真実の世界2d 遼とルディ
第二十九話「夢を、残酷なる夢を」
1.
 朝からピザなど頼むものではない。
「釜を暖める準備を考えれば、あれは夕方から食するものだ」
 アトランタの祖父はデリバリーのチラシが届くたび、それをクシャクシャに丸め、くずかごへ絶妙のコントロールで放っていた。今年で八十五になる祖父は、最近だと畑に出ることもめっきり減り、ロッキングチェアーでパイプを楽しむ時間が増えたと聞く。もうかれこれ五年は会っていないが、いまでもデリバリーのビザなど食えたものかと拒んでいるのだろうか。
あの、吸い込まれるようなコントロールは健在なのだろうか。

 チーズと生地の焼けた匂いは、一向に食欲を誘ってくれない。出前を届けにきてくれた青年は、日本人のわりになかなかの美形だったが、こちらのブロンドと空色の瞳にすっかり圧倒されてしまったようであり、気を紛らわすような交流など期待できなかった。

 十月十日、朝。リビングのガラステーブルに置いた、すっかり冷めようとしているピザを一瞥したハリエット・スペンサーは、ソファに腰掛けて足を組み、ブラウスのボタンを憎々しげに摘んだ。

 失態である。起動実験はおろか、機能テストもすべて終了していたあの秘密兵器「TAS−2348」は、昨日の外苑東通り地下において、その性能を遺憾なく発揮していたはずだった。ブロック対象である彼の跳躍痕の採取も完璧であり、生体マトリクスの読み取りも固体判別可能水準を満たしていた。プロセスにおいて落ち度は一切ない。それについては胸を張って主張することができる。

 跳躍能力者に対して、外務省飯倉公館周辺の空間は物理的にガードされていた。
 そう、されていたはずだった。

 しかし、あの白い長髪の青年は会談場所に出現し、ニューマン国防長官の頭部を手刀で切り落としたうえ、その場からまんまと逃走した。
 のちにシークレットサービスから聞いたところによると、どうやら真実の人(トゥルーマン)の姿をした侵入者は、床と同化するように溶けて消えたということである。それが本当ならば、跳躍以外の特殊侵入手段を彼が得ているか、もしくは同じ姿をしただけの別人ということになる。いずれも情報不足による作戦ミスであり、防備失敗の言い訳にはできない。
 自分の存在も、国防長官の来日判断において安心材料として加算されていたのだ。それなのに、何もすることができなかった。しかも太鼓を背負った子供が現れ、仕掛けてきたということは、TASの存在がFOTに知られていたと判断してもいい。ならば真実の人の偽物、跳躍とは別の能力者が、長官暗殺に来たことも理解できる。つまりすべては見通され、敵の掌で踊らされていたということだ。
 二度にわたる、合計五時間にも及ぶ電話での叱責により、ハリエットの両耳は軽く腫れあがってしまっていた。
 一度目、右耳で受けたのはCIAの上司からであり、これはあくまでも彼女の「表の顔」として力不足を詫びていれば済む問題でもあり、撤収と更迭を免れるために注意を払えばよかった。
 二度目、左耳で受けた電話が問題だった。「Blood & flesh」米国における賢人同盟の下部組織であり、ハリエットがエージェントとして所属し、裏の顔を発揮する組織である。早朝四時にかかってきた電話の主は、そこに所属するエージェント、ダグラス・キャボットだった。

「ハリエット・スペンサーという存在そのものに、疑問符がついたということだ!!」

 珍しく、冷静さを欠いた怒鳴り声だった。ハリエットも、組織の強い反応は予想していた。今回の国防長官警護は、彼女にとって表裏同一の任務だったからだ。片方の成功が片方の失敗をフォローしてくれることも当然のことながらありえず、徹底的な糾弾は覚悟していた。それに、防げなかった事の重大性は、米国政府と「Blood & flesh」の関係に亀裂をも生じかねない。

 考え方を改める必要もある。
 前回、やはり飯倉公館で行われた米軍再編協議において、FOTと日本政府が武力衝突を果たした結果、会談の中止という目的は果たしたものの、要人に直接危害が及ぶことはなかった。ハリエットは心の奥底で、どこか今回もそれと同様のテロが実行されるものと思い込んでいた。
 武力衝突の結果を受け、真実の人はまだこの段階で直接的なテロに出ることはない。今のところは示威行動だけに抑え、様々な反応を見ながら方向性を定める時期にあると、敵の方針を自分はそう決め付けていたようである。だからこそ、日本国民に問いかけを行う正義忠犬隊という手法を用いるのであり、要人の直接暗殺などという、もっとも単純で古典的なテロ行為に出るとは正直なところ意外だった。
 そこが隙を生む結果となってしまった。
 だが、これからはFOTを、ごく当たり前のテロリストとして捉えることが必要である。彼らも莫大なる資金を多方面から集め、それを預かっている以上、いつまでも遊んでいるというわけにもいかないのだろうし、あるいはこれまでの児戯めいた行為もなんらかの計算か読みによって行われている可能性が高い。
 日本国内においても民声党議員に対してのように、相当の仕掛けと根回しをしているようだから、今後は自分ひとりで任務を継続するのは不可能である。例えばシェリフ・ホープやフルフラッグスのような、組織のエージェントや作戦チームの追加派遣が必要であり、叱責を受けながらもそれを要請したハリエットだったが、ダグラスの答えは「米国内も、現在対応に当たらねばならない件が急増中だ」とのことであり、素早い対応は望めそうもない。
 こうなると、残る対抗手段はわずかである。ようやく気持ちを前に向けるべきだと思い直した彼女は、テーブル上のピザに手を伸ばし、「まりか……か……」とつぶやいた。

 米国政府が、飯倉公館でのニューマン国防長官暗殺に関して正式なコメントを発表したのは、二日後の十月十一日、ワシントンD.C.現地時間午前九時のことであった。

「我々の愛すべき仲間、グレン・ニューマンが同盟国である日本において、国内反政府武装勢力によってその命を絶たれた。米国政府はこの悲劇に対し、日本政府へ遺憾の意を表明する」

 それがアメリカ合衆国大統領、ウォーレン・フランクリンの声明であり、賢人同盟の鬼子だったはずのFOTが、日本の反政府武装勢力と正式に定義させられた瞬間でもあった。ぎりぎりまで交渉と根回しを続け、あくまでも外的侵略者であるとの見方を徹底させようとしていた外務省の努力は、徒労に終わった。
 遺憾の意とはあくまでも表向きの柔らかい言葉であり、その水面下で米国政府は日本政府に対して、国防長官殺害に対しての責任追及に乗り出してきた。
 たった数名の警護しかつけず、半ば生贄とも言われている今回の国防長官来日ではあったが、国内で暗殺され、実行犯が国内勢力と決め付けられてしまった以上、日本側に反論できるはずもなく、十二日朝には井崎防衛長官をはじめ、陸上自衛隊幕僚長、警察庁長官の引責辞任が発表され、日本政府も正式な謝罪とFOTに対する徹底した取り締まりを表明した。無論、これは姿勢というものを示しただけのことであり、裏側では1ダースにも及ぶ経済的な外交問題の譲歩が承認されていた。


「しかし、FOTってのは、真実の徒の残党なのによ、なんでそれが国内勢力ってことになっちまうんだろうなぁ……」
 朝食の焼き魚を箸でつつきながら、島守貢(とうもり みつぐ)は独り言のようにそうつぶやいた。
「真実の徒ってのが……そもそも外国のテロリストなんだっけ」
 息子の島守遼(とうもり りょう)は味噌汁を一口啜った後、父の手にしていた新聞をちらりと見て首を小さく傾げた。
「そりゃそうさ。だってファクトはユダヤ資本のテロリストなんだ。首領の真崎実は日本人だけど、結局は傀儡ってやつだよ」
「へぇ……」
「いよいよ、アメリカが再占領に乗り出してきやがんだな……とんでもない口実だぞ、これは」
 “再占領”父の口から出た言葉があまりにも突飛と思えたため、遼は左の眉を吊り上げ、口元を歪めた。
「な、なんだよ、その大げさなの」
「ありえるって噂だぞ。ここまで経済が摩擦して周辺情勢が変化してるんだ、アメリカがもう一度日本を制圧して、いろいろ都合のいいように仕組みを書き換えてだな、もっと首を縦に振りやすい親米政権を作り直す……中東にやったことと同じだって。奴らならやりかねん。なんせ皇族にテロをやるような人種だしよ!!」
 パチンコ屋通いの父であるから、鋭い国際情勢センスなどは期待していなかった息子ではあったが、あまりにも短絡的で根拠に乏しいその見解は、情けなくなるほど低いレベルであると思える。だが、これがいわゆる一般人の意見のひとつであれば、それを無視することはできない。在日米軍がもたらした一連の不祥事は、それに深く関わる者だけではなく、普通の人々の意識に変化を生じさせているということなのだろうか。熱いご飯を頬張りながら、遼はそのすべての原因と言える、白い長髪の青年の姿を思い浮かべた。

 文化祭二日目、外務省飯倉公館で国防長官が殺害されたその最中に、彼は二年B組の教室を訪れ、関根茂のプロデュースする味噌とんこつラーメンを注文した。なんとも大胆不敵な行動であり、結局はまんまとラーメンを食べられ、駆けつけた弟のリューティガー真錠(しんじょう)は何度も床を殴りつけ、悔しさを顕わにした。
 飯倉公館へ急行しなければならなかったリューティガーから、その場の事態収拾を託された遼は、近くにいたはるみや岩倉と相談し、店舗営業をすぐに継続するようクラスメイトたちに促し、それと同時に目撃者の記憶の中にあった、いくつかの印象的な事柄、例えば真実の人の来訪そのものや、悔しがりすぎたリューティガーなどを「ガンちゃんフィルタ」を通じて消去する、いわゆる火消し作業に奔走した。

 けどな……ぜってぇ……消しきれてない……あの日は……何人も客がいたんだ……

 クラスメイトたちについては何とかなったという自信もあったが、来訪者や他の学級となると、目撃者を絞り込めたかどうかも怪しく、光学繊維を使って遠隔接触をしたものの、胸を張って火消しができたとは言い難い。事件から二日が経ち、どうやらマスコミもこの事実を報じておらず、ネットに詳しい横田良平にそれとなく尋ねても、いまのところ話題にはなっていないとのことなので、ひとまずは安心したが、今後となるとなんの保障もなく、完全な隠蔽などはできないという確信もあった。それほど、あの青年はこちらの「日常」に対して無神経な介入をしてくるのである。

 関根は……ちょっと……可哀想だよな……

 関根茂は、そもそも真実の人が来ることに期待をしていたし、来訪の際も興奮と緊張は厨房から見てよくわかった。その記憶を消してしまうのは、彼にとって高校二年生の最大の思い出を奪うと言っても過言ではなく、はるみなどは最後まで反対していた。
 だが、やるしかなかった。ラーメンを食べ、その味に喜び、一人の男子学生にこれからの夢を抱かせる一方、国防長官殺害をやってのける冷血なのである。同一人物かどうかはこの際問題ではない。組織の指導者として希望と絶望を同時にやってしまえる怪物なのである。ごく一般的な高校生が、間近に関わっていい存在ではない。

 では、自分が関わっていいのだろうか。そんなこと、わかるはずがない。関わってしまっているのだから。焼き魚を箸で解しながら、遼はそれ以上考えるのを止め、朝食に専念することにした。

2.
 バイクを駐輪場に停め、ぬかるんだグラウンドを駆けた遼は、下駄箱まで辿り着いた。ここ数日降ったり止んだりの悪天候であり、今日はたまたま晴れ間が見えているが、午後になるとどうなるかわかったものではなく、バイクでの通学も短距離ながら神経を使う日々が続いている。
「おはよう、島守」
 すぐ傍らで下穿きに履き替え終えた、同級生の西沢速男(にしざわ はやお)が、遼に声をかけた。
「おはよう、西沢」
「高川、今日休みだってさ。知ってた?」
「あ、ああ……葬式だろ……」
「可哀想だよな……まだ小学校四年だったらしいじゃん……」
「ああ……」
 すべての事件が起きた日曜日の夜、高川の通う柔術完命(かんめい)流の道場近くの路地で、ある子供の他殺体が発見された。殺害されたのは宮川楓(みやがわ かえで)、十歳。完命流道場に通うようになって五ヵ月になる、まだ幼い少女だった。顔面陥没、側、後頭部の痛打による内出血が死因であり、警察では通り魔の犯行とみて、現在も捜査が続けられている。同じ古武術を学ぶ後輩の死に、高川のショックは相当なものだったらしく、事件を知って彼の携帯電話に連絡を入れた遼は、普段は凛とした偉丈夫の声が、すっかり裏返りか細くなっている現実に心を震わせてしまった。
 時期が時期なだけに、FOTとの関連性も考えられたが、それこそ確証もなく、十歳の少女を連中が狙う理由も考えられず、また彼女と高川と誤認する可能性も低いため、リューティガーの判断は「さすがに、これで動くわけにもいかない」だった。

 教室にやってきた遼は高川の空席を確認すると、逆にここ最近空いたままだった席が埋まっていることに驚いた。
 比留間圭治(ひるま けいじ)の後姿は相変わらず小さく、ひ弱である。いったい何が原因で半月近くも休んでいたのか知らないが、震えもなく随分と平然とした背筋である。最近では反米左翼団体の活動に参加するなど行動派に転じたらしいから、あるいは妙な自信というものがついたのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら、遼が自分の席に着くと、すぐ後ろの神崎はるみが逆に席を立ち、無言のまま比留間へと歩いて行った。
「比留間。あんた、何やってたの?」
 誰も言おうとしないから、自分がやるしかない。はるみの言葉に力強さを感じた遼は、彼女らしいと頬杖をついた。
「あんたが休んだせいで、音原(おとはら)だって苦労したし、みんなだって大変だった……関根や真錠のおかげでどうにか文化祭は乗り切れたけど……せめてその三人には謝るとか、したらどうなの?」
 クラス全員の気持ちを代弁した抗議であり、そもそも比留間という生徒に人望が皆無だったため、はるみの強い言葉に口を挟む生徒はいなかった。机に視線を落としていた比留間はゆっくりと傍らのはるみを見上げ、眼鏡を直した。
「そりゃ、悪かったな……」
 おもむろに席を立った比留間は後ろを向くと、小さく頭を下げた。
「音原、関根、真錠、みんな。大事な時期に休んですまなかったな」
 抑揚に欠けた口調で謝罪を済ませた比留間は、再び席に着いた。素直な行為は彼らしくなく、どこか開き直ったかのような態度でもあり、謝罪した本人と一部の生徒を除いた大半は、どう受け止めてよいのか戸惑うしかなかった。
「これでいいんだろ、神崎」
「あ、あのね……あやまりゃいいって問題じゃ……」
 抗議を続けようとしたはるみだったが、比留間の目が自分の足元から舐めるように上がってきたため、おぞましさを感じて言葉を止めてしまった。
「ひ、比留間……」
 じっと目を見つめる、この男は誰だ。
 比留間圭治とは、異性をこのように見据えることができる男子生徒ではない。青白い顔に不気味さを覚えたはるみは、頬を引き攣らせ、踵を後ろの机にぶつけてしまった。
「男も知らない小娘が、あまり調子に乗るもんじゃあない……身体のどこだってぎこちないお前は、まだ半人前のガキなんだ……おとなしく、比留間圭治を等距離に置いておけばいい……」
 早口のうえ小声だったため、はるみ以外には比留間の言葉は聞き取れなかった。
「ひ、比留間……あ、あんた……」
「それとも……この比留間圭治が女にしてやろうか……」
 相変わらず消え入りそうな、だがそれでいて力強い口調で青白い比留間はつぶやいた。すると彼は右斜め後ろから強烈な視線を感じ、背筋に冷たいものが走るのに戦慄した。

 調子に乗るなよ……誰が男にした……そうしてすぐに他人に示すあたり……まったく成長していないな……小者が……!!

 その言葉は心の中であり、少女は異なる力など持ち合わせていなかったため、誰の耳にも届くはずはなかった。だが比留間圭治だけは、視線だけでその意が理解できてしまった。彼はすっかり萎縮し、上下の歯をがちがちと鳴らせた。

 ごめん……高橋さん……ごめん、ごめん、ごめん……!!

 念仏のように謝罪を唱え、比留間は視線の主、高橋知恵(たかはし ともえ)に背中を向けたまま怯えた。その変化を、はるみはまったく理解できず、彼女は不愉快さを抱えたまま席に戻るしかなかった。
「どうしました……はるみさん……」
 最後列の席まで向かっていたはるみは、わが耳を疑いつつ立ち止まった。そして、その意外なる声の主に、隣に座っていた遼も思わず頬杖を崩した。

 紺色の瞳に穏やかな光を宿し、リューティガー真錠が神崎はるみを見上げていた。いつもの険でもなければ、作られた無邪気な笑みでもない。それはあくまでも穏やかなる平静だった。
「し、真錠……」
「僕の名前を出してくれてありがとう……比留間くんの態度には、僕も腹を据えかねていたので……痛快でしたよ」
 今度のこいつは誰だ。いつものリューティガーではない。姉が仲間や友人を殺してしまったから、それでも敵を同じくするから憎しみを向け切れない矛盾を抱え込んでいるから、彼はこちらに対して屈折した暗い感情を向けてくるばかりだったのに、このごく普通の態度はなんなのだ。おまけに比留間に対して明らかな悪意を口にするなど、これまでの彼では考えられない変化である。はるみはすっかりうろたえ、胸に手を当てて視線を泳がせるしかなかった。
「あ、ああ……ん……そう……なんだろうね……みんなが腫れ物とかって思うの……耐え切れないんだ……わたし……」
「それは正常な感覚ですよ。とても正しい……」
 ほんとにこいつは誰だ。隣で唖然としていた遼は、背中を触って得体の知れない彼の心を覗いてみることにした。

 なんという穏やかな海だろう。栗色の髪をした友人の心は、どこまでも静かだった。遼は更にその中へと自分の意識を飛び込ませてみた。

 う、うぁ……ぐ、ぐぅぅぅ……

 心の中で呻くほど、穏やかな海の底は淀みきっていた。骸骨、ばらばらになった手足、瓦礫、血溜まり、折れた刃物にいくつもの眼球。そんな禍々しい物体が臭気を漂わせながら、ゆらゆらと淀んでいた。

 そういうことさ、遼……

 真錠……

 ちょっと……工夫してるだけさ……汚いものを底に追いやって……上澄みをどこまでも澄ませる……監禁生活が続いた場合の、マインドコントロール方法の一種さ……

 そんな面倒で、厄介な方法論ばかりで、こいつはちっとも自分と向き合おうとしない。遼は素直に怒りを感じてしまい、それを隠そうともしなかった。

 仕方ないだろ……狂わないための気分転換さ……

 俺は嫌だ……こんな器用さは……認めたくねぇ……

 僕だって嫌さ……けどね、これしか知らないんだ……でないと狂うよ。無様にドイツ語で泣き喚くよ……

 その方が……まだマシだ……

 嫌だ。御免だ。断る。

 真錠……

 国防長官が殺害されたのは、どう考えても後戻りのきかない非常事態なんだ……それだけは……わかってくれ……

 そこまで固い決意のうえであれば、他人の自分がどうこう言える問題ではない。遼はすっかり諦めて手を背中から離し、はるみには後で説明しようと決めた。

 もう相当まずい状態にまできている。それは自分が一番よくわかっている。川崎ちはるが「ルディ、どうしたの」と心配してきても、「ご心配なく、被っていた猫を脱いだだけですから」と素っ気なく返すだけであり、昼食中も心配する椿梢(つばき こずえ)を無視して中華弁当を胃袋に運ぶだけである。徹底して心の守りを固める。そのうえで、息抜きだってしっかりとやる。本日は科学研究会の会合なのだ。あそこであれば、自分は誰の気兼ねなく、持論を整理して他人の意見をからかったりできる。もっとも、この精神状態では科研の皆も態度が変わる可能性も高いが。

