真実の世界2d 遼とルディ
第二十二話「お前の勝ちだ!!」
1.
 突然だった。妹だった。乱暴に、蝶番が壊されるような勢いで、突然だった。

 鍵をかけ忘れてしまったのだろうか。まあいい。対策は打ってある。勉強机は母親の反対を押し切って出入り口側に対面するようにレイアウトしたし、これなら誰かがこっそり入ってきても、机上のモニタになにが表示されているか覗き見られることはない。
 沢田喜三郎(さわだ きさぶろう)は表情を凍りつかせた中学二年の妹、弥恵(やえ)に、「勝手に入ってくるなよ。ノックしろって言ったろ?」と、モニタ越しに睨み返して抗議した。
「ごめんごめん!! けどお兄ちゃんテレビテレビ!! すごいってば!!」
 妹があまりにも甲高い声のうえ、手足をばたつかせて興奮していたので、沢田はブラウザと画像閲覧ソフトを終了し、テレビビュワーを起動した。
「なんチャン?」
「どこでもやってるって!! そんなパソコンじゃなくって、下ので見ようよ!!」
「いいよ、俺はここで……え!? な、なんだよこれ!?」
 ビュワーに表示されたテレビの緊急報道特番に、沢田は腰を浮かせた。
 瓦礫の山。消防車に救急車。分断された高速道路。それは決して日常的な光景ではなく、沢田はこれが果たして日本の出来事なのかと我が目を疑い、完全に椅子からを立ち上がった。

 妹と一緒に居間まで降りた沢田は、大型テレビを食い入るようにして見る母の隣に胡座をかいた。
「いつからやってるのこれ?」
「ちょっと前。なんか三田でビルが高速に倒れたんだって。下敷きになった車とか、玉突き衝突だって」
 母の説明に息子は、最近伸びてきて坊主ではなくなった頭を掻き、自分もブラウン管へ集中した。六月三日、午後六時過ぎのことである。
 最初の三十分はただ驚きっぱなしであり、沢田一家はニュースで報じられる事故の状況に何度も頷き、その度に「あー、あー、あー」「はー、はー、はー」と、納得の吐息を漏らしていた。
 しかし倒壊した大鱒(だいます)商事本社ビルの救助、および瓦礫の撤去作業がままならないと判明していくにつれ、茶の間の興奮は次第に冷めていった。
 倒壊現場を映した画面にも大した変化がなくなり、やがて日没が訪れると、沢田の母は夕飯の支度の続けるため台所に戻り、兄妹は寝っ転がったり食卓に頬杖をついたりと、緊張感なく専門家の事故分析を見続けるしかなかった。
 それからしばらくして、夕飯のハンバーグを頬張りながら沢田家が報道特番を見ていると、事故状況についての重大な続報がもたらされた。
「うわ……小学二年生だって……」
「可哀想にねぇ……下敷きになって……」
 妹と母は口々にそう言い、沢田もなんとなく箸を小さく上下させ、それに同意した。

 午後八時過ぎになると母は風呂に入り、子供の安否に顔を歪ませる親たちの様子を、沢田と弥恵はぼんやりとテレビ越しに眺めていた。
「お兄ちゃん……なんで瓦礫をクレーン車とかでどけないんだろ?」
「まだ瓦礫の中に大鱒商事の人たちが埋もれてるんだろ。それを助けるまでは無理だよ」
「ふーん……」
 カルピスの入ったグラスを手にした弥恵はチャンネルを変えたが、どの局もサーチライトの当てられた事故現場か小学生の家族を映すだけであり、少女はいい加減別の映像はないものかと退屈しきっていた。

 午後八時二十五分。異変は突然訪れた。夜空に向けられたカメラ。それが映し出すのは白い翼を羽ばたかせた二十匹の怪物であった。うたた寝を始めようとしていた沢田は飛び上がり、風呂から出てきた母は手にしていた牛乳パックを落としかけ、ブラウン管に映る異様な光景に息を呑んだ。スピーカーを震動させるアナウンサーの声も裏返り、「あり得るはずのない映像」に、沢田家をはじめ日本全国が震撼した。
 沢田の父が帰宅してきたのはその直後である。居間まで駆けて来た彼は上着を放り投げて食卓に着き、「あ!? は!? なにこれ!?」と、予想と異なる報道内容に間抜けな声を上げてしまった。

 七年半前、この国を根底から揺り動かしたテロ事件、いわゆる「ファクト騒乱」において半人半獣のいわゆる“獣人”の存在は民間レベルでもいくつかの証言があったが、政府が後に、その全てがファクトによる偽装工作だったと公表したことから、目撃談はやがてアングラメディアでしか取り上げられなくなり、鎮圧対応をした公安警察の中でも緘口令が敷かれ、「ファクトの獣人」は、暗黙の了解としてタブー視されてきた経緯がある。そんな政府の隠蔽工作を全てあざ笑うかのような飛来だった。
 巨大な翼は鳥そのものであり、精悍な猟犬のような頭は作り物には見えず、瓦礫を押しどける腕力は人並みはずれ、彼らをホラーマスクで偽装した人間の集団と思う視聴者は皆無だった。
 大鱒商事本社ビルの倒壊だけでも大事件であるのに、それを上回る獣たちの登場。大半の人々が理解の許容範囲を溢れさせ、ある者は情報収集やイベントの目撃者としてネットに向かい、ある者はまだこの非日常を知らぬ者がいてはもったいないと、携帯電話を手にする者も多かった。
 沢田家では家族全員がテレビに集中し、成り行きを見守っていた。とにかくなんでもいい、あの白い異形の者たちがなんであるのか、それを教えて欲しい。憶測でも構わない、情報を提示してくれれば。父はテレビのリモコンを握り締め、情報を求めるためチャンネルを次々と変えた。
 テレビ好きの父は、UHFのチャンネルも全てリモコンに登録していて、それを母などは「どうせほとんど見ないのに……操作がややこしくなるだけなんだからカンベンして欲しいわよ」などとよくぼやいていたが、今日に限ってはその恩恵を受けることができたようだ。
「なんだ……こいつ……関東テレビはなにやってるんだ、事故があったというのに」
 かつてこの関東テレビは、ファクト騒乱のクライマックスである真崎実自殺事件においても、他の局が全て生中継で報道していたにもかかわらず、「浅井かおりのバイオエクササイザー」という健康番組を放送していた実績がある。まさかその体質が改まっていないのかと沢田の父は眉間に皺を寄せたが、テレビの中の白い長髪の青年が、
「私は真実の人(トゥルーマン)……真実を追究し、遂には真実そのものとなった男だ」

 と名乗ったため、チャンネルを変えようとした手を止めてしまった。
「ど、どうしたのよお兄ちゃん」
 いつもぼんやりとしている兄がこんなにまで愕然とし、テレビを見つめることなどあっただろうか。口をぽかんと開け頬を引き攣らせる兄に、弥恵は我に返るよう食卓を叩いた。
「あ、ああ……あいつ……前に……確か……学園祭だ……」
 沢田は震える指で赤い瞳の青年を指し、空いていた手で湯呑みを握り締めた。


九階建てビル倒壊、首都高速を分断 三六〇人死亡 東京港区

 三日午後五時三十分ごろ、港区古川橋首都高速目黒線で、車両輸送用トレーラーがカーブを曲がりきれず、防音壁を突破、その先の「大鱒商事」本社ビルへ衝突、爆発炎上した。これにより同ビルは高速道路を分断する形で倒壊した。警視庁や消防局によると、倒壊したビルには事故当時六二七名もの社員、関係者が勤務しており、また倒壊の際社会科見学帰りのバスを含む車三台を下敷きにし、後続車も玉突き衝突を起こし、計三百六十四名が死亡。負傷者は重傷を含め三百六十七名で、現場での救急治療の後、十七の病院に搬送された。行方不明者も十九名にのぼるが、瓦礫の撤去作業などをほぼ終えた段階だったため、絶望とみられている。なお、バスの乗員だった、世田谷区立砧第一小学校二年生六十五名のうち生存者は一名。現在三田総合病院にて手当を受けているが腰の骨を折るなどの重傷。
 事故当時の証言によると、トレーラーは時速百二十キロを超える暴走状態にあり、おそらくは運転を誤ってカーブを曲がりきれず、事故になったとみて捜査が続けられている。なお運転手はすでに死亡している。

 警視庁は同日午後七時五十分、突発重大事案対策本部を設置。現在なおも遺体の捜索作業と事故原因の究明に急いでいる。この事故に伴い、政府は午後八時三十分に緊急の警戒態勢「一級」を発令、都内JR全線、都営地下鉄、東京メトロは全線が二時間に亘り運行を停止した。

共同情報通信社 六月四日午前8時30分配信


事故現場に謎の軍団が飛来、救助活動を支援するも忽然と姿を消す

 大鱒商事本社ビル倒壊、首都高速目黒線分断事故において、事故発生から約二時間半が経過した午後八時過ぎ、事故現場上空に鳥のような一団が飛来。着陸後に救助活動に参加するという異常事態が発生した。
 一団は背中に鳥のような巨大な翼を付け、犬のような顔をし、全身を白くしていた。(写真参照)
 警官隊の制止を振り切り、一団は瓦礫の撤去作業、および負傷者の救出活動に参加し、合計四十六名を看護エリアまで搬送し、社会科見学のバスに直撃した最も巨大なビル破片を撤去した後、「正義忠犬隊」と名乗り、その場から飛び去っていった。なお警視庁のヘリが追跡したものの姿を見失い一団の行方は未明。この件に関して公安当局は突発重大事案対策本部にて直ちに記者会見を行い、現在飛行手段、身元、国籍、そして行方なども含めて調査中であり、市民からも広く情報を受け付ける、と声明を発表した。

共同情報通信社 六月四日午前8時30分配信


真実の人を名乗る男、港区倒壊事故現場付近に現る 謎の救助軍団に関与か

 三日に発生した大鱒商事本社ビル倒壊、首都高速目黒線分断事故において、真実の人(トゥルーマン)を名乗る人物が、午後八時四十分ごろ関東テレビに十分ほど出演。事故の救助に現れた謎の集団との関係を示唆する発言をした。警視庁ではこのビデオテープと出演現場に残されたコンピューター機材、モニタなどを証拠品として押収、専門家による分析が始められている。なお関東テレビには同日夜から問い合わせが殺到し、対応に追われている。しかし警察より調査分析が終了するまでの放送を差し止められたため、再放送、素材の再使用はいまのところ見通しが立たず、当時視聴していた市民によってネットなどに流出している模様。
 なお、放送当時の関東テレビの視聴率は関東で3.6%。

共同情報通信社 六月四日午前8時30分配信


 全国が固唾を呑んで見守った事故から一夜明けた六月四日の朝になっても、内閣特務調査室F資本対策班の激務が緩やかになることはなかった。
 ファクト壊滅後にして最大級の非常事態である。政府が対応を間違えば、これまで隠蔽してきた全てが無駄になる可能性も秘めている。
 事故が起きた当初、規模こそ大惨事ではあるが対策班にとっては関わり合いがあるかどうかの判断ができず、班員に通達こそしたものの特別な対応をする予定もなく、班長の竹原優(たけはら ゆたか)のもとにも政府から出動の要請はなかった。あくまでもFOTに絡む事件を捜査、解決するのが彼らの任務であり、その判断は正しかった。しかし獣人が現れ真実の人がテレビに出た途端、この惨事は対策班の担当となり、規模に対して少数であると認めた政府は竹原班長に公安実働部隊の指揮権も与えてきた。
 大仕事である。まずはテレビに出ているという真実の人を確保するのが最優先である。竹原は森村主任に聞き込み中の神崎まりかの出動を命じ、柴田、那須をはじめとした十二名の捜査官に現場への急行を指示し、自身は公安本部へ応援要請のため内閣府別館を後にした。
 四日午前十時現在、対策班本部に残っているのは連絡役の常勤女性職員のみである。
「ファクトの獣人はやはり作り物だが、忠犬隊は本物のオーバーテク? そんな詭弁めいた言い逃れが通じるわきゃねぇって」
 車載通信機を切った助手席の柴田は、運転する那須誠一郎(なす せいいちろう)にわかりやすくぼやき、上着のポケットから煙草を取り出した。最近どうにも徹夜が堪える。四十を過ぎればますますそうなるのだろうか。顔を顰めあからさまに不快感を示す那須を他所に、彼は三時間ぶりの一本に火をつけた。
「そんなこと、上は本気で発表するんですか?」
「ああ……夜とはいえサーチライトがあんなにまで当たってて……飛んで来て飛び去ったってのが一番誤魔化しようがない……全国民が目撃しちまったんだ……せめてソロモンタイプならなぁ……」
「しっかり二本足でしたしねぇ……あ、で……倒壊の方は?」
 運転席の窓を開けた那須は煙を手で払う仕草をし、隣に座る先輩捜査官に尋ねた。
「やっぱな……柱部分に特殊爆弾が埋め込まれてたらしい……リモート式の……」
「なら……」
「ああ……防音壁の脆さも含めて……こりゃ、間違いないんじゃないのか? FOTの自作自演ってやつだよ」
 柴田の言葉に、那須は右手でフロントパネルカバーを思いっきり叩いた。
「だがよ……簡単にそうですって、プレーンで公表できるようなネタじゃない……爆破はともかく、犯人の特定なんてできないし……できれば政府はFOTって集団自体も、国民にはないという前提でことを進めたいはずだ」
「でしょうね……ファクトのときは認めるのが早すぎましたし……」
「ああ……せっかく外資が戻ってきたんだ……慎重になるのも仕方ない……ただな……」
 先輩が何を言いたいのか、煙草の臭いを嫌気しながらも那須にはよくわかっていた。

 打つ手を間違えると……先手を取られる……規模は小さくなってるけど……今回の真実の人はそれだけに仕掛けが細かい……

 アクセルを踏みしめた那須は、運転が雑になっているのに気付き、眠気も吹き飛ばす意味で頭を軽く振った。


 真実の人の行動に騒然となっていたのは日本政府や対策班だけではなく、日本から海を隔てたはるかザルツブルクにある、城を模した賢人同盟本部においても同様だった。真実の人(トゥルーマン)を名乗り続け、日本政府とパイプを築き、遂にはロシアから核弾頭を購入し、昨日はマスコミにまで素顔を晒して現れた彼。一体何を目的としての行動なのか。それを探り、同時に身柄を確保、もしくは抹殺しなければならない。
 この件についての現場責任者である中佐は、関東テレビのインタビューを情報処理室が確認して以来、胃の縮まるような思いで執務に取り組み、ここまで最悪な状況になってしまったその原因の糾弾をいつされるのかと緊張していた。
 事故現場に現れた犬と鳥を合わせた獣人の、現在までの調査結果が研究室から出た。その一報を受けた中佐は椅子から立ち上がり、直接結果を見にいくため執務室から廊下へ出た。

 真紅の絨毯が廊下の向こうまで真っ直ぐに敷かれていた。中佐は長い通路を早足で進み、緩やかな傾斜の階段を駆け下り、同盟職員たちが忙しなく行き交う正面ホールまでやってきた。
 すると、背後から彼の首筋を疾風が吹き付けた。
「誰だ!?」
 振り返りつつ、中佐はホルスターから自動拳銃を引き抜いて構えた。
「アーロン殿……ご無沙汰しておりました……」
 丁寧な英語でそう挨拶をしたのは、黒いチャイナドレスで正装した中国人女性であった。黒い髪をアップでまとめ、切れ長の目は銃口ではなく中佐の目を見つめ続け、物怖じしない態度は堂々とした人物の大きさを相手に感じさせていた。職員たちは目的の部屋へと向かう足を止め、意外なる来訪者に注目した。
「劉慧娜(リウ・ヒュイナ)……か……」
 銃口を天井に向け、中佐は拳銃をホルスターに戻した。彼女であれば理解できる。疾風の原因も、いきなり現れたあり得ざる状況も。だが、だからこそ彼は表情を険しくした。
「この本部への本人の跳躍は禁じられている……紅西社のお前がそれを忘れるとはな……」
「失礼……報告を急ぐ必要があると思いまして……」
「連絡会は来週だぞ……」
「それは昨日までのわが社と同盟の取り決めです……」
 言葉の意味をすぐに推察できた中佐は息を呑み顎を引き、緊張は職員たちにも広がった。
「そ、そうなのか……」
「ええ……本日をもって……紅西社はわたし、劉慧娜の支配下となりました……まずはそのご報告に参りました……」
 紅西社はアジア方面における賢人同盟の下部組織である。その頭首が変わるという報告は、本来なら同盟を揺るがすほどの出来事である。
 しかし数ヵ月前から、紅西社での内部粛清とクーデターの計画は同盟上層部も薄々だが察知していて、あえて放置してきた側面もある。その上、現在はアルフリートの件で中佐の頭はいっぱいであり、慧娜の挨拶もいまはただ煩わしく感じるだけだった。
 以前ハルプマン作戦本部長は「紅西社にも不穏な動きがある」と、言っていたが、慧娜が頭目となったのなら、不穏というほどの事態ではなく、むしろ歓迎するべきである。前任者の化龍(ヒューロン)は、どちらかと言えば中国共産党に寄り過ぎる嫌いもあった。自由主義者である慧娜なら、今後は肥大化を続けているあの国に対しても、同盟の利益をより求めることができる。
 それに彼女は六年半前、まだ少女だったころ、五星会議より裏切り者であるアルフリートの粛清を命じられ、命を奪うことはできなかったものの重傷を負わせ、沖縄にて進行中だった計画を阻止した実績もある。少々なにを考えているのか解りかねる掴みどころのない女性ではあるが、ここは祝辞の一つでも述べ、部下に部屋でも用意させよう。中佐は慧娜に頷き返した。
「その言葉、信じよう……して化龍は……?」
「引退させました……借りにも育ての親。命を奪う非情さまではございません」
 よく言う。対決したアルフリートの大腿骨を粉砕した際、彼女は表情一つ変えなかったと聞く。中佐はタートルネックの裾を引き、咳払いを一つした。
「緊急事態が発生中だ……そうだな……実権掌握後の初仕事は……日本への遠征というのはどうかな?」
 そう言うと中佐は慧娜に背中を向け、わざと両腕を大きく振って歩き始めた。慧娜の無礼は許容する。彼の態度をそう判断した職員たちも、本来の仕事を再開するべく次々に動き、歩き始めた。

「アルってテレビ映りが悪いから……ちょっと安っぽく見えるのがなぁ……」

 聞き取れないほどの小さな声であった。しかし、諜報にかけては並ぶものが少なく、イスラエルにその人ありと言われた「二刀のアーロン」である。決して聞き漏らすことなく、彼の心臓は急激に鼓動を早めた。

 いまのは劉慧娜の言葉に間違いなかった。
 「アル」これはアルフリートの愛称である。なぜ彼女がそう呼ぶ。
 「テレビ映りが悪いから」昨日の放送を見たということなのか。関東ローカルの僅か十五分ほどの、当局がVTRを没収したはずの映像を。考えられない話ではないが、どうにも脈絡がない。
 「ちょっと安っぽく見えるのがなぁ……」なぜそうも残念そうな声色をわざとらしく作る。ならば理想の状態は、テレビ栄えするいい男であって欲しいということなのか。いまや我々賢人同盟最大の敵と化したアルフリート真錠(しんじょう)のことを。
 中佐は再び振り返った。まさか。そうなのか。ハルプマンが言っていた「不穏な動き」とは、紅西社のクーデターではなく、それを意味することだったのか。しかし彼の視線の先には驚愕して瞳を震わせる職員の姿しかなく、切れ長の目をした慧娜は忽然と姿を消していた。

