1.
室外機の振動音。道路を行く車の走行音。蝉の鳴き声。その全ては雑音だったが、島守遼(とうもり りょう)はそれらから懐かしさと穏やかさを感じ、唇の両端を小さく吊り上げていた。
掌に冷たさを感じた遼はそのざらついた肌触りを確かめながら目を開き、顔を上げた。
「戻れた……のか……」
まだ覚醒しきっていない感覚にぼんやりとしつつも、薄暗い蛍光灯の灯りの下で少年は自分が倒れている場所がどこかのエレベーターホール前であることを、たっぷり時間をかけて認識した。
「真錠……おい……大丈夫か……」
うつ伏せの状態から仰向けになった遼は、自分の隣で倒れている栗色の髪をした少年、リューティガー真錠(しんじょう)に向かってつぶやいた。「あ、うん……」と小さく呻き返した彼はゆっくりと目を開け、紺色の瞳を遼に向けた。
「日本……だよな……ここ」
二人揃ってエレベーターホールの前で仰向けになる光景は、他人からみればたぶん異常事態なのだろう。しかし適度なノイズと穏やかな空気は島守遼に心の平穏をもたらしていた。
「ええ……代々木です……僕の住んでるマンションの……一階でしょう……」
上体を起こしながらリューティガーは背中を壁につけ、大きく息を吐いた。
疲れているのだろうか。そんな疑問を抱きながらも島守遼は立ち上がり、床に落ちているカメラバッグを拾い上げ肩にかけた。
視線の下にあるカメラバッグと座り込んだリューティガーを凝視しながら、島守遼の顔は青ざめていた。つい先ほどまで自分たちはバルチ高原のゲリラ小屋にいたはずである。それが少し気を失っただけで今はもう代々木パレロワイヤルの一階に存在している。いや、寝坊の際もちょっとだけうとうとしたつもりが、実は何時間も経過したことだってある。つい先ほどまで、などとは確定できないだろう。そんな自問自答を繰り返しながら、遼はため息をつき、ぐったりしているリューティガーに右手を差し伸べた。
「す、すみません……」
遼の手を握ったリューティガーは、壁に寄りかかりながら立ち上がった。それと同時にふんわりとした温かいイメージが遼の脳内を駆け巡った。
この暖かさは何だろう。そう思った遼はポケットに空いている手を突っ込んだ。金属球は小さく振動をし、その波動が脊髄を通じて彼の意識を刺激した。
帰ってこれて良かった。
イメージは言語となって脳内をゆっくりと旋回しているようだった。こんなありふれた解釈しか得られないのであれば、バルブの力をわざわざ借りる必要もなかった。島守遼は苦笑いを浮かべるとリューティガーに肩を貸し、エレベーターのボタンを押した。
苦しそうに乱れた呼吸を繰り返しながら、栗色の髪をした転入生はやってきたエレベーター内の壁にもたれ掛かった。遼が「八階でいいんだよな」と尋ねると小さく頷き返し、彼は目を閉じてその場に座り込んでしまった。
上昇するエレベーターの中で、島守遼は腕を組んで考えていた。
二匹の獣人と三人のゲリラは石造りの部屋から姿を消し、自分は一命をとりとめた。手首の自由を奪っていたロープは、リューティガーがポケットから取り出したナイフで切断され、彼は「もう少し待って……疲れが抜けたら日本に帰りましょう」とつぶやいていた。
疲労の色を浮かべながらも微笑むリューティガーに感謝した遼ではあったが、ナイフを握っている彼の姿には奇妙な違和感があった。ロープを切る挙動にもあまりに淀みがなく、慣れているように感じられる。そう、拘束された仲間を何度も解放してきたかのような、そんな慣れだ。
「部屋の外にも何人か敵がいたけど……全て跳ばしておいたから……もう安全です」
リューティガーはそうつぶやき、監禁されていた部屋の扉を開け、他の部屋に誰もいないことを証明して見せた。事実、部屋を恐る恐る出た遼もしばらくすると脅威が去っている現実を感覚として理解し、あらためて「跳ばしておいた」という言葉の意味に新しい恐怖を覚えた。「跳ばすってなんだよ」と。
隣室に移った遼は、テーブルに食べかけの食事が置いてある事に気付いた。スープの入ったボールは湯気が立ち、灰皿には殆どが灰と化した葉巻らしき物体が煙を上げながら転がり、この部屋につい先ほどまで誰かがいたという想像を喚起させた。
リューティガーは椅子に座ると、ぼんやりとした表情で遼を見上げ、「もう少し待ってくれれば……帰りの精神力が溜まると思うから……」と虚ろな口調でつぶやいた。
「精神力が溜まる」など、島守遼はこれまでの現実で聞いたことがない。リューティガーの言葉を正確に理解でぬまま彼は部屋を見渡し、その片隅に黒く大きなバッグを見つけた。
あれは自分がパジェロの助手席に置いたままにしていたカメラバッグである。ジョージ長柄に手渡され、任せられた彼の仕事道具が詰まったバッグである。よろよろとした足取りでバッグに駆け寄った遼は、それを抱え上げ息を詰まらせた。
破壊された戦車が並ぶ戦場で、パジェロのシートの隙間から見えたあの獣人が手にしていた黒い塊は、ジョージ長柄の頭部だったのだろう。状況が落ち着いた今ならはっきりとそう断定ができる。命の恩人であり、自分を再び危険地帯へ運んでくれたフリージャーナリストのつぶらな瞳を思い出し、遼は言葉も出せぬままただ呻き続けた。
助けることなどできなかった。スペアのフィルムをすぐに持っていっても、恐らく自分も獣人に殺され、食べられていただろう。白濁とした目から鮮血を迸らせたあの現象をもっと早く引き出せれば、あるいは状況も好転していたかも知れないが、今更というものである。
根拠のない断定が島守遼を混乱させていた。そんな彼の震える肩を、背後からリューティガーが軽く叩いた。
「そろそろ……帰ろう……」
その口調は穏やかで、それが遼にとっては救いだった。
「今から……君を日本に跳ばして、僕も同時に跳ぶ。一瞬のことですけど、たぶん……僕は気を失って倒れてると思う……遼くんの方が先に目を覚ますはずだから、起こしてくれませんか?」
遼はリューティガーの言葉に混乱しそうになったが、とにかく帰れるのならなんでもいい。そんなすがるような気持ちが彼を突き動かし、大きく何度も頷かせた。
「行きます……」
そんなつぶやきの直後、目の前が真っ暗になり意識は絶たれ、島守遼は現在、マンションのエレベーターの中でぼんやりと佇んでいる。
軽い振動の後、エレベーターの扉は開かれた。リューティガーはそれと同時にゆっくりと目を開け、重い挙動で立ち上がった。遼はリューティガーに再び肩を貸すと、開いた扉からマンションの廊下に出て辺りを見渡して記憶を反芻させていた。
見覚えのある新築の廊下である。正確な時間経過は相変わらずできないままだったが、感覚的にはつい先日訪れた場所である。
803号室のプレートを確認した遼だったが手には震えが走り、ドアノブへと伸ばすことはできなかった。
この扉の向こうにまだ獣人がいるかも知れない。ここでの最後の記憶は機関銃を持ったあの化け物の咆哮である。恐怖が遼の全身を躊躇させ、彼はたまらずリューティガーを壁に寄りかからせてその色白の頬を手の甲で軽く叩いた。
「なん……です?」
「着いたぞ。803号室。お前の部屋だ。奴は……どうしたんだ?」
「奴って?」
「両手に機関銃を持ってた化け物だよ。あの後どうしたんだ?」
遼の問いに、リューティガーは小さく微笑むと口に手を当てた。
「もう……平気です。あれは倒しました。けど……そうだね……慎重に行かないとね」
リューティガーは背中に力を入れ、壁から跳ね起きて803号室の扉の前へ身体を向け、じっとそれを凝視した。理解に苦しむその行為を、遼は不思議そうに見つめた。
「なにドアなんか見てるんだよ。慎重って感じじゃないだろ?」
「静かに……向こう側を覗きますから」
扉を見つめるリューティガーの口調はしっかりとしたものだったが、向こう側を覗くということは、つまり透視するという意味なのか。それとも集中力を総動員して洞察するという意味なのだろうか。遼は即座に真意を理解することができなかった。
リューティガーの額からは汗が噴き出し、目は血走り、彼の扉を見つめる行為は真剣そのものだった。待っていれば何らかの結論が出るのだろう。そう遼が思っていると、突然扉は開かれ、彼は急転した状況に仰天して反対側の壁に背中を叩きつけてしまった。
リューティガーにしても、扉が開いたことは意外だったようである。彼は素早く扉の前から飛びのき、壁に背を向け腰に手を当てていたが、表情には焦りの色が滲んでいた。
「あいやー!? あんた、誰?」
扉の中から姿を現したのは、丸々とした体躯を白いシャツに包んだ中年の男だった。知らぬ顔との対面に島守遼は驚き、顎を引きながら彼を睨み付けた。
「なんだ……陳(チェン)さんか……変わり……ないみたいですね……」
ほっとした様子でリューティガーが壁から離れ、遼と陳の間に割って入った。
「リューティガー坊ちゃん!! あー!! 友達、連れ帰ったのネ!! いきなり消えたから、もう心配したヨ!!」
リューティガーの両肩を掴み、歓喜に震える妙なイントネーションの日本語を使うこの男を凝視しながら、島守遼はああなるほど、こいつは転入生の関係者なのだろうと自然に理解し、安堵から肩の力を抜いた。
「彼が島守遼……現地で協力を要請しようと思っている候補者です」
リューティガーは陳にそうつぶやいた。彼の背中を見ながら、遼は「協力を要請」「候補者」という二つのキーワードに警戒心を抱いた。しかしそんな用心深さをまるで無視するかの様に、陳と呼ばれる中年男は面白そうに遼を観察し、顎に手を当てて何度か頷いた。
「よろしくネ。わたし陳師培(チェン・シーペイ)リューティガー坊ちゃんの身の回りをお世話してるヨ。もうよろしくネ」
「は、はぁ……」
“よろしく”と言われても、どう答えていいかもわからない遼である。彼はしきりに首を傾げて頭を掻いた。
「陳さん、あれから……敵は?」
「うん、何事もないヨ。冷蔵庫も新しいの注文したし、夕方には届いて全て元通りネ」
陳の報告に小さく頷くと、リューティガーは扉の内側にもたれ掛かり、情けなさそうに微笑んだ。
「さすがに……堪えた……もう……限界です……僕は……休みますね……」
震える声でつぶやきながら、栗色の髪をした彼はずるずると壁から床へと身体を沈み込ませていった。遼と陳はほぼ同時にリューティガーへ駆け寄り、彼の身体を左右から支えた。
「奥のベッドルームに運ぶネ。もうあんたも手を貸してヨ」
すっかり気を失っているリューティガーの体重を肩で感じながら、遼は陳の言葉に頷いた。
廊下から803号室のダイニングキッチンへリューティガーを運び込むと、遼は真っ先に壁のあちこちが細かく削れ、冷蔵庫にも弾痕が残っている事実に気付いた。これはあの獣人が引き金を引いた結果なのだろう。意識を失う前の記憶と現状はすんなりと直結し、恐怖が再来するのを彼は感じていた。
「急いで急いで。早くベッドに、坊ちゃん運ばないと」
リューティガーの右半身を支える陳に急かされ、遼は恐怖を忘れようと目下の作業に集中した。
ダイニングキッチンから少し進むと、廊下の突き当たりに扉が見えそれを陳が素早く開いた。中は広々とした寝室であり、これまでに遼が身体を預けたことのないような、大きくて柔らかそうなベッドが中央に設置されていた。
陳は遼にリューティガーを預けると、急いでベッドのカバーを上げ促した。
自分を助けにきてくれた直後から、ずっと苦しそうで疲れたままであり、遂には気絶してしまったリューティガー真錠。その原因など知る由もなかったが、落ち着ける場所に生還してきた以上、今はゆっくりと休ませるべきであろう。島守遼とて疲労はとっくにピークを過ぎていたが、気力はわずかに残っている。彼は全身に力を込めると自分にもたれ掛かっているリューティガーを抱え上げ、陳の用意したベッドまで運びそっと下ろした。
「ありがとね。もう助かったよ」
額の汗を拭う仕草をしながら、陳はそう礼を言った。
「大丈夫なのかな?」
「坊ちゃん? 平気平気、力を使い過ぎたことだけネ。ぐっすりしてたんと食べれば完全復活するヨ。もう間違いないネ」
自信たっぷりの陳に対して、遼は彼が着ているシャツの胸に丸く囲まれた「陳」という文字を発見し、不思議そうに頭を掻いた。
「いいシャツでしょ。丈夫で軽くて通気性抜群ヨ。色違いいっぱい持ってるのヨ。同盟オリジナルヨ」
“同盟”という言葉に遼は頬を引きつらせ、ここに長く滞在するべきではないだろうと直感した。
陳に背を向け、出口へ視線を向けようとした遼だったが、その途中に大きな影を認め、思わず身構えた。
影は寝室の隅に佇んでいた。目を凝らした遼は、それがコートを着てしゃがみ込んだ人物であることに気付いた。膝を抱え込み、頭にはチューリップ帽を深々と被っているため何者かは判別できない。しかし季節感を無視した服装と、大柄であろうと予想できる体躯は警戒心を抱かせているのにじゅうぶんだった。
ピクリともせず、じっと両膝を抱え込むこれは、もうずっと前からこの寝室に存在していたようにも見える。しかし、それならなぜ今まで気付かなかったのだろう。それほどこいつが気配というものを消していたからなのであろうか。島守遼は混乱しながらも観察は止めず、事態の変化に動揺しないようにと努めた。
「は、さすがは我が相方。今まで気付かなかったヨ」
陳は腹を揺らしながらしゃがみ込む者へと駆け寄り、鯰髭を撫でて彼を見下ろした。
「遼クン? 安心していいヨ。相方は大人しい男だから。健太郎。坊ちゃんを見ててネ」
健太郎と陳に呼ばれた者のチューリップ帽が、わずかに上下した。
「じゃ、遼クンにはわたしの特製四川料理を、もうご馳走するネ。お腹ペコペコでしょ?」
陳は早口でそう告げると、最後に振り返り細い目を線にして微笑んだ。
2.
