローチするべきか考えてみた。
「にしても……長いな……」
那須のつぶやきに視線を上げたまりかは、彼がフロア奥に位置する竹原班長の個室を見つめているのに気づき、「来客ですか?」と尋ねた。
「ああ。ついさっきな……なんでも東アジア基督融和会ってところの顧問らしい」
あまりにも任務とは無縁に聞こえる団体名に、まりかは言葉を失って閉ざされた班長室の扉を凝視した。
「賢人同盟のダミー組織だよ……」
空になったカップうどんの容器を手に、やってきた柴田がそう説明した。“賢人同盟”ここのところ頻繁に聞く懐かしい固有名詞である。まりかは顎を引き、拳を握り締め柴田を見上げた。
「賢人同盟って……柴田さん!?」
「ああ……ファクトやFOTの上部機関だ……俺らとは敵対してるとも言えるし、そうでないとも言える。いま班長を訪ねにきているのは、そこのお偉いさんだ」
「な、なにをしに……?」
「FOTがここまでやらかしちまって、なのに状況は極めて不安定な異常事態だ……連携を申し出てきたらしい……」
柴田の説明が終わらぬうちに班長室の扉が勢いよく開かれ、中から白いスーツ姿をした長身の異相が姿を現した。
オールバックの緑色の髪に、唇にはうっすらと紫色のルージュが塗られ、すべての指にはリングがはめられ、腰が高く蛇革の靴は電灯を反射して輝き、それはどうにも殺風景な対策班には似合わぬ派手な外見だった。
「お仕事ごくろう!! あらためて名乗らせていただく!! 私はガイ。ガイ・ブルース!! 東アジア基督融和会の顧問を務めさせていただいている!!」
フロア全体に響き渡る大きな声の英語で、ガイはそう名乗った。彼はまりかたちを見つけると長い足を早く動かして近づき、最も年長である柴田の両手を握り締めた。
「FOTは野生化した猛獣……すべては我々の監督不行き届きではあるものの、今後は是非とも君たちちゃんと力を合わせて退治していきたいと切に願う!!
頼みましたぞ、ベテラン捜査官!!」
あまりに早口の英語だったため、柴田は訳もわからず頷くしかなかった。突如の暴風に、まりかも口をぽかんと開けたまま見上げるばかりであり、その視線に気づいたガイは、口の両端を吊り上げた。
「これはこれは、世紀のサイキちゃん……FOT壊滅にあなたちゃんの力は絶対必要……がんばりましょうね!!」
「は、はぁ……よろしく……」
困惑したまま、まりかが視線を宙に泳がせると、班長室の前で腕を組んで佇む竹原班長の巨体が見えた。珍しく眉が下がり、なんとも困り顔である。この暴風にたった一人で向き合い続けた結果か。まりかはそう判断して握手を求めてきたガイの手を握り返した。
「FOTはこの国に破壊と混乱をもたらす悪の秘密結社ね!! 忠犬隊なんて偽善集団に迷うことはない!! ガンガンビッシビシ取り締まっていただきたい!!
では私はこれで!!」
班員全員にそう告げたガイは、フロアからエレベータへ慌ただしく乗り込んだ。取り残された皆はただ唖然とするしかなく、竹原は「かなりの量の資料提供があった……森村が帰ってきたら検討に入るぞ……それと明日の準備も遅れないように!!」と、ようやく班員たちが理解できる意味のある言葉を口にした。
「おや……まぁ……」
エレベータの中に見事なブロンドが先客として乗り込んでいたため、ガイ・ブルースは指輪をがちゃりと鳴らし、笑みを浮かべて背中を向けた。
「はじめまして……ガイ・ブルース司令……」
「あんたは……確か……」
「ハリエット・スペンサー……ご存知で?」
「下部組織の主要構成員の資料はすべて目を通したから……けどなんであんたがここに?」
背を向けたまま、ガイは笑みを消さずにハリエットの言葉を待ち、地下一階へのボタンを押した。
「跳躍痕の採取と、ATSの最終試験のため……それと……神崎まりかという存在に、個人的な興味があったから……信じてもらえますか?」
「疑いはしない……なるほどね、同盟の利益には適っている……咎めるべき理由は見当たらんね……」
「司令はなぜわざわざ?」
「昔から、前線や現場の空気を感じないと鈍るんだよ。専用機も同盟から与えられたし、腕のいいパイロットもあてがわれた……深い理由はないちゃんね」
ふざけた口調は真意をぼやかすためのものなのか、それとも単にクセなのだろうか。だが初対面のハリエットはそんな判断をすることもできず、目的階である一階に到着したため、司令の長身を避けエレベータから降りた。
「同盟は本気で対するよ……これからはね」
閉まるエレベータの扉の向こうから、ハリエットの背中にそんな宣言がぶつけられた。それは低く小さいものの、凛として淀みのない声だった。
2.
アパートの四畳半の自室で目を覚ました遼は、うだるような暑さに呻き声を上げ、仰向けになっていた身体を横にした。
正義忠犬隊が裁判所の駐車場で斬首を決行し、止めることも真実の人を倒すこともできず路地を歩き、神崎まりかと出くわしたのは六日前のことである。
自分の目の前で、リューティガー真錠は神崎まりかに拳銃を突きつけた。
こいつは僕の仲間を皆殺しにした。
彼はそう言っていた。詳しい事情はよくわからないが、つまりそういうことなのだろう。晴海埠頭の壊滅にしても、リューティガーはもうわかっているはずだ。だが銃口から火花が散ることはなく、いったんは反省の言葉を口にしたものの、握手と同時にまりかの姿は消え、品のない笑い声が路地に響いた。
奴はなんだ。あいつは誰だ。
もうずっとその疑問がこびりついている。無邪気な笑み、子供を射殺する冷然さ、怒りにまかせた粗暴さ。そして、してやったりの卑劣なまでの喜び。どれも同一の、リューティガー真錠という個性が表に出た結果であるが、あそこまでの多面性をまだ十七歳の島守遼は知らない。彼は枕を抱え込み、身体にかけていたタオルケットを足でどけた。
悪い。ちょっと気になってる。お前のお姉さん。どうしてる?
簡単な文面のメールを神崎はるみに送ったのは、それから二日後である。リューティガーは「あれぐらいじゃ死なない」と自信たっぷりに言っていたが、やはり気にはなるし、第一あの状態の彼をあまり信用はできない。はるみとは修学旅行以来どうにも関係がぎくしゃくしていたため尋ねるにも躊躇いがあった遼だった。二日間、彼は何度もメールを送ろうとしては消去し、その失われた送信候補の中にはもっと長い文面のメールもあった。
ついさっきママに電話があった。ビックリ。南米のコロンビアまで出張に行ってるって。
彼女からの返信も短かったが、安心できるに足る内容だった。そしてそれから五分後、二通目のメールが遼の携帯に届いた。
合宿。楽しみだね。
一通目よりもっと短く、だがそれは彼女の気持ちが詰まった文面である。遼はすぐに、「行けるかどうか微妙だけど」と返信を打ったが、すぐに「そうだね。楽しみだ」そう内容を打ち変えて送信した。
窓の外から、鈍さと高さの入り混じった雑音が遼の鼓膜をくすぐった。布団から跳ね起きた彼は、椅子に掛けてあったジーンズを掴み、大急ぎでそれを穿いた。なにが起きたのかはわからないが、命を狙われていても決しておかしくない状況である。緊張感を薄く保っていた遼の挙動は淀みがなく、彼は壁に背中をつけ、カーテンで覆われた窓側の壁を見つめた。
蝉の音に混じって次に聞こえてきたのはガラスを叩く高音である。ノックとしか聞こえない規則正しさであり、遼はすぐに来訪者を特定できてしまったため、余計に緊張してしまった。
「いやぁ……また外に出てしまって……」
遼が窓を開けると、ベージュのサマーセーター姿のリューティガー真錠が困り顔で部屋に入ってきた。
「出てきた途端、また失敗だってわかって……咄嗟に排水ダクトを掴んだんだけど……寝てた?」
敷きっぱなしの布団を見下ろしたリューティガーは、腕を組むランニング姿の遼にそう尋ねた。さいたまで見せた粗野な一面は微塵も感じられない、それはいつものリューティガー真錠だった。六日も経っているのだし、やはりあれは特殊な一面であり、これが彼の本来というか最も代表的な「正面」なのだろうか。
遼は机上の時計を確認した。もう昼近くである。父は先に朝食を食べてしまったのか。彼は頭をひと掻きすると布団を粗雑に畳み、「まだねみぃ……」とつぶやいた。
「あれは……?」
リューティガーは部屋の隅に置かれたスポーツバッグに注目した。やはりいつもの、「狂っていないルディ」のようである。一応の安心をした遼は警戒を解き、「合宿の準備だよ」と返した。
「けどさ……どーなんだよ明日は? やっぱ俺とか高川とか、国会まで行った方がいいんじゃねーのか?」
「いいよ。いざとなったら呼び出すから。同盟からの追加戦力がちょうど明日の早朝に来日する。本来は別働任務の戦力だけど、明日と明後日に限っては一緒の作戦に参加させるつもりだし、本部の許可もとってある。訓練された人たちだから、かえって君たち素人が混ざると混乱する」
壁に背中をつけ、腕を組んだリューティガーは一気にそう言いきった。こうなると遼は返す言葉もなく、賢人同盟とやらが本気になってしまったのであれば、今後は自分たちいわゆる「仁愛組」の出番も少なくなるのではと、それが少々不安に思えた。
「あんな……陸橋やスパム業者抹殺なんてイレギュラーさえなければ……僕も無理をして科研の合宿に出たかったんだけどね」
「え……それマジ?」
「最初は仕方なくだったけど、あそこの会合ではいろいろと自分の考えを整理できて、それなりに愉しくもあるんだ。英理子さんは聡明な子だしね」
「聡明ねぇ……」
結んだ髪に仏頂面、赤い縁の眼鏡が妙に浮いていて、目立つのはそこだけ。それが遼にとって吉見英理子の印象だったため、リューティガーの論評は意外でもあり、だがそうなのだろうかと妙に納得もできた。
「花枝くんの足取りは未だ掴めぬまま……遼の方にも情報は入ってないよね」
突然の訪問の、それが理由の一つなのか。質問に遼は頷き、布団を適当に畳んで部屋の隅まで押しどけた。
「しかし……まだ信じられねぇよ……あいつが同盟のエージェントだったなんてさ」
言いながら遼は台所へ向かい、冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取り出し、二つのグラスにそれを注ぎ、部屋に戻ってきた。リューティガーはいつの間にか腰を下ろし、口元には小さく笑みを浮かべていた。
「けど、君は転入早々彼が能力者だって見抜いたじゃないか」
「だから、それはそうだけど同盟ってのは、また別だろ?」
そういうものなのか。リューティガーはどうにも今ひとつピンとこないまま、遼の差し出したオレンジジュースのグラスを受け取り、崩れかけていた胡座を直した。それにしても暑い部屋だ。かつて訓練や任務で砂漠や山岳地帯など、苛酷な環境を経験したことのあるリューティガーではあったが、真夏の四畳半はそれに匹敵するとさえ思えた。
「あいつも……とっとと俺たちと合流すりゃいいのによ……」
「余程重大な情報を得ているのか……意地になっているのか……わからなくはないけどね……相方を殺されて、悔しいんだろうし」
「そっか……お前は花枝といつも昼飯一緒だったもんな」
「いや……あれは、彼が梢さんに好意を抱いていたからだよ。僕と花枝くんは、個人的な会話なんてほとんどしていない。むしろ彼は僕を無視していたとさえ思える。変だとは感じていたけど、今なら理由がわかるね。観察されてたってことだ」
「同じ同盟なのにか?」
「それを言われると、恥じ入るしかないね……」
視線を畳に落としたリューティガーは、右膝を立ててそこに肘を乗せた。
「けど……一人で逃亡するのは……辛いと思うよ……僕には経験がないけど……」
その言葉に遼は、遥か灼熱のバルチで戦いから逃げ回った一年前の経験を思い出し、奥歯を噛み締めた。そう、一人ぼっちは最悪だ。心細くひたすら頼りなく、愚痴をこぼす相手もいないため苛々が心を蝕み、なのに周囲は危険しかない。ジョージ長柄に助けられるまで、あれは本当にひどい状況だった。
花枝もそうなのだろうか。彼はまだ東京にいるのか、それともどこか知らない土地を逃げ回っているのか。彼の現在を憂えた遼は、リューティガーも重く暗い顔色だったため、おそらくは自分と同じ気持ちでいるのだろうと感じた。
こうして気持ちを共にすることができるのは悪くない。けど、こいつはすぐに変わる。
ずっとそうだ。この栗色の髪をした彼は、理解し難いいくつかの顔を持っている。それが唐突に姿を見せるということは、つまりはリューティガーにとってごく自然で当然の顔ということである。それがどうにも認められない、許せない。遼はだが、それでも彼との関係を切ることはできないとわかっていた。
「おぉ……えっと……」
ゆっくりと開けられた襖から父、島守貢(とうもり みつぐ)のくたびれた笑顔が息子とその友人に向けられた。リューティガーはすぐに立ち上がると、満面に無邪気なる笑みを浮かべ、「リューティガー真錠です。お父さん」と相手のぼんやりとした記憶をフォローした。
この笑顔はどうなのだろう。作ったものなのか、それとも彼は自然に引き出せてしまえるのだろうか。
神崎まりかを異なる力で跳ばし、粗野な態度で大笑いをするのも本物で、父に対して屈託なく明るい同級生の顔を見せるのも真実なのだろうか。なんとなく、島守遼はそれを同一の個性から形作られると理解しつつあった。
おそらくは、苛酷な環境と人生がいくつもの顔を作ってしまったのだろう。しかし自分はあくまでも一介の高校生であり、理解したうえで付き合うことは難しい。どちらかと言えば不気味である。
「合宿って羨ましいって、そんな話をしていました。それと、困っているもと同級生がいて、彼が大変だし、かわいそうだって」
「そ、そうですか……いえね……隣の部屋にいたんだけど、話し声が聞こえるから、いつの間にお客さんが来たのかなって……」
「あ、あぁ……!! そうでしたか? 僕はお父さんに声で挨拶したはずですけど? 聞こえなかったみたいですね」
リューティガーの説明に、貢は口元を歪ませて首を傾げたが、それ以上の追求はなかった。
今度は玄関から普通に訪れよう。壁の薄い安アパートでは話し声も隣に筒抜けであり、その点において考慮するべきだとリューティガーは判断した。
兄は日本政府に事実上の宣戦布告をした。正義決行スケジュールなどといったふざけたものではあったが、公的イベントを標的としたテロとも捉えられるそれは、ある意味において第二次ファクトより挑発的な宣告と言える。なにを決行するのか、いや、そもそも明記されたすべてのイベントに対して行動を起こすかどうかも定かではない。考慮するべき重要な事柄はリューティガーにとってあまりにも多く、本来なら島守家へ訪れる段取りなどといった瑣末事に思考を振り分ける必要はなかったのだが、気分転換として任務以外のことも考えたい彼だった。
「じゃーな……ほんとに力が必要だったら……いつでも呼び出してくれよ」
「もちろん……でも……明日と明後日は……何事も起こらないのが一番だけどね」
アパートの狭い玄関で、二人は向き合っていた。遼は視線を一瞬宙に泳がせ、軽く息を吸い込んで咳払いをした。
「あ、あのさ……」
「神崎まりかのことかい?」
読心能力などなくても読み取られてしまうほど、顔に出てしまっていたのか。さすがに相手の気持ちを察する経験はそれなりに積んでいるのかと、遼は口元をむずむずと歪ませ、仕方なさそうに頷いた。
「ついさっき作戦司令から連絡があったよ……彼は政府対策班に挨拶に行ったらしい。今後の任務遂行をスムーズにするためと、激励が目的らしい。司令は神崎まりかにも会ったそうだ」
笑みもなく、憂いもなく、リューティガーの態度は冷然としたものだった。
「そ、そうか……」
「言ったろ。大丈夫だって。あいつは僕に跳ばされる直前にフィールドを張ろうとしていた。握手しようとした僕の意図を瞬間で理解したんだろうね。たいしたものだよ、さすがは死に神殺しのなんでもありだ」
「ど、どーすんだよ……同盟の司令が挨拶に行ったんなら……その……なんつーか……」
「局面によっては共同作戦もあり得るだろうね。神崎まりかとも……」
「い、いいのかよ」
「嫌だよ。けど仕方ないね。もっとも……気持ちがどう動くかは僕にもわからない。こないだみたいなことだってしでかす可能性は高いし。だからできるだけ接触は避けるよ。安心してくれ、僕だってあいつを殺したら取り返しのつかないことになるってことぐらいは理解しているし、そんなことが不可能だってこともわかっている。マグマの底まで跳ばしてやって、してやったりと少しは気が晴れたさ。ガキだと笑ってくれてもいい」
淀みなく、自嘲するようでもなくぺらぺらとリューティガーはそう言った。だから、遼はその言葉を額面通りには受け取ることができず、扉を開けて立ち去る彼の背中を凝視することしかできなかった。
多摩川の、神奈川側の河原近くのゴルフ練習場裏手にひっそりと建つそのマンションの入り口から、二つの影が真夏の陽射しに歪んでいた。
柔術家、篠崎十四郎とその孫娘、篠崎若木(しのざき わかぎ)。胴衣に袴姿の二人は、手荷物もわずかな軽装でマンションの敷地を離れ、そんな出発の様子をいくつもの目がカーテン越しから羨ましそうに見下ろしていた。
この幽閉から逃れる手段はいくらでもある。扉などこじ開けてしまえばいいし、警備もいないのだから外界へは出放題である。しかし皆が知っていた。外に出たからといって、組織のバックアップがなければ自分たちが何日も生き延びられない事実を。祭りは八年前に終わってしまい、現在の外界はあくまでも平和な日本である。異形、異相、異能の者が生息できる環境ではない。
三代目真実の人が任務を与えてくる。それが外に出る唯一絶対の条件である。これまでに何人もの残党がここから出て行ったが、その後どうなったかは知る由もない。FOTという組織に参加して大暴れをしているのだろうか、それとも任務に失敗して死んだのだろうか。噂によれば島守遼というサイキ、あの東堂かなめの血縁の抹殺任務に出て行った者もいるらしく、それならば仲間の敵討ちとしてぜひとも命令を与えて欲しいと切望する残党もいた。
マンションの中では怨念が蠢き、任務を帯び外界に出た二人の武道家もこの八年間の幽閉生活でそれを身に纏っていた。特に撫肩の老人は、あまりにも長い期間を溜め込んできてしまった。久しぶりに感じる川の匂いに足を止めた彼は、十二歳になる孫娘の背中を見つめ、あの幼き子がよくぞここまで成長したと、目に涙を溜めた。
「おじいさま……どうなさいました?」
やや吊りあがった目、黒くさらさらとした髪、長い手足、どれをとっても既にこの世にはいない息子の若いころにどことなく似ているが、もう少しすればこの若木も女になっていく。肩まで伸ばした髪を見れば、彼女自身が自覚し、受け入れていることがよくわかる。武道家として、性差なく活躍できるのはちょうどこの時期が最後であり、そういった意味では好機に任務が来たといえる。
必ずや……完命流(かんめいりゅう)の小僧を倒す……そして任務を果たし、篠崎流再興をしてみせようぞ……!!
それまでは死ねない。絶望しかけたこともあったが、毎日の鍛錬を欠かさずにいて本当によかったと思う。深く刻まれた皺をいっそう浮かび上がらせ、十四郎は美しく凛とした意を向けている若木に、「押し寄せる感慨についつい負けた……だが……いま打ち勝った」と力強く応えた。
駅を目指して夕暮れの川原を二人は進んだ。蝉時雨は洪水のように聴覚を刺激しつづけたが、八年に亘って二人きりで言葉を交わし続けていた祖父と孫娘にとって、それは互いの会話を邪魔するノイズにはならなかった。
「まずはどこを目指しますか? お爺様」
「うむ……長野だ……五人中四人がそこで合宿をしている……演劇などにうつつを抜かしているようだが……」
「演劇……ですか……」
「第一目標は高川典之(たかがわ のりゆき)……俺が仕掛ける、お前は二の矢に徹しろ」
その指示に、若木の細い眉が揺れた。しかし彼女にとって祖父は絶対的な存在であり、それ故に逆らうといった選択肢は最初から用意されていなかった。
「我が篠崎流はすべてにおいて完命流を凌駕しておる……安心しろ、若木。決して後れをとるようなことにはならん。残る三人はとるに足らん高校生どもだ……この高川さえ撃破すれば、任務は完了したのも同然……」
それは違う。長野にいる四人のうち、神崎はるみという自分と同性の少女を除けば、岩倉次郎は銃器の扱いに長けているというし、島守遼に至っては相手の心を読み、小さいながらも物質を破壊することができる“異なる力”の持ち主だと資料には書いてあった。祖父は真っ先にそれを読んでいたはずなのに、なぜ無視しているのだろうか。
だが、物心ついたころから祖父に対しては絶対服従の若木にとって、疑問を抱くという思考の流れそのものが存在していなかった。たぶん、そう、祖父は正しい。完命流の高校生が一番強く、他は雑魚と捉えてしまっていいのだろう。
「はいお爺様……若木は二の矢に徹します」
若木は知らなかった。十四郎の判断力が、八年にも及ぶ幽閉生活ですっかり衰えている事実を。“異なる力”をまったく理解できず、銃器の存在も“完命流”という宿敵の名で完全に霞み、視界を狭めるばかりか盲目的になってしまっている惨状を、絶対服従の孫娘は知らなかった。
3.
