真実の世界2d 遼とルディ
第二十四話「はじまりの未遂事件」
1.
 四条通を中心とした古都の中心街は、夜になっても人という人で埋め尽くされていた。車道からはほんの僅かにアスファルト面が顔を覗かせつつあったが、通行が再開されるにはまだもうしばらく時間がかかりそうな様子であり、警官や運営者が拡声器を使い、人々を歩道へと誘導していた。

 京都三大祭りのひとつ、祇園祭最大の見せ場はなんといっても七月十七日の山鉾(やまほこ)巡行である。動く美術館とも呼ばれる巨大な鉾や山車(だし)が市の中心を進む様は壮観であり、毎年それを楽しみに多くの観光客がここを訪れる。
 山鉾巡行の開始は朝の九時であり、三十二基もの鉾や山のお披露目は正午を待たずに終わる。したがって夜の部の盛り上がりとしては、前日にあたる今日十六日の宵山がピークであり、既に街路に設置された山鉾の周辺には数多くの出店が立ち並び、飲食物を手にした観光客たちで賑わうのが毎年の変わらぬ光景だった。中にはこの夜の賑わいだけを楽しみにしている人も存在し、宵山だけを満喫し山鉾巡行は見ない、などといった観光客も多かった。
 午後十時。見物客が車道に溢れることを許していた交通規制も解除され、人々は歩道に押し込まれた。
 しかし車道分のキャパシティーを歩道が吸収できるはずもなく、人々は路地や地下街へ逃れ、それぞれに祭りの余韻を楽しみながらも、そろそろ家路につこうとする者、まだまだ酔いを求めて彷徨う者と様々である。
 四条通をはじめとした各通りに、車が戻ってくることで宵山は本当の終わりとなるのだが、それにはまだもうしばらくはかかりそうな賑わいである。

 そんな祭りの喧騒とは程遠く、ホテルのロビーは緊張した静けさに包まれていた。

 約九ヵ月前、1年B組担任、近持弘治(ちかもち ひろはる)教諭の代理として都の教育委員会から派遣されてきた川島比呂志(かわしま ひろし)に対して、C組の担任である松永泰敏(まつなが やすとし)の抱いた第一印象は、「いいかげんで胡散臭い男」であり、それは第二学年の学年主任となった現在でもさほど変わらない。とろんと眠そうな半開きの眼、ふにゃふにゃと歪んだ口元、不潔な無精髭、ぼさぼさの頭髪。どれをとっても実にだらしない外見であり、それは会議に遅刻をしたり、実習をすぐに病欠したりという実務面においても、怠惰さという形で松永教諭にマイナス評価を与えていた。

「い、いえね……町中を駆けずり回ったんスよ。ゲーセンとかカラオケボックスとか……何度も携帯に電話しましたし……けどねぇ……ほんとこればっかりは……」
 いい訳に満ちた自己弁護である。随所に「私も頑張ったのです」と言わんばかりである。松永は目を細めて猫背の川島を睨みつけた。
 午後六時半の門限はとうに過ぎているのだから、仁愛高校第二学年において、修学旅行に参加している生徒全員がこのホテルにいなければならないはずである。しかし未だにB組の島守遼(とうもり りょう)が戻ってきておらず、彼を捜索しに街へ出て、なんの成果もなく帰ってきた川島は、頭を掻いてロビーのソファに腰を下ろした。
「連絡は……ないっスよねぇ……」
 実際のところ、川島は捜索などロクに行わず、むしろそれを口実にかねてから企んでいた星空観察のため鞍馬山まで出かけていた。そしてその山中、彼は謎の兵隊を目撃し、慌てて四条烏丸まで戻ってきて現在に至る。松永に対する弁明は、鞍馬山からの帰路においては事実ではあったが、時間としても回った件数も僅かであり、「町中を駆けずり回った」と胸を張れるほどではなく、とても担任教師としての責務を果たしているとはいえない。だからひたすら頭を掻き、その嘘が見透かされないよう川島はどこか落ち着きがなかった。そしてその挙動こそが、松永の疑念と「いいかげんで胡散臭い奴」という印象をより強めていた。
 腰に手を当て、川島を見下ろしていた松永は、「あった」と、低い声で答えた。
「れ、連絡あったんスか!?」
「ああ……沢田君の携帯電話にメールが届いたそうだ。アドレスにも間違いはないそうだ」
「な、なんてメールです?」
 腰を浮かせた川島に対して、松永の傍らにいた女性の中年教師、小口雅子(こぐち まさこ)が小さく頷き返した。
「“ちょっと遅くなるけど、心配しないでくれ”です……川島先生」
「そ、それだけですか?」
「ええ……」
 最悪の結果は、事件に巻き込まれた挙げ句の死亡であることを考えれば、これは安心してよいものなのか。川島は無精髭だらけの顎に手を当て、どう理解するべきか悩んでしまった。
「メールは八時過ぎにあって、沢田君はすぐに我々に知らせてきた。ちょうど君が外へ探しに出ていた時間だ。しかし君とは連絡が取れずじまいだ。どうしてかね川島君!?」
 声を荒げた松永に対して、川島はぎょっとなり胸を擦った。
「あ……いや……携帯の電源が……その……電池切れでして……」
 星空見学を邪魔されないため電源を切っていたのが事実だったが、それをこの怒れる学年主任へ正直に打ち明けるほど、川島は実直でも愚か者でもなかった。彼は再びソファに腰を下ろし、まあそれならば島守遼はいずれ帰ってくるであろうと内心は安心し、「何度も携帯に電話しましたし」という嘘についての信憑性が薄まっている事実には気づかなかった。
「まったく……しかしB組の問題点が一気に露出した形と言えますな川島先生……」
 松永はそう言うと、川島の隣に座って指を組んだ。
「は、はぁ……」
「他のクラスと比べても、B組は授業態度も悪く、真面目さというものに欠ける……」
 日ごろに聞かされているB組に対する愚痴である。小口は川島を気の毒と思いながらも、やはり自業自得であると割り切り、ロビーからそっと立ち去っていった。
「そして今度は門限破り……川島くん……監督不行き届き……それは自覚しているね」
「はぁ……まぁ……」
 そう忠告されても今日は昼から祭りの賑わいが凄まじく、自由時間中においてB組全員の監督など不可能である。まるでこちらに責任があるような口ぶりだが、正直言えば知ったことではない。だいたいこんな馬鹿みたいに長い自由時間を設定したのはあんたじゃないか。どうして俺が責められなきゃいけない。川島は次第に不貞腐れ、口を尖らせて顔を背けた。

 やはりいい加減な奴だ。松永主任は川島の態度に、その思いを強くした。


 就寝時間は過ぎていたため、生徒たちはみなそれぞれの部屋から外に出てはいけない決まりになっていた。しかしその長身をこっそりと忍ばせ、戸田義隆(とだ よしたか)は4005号室の扉の前までやってくると、できるだけ小さな挙動でノックをした。
「戸田君……?」
 扉を開けたのは関根茂である。彼は意外な来訪者に戸惑ったが、「沢田君……いる?」との言葉に目的を理解し、すぐに戸田を中へ入れた。
 この4005号室は、関根、沢田、高川、木村の四名が割り振られていた。それぞれ交友関係の薄い生徒たちではあったが、やってきた戸田に対して、ベッドの上にいた沢田が「ようっ!!」と声を上げたため、窓際で腕を組んでいた高川典之(たかがわ のりゆき)も関心を向けた。
「島守君からのメール、転送してくれたの見たけど……ほんと、あれだけの文面だったの?」
 長身を屈ませ、ゆっくりとした口調でそう尋ねてきた戸田は、何度も頷き返す沢田に首を傾げた。
「戸田……外に見張りはおらんのか……?」
 高川の大げさな質問に、戸田は笑みを浮かべて「いま先生たちはロビーで会議中だよ」と答えた。
「そうか……であれば御免……」
 浴衣姿の高川は、窓際からベッドの傍まで早足で向かい、しゃがんでいた戸田の肩を小さく叩き、部屋を後にした。

「そうですか……ええ……沢田くんからは僕も転送してもらいました……」
 リューティガー真錠(しんじょう)を訪ねに4002号室にやってきた高川は、会話が聴き取られないよう、部屋の奥には入らず入り口付近で腕を組んだまま、その返事に頷き返した。
「どう思うルディ……」
 “どう思う”単純な言葉であるが、現在の彼らの関係やこれまでの経緯を踏まえると深い意味を持つ。リューティガーは眼鏡を人差し指で上げ、紺色の瞳を曇らせた。
「通信機には非常連絡がありませんし……事件性はないと思われます……」
 あくまでも小声で、部屋にいる比留間や内藤たちには聞こえないように、リューティガーは慎重だった。
「ならば……まさか遊び歩いているということか? 一人で」
「遼なら……あり得ますね……ちょっと時々信じられないぐらい不真面目な奴ですから……」
 声量は変わらないものの、リューティガーの語調が強くなったため高川は戸惑い、だが納得するしかなかった。


 窓から見える烏丸通の風景は相変わらず観光客で賑わっていて、ホテルの入り口近くの歩道にいつ彼の姿が現れるのか、神崎はるみはそれだけを想ってじっと佇んで見下ろしていた。
 こんな時間になっても帰って来ない。四条大橋の下で抱擁した二人は、あの後どうなったのか。今頃どこでどうしているのか、それを考えると息苦しくて仕方がない。
 わかっている。遼は門限破りなど平然とできてしまう。それほど強く思い込むし、疑わずに行動することが度々あった。いまはその意外なる芯の強さを彼女と過ごすことに向けているのか。もしかすると、もう戻ってこないかもしれない。ホテルだけではない、“こちら側”から“あちら側”の世界へ行ってしまったとしてもおかしくない。そのきっかけを作ったのは自分だ。だから耐え切れなくて辛くても、これは自分が引き起こした結果である。
 勝負に負けたということだ。男の子ならこんなとき潔く受け入れるのが理想だけど、女の子はどうすればいいのか。そう、入学早々挑んだ生徒会選挙に負けた際には、思いっきり嘆いて気持ちを爆発させた。あのときは傍らに彼女がいた。蜷河理佳(になかわ りか)。それを思い出すと余計に情けなくなってしまう。

 和家屋瞳(わかや ひとみ)は友人が窓辺で背中を向けて佇んだまま、まったく動こうとしないのはまともではないと感じていた。一体はるみになにがあったのか。しかしそれを尋ねられるほど、自分と彼女は親しい間柄ではなかった。

 程度の差や方向性の違いこそあったが、このホテルに滞在する教師やB組の生徒たちの大半が、島守遼の現在を考え、想っていた。


 ベッドのある寝室に移ってから、一切の邪魔は脱ぎ捨てていた。島守遼と蜷河理佳は、もう何時間にもなるのに互いの肌から離れることなく、それは日付が変わった深夜になっても続いていた。
 こんなことをしている場合ではない。だがしたくて仕方ない。互いにとってはじめての経験が、堅実さや思慮深さを奪っていた。いや、ある意味において二人はこれまでになく慎重で用心深く、だからぎこちなかったし不器用でもあった。
 肘と肘がぶつかり合うたびに気まずくもなる。どうすればいいのかわからず、段取りや身体の動かし方を確かめ合いながら、その度に照れ、恥じ入ってしまい、だけど相手のそうした不得手さが愛おしくて仕方がなかった。
 だからいくら時間があっても飽きることがなく、気がつけば頭の奥まで痺れるほどであり、全身は疲れきり、シーツは半分以上が床へずれ落ちてしまっていた。
 何度か目になる空白であった。二人は寄り添って仰向けのまま天井を見つめ、互いの温もりを静かに確かめ合っていた。
「ね、ねぇ……コーヒー……冷たいの……持ってこようか……」
 理佳の提案に、遼は唐突さを覚えながらも嬉しさを感じた。
「持って来るね……ちょっとまってて……」
 彼女のすらりとした肢体が、よろめきながら部屋から出ていくのを遼は可愛らしいと思いながら見つめていた。勢いでこうなってしまった。けど、それほどおかしなことではない。普通の二人だったら当然のことだし、これから普通を目指すのなら、少々順序は違えどそんなのは細かいことである。
 なによりも、この達成感はかつてないものだ。知らない扉、知っていても届かなかった扉の向こう側に来たかのような、そんな開けた気分である。これは自分だけの一方的な感覚なのか。彼女はどうなのだろう。苦痛も伴っていたようだから、まったく同じというわけにはいかないかも知れない。しかしそれを尋ねるのはあまりに図々しく感じ、遼は口元をだらしなく歪ませた。

 いちいち気を遣ってくれるのが嬉しかったし、それでいて肝心な場面で一方的になる彼のことが可愛いとさえ思える。ずっとずっとこうしていられれば一番だ。台所までやってきた理佳は冷蔵庫を開け、しかしそれはすぐには叶わないとわかっていたから、黒い髪を撫でる仕草もゆっくりとしていた。
 ぐしゃぐしゃはもうない。痛みを超えて優しさと温もりを知り、覚悟というものができたような気がする。彼はまだ荒んではいない。戦いの中にいるにも拘わらず、変わらないままである。嘆願して引きこんでも、それは自分の好きな遼ではないだろう。
 これで二人は納得して向き合える。そしてそれを経た上でまた今夜のように求め合えるのなら、たぶん、それは永遠の結びつきというものである。自分の闇や濁りをも薄めさせてくれるはずだ。

 ならばもう一度。

 理佳は紙パックからアイスコーヒーをグラスに注ぎ、それをじっと見つめた。

「ご、ごめん……待たせちゃった……?」
 グラスを二つ持ってきた理佳に遼は首を横に振り、差し出されたそれを受け取った。少女はベッドに座っていた彼の横に腰を下ろし、肩を寄せた。
「遼くんの土方役……観たいな……」
「観れるようにすればいい……」
 遼はアイスコーヒーを一口飲み、彼女の美しく長い黒髪を撫でた。
「そうだよね……」
 その返事をゆるやかなる同意と受け止めた遼は、もう一度「観れるように……」とつぶやくとグラスを床に置き、彼女の腿に手を乗せた。ぴくりと反応した理佳はいっそう彼に身体を寄せ、二人はもつれ合うようにベッドへ横になった。

 遼と理佳はやめることなど知らなかった。二人はそれほど互いを求めていて、それが共通していると確認するたびに、少年はこれからきっとうまくいくと信じ、少女はこれで間違わないと喜んだ。

 先に意識を失ったのは遼だった。床に置いたままである飲みかけのコーヒーグラスには、理佳の物憂げで美しい横顔が浮かんでいた。

「ごめん……遼……でも……」
 ならばもう一度別れる。そして確かめていく。それが積み重ねになるのか、一瞬の邂逅で終わるのかはわからない。
 彼の頬にそっと口付けをした少女は、もう一度だけその温もりを唇で感じた後、寝室から姿を消した。

2.
 ツェルニーの練習曲が、リビングに間違うことない調べで奏でられていた。何度も何度も休まずに繰り返し、ようやく弾けるようになったのが心地いい。ライフェ・カウンテットは両サイドに結んだ長い真っ赤な髪を揺らし、その細い指は正確に動いていた。
 台所でエプロンを脱いだ彼女の従者、褐色の肌をした少年、はばたきはソファに置いてあったボマージャケットを拾い上げ、それを着込んだ。
 弾き終るのをしばらく待ったはばたきは、やがて小さく拍手をし、主の意を自分に向けさせた。振り返ったライフェは僕の手にリュックが握られているのを確かめると、ため息を漏らした。
「いってきますライフェ様……明日の夜遅くには戻れる予定です。あの鍋にカレーを作っておきました。この空調なら七月でも持つと思いますけど、なんなら残ったぶんは冷蔵庫にしまっておいてください……ご飯は炊いてください」
「そ、そう……せいぜい中丸(なかまる)隊長の足を引っ張らないことね……わたしが恥を掻くんだから」
 再び背中を向け、ライフェは少し震えた声でそう言った。
 いつもこうだ。単独任務の際、この赤い髪をした少女は素っ気ない態度である。けどはばたきは知っている。主の心を。だから一人で行くのも寂しくなく、忠告も嬉しさをもって受け入れることができた。
 はばたきは小さく微笑むと深々と頭を下げ、リビングの窓を開け、ベランダへ出た。

 翼の広がる音がした直後、少女の背中を突風が吹きつけた。
「もう……窓ぐらい閉めてから出かけてよね……まったくぅ……!!」
 ぷっくりと頬をふくらませたライフェは、椅子から立ち上がってベランダの窓を閉めに行った。すると彼女は、一枚の羽が落ちてるいのに気づき、床からそれを拾い上げた。
 途中で敵に捕捉されないだろうか。無事に辿り着いても現地で上手くやれるのか。いや、なによりも自分ではない誰かに彼が頭を下げるのがどうにも不愉快である。ライフェは羽をそっと頬に当てると、ソファに腰を下ろし、上体を投げ出した。
「早く帰ってこーい……一人は……つまんないよ」
 口に羽をくわえた少女は、ぼんやりと天井を見つめるしかなかった。


