真実の世界2d 遼とルディ
第二十七話「三通のメール」

1.
 都内でも最大級の繁華街のひとつである銀座、数寄屋橋交差点のデパート前に、音羽会議と称する市民グループが定期的に演説をはじめたのは、いまから一ヵ月ほど前にあたる八月上旬のことであった。彼ら十数名の市民活動家は毎週土曜日と日曜日の朝から立ち並び、三時間にも及ぶ街頭演説を行い、買い物客たちの冷たい視線を浴び続けていた。
 大学生、関名嘉篤(せきなか あつし)を議長とするこの団体は、標榜する主張こそ徹底した反米であり、公安も左翼団体として認定をしていたが、数寄屋橋での街頭演説の内容は、これまでの左翼グループとは異なる提案が込められていた。

「我々の国は、我々日本人によって守られるべきである!!」

 拡声器から轟く、それが関名嘉篤の最もよく使うフレーズとなっていた。ときおり具体的な防衛案が飛び出すこともあり、それは自衛隊の発展的解散とそれに伴う国軍の創設といった、その部分だけを切り出してみればタカ派の発言としか聞こえない、従来の左派が用いる文脈ではなかったが、演説内容に耳を傾ける人々は皆無だったため、その違いに違和感を覚えているのは実のところ彼の周囲にいる仲間たちだけである。
 そもそも、関名嘉篤の政治活動の根本は左派に対する憧れではなく、彼自身、過去の学生運動に関してもこれまでに興味を持ったことすらない。なんとなく、人と違ったことをしてみたいという欲求が、米軍横田基地前でのデモ活動という古風な選択を導いただけである。
 勝手気ままにデモを楽しむ。主義主張より行動によるストレスの発散と、活動に伴い自分に憧れを向けてくるインテリ女性を“食ってしまう”性的な欲求が、彼の行動原理だった。

 少なくともあの男と出会うまでは。

「先の再編協議で、FOTと政府は武力衝突を果たした!! 結果は協議の中止と無期延期である!! 何名もの警官が死んだ!! すべては再編協議を強行した米国の傲慢さが原因である!! 連中は、我々アジア人がいくら死のうともかまわないのである!! そのような信条の米国人が!! しかも武器を持った軍人がこの日本にどれだけいる!? 彼らが我々を守っているという世迷い言を吐く輩もいるが、それは幻想である!! 米中が手を結ばんと誰が言える!? つんぼ桟敷で蚊帳の外でないと誰が言える!? 繰り返す!! 日本を守るのは日本人である!! 自衛隊などでは国防もままならん!! 憲法九条を即刻改正し、国軍を作り、徴兵制を布き、武装するべきなのである!!」

 声を嗄らせてアジテートする関名嘉の目は充血し、彼をよく知る音羽会議のメンバーの中には、以前とはまったく違うその真剣さに驚く者もいた。だが、どうにも参加当時とは主義主張が異なってきているようであり、関名嘉議長の絶叫するそれは、左翼というよりもむしろ新右翼の主張に聞こえる。
 関名嘉に対して違和感を覚えているメンバーたちは、デパート前でのアジ演説など到底不可能と思っていた。事実、初日にはいかにも強面の服装も派手な男が何名かやってきて、早々に退散しなければと覚悟もした。しかし関名嘉が「俺が話をつける」と腕まくりをして電信柱の陰に男たちを連れ込んだ後、連中はなにやら納得したように立ち去っていった。まったく信じられない光景である。なにか大きな後ろ盾でもでき、思想の変化はその影響があってのことなのだろうか。
 様々な疑念が音羽会議の中で沸き起こるのも当然ではあったものの、それを上回る勢いと熱がいまの関名嘉篤にはあった。つい先週も、『夜通し生討論』という人気テレビ番組に論客として呼ばれ、有名な評論家や作家、政治家たちに一歩も譲らず奮戦し、その反響からテレビ出演の機会が今後も増えていくらしい。
 ならば乗っかってしまおうか。思想信条はさておき迎合してしまおう、そういった空気がグループの中で生まれつつあり、今日も全員が関名嘉のアジテートに「そうだ!! そうだ!!」と、合いの手を入れ続けていた。

 この日、九月四日の演説も終盤にさしかかった頃、平和市民グループの代表を名乗る中年女性が音羽会議の面々にヒステリックな声を上げ、食ってかかって来た。関名嘉の前でプラカードを抱えていた比留間圭治(ひるま けいじ)は、あまりにきつい化粧の臭いに吐き気をもよおし、厄介な奴が来たと頬を引き攣らせた。
 関名嘉は構わず演説を続け、比留間がそれ以上の接近を阻止するためプラカードを水平に突き出していると、今度は反対の角から険しい表情の、紺色をしたツナギ服を着た四人の男が肩をいからせやってきた。どうやら化粧女とは真逆の思想を持った連中である。横目で彼らの姿を見た比留間は股間が縮み上がるような恐怖を覚え、演説が早く終わってくれないかと歯をがちがちと鳴らせた。
 すると短い金髪の白人男性がどこからともなく現れ、ツナギ服の四人に向かって歩き始めた。背中しか見えないが、体格もスポーツ選手のようにしっかりとし、灰色のスーツがよく似合っている。比留間が横目のまま成り行きを見守っていると、白人はツナギ服の男達と向き合い、なにやら交渉をはじめていた。
 やがて、四人組はもと来た道を引き返していき、白人男性も背中を向けたまま雑踏へと消えていってしまった。まるで、初日に関名嘉議長がやくざ者を追い返したときと同じような光景である。比留間はなにやら頼もしい気分になり、その勢いでプラカードの先端を化粧女の腹部に突き立てた。
「邪魔なんだよ、ババア。なーにが地球市民だ、ばーか。てめぇみたいなのを売国非国民っつーんだよ!!」
 自分でも他人に面と向かって、このような罵詈雑言がすらすらと出るとは思ってもみなかった。わなわなと口元を歪ませ、化粧臭さをより発散させるこの女は実に滑稽である。比留間は顎を上げ、隣でビラを配っている高橋知恵(たかはし ともえ)をちらりと見た。
 小さくこくりと頷く彼女の口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。痩せすぎで頬のこけた彼女のそれは、客観的に見れば不気味さすら醸し出していたが、比留間にとっては天使が諒解する合図に感じられ、彼の心は軽いステップを踏んだ。明日からは二学期がはじまる。いい夏休みだった。示唆されていた武力闘争もまだ開始される気配がないが、この気分であればいつ号令がかかっても覚悟ができそうな気もする。

 比留間圭治は化粧女に向き直り、「死ねよ、非国民」と毒づいた。


 仁愛高校2年B組担任、川島比呂志は生徒たちが一人も欠席せず二学期初日に揃ってくれたので、長い夏休みでも大した厄介事が起きなかったのだろうと、それが少しだけ嬉しかった。教室隅に置いたパイプ椅子に腰掛けていた川島は、教壇に立ちホームルームを取り仕切る、クラス委員の音原太一(おとはら たいち)を見上げ、なぜだか急に口寂しさを感じた。
 彼に任せておけば、大抵のことはうまく運ぶ。不器用で愚直な面もあるが、なにより真剣で熱心であるから他の生徒たちも仕方なく、彼の指示には一応は従う。来月八日より行われる学園祭についても、彼が出店の企画者であり事実上の責任者であるから任せておけば大過なく事は進むはずである。川島はあくびを噛み殺して無精髭だらけの顎を擦り、睡眠と喫煙といった二つの欲求を抑え込んだ。
「というわけで、食材の調達は今月中に比留間君が中心になって取り仕切ってくれ。いいね、比留間君」
 クラス委員にそう言われた比留間は、勢いよく立ち上がって胸を叩いた。どうにも自信に溢れた仕草である。最近ではなにやら政治運動に参加しているらしく、その点でトラブルでも持ち込まれると面倒ではあるが、以前の陰気さが多少は薄れているようであり、それは悪くない変化だといえる。川島は資材調達班の生徒たちに段取りを得々と語る比留間をぼんやりと見つめたあと、廊下側二列目、前から数えて三番目の空席に視線を移した。
 蜷河理佳(になかわ
りか)という黒髪が美しい少女が最初にいて、すぐに転校し、年明けに転入してきた花枝幹弥(はなえだ みきや)という、関西出身のとらえどころのない男子生徒も修学旅行を前に去っていった。あの座席には、なにか定着を阻む不可思議な力でも働いているのだろうか。担任教師がそんなばかげた発想に苦笑いを浮かべるほど、始業式後のホームルームは順調そのものだった。


「本当にごめんなさい……僕もいろいろ研究成果を発表したかったんだけど……」
 ホームルームも終わり下校となった後、リューティガー真錠(しんじょう)は、学生鞄を手に席を立つ吉見英理子の前に回りこみ、栗色の髪を揺らして頭を下げた。唐突な謝罪に英理子は赤い縁の眼鏡を直して何度か瞬きをし、仕方なさそうな笑みを浮かべた。
「今度の科研で発表してもらうから、いいわよ」
 夏休みの合宿に彼が来られなかったことを、寂しいと感じていた英理子だったが、それを表に出すのはあまりにも自分のキャラクターとは違うだろうと思い、さっぱりとした口調でそう返した。
「どうだったの? 合宿」
 いつもの敬語ではなく、まるで彼の友人である島守遼(とうもり りょう)に話しかける際と同様の、砕けたような口調である。英理子はすっかり戸惑い、だが悪くはないと咳払いをして再び眼鏡を直した。
「ん? 普通よ普通。会長はいつもの通りで、野崎さんはネギトロ星人を連発。丸江(まるえ)さんはチェックが厳しくって、敏田くんは押されっぱなしで」
「やっぱりネギトロでたんだ?」
「うん、そりゃもう二時間タップリね。なんでもFOTは全員ネギトロ星人らしいわよ。野崎さんの説によると」
 呆れた口調の説明に、リューティガーは腹に手を当てて大笑いをした。ネギトロ星人がどのような外見をしているのか、野崎からそのうち聞いておく必要がある。知っていたほうがより笑えるのだろうし、それと兄を結びつけるのも思考のお遊びとしては悪くない。笑ってしまうことで、彼は心の負担をできるだけ軽くしたかった。

 あまりにも疲れている。それは、部下であるエミリアにも見透かされている。

 無理もないと自分の心を慰めることもあるし、それではいけないと奮い立たせることもある。実はそうした起伏自体がより疲れを生んでしまっているのだが、若い彼はそれに気づかずにいた。

 たまには途中まで歩いて帰るのも悪くない。気分転換のつもりで英理子と下駄箱まで降りてきたリューティガーは、下履きを履き替える椿梢(つばき こずえ)の小さな姿に気づき、軽い気持ちで声をかけた。振り返った彼女は声の主が自分の友人と一緒だったため一瞬戸惑い、まあだけどそれはそうなのかとすぐに納得し笑顔を作った。