霞ヶ関の内閣府別館六階、F資本対策班本部では、翌十七日に開かれる通常国会の警備対策ミーティングが深夜に及んで行われていた。FOTが果たしてどのようなテロに出るのか、それについての情報は相変わらず不透明であるため、警備シフトと装備を絞り込むことができず、対策班も最大戦力である“ドレス”の出撃を決定し、警察と自衛隊の実働部隊も一時的に班の指揮下に入り、国内警備としては八年前のファクト騒乱以来となる規模になろうとしていた。
FOTはあまりにも急激に、だがあくまでも速やかにその名を世界に浸透させつつあった。ファクトとは異なり、決して派手な破壊テロを行わない彼らであり、義賊めいた世直しを標榜し、白い長髪をなびかせる美しい青年のビジュアルは市民に様々な印象を与え、犬頭に翼をもった忠犬隊たちの異形もかつての獣人のような禍々しさより、精悍な僕といった好感をもって受け入れられようとしていた。
極悪非道の幼女暴行殺害犯。不遜で国民感情に鈍感な私鉄会長や国土交通省トップ。スパムメールを大量に自動送信し、架空請求を繰り返す外道。たとえそれぞれが許し難い存在であっても、義憤にかられて処刑してしまってもよいとう無法国家ではない。
市民はFOTの活動に戸惑うばかりであり、政府が主張する無法テロリストとして彼らを認識してはくれない。マスコミの世論調査にも待ったをかけているのが現状だが、おそらく現時点でそれを行えば、FOTに関して「よくわからない」と回答する者が多く存在するであろう。これでは民間に対する捜査協力もままならず、結果として隠蔽工作と情報操作をより強化してパニックを防止するといった悪循環に陥ろうとしている。
八年前の決着を、あまりにも曖昧にしてしまった代償である。そう発言する警察官僚もいた。特に獣人というオーバーテクノロジーについて、あれはホラーマスクであるなどという見解を公式発表してしまったのは失策だ。直接目撃者の数が少ないため当初はごまかしきれると強引に決定はしたものの、後にネットで証明証拠が次々と公開され、それでもまだアンダーグラウンドな告発だと毅然な態度をとっていればよかったが、遂には全国生放送で、あの喋る犬頭が映し出されてしまった。大鱒商事本社ビルの倒壊現場では、まだ日没後ということもあって偽装だと強引に結論づけることもできたが、さいたま地裁の駐車場に白昼堂々と現れてしまっては、ハングライダーだ特殊メイクだと言い訳することもできない。しかし六日経った現在でも、政府は我犬(ガ・ドッグ)率いる異形の化け物に関して、正式見解を保留し続けていた。
「わかり辛い状況なんだよ。ファクトは単純明快だった。潰せ、壊せ、破壊せよ。だからな」
会議室を出た後、リズミカルに、まるでフレーズのようにそう言った森村肇(もりむら はじめ)主任に、ハリエット・スペンサーは大きく頷き返した。
「けど……国土交通省のトップが惨殺された……この人的被害は、ある意味ファクト当時以上ですよね」
「その通りだ。しかし市民にはわかり辛いさ。獣人が渋谷で大暴れしたり、伊豆南端に巨大爆撃機が墜落したり、東北の村を消滅させるほどの大爆発を起こしたり、そちらのほうがずっと派手でわかりやすい“悪魔のテロ”だからな」
そんな漫画じみた集団を壊滅させた世紀のサイキ。フロア奥でノートPCに向かうその彼女の姿を目に入れたハリエットは、柔和な笑みを浮かべて近づいていった。
「こんな夜更けに机に向かうなんて、彼氏からのメールでもチェキしてるのかな?」
「そんなのいないって言ってるでしょ。調べごと」
机に手を載せたハリエットは、長い足を組んでまりかの見つめる液晶画面を覗き込んだ。
「この子が……どうしたの……」
笑みをすっかり消し、空色の瞳に鈍い光を反射させ、ハリエットは画面に表示されている栗色の髪を凝視した。
「リューティガー真錠……仁愛高校2年B組生徒……学校では科学研究会に所属する、日本とドイツのハーフ……父、真錠春途はもと東京地検特捜部の捜査員……母、テレーゼは…………なにこれ……中央ヨーロッパ基督融和会職員って……基督融和会…………?」
データベースのアクセス結果を読み上げながら、まりかは何度も首を傾げた。
「リューティガー真錠は賢人同盟のエージェントよ……真実の人……実の兄であるアルフリート真錠を抹殺しに来日した……」
ハリエットにしては珍しく、低く重い言葉だった。その内容にまりかは背筋を伸ばし、首筋に汗を走らせながらゆっくりと振り返った。
「なによ……それ……」
見事なブロンドの背後には、やってきた森村の姿も見え、彼も深く静かに頷いていた。
「どうしたんだ、神崎君……なぜ君が彼のことを調べている?」
「あ、いえ……それは……ちょっと気になることがあって……け、けど……な、なんなんです……ハリエットの言ってることって……」
「今日激励に訪れたガイ・ブルース氏のもたらした、賢人同盟に関する資料に含まれていた。ちょうど今、俺とハリエット君の二人でその整理をしていたところだ。その少年は目下のところ、我々と最も結びつきが深い存在ということになる」
意外な事実ではあったが、そう考えると納得がいくことも多い。まりかは困惑しながらも、持ち前の分析力を総動員し、決してパニックに陥ることはなかった。
超能力は遺伝する。ならば、跳躍という珍しい能力を共に持つ彼らが兄弟であっても不思議ではない。
「どうしたの、まりか? リューティガーと接触でもしたの?」
ハリエットの質問に、だがまりかは真実を告げるべきではないと判断し、曖昧な笑みを浮かべた。
「ううん。はるみの……妹のクラスメイトだから……なんだろうって思って……」
「ふぅん……そうそう、それとね、このリューティガーともう一人、彼が日本で現地協力者として臨時で雇っているのが島守遼って同級生。彼もまた、超能力を使えるみたいよ」
「そ、そうなんだ……島守遼って……へぇ……」
「正直言って、賢人同盟がここまで対FOTの作戦展開をしているとは意外だった……まったく面目が立たん話だな……」
苦々しく口元を歪ませ、森村はモニタのリューティガーを睨みつけた。
すべての調査にはそれなりの時間を労するし、自分の権限では限界もあるだろう。そう覚悟していたまりかは、あまりにも容易に開示された真実に頬を引き攣らせ、データベースを閉じ、ハリエットが差し出したガイ・ブルースのもたらした資料を受け取った。
マーダーチームカオス。その傭兵部隊にリューティガー真錠は所属していた。資料に書かれていた経歴に目を通したまりかは、しかし八年前の戦いで小さな男の子などいなかったと記憶を辿ってみたが、一九九七年の段階で負傷療養をしていた事情を知ると、彼の叫んでいたことの辻褄が合うと納得した。
ならば、恨まれるのも当然である。しかし、だとすれば受け入れることなどできはしない。
それが、まりかの達した結論である。別館地下の薄暗い食堂で缶コーヒーを買った彼女は、小脇に抱えたファイルを適当なテーブルに置き、椅子に座ってため息を漏らした。
ファクトには自分と同年代はおろか、ずっと年下の少女もいた。しかし日本を破滅に導く徒だったから、自分たちの日常を脅かす者だったから、容赦はしなかった。念動を叩きつけ、炎で焼き、光線で貫き、空気圧縮爆弾を放ち、殺した。それが正しいと思っていたし、今でもそれは変わらない。
けど、死んだ者の無念までは引き受けられない。残された者の恨みも受け止められない。そこまでの覚悟はなかった。ただ、正しいことをしたつもりだった。
揺れる銃口は、向けられた憎悪は、溶岩の蠢く台地の底は、あの少年の心根だ。彼にとって自分は許される存在ではない。それなのに目的は共通してしまっている。いっそ敵対していれば、異なる力をぶつけ合い納得のいく決着をつけられるというのに。
“つけられるというのに”本当にそうなのか? あの少年を、自分は敵だとしても殺せるのか。八年前のように躊躇なく、“日常を守る”“この国のことは自分たちでどうにかする”そのような華奢な宣言で、殺すことができるのか。冷たい缶を強く握り締めたまりかは、両肩を震わせていた。
これからは、できれば誰も殺したくはない。戦いが続いていればまだよかった。だが八年の間に訪れてしまった平和は、自分が命がけで守った平穏は、結果として奪った命の重みを自分に感じさせるだけだった。無念さに歪む男たちの顔、死に際して互いに手を伸ばす姉妹、痛いと呻きながら果てていく幼い少女、愛する男のため、三体一の戦いにひるむことなく剣を向けた、緑の髪の剣士。あまりにも多すぎた。殺しすぎた。
「寝ておいたほうがいいぞ……場合によっては戦いになる……」
食堂にやってきた森村が、背を丸めるまりかにそう言葉をかけた。
「あ、はい……」
彼女のこうした姿を、森村はこれまでに何度か目にしたことがあった。たった三人で、高校一年でファクトを壊滅させた化け物。神崎まりかをそう評する者も決して少なくなく、事実自分にしてもそれは否定できなかった。しかし半ば強引にこの対策班に引き入れたのち、交流を深めるうちに“化け物”というレッテルは次第に剥がれていった。森村はまりかの対面の椅子に腰を下ろし、肘をテーブルに乗せた。
「ガイ・ブルース氏の資料は読んだのか?」
「まだ……途中ですけど……」
「そ、そうか……」
森村はテーブルの上で指を組み、「実は……」と切り出した。
昨年の十二月二十四日、FOTのエージェントが大量に晴海埠頭のとある倉庫に集結している。そんな情報を外務省ルートより通じて得た対策班は、“ドレス”を用意してこれを殲滅した。しかしそれは賢人同盟内部の叛意によって企てられた謀略であり、十名にも及ぶエージェントのすべては生贄でしかなかった。
FOT弱体化を演出し、彼らの核弾頭購入を円滑に進ませるための、同盟内部の裏切り者が日本政府内にいる親FOT勢力と結託した結果であり、対策班はまんまとその茶番の主役を演じさせられた。生贄の中にはリューティガー真錠の名前も含まれていて、巻き込まれた協力者として島守遼の存在も資料に記されていた。
森村の語った事実に、まりかは瞳を震わせた。やはり大事な作戦を前にして告げる事実ではなかったのだろうか。森村は一瞬後悔したが、彼女が何度か首を振りため息を漏らしたあと苦い笑みを浮かべてくれたので、一応は安心した。
「これ……ですね……」
分厚いファイルを開いたまりかは該当する箇所を指差し、英文で書かれているそれを読み始めた。
ガイ・ブルースのもたらした資料は、これまでに蓄積していた様々な疑問や謎の回答を含んでいた。そのすべてを鵜呑みにするのは危険ではあったが、整合性もあり裏づけもとれるそれらを疑うのは困難であり、対策班では内勤グループを中心にその研究チームが結成され、まずは国内に存在するという親FOT勢力の洗い出しを始めていると森村は語った。
しかし、まりかにとっての関心事は、あくまでもリューティガー真錠に向けられていた。あの倉庫で真っ先に殴ったのが彼だったのだろう。おそらくは意識を失い、後から駆けつけた島守遼に救出されたとみて間違いない。そうなると襲撃直前に熱探知システムに反応した倉庫内の人数がどうしても合わないのが気になるが、それも資料記された生贄の中に三分裂が可能な改造生体がいたとあっては納得もできる。確かに同じ顔をした三方からの攻撃はあった。
まんまと乗せられ、騙されたのだからこちらも被害者である。だが殺してしまった十名の中に、もしあの少年の知人や友人が含まれていたらどうであろうか。恨みはより深いだろう。再び向き合った際、今度は戦いになってもおかしくはない。ファイルを閉ざしたまりかは缶コーヒーを手に取り、対座する森村のいかつい顔を見た。
「情けない話だ……賢人同盟とやらが勝手に日本を舞台に、内輪もめをしているだけの話だということだ……この膨大なファイルの内容をこちらが事前に知りえていれば、連中に対して強くも出られたというのに……これでは恩を売られたのも同然だ……わかるか神崎君?」
「ええ……これだけの情報提供をしたのだから……派遣したエージェントの……リューティガー真錠の行動を妨げるな……そうとも理解できますね……」
「ああそうだ……しかし……よもや妹さんのいるクラスに潜入とはな……あのB組は、八年前の事件で家族を失った教師が担任をしていたらしいし、生徒の中には獣人に親兄弟を食べられてしまった子もいる……一体なんの因果なのか……」
顔を歪ませ怒りに震える森村主任を、だがまりかはぼんやりと見つめてしまっていて、そんな自分の醒めた部分が不思議でもあった。
「因果なんて……ないでしょう……偶然と必然の結果です……」
小さな声だったため、森村はまりかの言葉を聞き取ることができず、問い直すにはあまりにも彼女はゆったりとコーヒーを飲んでいたため、彼は躊躇して視線を泳がすしかなかった。
全部抱え込むもんですか……なんでもかんでもわたしが原因だなんて思わない……間違ってなかったし、いまだって最善は尽くしている……
心の強さは、神崎まりかをこれまで生き残らせた最大の要因である。缶を強く握り締めた彼女は、「寝てきます!!」と森村に凛然と告げ、椅子を立って薄暗い食堂を後にした。
街灯も頼りない国道の路肩に停められた、紺色をしたセダンカーのカーオーディオからは、音楽とも雑音ともつかぬ奇怪な音色が流れていた。
深夜であり、日付は八月十七日に切り替わっている。運転席の青年は銀縁眼鏡もずれたまま、口を半開きにして音色に身をゆだねていた。
「ともっちさぁ……」
名前を呼ばれた助手席の高橋知恵(たかはし ともえ)は、青年と同様に半開きにした口をむずむずとさせ、視線だけを彼に向けた。
「いよいよだからさ……はじまるんだよな……新しい展開だよ……」
普段は口調もはっきりとし、理論家で知られる彼、関名嘉篤(せきなか あつし)だったが、この夜はまるで酒に酔ったかのような気だるさを醸し出していた。
「死ぬかも……?」
「まさか……それはまだ先さ……けど……そうだね……可能性はゼロじゃあない……」
「そう……」
少女は右手を青年の股間にそっと乗せた。
「見られたらどうする……?」
「別に……構わない……」
その言葉に青年は運転席を下げてシートを倒し、少女に向かって両手を広げた。
「おいでともっち……」
彼から「おいで」と言われたのはいつ以来だろう。いつもなら記憶は明確であるのに、今日に限ってはどうにもぼんやりとしている。先ほどから車内に流れる音色のせいだろうか。「真実の人からCDをもらった」そう言って関名嘉は再生ボタンを押した。最初はひどい雑音だと思ったが、しばらく受け入れてみると、なんとも気だるい心地よさである。
「これって、聞く人によって得られる効果が違うらしい。真実の人はそう言ってた」
「関名嘉さんは……いま……どんな気分?」
少女を抱き締めた関名嘉は、彼女の背中を何度も擦った。その度、彼女の枝毛が細々とした感触を指に与えてくれる。以前は白けてしまういびつさを感じていたが、今夜に限っては奇妙な興奮を覚えさせてくれる。
「すっげぇ……ヤりてぇ……」
青年の言葉に、少女は目を細めた。
「あは……わたしとおんなじだぁ……関名嘉さん……わたしとおんなじなんだぁ……」
得られる効果は同様である。わたしとこの人はおんなじ。高橋知恵はそれがたまらなく嬉しく、右手で彼の股間を激しくまさぐった。
音色はいつまでも二人の情欲を刺激し続け、心を揺さぶっていた。
4.
桟橋で腕を組んだ彼の栗色の髪を潮風が揺らした。小型船は軽快なエンジン音を轟かせながら近づき、腕時計で時刻を確認したリューティガーは、日の出を過ぎたばかりにも拘わらず強い日差しに目を細めた。
追加戦力は四名。うち二人は負傷から復帰した健太郎とカーチス・ガイガーであるが、残りの二名については人選が急だったため、プロフィールも送られてきてはいない。どのような人物が仲間としてやってくるのだろうか、そんな単純な興味を胸に、リューティガーはやってきた小型船を見上げた。
チューリップ帽を目深に被り、真夏だというのにその異形を隠すべく纏った暗灰色のコートはまさしく彼そのものである。リューティガーは瞳を揺らし、桟橋に降りてきたひょろりとした長身を見上げた。
「お、お帰りなさい……健太郎さん」
「ああ……怪我はとうに治っていたのだが……データ取りに強化にと研究所でさんざん待たされた……済まなかった……」
「い、いえ……助かります……」
そもそも、リタイアの原因となった重傷は、作戦現場で呆けてしまった自分を獣人の襲撃から守った際に負わせてしまったものである。リューティガーはしきりに恐縮し、そんな若き主を赤い瞳が優しく見下ろしていた。
「別働隊ってのが寂しい限りだが……例のマンションに部屋は用意してくれてるんだろ?」
健太郎に続いて桟橋へ降りてきたのは、金髪をクルーカットに刈り上げた、迷彩ズボンにタンクトップ姿のカーチス・ガイガーだった。戦いの際、真実の人に“取り寄せられた”右腕も完全に接合されていて、隆々とした丸太のような太さは相変わらずである。精悍さもそのままの先輩を見上げたリューティガーは、右手を差し出して固い握手を交わした。
「807号室を用意しました。それにあれから射撃練習場も用意したので、環境もずっとよくなってると思います」
「そうか……おいエミリア!! 早く降りて来い!!」
ガイガーに促され、小型船からエミリアと呼ばれた小さな姿が現れた。
「ど、どうも……」
揺れるタラップに身体をふらつかせながら桟橋まで降りてきたその少女は、リューティガーより若く、年齢的にも未成熟な体型のうえ、ベリーショートのプラチナブロンドに整った顔立ちであるため、中性的な印象を彼に与えた。
身につけているものが白いプリーツスカートにノースリーブのブラウスでなければ、同性と勘違いしたかも知れない。若すぎる増援にリューティガーは小さく頷いた。
「エ……エミリア・ベルリップスであります!! リューティガー殿!!」
潮風にスカートを揺らしたまま敬礼をした少女は、少々垂れ下がったエメラルドグリーンの目で彼を見上げた。
「すまんな、ルディ。こいつは実地訓練も兼ねての派遣だ。まだ任務だって二回しかこなしてないし、それだってたいした実績でもない。十四歳のひよっ子だ……足を引っ張らないように俺が面倒を見るから、お前さんもビシバシ鍛えてやってくれ」
ガイガーの言葉にリューティガーは戸惑い、直立不動で敬礼をしたまま緊張する白人の少女に、とりあえず右手を差し出した。
「よろしく……エミリアでいいかな?」
「ご、ご随意に!! エミリアでもベルリップスでも!!」
「あ、あのさ……エミリア……」
右手を差し出し続けている事実をリューティガーは視線で促し、ようやく気づいた少女は慌てて両手でそれを握り返し、顔を真っ赤にした。
「すみません、すみません、すみません!!」
「い、いいよ、謝らなくても……」
大任に緊張しているのがよくわかる。自分もかつてこのような時期を経てきた覚えがある。リューティガーが柔らかい笑みをエミリアに向けると、彼女は下を向いて口先を尖らせ、頬をぷっくりと膨らませていた。
「で、トリは俺ってことだな……」
小型船から降りてきたダークスーツ姿の中年男性は、右手に黒く丸みを帯びた鞄を提げ、左手をポケットに突っ込み、左の眉を大きく吊り上げてエミリアの肩を叩いた。
「ご、ごめんなさぁい!!」
いつまでもリューティガーの手を握り締めていた事実にエミリアは恐縮し、慌ててその場から離れた。
「肩、肩、ずれてるぞエミリア」
傍にいたガイガーにブラウスのずれを指摘されたエミリアは、顔を引き攣らせてそれを直した。着慣れていないのだろう。そう思ったリューティガーは、眼前で不敵な笑みを浮かべる男に会釈をした。
金髪はガイガーのものより少しだけ長く、エミリアのそれよりずっと濁った色をしていて、大きな顎で受け口が随分と特徴的な人相である。同盟からの連絡内容を念頭に置いていたリューティガーは、なるほど彼がその役職なのかと納得した。
「ゼルギウス・メッセマーだ……部屋の用意はできているのか?」
「ええ……802号室に場所を空けておきました……機材は……?」
「おう……一緒に持ってきた……積み込みをどうするかだが……」
「僕がやります……」
「そ、そうだったな……できるんだよな……」
今回の指揮官の特殊技能がなんであるのかを思い出したゼルギウスは、親指を小型船に向かって立て、その先には李荷娜(イ・ハヌル)のしなやかな姿があった。
「ルディ!! 甲板に医療器材を出すけど……すぐに跳ばす!?」
「メッセマー先生がよろしければ!!」
甲板の荷娜にそう叫び返したリューティガーは、紺色の瞳を中年男性へ向けなおした。
「ああ。チェックは済ませている……もっともまだ機材は残っているから、明日、明後日と何度か運んできてもらう算段になってるがな」
「でしたらその度に僕が受領に来ますね」
激しい戦いになると予想される。そう判断したガイ・ブルースは、追加戦力の中に外科医を含ませる提案をリューティガーに持ちかけ、彼もそれには強く同意した。触れたものを跳ばす能力があるから、負傷者が出ても同盟本部の医療施設に送ればそれで済むものの、遼たち仁愛組の存在を考えればやはり国内で迅速なる治療を行える体制を整える必要がある。だからこそ802号室は来日する医師のため、医務室として使えるように空き部屋にしておいた。
「クロはどうしている?」
802号室の本来の住人である黒猫の存在を、健太郎は口にした。
「陳さんが面倒を見ています。昨日から803号室に移しましたから」
主の言葉に異形の青黒き従者は安心し、口元に珍しく笑みを浮かべた。
「にしても暑いな……」
ゼルギウスは容赦なく照りつける陽光に顔を顰め、小型船へのタラップを駆け上がるリューティガーを見つめていた。
医療器材を跳ばし終え、荷娜の船が無事出港したのを見届けたリューティガーたち一行は、埋め立て地のコンテナ群を背に早朝の港を歩いていた。
「それでは、メッセマー先生は代々木のマンションに向かってください。機材は跳ばしたので、そのセッティングを」
「ああ、わかった……最低限の準備は早急に済ませておく……」
「ガイガー先輩たちは、これから僕と国会議事堂に……早速の上、本来の任務とは違いますが……」
「ああ。司令から聞いている。今日が正義決行スケジュールの初日なんだろ?」
「ええそうです……その阻止作戦に参加してください。内容は陳さんと現場で合流してから説明します」
その言葉に四人は頷き、中でも少女のそれは一際大きく激しかった。
本来、追加戦力として来日した四人のうち、ガイガー、健太郎、エミリアは別働隊であり、その任務はFOTの拠点捜索と壊滅である。正義決行スケジュールの阻止についてはリューティガー本隊の担当ではあったが、来日日と初日の決行が重なったため、今日の通常国会と、明日の在日米軍再編協議に関してはこのメンバーで任務に望むことにしていた。
歩きながらゼルギウスは大きな顎を撫で、素朴な疑問を口にした。
「現地協力者たちってのは、どーしてるんだい? 夏休みか?」
毒のある口調に、ガイガーと健太郎の目つきが鋭くなった。
「演劇部の合宿です。今回は初回ということもありますし、先輩たちが間に合うと判断して任務から外しました」
背中を向けて歩きながら、リューティガーの説明に淀みはなかった。受け口の救急医師は納得をして頷くと、「なるほど、素人さんたちってわけか」と余計な一言を付け足した。
テレビでは朝から、FOTの正義忠犬隊が予告した今日の通常国会に関する事前報道が特別編成で報じられていた。具体的な名前こそ出さなかったものの、忠犬隊に斬首されるのはこの議員ではないのかと憶測が飛び交い、病気を理由に国会を欠席する議員は後ろめたさがあると容赦なく罵る評論家もいた。
国土交通省トップの惨殺があまりにも大きかった。あの犬頭のテロリストは、拘置中の被告であろうと特権階級であろうと関係なく抜刀し、冷たい刃を首筋に当ててくる。自宅に篭もり、私的なボディーガードを何重にも配置した、とある元大臣の様子や「俺は逃げも隠れもせん。テロリストどもよ、来るならこい」そう言い放って議員会館で我犬の掲載された写真週刊誌のページを齧る、元プロレスラーの代議士の姿がワイドショーを賑わせる中、ある緊急会見が報じられた。
それは八年前に起きたファクト騒乱に対する、遺族会結成会見の模様だった。
死者四百五十二名、重軽傷者二千八百六十五名という戦後最悪のテロ事件であるファクト騒乱は、あまりにも破壊と殺害が幾度となく繰り返されたため、一種類の事件事故といった認定がされておらず、これまで遺族会といったまとまった被害者団体は存在せず、保障についてはあくまでも国や自治体と被害者が個別に交渉されていた。
「本来、遺族に対する保障を目的とした復興税は皇室の引っ越しと、あろうことか大企業の破壊された施設再建の援助金として使われているのが現状です。我々は愛する家族を失った代償を要求するため、今後は遺族会という横のつながりをもった形で活動していく。国民の方々にも厚い支援を期待したい!!
いや、お願いします!! 保障の獲得という前例を作ることで、今後FOTが引き起こすと予想される新たなテロの被害に対して、ひいては国が本気で対応してくるということなのです!!
支援をお願いします!!」
最後は感情的であり論理も破綻していたが、遺族会代表である会社社長、杉原哲三郎は涙を流し、長机を何度も叩きカメラに向かってそう訴えた。
どうにも見慣れた顔がある。珍しく夏休みの早起きをした仁愛高校2年B組生徒である沢田喜三郎は、茶の間で妹の弥恵(やえ)とテレビのニュースを見ながら眠気を振り払うために頭を振った。
「あ、いや……そーだよ……な、なんで!?」
大泣きしている杉原代表の傍らで肩を支える初老の男が、昨年重傷のために休職した担任教師、近持弘治(ちかもち
ひろはる)その人であることに気づいた沢田は、思わず弥恵の食べようとしていた大福を手に取り、躊躇なくそれを口に放り込んだ。頭には包帯を巻いているし、よく見ると左手も包帯で吊っている。クラス委員の音原太一(おとはら
たいち)の話によると、数週間前に病院も退院し、現在では自宅療養をしていると聞いていたが、まさかこのような形で再び目にすることになるとは。
近持先生は、もう教室には戻ってこない。
カメラに向かって厳しい表情を向けるかつての担任教師を、沢田は大福を頬張りながらぼんやりと見つめ、そんな彼の頭を妹がポカリと叩いた。
ニュースはやがて、厳重な警備が敷かれた国会議事堂の様子を映し出していた。機動隊だけではなく、正面玄関には迷彩服の自衛隊員も配置され、議事堂周辺は立ち入り禁止であり、半径五百メートルの地域は厳戒態勢の交通封鎖が実施されていた。それはさながら八年前の都内において実施された戒厳令を思わせる異様な光景であり、だがなぜかそれを報じる映像は遠景で小さく、報道規制の結果が現れていた。
有事があれば、即刻報道は中断してもらう。もしそれを行わないのであれば、今後一切の公的取材は受け付けず、場合によっては放送免許の剥奪、出版停止処分も辞さない。
これがマスコミ各社に通達された、今日の通常国会と明日の在日米軍再編協議会に関する取材規制の内容である。今月の正義決行スケジュールはこの二つであり、来月にもいくつかの公的イベントが記載されているが、いずれのケースにおいても政府は強硬な報道規制をする覚悟であり、その点においては八年前と同様の姿勢だった。
どうせ全容も明らかにならないテロなのだ。ならば刺激的な映像を国内はおろか外国にまで流布されれば人心の不安だけではなく、国際経済においても日本はダメージを被る。それが政府の見解であった。
望遠レンズにも映し出されない議事堂敷地内の茂みの陰に、対策班のトレーラーが停車していた。時刻は午前七時、国会開催まではまだ二時間ほどあったが、カーゴルーム内に鎮座する真っ赤な人型の周りには作業員たちが忙しなく動き、その中で出撃を待つ神崎まりかの表情は険しかった。
二十体もの飛行獣人と戦うことについては、まず負ける気がしない。八年前と違ってたった一人の戦いとなる可能性が高いが、ドレスの防御力と補助火力があれば動力にまわす念動による疲労を考慮しても、戦力は自分の方が圧倒的であるといえる。
だが、戦場が問題だ。班長からはその姿を表に晒すなと厳命されている。報道規制はしたものの、どこにフリーカメラマンのファインダーが隠れているかわかったものではない。それに、派手に暴れてしまっては霞ヶ関全体に被害が拡大する可能性もあり、現在の立場も考えると昔のように好き勝手に戦うというわけにはいかない。
彼は……現れるのかしら……
リューティガー真錠の目撃報告はこの移動本部にも、もたらされてはいなかった。だが、兄である真実の人を抹殺するのが目的であれば、あの栗色の髪をした彼はおそらくどこかに待機しているはずである。遭遇し、また憎悪を向けられるのだろうか。ならば今度は怒りをもって返そう。平穏な町中に突如として出現し、火器でそれを破壊した傭兵部隊カオスはどうあっても対決しなければならない敵だった。晴海埠頭での一件は気の毒ではあったが、あれも情報に従って任務を遂行した結果である。謝りたい気持ちはもちろんあるが、相手が怒り以外の感情を持ちえていないのであれば、それに対しては毅然とした態度で返すしかない。経験を積み年齢を重ねたものの、まりかは二十代とまだ若く、柔らかく包み込むような穏やかさは身についていなかった。
5.
