真実の世界2d 遼とルディ
第二十八話「その一杯のために」
1.
 横須賀港近海で繰り広げられた、FOTの水上用獣人と自衛隊、海上保安庁連合による護衛艦隊との海戦は、日本政府側の圧勝に終わった。前回の武力決戦である、飯倉公館前の外苑東通りで繰り広げられた、在日米軍再編協議を巡る獣人集団との攻防戦から続けての勝利であり、今回は機関部を破損したため巡視船が航行不能に陥る被害があったものの、怪我人を含めた被害者は皆無だった。
 海上での正面決戦の一方で、F資本対策班の切り札、神崎まりかが正義忠犬隊隊長との交戦に突入、隊長の我犬(ガ・ドッグ)射殺に成功した結果も手伝い、FOTとの武力闘争については、「まず負けることはない」といった空気が政府部内で形成されつつあった。
 今後も正面からの武力決戦が増すであろう。そう判断した政府はただちに対FOTへの実戦力増強を閣議決定し、海戦から四日後の九月二十九日には、陸上自衛隊第十二旅団が専任部隊として充てられることになった。また、共同機関であるFOT問題連絡会議は、F資本対策班が研究開発と実証実験を行っていた対獣人用弾丸、別名「AB弾」の警察、自衛隊への採用を決め、直ちに量産と供給の準備が開始された。

 次回の正義決行スケジュールは、十月九日、鈴鹿サーキットF1グランプリとなっていた。再編協議や空母キティホーク入港と比較すると、なんとも政治的な意図の読み難いテロ予告であり、通常国会への不決行という前例もあったため、公安トップはブラフであるとの考えを示していた。だが、万が一の事態を想定し、中部方面の陸上自衛隊第十師団が鈴鹿サーキット周辺に集結し、警備にあたることとなったのは、決行スケジュールがマスコミや口コミによって市民の目に触れられている以上、当然のことだった。

 十月初日。朝から土砂降りとなったこの日の午後、桃色の傘を手にカーキ色のレインコートを着たCIA捜査官、ハリエット・スペンサーが、霞ヶ関にある内閣府別館六階、F資本対策班に姿を見せた。彼女は慌ただしく捜査官たちが走り回るフロアを慣れた挙動で軽やかに進むと、向き合ってノートPCに向かう柴田明宗と神崎まりかの机の側で足を止め、コートを脱いで自分の椅子にそれを掛けた。
「おかえりなさい、ハリエット……鈴鹿はどうだった?」
 官製の野暮ったいジャケットを肩から羽織り、ノートPCの液晶画面から目を離さず、クリームパンを頬張りながら、F資本対策班の切り札がそう尋ねた。
「タンクに迷彩服。まったくレース前って感じじゃなかったわね。プレスもおっかながって、こんなのでレースを開催できるのかってぼやいてたわ」
 ハリエットは椅子に腰を下ろすと、隣のまりかが食べているクリームパンを興味深そうに覗き込んだ。
「食べる? まだもう一個あるけど?」
「欲しい、欲しい!!」
 空色の目を輝かせたハリエットに、まりかは袋に入ったままの菓子パンを手渡し、再びPCのキーボードとマウスを操作した。
「熱心ね。報告書作成?」
「そ。ドレスの強化案をまとめてるの」
 まりかの言葉に、ハリエットはパンの袋を開けながら肩を大きく上下させた。
「忠犬隊のトップをやっつけたのに、まだPower−upするの?」
「まぁね……なんていうのか……」
「神崎まりかは用心深いってわけだ」
 言葉に迷っていたまりかに続けたのは、向かいの席でやはりノートPCに向かっていた柴田捜査官である。
「まぁ、わからんでもないがな……」
 柴田は腰を浮かせて辺りを見渡し、忙しそうにフロア内を走り回っている同僚や、ひっきりなしにかかってくる電話に目を細めた。
「いまや上はイケイケ状態……今日だって朝からAB弾の検証データ受け渡しや、連絡会議の通信網整備……一年前じゃ想像できない忙しさだからな……」
 二度の正面決戦での勝利がこの慌ただしさをもたらせている。柴田の指摘はつまりそういうことであり、まりかとハリエットも周知の事実である。二人は顔を見合わせ、表情を険しくさせた。
 対応の手がどうにも足りていない。優先順位の低い自分の電話まで鳴ったため、柴田は下唇を突き出し、メモを片手に受話器を取った。
 以前、まだこのフロアの片隅で、ごく小さい規模の組織として対策班が活動していた際、電話を取ろうとしたまりかは、この柴田にそれを制されたことがあった。「お前さんは電話に出なくていい」そういわれたまりかは、自分も電話番ぐらいはできると反論したが、「音声データやらを取られて、そう都合がいいことはない。お前さんはウチの切り札なんだ」と言われれば、なるほどと納得するしかなかった。

「今度の真実の人(トゥルーマン)は……これまで慎重に、表面に出ないよう細心の注意で陰謀を進めてきた……なのに、ここ最近は急だし無策過ぎる……だから……余計に心配なの……」
 あえて懸念を口にすることで、まりかは周囲の熱狂に自分まで呑まれないように心がけようとしていた。受話器を取りながらも柴田は彼女に小さく頷き、クリームパンを齧ったハリエットは、わかっているとばかりにウインクで返した。

「あ? は、はいわかりました……班長にはそう伝えます」
 いつもの余裕をすっかり消し、柴田が驚いた様子で受話器を置いた。
「どうしたんです、柴田さん」
 実務経験豊富で、滅多なことでは顔色を変えない中堅捜査官の狼狽ぶりに、見上げたまりかは小さく首を傾げた。
「いや……FIAが……鈴鹿でのグランプリ開催中止を通達してきたらしい……遂に……大きな影響が出ちまったな……」
 そう返した柴田はぼさぼさの頭をひと掻きし、メモを手に班長室まで駆けた。

 FIA、国際自動車連盟は十月一日、鈴鹿サーキットで行われるF1日本グランプリの開催中止を正式に発表。世界じゅうのモータースポーツファンに衝撃を与えた。理由はFOTによるテロへの懸念であり、日本政府の再三にわたる安全宣言と開催要請を拒絶しての決断だった。
 現時点での代替案はまとまってはいないが、前回のブラジル、もしくは次回の中国での連続開催も視野に入れ現在協議中であり、柴田が口にしたように、FOTの連続テロは、遂に日本国の安全保障に亀裂を生じさせ、連勝ムードに沸く国防部門高官に冷水を浴びせる結果となった。

「勝つことよりも、発生そのものを未然に防げない以上、選手と観客の安全を第一に考え、我々はここに中止を宣言する」

 FIAの発表は今後の国際的イベント開催にも暗雲をもたらし、八年前の悪夢を日本にもたらす前兆と感じる関係者も数多くいた。説得が不可能と判断した日本政府は直ちに陸上自衛隊の撤収を命じ、それが現場に通達された午後六時に、新たなる衝撃が政府を揺るがせた。

 米国国防長官、日本国首相に緊急会談を要請。日程は十月九日を希望。

 外務省を通じてきたこの要請に、政府は難色を示したものの拒絶することはできなかった。しかしなぜこのタイミングでの会談であるのか。それを打診してみたところ、米国の回答は「在日米軍と日本国間との諸問題について話し合いたい」であり、“諸問題”とはつまるところここ最近の“不祥事”としか考えられないのだが、そう言葉にしないところがいかにも大国の態度というものだった。
 十月九日は、内閣総理大臣である国原中道(くにはら なかみち)の日程も空白となっており、その点についても米国が前もって調査済みであることは明らかだった。関係筋から外務省が集めた非公式の情報によると、国防長官は在日米軍の不祥事を、なんらかの表現で謝罪をする意志があるという。連勝によって国民の安全保障への信頼は高まり、だが国際レースの開催が中止され、さてその失墜をどう挽回しようと思っていた矢先だったため、結局、国原総理は自分の意志で、あまりにも緊急の会談にGOサインを出した。

 麻布台の外務省飯倉公館にて、再度重要な日米会談が行われる。それも今回の出席者は内閣総理大臣、国原中道と米国国防長官、グレン・ニューマンというVIP中のVIPということもあり、その日の深夜には関係各部門へ対応が命じられた。

 内閣府別館六階の慌ただしさは相変わらずではあったが、そのフロアの人口密度は激減していた。内閣府の地下では“ドレス”の調整と移動本部であるトレーラーの整備がはじめられ、捜査官たちは警察や自衛隊などの関係部署への打ち合わせや、マスコミへの取材禁止通達、飯倉公館周辺企業への休業要請などにそれぞれ向かい、彼らのいずれもが十月十日まで帰宅は無理だろうと覚悟していた。

 
 国家の威信を守るべく、職務に忠実な精鋭たちが土砂降りのなか首都圏を駆け回っていたその夜遅く、学芸大学近くのアパート二階で、伊壁志津華(いかべ しずか)は細い肩を震わせていた。その手には携帯電話が握られていて、ベッドの上に座ったまま、彼女はじっと液晶画面を見つめていた。
 この携帯は、つい数日前まで甘い同棲生活をしていた花枝幹弥(はなえだ みきや)が、ベッドの下に落としていってしまった“忘れ物”である。
 窓ガラスが内側に向かって割れていた。そして彼の姿は消えていた。鍵はかけられたままであり、エアコンはついたままであり、まるでそれは「さらわれた」かのような状況だった。しかし志津華はそのような異常事態よりも携帯に残された三通の未送信メールに心を奪われ、その内容をどう理解していいのか困惑したままでいた。

 一通は彼が想いを寄せていた同級生に向けた、真っ直ぐな気持ちがそのままの、他人であれば赤面ものの告白である。だが、志津華にとっては辛く、怒りすら湧いてくるメールである。こんなの消去してやる。うん、送られたって椿梢(つばき こずえ)も困るだけだもんね。

 だがそれを消せば、自分はあの彼に対してなにか口実を失ってしまうような気もする。だから悔しくても、腹の底がちくちく痛んでも我慢しなければならない。それに、問題は残り二通の内容である。いずれも宛先のメールアドレスが未入力だが、一通は檎堂(ごどう)という、おそらくは男性に対する謝罪であり、もう一通は“お前”と称された者に対する要請だった。

 謝罪の一通には、「俺の我が儘ですまん。もし生きてたら、何度でもあやまるし。ほんまにすまん」と記されていた。“生きている”とはとても穏やかではない。檎堂という人物は、既に死んでしまったのであろうか。
 志津華は壁につけた背中に、うっすらと汗をかいているのに気づいた。学校の女子トイレではじめて読んで以来、もう何度になるかは覚えていないが、なんとも彼のやりきれなさが伝わる悲痛な謝罪文である。

 要請の一通、それは淡々と事務的に綴られた“お前”への願いだった。「添付されたものが、相方の檎堂が最後に送ってきたメールだ。FOTの重要な作戦内容が記されている。合流後、暗号の解読方法を知らせる。」そう但し書きがされたうえで添付されたテキストデータは、文字が羅列されたわけのわからぬ内容であり、なるほど暗号のようでもある。そして最後に、「逃げろ花枝」と、唯一解読できる文章が最後に記されていた。
 花枝幹弥は逃げていた。檎堂という相方からFOTの重要な作戦内容を託され、逃げていた。そのうえで、“お前”という者に合流しようとしていた。

 そして、椿梢に対しては真剣に想いを寄せていた。

 これが志津華の知ったすべてである。わけがわからない。聡明な彼女ではあったが、世間を騒がせている世直しテロリストのFOTと、なぜあの垂れた目の彼が結びつくのだろう。花枝幹弥はいったい何者であり、どのような理由で仁愛高校に転入してきのか、そして、“お前”とはどこの誰なのだろうか。

 たったひとつだけ、わかっていることがあった。だけど、それは余りにも悔しすぎた。少女は携帯をシーツに落とし、膝を抱えて呻いた。激しい雨音が、痛んだ気持ちを幾分癒やしてくれるような気もするが、それだけでは足りなかった。

 あの馬鹿。どこいっちゃったんだよ……

2.
「兆龍のチャーシューは予定通り、前日着で調達できます。ご主人にも最終確認をしておきました。進藤製麺も玉数を確保できるって連絡がありましたし……まだ五日もありますから、材料はなんとかなると思います……」
「う、うん……た、助かるよ……ルディ。ほんと……助かる……」
 放課後の教室で、関根茂はリューティガー真錠(しんじょう)の両手を握り、深々と頭を下げた。
 今年度の学園祭において、二年B組の出し物は、クラス委員の音原太一(おとはら たいち)が提案した鉄道喫茶が決定されていた。だがそれも先週の水曜日までのことであり、調達班、班長である比留間圭治(ひるま けいじ)が長期に亘って登校せず、心配した音原の訪問も拒絶したため、関根が思い切って提案した「ラーメン仁愛・2005」への出店変更が急遽決定された。
 調理方法、および接客マニュアルや看板などは、一部の変更を加えるだけで昨年のそれが流用できるため、短期間での準備を可能としていたが、問題は調理器具と食材であった。このうち、調理器具は昨年レンタルした業者に設営班長である戸田義隆が連絡をし、事なきを得たが、食材に関してはプロデューサーである関根が昨年とは一味ちがったラーメンを提供したいという要望もあり、その調達は新たに調達責任者となったリューティガーにかかっていた。

「今回は、ずばり味噌とんこつラーメンだ。レシピはこのメモの通り。チャーシューと麺は去年と同じだから問題ないはずだよ……といっても、去年はチャーシューが兆龍のを用意できなかったけど……」
 先週木曜日、レシピのコピーをリューティガーに手渡した関根は丸い鼻の頭を掻き、昨年のトラブルを思い出していた。
 福岡の屋台ラーメンである「兆龍」そのチャーシューの調達が、交通事故のため不可能になった、あの文化祭の朝を関根茂は決して忘れない。恐ろしく、凍るような朝だった
「問題は……ほうれん草とか煮卵とか……今回新しく加わる具材と、スープ一式ですね……スープは僕の方で手配しますけど……」
 レシピを確認しながら、縁なし眼鏡を人差し指でなおすリューティガーに、関根は絶対の信頼を寄せていた。彼は、あのまったくの絶望的状況において、兆龍の味と寸分違わないものを調達してきたのだ。
 如何にしてあのようなチャーシューを、それも大量に短時間で調達できたのだろう。関根は方法を何度も尋ねてみたが、その度にこの栗色の髪をした同級生は、「ま、まぁ、いろいろと」などとはぐらかし、いつもの無邪気な笑みに少しだけ困った色を浮かべるばかりであり、なんとも不可解ではあった。
 だが、すべては結果である。その点において、リューティガー真錠の調達は超一流であるといえる。関根は今回も間違いがないと、新ラーメンの販売に自信を抱き、それは四日が経った月曜日において、ますます深まっていた。
「小林くん。ほうれん草のルートは確保できてるよね」
 準備のために居残っていた、小林という小さな男子生徒にリューティガーは再確認をした。しかし小林はおどおどと小さな声で返すばかりであり、そんな彼の背中をリューティガーは大きく、だが軽く叩いた。
「当日、数が足りてればいいんです!! 調達は結果がすべてですから!! ね、小林くん!!」
 明るく念を押した班長に、小林はぎこちない笑みで返し、他の調達班員たちもそれにつられた。実にいいムードである。それとなく、鉄道喫茶での調達作業を注目していた関根だったが、比留間班長は「自分に任せてくれ。君たちにはじき、手足になってもらうから」と偉そうに宣言をしているのを見ただけであり、彼が具体的な連絡などをとっている姿は知らない。
 たぶん、小林をはじめとした調達班のメンバーは、最近妙に自信に溢れすぎる比留間に対し、うんざりとした気持ちを抱いていたはずだ。それがリューティガー班長になってからは、様々な変化が見られる。関根は座席の配置についてプリントアウトされた図表を確認しながら、新調達班長の仕事ぶりに感心していた。
「ルディさ……当日の冷蔵庫割り……こうしてみたんだけど……」
 丸々とした体躯の女生徒、向田愛が、リューティガーにノートを見せると、彼は大きく頷いて笑みを彼女へ向けた。
「いいです!! 完璧ですよ、向田さん!! これなら当日、誰も迷わずに実習室からの補給ができます!!」
 褒められた向田は口元をむずむずと歪ませ、小さく何度も頷いた。その様子を見ていた関根は、リューティガー真錠という同級生には、人を上手に使うことができる経験か才能があるのだと、そんな確信を抱いた。これは学ぶべき点であり、今後自分がどのような道に進むかはわからないが、彼を間近で見ることで得られるものは多い。関根は配置図表から移した視線もそのままに、調達班たちの活発な仕事を見つめ続けていた。
 そんな賢人同盟エージェントの奮戦ぶりを、廊下から関根と同様に関心を持って眺める男子生徒の姿があった。島守遼(とうもり りょう)は壁に背中を付けて腕を組み、友人の元気な様子を喜んでいいのかどうか戸惑っていた。

 あいつがラーメンに燃えてるのも……あの男が食いに来るって予告してるからだ……

 “あの男”真実の人は、関根のもとに現れ、関根が今年もラーメンをプロデュースするのなら、必ず食べると告げたらしい。もっとも、その時点で関根は今年の出店はないと返し、真実の人も「残念」と言ったわけであり、来訪の可能性はまったく見えない。だが、ここ最近荒んでいたリューティガーがああまでも前向きに学校行事に取り組むには、そのような理由があるとしか思えず、だとすれば兄を殺害するための元気であるのだから、遼にとっては手放しで喜べる事態とは言えなかった。


 それだけじゃあない……僕は僕で学校生活を楽しんでいる……その証拠に、これからだって科研の出し物の準備に行くんだし……

 打ち合わせを終え、教室から廊下に出てきたリューティガーは、一言いいたげな遼を見上げ、その脚に手の甲を当て、思考を伝えてきた。

 そ、そうなのか……?

