1.
もし台所に立ち、朝食の準備をしているのが父、貢(みつぐ)ではなく、倍以上は身体の厚みがある四川料理の達人、陳
師培(チェン・シーペイ)ならば、このキッチンのレイアウトも根本から変更しなければならないだろう。島守遼(とうもり りょう)は小さな冷蔵庫を開けながらそんなことをぼんやりと考え、オレンジジュースのパックを取り出した。
六畳しかないダイニングキッチンは、食器棚と冷蔵庫、食卓が底面のほとんどを消費し、トイレ、出入り口、二つの部屋を隔てる襖までの限定されたコースしか足の踏み場が確保されておらず、もちろん親子ですれ違うことなどできない。
小さく痩せた父の背中とフライパンが、煙の中で上下左右に揺れていた。あの調理スペースは自分には狭すぎる。だから最近では作るのはもっぱら父の仕事で、準備を手伝うのがせいぜいである。
場所の問題だけではない。今月後半の発表を控え、稽古も大詰めの演劇部、渋谷のボディビルジムでのアルバイト、リューティガー真錠(しんじょう)たちとのFOT対策ミーティング。時間という意味においてもまったく足りない。だから、今朝のハムエッグも父の作で、遼はこの二ヵ月ばかり一切の調理をしていない。
「もうすぐ芝居の発表なんだろ? 今度はなにやるんだよ」
エプロンをしたままの父が対座し、そう尋ねてきた。登校準備をすでに終えた学生服姿の息子は、「え? シェークスピアの翻案芝居」と、素っ気なく返した。
「シェークスピアって……え、ええっと……」
トーストを片手に首を傾げる父を一瞥した遼は、ハムエッグを一口食べ、足りないと感じた塩を振りかけた。
父、島守貢は二つの点を除けば、実に平凡でどこにでもいる中年男性である。特筆するほどの趣味も持たず、知識も教養もない。しかしだからこそ、息子にとっては異質である二点がより際立って感じられてしまう。
パチンコ球を自在に動かすことが出来る、“異なる力”を持ち、高校二年生になる息子と暮らす三十五歳。
本来なら異質過ぎる特徴を持つ父が、なぜこうも凡庸な人生を歩んでいるのだろうと、それが不思議でもあるが、自分にしても似たような力を持ちながら、普通の高校生活を送っているのだから多少なりともわかる。もっとも、十代で子持ちというのはとても考えられないが。
「あー!! ロミオとジュリエットか? 翻案ってなんだ!?」
「シャークスピアは他にもいっぱいあるよ。俺たちがやるのはその中でもマイナーな、“シンベリン”って芝居。翻案ってのは、日本の戦国時代に設定を訂正してるからだよ」
とりあえず説明したものの、どうせ理解はできないだろう。オレンジジュースを飲み干した遼はそう思い、父の反応をちらりと観察してみた。
トーストをカリカリと音を立てて齧りつつ、目の焦点は合わず、なにやら思考を巡らせているようでもある。父がなんとか理解しようと努力している事実だけは、息子にも理解できた。
「いいじゃん。どーせ今回は新入生向けの発表会なんだし、親父は観れないんだからさ」
ようやく理解できる言葉が返ってきたため、貢はトーストを牛乳で飲み込んだ。
「な、なんだよそれ!? 観れないのかよ!?」
「ああ。新入生歓迎発表会なんだ。ウチの他にもいろんな部が出て……まぁ、勧誘イベントみたいなもんだよ。演劇部はこれと文化祭の、年二回発表があるってわけ」
「そ、そっかぁ……なんか俺のときもそんなイベントあったなぁ……」
まだ家を出るのには時間がある。食卓に置いた携帯電話の時計表示を確認した遼は、口をハンカチで拭き、二杯目のオレンジジュースをグラスに注いだ。
「親父は高校のころ、どんな部活やってたんだよ?」
そう尋ねられた父はハムエッグを頬張り、下唇を小さく突き出した。
「俺は帰宅部だよ。部活は特に入ってない……」
「へぇ……じゃあまさかその頃から、パチンコ行ってたとか?」
「パチンコは二十歳までやったことねぇって。そうだなぁ……なんだか毎日ぼんやりしてたよなぁ……高校生時代は……」
なるほど、一年前の自分と大差のない毎日だったのだろう。父のこれまでをそう理解した息子は、「ごちそうさま」と告げると自分の分の食器を流しまで運び、それを手早く洗った。
春休みはあまりにもあっという間であった。バイトに稽古、ミーティングと、気がつけば四月六日の始業式になり、その翌日には入学式である。どこかに遊びに行く余裕は、まったくなかった。
そして今日、週明けの四月十一日である。四月も二週目に入り、一学期も本格的にスタートなのだが、昨年度から芝居の稽古を重ねている遼にとっては気分を改めるような感覚は皆無であり、この四月はあくまでも三月の延長でしかない。
演劇部の部長、福岡は、「わたしたちも、新歓発表会が終わって、ようやっと一年生のノルマ終了!! ってな感じになったのよ。だから島守くんもきっとそうだと思うけどなぁ」などと言っていたし、まあそれはそうかも知れない。そのようにも思える。
食器を洗い、歯を磨いた遼は、冷蔵庫の上にあった新聞を自分の部屋で開き、一面はもちろんのこと、政治、経済、社会面の見出しを立て続けにチェックしていた。これは、ここ最近の日課である。
民声党新人事……まとまる……か……
政治面のとある記事に遼は注意を向けた。与党民声党幹事長の事故死、それに伴う党人事変更。さて、この新しい幹事長である村野耕介という代議士は、果たしてどのようなバックボーンを持った人物なのだろう。彼はそう考えるのとほぼ同時に、前幹事長の生首が消失した光景を思い出し、急激な吐き気に口を手で押さえた。
三代目真実の人(トゥルーマン)こと、アルフリート真錠を怒鳴っていた中年代議士、前民声党幹事長、幸村加智男(こうむら
かちお)。彼の首が消え、血が噴水のように吹き出、生首が真実の人を取り囲んでいたチンピラの肩口に出現した光景は、それを遠透視していたリューティガーに直結した意識から、映像のように遼へ伝わっていた。
相手の身体に触れ、その意識を読み取ったり、対象者が見たり感じたりしていることを共有することができる接触式読心は、島守遼の持つ“異なる力”の一つであるが、脳内に直接広がるイメージは直接見る光景と同様に生々しく、おそらくはどこか内臓を患っていた幸村の血が、微妙に白く濁っていたことまで今もよく覚えている。
だから、事件より二週間以上が経過した今日になってもあのグロテスクな光景をはっきりと記憶しているし、その後の惨劇や、視覚だけではなく全身で感じた料亭「いなば」の、屍が転がり獣人が我が物顔でうろつく、あの異常な状況も忘れようがない。
普通の神経なら、まだ寝込んでいてもおかしくはないだろう。狂っていても仕方がないと言える。
だがバルチでの獣人との遭遇、つるりん太郎の襲撃、晴海埠頭倉庫での壊滅現場といった経験を経た彼にとっては、規模の違いこそあるものの、命の危険やグロテスクさに対する衝撃に差はなく、慣れつつある世界なのかもしれない。だからこそ今日も学校に行くことができる。正気を保ち続けられる。
新聞をたたみ、それを食卓まで持ってきて置いた彼は、学生鞄と舞台の台本を手に玄関へ向かった。
スニーカーを履きながら、遼は気になっていた台本のチェック箇所に目を通し、思い違いがないことを確認して一人頷いた。
そう、やることがいくらでもある。凄惨な光景に震えている場合ではないのである。
台所に立つのは半年振りである。陳が来日してからと言うもの、毎日の三食は常に彼が作り、自分が食事の準備をすることはなかった。
リューティガー真錠は中華鍋でピラフを作り、味見をしたあとコショウを振りかけ、コンロの火を止めた。
皿に盛ってもよいが、洗い物が増えるだけである。かつて所属していた傭兵部隊「カオス」では、ソーセージや玉子を小型のフライパンで焼き、直接フォークでそれを食べていたことも多い。
しかし、そうするにはこの中華鍋はあまりにも大きく深かったため、彼は観念して皿を探すことにした。
ここに入居した直後は自分で食器の用意もしていたから、何がどこにあるかも把握していたが、あれからすっかり置き場所もレイアウトも陳の仕様に変更され、見当をつけた棚を開いても、中にあるのはスープ用の底の深い器しかなかった。
仕方がなくその一つを取り出したリューティガーは鍋のピラフを器に移し、それと水の入ったコップと一緒に食卓へ運んだ。
なんという手際の悪さだろう。しかし慣れていくしかない。彼は気持ちをしっかりと保ち、朝食を口に運んだ。
いつも食事を用意してくれる、丸々と太った従者の姿は、この代々木パレロワイヤル803号室にはなかった。
前回の作戦で重傷を負ったもう一人の従者、青黒き異形の健太郎は、まだザルツブルクの賢人同盟本部において療養中であり、彼が普段担っていた情報収集という仕事は、陳と現地協力者である高川典之(たかがわ
のりゆき)が現在交替で行っている。だからこそ、慣れない道具でピラフを作らなければならないし、ラベルを読んでもよくわからない謎の調味料を使う気にはなれないため、味付けも塩とコショウだけの簡素な結果になってしまっている。
「あわわ!! 坊ちゃん!! わたしが作るネ!!」
扉を開け、帰ってきた四川の達人は、大きな食卓で寂しげにピラフを食べるリューティガーの姿を見つけた途端、大慌てで駆け寄った。
「い、いいですよ陳さん。もう半分以上食べちゃいましたし……」
炒飯だろうか。それにしては具が少なく、食器も深すぎる。なにやらちぐはぐとしている結果に陳は肩の力が抜けてしまい、たまらず空いている椅子に腰掛けた。
「申し訳ない坊ちゃん……思わず時間がかかってしまったネ」
「民声党の方は……どうでしたか?」
主の質問に従者は頭を下げ、眉を顰めた。
「めぼしい情報は拾えなかったネ……あの事件以来、党はかなりガードをもう上げてるよ。それは公安当局や、出入り業者にまで及んでいるね。そもそも私達、幸村を入り口に情報収集してたヨ……これはルートから見つけ直さないとダメネ」
陳の報告を聞きながら、リューティガーはピラフを蓮華で口に運び、それはそうだろうと納得した。
幸村が死に、派閥の若手議員、磯原孝泰と長老議員でもと外務大臣の木田清造が重傷を負い、やはり長老でもと内閣官房長官の仲辺元哉(なかべ
もとや)は精神に異常をきたし、再起不能の障害者となってしまっている。核弾頭をロシアから購入した真実の人を糾弾し、最終的には弾頭の所在を確認し、彼を殺害しようと目論んでいた彼らの宴は、結果として最悪の事態を生んでしまった。
他の関係者が盗聴や情報収集に対してより強い警戒をしているのは当然であり、こうなってしまうと諜報の精鋭がいないため、リューティガーたちは目も耳も塞がれてしまっているようなものである。無論、同盟からの作戦指示も未だになく、若き主はそろそろ次の手段を講じる必要があると認識していた。
チャンスであった。あの「いなば」の一室で兄は微動だにせず、遠透視と島守遼の力を使った暗殺を遂行していれば、かなりの高確率で成功していたはずである。外部からの攻撃は、空気の歪みを察知する彼の超感覚に察知されてしまうが、自分が考案したあの方法であれば、遼の異なる力であれば“気がつけば死んでいる”といった殺害手段がとれたはずである。
なのに臆してしまった。長老議員たちに啖呵を切り、残虐さにまったくの躊躇がなかった兄に、自分は見とれてしまったのである。
あれなら、あのような凛として颯爽とした兄であれば、「真実の人(トゥルーマン)」を名乗ってしまってよい。兄が真実の人と認められるのなら、同盟からの剥奪と暗殺指令とて、遂行するのに曇りも生じてしまう。血を分けた兄弟なのだ。それを殺してしまうは、相応の覚悟や個人的な憎悪がなければ不可能である。
不当に名乗る、真実の名に相応しくない矮小なる兄であれば、組織に対する忠誠心だけで殺すこともできる。
隣でがっくりとうなだれる陳に、リューティガーは優しく微笑みかけ、せめて得意とする仕事をやってもらおうと、「すみませんけど……食器の片付け……お願いします」と頼み、床に置いてあった学生鞄を手にして席を立った。
突風と共に、仁愛高校屋上に出現したリューティガーは、出入り口である階段への扉を開け、下の階へと降りていった。
教室のある二階まで降りてきた彼は、一階への踊り場までさしかかろうとしているクラスメイトに気付き、手すりを握ったまま足を止めて見下ろした。
「おはよう……遼」
階段を駆け上がりってきた長身の彼、島守遼にリューティガーは軽く挨拶をし、紺色の瞳で見上げた。
遼は、「おう」と挨拶を返すと、並んで歩き始めた栗色の髪を見下ろし、その気配に張りがなく、彼がまだ元気を取り戻せていないと感じた。
特に言葉も交わさず。二人は2年B組の教室後部の扉を開け、いつもの席へと向かった。
これまでと変わらない月曜日の日常が、今日も始まろうとしていた。
2.
職員室で生徒名簿を手にした川島比呂志は、ずれ下がったスラックスを腹の位置まで上げ、ベルトを締め直して肩と首の調子を確かめた。
春休みの間、家族サービスで軽井沢へ旅行に行ったものの、あまりにも夜空の星が綺麗で、毎晩見上げていたものだからいまだに首に痛みがある。
数学の教師である彼はそもそも天文には興味も薄く、仙台の都市部で育ったということもあり、自分がこうも星空が好きだとは思ってもいなかった。
それにしても二泊三日の短い旅行だった。四月に入ってからは始業や入学式の準備に追われ、六日に生徒たちが登校してきた際も、「久しぶりの学校はどうよ?
俺なんか一日からずっと来てたんだけどさ」などとぼやき、誰も反応してくれなかったため、たまらず教壇を足で蹴ってしまい、最前列の小林哲男をひどく怯えさせてしまったのが、どうでもよい記憶である。
入学式も終わり、この四月第二週からが今年度の本格的なスタートである。本来なら気を引き締めていかなければならないのだろうが、教室へ向かう川島教諭はあくびを連発し、どうにも緊張感に欠けていた。
それも仕方がないことである。
まず、この仁愛高校には数年前から生徒数の減少を理由にクラス替えがなく、三年生からは選択制の授業で時折別れることはあっても、基本的には三年間を同じ面子で過ごすことになる。それに卒業した三年生の教室に一年生がそのまま入るため教室の位置も変わらず、つまり何か新しい年度であるという気持ちの切り換えはとても難しい。
そして止めが一学期初日に行われたクラス委員の選考である。昨年度を一年務め上げた音原太一(おとはら
たいち)以外に立候補する者が誰一人としておらず、結局信任投票で過半数を確保した彼がすんなりと当選してしまい、まったくもって2年B組は1年B組と変化がなさ過ぎて面白みに欠ける。
せいぜい……まぁ……これぐらいかね……
眠そうな半開きの眼で、川島比呂志は“2−B”と書かれた教室のプレートを見上げ、ぼさぼさの頭を掻いた。
その日の昼食の時間、食堂にはいつものように多数の生徒が、空腹を満たすために詰めかけていた。
2年B組の生徒、野元一樹はカレーを載せたトレーを手にしたまま辺りをきょろきょろと見渡し、見慣れない女子のグループが、やはりトレーを両手でもったままうろうろしているのに気付いた。
おそらく新入生だろう。冬服のブレザーが、なんとなく似合っていない。そんな彼女たちは上級生に気を遣いながら、空いている机を見つけて顔を見合わせて喜んでいた。野元はその中に可愛い子はいるのかと、猫背にしていやらしくニヤついていた。新学年がはじまってから、この新入生の女子をあらゆる場所でチェックすることが、最近の彼の趣味になっていた。
初々しさを振りまく者。それを目当てにする者。ただひたすらエネルギーを補充する者。日曜日の出来事を話すのに夢中で、麺類をのばしてしまう者。様々な生徒たちがいる中、一番入り口に近い席で、高橋知恵(たかはし
ともえ)は一人本を読みながら、サンドイッチをときどき齧っていた。
その様子があまりにも静かで、何の主張も発していないことに気付いた一年生の男子グループが、「ここ、いいですか?」と高橋知恵の顔を覗き込みながらやってきた。彼女は、「どうぞ」と小さく返して本に意識を向け直した。
相席した下級生たちは、高橋がなにを読んでいるのか興味を抱き、それとなく覗き込む者もいたが、縦に並んだ大量の活字に気付いた途端、「漫画じゃないんだ」などと心の中で呟き、ため息を漏らした。
よくよく見ると顔色があまりにも青白く生気に欠け、長い黒髪もところどころ枝毛が別れ、それほど魅力的な容姿ではない。読んでいる本もなにやら小難しそうだし、このテーブルは外れっぽい。これはつまらない昼食になってしまった。そこまで落胆してしまったその下級生は、「つまんね。席、変わろうぜ」といったテキストが表示された、携帯電話の画面を対面する同級生に見せ、小さく首を傾げた。
下級生に囲まれて、それでも自分の閉ざした世界を維持したままサンドイッチを齧る少女の後姿を、天ぷらそばを載せたトレーを手にした比留間は、受け取りカウンターの脇からじっと見つめていた。
彼女が食べているサンドイッチは、おそらく玉子サンドなのだろう。確か好物のはずだ。他にも、MPの詰め所に向かって声を張り上げる際には、小さな尻を必ず突き出すこともよく見ているし、家が旗の台にあることも最近教えてもらった。
高橋知恵のことを随分よく知ったつもりの比留間圭治(ひるま けいじ)だった。しかし彼女と自分が学校で言葉を交わす機会は皆無であり、米軍へのデモ活動の連絡も携帯のメールでしか送られてこない。
一度だけ、春休み中に彼女の携帯電話に、ありったけの勇気を搾り出して電話かけてみたことがある。名目は、横田基地で行うデモの集合時間の確認である。実のところ、集合時間はこれまで交わしたメールに残っていたが、「僕らしくもなく、うっかりメールを削除してしまったよ」といった嘘で切り出して、それなり会話をするつもりだった。比留間は自室の片隅で携帯を耳に押しつけ、相手が出るのをじっと待っていたが、結局繋がったのは留守番サービスであり、彼はなにもメッセージを残すことなく、そのまま切ってしまった。
するとその夜遅く、携帯電話が鳴り響いた。ディスプレイに“高橋知恵”の名前を見つけた比留間は興奮し、ベッドにもぐりこみ、深呼吸して通話ボタンを押した。
「比留間……くん?」
「あ、あぁ高橋さん……の、ののね」
“あのね”のつもりが、出だしから躓いてしまったが、「今度の集合時間、お、教えて。メールなくしちゃったんだ」と、勢いで用件を告げることができた。
「十一時よ」彼女はそう即座に返事をし、それ以上の言葉はなかった。その声があまりにも静かだったため、比留間はそれ以上会話を続けられず、電話をかけることで残量がゼロになってしまった彼の勇気は、1グラムも回復してくれなかった。
短い、あまりにも短いやりとりではあったが、その間に比留間はトラックのような大型車両が通過するノイズに気づいた。あるいは、少女の声が静かすぎるせいだったのかも知れない。
電話の当時、時刻は深夜零時過ぎだった。いったいそんな夜中に、高橋知恵は屋外のどこにいたのだろう。受け取りカウンターにあった七味唐辛子を手にした比留間は、ふとそんなことを思い出していた。
米軍のヘリが、都心の料亭に墜落した。そんな事件の影響もあってか、反米軍の動きはこのところ加速の一途であり、所属する「音羽会議」が主催するデモの回数も、これからもっと増えるだろう。そうすれば彼女とコミュニケーションをとる機会は増えるはずである。手入れの行き届いていない枝毛を遠くから見つめながら、比留間は天ぷらそばに七味唐辛子をかけすぎてしまった失敗に気付かなかった。彼に続いて受け取りカウンターにやってきた同級生の永井まどかは、「お腹壊すよ」と声をかけようとしたが、比留間があまりにも熱心に一点を見つめていたため、まあ仕方ないかと諦め、放っておくことにした。
午後の授業も終わった放課後、島守遼と2年C組、つまり隣のクラスの男子生徒、岩倉次郎の姿が駐輪場にあった。二人はそれぞれ愛車であるバイクに跨り、互いに手と目を使って意思疎通をし、淀みのない慣れた手順と段取りで学校から通りへと出た。
今日はリューティガーの住む代々木のマンションにて、定例のミーティングである。しかし遼と岩倉の二人は、おそらく報告と連絡はすぐに終了してしまうだろうと予想し、そしてそれは現実だった。
代々木パレロワイヤル803号室に集合した遼と岩倉、そして遅れて電車でやってきた高川典之の三人は、ダイニングキッチンでリューティガーから、時間にして僅か三分ほどの定例報告を受け、沈黙の空気が全員の間に漂った。
「いなばの取り壊しは……いつからなのだ? ルディ」
静寂を破ったのは太い腕を組んでいた高川であり、その質問は先ほど聞いた報告に対して詳細の補足を求める内容である。
「来週からだそうです……米軍が検証に手間取っているようですから……」
「なぁルディ……やっぱりあの米軍ヘリって……お前の兄貴が取り寄せたものだったのかな?」
続いて出た遼の問いに対し、リューティガーは静かに頷き返した。
「間違いないね……定期便のあれが上空近くを通過するのを奴……兄は狙っていたんだ。だからあの日の会談も、日時についてはFOTが決定したらしい」
「取り寄せる力……か……」
そう言いながら、遼はあの白い長髪の青年、真実の人が赤い人型と対した際、バイザーを含んだその頭部装甲を消失させ、足元に出現させた事実を思い出した。
向かいに座るリューティガーは、触れたものを任意の場所に跳ばすことができるのに対し、その兄である真実の人は見える範囲のものを近くまで取り寄せることができる。二人の能力にまったく正反対の特徴があると認識した遼は、両手を頭の後ろに組み、それはそれで面白い違いだと感じた。
「ならさ……お前の遠透視に替わる能力ってのは……あの、空気の変調を近くするとかいうやつ? 弾丸がくるのさえ気付けるってあれか?」
遼の言った、敵の知らない能力に高川と岩倉は共に驚き、その反応は正に彼の期待通りだった。今後の戦いを考えれば、二人はもっと“異なる力”について知る必要がある。そのためには、できるだけわかりやすく興味を向けさせる必要がある。
「いや……あれは修練の結果だ……異なる力じゃない……言わば“延長線上の力”だ。もちろん、誰にでも身につくものじゃないけどね」
「それはそれですげぇな……」
「兄は昔っから、独自で厳しい修練を積んできた……七年前だって、それはすごい反応だったけど、最近の状況を見てると、もっとよりレベルアップしてるみたいだね」