「あんた、とてもクサイね。もうわたし、鼻が曲がりそうヨ」
寝室から廊下へ出た遼の身体を、陳が鼻をつまみながら見つめていた。確かに、汗と失禁で自分でもひどい臭いを発している。この部屋に長居をすることは避けたかったが、電車で家に帰るにしてもこの異臭では周りにどう思われるかが不安である。遼は腕を組み、ため息を漏らしながらダイニングキッチンへと向かった。
壁にかけられた時計は七時を指していて、外からの陽光からそれが午前であることは明白である。しかし問題は、今日が果たして何月何日かである。台所に駆け寄り食材の準備をする陳に、遼は尋ねてみようと思った。
「陳(チン)さん。今日は何月何日の朝なんだろう?」
問われた陳は、大きな包丁を握り締めたまま、肩をいからせて振り返った。
「今日は七月十五日ヨ。それからわたしは陳(チェン)あんた発音間違ってるヨ」
「ご、ごめんなさい……」
謝りながらも、遼は日付がこのマンションを訪れてからまだ一日しか経っていない事実に驚き、顎に手を当てた。
「あんた、謝るの早いネ。謝罪は最後の最後までとっておくものヨ」
陳の怒気は一瞬であり、彼はもう鼻歌交じりで食事の準備を始めている。遼はすっかりペースを奪われているのを自覚し、照れ隠しで頭を掻いた。
一日、しかも二十四時間すら経過していないということは、リューティガーの言う「一瞬のこと」とは事実なのかも知れない。そんなことは有り得るはずがないというばかばかしさと、そもそも有り得ない出来事が起こりっぱなしであるこの二十時間ほどの現実に挟まれた遼は再び頭を掻き、あまりの痒さとひどい体臭に顔を顰めた。
「陳さん。あの……お願いがあるんだけど……」
鉄鍋に油を垂らす陳の背中に、遼は軽く会釈をした。
「なに? 味付けなら任せてヨ。それとも好き嫌いでもあるの?」
「い、いや……風呂をかして欲しいんだけど……」
家に帰るにしてもこの有様だけは何とかしておきたい。遼の欲求は単純かつありきたりだった。陳は背中を向けたまま「どーぞ、どーぞ、すぐ隣の扉ネ。そのひどい臭いをどうにかしてよネ!」と力強く鉄鍋を上下させながら答えた。
803号室の風呂はゆったりとした広さがあり、このスペースだけでも自分の部屋の底面積以上はあるのではないかと遼は思った。呆れながらも、熱いシャワーを浴びると全身の細胞が新しい水分を欲していたのがよく理解でき、彼は身体いっぱいにそれを吸収した。
蜷河理佳(になかわ りか)に会いたい。
全身の欲求を満たしながら少年はそう思った。
今が七時過ぎであれば、四川料理をご馳走になって一休みしても、十時に渋谷ハチ公前へ行くことは難しくない。もう無理かと諦めていたが、状況の思わぬ好転に遼は拳を握り締め、徹夜を押してでも約束を果たそうと気合いを入れた。
シャワーを浴び、異臭と疲れを落とした島守遼は風呂場から出た。すると自分が先ほど脱ぎ捨てた衣類は一切がなくなっていて、代わりに袋に入ったままの新しい下着とジーンズ、シャツなどの着替えが財布と一緒に籠の中に入っていた。
これに着替えろということなのだろう。おそらく陳が用意したであろう衣類を手に取った遼は下着を着け、シャツのボタンを留め、ズボンに足を通しポケットに小銭の入った財布を入れた。このシャツとズボンはリューティガーの私服である。裾があまりに短い事実から彼はそう確信し、頭を掻いた。
ダイニングキッチンに戻った遼は充満する刺激的な香ばしさに目を見開き、食卓に置かれた料理に注目した。
「はいはい。麻婆豆腐ね。ご飯も炊けてるヨ。冷蔵庫壊れてるけど、豆腐はさっき買ったばかりだから。もう安心して召し上がるネ」
空腹の信号が遼の全身を駆け巡り、気がつけば彼は食卓につき、陳の差し出した蓮華と茶碗を手にし、次の瞬間には鮮やかに赤い麻婆豆腐へ飛び掛かっていた。
熱さと辛さが喉から胃袋へ落下する度、島守遼は生還した事実に歓喜し、皿に盛られた麻婆豆腐もご飯もあっという間に平らげてしまった。
「いい食いっぷりネ! 作りがいがあるというものネ!」
若者の貪欲さを陳は嬉しそうに眺め、コップに入れた水を差し出した。
「う、旨いなんてもんじゃ……さ、最高……!!」
味などよくわからないほどの空腹だったが、何の抵抗もなく渇望を満たすことができる陳の料理の腕前は自慢の通りなのだろう。冷たい水をごくごくと飲みながら、遼は満面に笑みを浮かべた。
「坊ちゃんの服、丈が合わないみたいネ。あんたノッポさんネ。わたしか相方の履くか?」
遼の足元を眺めながら、陳は顎に手を当ててそうつぶやいた。
「あ、俺の服は……?」
「洗濯してるよベランダで。もうグチャグチャで見るも無残ね、あんたの学生服」
何せ中東の戦場で、砂埃の中で一日過ごした衣類である。陳の感想も尤もだと思うと、遼はふと食卓の上に置かれた電話機に気付いた。
「ああそれ。銃撃でメタメタになったから、新宿でわたしが買ってきたのよ。ここ仮置き場ネ」
「銃撃……」
それがあの獣人の仕業であることはよくわかる。しかし昨日ここを訪れた際、陳と名乗るこの男は不在だった。満腹になり思考も鋭くなろうとしていた遼は、食器を片付ける丸々とした背中を見つめながら、椅子に浅く腰掛け直した。
「陳さんは……真錠くんとずっと一緒なのか?」
「ん? わたし昨日ここに来たばかりヨ。同盟から追加戦力で派遣されて来たね。着いたらここひどい有様で、片付けるのに一晩かかったヨ」
具体的にはわからない情報もいくつかあったが、今の遼にとって、陳の言葉は判断力を充分に刺激し、なんとなくの状況を把握させてくれた。彼は椅子から立ち上がると受話器を取り、手早くボタンを押した。
「ああ……親父? うん俺。友達の家に泊まってた……そう、試験明けで大騒ぎ。帰りは夜になるから」
「そうか……俺は今日、稼ぎに行くから。夕飯は食っといてくれ」
受話器越しに聞いた父、貢(みつぐ)の声は寝ぼけておらずはっきりとしたもので、これまで連絡がなかった事実を咎める様子もなかった。遼は小さく息を吐くと受話器を置き、食器を洗う陳の背中に視線を向けた。
「そうそう、親に心配かけるのダメね。遼クンはいい少年ネ」
振り返ることなく、丁寧に皿を洗う陳の背中はどこまでも丸く、遼は思わず苦笑いを浮かべた。
「陳さん……俺は自由なんだよね」
短い質問に対して、陳は手を止めると背中を向けたままゆっくりと頷き、遼はこの中年に対して好意を抱こうとしていた。
「行くのネ? どこかへ」
「うん……約束があるんだ。待ち合わせの」
「坊ちゃん……どこまで説明した?」
「何も……まだ……話してない……」
「そう……」
短い言葉のやりとりではあったが、そこには分厚い意味が込められているような気がしたため、遼は一言一言を慎重に選んでいた。
「行くのなら、これ持ってくネ」
ようやく振り返った陳は、流しの洗剤置き場からある物体を取り上げると、それを遼に差し出した。
それは、あの金属球だった。
遼は息を呑み、震える手で灰色のそれを受け取った。
「これが……いるのか……」
「必要かもネ。敵の動きは同盟でも予想できない。何が起こるかわからないヨ」
そうつぶやく陳の眼差しは真剣そのものだったが、島守遼にとってはまったく身の覚えがない「敵」や「同盟」であり、そもそも事件に巻き込まれただけであるという認識しか持っていない。対処を促す陳に対して、どこか投げやりな気持ちも芽生え始め、彼はすぐにここから出て行くべきだろうと思った。
3.
