1.
テーブル狭しと並べられた大皿。それに盛られた彩り鮮やかな四川料理の数々。代々木パレロワイヤル803号室のキッチンには香ばしい匂いが漂い、島守遼(とうもり
りょう)をはじめ、高川典之(たかがわ のりゆき)、「ガンちゃん」こと、岩倉次郎の三人は、これら絶品の数々を存分に味わえると思った途端、一斉に唾を飲み込んだ。
「さぁさこれで最後ネ。香醤鳳肝(シャンジャンフォンカン)。もうアツアツのうちに食べるといいヨ」
最後の大皿を食卓に置いた陳師培(チェン・シーペイ)は、鯰髭を撫でて微妙なイントネーションの日本語でそう言った。
「それじゃ……そろそろ始めましょうか……」
老酒が注がれたグラスを手にしたリューティガー真錠は、料理をじっと見つめる三人に促し、彼らも食卓の端に置かれたグラスを手に取った。
「遼……十七歳の誕生日……おめでとう……」
少しだけはにかみ、視線を床に落としてリューティガーはグラスを掲げ、三人もそれに合わせた。
この日、四月二十七日は島守遼にとって十七歳の誕生日であり、そのお祝いをここで行おうと提案したのは岩倉である。
「誕生日パーティーですか?」
「うん。島守くんに内緒でさ。でね、場所はやっぱりルディの家がいいと思うんだけど」
数日前、学校の階段踊り場で岩倉からそう提案されたリューティガーは顎に手を当て、「そっか……それもそうですね」と、歯切れの悪い返事をした。
まだ前回の作戦失敗で落ち込んでいるのだろうか。岩倉がそんな心配をしていると、彼は久しぶりに無邪気な笑みを向け、顎で弧を描いた。
「ご、ごめんねガンちゃん……僕……あんまり誕生日のお祝いとかって詳しくないんですよ」
「え、そうなの? ルディはやってもらったことって?」
「僕は十二月二十五日が誕生日だったんで、クリスマスパーティーといつもごっちゃになってたんですよ。それにドイツでは、誕生日の人が友人をもてなすのが一般的で……もちろんプレゼントのやりとりとかはありますけど」
「そ、そうなんだ……じゃあ……」
「いや、やりましょう。でも色々と教えてください。僕の父は日本人ですけど、あまり習慣とかは教えてくれなかったので……」
「い、いいけど教えるなんて大したもんじゃないよ。料理でもてなして……プレゼント渡して……高川くんとかも誘おうと思ってるんだ」
「料理ですね。それなら陳さんに頑張ってもらいましょう……あとはプレゼントか……」
考え込むリューティガーの様子が真剣でいて、どこか嬉しそうでもある。岩倉はそう感じ、仲間が精神的に復調してきている事実に嬉しくなった。
いますぐにでも、この豪勢な四川料理に飛びかかりたいほどである。しかし岩倉次郎はそんな欲求を堪え、ひたすら頭を掻いて照れている遼に、「おめでとう!!」と声をかけた。
友人や仲間に誕生日を祝ってもらうなど、小学四年生のころ以来である。あの狭いボロアパートでは人を招くことができず、父と小さなケーキを食べるのがこれまでの四月二十七日であり、そんな二人っきりのお祝いも中学二年生からはやっていない。
今朝も父、島守貢(とうもり みつぐ)は、「おー十七歳かよ。おめでと」と誕生日については一言触れただけであり、おそらくそれ以上のイベントはないと思っていた遼である。放課後に岩倉から声をかけられた際には、定例ミーティングかと予想していたからこの展開は予想外だった。正直嬉しかったし、なによりも、
「遼が今日で、僕がクリスマスでしょ。ガンちゃんは八月一日で、高川くんが五月十七日……これからはここでパーティーをやりましょう。いいですよね!」
すっかり明るさを取り戻していたリューティガーは溌剌としていて、それがなにやら遼には心地よかった。
長期戦になるって覚悟をしてるんだな……こいつ……
それは現実的なよい考え方だと思える。遼は友人の言葉をそう理解し、老酒の苦いとも甘いともつかない初めての複雑な味に、少しだけ驚いた。
料理の消費ペースはリューティガーの予想を遥かに超えていた。遼、岩倉、高川の三人の勢いは犬か豚のようであり、瞬く間に大皿は表面に描かれた絵を露出させ、陳は忙しなく食卓と厨房、そして居間の三箇所を行き来していた。
皆、料理に満足している様子である。高川も珍しく笑顔を浮かべている。
この国を破滅に追い込む兄を倒す。その任務を帯びた自分たちは、本来このようなイベントに浮かれている場合ではない。以前の自分であれば、岩倉の提案は却下していたはずだが、その余裕のなさこそ、まさしく作戦の破綻を生じさせる原因であると気付いたのはつい最近のことだった。
工作員、“かすが”との対峙がきっかけだった。
なぜ兄は緊張状態の中であえて片目を閉ざすような、そのような不利な行動をするのだろう。それが以前から不思議だった。
しかしこのマンションの屋上でかすがと対峙した際、あまりにも戦闘能力の差がありすぎたため、試しにやってみてようやく理解することができた。あれはより自分を追い詰め、神経を研ぐ行為なのだろう。
小さな事実の判明ではあったが、それは驚きと感激をリューティガーに与えていた。
兄に勝つには、まずは理解することだ……あまりにも僕は彼のことを知らない……
わからない。わかりたくないと拒絶するのではない。勝利し、存在を抹消するために上回るのであれば、受け入れ、理解していくことが最善である。その気付きはリューティガーの心を前向きにさせていて、だからこそこうしたレクリエーションも決して無駄ではないと思っていた。
もっといろいろとやってみよう。この国に来たころのように、興味と感心に対して素直になるべきだ。焦っていても、兄に追いつくことはできない。その思いはリューティガーの心を軽やかにさせ、彼は二杯目の老酒で喉を潤した。
若い連中はとにかく良く食べる。特に高川の勢いが凄まじく、これではまるで欠食児童のようである。しかし自分の料理を半泣きしながら食べてくれる彼に、陳は無上の喜びを感じ、だからこそ追加品を作る手にも力が入るというものである。
「さーて、これで少し煮込むネ……次は……」
鉄鍋に蓋をした陳は、丸々太った身体を揺らして厨房から居間へと駆けた。
あのような襲撃はあってはならない。若き主は前回の経験で何かに目覚めたようだが、彼を護衛する従者としては、敵にマンションの廊下まで侵入され、その上爆弾まで仕掛けられるなど職務怠慢のミス以外の何物でもない。
日常において、料理や家事だけに集中してはいられない。不得意なジャンルではあるが、機械操作やデータ分析もこなさなければ、再び襲撃者に付け入られるのは明白である。
陳は居間の隅に設置された、複数のモニタや計測機器を丁寧に確認した。これは本部で傷を癒やしている、異形の相方の構築した監視システムである。それが正常に稼動し、なんの異常も検出していない事実に陳は満足し、丸く出っ張った腹を撫でた。
「なんで映らないんだろう……」
そんな声に振り返った陳は、リューティガーたち四人が、居間の反対側の壁際に備え付けられた大型テレビの前で首を傾げている姿に、「ほ?」と疑問の声を上げた。
「どうしたネみんな」
「あ、陳さん……さっきからね、このDVDが映らないんですよ」
岩倉は暗灰色の液晶ディスプレイと、その隣のAVラックに置かれたDVDプレイヤーを交互に指差した。
「DVD? 確か前に相方が観てたヨ。なに? 皆で映画でも観るかネ?」
「い、いいえ……高川くんが、完命流の道場対抗戦のビデオを持ってきたんで……それを観ようと思いまして……」
リューティガーの説明に陳は鯰髭を撫でて頷き、だが無表情に固まったまま動かないので、遼が「どうしました陳さん?」と、尋ねた。
「だ、だめね……いまは警戒システムのことで頭がいっぱいヨ。とてもじゃないけどDVDの故障までは、私もうなにもお手伝いできないね」
よく見ると陳の額にはうっすらと汗が滲んでいた。なるほど、料理の達人、暗殺プロフェッショナルにも苦手分野があるのかと高川は納得し、DVDデッキの裏側を覗き込んだ。
「なに……?」
「どうした高川?」
「島守……テレビから伸びているコードで、どれか先がなにも接続されていないものがその辺に見当たらんか?」
遼は高川の問いにテレビの周辺を見渡し、先端のプラグが剥き出しになったままのデジタルケーブルを発見し、その片方がテレビの入力に接続されている事実を発見した。
「正解だ高川。もしかして、このケーブルがDVDから抜けてたとか?」
「ああそうだ。こちら側には入力側ケーブルと電源ケーブルしか刺さっていない。見つけたケーブルをこっちにくれ」
「わかった……ちょっとまっててくれ……」
遼は腰を曲げてケーブルの接続されていない側を摘むと、それを高川に手渡し、自分は弛んだコードを両手で手繰った。
このままで……俺の雄姿……見てもらえん。特にガンちゃんには見……欲しい……
そんな言語情報が、遼の両手の指から意識へと伝わった。
誰にも触れていないのに……
いつもより不明瞭ではあったが、意識へ響く声は接触式読心のそれと同質である。彼は突然の出来事に、思わず手にしていたコードを強く握った。
負けた試合は上手く飛ばしてしまえ……DVDだからこそ……なせる業ということか……しかし……リモコンの操作……わからんぞ……
更に続けて“言語”が遼の心に鳴り響いた。たまらず彼はコードの先に意を向け、それをDVDデッキに接続しようとしている長身の偉丈夫を見上げた。
「どうした島守……もうコードは持っておらんでよいぞ。入力への接続は終了した」
「そ、そうか……わ、わかった……」
まさか、ケーブルを通じて高川の思考を読み取ってしまったのだろうか。
以前「夢の長助」こと藍田長助(あいだ ちょうすけ)の思考を、神崎はるみの身体越しに読み取ったことはあるが、このような無機物を通じては経験がない。
しかしよく考えてみれば、服越しにも読心に成功した経験が何度かある。これはもう少し、検証を重ねてみる必要があるのではないだろうか。
中学生時代の高川が柔術の試合をするビデオをぼんやりとソファで皆と鑑賞しながら、料理の盛られた小皿を手に、遼はそんなことをずっと考えていた。
誕生日パーティーというものを他人の家で開いてもらえるなど、この日まで想像もしていなかった遼である。料理も食べ終え、ビデオ鑑賞会も終わり、プレゼントも貰い、マンションの廊下に出た彼は、大きく伸びをしてそれなりの充実感を得ていた。
岩倉はこのあといつもの射撃特訓であり、今日は高川もそれに付き合うらしい。完命流の高みを目指すのが協力の第一理由である彼が、飛び道具に手を出すということはないはずだが、なんでも岩倉の練習振りを一度見学しておきたいらしい。当初は疎遠だった二人も、演劇部の発表会を経て随分と親交を深めたものである。もちろん仲間同士、心を通じ合わせることはいいことである。リューティガーも少しは立ち直ってきているようであり、いい傾向なのだと思う。島守遼はエレベーターで一階へ下りながら壁に背中を付け、しかしそれでも満たされない感覚に右手で左肩を掴んだ。
彼女に祝って欲しかった。もちろん、彼女の誕生日だって祝いたかった。
これからというところだった。冬休みには旅行に行き、年が明ければ互いの誕生日をはじめ、様々なイベントを共に過ごせたはずである。
しかし蜷河理佳(になかわ りか)はいない。探し出して助け出すという動機も、彼女の所属するFOTの長である真実の人(トゥルーマン)の存在を考えてしまうと、どうにも正しい行為なのかさえわからなくなることもある。
透明の自動ドアを抜け、ポストの設置されたマンションの玄関スペースへ出た遼は、そのまま街灯に照らされた路地へ出て、裏側の駐車スペースに向かおうとした。
「あ、島守……?」
聞きなれた声である。また偶然なのだろうか。そう思って彼が振り返ると、そこには黄色いワンピース姿で買い物袋を手にした同級生、神崎はるみのぎこちない笑顔があった。
私服姿の上、髪も両サイドで結んでいて印象が若干だが異なる。そんな彼女に戸惑ってしまった遼は、演劇部で服や髪が変わった彼女をよく知っているにも拘わらず、結果として驚いている事実に余計困惑し、思わず頭を掻いた。
「か、買い物?」
「うん……ママ……またお米切らしちゃって……」
「わ、忘れ物多いんだ、あのお母さん」
「信じらんないんだ……玉子とかお米とかお肉とか、普通忘れないってのをうっかりやっちゃうの」
「な、なんかそーゆーのって可愛いって感じじゃん」
「あ、伝えとこうか。ママ喜ぶよきっと」
「そ、そういやさ……なんで“ママ”と“父さん”って……呼び方が統一されてないんだよ」
「ほんとはパパがいいのよわたしは。けど絶対やだ。父さんと呼べって。中学入った途端にだよ。急に一切のパパを禁じるって」
「へー。変なこだわりあるんだな」
「ねー島守。あれから父さん、島守のバイトしてるジムって来た?」
「たぶん来てないよ。入会者に神崎っていないし」
「やっぱり……鍛えたいとか言ってたのに。また口ばっかりなんだから」
「まぁだけど、うちのジムって本格的なビルダーが多いから、ちょっとやり辛いと思うぜ」
「そーなんだ?」
「ほんと、もうすげえんだぜ」
なんとなくゆっくりと歩きながら、言葉を途絶えさせずに、遼とはるみはたわいない会話を続けていた。
リューティガーの住む代々木パレロワイヤルの前で交わす話題としては、彼女にとって適当ではないと思えた。発表会が終わってから、以前から疑問に思っている出来事を知りたいという欲求が、日増しに強くなってきているのを自覚している。遼には関わるなと言われて一度は引いたが、いまは自信というものがある。発表会を通じて自分のステージは何段も上ったと思いたい。だが、どう切り出してよいのかわからなかった。だからどうでもよい話題で時間が流れていく。
いつ彼女が数々の秘密と謎に切り込んでくるのか。彼はそれが不安で仕方がなかった。だから流れがそちらに行かないよう、できるだけ関係ない話が発展するよう気を遣わなければならない。マンションの裏手に停めたバイクに辿り着くまでの辛抱である。遼は夕暮れをなんとなく仰ぎ見た。
「えっとさ……確か……島守って……今日は……」
「あ、うん。誕生日。こないだ部活で言ったよな」
口にした話題に対して、反応が早すぎるようにはるみは感じた。つまりこれは、触れられたくない本題があるということである。遼にとってこの場所での遭遇は、望ましくないものなのだろう。ならば機会を窺う必要がある。慎重に、丁寧に、細心の注意を払いきっかけを待つべきだ。
「だよねー!! ごめんね。プレゼントとか用意してないんだけど」
「いいって。そんなの」
偶然通りかかったのではない。彼の誕生日と知っていたからこそ、このマンションの近くまでやってきたのである。出くわしたのには正直なところ驚いてしまい、その点においてはひどく慌ててしまったが、もしたまたま出会えたらと、そんな小さな期待を胸にしてのお使いである。
しかしリューティガー真錠の住むこのマンションで、二人は誕生日パーティーでも開いていたのだろうか。学生服姿の彼が手にした学生鞄が妙に膨らんでいる事実に気付いたはるみは、中にプレゼントでも入っているのかと興味を抱いた。
リューティガーのプレゼントはドイツ製のボールペンセットで、銀むくの高級そうな品であり、なんでも彼愛用のメーカー品らしい。
岩倉からのプレゼントは、バイク用のグローブである。以前から痛んでいるを気にしていたらしく、これも国産の高級品である。
そして高川からは、リストバンドをプレゼントされた。新品ではなく、ひどく古ぼけた品ではあったが、彼曰く二十数年前にその人ありと知られた完命流の達人がトレーニングに使っていたもので、受け取ると異常に重いので確かめてみると、中には鉛が入っていた。両手で10kg分はあるらしい。
はるみの予想通り、その全ては学生鞄に入っていた。彼女がなんとなくそちらに注意を向けてきたため遼はついつい早足になり、曲がるべきマンションの角を越え、米屋の前まで進んでしまった。
行き過ぎてしまった。そう思った彼は引き返そうとしたが、目の端に奇妙な光景を認めたので足を止めた。
手押しの台車の上にはくたびれた古い毛布が敷かれ、その上にやはりくたびれてくすんだ、ごわごわとした毛並みの白い老犬が横たわっていた。両目は開いてはいるが白濁とし、おそらくは白内障というやつだ。舌をだらしなく出し、四肢はばらばらな方向に広がっている。知らない者が一見しただけでは死体だと思うだろう。しかし遼はこの老犬が生きている事実も、その名前をも知っていた。
「あ、チロ、お散歩ですか?」
遼の後ろで立ち止まったはるみが、台車に手を掛けていた老婆にそう尋ねた。エプロンをしたこの人物に見覚えはなかったが、おそらくは犬の飼い主、すぐそこの米屋の人間なのだろう。小太りで温厚そうな彼女は、なんとなく老犬と見た感じの印象がマッチすると彼は感じた。
「もうね。見えてないんですって。けどね。嬉しそうなのよ。だから毎日一度はね。近所だけなんだけど、お散歩なの」
区切りをはっきりとさせた口調で、老婆は初対面の遼に説明するように言った。
「そっか……こんな車の排ガスだらけでも……やっぱ外の方が気持ちいいんですね」
「そうそう。前足をぴくってね。もうすぐなんだろうけど。生きてるうちはね。首輪だって苦しいだろうって外そうとすると、お散歩のときはつけてくれないとって、わがままなの。近所しか回れないのにね」
老婆の繰り返しの言葉に、遼は左手に持っていたヘルメットを胸まで抱え、顎を引いた。
なんだろう。どうにも哀しい。老犬のことなどこれまでの自分なら、それほど気にはしなかったはずである。だがいまは違う。あらゆるものを失い、それでも欲するこの犬の存在が、自分にとって決して遠くないように思えてしまう。だから気持ちが傾く。
隣に佇むはるみは、どこか涙ぐんでいるようでもある。毎日のように彼女はこの老犬を見ているはずである。だとすれば、これはもう相当悪い状態ということなのだろうか。
803号室の隣、802号室でリューティガーに動物の体内を透視してもらい、その病気や怪我の治療を特訓した遼である。その本来の目的こそ、暗殺の際、透視した体内のグロテスクさに怯えないためだったが、十何匹もの治療に成功している以上、ちょっとした自信もある。
しかしあの白い犬は、治療した猫たちとは異なる。白い目も、薄い色の舌も、元気のない尻尾も、固そうな毛も、全てが一つの原因などではなく、また自然の摂理に従った、来るべき障害であることは明白である。そのようなものを治療できるとは思えず、中途半端に物理的な施しをしたところで、延命に繋がるなどとはとても考えられない。
台車を押して、路地を進みだした老婆の背中を見つめながら、遼は小さく吐息を漏らした。
「可哀想ってのとは……違うよな……」
「うん……仔犬のころから知ってるもの……いっつも元気でね。赤い首輪はそのころからなんだよ。十五歳って最近じゃ長生きじゃないらしいんだけど、いままで病気一つしてなかったし」
冷静に、感情に負けないように努力しているのは、言葉の内容でよくわかる。しかし少女の声はかすかに上ずり、それを相殺するための笑みもぎこちなかった。
「切ないよな……仕方ないってわかっててもさ」
気持ちをそう代弁してくれる遼に、はるみは、「……ん……そうだね……」と返し、老婆と台車をじっと見つめ続けていた。
2.
