1.
ベッドの足についた傷跡。
何か硬いものをぶつけてしまったような、抉られたそれを認識する度、少女はこれが姉の使っていた“お下がり”であることを再確認してしまう。
木製の勉強机にしてもそうだし、着替えを入れてある箪笥も姉が官舎に引っ越しをする際、「あんたが使いなさい」と押し付けてきたものである。
それなのに部屋はそのままで、姉の使っていた六畳の、ベランダがある日当たりのいい部屋を自分が使ってもいいか、そう申し出てみたものの「だめよ。わたし、たまには帰ってくるんだし。寝泊まりする部屋だって必要でしょ?」とあっさり却下されてしまい、四畳半ほどしかない角部屋であるここに、使い古された家具が犇めき合う始末だった。
「ママ。まりか姉が押し付けてきた家具、戻しちゃっていい? ベッドや机は押し入れから戻すから」
母への抗議は、しかし家具の運搬作業を誰がやるのか、という難題に直面してしまい、父に相談してみても「僕は腕力に自信がないから、それにたまの休みぐらいゆっくりさせてくれよ」と断られてしまった。
ならば、この部屋にあった自分のベッドや机は誰が庭の物置まで運んだのだろう。押し付けてきた際、「いいよ。けど私がいま使ってるのはどうするの?
まりか姉の部屋に交換するの?」と聞いてみたところ、「あ、はるみが学校行ってる間に物置に運んでおくから。机の中のものだけ出しておいて」と返され、中学校から帰ってくると、姉の部屋はがらんとして、こちらの家具はグレードアップが完了していた。
たぶん、この作業は姉の友人がやってくれたのだろう。高校生や大学生の頃から姉は異性には人気があり、恋人と言えるほど親しい人物の気配こそ感じられなかったものの、男友達はそれなりにいたはずである。点数稼ぎにこうした力作業をしてくれる者がいても不思議ではない。
さて、たまには部屋の模様替えでもしてみようか。パジャマ姿のまま腰に手を当て、見通しの決してよくない部屋をぐるりと確認した神崎はるみは、家具の移動にはそれぞれがそれぞれで干渉してしまう犇めき合いにうんざりし、一度全てを廊下に出さなければ希望を叶えることはできないことに気づき、それは余りにも面倒だと感じた。
気分転換にはいい、良く晴れた日曜日である。予定も何も入っていないし、文化祭も無事に終了して、心機一転には節目もはっきりしているだろう。
二学期が始まってからはずっと準備に追われ、その甲斐あってか、芝居は大をつけても良いほどの成功であり、メインキャストである島守遼(とうもり
りょう)や蜷河理佳(になかわ りか)が、他のクラスや上級生に注目されているのが、たまに後ろをついて廊下を歩いていても感じられた。
もっとも、その注目は二人の演技に対してだけではなく、アドリブで発生したラブシーンに起因する卑猥な好奇心が主であることも明白で、それがたまらなく辛く、悔しく、馬鹿馬鹿しくも思える。
学級出店のラーメン仁愛は二日間を通じて盛況であり、関根茂の考案した博多風ラーメンは多くの客の舌を満足させたようだ。何気に懸念されていた収益もプラスであり、チャーシューを個人的に仕入れてくれたリューティガー真錠(しんじょう)に、代金の一万円を支払っても余るほどである。使い道はまだ決まっていないが、クラス委員の音原太一(おとはら
たいち)は来年の学園祭用に積み立てておけばいい。と、そんな平凡な提案を口にしていた。三年間を通じて、クラス替えというものがない仁愛高校だからこそできる発想だな。そう納得しながらも、「なぁ神崎さん。来年も上手くいくといいね」と、妙に嬉しそうで馴れ馴れしいクラス委員に対して、警戒をする心構えは怠らない。
音原は真面目で責任感のある男子だが、思考が固く、融通が利かない付き合いづらい面が多いと感じる。
薄くぼんやりとした憂鬱。小学校高学年の頃からずっと続いているそれから、彼は自分を救い出してくれそうにはない。身勝手だな。そう思いながらもそれが正直な感想である。
島守遼。彼は惚けてぶっきら棒で、捉えどころのない男子だが、あいつと関わっている間は不思議と憂鬱を忘れる。口が悪く、ついつい他人をからかってしまう自分のあまり褒められない面を素直に出せる。
こんな経験はこれまでなく、だからこそできるだけ彼との関係は、どんなに希薄でも長く維持したいと思っていた。
しかし、ここ数日はその姿を認識しただけで息がつまり、苦々しい何かが胸に広がるようである。
あんなアドリブ。冗談じゃない。
日曜日の朝から鬱屈するのはごめんだ。神崎はるみは鏡台に額をこつんとつけると、それを今日一日がんばろうという合図にした。何をがんばるのかまでは決めていない。けど、がんばらなくっちゃと思うことは、たぶんいいことなのだろう。
スウェットの上下に着替えたはるみは、一階のキッチンまで降りてきた。
「おー、おー……」
キッチンでは弟の学(まなぶ)が、トーストをかじりながらテレビを食い入るように見ていて、時々感嘆のうめき声を上げていた。なんの番組だろうとはるみも注意を向けていると、それは五人組の男女が変身して戦う、いわゆる「戦隊物」のドラマであり、小学一年生の弟が観るのにちょうどいい、単純な筋書きの活劇だった。
「好きだよねー学はこーゆーの。この後のウルトラマンも続けて見るんでしょー」
食卓につきながら声をかけてみたものの、弟からのリアクションは一切なく、彼の注意はプラズマディスプレイへと向け続けられていた。
「違うわよ、はるみ。この後は仮面ライダーよ」
カウンターキッチンで手を洗いながら、母の永美(えいみ)がそうつぶやいた。はるみは苦笑いを浮かべながら席を立つと、母が用意してくれた朝食の載ったトレーを手にした。
「そういえば……来週の土日って、まりか姉が帰ってくるんだっけ?」
「うん……それなんだけど、さっきまりかからメールが来てて、急な仕事が入ったから、しばらくはこっちに帰れないって」
残念そうにそう告げた母に、娘も同様の困り顔を作って見せたが、内心では姉の帰宅が実現しないという事実にほっとしていた。
姉は何かと口うるさい。母や父が比較的のんびりとした性格で口やかましくないため、その反動なのかというほど、あれこれ自分に対して注文をつけてくる。
特に勉強に対する注意が多いのが憂鬱で、顔を見る度に「勉強はちゃんとやってる? わたしも高校までは嫌いだったから偉そうなことは言えないけど、自分の選択肢を広げるには……」などと説教が始まり、いつだって最後の方は何を言っているのかよく思い出せない。
そうか、まりか姉は帰ってこられないのか。内閣財務室の仕事はそんなに忙しいのだろうか。何をしているのかさっぱりわからず、また興味もないが、きっと国のために役立つ立派な仕事なのだろう。
自分は高校を卒業して、おそらく短大にでも進学してその後はOLか何かになるのだろう。姉は努力して勉強すれば選択肢が広がるとよく言うが、それは才能ある者の経験談でしかない。なにせ勉強というか座学に対して、微塵も興味が湧かない。島守遼も中学の頃はガリ勉だったというが、なにか勉強が好きになる秘訣でもあるのか。
今度聞いてみよう。そう思いながらも、あいつはわたしに対してそんな親切じゃない。と、そんな認識がすぐに浮かび、少しだけ切なく感じられた。
「中間試験、ヤマが当たり過ぎてて自分でも怖いぐらいだったよ」
明けた月曜日の朝、1年B組の教室で島守遼は、クラスメイトである比留間(ひるま)の自慢げな言葉をうんざりしながら聞いていた。
「ちなみに君はどうだった? 一学期末もいい成績だったみたいだけど」
「最悪だよ。だってさ、勉強する暇なんて全然だったんだぜ。舞台だろ、設営だろ。もう最悪」
最悪というフレーズを二度も使い、遼は自分の惨状をそう報告した。すると比留間は眼鏡を直し、吊り上がった目を細めた。彼のこうした表情は不快感の表れである。これまでの半年で遼は比留間の反応を概ね把握しつつあったが、肝心の不快感を抱くプロセスについてはさっぱりわからないままだった。
「ぼ、僕はあのお芝居、観たけど。シ、シナリオが雑だったと感じたね」
「しょうがねぇだろ……ウチの部長が書いたやつなんだから。だけどさ、お客さんからの拍手は大きかったし、喝采ってやつ? 気持ちよかったよなぁ……」
「きゃ、客は芝居なんて観たことない連中が大半だから、たぶんそれだけで感激したんだよ。そんなこともわからないのか?」
「そうかな? あぁ……かもしんねぇな。うん」
いつもならもう少し反論してくるか、不機嫌になって口元を歪ませるのが島守遼のこれまでである。しかし最近この長身のクラスメイトは、妙にゆとりがあると言うか、泰然とした態度でいることがある。これでは嫌味の言い甲斐がないと、比留間圭治は言葉を返そうとした口を閉ざし、頬を引きつらせながら教室前部にある自分の席へと戻って行った。
「おはよう……」
左隣に座った神崎はるみに気づいた遼は、いつも比留間を撃退するのはこの少女の役目なのに、今日はなんともタイミングがずれていると苦笑した。
「おはようございます」
明るくはっきりとした挨拶をしながら教室に入ってきたのは、栗色の髪をしたドイツ人とのハーフ、リューティガー真錠である。屈託の無い、まるで子供のような無邪気な笑みを浮かべながら教室を行く彼に、沢田や内藤、野元や関根といった男子や、椿梢(つばき
こずえ)や川崎、崎寺(さきてら)などの女子が口々に彼の愛称である「ルディ」と声をかけ、その人望の量というものを遼は感じていた。
すぐ後ろの席に座るこの転入生は学園祭というイベントを通じて、すっかりクラスの一員として馴染み、それでだけではなく信頼をも獲得したようである。ただ、ここ数日、思い出せば学園祭以降だろうか、彼が教室にやってきても隣の神崎はるみは決して声をかけることがなく、顔を見る様子さえないのが少々奇妙だった。
リューティガーと神崎は喧嘩でもしたのか。一瞬、そんな発想を想像の域にまで高めようとした遼だったが、教室に入ってきた黒髪の少女、蜷河理佳の登場につまらない考えは消し飛んでしまった。
「おはよう。遼くん」
「あ、ああ……おはよう理佳ちゃん」
誰に挨拶をするわけでもなく、真っ直ぐ自分の側に来て儚げな笑みを向けてくれるこの少女に対して、少年はもちろん一定以上の好意を抱いていた。しかし、その行動があまりにも直線的過ぎるような気もして、もう少し周囲に対しても意識を向けてくれればと思うこともある。贅沢な不満であることはじゅうぶん承知しているが、変にやっかまれたり、これが原因で彼女に悪意を向けたりする奴がいないとも限らない。蜷河理佳を大切に思うが故、彼は自然な態度でそれを促すことができればと思いはじめていた。
しばらくして最後に教室へやってきたのは、初老の担任教師、近持弘治(ちかもち
ひろはる)である。ほぼ毎日行われる朝のホームルームは確認や連絡事項が主であり、今日はクラス委員の音原が、先日のラーメン仁愛で上げた収益を銀行口座に預けたことを報告し、皆に通帳を広げていた。
「それでは……そうそう、真錠君……神崎さん」
近持先生に名前を呼ばれた二人は背筋を少しだけ伸ばし、不思議そうに瞬きを繰り返した。
「二人は席を入れ替わってください。真錠君は黒板がよく見えないそうですから」
転入初日の一時間目の授業中、リューティガーが古文の名網(なもう)先生に黒板が見えづらいと言ったことを遼は思い出した。あの頃は自分の座高のせいで、比較的小柄である真錠が苦労を感じたのだろうと疑いもしなかった。だが異なる力である、透視と遠視が彼の特技と知ってしまった今にしてみるとあの申し出は随分奇妙である。そう思った遼は、席を立った栗色の髪をした彼を不気味そうに見上げた。
あの申し出の意味は、まさかこれを意図してのことだったのだろうか。はるみとの座席交換は、自分のすぐ隣に座るということである。もちろん、他の見通しのよい席への交換という可能性もあったが、それならそれでこの転入生は別の不満を進言していたかも知れない。
あの頃から、リューティガーは自分との接触のため、いろいろと細かい仕掛けをしていたのだろう。遼はそう再認識した。しかしこうも時差が出ての結果はいかにも間抜けな展開である。もうこいつとの接触は終了済みで、今更隣にきたところで何の進展だってありはしない。ここ一ヵ月は弁当も持参せず、昼も食堂で西沢や戸田、麻生たちと一緒にいることが大半だったし、最近では蜷河理佳と二人で、購買で買ったパンを屋上で食べるのが日課になっている。
机の中にあった教科書やノートを出し、それを抱え込んだはるみは、少しだけ憂鬱そうな視線を遼に向けた。
なんだよ……なに寂しそうにしてんだよこいつ……
自分でも原因のわからない苛つきを覚えながら、遼はすぐ後ろに移動する少女に注意を向け続け、やがて隣に座った迷惑なクラスメイトを一瞥し、すぐに斜め前に座る見事な黒髪に視線を移した。
「よ、よろしくね。遼くん」
見えはしないが、おそらくこいつはまた、あの子供のように屈託の無い笑みを向けているのだろう。そう思うと遼はますます嫌気がさし、下唇を突き出した。
「男の列と女の列がはっきりと分かれてたのに……景観が損なわれるっつーの」
視線を逸らしたまま毒づく遼に対して、リューティガーは「この席になるように……先週の金曜日に近持先生にお願いしといたんです」と小声で返した。
先週……金曜日……だと……
時差などでは無ければ偶然でもない。リューティガー真錠は明確な意図を持って、自分の隣の席へ移動してきた。
今更、一体なんの企みが彼にあるのか。それは決して背の高くない神崎はるみが自分の後ろに来てしまい、黒板が見えづらくなるという迷惑をかけるほどの価値があるのだろうか。
遼は視線を左隣に移し、荷物を机の中に入れる不気味な存在を凝視した。
何かが……あるのか……それとも……何か……するのかよ……
漠然とした不安を感じながら、だが遼はそれを相手へ問うことに躊躇してしまっている本音には、気づかないままだった。
2.