 ああ……でないとひどい気分になっちまう……これは……ごまかしなんだ……

 リューティガーは先週、横須賀の戦いを終えた際、友人たちの仇である神崎まりかに命を救われたため、人目をはばからずドイツ語で泣き喚いた。まるで幼児のわがままのような醜態であり、遼をして気持ちを引かせるにじゅうぶんだった。

 う、うまくごまかせるといいな……

 さあね……

 手の甲を離したリューティガーは、片手をズボンのポケットに突っ込み、中央校舎に向かって歩いて行った。これまでにも彼の素っ気ない態度を何度か目の当たりにしてきたが、今日のそれは一段と冷淡である。小さくなっていく後姿を見つめながら、遼はため息を練らした。

 
 ハンチング帽にサングラスといった変装が、公安に対してどこまで有効なのかはわからない。だが、いまだに指名手配をされていないところを見ると、自分を目撃してFOTの関係者だとわかるのは、おそらくF資本対策班など一部の者に限られているのだろう。そんな確信があったからこそ、“夢の長助”こと藍田長助(あいだ ちょうすけ)はその日の夕方、平日の客もまばらな都心の遊園地にいた。

「これって、天辺まで何メートルぐらいまであるの?」
 帽子からはみ出していたもじゃもじゃの天然パーマを風に揺らし、夕暮れを背に観覧車を見上げた長助は、もぎりのアルバイトの女性にそう尋ねた。
「えっと……」
 女は胸ポケットに入れていた手帳を取り出すと、それを開き、「79.42メートルです!!」と元気よく答えた。
「嫌だねぇ……僕……高所恐怖症なんだよなぁ……」
 後ろから誰も来ないことを確認した長助は、ゆっくりとした口調でそうぼやき、最後に舌打ちをして、女にチケットを渡した。
 高いところが苦手なのに、なぜこの中年男性はたった一人で観覧車に乗り込むのだろうか。女は不思議に思いながら、一人箱の中に入り両肩を抱いておどける長助に、笑みを返した。
「あー……嫌だ、嫌だ……まだ陽があるっつーのが最悪よ……カンベン願いたいねぇ、まったく……」
 できるだけ外の風景を見ないよう、視線を床に落としていた長助の前髪が突風に揺れた。
「さすがに十月の夕方は冷えるな……」
 向かいからの声に、長助は「へ、へ、へ」と笑い声を上げ、言葉を続けた。
「春坊からの情報だ……ニューマン国防長官は本物が来日する……ブラフやフェイクの類は一切ないと思ってていい……」
 長助の報告に、その対面で長い足を組んでいた白い長髪の青年は、「なるほどね」と短く返事をした。
「ニューマンは対イスラムでも失策続きだ……現政権にとっても、汚名の象徴とも言えるアキレス腱……失地回復が狙いなんだろーな……テロの危険にも顧みず来日ってのは、現政権にとってもいい政治的なパフォーマンスになるからな」
「だとすれば……ニューマンもとんだ生贄だな」
「んだよ……やるのか……?」
「鈴鹿が飛んだんだからな……せっかくチェッカーフラッグを受けようと思っていたのに……米国がそう出るんなら、挑戦は受けて立つさ」
 青年の不敵な笑みを長助は上目遣いでちらりと覗き、彼の後ろの背景がすっかり茜色になっているのが怖いと感じた。どうにも高い場所は好きになれない。だがこのゆっくりと回される小さな空間は、密会には都合がいい。白い長髪の真実の人が、表彰台でシャンパンを振る光景を想像した長助は、堪らず噴き出してしまった。
「まぁな……ジョーディーもはりきってたもんなぁ……で……どうする……」
「作戦は明日じゅうにまとめておく……お前は東テレの北川ディレクターにアポを取ってくれ。前日までには一発かましてやりたい……」
「わかった……なんとかしてみよう……で……」
 長助の聞きたいことは、真実の人にもよくわかっていた。だがそれに答えることなく、彼は観覧車の縁に肘を乗せ、横を向いて冷たい空気を思い切り吸った。
「楽しみだな……」
「なにがだ……?」
 横を向いたまま、青年は赤い瞳を長助に向けた。
「ラーメンさ……関根くんはいいセンスをしてるしね……」
「おいおい……マジで行くのかよ……」
 すっかり呆れた口調で長助はそう言い、身を乗り出した。
「将来有望なラーメンプロデューサーなんだ。いちラーメンファンとして、その成長には立ち会いたいしね……ライフェの報告だと、準備も順調みたいじゃないか……ルディのおかげでね」
 余裕たっぷりの言葉に長助は鼻を鳴らし、首を何度も横に振って上体を下げた。この発言は冗談ではなく本音である。それがよくわかるだけに、どうにもタチが悪い。
「ふん……ラーメンに舌鼓を打って……その翌日に、ニューマンの禿頭でも叩くってか?」
 仁愛高校の文化祭は、十月八日と九日の土日である。長助は若き指導者の行動スケジュールをそう予測して、パーマ頭に手を当てた。
 だが、青年は返事をすることなく、うっすらとした笑みを浮かべたまま正面を向いた。まさか、こいつが両目を見開いて、真っ直ぐにこちらを見つめるということは、そういうことなのか。長助は指に力を入れ、頭をひと掻きした。
「お、おい、お前……」
「簡単にはいかないさ……慧娜(ヒュイナ)から嫌なネタも拾ってる……」
「真実の人(トゥルーマン)……」
 その真意を確かめるため、長助は身を乗り出そうとした。しかし真実の人はそれを右手で制すると、「明日には指示を出す……そーゆーことだ」と告げた。
 なんという、自信に満ちた落ち着きだろう。いや、少々だが緊張していただろうか。長助は対する赤い瞳に僅かな鈍さを感じたが、それをもう一度確かめることはできず、彼のもじゃもじゃ頭は再び突風に揺れた。

3.
 新撰組の羽織を身につけると、なんとなく幕末の空気というものを感じられるような気がする。学園祭前日の放課後、生徒ホールのステージ上に立った島守遼は、かつらのずれを少しだけ直し、腰に提げられた刀に手をかけた。
 クラスの出し物が急遽変更になり、真実の人が訪れるという可能性も発生し、そのうえ日本グランプリが中止となり、米国国防長官の緊急来日、首相との会談決定である。慌ただしく状況は変化し続けていたが当初からの予定通り、この日の舞台リハーサル、いわゆる“ゲネプロ”は行われ、遼も高川典之(たかがわ のりゆき)も、“ガンちゃん”こと岩倉次郎や神崎はるみも欠けることなく参加していた。
 『池田屋事件』そのタイトルが示す通り、二〇〇五年度の文化祭で、演劇部が上演するのは幕末を舞台にした、新撰組を扱った芝居である。脚本担当の針越里美(はりこし さとみ)は舞台のそでから台本に目を通しながら、遼たちの演技を細かくチェックしていた。
 どうにも、斉藤一を演ずる高川典之の挙動に精彩がない。針越は刀を握り、突きの構えをとる彼の切っ先が、わずかながら上下してしまっている醜態に気づき、手にしていた赤鉛筆の先をぺろりとひと舐めした。
 そもそも、演劇経験が皆無である高川に、高いレベルの演技は要求していない。だからこそ、主要な隊士のなかでも最も台詞の少ない斉藤役に抜擢されたわけだが、彼の古武術経験をアテにしての殺陣が、こうまで弱々しく見えてしまうのはなんとも不可解である。
 そう、合宿以来、あの偉丈夫はどうにも元気がなく、背筋もなんとなく張りに乏しく、声をかけても小さく頼りないものしか返ってこない。どうやら彼は神崎はるみに片思いをしているというのが、高川と同じクラスの鈴木歩(すずき あゆみ)から聞いた噂であるが、もしかして告白した結果、フラれてしまったのだろうか。責任感の強い彼だから、いったん引き受けた役を全うしようと努力しているが、実のところはるみと同じ場所にいるだけでも苦痛なのではないのか。針越は豊かな想像力で、清南寺の境内で告白する彼とそれに手を合わせてごめんなさいをする彼女を思い描き、口元を歪めた。

 そのような針越の心配は、だが部長の福岡章江(ふくおか あきえ)にとっては微塵もなく、そもそも楽観的な性格の彼女にとって、切っ先の震えなどあくまでも「細かいこと」である。それよりも、衣装やセットの準備が順調に進み、代役騒動などもいまのところは発生していない今回の舞台は必ず成功するだろう。福岡部長はそう確信し、切り揃えた前髪を右から左へと撫でた。
「正直、島守のやつがここまでソツなく土方役をやれるとは、予想外だったよ」
 新撰組局長の衣装を身につけた平田浩二は、ステージの下からゲネプロの様子を見上げている福岡の傍までやってくると、腕を組んでそう言った。
「破天荒さが減ったけど、土方役ですものね。ま、いいんじゃないかな?」
 福岡と平田、二人の三年生にとって、この『池田屋事件』は高校生としては最後の舞台になる。それがトラブルもなく、明日には無事上演できるというこの状況は共に嬉しく、二人は顔を見合わせて柔らかい笑みを浮かべた。

「土方さん!! 斉藤さん!! ここは俺が食い止める!! 二人は裏手にまわって!!」
 刀を手に、志士たちと対峙する沖田総司役の澤村奈美は、今回の主役である。彼女の切れのいい身体捌きと、はっきりとして豊かな声量、そしてなによりも情感のこもった芝居は仁愛高校演劇部の中でも群を抜いた上手さであり、その実力は稽古を重ねるたび、ますます磨きがかかっていた。
 かつて演劇部に在籍し、美しさと芝居の確かさで一目を置いていた蜷河理佳を、平田は思い出した。突然の転校で、彼女がいまどこで何をしているのかわからないが、澤村奈美は一年生ながら、あの黒髪の美少女に匹敵するほどの巧者である。
「島守先輩。“こっちにも長州の手の者か!?”ってとこ、ロレってましたよ」
「そ、そうか、澤村?」
「しっかりしてくださいよね。先輩、ただでさえ舌っ足らずなんですから」
 同級生であり、友人の春里繭花(はるさと まゆか)から手渡されたタオルで額の汗を軽く叩いた奈美は、なにか言いたげな遼を無視して、舞台そでのパイプ椅子に腰掛けた。なんとも素っ気なく、相手を突き放した小生意気さである。舞台に上がりながら平田は、どうにも演技巧者というやつは孤高な存在になる傾向があると、奈美と理佳を重ね合わせて苦笑いを浮かべた。
「と、と、島守くん!!」
 埃を舞い上がらせ、巨体を揺らしてセットの奥から飛び出してきたのは、この日のゲネプロも裏方として手伝いに来てくれていた“ガンちゃん”こと、岩倉次郎だった。彼は携帯電話を手にし、凍りついた形相で遼のもとまで駆けてきた。
「ど、どうしたガンちゃん」
「み、見てよ、これ!! 高川くんもはるみちゃんも!!」
 遼、高川、そしてはるみに共通する、“見てくれよ”とは、すなわちFOT方面のことだろう。岩倉が差し出した携帯の小さな画面を、高川とはるみは遼の背中越しに覗き込んだ。

 そこに映っていたのは黒いスーツを着た、白い長髪に赤い瞳をした青年だった。

「すなわち!! 正義の忠犬、弱者の味方を日本政府は抹殺したということである!! 事故や災害からみなを救ってくれた、あの正しき我犬隊長は、政府によって殺害されたのである!!」
 背後に林が見えたが、そこがどこなのか瞬時に判断できる者はいなかった。
「ガンちゃん……これはいったいなんなのだ!? 動画ファイルなのか!?」
 高川の問いに、岩倉は凍りついた顔を左右に振った。
「テレビ関東の生放送……緊急特別番組だって……」
 “生放送”という言葉に、遼たちは息を呑んだ。政府からFOTのテロについては一切の報道規制がなされていて、この真実の人(トゥルーマン)の姿を市民たちが目にするのは、静止画としての写真か、もしくはネットで出回っている動画ファイルに頼るしかない。関東ローカル局とはいえ、白昼堂々と公共の電波に彼の姿が乗ること自体が異例であり、遼たちだけではなく、他の演劇部員も小さな液晶画面に群がった。
「しかし!! わたしはここに、新たな正義の隊長を紹介する!! そう!! すなわち二代目我犬である!!」
 青年に促され、フレームの中に入ってきたのは、丸々と太った犬頭の化け物だった。全身は小刻みに震え、似たような体型、容姿の集団である正義忠犬の中でも明らかに異相と言える忠犬だった。彼はしきりに後頭部に手を当て視線は宙に浮き、あからさまに緊張した様子でカメラに向かっていた。
「ガ、ガガガ……ガドグいいます……二十六歳てす……よ、よろひく……」
 イントネーション、発音、どれをとってもネイティブな日本語ではなく、どう聞いても片言のそれである。精悍で逞しい猟犬だった前任者と異なり、なんとも頼りなく、愚鈍に見える二代目と言える。遼はこの児戯めいた紹介をどう受け止めていいのかわからず、背後にいた高川とはるみに困った目を向けたが、二人も困惑したまま液晶に注目するばかりだった。
 肥満の忠犬がフレームから消えたのち、再び白い長髪の青年が画面に現れ、彼は両手を広げてカメラに挑発的な笑みを向けた。
「さて!! 残念なことに、日本グランプリは中止となってしまった!! だがしかし!! ニューマン国防長官が明後日に来るそうじゃないか!! これを出迎えずになんのFOTか!? 会談場所である飯倉公館に、我々は来訪することをここに宣言する!!」
 言い切った直後、カメラが激しく上下左右に動き、やがて地面と人の足を映すのみとなった。叫び声と悲鳴、怒声と笑い声が入り混じったのち、画面は関東テレビ報道部に戻され、アナウンサーが警察の介入による取材の中断があった旨を告げていた。その様子がどこか落ち着いていたので、おそらく今回の緊急宣言は、事前に関東テレビと相談したうえで、ゲリラ取材として行ったのだろう。はるみはなんとなくそう予想しながら、液晶画面から視線を逸らし、岩倉の手にした携帯電話に群がっていた部員たちから離れた。
「な、なんか凄いよね……どうなっちゃうのかな、奈美」
 なおも岩倉の携帯に注目し続ける群れからやや離れた舞台の幕の側に、春里繭花と澤村奈美の二人が腕を組んで向き合っていた。はるみはそれを一瞥すると、パイプ椅子にかけてあった自分のタオルを手にして、それを首からかけた。

 正義忠犬隊の隊長が死んだ……か……

 あるいは姉がやったのだろうか。根拠こそ薄いものの、妙に確信が抱けてしまう。はるみは衣装である着物の袖をぎゅっと握り、パイプ椅子に腰掛けた。

「どうってことないんじゃない? 真実の人がニューマン国防長官に挨拶する。ただそれだけのことよ」
「あ、挨拶で済むかなー?」
「挨拶にもいろいろあるでしょーね」
 奈美は繭花に素っ気なくそう返すと、提げていた刀を舞台に置き、「あと、よろしく」と告げ、生徒ホールから出て行った。

 国防長官来日は明後日であり、それは学園祭二日目と重なる。その事実をどう判断すればいいのか、遼は液晶画面に映し出されているニュースを眺めながら、だがその内容は既に入っていなかった。
「明後日ねぇ……」
 岩倉に群がる部員たちの一番外側にいた福岡部長は、そうつぶやくと二度頷き小さく息を漏らした。
「明日じゃなくって超よかったってカンジっスよねー!!」
 着物姿の鈴木歩は、地味な素顔に歪み気味の笑みを浮かべ、福岡に首を傾げた。
「そうそうそう、鈴あゆのゆーとーりだよ。明日だったら本番と重なっちゃうもの」
 福岡はまだ何人かの部員が岩倉の携帯を覗き込んでいるのを確認すると、手を叩いて背伸びをした。
「はいはいはーい!! 早く片付けをはじめる!! 仕事はいっくらでもあるんだからさ!!」
 号令をかけながら、福岡章江は思った。もし明日の本番にFOTのテロが重なれば、部員ですらこうなのだから、客など誰も学生演劇には注目してくれないだろうと。まずは幸運が続いている。そう、わたしは昔から、土壇場の運は強いほうなんだ。少女は切り揃えた前髪を強く摘むと、まだ携帯電話に張り付いている男子部員へ、台本をメガフォンの様に丸めて怒鳴り散らした。


 明後日の国防長官来日を控え、内閣特務室は苛酷なスケジュール消化に追われていた。当日の警備に関して、連勝に気を強くした統合幕僚会議からの口出しも多く、連絡会議担当である森村肇(もりむら はじめ)主任などは、内閣府別館六階のソファが常宿となっていて、この日の夜も、陸上自衛隊から提案された警備計画書に目を通すべく、その寝床に仰向けになっていた。
「森村さん。ドレスのチェック、終わりました」
 報告に来た作業着姿のまりかに、森村は掲げていた書類を頭の上まで逸らし、小さく頷き返した。
「ご苦労……なら今日は、官舎に戻っていいぞ……」
「なに言ってるんですか。まだまだやるべきことは山積みですし。森村さんだって、もう何日も奥さんに会ってないんでしょ? わたしも泊まっていきますよ」
「しかしな……」
 森村は上体を起こし、厳しい顔をより険しくさせた。
「神崎君……君はうちの切り札なんだ……体調は常に万全であって欲しい……わかるな?」
「ええ。けどみんなだってがんばってるんです。わたしだけ休んだら、そっちのほうが気を遣って力が出せなくなりますもの。安心してください。しっかり食べて寝てますし、地下の仮眠施設新しいベッドだって入れたんですよ。ハリエットと二段の」
 嬉しそうに、にっこりと微笑んだまりかは胸を拳で軽く叩き、戸惑いがちな主任の反論を制した。
 誰もが忙しなく動いている。ここにいない捜査官も、外での打ち合わせや設定、設置作業、聞き込みと帰宅している者など誰もいない。電話が鳴り響き、あちこちから怒鳴り声が聞こえる六階フロアをエレベーターホールまで足早に進みながら、まりかは気合いを入れ直すべく両拳を握り締め、「よっしゃ!!」と叫んだ。
 その様子をソファから眺めながら、森村はかつて彼女が経験した戦いに想いを巡らせ、なるほど、この程度の苛酷さは神崎まりかにとって、まだまだ通過地点であると結論づけた。そうなると、上役としても人生の先輩としても疲れている場合ではない。森村は勢いよく立ち上がり、後輩の那須誠一郎(なす せいいちろう)に向かって、「那須!! 飯行くぞ!!」と大きく声をかけた。

 別館地下施設までエレベーターで下りてきたまりかは、ドレスのメンテナンスを続ける作業員たちに労いの言葉をかけながら、パーティションで区切られている仮事務室までやってきた。この地下施設はもともと駐車場だったスペースを、対FOTの状況激化に合わせ、対策班が整備、点検施設として改装したものであり、ドレスの着用者であるまりかにとっては、六階の対策班フロアと並んで重要な職場である。彼女は八畳ほどの事務室を見渡し、金髪の友人の姿がないので首を傾げた。

 どこいっちゃったんだろうなぁ……

 CIAからの助っ人捜査官、ハリエット・スペンサーは工作機械の扱いに精通していたため、この地下施設でもよく作業を手伝っていた。つい先ほどまでこの事務所にいたはずの彼女は、いったいどこに行ってしまったのだろう。まりかは弁当を頬張っていた、トレーラーの運転手、品田という中年男性に声をかけてみた。
「スペンサー捜査官なら、なんか急用とかいって、出かけてったよ」
 ならば仕方がない。もともとCIAの任務を帯びて、一時的な協力を前提に在籍している彼女である。いろいろと事情というやつもあるのだろう。まりかは深く考えず、ならば夕飯は誰と食べようかと人差し指を立て、視線を宙に泳がせた。


「ええ……真実の人が過去二回と同じように、あくまでも力押しで来るのなら、今回も日本政府は勝てるはずよ。その点なら心配なく……TASの起動実験は既に成功してるわ……まず間違いなく、ブロックはできるはず……当然……国防長官の安全は保障できる……跳躍での暗殺は、必ず防いで見せるから……」
 国会議事堂近くの自然公園に、作業着の上から官製のジャケットを羽織ったハリエットの姿があった。彼女はいつもの余裕を表情から消し、険しい様子で携帯電話を耳に当てていた。
「ダグラス……ただね……“必ず”と言っておいてなんだけど……正直、不安……そう……カンみたいなものかしら……ううん……TASの稼動については自信がある。違うのよ……なにか……あの男は別の手口を用意してくるんじゃないかって……ええ……でしょうね……中東での尻拭いは、確かに長官がするべきですものね……ううん……そういうことじゃない……全力は尽くすから……ええ……じゃあ……」
 携帯電話を切ったハリエットは履歴削除の操作を済ませ、それをジャケットのポケットにしまうと、公園のフェンスに背中をつけ、大きくため息を漏らした。
 なんだろう、この不安は。同僚のダグラスにこぼしてみたものの、その正体は一向にわからない。そう、カンとしか言いようがない。明後日の飯倉公館では、なにか予想もつかない事態が起きるような気がしてならない。空色の瞳を曇らせたまま、彼女は再び携帯電話を取り出し、今日は本国からの急用で別館には戻れない旨を連絡した。

