1.
東京都二十三区の中でも北部に位置する荒川区に、町屋という街がある。京成電鉄と路面電車である荒川線の両駅が中心にあり、都心まで数十分という立地だが都会の気配は町並みからは感じられず、低い建物から構成される駅前の商店街が昭和の風情をそのまま残しているようでもあった。
駅前から十数分ほど歩いた国道沿いの、東京も僻地と言える場所に、その倉庫はあった。
正門には「藤原ハム荒川倉庫」と書かれたプレートが、もう一吹きの風で落ちそうなほど頼りなくぶら下がっている。
この施設の所有者はプレートに書かれている会社ではない。数年来の食肉不信から藤原ハムも業績が悪化し、その結果都内最大規模を誇っていたこの倉庫も数ヵ月前に売却してしまい、現在では本社も他県へと引っ越してしまっている。
倉庫の所有者をしかるべき手続きで調べれば、誰もが「ケイケイコーポレーション」という名前を目にすることとなるはずである。更に同社の登記簿に目を通せば二年前に設立したばかりの有限会社であることが容易に判明し、会社の規模と所有物件のアンバランスさに首を傾げることになるであろう。
正門脇の守衛室には誰の姿も無く、中のカウンターにはうっすらと埃が積もっていたが、更に敷地へと入った先の倉庫施設からは、深夜だと言うのに電灯の光が地面へと漏れていた。
倉庫内の廊下を歩く者の手には、小型の機関銃が握られていた。服装も紺色のミリタリージャケットであり、およそ食肉保管現場を警備しているようには見えない。しかもその男の目は周囲に対する注意と警戒に満ち、右の人差し指はときおり引き金にかけられ、いつでも非常事態に備える覚悟が窺えた。
突風が彼の背後で渦を巻いた。圧迫感を察した警備員は咄嗟に振り返ろうとしたが、背中に小さな感触を得た後、彼の姿は廊下から忽然と姿を消した。
眉間に皺を寄せ、右手を前に突き出した栗色の髪をした少年。水色のパーカーを着たリューティガー真錠(しんじょう)の姿が警備員と入れ替わるかのようにそこに在った。
廊下の壁を背にしたリューティガーは反対側の「保管15号」という文字が書かれた、自分の身長よりずっと大きい金属製の扉に手をかけた。すると、廊下の奥から二つの影が近づいてきた。一つは長く細く、一つは小さく丸く、だが彼は緊張することなく柔らかな笑みを二人に向けた。
「ここが本命か?」
丸い影の持ち主、陳 師培(チェン・シーペイ)が自分の主にそう尋ねた。
「ええ……警備はここを中心に動いていました……おそらく間違いないと思います……」
そう返したリューティガーはじっと扉を見つめ、やがてその瞳には血管が浮かび上がった。
もう一人の細く長い影の主、健太郎は腰を低く落としたまま一言も発せず周囲を警戒していた。彼の赤い瞳は薄暗い廊下であっても不自由なく機能し、チューリップ帽に隠れてはいるが大きく長い耳はわずかな羽音すら聞き逃すことはない。
「どう健太郎? 誰か来るか?」
陳にそう尋ねられた青黒い肌の静かなる怪物は、ゆっくりと首を左右に振った。
「やはり……この中です……調整施設がある」
眼鏡をかけ直しながらリューティガーはそうつぶやいた。彼の眼前は相変わらず金属製の分厚い扉で閉ざされていたが、言葉には自信が込められていて、二人の従者も主に対して強くしっかりと頷き返した。
「どうやって中に入る? 跳ぶか? それとも相方に開けさせるか?」
「健太郎さんにお願いします……できるだけ派手に頼みます。陳さんは反対側の窓の外で待機してください」
「なるほど、もう逃げてきた奴、ぶった切ればいいのか?」
意図はその通りなのだが、あっさり言葉にされると抵抗感もあり、リューティガーは苦笑いを浮かべて額の汗を拭った。
「じゃあ行ってるね。健太郎、頼んだヨ」
相方である怪物の巨体を軽く叩くと、陳はでっぷりとした腹を揺らしながら廊下を駆けていった。
踵をほとんど接地させず、物音をほとんど立てない彼の走法はほとんど独特のものであり、肥満体型でありながら猫のような身のこなしの陳を、リューティガーは顎に手を当てて感心しながら見送っていた。
突然、リューティガーは背後から緊張した気配を感じた。別の警備員が巡回から戻ってきたのだろうか、そんなことを考えながら彼が振り返ろうと腰に力を入れるとそれとほぼ同時に、傍らで佇んでいた健太郎の長い腕が風を裂く音と共に栗色の頭上を通過した。
刃物ががちゃりと触れ合う高音を耳にした直後、振り返ったリューティガーが目撃したのは喉を串刺しにされた警備員の姿だった。
声を漏らすこともできず、その男は両手をだらりと伸ばしたまま痙攣を続けていた。健太郎はリューティガーの脇を経て男まで近寄ると、コートのポケットから出したハンカチを相手の首筋に当てて、串刺しにした自分の爪を引き抜いた。絶命した男は廊下に蹲り、床には漏れた血が小さな池を形成しようとしていた。
「あ、ありがとう健太郎さん……」
これまでに様々な場所で訓練を積み、あらゆる過酷な経験を経てきたリューティガーではあったが、健太郎の暗殺挙動にはまったく淀みがなく、一連の動作は職人芸の領域であると感嘆した。しかし礼を言われた巨人は小さくかすれた声で「油断は……よくない」とだけつぶやくと、巨大な扉に身体を向けた。
長い爪を再び引き出した健太郎はそれを扉の隙間へ入り込ませ、空いた左手でノブを掴んだ。
狭く薄暗い廊下に咆哮が響き渡った。それと同時に倉庫を守っていた扉は強引に右から左に歪みながらスライドし、少年は轟音に思わず耳を押さえた。その直後、火薬の炸裂音が何発も空気を振動させ、弾丸の命中した健太郎の胸からは何条もの煙が吹き出した。
二度目の咆哮は最初のそれよりもずっと雄々しく強く、青黒い巨体が宙に舞った。
合計十本の鋭利な爪を振り下ろしながら、健太郎は機関銃を持つ男たちの眼前に着地した。顔面と胸部を切り裂かれた二人の男から鮮血が勢いよく大気中に放出され、それが巨人の着ているコートの背中を黒く染めた。そんな惨殺の光景を見つめながら、リューティガーは慎重な挙動で倉庫へと入っていった。
入り口をくぐったすぐ右の壁に拳銃を構えた男の姿があった。何の躊躇もない発砲は正確にリューティガーの頭部を打ち抜いていたはずである。しかし弾丸は何もない空間を通過し、反対側の壁へ跳弾した。
いたはずの標的が眼前から消えたため、男は動揺を隠せず呻き声を上げた。そして腹部に軽い衝撃を感じた次の瞬間、男の姿は倉庫から消え、その地点には突風と共にリューティガーの姿が現れていた。
惨殺した警備員たちの遺体を一瞥した健太郎は、主である少年のゆっくりと立ち上がる勇姿を赤い目の端で認め、小さく頷いた。
リューティガーが次のターゲットを探すため強い意を部屋じゅうに向けると、ジャケット姿の男が一人窓から外へ逃れようとした。しかしその後ろ姿は崩れ落ちるように窓枠から外の敷地へと落下し、駆けつけた若き指揮官は窓の外で鉈のような形状をした八卦刀を振り抜いた陳の姿と、身体の中心から血を噴き出している男の遺体を目にし、大きく頷いた。
戦闘は一方的であり、リューティガーたちは傷一つ負うことなくわずか数十秒でこの倉庫を占拠した。
誰もいなくなった「保管15号」倉庫を探索する彼の表情は強く張り詰めていたが、期待した成果が得られないことが徐々に判明すると、やがてそれは曇っていった。
「だめだ……もう引き払った後だ……」
落胆の声を漏らすと、リューティガーは眼前にある医療用のベッドを膝で小突いた。
「確かにここは獣人の調整施設ネ。同盟の情報に間違いないヨ」
「だがしかし……獣の匂いはしないな……」
陳と健太郎は顔を見合わせると、施設の調査を再開した。
「データは全て消去されている……つまり、この施設でどれぐらいの数の獣人を開発、調整したのかが一切わからない……これじゃ……無駄足も同然です……」
端末のモニタをびたんと張りながら、リューティガーは医薬品のチェックをしている陳の背中にそう言い放った。
「漏れてたかナ……もう情報が……」
「でしょうね。ここまでの手際ですから……最小限の工作員だけ配備して……逆にこちらの戦力を相手に伝えてしまったかも知れません……」
「坊ちゃん……それは言っても仕方がないことヨ。我々同盟からの情報で動く。それがまずもって任務ネ」
苛つく主に、陳は諌めるように返した。
「ええ……わかってます……けど現地の情報が一度本部に行って……それも書類や数値の流れだけで割り出した机上の情報です……そんな死んだ情報……」
「アテにはならないネ。確かに。けどどうするね? 現地での情報収集をはじめるにはコネも人も足りないヨ」
陳の言葉にリューティガーは眉を顰めると、舌を鳴らして栗色の髪を撫でた。
「あいつらは何を考えているんだ……? 僕と遼くんを一度襲撃してきただけで、その後はこっちに攻めてこないなんて……」
「真錠殿……焦りはよくない……」
声をかけてきた健太郎に振り返ったリューティガーは、赤い獣人の瞳がわずかに震えているのに気がついた。
主である自分がいつまでも年齢相応の未熟な苛つきを見せてはいけない。彼は唇の両端を吊り上げると軽く頭を何度か横に振って、冷静さを取り戻そうと懸命だった。
2.