「近藤……時代は勝手に進んじまう……俺ぁそれがどうしたって許せねぇ……その勝手ってやつが俺たちの自由にならねぇってのがよ」
「あのなぁ歳……焦ったってなにも手繰り寄せられねぇんだぜ……まぁ、団子でも食えや」
「食うさ……けど、呑気にゃ食わねぇ」
ジャージ姿の島守遼は、お堂で胡座をかく同じくジャージ姿の平田の前に、すっと手を伸ばした。
「一気に全部平らげる!! じゃー行ってくるぜ、局長!!」
「おう副長!! 綺麗な羽織は見たかねーぞ!!」
勢いよく立ち上がった遼は、周囲で見守る部員たちをぐるりと見渡し、左足を前に出した。
「斬ってくる!!」
お堂の隅へ駆け出した遼を目で追った平田は、団子を頬張る仕草をし、腹をぽんとひと叩きした。
「うんうん、いい感じだよ!!」
掛け合いの間がなかなかだったため、部長でありこの稽古場所の紹介者でもある福岡が、台本を叩いて笑みを向けた。
朝一番に電車で東京を発ち、バスに乗り継いで午後にこの長野県は若穂保科の山奥にある清南寺に到着し、午後二時には早速の稽古が始まっていた。
昨年より二年連続の清南寺合宿である。まったく変わっていない旧本堂を借りきり、これから数日間にわたり、仁愛高校演劇部は秋の文化祭で上演する「池田屋事件」の仕上げに取り掛かる予定になっていた。
タオルで汗を拭いた遼は、お堂から通じている廊下に視線を向けた。あの向こうには部員共通の休憩用大部屋があり、八畳ほどの和室には唯一のテレビが置かれている。朝から始まっている通常国会の様子を逐一チェックするのが、合宿の協力者として同行してくれている岩倉次郎の役目であり、もしも忠犬隊が出現するようなことがあれば、襖が勢いよく開かれ、丸い巨体が慌てて駆け出してくる段取りとなっている。
台本を手に遼のもとにやってきた高川典之も、同様に緊張した面持ちで奥の休憩部屋を一瞥した。
まだ動きはないようだ……
のようだな……一度状況を聞いておくか……?
ああ……いつまでもガンちゃんをあっちの部屋で一人でってのも……変だしな……
肩を軽くつけ、二人は声ではない言葉で意思を交わした。
大声を張り上げ、遼は部屋にいる岩倉を呼んだ。遼たちからもテレビがよく見えるように襖を大きく開けた彼は、太鼓腹を揺らしてお堂までやってきた。
「全然……なんか……テレビも苛々してる感じだよ」
「そっか……すかされたかもな……」
遼の言葉に、高川が太い眉毛を上下させた。
「ふん……つくづく細かい策の好きな連中だな……まったくもってわかり辛い……」
「それだけ本気ってことだろ……」
横目で遠くの小さなテレビ画面を確認した遼はもう一度汗を拭い、休憩となって打ち合わせを散発的にはじめている部員たちに注意を向けた。
「ねぇ島守くんたちの知り合いとかで……ポスター描いてくれそうな子っていないかしら?」
やってきた福岡部長は、首を傾けてそう尋ねた。
「ポスターって今回の学園祭のっスか?」
「ええそうよ。去年は美部の先輩に頼んだんだけど、もう卒業しちゃったし、もし島守くんたちに心当たりがあればなぁって」
「そうっスねぇ……ガンちゃんとかは?」
「うーん……絵の描ける人……どうだろうなぁ……」
話題を振られた岩倉は、太い腕を組んで心当たりに記憶を辿ってみた。
「なになに? どうしたの?」
汗を拭きながら、やり取りに混ざってきたのは神崎はるみだった。彼女は一瞬だけ視線を廊下の奥の、さらに向こうのテレビに移し、遼たちがなぜこのようにお堂の隅で固まっているのかその理由を即座に理解した。
「池田屋事件のポスター。誰か上手い子いないかと思って」
「美部の土部(つちべ)さんなんかは?」
「土部さんの絵はちょっと柔らかいでしょ? もっとリアルな感じがいいって、ハリーとも話してたのよ」
「リアルということであれば……」
それまでずっと口を閉ざしていた高川が、腕を組んだままゆっくりとつぶやいた。
「大和(やまと)君などはどうだろうか?」
「あぁ……大和君は確かに絵が上手いよね。まるで写真そっくりだし」
高川の提案にすぐ同意したのは岩倉である。だが遼は手と頭をばらばらに振り、「無理、無理」と返した。
「あの大和が人のためになんかするわけねーじゃん」
「そ、そうなの? 神崎さん?」
部長に尋ねられたはるみは人差し指を唇に当て、苦笑いを浮かべた。
「うーん……まぁ……大和ってば……ちょっと荒れた感じの奴だから……」
「荒れてる? なのに絵が上手いの?」
「そこが奇妙なのであります。しかし意外な特技ということであれば、とうより実際の絵を見れば納得せざるをえません。あれはまるで写真であります」
高川の硬い言葉に福岡は戸惑い、切り揃えた前髪を摘んで口先を尖らせた。
「けど……頼み辛いのはほんとみたいね……わかった……じゃあ最悪土部さんのセンで話を進めておくから……」
福岡はそう告げると、丸めた台本を何度か掌で叩きながら、仏像を見上げている平田に向かって歩いて行った。
「なぁ神崎。やっぱり大和は想像つかないよな。あいつが演劇部のポスター描いてくれるなんて」
「う、うん……そーよね」
遼があまりにも自然に声をかけてきたため、はるみは戸惑ってしまい咳払いをした。
「なんだよ。風邪?」
「ち、違うわよ……空気が違うから慣れてないだけ」
「うがい薬いるか?」
「持ってきたからいい」
「あ、そう」
ぐちゃぐちゃな気持ちを露呈し、何度も情けない自分を晒しているというのに、なぜこの長身の彼はごく普通に声をかけてくるのだろう。まったくなにも意識をしていないのなら、それはそれで哀しい話であるが、ついつい会話がスムーズに運んでしまうのがなんとも恨めしい。
そう、間が妙に合うのである。彼は触れた相手の心が読めるみたいだが、どこも触っていないのに言葉がテンポよく噛み合うし、第一自分にはそのような奇妙な能力はない。
「国会……どーなのよ?」
「動きなし……けど明日とかどーすっかだよな。稽古中はテレビ見られないし、今日は荷物整理って理由で休憩部屋にガンちゃんがいてくれたからいいけど……」
「僕の携帯、ラジオが入るから……それを聞いてるようにしておくよ」
岩倉の提案に、遼たちは注目して頷いた。
「しかし……どうにも集中しきれんな……正直、島守の芝居には感心したぞ……なぁはるみさん」
「う、うん……平田さんとの掛け合いもよかったわね」
高川とはるみに褒められたものの、遼自身もなぜ稽古に集中できてしまえるのかわからなかった。「たぶん……合宿って環境がいいんじゃね?
特殊って感じで」そう答えたものの、どうにも正解ではないような気もする。バルチでの出来事もそうだったし、晴海埠頭や料亭「いなば」も同様だったが、なんとも土壇場で肝が据わってしまうというか、自分は覚悟を決めてしまえる性分らしい。ようやくそれとない結論に達したものの、それがいいことか悪いことかまでは遼にはわからず、彼は話題を変えるために笑顔で見下ろしている岩倉を見上げた。
「そーいや……ガンちゃんの誕生日って……もう過ぎたんだよな」
「う、うん……一日(ついたち)だったけど……」
「なんかばたばたっと過ぎちまって、ロクにお祝いもできてないんだよなぁ」
「い、いいよ、僕のは……親からプレゼントだってもらえたし、妹からも……」
「妹!? ガンちゃんって妹いたの!?」
「初耳だな……」
はるみと高川が驚いたため、岩倉は丸い目を大きく見開いて坊主頭を忙しなく掻いた。
「はーん……それでわたしとかに偉そうにしてたんですね」
やってきたジャージ姿の澤村奈美が、したり顔で岩倉の巨体を見上げた。
「そ、それはどうだろう……」
岩倉が困惑したため、奈美はますます楽しくなり、人差し指を立てて首を傾けた。
「そーですよ。妹がいると年下に無遠慮になるんですから。これからそう念頭に置かせていただきますからね」
言葉はきつかったが、奈美の様子があまりにも明るかったため、遼たちは口を挟まずにやりとりを傍観していた。
「妹さんはいくつなんですか?」
「う、うん……いま中三なんだけど……」
「やっぱり先輩みたいに、たくさん食べる子なんですか?」
「あ、ち、違うぞ……真穂(まほ)は僕ほど食べはしない……」
そう断言した岩倉は、ズボンのポケットからパスケースを取り出し、それを開いて奈美に突きつけた。いつも写真を持ち歩くほど兄妹仲がいいのか。遼たちも岩倉の手元へ一斉に注目した。
丸々と太った、ランドセルを背負った健康で明るい少女の姿がそこには写っていた。眉も兄と同様太く、なかなか温厚そうに見える。そこには意外さはほとんどなく、厳然とした遺伝学上の事実しか存在しなかった。奈美も含めた遼たちは頬を引き攣らせ、あまりにもよく似た妹の写真を誇らしげに突き出した岩倉に、「そっくりだね」と声をかけるような真似は決してできなかった。
6.
トレーラーから赤い人型、通称“ドレス”が姿を現すことはなかった。国会議事堂周辺、夕暮れのなか緊張して警備にあたる警官隊や自衛官たちは、ようやくましになった陽射しに顔を上げ、翼を持った化け物が飛来してこなかった事実にある者は安堵し、またある者は苛立っていた。
予算審議も無事終了したものの、その模様は見学も許可されないうえテレビでは報じられず、NHKには抗議の電話が殺到した。国民の代表が税金の使い道を話し合っているというのに、一般市民にはそれが行われている議事堂の遠景しか見ることができない。この珍事はおそらく歴史に汚点として残ってしまうだろう。議事堂を望む一流ホテルの屋上から、スタッフと事件に備えて待機していた関東テレビの北川洋輔は、大きくあくびをしてなにも起こらなかった八月十七日にあきれ返っていた。
これで確定だ。正義決行スケジュールは、それそのものが陽動としての機能を備えてしまった。
無理をいい、コネを総動員して確保した撮影現場であるから、用がなくなれば長居は許されない。北川がクルーの一部に撤収の指示を出しているころ、議事堂近くの地下鉄線路で待機をしていたリューティガー、陳師培(チェン・シーペイ)、健太郎、ガイガー、エミリアの五人は、完全に今日のテロ活動はないものと判断し、真っ暗で狭い空間から地上へと逃れた。十全な警備であっても、侵入を禁ずることに重点を置いたその方法では空間を跳躍するリューティガーを防ぐことはできない。もちろんガイ司令が対策班にルートを作った以上、こちらはこちらということで堂々と忠犬隊の襲撃を待ってもよかったのだが、この隠密行動はすべてリューティガーが決めたことであり、それが彼の現在における対策班に対する心情である。
「だが……対応せざるを得ない……今日の不決行が明日の決行を疑わせることはあっても、それでも対応せざるを得ない……そうだな、ルディ……」
代々木パレロワイヤル803号室のダイニングキッチンには、テーブル一面に陳の用意した歓迎料理が並べられ、鳥の唐揚げを器用に箸で摘んだガイガーは、グラスの紹興酒を一気に飲み干して舌なめずりをした。
「その通りです……明日の米軍再編協議は次官級の軽い“さわり”のような席ですが、一連の在日米軍不祥事問題を考えると注目の協議です……兄の目が向く可能性は高いと思われます。午後一時より外務省飯倉公館で行われるそうなので、僕たちは今日と同様に隠密行動にて事態の推移を見守ります」
リューティガーの告げた行動方針に、陳とエミリアは頷いたが、食事を同席している最後の一人、カーチス・ガイガーだけは唐揚げを頬張ったまま首を傾げた。
「どうしましたガイガー先輩」
「いや……連中の速攻力を考慮すると……待機する場所はもっと公館に近いほうがいいんじゃないいのか?」
膝に広げた地図を見下ろしたガイガーは、後輩の気持ちをわかっていながら、敢えてそう異論を唱えた。
「司令が暗黙の了解をとりつけたからといって、やはり我々は堂々と行動するわけにはいきません。同盟利益の順守を高いレベルで考えるのであれば日本政府とて、いつまた敵に回るか……わかりますか先輩?」
紹興酒のグラスを手にしたリューティガーは、きつい口調でかつての先輩に言い切った。彼の隣でなれぬ箸に苦戦していたエミリアは、すっかり緊張して香ばしい料理に取り掛かるのを諦めた。
「なるほど……まぁいいさ……ルディが指揮官だ。そこまで考えているのなら、俺がどうこう言える話でもない……いいだろう。作戦についてはこの通りで」
「ありがとうございます先輩」
言うべきは言うが、引き際も心得ているのが職業軍人であるカーチス・ガイガーの長所である。陳は健全な議論に安堵し、いつまでたっても小皿に料理を運べないエミリアに蓮華を渡した。
「一番若いのだから、もうバンバン食べるね、エミリアは」
「は、はい……」
「陳大人の四川料理は一級品だ。短い期間になるが、これを毎日食べられるってだけで、本部じゃお前を羨むやつがごまんといる。感謝して食えよ、エミリア」
「は、はい!! 了解であります!!」
蓮華を受け取ったエミリアは、垂れた目を大きく見開いて大皿料理に取り掛かった。
「でだ……今後についてだが……そうなると例の対策班との共同作戦ってセンは考えられないってことなのか?」
「当然です」
「そりゃ……例のあいつがいるからか?」
「まさか。そんな個人的な感情ではありませんよ。さっきも言ったように、信用関係が構築されていないと判断しているからです。もちろんそれは、組織間という意味においてです」
口調がどうにも硬い。そこから様々な事実を理解したガイガーは、目を閉ざして紹興酒を呑んだ。
あたりまえだ……俺だって神崎まりかにゃ笑顔で向き合える自信がねぇ……たとえ向こうがこっちの顔を忘れててもな……だが……すべては過ぎたことだ……
撃ち殺した民間人の歪んだ死に顔を思い出したガイガーは、露出した両肩に異様な寒気を感じた。目の前でグラスを傾けるこの後輩も、いつか自分のように駆け抜けた任務を振り返り、凍てつくような恐怖と不安を感じる日が来るのだろうか。いや、もうとうに経験済みであるかも知れない。彼は自分などよりずっと幼いころから苛酷な経験を積んでいる。だが、だからこそ大人が導いてやらなければならない。私情を越えた先にあるものも、結局は私情であることを。より高い自分を獲得するために、それを知っていかなければならないことを。屈強なる職業軍人は、陳の注いでくれた五杯目の紹興酒を一気に喉へ流し込んだ。
合宿初日の夕飯は準備も慌ただしく、台所の準備も万全ではなかったため、握り飯と味噌汁といったシンプルなものだった。本堂で空腹を満たした部員たちは大半が麓の温泉へと出かけ、残りの一部はテレビのある和室でブラウン管を注視していた。
夜のニュースは、本日の通常国会とそれを厳重に警備する大量の警官隊と陸上自衛隊の様子を遠景で映し出していた。
結局、正義決行スケジュールの初日はなにも起こらなかった。
「ほんと、よかったですよぉ……何事も起きなくって」
「いや、なんかね、どうかなってるんじゃないの? あんな物々しい警備でさ。相手はたった二十人ぐらいなんでしょ?」
「つまんないよね。けっこう期待してたのに。え? 忠犬隊が現れるのを」
街頭インタビューの結果も、年代が若くなるにつれ事態を面白がる傾向にあり、意図的に意見を抽出しなくとも自然な流れとなってそれは報じられていた。
やがてテレビには、取材可能地域である外堀通り、溜池山王の交差点が映し出された。右上にはAM11:30とテロップで記され、強い日差しが照りつける車影もないその向こうの歩道に、メガフォンを手にした白いジャケット姿の青年、反米左翼団体「音羽会議」議長、関名嘉篤の姿があった。彼の周囲にはタオルやマスクとサングラスで覆面をした数十名の者たちが手をつないで輪を作り、市民は不気味なものを見るような目で、決してそれに近づくことはなかった。画面はメガフォンを使って絶叫する関名嘉のアップに切り替わった。
「市民諸君!! 私の眼前で警戒する機動隊員たちを見てもおわかりの通り、本日この瞬間において、日本の中枢に国民が立ち入ることができない異常事態が発生している。これはなぜか。FOTおよび正義忠犬隊より、我々国民の代表である代議士を守るため?
それは建前である!! 八年前に隠蔽した数々の出来事が明るみに出るのを恐れているに他ならない!!! ファクトのテロが突如として集結した背景に、外務省を中心とした当時の政府が金ずくでテロリストたちと交渉し、手を引かせたという闇が存在するという事実は、懸命なる諸君であればネットなどでもご存知のことと思う!!
今回現れたFOTは、ファクトとは異なる文脈より発生した組織である!! 彼らの行いはなんだ!? 倒壊現場で救助活動を行い!! 凶悪なる阪上鬼(さかがみおに)を斬首し、陸橋をかけ、詐欺グループを粛清した彼らが本日、この国会においてなにを行う!?
私は正義の決行に他ならないと予測する!! 国会は空転を続け、会期延長した八月の現時点においても予算が決定しない事態に陥っている!!
利権を主張する与党内の派閥争いに、それを糾弾できぬ野党!! すべてが正義とは真逆に位置する禍々しき魍魎どもであり、粛清の対象と言わざるを得ない!!
ファクト騒乱の傷も癒えておらず、当時その惨禍を黙ってみていたばかりか、現在において不祥事を繰り返す在日米軍の存在に真剣に取り組まないこの国の代議士など、いっそのことすべての首を刎ねてしまえと怒りをここに表明する!!
現れよ、翼を持った正義の僕よ!!」
メガフォンで増幅された関名嘉の演説が、霞ヶ関界隈に轟いていた。彼とその仲間である音羽会議の面々は、車道を挟んだ向こう側で警備にあたっている機動隊と自衛隊に対して強い意を向け続けていた。
「なんか変なのまで出てきたっスね……」
一年生の男子部員であり、中学時代は野球部で活躍していたという異色の前歴を持つ、阿久津誠司が腕を組んで意見を述べた。
「尻馬に乗るとは正にこのことだな……もっとも下らん連中だ……」
正座の姿勢で言い捨てた高川は、横に座るはるみをちらりと見た。
「にしても……これだけ厳重な警備も……結局は無駄だったってことなのよね……明日とかどうするんだろ……」
はるみの疑問に呼応するがごとく、ニュースは明日十九日に行われる在日米軍再編協議について取り扱った。
あくまでもテロの脅しには屈しない。再編協議だけではなく、不祥事と言われている一連の事故について対応を日本政府と話し合う必要がある。日米同盟の絆を確かめる意味でも、明日の次官級会談は予定通り行いたい。
それが米政府の見解であり、日本としても応じざるを得なかった。明日も今日と同じように、マスコミは朝から分厚い警備の外側から中継を行うことになるのだろう。似たような画になるのか、はたまた犬頭の襲撃を捉えることになるのか。遼は壁に背中をつけ、何事もなく決行予定の初日が過ぎたものの、安心などまったくできず額の汗を拭った。
「ねぇ奈美。わたしたちもそろそろ、お風呂いこーよ。温泉なんでしょ?」
「そ、そうね……」
廊下に面する襖近くでテレビに注目していた奈美は、同級生の春里繭花(はるさと まゆか)に促され、重い腰を上げた。
はっばたきぃ……我犬たちをきちんとフォローすんのよ……
都内で別の任務に就く褐色の肌をした少年を想った少女は、友人に続いて部屋を出て行った。
ニュースは、夕方から開かれた政府の記者会見の模様に切り替わっていた。
「FOT問題連絡会議」会見を開いたのはそのような名前の、最近結成されたばかりの政府内組織であり、代表を務める警察庁所属の山内という男が記者団に向かい、今後もFOTの予告したテロに対しては省庁を超え連携した対応をとると宣言し、正義忠犬隊を構成する犬頭の怪物に対し、「FOTは明らかに現代の生化学を超えたテクノロジーを有していることは明白である。これは長く隠匿された歴史の上で積み重ねられた技術であると予想され、突発的なものではない。八年前に散発的に目撃された、いわゆる“ファクトの獣人”ともなんらかの関係があるものの見て間違いはなく、しかるにファクトとFOTはこの点においても同一性の高い組織として考えられる」との見解を発表した。
ならば、なぜファクト騒乱において獣人を偽装した犯罪者などと公表したのか。事前打ち合わせがなかったものの、そのように鋭い質問をぶつける地方紙の記者もいたが、マスコミ対応に慣れている山内は、「これは見解が覆されたというわけではなく、新たな情報によって判明した新事実ということである」そう毅然とした態度で質問を退けた。
「政府が獣人の存在を認めたか……そりゃそうだろうな……あんな白昼堂々の忠犬隊だ……」
スポーツバッグからタオルとシャンプーを取り出しながら平田浩二はそう言い、遼たちも一様に頷いた。
「俺もガキだったけどよく覚えてる……当時は毎日、獣人の研究コーナーをワイドショーで流してたんだ。宇宙人説とか突然進化説とか、まぁ、いろいろとあったみたいだけどね」
「あったあった。っていうか、まだネットとかだとその説研究してる連中っているでしょ」
平田と同じく風呂の道具をバッグから取り出しながら、福岡が馬鹿にしたような口調で言った。ようやく先輩は風呂に行くのか。部屋の隅で先輩の動きに注意を向けていた鈴木歩(すずき
あゆみ)は、風呂道具を抱えたまま、部屋から出て行く平田と福岡に軽やかな足取りで続いた。
宇宙人説や突然進化説などがあったとは。既に何体もの獣人と対し、それを倒してきた遼、高川、岩倉は互いに顔を見合わせ、苦笑いを浮かべるしかなかった。ともかく風呂に行こう。麓の温泉は八時には営業終了である。遼の提案でニュース番組鑑賞も打ち切られたため、彼らの意識は目の前のもっと身近な現実へと引き戻された。
「じゃあ、なんかあったらすぐにルディが跳んでくるってことなの?」
麓の温泉で疲れを落とし、清南寺へと続く緩やかな山道を歩きながら、はるみが遼にそう尋ねた。
「あ、ああ……だから今日だっていつ呼び出されるかわからなかった……もっとも……なんか追加戦力が来たらしいから……手は足りてるようなことも言ってたけど……」
本来なら彼女に話してはならない機密事項である。だが修学旅行の山鉾巡業銃撃事件では岩倉と高川に的確な指示を出したらしく、そこまで深く関わってしまった以上、隠し通せる自信がないため、遼は半ば開き直ってもいた。
リューティガーは彼女の姉、まりかに対して憎悪を抱いている。一度は放水で頭を冷やしたものの、結局は見ているだけでなにもできないといった罪悪感もあった。筋違いで的外れな贖罪行為であり、むしろまりかの希望には反する結果となっていたが、それでも遼は、はるみに対して自分たちの動きを隠してはいられなかった。
「さっきのニュースだと、政府も連絡部会とかって大規模な対策に出るみたいだし……真錠は国際的な組織に所属しているんでしょ? なら素人の島守たちの出番じゃないって判断したのかもね」
はるみの意見に、遼は思わず立ち止まってしまった。
「なるほど……そういう見方もあるか」
「た、たぶん……真錠が島守に見せている面って、一部だけだと思うんだ。わかんないけど……」
泣いてしまい、ぐちゃぐちゃで悔しさを顕わにした数週間前だった。蜷河理佳(になかわ りか)と彼は一夜を共に過ごし、肉体関係があったのは明白である。それでもこうして夜道を共に歩き、言葉を交わしていると満たされるものがある。あまりに気を遣わなさ過ぎる彼の鈍感さには腹も立つが、だからこそ馬鹿げた希望を抱いてしまう。少女はしきりに納得して頷く遼を苦笑いで見つめ、奥から坂道を駆け上がってきた影に注目した。
「お、置いていくとはひどいではないか!!」
洗面器を抱えた赤いTシャツ姿の高川典之が、ようやく追いつき遼の背中を叩いた。
「だってお前長湯過ぎ!! 平田さんも呆れてたぞ!!」
「ろ、露天風呂など生まれて初めてで感動してしまったのだ!!」
そう言い訳をしながら、高川は傍らで夜風にあたる想い人の姿をちらりと見下ろした。石鹸の匂いがなんともいえず、平常心を奪わせてしまう。濡れた髪が修学旅行の夜を思い出させる。再び、彼女と酒を呑む機会は訪れるのだろうか。いや、それより心の交流をもっと深めたい。彼は空いた左拳を握り締め、全身を震わせた。
「な、なぁ神崎……明日は決行スケジュールってどうなると思う?」
「さぁ……前にガンちゃんから聞いたけど……料亭にヘリが突っ込んだのもFOTの仕業だったんでしょ? なら……米軍再編協議って点を考えると……なにかしてくるかも……」
「どうして?」
「う、うん……仮皇居に突撃した海兵隊員も……もし全部FOTが仕組んだことだったら……あいつらは米軍に絡んでなにかしている可能性があるって……ぜ、全然根拠なんてないわよ?