少年は眠りの底にいた。
深く静かな闇の向こうには幼少期を過ごしたシュツットガルト郊外の森が広がり、その更に奥には木造の古めかしい館が寂しそうに揺れている。
扉を開け、中に入った少年はぼんやりと玄関ホールに佇んでいた。
この館は既に存在しない。いくら自分でも存在しない場所へ跳ぶことはできない。これは夢である。
聡明なる少年の判断は的確であり、気持ちが落ちているのだな、と自嘲しつつも意識の深層にまだ残っている懐かしさをたっぷりと感じていた。
思えば、この館に家族皆で住んでいた時代が自分にとって最も幸せだった。父も母も兄もいた。けど、今の自分はひとりぼっちだ。学校では友人もできそうだし、同盟からは仲間がやってきて賑やかにはなりそうだが、誰にも甘えることはできない。けど、あの頃の自分はいつだって一番下の立場であり、何の義務も責任もなかった。
玄関ホールから二階へと上がる階段は緩やかな螺旋状になっていて、よくこの手すりを器用に滑り降りたりもした。
そんな自分を母は心配そうに見上げていたし、父は表情一つ変えずに腕を組んで見守っていた。そして、兄はいつでも先に滑り降り、こちらがいつバランスを崩してもフォローできるように両手を広げてくれていた。
少年は階段を上がりながら手すりに意識を向け続けていた。
「ルディ。俺はもう限界だ。これからは一人で滑り降りろ」
冷たい声が少年の意識を震えさせた。
「まだ僕には無理だよ。それに同盟は兄さんの処罰を決定した。今ならまだ間に合う。謝れば許してくれるよ」
そんな言葉を意識しながら、過去と現在の状況を混在させている自分に少年は混乱していた。
「いいや。あいつらは嘘をついたんだ。この俺に。お前だって嘘付きだ。いや、お前は弱くて情けない屑だ。うらやましくたって一緒には連れて行けないよ」
少年を罵倒する兄の言葉は重く、そのまま晒され続ければ潰れてしまいそうである。心を真っ直ぐに引き伸ばすと、彼は罵倒に対して全力で抵抗した。
「屑はてめぇだ!! なんでも思い通りになると思うなよ!!」
強烈な意識の発露は、夢の中だけでは収まらず現実の音声となって寝室に響いた。
寝言にしても、なんとひどい言葉だろう。リューティガー真錠は額に片手を当てて、顔を顰めた。
この部屋には誰もいない。辺りを見渡したリューティガーはほっとすると、自分がベッドに寝ている事実に気付いた。
「どーしたの坊ちゃん!!」
寝室の扉が乱暴に開けられ、陳が駆け込んできた。リューティガーは上体を起こして頭を振ると、口元を歪ませて息を吐いた。
「なんでもない……寝言です。陳さん」
「そ、そう? ならいいけど。お食事できてるから、もういつでもキッチンにいらっしゃいネ」
「食事……? あ、ええ……食べます……」
ぼんやりとした意識のまま、リューティガーはベッドから出たが、陳はとっくに寝室から姿を消し、しばらくすると廊下から香ばしい臭いが漂ってきた。
「ほんとに……四川の料理人だったんですね?」
ダイニングキッチンにやってきたリューティガーは、鉄鍋を大きく動かす陳の背中にそうつぶやいた。
「遼クンにも大評判。麻婆豆腐作ったネ。さぁたんと召し上がるネ」
皿に盛り付けた麻婆豆腐を食卓に置きながら、陳は満面に笑みを浮かべた。
「あ……そう……その遼くんは?」
「彼、約束あるって出て行ったヨ。待ち合わせだって」
「え……?」
食卓に着こうともせず、しきりに瞬きを続ける彼の背中を、陳が思い切り叩いた。
「安心していいヨ。わたしの相方が後つけてるネ。あいつ尾行上手だから。坊ちゃんはゆっくり休まないと」
陳の言う「相方」とは未だに会っていない。果たしてどんな人物なのだろうと想像しながらも、リューティガーは蓮華を手に取り湯気を立てている麻婆豆腐を小皿に移した。
「ご飯も食べる? あつあつのをかけて食べるともう最高ヨ」
「お、お願いします」
リューティガーが頭を下げると、陳は電子ジャーから米を茶碗に移した。しかし彼にとってそれは見覚えのないデザインであり、自分が不在の間、この陳というエージェントが何をしたのか確かめたくなった。
「片付けは終わったんですか?」
「まだまだこれからヨ。冷蔵庫や食器棚は夕方配達されるネ。お釜とテーブルと机、それに電話だけは急いで買ってきたのヨ」
「あ、ありがとうございます」
礼を言いながら、リューティガーは蓮華から麻婆豆腐を口に運んだ。
「どうネ?」
「熱……けど……おいしいです」
四川料理というものをこれまで口にしたことがなく、麻婆豆腐も初めて耳にした名前である。少々辛めだが米と一緒に食べることでそれは緩和されるのだろう。そんなことをあれこれ考えながら、リューティガーは何度も蓮華を口に運んでいた。
「そうそう。たんと食べるネ。ゆっくり休んで英気を養う。これが勝つ秘訣ヨ」
陳が傍らでつぶやいていたが、リューティガーの意識は目の前の麻婆豆腐に向けられていて、言葉が耳に入ることはなかった。
4.
渋谷駅の北西にはハチ公口という出口があり、そのすぐ前のエリアは交差点に面した広場になっている。ここは都内最大の待ち合わせ場所として全国に知られ、今日も朝から待ち人、来訪者が秋田犬の銅像を中心にたむろしていた。
ハチ公像のすぐ下に島守遼の長身があった。彼は台座に寄りかかり、腕を組んで辺りをちらちらと見渡し、裾の合わない足先を小刻みに揺らしていた。
彼は一時間前にここに到着し、炎天下の下をじっとしていた。蜷河理佳との待ち合わせは十時であり、現在の時刻は九時四十五分。つまりもっと別の涼しい場所で時間を潰してからこの場所に来てもよかったのだが、なんとなくそんな寄り道はしたくなかった。
代々木から渋谷へは電車を使っての移動だったが、代々木駅の改札をくぐり満員電車に乗り渋谷駅のホームに降り立つ頃になると、遼は自分がようやくいつもの日常に帰ってきた現実を皮膚感覚として理解し、気持ちは落ち着き始めていた。
蜷河理佳がやってきたら、まずなんと声をかけよう。そんなことをぼんやりと考えている遼の耳に、ある中年夫婦の会話が飛び込んできた。
「なぁ、忠犬ハチ公はこんな銅像だったやろか? 昔見たのとちゃう気がする」
「ファクトがここでテロやったとき、前の銅像が壊されたんとちゃう? 確かテレビでやっとった気がする」
「せやったか? ほなコイツ、新品なんやな」
「新品言うても七年前やけどな」
ハチ公像を巡る関西人夫婦の会話は、まるで夫婦漫才のようなノリで島守遼の表情を柔らかくさせた。しかし、ファクトと言えば獣人を使っていたという説もあり、その実態もはっきりとはしていないテロ組織である。この二日で自分に降りかかった災難と、七年前にあったテロ事件。この二つの非日常に考えが至ると遼の表情は曇り、その口元は歪んだ。
「あ……島守くん……」
そんな遼のすぐ横から、少女の声が聞こえた。
「蜷河さん……」
聞きなれた声の主に少年が身体を向けると、真っ白なワンピースに畳んだ黒い日傘を持った少女、蜷河理佳の姿が目に入った。
「待たせちゃった……かな?」
顔を覗き込みながら申し訳なさそうに尋ねる蜷河理佳に、遼は頭を掻きながら全身を反らせ、後頭部が銅像の台座にこつんと当たった。
「あ、いや。俺も今来たばっか」
「そ、そうなの?」
「あ、暑いよね」
額の汗を手で拭って誤魔化しながら、遼はぎこちない笑みを浮かべて目の前の少女をちらちらと観察した。
これまで、彼女の姿と言えば学校の制服しか見たことがなく、私服は初めてである。冬服のブレザーの方が華奢な蜷河理佳にはよく似合う、などと考えることもある最近の遼だったが、このノースリーブの白いワンピースも黒髪に映え、いよいよをもって自分とは釣り合いが取れないほどにかわいらしいと思ってしまった。
そんな気持ちが遼を照れさせ、舞い上がらせ、顔はにやつき全身は落ち着きなく小刻みに動き、傍から見ればなんとも情けない姿であった。
「あ、えっと……今日は……どうしよう……?」
昨日、渋谷に遊びに行こうと切り出したが、具体的に何をどうするかまでは決めていなかった。本来なら昨日の段階でじっくり考えるつもりであり、場合によっては家に寄った際、リューティガーに相談してもよかったのだが、実際には突然の襲撃で考える間ねないまま現在に至っている。蜷河理佳の単純な質問に遼はすっかり言葉に詰まり、照れ臭さも消えようとしていた。
「そ、そうだなぁ……俺……考えてなかったよ……ごめん……誘っといて」
遼があまりにも真面目な顔をして謝罪するため、蜷河理佳は不思議そうに首を傾げ、唇に人差し指を当てた。
「蜷河さんはどうしたい? って……ひどいよなぁ……それも」
青空を仰ぎながら頭を掻く遼に蜷河理佳はくすりと微笑み、二人の間を淀んだ都会の熱風が吹いた。
ふと辺りを見ると、何人かの無関係な男たちがこちらに視線を向けていた。その対象が蜷河理佳であることに気づいた遼は、何やら優越感を覚え少しだけ気持ちが強くなった。
「映画なんてどう?」
「映画……?」
「うん、映画……月並みだけどさ……蜷河さんは映画好き?」
「うん。映画館にはあんまり行かないけど……好きだよ」
小さく微笑みながらそう答える蜷河理佳に、遼は日常世界へ生きて返ってこられた幸せを実感していた。
「一番面白かったのは……うん。テレビで見たレオンかな」
「レオン? 俺……見てないなそれ」
交差点を歩きつつ、島守遼は最近自分がまったく映画を観ていない事実に苦笑いを浮かべた。テレビも壊れた環境で、映画に触れるとすれば友人の家か映画館ぐらいである。最後に観た映画と言えば中学の頃男友達と行った修羅雪姫というアクション物であり、内容などほとんど覚えていない。
映画館の入ったビルの前までやってきた二人は、何枚か並んだ看板を見上げていた。
「と、島守くんの好きな奴でいいよ……」
蜷河理佳の言葉に、遼は看板を見つめる視線を右から左へと動かした。現在上映している映画は三本。幼児向けのアニメ映画と恋愛物、そしてSFアクション物である。平均的男子高校生の好みからすれば三本目の「宇宙最強の男が宇宙人軍団と戦う」といったあおり文句の書かれたSFアクション物なのだが、主人公である宇宙最強の男が手にマシンガンを持っているのに気づいた彼は、とても今の気分でこの映画を観られるとは思えなかった。
そうなると選択肢は二つであるが、幼児向けアニメ映画を蜷河理佳と観るのはもっと二人の関係が進展し、二人ではなく三人になってからだと、そんなばかげた妄想に全身をぴりぴりと震えさせ、「これにしよ」と遼は恋愛映画の看板を指差した。
「い、いいの? わたし……アクション映画も好きだよ……」
「い、いや……ちょっとそっちはあんまり観たくなくって……いいよね?」
「う、うんもちろん……」
二人は近すぎず遠すぎずといった微妙な距離を保ちながら、映画館のビルへと入っていった。
チケット販売所の前で財布を取り出した遼は、小銭しか入っていない事実に愕然とした。小銭は自分のチケット代にも足りず、そもそもデート資金は父を説得し獲得するつもりだった計画を今更にして思い出し、遼は長身を縮こまらせてただ慌てることしかできなかった。
「と、島守くん……?」
しゃがみ込む彼の肩を蜷河理佳が軽く叩いた。びくりとした遼は情けない笑顔で振り返った。
「お、お金なら……持ってるよ……お小遣い貰ったばっかりだから……映画観て……ご飯、食べるぐらいだったら……」
「い、いや……それじゃ……いくらなんでも……」
そう言いながらも、数百円の軍資金でこの炎天下の渋谷でどんなデートをすればいいのか、島守遼はすぐに思いつくことができなかった。しかし全額を女性に出してもらうというのはあまりにも情けなく、そうかと言ってこうなってしまった事情をうまく説明することなどできるわけがない。しばらく考え込んだ後、彼は「ごめん」と小さくつぶやき頭を下げた。
フランス映画というものを観るのは島守遼にとって初めての経験である。聞きなれぬ仏語を聞きながら字幕を追いつつ、そのの注意は右隣に座る少女へと向けられていた。