4.
 代々木パレロワイヤル803号室には、遼、高川、岩倉の三人がリューティガーに呼ばれ、訪れていた。いずれも学生服のままであり、演劇部の片付けを終えてからの来訪である。陳は次々に大皿料理を食卓に置き、居間からダイニングキッチンに姿を現したリューティガーは、「夕飯を食べながら相談しましょう」と静かに告げ、椅子に腰掛けた。

「知っての通り……兄が関東テレビを通じて声明を出した。ふざけた二代目我犬はともかく、注目すべきは明後日の会談妨害を宣言したことだ」
 蓮華を手にしたまま、リューティガーは食卓についた三人にそう切り出し、麻婆豆腐を一口食べた。


「みなさんにお願いがあります……真実の人がここに来るということは……できれば誰にも口外しないでください……」
 学園祭の出し物が変更となり、やってきたリューティガーが調達班長を引き受けた直後、彼はゆっくりと教壇に向かい、クラス委員の音原の横に並び、B組の生徒たちに向かって静かにそう頼んだ。明るく無邪気な笑みはなく、沈痛さすら醸し出す、それは嘆願にも近い苦しそうな表情だった。
「僕は調達を引き受ける以上、なんとしてでもこのラーメン仁愛を成功させたい……だけどテロリストの指導者が食べに来るなんて噂が漏れたら……野次馬やマスコミだけじゃなく、警察だって立ち入って、ラーメン店どころじゃない。いや、それどころか学園祭そのものの開催だって危ぶまれます……」
 関根茂の部屋に真実の人が訪れた。その事実を信用しているクラスメイトは約半数であり、一年前、あの白い長髪の青年がこの教室でラーメンを啜る姿に立ちあった者たちが大半である。残りは関根の見た夢か、ラーメン店を今年もやりたいがために、適当な嘘でもついているのだろうと疑念を抱き、あのような人物がここに来る筈がないと思い込む者たちだった。
 リューティガーの頼みは、その両者をして納得させるにじゅうぶんな説得力があった。 現在の真実の人はあらゆる有名人を差し置いて高い知名度があり、マスコミは連日に渡って彼の人物像を予測し、ネットでも目撃談が無数に語られ続けている。幸いにも現時点において、真実の人がここでラーメンを食べた事実を確信しているのは、当日に目撃した僅かな生徒たちだけであり、情報が外に漏れている形跡はない。
 今ひとつ“やる気”というものに欠けるB組の生徒たちのなかに、学園祭を中止に追い込みたいと強く願う者は皆無だった。そこまでの情念がないことが、逆に幸いしているというのも皮肉なことではあったが、リューティガーは早い段階で、「真実の人来訪が漏れれば、それが現実になるかどうか関係なく、学園祭は中止になる」という既成事実を皆に植え付けておく必要があり、それは呆気なく成功した。


 切り出した後の言葉が続かないので、遼は自分も麻婆豆腐を食べながら、ふとそのようなリューティガーの巧妙さを思い出していた。
「ね、ねぇ、ルディ……」
 沈黙を破ったのは岩倉であり、皆は彼に注目した。
「僕が思うに……真実の人は明日の初日、ラーメンを食べに来て……明後日の会談に姿を現す……そう思うんだけど……」
「ふん……どうだろうな……そもそもラーメンなど、食べに来るかどうか怪しいものだぞ、ガンちゃん」
 高川の素早い指摘に岩倉は口ごもり、すっかり困って視線を遼に向けた。
「まぁな……俺も最初は高川と同意見だったよ。いくらなんでもそりゃないだろうって。ただ……ルディに言われただけじゃなくってさ……なんとなくそんな気もしなくはない……あいつは関根のラーメンを食べに来る……俺たちがいるってわかってても……もし政府に情報がいってて、完全包囲の状況であっても……必ず食べに来る……あり得ない話じゃない……」
「島守……」
 高川の険しい声を、遼は左手で制した。
「前にも言ったかもしれないけど……俺……かなり前に一度、真実の人とラーメンを食べたんだ……鮫洲の試験場の帰りにさ……もちろんそうだって全然知らないころさ……いま思えば、俺だってことわかってて、声をかけてきたんだろうけど……あいつはそうやって、ふざけたことを平気でやる……」
 遼の告白に三人は一様に驚き、そこからいち早く回復したのは短髪の偉丈夫だった。彼は咳払いをし、遼を睨みつけた。
「ふん……テロリストの指導者とは思えん軽率さだな……そのような者に……篠崎流が操られていたとは……情けのないはなしだ……」
 吐き捨てるように、彼らしくない粗野な口ぶりだった。リューティガーは落ち着きを取り戻すため水を一口飲み、ナプキンで口を拭った。
「で……明日ももちろん警戒はします……だけど僕がいるタイミングでやつがノコノコと現れるとはさすがに思えない……だから基本的に、僕は教室の外にいます。調達班は調理教室との往復が多いから、それも不自然じゃありませんし……」
 リューティガーの言葉に遼と岩倉は頷き返したが、高川は腕を組んだままであり、料理にも一切手を付けていなかった。
「ただ……これはあくまでも僕の個人的な観測なんですが……兄は……明日ではなく、明後日に……学校に来るような気がします……」
 いくらなんでもそこまでは。遼はさすがに同意できず、思わず手にしていた蓮華を小皿に落としてしまった。
「おい……ルディ……そりゃちょっとあり得ないだろう……明後日は……国防長官来日だぜ……さっきテレビで行くっつってたし……」
「ああ……けどね……だからこそ、やつは明後日に来るような気がしてならない……いや……だからね……明日……そう、明日あいつがラーメンを食べに来なくっても、安心して欲しくはないって言いたいんだ……」
 言い出したものの、今ひとつ自分でも確信がなかったのか、リューティガーの言葉はひっかかり気味であり、彼自身思考をまとめながらのような様子にも遼たちには感じられた。
「当たり前だ。誰が油断などする」
 高川は席を立ち、床においていた学生鞄を手に取った。岩倉は堪らず腰を浮かし、「た、食べないの……?」と、自分も一口も手を付けていないにも拘わらず、引き止めるためそう言った。
「陳殿にはすまぬが食欲がない……それに……今夜はそもそも道場にて稽古だったのだ……それを休んだ挙げ句、このような話の密度ではな……」
 背中を向けた偉丈夫は、一拍置いて反論を待った。だがそれもなかったため、彼は勢いよく玄関に向かい、スニーカーを履いた。
「高川くん!! 学園祭期間中は、陳さんが学校周辺でマスコミや政府関係者が潜り込むかをチェックします!! だから陳さんの姿を見かけても、驚かないように!!」
 リューティガーの投げてきた言葉に、高川は背中を向けたまま左手を挙げ、803号室を後にした。扉の閉まる音がダイニングキッチンにいた一同の胸を揺らし、なんとも居心地の悪い気まずさを生じさせていた。
「彼は……まだダメなのか?」
 あまりにもシンプルな問いかけだったため、遼は答えに詰まり、何度か咳払いをした。
「あ、ああ……ピリピリしたまんまだ……今日だって、このミーティングに来てくれっか微妙だったし……」
「あの状態が続くようなら……切ることも視野に入れるべきだな」
「“切る”って……?」
 蓮華で麻婆豆腐を掬おうとした岩倉は、手を止めてリューティガーに不安な目を向けた。
「この仲間から切り離すってことです……やる気に欠ける人間に、いつまでも重要な情報を共有させるわけにはいきませんから……そのときは、遼とガンちゃんに、記憶の方をお願いしたい」
 それはつまり、遼の接触式読心と岩倉の“ガンちゃんフィルタ”にて、高川の記憶を消去するという意味である。だが、ここまで長期間に深く関わってしまった彼の記憶には、ありとあらゆるフォルダに関係する記憶ファイルが点在するはずであり、検索機能を駆使したとしても、果たして消しきれるのだろうか。ここ十ヵ月の記憶を丸ごと削除する必要性もあるが、さすがにそれはむご過ぎる。遼と岩倉は顔を見合わせ、そのようなことは無理だと、読心を使うこともなく互いに意思を疎通させた。


「単純に言っちまえば、落ち込んで拗ねてるんだよ。俺もバルチで似たような気分になったからわかる……もっとも……俺の場合はそのあとがごたごたして、長引かなかったけど……」 明日からの二日に亘る警戒態勢の細かい点を詰めたあと、話題は再び高川の精神状態にと戻っていた。
 遼は自分の強烈で惨めだった体験を思い出しながら論評したが、自分が立ち直れた最大の原因は“ごたごた”などではなく、蜷河理佳と映画館で心を通わせたことにあった。
 もっとも、それはなんとも気恥ずかしく口にはできず、彼は陳の淹れてくれた食後のジャスミンティーを啜り、舌に軽い痺れを感じた。
「一過性のものなら、僕もとやかくは言わないさ。彼の好戦性は、そもそも僕がこの中でも一番評価をしているわけだしね」
 リューティガーは片目を閉ざし、カップから立ち上る湯気に眼鏡を曇らせた。
「まぁ……神崎なんかが励ましてやりゃあ……一発で立ち直るんだろうけど……」
 その名前をリューティガーが忌み嫌っているのを承知で、遼はあえて口にした。
「ふん……あの妹か……けど無理だね……そもそもあいつは、高川くんの落ち込んでいる理由を知らない……彼女が彼を好きならともかく、そうでないとしたら、的外れな結果に終わるだけだ……いいな、遼……」
 くどくどと早口でまくし立てるリューティガーに、遼はうんざりとして顔を横に向けた。
「わーってる、わーっている!! んなこと頼まないって。なにも知らない神崎に、頼めるわきゃないだろ? たとえ話だって」
 嘘をつくことに慣れていない岩倉は会話に参加せず、ただじっと茶を啜っていた。なんとも不健全であり、どうにかこの偽りを無くすことはできないのだろうか。大きな身体を縮こまらせ、彼はただひたすらに居心地の悪さを感じていた。

 
 胴衣と袴は綺麗に折り畳み、風呂敷に包んで駅のロッカーに入れてきた。ジーンズとブラウス、ブルゾンにスニーカー、下着に靴下と、着替えを入れる鞄。すべてで十五万円ほどの出費だったが、活動費として渡された当座の資金はまだまだ潤沢であり、生活にかかる費用を切り詰めていけば、まだ何ヵ月かは作戦任務を継続することはできる。あと三ヶ月足らずで十三歳になるとはいっても、社会からすればまだ子供である自分にとって、金のかかる生活というものは逆に望んでも難しかった。
 ホテルに泊まろうにも、断られるのは自明の理である。だから夜になると都内のファミリーレストランを訪れ、そこで夕食を摂りおかわり自由のコーヒーで朝まで粘る。もし店員が不審に思いそうであれば、その気配を察知して直ちに会計を済ませて店を出て行けばいい。始発の山手線に乗り込み、車両を移動しながら昼まで小刻みな睡眠をとり、午後にはシャワーのついた漫画喫茶で身体の汚れを落とす。漫画喫茶も様々であり、年齢制限のある店はもちろんのこと、会員制の店などは、身分証といったものがないと利用できない場合もある。そんなことも、この数ヵ月で勉強することができた。
 篠崎若木(しのざき わかぎ)、十二歳。祖父を失い、なおもリューティガー一派暗殺の任を帯びている彼女は、だが高川典之襲撃の失敗を期に、その目的を失いかけていた。品川駅近くのファミリーレストランでエビピラフを食べ終えた彼女は、シートに体重を預け、天井をぼんやりと見上げた。
 まだまだ自分の実力は祖父に遠く及ばない。それは高川に対する完敗を通じて思い知らされた。暗殺の対象はまだ四人いて、それらに目線を移すこともできたが、小さな一室で武道家としての英才教育を受け続けてきた彼女にとって、まず乗り越えるべきは高川という憎き完命(かんめい)流の男であり、そのために修練を積む必要性を痛感していた。

 一ヵ月以上、ずっと考え続けてきた。それに、そもそも狭い部屋での八年に及ぶ修練は、弱点を多く生んでしまっている。それを克服するためにも、会計を済ませ、ファミリーレストランを出た若木は走り始めた。

 持久力が徹底的に不足している……まずはそれをどうにかしないと……

 長期戦など想定していなかったが、これからはそれを視野に入れなければ奴との差はますます開いていく。一ヵ月間、できるだけ走り込むことで、その弱点も克服されつつあり、呼吸の取り方もより上手にはなったと思う。ある程度のレベルアップを果たしたのだから、まずは実戦でそれを確かめてみなければ。できれば、高川よりも弱い相手で。

 品川から高輪に向けての夜間ランニングを終えた少女の前に、ある道場が立ち塞がっていた。両手を膝に当て呼吸を整えながら、若木は上目遣いで木の看板を見上げ、吊り上がった大きな瞳に殺気を込めた。
 “柔術完命流”それが実戦柔術の最高峰と称されている事実を、若木は本屋で武術雑誌を立ち読みして知った。違う。完命流は武道の名にもとる、卑劣極まりない邪道である。若い正義感に火がついた。高川との遭遇という最悪の事態もあり得るが、やはりあいつに勝つには、同じ完命流を相手に腕を磨くしかない。

 決意は少女を修羅の道へと突き落とす。だが、彼女にとってもそれは既に承知していた。

5.
 十月八日土曜日。二〇〇五年度仁愛高校学園祭は午前九時から開始となり、生徒の家族、友人、近隣住人たちが次々と正門をくぐり、普段は立ち入ることのない校内へと吸い込まれていった。
 FOTの日本政府、および米軍に対するテロは日に日にその規模を増してはいたが、現在のところ市民生活を圧迫するのはテロの予告現場のみという状況であり、その点において市民は平和を享受し、この日も校内の出し物を見学する人々の顔には緩い笑みに溢れ、表面上はごく当たり前の学園祭そのものである。

「田埜さん!! ほうれん草がないけど!!」
 割烹着で厨房の中を慌てふためきながら、沢田喜三郎が麺を湯切る田埜綾花(たの あやか)に声をかけた。
「いま、和家屋さんが取りにいってるから!! もうちょい待って!!」
 田埜は珍しく大きな声で沢田に指示を出すと、麺をスープの入っている器に移した。ここから先の工程である、具の盛り付けは隣の遼とはるみの担当である。
 開店から一時間で、ラーメン仁愛・2005は満席となり、昼前だというのに教室は客で賑わっていた。
 バルサ材で区切られた厨房の中で、遼はチャーシューと煮卵、そして和家屋瞳が間一髪で持ってきたほうれん草をてきぱきとした挙動で盛り付け、カウンターの反対側で待ち構えていた店舗運営班の井ノ関という男子生徒に、出来上がった味噌とんこつラーメンを手渡した。
 その隣でははるみと高川が同様に盛り付けとスープの出来具合を味見し、狭い厨房の中では常に誰かが動き回っていた。
 遼と高川、そしてリューティガーの三人は予め示し合わせた上で志願した調理班であり、これは前企画である鉄道喫茶のころから同様だった。調理班は、当日こそ殺人的な忙しさになる可能性もあったが、事前準備が他の班と比較して少なく、時間拘束の面からいっても最も都合のいい部署と言える。現在は状況も激変し、リューティガーこそ調達班の班長として調理教室とここを行ったり来たりしているが、本来はここでサンドイッチを作ったり、コーヒーを淹れたりしていたはずの三人だった。
「あー……なんだかお腹、減ってきちゃうよね!!」
 盛り付けを終えたチャーシュー麺を運営班の西沢速男に手渡したはるみは、味噌ラーメンの香りが漂う厨房でそうぼやき、遼や田埜の笑いを誘った。
 はるみが調理班を志願したのは、遼たち三人の直後である。おそらく、彼らが同時に志願したのは、なんらかの理由があってのことだろう。そう予想しての行動だった。リューティガーに疑惑を持たれる可能性もあったから、その日のホームルームではなく、抽選で調理班にされ、悲鳴を上げていた和家屋にお願いしての部署交替だった。

 廊下からB組の教室前を通りかかった横田良平は、入り口付近の壁に提げられた「ラーメン仁愛・2005」と書かれた看板を見上げた。このロゴは数日前、音原に頼まれて自分が一筆書いたものである。昔からなんとなく続けていた書道が二年連続でこのような役に立つとは思ってもいなかったが、「横田くん、字が上手いのね」などと、クラスでも一、二を争う美人である権藤早紀から褒められれば、悪い気などするはずもない。
 ロゴの脇に添えられたラーメンの絵は、同級生の大和大介(やまと だいすけ)の手によるものであり、まるで写真と見紛うばかりの精密画は、なんとも食欲をそそる。良平は次々と教室に入っていく客を廊下からぼんやりと眺めながら、それにしても前年にも増して盛況で、おそらく収益はかなりのものになるだろうと予想した。
 いくつかのブログで、ラーメン仁愛が話題になっているのは良平も知っていた。どうやら昨年たまたま食べ、仁愛高校Webサイトの文化祭案内ページで今年の出店を知った者が話題にしたようだが、そんな口コミも集客を手伝っているのは間違いないだろう。もっとも、某巨大掲示板に「今年の仁愛高校学園祭に、真実の人が来る。関係者だけの極秘情報だけど、まず間違いない。獣人騒動のあった、現二年B組に目的があるそうだ」と書き込んだところ、まったく無視されてしまったのはなんとも情けないが、ともかく儲かることは悪くない。悪戯心を戒めることもなく良平はポケットに両手を突っ込み、他のクラスの出し物を見物しに歩き始めた。

「さーて!! もうそろそろ行こうか!!」
 時計の針が十二時を指したころ、はるみは遼と高川に声をかけた。創立記念の展示会を行う関係で、今年度の生徒ホールでの出し物は初日の午後二時からの開始であり、その先陣を切るのは演劇部の発表だった。
 はるみの号令に、演劇部員の遼と高川は力強く頷き、他の生徒たちも注目した。
「おい、島守。今年は観れないよ。ついてねーなー!!」
 割烹着を脱ぐ遼に、お玉を手にした沢田は残念そうに言った。
「去年は観たんだっけ?」
「途中までな。お前と蜷河さんの……なぁ……」
 嫌らしい笑いを浮かべた沢田は田埜に注意され、慌てて盛り付けに戻った。

 あぁ……去年の……あれ……か……

 舞台上で台詞を忘れ、すっかり「飛んで」しまった自分を、蜷河理佳は優しい口づけで正気に戻してくれた。そんな甘い思い出に頬を引き攣らせた遼は、教室の出口で手招きするはるみに向かって、店内の客を避けながら駆けた。
「がんばれよ!!」
「行ってこーい!!」
 運営班の生徒たちに励まされながら、遼は緩い面持ちで廊下まで出た。はるみはそんな彼を、腰に手を当てて見上げた。
「なに、にやついてるのよ?」
「あ? 去年の芝居を思い出してた」
「去年の?」
「理佳ちゃんのことだよ」
 ごまかしたところで仕方がない。早足で生徒ホールに向かいながら、遼は後ろに続くはるみがどのような表情をしているのか気になった。だが、それを確かめたところでどうなるものでもない。あと数時間後には幕が開くし、そうなれば、またあの興奮が全身を包み、照明の中で自分は別の人物と化す。気合いが充実してきているのを全身の震えで確かめた遼は、階段を駆け下りながら左手を高く上げた。

 まぁ……正直に言ってくれた方が……いいんだけどね……

 彼の背中を見つめ、階段を続いて下りながら、少女は自分の気持ちが妙に醒めているのに気づいた。新撰組を監視するため、長州より放たれた密偵。だが土方と恋に落ち、その使命と板ばさみになりながら、最後には愛のため命を落とす儚き存在。数時間後にはそれを舞台の上で全うしなければならない。一時的にでも、個人的な感情は凍らせてしまおう。数日前からそう心に決めていたし、どうやらそれは上手くできているようだ。はるみはそれよりも、隣で陰鬱な横顔を見せている高川をちらりと見た。すると、彼は廊下の途中で立ち止まっていた。少女は手すりを両手で握り、右ひざにたっぷりとクッションを効かせ振り返った。
「ど、どーしたの、高川くん!?」
 高川は廊下で仁王立ちのまま、険しい表情で視線を左右に動かしていた。

 誰だ……誰かが……俺を……見ている……!?