夏休みになってから数日が経過していたが、鈴木 歩(すずき あゆみ)は今日も朝から日が沈むまでの時を、渋谷のとある予備校で過ごしていた。夏の集中講座は八月十日まで続き、彼女はその全てを受講する予定となっている。
自分の意思などほとんど無く、親が勝手に決めたスケジュールではあったが、その講座にクラスメイトの一人、杉本香奈の姿を見つけた瞬間、歩のどんよりとした気持ちは幾分軽くなった。
「香奈がいたなんてホントって感じ!」
杉本香奈が声に気づいた頃には、厚くやぼったい鈴木歩の化粧顔が満面の笑みで真横に迫っていた。
ほとんど金色の茶髪で分厚い化粧の鈴木と、さらさらの黒髪を結んだ地味な顔立ちの杉本は対照的な外見を予備校教室に並べ、集中講座初日の昼食中にそれまで彼女たちが学校でやりとりした会話量を遥かに上回る言葉を交わすこととなった。
この数日間で二人は趣味や家庭環境のことなど大量の情報を交換した。歩から見れば一見地味でこちらとはあまり合わないだろうと思っていた杉本の音楽の趣味が、実は自分と似通っていたり、杉本にしてみれば派手であり遊んでいそうな歩が実は未だに異性と付き合ったことがなかったりと、二人はそれまでのずれた認識を短期間で修正し、「案外気の合う奴」という人間関係を構築しつつあった。
「歩、マック寄ってく?」
「んーそうだなぁ……マックかぁ……」
その日の夜も、二人の少女は予備校から出て夕飯の相談をしていた。
「香奈ってけっこうマック好きくない?」
「そうかなぁ……今まであんまり行ったことないからなぁ」
「それよりもさ、古文の栗田って講師、今日あたしのことじろじろ見ててさ。ほんとキショ……」
そりゃ、あんたの派手な化粧は嫌でも目に入るし、ついつい見てしまうだろう。杉本はそう思ったが決して言葉にはせず、ぼんやりとした愛想笑いをただ浮かべるだけに止めた。
「あーあ、地味な夏休み。だってここ渋谷だよ? あたしたちなーにやってんだろ」
「じゃあ、遊んでく?」
杉本にそう問われ、歩は足を止めて腰に手の甲を当てた。
「んだね……遊んでいこっか」
独り言のようにつぶやいた歩は、視線の先に見覚えのある少年の姿を認めた。
「あれ……?」
不思議そうな表情を浮かべる歩に、香奈も同じように腰に手の甲を当てて視線の先を追った。
「あ、島守君だ……」
杉本は意外なクラスメイトの登場に首を傾げ、その仕草は隣の歩にも伝染した。
「そ。そこのジムでバイトしてんだ」
ファーストフード店の二階で、島守 遼(とうもり りょう)はジュースの紙コップを手にそうつぶやいた。対座する歩と杉本は互いに顔を見合わせ、なんとなく微笑んだ。
「なに笑ってんだよ」
「だってぇ……島守君がねぇ……」
「おっかしいよねぇ……なんだかさぁ……」
杉本と歩がなぜこうもころころと笑い合っているのか理解できずにいたため、遼は不審気に二人のクラスメイトを見比べた。
「島守はそこでどんな仕事してるのよ?」
歩が低い声でそう尋ねてきたため、遼はコップをテーブルに置いて腕を組んだ。
「掃除とか、器具の片付けとかさ。いろいろ」
つまらなそうに彼がそうつぶやくと、歩と杉本は再び笑顔を向き合わせた。
「だからなんなんだよ。鈴木さんも杉本さんも、さっきからなに笑ってんだよ?」
そう尋ねたものの、二人は顔をほころばせながら「だってー」と言うばかりでまともな返事をする様子はない。彼女たちの興奮の原因をさっぱり理解できない遼はジュースを一気に飲み干すと、それを背後のダストボックスにねじ込んだ。
それにしても鈴木歩というクラスメイトは笑うと化粧面が歪んだように見え、なんともお化けのような外見である。杉本香奈は引きつったようなぎこちない目元口元であり、これもあまり見ていて心地のよくなる笑顔ではない。なんとなく声をかけられたからファーストフードまで一緒に来たものの、これでは時間の無駄である。島守遼はポケットに手を突っ込むと椅子から立ち上がった。
「あれ、もう行っちゃうの?」
歩に声をかけられた遼は、階段の手すりに手をかけながら振り返った。
「明日は朝から部活なんだよ。おまけに文化祭の実行委員まで当たってさ。忙しいんだよ、俺」
「部活ってさ、演劇部?」
「そう」
「ふーん。キショ……」
吐き捨てるようにそうつぶやく鈴木歩の表情からは笑みは消え、狸のように黒ずんだ目から淀んだ鈍さを発していた。もう一人の杉本は友人の変化に気づいたのか、わざとらしく視線を反対の窓に逸らしたため、遼は二人の関係がますますわからなくなり、どうでもいいと思いながら階段を駆け下りていった。
「島守さ、バイトして忙しいって偉そうだよね。キショイっつーんだよ」
「笑いすぎちゃったかなぁ……あたしたち。でもなんかねぇ……びっくりしちゃったよね」
「関係ないって。あんなの」
二人の少女は互いに視線を合わせることなく、硬いファーストフードの椅子に並んで腰掛けていた。
「ねぇ歩」
通路側に座っていた歩が対面側の椅子へ移動すると、杉本は頬杖をついて友人の淀んだ瞳を見つめた。
「島守君ってさ、蜷河さんと付き合ってるの?」
「みたい。つーか、誰から聞いたの?」
「西沢君から」
「西沢って軽くない?」
「そーかなー……?」
「あたしあーゆーのって絶対だめ。好きくない」
「そ、そんなにダメ?」
「つーかさ。それよりもこれ、不味くない?」
「コケモモシェイク?」
「最悪。うぇ。キショくなるから香奈、飲んでよ」
「えー? どーしてよ」
「香奈ならおいしいよ。つーかイメージに合う」
「なによそれー」
二人の会話が順調に進むことは少なく、脱線から脱線を繰り返し数十分もすれば最初の話題が何だったのか忘れてしまうのが常である。今夜も彼女たちはファーストフードの二階で夏の夜を過ごし、結論を一つも導き出すことも無く言葉を漂わせていた。
3.
島守遼が池上線の雪が谷大塚駅に着くと、空から生暖かい雨がまばらに降ってきた。もう改札を出てしまったため、駅に置かれている忘れ物の傘を借りていくことはできない。不運さを恨みながら、彼はアパートまで全力で駆けて行った。
時刻は夜の十時を回り、おそらく父は先に夕飯を済ませて風呂にでも行ってる時間だろう。息子がそう予想をしていると意外にもアパートの窓からは灯りが漏れていて、彼は首を傾げながらハンカチで髪を拭きながら、金属製の外付け階段を上がった。
「もう風呂、行ってきたの?」
扉を開けた遼は食卓で新聞を読む父、島守貢(とうもり みつぐ)にそう尋ねた。新聞の陰に見える父の顔色は心なしか青ざめているようでもあったが、そもそも年齢の割に老けた容姿であるため、息子は大して気に留めず冷蔵庫からオレンジジュースを取り出した。
「鍋にカレイを煮付けてある。ご飯も炊けてるからな」
少々掠れがちな声で父は背中を向けたままそうつぶやいた。遼はオレンジジュースを飲み干すとパックを冷蔵庫に戻し、棚から食器を取り出して夕飯の準備を始めた。
「バイト……どうなんだ?」
「あ? うん……まだ全然だよ。覚えること多いし、出入りする人だってたくさんでさ」
「自給はいくらなんだ?」
「750円。それで昼から夜までの実働七時間だから……一日5250円。目標が4万円だからあと大体五日間もやればなんとかなるよ。もちろん部活との兼ね合いもあるけどね」
茶碗を食卓に置きながら、遼は早口でそう父に説明した。貢は新聞を折りたたむと一度だけ咳をして息子を見上げた。
「親父……風邪?」
「ん……ちょっとな……今日は早く寝るよ。明日は稼ぎに行く日だし」
「あんまり無理すんなよな。倒れたりしたら嫌だし」
素っ気無い口調ではあったが、息子の気遣いに父は笑顔を浮かべもう一度咳をした。
「はは……お前の足は引っ張らないよぉ……もう寝るわ」
「うん。おやすみ」
父はゆっくりと立ち上がると襖を開けて自分の部屋に入っていった。息子は食卓に残された新聞をちらちらと横目で眺めながら、骨の多い煮魚と悪戦苦闘を始めていた。
リューティガー真錠は「日本はある勢力に狙われている。自分たちはそれを阻止するためにやってきた」と語っていた。数週間前の自分であれば、ばかげた与太話として栗色の髪をした転入生を白眼視したことであろう。だが獣人を目撃し、武装したゲリラを一瞬で消滅させたあの能力を目の当たりにした今の島守遼であれば、その勢力が七年前にこの国を席巻したテロ組織「真実の徒」の残党かも知れないという物語じみた想像までできてしまう。
「歌舞伎町で惨殺死体。外国人の犯行か?」
そんな見出しの三面記事をぼんやりと眺めながら、遼はそれでも自分には何もできないし、今はそもそもそれどころではない。そう思っていた。
不機嫌になりつつあった彼の鼓膜を電話のベルが刺激した。こんな時間に誰からだろうと眉を顰め、受話器を取った遼の耳に、聞きなれた柔らかい声色が入ってきた。
「蜷河さん……?」
「ご、ごめんなさい……こんな時間に……」
胸の高鳴りを感じながら、遼は予想外の出来事に興奮していた。
「ア、アルバイトって……神崎さんに聞いたから……」
今日は朝から演劇部の練習があり、部長に事情を話して午後からは渋谷へアルバイトに向かった遼である。そういえば蜷河理佳(になかわ りか)にその辺の事情はまだ話していなかった。付き合い始めたというのに自分はなんて要領が悪いのだろうと彼は頭を掻いていた。
「う、うん……渋谷のスポーツジムで麻生と一緒に」
「そ、そうなんだ……」
「ごめん、話すの遅れてて。でも練習には支障がでないようにするし、もともと合宿費用のバイトだからさ。安心して」
「週明けの練習は午後まで通し稽古って乃口部長が言ってたけど……平気?」
「ああ、それは平田先輩から聞いてる。大丈夫、その日はバイトの時間、ずらしてもらってるから」
連絡事項ばかりで気の利いた会話ではない。自分の話術の無さを恥じながら、それでも受話器から聞こえてくる少女の声に少年の表情は緩みっ放しだった。
一通りの用件を話し終えると、数瞬の間が流れた。
「あ、あぁ……そうだ……蜷河さん……夏休みって予定とかって……どうなの?」
「え、ええっと……わたしの?」
「う、うん……合宿の後とかってさ……」
「う、うん……合宿が終わったら……その後は家族で旅行なの……」
「どこ?」
「お、沖縄……」
「へぇ!? いいなぁ……」
「ひ、日差しがきつそうで……それに台風とか……不安なんだけどね……」
つまりこの夏休みで彼女と一緒に過ごすタイミングがあるとすれば、演劇部の練習と合宿期間中だけである。家族旅行に表面上は羨ましがりながらも、遼は少ないチャンスを有効に使わなければならないと気を引き締めていた。
4.
