真実の世界2d 遼とルディ
第三十話「要求するは、ただ一つ」
1.
 人生とは戦いである。戦いとは得るため、もしくは失わないための行為である。すなわち、人生とは得ることに戦い、失わぬために戦う。

 最初にこの言葉を親父から聞いたのは、果たしていつのことだったか。まったく思い出せないが、たぶんそれほど昔だったんだろう。
 もし自分の心の中に「男の語録」というものがあるとすれば、これが最初の頁に記されることだけは間違いない。つまり、それほどのお気に入りってやつだ。

 そう、あれは小学校一年の夏休みだ。身体の芯というものが抜けたような、そんなこんにゃくのようにふにゃふにゃした奴だったから、最初の言葉を言ってやった。あいつはちっとも理解できちゃいないみたいで、相変わらずふにゃふにゃしたままテレテレだった。
 小学校二年の冬休み、そのこんにゃくのテレテレがこんなことを言いやがった。「生きることは奪い合いだ」なに言ってやがる。戦いだっつーの。マジむかついたから、一発どついてやった。こんにゃくテレテレは廊下で尻餅をついて、十秒ぐらいして泣き出した。

 間違った意見を正すのに、口なんていらねぇ。ぶん殴っちまえば手っ取り早い。

 暴力は簡単で便利だと、彼はその使い道をよくわかってしまった。それ以来、面倒だと殴る。蹴る。ケガさせると厄介な相手なら、脅す、睨む。だいたい、そんなことで苦労も少なく生きてきた。人と比べれば、少々友達の数が少ない。というか話し相手もほとんど居ないのが少々ナニだし、隙を窺う「敵」の目がうざったいが、舐めてかかってくる阿呆がいないぶん、それはそれで気楽だ。

 絵は、ちょっとした偶然だった。たまたまテレビで見てしまった化け物を、ビデオの録画がわからないから、チラシの裏に模写したのがきっかけだった。我ながらよく描けたと思う。親父に見せたところ、「よく描けている。こりゃ、使えるな」と褒めてくれたが、その成果は取り上げられてしまった。いったい何に「使え」たのやら。
 親父の仕事は殺人課の刑事だった。絵というものが自分に向いているとわかったあの日から数ヵ月後、親父は死んだ。なんでも、テロリストを相手に銃撃戦だったらしい。「真実の徒」とかいう武装集団はその頃とっくに滅んだはずだったのに。どうやら、残党だったそうだ。運がねぇ話だ。
 葬式では、棺の中を覗かせてもらえなかった。親戚の松おじさんが言うには、遺体はもうすっかり細かくなってて、とてもじゃないが、棺に入れられるほど「量」がなかったらしい。銃撃戦で細かくなるとはよくわからないが、とにかくそれから一ヵ月ほど、どうしていたのか。なにやら記憶が曖昧だ。たぶん、絵でも描いていたんだろうと思う。気晴らしに。

 教室で右斜め前の席に座る、藤原未来(ふじわら みらい)という女生徒はこのクラスで、権藤早紀、永井まどかと並んで、「いいじゃん」と思っている女子だ。
 けど、思うだけだ。そもそも、女と付き合えるとは思えない。たぶん自分には親父のように、身近な女性へ暴力を振るう血が流れているはずだから。
 とにかく、この三人はいい。だからラーメンの看板書きなんて面倒な仕事でも、藤原の提案だから受け入れたのだ。

 仁愛高校二年B組、大和大介(やまと だいすけ)は教室の扉を開けると、ボタンをひとつも留めていない詰襟の裾をなびかせながら、中へと入った。
 髪は三分まで刈り込み、目つきは鋭く、眉は生まれつき無いに等しいほどの強面である。まず、権藤早紀の在席を確認した彼は、うっすらとした怒気を発散させながら、目を合わせまいとする横田良平を睨みつけ、舌打ちをしてからまっすぐ教室の最後列を窓側に進んだ。
 自分の席までたどり着くのに、ひとつのごく小さな問題を処理するのが彼の日課だった。麻生巽(あそう たつみ)の背後を通り抜ける瞬間だけ、大和は軽く緊張し、互いの領域が触れ合わないように気を遣った。
 麻生はボディビルをやっているらしい。暴力という点なら高川典之(たかがわ のりゆき)や自分と比較して、それほど対した実力はないだろう。しかし、日本人離れした立体感に溢れたイタリア顔はどこか凄みがあり、常に不機嫌と不満のブレンドされた雰囲気というものを醸し出していて、これまでにも校内でいくつかの武勇伝を残しているという噂らしい。おそらく、こいつは自分と似たような人種なのだろう。だから無用なトラブルは避ける。
 ようやく天敵の後ろを通り抜けた大和は、藤原と永井が並ぶ隣の列をちらちらと見ながら、足だけで椅子を引き、鞄を机の上へ落とし、乱暴な挙動で席へついた。
 隣の「重戦車」こと、向田愛が、なにやら抗議の目を毎度のごとく向けているが、知ったことではない。好きにやらせてもらう。そのかわりこちらからも干渉はしない。それが大和大介の流儀だった。

 奪わず、されど奪われず。最近テレビのドラマで聞いた台詞だ。なかなかいい。人に迷惑をかけないが、降りかかる火の粉は全力で振り払う。たぶん、そんな意味だろう。これも語録の四ページ目に記して、いざという場面で使ってみよう。
 戦い得ることとは、奪うことにもなる。

 語録の矛盾に気づくこともなく、大和はスラックスのポケットに両手を突っ込み、もう一度なんとなく舌打ちをした。

 彼は学校にあって、孤高の無頼漢を気取っていた。

「や、大和くん……看板……あ、ありがとう……おかげで店も繁盛したし……引き受けてくれて、本当に嬉しかったよ……」
 人に礼など言われたのは、初めての経験だった。プロデューサーであり、これまでまったく接点のなかった関根茂が、下駄箱で頭を下げてきたのは、文化祭が終わった数日後のことである。
 肩が震えていた。感謝をしながらもビビっているのが丸わかりだ。けど、悪い気はしない。なのに、思い出す度に舌打ちが出る。

 絵の仕事。そんな選択肢はとうに捨てた。ちまちまと筆を使い、キャンバスと向き合うのは、実はそれほど嫌いじゃない。見たものをそのままに再現していく作業は、創作というやつとは少々異なるのかもしれないが、完成するまでの過程で心地のいい手応えが得られる。
 だけど、それを生きる糧にしようとは、まったく考えていない。手応えがあろうとも、集中した結果を吐き出すのが楽しかろうとも、ただそれだけだ。あくまでも趣味の世界ってやつだ。ばかばかしい。

 中学の頃、気まぐれで美術部に入ったが、どうしても他の連中とソリが合わず、いつも気まずいムードで嫌な思いをしていた。なんというか、絵を描く奴は好きになれない。たぶん、自分はあの世界でうまくやれないのだろう。絶対ぶつかる。なら自分を変えてみるか? 合わせてみるか?

 冗談じゃねぇ。

 なんで、そこまで絵に自分を託する。たかがラーメンの絵が、評判よかっただけだ。美術の時間、ちょっと気合いを入れた風景画が、教師の浦瀬に褒められただけだ。そんなこと別にたいしたことねぇ。それより、絵が貼りだされて別のクラスの奴や後輩に舐められそうになることの方が、よほどマイナスだ。俺は過酷な毎日を生きてるんだ。
 だいたい、絵の世界は甘くねぇんだ。簡単に食えるようなことはねぇ。よく知らないが、ゴッホとかいう画家は一枚も売れなくって貧乏死にしたって話だ。片親の俺が、そんな世界で生きていくことはできねぇ。

 けど、だったらなにをする。
 まぁいいか。どうせ大学は行かねぇし、どっか適当に勤めるわ。




 敗北しか記憶にない。拠点を壊滅させ、敵を空間に跳ばす。もしくは射殺する。そんな小さな勝利はあった。しかし、大局においては負け続けている。FOTはその勢力を確実に広げ、日本政界はおろか、一般国民にまでその存在感を示している。正義忠犬隊のテロに賛同する市民の意見も多く、白い長髪の彼が男性女性向け問わず、週刊誌面を飾ることも多い。
 ロシアから秘密裏に購入した核弾頭も、まんまと望むべき移送先へ転送されてしまった。その運搬手段として自らの能力を利用されたリューティガー真錠(しんじょう)は、敗北から五日が経過した十一月一日においても、寝室での静養を余儀なくされていた。
 ヴォルゴグラードはあまりにも寒く、遠かった。腕の中で軽くなっていく花枝幹弥(はなえだ みきや)の無念さは、ごく近い将来の自分だと思えた。

 兄の苛烈な佇まいは、とてもではないが敵うと思えなかった。

 だから、ぐったりとベッドで時を過ごすしかない。この五日間で、いくつかの判断を下し、それを従者の陳師培(チェン・シーペイ)に伝える以外は、机に向かうこともテレビを見ることもなく、ただぼんやりと白い壁を見つめるだけである。見舞いなどは期待していなかったが、来訪も連絡もないあの三人は、もう「仲間」などではないのだろう。

 むりやり脳裏に刻まれた、あの工業施設。核弾頭を跳ばしてしまったであろうその光景を思い起こし、跳んでみようと思い立ったこともあった。だが、花枝の死があまりにも強烈であり、方角の見当もつかない以上、可能性の低い試みを実行する気にはなれなかった。脳に直接送られてきたビジョンは、時間が経つとともにぼんやりとし始めていて、いまではその輪郭ですらぼんやりとする有様だった。

「ルディ様……お茶をお持ちしました……」
 任務から帰ってきたばかりであり、戦闘服姿のままのエミリア・ベルリップスが、一杯のジャスミンティーを載せたトレーを手に、寝室に入ってきた。
 短いプラチナブロンドの髪が、午後の陽を反射してまぶしさすら感じさせる。若き指揮官は目を細め、ティーカップを受け取った。
「ま、まだ……お疲れでしょうか?」
 言葉を詰まらせながら、たっぷりと気を遣って少女はそう尋ねた。リューティガーはうっすらと微笑むとジャスミンティーを一口啜り、彼女に目を向けた。
「情けない話さ。あの程度の跳躍と戦闘で、僕はすっかりまいってしまった。体力はともかく、気力が萎え続けている。打つ手すら、これっぽっちも浮かばない体たらくだ」
 なんとも自虐的な言葉である。トレーを両手に持ったエミリアは、口元をむずむずと歪ませ、視線を宙に浮かせた。
「な、なにかわたしに、出来ることはございませんでしょうか?」
「いや。任務の直後だというのに、お茶を運んで気まで遣ってくれる。それだけで、もうじゅうぶんだよ」
 返事が、あまりにも早すぎる。それが、少女にとってはたまらなく苦痛だった。考える余地すらない拒絶が、なんとも寂しかった。ならば勝手にやるしかない。カーテンのわずかなゆがみを直し、床に溜まっていたうっすらとした埃をふき取り、傾いていない額を直す。どうにも情けない“出来ること”だったが、なにもせずにはいられなかった。
 リューティガーは、そんなエミリアの甲斐甲斐しさを見ることができなかった。カーチス・ガイガーの指揮のもと、敵の拠点を破壊する過酷な任務を遂げたばかりだというのに、懸命になって身の回りの世話をしてくれる彼女へ、当然のことながら感謝はしている。だが、いまのところそれ以上の感情が湧くこともなく、見たところで死んだような疲れた視線を向けてしまうのだろう。もしそんな目を少女が気づいてしまえば、哀しませてしまうだけだ。
 このぼんやりとした疲れは、いつまで続くのか。すっかり弱くなってしまった心はどう鍛え直せばいい。茶を啜りながら、リューティガーはそんなことをずっと考えていた。

「隊長……」
 803号室から廊下に出たエミリアは、エレベーターから現れた長身の二人に、背筋を伸ばして敬礼した。
「ルディはどうしている?」
 ガイガーは真っ先にそう尋ね、エミリアが803号室の扉へ横目を向けると、力強く頷いてドアノブに手を伸ばした。
 その丸太のように太い腕より早く、エミリアはドアノブを掴んだ。なんの真似だ。赤く濁った目に険しい色を滲ませ、ガイガーの背後にいた健太郎が顎を引いた。
「い、いま……ルディ様は、お休みになっています」
「それで?」
「や、休んでいるのです。横になって」
 そんなことはわかっている。ガイガーの目はそうつぶやいているようだった。歴戦の勇士であり、つい数時間前には獣人の眉間に拳銃を突きつけ、容赦なく引き金に力をこめたこの上官を少女は敬愛していたが、同時に怖さも感じていた。
 この迫力のある目はなんとも恐ろしい。いまのリューティガーに、この苛烈さは毒だ。そう感じたエミリアは負けじと目に力を入れ、ガイガーを見上げた。
「荷娜(ハヌル)から、気になる情報を仕入れてきた。いますぐにでも、報告の必要がある」
「で、ですが……」
「ルディは、バルチでいつでも目を覚ます訓練を積んできた。それを直接教えたのは、俺だ」
 だからその手を下げろ。そこまではっきりとした命令はしたくない。わかれ。聞き分けろ。ガイガーの言いたいことは、エミリアにもよくわかっていたし、彼の背後の健太郎にしても、同意見なのは明白だ。
 二対一。そんな数の問題だけではなく、正論であることも少女の諦めを生む手伝いとなっていた。彼女はドアノブから手を離し、仕方無さそうにガイガーたちへ進路を譲った。

「荷娜の情報によると、FOTが米軍基地へのテロを画策しているらしい。おそらく、横田とのことだ」
「そうですか……まさか……核を横田に打ち込む……いや……それはないか……」
 弾頭規模からすれば、あれを横田基地に使用するということは、首都圏を焦土と化す結果になる。いまさら、「まさかそこまでは」などという発想はリューティガーにはなかったが、日本にこだわって表裏に渡ってテロを続ける兄が、そのように無意味なまでの大規模破壊をするとは、どうにも考えられなかった。
 ベッドで上体を起こし、報告を聞き判断をする紺色の瞳は、薄く濁っているようにも見える。寝室の隅に腰をおろした健太郎は、ガイガーの背中越しに主を観察し、小さくため息を漏らした。
 ここしばらく、主だった任務が拠点つぶしだったため、リューティガーと時を過ごす機会がすっかり減っていた。それだけに、疲れと焦りがべったりと張り付いた彼を目の当たりにした健太郎は、辛さと同時に不安も感じていた。
 勝ち目など、はたしてあるのだろうか。久々に祖国の土を踏んだ昨年の段階では、真実の人(トゥルーマン)を捕らえるか殺せば目的は達成される、実にシンプルな任務だったはずだ。
 だが、跳躍者の直接対決は思ったよりも厄介であり、手をこまねいているうちに、二発の核弾頭に忠犬隊によるテロ、政府、米軍に対する直接攻撃と、敵の動きは大きく広がっている。任務の内容そのものに、いまも変化はないが、真実の人がこの世から消えたとしても、後に残る影響は計り知れないだろう。そういった点では、三代目は二代目に近いほど確実な爪あとを残している。健太郎は壁に背中をつけ、一度だけ直接見たことのある、あの小男の姿を思い出した。

「偉大なる実験に参加してくれて、これほど感謝することはない!!」

 研究室にやってきた「あの小男」は興奮しながら両手を広げ、そう叫んでいた。あれが言葉だけの上辺であることは、実験体の自分たちや、白衣の化学者たちもすぐにわかった。二度目の来訪がなかったことが、それを物語っている。
 だが三代目の「彼」なら、おそらくもっと強く深いかかわりをもって、部下と接するのだろう。話したことはないが、なんとなくそう思える。
 だからこの弟は疲れ果ててしまっているのだろう。いっそ兄弟で手を組んで共に同じ目的へ向かえるのなら、彼はその能力をより発揮して、もっとはつらつとした目の輝きを取り戻すことだろう。
「テロは……陽動の可能性も高いな。実働は忠犬隊ということもありえる」
 健太郎は寝室の隅からそう助言すると、赤い瞳を閉ざした。


「陳殿、なにか精力のつくものを、作ってはくれないか?」
 寝室での報告を終え、ダイニングキッチンへやってきたガイガーは食卓に着き、陳の背中へそう言った。
「ちょうどいいネ。もうすぐ佛跳牆(フティアオチャン)が出来るから、それを食べれば精力モリモリネ」
 耳慣れない料理名に、ガイガーは首を傾げた。
「フカヒレ・スッポン・鹿の角・烏骨鶏・合鴨・干し貝、その他もろもろを、昨日からじっくり煮込んだ特製スープね。世界三大スープのひとつヨ。坊ちゃんに元気を出してもらうために、もう腕によりをかけたね」
 自信たっぷりに鯰髭を摘んだ陳に、ガイガーは小さく微笑んだ。なるほど、聞けば食欲も湧いてくるし、戦闘の後の最悪な気持ちを紛らわすには、いいかもしれない。食卓の上で指を組んだ彼は、弱火にあてられる底の深い鍋に気づき、空腹を覚えた。
 すると、803号室の扉がゆっくりと開き、萌黄色のセーターにジーンズ姿のエミリアがあらわれた。緊張しながらガイガーの傍までやってきた彼女は、陳に軽く会釈をした。
「どうした。お前も飯か?」
 上官の質問に、少女は小さく首を横に振り、すぅっと息を吸い込んだ。
「お願いがあります。ガイガー隊長」
「なんだ。言ってみろ」
「配置についての申請です。できれば……わたしをルディ様の直援にさせていただけないでしょうか?」
「ほう。なぜだ」
 視線は鍋に向けたまま、ガイガーは早口に問うた。
「いまのルディ様を見ていると、もっと細かい点をケアできる人材を配置するべきだと思えるのです。正直、仁愛組は作戦行動をとるにしても素人ですし、ルディ様の足を引っ張るだけかと……」
「なるほど。だが、現在のシフトはルディも承知のうえだ。それに、拠点制圧において貴様はじゅうぶんな戦力となっている。俺も最近では安心して背中を任せられるし、配置転換は認められんな」
「で、ですが……ルディ様は、すっかり……」
「認めん。それが答えだ」
 ようやく視線を向けたガイガーは、強い口調でそう答えた。睨まれたエミリアはすっかり硬直し、そんな彼女の肩を、分厚く丸々とした陳の手が叩いた。
「坊ちゃんの身の回りは、わたしの仕事ネ……気持ちは嬉しいけど、ガイガー隊長の言ってることが正しいよ」
「あ……ええ……」
 出すぎた申請というだけではない。配置転換は有能なる従者、陳師培の存在を軽視した発言であるとも言える。それにようやく気づいたエミリアは、白い肌を真っ赤にしてうつむき、「ごめんなさい、陳さん」と消え入りそうな声で謝罪した。
「いいネ、いいネ。悪気があってのことではないし。坊ちゃんを想う気持ちは、嬉しい限りネ」
 だが、その気持ちこそが問題なのだ。再び鍋に視線を戻したガイガーは、エミリアの申請があくまでも個人的な感情からきたものであることを見抜いていた。だからこその、拒否である。兵士の心得を経験として纏っていた彼は、どうしても、少女の純情なる想いを肯定することができなかった。

2.
 秋の鈍い陽が、部室へ柔らかく差し込んでいた。パイプ椅子に座った演劇部員たちは、わずかに高くなっている部室前方の壇上、黒板を背にしていた二人の少女に注目していた。
 左に立つ福岡章江(ふくおか あきえ)部長は、傍らにいた針越里美(はりこし さとみ)の腰に手を差し出した。触れるか触れないかの微妙さで彼女を促した福岡は、ひとまず任せてみようと部室の隅へと下がっていった。
「え、えっと……来年の……新入生、歓迎興行なのですが……」
 二十名を越える部員たちを前に、針越は言葉を詰まらせながら、手にしていた台本を丸めて握り締めた。
「針越さんが、脚本なんだよねー!!」
大きく明るい声で、緊張する後輩に救いの手を差し伸べたのは、三年生の男子部員、徳永だった。だが、針越はますます恐縮してしまうと、肩をすぼめ、口元を歪ませ、なんともいえない陰気な笑みを部員たちに振りまいてしまった。
 これまで、針越がここまでサマにならない姿を仲間たちに晒したことはない。だが、それもすべては福岡や平田といった先輩部員が常に傍らにいてくれたおかげだった。壇上にぽつりと残されてしまった今回において、少女は自分の周囲があまりに広く感じてしまい、芝居の際においては集中することでなんとか発揮してきた度胸も、ひどくしぼんでしまっていた。

 けど、なんとかしなくっちゃ。

 針越は下あごをむずっと左右にずらし、一度大きく頷くと、真っ直ぐに部員たちを見据えた。そう、今度の公演は三年生に頼ることができないのだ。二年生と一年生だけで成功させなければならない。仲間を相手にびびってどうする。
 それに、彼に再び客演を申し込みたい。そのためには、これから提案するこのホンをみんなに承認してもらうことが、最初のハードルだ。
「はい、その通りです。今回も池田屋事件に引き続き、わたくしめが脚本を担当させていただきますので、皆さん、よろしく!」
 一度頭を下げると、針越は丸めていた台本を広げ、その表紙を突き出すように部員たちへ提示した。
 少々シワが寄った台本の表紙には、『本能寺』と書かれていた。
「タイトルは『本能寺』。みんなも知ってのとおり、織田信長が、明智光秀に討たれた、あの本能寺です。物語は信長が死ぬ一週間前から始まり、クライマックスは当然、本能寺の変となります」
 若干だが早い口調で、針越は部員たちに概要を説明した。関心を示す者、そうでない者、まったく別のことを考えている者。様々である。
 部員の一人、一年生の春里繭花(はるさと まゆか)は、眼鏡を一度人差し指で直すと、隣に座る澤村奈美の横顔を見つめた。どうやら、この友人は“あまり関心を示さない”一員のようである。その原因を勝手に分析した繭花は、手を挙げて腰を浮かせた。
「針越先輩。戦国物の、それも本能寺の変っていったら、登場人物のほとんどが男になっちゃうんじゃないんですか?」
 それは、前回公演の『池田屋事件』において、一年と二年の一部女子部員から漏れ聞こえてきた不満を思い出しての意見だった。いわく、男の登場人物が多い。いわく、半数は女子部員なのに。いわく、美形ならともかく、そうでない男装は正直、辛い。である。
「う、うん。けどね、信長って、妹のお市の方とか、正室の濃姫、側室のお鍋の方、土田御前、秀吉の奥さんのねねでしょ、今回のホンでは小姓の森蘭丸も女性キャスティングで考えているし、重要なポジションになるオリジナルキャラクターもいるんだよ」
 圧倒的な固有名詞の量に、繭花は何度も頷きながら着席し、他の女子部員たちも興味の色を顔や目に浮かべ、奈美は、「蘭丸は、きっとわたしよね」と、小さくつぶやいた。
「反対する人は、いないわよね」
 部室の隅で腕を組んでいた福岡が、最後に念を押した。部員たちから反対の声が上がることもなく、無言をもって、二〇〇六年度新入生歓迎公演『本能寺の変』は承認されることになった。
「オッケー。じゃあ、わたしと平田くん、あと針越さんが中心になって、キャスティングをするね。でもって、そのあとにホンを配るから」
 部長の助け舟に、針越は安堵の息を漏らし、掲げていた台本をおろした。

 それにしても。

 壇上からパイプ椅子に戻りながら、針越は二人の部員に視線を移した。
 島守遼(とうもり りょう)と、神崎はるみ。この二人には、すでに一週間前、『本能寺の変』について打診をしていて、今日の説明の際にも口添えをしてもらう段取りとなっていたはずだった。なのに、二人はそれぞれ心ここにあらず、といった具合に部室の窓や壁を見つめ続け、この承認も頭に入っていないのではないかと思えるほどの、ひどい呆けぶりに見える。

 一週間前なら、まだ針越へ力を貸すことに躊躇などない二人である。しかし五日前、代々木で秘密が暴かれ、紺色の瞳をした彼が怒気を振りまき、ヴォルゴグラートでかつての級友の死に直面し、手ひどい敗北をこうむってしまった。とてもではないが、友人への助力に気付くほどの余裕というものが存在しない。

 すぐ隣に針越が着席したことも、窓の外をじっと見つめる遼は感知していなかった。
 対立は続いている。核弾頭をめぐる戦いでうやむやにはなったものの。後回しにされた糾弾が、そのまま消えるとは思えない。あの栗色の髪は執念深く、その恨みは底なしである。再び、あの稚拙で醜い怒りに晒されなければならないのか。遼は憂鬱だった。
 それに、あの途方もない寒さの中、遼は見てしまった。ほとんど原形を留めず、半分以上は泡化してしまった花枝幹弥を。細い部分から気化してしまうから、抱きかかえていたリューティガーの腕からこぼれ落ちていた“あれ”は、おそらく頭部だったと思う。茶色く染まった頭髪だって、わずかに見えてしまった。
 闘争の敗北。エージェントの死。いつかの、自分。泡になることはないものの、そんな現実を突きつけられてしまったような気がする。それは、日に日に心を圧迫している。眠れない夜だって、あった。

 遼の腹を殴ったリューティガーには、何かが取り憑いていたかのようにさえ見えた。疲れ果て、心を晒し、池上線で倒れこんできた彼とは別人である。姉に対しての憎悪もあるのだろうが、それだけではない。彼の怒りは、もっと複雑なこれまでが絡み合っている。そして、それは自分を許せない対象として、認められない象徴として当てはめてしまっている。たまったものではないし、できればそのような捻れた認識は改めて欲しかったが、こうなってしまうと、彼との接点など期待できない。

 沙汰待ち。

 神崎はるみは、いまの状況をそう捉えていた。壁をいくら見つめても、明日がどうなるかなど、わかりはしない。今日に至るまで、リューティガーが学校を休んでいるのも不気味だ。彼と再び対するとき、自分はどうしたらいいのだろう。

 遼とはるみは、それぞれ、別の方角を見つめながら、同じ原因で憂鬱だった。
 けどさ……やらなきゃならねぇんだ……

 先に復帰を果たしたのは遼だった。リューティガーの動向が気にはなるものの、自分にはやるべきことがある。
 すでに“ガンちゃん”こと岩倉次郎には行動することを依頼済みだったため、ここで自分がすっぽかしてしまうわけにはいかない。部活動が終了した時点で遼は、はるみに声をかけた。
「神崎……ちょっと付き合ってくれ……」
「島守……」
 パイプ椅子を畳みながら遼を見上げたはるみは、彼の頼みが「あちらの方面」であることに、すぐ気づいた。

 遼は、はるみを連れ、駐輪場までやってきた。そこには岩倉次郎の丸々とした巨体と、はるみにとっては極めて意外な三分刈りが並んでいた。
「大和……?」
 これまで、なんの接点もなかった同級生である。それがなぜ、岩倉と一緒に駐輪場にいるのだろう。岩倉が遼と自分に向かって手を振っているが、大和大介はポケットに両手を突っ込んだまま、横を向いて不機嫌さを発散している。とてもではないが、温厚なる“ガンちゃん”と、彼が友人であるようには見えないし、普段、遼が大和と親しげにしている光景を目の当たりにしたことはない。
 はるみは疑問を口にしようとしたが、傍らの遼が岩倉たちとの合流に足を速めたため、小走りでついていくしかなかった。
「大和、悪いな、つき合わせて」
「んだよ、島守……それに神崎かぁ?」
 横目で睨みつけた大和の鋭い眼光に、立ち止まったはるみは顎を引いた。
「金になるから、岩倉がそう言うから、居残ってやったんだぜ……マジで用意してんかよ、十万円」
「ああ。大和がこれから俺の頼むことをしてくれるんなら、ほら」
 遼は学生鞄を開け、そこから封筒を取り出し、中から数枚の一万円札を覗かせた。大和はようやく正面を向き、身体を屈めて唾液を飲み込んだ。確かに現金だ。諭吉だ。
 こういった、具体的なものに対して欲望が正直な人間は扱いやすい。封筒を鞄に戻しながら、遼は大和のわかりやすい態度を冷淡に観察していた。
「なにすんだよ。喧嘩の加勢か? どっかの誰かをシメればいいのか?」
「いや、大和の暴力は、いまの俺たちには必要ない……こちらが借りたいのは、お前の画力だ」
 意外な言葉に、大和は何度も瞬きし、背後の岩倉へ振り返った。
「そ、そうなんだよね……僕たち、大和くんの絵の力を、是非とも借りたいんだ」
「なんだ、そりゃ。俺の絵に、十万円も出すのか?」
「その通りだ、大和。俺はお前の、写真みたいに正確な絵を求めている」
 淀みなくそう言った遼に、大和は再び振り返った。
「はぁ……絵ねぇ……」
 なんとも奇妙な展開ではあったが、まず優先されるのは、つい先ほど見た現金だ。その破壊力は、絵に対する気恥ずかしさや、自分に不似合いな連中に囲まれているという状況を我慢するのにじゅうぶんだった。「なにを描く?また、 ラーメンの絵か」そう尋ねると、大和は遼の言葉を待った。彼にしては実に素直な対応といえる。
 遼は本題を切り出すタイミングだと判断し、一度咳払いをした。それを合図と感じたはるみは学生鞄の持ち手をぎゅっと握り締め、緊張した。
「俺は、催眠術ってのを勉強している。かなりいいセンいっててね、それで将来は食っていこうかって思ってるぐらいなんだ」
「は、はぁ……?」
 予想していたのとは、まったく違う話の切り口だったため、大和は薄い眉を吊り上げ、下唇を突き出した。
「特に、相手に架空の風景なんかを刷り込ませるのがとてもうまくってね、師匠からも褒められるほどさ」
 言いながら、遼は「師匠って誰だよ。長助か?」と、心の中でつぶやいた。ぬけぬけとした嘘は、最近では自覚するほどの特技だと思える。蜷河理佳(になかわ りか)についても岩倉とはるみ以外に真相が知られていないのは、この平然とした嘘と、分厚い面の皮にあると遼は自負していた。
「そ、それとさ……俺が絵を描くのと、どー関係があるわけ」
「大有り。いま、これから大和に催眠術をかける。そして、頭の中に浮かんだ風景を、できるだけ正確に描き移して欲しい。ガンちゃん」
 遼に促され、岩倉は学生鞄からクロッキー帳とシャープペン、消しゴムを取り出し、それを大和の背中に突き出した。
「こ、これで描けるかな、大和くん」
 大和は振り返ると、岩倉から道具一式を受け取った。
「できりゃ、鉛筆の方がいいけど……まぁ……これでもいいや……」
 シャープペンをノックした大和は、芯をひと舐めし、その柔らかさを確かめた。そして、ようやくこの奇妙な依頼について、疑問を抱く心のゆとりを取り戻した。
「島守。なんなんだ、いったい。どうしてこんなこと? 十万円の値打ちなんてあるかよ?」
「あるさ。この風景は、どうしても正確に紙に残さなくっちゃならないんだ。具体的な場所が特定できるようにね」
 同級生の目があまりにも澄んでいて、様子も静かだったため、大和は鼻を鳴らしてクロッキー帳の表紙をめくった。
「まぁいいさ……俺は金さえもらえるんなら、それ以上はどうだっていい」
「こ、ここで描いてくれるのかい?」
 岩倉の問いに、大和は横顔を向け、ニヤリと微笑んだ。
「ああ、誰も見てねぇ方が、俺的には好都合だ」
 そう返しながら、スキンヘッドの写実画家は、はるみをちらりと一瞥した。なぜ、彼女がこの場にいるのだろう。もしかして、遼とこいつはデキてるのだろうか。
 まあ、どうだっていい。別に、神崎はるみは好みでもねぇし。単に、つるんでるってことだろう。どんな集まりかはしらねぇが。
「さぁ、島守……催眠術ってやつをやってくれ……すぐに描く……でもって十万円だ」
「わかった」
 遼は大和の左に回ると、右手で岩倉と手をつなぎ、残った左手で大和の左手首を掴んだ。

 ガンちゃん……ガンちゃんフィルタだ……例の倉庫のビジョンを再生して、大和に流し込む……

 了解……どうぞ……

 二人は異なる力と延長線上の能力を結合し、その結果、大和大介の脳裏にはっきりとしたビジョンが流し込まれた。

 それは、巨大な工業施設のようであった。目を開けたままだというのに、鮮明な光景情報として、映像のように入り込んでくる。大和は一瞬涎を垂らし、それを右手で拭うと、クロッキー帳にシャープペンの先を立てた。
 やってみる。これまでに経験のない方法ではあるが、頭に浮かんだ光景をスケッチしてみる。なにせ十万円なのである。遊べるし、スクーターだって、画材だって買える。なんてワリのいいバイトだ。
 大和の右手が、製図機のような正確さで動きはじめたため、はるみは我が目を疑った。美術の時間もサボりがちである彼が、絵を描く現場を見るのは初めてだったからだ。立ったままなのになんて早く、淀みのないペン使いだろう。瞬く間に構図が紙上に現出し、陰影のついた風景が書き込まれていく。なんの施設だろう。なぜ、遼と岩倉はこの光景が絵として必要なのだろう。少女はわくわくするのが堪えきれず、クロッキー帳をじっとみつめていた。

「ごくろうさま……さぁ報酬だ」
 完成した写真のような風景をじっくりと見ながら、遼は封筒ごと現金を大和に渡した。
「お、おう……」
 大和が封筒を受け取り、それをポケットに入れたのと同時に、遼は岩倉に目配せをし、つい先ほどまでと同じように、二人の手を掴んだ。

 ガンちゃんフィルタ……記憶の消去……

 オッケー島守くん……どーぞ……

 口封じの証拠隠滅は迅速に行わなければならない。遼は岩倉のオペレーションシステムに介在し、大和の記憶に入り込み、描かれた光景をはじめとするここ数十分間の記憶をすべて消去した。

「あ、その……な、なんだぁ?」
 間抜けな声をあげ、大和は周囲を見渡した。なぜ島守が、はるみが、そして隣のクラスの岩倉がいる。なぜ自分はこんな場所にいる。
「行こうか……ガンちゃん……神崎……」
 遼は、はるみと岩倉を促し、大和を残して三人で駐輪場から立ち去っていった。
 しまった、十万円を回収しそびれた。正門に向かって歩きながら遼は口を小さく開けたが、毎月振り込まれる同盟の給料からの支出だったわけだし、ともかく絵は手に入ったのだから料金としては格安だったのだろうと、無理やりにでも納得することにした。

 なんとも記憶がはっきりしない。廊下にいたところを、岩倉がやってきたところまではなんとなく覚えている。はて、この手の汚れはなんだ。大和は右手の柔らかい部分についた、鉛筆の汚れに首を傾げた。はて、俺はいつ絵を描いたのだろう。それに、ポケットのふくらみはなんだ。
 大和大介は、まだしばらく困惑の中にあった。


 正門から校外に出た遼たち三人は、近所のコンビニエンスストアへ向かった。遼は完成した絵を二枚コピーすると、店外の裏路地でそのうちの一枚をはるみに手渡した。
「な、なんなの……これ?」
 A3サイズのコピー用紙に複写された、工業施設の内部を連想させる風景画に、はるみは眉を顰めた。
「こないだ、お前の件で真錠が荒れて、そのあと任務になって、俺たちはロシアまで行った。そこで、二発の核弾頭を巡る作戦に参加した。真錠は異なる力で、倉庫にあった弾頭を跳ばそうとしたんだが、途中に現れた花枝が……」
 説明をしながら、遼は面倒だと思い、はるみの手首を握った。一瞬、鼓動が高鳴った彼女ではあったが、頭に入り込んできた膨大な言語情報に、すっかり意識を奪われてしまった。

 その……つまり……大和の描いたこの絵が……FOTにとって、核弾頭を運びたかった目的の場所ってこと……?

