真実の世界2d 遼とルディ
第六話「真実の兄弟」
1.
 ママ。VAIOを少しは使いこなせるようになったかな?
 このメールを読めてるのなら、もう結構いけてるってこと?

 新宿の高速バスには乗り遅れる人もいなくって、部長も私も一安心だったよ。けど、島守って奴(男子)が結構ぎりぎりで焦ったけど。起こしてくれてありがとうね。

 私は今、部活の先輩の実家にいます。長野県は若穂保科ってところで、長野駅からまたバスに乗り換えて一時間も行った山奥です。着いたのが昼過ぎで、もうみんなクタクタ。
 話したと思うけど、この実家は清南寺というお寺なの。お堂の境内に面した場所がお芝居の練習にちょうどよくって、写真で見た通りだった。住職さんが先輩のお父さんで、お芝居が好きらしくって、今までにも劇団とかの練習にお堂を貸していたそうです。バチ当たりって思うかも知れないけど、こっちのは古いお堂で、仏像なんかは新しいほうに置いてあるから構わないって言ってた。お盆でやってくる檀家さんたちもこっちには来ないんだって。なんて好都合! 着いたその日に軽く立ち稽古をやったんだけど、なんかみんなそわそわしてて、あんまり身に入らなかったって感じ。

 夕飯はみんなで台所を借りてカレーを作ったよ。そうそう、島守ともう一人平田って男子の先輩がいるんだけど、この人すごく器用でジャガイモ剥くのなんて私より上手いの。すっかりまかせちゃった。あ、ちなみに島守はたまに自炊するクセに全然下手。豚肉より牛肉がいいなんてワガママ言うもんだから、私が命じて麓のスーパーまで買い出しに行かせました。(なんと往復で50分もかかったそうです。笑っちゃうね。)

 そしてなんとなんと、近くに温泉があって500円で入れるの。すっごくラッキー。夕飯の後にみんなで行ったんだけど、湯船が小さいし、なんかバスクリンみたいな色してて、もしかして偽温泉? なんて盛り上がっちゃった。

 夜になるとさすがに静かです。代々木とはもう全然違う。星もすっごく綺麗で空気もいいし。昨日の夜はぐっすり眠れたんだ。

 このメールは平田先輩のノートから送ってます。返信はこのままでOKだけど、メールとか打てる? もしわかんなかったら父さんか学にでも聞いてください。

追伸・島守って男子が、買ったばかりの携帯を温泉に落として壊しちゃったみたい。ほんと馬鹿な奴って思いました。

 ブラウザ内に表示されているWebメールの送信ボタンをクリックしようと思った少女は、口を少しだけ尖らせ、つまらなそうに境内から先の雑木林を眺めた。
 林から旧観音堂へ抜ける自然の風は、八月の最中とは思えないほど冷却されていて心地よく、神崎はるみは流れる髪を押さえて首を傾げた。

 昨日の昼過ぎ、初めてこの木造のお堂に足を踏み入れたはるみは、「なんてかび臭い」と慣れぬ宗教施設に若干辟易としてしまった。しかしそれから始められた稽古と、その後の夕食と就寝、起床を経た二十四時間足らずの滞在で、いまではすっかり「まぁ、心地がいいところかな」と思うようにもなっていた。
 順応性というやつが高いのだろう。少女はそんなことを考えながら、普段の日常では考えられない周囲の環境に、もっと馴染んでみたいとすら感じ始めていた。

 だから、東京の母のことなどあまり考えたくはない。

 結局、長文のWebメールをすべて範囲選択し右クリックで「削除」を選択すると、はるみは「元気でやってるから心配しないでね はるみ」と短い文章を打ち、取得したばかりである母のメールアドレスへ送信した。
「まだ使う?」
 宿として使わせてもらっている寺務所から旧観音堂へ入ってきた平田は、縁で足をぶらつかせ膝にノートPCを置いた神崎はるみの背中にそう尋ねた。ジャージ姿のはるみは、やはり同じ服装の平田に「あ、もう終わりました。ありがとうございます」と返して立ち上がると、PCを手渡した。
「アドレスの設定とか上手くできた?」
「いいえ。Webメールで……ブラウザから出しましたから」
「フリーメールなんて持ってるの?」
 平田は生真面目そうな人相を崩すと、PCを受け取りながら後輩に感心した。
「ネットカフェとか学校でチェックする用に……もっとも、広告受け取り用ですけど」
「あるとこういうとき便利だしな。乃口部長や松木さんなんてアドレスの設定に苦労したよ。二人ともメールチェックはしたがってるくせに、POPのアドレスとか全部忘れてるんだもんな」
 そう毒づくと、平田は彼の最も公約数的な表情である「固く真面目な」仏頂面に戻った。
「あははー……わたしもその辺は忘れてるかもー」
 引きつった笑顔を浮かべたはるみは、先輩と二人だけでお堂にいるこの状況に息苦しさを感じ始めていた。思えば春の入部以来、彼女がこの二年生の男子と言葉を交わす機会はあまりなく、さすがに合宿だな、と今更ながらに実感していた。
「そのPCでメールって……私と部長と……松木先輩だけなんですか?」
「うん。後は携帯だろ」
「あぁ……そっか……そうですよね」
「神崎さんは携帯でメールとかしないの?」
「やりますけど……長いのは携帯だと面倒で……」
 しかし結局、あの長さであれば携帯でじゅうぶんだっただろうと、はるみは苦笑いを浮かべた。
「携帯で思い出したけど……島守の奴がまた伝説を作ったぞ」
 再び表情を崩した平田の言葉に、はるみの興味は勢いよく傾いた。
「なになに何ですか?」
「いやね、あいつ朝飯の後、住職さんに思いっきり頭、叩かれたんだよ」
「福岡先輩のお父さんに? どーして?」
「この辺にパチンコ屋はありませんか、なんて聞いたんだよ。そしたら住職さんが、このような山奥にあるわけないだろ。それにお前は高校生ではないかっ! て、怒ってさ。ビタンって感じで叩かれてた。俺と部長が偶然見かけてさ。恥ずかしいよまったく」
 演劇部だけに、住職の台詞は低く芝居がかった声色で平田は再現した。はるみはあきれ返ると顔を顰め、それはそれで芝居がかった様子である。
「あいつパチンコなんてやるの? 最低ね」
「合宿を舐めてるんだな。今日はしごく事にしよう……」
 不気味に唇の両端を吊り上げると、平田はPCを抱えたまま旧観音堂から出て行った。

「だってさ、住職はやってるみたいだったし……それがいきなり叩くんだぜ、乱暴なんだよな」
 広さは四畳半。床は畳敷きである薄暗いその部屋の壁に、背中をつけて座っていたジャージ姿の島守遼(とうもり りょう)は、はるみに文句を返すと視線を逸らした。
 旧観音堂と隣接した寺務所の一階、階段のすぐ下にこの部屋は位置する。広さも適当という事情もあり、二名の男子生徒の宿泊用として借りてはいたが、自分たち女子が使う二階部屋に比べると日当たりも悪く、普段は倉庫として使われているせいか全体的に湿気も強く、少々陰鬱とした印象をはるみは感じていた。
 彼女はそんな部屋をあてがわれた彼の境遇に同情しながらも、反論の言葉まで胸にしまうつもりはなかった。
「住職さんがパチンコなんて、やるわけないでしょ!?」
「いやいや。右手の親指にパチンコだこがあったんだぜ。絶対間違いないって」
 はるみは腰に手を当てると、身を乗り出して背を曲げた。
「なによそれ。ばっかみたい」
「俺に指摘されたから、あの住職、慌てたに決まってるよ」
「あんたね。昨日だって会って早々、“いい神社ですね”だなんて言ったもんだから福岡先輩のご家族、困ってたのよ。つまり、あんたの印象って悪いのよ」
「そうそう、なんであの時気まずい空気になったんだ?」
「ここは清南寺(せいなんじ)。お寺で、神社じゃないの」
 腰に手を当てて身を乗り出してきたはるみに対し、遼は人の悪い笑みを浮かべて見上げ返した。
「どう違うんだよ。似たようなもんだろ?」
「神社は神様を祭るところで、寺は仏壇を祭るところ。そんなことも知らないの?」
「あれ? 観音様って神様じゃなかったっけ?」
 はるみとて、寺院と神社の正確な知識を持っているわけではなく、遼の指摘に返す言葉を詰まらせてしまった。しかしにやにやと笑いを堪えるこのクラスメイトに対し、自分がばかにされる理由などまったく身に覚えが無い彼女は「平田先輩、パチンコの件で恥かいたって。今日はしごくって言ってたわよ」と本来伝えるべき事柄を口にした。
 クラスメイトにそう言われた遼は、口を半開きにすると、泣きそうな表情を浮かべた。
「み、見てたのかよ……平田さん……」
 はるみに「部長もよ」と返されると、遼は口元を歪めて畳に視線を落とした。
「ほんと、ばか」
 ぷいっと背を向けたはるみは男子部屋から出て行くと、口に手を当てて笑いを堪えながら、旧観音堂へ戻ることにした。

「表情が泳いでる!! パチンコのときみたいに真面目にやれよ!!」
 台詞のない出番を稽古した後、島守遼は平田にそう怒鳴られ、一瞬周囲の空気が凍りついた。
 お堂の隅で出番を待つ者、境内から練習を見上げる者、遼の傍らに立つ者。演劇部員たちは数瞬後、ようやく平田の言葉の意味を理解してみな一斉に笑い出した。一人、蜷河理佳(になかわ りか)だけはきょとんとして首を傾げるばかりだったが、遼があまりに恥じ入り、しきりに頭を掻くものだから彼女は少々不安になり、唇に指を当てた。

「島守くんって……パチンコとかするの?」
 休憩時間に境内でそう問われた遼は、あらためてジャージを着た蜷河理佳に視線を向けた。
 緑色のもっさりとした仁愛高校のジャージは、いかなる生徒の体型をも均一化してしまい、その魅力を大幅に半減させる……はずであった。しかしジャージの上着を腰に巻き、うっすらとした桃色のシャツを着た蜷河理佳はかえって別種の色気を発していて、美人は何を着ても似合う。と遼は今一度思い知らされた。
「や、やったりやらなかったり……そ、そんな……どうだろう……」
 目のやり場に困った遼が頭を掻くと、二人の間を涼しげな緑風が吹きぬけた。
「だ、だめだよぉ……未成年はやっちゃだめなんでしょ……」
「だ、だからちょっとだよ……」
 顧問教師が都合で同行できなかったのが不幸中の幸いであり、また同行していれば平田先輩もあのような罵倒はしなかっただろう。遼はなにやら複雑な心境になり、再び蜷河理佳の胸元に視線を向け、「は、は、は」と照れ笑いを漏らした。
「ご、ごまかしてぇ……」
 蜷河理佳は人差し指の第二間接を突き出すと、それで遼の腰を小突いた。小さな痛みを感じながらも、彼は表情をだらしなく崩し、幸せを感じていた。

2.
 東京都品川区の埋め立て地である城南島は、海浜公園という都会にしてはトロピカルな風景を現出させる人工の砂浜があることで知られているが、それは島の割合としては小さく、面積の大半が他の埋め立て地と同様に企業の倉庫が立ち並び、そちらは海浜公園とは逆に殺伐とした景観である。
 コンテナ群が潮風にさらされるこの島に、赤い軽自動車が停車した。時刻は正午を回り、海面で冷やされた風が若干の涼しさを運んでいたものの、真夏の晴れ間は灼熱の太陽光でアスファルトやコンクリートを照らしている。車から降りたパーカー姿の少年も、思わずその強すぎる光線から視力を守るために手で陰を作った。
 海浜公園からは蝉の音が響き渡り、反対側からは旅客機が爆音を上げながら上空を通過し、最終的に波の音と混ざった調和のない大量の雑音が、彼の鼓膜を振動させていた。
 何度きても、この場所に慣れはしない。そう思った彼は、騒音と、自分を上下から熱する過酷な環境に苦い笑みを浮かべた。
「しかし昼間に接触とは大胆なことネ」
 運転席から降りた白いTシャツ姿の中年男性が、先に下りた若き主にそう話しかけた。Tシャツの背中には丸で囲んだ巨大な「陳」というロゴがはち切れんばかりに広がり、でっぷりと突き出た腹部をさすりながら、男は栗色の髪をした主の傍まで歩いた。
「かえって怪しまれないって言ってました……前回もお昼でしたし……」
 そう返事をしたリューティガー真錠(しんじょう)は、ポケットからサングラスを取り出すと、かけていた眼鏡とそれを交換した。
「おう、ぐっと男前ね。渋いヨ」
「度が入ってないから、ちょっとそれが困りものなんですけれどね」
「坊ちゃんは視力もういくつか?」
「両方とも3.6……眼鏡がなくても平気は平気なんですけど……近くの物がぼやけるんですよ……乱視、混ざってるんで……」
 リューティガーが首を傾げながらそうつぶやくと、従者である陳 師培(チェン・シーペイ)は腕を組んで頷き返した。

 一隻の小型船が、コンテナ郡の埠頭の先端にあたる桟橋へとゆっくり近づき、やがて不規則なエンジン音の終息と共に航行を停止した。
「あ、あの船です……」
 あちこち塗装が剥げ落ち、船体には細かい傷が無数に浮かぶその老朽小型船を指差したリューティガーは、大きく手を振った。
「はーい、ルディ!!」
 操縦席から出てきた女性が手を振り返し、慣れた挙動でロープを桟橋に投げ、船体を固定した。「女……かね……」と小さくつぶやいた陳は鯰髭を撫でると、慎重な面持ちで停泊した小型船へと近づいていった。
「はじめましてネ。私、陳師培。リューティガー坊ちゃんの身の回りの世話をしてる者ネ」
 そう挨拶をした陳に対して、船首に立つ女性は腰に手を当てたまま、対面する丸い身体を小さな目で凝視した。
 少し茶色がかった髪をチェック柄のバンダナでまとめたその女性は、赤いペーズリー柄のシャツに黒いジーンズ姿といった出で立ちであり、少々痩せた体型であるがスタイルが良く、それだけに小さな目と尖ってえらの張った顎がアンバランスでもある。
 中年期に差し掛かりつつある目尻には小皺も刻まれていたが、肌そのものは色白で張りがあり、実際の年齢より見た目は若い。
 そんな彼女があまりにも冷たい目つきで見下ろしているため、陳は顔を斜めに下げ、鋭い上目遣いで睨み返した。
「私は李 荷娜(イ・ハヌル)……あんたも同盟の人間?」
 ハスキーな声で「荷娜」と日本語で名乗った女性は尖った顎をくいっと上げ、いっそうきつい目で陳を見下ろした。
「そうです……今後はこの陳さんが李さんと接触する機会が増えると思います……」
 後からやってきたリューティガーが陳の後ろからそう話しかけると、荷娜は満面に笑みを浮かべた。
「ルディ!! 元気してた?」
「え、ええ……まぁ……」
 荷娜の強く明るい意に押されたリューティガーは、サングラスを外しながら陳の前に出た。操縦席にいったん戻った荷娜は大きな麻袋を抱えると、桟橋へ飛び降りた。すっかり陽気な態度に豹変したこの韓国人女性に対し、陳は警戒しながら再度鯰髭を撫でた。
「はい。同盟からの物(ブツ)よ。中身を確認して」
 麻袋を受け取ったリューティガーはそれを地面に置くと、紐を外して中身を覗き込んだ。
「七号探知機に質量探知器……対獣人弾……暗器の方は陳さんが確認してください」
 そう促された陳が麻袋に向かって身を屈めると、その後ろを荷娜が跳ね、リューティガーの腕に抱きついた。
「眼鏡外すと、ちょっと子供っぽいのね。ルディは?」
「あ、あはは……そ、そうですか?」
 豊かな膨らみを腕に押し付けられながら、少年は頬を赤くして視線を宙に泳がせた。
「うん。大丈夫ネ。注文通りの品々ヨ」
 陳は大きな挙動で麻袋を肩に提げ、空いた左手で荷娜の細い肩を掴んだ。
「あんた、なれなれしいネまったく……!! もう坊ちゃん困ってるネ!!」
 険しい陳の表情からは殺気が滲んでいたが、荷娜は意に返すことなく、逆に密着の度合いを強めた。
「なによ、あんた。私は、ルディがこっちに入国してからの付き合いなのよ。ねぇ?」
「ま、まだ二回しか会ってませんけど……」
「男と女が二回も会えば、じゅうぶん過ぎるほど親密な仲よ」
 リューティガーの肩に頬ずりした荷娜は、小さな目に険を浮かべて陳を睨んだ。
「ホラ……ルディは困ってないでしょ……!!」
「いいから離れるネ!!」
 太い腕で女を主から引き離した陳は、鼻を鳴らせて腕を組む「敵」とも言える存在に意を向けた。
「白けるデブオヤジねぇ……あ、そうそう……今回は荷物だけじゃないのよ」
「え……?」
 眼鏡をかけながら瞬きをするリューティガーに、荷娜はウインクを返した。
「久しぶりだな。ルディ……少し……背が伸びたかな?」
 小型船の操縦席から姿を現した男は、がっちりとした体格に引き締まった肉体を、紺色の半袖ジャケットに包み、短く立った金髪を潮風に揺らせながら桟橋に降り立った。
「ガイガー先輩!?」
 大きな顎を撫でるその中年男性を見上げたリューティガーは、湧き出る感情を抑えながら何度も瞬きをした。
「も、もしかして海路でここまで!?」
 その問いに、男は青い瞳を輝かせた。
「ああ……旭川で一仕事、終えたばかりでな……中佐からの指令で、お前に手を貸すように言われてきた……このお嬢さんには、函館で乗せてもらった」
 白人男性は口元に不敵な笑みを浮かべると、太い親指を荷娜に向かって突き立てた。
「しっかしひっでぇボロ船だな。なんでも保安庁にはコネがあるらしいから、おかげで無事に首都までたどり着けたが……任務を終えたら、ぜひ飛行機で帰りたいものだよ」
 傷だらけの丸太のような腕をさすりながら、男はオイルライターで葉巻に火を付け、それを咥えた。
「あたしゃ英語が苦手だから。ねぇルディ、この人なんて言ってるか教えてよ」
 そう荷娜に問われたリューティガーは「美人と船旅ができて光栄と言っています」と嘘をつき、隣の陳は人の悪い笑みを浮かべた。
「同盟への追加兵力要請がこうも早く通るとは、中佐もこちらのことをもう考えてるネ」
 陳はガイガーと呼ばれた白人に右手を差し出し、彼もそれをがっちりと両手で握り返した。
「これは陳大人……噂はかねがね……偉大なる四川の巨匠に出会えて光栄です。私はカーチス・ガイガー。同盟コードはC−30613」
「ホウ……あなたがカオスの生き残りの……」
「ええ」
 手で触れ合いながら、二人の男は互いの存在に敬意を払いつつ、それでも内心は緊張していた。
 ぴりぴりとしたものを感じながら、リューティガーは背後から接近してくる気配に気づき、軽やかな挙動で陳とガイガーに向かって歩きはじめた。
 抱きつくことに失敗した荷娜は舌打ちをしたが、愛すべき彼がくるりと振り返って笑顔を向けるとすっかり機嫌も直ってしまい、表情を緩ませた。
「ありがとうございます。李さん。今後ともよろしく」
「あら……もう行っちゃうの?」
「あんまりここにずっといるのも……狙われてる可能性だってありますし……李さんも気をつけて……」
「はは……あたしゃ大丈夫だって」
「さあさ行くネ。マイカーに乗るネ。ちなみに社内は禁煙ネ」
 陳に促され、ガイガーとリューティガーは桟橋から歩き出した。荷娜は立ち去る彼の後ろ姿を未練がましそうに見つめていたが、それが小型車の中に消えるとため息を吐き、桟橋に固定したロープを外して小型船へと戻っていった。