薄暗い映画館の中で、少女はじっとスクリーンを見つめていた。その横顔は端正で美しく、こんな少女とデートをしているという現実が島守遼にとって未だに信じられなかった。
思えば数週間前、学校の階段で言葉を交わしてから二人の仲は急速に進展していると言っていい。同じ演劇部に所属し、役柄は互いに夫婦であり、彼女は人体解剖図鑑を読んで欲しいと渡した。
島守遼は、スクリーンの点滅に目を細めながらあの不気味な図鑑のことを考えていた。彼女はなぜあんなものを自分に渡したのだろう。尋ねてもはぐらかされてしまい真意のほどは未だに確かめられていない。しかし、あの図鑑で人体の急所を知っていたからこそ、窮地にありながら敵に立ち向かうことができる勇気が与えられた。もちろん、蜷河理佳があの状況を予想して図鑑を渡したはずはない。あんな状況、一体誰が予想できるというのか。
辛く苦しい記憶が意識に蘇り、彼はそこから逃避したい一心で目を瞑り、頭を小さく振った。
もう忘れよう。あれは俺の現実なんかじゃない。今俺は蜷河理佳とデートしている。こんなに綺麗で儚げな、デート代を出してくれる天使のような少女と親交を深めようとしている。こっちの方がよほど嬉しい現実である。
念じたら獣人の目が破壊された? あんなのはバルブってのがやったんだろう。俺には関係ない。
触れれば人の心が読める? 少し勘がいいだけだ。
真錠って転入生が全部原因なんだ。あいつは確かに変な能力があるらしい。すごいすごい。でも俺には関係ない。
冷静に考えれば矛盾だらけの辻褄の合わぬ発想ではある。しかし彼は起きた現実を受け入れたくない一心で、都合のいい結論を導き出そうと迷っていた。
なぜこうも受け入れられないのだろう。いや、受け入れるってのが、そもそもわけがわからない。映画に集中しなくっちゃ。食事の話題で何も言えなくなっちまう。
遼はスクリーンに視線を再び向けた。
そこに映し出されていたのは、どこか知らない平原に抱き合う男女の姿だった。
あぁ。バルチによく似た風景だ。あんな何もないところに俺はさっきまでいた。
ジョージ長柄は、なんにもないところで死んだんだ。食われて。
咄嗟の拒絶感が島守遼を襲い、彼は何かから逃げ出したくなった。腰を浮かせた遼は情けなくなり、全身が震えているのに気づいた。挙動をコントロールできなくなった彼はバランスを崩し、その場に崩れ落ちた。わき腹が肘掛けに激突し、両膝が粘り気のある床に着き、すっかり重たくなった頭はぐらりと傾き、柔らかい何かへ着陸した。
右側頭部に柔らかさと暖かさを感じながら、遼は受け入れたくない正体に気づこうとしていた。
俺がなんとかできたはずだ。ジョージさんだって助けられたはずだ。あの人は奥さんも娘さんもいて、日本に帰りたかったはずだ。なのに俺は運転席でただ待ってて、なんにもしなかった。スペアのフィルムを持って行けば、近くに一緒にいれば二人で化け物から逃げることだってできたかも知れない。なのに俺はただ怖がってるだけで、あの人は頭を引き千切られ、化け物に食われた。
気がつくと遼の両目から大量の水分が分泌され、それが柔らかい蜷河理佳の膝を濡らしていた。少女の手が、しがみつき泣きじゃくる少年の髪をそっと撫でた。
切なさと哀れみが島守遼の頭部を包み込み、彼の心を癒やしていた。こんな情けない卑怯者の自分を哀れんでくれる少女がいてくれる。それだけが少年を落ち着かせ、懐かしい優しさを思い出させようとしていた。
蜷河理佳の膝に頭を埋めながら、島守遼は安らかさを取り戻そうとしていた。しかし、このままではいくらなんでも自分は子供じゃないかと、そんな自尊心も復活しようとしていた遼は勇気を出して顔を上げた。
穏やかで、それでいてどこか儚げで、優しく蜷河理佳は遼を見つめていた。その瞳に無制限の慈しみを感じ、彼は思った。
ああ、俺はこの子のことが本当に好きなんだな。
と。
5.
陳という人は本当によく働く。というより、さきほどから彼が同じ場所に五分といたためしがない。忙しなく居間の掃除をしている陳の姿を見ながら、ソファに座るリューティガーはそんなことを思った。
「陳さん、僕は本当になにもしなくていいんですか?」
「リューティガー坊ちゃんは休むのが先ネ。それにわたし掃除も得意ヨ。よく中佐の部屋もお掃除してたね」
「へぇ。中佐の部屋も?」
「はい。わたし同盟本部、長かったから。いろんな人の身の回りお世話したヨ。おかげで十ヶ国語ペラペラネ」
陳の淹れた中国茶を飲みながら、リューティガーは自分の心身が回復しつつあることに満足していた。
「陳さんの相方って……確か健太郎って聞きましたけど……どんな人なんです?」
リューティガーの問いに、陳は埃を叩く手を止めた。
「相方とても強い。とても穏やか。信頼できる男ヨ」
「ってことは……戦闘訓練を受けてるんですね」
「坊ちゃん、わたし食事だけじゃなくて戦いも得意ヨ。もういつか青竜刀の切れ味、見せてあげるネ」
注意するように目を細めた陳に、リューティガーは苦笑いを浮かべた。
「もちろん。健太郎はわたしよりもっと強いヨ。エレアザールまではいかなくても、ソロモンぐらいなら楽勝ね」
「そりゃ、獣人王に勝てるほどでしたら、今回の任務だってあっという間に終わっちゃいますものね」
「そうそう、さっき同盟から報告書が届いてたよ。これ、プリントアウトしたものネ」
陳はパソコンの置かれたテーブルから紙の束を取ると、それをリューティガーに手渡した。
「なんの報告書です?」
「さっき、遼クンがシャワー浴びてる間にバルブを回収したのヨ。もうデータ吸い出して本部へ解析依頼だしたネ」
自慢げにそう語る陳を見ながら、リューティガーはこの男の手際のよさにあらためて感心し、資料に目を通した。
「難しい専門用語ばかりで、わたしにはさっぱりわからないネ。よかったらわかりやすくわたしにも教えて欲しいネ」
傍らでそうつぶやく陳に愛想笑いを向けたリューティガーは、報告書の内容へ次第に集中し、眼鏡をかけ直した。これまでに見たことがない主人の険しい表情に陳はほとんど首と一体化している顎を引き、鯰髭を撫でた。
「陳さん……僕の予想は少しはずれてたみたいです……」
「な、なんの予想ネ?」
「遼くんの能力は接触テレパスと予知、そして軽度の念動力だと思っていました……けどこのデータは……違います……ただの念動力じゃない……」
少々興奮気味にそうつぶやくリューティガーの横顔を、陳は首を傾げながら見つめていた。
「陳さん、遼くんの服とか……洗濯できてます?」
「乾くのにもう少しだけかかるネ」
「わかりました……なら……僕は少しだけうたた寝します……出かける準備ができたら起こしてください」
そう言いながらソファに全身を預けるリューティガーを見下ろした陳は、軽快な挙動で毛布を取りに部屋を出て行った。
6.
「蜷河さん……さっきはごめん……俺……」
映画館近くの喫茶店で、島守遼はしきりに後頭部を掻いて向かいに座る蜷河理佳に恐縮していた。
初めてのデートで突然膝に頭を埋めて泣きじゃくるなど、有り得た話ではない。しかしそんなアクシデントを許容し何も問うことのないこの少女に、遼は事実を反省しながらも、それでももっと甘えてしまってもよいと思っていた。
「び、びっくりしちゃったけど……」
「だ、だよな……俺、なんか疲れてて……ほんと……悪い……」
少女はうっすらと微笑むと、運ばれてきた紅茶にミルクを垂らした。
「島守くんは……夏休みの合宿、行けるんだよね?」
「あ? ああ。もちろん行くよ。だって俺が一番下手だし……長野だっけ?」
「楽しみだよね。みんなで寝泊まりするんでしょ? なんかわくわくしちゃったりして……」
蜷河理佳は口元を歪ませ、何度も瞬きしながらそうつぶやいた。
「俺、当然だけど平田先輩と同室になるんだよな。あの人、とっつき難いから不安だよ」
「け、けど……先輩はお芝居も上手だし、いろいろ教われると思うよ」
「うん。俺、もっと上手くなんなきゃな。相手役なのに蜷河さんと釣り合いが取れないし」
そんな前向きな言葉を重ねながら、島守遼は恐怖も後悔も一時的に封じられている事実を感じていた。彼女と話していれば自分はごく普通の高校生として過ごすことができる。その自覚は心地よく遼を満たしていたが、同時にある不安を抱かせつつあった。
長野合宿の費用捻出である。およそ三万円という大金はとても父に頼める金額ではない。となるとアルバイトをして稼ぐしかないが、その経験がまったくない彼にとって、命の心配ほどではないが重要な問題だった。
小さな不安を抱えながらも島守遼は蜷河理佳とのおしゃべりを楽しんだ。学校や部活という互いが普段知っている空間に限定された、たわいなく浅い話題なのが残念であり、遼は彼女のもっと個人的なことを知りたかったが、最初のデートであればこの程度の会話に終始するのは仕方がないだろうとも思っていた。
たとえば、これがサッカー部の西沢あたりであれば、もっと話術巧みに彼女の心に入り込み親密な関係を短時間で築けるのかも知れないが、自分にそんな器用さはない。迂闊さが失言を生み、蜷河理佳に軽蔑されるのは恐ろしく、それだけに彼は慎重でもあった。
ブティックの入ったビルに二人で入り、買い物をするわけでもなく時間を過ごしたり、CD店に行き、視聴をしたりジャケットを眺めたり、デパートのペットショップで仔犬や子猫に喜んだり。これがこの日の島守遼と蜷河理佳の、金のかからないデートの全てである。
彼女と過ごした数時間で、例えば邦楽より洋楽が好みだったり、実はハムスターであっても鼠の類が苦手で「だってかじられそう」と怯えながら腕に軽く抱きついてきたり、ほうれん草が苦手だったり、ショートケーキのイチゴはわりと最後に食べる方だったりと、遼は蜷河理佳の様々な好みや個性を知ることができた。たぶん、それは彼女も同じなのだろうと、帰りのバスに揺られながら島守遼は満足だった。
隣の席に座る彼女は自分よりもっと前の駅で降りる。そうなれば週明けまで会うこともなく、それは寂しい認識である。
遼は思い切って彼女の手に自分のそれを重ねてみた。膝に頭を埋めたにしてはぎこちない挙動だったがあれは偶発的な事件であり、そもそも順序が逆である。それを修正する意味も踏まえ、自分では至極まっとうな想いから来る行動であると彼は自分に言い聞かせていた。
柔らかく小さな手が遼の指に絡まり、少女と少年は互いに手を握り合った。
腰のポケットのバルブが小刻みに振動を始めたが、遼は何も考えることなく、ただひたすらに汗ばんだ少女の指にだけ意識を向けていた。
小さな揺れと同時にバスは停車し、蜷河理佳はゆっくりと立ち上がった。
「あ、降ります」
車掌に向かって声を上げたのは遼の方だった。蜷河理佳は「ありがとう」と小さくつぶやくと絡めた指を離し、バスの後部出口へ駆けて行った。
「ありがとう」
降車する他の乗客に紛れ込みそうな蜷河理佳に遼はそう叫んだ。車内の乗客が何事かと一斉に彼を見つめたが、彼の意識はバス停で小さく手をふる黒髪の彼女にしか向けられていなかった。
結局、デート前に予定していた彼女に聞くべきことは何一つ言葉にすることはできなかった。しかし今日のデートは成功だったのだろう。あの終わり方は初めてにしては及第点だと遼は満足げに坂道を上っていた。梅雨も明け、帰宅するまでに蛙の死骸に悩まされることもない。結果的に今日はいい日だったと満たされながら、彼は幸せだった。
アパートが見える路地に入った遼は夕暮れの中に二つの人影を認めた。一つは小さく細く、もう一つは丸い。見覚えのあるシルエットに彼は足を止め、充足感は吹き飛ぼうとしていた。
「遼くん……お帰りなさい……」
吹き抜ける風に栗色の髪を揺らしながら、リューティガー真錠がそうつぶやいた。傍らにいる陳は紙袋と黒いカメラバッグを肩から提げ、遼を細い目で見つめていた。
「真錠に……陳さんか……ずっと待ってたのかよ……」
首を小さく横に振りながら、リューティガーは遼のそばまで歩いてきた。その表情に無邪気な笑みはなく、彼は真っ直ぐに見上げ眉を顰めた。