水のない堀というのは、なんとも物足りない。少女は橋の上から、春の陽に照らされる窪んだアスファルトを見下ろし、吹いてきた風に長い黒髪を押さえた。
逃走ルートとしては、ここはあまりにも不適当である。遮蔽物もほとんどなく、このような橋や、堀の両脇の歩道から姿が丸見えになってしまう。
こうして下調べをしておけば、いざという段階で水のない堀の特異さに、判断を狂わしてしまうことはないだろう。少女は手にしていた地図に赤鉛筆で×印をつけると、停めていた自転車に跨り、堀と並行に北へ延びる歩道へ車体を向けた。
もう四月も終わりである。つい先週までは上着が必要なほどの寒さで、ついつい仕事仲間の彼に、「東京よりずっと寒い。もう四月なのに」と、愚痴をこぼしていたのに、今日などは汗ばむほどであり、Tシャツとジーンズでも暑いと感じられる。
緩やかな坂道を自転車で上りながら黒髪を風になびかせ、蜷河理佳は過ごしやすくなってきた陽気に思わず流行歌を口ずさんだ。
この歌は五年ほど前にヒットした歌謡曲である。あのころ、自分は三鷹の孤児院にいた。母親代わりの殿田院長はどこか冷たかった。いや、自分は誰とも距離が離れていたと思う。ほとんど口も利かず、食べて寝るだけのそんな毎日だったような気もする。
あの日もこんな暖かい春の一日だった。テレビで流れていたこの歌をたまたま耳にし、あまりにも陽気が心地よかったのでついつい口ずさんでしまった。
「うまいじゃんっ!! お前、歌えんのかよっ!!」
恐かった。部屋の出口で腕を組んでいた彼は、人の悪い笑みを浮かべていて、いまよりずっと口調も荒っぽく、自分に対してもどこか攻撃的な態度だったと思える。
「と、得意じゃないけど……」
けど、それが他人と再び関わるきっかけになったと思う。あの人や長助たち以外の人間に対しても、心を開けるようになったと思う。そういった意味では、仙波春樹(せんば
はるき)という青年にはいまでも感謝している。
仙波春樹は自分とほぼ同時期に孤児院、「三鷹ハウス」に預けられていた。ただ年齢が六歳年上だったため、あの日まではまったくと言っていいほど交流もなく、いつも院長先生に反抗的でトラブルを起こす年上の少年。という以上の認識はなかった。
FOTのエージェントとして、そして長助の弟分として、彼がハウスにいながら訓練に通うようになったのは、言葉を交わすようになった直後のことである。それ以来、“春坊”こと、仙波春樹の態度や物腰は次第に柔らかく丁寧になり、自分も同様の訓練を受けるようになって、その原因がどこにあるのか理解できたような気もする。
そのように似たような境遇であるから、仙波春樹は自分の兄のような存在である。そう思えるし、彼にしても同様なはずである。
自転車で五分ほど大通り沿いの歩道を走った理佳は、十階建てのマンションの裏に自転車を停め、髪をかき上げながら白い壁を見上げた。
このマンションで、仙波春樹と潜伏するようになってもう二ヵ月が経過している。食事や家事は交替で行い、作戦準備の下調べや仕掛けに関してはそれぞれ担当を決め、何もかもが順調に進んでいるはずである。しかしエレベーターに乗り込んだ理佳は、表情を憂鬱さで曇らせた。
重大な作戦である。あの人がその目的を果たすにあたって、絶対に失敗は許されない任務である。だから何段にも構えた計画を、村田をはじめとしたスタッフが立案し、現在も改訂版が週に一度は送られてくる。
七月の決行時にはこの土地に何名ものエージェントがやってくる。自分たちはそれまでに、下準備を終わらせておかなければならない。
藍田長助曰く、「成功すれば、この国を大きく動かすことになる」作戦だ。気合いも入るしやりがいもあるはずだ。だがマンションの扉を開く少女の気持ちは落ちる一方であり、その原因である玄関右奥の部屋へ視線を向けた彼女は、扉の向こうから呻き声が聞こえてくるのに気付き、首を何度も横に振って左奥の居間へと急いだ。
リビング兼キッチンとなっているその部屋の窓側には、低いテーブルが置かれていて、仙波春樹が胡座の姿勢で拳銃の手入れをしていた。
「おかえり蜷河っ!! 守備はどうだっ?」
「うん……大丈夫よ……警備シフトは資料と同じ……今日で一ヵ月だから裏はとれたわ」
「そうなると七月の特別警戒も楽勝で突破できそうだなっ!!」
ランニングに短パン姿の仙波春樹は、細い目をより細めて爽やかな笑みを浮かべた。理佳は小さく息を吐くと、冷蔵庫を開け麦茶のポットを取り出した。
「狙撃ポイントの選定に、まだ時間がかかるけど……そうね……思ったより警備は薄いわね……それが今日までの感想かしら」
「引っ越したからって奴らも安心してるんだろっ? 一応は仮住まいなのにな。ところで当日はなにを使うんだ? SR9か?」
「今回はM89にする。長助にはそう伝えてあるから」
「M89? 使ったことあったっけっ?」
「何度かね。見た目はアレだけど、サプが安定してるから」
そんな専門家同士の言葉を交わすと、理佳はグラスに注いだ麦茶で喉を潤し、流し台に背中を向けて腰を付けた。
「で……彼の方はどうなの?」
理佳の言葉に、銃身の掃除をしていた仙波春樹の手が止まった。
「順調だ……あと二ヵ月もあれば、人形同然になるだろう。まったく対したCDだよっ。状態を確認するか蜷河?」
これまでにない、低く静かな声である。だが理佳は首を横に振り、廊下の奥に見える扉へ注意を向けた。
あの扉の向こうにいる“彼”。数度しか様子を窺ったことはないが、彼こそがこの作戦において最大の存在であると言える。しかし、それを想像するだけで少女の気持ちに翳りが生じ、一体自分はこんな遠くで、それもこの四月二十七日になにをしているのだろうかと、情けなくもなった。
遼くん……誕生日おめでとう……十七歳になったんだよね……
一時期と比較すれば、任務の失敗と正体の判明という絶望から立ち直ったと思える。この作戦さえ成功すれば、もっと勇気というものが得られるかも知れない。そうなればあの人にもう一度、仁愛への潜入任務をお願いしてもいい。
成し遂げ、自信をつけたあとであれば、遼に口止めをした上で共に学校生活を送るなどという、“図太い”こともできるような気もする。おそらく彼は自分の正体を相手も選ばずに話してはいないだろう。もっとしたたかに、もっと強く。彼と幸せになるために手段を選ばない自分になれるだろう。
しかし、それにしても扉の向こうから漏れてくる呻き声は悲痛である。食事は与えているから死にはしない。だが、その心はすでに壊れてしまい、仙波春樹はこれからその再構築をするらしい。非道な手段である。“彼”は、その国籍と所属と身の上が好都合だったため、たまたま選ばれてしまった人物である。
彼の誘拐が最初にクリアするべき課題だった。二人で計画を練り、忍び込み、拉致し、その手際は完璧だったと思う。
心を壊す過程は機械的で、もっと簡単だった。繰り返し繰り返し奏でられる、それは旋律などという規則性を持った音ではない、まさしく“壊すための波”そのものである。
哀れんでなどいられない。組織の、いやあの人の、真実の人(トゥルーマン)の目的を完遂するためには、人の心などいくらでも操る。その命を絶つことになんの躊躇いもない。
けど、切ない。それだけは確かだ。蜷河理佳はもう二つ、別のグラスを棚から取り出し、それに麦茶を注いだ。
アジュアが多摩川近くのマンションを飛び出し、すでに四日が経過しようとしていた。
まだ九歳の少女である。それも、人生のほとんどを兄と二人だけで過ごしてきた彼女である。テレビもなく、外部からの情報が一切入ってこない環境を当然の世界だと思っていたアジュアは、まずは歩くべきだろうと地図を片手に目的地である雪谷(ゆきがや)を目指した。
兄が作戦前に置いていった控えの地図には、ターゲットであるリューティガー真錠の通う学校と自宅マンションの位置が標されていた。顔写真もあるから、見つけ次第任務は遂行できる。場所と人物の特定ができているのだし、敵はこちらの存在を知らない以上、五本も“不死のダーツ”があれば目的は容易に達成できるはずである。その程度の認識であった。
地図を頼りに歩き始めたアジュアだったが、四時間ほど経過した段階で肉体的な限界が訪れた。履き慣れていない靴に踵の皮がめくれ、足を動かす度に痛みが走る。
それに、出発地点の位置特定を誤ってしまったのか、いくら歩いても最初の目印となる雪が谷大塚(ゆきがやおおつか)の駅は見えてこない。「田園調布」、そう表示された駅ビルの前でアジュアはくたびれ果て、歩道の脇に座り込んでしまった。
なんという人の数だろう。駅に吸い込まれていく人々を眺めながら、少女は自分がいた世界とこの“外”が、まったく異質であると感じた。
いくらか足が動くようになってから、まず彼女は落ち着ける広い場所を探すことにした。車や電車、そしてなによりも繁華街の雑踏がなんとも馴染めない。いや、恐いほどである。できるだけ人気の少ない方へ、少女がやがて辿り着いた先は、大きな公園だった。
公園という場所が公共の憩いの場であることぐらい、ちっちゃなアジュアにもわかっていた。ここで身体を休めるぶんには問題ないだろう。活動資金もあるので、食事を買ってきてもいい。それに、道をどう間違えたのか再検討だってしなければならない。ベンチに腰を下ろした彼女は、踵が地面につかない高さなのが嬉しくて、靴を脱いで両足をぶらぶらと振ってみた。
なにをどうすればいいのか、アジュアは全てをわかっていた。もし任務があれば、それに対応できるような戦闘技術や社会適応方法は学んできている。
だが、それも全てはあのマンションで兄から教わった知識であり、買い物のシミュレーションも、ナイフを使った戦闘訓練も、乗り物に使う際に人に者を尋ねる訓練の相手も、何もかもがあの優しく、いくらでも甘えさせてくれるマサヨだった。
公園で遊んでいる子供ですら、いまは自分に対して鋭い視線を向けてくる。そんなにこの毛皮のコートがおかしく見えるのだろうか。顔立ちに大きな差はないはずである。それとも、やはり自分は世間というものがわからないから、なにかあの子たちと決定的に違う点があるのだろうか。
不思議な光景が、アジュアの小さな目に入った。公衆便所の裏手側が、段ボールの壁で区切られている。果たしてあれはなんなのだろうか、少女は目を凝らした。
違う。区切られているのではない。あれは段ボールで作った小屋だ。鍋や洗濯物だって見えるし、奥からは湯気が出ている。紙製の小屋に誰かが住んでいるということなのだろう。マサヨは言っていた。「みんな自分の土地に住むか、地主から土地を借りて住むんだ。それにはお金がかかる」と。そうなると、あの小屋の住民は国から土地を借りているのだろうか。
何もわからないアジュアは、小さく薄汚い段ボールハウスに興味を抱いた。なぜだろう。あれを見ていると安心する。田園調布の駅前より、ずっと自分に向いているような気がする。もちろん一番安心なのはあのマンションだけれども、もうあそこには戻れない。似たような建物は歩いている最中に何度か見たが、どれもがひどく無機的で、自分を拒絶しているように感じていた彼女であった。
もし長期戦になるのなら、ベースとなる生活空間が必要である。そう教わっていたアジュアは、あのような小屋なら自分にも作れそうだと思い、研究のためもっと近くで見ようとベンチから立ち上がった。
脱いだ靴を履いた瞬間、踵に激痛が走った。歩き疲れたせいだろうか、所作が乱暴になってしまったようである。それにしても痛い。堪らずアジュアは両膝と両手を地面についた。
今度は右の掌に違和感である。なんであろうかと上げてみると、皮がざっくりと切れ、血が滲んでいる。どうやら空き瓶の破片の上に手をついてしまったようである。
両足と右手が痛い。なんで痛いのかはわかってる。全部自分が下手糞だからだ。歩くのも、倒れるのも。
ちっちゃなアジュアは、なにも上手くできない自分が哀しくなった。悔しくなった。理不尽だと思う。なんでマサヨはいないのか。どうして誰も助けてくれないのか。
痙攣するように、少女はその場で哀しさを露わにした。声も涙も、我慢などもうできない。
「ど、どうしたよお嬢ちゃん……迷子か?」
背中から声をかけられた。それが“おっちゃん”との出会いだった。掠れて鈍った声が、ただ嬉しかった。一人ぼっちで凍えてしまいそうな心が、少しだけ暖かくなった。四日前のことである。
おっちゃんは、白岩というここからずっと遠いところの出身で、もう二十年以上も前にこの東京に出てきたらしい。故郷は海の見える何にもないところだけど、ここよりはずっと空気もいいし、皆知り合いだから、暮らすのに安心だそうだ。
段ボール小屋での生活は十年になるという。ただしこの公園に来たのは一ヵ月前からであり、それまでは東京中の街や駅を転々として、いずれはここも出て行かなければならないという。アジュアはそんな話を中年の彼から聞き、だが自分のことは一切口にせず、ただ耳を傾けていた。
段ボール小屋の中は意外と広く、すこし湿度が高いのと、異臭がする点を除けばそれほど不快ではない。
「話したくねぇんなら、聞かねけど……どうすんだよ、お前」
「おっちゃん……ご飯とか?」
「まー、いろいろだな。ハンバーガー屋から拾ってきたり……空き瓶集めて換金したり……」
「わたしね。お金はある……ここに泊めてくれるんなら。ご飯代出す」
この提案をおっちゃんは断った。しかしアジュアが近所のコンビニエンスストアで弁当を二つ買ってくると、彼の拒絶は呆気なく覆り、四日目となるこの夕方も、いつ彼女が帰って来るかとハウスの前で待ちわびていた。
不思議な少女である。ほとんど口も利かず、家出にしてはあまりにも謎めいている。一緒に暮らすようになってからも、自分のことは何も話さず、だが食料の調達や洗濯、掃除などはマメに甲斐甲斐しくやってくれる。一度不安になり、まさか万引きでもしてはいないだろうかと買い物の後をつけてみたが、彼女はコンビニでちゃんと金を払っていて、それを電柱の陰から覗き見た彼は、ようやく安心することができた。
そう、一つだけわかることがある。これは彼が昔、デパートの物産展を担当したことがある経験上判断できることなのだが、少女の着ている毛皮のコートは、確かロシア東方の少数民族のものである。もちろんそのような事実が判明したところで、存在の不思議さに輪をかけるだけではあったが。
正体も不明。名前すらわからない。三食をコンビニで調達し、家事まで面倒を見てくれる小さな少女。あまりにも出来すぎた話である。これで彼女がもう少し年齢が高ければ、自分は正気というものを失ってしまうかも知れない。
いや。どうでもいい。長く考えるのは億劫だ。時間や世間と付き合いながらも距離を置いている自分に、まっとうな価値観などあるはずもない。彼女が自分のことを語らない、つまり存在を主張しないということは、権利を放棄しているのと同じである。
段ボールハウスの陰から、彼は遊んでいる子供たちをじっと見つめていた。あの子たちと彼女は違う。俺とあの子たちの親が違うように。
億劫と思う割には、都合のいい解釈にだけは思考を巡らせる彼である。そんな気質だからこそ、少女とベンチに並んで座って弁当を食べていても、コートのフードから窺える黒い髪が、意外とさらさらしているように見えるなど、そんなことがつい気になってしまう。
そんな人間だからこそ、公共の場に仕方がないと暮らすことが出来る。彼の矛盾に満ちた現状は、すなわち彼そのものが存在を体現した結果でしかなかった。
だから、故郷を思い出しても悔しくない。かつて関わった人々を思い出しても怒りはない。
寂しいだけである。裏切りも、罵倒も、嘲笑も、慈悲も、全ては寂しいだけである。沢庵を噛む彼は涙ぐみ、あまり先のことは考えたくないと、左手で薄汚いジャンパーの袖を擦った。
やがて夜になった。新聞紙を敷き詰めたすぐ隣で、寝息を立てている少女の背中に身体を向けた彼は、垢だらけの両手を彼女のコートの中に滑り込ませ、体重を徐々に預けていった。
アジュアは胸の先に違和感を覚えた。不器用で、乱暴な何かが擦っている。摘んでいる。これは許してはいけない距離である。マサヨはそう教えてくれた。ここはだめ。ここはいい。ここは相手次第。犬と同じ。関係と距離は結びついている。まず関係を見極めろ。こんな接触、“おっちゃん”に許してはならない。
少女は背後からくる雪崩のような意を跳ね返すべく、全身を毛布から抜け出させようとした。しかし男の手は彼女の手首を掴み、数倍の体重が仰向けになったアジュアに覆いかぶさった。
叫び声一つ上げない。恐れているのだろうか。しかしもう後には戻れない。食事や身の回りの世話をしてくれるのなら、溜まりに溜まった欲求も処理させて欲しい。何もかも謎なのだから、都合のいい存在なのだから、これは一線などではない。ついでだ。
仰向けにしたアジュアの両肩を上から押さえた彼に、理性という制御機能は働いていなかった。男を支配しているのは欲望をどうぶつけるか、その一点のみである。
肘を押さえてこないのが不思議だ。こんな不完全な制圧などあるのだろうか。おっちゃんは怯えているんだ。焦ってるんだ。なら、恐くない。アジュアは手元の自由を確認し、こうなってしまったのだから仕方がないかと諦めてしまった。
一閃であった。僅かにハウスの中に差し込んでいた公園の灯りが、冷たく鋭利なそれに一瞬だけ反射した。静電気だろうか。男がその輝きを認めた直後、彼の腹は崩れ、眼下にいたはずの少女は姿を消していた。
朱色の臓物が彼の腹からこぼれ落ちた。即死を狙うならもっと別の箇所もあったが、斬撃と離脱を同時に行う以上、もっとも動かない腹部が適当である。ナイフを手にしたアジュアは、腸を取り戻そうと右手でそれをかき集める“おっちゃん”の無様な背中をいつ絶命するかと見守り、数十秒後にはハウスから公園に出た。
優しい声だと思った。リューティガーを抹殺するまでの間、マサヨの代わりになってくれると思っていた。故郷や過去の話をするおっちゃんはどこまでも楽しそうで、懐かしそうで、それを聞けるだけでよかった。だから弁当だって買ってきてあげたのに。おっちゃんはそれ以上を要求した。なら、関係はおわりだ。
雪が谷大塚を目指そう。この四日間でコンビニエンスストアの店員と、なんとか会話をできるぐらいには心を開けるようになった。おっちゃんを簡単に殺せたのも自信にしていい。マサヨが教えてくれたナイフでじゅうぶん身を守ることが出来る。踵だってもうそれほど痛くない。ちっちゃなアジュアは公園を出て路地を歩き始めた。来たときよりもずっと力強い足取りで。
3.