 もうすぐ夜明けか。梅雨が明けたはずだというのに、つい先ほどから降り始めた雨がどうにも鬱陶しい。茶色に染めた肩まで伸ばした髪を揺らし、彼は深夜営業中の焼き鳥屋の軒先まで駈けてきた。
 七月にダウンジャケットというのはなんとも暑苦しいが、急いで戻ったアパートは落雷により炎上を始めていて、なんとかこの私服と集中力を維持するために必要なヘッドフォンなど、身の回りの品を回収するのが精一杯だったため、このジャケットのポケットが唯一の収納スペースとなっている。

 あの太鼓を背負ったガキ……FOTのエージェントか……いつか復讐したる……

 炎の中、あのあどけない追及者と対峙したのは、もうひと月も前のことである。花枝幹弥(はなえだ みきや)は相方である檎堂猛(ごどう たけし)からFOTの作戦を記した暗号と、平文の「逃げろ花枝」というメールを受け、学芸大近くのアパートに戻ってみたものの建物は全焼し、連絡用のPCや拳銃にナイフといった装備も回収できず、ロクな装備も整えられないままの逃避行だった。
 所持金も残り少なく、檎堂の滞在していたホテルも何者かが捜索した後であり、いまの彼は孤立無援で彷徨い続けていた。
 同盟の仲間であり、こちらをまったく認識していないリューティガーと合流するという選択肢もあったが、日に日にそれとは別の欲求が彼の意識に広がっていた。

 暗号がほんまやったら……裏を取る必要がある……それが諜報のプロや……このまま手土産もなくあいつんとこ頭下げたり、同盟に戻ることはでけへん……

 それは花枝の自尊心であった。生命の危険に晒されていないからこそ、暗号の内容があまりにも大きいからこそ、彼はまだ自分の任務に対してけじめをつけたい気持ちでいっぱいだった。そしてそれこそが、おそらくは命を落としたであろう相方に対する弔いである。
 まずは指示通り逃げた。その後は自分で決める。そう、復讐をすべきだ。しかしその前にまず腹ごしらえが必要である。空腹を感じた花枝は、焼き鳥屋の開き戸に貼られた「いつでもご飯炊けてます!!」と書かれた紙を見て微笑み、店内に入った。
 日付の変わった夜明け近くともなると客の数も少なく、カウンターしかない店内は閑散としていた。彼は食事の注文をこの時間もまだ受け付けているのか確かめると、雉焼き丼を頼み、店の隅に置かれたテレビを見上げた。
 ニュースでは、勇壮なる山鉾の映像が映し出されていた。そうか、今日は宵山か。幼いころ同盟に売られた花枝には、故郷である京都の記憶はほとんどない。全ての後に知識として勉強したものである。だから山鉾も実物を見たことはなく、もしあの奇妙な日常が続いていればテレビに映る光景を、おでこの広い椿梢(つばき こずえ)と共に見上げていたのだろうかと、それを思うとどうにも切なかった。

 まずはゴモラや……それがどこにあるか……

 目の前に置かれた丼を手にした花枝幹弥は、まだ状況に屈することなく、眼光に強さを保ったままだった。

 東京を飛び立って何時間が経過したことか。途中降り始めた雨の中、上昇と降下を幾度となく繰り返し、山間からの日の出を見てからもまだ目的地には辿り着けない。翼に疲れを感じはじめているが、あともう少しである。眼下に広がる琵琶湖をクラシックなデザインのゴーグル越しに眺めながら、はばたきはすっかり晴れてくれた近畿の天候に感謝していた。

 鞍馬山上空まで飛来したはばたきは、翼を納めながら降下を開始し、以前から目印にしている杉の巨木を目指し、ある程度まで高度を下げた段階で腰を前に出し、両手を広げた。長い飛行の場合、着地前の降下が最も神経を集中しなければならない。翼が枝に引っかからないように感覚を鋭敏にし、鼓膜を暴風音で震動させながら少年はブーツの裏で巨木を蹴り、最大減速を果たし地面へ着地した。

 呼吸を整え、鼓動が正常値まで回復したことを確認したはばたきは翼を畳み、リュックを背負い森の中を進んだ。何度か来たことがある目的地の、隠蔽された秘密のアジトの位置を、決して忘れることのない彼だった。


「はいはい!! はっばたきくーん!!」
 コンクリートの床を小走りにやってきたその女性は、身長180cmと長身で、迷彩服を着た全身は大柄なだけではなく、肥満の一歩手前と言えるほどふくよかだった。髪を後ろにきっちりと束ね、色の薄いサングラスの奥には小さく丸い瞳が生き生きと輝き、肩からは小型の自動小銃を提げ、手を振りながらもその背筋はぴんと張っていた。
 彼女の後ろから続いてやってきた者たちも同様の軍服を身につけていて、いずれも顔には自信が溢れ、足取りもしっかりとしていた。
「中丸隊長!!」
 少年は少しだけ微笑むと階段を駆け下り、先頭の中年女性と握手を交わした。
「よく来てくれたはばたきくん!! こちらの搬入作業はほぼ終了。コード調整さえ済めばいつだって起動実験を始められる……つまりはフェイズ・7到達ってところさね」
 淀みなくはっきりとした口調で、中丸は外国人であるはばたきにも聴き取りやすいように気を遣っていた。
「ご苦労様です隊長。コードはこのディスクです……」
 リュックを開けたはばたきは、ケースに入ったディスクを中丸に手渡し、辺りを見渡した。
 窓のない、天井の高い人工建造物だった。壁や天井、床のあらゆる面に大小さまざまな太さのパイプが走り、工作機器や計測機器が、広いはずの敷地を圧迫するように設置されていた。以前来たころより、ずっと機器が増えている。はばたきはこの地下基地で任務が問題なく行われていると理解し、隊長に意を向け直した。
「さぁ忙しくなるよ……一世一代の実験さね……はばたきくんも、少し休んだらいけそう?」
「もちろんです。食事さえいただければ……コード調整のお手伝いを命じられていますから」
「嬉しいこと言ってくれるね。それに日本語だって随分上達した。なぁ皆」
 顔を綻ばし、大声で隊長にそう促された隊員達は、男女それぞれ清々しい笑みを浮かべ、褐色の少年に頷いた。
 ここが好きだ。みんな優しいし、中丸隊長は少し太ってて若いけど、死んでしまった母さんに似てなくもない。はばたきはそう感じた途端、東京に残してきた主に悪いと思い頭を小さく振った。とにかく任務を早めに終え、少しでも早く帰路に就こう。少年は奥のエリアへと戻り始めた隊長たちに続いて歩き出した。
 すると、現れる一つの影があった。 「ほう……はばたき少年か……」

 隊長たちが目指すエリアの扉から出てきた彼は、犬の顔をし、白い体色に翼を持った異形の怪物である。
「我犬(ガ・ドッグ)隊長……忠犬隊も来ていたのですか……?」
 足を止めたはばたきは、胸を張り腰に手を当てた我犬を見上げた。その表情は緊張し、同じく空を飛べるものとしての親密さはあまりなかった。
「ああ。忠犬隊は搬入が任務だったのでな。この崇高なる第一歩に立ち会える感激に震えているところだ。今日はよろしく頼んだぞ、少年」
 大げさな言い回しだとは思わない。彼はこれで気合いを入れ続けているのだろう。それは否定しない。けどなぜか、どうにも好きにはなれず、できることならば避けたい存在である。はばたきは自分でも気づかぬうちに我犬との握手を避け、中丸の陰に隠れるように立ち位置をずらした。
 真面目さは嫌いではない。だが剛直さとなると苦手である。しかし若いはばたきはそれをはっきりと自覚してはおらず、正義忠犬隊隊長は仕方なく握手しようとした手を下げ、鼻を鳴らした。

3.
本部中央にある執務室にやってきたクルト・ビュッセルは、青い目を見開き、その光景に息を呑んだ。
 赴任の直後に搬入された白い執務机は部屋の隅に追いやられ、ソファをはじめとした応接セットは壁に立て掛けられ、とにかく床の面積を増やそうという、この部屋の主の意志は明白だった。
 赤い絨毯が敷かれた床のあちこちには報告書類が散らばり、だがそのいずれもが反ったり折れたりしておらず、綺麗にプリント面が天井と対面していたため、クルトは散乱しているのではなく、これはわざと「置いている」のだとすぐに気づいた。
「ブルース司令……」
 部屋の中央で長身を四つんばいにして、ある書類を見下ろしている白いスーツ姿の奇相に、クルトは躊躇いながらも声をかけた。すると顔を上げた緑の髪の上官は、垂れ下がった目をクルトへ向け、「なにちゃん?」と返した。
「こ、これは一体いかがなされたのでしょうか……」
「見たまんまだ!! 報告書を全てプリントアウトして、時間、地理、人間関係、資金ルート、宗教、思想別に系統立てて配置してみたんだよ。これが一番現状把握に適した方法なの。もっとも風の吹かないある程度の底面積が必要ちゃんなんだけどね」
 変わった方法もあるものだが、赴任以来この上官は、外見とは裏腹に高い実務能力をこの本部の人員たちに見せ付けている。噂によるとアフリカ方面で各地を転戦してきた傭兵の指揮官だったらしいが、一応は尊敬してみてもいいかと、クルトはなんとかそう思えるような気がしてきた。
「で、なにちゃん?」
「は、はい……諜報部第四課が……アルフリート真錠の尋問を提案しているのですが……」
 クルトの報告に、ガイは全ての指にはめたリングをかちゃかちゃと鳴らし、舌を打って書類の検討を再開した。
 無言ということは、承認したと理解すればよいのか。それともその逆か、あるいは考えている最中なのか。まだガイという人物をよく理解しきれていないクルトは、答えが返ってくるのをただ待つしかなかった。
「やっぱりちゃんね……これしかありえねー!!」
 そうつぶやいたガイは、四つんばいの姿勢のまま床を這い、別の書類を手にとっては確認し、そんな人間離れした挙動を二分は繰り返し続けていた。いい加減クルトもしびれを切らし、再度の報告をしようとしたその瞬間、ガイはまるで大型の猫科生物の如き挙動で出口に向かって跳ねた。クルトはそれを避けようとしたが突き飛ばされ、書類の上に尻餅をついてしまった。
 やはりこの人が考えていることはわからない。尊敬するのは当分先送りにしよう。クルトは呆然としたまま、司令を追いかけるべきかどうか迷った。

 まず間違いない。人の動き、金の流れ、時期的なタイミング。「真実の人(トゥルーマン)」こと、アルフリート真錠が自らを囮にしてまで隠蔽するとなれば、事を起こすポイントはここしかあり得ない。一体なにを企んでいるか、そこまではっきりと絞り込めないのが腹立たしいが、時間がないためそれは後回しにするしかない。四足から二足へ姿勢を上げたガイ・ブルースは、凄まじい勢いで螺旋階段を駆け下り、周囲の職員たちが驚くのを無視し、地下二階へと向かった。

「京都でしょ!! 京都に間違いないちゃんでしょ!!」

 薄暗い尋問部屋に乱入したガイは、レーザー兵器を抱えた監視兵を押しどけ、ぐったりとしていた長髪の青年にそう叫んだ。
「まぁ、答えないんだろうけど……トップダウンの悪さが、この賢人同盟の短所ってことがよくわかったよ……膨大な報告書を順序良く整理したらそんな結論に達した……FOTは京都で事を起こす……そうなんでしょ!!」
 拘束されたままの真実の人は虚ろな目でガイを見上げ、だが一言も発することはなかった。
「なにが狙い……? 確か今日は戦霊祭(せんれいさい)と祇園祭ってイベントがあったはずだけど……それなのか?」
 ガイは身体を低くし、真実の人の赤い瞳を覗き込んだ。
「もう……遅いって……」
 掠れた声で、青年はガイの右手にはめられた腕時計を確認してつぶやいた。
「“遅い”? つまり今日、明日のテロってことね……ふふ、はは……さて……どうする……」
 短い言葉でも多大な情報を引き出したガイは上体を起こし、顎に手を当てて考え込んだ。すると彼の後を追ってきたクルトが尋問部屋にやってきた。
「クルトちゃん……日本に派遣したエージェントって……?」
 背中を向けたままの質問に、クルトは背筋を伸ばし緊張した。
「そこにいるアルフリートの弟、リューティガー真錠と、檎堂猛の二チームです。ただし檎堂班は前司令と作戦本部長の私的任務で派遣されているため、こちらからの連絡は困難かと思われます」
「ふむ……ではリューティガーちゃんとやらは?」
 ガイの問いに、クルトは手帳を開いた。
「はい……現在待機状態にありますが……本日は学校行事にて京都に滞在中とのことです」
 偶然か必然か。クルトの報告にガイは紫色の唇の両端を吊り上げた。
「おやおやおや……これも計算づくだったのかなぁ……」
 ぐったりとした青年を見下ろしたガイは、蛇革の靴の先で彼の顎を上げさせた。
「京都だと……ルディが……?」
 意外ではあった。修学旅行はまだ先のはずである。真実の人が戸惑うのをガイは見逃さず、自分はよくよく運に恵まれていると実感した。
「参謀ちゃん……リューティガーちゃんに通達……FOTが近日中に京都で事件を起こす……それを直ちに調査し阻止せよと……」
「了解です司令!!」
 命令に忠実な部下が部屋から出て行くのを背中で感じたガイは、再び青年に意を向けた。しかし彼は動じることなく靴先に体重を預けたままであり、動じるだけの体力も残っていないのかと異相の司令長官は判断した。
 弟の京都滞在は意外だった。しかしそれとて計画には何ら影響しない。むしろ陽動に引っかかってくれたら好都合である。無駄な体力の消耗を避けるため、見かけはぐったりとしたままの真実の人ではあったが、その意識は相変わらず確かだった。
「にしても……指導者自らが混乱させるための囮になるとは……余程重要な作戦なんだね……」
 この気色の悪い新司令は、だが剛直で頑迷な前任者よりずっと有能である。予想外に早く気づかれたことに青年は感心し、今後はより慎重な戦いを強いられると覚悟した。

 いつの間に意識を失ったのか。天井から視線を傾けた遼は、傍にいたはずである少女の不在に凍りつき、重たい身体を起こした。
 ただの睡眠ではないし、あの状況で眠ってしまうことなどあり得た話ではない。アイスコーヒーを口にし、再び彼女と横になり、求め合ってからのことは確実に覚えている。意識の中で様々な情報が交錯し、彼はただ混乱したままベッドから抜け出した。
 床に置かれたままのグラスはそこになかった。「仮皇居……戦霊祭……」はっきりとしない言語情報をつぶやきながら、遼は頭痛を堪えてリビングまでやってきた。

 その隅に鎮座していたギターケースが消えていた。「ライフルが……入ってたんだ」彼はいつの間にか意識の中に刻まれた情報を、そうかあれは交わりの中で流れ込んできた彼女からのものだったのだと理解した。しかし、そのようなことはどうでもよい。問題は理佳の不在であり、それが一時的なものではないと、なんとなくだがそれはよくわかってしまっていた。
 テーブルの上に、一枚のメモ用紙が置かれていた。飛ばされてしまわないように、飲みかけのコーヒーが入ったグラスで押さえられていたその紙には、「ごめんなさい。もといた場所に帰ります。」と、綺麗な字で書かれていた。
 慌てて服を着たものの、追いつくことなどできないだろう。全身のだるさはおそらく睡眠薬によるもので、つまりあの日付が変わった段階で理佳は決意していたということになる。この飲みかけの中に薬を混ぜ、どこに行ったかわかるような証拠を残さず。
 だからいまから探したところで無意味である。顔無しの怪物を殺した後、その去り際は見事だったから、自分のような素人ではとても無理である。夏服のワイシャツのボタンをとめながら遼はすっかり元気をなくし、ソファに座って置き手紙を手に取った。

 もといた場所……か……

 次はいつどこで、どのような状況で逢えるのだろうか。再び身体を重ね、肌を触れ合わせることが叶うのか。知ってしまったのは通じることで流れ込んできた情報だけではない。圧倒的な温もりと感触であり、反応である。それをもっと得たい。なによりも優先して獲得してみせる。決意はより固くなっていた。障害は排除する。俺は理佳とくっつく。ずっとくっつく。そのためにどうすればよいのか。

 関わり続けるしかない……理佳ちゃんのやってること……それに関わり続けるしかねぇ……

 仲間に加えてもらうのが最善であるが、まともな生活に復帰できないようなテロリストの集団であるなら戦うのも方法である。矛盾してはいるが、決して間違っていないはずである。これに関しては彼女の意思を尊重する必要はない。肉体で繋がった関係は彼を傲慢にさせていたが、それすら自覚し、なおも自分は正しいと思う遼だった。