 相変わらず聡明なる理解力だ。遼は満足し、力強く頷き返した。

 これを……わたしはどうすればいい?

 まりかさんに渡して欲しい……日本政府の諜報機関に、この絵を分析してもらって、具体的な場所を特定してもらいたい。そうすれば、現在どこに核弾頭があるのかも、自動的に判明する……

 なるほど……わかった……了解……

 なぜ自分が立ち会わされたのか、はるみはようやく納得した。以前であれば、姉へのパイプ役というのは屈辱的に感じる彼女だったが、いまは頼られることに充足感を覚えもする。少女は大きく頷き返し、コピーを丁寧にたたみ、それを学生鞄にしまった。
「けど、島守……コピーは二枚とってたけど……」
「ああ、分析する機関は多いに越したことはない。そういうことさ」
 なるほど、そういうことか。避けず、逃げず、あくまでも目的遂行のため全力を傾けるということか。はるみは遼の強いやる気が嬉しく、瞳を輝かせて彼を見上げた。

3.
「お食事をお持ちしました……」
 中華粥のボールをトレーに載せ、エミリアが寝室に入ってきた。ベッドで上体を起こしたままリューティガーはぼんやりと、紺色の瞳で宙を見つめていた。
「ルディ様……」
 傍らまでやってきたエミリアを、彼はようやく見上げた。だが、それは粥の香りに気づいたからであり、決して健気に世話をしてくれる少女がやってきたからではない。表情と気配からそれを察したエミリアは、サイドテーブルにトレーを置くと、寂しそうに一歩さがった。
「食事か……」
「はい……食べてください」
「そう……だね……」
 食欲など皆無だ。ガイガーたちが奮戦して拠点を壊滅させてはいるものの、自分ときたら、ロクな成果を上げていない。だから最悪な気分は継続したままであり、彼は自動的にサイドテーブルに手を伸ばすことしかできなかった。
 すべては、幼少期からの従軍経験がそうさせていた。食わなければ、死ぬ。食うのも任務だ。補給を怠るな。そんな刷り込みが、その口に蓮華を運ばせていた。
 部屋の隅で座り込んでいた健太郎は、機械が自動的に栄養を摂取する様な光景を、赤い瞳でじっと見つめていた。

 停滞。それも長く、ひどく、淀んだ停滞。

 異形の従者はそうわかっていたものの、ではどのような解決策があるのかまではわからなかった。筋力、耐久力、視覚、戦うためのあらゆる部位、器官を再調整によりパワーアップしたものの、考えることに関しては、以前と変わらない健太郎だった。
 すると、寝室の扉が勢いよく開かれ、丸々としたもう一人の従者が廊下から飛び込んできた。
「陳さん……」
 慌てる彼を、リューティガーはあまり目にしたことがない。彼は食事の手を止め、やってきた陳を見上げた。
「遼がやってきたネ。ガンちゃんと二人で、やってきたネ」
「遼が!?」
 来てくれたのか。随分と遅い見舞いだが、謝罪の言葉でも考え抜いた挙げ句のことなのだろうか。リューティガーの全身から“元気”が放たれ、それは健太郎の傍まで下がっていたエミリアにまで達していた。
 なんと嬉しそうな、なんと瑞々しい。今日はじめて見る、それは彼が本来的に持っている若々しさである。少女は下唇を噛み、両手でジーンズを強く掴んだ。悔しい。あの男の来訪だけで、なぜああまでも復帰できる。なぜあそこまで喜べる。いくら自分ががんばっても、ちっとも、死にかけたままだったのに。
 エミリアは、ベッドから足を出したリューティガーにカーディガンを差し出すため、暗い目をしたまま歩み寄った。

「よう……元気か……」
 寝室に入ってきた遼と岩倉に、カーディガンを羽織ながら、リューティガーは大きく頷き返した。
 なにやら喜んでいるようだが、今回は彼の見舞いに来たわけではない。遼は用件を済ませるべく、大和の描いた絵のコピーを学生鞄から取り出し、眼鏡をかけたリューティガーに手渡した。
「こ、これは……」
 写真のようにリアルな絵であるから、モノクロであっても理解できた。そう、この場所は、例の“アレ”だ。催眠術によって暗示をかけられた花枝が送ってきたビジョンと、まったく瓜二つの光景である。もうすっかり忘れかけていたが、こうして客観的に見ればすぐに思い出すことができる。コピー用紙を握る、リューティガーの手が震えた。
「大和っているだろ。あの、異様にリアルな絵を描ける奴。あいつにガンちゃんの記憶に残しておいたビジョンを流し込んで、それを絵にしてもらった。これを同盟の諜報機関とかに調べさせて、具体的な場所を特定してもらえればいいと思う。もちろん、これを見るだけでできるのなら、直接跳んでもいいだろう。それと、大和の記憶はすぐに消しておいたから、その点は安心してくれ」
 なんという手際。なんという用意周到さ。リューティガーは、今度は別の理由で肩ごと震えだした。
 やはり自分の目に狂いはなかった。島守遼は、非常時にその聡明さと冷静さを発揮できる逸材だ。異なる力があるだけではない。もっと根本的に、彼は緊急事態へ“対応”できる稀有な才能を持っている。

 だが、それだけに、度し難い。

 震えを止めた彼は、コピー用紙を陳に渡すと、眼鏡を人差し指で直し、鋭い眼光で遼を見上げた。
「ありがとう、遼。やっぱり君は、すごいやつだよ」
 もろ手を挙げての賛辞ではない。遼と岩倉は、その眼光から察していた。
「けどね、それと神崎はるみの件は別だ。五日前の、あの茶番……続きはいずれやらせてもらう。彼女の記憶を消すまで、そして最大限の謝罪がない限り、僕は君たちを許さない……いいね」
 だが、遼は気圧されることはなかった。彼とてこういった釘刺しがあることぐらい、事前にいくらでも覚悟していた。戦いの経験を、修羅場をかいくぐってきた彼であったから、以前ならともかくもう脅しに怯えることは少ない。
 じゅうぶん、たっぷりとした抗う意を、遼は紺色の瞳にぶつけた。
「それなら、俺も言わせてもらう。それはあくまでもコピーだ。オリジナルはこちらにあるし、いくらでもコピーをとることができる。同盟云々じゃねぇ。あくまでも俺個人の判断っていう、これは宣言みたいなもんだ」
「どういう……意味だ……遼……」
「もう一枚、お前にいま渡したコピーとまったく同じものを、神崎はるみに渡した」
「なん……だと……」
 いっそう強い、殺気にまで至った強い意だった。しかし、遼はたじろがなかった。
「彼女から神崎まりかさんに、つまり日本政府にも分析を依頼したかったからだ。調べる機関は、多いほどいい」
「なにを……考えている……」
「最良の手だ……俺はそれしか考えちゃいねぇ……」
 そう告げると、遼はリューティガーに背中を向け廊下へと向かった。一言も発せなかった岩倉も彼に続き、部屋から出る際、二人は健太郎とエミリアに会釈をした。
 だがそれを返したのは、赤い瞳をした異形の方だけである。プラチナブロンドの少女はただひたすらに睨みつけるばかりであり、その形相は指揮官を小さくコピーしたかの如き近似性があった。

 廊下から玄関に通じるダイニングキッチンまでやってきた二人は、隣の居間でハンドガンの手入れをするガイガーと目が合った。
 この二人の民間人が何の目的でここに来たのか、歴戦の勇士はそれを知らない。東洋人の内面は、いまだに表情から読み取ることができないガイガーだったから、遼の強い目にどのような気持ちが込められているのかもよくわからない。
 ただ、悪意は微塵も感じられない。ならばそれでいい。愛用のSIG226に再び視線を戻した彼は、黙々と作業に没頭した。
 遼たちも結局無言のまま部屋を後にした。

 銃口を乾いた布でよく拭いたガイガーは、分解しておいたスライド部分を本体にはめ込み、最後に空の弾倉をグリップに装着した。拠点制圧において彼がもっとも使用する火器は、対獣人用の特殊弾丸を装填したサブマシンガン、MP5KやSIG552であるが、接近戦や格闘戦の延長戦において、この226も頻繁に活用している。屈強で岩を削りだしたかかのような体躯に似合わず、カーチス・ガイガーの拳銃捌きはあくまでもスマートであり、精密射撃においてはマーダーチーム・カオスにおいても一、二を争う腕前だった。
「ん……?」
 隣のダイニングキッチンに人の気配を感じたため、彼は顔を上げた。現れたのは先ほどの現地協力者たちと同様、目に強烈な意を滲ませたリューティガーだった。しかし、もっと荒んだ気配を撒き散らし、もっと粗雑な挙動で冷蔵庫を開ける様は、明らかに“怒っている”風である。
 巨大な冷蔵庫の中から、リューティガーは蓋をされ、さらにアルミホイルで塞がれていた鍋を取り出した。なにをするつもりだろうか。居間からガイガーがじっと観察していると、若き指揮官はホイルをはがし、蓋を外し、中に入っていた佛跳牆(フティアオチャン)を鍋ごとガブ飲みした。
 ようやく寝床から出てくるほど、気力が回復したようだが、どうやらそれは、あまり好ましくない事情と感情の結果だと感じられる。
 鍋を食卓に置いたリューティガーは、開けっ放しにしていた冷蔵庫に頭を突っ込み、チャーシューの塊を取り出し、それに齧りついた。

 おいおい……なにがあったのかは知らないが……ヤケ食いかよ……

 あのような暴飲暴食はカオスの教科プログラムにもないし、同盟でも推奨はしていない。おそらくなにかを取り戻すため、彼はなりふり構わず補給しているのだろう。しかしあの方法では、身体を壊すだけだ。
 どうやら、怒り続ける燃料が欲しいようにも見える。なんとも子供じみた我が儘である。いい加減、止めるべきだろうか。ガイガーが珍しく考えあぐねていると、寝室から丸い体躯が飛び出し、背後からリューティガーの動きを制した。
「ダメね、坊ちゃん!! 無茶食いはいけないヨ!!」
「うるさいです!! 僕は回復しなくっちゃならないんだ!! あんな小バカにする遼を、見返さなくっちゃ気がすまない!!」
「なら、わたしが回復プログラムを立てるネ!! それに添って、体力を戻していけばいいヨ!! 子供じゃあるまいし、暴飲暴食でストレスを発散するのは、愚の骨頂ネ!!」
 陳にしては手厳しい言葉である。チャーシューを手にしたままリューティガーのヤケはすっかり静止し、彼はやがて全身から力を抜き、従者に背中を預けた。
「ご、ごめん……陳さん……」
「まずはメッセマー先生の診察を受けるネ。その間に、わたしがしっかりと薬膳料理を用意しておくから!!」
「う、うん……ほんとに……ごめんなさい……」
 冷静にならなければ。遼に対する怒りは相変わらずだったが、それを処理するのに自分は最も愚かな行為に走ってしまったようだ。リューティガーはようやく自覚をした。彼は遅れてやってきたエミリアに、みっともない姿をみられたと顔を赤らめ、カーディガンの袖でスープだらけの口元を拭った。
 そう、任務を遂行するのなら、誰かを見返すのなら、慎重かつ大胆に。確実さをもって完璧を期す。それがカオスの、それが父と母の共通した教えだった。
 いい大人たちに囲まれている。さらにやってきた健太郎を一瞥したガイガーは、目を伏せてサブマシンガンの分解作業に取り掛かった。カオスが壊滅し、同盟から遠く離れても、いまのリューティガーには注意をし、修正をしてくれる存在がいる。ならば自分は装備を完璧に手入れし、いつでも全力を発揮できるべく怠らないようにするだけだ。
 幼いころよく聞いた、ボストンの街で流行った流行歌を口ずさみながら、全身傷だらけの男は黒光りする長物(ながもの)を垂直に立てた。SIG552。目隠しをしていても完全に分解と組み立てのできる、それは彼にとってまさしく手足の如き得物である。

4.
 その週は、結局リューティガーも学校に姿を現さず、遼は大和のスケッチを手渡してから、一度も彼と出会うことなく、十一月六日の日曜日を迎えようとしていた。

 今日という日が、自分にとって生涯決して忘れることのない日曜日になるとも知らず、遼は渋谷の宮益坂途中にある雑居ビルの五階、「スーパージム・ビッグマン」に、アルバイトのため朝から訪れていた。
 ここでのアルバイトを始めたのは昨年の夏休みからであるから、もう一年以上が経っている。
 ボディビルジムの仕事も最初のころは清掃ぐらいしかやらせてもらえなかったが、日に日に実績と信用を先輩や支配人の呉沢(くれさわ)から獲得していった遼は、現在では器具の使用方法の簡単なインストラクトや、いくつかの書類作成まで任されていて、時給も一時間九百五十円までアップしている。
 同盟から、月十万円の月給が振り込まれている彼だから、特に金というものに困ってはいなかったが、紹介者となる同級生の麻生の顔立てや、なによりもまともな仕事で稼ぎを得ておきたいといった彼独特のこだわりから、日数こそ当初より減ってはいるが、定期的にここでのアルバイトを継続している。
 ロッカーで、ポロシャツに短パンといったユニフォームに着替えた遼は、モップやバケツといった清掃用具を手に、麻生とともに営業時間前のジムに入った。
 反復運動によって身体のあらゆる筋肉箇所を鍛え上げられるマシンの数々が、ジム狭しと並んでいた。あれは、ベンプレスマシーン。あれは、エアロバイク。あれは、呉沢支配人が特別に改造を施したレッグプレスマシーン。当初は名前もわからなかった機器だったが、いまでは番号を言われただけで、どの機種であるかを暗記するまでに慣れている。だから仕事は簡単だし、気を抜きさえしなければ失敗をすることも少ない。
「島守、今日はあっちからな」
 麻生はごく簡単な指示を出すと、自分は掃除用具を持ったまま、デッドリフトの専用コーナーへと向かった。遼は段取りがすっかりわかっていたので、早速、ダンベルの置かれたベンチプレスコーナーへと向かった。
 怖いのは、考え事をしてしまい、ダンベルなどの重量ある道具を落としたり、客にぶつけたりしてしまうことだ。
 しかしここしばらくの状況を考えると、とてもではないが無心で仕事をこなすことなどできるはずがない。だから遼は、客がいる間はできるだけ機器に触ろうとせず、営業時間前のこのタイミングでメンテナンスと検査を終えてしまうように心がけていたし、それが可能なほどの作業スピードも実現していた。

 さて……どちらが先に、場所の特定を済ませるかな……

 結局、内閣特務調査室「F資本対策班」と、賢人同盟の二つにスケッチのコピーは渡されたはずだ。これらのいずれが先に、スケッチの具体的な場所を割り出せるのだろうか。いや、案外両組織は協力し、その分析作業に取り組んでいるのかもしれない。リューティガーの対策班、というより、そこに所属する神崎まりかへの憎悪は計り知れないが、あくまでも個人の事情だ。ダンベルの数量をチェックし、その結果を用紙に書き込みながら、島守遼はそんなことを考えていた。

「オーライ、オーライ!! はいはい、いいですね。そうそう、そこです、そこです!!」
 朝から鈍い陽を浴びながらその路地で、白いトレーナー姿の岩倉次郎が、脚立に乗った作業員に地上から指示を出していた。よく通る声、腰の低い態度。岩倉の手伝いは作業員たちにとっても心地のいいサポートであり、そのうちの一人は両手にもった監視カメラを手際よく電信柱に取り付けると、腰のホルスターから電動ドライバーを抜き、固定作業に取り掛かった。
「お茶、お茶、お茶!!」
 作業が最終段階に入ったことに気づいた岩倉は、大きな太鼓腹を揺らしてそう叫びながら、路地に止めてあった警備会社のライトバンを横目に、大きな門をくぐっていった。
 ここは、完命流(かんめいりゅう)高輪道場。全国でも数箇所ある、古流柔術完命流の本拠地である。岩倉は道場の裏口に回ると、そこから台所に上り、沸騰済みの保温ポットと盆に載せたお茶のセットを手に取り、再び路地に戻っていった。
 岩倉は警備会社のライトバンの前で立ち止まり、運転席の作業員に茶を差し出した。手元は危ういものの大きな破綻もなく、なにより健気な施しだった。その傍らで、後ろに手を組んでいた完命流六代目師範、楢井立(ならい りつ)は、岩倉の背中に深々と頭を下げた。
「すまないな、岩倉くんとやら」
「い、いえ、いいんですよ。僕にはこれぐらいしかできませんから」
 そうは言うものの、完命流道場とはほとんど無縁なはずの若者である。高川の友人らしいが、普段は学校でどのような間柄なのだろう。
 楢井は電信柱に監視カメラを取り付けている作業をじっと見守る、高川典之(たかがわ のりゆき)の屈強な背中を見上げた。
 もう既に二人の弟子が、この路地で何者かに殺害された。宮川楓(みやがわ かえで)と、朝茂田小太郎(あさもた こたろう)。いずれも幼く、若く、無限の未来を強引に閉ざされてしまった哀れな被害者だ。第二の被害者となった朝茂田の死以来、道場での稽古は中止され、楢井も連日、警察での取り調べに協力している。楢井の経済状況は決してラクではなかったが、知人を介して警備会社にも接触し、今日この十一月六日、事件現場であるここに監視カメラを設置するに至ったのは再犯防止と、なによりも犯人を見つけるためだ。

 見つけてどうする。それについて、完命流六代目師範自身も明確なる答えを得ていなかった。
 通報、追跡、復讐。法を犯してでも二人の弟子の仇討ちをしたいと思う反面、その正体と動機を知るため、やはり逮捕してほしいという思いが錯綜している。
 これからのことはわからないが、ともかくこの路地に監視の「目」をつけたことにより、少なくとも道場生の安全は確保できるだろう。その点について、楢井は一応だが安心していた。
 電信柱への取り付けのため、電力会社と区の許可が必要だったが、二人の死はテレビのワイドショーでも怪事件として取り扱われていたため、申請の許諾は楢井が覚悟していたより実に呆気ないものだった。
「お茶、ありますから。終わったら声をかけてください」
 それにしても、脚立のもとへ湯のみを手に駆け寄る、あのよく育ちすぎた少年のなんと親切なことであろうか。せっかくの日曜日を潰してまで、監視カメラ設置の手伝いにくるなど、中々昨今の若者とは思えない気持ちの持ち主だ。あまりにも太っているため、鍛え上げようという欲求は沸き起こってはこないが、楢井は純粋に、岩倉次郎に感謝というものをしていた。

 朝茂田には何度も技を極められた。実戦では後れをとる気がしないものの、道場では十回の組み手で二回勝てればよいという、そんな対戦成績だった。もう来年には高校生だったから、更なるレベルアップを果たし、ライバルとして互いに技を磨きあうことができたはずである。負かされる度に、少し申しわけなさそうに微笑む彼の顔が、いまでもはっきりと思い出される高川だった。
 だが、棺の中の朝茂田は、宮川楓よりもひどい顔となっていた。業者が施した化粧での修正が無駄だと感じられるほど、徹底的に顔面を破壊されつくされていた。
 今度は、棺の前で泣き崩れるようなことはなかった。むしろ怒りがそれを上回っていた。核弾頭を巡る、などという現実味に欠ける戦いに参加し、疲れ果てている間に、朝茂田はこの路地で襲撃され、数発もの打撃を受け、死んだ。
 いったい誰だ。宮川楓の死だけでは、まだ因果関係がはっきりとはしていなかったが、朝茂田の惨劇が教えてくれた。そう、襲撃者はわが流派に怨恨を持つ者である。師範はそれこそ、「数え切れん」と返事をし、特定を躊躇っていたが。
 まさか、あの少女ではないだろうか。祖父と共に合宿先の清南寺を訪れ、突然仕掛けてきた暗殺者。その後も、アルバイトの帰りに五反田の路地で襲われたのだから、考えるほど間違いないと思える。
 だとしたらどうする。警察に知らせるべきか。いや、できれば仇はこの手で討ちたい。そもそも五反田での戦いに勝利した段階で、警察に突き出すなり、それこそ止めを刺しておけばこのような結果にはならなかったのだ。
 FOTとの戦いは続ける。自分にできることがあるのなら、平和を脅かすテロリストと対決することから、もう背を向けることはない。だが、篠崎若木(しのざき わかぎ)が目の前にいたら、彼女を倒すことが日本の平和を守ることより優先されることだろう。

「あ、あの……」
 ここには楢井師範と岩倉、そして二人の男性作業員しかいないはずだ。それなのに背後からかけられた声は、まさしく少女のそれである。いったい誰であろうか。
 まさか来たのか、あちらから。Gジャン姿の偉丈夫は緊張し、構えながら振り返った。
「な……なんだ……針越さんか……」
 赤いブレザーに、やはり赤のスカート姿をしたショートカットの少女が、構えを解く高川に驚き、胸に手を当てて怯えていた。なんという殺気だろう。
 そうか、ここは完命流の道場生が殺された現場か。針越里美は電信柱のもとに置かれた花束や漫画雑誌に気づき、口元をむずむずと歪ませ、高川に頭を下げた。
「う、うん……携帯にかけても出なかったから……自宅に電話しちゃったの。そしたら高川くんのお母さんが、今日は道場の仕事を見に行ってるっていうから……その……来ちゃいました……」
 呑まれないように一気に、針越は事情というものを告げた。
「そ、そ、そうか……しかし……なぜ?」
「うん……こんなときに、アレなんだけど……前回の池田屋事件で高川くん、唐突に客演を知らされたでしょ。鈴あゆの不手際かなんかで」
「う、うむ……そうだったな」
「でね、今度のお芝居にも、高川くんに客演をして欲しいって思ってるの。だから、事前に相談したいなって思って」
 なんとも怒りの昂ぶりを散らしてしまうような、そんな要請だった。しかしそれならば明日の月曜日に学校で持ちかけてくるか、それこそ電話でもいいのに。高川は太い腕をしっかりと組み、目を閉ざして考えてみた。

 いや……だめだ……俺にはさっぱりわからんぞ……なにゆえに針越さんが、高輪まで訪れる……暇なのか? それとも、家が近所なのか……

 なんとなく、彼女のことを考える割合が以前より増えていた彼だったが、鈍さは相変わらずであり、抱かれているほのかな想いまでは察していなかった。
「うむ……で……なんの芝居をやるのだ?」
 芝居に出るかどうかはともかく、わざわざ尋ねてきた彼女を関係ない怒りに任せて追い払ってしまえば、男としての器量を問われる。それに、短くふわりとした髪と、赤のブレザーがよく似合っているようにも感じられる。つまり、悪くない。

 復讐と後悔に打ち震え続けていたものの、少しは穏やかさを取り戻そうとしているように見える。脚立から下りてきた作業員に茶を渡しながら、岩倉は友人たちのぎこちないやりとりを優しい目で見守っていた。

 学校は休んでいたものの、遼と岩倉の来訪以来、リューティガーは精力的に任務をこなしていた。
 まずは大和のスケッチを同盟本部に送り、作戦指令のガイ・ブルースに調査を依頼した。明確な光景が二次元として存在する以上、その気になれば直接跳んでみることもできたが、もしその先に大量の戦力が存在した場合、包囲殲滅されるのは自明の理である。
 外から見える建物のように、ある程度、場所と位置の特定ができるのなら、勘と予測で隠れられる場所に跳ぶこともできる。しかしたった一箇所の光景だけでは、そこにダイレクトに移動するしかない。それに兄の性格を考えれば罠が待ち受けているのは容易に想像がつくので、危険かつ無謀な手段には訴えられない弟だった。
 その日の正午前に品川で李 荷娜(イ ハヌル)と取引をし、装備と物資の補給を済ませたリューティガーは、自分の置かれている状況をもう一度よく振り返ってみた。
 リューティガーの任務は、アルフリート真錠の暗殺、もしくは捕獲。核弾頭の捜索。そして花枝幹弥との接触にあった。後者二つが事実上不可能となってしまった以上、残るは最優先順位の兄殺しだったが、これは極めて困難な作戦といえる。

 ならば、いま手の届く範囲で全力を尽くすのみ。

 連日に亘り、ガイガーや陳、健太郎やエミリアとミーティングを重ねるリューティガーは、拠点壊滅に自身も参加するべく、ターゲットの絞り込みに頭を悩ませていた。
 ガイガーはこれまで順調にFOTの拠点を探し当て、破壊してきたのだが、実のところそれも頭打ちに達しようとしていて、残るは極めて確証の薄い候補地ばかりである。だからこそ冷静で理知的に、そして物事を極めて客観的に判断できる有能な指揮官の復帰は、カーチス・ガイガーにして喜ばしい事態だった。
 負けられるものか。ああまでして舐められて、落ち込んで寝込んでいることなどできるはずがない。それほど、遼の宣言は屈辱的である。俺は俺の自由にやる。そうとも取れる発言だ。リューティガーは食卓に地図を広げ、仲間たちに意見を求めた。
 徹底的にやる。スケッチの分析結果が出るまで、学校にも通わず、拠点探しに集中する。紺色の瞳に静かな炎が揺らめいていた。

 日常ならざるミーティングが繰り広げられている代々木パレロワイヤルから、一キロメートルも離れぬ神崎邸の居間に、Tシャツにジーンズ姿の神崎はるみがソファで膝を抱え込んでじっと考え事をしていた。

 一昨日の夜、事前に姉と連絡を取り合った彼女は、北千住の官舎を尋ね、遼から預かっていたスケッチのコピーを手渡した。
 姉は怒ったような、驚いたような、そんな複雑な表情だった。雨も降っていたため中に招かれたはるみは、姉の生活空間があまりにも殺風景なので驚き返してしまった。
 キッチンはほとんど使われた形跡がなく、テレビのリモコンにはうっすらと埃が張り付いていた。「なかなか帰ってこれないのよ」姉は照れ笑いを浮かべてそう言った。妹はそれで“関わってしまっている”ことを多少は許して、認めてくれているのだと理解した。だからこそ、姉の淹れてくれたインスタントコーヒーが、ひときわ美味しく感じられた。
 だが別れ際に、「かなめさんの……島守くんに伝えて、これから、わたしに用事がある場合は直接、霞ヶ関に訪ねてきていいって」そう釘を刺されてしまった。
 つまりそういうことか。あくまで関わっちゃだめだと、そう言いたいのか。まあそれも仕方がないだろう。
 雨の北千住は、なにやら街全体から臭気のような不愉快さをもくもくとさせているように感じられた。あれはきっと気分のせいだ。日付が違えば、たぶん違うように感じるのだと思う。

 あのスケッチは、果たして分析されたのだろうか。かなりリアルで精密な風景だし、隅に積まれていたダンボール箱や、一部に見える岩盤、そこに露出している根も綿密に描かれているから、場所の特定は案外早いような気がする。
 もし、いま自分がこれだと思った手がかりが、特定の決め手になったら、せめて遼にでも褒めてもらおうか。はるみは、そんなたわいのない思いつきに口の端を吊り上げ、舌をぺろりと出した。
「んなの。付け足しの推理だろ!? 先に言わなきゃ無効だね」
 あいつは、そう言い返すことだろう。

 あいつは、そう。あいつはまだ、そうなのだろうか。

 黒く長い髪の美しい少女のことを、はるみは思い出した。肉体を交わし、より絆というものが深まったのだろう。だが、おそらくはFOTに参加し続けている彼女と、彼はどういった“落としどころ”を見つけるのだろう。膝を抱える腕の圧迫を強め、はるみは太腿に顔を埋めた。

 もし、彼女があの少女のことを思い出したのがきっかけであったのなら、神崎はるみは、世界を動かせる能力の持ち主だといえる。だが、現実はそうではない。

 ただの偶然だった。相手の都合により、ついにその日は訪れてしまった。

 十一月六日、午後二時ちょうどのことであった。


 日曜日ということもあって、「スーパージム・ビッグマン」では多数の会員たちが筋力の維持、増加のために汗を流していた。
 遼も、トレーニング機器の使用方法の説明や、事務作業、雑務に追われ右へ左へと忙しなく動くしかなかった。だから受付カウンターの上に置いてあった15インチ液晶テレビの映像も、最初は目の端に留まる程度だった。

 なんだよ……いまの……?

 おかしい。奇妙な、それでいて最近ではよくある光景だった。洋上の映像のようだったが、アナウンサーは興奮し、カメラは上下左右にぶれ、右上にはショッキングな文字が表示されていたように思える。ウエアの貸し出しリストを受付の女性に手渡した遼は、今一度テレビの前に戻り、違和感の正体を確かめようとした。
 テレビのすぐ正面には、麻生がいつの間にか張り付いていた。片眉を上下させ、腕の筋肉がぴくぴくと痙攣し、なにやら緊張した様子である。麻生の背後にも何人かのインストラクターや会員たちが、物珍しそうに液晶ディスプレイに注目していた。。
 また忠犬隊か。またFOTか。遼は半ば呆れながら麻生の隣までやってくると、自身の長身が迷惑だろうと気を遣い、しゃがみ込むことにした。麻生も遼に従い、二人はカウンターのテレビを見上げるような、そんな子供のような体勢になっていた。
「と、島守……また例の、テロリストみたいだぜ」
「みたいだな……」
 普段は動じることなく、無口で泰然としている麻生だったが、その声はわずかに震えていた。さすがにテロ報道ともなると、彼でも緊張するのか。それに比べて自分のなんて慣れてしまったことか。
 呼び出しがあるだろう。“緊急特別ニュース!! 真実の人が衝撃の要求!!”そんなロゴを画面に見出しながら、遼はポケットに入れてあった通信機を握り締めた。チャンネルを見ると、関東テレビのようだ。なにやらFOTの独占取材で高視聴率を連発しているらしく、公安からもマークされはじめている局らしい。なるほど、だからこそ、“衝撃の要求!!”などと、これから起こる出来事を事前に示すことができるというわけか。
 画面には、眼鏡をかけたスーツ姿の若いアナウンサーが映っていた。背景は海のようであり、どうやら彼は船上にいるらしく、随分と画面が揺れている。さて、なにが始まる。片膝を立てた遼は、心も身体も構えた。

 だが、構え切れない衝撃が、遼の視覚に飛び込んできた。

 横にスライドした画面には、大型のヨットと思しき甲板が映し出されていた。そこに、黒い上下のスーツに長い白髪の青年が正面を向いて佇んでいた。“妖美”そう形容してもいい、FOTの若き指導者、三代目真実の人(トゥルーマン)である。これはいい、これは予想の範疇だ。

 しかし、その傍らに佇む少女の姿が、島守遼を徹底的に打ちのめした。彼はふらつき、よろめき、崩れそうになり、麻生の太い腕にかろうじて支えられた。
「と、島守……あ、あれって……」
 それは麻生も知っている、美しい少女であった。黒いスーツに黒いタイトスカート。ワイシャツこそ白かったがネクタイも漆黒であり、どこからどこまでが身体で髪なのか区別が付かない。そこまでの黒さだった。
「理佳……ちゃん……」
 呻くように遼はつぶやいた。

 もう後戻りができないような真似を、なぜやってしまう。

 裏切られたような、殴られたような、嘲られたような、そして、しっかりと見つめて欲しいと、そんな欲求をも感じてしまうほど、毅然とした蜷河理佳であった。

 三代目真実の人はポケットに両手を突っ込み、その半歩後ろには理佳が佇み、いずれも揺れる船上で、絶妙のバランスで姿勢を崩さずにテレビカメラに映し出されていた。
 大半の日本人が、あの美少女は誰だろかと思うはずだ。鮮烈すぎるデビューである。飛沫がときおり背後に舞い散り、彼女の黒さと肌の白さをいっそう際立たせていた。力強い海原にあって、理佳はしっかりとその細い身を崩さずにいる。
 そう、遼は理佳の細い身体を知っていた。その凹凸も、柔らかさも、硬いところも。
 けど、心はなにもわからない。
 なぜ麻生やインストラクターの人たちが、こうして君を見ていられる。なぜこんな表舞台に出てくる。これが達した答えなのか、理佳。


「日本国民の諸君。ご機嫌はいかがかな。わたしはFOTの指導者、真実の人である!!」
 白い長髪の青年はまず、そう宣言した。波の音に負けない、大きく通った声である。
「我々FOTは、この日本を新たな段階へ導くため、強力な力を手に入れた。それは、一発の核弾頭である!! 国土を二度に亘り焦土と化した、あの忌まわしい兵器の子孫だ!! 無論、弾頭だけではなく、その運用手段に関しても、我々は既に開発と起動実験を完了している。その新兵器の名は、ゴモラ。そう、硫黄と炎によって滅ぼされた都市の名前だ!! 我々はこの新たな力を、諸君ら日本のために使用する!! その見返りとしてFOTは日本政府に対し、ここに要求する!!」

 勝手に開発した新兵器を使ってあげる。その代わり、要求がある。なんとも我が儘で、理不尽な宣言である。自分の部屋のパソコンで緊急ニュースを見ていた沢田喜三郎は、ぼんやりとそんな感想を抱いた。彼とて、同級生だった蜷河理佳を、このような形で再び見るとは思ってもいなかったが、不思議と驚きは少なかった。なんとなく、心の片隅でこうなることを予見していたのかもしれない。果たして、どうなのだろう。
 テレビを見ていた大衆の中で、沢田ほど客観的に真実の人の言葉を理解できたのは、わずか少数だった。大半は固唾を呑んで、白い長髪の青年がなにを要求するのか待っていた。

 言葉は続く。

「そう、我々が要求するはただひとつ!! 日本国の完全なる独立である!! それは、次のように定義される!! ひとつ、自衛と先制攻撃が可能な固有の軍隊を保持すること。ひとつ、他国駐留軍の完全撤退!! これらは主権国家として当然の権利であり、双方が成立することによってはじめて日本はひとつの国として、他国と対等な地位を得られることになる!!」

 背後に佇んでいた理佳が、潮風に黒髪を押さえた。その仕草があまりに自然で儚げだったため、テレビを見ていた男性のほとんどは、それにしても美しい少女だと注目した。

「具体的な知恵を授けよう!! まずは自衛隊の、国防軍昇格が不可欠である!! そして、原子力空母、および原子力潜水艦の保有をはじめ、脅威に対する防衛と緊張時における先制攻撃手段を獲得する!! 兵力の倍増は無論だ。このため、より多くの軍事費を確保しなければならない。それには歳費の二十五パーセント以上の圧縮、国防税の導入、特殊法人の廃止、各助成金の軍事費転用、公務員の人件費削減など、ありとあらゆる手段を講じてもらわなければならない。日本の有能なる官僚の、ここは腕の見せ所だ。真実の独立のため、諸君らが率先して血を流すべきである!! そして、肝心の兵員については、無業者を優先とした徴兵によって賄う。もちろん、訓練における教官不足については、FOTより軍事顧問、エージェントを派遣する用意がある!!」

 つまり日本は軍隊を保有し、兵力増強に伴う金と人は、なりふり構わず用立てろ。という意味か。居間のソファで、母と弟とテレビをじっと見つめながら、はるみはそう理解した。

 蜷河……あんた……なに考えてるんだよ……!!