 リューティガーと英理子、そして梢の三人は、正門を出て長い坂道を下っていた。蝉時雨は九月になっても勢いが衰えることなく、それは照りつける午前の日差しにしても同じだった。
「梢さんは……花枝くんからその後連絡とかって、きてます……?」
 なんとなく、会話の流れで出てきた質問に、少女は大きな瞳に暗い影を映した。
「ううん……全然……ほんと……どこに転校したんだろう……」
 花枝幹弥は椿梢に想いを寄せていた。そんな予想から手がかりでも掴めればと思っていたリューティガーだったが、逃亡中の彼が容易に尻尾を見せるような真似はしないだろうとも思っていたため、梢の返答は想像の範囲内でもあった。
「川島もよくわからないって言ってたわよね。京都にでも帰ったのかな?」
 英理子の何気ない言葉に、だがリューティガーと梢は同意することができなかった。梢は雨の中、突然別れを告げてきた花枝にただならぬ事情を感じ取り、リューティガーは明かされた事実として、彼がごく当たり前の転校をしていないと知っていた。二人はそれぞれまったく別のアプローチから、しかし結果としてはあまりズレのない花枝幹弥像を抱いていた。
 花枝との合流は優先順位の高い任務である。しかし現実問題として彼をどうやって探し出すのか、その具体的な方法をリューティガーは固めきれずにいた。花枝はFOTの手から逃げ、隠れている。となれば保護するこちらからも目の届かない場所に潜伏しているということになる。彼はプロだ。習得技術のほどは自分のそれと比較して遜色ないだろう。となれば発見は困難であると言わざるを得ない。

 案外、まだ都内にいる可能性も高い。

 確たる証拠があっての推理ではない。ただ、自分ならそうすると思える。似た境遇の花枝について考えることは、つまり自身をよりはっきりと定義することでもある。英理子や梢の世間話に半分だけ耳を傾けながら、リューティガーはこの空の下で逃げ続けているかもしれない、もう一人の自分のことを考えていた。


 二階の小さな窓から見上げる空は、八月と変わらない入道雲に大きな陽、うんざりするほどの明るさである。エアコンのよく効いた室内が幸運である。花枝幹弥は大あくびをかき、ベッドから両足を滑り落とした。
「ただいまー!!」
 扉の開く音はいつも極度の緊張を強いる。しかし伊壁志津華(いかべ しづか)はいつでもその直後に大きく明るい声を上げてくるため、彼はその都度安堵を覚え、その都度彼女に対して気持ちを柔らかくしていた。


「だからね。わたしの部屋から花枝君のアパートってよく見えたの。いつも登校する君の姿だって見てたし、それでね、まぁなんていうのか……いいかなぁって思ったりしてたわけ。でもって撃沈……それであの落雷事故と火事でしょ? 君は転校しちゃうし、ほんとなにがなんだかって感じで、いっつもその窓から見てたのよ」
 二週間ほど前の出来事である。誘われるがままこのアパートに案内され、ベッド側の窓から見えるすっかり更地になってしまったかつての居住地を見下ろした花枝は、志津華の説明にぼうっとしながら頷くしかなかった。バレンタインデーの下校途中に突然現れ、チョコレートを差し出してきた少女。しかし当時から椿梢に想いを寄せていたから、その申し出はきっぱりと断るしかなかった。睫も長く瞳も大きくて綺麗である。はっきりとした眉は意志の強さを現しているようにも見えるが、可憐と言っていい美少女である。軽い気持ちで付き合うのなら悪くはないと思っていたが、そんな器用さは自分にはなかったため、傷つけるのも覚悟で「他に好きな人がいる」と拒絶するしかなかった少女である。

 志津華は花枝に缶ジュースを手渡すと学生鞄を床に置き、制服の白いブラウスを脱いだ。1DKのアパートは二人にプライベートな空間をそれぞれ設けるには狭すぎたし、また彼と彼女はこの二週間でそうした間柄を呆気なく越えていた。志津華が室内着に着替えるのをぼんやりと見つめながら、花枝幹弥はそれにしても自分という人間は、どうにも都合よくできてしまっているとうんざりした。
 いや、それもポーズだ。彼女との暮らしは甘く心地いい。幸い追っ手にもこの場所は気づかれていないようだし、そもそも志津華という隣のクラスの女生徒までマークするはずもなく、この急接近はお互いにとって、あくまでもイレギュラーな事態である。

「厄介になるのにムシのいい話やけど……事情は聞かへんでくれるか?」
 そんな謝罪交じりの宣言に、彼女はしばらく無言の後、「いいよ」と短く答えてくれた。はにかんだ様な、どこか嬉しそうな、それでいてなにかを要求しているかのような、そんな応えだった。逆に彼女に一人暮らしの事情を聞いてみると、父は仕事で上海に出張し、母は二年前より入院生活を続け、親類の看護を受けているとのことだった。実家は千葉の山奥ということなので、そのような複雑な事情故のアパート住まいらしい。
 母の看護を考えれば、地元の高校に通うべきでは。そんな素朴な疑問を花枝は抱いたが、それこそ事情というものに深入りすることになる。だから聞かぬまま、好都合の状況を受け入れようと思った。
 ともかく、正義忠犬隊だの決行スケジュールだのとFOTの活動が表面化した以上、檎堂猛(ごどう たけし)が命がけで知らせてくれた、あの計画が本格的に動き出すのは時間の問題である。食い止めるための筋道をすべて考え抜き、その上でリューティガーたちの力が必要であれば、そのときは頭を下げて協力を求めてもいい。この二週間の安定した暮らしで、花枝の気持ちはそこまで前向きに変わろうとしていた。
「幹弥。カレーとカツ丼、どっちがいい?」
 ベッドに片膝を乗せ、志津華が目を輝かせて尋ねてきた。カツカレーという選択肢もある。そんなことを考えながら、花枝は「どっちでもええよ」と答えた。彼女の作る料理はどれもレトルト食品であはあったものの、常に一味の工夫が施されていたため心遣いが感じられる。思えば、檎堂との食事はいつも外食であり、説教か対立ばかりだったので美味しかったという思い出が微塵もない。

「幹弥はいつも、真錠君とお昼食べてたわよね」
 ガラステーブルに置かれたカレーライスを食べながら、花枝は志津華の問いに頷き返した。
「あと……もう一人女子がいたように見えたけど……誰……かな?」
「あぁ……梢ちゃんや。椿梢ちゃん」
「ふーん……」
 スプーンを止め、少女は対座する同居相手の垂れ下がった目を覗き込んだ。
「な、なんや“しづちゃん”……」
「ねぇ幹弥……いまなら……チョコって受け取ってくれるのかな?」
「そ、そら当然やろ。付き合ってるんやし」
「付き合ってるんだ、わたしたち?」
「あ、当たり前やろ」
 “付き合う”それがいったいどの基準を満たすことによって成立する間柄なのかはわからないが、ひとつのベッドで共に寝起きし、ひとつの湯船に浸かっている現状は夫婦や恋人同士以外ではあり得ない。なぜ彼女はこうもしつこく聞いてくるのだろう。カレーライスを口に運びながら、花枝はふと大きな額をした、ある少女のことを思い出した。
 彼女となら、こうも簡単に肉体の関係を持つことはなかっただろう。なんとなく、そう思える。自分という人間の酷さがいまならよくわかる。檎堂が口うるさく心配していたのもわかるような気がする。
「しづちゃん……」
「なに?」
「感謝や。ほんま……いろいろ感謝や」
 静かに礼を言う花枝に、志津華は小さく首を傾げた。二週間前から寝食を共にするようになってから、彼はときどきこうして感謝を言葉に表してくる。いったいこれまでに何があったのか、それはわからないしあまり聞きたくはない。何かに怯えてうなされている姿もたま見ることがある。たぶん、この生活は長続きしないのだろう。なんとなくそんな予感はするものの、だからといって維持するための具体的な方法など考えもつかない。
 ただ、感謝される度になぜだか距離を感じてしまう。だから、やはりチョコレートは受け取ってくれないままのような気がする。伊壁志津華はようやくスプーンでカレーライスをすくい、一味加えたハチミツがうまく風味を出していると舌で感じた。