 朝食は米にハムエッグと味噌汁という、リューティガーにとってはどうにも理解し難い取り合わせだった。しかしそれにしても、あいつはこんな朝までどこで遊び呆けているのか。味噌汁を啜りながら、彼は一つだけぽつんと空いている座布団に視線を向けた。
 通信もなく沢田にメールをしている以上、敵との戦いは考えられない。しかしこの時刻になっても帰ってこないということは、やはり異常事態が発生しているということなのか。今日はこのあと宿を発ち、山鉾巡行を見物しながらバスに戻り、昼過ぎには京都駅到着のスケジュールである。どこかで捜索に出るタイミングはないものかと、リューティガーはその方法までも検討していた。
 部屋に戻ったリューティガーは、鞄の中に入れていた通信機からコールシグナルが鳴ってるのに気づき、慌ててそれを取り出した。真っ先に戻ってきてよかった。そう思いながら彼は空間へ跳び、続いて扉を開けた野元の顔を突風が吹きつけた。

「な、なんで直接……!?」
 路地に出現したリューティガーは、通信してきた相手が遼ではなく、参謀のクルトだっためひどくうろたえた。賢人同盟本部が直接通信をしてきたことはこれまでにほとんどない。大抵は暗号化されたメールや李荷娜(イ・ハヌル)によってもたらされるディスクや書面によってその指令は下されてきた。余程の緊急事態なのだろうかと、彼は緊張して指示を待った。
「はい……な、なんですって……え、ええ……手がかりは……? はい……了解しました……最善を尽くします……」
 通信を切ったリューティガーは大きくため息を漏らした。なんということか。まさかあの投降が陽動であり、中佐が解任されていたとは。知らぬうちにザルツブルクが激震している。そしてこの京都でFOTが大規模な作戦に出る。どうするべきか彼は思考をフル回転させ、対応を検討しながらホテルに向かって歩き始めた。
「あ……ル、ルディ……」
 すぐ傍に停まったタクシーから、よく知った長身が現れ、彼は照れくさそうに頭を掻きながらそうつぶやいた。
「遼……どこ行ってたんだ……みんな大騒ぎだぞ……」
「い、いや……ちょっと遊びすぎて……昔の友達と偶然会ってさ……朝までカラオケ大会……」
 自分でもよくここまで出任せで嘘がつけると遼は奇妙な感心をし、しかしそれにしてもリューティガーはなんと険しい様子なのかと、それがどうにも意外だった。
「まぁいいけど……本部からたったいま指令があった……」
「指令……?」
 険しさの原因がすぐにわかったため、遼はリューティガーに合わせて目を細めた。
「FOTがこの京都でテロを起こすらしい……詳細はわからないけど、それを突き止めて阻止するまで、僕たちは帰れないと思ってくれ」

 あの夜、彼女から伝わってきた情報を整理すれば、不明点はあっと言う間に判明するかもしれない。

 遼はそうするべきかどうか戸惑い、わざと意識を雑然とさせた。理佳との結びつきで得た情報はばらばらとしたままであり、それを整頓することに躊躇いを感じたままの彼だった。しかもリューティガーが指令を与えられたということは、「阻止」の名の下に対決が待っているということである。どうすればいい。自分はどこに立ち、どう対応する。遼はホテルに向かって歩きながら、朝帰りというルール違反を犯している事実をすっかり忘れていた。

4.
 一度会っておく必要がある。それが健太郎と、マーダーチーム・カオスのもと隊員であるカーチス・ガイガーの共通した認識だった。同盟本部の廊下を並んで歩く二人は螺旋階段を下り、地下二階の尋問部屋までやってきた。
 監視兵たちの意識が一瞬だけ出入り口に向けられたが、それが青黒い肌をした獣人と屈強な白人男性であると気づいた直後に、彼らは再び監視するべき蹲った青年へ注意を向けた。それにしても物々しい警戒態勢である。十三人の監視兵はいずれもレーザー銃を構え青年を包囲し、一斉射撃での貫通を防ぐため中国の下部組織、紅西社(こうせいしゃ)によって最近開発された吸収素材で作られた黄土色の分厚いジャケットを着用している。これではまるで、怪獣のような扱いだ。ガイガーは眉を上下し、ぐったりと前のめりに蹲った青年を監視兵越しに見下ろした。
「あんたと会うのは六本木のホテル以来だな……アルフリート殿……いや、真実の人(トゥルーマン)と呼んだ方がいいのかな」
 野太い声でガイガーは挨拶したが、青年は視線を向けるだけで、それ以上の体力の消耗は避け続けていた。
「鞭の傷か……それも上手なものだな……急所を避け、痛覚を的確に傷つけている……回復にはひと月はかかるんじゃないのか?」
 ガイガーはそう言葉を続けたが、真実の人は答えることはなかった。
「四課が乗り出せば……責めはより苛酷になる……おまけにここまで痛めつけられれば、監視兵の隙をついての跳躍も不可能だ……それほどの作戦なのか? 指導者自らが陽動する必要があるほどの……いや……答えんでもいいさ……期待はしていない……」
 葉巻を一本取り出したガイガーは、それをくわえた。健太郎は黙ったまま、鈍い光を反射した赤い瞳を見つめていた。
 これがあの若き主の兄、アルフリート真錠か。上半身のあちこちに蚯蚓腫れを浮かび上がらせ、ひどい箇所になると皮と肉が避け、手当てはされていたものの最低限である。なによりも横になれないよう両膝を金属棒で固定され、後ろ手に縛られているのが痛々しい。ガイガーの言う通り、四課の拷問は凄惨である。以前この部屋に跳ばされてきたモンゴロイド系の少年は、拷問がはじまって四時間後には有益な情報がないと判明し、こめかみに鉛弾を撃ち込まれて絶命したと聞く。実はその一発が少年にとって、もっとも苦痛のない一瞬だったことだろうと思う。たった四時間であるが、彼はこれまでの人生で経験したことのない苦痛を味わい、それが止んだことに感謝していたはずだ。反吐の出る話ではあるが、賢人同盟が掲げる自由主義圏の繁栄のためには仕方がないことらしいし、自分も加担をしている現実に変わりはない。健太郎は矛盾を抱えながらも、この青年がまだ人としての意識を保っているうちに、できるだけその姿を記憶しておくことが必要であると考えていた。
「弟は……」
 か細い声で、真実の人はようやく言葉を口にした。二人は聴覚に意識を集中し、彼がなにを話すのか固唾を呑んで待ち受けた。
「ルディは……セロリを食えるようになったのかな?」
 知らない。その質問に答えられる情報はあいにく持ち合わせていない。男たちは思わず顔を見合わせ、この青年の精神がまだまだ太く保たれている事実に驚愕した。


 ガイ・ブルースは執務室と作戦本部を何度も行き来し、情報の検討と整理に全力を傾けていた。そもそもは前任者の失策であり、この仕事を成功させたところで大した評価は得られないはずである。しかし彼はアルフリートという青年との競い合いに楽しさを見出していたし、それに勝利することできっと新たな快感を得られるはずだと期待していた。
 アフリカの各地でテロリストや反政府軍と戦ってきた彼にとって、真実の人を名乗るあの青年は実にユニークな指導者だと思えた。一見するとFOTは彼だけが突出したテログループにも見えるが、よく冷えたのパフェを用意したり、リーダーの不在でも大きな作戦行動に出られたりなど、部下たちもよく訓練されていて、おそらくは中間指揮官に有能な人材が揃っているだろうと予測できる。
 それにしても比較するにつけ、この賢人同盟という組織のなんと硬直化していることであろうか。全ては司令長官や顧問職の決定が絶対の、いわゆるトップダウン式の旧態依然とした命令系統であり、優れた見識や分析も腐って鮮度を落としてしまったケースがこれまでにも数限りなくあったはずである。この件が解決したら、まずはその欠点を改革しよう。あの真錠春途(しんじょう はると)という男も、自分に対してはそんな期待を込めて引き抜いてきたに違いない。まずは中間職の権限強化である。誰が有能で相応しいか面談を重ねる必要があると、ガイ・ブルースは食堂でピザを頬張りながら決意を固めていた。
「そのミックスピザ……最悪の味でしょう」
 テーブルにやってきたその女性を、ガイは写真付きの名簿で一度だけ閲覧した覚えがあった。名前はルイーザ・カッチーニ、諜報四課の責任者で年齢は四十二歳。写真を目にしたときにも感じたが、見かけは二十代後半でも通じるほど若々しい。ガイは「イタリア人にしてみればそうだろうな。けど僕的にはこれで満足ちゃん」と、素っ気なく答えた。向かいの席に着いたルイーザは指を組み、黒い瞳で新任の長官を見つめた。
「指令……参謀に伝えた件ですが……いかがお考えで?」
「直訴ぉ? 感じ悪ぅ……」
 噂には聞いていたが、なんと砕けた言葉遣いをする司令官なのか。ルイーザはネクタイを直し、戸惑いを和らげようと努めた。
「し、しかし……本来なら四課の任務です……」
「拷問は僕も大好きなの。だから君たちの出番はずっと後……それにアルちゃんは自白剤とか通じない……だって取り寄せの力があるんでしょ? 薬品なんて体外に放出して、そのくせ効いてるフリをして嘘をつかれたらかなわないでしょ?」
 ピザを平らげたガイはそう告げ、ミルクと砂糖がたっぷり入ったカフェオレを啜った。
「このたび開発された……自白ガスをご存知ですか?」
「いや……まだ成果報告書の類は全然読めてないから……なにそれ?」
 司令が興味を示したのを感じたルイーザは、身を乗り出して吊りあがった目を瞬かせた。
「ガスなので、防ぐのは困難かと思われます……それに本人の自覚がないまま……密かに中枢神経を麻痺させ……」
 ルイーザが余りにも嬉しそうに語るため、ガイはやはりこの女も自分と同種の人間で、だからこそ拷問係を束ねられるのかと失望し、彼女の言葉を遮った。
「監視兵達ちゃんはどーすんのよ。マスクなんてつけさせるの? ただでさえレーザー吸収素材ジャケットなんて、重いのつけてんだよ。これ以上装備増やしたら、動きが鈍るだけでしょーが」
「い、いえ……それでしたら寝ている間に兵を速やかに退室させ……ガスを……」
「うーん……まあまあの提案ね……一応検討してみるから、あんたちゃんはさっさとそのガスを準備なさい」
 手を払われたものの、採用された事実にルイーザは興奮し、一礼して立ち上がった。
 切り返しが早いのはいい。変質者だから友人としては付き合えないが、まずはこの女に権限でも与えてみるか。立ち去る四課の責任者の背中を見つめながら、ガイはもう一度カフェオレに口を付けた。

 京都駅近くのシティホテルに、紅いシルクのブラウスにジーンズ姿の理佳がやってきたのは午前七時過ぎのことであった。ギターケースを抱えた彼女は、エレベーターで三階まで上がると躊躇なく角の部屋の扉をノックした。
「遅かったな……理佳……」
 天然パーマのもじゃもじゃ頭が扉の隙間で揺れた。少女は小さく頭を下げると、「最後の下見をしてきたから……」と返し、部屋へ入った。
 それほど広くない部屋はカーテンも閉め切られ、中にはハンチング帽を被った仙波春樹(せんば はるき)と全裸のエロジャッシュ・高知(こうち)が、やってきた理佳に注目した。
「皆ありがとう……気を遣ってくれて……もう大丈夫だから……今日の任務……必ず成功させる」
 ギターケースを床に置いた理佳は力強く告げ、ベッドに寝かされている海兵隊員、ジャレッド・バークリーを見下ろした。
 彼女が一人でここにやってきたのが、藍田長助(あいだ ちょうすけ)にとっては少々意外だった。恋人である島守遼と再会し、あんなにも熱い抱擁をしていたのだ。おそらくはFOTへの参加を求めたか、それでなくても彼から申し出てくると予想と覚悟をしていた。よもや再会は喧嘩別れで終わったのか。それならそれで嬉しい結果ではある。長助はそのような考えに至ってしまう自分の卑怯さに呆れ、しかし尋ねてみるべきではないと質問を諦めていた。
「シフトに変化はないわ……仮皇居の警備は調査したのと同じ……戦霊祭も予定通り執り行われるみたいだし……みんなの準備はどうなの?」
「こっちも万全だ。鞍馬山の作戦も順調のようだし……Mr.ジャレッドが目を覚ましたら、すぐにでもここを発とうっ」
 理佳の言葉に仙波春樹が答えた。すると長身の高知が、ふらふらと彼女の傍へと歩いて行った。
「で、できることなら……こちらの準備も手伝って欲しいんだがなぁ……」
 陰部を膨張させ、それを隠すことなく近づいてきた変態を、少女は目を逸らすことなく真っ直ぐに見つめた。
「その程度の大きさだったんだ……エロの名もたいしたことないわね。一生準備しなくていいように、9パラで削り落としてあげようかしら」
 理佳は不敵に微笑むと、ギターケースを開けそこから自動拳銃を取り出した。笑顔に込められた確実なる殺気に、幾度もの修羅場を潜り抜けてきた高知は緊張し、昨日よりずっと恐ろしいと感じた。
「か、勘弁な……じょ、冗談さ……ははは……」
 両手を前に出し、高知はゆっくりと退ってもとの位置へ戻った。それを見た長助は少女の変化を感じ取り、仙波春樹に視線を向けた。「春坊」も彼女の異変を同様に感じていて、その正体も大体は見当がついたため静かに頷き返した。
 女になったということか。喜ぶべき事実として受け止めればよいのか。今後は幅も広がり、より任務の遂行が円滑にできるようになったと満足すればいいのだろうか。もじゃもじゃした頭を掻き乱した中年男は、少女の背中から色香を感じ取り、だが寂しさも感じてしまい、手放しに喜ぶことはできなかった。

5.
「ざけんじゃねーぞ島守!! テメェのせいで、俺がどんだけ追い詰められたと思っていやがる!!」
 “心配”ではなく、“追い詰められた”ときたか。すっかり冷え切った朝食を前に、大広間の隅に正座させられた遼は、担任教師の正直な怒りに笑いがこみ上げてきた。
「ま、まぁ……本人も反省しているようだし……処分も必要ですが、ここはあくまでも穏便に……」
 かつてこの川島がPTSDの生徒を暴力で教室まで連れ戻してきたという噂は、小口教諭の耳にも当然入っていた。これ以上放っておくと体罰も起こりうる。ホテルの従業員も廊下から注目していたため、この辺りが説教の潮時だろうと彼女は静止に入った。
 助かった。これでもう怒るフリをしなくていい。タイミングのいい同僚の行為に、川島は内心では感謝していた。無事に戻ってきたのだから、どうせ停学程度で済むはずだし、自分も減給はあり得てもクビということにはならないだろう。だとすれば、一応示しをつけるために怒鳴りもするが、結局のところはどうでもよい。彼は振り上げた拳をわざとらしく震わせながら下ろし、「さっさと食え。九時前には出発だからな」と告げ、広間から出て行った。
「ほんと……なに考えてるの島守君……君みたいに真面目で問題なんて起こさなかった子が……」
 小口の説教に、遼は頭を掻いて恐縮した。
「い、いや……ほんと……ついつい時間を忘れて……」
 理佳と寝ていた。しかしそんなことを言えば火に油を注ぐようなものである。中学時代の古い友人と偶然再会し、意気投合してカラオケ大会で夜明かしをした。この嘘は在学中ずっとつき通そう。遼はそう決意し、小口が広間から出て行った後、ぬるい味噌汁を啜った。
 とてもではないが美味しくない。普通なら新しいものと交換してくれてもよさそうなものだが、これはいわゆる罰というものなのだろう。廊下から、ちらちらとこちらを観察する従業員の視線を感じながら、遼は取りあえず空腹だったので、遅い朝食をひたすら胃袋に詰め込んだ。
 “FOTがここでテロを起こす”リューティガーの言葉がふと脳裏をよぎった。理佳と交わることでいくつかの情報は頭に入っているが、とてもではないがそれを整理する気にはなれない。しかしもし彼女がテロの尖兵として任務に参加し、その作戦をリューティガーが阻止することになれば、彼はなんの躊躇もなく理佳を殺害するはずである。
 ナイフを手にした少女がいた。殺意を剥きだしに突っ込んできた彼女のこめかみに、リューティガーはなんの迷いもなく弾丸を撃ち込んだ。あのときの冷たい紺色の瞳が今も忘れられず、遼は箸を持つ手が震えているのに気づいた。そうはさせないためにも、やはり先手を打つ必要がある。ようやくそこまでの考えに辿り着いた遼は、箸を置き胡座から正座に姿勢を直した。