「それにしても、ああいった存在がいると助かるな」
 後部座席に座ったガイガーはバックミラーで小型船の出発を確かめると、英語でそうつぶやいた。
「ええ。李さんは……敵味方なく商売をされてるそうですから……それだけに信用できます」
「しかし坊ちゃんへの態度は不愉快ネ」
 自動車をコンテナ郡から道路へと運転しながら、陳がそう不平を漏らした。
「せ、迫ってくるんですよね……あの人……」
「坊ちゃん……あの巨乳年増に何もされてないかね?」
「だ、だから会ったのも三回目ですし……物品の受け取りだけで……な、なにもありませんって」
「私、ああいう女女したのは嫌いネ」
 後部座席で日本語のやりとりを聞いていたガイガーは大きくあくびをすると、つまらなそうに窓の外を眺めた。
「また……この地に帰ってくることになるとはな……」
 七年ぶりに帰ってきた東京は何も変わっていない。ガイガーはそんなことをぼんやりと考えると右肩の古傷をさすり、下唇を突き出した。

3.
 清南寺(せいなんじ)での合宿も二泊を越え、三日目に突入しようとしていた。住職のお経と窓から差し込む鈍い陽光に目を覚ました遼は、隣の蒲団が畳まれて部屋の隅に置かれていることに気づき、今朝もまた先輩に先を越されてしまったと頭を掻いた。
 男子の宿泊に使っている四畳半の物置部屋から廊下に出て、真っ直ぐ突き当たった先が調理場であり、八畳ほどの広さである土間に数人のジャージ姿の少女たちが数名と一人の男子生徒の姿があった。
「うん……いいね」
 スプーンで味噌汁の味を確かめた平田は、仏頂面のまま頷くとまな板の上に沢庵を置き、それを丁寧に切り始めた。
「うわぁ……先輩、慣れてる……」
 平田の見事な包丁捌きに神崎はるみは感激し、その隣で食器の準備をしていた蜷河理佳は同調して頷いた。
「女子が頼りないから、僕の仕事は増えるばかりだよ」
 素っ気無くそうつぶやいた平田は、等間隔に切った沢庵を蜷河理佳が用意した小皿に盛り付けた。
「す、すみません……」
 情けない笑みでそう返したはるみだったが、その後で焼き魚の火加減を確認していた二年生の女生徒が首を何度も横に振った。
「いいのいいの。平田君の趣味みたいなものだから」
「そ、そうなんですか中根先輩……」
 蜷河理佳にそう返された中根という二年生は、仏頂面で冷たい視線を向けてくる平田に向かって顎を引き、にやりと微笑んだ。
「趣味じゃない。これは趣味なんかじゃない。義務だ」
 平田はそうつぶやくと、沢庵を盛り付けた小皿を盆に載せ、あくびをしながら調理場にやってきた後輩を睨みつけた。
「遅いぞ島守」
「す、すんません……俺……何、しましょうか?」
 眠そうに目をこする遼に、はるみは横目でじろりと一瞥し、蜷河理佳は口に手を当てて小さく頭を下げた。
「旧観音堂にこれを運んでくれ」
 沢庵の乗ったお盆を受け取った遼は、「うっす」と一声返事をして不安定な挙動で廊下へと戻って行った。

 昨日も今日も朝食は七時三十分からであり、普段はそれを抜きがちな島守遼にとって、この規則正しい生活は胃袋に思わぬ負担を強いていた。
 焼き魚と味噌汁に漬け物といったメニューは、日本家庭の実にありふれた朝御飯のそれであり、本来なら遼の好みである。しかし、未だ目覚めていない胃袋は投下された食料を消化することができず、昨日も今日も遼は朝食に微妙な違和感を抱えていた。
 目の前で正座の姿勢で食事をする蜷河理佳は整然と落ち着いた様子であり、陽光を反射した黒髪はきらきらと輝き、背後に見える雑木林の緑とのコンテラストが瑞々しく、ぐるぐると音を立てて急速に目覚める腹具合を一瞬忘れるほど、彼の心をときめかせていた。
 熱い視線を感じた少女は目を伏せ、食事のスピードを少しだけ加速させた。そんな反応に遼はかわいらしさを感じ、「いいなぁ」と心の中で呟き、顎で小さな弧を描かせた。

 朝食の後、八時三十分からは文化祭で発表する芝居「金田一子の事件簿」の稽古が開始される。稽古は昼まで続き、十二時からは昼食であり十三時三十分から午後の稽古、それが終わるのが十七時で十八時から夕食、食事当番は十六時に練習を切り上げ食事準備に取り掛かり、買い出し当番は昼食後麓のスーパーへ出かけ、午後の稽古参加が十四時三十分と、平田の立てたスケジュールは綿密であり、この三日間に関しては大きな綻びもなく消化されていた。
 この日は、朝の稽古から着物姿の住職が見学に訪れていて、拙いながらも少年少女たちの懸命な芝居を楽しんでいた。
「あの島守って男子、まだお芝居初めて三ヵ月も経ってないんですよ」
 境内から旧観音堂舞台を見上げていた住職は、部長の乃口にそう説明されると大きく何度も頷き、下手ながらも声の通った演技をする長身の彼に注目した。
 傍らで熱心に観劇をしている、住職の剃りあがった頭部を横目でちらちらと見ながら、乃口は少々緊張し、お堂で熱演する男子新入部員に、この変わり者がどのような評価を下すのか不安であり、その横でやはり練習を見上げていた二年生の福岡は、先輩の父に対する気負いに唇をつまらなそうに尖らせていた。
「なるほど……あれは本番で人気が出るタイプと見たな」
 住職の言葉に、乃口と娘である福岡は耳を傾けた。
「そうなの? 父さん」
「決して上手くはないが魅力がある。荒っぽいが舞台ではちょうどいい……章江、食われるぞ」
 坊主頭を凝視しながら、福岡章江は父の論評に腕を組み、首をちょっとだけ勢いよく傾げた。
「魅力ねぇ……」
 娘の疑問に父は返事をせず、顎に手を当てると肩を小さく上下させながら、旧観音堂と寺務所の先にある、木造の住居へ向かって歩き去っていった。
「福岡さんのお父様って……お芝居とか好きって言ってたけど」
「昔は役者を目指してたんですよ。けど跡を継ぐんで諦めて……まぁでも結局は素人ですから」
 謙遜とも不平ともつかぬくぐもった口調でそう乃口部長に返した福岡は、切り揃えた前髪を人差し指でいじり、遼の練習に注意を向け「声! 裏返ってる!!」と叫んだ。
「う、あー、あー……」
 喉を軽く叩きながら遼は、境内で膝に手を当てる福岡に会釈をし、頭を掻いた。
 確かに住職が指摘するように、あの一年生の舞台での振る舞いには不安定さと勢いのよさが同居していて、それがひとつの魅力にもなろうとしている。丸めた台本を手にしながら乃口はそんなことを思い、自分の出番が近づいてきたため気持ちを切り替えようとした。
「成功させなきゃ」
 それが部長として乃口文が常に念頭に置いている言葉であり、ありふれた決意ではあったもののそれだけに努力の内訳はシンプルで迷いが無かった。
 もう本番までそれほど時間がない。部員のレベルアップや芝居内容の完成度を高めるべく、乃口は夏休み中の合宿を検討していた。しかし泊まりがけで芝居の稽古をできるような場所は中々見つからず、途方にくれていた際に後輩が提案してくれたのがこの清南寺である。
「ほんと……長野の山奥ですから、遠いし不便ですよ。食事できるお店なんか、近所にありませんし。それに父が、稽古見させてくれって、言ってくると思うんです。お坊さんに見られながらの稽古だなんて、ちょっと不気味ですよねぇ……」
 あまり乗り気では無さそうに、照れながら実家の話をする福岡に、乃口は感謝の気持ちを込めながら手を握り、早速この合宿のスケジュール設定を平田に依頼した。
 平田は実に綿密で無理の少ないスケジュールを作成し、それが完成するのとほぼ同時に福岡の実家側の諒解も得られた。少しずつ、いい方向に部が動きつつある。島守という一年の演技力はまだまだだが、それでも地道に着実にレベルアップはしている。
「きっと成功する」
 念頭の決意に、最近ではこんな確信の言葉が続くようになってきた乃口は、ようやく自分自身の演技に対して考える余裕ができてきたおかげで、稽古も楽しんで取り組めるようになろうとしていた。

「お父様。私がいつお義母様と揉めまして? 私たち、それは近所でも評判の仲でしたのよ」
 乃口部長の役は野々宮家長女の松子であり、つまりは島守遼の演じる野々宮儀兵衛の娘役に当たる。当初は先輩の、それも部長が自分の娘であることに著しい違和感を抱いていた遼だったが、最近ではそんなぎくしゃくした素人臭い感覚もなくなり、「あぁ、こんな娘も有りかも」などと自然に感じるようにもなっている。
「よ、よくもそのようにしれっとした口を……悦子がどれほど苦しんでいたのか!! お前は!!」
「なら私の苦しみはわかっていたのかしら、お父様!?」
「な、なに……?」
「気づかなかったとは言わせません……悦子お義母様は私とたったの七つ違い……それを母と認め、近所の評判を得るために私がどれほど苦しんだか……それだけじゃありません。あの女は所詮商売女……野々宮家の作法など……」
「やはり悦子を憎んでいたのではないか!!」
「ええ!! けどお父様への憎しみの方がずっと深かったわ!! むしろ私はあの女を哀れみもした!!」

 乃口文は島守遼との数多い競演場面の中で、このやりとりが一番しっくりと演技を交差することができ、演じててもリズムが掴みやすく快適に感じていた。

 島守遼は数少ない台詞の中で、この「やはり悦子を憎んでいたのではないか!!」が最も迷いがなく、演技巧者である部長のリードも手伝ってか、気持ちよく素直に芝居をすることができた。

 午前の稽古はこの場面で終了し、遼と乃口は互いに視線を交わし共に微笑んだ。

 昼食のメニューは平田の立てた予定ではうどんとなっていて、当番の福岡と平田は調理場で作業に追われていた。
「島守君、まあまあよくなってきたと思わない?」
 同級生である福岡にそう言われた平田は「かもな」と短く返し、鍋の中で湯気を立てるうどん汁の味をお玉で確かめた。
「薄いなぁ……福岡さん……」
「えー? うちじゃこれで普通だよ」
「長野って関西風だったっけ?」
「違うけど……母さんが神戸だから」
 福岡の説明に平田は納得すると「まぁ……仕方ないか」とつぶやき、味の調整を諦めた

 旧観音堂は芝居の稽古場であるのと同時に、部員たちの食堂でもある。遼は稽古で埃が舞った床を雑巾がけした後、それを持って境内へ出た。
 お堂の裏手には水道の蛇口があり、それを捻って冷たい水を出した遼は、埃まみれとなった雑巾を洗った。
 すぐ後ろには住職たち一家が住む家が建ち、その居間から高校野球の中継音が聞こえてきた。
 あの家には、住職とその妻、そしてその両親夫婦が住んでいて、つまりそれは福岡先輩の両親と祖父母にあたる。他にも長男がいるらしいが、彼もまた東京の大学に通っていて八月後半にならないとこちらには戻ってこないらしい。
 寺の住職とは言っても、パチンコもすれば甲子園も見る。普通のおっさんなんだよな。だとすれば娘が一人で東京の高校に通うなんてよく賛成したな。そんなことを思いながら、遼は雑巾をきつく絞った。

4.
 カーチス・ガイガーは、まだ薄暗い早朝の住宅街をランニング姿で駆けていた。
 整った呼吸に正しい挙動で行われるランニングは、スポーツ選手か軍人のトレーニングのようでもあり、ガイガーが戦闘者として自己の能力を維持、確認するために欠かせない習慣となっていた。
 桟橋でリューティガーと合流した彼は、代々木パレロワイヤル803号室にて陳の熱烈なる四川料理の歓迎を受け、その後にボトルウイスキーを片手に、現在までとこれからの作戦状況を確認し、ジャスミンティーを飲みながら装備の点検をし、再びウイスキーに手をつけてから居間のソファで眠りについた。
 それから四時間後、昨晩のアルコールはランニングにより体外からすっかり抜け出て、彼の意識は明快そのものだった。
 路地で立ち止まったガイガーは、タオルで額や首の汗を拭きながら、自動販売機で缶コーヒーを買った。
 一息に琥珀色の液体を体内に流し込んだ彼は、太い指で小型缶を握りつぶすとそれをゴミ箱に放り投げた。
 しばらく住宅街を歩いた彼は、やがてある家の前で立ち止まった。
 この辺り一帯の中でも比較的新しい門構えの、だが平凡な二階建ての住宅の前で、ガイガーは短く垂直に立った金髪を撫で、下唇をかみ締め、額からは汗を垂れ流していた。
 口元から顎にかけて、赤い体液が滴り落ちた。あまりにも唇を噛みすぎてしまったと我に返った彼はタオルで汗を拭い、小さく身体を震わせながら「神崎」と表札されたその門の前から歩き去っていった。