翌日、島守遼は朝から電車で渋谷へと向かった。今日は演劇部の練習もなく、アルバイトを一日フルタイムで入れている。「稼げるうちに稼ぐ」が父の口癖であり、その平凡なる信条は息子にも伝播していた。できれば残業などもして、これまでの最高日当になれば嬉しい。合宿費用だけではない、蜷河理佳に借りたデート代もこのアルバイトで稼ぎたいし、できればその御礼としてプレゼントの一つでも買っておきたい。金はあればあるだけ使い道がある。
五反田から山手線に乗り換えた遼は満員電車に揺られながら、車内の液晶画面で文字ニュースをぼんやりと眺めていた。
「歌舞伎町での惨殺死体は、練馬区に住む伊藤秀子さん(23)と判明。殺害現場のホテルで怪しい黒人男性を見かけたとの目撃情報もあり、警察は捜査を続けている。」
「怪しい黒人男性」というフレーズに遼は思わず噴き出しそうになり、自分とはまったく関わり合いのないこの事件に対して関心は皆無だった。
渋谷駅を出た遼は青山へと抜ける宮益坂へと向かい、坂の途中の古びた雑居ビルの前で足を止めた。
一階はパチンコ店であり、五階の窓には「スーパージム・ビッグマン」と大きく赤い文字で書かれている。ここが島守遼のアルバイト先である。
タイムカードを押した遼は、すぐにロッカールームへ向かった。
「よう」
入ってきた遼に短く声をかけてきたのは、イタリア人のような風貌の持ち主であり、このアルバイト先を紹介してくれたクラスメイトの麻生
巽(あそう たつみ)である。彼はちょうど私服からユニフォームのジャージへと着替えていた最中であり、隆々とした筋肉が遼の目に飛び込んできた。
このジムは主にボディビルを目的としたトレーニング施設である。それなりに広いフロアにはベンチプレスマシーンやバーベルなどの様々なトレーニング機器が置かれ、身体を鍛えたい会員たちが朝から訪れてきている。麻生は初心者に器具の使い方を教えたり、トレーニング方法のアドバイスをしたりなど単なるバイトではないほどの仕事を任されていて、そこまでの知識が無い島守遼は主に清掃や器具のメンテナンスを担当している。
聞けば、麻生はボディビルを中学生のころから始めていて、もう何度かジュニア大会に出てはそこそこの成績を収めているらしい。クラスメイトの意外な経歴を知った遼は感心したが、それでもこのボディビルという世界に興味を抱いてはいない。
そもそも、単調なトレーニングで筋肉美を手に入れようという欲求が彼には皆無である。いや、むしろ鏡の前でポージングをする彼らに対してどこか滑稽な感想すら抱いていた。
なぜ彼らはポージングの際、微妙に張り詰めた笑顔、それも歯を見せて笑っているのだろう。とか、なぜ皆同じような、だぶついた大きめのTシャツを身に着けているのだろう。などなど、疑問は日々新しく生まれ、遼はその都度首を傾げながら初めての労働に勤しんでいた。
バーベルの錘をごしごしと布で拭いている遼に、事務室から出てきた若い男が「遼くんっ!! やってるねっ!!」と明るく声をかけてきた。彼はこのジムの支配人であり、名を呉沢(くれさわ)という。二十代後半であるのに頭髪が極度に薄く、それと反比例して下腕部と胸板に剛毛を蓄えたアンバランスな外見である。顔は若々しいというよりは童顔であるのだが、Tシャツに包まれた筋肉は隆々としたもので、麻生の話によると何かのボディビルコンテストで優勝をした経験もあるらしい。確かに壁の高い位置には表彰状が、奥の棚にはトロフィーが飾られていて、それぞれに呉沢の名が記されている。どの程度の競争率で優勝したのかはわからないが、あの愛想の無い麻生が若干興奮気味に話していたところを見ると、それなりの大したことなのだろうと遼は理解していた。
呉沢は遼の背後に回るとその背中を何度か叩き、肩を強い握力で掴んだ。
「いたた……し、支配人……」
顔を顰めながら遼が振り返ると、呉沢は童顔に笑顔を浮かべたまま白い歯を見せた。
「やっぱ遼くんいい筋肉してるっ!! 素質あるっ!!」
アルバイト初日からこの童顔の支配人は何度もそう語り、この言葉を聞くのは十回目である。遼は内心うんざりしながらも、仕事上の上司に対して敬意を払いながら笑顔を返した。
「そ、そうっスか?」
「うん……酸素がちょっと足りてないけど……効率よく鍛えたら見違えるっ!! 見違えるぅぅ!!」
呉沢は最後の言葉を奇怪な節に乗せて、歌いながらベンチプレスマシーンに向かった。遼は笑顔を苦いものに変えて首を傾げると手にした錘を器具に戻し、自分の腕を少しだけ揉んでみた。
「さぁぁぁぁっ!! 今日も一日頼んだからねっ!! 私のボディっ!!」
支配人の甲高い叫び声がジムに響き渡り、他の利用客の何人かは彼に向かって親指を突き出し、ニヤリと白い歯を見せた。
少々気味の悪い世界だが、まあ悪い人たちの集まりじゃないのだろう。器具の発する定期的な作動音を耳にしながら、島守遼はこの労働環境がそれほど劣悪ではないことに感謝していた。
一日の仕事は器具のメンテナンスと清掃が大半である。ユニフォームであるジャージから汗の臭いが気になる頃には労働も終盤に差し掛かっていて、利用客のいなくなったがらんとしたジムをモップがけする遼は、さすがに丸一日、九時間を越える就労は堪えると思った。
「島守お前、評判いいよ。俺も助かる」
ジムの隅で器具の調整をする麻生が、モップを手にした遼にそうつぶやいた。
「あ、あはは……嬉しいな、そう言ってもらえると」
頭を掻きながら遼は照れ笑いを浮かべた。
「合宿の後も来てもらえないかって呉沢さんが言ってるけど……どうする?」
「ほ、ほんと?」
遼の問いに、麻生は表情を消したまま小さく頷いた。
「やるやる。俺、バイクの免許とかも取りたいし、お金稼げるんならできるだけやらせて欲しいよ」
「わかった。呉沢さんに言っとくよ」
必要以上の言葉を口にしない麻生という同級生の性格は、ここ数日で遼もよく理解している。これ以上のコミュニケーションは無意味であると判断した彼は笑顔のままモップがけを再開した。
5.
島守遼が渋谷のボティビルジムで小さな幸せを感じていた頃、新宿区歌舞伎町のとあるラブホテルの一室にリューティガー真錠と健太郎の姿があった。
ベッドに腰掛けた若き指揮官の表情は険しく、出口で背を曲げて佇む怪物の眼光はどこまでも鋭かった。
紺色の瞳は何も無い壁に向き合い、その眼球は血管が浮かび上がり、白い額にはうっすらと汗が滲んでいた。
少年の脳裏には壁の向こうである隣の部屋の光景が、まるで何の遮蔽物もないかのように鮮明に浮かんでいた。ベッドの上には落ち窪んだ目をした厚化粧の女性が座っていて、茶色に染めた髪を指で撫でるとぼんやりとした表情で煙草に火をつけた。
するとシャワールームから、一人の男が裸のままタオルで頭を拭きながら姿を現した。黒光りする筋肉は贅肉がほとんどなく、撫で肩の肉厚はたっぷりとしたものであり、黒い頭髪は短く刈り込んでいて頭頂部に小さな束子のような形で乗っているようでもある。女性は黒人に視線を向けると何かを話しかけ、自分もシャツを脱ぎ始めた。
リューティガーの知覚しているのは光景だけであり、音に関する情報は一切含まれていない。黒人に女性が何を話しかけたのかはわからなかったが、こういったラブホテルで男女が交わす会話など容易に想像ができる。リューティガーは耳まで真っ赤になりながらも壁越しの光景から意識を逸らさないように努めた。
覗き行為など、本来なら希望することではない。もちろん十五歳という年齢相応に、女性のことや男女の営みについて興味はあったが、任務を忘れて熱中して透視するほど強烈で野卑な欲求ではない。
自分は一体なにをしているのだろう。このように地道な活動で本当に目的を遂げることができるのだろうか。ベッドの上で裸になって抱き合う男女の行為を知覚しながら、リューティガー真錠は情けなくもあり、悔しくもあった。
異変は行為が始まって二十分ほどで訪れた。女性に乗っていた黒人は彼女の首を丸太のような太い腕で締め付け、女の足先は何度もぴくんと痙攣を始めて、カラフルな足の爪が宙に弧を繰り返し描いていた。
始まった。そう認識した透視者は出口で佇む巨人に手で合図をし、自分は空間へと姿を消した。
女の首を絞める黒人の表情は冷たく、丸い目も冷静そのもので淡々とした鈍い光を反射していた。対照的に女性は目を剥き口からは舌を出し、自分の頚椎を圧迫する黒い手に爪を食い込ませもがき苦しんでいた。
男は小さな声で「Soon」と低くつぶやいた。そして背中に突風を感じた途端、彼は彼女の首から手を離し、ベッドの上を転がって床へと着地した。
体操選手のような軽快な挙動で、黒人は自分の背後に突如出現したリューティガーの一撃を避けた。その淀みの無い動きに少年は唇の両端を吊り上げ、視線を全裸の男から離さないままベッドの上で咳き込む女性の腹に手を当てた。
ベッドから女性の姿が消え、突風が舞い上がった。床に膝をついていた黒い男はカーキ色の上着と迷彩ズボンを手に取ると、あらかじめ開けておいた窓へ跳躍した。
「カラー・暗黒!?」
少年が男をそう呼び止めようとしたが、彼は構わず四階の窓からネオンの輝く街へと飛び出した。
リューティガーも男を追い、窓枠に手をかけた。電柱の手すりにぶら下がりズボンを穿いていた黒人はラブホテルの窓から睨み付けるリューティガーへ振り返り、ようやく表情を崩して白い歯を見せた。
次の瞬間、男の宙に浮いている足元から鋭い一撃が、胸元から顎をかすめ上空へと通過した。刃は空中で弧を描き、やがてビルの屋上で身構える持ち主、陳の元へと戻っていった。変形の暗器による攻撃を容易にかわされた陳は下唇を噛み締め、次なる刃物を懐から取り出そうとしていた。
黒人は表情を硬くすると電柱を蹴り上げ、すぐ正面に見える西武新宿線、新宿駅近くの高架壁面にしがみついた。小さな段差をしっかりと指で掴むその姿はヤモリの様であり、男は素早い挙動で壁を登っていった。
ホームは客で溢れていたが、そのすぐ近くの線路付近には鉄道関係者の姿もなく、壁から高架上の線路によじ登ってきた黒人は額の汗を拭って周囲を見渡した。するとすぐ正面数メートル先に、彼は二メートルを超す巨大な人影を認めた。
「What?」
短くそうつぶやきながら男は腰からサイレンサー付きの小さなサブマシンガンを引き抜いた。しかしそれを構えて発砲するよりも早く、コートを着た巨大な人影は間合いをすっかり詰め、五本の鋭利な爪が振り抜かれた。
黒人は顎を引きながらその場で背面跳びをした。健太郎の斬撃は宙を裂き、空中で一回転した後、着地した男は同時にサブマシンガンの引き金に握力をかけた。
ほとんど聞こえないような気の抜けた発砲音と共に、弾丸が巨人の身体に命中した。しかし健太郎は胸や腕から煙を噴出し、受けたダメージに顔を歪ませながらも黒人へ飛び掛かった。
「Brute!?」
巨人の正体が獣人であることにようやく気づいた黒人は、目を剥きながら右手に跳ね飛んだ。健太郎も着地して体勢を立て直すとその後を追おうとしたが、やってきた上り列車に行く手を阻まれ、思わず顔を手で覆った。
列車を背にしながら、黒い男は自分の判断が正しかったことに小さく握りこぶしを作って喜びを顕わにした。だが彼の前に突風が吹き、栗色の髪の毛が視界に飛び込んできた次の瞬間、意識は遠のき体重がまったく無くなる感覚が襲ってきた。
右手を前に突き出したまま、リューティガーは線路の側で呼吸を整えていた。彼の目の前にいた黒人の姿はもうすでに無く、その代わりに青黒い肌をした巨体が近づいてきた。
「跳ばしたのか……」
健太郎の問いに、リューティガーはゆっくりと頷き返した。
「本部の諜報部へ跳ばした……後は四課がやってくれるでしょう……」
「うむ……」