「島守……」
 いつの間に入ってきたのか。後ろに手を組み、腰をかがめてきた神崎はるみに遼は驚き、冷めたお茶を飲んだ。そう彼女にだけは、旧友とカラオケに行っていたなどという嘘は通じない。蜷河理佳の発見は、まさしくはるみからのメールによって知らされたのだから。緊張しながら、彼は湯呑みを盆の上に置いた。
「よ、よぉ……」
「一緒……だったの?」
「あ、ああ……一緒だったけど……また……いなくなった……」
 意外な返事だった。なにがあったのかはわからない。自分が目にしたのは橋の下で抱き合う姿までである。喧嘩別れでもしたのか、それとも今後の再会を誓い合ってのことなのか。喜んでいいのか悲しんでいいのか、はるみには情報というものが圧倒的に不足していた。
「どうするのよ……」
「う、うん……また……やり直し……ドジってさ……なーんか……馬鹿みたい……」
 口止めをしてこないのは彼らしいと思う。しかしなぜ先ほどから目を見て話してはくれないのだろうか。はるみの気持ちは次第に悲しさへと傾いていった。
「ありがとうな……神崎……」
 この感謝が決定的だった。喜ばれるような結果になったということか。一晩を共に過ごしたということは、子供ではないからなにがあったかぐらい予想できる。それを察していると思われているから、すっかり照れて目を見られないのか。
「ばかぁ……」
 そう返すのが精一杯だった。この光景は廊下から他の生徒たちにも注目されている。もうこれ以上の恥なんてかきたくない。はるみは顎を上げ、背筋を伸ばして広間から廊下へと戻った。案の定、B組のクラスメイトたちが何人か様子を窺っていたようだ。その中の一人、高川典之が咳払いをし、歩き去ろうとするはるみを追いかけた。
「は、はるみさん……!!」
「ごめん高川くん……いま……あなたの顔、見られない……」
 ぐらっときてしまうのは当然のことである。彼は心配してくれている。的外れな想いを抱いている可能性も高いが、ともかく自分を大切に考えてくれていることだけは間違いない。背中を向けたまま、少女は肩を震わせるしかなかった。
「な、なにがどうなっているかはわからんが……ただ事ではないように見受けられる……なにを怒っているのだ……? はるみさんと島守は一体……?」
「ありがとう……ごめんね……」
 いっそのこと、ぐらっとしてもいいかもしれない。彼ならきっと受け止めてくれる。少々の欠点や合わない部分は自分が直せばいいし、指摘したら努力してくれるはずだ。せめて顔だけは見上げよう。そう思い振り返ったはるみだったが、偉丈夫は背中を向け、その向こうで栗色の髪が揺れ、太鼓腹を擦る心優しき巨漢の姿があった。
「どうしたのだ、ルディ……」
「ちょっと話があります……いいですか?」
「う、うむ……はるみさん……これにて御免……!!」
 頭を下げ、高川はリューティガーと「ガンちゃん」こと岩倉次郎に連れられ、廊下をロビーに向かって歩いていった。リューティガーと岩倉は、遼と共にテロリストと戦っている。その彼らに高川が呼び出された。はるみはまさかと思い、そうなのかと胸に手を当てた。

 一階のティーラウンジでは、松永主任をはじめとする教師たちが、本日のスケジュールを再確認していた。
「九時から山鉾巡行見学……ポイントは新町通と四条通の交差点……ただし観光客がいっぱいだから、クラスや班で分かれたとしても、ロクに見ることはできませんな」
「予定では、ここから新町通まで行って、四条通を目指すんですよね」
「ええ。歩いて数分ですが、人の多さからして時間はもっとかかるでしょうな。新町通は南北に伸びる細い路地みたいなもので、そこから東西の四条通と交差したちょうど出口に、放下鉾(ほうかぼこ)という鉾が見られるはずです。こいつは三十二基の鉾や山の中でも最後の方の順番で新町通にいる山鉾ですから、運がよければちょうど四条通を進むところが見られるはずです」
 ガイドブックを片手に、松永はそう説明した。昨日の自由時間で下調べは全て済ましたが、ますますあの生徒たちを引率して山鉾巡行を見学するなど、とてもではないが不可能としか思えなかった。
 フリだけでいい。そう、取りあえず巡行をしている四条通を目指し、人の壁に阻まれて諦めてしまえばいい。そもそもスケジュール通りであれば、山鉾巡行見学などという無謀なプログラムにはならなかったはずで、もっと地味な古都旅行となっていたはずである。たまたま団体客が大量のキャンセルをし、ホテルが空いたのでこうなってしまったが、B組に教室ジャックなどという事件が起こらなければ、面倒な引率は避けられたかと思うと、松永主任はB組の担任である川島に嫌味の一つでも言ってやろうかと思った。

 しかし、川島はカウンターに頬杖をついたままぼうっとしていた。

「いいかな川島君? 帰りの新幹線は十四時九分発のぞみ……それに間に合わんと判断した段階で、巡行見学は中止するからな」
 怒気を含んだ声に、川島は半開きの眼を見開いた。
「あ、はぁ……ええ……」
「しっかりしてくれよ川島君。混雑が予想されるんだ、またB組の誰かがトラブルでも起こしたりしたら……いよいよ君の監督責任になるんだからな?」
「え、ええまぁ……善処します……」
 ぼさぼさの頭を何度か上下させ、川島は面目ないといった様子で最後に茶を口にした。
「あ、あの……松永先生……小口先生……」
「なんだね川島先生」
「あのですね……つかぬ事をお伺いしますが……」
 視線をカウンターに落とし、川島はどうしても気になることを尋ねてみることにした。
「鞍馬山って……陸自の施設とかってありましたっけ……もしくは米軍とか……」
 なにを聞いてくるのか。まったくいい加減な男だ。松永は的外れで場違いな質問に腹を立て、「知らん!!」と言い残し、カウンターから席を立った。
「川島先生……」
 隣に座っていた小口教諭が、また考え事を再会した同僚の横顔を見つめた。しかしそれにしてもこの男はなにを考えているのだ。彼女は眉を顰め、ようやく松永主任がなぜ彼に腹を立てているのか、それが理解できるような気がしてきた。

 鞍馬山で遭遇した武装集団は一体何者だったのか。迷彩服を着込み、機関銃で武装した集団など、この日本では自衛隊か米軍以外はあり得ない。それ以外の勢力が存在するならば、八年前に日本全土を震撼させたファクト機関という名のテロ組織である。川島比呂志にとって遼が無事に帰ってきた現在、最も気になるのは昨晩目撃した謎の迷彩服だった。


 皇族がこの京都に転居してから二年が経過しようとしていた。百年以上前の住まいである京都御所の改築には五年の歳月と莫大な予算が費やされ、その大半は警備システムの最新化と周辺地域の再開発に充てられ、御所を東西から挟む烏丸通と寺町通は車線も広がり、塀も門も大幅な増築がなされていた。しかしそれでも皇族の住まいとしては不充分であり、現在も改築作業は進められ、なおかつ仮皇居という扱いがなされ、いずれは東京へ帰還されることまで検討されているのが現実である。
 そもそも、八年前のテロ事件が転居の原因である。ファクト機関は皇居への武装侵攻も計画しており、そのため警備上の理由に転居が決定され、だがそれが実現したのはテロの脅威が過ぎ去った六年後だったのは皮肉としか言いようがない。計画の発表は一部企業やマスコミの本社が京都へ移転するという現象を引き起こし、その動きは現在においても継続している。一度動き出した大計画は各方面への余波を生み、それが引き返せない一因にもなっていた。
 今日、七月十七日は祇園祭の山鉾巡行があるのと同時に、年に一度の戦霊祭が執り行われる予定になっていた。これは半世紀以上前に行われ、敗戦した大戦の被害者を慰霊する祭事であり、皇族が執り行うのがきまりとなっている。二年前からの新しい行事であり、皇族の転居に伴い決定された。
 他の慰霊祭と異なる点は、当時在日していた外国人や、占領地域で亡くなった外国籍民間人をも慰霊の対象としている点にあり、新しい学校教科であり、国粋主義的な内容を多分に含む「国学」の、小学校までの波及を交換条件として、アジア諸国の要求に応える形で、あくまでも一般には非公開で止むをひっそりと行われている。実際の慰霊行事を行う場所も、新たに建造された正殿側の無宗教施設となっていて、国民がこの戦霊祭を目にするのはテレビや新聞などのマスメディアを通じてのみだった。
 内閣総理大臣をはじめ、政府要職に就く者やアジア諸国からも要人が数多く出席するという事情もあるため、この日の仮皇居は警備も特に厳重であり、機動隊も数割増員され、府の警備担当者は祇園祭との人員配置のバランスに毎年腐心していた。
 一般庶民が晴れやかなる山鉾巡行に注目している時に、皇族が外国人戦没者への哀悼の辞を述べる。これこそが政府が中国や韓国へアピールする真摯さであり、バーターとして小学校にまで波及した国学の将来的な成果を考えれば、象徴に頭を下げさせることも厭わない。戦霊祭は大きなテロを経て、過激な自由主義勢力の圧力に対して国防に目覚めた、この時代の代表的な変化の一つだった。

 その、警戒も厳重な皇居の南側を走る丸太町通に、一台のオートバイとライトバンが疾走していた。本来なら交通規制をかけたいところだったが、山鉾巡行により市の中心地が通行止めとなっている以上、この地帯までそうすることができないのが現実である。塀や堀の外に配置された警官は、みな目を光らせ、通行する車に注意を向けていた。
 そのオフロードタイプのバイクは本来、仙波春樹の所有物なのだが、理佳にとってはこの数ヵ月、移動で何度も使用していたため手足の様に取り扱うことができ、路地への左折も速やかで淀みがなかった。彼女の後ろに続くライトバンの運転席で、仙波春樹は口笛を短く吹き、停車したバイクの隣に車を停めた。
「じゃあなっ……俺たちはここで待機する……」
「ええ……」
 バイクを降り、運転席の仙波春樹からギターケースを受け取った理佳は、後部座席で蹲る白人男性を一瞥した。
「いけそう……なの?」
「いまは夢優期(むゆうき)にさせている……合図と同時に覚醒……そして任務遂行だっ……」
「左腰でいいのよね」
「ああ……既にセッティングは完了している、外すなよ……」
「ええ……」
 ヘルメットを春樹に預けた理佳は、ジャレッドの腰に大きな箱状の物体が提げられているのを確認すると、小さく頷いて路地を歩き始めた。
 路地は静かだった。ここをもう少し南下すれば、市の中心地で京都最大の祭りが行われているはずである。彼は無事でいてくれるのか、それが少女にとっては心配ではあったものの、同時にうまくやれるはずだという信頼もあった。
 彼と過ごした夜は、まだ生々しさを彼女の身体に残していた。ぎこちなく、無様な交わりだったと思う。けどそれは互いに初めてであったという証しだから嬉しくて仕方がない。これから行う凄惨な行為にも、だが少女はあくまでも足取りが軽く、最後にはスキップをしてとあるビルを目指した。

 南方開発ゼットビル。それが目的地である。十五階建てと京都では異例の高層ビルであり南方開発が十六年前、京都進出の足がかりとして建築したオフィスビルである。皇族転居の際、警備上の理由により取り壊しが検討されたが、南方開発が御所改築工事に多大なる寄付をしていたため、現在も見送られたままになっている。だが仮皇居を見下ろせる十階より上は使用禁止となっていて、この日のように皇族が御所敷地内に直接出歩くような日は警官が派遣され、誰も立ち入れないようになっている。
 ギターケースを抱えたまま蜷河理佳はゼットビルに入り、エレベーターで九階まで上った。その途中、彼女はケースから自動拳銃を取り出し、それに消音機を取り付けると、お気に入りである背の低いベージュの帽子を目深に被った。
 そうだ。彼の好きだと言っていた歌は、確かこんな出だしだった。少女は鼻歌を小さく鳴らし、エレベーターを出て階段を目指した。
 二人の警官が強い意を向けてきた。それはそうだ、この先には何人たりとも立ち入らせてはならない。彼らはその防壁なのである。しかし二人とは少ない。仮にここから皇族や要人を狙撃しようにも、実際は角度的には不可能であるためだろうか。既に下調べでそれは判明していたし、なんにしても人数が少ないのは助かる。

 歌いながら、少女は躊躇なく引き金に二度力を込め、男たちはその場に崩れ落ちた。額を撃ち抜かれ即死である。

 彼らが警備本部へ行う定時連絡は、仙波春樹がうまくやってくれる手はずになっている。もう憂いはない、あとは十五階を目指すだけだ。死体をロッカーに隠しながら、理佳の鼻歌は止むことがなかった。

 理佳はうまくやったはずだ。運転席で無線機を操作し、仙波春樹はハンチング帽を目深に被りなおした。次はこちらの仕事である。そろそろ高知も仕事をはじめる段取りになっている。警備の流れを操作するのは全体においてはとてもではないが不可能だが、ほんの一部なら問題ない。そしてごく一部、針の穴程度の隙間さえ空けられればよかった。ゼットビルは仮皇居の塀を越えて唯一敷地内を望める高層ビルだったが、実際にそこから見られる風景は移植された松の木と僅かな石畳だけである。だが、それだけで今回の作戦は成立するし、ともかくあのビルへ新たな警官を侵入させてはならない。春樹は段取り通り、暗記しておいた定時連絡文をマイクに向かって読み上げた。

 仮皇居の東に位置する出町柳近くの鴨川の河原で、天然パーマのもじゃもじゃ頭が強すぎる陽射しに晒されていた。長助の手には弁当箱大の小型端末が握られていて、その画面には京都市内の衛星地図が表示されていた。南方開発ゼットビル、その近くの路地、仮皇居西門、四条新町出口、それらのポイントが赤く記されていて、さていよいよ始まるかと男は緊張して煙草の煙を吐き出した。
 中丸隊長やはばたきたちはうまくやっているだろうか。長助はふと北の山を眺めた。この作戦が全てのはじまりになる。後戻りのきかぬ第一歩だ。夢の長助は柄にもなく鼓動が早くなっている事実に苦い笑みを浮かべ、中央市街に向かって歩き始めた。

6.
 仁愛高校第二学年B組の生徒たちはホテルのロビーに整列させられたが、まとまったのは最初の数十秒であり、もうすでに彼らはばらばらに思い思いの場所へ移動し、とてもではないが整然とした集団とは言えなかった、担任の川島もその点については最初から期待していなかったため、彼はどうでもいいと思いながら手帳を取り出し、辺りを見渡した。
「いいなてめぇら……A組に続いてこれから移動開始だ。荷物をバスに預けたあと、はぐれないように注意しながら烏丸通をすぐ左に曲がって綾小路通を進む。で、二つ目の角を右に曲がって新町通を北上、するとすぐに四条通に出る。その出口の向こう側に放下鉾ってのがあるから、そいつを見学して九時三十分にはここに再度集合、バスで移動する……って二度は言わねぇからな!!」
 手帳を片手に川島は声を張り上げたが、彼の説明を真面目に聞く生徒はごく一部だった。
 一見静かに佇んで、他の生徒と言葉を交わしていないリューティガーも、実のところは川島の言葉などまったく耳に入っておらず、その思考はFOTが一体この京都でなにを行うのかに向けられていた。
 その隣で腕を組む遼は、つい先ほどから頭の中を巡る様々な言語情報に悩まされていた。

 仮皇居……戦霊祭……いや……なんだ……

 蜷河理佳の中から伝わってきた言葉である。おそらく、意図せず思わず伝わってしまったのだろう。羅列された情報につながりは薄く、遼は理解することを相変わらず拒絶してもいた。

「ね、ねぇルディ……」
 ロビーに点在する生徒たちを掻き分け、岩倉が巨体を揺らしながらやってきた。
「どうしました?」
「こ、これなんだけど……どうかな……」
 岩倉は携帯電話の液晶画面をルディに見せた。それは京都のタウン情報だった。
「昨日言ってた戦霊祭……」
「あぁ……御所でやるやつ?」
「うん……詳しく調べてみたんだけど、総理大臣とか中国の共産党幹部とか、なんか凄い人たちがいっぱい来るんだよね」
 岩倉のもたらした情報は新鮮ではあったが、リューティガーはその破壊がFOTの目的だと断定できなかった。だがしかし、テロの標的としての可能性は大きい。川島の指示で移動を始めながら、彼はどうしたものかと考え続けた。
「ガンちゃん……なんだいその戦霊祭って……」
 地下駐車場への階段を下りながら、遼は岩倉にそう尋ねた。
「仮皇居で今日やるんだよ。戦没者の慰霊祭だって……皇族だけじゃなくって、大臣とか外国の要人とかたくさん来るんだよ」
 新聞こそ読んでいたものの、テレビもなく、情報に乏しい生活を送っていた遼は、その行事の存在をまったく知らなかった。彼は衝撃を受け、足を止めて手すりに寄りかかってしまった。

 戦霊祭……だって……仮皇居……

 まさか理佳に託された任務は、そんな重要な祭事に絡んでいるのか。FOTの作戦だとすれば、要人暗殺の可能性もある。料亭「いなば」での惨事に立ち会った遼は、あのような破壊と殺戮が仮皇居で行われ、それに彼女が参加すると想像しただけでぞっとなり、心配する岩倉に返事もできぬまま何度も瞬いた。