「さぁ、行こうか……ルディ……」
 放課後の教室で同じ科研の吉見英理子から誘われたリューティガーは「ええ、まいりましょう、英理子さん」と答え、彼女の手を引いて、廊下へと出た。
「なんだかなー……遊んでるの? これって?」
 エスコートされた英理子はすっかり呆れ果て、赤い縁の眼鏡を直して首を傾げた。
「いえ……英理子さんは僕によくしてくれるので、そのお礼にと思いまして」
「やめてよね。そこまで変だと、照れる気も失せる……」
「なら……やめますが……」
 手を離したリューティガーは、廊下の途中で立ち止まった。
「朝から……どうしたの……?」
 左手を腰に当てた英理子は、今朝から少々風邪気味のため、掠れた声でそう尋ねた。
「どうもしませんが……行きましょう、英理子さん。学園祭の研究発表のまとめもあるんですし、野崎のネギトロ新説にも興味があります」
 どうにも声に気持ちが感じられない。上っ面だ。人の心を受け入れるだけの「あそび」がまるっきりない。こんな硬くて脆い彼など、正直言って見たくない。少女は勇気を振り絞ると左手で眼鏡を外し、彼にぐいっと顔を近づけた。
「こんなルディ、科研に出したくない」
「嫌だなぁ……僕は行きたいんだ。それに、半ば無理矢理入会させたのは君じゃないか」
「ルディ……」
「僕には息を抜ける場所があまりないんだ……わかってくれ……」
 紺色の瞳が震えている。つまりは、そういうことか。
「科研だけなんだ。僕が弟をやらなくってもいいのは……わからないかな、こんなことを言っても」
 修繕のため、たまたま教室の隅にいて、一部始終を群がっていた客の外側から見ていたから、彼女の記憶はそのままだった。吉見英理子は床を叩くリューティガーもよく覚えていたし、白い長髪の彼が、どう見ても生粋の日本人であるとは思っていなかった。まさか、そうなのか。漠然とした想いがたっぷりとした重さとなって、少女の胸にのしかかった。
「お、落ち着いて……ルディ……リューティガー真錠……」
「僕は落ち着いてる……うろたえてるのは君の方じゃないのか? 吉見英理子さん」

 頼む。英理子さん。君だけはいつも通りにしてくれ。なら僕も戻す。でないと居場所がなくなってしまう。

 嘆願は、だが少女には届かず、そもそもそれ以前に彼女の心を頑なにさせてしまったのは、リューティガーの度が過ぎた上っ面にあった。戦場や極限状態の対処方法は、あくまでも周囲がそれに適合する場合にのみ通用する。日常の世界に生きる吉見英理子にとって、彼の不安定さは不気味さそのものであり、とてもではないが許容できなかった。

 だから、右手に持っていた学生鞄を廊下に落とした。だから、周囲に別の生徒がいてもかまわなかった。だから、上体を思い切り右に捻り、遠心力というものを利用することもできた。

 乾いた音が、廊下に響き渡った。

「英理子……さん……」

 頬の痛みと衝撃が、上澄みだけ綺麗にしていた心の海をかき回した。眼前で右手を振り抜いた英理子の目と眉が震えていた。それだけが救いだった。

「ごめん……わたしにゃ、こんなことしかできないから……気の利いた……優しいのとか……キャラじゃないし……」
「う、うん……」
「ごめんね……ルディ……やっぱり……いまの君を……後輩たちの前には出せない……」
「そ、そりゃそうだ……な、なんとか……してみる……いや……なんとかなったら……また……顔を出す……」
「う、うん……」
 自分から立ち去るべきだろう。頬の痛みは残っていたが、それを押さえれば状況をよくわかっていないのに注目している生徒たちに、なにが起きたのかヒントを与えることになってしまう。リューティガーは英理子に会釈をすると、廊下から階段を駆け上がっていった。
 気が動転しているから、廊下を下るのではなく上ったのだろうか。ひとり残された英理子はリューティガーの行動に違和感を覚えながら、つい先ほど去来した確信の詳細を分析してみるべきかどうか悩んでしまい、鞄を拾い上げることもできなかった。


 彼女の行動は当然である。子供のような我が儘を見せてしまったから、まだ大人である彼女は頬を張ったのだ。いいかげん目を覚ませと。つまり、ここには味方がいてくれるということだ。見守ってくれるだけではなく、踏み込んでくる存在があるということだ。それは正直、嬉しい。未熟であるからこそ、様々な人々がいる。安全で平和だからこそ、多様であるということはそれだけで価値があり、守らなければならない現実である。屋上までやってきたリューティガーは背中をフェンスにつけ、何度も深呼吸をした。
 色々な人に関わっていこう。様々な反応があるはずだ。最初は漠然とした学校への思いが、今日はじめて輪郭を形作ったような気がする。

 表情を強張らせ、まるで崖っぷちで震えているかのような同盟の若きエージェントを、遥か彼方より見つめる目があった。学校の対面に道路を挟んで建つ、総合病院屋上の給水タンクの陰からスコープを覗き込んでいた「春坊」こと仙波春樹は、自分たちの指導者の弟が、なぜああまでも追い詰められ、それでいてどこか満たされた様子であるのか理解できなかった。

「揺さぶりは、セコイほど効果が出る。簡単な上、臭い任務だが頼んだぞ」

 先週、師である藍田長助(あいだ ちょうすけ)より依頼された、狭間の任務を仙波春樹は思い出していた。

 もう……じゅうぶん揺さぶられてるように見えるんだけどなぁ……俺にはっ!!

 ハンチング帽を被り直した春樹は、スコープを顔から離し、雨の臭いを敏感に感じた。バイクなので何かと面倒になる。彼は足元のデイパックを拾い上げ、監視を切り上げることにした。


 港区三田の、住宅街からやや外れた路地の突き当たりに、その「臨光七万会館」という葬儀場があった。小さなホールは入り口が大きく開かれ、喪服の人々が幾人も訪れていて、あちこちからはすすり泣く声が漏れていた。来館者に小学生の児童が多いのが、本日の葬儀の特徴である。親族の一人はやりきれない思いを抱きながらも、記帳に訪れた喪服の偉丈夫を見上げた。
 目に涙を溜め、口元はわなわなと歪ませ、ときどき呻きを漏らすこの男子学生は何者だろう。高川典之(たかがわ のりゆき)と書かれた名前を確認した記帳係の青年は、おそらくあの逞しい身体つきは少女の通っていた武術の関係者であろうと予想し、それはまさしく正解だった。

 宮川楓とは何度も言葉を交わし、「高川のお兄ちゃん」とまで呼ばれていた。まだ入門してから五ヵ月であり、稽古も基礎動作の繰り返しばかりではあったが、真面目に、なによりも明るく打ち込むその姿は可愛らしく、男性比率の高い道場において愛しきアクセントであり、それだけに涙で視界もままならない高川は、棺の中の彼女がほとんど見えなくなってしまった事実を受け入れていた。

 なんということだ……楓ちゃん……このような……棺での再会になるとは……!!

 十歳で生を終えるなど、高川にとっては余程の罪でもなければ納得できない短さである。だが、生きてきた年数が短いということは、それだけ罪というものはゼロに近く、このような矛盾などあってはならないということである。

 罪もなく、若く終える。

 無念の一言であるのと同時に、言葉など無意味であると思える。夢もあったはずである。やりたいことも、いや、これからどのようなことをやれるのかどうかも、まだよくは理解していなかった年齢である。余りにも無残である。可愛らしい顔が一撃で陥没させられ、徹底的に頭部のみを打ち付けられ、わけもわからぬうちに、母親や父親、大好きだったいろいろを想う間もなく、一方的に絶たれてしまったのである。宮川楓は。
 高川は棺の端を握り締め、はじめて嗅ぐ花の香りに戸惑いを覚え、膝が勝手にがくがくと震え始めたのに気づいた。
 とてもではないが、立っていられることも困難である。棺から離れた途端、高川は全身のバランスを崩した。そんな弟子の狼狽を支えたのは、師匠である完命流師範、楢井立(ならい りつ)だった。四角い顔を、やはりくしゃくしゃにしていた彼は何度も頷き、弟子の背中を擦った。
「し、師範……!!」
「すっかりなぁ……すっかりなぁ……」
 師弟は床にそれぞれの片膝を折り、肩を抱き合って悲しみに震えた。
「いったい……楓ちゃんは……なぜ……」
「わからん……わからんのだ、典之ぃ!!」
 殺害直後に遺体を診ることができれば、打撃の特徴から犯人の「慣れ」を判断することができたかもしれない。だが、司法解剖の末、職人が化粧と整形を施した生前に近い状態の対面でも、自分は弟子と同様、涙でまともに直面することもできなかった。楢井は自身の静かではない面をまざまざと思い知らされ、いまは賢いことなど考えるべきではないと感情に心をまかせた。
 だが、先に暴発したのは弟子のほうである。
「おのれ犯人め!! 見つけたら殺す!!」
「よさんか、典之!!」
 押し殺すような声で、師が弟子を制した。
「一番悲しんでいるのはご遺族なのだ……荒んだ殺気など、葬儀の場ではご遺族の心を乱すだけだとなぜわからん!!」
「し、師範……も、申し訳ございません……!!」
 そのやりとりを見ていた朝茂田小太郎(あさもた こたろう)という、中学三年生になる道場生が、葬儀場の外へ出るように、二人を慌てて促した。
「楢井師範……テレビとか来てます……そ、外に……」
 朝茂田少年の言葉に、肩を抱き合っていた楢井と高川は泣きながら頷き、互いに支えあいながら外へ出た。

「押さえとけ……泣ける絵だ……」
 関東テレビ、北川ディレクターは、葬儀場から石畳に出てくる楢井たちを追うよう、カメラクルーに指示を出した。真実の人独占取材もあってか、関東テレビのニュース枠は秋の改変でゴールデンタイムに復活した。主に扱うのはFOT関連のニュースだったが、それだけでは足りず、最近ではこうして別事件と思われる事件の取材にも乗り出している。ようやく、入社当時の理想に状態が近づいていると、北川は満足な思いで楢井と高川の背中を見つめていた。

 路地裏の電信柱の陰に、その少女は佇んでいた。篠崎若木(しのざき わかぎ)は臨光七万会館の門に出入りする人々を覗き見ながら、次なる練習台を誰にしようかと、吊り上がった冷たい目で観察を続けていた。
 後戻りなどはしない。効率を考え、マンションに一度帰るという発想の転換もできたため、いくらでも長期戦を戦い抜くことはできるはずであると確信していた。どうやら組織からの催促はおろか、接触もないので好きにやらせてもらう。嗚咽を漏らしながら門から出てくる小学生たちに、ときおり瞳が揺れてしまうこともあったが、その原因など深く考えることなく、彼らや彼女らと大して歳の変わらぬ若木は、宮川楓よりも実力のありそうな存在を物色することで、生きている目的をかろうじて獲得しているようでもあった。

 復讐以外のこれからなど、あり得ない。

 最近ではそう思うことで、いくらでも心を静かにできる若木であった。


3.
 賢人同盟実戦部隊の長であり、総理事に継いで現場での権限を持つ、ガイ・ブルース司令は、十月十七日の今日、城を模した同盟本部の執務室の床一面に書類を広げ、その上を両生類の一種のように這いまわっていた。
 書類のすべては、FOTの調査報告に関するものだった。このテーマでの徹底検証は実に三週間ぶりであり、その間ガイは、別件である北欧の紛争対応に一ヵ月ほど謀殺されていた。
「ここも!! これも!! そしてこいつも!! いい角度!! 絶好の……あ・た・り具合!!」
 視線を上下左右に動かし、長い手足をかさかさと前後させ、紫色の唇をぺろりとひと舐めした彼は、最後に腰を前後に振ると、ようやく這った体勢から立ち上がった。
「間違いないちゃんね……これは……そう……超絶に確実……!!」
 肩を一度上下させたガイは、指輪だらけの指をガチャガチャと鳴らしながら顎をツンと上げ、肩を狭めて全身をくねらせ、思考のまとめ作業に移った。他人から見ればおぞましく奇異な踊りのようでもあったが、アフリカ大陸をゲリラ狩りに明け暮れた彼の、それは正解へと辿り着くため邪魔な情報を綺麗に取り除く儀式だった。
「確率……高いね……とてもとても……なら……手はひとつ……」
 腰の部分が極度にくびれた、白いジャズスーツの襟を引っ張り、長身の異相は遂に結論に至った。
「司令……第三二五調査班より報告が入りました!!」
 実戦部隊参謀であり、現在ではガイの片腕ともなっている参謀のクルト・ビュッセルは、執務室に入ったのと同時に、緑の髪をした長身の司令が膨大な情報の整理と検討を終えたことを、背筋をピンと張った彼のポーズで理解した。
「三二五調査班……ふふん……参謀……つまりこう……それらしき保管倉庫は確かに認められる……そんなとこかしら……」
 ガイの予測はほとんど正解であり、クルトは床に広げられた書類を踏まないように細心の注意を払いながら、報告書を彼に手渡した。
「こうなると、ますます決定ちゃんね……参謀……FOTの核弾頭は……ヴォルゴグラード校外……旧ソビエト、コルホーズ農業倉庫……ズバリ……そこに間違いないでしょうね」
「や、やはり……そうなりますでしょうか……」
「これだけフェイクの量が豊富だと……さすがに目移りもしてしまうけど……三二五調査班には現状待機……カラチ方面の部隊にも通達……装備の補給一切はハルプマンに指示させて……陸戦に持ち込むから……!!」
「了解です……しかし、農業倉庫は同地方に数箇所ほど点在しておりますが……」
「ああ、それについては今日じゅうに絞り込むための調査手法をまとめさせろ……諜報四課に命じておけ。遅くとも、今月中には作戦を開始できるように……いいな!!」
「了解です!!」
 就任当初は独断的で強引な命令が多く、異相も相まって受け入れ難い司令ではあったが、真実の人(トゥルーマン)の作戦を看破し、皇族も含めた要人暗殺を未然に防いだ実績はあまりにも大きい。この独特な容姿と個性的な性格さえ我慢すれば、司令官としては一級の判断力と指導力を兼ね備えている。クルトのガイに対する評価はこの数ヵ月でそこまで高まっていたし、組織としてもそれは同様だった。賢人同盟はガイ・ブルースに対する実務権限を大幅に増強させ、その決定には上部監査組織である、五星会議のお墨付きという付加価値も後押していた。
「それと……これから、絞り込み後の具体的な作戦を立案する……誰もこの部屋には入らないように……いいちゃんね!!」
「了解であります、司令!!」
 クルトは背筋を伸ばして敬礼した。これまで、実働作戦の一切はハルプマン作戦本部長の立案によるところだったのだが、最近では重要な作戦に限り、司令自らがそれを行うことが増えている。「陸戦に関しちゃ……ハルプマンちゃんより、僕の方がずっと優れているし、経験が違うから」そのような発言を、ガイはハルプマンの眼前で行い、誰も異論を挟めるものもいなかったのが現実である。権限と職務の集中化は組織弱体の萌芽である。そう唱える者もいたが、あくまでも陰にまわっての愚痴であり、明言、進言する者は皆無だった。
 これより司令はこの執務室に籠もり、膨大かつ緻密な包囲作戦計画を仕上げるのだろう。弾頭のある農業倉庫にはFOTも相当の戦力を防備に当てているはずであり、司令が得意の陸戦に持ち込むのなら、相当の激戦が予想される。いよいよ決戦か。クルトは事が動き出したと自分に言い聞かせるように何度か頷き、執務室を後にした。

はじめは可愛いと思うとっただけやった。せやけど日に日にお前のことばかり気になって、毎日昼飯食うのが楽しみになってきた。殺伐とした俺の日常に、お前はいつも可愛く咲いた花やった。せやから巻き込めへんし、雨の日に別れたときも、ほんまのこと言えへんかった。
笑顔でいてくれたのが、嬉しい。今でも思い出すし、頑張ろうと気合いも入る。次にいつ会えるかわからへん。もしかすると死ぬかも知れん。だからここで言っとく。俺は梢ちゃんのことが好きや。とても好きや。命の取り合いをしてる最中でも、梢ちゃんのことを思い出すことがある。可愛いだけやあらへん。健気で頑張る梢ちゃんと一緒になりたい。それが俺の偽らざる気持ちや。

 月曜日の放課後、メールの着信に気づいた椿梢は教室前の廊下で息を呑み、小さな液晶画面を見つめていた。てっきり母が、病院の予約スケジュールでも知らせてきたとばかり思っていた。まさか、このようなメールが今更届くとは。

 花枝くん……どこから……これを……

 あの雨の日、笑顔で別れた彼はそれっきり姿を消し、もう四ヵ月ほど声も聞いていない。なぜ今更このようなメールを送ってくるのだろうか。どう見ても文面は本人の手によるものであるし、送信者のアドレスもそれらしく、mikiy@となっている。なにか危険のある、公言できない秘密の世界に彼は生きている。そう、一緒に弁当を食べているリューティガーと同様である。梢はそこまではわかっていたものの、先を知るための手がかりもないままでいた。
「そのメール……もう何ヵ月も前に彼が打ってたものみたい……ずっと未送信のフォルダに入ったままだったんだ……椿さん……」
 携帯を手にした梢にそう話しかけてきたのはA組の女子、伊壁志津華(いかべ しずか)だった。だが、志津華のことをよく知らない梢は、何度も瞬きを繰り返すばかりだった。
「わたし……志津華……A組の伊壁志津華……」
「う、うん……」
 肩まで伸ばしたさらさらの髪が、廊下の窓から入ってきた秋の陽に透けるようで美しい。目も大きく、可愛らしい容姿であり、太い眉が若干バランスを損なっているようにも見えるが、男子によってはこれもチャームポイントと見えるかもしれない。梢は「美少女」と形容してもよい志津華に気圧され、戸惑うばかりだった。
「いきなりで……わけわかんないよね……椿さん……」
「う、うん……こ、この花枝くんのメールって……?」
「そう……わたしが送信したの……」
 志津華はそう言うと、学生鞄から白い携帯電話を取り出した。
「これ……幹弥の携帯……わたしの部屋に、落としたままで……幹弥はそれっきり……いなくなっちゃった……」
「え……?」
「ぶっちゃけ言っちゃう……幹弥……転校してからしばらくして、わたしのアパートに転がり込んできたの……って言うか……わたし、彼のこと前から好きだったから、引っ張り込んだって感じだったんだけど……で……しばらく一緒に暮らしてたの……けど……いなくなっちゃったんだ……」
 畳み掛けられた新事実の量に、梢は背中を壁に付け、へたり込まないように膝へ力を入れるしかなかった。なにを言っている、この子は。いきなりなんなのだ。けど、メールを出したのが本当に彼女なら、そういうことと、納得するしかないのか。少女は学生鞄を廊下に置き、胸に手を当てて頼りない血管が塞がってしまわないよう、強く念じた。
 それにしても広い額だ。目も自分より大きく、ベリーショートの髪が実によく似合っている。彼のように擦れた男が憧れを抱くのも少しはわかる。同性から見ても、彼女は「可愛い」と思える。困惑する梢を見下ろしながら、志津華は自分が冷静でいられることがなんとも意外でもあった。
「わかんないよね……唐突で……ごめんね」
「う、うん……け、けど……そうなんだ……花枝くん……あなたと……」
「プチ同棲ってところかな……なんか彼……誰かに追われてたみたいで……」
「わ、わかる……うん……花枝くん……なにかから逃げてたもの……」
「そ、そうなんだ!?」
 志津華は梢の裏づけに驚き、彼女の手を握り締めた。柔らかく小さな掌である。けどそれは汗で濡れていて、動揺の程が滲んでいるようでもあった。
「いきなりごめん……けど、メールを送れば……話が通じやすいって思ったんだ……彼……あなたのことが好きだったみたい……わたしより……」
「あ……う……ん……そう……」
 容易に同意などすることはできない。ならばなぜ、花枝は志津華と同棲などしていた。梢の胸の奥に暗く小さな火がついた。
「わかんないよね……彼が……何から逃げてたかなんて……」
「うん……」
「ね……教えて欲しいことがあるの……彼と真錠くん……リューティガーっていうの? あのハーフの子……どんなだった?」
 得ている。伊壁志津華は自分の知らぬ、花枝幹弥に関しての裏側をいくつかわかっている。だからそのような質問をしてくるのだろう。椿梢は即座にそう理解し、彼女を睨み上げた。
「ご、ごめん……椿さん……」
 一転して向けられてきた強い眼光に、志津華は息を呑み、相手の強さを感じた。
「いいの……謝らなくっても……花枝くんのこと……好きなんでしょ?」
「そうよ……」
「ルディと花枝くんは……別に友達って感じじゃなかった……どちらかというと、互いに距離を置いていたって……そう……なぜか距離を置いていた……不自然なぐらいに……」
「不自然な……ぐらいに?」
「わたしには、そう見えた……」
 彼女も毎日の付き合いで、なんらかの違和感をあの二人の転入生から得ていたということか。志津華は梢のしっかりとした口調からそれを感じ、首に触れた髪を梳き上げた。
 ルディ……リューティガー……か……