「おかえりなさいガイガー先輩」
 803号室に帰ってきたガイガーを出迎えたのは、白いワイシャツ姿のリューティガーだった。
「空気の悪い街だなここは。旭川は寒いがずっと環境は良かったぞ」
 食卓につきながらそう毒づく白人男性に、リューティガーは「ここはメキシコ並みですから」と返して自分も食卓についた。
 昨日はこれまでの作戦状況をガイガーに説明し、彼からはいくつかの重要な情報を得たところで打ち合わせは終了した。自分と同じ組織に所属し、これまでにも縁のあるベテランエージェントの彼が、旭川という僻地で何の任務についていたのか興味もあったリューティガーだが、同義的にもその質問はすることができず「カラー・暗黒のことは聞きましたか?」と自分の終えた任務について話すことしかできなかった。
「暗黒が? まさか敵に雇われてたのか?」
「ええ。僕が本部へ跳ばしました」
 若き指揮官の言葉に頷いたガイガーは、陳の運んできたジャスミンティーに口をつけ、居間でうずくまる青黒い肌をした巨人へ振り返った。
「健太郎殿。暗黒とは手を合わせたか?」
 ガイガーの問いに、健太郎は静かに頷き返した。
「暗黒を雇うとはな……中々の資金力じゃないか……」
「ええ。実際に連中は何らかのスポンサーを確保していると思えます。奴が同盟から預かった資金はとうに底をついているでしょうし、あんな精肉工場を買い取るような財産はないはずですから」
 下唇を突き出したガイガーは、逞しい顎をさすり、お尻のポケットから葉巻の入ったケースを取り出した。
「だめねガイガー。ここは禁煙ヨ」
 そう陳に注意されたガイガーは下唇を突き出すと、仕方なく金属のケースをポケットにしまった。
「スポンサーについては俺も噂は聞いている。もっとも二課の調査結果が出ないと正確なことは言えんが……どうやらな、日本の企業が奴らの資金源になっているフシがある」
 ガイガーの言葉にティーカップを持ったリューティガーの手は止まり、口元がわなわなと歪んだ。
「ばか……な……奴らはこの国を……」
「都合のいい勢力だっているさ。目先のニンジンに飛びつく資本家だっている。負けを勝ちにひっくり返したい山師もな」
 そう例え話をしたガイガーは、口寂しさをおかわりのジャスミンティーでごまかした。
「まぁ、そんな噂が流れたからこそ、俺が昨晩話したネタだって信憑性が増すってものだろ。不正確だが裏づけも取れている」
「奴は……明後日……本当に六本木に姿を見せるんですよね……」
 確かめるように、静かにゆっくりと、少年は対座する鋼の筋肉の持った白人男性にそう尋ねた。
「ああ。会談相手の阿賀素(あがそ)石油は……さっきも言った連中のスポンサー候補だ。業界国内第四位だが、堅い原油ルートを持っている。奴にしてみれば、どうしても会談して資金協力を取り付けたい相手だろうな」
 リューティガーはようやくジャスミンティーに口をつけ、ぬるくなりつつあったそれを一気に飲み干した。
「わかりました……ではこれからの手はずは昨日の打ち合わせ通りに……ガイガー先輩は健太郎さんと現地の下見に……陳さんは移動、逃走ルートの再確認と資材調達をお願いします」 指揮官の言葉に、男たちは一様に頷いた。
「さーてと……それじゃあ行くとするかね」
 席についていたガイガー、居間の床に体育座りをしていた健太郎はそれぞれ立ち上がった。二人は装備を調えると803号室から出て行き、ダイニングキッチンには少年と丸い身体の料理人が残った。
「私も地図持って現地までのルートを見てくるネ。夕飯までには戻るヨ」
 陳はティーカップを流しまで下げ、それに軽く水をかけエプロンを外して棚に置いた自動車のキーを手にした。
 皆、これからの大一番に緊張している。主であるリューティガーは男たちの淡々とした外出に気を引き締め、自分がやるべきことを果たさなければと両手を強く握った。

「石油会社の大物と会談するにしちゃあ……ずいぶんと派手なホテルだな……」
 港区六本木、その中心と言える交差点付近の雑居ビルの屋上から、フェンス越しに双眼鏡を覗き込んでいたガイガーがぼやき混じりにつぶやいた。
 後ろで膝を抱える健太郎は周囲を警戒しながらも返事をすることはなく、この愛想の無い同行者にガイガーは唇の左端を引きつらせた。
「へぁ……カジノまで入ってるのかよ……七年前にあんなホテルあったかねぇ……」
 レンガ色をした十三階建てのホテルを二つのレンズで確認しながら、焼き付けるような炎天下の元、ガイガーは手元の検査機のアンテナを伸ばし、レシーバーを耳に当てた。
「まぁ……爆薬なんて仕掛けてあるわきゃねぇよな……会談は二日後だ。奴が出てくるのに、事前の警戒なんて有り得ねぇしな……」
 暑さに苛つくように独り言を止めないランニング姿の背中を、チューリップ帽を目深に被った巨人は横目で見た。
「知っているのか……」
 珍しく口を開いた健太郎は、ぎこちない英語でそう尋ねた。背中を向けたまま、何度か肩を上下させたガイガーは「とりあえずのことは」とこれもまたぎこちない日本語で返した。
「真錠殿に悩みはないはずだ……俺たちは自分の仕事を全うすればいい」
 淡々とした口調で言い放つ健太郎に対して、ガイガーはようやく双眼鏡かに顔を放して振り返った。
「わかってるさ……ルディの指揮、判断能力はあいつが声変わりする前から見せつけられている……ロナルド隊長だってルディには期待してたんだ。あいつはいずれ同盟でも優れた指揮官になるだろうって……そんなプリンスの下につける以上、俺は兵士として優れた仕事をするだけだと自覚している」
 意外とおしゃべりな男なのだな。彼は彼でこの任務に怯えているのだろう。であれば信用してもいい。静かなる巨人は長く突き出た耳で、東部訛りの歯切れのいい英語を聞きながら、小さく息を吐いた。

5.
 雑木林を吹き抜けた風が旧観音堂に達し、薄暗い堂内で空気が螺旋を形成した。
 真夏だというのに、緑に囲まれた環境とはこうも涼しいものなのかと、雑巾で床を拭きながら島守遼はあらためて実感し、避暑地という言葉を現実として受け止めていた。
「あー、あー」
 境内から年老いた声がしたため、遼は腰を上げてそちらを見た。すると堂内を見上げるように、一人の老婆が右手を泳がせながら顔を顰めていた。
 あれは確か福岡先輩の祖母である。遼はそう思い出すと、こちらに向かってなにか言いたげにしている老婆に向かって首を突き出した。
「ああっと……あんた……あんたは島守くんだったか?」
「ええそうです。島守は僕ですけど……」
「あ、あのな……なぁ……そこにな、あんたを訪ねて人がきとる」
 言葉を思い出しながら、まるで搾り出すかのように途絶えがちに、老婆はそうつぶやいた。
 自分をこんな山奥まで訪ねてくる者などいるはずがない。父親は入院中で、買ったばかりの携帯電話は故障してしまったが、この寺の電話番号も病院には教えていて容態に急変でもあれば、まずは電話がかかってくるのが先のはずである。
 麓に食材を買い出しに行った際、何か落とし物でもしてしまったのか。遼は訪問者について、この漏示にもう少し質問をしておこうかと思ったが、ぷるぷると宙に泳がしたままの右手を見ていると、おそらく彼女との円滑なコミュニケーションは望めそうにないと思えてしまい「どこに来ているんです?」と質問するのがせいぜいだった。

「島守(しまもり)……遼君だね?」
 清南寺正門にやってきた遼が目にしたのは、白いワイシャツに灰色のスラックス、臙脂(えんじ)色の緩めたネクタイを身につけ、右肩からは黒い鞄を提げた中年男性だった。
 このような人物に見覚えは無い。いったい何者だろうと遼は警戒しながら、対面する男を観察した。
 すこし伸びがちな頭髪は細かく白髪が見え、天然だろうかパーマがかっていてだらしない印象であり、垂れた目は瞼も重そうで、緩んだ口元とうっすらと残った無精髭も手伝ってか、顔つきもどこか気の抜けた様である。
「“しまもり”じゃなくって“とうもり”ですけど」
「あ、あぁ……そ、そうか……すまない……」
 遼の指摘に男は苦い笑いを浮かべ、何度か頭を小刻みに下げた。その腰の低い挙動は彼にますます警戒心を抱かせ、態度をより硬化させた。
「ドラマみたいでね……まぁ、ちょっとアレなんだけど……」
 そうつぶやくと、男はスラックスのポケットから手帳を取り出し、その表紙を見せた。
「三田警察署の藍田という者だ。捜査二課の刑事の……」
 手帳には菊の印章が一際目立ち、確かにドラマなどでよく見る刑事の登場だな、と遼は現実的でない状況に戸惑った。
「はぁ……その……あの……」
 三田警察と言えば、たぶん東京都港区三田のことだろう。それとも長野にも三田という地名が存在するのか。とにもかくにも刑事がこんな山奥まで訪ねてくるとは、一体何事なのだろう。
 まさか、未成年でパチンコを、それも念動力イカサマパチンコで稼いでいたことがバレて、通報されたのだろうか?
 悪事に対して身に覚えのあった遼は、風雨で痛んだ正門の縁を掴み、腰を低くして藍田と名乗る中年男性を睨み付けた。
「刑事さんが……こんな山奥まで……な、なんなんです……?」
「あぁ……ちょっと君に聞きたいことがあってね……なんでも部活の合宿だからと聞いたから、はるばる長野まで来たって、まぁ、そんなところだ」
 刑事にしては妙に砕けた口調に違和感を持ちつつ、それでも言葉の内容が不安とは別方向だったため、遼は少しだけ安心した。
「君のクラスに……六月の半ば頃、転入生が入ったと思うんだが……」
「え、ええ……真錠ってのが……転入してきましたよ」
「真錠……? そういう名前なのか?」
「え、ええ……リューティガー真錠……ですけど……」
「ほほう……今現在はリューティガー……真錠……ねぇ……」
 手帳に鉛筆でメモをとる藍田を見つめながら、遼は会話のぎこちなさに気味の悪さを感じ始めていた。「今現在は」とはどういった意味なのだろう。この刑事はあの栗色の髪をした、未だ多くの謎に包まれた転入生の何を調べているのか。

 いや、そもそもあいつは異常そのものだ。警察が調べに来てもおかしくはない。

 ついリューティガーと関わって、彼のマンションを訪ねてしまったあの日、獣人が登場してから命に対する危険が連続したため、彼が巻き込んできた事態に対処するのに精一杯だった遼だが、よくよく考えてみればあのような異質の者を、警察や政府が放置しておくはずはない。
「し、真錠が……どうしたんです?」
「君と一番親しくしてるって聞き込みでわかってね……なぁ君……そのリューティガーって奴に、妙なことを吹き込まれなかったか?」
 妙も何も、あいつが言っていることはとても常識の範疇を超えていて、それを対面する刑事にどう説明していいものか、遼は考えあぐねて口元を歪めた。
「君には超能力がある……とか……そんなこと……吹き込んでこなかったかい?」
 ぐいっと身を乗り出し、藍田はゆっくりとそうつぶやいた。あまりにも的確で事実そのものである言葉に遼は緊張して何度も瞬きをした後、息を呑んだ。
「え、え、ええ……そ、そうです……」
 そんな戸惑った返事に中年刑事は顔を顰め、ぼさぼさの頭を掻きながら胸ポケットから煙草を取り出した。
「やっぱりな……これで五件目だ……」
「な、なんなんです……け、刑事さん?」
 あまりにも藍田が呆れ顔で煙草を吸いだしたため、遼は戸惑いながらも彼の知っているであろう情報に強く惹かれた。
「他に……太った中国人と……ボディペイントとメイクをした大男……そいつらとも出会ったか?」
 藍田の言葉に遼は大きく頷いた。辺りは薄暗くなり、もうじき旧観音堂に夕飯が運ばれてくる時間になろうとしていたが、それにも気づかず彼は強い意を刑事に向けた。
「釧路を皮切りに、その三人組がずっと西へ向かっててな……もう君で五件目だ……つまりな、あの三人組は、行った先々で適当な少年をマークしては、君には超能力があるって、そう誘ってな……コーチ料と称して多額の金銭を得ている……全国指名手配直前の詐欺師という訳だ」
「はぁ? 詐欺師?」
 現実的過ぎる犯罪容疑は、かつての遼ならそれなりに信じてしまうところだったが、経験を経た彼にとって、とても納得できるものではなかった。リューティガーや自分の能力は“本物”であるし、健太郎はボディペインターなどではない。遼はすっかり呆れてしまい、下唇を突き出して腕を組んだ。
 ばかばかしい。リューティガーの正体や、彼にまつわる異常な事態に、この刑事は結局の所まったく近づいていない。こいつは、自分の常識の尺度で状況を解釈しているのに過ぎないだけだ。
 本物の獣人に命を狙われ、ジョージ長柄を目の前で惨殺され、既に「異なる力」で現実としての収益を上げていた島守遼にとって、藍田の言葉はあまりにものんびりとし過ぎていて、彼は妙な腹立たしさすら覚えようとしていた。
「刑事さん……そんなこと僕が信じるわけないでしょ。すぐに冗談はよせって言い返しましたよ。真錠とはその後も普通に友達です」
 的外れだったね。そんな意味を含めて遼は早口で嘘をついた。しかし藍田は煙草を大きく吸い込むと、不敵な笑みを浮かべて長身の相手を見上げた。
「もうすぐ夕飯なんです……今日は住職さんが山菜を提供してくれて、俺、茸が好きだから早く食べたいんですよ」
 遼の言葉を聞きながら、藍田は煙を吐き出すと火の付いた煙草を前に出した。
「よーく見てろよ……島守(しまもり)くん……」
 わざと間違えているのか。遼が苛立った次の瞬間、彼の目の前に突き出された煙草が跡形も無く消えた。
 それはまるで、リューティガー真錠が見せた「異なる力」のように忽然と、であった。
「な、なに……?」
 この刑事は何者だろう。恐怖を抱いた遼が正門の縁を強く握り締めると、煙草が再び藍田の指に現れた。
 目の前で起こった出来事に、遼はリューティガーと接してから経験した数々の異常事態を想起させ、恐怖に震えた。
「おやおや……どうにも過敏な反応だな……ほんとにあの詐欺師と何の関係も無いのかなぁ……ちょっと君のうろたえようは普通じゃないぜ」
「そ、そりゃあ目の前から煙草が消えて……また出てきたんだ……驚くに決まってるでしょ?」
「いやぁ……普通はすぐにこう思うだろ。あぁ手品かなって。なのに今の君は……普通じゃないよなぁ……」
「な、なに言ってるんだか……」
 視線を逸らし歯軋りをした遼の顔を、藍田は薄笑いを浮かべながら覗き込んだ。
「でな。僕は趣味で手品をやっててね。今の煙草なんかはモロにそうだ。けど、ひょっとして超能力かと思った?」
 嬉しそうに、からかうようにつぶやく藍田に対して遼は鋭い視線を向けた。
 まるで言外に、「リューティガー真錠が君に見せた異常事態の全ては、つまり手品なんだよ」と含まれている様であり、それが彼の神経を逆撫でしていた。

 ばか野郎。俺の力は手品じゃない。それにジョージさんは死んだんだ……!!