「行動は監視させていました」
そのリューティガーの言葉に、遼は目を見開き言葉を詰まらせた。
「遼くんも既に狙われているのです。だから……悪いとは思ったけど、陳さんの相方、健太郎さんに君の一日を尾行させていました」
一瞬、リューティガーの視線が自分の背後に反れた事に気づいた遼は咄嗟に振り返った。
路地の向こう、夕日を背にコートを着た二メートルを超す長身の男が佇んでいた。この男は寝室で体育座りをしていた奴である。一目でそれがわかった遼は、自分の意思とは無関係に事を進めようとしているリューティガーを睨み返した。
「遼くんの服は洗濯してあります。あと……黒いバッグも……」
リューティガーの言葉に反応し、後ろに下がっていた陳が紙袋とカメラバッグを持ってきた。
「いろいろ、話さなくっちゃいけないんだ……僕は遼くんに」
「聞きたくないね」
遼のぶっきら棒なつぶやきにリューティガーは目を丸くして、反対に陳は睨み付けてきた。
「き、君は能力を知らなくっちゃいけない……それに、昨日の出来事の全てを僕は説明できる……話を聞いてくだ……」
懸命に訴えかけるリューティガーの言葉を、だが遼は右手を振って遮った。
「俺は興味ないね。あんなのに巻き込まれたのは運が悪かったからだ。あれはお前の事情なんだろ? 俺には関係ないし、関わりたいとも思わないね」
強い語調の遼に対し、リューティガーの背後にいた陳の目付きがいっそう鋭くなった。しかし、それに負けることなく彼は言葉を続けた。
「能力なんてない。さっき蜷河さんの手を握ったときだって、なんにも感じなかった。どうせ……!!」
遼はポケットから金属球バルブを取り出し、それをリューティガーに突きつけた。
「これ、返すわ。もう俺には必要ないし。こいつのおかげで助かったんだと思うけど、マジで関係ないね!」
震えながら金属球を受け取るリューティガーの脇をすり抜け、遼は陳から紙袋とカメラバッグを強引に奪った。
「借りた服は洗って返すから、週明けに学校でな」
そう言い捨てると、島守遼は足早にアパートへ向かった。
ゆっくりと振り返ったリューティガーは、重そうにカメラバッグを抱えてアパートの階段を上っていく遼を見上げた。その拳はぎゅっと握り締められわずかではあるが震えていた。
「リューティガー坊ちゃん……どうするネ。こうなったら腕ずくか? わたし、トンファー持参してるヨ」
物騒な表情でそう提案する陳に、リューティガーは情けない笑みを向けた。
「腕ずく……ですか……?」
「ソ。それが一番もう早いよ。ムチとアメね」
「考えておきます……けど……今日は止めときましょう……できれば……僕は彼に嫌われたくない……」
俯いてそうつぶやくリューティガーに巨大な影が近づいた。
「真錠殿……どうする?」
コートを着込んでチューリップ帽を被ったひょろ長い体躯の持ち主が、低く掠れた声でそう尋ねた。
「今日のところは引き上げます……来週……学校が始まれば話す機会も増えますし……今日は……」
歯切れの悪い返事に陳は顎を引き、もう一人の従者である健太郎は「ん」と最小限に短く答えた。
7.
試験休みが明けると二日の登校日を経て夏休みとなる。高校生活で初めて経験する長い休みだが、島守遼はそのうちの二週間のスケジュールを仮ではあるが埋めていた。もっともその予定を現実にするためにはいくつか乗り越えなければならない障害も存在し、仁愛高校に向かう坂道を上りながら彼の頭の中はその克服手段を検討することでいっぱいだった。
代々木パレロワイヤルから始まり、バルチで経験したあの出来事はできるだけ忘れようとしていた。蜷河理佳の白くまぶしいワンピース姿を思い出したり、三万円の金策に頭を悩ませたりすることで濃密な恐怖は幾分薄れ、それでも全てを忘れることなど無論できなかったが、二日の休みはあの過酷な体験を過去のものにしようとしていた。
「島守くーん」
とぼけた語調で自分の名を呼ばれた遼は、声の主が誰であるのか気づきながら、軽く振り返った。
休み明けの朝に見るクラスメイトの顔はいつもより眠そうで、半開きの眼はとろんと遼を見つめていた。
「おはよう、戸田」
「おはよう。今日は試験結果が出る日だねぇ」
「それと明日は終業式だろ。ほんと、試験の後まとめてやって、とっとと夏休みにして欲しいよな」
遼の語調がいつになく強かったため、戸田義隆は意外そうに片眉をつり上げた。
「その荷物って……演劇部の?」
戸田は遼の左手に見慣れぬ紙袋を認め、そう尋ねた。
「え? ま、まぁ……そんなとこ……借りててさ……」
「真面目に部活、やってんだねぇ……そうそう。演劇部って言えばさ、島守くんガラスの仮面って漫画読んだことある?」
「ガラス……いいや。知らない」
「これが不思議な漫画でねぇ。休みの間漫画喫茶で読んだんだけど、主人公が私なんて美人じゃないしって落ち込んでるんだけど、これが充分可愛いのよ」
「少女漫画か?」
「そうそう」
「ならよくあるパターンじゃないのか? だってほんとにブスに描いたら、漫画の主人公にならないだろ」
「へぇ……そーゆーものなのかねぇ……僕、少女漫画って読んだの初めてだったから、そんなパターンがあるなんて知らなかったよ」
「また浜口たちから薦められたのか?」
「うん」
嬉しそうに頷く戸田を見て、遼は彼と流れるのんびりした時間も悪くはないと思った。
しかし、背後から歩いてくる栗色の髪を見つけた途端、彼の歩みは速まった。
「と、島守くーん。どうしたの?」
戸田は駆け足で遼を追いかけ、二人は下駄箱まで競争するように急いだ。
教室に入った遼は既に席へついている蜷河理佳をちらりと見た。彼女も遼の視線に気づくと笑顔を向け、二人はわずかの間時間を共有し、彼は自分の席へと向かった。
軽やかな挙動で席に着く遼を横目で見ながら、頬杖をついていた神崎はるみは人の悪い笑みを浮かべた。
「機嫌よさそうじゃない。やっぱり試験結果に自信があるって感じね」
「神崎はどうなんだよ」
そう返されたはるみは顎を机に着けると、目を半開きにした。
「駄目に決まってるでしょ。おまけに調子は最悪だし……ほんと最低よ」
体調不良の原因をなんとなく想像しながら、それでも遼は自分には関係ない、どうでもようことだと思い、右斜め前に座る蜷河理佳の後ろ姿へ視線を向けた。
すると、彼の視線に教室へ入ってきたリューティガーの姿が入った。遼は慌てて床に置いた紙袋を持ち、こちらに近づいてくる最も関係を持ちたくない彼にそれを突き出し、「洗っといた。助かったよ」と素っ気なくつぶやいた。
紙袋を受け取ったリューティガーは遼に何かを話しかけようとしたが、彼はそれをわざと無視して前に座る沢田へ声をかけ、できるだけ距離を置こうとした。
「期日の今日になったというのに、誰からも提案がないというのはどういうことなんだろうね」
ホームルームの時間、教壇に立ったクラス委員の音原太一(おとはら たいち)は険しい表情でそう言い放った。彼の背後の黒板には「本日の議題・学園祭の出し物」と書かれていて、つまり彼のきつい言動はこの1年B組の出し物が未だ決まっていない事実を物語っている。
教室の隅で腕を組んで座っている担任の近持(ちかもち)は穏やかな様子で教室じゅうを見渡したが、音原の怒りに反応する生徒は皆無だった。
「A組やC組はとっくに出し物を決めているんだ。夏休みを除けば、一ヵ月ぐらいしか準備期間はない」
厳しい口調で音原はクラスメイトたちに語りかけ、痘痕面を顰めた。すると教壇にほど近い座席の野元という小柄な生徒が、顔をにやつかせながら手を挙げた。
「A組とC組はなにやるんだよ?」
ふざけた口調でそう尋ねる野元を睨み付けながら、音原は咳払いをした。
「A組は夏休みの研究発表、C組はおばけ屋敷だ」
「ならウチはお化け屋敷の研究して、それを発表するってのはどう?」
野元のふざけた提案にクラスの数名が噴き出した。その反応に浮かれた発言主は、にやつきを増して両手を揉んだ。
「いいかげんにしろ! ほんとに誰も提案がないのか?」
音原は、半ば縋るような視線を神崎はるみへ向けた。しかし机に突っ伏して腹を押さえる彼女はクラス委員の期待に応えることもできず、彼はより追い詰められた。
なんてやる気のない連中のクラス委員を引き受けてしまったのだろう。いや、だからこそ俺以外にクラス委員に立候補する者など誰もおらず、つまりこいつらは自分で何かを提案したり決定したりする面倒を全て押し付けているだけなのだ。
音原太一は両手を教壇に着け、自分の不運と迂闊さを呪っていた。
「あ、あの……音原くん……」
教室の右前方、最も出入り口に近い席から、一人の男子生徒がゆっくりと手を挙げた。
「ん? なんだ関根君」
関根、と音原に呼ばれたクラスメイトはやや小太りの小柄な体格であり、下がった眉毛に大きな鼻、気後れした目つきをしていた。あまり目立つ生徒ではなく、彼がホームルームで手を挙げる姿をクラスメイトたちは今日はじめて目撃していた。
「て、提案があるんだ……」
消え入りそうな声でそうつぶやく関根に、音原はあまり期待できないと思った。「言ってみてくれ」と返しながらも、どうせ大した提案ではないだろうと落胆していた彼の前に、関根は冊子を置いた。
その表紙には「1年B組学園祭提案書」とワープロで打たれていた。冊子を取り上げた音原はその分厚さに驚き、おどおどと席に戻っていく関根の背中を凝視した。
「なんだよその本」
野元がからかうように尋ねたが、音原はその言葉を無視して提案書を開き、内容を声に出した。
「ラーメン店。それも本格的な博多ラーメン店を出店する。店舗名はラーメン仁愛……目的とするのは、本当においしい本格派のとんこつラーメンをお客様に安価で提供することであり、この提案書は店舗計画、仕入れ計画、調理計画、運営計画の四項目から構成される……」
声に出された提案書の内容は、音原が作っているのではないかと思えるほど理路整然とした文面であり、クラスの大半が関根という普段は目立たぬ存在に注目した。
ぱらぱらと提案書をめくる音原の口元は次第につり上がり、彼は関根に熱い視線を送ると何度も頷いた。
「ご、ごめんね……それ作るのに、時間かかっちゃって……ぎりぎりになって……」
関根の謝罪の声はあまりにも小さく、音原の耳までは届かなかったが隣に座る崎寺(さきてら)という女生徒には充分聞こえ、彼女はくすりと微笑んだ。
「よし、もう提案はないな。だったらウチはラーメン仁愛を出店するぞ」
そう言い切る音原に、野元があからさまに顔を顰めた。
「できんのかよ。それに関根って学食でラーメンとか食ってるの見たことないし。無理なんじゃない?」
「黙れ。じゃあ何か提案があるのか。ないだろ? ちょっと見ただけだが、このフルカラーの提案書はしっかりしている。俺たちはもうこれを頼りにするしかないんだ」
強い語調の音原に野元は押され、小さい目を何度も瞬かせた。
「学食……あんなのは……ラーメンじゃないよ……」
関根のつぶやきは低く重く、隣の崎寺も聞き取れないほどの声量だった。
結局、反対する者もいないため1年B組の学園祭での出し物はラーメン店に決まった。次の議題は実行委員の選出だったが、名乗り出る者は一人もおらず、再び怒りに火が着いた音原は野元からノートを奪い取った。白紙を一ページ破った彼は、瞬く間にクジを作り、関根と自分を除く全クラスメイトにそれを引かせた。
「実行委員は男女二名ずつの計四名。クラス委員は兼任できない。お前たちに今渡したクジの裏に、丸が書かれた物が四枚ある、それを引いた奴は手を挙げろ」
島守遼はうんざりした表情でクジをめくり、そこに書かれた不細工な丸印にうな垂れ、手を挙げた。
「よし決定だ。ラーメン店の実行委員は関根君、島守、神崎、田埜、それに真錠だ。関根君と僕の指示を受けてがんばってくれ」
はるみはぐったりしたまま「うえ」と漏らし、遼は固まったまま背後からの視線を感じ、リューティガーは遼の背中に無邪気な笑みを向けていた。
8.