 い、いや……そうと決まったわけじゃない……そうと……

 無理矢理な解釈ではあったが、その逃避は彼の精神的な失調をある程度回復させた。ゆっくりとした足取りで階段を下りながら、遼はどうするべきか迷い、いまはただ皆の流れに身を任せるしかなかった。

 地下駐車場のバスに荷物を預けたB組一行は、烏丸通に出て綾小路通へ曲がっていった。細い路地は見物に向かう観光客で既に溢れかえり、先行していたA組の生徒たちが前に進めず立ち往生となってしまい、周囲の人々も学生服の団体に眉を顰めていた。
 松永先生が言っていたように、これは早々に諦めて引き返したほうがいい。B組の先頭で立ち止まった川島はそう判断し、指示を待つことにして生徒たちを見渡した。
 要注意人物である島守遼は、なにやら顔色も悪く疲れきっている様子である。それはそうだろう、朝までカラオケだったのだから。川島は嘘にすっかり騙され、ともかくあそこまでの不調ならふらふらとはぐれることもないかと安心した。

 午前九時十五分。見物客の歓声とどよめきが、突如悲鳴に転じた。

 川島は何事かと綾小路通を振り返り、A組の生徒たちがこちらに向かって駆けてくる光景に首を傾げた。あの先でなにか起きたのか、それにしても尋常ではない混乱ぶりである。
「ど、どうしたんだお前たち!!」
 A組の一人に川島が尋ねると、その女子生徒は「わ、わかりません……前の人たちが引き返してきたから……」と、要領を得ない言葉を返した。ともかく、新町通へ向かっていた人の流れは突如として烏丸通へと逆流し、やがて悲鳴に混じって銃声と爆発音が聴こえてきた。
 田埜綾花(たの あやか)は口元を手で覆い、その場に座り込んでしまった。耳を塞ぎ、顔を真っ青にしてやはり座り込んだのは杉本香奈だった。いずれも教室ジャック事件で銃声に恐怖を植え付けられた生徒たちであり、硬直し緊張したのはB組のほぼ全員だった。
 後ろの烏丸通も人が溢れ返り、とてもではないが逆流にされるがままといった具合にはいかなかった。前方からは人の大波、背後も結局は人の海。生徒達はそれらに挟まれ、窮屈な路地で立ち往生するしかなかった。

 だがそんな混乱と停滞の中、動き出す四つの影があった。速やかに、まるで事が起きるのを知っていたかのように、その四人はいずれも険しさを表情に浮かべ、人の濁流に逆らい新町通を目指した。

 一人は栗色の髪を揺らし凛とした意を発し、一人は両手をポケットに突っ込み、前のめりの姿勢で目つきも鋭く、一人はワイシャツの第一ボタンを留め直し、太い眉をきりりと吊り上げ、一人は三人に遅れないよう、太鼓腹を邪魔と感じながら急ぎ足で。
 四人の男子は躊躇することなく、それだけに川島も彼らの淀みない挙動に気づくことはなかった。
 ただ一人、神崎はるみだけが四人の後姿をはっきりと目で追っていた。そうか、やはりそうだったのか。偉丈夫の彼が栗色の髪と歩きながら言葉を交わしている後姿を見て、少女は事情を呑み込み、四人がどこへなにをしに向かおうとしているか理解した。

 戦うんだ……みんな……四人で……

 気づいてしまった。これまで闇の中、自分の察知できない場所での戦いだったがいまは違う。最初に遭遇したのは教室ジャックで、その次は雪の日の高輪だったが、あのころの自分は何も知らず、どうしていいのかもわからなかった。

 だけど、いまは違う。

 身体が自然と前へ傾いた。自分になにができるというのか。けど、関わっていかなければならない。いや、これはひょっとすると踏みとどまる最後のチャンスなのかもしれない。
 悩んでいるうちに、四人の後姿は路地の向こうへと、人ごみの中へ小さくなっていった。

 未練でもいい。違う。そうじゃない。そんなのではなく、いや、未練でもいい。見失ったらきっと後悔する。

 そんな突き動かされる気持ちに身を任せ、はるみも流れに逆らって歩き出した。

 四人の少年と一人の少女は、悲鳴と絶叫の中、新町通の交差点を目指した。その先に待つものは、おそらく狂気であろう。普通の人々なら立ち向かう必要のない凄惨なる現場である。だが彼らは程度の差こそあれもう慣れていたし、もやもやとわからなかった敵の企みが明確になる可能性もあったので、その点においては期待する前向きな気分でもあった。

 新町通までやってきたリューティガーは、後ろからくる三人を手で制し、曲がり角に身体を潜めた。
「ど、どうしたルディ……」
 遼の問いに、リューティガーは彼の手を握り返し、自分が遠透視している光景を読み取らせた。
 新町通を北上し、四条通と交差する路地の出口部分に、屋根を吹き飛ばされ、変わり果てた姿となった放下鉾が鎮座していた。長さ二十メートルもの巨大な鉾と屋根の残骸は四条通に散乱し、地上から五メートル以上の高さにある、櫓状の囃子方のためのスペースにはたった一人の男の姿しかなく、撃ち殺された曳子(ひきこ)や警官の死体があちこちに転がっていた。見物客が放下鉾を中心に散るように逃げていることから、あの二階部分で陣取る男がこの凶行の中心人物であることは明白である。

 な、なんだ……あいつは……

 光景に愕然としながらも、遼は岩倉と高川の身体に触れ、視覚した光景を共有した。屋根がなくなったため、山車の屋上部分となっていたそこに陣取っていた男は、ガンベルトをたすき掛けしている以外はまったくの全裸であり、両手には機関銃を持ち、足元には手榴弾や弾薬を詰め込んだスポーツバッグが置かれていた。髪は肩まで伸ばし、目は血走り口元からは涎を垂らし、なによりも彼の男そのものが天に向かって突き上がっていた。とてもではないがまともな囃子方ではないのは明らかである。
 放下鉾の背後、新町通の更に北側からは煙が立ち上っていた。おそらくは手榴弾による破壊である。商店の一部からも煙が上り、機関銃が火を噴くたびに、見物客や関係者、警官が次々と倒れ、生き残った者がその銃弾から速やかに逃れるには、あまりにも人が溢れすぎていた。

 なんと破廉恥な……あやつがFOTのテロリストか……!!

 前代未聞の全裸テロリストに対し、高川の正義に火がついた。しかしあくまでも冷静なリューティガーは険しい表情のまま、遼を通して自分の考えを仲間たちに広げた。

 これは陽動です……本命は別にあると思われます……

 どういうことだルディ!? あれほどの破壊が囮だと!?

 そうです高川くん……あいつの名は“全裸スター・きよし”といって、第二次ファクト時代の騒乱専門の陽動要員です……同盟のリストで一度チェックしました……

 だ、だから全裸なんだ……め、目立つからかな?

 ガンちゃんの言うとおり……あいつはあの珍奇なスタイルで警備の目を引くのを得意としていました……

 それにしても異様な光景だった。四条通に面する新町通に陣取った、もと全裸スター、現エロジャッシュ・高知は卑猥な笑みを浮かべ、機関銃のマガジンを交換し、背後から近づいてきた機動隊員を射殺し、手榴弾を投擲した。

 爆発は、山車の一つであり、放下鉾のちょうど後ろに位置する南観音山を完全に破壊した。すでに囃子方は逃げていたが、警官隊が鎮圧の隠れ蓑として利用しようとしたそれは砕け散り、更なる悲鳴と笑い声が響いた。

 リューティガーの遠透視は、四条通でわが子を抱きかかえ、泣き叫ぶ母親の姿を遼に知覚させた。

 それを見て、彼はなにかがわかったような気がした。もうあの子は死んでいるし、放下鉾から見通しのよいあのような場所で慟哭するのなら、それは格好の標的である。

 ああ……そうか……理佳ちゃんは……なら……俺も……

 なぜ昨晩、彼女から身体を預けてきたのか、遼はなんとなくだが理解することができた。それは哀しさを伴う気づきだったが、鼓膜を震わせる銃声と笑い声が彼の背中を後押しした。
 いまはできることを、やりたいと思うことを全力で行うべきである。それが蜷河理佳への真っ直ぐな証しとなるはずである。遼は仲間たちから身体を離し、強く顎を引いて表情を険しくした。
「真錠……おそらく……本命は戦霊祭の妨害だ……」
 確信に満ちた遼の言葉に、だが高川が首を横に振った。
「なぜそう言いきれる島守!!」
「証拠はない……そ、そう……これは……予感みたいなものだ……」
 情報の入手方法を知られるわけにはいかなかった。しかし高川の疑問も当然である。遼はすっかり言葉に詰まってしまい、どう説得するか悩んだ。
「いや……なら……御所に向かおう……」
 素っ気なくそう言ったのはリューティガーであり、喧騒の中、三人は彼に注目した。
「遼の予感は……あり得なくもないし……僕を“真錠”って呼ぶときの君は信用できる……」
 反論の余地がありすぎる発言ではあったものの、辛らつな口調に三人は言葉を返すことができなかった。
「高川くんにガンちゃん……ここは二人に任せます……被害者の救助でもいい、あいつを倒せるのならそうしてもいい……とにかくあまり目立たず、この事態に対応してください」
「か、かまわんが……ルディはどうするつもりなのだ?」
「僕は遼と御所……仮皇居に跳びます。警備の注意がこちらに向いているこのタイミング……本体が逃すはずがありません……」
 そう告げたリューティガーは遼の手を引き、辺りを見渡してビル内の駐車場へと向かった。
「た、高川くん……僕たちでどうにかしろって……」
 すっかり曲がり角に取り残されてしくまった岩倉は、高川に困り顔を向けた。
「ガンちゃん……鉄砲は……?」
「も、もってきてないよ……持ち物検査だってあると思ってたし……通信機しかないよ……」
「そうか……俺もこれを持ってきただけだ……」
 高川は鞄から、黒い仮面を取り出した。
「もっとも……俺には完命流(かんめいりゅう)がある……しかし……あの火力では……どうやって近づく……!?」
 角から四条通を覗いた高川は、やってきた救急車が電柱に激突し、新たに被害が広がっている事実に下唇を強く噛んだ。
「接近すれば……奴の後ろさえ取れれば……制圧は可能だが……」
「な、なに言ってるんだよ高川くん。警官だって撃ち殺されてるんだ。それに弾丸のスピードはとても避けられるものじゃない……」
「しかしな……」
「怪我人を助けようよ。倒れている人を安全な場所まで引っ張ったり……」
 そう言いながら高川の上から頭を出した岩倉は、先ほど泣き叫んでいた母親が、わが子を抱えたまま絶命しているのを丸い目で認め、呻き声をもらした。
「どうするか、考えてるんだ……?」
 突然の声に、岩倉と高川は振り返った。なぜ彼女が。後を追ってきた意外なる少女に、二人はわが目を疑った。
「は、はるみさん……なぜ……!?」
「だ、だめだよ。この角の向こうには武装したテロリストがいるんだ。丸裸の……はるみちゃんはみんなのところに戻らないと……!!」
 逃げ惑う人々を背後に、両の拳を握り締めたはるみは大きく首を横に振った。
「じゃあなんであなたたちもそうしないの?」
「我々は……対抗するに足る戦力があるからだ……経験もな……」
「けど……どうしていいか決めあぐねてる……」
 強引な挙動で、はるみは角から頭を出し、高知の凶行を目撃した。

 興奮している。先ほどから心臓の鼓動が早くなっているのがわかる。けど、なんとなくだがどうすればいいかわかるような気もする。少女に姉のような「異なる力」はなかったが、自覚できるだけの何かがあることに、彼女は気付きつつあった。

 教室ジャックの際、獣人に啖呵を切った際も、なんとか切り抜けられる自信のようなものがあった。根拠などはない。だが確実にわかってしまえるのだ。そう、例えばこの状況であれば、狭い新町通の、放下鉾が鎮座するその左には三階建ての立体駐車場がある。あそこまで辿り着ければ、全裸のテロリストに対することもできるはずだ。
「危ない!!」
 高川が背後から肩を掴んできたが、はるみはそれを手で払いどけ、強い意を二人に向けた。
「はるみちゃん……見たでしょ。あいつは八年前のテロリストの残党なんだ。危険な奴なんだよ……」
 岩倉に言われずとも、それはなんとなく理解できるはるみだった。八年前、姉はあのような連中と戦っていたのだろうか。それはわからなかったが、もう傍観しているだけの自分は嫌だった。

 四条通に転がる死体は、山鉾の巡行を楽しみに来たごく普通の市民をはじめ、この日のために準備を重ねた関係者や職務に忠実な警官たちである。そんな悪意のない人々を凶弾でなぎ倒し、笑い声を上げるあのような者を決して許すことはできない。

 立ち向かえる度胸がある。どうすればいいのか、冷静に判断することもできる。少女の自覚は確信へ高まろうとしていた。

「警察も撃たれてるし、このままじゃ被害者が増えるだけ。高川くん……ガンちゃん……わたしがこれから言うこと、できるかな? 止めないと……あんなやつ……絶対に……!!」
 強い意志を込められた少女の瞳に、少年たちは圧倒された。彼女に従えば、あるいはこの殺戮を止めることができるかもしれない。そう信じ込んでしまうほどの凛然さに満ちていた。


 薄暗い屋内駐車場につれて来られた遼は、手を引くリューティガーに素朴な疑問を意識した。

 な、なぁ……お前って……仮皇居って行ったことあったっけ?

 まだない……

 それで跳べるのかよ……

 大体の場所はわかってるから……ある方法を使えば問題はないさ……

 ある方法……?

 更なる疑問を抱いた次の瞬間、遼の姿は駐車場から消え、その直後にリューティガーも空間へ跳び、突風がつむじを巻いた。

7.
 頬を撫でるこの感触はなんだ。足の裏に接地感がまったくなく、ただ落っこちていくこの速さはなんだ。一体なにが起きたのか。島守遼は数瞬して、自分が空中に放り出された事実に気がついた。
 叫び声が漏れそうになった彼の真下で栗色の髪が激しくなびき、その手がすっと伸びてきた。

 眼前に広がる青い空が真っ暗な闇に変わり、全身に痺れを感じた直後、今度は草木の臭いが嗅覚を刺激した。足の裏に感覚はあったが、突然の出現にバランスは崩れ、倒れそうになった彼の腰を、リューティガーが掴んだ。
「ル、ルディ……」
「ごめん……知らない場所に行くには、上空高くに跳んで目視の後に再度の跳躍……この方法が一番早いんだ……」
 どうやら自分たちは、巨木の幹と枝の隙間にいるようである。周囲を見渡した遼はこの辺りが林になっていて、地面には石畳と砂利が敷き詰められていることから、ここがどこであるのかを理解した。
「せ、説明ぐらいしてくれよな……!!」
 太い枝ではあったが、足元がどうにも頼りない。太い幹の先から別の枝が伸びているのに気づいた遼は、手を挙げてそれを掴み、腰を幹に当てて全身を安定させ、隣で静かにしゃがんでいたリューティガーに感心した。
「よくそんな枝の上で、安定してるなぁ……」
「森林戦の訓練も受けてるからね。それに、もし落ちても跳べばいいって開き直りもある。それより……」
 リューティガーはポケットから透明な一本の光学繊維のようなものを取り出し、その先を遼へ向けた。
「もう敷地内だ。警備もある……聞こえては事だ……」
「あ、ああ……」
 突き出された先端を握り締めた遼は、自分が落ち着きを取り戻しつつある事実に気づき、それにしても以前と比較して度胸がついたものだと思った。

 これから……周囲全体を遠透視する……まだ異変は起きていないようだけど……あれか……

 リューティガーの思考が、透明な細い糸を通じて遼に伝わってきた。それは視覚情報も同時であり、少し離れた皇宮の中に、皇族や政府関係者、アジア諸国の要人が座っているがよくわかった。
 新聞でしか見たことのない、だがよく知っている顔がいくつも並んでいる。とんでもない現場に来てしまった現実に、遼は眩暈を起こして巨木から落ちないように意識をしっかりと引き締めた。

 しかし……ここにいて……警備に気づかれないのか……?