 蜩(ひぐらし)の音がガラス越しに聞こえる小さな部屋で、ひっそりと暮らす少女と少年は、窓の外で舞い落ちた茶色の羽に気がつくことはなかった。

2.
 カーチス・ガイガーという傭兵時代の先輩の話は、島守遼も一度だけリューティガー真錠から聞いたことがある。頼もしく勇敢で有能な軍人であると、なるほど、目の前でソファに腰掛け葉巻を咥えるタンクトップ姿の彼は、確かに筋骨隆々であり、精悍さとふてぶてしさが同居したような、歴戦の勇士であると思わせるだけの貫禄がある。
「で、こっちがエミリア・ベルリップス。まだ十四歳だけど、二度の作戦に参加した経験があるし、こないだの戦いでも活躍してくれた……」
 ベリーショートのプラチナブロンドは眩いばかりであり、岩倉次郎は会釈をした少女にしばし見とれてしまった。高川典之(たかがわ のりゆき)は相変わらず腕を組むガイガーに目を向けたままであり、いったいどのようなトレーニングを積んできたのか、それだけに興味を抱いていた。
 代々木パレロワイヤル803号室。その居間で島守遼をはじめとする、現地協力者のいわゆる「仁愛組」と、先月より来日し別働任務についているカーチス・ガイガーたちとの顔合わせが行われたのは週末の金曜日、その夕方のことである。
「あと……802号室にゼルギウス・メッセマーという外科医がいる。ちょうどいま仮眠中だから、また後日紹介するよ」
「戦力も大幅アップってところだな……もっとも……それ以上に敵の動きが派手になってるか……」
 遼の言葉に、リューティガーは強く頷き返した。
「ああ……だから遼たちにも、今後はもっと働いてもらうことになる……」
「う、うん……」
 岩倉は丸い鼻を掻き、獣人との血みどろの戦いを想像して大きな背中を震わせた。言葉の意味はわからないものの、ガイガーはその怯えを敏感に感じ取り、不敵な笑みを浮かべた。
「ルディ……真実の人(トゥルーマン)を倒せば……戦いは早々に決着するのだな……」
「ま、まぁそうですけど……兄を仕留めるのには相当な段取りがいります……当面は花枝くんの捜索と、決行スケジュールの阻止が僕たちの任務だと思っててください」
 高川の口から「早々に決着」という言葉が出たのに、リューティガーはひどく違和感を覚え、それは遼や岩倉も同様だった。エミリアはよくわからない言葉が目の前で飛び交っているため場の空気に馴染めず、雑務を求めてダイニングキッチンへと去っていった。
「け、決行スケジュールは……次って九月二十五日だよね」
 学生鞄から決行スケジュールの書かれたビラのコピーを取り出した岩倉は、それをリューティガーに見せた。“九月二十五日 横須賀港 空母キティホーク入港”最も近い正義決行スケジュールである。あらためて知った遼は息を呑み、高川は腕を組んで壁に寄りかかり、小さく舌打ちをした。
「米軍空母入港ってことは……FOTは、またたくさんの獣人を出してくるのかな……」
 弱気を隠さず、震えた声で岩倉は言った。リューティガーは静かに頷き、眼鏡を人差し指で上げた。
「そう……激戦になる……だけどガイガー先輩やさっきのエミリア……それに健太郎さんは決行阻止には参加できない……僕たちと陳さんで対応する」
「で、で、でもさ……横須賀港だと……地下からってことにはならない……ぼ、僕たちの姿が警察とかに見られたら……」
「もう見られても平気ですよ……そう……大切なことを言い忘れてました……」
 リューティガーは一同を見渡し、紺色の瞳を曇らせた。
「今後、賢人同盟と日本政府はFOT問題に関して情報をある程度共有し、一部で共闘することになりました……先月、作戦司令がF資本対策班へ出向き、その点についての意見調整をしたそうです。君たちについても対策班はその正体と協力している事実を把握しているものと考えておいてください」
「お、おいルディ……それって……国が俺たちの秘密を知ったってことなのか?」
「そうだ、遼。ただし、力関係において同盟はわずかに政府を上回っている。このことで君たちの現在や、戦いが終わった後の拘束には繋がらないと同盟が保障する。現にこの夏休みの間、監視や接触はなかったはずだ」
「そ、そうか……」
 納得はしたものの、そうなると新たな疑問が湧いてくる遼だった。
「もしかして……こないだの再編協議の戦いって……お前……」
「ああ……結果として、あいつと共闘する羽目になった……」
「だ、大丈夫だったのかよ……」
「戦いの後、頬を張られたさ……それに……僕はまだあいつを許せない……横須賀の件で対策班がどう動くかはわからない……そうだな……」
 リューティガーは不安そうに太い眉を下げる岩倉を見上げ、左目を閉じた。
「ガンちゃんを安心させるために言いますけど、政府の対策部門が横須賀にも現れるとすれば、それはそれで僕たちの負担は大幅に軽減されます。もちろん警察や自衛隊だっています。彼らは空母を守るために奮戦してくれるでしょうね」
「ならば……我らが出て行く必然はないのではないか……?」
「そうもいきません、高川くん。兄が出てくる可能性もあります。もしチャンスがあるのなら、抹殺という優先順位の最も高い任務を遂行しなければなりません」
「しかし……乱戦に我らが出陣するには納得しかねるな。島守はともかく、俺やガンちゃんでは戦力として警官や自衛官には及ばんと思えるが……」
 本当にあの高川典之の発言なのだろうか。ガイガーを除く一同は耳を疑い、壁に寄りかかる偉丈夫に注目した。
「我々しか知りえない情報をもとに……真実の人を暗殺するという隠密作戦ならわかる……しかし正義決行などという公の戦では……完命流(かんめいりゅう)や付け焼き刃の射撃能力など……足手まといになるだけと思えるがな……」
 高川の目は床に落ちていた。その言葉はか細く、口元は僅かながらに歪んでいた。リューティガーは彼の前まで歩くと両目を開け、顎を強く上げた。
「なら二十五日は来なくて結構です!! ガンちゃんも恐いのなら休んでていい!! 僕と遼と陳さんでやる!!」
「そうさせて……もらう……」
 視線を合わさぬまま、高川は背を浮かし居間から出て行ってしまった。そのあとすぐ、廊下へ通じる玄関への扉が開け閉めされる音が居間に響き、リューティガーは両の拳を握り締めて肩を震わせた。
「神崎まりかに出し抜かれるのだけは嫌だ……あぁ……これは僕の勝手な私情だ……高川くんの意見は間違ってない……!!」
 壁を叩き、リューティガーは皆に背中を向け、歯を食いしばった。ガイガーは葉巻を灰皿に押し付け、「走ってくる」と英語で告げたのち、タオルを片手に居間から出て行った。
 残された遼と岩倉は一度だけ視線を交わした。
「あ、あのさ……ルディ……ぼ、僕は横須賀……い、行くから……」
「いや……高川くんの意見は正しいんだ……確かに政府機関が動いている以上、君が戦力として機能する確率は低い……」
 背中を向けたまま、リューティガーは冷静さを取り戻そうと懸命だった。そんな彼に岩倉は笑みを向け、分厚い掌で肩を叩いた。
「そ、そんなこと言わないでおくれよ……恐いのは事実だけど……少しでも誰かの役に立てるんなら……せっかく撃ち方だって教わってるんだし……僕にできることがあるんなら、力になりたいんだよ……」
「う、うん……」
「そ、それに……神崎……まりかって……?」
「神崎まりかは……F資本対策班のエース……最強の念動力者であり、僕やガイガー先輩がかつて所属していた傭兵部隊を壊滅させた……そして、神崎はるみの姉だ……」
 淡々とした口調ではあったが、その内容に岩倉は衝撃を受け、乗せていた手を挙げ、よろよろと後ずさった。やがて裏膝にソファの角がぶつかり、彼は巨体を前後によろめかせてしまった。ようやく振り返ったリューティガーは眉間に皺を寄せ、頬を引き攣らせて瞳を揺らした。
「ガンちゃんにはどうにも隠し事ができない……そう……これは私情の類なんだ……みんなには申し訳ないと思っている……遼にも水をかけられて……けど……」
「いいって……私情とか感情があった方が、よっぽどまともに思えるさ……」
 ようやく口を開いた遼は、よろける岩倉の腰を支え、リューティガーの目を真っ直ぐに見据えた。
「遼……」
「こないだよりよっぽどわかるよ……いまのお前だったら。確かに兄貴を殺すなんて任務自体がまともじゃねーし、それでお前がどうにかなってるのだってわからなくはねぇ。それにさ……」
 岩倉から手を離した遼は、ゆっくりとリューティガーに近づき、腰に手を当てた。
「やっぱり来るんだろ、真実の人は……なら……俺の出番だ……少しでも確率があるんなら、俺はそれに付き合う」
 矛盾した言葉である。兄殺しの非道に加担するには、あまりにもきっぱりとした宣言である。だが遼にとってその向こうにあるものはFOTの事実上の壊滅であり、蜷河理佳を取り戻すために避けては通れない道だった。
「ありがとう……遼……」
 口元を震わせ、情けない笑みで見上げるリューティガーはその真意を知らない。いつまで隠し通せるかはわからないが、それまでは彼に対しても一定の距離を保ち続ける。我ながらロクでもないと遼は心の中で自嘲し、それを悟られないためひどく緊張していた。


 二十五日の当日まではまだ三週間以上の時間がある。それまでに具体的な作戦を立案し、ミーティングを重ねて細部を煮詰めていく。リューティガーはそんな結論を最後に告げ、遼と岩倉は帰宅のため玄関へと向かった。
「ど、ども……」
 台所で洗い物をするエミリアに、遼は頭を下げた。振り返ったエプロン姿の彼女は、やはり言葉がわからないのかきょとんとしたままであり、垂れ下がったエメラルドグリーンの瞳には疑問の色が強く浮かんでいた。
「あっえっと……Good−bye……See you……」
 “お邪魔しました”英語でそれをなんと言うのか咄嗟には浮かばなかったため、遼は簡単な挨拶しかできなかった。だがようやくわかる言語を耳にした少女は満面に笑みを浮かべ、全身から喜びの気配を発散した。
「ルディ様のためにお互いがんばりましょう!! 島守さん、岩倉さん!! わたしも全力を尽くします!!」
 興奮した早口だったため、遼と岩倉は自分の名前が言葉に含まれていたことしか理解できず、エミリアの英語に曖昧な笑みを返すしかなかった。そんなぎこちないやりとりを居間から見ていたリューティガーは、ようやく笑みを取り戻すことができた。

 足手まとい……か……

 懐かしい表現である。かつて、灼熱のバルチでロナルド隊長が英語でそのような意味の言葉を投げかけてた。エミリアもそう言われないよう、努力を怠らない少女であることはこの数週間の活躍でよくわかる。まるで、昔の自分を見ているような気もする。

「完命流や付け焼き刃の射撃能力など……足手まといになるだけと思えるがな……」

 高川の発言は正しいが、彼の口からとなると別の問題も発生する。そう、まったくもって彼らしくないのである。いつもの高川であれば、こちらが躊躇するほどの好戦性を見せ、「空母沈没を企む悪漢どもに、わが完命流を見せ付けてくれるわ!!」などといった、苦笑いものの啖呵でも切るはずである。合宿から帰ってきた遼から武術家に襲撃された際の事情を聞いたが、やはり自分の力だけで勝利させてもらえなかった事実に落ち込んでいるのだろうか。まだ残っている二の矢に怯えているのだろうか。そもそも、あの硬骨漢が普段どのような精神状態にあって、なにを考えているのかよくわからないリューティガーだったから、いくら思考を巡らせても正解などは導き出せなかった。
 それよりも、横須賀での戦いにまたあの赤い人型が出てきた場合、自分の精神状態がどうなってしまうかが不安だった。そういった意味では、遼と岩倉の参加は心から嬉しい。
 部屋から出て行った二人と入れ替わるように、買い物袋を抱えて帰ってきた陳師培(チェン・シーペイ)にリューティガーは無邪気な笑みを向けた。
 まずは無様な事態に陥らないためにも鍛えなければならない。彼は心を強くした。そう、あいつに助けられるなどという失態は二度とあってはならない。むしろこちらが奴に貸しを作るほど圧倒しなければ。
 笑顔で迎えられたと思えば、すっかりそれも消え、険しさが滲んでいる。若き主はいつでも複雑な胸中にある。陳はエミリアに買い物袋を手渡すと、長い鯰髭を摘んで鼻を鳴らした。

3.
 新聞では連日のようにFOTと正義忠犬隊についての記事が紙面をにぎわせていた。遼も食事の際に父とその話題になることが多く、これは半年前ではとても考えられない事態である。
 世間一般において、すべてのはじまりは首都高の事故とそれに伴う大鱒(だいます)商事本社ビル倒壊にまつわる救出劇であった。つまり、最初の印象はひどくいい。そして次が連続幼女誘拐暴行殺害犯、阪上誠のさいたま地裁での斬首である。これはテレビなどでも生放送でショッキングな映像として流されたが、誰もが死刑を望んでいた凶悪犯の処刑である、一部の人権派や良識派が異論を唱えることはあっても、世論の大半はやはり正義忠犬隊とそれを率いる真実の人に喝采を送った。
 陸橋のゲリラ設置にスパムメールの一部停止。この二件にも斬首が絡み、特に鉄道会社会長と国土交通副大は明確で具体的な罪もない、上層階級の被害者だったため、FOTの正義追求が如何なる形で決行されるかわからないという恐怖を、富裕層に想起させる結果となった。実際、ネットなどでは次に誰が斬首の対象となるのか、それを予測する声が次々と上がり、下層のストレスのはけ口として、様々な名前が飛び交う結果となっていた。
 だが、米軍再編協議の阻止を目的とした獣人による襲撃は、これまでのいずれにも該当しない、FOTのある種の理念を見せつけるような事件だった。日本に米軍基地と軍事力が存在するのは、六十年に及び疑問を抱かれつつも容認されてきた現実である。それに対して真実の人は真正面から異論を唱え、国民の間でもさすがに賛否両論が沸き起こった。これまで忠犬隊の斬首に喝采を送っていた者たちも、他国の脅威からこの国を守る米軍の撤退などには安易な賛同はできず、明らかに世論は困惑していた。
 輸送機やヘリの墜落、皇室への狂人のテロという在日米軍に関係する一連の不祥事は、真実の人の掲げた撤退論をある程度後押しする形となり、音羽会議の関名嘉篤がテレビ出演をしてそのアジテートを代行するといった追い風もあったが、やはりそれでも六十年に亘り駐留し、根付いてきた在日米軍である。その存在はあまりにも大きすぎたため、世論は唐突に課題を突きつけられた学生のように慌てふためき、日に日に意見は転がり、誰もが解答を出せずに腕を組み、首を傾げ続けていた。

