真実の世界2d 遼とルディ
第八話「はじめての喝采」
1.
 背中に伝わる硬さは相変わらずで、それを感覚として認識できるほど、彼の意識は現実世界への復帰を果たそうとしていた。
「もう七時だ……みんな起きる頃だぜ」
 少し吊り上がった、険のあるこの目は横田良平のそれなのだろう。

 なんで……横田が俺の寝起きに出てくるんだよ……そっか……俺たち……昨日はここ……教室に泊まり込んだんだよな……そーか、そーか……もう……朝か……学園祭当日ね……はいはい……

 島守遼(とうもり りょう)は散らかった記憶を整理しながら、毛布を払って立ち上がった。
 教室の隅で壁に寄りかかった彼は、横田をちらりと一瞥すると辺りを見渡した。
 調理ブースの中からあくびをしているのは戸田義隆であり、窓際で大きく伸びをして腰の調子を確かめているのはクラス委員の音原太一(おとはら たいち)である。横田は歯ブラシを手に廊下へ出て、それに麻生巽(あそう たつみ)が長髪を揺らしながら続いていた。
「戸田? 高川君と関根君は?」
 昨晩一緒に泊まり込みをした残りのクラスメイトは今何処に? そんな意味を込めた遼の問いに、戸田はもう一度大きなあくびを返した。
「ごめん……高川君はちょっとその辺ランニングしてくるって……関根君は……」
 視線を教室に向け、やがて目を閉じた戸田に、濡れたハンカチで痘痕面を拭きながら音原が近づいてきた。
「七時から配送センターの問い合わせが始まるらしい。廊下かどこかで電話してるんじゃないのか?」
「電話なら教室ですりゃいいのに」
 言いつつ、遼はこの仁愛高校に入学して間もなく、関根となんとなく電話番号を教え合ったことを急に思い出し、噴き出してしまった。
「なに笑ってるんだよ。関根君はまだお前が寝てるから、気を遣った可能性だってあるんだぞ」
 諌める音原に対し、「ご、ごめん」と遼は謝った。だがそれでもなお顔をニヤつかせたまま、彼はコンビニのビニール袋からパッケージに入ったままの歯ブラシを取り出して廊下に出た。
 中央校舎との接続部付近に設置された手洗い場所では、横田と麻生の二人が並んで歯磨きをしていて、遼もその横に並び、蛇口の側に置かれた歯磨き粉のチューブを手にした。
 クラスメイトたちと並んで歯磨きをするのは中学校二年生の修学旅行以来だが、校舎でとなると経験はない。壁に飾り付けられた色紙や、北側校舎への通り抜けを防ぐために接地されたベニヤ製の壁などにあらためて気付いた遼は、いよいよ今日から始まる文化祭への期待と興奮が胸中に沸き上がろうとしていた。
「よぉ関根」
 低い声で、麻生が階段を上がってきた関根に声をかけた。携帯電話を手にした彼の表情はどこか暗く、歯磨き粉を戸田に手渡しながら、遼は少しだけ眉を顰めた。
「配送センターに電話してたんだろ?」
 遼の問いに、関根は「う、うん……まぁ……」と歯切れの悪い返事をして視線を床に落とした。
「関根……?」
 首を傾げると、遼は明確ではない態度を取り続ける関根に答えを促し、麻生は丸太のように太い腕を組んで壁に寄りかかり、横田は首を鳴らしながら教室に戻ろうとし、出てきた音原に関根の存在を促した。
「配送センター……電話がつながらない……」
「な、なんだよ、それ……」
「何度かけても通話中で……しまいには大変込み合っていますって……自動のアナウンスが……」
 あまりよい事態とは言えない。関根の説明を聞きながら、遼と麻生、そして戸田は目つきを鋭くし、判断力を総動員する必要があると感じていた。
「なんだなんだ? どうしたってんだよ?」
 彼らしくもない少々乱暴な口調で、音原は張り詰めた空気の中へ割って入ってきた。
「チャーシューがじき届くはずなんだよ。それで関根君が宅配便の配送センターに配達状況を確認したんだけど……電話が話中でつながらないらしい」
「朝イチだし土曜だから人手が足りてないんだろ? しつこいクレーマーでも電話してるんじゃないのか?」
 いつもの堅実さが眠気と疲れで剥げ落ちているのか、そんな楽観論を音原は口にし、関根の肉厚のある背中を軽く叩いた。
「そ、そうかも……知れないけど……」
「相手は配達に出したって……そっちの確認はとれてるんだろ?」
「うん……兆龍の親父さんは、確かに八時到着指定で出したって……昨日の夜に電話でそう言ってた……」
 関根の説明に音原は何度も頷き、歯ブラシを手にしながら戸田の横についた。
「じゃあ平気だよ。もし事故とかあって遅れるのなら、こっちか送り主に連絡が行くだろ? 時間指定なんだし。向こうから何の連絡もないんなら心配しなくていいだろ」
 音原の楽観論にも一理ある。第一現在の状況では配達確認を取る術も無く、関根以外の彼らは一度は抱いた不安をクラス委員の意見で誤魔化してしまおうと思った。
「みなさんおはようございます。お泊まり組の皆さん。どうもご苦労様です」
 廊下に女生徒の声でそんな校内放送が鳴り響くと、とりあえずのこの問題は八時の配達まで、つまり現在から一時間ほどは保留にしておこうと、そんな無言の共通認識が皆の中で芽生えていた。学園祭開始の九時からであり、それまでにやらなければならにない仕事はいくらでもある。教室に戻った彼らは誰が言い出すわけでもなく仕事をはじめ、ランニングから帰ってきた高川もそれに加わった。

「皆さん、おはようございます!!」
 明るい声で紙袋を抱えたリューティガー真錠(しんじょう)が、椿梢(つばき こずえ)と川崎ちはるという二人の女生徒と共に、すっかりラーメン店の内装も完成しつつあった教室に入ってきた。
「おーす」「うーす」「……」「お、おはよう……」「やあ真錠君!」「おはよう!」「なんで椿と川崎が一緒なんだよ……」泊まり組の男子生徒たちは、入ってきたリューティガーたちにそれぞれの反応をした。
「これ差し入れです。朝ごはん、食べてないんでしょ?」
 紙袋から白い饅頭を取り出したリューティガーは、それを椿梢と川崎にも手渡し、三人で遼をはじめとした作業中の男子生徒たちに配った。
「暖かいなこれ……ファミマで買ったのか?」
 麻生の問いに、椿梢は「わからない。校門で真錠くんと会ったら、もうその時にはこれ、抱えてたから」と澄んだ声で返事をした。
「こ、こしあん?」
 戸田がそう尋ねると、川崎は「ううん肉まん。ルディの家の人が作ってくれたんだって」と説明し、自分も知らない状況を把握している彼女に対して、椿梢は少しだけ眉間に皺を寄せた。
「真錠君の家は代々木じゃなかったのか? それがどうしてこんなに暖かく?」
 リューティガーから饅頭を受け取りながらも、当然の疑問を音原は口にした。
「ちょっとした保温方法があるんですよ。ドイツでも製品化が始まったばかりの」
 調理ブースで金槌を振るう島守遼に近づきながら、リューティガーは淀みなく虚言で返し、音原は頷きながら饅頭を一口かじり「うわっ!! うまいぞ、これ!!」と驚いた。
「陳さんが作ったのか?」
 背中を向けて釘を打ち続けたまま、遼はリューティガーにそうつぶやいた。
「う、うん……皆で食べてくれって……」
「あの人のなら……そりゃ、美味いんだろうな……」
 手を止めた遼は、ゆっくりと立ち上がりながら栗色の髪を見下ろし、饅頭を受け取った。
 ぎこちないものの、笑みを浮かべている遼に対して、リューティガーはなぜだか妙に嬉しくなってしまい、無邪気な笑みを浮かべた。
「うめぇや……さすが陳さん……で、跳んできたのか? だから出来たてなんだろ?」
 小さな声でそう尋ねてきた遼に、リューティガーは笑みを苦いものに変え、頷いた。
「便利だよな……定期代もかからないし……」
 もぐもぐと熱い肉まんを頬張りながら、遼は再び背中を向けて作業を再開した。ぎこちないやりとりながらも、この“異なる力”をもった彼は自分を完全に拒絶も否定もしていない。そう感じたリューティガーはなにか心の奥に残してきた不安が晴れたような気がして、それだけがとても嬉しかった。
 八時前になると、生徒たちは次々と校舎に吸い込まれるように登校し、1年B組の教室でも、店員となる運営班の生徒たちはエプロンを着込み、調理班は完成した調理ブースの使い勝手を確かめ、調達班は麺や調味料の数量確認をはじめ、にわかに活気付き始めていた。そんなクラスメイトたちと入れ替わるように廊下に出た遼たち設営班男子五人組は、とりあえず自分たちの仕事が山場を過ぎたことを自覚し、それぞれ無言のまま視線を交わして充足感に浸っていた。
「島守! それにみんな。本当にご苦労様!!」
 教室から出てきた神崎はるみは、溌剌とした笑みでそう挨拶をし、遼を除く四人は小さいながらも意を返したり現したりとそれぞれであった。
「お、おはよう理…………蜷川さん……」
 はるみと一緒に廊下に出てきた蜷河理佳(になかわ りか)に声をかけた遼は、はるみに決して視線を向けることなく、長い黒髪をそっと撫でるブレザー姿の彼女に見とれていた。
「お……おはよう遼……くん……」
 名前でそう呼ぶ少女に対し、少年は顎を引いて頬の筋肉をひくつかせ、隣で腕を組んでいた麻生は目を大きく見開き、戸田は顎の無精髭を掻き、横田はつまらなそうに視線を宙に浮かせ、偉丈夫の高川はそのままはるみに無骨な笑みを向け続けていた。
「に、蜷……理佳ちゃんは……あ、あの……その……」
 他の生徒たちの前で名前を呼び合うことは、どこか既成事実を作るようで嫌味のような気もしたが、せっかくの彼女の意を逸らしたりかわしたりすることなど、遼にはできなかった。
 頭を掻いてひたすら照れる彼に対して、はるみは腰に手を当てて睨み上げた。
「ほら島守。とっとと行かないと。また平田先輩に怒鳴られるわよ」
「な、なんだよ、神崎……行くって……」
 あくまでも呆けたままである遼に対して、はるみは乱暴な挙動で背をくるりと向けた。
「体育館に決まってるでしょ? 上演開始は十時なんですからね。もう行って準備しないと」
 今日はラーメン店の開店だけでなく、演劇部の一回きりである舞台発表の当日でもある。決して忘れたわけではなかったが、常にその意識を保っていなかった自分にうろたえてしまった遼は、階段へ向かって歩いていくはるみに慌てて続いていった。
「あは……遼くん……まだ寝ぼけてるのかな?」
 そうつぶやいた蜷河理佳は、残った四人の男子たちに会釈をし、彼氏の後を追った。
「お、おい戸田……蜷河と島守って……?」
「うーん……付き合ってるみたいだねぇ……」
 丸い目を見開いたままの麻生は、自分よりさらに長身を猫背にし、ポケットに手を突っ込んだ戸田にそう尋ねた。
「一緒に働いてるのに……何度か呑んだのに……聞いてねぇぞ……」
「僕も知らないけど……あれは間違いなくそうなんじゃないのぉ?」
 面白がるように微笑む戸田は、階段を下りていく蜷河理佳を見つめながら、顎の無精髭を撫でた。
「神崎さんは……どのような役なのだろうか……」
 高川が太い眉毛を顰めながらそうつぶやくと、残りの三人は彼に注意を向け「さぁ?」と偶然同じ言葉を返した。

2.
「紅生姜のパックは直前まで開けないでください。十月とは言っても教室内は結構温度も湿度も高いですから」
 調理班の責任者、田埜綾花(たの あやか)にそんな指示を出したリューティガーは、教室隅に積まれたプラスチックケースへ向かい、A4サイズのチェックリストと麺の在庫を照らし合わせてみた。
 数量に問題はなく、材料調達班の責任者である自分の職務はここまで滞りなく、開店への支障は今のところない。関根の申し出から、彼に任せているチャーシューが唯一まだではあったが、予定ではあともう少しで配達されてくるはずである。
 彼の正体を知る者であれば、学園祭の材料調達任務など、それまで受けてきた訓練や経験を考慮すれば失敗などあり得た話ではなく、完璧にできて当然。まるで呼吸をするが如くという認識が当然である。しかし陰謀も駆け引きも、そしてなにより悪意が介在しないこの任務に賢人同盟の若きエージェントはやりがいを感じていて、決して手を抜くことはなかった。

 今は仁愛高校1年B組の生徒なんだ。

 ここ数日同盟本部からの作戦指示もないせいか、そんな自覚がより強くなり、本来の転入目的を見失うことすらしばしばある。
「よう真錠君。おっはよう」
 坊主頭を揺らしながら、ギリギリの時間になって登校してきた沢田は、周囲に苦笑いを振りまきながら、最後にこれまであまり言葉を交わしたことがなかった、栗色の髪をしたクラスメイトに声をかけた。
「おはよう沢田くん。だめですよ。もう九時の開店まで四十分しかないんですから」
「あはは……悪りぃ……ニュース見てたら、遅くなってさ」
「何かあったんですか?」
 リューティガーの問いに、沢田は学生鞄を調理ブースの裏に放ると上着を脱いで頷いた。
「首都高で事故。神奈川一号線で二十台ぐらいが玉突き衝突だって。何人か死んだってさ」
 遅刻寸前になる見続けてしまうほどの、それなりに規模の大きな事故であることは推察できる。しかし来日以来、交通事故程度のニュースは何度も目にしたし、これまでとこれから、自分が関わっていくこの国の危機に比べてしまえば瑣末時であろう。本来ならリューティガーにとって、その事故は興味を示すほどの話題ではなかった。