 憎悪にも近い感覚だった。想い人の心も身体も獲得し、今度は世間の注目まで奪い取ろうという魂胆なのか。
 はるみは理佳の穏やかさや、控えめな気弱さを誰よりも知っていたが、せっかく京都での再会をきっかけづけたのに、このような結果が返ってきてしまったため、もうすっかり彼女は変わってしまったのかとそれが悔しかった。


「国防軍実現のため、政府内に国防委員会の設置を提案する!! また、軍事費調達において様々な困難と障壁が予想されるが、その場合、正義忠犬隊を国防委員会所属の実行部隊として、粛清の担当としてもよいだろう。数度にわたる墜落事故、皇室に対する自爆テロなど、数々の不祥事を起こし、この国の平和を脅かさんとする在日米軍の完全撤退については、誠実なる交渉を日本政府に期待したい。しかし、この交渉が決裂した場合、我々FOTはアメリカ合衆国が日本国に対して再占領の意思があるものと断定する!! これを排除するためならば、我々はそのすべての戦力を日本政府に貸与する用意がある。無論、この中には核兵器を搭載したゴモラも含まれる!!」

 在日米軍の全面撤退など、本来は穏便に長期的な計画の中でしか実現できない夢物語だ。米国政府が日本の独自防衛を見返りに、将来的な撤退をすることは有り得るが、それもすべては同盟国としての交渉事だ。真実の人は日米同盟に基づく安保条約の破棄までは要求してはいないが、核弾頭をちらつかせての撤退交渉など、とてもではないが許容できるはずがない。
 結局のところ、独立戦争をやれ。これは、そういった内容だ。しかも、兵力に関しては日本が自前で用意するのと同時に、テロリストであるFOTが貸し与えてもよい。なんともむちゃくちゃで支離滅裂だ。内閣総理大臣、国原中道(くにはら なかみち)は首相官邸から防衛庁へ移動する車中で、テレビをじっと見つめながら何度も咳払いをした。
 独立の押し売りなど、それこそまるで大国のエゴのようだ。あの青年の赤い瞳には、日本など植民地時代のアフリカの小国程度にしか見えないということか。
 核テロリストが独立しろと迫る。独立を宣言するのではない、独立しろと要求してきたのだ。なんとも滑稽でいびつな展開だ。幸村のバカから端を発し、よもやここまでの茶番劇にまで発展することになるとは。
 それにしても、いつになったら電波探知は完了する。車内電話に視線を移した首相は、前部シートの背を思い切り蹴った。

「眉唾であろう。諸君は米国からの独立など、有り得ないと思っているだろう。だからこそお見せしよう。我々が手に入れた新たなる力を!! 」
 真実の人が両手を広げると、彼の背後、船の先頭のさらに先である海原から、飛沫を上げてある物体が空中へ舞い上がった。理佳は海水のシャワーを避けるために、片手で頭を覆いながら真実の人の肘を掴んだ。

 あっれー……蜷河じゃん。つーか、あの銀色メロンパン、なに?

 新宿駅前のオープンカフェでカプチーノを啜りながら、鈴木歩は電気店の大型液晶テレビをじっと眺めていた。テーブルの上には歴史関係の書籍が三冊ほど積み重ねられ、どれも“マンガでわかる”といった類のものだったが、彼女なりに今度の公演に賭けるものがあっての購入だった。影の努力家であり成績もそれなりの“鈴あゆ”ではあったものの、歴史はあまり得意ではなく、これまで正面から取り組んだジャンルではない。だからこそ、マンガを通して得られた知識は新鮮でもあった。
 しかし、一時間もかけてせっかく詰め込んだ史実は次々と脳の奥へ落下していき、彼女のもっとも新鮮な部分に、白と黒の長髪、そして銀色に輝く飛行体がたっぷりと入り込んでしまった。

 直径二メートル、高さ五十センチほどの、円盤型の浮遊物体であった。洋上七メートルほどの高さで、ふらふらと上下に細かく揺れながら、それは現在位置を確保し続けている。

 あれって、UFO? つーか、おもちゃ?

 カプチーノが切れた。気になることはまだまだあるが、少女は席を立ち、二杯目を注文するため、店内へと戻っていった。

「日曜日の昼下がり、面白いショーをお見せしよう!!」
 カメラは浮遊物体にアングルを合わせていたため、その声の主は姿が見えなかった。
「あれはゴモラ新兵器の試作品である、プロトタイプゴモラだ。まったくの無音にて、自在なる空中における浮遊を可能とした、諸君らのテクノロジーを遥かに上回る、真実の徒の遺産である!!」
 そう言った直後、銀色の浮遊物体、プロトタイプゴモラは上下左右に直線的、直覚的な高速移動を開始した。ときどきフレームから外れるものの、その軽快な挙動はカメラ越にも拘わらず、驚異的な性能であることを多くの人々に印象づけていた。
「さて……あれではできのいいラジコンに過ぎない。しかし無音で高速移動ができることは伝わったと思う……では、次のデモンストレーションに移ろう。カメラ殿!!」
 敬称をつけられた関東テレビのカメラマンは、ビデオカメラの角度を甲板まで下げた。そこには白い長髪をすっかりと隠した、アクアラング装備の青年の姿があった。端正な顔立ちに、赤い瞳はまさしく真実の人だったが、足ひれをつけ、肩にビデオカメラを抱えたその出で立ちは、なんとも奇異である。
「あの自在な飛行物体に、わたしの異なる力が加わると、果たしてどのような超兵器になるのか!! 見たまえ!!」
 空いた左手を空にかざしたのと同時に、潮風ではなく突風が吹いた。カメラマンの傍らまで移動していた理佳は黒髪を押さえて目を細めた。彼女の視界に、試作品のゴモラはなかった。空中から忽然と消失したそれを、カメラマンも追うことは出来なかった。

 なにもない甲板が映されてから数秒後、テレビ画面は海面と空を上下半分に収めた、まるで海洋番組の水面映像のようなそれに切り替わった。

 ラブホテルのベッドの上で、関名嘉篤(せきなか あつし)は胡座をかき、不敵な笑みを浮かべながらテレビを見続けていた。すべては、知らされていた予定通りだ。あの青年はついにやってしまった。となると、今度はこちらの出番ということか。

「この映像は、わたしが撮影している!! ここは太平洋洋上!! 諸君、あれを見たまえ!!」

 カメラは、遥か洋上を航行する、一隻の威容を映し出した。

 それは、アメリカ合衆国海軍所属の原子力空母、ニミッツの艦影だった。横須賀入港のため、本州近くを航行していた世界最初の量産型原子力空母の一番艦は、テロリストがすぐ側の海面でカメラを構えているにも拘わらず、それに気づかぬままだった。
「原子力空母、ニミッツだ!! 見たまえあの巨大な塊を!! いずれ日本国も、あのような先制攻撃の拠点を持つことになるわけだが、あのニミッツこそはまさしく、喉元に突き立てられたナイフであると言える!! それでは、これよりその排除方法をお見せしよう!!」
 ショーの司会者のような、そんな口ぶりだった。画像は乱れ、音声も途切れがちではあったが、なにかとんでもない事態が発生することだけは、視聴者に伝わっていた。

 画面は空母ニミッツの艦橋を、やや遠くから見上げる映像に切り替わった。
 しばらくの後、パンダウンしたフレームに飛び込んできたのは、甲板にて整然と並んだ整備作業中のF−18艦載機群だった。
「さぁ、諸君!! わたしは異なる力で、ニミッツの甲板まで跳んできた。これから横須賀に入港するらしいが、この軍艦は外国籍である、これだけの艦載機と兵員を国内に入れてしまうなど、主権国家のおよそ正しい姿ではない」
 実況リポートをする青年の声に気づいたのか、甲板作業員の何人かが、カメラに近づいてきた。
「知っての方もいるとは思うが、合衆国政府にも、日本に核武装をさせ、自衛力を持たせるといった計画があるらしい。しかしその核ミサイルは、地図上で決して西や東、南に向けられるものではなく、あくまでも北へしか発射できないいびつな代物だ。これでは自衛など、遥かなる夢というものだ」
 その言葉の途中、カメラいっぱいまで空母の兵士たちが迫ってきた。しかし険しい形相の彼らは瞬く間に姿を消し、突風が工具箱のひとつを倒した。
 誰も彼に触れることはできない。誰も止めることはできなかった。
「自衛の力は、東西南北、上下左右に自在でなければ嘘である!! すなわち、アレだ!!」
 真実の人が抱えていたカメラの角度を上げると、そこには先ほどの浮遊物体が現れていた。彼の異なる力によって“取り寄せられた”それは、ニミッツの甲板上にゆらゆらと漂っていた。
「これが重要!!」
 叫ぶのと同時に、ゴモラは急降下をはじめ、カメラはそれを追って勢いよくパンダウンした。直径二メートルの塊は艦載機、F−18戦闘機のキャノピーに当たり、鈍い音ともに甲板へ落着した。
「本物のゴモラは、あれの数倍の大きさであり、核弾頭の搭載が可能である。つまり、無音で高速攻撃ができる、理想的な核兵器というわけだ。もちろん、通常弾頭や化学兵器も積めるので、この一隻を沈めるのに核を使う必要もないのだがね。よかったな、兵士諸君。これが、無害の試作品で!!」
 テレビ画面から銃声がしたものの、中継は何事もないかのように続いていた。真実の人に対しての触れず、止められずは相変わらず継続中であり、いつでも簡単に原子力空母を沈められることが証明されてしまった。
 こうなると、以前、空母キティーホークの入港を阻止するために、FOTが正義決行スケジュールに添って行った作戦に、いったいどのような意味があったのか、まったくわからなくなる。公安を担当する一部の者はそれに困惑していたが、大多数はすごい、とんでもないことが起きていると、もっと手前の入り口で興奮と熱狂するばかりだった。

「日本政府への要求回答期限は、基本的に無期限とする。わたしは即答を求めるつもりはない。だが、対応が遅れるのであれば、これから年末、来年にかけて在日米軍へのテロが続くものと考えて欲しい。それと、軍事費を増税だけで賄おうとするのであれば、忠犬隊の刃は統治機構すべてに向けられると覚悟しろ!! 日本を憂慮し、真実の独立を願うFOTは、国民、国土を愛する答えに期待する!! それでは諸君、ごきげんよう!!」
 その挨拶を最後に、テレビカメラからの映像は途絶え、緊急特別番組は右上の文字だけを残し、真っ暗な画面となってしまった。

 宣言、要求はこれにて終了した。数十秒が経過したが、画面にはなにも映らず、麻生がリモコンでチャンネルを変えると、どの局も緊急ニュースに切り替わっていた。しかし具体的な映像は皆無であり、各局のアナウンサーが焦燥する様子が全国に垂れ流されているばかりだった。
「と、島守……?」
 なぜ蜷河理佳がいた。崩れてしまった遼の肩をずっと支えていた麻生は、尋ねるような口調で彼の名を呼んだ。だが長身の同級生は返事をせず、手を払い、よろよろと立ち上がった。

 わからねぇ……まるで……全然……

 真実の人の独立要求など、遼の頭にはほとんど入っていなかった。黒いスーツも黒いタイトスカートもよく似合う。けど、どうしてそれがこのような状況とセットで現れなければならない。いくら考えても彼には彼女の決意などわかるはずがなかった。

「ごめんなさい。もといた場所に帰ります」

 京都のマンションで見たメモには、そう書かれていた。彼女のメッセージは単純だったが、それだけにどうとでも取れる内容だ。もちろん、FOTに帰ったことぐらいはわかる。

 ありがとう。また。

 帰りの新幹線で確認した、彼女からメール。“また”の部分にあのときは素直に喜んだが、こんな形になるとは思ってもいなかった。

 遼が困惑を続けていると、短パンのポケットに入れておいた、小型通信機が振動を始めた。あいつはいまのテレビを見ていたのか。下唇を噛んだ遼は麻生に一言断りを入れ、トイレへと向かって駆け出した。


 真実の人が、遂に日本政府へ対して具体的要求を宣言したその直後である。京都市鞍馬山の山中、地下深くのゴモラ開発施設の一角で、中丸邑子(なかまる おうこ)隊長とその部下たちが、強すぎる緊張に包まれていた。
 彼女たちの眼前には、高さ七メートルもの巨大な鉄製の扉が立ちはだかり、その向こうからは、低く禍々しいうなり声が漏れてきていた。リモコンを持った中丸の手は、小刻みに震えていた。その傍らで扉を凝視していた分隊長のステファン・ゴールドマンは、耳を塞ぎたくなるのを堪えながら、隊長の丸い横顔に意を向けた。
「コントロール……できるのですか……隊長」
「できなかったら、我々も全滅さね……いまのところ、扉に体当たりをしてくる気配もない……目覚めさせるっていう、第一段階は成功したと判断してもいい……」
 専門家の不在がなんとも恨めしかった。一メートルもの分厚さを誇る扉の向こうには、自分たちよりも遥かに巨大で、まったく別次元の強さを持った“獣人王”がいる。
 真実の徒が壊滅してしまう以前から、彼はずっと眠りの中にあり、目が覚めることはほとんどなかった。だが、一週間前にここを訪れた三代目は、「じき、ここの場所は判明する。護りのため、エレアザールを目覚めさせておけ。手順は、ここにある。バクラー竹田が虎の子として抱え込んでいた、獣人王覚醒シークエンスだ」と告げ、一枚のディスクを置いていった。反論は聞かない。そんな一方的な命令であり、中丸は遂行するしかなかった。
 扉の向こうは獣人王エレアザール専用の調整室であり、たまたまゴモラの研究施設と併設されていた。だが、組織崩壊の直前、専任スタッフのすべてが鹿妻新島の本拠地に召還され、以来、このエリアは最低限の維持管理をするのみであり、存在の不気味さも手伝い、誰もができるだけ関わらないようにしてきた。
「聞こえるか!! 獣人王エレアザール!! お前は十年間、深い眠りの中にあった!!」
 中丸は大きな声を張り上げ、扉に向かって叫んだ。監視カメラで毎日のように見る獣人王は、しゃがみ込んで壁に寄りかかって眠っていた。変化もなく、だがそれでいて、目覚めが恐怖なのだと予測できる、そんな底から感じられる気配というものを映像から彼女は感じていた。
「真実の人(トゥルーマン)は……いずこか……」
 低く、掠れた声が扉越しに聞こえてきた。中丸たちは理知的な言葉に意外さを覚え、隊員の中には笑みを浮かべる者までいた。
 これまでに三度ほど、獣人王の眠りが一瞬だけ妨げられた瞬間があった。その度に、彼は凄まじい音量の咆哮を上げ、壁や扉に体当たりをして暴力の嵐を起こしていた。大量のガスを用いて再び眠らせるのに苦労し、そんなことから中丸たちは例外なく、エレアザールが知能の低い化け物だと思い込んでいた。
 だが、的確で整然とした順序に基づいた起床は彼に人間的な目覚めを与えたようであり、これまでのそれは単に寝起きが悪かっただけのようであるとも思われる。
「王の知っている、真実の人は死んだ!! 」
 中丸がそう答えると、しばらくの静寂が流れた。
「そうか。あいつが死んだのか。しかし栄養剤の投与など、私への生命維持は続けられている以上、組織は存続しているようだな。よもやお前たちが日本政府の者ということはないだろう」
「そ、そうだ……自分は中丸。このゴモラ開発施設の責任者を勤めている」
「ほう。ゴモラとな。私の知らないプロジェクトだな」
「現在の、三代目の真実の人が推進している、自由侵入ユニットのことだ」
「なるほど、後ほど、詳しい話を聞かせてもらおう」
 ときどき、咳払いの音が聞こえてくる。その度に声の掠れがなくなり、低音の美しさが際立ってきているように中丸は感じた。声だけなら、かなり魅力的な男性とも言い切れる。ここまで知性がある王なら、一言詫びておかなければなるまい。彼女は扉に三歩ほど近づいた。
「ここにいたるまで、覚醒シークエンスを実行できずにいた現状を、まずはお詫びさせていただきます」
「うむ。しかしこの扉の分厚さが、すべてを物語っている。私は十年前の段階で、獣同然の化け物に過ぎなかった。自慢なのは叫び声だけで、真実の人はそれを録音しては、後進たちの恫喝に使っていたと聞く」
 その話は、“今の”真実の人からも聞いたことがあった。彼はその録音テープをバクラー竹田から入手し、多摩川のマンションで残党を幽閉した際、二代目と同じ用途でそれを再生したと言っていた。
「長い夢を見ていたようだ。その度、私は以前の自分を取り戻していったように思える。だから、永い眠りにはむしろ感謝をしている」
「はい……」
 矜持というものを見せなければならない。中丸邑子はそう決意すると、リモコンを、扉に取り付けられた端末へ向けた。
「た、隊長!!」
 背後から部下のステファンが制止しようとしたが、中丸は首を大きく左右に振った。
「応えなければならない!! 誤解ではないとわかったが、彼は王だ。その扱いをしてやらなければ、なんのFOTだ!?」
「え、ええ……」
 ここまで強い言葉の隊長を止めることはできない。ならば備えるのみ。ステファンは、肩から提げていた機関銃の安全装置を外した。
「獣人王よ!! あなたを目覚めさせたのには、相応の理由がある!! これより鋼鉄の壁を取り去る!! 互いの姿と目をむき合わせ、それについて討議をしたいが、いかがか!!」
 我ながら、芝居がかった宣言だ。どうにも“王”という言葉がそうさせてしまっているのだろうか。
「よかろう、中丸殿。十年にわたり何が起きたのか、そして、これよりなにが起きる……いや、起こすのか、とくと聞かせてもらおう!!」
 生命力溢れる声であった。王としての威厳と、武人としての無骨さが入り混じった、中丸にとっては理想的な“雄”の声だった。

5.
 代々木パレロワイヤル、803号室のダイニングキッチンには、遼、岩倉、高川の三人が集められていた。ニミッツの甲板から真実の人が消えてから四十分が経過していたから、この集まりの速さは誇るべきである。だが、それについて口にする者は皆無だった。そんな、重い空気が漂っていた。
「ぼ、僕と高川くんは、道場のテレビで見たんだよ」
「そうか……」
「う、うん……」
 理佳の秘密を知っていた岩倉だから、それ以上はなにも言えず、彼は対座する高川に視線を向けた。テーブルの上で指を組んだ偉丈夫は、遼に疑問をぶつけた。
「なんなのだ、島守……なぜ、蜷河さんがあの場にいる……」
 聞いてくるということは、秘密は漏れていない。遼はちらりと岩倉を一瞥し、ごく小さく頷いた。
「俺に言われても……理佳ちゃんはいなくなって……ずっと……実は、京都で一度会ったんだ……偶然……あ、あの朝帰りがそうだよ……」
「な、なに?」
「いろいろとあって……けど俺は、理佳ちゃんがどうしているかまでは教えてもらえず、朝起きたら彼女は消えてたんだ」
「し、知らんぞ、俺は……そ、そうだったのか!?」
 高川が若干責めるような口調だったため、遼は口先を尖らせた。
「個人的なことだ……いちいち言えるわけ、ないだろっつーの……」
 そう返した遼は、ようやくここに呼び出しをかけた張本人に、鋭い視線を向けた。
 紺色の瞳は、静かなままジャスミンティーの波を見つめていた。一口それを啜り、テーブルにカップを置いたリューティガーは、遼に負けぬほどの鋭さを目に宿した。
「兄の要求は、五分遅れで見させてもらった……例の絵の分析は、同盟本部で現在も続けられる。あのような宣言があった以上、まったく予断を許さない状況になった。遼たちも覚悟をしておいて欲しい。ヴォルゴグラード以上の激戦が待っている」
 静かで、力強い言葉であり、それだけに遼は不気味さを感じていた。理佳のことはなにも追及してこないのか。リューティガーが知っているのは、せいぜい自分と彼女が付き合っていたという表面的なことだけである。だが、同盟の情報収集力を考えれば、彼が真実に近いなにかを知り得ている可能性は高い。
 悟られるな。遼はテーブルに視線を落とした。
「例のシンパシー団体、音羽会議と兄の要求は一致している。両者の密なる関係は明らかだと考えられます。みんなは特に、あの運動に参加している同級生、比留間と高橋の両名の動向に注意をしてください。それと、正義忠犬隊の偽善テロも予想されます。呼び出しは常にあると心がけ、通信機はいついかなる事態でも、離さないように」
 事務的な指示は続いた。岩倉は何度も頷き、遼と高川は別の理由で、だが同じ人物のことについての話題が出ないため、釈然としない気持ちのままだった。
「遂に……動き出したということです。核弾頭の使用先は、合衆国。これまで在日米軍の不祥事を工作してきたのも、すべて、この日までにある程度の反米意識を定着させるための作戦だったということです。事実、いまも陳さんと健太郎さんが居間でチェックをしていますが、ネットなどでは兄を支持する声が、あちこちで上がっているそうです。反論する現実主義者や、ユダヤ、新自由主義系の声はロマン主義に対して劣勢といった様子です。じき、テレビでも世論が形成されていくでしょう。それがもし、兄に寄るようなことがあれば、その動向も要注意となります。兄はよく心得ている。演説の席で、あのように美しい蜷河さんを利用するとはね」
 遂に彼の口からその名前が出た。遼は口を開こうとしたが、隣の席の高川が身を乗り出したため、ここは様子見をするべきだと腕を組んだ。
「ルディ。そ、そうなのだ。なぜあそこに蜷河さんがいたのだ!? お前は知っているのか?」
 高川の問いに、リューティガーは再び茶を啜った。
「いいえ……ただ、音羽の件もありますから、有り得ないことではないと、思っています……ただ……問題は、いつからそうだったかです」
 言いながら、リューティガーは数十分前、覚悟を決めた際のことを思い出していた。
 蜷河理佳の姿をテレビで見て、驚愕したのは事実だ。だが、もし彼女が兄の協力者なら、辻褄が合う話がいくつかあると思える。彼女の素性は同盟へ照会を依頼したから、夕方にでも結果がわかるだろう。ただ、問題は口にしたように、いつからFOTに参加していたかにある。もし仁愛入学以前であれば、その目的が当初から神崎はるみと遼の監視と篭絡にあった可能性が高い。そうならば、既に二人は兄と通じている疑いもある。
 しかしその考えは、それこそ辻褄が合わなかった。遼とはるみのこれまでの行動を見れば、本気でFOTに立ち向かっていることは明白であり、その点において、リューティガーはあくまでも慎重に、判断を誤らないようにと懸命だった。
 つまり、取り込まれてはいない。これまでの段階で尻尾を見せなかったのだから、蜷河理佳はあくまでも監視と工作のみに暗躍していたはずだ。
 さてどうだろう。ならば遼は相当のショックを受けているはずだ。どうだ。リューティガーはティーカップを手にして、疑惑の彼を見つめた。
「し、知らない……俺は……ちっともわからない……なぜ……どうして理佳ちゃんが、あんな……」
 “わからない”“なぜ”“どうして”そのいずれもが、彼女が表舞台に出てきたことについてであり、リューティガーの質問事項とは異なっていた。だが、遼はあえてそうした。
 嘘はいずれ見抜かれる。ならば本物の感情を引き出すため、別のことをわざと考え、気持ちを露出させる。この一年以上に及ぶ演劇部の経験が、じゅうぶん役立つ方法だった。

 どう……なんだ……島守遼……

 最近、心を通わせる機会がすっかり減ってしまったから、遼の心根を察することができないリューティガーだった。修学旅行で二人が会っていたという新事実も、判断を鈍らせる要因となっていた。

 寝たんだな、遼……京都で……だから……御所の本命を知ったのか……触れ合って……

 だとすれば、素直にそれを打ち明けてもいいはずだ。その時点で、理佳が敵なのだと知ったのだろうか。だが、恐ろしくて隠していた。そんなところかもしれない。
 心苦しそうな様子は、どうやら本物のように見える。いや、どうなのだ。わからない。
「な、なぁ、ルディ……」
 情けない声だ。すがるように、頼むように。そんな微妙なニュアンスを感じられるほど、リューティガーは日本語に慣れつつあった。
「なんだい、遼」
「理佳ちゃんを……どうするつもりだ……」
「その質問は、適当じゃあない。敵をどうするべきか。その質問になら、答えようもあるが」
 わざと、突き放してみる。心を凍らせ、嘘を見抜く落ち着きを獲得してみせる。そんな意気込みからくる冷然さだった。
 遼はすっかり言葉を失い、テーブルに視線を落とした。以前このマンションで小さな子供たちを撃ったように、彼はやってしまいえるのだろう。たとえ蜷河理佳であっても。
 どうすればいい。マジで、どうすればいい。血の気が引いていくのがよくわかる。だけど足掻き方ですらわからない。なにから手をつける。誰に相談する。どこに行けばいい。

 混乱。

 そんな名前の枯れ井戸に突き落とされ、首をへし折りながら着地したような、暗く惨めな絶望の中に遼はいた。心はぐったりと縮こまり、身体の震えが止まらない。心臓まで、別の何かに鷲づかみされているような、ロクでもない気持ち悪さだった。

 霞ヶ関の内閣府別館は、騒然としていた。電話はひっきりなしに鳴り響き、ところどころで怒号が飛び交い、それはFOTの動きが表面化した際の常だったが、今日のそれは質量において数倍になっていた。
 那須誠一郎(なす せいいちろう)が、ライフルを片手に対策班本部から飛び出していった。電波の探知と局への聞き込みが完了し、これから警察が関東テレビのクルーを逮捕するとのことであり、対策班としても現場に急行する必要がある。

 柴田明宗(しばた あきむね)は政府各部署や代議士たちからの電話対応に追われていた。なんてことだ。本来情報収集を専門としている調査室直下のF資本対策班だというのに、かかってくる電話への防戦に手一杯になってしまうとは。
 耳を真っ赤にしながら中堅捜査官の彼は、苛立つばかりか空腹も覚え始めていた。遅めの昼飯にしようと決めた自らの判断を、いまとなっては呪うばかりである。
 竹原班長と森村捜査官の姿は、このフロアにも別館自体にもなかった。官房長官から直々の呼び出しを受けた二人は緊急連絡会議に出席するため、現在は車で移動中である。
 捜査官、尾方哲昭(おがた てつあき)は、十二本目の電話を受けたのち、柴田の肩を軽く叩いてトレンチコートを羽織った。聞き込まなければならない場所が山のようにある。能動的な情報収集を足で行うため、彼は同僚の惨状に心の中で手を合わせながら、フロアから駆け出して行った。
「ドレスはいつでも出せるようにしておいて。陽動のテロだって有り得るのだから!!」
 通信機で地下のハンガーと連絡を取り合っていたのは、作業着姿の神崎まりかだった。実戦部隊の切り札である彼女は、決して電話に出ることなく、ノートパソコンに取り込んだ先ほどの宣言映像を、繰り返し再生していた。
 アクアラングを付け、リポーター気取りで原子力空母に乗り込み、いつでも破壊ができると嘯く。排除のため殺到してきた水兵は、気が付けばそのすべてが海へ落とされてしまったという話だ。
 三代目真実の人は自己跳躍と、ある程度の範囲内にあるものを“取り寄せる”ことができる。そんなデータが賢人同盟から提供されているが、どうやら自身の周辺であれば、正面だけではなく全方位に取り寄せることができるようだ。おそらく、あの青年は甲板の先端にでもいたのだろう。

 弟……ルディくんは逆なんだなぁ……

 あちらは、触れたものをはるか彼方へと跳ばす能力だ。さて、彼と戦った敵は果たしてどこに跳ばされたのだろう。

 跳躍能力者であり、戦友でもあった金本あきらは、以前こんなことを言っていた。
「あん? テレポーションバッティングか? 実は、ウチもようわからへん。跳ばした奴とは、これまでたった一度しか再会したことがあらへんし、それも、ごっつ偶然やった。戦いは無我夢中や、いちいちどこに飛ばそうなんて、考えたことあらへんしなぁ」
 一度行った場所や、ビジョンが明確なポイントに、彼女の跳躍能力は有効だった。リューティガー真錠もそうなのだろうか。だとすれば、あんな火山の底を、どうやって知ったのだろう。
 いや、考えるのはよそう。マグマ底に跳ばされても、生還できるのが自分であるのだから。まりかは机の上に拳を置くと、それを力いっぱい握り締め、ディスプレイを見つめた。いまは弟ではなく、兄のことを考えなくては。
 今度の真実の人は、主義主張においても真崎実とは異なる。まさか、音羽会議のアジテートが、そのまま彼の目的だったとは。そう考えれば一連の行動も納得がいくが、それにしても厄介な要求だといえる。合衆国は日本において、最も重要な同盟国なのだ。六十年前に大戦で敗れてから、経済的に局所的な勝利を収めることはあっても、大局においてはつき従い、利益をぎりぎりまで考慮し、なんとかやってきた間柄なのだから、そう簡単に覆るものではない。
 もし、日本が空母や原子力潜水艦、核兵器を保持しようものなら、あの大国は全力でそれを阻止してくるだろう。もちろん、合衆国の手の先としてそれが存在するのであれば、段階的には認められるだろうが、真実の人のアプローチは違う。彼は、在日米軍の排除と戦力保有を同時に考えている。アメリカを、中国や北朝鮮、韓国やロシアといった、緊張状態にある隣国と同様に扱うべきだと主張している。
「まりか……」
 いつになく低い声だった。呼ばれたまりかが振り返ると、そこにはスーツ姿のハリエット・スペンサーが、腕を組んで佇んでいた。
「ハリエット……」
 CIA捜査官である彼女がいまの宣言を見た後で、いつものような明るさを振りまけるはずがない。それはわかっているまりかだったが、眉間に皺を寄せ、表情を強張らせたハリエットは今までにないほどの鬱屈とした雰囲気を醸し出していた。
「いいかな……まりか……話があるの。ちょっと資料室まで、付き合ってくれないかしら?」
 資料室はこの内閣府別館の最上階にあり、トイレと班長室と同様に、監視カメラが設置されていない部屋である。まりかは視線を宙に泳がせ、ためらいの気持ちを顕わにした。
「わかってる……非常事態で持ち場を離れられないって……だけど、とても重大なことを打ち明けなければならないの……時間があまりない。三代目があのような要求をしてきた以上、同盟としても、わが組織としても」
 ゆっくりと、丁寧な日本語だった。それだけに、言葉に含まれる重要さを、まりかはなんとなく悟った。彼女は静かに頷き、小型の通信機を手にした。

「なぁ、ともっち……言った通りだろう……あのお方は、本気で米軍を追い出すつもりさ……」
 腕がまた、一回り太くなったような気がする。うなじにその硬さを感じながら、高橋知恵(たかはし ともえ)は関名嘉篤とベッドを共にしていた。視線の先のテレビにはなにも映っていなかった。つい先ほどまで、赤い目の指導者が大活躍だったが、遂に政府の強制捜査が入ったため、関東テレビは完全に停波させられ、画面はもうずっと真っ暗なままだ。知恵は胸に伸びてきた彼の指に、ふと視線を移した。

 指も……太くなってる……

 だからさっきも不器用だったのか。髪を坊主に刈り、眼鏡をコンタクトレンズに換え、臙脂(えんじ)色の詰襟に白い手袋と、簡単にできてしまう見掛けはすべて変えてしまった関名嘉だった。最近ではスポーツジムで身体を鍛えているらしく、それはそれで満足できることも多いのだが、繊細さに欠けてきたような気もする。ホラ、乳首を摘むのだって、ひどく雑で痛いだけだ。
 けど、もっとひどい交わりもあった。あのキモい頭でっかちは、わたしの肌に触れるのだって、リードがなければちっともだった。なのに、一度勢いがついてしまえば、狂ったように揉むし、いかれたように突き立てる。その顔だって、首を絞められたニワトリのように滑稽だ。笑いを堪えるのに精一杯だった。

 ついさっき、船の上で蜷河理佳と一緒にいたあの人は、理佳が肘を掴んできたとき、咄嗟に重心を反対方向にずらし、衝突しないように巧みだった。それに、それと同時に反対の手で、彼女を支えようとさえしていた。ちゃんと見てれば、そんなことだって気づいてしまう。
 きっと優しい人なんだろう。この、自分を変えようと足掻き始めたみっともない男や、童貞を捨てたとたん、居丈高になるガキとは違い、なにもかもが繊細なんだろう。

 あーあ、切れたのかな。なにかが。理佳には驚いたけど、すっごく綺麗だった。いまのわたしは、どうなんだろう。

 少女は天井一面に張られた鏡で、仰向けになっていた自分の身体を確かめようとした。だが、そこに映ったのは、関名嘉の中途半端に鍛えられた背中と、わずかに隙間から覗かせる、やせこけた自分の顔と頭だけだった。

 枝毛は……見えない……

 遠いから。天井の高いホテルだから、それは見ずにすんだ。高橋知恵は、自分の中でかろうじて揺らめいていた炎が、ついに消えてしまったことにきづいた。
 どうにでも、なれ。

 見てしまった。もと同級生の凛とした姿を。レイアウトだけ見れば、わたしとこの男と同じだ。だけど、みんなには違って感じられるだろう。わたしは醜く、あの子は綺麗だ。あの人は素敵で、この体重をかける物体は、ただ重いだけ。

 なんだろう。とても変だ。ついこないだまで、あんなに好きだったのに。

6.
 資料室は窓もなく、最低限の灯りしかハリエットがつけなかったので、昼間であるにも拘わらずぼんやりとした明るさだった。それだけに、空調の音が少しばかり気になるとまりかは感じた。
「ごめんね……こんなときに」
「ううん……こんなとき……だからなんでしょ?」
 さすがだ。あの言葉で、彼女はひとまずの理解をしてしまったということか。八年前、十六歳にして真実の徒を壊滅させたこの天才は、サイキの力だけに優れていたというわけではない。そう予想していたハリエットだから、なによりもこの伝説の具現者が極めて聡明であり、動じていないことが嬉しかった。

 これなら、隠さずに話せる。

「そう……奴が宣言をしてしまったから、もう時間がない。だから、すべてを打ち明けた上で協力を要請します。わたしの正式なパートナーとして、FOTと立ち向かうために……」
「ええ……もちろん、打ち明けられた話しだいよ。スペンサー捜査官」
 完璧だ。“スペンサー捜査官”そうきたか。冷静さの鎧を纏っていたものの、ハリエットの心は躍っていた。
 神崎まりかは書架に手をかけながらも、どのような真実が明かされるのか心を構えていた。急であわただしい展開には慣れている。八年前、あの死闘の日々は毎日が渦の中にいたかのようだったから、揉まれ慣れているという自負もある。けど、なぜだか苛つきもする。

 そっか……そうだよね……

 結局、空色の瞳をし、羨ましいほどスタイルがよく、気さくで人懐っこい彼女は、隠し事をしていたのだ。いや、考えるな。それも、なにを隠していたかによる。

「CIAの捜査官であることに、偽りはないわ。正規の手続きを経て、わたしは合衆国の平和を守るための任務に就いている。けど、それはあくまでもひとつの顔……Blood and Flesh……それが、わたしが参加している組織の名前。賢人同盟の下部組織のひとつ……北米地区を任されている、最大級の利益保全機関。そこのエージェントであることが、もうひとつの顔……」
 賢人同盟にいくつもの下部組織があり、真実の徒もそのひとつだったことは、対策班に配属された後に知ったまりかである。真崎実は組織を私物化し、暴走の結果によるテロだったから、ハリエットの所属するそれが敵であるとは言えない。だが、“利益保全機関”といういびつな言葉が、彼女の警戒心を強くさせていた。
「わたしは両方の顔において、FOTの壊滅を願っている。そういった意味ではまりか、あなたとは今後、より連携を深めていきたいと願っているの。だから打ち明けたの」
 一歩前に出たハリエットは、右手をそっと差し出した。だがまりかはそれを握らず、強い視線を向けた。
「わからないのは、なぜこれまでに隠していたか。それだけがひっかかるわ」
「Blood and Fleshは非公開、非公式の組織。情報の漏洩は、組織としてもできるだけ防がなければならない。それに、あなたとはCIAのわたしとしてお付き合いして、それで事件は解決すると思っていた。けど、ニミッツを撃沈できるなんてデモンストレーションをやられてしまえば、もう組織も政府も、そしてわたしも余裕なんてない。そう、これは追い詰められた結果よ。神崎まりか」
 まりかはハリエットの目をじっと見つめた。なんどか瞬きはしたものの、彼女は視線を決して逸らすことなく、美しい空色に濁りや淀みは感じられない。
「うん……」
 小さく頷いたまりかは、自分も右手を差し出した。

 いつだってこうして受け入れてきた。それで間違いはなかった。そんなまりかのこれまでであった。

 握手は力強いものであり、なんとなく力比べをしてしまう二人だった。先に手を放したハリエットはようやく緊張を和らげたものの、それは一瞬のことであり、彼女の形のいい眉が吊り上がった。
「まだ、あなたには打ち明けることがあるわ」
「へぇ……」
「見ててくれる……」
 段ボール箱が積み上げられた資料室の隅まで数歩ほど後ろに下がったハリエットは、顎を引き、腰を低く落とした。

 まさか、これは。

 まりかは書架を強く掴み、彼女がなにをやろうとしているのか集中して観察することにした。

「いくわよ……」

 そうつぶやいた直後、まりかのすぐ正面にハリエットが姿を現した。このような瞬時の接近などまず有り得ない。となると、空間跳躍か。
 反射的に身構えたまりかだったが、眼前のハリエットの後ろ、本来の位置である段ボールの山の側に、もう一人のブロンドが歯を食いしばって全身に力を入れているのが見えた。
 なんだこれは。なぜ二人いる。まりかを混乱の波が襲った。
「分身……?」
 としか考えられない。眼前のハリエット。本来の位置のハリエット。二人のハリエットがこの資料室にいる。片方は幻だろうか。だとすればこちらの、表情に乏しいほうだ。まりかは眼前の彼女を見上げた。すると、ハリエットの姿をした“それ”は、笑顔を浮かべて右手を差し出してきた。
「幻影が……握手?」
 半信半疑のまま、まりかは柔らかい笑顔の彼女と再び握手をしてみることにした。

 これって……!?