 三通のメールで唯一送信相手がまったく不明である「お前」とは、やはり彼のことなのだろう。少女はより確信を強くして、B組の教室に視線を移した。

「伊壁さん……」
「なに?」
「どうして……わからないな……どうしてメールを送ってきたの?」
「だ、だからそっちの方が……話が早いって……」
「わたしなら……見せたくないな……本人に……こんなの……」
 志津華は再び梢に視線を戻した。大きな瞳が揺れ、口元はわなわなと歪んでいる。そう、こんな顔が見たかったような気もする。一度は廃棄してしまおうと思ったメールを送信したのは、悔しさを紛らわしてしまいたい、そんな曲がった気持ちが芽生えたからだろうか。志津華はため息を漏らし、目を伏せた。
「なんでだろうね……確かに……」
 リューティガーや花枝が生きる世界を、自分も覗いてみたい、参加してみたいと思っていた梢だった。そのため毎日欠かさずにあの、「物を動かせる力」を練習し、いまではかなりの大きさの物体を高速で飛ばせることもできるようになった。けど、そんな努力をしたところで、この眉のきりっとした彼女と彼が、同じベッドで朝晩を過ごした事実は変わらない。梢はすっかり感情の行き場を見失い、振り返ると両肩をいからせ、壁を思い切り蹴った。
「つ、椿さん……」
「悔しいな……!! あいつ……なんかいい加減!!」
 それは同感である。大して好きでもない女の部屋に匿われ、不安と恐怖を誤魔化すため身体を求め、ついにはさらわれ、どこかへと消えていってしまった。そう、いい加減な奴である。梢が憤るのも当然であり、それは自分も共通した感覚である。だから志津華は彼女の横に並び、同じように壁を蹴り上げた。
「そうなの!! いい加減なの、あいつ!!」
 つま先が痺れる。当たり前だ。下穿きの薄さは壁の固さを大して軽減させてはくれない。蹴れば足の方が痛むのも当然である。志津華は梢の背中に手を回し、耳元で「ごめんなさい、椿さん」と、囁いた。何に対してかの謝罪であるのかは、わかる。だから椿梢は余計に返事などしたくはなかった。

4.
 寒風が身に堪える。トレンチコートの襟を立てた「夢の長助」こと藍田長助は、ヘリコプターのタラップから滑走路に降り立ち、薄曇りの空を見上げた。
「ロシアだからって寒いって思っているんでしょうけど、このヴォルゴグラードは冬がきついだけで、後は日本と大して変わりはしないんですよ。長助さん」
 続いて降りてきたジョーディー・フォアマンの言葉に長助は顔を顰め、胸ポケットからタバコを取り出した。
「ならなんだい、この雪は……」
 滑走路を見渡した長助は、脇に積もる雪を指差し、吸おうとしていた煙草をポケットに戻した。「滑走路ですよ」そう注意しようと思っていたジョーディーは口ごもり、「異常寒波が襲来してるそうです」と返した。
 ロシア、ヴォルゴグラード郊外の農業用飛行場は、農薬散布用のセスナが二機ほど格納庫にあるだけの、滑走路も短い小さな規模だった。
「見られたかな。ジョーディー……」
 ヘリの後部ハッチの展開作業を指揮するジョーディーに長助が尋ねた。
「センサに反応はありましたよ。電波、赤外線……まぁ、目立ちまくったことでしょう」
「はは……そいつぁいい……」
 開かれた後部ハッチから、車輪のついた担架が滑走路におろされた。それには気を失った一人の少年が寝かされていて、彼の無事をそれとなく確認した長助は、ジョーディーと搬送作業にとりかかった。
 大型の四輪駆動車の荷台スペースに担架ごと“彼”を運び込んだ二人は、それぞれ運転席と助手席に乗り込んだ。
「ここから倉庫までは?」
「約二十分です……」
「無事に辿り着けるかな?」
「連中も判断材料をまだまだ欲しがっているようですし……現在もフェイクの輸送車両があちこち走っていますから……おそらくは……」
 それに、もし襲撃を受けても、このジョーディーの運転テクニックがあれば、おそらく目的への到達は可能だろう。二十分という時間を安心と判断した長助は、再び煙草を取り出し、それを咥えて火をつけた。
「また……雪か……」
 発車した車のフロントガラスに白い結晶が散った。長助はエアコンをつけ、どうにも寒いのは苦手だと天然パーマのもじゃもじゃ頭を掻いた。


「よう、長助……ご苦労だったな」
 白い長髪の青年がこうして出迎えに来たということは、計画にゆとりが生じているということなのだろう。二十分後、郊外の台地にある農業倉庫まで到着した長助は、ゲートのある正面フェンスで車を降り、赤い瞳を見つめ返した。それにしても、寒い。
「花枝幹弥はあの通り眠っている……すべては予定通りだ」
 ジョーディーにより後部の荷台から担架で搬出され花枝を、青年は遠目で確認した。
「仕込みは?」
「俺は“夢の長助”だぜ……」
「そうだったな……」
 納得した真実の人は、長助の背中をひと叩きし、屋内までついてくるよう促して歩き始めた。
「この周辺も、同盟の部隊がちらほら見えるようになってきた……」
「そうか……ならぼちぼちかな……」
「ああ……威嚇から入るか……包囲戦力を整えたうえで……一気に殲滅戦に移るか……どの道、もう何手か打っておく必要はあるね」
 倉庫の扉を開けた青年は、身につけていた白いコートを翻し、「みんな、ご苦労!!」と叫んで中へ入った。天井の高い倉庫は学校の体育館程度の広さであり、はじめてここを訪れた長助は、辺りを見渡して煙を吐いた。
「陸戦か……どう対応する?」
 長助の質問に真実の人は足を止め、両肩を二度ほど上下させた。
「バランス・牙をつれてきてある……ベタな陸戦に付き合うつもりさ……あのキモ野郎がしてやったりと思うようにね」
「とことん人が悪いな、お前さんも」
「いや……あのガイって奴は、小規模単位での陸戦にかけちゃ、自衛隊なんか比べ物にならないほど緻密で正確な作戦指揮がとれる男さ。舐めてかかっちゃいない。だからバランス・牙なわけだし」
「それほどか、ガイ・ブルースは?」
「いろいろと調べさせてもらったさ……輝かしいゲリラ殲滅の軍歴だね。おまけに独自のコネクションもいくつか持っている……手ごわい相手さ」
 それだけに、騙し合いには相当のレベルが要求され、彼はそれを楽しんでいる。長助は若き指導者が軽く興奮していると感じ、煙草を床に投げ捨て、それを踏みしめた。
「禁煙なんだけどなぁ……ここは」
「以後、気をつける……あ、あれか……」
 長助の眼前に、暗灰色のコンテナが姿を現した。クレーンで吊り上げられたそれは、二トントラックの荷台ほどの大きさであり、決して巨大ではなかったものの、長助は息を呑み寒気を覚えた。
「核弾頭……計二発……か……」
「そう……追加の一発が間に合ってくれてよかったよ……」
 この弾頭を運用する方法は既に用意されている。問題は、小型とは言え、特級の危険物であるこれを、如何に日本国内に持ち込むかである。
 計画に相応の年月と莫大なる資金を投入し、いよいよその仕上げの段階にまで入ろうとしている。最後の詰めどころさえしくじらなければ、これまでの努力は実を結ぶはずだ。花枝幹弥の搬送も終了し、小出しに撒いた情報に敵が食いついている以上、いまのところすべては順調ではあるが、今後いかなるイレギュラーが発生するかもしれず、この数週間が勝負のしどころである。真実の人と長助は共通にそう感じ、互いに顔を見合わせ、小さな笑みを浮かべた。
「真実の人(トゥルーマン)はいるか!!」
 勢いよく開かれた扉から、寒気と雪が飛び込んできた。青年は片目を閉ざすと、来訪者に意を向けた。
「ここだ!! バランス・牙!!」
黒いマントに身を包んだ二メートルを超す巨体が、ゆっくりと倉庫の中を進んできた。頭には毛皮の帽子を被り、左目は抉れて欠損し、右の頬には長さ5センチほどの裂傷の痕が残されていた。平和な国での日常では、まず見られることのできない傷だらけの男。それが、バランス・牙である。
「長助か……久しぶりだな……」
 低く潰れた声で、バランス・牙は隻眼を長助に向けた。眉がないため、前髪までの肌が妙に主張をし、それが不気味に感じられる。長助は彼の顔を見るたび、自分が近くて遠い世界に来てしまったのだと思い知らされていた。
「バルチでの仕事は見事だったな……牙の旦那」
「ふん……本来は、あの倍を殲滅する予定だったのだがな……真実の人、で、同盟の地上部隊はいつくる?」
「そうだな……遅くとも、月末には開戦じゃないかな……?」
「空挺作戦の可能性はどうなんだ?」
「それはない……ロシア政府と同盟は、そこまで友好的じゃない……隠密陸戦になると思っていてくれ」
 嬉しい言葉である。牙は左の掌に右の拳を叩きつけ、下顎を突き出して何度も頷いた。
「堪らんなぁ……雪の大地で陸戦たぁ……で、俺にはどれほど戦力を回せる!?」
「直援には忠犬隊を当たらせるから、ここの警備は全部使っていいよ。獣人だけで五十体はいる……皆、戦場訓練を受けた、組織行動のできる決戦用だ」
「ほう!! あの骸骨共を使わせてくれるのだな!! ならばいい働きができる!! ありがたいぞ、真実の人!!」
 バランス・牙、今年四十五歳になるFOTの戦闘指揮官である。別名を「亡骸製造機」といい、指揮だけではなく単独での暗殺をも得意とするゲリラ戦のベテランである。第二次ファクト当時から二代目真実の人に雇われ、主に東南アジアでの施設警備を担当していた経歴を持つ。「雇い主が変わっても、名前が同じなら契約は継続だ」豪放にそう言い放った彼は、主義主張、思想信条のすべてを柔軟に変化させ、プロに徹することができる稀有な存在だった。
 こうした男が前面に出てくる。それが状況の変化であると、長助はよく理解していた。綺麗ごとで青年を諌め続けてきた自分だが、移送してきた花枝にしたことを考えれば、手が汚れていないなどと厚顔を続けることもできない。
 だが、ならば早く済ませたい。この広い倉庫にいつまでもいたくない。白い息を吐いた長助は牙の肩を見上げ、そこに雪が残っていることに気づいた。煙草を吸いに外へ出るたび、寒い思いをしなくてはならないのか。彼は生まれて初めて、禁煙という行為を頭に浮かばせていた。

 並んで壁を蹴ったところで、椿梢と自分が同一の立場になるわけではない。彼女は彼の心を、自分は身体を知ってしまっているのだ。二人でひとつの花枝幹弥であれば、それが完全な姿なのだろうか。それとも心と身体は結局別々なのだろうか。伊壁志津華はメールを送信して以来、何日もそんなことを考え続けていた。
 たまに廊下ですれ違う梢は、目で挨拶を返してくる。怒ってはいないようだし、逆に言えば嫉妬の対象になっていないということである。
 それはそうだろう。彼は彼女に心を許し、身体を大切に思っていたはずだ。噂に聞くと、梢は生まれつき心臓に病気を抱え、激しい運動などは厳禁であるらしい。ならばプラトニックになってしまうのもわかる。案外、彼はそんなことに律儀だったりする。
 けど、自分に対しては違う。彼は身体を求め、そして心を決して許さなかった。この差は大きい。残された携帯電話など捨ててしまい、さっさと忘れてしまうのもいい。いや、自分は本来、そこまで割り切れる女だったはずである。中学の頃、好きだった彼が二股をかけていたと知った際も、二股相手と結託して捨ててしまったこともある。なのに、なんで今回はこうもこだわる。
 木曜日の放課後、教室から出てきたリューティガー真錠の目の前に、志津華は腕を組んで立ち塞がった。
「えっと……」
「伊壁志津華……A組の……はじめまして……」
 どこか怒っているようにも見えるが、いったいなんのつもりだろう。リューティガーは首を傾げ、紺色の瞳で志津華を見つめた。
「あなたのメルアド……携帯の……教えてもらえる?」
「は、はぁ……なんでですか?」
「あなたに送りたいメールがあるの……ある人が出しそびれたメール……たぶん……君宛ての……」
「あ、はい?」
 わかってきた。そう、割り切るための行為なのだ。これは。忘れてしまうため、さっさと片をつけてしまうため、自分はこんなことを続けている。捨ててしまうにはあまりにも重く、大切なことが残されてしまうと感じたからだ。その証拠に、この栗色の髪をした彼の後ろを通り過ぎる、あの男の子が妙に素敵だと思える。さっさとあんな奴の面倒は片付け、例えば彼に声をかけ、付き合ってと申し込んでもいい。志津華は後ろ足で壁を蹴り、そんな乱暴さにリューティガーは目つきを険しくした。
「なんです……伊壁さん……?」
「ご、ごめん……あのね……花枝幹弥からのメール……三通ほどわたしがキープしてるの……一通は椿梢さん宛て……もう一通は、檎堂って人宛て……そして最後はたぶん……君……」
「な、なんですか、それは!?」
 “花枝幹弥”その名が出てくるとはまったく予想していなかったリューティガーは、ひどくうろたえてしまい、目の前の少女が敵ではないかと一瞬だが疑い、それが気持ちを切り替えるためのスイッチの代わりとした。
「わたしが聞きたいぐらいよ。なんかすごい文面だし、だから送りたいの、アドレスを教えて!!」
「そのメールはどこなんだ!?」
 大人しいと思っていたリューティガーの態度が突然豹変したので、志津華はすっかり戸惑い、花枝の携帯を学生鞄から取り出し、それを彼に手渡してしまった。
「なんで、君が!?」
「転校してからちょっとの間、わたしと彼、一緒に暮らしてたの」
「高校生なのに!?」
 問いながら、リューティガーは携帯を操作し、未送信のメールを読み始めた。
「い、いいでしょ、そんなこと……」
 一通は梢宛ての告白文である。このようなものはどうでもいい。
 二通目は相方の檎堂猛(ごどう たけし)に宛てた謝罪文である。これで、この携帯が花枝本人のものであることは証明された。
 そして最後の一通は、宛名こそなかったが、明らかに自分に向けられ打たれたメールであり、添付の暗号文まで添えられていた。携帯を手にしたリューティガーの手は震え、彼はその判断力を総動員した。
「ね、ねぇ……なんなの……FOTとかって……あなたたち……彼……まるでさらわれたみたいに消えてしまって……」
「完璧な隠蔽など……できるとは思っていません……」
「え……?」
「他言無用……それを約束してくれるのなら、僕も君をこの場から解放する……」
 なんという目だ。強い光を放ち、まるで野生動物が獲物を狙うかのような淀みのなさである。志津華は背筋に冷たいものが走るのを感じ、壁に背中を付けてしまった。
「う、うん……も、もちろん……誰にも言わない……だって……信じて……もらえないもの……」
「助かる……なら、これだけは教えよう……僕と花枝は同じだ……さらわれたのなら……彼はたぶん……死んでしまった……」
 普段なら、一笑に付す内容である。だがいまの志津華は、リューティガーの言葉をそのまま信じる気持ちになっていた。
「死んで……しまった……彼が……?」
「情を交わした君なら……せめて弔ってくれ……そして……忘れてくれ……」
 凄みを消したリューティガーは大きく息を吐き、花枝の携帯を制服のポケットにしまった。
 忘れることなど、これではできないではないか。けど、そう努力するしかないのか。伊壁志津華は口元を歪ませ、子供のような泣き顔を浮かべ、その場にへたり込んでしまった。リューティガーの背中は、どこか寂しそうでもある。彼もまた、花枝幹弥を弔っているのだろう。少女は周囲の目も気にせず呻き声を漏らし、今日はただ、気持ちを広げて放り出してしまおうと決めてしまった。


 代々木パレロワイヤル803号室の寝室に出現したリューティガーは、真っ先に居間へ向かい、パソコンと花枝の携帯をケーブルで接続した。
「お帰りね、坊ちゃん」
 従者である陳師培(チェン・シーペイ)は若き主の帰宅に細い目をより線にし、濡れた手をエプロンで拭いた。
「花枝幹弥の連絡文を入手しました……!!」
「なに!? 花枝!?」
「正確に言えば、相方の檎堂猛が、彼に送った暗号文です……おそらく……兄の計画に関係したものでしょう……」
「し、しかし暗号となると、どうするつもりね!!」
「本部に送ります……もっとも……どうかな……!?」
 リューティガーは承知していた。この檎堂からのメールが花枝に送信されたということは、つまり一度は同盟のサーバを介しているのだから、内容を本部が把握している可能性もあるということを。
 今更なのかもしれない、大した秘密など隠されていないのかもしれない。そう思うと落ち着くことなどできず、彼は行動するべきだと思い立った。
「陳さん……夕飯の支度は結構です……」
「坊ちゃん……」
 学生鞄を床に置くと、リューティガーは詰襟を強く引き、跳躍を念じた。突風が陳の鯰髭を躍らせ、彼は再び一人になってしまった。

「知らないですって!?」
「諜報二課に回したばかりだ……まったく……どういうことなんだか……」
 代々木より遥か遠くのザルツブルクの同盟本部の螺旋階段で、リューティガーはクルト・ビュッセルの言葉に眩暈を覚え、手すりに掴まって体重を預けた。長距離の跳躍は心身ともに消耗する。しかし、この衝撃はその疲れがなくとも同等だっただろう。
 檎堂からのメールは、確かに同盟のサーバを通じ、花枝の携帯に送信されていた。しかし、そもそも檎堂と花枝は前任の司令である“中佐”の個人的な密命を受け、日本に派遣されていたため、その連絡手段であるメールデータも、本部の管理部門がチェックをすることなく、日常に飛び交う膨大なそれらの一通として注目もされていなかったらしい。
 見るものがいないということは、遺言メールそのものも素通りであり、その存在を知っていたのはつい先ほどまでは、花枝とリューティガー、そして志津華のたった三人だけだったということである。なんという失態だ。中佐の更迭騒動のどさくさがあり、引き継ぎが万全ではなかったとは言え、もしメールの内容が重大であればあるほど、同盟の組織としての脆弱さが露呈するというものである。クルトは額の汗をハンカチで拭い、何度か頭を振った。呆然としてしまうといった点において、彼はリューティガーとまったくの同感だった。すると螺旋階段を駆け下りてくる、リズミカルなステップを二人は耳にした。
「あら!! ルディちゃん、お久しぶり!!」
「ど、どうも司令……」
 長身の異相を見上げたリューティガーは、気を取り直して背筋を伸ばした。
「メールの件、二課から聞いたわ……もう……なんだか中佐の負の遺産、感じまくりって感じ!! 不問に付すなんてナマっちょろいこと言ってないで、これから懲罰でもかけてやりてぇ!!」
 最後はドスの利いた低い声で言い放ち、ガイは手すりを強く握り締めた。
「まぁいい……じき解析結果がでるでしょう……そうそうルディちゃん……もうちょいだから……」
「もうちょい?」
「そう……核弾頭の所在が、もう少しで判明する……そしたら……陸戦にもつれ込ませるつもりだから、ルディちゃんのチームにもたくさん働いてもらう。少年ちゃんたちに、覚悟決めるように伝えといてね」
「そ、そうなんですか……? そこまで……」
 同盟本部は中佐のいた当時とは異なり、着実にFOTへの対応をしている。核弾頭を巡る件に関しては、情報をまったく収集できていなかったため、リューティガーはガイに頭を下げるしかなかった。
「申し訳ございません……司令……」
「いいちゃんよ……こっちもたまたま拾えたネタだったし……最初は半信半疑ってやつだったんだからね……」
 言いながら、ガイはわかっていた。今までまったくと言っていいほど掴めなかった、弾頭の所在についての情報が、ここ数週間で次々と網に引っ掛かってきたその異常さを。まるで、パズルを解いてみろといわんばかりの、整然として無駄のない影が次々と報告に上がってきている。つまりそれは、連中にしてみれば見つけて欲しいという願望の顕れとも思えてしまう。だとすれば罠の可能性も大きいのだが、いまは乗ってみるしかない。ブラフやフェイクではなく、そこに本命があるというのなら、作戦展開をするしか道はない。
 ついに……弾頭を巡る戦いになるのか……