「なるほど……エスパーといえども、足りない点は修行で補うというわけなのだな?」
それはわかりやすい話であり、理解しやすい。高川は力強くそう言い、返事はいらんとばかりに大きく頷き、岩倉は“エスパー”という耳慣れない単語に何度も丸い目を瞬かせた。
「そ、それじゃ……僕はそろそろ……隣で射撃訓練をしていくよ」
それからしばらく言葉を交わしたあと、ちょうど区切りがいいと思った岩倉は学生鞄を手に立ち上がり、遼は“射撃訓練”という言葉が彼からすんなりと出るのに違和感を覚え、高川はその熱心さを真面目さと感じ、目を細めた。
「この間の作戦では、俺は見ることができなかったが……鉄砲の技術は向上しておるのか?」
座ったまま岩倉にそう尋ねた高川に、食器を洗い終え、エプロンで手を拭きながらやってきた陳が、「中々のものだったよ。十発に五発は命中ね」と、答えた。
「い、いやぁ……近かったし……相手が大きかったからだよ……」
坊主頭を分厚い手で撫で、ひたすら謙遜する岩倉に、高川は彼にしては珍しい満足そうな笑みを向けた。
「いや、そこまで我慢したということだろう。あのような化け物に対して、大した勇気だと思えるぞ」
「そ、それを言ったら高川くんだって……武器を使わないのに、よくあんな怖いのと格闘技だけで戦えると思う。凄いよ」
これまであまり人に褒められたこともなく、むしろ柔術家を目指すにしては考え方も鍛え方も戦い方も直線的だと師範の楢井立(ならい
りつ)をはじめ、兄弟子たちに諌められてきた高川典之だった。彼は岩倉の「凄いよ」の言葉に息を詰まらせ、「は、は、は」と顎を傾けながらぎこちなく笑った。
「よ、よく知らないけど……高川くんなら、熊とか虎とかと戦っても勝てそうだよね」
「だろうな……獣人を倒してるんだから、そんなのは楽勝なんじゃないの? いずれテレビに出て有名になれるぜ」
「だよねー!! すっごいよねー!!」
岩倉と遼はそんな言葉をかわし、高川はその内容に笑みを消し、頭を激しく横に振った。
「い、いや、猛獣相手に勝てる自信はない……」
「そ、そうなの?」
きょとんとする岩倉に、高川は席を立ち、軽く身構えた。
「獣人はな……いびつなのだ……あの外見は、恐怖を与えるのには効果的なのだろうが、いざ戦うとなると、身体のバランスが理に適っていない。だが野生の動物は様々な淘汰の結果、生存に適した身体を獲得している。その中でも熊や虎は最強のグループに位置する。とてもではないが、今の俺ごときでは逃げるのがやっとであろうな」
半獣半人、人の肉を食らう異形の獣人より、野生動物の方が強い。遼は高川の説に関心を示し、リューティガーに意を向けてみた。すると彼も食卓の上で指を組んだままゆっくりと頷き、その意見を支持した。
「高川くんの言う通りです……もちろん、獣人は重火器を扱えますし、超音波や毒液、電気を放出するなど様々な武器を持っていますが、こと身体能力となると実に中途半端な存在ですし、格闘という面においてはバランスが悪く、このあいだの料亭のような閉所では能力もさらに半減されます」
リューティガーの説明に、だが岩倉は完全には納得がいかず何度も首を傾げ、「けどさぁ……やっぱり怖いよなぁ……」とつぶやいた。
「あの日は自分から攻める覚悟もあった……それに俺たちB組は、一度教室ジャックで獣人というものを見ている。もちろん、怖くないと言えば嘘になる……俺も、まだまだ理性というものがついつい飛んでしまい、修羅と化してしまうが……慣れてきているのも事実だ」
「いやぁ……やっぱり凄いよ高川くんは……」
岩倉は感激したまま高川の両手を握り、彼も「お、おう」と照れくさそうに応じた。
みんな仲良しだ。ちょっとぎくしゃくしてるけど、喧嘩もないし、誰かが誰かを馬鹿にするということはない。だから、僕も頑張らないと。足を引っ張らないようにしないと。
廊下に出た岩倉次郎は、射撃練習場である804号室に向かい、リューティガーから預かっている鍵を学生鞄から取り出し、ドアノブに手をかけた。
「ガ、ガンちゃん……」
背後から声をかけられた岩倉が振り返ると、後頭部に手を当てた遼が、苦笑いを浮かべていた。
「な、なんだい島守くん?」
「い、いやさ……射撃練習? これから?」
「そうだよ。最近じゃ一人でもできるようになってきたし……そ、そうだ……島守くんもはじめてみる?」
「い、いや俺はいいよ……」
岩倉の申し出を遼は断り、彼の手にした学生鞄の中にリボルバー式の拳銃が入っているのだろうかと、だとすればやはり似合わないなと思った。
「そっか……だよねぇ……島守くんは別の力があるんだもんね。ピストルなんて撃てなくってもいいんだもんね」
にっこり微笑み、白い歯を見せる岩倉次郎に対し、遼は「悪りっ!!」と叫び、堪らず頭を下げた。
「ど、どーしたんだよ、島守くん!?」
突然の謝罪に岩倉は戸惑い、扉に背中をつけてしまった。
「そもそもさ……俺とガンちゃんが組めば、相手の記憶とかをいろいろと弄れるから……そんな理由で誘ったのに……射撃の練習なんかすることになってさ……」
「あ、あぁ……けど、けどさ……僕だって戦ってみんなの役に立ちたいし……と、島守くんの言う、記憶をどうこうって……僕……よくわかんないし……」
自分の接触式読心と、岩倉が本来得意とする、頭の中をWindowsのエクスプローラーのように整理して認識できる超記憶能力をフィルタとして合わせることにより、相手の記憶を自在に消すことが可能になる。この発見こそが、そもそも遼が岩倉次郎を戦いに誘った理由である。
しかし実際にそれを行ったのは、最初に同級生の小林哲男に実験したのと、リューティガーに証明するために高川に行った二回のみであり、その上岩倉は自分がなにをしたのかまったく認識できておらず、それどころかリューティガーの言うところである“延長線上の力”である超記憶能力の仕組みすら、はっきりと自覚していない。
結局、岩倉は射撃手としての役割をこのグループで果たしつつある。
最初にリューティガーが拳銃とナイフを支給した際、それを断らず平然と受け取ったのが原因だったが、大らかで温厚で、見た目も中身も丸い彼がマンションの一室で射撃訓練を重ねたり、暗殺プロフェッショナルの陳と背中を合わせて獣人と戦ったりする様には、どうしても違和感がつきまとい、誘ってしまった遼としては一度謝罪しておかなければ気が済まなかった。
「と、とにかくごめん……今は……なんとなくこうなっちゃってるけど……やっぱ、違うと思うしさ……」
「う、うん……けど……蜷河さんを助けるまでは……一緒に頑張ろうよ」
岩倉は遼の手を掴み、そこからただひたすらに暖かい感覚が流れ込んでくるのを遼は感じた。
どこまで疑いがないのだろう。もちろん、蜷河理佳(になかわ りか)を救うのが本来の目的であるという、彼に対して行った告白に嘘はない。だが、岩倉次郎は何の迷いもなくそれを信じ、協力してくれるという。ありがたいと遼には思えたが、それだけに申し訳ないという気持ちも強かった。
自分の真っ直ぐさがここでは受け入れられる。岩倉次郎はそれが嬉しかった。最初は冷たかった高川も、今では仲間と認めてくれたようだし、学校ではぶっきら棒で当たりがきついと噂されていた遼も、こんなにまで感謝してくれている。
バンドの仲間からはいつも足を引っ張るなと注意され、良かれと思ったお菓子の差し入れも、「そんなの買う暇があったら練習しろ」の一言で一蹴されてしまい、要は最初に躓いてしまった“駄目な奴”のイメージから脱却できないまま、一年生を終えようとしていた自分である。
同級生からもからかわれ馬鹿にされていることぐらい、自分が人より要領が悪く愚鈍であることぐらい、気付いていないわけではない。けど、それに拗ねたりいじけたりするのは嫌だし、死んでしまったおばあちゃんはいつだって、「笑顔と善意しかないんだよ。それしか幸せを作れないんだよ」と言っていたし、その通りだと今でも信じている。だから認めてくれるこの場が気に入っていたし、誘ってくれた遼に対しては感謝をしている。
二人はマンションの廊下で、感謝の気持ちをじっと向け合っていた。
そろそろ射撃練習を見よう。そう思ったリューティガーは、家に帰るという高川と一緒に廊下へ出ようとした。すると、頭を下げる遼と、その手を握る岩倉の姿が目に入り、彼は慌てて扉を開けるのを止め、高川に「ごめんなさい……今は出ないで」と小声で言った。
「ど、どうしたのだルディ? 何かいるのか?」
「は、はい……な、なんか……友情って感じです……」
その説明に高川は訳がわからずきょとんとし、再び扉の隙間から廊下の様子を窺ったリューティガーは、相変わらず心の交流を続ける二人を少しだけ羨ましいと思い見つめ続けた。
3.
1年B組から2年B組への変化は教室のプレートぐらいであり、リューティガーたちグループを巡る状況も停滞を続けていて、「いなば」での死闘は未だ具体的な結果を浮かび上がらせてはいない。だが島守遼にとって、この場所だけは常に動き、変化し、自分もそれに対応し、状況を作る場面も度々だった。ミーティングから翌日の放課後、北校舎三階の演劇部部室は、台本、小道具、衣装、飲みかけのペットボトルなどがあちこちに散乱し、ジャージ姿の部員たちもほとんどが一箇所に留まることがなく、その中で遼は、共演者で同級生の神崎はるみと互いの台本を寄せ合い、場面の確認をしていた。
「だからね、この段階で条之進はもうひっこんでるのよ」
「え、だってさ、こないだの立ち稽古でさ、部長、舞台に残ったままだったじゃん」
「あれは先生が来たからでしょ? 本来なら馬具を取りにいってるんだから」
「あー!? やっぱそうなんだ!? 台詞の辻褄がなんか合わないと思っててさ」
「でっしょ!! だからえっと……ここの最後の目線は……」
周囲の喧騒に負けないほど大きな声で意見を交わしていた遼とはるみは、最後になんとなく視線を合わせ、「久虎だ!!」と、同時に叫び、顔を綻ばせた。
「なにが久虎だ?」
自分の役名を叫ばれたためやってきたのは、丸めた台本を片手に持った、三年生の男子、平田である。
「大丈夫です。平田先輩。たったいま、問題は解決しましたので!!」
「ならいいけどさ……神崎さん、えっとな……」
いつもは言語も明瞭どころか、躊躇なく厳しいことを言う平田が珍しく言葉を濁したので、はるみは小さく頷き、自分の首にかけたタオルを手にした。
「衣装……ですか?」
勘よく言葉を返したはるみに、平田は、「そうなんだ」と即答し、握り締めた台本で空いている掌を叩いた。
「黒鐘の衣装が、また指定したのと違っててな……まぁ、仕方がないからそれはそのままでいこうってことになったんだが、仲の方(なかのかた)のやつに問題が発生している」
「発注のミスですか? それとも受注の?」
「犯人探しはできないよ。かなり混乱してるし、徳永もここのところ音響の準備でテンパっててな……」
自分に対して平田がなにを要求しているのか、はるみはそれをすぐに理解し、タオルで額の汗を拭った。
「わかりました。裁縫部にはわたしから言っておきますから……発注したときの資料とかって……?」
最後に小さく首を傾げたはるみに、平田は顔を顰め、「すまん」と返した。
「じゃあ……えっと……なんとかしてみます……」
「本当にすまんな……」
「あ、いえ……津田さんが副部長になったそうですから……彼女なら、わたし前のときにずっと一緒にやりとりしてましたから……なんとかなると思います」
ありがたい後輩の言葉に、平田は更なる感謝の言葉を口にしようとしたが、背後から「平田さん!! ちょっとこっち見てください!!」との声がしたため、はるみに向かって丸めた台本を軽く突き出し、小さく頭を下げて立ち去って行った。
「大変だな……神崎……」
二人のやりとりをそばで見ていた遼は、去っていく平田の後姿を見ながらそう言った。
神崎はるみは今回の芝居でもっとも出番が多い愛姫という役であり、本来なら衣装の手配などの裏方仕事はこの発表間近の時期に振られるべきではない。平田もそれがわかっていたため、彼には珍しく低姿勢だった。
だが、裏方状況が明らかに遅れを見せているのは事実である。前回の芝居、「金田一子の冒険」であれば、この時期に全ての衣装合わせも終わっているはずだし、もちろん時代劇という事情もあるのだが、部室全体の慌ただしさもより増しているような気がする。しかしそれはまだ新入生の入部がないという、単純に卒業生が抜けた分のマンパワー的な事情があり、そうした意味ではまだ二年生になったばかりの遼に、事態を冷静に分析できるだけの資料は揃っていなかった。
「平田さんも大変だなぁ……」
部室のあちこちで発生する問題を次々と処理していく平田の姿を見て、遼はとてもではないが自分にあのような対応力や解決力はないと思った。そんな彼を、はるみはちらりと見上げた。
二月の初旬に、まだずっと寒いころに、「たぶんね……わたし……好きなんだと思う……島守のこと!!」などと告白をし、後にそれが舞台での円滑な芝居をするための方法であるなどと偽りの納得をさせて以来、自分と彼の間にはなんら個人的人間関係の発展はない。もう何度も、稽古で愛を確かめ合う芝居をしているのに、肩を抱かれているというのに、部活が終われば、「じゃ、俺バイトあるっスから」などと飄々とした態度でさっさと部室を出て行き、あまりにもその去り際が鮮やかなものだから、部長の福岡などは、「彼には終盤戦にみっちり裏方を手伝ってもらーう!!」と息巻いていたりしている。
彼の心の中には、まだあの長く美しい黒髪の少女がいる。蜷河理佳。本来なら愛姫役を演じていたはずの、演技力は抜群だが、どこか部の中で浮いていた彼女。あの儚げで、それでいて妙に芯の強さを感じさせる理佳は、自分に遼のことを頼むと言って姿を消した。公には親の事情による転校ということになっているが、そんなことを鵜呑みには出来ないはるみである。
石垣の描かれたベニヤ板を抱えた二人の男子生徒が、雑然とした部室へ入ってきた。彼らは今回の公演に協力している美術部の所属であり、だからこそただでさえ不慣れな部室の床に転がっていたペットボトルの存在に気付くことなく、踏んでしまったのと同時に前の部分を持っていた生徒が転倒し、もう一人もベニヤ板ごと引きずられるように倒れた。 幸い板は無事ではあったが、あまりにも唐突な衝撃音にはるみはたまらず側にいた遼の腕を掴み、その上腕部に側頭部を当てた。
「か、神崎……」
驚いたため、咄嗟の行為だったのだろう。共演者として身体を触れ合わせる機会が増えているため、垣根がなくなっているということもあるのだろう。遼は驚いて美術部の二人を見つめているはるみを見下ろし、だがそんな自分の分析は、やはりどれも正解ではないのだろうと落胆した。
なんで……俺なんかに告白すっかな……
後に共演者としての役作りであると、そんな解釈に無理矢理落ち着かせてしまったが、そうではないことぐらい、いくら鈍い遼にとってもわかってはいる。
蜷河理佳への想いは変わらない。会えなくなってから数ヵ月が経つが、唇を重ね、互いの未熟さを触れ合わせた彼女の存在は、彼にとっていまも鮮明なままである。
「理佳は元気だよ。もう東京にはいないけど、彼女はいつでも君の事を想っている。だから安心してくれ!!」
敵である真実の人は赤い人型と対峙した際、こちらの存在に気付いてそんな言葉を投げてきた。
あれで明白になった。理佳はFOTのエージェントである。何の任務を帯びていたのかはわからないが、つるりん太郎から自分を守った段階で、正体を晒した彼女は学校を去るしかなかったのだろう。
ナイフで顔無しの化け物の首を切り落とすことができる正体を、理佳は知られてはならなかった。そう、自分に対しては。
なぜ彼女が人体解剖図鑑を渡したのか、今ならなんとなくわかる気がする。これからはじまる苛酷な状況の変化に、こちらを生き延びさせるための準備だったのだろう。人体の急所を暗記させ、いざという事態に対応できるようにと、随分迂遠で効果に疑問がある手段ではあるが、そんなちぐはぐさが、なんとなく彼女らしいという気もする。
「大丈夫ですか!?」
掴まれている感触がなくなった直後、はるみが転倒した美術部の二人に駆け寄るのに、遼は一瞬息を詰まらせ、そう、自分もぼうっとしている場合ではないと彼女の後に続いた。
「誰よここに、“いきいきオレンジ”置きっぱなしにしたのはぁ!?」
転倒原因であるペットボトルを拾い上げたはるみは、それを部室じゅうに見えるように掲げて眉を吊り上げた。
「ご、ごめん神崎……」
遼はうなだれ、美術部の助っ人の背中を擦り、申し訳なさそうにそう言った。
「平田くん、徳永が効果音まとめたって言ってるよ。どーする?」
部長の福岡は切り揃えた前髪をいじりながら、平田にそう尋ねた。
「MP3になってる?」
「わざわざMDに落とさないっしょー」
「そりゃそーだ。ノートは?」
「出したの? 見てないよぉ!?」
平田はポケットに突っ込んでいたタオルを取り出し、それで顔を拭いた。
「部長!!」
二年生の針越(はりこし)という女生徒から声をかけられた福岡は、「うっーし!!」と気合いを入れ、そちらに向かって歩いて行った。
現在の演劇部部長は、あの丸く愛嬌のある顔で、遠慮のない性格の福岡章江(ふくおか
あきえ)であるが、平田にとって“部長”と言えば、やはりどうしても乃口文(のぐち
あや)のことが思い出される。
「脚本と演出に興味があるの?」
「ええ……まぁ……なんと言いますか……シンベリンの翻案作業ですっかりハマってしまいまして……」
「そうよねぇ……平田くんはマメだし、観察力があるから……向いてるわよねぇ……わたしもしょっちゅう助けられたもの」
乃口前部長とそんな言葉を交わしたのは、先月初旬のこの部室である。卒業式を控え、たまたま学校を訪れた彼女はここに現れ、だが練習も終わってからしばらくしていたため、いたのは自分と福岡だけだった。
ああまでもおっとりとして、困ったり悩んだりすることはあっても、悪意を人に向けない乃口という上級生のことを、平田浩二は結局理解しきれなかったような気がする。自分は男ということもあるが、あんなにも人当たりよく、例えば島守遼の件にしても、彼の成長を見守って育てるようなことはできない。もっとも、その点については乃口も、「平田くんが厳しいから、わたしも楽できてるんだよなぁ」と言っていたので、人にはそれぞれの役割というものがあるのもわかる。
「ハリー・コッシー!! あ・ん・たのミスっしょー!! もう一度やり直しー!!」
「えっええー!?」
後輩の女子を怒鳴りつける福岡は徹底的に人の悪い笑みを浮かべていて、その後輩も困りながらもどこか楽しそうである。乃口色から福岡色へ、部のムードもこれで変わっていくのだろう。果たして自分はそれにどのようなトーンを加えることができるのだろう。少しだけ生じた間で平田がそんなことを考えていると、2年C組の本沢という小太りの女生徒が、「あの……」と、小さく声をかけてきた。
「なんだい本沢さん?」
「え、ええ……なんかですね。入部希望って来てるんですけど」
「入部!?」
平田はかけていた眼鏡に手を当て、本沢が促す部室入り口へ振り返った。
「んぁ……鈴木?」
「だね……どーしたんだろ」
遼とはるみも、部室入り口の前に佇む、金色に髪を染め肌は不自然に黒く、厚すぎる化粧で素顔がどうであるのか想像できない同級生、鈴木歩(すずき
あゆみ)の存在に注目した。
「入部希望?」
やってきた平田を見上げた鈴木は、びくっと全身で反応し、すぐに視線を逸らして慌ただしい部室を眺めた。その反応があまりにも不適当であると感じた平田は目を細め、入り口の扉を人差し指の第一間接で叩いた。
「どこの誰だ? 君は!?」
「あ、ああ……えあっと……は、ははぁ……」
どうにも反応が理解できない。なぜこの入部希望者は、やってきた自分ではなく、その背後の部室の様子ばかり気にしているのだろう。入部希望というのは本沢の勘違いで、単に友達に用事でもあるのだろうか。平田は鈴木の態度に困惑し、もう一度扉を叩いた。
「で、なに?」
「あー!! 島守ー!! そして神崎ー!!」
立ち塞がる先輩の陰に見慣れた顔を見つけた鈴木は、まずは笑顔で小さく手を振り、すぐに紫の唇を尖らせ、「こいつ、こいつ」と口を動かしながら目の前の平田の胴体を横から指差し、助けを求めるように描かれた眉を吊り上げた。
なぜ鈴木が部室に来たのだろう。そう言えばあいつは、バレンタインデーに部室から出てきた自分に向かって駆けてきて、すれ違い様にヘルメットにチョコレートを投げ入れてきたことがある。遼はそんなことを思い出し、こちらに意を向け続ける野暮ったい化粧面の彼女にうんざりすると、あくまでも無視するべく素早い挙動で背中を向けた。
「どーしたのよ鈴木!!」
仕方なく入り口までやってきたはるみは平田を見上げ、すぐに鈴木に顎を向けた。
「あー神崎……あのね。“あゆ”ね。劇とかやってみようかなぁってね……どうかなぁ……」
身体をくねらせ、化粧臭さを振りまく鈴木に、平田は堪らず身を引き、はるみの後ろに回った。任されてしまったのだろう。そう判断した彼女は首を傾げ、先輩と同じように少しだけ目を細めた。
「入部したいのね」
「だけどさぁ、なんか忙しそうだけどさぁ。どうなの?」
低く掠れた上にだみ声である。はるみはこの鈴木歩とはこれまでほとんど交流がなく、彼女がどんな理由から入部を希望しているのかはわからなかった。
外見は派手であり、喋りも雰囲気もおよそ真面目には感じられないが、意外なことに勉強の成績はよく、噂によると両親がそちらにだけはかなり厳しいと聞いている。そういった意味では、要領はいいのであろう。いや、そこまでこの同級生を詳しく値踏みする以前に、現在は猫の手でも借りたい状況である。はるみは人差し指を立て、神妙な表情を作った。
「発表会近いもの。だからすぐに役とかは無理よ。秋の学園祭のならともかく……それでもいいんなら、ぜひ入部してほしいな。なんせ、人手不足だから」
はるみの言葉に鈴木は目を輝かせ、野暮ったい化粧顔をくしゃくしゃにした。
「やるやる!! なんか役に立てるんならやらせて!! 演技とかってダメだと思ってたから超ラッキー!!」
手を揉んで再び身をくねらせた彼女から、安物の化粧臭が粉と共に散らばったので、はるみはタオルで顔を抑え呻いてしまった。そんなあからさまな拒絶の態度に気付かず、鈴木歩の視線はじっと一点に向けられていた。
演劇部員だよー!! 島守遼!! キミと同じだよー!!