「遼くん、お弁当一緒に食べませんか?」
期末試験の結果発表で午前の授業は費やされ、昼休みになった。リューティガーは笑顔で遼に声をかけた。しかし彼はポケットに手を突っ込んだまま立ち上がると「今日は学食」と言い放ち、教室から足早に出て行ってしまった。
自分が拒絶されている事実を、リューティガーはじゅうぶんわかっていた。その理由もそれとなく理解できる。しかしだからと言って納得できるはずもなく、彼は弁当箱を乱暴な挙動で机に置き、がらんとした教室を見渡した。
「真錠くん……」
小さな声でそう呼ばれたリューティガーは、目を見開いて振り返った。
短い髪に大きな瞳、童顔にうっすらと笑顔を浮かべた少女が弁当箱を持ってリューティガーに首を傾げた。
「お弁当……隣で食べても……いいですか?」
断る理由も特になかったため、リューティガーは頷いた。
「えっと……君は……?」
「椿です。前の方に座ってる……」
「あぁ……僕と遼くんと……そうでしたね、椿さんもお弁当組でしたね」
「ええ」
リューティガーの隣の席に座りながら、椿は笑顔のまま頷き返した。
生徒たちで賑わう食堂までやってきた遼は、きょろきょろと辺りを見渡した。
「あれ、島守が学食なんて珍しいじゃん」
意外そうな表情でそう声をかけてきたのは、うどんを載せたトレーを持ったクラスメイトの西沢だった。
「うまいの? それ?」
「イマイチ。けど太らないからさ」
「なるほど……なぁ、麻生っていつも学食だったよな」
「麻生? あいつならいつもあそこで食ってるぜ」
西沢はそう言い、食堂の隅へ顎を突き出した。
大柄で、学生服のワイシャツがパンパンに膨れ上がった逞しい筋肉。その丸太のような腕でカツ丼と卵丼を交互に食べる姿は一種異様でもあり、島守遼はその麻生というクラスメイトとなぜ今までまったく交流を持とうとしなかったのか今更ながらに自覚した。
「あ、あの……麻生……?」
学食でうどんを頼んだ遼はトレーを持ったまま、ひたすら食料の摂取に励む麻生に声をかけた。
「う、うむぅ?」
食べながら、麻生は面倒くさそうに顔を上げた。浅黒い肌、長く縮れた髪、凹凸がたっぷりした顔に半開きの眼。この麻生巽(あそう たつみ)を初めて見る者の十人中九人が、彼のことを日本人だとは思わず、「なぜイタリア人が丼物を……」と違和感を抱くであろう。しかし彼にそうした血は混ざっておらず、いわば遺伝子のいたずらと環境が育んだ偶然である。遼は彼のテーブルにラベルのないペットボトルを見つけ、興味を示した。
「水ならいくらでももらえるのに」
「いや……これはプロテインだ。水じゃねぇ」
低い声でうめくようにつぶやく麻生に気圧されながらも、遼は彼の隣に座った。
「なんだ……俺に用か?」
「ああ……沢田から前に聞いたんだけど、お前って渋谷でバイトしてるんだよな」
「してる……スポーツクラブの清掃のバイト」
「それって……自給とかっていくらなんだ?」
「八百七十円。知り合いが経営してるクラブだから優遇してもらってる」
ぶっきら棒な口調の麻生は、カツ丼を一気に平らげると卵丼のどんぶりを手に取った。
「やりたいのか? バイト」
「ああ。どうしても十日ぐらいで四万は欲しいんだ」
「十日で四万……一日四千円か……ま、なんとかなるだろ」
あまりにも呆気なく光明の差す発言を麻生がしたため、遼は拍子抜けした。
「い、いいのか?」
「ああ。夏休みになると客も増えるし人手不足になるからな。島守なら信用できるし、支配人には俺から言っとくよ。夏休み初日から来れるんだろ?」
「助かる……ほんと、ありがとう。もちろん時間はそっちの都合に合わせるよ。まぁ……できれば夜からの方がいいけどさ」
「夜? ならこっちも好都合だ。昼は部活か?」
「練習あるんだ。演劇部の」
遼の言葉に麻生は鼻を鳴らすと、そのまま卵丼を勢いよく食べ始めた。
今まで、とっつき辛くどこか不気味だったため、遼は麻生との接触をなんとなく避けていた。しかし、話してみれば意外と円滑なコミュニケーションができるものだと彼は感じ、ひたすら栄養を摂取し続けるイタリア人のような風貌のクラスメイトに心から感謝していた。
9.
「そう、わしがこの家の当主。野々宮儀兵衛じゃ」
もうこの台詞を喋るのは何度目のことだろう。胸を張り、できるだけ尊大さを誇示しようと顎を引きながら、島守遼はそんなことを考えていた。
しかしそんな邪念が入るからこそ部長である乃口やその他の部員たちから見ても、この新入部員の芝居はまだまだ水準に達しているとは思えなかった。休憩時間になり、床に輪を作って腰を下ろした部員たちは口々に遼の欠点を指摘し、彼はひたすら頭を掻いていた。
「声量はあるのだから、もうちょっとゆっくり喋った方がいいと思うんだ。島守くんは。そのなんていうのか暗記した台詞を必死になって間違えないように言ってるみたいで、そこが素人臭いのよね」
淀みのない小鳥の囀りのような声でそう言ったのは、二年生の福岡という女生徒である。「はぁ……そうかも……なるほど」
頭を掻きながら何度も頷く遼の隣では、苦しそうに腹をさする神崎はるみの姿があり、そんな後輩の様子を部長の乃口は苦笑いを浮かべて観察していた。
「神崎さん……早上がりしてもいいのよ」
「ふぁい……そ、そうさせてもらいます……」
青ざめた顔でそう返したはるみは、ゆっくりと立ち上がると重い足取りで部室から出て行った。
はるみが今回の芝居で演じるのは「メイドC」という役で、台詞は「はい」「かしこまりました」「あまりにもひどい」のたった三つである。この後の稽古において、その不在は大きな影響を及ぼさないであろうとの部長判断だったが、それだけに自らの存在感の薄さをあらためて痛感してしまう。下駄箱で靴を履き替えるはるみは、鈍痛の苦しみに加え、そんな自覚にも苛ついていた。
校門を出たはるみは、そこに佇むリューティガーの姿を認めた。
「あ……真錠くん……」
声をかけられたリューティガーは、栗色の髪をかき上げ意外そうに目を丸くした。
「神崎さん……演劇部、もう終わったんですか?」
「ううん……早上がり……体調最悪で……」
「あぁ……朝から気分悪そうでしたもんね……大丈夫です?」
「明日にはね……ほんと……毎度毎度こうだと……嫌になっちゃう……」
肩をがっくりと落とし引きつった笑みを浮かべるクラスメイトを、リューティガーは不思議そうに見つめた。
「ところで……あんたは誰か待ってるの?」
「え、ええ……」
「ふーん……」
彼の待ち人とはおそらく島守遼だろう。そんな確信を抱きながら、神崎はるみはのろのろと学校前の坂道を下っていった。
「貴様らにわしの気持ちなどわかるはずもない!!」
部室に遼の声が響き渡った。しかし声量に対して部員たちの表情は冷ややかであり、その反応が彼の芝居のレベルを物語っていた。
「島守。声がでかいだけで全然ダメだ。もっと怒るんだよ。そこは!」
たまりかねて怒鳴り声を上げたのは、二年生の平田だった。
「は、はい……」
「野々宮の怒りは自分の妻が自殺と知って……まぁいいや、そんなこと言ってもお前にはまだ理解できないだろう……最近一番怒った出来事を思い出せ、その気持ちのまま今のところをもう一度だ」
平田の指示を受け、遼は表情を固まらせたまま低く唸った。彼にとって、最近一番怒った出来事と言えば一つしかない。
「貴様らに、俺の気持ちなどわかるはずがない!!」
台詞の細部は異なっていたが、フラストレーションを言葉にして吐き出す遼の形相は歪み、握った拳からは汗が滴り落ちていた。
「へぇ……」
首を傾げながら感嘆したのは乃口である。隣の平田も「意外に早いな。瞬間湯沸かし器か?」とつぶやくと小さく頷き、遼の感情の発露をよしとしていた。
「妻を失った悔しさじゃねぇ!! 俺がいかに情けない男かってことがわかったのが悔しいんじゃ!! その気持ちなど、公僕風情の貴様などに!!」
刑事役である福岡の肩を掴み、遼は唾を飛ばしながらそうまくしたてた。
「ちょ、ちょっと……」
これは演技などではなく、個人的な怒りをぶつけているだけである。そう感じた福岡は遼の握力に辟易としながら乃口へ視線を向けた。
「島守くん、そこまで!」
手を叩きながら中断の指示をする乃口に、遼は我に返って眼前の福岡を見つめた。彼女はハンカチで顔を拭きながらあからさまな嫌悪を表情に滲ませ、ぷいっと背を向けて離れていった。
「ご、ごめんなさい。福岡さん……」
平田に言われ、怒りを素直に表に出した遼だが、自分でもここまで冷静さを一瞬にして失うとは想像もしていなかった。悔しさの根深さを感じつつ、彼の内部ではもやもやとした感情が広がっていた。
「島守くん……感情を出すことはいいんだけど……ちょっと台詞変えすぎかな……」
「ええ部長……すみません……俺……しょうもなくって……すみません……」
頭を下げる遼に乃口は呆れがちに微笑み、丸めた台本で彼の額を小突いた。
「あんまり謝らないの。方向性としては決して間違ってないんだから。誰も素人のあなたに器用なお芝居なんて期待していないから」
「は、はぁ……」
乃口の忠告はありがたく、遼は頭を掻きながら平静さを取り戻そうとしていた。
そんな恐縮する彼の姿を、蜷河理佳は部室の隅から心配そうにじっと見つめていた。
10.