「エッグプラント。ワタシとまりかはこれからヒルメシね。どーする、キミは?」
空色の瞳を輝かせ、ハリエット・スペンサーはPCで報告書を打つ那須誠一郎(なす せいいちろう)の背中にそんな声をかけた。
「俺はパス。午後イチまでにこいつを提出しなくちゃいけないんだ」
液晶ディスプレイから視線を離さず、那須は素っ気ない返事をした。モデル並のスタイルのよさはスーツでは隠し切れず、見事なブロンドもコンプレックスを刺激する。そんなCIA捜査官からのランチの誘いを断るのは惜しかったが、常勤者として最も高性能なデスクトップPCを与えられている以上、書類作成に遅れを生じさせることは許されない。那須はその性格において生真面目であり、特に上司からの要請には全力で応えたいという願望もあった。
しかしそれにしても“エッグプラント”とはあまりである。ハリエットは来日してから数週間で、この内閣特務調査室F資本対策班のメンバーに様々なあだ名をつけていた。
那須はエッグプラント、柴田はターフ、森村主任はフォレスト主任であり、竹原班長はバンブー班長である。自分だけが名前の漢字とは違い、読みだけで適当なあだ名をつけられている。一度、「俺の那須はその食べる方の茄子じゃない。ワカル?」と、抗議したところ、では“那須”とは英語でどんな意味?
と問われてしまい、思わず小声で「アンダルシア」とぽつりと漏らし、周囲を白けさせてしまった苦い失敗をしてしまっている。それ以来“エッグプラント”を受け入れてはいるが、いつかハリエットにも恥ずかしい日本名をつけて反撃してやりたいものだと思っていた。
「ここってね、結構好きなんだけど……ハリエットの口に合うかな?」
内閣府別館より外堀通りへ向かい、歩いて数分。特許庁の地下にその食堂はあった。世間はゴールデンウイークに突入していて、五月二日の月曜日である本日も大抵の企業は長期休暇をとっている。しかし官公庁の休日はあくまでも暦通りであり、昼の二時を過ぎていたにもかかわらず、食堂には背中を丸めたスーツ姿が点在していた。
神崎まりか。F資本対策班の実働部門のエースであり、特定公安分野にかけては日本国が最も頼りとしている、弱冠二十三歳の公務員である。その彼女に、「今日はまりかが好きな店にしましょう!!
ドコでもいいわよ!!」と提案した結果が、内閣府別館にもあるような、この公務員食堂である。特許庁という外部に開かれている省庁だけあって、客の中には民間人の姿も見え、ランチの種類もCまであり別館より一種類多いものの、ガラスケースの中の食品モデルはどれも色あせていて、ハリエットは“結構好きなんだけど”と照れくさそうに言うまりかの好みに肩と眉を上下させた。
「合わせてみせましょう」
首を傾げて微笑むハリエットはそう言うと、まりかに続いてセルフサービスのカウンターへ向かった。
「見た目はちょっとアレだけど、ここのチャーシュー麺が好きなんだ」
まりかは振り向き様にサングラスを人差し指でずらし、ハリエットにウインクをした。
「チャーシュー!? 煮豚……!? ふ、太らない?」
「あははー……なーんか体質なのかな。わたし、いっくら食べても太らないのよねー」
官が支給したジャケットの腹部を擦ったまりかは、厨房の中年女性に、「チャーシュー麺よろしく!!」と笑顔で注文し、ハリエットはざる蕎麦を続けて頼んだ。
「意外とおいしいかな?」
蕎麦を啜ったハリエットは、まりかに、「だめだめ、わさび入れないと」と注意され、何度も首を横に振った。
「こ、こっちの刺激系はカンベンね。まだ、ぜんぜん慣れない!!」
「なら仕方ないけど……えー……じゃあ、お寿司なんかもサビぬき?」
「もちろん!! いつも注文のとき、イタサンに笑われるね!!」
ハリエットとコンビを組んで一ヵ月以上が経過するが、最初はぎこちなかった日本語も随分上達したようだし、逆に彼女からアメリカンイングリッシュを学ぶこともある。相棒としては性格も明るく職務も真面目であり、ときどき習慣上の違いによる衝突が班内であるものの、概ねよい関係性を保っていると言える。
無論、CIAからの出向捜査官と仲良くなるという事態があまり好ましくないものであることぐらい、キャリアの少ないまりかにもよくわかっている。お互いが非常時の人間なのである。それが海を越えて長期間行動を共にするということは、すなわち両国に関わる大規模事件が解決していないということを意味するからだ。
それにしても、ハリエット・スペンサーは常に元気である。朝も那須に続いて二番目の出勤であり、徹夜仕事も難なくこなす。たまに空いた時間は走ったりジムに通ったりしているというから、これは学ぶべき点もあるのだろう。しかし彼女とこうして食事をすると、話題は決まって、
「それにしてもまりかはすごいね!! たった一人でよく戦えたし、勝てたよ!!」
と、七年前の戦いに終始する。それも会話というよりは彼女の側からの一方的な賛辞であり、それだけは正直言ってやめて欲しいと常々思っているまりかだった。
「ハリエット、何度も言うけど、“たった一人”じゃあないわ。仲間もいたし、バックアップだってあった。さすがに一人じゃ無理」
「けどCIAの報告書では、まりか一人ってことになってるね。照れて謙遜するのは日本人の美徳だけど、あまり過ぎると嫌味になるわよー!!」
ハリエットは楽しげにそう言うと、蕎麦湯を注ぎ足し、それを啜った。
CIAの公式書類では、そういうことになっているのだろう。なるほど、それをそのままの真実としてしまえば、謙遜が嫌味に聞こえると言われても仕方がない。だが、事実は異なる。七年以上前になる、あの戦いは決して一人で乗り切ったものではない。僅か三人だったが、頼もしい仲間たちがいた。技術と情報を提供してくれる支援者もいた。しかしその存在を政府や関係機関に対して、明言していないまりかだった。仲間のうち二人が死に、一人はそっと旅立ち、支援者達は裏世界にひっそりと生き続けると言っていたから、証言を濁したまりかだった。
このままでは、少々ややこしいことになる。ラーメンのスープを蓮華でひと啜りしたまりかは、そう感じながらハリエットに視線を移した。
「謙遜じゃなくって現実だよ……わたしにできるのは、戦うことだけ……敵の動きを捉える目、企みを聞く耳、現場に辿り着く足が揃ってたから、わたしはファクトと戦えた……」
「なるほど。だからいまは、政府の厄介になってるってことね」
「そう……敵がまだいる……だから、こうするしかないもの」
「いい判断だと思うよ。だってそのおかげで、ワタシたちは知り会えたんだし」
どこまでも前向きである。会話の中には捜査官として、聞き捨てならない情報も含まれていたはずである。それなのに彼女は微笑を絶やさぬまま、慣れぬであろう蕎麦湯を啜っている。
もしかしたら友人になれるのだろうか。まりかはハリエットの空色の瞳を見つめ、ふとそんなことを思っていた。
明後日の四日は、横田基地前で恒例のデモである。議長の関名嘉(せきなか)は、麻布の米軍ヘリ墜落事故もあって、今回はマスコミも大挙して取材に来る。いっそう励むようにとメールを送ってきた。
「頑張ろうね」、「緊張するよね」、「当日は待ち合わせて一緒に行こうか」
なんでもいい、そんな気持ちを言葉で伝えることができれば、仲間という関係をより意識することができる。
比留間圭治(ひるま けいじ)は放課後の教室で、今日こそは高橋知恵(たかはし
ともえ)に声をかけようと、勇気を振り絞って席を立った。
黒く長い髪は手入れも行き届いておらず、所々に見える枝毛はすでに彼女の特徴と化している。学生鞄を手に教室から出ようとする彼女の後姿を、比留間は足を速めて追いかけた。
「た、高橋さん……」
周囲に目立たぬように気をつけてはみたものの、決して小さな声ではないはずである。しかし高橋知恵は同級生の声に反応せず、早足で廊下から階段へと歩き去っていってしまった。
なんなのだろう。この無視は。いや、彼女のことだから昼休みに読んでいた本のことを考えていた可能性もある。チョコレートをくれるほど、こちらに対しては好意を抱いているはずだし、学校で人の悪いクラスメイトたちがいる前だから、すっかり照れてしまっているのかも知れない。
比留間圭治は相変わらず都合の良い解釈で、気になる彼女の素っ気無さを悪い意味には捉えていなかった。
「ルディ!! 今日と言う今日は科研に出て貰いますからね!!」
赤い縁の眼鏡に手を当て、後ろに髪を結んだ小柄な少女、吉見英理子が教室から出ようとするリューティガー真錠の手首を掴んだ。
我ながら大胆なことをしてしまっただろうか。しかし毎週月曜日の研究会に出席しない、この栗色の髪の会員をいい加減出席させないことには、同級生として示しがつかない。会長の江藤は口数こそ少ないが不気味なまでの存在感があり、焦点の定まらない目でじっとこちらを見つめて、「ルディくんは……どうしていないのかな」と、地の底からの呻きのように小さな声で尋ねてくる。プレッシャーはもうごめんだ。しかし思っていたより、なんとしっかりとした手首だろうか。英理子は目を伏せ、「お、お願いだから」と小さくつぶやいた。
「そ、そっかぁ……今日は月曜日でしたね!! 了解です。今から行きましょう!!」
転入したころを彷彿とさせる明るさである。あの“無邪気な笑み”である。リューティガーが手を握り返してきたため英理子はすっかり固まってしまい、口元をわなわなと歪めた。
「じゃあ……今日は私からの発表ね……」
北校舎三階の空き教室が、科学研究会、通称「科研」の会合場所である。毎週水曜日はここでプロレス同好会の会合が開かれるため、資料や私物を置いておくことはできない決まりだが、教室隅のロッカーは英理子の生徒会への交渉で使用許可をとっていて、彼女はそこからノートを取り出した。
「念動力……いわゆるPKってやつのまとめ。メールでも送ってるからそちらも見て欲しいんだけど、現在のところもっとも有力な説は、体内電気説ね。わたしもそれを支持したいんだ」
科学研究会という名称でありながら、この会は超能力や超常現象について語り合うのが実体である。じっと英理子の話を聞いている男子生徒、2年C組の江藤という男子生徒が昨年学校側に設立申請をした際、認可されやすいと思い策を巡らせた結果であるとリューティガーは聞かされている。
しかしそれにしても“異なる力”の持ち主である自分が、なぜよりによって超能力研究サークルに所属しなければならないのだろうか。成り行きでこうなってしまったから、当初は不満もあり、すぐに口実を見つけて退会したかったのだが、余裕をもって全てに取り組むべきであると気付いた今では、これはこれで茶番めいていて、楽しいとさえ思えてしまう瞬間もある。頬杖をついて同級生の念動力説を聞いていた彼は、それにしても賢人同盟ですら理論的検証が済んでいない念動力を体内電気の一言でまとめてしまう暴論に、だがそれも仕方がないかと思った。
「どうかな。みんなの意見は?」
江藤に英理子、そしてリューティガーの他、この研究会にはA組の女子が一名。一年生の新会員が二名の総勢六名しかいない。しかし英理子に促された途端、江藤とリューティガー以外の三人は、一斉に持論を語りだし、その騒々しさは人数以上である。
「電気説一つに絞るのは暴論よね。マキノシラジー量子説だって、まだ風化させるのに惜しいもの」
「ぼ、僕は吉見先輩に賛成です。マキノ説はやっぱり怪しげすぎて、けど電気なら自然界にだって存在してますし、アリゾナ研の実験結果でも、検出がされていますから」
「全然っ違う!! 何度も言うようにネギトロ星人のマインドコントロールよ!! ネギトロはめぼしいターゲットを定めてるの。そしてそいつに力を授けてるんだから!!」
「ぼ、僕はネギトロって知らないけど」
「アドレス送ったでしょー!! 見てないのー!?」
「私は見たけど、あれってネタサイトでしょ」
「違います!! あれはれっきとした検証サイトです!!」
なんとも愉快である。リューティガーにとって、会員たちの力説は全て確証もない珍説の類であり、それを信じて疑わない純真さが眩しくも感じられる。
もし会員たちに、自分の正体を明かせばどうなるだろう。驚くだろうか。羨むだろうか。つまらないと怒るかもしれない。そんな取りとめもないことを彼が考えていると、「ルディの意見は?」と、英理子が尋ねてきた。
「ぼ、僕?」
「ええ。体内電気説について、詳しくなくってもいいから。感想とかでもいいから」
英理子にそう問われ、リューティガーは腕を組んだ。
「うーん……体内電気はわかりませんけど……超能力……異なる力に関しては……通常感覚が大きく左右することがあると思います……」
“異なる力”、“通常感覚”この聞きなれない二つの単語に江藤以外の会員たちは興味を向けた。
「つ、つまり……見えたり聞こえたり……匂いとか気配でもいいんですけど……念じて物を動かすにしても、対象の構造を認識しているかどうかで能力の効率が左右されるとか……実は普通に身体を動かしたりすることの延長だと……ご、ごめんなさい……なんかわけわかんないこと言ってて……」
「う、ううん……なんか……面白い説ね。それにわかんなくないような気もする」
英理子は眼鏡を直し、興味深そうに言った。
「なんかルディは経験者って感じよね」
「真錠先輩、僕、先輩の説を支持します」
「そりゃ、ネギトロ星人だって人間と同じ感覚はもってるものねぇ。ルディ先輩は正しいわよ」
こうも口々に肯定されると、どうにも照れくさい。堪らずリューティガーが栗色の髪を掻くと、英理子はそんな彼を少しだけ可愛いと思った。
すると彼女の手首を、隣に座っていた江藤会長が掴み、耳元に顔を寄せた。
常に、この江藤という人物は英理子を使って他者へコミュニケーションをとる。しかしそれではC組で彼は一体どうやってクラスメイトと話をしているのだろう。まさかまったく口も利かないのだろうか。リューティガーがそう不思議がっていると、江藤は英理子から離れ、つぶらで黒目がちな瞳を向けてきた。
「えっとね……ルディ……その説……リポートにしてまとめてくれって……会長が」
「は、はぁ……レポートですか……」
英理子の言葉にすっかり困ってしまったリューティガーに、江藤会長はリズムよく三回続けて頷いた。
4.