少女は同級生の背中を見つめ続け、長すぎる睫を何度も上下させていた。
4.
池袋東口繁華街のカラオケボックスの入り口には黄色いロープが張られ、池袋暑の警察官たちが、誰もこのビルに無断での出入りができないよう、鋭い視線で周囲を監視していた。すぐ前の路地にはパトカーが二台と黒いセダンカーが一台停まっていて、物々しい様子に人々は足を止め、何事が起きたのかと注意を向けていた。時刻は夕方四時。曇り空はやがて下界へと零れ落ち、春の雨がアスファルトを濡らし始めていた。
「せまーい!! L.Aのカラオケスタジオにはよく行ったケド、まるでここはドッグハウスね!?」
カラオケボックスの廊下を歩きながら、ダークグレーのスーツにタイトスカート姿の白人、ハリエット・スペンサーが、後ろにつづく女性に向かってそう嘆いた。
見事な金髪だと思う。年齢は二十五歳と言っていたが、スタイルも自分よりずっとよく、同僚で先輩の那須誠一郎(なす
せいいちろう)は、「いや。マジやばいって。CIAもすごいのよこしてきたなぁ」などと言う始末だが、それも少しはわかる。
革のパンツにスニーカー、官の支給した内閣府のマークが入った紺色のジャンパージャケット。そして黒のサングラス。これが内閣特務調査室F資本対策班非常勤捜査官、神崎まりかの勤務時の服装である。本来の職場である財務室に勤める際は、ハリエットのような服装をすることもあるが、ここ最近はスカートを穿いた記憶もない。
「日本はなんでも狭いのよ。家だってお風呂だって」
「一極集中の弊害ねー。よくこんなところで楽しめるわ」
「言いすぎよハリエット。わたしだって高校や大学の頃はよく来たんだから」
その言葉に、ハリエットは足を止めて振り返った。
「まりかはどんな歌が好きナノ!?」
現在二十三歳、大学を出て内閣勤務を本格的にはじめてまだ一年しか経過していないまりかにとって、年齢が近いとは言え、CIAよりFOTの捜査協力で派遣されてきたこのハリエット・スペンサーは格も上である。当初は敬語を使って対応していたが、「ドーカクよドーカク!!
ううん、たった一人でファクトを壊滅したスーパーガール!! まりかの方が、はるかにカクウエかも!! よろしくアイボー!!」と、あまりにフランクな対応を求めてきたため、ここ数日ではすっかり友人に対するような口調になってしまっている。
F資本対策班班長、竹原優(たけはら ゆたか)は、「神崎くん。すまんがスペンサー女史とコンビを組んでくれ」と頼まれ、実戦でしか班の活動に参加していない自分と、CIAの彼女がどうやって行動を共にするのか尋ねてみたところ、「FOTに関する情報がな、急にあちこちから入ってきたんだ。神崎くんにも捜査官として任務について欲しい。まぁ、つまりだ。人手不足っちゅうことだな。それにスペンサー女史は君の特殊な事情もCIAで調査済みとのことだから……まぁそういうこった」などと説明され、なるほど、しばらくは財務室には戻れないのかと覚悟を決め、今日もこの、妙に饐えた臭いのするカラオケボックスへ捜査に訪れている。そんな公務の最中にあまりにも唐突な質問をされたため、まりかは面くらい、指を唇に当てしばらく考えた後、かけていたサングラスを少しだけ下にずらした。
「えっと……宇多田とか……知ってる?」
まりかの問いに、ハリエットは空色の瞳に鈍い光を反射させ、長い金髪をかき上げた。
「知らんこと聞いても意味なかったねー!! ごめんねー!!」
なんとも明るく、屈託がない。テロ対策で国外に派遣されてきたのだからエリートなのだろうが、このハリエットという捜査官からはそうした者が持つ、プライドの高さや近寄りがたい厳しさといった面が微塵も感じられない。尤も、FBIならともかく、CIA捜査官などこれまでに面識はなく、自分の抱くイメージが単に一面的なだけである可能性も高い。まりかは両手を合わせておどけるハリエットに、「仕事、仕事」と促し、苦笑いを浮かべた。
「ここにいたのね?」
あるボックス部屋に案内されたまりかたちは、エプロン姿の若い女性店員から事情を聞いていた。
「ええ……この写真の男……? です……あとは真っ赤な赤毛の女の子と、ボマージャケットの男の子……あとは……アメリカの人かな? 外人の男の人が一人と……子供の……やっぱり男の子……それに……」
「パーマ頭の男?」
「そうそうそう!! そいつです!!」
まりかはハリエットの開いている警察の調書に視線を下ろし、店員の証言と内容が一致しているのを確認し、部屋の中を見渡した。
三代目真実の人。あの白い長髪の青年はそう名乗っていた。七年ほど前、命をかけて戦ったあの男の名を継ぐ者。彼もやはり、真実を追究し、真実そのものになったなどと戯言を口にするのだろうか。
「いなば」で対峙した彼は強烈な個性だった。真っ赤な瞳、白い肌。美しいと形容してもいい整った顔立ちに長い手足。だが服装は先代と同じ黒の上下に臙脂(えんじ)色のワイシャツにネクタイと、似合っているとは言い難い。
その彼が、おそらくは仲間であろう者たちとここで目撃されている。警察から入ったその通報の裏をとるのが今回の仕事だったが、あまりにもありふれたカラオケボックスの一室に、まりかはまだ、ここに彼がいたという事実を受け入れられなかった。
ふと視線を移すと、ハリエットがバッグから布のようなものを取り出し、ソファや床を拭き始めていた。
「なにをしてるの? 遺留物は鑑識さんが根こそぎしたあとよ」
「エエ。けど、もし手がかりになればと思って……」
あまりに熱心に拭き取り作業をしているため、まりかはその作業を彼女に任せ、店員に向き直った。
「一応……その際のリクエストを見せてもらえるかな?」
「は、はいこれです」
プリントアウトされたリクエスト一覧を見たまりかは、前半のほとんどがデュエット曲であることに小さく息を吐き、「わっかんないなぁ……」とつぶやいた。
なぜこのような、目撃されるような場所で密談をしていたのだろう。店によっては、防犯のため監視カメラを取り付けているところもある。今回の三代目はなにを考えているのだろうと彼女は疑問を抱き、それにしてもこの捜査手法では、彼に近づくのは容易ではないだろうと覚悟していた。
あまりにも急に、そう、あの「いなば」での惨事以来、三代目真実の人の目撃情報が様々な機関より対策班に寄せられ、口の悪い柴田捜査官などは、「内緒にしてとっておいたネタ、ぜーんぶこっちに投げてきやがった」などとぼやき、同僚である森村主任も否定はしていなかった。
そうなのだろう。もと外務大臣ルートの出撃要請で、ああまでも簡単にFOTの首魁と遭遇するなど、つまりは彼もこの国の中枢とすでに繋がっていたということになる。
その前の出撃はクリスマス・イブの晴海埠頭であるが、あの際に壊滅させた敵は組織の中枢メンバーであり、だからこそ戦いは終わったと言ってもいいと、関係各部署の態度はそんな印象であり、その際に受けた毒の治療のため何週間か入院したものの、退院したあとは財務室勤務に戻されてしまった経緯がある。しかしこうなると、あの十二名の熱核反応も、果たして何者だったか疑わしい。全ての情報は他者が握っていて、自分はそれにしたがって任務を遂行するだけである。だが、疑うという行為を忘れてしまうほど、この国の政府機関を信用はしていないまりかである。
全ての戦いが終わったと信じたあの爆発の、鹿妻新島の爆発の、だがそれからが次の戦いだと思い知らされたのが七年ほど前のことである。争いはもっと根深く、闇の中にその主舞台を移し、複雑な迷宮は力を分断する。これはその延長なのだろう。友人を殺され、仲間を失い、生き延び、そこから始まった“わかり辛い戦い”の続きなのだろう。
苦手だ……だって……いまのわたしには……目も……耳も……足もない……
神崎まりかは腕を組み、ボックスの壁に背中を付け、舌を打った。
パトカーが停まる繁華街の角に、その少年は大きなヘッドフォンをつけたまま佇んでいた。
ジーンズにスニーカー、ダウンジャケット姿の彼は肩まで伸ばした髪を茶色に染め、この池袋東口においてはそれほど目立つ存在ではない。
檎堂はん……これで最後や……検討頼むわ……
遠く離れた場所で待機しているはずの男に向かって、少年は意識を集中した。
花枝幹弥(はなえだ
みきや)。賢人同盟のエージェントであり、中佐とハルプマン作戦本部長の命により、彼が相方の檎堂猛(ごどう
たけし)とこの東京にやってきたのは昨年末のことだった。以来、花枝は与えられた任務であるリューティガー真錠の監視と、F資本対策班、民声党一部議員、そしてFOTなど各組織に対する情報収集を行い、その全てを檎堂に伝えている。
遠くの、隠蔽された場所であっても意識を向けることによって、その音情報を正確に感知する盗聴能力、そして意識内の情報を、場所を把握している他者に触れることなく送ることが出来る送信専用のテレパシー能力、この二つの“異なる力”が花枝幹弥が今回の任務に選ばれた理由である。
まだ若く、リューティガーと同年代という点もよかったのだろう。おかげで現在は2年B組に在籍し、椿梢(つばき
こずえ)という少女に想いを寄せるような日常生活も楽しんでいる。たまに危険に遭遇することもあるが、上位者である檎堂の方針は、「逃げろ」なので深刻な事態になること少なく、とにかくこうして聞き耳を立て続けていれば、当面の目的は達成される。
だが、それが何になるのだろう。FOTを中心とした、この国を取り巻く状況は確実に変化している。リューティガーに叛意があり、それ故の監視ではあるが、現在のところ彼が兄と接触している様子もなく、結託しているとはとても思えない。
自分は賢人同盟のエージェントである。この奇妙な力を金で買われ、幼いころから組織によって養われたスペシャリストである。今のリューティガーには情報収集能力という重要な駒が欠如している、であれば自分が協力を申し出て、共に裏切り者であるアルフリートを倒すべきではないだろうか。
盗聴を重ねた結果、奴は民声党議員を利用して作ったパイプにより、核弾頭をロシア南軍より購入したと結論付けられる。この国に対してか、それとも別の国に向けてか。ともかく核を所有するということは、それを恫喝の道具に使うことは間違いない。そんなテロリストを放置するのは同盟の利益に反するし、一刻も早く捕獲か抹殺の必要がある。花枝に正義感という普遍性は少なかったが、幼いころから叩き込まれた同盟エージェントとしての心構えは完璧に備わっていた。
携帯電話にメールが入ったことに気付いた花枝は、その文面に小さく驚き、ヘッドフォンを耳から外した。
「すぐに食事とは珍しいな。どないした?」
池袋駅地下街の回転寿司のカウンターに花枝と、背中を丸め、黒いハイネックのセーターを着た髭面の男が並んで座っていた。髭面の男、檎堂は丸い目を隣の花枝に向け、「ここは期待できねぇぞ」と味に釘を刺しておいた。質問の返事ではなかったため、花枝は乱暴な挙動でイクラの皿を取り、すぐに載っていたものに醤油を付け、それを口に入れた。
「新しい巡回リストを持ってきた……」
檎堂は隣の椅子に置いていた鞄からファイルを取り出し、それを花枝に渡した。
「追加場所でもできたか?」
「ああいくつかな」
「なぁ檎堂はん……しつこいようやけど……」
「またそれか……」
低い声で檎堂はそういうと、穴子の皿を目の前のベルトから取り上げた。
「せやけどな、元麻布のアレは、ほんま音だけでも気が変になる地獄やったんや。あないなことするアルフリートは止めなあかん。ルディに叛意なんてあらへん。あれはただの意気地なしなだけや。そろそろ合流した方がええと思う」
怒鳴られるのを覚悟で、彼は髭面の男に小声で訴えた。すると男はぎょろりとした目で花枝を睨みつけた。
「いずれそうする……だが早い……まだ時期じゃねぇ……」
意外な相方の言葉に、花枝は思わずまずい軍艦巻きの、ねっとりとした食感を忘れた。
「ほ、ほんまか?」
「ああ……本部の状況も幾分変化している……俺たちも身の振り方を考えることになるかも知れねえってことだ」
盗み聞きをするだけの任務にうんざりしていた花枝にとって、檎堂の言葉は朗報に近かった。しかしそもそもなぜこのように不自然な立場でい続けなければならないのか、彼にはそれが理解できておらず、また情報も与えられていなかったため、檎堂の考えで全てが決まってしまうという根本的なこの状況がどうしても不満だった。そんな苛々をどうにかしたいため、彼は目の前でゆっくりと回る皿を次々と手元に運んだ。
息子ほど年の離れている彼はまだ若い。学校に潜入して味方を監視する任務など、やはり気の焦りは頂点に達しようとしているのだろう。檎堂は穴子寿司を頬張りながら、それはそれで仕方がないことだろうと、この作戦状況と固すぎる穴子の食感を同時に受け入れていた。
ライトアップされたホーエンザルツブルク城は、麓の広場から見ればなかなかの景観ではあるが、それを模し、森の中に隠れるように建っているこの城の廊下からは、薄ぼんやりとした灯りが見えるだけであり、なんとなく不気味にも思える。
カーチス・ガイガーは赤い絨毯の敷かれた廊下を歩き、階段を下って城の地下へとむかった。
真実の人と六本木のホテルで対峙した際、彼の異なる力によって“取り寄せられ”てしまった右腕は手術により接合され、現在では射撃訓練をできるほどリハビリも進んでいる。迷彩ランニングに同じパターンのパンツ、ブーツ姿の彼は右腕を擦り、筋肉の張りがかなり取り戻されている感触に口の端を吊り上げ、“Bio
room”とプレートに書かれた部屋に入った。
その部屋は壁も床も明るく清潔な色であり、ベッドがいくつも並ぶ病室だった。だが入院患者は誰もおらず、ガイガーは背筋をぴんと張ったまま、ただ一直線に部屋の奥へと向かった。
「よう……健太郎さん……久しぶりだな……」
部屋の奥で膝を抱える青黒い肌をした、ほとんど骨と皮だけの痩せこけた異形の者に、ガイガーは笑みを向け、手で挨拶をした。
「毒が塗られていたようだ……痺れもあってな……」
赤い目に蛍光灯の光を漂わせ、健太郎は自分を見下ろすガイガーに低く掠れた声でそう言った。
「もう平気なのか?」
「ああ……回復はな……俺たち改造された生体は、機械のように治せるそうだからな……」
「なら……すぐにでも東京へ?」
ガイガーの言葉に、健太郎は静かに首を横に降った。
「いや……俺のような……薬だけでもっている生き残りはレアケースだからな……技術者どもがデータをまだ取りたいらしい……更に改良を加えるなどと言っていた……」
「そうか……」
機械のように治せ、データを採取し改良を加える。同盟はこの健太郎を人間とは認識していない。しかし赤い瞳には知性の光が宿っている。その言葉には静けさと深い闇が漂っている。作戦を一度だけ共にした間柄ではあったが、ガイガーはこの異形の半人に対し、戦士として一定以上の敬意を抱いていた。彼は腰に手を当て、この部屋に漂う臭いが、自分の入院させられていた病室とは異質である事実に眉を顰めた。
「ガイガー殿は……どうなのだ?」
「ん? ああ……まだリハビリ中だ……あと一ヵ月もすれば、完全に復帰できると思うが……」
言いながらも頬が引き攣り、太い眉毛が動いたのを健太郎は見逃さなかった。そう、この男はもともとリューティガーの傭兵時代の先輩である。来日したわずかな期間であるが、彼があの栗色の髪をした若き指揮官に対してよき先輩であり、よき部下であることは承知している。このような森の城にいるよりは、すぐにでも手助けに向かいたいのであろう。
それは自分にしても同様である。あのとき、閉店していたコンビニエンスストアの中でリューティガーは呆けているようであり、とても作戦中の指揮官ではなかった。獣人からの襲撃は身を挺して守ることができたが、あれから彼は元気を取り戻しているのか、それが健太郎には心配だった。
俺が……人の……心配……か……
変わったものである。全てを失い、滅んでいてもおかしくない自分であった。命令に従うことはあっても、他人の心配など二度とすることはないと思っていた。
「お互いこんな城、早く出て行きたいものだな」
「そうだな……」
差異のない気持ちなのだろう。見かけはまったく異なるが、あの少年の力になりたいという想いは同じなのだろう。白人の元傭兵と、半人の怪物はそれを確認するように笑みを向け合った。
「本部もいくつかきな臭い動きがある……」
健太郎の隣に腰を下ろしたガイガーは、病室であるのもお構いなしに葉巻に火をつけた。
「ここでまともな臭いが嗅げるとは思わんがな……」
「そりゃそうだが……中佐がな……どうやらFOTの壊滅に本気じゃあない」
そのガイガーの言葉は、情報収集を担当し、越権を主に煽っていた健太郎にしてみれば、当然感じている事実である。しかし彼は黙ったまま、膝を強く抱きかかえた。
「真実の人は核弾頭を手に入れた……どうやらな、ここまでは中佐にとっても想定の範囲内らしい。まぁ……購入をわざと妨害しなかったフシもある」
ロシア軍との交渉は、品川で襲撃をしたこともある。もちろんそれは独自判断による越権行動であり、同盟からは後に事実を追う形で情報が入ってきた経緯もある。さて、この茶番はどんな筋書きで進められるのだろう。健太郎は白い牙を見せ、核心を口にしてみた。
「ガイガー殿……真実の人は……核をどこに放つと思う?」
だが、カーチス・ガイガーはその問いに答えることが出来ず、ただ苦笑いを浮かべたまま煙を吐き出すしかなかった。
5.