 中国に奴の核は使われない。直感的に、いや、自覚外の計算が導き出した結果である。中佐は膝の力が抜けていくのを感じ、その場にへたり込んでしまった。


 土曜日の夕方からベッドに入っていられるのは幸せである。それも隣でこちらを上目遣いに見るのが女子高生であるのだから、これはもう羨まれて然るべきだろう。
 だが、あまりにも欲し過ぎるその白目がちな瞳は可愛いというよりは不気味ですらあり、痩せすぎた肩も儚げな雰囲気より貧相さを醸し出している。少々病的にも見えるが、これはこれでそそると初対面のころは思っていた。だが腕に爪を立てて掴んでくる彼女はまるで飢え、乾ききったかの如き存在であり、関名嘉篤(せきなか あつし)は鬱陶しさと同時に恐ろしさまで高橋知恵(たかはし ともえ)に感じていた。
「さ、さてと……そろそろ行かないとな……」
 上体を起こし、腕にまとわり付く彼女をやんわりと引き離そうと試みたものの、少女はそれに引きずられるかのように自分も上半身と腰を浮かせ、シーツの皺が一気に広がり、薄暗い照明の中、あばら骨のシルエットが浮かび上がっていた。
「こ、こら“ともっち”……」
 まだ笑うゆとりがある。関名嘉は心の余剰を全てその愛想に回しながら、なにか納得のできない苛立ちも感じていた。
 ベッドの上で腕を掴んだまま、膝をついて祈るような姿勢になった“ともっち”こと、高橋知恵は、小さく唸り、平らな背中を小刻みに震わせた。
「ま、また来週、時間取れるから……」
「わ、わたしは……なにも……ないし……」
 搾り出すように、悔しそうに、呻き混じりに少女は言った。
「な、なに言ってるんだよ。ともっちは友達だって勧誘成功してるし、なに気にしてんだよ」
 関名嘉は声を震わせてしまったことに気付き、何度か咳払いをした。高橋知恵は俯いて顔を向けないまま震え、やがて彼の手を自分の腹部に密着させるように体重を預けた。
「だ、だからさ……ともっち……」
「お願い……もうちょっとだけ……」
「あ、ああ……」
「テレビとか……見てていいから……五時のニュース……気になるでしょ……」
 最初は敬語だったのに、今ではすっかりタメ口である。いつの間にこのような力関係になってしまったのだろうか。関名嘉はじっとしたまましがみつく彼女に観念してしまい、ベッドの傍らにあったテレビのリモコンを使い、ニュースのチャンネルに合わせた。

「あ、なんかこれさ……凄いよな。どうやって飛んだりしてんだろうな。まさか宇宙人?」
 画面に映し出される正義忠犬隊の姿に、関名嘉の声が上ずった。だが目まぐるしく点滅するテレビの灯りを背中に浴びたまま痩せっぽちの少女はなにも言わず、ただ男の温もりだけに心を傾けていた。
「あ……?」
 彼女の本気をはぐらかすための軽口が止み、関名嘉篤はテレビに集中した。

 荒い静止画である。「事故当時、関東テレビに出演し、謎の一団との関係を示唆した男」そうアナウンサーに言われた白い長髪の青年。解像度の低いビデオ処理が施された静止画でも、その赤い瞳を関名嘉はよく覚えていた。

2.
「まず状況を整理しよう。当日あの時間にシフトに入っていたのは……」
 教室の中央付近でノートを広げ、周囲に集まった生徒を仕切っていたのはクラス委員の音原だった。
 事件から週も開けた月曜日の朝、学校に登校してきた生徒たちの話題は古川橋の惨事で一致していた。しかし「テレビで見た大惨事」という一般的な認識と、彼らのそれは少々異なる。まずベースとして2年B組は一年生のころ、獣人と工作員のコンビに教室をジャックされたという経験がある。まずこれが他者と比較して彼らが激しい興奮をもって、事件について口々に語り合う要因となっていた。
 だが、一部においてはより以上の興奮をもって、昨年の学園祭での出来事を同時に話題にする生徒もいて、同じ惨事の話をしているはずなのに生徒たちの中では奇妙な混乱が生じようとしていた。
 なんとかバラバラな情報をまとめて欲しい。そんな共通の意識が皆に芽生えてきた矢先のクラス委員からの提案だったため、2年B組の大半は、普段無視をしている痘痕面の彼に注目していた。
 先週から衣替えとなっていたため、教室の風景は黒や紺から白の割合が圧倒的に増し、若干ではあるが生徒たちの気分を上向きにさせてもいた。だからこそ音原の声もより以上に音量を増し、彼はすでに「乗って」いた。
「我妻さん、和家屋さん、椿さん、沢田、関根君、僕、川崎さん、合川さん、野元……以上九名のCシフトだった……」
 音原に名前を呼ばれた生徒は何となく視線を交わし、我慢できなくなった我妻という女生徒が口を開いた。
「だからだからぁ!! あのときの外人さんだったぁ!! ぜーったいそーだったんだからぁ!!」
 巻き毛を前後に揺らし、甘ったるい声でまくし立てる我妻に、音原は首を何度も横に振り、「だめだめだめ!! 走るな!! 見てない奴の方が多いんだ」と、諌めた。
「学園祭当時このCシフトにいた僕を含めた九人……みんな覚えているよな、ラーメンを食べに来た、赤い目をした白い長髪の人のことを」
 わざと皆にわかりやすくするため音原はゆっくりと言い、残りの八人は大きく頷いた。
「でだ……良平……さっき見せてくれたやつ、みんなにも見せてくれよ」
 クラス委員に促された横田良平は、小型のノートPCを手に前へ出ると机の上にそれを置き、皆の注目は液晶画面に注がれた。
 そこには、テレビニュースをキャプチャーした静止画が表示されていた。
「関東テレビの生放送一回きりだから、見てないのもいると思う……これだって、偶然キャプチャーしていた画像がアップロードされていたからだし……」
 音原の説明を、良平が続けた。
「まぁ、実際……このファイルはもう消去されてる。異様に早い削除だよ。まぁもっともあちこちに転載されているけど、これが一番マシな画質のだ」
 赤い瞳、白い長髪、美しい顔立ち。画面の中の青年にCシフトの九人は息を呑んだ。
「へぇ……」
 画面を興味深く覗き込んだのは神崎はるみだった。この男が真実の人(トゥルーマン)か。七年前のテログループの残党と戦っている。島守遼(とうもり りょう)はそう教えてくれた。だとすれば、それは真実の人が率いるファクト機関のことなのだろう。この美青年と遼たちが戦っているのだろうか、後で聞いてみてもいい。それよりも今注意するべきは、この興奮の輪から外れてじっと自分の机に着いたままのリューティガー真錠である。彼の見ている前では、完全に無知な一般市民を演じ続けないといけない。はるみは両手を組んで「もろ、ビジュアル系って感じだよね!!」と、大きな声を出した。
 リューティガーだけではない。生徒たちの大半が美しい謎の青年に興味を示す中、そんな雑然とした空気を無視する生徒も何名かいた。
 島守遼、高川典之(たかがわ のりゆき)、花枝幹弥(はなえだ みきや)、倉橋伸吾、大和大介、高橋知恵。リューティガーを含めたこの七名は話の輪に入る様子もなく、まったく無視をして本や参考書を読む者までいた。無視組にそれなりの人数がいたせいか、神崎はるみは高川が背筋をぴんと伸ばしたまま机に広げた台本を読んでいるのも、彼が真面目であるからだとしか理解せず、「関係者」だとは思っていなかった。花枝と大和はいつでも孤高だし、倉橋は勉強以外に興味がなく、高橋も本の虫である。面子に納得したはるみは、「こいつがウチのラーメン? ほんと、どーしてだろうねぇ!?」と、再び演技に集中した。

「遼……今日の放課後、話がある……いいか?」
 正面を向いたままそう切り出したリューティガーに、隣の席の遼は眉をぴくりと動かした。
「あ、ああ……金曜日の件か……?」
 自分たちにとって大きすぎる事件だったのにも拘わらず、当日はおろか翌土曜日になっても日曜日を迎えてもリューティガーからの連絡は皆無であり、そのことについて岩倉や高川と電話で話していた遼であった。真実の人がテレビに出ていたらしい。それを弟の彼は見た瞬間に空間へ跳んだと岩倉は言っていたが、果たしていい結果は得られたのだろうか。
 それにしても以前なら考えられないような鋭い目だ。リューティガーの横顔をちらりと見た遼はなにやら恐ろしくなり、気を紛らわすため、友人の和家屋へわざとらしく驚き顔を作っているはるみに注目した。
 彼女に真実の人の話はした。だがかつてのテロリストの名を継いだ、あの美しい青年が隣に座る彼の兄であるとは告げていない。あまりにも多岐に亘っている数々の情報のどこまでを彼女に伝えていいのか、遼はその明確な線引きをいまだにしていなかった。

「もしこいつがほんとに真実の人で、あの怪物たちを率いているんなら、教室ジャックの獣人だって関係してるかも知れないな」
 音原の推理に生徒たちは耳を傾け、なるほどと声に出す者もいた。
「あ、ありゃ本物だよな。警察の発表は嘘だよな」
 野元の言葉に、口を手で覆っていた田埜綾花が大きく頷いた。教壇に最も近い最前列に位置するこの二人は、獣人ムヤミの人ではない臭いを間近で感じていたため、テレビで見た正義忠犬隊の疑いようもない非人ぶりに、感覚が正しかったことを裏付けられた思いだった。
「しっかしなんでウチのラーメン食いに来たんだ? なぁ関根くん」
 沢田にそう話を振られた関根茂は、「さぁ……」と曖昧な返事をし、大きな鼻の先を掻いた。
 音原の整理によって情報は線でつながり、2年B組のばらばらだった認識は統一されたが、それはあくまでも発生した状況に対してであり、「それがなぜ?」という答えの疑問にはならなかった。
「ねぇルディ。わたしもラーメン茹でながら見てたんだけどさぁ……なーんかその人ね、日本人って感じもしたのよ。言葉なんて上手過ぎだし」
 話の輪から離れ、机にもたれてきた川崎ちはるが興奮しながらそう言った。リューティガーは表情から鋭さを消し、つまらなそうに彼女を見上げた。
「ど、どうしたのルディ?」
 あまりにも彼の態度が冷淡だったため川崎は戸惑い、両手で机の縁を握った。
「で……なにか言いたいことでも……?」
 小さな、ほとんど聞こえないほどの声でリューティガーはつぶやいた。
「ど、どうしちゃったのルディ?」
 彼の紺色の瞳は見上げていたものの自分など見ていない。そう直感した川崎は、机から離れて首を傾げた。
「な、なんかね……ルディみたくハーフかなって……思った……だけ……」
 こちらも消え入りそうな声で川崎は返すと、彼女は自分の席へと戻っていった。

 従者である陳師培(チェン・シーペイ)の録画により、関東テレビの番組は帰宅後も繰り返し視聴したリューティガーであり、それ以来考えることは真実の人(トゥルーマン)を名乗る兄のことばかりである。川崎ちはるに対して悪いと思いながらも、どうしても意識を完全に向けることはできない彼だった。
 しかし、いくら考えたところで自分に彼の考えや目的が理解できるはずがない。このままでは単に呆けているだけだと思ったリューティガーは、隣に座る長身の同級生を一瞥し、あの日目撃した光景を思い出した。

 神崎まりか。その名を忘れることはない。ファクト機関を壊滅させた中心人物であり、当時傭兵として実戦任務についていた先輩たちを皆殺しにした「死に神殺し」である。
 金さえ払えば女子供も殺す冷血たちだった。神崎まりかが如何なる状況で対決し、その感情をぶつけたのか、いくらか想像はできる。
 だが、冷血なのは任務においてのみである。暖かく、強く、なによりも死線を共に潜り抜けた戦友たちである。親子ほどの歳が離れていたが、彼らは自分を一人前として扱い、その期待に応えるため精神や肉体、技術の高みを目指した自分だった。彼女が感情でロナルド隊長を殺したのであれば、自分も感情において許すことはできない。

 廃墟と化した倒壊現場で、その仇と対峙していた彼。神崎まりかと島守遼。なぜこの二人があそこにいた。

 戦っているようでもあり、どこか馴れ合っているようでもあった。見る「目」はあっても聞く「耳」を持たぬ彼にとって、把握していることは少ない。だからこそ本人に問いただす必要があった。


 この日の生徒たちは一日じゅう浮ついて落ち着きがなかった。無論、普段も決して真面目な授業態度としいうわけではなかったのだが、それでもいつもよりは度が過ぎる騒がしさだと感じるたびに、各教員はあの教室ジャック事件を思い出すことで今日だけは許してもよいかと思っていた。政府はまだ正義忠犬隊についての公式見解を出していないが、この2年B組の生徒たちには恐怖が蘇ったことだろう。獣人ムヤミを目撃した二人の教諭はこの学校にはもういなかったため、大人たちは実感も薄いまま教え子たちの変調を勝手にそう解釈していた。

 実際は恐怖より興奮が占める割合がずっと高かった。だから最後のホームルームで音原が自ら提案した「鉄道喫茶」という、Webで拾った他校のアイデアの真似事でしかない文化祭の出し物に対しても強く反対するものなどおらず、大半の生徒たちがうっすらとした熱に浮かされているようでもあった。

 横田良平はCシフトのメンバーでもなく、一昨日の関東テレビをリアルタイムで見ていなかったため、古川橋の惨事については正義忠犬隊という現実離れしすぎた存在ばかりに注目し、土日を使った情報収集もそれが中心だった。もちろん、教室ジャック事件の当事者として掲示板に「忠犬隊以前に、仁愛高校の教室ジャック犯が本物だって。近くで見たから間違いね。だからもっと早くからの動きだよ。昨日、今日じゃない。その辺もっとちゃんと分析しろってwwwwwwww」と、目撃者として私見を打つのも忘れなかったが、その度に「妄言乙w」と、返されるのがどうにも悔しくて仕方がなかった。しかし今日教室で仕入れたネタは強烈だ。まさか「東テレの自称真実の人」が、ラーメン仁愛に来たというビジュアル系の客だったとは。終了のチャイムと共に良平は勢いよく席を立ち、同じようにパイプ椅子からいち早く腰を浮かした川島担任と目が合い、互いに照れ笑いを浮かべた。


「また……これでいいか……?」
「ああ……」
 屋上までやってきた遼はズボンのポケットから凧紐を取り出し、その端をリューティガーは握った。
 まだ梅雨入り前ではあったが、空はどんよりとした雨雲が覆われ、湿気が二人の肌にまとわり付いていた。

 金曜日の夕方……君はどうしていた……?

 金曜日と言えば三日である。遼は緊張し、それを悟られないよう大きく湿った空気
吸い込んだ。

 例の倒壊現場に行ってた……悪りぃ……黙ってて……

 なぜだ……? 獣人をテレビで見たからか?

 い、いや……バイト先のテレビじゃそこまでやる前だった……犬型の獣人は現場で見たし、真実の人がテレビに出たって話も、ガンちゃんに聞いてわかったんだ……

 なら……なぜ……僕たちには関係のない事故のはずだが……

 何に対して疑惑を抱いているのか。遼はリューティガーの意図がわからず、だが思考を淀ませては勘繰られると気を張り、視線を落とした。

 だって……ひどかったんだぜ……もし俺になんかできるんなら、やるべきだって思ったんだよ……それに……なんかさ……胸騒ぎが……した……うまくいえないけど……なにか起きるって……

 それは事実である。テレビがないため惨事慣れをしていなかったということもあるが、あの廃墟を見て堪らなくなった。いてもたってもいられなくなった要因の一つに、奇妙な胸騒ぎがあったことも事実だった。遼はその点については素直に正直に意識を紐に伝えた。

 まぁいい……で……現場で君は……人命救助をしたと……

 あ、ああ……怒らないでくれよ……俺は獣人とも協力した……ほかの救急隊員みたくな……

 正義忠犬隊って連中か……

 FOTなのか?

 おそらくね……で、それだけか……? あの現場での出来事は……?

 なるほど、それについて聞きたいのか。遼はようやくこの呼び出しの意味を理解し、凧紐を握る掌にべったりと汗をかいた。
 神崎まりかと出会った。つまりそれは、神崎はるみに事情を明かしたのも同然とさえ言える。それは、リューティガーに対する裏切りである。だが、例えばどうであろう。はるみとは別口でまりかとは出会い、その姉だと気付いていないという設定は無理があるだろうか。いや、二度の遭遇に関しては本当にそうだった。三度目の、神崎家での出会いだけをなかったことにするのは不自然ではない。
 上手く切り抜けよう。そう思った遼はリューティガーに視線を上げた。すると彼は険しい表情でじっと睨みつけ、まるで「いい加減な返答は許さない」とでも言いたげであり、実際その意図は伝わってきた。

 な、なんだよ……お前……

 なぜ神崎まりかと君が接触した……あの廃墟で……君たちはなぜ対決し、すれ違った……!?

 ど、どうしてそれを……

 兄がテレビに出るのを見た。だから僕は現場に跳んだんだ……すぐ近くの病院が見えたからね……そして取り逃がし……その後“見えた”んだ……君が……

 か、神崎まりか……ああ……あの政府の人は……そうだ……「いなば」で俺を助けてくれた……

 「いなば」で……?

 そうだ……落ちてきた天井の木片から……突き飛ばしてくれた……倒壊現場で会ったのはまったくの偶然だ……

 なぜ「いなば」の件を僕に伝えなかった……? あそこにあいつがいたのか……?

 “あいつ”って……なんだよルディ……それは……?