 米国側はFOTを日本国内で発生したテログループと認定し、いかなる脅しにも米国は屈しない。断固とした態度を今後も取り続ける。まずは日本政府に対し、これらテログループの壊滅を要求する。との公式見解を八月下旬に発し、場合によっては追加兵力として陸軍を派遣してもいいとの声明を出した。

「アメリカがテロ壊滅を口実に、日本を再占領するってこともあり得るぜ。イラクのときと似たケースだ」

 同級生の横田良平が教室で得意げに話しているのを耳にした遼は、どうやったらそんな飛躍した発想に辿り着けるかと思い、なるほどそれが、ネットに浸かっている彼の見解だと納得した。
 それはともかく、良平には大きな借りがあった。目が合う度に、「わかってるだろうな。島守」といった意を向け続けられているので、彼にしてもうやむやにするつもりはないのだろう。FOTや蜷河理佳の問題も重要だったが、それ故に細かい保留事項もできるだけすっきりしておきたい。今日はちょうどいいタイミングだろう。放課後になり、クラスメイトたちが教室から出て行くのを目で追った遼は、後ろの席の神崎はるみに、「悪りぃ……ちょっとだけ練習、遅れるから」と告げ、ある女生徒を追いかけて教室から出て行った。
「なによ、あれ」
 腰を浮かせたはるみは、遼の背中を目で追った。なぜ彼があの同級生を追いかけて出て行くのだろう。これまでの一年半で、なにか気づくような接点があったかと思い出そうとしても心当たりはない。彼女は隣の席の、合川(あいかわ)という女生徒に向かって口先を尖らせた。
「どうしたの?」
「う、うん……島守がさ……永井さんの後、追っかけていったから」
「永井さん?」
「学園祭の班分けだって違うし……べ、別になんでもいいんだけどさ……なーんか、脈絡ないなぁって思って」
 合川は決して勘のいい少女ではなかったが、あまりにもいい訳じみたはるみの言葉に違和感を覚えた。だけど、わかる気もする。これまでそれとなくクラスの人間関係を観察していた彼女は、はるみの戸惑いをそれとなく、だがテキパキと察した。
「知らないの、神崎さん?」
「な、なにをよ?」
「島守君と永井さんって、小学校と中学一緒だったのよ。確か、何度か同じクラスにもなってるって……永井さんが言ってたもの」
 そのような話は一度も聞いたことがない。それどころか二人が話している姿を見たことすらなかった。はるみは何度も目をぱちくりとさせ、言葉もないまま口をぽかんと開けた。


「なぁ、まどか……い、いま、お前ってさ……」
 正門近くの自転車置き場で、遼は目の前の少女に彼らしくない、つっかえた口調でそう言った。
 永井まどか。音楽部に所属する女生徒であり、その歌唱力は誰もが認めるほどのプロ級だが、普段は大人しく目立たず、さりとて地味で暗いといったわけでもなく、クラス全員から好感を持たれている少女である。一学期までは肩まで伸ばしていた髪も、夏休みでショートにしたようであり、その髪型に懐かしさを覚えた遼は、やはり彼女にはショートが一番似合うと思い、少しだけ嬉しくなってしまった。
 合川の指摘する通り、遼とまどかは小学校の三年、四年、中学校の一年、二年を同じクラスで過ごした過去を持つ。それなりに仲もよく互いの名前を呼び合い、家を行き来する程の間柄ではあったが、中学校三年生のころからなんとなく疎遠になり、仁愛高校入学もあくまで偶然の結果として、ここ数年は干渉しないのが無言のうちに暗黙の了解として成立している。その認識においては両者とも共通していた。
「なによ、遼……」
 少々呆れたような、そんな気だるい口調のまどかだった。涼しげな目つきは彼女の機嫌を直接的に反映しているようであり、そう感じることに遼は懐かしさを覚えてしまった。
「あ、あのな……まどかって……誰か付き合ってる奴とか……いるのかなぁって……」
「はぁ?」
 即答でなかったため、遼は聞き方を誤ったと両目を閉ざし、頭を掻いた。ここ二年以上はまったくコミュニケーションをとっておらず、自分の興味もすっかり別へと向いていたため、まどかは変わらない彼の「困った際」の仕草に可笑しさを覚え、口を押さえて低く笑った。
「あ、あ、いや……俺がどうとかって……そーゆーんじゃないんだ……」
「そりゃ、そうでしょうけど……」
「あ、あのな……横田ってさ……いるじゃん」
「いるわよ。良平でしょ。ネットオタクの」
 なにやらトゲのある口調である。これは望み薄と考えていいのだろうか。遼はすっかりまどかの涼しげな目に押され、どう交渉を続けていいのかわからなくなってしまった。
「もしかして良平がわたしと付き合いたいって、遼がその仲介をしてるとかって展開!?」
「い、いや……ま、まぁ……まどかに当たったのは……俺の一方的な判断であって……良平の意図は入ってないっつーか……可愛い子を紹介してくれって……そーゆー条件だったから……」
「ばっかじゃないの!? なんだってわたしが良平と付き合わなきゃならないのよ!?」
「ご、ごもっとも!!」
 遼は怒気を向けるまどかに何度も頭を下げた。すっかり呆れ果てた彼女はブラウスの襟を直し、首を傾けて地面につま先を立てた。
「久しぶりに声をかけてきたから……なにかと思ったら……もう……いい加減にしてよね」
「ご、ごめん、まどか!! 俺が悪かった!! 確かに良平とお前じゃ吊り合いが取れない!! 別口を当たることにする!!」
「てゆーか……誰に交渉しても絶対無理だと思うけどなぁ……」
「そ、そうなの?」
「だって良平よ」
 あんまりな言いようではあるが、確かにその通りである。遼は顔を上げ、まどかの顔に苦いながらも笑みが浮かんでいるので、良平に悪いと思いながらもそれにつられた。


 来月の学園祭に向け、演劇部では連日の通し稽古が続いていた。まどかへの交渉ですっかり遅れてしまった遼は部員たちに頭を下げ、更衣室へ駆け込んだ。
 本来は部活だ、バイトだと言っている暇はない。花枝捜索も重要な任務であるのだから、やるべきことはいくらでもある。だが、ごく当たり前の日常を切り捨てたくない遼だった。すべてが終わった後、関わってしまった前の生活にできるだけ戻りたいと欲求する、それが彼にとっての理想である。意外なことに、それについてはリューティガーも咎めることなく、むしろ推奨してくれている。実はその点こそが、彼らに決定的な亀裂を生じさせていない大きな理由となっていた。

 昨年上演した「金田一子の冒険」に比べれば、今回の「池田屋事件」は台詞も出番もずっと多く役割も重要になっている。だが遼は稽古もそつなくこなし、与えられた土方歳三役を無難に演じている。三年生の平田浩二はこの一年で後輩がすっかり成長したことに、なにか物足りなさも感じてはいたが、受験勉強のため部活に関わる時間を減らしている現在において、不安要素が少なくなっている現状には満足しなければならない、贅沢は望むべきではないだろうと稽古を観ながら感じていた。
「これが終わったら、そろそろ次の部長とかも決めないとねー」
 丸めた台本を片手に平田の傍までやってきた福岡部長が、ちょうど出番が重なりまとまっている二年生たちを眺めてそうつぶやいた。
「立候補してくるやつがいれば、そいつに任せるのが一番なんだけどな」
「もしくは推薦よね」
 珍しく落ち着いた口調の福岡だったため、平田は彼女の胸のうちには既に次期部長候補が思い描かれているのだろうかと思った。
「こないだね。乃口部長と会ったんだよ」
「へぇ。そうなの?」
 驚く平田に、福岡は切り揃えた前髪を摘み、口元に笑みを浮かべた。
「偶然電車で。部長、大学でも演劇続けてるんだよ。平田くんや島守がしっかりやれてるか、すっごく気にしてたよ」
「なんで俺と島守が一緒くたに心配されるんだ?」
「だって……数少ない男子部員だったわけだし」
 福岡の説明に平田は納得するしかなく、それを誤魔化すために二年生たちの稽古に注意を傾けることにした。


 夕方となり本日の稽古も終了となったが、遼はジャージから着替えずに部室に居残って後片付けをしていた。
「ご苦労様」
 更衣室から出てきた夏服姿のはるみが、掃き掃除をする遼に声をかけた。
「お前が最後かよ」
「うん。みんな帰っちゃったよ。手伝おうか?」
「別に……いいけど……」
 部室の外では蜩(ひぐらし)のカナカナとした音が響いていた。陽光も朱になり、暑さも幾分マシにはなっている。遼は傍らでパイプ椅子を畳むはるみをちらりと見て、小さく息を漏らした。
「二十五日……横須賀に行くの?」
 正義忠犬隊の決行スケジュールは一般にも当然知られている。はるみの発言は意外ではなかったが、なにも部室でする会話ではないだろうと、遼は返事をしたくなかった。
「わたしも……行っていいかな……」
「だめだ」
 短く、はっきりと遼は拒絶して背中を向けた。
「そ、そこまできっぱり言うかな……」
「お前に相談したり、参考に意見を聞いたりしてるけど……それと戦いに関わるかどうかは別だ……はっきり言って横須賀の戦いは大きくて激しくなると思う……祇園祭のときなんかよりも敵の数はずっと多い……ただ危険な目に遭うだけだ……」
「で、でも……遼とかガンちゃんは行くんでしょ」
「俺には力がある。ガンちゃんだって射撃訓練をルディから受けてるんだ……」
 掃き掃除を続けながらも彼は背中を向けたままであり、少女はそれを拒絶の表れと感じ、目を細めた。