 数ヵ月前にも、何度か感じた視線である。まだその正体こそ掴んでいないが、合宿での遭遇と、仕事帰りの襲撃から考慮して、この監視者が篠崎十四郎と、孫娘の若木であることは疑いようもない。若き完命流は全身の神経を集中し、同時にはるみに対して右掌を広げた。

 そ……そこか……!?

 高川は右足を軸にその場で急反転し、人々をすり抜けて階段を駆け上がった。二階まで達した彼は、感じたままに南校舎の廊下を突っ走り、中央校舎への角を目指した。あの陰だ、あそこに監視者は逃れた。こっそり監視とは卑怯なり篠崎流。
 またあの吊り目の少女と出くわしたのなら、今日こそ言って聞かせよう。「復讐など下らぬ真似はよさんか!! 憎しみの連鎖など、なにも生みはしないのだ!! 若さを創造に傾けんでどうする!!」と、これはテレビアニメ、『漆黒のオーラムーン』でつい最近聞いた台詞であり、使えそうだと丸暗記しておいたものである。左手を廊下の角にひっかけ、高川はその大柄な身体で思い切り躍り出た。
 だが、そこには胴衣に袴姿はおろか、幼い少女の姿もなかった。まばらに廊下を行くのは私服姿の男ばかりであり、いずれも呑気で気楽な表情を浮かべ、とても監視者のようには見えなかった。
 どうやらまた逃げられたようである。がっくりと肩の力を落とし大きく息を吐くと、高川は自分のすぐ傍に、ある男子生徒の姿を見つけた。
「な、なんだ……お前は……?」
 灯台下暗しとは正にこのことである。躍り出た廊下の角に、この詰襟姿の少年はいたようであり、どうやら自分と正面からぶつかりそうになったので、驚いてしゃがみ込んでしまっているようである。
「だ、だいじょうぶか……? ぶつかりはしなかったようだが……」
 なんとも小柄で、華奢な男子生徒である。詰襟の学年章には「1−B」と記されていて、仁愛の生徒に間違いない。高川は仕方なく手を差し伸べたが、いつまでたっても見上げようとしない後輩に苛立ちを覚え始めた。
「なんなのだ、貴様は……!? いつまでそうしている!?」
 よく見ると、両膝は内側につけられ、足は左右に投げ出されている。なんとも“男らしくない”姿勢で気持ちが悪い。高川は堪らずその下級生の手を掴み、引っ張り上げた。
「ご、ご、ご、ごめんなさぁい!!」
 太い眉毛に長い睫がなんともアンバランスな人相である。どうにも見覚えはないが、“男らしくない”という評価は、くしゃくしゃに歪められた顔のせいでより強くなり、なにやら気味の悪さを高川は感じ、掴んでいた手を離した。
「し、ししし、失礼しまぁす!!」
 甲高く、だが掠れた声で下級生は挨拶をし、顔を真っ赤にしたままその場から駆け去って行った。

 ともかく……取り逃がしてしまったか……

 不気味な男子下級生のことなど、どうでもよい。問題は篠崎流が学校にまで忍び込んでいるという可能性である。だが、あの射抜くような視線はもうまったく感じられず、あるいは逃れ、出て行ったとも考えられる。
 それに今日は朝から陳が学校に出入りする人物を監視していて、迂闊者の若木などが潜入するのはそもそも難しいのではないだろうか。高川は顎に手を当て、考えを深めていった。


「鈴あゆ!! そっちのペットボトル取って!!」
「つーか、投げてよくない?」
「こら!! セットがあるんだからだめでしょ!! もー!! 取りに行くから持ってて!!」
 針越里美と鈴木歩がそんなやりとりをしている舞台上に、遼とはるみはやってきた。
「用具室で着替えの準備整ってるから、昼飯食べたらすぐに支度して」
 福岡部長の指示に二人は頷き、あらためて舞台を見渡した。
「いよいよだね……」
「あ、ああ……はは……なんか……緊張してきたかな……」
「わたしも……」
 塀が描かれたセットを遼とはるみは見上げ、これから数時間後には開く、遥か天井まで続く分厚い幕に振り返った。
 なんとなく二人は舞台の中央まで歩き、並んで立ち止まった。視線は真っ直ぐに幕で遮られた客席に向けられ、腹の底から沸き上がるなにかを共に感じていた。
「あ、あのさ……島守……」
「あ、ああ……」
「慌てて……変なとことか触んないでよね。何度も抱き合うんだし……」
「ま、前のときだってだいじょうぶだったろ……お前こそ……台詞トチんなよ……」
 正面を向いたまま、二人は自分たちがあからさまに緊張しているとわかり、互いに向き合ってみた。
 だが、言葉はなにも出なかった。なにを言っていいのかもわからず、両者の間にわずかな時が過ぎていった。

そっか……“がんばろう”とか……そんなんでいいんだよな……

 ようやく遼が口を開こうとしたが、はるみは背中を向け、舞台のそでに向かって歩き始めていたので、彼はたまらず「神崎」と声をかけた。
「そろそろ準備しないと……それに……針越さんも心配してるし……」
 はるみはそう言うと、遼の前から走り去って行った。“針越さんも心配してる”とはなんのことだろう。彼は鈴木歩と打ち合わせをしている針越になんとなく視線を向け、口先を尖らせた。

 上演一時間を控えた午後一時、体育用具室で新撰組の衣装に着替えた高川は、刀の位置を確認しながら、裏校庭のプールを抜け、生徒ホールに向かっていた。
 なんともはっきりしない気分である。よもや自分が芝居の舞台に立つとは、数ヵ月前まで想像もしていなかった事態である。彼は歩きながらもう一度刀の柄を握り、なんとも収まりが悪いと遂には立ち止まり、何度も刀を抜き差しした。

 くっ!! この!! なんだ、この違和感は……!! このなまくらめ!!

「高川くん……」

 背中から聞き覚えのある声をかけられた高川は、柄を手にしたまま慌てて振り返った。
「は、はるみん……」
 冬服姿でまだ衣装に着替えていないはるみが、胸に手を当てて佇んでいた。高川は姿勢を正して咳払いをすると、収まりの悪い刀から手を離した。
「緊張してるんだ……まぁ……無理ないよなぁ……」
 覗き込んできたはるみに、高川は上体を引いて緊張した。
「む、むむむ……う、うむぅ……」
「すぐに舞台に行ったほうがいいよ……でね、真ん中に立って、大きく息を吸い込むの。みんないろいろと準備しててうるさいと思うけど、そこでじっとしてて、誰の声も耳に入らなくなったらだいじょうぶ……なんとか舞台は務まるって思っていいから」
 これは演劇部の先人としてのアドバイスなのだろうか。それとも、共にテロと戦った経験のある仲間としてなのだろうか。あるいは。高川は困惑しながらも、忠告を頭の中で繰り返してみた。
「う、うむ……舞台に立つのだな……そして精神集中すればよいのだな……」
「そうそう……えっと……けどね……どっちかっていうと……集中ってよりは……大きく自分を広げて開く感じ……」
「ほ、ほう……」
「乃口先輩って、前の部長に教えてもらったんだ。うん……」
 はるみは高川を見上げ、拳で軽く彼の胸を突いた。
「できるよ。高川くんは強いし、いつだって捨て身だもの……守りに入らなければ、なんだってできるもの」
「は、はるみさん……」
 彼女の少しだけ当てられた拳が、着物を通して彼を興奮させた。高川は鼓動が高くなるのを懸命に堪えようとしたが、“守りに入らなければ”という言葉がすぐに閃いたため、「よーし!!」と空に向かって吼えた。


「高川くん……どうしちゃったのかなぁって……」
 数日前、演劇部の部室を掃除していたはるみは、針越からそう切り出された。
「元気……ないって感じだよね」
「でしょ……合宿からずっと……」
 モップがけをしながら、はるみは窓拭きをする針越の方こそ元気がないように見えた。
「せっかく初舞台なんだし……高川くんにはいい思い出……作って欲しいんだけどなぁ……」
 その一言がきっかけだった。脚本担当の針越にとって、この『池田屋事件』の成功は誰よりも強く願っているはずであるが、どうやらそれだけではない、別の想いが彼女に芽生えつつあるように思える。
 姉のことやリューティガーのこと、テロやこれからの事件と憂慮するべきことが多すぎるはるみだったが、それはそれ、これはこれである。彼女は針越の力になれないかと考え、一度は遼に頼まれて断った高川への励ましをやってみようと、ここ数日どうしたものかと考え続けていた。


「ね、針越さんだって、高川くんに期待してるんだよ」
 生徒ホールの裏手で、胸から拳を離し、はるみは高川にそう言った。
「は、針越さんが?」
「そーゆーことだから……」
 はるみは身を少しだけ屈め、右手で敬礼の構えをした。
「ひとつ、よろしく!!」
 敬礼した手を勢いよく放つと、はるみはくねりと振り返り、用具室に向かって駆け去っていった。
 なんのことだろう。いや、なんとなくだがわかる。高川典之は肩から力を抜き、再び刀の柄に手をかけた。

 はは……収まりおったか……このなまくらめ……

 刀が鞘へ綺麗に納まった。そんな心地のよさを感じながら、偉丈夫はしっかりとした足取りで舞台を目指した。

6.
 幕が開き、舞台上に姿を現したのは、澤村奈美演じる沖田総司と、同じく一年生の阿久津誠司が演じる原田左之助の二人であり、いずれも塀の前で逆立ちをしていた。
「沖田君……頭に血が昇るっつーのは……なんともまぁ……」
「ああ……これとは違うんだろうね……やっとそこんとこだけがわかってきたよ」
「じ、じゃあ……や、やめるか?」
「う、うん……けど……罰は罰だし……」
「うー……納得いかねぇ!! 納得いかねぇっつーの!!」
 逆立ちをしたまま、内臓が肺を圧迫するこの姿勢で、生徒ホールの奥まで届く声を出せるのは演劇部の中でもこの奈美と、中学校時代に野球部で怒鳴り声を鍛えた阿久津しかいない。最初は座禅を組んでいるという台本だったが、稽古を重ねるうちに部員たちであれこれ相談しながら変更をした冒頭場面であり、奇抜も相まって観客はひとまず舞台へ集中した。
 大したものだと思う。中学時代にレギュラーポジションをとれず、だからこそベンチからの野次を鍛えられた阿久津はともかく、奈美は華奢な身体をした少女であり、いったいどうやって逆さまになった内臓のコントロールをしているのかと、セットの奥から注目していた平田は後輩の芝居に驚きを隠せず、かけていないはずの眼鏡を直そうとしてしまった。

「まーだ怒ってるぜ、俺は!! わかってるか、総司、原田!!」
 舞台に現れたのは、遼が演ずる土方歳三だった。彼は逆立ちを続ける二人の間で立ち止まり、腕を組んで顎を引いた。
「山南は俺たちの仲間だ。言っていいことと悪いことがある。わかってんだろーなてめぇら!!」
 土方の一喝に、沖田と原田は同時に「はい!!」と逆立ちのまま答えた。
「よーし……わかってんなら、それでいい……逆立ち止め!!」
 沖田と原田は共に逆立ちを崩し、頭や肩を回しながらふらふらと立ち上がった。

 いい間だなぁ……澤村は……

 この澤村という後輩は仕草や挙動、共演者との距離のとり方が絶妙である。立ち稽古のときからそう感じていた遼だったが、彼女が肩をぐるぐると回した途端、観客の視線が一斉に向いたので、あらためてその思いを強くした。


 この学校に来るのも一年ぶりである。それにしても学校前の坂道の、なんと堪える勾配か。島守貢(とうもり みつぐ)は愛用の自転車をやっとのことで押しながら、ようやく仁愛高校正門までやってきた。
 坂道をうっかり計算に入れていなかったので、思わぬ遅刻である。彼は裏校庭に特設された駐輪場に自転車を置くと、そのまま生徒ホールを目指して駆け出した。
 校舎とは別棟になっている生徒ホールの、外側に面した出入り口のひとつを見つけた貢は、大きく深呼吸をしたのち、ゆっくりと扉を開けてホールの中へと入った。
 昨年に比べて、随分とホールの中が静かである。だがパイプ椅子が並んだ客席には『金田一子の冒険』と同等かそれ以上の観客が座っていて、なるほどこれは舞台上の芝居に集中しているということか。大したものだと貢は空席を求め、薄暗いホール内をキョロキョロした。
 すると、誰かが最後列の客席から手招きをしている。辺りを見回しても自分しか立っている者はいないため、おそらく招かれているのは他の誰でもない。貢は応じるように忍び足でそこまで近づき、栗色の髪に「あ」と間抜けな声を漏らした。
「えっと……ルディ君?」
「ええ、お父さん……ドイツのハーフのルディです」
 間違えられるのも面倒だったため、リューティガーは国籍を先に告げ、左隣の空いているパイプ椅子に貢を促した。
「はじまっちゃってますなぁ……」
 椅子に腰を下ろし、舞台上に目を細めた貢は、首を大きく傾げた。
「まだ五分ほどです……」
「あ、遼じゃないか……」
 舞台上では新撰組の隊士たちが一堂に揃い、平田演ずる局長の近藤が訓示を垂れる場面となっていた。貢は正座する近藤の横で、胡座をかき頬杖をするわが息子を確認し、なかなかサマになっていると顎に手を当てて感心した。その隣でリューティガーは、舞台よりはるか先の南校舎二階、二年B組の教室を視覚に捉えていた。ラーメン仁愛に自分の姿があっては、兄も食べに来ることはないだろう。昨年にしても不在を狙っての来店だったはずである。弟はそう確信しての観劇であり、班長とは言えいつまでも現場仕事をしていては、他の班員に余計な心配をかけてしまうとの判断もあった。
 だから、芝居などはまったくと言っていいほど見ていない。遼や高川の隊士姿は一応目の端に留めたが、それ以外は午後になっても繁盛を続けるラーメン仁愛だけを、彼は見続けていた。

しばらくして場面が変わり、山南敬助役の福岡と、山崎烝役の春里、そして永倉新八役の徳永という三年の男子生徒が舞台に残っていた。
「はは……なんか……自分の息子ってのが、どうにも信じられないな」
 視覚は校舎を遠透視していたが、聴覚はまったく開いていたため、リューティガーは貢の言葉に注意を傾けた。
「お芝居しているのに、驚いてるんですか?」
 返事があるとは思っていなかった貢は、その言葉に頬を引き攣らせ何度か細かく頷いた。
「ガキのころから、そりゃ無愛想で……社交性がないっていうんですかね……友達は不思議と作れるやつなんですが、どうにも集団行動が苦手っていうか……」
「あぁ……確かに、そういうところはあるかも知れませんね」
「でしょ? それが二年続けて合宿だ、劇の発表だなんて、ちょっと信じられなくってねぇ……!!」
 できるだけ小さく、他の客に迷惑がかからぬように気をつけていた貢だったが、周囲の生徒や父兄がきつめの意を向けてきたため、少々興奮してしまったかと喉元を手で押さえ、苦い笑いを浮かべた。

 遠足の日であった。快晴で気候も穏やかであり、まさしく遠足日和という金曜日だった。いまから八年前、確か息子が九歳のころである。
 まだ午後一時だというのに、アパートの玄関に、リュックを背負った幼い姿があった。遠足の解散は午後三時で、県境より先の公園に行っているはずなのに、なぜここにいるのだろう。後ろを向いたままの息子に、父は「遼、遠足はどうした? 中止か?」と尋ねた。
「気持ちが悪いから……帰ってきた……」
 青いリュック越しに、息子はそう答えた。
「ひ、一人で帰ってきたのか? 多摩川越えて」
「うん。電車で……」
「せ、先生はどうしたんだ? ことわってきたのか?」
 その問いに、小さな後頭部が左右に振られたので、父は困り果て、頭を掻くしかなかった。
「変なのが……また見えたんだ……」
「変なの……?」
「うん……杉森くんの肩に触ったら……ぐにゃぐにゃしたのとか……どろっとしたのとかで……まどかちゃんと手をつないだら……ふんわりしたのが見えた……それで……今日は気分が悪くなって……」
 当時、息子は学校から帰ってくると、そんなわけのわからないことを時おり漏らしていた。具体的になにが見えたのか聞いても、どうにも要領を得た答えは返ってこなかったため、子供特有の精神的な不安定さが生じさせている、一過性のなにかだろうと父は思い込んでいた。
 あの日、結局学校に電話して事情を説明したものの、翌日には小学校に呼ばれ、担任の若い女教師に「遼くんは、なんだか協調性に欠ける」とはっきり指摘されてしまった。確かに、気分が悪いのはともかく、なにも言わずに引き返してしまう息子は協調性はともかく、なんとも無愛想である。だが母親を早くに亡くし、自分でもよくわからない不思議な現象を利用した、イカサマパチンコで生計を立てているような家庭環境であれば、荒んでいないだけまたマシだと安心もしていた父であり、あまりきつく注意をするのは気の毒だと感じていたのも事実である。

 息子の仲間たちの芝居を眺めながら、父はぼんやりと昔のことを思い出していた。

 そのころ、舞台上ではちょっとした緊張が走っていた。

「土方さん!! 斉藤さん!! ここは俺一人に任せてもらおうか!!」
 澤村演じる沖田総司が、刀を構えて敵対する藩士たちと対峙する場面だったのだが、その後ろに控える土方役の遼と斉藤役の高川は、不敵に微笑む後輩の少女から発する瑞々しいまでの強さに圧倒されていた。

 すげぇな……澤村……稽古やゲネんときよりずっとすげぇ……沖田総司そのものって感じじゃないか……

 まるで……本物の少年ではないか……!! 立ち振る舞いだけではない……体型までも……信じられん……!!