 藍田刑事の意図など理解できるはずもない。しかしこれ以上この不愉快な中年と向き合い続けては、そのうち殴りかかってしまう可能性もある。怒りを抑えつつ、島守遼は冷静さを保とうと懸命だった。
「山ん中は涼しいってのに……どーした島守(しまもり)くん。汗……びっしょりだよ?」
 絶対わざと間違えてる。俺は“とうもり”だ。遼はそう叫ぼうと胸を張ったが、藍田は動じずに、背を少しだけ折り曲げて左手の人差し指を突きつけた。
「ドーン……てな……ははは……」
「な、なんなんですか……あ、あなたは……?」
「超能力詐欺専門の刑事だよ……なぁ君……君に空を飛べる超能力があるって言われれば……信じるかい?」
「し、信じるわけないでしょ……人間が重力に逆らって飛ぶには、それなりの科学的な力が必要なんだ……」
「けどさ……まぁいいから、念じてみなよ。飛びたいって。頼むよ」
 能面のように凍った表情を張り付かせたまま、藍田はそうつぶやいた。左手の人差し指は相変わらずこちらに向けられたままであり、奇妙な威圧感に少年は恐怖を抱き、少しだけ「飛ぼう」と念じてみた。
 足の裏の接地感が失われ、視点がぐいっと昇り、藍田刑事の姿はおろか雑木林も眼前から消え、遥かなる山々が遠くに広がった。
 飛んでいる。この視界の変化はそう説明する以上他にない。いつのまに自分の「異なる力」はここまで発達したのだろうか。遼が混乱していると、鼓膜を大きな衝突音が振動させた。
 これは手を叩く音だ。そう気づいた次の瞬間、遼の目に掌を合わせた藍田刑事のやぼったい姿が見えた。
 気が付くと足の裏の接地感も戻っていて、飛んだと感じた前の地点に戻っている。遼は素直にそう認識した。
「君……いま飛んだろ……?」
「え、ええ……いや……」
「僕ね、手品も好きなんだけど……まぁ……その……催眠術ってのにも凝っててね」
「催眠……術?」
「ああ、今のがそう。僕が手を叩くと醒めるって寸法。どう? リアルだっただろ?」
 リアルも何も飛翔した感覚は現実そのものだった。しかし藍田が言う通り、手を叩く音を耳にした途端、空中から地上に唐突に意識を引き戻されたのは腑に落ちない。一瞬にして現実と間違えるほどの夢を見た。恐ろしく高度な催眠術をかけられた。そう結論づけてもいいのではないだろうか。
 一体この刑事は何がしたいのだろう。もったいぶって、まるで楽しんでいるかのようであり、自分に対してどのような情報を引き出したいのか、意図を全く察することができない。遼は何やら恐ろしくなり、膝を震わせながら正門に体重を預けた。
「まったく……ルディ一派の超能力詐欺にも困ったものだよ……被害額が少ないなんて理由で署も本腰を入れてないけど、僕は手品を愛する者として、どうしても許せなくってね。この長野行きだって自腹なんだ。けど君がこれで超能力が嘘って知ってくれれば僕も嬉しい」
 淀みなくぺらぺらと喋る藍田の言葉を、遼はぐったりしながら聞いていた。
「島守ー!!」
 背後から聞きなれたクラスメイトの叫び声を耳にし、遼はぴくんと全身で反応した。
「なーにやってんのよ。もうみんな食べてるのよ」
 神崎はるみは正門までかけてくると、遼の背中を軽く叩き、傍にいる藍田に小さく頭を下げた。
「じゃあ今日はこれくらいで……また明日……お話を聞きにきます……」
 最後だけ丁寧な言葉遣いをすると、藍田刑事はジャージ姿のはるみをちらりと見て、ヤニまみれの歯を見せた。
 立ち去っていく男の後ろ姿を凝視しながら、遼は大きく息を吐いた。
「島守……あの人……誰……?」
「さぁ……なんだろうね……」
「な、なによそれ……喋ってたんでしょ?」
「少しだけだよ」
 ぶっきら棒に言い放つと、遼はポケットに手を突っ込んで境内へと歩いていき、はるみもそれに続いた。

 藍田刑事が言うことが事実であれば、獣人の襲撃に端を発したバルチでの出来事や、最近起こった父の捜索まで、全てはリューティガーの催眠術だったということになる。しかしあんな現実感に溢れ、おまけに長時間の催眠術などあり得るのだろうか。
 だがどちらかと言えば、念じて空間を跳躍したりする方があり得た話ではない。
 温泉から清南寺へ帰る途中、島守遼は平田先輩からやや遅れて砂利道を行きながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

 だから違うって。落ち着けよ俺。刑事のは確かに手品と催眠術。真錠のは知らない。けど、俺の「異なる力」は現実。だって収益上げてんじゃん。

 遼は立ち止まると道端にしゃがみ込んで、街灯の頼りない光に照らされる砂利を見つめた。
「どうした島守?」
 先を行く平田の問いかけに「サンダルに砂利、詰まって……先行ってて下さい」と返事をした遼は、砂利の中で一番小さな石粒に意識を集中した。

 さぁ……動け……浮き上がれ……

 最近であれば、ものの数秒で石粒は宙に浮くはずである。

 あまりにも後輩が長時間に亘りしゃがみ込んでいるため、平田は仕方なく彼のもとまで駆け寄った。
「おいおい……晩飯の茸に当たったのか?」
 遼の背中を叩いた平田は、風呂上りの後輩があまりに大量の汗を額から噴き出しているのに驚いた。
「と、島守……」
 先輩の問いに、だが後輩は返事をせず、ただ「どうして……動かない……?」と震える声でつぶやいた。

6.
新宿区大久保。その中でも総武線大久保駅近辺は、新宿のすぐ隣に位置する都心地区であり歌舞伎町から続く、どこかうらぶれた猥雑さを街並みの色としていた。
 駅前の路地から小滝橋通りまでの間に、ちょっとした体育館ほどの敷地をもった巨大なテントが張られた一角がある。テントの入り口には「大アジア食材広場」と書かれた垂れ幕が下がり、それを見上げたカーチス・ガイガーは口の左端を嬉しそうに吊り上げた。
「すげぇ匂いに……客の数だな……」
 テントの中でごった返す買い物客や、商売人たちの奇妙なイントネーションの日本語に少々興奮しながら、ランニングシャツ姿の彼は傍らで腕を組むTシャツ姿の陳を見下ろした。
「調味料に食材、意外や意外薬まで、なかなかの材料が揃ってるネ。ここ、私のもう行きつけヨ」
「やはり四川料理の材料が多いのか?」
「一番多いのは韓国料理ネ。けど使いまわせるのも多いから大丈夫ネ」
 テントの中に入ったガイガーは、八メートルほどの高さに張られたテントの内側を見上げ、喧騒と強烈な香辛料の匂いに「やれやれ」と苦笑いを浮かべた。
「いいよな。たまにはこーゆーのも」
 テーブルに並べられた売り物の漬け物や、パイプハンガーから吊された得体の知れない四足動物の肉を興味深そうに覗き込みながら、彼は顎に手を当てて首をしきりに傾げた。
「はい、これとこれ持って」
 てきぱきとした段取りで、陳は調味料、食材などを次々と購入すると、袋詰めしたそれを背後にいたガイガーへと手渡していった。
 瞬く間に男の逞しい両腕は中華素材でいっぱいになり、視界が遮られるのを嫌った彼は首を左右に振りながら、前を歩く丸い後ろ姿を追って行った。
 二十分ほどの買い物の後、二人の男は小滝橋通り沿いの駐車場に停めておいた、赤い軽自動車までやってきた。
「ちょこまかといい車だな。これ、どこの車だ?」
「日本車ヨ。ダイハツのミラという車ネ」
 後部座席に購入した大量の食材を詰め込むと、男たちは前部座席に窮屈そうに乗り込んだ。
「しかしえらい量を買い込んだな」
「ガイガーよく食べるね。もう私、作り甲斐があるというものネ」
 表情を殺したまま、エンジンキーを手にした陳がそうつぶやいた。助手席に腰を下ろしたガイガーは太い指で器用にシートベルを装着すると、小さく息を吐いた。
「明日の作戦がうまくいったら……休暇でも申請するかな」
「ガイガーの国はどこかネ?」
「ボストンだ。女房と息子がいる」
「ほっ? カオスが家族持ちだったとは、意外や意外ね」
 細い目を見開くと陳はエンジンをかけ、軽自動車を発車させた。
「ああ……俺はケガを負ったところを本部送還になってな……そこで部隊の壊滅を聞いた……」
 そうつぶやきながら、ガイガーは険しい表情を浮かべ、尻のポケットから葉巻を入れた金属性のケースを取り出した。
「っと……禁煙だったか……」
「坊ちゃんがいないときなら、もう構わないね」
「そうか……」
 言葉に甘え、男は葉巻に火をつけた。
「それにしても不思議な話ネ、カオスは傭兵部隊で第二次ファクトと契約してたわけでしょ? それがどうして同盟本部へ送還になったのかネ?」
「ああ……気が付いたらあの城の医務室で、俺も驚いたさ……どうやら中佐殿の判断だったらしい。表向きは医療設備の都合ってことらしいが……実際は……」
 ガイガーは葉巻を大きく吸い込むと、顎を引いてフロントガラスに広がった新宿駅を見つめた。
「ファクトではない……外部の人間で、あの化け物たちと交戦した者のデータが必要だったらしい。五星会議の命令だったと中佐殿はおっしゃっていた」
 軽自動車のハンドルを右に大きくきりながら、陳は小さく息を吐いた。
「そんな経緯で、カオス部隊から同盟のエージェントになったわけネ?」
「ああ……隊が全滅した以上……陸軍に再役するのもおっくうだったし……中佐殿も誘ってくれてな……」
「それで家族を持ったというワケね。なるほど納得したヨ」
 ようやく表情を崩した陳が助手席を横目で見ると、しかしそこに座る無骨なる男は、頬の切り傷をさすり、険しい様子のままで葉巻を吸っていた。
「恐ろしいかガイガー? 確かに連中の首魁は、七年前にガイガーが交戦した化け物たちと同じ“異なる力”の持ち主ネ」
「ああ……正直、恐ろしいね……俺は……これまで二十年以上訓練をしてきた……兵士として、任務を遂行するエージェントとして……しかしあの種の力は……そんな努力を完全にバカにしやがる。ジョークのように、子供だましのSF映画のように……俺は……」
 車内ではエアコンがようやく効き始めていたが、ガイガーの額には汗がびっしりと浮かび、一条の流れとなって頬へと滴っていた。
「けど……我らがリューティガー坊ちゃんも……やはり“異なる力”を持っているヨ……それを信じることネ」
 ギアから左手を離すと、陳は逞しい筋肉の塊であるガイガーの肩を優しく撫でた。葉巻を灰皿に押し付けた彼は、小な声で「It is」とつぶやいた。

 陳とガイガーが食材の買い出しに出かけているその頃、リューティガー真錠は居間のソファで腕を組んで目をつぶり、思考を巡らせていた。
 彼の頭の中は、明日の作戦でいっぱいだった。
 口元をむずむずと歪ませたり、栗毛色のくせっ毛を指で弄ったり、テーブルに頬杖をつりたり、大きく伸びをしたり、時々にやにやしながらソファに寝転んだりと、もし彼のクラスメイトがその姿を見れば、いずれもが意外なる転入生の姿に呆然とするだろう。それほど、リューティガーは集中して頭脳を回転させ、体裁に気を遣うゆとりは無かった。
「あー……!!」
 低い声でそう叫んだ彼は、両手をソファの背もたれを叩いた。
 乾いた音を大きな耳で察知した健太郎が、チューリップ帽をコートのポケットにしまい込みながら、居間へとやってきた。入室してきた従者に、リューティガーは「あ、健太郎さん」とつぶやくと眼鏡をかけ直して腰の位置をソファに対して整え、最低限の体裁を取り戻した。
「俺に気にすることはない……立案を進めてくれ」
 掠れた声でそうつぶやいた健太郎は、部屋の隅に腰を下ろすと、そのまま体育座りの姿勢でじっとなった。
 背後に静かなる巨人の気配を感じながら、リューティガーは大きく息を吐いた。
「健太郎さんは……“異なる力”と戦った経験はありますか?」
 その問いに、健太郎は垂れ下がった前髪を、首を傾けることで払い、赤い目を輝かせた。
「茨一派との交戦経験はない……」
「そうですか……」
「真錠殿は?」
「それこそ……昔から……」
 リューティガーは頭の天辺が床に水平になるほど上体を大きく反らし、天地逆さまになった視界で佇む巨人を見つめた。
「僕は奴と力を使ったゲームをやって遊んでた……奴も僕と同じで空間跳躍が得意だから、鬼ごっこなんかが一番多かったんです」
 仰向けの極みだったため、その声は低く掠れていた。しかし健太郎は言葉を返すことなく、小さく頷くことで会話の継続を表した。
「僕は……一度も……奴には……勝ったことがない……いつも……兄さんは……僕の上を……」
 最後は目を瞑り、搾り出すような声で彼はつぶやいた。
「初勝利をして……楽になれればいいな」
 ようやく返ってきた従者の言葉に、主は上体を勢いよく引き起こし、眼前に流れた栗色の髪の毛を見つめながらも、両の指を組んで唇の両端を引き吊らせた。
 少年の背中と頭が小刻みに震えるのを眺めながら、青黒い巨人は顎を両膝に埋め、全身を縮こまらせた。

 日が沈み、ダイニングキッチンを満していた四川料理の香ばしさも薄れかけていた頃、食卓にはリューティガー真錠を初め、陳、ガイガーが席に着き、健太郎は出口付近の床にしゃがみ込んでいた。
「健太郎さんはホテルの屋上から質量探知機の操作と101事対応をお願いします」
 主の指示に、健太郎は無言のまま大きく頷いた。
「陳さんは向かいの銀行屋上から104事対応を」
「了解ヨ」
「ガイガー先輩は一階ロビーで待機。101事から107事までの対応をお願いします」
「わかったが……この格好だとちょっとな……」
 ランニングシャツの胸板を見下ろしながら、ガイガーは眉を吊り上げた。
「それなら心配なく。着替えは用意してあります」
 作戦指揮者であるリューティガーの言葉に、「了解」と短く返したガイガーは、太い傷だらけの腕をさすった。
「真錠殿……」
 ゆっくりと立ち上がった健太郎が、ティーカップを手にしたリューティガーを赤い瞳で見下ろした。
「事対応の説明は受けたが、この作戦の最優先事項の説明がまだだ……」
「はい……最優先とすべきは……奴の本部への送還です」
 指揮官の言葉に男たちは一様に緊張し、顎を引いた。
「ですので僕が奴に直接触れることを、皆さんでフォローしてください。そのための行動内容は説明します……ただその前に……このことを念頭に置いてください」
 リューティガーは立ち上がると部下たちをゆっくりと見渡し、食卓に右手を置いた。
「奴は皆さんが思っているほどの能力者ではありません。ましてや死に神殺しに匹敵するなどという噂は奴の喧伝であって、実の弟である僕に言わせれば大げさなアピールです。なぜなら、奴には知覚外の物を“取り寄せる”ことはできない。空間を瞬時に跳んで奴の背後に出現して……跳ばしさえすれば……つまりワンチャンスさえものにすれば、それほどしんどい作戦ではないということです」
 空いた手を胸に当て、少年は静かに目を閉じた。
 男たちは誰が言い出したわけでもなく、それぞれ少年に歩み寄って大きく頷いた。
 目を開けたリューティガーの視界に、陳、ガイガー、そして健太郎の頼もしい姿が並んでいた。指揮官は部下たちの瞳に強い士気を感じ、静かに、ゆっくりと、やがて引きつった笑みを向けた。

7.
 藍田と名乗る刑事は、情報を提示するだけであった。そう思うと奇妙でもあり、しかしそもそも警察や刑事が普通どういった捜査の手順を踏んでいるのかなど、想像できるはずもなく、思い出してみれば手帳こそそれらしかったが、あの中年男性は着衣などもよれよれで、佇まいがあまりにも飄々としていた。
 おまけに手品と催眠術を特技にしているなど、どうにも怪しげであり普段の島守遼であれば猜疑心を強くし考えを巡らせるであろう。
 しかし、今の彼にそんな余裕はなかった。
 昨晩、温泉の帰り道以来、彼は寝るまでに何度か小さなゴミくずなどを対象に、念じて手を触れずに物体を動かすという“異なる力”を挑んでみた。ここしばらくはイカサマパチンコでの努力もあったせいか、大した頭痛もなく、自在とは言い難いがそれでもその力を発揮できた遼である。
 しかしいつからか、いくら念じてもゴミくずは微動だにせず、平田先輩から「電気消せよ。もう十二時だぜ」と注意されてようやく蒲団に入ったものの、喪失感と混乱からか冷や汗で辺りはびっしょり濡れ、ろくに眠ることもできないまま朝を迎えてしまった。

 藍田刑事の言っていたことを全て信じるとしよう。

 そうなると、リューティガー達は詐欺師一味ということであり、対象はおそらく自分や仁愛高校の生徒たちである。
 目的は超能力があると見せかけてその実は催眠術であり、最終的にはコーチ料と称した授業料をまんまとせしめる。
 マンションの獣人から起こり、バルチのゲリラ小屋で終わったあの一連の出来事の全ては催眠術で見せられた夢であり、ジョージ長柄など存在せず、平田が言っていたジャーナリスト行方不明も偶然か、あるいは平田もリューティガーの催眠術により喋らされたいわゆる「ネタ」である。
 パチンコ屋で父を探した一件についても途中からは催眠術である。自分にはそもそもパチンコの才能があり、暗示にかかったまま銀玉を自在に動かしていたつもりだったが、実は偶然大当たりの穴に玉が入っただけのことではないだろうか。事実、あれからまだ十回しかあの力を使ったパチンコはやっていない。
 いや、そのような出来すぎた偶然は有り得ない。となると、例えば自分がパチンコをする度、尾行していた陳や健太郎といった一味が台に細工をしていたのではないだろうか。そう、自分の尺度で詐欺師たちの仕事を推察すべきではない。
 一流の悪党は驚くほどの労力を仕掛けに費やすと、何かの映画かドキュメンタリーで見た覚えがある。