 なにか……嫌だ……これは……

 だが、言葉にならない漠然とした違和感がリューティガーの意識に広がろうとしていた。彼は眼鏡を直し、エプロンをつける沢田に対して「電話……貸してくれます?」と小さな声で尋ねた。
「いいけど……真錠君って携帯は持ってないの?」
「すみません……」
 沢田から携帯を受け取ったリューティガーは、チェックリストの裏にメモされた宅配業者の電話番号を打ち込んだ。深刻な様子で一体誰に電話をしているのだろう。廊下へ出ないところみると、内緒ではないようだが。沢田喜三郎はそんな興味を抱きながら、クラスメイトの電話内容に耳を傾けていた。
「だめだ……つながらない……」
 携帯電話から耳を離したリューティガーは、視線を泳がせた。
「真錠君、どこにかけたんだよ?」
「チャーシューを……八時の時間指定って関根くんは言ってたんです……東京の道はひどいから、少しは遅れることもあるだろうと思っていたのですが……」
「ま、まさか……なぁ……」
 沢田は顔を引きつらせ、待ち受け画面を見つめた。
「とにかく……下駄箱とかで関根くんが受領した可能性もあるから……僕、彼を探してきます……」
「そ、それなら電話するよ。俺、関根の番号、聞いてるし」
 リューティガーの緊張感が伝染したのか、沢田もすっかり真面目な表情で携帯電話を耳に当てた。
 開店を控えた教室内は、最終チェックで駆け回る生徒たちの勢いに満ち溢れていた。その中で二人の周囲を取り巻く空気は重く、その空間だけがひどく停滞していたため、他の生徒たちも奇妙な違和感を覚えようとしていた。
「ルディ、どうしたんだろ?」
「う、うん……」
 椿梢と川崎ちはるは調理ブースから二人の様子を眺め、クラス委員の音原もビラの束を抱えながら、廊下へと出ようとする足を止めた。
「なんだよ。関根まで通話中って……おいおいおいおい!!」
 わざとらしく大げさに、予測する最悪の事態を一人で処理したくないため、沢田は顔を歪ませながら大声を張り上げた。
「な、なにがあったの?」
 長身の合川という女子生徒が、両手を合わせて沢田を見下ろした。
「チャーシューだよ。チャーシュー。誰か届いたって聞いたぁ!?」
 教室内をぐるりと見渡しながらそう叫ぶ沢田に対し、生徒は顔を見合わせて首を傾げるばかりだった。
「ね、ねぇ沢田君……どうしたのよ……みんなチャーシューは見てないって……」
 心配そうに口元を震わせる合川に対して、沢田は小さく舌打ちをしてリューティガーに意を向けた。
 とにかく、今は関根の所在を確かめるのが先決である。そう判断したリューティガーは、沢田の肩を軽く叩いて教室から出ようと扉に手をかけた。しかしそれを挟んだ反対側からの力によって扉は左へスライドし、ワイシャツ姿の関根が姿を現した。
「関根……く……ん……」
 目当てであったクラスメイトの顔面に血の色は薄く、青黒く変化していた。額にはびっしりと水分が張り付き、口元はわなわなと震えていて、右手には携帯電話が握り締められている。沢田も関根の登場に気づくと出口まで駆け寄り、合川と音原もそれに続いた。
「もしかして……首都高の……事故……?」
 材料調達に尽力してくれた同級生の言葉に、関根は震えながらゆっくりと頷いた。最悪の事態である。そう認識したリューティガーは顔を顰めて目を閉じ、駆けつけた沢田も眉間に皺を寄せ、音原と合川は何事かと顔を見合わせた。
「あ、ありぇねぇ……そんな偶然って……関根……なぁ?」
 沢田は関根の肩を掴んだが、抵抗するはずの力は帰ってくることがなく、小太りの彼は土くれ人形のように、黒板横の壁までふらふらっと流れ、やがてその場に崩れ落ちた。
「ど、どうしたんだ!? な、なんなのだ!?」
 たまらず音原が叫んだのが決定的であり、教室で作業していた生徒たちの手が一斉に止まり、出口付近へ視線が集中した。
「た、玉突き衝突の……最後尾だったらしい……スピンして……燃えて……荷物は……消火器の泡まみれで……」
 甲高く、重みの無い掠れた声で、黒板下でテディベアのように座り込んだ関根が、呆然とつぶやいた。
「わ、わからない……なんなんだ? 玉突きがどうしたんだ?」
 関根の狼狽をよく理解できないクラス委員に対して、リューティガーが詰襟を直しながら顎を引いた。
「間違ってたら指摘してください……関根くん……」
 そう前置きをしたリューティガーは、クラス全体に声を届かせるため教壇に登った。
「今日八時に配達される予定だったチャーシューだけど、早朝に起きた首都高速道路の玉突き衝突事故に、配達業者のトラックが巻き込まれました」
 よく通った声に、1年B組全体の意識が集中され、皆が栗色の髪をした彼に注目した。
「現在、この時点でチャーシューはありません。つまりはそういうことです」
 最後は音原の目を見つめ、そう締めくくったリューティガーは教壇から降りた。生徒たちはざわつき始めていたが、「それがどうしたの?」と事の事態をまったく理解していない野元や、舌打ちをして調理ブースの床を蹴る権藤などと、生徒たちの反応はばらばらであり、緩やかな不協和音が教室に奏でられていた。
「いいか!? チャーシューがないってことは、具が足りないってことだ。まさかチャーシュー抜きでラーメンは出せないだろ?」
 替わって教壇に立った音原が、そうわかりやすく状況整理をした。リューティガーはその対応に感心し、崩れ落ちたままの関根へ向かって腰を下ろした。
「し、真錠君……」
「僕が……いや……みんなでなんとかする……」
「で、でも……あのチャーシューは……兆龍の親父さんが調理したチャーシューじゃないと……」
 関根は親指の爪を噛み、そのままの弱気をリューティガーに晒した。
「兆龍の親父さんって……この時間はどうしてる?」
「ど、どうって……もうぼちぼちタクシーの客もいなくなるし……昼前には屋台を引き上げるはずだけど……」
 材料調達責任者の意図を察した関根は、大きく首を横に振った。そうしているうちに、教壇の側には権藤、高川、内藤、合川、椿梢といった、比較的責任感も理解力もある生徒たちの中でも手の空いている者が集まり、音原と言葉を交わしていた。
「だめだよ、真錠君。今から親父さんに追加を頼んでも、今日じゅうにってのは……」
「そっか……」
 期待に反する答えだったはずである。しかしこのクラスメイトはより自信に満ちた笑みを浮かべ、大きく頷いている。関根は混乱し、口元を歪ませた。
「親父さんに頼めば、追加のチャーシューは容易できるってことなんだね」
「う、うん……事情を話せば……作りおきがあるはずだから……けど……む、無理だよ……もう開店まで一時間しかないし……」
「それはそれ……なんとか……する……」
 これまでの礼儀正しさに隠れていた、クラスメイトの力強く凛とした意に曝された関根は、息を呑んでワイシャツのボタンを外した。
「委員! どうする!?」
 立ち上がったリューティガーにそう問われた音原は、戸惑いながらも小さく息を吐き、大きく頷いた。
「椿さんが言うには、試食用のチャーシューがまだ少しある。とりあえず朝からラーメンって人は少ないだろうから、それで昼までは持たせる。その間に調達班は近くのスーパーでできるだけいいチャーシューを購入する。お金はとりあえず僕が出す。関根君はその代替チャーシューの選定に付き合ってくれ」
「け、けど……チャーシューは……」
 音原の指示に躊躇した関根の肩を、リューティガーが力強く握った。
「委員は最悪の事態を想定して、打てる手を考えたんだ。今はそれに乗っかろう」
「う、うん……」
「それに……その手は使わなくってもいいように……僕がなんとかしてみせる……だから買い出しは少し待っててくれ」
 敬語を使わず、しっかりとした口調での要請に対し、反論する生徒は誰もおらず、不協和音は霧散しようとしていた。

3.
 教室から出て行くリューティガーの姿を目の端で確認した音原は、教室内を見渡した。
「予定変更。チャーシューは真錠君が戻り次第、別物を買いに行く。それまでの間は……」
 音原が判断に困っていると、椿梢と川崎ちはるが金属製のトレーを抱えて教室に戻ってきた。
「三回目の試食用に、何日か前冷蔵庫に入れておいた分……すこし古いけど使えると思うよ」
 トレーの中を覗きこんだ川崎がそう説明すると、椿梢が「たぶん……これで……十二食分は作れると思う……」と言葉を続けた。
「十二食でストップだ。言い訳は見苦しいから、チャーシュー無しのラーメンは一切出さない。それでいいね、関根君」
「う、うん……」
 頷く関根を見ながら、音原太一はこんな非常事態において、よく自分がクラスをまとめられているものだと他人事のように感心してしまった。
 全ては眼鏡の奥からこちらを見た、紺色の瞳のおかげのような気がする。あの視線から強い意志を感じた自分は、強引とも言えるほどの強気を受けたような気がする。転入生の持つ、惹きつけられる何かに触発された彼は泊まり込みの疲れも忘れ、この緊急事態を楽しんでしまおうとさえ思いはじめていた。

 リューティガーは階段を駆け下り、生徒たちをかき分けながら一階の連絡通路から体育館へ向かった。演劇部の発表会を一時間ほど後に控えた体育館にはパイプ椅子が設置され、ステージ上は幕で阻まれ、いつもと違う光景を現出させている。それに戸惑いながらも彼は突き当たりの扉を開け、ステージ裏へと続く階段を駆け上がった。

 遼くん……どこにいる……!!

 演劇部員たちの視線を受けながら、リューティガーは栗色の髪を振り乱しながら辺りを見渡した。幕で隔たれていたステージの中には室内のセットが組み立てられていて、スーツ姿の女生徒がそれを見上げ、オールバックにした男装の髪をしきりに弄っていた。
「す、すみません……遼くんはいませんか……?」
 リューティガーにそう尋ねられたスーツ姿の生徒、二年の福岡は意外なる来訪者に目を丸くし、顎に手を当てて彼をじろじろと見つめた。
「えっと……君ってさ……もしかしてルッティガーくん?」
「あ、ええはい……」
 正確な発音を教えたくもあったが、今は非常事態である。くすぐったい視線を向けてくる男装の女生徒にすっかりペースを乱されながらも、リューティガーはセットを見上げて、辺りに注意を向けた。
「島守君ならまだ着替えてるはずよ。セットの裏に臨時のブースって言ってもただの囲いだけど……そこにいると思うわ」
 笑顔でそう説明してくれた福岡に対し、リューティガーは頭を下げ、セットの裏側に回ろうとした。
「ルディ……くん……?」
 学校ではあまり呼ばれなれることがない愛称を耳にした彼は、びくんっと反応して振り返った。
「蜷河……さん?」
 紺色のクラシックドレスを着て髪もアップにしているためか、いつもよりずっと大人の印象ではあるものの、それは間違いなくクラスメイトの蜷川理佳だった。これまでにほとんど言葉を交わしたこともないが、「綺麗な人だな」と思うこともあり、「いつも島守遼がでれでれしている相手」と認定している女生徒である。どう接していいか、未だに掴みどころもない相手であるため、リューティガーは言葉を詰まらせてしまった。
「遼くんを……探しに来たの?」
 衣装のせいか、蜷河理佳は落ち着きを通り越して静かなる怒りを携えているようでもあり、舞台本番を前にして闖入してしまった自分の迂闊さを、彼は改めて自覚した。
「そ、そうなんだ……ちょっと……お店のことで非常事態で……」
「だ、駄目よ……彼は……十時……あと一時間ちょっとで本番なの……あなたとは……お話なんて……」
 お話どころか、自分はあの長身で目が細く、いつもこちらの意図とは別方向へ走り出す厄介な能力者をここから少々連れ出そうとしている。そんな目的を話せば、この美しい少女は怒り出してしまうのでないかと、リューティガーは意外な展開に戸惑っていた。

 だからって……神崎はるみに仲介なんて頼めるか……!!

 世話好きで、自分に対して安定した人格を向けてくる“神崎はるみ”に対して、だが決して借りを作るつもりはなかった。

「真錠……?」
 セットの奥、背後より声をかけられたリューティガーは、蜷河理佳に背を向けた。
 紋付き袴姿の島守遼は、顎に白い付け髭を付けていて、舞台のメイクとしては適切なのだが、近くで見たリューティガーは、それがあまりにもオーバーに老人を演出しているようであり、噴き出しそうになるのを堪えた。
 窓枠の陰から姿を見せた遼は、下唇を突き出すと首を傾げた。そのどこか呆けた様子に本番を控えた役者の緊張感はなく、むしろ頼りないとさえリューティガーには感じられた。
「何しに来たんだよ。非常事態ってなんだ?」
「遼……くん……」
 リューティガーの背後に理佳の姿を認めた遼は、再び首を傾げて両者が何の話をしていたのかと疑問に思った。
「チャーシューを宅配するトラックが事故に巻き込まれた……」
「な……に?」
 老人を模した緩みのある表情は、唐突なる言葉に引き締まった。
「嘘みたいだけど本当なんだ。今、音原委員の指示で代わりのチャーシューを買いに行くことになったけど、博多に行けば、もとのチャーシューを追加で入手することができる……」
 「博多まで何時間……」そう指摘しようとした遼はあんぐりと口を開けまま固まり、眼鏡を直すクラスメイトの意図を察知した。
「そうか……屋台の親父に頼むんだな……」
「ああ。親父さんがいまどこにいるかは、関根くんだけが“認識”している」
「なる……ほど……ね……」
 ゆっくりとした言葉のやりとりで、島守遼はリューティガー真錠のやろうとしていることを理解して、セットの陰から身を乗り出した。
「理佳ちゃん……ちょっと行ってくる……すぐ戻ってくるから……」
 早口でそうつぶやくと、遼はステージ裏から階段へと向かった。そんな彼の背中に向かって、少女はたまらず叫んだ。
「だめ!!」
 ステージに響き渡った彼女の叫びは、上演準備を進める部員や協力する生徒たちの手を止めるほどではなかった。しかし当事者である遼とリューティガー、そして着替えを終えた神崎はるみには、共通の違和感である意外なる理佳の激しさに戸惑った。
「理佳……ちゃん……?」
 振り返った遼は、手を合わせて今にも泣き出しそうな蜷河理佳に、そっと近づいた。
「す、すぐに戻るから……な……ど、どうしたんだよ……?」
「う、うん……ご、ごめんね……わたし……うん……すぐに……ね」
「あ、ああ……」
 少年は少女の細い肩を軽く抱き、反対の手で背中を小さく叩くと駈け出して行った。その光景を目の当たりにしながら、神崎はるみは「丸っきり……恋人ってかんじ……」とつまらなそうにつぶやき、メイド用のエブロンドレス姿の自分と蜷河理佳のクラシックドレス姿を見比べ、なんだかあまりにも子供っぽくて、それがたまらなく理不尽だと思えた。

 廊下を駈けながら、遼は袴というものはずいぶん走りづらいものだと辟易としていた。
「ぼ、僕が何を意図しているか……伝えましょうか?」
「いや……大体はわかってる……関根の心を読んで真錠に伝えればいいんだろ。屋台のビジョンが必要なんだろ?」
 並んで駈けるリューティガーは、クラスメイトの予想外の洞察力に驚愕した。
「そ、それを……どうして……?」
「お前の考えてることぐらいはな……それに親父を探すとき、一緒に跳ばされてみてわかったけど……お前のあの力、地図や写真で見たような……そんな平面的な知識だけじゃ、とても使える気がしないって……そんなこと思い出してさ……」
「そ、そう……その通りだよ!」
「関根の記憶……確かならいいな……」
「夏休みに行ったばかりって言ってたから……うん……ありがとう遼くん!!」
「はは……まぁ……俺もちょっと色々あってさ……」
 「なにが?」そう尋ねようと思ったリューティガーだったが、今はそれどころではないと考え直し、1年B組の教室に駆け込みながら、なによりも目的を遂行するのが優先だと判断した。
「キショ!?」
 紋付き袴に老人メイクの遼を、エプロン姿の鈴木歩(すずき あゆみ)が指差して嘲笑した。
「るせー! お前のエプロンだって似合ってないぞ!」
 そう反論しながら、クラスメイトの好奇の視線に曝されつつ、遼の心は安定しようとしていた。

 はは……このかっこで人前に出るの……ちょっと恥ずかしかったもんな……慣れちまえば……

「真錠君……それに……島守君?」
 教室の隅でノートパソコンを抱え込んだまま腰を下ろし、地図を検索していた関根が、帰ってきた二人に視線を向けた。リューティガーは遼に一瞬目配せすると、関根の前に腰を下ろしてじっとその小さな目を見つめた。
「よっ!」
 わざとらしく気さくな笑みを向けた遼は、右手を関根の肩に置き、左手を後ろに下げ、指を空中で泳がせた。

 早くしてくれ……真錠!!

 心の中の叫びに応じるかのように、遼の指先にリューティガーのそれが触れ、二人は腰の後ろで指を絡ませ合った。
「関根くん。兆龍の親父さんって……どこに屋台を出してるんだっけ……」
「ど、どこって……前にも言ったよね……博多の天神って……」
「僕は日本はここしか知らないから……どんな場所なのかなって……知っておきたいんだ……」
 質問がスタートしたのと同時に、遼は関根の肩越しに、その心の中へ自分の意識を滑り込ませた。リューティガーに注意が向いているせいか、進入はスムーズであり、すぐに真っ白いモヤのような漠然とした空間が知覚された。

 天神……兆龍って屋台に網を張る……来いよ……鮮明なビジョン……

 関根の心の中で、島守遼の意識はあぐらをかいたかのようにどっしりと落ち着いた。するとほどなくして、白いモヤの奥から、ひどく現実的な空気の流れが感じられ、彼はとある屋台に座っていた。

 きやがった……ここが……兆龍か……すげぇ……リアル……

 真っ赤な暖簾で覆われた屋台は湯気のせいでかなり蒸し暑く、背後を走るタクシーの走行音も、排気ガスととんこつスープの混ざり合った匂いもひどく現実的で、皺だらけの親父の仏頂面がこちらを睨んでいた。
 彼はおそらく、この屋台の主なのだろう。関根にとって、彼は怖い人なのだろうか。そんな疑問を抱きながら、遼は意識を触れ合っている指先に向けた。できるだけ何も考えず、屋台の光景を保持したままリューティガーの意識へと進入するその作業は、柄杓の水をこぼさずに移すのに似ていて、慣れればもっとスピードを速められるような気もした。

 OKだ、遼くん!! 揃った!!

 そんな強烈なる言語情報が、遼の意識を震わせた。

 よし……!!