「福岡さんは怒ってないよ……ちょっと戸惑ってただけ……」
下駄箱から校門に向かいながら、遼は蜷河理佳の言葉に頷いていた。
「部長も方向性は間違ってないって言ってたけど……そうなのかなぁ」
「うん……喜怒哀楽の感情を出すことが……たぶん最初のきっかけになると思うの。その後は……役柄と状況に合わせてそれを上手にコントロールする……それができて、はじめて役者だと思うんだ……」
最初に会ったときと比べると、蜷河理佳は言葉に戸惑いも減りずいぶん的確なアドバイスをしてくれるようになった。そう思った遼は嬉しくなり、並んで歩く彼女の端正な横顔を見つめた。
「な、なに……?」
「い、いや……あ、ありがとう」
「う、うん……」
顔を赤らめコクリと頷く蜷河理佳に、島守遼の心は喜びに震えていた。
校門からバス停に出てしまえば、もう明日までこの少女と会うことはできない。距離にしてたった数メートルを彼はできるだけゆっくり大切に進もうと思った。
バス停にはバスが到着していて、それを見た遼は運がないと眉を顰めた。
「じゃ、じゃあ……また明日……」
バスに向かって駆けていく少女の後ろ姿を少年はポケットに手を突っ込んだまま見つめ、発車した後もしばらくは校門から未練がましく目で追い続けていた。
「明日は……終業式か……」
わざと声に出すと、遼は背中を丸めて軽い足取りで坂道を下りだした。すると電柱の陰から、栗色の髪をした同級生が現れた。
「遼くん……」
真剣な眼差しでこちらを見つめるリューティガーに、だが遼は視線を合わせることなく通り過ぎようとした。
「遼くん。お話があります。大切なお話が」
「聞きたくないね」
ぼそっとそうつぶやくと、遼はその場から坂道を駆け下りていった。
通学路を駆けながら、彼は腹の底から湧き出てくる怒りを感じていた。奴の話を聞いたところで係わり合いなど持ちたくはない。今の自分は一向に上達しない芝居に取り組むので精一杯であり、なにより関わりなどもてばまた怖い目にあい、自分の情けなさを突きつけられるだけである。
あんなのはもうごめんだ。さっきだって思い出して自分の感情をコントロールできなかった。
俺だって見殺しにしたかったわけじゃない。
勝手に進んだんだ。なにもかも勝手に。俺にはどうすることもできなかった。
遼はその場に立ち止まり塀を叩いた。ジョージ長柄の日焼けした笑顔がはっきりと意識に浮かび、気がつけばその瞳は潤んでいた。
唐突に両足の裏側から接地感が失われ、同時にワイシャツの襟が引っ張られるのを遼は感じた。背中は塀に擦り付けられ、それはバルチでの出来事を想起させるほど強引な乱暴な突発事態だった。
何者かが塀の向こうから自分を引き込もうとしている。まるでUFOキャッチャーのぬいぐるみを掴むかのように。襟を押さえつつも事態をそう認識した遼は、塀の頂点に腰を打ちつけられる痛みに耐えながら、懸命に背後を振り向こうとした。
しかし、次に彼を襲ったのは急激な落下の感覚だった。頂点まで引き上げられ尚も引っ張られ続けているのだから、今度は向こう側へと落ちるのは当然の展開である。状況は異常ではあるが進行する事態は極めて常識的であるこの違和感は、まさしく数日前に体験した一連の出来事に似ている。遼は浮遊感に抵抗するため、塀を思い切り蹴り上げた。
地面が土だったのが幸いした。全身を打ち付けられながらも痛みは意外なまでに小さく、この敷地がこの間倒産した会社の運動場である事実を遼は思い出した。
いつの間にか襟を引っ張っていた強引な力はなくなっていた。身体の土を払うことなく遼は塀を背にし、植え込みの中で膝を立てながら辺りを見渡して全身の感覚をできるだけ鋭敏にさせようとしていた。
掴まれていた襟を摩り、それがひどく痛んでいる事実に気づいた遼は、自分をここまで引き込んだ者の正体にある程度の目星をつけていた。あの力と勢いは人間ではない、と。
植え込みには背の低い枯れかけた草が点在するだけで、とても敵から姿を隠すことなどできない。しかし辺りは何もない運動場で、そこに飛び出すよりここにじっとしていた方がマシである。そんな判断を遼がしていると、彼は右手から草の擦れる異音を耳にし、立ち上がりながら身構えた。
暗灰色のコートに身を包み、同じ色のチューリップ帽を被った二メートルを超すひょろ長い体躯。その姿を遼は二度ほど目にしたことがあった。
「真錠の……仲間だな……」
遼の問いに対して男は返事をすることなく、ゆっくりと長すぎる右手を挙げた。
五本の爪が男の頭上で勢いよく飛び出し、がちゃりと不快な音を立てた。遼はチューリップ帽の奥から光彩の無い赤い目の輝きを認め、全身に恐怖が走るのを感じた。
よく見ると肌は青黒く、口元こそ突き出てはいないが「獣人」と同種の人間ならざる
存在である。だがこいつは間違いなくリューティガーの部屋にいて、デートの帰りに自分の退路を塞いでいた男である。それがなぜ化け物なのだろうと遼は混乱し、これまでに彼が勝手に想像していた対立概念は根底から崩れようとしていた。
概念の崩壊は冷静さを遼から奪い、数日前と同様の恐怖が思考をかき乱した。「殺される」男の目の輝きと振り上げた長い爪からそう感じた彼は塀に背中を張り付け、身体中から汗を噴出していた。
男はゆっくりと遼に近づくと、五本の鋭利な凶器を振り下ろした。その風圧を頬で感じた遼は、身体を翻して斬撃から逃れようとした。しかし恐怖に怯えた脳は肉体への命令伝達を遅れさせ、爪はワイシャツの背中を引き裂いた。
背中を切り刻まれるのは何とか防げたものの、遼はその場に転倒し仰向けになった。目を開けた彼はすぐにその場から立ち上がろうとしたが、化け物の両手が肩を掴み身体の自由は強い圧力で奪われてしまった。
赤い目が眼前に迫り、ぱっくりと開いた口には鋭い牙も見える。これまでのものとはかなり異なる風貌ではあるが、これは間違いなく獣人である。地面に押さえつけられた遼の脳裏にバルチでの出来事が次々と駆け巡り、ジョージ長柄の後頭部が揺れる光景で静止した。
悔しさが恐怖を一瞬だけ上回った。
赤い瞳など有り得たものじゃない。食われてたまるか。
強い想いが遼の意識を集約させ、次の瞬間獣人の赤い目から同じ色の液体が噴出した。
低い唸り声を上げながら、獣人は右目を押さえて遼から離れた。何が起こったのか、もう疑問など介入する余地もない。自分はこの化け物の目を破壊することを念じ、それは達成された。
そもそも、幼少期から浮かぶあの妙なイメージにしても、やはりあれは他人の心を覗いていたということなのだろう。自分には人とは異なる能力がある。テレビだって腕時計だって、いつも自分がパニックの時に壊れてしまった。この力で壊してしまったのだろう。
逃げ続けていた結論に、達せざるを得ない島守遼であった。うずくまるコート姿の巨体を見下ろしながらその心中は妙に穏やかであり、視線は首筋の動脈付近に向けられていた。
「化け物って言っても人間と似てるんだよな。なら静動脈のありかだって似たようなものだ……いくらコートを着てたって、俺は暗記するほど解剖図鑑を読み込んだんだ」
恫喝に近い言葉を、遼はコート姿の化け物に浴びせかけた。
「待ってください!!」
突風とともに、少年の姿が空間に出現した。
「真錠……」
眼前に着地するリューティガーの出現に遼は戸惑い、何度も瞬いた。
「健太郎さん……大丈夫ですか……?」
うずくまる巨体にリューティガーは駆け寄り、傷の様子を確かめようとしていた。その光景を目の当たりにして、遼はこの事態の正体に気づき疲労感を覚えた。
「この程度なら再生する……安心してください」
健太郎、と呼ばれた獣人が掠れ声でそうつぶやいた。
「よかった……」
笑顔を浮かべたリューティガーは、それを消すと真顔で遼を見つめた。疲労感でいっぱいの彼は塀に寄りかかり呼吸を整えていた。
「遼くん……これでわかってもらえたはずだ……君には異なる力がある。バルブはきっかけを与えただけで、あれの仕業じゃありません……」
視線を地面に落とした遼は、リューティガーの言葉に耳を傾けていた。
「君には物質を動かす能力と、触れた相手の心を読む能力がある。これはバルブがデータとして示した正確な結果です……僕の能力と同様の、血が生んだ通常とは異なる力なんです……」
「それが……だからどうしたんだよ……」
吐き捨てるようにつぶやいた遼だったが、先日までの強い拒絶は感じられず、リューティガーはもっと事情を説明してもいいと思った。
「この国は……ある勢力に狙われています。我々同盟はそれを阻止するためにやってきました。しかし戦力は乏しく、勢力に対抗するには異なる力を持った人の協力が必要なんです」
「どうして……俺にこんな力があるって知ってたんだよ……」
「事前調査です……家系を調べさせてもらいました……もちろん力が発現しないケースも多いのだけど……遼くんの場合既に小さい頃から読心能力が現れていたと調査結果が出てましたし……それに、最初に握手したときこちらの心を読んできたのがわかったので……」
リューティガーは健太郎から離れ、遼の目の前まで歩み寄った。
「力を貸してください……鍛えればもっと能力を伸ばすことだってできます……この国を守るために……」
力強く彼はそうつぶやいた。しかし遼は鋭い眼光を向けると、リューティガーを右手で突き飛ばした。
「ばっかじゃねぇの!? 何で俺が。大体そんな化け物が仲間にいるんなら協力なんていらねぇだろ!? 俺は関係ねぇ!!」
「島守くん!!」
体勢を直しながら、リューティガーはそう叫んだ。しかし何倍もの怒気がすぐさま跳ね返ってきた。
「脅しやがって卑怯なんだよ!! まずは謝るのが先だろーが!!」
そう叫びながら駆け去っていく遼を、だがリューティガーは引き留めることなく、呆然と後ろ姿を見つめるばかりだった。
「真錠殿……」
起き上がった健太郎が、指先から長く鋭利な爪を引き出した。
「なんなんだよ……」
唸るようにつぶやくと、リューティガーは下唇を噛み締めた。
「麻婆豆腐だって残さず食べて……結構いい感じだったって、陳さんは言ってたのに……あの態度はなんなんだよ……」
感情を隠すことなく、リューティガーは悔しさを顕わにした。そんな少年の怒りを、健太郎はすっかり再生した右目で静かに見つめていた。
11.