  島守遼が次第に藍田の説を信じるようになりつつあったのも、全ては“異なる力”が使えないためである。念動がだめなら、触れて相手の心を読むという接触式読心を試してみる手もあったが、そもそもあれはできるかどうか非常に不明瞭であり、確実に成功させる基準はない。

  服とかの上より、直で肌に触れた方が、はっきりと欲しい情報が拾えるんだよな。

 そんなことを思いながら、しかしその気づきつつあるコツにしても、そもそもリューティガーと一緒に、病院を抜け出した父を探している最中に育んだ着目点である。あの栗色の髪をした転入生が詐欺師であれば、彼のおかげで気が付いたコツなど何の意味も持たない。
 大体、わけのわからない能力を試すような暇はなかった。起床して蒲団を畳めばその後は旧観音堂の掃除であり、それが終わる頃には朝食。消化も済まないうちから午前の稽古の準備に取り掛かり、稽古が始まれば中々上達しない芝居に先輩たちの注意と罵声が飛ぶ。
 寝不足も手伝ってか、すっかりくたくたの遼だったが、今日という日はまだせめてもの救いがあった。午後の稽古への遅刻参加が許されている、夕飯の買い出し当番だったからだ。
「ちゃんと選んで買ってくるのよ!!」
 はるみの言葉を背中に受けながら、遼は買い物カゴを提げ、麓のスーパーまで駈けて行った。
 車一台分ぐらいの幅しかない未舗装のゆるやかな坂道で立ち止まると、彼は肺に山の空気を吸い込んだ。排気ガスとも縁の薄い空気は真夏の昼間にも拘わらず、どこかひんやりとしていて心地よく、彼の左右には背の高い雑木林が広がり、鳥の囀りが複雑な反響とともに鼓膜をくすぐる。
 大きく伸びをした息を吐き出した遼は、稽古は辛く奇妙な悩み事は抱えているものの、この自然に囲まれたのんびりとした環境を気に入ろうとしていた。

 スーパーで予定通りの買い物をした遼は来た道を戻り、再び未舗装の山道にやってきた。
 ゆるいとは言え、それなりの距離がある坂道である。清南寺までの帰路を思い出しつつ彼が早歩きで道を進んでいくと、雑木林の中から人影が現れた。
 「な!?」と、突然の出現に戸惑った声を上げた遼は立ち止まり、白いワイシャツ姿の中年男性を睨み付けた。
「あ、藍田……さん?」
「よぉ島守君……買い出し?」
「え、ええ……そこのスーパーまで……」
 緊張して警戒する少年とは対照的に、パーマ頭の男は相変わらず飄々とした態度を崩さず、にやにやと薄笑いを浮かべ、相対する遼を見つめていた。
「な、なんの用です……? また取り調べですか?」
「はは……取り調べってほどじゃあ……事情聴取だよ」
「真錠のことなら……もう僕が教えられることなんてありませんよ。住所とか電話番号は学校で調べたんでしょ?」
「まぁ、そうだが……そう嫌わんでくれよ……なんか君……全身がこう……神社の方に向かって逃げようとしてるよ」
 男の指摘に、遼は咳払いをすると重心を少しだけ彼に傾け、買い物カゴを提げたまま腕を組んだ。奇妙な違和感が、腑に落ちない何かが彼の腹に気味の悪さを与えていた。

 神社……今そう言ったよな……俺を訪ねてきたんなら……演劇部が練習してる場所だって……そう、こんな山奥で間違えるのは嫌だろうし、刑事ならちゃんと調べたはずだ……刑事なら……寺を……神社とは……神崎だって……少しはわかってるのに……

 心の中で、確かには定まらないものの、ぼんやりとした疑問が渦を巻こうとしていた。

「ちなみに。あそこは清南寺って……お寺ですよ。神社じゃない」
「あ? そ、そう? はは……島守君は細かいね」
 そんなことどうでもいいじゃないか。藍田の顔にはそう書いてあるようにも見え、遼の疑問は何となくだがある形になろうとしていた。
「細かいついでに言わせてもらえば……藍田さんは昨日と違って僕の名前を間違えないんですね」
 嫌味交じりにつぶやきながら、遼はなぜこの男が昨日わざと「島守(しまもり)」と呼び方を間違えたのか、わかったような気がした。
「手品は警察学校とかで教えてくれるんですか?」
「まっさか……学生時代に……趣味で始めたんだよ」
 藍田は額の汗をハンカチで拭いながら、苦笑いを浮かべて煙草を胸ポケットから取り出した。
「さーて……それじゃちょっといいかな……昨日の質問の続きなんだが……」
 半透明の百円ライターを何度も着火させようとした藍田だったが、山の湿気のせいか中々火は付かず、咥えた煙草もしなろうとしていた。着火を諦めた藍田は、煙草を箱に戻し顔を上げた。
「ライター……故障ですか?」
 対する遼の手が、握っている百円ライターへ伸びようとした。
「い、いや!! 安物でな!!」
 藍田が慌てて手を引っ込めたため、疑問はようやく形からより明確な言葉にまで育った。
 こいつ……偽刑事だ。

 ライターを胸ポケットにしまった藍田は、遼がなにやら確信めいた笑みを浮かべていることに気づき、顎を引いて上目遣いに軽く睨み付けた。
「刑事さん……真錠のことでしたっけ……事情聴取って……」
 その声がやや上ずっていたため、藍田は顎の無精髭を軽く撫で、ヤニ色の歯を見せた。
「さーてね……はは……なんだかねぇ……ルディ一派の件は……また明日にさせてもらうわ……」
 右手をゆっくりと、別れの合図で上げた藍田は肩を上下させながら山道を下り始めた。
 何一つ、あの中年男と具体的な言葉などやりとりしてはいない。しかし神社と寺の違いに無頓着なのは気になり、自分と身体が触れ合いそうになった際の慌てぶりはあまりにも不自然である。
 そしてルディ一派という言葉。そう、彼は昨日もすんなりと、何の淀みもなく「ルディ一派」という呼び方をしていた。
 最初の話からすれば、リューティガーは詐欺師らしく別の名前でこれまで活動をしていて、だからこそ藍田はリューティガーという名前に聞きなれない態度を示していて、詐欺師という設定にリアリティをもたらしていた。しかし語るに落ちるとは正にこのことである。

 ルディなんてあだ名……関係者じゃない限りすんなりとは出やしねぇ……

 刑事ではないとすれば、あの男は何者だろう。小さくなっていく背中を睨みながら遼はそう思ったが、今は平田先輩たちに食材を届ける方が先であることを思い出し、ゆっくりと山道を登り始めた。

 平田の作る食事はどれもまずまずな味である。遼にとって特別「旨い」というほどではないが、堅実で外れが無く平均的な出来であり、実に料理というものはその人の個性が表れるものだと感心したりもした。
 一応就寝時間は二十三時となっていたが、そんな時間を守る高校生など存在するはずもない。夜は稽古のストレスを発散させ、共同生活という日常ではない状況を思い切り楽しむことが出来る時間帯である。
 ただでさえ顧問教師不在であり、住職たち一家が住む住居と寝泊まりに借りている旧寺務所が離れているということもあって、遼と平田を除いた女生徒たちは連日深夜まで話し込むことが多かった。

 だが、その除かれた男子二人が寝泊まりに使う四畳半の物置部屋では、二十三時を過ぎる頃には電気も消えていて、二人はすっかり蒲団の中で横になっていた。

「よかったな。寝袋じゃなくって蒲団借りられて」

 遼が平田から小言以外にこの部屋で耳にした言葉は、それだけである。それも初日の、畳んであった蒲団を目撃した際に独り言のようにつぶやいた一度きりである。
 隣で寝息を立てる先輩は、確かにスケジュール管理に食事のチェック、台本の手直しと大活躍でくたくたのはずである。疲れきって寝てしまうのも無理はないが、自分まで巻き込まれるのはごめんだ。

 このままじゃ、暗黒の合宿になっちまう。

 合宿に参加した公の目的はもちろん芝居の向上にあったが、それは動機の半分、いやそれ以下の割合であり、彼にとってもっと大切な果たすべき事柄が存在した。
 倉庫部屋から静かに抜け出した遼は、真っ暗な廊下へ出ると階上に注意を向けた。

 何やら楽しそうな談笑が、襖の灯りとともに漏れてきた。それに気づいた遼は、階段の手すりをぎゅっと握り締めてその場で全身を左右に振った。
 階段を上ったあの先に、暖かく漏れる灯りの中で、蜷河理佳は先輩やはるみたちと楽しげに談笑でもしているのだろうか。
 衝動と欲求と理性がぐるぐると螺旋に渦巻き、それが胸の辺りに到達する度に彼は全身をもじって両膝を壁や手すりにぶつけていた。
 せめて蜷河理佳が個室であれば、そこへこっそりと訪ねて目的を果たすことも出来る。しかし十六名の女生徒は四名ずつ四部屋に分かれていている。四部屋のうちどれか一部屋に彼女が一人でいる可能性は極めて低い。
 例えば女子ばかりが寝泊まりしている部屋に気軽に訪れ「蜷河さん? ちょっといい?」などと気軽に言える自分であればこんな奇怪な身悶えなどしなくてもよい。だが芝居も満足に出来ない自分がそんな欲求に従順過ぎる行動をするなど、自分自身身勝手すぎるような気もする。
 意外に自分という人間はプライドを大切にしているのだろうか。そんな無理やりな納得で欲求を封じ込めると、遼は倉庫部屋へ戻るためよろよろと振り返った。

 あ……?

 階段から反対側の廊下の突き当たりは旧観音堂と直結していて、扉の開いたその先にすらりとしたシルエットを遼は認めた。

 蜷河さん……だ……

 境内へ吹き抜けるお堂には月明かりが差し込んでいて、そのぼんやりとした光が長い手足とTシャツ越しの豊かなシルエットを現出させ、長い黒髪がかすかに輝いていた。
 蜷河理佳はお堂の縁から境内の先の雑木林をなんとなく見つめ、時折吹き込んでくる夜風に髪を押さえていた。
 このままこっそりと、廊下の影からあの端正な横顔に見とれているのも悪くはない。しかし自分にはやるべき目的がある。意を決した遼はしのび足で倉庫部屋まで戻り、大急ぎでスポーツバッグから書店の包みと封筒を取り出した。
「うるさいぞ……島守……」
 物音に気づいた平田が眠そうな声でそう抗議したが、遼は気にも留めずに部屋から出て行き、旧観音堂へ駆け込んだ。
「と、島守くん……」
 突然の来訪に蜷河理佳は戸惑い、境内からの風に目を細め、旧観音堂の入り口で肩を上下させ息を整える島守遼を見つめた。
「に、蜷河さん……」
 遼の声のトーンが低く、警戒するかのように静かだったため、蜷河理佳は首を傾げてその意図を察知した。
「ね、眠れないの……?」
「い、いや……その……そうじゃないけど……俺……俺さ……」
 後ろ手に包みを持っていたため、遼は頭を掻くことも出来ずに全身を大きくうねらせながら、少女の傍までやってきた。
「ほら……こないだの……デートのさ……お礼がしたくって……蜷河さん、全部立て替えてくれたでしょ」
「あ、あぁ……で、でも……」
 躊躇する蜷河理佳に対して、遼は素早い挙動で書店の包みと封筒を前に出した。
「こ、これって……?」
「ご、ごめん……気の利かない店員でさ、プレゼント用の包装とか教わってないなんて言ってて……だけど……受け取ってくれ」
 包みを突き出された少女は、両目を寄せがちに何度も瞬いて、やがて静かな笑みを浮かべた。
「あ、ありがとう……あ……封筒も?」
「お金……デート代……」
「け、けど……」
「いいプレゼントが思い浮かばなくって、結局本になったけど、あの日はもっと立て替えてくれたし……俺、そのためにバイトしたから……」
「う、うん……」
 少しだけ顎を引いた蜷河理佳は、包みと封筒を受け取ると、ゆったりとした挙動で封筒の方を遼に突き出した。
 やはり現金を返すというのは無粋だったか。自分の判断をそう呪いながら、彼はしきりに頭を掻いた。
「こ、このお金……やっぱり受け取りたくない……な、なんか……嫌……」
「そ、そうだよな……俺……なに考えてんだろうな……」
 仕方なく封筒を返された遼は、小さく息を吐いてそれをジャージのポケットに突っ込んで床へ視線を落とした。
「け、けど……今度の……うん……」
 本屋の包みを胸に抱え込んだ少女は、頬を赤らめながら、伏せていた目を少年にちらりと向けた。
「今度のデート……島守くんが……おごって……ね」
 少女の言葉に、遼は顔を上げた。
「あ、ああ……そうだ……ああ……そうだよな」
「ね」
 首を傾げ、照れ隠しの笑みを向ける蜷河理佳に対して、遼はその場で飛び上がってしまいたい衝動に駆られ、それを抑えるのにむずむずと苦労をしていた。
「そ、そうだ……何の……本……? 開けていい?」
「よ、喜んでもらえるといいんだけど……」
 包みのセロテープを丁寧に剥がすと、蜷河理佳は中から一冊の本を取り出した。お堂の中は薄暗く、表紙の文字を読み取るのにそれなりの労力が必要だったが、ゴールデンレトリバーの仔犬が舌を出す、つるつるの表紙はそれだけで内容を容易に連想させ、彼女の表情を柔らかくさせた。
「な、なんか有名な動物写真家らしいよ。ほら……こないだ蜷河さん、ペットショップで仔犬とかマジで欲しそうだったし……だったらなって思って」
「う、うん……あは……かわいい……ありがとう島守くん」
 嬉しそうに表紙を見つめる蜷河理佳と向き合いながら、島守遼の気持ちの中で、何やら冷静なる感覚が戻ろうとしていた。

 そう。そもそも蜷河さんが俺に本をくれたから、俺もプレゼントは写真集にしたんだ。あの解剖図鑑を……くれたから……

 思い切って、二度目になる質問をしてみよう。幸せそうに笑みを浮かべる少女をちらちらと見ながら、疑問を少しでも解消したい欲求に彼は駆られていた。
「ね、ねぇ蜷河さん」
「え……?」
「前にさ……俺にあの……人体解剖図鑑を……くれたじゃん……」
 その言葉に、だが少女は笑みを浮かべたまま、写真集を胸に抱きながら小さく口を開いた。
「ええ……」
 彼女の様子があまりにも穏やかに感じられたため、彼は言葉と呼吸を同時に詰まらせてしまった。蜷河理佳は床に写真集を置くと、咳き込む彼の背中をそっと撫でた。
 細い指と暖かい掌の感覚が背中一杯に広がったものの、イメージや言語が浮かぶことはなく、遼はただ気遣いだけが嬉しかった。
「ご、ごめん……」
「島守くんは……そっか……うん……不思議……なんだ……そう……だよね……」
 咳払いをしながら上体を起こした遼は、写真集を拾い上げて抱え込む蜷河理佳の挙動を目で追い、その言葉に意識を集中させていた。
「あ、あの……あの図鑑は……」
 写真集をより強く抱きしめた蜷河理佳は、遼から視線を逸らすと下唇を少しだけ噛んだ。
「蜷河……さん……」
 ただならぬ決意を胸に秘めた彼女の様子に彼はうろたえ、どう言葉をかけてよいのかわからなかった。
「あの図鑑は……大切な人に……渡そうって……ずっと……決めてたんだ……」
「た、大切な人……」
 遼がそう聞き返すと、蜷河理佳は視線を逸らしたまま顔を耳まで真っ赤にし、旧観音堂から駆け出して行った。
「俺が……蜷河さんの……大切な……人……?」
 立ち去り、階段を駆け上がる少女の姿を目で追いつつ、少年は胸の中で熱い何かがこみ上げてくるのに興奮していた。

 根本的な疑問は何一つ解決していない。結論など、これっぽっちも得られていはいない。

 しかし島守遼はその晩、合宿開始日から一番幸せな気持ちのまま、深い眠りに就くことができた。

8.
「わしはいいことを思いついた……」
「はい……」
 旧観音堂の境内に面した舞台で、島守遼と神崎はるみは互いに視線を合わせることなく、微妙な緊張の間を保っていた。
「松子と竹子と梅子を同じ部屋に集めるのだ……そう、悦子の部屋にな。支度は任せたぞ」
「かしこまりました……」

 遼とはるみの台詞上の絡みはたったこの一シーンのみである。家長とメイドCという役柄であるため、同じ場面に登場することは多いが、三人いるメイド役のうち、針越(はりこし)という一年生の女生徒が演じるメイドAがもっとも台詞が多く、遼とのやりとりも多い。そもそも役としての重要度が低いメイドCは彼女自体の台詞総量という物理的確率からして、他の役と絡むことが少なかった。

 短い言葉のやりとりではあったが、島守遼は神崎はるみというクラスメイトの芝居に対して「あまり上手ではないな」と感じていた。
 例えば針越の演じるメイドAとのやりとりで、「おもてなしの準備をしておけ」「はい。かしこまりました」というやりとりがあるのだが、これとはるみのそれを比較しても、どうにも彼女の演技は雑というか、声量こそあるもののリズム感に乏しく、早く言えば棒読みに近い。
 微妙な緊張は言葉を交わしたことにより、ぎくしゃくとした心地の悪い気まずさに変化しようとしていた。

「あなた。今日の誕生日に、私、詩を朗読しようと思いますの」
「ほう」
「あぁ。一体どれぐらいのお客様がパーティーにいらしてくださるかしら。ねぇあなた」
「そうだな」
「まぁ、あなたったら。先ほどからどうしましたの? 生返事で私の言葉など、全然耳に入っていないご様子で」
「い、いや。そんなことはないぞ。うむ……少し疲れておるのかな……?」
「相場のことでございますか?」
「いや……まぁ……な……」
「かわいそうなあなた……たった一人で財閥を率いて……その重荷は私などには想像もできません。けど……私のおなかの子は、きっといい跡取りになってくれるはず」
「ふむ……だといいがな」
「必ず男の子を産みますわ……あなたも願ってくださいまし……」
 遼の首に、蜷河理佳がそっと背後から抱きついた。
 背中に遠慮の無い柔らかさを感じながら彼の思考は混沌とし、理性と欲求が押し合って絡まって最後には仲良く中和しようとしていた。

 最高だ!!