そのマンションの最上階に位置する七階の十三号室には、珍しく表札があり、それには“かすが”と書かれていた。
郵便物もなく、来訪者も滅多にない以上、この部屋に自分がいると主張をする必要は特になく、また、そうした常識的な心配をする住人も僅かなのが、多摩川近くにひっそりと建つこのマンションの現実である。“かすが”と名乗る彼も一般人から見れば包帯を身体中に巻き、腐ったような体臭の持ち主だったから、とてもまともな外見ではないが、その内面は非常に律儀で礼儀正しく、食料や日用品の配達がある度、担当者に次の日程を確認したりねぎらいの言葉をかけてきたり、外の様子を興味深そうに尋ねてきたりと、まともな一般人としての振る舞いをし、彼らを驚かせている。
よくも七年間このようなマンションに幽閉され、正気を保ち続けているものである。あれは生まれついてのものだろう。かすがの平常心は容易には壊れない。だとすれば、隠密行動を要求される工作員として、彼は理想的な個性の持ち主なのではないだろうか。食料や物資配達担当であり、FOTの一員であるジョーディ・フォアマンはそんな感想を真実の人に一度だけ告げたことがあった。
「サロナ君。今日はお肉を焼いてみたよ。サロナ君は生肉の方が好きだって言ってたけど、焼いたおかげで香りもいいし、ばい菌だってない。玉ネギと一緒に焼いたから、とっても柔らかいし味もなかなかなんだよ」
顔、腕といった、本来なら肌が露出している部分は全て包帯が巻かれていて、頭部の隙間からは黒い頭髪が少しだけはみ出していた。作業ズボンにワイシャツ姿の彼が、“かすが”であり、正座してステーキを載せた皿を手にしていたかすがの前で、布団に横になっていたのは、熊や獅子のような猛獣の顔をした“獣人”である。
その獣人は他の者とは異なりひどくやつれ、頬はこけ、体躯も比較的小柄でなによりも厚みというものがなく、体毛もくたびれた灰色であった。焼けた肉の香りを吸い込んだ彼はすぐに咳き込んでしまい、かすがは慌てて皿を畳に置き、サロナ君と呼ぶ獣人の肩を抱き、背中を擦った。
「だ、大丈夫かいサロナ君!! に、匂いがきつかったかい!?」
「い、いえ……かすが様……つ、つい咳き込んだ……だけでございます」
掠れ切り、濁ったその声は聞き取り辛かったが、かすがはその意味を理解し、「苦しくないかい?」と、尋ねた。するとサロナは肩をすぼめ、息を吸い込むと大きく咳をし、口を押さえた彼の右手は真っ赤に染まった。
「サ、サロナ君!!」
吐血した獣人にかすがは慌てふためき、彼の肩を握っていた手の力を思わず強めた。
「わ、私は……も、もう……だめです……」
「なにを言ってるんだサロナ君!! ここまで生き延びてきたんじゃないか。弱気になったらだめだよ!!」
「ド、ドクターも言ってました……我々ソロモンタイプの獣人は……拒絶反応を起こす者が多く……長く生きることはできないと……私はファクトでもかなりの初期に改造された身……」
「それは知っている。だけど長生きして元気な例だってあるし、ヒラムタイプに再改造を受ければ……」
再改造。そうした大手術を行う権利が自分たち残党にないことを、一番よく理解しているのはかすが本人である。彼は言った後奥歯を噛み、顎を強く引いた。
そこに、突風と共に白い長髪を揺らし、一人の青年が姿を現した。
「あ、あなたは!?」
背を伸ばそうとしたかすがに対し、青年は掌を突き出し、「そのままでいい」と告げた。
「私は三代目真実の人……七年ぶりだな、かすが……それに、獣人367号」
「な、何用でこのような場所に?」
問われた真実の人は左目を閉ざし、不敵な笑みを浮かべた。
「任務だ。私の抹殺に同盟本部から派遣された、リューティガー真錠……弟を抹殺しろ。成功すれば望みを叶えてやる」
「で、ではサロナ君……367号のヒラムタイプへの再改造を!! やはり獣人は人の手がなければ健康を維持できません。それが自然の摂理に反した彼らの定め……何卒ご配慮を!!」
「無論応じよう」
「で、では早速計画を立てます!!」
ジョーディーが以前言っていたように、なるほど律儀で常識的な工作員である。真実の人は彼の印象をそう受け、肩の力を抜いた。
「車を用意してある……玄関のポストに弟のデータも入れておいた。目を通しておけ」
真実の人はスーツのポケットから車のキーを取り出し、それをかすがに向かって放り、小さく咳を続ける獣人を赤い瞳で見下ろした。
「367号はひどいのか?」
「は、はい……ここのところ拒絶反応の兆候が出始めてて、すっかりこの通りです」
口を開け、何かを言おうとした青年は、だがそれを止め、「では」と言い残してその場から姿を消した。
なんというタイミングであろう。これでサロナは健康を取り戻すことができる。そう思ったかすがはキーを拾って立ち上がり、押し入れの襖を開けた。
拳銃、小型スピーカー、長い格闘用の棒、そして青いユニフォームと帽子。七年ほど前、この国に恐怖と混乱をもたらしたファクト騒乱の際、彼が身につけていた装備一式である。それを手に取ったかすがは、咳き込み続けるサロナへ振り返り、「サロナ君……君も来るんだ……久しぶりの任務……僕の成功を近くから見守っておくれ」と低く小さな声でいい、彼の僕であるサロナも咳を堪えながら、「か、かしこまりました」と応じた。
薄暗いマンションの廊下に出現した真実の人は、角部屋である709号室の扉を見つめた。
この部屋にいた兄妹、その兄であるマサヨは弟との戦いに敗れ、妹のアジュアは一人残されたと報告を受けている。しかし任務はあくまでも二人セットで命じているため、アジュアにはまだここを出て一人戦うことが許されている。
さて、あの十歳にも満たない、兄の陰で怯えるだけの少女は果たしてどうしているだろう。青年に弟のような透視能力はないため、彼は扉越しにその気配を知覚しようと意を向けた。
すると、内側から扉がかすかに震動した。そうか。まだいるのか。まだ兄を待っているのか。それとも出て行く勇気がないのだろうか。真実の人は両目を開け、再び空間へ跳び、突風に埃が舞い散った。
その日の夜。真実の人は蒲田駅前のとある居酒屋のカウンターで、仲間の「夢の長助」こと、藍田長助(あいだ
ちょうすけ)と冷酒のグラスを傾けあっていた。
「この店で呑むのだってやばい。こないだ行ったカラオケ店もF対に捜査されたらしい」
長助の言葉に真実の人は頷き、「それは大変だ」と抑揚のない声で返した。
「あのな。お前はすぐに逃げられるからいいが、俺はそうもいかないんだ。だから合流場所をもうちょっと配慮してくれ」
「お前だって得意の催眠術があるじゃんか」
「緊張してる公僕に、咄嗟に仕掛けられるわけないだろ? なんでもありの“異なる力”とは違うんだ」
焼き鳥を思い切り頬張った長助はもじゃもじゃのパーマ頭を揺らし、その豊かな左右の動きに青年は噴き出してしまった。
「じゃ、じゃーさ。前にやったアレはどーだい? 連続取り寄せ脱出技?」
「馬鹿野郎!! あれだけはダメだ!! お前は面白いだろうけど、こっちは机に背中はぶつけるわ、膝は椅子に打つわで痛いだけなんだぜ!!
大体派手にやり過ぎなんだ。だから連中だって情報をF対に流す」
「仕方ないだろ。カッとなっちまったんだから、それに幸村はもっと早めに始末しておいてもよかったんだ。あいつは盗聴され過ぎだ」
「まーな。そりゃそうだが……そうそう、同盟のアーロンがまたまた動き出したらしいぜ」
「中佐が? 今度は何を?」
冷酒のおかわりを店員に注文した長助は、ワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、それを咥えてマッチで火をつけた。
「核をどこに向けて使うのか、その内偵にやっきになってるらしい。盗聴専門のエージェントをすでに送り込んでいるらしいが……あのライフェをK.O.したやつのことだろうな。まぁ、とにかくざわざわと動き出したらしいぜ」
「あぁ……手は打ってあるだろ?」
「もちろん。中国向けってネタはそろそろ浸透するだろうな。そうなりゃアーロンはまだまだ自分の掌でお前さんが踊ってるって信じるこったろう。バルチの獣人部隊がいい伏線になってきている」
やってきた冷酒のボトルを人差し指で叩いた真実の人は、形のいい眉を少しだけ吊り上げた。
「それとさ、紅西社(こうせいしゃ)の件は順調らしい。遅くとも春のうちには実権を掌握できるらしい」
「ああ。こないだ慧娜(ヒュイナ)と会ったよ。元気そうっていうか……まぁ、元気過ぎだな。ありゃ」
呆れ顔になった真実の人は冷酒をひと呑みし、長助から漂ってきた煙を手で払った。
「一気に……動くかね……」
「さーて……それよりさ……聞いたか長助? ライフェの件は」
「いや……入学したんだろ仁愛に、はばたきとも会ってねぇし……どうなんだあのお姫様の女学生ぶりは?」
「なんとさ、入学二日目にしていきなり先輩からコクられたらしいぜ!!」
真実の人の言葉に長助は煙を吸い込んでしまい、激しく咳をした。
「マ、マジ!?」
「マジマジ、ライフェの奴、すっげぇ驚いてたし、はばたきがこれまたあからさまに不機嫌でやんの。笑った笑った!!」
「い、いや、そりゃ、確かに笑える……」
咳を続けながらも表情を崩す長助に、真実の人はひどく冷淡な笑みを浮かべ、「さっきさ、かすがに仕事を依頼してきた」と、小さくつぶやいた。すると長助の顔から笑みが消え、彼は眉を顰めて灰皿に煙草を押し付けた。
「まだ続けるのかよ……」
「ああ。残党はまだまだいるからね。再利用は続けるさ」
「けどよ。今の弟さんじゃ、お前を倒すことはできない……そう言ったばっかりじゃねーかよ」
「ああそうさ……けどね……まだだよ……」
「あ?」
なにが“まだ”なのだろう。長助は新しい煙草に火をつけ、真実の人に疑念の瞳を向けた。
「まだルディは勝ち負けを経験し足りない。戦場での勝ち負けなんて浅い……もっと深く重い勝ち負けだ」
青年はゆっくりと、落ち着いた様子でそう言った。なぜだろう。弟のことを語る際の彼からは優しさすら感じるのに、暗殺の命令を止めることはないのだろう。なぜだろう。まさか鍛えて、育てるためなどではないだろう。だとすれば。そう、継がせるつもりなのだろうか。一人の着想や行動力だけで、例えそれが距離という概念をゼロにする超能力の持ち主であっても、これほど大きな計画を完遂できるかは微妙である。志半ばにして誰かに倒されることがあるかもしれない。
長助に真実の人の本音はわからなかったが、これまでの数年間彼と行動を共にし、もっとも近くで観察を続けてきた身とすれば、なんとなくだがその考えを予測はできる。
しかし、それが当たっているならば哀しいと思う。特に、仲間である自分たちにとって、彼の覚悟は孤独すぎる。夢の長助はグラスの冷酒を一気に呑み、口を拭って真実の人と同じ方向を向いた。
そう。なにがあっても最後は俺がいる。だから殺されるなよ真実の人。若いお前にはいくらだって可能性がある。死に急ぐんじゃねぇぞ。そして、人に死を急がせるなよ。
男はボトルから透明の冷えた酒をグラスに移し、青年の美しい横顔を一瞥した。
6.
2年C組の本沢亜樹が演劇部に入部したのは昨年の秋、文化祭で「金田一子の冒険」をたまたま観て、「自分でもできそう。っていうか面白そう」と感じたためであり、今回の「久虎と三人の子」で、端役の腰元ながら、役をもらえたことが嬉しくて仕方がなく、決して上手いとは評価されないものの、練習に取り組む真面目な姿勢は部員たちからも好感を持って受け入れられていた。
彼女にとって幸運だったのは、蜷河理佳の突然の転校である。それにより本来は二人いた腰元が一人に統合され、出番と台詞もその分増え、これはやる気に見合った結果なのだろうと本沢自身、更に練習に気合いが入っている。だから新入部員の鈴木歩に部についての説明をしていても、早く稽古に入りたくて心を疼かせるばかりだった。
「でね、つまり今日は十三日でしょ。二十日の発表まで一週間を切ってるのよ、鈴木さん。みんな忙しくって、なぜなら裏方のトップだった神崎さんがヒロイン演ることになったから、その分停滞しちゃってるのよ。私や門野さんたちじゃまかない切れてないし、だからね、鈴木さんにはそりゃ、期待してるもの。言っちゃなんだけど、雑用をこなしてくれりゃ、そりゃ助かるって」
なんという早口なのだろう。ジャージ姿の鈴木歩は本沢の言葉を呆然としたまま聞き、小さくコクリと頷いた。
「久虎と三人の子は時代劇なの。舞台は戦国時代。久虎って奥方に先立たれた殿様が、後妻をとるの。でね、後妻の連れ子と娘である姫を結婚させようとするの。けど娘には好き合ってる侍がいて、久虎には内緒で結婚しちゃうのよ。で、その侍が国外追放になっちゃうの。で、残された姫には言い寄る男とかが現れて、ついには侍を追って旅に出ることになるの。元のストーリーはシンベリンっていうシェイクスピアのお芝居なんだけど、上演時間の関係とかあって、かなりアレンジがされてるのよ。どう、わかった?」
鈴木歩は試験の順位も高く、派手な外見の割には秀才として知られている。しかしそれは地道な反復勉強によって獲得した成果であり、本来はあまり物覚えはよくない。机に向かって視覚から情報を仕入れる方法は確立していたものの、耳からはどうにも記憶に馴染んでくれず、だから本沢の念押しにもぎこちなく頷くしかなかった。
しかしそれにしても裏方全般に目を光らせ、その上ほとんど主役とも言える愛姫役を演じる神崎はるみの負担は相当なものなのだろう。クラスでは明るく凛とした人望のある生徒、という程度の認識しかしておらず、前回の学園祭でも端役のメイドを演じていたため、彼女がこうまで部の中で中心的な存在であることを、鈴木は今日で二回目になる部活動であらためて認識した。
「神崎さん!! 衣装届いたから一度見てくれる!?」
「神崎!! 立ち位置変えたいんだけど、後で説明させてくれっか?」
「はるみ!! ちょっと手伝って!! 美部の連中、非力ったらないのよ!!」
とにかく、数分部室にいるだけでも「神崎」「はるみ」の連呼なのである。ジャージの上に桃色の着物を羽織っているところを見ると、どうやら衣装合わせの最中だったようだが、彼女の右手には丸めた台本が、左手には先端の潰れたプラスドライバーが握り締められていた。きっと心の中は様々な役割の神崎はるみがいて、恐ろしいスピードでそれが切り替わっていることなのだろう。
他の部員たちも皆真面目である。鈴木は中学生のころ、好きだった男子が入っているという理由だけで美術部に三ヵ月だけ入部した経験があるが、部に出てみても皆漫画を読むだけであり、たまに何かを描いていると覗き込んでみてもやはりそれは漫画であり、なんといい加減な部活動だろうと呆れて読むと、アニメのキャラクター、それも小さな女の子向けの主人公が触手のようなもので犯されるという内容であり、それを描いていたのが入部動機の男子だったものだから、つまり彼女はひどいショックを受けてしまったというわけである。台本のチェックをする者、協力に来た他の部員と打ち合わせをする者、台詞を暗唱してなにかを確認する者、それぞれが自分にできることを精一杯やっていて、中学の美術部とはまったく違う。
これは正しい部のあり方だ。しかし、だからそれは問題なのだろう。島守遼に対して、「ちょっといいかな。彼女転校したし」などという不純な動機で入部してしまった自分に居場所があるのだろうか。嵐のような部室で、鈴木歩はなんとなく自分が一人ぼっちだと感じていた。
三年の男子であり、入部希望の最初に出くわした眼鏡の男子生徒、あの平田という先輩がどうにも怖い。今日も三度ほどこちらに視線を向けてきたが、鋭く射抜くような目はなにか責めるような色合いを帯びていて、どうにも苦手である。さき程から隣の更衣室へ移動して現在は不在だから、今のうちになにか集中してできる仕事を探してしまおうと、鈴木はふらふらと部室を彷徨った。
「こら島守!! 立ち位置変更って、あんたの都合じゃないこれ」
「け、けどさ……なんかこの場合、やり辛くってさ……」
「けど変でしょ? なんで抱き合ってるのに、あんたが客席にお尻向けなきゃいけないのよ」
「い、いや……まぁ、そうなんだけど……」
「照れてるの? 役者でしょー?」
「わかった……わかったよ神崎、やっぱ取り下げ、予定通り横位置でいいわ」
恋人同士を演じる島守遼と神崎はるみの二人は部室の中でもやりとりが多く、大抵は神崎が遼を叱り、その逆は稀である。しかし叱られている彼はあまり不服そうでもなく、周囲もなんとなくの笑顔でその揉め合いを楽しんでいるようにも見える。つまりあれは「公認」という奴なのだろう。確かに教室でも二人はたまにああした会話をしている。蜷河理佳の退場は正にラッキーではあったが、当然と言えば当然の伏兵がいたものである。鈴木はまだ新しい、固い台本を握り締め、自分に割り込む余地などあるのかと不安になっていた。
すると更衣室の扉が開き、古風な殿様スタイルの男子が現れ、夕暮れで暗くなりかけた部室の空気が引き締まった。あれは平田先輩だろうか。なんともまあ、偉そうな格好がよく似合っている。胴回りがいつもより太く見えるのは、なにか詰め物でもしているのか。とにかくこのままではヤバイ。仕事もせずふらふらしているのがモロバレである。鈴木は焦りを覚えた。
逃げるしかねーじゃん!!
鈴木は、「ごめん!! 予備校の時間だから!!」と言い残し、平田と入れ替わるように更衣室へ駆け込んだ。
「え!? これで全部!?」
部長の福岡の声である。何事かと遼とはるみが注意を向けると、彼女はなにかのリストを手に、小柄な男子生徒に向けって口元をわなわなと歪めていた。
「美部の弓原(ゆみはら)?」
はるみは異変を察知して、着物を羽織ったまま部室の入り口近くでやりとりする二人に向かって行き、遼もそれに続いた。
「どうしたなんです福岡部長?」
「どうもこうもだよー!! 見てよこのリスト……」
福岡から渡されたそれは、美術部に発注したセットのリストだった。ざっと目を通したはるみは、なぜ部長がこうも嘆くのか、その理由をすぐに理解した。
「あー……松の木がない……」
「でしょでしょでしょ!! 追加しようって決めたのに!!」
「ど、どうしました?」
遼の隣を、A組の針越という女生徒が擦り抜け、会話の輪に加わった。
「ハリー!! あなたよね、美部にリスト出したの」
「え、ええ……」
はるみからリストを回された針越はすぐに青ざめ、部長と同じように口元を歪ませてしまった。
「これ……古い方だよ……弓原くん、どーゆーこと!?」
針越に詰め寄られた学生服姿の生徒は、「だ、だってそれしかこっちには来てないよ」と、怯えつつも反論した。
「ねぇねぇ弓原くん今から追加ってできる!? おっきな松の木なんだけど!!」
福岡部長の嘆願に弓原は眉を吊り上げ、ぶるぶるっと首を横に振った。
「た、頼むよ弓原くん!! ねっ!!」
両手を前で組み、お願いをする針越に、だが弓原は尚も首を横に振り、「松の木なんて、板に描くとこまではなんとかできるけど、切り出しとか叩き仕事はもう手一杯だよ!!」と、悲鳴を上げ、扉に背中を付けた。
切り出しと叩き仕事……? つ、つまり大工か……そ、それならば……
弓原の悲鳴は外の廊下まで響き渡り、こっそりと様子を窺っていた高川典之の耳にも届いていた。彼は廊下の角から演劇部室に全神経を集中し、さて、自分にできることは果たしてなんであるのか、それをただひたすらに考えていた。
教室での休み時間も、神崎はるみはじっと台本を読んでいて、携帯電話でしょっちゅう打ち合わせをしている。たぶんそれは部活動関係のやりとりなのだろう。先日の昼休みも屋上に行ってみたところ、彼女は何かの用紙を手に、三年生の男子生徒と話をしていた。最近では帰りがいつも夜になり、さぞかし苦労を重ねているのだろう。
なにか力になれないだろうか。演劇に関しては無知であり、それまで一切の興味がなかった高川にとって、だが大工仕事であればなんとか手伝えるかも知れない。そう思って一歩前に踏み出そうと右足に力を入れてみたが、どうにも前には進んでくれない。
たまたま部室の扉が開いていた日、それとなく部室の前を通りかかった高川は、中にいた女生徒たちの数に面食らい、廊下まで溢れてきた姦しさに圧倒されてしまったことがある。完命流(かんめいりゅう)という古武術に打ち込んできた彼にとって、尊敬できる姉弟子こそいたものの、自分と同世代の女性との付き合いはこれまでほとんどなく、だからこそ女性的な場というものに足を踏み入れるのには抵抗があった。彼は廊下の角を強く握り締めたままぶるぶると震え、目を閉ざし眉間に皺を寄せた。
「た、高川くん……」
背後から声をかけられた高川は、角を掴んだ両手を滑らせながら振り返った。すると巨漢に太鼓腹、坊主頭に太い眉毛、丸い鼻に優しい目をした彼の仲間、岩倉次郎が穏やかな笑みを浮かべて頭を掻いていた。
「ガ、ガンちゃんか……な、なんだ? 今日はミーティングではなかろう」
「う、うん……何してたのかなぁって……演劇部?」
「う、うむ……」
高川は気を取り直して詰襟のホックを直すと、岩倉と向き合った。
「入部……?」
「ま、まっさか!! 俺は完命流だけで手一杯だ……い、いやな……島守が毎日遅くまで大変だと思ってな……」
その言い逃れに、だが岩倉は丸い目を皿のようにし、「そっかぁ!!」と手を叩いた。
「もうすぐ発表会だもんね!! だからこんなに暗いのにまだ部室は賑やかなんだ!! 確かに手伝わないとね!! あ、けど高川くんは完命流で手一杯なのかぁ……」
「い、いや……手伝いぐらいなら……き、期間限定ということなら、できなくはない……なにせ島守が忙し過ぎると、任務にも支障が出かねんからな」
「さ、さすがだよ高川くん!!」
岩倉はそう感激すると、分厚い手で高川のそれを握り締めた。あまりの握力に高川は口元を歪ませ、頬を引き攣らせた。
「な、なにがだ!?」
「僕、全然気付かなかったもの。そーだよね。島守くんは今が一番大変なんだ。仲間の僕たちが手伝わないといけないものね!! さすがは高川くんだよ!!」
無条件に、ひたすら素直にこの巨漢は自分を尊敬してくれる。悪い気はしない。いや、それどころか嬉しい。あまりに嬉しいので岩倉の良さも見つけたくなってしまう。この握力はなにも鍛えていないにしては素晴らしい資質だし、なによりも素直で隠し事をしない人物であるという点が長所と言える。なるほど、これが友達というものなのだろうか。高川典之はこれまでの人生で経験しなかった感覚に驚き、自分より背の高い岩倉を軽く見上げた。
「なーに、男同士で手握ってるの……キショ……」
更衣室から出てきたブレザー姿の鈴木が、廊下の角で友情を暖め合っている二人に気付き、聞こえるようにそう言った。高川と岩倉はすぐに彼女へ注意を向けた。
「す、鈴木か……なぜお前が演劇部から出てきたのだ?」
なんという固い言葉遣いだろう。鈴木は同級生でありながら、高川とはほとんど会話をしたことがなく、それ故に真顔で眉間に皺を寄せる硬骨漢の彼に、ついつい緩い笑みを浮かべてしまった。
「だってぇ……“あゆ”は演劇部員だよ」
気だるく、それでいてどこか偉そうな口調である。高川はこの同級生がなぜこうもだらりとしているのか、どこか病気なのだろうかとそれが疑問だった。
「こ、こんにちは……僕、岩倉次郎」
高川の背後からのっそりと意を向けてきた岩倉に、鈴木は左の人差し指を軽く振り、「ガンちゃんでしょ?」と、返した。
「なんなのあんた達。キショくない?」
「う、うん僕たち……演劇部の手伝いができないかなって思って……」
岩倉の躊躇と淀みのない申し入れに、高川は正直なところ助かったと思い、鈴木の打算もあっという間に作用した。
「助っ人? 君が連れてきたのか?」
眼鏡をかけ直し、猜疑心に富んだ目を平田は鈴木に向けた。
この目だ。これが怖い。あぁ……そっか……パパっぽいんだなこいつ……
鈴木は化粧顔を思いっきり緊張させ、「ええ……はぁ……そうです……高川くんと岩倉くん。どうしても手伝わせてくれって……ねぇそうだよねぇ」と、だみ声で二人促した。
「発表会前に難儀していると聞き……捨て置けんと思ったのです……友人でもある島守遼もいることであるし……他人事とは言えんのです……先輩……」
「演劇はよくわかんないけど、雑用とか力仕事なんかはできると思うんです。お願いします先輩」
高川と岩倉はそれぞれそう頼み、平田は高川の言葉があまりにも時代がかっているので噴き出しそうになったが、それを堪えた。
「なんで高川くんとガンちゃんがいるの?」
着物を羽織り続けていたままのはるみが、見知った二人の意外な登場に驚きながらやってきた。高川は想いの少女がやってきたことに背筋を張り、岩倉はデレっとした笑みを向けた。
「う、うむ……松の木に困っているのであろう……は、はるみさんの危機をな……放ってはおけんと思ってな……」
「け、けど……けどなぁ……」
助っ人は嬉しかったが、剛直な高川に変化に富み柔軟性を要求される演劇部の手伝いができるのだろう。なにやらトラブルの種が増えるだけのような気がした彼女は戸惑ってしまった。
自分に対して口にした手伝い理由が建前であることを、すぐに暴露してしまった。平田は緊張する高川を面白いほどわかりやすい奴だと思い、こいつを弄ってれば皆のストレスも多少は発散されるのではないかと思った。
「いいじゃん。手伝ってもらおうぜ。正直、男手が足りてない……ねぇ平田さん」
いいタイミングで来てくれる。島守遼の口添えに平田は口の端を吊り上げ、「そうだな……いいかな、福岡部長!!」と、部室の隅で下級生徒と話をしている彼女に声をかけた。
「まかせる!! 平田くんにおまかせ!!」
それどころではないのだろう。福岡はこちらに注意を向けることなく、言葉だけを投げ返してきた。
「そういうことだ……高川と……岩倉か? 仕事はいくらにでもある。アテにしてるぞ」
平田の承認に二人は顎を引き、「はい!!」と、元気よく返事をした。この気合いはいい。疲れと慣れと、なによりも忙しさでだれつつあった部の空気が変化する。平田浩二はこの助っ人コンビの登場を幸運と思い、満足そうに頷いた。
「あー……えっとさぁ……その……」
はるみは手にした台本を何度も擦り、ようやく長身の高川を見上げた。
「と、とりあえず……ありがとうね……島守の言う通り……男手が足りないんだ……」
その感謝に、高川は分厚い胸板を思い切り反らせ、その鼓動が高鳴った。
はるみんの感謝……何にも替え難い……はるみんの感謝……!! き、きっくー!!