なんとなくなんだから」
質問の答えにすっかり興味を抱いた遼に対して、はるみは憶測が過ぎてしまっていると慌てた。
「はるみさんの予想は正しい……!! だとすれば明日は大一番かも知れぬな!!」
強く言い放った高川は、再び遼の背中を叩いた。
「さーてな……俺たちにお呼びがかかるかどうか……ま、覚悟はしといた方がいいってことだな……」
自分の意見に基づき、二人は重要な判断をしてしまっている。それは心地のいい事実であるが、どうにも想いは満たされないはるみだった。
合宿の就寝時間は午後十一時であり、移動疲れということもあって、初日に夜更かしをする部員たちはほとんどいなかった。男子部員のために用意された十二畳の和室は布団が敷き詰められ、横になった遼は昨年の狭い部屋と比べると、演劇部にも男子が増えたとあらためて実感した。
去年は俺と平田先輩だけだったもんなぁ……
現在では助っ人の岩倉と高川もいるため、部内における男子の比率は飛躍的に増えている。そんなことをあれこれと考えていると、どうにも寝付けない遼だったが、とにかく明日が大一番であるのなら、体力を消耗するわけにはいかず、静かにしておこうとそれだけを念じることにした。
それから数時間後、すっかり静かになった闇の中をむくりと起き上がる一つの影があった。
高川は布団から抜け出ると、他の部員を起こさぬよう慎重な所作で襖を開けて廊下へと出た。大柄な偉丈夫の彼だったが、完命流柔術で鍛えた身のこなしは隠密行動を成功させ、彼はまだ寝付いていない遼をはじめとして誰にも気づかれることなく、荷物部屋としている八畳のテレビがある大部屋に到達し、懐からイヤフォンを取り出して旧型のテレビにそれを接続した。
どうにも緊張する。胸の高鳴りを抑えながら彼はテレビを点け、画面を覆い被さるようにした。
た、確かこの時間だ……し、しかし……チャンネルはどうすればよいのだ……
深夜三時十五分であった。チャンネルを変えてもNHKしか放送しておらず、民放は国会議事堂の遠景を映し、「FOT関連のニュースがあり次第、放送を再開します」といったテロップが表示されているだけである。高川は途方に暮れ、テレビの前でへたり込んでしまった。
その困惑のためか、いつもは研ぎ澄まされている彼の神経は鈍り、背後から肩をつつかれる感触を事前に察知することができなかった。勢いよく振り返ったためイヤフォンは抜けてしまい、静かなピアノ曲がスピーカーから流れた。
「は、針越さん……!?」
水色のパジャマ姿の少女に高川は驚き、その反応に彼女も目を丸くした。
「ど、どうしたの、高川くん……こんな時間に……」
針越里美(はりこし さとみ)は議事堂を映している画面を指差し、黒く短い髪を揺らして首を傾げた。
「い、い、いや……ちょっと見たい番組があってな……」
「こんな深夜に? お笑いとか?」
「う、う、うむ……い、いやいやいや……そうではない。お笑いなどには興味ない」
できるだけ声を潜め、高川はだが強く否定した。針越は、彼があまりにも必至なので可笑しくなってしまい、両膝を畳みに付けて腕を組んだ。
「火曜日の深夜三時過ぎ……というと……もしかして……」
「な、なな、なんだ……こ、心当たりがあるというのか……!?」
悪戯っぽく笑みを向ける針越に、高川は身体を引いて額から汗を流した。
「オラムンだぁ!! そーでしょ!! 漆黒のオーラムーン!!」
「う、うぐぅ!!」
指摘が図星だったため、高川は息を呑み頷いてしまった。
「えー!? た、高川くんアニメとか観るの!?」
声を潜めていたため、針越は興奮しながらも掠れがちに疑問を口にした。
「ま、まぁな」
「けどオラムンって、どっちかっていうと女の子向けじゃない」
「は、針越さんは観ているのか?」
「うん。二話までは観たけど。三話目をビデオに録りそびれたから、DVD化されるまで待ってるの」
「そ、そ、そうか……」
「脚本が中々いいと思ったのよ。別にキャラがいいとか、そんなのじゃないから。作画だってイマイチだったし」
その言葉に高川は身を乗り出し、急な態度の変化に針越は目を寄せて口元を歪ませた。
「さ、作画……わ、悪いか……!?」
「う、うん……今期の中では……けどキャストのおかげで人気はあるみたいね……」
『漆黒のオーラムーン』高川典之が現在、山賊プロという作画スタジオにて動画のアルバイトを担当しているアニメ作品である。これまでにオンエアを観る機会がなく、満を持しての視聴計画だったが、よもや針越里美といった意外な人物に作画の悪さを指摘されるとは思わず、彼は狼狽するしかなかった。しかしよくよく考えてみると彼女が観たのは二話までであり、自分の担当カットが登場するのは十八話以降であり、今日が記念するべき初オンエア日である。あまり落ち込む必要がないと思った彼は、咳払いをして針越の肩を叩いた。
「そ、そうか……脚本がいいのか……は、針越さんは目の付け所が違うなぁ」
「ついついね……できれば仕事にしたい……なんて思ってるし」
「そ、そうか……いやいや……今回の芝居も中々台詞がいいし、針越さんなら才能があると思うぞ」
「ほんと!?」
いつも熱心に台本を読み込んでいる高川の意見だけに、針越は胸の中でじわっと広がる喜びを感じていた。
「あはは……掌……分厚いんだ?」
肩に乗せられた掌を少女はそっと触れた。
「き、鍛えているからな」
いかんいかん。こうした踏み込みは誤解を生むだけである。最近少しだけ勘が鋭くなった高川は、慌てて手を引いた。
しかしそれにしても、なぜこの偉丈夫の武道家が腐女子人気ナンバー1と言われている“オラムン”などを観ようとしているのだろう。針越はそれが不思議であり、同時にある事実に気づいた。
「あ、で……そのオラムンだけど、長野じゃ確かオンエアされてなかったよ」
「な、なんですと!?」
「だ、だって関東テレビって全国ネットじゃないし、確かオラムンは北海道、東京、京都、広島、佐賀でしか見られないはずだったけど」
衝撃の事実にがっくりと全身の力が抜けた高川は、深夜まで不摂生をしてしまった現実に落胆と後悔をした。
「だ、大丈夫……? 高川くん……? い、いずれ……DVDも出るから……元気出して」
小さな目を何度も瞬かせ、針越は高川の顔を覗きこんだ。
「す、済まぬ針越さん……気遣い感謝である……し、しかし君はなぜこんな夜更けに?」
「あ、喉が渇いて……鈴あゆが、ジュース冷蔵庫に入れておいたって教えてくれたから」
「鈴木も起きているのか?」
「なーんか、なんとなくね……」
泥のように寝ている男子部員たちと違い、女子部員には異なる世界があるようだ。しかし二階に位置する彼女たちの部屋でいかなる会話が繰り広げられているのか、それを確かめる術も器量も高川にはなく、興味だけ抱いてしまう未熟さがなんとも情けなく、彼は両膝を畳に立て、肩を小刻みに上下させた。
7.
「眠れないのか? まぁ、わからんでもないが」
丸椅子に腰掛けていた白衣姿のゼルギウス・メッセマーは、深夜の来訪者に対して人の悪い笑みを向けた。
「心地よく休みたいだけです……」
「そうか……なら睡眠薬は出すが……」
腰を上げたゼルギウスは棚から錠剤を取り出すと、それを対座するリューティガーに手渡した。
802号室は以前、拾ってきた野良猫を飼育するために使っていた空き部屋だが、つい先ほどからゼルギウスの診療所として機能し始めている。まだシートがかかったままの医療、医用機材が多く、開封されていない段ボール箱があちこちに積み上げられていたが、黒い丸椅子と薬品棚、レントゲン結果を透過するための縦型ボックスが壁に設置された居間はいかにも診察室といった風景であり、薬を受け取ったリューティガーは一変した光景をしばらく見渡した。
一言多く、どうにもとっつきづらい性格であるようだが、陳の用意した絶品の四川料理に目もくれず、この部屋の診療所化に取り組むゼルギウス医師は信用に値する。それが初日におけるリューティガーの評価だった。
「先生はいつ寝るんですか?」
深夜に訪れたにも拘わらず、ゼルギウスは手術台のセッティングをしていた。リューティガーはそんな素朴な疑問を口にし、腰を上げた。
「薄寝の特技は軍医経験者なら誰でも身につけている。いまから一時間ほど横にならせてもらうよ。心配するなって。同盟本部のぼんくら医者より、俺はずっと慣れているから」
やはり一言多い。苦笑いを浮かべたリューティガーはゼルギウスに頭を下げ、802号室からマンションの廊下に出た。
「あれ……エミリア?」
803号室の前、廊下に面した窓枠に、ノースリーブのブラウスにプリーツスカートといった、今朝と変わらぬ服装の少女が寄りかかっていた。声をかけられた彼女は慌てて窓枠から上体を浮かせ、敬礼をした。
「リュ、リューティガー殿!!」
「明日も作戦がある……早く寝ておいたほうがいいと思うよ」
「は、はい……!!」
表情を引き攣らせ、その様子は緊張しているにも程がある。違和感を覚えたリューティガーは、彼女にそっと近づいた。
「功績は僅かでも二度の任務に参加して、生き延びてきているんだろ? もっと落ち着かないと」
「は、はい!!」
両目を閉ざし、頬を紅潮させ、とても落ち着いている様子ではない。彼はすっかり呆れ、腰に両手を当ててため息をついた。
「あ、あ、あの……リューティガー殿……」
「ルディでいいよ」
「は、はい……あの……さっき食事のときに言ってた……個人的感情って……い、いえ……ごめんなさい……!! なんでもありません!!」
出すぎたことを口にした。俯いて両手を膝上で合わせたエミリアの、それが今の気持ちなのだろう。リューティガーは穏やかに微笑むと、窓側の壁に背中をつけ、視線を宙に浮かせた。
「いや……ガイガー先輩の言っていることは正しいよ。僕は確かに個人的な感情である人物を否定している」
「リューティガー殿……」
「その気持ちがどこまで根深くて、いつまで変質しないか……それは僕にもよくわからない……ただ、いびつな任務に取り組むためには、心が荒れてしまうような要素はできるだけ拒絶したい……強くなったり、越えたりなんてのは相応の時間的な余裕がある場合か、さもなければ現実に即していない理想論だ」
「は、はぁ……」
ようやく視線を上げたエミリアを、リューティガーは横目で見た。
「わかる?」
「は、はぁ……なんとなく……い、いえ!!」
少女は両の掌を突き出し、首を激しく左右に振った。
「わ、わかりません!! 実は全然!!」
その態度があまりにも正直に思えたため、リューティガーは口に手を当て、声を殺して笑ってしまった。なにやら懐かしい。年齢にそれほど大きな違いはないが、自分も幼いころこのエミリアの地点にいたような気がする。それからどれほどの距離を進んだのかはわからない。遠くのようでいて、案外数歩しかいってないのかも知れない。頭の後ろを窓につけ、彼は熱帯夜の淀んだ空気を吸い込んだ。
「随分大きくなったネ。餌もモリモリ食べてるヨ」
「そうだな……」
803号室、居間のベランダに丸々とした体躯とひょろ長い長身があった。暗灰色をしたコートの懐からは黒猫が頭だけを出し、久しぶりに触れる外気に目を輝かせていた。
「坊ちゃんはあれからいろいろと苦労しているよ。仕方ないネ。血を分けた兄弟を倒すなど、そもそもまともな任務じゃないからね」
陳はそう言うとベランダの手すりに軽く体重をかけ、猫の瞳を見つめた。
あのとき、真っ暗なコンビニエンス・ストアの中で、若き主は明らかに呆けていた。それはまるで、何かに魅了されている様にも見えた。健太郎は猫の顎を指で擦り、代々木の夜景を眺めた。
「おまけに対策班も大きく動いてきて、こちらの作戦とも重なることが増える……坊ちゃんにとっては気の重いことが増える一方ね。もちろん耐えるしかないけど」
「神崎……まりかか?」
「そ。どう気持ちを処理していいのか悩んでいるよ。学校にいけばその妹もいるし、だからこの夏休みは心を穏やかにして整理するにはちょうどよい機会だったのよ。それが正義決行ビラでしょ?
もうほんと、気が休まる暇がないね」
この状況になってまで、学校に通い続ける理由がどこにあるのだろう。健太郎はそう疑問を抱いたが、あえてそれを口にすることはなかった。考えがあるのかもしれない、わからぬままなんとなくそうしているだけかもしれない。すべてはリューティガーが決めることであり、現在においては「見るに見かねる」という事態だとは思えない。なおも猫の顎を刺激し、青黒き異形の従者は久しぶりとなる祖国の空気をどこか下水くさいと感じていた。
肩透かしを食ったものの、米軍再編協議の警備も本日と同じ規模で行われる決定に変更はなく、またそれは対策班たちにとっても望むべき状況である。
内閣府別館地下に停められたトレーラーはカーゴルームを全て展開し、そこに鎮座している赤い人型“ドレス”の周りでは整備、開発スタッフが明け方になっても作業を続けていた。
「圧力調整はこれでいいです。あとは出撃後に現場にて調整します」
床に設置された検査機器のモニタを確認したまりかは屈めていた上体を起こし、周囲のスタッフにそう告げた。
空調は効いているものの排気熱が地下にはこもっていて、熱気がまりかのTシャツを濡らしていた。彼女は作業ズボンのポケットから手ぬぐいを鮮やかな手つきで引き抜くと、それで顔の汗を拭った。時刻は午前五時。起床したのが二時間前であるから、一時間半にも及ぶ最終調整作業であった。まりかはエレベータホール近くのソファまでやってくると、自販機でスポーツドリンクを購入し、腰を下ろした。
「はい。まりか」
背後からやってきた作業着姿のハリエットに、まりかは頭を上げた。
「珍しいじゃない。なんの作業?」
「品田に頼まれたの。メンテの手が足りないって」
「ハリエットにできたんだ?」
「手伝いぐらいならね。それに品田、きっとわたしを狙ってるのよ。絶対そう」
トレーラーの運転を担当している品田は、堅物の愛妻家で班内でも知られている。ハリエットにしてもそれは承知しているので、つまりは冗談である。まりかはそう理解して呆れ顔になった。
「賢人同盟のエージェント……リューティガーは出てくるかしらね?」
「出てくるだろうし、今日もどこかで待機していたんだと思う」
「まりかはどうして彼のことを調べてたの?」
「妹のクラスメイトだから」昨日の説明では、やはり説得力には欠ける。だから、二度目の質問になったのだろう。まりかはハリエットの空色をした瞳を見つめ、彼女になら打ち明けてしまっていいかと悩んだ。
「賢人同盟の中には……私に恨みを抱いてる人もいる……」
「え……?」
まりかの言葉に、自販機に向かおうとしていたハリエットの足が止まった。
「そもそも……茨博士から賢人同盟はファクトの母体……いずれは日本を狙ってくる組織だって聞いていたから……敵だと思ってた……けど状況はそんな単純じゃないって……理解もしようとしてたのに……」
「茨……ファクトの科学者だった人ね」
「そう……わたしたちに情報や装備を提供してくれた……ファクトの裏切り者……」
「今はどうしているの?」
アイスコーヒーの入った紙コップを自販機から取り出しながら、ハリエットはそう質問した。打ち明けてもいいと思っていたが、意外な方向に話題が流れてしまったようであり、それはそれでいいかとまりかは苦い笑みを浮かべた。
「わからない……鹿妻での決戦のあと……三ヵ月後ぐらいだったかな……いよいよここからのスカウトがきつくなってきたころ、一度相談に行ったの……けど南千住の地下施設はすっかり誰もいなくなってて……そこもそのうち対策班の手で強制捜索の対象になって……」
「行方不明……そうなのね?」
「ええ……こっちでも行方を追ってたけど……もう八年も経ってるし……茨博士は賢人同盟との戦いに備えるって言ってたのに……なんか……どうなんだろうって……」
それがこの対策班の一員となってからの、まりかの正直な思いだった。当時において茨博士の言葉は唯一、敵の組織とその背景を示唆する手がかりではあったが、現在の彼女はより高度な情報と実情を知り得ている。たとえ戦っていたとはいえ、十六歳の少女が理解していた世界と、社会を知った現在とでは拠り所とするべきそのものが異なりつつあった。
すっかり話題が逸れてしまった。けど、確かに今はリューティガーのことを考えたくない。近いうちに再び向き合うことになるだろう。そのとき、彼は相変わらずの憎悪を向けてくるのだろうか。来るならこいという覚悟はしたばかりだったが、それでも憂鬱である事実に変わりはない。
「ねぇハリエット」
「なに、まりか?」
ハリエットはまりかの隣に腰を下ろし、ソファの硬さに右眉を上げた。
「いっつもわたしに彼氏がいるか尋ねてくるけど、そーゆーあなたはどーなのよ?」
「わたし? いるよ」
あまりにも呆気ない返事に、まりかは拍子抜けして紙コップの中身をこぼしそうになった。
「そ、そうなんだ?」
「ボーイフレンドならCIAにも外にもいるよ。なんならまりかにも紹介してあげよーか? バンデラス似はいないけど」
意外な申し出にまりかはすっかり困惑し、だが気分転換とはこうでなければと「ブラピ似はいる!?」そう尋ね、笑ってみた。
軽井沢の朝は真夏でも冷たい空気をロッジのベランダに運び、そこで佇む吉見英理子はいつもと違い、後ろに結んでいない長い髪をそっと撫で、大きく息を吸った。
科学研究会の合宿も今日と明日を残すだけであり、結局彼は不参加だった。“吉見英理子、髪を結んでいないバージョン”だって見て欲しい気もするし、お気に入りのチェックのシャツも似合っているかどうか確かめてもらいたくもあり、そんな少女じみた自分らしくもない期待をしていたのは事実である。真面目な研究合宿だというのに情けないが、自分に嘘などつけはしない。
だいたい、なーんか世界が違うのよねぇ……ルディはまるで、王子様だもんね……
諦めにも近い、それも少女の本音である。今回の合宿に来てくれれば、ひょっとしてもっと近づけるイベントがあったかも知れない。けど、そもそも違うんだ。きっかけだって強引だったし、研究会で持論を述べている際も、なにやら独り言を楽しんでいるようにも思える。それに友人の椿梢(つばき
こずえ)のように、誰もが認める可愛らしく素直な子であればともかく、超常現象オタクで屈折した地味なわたしと彼とでは、同じ写真に納まることすら憚るような気さえしてくる。
考えたところではじまらない。今日は自分が研究成果を発表する番であり、その準備に取り掛からなければならない。少女は顎をくいっと上げ、黒髪をなびかせながらロッジの中へと戻った。
8.
ママへ
はるみだよ。
清南寺は去年と同じでとても涼しくって過ごしやすいの。東京の猛暑がほんとに嘘みたい。和尚さんや家族のみなさんも変わりなく、お土産のゴマ玉子をとても喜んでたよ。お父さんにありがとうって言っておいてね。
今回は島守も遅れずにきたんだけど、後輩の阿久津って子がホームを間違えて大変だったの。去年みたいに全部バスだったらよかったのにね。
初日はさっそく稽古をしたんだ。去年は初めての合宿でわからないことばっかりだったけど、今年は後輩の面倒もみないといけないから、しっかりしないとって思ってたのに、鈴木って子が温泉でのぼせちゃって大騒ぎ。結局、春里っていう後輩の子に介抱してもらったんだけど、先輩の面目丸つぶれってこーゆーことなのね。なんかわたしまで恥ずかしくなっちゃった。
東京は大丈夫なのかな? もしもなにかあったらおねえちゃんに連絡するといいと思う。財務室でも政府の関係だから、きっといいと思う。ほんと、気をつけて。玄関壊したみたいな奴、きてもおかしくないと思う。ほんと。
国会議事堂の様子を辻村のニュースで見たけど、部員のみんなも関心あるみたい。だから平田先輩が、今日の稽古は一切テレビもラジオも禁止するってさっき言い出したの。仕方ないけど気になるな。ほんと、ママも気をつけてください。
このメールは平田先輩のパソコンから送っています。返事はここにしてもOKだからね。
平田から借りたノートパソコンのキーを叩き終えたはるみは、ブラウザ内の送信ボタンをクリックした。
お堂を抜ける朝の風は去年と何ら変わりがない。うっすらと埃をかぶった仏像もそうだし、やってきた平田先輩の仏頂面も大きな違いはない。
「送った?」
「はい……ありがとうございます」
「朝飯の準備か……島守を起こすかどっちかを手伝ってくれ」
先輩の言葉に、Tシャツ姿のはるみは目を見開いて首を傾げた。
「あいつ、まだ寝てるんだ。夜更かししてたわけでもないのに。ガンちゃんが何度揺さぶってもぐだぐだ言って布団から出ようとしないし……」
「あ、はい……けど、どうしてわたしが?」
「い、いや……誰でも別にいいんだが……」
女生徒で、それもなにかと関係のある神崎はるみであれば、あのだらしない後輩も刺激を受けて目が覚めるかもしれない。なんとなく深く考えずにそう判断していた平田だったが、あまりにも無神経な提案だったかと、戸惑うはるみを見て気がついた。
「やります。あいつ……二年生って自覚あんのかしら……」
平田にノートパソコンを返したはるみは口先を尖らせ、腕を組んでお堂から廊下へと向かった。
米軍再編協議など、自分にはあまり縁のない出来事だと思っていた。しかしそこが戦いの場となるなら、呼び出され犬頭の化け物たちと戦うことになるかもしれない。大鱒(だいます)商事本社ビル倒壊現場では力を合わせて怪我人を救助したというのに、一転して敵対するとは先が見えないことこの上ない。だから緊張もするし、床に就いても寝つけないまま日の出を迎えてしまった遼だった。
ここのところ、どうにも寝付きが悪くその反面、一度寝ると中々起きることができない悪循環に陥っている。何度も身体を揺さぶられたような感覚はあったが、それは揺りかごのような心地よさであり、「島守くん!!