 役の上ではあるが、この少女の体温をこんなに近く感じられ、演じる上での台本ではあるが、慈しみ合うことができる。
 本当の二人の距離はもっとずっと遠いのに、舞台の上では子供までできた仲睦まじき夫婦である。虚構と現実の溝を埋めることができれば、役の上での幸せは現実のものへとなるはずである。だとすれば、蜷河理佳との付き合いには、なんとわかりやすい目標があるのかと、島守遼は驚きもしていた。

 午前の稽古も終わり、昼食の豚汁を胃袋に収めた遼は、食器を炊事場まで戻した。
「そこ、置いといてね」
 洗い物をする乃口部長に大きく頷き返した遼は、炊事場から廊下に出た。
 部員たちが毎朝小まめに掃除をしているため、この寺務所の廊下には埃一つ落ちていない。ただで宿を借りている以上当然の礼儀ではあったが、その掃除一つとっても、遼は先輩たちからやり方を注意されることが多かった。

 だってさ。わかんねぇよ。こんな木でできた家の掃除なんて。

 それは弁解にもならない言い訳だった。綺麗な廊下を見るだけで、そんなつまらない感覚を思い出してしまう自分の未熟さに苛つきながら、彼は階段に落ちているゴミ屑を見つけた。

 なーんだ。結構みんな、いい加減な掃除じゃん。

 顎に手を当てた遼は腰を折り曲げると、ゴミ屑をじっと見つめてみた。
 最後に念じてみたのは一昨日の夜である。びくともしない砂利に恐怖を覚えて以来、彼はあの力を使おうとはしなかった。

 動けってよ……!!

 意識に命じられ、操られるように、ゴミ屑は右に弧を描いて舞い上がった。

 “異なる力”の復活は、だが本人にしてみれば無意識のうちに期待していた、感動の薄い出来事でしかなかった。
 藍田という刑事が偽者である。島守遼がその確信を抱くに至った最大の原因が、ライターを取ろうとした際、藍田が見せたその慌て振りにあった。
 もし触れられてしまい、その本心が読まれれば奴にとって都合が悪い。だからあの慌てぶりだったとしか思えず、そうなると接触式読心という、手品でも催眠術でも説明の付かない“異なる力”は実在するという裏づけにもなる。
 ゴミ屑は宙を舞い、自分の視線の動きに応じて自在に動かすことができ、わずかな頭痛も起こり始めている。むしろ、この力が数日前使えなかったのは、それこそ藍田という謎の中年がこちらに催眠術や暗示をかけた可能性が高い。
 念じたり思ったりすることで発現する力であれば、暗示という精神的な縛りによって封じることも案外簡単なのではないか。そこにまで考えが至ると、遼はゴミ屑への意識を途切れさせた。
 糸が切れたかのようにゴミ屑は操られる力を失い、階段へゆっくりと落下した。

 どーゆーのだ……藍田って奴……

 何か得体の知れない不安が胸をもやつかせていた。たまらなくなった遼は、そんな気持ち悪さを払拭するべく旧観音堂に駈け戻り、意中の彼女を探した。
「蜷河さん、探してるの?」
 きょろきょろと視線を泳がす遼に、そう声をかけたのは福岡だった。
「え、いや……その……」
「昨日、おじいちゃんが見たって言ってたわよ」
 声を潜めて、人の悪い笑みを浮かべる先輩に対して、遼は腰を曲げ頭に手を当てて戸惑った。
「な、なんスか……昨日って……なに見たんスか? TVとか?」
「あんたと蜷河さん。昨日の夜、ここで会ってたって」
「い、いやぁ……そ、そりゃ……」
「安心して、部長にも話してないから……」
 切り揃えた前髪をそっと撫でると、福岡は少し離れた目を寄せて、遼の慌て顔を覗き込んだ。
「どーしたのよ。なにが、どう?」
「い、いや……プ、プレゼントを……わ、渡しただけっスよ……」
「それでそれで?」
「そ、それだけ……です……」
「うそだぁ……」
「す、すみません……!!」
 覗き込む先輩の距離があまりにも近くなりすぎたため、彼は慌てて上体を起こし、その勢いのままお堂の縁まで後退し、境内へ続く階段を駆け下りた。
 首を傾げ、にやにやとした福岡の顔が下がっていく視界からようやく消え、遼はとにかく落ち着こうと、境内を正門に向かって駆け出した。
「大変ですなぁ……お寺の暮らしというものも……」
 その鼻にかかった声に聞き覚えがあった遼は、反射的に寺務所の角に背中をつけ、まるで隠れるように息を潜めた。

 偽……刑事の声か……?

「すみませんなぁ……刑事さんにこんなことまで手伝っていただいて……」
「いいんですよ。井戸汲みは田舎の家でよくやってましたから」
「田舎はどちらで?」
「長崎の諫早です」
「はぁ……九州ですか……」
「さ、これでじゅうぶんですか?」
「あぁどうもどうも。これだけ汲めば足ります。ほんとにありがとうございます」
 老人の謝意の言葉に続いたのは、草履を摺る足音だった。福岡の祖父と藍田刑事のやりとりは、まあそれはそれで平凡な刑事と老人のそれだったのだろう。そう理解した遼は、寺務所の角から一歩出て、汗をハンカチで拭く藍田の後ろ姿を睨み付けた。

 あの男が偽刑事だとすれば、一体何者なのだろう。それにこいつの間の抜け方はどこか意図的なようでもあり、刑事であるという嘘をそれほど熱心に演じようとしていないような気もする。

 そう、全ては中途半端なのである。
 例えばこいつがリューティガーの言う「敵」であれば、最初に襲撃してきた獣人に比べ平和的であり、何がしたいのかさっぱりわからない。
 自分を殺しに来たのか、リューティガーの情報を聞き出しに来たのか、あるいは人質が目的なのか。とにかく暴力に訴えるのであれば、昨日までの言葉でのやり取りはまったく無意味で無駄である。
 取り込もうという作為的な目的であれば、正体の隠蔽に無頓着過ぎである。つまり騙せていない。
 そう、どう考えても藍田某は中途半端なのである。

 奴の正体と真意を探るのであれば、方法はただひとつ。接触式読心でその心を覗いてみるしかない。
 しかし、奴はそれを最も警戒している。つまり知られたくない重大な目的があるのだろうし、本当の正体は隠しておきたいということなのだろう。

 少年は、中年男性の背中に強い意を向けながら、自分がどうやら興奮しようとしている事実を認めた。

「やぁ島守君」
「こんにちは藍田さん」
 振り返った藍田は、井戸の縁に寄りかかり笑顔を浮かべた。

 どうやって……こいつに触れる……

 思い切って、遼は藍田の下まで歩いていき、右手をすっと伸ばした。
「おぉっと……」
 藍田は腰を浮かすと接近をひらりとかわし、顎に手を当てて無精髭を親指で弾いた。
「な、なんだい島守君……鬼ごっこかい?」
「藍田さん。握手しませんか? こんなに仲良しになれたんですし」
「はは……俺は男と手を握るのは、社交辞令でもちょっとごめんだな」
「僕は、握手って好きなんですよ」
「なら将来は、外交官かアイドルタレントでも目指せよ。いくらでも握手の機会はあるぜ」
「ジャニーズにでも願書、出しましょうかね」
「それにはちっと、お前さんのビジュアルはキツ目だけどな」
「知らないんですか? 最近は、こーゆーのが流行なんですよ」
 淀みの無い会話のキャッチボールは虚構にまみれ、少年と男の顔は引きつったままであった。言外に、両者は相手の意図を察知していて、上っ面の芝居が破綻するのも時間の問題である。
「島守!! 午後の稽古が始まるよ!!」
 背中から聞こえてきたのは神崎はるみの呼び声である。遼はこの状況の変化に頭を無意識のうちに下げ、ある閃きに片眉をひくつかせた。
「はるみ!! はるみ、はるみ!!」
 彼は手招きをして、駈けて来たクラスメイトに引きつった笑みを向けた。
「な、なーにが“はるみ”よ!?」
 戸惑いながらはるみは遼の傍で立ち止まると、藍田に小さく会釈をした。
「君は……こないだの……」
 はるみに対して表情を柔らかくさせた藍田は、首を傾げて興味深そうに二人を見比べた。
「ね、ねぇ島守……くん……この人って……?」
「藍田って……演劇雑誌の記者さん……学生演劇の記事を担当してるんだって」
 咄嗟に付いた嘘に、遼は我ながら冴えていると思い、藍田に白い歯を見せた。
「こ、この……てめぇ……」
 眉を顰めた藍田は、遼という少年の器量を自分が計りそこねていた事実に、いまようやく気づいた。
「え!? なんでウチの部を!? それも島守なんか取材して!?」
「俺、新入部員だから、俺の視点で記事を書けば、新しい読者が獲得できるってね」
 ぺらぺらと言葉にしながら、遼は自分機転と嘘の才能に、これは意外な特技じゃないかと感嘆していた。

 藍田はすっかり言葉を失い、羨望の眼差しで自分を見上げてきたはるみにただ戸惑っていた。
 ここで自分は刑事だと主張する。この少女は島守遼に真相を正す。しかし島守遼は頑としてこちらを記者だと言い張る。少女は混乱し、より明確な刑事である証拠を自分に要求する。しかしそんなものなど……
 これではドツボだ。そう藍田は判断し、首筋にべったりとした湿気を感じた。

 すっかりパニックに陥りつつあった藍田の胸に、暖かい重みが圧迫した。
「な、なんだ?」
 藍田が見下ろすと、甘い匂いと共に、少女の背中が自分に押し付けられてることに気づいた。
 なぜこの子が、自分の胸に背中から飛び込んできたのだろう。抱きついてきたのなら嬉しいが、これはよくわからない展開だ。
 そう混乱した藍田の視線の先に、両手を突き出した島守遼の不敵な笑みが飛び込んできた。
「な、なな……なによ……島守……」
 両肩をしっかりと掴まれ、藍田にぶつかるほど押されてしまったはるみは、困惑しながら長身のクラスメイトを見上げた。しかし彼の視線は自分を頭越しに通過し、背後の演劇記者へと真っ直ぐに向けられていた。
 遼の脳裏に、混沌としたせつなさが広がった。これが神崎はるみの両肩に触れることで得られる、彼女の内面なのだろうか。だとすれば、どうにもいたいけで彼女には似合わない。
 もやもやとした霧の中を突き進むように意を向け、ようやく彼は、はるみの背中を通過し藍田の胸から意識を滑り込ませた。

 そこはあまりにも広く、あまりにも暗く、一体この中からどうやって目的の情報を引き出せばよいのか遼は戸惑い、やがて質問をぶつけてみようと思った。

 お前は……誰だ……名前じゃない……何者なんだ……

 その疑問に、広く暗い空間から大量の言語が噴き出した。

 か藍こ卒でい生ュはいも中らっん年期師いる大うビ術田味長年長デ業ー十う八奇太りもう.

 まったく意味などわからない、言語の羅列に過ぎないその一群に、引っかかりを覚えた遼は意をより集中してみた。

 も田十長長こ卒る奇で生ュはいも八中ら師っい年期気ん助うー崎大藍術味年デう太りビうかだ

 あ……なる……ほど……

 遼は言語を抽出することに意識を傾け、目的は呆気なく果たすことができた。

 FOTのエージェント
 そんな一つのキーワードが、言語の群れから拾い上げられた。

 じゃあ……FOTって……なんなんだよ……

 更なる問いに、新たな言語群が浮かび上がった。

 hといはっる料なもフaいi次oりて三n長f地 tこtの略俺れ居r第トとうの厄f介なァ給t所はそoだの居cク心u

 この日本を再生する徒

 言語抽出のコツを掴んだ遼は、更なる確信へと意を向けた。

 お前は……敵か?

 わからない

 目的はなんだ?

 その質問をもって、言語を抽出しようとした遼だったが、彼の脳裏は甘く切ない深海でいっぱいになった。

「て、てめぇ……や、やりやがったな……」
 押し付けられたはるみから身体を離した藍田が、顔面を引きつらせながら遼を睨み付けた。
 この様子は、つまり藍田は心を読まれ、キーワードを引き出されたという事実に気が付いたということである。それが驚きよりも怒りである以上、この男は“異なる力”を理解し、余程隠しておかなければならない情報を抱えているということである。

 はるみの頭越しに、遼は藍田を睨み返した。根拠はないが、この男は怒りをして安易な暴力を振るう者ではないと、そう無意識に思った故の行動であり、事実藍田は冷静に戻ろうと懸命に無精髭を親指で撥ねていた。

「できるとは……こう上手くいくとは思ってなかったけど……リレーでもできるってことだな……」
「は、はは……どうしてどうして……もうすっかり一味ってことか……よく俺を騙せたものだ……」
「いや……俺は一味とかじゃない……」
 はるみの両肩を掴んだままそうつぶやく遼に対し、藍田は大きく息を吐き、目を伏せた。
「そ、それじゃあ島守君……また取材に寄らせてもらうよ」
「は、はぁ……?」
 正体、といってもそれが何であるのか理解はできなかったが、不意に心を覗かれてしまったのに、この男は再び飄々とした態度を取り戻し、再会を意図したような言葉を口にしている。遼はその大胆さに戸惑い、気づいてみれば藍田の姿は正門の外まで遠ざかっていた。
「ね、ねぇ……と、島守……」
 右手に、柔らかい掌が重なる感触に彼は気づいた。ふと視線を落とすと、すぐ目の前に神崎はるみが目を伏せ、全身を強張らせていた。
「あ、えっと……」
 遼は自分の挙動がまだ継続していたことにようやく気づき、両手を彼女の肩から慌てて離した。
「な、なんなのよ……もう……どうしたの?」
「い、いや……そ、それは……まぁ……な、なんとなくっていうか……ついつい……」
「どうか……してるよ……!!」
 ぷいっと横を向いたはるみは、口に手を当てそのまま旧観音堂まで駈けて行った。

 藍田の真意へ到達する途中感じた、あの甘く切ない深海が神崎はるみの心中であるのには間違いがない。
 一瞬の感覚ではあったが、そこは生温く、それでいて悪くはない居心地であると遼は思った。