 なんということだ。確かな“感触”というものがある。これは幻などではない、実像だ。
 “もうひとりのハリエット”は手を離すと、書架から数冊のファイルを抜き取ってそれを床に置き、次に懐から小型の自動拳銃を抜き、銃身を握ったままそれをまりかに手渡した。
 この拳銃にしても本物だ。ずっしりとした手応えを感じながら、まりかは初めて目の当たりにする種別の異なる力に戸惑うしかなかった。
 驚くこと数瞬したのち、突然、眼前の彼女は姿を消した。拳銃を手にしたままのまりかは、その先で呼吸を整えているハリエットに近づいていった。
「ハ、ハリエット?」
「あなたと同じ……驚いた? わたしもサイキック……今の能力は、Mirageと呼んでいる」

「Mirage……蜃気楼?」
「そう。いま現れたのは、光を操作して現出させた、巧妙なMirage。けど、あなたの手を握ったり、ファイルを取り出したり、拳銃を手渡したのは念動の力」
「じゃあ……これは……これ自体は?」
 ミラージュから受け取った拳銃を、まりかはハリエットに返した。
「念動で、Mirageの懐まで飛ばしたのよ。横から見れば、丸わかりのトリックみたいなもの。けど、もちろん射撃動作をMirageにやらせることもできるし、敵にとってはあくまでもわたしが複数いるようにしか感じられない。だから、わたしはこれまでこの能力で、いくつもの任務を完了させてきた」
 まさか、自分と同じ異なる力を持つ能力者だったとは。そこまでの予測をしていなかったまりかは興奮しながら、ハリエットの右手を両手で握った。
「わかったわ、ハリエット……信じて、いいのね」
 力強い言葉であった。どう答えるべきだろうか。“信じる”とは、短い単語でありながら重い意味を持っている。日本語も習熟の域にあったCIA捜査官は、左手をまりかの両手に重ねた。
「さぁ……どうだろう。わたしはアメリカ合衆国を最優先にしているから、最終的にはまりかと利害が一致しないかもしれない。でも、いまのところFOTは共通の敵……だから……」
 正直な答えであった。まりかにとっては久し振りに聞く、それは強い意志をもった“仲間”の言葉である。暫定的・一時的・期間限定。なんでもいい、この八年間で裏切られる経験も数多くした。そんなとき、思い切り怒って泣けばいいということも学んでいる。それよりもこのような身近に、同じ念動力者がいることが心底嬉しかった。
「いいわ、ハリエット・スペンサー……FOTを叩き潰すまで……わたしたちはパートナー。そういうことだね」
 あえて、昔のような口調に戻してみる。
「ありがとう神崎まりか。嬉しい……伝説のあなたと、こうして組むことができて」
 何度目かになる握手である。それはこれまでのものよりずっと強い力だった。
 どうにも、まだまだ若い。拙い。
 二人のサイキは互いに顔を見合わせ、苦い笑みを浮かべた。そう、この笑みの分だけは年齢を重ねたということなのだろう。それがわかったまりかは、笑みから苦さだけを消した。

 内閣府別館地下は、まりかが装備する「ドレス」や、それを運用するためのトレーラー、そのほかにも対策班が使用する各種車両の整備基地となっている。整備・点検作業に取り掛かる者たちの表情は一様に険しく、独立要求に対する状況の激変に対応するべく、挙動は素早く淀みがなかった。
「今後は混戦が想定されるため、プレートの刃渡りを半分以下に短縮しました。しかしそのかわり……」
 ドレスが搭載されたトレーラーのカーゴルームでは、鎌倉の装備開発室より出向してきた開発主任・滝本雄作が、新しく納入してきたドレス用の新装備について、まりかに説明をしていた。
 ハリエットと別れて三十分が過ぎていた。感慨に浸る暇もなく、任務や義務は次々とスケジュール通りに訪れる。壁に埋め込まれたモニタに映し出された、三本の刃が扇状に付けられた、まるで扇子のようなナイフを見ながら、まりかはどうやって使うのだろうと、壁に背中をつけて首を傾げた。
「インドのカタールという武器をモチーフに、実戦データを研究したうえで開発した、新型の乱戦用ナイフです。切れ味より、刃の強度に重点が置かれていますので、かなり乱暴に扱っても折れることはないはずです」
「へぇ……重量は?」
「十七キログラム。ドレスと神崎さんの力があれば、団扇ほどの重さもないはずです」
「そうね……えっと……こっちのバレルがいっぱいついてるのって……なんです?」
 モニタ表示をコンソールで切り替えたまりかは、滝本主任にそう問いかけた。
「ガトリングガンです。両手ではなく、片手で発射できるよう工夫されています。従来の内臓アームガンと比較して取り回しづらいのですが、火力がケタはずれです。拠点防御用に使えます。他にも、突撃用のアサルトライフル、念動誘導ロケットランチャーなどを今回は納入しにきました。いま、一気に説明しますか?」
「そうですね……」
 次々とモニタに表示される武器を見ながら、まりかは頭の奥に鈍い痛みを感じた。
「また……夕飯の後とかでいいですか?」
「ええ。来週中はこちらで調整作業ですから、いつでも声をかけてください」
 滝本主任は弱冠三十二歳でありながら、ドレスの装備関係や対獣人用弾頭などの開発責任という重責を担う秀才である。少々小太りなのが短所とも言えるが、温厚で礼儀正しく、なによりも思いやりのある青年だということを、装備開発時点からの長い付き合いになるまりかはよく知っていた。だからこそ、頭痛を原因に説明の延期を申し入れることもできる。
 カーゴルームから出てきたまりかは、軽く頭を振った。

 なんだろ……これ……

 これまでに感じたことのない、風邪や虫歯などとは違う、鈍く重い痛みだ。念動力を使ったことによって生じる不快感とは違う。もっとのろまで気持ちの悪い痛みだと感じられる。

 やだ……

 眩暈である。これもあまり経験がない。床に置かれていたコンテナに片手をついたまりかは、そのままくるりと身体を回転させ、その上に腰掛けてしまった。
 これはきっと疲れだ。ここしばらく寝るのもソファや椅子ばかりであり、緊張と驚きの連続だったから、ハリエットの真実を知ったのをきっかけに気が抜けてしまったのだろう。悪いところが出てしまったのだろう。しばらく、ここで寝るか。コンテナの上で仰向けになった彼女は、腹部に両手を乗せ、そっと目を閉ざした。
 別れる前に、まりかはハリエットに提案した。この秘密は、できれば対策班の皆に打ち明けたほうがいい、と。返事は「Yes」だった。おそらく、いまごろ上のフロアでは柴田たちが驚いて二人のハリエットを見ていることだろう。
 まだ痛みがある。いろいろと聞かれるかもしれない。ちょっとだけ面倒だ。だからまだ、ここで横になっていよう。

 最後の背中は逞しい偉丈夫のものであり、扉が閉じたのと同時に、ダイニングキッチンにはリューティガーだけが残された。
 蜷河理佳は敵だ。そう告げてから、遼は顔を真っ白にし、目の焦点も定まらないまま言葉を発することもなかった。緊急ミーティングが終わってからも彼は中々席から立つことができず、岩倉に肩を支えられやっとのことで廊下に出る有様だ。バイクで来ているはずだが、事故にあわないだろうか。リューティガーは少しだけ心配した。
 しかし、それも時間にして数秒のことだった。考えなければならない最優先は、兄の要求と宣言への対応だ。核弾頭の行方はその中でも比重が重く、絵の分析結果が出しだい作戦行動に入らなければならない。
 大規模な作戦になることは明白だ。遼が絵のコピーを日本政府に渡してしまっている以上、同時の作戦行動も十分に考えられる。

 また……あの女がしゃしゃり出てくるのか……!!

 真っ赤な人型が、心の中で勇躍した。彼はすっかり醒めてしまったジャスミンティーを啜ると、居間で情報収集を続けている二人の従者を一瞥し、803号室から廊下へ出た。

 気持ちが昂ぶっている。神崎まりかのことを考えると、冷静さというものが熔解していくようだ。リューティガーは隣の802号室の扉を開け、薬品の臭いに目を細めた。
「ガイガー先輩……」
 診察室にはゼルギウス・メッセマー医師と対座する、隆々した筋肉の塊が検診を受けていた。上半身にはなにも纏わず、背中には肩口からわき腹にかけて、袈裟状になった傷跡が浮かび上がっていた。
 あの傷は、八年前に神崎まりかたちとの戦いによってつけられたものである。背中を向けたままの鋼鉄の男は、以前そう言っていた。リューティガーは、振り返りながらランニングを着るカーチス・ガイガーに頭を下げた。
「どこか調子が悪いのか?」
 丸椅子から立ち上がったガイガーの問いに、リューティガーは「少し」と、曖昧な返事をして、彼と入れ替わるように丸椅子に腰掛けた。

 ゼルギウスは精神安定剤を二錠渡すと、苦笑いを浮かべて大きな顎を擦った。なにか言いたげだ。そう感じたリューティガーは拒絶の意思を態度で示すため、すぐに腰を浮かせた。それはあまりにも雑な所作だったため、丸椅子はメッセマーに向かって滑り、その膝に触れるころには逃げ出した彼の姿はもうなかった。
「あ……先輩……」
 ガイガーは腕を組んで玄関付近に佇んでいた。どうやら、診察が終わるのを待っていたようである。リューティガーがその脇をすり抜けて扉を開けようとすると、彼は首を横に振って立ちはだかった。
「な、なんです……先輩……」
「俺は、忠告ってやつがどうにも苦手なんだが……」
 言っておくべきだろう。余計なお世話ではない。急変した事態に対応しなければ、この若い才能は滅びる。
「今後は、どうしたってこの国の関係機関と連携を余儀なくされる……わかるな、その意味が」
 意外な人物からの言葉だったため、リューティガーは両の拳を力いっぱい握り締め、背筋を伸ばした。
「神崎まりかへの恨みは捨てろ。共闘は当然の選択だ。いや、それを避けては被害が増すばかりだ」
「で、でも……先輩だって……」
 ついさっき見た、生々しい傷が思い出される。リューティガーの動揺を肌で感じたガイガーは組んでいた腕を解き、腰へ当てた。
「俺は許せる。いや、許せんのは負けてしまった自分の至らなさだ。それに、隊長が生きていれば、やはり共闘しただろうな。すべては効率よく遂行するため、無駄死にをなくすためだ」
 そう告げると、ガイガーは扉を開け廊下へ出て行った。

 後は自分でよく考えろ。最後は毅然と突き放す。先輩はいつだってそうだった。
 閉ざされた扉をじっと見つめたリューティガーは、一度だけ大きく舌打ちをしてしまった。

 まったくいじけてる。なんという安さだ。

 自分の狭い心にいっそう腹を立てた彼だったが、どうすることもできず、ともかく803号室にもどるため足を進めるしかなかった。

 あ……れ……

 彼は玄関の縁で躓いた。栗色の髪がなびき、全身が前方へと流れていく。なんとかしなくては。
 扉を左の掌で打ち、右腕でバランスをとったものの、上体はずるずると下へ下がり、気が付けば冷たいコンクリートに左手と片膝をついていた。
 ここは、靴を脱ぐために一段低くなっている。だから日本なんだ。自分たちにとって無意味な段差だ。けど、この国の人たちにはそれが必要なのだ。

 僕は……なにを考えている……

 水に流す。すべては時が解決する。
 結局は許してしまうことが日本人の特徴のひとつであると、父から教わっていた。だが、半分その血が流れているにも拘わらず、自分にはそのような寛容さは微塵もない。そんなもの、この無意味な土間とひどくよく似た、いらないものだ。これまでそう決めていた。
 それなのに心が狭いと自覚しただけで、無様な舌打ちに気づいただけで、そんな躓きに倒れこんでしまった。ひどく、矛盾している。


 803号室に戻ってきたリューティガーは玄関で立ち止まった。右足の内側で左足の靴のふちを踏んでみる。そして、踵だけを浮かせてみる。左足の革靴は半分だけ脱げた。簡単なことだ。
 いや、だめだ。この803号室は靴を脱ぐための用意ができていない。日本でありながらここは流儀が違うし、それを決めたのは僕だ。
 結局、脱ぎかけた靴を履き直すしかなかった。
 時間はない、それはよくわかる。だけど、いまは時間が欲しいリューティガー真錠だった。

7.
「島守くん……」
「だいじょうぶか……島守……」
 代々木パレロワイヤルを出て、バイクを停めてあった路地に出た三人だったが、遼の顔色があまりにも悪すぎていたため、岩倉と高川はちゃんと帰れるのかと不安になっていた。
 ヘルメットを手にした遼は、その場にしゃがみ込んでしまった。
「お、おい……」
 普段はあまり他人の心配をしない高川だが、蜷河理佳の登場と生気を失った仲間の姿は、彼の心に興味と心配を同時に湧き起こらせていた。高川は遼の肩を支え、その顔を覗き込んだ。

 なに……?

 先ほどまでの死を想起させる遼ではなかった。顎を強く引き、歯を食いしばり、目には殺気を宿し、抱え込んだヘルメットを腕で潰さんばかりに両肩はびりびりと震えていた。
 これは怒りだ。消え入り、死に行く者の気配ではない。高川は手を離し、咳払いをした。
「島守くん……」
 それはそれで心配である。事情を知っていた岩倉は、心配のあまり遼に声をかけたが返事はなく、逆に睨みつけられてしまった。高川と同様に怒りを察した岩倉だったが、それが自分たちに対して向けられているものではないと気づいたため、なにを言ってよいのかわからなくなってしまった。

 愕然とし、怯え、恐怖し、情けなさに絶望する様は決して嘘ではない。だけど、それをいつどこで見せてしまうかは計算をしていた遼だった。
 もう、井戸の底に落とされたことに嘆くのは止めだ。どう脱出するか。そしてそのあと、どこに向かっていかに走り出すべきか。
 いまは一人で考えたい。そんな強い意志が岩倉と高川にも伝わっていた。

 パレロワイヤルのすぐ裏では、あまりにも近すぎる。遼はバイクを新宿方面に押し歩いていた。途中、ポケットに入れていた携帯電話が何度も振動したが、彼はそれに出るつもりがなかった。

 何分もかけて小田急線、南新宿駅のガード下までバイクを押してきた遼は、ようやく足を止め、大きく息を吐いた。短い距離ではあったが、乾燥重量にして百三十キログラムを越えるMVXの車体は両肩や膝を軋ませる。しかし、今の彼は負荷と労力が欲しくてたまらなかった。

 バカが……くそったれが……なにもかも……おわりじゃねぇか……!!

 いまバイクの運転などすれば、感情の昂ぶりで操作を誤り自分も他人も大ケガをしかねない。最低限の冷静さを保っていた遼は、背中をガードの壁に付け、その場に座り込んだ。
 まだ、あのテレビを見てから一時間しか経っていない。彼女は洋上にいるのだろうか。映像を見る限り、真実の人はまずボートの上で演説をはじめ、次に水面から空母を望むアングルに切り替わり、最後は甲板の上になった。あれは跳躍の過程に添った場面転換だったのだろう。だとすれば、蜷河理佳は最初のボートに残ったままということになる。関東テレビのゲリラ放送であることは明白だから、警察や米軍が最初の中継地点となるボートを捜索しているはずだが。

 そこまで考えた途端、遼は手にしていたヘルメットを地面に投げつけた。買い物帰りの主婦は突然飛んできた複合繊維製の塊に驚き、慌てて逃げだした。自分の命を護る意味でも、他人の迷惑という意味でも最低の行為である。だが、制御ができるほど彼は成熟していなかった。
 用意周到なFOTだ。最初の中継地点など、もう移動を開始しているだろう。だから彼女が捕まるはずがない。そんなヘマはやらない。そう考えてしまった。けど、それは安心したいがためだけだ。自分の手が彼女に届かないから、楽観したいだけだ。
 なんて情けない。そんな遠くに理佳はいるのか。あんなに近くの画面で見たのに。誰もが美しいと見とれた黒い少女は、遥か遠い存在に思えてならなかった。だから、投げてしまった。

 テレビに出た……みんな……見た……誰だって……知った……真実の人や、我犬なみに……知られた……FOTの人間だと……すっげぇ有名に……理佳ちゃんが……

 ネットでは画像が出回り、テレビやスポーツ新聞では謎の美少女ともてはやされ、やがて家族を斬殺された過去も暴かれ、犯罪グループの屈折した一員として認知されてしまう。これまで、組織から彼女を取り戻せばいいと思っていた遼だったが、これでは「すべてが終わった後、共に生きていく」という予定が成立しない。
 蜷河理佳は、何歩も踏み込んでしまったのだ。決して後戻りが出来ない扉の向こうへ行ってしまったのだ。彼はそこまでの想定というものをしていなかった。

 なに考えてんだよ……もう……取り返しがつかないんだぞ……この先ずっと……テロに参加したって証拠が残るんだ……それでも……いいのかよ……!!

 いいのだろう。覚悟など、とうにできているのだろう。顔無しの化け物をナイフで仕留め、それでも組織へ還っていった彼女なのだから。肌を重ねた後、それでも去っていった、理佳なのだから。
 なら追いかけるのみだ。その結果、関東テレビのフレームに自分の姿が入ることになっても構わない。取り戻した後、警察や同盟の手が伸びてきても、逃げるだけだ。もし、それで栗色の髪と対峙することになっても、ブチ切ってみせる。奴の命を。
 我ながら恐ろしい思いつきだ。しかし、テレビに映った彼女はかつてない強さこそ備えていたが、いまが幸せなのかは定かではない。

 彼女の笑顔を一番知っているのは、この俺だ。

 そう信じるしかない。ここで諦めてたまるか。また触れてみせる。抱きしめてみせる。喜ばせ、悦ばせ、ぼんやりと平穏に暮らしてみせる。蜷河理佳と。
 遼は、勢いよく立ち上がった。

「おばさん!! ごめんなさい!!」

 そう叫んだものの、逃げていった主婦の姿はなかった。投げてしまったヘルメットを拾い上げた遼は、「一度地面に叩きつけられたヘルメットは、外から見て傷がなくても、耐久性が弱まっているので買い換えるべきだ」という教習官の言葉を思い出した。

 メットはな……買い換えればいい……

 しかし、彼女の代わりはない。そう思えた途端、なんとかしてみせると心が奮い立った。まだ、最悪の事態は訪れちゃいない。そう、あの同盟のエージェントは、なにがなんでも彼女を殺すとこだわるような奴ではない。妙な話だが、それだけは信用できる。まずは核弾頭のありかを探すのに集中するはずだ。まだ、猶予はある。

 遼はバイクまで戻りながら、ポケットから携帯電話を取り出した。
 はるみ・沢田・西沢・戸田・福岡・針越・永井。この一時間で携帯電話にかけてきた友人たちの名前を、彼は液晶画面で確認した。皆、聞きたいことはひとつだろう。はるみはともかく、他のみんなには険しく接しておこう。ノーコメントを貫き、聞いてはいけないといった空気を作るべきだ。
 身の回りが慌ただしくなる。けれども、それは彼女よりはずっと穏やかな波であり、その程度は余裕で乗り越えなければ先はない。

 幾重ものプロセスを経て、島守遼は自分というものをようやく立て直すことができた。

 ヘリコプターの爆音が、プレジャーボートの上空を通過した。ジェットエンジンを搭載した自衛隊のものである。関東テレビの北川洋輔はサングラスを外し、運転席から身を乗り出して機影を確認した。
「ついに……見つかっちまったか……」
 「夢の長助」こと、藍田長助からのメールを受け、今日のゲリラ取材を決定したのは、いまや関東テレビ内でもFOT担当として視聴率の稼ぎ頭にまでのし上がった北川ディレクターだった。
 取材クルーのセッティングをし、FOTが用意したこの大型ボートに大井埠頭から乗り込み、東京湾で中継を開始したのは一時間前だった。電波の逆探知や、目撃情報を総合したにしては意外と遅い発見だ。これでは、それこそカメラの前から突如として消えたあの白い長髪の青年が言うとおり、国防軍昇格と練兵が必要なのではないだろうか。結果としての裏づけに、北川は苦い笑みを浮かべた。
「さて……我々は大人しくお縄につく……あなたはどうする? Mr.ジョーディー」
 舵を握る運転席の白人男性に、敏腕ディレクターはそう尋ねた。
「帰りの足は用意してある。だから、このような格好をしている」
 舵から手を離したジョーディは、足元に置いてあった足ひれを拾い上げた。
 なるほど、だから操船の段階から、ウエットスーツなどを着込んでいたのか。北川がジョーディーの奇妙な出で立ちにようやく納得すると、彼の目にたっぷりとした凹凸の、肉感的な肢体が飛び込んできた。
「準備はどう? ジョーディー」
 いつの間に着替えたのか。白人の操舵主と同じ格好をした蜷河理佳に、北川はすっかり目を奪われてしまった。
「OKだ理佳。では、そろそろいこうか」
 操縦席から立ち上がったジョーディーは、理佳と並んでデッキへ上がろうと歩き始めた。
「このボートはどうする?」
「保安庁にくれてやるさ。どうせ盗品だ」
 背中を向けたまま、ジョーディーは不敵に言い放った。

 プレジャーボートのすぐ側の海面から、人影が浮上した。革の帽子にジャケットを着込み、顔は包帯で覆った異相の者だといえる。海面から出てきたのは上半身のみだったが、それから下は腰ではなく、黒く大きなイルカやシャチのような海獣が繋がっていた。半獣半人。横須賀で空母キティホークへ雷撃戦をしかけた、FOTの海洋戦闘用、カイン型獣人である。
 次々と、上半身だけの人型が海面から姿を現した。その数、五体。理佳とジョーディーはボート側面のデッキから海へと飛び込み、それぞれ獣人の手を掴んだ。
 なるほど、あれが脱出の足というわけか。続けてやってきた北川と若手のカメラマンは、海洋獣人に抱きかかえられるアクアラング装備の二人を見下ろし、段取りが既に完了していることを知った。おそらく海底に逃れるのだろう。現在の日本において、あの海獣たちを追撃することは不可能だ。
 海面から沈んでいく群れを見送りながら、北川は取り調べでどう言い逃れをしようか、そろそろ答えを用意しなければと思った。
 どうせ映像ソースはこちらの手にあるのだし、データはカメラの中ではなく、外注会社のサーバ内にある。証拠品の押収を条件に釈放されるのは前もって警察幹部と裏打ち済みだったし、マスコミで唯一FOTと接触できるこちらを政府もパイプとして利用したい意向があるとも聞いている。ただ、示しがつかないから検挙されるのだ。ゆっくりと近づいてきた海上保安庁の巡視艇に視線を向けた北川は、大きくあくびをしながら頭をひと掻きした。

 夕暮れ時の河原に、天然パーマのもじゃもじゃ頭が風に揺れていた。今年の秋は短かったらしい。居酒屋のテレビでそんな天気予報を昨日の夜みたばかりの藍田長助だったが、ここ最近は海を越えた任務も多かったため、いまひとつ実感がわかない。ただ、秋が終わりかけであることは、川から吹いてくる風が冷たいことでよくわかる。
 少しばかり疲れた。そう感じ、草むらにしゃがみ込んだもじゃもじゃ頭が、突風になびいた。
「報道特番に号外。いつもの大騒ぎだな。しかし規模に対して、騒ぎ方が頭打ちって気もしないでもないが……」
 隣で揺らめく白く美しい髪に、長助はそうつぶやいた。
「なに……その辺りは暮れにかけて、音羽の連中が上手くやってくれるさ。そのために飼い慣らしたんだからな」
「なにをやらせる?」
「上限ってやつを取り払うのさ。わくわくどきどきしてる、特に若い連中のたまらなさを噴火させる、蓋を外してやる」
「こわいな……」
「なにをいまさら」
 真実の人は長助の隣に腰を下ろし、並んで江戸川を見つめた。変わった川だ。右からも左からも一定量の波が立ち、それがぶつかり合うことなく木目のような交じり合いになっている。赤い瞳が興味に輝き、黒い瞳はつまらなそうに濁ったままだった。
「音羽を……使い切るかの?」
「一番大きな舞台を、用意してやるだけさ。その重圧に奴らが負けるんなら、それまでってことだ。思想なんてバッヂ程度に考えていたツケを払うことになるか、それとも現実主義って絶望に正面から向き合って乗り越えるか、さーて、見ものかもな」
 わざとらしく悪趣味を口にしてみたが、なんともつまらない。青年は落ちていた小石を広い、水面へ投げた。
「で……鞍馬の拠点防備の進み具合は?」
 真実の人の問いに、長助はスーツの胸ポケットから煙草を一本取り出し、それに火をつけた。
「まずまずだが、獣人の数が足りないな……」
「そうか……」
「弟さんのところの、別働隊に破壊工作を積み重ねられてな……最近じゃひと段落したって感じだが、ボディブローのラッシュを受けたみたいなもんだ、今になって相当効いてきている」
 それはガイガー・健太郎・エミリアの戦果だった。次々と拠点を破壊され、物資と情報の行き来を寸断された傷は、地味ではあったが確かな爪あとを残している。真実の人は長助の横顔に視線を移した。
「今日の宣言は、急ぎすぎたかな?」
「いや……施設の屋内ビジョンを弟さんに見せちまったんだ……時間がないのも当然だろう。仕方ないさ」
 いつもの飄々とした態度は微塵もなく、長助の声はずっと低く沈んだトーンのままだった。
 その原因は、真実の人にとってもよくわかっている。しかし、その話題に自分から触れるつもりはない。
「それなら手は打ってある。跳ばした先、ありゃさっさと爆破封鎖した。もともと使っていなかった開発区画だったからな。たとえばルディが爆弾を跳ばしてきたとしても、実体化するスペースがない以上、原子レベルで瓦礫に四散するしかない。そこまでの密度で封鎖したからな」
「案外不便なんだな、空間跳躍って」
「慧娜(ヒュイナ)ならともかく、たった一室のビジョンだけで、場所を把握したり、全体像を見極めたりなんてさ、俺たち兄弟にゃちょっと難しい。まぁ……それでも割れるのは時間の問題だろうけどね」

 冷たい風が、まだらに変色した草を揺らした。

「理佳は……どうした……?」
 突然の言葉だった。すっかり話題にならないと思い込んでいた青年は、頬を引き攣らせて思わず立ち上がった。
「離脱には、成功したそうだ」
 “どうして”そう尋ねるつもりだったのに、“どうした”と間違えてしまった。だから、こんなわかりきった返事しかない。
 いや、彼は気づいている。その尋ね間違えを。そして俺はわかっている、“どうして”の答えを。理佳は望んだのだ。後戻りが出来ない、日本が違う形にならなければ、犯罪者として追われるその道を。
「バカだな。俺は」
 そうつぶやきながら長助は立ち上がり、青年と並ぶように胸を張ってみた。
 やるべきことをやらなければ、陰鬱としていたら、覚悟を決めたあの美しくも儚げな少女に嫌われてしまう。
「お互い様さ」
 煙草の煙に目を細め、白い長髪の彼は優しくそう返した。
「なぁ、真実の人(トゥルーマン)」
「なんだい、長助」
「どうして、安保条約の破棄と憲法改正も要求しなかったんだ? 本来はなにもかもセットメニューだろ?」
「まぁね。だけど、俺たちからそれを言うのは違うだろ。日本人がみんなで考えて、その結果に出てこなけりゃ、また六十年前と同じことさ。民主革命が一度もなかったこの国は、民衆にことごとく自覚ってやつがない。突きつけられ、押し付けられたことに半笑いで従うことが習性になっている。そこんとこを少しは変えなくっちゃ、なんのためのFOTってことだろ?」
「はっはははは!!」
 笑い声を上げた長助は、煙草が地面に落ちたので慌てて靴の先でそれを踏みつけた。だが、笑いはまだ止んでくれない。そう、この言葉はもう何年も前にまだ少年だった彼から聞いたものと同じである。もっと口調は汚かったが、内容にまったくずれがない。
「はっははは!! 成功させたいよな!!」
「ああ。もちろん」
 自覚なき者たちに要求し、それを真剣に考えさせることで毒と膿を自浄能力によって吐き出させる。なんとも詐欺じみた革命ではあるが、戦力に乏しく組織力に欠ける我々にはそんな奇策がお似合いだ。

 一緒にやろう。

 そう決めた当時を思い出した夢の長助は、真実の人の肩に手を回し、頭を低くして笑いを押し殺そうとした。
「忙しくなるぞ、長助。中丸隊長は、獣人王と酒を呑んだらしい」
「あっはは!! やるな、あの女傑も!!」
 なんてことだ、我慢した途端に破顔一笑してしまうとは。世の中もまだまだ捨てたもんじゃない。傑物と怪物の晩酌を連想した長助は、少々声を上げてもそれはそれで仕方がないだろうと笑った。

 互いに肩を組み、二人の革命家は川沿いを歩き始めた。歌舞伎町も、大塚も、蒲田も、呑み屋が並ぶうらぶれた路地を、よくこうして並んで歩いたものだ。もう随分と有名になってしまったから、祝杯を挙げる先は慎重に選ばなければならない。

 まあいい。いっそ公園でやってしまうのも一興だ。河原も悪くない。

 とにかく、今日は記念日だ。

8.
 日本近海にて行われた三代目真実の人(トゥルーマン)の要求宣言によって、FOTというテロ組織は新たな活動段階へ移行することになった。その一環として、日本国内に点在していた戦力が、ある拠点へと集結しようとしていた。
 電車や車両、バイクやボート、そして、己の背中から伸びたそれをはばたかせ、ある者にいたっては土中を這いずり、彼らはそれぞれが様々な手段で徐々に山中へと集った。

 京都府鞍馬山。その地下深くが目的地である。

 次々とエレベーターから降りてくる様々な容姿をした仲間たちに、ゴモラ守備隊隊長兼、鞍馬開発室の総責任者、中丸邑子とその部下の守備隊は敬礼を返し続けていた。十一月十四日、彼女たちの若き指導者が宣言してから、すでに八日が過ぎようとしていた。
 遂にこの日がやってきたのか。エレベーターホールの背後から聞こえてくる到着者たちのにぎやかな声を耳にしながら、中丸の目は充血して真っ赤になっていた。
 八年前、組織から見放され励ましあってしぶとく生き延び続け、ようやくあの青年の登場によって救われた自分たちである。再興した組織が本格的な作戦行動を開始し、その最初の拠点がこの鞍馬になるとは。
 集結。そう言ってもよいだろう。この地下は規模に対してそもそもの人員が少なく、更に脱走と自決によって一人辺りの面積は広がる一方だった。なのに、いまはエレベーターホールにも、廊下にも、開いた扉からも、人影が絶えることはない。
 作戦指示が出てから一週間で、この鞍馬山地下のゴモラ開発施設に集った、兵士・獣人・技術者・支援要員は合計で千人を超えようとしていた。物資は予め豊富に補給されていたが、部屋割りや機材の貸し出しなど、運営面についての滞りが三日前から起こり始め、その度に中丸は部下に「情けないところを見せられるか、あの三代目に」と叱咤し、「運営、運用は作戦行動の要。担当者は実績を残せる数少ないチャンスなのだから、それに応えなさい」と激励した。