 遼がそう意識を伝えた直後、リューティガーは凧紐を手から離し、一歩前へ近づいてきた。
「奴と……神崎まりかとの接触は禁ずる……いいな……奴を目撃したら逃げるのだ……!!」
 白目の血管を浮かび上がらせ、両手を握り締め、強烈な意をリューティガーは向けた。遼は気圧されフェンスに背中をつけてしまい、バランスを崩しそうになった。
「な、なんでだ……?」
「あいつは化け物だ……同盟が最も危険視する念動力者であり……神崎はるみの姉だ……!!」
 咄嗟に、遼はわざとバランスを崩してその場にへたり込んだ。神崎まりかがはるみの姉である事実はとうに知っている。だがそれを悟られてはならない。彼は表情を歪ませ首を傾げた。
「そうなのだ……神崎はるみはあの化け物の妹だ……よかった……僕はまだ君を信じていいらしいな……限度を超えたかと思ったが……安心したよ……」
 引き攣った笑みを浮かべ見下ろすリューティガーを、遼は恐ろしいとさえ思ってしまった。口調が妙だ、表情が妙だ。こいつは誰だ。
「そ、そうだルディ……あ、あのさ……人命を救えただけじゃないんだ……見てたんなら知ってると思うけど……」
 とにかく話題をずらさなければならない。その一心で、彼は傍らの学生鞄から消しゴムを取り出し、掌に載せて掲げた。
「なんだ……?」
「レベルアップしたんだよ……ほら……」
 辺りに誰もいないのを確かめると、遼は意識を集中した。すると掌の消しゴムがふわりと宙に浮き、急降下で足元を旋回し、彼の目の前でぴたりと制止した。
「前よりでかい!! 前より速い!! 数だってもっといけたんだぜ!! 人を助けたいって気持ちがこうなったのかな?」
 笑顔を作った遼に対して、リューティガーは険しい様子のまましゃがみ、消しゴムを奪うように握り締めた。
「これについても言いたいことがあったのだ……」
「え……?」
「いいか遼……この消しゴムを……」
 リューティガーは握り締めていたそれを屋上の地面に置き、人差し指で僅かばかりずらすように動かし、すぐにもの位置に直した。
「今みたいに、ほんの少し……1mmだけ動かすことは……できるか?」
「な、なんだよそれ?」
「いいからやってみろ!!」
 命じる声は張りがあって大かったため、遼は反射的に意識を集中した。すると消しゴムは勢いよく滑空し、リューティガーの手元へ向かって上昇した。
「違う……1mmだけずらすのだ……!!」
 消しゴムをキャッチし、それを元の位置に戻したリューティガーは、相も変わらず厳しい口調でそう命じた。何様のつもりだろう。いい加減腹も立ってきた遼だったが、彼は仕方なく、今度は丁寧にゆっくりと動かすことを意識してみた。
 長さ4cmほどの塊が微動した。遼は小さく吐き、リューティガーはその結果に満足そうに頷き、立ち上がった。
「よかった……」
「な、なんなんだよルディ……?」
「いいか……レベルアップなんて馬鹿げたことは考えるな……君の最大の長所は如何なる物体が如何なる状況下にあろうとも、それを精密に切り取ってでも操作できる点にある……だからこそ僕は君を選んだのだ……」
 言っている意味がよくわからない。いや、それよりも妙な口調が苛つくし、腹の探りあいのような言葉にもうんざりである。遼は消しゴムを拾い上げてゆっくりと立ち上がると、凧紐を巻き上げて理解不能な転入生に背を向けた。
「ど、どうした遼……?」
 声色が若干だが柔らかくなっている。ようやくこれまでの自分を取り戻したのだろうか。それとも演技を思い出したのだろうか。どうでもいい。理解したくもない。遼は背中を向けたまま、「いや」と、小さく返した。

 いつの間にか傭兵時代の先輩たちのような口調になってしまった。彼をまったくの部下扱いして、いくら疑惑があるとはいえ、これではあの全てにおいて余裕を見せ続ける兄になど敵うわけがない。リューティガーは焦りと疲れを自覚し、ともかく遼に謝罪をするべきだと思った。

 しかし彼の背中は、「あの現場を見ててさ……跳ばせる力があるお前が……どうして誰も助けないんだよ……最低じゃないか……」と告げ、扉へと歩き去っていった。

 呆然としたまま、栗色の髪は屋上で揺れ続けるしかなかった。

3.
 携帯電話ではなく通信機のコールシグナルが鳴るということは、相方からの通信ではなく同盟本部からの緊急連絡である。ホテルのソファに座り、報告書をノートPCで打ち込んでいた檎堂猛(ごどう たけし)は、机上の通信機を手に取った。
「中佐ですか……ええ……はい……」
 耳に当てた通信機から、英語の怒鳴り声が漏れた。最近特に焦っているようだが、今日のこれは死に物狂いといった勢いである。檎堂はソファに座り直し、あくびを噛み殺した。
「わかりました……成田ロイヤルホテルですね……え……い、いや……それは……」
 男の丸顔から余裕の色が消え、彼は身を乗り出して両手で通信機を握り締めた。
「我々は諜報活動に特化されたチームです。捕獲、暗殺は専門ではありませんぞ!!」
 檎堂は声を荒らげ、しばらくして息を吐き、通信機に向かって英語で喋るとその回線を遮断した。
「バカが!!」
 足の怪我がなければ、正面のガラステーブルを思いっきり蹴り上げていただろう。しかし男は冷静になるべく胸に手を当て、呼吸を整えた。
 真実の人が表立った活動をした段階で、彼を掌に載せ自身の野心の道具に使おうとしていた中佐の企てになんらかの修正が加えられ、自分たちの任務にも影響が出ると予想をしていた檎堂ではあった。しかし彼は、ここまで無茶な要求を中佐がしてくるとは思っていなかった。

 檎堂、花枝の両名は直ちに真実の人を名乗る、アルフリート真錠を捕獲、もしくは抹殺せよ。

 自分にしても相方の花枝幹弥にしても、専門は諜報活動であり、あのような空間跳躍の能力を持った敵と戦うのは守備範囲外である。若い花枝はやってみようと血気はやるかも知れないが敗北は目に見えていて、幹部の一人である中佐の命令とは言え承服はしかねる。最後にはこちらの剣幕に押されたのか、異様なまでに丁寧で生気ない謝罪をし、目的地での諜報のみに譲歩してきた中佐ではあったが、真実の人の活動表面化以外にも、例えば昨日今日の段階で彼の冷静さを消し飛ばす異変でもあったのだろうか。檎堂は頬と顎一面に隙間なく生えた熊髭で手の甲を掻き、しかしいよいよ末期段階にきてしまった自分の立場に顔を顰めた。


 檎堂猛が自らを取り巻く状況の変化に困惑しているころ、夏服姿のリューティガーがマンションの廊下に突風と共に姿を現した。

 結局、遼が立ち去ったあとも三十分ほど屋上で呆然としてしまい、下校を促すチャイムでようやく我を取り戻した彼だった。

「あの現場を見ててさ……跳ばせる力があるお前が……どうして誰も助けないんだよ……最低じゃないか……」

 そのような発想は皆無だった。とにかくテレビに映っていた兄を倒す。それしか頭になく、倒壊現場で苦しんでいる怪我人がいたとしてもそれは救急隊員が助ければよいだけであり、自分には特別な関係はない。やるべきこと、できることが別にあり、それは自分にしか不可能なのだから、それを第一に考えるのは論理的に当然である。そんな考えが染みこんでいたのだろうか。
 島守遼は、つい昨年までは当たり前に学校に通っていた、ただの一般市民である。自己をまず中心に置き、状況と相対的に照らし合わせ、行動の優先順位をつけるなどという思考方法は訓練されていない。あくまでも、起きている事柄の度合いにランクをつけ、それに向かって行動する普通の人間なのだ。去り際の言葉でそれをリューティガーは痛感し、埋めようもない溝、彼との間に断崖を感じ始めていた。
 803号室の扉を開けた彼の目に飛び込んできたのは、通信機を手にして玄関まで駆けてきた陳師培の姿だった。ひどく焦った様子である。「ぼ、坊ちゃん……中佐から通信ネ!!」その意外な言葉に、通信機を受け取った紺色の瞳に暗い影が走った。

「直接通信とは珍しいですね中佐……ええ……ビデオで見ました……あれは兄ですね……は? ええ……いえまだ……はい……そうですか……了解です……」
 要領を得ない。そんなぎこちない受け答えを終えたリューティガーは、通信機を陳に返して居間へと向かい、机上のPCへ向かった。
「指令かね、坊ちゃん」
「ええ……先ほどメールしたそうです……一体何ヵ月ぶりやら……」
 呆れた口調でそう言うと、リューティガーは専用のメーラーを起動して新着の文面に目を通した。
「成田で……兄がスポンサーと会談……十七日か……」
「作戦の内容は?」
 陳に質問にリューティガーは人の悪い笑みを浮かべ、遥かザルツブルクで冷汗を流しているであろう中佐を哀れんだ。
 あの倒壊事件の救助と関東テレビでのアジテートは、賢人同盟でも大騒ぎとなっていることは予想できる。そしてFOTへの対応に手を抜いていた中佐が、あそこまで声を荒らげ早口になっているということは、この事態は彼にとって想定外ということだったのだろう。決して友好的な関係にあるとは言い難い中佐の災難を、だがリューティガーは同情などできなかった。
「アルフリート真錠の殺害……もしくは身柄の確保と移送……いつも通りの任務ですよ。今回は十日以上間がありますから……作戦は練れますね……」
「遼たちにも参加してもらうのかネ?」
「もちろんです……健太郎さんの復帰がまだである以上……彼らにもがんばってもらわないと」
 言いながら、リューティガーは学校の屋上で背中を向けた長身の彼を思い出し、苦笑いを消した。

 僕のやり方に不満があるのなら……それでもいい……けど僕の武器にはなってもらうよ、遼……そのために……わざわざ転入なんてしたのだから……

 作戦に最も適した「異なる力」を持つ遼と接触、交渉し現地での協力者となってもらう。それが来日以前に立案したリューティガーの計画であり、それについては上手く遂行できていると言える。だが、彼の経歴を調べているうちに、あるいは友人になれるのではないかという思いも芽生え始めていた。異端なる力を持つ者同士わかりあえるはずだし、なによりもかけがえのない肉親を処罰する任務である以上、生じてしまう空洞を埋め合わせるだけの「得るもの」を欲していたのは間違いない。
 気付いていなかったのではなく、そこに考えを向けなかった。しかし反発と対立が明確化した以上、避けては通れない経緯である。彼はがっくりとうな垂れ、目論みがすっかり崩れてしまった現実に両目を閉ざした。


 特別出演の件は鈴木歩(すずき あゆみ)に伝えたはずなのに、部室に来た高川典之はなにも知らず、だからこそあんなにも驚いていたのだろう。無理もない。演技経験がないのに、斉藤一などという重要な役を与えられたのだ。慎重な彼であれば、丁重に断ってくる可能性もあった。
 六月九日。秋の学園祭公演「池田屋事件」の立ち稽古も今日で四回目となる。平田浩二は、部室隅のすぐ傍で硬い表情を崩さずに出番を待つ偉丈夫を一瞥し、今更ながら安堵のため息をついた。
 あれ以来、高川は部にも頻繁に顔を出し、稽古にも精力的に参加してくれている。まだまだ素で立っていることも多く、目線の運び方や意の向け方に課題は多いが、針越(はりこし)解釈の斉藤一は台詞も少なく寡黙な男ということなので、たぶん学園祭には間に合ってくれることだろう。
 稽古が進み、新撰組の宴会場面に差し掛かった途中、針越が手を叩き中断を示唆した。
「いい高川くん。この斉藤って男は人斬りの狂人的な側面も持っているの。だからこの酒盛りで永倉の見せた芸で皆が笑ってても、彼だけ呆けて目が死んでるってわけ。つまり楽しくともなんともなくって、彼は死線の中に魂が常にたゆたってるってこと。わかる?」
 人差し指を立て、そう説明する針越に、高川は何度も割れた顎を頷かせた。
「なるほど。つまり宴会などという息抜きが、斉藤にとっては拷問に等しいということなのだな」
「そうそうそう。そーゆーことだよ」
 針越の言葉を全て理解できたわけではないが、高川は自分なりの解釈で納得をした。胡座をかいていた平田は、この素人助っ人が下手なりに努力してくれていることが嬉しく、この舞台は上手く行きそうだと、勘と経験でなんとなくそう感じた。

「それにしても難しいものだ……その人物になりきるということが、ここまで集中力を要するとは……」
 休憩となった部室で、ジャージ姿の高川はタオルで汗を拭いていた神崎はるみに、照れながらそう言った。
「まぁそうね。台詞のある場面だけが演技じゃないもの。それに舞台の上は、その人物の切り取りに過ぎないから、本来なら私生活も役を意識することが必要だって言う人もいるのよ」
 想い人の言葉に、高川は目を輝かせて反応した。こんなにも近くに、こんなにも自然に言葉を交わせるとは。できるかどうかもわからず、恥をかくだけの危険があったにもかかわらず出演要請に応じた最大の目的はこれであった。前回のように裏方の助っ人としてでも彼女と同じ時は過ごせるが、共演ともなると距離の近さが違う。茶色がかったさらさらとした髪を見つめながら、彼の鼓動は早くなる一方だった。

 興奮の最中にあった高川は、ふと自分に向けられた別方向の意に神経が反応するのに気付いた。

 眉を顰め、警戒するように首だけ後ろを向こうとする彼を、はるみは不思議そうに見上げた。
「どうしたの高川くん」
「い、いや……なんだ……視線を感じたのだが……」
 部室の扉は、前後共に空気の入れ替えのため開かれていた。その先に見える廊下にも人影は見当たらず、高川は「ふむぅ……」と、声を漏らして太い腕を組んだ。

「下手糞に合わせるのが一番疲れるのよね。まったく」
 唇を尖らせて不平を漏らす澤村奈美(さわむら なみ)に、同級生である演劇部員、春里繭花(はるさと まゆか)は冷ややかな視線を向けた。
「それってもしかしてわたしのこと?」
「繭花はまあまあだよ。二年とか三年に、なんで演劇部なの? ってレベルのが混じってるじゃない。そいつらのことよ」
 声を潜めることなく、先輩たちの厳しい意が向けられるのもお構いなしに、奈美はそう言いきった。
「あのねぇ奈美。思ってても言っちゃいけないことって、あると思うんだけどなー」
「いいじゃない別に。ほんとのことだし」
 しれっと言い放ち、両目をわざとらしく閉ざした奈美を、繭花は面白い存在だと認めていて、だからこそ強く諌めることもなく、いずれ手痛いしっぺ返しがあってもそれはそれでやはり面白いとさえ思っていた。
「はい澤村さん。お疲れさま!!」
 湯気の立ったおしぼりを差し出したのは、坊主頭に太鼓腹の巨漢、岩倉次郎だった。
「あ、ありがとう岩倉先輩」
「やだなー澤村さん。僕のことはガンちゃんと呼んでおくれよ!!」
 屈託なく笑みを向けてくる先輩に、奈美は額の汗を拭きながら気圧されてしまった。
「け、けどさすがに先輩を“ちゃん”付けじゃ……ねぇ繭花」
 さすがの澤村奈美でも助けを求めてくるのか。繭花は丸眼鏡をかけ直して首を傾げ、「さぁ?」と、眉を吊り上げるだけであった。
「いいんだよ。僕は誰にでも“ガンちゃん”だから」
「せ、先輩がそう言って欲しいのなら……そうしますけど……」
 おしぼりを返した奈美は、戸惑いを隠せないまま山のような彼を見上げた。
「それとさ……さっきの立ち回り、すごいカッコよかったよ」
「は、はぁ……」
「なんか本当に女の子? なんて思っちゃったよ」
「え、ええ……」
 成分100%の賛辞など、あまりされたことがない。奈美はなにやら照れてしまい、気持ちがざわつくのを覚えた。
「みんな澤村さんぐらい上手ならいいけど、まだまだ稽古も途中だし、そうもいかないよね」
「ま、まぁ……そうですね……」
「ならさ、一足先に行ってる澤村さんが、引き上げてあげないとダメだよね」
「あ、ああ……そ、そうかも……そうですね」
 なんとなく戸惑いながらも納得してくれる可愛らしい後輩に、岩倉は何度も頷いた。
「僕もバンドに入ってるけど、上手くないから……難しいよねほんと」
 笑みを決して崩さない岩倉に、奈美は毒気をすっかり抜かれてしまい、ただぼうっとするしかなかった。

4.
 このチェーン系のハンバーガーショップで一番美味いのは、なんと言ってもシェイクである。他店とは異なり、ガラス製のグラスに入れられたそれは冷たさを長く維持し、最後まで刺激を舌に与え続けてくれる。紙製の容器だとこうはいかない。ストローを咥えた花枝幹弥は、対座する檎堂猛を無視してそんなことをぼんやりと考えていた。
「中佐は完全に焦ってるな……判断に狂いが生じ始めている……」
「そらそうや。首魁がテレビ出演して、落ちつけるわけあらへんし」
「イレギュラーの調査任務も増えている……」
「そら大変やな」
 他人事のような口ぶりのあと再びシェイクを吸い出した花枝から、檎堂は視線を逸らし、夜になりネオンのつきはじめた池袋の繁華街を見た。
「なぁ花枝……お前はいくつのころ、同盟に買われたんだ?」
 仕事以外のことは滅多に口にしない檎堂だったから、花枝はグラスを机の上に置いて腕を組み、彼の横顔を見つめた。
「そないなこと聞いてなんになる」
「いや……なんとなくな……」
「俺は親の顔も覚えてへん。そういうことや」
「お前の家は貧しかったのか?」
「せや。ゼロス局長が言うには、破産したのに闇金融に手ぇ出したらしい。首くくる直前やったそうや」
「俺の家もな……金がなかった……」
「ほう」
 花枝はこの熊髭がどのような意図をもって自分のことを語ろうとしているのか、その点にしか興味が湧かなかった。
「だから、働きながら大学を出た俺に期待してたようだな。国家試験に合格したときゃ、大喜びだった」
「なんや……あんた、お役人やったんか?」
「公安勤めだ……その後、同盟の四課にスカウトされた」
「家族はどないした?」
「さすがに両親とも亡くなったよ。今じゃ墓の下だ」
「ええ思いはさせられたんやろ? よかったやないか」
「お前の両親は、どうなんだろうな?」
 その言葉に、花枝は詮索を止め感情が波立った。
「知るか……興味あらへん!!」
 ぷいと横を向き、スニーカーの先でテーブルの裏を軽く蹴り上げた相方を見て、檎堂は下唇を少しだけ突き出した。
「うまく言えねぇけどな……」
 低く掠れた声だった。
「まぁ……好きにすることだ……」
 花枝が相方に視線を向けると、彼の丸い顔はなにかを懐かしむように穏やかであった。
「じゃあな……」
 杖を手にした檎堂は立ち上がり、全身の体重を上手くコントロールしてびっこの足を引きずった。
「なんや……どこ行くんや?」
「言ったろ。イレギュラーの任務が入ってるって……ターゲットが移動した……これより尾行を開始する……」
 檎堂の芝居がかった言い方に花枝は戸惑い、自分もトレーを手に立ち上がった。
「な、なんや……張り込みしてはったんか?」
「ついてくんな……お前じゃ勘付かれる……おそらく……面が割れてるからな……」
 左手で背後からの若い突出を制した先輩エージェントは、不敵な笑みをうかべると顎を強く引いた。


 池袋の繁華街をこうしてうろつけるのも、一体いつまでだろう。「夢の長助」こと藍田長助(あいだ ちょうすけ)は超高層ビルへと続く路地をゆっくりと歩き、上着のポケットから携帯電話を取り出した。
「ああ俺だ……そうか……ああ……十二でいい。ああ……わかった……」
 天然パーマのもじゃもじゃ頭を揺らしながら、ひょろりとした体躯の中年が路地を曲がり、携帯電話をポケットに戻した。
 焼き鳥屋の前で立ち止まった彼は、財布を取り出して中身を確認した。一杯引っ掛けていく余裕はある。どうせあの二人と合流したらアルコールは禁止になる。ならいまのうちに生ジョッキでもぐびりとやり、舌を滑らかにするのも悪くない。この店には立ち寄った経験がないから、対策班に通報される心配もないだろう。すると懐が再び震動し、彼は携帯電話を取り出した。
「ああ俺だ……ああはい……ええ……東テレの北川には連絡済みです……ええ……そちらは広田さんに任せます……はい……」
 この焼き鳥屋のカウンターでも、「謎の飛行生物」もしくは「犬頭の天使」についての話題で盛り上がっているのだろうか。最近では宇宙人説や、米軍の生体兵器説などというご機嫌の珍説まで出回り、それがそれなりに受け入れられてしまっているらしい。政府が公式見解の発表を先送りしているからそれも仕方がないだろう。「ファクトの獣人」の実在性についてもアングラレベルのマスコミでは熱心に報じられている。世間の風評を肴に一杯やるのが、ここ数日の愉しみでもあった。長助は店の扉に手を掛け、喧騒に耳を覚悟させた。