9.
 今日は比較的は路上にいる車も少ない。六本木交差点側の喫茶店の中から、サングラスをかけたリューティガー真錠は、アイスレモンティーのストローに口をつけそう思った。
 自ら選んだその座席は、ちょうど交差点側を向いていて、ガラス張りだったため外の様子はよく観察することができる。これがいわゆる日本の“帰省”という奴なのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、彼はサングラスを直して横断歩道の向こう側に位置するレンガ色をした巨大な建物を見上げた。
 この喫茶店内からでは、そのホテルのせいぜい二階部分までしか窺うことはできない。しかし彼の眼球に血管が浮かび上がるのと同時に、喫茶店の壁を通過してホテルの屋上までの光景が認識力の内側に投影された。
 屋上の光景を知覚したリューティガーはある部分へ意識を集中させ、まるで望遠レンズを調整するかのようにズームアップを果たした。
 屋上の給水タンクの裏側に、青黒い肌を暗灰色のコートに包んだ巨人が、小包大の機材をしゃがみ込んで操作していた。
「定時13:00……異常無し」
 リューティガーが右の耳に付けていた小さなイヤフォンに、掠れがちな巨人の声が届いた。
 従者、健太郎の様子に小さく頷いた主は、レンガ色の壁をしたホテルの向かい側に建っている銀行ビルの屋上へ意を向けた。
 知覚した銀行の屋上には、丸々とした体躯の陳が、双眼鏡でホテルの入り口付近を監視していた。
「定時13:00……こちらも異常なしネ……」
 陳の報告をイヤフォンで受けたリューティガーは、視線を下げてホテルの一階部分へと戻した。
 ホテルの壁を突破し、彼が知覚した光景はロビーである。ビジネスマンや観光客、ホテルの従業員たちが行き交う広々とした空間の片隅に「喫煙場所」とプレートに書かれた一角がある。灰皿を中心に円形にソファが並ぶその中に、葉巻を吹かしている黒いスーツを着込んだ、決して長身ではないが逞しい体躯の白人男性の姿があった。
「定時13:00……異常なし」
 白人男性の唇が動くのとほぼ同時に、リューティガーのイヤフォンに母音の切れが早い、東部訛りの英語が届いてきた。
 朝から陳と健太郎の二人はずっと同じ場所に待機し、ガイガーとリューティガーが現在の位置まで移動してきたのも一時間ほど前である。これまでに何の変化もなく、次第に若き指揮官は下唇を噛むようになっていた。
 できれば、健太郎からの報告で事態が動いてくれれば幸いである。リューティガーはそう考えていた。巨人がホテルの屋上で操作しているのは質量探知機であり、ホテル内に突然の質量変化反応があった際、その位置と質量を検出できる仕組みになっている。突然、といっても時間的な程度があり、機材の探知範囲は時間において一秒以下、つまり一瞬であり、質量において重量換算で四十キログラム以上である。
 つまり“異なる力”の一つ、空間跳躍を使ったホテル内への出現を探知するためのセッティングであり、それに反応があれば即座に自分がそこへ跳躍する段取りとなっている。
 その展開が一番隠密に、被害を最小限度に作戦を遂行することができる。標的の背後に跳躍し、その背中に触れてオーストリア同盟本部へ跳ばしてしまえば、今回の作戦の殆どは終了する。
 喫茶店内の空調は、店外に大量の熱を放出することにより寒気を感じさせるほどの空間を形成していたが、彼の額に浮かんだ汗は引くことなく、サングラス越しの瞳には血管が浮かび上がったままだった。

 事態は、それから三十分ほどして一つの動きを見せた。
「こちらガイガー……ルディ……こっちを見てくれ」
 イヤフォンから耳に入った言葉に反応して、彼はホテルの一階ロビーへ意を向けた。
「カウンターで手続きしている奴だ……」
 ガイガーの指示に従い、リューティガーがカウンターの光景をズームさせると、初老の男性が従業員と言葉を交わしているのを認識した。
 白髪交じりの整った髪に、彫りの浅い特徴の薄い顔、痩せた体躯をオーダーメードの高級スーツで包んだその男は、数日前、本部より資料として送付された阿賀素石油常務の顔写真と一致する。
 標的の交渉相手がホテルにやってきた。その事実は情報の信憑性を急激に高め、この作戦に参加している四人の緊張を急激に引き上げていた。
「健太郎だ。こちらには反応は無い」
「陳ネ。異常なしヨ」
 それぞれの報告に頷いたリューティガーは、ガイガーに「106事対応」と短く命じた。
「了解」
 ガイガーは短く返すと、おそらく壁の向こう側はるかにいるであろう、指揮者に対して小さく親指を立て、カウンターで手続きをしている初老の男へ注意を向けた。
 男は、客と従業員が行き交うロビーを見渡し、喫煙場所から離れた出口付近のソファへ腰を下ろした。
 この作戦における「106事」とは、標的より前に交渉相手を確認した際の状況対応プログラムである。ガイガーはリューティガーの立案した内容に従い、男の近くのソファに自分も腰を下ろし、いつでも対応できるように右手に持った黒いアタッシュケースを抱え込んだ。
 標的は交渉相手であるこの男と、何らかの方法で接触をするはずである。もし標的がロビーに現れたら、できるだけ足止めをしてリューティガーがその背中へ接触するチャンスを作ればよいし、もし遠隔地からの指示があったとしても、男は移動を開始し、自分はそれを尾行すればいい。
 状況がどう動いても、自分は対処できる訓練を受けてきたはずだ。怪しまれないように男から視線を外したガイガーは、気を引き締め周囲の様子に気を向けた。

「カオスの生き残りが東京に舞い戻ってくるとは。またサイキに殺されにきたの?」

 ガイガーは耳を疑い、目を見開いて頭を上げた。彼の眼前には、あの初老男性が無表のまま佇んでいた。

 いつ俺の目の前に!? それに……何と言った!?

 耳にした言葉は、どう考えてもこの男が発したものである。しかし早口の日本語をガイガーは正確に聞き取ることができず、それでも異常事態ということに対して身体が自然に対応していた。
 彼はソファの後方へ重心を一気に傾けながら、抱えていたアタッシュケースの中から小型の機関銃を引き出そうと蓋を開けた。

 しかし、後転しようとしたガイガーの後頭部は、皺のある掌でその回転を封じられた。
 背後に誰もいない。そう確信した上での後転運動であり、それがあり得ない向きである後部真下からの圧力によって止められている。

 速ぇ……に……なんて握力……!?

 自分の後頭部をキャッチしたのは、眼前でふざけたつぶやきをした男である。外見からは全く想像も付かない、挙動の速さと握力の強さだ。驚愕しながら、カーチス・ガイガーはケースから小型の機関銃を引き抜いた。
 だが、空いていた男の右手が勢いよく彼の喉下を鷲掴みにし、前後からの圧力で全身が痺れてしまったガイガーは、頼りの火器をロビーの床に落としてしまった。
 絨毯に落ちた機関銃はほとんど音を立てることはなかったが、痩せぎすの男が両手でソファに座る屈強な白人男性の首を絞めるという奇怪な光景は、ロビーにいた者たちを騒然とさせた。
 異常事態を察知したのは、喫茶店から様子を窺っていたリューティガー真錠にしても同様である。直ちに援護に向かうべく、跳躍に意識を集中しようとした彼の鼓膜を、聞きなれた掠れ声が刺激した。
「真錠殿!! 104発生!! 数1! 質量からしておそらく奴だ!! 場所は十階エレベーター前!!」
 集中しようとした意識を中断されたリューティガーは、健太郎からの報告に全身を硬直させた。
 しかし、躊躇はそのほんの一瞬だけであり、突風と共に彼は姿を消した。

 圧迫を続ける、痩せた手を両手で握り返しつつ、ガイガーは栗色の髪をした指揮者がここへ跳躍してこない現状に満足していた。
 自分は任務を遂行するのみ。
 そう意を決した彼は背中に力を入れ、左膝を男の腹に打ち上げた。
 呻き声一つ上げず、男は強烈な一撃を受けながらも首から両手を離し、距離を開けて姿勢を低くした。
 ガイガーも落ちていた機関銃を拾い上げ、膝にじゅうぶんな柔軟さを残しながら、「Murder team Chaos!!」と叫び何のためらいもなく引き金を引いた。
 MP5Kの黒い銃口から吐き出された9mmパラベラム弾が、男の腹部と胸部に合計十発命中した。二発ほど、運悪く命中しなかった銃弾もあったが、それらは大理石製の柱に命中し、一発は兆弾して毛足の長い絨毯を焦がし、一発はロビー注音に置かれたグラウンドピアノの鍵盤へ着弾し、間抜けな高音とともにめり込んでいった。
 ロビーにいた客は伏せる米国人やアラブ人もいれば、出口へ殺到する日本人とそれぞれではあったが、いずれも表情には恐怖が張り付いていて、突然現出した異常事態にパニックが発生しようとしていた。
 残弾はまだ数発あったが、ガイガーは機械のように正確な挙動でマガジンを交換し、おそらくボロ布のようになったであろう眼前の男に意を向けた。

 しかし、男は未だ倒れることなく、ガイガーの眼前で身構えていた。
 胸と腹からは煙が上り、着弾は間違いない。しかしそれでも痩せぎすの男は表情一つ変えずに不気味な佇まいを崩すことはない。
 人間ではない。
 そう判断したガイガーは、相手の出方に注意を傾けつつ、左手でネクタイを緩めた。
「ガイガー!!」
 出口から逃げ惑う日本人客に対して、逆にロビーへ入ろうと突き出た腹を人ごみに押し込みながら、陳が叫び声を上げた。
 無論、ガイガーはその声に反応することなく、対する不気味な存在へ緊張を保ち続けている。そして陳の意図通り、その化け物は言葉に反応して振り返った。

 二斉射目の弾丸は、十五発の全てが男の背中や後頭部に命中した。ようやくその場に崩れ落ちた男は、本来あり得ない反対側へと曲がった肘と膝をひくつかせた。
 9mmパラベラム弾を二十発以上、それもこの短距離で急所に叩き込まれてしまえば、仮に防弾チョッキを装着していたとしても絶命は免れない。数発は後頭部にも着弾したはずであり、おそらく即死だろう。そうガイガーは判断していたものの、手ごたえを感じなければよしとしない暗殺者がこのロビーにはいた。
「とどめヨ!!」
 両手に長めの十手のような形状をした筆架叉(ひつかさ)を握り締めた陳が、うつ伏せに倒れてる男の背中と脳天目掛けて、その鋭利な先端を突き立てた。
 いつもなら、この必殺の一撃は掌に肉と骨を貫く堅さを伝える。しかし陳が感じた手ごたえは、まるで柔らかい餅のようだった。
「あい!?」
 奇妙な触感に呻いた陳は、すぐに筆架叉を引き抜こうとした。しかし男の頭と背中にいったん突き刺さったそれは、いくら力をいれても微動だにしなかった。
「まさか!?」
 陳は筆架叉から手を離し、すぐにその場から後ろへ跳び、ガイガーと合流した。すると刺さっていた十手状のそれは、勢いよく弾き返されるかのように男の身体から飛び出し、一つは陳の頬をかすめ、一つは出口で揉み合い、未だホテルの外へ出ることができない中年女性の背中に命中し、脊髄を削りながら肺を串刺しにした。
 パトカーのサイレン音を遠くに聞きながら、陳とガイガーは男が起き上がるのを注視した。
 その顔面は銃弾と筆架叉の一撃で陥没と崩壊が激しく、ぼろぼろになった腹部は枝のように削れて上半身を支えるのに頼り無さそうである。
 しかし血の一滴も出ておらず、内臓がはみ出る様子もなく、生物学上男の受けた攻撃とその外見上の結果には著しいギャップがあった。そう、まるで銃弾でただ「削られた」か「凹まされた」かのようである。
 陳とガイガーは対峙する者の正体に一定の確信を抱いていた。
「容赦……ないんだぁ……」
 男の声は、だが口からは発せられておらず、全身から響いていた。悲鳴や怒声がロビーを渦巻いていたため、二人ともよくは聞き取れなかったが、あまりに緊張感の無い声色は彼らの警戒心をより強める結果しなった。
 身構える二人に対し、削れ凹みきった男は跳ねるように急接近してきた。
 匕首を逆手に構えた陳が、「坊ちゃんの方にいってヨ!!」と叫びながらガイガーを庇うように飛び出した。そして彼は見た。

 あい……や……

 接近してくる男の輪郭が急速に柔らかく“ぶれ”る様を。
 “ぶれ”はその振幅を急速に増やし、人の残骸であった形状はよく伸ばした麺やパンのように風呂敷のように薄く空中で広がり、再び人型を形成しようとしていた。

 同時にガイガーは階段へ向かって駆け出し、途中出口付近でもがき苦しみ絶命しかけている中年女性の身体から、筆架叉を引き抜いて回収した。彼とて、あの化け物の正体を確認したい衝動はあったが、陳の指示は尤もであり、それを最優先に実行すべきだと判断していたため振り返ることは無かった。

「陳 師培か?」
 陳の眼前で人型への最変形と接近を終えた“それ”は、腰に手を当て、悪戯っぽく薄笑いを浮かべていた。
 左右で結んだ長い赤毛の先は、先端に行くに従い重力を無視するかのように上向きに跳ね上がっていて、全身を黒いウエットスーツに包んだ姿は、つい先ほどまで石油会社重役だった初老男性とは、似ても似つかない少女のそれである。しかし陳はこうした“変化する者”に対して臆することなく匕首を振り抜き、彼の帽子からはみ出た辮髪の先が波を描いた。
 長い二本の赤毛の尾がなびき、その少女は斬撃を跳躍することでかわした。着地した彼女のもとには既に陳が達しており、彼は匕首を上に向かって突き上げた。
「こわ……ほんと……同盟の人って……ほんと……」
 少女はそうつぶやきながら、匕首の切っ先にふわりと、まるで羽毛のように静かに着地した。
 それなりの重量を受けつつ、陳は赤毛の少女を鋭い目で見上げた。
 身体の凹凸は乏しく、外見上の年齢はリューティガーと同世代ぐらいにも見える。額には数本の後れ毛がかかっているが白く広く、丸くぱっちりとした目と低い鼻が、想定できる立場とは真逆の愛嬌があるように陳は感じていた。
「FOTの……不定形エージェントか……?」
 匕首を両手で握り少女の体重を切っ先で支えながら、まるで大道芸人か雑技団かのような状況で、陳は次の体勢に移ることができなかった。
「うん……そうだよ……わたしはライフェ・カウンテット……真実を……追求する者だよ」
「言葉遊びが好きなお嬢ちゃんネ……殺すヨ!!」
 カウンターの中に退避していたホテルの従業員中の一人が、怯えながら顔を出し、ロビーの奥で一本の匕首でつながっている、丸き中年男と赤毛の少女の姿を認めた。
 この従業員にとって、それは不可思議な光景だった。客は伏せているか狼狽しているか、嘆いているかのいずれかである。しかしあの少女と辮髪の中国人の二人は、その喧騒とまったく無縁な静寂の中にいるように見える。そして、彼は最後にこう理解した。
 あの二人がこの騒ぎの当事者である、と。

 ホテルの十階は照明も薄暗く、フロア全体はひっそりと静まり返っていて、一階ロビーでの悲鳴は届いていなかった。

 その青年は、エレベーターホール前の、ぼんやりとした灯りの中で佇んでいた。

 薄紫がかった白い長髪は少々癖のある、跳ねた不安定さをシルエットに映し出し、白く透き通るような肌に、ファッションモデルのようなバランスのいい理想的な体型は、日本人離れしていた。
 その身体を包んでいるのは少々だぶついた黒の上下であり、下に着込んでいるワイシャツは鮮やかな朱色で白い肌とのコンテラスとも美しく、きっちりと締めたカーキ色のネクタイは皺一つ、黒の革靴に曇りは曇り一つ無かった。
 赤い瞳と「妖美」と形容してよい艶のある顔立ちは、欧米系の血を引く者であることは明白であり、余裕に満ちた表情は口元に笑みを浮かばせ、じっと廊下の奥を見つめていた。
「それにしても、いつもあいつは待たせるね……」
 鼻にかかった甘い声で青年はそうつぶやくと、片目を閉じてスラックスのポケットに両手を突っ込んだ。