 ゴモラの起動に成功したのは、ゴールではなくはじまりだった。
 倉庫にずっと眠っていて、もう表に出すこともなく廃棄するだけとなっていた円盤型のプロトタイプのゴモラを、真実の人が「使おう。すまんが使おう。というか、ぜひ使いたい。思いついてしまった。最高の演出を」と言い出したのは二ヵ月前のことだった。里原主任研究員は完成したばかりの反重力推進システムの七号機を、プロトタイプに実装するという無茶を要求された。彼はスタッフを総動員することで、ともかく実現に向かって作業を開始するしかなかった。
 里原とその部下は連日に亘る突貫作業で真実の人の思いつきを実現し、起動実験とフライトテストが完了したのは、ニミッツへの投下三日前のことである。
「眠らせてもらう。私達は。それこそ泥のように」
 むくんだ顔で里原たちは中丸にそう告げ、それから十八時間は部屋から出てこなかった。
 最近ではようやく健康を取り戻したそうであり、一昨日なども食堂で気を遣って声をかけた中丸だが、里原は銀縁眼鏡をかけ直し、「隊長が一瞬、死んだ母のように見えたものだよ。私もあの時期は、相当テンパっていたらしいな」などと冗談交じりに返してきたので、いつもの余裕が戻っていたのだと安心することもできた。
「追加の守備隊には、私からも指示をださんとな。機密が拡散せん程度には、ゴモラというものの特徴を知ってもらう必要がある。資料をすぐに作ろう」
 顎の無精髭をなで、彼は食べかけのレバニラ炒め定食に再び取り掛かった。
 一昨日のそれ以来、里原は新兵器研究主任として防衛計画へのアドバイスを積極的に行うようになっていた。なんでも彼の部下である女性職員の話によると、テレビでニミッツの甲板にプロトタイプが落下したのを見た際、椅子をひっくり返す勢いで立ち上がり、獣のような咆哮を上げたらしい。それは歓喜の叫びなのだろう。中丸はそう理解し、彼の積極性を是として受け取っていた。

 もとフランぺ隊、そしてゴモラ開発室の「残されてしまった者」たちは、「迎える者」として、最も忙しい時期を乗り切ろうと奮闘していた。何年も鬱積したなにかを晴らすかのような、それは炎の如き勢いだった。

 エレベーターの扉が開き、エプロンドレス姿の赤い髪の少女と、褐色の肌をした少年が姿をあらわした。もう我慢できない。二人を前に、敬礼をしたまま直立不動だった中丸は、両眼から熱いものを流した。
「あらあら、いまからそんなことじゃ、革命に成功したら気を失っちゃうんじゃないの? 中丸隊長?」
 腰に両手を当てた少女が、自分よりずっと背の高い迷彩服姿の女丈夫を見上げた。
「ラ、ライフェさま……そのような……」
「いいのよ、はばたき。だって、わたしにはわかるんですもの。なんでこのタイミングで泣いてしまったのか。ねぇ、中丸隊長」
「ええ……ライフェ……そうね……」
 敬礼を崩さず、涙も拭わず、穏やかな瞳で中丸はライフェ・カウンテットを見下ろした。そう、ちょうど七年前の十一月である。この少女は、あの青年と共にここへ侵入を果たした。
 それ以来、なにもかもが再開した。だから、赤い髪に感慨もひとしおである。七年前の彼女はもっと幼かった。自在に姿を変えられるのに、ライフェ・カウンテットいう個性は年月に合わせて自然さを意識しているのだろうか。だとすれば、可愛いところもある。なおも涙を流しながら、中丸隊長は優しげな笑みを浮かべた。
 こんな暖かさは悪くない。感激と感謝を一身に受けたライフェは、すっかり嬉しくなって敬礼を返すと、僕である少年の手首を掴み、中丸の脇をすり抜けた。
「部屋は適当に使わせてもらうわね!! いくわよ、はっばたきぃ!!」
「は、はい!! ライフェ様!!」
 なんとも元気だ。はばたきと呼ばれているあの少年とはこれまでに何度もやりとりをしたことがあったが、素直で大人しく、それでいて頑固な面もあると知っていた中丸である。ライフェと主従関係にあると聞き、如何なるものかと少々不安ではあったが、中々いい関係を築いているようだ。丸眼鏡を外した彼女は、ハンカチでようやく涙を拭った。

 あっちの突き当たりで話をしているのは、三十九戦隊のファーガソン隊長と、椚(くぬぎ)教授だ。獣人の運用方法でも詰めているのかしら。

 食堂で得意げに自慢話をしているのは、暗殺プロフェッショナルの人森(ひともり)か。殺し屋のクセにおしゃべりで、あまり好きじゃあない。けど、いつの間に再契約したんだろ。

 エプロンドレスの端をなびかせながら、ライフェは地下開発室に集まった仲間たちの顔を確認していた。初めて見る者も何人かいる。となると、後で触らせてもらい、「形」を覚えておく必要がある。
「はばたき。忙しくなるから、ちゃんとフォローしてちょうだいよね」
 ようやく手首を離した少女は、立ち止まって僕である少年に振り返った。
「はい、ライフェ様。なんでもお申し付けください」
 中丸を前に、凛としてそれでいて優しさも醸し出すこの主は、なんと可憐で敬愛できる存在なのだろう。つい先ほどのやりとりを思い出しながら、はばたきはあらためて、ライフェという少女に仕えることのできる悦びを噛み締めていた。
 だが、そんな時間も長くは続かなかった。赤い眉を顰めた主はくるりと背中を向け、険のある意を扉の開いていたある部屋へと向けた。

「これが真実の人からの言伝です。我犬隊長の活躍には期待しているとのことですので、がんばってください」
「お、おお、おう……ま、任せてくれ……が、がんばるからさ……」
 しきりに犬面の後頭部を左手で撫で、たどたどしい片言の日本語で、二代目我犬(ガ・ドッグ)は眼前の少女に鼻先を濡らしていた。
 黒いスーツ、黒いタイトスカート、黒いネクタイ。そして、そのどれよりも光沢のある黒い長髪。肥満気味で容姿に自信のない二代目隊長にとって、部屋まで言伝にきた蜷河理佳は、美しさの象徴ですらあった。真実の人ともなれば、このような存在を傍に置いておくことができるのか。我犬は自分と同じ、翼をもった部下たちを信頼していたし、不相応な立場を与えてもらっていると感謝していたが、それとは関係のない個人的で雄としての性的な欲求から、蜷河理佳を所有する白い長髪の青年を羨ましいと感じていた。
「二年B組じゃ、大騒ぎになってるわ。あんたには関係ないんでしょうけど」
 突然浴びせかけられた棘のある言葉に、理佳は出口を睨みつけた。
「ライフェ・カウンテット……それにはばたきくん……来てたの?」
 敵対する者ではない。少女と少年の姿をそう認めた理佳は、すぐに穏やかさを取り戻した。
「ええ。わたしは学校に部活があるから、休みを出すのに手間取ったの。だけどもう平気。わたしとはばたきがここに入った以上、あんたはもう帰っていいわ」
 嫌いだ。黒い髪も涼しげな目も、儚げな肩も、意外と凹凸のはっきりとした身体も、そしてなによりも、「わかっているから」といった性根も。ぜんぶ大嫌いだ。
 ライフェは蜷河理佳に背丈だけでも合わせようと思ったが、なにか負けてしまうようで悔しかったため、腰に両手を当て、たっぷりと見上げることに決めた。
「そ、そうはいかないわ……ここの警備がわたしの新しい任務。それに、あの人からはあなたたち二人と協同してやって欲しいって、そう頼まれているのよ」
「“あの人”っていったい誰よ!? わかる言葉で話しなさいよね!!」
「ラ、ライフェ様……」
 理佳と何度か、連絡のやり取りをしたことのあるはばたきだった。交わした言葉はわずかではあったが、彼女は憎んだり争ったりする対象ではないと常日頃感じている彼だから、ライフェを諌める必要を感じての言葉だった。
 しかし、あまりにも弱い諌めだったため、赤い髪の少女を和らげることはできなかった。理佳は怒気の収まらないライフェに小さく微笑み、彼女の心に更なる波を立てた。
「真実の人の命令よ。はばたきくんの機動力、ライフェの変幻自在な暗殺術。そしてわたしの狙撃。三位一体とまではいかなくっても、互いの長所を活かす戦い方をすれば、少数でも効率的な拠点防衛は可能だと思うの」
 余裕やゆとりを見せ付けられているようだ。ライフェは奥歯を噛み締め、いっそう険しい表情を浮かべた。
 すっかり蚊帳の外に置かれてしまった我犬は、どちらに加担してよいのか判断できず、困ったまま後頭部を掻くばかりだった。
「いいわよ。そこまで明確な命令を受けているのなら、わたしだって子供じゃあない。蜷河理佳、あんたとの連携だってやってみせるわ」
「ありがとう、ライフェ……」
 本音などではなく、建前である。それに、含むところもじゅうぶんある。理佳はライフェが“折れた”ことをそう理解していた。
「二年B組が……大騒ぎって……そう言ってたわよね」
 最初に投げかけられた言葉が、ずっと気になっている理佳だった。
「ええ……そりゃそうでしょう。テレビに映ったんですから。演劇部でもその話題でもちきりってやつよ」
「ね、ねぇ……ライフェ……」
 こいつが何を尋ねたいのか、そんなことはわかっている。あの、「彼」がどうしているかだろう。ライフェは背中を向け、大きく息を吐いた。
「島守遼は、そりゃ稽古だってひどい有様よ。まだ次のキャスティングは発表されてないけど、福岡部長は考えなくっちゃって、そう言ってたもの」
 ライフェ・カウンテットではなく、澤村奈美としての言葉だった。理佳は彼女の背中を見つめながら、堪らず胸に両手を当てた。
「行くわよ。はばたき」
「は、はい……」
 そのように苦しそうな仕草を見せるのなら、なぜ公の場に姿を見せることにしたのだろう。真実の人がそれを強制することはまずない。そう確信していたはばたきだったので、主に続いて部屋から出て行きながらも横目に入る理佳の戸惑いが不思議でならなかった。


 理佳やライフェ、そしてはばたきがそんなやりとりをしている間にも、この地下施設の随所では集結した部隊から再編成と装備の見直しが進められ、中丸隊長の指示によって防衛ラインの設定と配備が着実に進められていた。
 里原主任研究員が指揮を執る、施設の中でも最も広大なスペースを占めるゴモラの開発室では、円筒形をした二つの巨大な物体が、ほぼ中央の位置に鎮座していた。
 ヴォルゴグラードから跳ばされてきた核弾頭は、既に取り付け済みである。起動実験も済んでいるため、いつでもこの二発のゴモラは京都上空に放たれ、自在に飛行をし、役割を全うすることができる。里原は防熱ガラス越しに日本国内で唯一となる核兵器を見つめ、思わず息を呑んでしまった。
 科学者でありながら、里原は科学では解明されていない力によって、いくつかの成果を得てしまっている。特に核弾頭の入ったコンテナが突如としてあの閉鎖区画へ現れた際には、驚愕でその場にへたり込んでしまったほどである。なんでも真実の人の弟が策に嵌った結果らしいが、それにしても空間を瞬時に移送させるなど、どう立証すればよいのか。
「弟がいればな、ゴモラを瞬時にワシントンや北京、ザルツブルクへ跳ばすことだって可能だ。わたしではそうはいかん。どうしても見える範囲に引き寄せることしかできん。それでは中間迎撃の危険性もあるからな。ニミッツへの奇襲など、実は一度きりの奇策に過ぎんのだ」
 四日前、この地下を訪れたあの青年はそんなことを言っていた。だが、彼の諦めたような笑みの理由を、里原はわかることができなかった。
「気づかれるな。近いうち、ここは決戦場となる。敵の殺到が予想される、防衛戦力はそのための保険だ。無論、バランス牙の部隊に中国への牽制はさせる。二正面作戦は避けなければならないからな」
 中丸とのミーティングで、青年はそうも言っていた。軍事戦略に関してはまったく疎い主任研究員だが、指導者が真面目に事態へ対応していることぐらいはわかっていた。
 里原厳(さとはら いわお)は、ゴモラを凝視しながら右の掌を左の拳で打った。

 さーて……どうするのか。真実の人(トゥルーマン)……こいつを本気で使うつもりか……それとも……

 彼は視線を区画の隅へと移した。そこには二発とまったく同形である円筒形の物体が、三基置かれていた。
 謀略の種はそろっている。あとは、それをどう使うかだ。


 これほどの巨体を見上げた経験はない。はばたきはあくまでも一個の生物として緊張し、茶色の翼を思わず広げてしまった。
「怯えるな……少年……味方であることぐらい、目を見ればわかる」
 静かで低い声である。天井の高いその区画で、膝を抱えて座るその様にはまさしく王の風格が漂っている。
 「ライフェ様。是非とも面会しておきたいのです。僕は獣人ではありませんが、この翼は同じ技術の結果なのですから」彼にしては珍しく、言葉の多い要求だった。主は、「別にいいわよ。けどわたしはご免こうむるわ。質量が違いすぎて、化けられそうにもないし」と許しを出してくれたから、警備の人間に自信をもって無理を言うこともできたし、その結果この王の棲む間に入れさせてもらえたはばたきだった。
 よく見ると、あらためてその巨大さを感じてしまう。獣人王エレアザールは座り込んでいるにも拘わらず、四メートルはあろう天井に長い角が当たりそうだった。その事実に、はばたきはあらためて戦慄した。
 全身を毛で覆われているあまりにも巨大な体躯は、筋骨も隆々であり、獣である証しの長い尾が床にとぐろを巻いていた。立てば、角も含めた全長は八メートルを超えるだろう。おそらく、全地球上で最も巨大な二足歩行生物だといえる。腰と胸、そして肩には黒い革製の防弾スーツが装着されているが、彼はその筋肉だけで、大抵の弾丸を跳ね返してしまうだろう。爪は一番小さな小指のものでも、長刀の如き長さと鋭さを見せ、牙の太さは土木作業用のパイルに匹敵する。
 まるで、特撮映画に出てくる怪獣のようでもある。
 だが、目が違う。深い藍色をしたそれには、確かな知性と理性が宿っていた。だから見下ろされても、不思議と恐怖にすくみ上がることはない。もっとも、彼が戦場の中にあり、立ち上がって猛ることになれば、平然と対峙できる者などごくわずかであろう。
「僕は、これまでになんどか、扉越しにあなたの寝息というものを聞かせてもらいました」
「ほう……」
「はい」
「で?」
 あまりにも短い言葉のやりとりではあったが、言語よりも気持ちを拾い上げることに慣れていた異邦人は、王の意図をすぐに察した。
「恐ろしい獣と勘違いをしていた非礼を、お詫びしたいと思っています」
「働きで見せてもらえればいい。わたしも王などとおだてられてはいるが、もとは人。いまもなお、コマとしてアテにされている身。君と変わらない存在だ」
 なぜだろう。卑下した言葉に聞こえてもおかしくはないのに、なんとも静かに感じられる。達観、というやつなのだろうか。はばたきは自分でも気づかぬまま、何歩も獣人王に歩み寄っていた。
「すばらしい主に仕えているのです。僕は」
 そう告げた褐色の肌をした少年を、巨大なる王は優しく見下ろし続けていた。


 ほぼ同時刻のことである。十一月十四日、東京は午後八時。ザルツブルクは正午。霞ヶ関の内閣府別館の会議室と、賢人同盟本部の作戦本部室で、森村肇とガイ・ブルースはほとんど同時に叫び声を上げた。
 遼からはるみへ、そしてまりかから対策班の手に渡ったイラストは、公安内に特別編成された解析チームによって連日の検討が繰り広げられていた。大和大介の手による風景画は緻密の一語につき、写真と言っても指しつかえないほどの写実性によって、証拠品としての価値を高めていた。そこに描かれた作業工作機器、露出された岩盤に生えた草、積み上げられたダンボールに描かれたロゴや文字、注目するべき点は、神崎はるみが手がかりになるのではないかと予測していたものと一致していて、ただちに聞き込みと情報収集、そして解析が十数名の専任スタッフの手によって行われた。
「間違いないんだな。山椒の実なんだな!?」
 森村は会議室で携帯電話に向かって、張りのある豊かな声量で叫んだ。電話の向こうにいる専任解析チームの誰かも、さぞかし耳を痛めているだろう。柴田明宗は苦笑いを浮かべたが、すぐに真顔に戻り「山椒の実……か……」と、つぶやいた。
 眼前に置かれた出前の鰻丼の脇に、小さな銀色の袋がある。これの中身も粉状のそれだ。柴田は首を傾げ、携帯を手にしたまま立っていた森村を見上げた。
「熟して割れてる……実山椒としては熟れすぎてて、鰻の臭い消し? す、すまんが、私は山椒の専門家ではない……」
 森村の戸惑いは、つまり専任チームの解析がそれだけ細部に亘っているということだろう。柴田はどうやら冷めた鰻丼を食べることになりそうだと覚悟し、せめてもとどんぶりに人差し指を当て、暖かさを確かめた。
「特別なやつなのか? ああ、なんだそれは。山椒なんて日本や中国のどこにでも生えてるだろう!! 他は? 岩盤に木の根? ああ、これだな!!」
 森村は大和の絵をコピーしたものを、机上のファイルから取り出した。確かに、イラストの風景は、壁の途中が岩肌となっていてそこには太い木の根が蛇のようにぐねぐねとはっていた。
 会議はちょうど食事休憩になっていたため、ほとんどの捜査官が主任のやりとりに注目し始めていた。
「木の根道ってやつだろ。ああ知ってる、岩盤が固いと根っこが地表に露出するってあれな。おいおい、それだって世界にどれだけあると思ってるんだ……杉の木……なにぃ!?」
 これまでで一番大きな驚きの声だったため、それまで泰然としてキツネうどんを啜っていた竹原優(たけはら ゆたか)班長も、丼を置いて森村に目を向けた。
「北山杉の根に間違いないんだな!? 北山杉は、ほとんど京都にしかないんだな? なんだそれ、すごく絞れてるじゃないか!!」
 全世界のどこに核弾頭は跳ばされたのだろう。そんなあまりにも漠然とした疑問に対して、“京都”というキーワードは班員たちの全員にとって、極めて限られた風景を想起させていた。

「そのメーカーは、どうあってもキョウトなのねっ!?」
 作戦本部室で、参謀のクルト・ビュッセルから報告を受けたガイ・ブルースは、紫色の唇を長い舌でひと舐めし、十本の指すべてにはめた指輪をがちゃりと鳴らした。
「はい……段ボール箱に書かれているロゴが、岡野精密機器が六年前まで使っていたものと同一であることが、ようやく判明しました。岡野精密は京都の下請けメーカーで、取引も近隣地区のみに限られていています。彼らが隠密行動を取っている以上、地元と取引をしているのはまず……」
 部下の言葉が終わらぬうちに、ガイは両手を広げ左右の肩をリズミカルに前後させた。
「いいじゃないっ!! 早速ルディちゃんに裏づけ調査を依頼しなさい!! 岡野精密ちゃんがあいつらちゃんと取引したかどうか、そこだけを重点的にねっ!!」
 日本の近畿地方にまで場所を絞ることが出来るのなら、あとはリューティガーたちのチームと、日本政府の対策班に協力を要請すれば、場所の特定は時間の問題だろう。緑色の髪をひと撫でした異相の指揮官は本部室から出て行く参謀の後ろ姿を見つめながら、雪のヴォルゴグラードで見かけた長身の日本人を思い出していた。

 彼、島守遼がいなければ、あの精密なイラストもありえなかった。リューティガーに刻まれたビジョンも、時が経てば風化するわけであり、特に戦場のどさくさにおいて記憶の劣化が著しいということは、アフリカでの豊富な傭兵経験で嫌というほどわかっているのがガイ・ブルースという男である。
 どうやら自身の持つ接触テレパスと、驚異的な記憶力と精密画の天才をリレーしての、いわゆる“あわせ技”というやつのようだが、まったく驚異的な判断力と発想力を持っている。ガイはますます、島守遼という異能に興味を抱いていた。


 それから一時間後、ガイ・ブルースはF資本対策班に対し、作戦協力要請を直々に行った。
 弾頭の跳ばされた先が京都であるという事実は、二つの異なる視点からほぼ確定とされたが、更に場所を絞り込む必要がある。同盟はFOTの前身である真実の徒時代の膨大な作戦、計画データをゼロから検証し、そのうえで岡野精密機器についての調査を行う。対策班は関係省庁や地元警察と連携し、ここしばらくにおける京都というエリアでのありとあららゆる“違和感”を洗いだす。そんな方針でガイと竹原は同意し、両組織の実務活動が進められることになった。

 その夜二十二時、島守遼は自宅アパートにて、リューティガー真錠の訪問を受けた。事前連絡も一切なく唐突であり、玄関からではなく自室の窓からの奇襲とも言うべき来訪だったため、遼はただ戸惑うばかりだった。それにしても彼の方からこの雪ヶ谷のアパートに訪ねてくるのは、いつ以来のことだろうか。
 またしてもだ。きちんと室内をイメージしたうえでの跳躍だったのに、アパートの二階部分の窓の外、すなわち空中に出現してしまったのが不思議でしょうがない。あやうく地面に落ちそうになり、咄嗟に窓枠にしがみついたリューティガーは戸惑う遼の顔を正面に捉えつつ、視線をそらしてわがままなため息を小さく漏らした。
 わだかまりや灰色の疑念は積もりに積もっていたが、この任務を最も効率よく、迅速に行えるのは彼しかいない。同盟本部のクルト参謀から任務通達を受けた若き指揮官は、拘っている場合ではないとの結論に至った結果、判断は迅速であった。
 室内に迎え入れられたリューティガーは、書類の入った三冊のファイルを遼に手渡した。その内容は、岡野精密機器という企業の重役スタッフ達のパーソナルデータである。
 遼が依頼されたミッションはとても単純だった。これより直ちにこの重役らと接触し、その心を読み、FOTとの関係性を調査する。特に重要なのは取引の実態があった場合、その納入を岡野精密機器がどこまで担当しているかである。

 さて、引き受けてくれるだろうか。紺色の瞳は長身の彼をじっと見つめた。
 すると、遼はリューティガーの手首を掴み、顎を小さく引いた。

 親父……今日は隣で寝てるから……これでいいな……

 接触式読心で語りかけてきた遼に、リューティガーは頷き返した。

 わかった……やる……いまからバイクごと跳ばしてくれれば、それで自宅を一通りまわって、後はどうにかする……

 そ、そうか……けど、僕は一緒に行かなくてもいいかな?

 そりゃ、来てもらえると助かるけど……無理だろ。

 う、うん……

 真実の徒時代の資料を検証するためには、本部だけではなく現地にいるリューティガーたちチームもフル稼働で対応しなければならなかった。それだけの「実証」が必要だと見越していた遼は、自分ひとりで裏づけ調査をするのも仕方がないと諦めていた。

 ガンちゃんに同行してもらおうか?

 ああ、確かにあいつがいれば記憶を辿れるからラクにはなるけど……FOTってキーワードを投げかければ、たぶん欲しい反応は返ってくるはずさ……ちょっと時間はかかるけど、俺ひとりでなんとかなる……

 万事が丁寧で慎重な岩倉は、こうした数をこなさなければならない任務にはあまり適していない。遼の結論は素早かった。

 じゃあ……情報が揃ったら連絡する、そうしたら迎えに来てくれ……

 わかった……気をつけて……遼……

 ああ……あのさ……

 なに……?

 遼の口元が、わずかに震えている。リューティガーはそれを見逃さなかった。

 なにやってんだろうな……俺たち……

 いまの自分たちにとって、あまりにも奇怪な問いかけであった。だからリューティガーは答えることができず、手首を掴んでいた遼の手を払うしかなかった。

「なに……してんだろね……ほんと」

 腹を探りあい、殴りあい、罵りあい、脅しあい、なのに状況が動けばこうして割り切って動いてしまう。まったく違うこいつと自分だが、そこだけはなぜか共通している。二人の異なる能力者は蛍光灯のもとでしばらく見つめあい、やがて右の拳を互いに軽く突き合わせた。

 それはそれ。

 これはこれ。

 どちらともない、上辺の言葉であった。


 それから後、準備を整えバイクに乗った遼を京都に跳ばしたリューティガーは、すぐに代々木へと戻った。803号室の居間では、陳と健太郎が手分けして真実の徒当時の作戦計画データをノートPCで洗い出していて、彼もそれに参加をするため、机上の端末へと向かった。
「坊ちゃん、ここまで実際と提出計画が違うと、もう笑いしか出ないね」
 マウスを操作しながら、ソファに座る陳の背中が上下した。
「そうなんですか?」
「ソ。前もった報告があって、実行したのは起業家セミナーと、もうコンドルの二件ぐらいね。いや、あらためて調べると、呆れるばかりネ」
「真崎は、目付のオルガと個人的な関係にあったからな……同盟への報告がザルチェックであることは、研究室でも囁かれていた」
 陳の隣に座る健太郎は静かにそうつぶやくと、液晶画面に表示されたあるファイルに目を留めた。
「ヤハウェの嘆き……滅びの二つ……か……」
 それは真実の徒が残した会議の議事録であり、先代の真実の人が口走った、前後の脈絡に欠ける奇妙な言葉である。
「ヤハウェ? 滅びの二つ? ソドムとゴモラについてですか?」
「かもしれんな……」
 どうやらわずかな手がかりが姿を覗かせたようだ。主の問いに、異形の従者は口の端を吊り上げた。

 参謀は、日本政府にも協力を要請した。共同作戦になる公算が高いと、そんな嫌なことを言っていた。端末に向かいながら黙々と資料に目を通していたリューティガーは、それを思い出すたび、PCを操作する細かな所作が乱暴になり、膝を激しく上下までしてしまう自分に対して、更になる苛立ちを覚えていた。
 なし崩しだ。状況は勝手に動き、すべては望まない方向に進んでしまっている。またあの赤い人型が、圧倒的な暴力で活躍する様を見せ付けられるのか。危機を知らず、脅威も知らず、ただひたすらな嵐のように。

 僕にできることなんて……弾頭を敵が望む場所に跳ばして……花枝幹弥の死に震えることぐらいなんだ……

 そんなもの、あの冷血はいとも簡単に乗り越えるだろう。ミスはすぐに取り戻すし、仲間の死だって犠牲であると、平然に涼しいままだろう。

 いや……違う……

 信じて握手をしてこようとした目。裏切られ、怒りを顕わにしてきた態度。ぜんぶ冷血さとは逆だ。岩倉や高川と似ている。遼とも通じるものがある。

 そして、自分と大して変わらない。

 わかっている。そんなことはとっくに。けど、どうすればいいのかは濃い霧の向こうだ。

 すると、リューティガーの耳にチャイムの音が響いた。隣のガイガーやエミリア、それにゼルギウスであれば、そんなものを鳴らさずに、この803号室にやってくる。オートロックのパレロワイヤルだから、一階にでも来客だろうか。リューティガーが不思議に思っていると、陳が仕事の手を止めて壁のインターフォンに手を伸ばした。

「は……? はぁ……そ、そう……な……!? あ、ええ……わかったヨ」
 対応する陳の反応に驚きが強く含まれていたため、リューティガーと健太郎は注意を向けた。インターフォンを戻した陳は目を険しそうに線まで細めると、鯰髭を摘んだ。
「坊ちゃん……お客さんね……Blood and Fleshの、ハリエット・スペンサー……そう名乗ってるよ……」
 意外なる来客だった。陳の言葉に、リューティガーは手を止めて腰を浮かせた。


「CIAの名を借りて、Blood and Fleshのエージェントが入国していることは、ガイ司令の着任後、本部からの連絡で知りました。Miss.ハリエット」
 ダイニングキッチンの食卓まで案内されたハリエットは、陳の入れてくれたジャスミンティーを一口すすると、対座するリューティガーの言葉に頷き返した。
「隠密でね、合衆国の国益のため、派遣されてきたのよ」
「そうなんでしょうね」
 まだ十代だというのに、肝の据わった少年だ。さすがは英才教育の施されたエリートということか。ブロンドの白人捜査官は、二口めを啜り気持ちを落ち着かせた。
「だけど三代目があんな宣言をしたんじゃ、隠密とも言ってられない。対策班にはわたしの素性を明かしたわ」
「へぇ……それは意外ですね。この国の政府機関が、必ずしも米国の国益と合致した判断をするとは思えませんが……」
 美人ではあるが、どこか険があると感じたリューティガーは、油断ができないと緊張していた。相手の意図を探れ、目的を見出せ、場合によっては嘘も必要だ。同盟の下部組織ではあっても、Blood and Fleshを全面的に信用するほど、彼は利害関係というものを甘くは見ていなかった。
「まぁね……けど、個人的な判断で、組織は説得したのよ」
「個人的な……判断ですか?」
「ええ。神崎まりかは信用に値する。少なくとも、FOTの壊滅と排除という意味においてはね」
 なるほど、そういうことか。栗色の髪を軽く撫でたリューティガーは、椅子を引いて席を立った。
 噂には聞いていたが、ここまではっきりとした拒絶だったとは。切り出した途端の反応に、ハリエットもたっぷりとしたブロンドを揺らして席を立ち、スーツの襟を正した。
「個人的な怨恨はともかく、日本政府との共闘は規定行動なのよ。Blood and Fleshも同盟も関係ない。共通する敵と効率よく戦うために、私はそれをあなたに告げる必要があると思ってやってきたの!!」
 熱っぽい英語に、だがリューティガーは頷くことなく、冷たい笑みを浮かべるばかりだった。
「陳さん、せっかくですからお土産でも作ってあげてください。対策班のみんなに差し入れてもらいましょう」
 言葉だけとれば、それは共闘を前提としたリップサービスでもある。
 だが、違う。ハリエット・スペンサーは、対する彼の「上辺」を冷然とした態度から感じ取っていた。
「リューティガー真錠!! あなたの力は特筆すべきもの!! そしてそれは、神崎まりかにしても同じ。ならば手を合わせ、核テロリストである彼らを排除しなければならない!! わかるでしょ!!」
 食卓に両手を付き、あくまでも正面から向かってくるハリエットだった。
「僕は忙しい。仕事に戻らせていただきます……」
 紺色の目に、殺気が宿っていた。これ以上怒らせるな。丁寧な言葉とは裏腹の、それは荒みきった意の発露である。リューティガーは背中を向けると、居間に戻って引き戸を閉ざした。乾いた音がダイニングキッチンに響いたが、来訪者はそれでもなお、戸を睨み続けていた。

9.
 FOT最重要拠点は鞍馬山中にあり。

 そんな結論が導き出されたのは、翌十五日の午後であった。
 遼は岡野精密機器の副社長から、FOTと取り引きしている事実と、その納入先の断片情報を入手し、リューティガーたちは資料を解析した結果、ソドムとゴモラの両開発拠点が関東と近畿のいずれも山中にあったことを突き止め、対策班は七月に鞍馬山で落石事故があり、それが地震によるものではないことと、日付がエロジャッシュ高知(こうち)による祇園祭銃撃事件と重なっている事実に至った。
 対象が絞られてしまえば、検証と証明は実に容易なプロセスであり、それぞれが持ち寄ってきたパズルのピースが、ほとんど似た形をしているのなら疑う必要はない。それが共通した考えである。
 それに、敵は気づかれることを覚悟しているような動きでもあった。なぜならこの数週間で、鞍馬山で不審車両や飛行物体の報告が相次ぎ、山鳴りを何度も耳にした関係者もいたからだった。結果論からすれば、あからさまに怪しい鞍馬の山となってしまった。誰もが次々と判明していく事実に苦笑し、なぜもっと早期に対処できなかったのかと後悔した。

 十一月十六日早朝。鞍馬山一帯の道路はすべて警察と陸上自衛隊によって封鎖され、異変を察知したマスコミも一切の立ち入りが禁止された。
 鞍馬山は京都の繁華街から北へ十キロメートル程度の位置にあり、警戒のヘリコプターや陸戦車両が山中に入っていく光景を、早くから起きていた一部市民は目撃し、噂は瞬く間に広まっていった。
 午前七時二十分。鞍馬寺や貴船神社といった、山中に点在していた神社仏閣や、駅、学校などの強制退去が完了し、宝ヶ池公園が臨時の避難所としてあてがわれた。
 午前八時。鞍馬山の包囲が完了し、鞍馬寺に合同作戦本部が設置された。無論、寺からの猛烈なる反対あったが、日本政府の強い要請には折れるしかなく、歴史ある境内には迷彩服と戦闘車両がひしめき合い、文化財の持ち出しも完全には間に合わなかったため、霊宝殿前には特に分厚く兵力が配備された。
 そんな物々しい作戦本部に一台のトラックとそれに先導された大型トレーラーが到着したのは、午前八時十五分のことである。
「陸自が交戦!? 嘘だろ? 発砲許可は!?」
 トラックの運転席から降りた柴田は、やってきた警官からの報告に眉を吊り上げた。
 トラックの荷台から、対策班の捜査官たちが何名も境内へ降りた。そのいずれもが防弾ジャケットを着用し、手にはライフルが握られていた。

 あいつら……来てたのかよ……

 那須誠一郎は、最近ロクに散髪していない長髪を撫で付けながら、寝殿の扉の前に佇んでいた学生服の奇妙な集団に向かって駆け出した。
「ふん……那須とかいったな……貴様……」
 詰襟姿の偉丈夫が、やってきた青年捜査官に冷たく険しい目を向けた。

 なぜこんな学生服が、戦地にいる。

 忘れもしない今年の二月、仁愛高校に蜷河理佳についての聞き込みへきた自分に、この男子高校生はあからさまな敵対行動をとった。その後、高川典之が教室ジャック犯を投げ飛ばした勇気ある者と知り、もっと後に賢人同盟の民間人協力者だとは聞いていたものの、やはり納得のいく光景ではない。
「しかし、揃いも揃って学生服とはな?」
 高川、岩倉、そして遼の服装に対し、疑問をそう口にした那須は、その背後にいた高川よりもっと鋭い眼光に気づき、思わず気圧されてしまった。
 歴戦の戦士、カーチス・ガイガー。普段は温厚な料理人だが、あらゆる武具と暗器を携え、ただ殺し、ただ護るためだけにやってきた、陳 師培。そして極め付きはコート姿の青黒き異形、健太郎。いずれもが警察官や自衛官を超えた、ただならぬ存在である。
「対策班の方ですよね。僕たち、こっちの方が着慣れてて……ご迷惑……です?」
 丸い目をした温厚なる巨漢が、大きな身体を折り曲げて何度も頭を下げた。
「あ、い、いや……別に構わないが……」
「さっき交戦と聞こえましたが……?」
 迷彩服を着た栗色の髪をした少年が、同じ服装をした少女とともに、寝殿へやってきた。
「あ? え……君が……もしかして?」
 縁なしの眼鏡をかけた彼はまだあどけなさを残していため、迷彩服とのギャップがあまりにも大きく、那須はひどく戸惑った。
「リューティガー真錠。同盟から合同作戦のため、派遣されたチームの指揮官をやっています」
「あ、ああ……き、聞いている……」
 こんな少年だとは。いや、仁愛ではるみなどと同じクラスに転入済みの、密命を受けていたエージェントだと前に聞いたではないか。青年捜査官は自身の偏見と思い込みを払拭するため、何度も息を吸ったり吐いたりと繰り返した。
「事実さ、真錠指揮官」
 そう言いながらライフルを片手にやってきたのは、警官からの現状報告を聞き終えた柴田だった。
「F対の柴田っつーもんだ。よろしくな」
「はい……」
 柴田が差し出した右手を、リューティガーは握り返した。そう、あれさえ意識しなければ、現地政府軍として共同戦線を張れる。彼はトラックの背後に停車していたトレーラーに視線を合わせないよう、そこからブロンドの髪や赤い人型が出てきても、決して意を向けないよう、用心に用心を重ねていた。
 それだけに、柴田と名乗った中年捜査官の顔はよくわかる。眠そうな目をしているのは、夜通しの強行軍によるものだろう。髪に油が浮いているのも、無精髭も、唇が乾いているのも、すべてそう、兄のせいなんだろう。
「山頂に向かって偵察で北上していた陸自が、十分ほど前に迷彩服の集団と交戦になったらしい。双方牽制でケガはなかったそうだが、敵は更に北部へと撤退した」
 健太郎が訳した柴田の説明に、ガイガーは下唇を突き出し、エミリアはアサルトライフルのグリップを強く握り締めた。
「では、敵の部隊は山頂に向かったということですか」
「すまんな、それは現在確認中だ」
 リューティガーの問いは軍人として的を射ていたため、答えながら柴田は感心し、それは傍らにいた那須も同様である。