 物音を立てたり、枝を落としたりしたら危ないけど……こうした開かれた場所を警備する場合、まず異分子の侵入に対して注意を向けるのが普通だ……跳躍で懐の中に入り込んだ者なんて……そもそもそんな事態は想定していない……静かにしてればたぶん大丈夫だ……

 なるほどね……で、どうだ……

 まだだ……さて……どうだ……

 視覚情報が遠景になったり、ある箇所ではズームになったりしたので、それを制御していない遼は酔ってしまいそうになり、光学繊維を枝にくくりつけてひと休みした。

 理佳ちゃんは……なにをするつもりだ……

 この栗色の髪をした非情なる奴に、彼女がFOTの一員であることは絶対に知られてはならない。如何なる事態においてもそれは最も優先されるべき隠匿事項である。だが、その結果テロ行為を黙認、あるいは手助けするような状況になった際、自分はどうすればいいのだろうか。戦うのか、この跳躍能力者と。いや違う。彼女はそれを望んでいない。信じる者同士が正しさをぶつけあわせるしかないのだ。ならばテロは阻止する。同時に彼女も守ってみせる。矛盾した覚悟ではあったが、もうすでに刃物の上に立っているのと変わらないと思える。
 もし理佳がこの戦霊祭に対するテロに参加しているのなら、このリューティガーが遠透視している段階で姿が発見される可能性もあるのだ。だから酔ってしまいそうだと拒絶はできない。遼は結んだ繊維をほどき、視覚情報を再び受け入れることにした。

 どうする……もし……あからさまな姿が見えたら……例えば……狙撃体勢とかだったら……言い訳はきかない……

 それは考えられうる危険性だった。蜷河理佳の発見は、その様子によって結果が大きく異なるはずだ。もしただ単に佇んでいるだけなら、それは偶然として片付けてしまうこともできるし、うまくすれば昨晩の嘘をうまく混ぜ合わせ、実は恋人と再会してたんだと笑い話として打ち明けることもできる。だがもしテロへの主体的な準備をしている、あるいは実行しようとしている姿であれば、リューティガーは迷うことなく彼女を殺すために跳躍するはずである。こいつはそういう非情な奴だ。

 あまり明確に、強く考えればそれは繊維を通して伝わってしまう。遼はすっかり困り果て、額からの汗を鬱陶しく感じた。

 少女の宣言から、五分ばかりの時間が経過した。悲鳴と喧騒はすっかり遠ざかり、四条新町で機関銃を構えるテロリストの周辺に、生きる者の姿はほとんどなくなっていた。
「俺はエロジャッシュ・高知!! 八年振りの娑婆だ!! たっぷり暴れてやるぜぇ!! でもって女はいねーのかよ!! このステージで俺とショーしない!? 伝統文化たっぷりのお立ち台で、俺のイチモツもすっかりおっ立ってるぜぇぇ!!」
 囃子方と曳く者を、屋根と鉾を、それぞれ失った無残な山車の上で高知は叫んだ後、腰を何度も前後させ、乾いた銃声を鳴り響せた。
「地下を通って四条通を抜けましょう……で……あの左手の立体駐車場まで行きましょう……あいつの死角から入れる場所はいくらでもあるはずだし……」
 コンパクトで四条新町の光景を映したはるみは、岩倉と高川にそう説明をした。
「で……一階でわたしとガンちゃんで陽動して、あの男の注意を向かせる……いいガンちゃん?」
「う、うん……」
 いざとなったら自分が盾になってでも彼女を守ってみせる。そう決意した岩倉は大きく頷いた。
「高川くんは先に上の階……三階がいいわ……あいつの上をとれるから……そこで待機して、注意がこっちへ向いた隙に山車に飛び移って奇襲する……どう?」
「うむ……ガンちゃん……はるみさんのことは頼んだぞ……」
「もちろん……銃声には慣れてるから……びびらないように頑張る……!!」
 はるみは肩を叩き合う高川たちの背後に、血まみれで呻き声を上げる被害者の姿を見た。ハンカチでその傷口を拭いてあげている者、しっかりしろと声をかけている者もいる。同級生たちに声をかけ、ホテルに戻ろうと促している針越(はりこし)の姿も見える。川島先生も辺りを見渡して、いつもは眠そうな目をいまはしっかりと見開いている。
 皆、それぞれできることがある。自分にとってのそれがこれだと思える。落ち着いて状況を判断し、行動できる仲間にそれを伝える。銃声は恐い。血の臭いも好きではない。けど、心は妙に落ち着いている。姉がもしテロリストたちと戦っていたのなら、同じような気持ちだったのかもしれない。もしこれでうまくいくようなら勇気をもって尋ねてみよう。はるみはハンカチで額の汗を拭い、岩倉と高川を従え、四条烏丸の地下鉄駅南側入り口を目指した。
 ここもまた、パニックの現場であった。怪我人が運び込まれ、救急隊員たちが手当てをする場所が改札のすぐ脇に設けられ、そこからは呻き声が重なるように聴こえてきた。はるみは顔をしかめ、南から北、つまり四条通を横切る形で人ごみを掻き分けながら進み、やがてその先頭は巨漢の岩倉と屈強な高川が務めることになった。
 北側出口へ抜ける階段の途中にも、手当ての間に合わぬ怪我人たちや、おそらくはすでに死亡したと思われる遺体が横になっていた。少女は心の中で手を合わせ、こうなってしまった元凶に対する激しい怒りを覚えた。

 絶対にゆるさない……お祭りを見にきただけなのに……どんな理由だって正しくない……あいつは……間違ってる……!!

 四条通を向いている高知のちょうど背後に位置する、錦小路通までやってきた三人は、錦小路新町の交差点で立ち止まり息を潜めた。眼前には破壊された山車の残骸が散乱し、警官たちの死体や、吹き飛ばされた手足が転がっていた。はるみは臭気に口を手で覆い、正気を保つために岩倉の柔らかい太鼓腹に背中をつけた。

 あの人……爪……切ってない……

 天に向かって伸びる手の、その肘から先だけが山車の瓦礫の向こうに見えた。
 あまりにも凄惨な現場で、次第に心が落ち着ついていくのが不思議だった。力強い二人がいるからか、それとも怒りが勝っているからなのか。少女は臭気のため深呼吸できないこの状況に対して、戦いとはこうしたものだと割り切るしかなかった。あらゆる希望や欲求を抑え込み、敵を倒すまでそれが続く。どこか芝居の本番に近い気もするが、本当のところはよくわからない。
 手榴弾によって破壊された文房具店から火災が発生し、鎮火されることがなかったため、火災報知機のサイレンが新町通に虚しく響いていた。
「好都合だなガンちゃん……この煙……騒音……」
「だね……けど……どのタイミングで駐車場に入る?」
 この交差点から放下鉾が鎮座する四条通側の出口までは百メートルほどの距離がある。煙とサイレンに乗じて接近するにしても、目ざとい高知に対してそれは容易といえなかった。はるみは角から様子を窺いつつ思考を巡らせ、「次の発砲……そのタイミングであのそこの裏口へ向かいましょう……高川くん、わたし、ガンちゃんの順番で……」と指示を出し、それに異を唱える二人ではなかった。
「だから、火力が違うっつってんだろ!!」
 叫ぶのと同時に高知は両手に持った機関銃を発射し、櫓の中で薬莢が踊った。このタイミングしかない。男が四条通、つまり前方へ注意を向けているその隙に、三人は煙に包まれた新町通を駆け抜け、裏側から立体駐車場へ入った。
 予想通り、車は残されていたもののそこに人気はなかった。高川は階段を探し出すと三階へと駆け上り、はるみと岩倉は放下鉾の巨大な車輪が窺える、新町通に面した壁側に向かった。
 この潜伏は長続きしない。四条通にも面した正面側には遮蔽物が一切なかったため、高知だけではなくいずれは警官隊にもこちらの存在を察知される。はるみは急ぐ必要があると判断し、自分がすっかり興奮している事実には気づかないでいた。
 壁の高い場所に位置した窓ガラスが割れていた。頭を外に出さなくともここから大声を出せば、櫓に陣取る高知にはじゅうぶん聞こえるはずであるし、演劇部で鍛えた声量をもってすれば造作もない。はるみは大きく息を吸い込み、腹に力を入れた。岩倉は彼女の意図を察し、いつでも銃弾の盾になれるよう、その傍で身構えた。
「神崎まりかの妹!! 神崎はるみが来てあげたわ!! このテロリストめ!!」
 機関銃のマガジンを交換した高知は、足元から聞こえてきた少女の声と言葉の内容に小さな目を見開き、「神崎……まりかだとぉ……」とつぶやいた。
 忘れもしない八年前、あの鹿妻新島の本部が神崎まりかとその一党に襲撃された際、地下二階の廊下で生まれたままの姿で待ち構え、一戦を交えようとウォーミングアップも完了していたあの決戦の日を。だが三人の少女はすっかり素通りしていき、あまりの気迫に怯え上がり縮み込み、すっかり役立たずになっていた苦い思い出が、昨日のことのように高知の脳裏に蘇った。

「まりか……まりか……はは……あぁ……懐かしい名だなぁ……ちらりと見かけただけだったが……気の強そうないい女だった……やりたかったなぁ……あの小娘とは……ぜひなぁ……」
 やはりそうなのか。一階壁に潜んでいたため高知の姿こそ見えなかったが、その言葉はじゅうぶん聞き取ることができるはるみである。姉は八年前、ファクト機関と戦っていた。ぼんやりとした予想だったが、この日意外な形でそれは事実として認識された。

 なんて……こったい……おい……おいおいおいおい……!?

 高知は自分の男そのものが、いつの間にかすっかりと縮み込んでしまっている事実に戦慄した。これでは八年前と同じではないか。叫んだのは妹であって、血まみれのリボンを手にしたあいつではない。なのに身体が恐怖を覚えていたということか、記憶は薄れることなく鮮明なままだったということか。
 しかしこんな縮み込み方はエロの名に相応しくない。隆々と、いつだって突出した男ぶりを見せてこその改名である。どうしていいのか男はうろたえ、股間を押さえて全身をくねらせていた。

 戦場の中にいて、戦いを忘れたテロリストの背後に、黒い仮面の男子学生が降ってきた。

 できるか……しかし……あれを使うしかない……!!

 立体駐車場の三階から櫓に向かって飛び降りた高川典之は、着地と同時に高知の右肘を取り、同時に左の裏ひざを足の先で押し込み、彼の上体を仰向けにさせた。

 なんだこの黒い仮面は。なぜこんな男がいきなり背後に現れたのだ。高知は急転した事態に困惑し、左足の骨を折られた苦痛に顔を歪めた。
 胸のくぼみに黒仮面の右肘が突き落とされ、そのあまりにも強烈な一撃に高知の全身は麻痺し、遂にその場へと崩れ落ちてしまった。
「完命流……牙命砕(がめいさい)……関節を固定し……正中線への強烈なる一撃により敵を粉砕する……致命的な油断であったな……テロリストめ!!」
「か、完命……流……だと……」
 その古流武術の名は耳にしたことがある。しかしいつどこで知ったのかも思い出せないまま、エロジャッシュ・高知の意識は失われた。
 長居は無用だ。この光景すら仲間以外の誰かに目撃されているかもしれない。仮面の高川は櫓から巨大な車輪へ飛び降り、更に地上へと着地した。
「やりましたぞはるみさん……悪のテロリストはこの手で倒しました!!」
 偉丈夫の頼もしい言葉にはるみと岩倉は頷き、三人はできるだけ煙の濃い、目撃されづらい方向へと駆け出していった。

「ばっかやろう……せっかく逃走ルートも用意したのによ……」
 四条通沿いの雑居ビルの屋上で、望遠鏡を覗き込んでいた夢の長助がそうつぶやいた。
 気を失った高知は到着した機動隊員たちによって包囲されてしまい、遂には盾で押しつぶされ、縄で縛られる結果となった。長助は望遠鏡を下ろし、腕時計を見た。

 そろそろだな……陽動は成功……あとはお前次第だ……理佳……迷うなよ……

 パーマ頭が夏の熱風に揺れ、いつまでもここで覗き見をしているわけにもいかないと、男はその場から立ち去った。


 木の枝で、緊張の時を遼は過ごしていた。手にしていた光学繊維により、傍らで遠透視を続けるリューティガーの知覚した光景は全て共有することができている。もしそこで理佳を、それもテロの準備を進めている彼女が見えた場合、自分は果たしてどうすればよいのか、だがその結論はまだ出せずにいた。
 目まぐるしく移り変わっていた光景が、やがて南の堺町御門の一箇所に固定された。

 どうしたルディ……?

 いや……警備の警官隊の様子がおかしい……

 言われてみると、門を警備していた警官たちが、なにやら緊張した様子で言葉を交わしているのがよくわかる。怒鳴りあっているようでもあり、その注意は完全に互いへと向けられてしまい、本来見張るべき南の丸田町通りへの警備は少しだけ手薄になってしまった。
 すると次の瞬間、爆発が光景いっぱいに広がった。
 轟音が聞こえる。堺町御門で何らかの爆発騒ぎがあったようで、リューティガーは「ロケット弾だ……!!」と、判断を言葉にした。

 ロケット弾って……?

 大きさからして、個人で持ち運べるサイズのものだ……警官の対応が完全に遅れた……となると……

 リューティガーは腰を上げ、西の蛤御門へと頭を向けた。

 警備の注意はすべて南に向かっているというのになぜ西を、遼が不思議に思うと、今度はその蛤御門で爆発が起こった。

 また……ロケットか!?

 違う……軌道がない……手榴弾だ!!

 南と比較すると、若干だが小さな爆発ではあった。リューティガーが遠透視し、ズームアップされた光景には、うつ伏せになって倒れる警官の姿があった。

 どうすんだよ……!?

 まって遼……あれだ!!

 タンクトップに迷彩ズボン、手にアサルトライフルを構えた白人の男が、蛤御門に向かって突撃した。爆風の混乱を抜けた彼はライフルを乱射し、手榴弾を投げ、すっかり対応の遅れた警備の警官や機動隊を圧倒していた。

 やつを追い続ける……やれるか遼!!

 どう見ても人間である。獣人や化け物の類ではない。しかし先ほどの全裸男と同様、実にわかりやすいテロリストでもある。

 あ、ああ……やってみる……!!

 人殺しはできることならやりたくはなかったが、次々と射殺される警官を見た遼は、仕方ないと決意した。


 南方開発ゼットビル十五階。がらんとしたオフィスの一角で、ライフルを構えて寝そべる蜷河理佳の姿があった。前方のガラスはすでに丸く切り落とされ、銃口を阻むものはなにもない。彼女はスコープ越しにただ一点の石畳を見つめ、そこに標的が現れるのをじっと待っていた。
 あと数秒で、ジャレッド・バークリーがスコープに入る手はずだ。その腰に提げられた爆薬を狙撃することで、この半年以上にも亘って準備された任務は完了する。
 長期にわたる暗示と洗脳により、ジャレッドは皇族への直接テロによって人生を変えられると信じ込んだ狂人と化している。
 しかしその目的を完遂させては元も子もない。警備の者がうまくジャレッドを阻止できればそれでもいいのだが、本来の航空整備員ではなく、復讐に立ち上がった屈強な陸戦兵士だと思いこんでいる彼は、技術よりも勇気と狂気、そして洗脳過程で仙波春樹がその取り扱いを教え込んだ圧倒的な火力をもって、警官たちを圧倒することだろう。もちろん、数に勝る機動隊がジャレッドを制圧するのは目に見えていたが、スコープに映る蛤御門近くの狙撃ポイントまでは辿り着くはずである。

 時限装置ではポイントを絞ることができず、洗脳しているとは言え、自爆を確実に刷り込むのは難しい。リモコンは電波障害や探知を考えるとやはり不安が残る。
 なによりも理佳の腕と経験を考慮すれば、実はこの狙撃による爆破がもっとも確実で安全なる任務の遂行手段である。それだけに外せない。この一射は。

 派手に爆死させてみせる。証拠を残さず洗脳の事実も隠蔽し、事件のインパクトをいっそう強くしてみせる。引き金に人差し指をかけたまま、少女は呼吸を整え、床についた胸が邪魔だと感じた。

 昨晩、強く、優しく扱われた胸だった。けど、いまはいらない。

 そう思ってしまうことに、理佳は奇妙な違和感を覚え、心が醒めていくのを感じた。

 なに……やってるんだ……わたし……
 
 二人の警官を射殺し、誰もいないビルの一室で狙撃体勢に入り、彼が喜んでくれた身体の一部を邪魔に思ってしまっている。

 ジャレッドを……爆弾を……撃つ……初速調整は完璧……風向きも予定通り……あの外人を……殺す……

 だが、引き金に当てた人差し指は、石のように固まっていた。これではまるで故障した機械のようである。だから、スコープに標的が入っても、彼女は狙撃するタイミングを逸してしまった。プレゼントの帽子を身につけていたのに、いや、だからこそか。


 なにやってるんだ遼!! どうした!? やるんだ!!

 アサルトライフルを乱射しながら突撃するジャレッドをじっと遠透視で捉えながら、リューティガーはその暴挙が止まらないことに遼の弱気さを疑った。

 いや、やってる!! さっきから何度も!!

 動脈の破壊は念じている。何度も何度も念じてはいる。しかし移動する標的の急所を仕留めることに失敗しているとしか思えない。もちろん、あの白人の体内では何箇所もの破壊が完了しているはずだが、極度の興奮状態にあるためか痛覚も麻痺しているようであり、こうなると自分の小さな力では限界がある。もっとゆっくりと、あるいは直線的に迫ってくる対象ならともかく、斜め上の俯瞰であり、走っているそれをカメラが追い続けるようなこの状況は、あまりにも高度な技術を遼に要求していた。

 だからやり続ける!!