中間試験後の試験休みが最適の日程だとは思っていた。しかし相手があって初めて成立する予定であり、彼女に「試験の後はちょっと都合悪くって……ごめんね……」と謝られては無理も言えない遼である。結局、試験休みが明け、二週間後の日曜日が蜷河理佳との二回目のデートとなった。
十一月に入った渋谷の街は、暦通りの気候ではなく随分と暖かく、ハチ公像の前で佇む遼はあまりの暑さに着ていた革のジャケットを脱ぎ、それを脇に抱えた。
「ご、ごめん……待たせちゃった……?」
ほとんど白に近い萌黄色のセーターに細いジーンズ姿の彼女は、初めてのデートのときと比べると随分と動きやすそうな服装で、これはこれでよく似合っていると遼には思えた。「帽子なんか合うかも知れない」そう思った彼は「全然、来たばっかり」と返しながら、映画を観終わった後は帽子をプレゼントしてあげようと心に決めていた。
軍資金は異なる力を使ったイカサマパチンコでたっぷりと財布の中に入っている。選択肢は広く、どんな遊びも思いのままではあったが、経験が圧倒的に不足している彼が導き出したデートコースの最初は映画観賞で、その後はショッピングをして食事をするといった、前回とまったく同じ内容になってしまった。しかし渋谷の街でのアルバイト経験は遼に淀みの無いエスコートを可能にし、映画館までの近道など彼女に感心されることしきりだった。
「遼くんって、どこでアルバイトしてるの?」
「あの坂の途中。宮益坂の雑居ビル……今日は麻生も休みだし、支配人大変だろうなぁ」
「顔とか……出さなくっていいの?」
「いいよ。冷やかされるに決まってるし」
手を左右に動かしながら拒絶する遼に、彼女はにっこりと微笑み返した。
「わ、わたしは構わないけど……遼くんの職場……見たいなぁって思って……」
「中途半端な筋肉お化けがいっぱいで、キモいから止めといた方がいいって」
「うーんそっかぁ……中途半端……なんだ?」
彼女は少しだけ身を屈め、人差し指を立てて首を傾げた。遼は、二人で楽しく喋りながら交差点を渡るこの状況が疑いようのない現実だとあらためて自覚し、それがたまらなく嬉しかった。
「だってさ、本当の筋肉お化けになるには、かなり無茶をしなくっちゃいけないんだってさ。あのジムに来ているほとんどの人は、健康とか体力増進のためだから」
「へぇ……」
背筋をぴんと伸ばし、小さく頷いた蜷河理佳は、映画館の前で立ち止まった。
「えっと……どの映画、観る?」
三つの映画館が入ったこのビルは、前回のデートで訪れたそれと同一である。しかし数ヵ月の時は看板の内容を刷新させていて、二回目となる選択に遼は手を顎に当てて考えを巡らせた。
「あれにしよう!!」
勢いよく指した先には、ある盲導犬の生涯を描いた邦画の看板があり、少女は「うん」と大きく頷いて同意した。
退屈な内容である。映画の内容に興味を示せない遼は、隣に座る彼女にちらりと注意を向けた。すると蜷河理佳はスクリーンに仔犬が登場する度に目を輝かせたり、ときどき手を合わせたりと細かいリアクションをしていたため、彼が睡魔に襲われて醜態を晒してしまうことは無かった。
この機会に手でも握れれば、そう思いもしたが、彼女があまりにも映画に対して真剣であり、二度も口付けをして今更手を握ることにこだわる必要もないだろうと、彼は希望を一時的に封印した。
「な、なんか……最後の方で泣きそうになっちゃった……」
希望は意外と早く実現できた。映画館を出た直後から蜷河理佳の手は遼のそれをずっと握り、柔らかく暖かい感触が彼を幸せにしていた。
「お、俺も……いい映画だったよね」
内容などまったく覚えていない。上映時間の大半を彼女の横顔を観察することに費やしていた遼は、もし蜷河理佳に接触式読心の能力があったらこの嘘はすぐにばれてしまうだろうと、そんないかにもくだらないことを考えた。
その逆に、手を握って渋谷の街を歩いていても彼女の思考が意識に入ってくることは無かった。映画館から出て既に五分以上は経とうというのに全くである。遼は若干疑問に思い初めていたが、なにせ緊張のため心臓の鼓動はいつもの倍近くになっていて手にも汗をかいている自分は、おそらく平常心ではないのだろう。接触式読心は当たり外れもある不安定な特殊能力だけに珍しいことでない。そう納得した彼は、なにより決して自分から彼女の心を覗きに行くような、そんな卑怯な真似はするまいと気を引き締めた。
そう、卑劣な行為はしない。そんな決意をすることで自尊心は満たされる。だがその裏側には蜷河理佳の本音を覗いてしまうことに対する恐れもあった。
そもそも、あの人体解剖図鑑を渡してきた意外な行動の原因もまだはっきりせず、舞台の練習で見せた怖いほどの目付きにしても、違和感が残ったままである。そして彼女を抱きしめた際に知覚した、男とも女ともつかない人物像。あれは一体誰なのかと、そこに疑問が到達した瞬間、彼の脳内に閃きが走った。
あー……客席で親父の横に座ってた奴……あれに似てたんだ……
だからあの姿を見つけた途端、舞台で自分は呆けてしまったのだろうか。しかし客席で見つけた姿は蜷河理佳の心の中よりずっと薄暗く、はっきりと認識などできないため断定などできない。だがクラスメイトの噂話だと、自分が舞台に出ている間、ラーメン仁愛に日本語の上手い、まるでモデルのような容姿の美しい青年が食べに来たという。
ばらばらの情報はパズルのピースのようであり、だとすれば全体像が見えるにはまだまだ欠けすぎていて、そもそもピース同士が同じパズルのそれかどうかも怪しい上、時間の経過とともに像もぼやけていく。
もし、なにもかも関連があるのなら、彼女から事情をきちんと聞きたい。
自分とて、接触式読心や今日の軍資金源であるイカサマパチンコについては秘密を抱えているのだから、彼女にもまだ言えない事情も色々とあるだろう。案外、普通に聞けば「白っぽい長髪の美青年?
あぁ、それってわたしの兄さんよ」などといったあっさり目の返事があるかも知れないが、そこまでの度胸を遼は持ち合わせてはいなかった。
「もぉ……聞いてるのぉ……」
人差し指の第一関節で背中をぐいと押された彼は、「あぅ」とうめき声を漏らした。
「な、ななな、なに? ごめん、飯食う場所、考えてたらぼーっとしちゃって……」
咄嗟の嘘はもう特技と言っても過言ではないだろう。そう思い遼は頭を掻いた。
「な、なんの話だったっけか?」
「平田先輩……」
「あ、あぁ……はいはい……」
考え事をしながらも耳に入り続けていた彼女の言葉を思い出しながら、遼は話の流れを手繰り寄せた。
「先輩さぁ、最後の最後で褒めてくれたんだよ。俺、それがすごく嬉しくってさ」
「うん……わたしね……平田先輩にこないだ怒られちゃったんだ……」
「え……? どうして?」
そう言ったものの、遼には彼女が注意されてしまう点がいくつかあることを認識していた。
「うん……舞台が終わらないうちにクラスに戻ったことと……あの……うん……」
手を握る力がいっそう強くなり、少女の頬はほんのりと赤く染まった。島守遼は勘のいい方ではないが、さすがに彼女の照れ具合から、その言葉は容易に推察できた。
「ま、まぁ……あれは……俺が原因だしなぁ……」
「う、うん……けどね……あそこで台詞が飛んだのって……そもそもその前に……わたし……ちょっとずつタイミングがずれてた……でしょ……あれのせいかなって……」
「そう……芝居の上手い理佳ちゃんが、どうして練習通りの間合いじゃないのかって……少し驚いたな」
「わ、わたしも……緊張しちゃって……だって……初めての本番だったから……」
その発言は意外であり、思わず立ち止まった遼は、何度も瞬きをして少女を見つめた。
「あ、あんなに上手いのに……中学時代とかって……やったことなかったの? 演劇」
その問いに少女は小さく頷き、「うん……初めて……」とつぶやいた。
「そっかぁ……やっぱ天才っているんだなぁ……俺とキャリアほとんど同じなのかよ……それであの差かぁ……」
「て、天才とか……や、やだ……」
口に手を当て、目を伏せる蜷河理佳を見下ろしながら、島守遼はこのセーターには帽子が絶対似合うと確信していた。
キャスケットにしては高さが無く、ほとんどベレー帽と言っていいベージュのそれを手にした遼は、静かな挙動で彼女の頭に帽子を被せてみた。
「あ、似合う似合う。すっげぇ、可愛い」
「ほ、ほんと?」
棚の中に置いてあった鏡を、蜷河理佳は首を突き出して覗き込んでみた。
道玄坂側のファッションビルの三階にある女性向けの装飾雑貨店は、休日と言うこともあり多くの客で混雑していて、その大半は商品購入の対象者である若い女性である。
帽子姿を何度も確かめる彼女は他の客の誰よりも美しい黒髪で、スタイルも顔立ちも品良く整っている。そんな飛び抜けた存在を特別なものにしている自分は、どう考えても過ぎた幸せを得ているのだろう。遼はそう思い、笑顔で蜷河理佳の横顔を覗き込んだ。
「気に入った? だったら買おうよ」
「け、けど……映画も払ってくれて……帽子まで……いいの?」
「だって前は理佳ちゃんに全部出してもらってさ、だから今回はおごるって合宿のときに約束したじゃん」
「う、うん……」
躊躇しながら帽子の端をつまむ彼女の被っているものに注目した遼は、値札に打たれた価格を確認し、これぐらいの金額であれば夕飯も楽勝で支払えそうだと確信して微笑んだ。
ペットショップやブティックで時間を潰しながら、気が付けばネオンが人々に光量を感じさせるほど渋谷の街は夕暮れに沈んでいた。遼はベージュの帽子を被った蜷河理佳と手をつないで歩きながら、もう季節はすっかり秋で、しばらくすれば寒くなるのだろうと当たり前の感想を抱いていた。
儚げでおとなしい彼女には夏よりも冬が似合う。これからますますいい季節になろうとしているのだから、それと共に仲を進展させていきたい。さて、そのためにはどんな計画を立てていこうか。冬はなにかとイベントが多い。遼はそんなことを考え込みながら、唸り声を漏らして下唇を突き出した。
いや、それ自体も二人で相談していけばいい。そもそも女性との付き合いに慣れているわけでもなく、勝手な計画は破綻を生むだけである。知らないことは人に相談する。単純ではあるが島守遼にとって、それは幼少期からの心がけであり、だからこそこれまでの十六年間で大きな失敗を経験したこともなかった。
しかし、今日の夕飯だけはあらかじめ考えてある。あの店なら雰囲気良く、二人で大人びた時間を過ごすことができるだろう。もしもいいムードになれば、それはそれで軍資金だって心の準備だって、西沢から借りた本で様々な知識を獲得済みである。
学校の階段の踊り場で「オンナノコとの付き合方【カラダ編】」という恥ずかしいタイトルのマニュアル本を借りたのは、今から数週間前、学園祭終了直後だった。
「島守さ、こーゆー本ってモテない奴が読むもんだぞ」
「じゃ、じゃあ、なんで西沢が持ってるんだよ」
遼は受け取った本を脱いでおいた上着でくるんだ。西沢は上級生の女子と深い付き合いをしているらしい。そんな噂を友人の沢田から何度も聞いていたし、なら適任だと判断した結果、遼は彼を相談相手に選んでいた。
「お前が適当なマニュアルを貸してくれっつーからサッカー部の先輩から借りてきたんだよ。俺がこんなの読むわけないだろ」
「そ、それなら、に、西沢は、ど、どうやって知識を仕入れたんだよ。おとといのマックじゃ、いろいろと詳しかったじゃん」
興味深そうに背を曲げた遼に対して、西沢速夫は茶色に染めた髪を掻き分け、視線を逸らした。
「そりゃあ、お前……俺は……まぁ……実地だな……もともと、本やネットで読んだりするのは好きじゃねぇし……」
先輩女生徒との艶のある付き合いが豊富な割には、この西沢という同級生はそれを自慢気にひけらかすこともなかった。だからこそ部活でも先輩男子からやっかまれずに、最近ではレギュラーポジションも獲得できたのだろう。それが人柄によるものなのか処世術なのかは遼にもわからなかったが、ともかくこちらの頼みに応じて恥ずかしい本を借りてきてくれた西沢に、彼は感謝していた。
西沢……上手いこといったら……まずはお前に報告してやるからな……!!
的外れな決意を胸に秘めながら、遼は路地裏の飲食店街の中にひっそりと営業するバー「Full
metal Cafe」の前で立ち止まった。
「フル……メタル……カフェ?」
看板に電飾で表現された筆記体のロゴを読み上げた蜷河理佳は、確認するように遼を見上げた。
「バイトの帰りに、麻生なんかとたまに寄るんだ。飲み屋だけど飯もやってるから。ボンゴレが激ウマなんだぜ」
「ふ、ふーん……」
黒い外装にウインドーいっぱいに貼られた海外アーティストのポスター、並べられた酒瓶の数々に気圧されながらも、彼女は興味深そうに何度も瞬きをした。
「いらっしゃい……あ、島守くん」
髭面に髪を刈り上げた、どこかうらぶれた雰囲気の持ち主であるマスターが、カウンターの中から常連客に笑みを向け、すぐに少女の存在に気づいて顎に手を当てた。
「彼女? 島守くんの」
カウンターに座る若い二人に、中年店主はニヤリと微笑みながらそう尋ねた。
「は、はい……」
蜷河理佳の方から先にそう返事があったことが、遼には嬉しくも意外であり、彼は言葉にならない喜びを吐息で表しながら、ニコニコと彼女とマスターへ笑みを振りまいた。
「あー……蜷河さんじゃなーい……」
店の奥からエプロン姿の巨体が姿を現した。彼女は向田愛、この店でアルバイトをする遼たちと同じ1年B組のクラスメイトである。
大失敗だ。麻生も今日はバイトに行っておらず、確か向田も今日は休むと言っていたはずである。知人の登場に遼は戸惑い、思わず「なんで?」と言葉を発してしまった。
「マスターに呼び出されたのよ。もう一人のバイトの子が急に来れなくなったって」
“なんで?”という短すぎる言葉に即答した向田は、頭の回転が速く対応力が高い。遼は戸惑いながらもそう感心した。
「蜷河さん、舞台観たわよ。うんまいのねー!」
喋りながらグラスに水を注ぐ向田の挙動に淀みはなく、しかしなぜそんな今更の話題をするのだろうと遼は疑問を抱いた。いや、よくよく考えてみると、この二人は接点が希薄だ。いやいや、と言うよりも、蜷河理佳にしても向田にしても教室では比較的無口であり、友達がいるタイプではない。「い、いっぱい練習したもの……えっとじゃあ……み、観たんだ……あれ……」「観た観た。映画みたいなラブラブシーン。萌えたわぁ!!」などと活発なコミュニケーションをとる二人に、あぁ、彼女たちの素顔や本音はこっちなのだろうな。教室はつまらないんだろうな。と、彼は勝手に納得した。
遼お勧めのボンゴレに彼女も満足したようで、それはそれで成功ではあったが、意外なるクラスメイトの登場に話題は色気の無い方向へと流れがちとなり、気が付けば帰りのバスの最後尾座席に並んで座っているという体たらくとなってしまった。
まあ焦る必要はないだろう。そう思い隣の蜷河理佳を見つめた遼は、せっかく仕入れた渋谷のホテル街情報を記憶の奥へと押し込めた。
「あ、あの……遼くん……」
「な、なに……?」
夜のバスは蛍光灯の灯りも暗く、遼の網膜に不愉快な断続感を与え続けていた。この白けた灯りのもとで、隣に座る蜷河理佳の肌はより生気なく映り、儚げさを通り越している。そう感じた途端、彼は根拠のない不安を抱いた。
「ふ、冬休み……部長は……合宿とか……ないって……言ってた……」
視線を正面に向けたままそうつぶやく彼女から、躊躇や恥じらいを感じた遼だったが、その意図まではすぐに理解することができなかった。
「まぁ……夏休みみたいに長くないしなぁ……次になんの劇やるか決まってないしなぁ」
「暇……なんだよね……」
“なんだよね”という言い回しに、遼は彼女の強い意図を感じた。
「お、俺も……すっげぇ……ヒマ……」
「そ、そうなんだ……」
少女はようやく少年の目を見つめ、彼もそれに応えて強く頷いた。
「どっか……行こうか……」
遼の提案に、蜷河理佳は小さくゆっくりと、だが口元には僅かな笑みをたたえながら、こくりと頷き返した。
バスから降りた彼女はいつまでも手を振り続け、後部座席にへばりつきなが彼もそれに応え続けた。
冬は理佳ちゃんと旅行だ……!! 旅行……旅行……泊まりがけの……旅行だ!!
小さくなっていく蜷河理佳にいつまでも手を振り続け、島守遼は冬休みまでにじゅうぶん以上の軍資金を稼ぐ必要があると思い、空いた手をぎゅっと握り締めた。
3.