アパートに帰ってきた遼は、食卓の上に湯気を立てた野菜炒めが置いてあることに気づき、急いで冷蔵庫からお茶を取り出し、コップを並べた。
「さすがに部活だと遅いな」
部屋から出てきた父、島守貢がにやにやしながら息子の支度を眺めていた。遼は「うん」と小さく返すと電子ジャーからご飯を茶碗に移した。
「どうしたんだ……それ……?」
「え?」
父がじろじろと眺めているので遼は自分の全身を見た。ワイシャツやズボンは土で汚れ、背中は健太郎の爪で引き裂かれている。咄嗟に彼は「鉄線に引っかかって転んでさ。着替えてくるわ」と言い訳を口にした。
Tシャツと短パンに着替えた遼は、食卓に着くと野菜炒めとご飯を勢いよく食べ始めた。
「なぁ遼、お前こないだ合宿があるって言ってたよな」
「うん。演劇部の。でも大丈夫、それまでにバイトやるから」
「でもよ。福岡まで行くんじゃ、金かかるぞぉ……助けてやろうか?」
「福岡!?」
父の間違った発言に遼は戸惑い、つい箸を止めてしまった。
「福岡のお寺で合宿だろ? 新幹線代だって往復で何万円もするぞ」
「違う! 合宿先は長野だよ」
「うそだぁ……福岡って言ってたじゃないか」
「それは、お寺を貸してくれる先輩の名前。福岡さんって人」
「そ、そうなのか?」
「しっかりしてくれよな……長野だからそんなに遠くないよ」
「そ、そうかぁ……先輩の名前が福岡さんなのかぁ……あは、あははは」
頭を掻き照れ笑いを浮かべる父に釣られ、遼も思わず笑顔になった。ついさっきまで青黒い肌をした獣人に命を狙われていたのに、今ではこうして父と野菜炒めを食べながらの団欒である。もし父にこれまでの事情を打ち明ければどうなることか。福岡行きと長野行きを間違えるような人間である。混乱だけでは済まないだろうと遼は思い、とてもではないが喋る気にはなれなかった。
リューティガーはあの力を「異なる力」と呼び、それには家系が重要な要素であると言っていた。だとすれば父にも自分と似たような力があるのだろうか、そう思った遼は味噌汁をすすりながら対座する父の姿を見た。
「長野って富士山があるんだっけ?」
間の抜けた表情でそう尋ねてくる、くたびれた父の顔を見ながら息子は軽く頭を横に振り、連想をかき消していた。
食事の後片付けをした遼はすぐに自室に入って襖を閉めた。台所から「風呂、どーする?」という父の言葉が聞こえてきたため「後で行ってくる」と返事をしたものの、そんなことよりもっと優先するべき実験が彼には待っていた。
椅子に腰掛けた遼は、シャープペンを机の上に置くとそれをじっと見つめた。
十数分間、遼はシャープペンに向かって「動け」と念じ続けていた。しかしプラスチック製のそれは微動だにせず、彼は首を傾げた。
命が危なくなった状況でないとあの「異なる力」は使えないのかも知れない。しかし、イメージが浮かぶ「読心」という能力は普段の何気ない日常でも起きてきた現象であるため、そうとも断定できないと遼は思った。大きすぎるからだろうか、ふとそんな発想に至った彼はバルチで遭遇したヘルメットを被ったゲリラの姿を思い出した。
浅側頭動脈の破壊を念じた結果、ヘルメットのベルトが正方形に切り抜かれた。あの大きさは確か5mm3ほどだったはずである。もしかするとあれが自分で動かせる大きさの限界なのかも知れない。遼はシャープペンのノック部についた小さな消しゴムを取り外し、それをカッターでばらばらな大きさの破片に刻んだ。
一番小さな破片ともなると、ほとんど目に見えないほど小さなかけらである。まずはこれからだと遼はかけらに意識を集中し、「動け」と念じた。
五分ほど見つめ続けた結果、消しゴムのかけらは重力を無視し、ふわりと机から浮き上がった。息を詰まらせた遼はその光景に身を引き、拳を握り締めた。かけらは遼の視線に合わせて右から左へと移動し、ある地点でぴたりと止まった。
奇妙な制動に戸惑った遼は、かけらをもっと左へ動くように念じた。しかしそれはぴくりとも動かず、それでは上へと念じてみると実に呆気なく上昇した。
一体どのような制約が、この力にはあるのだろうと遼は考えてみた。すると散漫になった意識は制約力を無くしてしまい、かけらは重力に従い床へと落ちた。
初めて自転車に乗れたときも興奮したが、今度のそれは比べ物にならないほど大きな喜びと驚きを島守遼に与えていた。彼は父が先に銭湯に行った事実にも気づかず、消しゴムのかけらを動かす作業に没頭した。
その結果、いくつかの事実が判明した。
まず、動かせる物体のサイズはおよそ5mmまでで、それ以上になると微動だにしないということ。それと動かせる範囲には不可思議な制約があり、物によって方向も距離も異なるということ。そして意識の集中作業は疲労と頭痛を伴い、連続してせいぜい五分程度しか持続しないということである。
たった5mm3である。そんな小さな物しか動かせない力など、一体なんの役に立つのか。結果を導き出した遼は興奮もすっかり冷め、なにやらばかばかしい気分にもなっていた。確かにバルチや先ほどの健太郎と対峙したときのように命の危険に晒され、より強力に念じれば大きな固体から5mm3をくり貫くこともできるはずであり、それは相手の生命を奪うことにも応用できる。しかしここまで苦労して集中するのであれば、その労力を別の攻撃に費やしたほうが効率的とも言える。鍵を壊したり、証拠を残したりせぬ暗殺などであれば使い道もあるかもしれないがとてもそんな犯罪に手を染める、つまりこの力を能動的に使って何かをしようという気にはなれなかった。
金庫を破って金が手に入ればこのボロアパートから脱出もできる。しかし万が一でもばれたら改正少年法により刑務所送りである。しかもそうなれば、「異なる力」への追求は避けられず、かなりややこしい事態に陥るのは目に見えている。
なにより、蜷河理佳に嫌われる。それだけは嫌だった。
遼は小さくつぶやいた。「使えねー」と。
12.
終業式という行事に、中学と高校の違いはない。ただひたすら退屈である。体育館で校長の長い挨拶を聞きながら、島守遼は眠気混じりにそんなことを考えていた。目の前に座る、井ノ関という男子生徒の襟についた糸くずを自在に動かせば、瞼が重くなるのも防げるかも知れない。彼は早速試みたが、すぐに頭痛を併発させてしまい、これはあまりいい方法ではないと諦め、別の手も思いつかないまま壇上からの挨拶も内容が全く頭に入らなかった。
「島守は合宿までどうするの?」
教室に戻り席に着いた遼に、すっかり元気を取り戻していた隣の席のはるみが尋ねた。
「バイト。渋谷で」
遼の返事にはるみはすっかり目を輝かせ、興味深そうに覗き込んだ。
「何やるの!? ねぇ!?」
「ん……ないしょ」
「どーしてよ。教えてよ」
「初めてのバイトなんだ、冷やかしにこられるのは嫌だね」
もしバイト先を教えればどうなるものかと思い、遼はできるだけ素っ気ない態度をとった。
「行かないわよ。だから教えて」
あまりにもはるみがしつこいため、仕事の内容ぐらいなら教えてもいいかと彼は判断した。
「ん……スポーツクラブで清掃……昼の練習には出られるからさ」
「へぇ清掃ねぇ……なんか島守には似合うって感じ」
「なんだよそれ」
「ツナギのユニフォームにモップとかって合いそうかなって」
頬杖をつきながらにこにこするクラスメイトにうんざりしつつも、島守遼は右斜め前に座る蜷河理佳の黒髪を眺めた。
いつもの蜷河理佳である。もう自分の「彼女」と呼んでしまっていいのだろうか、それともまだ「友達」なのだろうか。そんなことをあれこれ考えながらも、夏休みになってしまえばこの見慣れた光景ともしばらくお別れであり、それならば合宿中にもっと仲を進展させようと彼はゆるい決意を固めていた。
簡単な連絡事項の通達と通知表の受領。時計の針はまだ正午まで遠かったが、この日の学校行事は全て終わりである。席から立った遼は教室から出ようとする蜷河理佳に声をかけようとした。
一度デートした間柄のはずなのに、彼女の態度はどうにも素っ気ないと遼は感じていた。「照れているのかな」そう思えば確かに蜷河理佳らしいかも知れない。予想を確信に変化させた遼は、下駄箱から校門の間で声をかけるべきだと判断し、歩みを緩めた。
「バイトだって?」
廊下に出た遼へ声をかけてきたのは、クラスメイトの比留間だった。嫌な奴につかまったと遼は眉を顰めたが、それでも相手にしないのはいくらなんでも悪いだろうと思い、下唇をやや突き出して小柄な比留間を見下ろした。
「聞いてたのかよ。ああ。渋谷のスポーツクラブでな」
「僕はね。うん。家族で中国まで旅行に行くんだよ」
なるほど、要はそれを自慢したいのか。遼はクラスメイトの意図を察し、早めにこのやりとりを切り上げようと思った。
「俺、土産はタイガーバーム軟膏でいいから」
ぶっきら棒に遼はそう言い放ったが、比留間は眼鏡をかけ直し、人の悪い笑みを浮かべた。
「それは香港土産だ。確かにあそこも中国だけど、僕が行くのは甘粛省の嘉峪関なんだよ」
聞いたこともない地名に何の興味も抱くことができず、遼はしきりに廊下をスリッパの先で叩き苛ついていた。
「僕はね、万里の長城を見に行くのだよ。それも西側から行くってのが、実に渋いと思わないか?」
「渋いね。うん、お前の家は金があっていいよな。俺なんてバイトに合宿で、のんびり旅行なんてできないしな」
嫌味交じりに早口でそう返すと、遼は急いで下駄箱へ向かおうとした。しかし比留間は彼の前に回り込むと、険しい表情を向けた。
「のんびりだと? あの西方はイスラム教徒が多く、ゲリラだっている。君は何も知らないのだな。決して安全な地帯じゃない」
でも旅行で行くんなら、そりゃやっぱり安全な地帯なんだろ。遼はそう返事をしたかったが、何倍の言葉が跳ね返ってくるかと思うと口ごもるしかった。
「ついこないだだって、パキスタンで日本人記者が拉致されて行方不明なんだ。あいつらは危険なんだ。僕だって不安だけど父がもう予定を立てていたからついていくしかないんだ」
「パキスタンって……それって……」
比留間の言葉に、遼の身体は小刻みに震えていた。
「知らないのか? まぁ、扱いが小さなニュースだったからな。テレビの壊れた君が……」
遼は比留間を払いどけ廊下を駆けて行った。壁に背中を打ちつけた比留間は呻き声を上げ、眼鏡が落ちないように慌てた。
パキスタンで日本人記者が行方不明。それはジョージ長柄のことなのだろう。彼は戦車の残骸の中で獣人に頭を引き千切られ、身体は食われた。
トイレに駆け込んだ遼は個室に入り、背中を壁につけ大きく上下させた。
俺が見殺しにしたジョージ長柄は行方不明という扱いで報道されている。
俺は彼がどうなってしまったのか知っている。遺品のカメラバッグだってまだ部屋にある。
ジョージ長柄には奥さんと二人の娘がいる。その人たちは亭主の安否を心配しているはずだ。
どうやって伝える。いや、伝えるなんてできない。なぜ俺がそれを知っているのか、それを説明する言葉などあるわけがない。
島守遼はトイレの個室で汗を噴出し混乱していた。
できることなんてありゃしない。苦労してもたった5mm3の大きさしか動かせない「異なる力」など、あの化け物たちに対して何の役に立つというのか。
俺は何もできなかった。バルチの戦場で倒れて漏らした俺はただの蛙だった。ジョージ長柄の死に震えるだけの情けない奴。
悔しさが再びこみ上げ、少年はトイレの壁に拳を打ちつけた。
怒りの原因ははっきりしている。これから先、自分はずっとこの悔しさを引きずらなければならない。頭を激しく横に振った遼は、トイレから駆け出し下駄箱へ向かった。
校門から歩道に出ようとしたリューティガーは、背中から貫くような視線を感じた。彼にはその主が誰であるのかわかっていたが、立ち止まることはあっても敢えて振り返ろうとはしなかった。
遼はリューティガーの背中に救いを求めようと手を伸ばした。
あいつに声をかければ、俺は得体の知れない事態へ踏み込むことになる。
それで本当にいいのかと躊躇し、結局感情の濁流は理性で堰き止められ、彼は伸ばした手をゆっくりと下ろした。遼の挙動をそれとなく感じたリューティガーは、目を伏せるとゆっくりと坂を下り始めた。
立ち去るクラスメイトの背中を少年は直視することができず、彼は歩道に視線を落とし震え続けていた。
そんな島守遼の姿を、バス停から蜷河理佳が静かに見つめていた。
彼女は白い折りたたみ式の携帯電話を学生鞄から取り出すと、うつろな表情でメールを打ち出した。
「島守遼と同盟の接近は危険レベルに達しようとしている。早急なる対応が必要。以上、真実の人へ報告。」
送信ボタンを押す蜷河理佳の瞳は夏の日差しを鈍く反射し、どこまでも深い闇を際立たせていた。
第四話「たった5mm3」おわり
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