 関根の肩と、リューティガーの手から離れるのと同時に、遼は意識の接続を全て遮断した。
「そ、そんな……椅子の色まで聞いて……どうするつもりなんだい?」
「う、うん……なんとかする方法の……手がかりになればいいと思って……」
「でも……そっくりの屋台を東京で探しても、チャーシューが同じ味なわけ……」
「と、とにかく……ありがとう。いろいろ参考になった……」
 リューティガーは立ち上がると、教室内を見渡して音原の姿を見つけた。
「委員!! 僕は別口でチャーシューの調達に行ってくる。君は君の立てた代替案を実行してください!!」
「わ、わかった……けど……」
「行ってきます!!」
 音原の疑問に答えることなく、リューティガーは教室を駆け出していった。
「と、島守君……」
 関根に声をかけられた遼は、少々戸惑いながら彼を見下ろした。
「ほ、本番前なのに……戻ってきていいの?」
「あ? ああ……その……俺さ……実はすげぇ緊張して……心臓バクバクもんでさ……ちょうど気分転換しておきたかったんだよ……」
 それは彼の偽らざる本音である。素直に恐怖を口にできた遼は大きく深呼吸した。

 真錠……チャーシュー手に入れろよ……俺もこれからキメるからな……

 あいつの機転と行動力は認めざるを得ない。それをすぐに察知した自分だって大したものだが、やはり着想した者にはかなわないと思える。島守遼は羽織を着直しながら、「2004年度。仁愛高校学園祭の開始です」というアナウンスと生徒たちの散発的な拍手を耳にし、大きく顎を引いた。

4.
 福岡県福岡市、博多区天神。県内でも有数の繁華街であり、この日は土曜日の午前中ということもあって、街路には買い物や待ち合わせをする人々で溢れかえり、交差点を駈けるリューティガー真錠は、ここも渋谷や新宿と風景に大きな違いはない。やはり日本と言う国は狭いのだな、と思いながら、右手に握り締めたアタッシュケースの重さを肩に感じていた。
 立ち止まった彼は今一度周囲の街並みを見渡し、その光景が間違いなく関根茂の想ったそれと同一であると確信した。
 島守遼という“素人”はいつの間に、“接触式読心”を使いこなせるようになったのだろう。人の意識から記憶を確保し、他人にそれを転送するなど同系統の能力者でも難しいことが多く、もちろん彼の転送してきたビジョンは雑然としてノイズも多かったが、それだけに一発勝負、つまり初挑戦で成功した可能性が高く、まったくもって稀有な存在だと言えた。
 デパートの屋号やCDショップの看板を確認したリューティガーは、大通り沿いの銀行脇から伸びる路地へ足を踏み入れ、目指すべき赤い暖簾を発見した。
 学生服の上着を脱いでそれを脇に抱え、眼鏡を外してワイシャツの胸ポケットに収めると、リューティガーは深呼吸をした。

 難しい任務ではない。自分にとっては少なくとも。

 彼は上着のポケットからサングラスを取り出し、それをかけた。変装にしては随分弱く、もし彼を知っているものが目撃すれば、特徴的な栗色のカールした髪で正体はすぐに見破られるだろう。しかし、これから交渉する相手は初対面であり、印象をこの程度ぼやかすだけでじゅうぶんだろう。むしろ、過度な変装は相手の警戒心を膨らませるだけである。そう判断してのサングラスだった。
 リューティガーは強い意を発し、屋台へ近づいて行った。すると、屋台の周囲をぐるりと覆っていた真っ赤な暖簾が波打ちながら巻き上げられ、その向こうに痩せた皺だらけの男が姿を現した。
 男は若い来訪者を一瞥すると、すぐに無視して屋台の片付けを再開した。随分と愛想のない店主だが、夜中に酔客の相手をするのなら、これぐらいの強面の方が何かと好都合なのだろう。これはある意味戦う男のよく知っている顔だ。リューティガーは注意を向けさせるため、詰襟のホックを直しながら咳払いをした。
「もう店じまいですか?」
「馬鹿ちん。見たとおりばい」
 暖簾を器用に巻きながら、皺だらけの男は決して少年の顔へ視線を向けることなく、ぶっきら棒に返事をした。
「チャーシューを買い付けに来ました……お金は……ここに」
 リューティガーは右手に握っていたアタッシュケースを地面に置くと、それを開けて男へ向けた。
「な、なんば……しとる……」
 ケースの中に入った札束は全て日本円であり、これまでに見たことのない量の現金に男の手は止まり、意識は真っ白になろうとしていた。
 全てを金ずくで解決してしまうこの方法は、彼が幼少期に教わった最もシンプルな交渉術である。下品かつ乱暴であり、本来は彼の好むところではなかったが、確実性は高く、時間を争う現在において、取れるべき最良の手段である。
 リューティガーは額から流れ落ちる汗を拭うと、顎を引き足先でケースを閉ざし、サングラスをかけ直した。
 視界から遮断された現金に男は小さく声を上げ。その反応に少年はこの手段が成立したと確信し、自信を取り戻した。
「あなたの味付けしたチャーシューが今すぐ欲しい。これで買えるだけのチャーシューを……いいね……」
 低い声でのつぶやきに対し店主は口元を歪ませ、腰のポケットから煙草を取り出す手も小刻みに震えていた。

 午前九時。秋晴れの中、仁愛高校2004年度学園祭が開始された。地元への事前告知と、土曜日という好条件も手伝ってか、開始三十分後には校舎内に学生服を着ていない人々の姿が目立ち始め、都立高校の決して華やかではない、むしろ貧相で安っぽく、それでいて微笑ましい温めの出し物に、大人は曖昧な笑みを浮かべ、子供たちは未踏である「他校」にただ興奮していた。
 1年B組の教室では、シフトによって決められた生徒たちが配置につき、最初の来客に備えていた。
 調理責任者である田埜綾香は、鍋で煮えるスープの温度を掌で確かめながら、この苦心の作をできるだけ大勢の人たちに味わって欲しいと思い、それでも急遽チャーシューの調達に出た調達班と関根が戻るまでは、あまり流行ってほしくないと、矛盾した考えに混乱し口を手で覆った。
 調理ブースの外で腕を組でいたクラス委員の音原太一は、痘痕面を顰めて窓から校庭を凝視していた。
 リューティガーは一体どこへ行ったのだろう。今時携帯電話を持たない奴など珍しく、そのため連絡も取れないが、教室を出て行くときの彼は凛とした強い意を発していて、あの彼ならば信用も信頼もできる。そんな確信が彼を支配していた。
 運営班の我妻理沙(あづま りさ)がとろんとした目を扉に向けていると、やがてそれは勢い良く左にスライドし、彼女は関根の作ったマニュアル通り「いらっしゃいませぇ!!」と媚びた笑みでおじぎをした。
 お客さん第一号である。朝の九時半から「博多風ラーメン!!」と書かれた看板を見て入店してくるのは如何なる人物なのだろうか。そんな疑問を生徒たちが一斉に向けると、きょろきょろと辺りを見渡しながら入ってきた中年夫婦と小学校低学年と思われる少年は、向けられた視線にぎょっとして、それでもクロスがかけられた机についた。
「ラーメンな」
「私も……いっくんも、ラーメンでいい?」
「うん!!」
 注文をメモした我妻は、ラ×3と書かれたそれを調理ブースの内藤弘(ないとう ひろむ)に手渡した。
 田埜は三杯分の麺を茹でながら、あんな小さな子は母親と分け合えばいいのに。とネガティブな恨みを抱きながら、規定通りの厚みにチャーシューを切る椿梢をちらりと見、「あと九食」と誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやいた。
「うまかったぁ!! お姉ちゃんお姉ちゃん!!」
 すっかり店のムードにも馴染んだのか、調子に乗ってきた父親が、店員の我妻を呼びつけた。感動して褒めてくれるのかしら? そんな淡い期待を抱きながら、笑顔を向けた彼女に対し、男は「おかわり!!」と大声で空のどんぶりを指差した。
「ちょ、ちょっとお客さん……」
 チャーシューの残量問題は全ての生徒たちに通達されていて、運営班の野元にしてもそれは同様である。感激してくれるのは嬉しいが、こんな出鼻から消費ペースを上げられてはかなわないと、彼はワイシャツの袖をまくり上げながら親子連れへ苦笑いを向けた。
「なんだよ、兄ちゃん」
「ひ、非常に申し上げづらいのですが……」
「じゃあ申し上げるなよ」
「い、いえ……そのですね……」
 腹が膨れて気まで大きくなったのか、父親の態度は大柄であり、妻はそれを無視して息子の上手ではない箸の使い方を注意していた。
「おう、チャーシューがよかったし。チャーシュー大盛りな」
「と、当店では……トッピングの追加はして……」
「いいだろ? どうせ倍、入れればいいだけじゃないか! その分、金だって払うしよ」
 なんとかこの場を凌ごうとした野元だったが、その曖昧な態度に男は不快感を増すばかりとなった。しかし野元の下手な接客を責める生徒は誰一人としていなかった。むしろ彼の機転と勇気はありがたく、音原は口元を歪ませながら、「椿さん……チャーシューは倍にしといて……」と小さな声で調理ブースへ指示を出した。
 満足げに二杯目のチャーシュー麺を平らげた男は、「美味かったよ、姉ちゃん!!」と、会計をする和家屋瞳(わかや ひとみ)に声をかけ、妻と子供をつれ店から出て行った。
 初めての客を満足させたことに生徒たちの気持ちは膨らみ、だがあっという間に五食分のチャーシューを食べられてしまった緊急事態に動揺もしていた。残りは七食分。果たしてこれであと何時間持つのだろう。残り少なくなった豚肉の塊を凝視したエプロン姿の椿梢は、不安そうに胸に手を当てた。
 すると、教室の扉が左にスライドし、ジャージ姿の体育教師、新島貴(にいじま たかし)が笑顔で飛び込んできた。
「はっははは!! さすがに朝イチじゃ誰もいねぇってか!? 俺、もしかして客第一号!?」
 席に着き、箸を割りながら新島は下品な笑みを降りまいた。
「新島先生。悪いんですけど、材料不足で関係者には一杯もお作りできません」
 音原がきっぱりそう告げると、新島は「いや〜ん」と全身をくねらせながらごねた。
「チャーシュー無しでよかったら……作ってもいいぜ……」
 低い声でそうつぶやいたのは、両手をポケットに突っ込んだ麻生巽である。彫り深いその奥から、垂れ下がった瞳が不気味に輝きを反射し、すっかり威圧に新島は無精髭だらけの顎を撫で「んむむ……」と唸った。
「みんな!!」
 停滞した空気を切り裂くように、栗色の髪が教室に飛び込んできた。生徒たちは一斉に帰ってきた同級生に意を向け、彼はそれに押されることなく、より強い明るさに胸を張った。
「真錠君!!」
 驚きながら近づいてきた音原に対し、リューティガーは「材料調達は完了です。調理教室の冷蔵庫に入れてあります!!」と叫んだ。
「チャ、チャーシューが手に入ったのか?」
「ええ。兆龍のチャーシューに、かなり近い逸品です。僕の家の料理人が、知り合いから調達してもらいました」
 用意しておいた嘘でそう答えたリューティガーは、割り箸を弄っている新島を見下ろし、無邪気な笑みを浮かべた。
「なーなーなー。俺っちのラーメン。まだぁ?」
 おどけて唇を尖らせる新島は、リューティガーと音原に向かってそう抗議した。内心は苛つきながらも、痘痕面のクラス委員は「はい。ただいまお持ちします!!」と誠実に答え、店員の我妻に指示を出した。
「そっか……なら関根たちに、調達中止って言わないと……チャーシューが余るよね」
 思い出したかのようにつぶやいた和家屋の言葉に、野元がすぐ反応して携帯電話を取り出した。
「あ? 関根? もう買った? まだ!? ラッキー!! ルディが調達してきたから中止な!! え!? うん真錠がさ。まだ見てないよ。だけどもういいって。皆帰ってきてよ。うん。そうそう。いいのいいの。いいからさ!! 中止なのわかった!? うん。そうそう。はい。はいはい。ああ」
 携帯を折りたたみながら、野元は「中々信じなくってさ」と苦笑いをリューティガーに向けた。そう、クラスの誰一人として自分の調達結果を疑う者がいないことがリューティガーにはちょっとした驚きであり、さすがに疑問を抱く頃合いだろうと、彼は上着のポケットからラップで包んだ一枚分のチャーシューを取り出し、それを調理ブースの椿梢に手渡した。
「これと同じ物を、今日明日分調達してきた。たぶん余るぐらいだと思うから」
 その説明にゆっくりと首を傾げながら、田埜は椿梢の手にしたチャーシューを凝視した。
「あ、田埜さんが確かめてくれる?」
 椿梢から一枚のチャーシューを受け取った田埜は、それを口にしてみた。
 調理班の責任者を務める少女の舌は、他の生徒たちよりずっと肥えていて、それはここ最近周知されつつある彼女の長所である。

 兆龍に近いどころか、そのものだ。

 田埜は驚きに口を右手で覆いながらも左の指でOKサインを作り、その挙動に注目していた生徒たちは、再び気持ちを膨らませた。
 いいムードじゃないか。新島は割り箸をこすり合わせながら、このクラスの生徒たちが上手いことやっているのを確認して満足げであり、同時に早くラーメンが出てこないものかと両足を小刻みに振動させていた。

5.
 文化祭開始から一時間数分後、生徒ホールである体育館には数十名の生徒たちと、それと同数の学生服姿ではない客が、設置されたパイプ椅子に腰掛け、じっと舞台上に注目していた。
 数にして百人ぐらいか。空席が目立つのは寂しいが、これ以上減らなければそれでいい。労務者風のツナギ姿の平田は、息を吸い込みながら自分に注がれる視線に身震いし、気持ちを引き締めた。
「野々宮さん……野々宮さんですよ……ね……」
 舞台の上手から登場した蜷河理佳に、客の視線は移動した。生徒たちの中でも男子生徒の大半は彼女を目当てにして来場している。ここ最近、クラスでの噂話や教師との会話でそんな情報を耳にした福岡は、紺を基調としたクラシックドレス姿の穏やかで清楚で、どこか儚げな印象を受ける美しい姿に、それも無理ないか。と幕の陰でため息を漏らした。
「どちら様で……?」
 安定した声量で、不安さと夫人としての落ち着きを同時に表した蜷河理佳の第一声は、客の心に「見掛けだけじゃないんだ」という小波を立て、より強い注目を注がせた。
「昔……ここの旦那様の世話になった……伊藤という者ですが……」
「伊藤……様? 主人が世話を……そうですか……今主人は書斎ですの。お会いになります?」
「いえ……そうですか……元気でしたらそれでいいのです。偶然近くを通っただけのことですから……はい……ご壮健であれば……」
「は、はぁ……」
「いいのですよ。本当に。お気遣いは……」
 低く唸るようで、それでいて体育館の奥まで届く平田の芝居に、福岡の後ろで舞台を見ていた島守遼は、本当に芝居が上手な先輩だな。とあらためて感心した。

 上演から十分ほどが経過していたが、今のところ席を立つ生徒は誰もいない。プレッシャーを感じながらも初老のメイクをした遼は顎を引き、舞台へ向かってゆっくりと歩き出した。
 舞台上には刑事役の福岡とメイド役の神崎はるみ、夫人役の蜷河理佳がすでにいて、この登場場面はそれなりに盛り上がるはずである。ライトの眩しさに目を細くし、一斉に向けられた観客の視線を感じた遼は、大きく息を吸い込み、「わしが!」とその豊かな声量を披露した。
 そのときである。
「実行委員会より連絡。ゴミの分別が徹底されていないようです。ゴミ箱の表示はよく見て、該当するものへ捨ててください」
 スピーカーから校内放送が流れたため、遼は台詞を中断して硬直してしまった。客はクスクスと笑い声を立て、緊張は急激に緩み、その生暖かい空気に舞台上の家長は、剛胆であるはずの役柄とは裏腹に困惑した表情を露わにしてしまった。
「あの馬鹿……校内放送のことは言っといたじゃないか……」
 舞台の奥で様子を見ていた平田は台本を握り締め、後輩のパニックに歯軋りした。
「ふむ……」
 腕を組み、首を傾げた福岡は遼に次の言葉を促すような意を向けた。台本にはないアドリブに彼は戸惑いながらも、そのひっかかりが「これは芝居である」という意識を回復させ、「そう。わしがこの家の当主。野々宮儀兵衛じゃ」と最初の台詞を体育館中に響き渡らせることに成功した。
 すこし甲高く、抑揚も微妙に妙なその台詞に客は少々戸惑い、何か面白いものが見られそうな、そんな期待が広がろうとしていた。