「だめじゃない……付けられてるわよ……」

 その言葉はすぐ右下からだった。彼が視線をちらりと落とすと、大きなアメリカンショートヘアーが入り口の傍に座り込み、トパーズの瞳で見上げていた。この猫、大きさ以上に体重はあるはずだ。二つに束ねた赤い髪を思い出した長助は、胸ポケットから煙草を一本取り出し、それに火をつけた。
「諜報四課か……それとも対策班かな……?」
 通行人が何事かと気にする程度の大きさで長助は言い放った。尾行者が撤退すれば前者、検挙に飛び出せば後者である。頼もしい一匹のボディーガードがいるから後者でも安心な長助だったが、彼はより落ち着くためにニコチンで肺を満たした。
「消えたみたいね……」
 猫は尻尾を軽く一回振り、路地の角へと消えていった。彼女の意図を察した長助は煙草を地面に投げ捨て、それを足で踏み消した。
「同盟の……お前が以前一戦やらかした男かな?」
 長助の言葉に、猫の消えた角から赤いエプロンドレスの少女が姿を現した。束ねた髪の先は地面すれすれで急上昇のカーブを描き、吊り上がった目には挑発の色を浮かべ、不敵な笑みのライフェ・カウンテットは頭を大きく回転させるように振った。
「さぁ……どうかしら……ねぇはばたき」
 少女に促されると、角からボマージャケット姿の少年が続いて出てきた。褐色の肌をした彼は、長助を通り越して路地の向こうを凝視していた。
「杖をついた男です……こないだのよりもっと年上の……」
 翼と強化された肺と視力。手を加えられた結果、はばたきが得た常人を越えた力である。彼の目は大通りに出て人ごみに紛れるまで、尾行者である檎堂の姿を捉え続けていた。
「それじゃあ違うわね。まぁいいけど……油断しすぎよ長助」
「ああ……ちょっとビールで頭がいっぱいになってたかもな……すまん」
 パーマ頭を下げる彼に、少女は呆れ笑いを浮かべ、少年は遠くの通りから敬愛する主の赤い髪に見るべき対象を移した。

 喫茶店に入った三人は、それぞれコーヒーとレモネードとトマトジュースにナポリタンを注文すると、客の視線を少し気にしながら言葉を交わしていた。
「でだ。古川橋の作戦についてはほとんど成功したと言ってもいい。あとは忠犬隊はスケジュール通りに動く。でもって七月には春坊と理佳の大仕事だ。これが成功すれば、計画の下準備はほとんど完了って寸法だ」
 周囲に誰もいない席を選んだものの、ここでも盗聴の恐れがゼロとはいえない。だからこそ、重要な事柄についてはわざとぼかそうと長助は言葉を選んでいた。
「蜷河の方は簡単よね。ライフル一発でしょ? それに比べてこないだのは大変だったのよ。ねぇはばたき?」
 主に振られたものの、少年はナポリタンに取り組むのが全力で、なんとなく頷くしかできなかった。
「まぁ、そう言うなって……理佳も狙撃だけじゃねぇって……」
「けどね。迫ってくるトレーラーを闘牛士のように捌いたり、瓦礫の中に潜り込んであんなグロい死体の位置を知らせるなんて、そこまで大変じゃあないでしょ?」
「わかったわかった……いや、こないだのお前の活躍は承知してるって。だからここだって奢りだし、今日はなんでも好きな物頼んでいいからよ」
 なだめる長助の言葉に、はばたきが目を輝かせ、口にパスタを含んだまま、「本当ですか!?」と、叫んだ。
「まったくぅ……はっばたきはすぐ食い物で釣られるんだから……」
「ご、ごめんなさいライフェ様……」
「まぁいいわ……ところで蜷河と仙波(せんば)のほうは……手伝わなくっていいの?」
「ああ、あちらには別の援軍を向かわせる……」
「ジョーディーたち?」
「いや、クック・Q(クイ)とエロジャッシュ・高知(こうち)のコンビだ」
 長助の言葉に、ライフェは口にしたレモネードを吹き出しそうになり、はばたきが即座に彼女の背中に手を回した。
「ちょっ、ちょっとぉ……重大な任務なんでしょ……なんであんな残党を派遣するのよ?」
「クック・Qは催眠の総仕上げに必要だし、高知はあんな見た目だから陽動に使える……真実の人の判断だ……」
「けど残党は弟向け戦力じゃなかったの?」
「捨て駒の使い道はそれだけじゃないらしい……もっとも俺はあいつら残党が、どこでどうしているのかも、お前たちと違って教えてもらってねぇけどな」
 少しだけ口調を強めた長助は、ブラックコーヒーをがぶ飲みした。


「今日のアジは非常に美味でした……ご馳走様……」
 両手を合わせて頭を下げた高川典之は、食器を持って台所に向かった。食事の際は、常に一番美味しいと思った感想を言うのが祖父から教わった「決まり」であり、それを欠かさず守り続けている彼だった。
 食卓へ戻ってきた高川は、まだ食事を続ける両親に、「コンビニエンス・ストアへ行ってきます……すぐに戻るので……」と告げ、踵を返して玄関へ向かった。一人息子の慌ただしい行動に彼の父、高川浩昭(たかがわ ひろあき)は肩を小さく上下させ、「典之がコンビニなんて珍しいな」と感想を口にした。

 自宅であるアパートから歩いて五分ほどの路地の先、国道沿いにコンビニエンス・ストア「冬木堂」があった。以前は総合雑貨店として都内に数百店舗を構え、「ドンキホーテを追撃するNo.1」とまで言われた存在だったが、グループぐるみの違法献金、店舗での連続火災などのトラブルに見舞われ、大きく売り上げを落とし業績を悪化させてからは、コンビニエンス・ストアとして再生し、現在では東京南部に十数店を営業するまでに業務を縮小化してしまっている。
 同業他店と最も差別化がなされているのは、全店で医薬品を取り扱っているのと店員の接客態度がデパートに準じるレベルという二点だったが、Gジャン姿の高川は商品棚や店員には目もくれず、レジ付近に置いてあった無料求人誌を手に取った。
「おい店員。これは無料と書いてあるが本当なのか?」
 180cmを超え、厚みたっぷりの肉体。日焼けした肌、太い眉に精悍な顔立ち。そんな彼の質問に、店員の若い女性は一瞬気圧され、すぐに笑いがこみ上げてきた。
「ええ……無料ですけど……お一人一部までとさせていただいております」
「なるほど。制限なく取っていく不届きな輩がいるというわけだな。この街も昔と比べると随分、悪漢不良の類が増えたからな」
 もうだめだ。早く帰ってくれ。一部とは言わない、二部でも三部でもあげるから。店員は今にも壊れてしまいそうな表情を必死で制御したが、彼女の頭の中を「不届きな輩」、「悪漢不良」という、まず日常では聞くことのないフレーズがぐるぐると回り始めた。
「ふむぅ……これだけの情報があるとは……エリアも的が絞られていて結構!! これなら携帯電話や免許代のアルバイトもすぐに見つかるというものだ!!」
 パラパラとページをめくった高川は嬉しそうにそう言い、店員は限界を超え、ついにカウンターに手を着いて肩を震わせた。

 なんだよこいつ……求人誌のCMかよ……それに携帯に免許だって……あー、腹いてぇ!! こんな面白い奴、誰が雇うんだよ!!

 店員の異変に気付かないまま、高川は「貰っていくぞ!!」と大声で告げ、店から出て行った。
 他に客もまばらだったため、店員は感情を爆発させ、声を上げて笑った。ようやく我慢していた気持ちが解消できた。そんな思いで頭を上げた彼女は、店の入り口で腕を組んで扉の横の硝子を見つめている、笑いの種である高川の姿に驚愕した。

 なにじっと見てんのよ……ってあたしじゃないか……貼り紙……見てる……? うそ……あれって、ウチのバイト募集の貼り紙じゃない……マジ!? マジ!? やめて絶対……あたし、笑い殺される!!

 レジにカップラーメンを持ってきた客に、彼女は愛想よくレジを打ちながらも、意識は店外で腕を組み続ける高川へと向けられていた。
 やがて、彼は一度首を傾げたのち、背中を向けて信号へと歩いて行った。やっと解放された。あの「なんかなぁ違うなぁ」という態度は、きっとここでのバイトを諦めたということなのだろう。彼女はそう思い込むと大きく息を吸い込んで、これからまだ三時間は続く勤務に意識を切り替えた。

5.
 日曜日の朝は、いつもより二時間以上は長く布団に入っている。それが島守遼にとっての日常だった。太陽が一番高い位置まで昇ろうとしていたころ、彼は眠い目をこすってダイニングキッチンに出てきた。
「おせぇぞ遼……もう十一時過ぎだぞ」
 台所で食事の準備をする父、島守貢(とうもり みつぐ)にそう注意された遼は、「勉強だよ……ちょっとやばいから頑張った……」と、不満そうに返事をし、彼の横に並んで顔を洗った。

「さっき朝刊で読んだんだけどよ。古川橋のビル、なんか直前に柱が崩れたのが倒壊の原因だったらしいな」
 朝食兼昼食のラーメンを食卓に置いた父は、オレンジジュースを飲み干す息子に興奮がちに言った。
「柱……? トレーラーが突っ込んだからじゃないの?」
「それだけじゃ、物理的に有り得ないんだとよ。老朽化してた上に、例のピロティー構造ってやつだろ。こりゃ、大鱒は潰れるな。管理不行き届きかなんかでとんでもねぇ賠償金になるぞ」
 貢は自分のラーメンを運ぶと、それに大量のコショウを振りかけた。
「新聞では……あの白い怪物のことって……続報とかは?」
 父の作ったインスタントラーメンを食べながら、息子は小さな声で尋ねた。
「“犬頭の天使”だろ? 朝日や読売みたいなのでは事件当日以来扱ってないな。呑みに行った先のテレビではやってたけど……あれ本物なのか?」
「さ、さぁ……けど飛んだんだろ? それに犬の頭や鳥の足だって本物にしか見えないって……クラスの連中が言ってたぜ」
 息子の説明に、だが父は納得せずに麺を啜った。
「だってよぉ……あり得ねぇよ。犬の頭に鳥の羽と足……絶対あり得ないだろぉ……」
 父の言うことは尤もである。あり得ない。確かにそうだあり得ない。神話や伝説、はたまたアニメや漫画の世界である。現実の世界で生きる者にとっては、生物学的にも生化学的にも不可能な存在である。
 しかしそれを父が嘆くのはあまりにも可笑しい。異なる力を持ち、パチンコ玉を自由に念動させる父も、やはりあり得た存在ではないからだ。息子が急いでラーメンを啜ると、彼の耳に通信機のコールシグナルが飛び込んできた。
「け、携帯かな……?」
「なんか味気ねぇ着メロだなぁ……」
「し、渋いだろ……」
 腰を浮かせた遼は、自分の部屋に置いてある通信機を取りに向かった。リューティガーからの呼び出しだろうか、今日はミーティングの予定は入っていないはずだったが。彼は疑問を胸に襖を開けた。


「接客には自信がある。俺……い、いや私は道場で礼節というものを磨いている。特に目上の者に対しての礼儀は完璧だ!!」
 受話器に向かって高川はそう叫んだ。すると電話の向こうの面接担当と名乗る男は、「ならとにかく一度履歴書を持参で面接に来なさい」と、うんざりした口調で告げた。
「わかった。履歴書を用意すればよいのだな。写真? 中学のでは駄目か? 新しい写真? 私はそれほど風貌の変化はないつもりだが……いやあいわかった。皆まで申すな……うむ……うむ……」
 受話器を置いた高川は大きく息を吸い込み、「うむ」と力強く頷いた。


 演劇部の手伝いは部員から感謝と賞賛の連続であり、これは岩倉次郎にとってかつてない事態である。ああまで自分が頼られ、期待され、喜ばれるとは。しかしそれに比べると、一年以上続けているにも拘わらずバンドの練習では叱責ばかりである。
「ガンちゃん、ズレてるってそこ……!!」
「そこで抑えてどうする。もっと立てないと意味ないだろ?」
「おいおい、やってられねぇって言いたくなってきちまったじゃねーかよ!?」
 叱られても笑みは絶やさず、謝罪で返すことは欠かさない。他人から褒められている以上、記憶力はいい方だと思うが、なぜ指の技術がちっとも追いついてくれないのか。岩倉次郎は弦を握る自分の太く短い指と、ギター担当である同級生の細く長いそれを見比べ、練習場所である中央校舎二階の音楽室で、深いため息をついた。
 だが辞めることはできない。もともと無理をいって入れてもらったバンドだ。学園祭までもっと上達して、皆に褒められるようにならなくては。どうすれば演劇部の手伝いのように上手くやることができるのだろうか。岩倉はベースギターをケースに収めながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
 すると、鞄の中に入れていた通信機のコールシグナルが鳴り響いた。他のメンバーが注目する中、岩倉は慌てて廊下へ飛び出し、階段を上ると踊り場でそれを取り出した。

「日曜日なのによく集まってくれました……」
 食卓に手を置き一同を見渡したリューティガーは、椅子に腰掛けて小さく咳払いをした。
「同盟本部から指令か……?」
 高川の予測にリューティガーは頷き、遼は一体いつ以来だろうかと記憶を辿り、実はあの十名が派遣されてからは、指令らしきものを受けた覚えがないことを思い出した。
「金曜日の十七日……兄が成田ロイヤルホテルにて、スポンサーとの会談を開くそうです……時間は午後六時以降。指令の目的は彼の抹殺、もしくは本部への移送です」
 以前であればあくまでも闇の世界の存在であるリューティガーの兄、真実の人(トゥルーマン)ことアルフリート真錠である。しかし現在の彼は独立U局とは言えテレビ出演を果たし、ネット界隈では時の人として話題になっている人物である。それと戦う。岩倉は途方もないことだと恐れ、つい先ほどまでベースの技術に悩んでいた自分とこの状況のギャップに戸惑い、膝を小刻みに奮わせた。
「僕たちは二班に分かれます。A班は僕と遼……JR成田線の線路を挟んだナガタゴルフクラブに潜入し遠透視で兄を捕捉、抹殺します」
 “抹殺”その物騒なフレーズに遼は緊張した。今回は品川での作戦のように誤魔化すことはできないだろう。それにあくまでも冷静に淡々と作戦を語るリューティガーを見ていると、「それでも兄弟なんだ」と、「いなば」での一件において見せた精神的な弱さを露呈させてしまう可能性が低いように思える。
「残りのB班はロイヤルホテルに潜入、兄とスポンサーの出現報告をお願いします」
 若き主の言葉に、丸々とした従者が大きく頷き、高川と岩倉に細い目を向けた。
「今回は会談の開始を待ちません。ターゲットを発見次第、抹殺を優先します。ですから盗聴の必要もありません。それと……前回の獣人襲撃という事態も考えられますので、B班のガンちゃんはターゲット、もしくは会談相手を発見次第すぐに僕たちA班に合流。移動はバイクで行ってください」
「う、うん……わかった……」
 岩倉はリューティガーの言葉を何度も頭の中で反芻し、その卓越した記憶力で全てを刻んだ。
「じゃあこれから細かい事対応について説明する……」
「ちょ、ちょっといいか真錠……」
 あくまでも淡々としているリューティガーに、遼が言葉を遮った。
「あのさ……本部へ移送ってパターンはなし……なんだよな……やっぱり……」
「ああ。前回のテレビ出演中もだめだった。もっとも銃声があったようだから、誰かが外から僕の様子を監視していて、兄に知らせた可能性もあるけど……やはり僕と君の力で殺害するのが一番成功する確率が高い」
「そ、そうか……」
 どうしても殺人は免れない。鈍い光を反射する紺色の瞳を遼はそう理解し、力なく食卓に視線を落とした。


 メモをとることも許されず、細かい作戦内容の指示は全て口頭で紙の資料は一切ない。遼と高川は三十分近い事対応説明を必死の思いで頭の中に入れ、できるだけガンちゃんに頼ることがないように努めた。
 FOTのエージェントがガードとして現れるのは当然であり、政府担当部門が襲撃してくる可能性もある。テレビ局などマスコミの存在も無視できず、以前より想定しなければならない事態と対応はずっと増えている。最後にリューティガーは、「これ以上事態をややこしく広げたくはない……つまりこれで終わらせるということです」と付け加え、時間に対して密度の濃いミーティングは終了した。

「予備のヘルメットあるし……送っていこうか?」
 代々木パレロワイヤルのロビーを出た岩倉は、高川にそう提案した。しかし彼は首を横に振り、「いや、家の遠いガンちゃんにわざわざ寄り道をさせるのも悪い……電車で帰らせていただくよ」と、その申し出を断り、駆け出した。
「あいつも免許とか取ればいいのにな」
 ヘルメットを小脇に抱えた遼が、走り去っていく高川の背中を見つめながらそんなことを口にした。
「とりあえず、原付取るって言ってたよ。そのためにバイトするって」
「バイト? あいつが?」
「うん。近所のコンビニに電話するって言ってた……もうしたのかなぁ?」
「コンビニの店員さん? あの高川がか?」
「うーん……どーなんだろうねぇ……」
 さすがの岩倉も困った笑みを浮かべ、高川の制服姿を想像した遼は堪らず吹き出してしまった。

 駅へと続く大通りに出た高川は、だがその坂道を登ることなく、信号を渡って住宅街へと足を向けた。
 思えばこの代々木に打ち合わせのために来るようになってから半年、何度か訪れようと決意したことはあったものの、その度に作戦が決まったり襲撃があったりと、なにかと緊張を強いられる出来事が続いていたため、ついつい先送りにしてきたような気がする。
 いや、それだけではない。これまでは訪ねる決定的な理由がなかったのだ。気持ち悪がられても仕方がないし、ストーカー呼ばわりされる恐れもある。しかし今では同じ舞台に立つ仲間だ。接点は以前とは比べ物にならないほどだろう。高川典之は「神崎」と書かれた表札のすぐ下にあったインターフォンのボタンに人差し指を伸ばし、唾を飲んで一呼吸間を空けると、それを勢いよく押し込んだ。
「だれ?」
 子供の声がインターフォンから聞こえてきた。想い人の彼女ではない。これは男の子の声だろうか。神崎はるみに弟がいるという話は以前耳にしたことがある。名前は確か……
「学(まなぶ)くんだね。私は高川典之。はるみお姉さまは在宅かな?」
「はるみ姉ね……ちょっと待ってて……」
 随分愛想のない声だが、それも仕方がないだろう。日曜日の午後、たぶん宿題でもやっている最中だったのだ。それを中断されたのだから、どうしても不機嫌になってしまうのは当然である。


「び、びっくりしたよぉ……なんで?」
 一階のリビングに通された高川は、ジーンズに萌黄色のシャツを着たはるみの姿を新鮮だと思い、両膝をぎゅっと握った。
「い、いや……用事があって近所まで来たのです……はるみさんが……いればよいかと思った次第で……」
 彼女に対しては、敬語が混じったり名前をどう呼んでいいのか混乱したりと、どうしても話し言葉が決められない。高川は額から出る汗をハンカチで拭い、柔らかすぎるソファの座り心地に違和感を覚えた。

 お、弟さんが……見ている……は、恥ずかしい失敗は許されぬぞ……

 リビングの奥に置かれたテレビに向かい、手にゲームのパッドを握り締めた神崎学が、時々こちらをつまらなそうな目で見つめてくる。高川はそのつど緊張し、口元をわなわなと歪めた。
「い、いや……特にこれといった話があって参上したわけではないのですが……演劇のことなど……いくつか相談に乗っていただければと思って……はい……」
「お芝居の? いいわよ。相談ってどんなこと?」
 向かいに座るはるみは早口でそう返すと、まだ一口も飲まれていないアイスコーヒーを彼に手で促した。
「い、いや……ま、まぁ……そのなんだ……ははは……」
 口から出任せを言うものではない。高川は笑って誤魔化すとストローを咥えて黒くて冷たいそれを飲んだ。

 はるみんのアイスコーヒー!! なんという冷たさ、なんという苦さ!! これぞアイス・オブ・コーヒー!! そこいらのアイスコーヒーとは味が違う!! 他人でこれを飲んだのは俺が初めてか!?