リューティガー真錠が品川区の埋め立て地、城南島を訪れるのはこれでもう七度目である。これまでは全て日中の来訪だったが、突風と共にコンテナ群に現れた彼は、突然の暗闇に目を細め、視覚に頼るより異なる力であるもう一つの知覚、心の目で周囲の様子を認識した。
先方の都合で夜の接触になってしまったが、本来ならそれは避けたかったリューティガーである。船舶の警笛を耳にしながらコンテナ群を抜けた彼は、襲撃者に最大限の注意を払いつつ、桟橋に停泊していた小型船を見つけ、右手に持ったトランクの重さをコントロールしながら、歩みを駆け足へと速めた。
「ルディ!!」
チェック柄のバンダナで髪をまとめた細身の身体が、小型船の操縦席から姿を現した。もっと向こうの大型船のサーチライトが逆行になっていたせいで、少年は対面する女性のしなやかさをくっきりとした陰影と共に認識し、ふと彼女の年齢は実際のところどのぐらいなのだろうと、そんな意味の無い疑問に苦笑いを浮かべた。
リューティガーは桟橋から小型船に飛び移り、李 荷娜(イ ハヌル)を見上げて苦い笑みを無邪気なそれに変えた。
「注文の弾丸に医薬品……検査機器はわりと大きいけど……どうやって運ぶ? あの中国人が車で来てるの?」
船上に並べた取引商品を右手で仰ぐように示唆しながら、荷娜は尖った顎をリューティガーに向け、くいっと上げた。
「いえ……今日は僕、一人です……」
彼の身の回りの世話をしている従者、陳 師培(チェン・シーペイ)はこれまでに何度かこの取引現場に同行しており、リューティガーはできるなら今後は自分ではなく陳が代理人としてこの取引業務を担当して欲しいと思っていた。
「あぁ……そう……ふぅん……」
トランクを置いて品物を確認する彼の背中を、荷娜は口元を歪ませながら腰に手を当て、なにか美味しそうな食べ物でも見るような、そんな希望に溢れた品の無い目つきで見つめ続けた。
視線を背中で受けながら、リューティガーはこれがあるからこそ、陳は荷娜に強い警戒心を抱いていると解釈していた。最近では接触の度に口論にまで発展してしまうことすらある。無論、超がつくほどの一流暗殺プロフェッショナルである陳が、戦いに関してはおそらく素人であろう彼女に対して戦意を抱くことはないだろうが、こうした微妙な取引に私的な感情を持ち込むのはなにかと都合が悪い。
そう判断したからこその単独業務であり、危険は危険なのだが、自分さえ心を強く持っていれば何事も起こらず、よしんば起こってもたいした事態にはならないとリューティガーは安心していた。
「検査機器は先に跳ばします」
「そ、そうね……ルディにはそういう力があったのよね」
背中を向け続ける栗色の髪をした少年に、荷娜は少しだけ警戒の意を目に込めた。
「どうなの? 勝ち目とかってあるの?」
掠れ声でそう尋ねる彼女に対し、リューティガーは確認を終えるとゆっくりと振り返り、少しだけ右下へと顎を下げた。
「情報収集ですか?」
敵味方無く物品を取引する彼女である。本来であればこちらの動向にも興味があるはずで、情報が商品になることを熟知しているはずである。しかしこれまでに荷娜がそうした質問をしてきたことはなく、それはそれで性格的な面だろうと彼は了解していた。だからこそ勝ち目を聞いてきた今とて仕入れ行為ではなく、純粋にこちらの身を心配しての気持ちである可能性も高いのだが、リューティガーは馴れ合いをできるだけ避けたい気持ちが強かった。
「なわけないでしょ……いろんな取引先を相手にしてるとね、聞きたくなくてもネタは耳に入ってくるのよ」
腕を組んだ彼女は薄笑いを消し、鋭い目で彼を見つめた。
「ルディ、あんた……実の兄さんと……」
リューティガーは遮断の意思を強く込め、現金の入ったトランクを持ち上げると、それを荷娜に突きつけた。
「どうぞ。全額足りるはずです」
「ルディ……」
迂闊だった。荷娜がそう後悔してトランクを受け取ると、船上に置かれていた検査機器が突風と共に消失した。
「後は持って帰ります……また……足りなくなったら連絡しますので……」
小さくそうつぶやきながら背中を向けるリューティガーに、荷娜は彼の怒りを感じてしまい、組んでいた腕をだらりと下げた。
「荷娜さん……?」
リューティガーは自分とて少々きつい対応をしたものの、この程度で言葉を失う荷娜ではないと思っていた。それだけにわずかながらの無言に違和感を覚え、彼はたまらず振り返った。
悲しそうな荷娜の瞳を見た彼は、その気持ちを察し、無言のわけを納得した。
それはそうだろう。実の兄と命の奪い合いなどあってはならないことだ。やはり彼女の気持ちはあくまでも心配である。
馴れ合いを避けるべきであるはずなのに、自分の感情をコントロールできず、ついつい怒りで冷たい態度に出てしまうのは最悪である。そう、だから兄にああまでも子供扱いをされる。しかし、うまくはぐらかしたり軽く流したりすることなどできるはずもない。であれば素直にやるしかない。リューティガーは頭を軽く振り、口元を歪め、やがて心に平静を取り戻すと無邪気な笑みを彼女に向けた。
「ご、ごめんなさい……取引相手に個人的な心配かけちゃうなんて、まだまだ未熟で……」
「う、うん……じゃあ……やっぱりそうなの?」
「ええ……僕は兄と戦っています。機密上……建前上も、それ以上の情報は僕の口からは駄目ですけれど……奴は確かに僕の実兄です」
すっかりいつもの礼儀正しさを取り戻したお得意さんに対して、荷娜は下げていた手を胸元に移し、操縦席の壁に背中をつけた。
「真実の人(トゥルーマン)……ね……」
「自称……ですよ」
苦い笑みを含めながらそうつぶやくリューティガーに対し、荷娜は両腕を組み、細い目を鋭くさせた。
「もしルディが望むのなら……FOTに関する情報だっていくつかあるわよ」
「荷娜さん……」
「もちろんビジネス。それなりの情報料はいただくけど……同盟本部が収集していないものだってあると思うわ」
リューティガーは視線を操縦席に落とし、小さく息を吸い込み、右肩に左手を乗せ、「ふぅ……」と一息で冷静さを取り戻そうとした。
「駄目ですよ。同盟のエージェントは調査範囲にだって規定が存在するんです。情報を勝手に仕入れるわけにはいきません……」
不可抗力や偶然ならともかく、この闇商人が扱う情報は全てが重要機密のはずであり、それをもって行動を起こすことも出来るが、そこまでの覚悟はリューティガーには無かった。
覚悟が無い故に情報を拒絶している。そんな意気地のなさを彼はあえて認めようとはせず、あくまでも自分は同盟の定めた規範に忠実でありたいだけである、と結論づけていた。しかし無理のある自己定義は矛盾を生じさせ、事実荷娜へ向けた無邪気な笑みは、すっかり歪みきっていた。
こんなルディに色気を向けたところで、その聡明さも健気さも感じることは出来ない。荷娜は操縦用シートの脇にあった布袋を拾い上げると、それを彼に投げた。
「品物はそれに入れていくといいわ」
つまりそれは今日の取引が終了したという合図なのだろう。リューティガーはそう解釈すると、弾丸と医薬品を袋に詰め、小型船から桟橋へ飛び降りた。
跳んでしまえばすぐにでもマンションに戻ることができる。しかしそれではあまりにも一人という時間がなく、ますます余裕を失ってしまう。秋の夜風に当たってもいい、なんとなくそう思った彼は、桟橋から湾外へと離れていく荷娜の小型船を見送りながら、栗色の髪に手を当てた。
「坊ちゃーん!! ここにいたネ!!」
奇妙なイントネーションの日本語を耳にしたリューティガーは、自分の孤独は長続きしないと思った。それでも彼は腐ることなく、でっぷりとした腹を揺らしながら走ってきた従者に凛とした意を向けた。
「陳さん。どうしたんです?」
「この間の分析結果が本部からきたネ。だけど坊ちゃんいないからもう相方に聞いたら、あの色魔と取引に行ったって言うネ。私、心配で心配で」
「色魔は言い過ぎですよ」
「けどあれは絶対坊ちゃんを狙ってるヨ。もう間違いないネ」
自信たっぷりにそう告げると、従者はレポート書類を差し出した。若き主はそれ受け取り、読みながらコンテナ群に向かって歩き始めた。
そのレポートには賢人同盟本部に依頼した、ある分析結果が記されていた。
自称真実の人こと、アルフリート真錠は先の学園祭に突如として来訪し、敵対する者たちを散々翻弄した。リューティガーは取り逃がしてからすぐ、兄の奇襲に伴ういくつかの疑念を追及するため、二人の従者にある調査を命じた。
陳には仁愛高校校舎内の物理調査を、もう一人の従者、青黒き肌をした巨人、健太郎には校舎外部からの化学分析をそれぞれ命じ、その日の深夜には大まかな報告がひとまずされた。
健太郎の外部からの化学調査によって、爆薬などの反応がないことが判明した。これによって、敵は事前に大がかりな破壊工作をしておらず、アルフリートの出現が作戦の全容であることが明らかとなった。
そして陳の校舎内調査の結果だが、これはナイフが五本発見された。全て同型の、高校生が所持するには大き過ぎる軍用ナイフであり、発見箇所もばらばらな上、全て天井裏や床下、トイレの便器の陰などあまりにも異常だったため、リューティガーはその全てに押収指示を出し、陳の手によって翌朝までにはひそかに回収された。
五本のナイフはアルフリートが校舎内でいつでも“取り寄せるため”予め隠蔽されていたに違いない。学校の屋上で対峙した彼は、どこからともなく自動拳銃を取り寄せたが、あれがナイフだった可能性もある。そうなると「次は屋上」との宣言は、拳銃を取り寄せやすい地点に誘導するためだったということだろう。児戯などと言っていたが、その裏腹に殺意はじゅうぶんな兄である。
ナイフを学校に置いた者の正体かわかれば、校内にいるFOTの内通者の特定につながり、任務を容易に遂行することができる。そう判断したリューティガーは、同盟本部へナイフの分析調査を依頼し、一ヵ月近くも経った現在にしてようやく手にしたこのレポートにその結果が記されていた。
「なるほど……」
陳が乗ってきた軽自動車の助手席に身体を滑り込ませながら、リューティガーは分析結果から導き出された結論を口にした。
「ナイフはやっぱり、外部からの持ち込みだったみたいですね」
主の言葉を耳にしながら、陳は軽自動車のエンジンをかけた。
「学校にあんな暗器があるわけ、もうないものネ! 間違いなくアレは殺しのプロが使う道具よ」
「全部のナイフに指紋の付着がないって結果ですから……もちろんそうですね」
「持ち込んだ内通者の手がかりは無いってこと? ちょっと困った結果ネ」
「いえ……どのナイフにも共通した、指紋以外の付着物を検出した分析結果が記されています」
レポートの束をめくりながら、リューティガーはこんなわずかな結果を報告するのに、同盟本部は一体何枚の紙と時間と人員を費やしたのだろうと思い、少々辟易とした。
「指紋以外の付着物?」
「ええ。ミノキシジルです」
ステアリングを握った陳は、耳慣れない固有名詞に鼻を鳴らせた。
「陳さんがご存知ないのも無理はありません……毒薬や調味料じゃありませんから……ミノキシジルには毛細血管の拡張効果と男性ホルモンの変換酵素阻害作用、毛母細胞を活性化させる働きがあります」
主の説明にますますわけがわからなくなった陳は、アクセルを踏み込みながら鯰髭を撫で、小さく唸った。
「要は……育毛剤の成分ですよ」
「い、育毛剤? なんでナイフに、もうそんなものが?」
「内通者は手袋をしてても、帽子は被り忘れたみたいですね……しかしそうなると……」
内通者の可能性として主に生徒をマークしようと思っていたリューティガーだが、その範囲や対象はむしろ教師や職員達に向ける必要がある。レポートをダッシュボードに入れながら彼はそう判断し、窓の外を流れる東京湾の夜景を見つめた。
都立仁愛高校は高台に位置し、正門前はバス通りになっている。左手に向かえば下り坂であり、右手に進むと国道へと合流する。その合流地点の角に小さな公園があるのだが、大型車両の排気ガスが直撃してしまうという立地条件から、ここを憩いの場として利用するものは少なく、散歩途中の老人が疲れを癒やすのに立ち寄るのがせいぜいであった。
蜷河理佳が、撮影した校内のデータを受け渡すのに利用したこの公園に、一人の男の姿があった。
グレーの作業着に長靴、猫背の体躯は公園へ清掃作業に来た業者のようであり、それだけに真夜中にいるはずのない姿でもある。頭髪も眉も共に薄く、顔色の悪い肌は薄ぼんやりとした蛍光灯に照らされ、ベンチに座る彼は眼前を通り過ぎるトラックを眺めながら、背後の便所に佇むある気配に意を向けた。
「ムヤミ……俺っち……決めたぜ」
作業着姿のつぶやきに便所の陰から気配がわずかばかりの反応を示した。
「な、なな……なにをです……源吾様……」
気配より、源吾、と呼ばれた作業着の男は、視線を正面に向けたまま膝の上で指を組んだ。
「真実の人は俺っちを学園祭に連れて行ってくれた」
「がががが……学園祭……」
「あぁ……若ぇ連中がはしゃいで、馬鹿やって、そりゃあ楽しそうな祭りだったよ。俺っちもついつい長居しちまってさ」
「がが……学園祭……」
トイレの陰から低く掠れ切った声でそう呻く気配が、やがて蛍光灯の下から姿を覗かせた。
全身が長い体毛で覆われた身長は軽く二メートルを超え筋肉も隆々であり、長い鼻面に白濁とした瞳、口元から見える牙と指から伸びる鋭利な物はまさしく“獣”のそれであり、二足によるバランスを完璧にコントロールする所作と、黒い革の着衣は“獣人”と呼ぶに相応しい姿だった。
「やるぜ……決めたぜ、俺っちは……だからお前を呼んだ……ムヤミ、手伝ってもらうぞ」
ベンチに座り、背を向けたままの源吾に対し、獣人は右腕を腹の前で折り曲げ、ボーイのように背を折り曲げた。そのポーズは一見粛々としたものだが、よく見ると全身を小刻みに震わせ、先端にあたる指先に至っては長い爪が接触するたびにがちゃがちゃと小うるさく、獣人の無理は明白である。
「も、もも……もちろんでございます。わ、わわ……私は源吾様の忠実なる下僕……ななな、な、何なりとお申し付けを」
ムヤミと呼ばれた獣人の言葉は、低く掠れているだけでは無く、吃っている上に人間からかけ離れた顔面構造のため篭もりきって聞き取りづらい。だが源吾という男は理解したのか何度も頷き、ベンチの背に肘を乗せると薄い眉を上下させた。
「ふふん……実はこれが一番確実だろう……学校ならあいつも迂闊に能力は使えねぇ……二人の従者だっていねぇし、切り札のサイキだってロクに戦えない腑抜けだ。なんせ劇で呆けて、蜷河理佳とブチューだ」
その言葉に、ムヤミの長い両耳がぴくんと反応した。
「に、ににに、蜷河理佳が……」
「ああ。なんかラブラブらしいけどよ。まぁ、あの女も俺っちたちの仕事は手出ししねぇだろう。なんせ真実の人のお墨付きなんだからよ。むしろ協力してくれてもいいはずだ」
「で、でで……でしたら……じ、じじじ……事前に話をつけておきますか?」
「いんや……それじゃ興が削がれるってもんだ。久しぶりに好きにやれるんだ。ここは楽しまねぇと、真実の人は児戯っておっしゃられてるんだしよ」
「じ、じじじ……児戯……ですか?」
ぶるぶるとした震えをより強くしながら、ムヤミは顎を引き背筋を伸ばした。
「楽しいことになりそうだよなぁ。解禁だぜ、解禁。ガキどもに真実の世界を見せてやる。なーんつってな!」
おどけて掌を合わせる源吾は、自分の芝居がかった台詞に思わず噴き出してしまった。
「し、しししし、真実の……世界……」
ムヤミは白濁とした瞳を潤ませ、突き出た口からは涎が零れ落ちた。それを横目で一瞥した源吾は、鼻を鳴らせて乾いた唇を一舐めし、ベンチの背へ体重を預けきると、星の見えない夜空をつまらなそうに見上げた。
4.