怒りの表現、悲しみの表現、喜びの表現。演劇部に入部した際、島守遼が最初に、「まずはやってみろ」と、平田先輩に言われ、挑戦してみた課題である。
結果は悲惨の一語に尽き、豊かな感情表現とは程遠い、分裂症患者の如きちぐはぐな気持ちの露呈をしてしまっただけだった。あの失敗は発声や演技に対する心構えといった技術以前の、演ずることに対しての照れが障壁となって、妙な制御が働いてしまった結果であることを、島守遼は一年を経た現在においては認識することができている。だから一年生の新入部員がぎこちなく感情を表現する姿を、彼は決して馬鹿にするすることなく、過去の自分として捉えることができた。
六名の新入部員は男子二名、女子四名という内訳であり、特に男子コンビの照れ上がって地に足のつかない表現は、まったくの素人と言っていいレベルである。
「春里繭花(はるさと まゆか)、やらせていただきます!!」
手を挙げた一年生の女子は、フレームのない丸眼鏡をかけたショートカットの可愛らしい、まだあどけなさの残る少女であり、遼は彼女の胸が豊かである事実が妙に不釣り合いだと感じた。
男子コンビよりは遥かに、先に課題に挑戦した二名の女子新入部員よりはわずかに高く、そんなレベルの感情表現である。これならすぐに役を与えてもそれなりの結果は出せるだろう。パイプ椅子に座って腕を組んでいた平田は、春里繭花の演技をそう認定した。
「春里? もっと声は腹から出す。腹式は教えたっしょ?」
部長の福岡がそう注意をすると、春里繭花は眼鏡に手をあて、「はぁ……」と、曖昧な返事をし、その直後に、「了解しましたー」と付け加えた。
「澤村奈美(さわむら なみ)行きます!!」
新入部員最後の一名、澤村奈美が手を挙げて皆の前に歩いてきた。
少しだけ吊り上がった目に、角度によっては赤く透き通った光を反射する長い髪、手足がすらりと長く、スタイルの良さがジャージの上からでもじゅうぶん確認できる。そんな見栄えのよさを彼女は持ち合わせていた。
「あの程度の人が主役でしたら、もちろんわたしが今日からトップでしょうし、これからは皆さんの負担を大分軽減させることができると思いますから」
入部当日、奈美はそう宣言し、部員たちの注目を集めた。あれは挑発の類なのだろう。“あの程度の人”呼ばわりされた神崎はるみはそれでもなぜか、彼女に対して怒る気になれなかった。
不思議ではあったがよくよく考えてみれば自分が現在、あのような挑発に構っている状況ではないと気付き、ならば今後は徹底して煽りに対しては避けて逃げてしまおうとはるみは決めていた。
あの翌日、奈美は発声練習で豊かで音色も美しい声を披露し、続けて行われた基礎運動能力測定の際も身のこなしが軽快であり、そういった意味では役者として無視できない新人だと思える。言うだけのことはあると感じたはるみだったから、今日の新入部員向け課題も注目していた。
怒り、悲しみ、喜び。感情表現も大したものである。正直、一年生の中では突出している。いや、部でもトップクラスであると言っていい。そう感じたのは、はるみだけではなかった。平田は眼鏡をかけ直し、壁に寄りかかっていた遼の背中は浮き上がり、福岡部長の浮かべていた人の悪い笑みはすっかり消えてしまった。
迫力があり、それでいて華もある。美少女で演技も達者となると、これはもう蜷河理佳の再来と言ってもいい。そろそろ秋の文化祭の演目を決めなければならない時期が迫っている。平田浩二はさて、この新星をどう生かすべきかと考え始めた。
「どーでした遼先輩!?」
課題を終えた奈美は遼の前まで跳ね、着地と同時に彼を見上げた。
「あ? ま、まー、上手いと思うよ。俺よか全然いいんじゃねーの?」
「ほんとですかぁ!! 嬉しい!! もうほんとに嬉しい!!」
演技の興奮が残っているのか、奈美の喜びようは大げさすぎるほどであり、遼は強い意を当てられるのにうんざりして頭を掻いた。
「ねー平田くん。あの子どう使うか考えてるんでしょ」
福岡にそう問われた平田は小さく頷き、うっすらと笑みを浮かべた。
「変な奴だが、あいつを中心に考えるのも面白いと思ったよ」
「変な奴? ちょっとそれは言いすぎなんじゃないの?」
「福岡さんはやられてないのか? 澤村に」
「なにを?」
「顔を触ってきたんだぜ、針越さんや神崎さんもやられたそうだし、先生の中にも何人かいるらしい」
平田の奇妙な話に、福岡は切り揃えた前髪を撫で、口を尖らせた。
「わけわかんない。なにそれ」
「両手で顔を触るんだよ。でさ、満足って様子で立ち去ってく……な、変な奴だろ」
「どうしてそんなことするの?」
「知らないよ。誰もまだ聞いてないし」
「どーしたんですセンパイ!!」
平田と福岡の会話に割って入ってきたのは鈴木歩(すずき あゆみ)である。彼女は目を爛々と輝かせ、野暮ったい化粧顔を平田へ向けた。
「ん……ああ……澤村さんが変わり者って話だよ」
「アイツ? な、なんかやらかしたんですか!? っつーか注意しましょーか!?」
なぜそうした話になってしまうのだろう。退部届の一件以来、妙に懐いてきているこの下級生のロジックを平田はいまだに理解することができず、正直言って扱いあぐねていた。
福岡章江は平田の困り顔を見て、この堅物にも苦手なタイプというのがいたのかと、その発見が面白くて仕方がなかった。
「大体一年のクセに生意気なんスよね!! そりゃ、ちょっとは可愛いでしょうけど、上下関係きちっと教えないと、示しつかないってやつ!?」
「あ、あのなぁ鈴木……勝手に話を進めるもんじゃないだろ。俺は変わり者としか言ってないのに、なんで君は自分の主観で進める。なんなんだ一体?」
そう注意された鈴木は、堪らず両目を閉ざし、身体の芯に何かが走るのを感じた。
叱られるのが最初は恐かった。しかし慣れてしまった今では心地がいい。なにかこう、びりっとくるのである。だからわざと暴走気味に仕向けてしまうことがある。それに、怒ったあと眼鏡をかけ直す彼の仕草がなんとも理知的で、大人のようで、厳しい素敵さなのである。鈴木はこのやりとりがあるから、自分のような演劇にまったく興味のない人間が、この部に居続けることができると認識していた。
新入部員の澤村奈美は、さきほどからずっと遼に話しかけている。彼の方と言えば相変わらずうんざりしているが、あれだけ可愛い下級生なのだから、まったく嫌というわけでもないのだろう。はるみは壁際でのやりとりを部室の隅からぼんやりと見つめ、さて、自分はこれからどうしようかと吐息を漏らした。
初の主演は大きな自信を彼女に与えていた。精一杯であり、反省点も多いが自分を褒めてもいい成果があったと思う。彼に自分の気持ちも伝えられたと思うし、こうなるといよいよ探求する勇気が伴ったと思ってよいはずだ。
だが、ひたすら頭を掻いて下級生に呆れた笑みを向けている彼は、探求からきっと逃げ続けるだろう。秘密があることに間違いはない。だが、彼はそれに近づくなと警告してきた。それが自分に関係のない事件についてであれば、知ろうという気持ちはただの欲求に過ぎないのかもしれない。
しかし、自分を取り巻く疑問と密接に繋がっている。漠然とした、確証のない感覚なのだが、それが少女の心を突き動かそうとしていた。幼いころからいくつかあった、不思議で辻褄の合わない出来事。その中心にいたのは姉、神崎まりかである。
少し前であれば、疑問の探求は容易に弾かれていただろう。「はるみ。あんたには関係ないから」、「それは夢よはるみ。あるわけないじゃないそんなこと」強く否定され、遂には両親にまで叱られ、弾かれていただろう。けど今は自信がある。立派に対応できるはずである。
はるみは更衣室へ向かい、自分のロッカーから学生手帳を取り出した。
内閣府財務室……ここに……まりか姉が勤めている……
気持ちの悪い引っかかりと、そろそろ正面から向き合うべきだと思う。でないと彼はどんどん自分から遠ざかっていく。
「あゆね、びっくりしたっつーか、驚いた!? 島守ってさ、すっごいおまじない知ってるんだ!!」
鈴木は先の公演のあと、そんなことを自分に漏らしていた。それは“おまじない”などではないだろう。彼、島守遼は確実になにか特殊な力を身につけている。それはリューティガー真錠にしても同様なのだろうし、姉はそれについても何らかの関わりを持っているはずである。
ブレザーに着替えたはるみは、携帯電話で内閣府財務室に電話をかけ、電車でのアクセス方法を尋ねた。時刻は十四時半。今からならまだ間に合う。少女は学生鞄を手に、更衣室から駆け出していった。
ここが学校というものなのだろうか。仁愛高校の校舎を見上げたアジュアは、それにしても毛皮のコートはいくらなんでも暑過ぎると額の汗を拭い、しかしダーツや笛、現金の全てをポケットにしまっているので脱いで抱えることはできないため、昼過ぎからずっとぼうっとした意識の薄さに苛まれていた。
みんな、同じ格好してるし、マサヨと同じぐらいの人たちだから、ここは学校。仁愛高校……ここにリューティガー真錠が通っている……
正門の前にやってきたアジュアは、そこから大勢の生徒たちが出てきたため、恐くなって塀際へ駆け寄った。
七人はいる。あんなに大勢とはすれ違ったことがない。すっかり恐くなった彼女は、コートのフードをすっぽりと被り、正門以外に敷地内へと侵入できる場所ないかと探し始めた。
バス停を越え、生徒ホールの裏手まで駆けてきたアジュアは、小さな裏門が開いている事実に気付き、自分はついていると感激した。
慎重に、誰にも見られていないことを確認して、彼女は学校の敷地内に潜入した。果たしてターゲットはどこにいるのだろう。正門の状況からして、もう帰ってしまった可能性もある。発見ができなくとも普段はどこにいるのか、そんな情報を得るだけでも今後の選択の幅はずっと広がる。少女は時々壁に背を付け立ち止まり、再び木々の中を抜け、中央校舎の入り口を目指した。
生徒ホールの角から、突然その大きな影は姿を現した。もう一息で校舎に辿り着けそうだったアジュアは飛び出しを回避するため後ろに跳ね、ホールの壁に背中を強くぶつけてしまった。
ひどく痛い。尻餅をついてしまった彼女は、自分と同じように衝突を回避するために転倒してしまった影に強い意を向けた。
ターゲットと似たような年齢の、ランニング姿の男である。しかし髪は栗色ではなく茶色いし、眼鏡もかけておらず瞳も紺色ではない。こちらを呆然と見つめる年上の少年がリューティガーではないことを確認したアジュアは、さてこの目撃者へどう対するべきか迷った。
西沢速男(にしざわ はやお)は足首を擦り、転倒はしたもののどこも打っていない幸運に笑みを浮かべ、すぐにその要因となった毛皮のコートを着た少女に注目した。
まだ小学生ぐらいか。一体どこから迷い込んできたのだろう。それにしても困ったような、泣き出しそうな、そんな情けない表情である。西沢は茶色に染めた髪を撫で、ゆっくりと立ち上がった。
「お、おい君……どこから入ってきた……? だめだよここは。高校なんだから……」
先制されてしまった。いきなり声をかけてくるとは思っていなかったアジュアはすっかり混乱し、喉を上下させて呻き声を上げた。
泣き出すのか。そう思い身構えてしまった西沢だったが、少女は踵を返して裏門に向かって一目散に駆け出していった。
誰かの妹なのかも知れない。西沢はそんな想像をして似た顔を思い出そうとしたが、早くグラウンドに戻らなければ、新入部員に示しがつかないと本来の目的に気持ちを引き締め、その場から駆け出した。
生徒ホール周辺の植え込みに、一本のダーツが残された。アジュアがポケットに入れておいたそれが四本になってしまったと気付いたのは、これよりもっと後のことである。主からはぐれた不死のダーツは、細かな枝や枯れ葉に紛れ、薄暗いホールの裏に誰からも気付かれることなくひっそりと転がり続けていた。
5.
五反田まで池上線で移動し、その後は山手線で恵比寿まで行き、地下鉄日比谷線に乗り霞ヶ関で降りる。
官庁関係の、地味で威厳だけはたっぷりのつまらない街中を歩きながら、神崎はるみは姉の職場があるという実感がどうしても湧いてこなかった。
避けていたのは自分である。ことある度に、「勉強はしているか」、「真面目に頑張った人しか幸せになれない」などと小言を浴びせられるため、正直うんざりもしていたし、自分は彼女のように勉強ができるわけでもなく、男友達にちやほやされるようなこともあまりなかったので、その存在はできるだけ意識したくなかった。だから霞ヶ関という駅で降りるのも小学校の社会見学以来だったし、歩道に設置された区画地図を見て、内閣府の場所を確かめるなど、半年前ではとても考えられない行為である。
それにしても、どうしてこう全てが灰色で、似たような建物なのだろう。はるみは何度も道に迷いながら、国会議事堂近くにある内閣府の建物にようやく辿り着くことができた。
ブレザー姿の女子高生が一人で来るには、あまりにも無粋で華のないロビーである。内閣府の一階にやってきたはるみは、エレベーター横のボードで財務室を確認し、エレベーターに乗り込んで三階のボタンを押した。探求するということは、縁の薄い違和感と付き合うことにもなる。同乗した公務員の男たちの視線を感じながら少女はそう思い、学生鞄を抱きかかえた。
「はい。こちらに勤めている神崎まりかです。わたしはその妹で、姉に用があってきたのですが……」
受け付けのインターフォンを耳に当てていたはるみは、パーティション越しに姉の姿を探してみた。
「神崎さんは現在出向中で、この部署にはおりませんが」
聞こえてきた女性の声にはるみは瞬きし、「出向?」と思わずおうむ返ししてしまった。
何度聞いても、インターフォンの相手は姉の出向先を教えてはくれなかった。うかがっておりませんの一点張りであり、あまりに事務的な応対にはるみはすっかり滅入ってしまった。もし彼女が姉の同僚であるならば、なんという陰鬱とした仕事仲間であろうか。
こうなると、姉と会って話ができる場所は一箇所しか残されていない。学生手帳を鞄から取り出したはるみは姉のアドレスを確認し、地下鉄へ向かった。
時刻は十七時を過ぎ、辺りは夕日の朱に包まれようとしていた。雪が谷大塚から出発したことを考えると、なんと遠くまで来てしまったことだろう。神崎はるみは北千住の住宅街を歩きながら、住所を何度も電柱の表記で確認した。
白い三階建ての、真新しい集合住宅の入り口には、「内閣府官舎」と書かれてあった。共通の玄関は透明の自動ドアで隔てられ、近づいてもそれが開くことはなかった。
仕方がない。根気が続くまでここで待つしかないだろう。はるみは自動ドア横の壁に背中を付け、姉の帰りを待つことにした。
一時間ほどが経過した。空はすっかり暗くなり、車のヘッドライトが時々通り過ぎていく時刻である。五月の陽気は寒さも暑さも感じさせないほど快適ではあったが、いい加減退屈にもなってきた。姉の携帯電話の番号を聞いておけばよかった。行き当たりばったりの行動の、なんともしまらない展開に少女は辟易としてしまい、遂にはその場にしゃがみ込んでしまった。
更に一時間が経った。いよいよをもって退屈の極みに達しそうであり、それに伴って空腹も感じ始めていた。昼に学食で玉子丼を食べてから六時間以上が過ぎている。こんなことなら北千住の駅前でハンバーガーでも買っておけばよかった。後悔にはるみが呻き声を上げると、「なにやってるの……?」そんな聞きなれた声が、彼女の鼓膜をくすぐった。
姉の部屋である。そう、机やクッションがまったく同じだ。ベッドや棚は新しいものだが、デザインもなんとなく似ている。場所は違えど、人が同じなら住む空間は自ずと共通してくるものである。はるみはベッドに腰を下ろし、ジュースの注がれたグラスを持ってきた姉に軽く頭を下げた。
「どーゆーことはるみ? あんた財務室にも来たんですって?」
「あ、う、うん……」
「十五日にはいったん帰るって、ママ、言ってなかった?」
椅子に腰掛けた姉、神崎まりかは自分のジュースを口に含み、サングラスを外すと厳しい眼光を妹に向け、革のパンツを穿いた長い足を組んだ。
「ま、まだ聞いてないな……そ、そうなんだ」
「久しぶりにお休みもらえたの。で、なんなの? はるみがわたしを訪ねてくるなんて、珍しいじゃない」
「う、うん……ねぇまりか姉……出向って言われたんだけど……どこに行ってるの?」
「財務室の出張機関よ。年度が替わったから、財務処理の手が足りてない部署があるの。けどその詳細がマスコミとかに知られると、職務怠慢だとかいろいろ突っ込まれるから内緒にしてるのよ」
すらすらと、淀みなくまりかはそう言った。これは対策班勤務をカモフラージュするために予め用意してある情報である。季節によって五種類設定してあるこの嘘を使い分けることに、彼女はなんの疑いもなかった。
「けどはるみ。お姉ちゃんの質問の答えになってないわよ。出向の件ははるみが財務室に来てから知ったことでしょ? まずなんで財務室まできたのか。それを教えてくれないかな?」
いつもこうである。姉はいつも高圧的で厳しい。はるみはすっかり萎縮してしまい、だがこのままではそれこそ何のために北千住まで来たのかわからなくなってしまうと思い、ありったけの勇気を振り絞った。
「まりか姉って、超能力とか信じるほう?」
突然の質問に、椅子の背を掴んでいたまりかの表情が凍りついた。普通の姉妹であれば、与太話で済む話題だろう。しかしこの国の切り札であり、世界最高クラスの念動力者である神崎まりかにとって、その質問は隠蔽してきた事実を暴かれかねない危険さに満ちている。
なぜはるみが。どこまで知っている。なにかが漏れたの……?