 蜩め、うるさい。

 窓を震わせるほどの音量が彼との合間を埋めているかのような、そんな錯覚である。これさえなければ、ためらうことなく近づき、「嫌だ。連れて行って」とわがままを言えるのに。
「それに……ん……そうだな……」
 言ってしまってよいものか。遼はしばらく悩んだが、やがて構わないと判断してホウキを動かす手を止め、振り返った。
「横須賀にはたぶん……まりかさんも来る……」
「そう……なの……」
「口止めされてたけど……もういいや……まりかさんは政府でもFOTの対策部署で働いている……こないだの再編協議だって、赤い人型の装甲服でルディと一緒に戦ったらしい」
 遼の言葉を、はるみは両手をぎゅっと握り締めて聞いていた。薄々は勘付いていたし、彼を姉に会わせた際に、ある程度の予想はできていた。だから驚きは少なかったが、あらためて事実として聞かされると緊張してしまう。
「まりかさんは、お前に危険が及ぶのを一番心配してるんだ……だから内緒にしてくれって頼まれた……正直言って、獣人が何十体もいるような乱戦で、俺はお前を守りきれる自信がない」
「わかった……もう……言わない……」
 これ以上の要求は、ただの子供じみた身勝手というものである。守りきれる自信がないから来るなということは、心配してくれているということでもあり、いまはその程度のことで満足しなければならない。はるみにとって、嫌われてしまうことだけが恐かった。それほど彼女は頼りない気持ちでいたし、自分になにひとつ訴えるものがないことも知っていた。
「それよりもさ……神崎に頼みがあるんだけど……」
「な、なに?」
「いや……頼みっつーかさ……高川のことなんだけど……」
 合宿での稽古の最中、老武術家が襲撃してきたことは今でも鮮明に覚えている。遼がその両足を壊し、高川が肩を外し、結局誰も殺すことができなかったため、次に現れた篠崎若木(しのざき わかぎ)と名乗る少女に止めを刺されたあの現場は、まさしく「戦い」だった。高川は遼の行為をひどく抗議したが、その後は急に無口となり、合宿も後半は黙々と稽古に参加していたが、立ち回りや佇まいに精彩を欠き、それは本日に至っても続いている。要は落ち込んでいるらしいのだが、はるみにはその原因がはっきりとはわからなかった。
「遼があの力を使わなかったら……高川くん、危なかったのかな」
「それはわからない。高川一人でも勝てたかもしれないし、やられてかもしれない……俺は最善を尽くしただけだし、いまだって判断が間違ったとは思いたくない」
「だよね……」
「いや……こないだもルディのところで打ち合わせがあったんだけど……あいつすげぇネガティブっていうか……覇気がないんだよ……でさ……あいつって……お前のこと……」
「う、うん……」
 はるみは立てかけてあったパイプ椅子に右手を乗せ、視線を床に落とした。
「だからさ……」
「やだ……」
 “励ましてやってくれよ”その本題を切り出す前の拒絶である。遼は言葉を失い、はるみの大きな瞳は震えていた。
「わからないもの……高川くんのこと……彼がわたしに悩みを打ち明けてくるんなら……相談にも乗れるし、励ますことだってできるけど……」
 正論である。それと同時に、自分から高川の心に入っていくつもりはないという宣言でもある。遼はそれ以上頼むこともできず、なにやら今日は女性に対して不用意な要求を続けてしまっていると悔やんだ。
 甘えているのだろうか、自分は。大きな戦いに参加するというプレッシャーで、他人の存在を軽く見てしまっているのだろうか。
「悪りぃ……神崎……なんか……調子に乗りすぎてたみたいだ……」
「え……?」
 視線を上げたはるみは、遼の顔に反省の色が浮かんでいるのが意外だった。これからこうして喧嘩を回避していくことが増えていくのか。感情をぶつけずに、適当な折り合いをつけてしまえば、確かに嫌われることはない。けど、それでいいのだろうか。
 相変わらず蜩が鬱陶しい。ジャージ姿のまま部室を出て行く遼を目で追いながら、はるみは両耳を覆った。

4.
 遼が部室でぎこちないやりとりを続けているころ、リューティガーは代々木パレロワイヤルの803号室の寝室に、突風とともに出現した。このベッド脇の僅かな空間は、特別に確保した空間転移の出現ポイントであり、なにも置かず、誰も立ち入ることを許されない聖域となっていた。揺れるカーテンを払った彼は、ベッドの上に人影があったので戸惑った。
 白いノースリーブのブラウスにプリーツスカート、端正な横顔にプラチナブロンドは見間違うはずがない。どうやらベッドの上で居眠りをしているようだが、なんとも安らかな様子であり、口元には笑みが浮かんでいた。
「掃除の最中に、なにを思ったのかベッドに飛びつき……そのまま眠りこけてしまったようだ」
 寝室の隅から聞こえてきた低く掠れた声に、リューティガーは戸惑いを越え驚いた。振り返ると扉の側に、暗灰色のコートが蹲っていた。以前はよく見た光景である。若き主はチューリップ帽を目深に被った従者のもとまで歩き、声を潜めた。
「健太郎さん……それを見てたんですか?」
「ああ……彼女は俺がいたことにも気づかなかったようだ」
 どうにも間の抜けた面のある少女である。それが任務に反映されなければいいのだが。リューティガーは呆れ、うつ伏せで寝息を立てているエミリアに苦い笑みを向けた。
「ふん……ベッドに飛びつくときな……」
「は、はい?」
「“ルディ様”と叫んでいたぞ」
 大きな口元を吊り上げ、健太郎は赤い瞳を面白そうに輝かせた。リューティガーは「そうですか」と息を詰まらせながら答えると、硬い挙動で寝室から出て行き、残された異形の従者は肩を何度も上下させ、笑いを堪えた。


「結局、成果らしい成果はまだだ……昨日までで十二箇所の拠点を襲撃したが、常に撤収した後だった……途中何度か対策班の連中ともバッティングしたが、奴らも空振りが続いているらしい」
 ダイニングキッチンでガイガーの報告を受けたリューティガーは、陳の淹れてくれたジャスミンティーをひと口啜った。
「そうですか……兄は昔から逃げるのは得意でしたから……」
「みたいだな……見事な手際だと思うよ。ところでそちらはどうなんだ?」
「花枝幹弥捜索は……まだ手がかりすら掴めていない状況です……今日は彼が暮らしていたアパートに行ってみたのですが……落雷火事のあと、すっかり更地になっていて……学校での聞きこみはガン……岩倉くんに頼んでいますし、遼にも読心で情報を集めるように指示は出していますけど」
 具体的な足取りに繋がるような情報はなにも得られていない。花枝は転校してきたばかりということもあり、校内はおろかクラス内でもほとんど人間関係というものを構築していない。唯一、椿梢にだけは個人的な好意を向けていたようだが、彼女にしてもそれを受け入れていたかどうかさえ怪しく、何かを託したような様子でもない。リューティガーとガイガーは、互いに成果を上げられていない事実にため息を漏らした。
「まぁ、焦ってもはじまらないね。積み重ねが好機を呼ぶと信じるだけネ。リラックスよ、リラックス」
 夕飯の麻婆豆腐が盛られた大皿を抱え、陳が二人を励ました。言葉もそうだが、なによりもこの辛そうで刺激的な香りがなんともやる気というものを引き出してくれる。ガイガーは舌なめずりをし、目の前に置かれたそれを覗き込んだ。
「坊ちゃん。ドクターメッセマーにこの夕飯を届けてね」
 陳は料理を載せたトレーをリューティガーに手渡した。802号室の主、ゼルギウス・メッセマーは決して皆と食事を摂ることはなく、常に診察室で一人きりである。彼自身それを望み、団欒といったものを拒絶しているらしく、ならば強く同席を勧めることはないリューティガーだった。
 トレーを抱えたリューティガーは玄関に向かおうとしたが、寝室から駆け出してきた影にぶつかりそうになってしまった。
 全身がよろめき、栗色の髪が揺れ、ガイガーが咄嗟に立ち上がりその背中を支えた。なんとか料理をこぼすことはなかったものの、リューティガーは息を止めたまま紺色の目を見開き、目の前で顔面を歪ませるプラチナブロンドの少女に戸惑った。
「ご、ご、ご、ご、ごめんなさぁい!!」
 赴任以来、何度目になる謝罪だろう。そしてこれは、居眠りと衝突寸前、そのどちらに対する「ごめんなさい」なのだろう。彼はすっかり呆れ果て、「こら!!」と叱った。

 今日もまた、無為な一日を過ごしてしまった。しかしエアコンの効いたこの六畳間は居心地がよく、温かい食事と慰めのある暮らしからはどうにも抜け出せずにいる。自分はすっかり堕落してしまったのであうろか。若い花枝幹弥はベッドの上で携帯電話をいじり、あらためて相方から送られてきた最後のメールを読んでみた。ほとんどが暗号文面であり、これは檎堂と自分だけで決めたものだから、サーバのある同盟本部でも内容の解析は困難であろう。そして最後に平文がひとつ。

 逃げろ花枝

 いま、自分は逃げているのだろうか。逃げ切れたといえるのだろうか。「逃げる」意味を取り違えてはいないだろうか。
 彼の携帯電話には、三通のメールが未送信のまま送信ボックスに残されていた。
 一通は、送信すればこの状況を一気に変えられるメールだった。だが宛先は未入力のままである。残りの二通はあくまでも個人的な私信である。そのうち片方は宛先アドレスも入力済みだったが、花枝は送信ボタンを押すことなく、その文面に修正を加えていた。

 女の部屋に転がり込んで……別の女に未練たっぷりで……アホや……俺ほんまのアホや……

 ここまで自分の心が弱いとは思ってもいなかった。初めての肉体的な経験に溺れきってしまったとしか考えられない。最初は逃亡の苦しさを言い訳に、休息の必要を言い聞かせていたが、すぐ頭上に干されている自分と彼女の下着を見上げた花枝は、呻き声を上げて携帯電話を放り投げた。

 もうしまいや……ルディと合流する……恥や意地やゆうてる場合やあらへん……忠犬隊のテロを止めなあかん……真実の人を始末せなあかん……

 彼は椅子に掛けられていたダウンジャケットを取り、ジーンズを穿いた。もう少しすると志津華が帰って来てしまう。情を何度も通わせた相手だから、引き止められて耐えられる自信もない。

 すまん、しづちゃん……元気でな……テロに巻き込まれへんよう……気ぃつけてな……

 夕暮れの陽が差し込む室内を見渡した花枝は、最後にベッドを見下ろして両目を閉ざした。想いを断ち切るための、それは儀式めいた行為だった。

 そして、これこそが花枝幹弥に生じた「隙」そのものであった。

 窓ガラスが割れる甲高い破壊音の直後、首に巻きついた何かは、凄まじい勢いで彼をアパートの外まで放り出した。
 宙に浮いている。その浮遊感と圧倒的な息苦しさに、花枝は気を失いそうになった。両手で巻きつく何かを掴むのに精一杯で、異なる力を使うために意識を集中している余裕もない。蜩の音が遠ざかる意識をくすぐりつづけ、ようやく開けた目の端には、赤い髪をしたエプロンドレスの少女が路地から見上げる姿が入った。
 信じられないことであるが、彼女の左右に結んだ見事なまでの赤毛こそ、幾重にも首に巻きつき、部屋から外へ手繰り寄せ、夕暮れに全身を持ち上げている正体だった。いや、以前にも一度、この国に戻ってきたばかりのとき、このような不可思議な赤い襲撃を受けた覚えがある。
 FOTの少女エージェント、ライフェ・カウンテットは両の髪先に確かな重さを感じながら、早く仕事を達成するため「はっばたきぃ!!」と叫んだ。