発声練習は、島守遼にとって好きな課題の一つである。よく通る声、という点においてはこの初心者に対して注文をつける部員もおらず、最初に認められた彼の長所でもあった。この日の放課後も学校の屋上で腰の後ろに手を回し「あ・え・い・う・え・お・あ・お」と、腹から声を出す遼の表情は活き活きとしたもので、一緒に発声練習をする部員の中でも彼の声は一際聞き取りやすく、一つ頭を抜けていた。
「はは……やっぱ、気持ちいいな。思いっきり声、出すの……」
遼は頭を掻きながら蜷河理佳にそう話しかけ、彼女は少しだけ冷たくなった風に黒髪を抑えながら、柔らかい笑顔を返した。
「遼くん、いい声してるものね」
「今まで、そんなに大声出す機会なんてなかったのになぁ」
発声練習の後は、乃口部長が用意した短いシチュエーションを練習するエチュードの予定になっている。誰がどの役をやるのかは部室に戻ってのお楽しみ、そう福岡先輩は悪戯っぽい笑みで言っていた。ふと興味を抱いた遼は、すぐ側で喉を鳴らしていたはるみに尋ねてみた。
「お前もエチュード参加するんだろ?」
「もちろん。部長と平田先輩以外は全員参加よ」
「次の芝居、いい役が来るといいよな」
「さぁ? わたしはなんか、事務能力ばっかりアテにされてるみたいだから、またメイド役とかじゃないの」
しれっとした態度のはるみに、遼は彼女らしくない澄ました険を感じた。しかしここで違和感を口にすれば、下手をすると言い合いにまで事態が育ってしまう可能性もある。そんな懸念を抱いた彼は、常に円滑な交流ができるもう一人の少女に再び声をかけようとした。
しかし、蜷河理佳の姿はそこにはなく、辺りを見渡しても見つけることは出来なかった。
「先、帰ったわよ。蜷河さんなら。部長に挨拶して行っちゃったもの」
遼にそう告げたのは1年A組の演劇部員、針越という女生徒だった。
「また早退?」
少々強い語調でそうつぶやいたのは二年生の福岡である。
「まぁ、彼女は上手いから。エチュード一回さぼっても平気でしょ」
「うちの男子とかさ、私に聞いてくるのよ。あの夫人役って誰だって。ウザいっつーのな」
「まーインパクトはあったしねー」
部員達は蜷河理佳に関する“言葉”を口々に吐き出した。そしてそのいずれもが決してプラスに向いたものではなかったため、遼は辛くなってしまった。
しかし、彼女も彼女だ。早退するにしても、もう少し周りに対する気遣いがあればこうはならないはずである。
部長に事情を話せば確かに筋は通るかも知れないが、そんな事務的な態度では“冷たく、自分勝手な女”と誤解されてしまっても仕方がない。遼は肩の力を落としながら、クラスメイトのフォローを一切しようとしない神崎はるみをちらりと見た。
「“また”って言われるほど、蜷河は早退多くないし、自分の演技が上手いなんて奢りもない。ましてや観客に色気を振りまくつもりもなければ、アドリブのアレだって受け狙いなんかじゃない」
聞き取れないほど早く、小さな声ではるみはそうつぶやいた
蜷河理佳のことは自分もよく知っている。だから言える。彼女はそうでない、と。しかしその考えを表明するつもりもなく、けれども胸に留めるには少しばかり億劫だと感じての、矛盾した結果だった。最後にはるみは深いため息をつき、吹いてきた風から顔を横に向けた。
突然与えられるシチュエーションを演じるなど、ましてや状況だけで台詞をアドリブでつないでいくスタイルなど遼は経験したことが無く、初めてのエチュードはその大半を周囲に笑われることで消化する結果となってしまった。
笑われながら、これはこれで蜷河理佳への風当たりが少しは弱まればいいと、そんな的外れな期待を抱くほど彼はヤケになった。ところが部活動の最後の締めくくりで平田先輩から「島守、お前、少しぐらい想像力働かせろよ。普段いやらしい妄想ばっかりしてるんだろ。どうせ」と忠告されてしまい、部員達はすぐに島守遼の“いやらしい妄想”の対象を誰であろうか特定し、爆笑が起きた。結果的に彼女の名誉を余計に傷つけてしまったため、下校のため校門に向かう足取りも重く疲れ切り、遼は深く落ち込んでいた。
視線をグラウンドの土に落としていた彼が、いい加減誰かにぶつかるのも情けないと思いそれを正面まで上げると、正門側で栗色の髪が風に揺らいでいた。
「真錠……」
数日前、今更自分の横に席替えを果たしたこのクラスメイトと、島守遼はできるだけ接触を避けていた。しかしこちらへ対して眼鏡越しに強い視線を向けてくる彼は、どう考えても部活の終了を待ち伏せていたのは明白であり、一瞬逃げ出そうと思った遼だが、相手の異なる力を考えるとそれも無理だろうと観念し、ゆっくりと近づいていった。
「なんだよ」
疲れもあったせいか、彼は少しだけ語気を荒らげて栗色の髪を見下ろした。
「話があります……そろそろ……僕も……」
真っ直ぐに見上げてくる紺色の瞳を見た瞬間、遼はこいつが本気であることを理解した。ならば適当にお茶を濁せないだろう。そう、宙ぶらりんにしてきたことが本来山積していたし、そろそろ何かの反応でもあるかと覚悟もしていた。だけどなにも思考力が落ち込んでいる、こんな日でなくてもいいのに。「日を変えて欲しい」と申し入れるのもいいが、引き延ばしたところで状況を不利な方向へ悪化させるような気もする。遼は数秒で考えをまとめ、「わかった……俺の家でどうだ?
親父も今日はアレ、行ってるし」と右の親指を捻る動作を見せ、せめて交渉場所だけでも有利にしておこうと手を打った。
「お父さんと一緒に行くこととかってあるんですか?」
アパートの玄関で靴を脱ぎながら、リューティガーはさっさと自分の部屋へ向かう遼の背中に尋ねた。
「まさか。親父に俺のことは何も話しちゃいない」
椅子に腰掛けた遼はリューティガーに床を促し、彼はその場で正座をした。
「一応、バイト行ってるしさ。明細なんて見せてないし、自分の口座は昔っから親父に覗かせたことないから、バレてもいないみたいだ。店だって時間帯が被らないように気を遣ってるんだぜ」
「そうですか……」
「で、なんだよ……何の話なんだ?」
「はい……一度は遼くんの……力を貸してもらうの……諦めていたんです……遼くんにやる気が無い以上、無理強いもできませんし……」
眼鏡を直しながらそうつぶやくリューティガーは、あくまでも恐縮した様子であり、しかしだからと言って遼は彼の申し入れを受ける気は無かった。
「なぁ……学園祭が終わったから、確かに少しはヒマになったけど、それでも俺はお前の仲間とかになるつもりはない。お前がもう一度俺に頼むのなら、悪いけどもう一度断らせてもらう。いやだ」
強い語調でそう告げた遼は、腕を組んで椅子の背に体重を預けた。
「奴らは……もうすぐそこまで手を伸ばしつつあるんです……僕と……君の力があれば、それを止めることができる」
「そんな切羽詰まった話なら、なんで今更言ってくるんだよ。あのさ、なんか怪しいんだよな。いきなり隣に席替えしてくるし……なんか……さ……」
“薄気味悪い”彼はそう言いたかったが、さすがに言葉が悪いと濁らせてしまった。
「力を貸してもらえるのなら……全てを話す……僕のことも……戦っている相手のことも……」
戦っている。そこまで明確な言葉を彼から聞いたのは初めてかもしれない。遼はやはりこの再接触は窮地故の方針修正であると判断し、そんな危険な状態に自分が巻き込まれてしまうのはどうしても避けたかった。
今は……理佳ちゃんがみんなと上手くやれるようにするのが先なんだ……お前たちの“戦い”なんか付き合えねぇっつーの……
遼は視線を机の上に置いていた人体解剖図鑑へと移した。
「蜷河さんが……」
栗色の髪の彼がぽつりと漏らした名前に、遼の気持ちが向いた。この解剖図鑑の持ち主は彼女であり、だがリューティガーはその事実を知らないはずである。偶然だとしてもあまり愉快ではない。そういった滑り込み方をして欲しくはないと彼は感じていた。
「例えば……蜷河さんに……危害が及ぶとして……それでも君は黙っていられるのか……関係ないって言い逃れ続けるのか」
敬語を交えないその言葉は、多分リューティガーの本音が表れた結果なのだろう。だとすればなんて卑劣な考えを胸に秘めているのだろうと、遼は椅子から立ち上がった。
「テメェ!! 理佳ちゃんになんかするつもりかよ!!」
可能性を口にし、それで彼の判断を軌道修正するつもりのリューティガーだったが、まったく逆の解釈をされてしまったことに驚き、戸惑い、その剣幕に口元を歪ませ、正座は崩れた。
「俺はな、お前が何をしているのか知らないし興味もない。だけど学園祭で、お前って結構いい奴だなって思ったんだぜ。そりゃ、間違いだったのかよ!?」
演劇部の部員たちから嫌われつつある彼女が、今度は脅迫の対象になってしまうなど、それではあまりにも可哀想過ぎる。珍しく感情を昂ぶらせていた遼は怒気を抑えることができず、リューティガーに詰め寄った。
「か、勘違いだ……」
しかし、ここで弁明をしても彼は冷静にはなってくれないだろう。いや、そもそも間違った解釈をしているのはあちらで、こちらが意を穏やかにさせる必要なんてありはしない。こいつはイカサマギャンブルにしか力を使わないような、彼女の名前が出てきただけで脊髄反射を起こすような、つまりはそんな奴だ。
ハッタリの一つでもかましてしまえと、リューティガーは粗野な思考を躊躇なく吐き出すことにした。
「けどね……そうさ……その手だって僕にはあるんだ……」
ゆっくりと立ち上がりながら、彼は詰襟のホックをはずし、眼鏡をかけ直して不敵に唇の両端を吊り上げた。
「わ、わかんねぇことを……血管……ブチ切るぞ……」
「できるわけないだろ……獣人の前で半べそかいてた君に……人を殺すことなんてできるはずない!!」
「半べそなんてかいてねぇ!!」
遼は突き出されていたリューティガーの胸を突き飛ばした。受け流しながら彼は体勢を整え、視線を外さないままキッチンまで下がった。
「また誘いにくる……」
「来るなよ!! マジでブチ切るぞ!!」
跳ね返ってくる怒気に顎を引きながら、リューティガーは靴を履き、扉を開け外に出るとそれを乱暴に閉ざした。
なぜこうも感情的なやり取りしかできないのだろう。学園祭のときは穏やかな関係が結べると思ったのに。
そもそも兄との戦いに手を貸してもらうのだから、平穏な交渉にはならないと覚悟はしていた。だが、これではただの口喧嘩でしかない。
肩を震わせながら鉄製の階段を駆け下り、夕暮れのアパートへ振り返ったリューティガーは地面を軽く蹴った。
あの島守遼という男は、自分の悪意を引き出す才能でもあるというのか。いや、そんなことはない。まだまだ未熟なだけだ。考え抜けば新しい糸口も見えてくるだろう。賢人同盟の若きエージェントはそう信じ、空間から姿を消した。
5.
源吾が都立仁愛高校周辺にその猫背を現すようになってから、数日が経過した。作業着姿の彼は、昼を学校から数百メートル離れたビジネスホテルで過ごし、日が沈む頃を過ぎると校舎周辺をうろつき、時には校門や塀を猫のような身軽な挙動で飛び越え、その敷地内へ侵入することもあった。
薄い頭髪に薄い眉という、豊かではない外見の中年である源吾は、鋭い目つきで校舎の中と外を観察し、時々胸ポケットから手帳を取り出すと、ボールペンで何かを書き込む仕草を見せていた。
この夜も校舎内から出てきた彼は、手帳の中身を確認すると満足げに唇の両端を吊り上げ、静かに頷いた。
「源吾じゃねぇかよ……」
バス停の陰から現れた人影に、作業着を着た侵入者は猫背を少しだけ伸ばし、険を込めた目で睨み返した。
「夢の長助か……」
源吾は手帳を胸ポケットにしまうと、つまらなそうに視線を夜空に泳がせ、顎の先を斜め下に素早く振り下ろした。
「真実の人から聞いたぜ。あんたとムヤミのチームが今回の暗殺計画の担当になったって」
藍田長助にそう尋ねられた源吾は、横目で彼を睨み続けたまま、だが言葉を返す様子ではなかった。
「なぜ学校近辺を調査する……奴の根城は代々木の茨製薬跡地だぜ。まだ越しちゃいないはずだ」
警戒を込め、決して近づきすぎることのない距離で立ち止まると、長助はポケットから煙草を取り出してそれに火をつけた。
「どう……しようと……俺っちの仕事だ……」
低く唸るような小さい声で、源吾は視線を逸らさぬままそうつぶやいた。
「そりゃあまぁ……確かにそうだけどさ……もし知らないんなら、耳に入れておこうと思ってね」
「余計なお世話だ……俺っちはターゲットの全てを調査済みだし、実行場所のチェックだってこうして入念にやっている……お前を頼りにすることなど……ない」
「実行場所……?」
煙草を咥えた長助は、源吾の背後にそびえる都立高校の校舎を見上げた。
「おいおい……あんたとムヤミが動くにしちゃ……人が多すぎやしねぇか……ここは?」
「はは……」
長助に対して初めて笑みを見せた源吾は、背後に頭を向け、肩を上下させた。
「真実の人はな、俺っちに児戯だと言っていた……ケレンをもって、そう、かつてのファクトのように強烈なる衝撃を持って計画を遂行せよ……そう理解している」
小声を聞き取るために、聴覚に意識を集中させていた長助は、源吾の言葉を一度だけ脳内で反芻し煙草を手に持つと、源吾との距離を一気に詰めた。
「お前……ま、まさか……」
「あぁ……ここのガキ共に真実の世界を見せてやろうと思ってな。奴らが従うべきは思想や金、権力や理想じゃなく、単純な暴力なんだってことを教えてやろうとな」
源吾の声は小さいだけではなく、もう既に震えつつあった。長助は眉を顰め煙草を地面に放ると、スーツの内ポケットに右手を突っ込み、左手で相手の肩を掴んだ。
「遅……」
振り返るのと同時に、源吾は懐から小型の自動拳銃を引き抜き、その銃口を長助の顎に突きつけた。
「げ、源吾……」
「近づきすぎだぜ……こりゃあもう、親子や恋人同士の距離だ……」
「そ、そう……だな……」
右の懐へ突っ込んだ手に握り隠していた拳銃の行使を諦めると、長助は両手を挙げ、天然パーマのもじゃもじゃ頭を揺らしながら、引きつった笑みを浮かべた。
「七年ぶり、久しぶりの大仕事だ。俺っちもムヤミも楽しませてもらう。今回の真実の人は度量だって抜群で、少々の脱線は大目に見てくれる人物だ。だから好きに児戯らせてもらう。俺っちはな、これが再開の合図だと捉えているんだよ。七年前のように、派手に遊べるあのお祭りのな……」
源吾の言葉はついに明瞭になっていたが、白目は充血し、口元からは涎が滴っていた。
児戯ってよ……てめえのストレスを解消したいだけじゃねーかよ。最低の野郎だな、こいつは。
そう思ったものの、銃口を向けられては言葉にもすることができず、長助は退くことで彼との距離を開けようとしていた。