 寺に来たのは夏休みの合宿以来だ。寝殿の前でリューティガーと柴田のやりとりを見守っていた遼は、組んでいた腕をほどいて胸を前に張った。

 さて……どうなるんだ……ヴォルゴなんとかの戦いより……規模がでかくなるのか……
 核弾頭を破壊、もしくは奪取すればひとまず作戦は成功。それにもし、この鞍馬山に真実の人がいるなら、捕らえる、あるいは殺せばすべては終わる。規模に違いがあっても、これまでと変わらない作戦目的だ。

 なんてな……ずっとそんなのだったのに……ちっとも終わっちゃくれねぇ……それどころか……

 事態は悪化の一途を辿っている。なにもいい方向には進んでいない。
 大勢の人が、誤解や陰謀に巻き込まれて死んでしまった。最初はジョージ長柄(ながら)だったが、それより前から、もっともっと死んでいるのだろう。殺しあっていたのだろう。今日は何人が死ぬ。いや、自分とて無事である保証はどこにもない。

 理佳ちゃんの……ナイフ……か……

 つるりん太郎のなにもない顔が、遼の心の中でごろりと転がった。理佳は殺せる。いや、俺も、もう殺せる。互いと気が付かなければ、これから殺し合いになることもあり得る。

 逃げちまうか……いっそ……

 そして探すか。彼女を。いや、んなこたぁ無理だ。

 境内の空気は、普段はもっと綺麗で心地いいのだろう。排気ガスが立ち込める合同本部で、島守遼はポケットに両手を突っ込み、太い柱に寄りかかって何もかもが始まるのを待つしかなかった。

 幾人もの兵士や警官が緊張の面持ちで横切っていく。たぶん、そろそろいろいろと起こるのだろう。

 彼にとって、定かではなかった。なにが定かではないのかも、ひどくぼんやりとしていた。


 音羽会議の一団を乗せたマイクロバスが、京都市内に到着したのは午前八時三十分のことである。彼らも昨日夜から東京を発ち、運転手を交代しながらの強行軍だった。
 関名嘉篤は最後部座席を独占し、その傍らには高橋知恵の姿があった。出発してから三時間後もすると、二人は毛布に包まり、やがて押し殺した少女の声が前を座る者たちを悶々とさせていた。
 その中に、比留間圭治(ひるま けいじ)の姿もあった。最近では関名嘉と知恵の肉体関係も周知のところとなり、開き直ったかのように公然と繰り広げられる淫行に、だが面と向かって抗議をするメンバーは皆無だった。
 音羽会議の知名度はFOTと共に上がり、関名嘉は週に一度、テレビにコメンテーターとして出演するほどの知名度を得ていた。大半の番組は、常軌を逸した狂気の「面白い人」として彼を扱っていたが、当の本人にその自覚はなく、あくまでも真実の求道者だと熱弁をふるい続けるばかりである。
 関名嘉の勢いというものに、メンバーは引っ張られ続けていた。FOTを支持する世論の声も日増しに高まり、なにか正しい側に自分たちが属しているのではないかという気分にもなることがある。これまで、反米左翼などという学生闘争時代の遺物として周囲からも蔑まれることが多かった彼らは、趣旨変えにも目をつぶり、闘争が正当化されつつある状況にただ便乗するだけだった。
 だから指導者の淫行など咎める気にもならない。「英雄、色を好むと言うじゃない」そんな軽口を叩く新参者もいた。
 しかし比留間にとっての納得は、他人とはまったく異なる理由によるものである。

 高橋さんは……奴が狂わないように、慰み者になっているんだ……あの子はそんな強さがある……だから……

 いつか救ってみせる。それほどの絆というものが、僕と彼女の間には結ばれたのだ。たった一度の肉体関係が、比留間の自意識を完全に肥大化させていた。彼にとって現状認知とは思い込みの再確認だけであり、そこには客観性というものはまったく存在しない。
 ただ、最近眠れないことが増えた。緊張と柔らかさと淫猥さがない夜の、なんと退屈で苦しいことか。朝になってもその足りなさは続く。バスの最前列で横になっていた彼は、周囲の風景が山ではなく市街地でなのが、なんとも不思議で仕方がなかった。

 交通封鎖は、その範囲を広げていた。京都市内にも通じる鞍馬街道には機動隊が配備され、音羽会議の一行は山麓でのアジ演説を諦め、はるかに市街へと南下をし、比留間が車窓から見た風景は下賀茂の河原近くの駐車場だった。
「随分、鞍馬山は遠くて見えないけど……あ、煙じゃん!!」
 バスを降りたグループの一人が、遥か北の山を指差した。続いて降りてきた比留間がそちらに注意を向けると、確かに一本の細い煙が山から上っていた。
「細くない?」
「距離考えなよ」
「戦争始まったの?」
 次々と駐車場に降りた音羽たちに緊張感はなく、最後に日焼けした顔を強張らせ、臙脂色の詰襟を着込んだ青年アジテーターが、ベージュのジャケット姿に一冊の本を胸にした少女と共にバスから姿を現した。
「はっはははは!! 真実の戦が始まったか!! マイクを持てい!!」
 殿様のような関名嘉の言葉に、メンバーの一人がメガフォンを持って掛けだし、別の何人かがバスの荷台から組み立て式のお立ち台を引っ張り出した。
「ともっち。なんだ、その本は」
 青年は少女が抱えている本の表紙を見て、薄い眉を吊り上げた。
「あ、う、う、うん……」
「テレビだってくるんだ。それはダメだろ。そんなのが映ったら、私の思想信条が疑われる!! バスに置いてくるか、捨てるかしろ!!」
 決して反論など許さない。そんな勢いの強い早口である。知恵はより強く本を抱き締め、その場で何度も呼吸を激しく繰り返した。
「高橋さん……」
 心配してやってきた比留間を、知恵は一瞥するとバスへ駆けて行った。

 思想信条が……疑われるんだ……

 自分のそれを疑ったから、抱えてきたのに。ぶれずに間違った道へ進まぬため、単に肉欲などではなく、あこがれて参加した当時を忘れてはならないと、だから本棚から持ってきたのに。
 蜷河理佳のように、カメラが向いていても緊張などせず、自分という存在が「いいじゃない」と思いたかったのに。

 あなたがプレゼントしてくれた、本なのに。

 少女はバスに戻ると、最後尾の座席に向かって抱えていた本を投げた。

 エンゲルスの『反デューリング論』が広がりながら、最後部座席にぶつかり、やがてそれは伏せられた形で床に転がり落ちた。あれは、もうすっかり昨晩汚れてしまった床だ。あんなところに落ちるのかよ。
 右腕を振り下ろした姿勢のままで、“ともっち”はすっかり固まってしまった。だが、人は決して石造になどなれない。バランスを崩した少女は、座席の谷間に転がった。
 しばらく、伏せていよう。けど、用心しよう。あのうらなりのキモオタからは身を守らなくっちゃ。あいつから優しくされるなど、そこまで落ちるものかよ。この“ともっち”が。


 警察、陸上自衛隊、内閣特務調査室・F資本対策班、そしてリューティガーたち賢人同盟が集結した鞍馬寺の本殿金堂前の広場には、大型テントが設置され、その下では通信機器や情報処理端末を操作する後方支援要員たちの叫びや怒鳴り声が交錯していた。
 最初の遭遇と発砲が八時八分であり、四十三分の現在までに、鞍馬山をパトロール中の機動隊と自衛隊が、謎の武装集団と遭遇したという報告は二十を超える。その中でも、銃撃戦にまで発展したのは五回であり、隣のテントに設営された作戦本部では、各部署の作戦責任者が長机に置かれた地図を見下ろしていた。
 地図には青い丸型のマグネットが十五個、赤のそれが五個貼り付けられていた。いずれも山頂を中心として点在していて、一見すると敵は鞍馬山そのものを守備しているようにも見える。
 対策班側の責任者であり、今回の統括指揮を任命された森村主任は、太い顎に手を当て、やはり太く濃い眉毛をピクリと動かした。もともと警察官だった彼は陸戦術の専門家というわけではなかったため、遭遇と戦闘の位置的因果関係を見抜くことはできなかった。
 森村は陸上自衛隊の田中三等陸佐へ、判断を仰ぐことにした。
「敵は地形に精通しています。交戦からものの数十秒で撤退をし、木の根道に躓くこともなく、その移動は極めて迅速です。また、こちらの展開に関しても実によく把握していると思われます。撤退方向に別部隊がいないことを見抜いているのですから」
「なるほど……となると、拠点から指示が出ているとみて、間違いないのですね」
 森村にそう尋ねられた陸佐は大きく頷き、「しかし航空偵察はしていないはずです」と、意見を付け足した。
「地下でしょう……」
 この司令部テントの中で、もっとも若年の指揮官がそう言った。
「なぜ、そう断言できるのかね、真錠くん」
 数年前、神崎まりかと出会うことで森村という男は他人を年齢や外見で見くびるということがまったくなくなっていた。自衛隊士官や機動隊の小隊長の中にはあからさまに困惑したり、蔑視の眼差しを向けたりする者もいたが、リューティガーはそんな空気にすっかり慣れていたので、紺色の瞳は曇ることも泳ぐこともなかった。
「精密機材の納入経路もそうですが、同盟系列の掘削技術と地下建設技術は、あなた方にとってはオーバーテクノロジーといったレベルに達しています。隠蔽効率と、鞍馬山の地形を考慮すれば、おのずとわかることです」
 真実の徒の拠点に地下施設があったことは、当時捜査を担当していた森村もよく知っていたし、実際現場検証をやったりもした。新素材、従来にない工法は当時の専門家も指摘していたことだったので、彼はその意見を否定できなかった。
「地中用のソナーを、現在国道から山中へ配備中ですが、稼動まで二時間はかかると思われます」
 士官の報告に、リューティガーは眼鏡を直して頭を横に振った。
「ソナーは役に立ちませんよ。それこそブラフに引っかかる。金属探知機にしても同様です」
 どこかバカにしたように呆れた口調だったため、口ひげを蓄えたその士官は、頬の筋肉をピクリと吊りあがらせた。
「では、どうすればいい、真錠くん」
 小さな咳払いをし、士官の怒気をなだめた森村は、テントにやってきた下士官が新しい赤いマグネットを地図に三つ貼り付けたため、驚きで目を見開いた。
「出入り口を探すしかないでしょう。もっとも、捜索範囲がかなり広いうえ、高度な隠蔽が施されているとは思いますが」
 もし兄がここにいるのなら、もっとてこずるだろう。彼がもし地下拠点から地上に跳び、兵力を“取り寄せ”でもしたら、出入り口は今回の戦闘で使う必要がなくなる。場合によっては、それも進言するつもりの弟だった。
 赤いマグネットが地図上に次々と増えていく様子を、テントの端で腕を組んで見つめていた戦闘ジャケット姿のハリエットは、森村に進言するリューティガーに視線を移した。
 同盟からの指示もあったのだろう。彼が一団を率いてこの寺までやってきたのは。すでにドレスで出撃をしたまりかと、彼が挨拶をした様子もなく、あくまでも任務と命令に従っているにすぎない。
 それでも、ハリエットは構わなかった。彼の事情はともかく、胸のうちなどわかるはずもなく、そもそも興味すらない。転移能力者の彼は強力な戦力なのだから、それが今回の決戦に参加してくれるだけで彼女は合格点を出していた。
 五分ほど前、トレーラーの荷台から出撃したまりかは、別れ際にこんなことを叫んでいた。

「ハリエット!! 西部の森林ルートを叩くから!! もしルディくんがわたしと一緒に戦いたいのなら、そう伝えておいて!!」

 念動力で装甲服の重量を制御しながら、外部スピーカーで周囲にも聞こえるほどだった。しかし、そのころには栗色の髪は司令本部のテントへ消えていたから、きっと聞こえていないはずだろう。

「森村主任!! 神崎さんがS−775で獣人部隊と遭遇!! 交戦に入りました!!」
 テントに駆け込んでそう報告してきたのは、つい二ヵ月前に対策班に配属された、見上秋接(みかみ あきつぐ)という、二十五歳の若い捜査官である。森村をはじめ、“神崎”という固有名詞に本部の一同は緊張し、その知名度の高さをハリエットはあらためて知った。
「わかった!! それなら、S−600から900までのエリアは神崎君に任せることにしよう。構いませんね」
 念を押す森村に、反論する指揮官はいなかった。
 ただ一人、最も年少の彼だけが、下唇を噛み締め、石畳を蹴って悔しさを表に出した。
「ガイガー先輩!! 僕たちも直ちに西部ルートの攻撃に向かう!! 突入準備!!」
 森村に背中を向け、若き指揮官は力強く命じた。ガイガーはわが耳を疑い、テントから歩き去ろうとする彼についていった。
「リューティガー!! まりかは、君が来ることを望んでいるはずよ!!」
 眼前までにやってきたリューティガーに、ハリエットが目を合わさぬままそう告げた。
「そうですか!!」
 彼は煽動する女とすれ違うと、テントから出て率いる部下たちの姿を探した。
「遼!! 陳さん!! みんなこれから西部ルートに突入する!! 交戦となるので覚悟して欲しい!!」
 本殿の赤い柱の前に佇んでいた遼たちは、やってきたリューティガーの言葉に心を構えた。岩倉はエミリアに、いまの命令を簡単な英訳で耳打ちしてあげた。少女は垂れ下がった目を爛々と輝かせ、アサルトライフルを構えた。
 久々の帯同なのである。活躍を見せるチャンスでもあるし、お守りすることだってできる。エミリアは興奮を覚え、何度も健太郎や岩倉を見上げた。
「いい加減にしろ、ルディ!! 神崎まりかが西部ルートで戦闘しているのなら、俺たちは当然別ルートから戦線を狭めていくべきだろう!! 素人も混ざった分隊が、どうしてあのなんでもアリの悪魔がいるエリアに突入せにゃならん!?」
 追いかけながら、ガイガーはそう叫んだ。立ち止まったリューティガーは、今度は本殿を背にして、ガイガーに強い意を向けた。
「あの女には負けられないんだ!! 借りだってある!!」
「バカが!! FOTの戦線の広げかたは、どうみたって陽動が含まれている。神崎まりかは一人でだって獣人中隊を壊滅できる怪物なんだ、この場合はどう考えても戦力過多だ。奴らのやり方を一番熟知しているのは俺たちなんだぞ。本隊の動きを見極め、隠蔽しようとするポイントを的確に見抜き、確実なワンショットをお見舞いするのが役目じゃねぇか!! お前の遠透視は地下拠点を割り出すためにどうしたって欠かせない!! 冷静になれ!!」
 口調もすっかり荒くなり、ガイガーはともかく懸命だった。しかし対するリューティガーは冷めた様子で見上げるばかりであり、強風の中にあって動じない巨木のようでもあった。
 しかし、その幹の中ではどろどろとした情念が沸き上がっていた。

 なにもかも正しい。そう、カーチス・ガイガーは一流の軍人であり、戦闘技術、状況判断のいずれにおいてもミスというものが極めて少ない。間違っているのは僕だ。ハリエットの煽りはまりかの望んだことなのだろう。どうせあいつは、戦場で謝罪でもして、そのうえで更なる貸しを作りるつもりなのだ。そんなものの相手などする必要もなく、広がりつつある戦線を封じ込め、敵の意識がどこへ集中するかを予測し、遠透視で入り口や廃棄システムを看破し、攻撃を仕掛けるのが一番の良策だ。

 だけどね……戦場で……僕は勝つんだ……でないと、一歩も先に進めない……

 神崎まりかが単騎で戦場を踊るのなら、兄は強力な戦力を差し向けるかもしれない。そうなれば、あの悪魔であっても苦戦を強いられる。となれば、借りを返してなお貸し付けられる絶好の機会だ。強敵を叩くことにもなるのだから、まったくの愚策というわけでもない。だが、リューティガーにそれを説得できるだけの冷静さは残っていなかった。
 ぐずっていたら、西部ルートに立ち残るのは赤い人型か敵のどちらかになってしまう。あの女を殺させない。そして勝たせない。だから行くしかない。

 短く刈り込んだガイガーの金髪を、突風が揺らした。

「まりかも……大変ね……」
 向けられる熱い気持ちは、愛や恋、そして友情だけでいい。テントから出てきて一部始終を見ていたハリエットは、北部ルートの封鎖作戦に参加するべく一台のジープへ向かって歩き始めた。
 正体を明かし、正式にコンビを組んだのにも拘わらず、今回は離れ離れの作戦行動である。それは、東海道を進むトレーラーでまりかと打ち合わせた結論だった。三代目は今回の戦いを児戯で済ますつもりはないだろう。これまで、拠点がないことが最大のメリットだったのに、あえてそれを晒すような手に出たのだから。激戦になる、死闘になる。
 ハリエットは運転席に滑り込み、ステアリングを握った。サイキはサイキ同士か、もしくは単騎での戦いが最も適している。それがカオスで鍛えられたリューティガーとは異なる、彼女の持論だった。
 アクセルを踏み込んだハリエット・スペンサーは、境内からジープを国道へ飛び出させた。急なハンドリングは甲高い摩擦音を生じさせ、腰を浮かせた彼女は暴れるなとばかりにブレーキを小刻みに蹴った。
 車道の向こうからは、いくつも煙が立ち上っていた。火薬と、少々だが血の臭いも漂う。
 なんてことだ。ついにこの日本という国で、本格的な“陸戦”が始まってしまったとは。それも偵察任務同士の遭遇戦という、いかにもあの白い長髪の青年が好む、なし崩しという形で。今日の段階では、まだ大規模な戦闘を行うつもりはないと、それが指揮官たちの共通した認識だったのに、気がつば戦の泥沼に引き込まれてしまうのではないだろうか。
 どうせ、既成事実を作って民意を煽ろうとでも企んでいるのだろう。ここに星条旗を掲げた軍隊がいないことを、ことさら弱腰と喧伝するつもりなのだろう。
 いつでも、もう一人の蜃気楼を飛び出せるように。ハリエットは戦場の中にあって、心を構えることを決して忘れなかった。

10
 突風で杉の枝が震えた。枯れ葉が渦を巻き、大気の密度が体積に比例して四散する。森の中に現れたリューティガーは、木の根が幾重にも重なって地面にカーブを描く、独特の木の根道に鼻を鳴らした。
 足場がかなり悪い。ということは、念動力制御にロケットを補助推進とするあの赤い人型は、より有利に獣人たちと戦えることだろう。空中戦こそはできないが、機動力は相当なものだといえる。

 やはりそうか。

 泡化をはじめていた獣の屍を、彼は足元に見つけた。よく見ると、北山杉の幹に血や肉片がこびりついている。見上げれば、太い枝に刺さった上半身から、いまもなお血が滴っている。
 地獄の有様だ。木の根の不気味なS字模様が、それを際立たせているグロテスクさだ。このような光景をたった一人で作れるのは、あの女ぐらいのものだ。
 咆哮と、殺気が背後から槍のように飛んできた。リューティガーは振り向きながら、その主に向かって三発の弾丸を撃ち込んだ。
 鈍い音とともに、コートを着た半獣半人がその場に崩れ落ちた。襲撃を知らせるような間抜けさは、たぶん親しい仲間の屍をみた動揺のせいだろう。硝煙で前髪を汚しながら、片膝を立てた彼は唾を吐いた。

 負けるものか。赤い悪魔は、どこだ!!

 求めるものは、はっきりしていた。紺色の瞳を充血させた彼の視覚は周囲の木々をたちまち貫通し、広い平地と知覚したその向こうに、舞い上がる赤い姿を捉えた。

「作戦行動なんだぞ!! いつからあいつの私怨を晴らす復讐の場になった!?」
 鞍馬寺の本殿前で、ガイガーは残された皆に向かって英語で叫んだ。
「健太郎殿!! ルディの後を追うぞ。陳殿をはじめ、残りの者は国道をさらにまたいだ東部ルート、ポイントE−744に向かってくれ。さっき司令本部で展開状況を見たが、どうにもそこが間延びした空白地帯で怪しすぎる!!」
 怒りを顕わにしていても、あくまでも軍人であり続けるのがカーチス・ガイガーという男である。陳は大きく頷き返すと遼たちに内容を通訳し、健太郎は一度だけ十本の爪を引き伸ばし、口の端を吊り上げた。
「わたしも、隊長にお供させてください!!」
 エミリアが、首を横に振りながらガイガーに駆け寄った。
「ダメだ!! お前は陳殿の直援、およびフィールドコントロールを担当しろ!! もうじゅうぶんに経験は積んでいるはずだ!! 仁愛組のフォローだってある!!」
 敬愛する指揮官が消えてしまった。憎悪と執念で、きっと冷静さを欠いたミスだって有り得る。
 これまでに何度も実戦に参加してきたエミリアは、野鳥が飛び立ち、乾いた銃声が響き、鞍馬山全体が戦場になろうとしているのを肌で感じていたからこそ、自分の役割はあの人のもとに駆けつけるべきだと決め込んでいた。
「嫌です!! ルディ様には自分の援護が……」
 言い終えぬうちに、ガイガーの分厚い右の掌が少女の頬を強く張った。即座に歯を食いしばり、膝に力を入れたエミリアは、左の奥歯が折れたことを血の味と共に気づいた。
「行くぞ、健太郎殿!!」
 地面に置いていた装備を太い腕で拾い上げ、ガイガーは境内を駆け出した。健太郎もそれに続き、残されたエミリアは目を真っ赤にし、両手を膝に当て、その場に踏ん張り続けた。
「エ、エミリアちゃん……」
 心配した岩倉が一歩前に出ようとしたが、それを陳が制した。
「軍人ネ。アレは」
 静かなつぶやきだったから、岩倉は自分の気遣いが無意味だとわかった。そう、あの少女は違う世界に生き、それを望んでいるのだ。
「どうするかな……俺たちは」
 憎しみや怒り、激情といった渦から何歩も距離を置き、すっかりその存在感を消していた遼が、事前に渡されていた作戦マップを両手で開いた。
「E−744……ここから四キロか……」
 普段のロードワークからすれば遠い距離ではないが、これから急行するにはそれなりの時間を要するだろう。遼の広げたマップを覗き込んだ高川は、腕を組んで岩倉とエミリアに視線を移した。
 射撃の腕前は認めるものの、彼はフル装備でポイントまで走れるのだろうか、歯を食いしばって悔しさに耐えているが、彼女はあのような精神状態で戦えるものなのだろうか。高川は二人が負担になるのなら、ここに居残れとを忠告するべきだと感じた。
「あっと……いいかな……みなさん……」
 これからの作戦行動を決めあぐねていた遼たちのもとに、くたびれた顔をした中年捜査官がやってきた。彼、柴田明宗は立てた親指で、自分の背後に停められていた三輌の装甲兵員輸送車を指した。
「ちょうど……俺たちはあれで東ルートにいくんだが……乗っていくかな? いや、いま駆け出していったアーミーさんの命令が、ちょうど耳に入ったモノでね」
 共同作戦か。遼はあらためてそう感じると、陳に目配せをしてから、「はい」と強く返事をした。


「君たち学生は後方支援に徹して欲しい。作戦指示は我々が出すから」
 上下に揺れる装甲兵員輸送車のカーゴルームで、那須誠一郎は対座する遼たちにそう告げた。自分としては相当の譲歩である。賢人同盟から特殊技能を認められ、現地での協力者として正式登録されている三人だという話だが、詰襟を着た学生にしか見えず、それだけに長椅子の中央でショットガンの手入れをする巨漢がなんともいびつな存在だと思える。那須は岩倉の手つきがあまりにも慣れているため、片眉を吊り上げた。
「我々は独自の動きをさせてもらうヨ。もちろん、あなた方の邪魔はしないし、その逆もまた然りネ」
 三日月状の手刀、鴛鴦鉞(えんおうえつ)を磨きながら、陳は静かにつぶやいた。“陳”そう大きく書かれたTシャツを着たこの男が只者ではないと、那須は雰囲気から察していたが、それにしても丸々とした外見は中華料理屋の主人にしか見えなかったため、ギャップに戸惑うのも事実である。腰を浮かそうとした青年だったが、揺れがあまりにも激しいのでそれを諦め、腕を組んで深々と座りなおすことにした。
「現地散開後、自分はフィールドコントロールのため定点観測に入ります……それで……よろしいですか、陳さん」
 そう言ったのは、陳の隣に座る、頬を腫らしたエミリアだった。
「殺し屋だから軍隊のこと、私はわからないね。だから行動指示はすべて任せたよ。存分に我々を使って欲しいネ」
 優しい言葉である。そう、ガイガーにしても静かなる健太郎にしても、皆自分に対しては厳しくも優しい。感情が先走り、命令に逆らってしまった未熟さを、少女はようやく恥じる気持ちになっていた。
「そうそう。那須さんは、小龍包(ショーロンパオ)って食べました? 小さな肉まんなんですけど」
 突然そう切り出したのは岩倉だった。那須は何度か瞬きをして、そう言えば数日前、ハリエットがそんなものを差し入れていたことを思い出した。
「ついこないだ食べたばかりだ。それがどうした?」
「それって、差し入れですよね」
「まぁ、そうだが……」
 人懐っこい笑みを浮かべながらなにを尋ねてくるのだろう。那須は不気味に思いながらも、深夜の対策班本部で、レンジで温めなおしたそれを頬張り、まりかの入れてくれたお茶を啜ったことを思い出した。なにやら、肉汁が凄まじく、絶妙な辛さと旨さの肉まんだった。
「あの饅頭って、君たちと関係があるのか?」
「はい。それって、この陳さんが作ったやつなんですよ」
「あんなのは作ったとは言わないネ。ちゃっちゃとやっつけただけヨ」
 鯰髭を摘み、陳はそう嘯いた。
「へぇ……あれをあなたが」
 外見通りの特技があるものだ。那須は単純に納得するのと同時に、口の中に唾液が溜まるのを感じた。
「いや……旨かったですよ。ええ」
「時間がなかったからネ。手早くやったけど、今度は、もっといいものを食べて欲しいね」
「陳さんの麻婆豆腐は、ほんと美味しいんですよ!! ひき肉も歯ごたえがしっかりしてて弾力いっぱいで、ピリっと辛くて、熱々でご飯と一緒に食べたら、わ、忘れられませんよ」
 岩倉の言葉に、那須だけではなくカーゴルームにいた三人の陸上自衛隊員も、それとなく興味を示した。

 さすがはガンちゃんだな……

 それは、隣に座る高川の感想である。彼はわずかに遼の小指に自分の親指を当て、目を閉ざしていた。

 だな……場の空気を和ませるだけじゃない……俺たちが一緒に行動してもいいってムードまで作ろうとしている……

 貴重だと思う。リューティガーのように、作った無邪気さではない。あれは、彼の本性と育ちのよさが発揮された、天然の朗らかさとおおらかさだ。遼は、低い天井に坊主頭を擦り付けながら、那須の隣に席を移動する巨漢に静かな笑みを浮かべた。

 ガンちゃんみたいなのが多けりゃ……もっと平和かもな……

 さて……それはどうかな……?

 苦い笑みを浮かべた高川は、スポーツバッグから黒い仮面を取り出した。それは同盟から支給された、素性を隠し隠密行動をとるために開発された作戦遂行用マスクである。
「それ、使うのか?」
「ああ……正体を隠す必要はないと思うが……一応な……」
 これを使うのは祇園祭以来である。なんとなく持ってきてしまったものではあったが、それを装着した高川は不思議と気合いが入るような気がした。

「なんか、笑い声まで聞こえますね」
 輸送車の運転席には、ステアリングを握る見上と、助手席に柴田の姿があった。
「まぁ……リラックスするにゃ、いいんじゃないのか」
「けど拍子抜けですよね」
「なにがだ?」
 見上の言葉に、柴田は首を傾げた。
「だって、晴海でDVDを回収して、解析した結果だって、那須先輩は入念に裏づけ捜査をしていたわけじゃないっスか。なのに同盟からの通達で、島守遼の関わり合いが簡単に知らされてしまって……骨折り損ですよ」
 この若手は勘違いというものをしている。ものの数分で作戦エリアには到着するが、柴田は指導しておくべきだと感じた。
「だからどうした。そんなのの連続さ。俺たちはな、目隠しされたまんまたどたどしく歩いてるようなもんだ。だから外から呆気なくネタバレが訪れちまう。それにいちいち悔しがったり腐っていてもはじまらねぇんだよ」
「は、はぁ……」
 十年近く、国際テロ組織と暗闘を繰り広げている彼だから、そう言えるのだろうか。見上はよくわからないまま、慎重に運転を続けるしかなかった。
「けど……」
 言いたいことを未練たっぷりについつい口にしてしまうのが、見上の若さだった。これだけは納得してもらえるだろう。彼は目を輝かせ、隣で腕を組む先輩に意を向けた。
「学生服の三人組が作戦参加なんて、いっくらなんでもおかしいですよね」
「あ?」
 見上があまりにも嬉しそうな様子だったため、柴田は右目だけを細めた。
「だって、まだ十六、七なんでしょ? ちょっと有り得ねーって感じっスよね」
「ふん……別にいいだろ。強制されてるわけでもないんだ。あの歳なら、国とかのために戦ったって、俺はいいと思うがね」
「は、はぁ……」
 この人は本気でそう言っているのだろうか。見上はますます柴田という先輩のことがわからなくなってしまった。
「まぁ……この場合のポイントは、“国とか”の、“とか”の部分なんだがな……」
 早口で小さな声量だったため、なによりも戦闘エリアに突入したため、見上は柴田の言葉を聞き取れずにいた。


 敵部隊の動きが、あたかもそこを護るような不自然さを感じる。それは鞍馬寺の司令本部にいた指揮官たちと、ガイガーの一致した違和感だった。
 東部エリア、E−744。疑惑は森の中にあったが、遼たちを乗せた兵員輸送車はその手前二百メートルで獣人部隊の銃撃に遭い、戦闘は午前九時二十二分、三輌が足止めをされる形で唐突に開始された。
 カーゴルームから森の中へ展開した混成部隊は、陸上自衛隊の小隊長の指示を仰ぐグループと、プラチナブロンドの髪をした少女の命令に従うグループの二つに大別され、彼らは北山杉を何本も挟んで東西別行動となり、三輌の輸送車を中心に扇状の布陣が形成された。
 事前の打ち合わせもなく、これほど整然とした部隊展開になるとは。自衛隊と対策班を指揮する鈴木二等陸尉は、エミリア・ベルブリップスのあまりに手際のよい指示と、学生服の一団が淀みなく配置につくのを目の当たりにし、舌をまくしかなかった。

 杉の巨木に身を伏せていた遼は、右手で銃撃戦が始まったのに緊張した。ときおり、なにかが炸裂した光も目の端に入るし、火薬の臭いと煙も増えてきている。流れ弾に当たったらどうする。この複雑に絡み合った木の根が露出した地形に、足を取られずに進めるのか。もし、戦うべきではない敵の姿を見てしまったら、どう対処すればいい。彼の頭の中は混乱しようとしていた。配置に付くまではなにも考えなくてよかったが、数秒の間でたちまち雑念が心を支配する。
 しかし、そんな淀みも死の恐怖に直面することで、たちまち真っ白な美しさを取り戻す。
「上!!」
 五メートルほど背後にいた岩倉次郎の叫び声と、同時に鳴ったライフルの乾いた銃声に、遼は身を低くし、見上げることで対応した。
 降ってきた者の姿はよくわからない。実像は枝に紛れ、光の反射がほんのわずかである。これは牙か爪か、刃物か。だが確かめる前に、遼は意識を集中した。
 殺してやる。奇襲は得意とするところだ。挙げ句に食うのも一興だろう。そんな猛りで上空からの襲撃を敢行した小柄の獣人は、頭に激しいしびれを感じ、そのまま意識を失い地面に激突した。
 視神経と頭部の動静脈を同時に合計七箇所破壊。それが異なる力による成果だった。島守遼のそれは、範囲や大きさに関してはまだ数センチメートルほどしかなかったが、度重なる経験と彼自身の努力によって、その同時、連続回数は当初より飛躍的に成長していた。
 散弾。ひとつひとつは小さいが、まさしく彼の抹殺はそんな爪痕を敵に残す。
 二匹、三匹。途中に移動を挟みながら、遼は目にした異形へ手当たりしだいの乱射を果たした。

 後方でライフルを構える岩倉次郎の役割は、正確なる狙撃手として友人に対する敵の接近を阻むことにあった。ヘッドフォンから聞こえてくる少女の英語は、発音もしっかりとしていて内容も単純だったため、彼にもよく理解できた。 
 装甲輸送車の側であらゆるセンサを駆使し、なによりも歴戦のカンと研ぎ澄まされた感覚で戦況を見極めるエミリアは、まさしく一団の「目」「耳」として機能していた。とにかくいまは勝利を目指すべきだ。戦場のルールを身体で覚えていた彼女は私情を捨て、この森を俯瞰で捉えられるように集中し続けていた。

 エミリアの指示で岩倉はより確実な狙撃を可能とし、陳師培は長刀を振るい、暗器を放ち、暗殺プロフェッショナルとしてのポテンシャルを遺憾なく発揮していた。
 坊ちゃんのことは気になる。だが、あの二人が向かったのだ。いまはただ、己の技量で敵の命を消し去るのみ。丸々とした体躯に似合わず、杉の木を素早く上った料理人は、次の獲物をどれにするか太い枝の上から細い目を光らせた。イヤフォンからエミリアの指示と報告が響く。そう、殺すべき相手はこのエリアにあと六十匹はいる。政府側の戦力がどこまでそれを減らせるかはわからないが、今日はコンディションもいい。遼を中心とした布陣もいまのところ成功しているし、皆の度胸も前の冬では想像もつかないほどだ。

 あいつに……するね……

 押され気味な戦況にうろたえる、一匹の熊のような異形に陳は長刀の切っ先を向けた。枝の上から刀を振り上げ飛び降りた彼は、枯れきった森の中にあって猛禽類の如き正確さで、獲物を断頭した。

 四匹目……!!

 意識を集中した遼の前で、ヤマアラシのような棘を背負った化け物が、口から血を吹き出して倒れた。弾丸より早く、「やる」という瞬時の覚悟で敵の急所を破壊、切断する。彼の“速度”は乱戦の様相を呈してきた山中にあって、生存をより確実にする根源だった。
 異なる力の使い方だけではない。速度のわけは、躊躇いのなさが最も大きい。あの子のもとにたどり着く。おそらく、ここにいるはずだから。そんな強い想いが殺害に対するハードルを次々となぎ倒す。戦闘開始から十分が経過した段階で、遼は軽度の興奮状態に陥っていた。

 どこだ……次の敵は……!!