グラスを机に置いた姉は手で口を覆い、その様子を妹はじっと観察していた。表情の変化を見抜く訓練は、演技を通じてやっているつもりである。これは、驚愕であり呆然である。はるみはまりかの言葉を失っている様子をそう認識し、まずは一歩だけ前に進んだような気がした。
「はるみは……そーゆーの……信じるほうなんだ……」
言いながらまりかは、かつてこのような会話を誰かとしたような、そんな記憶の混乱を感じた。
「信じるよ……あってもおかしくないって思ってる」
「わ、わたしは信じないな……」
「そうなの? どうして?」
「インチキに決まってるもの」
「言い切っていいのかな……」
会話のテンポがおかしい。これは妹との間合いではない。妙に確信を抱いた、そんな強く自信に溢れた調子である。まりかははるみに視線を向け、彼女がじっとこちらを見つめている事実に顎を引いた。
「なんなの……はるみ……そんな馬鹿馬鹿しいことを聞きに……わざわざ訪ねてきたの?」
「馬鹿馬鹿しいと思わないから……来たんだけどな……」
姉には心当たりがある。このぎこちなさは間違いない。はるみの確信はより強まり、ついにまりかは黙りこんでしまった。
「昔のこととかね……最近よく考えるの……ママ、毛むくじゃらの獣人を見たって言ってたよね。わたしも……教室ジャックで見た……あれはホラーマスクとかなんかじゃない……それに……」
決定的であるのは、正月に遼と高川と帰宅する際に遭った襲撃である。しかしはるみの言葉を遮るように、椅子から立ったまりかは両肩を掴んできた。
「いい加減になさいはるみ!! 馬鹿なことに首を突っ込むんじゃないの!! あなたは普通の子なんだから!! やれる人たちに任せてればいいの!!」
強い叫びである。一喝といってもいい。これだけの意をぶつければ、妹は放心してしまうだろう。
「まりか姉は……“やれる人”……なんだ……」
妹は確実に歳を重ねて成長している。もうあの小さなころのように、言葉だけで納得をさせたり恐がらせたりなどできない。ジュースグラスを手にしたまま上目遣いで見上げるはるみにまりかは息を呑み、肩から手を離した。
「いい……今日は全部知るつもりないし……他にも聞く相手もいるから……」
「はるみ……」
「なんかさ……まりか姉がわたしにきついのって……少し理由がわかったような気がした……なんかさ……それが嬉しい……」
グラスを手渡したはるみは、床に置いていた鞄を手にして、ベッドから立ち上がった。
しくじった。なんてことを言ってしまったのだろう。八年近く、ずっと誤魔化し続けたつもりだったのに。部屋に一人残されたまりかは、路地を歩いていく妹の後姿を窓辺から見つめ、ようやくある事実に気付いた。
あの会話は、かつて友人と交わしたそれに酷似していた。その友人は明るく無邪気で、希望に溢れた同級生だった。妹と同じように。
だからこそ、友人が辿った末路と妹のそれを同一にしてはならない。この身に代えても、たとえ人生を削り込もうとも。
震える両手を握り締め、神崎まりかは、「そうだよね恵子」と、小さくつぶやいた。
6.
ゴールデンウィーク中にはみどりの日もある。つまり、昭和天皇の誕生日だ。そのような時期だからこそ、反米軍デモをやる意義があるというものである。五月四日、反米左翼団体、“音羽会議”の議長、関名嘉は集合した十一名のメンバーにそう言い、自ら「人殺しの米軍は即時撤退せよ」と書かれたプラカードを揚げ、シュプレヒコールにより勢いをつけようと、空いた手を上下させた。
「東京にヘリを墜落させる米軍は出て行けー!!」
「子供が死んだんだぞー!!」
「地球市民に軍隊はいらないのですー!!」
関名嘉をはじめとした十二名のメンバーだけではなく、本日のデモは音羽会議と似たような反米、反戦団体がいくつか合同参加していて、総勢百名近くがここ、横田基地ゲート前で気勢をあげていた。
これだけの人数に囲まれ、抗議行動に参加するのは生まれて初めての経験である。行列すら嫌い、昨年の中国旅行にしても、税関で並ぶのが苦痛で仕方のなかった比留間圭治である。しかし百名近い大勢の、「米軍は出て行けー!!」は、叫んだ直後に全身が震えるような迫力があり、一つの目的に向かって結束している“選ばれた者”という実感が湧いて来る。彼らの思想信条には欠点が多く、賛同することは難しいが、少なくともこうして叫ぶのは悪い気がしない。
それに、今日はテレビ局も取材に来ている。もしマイクやカメラを向けられたら、自分はなんとコメントするべきだろう。「僕はこういった活動に参加していますが、決して特殊な少年ではなく、普通の高校に通う、普通の市民なのです。そんな僕ですら、ここ最近の在日米軍の在り方には疑問を持っているということなのですよ」とでも言ってやろうか。そうしたらネットなどで、「最近のサヨにも随分まともな奴が出てきた」と書き込まれるかも知れないし、音羽会議への参加者も増える可能性だってある。そうなれば関名嘉は自分という存在をもっと重視してくれるだろうし、あの、高橋知恵も見直してくれる。そのためにはもっと目立たねば。
すっかり裏返った声で比留間はシュプレヒコールに力を入れ、その姿はまるで首を絞められた鶏の断末魔のようであり、テレビカメラは別の興味から彼の姿をフレームに収めていた。
「今日の集会は大成功だな!! 皆よく頑張ってくれた!! 明日も頼むぞ!!」
福生の駅前で関名嘉は腰に手を当ててそう言った。結局、テレビインタビューに答えていたのは彼であり、比留間はマイクを向けられることがなかった。抗議する姿こそ映してもらえたが、その日の夕方のニュースで流された映像は後日ネットで“キモオタサヨくん”と命名されるほど、口をすぼめて白目を剥き、へっぴり腰の無様な姿であるのだが、兎にも角にも現時点の彼はそのような客観的事実を想像することもなく、その意識は関名嘉の前で何度も頷く、ブレザー姿の黒髪の少女へ向けられていた。
「せ、関名嘉議長……」
高橋知恵の背中越しに、比留間は自分より長身の彼に手をあげて声をかけた。
「なんだね比留間くん?」
「え、ええ……その……今日なんですけど……今日は……ぼ、僕がですね……その……」
なかなか本題を切り出さない比留間に関名嘉は苛つき、小さく舌打ちをした。
「なんだね比留間くん。なにが言いたいのか?」
「あ、はい!!」
声が裏返ってしまった。高橋知恵が傍にいるのに最悪である。比留間は顔を真っ赤にし、俯いてしまった。
「そのです!! きょ、今日は僕が高橋さんを送っていこうかと思うのですが……!!」
裏帰ったままの声で言い切った比留間は、眼鏡を直して顔を上げた。すると対する関名嘉の隣には、いつの間にか移動したのか高橋知恵の姿がぴったりと寄り添っていた。
なんという近さだろう。この二人は。それに、彼女の自分を見る目の実に冷たいことか。枝毛は相変わらずだが、色白で白目がちな高橋知恵に、比留間は恐さすら覚えてしまった。
「ありがとう比留間くん。けど私は議長と帰るの」
短いが、あまりにはっきりとした拒絶だった。路地に向かって歩き始めた二人の背中を比留間は見つめ続け、そんな彼をまだ解散していない別のメンバーたちが、面白がって注目していた。
ならなんで、二月十四日に彼女はあんな卑猥な笑みを浮かべたのだ。辻褄がまったく合わない。こうなると、一つの可能性しか考えられない。
高橋知恵は関名嘉議長に弱みを握られている。
救いようのない疑念が、比留間の気持ちを黒くさせようとしていた。
機材や器具のメンテナンスにかけてはもうかなり慣れた。なにせ半年以上のキャリアなのだ、バイトの面子だって二回入れ替わったし、いまでは自分と麻生はベテランとして支配人の呉沢(くれさわ)の信頼を勝ち得ている。だからテレビをつけっ放しにしての清掃業務も咎められることはない。モップを前後させながら、島守遼はカウンターの隅に置かれたテレビのニュースに視線を向け、画面に映った映像に全身を硬直させた。
「お、おい麻生!!」
バーベルの手入れをしていた同僚であり、このアルバイトを紹介してくれた同級生、麻生巽(あそう
たつみ)に向かって遼は叫んだ。
「なんだよ島守……テレビがどうした? ニュースか?」
凹凸のはっきりとした顔立ちは目も垂れ下がり、瞼はいつも半分しか開かれていない。仕事の合間に鍛えているため、身体じゅうの筋肉は隆々とし、ユニフォームの上からでも逞しさがよくわかるのが、麻生巽である。その風貌は一見すると日本人には見えず、以前同級生の沢田は遼に、「麻生はイタリア人とのハーフだって説が再浮上してきたぞ」と、結局は噂でしかない情報を興奮しながら伝えてくるほどであった。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
滅多に感情を顕わにしない麻生ではあったが、反米デモのニュース映像に同級生の姿を発見したため、彼にしては珍しく叫び声を上げてしまった。
「な、な、な。こいつ、比留間だよな!!」
「なーにやってんだこいつ。みっともねぇなぁ……」
鶏の断末魔と同級生の政治活動を重ねた遼と麻生は、偶然の目撃に気持ちがすっかり高揚してしまい、今日は一緒に夕飯を食べに行こうとロッカーで着替えながら同意するに至った。
「なぁ島守……そっちの縄跳び、取ってくれないか?」
ロッカールームで一足先に着替えを終えた遼は麻生にそう頼まれ、これのことかと長椅子の上に置かれた縄を手にした。
妙に重い縄である。プロ仕様なのだろうか。鉛でも埋め込んであるような手ごたえがある。彼が物珍しく観察をしていると、ついついいつもの縄跳び用の縄を扱うのと同じ手の感覚で取り回してしまい、その結果軽く結んであったそれはほどけ、片方が地面へと落下してしまった。
「あ、あわわ……わ、悪りぃ麻生」
「なにやってんだよ島守」
「な、なんか重いだろこれ。調子、狂っちゃってさ」
そう言う遼に呆れた笑みを向けると、麻生は落ちた縄の片方を拾い上げた。
まぁ……仕方な……よな……なんせ……片方……柄が1kgあ……しな……
そんな不鮮明な言語情報が、縄のもう片側を手にしていた遼の意識に入り込んできた。
「おい……どうした島守……遼……?」
麻生に声をかけられた遼は、我に返って何度も瞬きをした。
そういうことなのだろうか。数日前、誕生日に高川の心が入ってきたのとも、これは同一のことなのか。だとすれば、ポイントはロープ状の物体にあるのだろうか。遼は麻生に縄の片方を渡しながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「Full metal Cafe」の狭く薄暗い店内には今日も大勢の飲食客が訪れていて、遼と麻生はカウンター席の隅で背中を丸めて、ボンゴレを口に運んでいた。
塩加減が絶妙というか、この店のボンゴレは何度食べても食べ飽きることがない。同級生であり、店でアルバイトをしている向田愛(むこうだ
あい)も、マスターの作るこの味だけは、いまだに真似することができないとぼやいている。
「ほ、ほ、ほんと!? 比留間くんが!?」
流しでコップを洗いながら、向田は遼たちにそんな驚きの声を上げた。
体重は七十五キロを超え、“重戦車”の異名を持つ向田愛は、教室でも口数が少なく、自己主張をしない目立たぬ女生徒である。ところがバーであるここで働いている彼女は実に明るく気さくで、学校で見せる面だけがその人の全てではないという事実を遼に教えていた。
「ああ。なんか横田基地のデモに参加してたよ。プラカード持ってさ。なぁ麻生」
「笑った笑った。まさかバイト先のテレビであいつを見るとはな」
「へぇ……けど比留間くんって、思想的に反米左翼って感じじゃないと思ってたのに」
向田の言葉に、だが遼は比留間圭治がいかなる思想信条の持ち主かそもそも理解していないため、同意も否定もできずに曖昧な笑みを浮かべることしかできず、それは麻生にしても同様である。
「いらっしゃーい」
カウンターの中で調理を終えたマスターが、入店してきた客に向かって挨拶をし、それに倣おうとした向田は、「あ、英理子ー!!」と叫んで小さく手を振った。
遼と麻生を除けば他の客は年齢層も高く、この店は酒も出す大人の店である。そこを訪れたセーターにジーンズ姿の吉見英理子は、小柄なせいもあってまったく馴染まず、遼と麻生は意外なる同級生の登場に我が目を疑った。
二人とも、英理子とはほとんど言葉を交わしたことがなく、赤い縁の眼鏡が特徴的である以外は、とにかく地味で印象の薄い女子であるという程度の認識しかない。
「愛ちゃん。これ」
英理子は客の注目に頬を引き攣らせながらカウンターまで向かい、向田に紙袋を手渡した。
「学校でよかったのにー!!」
「なんか飲んでく、英理子ちゃん」
「あ、いいです。これから予備校ですから」
向田、マスター、そして本人である吉見英理子の言葉と態度からすると、この意外なる来客は実のところ日常的な来訪客であり、単に自分たちが遭遇してこなかっただけなのか。遼と麻生は、同時にそう理解した。
「あ、えっとさ……吉見……さん?」
遼の言葉に英理子は顎を引き、ぎこちない挙動で軽く右手を挙げて挨拶をした。
「よく来るの? メタカフェ」
「あ、う、うん……愛……向田さんとお話にね。予備校が道玄坂の先だから、ついでにね」
「へぇ……な、なんかさ、吉見さんってあんまり話す機会ないからさ……」
「そ、そうね……話さないわね。男子とはあんまり」
なんというぎくしゃくした会話なのだろう。マスターは料理を皿に盛りながら、遼と英理子のやりとりに苦笑してしまった。
「英理子ちゃんね、ホラ、科研でしょ。私とも趣味が合うのよ」
「そ、そうなの?」
向田愛の趣味自体を知らない遼は、だがそれを聞くのも面倒だったため、適当に言葉を合わせようと思った。
それにしても、私服姿の吉見英理子は新鮮である。普段はダブついた制服のため気付かなかったが、幼児体型というか、彼女の友人である椿梢(つばき
こずえ)とはまた違った意味で大人を感じさせない少女である。遼は少しだけ彼女に対して興味を抱き、そんな彼を他所に、麻生はただひたすらボンゴレに取り掛かっていた。
「愛ちゃん、新しく入った情報はメールしといたから」
「なななっ!? 新しい情報ってなによ!?」
英理子の言葉に向田は興奮し、洗い物の手を止めてしまった。
「CZの掲示板に、当時の担当編集者が現れたの。ほら、例の謝罪記事の。最初はカタリかと思ったけど、なんか本物っぽいのよね。っていうか、確定って感じ」
「で、でで、なんかコメントしてたの!?」
「うん。あの記事の当時の状況とか。流れたらアレなんで、ログデータも添付しておいたから。はっきり言って泣くわよ。あなた」
「あああああ!! もう早くバイト終わんないかしら!! ねーマスター!!」
大げさに悲哀を表す向田に、中年のマスターは、「だめだめ。まだ二時間頑張ってよ。それに、手止まってるよ」と素っ気なく返し、遼は二人の少女の間で交わされる言葉の意味がさっぱりわからず、ただ呆然と耳を傾けるしかなかった。
「謝罪記事って……向田の好きな、あいつのか?」
ボンゴレを食べ終えた麻生が、ぽつりとそう言った。
「ええそうよ。けど好きってレベルじゃない。崇拝してるもの。私はあの人のことを」
まったくわからない。どうやら麻生は向田の事情を少しは知っているようだが、遼はどうやって会話に参加するべきか悩み、そもそも踏み込んでしまってよいものかと立ち返り、一層首を傾げてしまった。
「ねぇ、島守くん」
突然、英理子に声をかけられた遼は、ぎょっとして下唇を突き出した。
「島守くんってルディとは、友達……だよね」
「ま、まぁ……そういうことになるかなぁ……」
「なんか……ルディって最近、なにかあったのかな?」
なんとも抽象的な問いかけではあったが、“なにかあったか”と言われればあるどころの話ではない。しかしそれを英理子には決して教えられない遼だった。
「な、なんでそんなこと? ルディは……いつも通りじゃないか?」
「うん……こないだ久しぶりに科研に出てくれたんだけど、なんか最近、ルディって元気がないなって思ってたの。ところがすごく明るくって、まるで転入してきたころみたいだなって……」
その変化は誕生日パーティーでも感じていた。ここ最近で、リューティガーの心境になにか変化でもあったのだろうか。しかしそもそも幼少期から苛酷な環境で育っているらしく、こと情操という面においては理解が難しい。遼は顎に手を当て思考を巡らせ、そんな彼の様子を観察した英理子は、やはり二人は友人なのだとあらためて確信した。
7.