 リューティガーは長身の司令を見上げながら、心震わせていた。遼は、高川は、岩倉は、予想される激戦に対応できるのだろうか。今回は日本政府の邪魔も入らない以上、純粋に同盟対FOTの戦闘になることは明白である。自分は思う存分能力を発揮することができるが、果たして彼らは。

 いや……いいんだ……これまでの分……僕がやればいい……淀んで……もがいてた分……僕がやる……全力で……

 手すりを掴む力が強くなった。そう、あの女が見ていない戦場なら、隠密もそこそこの陸戦になるのなら、かつてバルチで「悪魔の子」とまで呼ばれた、あの勢いで戦い抜けられる。久しぶりに巡ってきた「戦場」に、若き指揮官は気合いを入れ、戸惑いと躊躇いを心の中から消し去った。

5
 じき、FOTの手に入れた核弾頭の所在が判明する。そうなれば大きな戦いになることは必至であり、自分たちもそれに参加することになる。定例のミーティングでリューティガーにそう告げられた遼は、岩倉や高川もほとんど同時に同意したため、遅れて「わかった」と答えるしかなかった。
 高川は以前、大規模な戦闘の場合、柔術しか使えない自分が戦いに参加する意味はないと、そのような拒絶の態度を示したこともあったので、即答に近い同意は不思議だった。ミーティングのあと、遼はその疑問を素直に彼へぶつけてみたが、剛直な偉丈夫はぎろりと一瞥し、「強くなる必要がある。だから、できるだけ戦いには参加する」とだけ答え、広い背中を向けて立ち去ってしまった。なにか、思うところがあるのだろう。それは自分にしてもそうだ。FOTが虎の子にしている核弾頭を巡る攻防戦になるのなら、敵としてあの少女と向き合わなければならない可能性もあるからだ。
 蜷河理佳(になかわ りか)。まだ彼女の温もりが、柔らかさが、哀しさと悦びが心と身体に名残っている。戦わなければならないのか、彼女と。ミーティングから五日が経過した、十月二十六日の放課後、島守遼は重たい気分のまま、ヘルメットと学生鞄を手に駐輪場までやってきた。
 主を待つ自転車やオートバイの並ぶいちばん奥に、丸々とした体躯の友人が佇んでいた。どうやらタイヤの点検をしているらしく、大きな背中はいまにも詰襟が裂かれんばかりに膨らんでいる。
「ガンちゃん……」
「あ、島守くん……」
 上体をゆっくりと上げた岩倉は、泥と油に汚れた手を、シートの上にあった手ぬぐいで拭いた。
 彼には神崎はるみと同じく、ほとんど全ての秘密を話している。そういった意味では、重い気持ちを幾分かは和らげてくれる存在でもあった。遼は岩倉の穏やかな目を見上げ、自分の詰襟をぐいと引っ張り、涼しい秋の空気を首筋に流し込んだ。
「サ店でも寄ってかない?」
「うん、いいよ。僕もちょうど帰ろうと思ってたから」
 “ガンちゃん”こと岩倉次郎が他人の要求を拒絶する様を、遼はこれまでほとんど見たことがなかった。彼は常に一度は受け入れ、理解をしたうえで判断をする。リューティガーなどにはぜひ見習って欲しい性格ではあったが、幼い頃から戦場に放り出されたという彼は、どうしても警戒心が強く、人を敵と味方の二色に分けようとするきらいがある。鮮烈な経験というものは、いつまでもそいつの心にこびりつき、理解するための計算式を支配してしまう。「戦場での戦いになるかもしれません」代々木パレロワイヤルの一室で、そう告げてきたリューティガーの顔には、緊張よりむしろ喜びの色が浮かんでいたようにも感じられた。そう、あいつは計算が通じる“戦場”に帰りたがっているのだろう。やはり、この安穏とした日本で高校生をしていられるような奴ではない。MVXの震動を腰で感じながら、遼は先導する岩倉の背中をぼんやりと眺め、栗色の髪をした彼のことを考えていた。

 鮮烈な経験……か……

 自分も母を失い、つい最近ではバルチに跳ばされ、命の恩人であるジョージ長柄を殺されてしまい、ゲリラに捕らえられたという“鮮烈な経験”を持っている。だけど、それで自分は変わったのだろうか。正直、大した変化がないようにも思える。この通りを走る皆だってそうだ。八年前、日本はクーデター規模のテロがあったというのに、ほとんど変わらずに日常を過ごしているではないか。せいぜい、復興税だの国学の授業が増えた程度である。家族や肉体の一部を失った者ならともかく、過ぎ去ったテロのことより、今日の集金や仕入れに奔走する毎日なのだ。信号待ちをしている遼は、目の前を通り過ぎる車列を見つめ、舌打ちをした。
 いまだってそうだ。FOTは核を擁し、日本を更なる混乱へと導こうとしている。けど、暮らしは確実に存在しているし、政府はそれで管理する方法を変えるつもりはない。まるで台風や火事のように、せいぜい予防対策をとるだけであり、基本的には「そのまま暮らしてくれ」なのである。それは正しいとも思える。いや、俺はなんでこうも考える。これが変化なのか。違う、理佳のことを考えたくないから、単に逃れているだけだ。
「島守くん……注文……」
「あ、ああ……」
 学校からバイクで五分ほど離れた喫茶店で、遼は岩倉と向き合っていた。傍らにはウエイトレスが伝票を手に待っていて、遼は慌ててオレンジジュースを頼んだ。
「ごめん……ぼうっとしてた……」
「なにを……考えてたんだい?」
「さぁ……なんだろうね……」
 曖昧な返事だったため、岩倉は丸い目を細め、顎に手を当てた。
「いや……理佳ちゃんのこととか……神崎のお姉さんに秘密を漏らしてることとか……そうだな……」
 言いながら、遼は岩倉にだったらうじうじとした気持ちをぶつけてしまってもいいだろうと思った。
「真錠に対してついてる嘘一切……そんなところかな……」
「そ、そっか……」
「神崎に対して……あいつは最近妙に明るいんだよ……なんだと思って聞いてみると、心を穏やかにするため、憎しみとか恨みなんかを全部底に沈めてるからとか……言っててさ」
 よくわからない感情の処理方法である。岩倉にとって自己嫌悪といった、内へ向けた負の感情というものは存在するが、他人に対する憎しみや恨みなどまったくと言っていいほど抱いたことがなく、彼は分厚い掌を叩き合わせ、なぜこれまでリューティガーを今ひとつよく理解できないでいたか、そのわけをようやく理解できた。
「ルディは……けどそれは、可哀想だね……」
「そうだな……いや……俺は違うんだよ……俺はガンちゃんみたく、優しくはなれない……」
 運ばれてきたオレンジジュースに、遼はストローを刺した。
「俺は不安だ……ああまでもコロコロと変わる奴に対して、いつまで秘密を保っていられるか……それが怖い」
「島守くん……」
「最悪……理佳ちゃんに関しちゃ、俺とあいつで真っ向から対立するって可能性だってある」
「で、でも……蜷河さんは……敵なんでしょ?」
 核心である。岩倉の言葉を耳にしながら、遼はオレンジジュースをひと飲みし、酸っぱさに頬を引き攣らせた。
「けど……俺の彼女だ……」
 そんな優先順位の話をしているつもりではない。岩倉は運ばれてきたアイスコーヒーに目もくれず、遼の肩を正面から掴んだ。

 島守くん……

 暗く濁った色合いを帯びた、それはこれまで岩倉から感じたことのない淀んだ感情とともに流れ込んできた言語情報だった。

 僕は……二人が対立したとして……どっちにつくか……止めるか……そのときになってみないと……わからないよ……

 ああ……それでいいさ……実は……俺だってよくわかっちゃいない……どうするか……どうするべきか……

 ごめん……

 いや……ちょっとは気持ちが晴れたよ……ぶっちゃけ言えて……

 岩倉は遼の肩から手を離し、ようやくアイスコーヒーを一口飲んだ。
「蜷河さんは……どうしても敵のままなのかな……」
「そうだな……まだ彼女は……俺とより、あいつらとの結びつきの方が強いって感じなんだ……そりゃそうだろうな……小さい頃から面倒見てもらって……おまけにルディの兄貴、あの通りのカリスマだろ?」
「そうだね……」
「はは……いっそさ……」
 冗談では済まされることではない。遼は軽口ついでに言ってしまおうとしたそれを、口の中で引きとめた。
「島守くん?」
「いや……なんでもねぇ……ごめん……」
 なにを言おうとしていたのか、今ひとつ勘に鋭くない岩倉にはわからなかった。けど、彼の戸惑った様子を見ていると、それが重大な失言になりかねなかったということぐらいはわかる。岩倉は再びコーヒーを啜った。
「もうそろそろ……戦いになるかもな……」
 唐突な遼の言葉に、岩倉は「なんで?」と返した。
「あいつ……今日学校を休んでた……一昨日もだ」
「そっか……」
 指揮官が日常の舞台に姿を現さないということは、すなわち戦闘準備にとりかかっていると考えても間違ってはいない。二人はようやく緊張を共有し、店内で流れている流行歌がなんであるのか気づくことができた。

 遼と岩倉が喫茶店で静かに時を過ごしていた頃、リューティガーは代々木パレロワイヤル802号室、つまりゼルギウス・メッセマー医師の待機する医務室にいた。丸い椅子に腰を下ろした彼は、薬品の臭いに嗅覚を刺激され、対座する白人医師に苦笑いを浮かべた。
「芳しくない診断結果だ……」
 カルテを手にしたゼルギウスは、大きな顎を空いた方の手で撫でた。
「ストレス性の胃炎だな……胃酸過多……明らかに激務がたたっている」
「そ、そうですか……」
「胃薬は市販の物を陳にでも用意させておく……まぁ……こればかりは俺の口からお前さんに言えることは少ないんだがな」
 一言多いのが、この医師の専売特許である。つまり、医師である以上、ストレスの少ない生活を心がけよと、そのような当たり前の忠告をするべきなのだが、同盟のエージェントとしては、いち早く任務を完了しなければならず、そのためには今以上の努力が必要であると叱咤激励するべきである。二つの矛盾した立場が、彼をより多弁にさせていた。
「俺は本来外科医だから、心と内臓は専門外だ……いいな、ルディ」
「ええ……報告書には、健康としておいてください」
 そう言って椅子から立ち上がったリューティガーに、ゼルギウスは鋭い目を向けた。
「無理言いなさんな……医者が嘘をつけるとでも思ってるのかね? 俺は事実を報告するまでだ」
「ストレス性の胃炎だなんて父に知られたら、いい笑い者ですよ。僕は」
「仕方ないさ。受け入れろ」
 首を傾げたリューティガーは、医務室を後にした。これ以上は口論に発展しかねないし、口はあちらの方が達者であるから負けるのは目に見えている。まったく、これで父へ弱みを見せる結果になってしまった。情けない内臓め。彼はワイシャツの上から腹をさすりながら、803号室へ戻った。

 居間までやってきたリューティガーは、机上のパソコンで同盟本部からメールが届いていることを確認した。定時連絡ではない、それはガイ・ブルース司令自ら送信したメールだった。
「きたか……」
 待っていた内容だったため彼はわざと声を出し、それに呼応して台所から陳がやってきた。
「どうしたネ、坊ちゃん」
「ブルース司令からです……花枝幹弥が受け取った、檎堂猛からの最後のメール……その暗号解析の結果が送られてきました」
「ついにきたかネ!!」
 興奮しながら、陳はリューティガーの傍らまで駆け寄り、画面に表示されたガイからのメールを凝視した。
 檎堂と花枝は、二人にしかわからぬ暗号を用意し、重要な案件に関しては、常にそれを用いた連絡を取り合っていた。これは日本語の五十音を一定の法則によって組み替えた暗号であり、組み替えパターンそのものが送信日によって異なるといった単純なものである。これだけであれば、同盟の情報部で容易に解析ができたはずだったが、そうして導き出された結果にはいくつかの抜け落ちが存在し、埋め合わせるためには相応の符号が必要だった。その点に気づいたのはガイ自身であり、彼はかつて戦場を共にしたある戦友へ協力を要請し、その結果、符号が意外な点にあることが判明した。
「抜け落ちた箇所を埋めるためには……寿司ネタと曜日に符号があったみたいですね」
「専門外だから、わけがわからないネ」
 暗殺と調理のプロフェッショナルである陳は、花枝と檎堂の凝った暗号など、解読方法を示唆されようとも、今ひとつ理解できなかった。
「日曜日から土曜日……送信日がどれかによって、こんな対応表を使うみたいです」
 リューティガーは楽しそうに紙に表を書き、七列のそれに「いくら」「さば」「ひらめ」などといった、寿司ネタを記入した。しかし陳はいつまで経ってもそれを見てくれそうにもなく、彼はひたすらディスプレイに視線を向け続けていた。
「ま……暗号のことは置いといて……」
「そうヨ。司令のメール自体が暗号文だから、もうわたしチンプンカンプンね」
「先週採用したばかりの新暗号ですからね……対応プログラムは用意してあります……コピペで貼り付けるだけで、解析可能です」
 言いながら、リューティガーはメールの文面を選択し、ショートカットキーでコピーをした。あとは解析ソフトの窓に、ペーストをするだけである。流れるように、淀みのない挙動で全ての作業を終えたリューティガーは、表示された英文に息を呑んだ。

ロシアから購入した核弾頭の使い道がわかった。
米軍に対して使うようだ。

 短い文面ではあったが、若き主と鯰髭の従者は互いに顔を見合わせ、青ざめている事実に小さく頷いた。
「米軍に……核を……」
 向ける対象こそはっきりとしていたが、それによってどのような結果を目論んでいるかは極めて不明瞭であり、ここしばらくのFOTが如何なる活動をしているかを絡めて考えてみると、可能性はいくつも想定される。リューティガーはすぐに解析ソフトを落とし、腕を組んだ。
「本部でも……様々な角度から検討しているみたいです……にしても……」
「わからないネ……どうしてそこまでする……」
 もしFOTが米軍に対して核攻撃テロを敢行するというのなら、それこそ米国本土に山のように存在する核兵器を起爆させるほうが効率的である。それができる兄であるし、本来テロリストというものは、固有の戦力は最小限度にして行動の自由を選択するべきである。米軍に対して核兵器を向けるという、いわば宣戦布告という形をとってしまえば、特定のアジトを持たないという、ある意味FOTの長所とも言える点を相殺してしまう危険がある。つまり、核兵器自体が拠点化してしまうということだ。

 考えろ……これまで……アル兄さんがやってきたことを……なんのメリットがあるか……デメリットに見えるそれ自体が、陽動である可能性だって高いんだ……兄さんは……嘘で固められているんだ……いつだって……

 父にもらった万年筆をなくしてしまった際も、母の誕生日プレゼントを買い忘れた際も、兄はいつだって嘘を駆使して切り抜けてきた。気がつけば誰も傷つかず、笑顔のまま過ごせる術を、兄はよく知っている。それは逆においても確かである。怒らせる、笑わせる。あの白い長髪の青年は、嘘を基盤に人の気持ちをコントロールしてくる。なぜなら、そこにこそ彼の真実があるからだ。アルフリート真錠は、簡単に感情を切り替え、嘘を本気でやってしまえる怪物めいた男だ。よく考えろ、リューティガー。リスクを覚悟でラーメンを食べにくるあいつだって、本気なんだ。核兵器を米軍に向けるほうが嘘であるかもしれない。

 今夜はたっぷりと考えなければならない。それこそ、過去を振り返る旅となってしまうだろう。目を閉ざしたリューティガーは、椅子に深く座り直した。

 アルフリート真錠という男を……解析する……徹底的に……僕にしかできないアプローチで……
 ひどく億劫な作業である。だが、こうしている間にも本部では情報部の者たちが総動員され、軍事的な角度での解析が試みられているはずである。ならば弟として、彼をよく知る者として、その役割は全うしなければならない。主の覚悟を肌で感じた陳は、せめて彼に円滑な思考ができるよう、お茶を用意するため台所へ戻っていった。

 “米軍”ってところが問題だ……

 檎堂猛という人物をよく知らないリューティガーは、彼が“米軍”と“米国”という言葉を、普段どのようにして使い分けているか先ず気になった。この二つは大きな隔たりがある。そして、もし“米軍”が確定である場合、どの場所に存在する米軍かによって、核の使用はその影響を変質させる。そんな外縁部からアプローチしてみるだけでも、ひどく不鮮明で手がかりに乏しい、だが重要な情報である。
「ぼ、坊ちゃん……」
 考えに没頭していたため、リューティガーは陳の言葉に反応することができず、気持ちが動いた頃にはその出っ張った腹が傍らまで寄ってきていた。
「どうしましたか……陳さん……」
「こ、こんなものが……玄関のポストに……」
 小刻みに震える陳の手には、B5大の分厚い封筒が握り締められていた。オートロックのパレロワイヤルであるから、これを玄関にポストに投函するということは、別の部屋に住む住人か、潜入を生業とするスパイか殺し屋である。リューティガーは何度も瞬きをして封筒を受け取り、中身を机に吐き出させた。
 写真が数十枚。いずれも手振れこそあったものの、何が写っているか判別できるレベルのものである。そして、紙が一枚。それにはこう記されていた。

「島守遼は、神崎姉妹と通じきっている。これが真実だ」

 文面を読み上げたリューティガーは、机上の写真から禍々しさを感じ、堪らず椅子から立ち上がった。
「ぼ、坊ちゃん……」
「そういう……ことかよ……」
 紺色の瞳に、怒りの光が鈍く反射していたのを陳は見逃さなかった。この光は殺意である。彼は経験上、それをよく知っていた。
 散乱した写真は、事実を淡々とリューティガーに伝えていた。

 祇園祭の光景だった。人ごみの中、はるみと岩倉と、高川の姿が写っていた。時刻を見る限り、あの全裸テロリストが出現した数十分後であり、そのころ自分は遼と共に京都御所の中にいた。なら、この光景はなんだ。確かに岩倉と高川の二人にエロジャッシュ・高知の対応は任せたが、なぜ神崎はるみが混じっている。数枚の写真を指でずらしたリューティガーは、立体駐車場に潜む少女の写真に驚愕した。この目は、そう、潜み窺うこの目は戦う者のそれである。傍らには岩倉の姿もあり、こうなると疑う余地がない。

 別の写真には、抱き合う姉妹とそれを見守る遼の姿が写されていた。どこの路地であろうか。日付を見ると、米海軍空母キティホーク入港日であり、時刻を確認すれば、自分がドイツ語で無様に泣き喚いたその後である。陳に車に乗せられ、茫然自失としていたあの頃、島守遼はなぜ神崎姉妹が抱き合っている現場に立ち会っているのだ。

 もたらされるものは様々だ。核弾頭の標的を明記した朗報も、裏切りの悪報も、全ては暴かれることによってもたらされる。
 僕は怒っている。そう、怒っている。何に? いや、寝て休むべきだ。起きてなお怒っているのなら、それは本物の、裏切り者に対する憤怒である。
「陳さん……」
 主は、青ざめた顔を従者へ向けた。
「まいりましたね……こう……わかりませんね……なんとも」
 声が震えている。怒りを通り越し、哀しさが襲ってきたのだろうか。なんにしても支えてみせる。健太郎やガイガーが不在である現在、自分しかこの弱き主を助けることができないのだ。陳が心を構え、リューティガーの言葉を待っていると、彼は力なく歩き始めた。
「写真と手紙……封筒に入れておいてください……僕はもう寝ます……」
「ね、寝る!?」
 予想外の言葉に、陳はそれでも手は写真と封筒に伸びていて、そんな忠実な彼にリューティガーは足を止め、弱々しく微笑んだ。
「いま……彼らと会ったら……殺してしまうかもしれません……取り返しも付かないことだって……それぐらいはわかってるつもりです……だから寝ます。寝て起きて、考えてみます」
 そう言い残すと、リューティガーは居間を後にした。陳は今一度写真を見下ろし、大きくため息を漏らしてそれを封筒にしまった。
 いったい誰が。密告者の正体を一瞬想像してみたが、それよりも先に寝床の準備が先だと陳は判断し、居間から急いで駆け出すことにした。