ジャージの上に羽織った着物がまたよく似合っている……お姫様の役であろうか? あぁ!! 姫であろうな!! はるみん姫だ!! はるみん姫!! はるみん姫!! はるみん姫!!
早速部員の指示をもらい、汗を含んだタオルを回収し出した岩倉とは違い、高川典之は立ち去っていく少女の後姿を見つめたまま、しばらくのぼせ上がっていた。
「鈴木!!」
仲介は終わった。そう判断して部室から出て行こうとする鈴木歩を、平田が呼び止めた。
「な、なんスか……平田先輩……」
「帰るのか?」
「え、ええ……予備校があるんで……」
ほとんど金色に染めた髪、サロンで焼いたのか、真っ黒な肌に蛍光色を多用した野暮ったい化粧。そんな外見から、「予備校」という言葉が出たため平田は軽く驚き、眼鏡をかけ直した。
「そうか……いや……あの二人を連れてきてくれて……助かるよ……ありがとう」
感謝の言葉なのだろう。しかし鈴木歩にとって、それはなにやら違和感がたっぷりの、すぐには受け入れ難い奇妙な気持ちである。
いや、そう、そうなのだろう。単純な感謝なのだろう。自分はいいことをした。役に立った。部室から出て廊下を歩き、階段を下ったころにようやく少女はそう思うに至った。
悪くないって……これは……!!
踊り場の壁を平手でびしゃりと叩き、鈴木歩はようやく訪れた満足感に化粧顔を崩した。
7.
これまでの二千日を超える幽閉生活を考えれば、五日という期間は一瞬である。しかし友人でもある僕の病状が悪化し、その解決方法が提示されている現在の状況からすれば、計画に費やしてしまったこの日数は無限の準備期間にも感じられた。
一刻も早くマンションを飛び出し、用意された車で代々木を目指しても良かった。しかし、急ぐべき事態であるからこそ、慎重さを重ねる必要がある。もとファクト機関の工作員、包帯で肌を覆った残党の一人である「かすが」は、与えられた資料を検討し、病床に就く獣人367号こと「サロナ君」の看病を続け、この四月十六日にようやく玄関の扉を開け、サロナを背負い、地下のガレージまで降りてくるに至った。
黒いライトバンの車体には、小さく“4WD”というロゴのシールが貼られ、キーで後部ハッチを開けたかすがは、まずはサロナをそこから車内に載せた。
「かすが様……わ、わたしは無理です……足を引っ張るだけです……」
後部の荷物スペースに仰向けにされたサロナは、か細く掠れた声で、毛布をかけてくれるかすがにそう言った。
「いや……サロナ君……君がいないと計画は成功しない……爆弾の起爆確認は現場でやらなければいけないんだ……僕はマンションで待機するから、サロナ君に周辺を監視してもらわないと……それぐらいならできるよね」
「も、もちろんですとも……か、かすが様の任務遂行のためなら……この367号……役目は全うさせていただきます……」
「嬉しいよサロナ君。そう。二人で完遂するんだ。そして君は新タイプへの転換手術を受ける……僕は……そうだな……FOTなんて名前になったファクトに参加して、再びこの腐ったゴミ溜めを浄化するために戦う……」
後部ハッチを閉め、かすがは運転席へ向かった。
久しぶりの運転である。帽子を目深に被り、包帯部分ができるだけ外から見えないように気をつけ、かすがはライトバンを駐車場から駆け上がらせ、真夜中の外気を車体で切り裂いた。
腕は落ちていない。サスがかなり固いが、これなら逃走もこなせるだろう。ステアリングを握るかすがは七年以上のブランクが不安だったが、それも払拭されたため、後部で横になるサロナへ意を向けた。
「移動は夜を中心に行う。僕の包帯姿は目立つしね。まずは今夜中に代々木に行き、明日早朝からセッティングを開始。決行予定日は二十日にしようと思う。作戦内容はさっき説明した通り、八階の廊下に小型爆弾を仕掛け、ターゲットが学校から帰ってきたところを赤外線センサで起爆させる。それに失敗した場合は僕が直接仕掛ける。この車は近所の建設予定地に止めておくから、サロナ君はカメラとセンサーをチェックして、ターゲットの帰宅を僕に知らせてくれればいい」
「かしこまりましたかすが様……」
そう言ったあと、サロナは激しく咳き込み、掴んでいた毛布が赤く染まった。
かすがは運転中だったため、いつものようにサロナに駆け寄ることもできず悔しかったが、同時に多摩川を越えてフロントガラスに入った東京の夜景を見て、思わず心を奮わせてしまった。
あの街で七年ほど前、信号機も止められた戒厳令下の首都で、自分は任務に就いていた。それはファクト機関の破壊活動であり、命令は、「壊せ、殺せ、奪え」と、いたってシンプルであった。
七名。三軒。1,150,000円。それがかすが個人の成果である。殺害した七名のうち、三名は警官であり、更に二名はOL。残り二名は幼女である。両手に植えつけられた「刃」で、幼女の頭部を切断した興奮は今でも生々しく肘に、手首に残っている。そして三軒の放火はガソリンを使った結果であり、包帯越しで鈍くなった嗅覚でも木造住宅が勢いよく燃えるきな臭さは感じることが出来た。1,150,000円は、銀行強盗に参加した際であり、この作戦でOLも殺害している。手にした札は大した量ではないと思ったが、後に別の工作員から金額を聞いて驚いた覚えがある。そうか、100万円とは大金の割には意外と重量感に乏しいのものだと苦笑したはずである。
帰ってきた。俺は帰ってきたんだこの首都に……!!
背後で生命を削り込むような吐血を続ける僕への心配もどこかに消え、包帯姿の工作員は腰を浮かせアクセルを踏み込んだ。
ライトバンは丸子橋を走り抜け、首都東京へ到達しようとしていた。
日曜日の朝に学校に来るという経験がほとんどなかった。人気のない下駄箱は、なにやら自分を特別な存在にさせてくれるような気がして悪くない。下穿きに履き替えたらすぐに教室へ直行するのが日常だが、集合場所である生徒ホールへ向かうという、いつもと違う予定もなにやら心地がいい。鈴木歩は、今日はいっそのこと私服で登校してしまおうかと思っていたが、それでは厳格な両親が、「また渋谷に遊びに行くのか!?」と、疑うに決まっていたのでそこだけは譲歩し、ひとまずは真面目に部活動に励んでいるという印象を与えることに成功していた。
友人である杉本香奈とは、最近では疎遠である。そもそも予備校のゼミでたまたま意気投合しただけの存在だったから、もとの無関係に戻っただけだと言えばそれまでだが、地味だった彼女と渋谷デビューをしたころはまだ親しかった。親友だったと思う。けど気付いてみれば、香奈はナンパしてきた大学生と付き合いだし、大学の購買で彼が買ってきたという鞄を見せびらかす無神経さである。マジむかつく。誰のおかげだよまったく。
もちろん永遠の友情など期待はしていなかったが、少しは環境を変えてやった自分に対する感謝という気持ちが欲しかった。なのに香奈は彼氏の自慢ばかりで不愉快だ。だから最近では口も利いていない。あんな奴知るか。いつか捨てられろよ。
香奈と遊んでいた時間が浮いた分、暇になったからつまらなくなった。勉強に打ち込んでもいいが、高校二年生は一生に一回なのである。机に向かう暗黒の時で消費してしまうにはあまりにも惜しい。だから島守遼を意識したし、演劇部というものにも参加してみた。
C組の本沢は、今日はゲネプロだと言っていた。ゲネラルプローベ。なにやら耳慣れない言葉ではあるが、衣装やセット、照明や音楽も本番同様にセッティングした、いわば稽古の最終仕上げである。これが終われば三日後の本番まで、この生徒ホールを使った稽古はない。裏方としての自分の役目は多い。幕の開け閉じ、伝令、不足物の調達、当日のシミュレーションである今日は、未経験の連続になるだろう。気合い入れなきゃ。島守だって見てんだ。神崎に負けられないし。
それにしてもあの巨漢。太鼓腹を揺らして舞台を右に左に駆け回る、あれは確かガンちゃんとかいうC組の男子である。先ほどからあちこちで、「ガンちゃん!!」「岩倉くん!!」と、彼を頼る声が飛びかい、その度にペットボトルやタオル、台本を手にそれは甲斐甲斐しいまでに働いている。負けてなるものか。このままでは裏方の仕事を自分が仲介した助っ人に奪われてしまう。それはちょっとシャレになんない。
鈴木はワイシャツの袖をまくり、舞台へと駆け上がった。
「はい、おしぼり!!」
「ありがとうガンちゃん!! うわぁ暖かい!!」
「電熱ポッドがあったから、ちょっと蒸らしてきたんだ。き、気持ちいいでしょ?」
顔を拭いた本沢は岩倉に笑みを向け、彼は照れくさそうに坊主頭を掻いた。
「さーてと……部長!! メイクしてきますね!!」
「おーう!! もとやん、早く戻ってきてね!!」
「はーい!!」
本沢は岩倉におしぼりを返すと、舞台からホールへと駆け下りていった。
「神崎……出の部分さ……身体の向きだけでも変えていいかな? 低い台詞からだから、ちょっと声が通るか自信ないんだ」
侍の衣装を着た島守遼が、こちらも姫の衣装を着た神崎はるみにそう提案した。
「うん。ここは絡みがないから独自判断でいいと思うよ。そんな違和感ないだろうし……そんな自信ない?」
悪戯っぽく微笑むはるみに、髷頭の遼は、「面目ない」と返した。
「はるみさん!! この松の木、ここでよろしいのかな!?」
セットを抱えてやってきたのはジャージ姿の高川であり、なぜ自分にそんなことを聞くのかとうんざりしつつも、はるみは笑顔を崩さなかった。
「ちょっと左かな……そうそう、そこかな? ね、平田先輩!!」
「ああそこでいい高川。次は石垣を運んできてくれ!!」
「了解であります!!」
高川は命令通り自分が上手くやれていると、神崎はるみに対して自分が有能な裏方であることがアピールできているはずだと満足し、次々とセットの搬入を手伝っていった。
遼は舞台の中央まで行くと、辺りを見渡してなにやら懐かしい感覚に口を尖らせた。
半年前、初舞台もこのホールの舞台だった。あのときの三年生は卒業し、部の空気は人数が減ったのとは反対に騒々しくなったように感じられる。活気があってそれはいいのだが、細かなミスは以前よりずっと増えている。もっともそれは、共演者であり裏方頭であり神崎はるみの負担が重過ぎるのも原因になっているのだろう。高川と岩倉の助っ人はありがたいが、やはり準備や段取りレベルでの細かい行き違いの蓄積が、ゲネプロの舞台にもあちこち表面化していて、中々全員が開幕の体勢に入れないのもそれが原因なのだろうと思う。
ホールの内側ベランダから舞台を照らす照明に一瞬視力を奪われた遼は、たまらず腕で光を遮った。この感覚。そう、半年前にも経験した眩しさである。ゲネプロ当日まで照明の当たる舞台で練習をすることができなかったのが残念であるが、自分自身以前よりかなり芝居というものに対する勘がよくなっているはずである。少ない練習は経験でカバーできるはずだと、彼はセットの位置や歩幅を確かめ、いつ稽古がはじまってもいいように心を構えた。
手で顔を覆ったのは、照明のせいだろうか。あんなに強い光に長時間当てられれば、暑くて仕方がないだろう。汗をかいている可能性もある。そう判断した鈴木は、舞台の隅でガムテープを手にしていた岩倉を捉まえ、おしぼりの位置を聞き出した。
気が利くところを見せておかなければ。おしぼりを手にした少女の目には、舞台で眩しがる侍の姿しかなく、だからこそ横から姿を現した着物姿の本沢にも気がつかなかった。
なぜ視界が左へ流れるのだろう。どうして赤い着物の袖が舞っているのだろう。背後から押しつぶしてくるのは石垣のセットだろうか。あんまり派手に倒れてこなくてよかった。これならセットは壊れないって。にしてもなぜ、自分が転倒? ぶつかった。誰と?
島守はもっと向こうだよ。
本沢と舞台上で衝突した鈴木歩は、石垣のセットを足に引っ掛け、倒れこんできたその下敷きになってしまった。すぐに岩倉が駆けつけ、ベニヤ製のセットを起こしたが、下になっていた鈴木は仰向けになったまま瞬きを繰り返すばかりであり、堪らず彼は、「鈴木さん!!
平気!?」と、叫び、横で蹲っている本沢の肩を抱いた。
「本沢さん!?」
本沢の両肩を抱き起こした岩倉だったが、彼女が悲鳴を上げたため、思わずその手を離してしまった。
「どうした!?」
平田が、福岡が、遼が、はるみが。部員たちをはじめ、美術部の生徒や放送部の生徒たちがアクシデントに注目し、近い者はすぐに駆け寄った。腰元の着物姿である本沢亜樹の小太りな身体が岩倉次郎の膝の上で震え、足首を手で押さえた彼女の表情は苦痛に歪んでいた。
最悪だ。皆困ってるよ。特に平田先輩、福岡部長の表情がすごい。アタシも後頭部、打ったのかな。なんかじんじんする。あ、島守だ。うひゃ……ドン引きしてるよ、あの表情は……皆キショ……なーにびびってんだろ……
仰向けになっていた鈴木歩はぼんやりと状況を確認し、小さくため息を吐いた。
「右足首捻挫だよぉ。うん。それ以上はレントゲンを撮らんとわからんねぇ……いま救急車呼んだから、それで検査だね。うん」
仁愛高校校医、桑重源蔵(くわしげ げんぞう)は、禿頭をぴしゃりと叩き、切り出した岩のような顔には似合わない甲高い声で、福岡部長にそう言った。
「うへぇ……マジで? じゃあ舞台は?」
「無理無理!! 本沢くんの足の骨はヒビが入ってるかも知れないのだよぉ? 絶対無理だよきみぃ!!」
桑重は声を荒らげ、あまりの高音に福岡や、一緒に医務室に来ていた遼と岩倉は顔を顰めた。
「で、先生……鈴木さんの方は?」
岩倉の質問に、桑重は自分の禿頭を撫で回した。
「ああ、あっちゃなんでもない。ただの打ち身だ。それも腫れない程度のな。なーんもない。怪我なんてしとらんよぉ」
ベッドに座っていた鈴木歩は、隣のベッドで苦しそうに呻く本沢を心配そうに見つめていた。
しばらくしてやってきた救急車に本沢亜樹は搬送され、部長の福岡は付き添いとして同乗することになってしまった。校門に残された遼と岩倉、そして鈴木と桑重の四人は、走り去っていく救急車が角を曲がるまで見送った。
「しかし私がいるときで本当によかったよ。初期の手当てが大切だからね」
突然そのようなことを言う桑重に遼と岩倉は頭を下げ、感謝されていると自覚した彼はおそろしく早い歩みで校舎へと戻って行った。
「くそ……どーすんだよ……」
校門を拳の柔らかい部分で叩いた遼は、こうなってしまった結果に悔しさがこみ上げてきた。
ぎりぎりの人数だった。今回の芝居は部員総出の全員出演の芝居であり、腰元という端役とは言え、二人いたのを統合した本沢の役割は小さくない。今さらどのような代役を立てられるのか。それとも平田が脚本を大幅に手直しするのだろうか。いや、どちらにしてもそれでは段取りが変わってしまい、三日後の発表に間に合うわけがない。
そう、部員の絶対数が足りないのである。まだ一年生で入部希望も来ていない。全ては発表会のあとなのである。どうしたものかと遼は途方に暮れ、岩倉はあまり正確に事態を把握していなかったため、首を傾げた。
「ど、どうしたんだい島守くん……本沢さんは大丈夫だよ……骨だって折れてないみたいだし……」
「あ、ああ……まぁ、そうだけど……このままじゃ上演はむずかしいぞ……」
「ど、どうして?」
「腰元は台詞が要所にあるんだ……物語との結びつきは少ないけど、密告をしたり、彼女の聞き違いから大きくなる事件があって、いわゆる“ヨゴレ”系の大切な役なんだ……代役を立てようにも人がいないしね……」
「お、男の役なら僕と高川くんで力になれるかも知れないけど……そっかぁ……無理かぁ……」
岩倉のことだから、一度目を通した台本の台詞は全て覚えているだろう。そういった意味では、彼を代役に立てることも一応はできるが、身長185cm、体重100kgを超える腰元など、それでは舞台をぶち壊しである。
まーてよ……まてよまてよ……
岩倉の陰で小さくなって落ち込んでいる、野暮ったい化粧面が遼の目の端を刺激した。そう、いることはいる。演劇部所属であり、役についていない女生徒がたった一人。入部一週間程度では演技力など期待できないが、台詞と芝居さえ記憶に入っていれば、なんとか形にはなるはずである。閃きが遼の頭脳を活性化させ、彼は岩倉を見上げ、胸を張った。
「ガンちゃん!! 今回の芝居、通し稽古は一度見たよね!!」
「う、うん……台詞のチェックを平田先輩に頼まれたから……台本と照らし合わせて……」
「じゃあ覚えてるよな……腰元の台詞や……芝居……本沢さんがどうしてたか」
「う、うん……みんなのお芝居に注意してたし……もちろん覚えてるよ」
「さすがはガンちゃんだ……」
一体どうしてこんなに元気を取り戻しているのか。鈴木は不思議がり遼に注意を向けてみたが、鋭く切れた目つきが眼前まで近づいていたので驚いてしまった。
「な、なななななによ、島守ぃ!?」
「責任とれ!! 鈴木、今回の件はお前が悪い!!」
「そ、そりゃーそーだけど!! どーすりゃいーんだよー!!」
「お前が代役だ。本沢さんの穴を埋めるんだ。理佳ちゃんの代役を神崎がこなしてるように……裏方はガンちゃんや高川でなんとかなる!!」
いきなりの要請に鈴木歩は戸惑うしかなかった。「神崎がこなしているように」その言葉だけは彼女の自尊心を刺激したが、結局は口元をわなわなと歪ませ、首を振るしかなかった。
「無理だよ!! できるわけがない!!」
「いいや、何とかなるね!!」
遼はそう言い、鈴木の細い手首を掴んだ。
まさか鈴木歩にここまで器用な才能があったとは、舞台の“そで”から腰元姿の彼女が一応の芝居をしている現実に、平田浩二はただ驚いていた。確かに発声や抑揚などひどいものであり、出番がない時点での視線の泳ぎっぷりなどは素人そのものである。しかし、台詞や立ち位置などの段取りに関しては完璧であり、僅か数回の通し稽古を裏方として観ていただけで、ここまで記憶力があるとは思ってもいなかった。勉強の成績がいいという話だったが、それもこの記憶力によるものなのか。
わかるのである。台詞の流れ、立ち位置の変化、照明の切り替わり。何度も反復して勉強した内容のように、次にどうなるかが記憶に刷り込まれているのである。舞台上で鈴木はその事実に驚き、島守遼が「効き目最強のおまじないだ!!
手首を一分間握っててやる……鈴木の記憶力を呼び覚ますおまじないだ!!」などと言っていたが、まさかこんなにも効力があるとは思わなかった。ただ一つ気になるのは、なぜか彼の左手は岩倉次郎と握手をしていたことであり、あれもおまじないの一環なのかと、それだけが不思議だった。
「すっごいよね平田くん。鈴木さんって意外とやる!!」
小声で桜井という女性部員がそう言ってきたため、平田は小さく頷いた。
「伊達にトップクラスの成績じゃないってことか……思ったより勉強熱心なんだな」
「腰元だしさ、もう彼女が代役するしかないよね!!」
「ああ、仕方ないだろうな……福岡さんに報告しとかないとな……」
一応はサマになっている。出番に対して台詞が少ないのが救いなのだろう。懸命に声を絞り出す鈴木歩の芝居に対しながら、いつもの派手な化粧を落とした彼女の顔が、実に地味でおとなしい造形であることが意外であり、おそらくそう見られていることにも気付かないほど、いっぱいいっぱいであるのだろうと、遼はゲネプロを楽しむゆとりすらあった。
本沢が怪我をしたと知ったときには、だがセットの修復で保健室にも行けず、どんな結果になるのかひどく不安だった。それにしても不思議な展開である。これもやはり、島守遼と関係している“なにか”と繋がりがあるのだろうか。彼の傍らで肩を寄せる芝居を続けながら、神崎はるみは奇妙な事態をそう受け入れていた。
8.