窓のない執務室は気に入っている。同僚であり同志のハルプマンは、「襲撃の際に逃げ場がないではないか」と、冗談めかして忠告するが、そもそも賢人同盟本部であるこの城の中央に襲撃などあれば、それはすなわち組織の崩壊を意味する。黒く固い机を一撫でした中佐は、先ほど届けられたばかりの書類を引き出しから取り出し、立ったままそれに目を通した。
リューティガーに次いで日本へ派遣した二組目のエージェントグループ、檎堂猛(ごどう
たけし)は実に詳細な報告書を送ってくる。英語で印字されたそれを読過した中佐は、大きなため息をついた。彼にしては珍しい暗鬱とした様子に、執務室を訪れたハルプマンは首を傾げた。
デビット・パルプマン。今年四十五歳になる、賢人同盟の作戦本部長であり、実行部隊の指揮を執るアーロン中佐とは同盟内での権力を二分する、計画立案部門の長である。
内勤ということもあってか少し腹の出た中年体型である彼は、それをアルマーニのだぶつきで隠し、白髪の多い髪は柔らかく、太い首とラインの曖昧な顎、静かなる藍色の瞳は温厚そうな印象を相手に与える。だが中佐は、この男の残忍で狡猾なる知将としての一面を他の誰よりも知っていた。
「まいったよデビット。ますます奴の真意がわからなくなってきた」
中佐の泣き言にハルプマンは鼻を鳴らし、執務机に置いてあったキャンディーボトルを手にした。
「ゴモラを使うのだろ? その線に変わりはなかろう」
鼻にかかった、やや甲高い声でハルプマンは言い、ボトルの中からキャンディーを取り出した。
「問題はそれを誰に対して使うかだ。泳がせている事実はいい加減五星にも気付かれている。これでもし、読みが外れるようなことがあれば修正せねばならん」
「ならすればよかろう。そのための檎堂やルディだろ?」
「追加戦力が必要だな」
「なにを今更。生贄の十名で足が出ている。これ以上は無理だぞ」
「それを言うなよデビット」
苦笑しながらも、中佐はキャンディーを頬張るハルプマンから、拒絶する雰囲気を感じ、背筋に冷たいものが走った。
「いや……読み通りならよいのだ……奴が予定通り、アレを中国への牽制に使うのなら、俺の行動はいくらでも弁明ができる」
「祈るか? アーロン」
「おいおい……」
「今更ながら言わせてもらうが、私は反対だったのだぞ。泳がせるのも。生贄を差し出して日本政府の動きを硬直させるのも」
「おいおい……」
「紅西社(こうせいしゃ)にも不穏な動きがあるそうだな……」
そう言い捨てたハルプマンは、キャンディーを舐めながら執務室から出て行ってしまった。
「おいおい……」
言うたびに情けなくなってしまう。中佐は額に浮かんだ汗を袖で拭い、壁に取り付けられたインターフォンを手に取った。
二十九名のスタッフが、世界中から集められた情報を膨大なデータベースを用いて検証し、それを文章としてまとめる。この作戦本部室はそのための部屋であり、今日も本部長を除く全スタッフがエージェントから寄せられたものや、しかるべき諜報機関からリークされてきた情報の検討に励んでいた。
この部屋の主であるハルプマンが戻ってきたにも拘わらず、彼らは会釈をする程度であり、それは本部長の望むべき姿であった。
自分の机まで戻ってきたハルプマンは、膨大な量の書類と、モニタに表示された未読メールが三桁になっているのに苦笑し、椅子に腰掛けた。
ハルプマン……どうだった……
スタッフたちの声やコール音が鳴り響く作戦室で、だがハルプマンの脳裏にはそれと明確に区分けできるほど鮮明な“声”が鳴り響いていた。
予想通りである。遠隔地の人間に自分の声を跳ばす、あの人物の異なる力はこのタイミングで自分に向けられるだろうと、気持ちを構えていた甲斐があった。軽い頭痛に額を押さえた彼は、できるだけ思考の流れや組み立てを鮮明にするため、椅子に深く座りなおして右腕にはめた腕時計を擦った。
アーロンは動きを読み間違えた模様です……アルフリートが例の物を中国に向けるかどうか、かなり雲行きが怪しくなってまいりました……
上手く伝わっているのだろうか。異なる力を持たざる自分の思考を、彼はうまく拾い上げているのだろうかと、ハルプマンはそれがいつも不安だった。
向けさせてもらわねば困るな……場合によっては全力での阻止が必要になるぞ……
それはアーロンも望むところですが……よろしいので?
背に腹は替えられん。しかしそのときはアーロン中佐を粛清せねばならんな……
なるほど……それならば示しも付きますな……
よかった。上手く意思のやり取りはできているようである。しかしそれにしても“粛清”とは。ハルプマンは友人であり、同志である彼のことを想った。
仕方あるまいハルプマン。奴は自ら賭けたのだ。それが裏目であれば、破滅は必然だ……
気持ちを読まれてしまった。哀れみの感情を。遥か離れた土地にいるはずなのに、なんという化け物なのだろう。そして、この恐怖もすっかり読まれているはずだ。
同盟内部の権力構造を、もっと風通しの良いものにしよう。数年前アーロンはそんな計画を自分に明かし、作戦において権限の少なさに歯がゆさを感じていた自分は、同志として彼の計画に協力をした。しかしそれも同盟の顧問機関であり、意思決定の実質的な支配グループである五星会議にすっかり知られていたのであれば、これはもう命乞いをしてでも自分の身を守る必要があった。その代償がこの腕時計である。パルプマンは両目を閉ざし、意識を鮮明化させた。
それでは……これにて閉ざさせていただきます……ブッフボルト殿……
ああ……
腕時計を外し、椅子から立ち上がってその場から離れたハルプマンは、ようやく考える自由を獲得した。五星会議の議長であるブッフボルトより与えられた、思考をオープンにさせ、常にやりとりが出来るようにするために発信を続ける補助装置である。そんな忌々しい腕時計を机に放った彼は、もう一度心の中で同志の成功と逆転を祈った。
全ては……アルフリート次第ということか……しかし……泳がせていたつもりが、奴に踊らされる結果になるとはな……
彼の父、真錠春途(しんじょう
はると)は、以前会食の席でこう言っていた。
「アレは放任でな。俺のやり方を教えてはおらん。だが血と言うやつは侮れんぞ。だから孤立無援でも、あそこまで踏ん張っている」
あの席では頷くしかなかった。だが、納得などできるはずもない。空間を自由に跳躍し、見える範囲の物を取り寄せることができる、異なる能力の持ち主。その能力は遺伝によって獲得したものだから、血筋という表現に間違いはないが、そのような能力を持った化け物を親子の縁などという一般的な尺度で測ることなどできない。
さて、何がどう動くのか。計画と用兵の熟練者であるハルプマンだったが、彼はもう考えるのも億劫で、なにもかも投げ出してしまいたい気持ちになりつつあった。
709号室の扉の向こうに、あの小さな気配は感じられない。マンションの廊下で、白い長髪の青年、真実の人(トゥルーマン)はついに彼女が出て行ったのかと視線を落とした。
一人で……出来るのか……アジュアよ……
突風と共に青年はその場から姿を消し、次の瞬間、彼はとあるバーのトイレに出現した。
この店に来るのは一年ぶりである。青年がトイレから出ると、薄暗い照明の店内は客の姿もまばらであり、カウンターでグラスを傾ける天然パーマのもじゃもじゃ頭を発見した途端、彼の表情は明るく変化した。
「よう長助……待ったか?」
背中から声をかけられた「夢の長助」こと藍田長助は、右手の親指を立ててそれを返事の代わりとした。
「春坊から報告があった……いい感じに進んでいるらしい。それと写真の手配は出来た。そろそろ餌を撒きにかかるつもりだ」
「そうか……あ、俺はビールね。ハイネケン」
注文をした真実の人は長助の隣に座った。
「ハッピーバースデー、真実の人(トゥルーマン)……二十四か?」
「ああ。確かそうだったはずだ」
昨年も、その前年も、彼の誕生日はこのバーで共に呑んだ。この日に限っては他のエージェントは呼ばず、FOTの原点を確かめるための、それは二人にとって特別な祝日であった。
「アジュアが任務に出た……」
記念日をぶち壊しにする青年の言葉に、長助は顔を顰め、グラスの中の琥珀色の液体を一気に飲み干した。
「ひどいな……てめぇは……」
「ああ。俺は真実の人(トゥルーマン)だからな」
「しかし……案外弟さんは、アジュアを取り込んじまうかもな」
真実の人は返事をせず、出された生ビールをぐいっと呑んだ。
「いくらなんでも……アジュアはまだ九歳だしな……」
自分に言い聞かせて安心したいがため、長助はゆっくりとそうつぶやいた。
「この高円寺って懐かしいよな長助」
まったく関係ない話題に切り替えた青年は、二回目にしてグラスのビールを呑みきってしまった。
「懐かしくないかよ。長助」
「ふん……俺とお前が出会った土地だからな……懐かしいに決まってるだろ。お前は狂いかけてて、俺も正気を失いかけてて……このガード下のバーでな……」
「だろ、だろ!!」
「だがな、狂っちゃいたが、アジュアに一人仕掛けさせるような、そんな冷たいことができる奴じゃなかったぞ。あのころのお前は!!」
長助の叫びに、バーテンダーの手が一瞬止まった。しかし真実の人は笑みを浮かべたままであり、彼は二杯目の生ビールを注文した。
「いいか……今日という今日は、お前さんに忠告してやらなきゃ気がすまねぇ……!!」
「長助。お前もそれ、おかわりするか?」
徹底的にはぐらかそうとする真実の人のネクタイを、長助は掴んだ。なるほど、早く来ていたのか少し酔っている様子である。彼の態度をそう判断した青年は、困り顔を浮かべ謝ろうとしたが、すぐに険しく眉間に皺を寄せた。
「まったく……顔を見られたってのは……有名になったってことかよ……」
「ど、どうした……」
青年の様子がすっかり変わってしまったので、長助はネクタイから手を離して戸惑った。
「悪いな長助……例のやつ……やらせてもらうぞ……」
そう言った直後、青年の姿は長助の前から消え、もじゃもじゃ頭が突風に揺れるのと同時に、バーの扉が乱暴に開かれた。
スーツ姿の長身の青年が一人、あと二人、その両脇には制服警官の姿があり、その手には拳銃が握られていた。
「そこのお前!!」
青年が自分に向かって銃口を向けてきたので、長助は事態はそこまで進展しているのかとすぐに理解し、カウンター席から腰を浮かせた。
“そこのお前”つまり名前まではわかっていないが、自分がFOTの関係者であることは顔として知られているのだろうか。あの青年は確かF資本対策班の那須とかいう男である。瞬時に長助はそこまで判断し、それでも覚えられるのは面倒だと顔を腕で覆った。
やっべぇなぁ……逮捕かよ……俺……
拳銃を持った三人の訓練された者と、単身渡り合えるような戦闘能力など自分にはない。長助はこの難局をどう切り抜けるか思考を巡らせたが、どうにもよい解答が導き出せなかった。
青年と警官の手が長助に伸びた直後、彼の姿は薄暗いバーから突風と共に消えた。
胃の中をかき回されるような、そんな不快感である。ガード下の商店街に出現した長助は尻を地面に打ちつけ、堪らず呻き声を上げてしまった。
警官が五人、突如現れた長助に注目した。ここはあの店の外である。だとすれば、この怪現象を引き起こしたのはあいつだ。やばい。これは痛い展開になる。そう思った長助は、警官隊に包囲されたのと同時に、再び空間へ姿を消失した。
今度は駐車場である。出現と同時にボンネットに肘を打ちつけた長助は、「いてぇ!!」と、叫んでしまい、その声に呼応してガード下から警官たちが現れた。
都合七回、藍田長助は空間跳躍をされられる羽目となった。最後の一回は特に距離が長く、雑居ビルの屋上に姿を現した彼は、着地する際に顎を床に打ってしまった。
「大丈夫か長助!?」
真実の人が長助の肩を抱き、背中を擦った。
「い、いてて……痛すぎるぜおい……いきなりやるなよな……」
「仕方ないだろ合図なんてしたら、俺まで見つかっちまうだろ?」
「そりゃまー、そうだが……」
「ルディなら、触れただけで安全地帯まで跳ばせるんだけどな。俺のは手繰り寄せだし」
「し、仕方ねぇよ……それが個性ってもんだ……」
那須たちの検挙にいち早く気付いた真実の人が、先に店外のどこかに跳躍し、後で長助を近くまで手繰り寄せる。しかし近すぎても出現の衝撃音で位置を追っ手に知らせてしまうだけだから、見通しのよい場所に跳ぶまでは、小刻みな跳躍と手繰り寄せを繰り返すことになる。“連続取り寄せ脱出技”青年が命名したその技を長助が経験したのはこれで三度目である。彼は全身のあちこちに痛みを感じ、だがなんとなく懐かしい感覚だと思わず笑い出してしまった。
「しっかし、とんでもねぇ誕生日だな!!」
長助の言葉に真実の人も一緒になって笑った。この男に怒られるのは嫌だ。こうして笑い合っている方がずっと楽しい。だが、そのために制約を設けるのはもっと嫌だ。声を上げて腹から笑いながら、真実の人はふと毛皮のコートを着た幼い少女と、弟の姿を思い浮かべていた。
8.
「それが俺にもまだよくわからないんだよ。なんとなくっつーか……ほら、こないだ誕生日、祝ってくれたろ? あのときに高川とビデオケーブルのやりとりしただろ。そうしたら、あいつの考えが入ってきたんだよ」
冷たさを若干含んだ風に頬を撫でられたリューティガーは、栗色の髪を押さえて遼の言葉に耳を傾けていた。
「で、次がバイト先でなんだけど、麻生に縄跳びを渡したんだよ。間違えてほどけちまってさ。そうしたら……同じ結果でさ」
放課後の屋上は遼とリューティガー、そして岩倉の三人しかおらず、彼らの頭上には雨雲が広がっていた。
「ね、ねぇ島守くん……ど、どーゆーことなんだい?」
岩倉が、坊主頭を撫でて遼の言いたいことがなんであるのかを尋ねた。
「あ、うん……そのな……」
フェンスに背中を付けた遼は、意見を頭の中で整理し、納得したように頷いた。
「つまりだ。紐状の両端を握った場合、相手の心を触れたときみたいに覗けるって結論だ」
「ふ、ふぅん……」
接触式読心という、遼の異なる力を岩倉はまだよくは理解していない。物を通じた読心にどのような意味があるのか、彼はそれがわからないため今ひとつ話に興味を抱けなかった。
「なるほど……それは遼の力が成長してるってことだよ。これまでのケースで考えるとあり得ない話じゃない」
「そうだろ? でもな、ここからが厄介なんだけど、じゃあ物体を介していくらでもできるかっていうと、そうじゃないんだよ。次の日にバーベルで試してみたんだけど、なにも覗くことはできなかった」
遼はそう言うと、詰襟のポケットから白い紐を取り出した。
「こういう紐じゃないとだめなんだよなぁ……それに紐の材質によって聴き取り精度がかなり違うんだよ。なんか条件がすごく細かい。ゴールデンウイークのバイト中、いろいろ試してみたんだけど、どうやらこの凧紐が一番いい感じなんだ」
「異なる力を物質に伝導させる場合、より生体質に近い素材が伝わりやすいって研究結果は同盟でも出てるよ。だから遼の推測はたぶん正解に近いと思うな」
「え、えっと……つまり……島守くんは、ロープとかコードを使っても、超能力を使って人の心が覗けるってこと?」
岩倉のまとめにリューティガーと遼は頷いた。
「しかしだ。まだ実験しなくちゃいけないことはたくさんある。例えば俺の意思を相手に伝えられるのかとか、長さと精度に関係があるのかとか、太さもかな。まぁ、とにかくいろいろだし、そうなると事情がわかる相手じゃないと、協力してもらえない」
ようやく遼がここに呼び出した意味が理解できた。リューティガーは前髪を軽く撫で、「なるほど」と、納得した。
「いいよ。検証を手伝うよ。いいよね、ガンちゃんも」
リューティガーの言葉に岩倉は笑顔で頷き、そのあと少しだけ視線を泳がせ、不在であるもう一人の友人のことを考えた。
「高川が一番この実験に向いてるんだけど……頭の中シンプルだし……けど今日は道場だから仕方ない。どうするルディ。代々木でやるか?」
「そうだね。なんかここは……」
階段へつながる扉が開かれ、何名かの男子生徒が屋上にやってきたのをリューティガーたちは認めた。それとすれ違うように階段に戻ると、二階まで駆け下り、そこで岩倉はいったんA組の教室へ向かった。
「じゃあ遼……僕は先に帰ってる……あとで……」
「ああ……あとでな……」
廊下で手を叩き合うと、遼は一階へ向かって階段を下り、リューティガーは中央校舎に向かって廊下を歩き出した。
なにかをするのだろうか。B組の教室から廊下に顔を出していたはるみは、遼とリューティガー、そして岩倉たちが階段で別れていく様子に注目していた。