 二人の先輩共演者は同時にそんな感想を抱き、わが目を疑うばかりだった。そもそも入部以来逸材として、高い演技力が評価されてきた澤村奈美ではあったが、今日の本番に際しては、彼女が普段振りまいている憎たらしくも可愛らしい少女の素顔より、新撰組剣士としての凛然とした気迫が遥かに上回っていた。
「四段突きって知ってるかぁ……? つい昨日……この日のために間に合ったんだぜぇ……!!」
 刀の柄に手をかけ、じりじりと履き物の裏をする沖田は、右目を閉ざして下唇を舐めた。
 そんな舞台上の美剣士の姿が、ふと視覚を戻したリューティガーの目の端に留まった。
 え……?

 誰だ、あれは。演劇部の生徒なのか。刀を構え、敵に対して不敵なまでの笑みを向ける彼は、いったい何者だ。リューティガーの心に小波が立った。

「さてぇぇぇぇぇぇぇ!」

 素早い挙動で突きを繰り出しながらも、その表情にはなお余裕の色が滲んでいる。あれは誰だ。あれは、兄そのものではないか。栗色の髪をした弟は堪らず腰を浮かし、だが体型や身のこなしに決定的な差異を見い出し、胸に右手を当てた。

 澤村……奈美……女子……一年の女子だって……!?

 受付でもらった配役のチラシを再確認したリューティガーは、性別を超えた奈美の芝居に息を呑んだ。よくもあそこまで役を作りこめるものだ。芝居に関しては素人の彼だったが、十五、六歳の少女が歴戦の剣士にしか見えない現実は強烈であり、それが兄の面影と近かったため、一瞬だが冷静さを失ってしまった。
 大きく息を吸い込んだ彼は、再び二年B組の教室に視覚を向けた。ともかく、いま優先されるべきは監視の継続である。


「斬る……それでいいんだな……おとわ……」
「斬れるん……ならね……」
「さて……な……」

 芝居もクライマックスを向かえ、舞台では遼とはるみが向き合っていた。新撰組副長、土方歳三と、長州の密偵であり土方と心を通わせた女、おとわの、命を懸けた山場である。隊士姿の遼は、短刀を構える着物姿のはるみとの間合いを詰めるため、一歩踏み込んだ。
 互いに向けられた白刃が交差し、絹と肉を絶つ効果音が生徒ホールに鳴り響き、はるみがその場に崩れ落ちた。
「斬れ……ちまったぁ……はは……ふは、ふははははは……斬れちまったよ、おとわ……」
 抜き身の刀を手に、情けなく立ち尽くす遼は、ぐったりと倒れたはるみへ振り返った。だが少女はなにも返すことなく、ただ静かなままだった。
「土方さん!!」
 舞台に登場した沖田は、呆然として震える副長を見上げ、すぐに蹲る女と見比べた。
「ひじ……かた……さん……これ……は……」
「あ? は、はは……いきなり小刀を突きつけてな……兄の……仇……そ、そう……俺を仇だとよ……見ず知らずの阿呆さ……い、行こうか総司……」
 最後は声を裏返し、遼は蒼白の顔を一番隊隊長に向けた。
「見ず知らずの……です……か……」
「そう……見ず知らず……さ……」

 暗転の後、舞台に新撰組隊士が勢ぞろいし、平田演ずる近藤局長が池田屋事件での労を労う場面となった。それは『池田屋事件』最後の一幕である。既に重傷を負った設定で、舞台から退場していた奥沢栄助役の針越は、幕の陰から成功を確信し、やがて巻き起こった拍手でそれを現実と受け止め、右の拳を思い切り前に突き出し、すぐに閉幕の作業に取り掛かった。

「ふぅ……なんとか……終わったか……」
 大役を終えた高川はかつらを被った頭を撫で、そんな彼の背中を遼が強く叩いた。
「やったな、高川!! よくやれたって!! また春にゃ頼むぞ!!」
「う、うむ……お、おう……」
 どさくさで新入生歓迎公演の助っ人を依頼された高川は、その場の勢いでそれに応じてしまい、眼鏡をかけながらその様子を見ていた平田は、感心して頷いた。
「みんな!! お疲れさま!!」
 特製のおしぼりを山のように乗せたトレーを手に、岩倉が幕の閉じた舞台に駆け込んできた。部員たちはみな充実した顔でおしぼりを受け取り、この縁の下の力持ちに感謝をしていた。
 拍手はまだ若干だが続いている。それは昨年の『金田一子の冒険』より僅かに長いような気もする。福岡部長は後輩たちと次々に握手を交わし、遼の傍までやってきた。
「部長……お疲れさんっス!!」
「ご苦労さん……最後の対決場面、すっごくよかったわよ」
 混じり気のない賛辞を述べられた遼は素直に嬉しさを顔に出し、「うーす!!」と気合いで返した。無理はしたものの、やはり演劇部を続けてよかった。彼はただひたすらにその感慨を強くしながらもセットの撤収作業に取り掛かった。
「た、高川くん!!」
 舞台のそでで、羽織を脱いだ偉丈夫を針越が見上げた。
「う、うむ……大変ではあったが……た、楽しかったぞ……」
「高川くんの殺陣、みんな驚いてたもの!! すっごいよ!!」
 すっかり舞い上がっていた針越は、台本をその場に落とし、高川の両手を握った。
「は、針越さん……!?」
「高川くんが引き受けてくれて、本当によかった!! 高川くん!! 高川くん!!」
 異性にこう何度も名前を呼ばれた経験など、高川典之にはなかった。今日この瞬間、彼の中で針越里美の存在が僅かながらではあったものの膨れ、遼と嬉しそうに言葉を交わす、町娘姿の少女は萎んでいた。

 二〇〇五年度、仁愛高校演劇部文化祭公演、『池田屋事件』はまずまずの成功に終わった。パイプ椅子から立ち上がる観客たちをなんとなく眺めながら、ここにいながら唯一その舞台をほとんど見ていなかったリューティガーは、眼鏡をかけ直し、三度だけ手を叩き合わせた。

7.
 学園祭開始から順調な客足である「ラーメン仁愛・2005」だったが、店舗側としても滞りなく円滑に営業を続け、その評判は学園祭中においても口コミで広まり、夕方の閉店前には廊下に溢れるほどの行列となっていた。
 ノウハウの蓄積がいかに重要であるか、厨房の中で麺の湯を切りながら、クラス委員の音原太一は実感していた。生徒たちの動きに淀みは少なく、昨年以上の客足にも混乱せず、実に整然とした営業であると言える。細かいミスやトラブルを数え上げればキリがないが、直前における変更があったことを考慮すれば、合格点はとうに越えているし明日も問題なく乗り切ることができるだろう。
「盛り付け頼む!!」
 スープの入った器に麺を入れた音原は、すぐ隣で待機していた高橋知恵(たかはし ともえ)に指示を出し、額の汗をタオルで拭った。

 確かにノウハウはある。注文のとり方、調理の仕方、修繕の手配。そのいずれもが昨年とほとんど変わらず、だからこそ正直言ってあまり真面目でもない同級生たちでもじゅうぶん「こなして」いける。廊下から店内の様子を窺うプロデューサー、関根茂は、だが音原とは少々違う感想も抱いていた。

 一番のポイントはルディだ……去年と今年の最大の違い……ラーメンそのものが味噌とんこつになったというのに……なんの問題もなく、僕の要求した材料をすべて調達した……まさに調達神……!!

 調達班長として、主に調理教室で指揮を執っている紺色の瞳をした同級生に、関根は最大の敬意を向け、どこへともなく頭を下げた。
 昨年も今年も、彼のおかげで自分は学内ラーメンプロデューサーとして、評価を受けている。
「やるじゃん、関根」
「うまかったよ!! 来年もな!!」
 教室から出てきた他のクラスの生徒たちが、ときどき関根にそんな声をかけていた。その度に、ここにはいない同級生に感謝を忘れない彼だった。


 午後四時三十分。二〇〇五年度学園祭初日は、その日程を終了した。四十五分には最後の客も教室から立ち去り、終盤戦にて再度厨房に入った遼と高川は、互いになんとなく肩をぶつけ合い、片付けの準備に取り掛かった。

 しかし……ルディの言うとおり……奴はこなかったな……

 ふん……確かにな……だがそうなると……明日は来ないのではないか……

 肩を触れ合ったまま、二人は意識を交わしていた。

 どうだろうな……まぁ……俺たちは明日も警戒してるしかないけどな……

 うむ……

 はるみに励まされ、針越里美という存在も大きくなり、高川典之の精神は多少なりとも前向きなものに転じていたから、遼の伝えてきた言葉にも納得ができた。そう、不安要素のひとつである、演劇部の特別出演という大役を果たしたのだ。彼は遼から肩を離し、湯の入った鍋を両手で持ち上げた。

 教室の前の部分の扉が開き、そこからリューティガーがしっかりとした足取りで入ってきた。夕日の差し込む窓をちらりと見た彼はバルサ材で囲われた厨房に向かい、忙しそうにしている同級生たちへ「ごくろうさまです」と声をかけた。
「こっちは何事もなし……だ……」
 低い声でつぶやいた高川はリューティガーに小さく頭を下げ、空にした鍋を洗いに行くため厨房から出て行った。昨日とはどこか様子が違う。そう感じるのは奴がこなかったという安堵感からくる錯覚だろうか。偉丈夫とすれ違ったリューティガーは、縁なしの眼鏡をかけ直し、流し台をなんとなく雑巾で拭きながら、皿を洗う遼の隣に並んだ。
「明日だな……」
「だね……」
 遼の言葉にリューティガーは頷き、二人は洗い物を続けた。
「さすがに兄弟だな……読み通りじゃん……」
「飯倉公館での会談は明日の午後二時から……その前後に来訪を絞り込めるのだから、警戒は今日よりラクになると考えていい」
 小さな声で弟は兄の行動をそう予想した。それは彼の友人にとってもじゅうぶん納得のいく言葉であり、丼を洗いながら頷いた遼は厨房にやってくる女子生徒の姿に気づいた。
「真錠……」
 自分の名を呼ぶと思っていた彼女の口から意外な名前が出たので、遼は洗い物の手を止めて呆然とした。
 その驚愕は、リューティガーにおいてはより強く、彼は箸を特設の洗い場に落としてしまい、険しい表情を浮かべ、カウンター越しに少女を睨んだ。
「なん……です……か……」
「片付けが終わったら、一緒に帰りましょう。同じ代々木なんだし」
 神崎はるみの提案にリューティガーは強く顎を引き、「ああ」と低い声で返した。


 一年前、やはり学園祭初日の帰り、彼とこの二両編成の池上線電車に乗ったときのことを、神崎はるみは今でもよく覚えている。ぎこちなく言葉を交わしたあと、ついつい甘えてうたた寝をしてしまい、その挙げ句、五反田駅で冷たく突き放されてしまったあの日のことを。
 同じ街に住んでいるにも拘わらず、それ以来登下校において彼と同じ電車に乗ることはなかった。当時はおかしいと疑問に思うこともあったが、現在では納得できるだけの情報がある。それどころではない。なぜ冷淡な態度をとられたのかすら、姉の告白によってすべてを理解している。昨年とは状況がまったく違う。だからこそ、こうして並んで座る今に挑んでみた。
 隣で背筋を伸ばしたまま、険しい表情を崩さないこの同級生は、こちらが秘密を知ってしまったことを知らない。相手が知っていることを知らないとは、まさしく昨年とは逆転した関係であるが、それについては勝ったという気分は微塵もない。

 姉が、彼の仲間を殺した。この国の平和を守るためだったらしい。けど、彼は平和を乱しに来ているわけではない。その点がとてもややこしい。つまり、誰も悪くない。もしかすると間抜けであったり、劣っていることがあったりしたかも知れない。けど、悪くはない。そこだけは勘違いしてはならない。
 膝に乗せた学生鞄の端をぎゅっと握り締めたはるみは、ひとつだけ咳払いをし、それを合図に隣のリューティガーを見つめた。
「なんですか……神崎さん……」
 電車に揺られながら、彼は正面を向いたままだった。
「調達……すごいのね。関根が喜んでたよ」
「当然の仕事をこなしたまでです……」
 なんとも言葉が素っ気ない。これでは会話など続けようもない。それに電車が五反田につけば、彼はそれを期に逃げ出してしまう可能性がある。なにせ瞬間跳躍ができる相手なのだ、時間にゆとりはない。少女は本題を早速切り出してみることにした。
「わ、わたしね……姉がいるの……」
 その言葉に、だがリューティガーは返事をせず、形のいい眉毛をぴくりと動かした。
「政府の仕事をしてるんだけど、最近ね……ほら……FOTっているじゃない……あれの対策部門で働いてるって……知ったんだ」
 どう反応するだろう。はるみが待っていると、リューティガーは血の気の引いた真っ青な顔を向けた。
「そう……ですか……」
 あまりにも青白く、凍りついた表情だったため、少女は息を呑み圧倒されないよう鞄を強く握った。
「す、すごいと思うんだ……テロリストと戦う仕事って……わたしなんか……想像もできない……」
「ぼ、僕にもできませんね……」
「でしょ……そりゃ……テロリストにだって、いろいろと言い分はあるんだろうけど……あ……知ってた? 近持(ちかもち)先生……退院して、いま……遺族会の中心メンバーになってって」
「遺族会……?」
 凍ったままのリューティガーは、思わず声が裏返ってしまった。
「近持先生、ご家族を八年前の銃撃テロで亡くしたんだって……で、最近遺族会が結成されたから、そこに参加してるらしいの……」
「八年前の……銃撃テロ……?」
 口元は歪みきり、声は完全に震えている。なんとなく会話を滑らかにするため持ち出した遺族会の話題だったが、まさかこのような崩れた反応を彼がするとは思わず、はるみは戸惑ってしまった。

 銃撃……カオスか……あの先生の……家族を……

 あり得ない話ではないし、普段の自分であれば、平然と聞き流すような情報である。傭兵部隊であり、当時は第二次ファクトに雇われていたカオスである、いかなる命令も金次第で遂行するのだから、民間人への銃撃テロ程度はいくらでも敢行するし、同盟本部でそういった作戦があったと記録も目に通したことがある。

 だが、タイミングが悪すぎた。神崎まりかの妹が唐突に下校を誘い、姉の秘密を切り出してきたうえ、優しい顔をした初老の担任の顔がちらつく。脈絡がない。だがすべては一本の線で繋がっている。
「ねぇ真錠……わたしは姉さんのことを尊敬してる……危険がないかって心配してるけど……それって……間違ってないよね」
 視線を正面に向け、はるみは言葉を選びながらそうつぶやいた。その瞬間、踏み切りに差し掛かった電車が急ブレーキをかけ、彼女は座ったまま左側の手すりに半身を打ち付け、膝に乗せていた学生鞄を床に落としてしまった。
「あ……え……?」
 バランスを崩したのだろう。たっぷりとした栗色が、少女の膝に鞄の代わりに埋もれていた。
「真錠……ルディ……?」
 突っ伏したままの後頭部はとても綺麗な栗色であり、それが小刻みに震えているのにはるみは気づいた。
「間違っちゃ……いないさ……妹が姉を尊敬するのは……間違ってなんか……ない……」
 その言葉は鼓膜と同時に太腿をくすぐった。
「だよ……ね……」
 思い切ってしまえ。はるみはリューティガーの背中をそっと擦った。
 油断をした。まさか、こみのタイミングで電車がストップするとは。身体の芯が完全にふやけていた。でなければ、戦場で鍛えられた自分が、よもやこいつに倒れ掛かることなどあり得た話ではない。彼は柔らかさを断ち切るため、勢いよく起き上がった。
 たぶん、ひどい顔のはずだ。すっかり心は折れ曲がり、どろどろの際までかき回されてしまっている。
 なんという顔だろう。まるで叱られた子供のようだ。弟の学(まなぶ)がよくこういった顔になる。
 電車の運転は再開し、踏み切りを越えたそれは、とある駅に辿り着いた。
「じゃあ!!」
リューティガーはそう言い放つと、ここがどこであるのかもわからないまま電車を飛び出した。彼がどのような気持ちで膝に埋もれ、それを情けなく感じてしまったのかはわからない。はるみは追いかけることができず、腰を浮かせて閉まった電車の扉に小さく手を伸ばすしかなかった。
「弟……なんだ……」
 小さくつぶやいた彼女は再び座席に座り、床に落ちてしまった学生鞄を拾った。


 学園祭初日も終了したその夜、麻布台にある外務省、飯倉公館近くには、陸上自衛隊と機動隊が合計百五十名ほど配備され、会談前日であるにも拘わらず、外苑東通りは完全に封鎖となっていた。公館前にはサーチライトに照らされた自衛隊の戦車が一両、その威容を周辺住民に示し続けていた。

 公館の裏口に、F資本対策班が誇る移動司令部である、ドレス運用トレーラーが停められていた。その中の指揮ブースで通信をとっていた森村主任は、時おりコンテナ中央でドレスの調整を行うまりかに視線をやり、今夜から明日の夕方にかけて緊張が続くと覚悟していた。
 公館の中には、柴田をはじめとする対策班の捜査官たちが待機していた。いずれも対獣人用弾丸を装填したライフルを装備し、いつでも武装集団が出現しても対応できるように警戒を続けている。細かな変化ですら見落とすな。それが合同司令本部からの通達であり、森村もそれは当然だとは思っていたが、外部モニタに映る東京タワーや、六本木方面の夜景を見ると、なんとも警備し辛い場所であると舌打ちをするしかなかった。
「森村主任」
 作業服を着たまりかが指揮ブースまでやってきたので、森村はネクタイを緩めて彼女に視線を向けた。
「チェック完了です……いつでもドレスは使えます」
「そうか……一人でご苦労だった……」
 メンテナンス技能に秀でているハリエット・スペンサーがこの現場にいれば、まりかの負担も少なく済む。だが横須賀にしてもその前のここでの戦いにしても、常に作戦現場にあの金髪のCIA捜査官は不在であり、最近では事後捜査や証拠採取作業を自ら望んで積極的に行っている。もちろんその点においてハリエットはじゅうぶん以上に活躍し、班の助けにはなっているが、わざわざ海を越えてFOT対応にやってきたにしては、なんとも地味な役回りばかりを引き受けているとも思える。森村は最近になってその事実に違和感を覚えつつあった。
「それと……この作戦図にある……地下水道の空白地帯ですけど……」
 手にした地図の、公館側のあるエリアをまりかは指差した。
「ああ……それは例の、賢人同盟が警備地域から外せとな……つい先ほど通達があったんだ」
「ということは……」
「ああ……その一角に関しては、こちらは侵入してはならない……賢人同盟の部隊が担当するそうだ……」
 となると、また前回の飯倉公館での攻防戦のように、あの少年とその部下たちが地下で待機しているということだろうか。まりかはできれば遭遇は避けたいと思い、だがいざ混戦と乱戦になればそうも言っていられないと、表情を曇らせた。


 まりかが指摘した地下水道の一角には、だが予想した少年の姿はなかった。薄暗く腐った臭いが充満したそこには、口と鼻を白いマスクで覆いツナギ服を着たある者が、設置したライトの灯りを頼りに背丈ほどある大型の機械を点検していた。
 野暮ったいねずみ色のツナギ服ではあったが、そのふくよかなボリュームは女性特有の色気を漂わせ、どぶの中にあって金色の髪と空色の瞳は異彩を放っていた。

 さてと……これであとは……明日の会談を待つだけね……

 森村主任にその不在を懸念されていたハリエット・スペンサーは、彼らから一キロと離れていない地下で、本来の役割を果たすべく作業を続けていた。
 彼女の点検するTAS−2348は、黒光りするドーム状のボディの、いたる箇所に起動状態を示す赤いランプが取り付けられ、それがぼんやりと点滅を取り返していた。本体の一部からはアームが伸び、その先には小さな申し訳程度のシートと、コンソールが設置されていて、ここからTAS−2348の操作は行われる。六月の後半、李荷娜(イ・ハヌル)の小型船によって秘密裏に日本に運び込まれ、埠頭の倉庫にて起動実験が完了したのが九月の末である。設計通りの機能を発揮することは既に確認済みであり、対FOTにおいて絶大なる能力を見せつけることになるであろう、黒い半球型の切り札。そのボディを、ハリエットはそっと撫でた。

 ステーツの威信を……いよいよ明日、示すことが出来る……アルフリート真錠……お前は自由な鳥ではない……カゴと壁を……思い知りなさい……!!