 学校というものは、どこへ行っても似たような光景で、なんとも構造が掴みづらい。生徒と客でごったがえす廊下をとぼとぼと歩きながら、島守貢(とうもり みつぐ)は小さくため息をつき、階段近くで立ち止まった。
 どこに行けば息子の芝居が観られるのだろう。いや、文化祭は今日と明日の二日間であり、今日上演とは限らない。遼の奴は照れてしまい正確な情報は何一つくれやしない。そんな度胸で大勢を前に芝居などできるのか。貢の不安は増加していき、彼は胸に手をあて、辺りを見渡した。
 階段を下りてきた初老の男性に、貢の注意が向けられた。度の強そうな分厚い眼鏡の奥には小さく穏やかな瞳がこちらを見下ろし、カーディガン姿は温厚そうな印象を受け、彼なら親切にしてくれそうだと思えた。
「すんません……あの……」
「はい? なんでしょうか?」
 低いトーンの安定した声は、やはり穏やかな人柄の顕れなのだろう。勝手にそう思い込んだ貢は頭を掻いた。
「演劇部の芝居って……いつ、どこでやってるんでしょうか?」
「演劇部の発表なら……十時から生徒ホールでやってますよ」
 階段を降りきった初老の男性、近持弘治(ちかもち ひろはる)の言葉に貢はぎょっとし、廊下に掛けられた時計に視線を移した。
「す、すんません。生徒ホールって……?」
「ああ、そこの開いている扉から、渡り廊下を行けばいいんですよ」
 頭越しに背後を指差す近持に「ありがとうございます!!」と礼を告げた貢は、廊下の人ごみを掻き分けながら、渡り廊下へ掛けて行った。
「おいおいおい。もう三十分も過ぎてるじゃんかよ!!」
 そう叫びながら生徒ホールの扉を開けた貢は、薄暗さに一瞬視力を麻痺させられ、ライトの当てられた舞台へ視線を向けることでそれを軽減させた。空いているパイプ椅子に腰掛けた彼は、視線が舞台から離れることが決してなかった。
 しかしそこに期待した息子の姿は無かった。何度目を凝らしても舞台にいるのは男装した女生徒と、性別のままの格好をした女生徒だけである。自分は芝居を間違えてしまったのか。そう早とちりした貢は、誰かに質問しようと辺りを見渡すと、背後から近づいてくる二つの人影に気づいた。
 この二人も自分と同じように、上演時間に遅れてやってきた客なのだろう。だとすれば、まだ芝居には集中していないはずだから、質問も決して迷惑ではないはずである。そう打算した彼は、暗さに慣れてきた目で、ちょうどすぐ隣に座ろうとした二人に注意を向けた。
 腰まで伸びた髪は白く、微弱な光が淡い紫色を反射しているようにも見える。息子と同じぐらいの背丈はあるだろうか。それにしては下半身の占める長さがかなり長く、なんといいスタイルなのだろう。性別の判別が難しいほど端正で美しい横顔に見とれながら、貢はすぐ隣に腰掛けた者への質問に戸惑っていた。
「なにか?」
 右側面からの注目に気づいた長身、長髪は穏やかな口調でそう尋ねた。この声からすると男なのだろうが、なんともまあ日本人離れした美形なのだろう。貢はついつい頭を掻き、「え、ええ……まぁ……こ、これって……演劇部の発表ですよねぇ」と返事をした。
「らしいですね。演劇部発表、金田一子の冒険って書いてありますし」
 青年は舞台のすぐ下に置かれた、お題目が書かれた紙を指差してそうつぶやいた。
「あ、あー……書いてあるや……はは……す、すんませんねぇ……いや、息子がこれに出てるんですけど、さっきから女の子ばっかりでね」
 小声で説明する貢に対し、青年は柔和な笑みを浮かべた。
「まだ出番じゃないのでは?」
「そ、そーですよねぇ。出番か……そーだそーだ」
 穏やかな物腰の美青年にすっかり圧されてしまった貢は、ただひたすらに頭を掻くしかなかった。
 暗転の後、再びライトの灯りに照らされた舞台上には、ある男の姿があった。紋付き袴姿であり、付け髭までした人相は一瞬判別することはできなかったが、「悦子や……今日はお前の誕生日だったな?」との台詞を耳にした瞬間、貢はあれが自分の息子だとすぐにわかった。
「ええ旦那様……よく覚えておいでで……」
 相手役の彼女は、同学年の女生徒なのだろうか。なんともまたえらい美人ではないか。息子の奴、あんな子と同じ部活とは、これは合宿でも興奮しっぱなしだったのだろうと、当てずっぽうではあるが極めて正解に近い想像を貢は巡らせていた。
「ふん……」
 鼻を鳴らし、腕を組んだ美青年は、舞台上の少年と少女を冷たい視線で見比べた。
「忘れるわけがなかろう。うむ。待っておれ、今素晴らしい物を持ってきてやるぞ」
 随分すんなりと台詞が出てくる。この本番という注目に対して慣れようとしている自分に、遼は自意識を強くしていた。
 暗転の後、自分と彼女の姿を見た観客からは、目に見えない、だが感じることが容易である「期待」のような空気が生じている。今ではそんなゆとりすら遼には生まれようとしていた。
「す、素晴らしい物?」
 蜷河理佳の返事は若干遅れ、何度も練習してきた間合いとは異なっていた。それは相手役の遼はもちろん、舞台の陰から様子を窺っている部員たちにも共通した認識だった。「お前の誕生日プレゼントじゃ」
「…………ま、まぁ旦那様……!!」
「おとなしく待っておれよ……」
 舞台の下手へ下がりながら、遼は蜷河理佳がまさか緊張しているのでないかと思った。正確で豊かな彼女の芝居は演劇部随一であり、それだけに反応の遅れと台詞の淀みは共演者にとってわかりやすい。今のところ観客に悟られるほど大きなものではなかったが、ここはなんとかフォローしてあげるべきだろう。しかし、よく考えてみれば彼女にとって台詞のある出番はこれでもう最後だ。暗転する舞台上を見つめながら、遼はどうしたものかと戸惑っていた。
 再び灯された舞台上に姿を現した彼は、倒れている蜷河理佳を視界に捉え、ふわっと広がる客席からの期待を感じていた。
 島守遼の登場で、客の反応に変化が見られる。その事実を部長の乃口も気づきつつあり、彼の決して上手くはない芝居がいい意味で受けていると、変化の原因を分析していた。
 客に愛される役者というのは、多分島守遼のような存在なのだろう。荒削りだが、それが芝居というお約束を壊してしまうのではないかという緊張感を生み、けれども彼自信の懸命さが伝わるので、どこか後押ししたくなる気持ちにもなる。演劇部はいい新人を手に入れた。そう確信した彼女は傍らで、やはり舞台上を注目している平田に目を向け、彼も力強く頷き返した。
 ここからは前半のクライマックス。蜷河理佳演じる野々宮悦子の遺体発見場面である。遼にとっても見せ場の一つであり、より気持ちを込めた芝居が要求される。
「悦子……? お、おお……なんということじゃ……悦子……悦子や……」
 遼は力なくふらふらと、倒れている蜷河理佳に歩み寄り、膝をつき、彼女を抱きかかえた。
「一体どうしたのだ!? 悦子!! 悦子や!?」
 ネックレスを舞台に放り投げようとした彼は、あちらに飛ばしてはいけないと、視線を一瞬だけ客席に移した。

 あ……れ……親父……?

 暗がりで客席がよく見えない状況が、意識をよりそちらへ奪う結果となった。
 しかし、父の来場は覚悟していたはずである。それに自分の芝居は中々のものだと思うし恥ずかしがる必要などない。ほんの一瞬で立て直した気持ちは、だが父の隣で腕を組んでいた別の客の姿に気付いた瞬間、真っ白になった。

 なんだよ……あいつ……

 明るさに差があり、薄暗い客席のため姿形は正確に把握できなかったが、父の隣に座る長髪の青年にはどこか見覚えがあった。いや、見覚えというよりは、もっとぼんやりとした認識のような、敢えて言うなら夢の中に出てきたような、そんな印象である。

 誰……だっけ……最近……覚えが……

 あの青年をはっきりと思い出さなければならない。本番の舞台上だというのに、遼の意識はただそれだけに集中し、芝居をする余裕は皆無になろうとしていた。
「馬鹿野郎……飛びやがった……」
 舞台で呆ける遼に、平田は今日二回目になる歯軋りをした。
 客にもそろそろこの異常事態は伝わりつつあり、一向に次の台詞を喋ろうとしない野々宮儀兵衛に、期待していたほころびがついに生じたのかと、唇の端を吊り上げる者まで中にはいた。
 蜷河理佳を抱いていた遼の右手に、なにかどんよりとした、それでいてぴりぴりと痺れるような、そんな感覚が伝わってきた。

 な……ん……だ……?

 これは手から通じる蜷河理佳の気持ちなのだろうか。だとすればなんと切迫した、余裕のない哀しさなのだろう。ようやく長髪の青年から意識を離そうとしていた遼の目に、彼女の顔がそっと近づいてきた。

 え……あれ……

 この場面において、野々宮夫人は死んでいるはずである。こんなに近くに彼女の顔があるということは、自分が寄せてしまったか、彼女から起きてきたかのどちらかである。遼が混乱していると、閉ざされていた瞼がそっと開き、潤んだ瞳が飛び込んできた。
「あ……な……た……ごめん……なさい……」
 それは客席にも届く「台詞」としてのつぶやきであった。もちろん台本にはこのような死にかけの台詞は一切無い。蜷河理佳の意図を察することができない遼はますます混乱した。
 彼女は再び瞼を閉じると、上体をより起こし、彼の肩に両手を回し、そっと唇を重ね合わせた。

 どよめきが、客席の反応を正直に表していた。

 まさか、このような本物のキスシーンが学生演劇で見られるとは思ってもいなかった客は興奮し、蜷河理佳をひそかにアイドル視していた一部の生徒たちからは殺気だった気配が発せられた。
 舞台の陰で芝居を注目していた部員たちも息を呑み、いち早く正気を取り戻した平田が、照明係に暗転のサインを出した。
 これで島守遼の失敗は帳消しになったが、なんという乱暴な機転なのだろう。平田は蜷河理佳に小さな嫌悪感を抱き、控えの大道具を軽く蹴飛ばした。
 そのすぐ脇には、メイドの制服を着た神崎はるみの姿があった。

 彼女は両の拳を握り締め、小さな肩と、顎下の筋肉は小刻みに震え、目は鈍い光を反射していた。

 ごめん……なさい……

 柔らかい唇から、そんな言葉が遼の意識に滑り込んできた。これはたぶん、彼女の思考なのだろう。誰に対しての謝罪なのだろうか、そんな疑問を抱きながらも彼は気づかないうちに蜷河理佳をぎゅっと抱きしめていた。
「ん……あ……りょ、遼くん……」
 唇を離した少女は、困ったような視線を少年に向けた。辺りが暗いということは暗転である。それにようやく気づいた遼は、蜷河理佳を抱きしめる力を緩めた。

 そっか……俺……親父とか見つけて……呆けてたんだ……だから理佳ちゃんは……アドリブで……辻褄を合わせてくれたんだ……

 状況をようやく理解した遼はゆっくり立ち上がり、やはりそれでも今度は別の事情でぼうっとしたまま下手へと下がった。
 部員たちは遼と蜷河理佳に注目し、耳まで真っ赤になった彼女は、出番も終わったためか、この日のために設置された更衣ブースへ逃げるように駈けて行った。
「あ……蜷河さん……理佳……ちゃん……」
 呆けかけていた遼は、ふらふらと彼女の後を追いかけようとしたが、ドレス姿の乃口部長に行く手を阻まれた。
「ぶ、部長……」
 乃口は無言まま右手を大きく振り上げると、それで後輩の背中を強く張り飛ばした。
 強烈な一撃に遼の意識は吹っ飛び、ぐちゃぐちゃになってしまった彼の鼓膜を「還って来い!! 野々宮儀兵衛!!」という部長の声が震えさせた。

 そっか……まだ……出番あるし……うん……そうだよ……劇……やんなきゃ……

 ゆっくりと、徐々にではあるが島守遼の意識は現実の再認識をし、それをさせてくれた部長の機転に、彼は頭を下げた。

「いやしっかし、やるもんだねぇ!! あれ、うちのせがれなんですよ!!」
 すっかり興奮した島守貢は、すでに暗くなった舞台を指差し、隣に座る美青年にそうつぶやいた。
 しかし、あったはずの姿はもう既に無く、よく注意してみるとさらに向こう側に座っていたはずである、美青年と同時に訪れたもう一人の客の姿も無かった。

 生徒ホールの側、裏校庭に出店されていた、たこ焼きの露天の前で長髪の青年は静かに佇んでいた。
「苦しいな。理佳は。少し……かわいそうだね」
 そうつぶやくと、彼は自分に向かって走ってきた人影を認め、右の目を閉じた。
「源吾……悪かったな……いきなり跳んだりして」
 青年の側で立ち止まったその男は、猫背の小柄な体格で、グレーの作業着に同色のズボンを穿き、足元は黒い長靴で、一見すると清掃作業員のようにも見えた。年齢は青年よりずっと年上で、薄い眉毛と吊り上がった目は鋭く、神経質そうな印象を見る者に与え、事実露天でたこ焼きを作る女生徒などは、青年とその男のあまりにアンバランスな容姿に困惑していた。
「あ、ごめんごめん。これじゃ営業妨害だったね。一つもらうよ」
 青年は気さくに女生徒に話しかけ、緊張した彼女は裏返った声で「はい喜んでぇ!!」と叫んだ。
「楊枝は二本ね。二人で半分ずつ食べるから。食うよね、源吾も」
 そう問われた作業着姿の猫背は、小さく「うっす」と返事をし、丸く窪んだたこ焼き用のプレートに鋭い視線を向けた。
 