もう朝だよ!! 起きておくれよ!!」そんな声は意識まで届くことはなかった。
再び訪れた肩を掴む感覚は、細く、そして強い。ついさきほどまでの太く優しいそれとは対照的であるが、つい最近これと同じ強さを肩はもちろん背中に、いたる箇所に感じた覚えがある。
それは遼にとって、激しく、そして甘く切ない身体の記憶だった。
「こら……」
そうつぶやきながら、遼は肩を掴む感覚を左手で抱き寄せてみた。柔らかさが掌に感じられ、嗅覚を石鹸の香りが刺激した。悪くない。やっぱりそうだ。これは好きだ。
「ちょ……な、なんなのよ、こらぁ!!」
少女の拒絶が鼓膜を震動させたが、それよりも密着する感触の心地よさと充実感が覚醒していない意識を満たし、だから遼は抱き寄せた彼女を包み込むのを止めることはなかった。
「理佳……」
その名を口にした直後、抱きかかえていた応えは突如として失われ、暖かさだけが空間に残った。そして次に訪れたのは、背中を痛打する衝撃である。
「ばかぁ!! 死んじゃえ!!」
打撃が何度も背中を襲い、その度に遼は呻き声を漏らし意識は急激に覚醒した。一体何事が置きたのだ。まさか敵の襲撃か。朦朧としながら上体を起こした彼の目の端に、襖を開けて廊下へ走り去る少女の後姿が映った。
「な、なに……なんなの……? 誰? 神崎?」
合宿。起床。そんな言葉が遼の頭を駆け巡り、彼はなんとなく状況を把握しつつあった。
「島守!! 貴様ァ!!」
胸倉を掴んできたのは高川である。眉は吊りあがり、目には殺気が込められていて、その背後で坊主頭を掻く岩倉は困り果てている様子である。なるほど、そういうことか。蜷河理佳の柔らかさを間近に感じていたような気がしたが、つまりはそういうことか。だからこいつはこんなにも怒っている。遼は全てを納得し、眠そうな目を高川に向けた。
「悪りぃ高川……なんか俺……人違いしてたみたい」
「人違いだとぉ……!?」
「うん……理佳ちゃん……蜷河理佳と勘違いしてた……いま起こしに来てくれたの……神崎だろ?」
「に、蜷河さんだと……き、貴様……まだ寝ぼけておるのかぁ!?」
「あ……知らない……? 俺……理佳ちゃんと付き合ってるって……?」
「よ、よくは知らんぞ、俺は!? ご、ごまかしおって!! はるみんをムギューして!! その腕をへし折ってくれようかぁ!!」
「か、勘弁……ご、ごめん……あ、謝るから……寝起きっからハイテンションは勘弁……」
遼はそう言いながらも、これまでの付き合いにも拘わらず、高川に自分と理佳の関係がほとんど伝わっていなかった現実が妙に可笑しく、彼の怒気も伝わらないまま笑ってしまい、それで意識が完全に覚醒した。
「おとわ……明日になりゃ、まわりの目だって変わる……新撰組を馬鹿にしてた連中だって、一目を置くしかねぇってな……そうなりゃ誰にも笑わせたりさせねぇ……!!」
「斬ることで名を上げる……どこまでも阿呆だね……あんたらは……」
「それのどこが悪い!? あぁ!! コケにされねぇために斬るさ!! 上がりなんてありゃしねぇ!! どこまででも斬ってやる!! 俺たちの回りで笑う連中が消えるまでな!!」
「へぇそうかい!! ならあたしゃ、笑い続けるね!! そんな愚かでしようもないあんたを!! あーははははは!! ひーひひひひひひ!!
さぁどーする!! あたしを斬るかい!!」
お堂のちょうど中央、仏像を背にしたはるみは、抱き寄せていた遼を突き飛ばし、腰に手を当てた。
「笑うなぁ!! やめろ、おとわ!! 笑うんじゃねぇ!!」
「やだね!! 愚か者はとことん笑ってやる!! コケにされるのが嫌なら、あたしを斬ればいい!!」
「なんでそんな意地悪をする!! やめてくれ、おとわ!!」
「斬らないのかい!! そーゆーのを甘ちゃんって言うんだ!! なにが成り上がるだい!! そんなことじゃ、いつまで経っても見廻組の露払いしかできないね!!」
腰を上げた遼は、床に額を思いきり打ちつけ、鈍い衝撃音がお堂に響いた。
「ほほう……ますますかな……」
見学に来た和尚が、稽古を見守る娘の背中に声をかけた。
「まぁね……去年よか、全然上手くなってる……」
切り揃えた前髪を摘み、福岡章江が父にそう返事をし、彼女の傍らにいた鈴木歩と春里繭花が軽く会釈をした。
「入り方が全然違うな……この一年でよほど芝居好きにでもなったか?」
「どうだろ……?」
はぐらかすような返事には余裕さえ窺えたため、父は娘の成長も同時に感じ、再び稽古に視線を移した。
「島守先輩、さっき神崎先輩をハグしたんですって」
縁なしの丸眼鏡をかけ直し、春里がそう言った。鈴木は野暮ったい化粧顔を歪め「マジ?」と聞き返した。
「寝坊してた島守先輩を神崎先輩が起こしに行ったら、先輩寝ぼけてて、付き合ってる彼女と間違えたんですって。でもって神崎火山が大噴火。周辺住民も避難……」
「なによそれー!!」鈴木は引き攣った笑顔で淡々とした説明の春里にそう返した。
合宿らしい微笑ましいトラブルである。福岡は大した興味もなく、父と並んで稽古を見守り続けていた。
「やめろやめろやめろやめろ!! 斬れるわきゃねーだろ!! やめろやめろやめろ!!」
何度も床に頭を叩きつけ、遼は叫んだ。はるみはそっと両手を広げ、そんな彼の背中に抱きついた。
「ごめん……歳さん……ごめん……」
つい先ほどは、蹴り上げた背中だった。「理佳」そう勘違いされて心底腹も立ったが、暴力で返したということは自分も落ち込んではいないと、それが不思議でならないはるみだった。けどいまならそれもわかる。この広い背中は抱きついていて心地いいし、彼が寝ぼけていたとはいえ、自分の感触を愛する彼女と錯覚したのは決して悪い事実ではない。去年の合宿はどうにも落ち込む入り口に立っていたような感覚があり、今年の状況はもっと最悪だったが、気分だけは前向きでいられる。懐に引きずりこまれ、抱き寄せられて驚きもしたが、あのまま時間がとろんとしたまま流れ、間近に吐息を感じながらいちゃいちゃしていたいと、一瞬でもそう思ってしまったのは本当であるし、それを否定するほどもう子供ではない。
そう……なんだ……やっぱり……わたしは……
彼の体温を胸で感じながら、少女は満たされる感覚に悦びを膨らませていた。
「ごめんね……歳さん……もう……いわないや……だから……ごめんね……」
遼は背中から少女の想いを感じていた。それは彼にとって重く、受け止めきれないほど甘く切ない感情だった。
神崎……さっきは……悪かった……
ばか……お芝居の最中でしょ……
けどさ……マジ……ごめん……
いいわよ、別に……ほんと……
背中を抱くはるみと、それに振り返る目線で応える遼。ラブシーンのクライマックスはジャージにTシャツ姿のあくまでも稽古ではあったものの、その様子を見守る部員たちにとっては立ち入ることが困難と思える、そんな真剣さを醸し出していた。だからこそ高川典之はとても耐え切れず、ジャージの上着を床から拾い上げた。
「阿久津!! 本沢さん!! 買い出しに出るぞ!!」
唐突な呼び出しに、一年生の阿久津と二年生の本沢亜樹(もとさわ あき)は戸惑い、お堂から出て行く高川に慌ててついていった。
本日の買い出しは高川をはじめとした阿久津、本沢の三名であり、三十分近い時間をかけ、彼らは麓の商店街までやってきて、昼食の焼きソバや、夕飯の焼き魚の材料を買い込んだ。
「しかし焼きソバぐらい、事前に買っておけばよかったのに。ねぇ先輩」
帰りの山道を登りながら、買い物袋を抱えた長身の阿久津がそうぼやいたが、先頭をいく高川は何度も頭を振った。
「そういうのを堕落した考えというのだ。どのみち夕飯の魚は買わねばならん。であれば地元商店街やスーパーに利益を還元し、来年の合宿でも店が潰れぬように配慮するのが我々外様の礼儀というものではないのか?
俺はそう思うが」
「は、はぁ……まぁそうっスねぇ……」
二人の男子生徒のやりとりを見ながら、小太りの本沢は坂道と鳴り止まぬ蝉の音にうんざりとし、入道雲を見上げた。
「そ、それにしても……神崎先輩と島守先輩って……付き合ってるんスかね……」
阿久津がぽつりとそう漏らした直後、高川は足を止め振り返った。
「ばかなことをほざくな、阿久津!! アレは役の上での演技というものだ!! 」
「あ、は、はぁ……け、けどですね……そ、それだけって感じじゃないじゃないですかぁ!! そりゃ、僕だって嫌ですよ!!」
「な、なに!? なんでお前が嫌なのだ!?」
買い物袋を抱えたまま詰め寄ってきた高川に、阿久津は怯んだものの視線を逸らすことはなかった。
「だ、だって俺……神崎先輩のファンっスから!!」
「ファン!? ファン!? そ、そーか……なるほど……ファンか……はるみんの……な、なるほど……」
よもや密かに好意を抱いている。などと阿久津が言い出したら、どうしたかわからない。高川は後輩から身体を離し、口元を歪めた。
バーカ……ファンって……好きってことに決まってるじゃない……なーに安心してんのよ、高川……それになによ“はるみん”って……?
すっかり白けていた手ぶらの本沢は、コントを繰り広げる二人の長身にあきれ返っていた。
誰からも口を開くことなく、きまずい無言のまま、高川たち三人は清南寺を目指して砂利の浮く山道を登っていた。途中、たった一台のワゴン車とすれ違った以外は車もなく、蝉の音だけが滝のように空間を埋め尽くしているようだった。
清南寺近く、山道の脇に生い茂る草むらの中に、一人の老人がしゃがみ込んでいた。石の上にでも座っているのか、老人は微動だにせずやってきた演劇部員たちを見据え、その姿が白い胴衣に藍の袴だったため、高川はただならぬ興味を抱いた。立ち止まった彼は、本沢に自分の荷物を渡し、「すまんが……先に戻っていてくれ……」と告げた。
「どうしたの、高川くん……あの人……知り合い?」
「いや……だがどう見てもただの農民には見えぬ……もし地元の武道家であれば、それはそれで興味深い……すまんがいいかな?」
「わ、わかった……阿久津くん、行きましょう」
本沢は阿久津を連れ、小さく見える清南寺を目指して立ち去っていった。高川はシャツの裾をジャージに入れ直すと、ゆっくりと草むらへ分け入った。
「ご老人……見たところ武の道に生きる方とお見受けいたしましたが……」
やってきた偉丈夫を、撫肩で白髪の老人はゆっくりと見上げた。
「いかにもその通り……」
「私は高川と申す旅の者……柔術完命流を学んでおります……よろしければご老人の身につけている武術がなんであるのか……教えていただけませぬか?」
「知って、どうするつもりだ?」
老人の口調があまりにも素っ気なかったため高川は戸惑い、何度も瞬きした。
「こ、ここで出会ったのもなにかの縁……同じく武の道を進む者として……単純に興味が湧いた次第なのですが……失礼でありましたでしょうか?
ならばお詫びしたい……」
「ふ、ふふ……」
膝に手を当てたまま老人が押し殺した笑いを漏らしたため、高川はそれをひどく意外に感じた。
「いや……今時の若者にしては珍しく礼儀のできた方だ……さすがは武道を志す者……」
「あ、あぁ……い、いえ……このぐらいは当然であります。先人に対する礼を欠いてはならんと、それが師範の教えでございますから!!」
「もったいないな……」
「は?」
「もったいない……完命流ごときに……ぬしのような者がいるとは……そう思ったまでのこと……」
あからさまな侮辱である。高川は小さく身構え、この事態がやはり異常であるとあらためて実感した。そう、長野の山奥に胴衣と袴の老人がぽつりといる。とてもではないが非日常の光景である。すると老人は立ち上がり、背にしていた林から、黒髪の少女が姿を現した。
「完命流……その名を前にし、こうして足の裏を地に着けたままでいられる俺は、つくづく歳をとったということだな……だが……一歩も遅れはとらん……若木よ……よく見ておけ……これが高川典之だ……」
祖父に促された孫娘は、吊りあがった目で高川を見据えた。
「何奴……老人……敵ということか……!?」
「当然……俺は篠崎十四郎……FOTより雇われし者……お前たちの命を貰い受けに来た……」
「篠崎」「FOT」その二つの名前が老人の口から出てきたことに、高川は激しく動揺した。
「ま、まてよ……篠崎……だと……ならば……」
「御免……!!」
急激な間合いの接近であり、それを認識した直後、老体は視界から姿を消し、高川の逞しい身体が地面に投げ出された。重心を一瞬にして崩された。空に流れる入道雲は仰向けに倒された証しであり、電光石火の一撃に彼は心臓の鼓動を早くして上体を起こした。
だが草むらにも林にも、老人と少女の姿はどこにもなかった。まさかこうも簡単に一本を取られるとは、高川は顔を歪ませ、地面を叩いて言葉にならぬ叫び声を上げた。
「なぜあれ以上仕掛けなかったのです? 抹殺の好機と見えましたが?」
木漏れ日の中を足早に進みながら、若木が十四郎に尋ねた。
「実力を測るため、殺気を消した突破だった……篠崎流は完命流とは違う……あのように邪道な崩しから勝利しても意味などない」
「な、なるほど……」
「しかしこれでわかった……なんという悦びか……!! 高川典之……奴は強い……戦場柔術の才があるとみた……あの受け身……腰の逃がし方……よくぞ咄嗟にあそこまで……!!」
「たった一度の崩しで……そこまでわかったのですか!?」
「俺もかつては学んだ完命流だからこそ、わかるのだ……あやつは数十年に一度の逸材……獣人を相手に生き延びてきたのも納得がいく……東堂かなめほどではないが……いや……不思議な力がないことを差し引けば、戦場においては奴が勝るかも知れん……これから場数を踏めばの話だがな……」
まるで弟子の評価をしているようだ。若木は並んで歩く十四郎があまりにも身震いして喋っているのに違和感を覚えた。
「して……これからどうなさいます?」
「正面からいくさ……堂々と……篠崎流の正しさを証明する!! 逸材は惜しいが、邪道の完命流を学んだ不幸を思い知らせる他にない!!」
「わかりましたお爺様!!」
杞憂である。祖父に迷いなど微塵もない。若木は安心したが、十四郎の愚直さが命取りとなるまでは予想できず、それが彼女のこれまでだった。
午後の稽古まではまだ三十分ほどある。昼食の焼きソバをお堂で食べ終えた高川は、遼と岩倉を人気がない本堂の裏手に呼び出した。
「FOTに雇われた武道家か……」
「うむ……老人と少女の二人であった……祖父と孫だ……」
「ル、ルディに知らせたほうがいいかな……」
「いや……」
木に寄りかかっていた遼は、岩倉の言葉を打ち消すと視線を地面に落とし、下唇を突き出した。
「今頃あいつは米軍再編協議の警戒中でそれどころじゃねぇ……場合によっちゃ俺たち仁愛組にだってお呼びがかかる……」
「な、ならどうするのだい?」
不安になる岩倉に首を傾けた遼は、真剣な眼差しの高川を見上げた。
「その篠崎って武道家は……どうするって?」
「命を貰い受けると言っていた以上、もう一度襲撃があると見て間違いはない……合宿中だというのに……どうするのだ、島守!?」
「強いのか? そいつらは?」
「一瞬で崩された。油断はしていなかったのだ……それに篠崎という名にも聞き覚えがある……たしかかつて完命流の高みを目指し、途中で道を違えた篠崎流という流派があると、楢井師範はおっしゃられていた」
「分派ってわけか……完命流の……」
「うむ……より邪道に落ちたとも聞いている……用心すべき敵だ……」
高川の言葉を聞いた遼は腕を組み、じっと考え込んだ。高川の言葉を額面通り受け入れれば、新しい敵は好機に止めも刺さない間抜けということになる。遊んでいるつもりなのか。武道を解さない遼にとって、篠崎十四郎の愚直さは理解できず、対応に困るしかなかった。
「けど、どうすることもできないんでしょ? 出方を窺うしかしかないんじゃないの?」
その言葉に、三人は一斉に振り返った。Tシャツ姿の神崎はるみは腰に左手を当て、右の人差し指を立て、苦々しく怒ったような表情だった。
「ああ……こっちから探し出すのはまず無理……というか、敵の思う壺だと思うな……」
遼があまりにも呆気なく意見に同調したため、はるみは戸惑い、胸に手を当てた。そこには彼の背中の感触がまだ残っている。だけどいまはそれどころじゃない。彼女は頭を何度か振って、遼の隣まで歩いた。
「殺し屋って感じじゃないんだよね。高川くん」
「うむ……あれはまさしく武道家……崩しが決まった直後に追撃がなかったことを考えても……万全の態勢で再戦を挑んでくると考えてよかろう……もっとも……これは俺の希望的観測というやつだが……」
「それに乗っちまおう……ルディからの呼び出しがやっぱり気になるし……一応用心はする……いいね、ガンちゃん」
「う、うん……」
岩倉はまだ不安なようであり、それは無理もないと遼は思った。
「去年もさ……前回の合宿でもFOTの奴が来たんだ……」
その言葉に最も驚いたのは、はるみである。
「な、なにそれ……?」
「ほら……刑事を名乗ってた天然パーマの藍田っていただろ……」
「天然……あ……あの人!? お、覚えてる!! あ、え……ま、まさか……そうなの!?」
はるみは境内を眺めながら記憶を呼び覚ました。そう、あの門の傍で自分と遼、そして天然パーマのもじゃもじゃ頭が向き合っていた。遼はなぜか自分をあの男に押し付け、男は狼狽して立ち去っていったが、それはつまりそういうことなのか。接触式読心についてはよく理解していたはるみは、一年前の出来事がようやくなんであったのか理解し、思わず遼の手を掴んだ。
「あの時も皆に気づかれずに追い払った……今回は……そう呑気な展開にゃならないだろうけど……事態が動くのを待とう……四人で覚悟できてるってことは、警戒だってずっと……」
「うむ……一緒に戦いましょうはるみさん!!」
高川は遼の手を掴んでいたはるみのそれを奪うようなかたちで握り、何度も頷いた。
「う、うん……ちょうどルディもいないしね……」
はるみがこの知られざる戦いにそれとなく参加しているという事実を、リューティガーに対しては絶対に秘密にしていなければならない。高川は岩倉からも遼からもそう聞いていたが、実のところ理由までは知らされていなかった。聞けば長い話になるのだろうし、できれば二人っきりで相談に乗れれば一番である。彼ははるみの手を離し、「こ、好都合というわけだな」と、なんとなく言葉を合わせてしまった自分を情けないと感じた。
9.
麻布台飯倉公館周辺は昨日の議事堂と同様、日の出前から交通規制がなされ、警官隊と自衛隊が警備する物々しい風景を現出させていた。外苑通りは封鎖され、近所にある麻布小学校グラウンドには陸上自衛隊のトラックが十台ほど停められ、公館すぐとなりの郵政公社飯倉分館はその業務を臨時停止し、警官隊の備える待機所として利用されていた。
報道規制についても昨日と変わらず、もし接写した映像でも公開すればその報道機関は政府より取り潰しに近い措置を受けることになると、その日の早朝になっても何度目かになる警告が出されるほどだった。しかし霞ヶ関と違い、商業地域と住宅街に近いこの麻布台においては、警戒をかいくぐって取材する穴場はいくらでもあり、関東テレビの北川ディレクターも、その日の朝から取材クルーを連れ公館対面にあるマンションのとある一室に待機していた。
もちろん、このマンションは特に警備の目が厳しく、昨晩も警官が何度も立ち寄り、取材などには一切協力しないように警告をされていた。しかし国家の警告よりも、現金に傾くのが一般市民の偽らざる本音である。北川はもう数週間も前からこの五階のとある住人と交渉を重ねていたし、取材場所提供料として自分のボーナスよりずっと高い謝礼を局の制作費から振り込み、この日に備えていた。若いスタッフなどはそうまでしていい画を撮ったとしても、それを報じれば罰を受けるのだから無駄ではないかと愚痴をこぼしたが、北川は「ばか野郎!!
撮り逃した画は二度と手に入らない!! そぐに使えはしなくとも、これから世の中がどう変わるかわからねぇんだ!! 撮れるものは撮る!!