 首を締め付け、呼吸を遮る力がいっそう強くなった。花枝の意識は空中で途絶え、そんな彼に向かって翼を持ったひとつの影が急降下してきた。
 忠実なる僕が、標的を抱え跳び去っていった。拉致の所要時間は予定通りの七秒。あとは所定のポイントに急げばいい。空中に伸ばしていた二本の赤毛の束をいつもの長さまで縮め戻したライフェは、路地を見渡して目撃者がいないことを確認すると、大通りに向かって駆け出した。それは奇しくも一時間前、リューティガー真錠が辿った道筋と同じである。


 事情を聞かない以上、このような生活が長続きするとは思っていなかった。彼がなぜ彷徨っていたのか、それを彼の口から語ってもらえるほど信用してもらえれば、たぶんずっと一緒に暮らせたような気もする。けど、それはもう夢だ。割れた窓ガラスがなにを物語っているのかはわからない。彼の怒りなのだろうか。いや、それならば破片は外の路地に落ちているはずなのに、ベッドの上に散乱するそれは蛍光灯の灯りを反射し続け、外から割られたようにしか見えない。
 はっきりとわかるのは、もう花枝幹弥はここにいないということだけである。単に出かけるだけならば、季節はずれのダウンジャケットは置いたままにするはずである。せっかく今日ははじめての手料理を作ろうと、近所のスーパーで食材を買ってきたというのに。伊壁志津華は学生鞄とスーパーの袋を床に落とし、エアコンがつけられたままの六畳間にへたり込んだ。

 わけわかんないよ……まるで……帰り支度してたとこ……急に逃げ出したみたい……

 だが、玄関の扉は鍵がかけられたままだった。彼には合い鍵を渡していたが、逃げ出す者が鍵などかけていくのだろうか。

 さらわれた……

 一番しっくりする答えではあったものの、そこに落ち着けばますます混乱してしまう。なによ、それ、“さわられた”って。
 ベッドの下に、携帯電話が転がっていた。自分のものではない、おそらく彼のものである。手を伸ばして折り畳んであるそれを取った志津華は、大きく息を吸い込んだ。

 さらわれたんだ……幹弥は……

 確信が少女に勇気を与えようとしていた。見てしまうのは恐い。けどもし彼が理不尽な状況に陥っているのであれば、唯一の手がかりであるこの携帯電話は調べておく必要がある。まだ混乱したままだったが、志津華は左手を胸に当て、唾液を飲み込んだ。

 開けちゃえ……見ちゃえ……

 彼が帰り支度をしていたのはおそらく間違いないので、それがどうにも哀しかったが、志津華は気持ちを確かにし、携帯電話を開いた。

 暗証……番号……

 開いた途端、待ち受け画面も表示されず、四桁の暗証番号を入力する指示が小さな液晶に映し出されていた。伊壁志津華は途方に暮れ、まずは散らかった室内と割れた窓ガラスをどうにかせねばと、力なく腰を上げた。

5.
 およそA3サイズのカット袋をはじめて目にしたとき、高川典之はその表面に書き込まれた「カット」「No.」などの文字にどのような意味があるのかまったくわからず、しかしそのすべてをいちいち制作進行の中上(なかがみ)に尋ねては、彼を苛つかせるだけだろうと我慢した。
 夏休みの間、演劇部の合宿を除いたほぼ毎日、五反田にある「山賊スタジオ」にアルバイトで通っていた高川は、八月末日の段階で中上に呼び出され、今後についての相談を持ちかけられた。
「正直、まだまだ動画マンとしちゃ駆け出し以前だ。もっともトレスはそれなりにできるようになったみたいだし、なによりも慢性的な人手不足ってやつでね。おたくさえよければ、在宅での仕事を振りたいし、日曜日はスタジオに来てもらえると助かるんだけど」
 断る理由もない。主義主張をねじ曲げ、ついに携帯電話を購入できたのも、このスタジオでのバイト代金があってのことだし、今後も通話料金や原付免許取得の費用を捻出しなければならない。動画という仕事が楽しいのか面白いのかどうかさえ、まだよくわからないが、自分の力が必要とされているのなら、断る理由もない。高川は二つ返事で中上の申し出を受け入れ、本日九月十八日の日曜日の朝も、カット袋に入った動画を脇に抱え、スタジオへと続く路地を歩いていた。
 たった一ヵ月の経験で在宅など、本来はあり得ない話である。高川典之がアニメーターとして天才的な実力があるのならともかく、彼はまだ「歩き」の中割りすらままならぬ初心者であり、中上の言う「駆け出し以前」とは、まったくの事実である。それでも彼の勤勉さと正直さはこの業界では珍しく貴重であり、仕上がり数を確実に勘定できる安心感があった。この信用と、山賊プロが現在メインで請け負っているテレビアニメーション「漆黒のオーラムーン」が好評につき、外伝をオリジナルビデオアニメとして発表するというプロジェクトも動き出したため、戦力を確保したいという希望もあり、そうした事情が絡んでの申し出だった。
 九月も半ばであるが、朝の路地には葉の焼けるような臭いが漂い、高川は口で呼吸をして臭気にあてられないよう心がけていた。

 演劇部の合宿後、すぐに高輪の完命流道場へ足を運んだ高川は、師範の楢井立(ならい りつ)にある質問をした。篠崎流について詳しく知りたい。それは彼にとって極めて重要であり、素通りできない問題だった。
「篠崎十四郎は、この道場で苗塚(なえづか)前師範にも技を教えていた柔術家だ。二代前の鞠枝(まりえ)師範と同期にあたる」
 誰もいなくなった夜の道場で、楢井は正座したままそう語り始めた。
「鞠枝師範とも腕は互角。ただ、武道家としての矜持がいささか強すぎるきらいがあってな……その点において、鞠枝師範とも対立していた……そして三十年ほど前、完命流とは遂に袂を分かち、自身の流派を開いたと聞く。それが篠崎流だ」
「完命流と篠崎流はいかなる違いがあるのですか? 以前師範は邪道と言っておられましたが」
「うむ……それはつまり、篠崎十四郎という武道家がそのまま違いとなって表れている。すなわち、より武道として、正々堂々と技を競い合うという精神性が強く反映されている。我々完命流のように、実戦を想定したなんでもありではない。不意打ち、奇襲を一切禁じ、正面からの激突ありきといった具合だ……世間一般から見れば篠崎流の方が受け入れられやすい……いってしまえばスポーツのような柔術だが、それこそが惰弱な邪道……」
 若い高川にとって、師範の評はいささか受け入れがたいものがあった。篠崎十四郎の愚直な姿勢はどうしても否定できない。それに清南寺の近くではじめて出会った際、見事に姿勢を崩され、あれは完全に一本取られてしまった。実力差は歴然としていて、だからこそ遼のわけのわからない超能力で動きを封じた上での勝利は納得がいかなかった。
 あれ以来、どうにも戦う気力が湧いてこない。道場での鍛錬も休まず続けているが、最近では小学生の女子にまで、組手において追い詰められてしまうほど呆けてしまっている。テロリストとの戦いにしてもそれは同様であり、リューティガーや遼がやる気を見せていても、なんとも醒めた目で他人事のように映ってしまう。
 このままではいけない。それは高川自身よくわかっていたが、彼は解決策を見出すこともできず、まるで問題から逃げるかのようにスタジオ隅の動画机に向かい、鉛筆を走らせていた。
「凄かったな、昨日の救出劇は」
「いやけどさ、警察が止めたのはマイナスっしょ」
「だからさ、あいつらほんとに必死すぎだっつーのな。忠犬隊に任せときゃいーのによ」
「いやけどさ、そーゆーわけにもいかないっしょ」
「だからさ、受け入れちまえばいーんだっての」
 背後では石野と南という、二人の先輩アニメーターが仕事もせず世間話に興じていた。しかし高川はそんな雑音にも耳を閉ざし、一心不乱に動画用紙へ気持ちをぶつけていた。

 戦えば負けていた……正々堂々としたあの老人に……殺されていた……俺は……!!

 油断するとそのような悔いがこみ上げてくる。だからこそ、逃げ続けるしかない高川典之だった。


 結局、朝の九時から夜の十時まで、この日は食事休憩もとらず、高川は動画机に向かい続けた。中上に「そろそろ帰りなって」と言われ、ようやく窓の外が暗くなったことに気づいたほどの集中であり、それだけ彼の逃避したい気持ちは強く深かった。在宅分の原画をカット袋に入れ、それを脇に抱えた彼は夜の路地を駅に向かって力なく歩きはじめた。
「完命流、高川典之……!!」
 路地の角から、その少女は姿を現した。胴衣に袴姿は住宅街に似合わぬ異質さであり、強い殺気が吊り上がった目に浮かんでいた。高川はカット袋を抱えたまま身構え、復讐者の登場に強く顎を引いた。
 篠崎若木、十二歳。篠崎流柔術開祖、篠崎十四郎の孫娘であり、唯一の弟子でもあり、暗殺の「二の矢」である。
 瀕死の十四郎に止めを刺した彼女は清南寺で「お前たちの顔は忘れん」と宣言した。いずれ現れることは想定されてしかるべきではあったが、高川はあえてその存在を忘れようとしていた。彼女はあまりにも若すぎる。華奢な身体に闘志を燃やしているが、祖父に躊躇なく止めを刺せるほどの修練を積んできたようだが、それでも彼女は幼い。彼は得体の知れぬ気持ち悪さを胸に感じ、それでも身体が自然と少女との間合いに対応して熱くなっているのにうんざりした。
「祖父の仇……参る!!」
 黒い髪を揺らし、小さな身体が人気のない路地で跳ねた。正直で素直な接近である。だからこそどう対すればいいかよくわかる。高川は右手を突き出して左足を少しだけ前に摺り、左手でカット袋をしっかりと抱え直した。
「緩い……なっ!!」
 近づいてきた少女の右肩を鷲づかみにした高川は、そのまま彼女を手繰り寄せ、闘争本能が命じるままに左膝をその腹部へ打ち上げた。か細い呻き声が鼓膜を震わせ、どこか甘い香りが彼の嗅覚をくすぐった。
 脇に崩れ落ちた篠崎若木の背中に、高川は正拳を打ちつけようとし、寸前でそれを止めてしまった。
「き、貴様ぁ……」
 全身を震わせながら仰向けになった若木は、殺気だけは衰えさせずに中腰の偉丈夫を睨みあげた。
「よ、弱いな……十四郎殿と比べ……速度も足りん……間合いが単純すぎる……」
「と、止めを刺せ……お、お前の勝ちだ……」
 咳き込みながら、若木は両目に涙をためていた。ちっぽけだ。あまりにも弱く小さい。高川は口元をわなわなと歪ませると、ゆっくりと腰を上げ、ブロック塀に背中をつけた。
「何様の……つもりだ……情けなど……」
 ふらつきながらも上体を起こした若木は、涙を流しながら高川との間合いをあけ、呼吸を整えた。膝を打ち上げられた腹部の痛みはまだとれないが、なんとか身体を動かすことはできる。問題は、この絶望的なまでの実力差だ。祖父の言葉は正しかった。この男は強い。若木は涙を袖で拭き、鼻をぐずりと鳴らせた。
「後悔させてやる……この情けを……!!」
 言い終わらぬうちに、Gジャン姿の巨体が眼前まで迫ってきた。なんという威圧感であろう。すっかり気持ちをくじかれ、なす術もない若木は高川に襟首を掴まれてしまった。
「いい加減にせぬか!! 再戦などあり得ん!! お前では話にならん!! どこにでも行ってしまえ!!」
 リューティガーであれば、ここで彼女を始末してしまうのだろう。岩倉から彼の冷徹さは耳にしているし、実際それを肌で感じることもある。だが、とてもではないが自分には無理だ。こうも簡単に間合いを詰めてしまえるうえ、手ごたえがあまりにも軽すぎる。右手一本で彼女を宙吊りにしてしまった高川は、その幼い身体を路地へ放った。
「二度と目の前にくるな!!」
 背中を向け、高川は遠回りで駅へ向かうことにした。ゴミのように捨てられた若木は再び涙を流し、アスファルトを何度も叩いた。
 勝てない。強すぎる。それなのに決着をつけてくれない。少女は悔しさと情けなさでいっぱいになってしまった。わめき、うめき、祖父のいない、たった独りの不安に恐れ、だが心の奥底ではある判断が波立っていた。

 弱いのなら……強くなればいい……強くなるには……戦えばいい……あいつよりもっと弱い奴を……倒せばいい……殺せばいい……!!