校門を前に拳銃を構える作業着姿の中年男性。確かに、ここ数年では現実としてあまり見られなかった光景である。これであの、ヒラム型の獣人ムヤミが加われば、まさしく七年前のファクト騒乱の再来である。
けど、今がその時期なのか。リューティガー真錠暗殺計画が、そのきっかけでいいのだろうか。そんな疑問を胸に秘めたまま、長助は拳銃を構える者に背中を向け、夜の住宅街を駆け出した。
球とピンが衝突する度、ホールには甲高く揺れるリズムが鳴り響き、それと同時に人々の歓声やため息、笑い声やうめき声が低い天井のもとで飛び交っていた。
赤いボールの手触りを確かめながら、同じ色の髪を両サイドで結んでいた少女は、すっとレーンの前に立ち、小さく顎を引いて数メートル先の並んだ白いピンを見据えた。
その後ろでは硬いU字状の椅子に腰掛ける二人の姿があった。
一人は白いTシャツを着た褐色の肌をした少年で、リュックを背負ったままの姿は来たばかりなのか、これからもう帰ろうとしているのか判別がし辛く、しかしそんな見る者の違和感など気にすることなく、彼は少女の後姿を食い入るようにして見つめ続けていた。
もう一人の男は薄紫がかった白い長髪の持ち主であり、整いすぎた顔は妖しさすら漂っていて、性別の判断を困難にさせるほどであった。黒い上下は特に下半身の占める割合が高く、スラリとした足は太くなく、貧弱と逞しさの中間である肩とのバランスがとれていて、モデルのような理想的な体型である。
「ライフェ様……が、がんばってください……」
傍らに置いたジャケットの裾を握り締めながら、少年は褐色の肌に汗を浮かばせ、少女の第一投に注目していた。
「見ててよはばたきぃ……スットライク決めちゃうんだからぁ……」
そうつぶやいた赤毛の少女、ライフェ・カウンテットは、すっと身体の力を抜き、エプロンドレスの裾を揺らしながら優雅とも言っていい挙動で球を放った。
両サイドで結んだ髪はその両端が今にも地面に着きそうなほど長く、本来であれば球を投じる動作の際、レーンと接触するのが自然である。しかし重心を低くしたのと同時に彼女のそれは重力を逆らい天井方向へ反り返り、まるで髪自体が生きているかの如き“挙動”だった。
赤い球はレーンの中心からやや右寄りを突き進み、はばたきと呼ばれた褐色の肌をした少年は拳を握り締め、結果に集中していた。だが当のライフェは行く末を確認することなく、両目を閉じたまま二人の男たちへ振り返り、両手を擦り合わせるように叩いた。
「いったな……」
白い長髪の青年がそうつぶやくのと同時に、赤い球は中央へスライスし、十本のピンは見事その全てが倒れた。
「やった!! やりましたよ!!」
興奮しながらそう叫ぶはばたきに、少女はゆっくりと両目を開け、「当然でしょ。さぁ……あんたの一投目は……責任重大なんですからね」と脅すようにつぶやいた。
「ふぁ……しっかし、ライフェとはばたきのタッグに勝とうと思ったら……俺も本気を出さないといけないな」
青年は足を組みながら、すぐ前に佇む少年と少女に向かって首を傾げた。
「カラオケ勝負の雪辱戦なんですから……手は抜きませんよ、真実の人(トゥルーマン)」
少女に真実の人と呼ばれた青年は白い歯を見せ、両手の指を膝の上で組んだ。
「真実の人……お楽しみん最中に悪いな……」
青年のすぐ隣に、もじゃもじゃ頭を揺らしながら長助が乱暴な挙動で腰掛け、背もたれに肘を置いた。
「よう長助……手はずはどうなってる?」
隣に座った長助に、真実の人は凛とした意を向けた。育毛剤を再び使い始めたのだろうか、天然パーマからその薬品を嗅ぎ取った彼は、唇の左端を吊り上げた。
「あぁ……セッティングは順調に進んでる……来週には会談まで持ち込めそうだ」
「さすが……また夢を見させたのかよ?」
「かかり易いタイプなんで、もう楽勝」
苦い笑いを浮かべた長助は、煙草を咥えるとそれに火をつけ、あらためて真実の人を見つめ直した。
「で、お遊びの方だが……どうして源吾のチームにちゃんとした指示を出さないんだ……」
いつものおどけた様子とは異なり、長助は顎を引き、低い声で諌めるようでもあった。異変を敏感に察知したライフェは、はばたき少年を促し、こちらの様子を探ってくる者がいないかと周囲を警戒した。
「源吾のような奴がやることを、ルディはどう凌ぐのか……それが知りたくってね」
真実の人は右目を閉じ、傍らに置いた缶ビールを手にした。その少々緊張感に欠ける対応に、長助は自分のネクタイを掴み、大きく息を吸い込むと顎を上げ、ゆっくりそれを引き、青年を睨み付けた。
「あいつは学校をムヤミと襲撃するつもりだ……派手なことをやるってよ。すっかり正気じゃねぇ……」
低く小さい声で告げてきたパーマ頭に、しかし青年は気圧されることなく缶ビールに口をつけ、次の言葉を待った。
「何を考えてる真実の人。俺たちはこの六年、用意周到に事を進めてきただろ? あんたが代々木のマンションにストーンのチームを差し向けてから……お遊びって奴を始めてから、ちょっとした不安はあった。だけど今まではコントロールの範疇だから、俺もあえて口は出さなかった。だが今回ばかりは難しいぞ。源吾は前ファクトの生き残りだ。血の臭いだって恋しいし、二代目の毒気だって末端ながらに当てられている。はっきり言って杜撰でフォローのしようがない結果になりかねん」
言い切った後、長助は煙草を吸い込み、吸い殻をテーブル脇の灰皿に押し付けた。
「なら長助……そう思っているのなら、どうして俺のところに来る。意味はないぞ」
右目を開け、赤い瞳を揺らすことなく真っ直ぐに長助を見つめた真実の人は、やがて低いボーリング場の天井を仰いだ。視線を外された長助はポケットに両手を突っ込み、席から立ち上がった。
「ふん……そういうことか……久々だな、その種の博打は……いいだろう。なら俺は俺でやらせてもらう。いいんだな、真実の人」
「夢の長助を縛り付けるつもりはない。どう動こうと、それが有益と判断できるんなら、やりゃあいい」
ちらりと長助を一瞥した真実の人は、再び天井をぼんやりと見つめた。
二本目の煙草を取り出そうとした長助は、だがここに長居をしている場合ではないとそれを諦め、白い長髪の青年を見下ろし、彼の淀みの無い赤い瞳を確かめると、周囲を警戒し続ける少年と少女に眉を顰め、もじゃもじゃ頭を掻きながらボーリング場から駆け出していった。
6.
「今日は勝ったぞ……三万円。初めて三十分でよ」
買い物袋を両手に持ち、肘で玄関の扉を器用に開けながら、島守 貢(とうもり みつぐ)は満面の笑みを息子へ向けた。
自分と同様、父にも手を触れずに物体を動かす“異なる力”を持っている。入院した病院を抜け出し、その後をリューティガーと追った結果、島守遼は父の秘密を知り、能力の素晴らしい活用法を見せてくれたことに感謝したものの、それでも自分から、「俺もその力があるんだよ」とは告げることが出来なかった。
父が今まで自分に言ってくることなく秘密にしていることを、なにもわざわざ逆に告白する必要などない。二人で協力する必要がないのがパチンコというギャンブルであり、例えば、一体この能力とはなんなのだろう。と親子で悩むことになるのが明白である以上、深いことを考えず、ただ稼ぐためであれば今の状況が最も都合がいい。
案外、父もこちらの異なる力に気づかぬふりをしているだけかも知れない。これまでにテレビや時計が壊れた際も、彼は「お前が壊した」と言って代替品を購入することがなかったのがその証拠である。しかし、よもや同じ手口のイカサマパチンコをしているとは思っていない可能性もあり、ならばこのまま平然と毎日を過ごす方がずっと気が楽である。
高速に落下し、クルーン上を舞う銀玉を制御する異なる力は、相当の集中と精神力を消耗する。経験からそう知っていた遼は、稼ぎに行った父の疲労を予想して、既に夕飯を作り終えていた。
「なんでぇ。野菜炒めかよ。せっかく勝ったのによ」
出来上がりの載った皿を見下ろしながら、買い物袋を床に置いた父は、笑い混じりにそうぼやいた。
「贅沢は敵だろ? いつまた倒れるかわからないんだしさ」
「大丈夫だって、こないだはただの風邪みてぇなもんだし。まぁ、けど夕飯の支度ありがとうな」
流しで手を洗う父の背中をちらりと見た息子は、冷蔵庫から麦茶の入ったポットを取り出し、コップの準備を進めた。
「万が一入院してもさ。お前のバイト、稼ぎいいみたいだし。頼りにしてるぞ」
手を拭いた後、茶碗を戸棚から取り出した貢は、肘で自分より背の高い息子の背中を軽く小突いた。
「ま、まぁな……」
やはり、父にイカサマパチンコの事実は知られていない。ならば「バイト、支配人に気に入られて時給アップしまくりでさ」などと気の利いた嘘を咄嗟についても良かったのだが、隠し事をしている後ろめたさのため、遼は歪んだ笑みを浮かべたまま夕飯の支度をするのに精一杯だった。
「教習所の方はどうなんだよ」
息子の作った野菜炒めに箸を運びながら、貢はそう尋ねた。
「もうあとちょっとだな。年内には試験場に行けると思うよ」
「バイクはどうするんだ? バイト代で買うのか?」
「もちろん……ローンとか組むかも知れないからさ、そんときは保証人とか頼んだよ」
冬休みまでには免許を取り、バイクを購入してリアシートに彼女を乗せる。それが遼の目的であった。
本来であれば免許そのものは夏休み中に取得したかったのだが、演劇部や文化祭の準備に追われてそれどころではなく、気が付けばもう十一月である。軍資金稼ぎに、麻生への義理とカモフラージュで通っているアルバイトと、個人的な時間は彼にとって少なく、なんとかやりくりをしながら教習をこなしてきたのに自分でも驚くことすらあった。
忙しいのに、俺、こんなに忙しいのは……ないよな。これまで……
必然と目的さえあれば、自分は相当なハードスケジュールでもこなすことができる。夏休みからつい最近までの苛烈な状況は、彼に一定の自信を与えていた。
「バイクか……いいよなぁ……」
味噌汁を啜った貢は羨ましそうにそうつぶやくと、左手でアクセルを回す仕草をした。
「親父は免許ってないのかよ」
「車はあるけど、それだと原付までだろ? ほら、ハーレーとかって、イージーライダーに出てきた奴? あとバリ伝に出てきたCB750とかカタナとかさ、カッコイイよな」
父の例えに何一つ心当たりのない息子は、「わかんねぇ」と小さく返すと自分も味噌汁を啜った。
陳さんの作った回鍋肉は白いご飯に良く合う。そんな感想を抱き、舌を逸品で満足させながらも、だが少年の紺色の瞳に生気は薄く、箸を置き「ごちそう様」とつぶやく声もどこかくぐもっていた。
「坊ちゃん……どうしたネ」
皿を片付けながら、陳は細い目を心配そうに主へ向けた。
「こないだ……遼くんを誘ったんです……僕達の……仕事を手伝ってもらえないかって」
「ほう。ついにその気になったのかネ?」
「ええ、奴は仁愛にまで出没した……もうこちらから仕掛けなくっちゃ、被害が及ぶと思ったんだ……けど……彼は……」
ジャスミンティーの注がれたカップを両手で持ち、リューティガーは下唇を噛み締めた。
「信じられないよ……あんな……全然人の話を聞こうとしない奴だなんて……最初の頃はそれなりにうまくやれてたんだ……けど……バルチに跳ばせて……助けて……こっちに帰ってきて……アパートの前で会ったときから妙だったんだ……なんか、急に醒めてて……関わり合いたくないって……」
バルチでの救出作戦の後、マンションに帰ってきたリューティガーは疲労のためダウンし、その後島守遼に朝食を振る舞い、短いながらもコミュニケーションをとったのは陳である。食器を洗いながら彼は、デートに出かけるまでの島守遼はとても素直だったのに、その後アパートで捕捉した際には拒絶の意思がはっきりしていたことを思い出した。
素敵なデートだったのだろう。あるいは初めての経験だったのかも知れない。だから守りにも入るし、厄介ごとなど関わりたくない。
それはごく普通の、平和な世界に生きる人間の自然な心理の流れである。坊ちゃんもいずれそれを理解できるようになるはずだし、まずは気づいて欲しい。なぜなら、そんな普通さをも彼が理解し、許容し、やがて包み込むことができれば、そのときこそ敵対しているあの青年と並ぶことが出来るからだ。
優しくあれ。だが、自分はそれを導かない。見守るだけである。食器を洗い終えた陳が食卓を振り返ると、だがそこには主の姿はなく、椅子にかけられた上着とシャワーの音に、彼は鯰髭を撫でて鼻を鳴らせた。
「あの焦りは……わからんでもない……」
居間から姿を現したコート姿の巨人が、壁に寄りかかって腕を組んだ。
「本部からの次の指令は無いのか……」
珍しく言葉を続ける相方に陳は両手を腰に当て、鋭い目つきで見上げた。
「無い。一ヵ月以上音沙汰もうないネ」
「俺は……今回のような事態には詳しくないが……普通なのか?」
健太郎の素朴な問いに、陳は視線を逸らし、小さく歯軋りをした。
「任務の規模からすれば異常事態ね……我々の人数、与えられた資金、物資、情報……何もかも少な過ぎるネ……」
主の成長に期待しながらも、だが組織のやり方に対しては相当の不満を、この丸い体躯の従者は抱えていた。相方の珍しい怒気に健太郎は静かに顎を引き、だが言葉を返すようなことはしなかった。
「似合わないっつーか、逆に似合ってるっつーか……まぁ……こんなものですかねぇ……」
「あすなろ荘」という木の看板を手の甲で叩いた夢の長助は、煙草に火をつけ、外付けの階段をゆっくりと上った。
築二十年以上は経っているはずであろう、この二階建てのアパートは遼が住むそれとよく似た外観の、だがもう少々痛んだ安普請であり、しょぼくれた藍田長助の風体がよく似合っていた。二階の廊下は外に直接面していて、十一月の冷気が彼の頬を撫で、点滅する頭上の蛍光灯がむき出しである事実に口元を歪めた。
階段から一番離れた部屋の前で、長助は立ち止まった。プラスチックプレートには「蜷河」と書かれていて、彼は看板にそうしたように、手の甲で扉をノックした。
「ちょ、長助……何をしに……」
開かれた扉の隙間から見える、黒く長い髪と細い肩が長助の心を潤わせた。
「ん……いやな……その……」
もじゃもじゃ頭を掻いた彼は、煙草を吐き捨て、それを革靴で踏み潰した。無言のまま少女はその挙動を観察し、最後に頬を引きつらせると自分で作った扉の隙間を元に戻そうとノブに手をかけた。
「理佳……頼みがある……聞いてくれ……」
いつになく暗く重い語調だったため、蜷河理佳は扉を閉ざすのを止め、男に睨み返した。
「なに……」
「理佳……狙撃の腕は……落ちていないだろうな……」
その言葉に少女は口を小さく開け、耳にかかった髪をかき上げ、やがてゆっくりと頷いた。
7.