それが報道の基本だろーが!!」と怒鳴りつけた。「世の中がどう変わるかわからねぇ」自分でも随分と政府を信用していない不穏当な発言だと思う。だがカーテン越しにみた飯倉公館周辺を警備する警官や自衛隊員を眺めても、どうにも犬頭をした異形の軍団に彼らが対抗できるとは思いがたく、それを正直に認めていかなければ取材する者として市民との感覚にズレが生じると感じていた。
規制するならすりゃあいいのさ……だけどいずれ無駄になる……これが当たり前になっちまえばな……
それを自分は望んでいる。北川は白い長髪の青年を思い出し、自分はなにかに酔っているのかも知れない。そう自覚して住民の持ってきてくれたコーヒーカップを受け取った。
「警戒地域のすぐ向かいの歩道側? なら放っておけ!! というより無視するんだ!!」
飯倉公館裏口に停車していた大型トレーラーのカーゴルーム内、その壁一面に設置された端末のマイクに向かって、ワイシャツ姿の森村が声を荒らげた。
「どうした森村?」
珍しくトレーラーに同乗していた柴田が、マイクを切る森村にそう尋ねた。
「また音羽のバカがアジってるらしい……今度はロアビルの角……ふざけてやがる……」
普段は硬い口調の森村なので、よほど苛ついているということなのだろう。柴田にしてもその気持ちはよく理解できる。市民を守るために戦っているというのに、FOTを肯定する動きは着実にその勢力を増そうとしている。その急先鋒が左翼団体の音羽会議であり、昨日に引き続き緊張する警官隊や自衛隊に対してメガフォンを向けてアジっているというのなら、頭の一つもポカリと殴ってやりたいのは柴田にしても同様だった。
関名嘉篤の右手にはメガフォンが握られ、これについては昨日と同様であるが、その左手の角材は異なる点であり、彼の周囲で手をつないで輪を作る音羽会議の面々の腰にも、黒い警棒と催涙スプレーがぶら提げられていた。
随分と重い。腰に違和感を覚えながら、タオルとサングラスで覆面をした比留間圭治(ひるま
けいじ)は緊張していた。左手に高橋知恵の薄い掌が汗ばんでいるのを感じていたから、さきほどから興奮し続けたままであり、自分たちへ向けられたテレビカメラに大きくなった股間を映されては大恥だと、彼は時々腰をくねられて奇怪な仕草をマスコミに提供していた。
午後の会議開始まではまだ三時間ほどある。だからこそこの空白の時間は自分たちにとってマスコミにアピールできる好機である。関名嘉議長はそう言っていたし、向けられているテレビカメラの量を見てもそれが間違いでないことはよくわかる。比留間は猛暑の熱気に汗だくとなりながらも、今日は忘れえぬ夏休みの一日になるとのぼせ上がっていた。
緊急出撃となれば、何名もの整備員がドレスのロックと機能項目を再確認し、動力の始動と出撃ルートの確保のため一気に動き始める。だからこそ装着者である神崎まりかは、その重装甲を身にまとったままカーゴルームに待機していなければならなかったし、全身にびっしょりと汗かきながら、午前十時に装着して以来三時間が経過した現在においても愚痴ひとつこぼすことなく耐え続けていた。
かつての仲間、東堂かなめのように予知能力でもあれば、今日の決行もある程度は知ることができたかも知れない。金本あきらがいればもっと涼しい場所で待機し、事が起きたのと同時に跳ばしてもらえれば、苦労も少なく万全のコンディションで戦えたかも知れない。だが失った者は還ってこない。汗を流し待ち続ける、これが現実である。
周囲で機器のチェックをしながら、襲撃情報に神経を張り巡らせる仲間たちがいる。この狭いカーゴルームが自分をとりまく今であるし、それを受け入れなければならないとまりかは覚悟していた。
いくら最強の念動力を持っていても、その「手」を敵の中枢に使うためには相応の目と足が必要である。ましてや平和が取り戻された現在、再び瓦礫を増やすような戦い方は決してできない。様々な足枷が現在の彼女を重くしていたが、それを乗り越えるためにも赤い人型を纏うしかないまりかだった。
関東テレビの北川たちテレビクルーが陣取る飯倉公館南側とはちょうど反対に位置する北側、一際高い高層マンションの屋上給水施設の傍に、リューティガーをはじめとした五人の姿があった。ここは政府の警戒範囲の外であり、距離だけではなく途中に障害物もあったため、会談場所である飯倉公館を見渡すことは不可能だったが、全てを見通す紺色の瞳を遮ることはなかった。
「会談まであと十五分……米国側の要人はすでに公館に到着しています……皆さん……いつでも戦える準備を……」
若き指揮官の念押しに、四人の部下は頷き返した。
「獣人……なん……ですよね……」
昨日とは異なり、作戦時に着用する紺色の戦闘服姿のエミリアが、傍らで長い爪を擦る健太郎にそうつぶやいた。
「はじめてか……?」
「いえ……前回の任務はバルチの調査でしたから……三体ほど仕留めました」
「そうか……」
ならば心配はない。最初のハードルを乗り越えているのなら、その反復で大抵の難局には対処できるはずだ。獣人と同様、人外の力を身につけさせられた健太郎はそれをよく知っていたが、無口な彼は少女に告げることなくチューリップ帽を目深に被り直した。
在日米軍の再編問題は、三年ほどまえから議論が起こっていた日米両国間における懸案事項となっていた。冷戦構造の消滅と、中国の軍事的拡大による脅威化という二つの問題が仮想敵の変化を生じさせ、それに伴い軍備の再編を余儀なくされているのが現状である。
再編経費の負担配分が最大の焦点だったが、それ以外の問題点として配備変更による基地周辺住民の心理的な動揺が懸念されていた。
老人ホームへの輸送機墜落、料亭「いなば」へのヘリ墜落、そして海兵隊整備兵による天皇暗殺未遂事件。戦後六十年における在日米軍の歴史において、この二〇〇五年は前代未聞の不祥事が続発しており、各基地の地元では反米軍デモが散発的に発生し、マスコミの行った世論調査でも、八割近くが在日米軍の削減に賛成であるとの結果が出されていた。
中国の軍事的脅威に対し、不祥事如きで削減を要望するなど民意が低すぎる。一部評論家やネットなどではそうした現実主義に基づく反論もあったが、中国が現在緊迫しているパキスタン情勢により大陸での勢力拡大を脅かされている以上、彼らの目が日本に向く可能性は低いという分析もあり、なによりも皇室に対する自爆テロは国粋主義者の中でも意見の相違を生んでしまっていた。中でも最保守とされる一部民族主義者は米国人の国内滞在すら許さぬ。再編ではなく撤兵。その対案として純潔民族による国軍を組織するべきである。などといった極論を展開し、マスコミに露出する論客の姿もあった。
警官隊と自衛隊が警備する異常事態のなか、次官級協議がスタートしたのは午後一時ちょうどのことであり、同時に機動隊員の一人が東京タワーの向こうから現れる二十もの影を発見した。
正義忠犬隊現る。その一方は対策班のトレーラーにも届けられ、郵政公社分館から撮影された画像がモニタに転送され、森村と柴田はそれを食い入るように見入っていた。
「正面から来るだと……!?」
「なにが狙いだ……!?」
斬首が目的ならば、会談開始前か終了後、要人が公館を出るタイミングに行うのが効率的である。なぜこのように、もっとも標的の守りが堅い状況に登場するのか。二人の捜査官にとってそれが意外だった。
「神崎君!!」
森村はカーゴルームに鎮座する赤い人型へ振り向いたが、その左アームは左右にゆっくりと振られた。
「狙撃班に任せましょう……」
スピーカー越しに聞こえてきた声に、森村は顎を引いた。
「そ、そうなのか?」
「たぶん……陽動です……」
「忠犬隊だぞ!? それが陽動?」
柴田の怒鳴り声にも、だが人型は動じず静かなままだった。
「だから……こそです……」
経験からくる確信であった。それに周辺を警備する警官や自衛隊員はいずれも精鋭揃いであり、二十体ほどの獣人であれば接近を防ぐことはできるだろう。そう判断したうえでなおも様子を見るべきだとまりかは主張し、森村と柴田も反論ができず従うしかなかった。彼女は自分たちなどより、ああいった相手との戦いを積んできている。その点については素直に認めている二人だった。
「見え透いた陽動だ……ならば……本隊はどこだ……!?」
マンションの屋上で目を血走らせるリューティガーは、飛来した忠犬隊から注意を逸らし、やがてある一点に集中した。
「いた!! 地下水道に多数の獣人!! みんないくぞ!!」
彼は四人の部下に次々と触れ、自分も空間へと跳んだ。
「正義忠犬隊の諸君!! これ以上は進入禁止地帯であり、そもそも君たちはわが国の領空を侵犯している。速やかに投降せよ!!
さもなければ武力鎮圧も辞さない!!」
警備責任者である機動隊隊長が、外苑通り上空で翼をはばたかせ腕を組む我犬に向かってメガフォンを通じて叫んだ。我犬は背後にいる十九名の同胞に指で指示を出し、彼らはマンションや大使館の陰など四方に散開した。
「正義忠犬隊、隊長!! 我犬である!! 我々は欺瞞に満ちた再編協議を打ち壊すべく参上した!!」
通りに響き渡るほど豊かな声量で、犬頭がそう宣言した。随所に配置された狙撃隊のスコープが彼の精悍なる黒い頭部を捉え、彼らはインカムからの発射指令に聴覚を集中させていた。すると交通封鎖されている外苑通り車道に、突如として白い長髪が現れた。
誰も入れないよう、警備は厳重だったはずである。それをあざ笑うかのように、美しき青年は黒いスーツのポケットに片手を突っ込み、凛然と胸を張って左目を閉ざしていた。
視線と銃口と、隠されたカメラが青年に集中すると、彼は左手に持っていた拡声器を上げた。
「私は真実の人(トゥルーマン)!!
本日は正義の決行に来た!! 警備の諸君、君たちもこの国を守護する者であれば、米国人が我々日本人を本気で守る気がないと理解しているはずだ!!
墜落現場の捜査結果を隠蔽し、気の狂った整備兵の行状通達もせず、結局彼らは自国の利益を守らんがために駐留しているに過ぎん!! 祖国を守るのは誰だ!?
本当の脅威は誰だ!? 目を覚ませ日本人!! この真実の人がついているぞ!!」
笛の甲高い音が轟いた直後、機動隊が一斉に外苑通りの真実の人へ殺到した。統制された乱れぬ検挙行動だったが、それだけに青年にとっては予測しやすく、機動隊員たちは確かな手ごたえもなく突風に頬を撫でられる結果となった。
そのころ、リューティガーたち五人は真っ暗な下水道に出現していた。なんという異臭だろう。エミリアと陳は顔を顰め、リューティガーもたまらず口と鼻を手で押さえた。
「あれか!!」
叫んだのと同時に、ガイガーは両手に持った機関銃の引き金に力を込めた。乾いた銃声がトンネル状の下水道に鳴り響き、薬莢が水溜まりに跳ねた。
身体を低くした健太郎と陳は眼前で揺れるいくつかの影に向かって駆け出し、エミリアはガイガーの背後につき、額に装着していた暗視スコープを下げた。
地上と上空で警備の目をひきつけ、地下から破壊、暗殺部隊を侵入させる。テロリストの使う古典的な用兵術であり、やはりこうした点においては兄に一歩先んじている。機先を制したリューティガーは高揚し、対獣人用弾丸を装填したリボルバーを熊のような化け物の延髄につきつけ、なんの躊躇もなくその命を絶った。
真夏の強い日差しから下水の暗闇という落差にも視覚がかなり慣れてきた。リューティガーは周囲で蠢く獣人たちに不敵な笑みを向け、その向こうで爪を振り上げる健太郎と長刀で敵を串刺しにする陳の姿を見つけ、顎を強く引いた。
獣人のうち一体が、リューティガーの背後目掛けて突撃を敢行した。だがその爪と牙が届くよりも早く、栗色の髪は闇を舞い、左の掌が開かれたのと同時に毛むくじゃらの巨体は下水道から消失した。
暗闘は、銃声と咆哮によりすぐにも地上へと伝わり、それを真っ先に察知したのはソナーシステムを搭載していた対策班のトレーラーである。赤い人型“ドレス”はカーゴルームを飛び出し、公館裏口に姿を現したのと同時に地面にヒビが入り、念動による大きな穴が開いた。
外苑通りに現れた真実の人ですら陽動である。今度の真実の人はそういうことを平気でやると、神崎まりかはこれまでの遭遇とガイのもたらした資料によって理解していた。だから迷わずにドレスを着たまま下水道に降り立ち、まずは背中合わせに機関銃を構える男と少女に戸惑った。
その中身があの“死に神殺し”であることは、ガイガーも知っていた。ありったけの弾丸を撃ち込みたい衝動を抑えながら、彼は怯えるエミリアの肩を掴み、「日本政府の装甲兵器だ!!」と説明した。
八年前、都内で交戦した経験があったものの、まりかはガイガーの顔までは覚えていなかった。彼女は「同盟の方!?」と短くドレス越しに尋ねると、頷く二人を一瞥し、下水道の奥に進んだ。
なんとういう的確な待機地点だろう。あとに残したガイガーとエミリアが機関銃を構えるあそこは、公館へと続く最終防衛ラインそのものと言っていいだろう。もしその指示を出しているのがあの少年であれば、やはり相応の経験を積んでいるとみて間違いない。泡化をはじめているソロモンタイプの獣人を横目に、まりかのドレスは下水道を進んだ。
「いったいどれだけの数をつぎ込んできたね!?」
「さあな……!?」
長刀で獣人の頭部を切断した陳は、健太郎と背中合わせになり、自分たちを取り囲む化け物の群れを睨みつけた。これまでにもFOTの拠点を何度か襲撃したことはあったが、その際にもこれだけの数の獣人は相手にしたことがなく、おそらくは料亭「いなば」での作戦を上回る数が投入されているはずである。鯰髭を摘んだ彼は、左上腕部に裂傷を負っているのに気づき、あの受け口をした救急医の日本における第一号患者が、自分となってしまった失態に眉を顰めた。
僅かな光を反射して、赤や黄色の瞳が輝くのがぼんやりと見える。
この下水の奥に群れている。数十体もの獣人が公館を目指して進軍してきている。
下水路の角で身を潜め、ローダーで弾丸を補充したリューティガーは、いくつもの目が遠くから近づいてきている状況に唾液を飲み込んだ。なんという数だ。食い止めきれるのか。複雑に分岐する下水道の随所がこの調子であり、出現地点で待機を命じたガイガーとエミリアにしても、あるいは反対側からの敵と交戦している可能性もあり、迂闊に援軍要請をすることはできない。途中散開した陳と健太郎にしても、下水のバイパス部分で奮戦しているはずである。最前線であるこの地点で孤立してしまった事実はなんとも不安であるが、ここで進軍を止められなければ任務は失敗である。
やっぱり……遼やガンちゃん……高川くんも呼ぶべきだったかな……
これほどまでの散発的な物量戦になるのであれば、彼ら仁愛組にも活躍の場はいくらでもあった。リューティガーは己の判断ミスを後悔し、それでもやらねばならぬと拳銃を構えて獣人の群れに突撃した。
撃つ、触れる、跳ばす。その繰り返しで次々と化け物を倒していくうちに、栗色の髪もベージュのサマーセーターも、鮮血でドス黒く染められていた。爪の一撃を転移でかわし、突風と共に出現したのと同時に特殊弾を急所に叩き込む。いつの間にかジーンズの右膝を切り裂かれ出血していたが、上ずった気持ちが痛覚を麻痺させているようである。リューティガーは振り向き様に熊のような化け物の頭を鷲づかみにし、その頭部だけを遥か彼方の溶岩地帯へと跳ばした。
こうも数がいるのであれば、身体そのものを跳ばしている暇はない。無意識のうちに彼はそう判断し、やがてその周辺には頭部や上半身の欠損した化け物の躯が転がり始めた。
まだか!! まだいるのかよ!! どれだけ無駄死にさせる、アル兄さん!!
心の中で叫びながら、弟は殺戮を続けるしかなかった。兄の陰謀を阻止するため、この日本の平和と同盟の利益を守るため、迎撃を止めることなどできない。だが精神の強靭さに対し、肉体は物理的な疲労を蓄積させ、神経に筋肉が追いつかない事態を生じさせていた。明らかにトレーニング不足である。向けられた機関銃に対し、どうあっても跳ぶことは間に合わない。獣人の白濁とした瞳が輝くのに恐怖を覚えたリューティガーは、視界が赤い塊に遮られたのに戸惑った。
なん……だと……!?
銃弾が跳ね返る高音が聞こえ、すぐに獣人の断末魔の叫びが響いた。赤い塊は人型であり、振り返った黒い頭部の向こうに、彼は憎悪すべき女の気配を感じた。
「大丈夫、リューティガーくん!!」
「貴様は……!?」
「神崎まりかよ!! 突破されないように!! ほら!! 反対側からも!!」
硬く冷たい感触がリューティガーの背中に当たった。なんという失態だ。よもや奴と背中を合わせる羽目に陥るとは。彼は咆哮し、目の前に現れた獣人に特殊弾を発射した。
背後に強い力を感じる。空間が鈍く歪むような、これは念動の波動である。以前に一度だけ体験した、五星会議のステファーニアに匹敵する波である。迫り来る化け物たちを次々と殺戮し、破壊し、圧倒しているのだろう。
「負けられるかよ!!」
そう叫ぶより他になかった。弾丸を装填しながらリューティガーは迫ってきた獣人を膝で蹴り上げ、わずかに食い止めたのと同時に左手でその胸板に触れ、突風を巻き起こした。そう、負けられない。敵がとめどなく押し寄せてくるこの現状では、彼女に憎悪を向ける余裕すらない。ならば戦う。負けずに戦う。引き金に力を込め、防御のブロックと同時に跳ばすため意識を集中し、血と汗に塗れながらリューティガーは背中を最も憎むべき者に預け、戦い続けるしかなかった。
公館までの進撃が完全に食い止められてしまった。その事実を真実の人が知ったのは、外苑通りのマンホールの蓋が外れ、頭部の歪んだ瀕死の獣人が地上に這い出てきたためだった。通り沿いのマンションのベランダに出現した彼は、上空に待機する我犬に指で合図を出した。
あれだけの広範囲に展開させた獣人を……やるな、ルディ……いや……対策班との連携があってのことか……
予想に反する展開というのもこれからは覚悟しなければならない。だからこそ、作戦は何重にも成果を残せるようにしなければならない。次々と地上に逃れてきた獣人たちを青年はようやく見開いた両目で見下ろし、機動隊と自衛隊による包囲殲滅戦に切り替わったのを見届けると、つまらなそうな顔でその場から空間へ跳んだ。
八年ぶりの大乱戦である。既に会談は中止になったという話であるから、真実の人の目的はとうに達成されたのかも知れない。カーテンを全開にした北川ディレクターは、眼下で繰り広げられる地上戦に興奮し、それを記録した映像をいち早く大衆に届けたいと奥歯を噛み締めた。
「那須の援護に向かう!! ライフルとAB弾借りていくぞ!!」
トレーラーのカーゴルームから防弾チョッキを着用した柴田が飛び降り、森村はドレスの活動状況を計測する計器類を懸命にチェックし続けていた。
地上に這い出てきた化け物は、まるで八年前の亡霊のようでもある。郵政公社別館の三階トイレからライフルを構える那須誠一郎は、スコープに映る異様な光景に恐怖を覚えながら、人差し指に力を込めた。
出現地点が絞られているのなら殲滅は容易である。地下では神崎まりかが同盟のエージェントと奮戦しているという情報も入っているし、警官隊と自衛隊は数において敵を圧倒している。吹き飛ばされた熊のような頭に那須は興奮を覚え、次なる標的を探した。
だが人外の力を備え、火力で武装した獣人たちは那須の予想を上回る反撃に転じた。仲間の屍を盾に、銃撃に対して真っ向から立ち向かったあるソロモンタイプの獣人は、咆哮を上げ人間たちを怯ませた。そのほんの一瞬の隙により、三体の獣人が同時に地上へ逃れ、猫科の大型生物のような爪と牙をもったそれらは、勢いよく警官と自衛官の群れに飛び込み、包囲戦は乱戦の様相を呈した。
「食ってます!! あいつら!! 食ってます!!」
トイレにやってきた柴田に対し、那須はスコープを覗き込んだままそう叫んだ。どうやら吐き気のする地獄が蘇ったようだ。柴田は舌打ちをし、後輩の隣でライフルを構えた。
麻布台、外務省飯倉公館付近の外苑通りとその地下で繰り広げられた戦いは二時間にも及び、警官隊、自衛隊に三十名もの死者を出し、獣人の躯はその二倍にも達していた。検挙、逮捕は一切ない、それはまさしく八年ぶりになる「戦闘」である。
通りのあちこちには獣人の死骸と泡の跡が散乱し、自衛隊の工作部隊が直ちに清掃と痛んだ路面やビルの補修をはじめていた。上空にいた忠犬隊たちの姿もなく、数時間後には交通封鎖も立ち入り禁止も解除せよとの命令が政府より出ている。「本気かよ」作業する者たちは異口同音にそうつぶやき、夕暮れの都心は熱気で生臭さを漂わせていた。
公安部門の仕事は潜んで撮影をしていたマスコミへの接触と念押しだった。マンションで工作部隊の作業を隠し撮りしていた北川たちのもとにも、スーツ姿の公安警察が現れ、記録した一切は没収されてしまった。しかし飯倉公館のすぐ対面にあるこのマンションには今日もかなりの数が住人として存在し、彼らが個人的に記録した媒体までも取り上げる権限はいまのところなく、ネットで今日の様子が流れるのも時間の問題であり、実際一部動画系ブログなどではほぼリアルタイムで、地下から出てきた獣人と政府の乱戦がライブ中継されていた。
報道規制など建前でしかなかった。このままいけば、新聞やテレビといった報道機関が流す情報と、一般市民の間で流布される噂に相当なギャップが生じていくはずである。まだまだあの青年の行動は前哨戦であり、いずれ本格的になにかの計画が動き出した際、果たしてマスコミと世論の間にいかなる溝が生じるのか、北川ディレクターは撤収をしながら、工作部隊によって放水清掃される外苑通りを見つめ、このような異常な光景がこれから頻繁に見られるのだろうと苦い笑いを浮かべた。
すべての獣人は始末した。どれだけの数を跳ばし、撃ち、殺したかも定かではない。血と体液にまみれたリューティガーは地上の裏路地に出現し、彼を目撃したとある警官は直ちに上司へ連絡をしたものの、人相の照会をした段階で「放っておくのだ」と命じられた。
街路樹に背中をつけ、清掃作業を続ける自衛隊員たちをぼんやりと眺め、リューティガーはただひたすらに呼吸を整えていた。どうやら兄も現場に姿を現したようだが、今回はまったく認識することができず、あくまでも闇の中での暗闘だった。じき、四人の部下とも合流し、ここから去らなければならない。阻止任務は一応成功したと判断してよいのだろう。それをより確かなものと裏付けるため、彼はもうしばらくこの戦場に居残ろうと決めていた。
「大したものね……跳躍能力……? 背面モニタで見させてもらったけど……」
背後からの声に、リューティガーは全身で反応し、銃口を向けた。
「これで二度目ね……そうして構えるの……」
青いTシャツに、作業ズボン姿の神崎まりかが、両手を軽く上げて立ち止まっていた。リューティガーは形のいい眉を震わせ、呻き声を漏らして拳銃を下げ、ぐったりと体重を細い幹に預けた。
「疲れてないのか……化け物め……」
「まさか……ぜぇぜぇよ……すぐにトレーラーに戻って薬を打ってもらったから……いまはごまかしてるだけ……」
まりかは手を下げ彼の傍まで歩くと、ゆっくりと腰を下ろしてしゃがみ込んだ。
「敵は全滅……もっとも……忠犬隊と真実の人には逃げられたし、こっちもかなり殺されてしまったから……手放しでは喜べない……結局会談も序盤で中断……無期延期だし」
「愚かな消耗戦だ……熊のような新型獣人は、コストも低く生産性に優れている……素体となる人間だって、中国やインドから安価で調達しているらしいから……奴らにとっちゃ大した損害じゃあない……けど……訓練された警官や兵士の代償はあまりにも大きい……日本政府対FOTという意味での戦いおいては、今日の結果は負けに等しい……」
なぜこうもぺらぺらと言葉が流れ出るのだろう。ビルの谷間の夕暮れを見上げたリューティガーは、いつのまにか頬が濡れているのに気づいた。失態も甚だしい。彼が涙を拭おうとすると、そっとハンカチが差し出された。
「優しいんだ……ね……きみは……」
「弱い……だけだ……」
少年は差し出されたそれを拒絶し、手で顔を拭った。
その直後、彼の頬を痛烈なる痛みが襲った。
「よくもマグマの底に落としてくれたわね!! これがお返しよ!!」
右手を振り抜いたまりかは腰を上げて不敵に微笑み、頬を張ったその手で握手を求めた。だがリューティガーは決してそれを握り返すことなく、一瞬だが呆けてしまった表情も再び険しく戻っていた。
「カオスにいたんですって? ごめんね……だけど、わたしは間違ったことはしていない……あいつらは、罪もない普通の人たちを無差別に撃ち殺した……信長くんのご両親だって……デパートの人たちや、味方(あじかた)村の人たちだって……誰も死にたくはなかった……ううん……どうして殺されたかだって、わからないまま……」
「うるせぇ!!」
まりかの正論を遮るように、リューティガーは再び拳銃を構えて叫んだ。彼はよろめきながら立ち上がると、街路樹に空いた手をかけ、肩で息をした。
「うるせぇんだよ……!! 言い訳をするんじゃねぇ……!! 命の取り合いで負けて……それで死んだんだ……!! それだけのことだ!!
正しいとか間違いじゃ、ねぇっつーんだよ……!!」
「いいえ!! わたしは平和のために戦ったの!! いまだってそう!! あなたやカオスたちとは違う!!」
「うるさい偽善者め!! ぶっ殺す!! そのうちぶっ殺す!!」
「ガキが!!」
「ガキだ!!」
幹を拳で叩き、リューティガーはその場から忽然と姿を消した。まりかは突風に目を細め、彼を説得できない自分の未熟さに、思い切り街路樹を蹴り上げるしかなかった。
10.
正義忠犬隊の姿が都内に現れたその頃、休憩を終えた演劇部は午後の稽古に取りかかろうとしていた。一年生の阿久津が合宿前に体力増強の特別プログラムを提案し、それが採用されたため部員を二つに分けての部活動である。
「山道ってのは、実に好都合っス。足腰と肺を鍛えるにはランニングが一番。俺が先頭やるっスから、皆ついてきてください!!」
普段は硬い演技のため先輩たちはおろか、同学年の澤村奈美や、春里繭花にまで「大根」と酷評される阿久津だったが、こと肉体を使ったトレーニングには自信があり、それは表情にも表れていた。
「つーかさ、阿久津。キショいっつーかさ、マジキモだよ」
柔軟運動をしながらそう毒づく鈴木に対しても彼は怒気を見せることなく、「鈴あゆ先輩だって、もっと痩せなきゃサマにならないっスよ!!」と爽やかな笑顔で返し圧倒する有様だった。
阿久津をはじめとするランニング組は清南寺を出発した。残された部員は旧本堂に集合し、立ち稽古の段取りを再確認していた。
「えっとね……斉藤の立ち回りを再確認しておきたいの。特に外川(そとかわ)さんが上手く斬られないと、こないだはなんかばたばたのぐだぐだだったし」
台本を手に針越は意見を述べた。高川は何度も頷いた後、後輩の外川という大柄な女子部員に、「早すぎたか? やはり?」と尋ねた。
「あー……なんちゅーか……はは……全然ついてけなかった……け、けど……あんまり遅すぎても迫力ないし……わたし……もちっとがんばりますから……」
ゆったりとした口調で外川は応え、やはり動きはもっとスローにするべきだと高川は判断した。
だがそのような気遣いも、刀に見立てた棒を手に彼女と向き合ってしまうと薄れてしまう。どうにも高揚する。いくらお芝居とはいえ、普段は決して使わない武器を携えているとはいえ、やはり戦いというシチュエーションはいつの間にやら血を滾らせてしまう。身構えた高川の殺気に外川は眠そうな目を見開き、演技を忘れて恐いとさえ思った。
いつだ……篠崎流……いつ襲撃にくる……
ああまでも呆気なく崩されてしまうとは、不覚にも程がある。いや、あれは単純な実力差というやつなのかもしれない。だとすれば勝てるのだろうか。老人とはいえ、経験と積み重ね磨かれた技というものが備わっているはずである。
まてよ……以前から……学校で俺を見張る気配があったが……よもや……!?