島守遼は、「二年生になったって言ってもさ、教室だって同じだし、面子も一緒。川島の不機嫌面まで昨日のまんま。どうってことはないよな」などと言っていたが、いやいやどうして、細かいことから大きなことまで、この一年は変化の連続であった。沢田喜三郎の認識はそうである。
火曜日の放課後、彼はなんとなく学生鞄に教科書やノートをしまいながら、ぼんやりと教室じゅうを見渡してみた。
教室そのものに変化はないが、教壇の側面は以前と違い、川島が何度も蹴っ飛ばすので色が黒く変色している。それに前後二つの扉のうち、前の方は新しくなっている。あれはテロリストの残党が教室ジャックをした際、機動隊がどさくさで壊してしまったせいである。だから前と後ろで表面色が若干異なる。これは大きな変化だ。それにあの事件で、天使のように温厚で皆から好かれていた担任の近持(ちかもち)先生が重傷を負い、半年経ったいまでも入院中である。定年が近いから、もう現場復帰は無理かもしれない。凄い変化だと思う。
面子という点でも凄い。リューティガー真錠の転入を皮切りに、あの可憐で儚げな美少女、蜷河理佳が突然転校してしまい、代わりに花枝幹弥などという口の悪い不良のような男子がその席に座っている。右隣の内藤は毎朝彼に挨拶をしているが、せいぜい「おう」しか返さない奴は、こともあろうに心臓が弱く、それでも健気に精一杯頑張っていると思える椿梢にちょっかいを出している。
そう。人間関係にも大きな変化があった。島守遼と蜷河理佳は舞台上でキスをして以来、公然のカップルとして付き合っていたし、信じられないことだがあののんびりとした戸田義隆(とだ
よしたか)は、クールビューティーと一部の男子生徒たちはもとより、女子生徒からも憧れられている、権藤早紀と付き合っているらしい。いつもつるんでた鈴木歩と杉本香奈は、あからさまに疎遠になっているし、高橋知恵と比留間圭治は政治活動に参加しているらしい。寺西と木村と浜口は相変わらずつるんでいるようで、ここだけは唯一の無風地帯であるが、これからどうなるかわかったものではない。
けど、自分は変わらないのだろう。二学期の最後まで坊主頭にしていたのを伸ばし始めた以外は、なにも変わらないのだろう。第一、変わるつもりもない。沢田喜三郎は鞄を手にしたまま立ち上がり、目の合った同級生にだけ挨拶をすると、軽やかな足取りで教室を出て行った。
そんな友人の退室に気付かないまま、遼は後ろの席の神崎はるみと台本のチェックをし、それに高川と鈴木も加わった。
「あ、明日が発表会だものね。みんながんばってね!!」
女子の中でも一番背が高く、はるみの隣の席に座る合川という女生徒が、邪魔をしては悪いと気を遣い、そそくさと立ち上がった。
「おーう!!」
遼とはるみ、鈴木は台本に視線を向けたまま合川に親指を立て、そんな息の合った行動に、リューティガー真錠は無言のまま自分も席を立ち、不機嫌さを顔に貼り付かせたまま合川に続いて教室を出て行った。
一通りの打ち合わせを終えた2年B組演劇部グループは、そのあと演劇部室に移動し、本番に向けた最終調整ミーティングに出席した。
問題は山積みであり、その全てを今日じゅうに片付けなければならない。物理的な仕事量は必然的に時間との戦いになる。日が沈んでからも演劇部室の電気が消えることはなく、それは同じように発表を控えた吹奏楽部や音楽部にしても同様であり、これらの活動場所が集中する北側校舎の平均温度は、南や中央と比較して遥かに高くなっていた。
「はるみ、編集済みのデータ、デスクトップに置いとくから」
「神崎さん、直した衣装、あとで袖、通しておいてね」
「神崎くん、美部がそろそろ帰りたいって……平田と福岡いないけど……返しちゃっていいものかな?」
報告、確認、了承、神崎はるみのもとには次から次へと同学年や先輩からの要請が舞い込み、それをてきぱきと処理する彼女はまさしく今回の芝居の中心人物である。慣れない針と糸で衣装の綻びを直しながら、鈴木歩はとてもではないが自分に彼女の代わりは務まらないだろうと思い、ただ圧倒されていた。
まだ残っている仕事もある。しかし学園祭のように全校イベントではないため、泊まりがけの作業は許されなかった。終電がもう近いことを確認した平田は部員たちを部室の中央に集め、胸を張った。
「残りは早朝からやる。今日はもうお開きだ。皆よく休んで、明日の本番に備えてくれ!!」
それに対する返事は決して元気いっぱい、という声ではなかったが、気力はじゅうぶん感じられる。平田はそう満足すると部室の扉を開き、少しだけ冷たい廊下の空気を入れた。
終電がなくなるという物理的な事情により、後ろ髪を引かれつつも部員たちは次々と部室から出て行った。しかし神崎はるみはヘッドフォンをしてノートPCに張り付いたままであり、平田はそんな熱心な後輩に呆れ笑いを浮かべた。
「島守!!」
声をかけられた遼は、なんでしょうかと平田に首を傾げた。
「神崎さん駅まで送っていってくれ……あの調子じゃ徹夜しかねんからな……」
「俺がですか?」
「物騒だろ実際……お前は身長もあるし、しっかり彼女を守っていけよ」
確かに平田の言う通り、教室ジャックがあり、つるりん太郎による通り魔事件があった以上、夜道を警戒するのは当然である。ならば高川が適任だ。彼も電車で帰るのだし。そう思い遼は部室を見渡してみたが、そこにはあの偉丈夫の姿はなく、更に背中を叩かれて先輩より促されてしまったため、彼は仕方なくはるみの肩を叩いた。
「え!? なに?」
ヘッドフォンを外しながら、はるみが遼に驚き顔を向けた。
「平田さんがもう上がれって。俺が駅まで送ってくから……もう終電近いだろ」
「あ、う、うん……そっか……そーだね……うん……残りは明日の朝やる……」
「ああ……放課後の発表まで昼休みとかも使えるんだし……今日はこのぐらいにしておこう……」
いつになく遼が穏やかで優しげな口調だったため、はるみはすっかり甘えてしまっていいかと、そう思った途端に自分は相当疲れているなと自覚した。
「いかん、廊下の電気が消えているではないか!? これでは闇夜ではないか!?」
「職員の人が切っちゃったのかな?」
セットの搬入作業を終え、生徒ホールから中央校舎へ戻り、北側校舎へとやってきた高川と岩倉は、辺りが真っ暗になっている事実に愕然とし、とにかく三階へと手探りで階段を駆け上がった。
「ま、まってよ高川くーん!!」
「許せガンちゃん!! はるみんを送っていかねばならんのだ!! 責任感厚い彼女のこと、今も残っているやも知れん!!」
「は、はるみんって誰ぇ!?」
鍛え抜かれた脚力を駆使して高川は三階まで到達し、部室の電気が点いている事実に拳を握り締めた。
「御免!! はるみさんは!?」
部室の扉を乱暴に開けた高川は、中で後片付けをする平田に睨み返された。
「なんだ高川……まだいたのか?」
「セットの搬入をしていたのであります!! 先輩殿、神崎はるみは何処でありますか!?」
「あぁ……彼女ならついさっき、島守と一緒に帰ったよ」
その素っ気無い返事に高川は咆哮を上げ、踵を返した。するとようやく追いついた岩倉の弾力たっぷりの腹が、彼を押し戻した。
「はぁはぁはぁ……高川くん、どーしたんだい?」
「追激戦だ!! 駅へ向かうぞガンちゃん!!」
「わ、わかったよぉ……!!」
わけがわからないが、こうも彼が焦っているということは余程のことなのだろう。岩倉は腹部に痛みを感じながらも、また走ることになるのかと眉を下げた。
「いっつもバイクなんだ」
「まーな。近いけど、坂道考えるとなぁ」
「だよねぇ……どーしてこんな坂の上に建てたんだろ」
たわいない会話をしながら、遼とはるみは暗い夜道を私鉄駅に向かって歩いていた。背丈が、歩幅が違うため、歩くスピードが異なるのは仕方がないが、それにしても遅すぎる。ついつい距離が開いてしまいそうになったため、遼はわざと遅く歩いてみたが、ようやく並んだはるみがちらりとこちらを見上げ、小さく舌を出しているのに気付いたため、なるほど、わざとかと彼は思った。
以前であれば、怒鳴ってさっさと駅に向かっていただろう。だが、今回の芝居における彼女の苦労は、間近で見てよくわかっている。だから、少しぐらい甘えさせてしまってもいいかと思える。「終電って何時?」そう尋ねることで、現実問題としてどこまでゆっくりとした時を過ごせるのか、彼はそれを確認した。
「十二時二十一分の上り……それが最終だよ」
だとすれば、まだ三十分ほど時間はある。遼はついに立ち止まってしまったはるみに振り返り、自分の腰に手を当てた。
駐車場のフェンスに寄りかかった彼女は、口を真っ直ぐに結び、彼をじっと見上げた。四月の夜はまだ肌寒い。風などが吹いてくれば、どうしようもなく辛いかもしれない。けど、だからといって彼に両肩を預けることはできないだろう。それができるのは舞台の上だけだ。けれど、この停止を島守遼は認めてくれる。それだけでも今は満足だった。
「大変だよなぁ神崎……今回はさ」
「うーん……けどさ……せっかくの大役だしね……」
「あ、あのさ……俺の芝居って……今回どうだろう?」
「そうだなぁ……ずっと上手にはなった……」
「そ、そうか?」
「けど……ちょっと物足りなくなったかな。小器用になっちゃったっていうか……」
苦笑いを浮かべたはるみは、何となく後ろに数歩だけ下がり、後ろを振り返った。
そこは線路のガード下の小さなトンネルだった。大型のトラックが通り抜け出来ぬように低く、アーチ状にブロックが積まれた薄暗い空間である。はるみはなんとなく誘導するようにその下までゆっくり歩き、遼も続いた。
「でも、過渡期って奴。島守って才能あると思うよ」
ガード下まで付いてきたからフォローしてくれたのか。遼はそんなつまらないことを考えながら、それにしても自分は一体なにをしているのだろうかと、ふと疑問に思った。
代役……か……理佳ちゃんの代わり……神崎が……
ひどい連想である。遼はガード下の壁面に側頭部を軽くぶつけ、小さく息を吐いた。
そんな両人が佇むガードの先、私鉄駅へと続く線路脇の路地を二人の男子生徒が駆け抜けて行った。
「た、高川くん!! どうするんだい!?」
「この時間であれば電車の本数は少ない!! 全力で走ればまだ間に合うはずだ!! はるみんは俺が送る!! 断じて送る!!」
駅までの緩い坂道を駆け上がりながら、だが高川は目標を通り過ぎてしまっている事実に気付かず、それは遼とはるみにしても同様だった。
「不安だなー、うまくいくかなー……理佳の代わりできっかなぁ……!!」
突然、堰を切ったように少女は自分の気持ちを吐露した。
「い、いや……」
いい言葉など思い浮かばない。だから遼は、ただ素直でいるしかないと感じていた。
「代わりじゃねぇって……これは……神崎はるみの舞台なんだよ……理佳ちゃんは理佳ちゃんだし、お前はお前だ……代わりじゃない……」
励ましてくれているのだろう。目つきも真剣だし、言葉もしっかりしている。なのになぜ、こうも哀しくなるのだろう。神崎はるみはなにか突き放されてしまったかのような寂しさを感じ、だがこれ以上弱気になどなれるものかと首筋に力を込めた。
「そりゃー、そーだ!! うん!!」
笑顔なのだろう。それも引き攣った。けど、今はこれが精一杯である。はるみは小さく、「ありがと」と感謝の言葉を告げた後、駅に向かって歩き始め、遼も再びそれに続いた。
だめだこりゃ……すっかり本気って感じ……やばいくらい真面目……
私鉄のガード外からはるみと遼の後姿を見ていたのは、鈴木歩だった。
はるみは遼に対して本気である。そしてその彼はおそらくは別の誰かに本気であって、それはあの黒髪の美少女だろうと思える。途中参入の自分などがとても割り込めるような関係ではない。ここまで部活動で濃い事になっているとは。鈴木は学生鞄でガード下の壁を思い切り叩いた。
少しは気持ちがすっとしたが、なんともやりきれない。それならばと今度は壁を足の裏で切り込んで見た。だめだ、これは余計だった。踵に痺れが走るだけで、ちっとも気持ちが晴れない。まったくの馬鹿。愚かな負け犬である。ならば吼えるか。いや、この辺は物騒なんだ。さっさとタクシーで家に帰るべきである。
責任は果たす。怪我をさせたのは自分だし、だけど暇じゃない。演劇部になんかいる意味はない。空車のタクシーを止めた彼女はすっかり頬を膨らまし、後部座席のガラスに映ったその顔が化粧も薄くあまりにも地味であるため、慌てて窓を開けた。
あとわずかで終電である。一体神崎はるみはどこに行ったのだろう。遼と先に帰ったというが、タイミングと電車の本数的に、どう考えても自分は追いついているはずである。なのに、上りのホームにはこちらへ疲れた笑みを向ける福岡部長がいるだけであり、改札の外から高川典之は何度も首を傾げていた。
「まてよ……島守はバイク族だったな……」
「そ、そうだよ……いつもバイクで通学してるよ」
隣で呼吸を整える岩倉の言葉に、高川の表情がいっそう険しく変化した。
夜の街をジグザグに走る一台のバイク。それを操るのはノーヘルの島守遼であり、その腰に抱きつき、真っ赤な顔をして風に目を伏せているのは神崎はるみである。そう、想い人の“はるみん”である。そんな光景が高川の脳裏に浮かんだ。
なんという失態。なんというミステイク。しかし今更どうすることもできない高川は拳を握り締め、内股で悶えるばかりであり、その姿はただひたすら不気味である。
「なーにしてんの?」
聞きなれた、ちょっと舌っ足らずな甘えた声である。我に返った高川は、自分を見上げる少女の瞳に仰天し、「はるみん!?」と裏返った甲高い声で叫んだ。
「わたしで最後だよ。平田さんは近所だし。だから高川くんも電車乗った方がいいよ。じゃーね島守。送ってくれてありがと」
定期券を取り出したはるみは急いで階段を上り、二階の改札を目指した。
入り口に取り残された三人の男子学生のうち、二人は何となく視線を宙に泳がせ、一人は何もない空間を凝視し続けていた。
「た、高川さ……お前も下りの終電、出ちまうぜ……急がないと……」
遼に促された高川は凝視を止め、殺気を込めた視線を彼に向けた。
「どーゆーことだ島守!! どこにいたのだ貴様たちは!?」
「あ、ああ……ガード下……ほら、あの理容院の角の……あそこでちょっと話しこんでた……」
「そ、そんな秘密のスポットがあったのか!? お、俺は知らんぞ!!」
「お、俺だって知らないよ!! 平田さんに送っていけって言われたから、それに神崎疲れてたし、だからだよ」
遼と高川がそんな言い合いをしていると、鉄と鉄が擦り合う轟音が彼らの鼓膜を刺激した。どうやら上りの最終電車が到着したようである。
高川は停車した二両編成の電車に振り返り、岩倉と遼もそちらに注意を向けた。すると進行方向車両に乗り込んだはるみと福岡がすぐに窓際までやってきて、男子たちに笑みを向けた。
大きく手を振るその姿は、まるで飼い主に尻尾をふる犬のようである。車内から高川の姿を見た福岡はそう思った。その後ろにいる岩倉は底抜けに善良な笑顔であり、連日遅くまで居残っているこの状況では最良の癒やしである。そして背中を向けたまま、横目でこちらとはるみを見つめる彼、島守遼は最後に小さくVサインを背中越しに見せ、彼らしい照れた態度だと、可愛いとさえ感じられた。
「すっごいのねー神崎さん。三人もボディガード?」
座席に着きそう冷やかす部長に、はるみは「本命は一人なんですけどねー」と、思わず本音を口にし、まあいいやと唇に人差し指を当て、福岡の横に座った。
「じゃな……明日は裏方、頼むぜ……」
電車が五反田方面に向かって発車したのを確認した遼は、岩倉と高川にそう告げ、夜の路地を駆け出して行った。
「た、高川くん……」
「うむ……それでは俺も家路につくとするか……」
いつまでも駅でくすぶっていても仕方がない。高川典之はそう思い、駅の入り口から階段へ上ろうとした。
すると、ノイズのたっぷり乗った構内放送が流れ、高川はそれに足を止めた。
「えー……ただいま入った情報によりますとー御嶽山(おんたけさん)の踏み切りで踏み切り故障が発生しておりして、現在下りの最終電車が石川台にて停車しております。お急ぎのお客様には申しわけございませんが、ダイヤの回復は今しばらくお持ちください」
そのアナウンス内容が衝撃的だったという事実は、階段の途中で硬直した高川の背中を見上げた岩倉にもよくわかった。
下り電車が止まった。このままではいつ帰れるかわからない。仕方がない、ここは走っていくしかないだろうか。疲れるのは覚悟の上だが、ここのところ演劇部の手伝いでトレーニングを削っているから、ちょうどいいかもしれない。だが明日は本番だ。あまり無理もしたくないのが本音ではあるが。
高川が硬直したまま悩んでいると、その背中を分厚い掌が叩いた。
「ガンちゃん……」
「島守くんと話してたんだ。今日は終電間に合わない人が出るんじゃないかって……だからさ……僕も……予備のヘルメットを用意してきたんだけど……」
「は、はぁ……」
それがこの状況とどういった繋がりを持つのだろう。混乱していた高川は岩倉の申し出が理解できず、きょとんとした。
「あー!! そ、そうか!! す、すまぬ!!」
ようやく意図を察した高川は、岩倉に何度も両手を合わせた。持つべきものは友人である。この夜、高川典之は生まれて初めてバイクの後部座席で風を感じ、自分もそろそろ自由になる移動方法を手に入れるべきではないか、そして今日のようなすれ違いの失敗を避けるためにも、憎き携帯電話に降参する勇気も必要ではないかと、そんなことを岩倉の大きな背中の後ろで考えていた。
9.
新入生に対し、部の活動を紹介するのが新入生歓迎発表会の趣旨である。演劇部では芝居を一本丸々発表することが許可されているので、部員たちのあいだでは、「新入生歓迎公演」と通称され、年間を通じて秋の学園祭と並んで注力するイベントとされている。
この行事で部の活動を余すところなくアピールできるのは、演劇部の他に吹奏楽部と音楽部、そしてダンス部のみであり、他の体育会系、文科系部は舞台の上で部活動紹介を数分の時間制限で説明するだけである。セット設営などの都合から、演劇部の発表は最初に行われる予定になっていて、だからこそ二十日の早朝から部員たちが生徒ホールに集合し、間に合っていない調整作業を授業前に終わらせようと懸命だった。
これでも作業がこぼれるようなら各授業間の休み時間にも集合し、とにかく発表の直前まで幕の下ろされた舞台の向こう側は慌ただしく、静寂が訪れるのは授業中だけである。
椿梢は、生徒ホールの隅で体育座りをし、じっと舞台を隔てる幕を見つめていた。生まれつき心臓の悪い彼女は体育の時間を常に見学で過ごし、もっぱら読書をするのが習慣だったから、体操着姿の吉見英理子にとって、友人の一点を見つめる小さな姿は少々意外でもあった。
バレーボールの授業の合間、英理子は梢の側まで手を後ろに組んでやってきて、彼女と同じ方向に視線を向けてみた。
「幕? どーしたの梢? なにがあるのでしょーか?」
芝居がかった言い方は、友人が自分の興味が何に向いているのか気付いているという証しである。梢は笑みを向け、「いよいよ今日だよね」と返した。
「永井さんと紗奈子が音楽部でしょ。内藤くんが吹奏楽部だし……まぁ、なんつっても演劇部よね。神崎さんに島守くん、鈴あゆまでいるんだものね」
「みんな準備で頑張ってたし……成功するといいよね」
梢の言葉は優しさと、わずかながらの寂しさが込められている。そんな気が英理子にはした。本来は普通高校に通うことすら彼女の両親は反対している。だからこそ文科系の部活ですら許されないのが椿梢の背負う事情である。吉見英理子は赤い縁の眼鏡を人差し指で上げ、「だね」と短く、だが力強く応えることしかできなかった。
昼休みはまとまった時間がとれるということもあり、弁当やパンを手にしたまま舞台裏に集まる部員も多かった。平田もサンドイッチを頬張りながらセットの位置確認をし、遼も売店で購入したおにぎりを片手にその作業を手伝い、堪らず「間に合うっスか?」と、尋ねてみた。
「100点ってわけにはいかないが……まぁ、それはいくら時間があっても無理だが……とりあえず発表できるレベルには達していると思う……後は演じるだけだな」
昼休みもそろそろ終わりであり、あとは発表前の準備しか残されていない。だからこそ平田は周囲で作業をする部員たちに安心させるため、わざと大きな声でそう言った。
部の中でも一番厳しい平田の言葉である。二年生はもちろん、三年生も準備がなんとか間に合ったという保証がついたような気がして安堵し、幕で隔てられた舞台の上が、緩やかな空気へ変化した。
ただ一人、今日は髪を本来の黒に戻し、ほとんど化粧もしていないため睫も短く、唇も平べったい地味な顔立ちの鈴木歩だけが、目の焦点も定まらないまま全身を小さく震わせ、舞台の隅で佇んでいた。
それは数時間後、学生服から衣装に着替え、幕の向こうから生徒たちのざわめきが耳に入ってくるようになってからも同様である。腰元の着物を身につけ、メイクも済んでいるという本番間近であるのに、なお度の過ぎる緊張に震えている彼女の横顔を、裏方仕事の手伝いにきていた岩倉が覗き込んだ。
「す、鈴木さん……どうしたんだい?」
心配して尋ねてみた岩倉だったが、鈴木は幕の端を掴んだまま意を向けることなく、遂には歯を鳴らして怯え始めた。
「す、鈴木さん!? 歩ちゃん!? だ、大丈夫かい?」
ともかく心配している自分の存在に気付いてもらわなければ話にならない。岩倉はそう思い、彼女の前に巨体を滑り込ませた。
「ガ、ガンちゃんくん……?」
「か、顔真っ青だよ鈴木さん……どうしたんだい? お腹、痛いの?」
「う、ううん違う……全然……全然なの……」
「“ぜんぜん”って……?」
「台詞とか……お芝居とか……全然思い出せないの……朝までは大丈夫だったのに……」
鈴木の言葉に岩倉は丸い目を見開き、口を手で押さえた。
島守くん……“ガンちゃんフィルタ”使って鈴木さんに丸暗記させたから安心って言ってたけど……だ、だめじゃないか……この子……記憶飛んでるよぉ……!!