 古川橋の瓦礫を軽石のように穴だらけにしたのと同様に、残酷でも破壊を念じ続ける遼だった。まずは動きを止める必要がある。そう判断した彼は、ジャレッドの足首に注意を向け、連続した破壊を念じた。

 屈強な肉体が、突如バランスを崩してその場に倒れた。どうやら腱を切断するのに成功したようである。その隙を見逃さず、機動隊員たちが転倒したジャレッド目掛けて殺到した。


 スコープの中で、ジャレッドは仰向けになり足首を抱えていた。これなら外すことはない。それに、もう彼の挑戦は終わってしまったようだ。なら指だっていくらでも動く。本当に終わらせるために、そしてすべてをはじめさせるために。

 理佳の放った弾丸は男の腰へ真っ直ぐに進み、やがて大きな爆発が起こった。

 機動隊員を何人か巻き込んだようだが、ともかく任務完了である。一時はどうなるかと焦りもしたが、ともかく転倒してくれたため再びスコープに収めることができ、狙撃は成功した。自分は運に恵まれているのか。しかしそんな考えを、少女はすぐに改めた。

 あ……そう……なんだ……

 何気なく動かしたスコープに、長身の彼氏と栗色の髪が見えた。理佳は吐き気がするのを堪えながら、すべてを理解した。なんということだろう。結局、“彼”が協力してくれたということか。気づかぬまま共同作業となってしまった事実に、少女は小さく笑みを浮かべ、だがその瞳はわずかに潤んでいた。


 な、なんだ……自爆……!? 自爆テロってやつか……?

 あ、ああ……そうだ……

 視覚した光景はあまりにも唐突かつ意外で、遼とリューティガーは呆然とするしかなかった。

 ありがとう遼……もしあの自爆をもっと奥でやられてたら……

 あ、ああ……そうだな……確かに……

 腱の切断により、あの白人は覚悟して起爆した。そう思うしかない二人であった。

8.
 祇園祭の銃撃事件に仮皇居での自爆テロ。同時に起きた歴史上に残る凶行ではあったが、だからといって修学旅行の予定や、新幹線の運行ダイヤが変更されるという結果にはならなかった。京都駅のホームには第二学年の生徒たちと引率の教師が誰一人として欠けることなく集合し、どうにも間延びしたスケジュールだと朝の段階では思っていた川島は、結果として状況を立て直すのにいいゆとりがあったと安堵していた。
 混乱は一時的に生徒たちにパニックを引き起こしたが、小口教諭の「ホテルに戻って!!」の一言が、全員に一定の目的を与えてくれたようであり、普段はハイミスで嫁の貰い手がいないと内心馬鹿にもしていたが、今後は一目を置くべきだと感心したし、ホテルに辿り着いた後の、松永主任のケアも素早く手際がよかった。自分もそれなりに活躍したと思う。特に怯えきっていた杉本香奈を引っ叩き、無理矢理生徒の波へ押し込んだ辺りは立派な仕事だったはずである。川島比呂志はやってきた「のぞみ」に息を漏らし、ともかくいろいろあったがこれに乗ればすべて終わると、清々しさすら感じていた。

「どこ行ってたんだよ。全然見当たらなかったぜ、お前」
 新幹線の座席に着いた遼は、隣の沢田喜三郎からそう尋ねられた。
「どこもなにも、なんか人に押されて大通り越えちゃってさ……高川とかガンちゃんとか……なんかすっげぇ大変だった」
 目の前で人が自爆し、殺到した機動隊員も死傷した光景は、いまも生々しさをもって遼の脳裏に焼きついていた。同盟本部より任務完了命令があったため、取りあえずは皆のところに戻ることになったが、入れ違いで陳師培(チェン・シーペイ)が京都に訪れ、調査は続行する段取りになっている。遼は腰を浮かせて栗色の髪を確認し、再び座席に深く座り直した。
 結局、蜷河理佳の姿を再び発見することはなかった。あの自爆テロや全裸の銃撃魔の事件に、彼女はいったいどのような関わり方をしていたのだろうか。もしかすると連絡係とか雑務といった穏やかな役割だったのかも知れない。そう思うと少しは気持ちも落ち着くが、さてこの奇妙な再会と鮮烈なる一夜をどう解釈していいのか、それについては結論が出ないままだった。

 すると、携帯電話に一通のメールが届いた。なんとなくある予感を胸に秘めながら、遼は二つ折りのそれを開けた。

 ありがとう。また。

 アドレスは以前とは異なるものの、それは理佳からの便りであった。「また」の部分を遼は素直に喜び、じっと液晶画面を見つめ続けていた。

 誰からの着信だろう。それともメールの確認をしているのか。神崎はるみはスポーツバッグを抱えて通路を歩きながら、遼の姿をちらりと横目で見た。
 強烈な体験だった。あのあと、岩倉はこの一件は三人だけの秘密にしよう。特にリューティガーには伝えてはならない。そう提案し、高川も納得してくれた。
 自分にあのような度胸と冷静さがあったとは。昔からなにかと土壇場に強いと言われ、幼少期のエジプト旅行で誘拐事件に巻き込まれた際も、あまり恐いと思わなかった経験もある。しかし今日のそれは、まるで戦場での出来事のようであり、銃声や悲鳴が鼓膜の裏側に張り付いているようだし、欠損した遺体も鮮明に記憶している。少女は座席に着くと手の震えを押さえ、大きく息を吐いた。

 現場の興奮はもうない。残っているのは凄惨さだけであり、それが高揚感を上回っていくのに、はるみはようやく気づいた。一人になりたい、隣に友達がいるのも耐え切れない。気持ちを整理したいのに、この賑やかさといったらなんだ。
 そもそも、あの橋の下で蜷河理佳を目撃したときからずっとこうだ。ひどい気分のままで、笑うことなんてすっかり忘れている。せめてマシなことを考えよう。
 そうだ。きっと何事も起きてやしない。不器用な二人のことだ。ずっと夜を共にしても、口付けぐらいならともかく、それ以上の進展なんてないはずだ。朝食のときに目を見てくれなかったのは、あれはきっと申し訳なさが先に立ったのか、テロリストの彼女からなにか情報を得て、それをいい出せなくて気まずくなったのに決まっている。まだ諦める必要なんてない。自分と彼は同じ車両にいる。けど理佳はいない。これだって立派な勝利じゃないのか。
 恐怖に負けないため、無理矢理考えるべき方向を切り替え、神崎はるみはそう楽観することで隣に座る和家屋瞳にも、なんとか笑みを向けることができた。


 鞍馬山山中、その地下深くにある施設のコントロールルームでは、中丸隊長をはじめとする迷彩服を着た部隊や、犬の頭をした異形の我犬をはじめ、つなぎ姿の作業員や研究員たちが歓声をあげ、褐色の肌をした少年、はばたきも中丸隊長の分厚い手を握った。
「成功……成功なんですね隊長!!」
「ああ成功さね……これでゴモラは完全に使える……起動実験は大成功、これもみんなが力を合わせた結果だよ」
 丸い眼鏡にコンソールランプの点滅を反射させ、中丸は人懐っこい笑みを浮かべた。
 よかった。これで東京に戻れる。主の待つ、あの部屋に帰ることができる。こないだの肉じゃがは最悪だったが、努力家のライフェ様のことだ、次はきっと美味しく作れるはずだ。そうなればますます共同生活は楽しくなる。コントロールルームのガラス越しに、震動を繰り返す巨大な円筒形のそれを見上げたはばたきは、任務の成功以上に真っ赤な髪をした少女のことばかりを考えていた。


「わかるかなぁアルちゃん……僕的にはね、君ちゃんにおねむして欲しいわけ……」
 前のめりに蹲る傷だらけの青年を見下ろし、ガイ・ブルースは唇の両端を吊り上げた。
「そうなれば自白ガスを使えるから……スンバらしいアイデアでしょ」
 相変わらず返事がない。しかしこれを告げれば沈黙はきっと破られるはずである。ガイは蛇革の靴の先で、形のいい青年の顎を軽く持ち上げた。
「御所での自爆テロ……ルディちゃんチームが阻止したよ……さっすがは弟ちゃん。見事な手際だよなぁ……いきなりの指示で、的確に阻止してくれた……くっっくっくっく!!」
 含み笑いはやがて大きく変化し、ガイはその両肩を上下させた。
「すっげぇ……悔しい……」
 ようやく返ってきた言葉に、ガイは笑いを止め耳を傾けた。
「悔しい……? へぇ……そーなの……?」
「当たり前だ……俺が囮になってまで仕掛けた作戦だ……要人もろとも木っ端微塵……人生……うまくいかねぇもんだな……」
 おかしい。こうも素直に悔しさを表現するような真実の人ではない。まさか、あの自爆テロすら陽動だったというのか。自らが投降するのが一重目で、全裸銃撃魔の発砲事件が二重目、そして自爆テロが三重目の、そこまで分厚い陽動をしたということなのか。ガイは直感に従い、青年から離れた。
「ふ、ふふ……どうにも……恐いね……君ちゃんって人は……」
「あー悔しい……すっげぇ悔しい……」
「なにが狙い……? う、ううん……もうどうでもいい……これ以上貴様ちゃんに振り回されるのはカンベンちゃんね……」
「せっかく半年以上も準備したのによー……ロケット弾だって調達に手間取ったんだぜ」
 ガイ・ブルースと真実の人。両者の意思は完全に遮断され、会話は成立していなかった。
「君達ちゃん……よっくここまで我慢したよね……けどそれもこれで最後……合図をしたら一斉射撃……いいね……」
 殺してしまえ。自白などますます混乱させられるだけである。ついついこの青年のしゃれっ気に付き合い無粋な真似は避けていたが、時にはこうした一方的な暴力が必要である。ガイは経験上それをよく知っていた。
 振り上げられた手が降りるその直前、黄土色をした布が青年の頭上に出現し、同時に背の高い、やはり黄土色のフード付のコートを着込んだ女性が空間に出現した。
「誰ちゃん!?」
 手を振り下ろすのと同時に、ガイは女性に向かって叫んだ。光線が彼女と布にすっぽりと包まれた青年に殺到したが、それは貫通することなく、すべてがコートと布に吸い込まれていった。
「吸収素材……か……」
 監視兵たちも着用している、それは光学兵器をすべて無効にする防御手段だった。
「ごめんなさい……まだまだ彼は死なせられないの……じゃあね」
 フードを目深に被った女性は、そう告げると青年と共に忽然と姿を消した。旋風だけが尋問部屋に残され、呆然としたガイは背中を扉につけた。
「吸収素材の開発は……紅西社……そして跳躍……劉慧娜(リウ・ヒュイナ)……か……」
 事実上の宣戦布告である。自由主義の利益維持と防衛を目的とする賢人同盟にとって、中国方面の下部組織である紅西社の反乱は一大事であり、真実の人を取り逃がしたことよりずっと重大な問題である。着任早々、これはひどい事態に出くわしてしまったとガイは口元をわなわなと歪め、だがそれはそれで面白い。なによりもあの興味深い青年を殺さずに済んだのは、後の楽しみが増えて嬉しいと舌なめずりをした。

9.
 米海兵隊員、戦霊祭にて自爆テロ 機動隊員一名が死亡 要人に怪我はなし 京都

 十七日午前九時半ごろ、戦没者を慰霊する戦霊祭が行われる中、御所堺町御門で爆発が起こり、その直後蛤御門でも爆発、ライフルを持った男が御所へ発砲をしながら乱入した。男は機動隊員によってただちに取り押さえられたが爆発物によって自爆。これにより機動隊員が一名死亡、五名が重軽傷を負った。戦霊祭に集まった要人に怪我はなかったが、堺町御門と蛤御門は破壊され、石畳や樹木などが爆発によって被害を受けた。
 乱入した男は米海兵隊所属、岩国基地勤務のジャレッド・バークリー(38)。司法解剖の後、海兵隊より遺体の引き渡し要求があったものの、京都府警は一時これを拒絶、しかし午後五時、引き渡された。
 京都府警の調べによると、南門の爆発はロケット弾によるもので、ライトバンに自動発射装置が発見された。このライトバンについても現在調査中。政府は米軍に対して強く抗議したものの、米軍側のコメントはまだなく、近く会見を開く予定。
 戦霊祭は一時中断され、現在のところ再開は未定。

共同情報通信社 七月十七日午後10時30分配信


 山鉾巡行中に全裸の男が発砲 死者三十七名の大惨事 京都

 十七日午前九時ごろ、祇園祭の山鉾巡行が開始された直後、突如として全裸の武装した男が現れ、四条新町に位置する放下鉾を乗っ取り、銃を乱射し手榴弾を投げ、山車や商店を破壊した。銃撃は三十分に亘って断続的に続き、警備にあたっていた警官をはじめ、巡行関係者、見物客などが次々と被害に遭い、男は機動隊員によって取り押さえられたものの、死者三十七名、重軽傷者百三名、店舗の火災や放下鉾、南観音山の破壊など大惨事となった。
 犯人は護送中に壁へ頭を強く打ちつけ自殺、そのため身元は不明で、現在も捜査が続けられている。
 なお、この事件によって山鉾巡行は中止。

共同情報通信社 七月十七日午後8時30分配信


 鞍馬山で落石 京都

 十七日午前十時ころ、京都市北部鞍馬山麓の車道に、重さ20kgほどの落石があり、ただちに業者の手によって撤去された。怪我人などはなく、府警では注意を呼びかけている。
共同情報通信社 七月十七日午後12時00分配信


 同日に起きた三つの事件は、だが事の重大さに対して扱いは比例しておらず、自爆テロや高知の乱射事件は未明になっても報道特番がテレビで組まれるほどだったにも拘わらず、最後の一つに関しては配信されたものの、取り扱うスペースと時間が足りずに無視するメディアが大半だった。
 事件から二日後、京都出張を終え霞ヶ関のF資本対策班本部に戻ってきた那須誠一郎(なす せいいちろう)は、先輩捜査官である柴田明宗にお土産を要求され、「お約束ですけど」と言い、八つ橋の詰め合わせを手渡して席に着いた。すると奥の班長室から、背筋をぴんと伸ばした森村主任が書類の束を抱えて出てきたため、那須は頭を下げた。
「どうだった京都は?」
「まるで戦場って感じでしたね……関西はテロに慣れてませんから、府警や警備部も相当まいってましたよ」
 自爆テロと銃撃事件がFOTの犯行であると認定されたのは、事件発生から四時間後のことだった。高知の事件で決定的だったのは、公式発表とは異なり、彼の死因が最初の取り調べにより突如泡化したことであった。
 エロジャッシュ・高知。そう名乗った全裸の彼は、自分の生い立ちを早口でまくしたて、八年前のテロ活動にいかに参加したかを怒鳴り散らすように叫び、その直後大量の吐血をし、全身が泡化したとの報告である。取り調べ現場に科学研究スタッフと共に向かった那須は、すっかり泡の後も視認できなくなった床を見下ろし、例のアレかと壁を殴りつけてしまった。
「その後……被害者の収容された救急病院にも行ったんですけど……ちょっと……八年前を思い出してしまいましたよ……」
「全裸の銃撃魔か……確かにファクトを彷彿とさせるよな……」
 八つ橋の箱の包装を丁寧に剥がしながら、柴田がぽつりとつぶやいた。
「機動隊の話だと、突入した時点で高知は気を失ってたようです。足も骨折してたようで……その点についてが最大の疑問点みたいですね」
「なんだ……突入制圧の裏に、そんな事情があったのか……」
「どうりでな……機関銃相手の仕事にしちゃ、緩急つきすぎな手際だと思ったぜ……」
 森村と柴田の言葉に、那須は大きく頷いた。
「それで……自爆テロについてですけど……こっちはまだ、FOT絡みかどうかは断定できませんね……岩国ベースでも、ジャレッドは普段から我々日本人に対しての不満を口にしていたそうです」
 ジャレッド・バークリー整備兵が、自分の出生を同僚に語り始めたのは三ヵ月前からだった。祖父を太平洋戦争でなくした彼は、それが日本兵の投降と見せかけただまし討ちである事実を祖父の戦友から聞き、以来日本人に対しての恨みを抱くようになったという。しかしその程度のことで自爆テロに及ぶとはとても考えられず、動機に関する調査は今も続けられてはいるものの米軍の壁に阻まれ、正確な情報は公式には得られない状況になっている。ジャレッドの両祖父は太平洋戦争において戦死してはおらず、彼自身がなんらかの薬物を常用していたという噂話もアングラマスコミやネットで飛び交っているが、これもまだ立証されてはいなかった。
 それともう一点、南方開発ゼットビルの警備にあたっていた警官が二名射殺され、立ち入り禁止の十五階の窓がくり貫かれていた件についても府警は調べを進めていたが、これについては容疑者も不明であり、自爆テロとの関連性も深いと見られるため、米軍に察知されぬようマスコミにも公表せずに捜査が続けられていると、那須は続けて説明した。
「ついに……米軍にも隠匿事項か……」
 とんでもない事態になったと、森村は眉を顰めた。
「もしさ……C−130の墜落にはじまって……例の「いなば」の件とか、一連の米軍不祥事がFOTの仕業だったとしよう……目的はなんだと思う?」
「おい……ヘリ墜落はともかく、他の件に関しちゃまだ断定はできないんだぞ」
 柴田の言葉に、森村はそう忠告した。しかしあくまでも可能性の話であると柴田は食い下がり、若い那須は顎に手を当てた。
「反米軍感情を煽って……ナショナリズムに訴えるってのは……いや……日本人はそこまで馬鹿でも情熱的でもないっスもんね……一部の活動家ならともかく……一般市民が米軍に対して抱くのは、せいぜい恐れや嫌悪感程度……」
「ああ……暴発のトリガーはとてつもなく重い……ただな……上は態度を硬直化させつつはある……実際、監督問題に関していまだアメリカは公式謝罪もしていないし、検証結果も公開していない……防衛庁が派兵部隊の引き戻しを進言したって噂も耳にした……たぶんな……この六十年で、かつて例にない緊張状態にはなっている……」
 言い過ぎてしまったと感じ、森村は咳払いをした。すると、そこに黒いブラウス姿の神崎まりかがやってきた。
「小さな反発心を増幅させたり、トリガーの重さを軽くする手段……かつてのファクトならできたことです……」
 その言葉に、森村たち三人は関心を寄せた。
「そういった洗脳や扇動技術は、連中の重要な研究実験課題の一つでした……反米軍感情を芽生えさせ、タイミングよくそれを暴発させる……あり得ない話ではないと思います」
「渋谷騒乱と同じケースか……」
 八年前を思い出した柴田はぞっとなり、八つ橋を口に運んだ。
「なんにせよ……指導者が拘束されてるはいえ、連中の活動が沈静化する気配はなさそうだ……忙しくなるぞ……盆も休めんと思ってくれ」
 森村の引き締めに、まりかと那須は力強く頷き、柴田は二つ目の八つ橋をぱくりと食べた。
 彼ら対策班の面々が、真実の人の脱走を知らされたのは、それから数時間後のことだった。