「はるみ? どーしたの?」
同級生の和家屋(わかや)が後ろから声をかけてきたので、はるみは、「う、うん……もう帰ろうか」と提案し、友人が返事をするのより早く廊下へ出た。
これは予感なのか。それとも細かな情報を無意識のうちに分析した結果だろうか。神崎はるみはある確信を胸に、密かな決意を固めていた。
まだ夕方前だというのに、分厚い雨雲は街全体をすっかり暗くし、代々木までやってきた遼と岩倉は、帰りまでこの曖昧な天候が持ってくれるだろうかと天を仰いだ。
「予報だと何パーセントだっけ?」
「50%だったよ」
「うわ。すげぇ微妙」
代々木パレロワイヤルのエレベーターに乗り込み、八階のボタンを押した遼は先ほどの凧紐を再びポケットから出した。
「ねぇ島守くん。それで人の心が読めると……どういいことがあるの?」
「そうだなぁ……もし片側を相手が握らずに……例えば肩とか足に糸が触れているだけで心が読めれば……気付かれないだろ?」
「そっか。今のままじゃ手首を掴んだりとかだものね」
「鈴木のときみたいにね。おまじないなんて言っても通じない相手もいるだろうし……この検証で、なにか劇的な変化とかってのはないと思うけど、一応選択肢は多くしておきたいと思ってさ」
「前に言ってた……島守くんの目的って……その後どうなのかい?」
岩倉次郎には、蜷河理佳を救い出すため、この戦いに参加していることは告白済みである。遼は頭を軽く掻き、「なんともなぁ……宙ぶらりんだよ……」と返した。
「ただいま……」
学校から代々木の自宅に帰ってきたはるみは、すぐに二階の自室に上がり、学生鞄をベッドの上に放り投げて一階へと戻った。
「ママ……」
階段を下りて玄関に向かおうとしたはるみは、エプロン姿の母、神崎永美(かんざき えいみ)がじっとこちらを見つめている事実に足を止めた。いつになく、真面目な様子の母である。
「はるみ。言い忘れてたんだけど……」
「十五日に戻ってくるんでしょ? まりか姉」
伝えようとしたことだったため、永美は言葉に詰まり、口を手で覆った。
「わたし、その日は絶対空けとくから……まりか姉にもそう言っておいてね!」
娘はそう告げると玄関へ駆け出し、残された母は手を胸まで下ろし、ため息をついた。
はるみがまりかの職場や官舎を尋ねてきた事実を、永美はつい先日、電話で知らされた。
「母さん……はるみが……勘付きはじめてる……」
電話越しに聞こえた長女の声は、いつになく震えていた。遂に恐れていた事態が来てしまった。永美はそう思い、夫にも相談をしてみた。
まりかの全てを二人は知っていたが、次女であるはるみには決して知られないようにと口止めをされている。しかしもう限界なのではないだろうか。それが夫婦で共通して認識している現実だった。はるみも十七歳だ。疑問を抱き、それを追求できるだけの成長を果たしている。
喜んでいいのだろう。姉を拒絶し、曖昧な態度を見せるよりはずっといい。母はそう思い、靴を履く娘の後姿をじっと見つめていた。
ダーツがいつの間にか五本から四本に、七万円の所持金も残りが三万円に減ってしまった。後がないとはこうした状況を指すのだろうか。ようやく代々木まで辿り着いたアジュアは、もう何日もシャワーを浴びていない自分の体臭になにやら悲しくなり、路地を歩いていた足を止めてその場にしゃがみ込んだ。
あのマンションが、ターゲットの済む代々木パレロワイヤルであることは確認した。しかしそれにしてもどう仕掛けるか。ナイフでの襲撃より、ここはダーツを使ったリバイバーによる作戦が妥当だと思える。だが対象となる動物はどこにいるのだろう。少女は辺りを見渡した。
電柱の上を飛んでいる烏。早朝の、ゴミ箱を荒らす群れに向かってダーツを放れば一匹ぐらいは当たってくれるかもしれない。
塀の上を歩く野良猫。あれは難しい。気付かれずに接近して、リバイブさせることはおそらく無理である。
散歩中の犬。あれだけはだめだ。飼い主とつながれた犬は決してリバイブさせてはならない。それが兄であるマサヨの教えであった。
朝まで待つべきか。繁華街の、黒い羽でも落ちているゴミ収集場所で夜を明かせば、確実に烏たちはやってくる。
そうなると隣町の新宿まで移動する必要がある。しかし、つい先ほど通過したあの人ごみはどうにも苦手だ。一体どうしよう。夜になるまでここでじっとしているか。それにしても臭う。自分は女の子なのに、どうしてこんなに臭いのだ。
身体を洗えばいい。でも、そのためにはマンションまでもどらないといけない。何日もかけてここまでやってきたのに、今更戻ることなどできるのか。
電車を使えばいい。どうやって乗るかはマサヨに教わっている。でも、だめだった。駅に行っても人があまりにも多過ぎるし、不案内で切符売り場の位置すらわからなかった。
ふとアジュアは思った。これは、そもそも無理だったのではないかと。それは更に悲しくさせる認識である。両膝を抱えた彼女は頬を引き攣らせ口元を歪ませ、呻き声をあげた。
涙で視界がぼやけている。だけどわかる。あれは、あの白い毛はわかる。白い犬の毛だ。アジュアは眼前を通り過ぎる、すっかりくたびれたそれに気付き、涙を拭った。
台車に乗せられ、その老犬は舌を出して白濁とした目を少女へ向けていた。押しているのは老婆であり、最初アジュアは死体かと思ったが、腹と舌が動いている事実に気付き、思わずポケットに手を突っ込んだ。
飼われている犬だ。しかし、もうその命もあとわずかであろう。マサヨからの教えが知らせている。
ならば。命を増やしてあげよう。その代わり、こちらの役に立ってもらう。立ち上がったアジュアはポケットの中のダーツを握り締め、台車を押す老婆の後に続いた。
「わかるよ島守くん。いま、帰りにラーメン食べに行こうって伝えたでしょ」
凧紐の先端を持っていた岩倉が、遼に笑みを向けた。
「実験は成功だな……やっぱり覗くことも伝えることもできる……」
しかし直接接触するよりは、いずれもが不鮮明であり、距離も二メートルを超えるとほとんど判別できないレベルにまで低下してしまう。
「材質はいろいろと試してみよう。生体質により近い糸を、同盟に開発してもらってもいいし」
リューティガーの提案は遼にとって嬉しかった。吉見英理子も言っていたが、彼はその明るさを取り戻しつつある。一体なにがあったのかはわからないが、陰鬱として苛々を他人にぶつけてくるよりは、この無邪気な笑みはずっといい。
若き主もその仲間も、ここ最近は空気が和んでいるようである。キッチンでの検証実験の様子を窺い、満足げに頷いた陳は、居間の隅に設置された機器に向き直った。
このシステムの操作にもある程度は慣れてきた。健太郎の構築した監視システムには六件の定時監視項目があり、陳はまずはその最初である、このマンション一階ホールに取り付けられた監視カメラの映像チェックに取り掛かった。
モニタに表示されているのは一階ロビーの様子であり、それはリアルタイムの映像だった。
はて……誰かね……あれは……
なにやら見覚えのある服装である。陳は今ひとつ不鮮明なモニタ映像に首を傾げ、少しして記憶が鮮明になった。そう、あのブレザーは、主の通う高校の女子制服である。誰が尋ねてきたのだろう。そう思った陳は、カメラのズーム機能を操作してみた。
なにを部屋の隅でごそごそとはじめているのだろう。凧紐を手にしていた遼は、その片方の先端を陳の背中に付けて、心を読んでみようかと思った。リューティガーは別の実験道具を探しに寝室へ行っているし、試してみるにはちょうどいいタイミングである。彼は紐の端を投げてみたが、数メートル先の陳までは当然到達することはなく、数十cm先へ落下しただけである。
「先端に錘とかつけるとちょうどいいんだろうなぁ……」
背後にいる岩倉へそう言いながら、遼は投げた先を拾うためキッチンから居間へと移動し、ふと陳が注目しているモニタに視線を移した。
んだよ……どこを映してる……これ……!?
モニタの中に映っていたブレザー姿が誰であるのか、島守遼はすぐにそれがわかってしまった。
壁際にずらりと並んだポストには、“真錠”の名前がないだけではなく、303号室と411号室以外にはネームプレートすら取り付けられておらず、チラシやダイレクトメールが溢れていた。神崎はるみは腰に手を当て、しかしここにあのリューティガー真錠が住んでいるはずであると、その点においてはまったく疑っていなかった。
遼は今日、絶対にリューティガーの元にやってきている。それが彼女の確信であり、なにをしているのか探るための行動だった。代々木パレロワイヤル一階のそれほど広くはないロビーで、はるみは次にどんな手を使おうかと周囲を見渡した。
自動ドアと思しきガラス製のそれはオートロックとなっていて、許可のある者しかロビーの奥半分を占めるエレベーターホールや階段には行けない作りになっている。しかしどこかにきっと、侵入できる隙があるはずだろう。少女はふと、かつてここにあった製薬工場を探検した幼少期を思い出した。確かあれはすでに廃工場になっていて、探検だけではなくその敷地を学校までの近道として利用していた。姉と二人で慌てて駆け抜けた思い出に、妹は唇に指を当て、微笑んで懐かしんだ。
そうそう……転んで泣いちゃって……まりか姉が膝を拭いてくれて……なんだろう……外人の……女の人もいたような……
奇妙な光景を思い出してしまった。なにか複数の記憶が混ざってしまっているのだろうか。考え事をしながらロビーをうろつく少女の耳を、ある異音がくすぐった。
なに……呻き声……犬の……?
視線を上げた少女は、マンションの出入り口で行く手を塞ぐ、真っ白な毛をした赤い目の犬に気付き、足を止めた。
間違いない。あの赤い目の犬は、前に襲ってきた猫と同じである。まともじゃない化け物だ。涎を垂らす白い獣に怯えるはるみの姿をモニタで確認した遼は、すぐに居間からキッチンを抜け、靴を履いて外の廊下へ出た。
「島守くん!!」
階段へ向かった遼に、追いかけてきた岩倉が叫んだ。
「エレベーターは一階で間に合わない!! 階段を一気に駆け下りる!!」
「りょ、了解!!」
全力で、もっとも高速に。何段も跳ばして着地する度に踵やつま先に衝撃が走る。だが遼の意識は、すでに一階ロビーへと伸びきっていた。
9.
この時代を知っている。まだ元気で、いつもおばあさんのエプロンに尻尾を振って飛びついていたころである。しかしそれが目の前にいるなど、あり得た話ではない。あれから何年も経っているのだ。だが赤い首輪が何よりもの証明であり、せめて否定できるとすれば、赤く輝く瞳に、涎を垂らし異常にまで興奮した様子そのものだろうか。
いや、チロだ。死にかけていた老犬のチロだ。少女はガラス製の閉ざされた自動ドアに背中を付け、だが長寿を祈っていた近所のアイドルの復活を、決して喜べなかった。
「赤い目に涎は狂犬病の証拠なの。特に赤さが強いのに出会ったら逃げないと。食べられちゃうんだから。まぁ、もうぜんぶ警察がやっつけたからさすがにいないと思うけどね」
冗談を言っているのだと思った。かつて聞いた姉の忠告を、はるみは今更ながらに思い出し、その対処方法も記憶の底から引っ張り出した。
ガラスを擦り合わせた高音……赤い目の犬や烏は……それに弱い……まりか姉はそんなことを言ってた……
白き獣の猛りに怯えながら、はるみはブレザーの内ポケットからヘアピンを取り出し、背中を付けた自動ドアにそれを軽く当てた。
それにしても、代々木パレロワイヤルに足を踏み入れた途端にこの非日常である。読みは正しかったが、あまり当たって欲しくはなかった。
なんだ……意外と……冷静って感じ……わたし……
自信をもって良いのか。それとも自棄になっているのか、自分でもよくわからなかった。神崎はるみは身体を横にし、ピンを頭上より高く上げ、ガラス製の自動ドアを切り裂くように腕を一気に振り下ろした。
鼓膜を震えさせる嫌な高音が、ロビーに響いた。しかし赤い目をしたチロは一瞬ひるんだだけであり、好転してくれない事態に、はるみは歯をがちがちと鳴らせた。
食べられる……チロに……
両膝は内側にくっつき、心臓の鼓動は高鳴り、肘まで汗が滴っている。間近に迫った脅威に少女はだが、目を閉ざさずに状況の認識だけは止めなかった。
扉の開閉に気付いたリューティガーは、寝室から居間にやってきた。遼と岩倉の不在を確認した彼は、陳が注目していたモニタを覗き込んだ。
「ぼ、ぼっちゃん……」
「何があったんです陳さん……!?」
赤い目をした白い犬が、少女を追い詰めていた。彼女の背後はオートロックの自動ドアであり、狂犬が出入り口側にいる以上、逃げ場はない。
神崎……はるみか……!?
人物を確認したリューティガーは状況を瞬時に把握すると、眼鏡をかけ直した。遼とはまったく異なるそんな主の対応に、陳は息を呑んだ。
「ど、どうするね坊ちゃん……?」
「あれはリバイバーです……だとすれば、どこかにルーラーが潜んでいるはず……第二カメラに映像を切り替えましょう」
なんという冷静さだろうか。そう思い陳が主を見上げると、彼の口元はわずかに歪み、紺色の瞳も揺れていた。
「早く……カメラを……」
その要求に、陳は手元のキーボードを操作して、従者としての役割を果たそうとした。
戦闘能力というものに差があり過ぎる。いつものチロなら、弟の学(まなぶ)でも勝ててしまうだろう。しかし眼前まで迫っている全盛期の、いや、それをも越えた猛る様は、高川ほどの偉丈夫でなければ抗することはできないだろう。すっかりその場にへたり込み、ガラスに背中や肘を密着させたはるみは、人の悪い笑みを浮かべた長身の同級生の姿を思い浮かべた。
高川ではなく、それはこの状況において遥かに頼りにならないはずであるもう一人の同級生の姿だった。
島守……遼……助けに来て……!!
背後の自動ドアに付けていた肘が、横に流れていく。これはオートロックが解除されたか、反対側に誰かが来たということなのだろう。崩れる体勢をなんとか立て直しながら、はるみは大きな影が自分を覆うのに気付き、顔を上げた。
「遼……!!」
来てくれた。願い通り彼が。少女の鼓動は更に高鳴った。
「こ、ここに来たら……あれが……チロが……」
「チロ……!? こいつが……!?」
遼ははるみを見下ろすことなく、対峙する赤い目の獣にだけ意識を集中していた。この目、この強い気配。猫と犬との違いはあるが、間違いなくこれは以前このマンションの八階で襲撃してきたリバイバーという化け物である。はるみの言葉が本当なら、敵はひどいことをする。遼は強い怒りに拳を握り締めた。
遅れて階段を駆け下りてきた岩倉が、はるみの両肩を抱きかかえた。
「ガンちゃん……」
岩倉に立ち上がらせてもらったはるみは彼の挙動に従い、自動ドアの向こう側にあるエレベーターホールまで下がった。その間、遼はじっと獣を睨みつけ、その襲撃を威圧していた。
いつものあいつじゃない。岩倉と共にエレベーターの前まで下がったはるみは、遼の背中を見て、その迫力に息を呑んだ。
次の間が崩れたタイミングで、こいつは突撃をしてくるだろう。開かれたままの自動ドアの縁に右手を当てた遼は戦いの呼吸を感じ、決断を迫られていた。
リバイブされた生き物は……長生きできねぇ……なら……せめて……
くたびれて、台車に乗せられ、舌を出していた老犬。あともう少しで天寿を全うできた、命。それを絶つ。殺されないため、絶つ。
遼は白い獣が前足で床を掻いた直後、強く意識を集中させた。
口から血を吐き出し、一度だけ高く鳴き、チロだったそれはロビーの床に崩れ落ちた。
一体何が起こったのか。いや、これは彼が起こした。少女は少年の背中を見つめ続けることで、そう確信できた。
あいつは睨み付けていただけだ。どうしてリバイバーが突然倒れたのだろう。とにかく敵だ。あいつは敵だ。路地からロビーの様子を窺っていたアジュアは、銀色の笛をナイフに持ち替えた。
あいつをやっつけないと、またやられちゃう。ダーツはもう三本しかない。お風呂にだって入りたい、もうやるしかない。おっちゃんみたいに、もうやるしかない。
ナイフを手にしたアジュアは、路地からパレロワイヤルのロビーに突入した。
毛皮のコートを着た少女の登場に遼は戸惑い、それは背後にいた岩倉やはるみも同様だった。
「なんだよ!?」
一喝する意味で遼は叫んだが少女は怯まず、鋭利な切っ先を彼の腹部へ突き立てようとした。
突風が、ロビーの床に落ちていたピンクチラシを舞い上がらせた。
冷たい銃口が、少女のこめかみに突きつけられた。
撃鉄が弧を描き、乾いた破裂音がロビーの空気を震えさせる。
ちっちゃなアジュアが、最後に想ったのはなんであったのだろう。
10.