“ガンちゃんフィルタ”を用いることで、遼は岩倉の記憶していた通し稽古の内容をすべて鈴木へコピーすることを咄嗟に思いつき、当の岩倉や鈴木がなにをされているのか認識する前に、接触式読心を用いてそれを実行した。
触れただけである。時間にして僅か数分である。それなのに鈴木はすっかり本沢の演じる腰元の台詞はおろか、立ち位置や芝居の段取りまで記憶することができた。フィルタとして、記憶媒体として利用された岩倉にとっては、いつの間になにが起きたのかさっぱりわからず、魔法のような出来事だった。あれをもう一度やるしかない。けど自分にはどうすることもできない。岩倉は鈴木の手首を掴んだ。
「もう一度おまじないだ!! 島守くんにアレ、やってもらうんだ!!」
「あ、あれって二回もやって効果あんのぉ!?」
顔をしかめ、鈴木が鳴きそうな声で訴えた。しかし岩倉は開いた手で太鼓腹をひと叩きし、にっこりと微笑んだ。
「あれは何度でも効く!! 僕が保証する!!」
アンタの保証がなんになる。そう思った鈴木だったが、侍姿の遼が異変に気づいてやってきたため、彼女はとりあえず提案にしたがってみるべきかと、掴まれていない左手を彼に差し出した。
「な、なんの真似だよ鈴木……それにガンちゃん……」
両目を閉ざして赤くなっている鈴木はともかく、同じように片手を差し出してきた岩倉は真剣そのものの眼差しである。「島守くん。こないだのおまじない、もう一度お願いだよ!!
鈴木さん、全部忘れちゃったらしいんだ!!」彼のその言葉に遼は大まかな事情を把握し、両手に腰を当て、ため息をついたあと右手で鈴木の、左手で岩倉の手首を同時に掴み、「ガンちゃんフィルタ作動!!」と、口の中でつぶやき気合いを入れた。
鈴木歩の意識の中は、つい先日“ガンちゃんフィルタ”を通じて覗いたばかりであり、そのフォルダ構造は大体把握していた。前回は、“大事!!大事!!”と記されたフォルダに、岩倉の舞台の記憶を全てコピーしてみたはずである。遼がさっそくそこを開いてみると、だがそこには“久松と三人の子・立ち稽古を見たよ”というファイルはあったため、彼は一瞬混乱してしまった。
い、いや……待てよ……記憶がファイルとして見えるってことは……容量が少なくなってても……認識できちまうってことだ……稽古の記憶ファイルの本体……一番分厚い内容はここにはない……いや……どこにもないってことか……忘れちまったんなら……
すぐにでも岩倉の脳内デスクトップから、まだ容量がまったく減少していなないはずである“久松と三人の子・立ち稽古を見たよ”を呼び出して、鈴木のものに上書きをしてもよかったが、遼は一応、“いい、もうどうでもイイ!!”という彼女のフォルダも覗いてみた。
そこにも、“久松と三人の子・立ち稽古を見たよ”というファイルは存在していた。なるほど、おそらくフォルダ名からして、こちらのファイルが本命の方なのだろう。他にも“昨日チェックしたcm”やら、“昨日のママ”やら、“香奈”などいかにも今の彼女にとって特に思い出したくもないどうでもいいファイルに満ちている。遼はそのファイルを“大事!!大事!!”に移してみた。すると二つの同名ファイルは回転しながらひとつになり、つまり連結というか合体というか、ともかく元に戻ったのだろうと手を離した。
「どーだ鈴木!? おまじないは!?」
遼の言葉に鈴木は思わず両目を開け、数日前の新鮮さを取り戻した舞台の記憶に驚愕した。
「ス、スッゲ……ど、どーして……?」
「お前は成績いいんだから、ビビッたりしなきゃ暗記は得意なはずだろ? きっかけさえありゃ大丈夫だって……やれるよな……」
真剣な表情で念を押してきた彼に、彼女は思わず、「ウッス」と、胸を叩いて応じた。
なんだかよくわからない。けどこないだだって、よくわかんないけどできた。これはきっと恋の魔法なんだろう。やっぱり島守ってすごい。
けど、やはりアタシの出番はもっと遠いのだろう。昨日の夜。見てしまったのである。神崎はるみは間違いなく本気だ。でなければ前の彼女の代わりなんて言葉、自棄でも中々出るものじゃない。それに、遼だってまだ理佳のことをどう思っているかわからない。別れたなんて、勘違いもいいところかも。
「鈴木。なにかあったのか?」
背後から現れた殿様衣装の平田に、鈴木は振り返った。なんて怖い目つきだろう。生徒会の書記ということは知ってるけど、選挙演説のときはもう少しなよっとして頼りない感じだった。演じるってこういうことなのだろうか。
「平気です先輩!! な、なんでもないです!!」
もうすぐ幕が開く。自分の出番はすぐだ。考えんなワタシ。恋のカミサマはそっぽを向いたけど、劇のカミサマが手招きしてるかもしんないんだ。
帯をきゅっと締めなおし、鈴木歩は気合いを入れた。机に向かってさぁ勉強するぞ。そんないつもの感じと同じようにである。
新入生歓迎発表会は学校の公式行事であり、新入生に限らず、在校生全員が観覧を義務づけられたイベントである。2年B組の教室では生徒たちが生徒ホールへ向かうための移動が始まっていた。
だがその中で、栗色の髪をした彼はつまらなそうな表情を浮かべたまま、自分の右隣の空いている机を見下ろしていた。
「どないしたルディ。早よいかんと劇が始まるし」
ズボンのポケットに両手を突っ込んだ花枝が、じっとしたままのリューティガーに声をかけた。彼が注意を向けると花枝の傍らには椿梢と吉見英理子もいて、三人は相手の重たい気持ちを察していないのか、一様に、「どうしたの?」という軽い疑問の目を向けていた。
深刻さが気付かれていないのなら、それはそれでいい。リューティガーは顎を上げ、「僕は……早退します……お芝居は観ません」と、小さな声で告げた。
いつの間にか、岩倉次郎や高川典之まで神崎はるみの舞台を手伝っているという。島守遼が誘ったのだろうか。いや、高川ははるみに惚れているという話である。いやいやいや。違う。そうじゃない。そんな瑣末事を考えている場合じゃないし、考えてしまうから観劇などしたくないのだ。
神崎はるみと島守遼が肩を寄せ合い愛を語る。まさしく茶番劇だ。なぜそんなものを観なければならない。結構。そう、二人は高校生なのだしそれを満喫するための部活動であれば、大いに励んで結構である。けど僕は知らない。それを義務として観るほど仁愛高校の生徒になり切るつもりはない。
リューティガーは学生鞄を手にすると、心配そうに見つめる椿梢を無視したまま、廊下に出て中央校舎へ向かって駆け出した。
誰もいない。皆ホールに移動してしまったのだろう。それはそうだろう。だが僕は違う。任務に向けての準備だってしなければならない。兄の計画は着実に進んでいるはずだ。情報収集のハードルが上がってしまった以上、なにか別の手も考えなければならない。つまり、暇じゃないんだ。
リューティガーは階段付近で意識を集中し、突風と共に校舎から姿を消した。
出現したのは、代々木と新宿のちょうど中間地点にあたる路地裏である。いつもならマンションの廊下か部屋の中に直接跳躍をしているはずであるのに、どうやら場所のイメージングに失敗してしまったようである。なんというミスであろう。これが任務ならば命取りである。それにしてもこの路地はつい最近来た覚えがある。
そうか、先月のある夜、島守遼と二人で歩いた路地なんだ。少年はなにやら情けない気持ちになり、拳の柔らかい部分でブロック塀を叩いた。
内閣特務調査室、F資本対策班の常勤メンバーである那須誠一郎がこの日、すでに暗くなっている生徒ホールの入り口付近で腕を組んで、幕の閉ざされている舞台へ注目しているのは、同僚であり班内最大の戦力である神崎まりかから、妹の様子を見てきてほしいとの頼みがあったからである。
晴海埠頭での襲撃現場に、この高校の演劇部公演を収録したDVDが発見された。その事実はすでに神崎まりかの耳にも入っているが、彼女は一言、「妹は関係ないです。わたし……そういうミスはしてないつもりですから」と、それは険しい表情で言っていた。
いくつか怪しく、だが調査の手が行き届いていない疑問点が存在する。だからこそこの仁愛高校とは距離を置きたくない那須であり、まりかの要請も二つ返事で受けてきた。生で見る演劇部の公演で、なにか手がかりになるような発見はあるのだろうか。青年が緊張して幕を凝視していると、ライトの強い光が照らされるのと同時にそれは左右へ開いた。
「愛姫!! 愛姫はおるか!?」
舞台の中央で、その殿様は胸を張り声を上げ、左右に注意を向けていた。あれが島守遼という男子生徒だろうか。前回は家長役をやっていたはずだが、だとすれば短期間でかなり声の出し方がよくなっている。それとも別人か。那須が舞台上の平田演じる久虎を注視していると、ライトが舞台のそでへ移り、そこに赤い着物姿の姫が現れた。
「へぇ……!!」
那須は思わず感嘆の声を上げてしまった。距離も遠く、ライトが当たっているとは言え、その人相を確認するのは至難の業である。しかし訓練された視力と、なによりも長い付き合いで、彼には舞台上の姫があの、“おちびちゃん”であることは疑いようもなかった。
「何事でございましょうかお父上?」
「うむ喜べ愛姫。このたび伊庭家との和睦が成立してな。ついに戦乱も終結したというわけだ」
「まぁ、お父上。それはめでたいことであります」
声が一番後ろのここまでよく届く。なにより前回のメイド役と比べ、自信というものが全身から感じられる。役柄の重要度が上がっているという事実だけではない。舞台演劇など生で観るのは初めてであるが、那須は少女の凛とした存在感を心地よく受け止め、彼女の姉が喜ぶような報告ができそうだと、それがまずは嬉しかった。
10.
裏方から演出プランに至るまで、「久虎と三人の子」の全てに関わってきたはるみである。ライトの動き、音響のタイミング、共演者たちの芝居。その全てがちょっと先のタイミングまで把握できる。全体の場として、空間として完全に認知できている。つまりこれは冴えているのだろう。
腰元役の鈴木歩は確かによく台詞を覚えているし、ライトの移りや立ち位置の変化もわかってはいる。だがいかんせん初心者である。だから一拍欲しい間合いであっても、彼女は自分のことだけが精一杯で、次の台詞を焦っているのがよくわかる。
はるみは一歩前に出た鈴木を目で制してみた。強い意を感じた鈴木はすぐに口を閉ざし、はるみは意図が成功したのに安堵した。
さっきから、ずうっとこの調子である。遼のおまじないで飛んでしまった記憶は復活したものの、ライトの強い光に目が慣れると、そこには大勢の生徒たちがこちらを注目しているのである。再び“飛んで”しまってもおかしくはない。段取りを間違えてしまっても仕方がない。だがその度に制されるのだ。このクラスメイトの強い支配力に。
これが恋でも同じなら、すっかりアタシって負けてるじゃん。っつーか完敗。無理無理だ。鈴木歩はそんなことを一瞬考え、しかしはるみが次の展開を促しているのに気付き、慌てて息を吸い込んだ。
「はい姫さま。こちらに用意してございます」
「うむ。しかし男の格好というものは、なんとも快適だな。動きやすく、なにより涼しい。これなら馬もじゅうぶん操れそうではないか!!」
男装のはるみは生徒ホール全体に向かって強い意を発した。なんという凛然とした輝きなのだろう。みっともない自分とはまったく違う。足だって去年のプールでみたときよりずっと締まっていて綺麗だし、たぶん幼児体型も随分女らしくなっているのだろう。きっとこいつはずっとこうなのだろう。天性の才能で進化を続けていくのだろう。アタシなんかとは違う。
鈴木はまるで半年前のはるみがそうであったかのように、舞台上で圧倒的な存在感を示すクラスメイトに対し、そんな暗い劣等感を抱いていた。
代々木パレロワイヤル八階。屋上へ通じる屋内階段の暗がりに彼はいた。
第二次世界大戦の独陸軍制服のような、だぶついたこの暗緑色の服装は、七年ほど前に任務で着用していたファクト機関工作員の制服である。昔の将校が身につけるような軍帽を目深に被り、包帯で巻かれたその奥に眼光を輝かせ、工作員“かすが”はイヤフォンからのノイズに聴覚を、周囲の空気に全身の神経を集中させていた。
すでに昨日早朝、この八階廊下の803号室扉付近にある水道パネルの中には、小型のプラスチック爆弾を設置してある。パネルの前にターゲットがいる状態で爆発し、それでもなお怪我で済んでしまった場合は拳銃で止めをさす。これが、かすがの立てた暗殺プランである。
そしてその起爆スイッチと連動しているのが、廊下に取り付けた赤外線センサである。センサーが水道パネルの前に人影を捉えたのと同時に起爆する仕掛けである。オートロックであるこのマンションの廊下を、セールスマンや国勢調査員が自由に歩けるはずもない。そう判断してのセンサ連動式システムではあったが、マンションの管理業者やターゲットの協力者がここを通る可能性もゼロではない。七、八階の全てはターゲットの所有物件という事実が調査によって判明したが、それでも下階の住人がやってこないとは断定できない。だからこそ自分がこうしてセンサの管理をしている。だからこそ僕であるサロナがターゲットの帰宅を外から監視している。
二つの幸運が、ここに至るまでの暗殺準備を成立させていた。
一つは健太郎の不在である。パレロワイヤルを中心とした警戒網はセンサやレーダーによって構築され、その中枢管理を行っていたのは彼であった。警戒システムが運用されていない現在だからこそ、かすがは仕掛けができたし、今こうして身を潜めることができる。
もう一つの幸運は、リューティガーの珍しい徒歩による帰宅である。かすがの鼓膜を、掠れてほとんど聞き取れない呻き声が刺激した。
「か、か、か……かすが……様……ターゲットが……く、栗色の髪が……路地を通過……マンションへ向かって……い、い、移動中……」
吉報である。ついに時が来た。リューティガーの“異なる力”についてはなにも知らないかすがは、それからしばらくしてエレベーターの作動音と同時にセンサのスイッチをリモコンで遠隔操作した。あと少しで全てが終わる。サロナは延命し、自分も外で思う存分働くことができる。孤独な工作員は、身体を小さくしてその瞬間を待ちわびた。
「この小刀は……一文字家に代々伝わる宝刀……これをあなたへ……私の愛の形として、受け取ってくださいまし……」
「このような物を拙者に……愛姫……そなたの愛……しかと受け取りましたぞ……」
舞台では序盤のクライマックスになろうとしてた。愛姫が恋人の侍、前原直治と愛を確かめる場面である。
稽古の最中、何度も神崎はるみの向上は感じていた遼である。しかし本番の舞台はそれを上回っていた。まるで、観客の緊張感や意に乗っているような、そんな加速なのだろうか。台詞のテンポはリズミカルであり、身体の動きは心地いいほどメリハリがあり、その融合によって引っ張られるほどの力を生んでいる。
はるみの圧倒的な演技は、幕の陰から様子を窺う平田や、その隣ですっかり気分を暗くしていた鈴木にも伝わっていた。
「鈴木……こういうこともあるんだ……よく観ておけよ……」
先輩にそう言われた鈴木は、叱られるのが嫌だったので、小さな目を見開いた。
「化けるっていうかさ……将棋で言えば“成る”って瞬間があるんだよ。信じられるか? 入部したばかりの神崎は、発声もロクにできなかった。自己主張が空回りして外した芝居も多かった。それがああだ。観客に上手く乗っているし乗せている。大したものだよ」
興奮を堪えながらそう説明する平田に、鈴木は、「はぁ」としか答えることができなかった。
はるみが凄いのはわかる。わかるのだけど悔しい。自分はあんなになれるわけない。メイクだっていつもと違うからちっとも見栄えに自信が持てないし、こんな腰元の格好に黒い髪は“自分らしく”ない。
「直治さま……」
「愛姫……」
しばらく二人は見つめ合い、やがて遼は彼女を抱き締めた。それを一番奥で観ていた那須は、あの侍役が島守遼であることにようやく気付いた。
ラブシーンとは、本当に成長したものだ。あんなスモッグのような子供服を着て、両方で髪を結んで、いつも目を輝かせて見上げていた彼女が。青年は周囲に不審者がいないか気を配りつつ、舞台の上の成長した少女に懐かしさを感じていた。
直治さま……遼……もっと強く……抱きしめないと……
腕を通じて、遼の意識にはるみのそれが言語情報となって伝わってきた。咄嗟にその要請に応じるべく彼が力を強めると、少女は言葉にもしていない意図に対して反応してくれた事実に驚き、偶然にしてもいい相性であるとそれが幸せに感じられた。
そんな暖かな緩やかさが、言葉ではなくイメージとして遼に流れ込んできた。どこまでも穏やかで、依存して甘えているような、しかしそれが演技によって伝わってきているのか真意のほどまではわからず、そして追求するのは怖かった。
ただ、この頼り方は嬉しい。なんだか自分を一回り大きく張らせてくれるような気にしてくれる。あの黒髪の少女、儚げな理佳の許してくれる深く真っ暗な安らぎとは違う。覇気を与えてくれるような、そんな奮い立たせてくれるような何かである。
遼は再びはるみを見つめ、それに応じて彼女も大きな瞳を潤ませた。
エレベーターの扉が開く音に続いて、廊下を歩くこの足音はスニーカーによるものか。壁によって803号室までの視界が遮断されているため、かすがは残りの感覚を総動員して事態の推移を把握しようと努めていた。
放っておいてもセンサーが人影を捉えた段階で爆発する。その後ここから廊下へ飛び出し、遺体の確認と証拠品を回収すれば任務は完了である。近くの路地に停めた、サロナの待つバンまで戻り、組織からの連絡を待てばいい。いつ爆音が鳴り響くか。今はそれを待つだけである。
リューティガーの機嫌は相変わらずであり、なにやらもわっとした心地の悪い、落としどころの見えない怒りに表情も険しいままだった。エレベーターから出た彼は、真っ直ぐ803号室を目指し、とにかく歩くことで気持ちを落ち着かせようと努めていた。
壁面の水道パネルの前を、彼はなにも気付かずいつものように通りかかった。
本来ならそろそろ轟音が響くはずである。しかしかすがの耳には、扉のノブを回す金属音が、聴こえてはならないはずの音が届いてきた。
なぜ爆発しない!! なにが起こった!?