 パレロワイヤルの裏手の路地に、オフロードバイクに跨った仙波春樹の姿があった。警戒網をかいくぐり、密告書類を投函するのはそれなりに苦労をしたが、見合うだけの成果があるのだろうか。彼はまだ、自分の仕掛けに疑いを抱いていた。
 予定では今頃、あの少年の心は乱れきっているはずである。計画の発案者である長助はしきりにもじゃもじゃ頭を掻きながら、「間違いない」を繰り返していたが、果たしてどうなることか。
 とりあえず師の言葉を信じよう。なんにしても、これでようやくセコイ任務が片付いたのだ。彼は大きく深呼吸をするとリュックを背負い直し、バイクのエンジンをかけた。明日の午前中には、京都に到着しなければならない。頬を何度か軽く叩いた彼は長旅を覚悟し、今一度高層マンションを見上げ、苦い笑みを浮かべた。

6.
 翌日の早朝、目を覚ましたリューティガーは洗面所で顔を洗い、歯を磨いてぼんやりとした意識を覚醒させようとしていた。台所からは鉄鍋に油が跳ねる音が漏れてきて、香ばしさが嗅覚を刺激する。彼は眼鏡を手に取ると、それをかけないまま居間へと向かった。
 机の上には、分厚い封筒が置かれていた。リューティガーはようやくするべきことを思い出すと、封筒に手を伸ばし、写真を床に撒き散らせた。

 裏切りの現場が、毛足の長い絨毯に広がった。それだけで、じゅうぶん目が覚めた。胃の奥がきりきりと痛み、引き攣った頬には痛みが走るほどである。
 怒っている。そう、僕はまだ怒っている。一晩経ってもそれは変わらない。ならば、この怒りは行動として示さなければならない。でないと心が壊れてしまう。
「おはようネ、坊ちゃん」
 ダイニングキッチンまでやってきた学生服姿のリューティガーに、陳は挨拶をした。
「今日……遼たちと、もう一人をここに呼んできます」
「そ、そうかネ……」
 食卓に着いた主の様子があまりにも落ち着いていたので、陳はその怒りの程が予想以上であると判断した。
「けど……お茶の類は一切用意しなくて構いませんから……802号室を使います……そのつもりで……」
 最低限のもてなしすら不要である。紺色の瞳は静かに、だが強く陳にそう訴えかけていた。


 木曜日の授業も全てが終了し、前任の近持(ちかもち)教諭の時代と比べれば、はるかに短いホームルームも終わった。担任の川島比呂志(かわしま ひろし)が教室から出て行くと、二年B組の生徒たちはそれぞれ席を立ち、開放感溢れる空気が教室内にはじけていた。
「遼……ちょっと今日……いいかな……ガンちゃんにも伝えておいてくれ。十七時にパレロワイヤル802号室だ」
 先に立ち上がったリューティガーにそう告げられた遼は、彼の様子が穏やかだったので、何の疑問も抱かずに頷き返した。
 まず、これで二人。淡々とした表情を崩さず、リューティガーは学生鞄を手にした偉丈夫の前までやってきた。
「高川くん。大切な話をしたい。十七時にパレロワイヤル802号室に集合だ」
「うむ……いいだろう……」
 とうとう、核弾頭の隠し場所が判明したのだろうか。高川は“大切な話”であれば今はそれしかないと思い、遼と同様疑うことなく了解した。

 また、なにか作戦や任務というやつであろうか。はるみはリューティガーの動向に注目していたから、彼が声をかけた相手が遼と高川だったため、緊張した。しかし、自分から動ける問題でもない。寂しさを胸に、少女は廊下へ出た。
 今日は部活もない。五時と言っていたから、それぐらいからマンションの前で待っていれば、あるいは遼たちから話ぐらいは聞けるかもしれない。そんなことを考えながらはるみが階段を下りていると、彼女は「神崎はるみ!!」という叫びに呼び止められた。
 なんて冷たい、それでいて力強い声なのだろう。恐る恐るはるみが踊り場で振り返ると、階上に栗色の髪が揺れ、紺色の鋭い眼光が見下ろしていた。
「真錠……?」
「話がある……十七時に、僕のマンションまで来い。場所は知っているだろう。八階の802号室だ」
 それは明らかに、「命じる」言葉だった。
「あ、え……? 今日?」
「そう、今日だ」
 表情ひとつ変えず、凍りついたままのリューティガーは抑揚のない声でそう告げた。十七時と言えば、遼たちを呼び出している時間である。少女はなにやら恐ろしくなり、手すりにしがみついた。
「わ、わかった……なにか……用意するものとかある?」
「なにもない。身ひとつでいい」
 そう告げると彼は背中を向け、階段を上っていった。

 ばれた……うん……そうなんだろうな……

 記憶を消されず、彼に内緒で協力したり、相談を受けたりしていたことが知られてしまった。状況と様子から、そう判断するしかないはるみだった。彼女はゆっくりと階段を降り、一段ごとに覚悟をしていった。

「ルディ……」
 屋上へ上っていくリューティガーを、椿梢と吉見英理子が見上げていた。はるみに対して命じるその姿を、二人は廊下の角からずっと窺っていた。彼の態度は明らかにおかしい。少女たちはそれぞれ別の機会に少年の秘密を知っていたから、互いにその名をつぶやいた瞬間、そうなのかと顔を見合わせてしまった。
「梢……」
「英理子……」
 だが、そのあとの言葉が続かない。疑惑のスケールがあまりにも大きすぎるため、迂闊なことなど言えるはずがなかった。特に梢にしてみれば、彼女自身も不思議な力を持っていて、英理子は親友ではあったものの、まだそれを打ち明ける気にはなれない。リューティガーの秘密を語ることは、結果としてそれに繋がってしまい、避けては通れなくなってしまう。梢は堅く口を閉ざし、頭を何度か横に小さく振った。


「なぜ、この部屋を使う?」
 椅子に腰掛け、健太郎のカルテを手にしたゼルギウスは、学生服姿のリューティガーを見上げた。「打ち合わせをここでやりたい」そんな申し出に、彼はあからさまな嫌気を示していた。
「メッセマー先生は、遼たちと関わり合いが薄いと思ったので……」
「ふん……まぁそうだが……」
 陳がいる803号室では、言い辛い話になるというのだろうか。ゼルギウスはカルテを机上に置き、金髪を撫でた。
「それに日本語のやり取りですから、言葉の意味もわからないでしょ」
「聞かれたくない打ち合わせをやるのか?」
「はい。醜い罵りあいになります。誰にも肩入れをして欲しくないので、縁に乏しい先生だと好都合なのです」
 ゼルギウスは万年筆を手に取ると、それを人差し指の上でくるりと回した。平然とした顔で、ロクでもないことを言うものだ。精神のどこかが欠落していないと、このような物言いはできないはずである。外科が専門の彼ではあったが、戦場で兵士のメンタル面をケアする機会も多かったため、その程度のことは即座に理解できた。
「なら、ガイガーたちの部屋はどうだ? あいつらまだ帰ってきてないし……それこそ好都合じゃないのか?」
「喧嘩が予想されます……だから、ここがいいのです」
「殴り合いで怪我人が出るってことか……」
「その通りです」
 意味のわからない言葉で喧嘩をするのか。かつての戦場で、ロシア人同士のいざこざに巻き込まれた経験を思い出したゼルギウスは、心底うんざりしてしまい、悪い意味で忙しくなると覚悟した。


「なんで診察室に? うっかり803号室に入りそうになったぞ」
「僕も、僕も」
「健康診断でもはじめるつもりか……?」
 あまり面識のないゼルギウス医師に軽く会釈をした遼は、余っている椅子がないことに気づき、丸椅子に座っているリューティガーへ首を傾げた。
「座る必要はない。そう長い話にはならないから」
 冷淡な口調である。紺色の瞳も、焦点が定まっていないように感じられる。また情緒不安定になっているのか、余程ひどい知らせでもあるのかと遼は不安になった。それは岩倉や高川にしても同様であり、彼らは様々な悪い可能性に思いを巡らせた。

「こんにちは……」
 聞きなれた声だった。遼たち三人は同時に振り返り、このような場所で見ることがないはずである制服姿の少女が玄関に佇んでいたので、一様に衝撃を受けた。
「神崎……」
「島守……」
 はるみは遼たち三人の陰に、腕を組んで冷たい目を向けているリューティガーの姿を認めた。どうやらここは診察室のようだが、なぜこのような部屋に呼び出すのだろうか。辺りを見回した彼女は、先に進んでいいものか躊躇していた。
「神崎はるみ……こっちに来い」
「う、うん……」
 リューティガーに促されたはるみは、ゆっくりと遼たちのもとまでやってきた。
「ルディ……どういうことだ……これは……」
「それは僕の台詞だ、遼、ガンちゃん、高川くん……君たちは神崎はるみと通じていたことを、なぜ黙っていた」
 ついに知られてしまったのか。遼は目をつぶり、岩倉は額から汗を噴き出し、高川は天井を見上げた。
「それだけではない……遼、君は僕の忠告を無視して、神崎まりかと関わり続けている……これは機密保持という点において、無視できない裏切り行為だ」
 落ち着いている分、怒りの強さというものが逆に伝わってくる。下手な対応をすれば、彼は暴発してしまうだろう。しかし、嘘や隠匿は確かに悪い行為だが、それをする理由というものがある。遼は目を開き、リューティガーの紺色の瞳を見つめた。
「開き直った目だな、遼」
「かもな……まずはみんなを代表して俺が謝る……すまん、ルディ……いままで内緒にしていて」
「謝って済む問題じゃない」
「だろうな……」
「僕には裁量権がある。同盟での前例を照らせば、君たちには死んでもらうしかない……!!」
リューティガーは立ち上がると、遼の頬を手の甲で軽く叩いた。その瞬間、彼の意識に重く淀んだ熱が入り込んできた。これがリューティガーの怒りか。それはこれまで感じたことがないほどの熱さだった。
「念じれば、君はマグマの底だ。レベルの低い時量操作では……対応できない地獄へ跳ばすこともできる」
「そう……だな……」
「けど、これまで協力してくれた実績がある。だからそこまではしないさ……となると、今後についての問題ということになる。まず、神崎まりかとの関係を一切断ち切れ。そして神崎はるみ。お前は今後、僕たちと関わるな」
 相当の譲歩である。ゼルギウスに「酷い罵りあいになる」と言った瞬間から、随分と落ち着きというものを得られたような気がする。リューティガーは自分の寛容さに満足し、ようやく口の端に笑みを浮かべた。

 だが、遼から返ってきた言葉は、耳を疑うものだった。

「どちらも断る……」
「え……?」
「断ると言った……まりかさんもFOTと戦っている以上、今後協力し合わなければならないし、あの人からお前のことで頼まれていることもある。それに神崎はいろいろといいアドバイスをしてくれるし、まりかさんのこともあって、やっぱり関わらざるを得ないのが現実だ……黙っていたことは謝るけど、全てを前に戻すことはできない。それは不自然なだけじゃない、俺は間違ってると思う」
 言葉はわからないが、リューティガーの要求に対して毅然とした態度を取る現地協力者だと思える。診察室の隅から様子を見ていたゼルギウスは、手にしていたコーヒーのマグカップに口をつけ、そろそろ空気が荒れる頃合いだと予想していた。
「遼……僕の知らない日本語の言い回しかい……それは」
「いや……そのまま額面通り受け取っていい」
 神崎まりかという名前が、はるみの姉であることは知っていた高川だが、それが何者であり、リューティガーや遼とどういった関係にあるのかは知らなかった。「まりかさんもFOTと戦っている」それが事実だとすれば、どう受け止めていいのものか。彼は困惑しつつあった。
「なら……僕は君を殺さなければならない……」
 声が震えていた。それが遼にとっては嬉しかった。けど、譲ることはできない。
「神崎も現地協力者として、あらためて俺から推薦する……判断力もあるし、機転も利く……それにF資本対策班との連携だって、もっとちゃんと正式な手続きをしておいたほうがいい。これは提案だ」
「知ったような口を利くのか!? 貴様は!?」
怒鳴り声が診察室に響き渡った。岩倉は恐ろしくなり高川の腕を掴み、はるみは遼の手を握り締めた。

 島守……どうして……?

 いいんだ、神崎……

 岩倉と喫茶店で話してから、覚悟というものができていた遼である。何が正しくて、何が間違っているのか、散々考えた結果だった。彼は自分の判断に自信を持っていた。
「もっと言わせてもらう!! 真錠、お前の拒絶は全部、個人的な恨みからきてる!! ヘイゼルさんたちは確かに可哀想なことになったけど、あれだって、まりかさんは任務を全うした結果らしい!! 簡単に許せないのはわかるけど、俺はなんとかして欲しいって頼まれてもいるんだ!!」
「まだ囀るか!!」
 右の拳で、リューティガーは遼の腹を殴った。体格に似合わず、なんとも重い一撃である。遼は堪らず腹を押さえ、その場に蹲った。
「く、くそったれが……いつまで恨みを引きずるつもりだ……んなことじゃ……いつまで経っても真実の人(トゥルーマン)に勝てっこねぇ……あいつはきっと、そんなのを簡単にオーバーできちまう奴だ……」
 遼の指摘はなにもかも正しい。それは理屈としてわかっているリューティガーではあったが、どうしても許せないのも事実である。こうなると感情の制御などできない。未熟だと笑われても、この怒りはどこかにぶつけなければ気が済まない。
 全員を殴り倒すか。高川が手ごわいが、場合によっては拳銃を使ってもいい。はるみはどうする。女だからといって容赦などするものか。池上線で隣り合っている最中もこいつは心の中であざ笑っていたに違いない。ぶん殴ってやる。懲らしめてやる。
 稚拙で荒んだ心が、リューティガーの判断力を著しく低下させていた。暴風の中にその心はあった。視界も不明瞭なら、聴覚も麻痺している。だから、後ろから肩をつかまれた瞬間、彼は防ぐために身構えてしまった。
「ルディ!! 喧嘩は構わんが、正気になれ!!」
 ゼルギウスの忠告と同時に、通信機のコール音がリューティガーの耳に飛び込んできた。我を忘れて、そんなことにも気がつかなかったのか。彼は慌てて懐から通信機を取り出した。
「リューティガーです……」
「ルディちゃん!! ガイだけど!!」
 直接の長距離通信など、盗聴の可能性があるため同盟では推奨されていない連絡方法である。となると緊急事態か。正気を取り戻したリューティガーは、壁に背中をつけ、聴覚に意識を集中させた。
「怪我はないようだな……」
 ゼルギウスは、蹲っていた遼の腹を擦った。しかしこういったボディブローは、あとからじわじわと痛みが襲ってくる場合がある。念のため、痛み止めでも注射しておくべきかと、彼は薬品棚へ向かった。
「いてて……」
 ようやく立ち上がった遼は、早口の英語で通信機に向かって叫んでいるリューティガーを横目に、岩倉と高川に意を向けた。
「いったい……どういうことなのだ……神崎まりかとは……?」
 高川の疑問に、はるみが目を向けた。
「わたしのお姉さん……内閣の、F資本対策班に所属してて……島守や真錠みたいに、異なる力を使える……」
「そ、それは……!?」
「わたしもつい最近知ったの……八年前、ファクトとも戦ってたんだって……いまのみんなみたいに……それで……真錠が昔所属していた傭兵部隊も、全滅させて……」
 はるみから告げられた真実はあまりにも唐突であり、高川はすっかり困惑して遼と岩倉を見比べた。すると二人は静かに頷くばかりだったので、彼は納得するしかなかった。
「みんな!! 断罪は後回しだ……!!」
 通信機を切ったリューティガーが強い口調でそう告げたので、遼たちは何事かと心を構えた。
「どうしたんだ、ルディ……」
 遼の問いに、リューティガーは眼鏡を人差し指で直した。
「核弾頭の保管場所が判明した……ロシアのヴォルゴグラード郊外だ。現在、同盟の陸戦部隊が交戦に入ったらしい。僕たちも直ちに現地に向かい、弾頭を破壊、もしくは奪取する。メッセマー先生にも来ていただきます」
 最後は英語での指示だった。診察室にいた全員は緊張し、事態の急変を理解した。
 リューティガーは机上の電話を手に取ると、陳へ出立の指示を出した。ガイガーと健太郎、そしてエミリアの三名はFOTの拠点壊滅に出たままであり、ここ数日は不在である。戦力不足は否めないが、手持ちの駒を駆使して結果を出さなければならない。暗い情念に支配されていた復讐者としての気持ちは、指揮官たる判断力に上塗りされようとしていた。受話器を置いたリューティガーは緊張していた岩倉のもとまでやってくると、スラックスのポケットから鍵を取り出した。
「ガンちゃん……装備を整えておいてくれ……現地でも弾薬の補充はできるけど、銃は使い慣れたやつを持っていった方がいい」
 そう告げると、リューティガーは武器庫として使用している、801号室の鍵を岩倉に渡した。
「高川くん。銃撃戦闘が中心の陸戦だけど、僕たちは弾頭を保管している倉庫に潜入する。獣人との格闘戦を想定しておいてくれ」
「う、うむ……」
「遼……兄がいる可能性が高い。機会があれば、暗殺を遂行する」
「わ、わかった……」
「島守……」
 不安そうな声で、はるみは遼を見上げた。核弾頭という穏やかではないキーワードに、彼女は事の重大さを感じていた。自分はなにかの役に立てるだろうか。少女がそう思っていると、目の前に栗色の髪が揺れた。
「神崎はるみ……君は連れて行かない……」
 それまでの怒りに淀んでいたのとは違う、落ち着いて安定した目の輝きだった。
「真錠……」
「素人がどうこうできる現場じゃない……危険すぎる」
 わからない。あれだけ怒りの対象にしていたはずなのに、まるでこちらの身を案じるかのような真剣さである。はるみは、ますますリューティガーという個性が理解できなくなってしまった。

 結局、任務、作戦などでしか感情のコントロールができないと、リューティガーはあらためて自分の未熟さを思い知らされた。兄ならどうするのだろう。ふとそんな疑問が頭をよぎったが、それこそ愚かしい考えである。彼は自分も含めて六人分の長距離跳躍に備えるため、ゼルギウスに強壮剤を用意するように指示を出した。


 暖かい部屋である。カレーライスを運んで来たのは伊壁志津華だった。珍しく手料理か。花枝幹弥は鼻歌を奏でながら食卓に着き、彼女を抱き寄せた。「ずっと一緒よ」志津華はそう言ってくれた。嬉しい一言である。花枝は彼女の柔らかい唇をそっと撫でると、頬を寄せその感触を楽しんだ。
 気がつくと、左手にしっかりとした手ごたえがあった。これは誰の腰だろう。「久しぶり」椿梢の囁きが、彼の耳をくすぐった。まさしくこれは、両手に花という状態である。さすがに悪いと思い、右手に抱いた志津華から離れようとすると、彼女は「三人で暮らしましょう」などと、さらに嬉しいことを言ってくれた。暖かい部屋に美味しそうな料理、両手には美しく可愛い少女を抱え、花枝幹弥は心地のよさを存分に味わっていた。

 現実は、そんな夢とまったく逆だった。コンクリートで囲まれた六畳の部屋は、ベッドと灯油ストーブだけの殺風景な光景であり、ガリガリにやせ細った手足は革製のベルトで仰向けのまま固定され、乾ききった口元に笑みだけが浮かんでいた。憔悴。それが現在の花枝幹弥を象徴する言葉である。
「どんな夢を見させているんだ……長助」
 白い長髪の青年が、そんな花枝を見下ろしていた。
「色事に関する夢だ……そいつがこの年頃だと、一番心地いいと思ってな」
 重大な作戦であるから、ここまで残酷なことも平気でできる。藍田長助は、おそらくもう回復の見込みがない花枝を辛そうに見つめていた。残党を無駄遣いし、幼い命ですら浪費するこの青年の悪癖を、自分はもう糾弾することなどできない。この計画を最初にもちかけられた際、長助はすっかり諦めてしまった。
「そうだな……俺もこのぐらいのころは……そんな夢ばかり見ていた」
「お前さんがか?」
「おかしいか?」
「いや……どうだかね……」
 おそらく、今日か明日には今回の作戦も終了する。果たしてこの少年は、生き延びることができるのだろうか。そんな心配が偽善であることもよくわかっていたから、長助は胸ポケットから煙草を取り出し、ニコチンで落ち着くしかなかった。寒波が到来しているから外に出るのは辛かったが、命の灯も乏しいこの若者を見続けるよりは、苦痛も少ないはずである。彼はベッドから背を向けると、天然パーマのもじゃもじゃ頭を掻き、部屋から出て行った。