6.
 ラーメン仁愛の店内は、時計の針が進むのに合わせて客の姿が目立つようになり、接客と管理を同時にこなしながら、音原は時刻が正午になればもっと大勢の客が足を運ぶのだろうと予測し、手際のミスが致命的になると緊張していた。
「チャーシュー追加ね!! もう足りないわ!!」
 調理ブースの中で椿梢が悲鳴を上げ、それに呼応するようにリューティガーが「行ってくる!!」と叫びながら廊下へと駆け出していった。
「ぜってーあの最初の客、チャーシュー増量を言いふらしたよな」
「だよねー」
 注文メモを調理ブースに貼り付けながら、野元と和家屋がそんな言葉を交わした。事実、客の中の数名がこれまでにチャーシュー増しを頼んだ経緯があり、メニューにない特注は具材のアンバランスな消費を生じさせていた。文化祭当日になれば、調達班は暇になるだろうという見通しはこれにより軌道修正され、初めて経験するこの国の文化祭を楽しもうと思っていたリューティガーは、階段を駆け上がりながらこれはこれで仕方がないと、困った笑みに頬を引きつらせていた。
「ありがとうございましたぁ!!」
 我妻がマニュアル通りの笑顔を客の背中に向けると、音原はようやく客が途切れてくれた偶然に感謝し、設営班に修繕の指示を出した。
「調理班からの要望はまとめといてくれた?」
 戸田がブース内の田埜にそう尋ねると、彼女は右手で口を覆いながら、左手でメモを手渡した。
「野元君。交代に来たぜ」
 教室の扉を開け、沢田がチラシを手に戻ってきた。
「おう。なにそれ?」
 エプロンを脱いでそれを沢田に手渡した野元は、彼の持っているチラシに注意を向けた。
「なんかさ、有志が屋上でプロレスやるんだって。野元君、観に行く?」
「いいよ。俺、ホールでバンドの方観に行くから。あ、そうそう島守の劇、どうだった?」
「途中までしか観られなかったけどさ……ちょっとびっくりした」
 眉を吊り上げ、坊主頭を撫でる沢田に、生徒たちの数名が注目した。
「な、なんだよ……どうしたんだよ。あいつ、トチったりしたのか?」
「い、いや……それがさ……キスがさ……」
「キ、キス? そんなシーンあったの? 神崎さんは普通のお芝居って言ってたけど」
 長身の合川が手を合わせて驚き、その発言が教室じゅうに響き渡った。
「お、お、お、女同士でか?」
 興奮した野元は沢田の肩を掴み、何度も顎を上下させた。
「い、いや……島守がさ……」
「神崎と……島守? キスしちゃったの?」
 断片的な言葉を勝手につなぎ合わせたのは鈴木であり、それに触発された他の生徒たちがそれぞれ散発的にざわつき始めた。
「やってるん……だよね……」
 店にしては店員たちの空気が散漫すぎて、今が営業中なのか清掃中なのか判別がつかない。それを促す意味の発言であり、わざと聞こえるように通った声でつぶやいた青年は、遠慮がちに店内をぐるりと見渡した。
 白く紫がかった長髪に、黒い上下のスーツ。長い足の先はやはり黒い革靴で、気さくな笑みこそ浮かべているが赤い瞳と整った顔は日本人離れしていて、ラーメン仁愛の庶民的なムードには似つかわしくない客である。運営班である沢田や和家屋などはその青年の入店に戸惑い、散漫な空気は一転して緊張したものへと変化した。
 一人、我妻だけは変わらぬ貼り付いたままの笑顔で「いらっしゃいませぇ!! どーぞ、こちらへ!!」と青年を席に促した。
「店員さん。ここって何が美味しいの?」
 席に着いた青年はテーブルの上で指を組むと、我妻にそう尋ねた。
「はぁい! 当店ではラーメンのみのお取り扱いになっております! つまりラーメンだけですぅ!!」
「あっそう。じゃあラーメン一つちょうだい」
「はぁい! かしこまりましたぁ!!」
 普段は少々抜けたところもあるが、ああしたマニュアル通りの接客をやらせれば我妻理沙というクラスメイトは頼りになる。音原はそう感心しながら、店内を見渡す青年に視線を移した。
 日本語が達者であるが、彼は外国人なのか。いや、最近はあれぐらい整った顔立ちの日本人だっている。それにしても女性のような第一印象であり、自分と同じ性別とはとても思えない。痘痕面を撫でながら、音原はラーメンを待つ青年を凝視し、その視線に気づいた彼が視線を返してきた。
「お店の人はこれで全員なの?」
「い、いえ……クラス全員だと店が窮屈になりますから……シフト制を採用しています。三ローテーションで回しています」
「ふぅん……まぁ、その方が効率的だよね。スタッフだって他の出し物を見たいだろうし」
「そうですそうです」
 思わず二回返事をしてしまった調子のよさに、音原は思わず手で口を覆った。この青年との言葉のやりとりはなんとも円滑であり、ついつい乗せられてしまう。そんな事実に警戒した彼は、距離を置こうと数歩下がった。
「はい。ラーメンお待たせ」
 トレーに載せたラーメンを沢田は机に移し、青年に頭を下げた。
「いっただきまーす」
 長身を折り曲げ、青年は蓮華でスープを啜り、続いてコショウを二回だけ振りかけた。
 黙々と、何かを確かめるように青年はラーメンに取り組んでいた。長髪長身、バランスのとれた美しい造形に似合わぬ、「慣れた」仕草に生徒たちは注目していた。
「ご馳走さま……」
 箸と蓮華を置き、静かに目を閉ざした青年は、まるで味の余韻を楽しむかのように笑みを浮かべていた。
 教室の隅で様子を窺っていた関根は、恐る恐る青年のテーブルまで近寄り、どんぶりがすっかり空になり完食されていた事実に口をぽかんと開けた。
「博多風……ふぅん……妥協……したね……」
 この一杯の考案者を横目に捉えその存在を意識しながら、青年はそんな論評を口にした。あまりにも的を射た発言に関根は背筋に走る何かを感じ、心臓の鼓動が加速した。
「は、はい……そ、そうで……す……」
「大牟田のますはち……いや……天神の兆龍がモデル……そうでしょ?」
「あ、あなたは……?」
 驚愕する関根に対し、青年は右目を閉じた。
「確かに東京の人間に食べさせるんじゃ、兆龍はクセがあり過ぎるわりに、物足りないかも知れないね……」
「あなたは……兆龍には……」
「俺? 何度もあるよ。仕事柄、この国じゅうを跳び回っているし……それにしてもうまい妥協点に落ち着いたものだなぁ。ほんと、美味しかったよ」
 思わぬ理解者の登場に関根の心はすっかり舞い上がり、ほんの少しの度胸さえあれば、この青年の手を握り締め、感謝の意を表したいほどであった。
「いくら?」
 席を立った青年は、内ポケットから革製の財布を取り出すと、我妻に五百円玉を手渡した。
「シフト制ねぇ……お目当ては空振りか……」
 そうつぶやきながら廊下へと出た青年は、混雑するその向こう側の階段を駆け下りてくる、栗色の髪をした男子生徒に気づいた。
「よぉ!! ルディじゃないか!!」
 行き交う人越しに手を振る青年の姿を発見し、リューティガーは顎を大きく引き、手にしていたチャーシューのブロックを空間へ跳ばした。
「貴様ぁぁぁぁぁぁ!!」
 怒りの形相で叫び声を上げるのと同時に、少年は突風と共に姿を消した。長髪の青年はそれよりもやや速く、二人はほとんど同時に廊下から消失した。
 二人の混血児が人の知覚しうる空間に再び姿を現したのは、一秒も経過しない数瞬後であった。
 北側校舎、三階廊下に出現した青年は、すぐ後ろが壁になっている事を確認し、唇の両端を吊り上げた。
 その校舎の外側に出現したリューティガーは辺りを見渡し、倒すべき存在を知覚しようと必死だった。奴は、何のために文化祭を訪れたのか。あの廊下は1年B組のすぐ近くであり、あるいはクラスメイトたちの身に何かが起きた可能性もある。しかも奴が単身、乗り込んでくるとは考えづらく、護衛の者や別同部隊が校舎に潜んでいるかも知れない。彼の頭を、的中すれば最悪の結果となってしまう予測が次々と交錯した。さて、どうする。自分は如何なる対応をする。眼鏡をかけ直し校舎を見上げる紺色の瞳に、北側校舎三階の窓から手をふる青年、アルフリートの姿が見えた。
 まだ彼が、校舎内に残っていたとは。リューティガーは眉を顰めて口元を歪ませ、ただひたすらに驚愕していた。
 自分は小馬鹿にされているのか。そんな怒りを抱えながら彼は空間へ跳躍し、青年の佇むすぐ側に出現した。
「おいおい。鬼ごっこをやるには、お互い年をとりすぎなんじゃないのか?」
 おどける青年と対峙したリューティガーは、周囲に誰もいない事実を確認し、この標的がそれを狙ってこの場所に転移してきたことに気づいた。
「けどね……僕がお前に触れれば……この任務は全て完了なんだ……お前を同盟本部へ送還すれば……全ては……」
「無理無理。ルディが俺に、触れられるわけないだろ」
 あくまでも余裕の態度を崩そうとしない青年に対して、リューティガーは真正面から手を伸ばした。
「おいおい……」
 愚直の象徴とも言えるその手に青年は辟易とし、後ろに数歩だけ下がった。本来、この廊下はあと数メートルほど西側へ続いているのだが、文化祭期間中に限って混乱防止のため、臨時の壁が設置されている。青年と壁の距離は一メートルもなく、触れられることを避けるとすれば空間へ跳躍するしかない。校内は人で溢れかえっていて、どこか別の場所に転移しようにも、この校舎を初めて訪れる彼が誰もいない空間を予測できる可能性は少ない。であれば、外へ跳ぶしかないだろう。とりあえず校舎の外へ追い出せればそれでいいと、リューティガーは判断していた。
「無謀だな……護衛もつけずに……」
「そうかい?」
 迫り来る掌に、だが青年は笑みを消すことなく突風と共に空間へ消失した。リューティガーもそれに続いて姿を消した。
 これで、北側校舎三階の廊下には誰の姿も無くなったはずである。しかし、臨時に設置された壁の向こう側に、青年は当然の如く余裕の笑みを浮かべ出現した。
 あの栗色の髪をした、どこまでも間の抜けた弟は一体どこに跳んだのだろう。たぶんまた、校舎の外だ。予測したアルフリートは廊下の窓から外を見渡し、眼下できょろきょろと周囲を見渡すリューティガーの姿に我が意を得て爆笑した。
「あは……あーはっはっはっはっ!! ばっかなの!!」
 腹を抱えて笑い転げる青年のすぐ近くに、リューティガーは再び出現した。

 ばか……な……

 出現に気付いているにも関わらず笑い続ける青年に対し、リューティガーは困惑し青ざめ、その全身は小刻みに震えていた。
 自分や兄であるアルフリートが使える“異なる力”の一つ、空間跳躍は一度訪れて体感、もしくは正確なビジョンを認識した場所や、ある程度予想できる扉の向こう側などへの転移が可能である。だが転移直前、アルフリートの背後は壁であり、転移先である現在位置は壁を越えた“向こう側”だ。仁愛の関係者でなければ、壁が学園祭用の臨時設置物過ぎず、その向こう側にまだ廊下が続いているという事実は知らないはずである。
 だが、彼はいとも簡単に壁の向こう側へ転移した。無論、壁を見た瞬間にそれが臨時の仮設であることに気づく可能性もあるが、本部へ送還されるかも知れないという非常事態において、そんな予測で転移先を決めることなどあり得ない。そしてこの人を馬鹿にしきった様は、あからさまに「引っかかった」という、してやったりの表れにしか見えない。
 つまり、こいつは壁の向こう側が廊下であることをあらかじめ知っていたのだ。そう考えればこの態度の説明がつく。
「ひひひ……あーおっかしい……ちょっとタンマな。あんまり笑わせすぎるなよ」
「き、貴様は……なぜ……」
「FOTの情報収集能力を舐めてもらっちゃ困るんだよ。もちろん同盟にゃ負けるけどさ。俺は今日この校舎にどんな仮設設備が設置されてるかだって、それはもう事前に調べ済みなんだぜ。でなけりゃ怖くて乗り込めないだろ?」
 彼の言っていることが事実だとすれば、校内の事情をリアルタイムに精通しているFOTのエージェントがいるということになる。しかしそのような報告は同盟からは受けてはおらず、様々な可能性がリューティガーを混乱させた。
「さて……どうするよ……お前は俺にタッチしたくても、互いに跳躍能力があるんだから堂々巡りが続くだけだろ? 地の利がない以上、転移先で俺がこける可能性だってゼロなんだし」
「な、何をしに……学校へ来た……」
「何って……弟が材料を調達したラーメンを、ぜひ味わおうと思ってさ」
「ふざけるな……」
 聞いたところでまともな返事など期待できない。しかし触れようとしてもこいつは再び空間へ逃れるだろう。下手をすれば自分の知らない校舎のどこかへ出現して、破壊工作を開始したり、戦闘任務を帯びたエージェントを招き入れたりすることもあり得る。彼にはそれだけの理由があると確信していたリューティガーにとって、いかなる手が有効なのか、その判断は容易につけられなかった。
「いい味だったよ。とても文化祭の出し物とは思えない。チャーシューは兆龍のだろ? お前が跳んで調達してきたとか?」
「いい論評だね……いや、それも既に調査済みとか?」
「さーて?」
 右目を閉ざした青年に、少年はもう一つの手を試みるべきかと躊躇した。
「次は屋上へ参りまーす」
 そうつぶやいた青年は突風と共に姿を消し、リューティガーもその後を追った。

 北側校舎屋上に出現した追跡者は、ターゲットの姿を眼前三メートルに捉えた。他に誰もいないことを確認すると彼は意を決し、制服の内ポケットから「もう一つの手」であるリボルバー式の小型拳銃を抜いた。
「おいおい……そんな物騒なもの学校に持ち込んでいいのかよ?」
 東からの風に長髪をなびかせながら、青年は拳銃を構えるリューティガーへおどけて見せた。
「僕は……お前みたいに取り寄せはできないからね……」
「引き金……引けるのかな?」
 目を開けた青年は、じっと向けられた銃口を見据えた。
「父さんや母さんだって……望んでることだ……」
「ふん……」
 銃口から伝わる覚悟に青年の余裕は消え、彼は床に視線を落とし「こい」とつぶやいた。
「え……?」
 リューティガーは、対峙する青年の手に自動式の拳銃が握られている事実に驚愕した。いつの間に、一体どこからあのような、学校に存在し得ない物を取り寄せたのだろう。ゆっくりと銃口を向ける青年にふざけた様子はなく、鈍い光を反射した赤い目には殺気が込められていた。
「布石は……いろいろと打たせてもらっている。俺の方がこの学校を掌握しているということだ……」
 変化した口調は、「真実の人」のそれなのだろう。殺られる。そう直感した弟は銃口を兄の肩口にずらし、引き金に力を込めた。
 乾いた銃声は、だが何かに命中することなく空気だけの抵抗を受けながら直進し、リューティガーの頬に突風が吹きつけた。
 なんて“速い”転移なのだろう。一秒以下の集中時間で空間へ跳躍した兄に対し、弟は拳銃を懐に収めながら、これでは奴に通じない。と力を落とした。
 もう少し落ち込んでいてもいいだろう。どうせ奴は遠くへ跳んだんだ。そう確信したリューティガーだったが、階段から多数の生徒たちが屋上にやってきたことに気づき、それはマンションに帰ってからすればいいと諦めるしかなかった。

 学校の裏側に停車している白いライトバンの前に、青年は姿を現した。
「ふぅ……」
 疲れきった様子でため息をついた青年は、ライトバンに寄りかかり、額の汗を拭った。
「大丈夫ですか? 真実の人(トゥルーマン)」
 バンの助手席から、赤い髪の少女が青年に声をかけた。青年は笑みを浮かべると、運転席に座っている東南アジア系の少年に目配せをした。
 後部ドアを開け、座席へと滑り込んだ真実の人は、口元をむずむずと歪ませ「出してくれ」と短くつぶやいた。
「ラーメンは食べたのですか?」
 少女の問いに、青年は身を乗り出し、助手席と運転席の間から頭を出した。
「ああ。結構いけてた。はばたき、なんなら明日とか食いにいってもいいぞ」
 エンジンを始動させた少年にそうおどけた青年は、自分が拳銃を握ったままである事実に眉を顰めた。
「その拳銃って……どうしたんです?」
「ああ。長助に隠しておいてもらった。こんな物でも意外と役に立ったけど……困るんだよなぁ……こーゆー手違いは」
「へぇ……あれ……?」
 拳銃を観察した少女は、ある事実に気づき首を傾げた。
「も、もしかしてこれって……」
「うん。ガスガンって言うの? おもちゃの」
「あは……よくできてますねぇ」
 少女は青年から模造拳銃を受け取ると、興味深そうにそれを触った。
「真実の人……源吾殿は……?」
 少年はハンドルを切りながらそう問い、青年は右目を閉ざした。
「はぐれちゃった……たこ焼き、預けたのにさ……すごい人ごみだったんだぜ」
 あっけらかんと言い放つ青年に少年は肩をすぼめ、少女はずっと拳銃の形を確かめるように撫でまわしていた。

7.
「貴様のような公僕に何がわかる!! 貴様のような!!」
 スーツ姿の福岡の両肩を握り締めた島守遼は、怒りの形相で舞台を一度だけ踏み鳴らした。
「いい間……彼……戻ったって感じ……」
 セットの陰で後輩の芝居をそう論評した乃口は、側で腕を組む神崎はるみに笑みを向けた。
 しかし、いつもは聡明でポジティブな反応を返す後輩は、今ここに限って言えば非常に不機嫌なムードを全身から発していて、その原因がわからない乃口は首を傾げた。
「大丈夫? 神崎さん」
「ええ。大丈夫です。島守が客に受けてるってことも感じてますし。あいつ、個性派のいい役者にだってなれますよ」
 褒めているにしては随分険のある表情で、声にも怒気が込められている。ますます理解に苦しむ結果となった乃口は、もう一人の1年B組の後輩の姿が見えないことに気づいた。
「蜷河さんは?」
「クラスの手伝いするって出て行きました」
 怒気を緩めることなく、はるみは舞台から視線を逸らさずにそうつぶやいた。
 蜷河理佳の演じる野々宮悦子の出番は、あのアドリブの口づけ以来無く、そうなれば確かに教室に戻ろうが舞台に支障はない。しかし裏方として手伝えることもあるはずであり、事実だとすれば彼女の行動は部長として少々許容し難いと乃口は思った。
「一度死んでみるか!? そうすれば悦子の気持ちもわかるはずだろうて!!」
 舞台上の遼はそう叫び、父のいる客席に強い視線を向けた。その迫力にパイプ椅子に座っていた貢はどきりとし、息子に演技の才能があることを初めて知った。
「ゆとり……出てきてますよ……島守君」
 下手へ下がってきた福岡が、タオルで汗を拭きながら乃口にそう報告した。
 この芝居はあと十分ほどで幕が下りる。おそらく成功なのだろうと、乃口部長は確信した。

 どこにいるのだろう。そんな想いを胸に、制服姿の少女が人で溢れかえる中央校舎の廊下を彷徨っていた。
 舞台からあの人の姿を目撃した瞬間、頭の中に芝居以外の膨大な容量の想いが膨らみ、それによって演技の反応が遅れがちになり、ついには相手役の島守遼にまでその呆けは移ってしまった可能性すらある。あのままでは芝居が壊れかけてしまうところだった。