十一月九日の朝は昨日とまったく変化がなく、秋晴れの中、仁愛高校の正門付近には学生服姿の少年少女たちで溢れかえっていた。
「うぉ!! 茂!! 茂、茂、茂ちゃあーん!!」
奇妙なリズムでそう叫んだのは、黒いジャージ姿の体育教師、新島 貴(にいじま たかし)である。愛情溢れる猫なで声の対象は、詰襟姿の小太りな生徒、関根茂であり、彼は困ったように眉を顰めると、校舎より駈けて来た青年教師から目を逸らせた。
「おはよう関根茂ちゃん!!」
「お、おはようございます……新島先生……」
正門でついに捕まってしまった関根は、仕方なさそうに首を傾げた。
「なぁ茂……こないだの仁愛ラーメンさぁ……また作ってくんないかなぁ……もちろん金は払うしさぁ……俺、忘れらんなくってよぉ」
全身をくねらせながらおどけるジャージ姿に対して、関根はため息を漏らし、首を横に振った。
「あ、あれは学園祭用ので……い、一杯だけ作るのは……無理ですよ……」
学園祭を通じて好評であり、その功績で最近ではクラスメイトたちとの人間関係も上向きにさせてくれた、恩のある仁愛ラーメンではあったが、本来の味である屋台、兆龍の逸品からは随分遠ざかってしまったのも事実である。苦労をして寄り道を続ける気は彼にはなく、昨日もクラスメイトである沢田の同様の頼みを断った経緯もあり、新島のふざけた声を聞いた瞬間からその要求は予想できていた。
「えぇーん? 嘘、嘘、嘘ぉ!! なら学食のメニューに加えようよ。絶対大ヒットするって」
「は、はぁ……」
この教師は気持ちの悪い仕草を交えながら何を言っているのだろうか、あのような単価がかかるラーメンを学食で採用するのは不可能であり、材料費や手間賃を落としたら同じ味は再現できない。いや、こいつはそもそもそんな細かい事情を理解しちゃいない。あの一杯を高く評価してくれるのは嬉しいが、どうにも無知だ。
関根茂は口の端を吊り上げ、「む、無理……無理ですからぁ……」と声を裏返しにして、下駄箱まで駆け出してしまった。
単に味を再現したいだけなら当時の調理班からレシピを聞き出せばよい、調達班でもかまわないはずである。それなのに沢田も新島もこちらに頼んでくるということは、つまりは筋を通すというか、義理堅いということなのだろう。関根茂はその点については嬉しく、靴を履き替えながら笑顔だった。
「電話あったって近持先生が言ってたわよ。今日蜷河さん午後からだって」
座席についた島守遼は、左後ろに座る合川という女生徒からそう告げられ、「え」と漏らした。
「病気かしら? ねぇどうなんでしょ?」
興味深そうに尋ねてくる合川に対して、遼は「知らないよ」とぶっきら棒に応えると、隣の座席についた栗色の髪をしたクラスメイトを一瞥した。
「おはよう……遼くん」
「ああ……おはよう……」
言い合いにはなってしまったが、気まずい人間関係を周囲に悟られることは、すなわちその原因を追及されてしまうことになる。二人の能力者は示し合わせることなく、そんな必然からか表面上は波風を立てずに当たり前のクラスメイトという間柄を保っていた。
「なぁ島守さ、次はどんな劇、やるんだよ」
正面に座る坊主頭の沢田が振り返りながらそう尋ねてきた。
「まだ決まってないよ。やるにしても四月とかって部長は言ってたから……どうなんだろうね?」
「今度は主役か?」
「だから決まってねぇっつーの」
興味本位の沢田に対して、乱暴な口調の遼ではあったが、内心、次の芝居がどのような物語になるのか気にはなっていた。四月の上演ということは、三年生である部長たちは出演できなくなる。新入生も見込めない以上、前回よりは規模が小さい舞台になるのだろうと、そんな凡庸な想像しかできない彼は、次の部長は誰がやるのだろう、平田先輩か……あるいは福岡先輩か……などと連想し、落ち着き無く膝を揺らせた。
理佳ちゃん……体調、悪いのかな……
入学してから彼女は七回ほど遅刻をし、五回ほど早退をしている。その回数はトップではないが少ない方ではなく、彼女の儚げであまり健康的ではない印象をより際立たせていた。また、口数も少なく大人しい性格のため話し相手も少なく、そうした原因を知る者も皆無である。
一時間目の現代国語の授業が終わり、教科書とノートを机の中にしまった遼は、自分の学力が若干落ちていることを痛感した。先日の中間試験の結果も芳しくなく、中学時代のガリ勉という貯金もいよいよをもって使い果たそうとしている事実を突きつけられ、彼は過密スケジュールの中に勉強という時間を差し挟む必要を意識した。
であれば、例えば蜷河理佳とその時間を共有するというのはどうだろう。
プライベートの付き合いがあまりにも少なく、携帯でのやりとりもないのは付き合っている同世代のカップルからすれば少々疎遠であり、しかしどこかそういった軽い付き合い方を拒絶しているような、そんな固さが彼女には感じられた。けれども一緒の勉強ならば、これは口実としてはとても有効なのではないだろうか。互いの学力は、こちらより向こうが理系に若干強く、文系においてはその逆という小さな違いこそあれほとんど同じだから実際のやりとりもスムーズだろう。我ながらいい発想であると、遼は口元をニヤつかせて提案するタイミングを考えていた。
体育教師、新島貴は下駄箱にやってくると生徒達の靴を凝視していた。今日は四時間目まで体育の授業が無く、担任を持っていない彼は、暇つぶしにこうして校内をぶらつくことが度々あった。
最近の高校生はいいスニーカーを履いている。下駄箱の中身を観察しながら、新島は無精髭だらけの顎に手を当てた。
ふと、彼は目の端に見慣れぬ人影を認め、そちらに注意を向けた。
「あ? 誰ですか? 職員の……?」
小柄な猫背にグレーの作業服を着込んだその中年男性は、一見すると清掃作業員の用でもあり、高校という場と無縁な印象を新島は受けなかった。しかし部外者であればその排除は教員の職務である。彼は肩をわざとらしくいからせ、入り口に佇む男へ歩いて行った。
「だから誰よ? あんた?」
言葉と目に険を込め、新島は猫背の男を見下ろした。すると、男は右手を背後に回した。
なにを取り出そうとしているのか、名刺だろうか。それにしてもどうして無言なのだろう。体育教師が首を傾げていると、男の右手はゆっくりと前へ回り、そこには長く鋭利な刃物が握り締められていた。
カッターナイフやバタフライナイフ、ジャックナイフの類ではない、もっと鉈のように長く、歯の一部が深い鋸状にぎざぎざになっている、いわゆる軍用ナイフの類である。新島は男の貧相な容姿とはあまりにもギャップのあるその所持品に戸惑い、全身を強張らせた。
「るせぇんだよ……」
小さなつぶやきと同時に、男はナイフを右斜め上に振り上げ、新島の首筋目掛けて一閃した。
軽……あれ……え? あ? はい?
急激に視界が右に流れ、だが足の裏には接地感が残ったままであり、これまでに経験したことない奇異なる感覚に、新島は全ての終焉を悟った。
職員室……いりゃあよかった……
そんな後悔が新島貴最後の意識であり、頭部を切断された彼の胴体は鮮血を噴き出しながら下駄箱の冷たい床に倒れ、ナイフを振り下ろした男は返り血を浴びることなく歩を進めていた。
男に続いて下駄箱に黒い革のジャケットを着た巨体がやってきた。全身を覆う体毛、突き出た鼻と口、白濁とした目は人のそれではない。
「ムヤミ……片付けとけ……手早くな。俺は先に教室へ行く」
背中を向けたまま男はそう指示を出し、ナイフを腰の後ろに付けたホルダーに収納した。
「い、いいいい……いた……いただきます……」
口元から粘度の高い涎を滴らせながらムヤミと呼ばれた獣人が、目を開けたまま転がっている、無精髭だらけの塊を拾い上げ、それに被りついた。
骨が砕け、鮮血が散り、肉が噛み合わされ、そのいずれもが下駄箱で聴ける音ではなかった。
それほど大柄ではない新島貴が獣の胃袋へ収納されるのに十分と時間はかからず、彼の黒いジャージとスリッパ、下着にTシャツだけが、赤い血溜まりに塗れていた。
近持先生の授業はいつだって賑やかである。しかし、それは歓迎される類のものではない。リューティガー真錠は初老の教師へ注意を向けず、友達同士で言葉を交わしたり携帯電話でメールを打ち続けたりするクラスメイトたちを眺めながら、なぜ彼らは学園祭のときのような団結力を授業で持てないのだろうと疑問を抱き、次の瞬間、あぁ、ある意味団結して騒いでいるのかとぼんやり連想した。
教室前の扉が勢い良くスライドした。まだ二時間目の最中であり、蜷河理佳が来たにしては早すぎる、よしんばそうだとしても、彼女なら後ろの扉から静かに入ってくるのが常である。
一体誰が何で。島守遼は頬杖をつくのを止め、闖入者に注意を向けた。
「誰です……一体……」
作業着姿の猫背の男に、近持はそう声をかけた。だが男は無視したまま教壇に登ると、既にポジションを占有していた担任教師を両手で押しどけた。
「な、なな……なんですか……」
異常事態によろめいた近持は、最前列である田埜綾香(たの あやか)の机に手をつき、自分の居場所を奪った男に強い意を向けた。
「お前はいらないっつーの」
教壇から降りた男は、両手で近持を押し、彼を自分が入ってきた開いたままの扉まで突き飛ばした。
奇怪なる状況に生徒達は、だが男の風体があまりにも日常的な労務者風だったため、それほどの緊張は無く、むしろ何が起こったのだろうと、何が起こるのだろうと期待の度合いがより強かった。
再び教壇に戻った男に対し、近持は「なんだね!!」と彼にしては珍しく声を荒らげた。
「るせぇ……どいつもこいつも……」
小さく男はつぶやき、右腰のホルスターから黒い塊を引き抜くと、乾いた銃声が教室内に鳴り響いた。
近持の小さく痩せた体躯が開いたままの扉から廊下へと消え、緊急事態に和家屋という女生徒が悲鳴を上げた。
叫びは、生徒達の理性と本能の割合を変化させるきっかけとなった。
ピストル型の小型機関銃を持った男が佇む教壇から最も離れている、教室の後ろ扉に近い戸田義隆が、強張った表情のまま脱出を図った。
しかし開いた扉の先には廊下の光景は見えず、代わりに獣の体臭が戸田の嗅覚を刺激した。
「だ、だだだ、だめだ……誰も出ちゃだめ……」
聞き取れないほど掠れて潰れた声は、クラスの中でも長身である戸田の頭上より、もっと高い位置から響いていた。
対峙した巨体はこれまでに見たことがないほど隆々と逞しく、獣人と形容してよい毛と面構えに教室のあちこちから悲鳴が上がり、戸田はうめき声を上げつつ理解し難い異形に恐怖し、自分の席へと戻った。
「るさいんだよ!!」
教壇の男は叫び声を上げ、天井に向かって機関銃を乱射した。
硝煙と破片が教室じゅうに散り、嗚咽を漏らしながらも生徒たちは彼へ注目し、後ろ扉から入ってきた獣人に緊張し続けていた。
「おとなしくよい子なら、危害は加えねぇ……静かにしろ……」
男の言葉は低く、だが明瞭だった。
「これから授業を始める……真実の授業だ……時間は……そうだな……長くても三十分ってところだろう。それまでに警察が来るだろうしな……」
不敵な笑みを浮かべてつぶやく言葉に、だが島守遼の注意は向けられていなかった。
なんだよ、あいつ……真錠のマンションに来た奴とそっくりじゃん……
後ろの出口付近で威圧を続ける獣人を横目で捉えながら、その口元にべったりとした赤を認め、遼の両膝は小刻みに震え始めた。
8.
嗚咽が、教室のあちこちから漏れていた。それは恐怖の表れであり、本来であればもっと大きな表現で正気を保つための発露があってよいはずである。しかし教壇に立つ男の機関銃と、後ろで佇む巨体の人外の威圧に、生徒たちの感情は制御されていた。
だがこのような制圧状態は決して長続きはしない。いつか感情の留め金が外れる。そのきっかけは大抵が暴力によって引き起こされ、叫び声と銃声、そして獣人の咆哮が日常の一切を破壊してしまうだろう。リューティガーはあらゆる全てに注意と緊張を維持しながら、教壇の男がなぜこちらに目を向けてこないかが不思議だった。
彼が誰であるかはわからないが、獣人と一緒ということは兄の一味であることは明白である。それがここにいる目的とは、すなわち自分の殺害以外は考えられない。なのに、その第一目的の達成と彼らのこの行動を結びつけることがリューティガーにはまったくできなかった。
「ムヤミ先生!! それでは授業をお願いします」
教壇を降りて歩きながら男はそうつぶやいた。
「げ、げげげ……源吾様……よろしいの、で、ででで、ですか?」
獣人ムヤミは戸惑いながらもそう返し、源吾と呼ばれた男は「約束だからな」と明るく言い放った。
源吾は、教壇からリューティガーのすぐ側までやってくると、彼の手の動きに注意しながら歩みを緩めた。
「はじめまして……」
視線を向け、唇の右端を吊り上げた源吾を見上げ、リューティガーは確信した。偶然ではない、やはり自分が目的でこいつらは襲撃してきた、と。
源吾とムヤミはその立ち位置を入れ替えた。教壇に立つ獣人は天井に着きそうな巨体を屈め、長い爪の扱いに苦戦しながらもチョークを摘んだ。事情を知り、経験のある二人の男子を除いた生徒たちの大半が、正面にやってきた毛だらけの異形に目を見張り、異常事態が理解の範囲を超えようとしている事実に気づき、これからどうなるかなど予想もできなかった。
教室の後方へと移動し終えた源吾は、棚に寄りかかって機関銃を構えた。
「メールとか写真、撮ったりするんじゃねぇぞ……そんときゃ撃つからな……あの眼鏡みてぇに」
眼鏡と言われたのは近持先生のことだろう。銃弾を浴びた先生は教室にはおらず、廊下で倒れているはずである。そこに対して最も近くの座席にいた、関根が小さな目で扉が開いたままの廊下へ注意を向けた。
しかし僅かに見える外に担任教師の姿は見えず、だがもっと身を乗り出せば二人組の暴力に曝されることだろう。そんなことはできないと、彼は黒板に視線を戻した。
最前列で最も窓側に座る、椿梢は激しくなる動悸に顔を歪ませ、それでも窓の外へ注意を向けた。だがパトカーがやってくる様子はなく、その代わりに硝子は廊下で倒れている近持教諭を反射によって映していた。
このまま、この緊張が続けば自分はもたないだろう。けど近持先生はもっと重大な局面に立たされている。もし銃撃で死んでいないのなら、早く手当てをしないと取り返しの付かないことになる。黒板に文字を書く獣人などまったく意に介せず、椿梢はぼんやりと反射した担任教師のぐったりとした身体を、心配そうに見つめていた。
すると、ずるずると近持の身体がゆっくりとスライドし、それがやがて反射の中から消えた。
この異常事態を誰かが遂に察知し、救援にやってきてくれたのだろう。ひきずられるように視界から消えたこの事態を少女はそう理解し、同時に教室前部の廊下側に座席がある横田良平も視線の端で、廊下から手を振る1年A組の担任、小口雅子(こぐち
まさこ)の姿を認識した。
困っている。そう、異常事態に周囲はただ困っている。小口の引きつった表情を、横田少年はそう理解した。
銃声がし、悲鳴が聞こえ、何事かと来てみれば廊下に近持先生が倒れていて、覗いてみれば獣人間が教壇に立っている。おまけに教室後方には機関銃を持った労務者が佇んでいる。だから、困っている。警察には通報しただろうが、警察も困るだろう。けど、一番難儀しているのは俺たちである。こちらが最も困っている。だって、さっきからトイレに行きたくて仕方が無い。だけど行けないだろう、要求だってできやしない。あのオッサン、なんだかブチ切れてるし、間違いなく撃ち殺される。
便意を堪えながら、横田はもし無事に事を終えたら、ネットに今日の出来事を書き込んでやろうと、そんなことを考えることで平常心を保とうとしていた。
黒板には、かろうじて判別できるほどひどくうねり、這ったような字で「どれいけいやくろん」と書かれていた。
振り返ったムヤミは教室を見渡した。
「こ、ここここ、これからFOTが新たにする社会では、こ、ここここ、この奴隷契約論が適用される予定である。きょきょ……」
吃りの上、長い鼻面は獣人の声を判別不可能なほど掠れさせ、彼が何を喋っているのか理解できる生徒は皆無だった。
「ムヤミ先生! しっかりやってちょ!」
教室の後方でそう野次る源吾に対して、ムヤミは何度も頭を下げた。
服装といい、まるで動物園の飼育員みたいだな。男に対して一番近くに座る麻生巽(あそう
たつみ)は、手鏡に映る彼の姿を観察しながらそんな感想を抱いた。
「きょうは……み、みみみみ、みんなに奴隷契約論を教えてあげる。ま、ままま、まずもって、この論理は、全ての仕事、作業、任務は、ふ、ふふふふ、二人がセットになることで成される……そ、そそそそ、それは主と従者の関係に別れるのであり、こ、こここ、この関係は主従において絶対的である」
「よく聞いとけよー! 俺っちとこいつも奴隷契約論の実践者だ。このテーマはこれからの新しい社会で適用されっから、特別な予習なんだぞー!」
ふざけた口調でそうフォローを叫ぶ源吾に対して、鈴木歩はよくあの掠れ声を聞き取れていると思った。早くこの異常事態が終わってくれないかと彼女は祈り、背中にびっしょりと汗を掻き緊張し続けていた。
眼前のこいつは、昔テレビなどで取り扱われていた、いわゆる「ファクトの獣人」なのではないかと、教壇近くの野元一樹は見上げながらきつい体臭に眉を顰めていた。
七年前、獣人が都内を中心に出没し、警官や民間人がそれに食われるという猟奇事件が多発した。その全てがテログループであるファクトの仕業であり、しかし彼らのアジトで大量の獣人マスクが発見され、つまりは着ぐるみによる殺害事件であると一般には言われていて、彼自信もそうだと思っていた。
だけどこいつ……マジ獣臭ぇ……うちのヨン様よりきっちー……
自宅で母が飼っているマルチーズよりずっと臭い獣臭に、野元少年は獣人の実在を確信し、正気を保とうと膝を叩いた。
やだ。なによ、これ。最悪。なんでこんなに近くによ……
獣人のほぼ正面に座る生徒、田埜綾香は口元を手で押さえて、普段他人には見せない乱暴な思いに苛ついていた。自分も左隣で気を失って机に伏している小林哲夫のように、気が弱ければよかったのにと思いながらも、自分の肝が案外据わっている事実には気づかずにいた。
あぁ。なんなんだよ、これ。どうなるんだよ……
着ぐるみなどではない。本物だ。沢田喜三郎は獣人の開いた口の中を見てそう断定した。だが、本物だとしてもこんな姿の人間などいるはずがなく、獣だとすれば一体何の種類なのか想像もつかない。毛深さは熊のようでもあり、鼻面は獅子や虎のようでもあり、白濁とした瞳は初めて見るものである。この地上の生物なのか。もしこいつが「ファクトの獣人」ならば、皆はこの後食べられるのだろうか。
獣人の口元が赤く彩られていたことをあらためて確認した沢田は、食べられる。という都会では経験しようもない事態を想像し、両肩をがくがくと震わせた。
ママが……言ってたのって……そうか……だよね……
島守遼の後ろに座る神崎はるみは、獣人から目を逸らさず、真っ直ぐな視線を維持したまま、ぼんやりと考え事をしていた。
あれから……まりか姉が変わったんだ……家出の原因って……そうかと思ってたんだ……わたし……そうだよ……まりか姉は、あんなのが襲ってきた日から、変わったんだ……
混乱したまま少女は、両の拳を握り締めた。
ママが……毛むくじゃらで人間には見えないって……きっとこいつみたいな奴だったんだ……じゃあ……なんなの……こいつがいるのって……わたしに関係あるの?