真夏の熱風が二人に吹きつけたため、巨人はチューリップ帽を、少年は栗色の髪にそれぞれ手を当てた。リューティガーがふと周囲を見渡すと、雑居ビルの屋上で陳の丸い身体が上下に跳ねているのが見えたため、彼はくすりと微笑んだ。
「結局、奴は何がしたかったのかネ?」
ビルの屋上で合流した三人の中で、最初に今回の任務への疑問を口にしたのは陳である。
「米兵の振りをして日本人女性を殺害する……最初は娼婦を……やがて米兵という偽の証拠を残しつつ、最後には一般人、それも小さな子供の女の子を殺す予定だった……中佐の命令書だとそうなってましたけど……」
その内容は陳も健太郎も目を通し済みであり、今更再確認の必要も無かったが敢えてリューティガーは口にした。
「そんな小さな作戦にあいつが? カラー・暗黒が雇われていたとは、かなりもう意外ネ?」
「陳さんはカラー・暗黒のことを知ってるんですか?」
リューティガーの問いに、陳はたっぷりと突き出た丸い腹を一度だけ叩いた。
「暗殺プロフェッショナルの中でも一流ね。暗黒と言えば龍(ろん)兄弟やE夫人、首盗りに匹敵する殺し屋ヨ。業界で知らない人いないし、売春婦殺しなんかじゃもったいないことネ」
「僕も本部で一度だけ会ったことがある……確かに外部スタッフの中でも依頼料金はAランクでした……」
「しかし敵に雇われてるとはね。意外の連続よ。連中の資金はかなりのものネ」
売春婦や子供を暗殺するには殺し屋のレベルが高すぎる。つまりはこうした自分たちの妨害も想定しての人選ということなのだろう。リューティガーはそう納得すると、小さく息を吐いた。
「戻ろう……長居は無用だ」
小さく低い声で健太郎がそうつぶやいたため、リューティガーと陳は同時に頷いた。
「私の車で帰ることヨ」
今回の任務は現地集合だったため、リューティガーは陳と健太郎がどうやってこの歌舞伎町へやってきたのか知らなかった。車という交通手段に意外さを感じながらも、彼は先導して外付けの階段を下りようとする陳の後をついていった。
ビルのすぐ脇の路地に日本製の赤い軽自動車が停められていた。それはいかにもくたびれた中古車の外観であり、扉を開ける陳や後部座席へ窮屈そうに巨体を納めようとする健太郎の姿に若い主は無邪気な笑みを浮かべた。
空間を一瞬で跳躍する能力を持ったリューティガーではあったが、たまにはこんな移動手段も悪くはない、と思いながら手招きする陳に大きく頷いた。
助手席に乗り込もうとしたリューティガーは、路地の出口に一瞬だが見たことのある人影を認めた。
「どうしたね坊ちゃん 早く行かないと駐車違反とられるネ」
「あれ……あの人って……遼くんのお父さんだ……」
そうつぶやいたリューティガーはふらふらと路地から大通りへと出た。白いよれよれのワイシャツに皺だらけのスラックス。疲れきった背中は確かに島守貢のそれである。少年は言葉にできない奇妙な違和感を抱き、人ごみを歩くクラスメイトの父親の後ろ姿を凝視していた。
「遼くんって……あの能力者の男の子か?」
後ろからやってきた陳に頷き返したリューティガーは、目で追っていた貢がひときわ派手で大きなネオンの店へ入っていくのに気づき、その看板を遠目で見た。
「パーラー……大銀河……パーラーって……なんです……?」
「私も知らないネ。けどあの店構えはパチンコに間違いないネ」
「パチンコ?」
「そう、坊ちゃんは知らないかな?」
「え、ええ……なんです……? 武器のパチンコなら知ってますけど……」
「スリングとは全然違うよ。小さな玉を穴に入れるギャンブルね。もう日本の一番のギャンブルヨ」
「ギャンブル……」
力を借りたい能力者であるクラスメイトの父がギャンブル店に入っていく。他の客を見るといずれも普通の庶民であり、どうやら掛け金も大したことのない大衆娯楽のようである。それほど不安に思うこともないだろう。そう判断したリューティガーは陳と共に路地へ戻り、車に乗り込んだ。
6.
夏休みに登校することなど、これまでプール以外には無かった。意外と部活で来ている生徒が多いのだなと、島守遼は廊下の窓からグラウンドで野球の練習をする部員やすれ違う上級生たちをちらちらと見ながらそんなことを考えていた。
部室のある北の新築校舎へ向かおうとしていた遼は、中央校舎の廊下で足を止めた。
「あれ……えっと……関根?」
下駄箱に向かおうとするクラスメイトの姿を見かけ、そう声をかけると小太りで背の低い男子生徒が振り返った。
「と、島守君……」
関根茂。普段は大人しく目立たない存在であり、入学直後になんとなく携帯電話番号を教えてもらって以来、遼にとって付き合いはまったくなかった。関根は学園祭の出し物に決定したラーメン店の企画発案者であり、自分もその実行委員にクジが当たってしまった以上、彼とはこれから付き合いも増えるのだろう。そう思った遼は、下履きを手にした関根に意識を向けた。
「どうしたんだよ。俺は部活だけど……お前も?」
「い、いや……僕はね。教室のサイズとかを計りに来たんだ」
そうつぶやくと関根は鞄からメジャーとメモ帳を取り出した。
「間取りを計りにか? もしかして学園祭の準備?」
「あ、ああ……店の設計をしておこうと思って……図面さえできてれば二学期から準備しても間に合うかなって」
真面目に準備に取り組む関根の姿勢に遼は感心し、これなら実行委員である自分の負担も案外軽いのではないかと都合のいい解釈に至った。
「にしても関根がアイデア出すとは、思わなかったよ」
「う、うん……他に誰かが提案してたら……僕も企画書を出すつもりはなかったんだ」
「へぇ……俺も一応実行委員だから、一緒にいい店出そうな」
ありきたりな激励の言葉を口にした遼だったが、関根は小さな目を輝かせて大きく頷いた。
「う、うん……美味しくしようね……でもってみんなが笑顔になるような……そんなお店を……」
このクラスメイトのラーメン店に対する情熱は、たぶん本物なのだろう。そう感じた遼は目を細めて頷き返した。
しかし、現在の彼にとって最優先事項は一向に上達しない演技の修練にある。関根と別れた遼は急いで部室へと向かった。
「島守くん……」
開いている部室の中から声をかけてきたのは蜷河理佳である。遼は笑顔を向けると「おはよう」と挨拶をした。
時計の針は九時を指していて、部室には十数名の部員たちが台本を手にしたり、衣装を直していたり、言葉を交わしていたりとそれぞれである。部屋を見渡した遼は隣に佇む長い黒髪の少女に再び微笑みかけ、彼女も同じように返した。
「あの二人って、付き合ってるらしいですね」
台本のチェックをしていた乃口部長にそう話しかけたのは二年生の女子部員、福岡だった。
「え? うそ!?」
「ほんとですよ」
意外そうに眼鏡を直す乃口に対して、ぴっちりと切り揃えた前髪の毛先をいじりながら、福岡はにやけつつそう返した。
「つ、つつ、付き合ってるって……もう……ど、どのぐらいなのよ?」
顎を突き出しながら乃口は興味深そうに後輩である福岡に尋ねた。
「な、なんでも一度デートしたとかって……二人と同じクラスの子がいってましたよ」
あまりに乃口が勢いよく乗り出してきたため、福岡は少々たじろぎながら苦笑いを浮かべた。
「早いのねぇ……最近の一年生は……」
楽しそうにお喋りをする二人の一年生を見ながら、乃口はまあそれなりに似合いのカップルだと思い微笑んだ。
「福岡さん。台本、直しておいたから」
部長と一緒に遼と蜷河理佳を眺める福岡に、二年生の男子生徒である平田が台本を突き出した。彼は労務者の殺人犯役という重要なポジションを担いながらも台本や演出にもタッチしていて、前回の稽古で福岡が「しっくりこなーい」と言っていた台詞「あたかも疑惑が螺旋のように絡まり、その行く果ては見えないでいる」を「まるで螺旋だな。そう絡まり合いながら上っていく二つの謎……その果てはまだ見えない……」に修正してきた旨を説明した。福岡は一度その修正を口にすると。「ずっといい感じ」と平田に笑みを向けた。
「はいはい。それじゃぼちぼち始めるから。みんな集まって、まずは本の直しがあります」
乃口は手を叩きながら、それぞれなんとなくばらばらになっていた部員たちを部室中央に集めた。これが部活動最初のいつもの合図であり、島守遼も音を聞けば自然と身体が部室中央に向くようになっていたが、彼自身はそんな慣れには気づかないでいた。
「あの台詞って平田さんが直してきたんだよ」
稽古の合間、遼は神崎はるみからそんなことを聞いた。彼が「ふーん」と対して興味なさそうに返事をすると、はるみは眉を顰めて腰に手を当てた。
「台本書いたのは、部長なんだよ。なのに直しは平田さんがやってて、これって凄いことなんですからね」
「どうして?」
「だって部長、他人が直した方がいい台詞になるって、珍しいのよそーゆーのって。自分の書いた本なら他人に触らせたくないってのが大半なんだから」
そういうものなのか、はるみの言葉に一応の納得をしながらもあまり興味が抱けない遼であり、生返事をして頷きながらも彼の視線は蜷河理佳を追っていた。
いつもつまらないことばかり言うんだな。
これが島守遼の、最近神崎はるみに抱いている感想である。気持ちが態度に出やすい彼はどこまでも素っ気無く、相手のはるみはすっかり機嫌を悪くして自分の衣装であるメイド服を乱暴に握り締め、隣の準備室へ引っ込んでしまった。
「あ、あれ……?」
はるみとすれ違った蜷河理佳は、彼女があまりの剣幕で準備室に入っていくのに首を傾げた。
「午後からの練習。俺、夕方にはバイト行かなきゃな」
遼がそう話しかけてきたので、蜷河理佳は唇に指を当て彼を見上げた。
「た、大変ね……練習の後なのに……」
「まぁね。だけど仕事も慣れてきたし……なんか頼られてるみたいだから……居心地いいんだ」
「へぇ……凄いんだ……」
羨望の眼差しを受けながら、彼は照れ隠しで頭を掻いた。
「知ってた? 麻生ってボディビルやってて、中学のころ大会とかにも出てたんだぜ」
「あ、麻生くんが……そっか……彼、身体大きいものね」
「だろ。だけど意外って感じだよな。あいつ結構地味目じゃん」
「う、うん……落ち着いてるって感じ……」
「それがさ、笑顔でマッスルポーズだぜ、想像しただけで俺、笑いがとまんなくってさ」
両手でボディビルダーのポーズを作りながら笑う遼に、蜷河理佳も口に手を当てて全身を震わせた。
「わ、わるいよぉ……そんなに笑ったら……」
「だってさ、おかしいだろ。なんでボディビルの連中って、いっつも笑顔でポーズ、決めんだろうな?」
「さ、さぁ……」
「よし、今度支配人に聞いてみようっと。そうそう、その支配人ってのが、また濃い人でさ……」
蜷河さんとなら、いつまでもおしゃべりができる。
たわいない、自身の成長にはまったくつながらない会話だったが、島守遼は蜷河理佳とのコミュニケーションに充足感を見出していた。
自分に芝居の才能が無いことぐらいは嫌というほどに理解している。通し稽古後の反省会では自分が一番注意されることが多い。特に平田先輩などは歯に衣着せぬ発言で遼の問題点を指摘し、その苛烈さは乃口部長がフォローに入るほどでもある。しかし最近の遼は以前と違い、それでも落ち込むことはずっと少なくなっていた。
開き直ったのだろう。彼は自分の心理状態の変化をそう自己分析していた。文句が出るのも当然。なにせ自分は素人であり、そもそも役者を志したことなど一度もない。神崎はるみに誘われるまま、蜷河理佳との接点が増えるから部活動を続けられただけのことである。それに自分なりに努力もしているし、最近ではずっと注意される量自体が減ってきている。たぶん、本番までには一応なんとかなるレベルには達するだろうし、たかが学園祭でやる芝居であってコンクールなどではない。
まあなんとかなるでしょ。それが入部二ヵ月を越えた島守遼の、偽らざる本音だった。
7.