 エミリアの指示では、眼前に佇む大岩の背後に負傷した獣人たちが潜んでいるらしい。手負いの獣ならば殲滅する。避けて通れば背中から噛みつかれる。死に物狂いの化け物を心底恐ろしいと感じていたから、憂いを排除するべきだと遼は非情だった。

 理佳と……俺の間にあるものは……すべて取り除く……

 例えケガをしていても。である。不安要素は徹底して排除する。枯れ葉の積もる森の中を、彼は大岩に向かって歩き始めた。
 ちょうど遼の真上に位置する枝の上から様子を探っていた黒マスクをつけた高川は、異変を察したのと同時に、左足を蹴りこんだ。
「油断である!!」
 そう叫びながら遼の傍らに飛び降り、堆積した枯れ葉の山に右の拳を叩き込んだ高川は、キツネ色の葉が舞う中、一匹の化け物を掴み上げた。
「悪霊め!! 天罰!!」
 戦場の興奮がなければ、たとえば家にいる平時であれば、とてもではないが冷静に対処できる相手ではない。四肢のない、だが顔だけは女性であるあまりにもおぞましい怪物を、高川は地面に叩きつけ、その顔面にたっぷりと体重を乗せた膝を落とした。
 なぜ人の、それも女の顔なのだ。高川典之は髑髏のような形をした仮面に返り血を浴びながら、泣き出したい絶望を感じた。
 おかしい。以前獣人を殺した際、このような気持ちにはならず、むしろ傍らで呆然としている遼のように、躊躇なく狂気に心を預けていたというのに。

 針越さん……見るなよ……こんな俺を……

 ショートカットの、目も小さく地味で、それとはアンバランスに鮮やかな赤いブレザーが不思議とよく似合う少女が彼の脳裏に浮かんだ。いつも精一杯に、自分のできることに懸命で、見上げ続ける彼女。自分もいずれはそこに帰っていきたい。

「ごめん……高川……!!」
 共に杉の幹に身を伏せると、遼は仮面に血をつけた高川へそう詫びた。
「う、うむ……」
「ど、どうした高川……」
 少々興奮しすぎていた。だから足元の枯れ葉に潜んでいた化け物に気づかなかったのだ。彼の援護がなければ、危うく命を落としていたことだろう。遼は恩人の様子が少々おかしいと感じ、その肩を掴んだ。

 どうにも……な……

 高川……?

 いやはや……ここにきて、貴様の心根というものが、少しはわかったような気がする……

 え……

 殲滅……二人かがりで全力というのは如何なものか……遼……!!

 強く、明確な意思の輝きだった。どうやってそんな、「遼」という結論に至ったのかはわからないが、裏表のない彼だから、それは信じるに値する。遼はようやく、いびつなまでに排除を意識していた自身の入れ込みから、心が解放されていくのを感じた。

 いいぜ……高川典之……背中は任せる……

 遼は通信機を取り出し、拙い英語でエミリアに本隊に該当する戦力がどこにあるのかを尋ねた。手負いの獣人など放っていく、背中を仲間に預けたのだから、いまはもっと重要な一撃を本命にくらわせるべきだ。

「ちょっと待ってて!! 敵の動きが集結傾向にあるの!!」
 装甲輸送車の傍でエミリアは小型端末で地形の再確認を行い、電子スコープで辺りを見渡した。
 鈴木二等陸尉が率いる、陸上自衛隊と対策班の部隊も着実に獣人部隊を包囲し始めていると通信では聞こえるし、他エリアでも日本政府側は局所的な勝利を次々と上げ、封鎖範囲を狭めることに成功しているらしい。エミリアは臨時指揮官ではあったが、膨大な情報を冷静に処理し、その度に折れた奥歯に痛みを感じていた。

 この戦い……じきに勝つ……損害はそれなりにあるけど……完全包囲だって……できる……

 そうなれば敵は敗走し、この山中のどこに拠点があるのかも判明する。たとえ地下から三代目が“取り寄せ”をしたところで、範囲が絞られれば爆撃などで決着をつけることができる。
 問題は、その敗走先がこの東ルートかどうかにある。少女は敵の動きを予測し、それがどこに行き着くのか判断力を総動員した。

 ここ……かな……

 不確定な予測で部下たちに指示は出せない。ましてや、赫々たる戦果をあげてはいるものの、仁愛組の三人は民間人なのだ。エミリアは極めて慎重に、ガイガーの言うところの“隠蔽しようとしているポイント”を特定するのに努めていた。

 鞍馬寺の本部でもエミリアの判断したものと同様の、勝ち戦であるとの予測がささやかれ始めていた。特に西部エリアでの戦果は凄まじく、たった二人の戦力配置にも拘わらず、戦闘開始三十分で二十五パーセントもの損害を与えているとの報告が入っていて、敵は北・南・東へと敗走をはじめたらしい。
 南部は鞍馬寺を拠点とした本隊が時間と共に兵力を増した形で待ちうけ、北部は機動隊の主力部隊とハリエット・スペンサーが待機し、東部においては対策班、陸上自衛隊、賢人同盟の混成部隊が、やはり近い時間帯での勝利を確実にしようとしている。
 どこまで絞り込めるか。エミリアのように爆撃といった純軍事的な発想は、森村肇になかった。京都市街も近いこの鞍馬山で、さすがに空爆は難しい。つい先ほど東京から届いた毒ガスも、使うのが躊躇われる。出入り口を発見した上での突入が最も望ましい、
 独立を押し付けられ、米国海軍の威信を傷つけるデモンストレーションを行われ、四面楚歌の中にあって核弾頭の所在が掴めたにも拘わらず、現場責任者たちは殲滅戦になることを恐れていた。
 もう六十年、この国では陸戦が行われていないのだ。本土となると実に百年以上である。彼らが戦火の拡大に極めて消極的だったのも無理はなかった。
 それだけではない。森村の傍らにあって、現場に対して通信機で指示を出す陸上自衛隊の田中三等陸佐などは、この戦い自体に疑問を抱いていた。

 なぜ、将兵の命を危険に晒す。

 それが侵略者であれば、田中とて部下に決死戦を説くつもりだった。しかし彼にとってFOTや真実の人は、どうしても敵として断じられる存在ではない。むしろ米軍からの庇護に対し、軍人として面白くないと感じることも多い。独立国としてあらゆる脅威から国民や財産を護ることは当然の権利であり、その脅威は米国をして例外ではない。
 田中のような考えをもつ者は、現場で戦う兵たちの中にも数多くいた。彼らが戦場にあって幸運だったのは、敵の姿が半獣半人の異形だったためであり、更に正義忠犬隊が含まれていないことが、戦意を保てる要因となっていた。

 勝利の流れは確実ではあったが、誰しもが不安と疑いを抱いていた。この戦いは、いったいどのような決着になるのだろう。ここまできて、結局、敵戦力を削り込んだだけといった中途半端な結果もあり得てしまう。なんとなく、司令部と現場がそれぞれそんな停滞を感じ始めていた直後、次の局面が訪れた。

 それはあまりにも大きい、純粋で単純なる“圧倒”だった。

 大木を暴風が揺らし、中には根から空中に舞い上がるものもあった。枯れ葉のシャワーが敵味方なく吹きつけ、陽を背にされたと苦戦を覚悟していたある者は、突如として出現した遮る巨体に、武器を手放すほどの戦慄を覚えた。

 乾いた空気の中で、葉が、小石が、枝が擦れ合った。本来、質量として有り得ざる出現である。移動ではなく、瞬間にその巨体は在ったのだ。それ故、瞬間が刻まれる以前に在ったあらゆる物質が拡散し、摩擦を生み、ある機動隊員が手にしていた盾は瞬時に無数の傷が刻まれた。

 嵐が止むと、巨体の主は西部ルートで奮闘していたあらゆる者たちへ、その威容を示した。最初はなにか壁のような塊でしかないと思わなかった者も、時が刻まれるにつれ、巨体が人の形をしていることに気が付いた。
 そう、人の形だった。二本の足で立ち、二本の腕を天に向かって伸ばし、巨木の天辺まで離れた遥かに、顎先が唸っていた。
 大きすぎる全身を毛で覆われ、長い尾がある点が、形状面における人類との差異であり、逆にまったくの共通点は、理性と知性に溢れる見下ろす二つの目である。

 午前九時五十分。獣人王・エレアザール、鞍馬山西部に出現。

 “彼”の鼻先で、白い長髪が揺れていた。
「じゃあ……頼んだよ、獣人王」
 杉の天辺に手をかけていた青年はそうつぶやくと、片目を閉ざしその場から姿を消した。

「な、なんだよ……あれ……」
「う、うむ……」
 巨人の、ちょうど真後ろにいた遼と高川は、気が動転して状況把握もままならなかった。

「陳……さん……」
「あ、ああ……あれは……」
 背中合わせにしていた二人の巨漢は、強烈過ぎる獣の体臭に顔を歪めていた。
 暴風に吹き飛ばされていた柴田と見上は、枯れ葉を噛みながら焦げ臭さが立ち込めるのに気づいた。

「エレア……ザール……」
 周囲のパニックを他所に、エミリアは前方に現れたFOTのもうひとつの切り札をじっと観察していた。


 神崎はるみが学校を早退したのは、一時間目の最中、横田良平が叫び声を上げたからだった。
「鞍馬山で戦争だって!?」
 授業中にも拘わらず、小型のノートPCでネットを楽しんでいた彼は、教壇に立つ川島比呂志へ苦笑いを浮かべ、再び液晶ディスプレイに注目した。はるみはすぐに席を立ち、「早退します!! 調子最悪!!」と告げ、全速力で正門から喫茶店を目指した。あの店ならテレビがある。少女の記憶は正しく、店に駆け込んだ彼女が目にしたのは、呆然とブラウン管を見つめるオールバックに髭のマスターと、そこに映し出された緊急ニュースだった。
 とりあえずコーヒーを注文したはるみは、テレビに一番近いカウンター席に座った。鞍馬山で、政府がFOTに対して大規模な検挙作戦に出た。アナウンサーはそう言っているが、画面には戦車やヘリコプターが行き交い、鞍馬山からは煙がいくつも上がり、集音マイクからは銃声や爆発音もする。コーヒーを出しながらマスターは、「なにが検挙だよ。こりゃ、戦争だよ。戦争」と引き攣った笑みを浮かべながらつぶやいた。

 遼……真錠……みんな……いるんだよね……

 高川も休みだったから、確実だろう。はるみは更にもう一人、ある少女のことを思い浮かべた。

 理佳……あんた……どうするつもりなの……

 遼と向き合うつもりなのか。そして、手を取り合って抱き合うのか。それとも、刃や銃口を向けるのか。どちらにしても、少女にとって喜ばしい光景ではなかった。


 その巨体が敵だということが判明したのは、暴風とともに出現した三分後のことだった。銃を向けた陸上自衛隊員たちを見下ろした獣人王は、長くて太い尾を横に振った。
 勢いよくしなった尾は、大木ごと三名の隊員をなぎ払った。彼らは皆、ありえない角度に腕や首をへし折られ、ある者は地面に、またある者は大岩に、そしてまたある者は装甲輸送車の車体に叩きつけられ、吐血しての即死である。
 一斉攻撃。鈴木二等陸尉とエミリアは、それぞれの部下にほとんど同時に別の言語で命じた。だが、即応できる者は皆無であり、最も迅速に心を建て直したのは陳だったが、彼が暗器であり時計の針のような形状の峨嵋刺(がびし)を指にはめ、その先端に毒を塗ろうとしたわずか数秒間のうちに、獣人王は踵を上げた。

 大地が揺れた。木の根道を構成する北山杉の根が地面から剥がれ、ついには装甲輸送車のうち一輌が、ミニカーのように呆気なくひっくり返った。誰も立つことがかなわず、中には地面に叩きつけられ、重傷を負う機動隊員もいた。
 地震は王の疾走によって生み出されていた。原生林のまま、人の手があまりつけられていなかった鞍馬の森は、巨大な獣人のたった十数歩で“開発”されてしまった。
 立ち止まり、大きく息を吸い込んだエレアザールの周囲で、炎が燃え上がった。最初の摩擦によって生じた火災である。大きな口から彼が突風を吹くと、それは瞬く間に乾いた木々に燃え移った。

 高川……さすがに……柔道じゃどうしようもねぇぞ……

 う、うむ……

 “柔道”ではなく、“柔術”である。そう抗議したかった高川だが、眼前の大きすぎる背中に圧倒されていた彼は、暑苦しさに仮面を外すのが精一杯だった。遼から肩を離した彼は炎の中に佇む、剛毛に覆われた獣人王を凝視し続けた。
 完命流はあくまでも対人間を想定した実戦柔術である。クジラや象を相手に有効な技などはない。あまりにもバカげたサイズの強敵に、高川典之はなす術もないまま立ち尽くすしかなかった。

 よし……

 ならばこちらの出番だ。高川から手を離した遼は、腰を低くして身構えた。いくら大きかろうが、血管が鉄パイプより太いということはない。せいぜい、直径数ミリといったところだろう。神経はもっと細いはずだ。なら、潰せる。切れる。壊せる。人間によく似た形をしているのだから、内部構造もそれに準じているはずだ。彼はできるだけ多く力を連続して使えるよう、呼吸を整えた。

 だが、王はいつまでも遼の前にいることはなかった。彼は次の獲物を見つけると、まだしっかりとしていた一本の杉を鷲づかみにし、全身を引き寄せるようにその場から跳ねた。
 強風と振動といった、あまりにも単純な暴力によって遼と高川はその場に転倒した。敵はその大きさに比例して、より以上の影響を及ぼす。遥かに小さな人間は、まるで台風や津波に巻き込まれたかのようであり、こうなるとよほど離れた場所からの狙撃しか、抹殺できる方法はない。
 地面を転がりながら、遼はリューティガーがどこに行ったのかと苛立った。彼の遠透視と自分の力があれば、たぶんなんとかなるはずだ。なのに、奴はどうしていないのだ。

 気が付けば銃撃戦の相手である化け物の軍団は姿を消し、そのかわりにたった一匹の巨獣が威容を誇っている。形勢逆転などという表現が、実に可愛らしく思える。突然リセットボタンを押され、違うゲームが途中から始まったかのような、あまりにも一方的な展開だ。装甲輸送車の陰に隠れた柴田は、ライフルに対獣人用弾丸を装填した。
「それ、あいつに効きますか!?」
 遅れてやってきた見上は、恐怖をやわらげるためにあえて軽口を叩こうとしたが、声はすっかり震え上がり、柴田も笑うことなく奥歯をがちがちと鳴らせていた。
 でかく、速く、そして殺す気に満ちている。柴田をはじめ、ここにいる誰もがあのように巨大な脅威を知らない。いずれは慣れるのかもしれないが、すくなくとも今日一日は無理だろう。そして、数分もせぬうちに全滅されられるかもしれない。
 鈴木隊長はどうした。ここは撤退のタイミングだ。唾を飲んだ柴田は、迷彩服姿の指揮官を目で探した。すると彼と思しき姿が、枯れ葉も剥げきった地面に仰向けに横たわっていた。
 気を失っているのだろうか。こちらに向けられた顔は寝ているようであり、大の字になった手には何も握られていない。柴田はライフルのスコープを覗き込みながら、通信機をいつの間にか落としてしまったことに気づいた。
「見上……鈴木隊長を助ける……援護してくれ……」
「し、柴田先輩……」
 この輸送車の陰から、鈴木二等陸尉の倒れている地点まで、距離にして五十メートル。獣人王の目はこちらの方向を向いていたため、それはあまりにも危険な救出計画だった。
「行くぞ!!」
 陰から飛び出した柴田だったが、まだ残っていた木の根に足をとられ、五メートルも進まぬうちに転倒してしまった。恐怖で足が絡まったせいもある。燃え盛る森の中にあって、酸欠気味だったということもある。ともかく、絶望的な状況に陥ってしまった。
 炎を背に、二つの目が倒れている柴田と鈴木を認めた。左足の先で地面を軽く掘った巨獣は、腰を左に傾けた。
 踏もうとしているのか、蹴ろうとしているのか、それとも、尾を使うつもりか。どの道殺す気だ。見上はライフルを構え、立ち上がった。
 放たれた弾丸は、王の胸板を直撃した。しかし、その威力は剛毛と筋肉の鎧によって、小さな痣を作る程度まで落とされてしまった。近距離であるにも拘わらず、なんともないのか。軽口が現実になってしまったことに、見上は恐怖し硬直した。
 巨体が大地を再び蹴った。エレアザールの角が、すこしのあいだ森の屋根からはみ出ると、彼は腰を低くして着地し、またもや大地を鳴らせた。
 その右足の側面から、もっと小さな二本の足がのびていた。上半身は王と大地の狭間にあり、その周囲にはどす黒く光沢のある溜まりが形成されていった。
「み、見上……!?」
 “踏み潰された”のか。公僕としてテロリストと戦う仕事にあって、そのような死など、とてもではないが有り得た話ではない。柴田は絶叫し、ライフルを構えた。
 五本の太く鋭い刃物が、発砲よりずっと早いタイミングで柴田明宗の左下半身をえぐった。獣人王の手にはたかれた彼の身体は宙に舞い上がり、やがて装甲輸送車の付近に落下した。体当たりでもしてやる。そう決意していた那須は、先輩捜査官が文字通り“降ってきた”ので、運転席から飛び出した。
「柴田さん!!」
 ない。あるはずの左足が、腰からまったくない。あの化け物の一撃で、ごっそりもっていかれたのか。先輩を抱きかかえた那須は、まだ彼に息があることに気づくと、整った顔をくしゃくしゃにさせた。
 撤退を命じるはずだ。この状況にあって、まともな指揮官なら包囲範囲を広げ、態勢を立て直す指示を出すのは当然だ。すっかり軽くなった柴田を抱え、輸送車に戻りながら那須は通信機を手にした。
「全員撤退!! 負傷者は司令本部まで搬送!! とにかく撤退だ!!」
 青年は絶叫した。カーゴルームにいた衛生班に柴田の応急処置を命じた那須は、運転席に雪崩れ込んだ。
 シートについた彼は、窓越しに見てしまった。

 おい……おい……おい……

 仁王立ちの獣人王の手には、迷彩服姿の男が逆さづりに握られていた。あれは、柴田が助けようとした鈴木二等陸尉だ。まさか、そんな。那須が恐怖に震えていると、エレアザールは大きな口を開いた。
 骨が砕け、服と皮と肉が裂かれ、血と油が北山杉を染めた。頭から鈴木隊長は齧られ、瞬く間に上半身が口内に運び込まれ、最後には口元から足先だけが見える有様だった。
 何度かもぐもぐと上下の顎をすり合わせると、獣人王は地面に何かを吐き捨てた。
 気を失いそうになるのを堪え、耳を塞いで狂ってしまうのを抗う岩倉の眼前に、迷彩ヘルメットとブーツ、ベルトが落ちてきた。いずれも血と唾液に塗れ、原形をほとんど留めていない。巨漢を丸め、ライフルを投げ捨て、火災の熱風と食らう者の姿に背を向けて震えていた岩倉だったが、そんな彼の腕を引く強い力があった。
「撤退ネ!! ガンちゃん!!」
 頼りになる大人の姿だった。灼熱の地獄と化した森の中にあって、日常を思い出させるTシャツ姿だった。
「は、はい……陳さん……」
 なんとか立ち上がった岩倉は、陳のすぐ後ろに遼と高川、そしてエミリアがいることに気づいた。どの顔も真っ青だ。あんなに勇気のある高川ですら、歯を鳴らして怯えている。

 森の中を駆けながら、なんども躓いて転びそうになりながら、島守遼はある灼熱の地を思い出していた。
 何もない荒野で死を覚悟した。殺される、食われると諦めた。けど、なんとか命拾いをした。
 なれたつもりだったのに、ようやくできると自信を持ち始めたのに、なんだあのデタラメな奴は。完全に逆戻りじゃないか。

 このまま逃げるのは仕方がない。だけど、のちに繋げるなにかが欲しい。遼は足を止めて振り返った。

 燃え盛る森の中にあって、八メートルを超える巨体が次の獲物を求め右に左に注意を向けていた。あれが敵。徹底的に単純な暴力を行使する、究極の人食獣。
 勝ち目はある。そう、あいつと組めば、なんとかなる。そう奮い立たせることで、遼はなんとか身体の震えを止めたかった。
 再び、暴風が木々を薙いだ。炎を振り払い、咆哮を上げる獣人王の巻き起こした火炎嵐だった。
 あの灼熱の中にあって、奴は平気なのか。人間なら耐え切れないほどの高温であるはずだ。

 組んだところで……なんとも……ならないんじゃ……ないのか……あんなの……

 知略や策略や、そんな賢しい手など通じないのではないだろうか。気になって引き返してきた高川の声も耳に入らず、島守遼は呆然と、猛り暴れはじめたエレアザールの姿を見つめていた。ホックを留めていないのに、詰襟が息苦しい。理佳にたどり着くまでの間に、あんなどうにもならない者がいるなんて。

 自分はいったい、なんてところにきてしまったのだろう。

 時刻は午前十時二十三分。普段であれば、二時間目の授業の真っ最中であった。
11.
 獣人王の出現から遡ること三十分ほど前の午前九時二十一分。森の中でリューティガー真錠と赤い人型は、二メートルといった微妙な距離を保ちながら、周囲を警戒していた。
 まりかはドレスのセンサー半径を視線感知の擬似パネルによって操作し、特に集音マイクの感度を上げた。
 リューティガーは森の中にあって、平地の見通しを知覚していた。

 ドレスの活躍を察知したリューティガーは、すぐにその近くに転移し、彼女に貸しを作るため、周囲を取り囲んでいた獣人の群れを次々と空間に跳ばした。
 敵はいくらでもいたから、二人のサイキは互いに声を掛け合うこともなく、殺害と排除に集中することができた。三十体ほどいた西部ルートの獣人は、ものの数十分で全滅し、二人の周りには泡化する屍がこれでもかと横たわっていた。

 どうやら、このエリアの敵は掃討してしまったようである。そう判断したまりかは、隣で身構えたまま警戒を続けているリューティガーに視線を移した。
 もう話しかけてもいいだろうか。北部も東部も優勢のようだから、余裕ができたと考えていいのだろうか。しかしなにを告げる。いや、迷うことなどない。謝り続けるしかないのだ。彼の仲間を何人も殺してしまい、たとえそれが計略によるものだったとしても、許されるまで詫びるしかない。
 できることなら共に力を合わせて戦いたい。緊張した腹の探りあいや、過去に起因した罵りあいなどしていたら、あの男には勝てない。そんな、まりかの心変わりだった。
 頭部バイザーをオープンすれば、直接声をかけることもできる。まりかはドレスを操作しようとしたが、それと同時にマイクに雑音を拾った。これは金属音だ。
 胸部装甲に鈍い衝撃音が走った。どうやら、弾丸が装甲にめり込んだようである。なんという正確な狙撃だ。破損箇所が心臓を保護する装甲だということに気づいたまりかは、衝撃に耐えながら意識を集中してその場から跳ねた。

 確かに銃声だ。おかしい。全方位警戒をしていたはずなのに。いや、こんな広範囲だから見落としも仕方がないか。大木の幹に身を隠したリューティガーは着地するドレスの背中をまりかの身体ごと透視し、胸部装甲にめり込んだ弾丸を確認した。
 対物ライフルのそれか。かなり径が細いが、貫通性は高そうな特殊弾丸だ。傾斜もたっぷりな山の地形だから、木々を透視しただけではすべての敵、それも狙撃主を発見することなど難しいということか。これまで、砂漠や台地、市街地での戦闘経験はあったものの、森林となると未経験のリューティガーは、ようやく単独での突入が浅はかだったことに気づき、額に汗を滲ませた。


 貫通はしないのか。さすがに距離というものがありすぎたか。山の斜面の岩陰からライフルの光学スコープを覗き込んでいた蜷河理佳は、ドレスが健在であり一撃必殺がかなわなかったことに悔しさを覚えた。
 そう、知っている。あの中が誰であるのか。あれは、はるみちゃんのお姉さんだ。だけど殺す。あの人の目的を遮り、わたしの人生に足止めをかける者だから、殺す。そして得る。
 胸部と頭部は最も装甲が厚いはず。ならばどうする。関節部分を破壊して動きを封じるか。
 それに狙撃ポイントはこのKER−203から、204、226、229のいずれかに変更するべきか。いや、ここは風向きもちょうどいい。センサートラップのキャッチ感度もいいから、確実なスナイピングができる。
 少女は、かつて好きだった流行歌を口ずさんだ。狙撃手にとって、音を奏でることは厳禁である。けど、彼女は口ずさまずにはいられなかった。だって、はるみちゃんのお姉さんを殺すのだから。
 ポイントの変更はなし。予め仕掛けておいたトラップのサポートで、仕留めてみせる。それにそろそろ、あの二人が打ち合わせ通りにやってくれる。そうなれば、こんな離れたこちらに注意を向けているゆとりは消える。
「なんで、あんたの作戦に従わなくっちゃならないのよ!?」
 予想通りそう食ってかかってきたが、たっぷり一時間かけて説得したら、最後には譲歩してくれた。僕である少年の口添えもあったけど、あの子はわかってくれる子だから。
 だから、信じる。赤い髪と茶色の翼は、いまの“仲間”なんだ。理佳は再び射撃体勢に入った。

 弾丸の侵入角度はすぐに割り出せる。狙撃手の潜む方角はそれで推理できるが、問題は第二射も同じポイントからになるか否かだ。腰のウェポンラックから専用の大型アサルトライフルを引き抜いたまりかは、被狙撃地点の地形データをバイザー裏のモニタに表示させながら、リューティガーがどこに行ったのか目の端で追った。
 おそらく、あの杉の陰だろう。なんとなく潜んでいる場所を推理したまりかは、それにしても彼がもっと協力的ならラクができるのにと、それがなんとも切なかった。
 獣人の群れと激闘を繰り広げている間も、まりかはできるだけリューティガーのフォローに努めたのだが、彼はそんなこともお構いなく空間転移での敵中突撃を繰り返し、戦果を上げることに没頭しているようだった。


 右膝が持ち上がった。無理やりに、強引に。

 肩に軋みが走る。左足で踏ん張ったまりかは、右足の裏が突然押し上げられたのだと理解し、それならばと左に体重を流し、肘を支点に木の根だらけの地面を転がった。

 地下からの敵。そうとしか思えない。ならばどうする。

 一筋縄でいかぬ奇襲ならば、この武器は不利だ。まりかはライフルを放棄し、片膝を立てて神経を研ぎ澄ませた。

 どう……なの……

 地中に潜む敵は厄介だ。ドレスのセンサーは高性能ではあったが、それは金属と熱探知において発揮されるため、対生物という意味においては少々物足りない。
 結局、獣人や改造人間といったイレギュラーな敵、それも隠れている者に対しては生身の“感覚”が勝ることもある。まりかはリューティガーのような遠透視や花枝のような盗聴といった超感覚はなかったが、数々の戦いで多少なりとも戦場の空気を読むことはできた。

 パージする……いや……狙撃手もいる……どうする……

 八年前、神崎まりかは戦闘者として、完命流の天才と呼ばれていた東堂かなめをも驚愕させるほどのセンスを発揮していた。それは現在においても同様だったが、どうにも気になることがある。

 ルディくん……援護はないの……!?

 もうひとりのサイキの存在が、彼女の判断力にノイズを与えていた。

 再びの静寂は、真上からの銃撃によって打ち破られた。連射された弾丸は頭部バイザーや肩部に命中し、貫通することはなかったものの、踊らせるような衝撃をまりかに与えた。そして、弾丸よりずっと遅く、何枚もの茶色い羽が舞い落ちてきた。

 飛行型の獣人か、音もなく制空権を確保するとは。まりかは見上げようとしたが、今度は左足を引っ張られ、その場に倒されてしまった。

 なん……ですってぇ……!?

 左足を掴んでいたのは、真っ赤で巨大な“手”であった。だが、肘から先は地中に埋まっているようであり、表面も妙に光沢がある。神崎まりかは懐かしさを覚えた。八年前の夏、あのホテルで対決した“手”は、色こそ緑色だったが、これとまったく同質のものである。ならば物理的な衝撃はあまりダメージを与えられない。東堂かなめの異なる力、“概念固定”もアテにできないのだから、こうしてみるか。
 意識を集中したまりかは、限りなく分子の振動を制御した。止める。限りなく制止させる。“念動凍結”定形を持たぬ敵に対して、乾燥しきった森林で最も適した抹殺手段だった。
 握りつぶしてくれる。牽制などではなく、ここでこの女を仕留めることができるのなら、あのただの人間でしかない蜷河理佳の策を受けた甲斐があったというものだ。全身を“手”と化し、まりかの足をドレスごとホールドしていたライフェ・カウンテットは、だが親指にあたる箇所の先端に激しい異物感を覚えた。

 凍っている。

 気が付けば真っ赤なそれは紫色に変色し、感覚が急激に失われていった。さすがはなんでもありの怪物だ、よもやこのような念動を使えるとは。偉大なる先駆者、村上マニトットを倒しただけのことはある。
 刺し違える気など毛頭なかった。ライフェはまりかを離し、枯れ葉や木の根と同化した。
 不定形の奇襲は凌げたものの、続けて上空からの銃撃が再開された。規則正しい銃弾が降り注ぎ、まりかは襲撃者の技量が確かなものだと辟易した。
 いくら特殊合金製のドレスであっても、剛性や耐久性の限界というものがある。まりかは自分の周囲に念動による空間の“歪み”を作った。PKフィールド、物理障壁であり、あらゆる物質的悪意を弾く防御手段である。赤い人型の足元に積もっていた枯れ葉が吹き上がり、銃弾は軌道をねじ曲げられ、力なく地面へと落下した。

 念動凍結に念動力場。さすがとしか言いようがない。幹の陰から戦況を窺っていたリューティガーは、たった三人で真実の徒を壊滅させた最強の実力を、まざまざと見せ付けられていた。
 あいつが本気になったら、鞍馬山の拠点などものの数時間で壊滅できるのではないだろうか。だとすれば、それこそすべてを任せてしまってよい。できるやつにできることをやらせるのは戦略の基本であり、無駄な消耗を防ぐ最善の方法論だ。
 だとすれば、自分などいらない。政府のバックアップも万全で、単機突入できる機械の鎧を与えられた神崎まりかは別世界の存在だ。貸しを作るつもりだったが、これでは手の出しようもない。リューティガーは手にしていた拳銃の撃鉄をゆっくりと下ろし、ため息を漏らした。

 フィールドで完全防御をしているにも拘わらず、銃撃はその後も止むことはなかった。疲労を狙っているのか。空中への移動手段を持たないまりかは、さてどうしたものかと打つ手を考えていた。
 まずは姿を目視しなければ、どうにもならない。力場の中にあって、まりかは上空を見上げた。しかし枯れ葉が渦を巻き、枝が震えるこの閉所では青空ですら望むことは困難だった。襲撃者、はばたきの影を発見できないまま、防戦一方なのがなんとももどかしい。

「は、飛べへんのか? 敵はいくらでもふっとばせるのに、なんで自分にその力を使われへんのや?」
 金本あきらは以前、フルメタルカフェのカウンターでそんなことを尋ねてきた。
「うん、なんていうかな……ボールを投げちゃうような、そんな感覚なの。わたしのPKって」
「ボール……おもろい表現やな」
「だからね、自分はどうしても投げられないの。何度も試したのよ。ドラゴンボールみたく飛べたら、すごい便利だものね」
「せやったら、鳥ベースの獣人が出てきよったら、さすがの自分も苦戦っちゅうやっちゃな」
「あ、けど街中とかだったら平気だよ。姿さえ見えればどうにでもなるし」

 そう、姿が見えないから、こんな無様な戦いになる。ならばどうする。いっそのこと、北山杉を片っ端から引っこ抜くか。いや、そんなことをすれば麓に殺到しているであろうマスコミに騒ぎのタネを与えるだけだ。ならば頼るしかない。陸上自衛隊のヘリと連携して、地上と上空からの挟み撃ちをするしかない。
 フィールドを維持したまま、まりかは擬似ディスプレイから通信パネルを呼び出した。ドレスにおいて、すべてのシステム管理はバイザーの裏側に映し出される映像パネルによって行われ、その入力は視線と音声によるものである。最新技術を惜しみなく使った最高のドレスは、神崎まりか個人に分隊レベルの支援機能を付加させていた。

 あ……やだ……

 なんだ、この鈍くて重い痛みは。そう、これはつい先日にも内閣府別館の地下でもあった、新しい痛みだ。なにか、あってはならない違和感だと思える。箇所が箇所なだけに、死に直結する嫌な予感がする。もしこれが非日常の代償であるなら。まりかはすっかり集中力を損ない、膝を前後させてふらついた。

 どうしたんだ……?

 空中で巧みに姿勢を制御し、枝葉に隠れながら連続射撃を続けていたはばたきは、標的の異変に気づいた。

 疲労を待つ。フィールドにも限界はあるはずで、もって十五分と予測される。

 それが蜷河理佳の策であった。彼女は真実の人から異なる力についての知識を得ていると言っていたから、信じてもいいと同意したはばたきである。しかし、まだ五分しか経っていない。なのに、あのふらつきはなんだ。
 引き金を人差し指で押したまま、茶色の翼をはばたかせ、少年はよもや好機が訪れたのかと興奮した。
 倒せるまではいかなくても、獣人王に接近させないための足止めを行う。もちろん好機が訪れるのなら、殺害も視野に入れる。いや、すべての牽制や陽動は殺す気で行わなければならない。でないと、こちらがやられる。そんな理佳の提案に、赤い髪の主は返事もせず、ぷいっと横を向いてしまった。だがそれは、否定はしないという彼女独特の意思表示だ。

 頭の中を、太い蛇がうねった。どろどろとのろく、一番奥の歯が根元からしびれる。痛みだけではない、意識を引っ張られるようなまどろみすら感じる。つまり、このままでは“落ちる”。正気であり続けることに全力を傾けなければ。
 ついにまりかは、フィールドを保つことができなくなった。唐突なる盾の放棄に、光学スコープを覗き込んでいた理佳は、躊躇うことなくセンサートラップの遠隔スイッチを押した。

 金属音が足元から聞こえた。ひどい頭痛に見舞われながらも、まりかは新たな敵かと緊張した。
 この東部ルートには、予めセンサートラップと呼ばれる、音・熱・光を放つコンパクトディスク大の仕掛けが四十箇所にわたり仕掛けられていた。すべては殺到するであろう敵を撹乱するため、中丸隊長が考案した奇策だった。

 トラップに反応したため、動きが止まった。それも背後を向いている。なんと理想的な状況か。理佳は対物ライフルの引き金に力を込めた。

 後頭部に取り付けられていた、センサー制御パネルが悲鳴を上げて跳ね飛んだ。そして、まったくぶれずの第二射。集中制御用のセンサー基盤は、弾丸によって完全に粉砕された。

 闇。それも完全なる黒。外部の音もドレスの稼動音に入れ替わり、神崎まりかはなにかに閉じ込められる感覚に襲われた。
「スモーク!!」
 叫ぶのと同時に、ドレスの後部ラックから黒い煙が吹き出した。
「パージ!!」
 赤い人型はバラバラになり、中から黒いウエットスーツのような身体のラインがはっきりとした姿の、神崎まりかが“排出”された。
 地面に転がり落ちたまりかは、ともかく移動の必要があると判断し、マスクを装着してから煙幕の中を這った。
 頭痛は治まってくれない。ピークは過ぎたようだが、とても念動の力をつかうような集中力は保てない。かつてない現象に、最強のサイキは恐怖を覚えていた。

 どういう展開だよ!!