 地上で別行動を取る、あの聡明なる友人のことをハリエットは一瞬だけ思った。ごめんね、まりか。口の中でそうつぶやいた彼女は点検作業を再開し、臭気の底にあって滅入ることなく懸命であり続けていた。

8.
 文化祭二日目である十月九日は朝から雨雲が立ちこめ、開始時刻を一時間過ぎた午前十時の段階で、大雨が校舎に向かって降り始めた。
 初日が大盛況だったため、今日の客足が若干落ちても赤字と言うことにはならない。むしろ収益の結果、来年への繰り越しがより豊かになるか、皆に飲み物や食べ物を振る舞い、いわゆる打ち上げというやつだってできるかも知れない。客からの注文をとりながら、音原太一にはそんなことをあれこれ考える精神的なゆとりがあった。

 登校した段階で、調理班の高橋知恵が風邪のため休んだと聞かされた遼は、「それなら今日一日は、厨房のなかでずっと作業か待機をしている。シフト上の休みは必要ない」と班長の田埜に申し出た。なにせ、いつあいつが現れてラーメンを食べていくかわかったものではない。リューティガーは「遠透視で常に監視をしている。だから君たちが常に教室にいる必要はない」と言っていたものの、だからといって隣のお化け屋敷や、後輩の澤村や春里のクラスがやっているというメイド喫茶で時間を潰すことなどできるはずもなく、とてもではないが、そこまで肝も据わっていない。
「すまんな、島守……では俺は行ってくる……」
 正午直前、雨足もより強くなり、土砂降りの様相を呈してきたころ、厨房の中で高川典之が、割烹着を脱ぎながら遼にそう告げた。
 本日午後より生徒ホールで行われる有志バンドの演奏会、岩倉次郎がベースとして参加しているそのコンサートに、高川は裏方のローディーとして手伝いに行く約束となっていた。遼の知らぬ間に、二人の間で決められた話らしく、それを耳にした彼は、「俺も手伝うよ」と申し出たが、岩倉いわく、「力仕事がメインになるから」といった理由でやんわりと断られてしまった経緯がある。

結構、腕力はあるほうだと思うけどなぁ……

 麺の湯切りを勢いよく行いながら、遼は岩倉たちのバンドがどのようなジャンルの音楽を演奏しているのだろうかと、そんなことをなんとなく考えた。エレキ楽器を使っていたはずだから、ロックかなにかだろうか。いや、そもそも音楽のジャンルなど詳しくもなく、たまに携帯で聞くと言っても、沢田たちが薦めてくれる歌謡曲ぐらいしか知らない遼は、ラップ系アイドルバンドの最新曲をうろ覚えで口ずさみながら、豪雨とは言っても昼は客足が伸びると予想し、廊下に注意を向けた。

いつ……来る……あいつは……

 結局、午前には姿を現さなかった。米国防長官と首相の飯倉公館での会談を妨害するつもりなら、少なくとも会談の始まる午後二時から一時間前後の来訪はないはずである。それまであと一時間。まだまだ緊張は続くと、遼は麺をスープの入った丼に移しながら、「よっしゃ!!」と小さく叫んだ。


 二年B組の教室から一階上の三階中央校舎に、調理教室という、文字通り料理をするための実習教室があった。ここには生徒たちが唯一使用を許可されている大型冷蔵庫があり、今回の学園祭で飲食店の模擬店を出店しているクラスの大半が、材料の保存のため利用している。
 実習用の大型テーブルの上に腰掛けていたリューティガーは片膝を抱え、雨が打ち付ける窓ガラスを眺めていた。冷蔵した食材をとりに来た、科学研究会の後輩でもある野崎という女子生徒は、普段は礼儀正しく大人しい先輩が行儀悪く机の上に座っている姿がなんとも意外であり、だがあれはあれでなんとなく似合っていると思った。

 失態が続いている。もういい加減なれてきてしまったが、遼たちの前で号泣し、よりによって神崎はるみの膝に頭を埋め、自尊心というやつは既にボロ雑巾のようになってしまっている。

 あいつ……わざと鞄を床に放ったのか……僕が固いところに額をつけないようにって……

 もしそうだとすれば、あまりにも情けない。だが、わかっている。彼女はありふれた慈愛と優しさを持った少女である。そもそも悪意というものは微塵もなく、ただ善良で、ただのうのうとしているだけのことである。
 だから余計に許せない。スカート越しに感じた太腿の柔らかさに、「間違っちゃ……いないさ……妹が姉を尊敬するのは……間違ってなんか……ない……」などと弱々しい言葉を漏らしてしまったのが、なんとも悔やまれる。

 すでに、理屈や論理が破綻しきっていることはわかっている。物事を単純に整理していけないから、いまの自分は長きに亘る停滞を続け、任務の遂行にも支障をきたしはじめている。
 今日にしてもそうだ。飯倉公館へは一切関心を向けず、学園祭来訪だけにヤマを張ったこの作戦展開は、もし長期に亘って拠点殲滅の作戦行動に出ているガイガー先輩が東京に帰ってきていれば、無謀であると叱責していただろう。
 いくら兄がふざけた性格であり、このような状況でラーメンを食べに来て、それを阻止できなかったとしても奴の腹と味覚をわずかに満足させるだけの結果である。だが国防長官と首相の会談が妨害された場合、その損害は計り知れない。もしどちらかに優先して警戒するのなら学校など休み、飯倉で待機するのが当然である。

 判断力が鈍っているせいもあった。だがそれだけではなく、昨年のことがリューティガーに重圧をかけていた。

 チャーシューを調理教室から運んで来た途中、奴は廊下で明るく挨拶をしてきた。そして跳躍を重ねた末、互いの手には拳銃が握られ、自分はつい急所から銃口を逸らしてしまったが、兄のそれは確実にこちらの命を奪う角度だったと思える。覚悟の差と言うものを見せ付けられる思いだった。だからこそ一年を経た今日、この場で決着というものをつけたい。窓から南校舎二階、つまり調理教室の床に視線を向けたリューティガーは、下唇を噛み、視覚に繁盛するラーメン仁愛・2005を捉えた。

「ねー、ルディ。ここのチャーシュー、全部もってっていいの?」
 気だるい女生徒の声が聞こえてきたので、リューティガーは視線を動かさないまま、「ええ、鈴あゆさん……右のトレーのやつは全部いいですよ」と答えた。

 そろそろ……行くか……

 ある程度、時間によっては居場所を変える必要がある。リューティガーは雨足を聞きながら、大型テーブルから飛び降りて廊下へ出た。岩倉の演奏を一度聞いてみると約束したのは、一週間ほど前のことだったか。視覚は妨げないのだし、会場はB組の教室からも適度に離れているので、これはいい選択というやつだろう。常人を遥かに超えた視覚は壁を抜け教室に固定したままとし、リューティガーはそれ以外の感覚を頼りに、廊下でごった返す客たちの流れに飲まれつつ生徒ホールに向かった。


 土砂降りは、同じく都内の外務省、飯倉公館周辺でも同様だった。関東テレビの北川洋輔ディレクターは、前回と同様、公館前に建つマンションの一室から、カーテン越しに外苑東通りを見下ろしていた。
 交通封鎖、周辺公共機関の休業、および店舗などの営業禁止。その範囲は米軍再編協議の範囲を遥かに超え、ついに六本木交差点まで達しようとしていた。当然のことながら、経済団体などはその決定に強く反対をしたが、連勝に勢いづく政府当局の鼻息は荒く、結局戒厳令のような状況となってしまっている。
 この部屋の住人である、ファッションデザイナーの六月(むつき)という中年女性の淹れてくれたコーヒーを啜りながら、北川は壁にかけてある時計に視線を移した。
 現在、時刻は十二時半。午後一時には国防長官と首相が車にて到着、二時から会談の段取りである。内容は一連の米軍不祥事への対応なのだが、この後に及んで陳謝や弁明ではない辺りが、いかにも覇権国家米国らしいと北川は感じた。彼はアロハシャツの襟を直し、カメラマンへ撮影準備に取り掛かるよう指示を出した。
 今回の会談は、あくまでもFOTに対する牽制球である。もし反米を彼らが表明するのでれば、米国国防長官は恰好の標的であり、襲撃しないはずはない。危険もあったが、ニューマン国防長官と言えば、一連の中東民主化政策にことごとく失敗し、イラクでも大量の被害者を量産しつづけ、つい最近では軍需産業とのインサイダー取引が暴露され、米国現政権の膿とまで呼ばれているほど立場が弱い。彼の失地回復のためにも、テロに屈せず海を越えての来日は、やっておきたいパフォーマンスであると言えた。
 しかし、それにしてはあまりにも米国側からの護衛が手薄にも見える。公館裏手に姿を現したリムジンを、北川は注目した。すぐに携帯電話を取り出した彼は、公館の裏手側に位置する別のマンションにて撮影をしている別班に指示を出した。
「護衛は三台!? 合計十二名か?」
 携帯に向かってそう叫んだ北川ディレクターは、よもや米国政府が国防長官を生贄にするのではないかと、そんな突飛な発想に苦笑いを浮かべた。「まさかね」そうつぶやいた彼は忙しくなると覚悟をし、携帯電話をもう一台取り出して二台を耳に当てた。


 雨に濡れる赤毛が美しいと思える。それは、この街がいつもよりずっと静かなせいだろう。外苑東通りを望む雑居ビルの屋上、その給水タンクの上に腰掛けていたはばたきは、金網に手をかけて物思いに耽る主を、じっと見つめていた。
 昨日の劇は大盛況であり、主演を演じた彼女にも万雷の拍手が向けられたという。見て見たい気もするが、澤村奈美とライフェ・カウンテットは、自分にとってはあくまでも別の存在であり、どうにも奈美でいる間の彼女を主とは呼びづらいし、向こうもそれを望んでいないだろう。

 緊張している……ライフェ様が……?

 これまで、そう感じたことなど稀だった。金網を掴んだ手も、その肩も微妙ではあるが震えているように見える。確かに知る中では最も重い任務だと言えるが、あの方であれば難なくこなせるはずである。

 金網越しに飯倉公館を見下ろしていたライフェ・カウンテットの脳裏に、ある少年の姿が浮かんでいた。それは命令に忠実で信頼できる、背後から見下ろしている僕ではない。肩まで伸ばした茶髪の、タレ目の彼のことであった。
 奴が任務に使える。そう実感したのは一度対戦した経験からであり、脳裏にわけのわからぬ大量の言語や映像情報を叩き込まれ、数日間は食事もできないほどひどい有様になってしまったという、そんな恨みからでもあった。だが、いざ長助が暗示をかける現場に出くわすと、それはなんとも生々しく痛ましい光景であり、少女の心はそれに動かないほど鈍感ではなかった。

 あいつの……相棒……檎堂か……

 熊のように髭を伸ばし、杖をついていたびっこの男。奴の腹に突き刺した切っ先の感触は、いまでもよく覚えている。年端も行かぬ外見に仕留められた悔しさが向けられると当然思い、言い返す嫌味も用意していた。だが、彼が最後に残した言葉は、「最後に聞けたのが……女の子の声だなんつーのは……俺には過ぎてるってことだ……」といった自嘲であり、だからこそ思わず一礼をしてしまったライフェだった。

「ライフェ……様……」

 翼がひとはばたきする音と風圧を背中に感じた少女は、金網を手にしたままでいた。
「作戦決行まで……あと一時間です……」

 返事もなく背中を向け続ける少女に、少年は背中の羽を大きく広げ、彼女の全身をそれで包み込むように覆った。
「雨が……強くなってきました……」
 だが返事はない。こうなると緊張ではない、苛立ちである。はばたきは主の心がどう動いているのか、それをよく知っていた。しかし、だからといってしなやかに対するほどの経験はまだない。少女を殴りつけてくる雨から守りながら、少年は両の拳を握り締め、抱き締めたくなる衝動と戦い続けていた。


 午後二時、雨足は相変わらずの勢いだった。公館裏口に停められたトレーラーの中で、遠雷をヘッドフォンから聴いた森村主任は、切り替わった通信で首相と国防長官がともに会談の間に到着したと、同僚の柴田から伝えられた。

 午後二時三分、一台の二トントラックが、赤羽橋方面から桜田通りを北上し、検問を破り突進してきた。この知らせはただちに自衛隊、機動隊に入り、彼らは通りに部隊を展開させ、水平射撃の体勢に移った。
 だがトラックは、桜田通りと外苑通りが交わる飯倉よりもっと手前の、とある大使館付近で急ハンドルを切り、その塀に激突、炎上をした。後に運転席からスーツ姿の白人男性が、衝突直前にトラックから降りたとF資本対策班に報告があったが、あまりにも炎上の規模が大きく、人相の確認まではできていない。
 豪雨の中、燃え盛るトラックの荷台から骸骨の化け物が姿を現したのは、機動隊員が衝突現場に駆けつけた直後だった。
 黒い革製の防火スーツに全身を包み、いずれも筋骨隆々の偉丈夫であり、顔面は髑髏そのものである。数にして二十。両手には重火器を手にし、一斉に、そして整然と射撃を開始した彼らは瞬く間に数十名の機動隊員を肉片と化した。
 市街戦の開始であった。対策班の移動指揮車であるトレーラーからは赤い人型が飛び出し、桜田通りを目指した。それとほぼ同時に、警戒エリアのすぐ外である六本木ヒルズの前では、臙脂色の詰襟に坊主頭の関名嘉篤が豪雨の中、仲間に囲まれて演説を開始した。
「諸君!! ついに戦闘が開始された!! 憎き米帝の国防長官との会談を阻止するため!! 真実の徒が武力闘争を開始したのである!!」
 白い手袋の右手を振り上げた関名嘉に、文化祭を病欠した高橋知恵は傘を差し、じっと寄り添っていた。

 音楽というものはよくわからないが、岩倉次郎のリズムセクションは、技術の至らなさを健気さで補っていたと思える。もちろんこれは自分が彼の友人だからという理由もあり、点在する他の客にその補正はかかってはいないのだろうとリューティガーは判断していた。拍手をしながらパイプ椅子を立ち上がった彼は、小走りにステージ横の入り口に向かい、その扉を開け、バックステージを駆け上がった。
「お疲れさまです、ガンちゃん」
 無邪気な笑みと暖かな拍手に、機材を片付けていた岩倉が照れながら振り返った。
「お、お恥ずかしい……ルディに聞かせるような……レベルじゃなかったね……」
「そ、そんなことありませんよ……」
 バンドの他のメンバーは、誰も岩倉に話しかけようとせず、機材をまとめてそそくさと舞台から出て行ってしまった。リューティガーはそんな態度に違和感を覚えつつ、バッグを肩から提げた高川に意を向けた。
「そろそろ会談が始まる時間だな……ガンちゃん……」
「う、うん……」
 そのための合流である。岩倉はテレビ付きの携帯電話を取り出し、高川の促しに応え、リューティガーもその画面を覗き込んだ。

 緊急ニュース。そんなテロップが左上に表示されていたが、映されている風景は、豪雨の麻布界隈だった。三は一様に緊張し、通信機のコール音を耳にしたリューティガーは、ポケットからそれを取り出した。
「陳さんですか? はい……ええ……こちらでも確認中です……!!」
 舞台には三人しかおらず、生徒ホールを使った出し物も岩倉の所属するバンドが最後だったため、リューティガーは辺りに注意をすることなく声を上げていた。
「ルディ!!」
 叫ぶのと同時に岩倉が差し出した画面の中で、狼煙のように煙が上がっていた。陳からの情報と総合すれば、考えられることはただひとつ。FOTによる飯倉公館での妨害工作が遂にはじまったということである。こうなると学園祭に兄が現れる可能性はまずなくなる。さてどうする、すぐにでも遼や陳と合流し、麻布へ跳ぶべきか。

 神崎まりかの赤い人型が、リューティガーの脳裏を掠めた。

 たとえ現場に跳躍したところで、あの化け物がすべての手柄を奪ってしまうのである。それどころか三度に亘って危機を救われるという失態すらありえる。背中を撫でる妹の手と、機関砲を構える姉の冷たい金属に覆われた腕。その二つがリューティガーをその場に縛り付けていた。

9.
 途中駅で降りたところで、彼は家まであっという間に帰ることができる。テレポートだか、テレポーテーションだかよくわからないが、そんな不思議な力があるということは知っている。けど、そんなことができたところで、彼は癒やされないのだろう。とてもではないが許容などできなかったはずである。にも拘わらず、栗色の髪を突っ伏したままだったということは、相当疲れてしまっていたということなのだろう。
 遼からまわってきた丼に具を盛り付けたはるみは、昨日の帰りのことを思い出していた。

 いつまで、彼はあの淀みの中にいるのか。立場さえなければ、姉と対峙して決着をとなるはずだが、敵を同じくしている現在ではそれも無理なのだろう。
「神崎さん!! のびるって!!」
 沢田喜三郎が、ぼんやりとしていたはるみの前から出来上がったラーメンを奪い、それを店員の西沢速男(にしざわ はやお)にカウンター越しから手渡した。
「ご、ごめん……沢田……」
「休憩してきてもいいんだぜ。朝からずっとなんだし」
「う、ううん……平気……」
 元気なくそう答えたはるみは、ふと隣の遼と目を合わせた。
「疲れてんのか?」
「う、ううん……それより……」
「ああ……そうだな……」
 はるみに促された遼は麺を茹でる田埜に向かって、「テレビ点けるよ!!」と合図をし、流しの横に置いた小型テレビのスイッチを押した。
 画面には、煙が上がる麻布の遠景が映し出されていたので、遼とはるみは共に緊張し、肩を触れ合わせた。

 はじまったの……?