7.
 跳んだ先は吹雪の只中だった。遼、岩倉、ゼルギウスは寒さにがたがたと震え、高川は虚勢で胸を張り、陳は辺りを見渡して警戒している。リューティガーは出現と同時に状況を確認すると、雪の大地であるその場に腰を落としてしまった。なんという疲労だ。距離もそうだが、直前まで怒りに任せて荒んでいたのが災いしているようである。ゼルギウスに打ってもらった強壮剤は心臓の動きを活発化させてはいるものの、同時に嘔吐感をも与えていた。彼は口の中にたまった違和感を息と共に吐き出すと、再び周囲を見渡した。頬に雪が突き刺さる。
 ロシア連邦、ヴォルゴグラード州。かつては「女帝」を意味するツァリーツィンと呼ばれ、後に「鋼鉄の人」、ヨシフ・スターリンの名を冠された人口およそ百十万人の重工業都市である。ガイ・ブルースの指定した合流座標は、都市部からずっと南に離れた郊外であり、かつては人類史上最大の市街戦、スターリングラード攻防戦において枢軸軍とソ連軍の戦車部隊が激戦を繰り広げた平原地帯だった。
 かつてこの大地を、リューティガーは数週間ほど訪れたことがあった。父と母、そして兄の四人で旅行に来たのは十年以上前のことである。父の知人である、画家を訪ねる旅だった。あの頃も、今日のような吹雪だった。土地勘があるから、兄はここに弾頭を保管したのだろうか。弟はもう一度ゆっくりと視線を動かした。
 悪天候ではあったが、リューティガーは次第に周囲の状況を認識していき、やがて数十メートルほど先に三つ連なった野営テントと、停車している装甲車を三輌ほど見つけた。
「ルディ!! 誰か来るぞ!!」
 白い息と共に発せられた遼の言葉に、リューティガーは大きく頷いた。テントの周辺には防寒装備の兵士が幾人もいて、そのうちの一人が手を振りながら駆けてくるのがよく見える。群青色の鮮やかなコートは賢人同盟の正式支給品であり、リューティガーもこれまでに何度か袖を通したことがあった。
「リューティガー殿!! よく来ていただきました!!」
 コートの男はリューティガーたちの傍まで駆けてくると、背筋を伸ばして敬礼をした。
「第十八陸戦部隊指揮官、マッテオ・ダントーニであります!!」
 トレーニングと実戦でよく鍛えられた分厚い肉体だと、コート越しでもよくわかる。その名に聞き覚えこそなかったが、見ただけである程度の信用はできると、リューティガーは敬礼を返しながら現れた中年男性をそう値踏んでいた。
「戦況は?」
「あちらの本部で説明します」
 野営テントへ向かうことを促された一行は、吹雪に背中を押されながら、鈍い感触を足裏に何度も得た。あちこちに黒土が残っているところを見ると、雪はまだ降り始めのようである。岩倉は何度も両肩を擦り、吐く息の白さに遠くへ来てしまった事実を実感していた。
 テントは四方が囲まれていて、中にはストーブもあったため、外よりはずっと快適な環境だった。マッテオはコートのフードを外し、テーブルの上に置かれた地図を指差した。リューティガーと陳はそれを見下ろし、彼の説明を待った。
「ここより北へ三キロ……コルホーズ農業倉庫があるのですが、そこに二発の核弾頭が確認されています。プルトニウム反応も検査済みです」
 マッテオの指した倉庫は、平原の中にあるいかにも見晴らしの良さそうな場所にあった。さて、このように守りづらい場所に、なぜ虎の子の弾頭を保管しているのだろう。まずリューティガーはそれを疑問に思い、顎に手を当てた。
「第一次攻撃を一時間前に開始したのですが、敵の獣人部隊の反撃にあい、現在このポイントまで撤退してきたのが現状です」
「双方の兵力は?」
「こちらが十八陸戦部隊の六十パーセント……実働歩兵三十六名、装甲車三輌。最大火器は、あちらの対戦車ライフルです」
 テントの隅に置かれた長く黒光りする火器を、マッテオは手で示した。平原での陸戦を展開するには、なんとも心細い戦力である。しかし、ロシアと同盟はもともと深い友好関係ではなく、この物量を緊急投入できただけでも、ガイやマッテオの手腕は評価しなければならない。「増援は逐次到着する予定です」その言葉に頷いたリューティガーは、遼たち三人のいわゆる「仁愛組」が、寒そうにテントの中で所在無さそうにしているのが、どこか滑稽であり腹立たしく思えた。

 そう、腹立たしいのである。一度は平静を取り戻したつもりだった。核弾頭の在り処が判明した。緊急の決戦が想定される。その瞬間から任務のために私情を殺したはずだったのに、怒りの根の深さは余程ということか。
「敵の戦力についてですが……バランス・牙という指揮官の存在が確認されています。第二次ファクト時代からの軍事顧問であり、「亡骸製造機」の異名を持つ、ゲリラ戦に精通した男です。彼に率いられている五十体の獣人が、FOTの防備兵力となっております」
「バランス・牙のことなら、昔ロナルド隊長から有能な軍人であると話を聞いたことがあります。しかし五十体……そんなに用意していたのか……」
「それだけではありません、いずれも髑髏の頭部をした新型の獣人であり、重火器にて武装した、陸戦仕様となっております……つまり、火力においても敵は……」
「圧倒しているということですね……わかりました、ダントーニ指揮官……」
 英語のやりとりも軍事用語が多く、早口であるため遼たちには聞き取ることもできなかった。ストーブの前で岩倉と震えながら、遼はテントの中を今一度見渡した。
 通信機が設置され、隅には金属製のケースがいくつも積み重ねられ、あちこちには地図とメモがピンで留められている。なぜ自分はこのような場所にいるのだろう。一度はやるべきことを覚悟したものの、説明もロクにないままこの寒さである。なにやらぼんやりとしてきたのは、現実感に乏しいせいだろうか。
「新開発の光学スコープがあります。装甲車からバッテリーは供給できますが……直接倉庫をご覧になりますか?」
 マッテオの提案に、リューティガーはゆっくり首を振った。
「“見る”ことなら不自由はありません。それより人数分の防寒着を」
「了解しました」
 敬礼を返すと、マッテオはテントから外の兵士へ防寒装備を六名分用意するよう指示をした。
 それにしても、イレギュラーな現地協力者であると噂では聞いていたが、黒い制服姿のこの三人は、まるで素人の民間人のようではないか。マッテオは遼たちを一瞥し、その佇まいに落ち着きが感じられなかったため鼻を鳴らした。
「守りづらいことは確かだけど、逆にいうなら接近も難しいネ」
 地図を見ながらの陳の指摘に、リューティガーは腕を組んで頷いた。
「そうだな……吹雪とはいえ、こうも見晴らしがいいと……なるほど、ブルース指令がルディを呼び出したのも納得だな」
 距離という概念を無効にする能力の持ち主、リューティガーであれば平原の中にある拠点へも容易に潜入することができる。ゼルギウスはそう納得し、ドクターバッグを地面に置いた。

 あそこに……弾頭か……

 リューティガーは、テント越しに北へ意識を集中した。そこには古びた倉庫施設があり、周囲を重火器で武装した髑髏頭の不気味な兵士が警備をしていた。あれが新型獣人か。そう認識した彼は、更に奥へと視覚を伸ばしてみた。

 どれだ……弾頭は……!?

 倉庫内には似たような形をしたコンテナがいくつもあり、弾頭の所在を確かめるのは簡単ではなかった。その周辺では猟犬の頭部をもった忠犬隊が行ったり来たりを繰り返し、中の警備は彼らの担当であることが明白だった。

 あれ……か……

 以前資料で見た、ロシア製の核弾頭と酷似した円筒形の物体を、リューティガーはある大型コンテナの中に見出した。しかしその周辺のコンテナにも、同様の形をしたものが何個も格納されていて、どうやらまるで違う物か撹乱の仕掛けのようにも思える。判断もできぬまま、彼は神経の疲れを覚えて遠透視を中断した。
「やぁ、ルディちゃんとその仲間ちゃんたち!! ガイ・ブルースだ!!」
 テントを勢いよく開け、吹雪と共に入ってきたのは、白いコートを身にまとった長身、ガイ・ブルース指令であった。彼は鋭い目でテント内の一同を見渡し、最後にリューティガーへ胸を張った。
「状況は把握した!?」
「ええ……いま見ましたが……弾頭がどこにあるかまでは未確認です」
「そうね。それについてはこちらちゃんも、正確な情報は得ていない……そこでね、陽動の第二次攻撃を仕掛ける……マッテオちゃん!!」
「はっ!!」
 マッテオは敬礼を返し、その機敏な動作に高川は感心した。手渡された防寒コートを着込んだ彼は、ストーブからやや離れた金属製のケースの前で腕を組んだまま、命令がくるのをじっと待っていた。秘密がばれ、リューティガーは激怒していたが、神崎まりかの件についてはよくわかっておらず、その点において高川典之の罪悪感はずっと薄かった。いや、それ以前に考えるべきことが山ほどある。

 核弾頭など……途方もないことだ……それより……

 年下の道場生、宮川楓の死が高川の心を重く縛り付けていた。もし犯人が逮捕され裁判などになったら、静かに傍聴などできるのだろうか。正義忠犬隊ではないが、自らの手で制裁を加えなければ気が済まないとも思える。吹雪のヴォルゴグラードにおいて、彼の意識は港区高輪台の完命流道場にあった。

「十八陸戦隊は、直ちに全兵力をもって陽動作戦を開始。せいぜい派手に暴れちゃって……で、攻撃開始と同時にルディちゃんはチームで倉庫に跳躍……そこから弾頭を発見して、本部へ跳ばしちゃってちょうだい」
 ガイの命令は単純だったが、少々慎重さに乏しいとリューティガーは思った。
「お言葉ですが指令……弾頭の確認を事前に行うべきでは……」
 尤もな意見である。だが、既に互いの兵を発見し合い、一戦交えた後である。敵がいつ弾頭の移送を開始するかもわからず、またその方法においても引き寄せの跳躍能力者である、アルフリートがいる以上、例えば空港までの連続引き寄せなどされてしまえば、航空兵力の準備が整っていない同盟側にとっては痛恨のミスとなる。ガイの説明に、リューティガーは納得するしかなかった。十全な状況ではない、ほとんどなし崩し的にこうなってしまったのだ。ならば、限定された選択肢の中から最善を選ぶしかない。
「島守くん……」
 防寒コート姿の岩倉が、遼に不安げな目を向けた。コートのおかげと人数も増えたことも手伝い、狭いテントの中はかなり暖まってはいたものの、一向に何をさせられるかわからないという現状が彼を心細くさせていた。それに、リューティガーと打ち合わせをしているガイという男は、緑に染めた髪、紫色の唇といった異相であり、どうにもまともな人物には見えない。
「ああ……そうだな……」
 もうじき、指示が出されるだろう。だがパレロワイヤルの診察室での一件はまだ結論が出ておらず、それが遼にとってはなんとも心に引っ掛かりを残したままで、気持ちが悪かった。リューティガーへの意見は、ここしばらく抱え込んでいた問題の根本であり、あれこそが解決さえすれば、蜷河理佳の一点を除けば大半の問題は解決するのだ。今の彼にとっては核弾頭などより、口論の続きの方が大切だとさえ思えた。

「メッセマー先生……」
 リューティガーに声をかけられたゼルギウスは大きな顎を撫で、ようやく作戦指示が来たかと心を構えた。
「ここから南に二キロの地点の川沿いに、救護ポイントを設営しているそうです。先生はそちらに向かってもらえますか? 場所は確認済みなので、僕が跳ばします」
「ああ、それは構わんが……ルディがいるのに、救護ポイントか?」
 発生した負傷者を設備の整った同盟本部へ瞬時に跳ばせるのが、この異なる力の持ち主が作戦参加している際における最大のメリットである。ゼルギウスは当然の疑問を口にした。
「ええ……僕一人しかいないから、逆に必要なんです。十八陸戦隊の人たちもいますし……」
「なるほど……手が足りないってわけか……わかった」
 陽動部隊に損害が出るのは当然である。それだけ本気で戦わなければ、陽動になどならないからだ。ようやく自分が連れてこられた理由を理解したゼルギウスは、愛用の道具を詰め込んだドクターバッグを地面から拾い上げた。
「それでは作戦開始だ……」
 ガイはそう告げると、マッテオと共にテントから吹雪の大地へと出て行った。

 ゼルギウスを救護ポイントまで跳ばしたリューティガーは、ようやく遼たちに視線を向け、咳払いをした。外では装甲車のエンジン音が複数響き渡り、皆は一様に事がはじまったと緊張していた。
「これより……第十八陸戦隊が陽動を仕掛ける……それと同時に、僕たちはここから北の農業倉庫へ跳ぶ……そこに核弾頭が二発隠されている。直ちに弾頭を発見、本部に跳ばすことが本作戦の目的となる……いいな」
「それぞれの、役割を聞かせてもらおうか……」
 高川の言葉は、どこかトゲがあるように遼と岩倉、そして陳は感じた。リューティガーは手書きである倉庫の見取り図を全員に手渡し、自分の分をよく見えるようにかざした。
「現場到着と同時に、高川くんと陳さんは囮となって警備を引きつけてください。それで敵の中になんらかの防御行動が生じるはずです。僕が透視をして、弾頭の所在を確定します。発見次第接近。ガンちゃんはその際に援護を……遼も僕のガードをしつつ、もし兄がいた場合、暗殺をお願いします」
 言葉を返す者は誰もいなかった。現場がどのようなところかもわからず、それを視覚として得ているのが指揮官のリューティガーのみであるのだから、有無を言わずに従うしかなかった。
「ふん……囮か……」
 やはり、トゲがある。高川の吐き捨てるような言葉に、リューティガーが左の眉をピクリと動かした。
「不服ですか?」
「いや……こなしてみせるさ……」
「当然です……」
 ぎくしゃくしたやりとりだった。だが、もうはじまってしまっている。放っておけば雪が降り積もるように、事態は刻一刻と変化していくのだ。リューティガーは掌に意識を集中し、最初に跳ばす者を眼前の偉丈夫に決めた。


 弾頭が保管されていると思われるコルホーズ農業倉庫は、巨大な一棟の穀物倉庫エリアに、プレハブの事務用兼監視小屋がひとつと、二階建ての用具収納用倉庫といったシンプルな構成の施設である。リューティガーたちが出現したのは、大半の面積を占める穀物倉庫の地下動力部エリアだった。警備の獣人がいないのは、直前の遠透視で確認済みである。頼りないランプの灯りしかないその一角に、リューティガーをはじめとするチームが身を寄せ合っていた。
「高川くん、陳さん、ここから一階へ上がって、左右から突撃を開始……最終的には突破をした上で中央……いえ……北側通路で合流してください!!」
「わかったヨ!!」
「では……参る……!!」
 陳は高川と同時にその場から駆け出したものの、リューティガーの言い淀みがどうにも気になっていた。「今日……遼たちと、もう一人をここに呼んできます」そう言い渡されたのは、今朝のことだった。結局、問い質しの結果はわからないままだが、皆の様子を見ると、どうにも中途半端な状態のまま終わってしまったようにも感じられる。だとすれば、作戦指揮にも微妙に影響があるかも知れず、場合によっては命取りになりかねない。陳師培は階段を上りながら愛用の九環刀を頭上で振り、刀背部分に取り付けられた、九つの金属製リングをガチャリと鳴らせた。これは本来、敵の馬を驚かせるために取り付けられていたものなのだが、それだけに囮としても有効な雑音でもあった。その音は地下のリューティガーたちにもじゅうぶん聴こえ、彼は視覚を異なる力に切り替え、一階の倉庫部分へそれを向けた。

「はじまったか……」
「バランス・牙の部隊が交戦に入ったようだな……」
「いや……それだけじゃない……ルディが来たようだ……」
「そうか……!!」
 用具収納用倉庫の二階、管理室にいた真実の人と長助は、互いにヘッドカムからの情報を耳に入れ、それを外してコンソールへ置いた。ついにはじまった。これで全ての仕上げである。二人の男は管理室を出ると階段を駆け下りた。

 あれか……あれが……弾頭か……

 陳と高川の陽動が始まったのと同時に、一階の倉庫エリアにいた忠犬隊たちの動きが慌ただしくなった。
 三匹の忠犬が、倉庫中央のある大型コンテナに向かった。
 それを地下動力室から透視したリューティガーは、呆気なく本命を見つけてしまった事実に背中を震わせた。
「あったのか、ルディ!!」
「ああ……忠犬隊が急に回りに集まってきた……コンテナの中身も弾頭が二発……間違いないな……」
「囮ってことはないのか?」
「判断は僕がする!! 素人は余計な口出しをするな!!」
 つい、乱暴な言葉を返してしまった。しかし視覚はあくまでも一階上のコンテナ群にあったリューティガーは、遼の様子を確認することもできず、彼らしくもない舌打ちをした。

 こんなので……うまくいくのかよ……

 細かく、ぎくしゃくとし、繋がりが絶たれてしまっている。これまでにも何度か感じたことがある、それは失敗の臭いだった。遼はアサルトライフルを構えた岩倉を見上げ、小さく首を横に振ってしまった。
「これより、僕たちも突入する……一階倉庫エリア、もっとも警備の薄いポイントに跳躍……そこから忠犬隊を遼とガンちゃんで排除……僕はその後弾頭コンテナに近づき、それごと本部へ跳ばす……」
「あ、ああ……」
「い、いつでもどうぞ……」
 忠犬隊と一度は協力して人命救助を行った遼であるから、「排除」という言葉がなんとも辛かった。しかし横須賀ですでに殺しているのである。今更、躊躇っても仕方がないと諦めるしかなかった。

 寒い……なんや……めっちゃ寒いし……どないなっとるんや……

 ぼんやりとした意識の中、花枝幹弥は銃声を耳にした。頬を撫でる風は刃物のように痛みをもって冷たさを伝え、手足は何かに縛られているようであり、四肢の自由は奪われていた。目を開けた彼は、自分が薄暗い倉庫にいることを、高い天井を仰ぎ見ることで知った。
「なんや……ここは……なんや……」
「目が覚めたか……花枝幹弥……」
 背後からの声に、花枝は振り返った。そこには白い長髪と天然パーマのもじゃもじゃ頭の二人の姿があった。いずれも顔は見上げる高さにあり、彼はようやく自分が椅子に座らされていることを自覚した。
「どない……つもりや……」
 意識がまだはっきりしない。いや、はっきりさせようにも全身に痛みが走り、だるく、なにもかもが逆らうように重く、混沌とする一方である。目覚めがピークだとすれば、そこから不明へと下降線を辿っているようである。火薬の臭いを嗅いだ花枝は、この倉庫で戦闘が行われていると、そんな漠然としたことしか認識できなかった。
 どうやら座らされているのは車椅子のようである。となると、背後のこの二人がここまで押してきたということなのだろうか。わからない。この唐突な状況を把握するには、花枝に与えられている情報はあまりにもわずかだった。

「くぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 叫ぶことで恐怖は軽減されることもある。そう教えてくれたのは異形の従者、健太郎だった。岩倉はコンテナの陰からアサルトライフルをフルオートで掃射すると、巨体を隠した。直径5.56mmのNATO弾は一発も敵に命中することはなかったが、狭いコンテナ群の中でそれはじゅうぶんに跳ね回り、威嚇としては的確な射撃となった。
「いいタイミングだ!!」
放たれた銃弾から、羽を広げて空中へと逃れた忠犬の頭部へ、遼は意識を集中した。その途端、まるで操り糸の切れた人形のように忠犬は落下し、ボロ雑巾のように床に崩れ落ちた。
 殺した。動脈を切断し、その命を断った。何度やってもなれることがない、頬を引き攣らせる後味の悪さである。
 九環刀のリングが鳴る音が、倉庫エリアをぐるりと取り囲む廊下の、西側から聞こえてきた。そして反対の東側からは、「対葉陣!!」という若い叫び声が響いていた。二人とも健在である。遼の傍らで片膝を立てて戦況を把握したリューティガーは、弾頭を入れたコンテナの周辺にいた五匹の忠犬が、残り一匹になっていたことに鼻を鳴らせた。
「ルディ!! あと一匹だ!!」
「ああ、よくやってくれた……一匹なら僕がどうにかする……二人とも、援護を頼む!!」
 立ち上がったリューティガーは、コンテナの陰から頭を出すことなく、弾頭の存在を知覚し続けていた。


 敵の意識に許容量を越えた情報を流し込み、気絶、もしくは再起不能のダメージを与える最大の必殺技、「DEAD OR ALIVE」も、このコンディションではおそらく一度ぐらいしか使えないだろう。なんとなく耳をくすぐる日本語も気にはなっていたが、なによりもいまはこの状況を脱することが優先である。まずは背後の二人を倒す。この広い倉庫で戦闘が行われているということは、すなわち味方がいるということである。攻撃のチャンスはそうない。だとすればいつ行う。花枝は目を閉ざし、できるだけ消耗しないようにと心がけていた。
「長助……ここから先は危険だ……待っててくれ……」
「い、いいのか、真実の人……」
「ああ……少しだけ前に出る……」
 なにやら言葉を交わしているようだが、朦朧としかけている意識に正確な内容は理解できなかった。すると花枝は、自分がゆっくりと前に進むのを感じた。どうやら背後から車椅子を押されているようである。なんとも情けない、今の自分は移動の自由すら失われているのか。せめて、目を開けてなにが起ころうとしているのか再確認をしておくべきか。
 なんや……なんで……ルディがおるのや……

 農業用のコンテナ群の向こうに、栗色の髪がちらついていた。リボルバー式の拳銃を構えた彼は、猟犬の頭をした化け物のこめかみにそれを放っていた。崩れ落ちる音と同時に鳥の羽が舞った。夢でも見ているのか。いや、あいつがいても確かにおかしくはない。

 ルディ……合流か……ついに……合流しかあらへんのやな……!!