 次の瞬間、青年の背後に突如背の高さほどある、観葉植物の鉢植えが出現した。
 葉が突風で揺れ、それと同時に背後からの舌打ちが青年の鼓膜を振動させ、その音色に彼はいっそう満足げに微笑んだ。
「第一撃は大しっぱーい! 残念だったね!!」
 ポケットに両手を突っ込んだまま、青年は背を曲げて誰に向けるわけでもなく、片目を瞑り続けたままそう叫んだ。
 満足げな笑みは嘲笑へと変化しており、彼の様子は妖美さに禍々しさが加わろうとしていた。
「ルディ……どこに隠れた? お前には見えてるんだよなぁ……この覗き魔ぁ……」
 つぶやきながら、青年はゆっくりと廊下を歩き始めた。
「遠慮しなくっていいんだよルディ。不景気もここに極まれりってね。このフロアに宿泊客はいないから。あはは……」
 ちらちらと開けたほうの右目の眼球を左右に動かしながら、青年は独り言を続けていた。
「俺もあれから経験積んでさ。そうそう修行ってやつ? 三代目にふさわしい戦闘技術の習得に励んだんだよ。おかげで最近じゃ、感覚が研ぎ澄まされててね」
 言葉が終わるのと同時に、縦になったダブルベッドが青年の背後に出現した。
「はい第二撃もしっぱーい!! なっ! お前が跳んでくるのだってすぐにわかるんだよこれが。だから防壁替わりの鉢植えだって家具だって、簡単に取り寄せられる。見えて無くってもこいつらのありそうな場所は知っている。だって俺、このホテル使うの三回目だからさ」
 青年の笑みは未だ消えることなく、両手もポケットに突っ込んだままであり歩みもリズミカルだった。

 そんな敵の姿を、リューティガー真錠は廊下の角から眼球に血管を浮かび上がらせ、知覚していた。
 彼の両手はきつく握り締められ、全身からは汗が噴き出していた。標的の青年はこちらの場所に気づいてはいないようだったが、二回挑戦した“背後に空間跳躍し、背中に触れて本部へ飛ばす”という必殺の手は青年の背後に出現するよりわずかに早く、鉢植えやベッドが予定位置に突如出現したため成功してはいなかった。
「しかし俺たちも変な兄弟だよな」
 そのつぶやきと同時に、青年は廊下の途中で足を止めた。
「お互い、知ってる場所に跳べるってのは共通してるのに、もう一つの力がまったく逆なんだものな。俺はお前が羨ましいときがあるよ。その跳ばせる力があれば、ケガした仲間を簡単に治療施設に送れるもんな。これは無駄な消耗戦を避けられて非常にいい能力だ。なのに、俺ときたら……」

 青年からやや離れて取り残されたダブルベッドが、ぐらりと傾いた。

「アルフリート!!」
 叫び声と、立てられていたベッドが倒れるのと同時に、機関銃の乾いた銃声が廊下に鳴り響いた。
「ばか」
 短いつぶやきと同時に青年の姿は突風と共に消え、機関銃を構えたカーチス・ガイガーのすぐ後ろに位置するエレベーターホールへ出現した。
「Shit!!」
 振り返ったガイガーは、青年の赤い瞳を見た。
「こい」
 人差し指をくいっと折り曲げ、青年は唇の左端を吊り上げた。

 ガイガーは、自分の「右」が急激に軽くなったことを認識した。
 まるで、はじめからなかったかのようにごっそりと、肩口から先の感覚と重量は消え、それはかつてない感覚だった。

 逞しき筋肉を誇る傷だらけの右腕が、機関銃を握り締めたままの状態で片目を瞑ったままである青年の足元に突如出現した。
 鈍い音と共に右腕が絨毯に着地し、同時に握られていた機関銃が火を噴いた。

 反動で右腕はその場で回転を始め、数秒後、全弾を撃ち尽くすとおとなしく静止した。
 廊下中に、水平方位で乱射された9mmパラベラム弾のうち数発が、倒れたベッドを背にし、右腕を肩口から消失し愕然としていたガイガーの左脹脛に命中した。
 低いうめき声を上げたガイガーは、次の瞬間この十階フロアーから姿を消失させ、その代わりに右手を突き出した栗色の髪をした少年が突風と共に出現した。

「よっルディ」
 開けている方の右目を細め、対峙する少年に青年は声をかけた。
「アルフリート……兄さん……よくも……!!」
 アルフリートと呼ばれた青年とは対照的に、リューティガーの形相は険しく歪んでいた。
「言った途端に指摘した長所を使うなんて……憎いねまったく……カオスの残党は医療センターに跳ばしたのかい?」
 あくまでも余裕の態度を崩さない青年に対し、少年はパーカーの内側からリボルバー式の拳銃を引き抜き、銃口を向けた。
「は……? そんなおもちゃを使えるようになったのか? ルディ」
「あんたが僕の右手を取り寄せるより先に……引き金は……」
 リューティガーが言い終わるより先に、彼の背後で倒れていたベッドから、大きな「刃」が伸び、彼の首筋に冷たい感触を与えた。
「な……?」
 頚動脈に「刃」を突きつけられたリューティガーは何が起こっているか理解できず、視線を宙に泳がせた。
「あっはは……俺が一人で来たと思ってた? ばっかじゃねーの? んなわけないだろ」
 笑い飛ばす青年に歯軋りをし、リューティガーは横目で刃の主を辿ってみた。
 刀とも斧ともつかない分厚い刃の根元は、こともあろうかベッドの足に繋がり、あたかもそれらは同化している様だった。全ての正体に気づいた彼は、大きく舌打ちをした。
 倒れていたベッドの輪郭がぐにゃりと歪み、やがてそれは少女の幼いシルエットを形成した。
 突きつけられていた刃は、いつのまにか日本刀に形状を変化させていて、それを握り締めた赤毛の少女が無邪気に微笑んだ。
「真実の人(トゥルーマン)……誰ですか、この男の子?」
「俺の弟さ。前に話しただろ。ルディだ」
 青年からそう説明された少女は、わっと感情を噴き出し、自分が生存権を握る少年の横顔を珍しそうに見つめた。
「確かに似てるぅ!!」
「同盟に情けなく従う、バカで愚かで知恵の足りない俺の恥さ」
「アルフリート……!!」
 リューティガーはアルフリート青年に強烈な意を向け、彼もようやく余裕の笑みを消した。
「まだ殺さんよ。それじゃつまらない……わかったろ。お前がどんなに懸命になっても、俺にはただの遊び相手に過ぎない……まさかブラフにのこのこついて出てくるとは思わなかったが……いい暇つぶしにはなったし、これからも時々付き合ってやるよ」
 表情を殺したまま、これまでとは異なる口調でそうつぶやいたアルフリートは、右手を挙げ、ゆっくりと下ろした。
「つまりは児戯ということだよ。俺にとってお前は玩具なのだよ。いつまでもどこまでも一生な……何をどう企んでいるのかは知らん、能力者にも粉をかけているようだが、所詮は被害者を増やすだけだぞ……真実の人(トゥルーマン)の児戯は中途半端ではないからな」
「目指しているだけの……男が……口調まで真似して……言うことかよ……!!」
 憎悪を全身からに漲らせながら、リューティガーは相打ちを覚悟で引き金に力を込めようとした。
 すると、彼の首筋から冷たい感触が消えた。
 アルフリートと赤毛の少女の姿は忽然と消え、焦燥し切った少年の下へ、陳が腹を揺らしながら駆けてきた。
「坊ちゃん……!!」
「ご、ごめん……陳さん……作戦は……失敗だ……兄さんに……奴に……逃げられた……」
 弾痕も生々しい硝煙が立ち込めるホテルの廊下で、リューティガーは全身を小刻みに震わせ、陳の豊かな肩に手を当てた。
「赤毛の女の子は……!? 私それを追ってきたネ」
「そいつも逃げました……ガイガー先輩がやられて……」
 ゆっくりと歩き始めたリューティガーは、エレベーターホールの前で横たわっている筋肉の塊と機関銃に軽く触れ、それを空間へと跳躍させた。

「健太郎!!」
 屋上に突風と共に出現した陳は、すぐに相方の名を叫んだ。直後に現れたリューティガーも周囲を見渡し、給水タンクの陰で、煙を吹き出しながら倒れている巨人の体躯を知覚した。
「健太郎さん!!」
 ぐったりと倒れている健太郎に、リューティガーと陳が駆け寄った。彼の全身には何箇所もの裂傷があり、そこから煙が吹き出していた。
「ぐ、ぐぐ……だ、大丈夫だ……」
 自力で仰向けになった巨人は、赤い瞳を主人に向けた。
「坊ちゃん……安心するネ。煙は再生の合図ヨ。相方、それほどの深手ではなかったヨ」
「誰に襲われたんです?」
「く、空中からだ……背中に……羽が生えた少年……い、いいようにやられてしまった……」
「空中戦じゃ仕方ないネ」
 腕を組んで何度も頷く陳のとぼけたコメントに、リューティガーは緊張もほぐれ、いつもの笑みが戻ろうとしていた。ふと彼は、屋上からフェンス越しに地上を見下ろした。
 ホテルの前に殺到する何台ものパトカーと救急車を見下ろしながら、少年の表情に険しさと悔しさが再び浮かんだ。

 児戯と言った……アルフリート兄さんは……児戯だと……!!

 叫ぼうとして上体を大きく反らした彼は、上空に報道局のヘリコプターの飛来に気づいた。

 叫んでる場合じゃないんだ……それこそ……ガキだ……

 感情を押し止め、二人の従者の背中にそっと手を触れ、リューティガーはここからの退却を念じた。

10.
 強い日差しが清南寺の瓦を照らし、朝の冷たい風が雑木林を抜け、境内で旋毛を巻いた。
 寝食を共にして、稽古に集中できる環境を作り出せた結果、芝居の精度は以前よりずっと高まり、ようやく客に見せられるという確信を得られることができた。
 荷物を鞄に詰めながら乃口文は、今回の合宿は成功だったのだろうと思い満足していた。

「次はお正月ね。お兄ちゃんによろしくね」
 両親と祖父母にそう告げながら、福岡章江は東京へ戻れることに胸を弾ませていた。

 着替えを畳み、小さく息を吐いた神崎はるみは、正座した足首に痺れを感じたため、重心を少しだけ倒し、木の壁に後頭部をこつんとぶつけた。

「島守、忘れ物なんてするなよ」
「は、はいはい」
 荷物を片付けながら二人の男子生徒は、ようやく寝なれることができそうになっていた四畳半の倉庫部屋を見渡した。
「また、ここ使えるといいですね」
「ああ。そうだな」
 無事に合宿が終わったため、平田の様子がいつもより穏やかに感じられた遼は、スポーツバッグを抱え軽やかな足取りで廊下へ出た。すると、旧観音堂から住職が姿を現し、こちらに向かって小さく頷いた。
「ど、どーも……」
 住職に頭を小突かれたこともあった遼は、近づいてきた彼に対して気まずそうに微笑むと頭を掻き、視線を床に落とした。
「稽古、楽しませてもらったぞ」
 住職はこの数日に亘る合宿中、稽古を数度見学している。その全てが険しい様子ではあったのだが、本人が「楽しめた」と言うのならそういうことなのだろうと遼は納得し、視線を坊主頭まで戻した。
 すると、住職が遼の近くまで摺り足で近寄り、頭を寄せた。
「ちなみに俺は、ハネ物にハマっておったぞ」
 言っている意味がわからず、きょとんとしている少年の肩を住職は力強く叩き、笑いながら寺務所の出口へと歩いて行った。ようやく、何となく「ハネ物」という言葉を思い出した彼は、「なら小突くなよなー」と独り言をつぶやき、再び頭を掻いて住職の後ろ姿に首を傾げた。

 それからしばらくして、清南寺の正門に集合した仁愛高校演劇部一行は、対面する住職一家に深々と頭を下げ、別れの挨拶をしていた。
「もし冬休みも稽古に使いたかったら、章江に言ってくださいね」
 住職の妻であり、福岡の母である彼女は乃口部長にそう告げ、乃口も「はい」と元気よく答えた。
 あまり交流する機会はなかったが、住職の妻というのは一体どんな暮らしなのだろう。乃口は次の機会に、その辺のことも聞くことができればなと思いながら、正門をくぐり、「自分はもう、三年生だったんだ」と今更ながらに自覚していた。

 麓のバス停までは舗装されていない砂利道であり、それぞれ私服姿の部員たちは名残惜しそうに辺りを見渡しながら、ゆっくりと田舎の風景を楽しんでいた。
「部長……す、すみません……わ、忘れ物……しちゃって……」
「蜷河さん……へぇ……あなたが忘れ物?」
「す、すみません……」
「どうせバスまで時間はあるし、早く取りに行ってきなさい」
「は、はい……」
 寺への緩い坂道を駈けて行く蜷河理佳に振り返りながら、らしくもない彼女のドジに島守遼は首を傾げた。
 坂道を駆け上がった蜷河理佳は、背後を振り返り部員たちの姿が見えなくなったことを確認すると、小さく息を吐いて脇の雑木林へと足を踏み入れた。
「よう。理佳ちゃん」
 よれよれの白いYシャツ姿に、肩から鞄を提げた藍田が、枝を避けながらやってきた少女に対して笑顔を向けた。
「Tシャツとジーンズが決まってるねぇ……美人は何着ても似合うっちゅーことだ」
 立ち止まった蜷河理佳は、顎を引くと対峙する藍田に冷たい表情を向けた。
「あなたの姿が目の端に見えたから……嘘をついて引き返してきたの……」
「それは光栄だな……」
「一体“夢の長助”がわざわざ何の用?」
 蜷河理佳の口調は静かで抑揚が無く、眼光にも鈍い光を反射させ、表情も凍ったままであった。
「麗しの理佳ちゃんに会いに来た……」
 おどけた言葉を聞き終えぬうちに、蜷河理佳の細い足首が藍田の顔面を掠め、彼の咥えていた煙草を地面に叩き落とした。
「相変わらずの軽口……不愉快ね……」
「は、はは……いや……実はな……真実の人(トゥルーマン)の命令で……お前さんの様子を見に来た……ついでに行き温泉につかりに来たりもした……」
 煙草を拾い上げて携帯灰皿へ押し込んだ藍田、こと「夢の長助」は、表情を引きつらせたまま少女との間合いを開けた。
「報告はしている……問題はないはずだ……」
「だからさ。その報告の要請通り、俺が援軍に駆けつけたって寸法だよ。同盟と近づいて危険なんだろ? 真実の人(トゥルーマン)からは、島守遼って奴を見に行けとも命令されている……これからよろしくな」
 そうつぶやきウインクをした長助に対し、蜷河理佳は両手を握り締め、頬を震わせた。
「か、監視なら……一人でやれる……援軍なんて……わ、わたしが報告したかったのは……!!」
 少女の様子から冷たさが抜けていくことに気づいた藍田長助は、顎に手を当て穏やかな目で彼女を見つめた。
「そう言うなよ。俺にも立場ってのがある。もちろん邪魔はしないさ。こっちも野暮はしたくない」
「ど、どう言う意味?」
「言葉通りさ。じゃあな。あんまり遅れると怪しまれるぜ」
 右手を挙げ、長助は雑木林をひょこひょこと左右に身体を振りながら抜けていった。

 一人残された蜷河理佳は、大きく息を吸い込んで天を見上げた。

 口元は歪み、瞳には涙が溢れようとしているが、この気持ちの乱れを一人で処理するまでは麓へ戻ることはできない。
 そんな孤独な中で、少女はそれでも懸命であり続けようとした。

 市営バスから長野駅で大型の高速バスに乗り込んだ演劇部一行は、最初のうちこそわいわいと興奮気味に大騒ぎだったものの、高速道路に乗る頃には、溜まった疲れからか一様に静かになり、寝息を立てる者すらいた。
 平田の横の通路側に座っていた遼は、腕を組んだままぼんやりと、斜め前に座る蜷河理佳の黒い髪を見つめていた。
 この構図は教室のそれと酷似している。彼がそんなことを考えていると、黒髪の主はすっと立ち上がり、車内が揺れているにも関わらず、ふらつきなくゆっくりと振り返った。
「あ、あっと……」
 ドライブインまではまだ遠いのに、一体どうしたのかと彼が思っていると、彼女は通路まで出て、儚げな笑みを向けてきた。
「蜷河さん……?」
「島守……くん……」
 蜷河理佳は遼の傍までやってくると、膝を曲げて腰を低くし、彼の右手をそっと握った。
 突然の行為に遼は戸惑ったが、甲斐性を見せねばと思いその手を握り返した。
 蜷川理佳の表情は、島守遼がこれまで見たことがないほど頼りなく、儚げで、すがるようですらあった。
 小さな異変に気づいたわずかな人数の部員たちは、寄り添うように手を握り合う二人を凝視し、冷やかすのも気まずいような外界からの拒絶を感じ取っていた。
 そんな違和感の中に、神崎はるみも含まれていた。遼のすぐ後ろに座っていた彼女は彼の手に頬を寄せる蜷河理佳に対し、鈍く淀んだ光を瞳に反射させながら、鬱屈としたせつなさを向けようとしていた。

第六話「真実の兄弟」おわり

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