 若木にとって、それは最良の妙案である。そんな彼女を拙く、愚かだと指摘する者はもうどこにもいなかった。


 あの怒りは、あの哀しみは真っ直ぐな故である。高川にはそれがよくわかっていた。篠崎若木の中に、自分の一部も確実に存在している。だからこそ、彼女を直視したくない彼だった。帰りの電車に揺られ、購入したばかりの携帯電話をぼんやりと見つめながら、こんなとき普通の高校生であれば、好きな人に電話でもするのだろうと彼は寂しく感じた。

 はるみんの番号は……さて……

 いや、知っていたところで電話などできるはずもない。それはあまりにも破廉恥な行為である。愚直な偉丈夫は落ちてしまった気持ちのまま、震動に身を任せ続けていた。

6.
「圭治、頼むから行かないでくれ……近所がなんて言ってると思う?」
 マンションの玄関でエプロン姿の母親に行く手を阻まれた比留間圭治は、「知るか!!」と毒づいてドアノブに手を伸ばした。このように反抗的な目をした息子を目の当たりにしたことはない。母はすっかり恐ろしくなり、日曜日の夜だというのに仕事から帰ってこない亭主に的外れな怒りを覚えた。
「だめよ、圭治。もう音羽だか関名嘉だか、そんなのと付き合ったら……今朝のテレビにも出てたけど、あの人はまともじゃないんだから」
「黙れ、売国奴!! 関名嘉さんはこの国を本気で憂う、真実の闘士なんだ!! 高橋さんだって待ってる……僕は行かなければならないんだ!」
「だめ!!」
 ボキャブラリーでは完全に圧倒されてしまう母だったから、身体を使って扉が開くのを阻止しなければならなかった。彼女は両手を広げて扉を覆い、そんな母を息子は腕ずくで引き剥がそうとした。しかし小柄で痩せぎすの比留間圭治に腕力はなく、彼はそれを補うためにジーンズのポケットからナイフを取り出した。
「け、圭治……」
「どうしてもってなら、僕は親だって乗り越えられる。それほどの使命を帯びているんだ。今日のミーティングにはどうしても出席しなけりゃならない……どいてくれよ!!」
 息子はなにかに取り憑かれている。母は諦めるしかないと感じ、悔しさを覚えながらも扉から離れるしかなかった。


 すっかり遅くなってしまった。夜十時からのミーティングだというのに、集合場所である神保町の喫茶店に比留間圭治が到着したのは二時間後の深夜になってしまった。帰りはタクシーになる。母にあのような態度を取ってしまった以上、こうなると小遣いの確保も難しい。新たに発生した悩み事に頭を痛めながら、彼は雑居ビルの階段を地下へと降りていった。
 神保町の書店街からやや外れた路地沿いにあるこの喫茶店は、音羽会議がよくミーティングに使っていて、関名嘉篤とマスターは以前からの顔なじみであり、大昔の学生運動の時代から、左翼系学生がたむろしていたという話である。それにしても何度か高橋知恵の携帯に遅れる旨を伝えようとしたのだが、彼女は電話に出てくれず、それほど議論が白熱しているのかと比留間は緊張して店内を見渡した。
 ところが、関名嘉や高橋の姿は店内になく、音羽会議の顔見知りは二名しか残っていなかった。比留間の来店に気づいた彼らは手招きし、「もうミーティングは終わったよ。メモはとっといたから。横須賀のスケジュール」と言って小さな紙をちらちらと振った。
 二人の近くまでやってきた比留間は、灰皿に残った吸い殻の量や、下げられていないいくつかのカップから、ここで間違いなくミーティングがあったと納得し、メモ用紙を受け取った。
「何時ぐらいに終わったんですか?」
「十一時かな? だって関名嘉さんが完全に予定を決めてきたから、それを、ほんと聞くだけだったし。関名嘉さん、この後も忙しいからって」
 増田という男がそう説明し、それならば最後の電話は十一時半だったから、高橋知恵も出られたはずだと比留間は違和感を覚えた。
 店内は薄暗く、机ごとに小さなランプが置かれ、増田たちの顔に影を揺らしていた。来るたびに、なんとも怪しげな空気を醸し出している店だと思う。比留間は仕方なく増田の隣に座り、メニューをぼんやりと眺めた。
「高橋さんなら、議長と一緒に帰ったよ」
 唐突にそう切り出したのは、対座する岡崎という男だった。音羽会議の中ではもっとも年長の三十五歳であり、現在はアルバイトをしながら活動に参加している、面倒見がよく皆から頼られている男である。比留間は「はぁ」と気のない返事をして首を傾げた。
「まぁ……議長が高橋さんと帰るのは、いつものことだもんな」
 なぜそのようなことをわざわざ言うのだろう。比留間は増田の言葉に口先を尖らせ、喉の渇きを覚えた。この店は夜になると店員がマスターだけになり、偏屈な彼は決して自分から注文を取りに来ることはない。苛立ちすら覚えた比留間は、「それがなにか?」と怒気まじりの声で返した。
「最初はさ、高橋さんが一方的って感じだったもんな。なのに最近じゃ、議長の方が熱心なんスよね。岡さん」
「さ、さぁ……私はそこまでは知らないけどねぇ……」
「なんか、“ともっち”とか呼んでるらしいっスよ」
「こらこら、増田くん……比留間くんもいるんだから……」
 岡崎に注意された増田は、いやらしい笑みを浮かべて比留間を横目で見た。勘の鈍い比留間圭治だったが、さすがに間近で交わされた会話の意味は、一応わかる。彼は紅潮し、膝を掴み、肩をいからせてぷるぷると震えた。
「な、なんなんですか、それは……!!」
 薄々は感じていたことである。だがあえて目を背けていた事実ではあったし、まだそう決め付けるのは早急であると躊躇っていた。しかしこうも呆気なく、まるでごく当たり前のように語られる関名嘉と高橋知恵の関係はなんなのだ。辻褄が合わない。そう、高橋知恵の自分に対するそれの、あまりにも辻褄があわない。バレンタインデーにチョコをもらったのだ。罵られ、身体を寄せた事実もあるのだ。それなのに、二人が深い仲であるはずがない。堪らず、比留間は呻き声を漏らした。

 落ち着け……落ち着け……高橋さんが弱みを握られてるって可能性もあるんだ……

 この思い込みで何度か難局を切り抜けてきた比留間だったが、今日に限っては頭が冷えてくれることはなかった。熱さを耳先にまで感じながら、彼は誰かが飲みかけにしていたコップを手にし、中の冷たい水をごくごくと飲んだ。


 二十五日の横須賀港への米海軍空母、キティホーク入港は政府にとっても長年にわたる安全保障の面からも極めて重要な出来事であり、正義決行スケジュールにそれが書き込まれ、先月の戦闘という事態が発生してしまった以上、なんとしてでもテロを阻止しなければならない懸案事項となっていた。
 内閣府別館、F資本対策本部でも警戒の準備が着々と進められ、警察と自衛隊、海上保安庁による合同会議が連日繰り返されていた。
 獣人の群れという武力に対し、警官隊と陸上自衛隊というやはり武力が有効であることは、八年前のファクト騒乱や再編協議での戦いで証明されていた。だからこそ、より多くの戦力を揃えることに政府は余念なく、前回のような都心部ではないという警備上のメリットから、大規模な防衛作戦が展開されようとしていた。
 作戦五日前となったこの日の深夜も、別館六階の対策班本部は捜査官たちが所狭しに走り回り、電話が鳴り止むことはなかった。
「ところがな、肝心の米軍側がさっぱりなんだよ。ちったぁ気を遣って欲しいってのに、キティちゃんはいつも通りの日程寄港だし、海兵を乗せてくるって話も聞かない」
 自分のデスクでカップうどんを啜った柴田明宗捜査官は、装甲服“ドレス”の調整を地下施設で終え、本部に戻ってきた作業着姿の神崎まりかにそうぼやいた。
「仕方ありませんよ。ハリエットも言ってましたけど、アメリカはあくまでもFOTを国内テロリストって見方にしたいそうですし。それから空母を護るのは、こっちの役目だって態度はまず崩れないって……申し訳なさそうに謝ってましたもの」
 隣のデスクについたまりかは、ペットボトルのスポーツドリンクを飲み、作業用の上着を脱いだ。
「たたいま戻りました!!」
 大きな声ではあるものの、疲れが滲んでいる。階段を駆け上がってきた那須誠一郎(なす せいいちろう)の帰還に、まりかと柴田は目で返事をした。
「ご苦労だったな、那須……現場はどうだった?」
「音羽のバカ共はさすがにいませんでしたけど……なんか別のセクト系がうようよ沸いてましたよ。プラカード持って」
 那須の報告に柴田は苦い笑みを浮かべ、カップうどんのスープを飲み干した。
「どっち寄りだった?」
「それが左派の中でも二極化でした。FOTに賛同する連中、徹底排除を叫ぶ連中……ほんと……なんていうか……」
 呆れ顔の那須は自分の椅子に腰掛け、長い足を投げ出し、かかってきた電話を手に取った。