けど……ママは後で言ってた……銃を持ってるのに驚いて、結局着ぐるみだったんだろうって……違うよ……あれは本物……後で訂正したんだ……考えてもしょうがないから……きっと……
自分とあの毛むくじゃらの化け物の間には、黒く広い背中が広がっている。遼はあいつをどう思っているのか。はるみがそんなことを思い注意を向けると、彼の左手は隣のリューティガー真錠と握られていた。
うわ……なによ、こいつら……どういうのよ……
よく観察すると手を握っているのは一方的ではなく互いであり、この状況であり得た光景ではないと、神崎はるみは顔を顰めた。
遼くん……こいつらは、僕が戦っている組織の構成員だ……
そんな言語情報が、握られた手から遼の意識に飛び込んできた。
あぁ……だろうな……なに考えてんだ……こいつら……
児戯の一環でしょう……
児戯?
いえ……まぁ、いいです……遼くん……出来ますか……
なにをだよ。
奴の……血管です……切れますか?
リューティガーの提案に、遼は下唇を突き出した。
お前が跳ばしちまった方が早いだろ!?
駄目です……それでは力が皆に知られてしまう……それに、敵は前と後ろにいるんです、僕は触れなければ力が使えない……どちらかに接近しているうちに、ひどいことになる……
な、なるほど……ならよ……こうして手を握ってるのだって、見つかったらやべぇだろ……
ええ……ですから……すぐ離します……まずは獣人からやってください……
“やってください”とは、すなわち教壇のムヤミという獣人の血管を異なる力で切断し、その生命を奪うということである。あっさりとなんとういう仕事を指示してくるのか。遼は視線を正面向けたまま、表情を決して崩さない栗色の髪をした少年に、はじめて恐怖を覚えた。
無理……あいつは人間じゃねぇ……構造が違う……それに後ろのオッサンだってもっと無理だ……振り返って血管の位置を確認なんてしてたら……すぐにマシンガン、ぶっ放すだろ?
わかりました……なら僕が獣人を透視します……そのヴィジョンをもとに、静動脈をやってください……
その手があったと感心するのと同時に、殺害という思いも寄らない事態に遼は戸惑い、思わず左手を離し、胸元に素早くそれを動かした。
リューティガーは遼の突然の行動に彼を横目で睨みつけ、奥歯を噛み締めた。
卑怯者……!! まったくわかっちゃいない……奴らは……平気なんだぞ……
「は、ははは、はい……で、でででは……例をあげて説明する。え、え、ええっと……」
チョークを教壇に置いたムヤミは、長い爪をガチャリと鳴らし、最前列に座る比留間圭治を指差した。
「お前……こっち来なさい……」
短い言葉だったため、生徒たちはムヤミの言っている意味を初めて理解できた。よりによってなんで自分のときだけそうなのだろうと比留間は唸り声を上げ、だが恐怖に震え、立ち上がることはできなかった。
「こらぁ!! 先生の言うこときかねぇとぶっ放すぞ! それとも食われてぇか!!」
源吾の叫びに比留間は思わず立ち上がり「うわぁぁぁぁ!!」と悲鳴を上げた。
「来なさい……」
爪で招く獣人に何度も頷きながら、比留間は不規則な震えに手足の制御が効かず、何度もよろめき、最前列の机をたよりにしながらやっとのことで異形の側までたどり着き、その場にへたり込んでしまった。
「もう一人は……」
爪を泳がせたのち、ムヤミはもう一人の生徒、杉本香奈に向かって「来なさい」とつぶやいた。
「いやぁ……いやだよぉ……!!」
頭を何度も振りながら、杉本はムヤミの指名を拒絶した。源吾の脅しは彼女も聞いていたが、それよりも至近の過酷さを拒絶する本能がずっと強く、彼女は涙を流しながら、今日から始めたポニーテールを振り乱した。
「来なさい!!」
咆哮にも似た唸り声を上げ、ムヤミが机を叩いた。それと同時に木製のそれは粉砕され、杉本の隣に座っていた横田は「い、行けよ」と彼女を促した。
「香奈!!」
教室後方に座る鈴木歩が、泣きじゃくる級友に声をかけた。すると、クラス委員の音原太一もそれに続いて「杉本さん!!」と叫んだ。
「なんでよぉ……なんで私がぁ……いやだよぉ!!」
机にしがみつき、杉本はぐしゃぐしゃになった顔を更に顰めた。
彼女があのまま拒絶を続ければ、最悪の事態になってしまう。そう判断したクラス委員は、震えながら手を挙げた。
「ぼ、ぼ、僕が代わりだ……い、いいですか……先生」
痘痕面を歪ませながら、音原は搾り出すようにそう告げた。
「き、ききき、来なさい……」
獣人はクラス委員の申し出を受け入れ、生徒たちは普段あまり信頼していなかった彼の勇気に、大半が羨望の眼差しを向け、杉本は「ごめん!
音原ぁ!!」と半ば怒ったような叫び声をあげた。
音原太一が教壇にたどり着くのに、比留間ほどの時間はかからなかった。彼は震え続けるその傍らに腰を下ろし「比留間……しっかりな……」と声をかけた。
音原太一は文化祭を経て、わずかではあるが責任者や代表という存在が何をするべきであるかを理解しつつある。そして今日、この行動によりそれは周知となり、今後はより強い意識を持つことだろう。リューティガーは彼の行動に敬意を払いながらも、あの無力な男子生徒でさえ勇気を持って自分の立場を順守しようとしているのに、簡単にこの窮地を逆転できる力を持っているのにも拘わらず、右隣で緊張している隣のこいつは、なぜ英雄としての行動を拒絶するのかと憤っていた。
音原……やるじゃん……待ってろよ……いざとなりゃ俺が……
事態の推移を見守りながら、遼はぎりぎりまで、たとえ獣人とは言え責任を負えぬ殺害などしたくはなかった。それに、左隣に座る栗毛のあっさりとした要求も気に入らなかった。
こいつ何様だよ、どんな世界で生きてきたかは知らないけど、当然のようにしれっとしやがって。
思い通りにはなりたくないという意地が、彼を頑なにしていた。
獣人による奇妙な授業が続けられる1年B組の様子を、じっと窺う者がいた。
仁愛高校から南側、正門から車道を挟んだ対面は総合病院が建ち、四階建ての屋上、給水タンクの陰に二つの姿があった。
「理佳……いけるか……」
天然パーマのもじゃしもじゃ頭を風に揺らしながら、夢の長助がタンク越しに黒く長い物を構える少女に声をかけた。
少女の長髪は、だが今日に限っては帽子の中にまとめられ、スコープを覗き込む横顔は端正ではありながらどこか物憂げでもあった。
「風向き次第ね……けど……やってみる……やらないと……皆が……」
その返事に頷くと、男は胸ポケットから煙草を取り出そうとして、それを諦めた。
「悪いな、真実の人(トゥルーマン)……児戯にもほどってもんがある……これは裏切りじゃねぇ……お前のミスリードを正すのも俺の仕事だ……そう真実の人、あんたが俺へ恒久的に依頼してくれた最大の仕事さ……だからモデルガンだって置いておくし、兄弟喧嘩はもっと穏やかにやんなきゃならねぇ……」
少女にあえて聞かせるように、長助は言葉に出してつぶやいた。
帽子の背が低いため、ボリュームのある髪が飛び出してしまう可能性だってある。だけど蜷河理佳は、今日はこれを被っていたかった。
遼くんのプレゼントだもの……きっと……力をくれる……わたしに……
黒く、長いライフルの銃口は仁愛の校舎へ向いていて、スコープの中には、手を叩いて笑い続ける猫背の労務者が映っていた。
9.
「め、めめめ、眼鏡が主でもう一人が従者だ……」
獣人ムヤミの声はこの程度の長さになると、掠れと淀みで聞き取ることはもう不可能になる。ただでさえ暴力による威圧で平常心を失っている比留間と音原にとって、いくら集中しようにも理解することはできず、仕方なく彼らは教室最後方で機関銃を構える猫背の源吾に視線を向けた。
だが、源吾は彼らの意を汲み取ることなく、栗色の髪をした男子生徒の後姿を注視し続けていた。
仕掛けないのだな。冷静で、機会を窺う肝の据わりようはさすが同盟のエージェントだ。男は存在感を完全に周囲と同化させている彼に感心し、この児戯が白ければすぐに本来の目的を果たしてしまおうと銃口を定めた。
「従者は主の命令には絶対服従である。い、いいいいい、一見古風と思えるこの関係が、じ、じじじじ、実は一番新しい。い、いいいや、この時代に適する合理性をもっている」
奴隷契約論を説く獣人の白濁とした瞳は潤みだし、両手を広げるその姿は宣教師か独裁者のようでもあった。その傍らで震え続ける比留間と音原は、だがムヤミの言葉を判別することができず、ただ震え続けることしかできなかった。
「め、めめめめ、命令してみろ……お前がこいつに」
振り返ったムヤミはそう指示したものの、二人は首を振りながら怯えるばかりである。
「命令だ!! めめめめ、命令だ!!」
涎を撒き散らしながらの咆哮は黒板を振動させたため、音原たちの怯えに拍車をかけ、遂には両肩を互いに抱き合い歯を鳴らす結果となった。
「だ、だめだめだめだ!! お前では話にならない、も、ももも、戻れ!!」
爪を振りながらの指示は、ゼスチャーも手伝ってか最後の語句だけが二人に伝わった。
戻れというのなら、その命令なら最大限の努力をもって達成することが出来る。二人は立ち上がると膝をがくがくと震わせながら、それぞれの座席へと戻っていった。
「お、おおお、男なのに情けない!! な、ななな、なら次は女にする!!」
ムヤミは教壇からの景色を再確認し、一人の女生徒を指した。
「き、きききき、来なさい!!」
指名を受けた権藤早紀は、ゆっくりと立ち上がると髪で覆われていない左目で獣人を睨み返した。全身は小刻みに震えてはいるが、なんとか制御ができている挙動に我ながら驚きつつ、彼女は教壇へ向かった。
「しかし……聞き取れないのが困る……」
そうつぶやいた彼女はムヤミの隣で立ち止まり、獣の体臭と血の臭いに眉を顰めた。
「も、ももも、もう一人は……」
爪を右から左へぐるっと流し、やがてムヤミはあるポイントでそれを制止させた。
「一番後ろ……き、きききき、来なさい!!」
爪招きされた神崎はるみは、顎を引き、椅子を引くと胸を張って立ち上がった。
何をやらせるつもり……こんなふざけたのって……わからない……
両手を握り締めたはるみは、真っ直ぐに獣人を見据え、首を横に振った。
「い、いい加減にしてよね……な、なんなのよ、あんたたち……」
おかしい、権藤のように自分は教壇まで素直に向かうはずだったのに、なぜこんな反抗的な言葉を口にしてしまったのだろう。突発的な行動に少女は口元を右手で押さえ、だがこれが自分の意思なのだろうと確信した。
「し、ししし、真実の授業だ……わ、わわわ、我々の……奴隷契約論を……お前たちに特別に……」
「聞き取れないのよ!! そ、それで先生なんて冗談じゃない!! ううん、もし聞き取れても言うことなんて聞かない。銃や刃物で脅してくるような奴、そんなのに教わることなんて何もないもの!!」
演劇部で鍛えた声量は、これまで練習や本番でもあまり生かすことができなかった。だが教室じゅうに響き渡るそれは明瞭でリズムもテンポも心地よく、啖呵としてはこの上ない凛然さを皆に与えていた。
それだけに、反抗された者への意思の伝わりも明確であり、獣人は喉を低く鳴らし、教壇から降りた。
「は、はははは、反抗的な態度は……怯えや……緊張なら先生は咎めん……し、ししし、しかし……逆らいは……」
右手を前に出し、ムヤミはゆっくりとした挙動で少女へと近づいていった。
なんという白けだろう。もうそろそろこの茶番劇も潮時か。源吾はこの展開をそう認識し、引き金に指をかけた。
島守遼は迫ってきた獣人の顔を、怯えながらもよく観察した。しかし血管の浮かび上がりは体毛のため確認することができず、それならばとばかりに白濁とした瞳を見上げ、これならばできるとある確信を抱いた。
その瞬間、席を立つ一人の男子生徒がいた。
「いい加減にしろ、貴様ぁ!!」
怒気をはらんだ叫びは獣人の進行を制止させ、彼は立ち上がった生徒に光彩の薄い瞳を向けた。
がっちりとした体躯は同世代の男子の中でも突出した逞しさを現出し、太い顎と眉が意志の強さを窺わせていた。額に汗を滲ませながら、殺気を込めた瞳で獣人を睨みつける高川典之(たかがわ
のりゆき)は、今こそ自分の正義を貫くときであると、最大限の勇気を振り絞り続けていた。
「い、いいいい、いい加減にしろ……だと……?」
首を傾げたムヤミは、遼の目の前を通過し、睨み続ける高川の眼前まで近づいた。
「せ、せせせ、先生に逆らうのかぁ!!」
「貴様は教師などではない!! ただの闖入者だ!! 神崎さんに手を出すことは俺が許さん!!」
いつもは授業中の携帯電話に激発し、その正義感こそ周知ではありながらも疎まれてもいた高川である。だがはっきりと自分への手出しに怒りを表した同級生に対して、はるみは両手で口元を押さえ、その勇姿を見つめた。
「た、たたた、体罰が怖くないのか!? わ、わわわわ、私はそうした手段だって使えるのだぞ!!」
「完命流は弱者への恫喝を許さん!!」
高川は顔面を引きつらせながら獣人の懐に飛び込むと、その右手首を掴み、全力で引き抜きつつ、相手のブーツの踝(くるぶし)部分を払った。
巨体が咆哮とともに一回転し、教壇近くの床に獣人は叩きつけられた。その震動は二列目まで伝わり、和家屋瞳は足の裏にむず痒さを感じ、最前列の比留間は大量に舞った埃に、口を手でふさいだ。
「完命流……奈落……巨体が災いしたな……」
言いながらも、修行した武術が実戦でこうも見事に決まるとは、我ながら驚愕の事態である。しかしこちらの困惑を悟られてはなるまい。高川は呼吸を整え、機関銃を構える源吾に強い意を向けた。
この格闘者は正気ではない。ヒロイズムに支配された、つまりはやけくそなのだろう。源吾は奇妙な展開に口元を歪ませ、彼に銃口を向けた。
「ばーか……素手でどうするんだよ」
身の程というものをわからせてやろう。連射の乾いた音が、これまでの静寂を打ち壊し、パニックという津波を引き起こすことは容易に想像できる。なんとも下品で混乱したつまらない結果ではあるが、そろそろ飽きてきたのも事実である。
しかし、発砲より数瞬早く、笛の音が廊下から皆の鼓膜を震動させた。
青い制服姿の一団が前後の扉から教室へ雪崩込み、その頭上には煙がゆっくりとした放物線を描いていた。そしてそれが地に達すると、大量の煙を吐き出し、白さが床一面に広がった。
催涙弾の類か? 日本の国家権力が制圧に来た? あの服装は機動隊か?