夕方からのアルバイトを終えた島守遼は、地元駅から家路を急いでいた。明日は演劇部の練習もなく、朝から一日じゅうあのトレーニングジムで時給を稼ぐことができる。すぐにでも夕飯を食べて寝てしまいたいという気持ちが最優先であり、練習と労働の一日は彼の肉体を疲れ果てさせていた。
遼の住むアパートには風呂が無く、二日に一度銭湯に行くのが習慣になっていたが、ジムのシャワーは自由に使ってもいいという支配人の計らいのおかげで、最近では仕事の後に麻生と二人で汗を流すのが常であり、ゆったりと湯船につかることもない。
安らぐことの少ない毎日ではあるが、それもあと少しである。もう何日か働けば目標金額には到達し、後は厳しくも楽しい合宿が待っている。
外付け階段を駆け上がりながらようやく空腹を思い出した彼は、果たして今夜の夕飯に父は何を用意してくれているのだろうと想像し、まあどうせ魚の煮付けか野菜炒めだろうと口元を歪ませた。
「ただいまー」
扉を開けた遼は真っ先に食卓へ意を向けた。しかしそこには何の準備もされておらず、それどころかコンロ付近からは白い煙が立ち込めていた。そして、床に倒れている小さな父の姿を最後に発見した段階で混乱は最高潮に達した。
「お、おい……おいおいおいおいおい……」
遼は声を震わせながら父を抱きかかえた。額にはびっしょりと汗をかき、呼吸は荒く体温は異常なまでに高い。
「なんなんだよ!!」
遼は父をそっと床に置くと台所の窓を開け放った。煙が外に出て行くのを確認した彼は、コンロに視線を向けた。火のかけられたままのフライパンには炭化しかけた肉と野菜が燻っていて、それが煙の正体であることは明白である。遼は火を止めると台拭きの手ぬぐいを水で濡らしてそれを絞り、父の汗を拭った。
「親父……なぁ親父……どうしちまったんだよ……」
情けない声を出しながらも、遼は父が昨日今日連続で稼ぎに出て行く珍しい日であることを朝の段階で知っていたし、その際に彼が咳き込んでいた事実もなんとなくだが覚えている。「父は風邪気味なのだろう」そんなぼんやりとした認識でしかなかったが、まさか倒れているとは想像もしておらず、これまでに経験したことの無い事態に動悸は激しく高鳴り、煙に咳き込み、全身からは大量の汗が噴き出していた。
父の部屋の襖を開けた息子は、中に入ると戸棚から健康保険証を取り出し、台所に戻って父を背負った。とりあえず病院に連れて行くしかない。そう判断した彼は背中に感じる体重の軽さに戸惑いつつアパートを飛び出し、乏しい記憶を頼りにこの近所で一番大きい都立病院まで駆けていった。
夜だというのに急患に対して嫌な顔一つせず、まったく当然の職務とばかりに父をベッドへ搬送して検査を始めてくれた医師や看護婦たちの手際に、息子は圧倒され続けた。こうなると自分にできることなど何もなく、せめて邪魔にならないように病室の隅でじっとしていることぐらいしかできないのが島守遼の器量である。
薄暗い病院の廊下で汗が乾いていくのを感じながら、遼は予期せぬ出来事とは決して言い切れぬこの事態に悔しさを覚えようとしていた。
「肺炎を起こしかけてましたね……発見と処置が早かったのが幸いです」
眼鏡をかけた初老の医師は遼に対して父、貢の病状をそう説明した。どうやら話を聞いていると、かなり風邪をこじらせた結果のようであり、要は「無理をして」しまったらしい。
「ど、どのくらいで治るものなんでしょうか……」
「まぁ、そうですね……三、四日は入院しないといけませんね……」
命に関わるような病気ではない。その事実が息子を安堵させてはいたが、それとほとんど同時に訪れた経済的な不安に表情を曇らせた。対座する医師が気遣いで首を傾げるのにも構わず、遼は膝に爪を立て肩を震わせ、不安の副産物である悔しさを顕わにした。
結局、遼はその晩アパートに戻り、野菜炒めを急ごしらえしてそれを夕飯にした。気がつけばもう日付が変わっていて、疲れもしていたが彼にはやらなければならない計算事があった。
洗い物を済ませた遼は、父の部屋に入ると机の引き出しから家計簿と銀行の通帳を取り出し、二つを広げながら床にごろりと寝た。
支出予定の金額と通帳の残高、そして自分のアルバイト代という三つの数字が頭の中でぐるぐると回りだしたが、支出という巨大さに対して残りの二つはどうにも心細く、遼は顔を顰めて涙目になっていた。
「さぁさ、食べるね!! 今日もお祝いよ!!」
昨晩、来日して七件目の任務を完了したリューティガーと二人の従者は代々木のマンションで祝杯を挙げていた。
食卓には四川料理人である陳の作った大皿料理が所狭しと並び、リューティガーはそれを長い箸で摘みながら笑顔を浮かべていた。
たった三人の祝杯ではあったが、一人で異国にやってきた彼にとって、二人の仲間は既にかけがえの無い存在になりつつあった。それだけにリューティガーは先ほどからいちいち料理の解説を続ける陳はともかく、部屋の隅でじっとしている巨体の持ち主、健太郎に対して打ち解けられない寂しさを感じていた。
「さぁさ、たーんとお食べなさいヨ!! どれも私の自信作ヨ!!」
「け、けど陳さん……僕一人じゃこんなに無理ですよ……」
「私も食べるヨ。残った分はもうお弁当に使うネ」
「が、学校休みなんですけど……」
「いいのいいの。いいから食べるネ!!」
笑顔で背中を押す陳に少々辟易としながらも、このあつかましさは一つの長所だとリューティガーは感じていた。
「ね、ねぇ陳さん……健太郎さんは……食べないの?」
気を遣い、小さな声で少年はそう尋ねた。
「相方は薬で身体を保ってるネ。私たちと同じ食事はしないことヨ」
「け、けど……バイオフェノメーヌでも僕たちと同じもの食べられるんでしょ? 口だって同じだし……味覚だって……ね」
陳の四川料理を毎日食べてきたリューティガーだが、その相方の健太郎が食事をしている光景を目撃したことは無かった。何度か首筋に注射をしてるのは見かけ、なるほど生体改造を受けた彼であればああいった生命維持の方法もあるのだろうと納得もしていた。しかし今はお祝いの最中であり、できるだけ皆で気分を共有する必要があると若き主は判断した。
酢豚を小皿に盛り付けたリューティガーは、それを出口付近でしゃがみ込んでいる青黒い肌をした巨人に差し出した。
「健太郎さんも……食べましょうよ」
しかし巨人は主へ視線を向けることなく、膝を抱えたまま首を小さく横に振った。
「あはは……もしかして好き嫌いとか多いんですか? ダメですよそんなのじゃ」
おどけて見せたリューティガーだったが、健太郎は首を振る動作を止めることが無くその挙動は次第に激しくなり、やがて被っていたチューリップ帽が宙に舞い、長い頭髪が広がった。
「健太郎……さん……」
ただならぬ拒絶に主は身を引き、そんな彼の肩を陳が軽く掴んだ。
「相方は……食わないのと違う……もう……食えないネ……」
「食えない……?」
「そう。口に物を入れても吐くだけネ……だから薬だけ……」
「そ、そんな……改造の……?」
恐る恐るそう口にしたリューティガーに対し、陳が静かに首を横に振った。
「深い……苦しい……昔のこと……そう……いつか坊ちゃんにも話すネ……」
従者である頼もしき巨人にどのような過去があったかはわからない。無論、それを同盟本部に照会するという手立ても知っているリューティガーだったが、二人が自分から話してくれるのを今は待つべきだと思い、酢豚の小皿を持ったまま椅子に腰掛けた。
「悪かった……健太郎さん……せめて……僕が食べる……うん……残さず全部……」
下唇を突き出したリューティガーは、箸を構えて勢い良くテーブルの料理の山へと挑みだした。そんな前向きな主の姿に陳は頷きながら床に落ちていたチューリップ帽を拾い上げ、それを巨人の頭へ乗せた。
「是好的主人」
陳がそう北京語でつぶやくと、ようやく冷静さを取り戻した健太郎は赤い目で主の背中を見つめ、小さく頭を下げた。
8.