何度か感じた視線は、あるいは篠崎十四郎か若木という少女の観察だった可能性もある。だとすれば自分の技は研究され尽くされているかも知れない。高川は福岡部長の「こらー!!
ノリピー!! あんまり外川をビビらせるなー!!」という注意も耳に入らず、向き合う後輩の姿に撫肩の老人のそれを重ねた。
「あの部員は、なにか武道でもやっておるのかな……?」
お堂にやってきた和尚は外川と対峙する高川を見て、台本のチェックをしていた針越にそう尋ねた。
「ええ、柔術っていうのをやってるんです。強いらしいですよ」
小さな目を輝かせ、針越はそう答えた。和尚は腕を組み、ぴりぴりとした殺気を発する高川を真剣な眼差しで見つめ続けた。
「ふむ……しかし……少々入れ込みすぎにも見えるが……あれでは相手の芝居も潰してしまうのではないかな?」
的確な指摘に針越は何度も頷き、「だ、だからいま調整してるところです!!」と答えた。それにしても尋常ならざる殺気である。和尚は眉を顰め、高川がなにかに追い詰められ芝居の枠を外れた緊張をしているのではないかと推察し、それでも自分が助言するような類のことではないだろうと一息漏らし、お堂の隅に積んであった木箱の中から数珠を取り出し、境内へ出て行った。
「ふ、福岡部長……トイレ、行ってもいいですか……?」
出番のない遼が、稽古を見つめる福岡に頭を下げた。しかし彼女は前髪をひと摘みすると、大きく首を横に振った。
「テレビのニュース見たいんでしょー!! だめっしょー!! 平田くんが禁止したんだから。もっと稽古に集中なさい!!」
平田は阿久津たちとランニングに出ていたためチャンスかと思われたが、テレビ禁止の意図は部長にまで浸透していたようであり、すっかり見破られてしまった遼は口元を歪めて笑いを浮かべるしかなかった。
岩倉が携帯電話のラジオ機能でニュースをチェックするという提案もあったが、現在彼は和尚の妻、つまり福岡部長の母親の頼みで新本堂の掃除に出向き不在である。時刻は午後一時半を過ぎ、もし敵が再編協議になんらかのリアクションを起こすとすれば、まさしく今がそのときだと思える。呼び出しがあるまで泰然と待っていられるほど、島守遼は大人ではなかった。彼は何度も素足で木の床を踏みしめ、肘で壁をつつき、ときどき舌打ちをして落ち着きがなく、同じく出番のないはるみはそんな彼になんの言葉もかけられなかった。
高川にしてもそうだし、遼も日常を小さくだが壊されている。それが関わってしまうということだし、自分はまだそこまでの深みには達していない。はるみは台本をぎゅっと握り締め、背中を壁につけた。
国土交通省のトップを暗殺し、世間を騒がせはじめたFOT。今までその存在は日常ではない世界に生きる者しか知りえなかったが、新聞、テレビ、ネット、現在ではあらゆるメディアが連日のようにその動性や目的、素性などを憶測し賑わせている。小学二年生になる弟の学(まなぶ)ですら、FOTと我犬の名前ぐらいなら知っていて、母は再び日本が平和でなくなるのかと不安になっているのが娘の目から見てもよくわかる。
「力もない者が踏み込むべきじゃない……彼女にとってはこれが一番なんだ……」
どこか優しさすら感じさせるリューティガーのつぶやきだった。代々木のマンションの入り口で、見てしまった自分の記憶を消すように遼と岩倉に命じ、ひと芝居を打って気を失ったふりをした際、彼はこちらを見下ろしたままそう言っていた。
「力のない者」確かにそうだ。超能力もなければ武術の心得もない。岩倉がどうして関われているのかはわからないが、山鉾巡業で「銃声には慣れてる」と言っていた以上、なんらかの経験なり訓練を積んでいるとみて間違いはないし、なによりも彼は人柄がよく誰からも愛される男子である。
しかし覚悟もできているし、現に遼などは秘密の共有を前提に相談を持ちかけてきている。さてどうする。武道家襲撃の危険、東京での正義決行。それだけではない、水面下で進んでいる陰謀や計画がいつ表面化して影響を及ぼしてくるかわからない。ここ一ヵ月でとりまく状況も大きく変化しているのだから、「踏み込むべきじゃない」と言われても巻き込まれてしまう可能性もある。
まりか姉に……打ち明ける……
なんとなく、確たる根拠はないが姉はリューティガーよりも強い拒絶反応を示してくるように思える。だけど、前に出るしかない。はるみはお堂の隅で苛ついている遼に視線を移し、胸に両手を当てた。
理佳と……ううん……もうどうでもいい……そんなの……どうだっていい……
修学旅行の一夜を遼と理佳は過ごした。そこでなにがあったかは想像するまでもない。愛し合う男女として演じているから、彼の変化は稽古でもよくわかるし、つまりはそうだったのだろうとつい最近までは顔もまともに見ることができず、もうこのまま退いてしまっても仕方がないと思い込もうとしていた。それに剛直ではあるが、想いを寄せてくれる人もいまはいる。
けど、だめだ。交わす言葉に淀みはなく、心が簡単に通じ合えるとわかってしまったし、寝ぼけていて強引だったから戸惑ったものの、間近に感じた彼に鼓動が高鳴ったのは本当である。だめだ。我慢は無理だ。
「もし俺が今……急にお前に抱きついて、許してくれって泣き出したら……どうする?」
彼がそう言ってきたのは去年のクリスマスのことである。もうあの頃、理佳はいなかったから、たぶん代わりに苦しさを打ち明けたかったのだと思う。もしまたそんな情けない面を向けてきたら、そのときは受け入れよう。代わりだって構わない、それで理佳と争うことになっても仕方がない。いい子になってもいいことなんてありはしないんだ。
「御免……」
お堂に掠れがちな声が響き、部員たちは境内に面した襖に注目した。開かれたそこには胴衣に袴姿で撫肩の老人が一人佇み、鋭い眼光をお堂の中央で身構える高川に向けていた。
「篠崎……十四郎殿……」
高川は刀代わりの棒を床に落とし、白昼堂々、衆人環視の中の再登場に戸惑った。遼とはるみを除く部員は高川のつぶやいた名前がわからなかったのと、お堂と老人があまりにも違和感なく風景として合致していたため、福岡にしても父である和尚の知り合いか誰かかと勘違いをし、篠崎の侵入を阻む者は皆無だった。彼は両手をだらりと下げたままゆっくりと高川に向かって歩き、開かれた襖からは強い日差しが差し込んできた。
逆光!? 来る!?
殺気が走った。先ほど草むらで崩された際とは異なる、武道家の殺してやるという禍々しい気配そのものだった。高川は腰を軽くして両足の小指に力を込めたが、両肩には力が入ったままであり、その挙動は硬く淀んでいた。
お堂はどこか、高輪の道場を思い出させるし、十四郎の胴衣に袴も師範が普段着用しているそれに似ている。近くでは部員たちの視線も注がれ、高川典之はいつもの狂気を引き出せず、完命流道場での「硬く拙い若造」から脱せずにいた。
反応が鈍い。見せ掛けの踏み込みに対して視線を泳がせた高川に、十四郎は真昼に計った戦力に目誤りがあったのかと、それが意外だった。しかしともかく、こうも硬くて鈍いのであれば、この若者を殺すのはわけない。速攻で崩し、喉元に必殺の一撃を落とし、絶命したそのあとは左右にいる目つきの鋭く背の高いもう一人の若者と、口元を押さえている少女に仕掛ければ五人中三人の抹殺は容易に終えられる。
まずは、崩す!!
間合いを詰めながら左手を前に出し、十四郎は高川の膝と腰に注目した。やはり硬い。逆方向へ力を加えれば呆気なく床へ倒れる。完命流よ、邪道の果てがこれだ。無駄な筋肉を身に纏った愚かなる象徴がこの若者だ。悪いがいただく。
「遼!!」
その一言ですべてを理解してくれれば幸いである。はるみは突然乱入してきた胴衣の老人を話にあった武道家の敵と即座に理解し、お堂から廊下へ駆け出した。標的の一人が逃走したことが十四郎にとっては意外だったが、それがもっとも弱者であると予想される少女だったため、彼は躊躇することなく高川への接近を続けた。
その若き命、いただく。
勝利のプロセスを脳内で完璧に描いた篠崎十四郎であったから、足取りはしっかりと力強く、それ故に突如として右足首に走った激痛は身体のバランスを崩すのにじゅうぶんだった。彼の細い身体は右方向へ流れ、いくら持ち直そうとも脳の指令が部位に伝達されない現実に、十四郎は腱と神経が同時に損壊したと瞬時に理解した。
あり得ん……踏み込みを誤ったなど……あり得ん……!!
痛恨のミスだと彼は思っていたが、それはあくまでも外部からの破壊だった。遼は拳を握り締め意識を集中し続け、転倒した十四郎の左足の神経と腱を呆気なく破壊した。
なにが起きたのかはわからないが、ともかく迫ってきた老体は倒れてしまった。FOTの名を出し、殺気を向けてきたからこいつは敵である。高川はようやく本来の勘を取り戻し、身体が命じるがまま仰向けになった老人の上に覆いかぶさり、右腕を掴んで一気に肩を外し、同時に頭突きを額に当てた。
嗄れた呻き声が堂内を駆け巡った。部員たちは目の前でなにが起きているのかまったく理解できず、お堂の中央でもつれ合う高川と老人に注目するしかなかった。
「は、はは……篠崎流、恐れるに足らん……踏み込みを誤って転倒するなど……老いぼれが功を焦ったか!?」
頭突きの衝撃で後頭部を床に打ち、口から血を流す十四郎は敗者そのものである。高川は容赦なく今度は左の肩を外し、年老いた柔術家の戦力を完全に奪い去った。彼は立ち上がってジャージについた埃を払ったが、自身の勝利に不審な点があるとすぐに気づいた。
篠崎十四郎の両足首が、どす黒く変色していた。おそらくは内出血によるものだろうが、転倒の衝撃でここまでの重傷を負うとは考えられず、自分もこの部位に攻撃を仕掛けた覚えはない。ならば、まさか。高川は廊下側の壁を背にし、険しい表情を向けていた遼を睨みつけた。
「島守、貴様!! いったいなにをした!?」
「やらせてもらった!! 当たり前だろ!!」
「貴様は武道家の神聖な戦いに泥を塗るつもりか!!」
「な……なに……!? ふ、ふざけるんじゃねぇ!!」
高川の怒りがまったく理解できず、遼は他の部員たちが怯えているのも忘れて叫んだ。はるみの「遼!!」という促しは、この倒れている老人に仕掛けろという合図だとしか思えなかったし、事実高川がこいつを篠崎流と言っている以上、自分のやったことは間違っていないはずである。なにが神聖な戦いだ。腹立ちを抑えられなかった遼は、立ち尽くす高川に近づいた。
「ま、まさか……こうも呆気なく敗れるとは……」
天井を見つめたまま、十四郎は訪れた敗北に両目から涙を流していた。
「い、いや……武においての敗北ではない……失礼なことを言って済まぬ……篠崎殿……」
「足を怪我するなど……やはり八年間の密室暮らしで鈍っていたということ……か……」
この老人はまだ気づいていない。自分の異なる力によって、両足を壊されたという事実を。近くまでやってきた遼は彼を見下ろし、後味の悪いこの状況をどうしたものかと考えあぐねた。
神崎……どこ行ったんだ……いや……そーゆーことか……
はるみがお堂から出ていったわけを自分なりに理解した遼であり、それは正解だった。彼女は岩倉次郎を連れ戻ってくると、ここにいる全員を見渡した。
「終わったの……島守?」
「あ、ああ……手足を壊した……もうこいつは戦えない……」
なぜ平然としていられる。はるみと遼のやりとりをそう感じた福岡は疑問を口にしようとした。
「とどめを……刺せ……」
十四郎の一言に、堂内にいた者たちは程度の違いはあれ、衝撃を受けた。
「と、とどめ……だと……? 篠崎殿……?」
「泡化手術は受けているが……一向に泡にならんところをみると……まだ戦闘不能という判定は下されておらんとみた……ならば止めを刺せ……ここからの逆転などない……完命流!!」
吐血混じりの、それは嘆願というよりは命令だった。しかしその相手である高川はうろたえるばかりであり、どうしていいかわからなかった。
「いい加減にしろ、爺さん!!」
負けないほど強い意で一喝したのは遼である。拳は強く握り締められ、額からは汗を流し、その目には激しい怒りが込められていた。
「まだ助かるんなら、簡単にとどめとかいうんじゃねぇ!! 俺たちは殺さないようにしたんだ!! だったらそれを受け入れろよ!!」
はるかバルチで非業の死を遂げた男がいた。妻と二人の子を残し、獣人に首を引き千切られた男だった。
ナイフを持って迫ってきた毛皮を着た少女は、こめかみに熱いものを感じる瞬間までは、生きることを疑っていなかったはずだ。
四条通で銃弾を浴びた母親は、抱きかかえたわが子の死を、決して受け入れてはいなかっただろう。
「だから簡単に、とどめとか言うんじゃねぇ!!」
激しい怒りが冷静さを奪っていた。生死を達観したような余裕がどうしても許せなかった。
「言わせるかよ……貴様などに……貴様らなどに……」
十四郎は遼と、その傍らにいたはるみを見比べ、口笛をひと吹きした。
「あれだけの殺戮を繰り広げた……東堂と神崎の血統に言わせるものかよ!! 化け物どもが!!」
武道家としての礼節もない、それは敗者の咆哮だった。高川は言葉の内容を即座に理解できなかったが、東堂という名には衝撃を受けていた。だからこそ、境内から堂内に侵入する新たなる影に気づくことができず、素早い身のこなしの小さな若木は、手にした短刀で祖父の胸を一突きし、その場から跳ね、空中で一回転を果たし襖の近くに着地した。
「い、いいぞ、若木……そうだ……それでこそわが孫……篠崎流の継承者だ……」
口から大量の血を流し、篠崎十四郎は力をなくした。あっという間の殺害である。遼と高川、そしてはるみと岩倉は、襖を背にした胴衣姿の少女に注目した。
「二の矢……篠崎若木……お前たちの顔は……忘れん!!」
流れた涙は床に水滴となって落ちていた。悔しさと、悲しさと、怒りが入り混じった負の表情だった。若木は後ろ手で襖を開け、境内へと跳び去っていった。彼女もまた敵である。それはわかる四人だったが、誰もその後を追うことはできず、泡化をはじめた老柔術家に視線を戻すしかなかった。
「と、島守……」
真っ先に気を取り直したのは、はるみだった。彼女は怯えて震え上がっている部員たちを見渡し、目で遼と岩倉に促した。
「だからガンちゃんを連れてきたんだな……」
「うん……」
容易に意図を理解してくれる遼は、やはりかけがえのない存在である。はるみは満たされたものを感じながら、呆然としたままの高川に向き合って見上げた。
「高川くん……」
「は、はるみん……」
「武道家として競いたいって……そう思ったんだよね……」
「あ、ああ……」
顔面は真っ青で、太い眉は力なく垂れ下がっている。ここまで喪失した彼を見たのは初めてである。はるみは視線を逸らし、なおも泡化を続ける躯を見つめ、自分も随分と麻痺してきているのかと、それが不気味だった。
「たぶん……高川くんも間違ってないし……島守もそう……それは……わかってね……」
だが高川は返事をせず、遂には両膝を床につけて肩を震わせてしまった。
二の矢だと……あのように年端も行かぬ少女が……祖父に止めを刺し……刺客になるというのか……
実力ではない勝利。止めを頼まれ、なにもできない現実。恨まれ、憎悪を向けられた結果。そのすべてが高川典之の心を蝕み、彼は両手を床に着きそれに耐えるしかなかった。
福岡部長の右手を強引に取り、左手は岩倉のそれをしっかりと握っていた遼は、彼女が戸惑うのも構わず、“ガンちゃんフィルタ”を通じて意識を滑り込ませた。
午後の稽古からの記憶を消す……いいな、ガンちゃん!! ここにいる八人分、ぶっ続けでやるから!!
わかったよ、島守くん!!
ガンちゃんフィルタの消去機能は以前、同級生の小林と高川に実験し、その成果は確認済みである。遼は戸惑い続ける部員たちから次々と記憶を消去し、今日ばかりは証拠の残らない泡化現象を感謝したいと思った。
まだ高川は床に崩れたままであり、それを見守るはるみもどう声をかけていいかわからない様子である。このまま潰れてしまうのか。いつもは不必要なまでに元気のある偉丈夫がすっかり狼狽する姿に、遼は彼の弱々しい面を初めて見たと感じた。
11.
神崎まりかと罵りあい、空間に跳んだリューティガーは散々に荒んだ気分のまま、予定されていた合流地点である六本木のホテルの一室に出現した。そこで身体を洗い血を流し、灰色のスーツに着替えた彼は、やってきた四人の部下から任務の結果を報告され、誰も大きな怪我をしていなかったのでようやく穏やかさを取り戻した。
地下より進撃してきた獣人はすべて撃破し、一体も公館には辿りつかせなかった。チームの初陣としてはまずまずの結果であり、大局を見れば敗北に近かったがリューティガーはすっかり疲れてもいたので満足しようと思い込んだ。
街の様子が気になる。できることならこのまま代々木には帰らず、もう少し寄り道をしていきたい。瞬時に空間を跳躍できるリューティガーならではの提案であり、それに反論する者はいなかった。
「まぁ、にしてもブルース指令は初期報告を待ち望んでいるだろう。結果的には対策班や公安との共闘になったんだ……それは俺がやっておこう」
ガイガーの申し出はリューティガーにとって嬉しく、直衛として残ることになったエミリア以外は予定通り代々木パレロワイヤルへと跳ばすこととなった。遼たちとの任務ではこうもスムーズな段取りは難しい。リューティガーは久しぶりとなるプロだけの現場に心地よさを覚え、三人目の陳を跳ばしたあと、突き出していた右手を下ろした。
「そ、それでは行きましょうか!?」
戦闘服からノースリーブのブラウスに着替えたエミリアは、リューティガーを促し、二人はホテルをチェックアウトして六本木の街に出た。
既に陽は暮れ、街灯とネオンが街を照らしていた。ホテルから出たリューティガーは激闘が繰り広げられた外苑通りを六本木から遠視し、まだ非常事態宣言が解除されていない現実に息を呑んだ。
人だかりが立ち入り禁止地区の周辺に層を成していた。八年ぶりの戦場を一目見ようと押し寄せた野次馬であることは明白である。もし無差別殺戮を目的としたテロであれば、あの人の山に一発のナパームでも打ち込めば容易に地獄を形成することができる。
けど兄さんはやらない。少なくともいまのところは。
なんとなくではあるが、兄の目的が最近になってわかるような気がしてきた。いや、それはどうにも奢っている。リューティガーは苦い笑みを浮かべ、スーツの襟を直した。
「あそこで戦闘が行われた!! 米軍再編会議などという茶番を阻止するべく現れた解放者を、こともあろうに国家権力が阻んでしまったのだ!!
これは許されざる行為である!! 撤兵議論ならまだしも、再編とは何事か!! 我々はいつまでも米国の奴隷ではないのだぞ!! 祖国を守るのは自国民でしかあり得ない!!
防衛の名の下に寄生を続ける侵略者は追放しなければならん!! 目覚めよ諸君!! そして事実をいつまでも隠蔽し、いまなお証拠隠滅作業を続ける政府に、正義の刃が貫かれる様を刮目しようではないか!!」
昼から続いた絶叫は、関名嘉篤の声帯を壊し、そのアジテートはとてもではないが聞き取れることができなかった。街頭で訴える彼らに足を止める市民は少なかったが、少なくとも現時点において、それを妨害しようという者の姿はなかった。
夜になっても活動を止めない音羽会議の一団を、外苑通りを挟んで遠くから見ていたリューティガーは、大きくため息を漏らした。
「あいつら……FOTに賛同している?」
死闘を生き延び、疲れきっているはずのエミリアから怒気を感じたリューティガーは、彼女の首筋に切り傷を見つけ、「ごめん」とつぶやいた。
「リューティガー殿……」
「僕の我ままだった……君だって怪我をしているのに……もう街の様子はわかった……帰ろう……エミリア」
優しい口調だった。エミリアは大きく頷いて敬礼すると、飯倉公館の方角に向かって吼える関名嘉を遠目で睨みつけ、口先を尖らせた。エアコンの室外機から排出される風になびく彼女の白いスカートが、リューティガーの気持ちを少しだけ穏やかにしていた。そう、戦いは終わった。今日のところは。眼鏡を外した彼はエミリアと並び、もう少しだけ愚か者の咆哮を見ていくことにした。
午後からの稽古は、かけた時間に対してどうにも密度が薄かったような気がして仕方がない。福岡章江は自分だけがそんな呆けた感覚だったのかと思っていたが、夕飯の準備の際、一年の外川も同じような感想を口にしていたので不思議だった。もっとも外川は壁に張り付いた蜘蛛を一時間ほどじっと観察できるほど、どうにものんびりとした性格であり、自分とは時間の感覚が違うとしか思えないのであまり参考にはならない。
「ねぇハリー、なんか今日の午後って……おかしな感じしなかった?」
温泉の帰りの山道で福岡は信頼している後輩にそう尋ねたが、針越は「高川くん……なんか全然ですものね……」と、すっかり覇気がなく、午後の稽古を途中で抜け出してしまった偉丈夫の心配をするばかりだった。
その日のテレビはどの局も麻布台で起こった武力衝突を報じる特別番組一色だった。はるみと岩倉は解禁となった大部屋のテレビの前に張り付き、他にも何人かの部員たちが報道に注目して温泉に行くタイミングを逸していた。
「映像がどれも遠景ってのが……どうにもな……」
平田は胡座をかき、テレビに映される麻布界隈の空撮映像を仕方なさそうに見つめていた。
衝撃的な映像は、衝突現場から走ってきた救急車が瀕死の警官を救急病院に搬出する映像のみであり、激戦のほどはそれで多少なりとも想像できたが、戦場の様子がわからない以上、実感を得られる視聴者などほとんどいなかった。
部屋に入ってきた遼ははるみと岩倉の間に腰を下ろし、ポケットから取り出した透明な光学繊維の先端を二人の手の甲に置いた。
いまルディと通信機で連絡してきた……相当な戦いだったそうだけど……あいつの仲間は軽い怪我で済んだらしい……
FOTと……戦ったってことなの……?
ああそうだ……結果的に百体近い獣人が投入されたらしい……
テレビではあくまでもFOTを名乗る武装勢力、としか報じられなかった。しかし画面に相変わらず映る遠景の中では、血と肉が飛び散る凄惨な戦いが繰り広げられたということである。はるみと岩倉は受け止め難い事実に戦慄し、その気持ちは遼にも伝わってきた。
俺たちも……その戦いに参加することになる……ルディはそうも言っていた……今日もタイミングさえ合えば、呼び出したかったらしい……
遼の伝えてきた言葉に岩倉は大きく息を吐き、頬を引き攣らせた。
何度もこの規模の戦いにはらないだろうって……そうガンちゃんには伝えてくれって……ルディはそうも言ってた……
弱気を見透かされている。岩倉はますます頬を引き攣らせ、逆に覚悟をしなければと気持ちを引き締めた。
神崎……高川は……?