 ああ……飯倉公館ってとこの近くだろ……また……戦争だ……

 液晶画面に、テレビの持ち主である沢田とこの場を取り仕切る田埜班長も注目した。もし、あちらのテロ現場に白い長髪の青年が現れれば、関根の言っていた来店はない。昨日も待ちぼうけをくらわされたが、今日もそうであれば、一部の生徒には関根を糾弾すると息巻いている者もいる。さすがにそれは可哀想だと思っていた沢田だったが、なんとなく、根拠こそないが真実の人はここにラーメンを食べに来るような、そんな確信もあった。

 沢田がいつまで経っても変化のないテレビから視線を外すと、カウンター越しの店内の更に向こう、廊下にある女生徒の姿を見つめた。

 えっと……となりの……伊壁さん……?

 気の強そうな太い眉毛に可愛らしい大きな目がアンバランスな、その女生徒の存在を沢田はそれとなく意識していた。評判の仁愛ラーメンを食べに来たのだろうか。なら一番美味しいと思われる、この分厚いチャーシューをサービスしようか。そんな下心に彼が浮かれていると、伊壁志津華の背後に黒いスーツ姿の青年がやってきた。

「え……?」

 沢田の漏らした声に、遼とはるみも店外へ注目し、背筋を凍らせた。ざわつきは店内の喧騒だけではない。廊下でも声が上がり、人々は口々に「FOT」、「真実の人」とつぶやいていた。
 遂に来た。リューティガーの予想通りである。だが脇のテレビでは銃撃戦を伝えるアナウンサーの絶叫が続いている。遼はタイミングに関してはまったくの予想外となる青年の来訪に、ポケットから携帯電話を取り出し、岩倉へメールを早打ちした。
 呆然と振り返っていた志津華を避け、教室に入ってきた白い長髪の青年は店内にいた小柄な男子生徒を見つけ、「やぁ……こないだの夜以来だね……」と優しく声をかけた。その言葉に関根は、全身に電流が走ったかの如く直立不動となり、「ご注文は!?」と叫んだ。
「もちろん、ラーメンさ……ラーメン一杯おくれ……」
 店内を見渡した真実の人は、自分を注目するあらゆる視線にくすぐったさを感じていた。そう、極悪非道のテロリスト、その指導者に対する目ではない。これは驚きと、意外さと、そして羨望の込められた眼差しである。
 このとき、教室にいたB組の生徒は、厨房の中に田埜、はるみ、遼、沢田の四人、調達のためたまたま戻ってきていた向田に我妻、修繕のため資材を運んで来た麻生と吉見英理子、そして店員として働いていた、関根、川崎、崎寺、内藤の、計十二名であった。
 テーブルに着いた真実の人は頬杖をつき、右目を閉ざした。
「き、来てくれて……ありがとうございます!!」
 そう挨拶した関根に青年はにっこりと微笑み返すと、厨房の中で愕然としている遼とはるみに赤い瞳を向けた。

 ど、どういうことだ……!!

 だ、だから……ラーメン食べにきたんでしょ……

 そ、そりゃそうだけど……会談の妨害は……いいのかよ……

 部下に任せているということか。キティホーク入港の際にこの青年の姿はなかったため、それもあり得る。高川が言うには、「最近では政治的な表明は、音羽会議の関名嘉という男が代役をしているようにも思える」であり、ならばこの重大時に、のほほんとラーメンを待つ指導者とはいったいどのような精神構造をしているのだろう。遼は敵がますますわからなくなり、作業の手も完全に止まっていた。
 リューティガーの到着を待たず、ここで奴の静、動脈を切断してしまうこともできる。目の前にいるのだ、少し集中すればそれほど難しくはない。
 だが、赤い瞳はじっとこちらを見つめたままだった。あいつがこちらの「異なる力」を知らないわけがないのだから、もし集中しようと眉間に皺でも寄せようものなら、瞬く間に姿を消してしまうのではないだろうか。それではだめだ。ラーメンを注文してから食べ終えるまで、早くても十分はかかる。その間、勝負どころはいくらでもあるはずで、今はその機ではない。
 様子を窺う遼の横で、田埜綾花は小さくやや太った身体をいっぱいに動かし、味噌スープを専用の機具で混ぜ、同時に麺を湯切っていた。なんだかよくわからないが、自分は調理をするのみである。彼女の考えと行動は、いたってシンプルなものだった。

 
 桜田通りにトラックの衝突、炎上とともに出現した髑髏の怪物たちは、絶大な火力で機動隊を圧倒していた。自衛隊は戦闘車両の運用を合同司令部に打診したが、それに待ったをかけたのは、F資本対策班主任、森村肇だった。
「切り札が殲滅する!! 陽動の可能性も高い!! 警戒は全方位に!!」
 森村は軍人ではなかったが、度重なる経験によってテロリストやゲリラとの戦い方はよく知っていたし、豪雨の中、まるでスプリンターのように軽快に外苑東通りを疾走する赤い人型を見てしまっては、それに反論する指揮官はいなかった。

 いままでの獣人たちとは違う……決戦仕様の軍事行動用……

 バイザーに映る髑髏の怪物の情報を総合しながら疾走するまりかは、敵の本気の度合いというものを計っていた。これは自分の仕事である。徹底的に、一人残らず殲滅する。いまごろ、妹は学園祭だろうか。確か芝居をやるといってたが、それは昨日のことだったっけ。
 煙が上がる桜田通りまでやってきた日本政府の切り札は、眼前で銃器を構える黒き集団に叫んだ。
「お前たちなんかー!!」
 同時にドレスの加速用背面スラスターが点火され、雨粒を跳ね返しながら、赤き死に神殺しが宙に舞った。
 左手に装備された機関砲がトラックの残骸に隠れる化け物を粉砕し、左手より放たれた空気圧縮爆弾(エアプレッシャー・ボム)が一体の髑髏を押しつぶし、彼女は着地と同時に自らの周りに物理フィールドを張り巡らせ、敵の弾丸を弾いた。一部、加速状態に恵まれた弾がフィールドを貫通したものの、彼女の柔肌にそれが触れることはなく、特殊合金によって幾層にも重ねられた赤い装甲を傷つけるのがせいぜいである。
 どうやら実戦投入ははじめての獣人らしい。なら、行動に淀みがある。この戦、負けるはずがない。軽い興奮を覚えながら、まりかは背中に装備されたブレードを引き抜き、恐れの色を髑髏に浮かべた怪物たちに向かって突撃した。


 英雄の奮戦は、戦況を一変させていた。なるほど、今回も力押しだったか。それにしても今度の真実の人は、どうにも策と言うものが拙い。会談の行われる広々とした部屋で、ニューマン国防長官は、秘書からの戦況報告を聞き、白い口ひげを撫でた。
「Mr.国原……しかしこれでは会談どころではないな……」
 何気ない一言を、国防長官は対座する内閣総理大臣に向けた。国原総理はハンカチで額の汗を拭き、でっぷりとした腹をひと撫でした。
 来日の意図は明確である。当初の情報では在日米軍の不祥事について、国防長官が謝罪するとの見方もあり、外務大臣などはその点をして会談要求を受諾するべきだと言ってきたが、そのようなことはあくまでも餌か枕であり、あくまでも本題はFOTという反米テロリストが、「日本国内の政府武装勢力」として台頭してきたという点についての公な場での認定である。国原は内閣府の情報部門からの報告を総合し、今朝の段階でそれを確信していた。
 イスラムテロ組織とはまったく文脈の異なる、あくまでも日本民族の対等なる外交を標榜するこの新種のテロは、その名を継いだはずである第二次ファクトとは別物と考えなければならない。それは日米政府の共通した認識ではあったが、日本としてはFOTを国内勢力として認定される事態を、なんとしてでも避けなければならなかった。

 まさか……幸村の件を……持ち出すわけじゃないだろうな……こんにゃろうめ……

 腹から手を離した総理は、余裕の笑みで親指の爪を弄る禿頭の白人を見据え、強く咳払いをした。民声党前幹事長、幸村加智男(こうむら かちお)があの白い長髪のテロ指導者と密かに通じ、ロシアへの交渉ルートの便宜立てをしたと彼が知ったのは、料亭「いなば」でのヘリ墜落事故の一週間前のことである。それだけではない、やはり民声党の長老議員であり、闇将軍と称される木田清造、仲辺元哉の二名も幸村を通じ、なんらかの関係があったと聞く。派閥のパワーバランスの偶然から、器に合わない棚ボタ総理である国原には、信用できる内部情報ルートというものが存在していなかった。だからこそ、不明瞭な情報に彼は振り回され続け、いったい真実の人の影がどこまで民声党に延びているのか、ほとんど把握していなかった。
 もし、幸村たちが真実の人と強く結びつき、それが日米同盟の根幹を揺るがすような国益に反する行為の手助けをしていたのならば、米国政府はFOTを単なるテロリストではなく、内紛によって力を付けた、日本のある一部の意志を反映した組織として認定してしまうだろう。そうなればいかなる外交政策に打って出るのか。政策秘書の一人は「再占領」などと奇抜な言葉を口にしていたが、笑い飛ばせる話ではない。

 どこまで、この古だぬきは情報を掴んでいる。そしてどう出るつもりだ……

 国原は外の戦闘のことなどとうに頭から抜け、いっそ会談中止をこちらから切り出してしまおうかと決意しようとしていた。

 そんな内閣総理大臣の目の前、米国防長官との間を遮るような形で、「それ」は突如姿を現した。
 黒い背中に、白く長い頭髪がたっぷりこぼれている。これはそう、今話題の真実の人(トゥルーマン)である。冗談じゃない。なんだ、この唐突さは。いや、確かこの真実の人には、壁を抜けてどこにでも出現するという、不思議な能力があると報告を受けていた。確かその際、「おいおい……それじゃ私もおちおちトイレに入っていられないじゃないか」と半信半疑で冗談で返したところ、F資本対策班の竹原班長は沈痛な面持ちで、「まさに、その通りなのです……奴がその気になれば、いかなる暗殺も可能なのです。情けない話ですが、我々は彼の児戯めいた行動に期待をしなければならないのです。いくらなんでもそこまではしないだろう。と」ええい、後半部分はよく覚えていない。とにかくあの太ったサスペンダーの内閣捜査官は、そんな絶望的なことを口にしていた。ってことは、アウトか? いくら外からの武力を防いでも、結局テロは成立してしまうのか。内閣総理大臣は狼狽し、あくまでも職務に忠実な日米両国のシークレットサービスが一斉に拳銃を引き抜き、総理と国防長官の間に現れた青年に発砲した。
「残念……これが無意味なんだな……今日に限っちゃ……」
 弾丸は、全弾が綺麗に命中したはずである。現に青年の頬には黒い穴が開いている。だが彼はポケットに突っ込んでいた両手を出すと、軽やかな身のこなしで国防長官を庇おうとするシークレットサービスに回し蹴りを食らわせ、空中に飛んだ。
 着地した青年は、ソファで硬直する国防長官の背後で手刀を構え、それを彼の首筋に当てた。これでは発砲できる者もおらず、会談場所である室内に緊張した空気が張り詰めた。
「残念だったね、国防長官……なかなかいい手だとは思うけど……」
 青年から英語でそういわれた長官は、顔面を蒼白にして「あり得ない……信じられん……」とやはり英語でつぶやいた。
「貴様!! バカな真似はよせ!!」
 立ち上がった国原総理は、国防長官の首筋に手刀を当てる白い長髪の青年に向かって叫んだ。
「総理、運がなかったな。キャリアに大きな汚点が残ることになるが、これもこの国が変わるためには避けられない道なんだ。隷属を断つために……いや……またいずれゆっくりと話そう……」
 青年の手刀が、いつの間にか鋭利な物へと変化した。恐怖に蒼白となった国防長官の頭部は、一閃されたそれによって切断され、禿頭が絨毯の上にごろりと転がった。
 同時に、返り血を浴びた白い長髪目掛けて護衛の者が一斉に発砲した。だが青年の姿は急速に低く、小さくなっていき、やがて床と同化するようにその場から消えてしまった。
 突風と共に忽然と消える。そういった報告を受けていたシークレットサービスの一人は、あまりにも情報とは異なる青年の「消え方」に愕然としたが、それよりも自身が護らねばならぬ存在が呆気なくテロによって惨殺されてしまった事実に戦慄していた。

 一斉に遺体へと駆け寄る屈強な男たちをぼんやりと見つめながら、国原総理は力をなくしてソファに倒れこんだ。もう終わりだ。なぜ任期中にこのようなテロに巻き込まれる。国原は自分の進退問題を先ず心配し、その次にこの国の先行きを憂慮した。
 米国防長官飯倉公館にて暗殺。それは、遥か離れた仁愛高校二年B組の教室で、国防長官殺害を果たした青年と同じ姿の「彼」が、一杯のラーメンを待ちわびているのとまったく同一の時刻に発生した事件だった。

 六本木ヒルズの前で拳を振るっていた関名嘉は、傍らの高橋知恵が指で小さく合図をしたので、大きく頷いて土砂降りに向かって吼えた。
「米帝の将、ニューマン国防長官がたったいま死んだ!! 正義の怒りの刃に斬首されたのである!! 奴は米軍が我々に与える苦痛に対し、一切の謝罪などせず、のうのうと正義の糾弾に訪れたため、真実の罰を受けたのである!! 我々は独立したひとつの国家であるからして、隷属の鎖は自ら断ち切らねばならんのだ!! 今後も真実の改革は続いていく!! 賛同せよ諸君!! 賞賛せよ諸君!! そして米帝どもよ!! いつまでもこの国を占領地と思うなよ!! 日本の土を踏むのなら、相応の覚悟をせよ!!」

 豪雨であったから、関名嘉の叫びに耳を傾ける者は取材にやってきた報道陣だけだった。そして正にこのアジテーターの発言こそが、ニューマン国防長官殺害を知らせる第一報となった。裏づけがとれた瞬間、記者やテレビクルーは騒然となり、眼前で情報確認に右往左往する彼らを見て、関名嘉は声を上げて笑った。


 リューティガーは舞台裏で躊躇していた。岩倉の携帯画面ではテロを報じるニュース映像が流れ続け、遼から届いたメールには、「教室に真実の人が来た。いまラーメン待ってる」と記されていたからである。しかし逡巡は時間にして十秒程度のことであり、彼はすぐに岩倉と高川の前から駆け出した。
 跳躍をしては、出現を学園祭の来場者に目撃される可能性がある。それを考慮しての行動だった。生徒ホールを抜け校舎に入り、階段を駆け上がりながら、弟は兄をどうするべきか考えていた。

 もし厨房にいる遼に兄さんが気づいているなら……暗殺は難しい……

 それほど「速い」跳躍を兄は身につけている。「異なる力」で急所を破壊しようにも、意識を集中するだけで彼は姿を消してしまうだろう。ならば廊下から狙撃するか。いや、その装備を校内には持ち込んでいない。弟は兄の来訪を的確に予想はしていたものの、実のところ現れた際、具体的にどう対応するかについてはまったく計画を立てていなかった。
 それほど、ここしばらくのリューティガーは判断力も計画力も低下し、ガイガーや健太郎も長期に亘って国内拠点の殲滅に出てしまっている以上、そんな彼を的確にフォローできる者はいなかった。

 教室近くの廊下まで駆けてきたリューティガーは、生徒や来場客たちがざわついているのに気づいた。さすがに兄も有名人であるから、この騒ぎは当然だろうと思ったが、皆が口々に「消えた……」「どこに行ったんだ」などと言っていたため、彼は愕然となって教室に飛び込んだ。

「真実の人は!?」
 そう叫んだリューティガーに、教室内にいた生徒たちは「消えちゃった……」「い、いない……」と頼りなく呻くように答えるばかりだった。
「ラーメンを出したら……料金を置いて……丼と箸を持ったまま……突然消えたんだ……」
 関根の説明が、一番情報量に富んでいた。丼を持ってどこに消えたというのだ。リューティガーは栗色の髪を振り乱し、厨房の中へと駆け込んだ。
「遼!!」
「あ、あいつ……こっちをじっと見てた……」
「そ、そうか……」
 厨房に置かれた小型テレビでは、国防長官殺害の巨大なテロップが表示されていた。それに気づいたリューティガーは顔を青くして画面を凝視した。
「な、なんだと……」
 ニューマン国防長官、飯倉公館会談現場にて殺害される。犯人は真実の人。突然会談現場に現れた彼は長官の首を切り落とし、再びその場から姿を消したというのが報道の概略だった。しかし現在も獣人との交戦は外で継続中とのことでもあり、情報は錯綜し、報道自体も混乱を極めていた。

 ラーメンを食べに来たのも、国防長官暗殺も同時。そのようなこと、いくら胆力のある兄であっても考えられることではない。弟は自分が震えてしまっている事実に気づき、堪らず傍にいた人の手を握り締めてしまった。
「真錠……」
 突然手を握られたはるみは、だがそれ以上拒絶をすることなく、愕然とし続けるリューティガーの横顔を見つめていた。

 突風が、リューティガーとはるみ、そして遼の額に吹き付けた。店内でうろたえる関根のすぐ傍に、白い長髪がなびいた。
「あ、あ、あ……」
「美味しかったよ……来年もまた……」
 空の丼と箸を机に置いた青年は関根にそう声をかけると、厨房にいた弟に片目を閉ざした。
「貴様ぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 厨房から、左手を伸ばして栗色の髪が振り乱された。掴みかからんとする獣のような形相の弟に、だが兄は余裕を微塵も削られることなく、彼は再びその場から忽然と消失した。机に激突したリューティガーはその場に膝をつき、床を拳で叩いた。
「くそ!! くそ!!」

 無計画の結果がこれである。来るとわかっていたなら、陳に仕掛けを頼んでおくなり、切り札の遼は決して教室にはいさせないなど、細かな指示はいくらでも出せたはずである。まったくの無策など、これまでの自分なら考えられない失態である。ようやくそれに気づいてしまった。僕は愚かだ。

 廊下から、少女はすべてを見ていた。あまりにも悔しがり、あまりにも怒りを顕わにしている。まさか彼は、あの白い長髪の青年にサインでも貰いたかったわけではないのだろう。少女は残された未送信のメールに記されていた“お前”が誰であるのか、確信を得たように思えた。
 伊壁志津華は花枝の携帯電話を握り締め、床を叩き続けるリューティガーをじっと見つめ続けていた。

 
 国防長官暗殺の知らせは、骸骨の化け物を殲滅中のまりかをはじめ、今日この日のために護りを固めていた全員に衝撃を走らせていた。中には僅かではあるが、あの指導者の能力的な特性を考慮すれば、この事態はじゅうぶんにあり得たのだと落胆する者もいたが、まさか直接の暗殺という、これまでにない具体的なテロに出てくるとは予想していなかった者が大半だったため、あちこちの通信回線で怒号が鳴り響いていた。
 だが、全員の中で最もこの事実を受け入れられなかったのは、唯一地下にて計器類を操作していたハリエット・スペンサーその人だった。インカムを装着し、美しい顔を歪ませた彼女は、ブロンドが乱れるのも構わず、何度もモニタに映し出された“OK”サインを確認し、その都度計器類の数値を照らし合わせた。
 おかしい、起動実験と同様の結果であり、故障などはしていない。すべての機能は十全に発揮され、このTAS−2348は本来の役割を果たしているはずである。なのになぜ、真実の人は公館内に跳躍することができたのだ。“跳躍防壁”は完全である。それは組織だけではなく、同盟の技術陣によっても裏づけされた、究極の新技術のはずである。ハリエットは臭気を防ぐマスクを外し、それを地面に投げ捨てた。