 出番を終え、客席をそっと覗いたものの、もうあの人の姿は無かった。醜態を晒すことは避けられたが、対処能力や機転の良さを褒めてもらいたい。でなければ寂しすぎる。

 どこにいるのだろう。蜷河理佳は今にも泣き出しそうなほど瞳を潤ませ、落ち着き無く周囲を見渡していた。
「蜷河……さん?」
 背後から声をかけられた少女は、驚いて振り返った。
「真錠……くん……」
 階段を下りてきたリューティガーに、蜷河理佳は口元を歪ませ、ぎこちなく白い歯を見せた。
「お芝居……出てたんじゃ?」
「う、うん……も、もうね……出番、終わったから……お店……手伝おうと思って……」
「あ、ちょうどよかった。僕も今から戻るところなんですよ。一緒に行きましょうよ」
 無邪気な笑みを向けるクラスメイトに、少女は一瞬だけ鋭い視線を向け、すぐに階段を見上げた。
「けど……ちょっと屋上で……そ、外の空気を吸っておこうかな……」
「あ、屋上じゃ、プロレス、始まっちゃいましたよ。結構騒がしいけど……蜷河さん、プロレスとかって好き?」
「べ、別に……」
「じゃあ止めといた方がいいよ。なんか殺気立ってるから」
「う、うん……」
 リューティガーは蜷河理佳の側まで近づくと、促す意味で彼女の肩を叩こうした。しかし彼女は「ひっ」といううめき声を上げると、彼の手をぱちんと払った。
「蜷河……さん?」
「ご、ごめんなさい……その……お芝居の後で……ちょっと神経質になってて……まだ役が抜けきっていないんだと……思う……」
 そういう事もあるものなのかと、演劇に対して知識が皆無である彼は納得するしかないと思い、彼は彼女の横顔をちらりと見た。

 まぁ……だよな……遼くんがメロメロになるのも……わかんなくないよな……

 少女の、どこか大人びた印象すら受ける横顔にリューティガーは少しだけ見とれてしまい、彼女はその視線を避けるように教室へ向かって歩き始めた。

 1年B組の教室近くまで戻ってきたリューティガー真錠と蜷河理佳は、溢れた客が廊下まで行列を作っている事実を目の当たりにして、思わず顔を合わせた。
「は、はは……昼時近いし……けど、すごいや」
「み、みんな……大丈夫かな……」
 無事に店舗を運営している以上、破壊工作などの類はしていないようである。本当に兄は仁愛ラーメンを食べたのか。そんな疑問が生まれるほど、弟の心には余裕ができはじめていた。
 教室に入ったリューティガーと蜷河理佳は、客をかき分けながら調理ブースへ向かった。
「ルディ!! もー! どこ、行ってたのよ!!」
 包丁を握り締めながらそう抗議をしたのは川崎だった。
「ごめんごめん。チャーシュー、足りてるよね」
「うん。いつの間に置いといてくれたの?」
 空間へ跳ばしたチャーシューは、無事調理ブースへ転移したようである。咄嗟のことだったので少々不安があったものの、自分も随分とこの教室を正確に認識しているものだと嬉しくなり、無邪気な笑みを川崎や椿梢に向けた。
「もう……木耳も不足しそうだから……取りに行ってきてよね」
「はいはい喜んで」
 少々膨れながらも、この笑みには悪意を向けられないと川崎ちはるは観念し、呆れながらも葱を切る作業を再開した。
 人使いが少々荒っぽい気もするが、こういった忙しさなら大歓迎である。リューティガーはそんな満足を感じながら、教室を出て行った。
「田埜さん……変わるね……」
 エプロンを付けながら蜷河理佳は田埜に声をかけ、彼女は手で口を覆ったまま頷いた。
「ねぇねぇ蜷河さん」
 調理ブースの外で金槌を握っていた合川から声をかけられた蜷河理佳は首を傾げ、長い髪をまとめ始めた。
「今日のお芝居で……キスシーンがあったって……ほ、本当?」
 小声でそう尋ねられた蜷河理佳は唇を尖らせ、「むむむむ……」と唸り声を上げて頬を赤らめた。
「あ? え? 神崎さんと……じゃ……ないの? え? やっぱり……蜷河さんだったの?」
 詮索する合川から目を逸らした彼女は、まとめた髪に衛生帽子を被ると、麺を茹でる作業に集中した。
「さっきの外国人ってかっこよかったよね」
「んー……けどさぁ……日本語……上手かったよねぇ……」
「ミュージシャンとかかな? なんで仁愛の文化祭なんかに来たんだろ?」
「髪なんて真っ白でぇ……赤い目なんて初めてだよねぇ」
 注文伝票をブースの壁に貼り付けながら、和家屋と我妻がそんな言葉を交わしていた。
 すっかり照れ上がっていた蜷河理佳の耳はその会話を捉え、彼女は菜箸を手にしたまま調理ブースから抜け出した。
「そ、その外国人って……い、いつぐらいにここに来たの?」
「え……うん……三十分ぐらい前かな?」
「ほら……今ちょうど空いた、あの席で食べてたんだよぉ」
 和家屋と我妻の説明を聞き終えぬうちに、蜷河理佳はテーブルに向かい、椅子や机を覗き込んだ。
「片付けならぁ……私たち運営班がやるからいいよぉ」
 眠そうな口調で我妻にそう言われたものの、それを無視して少女は一心不乱で何かを確認しようとしていた。

 あったぁ……!!

 テーブルの裏側に、メモが貼り付けられている事実を突き止めた彼女は、それを剥がすとエプロンの胸ポケットにしまい、素早い挙動で調理ブースへ戻った。
「蜷河さん、もうすぐ茹で上がりそうよ」
 椿梢にそう告げられた彼女は大きく頷き、菜箸を水で洗うと麺の様子を確かめながら、メモを取り出した。

 Danke! Lika

 筆記体で書かれたその短いメッセージに、少女は瞳を潤ませ胸に両手を当てると、何かを噛み締めるかのように顎を引き、最後に幸せそうな笑みを浮かべた。

8.
 スーツ姿で刑事役の福岡と、よれよれの着物姿である今回の主演、三年生の倉西という女生徒の二人が、舞台から客席をぐるりと見渡した。
「しかし……ひどい事件だったな……救いもないとはこのことだ」
「そうかしら……刑事さん……私はそうは思いませんわ」
「ほう? 金田探偵ともなると、慣れっこですかな?」
「まさか……確かに三人の犠牲者を出したこの事件は、凄惨で……苛烈で……痛ましい悲劇でした……けど、野々宮夫妻の結びつき、あれは打算の無い、本当の慈しみだったと思うの……」
「ふむ……本当の……慈しみ……ですか……」
 福岡の言葉に倉西は目を伏せ、しばらくすると視線を上げ、そっと髪を撫でた。
 セットの陰で血まみれのメイクのまま待機していた平田が、舞台奥の音響係に手で合図を送り、BGMが生徒ホール中に鳴り響いた。
 息子の出番が無くなってから十分ほど経過したためか、島守貢はパイプ椅子に座ったまま快適な夢心地の中にいた。そもそも芝居に対して何の興味も無い彼にとって、身内のいない舞台は退屈極まりなく、その処理方法として睡眠を選択してしまうのは仕方がないと言える。
 音のトーンが変わっただけではなく、その種類そのものが違った具合に感じられる。睡眠から現実世界へ意識を復帰させつつあった貢は、その違和感の正体が周囲の拍手であることに気づいた。
 もう芝居は終わったのだろうか。そう思った彼が眠い目をこすりながら舞台上へ注意を向けると、そこは既に幕が閉じていて、乏しい知識しかない貢にしても、状況はすぐ把握することができた。
 すると幕がゆっくりと左右に開き、衣装姿の生徒たちが客席に晴れやかな、それでいてどこか照れているかのような微妙な明るさを向けていた。島守貢は席から立つと、おそらくはいい芝居をしたはずであろうわが子に向かって、一際大きな挙動で両手を何度も叩き合わせた。
 舞台上で頭を下げる遼は父の姿を目の端で捉えつつ、客席からの拍手と同時に舞台上まで届いてくる、目に見えない意のようなものを感じた。そしてそれが決してマイナスではない、受け止めるのに心地のいい気配であることに彼は気づいた。

 これは、たぶん、喝采というやつなのだろう。

 十六年の人生で感じたことのない、大人数から湧き上がる何かを全身に浴び、ゆっくりと頭を下げる遼の心は背丈を越え、天井まで突き抜けるほど舞い上がりそうで、この感覚はじゅうぶん酔えるものだという自覚が膝をがくがくと震えさせた。
 そんな初めての感激に打ち震える後輩の姿に、血まみれの平田は唇の両端を吊り上げ、拍手を返しながら彼の背後まで近づいていった。
「気づいてるか? お前を見る客の顔」
 平田の小さく、それでいて聞き取りやすいつぶやきを耳にした遼は、客へと注意を向けた。
「面白いもの観させてもらったってさ……やるじゃないかお前」
 厳格で、普段は仏頂面を崩すことが無く、忠告と注意しか口にしたことがない先輩の、それは初めての褒め言葉である。遼は口元をふにゃふにゃと歪めきり、「はい。はい」と平田に頷き返した。
「役者としちゃまだまだ二流だが、受けたってのは自慢していい。お前の個性が認められたんだ」
 相変わらずの手厳しさではあったが、この時ばかりは平田もわざと声のトーンを上げていて、それ発言に他の部員たちも頷いた。
        舞台の生徒たちは、このささやかなる成功を和やかに喜んでいる。そう感じた観客達の中には、演者と達成感を共有している者さえいた。
 だが、文化祭の過密スケジュールは無限のカーテンコールを許すことなく、校内放送によって「次は、有志によるバンド演奏が始まります。十五分ほどお待ちください」と告げられるや否や、再び幕は閉ざされた。それと同時に、挨拶からも解放された部員たちの弛んだ気持ちが、カーテンで遮断された舞台上で、一気に弾けた。
「やっほー!!」そう叫んだのは、スーツをぐるぐると回す福岡であり、
「しゃー!!」と空中で手を叩き合わせたのは、メイド役の神崎と針越であり、
「早く、早く……」と部員たちにセットの撤収を指示するのは、主演の三年生、倉西であり、舞台上を跳ね、着地と同時に音響や照明、裏方たちへの指示リストを拾い上げたのは平田であり、全ての部員たちの挙動に注意を向け、一人呆ける一年生男子の背中を叩いたのは、部長の乃口文だった。
「お疲れ様。島守君」
「部長……お、俺……」
 声が震えたままの遼は、涙が出そうなほど潤んだ瞳を部長に向けた。ここまで素直に感激する子も珍しい。そう思った乃口は、ますますこの新入部員がいい役者に育って欲しいと願いながら、台本に引っ掛けておいた眼鏡をかけた。
「面白いでしょ? お芝居って」
 ここに至るまでの長い練習は辛い事の方が圧倒的に多く、蜷河理佳と一緒に時を過ごせるという以上のメリットを見出せなかった。しかし今日、その彼女との出番がなくなった後も舞台への集中は継続し、やがては観客の反応を楽しむゆとりさえ生まれようとしていた。そして全てを終えた後に跳ね返ってきたあの喝采は、かつて得たことのない格別の喜びを与えてくれた。「面白いでしょ? お芝居って」部長のあまりに単純なその問いに、遼はただひたすらに頷き返すことしかできなかった。
「あー……遼くーん」
 間延びした野太い声に聞き覚えのあった遼は、部長と一緒にそちらへ注意を向けた。すると巨漢の肩からベースギターを提げた岩倉次郎が、坊主頭を掻きながら舞台上へやってきた。
 教習所以来、二学期になってから何度か学食で目にする、この人懐っこい大食漢に対して遼はできることならあまり関わり合いをもちたくはないと思っていたが、なるほど、彼はこの後の有志バンドのメンバーなのかと納得すると、奇妙な連帯感が生まれようとしていた。
「よう岩倉君、演奏、がんばってな」
 気さくに声をかけた遼は岩倉に右手を挙げると、ようやく自分の中で感激の潮が引こうとしているのに気づき、着替えるためにまだ撤去されていない更衣ブースへと駈けて行った。

 撤収作業を全て完了し、有志バンドの演奏も二曲目が終わる頃になると、演劇部として生徒ホールにいつまでも居残る理由はなく、今度は1年B組の出し物である、「ラーメン仁愛」店舗設営班、班長としての仕事が島守遼には待っている。
 乃口部長に頭を下げた彼は慌てて生徒ホールを出ると、中央校舎の廊下を行き交う生徒以外のいわゆる「お客さん」たちの人数に面食らった。
「お昼過ぎだしね。今がピークよね」
 そう背後から声かけたのは、追いついてきた神崎はるみである。人ごみを掻き分け気味に階段まで向かった二人は、慣れた挙動でそれを駆け上がり、1年B組の教室へ向かった。
 本来なら、芝居を追え、撤収作業まで完了して上演は終了である。一年生である自分たちは特に雑務も多く、役としての出番が少ないはるみなどは、その実務能力の高さもあって、むしろ上演終了後の方が本格的な仕事と言えるほどの運動量だった。

 理佳ちゃんは……なんでとっとと教室、戻ったんだよ……

 演劇部員や1年B組の生徒たちから、蜷河理佳は浮き上がろうとしている。集団の中で違和感なく過ごすという簡単なことを、彼女は苦手にしているのだろうか。それとも口数が少なく、外見も儚げで美しいため誤解されやすいのだろうか。一緒に並んで廊下を早足で歩きながら、何かを言いたそうに見上げてくる神崎はるみの悪意とも敵意ともつかぬ、どこか冷たい気配を感じながら、遼は苛ついていた。

 廊下まで溢れ、並んでいる客の姿を目撃した遼とはるみは、数十分前にリューティガーと蜷河理佳がそうしたように、顔を見合わせ予想外の盛況に驚いてしまった。
「忙しくなるぞ……こいつぁ……」
「う、うん……」
 早歩きを駆け足に変えた二人が教室へ入ると、しかし彼らに注目する生徒の姿は少なく、それぞれが己の仕事に没頭していた。
「ひゅう……!!」
 ようやく遼とはるみの復帰に気づいた鈴木歩が肩を上下させ、二人を冷ややかな目で見つめた。
「修繕のチェックリストを……!!」
 鈴木の態度に妙な違和感を覚えながらも、彼女の化粧は相変わらず野暮ったい、あれじゃ狸だと思った遼は、戸田から書類を受け取った。
「うわぁ……予想外に資材、使ってるな……」
「人の出入りが多すぎてね。意外と傷むのが早い……けど客が途切れないんだよ」
 戸田の説明に頷いた遼は、調理ブースまで歩いて行った。
「ルディ!! 木耳の追加ね!!」
 その叫びはブース内の川崎ちはるからであり、栗色の髪を振りながら、彼は「うん!!」と返事をした。
「ルディ! ついでに近持先生、探してきてくれよ!」
 そう声をかけたのは店員の西沢である。
「そ、そ、そのついで!! に、新島先生見かけたら、一日に三杯目は出せませんってクギ刺しといてね、ルディ!!」
 関根まで……いつの間にこのクラスの連中は、あの転入生のハーフを、彼の希望する愛称で呼び始めたのだろう。自分が舞台に出ている間、なにやら知らない流れが発生し、それがこの忙しさの中で定着しつつあると、場の空気を鋭く察した遼は下唇を突き出した。
「と、島守君……か、神崎さんと……ほ、ほんと?」
 調理ブースまでたどり着いた遼は、胸に手を当てながらそう尋ねてくる合川に目を向けた。
「何が?」
「えっと……だから……」
 質問しづらそうに長身をくねらせる合川の背後から、「合川さん!! 予備の調理帽お願い!!」と椿梢から声が浴びせられ、彼女は慌てて教室から出て行った。
 合川は一体何を尋ねたかったのだろう。そんな疑問を抱きながら、遼は調理ブースの中で麺を茹でる蜷河理佳の姿を見つけた。
「理佳……ちゃん……」
 遼の登場に少女はふっと注意を向け、その挙動がどこか軽やかで柔らかいと感じた彼は息を詰まらせてしまった。
「遼くん? 上演……終わったんだね……?」
「あ、ああ……」
 どこか人事のようにそう言った彼女に、彼は少しだけ冷たい意を向けた。
「だめじゃないか……撤収作業まで……」
 彼女に忠告などした経験の無かった遼は、言葉の出だしも小さく、戦場と化しつつある調理ブース内でその声を聞き取れる者は相手の蜷河理佳をはじめ皆無だった。「え?」と首を傾げたまま菜箸を持つ少女の姿に、いつもの儚げな様子はない。その事実にひどく戸惑った少年は、口に手を当てて顎を引いた。
「ど、どうしちゃったの、遼くん? 平気? 元気? 大丈夫?」
 周囲の喧騒に負けないよう声を張り上げた蜷河理佳は、彼の長身を心配そうに見上げ、何度も瞬きをした。
 そのよく通る声は教室を駆け抜け、麺のケースを抱えながらブースへ向かっていた鈴木は「遼君?」と頬を引きつらせた。
「い、いや……元気……うん……」
 そう返事をしながらも、自分の気持ちを彼女にどう伝えていいのか、そもそも自分は彼女にどんな感情を抱けばよいのか、そこまで退行してしまい、遼はひどく戸惑っていた。
 一人、蜷河理佳のすぐ隣で調理を続けていた椿梢だけが、島守遼と共通の違和感、蜷河理佳の異変を認識していたため、彼女は二人を見比べ、顎に手を当て、広い額を軽く撫で、ようやく二人が付き合っているのだと気づいた。
「い、忙しいんだよ。だからがんばらないと。ね!」
 右足の先でこつんと床を叩き、首を傾げて笑みを向けた蜷河理佳に、遼は忙しさが彼女に変化を生じさせているのだろう。そう思い込もうと決めた。
「もちろんさ。と、ところでさ……理佳ちゃんって、料理得意なの?」
「う、うーん……それほどでも……合宿でも平田先輩に頼りっきりだったし」
 演劇部の話題もすんなりと出る以上、多分安心してよいのだろう。であればこの明るさは好意的に受け止めなければならない。遼は軽く彼女の肩を叩き、「また後で」とつぶやき、彼女もそれに「うん!」と大きく頷き返した。
 ブースの外でそんな二人のやりとりを眺めながら、鈴木歩は冷やかすべき対象が遼とはるみではないことに気づき、無意識のうちに麺のケースを下ろす挙動も乱暴なものへと変化していた。