うん……お堂に残ったまま……ちょっと……一人で考えたいって……
そっか……
武道家としての矜持や美学など、とてもわからない。だが先ほどの判断は決して間違っていないはずである。遼は高川がそのうちわかってくれると思いたかったし、もし仮に恨まれ続けても後悔などするつもりはなかった。キャスターや評論家が今日の戦闘をしたり顔で論評するのも耳に入らぬまま、彼は強い気持ちを保ち続けていた。
テレビを熱心に見入る先輩たちを、澤村奈美は大部屋の隅で冷ややかに観察していた。
どうやらランニングに出ている間に新たな刺客が訪れたようだが、何事もなかったかのように合宿を続ける島守遼は認めざるを得ない胆の座りようである。少女は長い髪をすき上げ、風呂道具を手に部屋から廊下へ、そして真っ暗な境内へと出た。
真実の人は、今日の再編会議での満点は力押しの結果、日米両次官の抹殺だと言ってた。そういった意味では、何点の成果だったのだろう。奈美は満天の星空を見上げ、頬に当たる夜風を心地いいと感じた。温泉に入る機会など、これからはそうそうないはずである。合宿が終わるまでは澤村奈美として、ごく普通の幸せを満喫させてもらおう。長い髪にわずかな朱を浮かび上がらせ、少女は軽い足取りで境内から山道へと出た。
内閣特務調査室、F資本対策班に所属する尾方哲昭(おがた てつあき)捜査官は、その日の深夜までハリエット・スペンサーと共に飯倉公館周辺の聞き込み捜査に当たっていた。
黒縁の丸眼鏡にやはり丸い顔は対面した者に柔らかい印象を与え、喋り方や他人に接する態度も温和なことから、彼は班内でも一般市民に対する聞き込み捜査を担当することが多く、普段は別館本部にいることも少ない。
なにしろ目撃者の数があまりに多すぎる。公館周辺は住宅街ではなく、今日に限っては立ち入り禁止の非常事態宣言をしているため、商用や仕事でこの一帯を訪れる市民はいなかったが、戦闘現場を目撃できそうな高層マンションがいくつかある。
特に関東テレビのクルーも取材に借りていた公館対面のマンションには百を越える世帯が入居していて、そのうちの何割かが政府対FOTの繰り広げた血みどろの衝突を見てしまっている。それを考えると尾方は憂鬱だった。
今年で五十歳になる尾方は八年前のファクト騒乱でも同じような聞き込み捜査を担当していたから、流言を防ぐことができないことは人一倍知っていた。
「もう……隠し通せるレベルはとっくにこえたわな」
マンションのエレベータを出て、一階ホールを歩く尾方はハリエットにそうつぶやいた。
「目撃者の中に入院した人までいたんじゃ……確かにそうね」
「写真やビデオも相当撮られただろうしなぁ……あー……帰ってネット見るのが、チョー恐い」 歳に似合わぬ若者言葉ではあるが、童顔の尾方には妙に似合っているとハリエットは微笑んだ。
「没収するってわけにはいかないの?」
「独裁政権じゃないんだからさ……日本はアメリカさんのおかげで、民主主義なわけですし。いや、深い意味はないけどね」
短く刈った頭をひと撫でし、尾方はハリエットにぺこりとした。
「ファクトのときは、もうちょっとわかりやすかったんだよなぁ……味方(あじかた)の事故からは、都内の各所で獣人や工作員の破壊活動があった……だから上も戒厳令を出せたし、アメリカさんにだってスムーズに通達できた……ところがFOTは活動が極端すぎる……普段はなにもしてないのだから、こうなると上はできるだけ非常事態を長引かせたくない」
「どうして?」
「八年前は、長期の戒厳令で経済がズタズタになったんだ。海外からの投資が事実上、凍結されたんだからな。だから隠蔽だって懸命にやる。パニックになれば、経済どころじゃなくなるからさ……しかしまったくいやんなるよ。指導者の居場所がこれっぽっちも掴めないってのも、しんどいね」
マンションから出た尾方とハリエットは、交通規制が解除され車で溢れ返る外苑通りを見つめた。走行する車はいずれもスピードがなく、昼間に起きた大事件の現場になんらかの傷跡が残っていないか確かめようとしているのは明白であり、皆の注目は郵政公社別館の破壊された壁と瓦礫に集まっていた。
「工作部隊が後で作った破損箇所だ……あんだけ派手に壊れてたらみんな注目するけどな……せこくて無意味な目くらましだわ、ほんと」
スーツのポケットから飴玉を取り出した尾方は、包みを開けてそれを口に放り込んだ。
「獣人や工作員、エージェントと今日のように正面からぶつかるのなら負けるこたぁない……なにせこちらは数で勝ってるし、八年前だって実際はそうだった……」
尾方の言葉に、ハリエットが不思議そうに首を傾げ、そのブロンドが揺れた。
「いや……神崎さんたちの戦いを否定するわけじゃない。彼女たちのおかげで被害はずっと減ったし、その点に関しては僕も最大限の感謝はしている。現在の復興だって、このレベルまで回復するのにもっと時間がかかったはずだしね……」
「ただ……ファクトのように、正面から力押しのテロであれば……潰しあいを覚悟の戦争となれば……やはり勝利したのは国家である日本だった……?」
歩きながらハリエットは理解をそう言葉にし、尾方は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ああ……その通りなんだ。だけどFOTは違う……今日の潰しあいをみて余計にそう思ったんだ。新しい真実の人は今日のこれを茶番だと見てるんじゃないかって……なんかそう感じてしまってね……」
それは正しい推察だろう。メガフォンをもってこの通りの中央に現れた彼は、地下や地上で戦闘がはじまったころにはすっかり姿を消していた。決行スケジュールに乗っ取った襲撃ではあたが、実際のところ今回の成果は彼が描く大局には大した影響を与えていないのではないだろうか。ハリエットは排気ガスの漂う通りに顔を顰め、ならばその真意はどこにあるのだろうと考えを巡らせてみた。
荒川区南千住、小さな町工場が立ち並ぶその一角に、カウンターが七名、四人がけテーブルが三つの、やはり小さな大衆居酒屋があった。ほぼ満席の店内は労働者たちが騒がしく杯を酌み交わし、店のコーナーにはテレビが据え付けられ、その画面には朝から通して放送されている報道特番が深夜である現在も流れていたが、カウンターに座るひとりの客以外は誰もそれに注目してはいなかった。
番組は今日一日のドキュメントを流していたが、飯倉公館付近を映した映像は一切なくどれもが遠景であり、救急病院に搬入された怪我人の様子や、会談後都内のホテルに移動する米国側要人ばかりがクローズアップされた、実に的外れな内容に終始していた。
やがて映像はスタジオに切り替わり、様々な立場の論客が今日の事件を論じ、カウンターからそれを眺めていた「夢の長助」こと、藍田長助(あいだ
ちょうすけ)は、つまらなそうに水割りを飲み干した。
「次からは海外のマスコミも取材の数を増やすようだな……いよいよをもって、隠蔽は無駄になる……どうするつもりかな……」
長助の隣にやってきた青年はそう言うと、椅子に腰を下ろして冷酒を注文した。フィッシングキャップを目深に被りサングラスをかけ、長い黒髪を三つ編みにし、ポロシャツを着たその彼が真実の人であるとは店内の酔客や店員も気づかず、青年はしてやったりと微笑んだ。
「ついこないだまでは、無名とか言ってたのに……こりゃ、えらくイメチェンしたな」
「変装だよ、長助。さすがに公安のマークもきつくなってきた……さっきもはばたきとジョーディーの三人で飯食ってたら、別の客に通報された……なんかこの一週間で、えらく知名度が上がったらしい」
まるで他人事のように青年が言ったので、長助は肩を大きく上下させて呆れた。
「春坊から聞いたけどよ……弟さんのチームと対策班のアレが、共同で戦うとはね……」
「ああ……ガイの野郎が、事前に根回ししたらしい」
「新司令がか!? はぁ……やるもんだねぇ……中佐殿とはえらい違いだ」
運ばれてきた冷酒をグラスに注いだ真実の人は、くいとそれを一息で呑み、カウンターを高く短く鳴らせた。
「正直言って予想外だったよ。ルディもよく共闘できたものだ……いやな……本来の予定だと、今日は公館に乱入して大殺戮ってシナリオだったんだぜ」
平然とした言葉に長助は舌打ちし、水割りのおかわりを頼んだ。
「まぁでも、結果的に物量勝負は負け……それだけは予定通りだったから……よしとしないといけないんだけどな」
「次は九月か……」
「もっと派手に行かせてもらうさ……強烈に、華々しく……せいぜい連中には勝利を味わってもらう……」
グラスに酒を注いだ真実の人は、長助の前にあったえいひれを一つまみし、それを頬張った。
「水割りにこれってあうのか?」
「お前さんが来ると思って頼んでおいたんだ……」
「そいつぁ、嬉しいね……」
水割りのグラスを握った長助は、顔に険しさを浮かべ青年を横目で睨んだ。
「篠崎十四郎がやられた……」
「そう」
「あのとっつぁん……バカ正直に昼間から仕掛けたらしい……島守遼と完命流相手にな……」
「彼らしいな。実に」
「てめぇなぁ……」
素っ気ない態度を崩さない青年に、長助はさらに怒気を向けた。
「若木はどうした? 孫娘の若木は?」
「わからねぇ……ライフェも現場にはいなかったから、詳しいことまでは知らないらしい……いつまで続ける気だ? もう何度も忠告したはずだ。無駄に命を消耗させるような真似はよせって」
「無駄じゃないさ……」
冷酒を呑み、硬いつまみを噛む真実の人は長助には視線を合わさず、カウンターをじっと見つめていた。
「無駄じゃない。そう、決して無駄じゃない」
青年は何度も静かにゆっくりと繰り返した。こうなると他人の意見は耳に届かない。長い付き合いでそれを知っていた長助は、仕方なくテレビを見上げた。
米国、中国の各大使が日本政府に対して、本日の事件に関する事情説明を求めたと、ニュースでは報じていた。その両国だけではなく、世界各国の政府もFOTと彼らの持つテクノロジーに対して強い関心を示していると伝え、その内容に長助はため息をつき、喜んでいいのか怒っていいのかわからなくなり、堪らず片膝でカウンターの裏を叩き上げた。
12.
天気予報を随時確認するのは逃げる者として当然の行為である。敵が雷を自在に使ってくるとなれば尚更であり、雨の日は必ず屋内へ逃れる。花枝幹弥(はなえだ
みきや)はこの二ヵ月の逃亡生活でそう決めていた。
賢人同盟本部に連絡もせず、味方であるリューティガーにも接触せず、あくまでも孤独の逃亡者である彼は、その若さゆえに意固地になっていた。このままで済ますものか、復讐だけではない。祖国に任務で帰ってきて、なんの成果もないまま、おめおめと引き下がっていられるか。重大な情報こそ得てはいるが、それとて相方の檎堂猛(ごどう
たけし)が命がけで手に入れたものであり、自分の手柄ではない。
裏づけを取る必要もあった。その情報はあまりにも途方がなく、もし事実であればファクト騒乱に匹敵しかねない。いや、警官隊と獣人が都内で戦闘になったのだ、もう陰謀の期間は終わりを告げ、この国はテロの渦中にあるといってもいい。
二ヵ月ほど前、FOTのエージェントによる襲撃で雷を落とされた学芸大学近くのアパートは、その後の火災によって完全に消失し、現在では更地になってしまっている。久しぶりに現地を訪れた花枝は、土の露出したなにもない地面を蹴り、まだらに生えた無精髭を撫でた。
持ち忘れでもと思ったが……あかん……なんもあらへん……まっさらの更地や……
期待などしてはいなかったが、こうまでなにもないと笑いさえこみ上げてくる。だが声を出すわけにはいかなかった。目立つことはできるだけ避けるのが逃亡者の鉄則であるし、同じ場所での長居も禁物である。彼はジーンズのポケットに手を突っ込み、背中を丸めて歩き始めた。
頬に冷たいものを感じた花枝は、垂れた目で空を見上げた。夕立か。予報にはなかったが、季節を考えればイレギュラーの雨だってあるだろう。すぐにでも屋内へ逃れなければ。彼は駅に向かって歩みはじめた。
そんな花枝の頭上を、追いかけてくるように傘が覆った。
「誰や!?」
振り向き様に、いつでも異なる力を使えるよう花枝は意識を集中した。しかし彼の眼前で傘を手にしていたのは白いワンピースを着た同年代の少女だった。
「あ、えっと……自分……たしか……」
肩まで伸ばした髪は夕立で濡れ、長い睫に大きく綺麗な瞳である。はっきりとした眉は少々気が強そうにも見えるが、美しい少女に違いはない。花枝は一度どこかで会ったことがあったような、そんな既視感を覚えた。
「伊壁志津華(いかべ しづか)……花枝幹弥君でしょ?」
可愛い外見のわりに、いかつい名前である。そしてその感想こそが、かつて抱いたそれとまったく同じだったため、花枝は手を叩いて「あぁぁぁぁ!!
チョコレートや!!」と叫んだ。
逃亡者としては失格である。だが、花枝幹弥はそれ以前に一人の少年であった。
「綺麗な指になったものだな……もう……やってないのか?」
リュックを背負い、スニーカーを履く遼に、和尚はそう声をかけた。三泊四日の合宿も全日程が終了し、帰路につくための帰り支度だった。しんがりとなった遼は自分の手を見つめ、土間から和尚に笑みを向けた。
「さすがに十八歳未満っスから……真面目にやんなきゃって思って……」
「うむ……額に汗して働くのが一番だからな……芝居も上達したようだし、この一年で経験を積んできたと……いやはや……喋りすぎたかな……」
禿頭を撫で回し、和尚は表情を崩した。確かにこの一年で様々な経験を積んだ。初めての舞台、初めての戦い、初めての夜。来年、もしここに合宿に来るとなれば、それまでの一年でどのような「初めて」が自分に待っているのだろうか。和尚に頭を下げ、玄関から境内に出た遼は、待っていた部員たちを見渡し、夕暮れの林に目を細めた。
できればここに、蜷河理佳と訪れたいものだ。そこまで取り戻したい。失ったものを手繰り寄せることが今の自分にとっては最も大切であり、経験する初めてなど大して興味はない。それをあらためて感じた遼は山道を下りながら、東京に戻り次第、戦闘のもっと詳しい状況をリューティガーから聞いておこうと決めていた。もし、理佳が武力行使のテロなどに参加しているのなら、なんとしてでも止めなければならない。彼女にどのような信念や思想があるのかはわからないが、過激な活動や環境は人の心を確実に蝕んでいく。その事実をよく知ってしまったから、理佳が変わってしまうのが辛い遼だった。
清南寺を出て、夕暮れの山道を降りていく演劇部員たちを遠くの林から見つめる一人の姿があった。
京都での事後処理をすべて終え、その後の工作活動を完了した蜷河理佳だった。現在の相方である仙波春樹(せんば
はるき)より借りたオフロードタイプのバイクで東京に帰る途中、前もって聞いていた演劇部の合宿日程を思い出した彼女の、それはひっそりとしたささやかなる自分への御褒美だった。
愛しい人をじっと見つめる理佳は、東京に戻ってしまい、あの計画が本格的に動き出せば決定的な出来事が待っていると知っていた。ならばここで彼を連れさらい、たった二人で生きていくのも一つの選択肢だと、そんなばかげた思いに自嘲してしまった。
だめだよね……ここまできてしまったのだから……
止められるものなら、それが彼ならば相対する覚悟はある。だけど全力で抵抗する。自分を絶望から救ってくれたあの人のため、それも譲れない。
矛盾なのだと思う。しかし、そもそもいまこうしていられること自体がまずあり得ないのだ。八年前、心が壊れたまま死んでしまってもおかしくはなかったのに。
少女は長い黒髪を風に揺らし、彼の後姿が見えなくなるまでじっと茜色の林に佇んでいた。
帰りの電車の中、高川典之は窓際の座席でずっと思い出していた。篠崎若木の泣き顔は、あの憎悪は自分に対してだけ向けられたものではない。それに篠崎十四郎に対する勝利は自分だけの実力で得たものではなく、島守遼の得体の知れぬ能力によって転がり込んできたものである。おそらく、あのまま踏み込まれていれば負けていた。禁じ手などといった競技のために封じられた技を使ってくるのは間違いなかったから、一対一では殺されていたはずである。だから、あの孫娘の恨みはとてもではないが受け止めきれない。高川は頭を抱え、背を丸めた。
となると、遼の判断は正しかったということになる。実際目の当たりにしてみるとよくわかったのだが、死にたくない。生きててよかった。そう思えてしまうここ数日だった。神崎はるみの笑顔も、後輩たちからの尊敬も、岩倉次郎の気遣いも、すべては生きているからこそ得られる幸せである。だから、遼には感謝しなくてはならないし、怒ったことを謝罪しなければならない。だが奴の無愛想な顔を見ると、ついこちらも頭を下げることができない。相性というやつだろうか、それともはるみに対して妙に馴れ馴れしいことに対する嫉妬か。
高川典之はこれまでの人生で経験したことのないほどの悩みを抱えてしまっていた。完命流一筋、憧れの姉弟子一筋で生きてきた彼だったから、ぶち当たった壁をどう乗り越えていいのかわからず、ただ頭を抱えるしかない未熟さを思い知るばかりである。
「た、高川くん……頭……痛いの……?」
いつの間にか隣に座っていた針越里美が、苦しむ偉丈夫の顔を覗きこんだ。
「ああ……うむ……い、痛いのだろうな……これは……痛みだ……うむ……」
奇妙な言い回しはいつものことだが、どうにも様子が違うようであり、このように弱気な彼を見るのは初めてである。真面目、剛直、一本気、豪胆。それが針越にとって高川のイメージだったので、弱々しい姿はどうにも受け入れ難かった。だがこれも彼の一面なのだろう。だとしたら、わかってあげたい。小さな目で彼を見つめる針越は、胸の中で高まる恋心をはっきりとは捉えられず、ただ戸惑っていた。
激突と激戦が終わっても、リューティガーには数多くの任務が残されていた。現場で感じたこと、採集したデータなど、それらの分析もガイ司令から命じられていた彼は、十八日の戦いから二日が経過した今日も、机に向かって大量の報告書を作成していた。日本政府とある程度の連携を取り、対策班と共闘するということは、相互に情報の公開範囲を定めるということである。全世界に強いネットワークを持つ賢人同盟と日本政府は、力関係において若干同盟が上回っていたため、いくつかの先手を打てるのが好都合ではあるものの、実際の戦いとなると実戦力に世紀の能力者を擁する向こうに分があり、下手をすれば主導権を握られかねない。その懸念をリューティガーは報告書の随所に差し挟み、本部への注意を促していた。
思えば、このように上申めいたことも許されなかったのが、中佐という男が司令に着任していたこれまでであり、そういった意味では現在の体制は健全であり理想に近い。ガイの異相を思い出すたびに、人の外見というものは内面の反映ではあるが、それには随分と屈折したフィルタがかかるものだとリューティガーは感じた。報告書の一部を本部に送信した彼は、椅子から立ち上がりダイニングキッチンへと向かおうとした。
今日の夜には遼たちが帰ってくる。十七、十八の両日はガイガーたちに任務を手伝ってもらったが、今後については彼らも別働任務に就かなければならず、ああいった戦いにも高校生である彼らの戦力をアテにしなければならなくなる。誰も怪我をせず、無事に切り抜けられるとはとても思えない。二日前の激戦はまさしく血みどろであり、自分も含めて無傷の者など皆無である。巻き込まれる戦いになってしまった。そうなる前に暗殺することが任務だったのに、その点に関しては完全に失策である。まずは遼たちに謝ることからはじめよう。リューティガーは考え事をしていたため、居間の戸を開けてそこに佇んでいた少女の存在には気づかず、正面からぶつかってしまった。
「ご、ごめん!!」
体格で幾分勝る自分が押し勝ってしまったようだ。よろめく金髪の少女の肩を抱きかかえたリューティガーは、彼女が倒れないように腰でバランスを整えた。
「ご、ご、ご、ごめんなさぁい!!」
彼から慌てて身体を離したエミリアは、顔を真っ赤にして両手を前に突き出した。
「ど、どうしたの? 用事?」
「あ、あ、えっと……ルディ様に検診をいつにするか聞いてくるよう……メッセマー先生に頼まれて……!!」
「あ、そう……」
“ルディ様”とは、初めて耳にする呼び名である。おそらく訂正を求めても彼女は受け入れないのだろう。数日の付き合いでなんとなく彼女の性格を理解しつつあったリューティガーは、照れ笑いを浮かべて腰に手を当てた。
「ちょうど栄養剤を貰いにいこうと思ってたんだ……ついでに検診してもらうよ」
「あ、は、はい!!」
極度の緊張は、任務に対してだけではなく、自分に対する尊敬も原因に含まれている。迷惑であると正直に感じたリューティガーだったが、今後年齢を重ねていくうえで、そうした感情への対処も身につけていかなければならないとわかっていた。
「報告書はもうすぐ完成する……そっちの準備はどうなんだい?」
「あ、はい!! 明日からガイガー殿と健太郎殿に随行し、まずは群馬の製造拠点を急襲する予定です!! その後もしばらく国内をまわり、来月には戻ります!!」
「うまくいくといいね……僕も何度かFOTの拠点は襲撃したけど……ほとんどが撤収後だった……兄は引き際に関しちゃ天才的なんだ……ほんと……思い切りよく切り捨てる……」
穏やかにそう言うリューティガーを、エミリアは頬を赤くして見つめていた。
うはぁ……ほんとなんだ……わたし……いま……ルディ様のすぐ傍にいる……ほんとなんだぁ……
賢人同盟の若き幹部候補。血統よき少年指揮官。裏切り者である兄との対決に臆さない、勇気の超能力少年。それが同盟本部でのリューティガーに対するプラスイメージである。以前から噂は何度も耳にしている。自分とほとんど年齢も違わないのに、ずっと高い地位にいて任務を精力的にこなす憧れの人。血筋に恵まれているからだ。実績はまだあまりない。そう陰口を叩く者もいたが、二日前の戦いですべてが証明された。この栗色の髪をした彼は、最前線で死力を尽くして戦う頼れる人だ。
「ルディはね。わたしなんかと違っていろんな経験をしてるのよ。だけどそのぶん無理もしてる……ときどき……それが見えることもあるんだ」
この地で若き命を散らした、オペレータのヘイゼル先輩は以前そんな論評をしていた。確かに無理はあるのだろう。ならばその負担を減らしてあげたい。純粋なる忠誠心に疑いのない少女は、呼吸を整えて咳払いをした。
「も、もし……こちらの任務中に……あの……赤い人型……神崎まりかが出てきたら……?」
その質問に、リューティガーの紺色の瞳に冷たい光が反射した。
「それは……どういう意味だい?」
「は、はい……ガイガーさんから……お話を聞いて……」
事情を知ったということか。もちろん隠し事にしていたつもりもないし、彼女はこれから共に戦う仲間である。リューティガーは眼鏡を上げ、小さく息を吐いた。
「出てきたら……逃げるんだ。関わりを避けろ……どうせ……奴はすべて一人で片付ける……」
矛盾している。なぜなら二日前の地下において、この尊敬できる指揮官は“奴”と背中を合わせて獣人と戦ったはずなのだから。エミリアの大きな目が僅かに揺れ、リューティガーは彼女の抱いた違和感を察した。
「僕は……許せないんだ……奴を……だけど……わかっている……戦ってはいけないって……だから……負けないだけの働きを……結果を残す……だから……避けない……」
搾り出すように、掠れた声であった。不安にさせてしまったか。リューティガーは少女が口元に手を当てているのに気づき、優しく微笑んだ。
「心配……しなくていいよ……前よりはずっとマシな気持ちになってる……たぶん……変わらなくっちゃだめだって……自分でもわかってるんだと思う……」
「ルディ様……」
「ガイガー先輩や健太郎さんを助けてやってくれ……彼らはすぐに死を覚悟してしまえる……けど、死んじゃいけない人たちなんだ……もちろん……君もね」
優しい言葉である。部下のやる気を引き出させる技術であるとさえ思える。若いエミリアは愚直ではあったが、同時に観察する目も備えていた。さて、どうする。いや、踏み込んでしまえ。嫌われてもそれはそれで仕方ない。口元に当てた手を胸元まで下ろした彼女は、真っ直ぐに彼を見上げた。
「神崎まりかも……死んじゃいけない人……なのでしょうか?」
意外な問いである。即答することができないリューティガーは口元をむずむずと歪ませ、やがて小さく頷いた。
「君みたいな人が来てくれて嬉しいよ……エミリア」
拒絶は永遠に続くものではない。憎悪もいつかは飽きてしまう。803号室から廊下に出たリューティガーは、窓を開けて夜の暑い空気を吸い込んだ。
下水の臭いがする。あとなにかが混ざったような、そんな匂いだ。確かこれは、昨年この地に現れた瞬間にも感じたこの国の匂いである。
混ざっているのはなんだろう。任務が終わるまでに知ることができるのだろうか。少しだけ穏やかになった気持ちに、リューティガーはようやく今夜はぐっすり眠れそうだと、それが素直に嬉しかった。
第二十六話「共闘、許せない心」おわり
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