 どこからともなく、低い太鼓の音が下水道に響き渡った。コンソールを操作していたハリエットは拳銃を引き抜き、外付けのシートから立ち上がった。

 閃光が、下水道の奥から水平にTAS−2348の黒いボディ目掛けて伸びてきた。だがハリエットは冷静に拳銃を構えたままであり、次の瞬間、轟音と共に光が半球体のTASに直撃した。
 それは「雷」だった。TASは数秒ほど電撃を浴び続け、やがて煙を吹き出してモニタはなにも映し出さなくなり、計器類の数値は消失したか、狂った値を刻んだまま停止した。
「ばっかだなぁ……そんな鈍重な機械に護衛もつけないなんて……おいらの雷の餌食じゃないか」
 両手に金属製のスティックを握り、背中にいくつもの小さな太鼓を装着した、アフロヘアーの少年が下水道の彼方から姿を現した。彼の名は、「しびれ・ピッカリー」FOTの攻撃要員であり、遼やリューティガーたちよりもずっと幼い、あどけなさを残す子供である。だが、その戦果は地上で殺戮される新型獣人よりも遥かに大きかった。黒き新兵器は完全に沈黙し、その内部機能はあらゆる箇所に限界を超えた負荷がかかり、修復には相当の時間が必要である。そしてなにより、それを操作していた美貌のCIA捜査官も、シートにぐったりとしたまま倒れ、おそらくは感電死をしているはずである。
 ピッカリーは慎重であったから、遠くから黒い半球体と全身から煙を上げているハリエットを観察していた。それにしても派手にしびれたものだ。美人だったという噂だが、あれでは見るも無残な躯と化したことだろう。
 すると、少年のちょうど足元にあたる下水の中から、突如とした人影が立ち上がった。汚水の飛沫を浴びながらピッカリーはスティックを構え、背負った太鼓を鳴らした。
 銃弾が雷の障壁によって弾かれ、ピッカリーは堪らずTASが鎮座している陰へと逃れた。なぜ奴が水の中から出てきた。拳銃を構える濡れた捜査官に彼はわが目を疑い、シートでぐったりしているもう一人の同一人物を見上げた。

 うっそ……

 シートで黒こげになっているはずの彼女は、だが恐ろしい怒りの形相で拳銃を構えていた。どこも怪我をしていない、このようなことはあり得ない。いったい何が起きたのだ。「電々太鼓」を乱れ叩き、ピッカリーは二つの方向から飛んで来る弾丸を次々と弾き、最後のひと叩きで下水へ雷を落とした。
 落雷の轟音と同時に、下水が沸騰して周囲に臭気と水蒸気を撒き散らした。その見通しの悪さを利用して、ピッカリーはその場から逃走した。理解し難い事態が発生した場合は全力で逃げろ。それが彼の主である、ジョーディー・フォアマンの教えだった。

 取り逃がしてしまったか。TASも破壊され、その機能不全の原因もこれでわからなくなってしまった。拳銃をホルスターに納めたハリエットは、すっかり汚れきってしまった自分に顔を顰め、黒い半球体を見つめた。シートに座ったまま拳銃を構えていたもう一人の自分は、やがて蜃気楼のようにゆらゆらと姿を消し、拳銃だけが実体を残したまま地面に落下した。それを拾い上げたハリエットは、思い切り壁を蹴り上げた。
 やはり単独行動は限界がある。地上で奮戦中の彼女にそろそろすべてを打ち明け、共に戦う時期が来ているようだ。彼女なら、きっと理解してくれるだろう。「異なる力」を持つ者同士、力を合わせることはできるはずだ。問題は、組織の了承がとれるか否かであり、それに思い至った彼女の表情は、怒りから憂いへと曇っていった。

 地上では最後の骸骨を念動力で粉砕したまりかが、豪雨の中、桜田通りで立ち尽くしていた。よもやの真実の人出現、国防長官殺害。やはり目の前で泡と化していくこの集団は囮だった。もし自分がSPとして会談現場に同席していれば、あるいは暗殺は防げたかもしれない。直接的な武力対決の勝利で、野戦に注力し過ぎた結果がこれだ。黒いバイザーを開けたまりかは、悔しさで豪雨に向かって叫んだ。

 外務省、飯倉公館の中では国防長官の遺体が搬出され、現場検証が米軍立ち会いのもとはじまっていた。森村主任はその現場指揮を担当し、警察に指示を出し、米軍関係者に事情を説明していたが、やるせない喪失感がどんよりと彼の心にまとわりつき、その顔色に精彩さは欠けていた。

 公館対面のマンションの一室では、北川ディレクターが携帯とインカムに次々と入ってくる情報に翻弄されていた。真実の人が日本刀で斬首した。忠犬隊の二代目我犬の初仕事だった。国防長官は影武者で、夜には生存会見を行う。どれが本物でどれが偽物なのだろう。こうなると結局は警察発表だけが頼りであり、報じる側としてはなんとも情けない結果であると、それが悔しかった。だがはっきりわかっているのは、米国の国防長官が日本においてテロに晒されたという一点である。報道局内では最近、米国政府がFOT問題をタテに、内政干渉をしてくるのではとの見方が強くなっていたが、どうやら今回の一件はその最終的なきっかけとなってしまったようである。いったい日本はどうなってしまうのか。そんな一般視聴者のような漠然とした不安を彼は抱え、豪雨に濡れる公館をカーテンの隙間から凝視し続けていた。

10.
 ど、どう考えても……同時刻だよ……この教室に来たのと……暗殺があったのと……

 液晶テレビを手に情報をまとめた岩倉が、騒然とする廊下で遼と高川にそんな結果を肩越しに伝えていた。

 真実の人が二人いるって? 冗談じゃない……

 しかし……それを否定するだけの材料がないのも、事実ではないのか?

 高川の意見に遼は小さく頷き返し、教室の中で後悔に床を叩き続けるリューティガーに視線を移した。
 してやられた。そう悔やんでいるのだろう。もっと上手く計画を立てられなかったと自分に腹を立てているのだろう。しかしあの姿は尋常ではなく、関根たちも奇異な目で見つめている。このままでは疑われてしまう。そう判断した遼は、岩倉と高川から離れ、教室に戻った。

 兄と戦っている。そんな話こそ聞いてはいたが、実感はあまりなかった。だけど、今ならわかる。彼と自分には同じく抱えてしまっていることがある。だから本来は分かり合えるはずだ。厨房の中からはるみがリューティガーを見つめていると、やってきた遼が彼の背中を擦った。

 関根たちがおかしいと思いはじめてる……そろそろ……立とうぜ……

 僕は……僕は……僕は……

 わかってる……俺たちの力も足りなかった……みんな……どこかぼんやりとしちまってたんだ……このタイミングで来るなんてあり得ないって……だから意表を突かれた。それ以前のことだって、お前は悔やんでるんだろうけど……そこまで責める奴はいねぇ……誰もな……

 遼……

 それよか……公館で暗殺が起きたんだ……そっちに行かなくていいのか?

 う、うん……僕と……陳さんで行ってくる……

 俺は……ついてくか?

 い、いや……悪いけど遼はここの事後処理を頼む……高川くんたちと一緒に……あまり騒ぎが広がらないように……できる範囲でいいから火消しを頼む……公館の事件に目を向けさせるべきだ……

 わ、わかった……やってみる……

 はるみにも手伝ってもらったほうがいいだろう。背中から手を離した遼は、腰を上げて厨房にいた彼女を見つめた。だが、はるみの目は頭を振りながら立ち上がるリューティガーに向けられていた。遼はそれがなぜだか意外に感じ、なにやらもやっとした気持ちに鼻を鳴らした。

 
 豪雨であり、叩きつけるような雨音に周囲は包まれていたが、ヘッドフォンから聞こえてくる真実の音は、それを打ち消してしまうほどの興奮を全身に与えてくれる。
 マンションの扉の前で、上気して頬を赤くし、薄い唇をぺろりと舐めた高橋知恵は手にしていた傘をその場に放ると、ぎこちない挙動でMP3プレイヤーの停止ボタンを押した。
 今日の彼は本当に素晴らしかった。声の調子もよく、自信に満ち溢れ、なによりも色気というものが醸し出されていた。自分もがんばらないと、彼を助けるため、できることはなんだってやってみせる。時刻は午後七時を越えていたが、夜という点はかえって好都合だろう。少女はインターフォンのボタンに細い指を伸ばし、口元に笑みを浮かべた。

 もう何日、こうして部屋に閉じこもっているのだろう。食事と排泄以外はベッドに横たわる日々が続き、自分はそこまで落ち込んでもいいはずだと、比留間圭治は開き直っていた。今日は学園祭の二日目だが、どうなろうと知ったことじゃない。ボートの上で身体を求め合う、あのような光景を目の当たりにしてしまったのだ。ショックで閉じ篭もっても許されるはずである。どうせ、真錠あたりがうまいこと処理してくれているだろう。音原が何度か訪ねてきたようだが、誰とも会うつもりはない。そう、復讐のプランが練り上げられるまで、ここから出ることはない。

 まずどうする。真っ暗な部屋で、彼はベッドに座り込んで親指の爪を噛んだ。

 関名嘉の秘密を握り、それをマスコミにリークしてやるか。しかし下っ端の自分は何も知らないに等しいし、高橋知恵とのことも、ああまでもオープンにしてしまっている以上、今更スキャンダルにはならない。
 毒でも一服盛るか。じわじわと弱らせ、苦しませ、証拠が残らないよう巧妙な仕掛けをやってみるか。そうだ、それがいい。青森のおじいちゃんを訪ねて農薬を手に入れてもいい。その上で、音羽会議の実権を簒奪するのも悪くない。そしてトップに立った暁には、あの魔性のメスに報復してやる。散々こちらの純情を弄び、その気にさせて思わせぶりな態度で騙し続けていた、あの女に復讐をしてやる。できるだけ凄惨な方法がいい。昔、図書館で犯罪のルポルタージュを読んだことがあるが、あれに載っていた嫌がらせなど適当かもしれない。あの女はそこまでのことをしてしまったのだ。報いは受けるべきである。

 比留間の復讐心は怨讐にまで育とうとしていた。すると、彼の扉が何度かノックされた。
「ね、ねぇ……お友達が来たんだけど……」
 か細く震えた母の声である。比留間は「うるせぇ非国民!!」と叫び、枕でも投げつけてやろうかと身構えた。
「お、女の子なんだけど……」
「え……?」
 自分を訪ねてくるような女子がいるのだろうか。神崎辺りが使命感にでも燃え、文化祭の結果でも知らせに来たのだろうか。さて、どうしたものだろう。尖った気持ちは急激に丸くなり、彼は枕をベッドに戻した。
「いいんです。入りますから。お母さんは安心しててください」
 そんな言葉と共に、部屋の扉が勢いよく開いた。
「あ、あ、あ……」
 呻くしかなかった。なぜ彼女が。どうしてここまで来る。なにをしに、なにを言いに。高橋知恵の髪は、相変わらずの枝毛だらけである。灯りが背後から漏れているため、それが余計に目立って仕方がない。比留間は壁に背中をつけ、口元をわなわなと歪ませた。少女は心配する彼の母を他所に後ろ手で扉を閉ざし、再び部屋は闇に包まれた。
「ずっと休んでいたから。心配してきたの。今日はヒルズ前でアジ演説だったのよ。病気の調子はどう? まだ辛い? 励ましに来たから、じっとしてて」
 一方的に言葉を投げつけ、高橋知恵はコートを脱ぎながらベッドで怯える比留間の前までやってきた。
「た、た、高橋さん……」
 復讐をしてやろうと恨んでいた相手に、比留間は捕食者を前にした小動物のように硬くなっていた。いつでも彼女は意表を突いてくる。それが高橋知恵という少女だ。
「励ましに来たの。比留間くんがもっと音羽会議の力になってもらえるために、だから来たの」
 舌なめずりをして、高橋知恵はジャケットを脱ぎ、ブラウスのボタンを外し、ベッドに両手を付いた。暗闇によく慣れていた比留間の視覚は、闇の中で暖かさを発して近づいてくるその少女の行動に、ただ固まるしかなかった。なにが始まる? なにが起きる? わかっている。なら、十日も風呂に入っていないのは悲惨すぎる。パンツだって三日も穿き続けている。このままでは臭いで彼女がその行為を諦めてしまいかねない。
「死ねる……よね……」
 耳元で、甘いつぶやきがあった。同時に、一番熱く、臭気を発している部分に細い指が絡められた。
「死ねる……よ……」
 つい、そう答えてしまった。少年は少女の体重を感じながら、そのまま背中を壁に這わせ、落ちていった。

 
 夜が深まっても、激しい雨は止む気配すらない。傘を差してはいるものの、ジーンズはすっかり濡れ、Tシャツも下着のラインが完全に見えるほどだったが、若木はそのようなことには気を留めず、じっと路地から完命流道場を見張っていた。
 実戦経験に勝る修行はない。祖父はよくそう言っていた。なら実行あるのみ。高川典之に勝てないのなら、修行を重ね実力をつければいい。暗殺の対象はまだ他にも四人いるが、まずは最初の壁であり、宿敵でもある完命流の打倒が優先される。少女の視野は狭く、それが八年間にも及ぶ密室での人生だった。
 完命流に段位という概念は薄いので、明確に実力を測るには年齢が一番である。高川より弱い相手となると、もっと年齢も低い者でないと手始めにもならない。道場から出てきた青年たちはやり過ごし、若木はもっと若くて幼い者が出てこないかと雨の中、待ちわびていた。
 まずはあれからはじめてみよう。適当と思われる存在が現れたのは、それからしばらくしてからのことである。年齢は自分よりも低いだろうか。幼さを残す、それは同性の女の子だった。若木は傘をたたみ、それを塀に立てかけると、気合いを入れて彼女の前に立ちふさがった。
「え……誰?」
 傘も差さず、このお姉ちゃんはいったい誰だろう。完命流道場に通い始めて五ヵ月になる十歳の少女、宮川楓(みやがわ かえで)は大きな瞳で撫肩の若木を見上げた。冷たく、凍ったような目をした綺麗なお姉ちゃんである。なにやら恐い感じもする。宮川楓がそう感じた次の瞬間、彼女の顔面に若木の肘が叩き込まれた。
 よろめいた幼き少女は、容赦なく蹴り上げられた右足に側頭部を打ち付けられ、壁に叩きつけられた。血を吐き出し、瞳孔が開いたまま崩れ落ちた彼女は何をどう理解する間もなく、一方的な暴力によってその短い生涯を閉ざした。
 なんの感情も動かない。ここまでの圧勝だと、得るものも少ないか。いや、躊躇なく速攻ということが、勝利への最短距離であるということはよくわかった。それだけでも大きな収穫である。淀むな、悩むな、研ぎ澄ませ。雨に打たれるその亡骸を、若木は冷たい目でじっと見下ろしていた。

 次は……もう少し強いやつを相手にする……そして……最終的には高川までたどり着く……

 若木はとうに狂っていた。祖父に止めを刺せたのも、敗北が死に直結するという教えを順守したからであり、彼女にとって生とは勝利し続ける結果でしかなかった。だから若木は自分を狂っているとは思っていなかった。おかしいとすれば、勝利を得たにもかかわらず、止めを刺さない高川という男である。
 彼女の修羅は、まだはじまったばかりであった。

 
 テレビの深夜ニュースでは、国防長官暗殺の緊急ニースが続けられていた。昼から通しの報道特番であり、ソファで膝を抱えながら、ライフェは大型液晶テレビに映し出されるそれをじっと見つめていた。
 彼女の前には、すっかり冷めてしまったシチューが手をつけられずに置かれていた。
 このマンションに帰ってきてから、彼女は一切のものを口にせず、じっとテレビを見たままである。あれは余程機嫌が悪いときのストライキであり、エプロンを丸めながら台所から出てきたはばたきは、こうなるとただ心配して見守っているしかないと気持ちを暗くしていた。

 頚部を切断した際、生暖かい体温そのものが手刀に伝わってきた。それは、今でも生々しさを与え続けている。檎堂という男の腹部を突き刺した感触が、どうしても呼び覚まされる。嫌な感触だ。決して慣れることなどできない、受け入れたくない手応えだ。後ろではばたきが心配してくれるのもよくわかるし、シチューだって食べれば美味しくて気が紛れるのもわかっている。だけど、ごまかしたくはなかった。少女は少年に悪いと思いながらも、その気持ちを伝える言葉を持っていなかった。
 繭花は大変だったろう。あんなに胸が大きくて、客の視線が集中してしまうのだから、メイド喫茶など苛々させられることが絶えなかったと思う。そんな負担だって軽減してやりたかったが、国防長官が勝手に来日などしたからいけないのだ。けど、学園祭にはフル参加をしたかった。そんな澤村奈美としての寂しさも、機嫌の悪さに拍車をかけている要因だった。

 突風が、少女の束ねた髪を揺らした。

「ご苦労だった……ライフェ……」
 だが少女は返事をせぬまま、膝を抱えてテレビを見つめ続けていた。
「がんばったな……ああ……本当に今回はがんばってもらった……」
 “がんばれ”昔、彼は何度もそう言ってくれた。だからがんばれた、この形を維持させることができた。はじめは憎たらしい気障なやつだと軽蔑した。やがて、本当に強いやつだと認めるようになっていった。そして最近では尊敬すらしているし、敬語だって使っている。彼のために、力になれれば嬉しいとさえ感じている。そんな自分に正直でありたい。少女は小さく吐息を漏らし、青年に振り返った。
「真実の人……辛かったよぉ……」
 顔を顰め、目には涙を溜め、ライフェは感情を青年にぶつけた。真実の人はそんな彼女の頭を胸に抱き、何度も撫でた。
「それでいい……それでいいんだ……いいことなんかじゃない。ロクでもないことだ……」
「ですよね……そう……ですよね……」
「いずれ……すべては俺に返ってくる……だからライフェは安心してていい……」
「ありがとう……ありがとう真実の人……」
 いつだって、こうしてちゃんとフォローに来てくれる。だから信じることだってできるし、ひどい仕事だって我慢できる。最低の任務を遂行している間、彼が単にラーメンを楽しんでいたわけではないことぐらい、とうにわかっている。対策が立てられている以上、これは自分にしか果たせない使命だったのだ。頭を撫で抱えられ、少女の気持ちはしだいに穏やかになっていった。

 自分には、あんな慰め方はできない。ただ見守るしかなかったはばたきは、いつになったらあのように正面から彼女を受け止めることができるのだろうかと、それがなんとなく悔しかった。けど、長助はよく言っていた、「あいつの経験ってのは並大抵じゃねぇ……すぐに追いつこうなんざ思わないほうがいい……それに、お前にはお前の良さってのがある。素直に腐らずに、真っ直ぐにな」と。
 そう思おう。ならやるべきことはたった一つだ。機嫌を直した主に、温かい食事を用意しなければ。そしてまた褒めてもらおう。「あんたの料理はいつだって最高よ。はっばたき」と。少年は丸めていたエプロンを広げると、軽やかな足取りで台所に戻っていった。

第二十八話「その一杯のために」おわり

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