 落ち着くどころか、かえって興奮してしまった高川は、顔を真っ赤にしてアイスコーヒーを一気に飲み干した。母の買ってきたボトルコーヒーはまだ半分以上残っているはずだ。おかわりを注ぐべきかと思ったはるみだが、彼が身体を左右に揺らしてあまりにも高揚している風だったので、ひとまずそれは諦めた。
「変なの……」
 平田先輩や福岡部長の強い推薦で彼の特別出演が決まったらしく、確かに上背もあるし格闘技経験者だけあって身体のキレは確かであるが、自分に対してなにやら強烈な好意を抱いているらしい高川の接近は、正直言ってはるみにとってはありがた迷惑以外の何物でもなかった。
 端正すぎる顔立ち、逞しい肉体、実直で真面目な性格。いい同級生だとは思う。しかし個人的に感情を寄せるにはどうにも「濃い」存在であり、思い込みの激しさは聞き込みに来た那須誠一郎と一触即発になるという珍事態を引き起こし、とにかくどうにも苦手なのである。
 それと比較すると、島守遼はなんというか素っ気なくぶっきら棒ではあるが、何かと気になるし、彼に対してアプローチをしていると満たされるのである。努力の甲斐を感じるのである。残念だが高川典之に対しては、どうしてもそのような気になれない。神崎はるみは心の中で手を合わせながら彼に謝罪した。
「そ、それもそうだが……最近物騒な事件が多いですな。昨日も米軍の流れ弾が給食のトラックに命中したと聞きましたが……まったく持ってけしからん事件です!!」
 突然話題を変えた高川にはるみは呆然とし、そう言えばそんなニュースを見た覚えがあると頷いた。
「最近米軍がらみの事件って増えてるよねぇ……輸送機にヘリの墜落でしょ……なんで立て続けなんだろうね」
「ま、まったくです……共産主義者からこの国土を守るはずの米軍が、我々市民に対して脅威となるなどまったくけしからん!!」
 米軍の定義が少々独特であると思えたが、はるみは自分の意見を言うのは面倒なので、自分もアイスコーヒーを口にした。
「ま、まぁ、なんにしても正義忠犬隊……最近ではこの話題に尽きますな!!」
 あれが遼たちの戦う相手と関係してる。それは何となくわかる。獣人は実在したし、姉もおそらくそんな化け物たちと戦っているのだろう。自分やこの国の人々を守るために。
 様々な「繋がり」に対して疑問を持った際、そのきっかけとなったあの雪の日の事件に、この高川典之も関わっていたが、現在では立場にずっと差がついてしまったと思う。秘密を知ってしまった自分が迂闊に非日常の出来事を言葉にしてはいけない。彼の事情を聞かされていないはるみは、曖昧な笑みを浮かべてなにも返事をしなかった。

 あれがFOTの獣人だとすれば、その目的はなんであろうか。人命救助などという茶番の先にはどのような陰謀が隠されているのだろう。そして自分の完命流(かんめいりゅう)は、それにどこまで対抗できるのだろうか。話題として切り出してしまったにも拘わらず、高川は秘密を知らないであろう彼女にそれ以上は話すことができず、堪らずに後頭部へ手を当てた。

 ぎくしゃくとした笑みと、言葉を交わさない時が二人の間に淀んだ空気を作った。まだ幼い学はそれが可笑しくて仕方なく、ゲームから意識をすっかり奪われてしまった。

「だからさ。はるみ姉は真面目すぎるのって疲れるんだよ」
 姉が席を外した際、学は硬くなっている彼にそうアドバイスをした。
「そ、そうなのですか学くん!!」
「けどいい加減でふざけてるのは嫌いだし……難しいよー!!」
「う、うむ……ど、どのような男性が好みのタイプなのであろうか……?」
 太い眉毛に力を込め、高川は小さな学に頼むように尋ねた。姉の好みのタイプ。さて、果たして芸能人だと誰のファンだったろうか、それともクリスマス・イブに来た例の同級生などはどうなのだろうか。そんなことを考えていると、廊下に足音がしたため学は再びテレビの前に戻った。
 弟から情報収集をするなど、少し卑劣な手段ではある。だが話しかけてきたのはあちらであり、ついでの質問だったのだから外道という程ではないだろう。彼は戻ってきたはるみに一礼すると、腰を浮かせて「失礼……いきなりの来訪で迷惑をかけてしまった……これにて失礼する……」と挨拶し、鞄を手に立ち上がった。
 まずは一歩前進。そう言ってよいのだろう。神崎家を後にした高川は腰を低くして両手を握り締め、「よっし!!」と、声を出して成果を噛み締め、萌黄色のシャツを着た彼女のことが一日じゅう忘れられなかった。
 細かい作戦内容について、高川典之が岩倉次郎に聞き直したのは、翌日の放課後のことだった。

6.
 放課後となった段階で現場である成田へ向かう段取りとなっていたが、それは移動時間も考慮した結果であり、距離と時間に束縛されない責任者の彼にとっては吉見英理子の、「来週の月曜日は、部屋がちょっと使えないんだ……今日、臨時の科研があるんだけど……いいかな?」という誘いに関しても、特に断る理由がなかった。確か遼たち三人も今日は演劇部の稽古があるはずである。現在の時刻を考慮してもゆとりはまだまだある。

 作戦当日は午後から曇り空となり、北校舎の集会場所である三階の空き教室の窓が風でがたがたと揺れていた。

 なにより、大一番を前にリラックスしておきたいという気持ちもあった。野崎という1年B組の女子がよく用いる珍説、「ネギトロ星人」についての新情報でも得られれば、きっと笑っているうちに心の硬さもほぐれることだろう。だから遼たちには事情を話してここまでやってきたリューティガーだった。

「在日米軍の一連の不祥事は絶対ネギトロ星人の仕業だって!! おかしいもの。こうまで立て続けなんて!! それにこないだの正義忠犬隊は、もう絶対そうよ!! ネギトロ確定!!」
 興奮して持論を展開する野崎に、1年A組の敏田(としだ)という男子生徒が、「だってネギトロは魚の頭だったんでしょ?」と、注意した。
「ネギトロ星人は、ずっと高度なカモフラージュ技術があるんですから!! だから、あんな精悍な猟犬風の頭にしたのよ。実際、好感度高いじゃない!!」
「まぁ……ネギトロかどうかはともかく……正義忠犬隊は、わたしたち科研にとっては絶好の研究対象よね」
 年長者として冷静に論評した英理子は、赤縁の眼鏡を人差し指で上げると、リューティガーへ小さな目を輝かせた。
「な、なんなんでしょうね……アレって……」
 彼が困った様子でそう答えると、英理子はますます目の輝きを強め、胸に手を当てた。
「羽ばたいて飛んだだから、まぁ、グライダーとかパーソナルジェットってことはないんでしょうね。まず間違いなくファクトの獣人と同じ系統ね」
「ファクトの……けどどんな科学技術なのかな? バイオテクノロジーの産物なんて、ちょっと信じられないでしょ。あからさまなオーバーテクノロジーだし」
 英理子の意見に対したのは、2年A組の丸江という女子生徒である。
「ファクトに関しても、隠匿された情報があるって話でしょ? 味方村の爆発事件だって、自衛隊機が小型の太陽みたいなのと交戦したって噂があるくらいだし……渋谷駅前の銃撃事件だって、洗脳電波が放出されたって言われてたじゃない」
 英理子が言うように、ファクト絡みの事件についてはいくつか不明瞭な点が多く、謎として噂が一人歩きをしているケースもある。会員たちは一様に幼かったころの大事件を思い出し、交わされる言葉も少なくなっていた。
 獣人のテクノロジーに関しては、真実の徒がオリジナルとして保持していたデータも多く、賢人同盟にしても全容を把握しきれていないのが実情である。
 本来なら監視役である当時の五星会議メンバーは、下部組織である真実の徒の情報を全て通達する義務があった。しかし二代目真実の人と情交の仲となってしまった彼女は、その職務を放棄してしまった。そして後継として様々なテクノロジーの回収と整理を命じられた兄は、本部に一部の情報を報告しただけであり、反抗が明確化してからは当然そうした任務もなされてはいない。
 どのみち、獣人の話は厄介だ。自分の知っていることを隠すことになるし、英理子や、今日もずっと黙っている会長の江藤に隠し事をするのはどうにも気分が悪い。もっと現実味の薄い話題に変えるべきだと感じた彼は、机の上で指を組み右目だけを閉ざした。
「そ、それより……こないだの件ですけど……あの……超能力に関する考察……」
 つい先週の会合で話題にした異なる力についての話題を、リューティガーは切り出した。それは科研に出席するようになって経験するようになった、彼自身の考えを整理する貴重な機会だった。
「例えば……念動力ってありますよね……あれに関しても、実は様々な過程があると思うのです……例えばこの……ポテトチップを一枚動かしたいって念じるとします」
 強引に興味を引きつけるため、リューティガーは机の中央に盛られたポテトチップの山を指差した。
「結果として一枚のポテトが浮かび上がったとしましょう……けどそれは、重力をゼロにして震動を加えたのか、上下のいずれかより引っ張ったり押したりする力が加わったのか……」
 最後の一つの過程について、彼はゆっくり「そのポテトの時間を操作したとか」と語り、会員たちは耳慣れない言い回しに興味を示した。
「時間を操作って……どういうこと?」
 英理子の質問に江藤会長は頷き、今日初めて同意の態度を見せた。
「あ、ええ……ポテトという物体が、かつて存在、通過したことがある場所に移動する……これを時量操作(じりょうそうさ)という概念で研究している例があるそうです」
「時量操作……けどそれだと……もしポテトが置いてある位置から動いたことがない場合は……」
「微動だにしないでしょう。けど実際は動きます。なぜなら袋から移された段階、袋に入ってこのテーブルまで運ばれてきた段階、ポテトは確実に現在よりも高い位置を通過したはずです」
 英理子の疑問に彼は明確に答え、会員たちの関心はますます強くなり、リューティガーは熱い視線を感じた。

 そう……このポテトがここに空間跳躍で跳ばされてきた場合に限り……時量操作は不可能になる……人間にしても同様だ……

 リューティガーは顎に手を当て、さて、この件についてやはり彼には話しておいた方がいいのではないかと考えた。

 いや……時量操作はデリケートな力だ……そのうえわかり辛い……彼は混乱するだけだろう……破壊を念じる……そんな単純さでいいんだ……より精密に……跳躍者でも出現後に内臓は動く……そんな僅かな通過経験でいいんだ……そのぶれを移動……破壊すれば、急所なら致命傷を負わせられる……

 作戦が成功すれば、現地協力者の彼も日常生活者に戻る。そうなれば異なる力を使う機会も減るだろう。なら詳しい説明などする必要はない。
 思えばそのような考えで、大切なことは全て先送りにしてきたような気もする。自分自身、この学校生活が二年目に突入するとは予想しておらず、今こうして同好の士と机を共にするなど考えてもいなかった。だが仕方がない。賢人同盟本部がここまで対応を鈍らせることが意外だった。兄があそこまで強い気持ちで目的に向かっているとは思っていなかった。仕方がない。それもおそらく今日には終わる。
 落ち着いているのだろう。リラックスもしている。リューティガーは首を傾げている吉見英理子に無邪気な笑みを浮かべ、「もちろん、僕自身そんな超能力、見たことありませんけどね」と、気楽な嘘をついた。

 知らない土地へ行き、知っている他人を殺す。

 殺す。いや、念じるだけである。首を絞めたりナイフで突くほどの度胸はいらない。ただ、浮かんだ内臓のイメージの、ある血管の破壊を念じるだけである。そう考えればずっと遠い、ぼんやりとしたことをしでかしに成田へ向かうだけのことだ。
 などという割り切りができるほど島守遼は鈍くもなく、演劇部の稽古に参加する彼の顔色はどことなく青白く、本読みのタイミングも鈍く、なにかと謝ることばかりである。
「な、なんかさ……調子悪いっつーか……風邪気味なのかな?」
 向き合って稽古をする針越にそう言い訳をした遼は、照れ隠しで頭を掻こうとしたがそれを止め、部室の隅へ下がった。
 なにかをする。おそらくは今日か明日に。彼の異変をはるみは見抜き、丸めた台本で自分の胸元を軽く叩いた。
「にしても今回の土方は随分と品のない男なんだな」
 昨年の秋より入部した三年生の徳永という男子生徒が、台本のチェックを始めた針越に声をかけた。
「クールで冷たい副長ってイメージが最近の流行みたいですけど、そこはやっぱり田舎者で上昇志向の塊だと思えますし……内と外面をコントロールできなかったと思うんですよね」
「なるほどねぇ……しかしそれだけに島守も苦戦してるみたいじゃないか」
「彼なら間に合いますよ。多分地に近い役柄でしょうし」
 言いながら針越が教室の隅に目をやると、角に背中を付け、じっとなにかを凝視する遼の姿があった。頬が僅かに震え、まるで昨年の初舞台直前のように緊張しているようにも見える。本当に風邪を引いたのだろうか。そんな疑問を抱いた彼女の視界の端に、やはり長身の、だがもっと厚みのある体躯をした男子生徒がしゃがみ込んで台本を読んでいる様子が入った。
「高川くん。台本で気になったところがあったなら、赤ペンとか入れた方がいいと思うよ」
 後ろで手を組み、笑顔でやってきた針越に対して、だが高川は視線を上げることなく「ああ」と一言だけ返した。決して愛想はいい方ではないが、こんなにも素っ気ない彼を見るのは初めてだったため、少女は戸惑い立ち止まった。

 あと数時間後、成田のホテルで戦いがはじまる。獣人がいるのか、殺し屋がいるのか、どちらにしても命を懸けた死闘になることだけは確かだ。高川典之も、ごく近い未来に対して恐れを抱いていた。

 一人、岩倉次郎だけがいつもと変わらぬ屈託のない笑顔で部員たちにおしぼりを配っていた。
「あれ、澤村さんは休み?」
 同級生の不在を先輩に尋ねられた春里繭花は、「ちょっと……調子、悪いみたいで……今日は午前で早退です」と、巨漢の彼を見上げてそう答えた。
「なら僕が使っちゃえ」
 あの気の強い後輩でも、そうかそれはそうなのだろう。なにせ女の子だ。おしぼりで顔を拭きながら、岩倉次郎はすっかり照れてしまい、外からも内からも顔面を熱くさせていた。


 結局ぐったりと過ごし、部員たちから心配されるだけである。病気などではない。今日これから行う作戦に心を重くしているだけだ。もっともそれは心の病というやつかもしれない。島守遼は栗色の髪の彼がなぜああまでも態度が不安定なのか、なんとなく理解できるような気がした。
 更衣室から廊下に出た遼は、学生鞄を抱え、じっとこちらを見上げる神崎はるみに思わず息を呑んだ。
「なんか……あるんでしょ……」
「あ、ああ……ちょっとな……」
 このまま肩でも一叩きして走り去れば、それはそれで正義を守る物語上の登場人物のようで格好がいい。「心配するなよ」などと言い残せたら満点だ。しかしそんな思い切りもなく、彼はただこのまま別れてしまってよいのか、このまま殺しに行ってよいのかと奥歯を噛み締め、やがて「ちょっとさ……ここじゃ……あれだ……屋上でいいか……?」と、なんとも歯切れの悪い言葉しか出せなかった。

「作戦……?」
「ああ……真錠の組織からの命令がきた……」
 誰もいない屋上の更に端で、遼とはるみはそれぞれ逆を向き、肩だけは近くにして言葉を交わしていた。フェンスの向こうに曇り空を見上げた遼は、湿った空気に眉を顰めた。
「なにをしに……行くの……?」
 横目で彼の顎を見たはるみは、背中をフェンスに付け、より表情がよく見えるように視線を上げた。
 血の気の薄い青白さだ。表情は険しく、辛い命令に従わなければならないということは、その顔を見ているだけでもよくわかる。はるみは息が苦しくなり、手にしていた鞄を屋上の床に置いた。
「殺さなくっちゃいけない……真錠の兄貴を……真実の人を名乗る……」
「え……? なに……? 兄貴って……?」
「言ってなかったか? 真実の人……アルフリート真錠はルディの兄だ……あいつら……兄弟で殺し合いをしている……」
 低く、重く、ゆっくりと遼は言った。“兄弟で殺し合う”その言葉にはるみは口元を小さく歪ませ、たまらず「なんで」と、つぶやいた。
「いろいろあるらしい……ただ……あいつの兄貴は……よくわからない人だけど、やっぱりそれでも悪い奴なんだと思う……実際今までいろいろとやってきた……近持先生が大怪我した教室ジャックや西沢が見た通り魔だって……奴の手下なんだ……」
 だがそれでも、遼がこれから殺しに行くのはとても受け入れられない。はるみはフェンスに体重を預けるのを止めると、彼に正面を向いて拳を握り締めた。よくわからないけど止めるべきだ。島守遼が人殺しなどしていいはずがない。幼い少女を撃ち殺したリューティガーの冷たい表情など、彼が被ってはいけない。はるみが気持ちを言葉にしようとした直前、彼の強い眼光によってそれは制されてしまった。
「いろいろあったんだ……言いたいことはわかるけど、いろいろあったんだ……蜷河を助けたいって目標は一番上だけど、俺はあの兄貴のヤバさもよく見てる……平気で人が殺せる……子供だって殺しに差し向ける……そりゃ気さくだし、自分から危険な場所に飛び込む勇気だってあるんだろうけど……止めなきゃいけない存在だってのは事実なんだ」
 まるで自分に言い聞かせるように、彼は彼女が置いていた鞄をじっと見つめて言葉を吐き出した。
「で……俺にしか……不可能なんだ……真実の人には銃もナイフも通じない……届く前に奴は空間に跳ぶ……ルディみたいにね……だから……透視とかを絡めて急所を確実に内部から破壊するしか手がない……それさえできれば全て終わりだ……」
 わざとだろう。勇気を奮い立たせるため、彼はわざと芝居がかった口調になっている。はるみは昂ぶりを抑えるために大きく息を吐き、「終わったら……理佳はどうなるのよ……」と、つぶやいた。