リューティガー真錠は急変した事態に身構え、教室じゅうに神経を張り巡らせた。
その存在を少し前から気づいていた廊下側の関根は、機動隊員に手首を掴まれると、引き寄せる逞しい力で廊下に引きずり出された。
乱暴ではあるが、安全地帯への脱出ができたことを悟った彼は安堵し、思わず隊員に抱きついてしまった。
突然変化した状況に生徒たちの感情が暴発し、彼らの大半が青い制服とは反対に出口へ殺到した。
警察かよ。これで終わるのか。いや、警察なんかで歯が立つ相手じゃねぇ……
遼は逃げ出す勢いに上体を机に屈め、自分がやらなければならないことがあると、教壇近くで仰向けになっている獣人を凝視した。
いつの間に包囲されていたのだろう。それにしても機を見るに敏とはこのことであり、さすがはテロ慣れをした公僕共である。源吾は悲鳴と怒声に包まれた教室に舌打ちながら、任務を果たすために腰を低くし、左手で口元と鼻を押さえた。
気が付けば背中をしたたかに打ち付け、口からは赤い体液を漏らしている。あのがっちりとした男子生徒は一体何者なのだろう。獣人ムヤミはゆっくり立ち上がると、迫り来る機動隊員の一人をなぎ払った。
この白いモヤは催涙弾なのだろうか。こんなもの、獣の自分には通じない。
大暴れか。教師役をもう少し続けたかったのに。再び迫ってきた機動隊員の顔面を防煙マスクごと長い爪で貫きながら、彼は教室から入れ替わるように逃げ出していく生徒たちの背中を寂しそうに見つめた。
誰か適当な一人を片付けてしまおう。まだ食い足りない。辺りを見渡したムヤミは壁に背を付けたまま震え上がる、小さな男子生徒を見下ろした。
「さ、ささささ、さっきの眼鏡くんか……い、いいいい、言うこときかなかった……ば、ばばば、罰を与える……」
逃げ遅れた比留間は、近づいてくる獣人にどうすることもできず、震えながら頭を抱えて、外部からの全てを遮断していた。
これはなんという無様さだろう。ムヤミは哀れみを感じながら、だがその脆弱さにどうしようもない怒りを覚え、鋭利な五本の爪を振り上げた。
死んでしまえ。弱すぎる役立たずは死んでしまえ。ゆとりがあったら食べてやる。
斬撃で比留間の生命を剥奪しようとした彼は、急激に闇しか認識できなくなった。どうしてこうも真っ黒なのだろう。催涙弾の煙は白色で、闇に包まれるはずなどない。何も視認することができず、いくら瞳をこらしても風景は黒のままである。ムヤミは咆哮を上げ、両手を振り乱した。
眼球につながる視神経は、人間も獣人も同一なのだろう。白煙に口を押さえながら、島守遼は自分の試みが成功した事実を確信し、居残りの判断は正しかったと拳を握り締めた。
高川に先を越されたのはどうにも情けなく、普段は疎ましく思っている比留間を助けるというシチュエーションは今ひとつだと感じていたが、ともかくこの化け物の戦闘力をほとんど奪うことができた。
涙が止まらないむず痒さを感じながら、彼は同じ手を使おうと、もう一人の脅迫者を探した。
リューティガーは出口へ殺到する生徒たちの姿を確認しながら、目くらに暴れる獣人へ向かって駈けて行った。機動隊員はその巨体に殺到していたが、やけくそに腕を振る獣人の破壊力はすさまじく、爪は腹を、顔面を、胸部を貫き、削ぎ、抉り、その全ての惨劇を、彼は視力を頼らない目で知覚していた。
その姿を確認した源吾は、銃口を栗色の髪へ向けた。
「そーだよ……ルディをブチ殺してかねぇと……真実の人(トゥルーマン)に顔向けどころじゃねぇ……」
そのつぶやきは、彼の最も近くにいた神崎はるみの耳に届き、男が同級生の愛称を口にしたことに、白煙に咽ながらも彼女は違和感を覚えた。
ここからの脱出は困難だろう。予測していた事態の一つであるが、国家権力を少々舐めていたようである。この七年で、テロ対策は随分と進んでいたようだ。
威力を落とし、煙幕効果を上げた催涙弾など、自分が暴れていた時代には無かった。おかげでこちらの被害も少なく済んでいるが、状況をまったく視認できない。ボケていた認識が命取りになるとは。
瞬く間に教室を占拠しつつある煙によってターゲットの姿を見失った源吾は、自分に強い意を向ける別の詰襟姿を見つけた。
あいつ……俺っちを……睨みつけやがって……なんなんだ……どいつもこいつも……
煙の奥から吊り上がった目で睨みつける遼の姿に、源吾は違和感を覚えた。自分の手にしている機関銃が怖くはないのか?
お前はガクランの下に防弾チョッキでも着込んでいるのか? なら試してやる。
目の奥が一瞬ちくりとした痛みが走ったが、どうということは無い。彼はしっかりと狙いをつけ、迫ってくる機動隊員にはあえて注意を傾けず、眼前の男子生徒に殺意を集中した。
つうんとした熱さが猫背のこめかみを貫き、彼はその場に崩れ落ちた。
狙撃された。廊下から入ってきた機動隊員ではない、窓の外から何者かに。狙撃隊がこうも早く配置されるなど、あり得た話ではない。源吾は急激に失われていく意識に絶望しながら、左手で小さなスイッチを押した。
視神経を切断しようと意を込めても、この男はまだ冷静で、視力を失ったようでは無かった。煙による視界不良と緊張が失敗の原因だったかも知れない。たった5mm3程度しか動かせないこの力では、狙いが外れればまったくダメージを与えられない可能性も高い。
突きつけられた銃口に、島守遼は一瞬死を覚悟した。しかし、こいつは今、自分の目の前で倒れ、身体のあちこちから泡を吹き出している。リューティガーや彼の従者の仕業なのか。「しっかりしろ!!」機動隊員の叫びに反応して思わず頷いた彼は、ようやく自分が一命をとりとめた事実を実感しようとしていた。
リューティガーが獣人に触れようとしたその瞬間、視力を失い暴れ続けていたそれはこれまでで最も大きな咆哮を上げ、巨体からぶくぶくと泡が吹き出した。もう一人の男が証拠隠滅を図ったのだろうか。涙を堪え、彼は教室後方へ振り返ったが、充満した煙の中にもう一人の姿は視認できなかった。
喧騒と白煙が教室を支配し続けていた。ようやく出口へたどり着いたはるみは、両肩を機動隊員に掴まれた。もう少し優しい確保の仕方ができないものかと嫌気しながら、彼女は廊下に出て、壁に背中をつけた。
10.
「一発か……見事だな」
双眼鏡で1年B組の教室を窺っていた長助は、白煙の中に崩れ落ちる猫背の絶命を確認し、頬を引きつらせた。
「こ、これで……いいのね……」
「ああ……獣人683号も……よし……泡化を始めたな……これで大丈夫だ……証拠は全て隠滅される……」
機動隊が催涙弾を突入に使ったのが長助には意外だった。二人の愚挙を狙撃によって防ぐはずだったのが、これでは正確な暗殺など望めるはずもない。しかしこの少女は、僅かに切れ切れと見える源吾の頭部を正確に打ち抜いてくれた。獣人もいつの間にか始末されたらしく、とりあえず最悪の事態は避けられたと、彼は双眼鏡から目を離した。
給水タンクから、ライフルを持ったまま身体を離した蜷河理佳は、顔を歪ませ、その場にゆっくりと両膝をついた。
スコープ越しに見た源吾は、糸の切れた人形のように崩れ落ち、自分の狙撃は成功した。本来なら長助の号令を待つ手はずだったのだが、彼の危機に、人差し指は過敏に反応してしまった。
真実の人がこれを咎めることはないだろう。あの人はきっと、源吾に「ルディを殺せ」と短い指令を下したに違いない。
「理佳、任務だ。都立仁愛高校に四月から登校しろ。そして、この少年をマークしておけ」今年の二月、あの人はそれ以上の説明はせず、渡された写真にはこの帽子をプレゼントしてくれた彼の姿が映っていた。
源吾の行動はその任務を阻害する。そう拡大解釈をすることもできる。それに、これは長助の依頼である。彼はこの組織で唯一真実の人を諌めることができる男だ。
ハウスでの出会いもそうだった。彼はあの人にこう言った。「この嬢ちゃんはな、地獄を見たってことなんだよ。放っておけるかよ。だから助けるんだ。いいな、アルフリート」と。
けれど、あんな崩れ落ち方は悲惨である。源吾とはほとんど面識こそ無かったが、悲惨である。いつか、自分もああなってしまうのだろうか。
少女は嗚咽と同時に、屋上の床へ胃液を吐いた。
「理佳……」
うめき声を上げながら吐き続ける少女の背中を、男は静かに擦り、ふと七年前の秋を思い出した。あの時も、彼女は吐いていた。まだ救われてはいなかったのかとそれが哀しく、切なかった。
全てをゴーグル越しに見下ろしていた空軍ジャケット姿の“はばたき”は、茶色の羽を上下にさせ、その空から飛び去っていった。
校庭には機動隊のトラックの他に、マスコミの車も殺到していた。騒然さが仁愛を揺らし、グラウンドの土埃が風で舞い上がり、それは二階の1年B組の窓に細かな傷をつけていた。
「そうか……ありがとう。よくわかったよ」
喫茶店のテーブルで指を組んでいた青年が、湯気を立てた目の前のカレーライスにじっと視線を注ぎ続ける少年に、そう返事をした。
「食べていいよ、はばたき。君のために注文したんだし」
「あ、ありがとうございます!! い、いただきます!!」
青年にそう促された褐色の肌をした少年、はばたきは勢い良くカレーライスに挑んだ。「次はどのチームにご命令を? 真実の人」
青年の隣に座っていたエプロンドレス姿のライフェが、つまらなそうにそうつぶやいた。
「さぁね……どうしようか……」
組んだ指を遊ばせながら、真実の人は赤毛の少女の不満を感じ取った。
「死ぬことで役に立つことだってあるんだよ。源吾やムヤミは特にそうだ。二人はひどく古い。まだ第二次ファクトの時代が来るって思っている。だから、使い道はこれしかなかったんだ。おかげであのサイキは遂に戦ったじゃないか。さて、ルディは口説き落とせるのかな?」
「わたしには……そういう難しいことは分かりかねます……」
「ん……だな……けど、俺にも簡単な言葉で伝えることができない……分かっちゃいないんだろうな……俺も」
椅子に腰掛け直した真実の人は、ぼんやりと喫茶店内を見渡した。
「みんな、それぞれの思いに真剣で、誰も児戯なんて理解しちゃいけない。けどね。ライフェ、はばたき。俺にとってはそうした真剣さを弄ったりするのが一番の遊びなんだよ。ひどい性分だと自覚してるけどね」
消えた表情でそうつぶやいた青年は、注文したトマトジュースにようやく口をつけた。
催涙弾の煙は、機動隊員が窓を全て開放したため、教室の外へと逃れていった。廊下へ脱出した生徒たちは警察によって身柄が確保されると、そのままグラウンドに停めてある救急車へと搬送された。
「担架とかいいです。立てるし歩けますから!」
廊下で警官に促されたはるみは、強い語調でそう言い返した。高川はあの後無事だったのだろうか。混乱により状況確認が一切できなくなっていたため、少女は自分を助けてくれた少年の安否が心配だった。
「僕は……ここから跳ぶけど……遼くんはどうする?」
教室から廊下へ出たリューティガーは、続いてきた遼にそう尋ねた。
「視神経切ったのが俺だって……気づいた奴はいないだろうけど……そうだな……俺も跳ばしてくれないか?」
事情聴取をされるのも面倒であり、異なる力を追求される可能性もゼロではない。遼は警官たちに悟られないように、できるだけ目立たず静かで自然な挙動で、リューティガーと階段へ向かった。
島守と真錠は、一体どこへ行こうとしているのか。皆の搬送方向とは逆の、階段側へと歩き始める二人の姿に気づいたはるみは、その後を追った。
「公園でいいかい?」
「ああ……やってくれ……」
リューティガーが遼の肩に手で触れるのと同時に、長身の彼の姿が瞬く間に空間から消えた。続いて栗色の髪がなびかせながら、残った彼もその場から姿を消した。
何が起こったのだろう。いたはずの遼とリューティガーは突然消えてしまうなど、獣人以上にあり得た光景ではない。突風に頬を撫でられながら、はるみは愕然とした。
真昼の公園に出現した二人は、周囲に誰もいないことを確認すると、塀に寄りかかった。
「ありがとう……よく視神経を切断するなんて思いついたね。あれはきみがやったんでしょ?」
「あ、ああ……目は人間と同じだと思ってさ……一応、図鑑でその辺は暗記しておいたし」
まさに解剖図鑑様々である。まさか蜷河理佳はこのことを予期してあれをプレゼントしてくれたのか。そんな馬鹿なことがあるわけない。遼は頭を掻きながら、突飛な想像を振り払った。
「で、ありゃ一体なんなんだよ……マンションのときや……バルチのアレと同じなのかよ?」
「バルチはともかく……マンションのとは同一の敵です」
「敵……ねぇ……」
教室に乱入し、教師を銃撃して授業ジャックをする。そんな“敵”を遼は理解することなどできず、質問したものの関心は急激に薄れていた。
「仕掛けてきたのは……兄です」
「兄?」
それにしては随分と老けた兄である。第一全然似ていないし。まさか、獣人の方が兄なのか。そんな疑問は数瞬であり、彼は揶揄をすぐに理解して、顎を小さく引いた。
「なんなんだよ……それは……兄って……兄さんのことか……?」
「そうです……奴らを率いているのはアルフリート真錠。戸籍上も生物学上も僕の兄です……奴は三代目の真実の人(トゥルーマン)だった……」
真実の人。その名は遼も聞いたことがある。七年前、この国を震撼させたファクト機関の指導者だった男のそれである。しかし三代目とはどういった意味なのだろう。だが、それでも疑問を口にする気にはなれなかった。
「解任された兄は、それでも真実の人を名乗り続け、活動を始めつつある……この国を滅ぼす、暴挙に出ようとしているのです」
スケールの大きな話題に遼は辟易とし、拒絶の意味を含めて腕を組んだ。
「そして……僕はその兄を殺しに来た……」
聞き捨てにならない言葉である。だが気を引こうと大げさな言葉を敢えて口にしているのではないのだろうか。島守遼はそう思い、隣で佇む彼の横顔をちらりと見た。
口元が歪み、栗色の髪がぶるぶると震え、紺色の瞳は潤んでいた。なんとも情けない、叱られた子供のような、そんな惨めさを感じた遼は、リューティガーが本気であることを知った。
ますます関係など持ちたくない。勝手にやってくれ。少年は空を仰いだ。
第九話「獣人先生」おわり
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