センサを使わず、あくまでも目視環境を作ることにこだわり、手動での起爆であれば、同盟の若きエージェントは重傷を負うか、その命を失っていたかもしれない。廊下へ躍り出た“かすが”が目にしたのは803号室に入ろうとする学生服姿のターゲットであり、彼は自分の作戦ミスに怒りを覚えながらも、腰のホルスターからリボルバーを引き抜き、右手でそれを構えた。しなやかで無駄のない訓練された挙動であり、部屋に入ろうとしたリーティガーがその存在に気付いた瞬間には、もう工作員は射撃準備を完了していた。
だが、彼が引き金を引くより数瞬ほど早く、その右手首は拳銃を握り締めたまま廊下へと落下した。
かすがの眼前に、大きく丸い人影が背中を向けていた。空中にはスーパーの袋が舞い、そこからこぼれた玉子のパックが壁に激突し、黄色い中身が弾けた。なぜ右手首が失われたのだろう。無意識のうちに身体を下がらせながら、かすがはその原因が丸い人影の左手に握られた刃物であることに気付いた。
胡蝶刀。包丁ほどの大きさの短刀であり、よく砥がれた重い刃先は陳師培の技術と合わさることで、一撃で人体の切断を可能とする。
問答無用。声などない殺しが陳の信条である。咄嗟のことであり、階段を駆け上がってきた急場だったため、首筋は狙えず取りあえずの武器封じでしかなかった。次は急所を確実に狙う。彼は振り返り様に胡蝶刀を突き出したが、工作員の姿は廊下の奥まで下がっていて、さすがに改造と訓練を受けたファクト時代の主戦力だと舌を巻いた。
ベルトのポーチから硫酸の入った瓶を取り出したかすがは、その中身を失った腕の先に巻き、煙を立てながらその傷跡は塞がった。
なんという嫌な臭いだろう。陳の背中越しに暗殺者の姿を確認したリューティガーは、学生鞄から拳銃を取り出した。
「工作員か……!! 兄の手の者か!?」
ターゲットの質問に応じる暗殺者など、二も三もない無流である。かすがは腰に装着した二基のスピーカーシステムを操作し、同時に左腕の埋め込まれた“刃”を体内から引き出した。
「真実の音を食らえ!!」
七年ぶりの叫びである。腰のスピーカーから大音量のノイズが放出され、それと同時にリューティガーの姿は消え、次の瞬間に彼の眼前に出現した。こうまで密接した距離であれば、この攻撃は通じない。特定波長の洗脳音波による広域威嚇は、だが音源に近づくほどその効果はゼロに等しくなる。少年は拳銃を工作員の額に向けようとした。
つい数瞬前まで、このターゲットは突然現れた中国人の後ろにいたはずである。それがなぜ、いまは目の前まで接近しているのであろう。腰のスピーカーから音波を発しながら、かすがは左腕の刃を振り抜き、殺してしまえば疑問もなくなるだろうと殺意に勢いをつけた。
だが、斬撃の対象は再び姿を消していた。早い挙動などというレベルではない。まさしく一瞬である。視線の先には開いた扉の陰に隠れ、音波から身を防ぐ丸い体躯しかいない。奴はどこだ。ターゲットのあいつは、リューティガー真錠はどこに消えた。
翻弄されている。これがブランクというやつなのだろうか。かすがは狼狽し、とにかくここは体勢を立て直すべきだろうと階段へ駆け、屋上へと向かった。
ただのエージェントではない。こいつはいわゆる“サイキ”と呼ばれる存在なのか。いや、そんなはずはない。真実の人は自分とサロナに暗殺指令を出した。ということは工作員と獣人のコンビで殺せる相手であるはずだ。異なる力を持った、そんな次元の違う相手であるはずはない。
しかし、そうとしか思えない。
夕暮れの屋上に到着した工作員かすがは、ターゲットが拳銃を構えて先回りしていた事実に顎を引き、包帯の下では冷汗が滴っていた。
公演も開幕から数十分が経過し、いよいよ終盤である。出演者である演劇部員は緊張を持続し、中でもほとんどの場面で出番のある神崎はるみは、場面転換となる暗転の間に二本目となるスポーツドリンクを岩倉から受け取り、それを勢いよく飲むことで更なる気合いを入れた。
客席の反応は上々である。公式イベント故、そもそも観劇を拒絶している層にとっては退屈な時間であり続けているだろうが、入部を迷っている新入生にとっては、きっと後押しするきっかけとなる、気迫に満ちた公演となっているはずである。岩倉から受け取ったタオルで額を拭きながら、平田浩二は舞台上の空気がいい具合に暖まっていると手応えを実感していた。
「いよいよ最後だ神崎……肘は平気か?」
スポーツドリンクを飲み干したはるみに、遼が声をかけた。
「あ、ん……ちょっと痛むけど平気……怪我にはなってないと思うから」
床に痛打した左肘を擦ったはるみは、首を傾げて笑みを浮かべた。
こちらに声をかけるほどのゆとりなのか。彼は成長している。入部したころは素人そのものだったのに。はるみは自分が大幅に実力をつけた事実を自覚しないまま、想いを寄せる彼が演劇部員として一人前になろうとしているこの状況が嬉しかった。これなら入部を誘った甲斐があったというものである。
「ね。島守なんかどうだろう。島守遼。私の隣の男子なんだけど。あの目の細い恐い感じのやつ」
一年ほど前、停留所でバスを待つ蜷河理佳に、そんな提案をしたのは神崎はるみだった。
「う、うん知ってる……島守くん……い、いいね……結構いいかも……」
なぜか視線を逸らし、照れているようにも見えたが、それもそうだろう。あのころから彼女は彼に好意を抱いていたということだ。
いま思えば、遼の入部前は蜷河理佳の芝居も“そこそこできている”、といったレベルだったような気もする。彼がやってきて、彼女の芝居はプロ級まで上達した覚えがある。自分はどうなのだろう。はるみは友人のブレザー姿を思い出し、そうか、あのバス停でのやりとりは衣替えの前だったかと、そんなことを思い出した。
いま、あの長い黒髪の少女はどこでなにをしているのだろう。もし彼女がこの舞台を見ていれば、どんな感想を抱くのだろう。今回の公演も放送部にDVD収録を依頼済みである。いつか観て欲しい。どう感じたか聞かせて欲しい。代役を見事にこなしているのだろうか。それとも神崎はるみの愛姫として、しっかりと確実な何かになっているだろうか。それを決められるのは蜷河理佳だけなのだろう。それだけはわかるはるみであった。
「どう見てもファクト時代の残党だな……」
夕暮れの中、マンションの屋上で銃口をかすがに向けたリューティガーは、そう尋ねた。
「我々は真実を追究する徒……この国を破滅に導く徒だ……」
「先代真実の人が作った原稿か……まだそんなものに拠っているなんて……愚かだな……」
敵対する存在に声をかけるなど、これまでのリューティガーにはあまりない経験である。敵は討て。迅速に、迷いなく、それが生き延びる条件であると戦場で叩き込まれた彼である。だがどう考えても自分がこのような負傷した工作員に敗北するとは考えられず、だからこそ左目を閉ざし、存在の圧倒的な差を見せつけようと試みる気にもなっていた。
「我々の真実追究を阻む者は、同盟であっても排除する!! もし私が倒れても、まだ後に続く者はいる!!」
興味深い話である。残党の戦力がどの程度であるか、それを知れば今後の作戦も立てやすくなる。それをどうやって聞き出すか。泡化手術を受けているであろう彼から情報を引き出すのは至難の業である。遼が“ガンちゃんフィルタ”と呼んでいる岩倉の記憶把握技術を上手く利用すれば、自白認知を脳に伝達させないまま、情報のみを閲覧することができる可能性もある。片目を閉ざして余裕を無理矢理作ることで、普段は出ないこのような冴えた思いつきもあるのだろうか。
リューティガーは兄がなぜ敵を馬鹿にするような態度をとるのか、その原因を少しだけだが理解したような気がし、暗殺者と対峙しているのにも拘わらず全身を震わせた。
感激しているリューティガーから、油断の空白をかすがは感じ取った。どうせ勝てる相手ではない。ならば道づれにし、サロナだけでも再手術を受けさせる。彼は標的との間合いを一気に詰め、腕の刃を振り抜こうとした。
だが、かすがの感じたリューティガーの油断とは、命取りになるほど注意力を散漫にさせてしまうレベルではなく、健太郎の怪我があって以来、最低限の注意は怠らないようにと心の底で強く誓っていた彼にとっては、工作員の突撃など考えを巡らせながらでも対応できる瑣末事だった。
「話ぐらい……させてくれよな……まぁでも……ごめん……」
情報の収集は、捨て身の突撃によって可能性自体が絶たれた。リューティガーは突き出した拳銃の引き金に力を込め、正確なる弾道はかすがの額を貫通した。
「坊ちゃん!!」
屋上にやってきた陳は、倒れている工作員の背中と、拳銃を下ろす、片目を閉ざした若き主の姿を認めた。
そうか、その方向性に目を向けたのか。少し残念だが、いや、正しい道なのかもしれない。小刀を手にした従者はリューティガーにゆっくり近づき、「水道パネルに爆弾が仕掛けられていたネ……あと、電源の入っていない赤外線センサーも」と八階に仕掛けられていた罠の報告をした。
以前の作戦で、かすがはこの赤外線センサを使った暗殺作戦に参加したことがあった。その際に成功したからこそ、機材に対しては絶対の信頼があったが、当時セッティングをしたのは機械に精通していた別の先輩工作員である。よもや、電源が切れていたとは。しかし泡と化しつつあった彼は即死であり、陳の言葉と自身の失敗原因を認識することはできなかった。
那須誠一郎は力いっぱい両手を叩いた。痛いほどである。一番遠くから観ていても、筋もわかりやすく演技もしっかりしたいい芝居だった。なにより、神崎はるみの成長が生で観られたのがよかった。まりかに報告すれば喜ぶことだろう。FOTの捜査に繋がる手がかりがなにも発見できなかったのが残念であるが、それは別の機会でも構わない。青年は手を叩いたまま、見学を許可してくれた川島に一礼し、生徒ホールを後にした。
前回の比ではない。というか質が違う。あのときは喝采から距離を置き、どこか冷めた感情すら働いていた。額にいっぱいの汗を滲ませながら、神崎はるみは歓声の何割かが自分に対して向けられているものだと確信し、興奮を隠さず、全身から感謝の意を発しながら何度も瞬きをし、思わず隣にいた遼の手を握り締めた。
元気なんだ……こいつ……すっごく……生きてる……か……
掌から流れ込んでくる、ひたすらな陽のイメージを受け止めながら、遼ははるみの横顔を見つめ、少しだけ心を傾かせた。
戦いはまたあるのだろう。屍と、悲鳴と、咆哮の地獄をうろつき、敵の神経や血管を破壊する戦いに参加しなければならないのだろう。だが、いまはいい。これが帰るべき日常なんだ。いつでも行ったりきたりしてやる。俺にはそれができるはずだ。
遼は、セットの陰から様子を窺う岩倉と高川に小さく会釈をした。岩倉は笑っていて、高川は悔しそうに眉を顰めている。それも日常なのだろう。俺はここで生きる。島守遼は決意をそうあらたにした。
11.
新入生歓迎発表会から三日後の四月二十三日、比留間圭治にとって十七歳となる誕生日であり、土曜でありながら第三の登校日である事実が、彼の期待感を最高潮に高めていた。
深夜に電話がかかって来た。これはつまり個人的な何かが進展している証しなのではないだろうか。あの晩の疑問はやがて淡い想いへと変態を遂げ、絶対今日は高橋知恵から何らかのリアクションがあるものだと、午前の授業を受けながらも彼の頭はそれでいっぱいだった。
プレゼントなんて……もらえるんじゃないのか……チョコだってくれたんだし……や、やっぱり学校でだよなぁ……ゴールデンウイークまででもはないし……
比留間の心は眼前の黒板に書かれた英語の例題ではなく、口元を歪ませ卑猥な笑みを浮かべた、記憶の中にいる同級生の少女に向けられていた。
代々木パレロワイヤルから歩いて五分ほどの住宅地に、僅かなスペースの空き地があった。かつて小さな住宅が建っていたそのエリアは更地となっていて、その隅に一台のライトバンが停められていた。
「学よー! 警察に言っちゃおうかー!!」
「うん。だけどさ、なんだろうなこれ」
はるみとまりかの弟であり、この春に小学二年生になったばかりの神崎学(かんざき まなぶ)は、友人の原田秋太郎(はらだ
あきたろう)と二人で、空き地に不法駐車されたライトバンを興味深そうに観察していた。
「毛布じゃん」
「うん。けどなんかさ、泡がついてるみたいだよ」
学の指摘に、秋太郎は番の後部座席に敷かれた毛布を、より注意して観察した。確かに友人が言うように、毛布には泡のようなきらきらとしたものがいくつも付着していた。
「こらガキども!! ど、どくんだ!!」
背後から怒声を浴びせかけられた学と秋太郎は、息を詰まらせライトバンから離れた。持ち主が現れたのかと二人が恐る恐る振り返ると、そこにはボマージャケットを着た、浅黒い肌の少年が眉を吊り上げ、顎で、「出て行け」と促していた。
車の持ち主にしてはあまりにも若い少年の登場に、二人は戸惑い、謝りながらその場から退散した。
なるほど、獣人367号は戦わずして泡化してしまったのか。後部座席の毛布に泡と血痕を確認した少年はその事実を認識し、一瞬だけ目を閉ざして祈った。
無念だったろうな……いや……それ以上に苦しかったのかな……
彼はバンの後部ハッチを開けると毛布を丸め、そのまま前部座席にしなやかな全身を滑り込ませ、エンジンキーをかけた。
任務失敗後の後始末をする機会が増えている。こんなものは雑務だと主であるあの少女は言うが、仕事がもらえるだけでも今は嬉しい。
さぁ、この車の始末を終えたら、ご主人様を迎えに行こう。土曜日は“半ドン”だとあの方は言っていた。「半ドンの“ドン”ってどういう意味なんです」と、尋ねてみると、彼女は急に口を尖らせ、「どんたくの“どん”の略じゃないってことだけは、確かぁね!!」と苦しそうに答えていた。あの困ったような、それでいて意地を残したままの彼女が大好きだ。早く合流して、またカラオケに行こう。歌は苦手だけど、ご主人様の歌う姿は可憐で見ているだけで楽しくなる。
はばたきはアクセルを踏み込み、ライトバンを空き地から路地へ滑り出させた。
もう何日もこの扉の前で怖くなり、一人で行ってもなにもできはしない。知らないことばかりだし、状況に変化があっても外では知ることが出来ない。そんな言い訳ばかりを思いつき、とにかく留まることばかりに懸命だった。
けど、兄は死んだ。
誰もこない。
このまま。変わらない。
そう、わかってしまった。
毛皮のコートのポケットに、無造作に突っ込んだダーツは五本。たった一人の人間を倒すのであれば、じゅうぶんな数である。当面の活動費もある。買い物などしたことはないが、乗り物など一人で利用したこともないが、このままではこのままである。兄は出て行ったきりで、自分は取り残されて、このままである。
小っちゃなアジュアは勇気を出して、ドアノブを両手で握り締めた。
ひとりぼっちはいやだ。ひとりぼっちだけど、ひとりぼっちはいやだ。
体重をかけてみると、扉は呆気なく開いた。こんな簡単なことすら、できる勇気がなかったのだろうか。自分は踏み出せる。この勢いがあれば、なんとかなる。廊下に出たアジュアは、反対側の壁まで勢い余って衝突してしまった。
いたくない。大したことない。勇気だ。
少女は任務を全うするため、一人でいたくないため、物心ついてからずっと存在し続けた場所から、初めて外へ向かって駆け出した。
土曜日の授業は特別登校ということもあり、三時間目で終了である。遊びに、勉強に、部活動に、バイトに、生徒たちは早く訪れた自由時間を有効に使うため、教室に残る者は僅かである。
自分の席でじっとしながら、比留間圭治は右斜め後ろへ注意を向け続け、だが視線は前に向けたままだった。
僕の……誕生日なんだ……なんか……あっていいはずだ……なんか……
本を閉じる音、学生鞄を机に置く音、席を立つ音。その全てが距離と方角からして、あの少女によるものだろう。少年が自分への接近を期待して待っていると、だがその気配はやがて遠ざかり、取り残された彼が教室前部の扉へ視線を向けると、廊下へ向かって流れる枝毛交じりの黒髪が揺れて消えた。
寒いころからもう何度もデモに参加した。最近では反米左派についても本やネットで随分調べ、その主張の正当性や、弱点もかなり知った。歩み寄って勉強しているのだ。なのに彼女は学校でちっとも接触してこない。あの二月十四日の出来事はなんだったのだろう。わからない。なにがなんだかさっぱりだ。今度のデモのとき、いっそ帰りにつかまえて聞いてみようか。関名嘉(せきなか)さんには事情を話して、今日は自分が送っていくと言えばいいだろう。
席に着いたままじっと考え込む比留間の脇を、金色に染めた化粧臭い気配が通過した。
鈴木歩か。あの加工食品のような、近づいただけで有害物質を撒き散らしているような尻軽女か。比留間の彼女に対する印象はほとんど偏見であり、だがいつもはへらへらとしまりのない化粧顔が、今日に限っては妙に深刻で辛そうであることが彼にとって意外だった。
「退部届?」
「はい……書き方わかんないんで……それに先輩のアドレス、知らないですし……」
演劇部室隣の、更衣室とパーティションで区切られた事務室で、平田は鈴木の差し出した携帯電話のディスプレイを覗き込んだ。
そこには、“退部届”と銘打たれたメールが表示されていた。隣にいた福岡部長も物珍しげに除きこみ、思わず笑ってしまいそうだったため口を手で押さえた。
「辞めたいのか鈴木」
腕を組み、パイプ椅子に座る平田の表情は、いつもと違いどこか和らげであると鈴木には感じられた。公演が終わって一安心なのだろうか。彼女は質問の言葉に視線を落とし、なんだか叱られているような気分になってしまった。
「なんか……神崎とか、すっごいちゃんとしてて……アタシとかじゃ足、引っ張りそうだし……本沢さんにも怪我させちゃったし……自信ないっていうかぁ……」
平田に任せてしまおう。事態を面白がった福岡は腕を組み、壁に背中を付けた。
「演劇部はつまらんか?」
「い、いえ……そういうわけじゃ……」
「本沢さんには、謝ればいいだろ……っていうか、謝ったんだろ」
「も、もちろんです」
「褒めるわけじゃないが、短期間の参加だった割には、戦力になったと思うぞ。少なくとも俺は、いてくれた方が助かるが……」
何気ない一言ではあるものの、すっかり弱気になり、自信を喪失していた彼女にとって、それはなによりも救いの言葉だった。
「だいたいさ……“あゆみ”なんて名前なんだから、勿体ないと思うぞ。俺は」
自分でも実につまらないことを言ってしまった。しかし、島守遼が実力をつけ、部員として欠点が少なくなってきた以上、そろそろ違う叱られ役を部内に作る必要もある。もちろん新入生でもよかったが、演劇部ずれをしていない鈴木はそれに適任であり、彼としてもこのまま残ってほしいと思っていたのが本音である。
眼鏡を人差し指で直した平田が鈴木を見上げると、彼女は化粧顔をクシャクシャにして、いまにも泣き出そうとしていた。
「戦力……なってましたぁ? 平田先輩いっつも怖い目で見てたし。なんかまるで、ゴミみたくに思われてるって……いてくれて助かるってほんとですかぁ……先輩ぃ……!!」
泣き声になると、だみ声がさらにきつくなる。平田は意外なる彼女の反応に驚き、福岡は一瞬舌をぺロリと出し、平田の肩を小さく叩いて事務室から出ようとした。
「ふ、福岡さん!! 部長!!」
助けを求めてきた平田に対して、福岡はウインクをして切り揃えた前髪を右手の甲で上げた。
「だってぇ……新入部員の紹介、見とかないと。もうそろそろ、最後の一人だろうし。あっとはよろしくぅ!! 平田セ・ン・パ・イ!!」
パタンと閉ざされた扉に平田が落胆し、再び鈴木に意を向けると、ついに彼女の顔を描いていた色が崩壊と融合を開始し、「うぇっ、ひっく、ぶぇっ」と獣のような呻き声を上げていた。
下級生の女子に泣かれた経験など皆無である。というかこの急転した事態は、そもそも自分に原因があるか。平田浩二は事態にどう対処していいのかわからかず、仕方なく椅子から立ち上がり、彼女の肩を叩いてやるしかなかった。
背中の扉越しに、だみ声が爆発したのが聞こえてきたため福岡は一瞬微笑み、すぐに自己紹介をする新入生に意を向け直した。
「澤村奈美(さわむら なみ)。1年A組です。このあいだの発表会がきっかけで、入部しようと決めました」
小柄だが手足がすらりと長く、ブレザー姿がよく似合っているが、少しだけ吊り上がった目と自信に満ちた張りのある声は気の強さを第一に印象付け、遼はこの最後の六人目に自己紹介した澤村奈美という下級生は、どうにも自分にとって苦手なタイプであると感じた。
黒髪は少しだけ光の角度によっては赤みがかかっている様にも見え、腰まで伸ばしたロングであるが、左右に結べばもっと似合うような気もする。神崎はるみがそんなことをぼんやりと考えていると、その下級生は彼女に強い眼光を向けた。
「あの程度の人が主役でしたら、もちろんわたしが今日からトップでしょうし、これからは皆さんの負担を大分軽減させることができると思いますから」
あまりにリズミカルな言葉だったため、部員の大半は言っている内容の毒分をすぐには理解できなかった。しかしそれも数瞬のことであり、すぐにはるみは立ち上がって澤村奈美を睨み返した。
「こりゃー、えらい自信ねー!! まぁ、実力は後日拝見ってところね、澤村さん」
福岡部長の余裕の発言に、澤村奈美は鋭い視線を向けた。
「ええ、いくらでも。なんでしたら今この場で、ジュリエットの一人芝居でもしてみましょうか?」
「こらー!! あーんまり調子、乗らないの。入部で興奮してるの? 中学生じゃないんだから、いい加減にしてよね」
笑いながら、だが声には怒気をたっぷり込め、福岡は新入生を叱った。
窘められた澤村奈美は両目を閉ざすと、首を傾げながら椅子に座った。
本日の部活は新入生歓迎公演の反省会であり、だからこそジャージに着替える必要もなく、部室に戻ってきた平田の、「以上だ」という言葉と同時に遼は席を立ち、バイトに向かうべく部室から出ようとした。
「先輩!!」
呼び止められた彼が誰だろうと振り返ると、そこには足が長く細い腰をした澤村奈美が、胸に手を当ててこちらを見上げていた。
なにか期待に溢れている、そんな、嫌な予感がする目つきである。
「えっと……さ、澤村さんだっけ?」
「奈美って呼んでください!! まずは、そうしてください!!」
「は、はぁ……」
「はい!!」
促す奈美に遼は戸惑い、頭を掻いた。
「奈美……さん?」
「あ、どうせなら“奈美”ってまんまか、それで恥ずかしかったら“奈美ちゃん”にしてください。“奈美さん”は、却下!!」
なにを言っているのだろうこの下級生は。どこかネジが飛んでいる。苦手で面倒なタイプだと思ったが、ここまでだとは。遼は、「じゃーな澤村」とぶっきら棒に言うと、そのまま廊下へと出た。
「あー!! じゃー百歩譲って“澤村”でもオッケー!! けど“澤村さん”は却下!!」
そう叫んで追いかけてくる奈美に、遼は立ち止まり、勢い良く振り返った。
「言っとく。俺も福岡部長と同意見だ。高校の部活で舞い上がってるんだろうけど、俺はウザいのが一番きらいだし、お前に懐かれる覚えはない」
随分厳しい言葉だったろうか。しかしこれ以上、わけのわからない個性に付き合いたくはない。そう判断しての宣言だったが、こともあろうか奈美は両手をすっと出し、遼の顔を長く細い指で触れた。
「な、なんだよ!?」
堪らず身を引いた遼に、奈美は両手を胸に当て、右足の先で廊下をこつんと叩いた。
「き、気持ち悪いぞ澤村……」
なにやら恐ろしくなった遼は、慌てて廊下を駆け逃げ出した。
覚えた……あれが島守遼のカタチ……この手で……覚えた……
少女は感触から得られた“カタチ”を全身の細胞に覚えこませ、まずは任務の第一段階が成功したことに顎を引き、満足そうに唇の両端を吊り上げた。
第十九話「はるみの舞台」おわり
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