 だが遼はそれに答えることができず、目の下の筋肉を一度だけ痙攣させ、階段へ向かって歩き始めた。


「まったくどこへ行ったのか……大一番を前に……」
 岩倉から受け取った予備のヘルメットを被りながら、高川は駐輪場で不満を漏らした。
「ほんとに風邪かもしれないね。もしかしたら保健室に寄ってるのかも」
 携帯電話を手にしていた岩倉は連絡を諦め、自分もヘルメットを被った。
「通信機はコール音がうるさすぎるし……予定の時間だし、僕たちだけでも出発しようか」
「ああそうだな……」
 岩倉と高川が同じバイクに二人で跨った直後、駐輪場に駆けてくる姿があった。
「遅いぞ島守!!」
「わ、悪りぃ……い、急ぐか……」
 遼はバイクのキーをポケットから出しながら、愛車に跨った。

 止めるには資格が必要だ。いくらどう見ても、成り行きでわけもわからぬまま人殺しに参加しているとはいえ、事の重大さに対して自分の一方的な想いだけで止めても、言うことなど聞いてくれるはずがない。
 だって好きだと告白したんだ。なのにあいつは理佳を助けるってまだ言ってる。たぶん、そう、彼女なら止められるだろう。ならわたしは同じだけの資格を手に入れなければだめなんだ。
 神崎はるみは屋上から二台のバイクが正門を抜けていくのを見下ろしながら、負けてなるものかとフェンスを強く握り締めた。


 まさか当日の午後になって、ここまでひどい痛みがくるとは予想していなかった。ホテルの一室、そのベッドの上で黒いハイネックのセーターを着た檎堂猛は転がり苦しみ、呻き声を上げて右足を擦った。
 以前の任務で負った傷は、神経と骨をずたずたにし、数年経った現在でも足首は自由に曲がってくれない。その裂傷を片目で見つめた彼は枕元の携帯電話を手に取り、ついに救援を求めるべく登録名を押した。

 花枝……頼む……出てくれ……

 イレギュラーの任務はすっかりボイコットしている相方であり、それもまた仕方がないだろうと今日の成田での盗聴も話してはいない。少し前だったらその態度を叱って教育するところだったが、命令者である中佐の迷走ぶりを考えると、大人として先輩として偉そうなことを言えなくなっている最近である。
 だから自由にさせていた。予め決められた盗聴スケジュールは順守しているし、それならば若い奴には祖国での生活を楽しませやってもよい。なんとなく食事を奢っているうちに、俺も随分と甘くなったものだと苦笑いで杯を一人傾けた夜もあった。
 しかしこの痛みは任務に支障がでるレベルだ。窓の外の曇り空に舌打ちした彼は、留守番メッセージとなった携帯を切り、メールを早打ちした。

 ち、ちったぁ……マシになってきたか……?

 痛みは痺れにまで和らいできた。檎堂は即座に机の上に置いてあった鞄に手を伸ばし、そこから注射器とボトルを取り出した。
 これで四時間は確実に痛みを消すことができる。だがその後に、より強烈な激痛が待ち受ける。そんな麻痺のためだけの、だが強力な薬品である。針を足首に突き刺した檎堂は、再び呻いて額から脂汗を流した。

 しばらくした後、杖を手にした彼は常宿にしているホテルから真っ白な顔で外へ出た。曇り空がこうなると嬉しい。もし強い日差しなど浴びたら、立っていられる自信がない。檎堂猛はタクシーを拾うと目的地を告げ、ゆっくりと眠ることにした。


 相方が古傷を押して現場へ向かっているころ、花枝幹弥は自由が丘の住宅街を椿梢(つばき こずえ)と並んで歩いていた。
「わたしもそんなに自信ないんだけどなー」
 唇を尖らせて不満を漏らす彼女に、彼は垂れた目をより下げて微笑んだ。
「せやけど、俺なんかよりは国学得意やろ? そないな教科、やったことあらへんし。どうしても期末が不安なんや」
「まぁいいけど……ママも花枝くんが行くって電話したら喜んでたし……」
「ほ、ほんまか? お母様、そない言わはったんか?」
「もーう……喜びすぎるから言いたくなかったのにー……」
 怒った彼女もなかなか可愛い。花枝幹弥はポケットの中で暴れる携帯をすっかり無視して、少女の広い額に自分の笑みが映りこまないかとおどけて見せた。

7.
 ナガタゴルフクラブに二台のバイクが到着したのは、時刻も午後五時を過ぎた夕方だった。そこで岩倉と高川のシャドウ400は成田ロイヤルホテルで朝から待機している陳と合流するために別れ、バイクを停めた遼は広大なゴルフ場の外周をぐるりと回り、資材搬入用のゲートを発見した。
 打ち合わせ通り、この時間のゲート脇詰め所には誰もおらず、そもそも侵入者に対して警戒する必要がほとんどない庶民向けのコースだったため、遼は実に呆気なく敷地への潜入に成功した。
 湿気がワイシャツから肌にまとわりつくようであり、草木のつんとした臭いが嗅覚を刺激する。これは一雨来そうだ。彼はどんよりとした曇り空を見上げ、合流地点である七番コースの林へ急いだ。
「まだみたいだ遼。向かい風だから、匂いを気にせずに済むのが幸運だね」
 椰子の木に手を付け、仲間の到着を待っていた夏服姿のリューティガーは、開口一番にそう言った。
「なんかさ……千葉の山奥に椰子の木って笑えるよな」
「そうなの? 僕には不似合い加減が今ひとつわからないけど」
 素っ気なく返したリューティガーは腰を下ろして片膝を立て、椰子やソテツの林のある一点をじっと凝視した。
「そっちがホテルなのか……?」
 遼には木々が見えるだけであり、視界の通らぬただの林である。しかし栗色の髪をした彼にはその向こうの線路も、それに先の成田ロイヤルホテルの各ラウンジまで見通すことが出来るのだろう。白目に浮かんだ血管は異なる力を使っている証しである。遼はリューティガーの手首をそっと掴んで、見えている光景を共にした。

 遼……通信機のイヤフォンを付けておくんだ……

 あ、ああ……そうだったな……

 遼は注意する彼の耳にイヤフォンが付いていることに気付き、自分も慌てて学生鞄からそれを取り出した。

 しかしさ……もうこれで三回目か? なんかこうして遠くから見張ってて、あいつの出待ちするのって……

 ああ……君が協力してくれる前にも一度やってるから……正確には四度目だ……

 ワンパターンだよなぁ……敵は当然こうしてるのってわかってるんだろ?

 だろうね……けど協力者やスポンサーとの交渉ごとを全部部下には任せられない……人材だって豊富じゃないしね……だから危険は承知で表にも出なくっちゃいけない……

 お前はどう思ってるんだ……あいつのテレビ出演って……前の真実の人だって……覆面だったんだろ?

 たぶん……公の存在になって、僕たちや政府が迂闊に手を出せないようにするのが目的だと思う……

 そうか……表向きは犯罪者ってわけじゃないからな……

 もっとも……こちらには好都合だけどね……テレビに出てる最中に暗殺するチャンスも増えるし……

 「それでも兄弟なんだ」子供のように脆い感情で彼はそう拒絶した。あれからまだ、たったの三ヵ月しか経っていない。遼は確かめるべきだと思った。

 できんのかよ……ルディ……

 できるさ……「いなば」のときとは違う……僕はもう嫌なんだ……あんな無力な女の子を殺すのは……あんな刺客を差し向けてくる兄は……殺さなくっちゃいけない……

 けどよ……正義忠犬隊は人助けだってしたんだぜ……

 まだ調査中だけど……あの倒壊事故だって……FOTの仕業かもしれない……

 なに……?

 胸騒ぎと共に現場へ駆けつけ、死体と肉片の転がる現場で怪我人を助けた遼である。あれが自作自演、マッチポンプだとすれば自分のした行為は、まるで道化の如き所業である。リューティガーの発想に彼は硬直し、手首を握っていた力を強めた。

 けど……君の行動は正しい……僕に対する注意はともかく……君にできるのはああしたことだから……

 フォローをしてくれるのか、それとも馬鹿にしているのか。白目を血走らせたままのリューティガーの真意がどこにあるのか、心を読める遼にもそれはわからなかった。


 成田ロイヤルホテルは昨年開業したばかりのリゾートホテルであり、外国人旅行客を主な宿泊対象者に設定している。八年前のテロ事件で日本の観光業界は深刻な打撃を受けたが、その危険なイメージも幾分和らいだと出資者やグループは判断した。だが一年間の売り上げと宿泊人数は当初の予定を大幅に割り込み、金曜日の今日もロビーラウンジは閑散とし、大理石の柱をそっと撫でた高川典之は、これでは自分の存在が目立ちすぎてしまうといったんトイレへ逃げ込んだ。
 陳と合流したのち、地下の駐車場で正装に着替えてからすでに三十分が経過していた。陳と岩倉は二人で上のフロアへ偵察に行き、現在一階の入り口を見張っているのは高川ただ一人である。彼はトイレの入り口から顔を出し、ミーティングの日に徹底的に覚えるように見せられた写真の男が現れるのをじっと待った。
 写真は七枚もあり、その顔を覚えているかどうか何度も試された高川だった。毎日下校間際にリューティガーに写真を見せられ、その中に混ぜた間違った数枚を指摘するという単純な試しであるが、岩倉は常に正解だったのに対して高川は多少間違えることもあり、今日も合流した陳に最終テストを先ほどやらされたばかりである。それは問題なくクリアできたため高川も安心したが、写真の一断面と生身の立体的な人物を頭の中だけで照らし合わせるのは困難な作業である。数十分間に五人ほど入り口からロビーラウンジにやってきた客の、どれもが七名の顔に近くもなく遠くもなくである。
 せめて、あの一番特徴的な人物だったら助かるのだが。高川はちょび髭に白髪の男を思い出し、自動ドアが開いた先から同一の顔が上下してくるのを目撃し、鼓動が一気に早まった。
 ついている。よりによってあの顔から見分けが付く。間違いない。自分の祖父とよく似たその人物を特定した彼は、通信機に向かって「B−2、3 107事発生」と短く告げた。

 柏崎グループの金庫番、園田宗一が護衛と共にホテルに現れた。それを意味する「107事」の発生報告に、バーラウンジの調査に向かうため三階の廊下を歩いていた陳と岩倉の足が止まった。目標、もしくはそれに準じる交渉相手の発見と同時に、A班の援護に向かう。その作戦に従い岩倉は陳に向かって頷き、廊下を駆け出した。
 バイクで向かえば五分とかからない距離である。しかし自分が到着する前に、ひょっとすると作戦は全て終了している可能性もある。みんな怪我だけはしないでくれ。岩倉は祈りながら階段を駆け下りた。

 祖父に似た男、園田宗一が屈強なスーツ姿の男たち三名を従え、ロビーラウンジにやってきた。着物姿の彼は痩せた体躯にも拘わらず、周囲を圧倒するような威厳に満ちていて、その点も実際に見ると祖父に近いと高川はトイレの陰から感じていた。あの男がこのホテルのどこで会談をするのか。それを突き止めるのも任務である。場合によってはボディーガードたちとも戦う展開になるかも知れない、高川は緊張しながらも三人の身のこなしから武装と戦闘力を推察してみた。

 すると、彼の視界を巨漢が遮った。

「ガ、ガンちゃん……どうしたというのだ……」
 段取りにはない予定外の事態に、高川は仲間の巨体を見上げた。丸い鼻、太い眉、坊主頭。正装のため見慣れぬ灰色のスーツ姿ではあるものの、立ちはだかる彼は岩倉次郎に間違いない。なぜ困ったような淀んだ目でこちらを見下ろしているのだろう。高川は「どうした?」と小さく再び尋ねた。
「ルディはどこだっけ?」
 信じられない。記憶力でテレビに出たことのある岩倉とは思えない発言である。だがこれは現実であり、彼の向こうでボディガードがフロントに何かを尋ねているのが見える通り、事態は刻一刻と変化している。高川はわけがわからなくなり短く刈り込んだ頭を掻いた。
「ナガタゴルフクラブ、七番と六番コースの間の林だ……ここから東に真っ直ぐ行った……どうしたというのだガンちゃん!?」
「ご、ごめん……緊張しすぎで頭が真っ白になっちゃって……ごめんね高川くん……」
「早く援護に行け、時間がないぞ」
「わ、わかった」
 太鼓腹を揺らし、岩倉は地下駐車場へと駆けて行った。
 緊張して頭が真っ白になる。それはそうだろう、大一番なのだから。しかし常に平常心を失わない岩倉次郎にしては、あまりにも珍しい。高川は苦笑いを浮かべ、男たちの動向に再度注目した。


 一階のロビーラウンジの様子は遼とリューティガーの意識にもイメージとし知覚できていた。しかしトイレの様子までは範囲を広げておらず、岩倉の登場という予定外の瑣末事を二人は知らぬままだった。
「ふ、二人とも……!!」
 背後から声をかけられたため、遼が意識を遮断して振り返った。
「ガンちゃん……」
 予定通り無事に到着した護衛に遼は安堵し、すぐに彼へ背中を向けてリューティガーの知覚している光景へ意識を接続し直した。
 これまでのところは順調である。あとは園田たちがターゲットと合流すれば、全ては終了する。不測の事態があっても陳と高川の二人がいれば対応できるだろう。思えば高川はこの短期間で随分信頼できる部下になったと思う、それはいま背後で警戒してくれている岩倉にしてもそうなのだが、平和なこの国の民間人も、どうして非日常に対応できているじゃないか。リューティガーは現在療養中である異形の従者を思い出し、彼の穴は一応埋められている現状に満足した。
 気持ちが乗っている。イメージを共にしながら、手首からリューティガーの充実したやる気を感じた遼は、なんとなく今回の作戦が成功するように思えてきた。

 だとしたら、どうなる。

 真実の人が死んだ後、一体どのような展開が待ち受けているのだろう。FOTという組織を根絶やしにするのだろうか。同盟は、リューティガーは、どんな決断を下すのだろう。それにFOTも頭目の死に当然反応するはずだ。特に暗殺の遂行者が自分であると知られれば、蜷河理佳はナイフを向けてくるのだろうか。

 それでも……仕方ない……理佳があんなナイフで……それを止めさせるのにあいつは邪魔だ……あいつがいる限り、理佳があいつのことを想っている限り……断ち切らないと……殺してでも……

 支離滅裂であり、およそ論理的ではない発想である。ただの成り行きである以上、整合性など求められるはずもない。遼は鼻先に水滴が落ちてきたのを感じ、気持ちを集中するべきだと考え事を止めた。
 雨でもホテルの光景に変化はない。リューティガーの遠透視に対する集中力はさすが訓練されたエージェントであり、自分も見習わなければならない。言いなりになって殺害までするのなら、せめて彼の長所を素直に受け入れよう。それが島守遼の打算だった。


 成田ロイヤルホテル6010号室のカーテンが突風に揺れた。時刻は午後六時であり、全ては予定通りである。FOTエージェントであり、今回の雑務担当であるジョーディー・フォアマンは青い目を出現した白い長髪の青年に向け、小さく頷いた。
「来てるのかな?」
「ええ……現在こちらに向かっています……それと……」
「ルディか?」
「はい。ロビーラウンジから尾行をしていると、はばたきから報告がありました……いかがなさいます? 真実の人(トゥルーマン)」
「放っておいていいさ……」
 真実の人は壁に下げられた鏡に向かうと、朱色のネクタイを締めなおした。
「それとは別に、ピッカリーが盗聴電波もキャッチしましたが……」
「ジョーディ……これを園田氏に手渡して、ゴモラの目的を告げたあと……撤収してくれ……」
 懐から封筒を取り出した青年は、それをジョーディーに手渡した。
「会談は……まぁ、そういうことだよ……だけど盗聴は今後厄介だな……よし、鼠退治は俺からライフェに指示しとくよ」
 力強く微笑んだ青年指導者に対し、彼よりも十歳ほど年上のジョーディはうやうやしく一礼し、敬意を示した。
 賢人同盟から抹殺を命じられ、来日してから五年である。とても敵わないと判断しただけではない、あれほどの巨大組織から寝返るのにその程度の理由では不足である。敬服したのだ。この真実の人を名乗る青年に。抹殺対象である彼に。頭を下げ茶色の髪を垂らしたまま、ジャケット姿のジョーディーは従う気持ちを新たにしていた。

8.
 この部屋か……ここに……

 6010号室の扉の前に立つ四人の男たちは一様に緊張した面持ちであり、中に誰が待ち受けているのかは明白である。リューティガーは意識を集中し、扉の向こうへ一歩感覚を前に押し込んでみた。

 紫がかった白い長髪に黒い上下。赤い目をした間違いなく兄その人である。リューティガーは手首を掴んでいた遼の手を握り返し、できるだけ鮮明なビジョンを拾ってもらおうとした。
 内臓を透視して、動脈の破壊を念じれば全て終わる。まだ光景はホテルの室内だが、すぐにグロテスクな血と肉に変わるはずである。

 いくよ……遼……

 あ、ああ……

 兄はこちらの存在に気付いていない。見る限りはそうだと思える。隣の白人男性と楽しそうに談笑している彼が無防備であると認めたリューティガーは、もう一段階奥へと意識を強くさせた。

 獣人にリバイバー化したチロに、これまで獣の類は殺してきたが、遂には殺人か。ならばせめて一生のうちでこの一回にしたい。遼は覚悟を決め、理佳からもらい何度も記憶するほど読み込んだ、人体解剖図鑑の内臓図解を思い出した。

 遼とリューティガーがそれぞれ覚悟を決めた瞬間、二人の鼓膜を彼方からの銃声が震動させた。

 小雨の中、遠くからの乾いた音である。しかし銃の携行が法律で禁じられているこの国では、滅多に聞くことが出来ないアサルトライフルのそれである。リューティガーは集中を止め周囲を見渡し、遼もそれに倣った。
「な、なんだよガンちゃん……それ……?」
 雨の中佇む岩倉次郎の右手から、空に向かって光が発せられていた。ライトを天にかざしているのか、遼が目を凝らすとだがそれは、手首から先がライトの形状をしているようにしか見えなかった。
 この場合のライトは合図以外にあり得ない。そして銃声。リューティガーはある程度まで推理すると立ち上がり、岩倉の外見をしたそれに向かって駆け出し、腰のホルスターから拳銃を引き抜いた。

 突風が、飛沫を散らせながら少年の顔面に吹き付けた。彼は立ち止まり、銃を持ったままの手で顔の下半分を覆った。
「なん……だと……!?」

 岩倉と自分の間に突如として出現したそれは、つい先ほどまでホテルの6010号室にいた彼であった。リューティガーは搾り出すような声で、「アル兄さん……」と反応した。

 リューティガーが固まり、その向こうには白い長髪の青年が両手をポケットに突っ込んだまま胸を張っている。遼は一転した状況に混乱し、青年の自信に満ちた笑みを恐ろしいとさえ思った。