 ならばこれがチャンスだ。背後の男に食らわせる。たっぷりとしたノイズを頭に充満させ、場合によっては発狂させる。誰だかわからないが、拘束が続いている以上、敵であることに間違いはない。

 背丈よりも高いコンテナを警護していた、最後の忠犬を射殺したリューティガーは、目の前のそれをもう一度透視した。

「ルディ!!」
 遠くから、遼と岩倉が走ってくるのを、リューティガーは聴覚で察知した。確かに円筒形の弾頭が二つ。いつの間に追加の一発を手に入れたのかは知らないが、何にせよこれで任務は完了である。彼は賢人同盟本部の地下、廃棄物処理倉庫のビジョンを思い描き、掌へ意識を集中し、それを正面に突き出した。

 弟がコンテナに触れ、意識を集中しているその姿は、兄は倉庫の奥からじっと見つめていた。昔から変わらない、この気配はあいつが悪戯をするときのそれである。ならば、間違いない。彼は背後で身を伏せていた相棒に指で合図をした。

 甲高いこの音は、いわゆる口笛である。随分とクリアで響きのいい、いわゆる「上手な口笛」である。戦闘が終了したとはいえ、それはあまりにも場違いな空気の振動だった。

 なんだ……これ……

 コンテナに触れた瞬間、リューティガー真錠の意識に奇妙な光景が割り込んできた。どこかの工業施設内のようである。これまでに見たこともない、それは記憶の中にまったくないビジョンだった。なぜ突然そのようなものが感じられるのか、突風と共に巨大なそれが消失するのを凝視しながら、彼は困惑していた。

 なんや……いまのは……

 口笛と同時に、意識の底からずっと向こうへと、なにかを発してしまったかのような違和感である。DEAD OR ALIVEを仕掛けるつもりだった。それと似た感覚の後味ではあったが明らかに異なる点は、やったと思った瞬間の記憶がすっぽりと抜け落ちている点にある。まるで、異なる力を無意識に使ってしまったかのような、そんな不気味さだ。
「ご苦労……花枝幹弥……助かったよ……」
 背後からそんな声がしたのと同時に、全身が上下に揺れ、風景が急速に流れ始めた。どうやら車椅子を思い切り突き飛ばされたようである。身体の自由が利かないまま、花枝の目の前に呆然としたリューティガーの姿が近づいてきた。
「誰……だ……」
 問いながら、リューティガーは長髪でやつれきり無精髭を生やしたその彼と、知った顔を記憶の中で照らし合わせた。
「花枝……幹弥……?」
 震えた言葉に、駆けつけてきた遼と岩倉、そして怪我もなく陽動を終え合流してきた陳と高川が息を呑んだ。花枝幹也についてはリューティガーが最も共に過ごすことが多く、その外見をよく記憶しているはずである。しかしいきなり突き出されてきた車椅子の男は、遼たちにとって呟かれた名前に耳を疑うほど、傷つき変わり果てた姿だった。
「あ……!!」
 花枝の向こうに、弟は兄の姿を見た。背中を向けて立ち去ろうとする、黒いスーツ姿を、彼は決して見間違えることなど決してなかった。奴の仕掛けか。このなんともいえない奇妙さは、兄の作戦なのか。リューティガーは遼の手を握り、本来の目的を果たそうとした。しかし、伸ばしたその先に彼の手はなかった。
「花枝!?」
 車椅子に駆け寄る遼の行動を、リューティガーは予想できなかった。それほど、二人の間合いは無意識のうちに離れていた。突風が栗色の髪を揺らした。兄はもう、農業倉庫から姿を消してしまったのだろう。硝煙と血の臭いがするコンテナ群の中で、少年はわけもわからず、ただ敗北感だけは深く刻まれたことだけはわかってしまった。

8.
「いま問い合わせてみたが……弾頭は本部には届いていない……」
「そうかネ……」
 臨時司令部となっていたテントの中で、ガイは陳に向かって下唇を突き出した。確かに農業倉庫から弾頭を入れたコンテナは消えた。その後、第十八陸戦隊が調査したところによると、プルトニウム反応もみとめられなく、接触跳躍は成功したはずである。だが、本来跳ばしたはずの同盟本部廃棄物処理倉庫にそれは出現しておらず、どこに消えたのかわからないままだった。

「花枝くん……」
「あ、ああ……」
 リューティガーは、花枝を拘束していた四つの革ベルトをナイフで切った。ようやく四肢の自由を取り戻した彼は大きく息を吐き、それと同時に咳き込んだ。手首と足首は紫色に変色し、皮膚の一部は腐敗して、臭気をテントの中に放っていた。
「う、うわ……」
 あまりにも痩せこけ、かろうじて生き延びている花枝の背中を、岩倉は分厚い掌で擦り、高川はマグカップに入れた白湯を飲ませようとした。遼はタオルを求め、そんな彼の意図を察したガイは、レースのハンカチを手渡した。
 テントの中で彼らはそれぞれ懸命だった。誰しも花枝幹弥の無残な姿を我が事のように感じていたからだ。遼は受け取ったハンカチで、無精髭だらけである少年の顔を拭いた。目も落ち窪み、耳たぶにはひび割れも窺える。拷問を受けた形跡は一見して見られなかったが、長期に亘り自由を奪われたことは、素人の遼にもなんとなく想像できた。
「ル、ルディ……」
 ようやく、花枝は唇を震わせた。
「今すぐ、救護ポイントに跳ばします……メッセマー先生は腕のいい軍医です。そこで応急手当を受けてから、本部への搬送をします」
「あ、ありがたい……話やな……」
 消耗の度合いがあまりにも激しい。ゼルギウスの手当てを受ければ一命は取り留めるはずだが、後遺症次第では健全な状態に戻れるかどうかは怪しい。
「どうやら……足……引っ張ってしもうたみたいやな……」
 目の焦点も定まらぬまま、花枝は呻くようにつぶやいた。
「そ、そんなことは……」
「いや……そういうことや……どうやら……お前ん頭の中へ、いらんビジョンを送ったようや……」
「え……?」
「俺は……そないなことができる……おそらくは、催眠術の類や……あん口笛に……やってもうた……」
 花枝の言葉は明瞭さに欠けてはいたが、リューティガーをして違和感を裏付けるのにじゅうぶんだった。
「ルディちゃん……」
 ガイの促しに、リューティガーは頷いた。これは自分の末路のひとつでもある。仲間から孤立し、たった一人で組織に追われ、捉えられた哀れなエージェントが目の前にいる。手を突き出した彼は、車椅子ごと花枝を救護ポイントへ跳ばした。
「どういうことなんだ……ルディ……」
 突風に前髪を揺らせた遼が、呆然としたままのリューティガーに尋ねた。
「どうやら……兄にしてやられたようだ……」
「なに……?」
「花枝くんの能力が……言語情報やビジョンを相手の頭に送り込む、異なる力が利用されたらしい……僕は……弾頭を同盟本部ではなく、奴らの望む拠点に送った……それが結論だ……」
「なん……だって……」
 愕然とする遼の目を、だがリューティガーは見ることなく視線を泳がせた。
「あの口笛が、催眠術の合図だったようだ……」

 日本語もある程度は聞き取れるガイだったため、その言葉に彼は驚いた。第十八陸戦隊は獣人部隊と平原にて交戦中ではあるが、すぐにでも撤退の指示を出すべきである。このような茶番に貴重な兵の命を無駄にすることはできない。彼は通信機を操作して、マッテオを呼び出した。

「ガンちゃん!!」
 遼に呼ばれた岩倉は、慌てて彼に駆け寄った。
「ど、どうするんだい、島守くん?」
「ルディの頭の中に残ってるビジョンってやつを吸い出す……いったんガンちゃんの中へ保存しておけば、確実に残るだろうから……後でそこから場所を割り出す……」
「そ、そうか……!!」
 岩倉は遼の意図を理解して、彼の左手を握った。遼は右手をリューティガーの額に当て、彼の意識に自分のそれを滑り込ませた。

 ガンちゃんフィルタだ……

 岩倉の理解力と把握力をフィルタとして、混沌とした記憶を整然としたデータとして取り扱う。それが“ガンちゃんフィルタ”である。遼はフォルダ状に並んだリューティガーの記憶の中から、最も新しい領域を検索し、一枚のビジョンを引き出した。
 どこの施設だろう。窓がなく、地下のようにも見える。あまりに平面的なそれは、おそらく写真の風景なのだろう。だとすれば連中は花枝にこれと同じ写真を見せ、暗示としてそのビジョンを記憶の奥底に刷り込ませたということである。“夢の長助”の超能力じみた天才的催眠術に関しては、遼も経験したことがあったため、その怖さはよくわかっていた。それにしても衰弱しきった花枝を、画像発信機として利用するとは。島守遼は、これまでFOTに対して恐怖や脅威を感じることがあっても、怒りを覚えることは滅多になかった。しかし頬がこけ、生気もすっかり薄くなりやせ細ったかつての同級生を目の当たりにしてしまった彼は、いますぐにでも敵と戦いたい衝動に駆られていた。

 どうだ……ガンちゃん……

 う、うん……見えるよ……わかる……覚えた……

 誰にも増して、「覚えた」という言葉に信用あるのが岩倉次郎である。遼は二人から手を離すと、マグカップを手にしたままの高川に意を向けた。
「負けたということか……我々は……」
「あ、ああ……よくわからないうちにな……高川、お前はさっき獣人を……?」
「三体ほど倒した……いずれも熊型で……泡になった……」
「俺はガンちゃんと協力して、忠犬隊を四匹殺した……」
 それほどの戦果を上げながら、結果は敗北である。戦いは単純でないと、頭ではわかっている遼と高川だが、殺害の手ごたえと感触ばかりが残るにも拘わらずなにもよい結果が得られない現実は、二人にとってあまりにも苛酷だった。
「ルディ……これからどうする……」
 遼の問いかけられたものの、リューティガーはその場にしゃがみ込み、首を何度も横に振るばかりだった。彼にとってもおそらく呼び出しをかけてからこの瞬間まで息を抜くことが許されず、苛酷な精神状態にあったはずである。ようやく合流した花枝はあの通りであり、弾頭は行方不明のうえ真実の人を捕り逃した。正に踏んだり蹴ったりというやつだろう。ドイツ語で泣き喚かないだけでも、今日の彼はしっかりとしている。遼はその前へ同じようにしゃがみ込むと、「すまん……」と、あらゆる意味を含めて謝罪した。
「いや……うん……」
 混乱がまだ収まらないため、その返事はぎこちなかった。

 そう……そうさ……遼が……謝ることじゃない……

 負けっぱなしである現実は、自分の弱さの露呈である。それはよくわかる。だが、今は深く考えたくはなかった。ただ、兄の容赦のなさだけが恐ろしい。花枝をあそこまで朦朧とさせることが、今回の作戦においてまさしく肝の部分であるから、彼には「死なない」程度の環境を用意していればいい。同盟にも通じる冷徹さを、やはり兄は忘れていなかったということか。

「そうだ……作戦は失敗に終わった……直ちに司令部まで撤退を開始せよ」
 前線のマッテオに撤退の指示を出したガイは、テントの中にいた若者たちを見比べた。しゃがみ込んでいる、あの目つきの悪い彼が、どうやら一番心をしっかりと保っているようである。確か接触テレパスの使い手だったと聞くが、民間人にしては中々肝の据わった男である。
 ごく稀にだが、訓練を受けておらずとも環境や状況の変化に影響されず平常心を保てる者がいることを、ガイはよく知っていた。アフリカでのゲリラとの戦いで何度か発見したそれは異能というものである。おそらく、この彼は余程以上のことがなければ心を壊すことがない。

 もっとも……個人的なこととなると……総崩れするって悪い面もあるんだけどねぇ……こういったタイプは……

 リューティガーの額に手を当てていた挙動は、彼がなんらかの策を巡らせたと見て間違いないだろう。説明は後で受ければいい。
 この場は彼らに任せてもよい。そう判断した異相の司令官は、「撤退の指揮を執る!!」と言い残すとテントを立ち去り、若者たちに後を任せた。

9.
 長期にわたる監禁、拘束による運動と栄養の不足。それが眼前でぐったりと車椅子に座る、花枝幹弥を一見したゼルギウス・メッセマーの答えである。白衣姿の彼は治療の途中だった第十八陸戦部隊の歩兵に包帯を巻き終えると、再び車椅子の前までやってきた。

 仮設司令部のあるテントから南下した川沿いに、救護ポイントとして用意されたプレハブの建物があった。ガイ・ブルースがこの土地に入ったのと同時に、工兵部隊によって設営された急造施設ではあったが、暖房と浄水設備が思いのほかしっかりとしていたため、ゼルギウスは運び込まれてきた負傷者の治療を心置きなく行え、司令の手際には感心をしていた。

 ここで治療を受けた者は、その程度によって再び前線へ戻されるか、もしくは数時間後に到着する予定であるヘリに運び込まれ、そのまま本部か病院に送還される予定になっている。この瀕死者はどう考えても後者である。ベテラン軍医であるゼルギウスは花枝の目にペンライトを当て、手首と足首を掴み、背中を撫で、触診を試みた。

 ビタミンAの極度な不足による抵抗力低下のため、器官障害の影響が肌にまで現れている。拘束は両手足の筋力を著しく損ない、関節の固定に弊害が出ているほどである。
 長期療養とトレーニングによりある程度の回復は見込めるものの、器官障害は恒久的に健康を蝕むため、場合によっては移植、機械化などの手術が必要である。カルテにそう書き込むと、ゼルギウスは栄養剤と興奮剤を混ぜ合わせた薬品を、花枝の腕に注射した。
 興奮剤には、アルカロイド系の麻薬も含まれていた。これは彼が呻くほど苦しんでいる体内の痛みを和らげるためであり、朦朧としかけていた意識をはっきりさせ、治療と搬送を速やかに行うための投薬だった。
「カテゴリーIIに分類……そう司令部には伝えておいてくれ」
「了解しました」
 予め、この救護ポイントで待機し、助手となって治療の手伝いをしている衛生兵にゼルギウスはそう指示を出した。カテゴリーIIとは傷病兵をランク付けして措置を決定する、トリアージという分類法で使われる区分である。この場合は命に緊急の事態はないものの、即座に搬送の必要がある、といった種別を意味し、それに応じて衛生兵は黄色いタグの付いたバンドを持ってきた。

 リューティガーによって救護エリアへ跳ばされたあと、ゼルギウスはすぐに機材のチェックを行い、最後に確認したのがこのバンドの長さだった。これはすぐにその患者がどのような状態にあるのかを一見しただけで把握できるようにと用意されたものであり、彼は常に首に巻くように取り付けている。以前、南米の反政府軍に従軍した際、用意されたバンドがあまりにも短く、衛生兵に「なんだこれは」と抗議したところ、「手首に巻くのだからこの長さでいい」と言い返され、この国が数十年ぶりの内戦であり、あまりにも平和に長く漬かり過ぎていると、あきれ返ったこともあったゼルギウス医師だった。
 タグは四色あり、それぞれがカテゴリーレベルに対応している。最悪の状態、すなわち死亡を意味する黒いタグは、今回の物資には含まれていない。同盟の陸戦部隊は内勤の者や衛生担当とは異なり、その全員が泡化手術を受けていたからだ。
 ゼルギウスが花枝の首に、黄色いタグのついたバンドを巻くと、うめき声が漏れ聞こえてきた。
「最悪や……」
 それは日本語だったため、ゼルギウスには意味がよくわからなかったが、口調から後悔の念はよく滲んでいるように思えた。
「あかん……こないな醜態……檎堂はんに拗ねたりせぇへんかったら……なにもかも俺の判断ミスや……つくづく……救いようのないアホやし……」
「せっかく少しは回復した体力と精神力を、後悔や愚痴で浪費するのはいかがなものかと思うがな……」
 気を遣い、ゆっくりとした英語だったため、認識力の低下していた花枝も、眼前でガーゼを当てている白衣の男がなにを言っているのかよく理解できた。

 こっちのほうがラクかな……イングリッシュで送ってる……わかるか、先生……

 意識へ急に飛び込んできた言語情報に、テレパシーというものに未経験だったゼルギウスはひどく戸惑った。
「あ、ああ……しかしいまは休養が先決だ……後悔でストレスが解消されるのなら、少しは付き合わんこともないが……」

 嬉しいね……そんなに暇なのか?