翌朝、いつもより早めに起きた遼は朝食を摂ると、真っ先に歩いて数分ほどの距離にある都立病院へ向かい、父の入院する大部屋へ向かった。エアコンが効いているため病院内は涼しく、入院というのも悪くはないと思いつつあったが、大部屋にいる他の患者が全て老人であり、実にくたびれた視線をこちらに送っていることに気づくと、遼はできるだけ早くこの部屋から出て行きたいとさえ思った。
「そうか……飯作ってる最中にか……」
上体を起こして病院の朝食を食べ終えた貢は、頭を掻きながら息子に照れ笑いを浮かべた。
「なんか肉焼きっぱなしで、台所なんて煙だらけでさ。ちょっと間違えたら火事だったんだぜ」
「ははは……はぁ……す、すまんな」
顔色はまだ悪く、ただでさえ普段から不健康そうな佇まいである父がこんな病室にいるとそれこそ不治の病の大病患者にも見える。遼はそんな連想をしながらも、病院の清潔さと薬品の匂いに胸を詰まらせ、息苦しさを感じ始めていた。
「明後日には退院だって医者の人が言ってたけど……あのさ……」
遼はベッドの脇にある椅子に腰掛け、父の耳元まで顔を寄せた。
「通帳と家計簿、見たんだけど……やばいじゃん」
「あ、ああ……ここんところ……負けが込んでてな……」
「なぁ……しばらくは俺がバイトで稼ぐから……親父はじっとしててくれよ……」
息子の提案に父はぎょっとなり、咳払いをした。
「お、おいおい……」
「負ける時期ってあるんだろ……? なら今は俺が稼ぐ……金が減る方が不安だ……俺のはやってれば、間違いなく稼ぎになるわけだし」
「し、しかしな……いくらなんでも……」
情けなく眉を下げたまま父は息子の肩を掴もうとした。しかしそんな挙動を察知してか、遼は立ち上がるとその静止を拒絶した。
「遼……に、西馬込の駅前に新装開店のが……そ、そこなら……」
縋るような父の声を背中に受けた息子は、「病室で怒鳴りたくない。他の人たちに迷惑だろ」とぶっきら棒に言い放ち病室を後にした。
父が過労で倒れた。これまでの状況を他人に説明することがあるのならその一言で済むのであろう。
「親父が倒れてさ……過労ってやつ?」
そのままの言葉をトレーニングジムのロッカールームで島守遼は口にした。
「過労? 仕事のし過ぎか?」
ジャージに着替えながら表情無く麻生が尋ねてきた言葉に対し、遼は何度も頷くとタオルを首からかけた。
「大変だな……」
「ああ……だからさ……バイトがんばらないといけないし……合宿も……行けないよなぁ……」
「島守んちって……共働きとかじゃないのか?」
「あ? うち、お袋死んでるから。親父だって、まともなサラリーマンじゃないし。だから休んだ分だけ、収入が減るんだ。明後日には退院だけど、しばらくは安静にしてないといけないし」
内容に含まれた重要な事情に気を遣わせたくないため、遼は早口でそうつぶやくと自分もジャージに着替えた。麻生は口を半開きにしてまん丸な目を何度も瞬かせながら、クラスメイトの家庭環境にただ驚いていた。
「ひ、日雇いなのか? 島守の親父さんって」
そんな素朴な麻生の疑問に対し、遼は背中を向けたまま右手を泳がせた。
「ならまだマシ。ウチの親父ってさ、パチプロ。最低だっつーの……」
ロッカールームを出て行く遼の後ろ姿を見つめながら、麻生はちりぢりの髪を撫で鼻を鳴らせた。
「いよっ!! おっはー!!」
ジムに姿を見せた遼の背中を、支配人の呉沢が力強く叩いた。
「お、おはようございます呉沢さん……」
「どーしたのさ……なーんかパワー不足ってカンジ!?」
“パワー”の部分に妙なイントネーションをつけながら、呉沢は絡みつくような視線を向けた。
「お、親父が入院しちゃって……昨日は遅くまで病院で……」
「ふぇ!! そいつぁ一大事じゃあないの!?」
オーバーに驚く若禿げの支配人を見ながら、遼は本気で心配するこの人物が悪い人間とは思えず、せめて愛想笑いだけは欠かさないようにと思った。
「た、大したことないっスから。ただの風邪みたいで……」
「そっか……まぁでもやっぱ健康が一番って奴だし、普段から鍛えてればねぇ……」
「はは……親父……運動なんて全然ですから……」
「ふーん、でも遼くんの父君なら……きっとなぁ……」
「あ、全然。チビだし痩せてるし猫背だし」
顎に手を当てて未練たっぷりの目を向ける呉沢に遼は背を向け、朝の清掃をするためロッカーからモップを取り出した。
とにかく自分に今できることはこの収入を欠かず、家計を安定させることである。真面目に働こう。気持ちを引き締め清掃に励む勤労少年の姿を、呉沢は眩しそうに見つめていた。
その日の勤務は朝から夕方までであり、夕暮れの宮益坂を島守遼と麻生巽の二人が駅に向かって歩いていた。
「なぁ島守……飯、食ってくか?」
「そうだなぁ……どーせ親父は病院だし……けどなぁ……」
口元を歪ませ視線を泳がせる遼に、麻生は珍しく笑みを向けた。
「心配するなよ。奢るから」
「え!? マジ?」
「ああ。お前のおかけで俺も自分のトレーニング時間ができたし……正直、感謝してるんだ。いいだろ?」
そう問う麻生に対し、断る理由のない遼は笑顔で何度も頷いた。
二人の男子高校生は渋谷駅前まで出ると、そのままガード下を通過しハチ公前の交差点を越え、飲食店や風俗店が立ち並ぶ界隈までやってきた。
「そう言えば……そうそう、この辺ってこないだ沢田と来たんだ……で……麻生が渋谷でバイトしてるってこともそこで聞いてさ……」
「そうか……沢田から聞いたのか」
「ああ。あいつから麻生の名前が出てきたのがちょっと意外でさ。よく覚えてるよ」
「あいつとはウエア買うとき道玄坂のショップで会ってな」
「えっと……あぁ……あそこか」
遼は二ヵ月ほど前に沢田たちと訪れたスポーツショップでの出来事と、足の小さなクラスメイト小林哲男のことを同時に思い出して苦笑いを浮かべた。
「なら……ここも聞いたか?」
立ち止まった麻生が指差した店は、以前沢田と見かけたことのある「Full metal Cafe」というバーであった。
「あ、ああ……聞いた聞いた……向田愛がバイトしてんだろ?」
「ここで食ってこうぜ」
ぶっきら棒に言い放つと、麻生は慣れた所作で店のドアを開けた。「飯を食う」には少々場違いなムードの、いかにも大人のバーといった黒い店構えだったため遼は躊躇したが、スポンサーがその中へ入ってしまった以上仕方なく、自分も後に続いた。
店の中はカウンター席が十席にテーブル席が五席と外から見たより意外と広く、黒塗りの壁と床が間接照明で照り返り、落ち着いたムードを醸し出していた。どうやら開店したばかりのようで他の客はまだ誰もおらず、先に中へ入った麻生は早速カウンター席に座っていた。
「ここって飲み屋だろ?」
麻生の隣に座りながら、遼はそう毒づいた。
「食えるよ。俺はよく使ってる」
「ふーん……な、なんかアダルトって感じだよな」
「そうか?」
口元に笑みを浮かべながら麻生はメニューを渡した。開いてみると案の定、酒のメニューばかりであり、食べ物と言えばつまみとピラフにパスタ程度しかなく、遼はため息をついた。
「ボンゴレがお勧め。めちゃくちゃうまいんだぜ」
「な、ならそれでいいや。大盛りでいいか?」
「ああ」
頷いた麻生はカウンターの中へ身を乗り出すと、口元に手を当てて声を拡声した。
「マスター!! お客さんだぞ!!」
そう言えば入店してから店員らしき人物を見かけていない。遼がそう思っていると、奥の階段から一人の男性が姿を現した。
ブーツにエプロン姿のその男は麻生たちを一瞥すると「よう」と一声かけカウンターにやってきた。
短く刈り込んだ髪は茶色で、口髭をたっぷりと蓄えた人相はそれなりの年齢を感じさせ、事実顔のあちこちには皺が刻まれている。目つきは鋭くなく、むしろ人懐っこい光を反射していたが、その奥にある鋭さが遼を若干だが緊張させていた。
「誰? 巽くんの友達?」
「ああ。バイト仲間」
そう紹介された遼は対面するマスターに会釈をし「島守っていいます」と挨拶した。
「ボンゴレの大盛り二つ。あとバドを二杯」
麻生の注文に、マスターは顔を顰めた。
「だめだよ巽くん。未成年だろ君たち」
「ま、それはそれで。一杯だけにしとくからさ」
「仕方ないなぁ……」
文句を返しながらもマスターは背を向け、調理の準備を始めた。
「なぁ麻生、“バド”ってなんだよ? まさか酒か?」
「ビールだけどジュースみたいなもんだ」
これまでに島守遼は飲酒の経験が無く、麻生の注文に口元は歪み期待に鼓動が高鳴った。
「すぐに飲んでくれよ」
グラスに注ぎ済みのビールをマスターは手早く出し、二人の未成年はそれを抱え込むように背を丸めた。
「じゃ、労働に乾杯」
「あ、ああ」
麻生と遼はグラスを鳴らし、それぞれに口をつけた。
初めてのビールは苦く、それでいてどこか果実のような酸っぱさを島守遼の舌に与えていた。
「い、いける……つーか……う、うまい!!」
「だろ。バドは初心者向けなんだよ。ほら、ぐいっといけよ」
「お、おう」
妙に愛想のいい麻生に勧められるままに、遼はグラスのビールを一気に飲み干した。マスターは笑顔をほころばせる高校生を横目で見ながら、「不良……」とつぶやき鍋に火をかけた。
「なぁマスター……向田は今日来てるの?」
麻生の問いにマスターが答えようとすると、奥の階段からエプロン姿の少女が姿を現した。
「まった酒飲んで……だめじゃないの」
不快感を顕わにしながらカウンターへやってきた少女の名は向田愛。仁愛高校1年B組の生徒であり、つまりは遼たちにとってクラスメイトにあたる。
体重は七十キロを超え、重戦車か達磨といったその外見は一度見ただけで忘れることがないインパクトじゅうぶんな貫禄であり、ふてぶてしそうな面構えからは常に不機嫌そうなムードを醸し出し、クラスの中でもあまり他者とのコミュニケーションをとらない存在でいる。
「一杯だけだって」
言い訳しながら苦笑いを浮かべる麻生と、グラスを手早く下げて洗い出す向田を見比べ、遼は両者の奇妙な一致を見たような気がした。
「む、向田さんってここでバイトしてるんだ?」
「あん? まっねぇ」
ジロリと遼を一瞥した向田はそうつぶやくと洗い終えたビールグラスの水を切り、すぐにマスターの作るボンゴレの手伝いに入った。その挙動には無駄がほとんど無く、意外と高い彼女の声と相まって、これまでの印象を多少修正する必要があるとさえ思えた。
「な、なんか意外だよな」
遼のつぶやきに、麻生もニヤリと白い歯を見せた。
「学校だけが全部じゃねぇしな……マスター、水をくれ」
「あ、わたしやります」
注文を聞いた向田は水を入れたグラスをカウンターに置いた。麻生はスポーツバッグからプロテインの錠剤を取り出すと、グラスの水と一緒にそれをごくりと飲み込んだ。
しばらくして出来上がってきたボンゴレの味は麻生の言うように絶品であり、ほろ酔い気分も手伝い、島守遼は幸せな気分で奢り飯にありついていた。
「で、なんで島守くんが麻生くんと一緒なわけ?」
皿を下げながらそう尋ねる向田に、遼は「バイト仲間」とシンプルに説明した。
「ななっ? 島守くんもボディビルやる!?」
口元を尖らせながら向田がおどけて聞いてきたため、遼はへらへらと笑いながら「ちゃうちゃう」となぜか関西弁で返し、マスターは釣られて笑みを浮かべた。
マスターの視線の先、酒類が詰まった棚の奥には一枚の写真が飾られていた。
その写真には三人の少女と一人の少年がフレームに収まっていた。四人のいずれもが生命力に溢れた笑顔でファインダーに強い意を向けていて、瑞々しさがフィルムに焼きついているようであり、マスターの宝物の一つであった。
写真と遼たちを見比べたマスターは軽く頭を振り、MDデッキの再生ボタンを押した。
9.