「お前の勝ちだ!! ルディ!!」

 溌剌とした、心地のよさすら覚える敗北宣言である。二人は狼狽し、特にリューティガーは立っていられないほど膝が震えていた。
「な、なんだと……兄さん……」
 “兄さん”そう呼んでくれるのかと兄は笑みを柔らかく変化させ、ポケットに突っ込んでいた両手を挙げた。
「いい作戦だ。地味ながら堅実で、ライフェの働きがなければやられていた……お前の勝ちだよ。だから同盟本部まで俺を飛ばしてくれ。任務は抹殺か移送のどちらかなんだろ?」
 優しい声色である。それだけに戸惑いは激しく、リューティガーは拳銃を地面に落としてしまった。
「さぁ……飛ばしてくれ……懐かしのあのザルツへ……偽りの城へ……」
 真実の人は左手を下ろし、それを弟へ伸ばした。ただ震えるだけのリューティガーは咄嗟に対応することができず、彼は兄に右手首を掴まれ、胸まで強く引っ張られた。掌が兄に触れたその瞬間、遼は立ち上がって敵である青年を見据えた。
「いいのか真錠!! それで……」
 背中からの声にびくりと反応したリューティガーは、やがてうな垂れ、うっすらと仕方なさそうに微笑んだ。
「ああ……任務上……問題ない……」
「そ、そうなのか……」
 この状況で声をかけてきた島守遼という個性に対して、真実の人は興味を抱き鼻を鳴らした。
「ライフェ……鼠が一匹忍び込んでいるらしい……ピッカリーが見つけてくれた……日本人の中年だ……処置を任せる……」
 その命令に反応し、青年の背後にいた岩倉は、白目を剥き全身をぶるぶると痙攣させた。違う。ガンちゃんじゃない。輪郭がどろどろとぶれはじめ、正装姿だった服装も肌色交じりの曖昧なフォルムへと変化し、岩倉だったそれは得体の知れない物体へと崩れようとしていた。遼はそのグロテスクな光景に息を呑んだ。
 すっかりどろどろで肌色の塊と化したそれは、雨の中ゴルフコースの外へ向かって素早く這っていった。獣人とも違う、顔無しの化け物でもない見たことのない異形に遼は衝撃を受け、その場に腰を落としてただ震えるばかりだった。
「さあやれよルディ!!」
 それはすでに敗北宣言などではなく、兄から弟への命令だった。かつて何度もそうされ、そうしてきたように、弟は殆ど反射的に命令を遂行した。

 再びの突風と共に、真実の人は消滅した。


 マグマの中に跳ばされる可能性もあった。そうなれば博打には負け、野望も中途半端な形で終わっていた。だが、こうして賭けなければならないことが、張らなければならないことが人生には何度かある。だからこそ次へ進めるのだし、緊張感という最大の武器を手に入れることができる。真実の人は、自分を取り囲む完全武装の兵士たちに不敵な笑みを向けると左目を閉ざした。

「準備をさせておいて正解だったな……やはり弟に兄は討てんか……」
 正面に立つ中佐が、緊張したまま拳銃を向けていた。青年は兵士たちが構えている火器が、まだどの国の軍隊でも採用されていない光学兵器であることに気付き、首を傾げた。
「貴様の早い転移でも……レーザーの一射はかわせん……吸収式のジャケットを装備しているから……貫通も気にせず掃射するぞ……」
 中佐の脅迫に対して青年は笑みを消さぬまま、ここが同盟本部の地下取調室であることに気付いた。なんと薄暗く、血の臭いの漂う拷問部屋なのだろう。果たして弟の任務遂行により、一体何名の部下や残党がここに送られ責め殺されたのだろう。真実の人は左の頬をピクリと動かし、小さく息を吐いた。
「逃げはしないさ……自分から選択したんだし……」
 余裕を崩さぬその言葉に、中佐の険しい表情がより紅潮した。
「なんだと……自分から……だと……」
「ああ……鬼ごっこをしている場合じゃないし……俺を掌に載せているつもりのテメェに……言っておきたいこともあるんでな……」
 違う。我々の作戦は成功などしていない。これもまたこいつの策である。中佐は即座にそう見抜いたが敵の具体的な目的がまったくわからず、自分が彼に対して相当計り損ねていた現実に戦慄した。
 もしかすると、いや、確実に俺は終わりだ。任務が達成できたのに、全て終わってしまった。なのにこの男はまだ何一つ終わっていない。真っ最中の男なのである。中佐は自分が混乱していることを自覚しないまま、部下たちに移送されてきたアルフリート真錠の身柄を拘束するよう命じ、自分もしかるべき人々に報告するため執務室へ逃げるように向かった。


 なんだよ……いねぇのか真実の人は……さっきまでジョーディーとかいう奴とやりとりしていたのに……どーゆーこった……
 6010号室から階を隔てた7009号室のベッドの上で、ヘッドフォンをした檎堂猛がただひたすらに焦りを感じていた。
 園田たちが部屋に入ったのは音でわかる。しかし言葉のやり取りがまだ何もないとはどうしたことか。盗聴を懸念して筆談で進めているのだろうか。檎堂は苛つき、ノイズしか聞こえてこない現状に奥歯を噛み締めた。
「ええ……見ての通り……真実の人は不在です……」
 そんなイントネーションの微妙な日本語がようやく耳に入ってきた。この声はもと賢人同盟エージェント、ジョーディー・フォアマンである。真実の人が不在であるという情報は余りにも大きく、檎堂は園田がどう返すのか顎を強く引いて緊張した。
「それは残念だね……さぞ美形だと聞いてきたのだが……まぁ、振られるのには慣れている……で、どうする?」
「取引の条件については、書類を用意させていただきました。返答は後日、広田までお願いします」
「なるほど……しかしよもやそれだけで、私を千葉の山奥まで呼び出したわけではなかろう……なにを言付かった?」
「はい……取引成立の後押しに……真実の人から伝言がございます……」
「後押しとな……長が長なら部下もだな。裏表を薄くしたつもりかな?」
「どうとっていただいても結構です……」
 話題が核心に迫ろうとしている。檎堂は口の中に溜まった体液を飲み込み、ヘッドフォンに手を当てた。


 任務はまだ終わらない。雨が次第に強くなってきたロイヤルホテル裏口で、エプロンドレス姿のセンターフォームに戻ったライフェ・カウンテットは、気持ちを引き締めるため「よっし!!」と、気合いを入れ、ホテルへと入っていった。
 途中、しびれピッカリーからの通信で盗聴電波が7009号室で受信されていることを知った彼女は、「にーしてもよ、驚いたよオイラ。あんだけ弱い波でよく盗めるよ。探知するのに、手間かかってよ。きいつけてよ、ライフェ姉ちゃん。敵は杖もちのオッサン……座頭市ってな……知ってる?」と忠告され、それなりのエージェントと対する覚悟を決めていた。右手から日本刀を生じさせたライフェは階段を駆け上りながら、五階に差し掛かった時点で、降りてくる熊髭の男を見上げた。

 見ればわかる。杖と携帯電話を片手に、すっかり青ざめている中年の日本人が只者ではないということぐらい。日本政府か、賢人同盟のエージェントか、はたまたリューティガーの協力者か。どれでもいい。敵ということは見ればわかる。
 自由に振り回せる上、決して落とす心配のない身体の一部である愛刀を手に、少女は踊り場で狼狽している檎堂猛目掛けて駆け上がった。

 真っ赤な髪の少女がなんの躊躇もなく、右手の刀もほとんど震えさせず迫ってきた。結んだ髪の先は地面すれすれで急上昇のカーブを描き、つり上がった目は強い殺意を放っている。これが花枝の言っていた真実の人の直援か。檎堂は逃げ切れないと覚悟した。相手は殺しのプロだけではない、不定形生物として生体改造を受けた、化け物なのだ。

 なら、できることはただ一つである。獲得した情報を伝える。信頼できる仲間に、バトンを渡すように。生きろ花枝、お前は若い。

 腹に突き刺さった切っ先の冷たさを感じたのと同時に、檎堂猛は携帯の送信ボタンを押した。

「可愛い子……だな……」
 串刺しにされたまま不敵な笑みで見下ろす男に対して、少女は穏やかさしか感じることができず、その手と刀が同時に震え始めた。
「な、なんなのよ……あんた……!!」
「最後に聞けたのが……女の子の声だなんつーのは……俺には過ぎてるってことだ……」
 杖を落とし右膝を踊り場に着くのと同時に、檎堂の全身から泡が吹き出した。
「同盟だったのね!! なら!!」
 手にしている携帯電話も泡化する危険性がある。情報を確保するため、彼女はそれを奪おうとしたが、溶けながらも檎堂は身体を丸めた。
「お、お前……」
 見たままのベテランということなのだろう。ライフェは情報を死守する檎堂に圧倒され、手にしていた刀が軽くなったのを感じ、それを手元に同化させた。

 絨毯の敷かれた踊り場には、檎堂だった泡が染みこもうとしていた。ライフェは一礼し、だがつまらないと舌打ちをした。

9.
 高川が作戦の終了を知ったのは、六階の廊下の角に身を潜ませ、部屋の様子を窺っている最中であった。通信機からのシグナルを確認した彼は、戸惑いながらそれを耳に当てた。
「陳さん……な、なんですと!? わ、わかりました直ちに向かいます!!」
 6010号室の見張りをする必要はもうない。作戦は意外な形で完了し、地下で待機していた陳が気を失っている岩倉を発見したという。高川はエレベーターが七階で止まっているのを確認すると、階段ではなくそちらを使って合流することにした。

 薄暗い地下駐車場まで降りてきた高川は、陳が愛用している軽自動車のライトが点灯してるのに気付き、駆け寄った。
「陳殿……ガンちゃんは……!?」
 後部座席で気を失っている岩倉の巨体に外傷がなかったため、高川は取りあえず安心して助手席へ滑り込んだ。
「強い薬品系による意識の喪失ネ……ここで蹲ってたよ……大丈夫……もう寝ているみたいなものだから……じきに目をさますね。そうしたら吐き気でゲーゲーね」
 ハンドルを抱え込むようにし、背を曲げていた陳が低い声でそう告げた。
「し、しかし……一体なにがどうなったのでありますか……? 敵が転移してきたとは!?」
「そのままね……まずガンちゃんの偽者が坊ちゃんたちのもとに行ったね……で、暗殺の直前、偽ガンちゃんは誰かに合図した……真実の人はそれに反応して、坊ちゃんたちの前に現れた……そしてこう言ったらしいよ。“お前の勝ち”だってネ」
 説明されたものの高川はどう状況を理解してよいかわからず、ただトイレで自分の前に立ちはだかった岩倉が偽者であったことだけは納得がいった。
「さぁさ……これから坊ちゃんたちと合流するネ……ガンちゃんのバイクはあとで跳ばしてもらうから」
 陳は丸々とした身体をハンドルから離すと、鯰髭をひと撫でしてギアに手を掛けた。

「つまり、国学ってのは、歴史、語学、服飾、食事、作法、音楽、芸能……日本にまつわるあらゆる伝統を総合的に学習する目的で新設された教科なの。中学では四年前に、高校では普通科のみだけど、三年前からスタートしたのよ」
 普段なら私服に着替えているのだろうが、自分がついてきてしまった以上、帰るまで彼女はこの夏服を着続けなければならない。それはそれで不愉快なのだろうと予測しつつ、だがもっと親密な関係になれば、「ちょっと待ってて、着替えて来るから」などとさらりと言ってしまうのだろうと思い、花枝幹弥は早くそんな関係になって欲しいと顎で弧を描いた。
「聞いてない。絶対聞いてない……!!」
 口を尖らせ、人差し指でぐいと追求してくるこの仕草も可愛らしい。前回の訪問では床に座ったが、今回は彼女の母親が用意してくれたとはいえ、クッションが付いてきて待遇の向上は目に見えてわかる。どうせ諜報などという裏方仕事が苛酷になるわけもなく、最近では超過分を檎堂がやってくれているのだから、今後はこうした潤いと息抜きを積極的にやらせてもらおう。コーヒーを啜りながら花枝は何度も首を縦に振った。
「せやせや。国の伝統を勉強するのはええことやし、三年前いうんは遅すぎるくらいやな」
「あ、けどね。すっごく揉めたのよ、国会で。伝統主義を学生に刷り込むのは、封建的な気風を育むだかなんだかで……」
「あほらし。国のこと学んで、愛国心持つんが悪いわけあらへんやろ。なにが封建的や。この国は民主国家やさかい、専制的になるわけないし」
 思ったより花枝という同級生が思想的な発言を活き活きとしたため、椿梢は眼を丸くして肩をすぼめた。

 お、尊敬の眼差しか……これは、レベルアップの兆候やな。尊敬は、愛のはじまりいうしな……
 もう一つ格好のいいところでも見せよう。なにがいい。例えば異なる力を上手く応用して、彼女を驚かせるというのはどうだろう。花枝があれこれ考えていると部屋の扉が開き、梢の母が娘を手招きした。
「ちょっとごめん……」
 椅子から立ち上がった梢は部屋から出て行ってしまった。なんと淀みのない素早い挙動だろう。未練のなさが、まだまだ熱くない自分たちの人間関係を物語っている。一人残された彼は腕を組み唸った。

「花枝くんって、好き嫌いとかあるのかしら?」
 台所まで連れてこられた梢は、エプロン姿の母にそう尋ねられ口元を思いっきり歪めた。
「えー!? 晩御飯の前には帰ってもらうよー」
「け、けどもう六時過ぎでしょ……お家はどこかしら?」
「そういえば……」
 花枝の住んでいる場所がどこなのか、それに関してまったくわからない梢だった。遠いのか近所なのかすら不明である。
 変だ。毎日弁当を一緒に食べているのに、彼から一度も話さないのは奇妙だ。根拠は薄いが違和感に対する確信だけはなぜか強く、梢は自分の胸に手を当ててみた。

 先ほどから何度も携帯電話が震動していたが、ここ数時間はそれもない。おそらく檎堂も諦めて自分ひとりでイレギュラーの任務に出たのだろう。花枝は黒いそれをポケットから出し、外を見た。
 いつから降りだしたのだろう。窓の向こうの屋根が濡れていて、蒸し暑さを彼は感じた。この雨の中、檎堂は不自由な足を引きずって仕事をしているのだろうか。そう思うと少しだけ申し訳ないという気持ちも芽生えてくる。異なる力を持つ自分と、いくらベテランとはいえ健常者ではない檎堂では、同じ任務にしても労働量がまったく異なる。いい加減ストライキを止め、少しは手を貸してやってもいい。そうなれば全ての任務も早く終了する可能性もあるし、休暇を貰って彼女ともっと長い時を過ごすこともできる。

 考え直した花枝幹弥の掌に、携帯電話の震動が伝わった。たった二度の、それはメールの着信を知らせる合図である。彼は折りたたみ式のそれを開き、内容を呼んでみることにした。

 羅列された記号と文字。それは同盟ではなく、自分と檎堂の間で定めた、二人だけにしか理解できない任務のための暗号である。読むのと同時に解読をした花枝は呻き声を漏らし、腰を浮かせた。
 長い暗号の最後に、「逃げろ花枝」と、そのままの日本語が表示されていた。

 どないした檎堂はん……何があった……

 常宿にしているホテルに向かって、花枝は思考を飛ばした。しかし任務に出ているのであれば、あそこにはいないはずである。考えを飛ばすという異なる力は、目に見えている範囲か予測圏内、遠方であれば場所の特定ができる場合にのみ、任意の相手に伝えることができる。しかし所定の場所に対象がいないのであれば、このコミュニケーションは成立しない。花枝は携帯電話の登録ダイヤルを押し、もっとありふれた方法で相方との連絡をとろうとした。

 現在、通話がでけへん範囲やと……アホな……俺と檎堂はんのは同盟中継つこうとる特別回線や……電波の届かん範囲なんて……

 あるとすれば核シェルターや水中、土中ぐらいか考えられない。いや、もう一つ可能性があった。花枝は携帯を耳から離し、ゆっくりと立ち上がった。

 携帯が……のうなってるか壊れた場合は……このメッセージになるはずや……

 その場合、持ち主である檎堂本人も無事ではないはずである。

「ど、どうしたの……花枝くん……?」
 戻ってきた梢が彼の背中に声をかけたが、花枝は振り返ることなく震え続けていた。

 “逃げろ”か……どないすればいい……檎堂はん……なんで連絡くれへんのや……

 檎堂猛は死んだ。そんな単純な結論が彼の意識を包んでいたものの、気持ちの真ん中はそれを受け入れず、それがいびつさとなって顔を歪ませていた。
「は、花枝くん……」
 覗きこみ、見上げた梢は同級生の動揺しきった顔に驚き、胸に手を当てたまま大きな瞳を瞬かせた。
「あかん……梢ちゃん……あかんわ……もう……会えへんかもしれん……」
 ゆっくりと、ふらつきながら花枝幹弥は梢の部屋から出て行き、彼女の母が声をかけてくるのも無視して、玄関から外の廊下へと出た。
「どうしたの、花枝くん……雨、降ってるのに……」
 風も出てきている、雨足も強まっている。心配して廊下に追いかけてきた梢の手には、ビニール傘が握り締められていた。
「会えないって……花枝くん……?」
 背中を向けたままであった。たぶん、彼は振り返ってくれないのだろう。少女はせめてそれならばと、傘の柄を突き出してみた。
「傘はあかん……」
 背中が、力なくそうつぶやいた。
「メーカー品は全部あかん……簡単に足がつきよるから、梢ちゃんにも迷惑かかるし……気持ちだけ……受け取っとく……ありがとうな……ほんま、ええ子や……」
 廊下を駆け出した花枝は、全力で逃げるしかないと思った。檎堂が逃げろと伝えてきたのだ。命を賭けて、あの暗号にはそれだけの価値がある。階段を駆け下り、マンションの敷地から出た彼は、最後にもう一度だけあの子が見られればと雨の中、頭を上げた。
 外に面した廊下から、額の広い小さな少女がじっと見つめていた。不安と心配と、おそらくはそんなところだろう。これで最後かも知れないのに、あの明るい笑顔をもう一度見られないのは残念だ。ならせめてだ。

 路地で雨に打たれながら、見上げていた彼が微笑んだ。

 椿梢はなぜだか嬉しくなり、気がつけば精一杯手を振っていた。


 口の中いっぱいに広がる酸味と、喉にひりひりとした痛みを感じた岩倉次郎は、吸い込まされてしまった化学薬品がようやく体内から抜け出たと実感し、大きな口を開けてを深呼吸した
 トイレの扉を開けて外に出ると、廊下の向こうのダイニングキッチンから聞きなれた皆の声が聞こえてきた。そう、状況がよく掴めない。園田たちの発見報告を受け、A班と合流するために地下駐車場までやってきたところまでは覚えている。ところがその先がまったくの意識不明であり、目が覚めるといつもの代々木パレロワイヤル803号室のリビングにいた。続いて襲ってきた激しい嘔吐感に陳は、「薬物の拒絶反応ね。化学薬品を吸い込まされたから、けど吐けば元通りね。ガンちゃん身体、大きいから」と、他の皆に自分の反応を説明してくれて、なるほどそうかと苦しみながらトイレに駆け込み、ようやく考えることや思うことができるほど気分も治ってきた。
「ご、ごめんみんな……さ、作戦は……?」
 そう言いながらダイニングキッチンに戻ってきた岩倉が見たのは、台所でお茶の準備をする陳に、食卓に着いているリューティガーたち三人のありふれたいつもの光景だった。
 しかし、表情がいつもと違う。背中を向けている陳はともかく、遼は足を組み人差し指で食卓を何度も叩き、下唇が少しだけ突き出て苛ついているように見える。高川は腕を組み、ひどく険しい表情で対面のリューティガーを睨みつけている。