「かつてない事態じゃないか……ああ……今度の横須賀はマスコミも注目する……ああ……集められるだけ頼むぞ……ああ……」
 車を運転しながらの通話はあまり好きではなかったが、相手によってはそれも仕方がない。反米左翼団体「音羽会議」のリーダーである関名嘉篤(せきなか あつし)は、仲間との連絡を終え、アクセルを踏み込んだ。
 自分たちの活動がなんの役に立つのか、以前はそれを深く考えたこともあったが、現在ではどうでもよくなっている。この反米デモを繰り返していれば、いずれどこかのテレビ局が出演を依頼してくるかもしれない。朝まで討論するような番組で、今時の学生としては珍しく、クラシックスタイルの左翼として弁舌をふるえば注目もされるだろうし、タレントとして活躍するのも悪くない。なにより、女を食ってしまえる現状は快適であり、もちろんもっと美人が相手なら言うことはないのだが、自分にとっては不相応とも思える頻度の肉体関係を結べるのは結構なことである。さて、今日は三人キープしている相手の、誰を相手に楽しもうか。青年は左手に持ったままの携帯電話の液晶をちらりと見た後、首筋に突風を感じた。

「精力的活動……結構だな関名嘉……」
 前回よりやや掠れてはいるものの、これは聞き覚えのある声だ。関名嘉は背後からのあり得ない言葉に、ミラーを覗き込んだ。しかしトンネルに入った直後であり車内は暗く、人影が見えるものの判別はできなかった。
「テ、テレビを見た……ネットでも……あんた……真実の人(トゥルーマン)って名乗ってるん……だよな……」
「ああ……俺は真実の人……その名を継いだ者だ……」
「い、いつからそこに……?」
「そんな質問はくだらんな……俺はいつでもどこでも現れる……」
「さ、さっき発進前に掃除したばっかりだし……信号待ちだってまだしてない……乗り込めるタイミングなんてないはずだ……」
「くだらん……本当にくだらん……」
 つまらないことに執着するな。真実の人は運転席の青年を、実に小者であると蔑んだ。

 港区芝浦のウォーターフロント、十七階建てのマンションの最上階に、CIA捜査官、ハリエット・スペンサーの住まいがあった。捜査協力での来日だったため、本来はホテルでの滞在になる予定であり、CIAもそれを予定していたのだが、おそらくは長期になるという予測と、ハリエット本人の強い希望もあっての賃貸マンションである。
 リビングに設置された家具はすべて彼女の趣味であるヨーロピアンスタイルにまとめられ、それだけに中央に置かれた無骨な大型分析器の数々が周囲から浮いていた。
 真実の人の足取りをまりかと共に追い続け、その度にハンカチや布で彼がいたと思しき箇所を拭き続けてきた彼女は、それらを集めたビニール袋をクローゼットから取り出し、寝室へと向かった。
 空調のよく効いた寝室の隅にはノートPCとモニター大の小形分析装置が置かれ、そのカバーを開けたハリエットは、ビニールの中のハンカチを一枚取り出し、分析器に入れた。
 跳躍痕の認められるハンカチは、これとあと一枚しか存在しない。しかし二つのサンプルを入手できただけでも成果はじゅうぶんである。ハリエットはPCの液晶画面に映し出された分析結果を満足そうに見つめ、ベッドの上に置かれた通信機のコールシグナルが鳴っていることに気づいた。
「ダグラス……? ええ……へぇ……それは助かるわ。サンプルはいくらあっても余るってことはないから……ええ……逃げられたんだ……ふぅん……TAS−2348は倉庫にあるわ……ええ……近々実働実験に移る予定よ……まりか? ええ……大好きよ……サイキ同士って通じ合うものがあるみたい……彼女も友達いないみたいだし。ええ……了解……すべての血は肉へと還る……」
 呪文のような言葉を最後に告げると、ハリエットは通信機を切り、再び分析器へ向かった。空色の瞳は濁ることなく、美しい金髪は夏の陽を反射し、彼女の心はあくまでも晴れやかだった。

10.
 停学三日。これが無断外泊をした島守遼に対する、学校側の処分である。せめて四日であれば、きょう二十日の終業式もサボれてそのまま夏休みなのだが、学校側はそれを認めず、特に松永教諭が罰にならんと主張したため、異例ともいえる期間の短さだった。
 監督問題として、川島に対してもなんらかの処分を下したかった松永だったが、もしそれで辞職でもされれば後任問題が浮上すると校長が反対したため、結局はこの眠そうな目をしたいい加減な奴は、なんの罰を負うこともなく今日も大あくびでホームルームの準備をしていた。
 それにしてもトラブルの多い修学旅行だった。仮皇居では自爆テロ騒ぎがあったというし、また八年前のようなテロづくしの日々が始まるのか。川島比呂志は配布用のプリントをまとめながらぼんやりとそんなことを考え、再びあくびをした。
 鞍馬山で目撃した武装集団はおそらくテロリストだ。根拠は薄いが、川島はそう確信しつつあった。しかしそれを警察に言えば、すなわちそれは島守遼捜索をさぼり、星空観察の企みがバレてしまう結果となる。だから口をつぐむしかなかったし、もしテロならテロで、京都でやるなら勝手にしてくれと、彼はあくまでも自らの保身にしか興味のない男だった。

 終業式の後、ホームルームも終わったB組の教室は、四十日にも及ぶ夏休みに開放感が弾けていた。生徒たちはチャイムと同時にほとんど全員が立ち上がり、クラス委員である音原太一(おとはら たいち)の戸惑いに対しても無関心であり、教壇の川島もまぁ当然か、どうでもいいと教室を後にした。
「ルディ……科研の合宿……来月の十七日からなんだけど……一緒にいけそう?」
 小さな声で、吉見恵理子がそう尋ねてきた。
「ええ……予定が入ってしまうかもしれませんけど……今のところは……」
 指導者である兄が捕らえられたものの、FOTは同時テロという大規模な作戦行動を起こせるほど組織力が強化されている。当初はゆとりができるものと予想していたものの、いまのリューティガーにとって、来月のことなど確約はできなかった。
 しかし、そんな緊張状態を学校生活に持ち込むべきではない。最近の彼はそう思いはじめていて、だからこそ恵理子に対しても無邪気な笑みを向けたままであり、彼女にはそれが妙に眩しく、柄にもなく鼓動が早くなっているのに頬を紅潮させた。


「わかるか……この俺の苛立ちがよ……」
 その台詞の直後、遼は相手役であるはるみの腰に手を回し、そっと抱き寄せた。
 部長の福岡は、遼の挙動に口では言い表せない違和感を覚えたが、芝居としては自然であり、なにより土方歳三らしいと思えたため稽古を中断する必要はないと判断した。
「お父さんと連絡はとったの?」
 隣で稽古を見つめる平田がそう尋ねてきたため、福岡は切り揃えた前髪を一つまみして、「うん。十七日からだったら大丈夫だって……後で皆に伝えとくね」と答えた。
 この夏休みは昨年と同様、福岡の実家である長野の清南寺で合宿を予定している。自分や福岡たちにとっては最後の合宿である。受験勉強との両立は本当に大変ではあったが、平田はこの芝居を成功させるにあたって、集中的な仕上げの必要を感じていたため、なんとしてでも参加するつもりだった。彼はジャージのポケットから手帳を取り出し、予備校のスケジュールをチェックして、口の端を吊り上げた。

 手が自然だ。何度か繰り返して稽古したラブシーンだが、これまでの彼はどこか強引でぎこちなく、言ってしまえば「お構いなし」か、「気を遣いすぎ」な腰への手の回し方であった。なにがあったのか。いや、考えずともわかる。つまりはそういうことだ。あの夜、こいつは「構い方」と、「適度な気遣い」を覚えたのだろう。
 帰りの新幹線で無理矢理楽観したものの、結局はこんな簡単な挙動一つでくずれ去ってしまう。十七歳の愛し合う二人が一晩を共にして、なにもないなどそう考えるほうが不自然である。はるみは自分の浅はかさや懸命さが情けなくなり、遼に身体を寄せながら、気がつけば嗚咽を漏らし、全身を小刻みに上下させた。
「は、はるみさん!!」
 台本では泣くべき場面ではないし、これまでの稽古でこのようなアドリブはなかった。一大事だと高川は稽古に乱入し、遼からはるみを引き離した。
「いいからぁ!! もうっ!! いいからぁ!!」
 高川の無遠慮な行為にはるみは強い怒りを覚え、そんな自分をいっそうのこと嫌悪した。泣きじゃくる彼女は、平田と福岡たちに「ごめんなさい!!」と謝ると、隣の更衣室へ駆け込んでいった。
「貴様ぁ!! はるみさんになにをした!! つねったり悪口でも囁いたか!?」
 ジャージを掴み、高川は遼を恫喝した。
「バカ!! なに言ってんだよ!! なんもしてねーよ!! 普通に稽古してただけだろ!!」
 遼も負けずに声を荒らげた。予想もしなかったトラブルに部室は騒然としていたが、一人澤村奈美(さわむら なみ)だけは事態を冷ややかに傍観し、「なにやってんだか」とつぶやいた。
 そうした冷淡さはよくない。岩倉次郎は一人浮いている後輩に対して注意をしようとしたが、彼女はぺろりと舌を出すと、顎を上げ視線を逸らしてその意を受け流した。


 まさか彼女から呼び出してくるとは。携帯電話へのメールに比留間圭治(ひるま けいじ)は激しく興奮し、生徒ホールへ駆ける足も、もつれそうだった。
「た、高橋さん……!!」
 木陰に佇む夏服姿の高橋知恵(たかはし ともえ)は、彼女にしては珍しい小さな笑みを浮かべていた。これはなんという展開だろうか。自分は知らぬうちにフラグでも立てていたのか。足を止めた比留間は呼吸を整え、声が裏返らないように咳払いをした。
「今まで……音羽会議はきわめて平和的な手段で、米軍に対する抗議行動をとってきた……」
 笑顔に合わぬ、なんとも無粋な言葉である。しかしそもそも自分と彼女の関係はそれがきっかけだったのだから仕方ないと比留間は思った。
「けど……あろうことか連中は皇族に対するテロを敢行した……我々は左派だけど、国を愛する気持ちは誰よりも強い……象徴天皇制についても容認している……だからね……こないだの自爆テロは、ほんとうにもう度し難い行為なの……わかる?」
 すらすらと淀みのない囁きであった。比留間は何度も頷き、「まったくだ」と返した。
「奴らがあくまでも暴力に訴えるなら……我々の活動もそれに対応せざるをえない……いい比留間くん……音羽会議は変わるわ……平和的な希求手段はもうおしまい……これからは武力闘争の時代なの……」
 そこまで告げると、高橋知恵は左手をすっと前に出した。
「ついて……きてくれる?」
 武装極左集団。そんな言葉が比留間の脳裏を駆けた。どちらかと言えば現実主義者であり、そんな世界は無縁どころか軽蔑していた自分だった。今日はいつもより枝毛が多いし、木陰だから白いブラウスの不似合いさも緩和されている。なにより、明日から夏休みだ。無秩序な考えが比留間を混乱させていたが、欲求に対して肉体は正直であり、彼は右手を前に出し、少女の薄く壊れそうな左手を握った。

 もう後戻りはできない。なら、得てみせる。関名嘉との関係は気になるが、それすら超えてみせる。存分に彼女の頭を撫で、指と言う指でひっかかりを感じ、時には罵られ、叩かれ、ぐしゃぐしゃになってやる。米軍なんてやっつけてやる。いや、勝ち目なんてない。だったら特攻だ。彼女と二人で死んでやる!!

 少年は少女に引き寄せられ、木陰で二人は蝉の音を同時に聞いていた。


 兄は今頃どうしているのか。四課の尋問を受けたのであれば、廃人となった可能性も高い。中佐も更迭され、実務部隊の司令長官も新しくなったと聞くし、ここは一度ザルツブルクの同盟本部に跳んでみるべきか。長距離の跳躍は精神的な疲労を伴うし、できればあまりあの城には訪れたくはなかったが、状況が動いてしまっている以上仕方がない。
 従者の陳は、まだ京都から戻ってはいなかった。同時テロの調査は予想より難航していて、これは本部から調査専門のエージェントを派遣してもらう必要性もある。
 しかしそれにしてもあのテロはなにを意味していたのか。ジャレッドという海兵隊員が歩兵ではなく整備員という話が本当であれば、当日の警備体制を考えるに慰霊現場である正殿に近づくことは、とてもではないが不可能である。だとすればまさしく未遂に終わらせ、犯行者が自爆することに意味があったのか。
 事実、テレビをはじめとしたマスコミは連日ジャレッドの同僚に対するこれまでの発言や行動を紹介していて、岩国基地周辺では右も左も問わない抗議デモが起きているという。自らを犠牲にしてまで、兄はなにを狙っているのだろう。反米軍だけではなく、民族闘争でも扇動する気か。
 学校の階段を下りながら、リューティガーはこれからどうするべきか考え、早い段階で次の行動に移る必要があると感じていた。岩倉や高川はよく命令を聞いてはくれるが、全裸テロリストに対して戦うことができず、結局は怪我人の救助しかできなかったと言っていた。だとすればあまり戦力としては期待できない。遼の能力は持続と連続性において著しく成長はしているものの、こちらの言うことに盲従してはくれない、部下として考えた場合は厄介な男である。健太郎に早く戻ってきて欲しい。もし怪我が治っているのなら、カーチス・ガイガーも頼りになる。そう、本来の同盟シフトに戻すべきだ。兄が廃人と化しているのなら、残党狩りはより攻撃的なチームの方がやりやすい。
 だとすれば、この学校ともお別れしてもいい。仲のいい友達はできたものの、戦場での絆と比べれば、平和で生温い間柄でしかない。同盟のエージェントとして、このままではいらぬ精神的な苦労を強いられるばかりであり、そろそろ自分本来の道に戻るべきかもしれない。

 ひたすらに考え込みながら階段を下るリューティガーの背中を、突風が吹きつけた。よく知っている感覚である。彼は振り返り、踊り場を見上げた。

「ようルディ……」
 顔の半分を包帯で覆い、手首からもそれは垂れていたが、まさしくその姿は兄その人であった。
「兄さん……!!」
 窓から射し込んでくる真夏の陽射しを避けるように、その長身は斜めを向いていた。だが赤い右の瞳は弟をじっと見下ろし、口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
「帰ってきたぜ……ゲーム再開だ……次は勝たせてもらう……」
 左手をポケットに突っ込み、胸を張るその姿には弱々しさは一切なく、包帯もむしろおしゃれとして凛然さを際立たせるアクセサリーと化していた。

 突風が再び吹き、兄は姿を消した。弟は胸に手を当て息を大きく吸い込み、やがて小さな笑みを浮かべた。

第二十四話「はじまりの未遂事件」おわり

第二十五話へ