初めて呑んだビールですっかり上機嫌になっていた島守遼だったが、さすがに一杯だけでは酔っ払うまでには至らなかった。帰りの電車内ですっかりいつものコンディションに戻った彼は、父の見舞いをしていこうと思い立ち、私鉄駅を降りてから真っ先に都立病院へと足を運んでいた。
面会時間の締め切りにはあと三十分ほどあり、それだけあれば様子を窺うのにじゅうぶんだろう。そう思いロビーへ入った遼に、看護婦が小走りに寄ってきた。
「え?」
看護婦の表情があまりにも深刻で青ざめていたため、遼の体内に残っていたわずかなアルコールは瞬く間に気化してしまい、体外へと蒸発していった。
仁愛高校のグラウンドには誰の姿も無く、ナイター照明もすっかり落ちていて熱風に砂埃が舞うばかりである。その何も無い空間に、一人の少年が突如姿を現した。
肩で息を整えながらリューティガーは頭を何度も振り、土のグラウンドに唾を吐いた。胸を押さえて頭を上げた彼は真っ暗な校舎を見上げ、深く息を吸い込んだ。
校門からバス通りに出たリューティガーはゆっくりと坂道を下り、その足取りはしっかりとして力強く表情には何かの決意が浮かんでいた。
歩道橋を超え坂道を上り路地に入ると、やがて二階建てのアパートが姿を現し、彼はそこで足を止め電柱に右手を当てた。
その視線は二階の中央に向けられていたが、両隣と異なりその部屋には電気がついておらず、リューティガーは瞬きをして眼鏡をかけ直した。そして彼は両の拳を握り締めると眼球に血管を浮かび上がらせ、アパートの内部を知覚してみた。
やはり誰もいない。そう認識した彼は、顎を引き目の焦点をぼやかせため息をついた。少し体重を電柱に傾けた彼は、背後から肩を掴まれたのに全身で反応して振り返った。
「りょ、遼くん……」
接近者が敵ではないことを悟ったリューティガーは意を消し、長身のクラスメイトを見上げた。
「なにやってんだよ、真錠……」
「そ、その……」
「まぁいいや……」
舌打ちすると、遼はそのままリューティガーを通り過ぎ、小走りにアパートへ向かった。
「どうしたんです遼くん!!」
呼び止める声に背中で反応した遼は、苛つきながらも振り返った。
「入院してる親父が抜け出しやがった!! いないんだよ!!」
「え!?」
入院という事実も知らなかったリューティガーは困惑して、視線を泳がせながら遼へと駆け寄った。
「アパートには誰もいません……悪いけど、遠透視させてもらいました……」
「遠透視って……ま、まぁいいけど……くそ! じゃあ、どこ行ったんだよ……」
親指の爪を噛みながら、遼は目を見開いて何かに思い当たった。
「真錠、お前、俺を跳ばしてくれ!!」
両肩を掴まれそう頼まれたリューティガーは「え?」と漏らして躊躇した。
「こないだみたいに跳ばしてくれ、病み上がりだからあんまり時間が経つとやばいんだよ!!」
「け、けど……どこに跳ばせば……?」
戸惑いつつも自分の異なる力を当てにしてくれるクラスメイトに対してリューティガーは素直に嬉しくもあり、そんな温かな感情は掌を通じて遼にも伝わっていた。
「西馬込だ……ここからそう遠くはない……」
「に、西……? だ、ダメです……」
「なんでさ!?」
遼が強い意を向けた瞬間、栗色の髪をした転入生の肩を掴んでいる掌から、ある言語情報が伝わってきた。
『行ったことや……予想できない場所には跳べないし……跳ばせない……?』
それがリューティガー真錠の考えであることぐらい、島守遼にも理解できた。しかしここまで明確な言語情報が伝わってきた経験はこれまで無く、彼は気味の悪さを覚えて手を肩から離そうとした。
しかし、その手首をリューティガーは握り返し、反対に強い意を向けてきた。
『僕はわかりやすく思考を言語化しているんです。だから遼くんと言葉もいらずに意思が疎通できる』
『お、お前の能力なのかよ……』
『いいえ、これは君の異なる力の一つ……接触式読心能力だ……』
『ど、どうでもいいけど……時間がねぇんだ……』
『遼くん……行きたい場所……西馬込って所は行ったことがあるのですか?』
『ある……何度か……』
『イメージして……僕にそれを伝えて……』
『な、なに……?』
『時間がないのでしょう? 早く!!』
強烈な意思の要求を受けた遼は、頭が痺れる気味の悪さを感じながら、思われるままに地下鉄西馬込駅の出入り口を思い浮かべた。
間の抜けた呻き声が一瞬。目を開ければそこは国道一号線沿いの歩道だった。遼の目の前には老人が一人口をぽかんと開けて佇んでいて、その驚きを察した彼は頭を思わず掻いてしまった。
「もしかして目的地はあそこですか!?」
背後から聞こえてくるのはリューティガーの声であり、指差す方角には「パーラーナンバーワン」という派手な看板が見えた。
「そう、新装開店なんだ!!」
叫びながら遼は横断歩道を渡り、それにリューティガーも続いた。
「ちょっと待ってください」
逸る気持ちで店に入ろうとする遼の手首を、リューティガーが掴んで制した。
「な、なんだよ?」
「ここからでもわかります……」
「入って見て回るほうが早いだろ?」
また得体の知れない能力を使うのだろう。そうまでしてあの異常な能力と自分を結び付けたいのか。リューティガーの意図をそう察した遼は、強引に店内へ入ろうとした。
『だってここ……未成年立ち入り禁止ですよ!!』
手首から伝わる意識に、遼は頭を振った。
「ばれねぇって!! それにいちいち頭に響かせるなよ!!」
「でも安全策で行きましょうよ。絶対こっちの方が早いですから!!」
あまりにも強い欲求が伝わってきたため、遼は観念してポスターが貼られたパチンコ店の自動ドア直前で立ち止まった。
『僕の透視情報を、遼くんに伝達します……』
そんな意思と同時に、遼の脳裏に店内のイメージが浮かんだ。
『どうです……見えます……?』
パチンコ台が並び、人々がそれに向かって緊張したり弛緩したりするその光景は、確かに「パーラーナンバーワン」の店内なのだろう。ガラス製の扉であり、中が容易に想像できた遼は、リューティガーの問いかけに頷いた。だが、しかしである。扉には、キャンペーンのポスターが貼られていたはずだ。こんなに明確に、まるでポスターを透過したかのように鮮明なイメージが“見える”はずがない。遼は途端に仰天し、手首を掴み続けるリューティガーの横顔を見つめた。
パチンコ店を見つめる彼の眼球には血管が浮き出て、額には汗が浮かび、傍目からすればギャンブルに取り憑かれた少年が、必勝を期してなにやら念じているようにも思われかねない。これは実に異常な光景で、安全策からはほど遠い。手首を捕まれたまま、遼はリューティガーの背中を押し、扉の正面から店の脇へ移動するように促した。
『た、たしかにスケスケだな……す、すごいなこの能力って……』
『え、ええ……けど……貢さんの姿は……見えませんね……』
『もっと奥だ……一番奥にいると思う……』
『どうしてわかるのです?』
『親父、一発台っていう古い奴しかやらないんだ……最近のアニメがくるくるする奴はできないって言ってた……』
『そ、そうですか……』
無言のまま意思を疎通させた両者は同時に頷き、リューティガーはまるで望遠レンズを操るように知覚の範囲を店の奥まで深めた。
『これだけ壁が薄くて……遮蔽物が少ないと見やすいです……』
『そ、そういうもんなの?』
『い、いました!! あれですよね!!』
歓喜の感情と同時に遼は店の奥でパチンコを打つ父、貢の姿を知覚した。父の様子は真剣そのもので台に向かって身を乗り出し、汗を噴き出したその形相は鬼気迫るものがあり、周囲に客の姿も無いことからどこか孤独にも見えた。
「あのバカ親父……俺がバイトするっつってるのに!!」
リューティガーの手を振り解き、店内に向かおうとした遼だったが、想像していたより強い力で掴まれていたため、それは叶わなかった。
「真錠……も、もういいだろ……ありがとよ」
「待ってください……こ、これって……」
「な、なんだよ……何か見つけたのかよ……」
「は、はい……」
リューティガーの様子にこれまでと違う異変を感じた遼は、もう一度心を開いて彼が知覚している光景を受け入れようとした。
古いタイプのパチンコ台の盤面には現在主流の液晶窓がなく、その代わりに樹脂製の穴の空いた皿状の物体が取り付けられていた。その皿目掛けて大量の銀玉が乱舞していてガラスに反射するのは父、貢の険しい形相である。とりたてて注目するようなヴィジョンには感じられず、遼は鼻を鳴らせた。
「これがどーしたんだよ?」
『皿に載った後……た……玉の動きが異常でした……』
「跳ねるからな。結構不規則なんだよ。なんせあの手前の穴に入れば大当たりなんだ。玉だってわんさかぶつかり合ってるし」
『けど、物理法則に反してます!!』
あまりにもリューティガーが強い意志を伝達してくるため、遼は辟易としながらもクルーンで踊るパチンコ玉の動きに注意を向けてみた。
あれ。
あからさまに皿の外れ穴に落ちようとしているパチンコ玉がその場で停止し、物理法則を無視するかのように上昇した。それは島守遼にもわかる不可解な現象であった。たった一瞬の出来事であり、玉は落下を再開したが、奇妙な動きと同時にガラス越しの父の形相も気迫に満ちたものに変化したため、彼の脳裏にある確信の種が蒔かれた。
親父も……できるのかよ……あれ……
そんな現象は注意を向けてから数分の間に何度も発生し、何が起きているのか理解するのにそれほどの時は必要としなかった。
「ま、まさか……」
「ええ……そうです……」
掴まれていた手首が解放されたのと同時に、リューティガーの紺色の瞳が飛び込んできた。
「親父……お袋が死ぬ前はパチンコなんて全然苦手でさ……それが急に稼げるようになって……仕事まで辞めちまったんだぜ……」
「この力は……遺伝するんです……もちろん……僕も貢さんがこういった力を持ってるとは……知りませんでしたけど……」
こんな特殊で異なる力をパチンコという庶民的なギャンブルにしか使っていない父に対して、息子は笑うしかなかった。彼は唇の両端を吊り上げると「ぐふふ」と奇妙な含み笑いを発しながら堂々とパチンコ店内へ突入し、リューティガーもそれに続いた。
店の奥に一発台へ噛り付く父の姿を認めた息子は、彼の背後で腕を組んで立ち止まった。すっかり銀玉の舞に心を奪われていた父はわが子の存在に気づかず、ただひたすらにクルーンを注視していた。
「遼くん……」
追いかけてきたリューティガーの手を、今度は遼が自分から握り締めた。
『たぶんさ……親父はいつもこんなにまでなってさ……一日に何万円って稼いできたんだ……アホだよな……実際……』
自嘲まじりの意識にリューティガーは戸惑ってしまい、返事ができなかった。
どうするの?
そんな単純な問いだけが遼の脳裏に跳ね返ってきた。
やるさ……俺が手伝う……パチンコ玉は大きすぎるけど……重心をいじるぐらいはできるはずだし……俺の方が親父なんかよりずっと冷静だ。
笑みを浮かべた遼は父の背後からパチンコ台へ視線を向け、それを睨み付けた。
強い意志を掌から感じたリューティガーは、苦笑いを浮かべると親子の共同作業を観察してみようと思い、手を離した。
どうにもコンディションが悪いせいか、父、貢の銀玉をコントロールする力は方向もタイミングもでたらめであり、大当たりの穴へ入るどころかチャンスすら物理法則を無視した動きで潰している様でもあった。そんな今ひとつ把握しづらい状況の上に玉のスピードそのものが早すぎて、後ろから援護の念を発しようにも遼にはそのタイミングが掴めないでいた。
やがて残りの玉もわずかになり、盤面は随分と静かになっていた。これならなんとかなる。そう思った遼は、ようやくクルーンへ乗った一発の玉に神経を集中させた。
未だ息子の登場に気づかない父も発熱による疲労に堪えながら、朦朧とした意識の中で同じ玉に想いを集中させていた。
玉はクルーンの上を跳ね、外れ穴へ落下しかけたがそれは貢の念によって再び逆流し、一直線に当たり穴を目指して進んでいった。
だが、新たに落下してきた玉が当たり穴への軌道を塞ぎ、玉同士が今まさに衝突しようとした。
ずれろ……傾け……邪魔をするな……!!