 そして、栗色の髪をした皆のリーダーは、血の気が引いた青い顔で床の一点を見下ろしていた。肩にも背中にも力がなく、膝に乗せられた肘の先からだらりと垂れた十本の指先に至るまで、まったく生きている元気というものが感じられない。

「だ、大丈夫かガンちゃん……」
 遼がため息交じりに岩倉を見上げ、高川はそれに倣った。
「な、なんとか……僕は……敵にやられたのかい?」
「らしいな……地下駐車場で倒れていたのを陳殿が発見したらしい。ガンちゃん……誰にやられたのかは、わからんということだな?」
 椅子に座った岩倉に、高川は固い口調で尋ねた。
「う、うん……バイクで移動しようと思ったら……急に……ごめん……わけがわからないまま……」
「そのあと、ガンちゃんの偽者が現れたね。最初に高川から合流場所を聞いて、ゴルフコースの坊ちゃんたちと……」
「俺たちがどこに待機しているのか……それを知らせるためにやってきたみたいだ……いざ実行って段階になって、もうちょっとってときに……ガンちゃんに化けてた敵がライトで位置を知らせて……銃声があって……奴が目の前に跳躍してきた……で、お前の勝ちだから跳ばせって……」
 陳と遼の説明に、岩倉は困惑して腕を組んだ。
「つ、つまり……えっと……」
「敵から負けを認め、命乞いをしてきたというわけだ……そうだな島守」
「う、うん……まぁ……けどなぁ……」
 高川の問いに、だが遼は明確な返答ができなかった。雨の中現れた真実の人は。命乞いなどという表現がとても似合わないほど凛然としていた。あれは勝利者の力強さである。
「ど、どうなっちゃうの……こ、これから……」
 陳の淹れたジャスミンティーのカップに顔を近づけた岩倉は湯気で顎を湿らせ、まだ一言も発することがないリューティガーに弱々しい意を向けた。すると遼と高川の様子が苛立ちと険しさに戻った。
 なにも話さないどころか意識すら向けず、リューティガー真錠はじっと床を見つめ続けていた。それはまるで敗北に打ちひしがれている姿のようであり、岩倉はますます混乱してしまった。
「ル、ルディ……?」
 岩倉の問いかけに応じようとしないリューティガーに代わって、高川が小さく咳払いをした。
「納得がいかんな……敵の首魁を移送したのはともかく……あのホテルで会談は続いていた可能性もあった……部屋に配下がいたかも知れん……事実、園田たちが出てくる様子もなかったところを見ると、何らかの交渉はあったと見て間違いないはずだが……なぜ作戦終了命令を出した……?」
「坊ちゃんの判断は間違っていないネ……いい加減にするよ高川。ターゲットの抹殺、および移送は今回の最大の目的……それを遂行した場合、次の指示が出るまで動いてはいけないネ……FOTの壊滅はこの次の段階ネ……」
 役目上そう諌めるしかなかったものの、高川の険しさを多少なりとも理解できる陳ではあった。一体、この若き主はいつまで心を閉ざして呆然としているのだろう。

「とにかくさガンちゃん……いったんは作戦終了ってことさ……もちろんこれからFOTとは戦うってことになるんだろうけど……首領が囚われの身じゃ、連中だって活動に支障はあり過ぎだろうし……」
 説明しながら、だが遼はそんな穏やかな事態になるとはとても思えなかった。なぜなら岩倉に化けていたあの不定形の化け物も、まるで予め真実の人が投降してくるのを知っていたかのような落ち着きだったからだ。もしあれが本当に身柄の拘束を意味しているのなら、部下であるあの化け物は全力で阻止していたはずである。全ては計画通りなのだろうか。だとすれば自分たちは彼の企てにまんまと乗せられているということである。あの場でそれを防ぐ手立てがあるとすれば唯一つ、跳ばせと言ってきた奴に仕掛けることだ。もう一つのクリア方法である「抹殺」を選択していれば、それはおそらく真実の人にとっても望まない結果となっていただろう。
 だがそれをできなかった。うな垂れ、生気なく一点を見つめ続けるこの弟に、やはり兄を抹殺することなどできなかったということだ。いや、あの遠透視が続いていればそれも遂行できたはずである。道を拓かれてしまったのだ。あの白い長髪の青年に。強引に、唐突に、もう一つの選択肢を押し付けられたのだ。だからああまでも凛然としていたのである。
 ようやく理解できた遼は、人差し指でテーブルを叩くのをやめて椅子から立ち上がり、抜け殻となったリューティガーの傍まで歩いた。
「跳躍者を……そもそも牢屋にいれておく方法なんてあるのかよ……」
 近くで聞こえた遼の声に、リューティガーはようやく意識を現実世界に戻し、彼を見上げた。
「ある……」
「どうやってだ……だってどこでも好きに跳べるんだろ? 壁や鍵のついた扉なんて無意味じゃないか」
「いや……何通りかの方法がある……跳躍者は同盟でも一番対策が進められているサイキだ……まず……概念固定という方法がある。これは一九四五年、大戦当時のソビエトで考案された方法で、三条一味に実際使われて成功した……それと完全監視による全方位からのレーザー狙撃……いくら跳躍の早い兄でも光弾を回避するのは容易ではない……そして現在研究されているのが……対跳躍網という分子レベルの侵入をもブロックする物理ネット……だけどまだ跳躍痕の解析が完全ではないから実用に至ってはいないけど……」
「わ、わかった……対策があるってことだけはよくわかった……」
 機械のようにべらべらと喋り続けるリューティガーを放っておけば、あと何十分も言葉を続けるだけだろう。そう思った遼は慌てて遮り、ともかく対策がきちんとできているということは、リューティガーも決して楽な選択として真実の人を跳ばしたわけではないと理解し、取りあえず安心した。

 あいつが同盟の本部ってところに閉じ込められたんなら……FOTの動きも鈍くなるかな……

 それが蜷河理佳との再会に好都合なのかどうかはわからない。だが少なくとも彼女の心に大きな存在感を示すあの青年を、自分が殺害することにならずに済んだのは、おそらく幸いなのだろう。遼はそう思いこむことで、この不明瞭な結果に一定の意味を持たせようとした。

 知識としてはいくらでも言える。まだ三種類ほど跳躍者を監禁する方法はあり、そのいずれもが自分にとって有効な手段であるといえる。だがその全ての方法が、あの兄に対して通じるかと言えば安心などできないリューティガーだった。明確な根拠はない。しかし手首を掴み転移を命じてきた兄は、これから囚われの身になる悲哀など微塵もなかった。おそらく、脱出のシナリオはすでに出来上がっているのだろう。頭目である自分がいったん舞台から退場することで、兄はなにかを狙っている。それは公の場に出たテレビ出演とも関係しているのだろうか。だが、その真意を見抜くことは出来ない。この不明瞭な結果は何ら具体的な意味など示さず、ただ彼を困惑させるだけであった。

「とりあえず……終わりです……皆さん……これまでご苦労様でした……」

 目の焦点も定まらないまま、リューティガーはそう告げた。だが彼も含めて、その言葉を現状認識の手立てとして採用する者は皆無だった。


 より激しくなっていた雨の中、花枝幹弥は白いマンションを見上げていた。あそこに同盟の仲間がいる。彼に協力を頼むのが一番筋道としては正しい。それはわかっている。
 しかし檎堂は、“逃げろ”と最後に暗号ではなく平文で伝えてきた。

 逃げるだけのネタや……しかしどないする……ルディにわけ話して……いや……

 やはりここは相方の消息をはっきりさせるのが先である。同じ組織のエージェントでありながら、リューティガーたちと自分たち二人は交わることなく、こちらに至っては正体や存在をも秘密にして活動を続けてきたのだ。その理由を知らされることなく、不満を漏らせば怒鳴られることすらあった。その檎堂と連絡が取れないいま、だからこそ花枝はこれまでの経緯を重く捉え、代々木の街を後にした。

10.
「ご苦労だったなライフェ……今回は特に大活躍だった……」
 ソファでグラスを傾ける天然パーマのもじゃもじゃ頭に、赤い髪の少女は「まぁね」と素っ気なく返した。
 雨足はピークを越え、この尾山台のマンションの窓を叩いてた低い音もいまではすっかり聴こえない。なら練習を再開してもいいだろう。ライフェ・カウンテットはリビングの隅に設置されたグランドピアノをそっと撫で、鍵盤のカバーを上げて席に着いた。
「ベートーベンか?」
 ピアノの音色に長助がそう言うと、氷を運んで来たはばたきが、「ツェルニーですよ」と注意した。
「誰だそれ?」
「さぁ?」
 はばたきは曖昧な笑みを浮かべると、水の入ったコップを主の傍らに置いた。
「長助……真実の人(トゥルーマン)……今頃どうしてるかな?」
「さーてな……」
 弾きながら話しかけてくるとは、彼女の技術も向上したものである。長助は感心し、少年が用意してくれた氷をグラスに追加した。
「まぁ、奴のことだ……面白おかしくやってるだろうさ……」
「退治した鼠だけど……もう一人の茶髪の追撃はどうなってるの?」
「ジョーディーがピッカリーに命じたらしい……なんでも真実の人がすでに指示済みだったらしいぜ」
 意外なるその言葉に、少女は弾くタイミングを狂わされた。
「雷坊や……そんなの全然言ってなかったのに……!!」
「ピッカリーからさっき連絡があった……お前さんの言ってた身体特徴から個人の特定までできたらしい……花枝幹弥……驚くなよ、仁愛に潜入していたそうだ」
「そう!!」
 気がつかなかった。あの垂れ目の茶髪が同じ学校に通っていたとは。ライフェは平常心を保つため、あえて強い語気に気持ちを放ってみた。
「で、なんで真実の人があいつの追撃なんて細かい指示を?」
「宿題の解答に、お前さんのを採用したらしい……もっとも大幅なアレンジを加えてはいるがな……つまり、奴には弾頭移送で使い道があるらしい……」
「なら……追撃のあとは拘束ですか……?」
 珍しく言葉を挟んできたはばたきに、長助は嬉しそうに頷き返した。
「雨は止んだが今夜は落雷だな……雷坊やの電々太鼓がじき鳴り響く……」
 真っ暗な夜景に視線を向けた長助は、さて一体いつどこに雷が落ちるのかと唇の端を吊り上げた。


「正義忠犬隊に偽装説が出てきたのって知ってるかな? 寄付の拡大を狙うNGOが結託したって噂……誰が信じるんだろうねまったく。政府必死すぎだよね。まぁ、けどだったらなんだってことだよな。翼が生えた二足歩行の犬なんて、どう受け止めればよいのやら……」
 放課後の曇り空の下、比留間圭治(ひるま けいじ)は生徒ホール裏手のグラウンドで、高橋知恵に早口でそう言った。
 こんな話題は出だしの潤滑剤のようなものである。本題は二つ、別に用意してある。できれば一つ目だけで今日は済ませたい。そんな想いを胸に、彼は学生鞄からリボンのついた包みを取り出した。
「六月二十三日……誕生日だったよね高橋さん……プレゼント……」
 彼女に向かって包みを差し出した比留間は、声が裏返らないように咳払いをした。
「誕生日……うん……」
 同意してくれたものの、高橋知恵は白目がちな瞳に鈍い光を反射させるだけで、一向に贈り物を受け取る様子はなかった。
 それにしても夏服が似合わない。彼女の青白い肌はブラウスに溶け込みそうで、けど日焼けなどもっとイメージを崩すだけだと、じっと見つめる比留間は感じた。
「ほ、本だよ……三里塚闘争2005……報一出版のルポルタージュ集……探してただろ?」
 差し出す右手に震えが生じ始めた。ハードカバーのなんと重いことか。彼はこの無様な状況に一体いつまで耐えれば彼女は受け取ってくれるのだろうかと下唇を噛み締めた。
「読んだ……」
 消え入りそうなほど小さな声だったため、比留間は「はい?」と聞き返した。
「図書館に……頼んだの……そうしたら一週間でいれてくれたの……読んだ……けど……新しい発見はまったくなかった……」
 つまり、「いらない」ということなのか。わざわざ神保町まで出向いて買ってきたのに、何軒も探してようやく見つけ出してきたのに。
 拒絶するのか。枝毛に湿気をまとわりつかせながら、視線を宙に泳がせ、まるで話などさっさと終わって欲しいとでも言わんばかりの落ち着きのなさを、踵やつま先で地面を叩くことで現しながら、嫌なのかよ。
 ならば二つ目の話題を持ち出すのみである。比留間は包みを鞄にしまい、今度は大きく厚い封筒を取り出した。
「こ、こーゆーのは……僕もやなんだけどさ……知ってるのかなみんなは……」
 彼は封筒からA4サイズのコピー用紙の束を引き抜き、それを彼女に突きつけた。
「な、なに……?」
「あちこちから集めてきた怪文章に掲示板のログ……全部関名嘉さんに関することだ……音羽会議の活動資金を女に稼がせているって……」
 口を小さく開き、目を見開いた高橋知恵は束を全て受け取り、一枚一枚に目を通し始めた。その熱心な様子に比留間はやはり効果があったかと頷き、現実を突きつけて正解だと思った。
「風俗にアルバイトさせたり、まるで昔のヒモって奴? いくら理想の実現に金がかかるって言っても、あだ名が“エロ名嘉”なんて、ちょっと信じられないって感じだよ。高橋さんは大丈夫なんだろうね!?」
 ここは一気に攻め込むべきだ。それで彼女が崩れるのなら支えればいい。膨大なネットの海から情報を拾い集め、プリンターを借りて時間をかけて出力し、まとめた苦労も報われるというものだ。崩れろ高橋知恵。さぁ僕がいる。
「“大丈夫”って……どういう意味……?」

 低く、重く、唸るような声であった。

「た、高橋さん……?」
 上目遣いに、殺気が込められていた。なんだこの反応は。ショックを受けているのとは違う。怒っている? 恨んでいる? なぜ僕が? 比留間圭治は封筒を手にしたまま固まっててしまい、だからこそ少女の急接近にも対応できなかった。

 乾いた音が骨を伝わり、頬に激痛が走った。左手を振りぬいた高橋知恵は背中で息をし、目は真っ直ぐに虚空を見つめていた。

 張られた。痛い。細い手なのに、痛い。比留間は訳もかからず、頬を押さえてその場にへたり込んでしまった。
「知ったような……なにも……知らないくせに……キモオタが……調子付いて……!!」
 スカートのポケットからピンク色の巾着袋を取り出した高橋知恵は、さらにそこから百円ライターを出し、右手に持った書類に火をつけた。
「た、た、高橋……さん……?」
 書類に火をつけるという行動より、彼女が淀みのない挙動でライターを取り出したほうが意外だった。比留間圭治は灰になっていく紙と、眉間に皺を寄せ頬の筋肉を引き攣らせる恐ろしい形相の少女を凝視し、ただ怯えるしかなかった。
 ただ、そんな彼女からどうしても目が離せない。性を揺さぶられながら、少年は興奮していた。


 先週金曜日の会談と真実の人移送劇は、だが日本政府の関与するところではなく、この日の夕方も、神崎まりかは相棒のハリエット・スペンサーと共に、南新宿の法律事務所を訪れ、聞き込みを済ませていた。

「検察官の広田……外交官の米倉……弁護士の金(キム)……にしても癖だらけのメンバーね、まりか」
 代々木へと通じる京王線の踏み切りで立ち止まったハリエットは、空色の瞳を輝かせた。
「まぁね……よく出世ルートから外れる覚悟で参加したものよね……いい歳して冒険心が旺盛というか……」
 サングラスを人差し指でずらし、呆れがちにまりかはそう返した。

 急がば回れ。FOT追求のためその構成員の背景を洗い出す作業を、もう三週間は続けている。そのほかにも正義忠犬隊の足取りや、ビル倒壊の原因究明など対策班としての職務は神崎まりかに深夜までの労働を要求していた。

 ただ、忙しく考える暇がないのは助かった。

 古川橋の現場で、自分と同じ異なる力を持った妹の同級生、島守遼はこう言った。「ここでやることは戦うことより、助けることだよ!!」と。そのことを考えると途方もなく気分が落ち込む。八年前からなにも進歩していない。あのころ、自分を糾弾したのも彼と同年代の少年だった。「手紙書くよ」そう言っていた彼からの連絡はあれ以来一切ない。まだ真実を見つめる旅に出ているのだろうか。だけど自分にできることは旅ではない。この力を使い、平和を脅かす者と徹底的に戦い続けることだ。だけど、助けるべきだというのはわかる。だから忙しいのは助かる。考えずに済むから。
 踏み切りを渡りながらまりかは大きく身体を伸ばし、久しぶりに渋谷のあの店を尋ねてみるのも悪くないと思った。
「ハリエット。今日はもういいわよ」
「自宅の近くですものね。直帰していく?」
「ううん。まだ聞き込みが一件残ってるし……」
「はい?」
 歩道を歩きながら、ハリエットはスーツの胸ポケットから手帳を取り出した。
「ううん。予定外のやつ……さっき森村主任からね」
「なんの聞き込みなの?」
「先週、落雷で全焼した学芸大前のアパート……」
「あぁ……あれ……でもどうして?」
「人工的な落雷の可能性もあるって……南郷研から調査以来が出てるのよ」
 まりかは相棒の肩を一叩きすると、小さく手を振ってその場から駆け出した。
「なら……こちらも用事を済まそうかしらね……」
 ハリエットはそうつぶやき、携帯電話をハンドバッグから取り出した。


「こんなの一体なんに使うのかな?」
 李荷娜(イ・ハヌル)は取引相手である彼女にそうぼやき、小型船の甲板に乗せられたシートを被った塊を桟橋から見上げた。
「世界平和のために決まってるじゃない」
 荷娜に対してその女性は笑いながら返し、腕を組んだ。
「世界平和ねぇ……」
「チェックさせてもらうわ……それで問題なければ、倉庫まで搬入お願いね。その時点で支払いをするから」
 白人の客というのは、どうにもアジア人に対して高圧的な態度をしているようにも思える。速い足取りで小型船へ向かうボリュームのあるブロンドを眺めながら、荷娜はため息をついてそのあとをついていった。

 TAS−2348。それが今回の積み荷のコード名である。カリフォルニアを出港し、なぜかそのままこの東京に直行せず一度上海に立ち寄り、釜山へ空輸され現在に至るいわくつきの一品である。シートの中の機械を釜山からの航海で何度か見させてもらったが、なにかの噴射装置と計測機器の複合体であること以外はまったく理解ができない。荷娜はステップから甲板に移りながら、依頼人であるハリエット・スペンサーの後姿を凝視してみた。

「さーて……秋までには実験を終わらせないとね……跳躍痕の採取を急がないと……」
 空色の瞳に鈍い光を宿し、ブロンドを梳き上げたハリエットは、シートに包まれた塊に舌なめずりをした。

第二十二話「お前の勝ちだ!!」おわり

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