「マッテオ・ダントーニは有能な指揮官さ。現在まで四名の負傷者しか届いておらんし、いずれも軽傷だ。もっとも、その倍の現場死者がでているという情報だが……」

 しかし、そろそろ戦いも終わるだろうな……

「ほう、なぜそんなことがわかる?」

 こちらの作戦は失敗……あちらさんは逆に、目的を完遂したからさ……

「そうか……それは残念な結果だな」

 鋏で包帯を切ったゼルギウスは、一通りの応急手当を花枝に施すと、軽い力で彼の肩を叩いた。
 実のところ、軍医にとって作戦の成功はあまり重要な関心事ではない。彼らの忙しさは勝利でも敗北でもあまり大差がないからだ。勝利などされれば、捕虜の治療という仕事も増えてしまう。敗北の場合は撤収の混乱で治療もままならなくなるため、それは医師として満足な仕事ができない結果を生む。どちらにしても、あまり好ましい事態ではない。

「そんな便利な力があるのなら……復帰の道は多岐に亘るな……羨ましい限りだ」

 あほ……なに言わはる……この力で、負けが確定したんや……羨ましい言われても、ちいとも嬉しないわ……

 思わず出身地の言葉を飛ばしたため、ゼルギウスには意味が通じなかった。彼は首を傾げて苦笑いを浮かべると、テントの窓から外を見た。
「吹雪がすっかり止んだな……確かに、戦闘を止めるにはいいタイミングだ……」
 もうすぐ搬送用のヘリも到着するだろう。最終的に戦傷者が何名になるのかはわからないが、これから忙しくなると判断したゼルギウスは、花枝から離れて外で警戒に当たっている護衛の兵に声をかけようとした。

 しかし、テントの扉を開けたゼルギウスの目の前にいた兵士は、銃声と共に頭部に風穴を開け、その場へ崩れ落ちた。貫通弾を運よく頭上に通過させていたベテラン軍医は、だが飛び散った脳漿を白衣に浴び、即座にテントへ戻った。
「上空からの狙撃だ!!」
 前線から遠く、山も丘も見当たらないこの救護ポイントに、敵が狙撃可能地点に移動するとすれば空路しかない。しかし一向にヘリや航空機のエンジン音も聞こえず、ならばグライダーかとゼルギウスは叫んだあと身を伏せ、窓から外を警戒した。

 なんや……敵の追撃かいな……

 自分の体内に追跡用の電波を発信するチップが埋め込まれている事実を、花枝は知らなかった。負傷者の徹底した殲滅は、健常である兵士の戦意を削ぐのに効果的である。チップの埋め込みはFOT指揮官、バランス牙の発案であり、彼自身の経験に基づかれたアイデアだった。

 爆音もなく、上空からの狙撃をするとなれば、おそらくあのような敵なのだろう。花枝は伊壁志津華の部屋で、彼女と共にテレビのニュースで見た、羽の生えた忠犬の姿を想起した。彼は痛みが和らいだ身体が麻痺していないことを両手を握り締めることで確かめると、ゆっくりと車椅子から立ち上がった。

 少しは……失態の埋め合わせをせぇへんと……誰にも顔向けでけへん……

 銃撃に備えてゼルギウスや衛生兵が負傷者を庇うために伏せる中、花枝はよろけそうなほど衰弱しきった肉体に気合いを入れ、ふらふらと出口まで向かった。
「こら!! 少年!!」
 ゼルギウスは無謀な行為を止めようとしたが、急に頭痛が走ったため、その場に尻餅をついてしまった。そうしている間にもテントには狙撃による穴が開き、兆弾が躍った。

 いた……やつらか……

 静止を、軽度なDEAD OR ALIVEで跳ね除けた花枝は、テントから出て青空を見上げた。
 そこには、羽を広げた四つの人影がライフルを手に舞っていた。

 いける……これなら……

 ずいぶんと意識が明確である。肉体はともかく、精神的なコンディションはかなり回復している。ワイシャツにジーンズ姿は十一月のロシアでは心もとない服装ではあったが、短期決戦であればなんとか凌げる。テントを背に岩陰に隠れ、座り込んだ花枝は大きく深呼吸をして、ヴォルゴグラードの冷たい空気で肺を満たした。場所の把握はできた。後は存分に全力のDEAD OR ALIVEを仕掛けるのみである。彼は意識を集中した。

「な、ななっなんだよ!?」
 すぐ左で狙撃体勢に入っていた、忠犬五号ことシャーム・ジャハーンが突如として意識を失い、泡化しながら墜落していく様を二代目我犬(ガ・ドッグ)は戸惑いながら見下ろしていた。いったいなにが起きたのだろう。迎撃の銃声どころか、肉体が破壊される音や一滴の血や煙も知覚していない。だとすれば、奴か。我犬は丸々とした体躯で、上り症で吃る癖があったものの、戦闘判断にかけては一代目より優れ、身体能力が劣る分、慎重だった。
「散開しつつ、あ、あの岩陰を狙う……!!」
 花枝が岩陰に隠れているのを、そこから伸びた影で気づいた我犬は、ライフルを肩に提げサーベルを抜いた。接近戦の合図に残りの二匹も従順に応じ、三匹の忠犬は空中で別れた。

 結果として、囮となってくれた。小型の発射管を握った手を、テントの中から伸ばしたゼルギウスは、花枝の行為を無駄にしないために発光弾を空中に打ち上げた。

 光の玉が、空中で強烈に輝いた。一瞬だけ怯んだ三匹の忠犬は、だが作戦展開を中止することなく、三方から岩陰目掛けて急降下をした。ここからでは、救援は間に合わない。発射管を拳銃に持ち替えたゼルギウスだったが、三匹の動きはあまりにも素早かった。
「DEAD OR ALIVE!!」
 そう叫ぶのと同時に左の忠犬が失速し、地面に鼻っ面を叩き付けた。しかし我犬を含めた残りの二匹はサーベルを突き立て、地面すれすれまで降下すると、制動のため羽ばたいた。

 冷たい刃が二つ、花枝は右肩と左肺を通過していくのを感じていた。羽ばたきにより地面の雪が舞い上がり、犬たちの強烈な口臭が白い煙となって嗅覚を刺激する。

「あかん……」

 致命傷であることは歴然としている。訓練の中には、人がいかにして生命を失うかといった授業も含まれていたし、エージェントの任務として、これまでに幾人か殺してきた花枝である。この傷に耐えられるだけの体力がないことぐらい、よくわかっていた。座り込んだままの体勢だった彼は、体温によって暖かくなったサーベルが引き抜かれた後、その場に崩れ落ちてしまった。
「て、て、撤収!!」
 今日だけで七匹もの部下を失ってしまった。そのうち五匹は任務のために囮として止むを得なかったものの、我犬にとっては痛恨の一日である。今夜は恐怖と後悔で眠れないだろう。震えながら再び羽ばたいた彼は、仲間の一匹と共に空中へ舞い上がった。発光弾を撃たれた以上、司令部からの増援は明らかであり、これ以上ここに留まれば全滅もあり得る。恐怖に支配されながらも、判断はあくまでも的確だった。


 発光弾を仰ぎ見た直後、たった一人で跳んできたリューティガーだった。拳銃を片手に彼は、岩陰で蹲る花枝に向かって駆け出した。
「花枝くん!!」
 抱きかかえたリューティガーの掌と身体に、大量の赤い体液がこびりついた。雪も同じ色に染まり、命に影響するほどの失血であることは明白である。遅れてやってきたゼルギウスは、見上げてきたリューティガーに首を振った。本部に跳ばしても、もう間に合わない。何人もの戦死者を見届けてきた軍医の決定は速やかだった。
「ほんま……すまんなぁ……ルディ……」
「花枝くん……」
 やつれた顔に血の気はなく、それはすっかり地面へとこぼれてしまっていた。リューティガーも、かつては仲間の死を見届けたことがある。だから肩を抱くのも慣れていたし、花枝を寒気が襲っていることもよくわかっていた。
「梢ちゃん……護ってな……俺は……もう……でけへんし……」
「あ、ああ……」
「一度くらい……遊びに行きたかったな……みんなで……」
 行けるさ。手軽な励ましを、死に行く者への手向けにしたかったリューティガーだったが、咳と共にあまりにも多い血を吐いた花枝幹弥は、それを耳にすることなく朦朧とした中にあった。

 彼が最後に見たものは、ある少女の振り返る姿であった。

 彼が最後にしたことは、その彼女に対する謝罪と感謝であった。

 抱いていた身体から力が抜け、体重がそのまま腕と膝にかかり、なによりも座らなくなった首のため、頭ががっくりと前方に垂れたのが一番わかりやすい合図だった。リューティガーは決して泣くことはなかったが、境遇を同じくする同年代のエージェントの死に、両目を閉ざした。


「礼を言いに来た……」
 突風と共に、冷たくなってしまった躯を抱えていた弟の背後に、兄が白い長髪をなびかせて現れた。
「貴様……!!」
 振り返ったリューティガーは見た。兄の冷たく凍った表情を。それはこれまでに一度も見たことのない、鉄仮面のような冷血だった。
「おかげで弾頭は、それを運用できる場所へと移送できた……二人のサイキによってな……」
「貴様……よくも花枝を……!!」
「なんでもやれるさ……誰でも殺せるし、誰とでも友達になれる……だって俺は真実の人(トゥルーマン)なんだ……お前のように、過去を清算できない愚か者ではない」
 そういい残すと、再びの突風がリューティガーの栗色の髪をなびかせた。

 敗北である。それも徹底的な。リューティガーは泡になっていく腕の中の彼を、もう強くは抱くことはできないと、力を緩めるしかなかった。音を立て、泡がはじける。その度に体積は減少し、肉体は気化していく。
 この醜い屍は、自分の未来のひとつだ。連携と強調を拒絶した結果であり、それこそ兄の言っていた、「過去を清算できない愚か者」が辿ってもおかしくない末路である。それを思い知らされた弟は、勝てない現実に歯噛みするしかなかった。

10.
 はるみは代々木パレロワイヤルの裏口に停められた、二台のバイクの前でじっと佇んでいた。あれからもう二時間は経っている。夜になった代々木の街はすっかり冷え込んでいるが、ロシアのヴォルゴグラード郊外と言っていたから、彼らはもっと寒い場所で戦っているはずである。
「神崎……」
「はるみちゃん……」
 遼と岩倉の二人がマンションの陰から姿を現し、待ち続けていたはるみに声をかけた。よかった。怪我をしていない。学生服姿の二人は疲れが顔に浮かんでいたものの、無事であるように見える。はるみは思わず笑みを浮かべ、二人に駆け寄った。
「た、高川くんは!?」
「あいつは電車だから、駅に向かった……陳さんたちも……誰も怪我はしてない……怪我はな……」
 遼の言葉に含みを感じたはるみではあったが、想う相手が無事だったことはなによりの喜びであり、彼女は胸に手を当てて何度も瞬きした。
 安堵の次に来るものは、従来の不安である。すべてがばれてしまったことにより、いったいなにがどう変わってしまうのか。遼と岩倉は、ちょうど記憶を消してしまえる二人であり、覚悟しなければならないのかと、はるみは視線を落とした。
「は、はるみちゃん……と、とりあえずだけど……なにも……すぐにどうとかってことにはならないと思うから……安心して」
「え……?」
 不安を岩倉に見抜かれたはるみは、彼の巨体を見上げた。岩倉は坊主頭を掻くと、遼に説明を目で促した。
「ルディが……それどころじゃねぇんだ……いま、ベッドにぶっ倒れて気を失ってる。怪我はしてないけど、相当落ちこんじまってる」
「な、なにがあったの?」
「花枝が……花枝幹弥が死んだ……」
 その名を忘れたわけではない。交流こそ特になかったが、関西弁で茶髪の転入生のことは、はるみもよく覚えている。だが彼の名がなぜこの場で出てくるのか、少女にはさっぱり理解できなかった。
「どうして……なんで、花枝なの?」
「あいつは、ルディと同じで日本にやってきた賢人同盟のエージェントだったんだ。そして、俺みたいに異なる力も使える。転校は敵から逃げるためで、結局捕まって……利用されて……ついさっき……死んだ……」
「し、死んだって……」
「忠犬隊と戦って殺された……それで、ルディはすっかり落ち込んだってことだ……いまは神崎のこととか、俺たちをどうするかなんてすぐには考えられないと思う。学校も……しばらく休むかもな」
 どう受け止めていいのかわからない、ただひたすらに困惑しか生まない話だった。しかし、ともかく言葉の最後だけは自分と直接関係があったため、はるみは強く頷き返した。
「どう……なるか、わからないのね」
「そうだ……それに、戦いは負けだった……核弾頭は、まんまと敵の望む場所に跳ばされた……実はそっちの方が、遥かに重要なんだけど……正直、俺たちも今日は疲れた……」
 核弾頭の話は、以前に聞いたことがあった。もしそれをFOTが日本に向けて使うのなら、間違いなくその標的はこの首都、東京であるはずだ。はるみは肩と頬に寒気を感じ、遼を不安げに見上げた。
「あのさ……ガンちゃんが予備のメット、持ってるんだけど……これから三人で、飯でも食いにいかねぇか? なんか……一人で帰りたくねぇんだ……」
 死闘の末、自分を求めてくれるのならこんなに嬉しいことはない。少女は大きく頷いて、大好きな彼の頼みに即答した。


 朝茂田小太郎は柔術完命流を学ぶ中学三年生の男子である。今夜彼が道場を訪れたのは、受験勉強に集中するのでしばらく稽古に来るのを休ませてもらうことを師範の楢井にお伺いを立てるためだった。

「文武両道は、完命流も推奨する生き方である。かの高名な達人、東堂かなめも受験期には稽古を半年ほど休んだ。気をもむことはない。存分に勉学に励み、見事合格の知らせをこの楢井まで届けてくれ!!」

 気持ちのいい言葉である。“気をもむ”の表現が少々オーバーにも感じられるが、それはそれであの人らしくていい。朝茂田は励ましに喜び、宮川楓の死を乗り越えた師範の精神的な強さを自分も見習うべきだと強く感じながら、高輪台の住宅街を駅に向かって歩いていた。
「あ……」
 電柱の陰から姿を現したその少女に、朝茂田は見覚えがなかった。灰色のブレザーはどこかの制服にも見えたが、その下がTシャツとジーンズであるため、そういうデザインの売り物なのだろうとすぐに認識した。吊り上がった目は落ち着いた様子でこちらをじっと見つめ、年齢は自分とそれほど変わらないように見える。
 さて、彼女は何者だろう。もう一度記憶を巡らせてみたが、やはり初対面であるとしか思えない。ならばなぜ、見つめ続ける。
「なんでしょうか?」
「適合するレベルの者を探している……」
 そう返した少女は、周囲に人影がないことを細かく視線を動かし、神経を集中することで再確認した。質問は最低限にしなければ、接触が長引くほどリスクは高まる。それは、暗殺者として祖父からごく初期に教わったことだった。
「適合? レベル?」
「完命流柔術を学ぶ者と見受けるが……」
「あ、ああ、うん……そうですけど……も、もしかして入門希望?」
 道場に通じる路地でもあるし、その可能性は極めて高い。少々険のある顔つきだが、美少女であることには変わりなく、このような子が入門してくれるのは非常に嬉しい。そう感じるのと同時に、少年はだとすれば稽古を休むのを延期してもいいかと打算した。
「手合わせ……願う……」
 前回は失敗だった。あのような完璧な襲撃では、実力向上のための殺しにはなってくれない。だから今回は、一言だけ付け加えてみた篠崎若木だった。彼女はすっと右足を前に出すと、頭が上下しない、滑り込むかのような挙動で彼との間合いを詰めた。
「な、なに!?」
 只者の動きではない。武道かダンスの心得がなければ、このような無音での接近などできるものではない。手合わせと言ったが、本気なのか。アスファルトの地面とコンクリートの塀に囲まれた路地で組み稽古とは、いくらなんでも無謀である。だが、朝茂田は気が付くと完命流、受け流しの構えをとっていた。
 そうでなくては。若木は口の端を少しだけ吊り上げ、左足を強く踏み込み、膝のバネで少年の左側面に跳んだ。
 今朝、一匹の野良猫を路地で見かけ、それがあまりに可愛いので撫でてみようと挑んだ朝茂田少年だった。しかし警戒心も強く、なにより優れた運動神経と筋力をもっていたそれは、目にもとまらぬ俊敏さで眼前から姿を消し、気が付けば塀の上でうなり声を上げていた。そんなことを思い出してしまうほど、素早い若木の挙動だった。
 少年の左膝裏を踵で蹴った少女は、呆気なく崩れた彼の喉元を左手で掴んでそのまま上体を反らせるようにし、後頭部を突き上げた右膝に叩きつけた。呻き声を漏らした朝茂田は、少女の顔が冷たく見下ろしているのに気づいた。
 それが、朝茂田小太郎が視覚した、最後の顔だった。コンクリートの塀に勢いよく押し付けられた彼の顔面は、なおも後頭部に引っ付くが如く当てられた少女の膝に挟まれ、鼻からは出血し、瞼に亀裂が生じた。
 連打。連打に次ぐ連打。立て続けの右中段蹴りは、少年が塀から離れることを許さなかった。

 七発目の後頭部への蹴りで、朝茂田少年は意識が完全に切断された。もう、彼がこの路地を歩くことはない。携帯ゲームを楽しみながら道場に向かう途中、「ゲームをやりながら歩くとは、不良の兆候なり!!
」と偉丈夫の兄弟子に叱られることもなければ、敬愛する師範に電気料金の支払いを頼まれ、コンビニエンスストアまで慌てて駆け出すこともない。朝茂田小太郎は、もうない。なにもない。終わってしまった。

 まだ弱い。自分より年上と思しき男子だから、もう少しまともな「攻防」というものを期待していたのに。これではあの幼い少女を惨殺したのと大差がない。仰向けになって地面に倒れる朝茂田を一瞥すると、若木はその場から闇に向かって駆け出した。もっと強い相手が必要だ。まだまだ経験が足りない。以前より多少はレベルアップしたはずだが、この程度では、まだあの男には勝てない。
 復讐こそ生きがい。高川典之をこの手で殺めることこそが、次の段階へ進むための通行手形。篠崎若木はそれを得るため、もっと死を生産しなければならなかった。


「一時的な心神喪失……まぁ……この栄養剤が効くころまでには、そっちの立て直しを頼んだぞ……」
 寝室でゼルギウスから栄養剤を注射されたパジャマ姿のリューティガーは、無言のまま頷いた。
「眠くなるが、それは睡眠薬をブレンドしているだけだから安心してくれ。それじゃ……安静にしててくれよ。今はそれが君の仕事だ」
 一言付け加えたゼルギウスは、ドクターバッグを片手に寝室から出て行った。すると、彼とは入れ違いに、浅黄色のセーターにジーンズ姿の少女が、おずおずとした様子で部屋に入ってきた。
「エミリアか……」
「はい……いま、ガイガー隊長と健太郎さんの三人で帰ってきました……また明日には出発ですけど……一応、今日は生産拠点のひとつを潰しました……」
 エミリアの報告に、上体を起こしたままのリューティガーは笑みを浮かべた。
「たいしたものだ……ガイガー先輩は着実に戦果を上げているね。僕とは大違いだ」
「で、ですけどそれは、任務のお膳立てから難易度まで……等しくは語れないものですから……!!」
 垂れた目を何度も開け閉じし、プラチナブロンドの短髪を左右に揺らして懸命にフォローをしてくれる彼女の、なんと思いやりがあることか。リューティガーは、感謝しながらも静かに首を横へ振った。
「いいや……自分の愚かさは認めているつもりさ……しがらみやこだわりを断ち切れない者がどのような末路を迎えるか、僕は今日、あの雪の大地でそれを見てきてしまった」
 作戦の失敗と花枝の死は予め陳から聞き、それをして慰めてやって欲しいと頼まれてきたエミリアだった。自身も参加した作戦の疲れがあったし、なによりも成功を褒めて欲しかったが、尊敬するべき指揮官の凛然とした姿を第一に求める彼女は、ベッドの傍まで歩くとサイドテーブルに置かれたコップへポットから水を注いだ。
「けどね……だからといって、カオスの皆やヘイゼルのことを割り切って考えられない……」
「ルディ様……」
「たぶん……怖いんだ……僕が死んだとして、忘れられてしまうことが……殺されて、その相手が許されてしまうことが……怖いんだ……」
 エミリアからコップを受け取ったリューティガーは、水を一気に飲み干した。
「ルディ様には、わたし達がいます……わたしは……忘れも許しもしません……!」
 強い口調だった。それだけに、哀れにも思える。コップを返したリューティガーは、笑みを自嘲気味なそれに変えた。
「それじゃ……ダメなんだよ……僕たちは同盟のエージェントなんだ。優先されるのは任務の遂行。それにより、世の中がよりよくなると信じるしかない。私情を捨てなければ、哀しむ事態はより拡大する……」
「小さいころ、両親からそれは何度も聞きました……けど……わたしは、ルディ様を殺させるようなことは決してさせません。それなら、よろしいですよね」
「エミリア……」
「わたしと違い、ルディ様にはできること、やるべきことがずっと多くあると思えるのです。だから、わたしはルディ様が生きることをなによりと考えます……できれば常にお傍にいたいとさえ、思っているのですから……」
 弱々しく、このままでは折れそうな心に感じられる。だから言えてしまった。これは告白の一種なのだろうが、それをこの敬愛するべき指揮官はどう受け止めてくれるのだろうか。少女はコップを両手で持ったまま、耳まで熱くなってしまっているのが恥ずかしくて仕方がなかった。
「嬉しいよ、エミリア。けど、もっと自分の可能性を高く考えるんだ……君と僕にそれほどの差はない……」
 優しく、穏やかな、だがそれは拒絶の顕れであった。エミリア・ベルリップスは深々と頭を下げると、「おやすみなさい、ルディ様」と挨拶し、寝室から出て行った。
 花枝幹弥というエージェントのことは知らない。けど、あの人を同じ結果には、命に代えてもさせはしない。上官としての戒めや、気持ちのない拒絶など、そんなものでこの気持ちを変えさせることは決してできない。
 ルディ様にはもっと高い場所、立場でのご活躍をしていただきたい。だから、自分がお守りする。弱気に負け、生き延びることに疲れかけているのなら、なんとしてでも励ましてみせる。コップを大切そうに両手で持ったまま廊下を行くエミリアは、その想いをより強くしていた。

第二十九話「夢を、残酷なる夢を」おわり

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