9.
 文化祭初日も午後となり、廊下へと続く行列も、ようやくその最後尾が1年B組の教室内に収まる頃になると、今度は隣の1年C組の教室に人の流れが集中するようになっていた。ここはお化け屋敷の出し物であり、口コミで「意外と怖い」という評判が広まりつつあり、昼食を終えた「お客さん」が列を作っていた。
「いやぁ……お化け屋敷。好きだったんだよねぇ……」
 天然パーマのもじゃもじゃ頭を揺らしながら、よれよれのスーツ姿の中年、藍田長助(あいだ ちょうすけ)がその列の最後尾でつぶやいた。
「けどさぁ……こーゆーのって、なかなか大人を怖がらせるのって難しいよねぇ……」
 しつこく話しかけている長助に、そのすぐ前で入場待ちをしていた別の高校から訪れた女子高生の二人組は、あからさまな嫌悪を向けた。
「そ、そんな怖い顔で睨まないでよぉ。だってさ、君達女の子もそう思わない? だってこれ、高校生がやってるんでしょ? チープだし、どっちかっていうと、キてる系で笑えたりして!?」
 口で手を覆い、「くくく」と上目遣いで笑い出す長助に対し二人組は顔を顰め、列から離れて廊下を駆け出して行った。
「あれー、もうすぐ入れるのに? もったいなくなーい?」
 おどけるように駈け去っていく女子高生達に声をかけると、長助はポケットに両手を突っ込んで、入り口で客を整理する女子生徒に微笑みかけた。
「ねぇねぇ。ここって怖いの?」
「え、ええ……怖いですよ」
「ほんと? マジ? 期待しちゃっていいのかなぁ? 僕、手品が趣味だから、フェイクにはちょっとうるさいんだよね」
「ど、どうぞ……お入りください……」
 長助の順番がきたため、女生徒は彼を促した。
「よっしゃー!! 行っちゃうぞ、コノヤロー!!」
 周りに毒気を振りまきながら、藍田長助は笑顔で暗幕の掛けられた教室へと飛び込んでいった。

 そして数分後、1年C組前の廊下で、尻を床に着き、スーツの肩口をびっしょりと濡らし、胸ポケットから煙草を撒き散らし、憔悴しきった焦点の定まらない目で宙を見つめる彼の姿があった。

「はぁはぁはぁはぁ……こぇぇなんてもんじゃねぇ……恐怖よ、恐怖。い、今風に言うと決して一人では見ないでくださいって奴? ぜ、全然、今風じゃねぇ……」
 おどけることで平静を取り戻そうとしていた彼は、これからあの恐怖の館へ入場しようとする老夫婦を発見すると、「あ、あんた達。だ、だめだー!!」と絶叫した。
「何やってんだよ……てめぇ……」
 駆け出そうとした長助の前に立ちはだかったのは、金槌を手にした島守遼だった。
「あ? あは……あはは……?」
 まだパニックから抜けきっていないのか、長助は引きつった笑みを浮かべると壁に背を付けた。
「い、いやぁ……上演時間、間違えちゃってさぁ……君の晴れ舞台が観れなくって、ごめんねぇ」
「なーにが晴れ舞台だ……てめぇ……一体何が狙いで何度も……」
 正体不明、危険かどうかもわからないのが、この藍田長助という人物である。FOTのエージェントという事実は読心により得ているが、そもそもそのFOTと言うものがなんであるのかさっぱりわからない。リューティガー真錠の話題を最初に持ち出した以上、彼が言っていた「この国を狙うある勢力」の一員なのかも知れない。だとすれば獣人などという信じがたい化け物を使う、テロリストのような集団である。
 だが、パーマ頭を振り乱し、額から汗を滴らすこの疲れきった中年が、そんなテロリストの一員であるとはどうにも思えなかったし、その正体や情報をリューティガーに伝えることで、自分がそうした厄介ごとに巻き込まれるのは御免でもあった。
「こ、怖いよなぁ……最近の出し物って」
 長助が1年C組の教室を指差しながら、そうつぶやいたので、遼も後ろを振り返って暗幕を凝視した。
「本格的って噂だしな……まさかあんた……入ったのかよ?」
「あ、ああ……すんげぇ、恐ろしかったわ……ああ」
 長助が何度も頷き立ち上がった直後、二人の間を栗色の髪が通り過ぎた。
「真錠……」
 麺のケースを抱えて廊下を小走りで進むリューティガーは、長助をあくまでも素通りして行った。そして対するパーマ頭は相変わらずの引きつり顔であり、あの転入生を目で追う様子もない。

 やっぱ……真錠がやり合ってるのと……このとっつぁんの関係って……無いんだな……

 接点の少なさから彼はそう判断し、そうなるとますます藍田長助の狙いや正体がわからなくなってしまった。
「じゃ、じゃーな……今度は時間に遅れないようにするし……また練習の取材に来るわ……」
 あまりにも長助がすんなりとそう挨拶をして立ち去るので、まさか本当に彼は演劇評論誌の記者なのではないかと、遼は混乱してしまった。

 夕方五時になると文化祭初日も終了となり、校外からの客は全て校舎の外へと誘導され、生徒と関係者だけのいつもの顔に、だが風景は祭りのままといった、前日と似たような風景が夕暮れの中に現出した。
「設営班はこの後居残りで修繕だ。運営班は集計作業の後、エプロンとクロスを持ち帰って洗濯を頼む。調理班はブース内の片付け。調達班は材料のチェックをしてくれ」
 頭に鉢巻きを巻いた音原が生徒達に指示を出し、担任の近持が見守る中、それぞれの作業が開始された。
「くそっ!! 足がガクってるぜ」
 麻生が舌打ちしながらそうつぶやき、客用の椅子の足を手の甲で叩いた。
「針金で補強ってのもなぁ……なんか当てとくしかないんじゃない?」
 横田の意見に麻生はちりちりの長髪をかき上げながら眉を顰め、班長である遼は細かい指示をいちいち出さなくてもよいと判断し、自分の担当である調理ブース外壁の修繕を開始した。
「遼くん……」
 金槌を叩いているその横に、リューティガー真錠が笑みを浮かべながら近づいてきた。しかし遼は朝と同じように作業の手を止めることなく、彼をちらりと一瞥だけした。
「今日は……ありがとう……本番前なのに呼び出しに応じてくれて……」
「ああ……いいんだよ。俺もがちがちで気分転換したかったんだ……それに……」
 一本目の釘を打ち切った遼は、ポーチから次の釘を取り出すと、補強箇所にその先端を軽く押し付けた。
「チャーシュー切れなんて、ここまで店作ったのに、そんなので失敗じゃーな」
 金槌を振り上げ、彼は一瞬だけリューティガーに笑みを向けた。
 思えば異常事態である。島守遼は触れた相手の心を知覚し、それを受けたリューティガー真錠は一瞬で東京大田区から福岡市博多区まで跳躍し、その連携によって窮地を脱することができた。本来であればありふれた事態ではなく、対応に参加した自分自身が考えるべきことが山ほどあるはずで、このように笑顔で叩き仕事などしている場合はない。
 だが、今の遼にとって、学園祭の無事な成功の方がずっと優先順位が高く、また、超常的で非日常的な事柄とはこの程度の距離を置いて接するべきだと、バルチの灼熱を決して忘れることのない彼はそうして平常心を保つことを心がけつつあった。

「ねぇ真錠くん」
 明日の材料チェックという調達班としての仕事を終えたリューティガーは、学生鞄を手にした神崎はるみから声をかけられ、左の眉と頬の筋肉を少しだけ吊り上げた。
「な、なんですか……神崎さん……」
「川崎から聞いたんだけど、あんた代々木に住んでるってほんと?」
「え、ええ……まぁ……」
「なら、わたしと同じじゃない。なのに、どうして昨日の帰りとか、いつの間にどこかへ行っちゃったの?」
 不思議そうに尋ねてくるはるみに対して、リューティガーは奥歯を摺り合わせながら、右目を半分だけ閉ざした。
「たまたま……はぐれたんですよ……」
「そ、そうなの?」
「ええ……じゃ、じゃあ……今日は一緒に帰りましょうか?」
「ええいいわよ」
 特に深い意図もなく、なんとなく話の流れ以上の意味も含まず、神崎はるみにとってはあくまでも何気ない一言である。リューティガー真錠に好意を抱いている川崎ちはるや、彼と昼食を共にする機会が多い椿梢が教室に不在だったことも手伝い、二人は何の負荷もなく廊下へと出て行った。まだまだ残っている仕事を処理しながら、島守遼はなんとなくあいつらはお似合いかな。と思い、研磨用の紙やすりをポケットにしまった。
「お、お疲れさま!!」
 教室に戻ってきた蜷河理佳が、ブースの壁の修繕具合を観察する遼へ大きく声をかけた。もうここに残る生徒の数も少なくなり、音原や関根以外は設営班が数人、といった状況であり、彼女のこれまでにない明るさに皆は注目した。
「理佳ちゃんは、もう上がり?」
「う、うん……遼くんは?」
「まだまだ……しばらくかかるかなぁ……」
「じゃ、じゃあ……待ってても……い、いいかな……」
 人目を気にせずこちらだけを意識して、唇に指を当ててそうつぶやく彼女に対し、遼は照れている場合ではない。と強く想った。
「遅くなるぜ。いいの? それにバス停までだし……」
「い、いいの……だ、だって……下駄箱から、結構歩けるし……ろ、廊下で待ってるね……」
 くるりと背を向けて教室から出て行く蜷河理佳に、遼は声をかけようとしたが作業を続ける麻生や戸田、そして音原までもがこちらをニヤニヤと見つめてくるので、とうとう恥ずかしくなり、おがくずだらけの手で頭を掻いた。

10.
 リューティガー真錠が、自分と同じ渋谷区代々木に住んでいるのなら、なぜ彼と自分はこれまで一度も登下校が重なることが無かったのだろう。学校前の坂道を下りながらそう思った神崎はるみは「真錠くんって代々木のどの辺?」と尋ねると、彼は「駅の交差点……首都高四号線の方面に下って……すぐの信号の角……新しいマンションです」と返事をしたため、いっそう疑問は広がった。
「山手線で五反田まで行って、それで池上線だよね?」
「え? ええまぁ……」
 リューティガーは毎日の通学を瞬間で果たしていた。そのために電車を使った経験はこれまでになく、そもそもそうした発想自体が希薄である。学校から十五分ほど歩いた私鉄駅に到着したものの、慣れた挙動で定期券を出すはるみに対して、彼はひたすら戸惑い、券売機へたどたどしく小銭を入れた。
「定期券切れ?」
 改札を越えた中から声をかけてくるはるみに対して、リューティガーは苦笑いを浮かべながら五反田までの切符を買い、何度も確認しながら自動改札にそれを吸い込ませ、隣にいた別の学年の生徒がやっているのを真似ながら、ようやくはるみと合流した。
「もしかして……初めて?」
「ま、まさか……もう転入して何ヵ月も経ってるんですし」
「そ、そうよねぇ……」
 五反田方面、蒲田方面共にホームには仁愛高校の学生達の姿が点在し、暗くなりはじめた辺りに呼応するように電灯がついた。神崎はるみは少しだけ視線を泳がせると、背中を壁に付け、両手で学生鞄を抱え込んだ。
「ね、ねぇ……真錠くん」
「な、なんです?」
「真錠くんって……今日のお芝居、観に来てくれた?」
「あ、い、いえ……ラーメンの方が忙しくって……」
「あ、なんかチャーシューで事故があったんだよね?」
「は、はい……なんとかなりましたけど……」
「そっかぁ……じゃあ全然こっちには来られなかったんだね」
「まぁ……」
 電車が来るのを待ちながら、リューティガーはどこか上の空であり、できるだけ神崎はるみの向けてくる全てを流してしまおうと努めていた。しかし、その態度がかえって疲れ気味であったはるみには心地よかった。
 到着した電車に乗り込んだ二人は、並んで椅子に腰掛けた。
「アドリブでもさぁ……あーゆーのって……どーなんだろうねぇ……」
 気だるく、疲れ切った声を耳にしたリューティガーは、それがすぐ右隣のクラスメイトから発せられたと気付いた途端、軽く戸惑ってしまった。
「ど、どうなんでしょうね……」
「えー……真……ルディは誰から聞いたの?」
「あ? え? はぃぃ?」
 愛称で呼ばれた上に、適当な口裏あわせまで追求されてしまったため、その戸惑いは混乱へと育ってしまい、彼は額から噴き出る汗を拭い、眼鏡をかけ直した。
「島守と蜷河……舞台の上でキスしちゃったのって……あれってアドリブだったんだよ?」
 自分のまったく感知しない、どうでもいいような、それでいて気になるような、整理の付かない許容量を越えた情報にリューティガーの呼吸は引っかかり、咳き込んだ彼の背中を少女がさすった。
「す、すみません……」
「驚いちゃうでしょー……」
「け、けどまぁ……遼くんと蜷河さんって……なんかお似合いって感じしません?」
「えー……そっかなぁ……?」
「ぼ、僕はそう思いますけど……」
 夕暮れの池上線に揺られながら、少年は少しずつ自分がリラックスしているのを自覚し、少女はますます気だるそうに座席へ体重を預けた。
「いっつの間に……あんたも蜷河も……“遼くん”って……なんだか……なぁ……」
 神崎はるみの疑問に、リューティガーはそれならなんとなく答えられそうだと思い、気持ちを向けた。
 しかしいつの間にか、疲れた様子の少女は少年に体重を傾かせ、静かな寝息を立て始めていた。
「か、神崎さん……」
 肩をすぼめながら困り果てたリューティガーが正面を向くと、対面に座る主婦がこちらを微笑み、その温めの見守りに彼はいたたまれなくなった。

 馴れ合ってる場合かよ……こいつは……死に神殺しの妹なんだ……化け物の……そして……何のメリットもない……馴れ合うなよ……!!