息子の強い意がガラス板を貫通し銀玉の内部に化学変化をもたらせた。
軌道を塞ごうとした玉は急に重心が傾き、勢い良くクルーンの淵から盤面へと落下していった。そのため、父が制した玉はするすると大当たりの穴へと導かれていき、やがてそれはチャッカーを通過して盤面は爆発したかの様なエフェクトに包まれた。
貢は両手を挙げ、絶頂を越えた感情にそもそも弱っていた意識が耐え切れなくなろうとしていた。椅子から崩れ落ちそうになった父を息子は抱きとめ、同時にリューティガーの手を掴んだ。
リューティガーの脳裏に都立病院の病室のイメージが伝達されてきた。クラスメイトの意図を察した彼は小さく頷き、貢へ覆い被さるように近づき気を失っている彼を空間へと跳ばし、自分も姿を消した。
一人残った遼は父の代わりにパチンコ台につき、思い切り右方向に玉を流し打ち始めた。幼い頃、何度か父に付き合いパチンコ店で遊んでいた経験がこうして役に立つとは思ってもおらず、息子は苦笑いを浮かべたまま盤面を見つめていた。
10.
島守貢が病室で目を覚ましたのは、大当たりから三十分が過ぎてからのことであった。
おかしい。さっきまで自分は西馬込のホールにいたはずで、こんな病室のベッドで目を覚ますはずがない。まさか熱で倒れて搬送されたのか。それなら費用がまたかさむ。
貢は額に掌を当て、奥歯を噛み締めた。朦朧とした意識ではあったが、確かに最後に念じたあの銀玉は大当たり穴を通り過ぎたはずであり、一万円は稼げたはずである。一体何がどうなっているのだろうと彼が病室を見渡すと、すぐ傍らに栗色の髪をした少年の姿があった。
「あ、ああっと……き、君は……」
「リューティガー真錠です」
「そ、そうか……遼の……」
「駄目ですよ、入院中なのにギャンブルなんかに出かけたら」
眼鏡を直しながら笑顔でそう指摘する可愛い少年に、貢は頭を掻いて口元を歪ませた。
「ま、まさか……き、君が?」
「ええそうです。たまたまパーラーで倒れてた貢さんをみかけて……タクシーでここまで運んできたんですよ」
淀みの無い説明だったが、なぜ息子の友人が自分の入院先を知っているのか、そもそも店の奥にいたはずの自分をこんな利発そうな高校生がなぜ発見できたのか、貢にはわからないことだらけで混乱するばかりである。
「親父……」
大部屋に入ってきた息子の姿を認め、貢はある程度の理解と納得をして申し訳なさそうに眉を下げた。
「そ、そうか……お前が見つけたのか……」
「ああそうだ。抜け出したって病院の人に聞いて探しに行ったんだ。親父、今朝西馬込で新装開店とか言ってただろ」
「あ、ああ……」
「案の定だぜまったく……」
ではあの大当たりも夢ではなかったのだろう。なんとも惜しいことをした。いくら大当たりとは言ってもそれだけで玉が放出されるわけではなく、継続的に右方向のチューリップに玉を打ち込まないと儲けにはならない。いや、そもそもぶっ倒れたのであれば稼ぎなどゼロであり、投資した五千円をみすみすドブに捨ててしまったようなものである。貢は肩の力を落とし、大きくため息をついた。
「ほら……」
遼は一万円札を一枚、父に差し出した。
「な、なんだ……遼……こりゃ……」
「当たってたみたいだから打っといてやったよ。昔教えてくれただろ? 金に換える方法とかもさ……」
高校生の、それも十五歳の息子に生活費を稼がせてしまうとは、なんとも情けない話である。札を受け取りながら貢は引きつった笑みを浮かべ、「は、は、は」と声を漏らした。
「そうそう、さっき医者の人に言っといたから……」
「な、なにをだ?」
「人間ドック、申し込んでおいた……もう一週間は入院な。この機会に悪そうなところ、全部みてもらえよ」
息子の言葉に父は仰天し、上体を起こした。
「ば、バカ!! ドックなんていくらかかると思ってるんだ!!」
「バイト代が思ったよりいいんだ。安心していいって。もちろん退院したら親父にはたっぷり稼いでもらうけど、長期的に考えたらここでしっかり休憩とった方が絶対いいって」
「け、けどなぁ……」
それでも納得のいかない父の両肩を息子は掴み、半ば強引に寝かせた。
「安静安静……それに相部屋なんだから周りの迷惑だろ。静かにしないと……」
遼はそうつぶやくとわざとらしくカーテンを払い、周囲の患者たちに会釈をした。いずれも老人である彼らは一様にニヤつき、貢は恥ずかしくなってシーツを顔まで引き上げた。
「ほ、ほんとにいいのか……遼」
「安心して……いままで男手一つで、苦労かけてきたんだし……マジでバイトの稼ぎがいいから……」
「な、なら……徹底的に休むぞ……よ、読みたい本もいっぱいあるし……」
「ああ……俺もうすぐ合宿だから」
穏やかな笑みを父に向けると、遼はポケットに手を突っ込んで病室から出て行った。廊下で看護婦を見つけた彼は、右手を挙げて瞬きで挨拶をした。
「すみません。父が迷惑をかけちゃって……俺、今度携帯電話、買いますんで……もし何かあったらそっちにかけてください」
遼の申し出に中年の看護婦は一瞬呆れた表情を浮かべ、すぐに頷き返した。
病院から駐車場に出た遼は夜空を見上げ、満面に笑みを浮かべた。
「遼くん! どうしたんです? 機嫌よさそうにして?」
後ろから追いかけてきたリューティガーがそう尋ねてきたため、彼は笑顔を消して振り返った。
「あ? まぁな……親父のやってる手は使えるなって思って……」
「ど、どういう意味です?」
「稼ぎまくれるってこと……重心をいじるだけでもパチンコ玉の動きは結構制御できる……親父ほどは無理かも知れないけど、いい儲けになりそうだ……」
照れながらそうつぶやく遼に対して、リューティガーは眉を顰めた。
「きょ、今日は本当にありがとうな……いろいろ助かったよ」
礼を言われるのは嬉しかったが、あの異なる力を生活費や小遣い稼ぎにしか使おうとしない島守遼という能力者に対して、リューティガーは釈然としない不満を抱こうとしていた。
「あ、あのさ……かわりって言ったら……アレだけど……その……前に真錠が言ってた……なんだっけ……この国を狙うなんちゃらって……少しだけ……話、聞いてもいいけど……」
待ちに待っていた先方からの面と向かっての申し出である。そもそも彼のアパートを訪ねたのも協力の要請が目的であり、リューティガーにとってこの機を逃すべきではなかったが、頭を掻きながら視線を逸らして浮ついている相手を見上げていると、次第に胸の内から怒りがこみ上げてきた。
「しっかし便利な力かもな……これなら合宿も免許もケータイもデートもなんでもOKだもんな。あ、もちろん真錠の力にだってなれそうだし……」
「お断りだ……」
リューティガーのつぶやきはあまりに小さく、遼にははっきりと聞き取ることができなかった。
「な、なに……? なんだよ……なに怒ってるんだ……真錠?」
「ギャンブルやデートのついでだなんてごめんだ!! そんな覚悟で連中と戦えるわけがない!! カラー・暗黒に木っ端の仕事を依頼できるほどの資金力なんだ! それに奴らには獣人王エレアザールだっている。遊び半分なんて迷惑なだけだ!!」
言っていることの大半は理解不可能である。しかし感情は激しく伝わり鼓膜どころか全身を振動させ、リューティガーの怒りはじゅうぶん過ぎるほど遼を不愉快にさせた。
「なんだよ!! せっかく人が協力しようっつってんのに!!」
「嫌だね!! 君は蜷河さんとイチャイチャしてればいいんだ!!」
「なんだよそれ!?」
病院の駐車場で、二人の少年は感情を剥き出しにして怒鳴り合った。やがて片方が突如として姿を消し、残された一方の足元に突風が吹いた。
11.
麻生や支配人に頼られている以上、いくら一発台で稼げるとは言えアルバイトをサボることはできない。島守遼は次の日、午前は演劇部、午後はボディビルジム、そして夜はパチンコ店と三箇所を移動するという強行軍に挑むこととなった。
童顔でないことが幸いだったが、一応の用心のためバイトに行く途中黒いシャツと革のパンツを買い、パチンコ店に出向く前に遼はそれに着替えた。
「かっこいいじゃん」
ロッカールームで麻生がそうつぶやき、ジムの鏡でみると我ながら大人っぽく見えるものだと納得し、その姿をカウンターから支配人が眩しそうに見つめていた。
合計で一万五千円の出費であり、その分はなんとしてでも稼がなければならない。追い詰めることであの力が出やすくなるのはこれまでの経験で証明済みであり、この「パチンコ用服」の購入にはそうした意味合いもあった。
そして三時間後、投資額の数倍の紙幣を財布に収めることに成功した少年は、晴れやかな笑顔でホールから出ると渋谷のセンター街を飛び跳ねた。
なんという低労力、高配当。これを毎日続ければ相当の稼ぎになる。今まで貧乏で我慢をしていた分、これからは欲しいものを積極的に手に入れよう。
俺って勝ち組じゃん。
多少の頭痛はあるが、休養さえとれば父のような失敗もしないはずである。今度はどの店にしようか。同じ店だと怪しまれる可能性もあるが、ここにはいくらでもパチンコ店がある。
「なにあれ……」
センター街を歩く鈴木歩と杉本香奈は、パチンコ店の前で握りこぶしを作っているクラスメイトの姿を見かけ、足を止めた。
「キショ……」
「島守くん……だよね……」
「つーか……なにあれ?」
あまりにも島守遼が幸せそうに全身を震わせていたため、二人の少女は話しかけることなく、それでも視線を外すことなく遠巻きに通り過ぎていった。
あいつは怒っていたが、自分の持っている能力を何に使おうがこちらの勝手である。それよりせっかく力を貸してやろうというのに断るなんて心の狭い奴だ。まあどうせあいつには二人もお供がいるから今更俺がいてもやることなんてないだろう。せいぜいパチンコ玉の重心を移動させるぐらいの力しかないわけだし。
少しずつ冷静さを取り戻しつつあった遼は駅に向かいながらそんなことを考えていた。だが、彼がそのクラスメイトのことを考えたのはそのわずか一瞬であり、すぐに心は長野での合宿に切り替わっていた。
蜷河理佳と数日間同じ環境で暮らすことができる。
確実な収入源を得たことにより、自信に満ち溢れていた彼にとって、その状況は千載一遇のチャンスであり、確実に彼女との関係を深められるのではないかという根拠のない確信に心を震わせていた。
満員の山手線に揺られながら吊革を掴む遼の掌は汗ばみ、様々な妄想と希望が十代の思考を駆け巡っていた。
第五話「父子、渾身の一打」おわり
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