 思わぬ激変にリューティガーは幹から飛び出し、撃鉄を上げた。敗れたのか、あの神崎まりかが。見えざる三方の敵からの奇襲に敗退したのか。目撃した現実を受け入れるしかなかった彼は、薄まった煙幕の中に脱ぎ捨てられたドレスを見つけた。
 出番が回ってきたのなら、やってみせる。あいつが負けたのなら、それに打ち勝つ。存在意義を確かめられるだけではない、じゅうぶんすぎる貸しだって作れる。邪心がリューティガーの心を支配していた。彼は目を血走らせ、辺りを見渡した。

 あれだな!!

 木々に隠れて蹲るまりかと、その背後から襲いかかろうとする巨大な“鎌”を、リューティガーは異なる力で遠透視した。突風が吹き、枯れ葉が渦を作るのと同時に彼の姿は消え、目的の場所である、鎌とまりかの間に出現した。再び枯れ葉が舞い、それはあたかも水面に石を投げた結果の波紋のように、絶え間ない連続だった。
 出現した途端に、跳ばす。跳躍の掌が鎌へ伸びた。

 跳ばされるものですか!!

 目の前に現れた栗色の髪に、巨大な鎌は形を溶かし、地面へ同化した。

「ルディくん……」
 頭を抱えたまま、まりかは振り返って見上げた。
「なにがどうなったかは知らないけど……無様だな……」
 背中を向けたままの冷淡な言葉に、まりかは唸るしかなかった。それほど最悪のコンディションだといえる。
「まぁいい……あとは僕が受け持つ……フォローはこの一度きり、自分の身は自分で守るんだな」
 そう言い放つと、リューティガーは駆け出した。いまの鎌は先ほどの不定形だ。ならば幻惑し、奇襲を仕掛けてくることは明白であり、そのターゲットは戦闘不能状態に陥っているあの女ではないはずだ。ここまでの段階で的確な作戦行動をとっているように見えるから、予測はたやすい。
 そろそろ狙撃のタイミングか。そう感じたのと同時に、突風が吹いた。太い枝の上に出現したリューティガーは、自分のいた場所に着弾があったため、口の端を吊り上げた。
 しかし、その正確な予測こそが命取りだった。咄嗟の跳躍は、出現先に対する吟味の余地を与えず、体重を支えられそうな太さの最も目に付くそれを選んだのも当然のことである。
 だからこそ、はばたきの強化された視力は赤く発光した枝の根元部分を見逃すことはなかった。あの枝はそう、本来は存在し得ないまがい物。主の化けた姿だ。発光は、ちょうど彼の背後だから気づかれまい。初代我犬は言っていた。「正確な予測をする敵は、仕留めるに簡単だ。そのひとつ上をいくだけでよいのだからな」
 まさしくそうである。
 この銃弾の雨は避けられまい。換えたばかりの弾倉を空にする覚悟も、もうできている。
 おそらく、死ぬだろう。我らの指導者の弟、自分と対して歳の変わらぬあの彼は。
 哀しむ者も多いだろう。向けられる恨みも相当だろう。けど、ライフェ様は褒めてくださる。それだけですべて帳消しどころか、余りあるほどだ。

 死ね!!

 決意の銃撃をしようとしたはばたきだったが、その直後、銃声と同時に装着していたゴーグルが吹き飛ばされた。
「なに!?」
 誰だ。翼を上下させながら、銃口を上げたはばたきは弾丸が掠めてきた方角を睨んだ。
 リューティガーがいたのとは別の木の枝に、タンクトップ姿の男が片膝を立ててアサルトライフルの銃口を向けていた。たしかあいつはカーチス・ガイガー。もとカオスの凄腕だ。はばたきは一度離脱するべきだと感じ、急上昇をした。
 突然の銃撃だったため、リューティガーは状況の把握に一瞬戸惑った。
「ここは危険だ!!」
 そんな声と共に背後から強い力で押し出されたため、着地は難しいと判断した彼は一瞬で空間に跳び、次の瞬間には地面に出現した。
「健太郎さん……」
 隣に着地したコート姿の異形を、リューティガーは驚いて見つめた。するとその向こうから、枝から下りてきたガイガーが駆け寄ってきた。
「先輩……」
 呆然とするしかなかった。なにがどうなっているのか。ここは僕だけでじゅうぶんだ。手助けなどいらない。状況の把握ができないにも拘わらず、真っ先に浮かんだのは抗議の言葉だった。
 困惑は油断を生んでいた。こうした被狙撃状態にあった場合は本来、すぐにでも物陰に隠れるべきなのに、なにを立ち尽くしている。駆けながらガイガーは叫ぼうとした。「ルディ、呆けるな」と。

 だが、カーチス・ガイガーが叱咤をする機会は永遠に与えられなかった。期待を寄せ、大人として導いていこうと決めていた可愛い後輩の眼前で、歴戦の勇者はこめかみを砕かれ、脳漿(のうしょう)を飛び散らせた。

「あ……」
 そんな呻きしか出なかった。

 どうしたんだ。なんで先輩がここまで追いかけてきた。なんで先輩の身体が横に流れる。

 なんで先輩が狙撃された。

 乾いた音と共に、ガイガーは地面に倒れた。目は見開いたままであり、叫ぼうとした口はわずかに開いていた。健太郎はすぐにリューティガーの両肩を掴み、周囲を見渡した。哀しむのはあとでいい。

 厄介な強兵は倒した。さて、次はどうする。神崎まりかの姿は見失ったから、次はあのもと同級生か、それとも異形か。対物ライフルのスコープに映る二人の姿を、蜷河理佳は静かに見つめていた。

 轟音が森を揺らせた。はるか数キロ西であるのにも拘わらず、獣人王の咆哮が東部ルートにまで響き渡たり、あらゆる生者は戦慄することとなった。
 ついに開始されたのか。ならば撤収。そういった段取りだ。ライフェは木の枝からいつもの人型に戻り、隣の木へ飛び移った。
 命拾いというやつか。あの咆哮は地下開発室に戻れという合図だ。迅速な撤退を果たすため、岩陰の理佳はライフルを立てた。
 この高空からでもよく見える。木陰から覗くあの角は、たしかに王のものだ。はばたきは陸上自衛隊のヘリを軽くパスすると、さらに高度を上げた。もう作戦は終了だ。あとはあの猛々しい巨体が、なにもかも追い払うことになる。

 戦線の維持は不可能。現場から次々と入ってくる報告はどれも異口同音であり、鞍馬寺の司令本部は対応に追われていた。
 いったいなにが起きているのか。森村肇はトレーラーから運び出し、長机に設置しておいたモニタを見つめ、マイクを手にした。
「那須!! どういうことだ!?」
「巨大な獣人です!! 鈴木陸尉が食い殺され、見上が踏み潰され、とにかくあっという間に壊滅なんです!!」
 装甲輸送車を運転しながら、那須は天井から吊り下げられたマイクに向かって、そう叫び返した。
「映像を一部転送します!!」
 通信担当の士官が撮影した、おぞましく凄惨な様子を収めたビデオを、那須は通信回線に流した。

「なんだ……これは……」
 指揮官たちは、モニタに群がった。すると、三度目になる咆哮が北東の方角から聞こえてきた。これがあの主、原因か。モニタの中に映る人の形をした巨大なる怪物に、全員が息を呑んだ。こんなものを間近に見てしまえば、戦意が喪失するのも無理はない。敵はとんでもない切り札を用意していたものだ。
 まずは立て直す必要がある。田中陸佐はそう判断するのと同時に、悔しさを覚えた。
「FOTは、日本に独立しろと要求して……あいつら一貫して、まともな日本人を傷つけてはいない……なぜこんなことになる……これでは茶番ではないか……」
 無意味な戦いだ。そうはっきりと言えなかったため、遠まわしな発言だった。
 もし田中がFOTのマッチポンプと自作自演を知っていれば、このような発想には至らなかったはずである。だが、いま彼にそれを告げたとしても、あまりにも時間が経ち過ぎていたし、あまりにも事態は変化していたから変心するかどうかは定かではない。
 しかし彼の言葉は、場の空気にしっかりと定着することなく漂った。ともかく最優先は一時撤退とそれに伴う包囲網の拡大である。慌ただしさが、根本的な疑問を受け付けることはなかった。


 高川に腕を引っ張られ、岩倉に背中を押され、遼は呆然としたまま森の中を駆けていた。
「ともかく坊ちゃんたちと合流ネ!! あれは獣人王エレアザールに間違いない!! どう対応するか話し合わないとネ!!」
 先頭で大きな腹を上下させながら、陳は三人の現地協力者たちにそう叫んだ。傍らで駆けるエミリアは同意して頷き、通信機を耳に当てた。

 ルディ様……出られる状況ではないの……? ガイガー隊長も……

 応答がないことが、なによりも不安なエミリアだった。

「高川……」
「なんだ……!?」
 遼があまりにも頼りない声だったため、高川はあえて張り上げるように返した。
「お前は……戦ってて……怖いって……」

 バルチの空はどこまでも青かった。

 夕暮れは限りなく赤い。

 あの化け物たちが手にしていたのは、そう、彼の頭だろう。

 恩人だった。口は悪いが、もしかしたらずっと世話になるかもと夢想した。

 なのに、食い殺された。強引に、抗いも通用せず、引き裂かれ、千切られ、食い殺された。

 なんで忘れる。なんで戦えると思い込める。なんで怖くない。

 そう、あの子が許してくれたからだ。映画館で、子供のように泣いていてしまったのに、許してくれたからだ。

 遼の声はあまりにも小さく、だから高川は聞いている場合ではないと考え無視を決め込んだ。

 そんな彼の左側面の茂みから、いきなり人影が飛び出した。敵か。身構えた完命流は友人の腕を放し、殺気を放った。
「な、なんと……!?」
 茂みから飛び出した黒髪を揺らす少女の顔に、高川典之は驚愕した。
「え……?」
 崩れかけたバランスを直しながら、遼は顔を上げた。
「理佳……?」
 大型のライフルを携えた、コート姿の彼女は遼と同じ表情だった。どうして、なぜ。そんな疑問の彩りが交錯した。
 理佳は拳銃を懐から引き抜き、その銃口を遼に向けた。
 高川ではない、殺すための得物は自分に向けられている。それがすぐにわかってしまったため、遼の頭の中は真っ白になってしまった。
「蜷河さん!!」
 岩倉はオートマチック拳銃を抜き、何もない上空に向かって発砲した。凍てついた空気はそれをきっかけに再び動き始めた。

 陳とエミリアは振り返った。
 高川は銃声に顎を引いた。

 理佳は再び駆け出すと、森の中へ姿を消していった。わずかに岩倉の判断に感謝しながら。

 遼だけが、変わらぬまま真っ白な中にいた。

 理佳ちゃん……撃つ……つもりだったのか……

 再び高川に手を引かれた遼だったが、足がもつれて彼は引きずられるように倒れこんでしまった。
 それでも、なにもかもが白いことに変わりはなかった。


 結局、岩倉が遼を背負う形で、陳とエミリアのグループは東ルートまで到達することができた。途中、健太郎が通信に応じてくれたおかげで合流ポイントの特定もできたが、エミリアには意外なる対応者であるため、戸惑いは続いたままだった。

 しかしそのわけも、森の中で泡になっていくカーチス・ガイガーの遺体を見てしまったから、呆然と立ち尽くすリューティガーの姿を見てしまったから、獣人王の咆哮がなにもかも終わりであると告げているとわかってしまったから、すべて納得するしかなかったエミリアたちだった。
 遼はようやく包んでいた白さを吹き飛ばすと、泡化していく勇者に駆け寄った。
「ガイガー……さんが……」
「長距離狙撃によって……対物ライフルだな……弾丸は貫通を主眼とした細径タイプだと思われる……だから……頭が吹き飛ばされずに済んだというわけだ」
 冷静な説明ではあったが、声は震えきっていた。高川と岩倉は、健太郎の心が動いているのを初めて目の当たりにした。
 泡化は、人間の場合は頭部から優先的に行われる。だからこそ、健太郎の説明とは裏腹に、遼はガイガーの死に顔を確かめることはできなかった。

 理佳ちゃんが……やったのか……

 大きなライフルだった。細く儚げな彼女であったから、アンバランスであることは目に焼きついている。遼は膝を地面に着き、地面を叩いた。
「隊長ー!!」
 エミリアは崩れ落ち、号泣した。戦場において許されざる行為ではあったが、なにもかもが終わってしまったと思えるから、感情を抑えることなどできなかった。
 なぜ、彼女のように泣けないのだろう。リューティガーは、ひどくぼんやりとしていることが信じられなかった。

 僕の……せいだ……

 それだけはよくわかる。感情に任せて突出し、敵の策に陥り、自覚しないまま窮地に陥っていたのだろう。でなければ、ガイガーほどのベテランが無防備な全力疾走などしない。それほど、僕は危なかったのだ。
 なのにどうして涙が出ない。己の愚かさに怒り狂わない。なぜ、こうもぼんやりとしてしまっている。
 ガイガーの屈強だった肉体は、もうすっかりなくなってしまった。泡は弾けるたびに鞍馬の空気に溶け込み、そのすべては跡形もない。
 エミリアはなおも泣き崩れ、陳がその肩を擦り、健太郎は俯き、高川と岩倉は口元を歪ませ、遼は両手を着いてなにもない地面を揺れる瞳で見つめていた。
 リューティガー真錠は、わからないままだった。なにが起きたのか、なぜそうなったのか、すべては明晰なる頭脳で理解している。

 なのに、彼は自分というものがちっともわからなくなっていた。

 沈んだ光景を、木々の間からまりかはじっと見ていた。どうやら、仲間の一人が死んでしまったようである。声をかけるべきか。いや、まだ鈍い痛みが続いているし、こちらの弔いなど望んではいないだろう。撤退命令をつい先ほど受けたばかりだったから、まりかはその場から立ち去ることにした。ドレスの回収、頭痛の原因解明、やるべきことはいくらでもあった。

 撤退命令によって、一時は半径五キロメートルにまで狭まっていた包囲網は、南、東は維持できたものの、西と北に関しては実に二キロに亘る後退を余儀なくされた。本部には負傷者を乗せたトラックや兵員輸送車が到着し、特に西部ルートのそれは身体の一部が欠損した重傷者が多く、衛生部門は一息つく間もなく境内を走り回っていた。
 司令部テントでは今後の対応が協議されたが、結論は出ないままだった。
 最も強硬な意見は、空爆による獣人王の排除と地下拠点の消滅だったが、これに賛同する者は発言者以外まったくいなかった。
 市街地に近い鞍馬山空爆など、すぐに実行することはできない。実現には相当の承認行為が必要であり、撤退に対する追撃がない以上、いまは事態を静観するべきであると、そう返したたのは陸上自衛隊の田中陸佐だった。
 最も軟弱な意見は全面撤退だった。ただでさえ山火事が発生し、災害が広まる危険もあるのだ。いま必要なのは軍事行動ではなく、消火活動である。そう主張したのは警察部門の指揮官でだが、森村は火災が鎮火に向かっている現状を伝え、なによりも包囲網を解くことは絶対に認められないと却下した。

 現状維持。そんな曖昧な答えしか出せなかった。交通と報道の規制、鞍馬山の監視は継続する。誰にでも下せる凡庸な決断に落ち着いたのは、現場の凄惨さが負傷者として運び込まれてきたことにも起因する。
 掴みかけた勝利が、あっという間に叩き潰されたのだ。バカげた怪獣の出現によって。あんな現実離れしたものと戦う術を、日本政府は持っていなかった。既存手段を当てはめ、検討と協議を重ねなくてはならない。しかしそれにはまず、聞こえてくるあの咆哮に慣れるしかない。

 燻る森の中にあって、獣人王エレアザールは咆哮を繰り返していた。

 人間どもよ、恐れおののけ。そんな思いを込め、王は腹の底から叫んだ。

 本部で治療を受ける者の中には、耳を押さえて泣き出す姿もあった。それほど刻み込まされた恐怖は大きく、エレアザールの意図はじゅうぶん過ぎるほど伝わっていた。

 そしてしばらくの後、静寂が戻っていた。
 猛々しいそのものは、鞍馬の森から忽然と姿を消していた。
 判断するべき者たちはこの事実に、より警戒心を強めてしまった。まるで守護神気取りのようである。手を出してこないのなら、攻め込むつもりはないということか。専守防衛など、本来はこちらの金言だったはずなのに。

12.
 鞍馬山一帯がFOTによって占拠された。詳細は不明であり、自衛隊と警察の合同部隊が交戦をしたものの、依然緊張状態が続いている。民間人の避難は完了している。周囲の交通、および報道に関しては一切規制する。状況については、追って詳細を待て。

 これが、政府からマスコミに向けての発表内容である。あまりにも少ない情報に記者たちは反発し、あらゆる手段を用いて集めてきた独自の情報をちらつかせる者もいた。
「どうやら、怪獣が出たそうですね。被害は甚大なんでしょ?」
 それに対して報道官は、記者の所属する週刊誌の無期限出版停止をその場で言い渡した。法的強制力は、発言後ただちに裏付ける。今後、このような情報を公の場に発表するのなら、出版停止、放送免許の剥奪、刑事罰の適用も予定している。下請けやフリーである場合は、発注元、依頼元にまで追求する。そんな強い言葉まで付け足される始末だった。
 本気で情報を公開するつもりはない。そんな政府の意向は、その夜に関東テレビの放送免許剥奪という強硬手段によって、明確に実証された。

 自衛隊を中心とした部隊が、必ず鞍馬山のFOTを排除する。そんな発表は関東テレビに対する暴挙のすぐのちに発表された。それと同時に、米軍は内政不干渉であるため、今回の件についてはアドバイス以上の協力はしないとの声明が出された。
 すべては事務的に進んでいたが、それは表面に出ている事象のみである。決断や発表の裏側では、暗く密やかなる情報戦が繰り広げられていた。そのため、そもそもそちらの専門であるF資本対策班には、直ちに東京に帰還せよと、内閣総理大臣直々の命令が下されていた。

 鞍馬山に核弾頭と本物のゴモラがある。ネットの掲示板にそのような書き込みがされたのは、深夜未明のことであり、翌朝、台湾在住であるこの発言者は逮捕され、掲示板は七年前に制定された、国防機密法によって閉鎖させられた。この法律は真実の徒事件を教訓に圧倒的多数によって国会を通過し、国民の大半も歓迎していたのだが、この迅速な対応と運用に好意を抱く者は少数だった。

 なぜ真実を隠蔽する。ネットワークによって情報を共有できる現在、そのような行為は無意味なのに。それに、FOTの要求に回答を未だ出さず、戦争の真似事を国内でやるなど、筋が違うのではないか。そんな意見を掲示板に書き込む者も大勢いた。

 京都市内では、昔ながらのアジ演説をはじめる若者も現れた。冗談半分、音羽の演説をテレビで見ていたから、ちょっとやってみるか程度の軽い気持ちだったが、大学構内で口角泡飛ばし、拳を振って威勢のいいことを叫んでみると、これはこれで気持ちがいい。本気でやるつもりは毛頭ないが、立ち止まって耳を傾ける者など、意外とまじめな顔をしているではないか。明日もやってみるかな。工藤覚(くどう さとし)というその学生は、軽い興奮を覚えていた。


 鞍馬のひどい戦いから、二日が経った。仁愛高校二年B組の教室までやってきた島守遼は、周囲の視線がいつもの数倍であることに気づいた。
 二日ぶりの登校であったから。まさか、それだけが理由じゃない。
 皆の関心は、ここしばらくのアレだ。テロリストになった蜷河理佳に、どう感じているのか、いまも連絡を取り合っているのか、よもや遼までテロに参加していないだろうか、そんなところだ。理佳は予想通り、週刊誌やワイドショーを“悲劇の美少女”“屈折した少女テロリスト”などといった具合に賑わせている。そろそろ、学校にマイクやメモ帳を持った下世話な輩が現れてもおかしくはない。
 だけど、同級生にもマスコミにも一切答えるつもりはない。鞍馬寺まで撤退し、帰ろうとした際に森村と名乗る捜査官に、「蜷河理佳は、いつからFOTに参加していたのかな?」などと尋ねられた際も、「わかるわけないでしょ」と嘘をついたのだから、言えることなどなにもない。ただでさえ鋭い目をより険しくして、遼は自分の席についた。
 一言で表現するなら、“殺気立っている”に尽きる。それが彼に対する周囲の感想だった。そもそも愛想のいい奴ではなかったが、ここ最近はいっそう無口で、軽く声をかけても睨んでくる始末である。沢田喜三郎は後ろに座る遼を横目で見たが、とても声をかける気にはなれなかった。

 もう一度……会う……理佳と……そして……確かめる……

 時間が経つにつれ、それが明確な目的となりつつあった。テレビに映ったわけ、銃口を向けたわけ、ガイガーを殺したわけ。他にも確かめなければならないことが山ほどあるが、その中でも最も重要なのはこれであった。

 これから、どうしたいのか。

 どのような答えが返ってくるのか。でもいまは予想しない。まずは会う。言葉を交わす。そんな当たり前をまずは用意する。
 それですら拒絶してきたら、銃口を向けるだけでなく、それがチカっと光ったら。いや、考えるな。許してくれた彼女なのだ。身体を重ねた蜷河理佳なのだ。そうでないと信じたい。

 教室に、久し振りの顔が現れた。生徒たちは詰襟姿のリューティガーに注目し、遼と高川、そしてはるみは一ヵ月ぶりに学校でみる栗色の髪と紺色の瞳に、驚きの呻き声をそれぞれ漏らした。
 心のどこかで、もう彼は学校に来ないと思い込んでいた。状況はすっかり厳しくなり、任務を帯びている彼は授業を受ける時間も惜しいはずだ。それに、薬品の臭いに満ちた802号室で繰り広げられたみっともない争いは、なによりもリューティガー自身にはるみとの再会を拒ませているはずなのに。
「よう……ルディ……おはよう」
 隣の席に学生鞄を置いたリューティガーに、遼はごく当たり前の挨拶をした。
「うん……おはよう」
 呆気ないほど自然な返事だった。なにを考えているのだろう。ふとそう思った遼は、繊維をポケットから取り出した。

 いやだよ……遼……

 小指へ触れさせた繊維から伝わってきた言語情報に、遼は目を細めた。

 そうなのか……真錠……

 ああ……ごめん……いまは心を覗かれたくない……

 わかった……

 繊維を手繰り寄せた遼は、仕方なく視線を正面に移した。二日前、リューティガーは表情をなくしたまま、自分たちを次々と空間に跳ばして行った。あのあと、彼は感情を爆発させたのだろうか。それがなんとなく気になっていた遼だったが、拒絶を越えてまで知ろうとは思わないため、諦めることにしかなかった。


 わかる問題ばかりだ。もうとっくに通過して、いまさら新しい発見はない。そんな数学の授業だった。

 知らないことばかりだ。けど、知る必要のないことばかりだ。そんな古典の授業だった。

 そんな法則だけでは解明されないこともある。そんなそのものである自分だから、教師が真面目であるのが妙に可笑しい。そんな物理の授業だった。

 パスは苦手だ。だからボールが回ってくれば、単独でゴールを目指す。転倒し、雲が流れるのを見るのも悪くない。そんな体育の授業だった。

 小さい……鉄棒だな……

 起き上がったリューティガーは、心配して声をかけてきた西沢に会釈をしながら、校庭の隅にあった鉄棒をじっと見つめていた。


 なにか目的や理由があったわけではない。科学研究会もないから、吉見恵理子に励まされる機会も自分から求めない限りはないし、そんな情けないことはしたくない。リューティガー真錠は、放課後のグラウンドをなんとなく歩いていた。
「学校にいったらいいネ。まだ同盟からの指示もないし、こちらの判断だけで動ける範囲を超えてしまったヨ。それより、いまの坊ちゃんには気分転換が必要ネ」

 朝、そう提案した陳は、まずクリーニング済みの制服を、次に教科書やノートの詰まった学生鞄、そして最後に出来たての中華弁当を手渡してきた。いや、押し付けてきたと言ったほうが正確な表現か。

 人に見られ、教師と接し、少しは緊張したが気分が晴れたり苛ついたりすることはない。二日前の森で呆然としてからが、まだずっと続いている。

 エレアザールを倒すのは難しくない……巨体のわりに素早いと言っても、触れることは簡単だ……

 なんとなく、彼は校門に向かわずグラウンドの隅に歩を進めた。

 だから……あえて放置する……逆にあれを維持していくコストや消耗物資の確保などによって、敵の負担を減らさない方が得策だ……となれば、地下拠点への潜入か……僕と陳さんでやってみるかな……

 この小さい鉄棒は、いったい誰が使うことを想定して設置されたのだろう。隣に並ぶほかの二つと比べると、随分低い。こうして逆手で握ってみても、腰ほどの高さしかない。
 逆上がりでもやってみるか。リューティガーは手に力を込め、右足を上げてみた。ところが、途端に力が抜けてしまい、彼は尻餅をついて鉄棒から手を離してしまった。衝撃が全身に伝わり、眼鏡がどこかへ転げ飛んでいく。
 低すぎたか。なんとも要領が掴めない。身体に対して棒から地面までの距離が短いから、いつも何気なくやっていることができないのだろう。流れる雲を裸眼で追いながら、仰向けのまま、彼はずっとそんな分析をしていた。

「真錠……」
 誰の声だろう。リューティガーは視線を少しだけ右に傾けた。

 ああ、こいつか。靴の形だけでわかるさ。

「逆上がりに失敗して、その理由を分析中。以上」

 わかったなら、もうどこかへ行ってくれ。

「それって、楽しいの?」
「いいや。低すぎる鉄棒に疑問は抱いたさ。それが発端だ」

 だからどこかへ行け。鬱陶しい。

「だってそれ、業者が間違えて作って、そのままにしているやつだから使わないやつなんだよ」
「なら撤去すればいいのに。僕みたいな愚かなチャレンジャーをこれ以上増やさないためにも」

 まだ貼りつくのかよ。こいつは。

「さっき……島守から聞いた……真錠……大変だったんだよね……」

 関係ない。お前はまったく関係ない。

「こんなことしてて……いいの?」
「余計なお世話だ!! お前が言えることかよ!!」
 跳ね起きようと腰を浮かせたリューティガーだったが、そのあまりにも不用意な挙動は低い鉄棒に思い切り胸を打ち付ける結果となり、彼は再びグラウンドに土ぼこりを起こして仰向けに倒れこんでしまった。
「だ、だいじょうぶ!?」
 なんてバカなことをする。仲間の一人が死んだと聞いたから、たまたま帰ろうと思っていたら、見かけてしまったから、なんとなく、なにを言えばわからないまま声をかけただけなのに。はるみは戸惑い、咳き込むリューティガーの肩に手を当てた。
「触るな!! 一番嫌だ!! お前なんかに心配されるのは!!」
 上体を起こした彼は、彼女の手を払った。
「あ……ルディ……?」
 なにをじっと見ている。まるで珍しいものでも見つけたかのように、なにが不思議だというのか。
「悲しいんだ……」
「な、なにを言い出す、神崎……!!」
 いや、そうか。頬が濡れたので、ようやくわかった。僕はいつの間にか泣いている。眼鏡を外そうとしたリューティガーは、それが既に転がり飛んでしまったことを忘れていたため、右手が無様に宙を切った。
「まりか姉のせいなの……仲間の人が……死んだの……?」
 はるみがここで言う「仲間」とは、晴海埠頭の戦いで死んでいった、十人についてだった。だがリューティガーが真っ先に浮かべたのは、隆々とした肉体を誇る、頼れる男らしい先輩だった。
「違う……僕の……せいだ……」
 涙が止まらない。声だってひどく震えている。顔だってクシャクシャなはずだ。わかっている。彼女にだけは見られてはいけないのに、なんで彼女がいるときに限って、呆然が止んでしまうのか。
「ルディ……」
「僕が戦場のルールを完全に無視したからだ。神崎まりかがいれば、僕なんていらない。そう思って焦ったんだ。いらない人間になんて、なりたくはない」
 いるからだ。そう、神崎はるみがいるから、心が揺れる。こぼれないように保っていたいろいろが、ぽろぽろとこぼれていく。
「だから、彼女の前で力を見せ付けたかったんだ……最初の獣人は、僕の方が多く殺した。けど、その後の連携には木陰から様子を窺うしかなかったんだ。ところが……神崎まりかは苦戦した。チャンスだと思ったんだ……」
 ぺらぺらと、ぺらぺらと。あのときのひどい自分がいくらでも思いだせる。あんな卑怯で、狭量でいびつなやつ、大嫌いだ。
「まりか姉を……助けてくれたの?」
「ああ、結果的にはね……だけどさ、どうしたと思う? 僕はそれですっかりいい気ってやつになっちまったんだよ……調子付いちまったって感じなんだ……あは、あははは……」
 なんだこれは。このはるみという少女に対して、なんでこんなにも自分というものを語れる。これまで、あんなに拒絶していたはずなのに。

 そうか……

 だから関わろうとするのか。この子は。自分が何者であるのか、なにが出来るのか、確かめたいのだ。出来すぎる姉がいるから、すっかり縮こまって、あれこれやってみても追いつけず、だから遼にだって喰らいついていく。
「神崎はるみ……」
「な、なに……?」
 両膝をつき、両手をだらりと下げ、少年は目と鼻から体液を垂れ流し、とてもではないが普段とはかけ離れた晒しぶりだった。少女はけど、そのわけをなんとなくわかってしまった。
 だから懸命なのか。この彼は。自分が必要かどうか、忘れ去られないほどの値打ちがあるのか、確かめたいのだ。なんでもやってしまう自在な兄がいるから、すっかり憧れて、違う道を探してみようにも見つからず、だから遼にだってすがりつく。
「ルディ……」
「ああ……」
 互いにわかってしまったことを、二人はなんとなく気づいた。だからより傷ついていた方が、もう片方に預けてみるしかなかった。
 リューティガーは上体をはるみに流し、はるみはそれを胸と腕で受け止めた。
「僕は……泣く……君にだから、泣く」
「う、うん……いいよ……うん……」
 
 嗚咽は、突然噴き出した感情の爆発だった。

 尊敬していた彼は跡形もない。戦い方を、休み方を、食べ方を教えてくれた記憶だけしか残されていない。カーチス・ガイガーは死んだ。すべては戦場のルールを破ってしまった僕のせいだ。誓う。はるみに無様さを晒したことで、大きな戒めとする。誓いはかならず守る。
 憎しみをぶつける個人など、たった二人だけなのだ。それは神崎まりかでも、こうして優しく抱いてくれるはるみでもない。兄と、皆を陥れたあいつの二人だ。そう、花枝幹弥だって、あいつが個人的に使ったからこそ命を落としたようなものだ。ガイ司令の許可は下りるだろう。まずはあいつに制裁を加える。覚悟しておけよ、アーロン・シャマス中佐。命を弄んだ罪は、死を持って償うべきなのだ。
 はるみは知らなかった。泣きじゃくるリューティガーが、おそろしい行いを考えていることを。
 とにかくあとで体操着にでも着替えなければ、このままじゃ電車に乗れない。胸を貸して抱いてあげたのだから、君の不思議な力で家まで跳ばしてよ。なんてことは言いたくない。
 だってこいつ、勝手すぎる。一方的に嫌って、一方的に怒鳴って、一方的に仲間はずれにして、一方的に泣いてきて。まるで母親と勘違いされてるみたいだ。そんなの、いやだ。
 けど、これからはどうなんだろう。もう、これが一方的のゴールなのかもしれない。だったら、やっと普通に話ができるのだろうか。

 日が暮れても、少年は少女の胸で泣き続けていた。終わったら復讐に跳ぶため、非情に徹するため、涙は枯らしておく必要があった。

 一応、感謝だ。神崎はるみ。僕は自分と同じ君を、もう決して蔑まない。

「それで……神崎まりかがいきなりパワーダウンしたのって、どう思ってるのよ」
 鞍馬山地下のゴモラ開発室の食堂で、ビーフシチューにスプーンをつけたライフェは、対座してアイスコーヒーを飲む理佳に、そう尋ねた。
「あの人……真実の人は前に言ってた……サイキは力が強すぎるほど、ムラが出る場合がある……」
「へぇ……聞いた? はっばたきぃ……ムラですって。よくそんなので、真崎ファクトを壊滅できたものね」
「え、ええ……」
 ライフェの隣でカツ丼に取り組んでいたはばたきは、気持ち半分の生返事だった。ずいぶん、味がよくなっている。賛同する企業が補給を開始したと中丸隊長は言っていたが、こんなところにまで影響が出るものなのか。
「でも……神崎まりかは三人組だった……たぶん、互いにフォローしあってたんじゃないかな?」
「そうかもね。こないだのわたしたちみたいにね」
「あは……」
 理佳が柔らかく微笑んだので、ライフェはそろそろカウンターの頃合いであると目を光らせ、ぷいと横を向いた。
「けどね、あんな連携、あれっきりなんですからね。わたしはあんたみたいなただの人間、全然信頼してないんですからね!!」
 さぁどうだ。浮かれ損のぬか喜びめ、さぞかし驚いたことだろう。ライフェは理佳の反応を確かめようと、再び前を向こうとした。しかしそこにあったのは、戸惑い困る美少女の顔ではなかった。
 張られた。思い切り、頬を。油断していたから、神経をどかしている間がなかったから、とても痛い。
「ごめんね、ゆとり……ないから……」
 強い顔だった。けど、少し無理をしているようにも見える。顔形に関しては人一倍気にしているライフェだったから、蜷河理佳の変化は歓迎し難いと感じてしまった。
「いくわよ……はばたき……」
 もっとも自分とて、健全な成長というやつをしていないし、するつもりもない。いや、できない。カツ丼に未練を残すはばたきの手を引っ張ったライフェは、この革命にたくさん用意されているゴールの、小さなひとつを予見する思いだった。


 人生とは戦いである。戦いとは得るため、もしくは失わないための行為である。すなわち、人生とは得ることに戦い、失わぬために戦う。

 惨たらしい屍を見てしまい、気が付けば白い部屋のベッドにいた。なにも考えられず、なにも感じられず、ただぼうっとしていた八年前。聞きたいことがある。そういってやってきた刑事さんは、わたしがちっとも返事をしないから、いつからか独り言をつぶやくのが癖になっていた。

 人生とは戦いである。戦いとは得るため、もしくは失わないための行為である。すなわち、人生とは得ることに戦い、失わぬために戦う。

 三度、その言葉は耳にした。意味などまったくわからなかった。けど、いまはだいじょうぶ。だって、わたしは得るために戦うことにしたのだから。奪うことだって、覚悟してしまったのだから。
 食堂から出て行く二人を見つめながら、理佳は掌に残った痛みをいつまでも感じていた。

第三十話「要求するは、ただ一つ」おわり

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