 少年の肩は筋肉もしっかりしたもので、見た目の華奢さとは裏腹のもたれ心地である。少女は、この肩になら頼ってしまってもいいな、と思いつつ、急激に自分の意識が右方向に落下していくのに戸惑った。
「え?」
 目が覚めた瞬間、彼女の鼓膜を「五反田〜終点」という車内アナウンスが振動させた。
 眠ったり、意識を取り戻したり、うつらうつらしてしまったのかと思いながら、はるみは隣に座っていたはずの彼の姿が、既になくなっている事実に気づいた。だから急に体重が傾いたのかと納得したものの、いくらなんでも素っ気無さすぎるのではないかと腹も立った彼女は、席から起き上がってホームへ注意を向けた。
 電車からホームを降り、改札へ向かう栗色の髪が揺れているのを発見した少女は鞄を手にしてホームへ出ると、その後姿を捉えた。
「ちょっとルディ! ひどいじゃない!」
 背中に声をかけられたリューティガーは、改札へ向かう人々の流れの中立ち止まり、頭だけを横に振り返った。
 その横顔からはいつもの笑みが消えているだけでなく、紺色の瞳には怒気すらも感じられるようであり、はるみは思わず口を手で覆ってしまい立ち止まった。
「悪かった……急いでたもので……あまりにも熟睡していたので放っておいてしまいました」
 感情のこもっていない、どこか機械的なこれまでに聞いたことがない彼の口調に、少女は自分が何か悪いことをしてしまったのかと恐ろしくなり、同時にその感覚がひどく滑稽で嘘くさいとさえ思った。
「い、いいんだけど……びっくりしちゃって……」
「それから……僕はあなたにはルディと呼ばれたくない。これまで通り真錠にしておいてください」
 あくまでも感情を殺したままそうつぶやくと、リューティガーは人の波に流されるまま改札へ向かった。
「あいつでも……人を嫌いになるってことが……あるんだ……」
 論理的な分析より先に、言葉が出てしまったことがあまりにも意外だったため、少女は再び口を手で覆い、ついにはその場へしゃがみ込んでしまった。人の流れは止むことなく。震えたままの彼女は自分の存在が薄く削りこまれそうで、それがとても苦しかった。

「じゃーな。また明日」
 戸田、麻生、横田、高川、そして音原と関根に声をかけた遼は、すっかり暗くなり、電灯がつけられた廊下へと出た。
「お、終わったの?」
 廊下の壁に寄りかかり、じっとしていた蜷河理佳が、弾けるような気持ちを向けてきた。
「うん。後は戸田たちがやってくれるから。もう帰っていいって」
「じゃあ……皆にお礼、言わないと……」
「い、いいよ、そんなの……帰ろうぜ……」
 ますます冷やかされるのがオチである。それに耐えられる自信がなかった遼は、彼女を促すと下駄箱へ降り、校門へ並んで歩き始めた。
「あ、あのさ……理佳ちゃん……」
「ん?」
 隣を歩く彼女の反応があまりにも素早かったため、彼は頭を掻いて間をとってみた。
「舞台……ありがとう……俺、なんか途中で呆けちまったみたいで……助けてもらっちゃってさ……」
「あ、ん……うん……」
 少女は唇に指を当てると足を止め、少年が振り返ると彼女は顔を真っ赤にして、視線を宙に泳がせていた。
「ご、ごめん……あ、あんなこと……」
 彼女から謝罪の言葉が出てくると思っていなかった遼は、どう言葉をフォローしてよいかわからず、震える手でその両肩を掴もうとした。
「い、いや……いいよ……いいと思う……あ、あぁ……っと……なぁ……いいんだよなぁ。だって俺達、付き合ってるんだもんな?」
「そ、そう……うん……」
 確かめるように、徐々に視線を上げ、こちらを見上げてくる彼女の瞳が揺れているのに遼は気づくと、今やるべきことがなんであるのか、それにようやく思い至ることができた。
「いや……情けないんだよな……こーゆーのって、情けなさ過ぎるわ。謝るのは俺の方だ」
 遼は蜷河理佳の両肩を掴み、膝を少しだけ曲げると彼女にそっと口付けをした。

 校門をぼんやりと照らす蛍光灯に、蛾が止まろうとしているのを少女は視線の端で捉えた。けど、もうそんなことを気にするのは面倒で、ひどくどうでもよく、彼女は瞳を閉じて彼の勇気を受け入れてみようと思った。

11.
「健太郎さんは爆発物の検出をお願いします。陳さんは反応外の仕掛けを調べてください。明日も学園祭ですから徹底的に調査できるはずです」
 マンションのダイニングキッチンで、リューティガーは二人の従者にそう指示を出した。
「それにしても奴が学園祭に来るとはネ」
「児戯だと言ってましたから……その一環なのでしょう。けど真実の人(トゥルーマン)流の悪戯ならば、学校に何かを仕掛けるという可能性だってじゅうぶんあり得ます。事実、奴は校内のどこかから、拳銃を取り寄せました……」
「わかってるヨ。しっかり調査するから、なぁ相方」
 陳 師培(チェン・シーペイ)に促された青黒い肌の巨人は、ゆっくりと頷き返した。リューティガーは居間へ向かうとパソコンの前に座り、メールソフトを起動させた。
 仁愛高校の全生徒、全職員の経歴を洗い出す必要がある。もし本部が負担増を理由に調査を断るのなら、自分達の手でそれを遂行する。そう覚悟を決めた指揮官の脳裏に、白い長髪の、右目を閉じてどこまでも人を小馬鹿にした兄の顔が浮かんだ。

 僕は……殺せる……そうさ……奴を殺せる……

 そんな覚悟を決めながら、それでもこちらの眉間をぶれることなく捉えていた兄の銃口に対し、自分のそれはいつの間にか肩口へとずらしてしまっていた。この差は途方も無い。

 殺されるのは……嫌だ……だから殺せる……

 あまりにも消極的な殺意であるが、まずはそこから育ててみよう。リューティガーはキーボードを叩きながら、そんな覚悟から始めてみることにした。

「お前な。ガスガン置いといて、どーするつもりだよまったく!?」
 白い長髪をかき上げながら、真実の人はひたすら恐縮するパーマ頭にそう怒鳴った。
「おっかしいんだよなぁ。俺も絶対本物の方を天井に隠しといたと思ったんだけどねぇ……」
 都心から少々外れた繁華街にある、カラオケボックスの中で彼らはくつろいでいた。
 藍田長助の姿はここに似合っていたが、真実の人と、その横に座る赤毛でエプロンドレス姿の少女、ライフェ・カウンテットの二人はどう見ても場違いであり、飲み物やおつまみを運ぶ店員はこの三人をどんな関係にある人物たちなのか、まったく理解することができなかった。
「へぇ……新曲かぁ……」
 ライフェは分厚いカラオケの選曲リストをじっと眺め、真実の人は長助に向かって右目を閉じた。
「仁愛ラーメンは食べたのか?」
「いや。理佳が厨房にいるのを見かけたんで、怒ってまずいの作られたら困るなぁって思ってね」
「へぇ。俺のときは理佳もルディも留守だったよ。それに……ルディが僕殺しの切り札にとっといてるサイキだっけ? 奴もいなかったし」
「あぁ……あいつか? いずれ声をかけるつもりなんだろ?」
 発泡酒のジョッキを手にしてニヤつく長助に対し、真実の人はテーブルの冷酒グラスをつまみ、それをジョッキにカチャリと当てた。
「当然。しかし驚いたよ」
「は? 何にだ?」
「どうせルディは探知機頼りで、感覚、鈍いから気づいてないんだろうけど。あのクラス、もう一人サイキがいたよ」
「え!?」
 真実の人の言葉に長助は目を丸くし、ライフェは意に関せずリストに集中していた。
「面白いよねぇ……偶然にしちゃ出来すぎだけど……こういうことってあるんだねぇ……あの確率なら他にもいたりして」
「あ……そうか……神崎……あいつは妹だったな……そうなんだろ? 真実の人、あいつがサイキなんだろ」
「さぁねぇ」
 はぐらかす様に悪戯っぽく微笑むと、白髪の美青年はジョッキを手にしたパーマ頭をぐじゃぐじゃに掻き毟った。
「や、やめ!! 禿げるっしょ!!」
「ひーひっひっひっひっひ!! あっはははは!!」
 グラスに入った冷酒をこぼしながら、青年は弟と同様の無邪気な笑みを浮かべ、困りながら拒絶する長助にも怒りは無かった。すると、ボックスの扉がゆっくりと開き、空軍ジャケットを着込んでリュックを背負い、褐色の肌をした少年が姿を現した。
「うっス……」
 会釈をした少年がライフェの対面に座ると、彼女は目を輝かせて立ち上がり、彼の横につき、その腕にしがみついた。
「遅い!!」
「す、すんません……」
 ライフェに叱られた少年は、口元を歪めながら何度も頭を下げた。
「よう。はばたき。お前はコーヒーだったよな。アイスコーヒー」
 長助に促された“はばたき”少年は「ああ」と小さく返事をした。
「えー!? あんたも酒呑みなさいよぉ!!」
「か、勘弁してください……」
「こらこらライフェ……」
 真実の人に諌められ、少女は仕方なく頬を膨らませた。
「源吾とは合流できたのか?」
 インターフォンで注文を告げる長助を一瞥しながら、青年は少年にそう尋ねた。
「ええ……なんか……学校、気に入ったみたいでした……」
 はばたきの報告に、真実の人は「ふーん」と興味深そうに頷き返した。
「じゃーさ!! 酒はいいから歌お!! それならいいでしょ、はばたきぃ!!」
「う、歌っスか……」
 困り顔で、両手の指を膝の上で泳がせるはばたきの首に、ライフェはしがみついた。
「そーよ。デュエットよ、デュエット!! 」
「トゥ、真実の人……」
 救援を求めるアジア系少年に対し、青年は両目を開けて「だめ」とつぶやきながら首を横に振り、それと同時に少女の「まずはカナダからの手紙、いっくぞー!!」という叫び声がボックス内に響き渡った。

12.
 そもそも長蛇の列に並ぶというのがどうにも性分に合わず、これまでも行列というものとは無縁でいたのが島守貢の人生である。息子の初舞台を楽しんだ後、今度はラーメンだと勇んで1年B組に向かった彼だったが、タイミングとして昼食時であり廊下まで溢れていた客を目撃すると、その覇気はすっかり萎えてしまい、気が付けば近所の牛丼屋で特盛りを頼んでしまう有様だった。
「いつかな。なんかの拍子で牛丼が食えなくなる日が来るかもしれないだろ。そうしたらラーメンじゃ代用できないと思ってさ」
 と熱弁する父に息子は「わけわかんねぇ」とぶっきら棒に返事をし、確かに自分でもわけがわからない言い訳をしてしまったと反省し、やはり行列に参加してでもわが子のラーメンを食べるべきだろうと、今日は朝飯を抜き、会場の午前九時前から校門で臨戦態勢の貢であった。
「なーんか……こーして校門に張り付いて待っていると、タレントの出待ちしてるファンみてぇだなぁ……」
 そろそろ寒くなってきた十月の秋気に手をこすり合わせていると、自分の他にこうして開場を待つ者がたった一人しかいない事実に気づき、彼はその人物に向かって笑顔を向けた。
「あ、あなたも開場待ちで仁愛ラーメン食べに来たんですか?」
 いきなり見知らぬ中年男性に話しかけられた陳は、ぎょっとなり組んでいた腕を解いた。
「あ、あんた、誰ネ?」
「い、いや……ここの生徒の父兄なんですけど……な、なんかあんたって見た目中華料理の人っぽくって……ねぇ……」
「ほう? わかるかネ?」
「そ、そりゃあ……どう見たってねぇ……」
 丸々と太った体躯、線のような目に鯰髭、帽子からはみ出た辮髪など、陳の外見は貢が想像する中華料理人そのものであり、朝一番で多少寝ぼけていることも手伝って、彼にはその推理を疑う余地が無かった。
 開場の時間となり、校門が生徒の手によって開かれると、貢は焦ることなく、これなら並ばずにラーメンにありつけそうだと確信し、陳と微妙な距離を保ちながら下駄箱へ向かった。シートの敷かれた廊下を歩きながら、相変わらず微妙な距離のまま背後にいる丸い影に時々父は愛想笑いを浮かべ、ついに目的地にたどり着いたのと同時に、やはり立ち止まった陳へ驚きと納得の意を向けた。
「やっぱりそーだったんですか?」
「そうヨ。さぁさ入るネ。たぶん一番乗りヨ」
 陳に背中を押されながら教室に入った貢は、女生徒の「いらっしゃいませ!!」という元気のいい挨拶に驚き、辺りをぐるりと見渡した。
「なんか……結構本格的だなぁ……」
 我妻に案内され、テーブルについた父と陳の姿を調理ブースの中から目撃した遼は、思わず頭を低くして身を隠した。

 な、なんで親父と陳さんが一緒に来てんだよ!?

 このまま隠れていれば、おそらくやり過ごせるかも知れない。しかし父は機嫌がいいと、それは結構おしゃべりな男に変わり、あたり構わず個人情報を喋り出し親子関係が露呈しかねない。三十五歳と極端に若く、それでいて皺の多い疲れ顔の貢が自分の父であるという事実を、遼はできることならクラスメイトに知られたくなかった。
「ラーメン二つぅ!!」
 我妻の告げた注文を内容に頷きながら、椿梢はすぐ側で身体を小さくさせている遼に首を傾げ、それに気づいた蜷河理佳が心配そうに近づいてきた。
「遼くん……ど、どうしたの?」
「あ? 理佳ちゃん……な、なんでもない……あ、ああ……うん」
 原因こそ自分でもよくわからないが、蜷河理佳と父を今は会わせたくない。漠然とした焦りが遼の余裕を奪い、とにかくなんでもいいから、とっとと時間が過ぎてしまえとやけ気味になっていた。
「あー!! 陳さん!!」
 ブースの外で、よく聞きなれた転入生の声が響いていた。
「坊ちゃん!!」
「あ、それに遼くんのお父さん!?」
 リューティガーの言葉に、蜷河理佳の注意がぴくりと向き、彼女は傍らで蹲る遼に首を傾げ、「お父さん?」とつぶやいた。
「う、うん……なんか……親父……来てるみたいね……」
「そ、そうなんだぁ……」
 ブースの中から店内に向き直った少女は、無邪気な笑みを浮かべて貢をもてなしている少年と、丸々太ったその従者へ苛烈な視線を向け、そのまま目を伏せると小さく息を漏らし、ぼんやりとした様子で彼氏の父に注意を向け直した。
「遼くん!! お父さん、来てるよ!!」
 叫びながら調理ブースへやってきたリューティガーに、遼はうんざりとした苦笑いを向け、仕方なく店へ出た。
「おぉ遼!!」
 まさしく破顔一笑である父とは対照的に、頭を掻きながら「よ、よぉ……」とか細い声の息子に、他の生徒達の大半は、どこか「お気の毒に」といった遠慮がちな空気を作ろうとしていた。
「さっきルディくんに聞いたけど、繁盛してんだって?」
「あ? ああ……あぁ関根君!!」
 ブース脇で在庫チェックをしていた関根に気づいた遼は、彼を呼んでその背中を軽く叩いた。
「彼は関根君。ここの味とか、全部プロデュースしてさ。すごいんだぜ」
 いきなり見知らぬ中年に紹介された関根は「え、え、え」と戸惑うばかりで遼の意図がどこにあるのかさっぱり理解できなかった。
「はい。お待ちどおさまです」
 調理ブースから、蜷河理佳が一杯のラーメンをトレーに載せてテーブルまでやってきた。
「ほぁ……あ、あれ……?」
 少女の姿を見上げた貢は、彼女の風貌をどこかで見たような気がして、口元を歪ませた。
「りょ、遼くんとは同じ演劇部でお世話になってる……蜷河理佳と申します……」
 ラーメンを置き、両手を重ねてお辞儀をする彼女に、貢は「あー!! 夫人役の!?」と大声で叫んだ。
 自分の分のラーメンはなぜないのか。貢の隣に座っていた陳が鯰髭を撫でながらそんな疑問を抱いていると、すぐに和家屋がもう一杯を運んできた。
 なるほど、この美しい少女は島守遼の父親に自分をアピールしようとしているのだろう。彼女の意図をそう理解した陳は、蓮華を手にすると、まずはスープを啜ってみた。
「関根くん。陳さんは四川の料理人で、僕の家で食事の面倒を見てくれてるんだ」
 リューティガーにそう紹介された陳はじろりと関根を一瞥し、ずるずるとラーメンを口に運んだ。どこか殺気だった陳の気配に気圧された関根はテーブルの端を掴んだ。
 廊下から戻り、教壇から全体を見渡した音原は、たった二人の客を相手にスタッフが集中しすぎているのが不思議だった。
「え? こいつってさ、演技とかへたくそでしょ」
「い、いいえ……そんなことは……」
「いいんだよ。正直言っちゃってさ……」
 ラーメンを啜りながら傍らの蜷河理佳に話しかける貢はすっかり上機嫌で、険しい表情で時々関根を睨みながらの陳とは対照的であった。

 だけど、両方関係ないな……

 エプロン姿の神崎はるみは、教室中央で形成されている家族的であり、勝負事であり、なにやら楽しそうないずれの空間にも、自分の居場所は無いような気がしていた。

「褒められはしない……けど、それは私の立場上の問題ネ」
 ややこしい評価を下す陳ではあったが、その表情はすっかり柔らかく、関根はそれだけで彼の気持ちが理解でき、勇気を振り絞って握手を求めた。

 良かったね。関根。あんた地味ながら頑張ったよ。島守だって蜷河だって演劇部で活躍した上でこれだし、真錠はわたしのこと嫌ってるんだろうけど、誰にでも好かれる人間になんかなりたくないものね。まりか姉じゃあるまいし。

 腕を組んでいた神崎はるみは、ぼんやりと視線を泳がせた。今の自分にできることはこれぐらいなのだろう、そう自覚した彼女は、ワイシャツの袖をまくりながら新しく入ってきた客に頭を下げた。

「いらっしゃいませ! 一名様でございますか!?」

 今はこんなものだろう。けど、これからなにかあるのだろうか?

 一度下げた頭はどことなく重く、引き上げるのがこんなにも億劫だとは。それが少女にとっても意外であり、あぁ、これは多分敗北なんだろうな。根拠もなくそう確信するばかりであった。

第八話「はじめての喝采」おわり

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