獣の屍は泡に包まれはじめ、少女の遺体はぐったりと床に転がったままピクリともしなかった。リューティガーの手にしていた拳銃からは硝煙が立ち上り、その紺色の瞳は鈍い光を反射させていた。
「し、真錠……」
遼の言葉に、リューティガーは冷たい目を向けた。
「な、なんでさ……跳ばさなかったんだよ……」
「咄嗟だった。君にはできないとモニタで見ていたから。それにナイフに毒を塗っていた可能性だってあるだろ。確実な方法を選んだ」
それは抑揚のない、まるで日本語に慣れていない外国人のような言葉遣いだった。
「け、けどさぁ……」
裏返った声を出した遼は、まったく動くことのない少女の頭部から、血と桃色の何かがこぼれ出している事実に膝の力が抜けていくのを感じた。
「子供……だろ? なんで……跳ばさなかったんだよ……?」
「そうだな……仮にナイフの危険を取り除いた上で跳ばしても、その先はどこだと思う? 地獄より苛酷な本部諜報四課。あるいはマグマの底だ……」
拳銃をズボンのポケットに放り込んだリューティガーは、片膝を落として少女の遺体をそっと撫でた。
おかしい。リューティガーはすっかり転入当時にまで情緒が回復していたはずである。おかしい。こいつは誰なんだ。遼はわけがわからなくなり、そんな彼の戸惑いは気配として発せられた。
「これが一番慈悲深い方法なんだ!! 僕だって子供を殺すのは嫌だ!! けど四課がなにをするのか想像するのはもっと嫌だ!! この子は女の子なんだぞ!!」
感情を爆発させたリューティガーの瞳が潤んでいたのが、遼にとっては救いだったはずである。しかしそんな冷静さは今の彼にはなかった。
このままじゃだめだ……なにかが間違っている……このままじゃ……
フードの隙間から見える薄汚れた少女の横顔が、よく知った彼女のそれと重なった。
「だめなんだよ真錠!! そんなのじゃだめなんだ!!」
遼は堪らずリューティガーに掴みかかろうとした。しかし腰を下ろしたままの態勢でそれをかわしたリューティガーは、アジュアの開かれたままの瞼を閉ざし、その直後、彼女の遺体は突風とともにその場から姿を消した。
突進を避けられた遼は入り口近くの壁に肩をぶつけ、開かれたままとなっていたエレベーターホールへの自動ドアは、彼の移動により閉ざされた。
一体なにが起きたのか。エレベーターの前で、岩倉の傍らで一部始終を目撃していたはるみは両手で口を覆い、ただ震えるしかなかった。
腰を下ろして片膝を立てている栗色の髪をした彼。その顔色は青白く、口は小さく開かれ、紺色の瞳は見開いたまま瞬き一つしない。死んだような、固まっているような、そんな生気に欠けた様子である。
少年の頬が一瞬だけ引き攣った。怒っているのか。オートロックのガラス戸越しからその様子を窺っていたはるみは、彼の僅かな変化をそう認識した。
無邪気で明るい笑み。最近では沈んでいることも多いが、それこそがリューティガーという同級生に対して、B組の生徒が抱いている一般的なイメージである。怒りや悲しみ、それに冷淡さは彼には含まれていない要素であると、皆は思っているだろう。
しかし自分は知っている。学園祭の帰りの電車や、消しゴムを拾ってあげたあの時、あいつは度々負の感情を顕わにしていた。やはり、あいつも何者かであったということか。
はるみはリューティガーをじっと凝視し、そんな彼女の存在に気付いた彼は再び表情を消すと立ち上がり、壁に寄りかかる遼の背中を軽く叩いた。突風と共に二人の同級生が姿を消し、次の瞬間、彼らはガラスの自動ドアを越え、はるみとその背後にいる岩倉の前に出現した。
オートロックの自動ドアは、外側から開くはずもない。だから白い襲撃に対し、あれは邪魔で強固な壁と化していたのである。越えられないはずの壁を、遼とリューティガーは瞬く間に通過した。扉が開いた形跡はない。ということは、以前教室ジャックの後で目の当たりにした二人の消失は、やはり事実だったのか。
リューティガーは落ち着いた様子で彼女を見据え、遼は床に視線を落とし、どこか辛そうでもあった。
「遼。ガンちゃんの本来の目的……いいね……」
「ルディ……」
呼び方が変化した理由を、リューティガーはよく理解していた。本音と建前の二面がまだこの友人には存在している。そんな認識に苛つきながら、しかし彼は冷静さを崩したくはなかった。少なくともこの少女の前においては。
岩倉次郎をなぜ仲間に引き入れたのか。その本来の目的は、彼の高度な記憶認識力にあった。理解する力、通称“ガンちゃんフィルタ”を使えば、対象者の記憶を自由に書き込んだり、消去したりできる。
神崎はるみの記憶を消去する。リューティガーの意図はよくわかる。正しい判断だと言える。しかし遼は、チロの屍があった自動ドアの向こうに視線を移し、その床が泡に汚れているのを確かめ、やはりこの状況は間違っていると思った。
記憶を消す……俺が……あの犬を殺したことも……できるかよ……そんなこと……
遼は左手で岩倉の、右手ではるみの手首を掴んだ。
聞こえるか……神崎……それにガンちゃん……聞こえるんなら驚くなよ……ぼうっとしていろ……
突然頭の浮かび上がった言語情報に、はるみは眉をぴくりと動かし戸惑った。岩倉は一度だけ彼女の背中を軽く叩き、遼の意図を促した。
真錠が見てる……真錠は……いま神崎が見たことを……その記憶を消せと俺に指示している……俺とガンちゃんにはそれができるけど……やりたくない……いいか神崎……俺が合図をしたら、気を失ったフリをしろ……そしてガンちゃんは神崎を家まで届けるんだ……場所はわかってるよな……
岩倉は小さく頷き、はるみは初めての体験にいまだ戸惑いを隠し切れなかった。
「さぁ……いくぜガンちゃん……神崎……おとなしくしてろよ……恐いのを取り除くだけだ……」
わざと声に出し、遼はそう低く言った。
さぁはるみ……!! 芝居だ……気を失え……!!
わかった……遼!!
はるみはその場でぐったりと崩れ落ち、思いっきり腰を床に打った。その演技に遼は彼女の覚悟を感じ、岩倉に目配せをした。
いいよな……ガンちゃん……これで……
う、うん……もちろん……
手を放した遼は、リューティガーに向き直った。
「たぶん……これで記憶は消えているはずだ……ここ十分ばかりをゴミ箱に放り込んだ」
「そうか……すまない遼……ガンちゃん……」
気を失っているように見えるはるみを、リューティガーは見下ろした。
「力もない者が踏み込むべきじゃない……彼女にとってはこれが一番なんだ……」
冷たさのない、どこか優しいつぶやきのようだった。少なくとも、はるみにはそう感じられた。
11.
夕飯はほとんど喉を通らなかった。目撃してしまった事実を整理することもできず、はるみは自室のベッドで呆然と座り込んでいた。
すると、携帯電話がメールを受信したので彼女は飛びついてそれを確認した。
バイクの後ろに乗せてもらったのは、初めての体験である。けどそんなことは今日体験したことの中ではあまりにも小さすぎる。代々木公園の入り口近くのベンチで、神崎はるみと島守遼は並んで座っていた。
「神崎……驚いたと思う……全部……見たんだよな……」
「う、うん……」
「簡単に言うと……俺と真錠、それに岩倉とかは七年前のテログループの残党と戦っている。奴らの会談を妨害したり、逆に襲われたり……今日のもそれだ……理由はいろいろあるんだ……まず……俺の場合は……神崎……」
遼は街灯を見上げ、はるみもそれに倣った。するとしばらくして、街灯が光を失った。
「配線を切断した……俺にはさっきのと、こんなことができる。小さな力だし、ひどく時間がかかるけど……異なる力って呼んでいる」
なぜ、彼はここまで素直に打ち明けてくれるのだろうか。これまでの拒絶からすれば、豹変と言っていい変化である。
狂犬と化したチロは、一体なぜ倒れたのだろう。
二つの異なる疑問が、少女の中で一つの答えを導き出した。
「俺たちは……真錠の組織……国際的な同盟組織なんだけど、そこの支援を受けて戦ってる……いろいろ……ほんといろいろあったんだ……これまでに……」
「うん……」
それはそうだろう。はるみは自分でも妙に落ち着いてきているのが意外で、すぐに全貌を聞く必要もないと思った。
「たぶん……聞いても憶えきれないと思う……ねぇ島守……」
「う、うん……」
「真錠はさっき、記憶を消せって言ったけど……どうしてそうしなかったの?」
「あ、ああ……」
視線を地面に落とし、両指を膝の上で組み、遼はすっかり黙り込んでしまった。
チロを……殺したんだよね……
包み込む柔らかい感触を両手の甲に覚えたのと同時に、そんな言葉が彼の意識に入ってきた。
あぁ……俺がやった……それだけは……知ってほしかった……
彼はロビーで叫んだ。「そんなのじゃだめだ!!」と。たぶん、そうなのだろう。それはわかる。だから、彼を責めることなどできない。
暖かな気持ちが、遼の意識を包んだ。
すまない……神崎……
いいから島守……もう……いいから……
なんで……そこまで強いんだ……神崎は……
強くないよ……けど……わかるから……島守は……守るために戦ってくれた……わかるから……
彼の辛さが、掌を通して伝わってくるようだった。それは押さえきれない感情の放出であり、自分に対して曝け出してくれる事実が少女には嬉しかった。
自分に何ができるか。それはまだわからない。だけど力になってみせる。彼の辛さを受け止めるだけでもいい。はるみは遼に身体を寄せようとした。
好きだった老犬が無残な最期を遂げ、銃による殺害を目撃し、彼女の精神的な傷は相当のものだろうと思う。だが、それだけで遼ははるみの気持ちを受け入れることはできなかった。
最近、心を通じさせる機会も多い。今にしても健気な気持ちを、温かい手を通して伝えてきてくれている。正直言って、自分のような男には勿体無いほどである。
毛皮の少女の死に顔が、彼の心を再び震えさせた。
彼女を、理佳をああしてはならない。遼は大きく息を吸い込み、両目を閉ざした。
それだけじゃない……俺の戦っている理由は……
ひどく鮮明な、それは少女がいままで感じたものより、明確な言語情報だった。
なに……? 島守……?
ガンちゃんにしか……打ち明けてない……事実がある……
遼ははるみの包み込む手をほどき、彼女をじっと見つめた。
「守るためだけに戦うなんて、俺はそこまで大した奴じゃない……それだけは知って欲しい」
「島守……?」
言葉と視線を同時に交わした二人に、五月中旬にしては冷たい夜風が吹きつけた。
「理佳ちゃんのためだ……彼女はテロの残党と関わってる……俺を守るために、彼女はいなくなった……取り戻したい。だから真錠の言う、戦いってやつに参加したんだ」
なぜ彼はそんなことを自分に告げるのだろう。はるみは身を寄せるのを止め、背中を椅子に付けて夜空を見上げた。
「そう……なんだ」
「ああ……だけど真錠は……あいつはきっと、理佳ちゃんにだって容赦はしない……今日のあの子みたいに……撃ち殺すだろう……真錠は違うんだ……俺たちなんかとは……そう思うと……俺は……」
遼は両手で頭を抱え、それははるみから見て情けない姿に思えた。
いや、違う。島守を情けないと思うのは、勝手な勝利宣言だ。惨めなのは自分だ。
怒ってよいのか泣いてしまえばいいのか。はるみはさっぱりわからなくなってしまった。
「がんばろ……島守遼」
何を言っているのだろう。
「理佳をさ……助けるの手伝うよ……味方がいないんなら。わたしがなってあげる。だって、理佳とは友達だったもの」
どうしたんだわたしは。
「神崎……だけどそれは……」
島守。そんな優しい目でこっちを見るな。泣くぞ。
「わたしにも関係あるから……ねぇ島守……」
もういいや。こうなりゃ全部をくっつけてしまえ。どうなろうと知らない。どうせこのままじゃ最悪のまんまだ。
「わたしのお姉ちゃんに会って欲しいんだ……十五日の日曜日……」
「ど、どういうことだ……?」
「いいから、会ってくれる? きっと意味があると思う……島守の目的に近づくきっかけになると思うんだ……」
なぜこうも彼女は冷静なのだろう。遼はそれがまったく理解できず、思わず頭を掻こうとした。
「そのクセ。よくないと思うな」
すっと伸びてきたはるみの手が、遼の手首を強く掴んだ。
いいよね。十五日の午前……
あ、ああ……わ、わかった……
確か彼女の姉は、政府関係の仕事をしていたはずである。小さな疑問が再び遼の脳裏に浮かび、彼は妙に納得してしまった。
「そ、そうか……そうだな……俺にも気になっていたことがある……」
「え……そうなの?」
「ああ……ちょっとな……十五日の何時ぐらいがいい?」
「十時ぐらいでいいよ。それと……真錠にはうまく誤魔化しとけばいいんだよね」
「ああ。なんかあいつはお前には冷たい……それだけは頼むぜ……名女優」
遼ははるみの肩を叩くと、二つのヘルメットを手にベンチから立ち上がった。
「送ってくよ」
「ううん。いいや。むちゃくちゃ遠くってわけでもないし。のんびり歩いて帰る」
「け、けどもう遅いぜ」
「道、知ってるから平気。それより免許取得一年未満は、ほんとは二人乗りだめなんでしょ」
人の悪い笑みを浮かべたはるみはそう指摘し、遼は堪らず頭を掻こうとしてそれを止めた。
電灯の壊れた暗いベンチに、はるみは座り続けていた。バイクの走り去る音を耳にした彼女はようやく立ち上がり、憂鬱な笑みを浮かべた。
冗談じゃない……馬鹿かわたしは……馬鹿か……!!
ベンチを蹴飛ばそうにも、電灯を殴ろうにも、より大きな痛みが跳ね返ってくることは明白だ。はるみは仕方なく地面を蹴り、大して晴れてくれない気分に負けてしまった。
その場にしゃがみ込んだ彼女は、それから三十分ほどぐずくずと呻き、涙を流し、何度も地面を叩いた。まるで子供みたいだ。これじゃ。弾かれても仕方ない。
一人ぼっちのはるみがパトロールの警官に声をかけられ、仕方なくタクシーを拾って家路についたのは、そのすぐ後のことだった。
「万里の長城のどの辺なんだここって?」
満天に広がる星空を見上げた真実の人は、隣で腕を組んでいる女性に日本語でそう尋ねた。
「八達嶺(バーダーリン)よ、アル。平日のこの時間だと、観光客もほとんどいないの」
城壁の上から急勾配の階段を見上げた真実の人は、吹いてきた強い風に白い長髪を押さえた。
「なるほど。密会にはいいロケーションだな。慧娜(ひゅいな)」
「上海で大っぴらにってわけにはいかないからね」
慧娜と呼ばれた女性は背が高く、ダブついた人民服を身につけていた。黒い髪は両サイドで丸めるように結び、肌の色は白く、目が少々細いが美人と言っていい。真実の人は彼女の姿を上から下へ見詰めると、顎に手を当てた。
「にしてもそれ……なんとかならなかったのか?」
「仕方ないでしょ? 党幹部と打ち合わせだったんだから。これでご機嫌って取れるものなのよ。特に老人の場合は」
「誘惑するならチャイナドレスの方がいいんじゃないのかな?」
「わたし、そーゆーの嫌いなの」
きっぱりとそう言い放った後、慧娜は目を伏せ真実の人に手を伸ばした。
「もちろん。相手次第だから今度は用意しておくわ」
「嬉しいね。そいつは」
真実の人が慧娜の手を取ると、二人の姿は城壁から消えた。
「紅西社の実権はあともう少しよ。まだ工作が必要だけど、ほんと、もう一息」
「頼もしいね。慧娜は」
「ええ。だから追加戦力の必要はないわ。長助にもそう伝えておいて」
「了解だ……」
二人の姿は明るい日差しの森の中にあった。
「えっと……ここは?」
「セントラルパークよ」
「そりゃまた、随分と遠くに」
「あなたが言う? アル?」
そう言われた真実の人は表情を崩し、彼女の腰に手を回した。
「治安悪いのよ、ここって。お昼でも」
「それこそ君が言うか?」
真実の人は腰を落とし、見上げる慧娜に口付けをした。
足の裏の感覚が更に柔らかくなった。口付けをしたままの真実の人が目を開けると、そこは冷たい夕暮れの砂漠であった。彼の首に両手を回した慧娜は、顔を離して首を傾げた。
「タール砂漠……インドの」
「へぇ……はじめてきたけど、鳥取やゴビとそう変わらないな」
「ま……砂ばっかりだものね」
「こういうのはどうかな……」
腰に回した手に力を入れた真実の人は、彼女を両手で抱きかかえて砂漠を歩き始めた。
「悪くない……っていうか……好き」
「痩せたか?」
「そりゃあね……」
青年はもう一度、今度は彼女の額に口付けをした。
「けど力は変わらず……それはわかってくれたかしら?」
「もちろん。これほど早い跳躍……俺やルディ以上だ。それに同時ってのが凄いな」
「人間一人ぶんが精一杯だけどね」
少々無粋な方向に話が流れてしまっただろうか。そう思った真実の人は、呆れた笑みを彼女に向けた。すると見上げる慧娜も眉を上下させた。まったく気性が合うとはこういったことだろうか。青年は砂漠を歩きながら、久しぶりの再会に充足感を得ていた。
舞台をセッティングする能力は、先の公演で身についたはずである。だから昨日の土曜日は父、博人(ひろと)の晩酌に付き合った。すっかり酩酊した父はまだ起きることなく寝室でぐったりしている。おそらく起きるのは夕方前だろう。
母には十時から彼が訪れるとその朝突然告げ、慌てて買い物に出かけていった。カウンターの上に財布があるから電話がかかってくるだろうが、そのときは弟に行かせればいい。
つい先ほど官舎から帰ってきた姉は、寝不足なのかまだ眠そうな様子である。それでもこないだの訪問が効いたのか、こちらを見る目に緊張の色が浮かんでいるのがよくわかった。
「はるみ。それでなんなの、話ってなに?」
「お下がりのベッド。懐かしいでしょまりか姉」
はるみは姉の腰掛けたベッドの縁を撫で、ウインクした。
「まぁね……」
先日の訪問で刺激的な言葉を交わした以上、姉は自分に話したいことがあるはずだ。この二階の自室に来てくれと頼んだら、快く上がってきてくれたのがその証拠である。
攻めてみる。少し前までの自分は、姉に対してまったくの強烈な意識があり、とてもそのような発想に至らなかった。だけどいまは違う。七年以上にわたって隠蔽された事実を、自分は知ってもいい経験を経たはずだ。
これで舞台は整った。後は最後の役者が到着するのを待つばかりである。
このセッティング。この出会いがどのような結果を生み出すのだろうか。
なんにしろ、笑えないと思う。それだけは確かだ。しかし、確実に状況は変化する。その流れは見定めておきたい。明日笑うために。
はるみはお下がりの椅子に座り、いつインターフォンが鳴るかと腕時計で時間を確認した。
五月十五日午前十時。島守遼が神崎家を訪れるのは二度目であり、最初のそれからは五ヵ月以上が経過していた。バイクを降りた彼は、玄関まで向かった。
姉に会って欲しい。神崎はるみはそう言った。
料亭「いなば」で遭遇した赤い人型の中身は、通信機で「神崎」と呼ばれていたような気がする。そしてはるみの姉は政府関係の仕事をしていたはずである。この二つの符号が合わさるのなら、自分はひょっとして、リューティガーではないもう一つの力と関われるかもしれない。
金色の髪をした上半身が脳裏を走った。ヘイゼル・クリアリーの無残な屍。
こめかみから脳漿を飛び散らせ、小さな両目を見開いたアジュアの最後が、記憶を駆け巡った。
どちらも同じである。だから符合が合致したところで、自分の望む結果になるとは限らない。だが確認する必要があった。知る必要があった。
島守遼は、ブザーのボタンにゆっくりと手を伸ばした。
第二十話「慈悲深き銃弾」おわり
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