 九月十七日。本日より三日前、正義忠犬隊はスケジュールにない活動を展開した。那須の出張はその現場調査であり、完全に虚を突かれてしまった対策班は、その対応にも追われていた。
 事件は十七日の昼間に起きた。山形県米沢市と福島県を結ぶ西栗子トンネル内で発生した玉突き衝突事故はトラックと乗用車など七台を巻き込み、壁面に激突した車体が炎上する惨事となった。現場が山奥でありその日は運悪く台風十五号が通過中だったため、事故の発見と対応が遅れ、発生から一時間後、ようやく地元消防団とレスキュー隊、そしてテレビ局が現場に到着した。
 ほぼ同時刻、西栗子トンネル付近の国道に一台のトラックが停車し、その運転席や荷台から二十体もの犬頭が姿を現し、テレビカメラが一斉に向けられた。彼ら異形の者たちは消防やレスキューの制止も振り切るとトンネル内に突入し、さらに一時間後には生き残っていた五名の被害者を抱え、トンネル出口で待機していたテレビカメラの前に再び姿を現した。通報により到着した警官隊に忠犬隊は囲まれたが、救急担当者に被害者を預けた彼らは、台風で荒れる真っ黒な空へ向かって飛び立ち、トラックだけが現場に残される結果となった。
 忠犬隊の迅速なる救出劇は世論の戸惑いと喝采を呼び、彼らを包囲した警官隊には非難の声も巻き起こった。再編協議でFOTは武力行使をしたものの、テレビで忠犬隊が警官と戦う姿が映し出されたわけでもなく、ネットを通じて流出した戦闘現場のムービーにも熊や獅子のような化け物は映っていたものの、翼を持った猟犬の姿はなかったため、忠犬隊はあくまでも正しいことをする。との認識が市民に広がりつつあり、十七日の事件はそれを決定付けてしまった。
「目撃証言を総合すると、忠犬隊を運んで来たトラックは、台風の進路を追いかけるように移動してたみたいです……つまり事故が起きるの待ちわびていたようで、運転席には盗聴機器がびっしり設置されてましたよ」
 電話対応の後、那須は柴田に現場での調査結果を告げた。中年捜査官は眠そうに目をこすり、後輩に向かって「ふん」と鼻を鳴らした。
「ご苦労なこった……災害ストーキングかよ」
「まぁ……正直言って、忠犬隊がいなければ五人の生存も絶望的だったと……レスキュー隊の人も言ってましたよ。あの炎の中をよく活動できたって」
「そりゃ、そーだろ。生体改造を受けてんだから。なぁ神崎さん」
 柴田に話をふられたまりかは、視線を泳がせ、後頭部を両手で抱え込んだ。
「なんのための点数稼ぎなんでしょうね」
 まりかの素朴な疑問に柴田は即答できず、那須は再び受話器を手に取った。
「正義……そいつをアピールしてるんだろうな……まだまだ世論は戸惑ってる段階だが……尾方(おがた)さんも聞き込みや裏づけ捜査でじわじわと感じてるって言ってたな……FOTに賛同する空気ってやつをな」
 事実、大鱒商事本社ビルの倒壊事故がFOTによるマッチポンプであった真相は対策班も確証としては掴んでおらず、そのため現在のところFOTは市民にとって実害のほとんどないテロ組織であり、二度の災害救助によって彼らの標榜する「正義」がゆるやかにだが伝播されつつある。

 この日、九月二十日も深夜から台風十七号が鹿児島県に上陸し、犬頭の救世主たちが被災地に舞い降りた。政府は彼らが台風の進行に合わせて出現することを把握していたが、五日後に控えた大規模作戦に備えて対策班を対応に回すことができず、なによりも救助現場から遂に、「忠犬隊の存在に、あえて目をつぶっていただきたい」との声が聞こえはじめたため、手をこまねくしかない状況を迎えるに至った。
 二十二日には台風十八号が高知に、十九号が沖縄に相次いで上陸した。テレビの報道特番では、土砂崩れから幼児を抱えて飛び立ったり、避難キャンプに支援物資を手に舞い降りたりする忠犬たちの雄姿が連日に渡って映し出されていた。
 翼を持ち、人の言葉を話す犬の頭。数ヵ月前まではあり得ない存在だったその異形も、この数日による露出で現実として定着しようとしていた。生物学的には相変わらず解明されていない、まるで異界からの来訪者のような彼らではあったが、命を助け、食料を届けてくれる「正しき者」であることを否定する被災者などいない。そんな変化を告げた、夏の終わりであった。


7.
 台風十九号が九州直撃のコースから外れ、東シナ海を北上するコースを辿っていたころ、暗くひんやりとした密室で花枝幹弥は目を覚まし、ごろりとベッドの上に転がり、冷たい金属製の壁に肘を打った。
 伊壁志津華のアパートから赤毛の不定形生体に拉致されてから、既に十日が経過していた。暗闇にはとっくに目は慣れていたので、三畳ほどの狭さであるこの部屋が、ベッドとトイレしかない牢獄であることはとっくに承知している。おそらくは朝と晩の二回、扉の下部にある小窓が開かれ、そこにパンとスープに牛乳といった粗末な食事が放り込まれる以外は何の変化もない連続である。同盟のエージェントである以上、こうした閉所での耐久訓練も積んでいるから正気は保っていたが、どうにも危機的状況であることは全身のだるさからよくわかる。運動と栄養、そしてなによりも日光が徹底的に不足している。このまま時が過ぎるのを待っていれば、遂には衰弱がはじまり、自力での食事も困難になるだろう。コップに入れられた生暖かい牛乳を飲み干した彼は、口を拭って垢だらけの自分の体臭に顔を顰めた。なんとも下着がぬめぬめして気色悪い。いっそ全裸になってしまえばラクなのだが、それではいざという際に身動きがとれなくなる。トイレで用を足し、食器を小窓の前に置いた彼は、便座に座ったまま両目を閉ざした。

 給食当番をDEAD OR ALIVEで気絶させるのはわけない……せやけどそないなことしても意味あらへん……

 いつまでも意地を張っていても仕方ない。こうなるとリューティガーに助けを求めるしかない。最も簡単な方法は「異なる力」を用いて代々木の彼へ思考を跳ばすことだが、この能力は特定の場所に特定の人物像をイメージすることにより成立する。

 せやけど……ここがどこかわからへん……どの辺が代々木や……

 現在位置が特定できれば、リューティガーのいる代々木か仁愛高校といった、思考を跳ばす方角を割り出すことができる。しかし真っ暗なこの密室では地下なのか地上なのかも判明せず、「どこ」へ意識を傾けていいのかわからなかった。当てずっぽうに、でたらめに念じるという手段もあることはあるが、それでは届く可能性があまりにも低く、確証もないため手ごたえのある鮮明な思考を念じることができない。今更ながら携帯電話を落としてしまった事実を彼は悔やみ、しかしそれでも体力と精神力を温存しておくべきだと、彼はズボンを上げベッドに転がり込んだ。
「さすがは同盟のスパイね……こんな牢獄で十日も過ごして……まだおかしくならないなんて」
 澄んだ、それでいて若干の棘を感じさせる少女の声である。分厚い扉越しにそれを耳にした花枝は、声の主にある予想をして上体をゆっくりと起こした。
「蒸すのは堪えるが……まだまだ平気や……飯とトイレがある以上、一ヵ月でも一年でもおられるし……」
 十日目にしてはじめての「対話」であった。さて、どのような答えが返ってくるものか。花枝が立てた膝に肘を乗せて待ち構えていると、鍵の開く高音の後、扉がたっぷりと時間をかけて開き、灯りが差し込んだ。
 閉鎖空間での長期監禁は確実に運動能力を鈍らせているし、粗末な食事は最低限の生命を維持させるだけの分量であり、全身に相変わらずのだるさを感じていた花枝は、ここで仕掛けるような間抜けはするものかと心に命じた。彼の鋭い眼光の先には、赤いエプロンドレスの少女が腰に手を当て不敵に微笑んでいて、その姿は声の主と予想していたそれと合致していた。
「ライフェ……やったか……これで三度目やな」
「すぐに噛み付いてこないあたりもさすがね……逃げ出すタイミングだとは思っていないんだ」
「俺はプロや……何をどのタイミングで為せばいいのかは、ガキんころからよう叩きこまれとる……不定形の嬢ちゃんかて、そうやろ……」
 花枝の言葉にライフェは眉間に皺を寄せ、口元を引き攣らせた。
「花枝幹弥……賢人同盟諜報部所属……中佐の密命で、檎堂猛とともに来日……我々FOT、および内閣特務調査室F資本対策班、そして先遣隊のリューティガー真錠を監視、盗聴の任務を帯びたサイキ……」
 ライフェの背後から、少々掠れた声が廊下に響いた。花枝が注意を向けると、彼女の背後から天然パーマのもじゃもじゃ頭が姿を現した。
「誰や……自分……」
 よれよれのワイシャツにだらしなく締めかけのネクタイは、なにかの自己演出にも見えるが、猫背のくたびれた背格好には自堕落さに年季といったものも感じさせ、花枝はやってきた中年男性、「夢の長助」こと藍田長助(あいだ ちょうすけ)のとらえどころのない外見に戸惑いを覚えた。
「藍田長助……FOTのもんだ……」
 腕っ節が強そうにも見えず、高度な知性や教養も感じられない。最近知り合った中では、担任教師の川島比呂志がもっとも近いような印象であり、こいつはいったいFOTでどのような役割を果たしているのか。花枝はまずそこを探るべく、ベッドの上に座ったまま観察を続けた。
「花枝……お前さんを捕らえて、こんな場所に監禁させてもらったのにはワケがある」
 ライフェの背後で腕を組んだ長助は、胸ポケットからくしゃくしゃによれた煙草の箱を取り出した。
「せやろう……始末せぇへんいうことは……俺の持ってる情報が目当ていうことか?」
「お前さんがどんな情報を掴んでいるのか、それは俺たちにはわからんし、どうせ尋問したところでゲロるたぁ期待してねぇ……」
 煙草を咥え、それに火をつけた長助は、ライフェ越しに鋭い目を向けた。
 意外だった。こうまで自分を追及しているのは、てっきり檎堂から送られてきた命がけの情報を握っているためだとばかり思っていた。しかしこいつらはそれにはまだ気づいていない。幸い携帯電話は志津華の部屋に落としてきたから、黙っていればバレることもないし、どうやら拷問にかけて情報を聞き出す様子でもないようである。花枝は小さく息を吐き、だが同時に背筋を冷たくした。

 せやったらなんや……いや……まてまてまて……よしんばあの情報を俺が知っとることをこいつらがわかってるとして……せやったら拉致やなくて殺してるはずや……

 慎重になれ。都合よく物事を考えるな。安易な安心は相手の巧妙な心理戦に敗北することになる。花枝は早計な判断を戒め、長助の言葉を待った。
「お前さんは役に立つ……俺たちFOTにとっちゃ、実に都合のいい能力を持っている……それをぜひ役立てて欲しい……」
「アホか……なにゆうてる……」
「残念ながら……あんたに選択権はないの。見てくれはこんなだけど、夢の長助にかかったら、まず逃れることはできない……」
 再び口を開いたライフェは背後の仲間をそう評価すると、腰に手を当てたまま独房へ一歩足を踏み入れた。
「偉そうに……不定形のバケモンが……」
 その言葉に赤毛の少女は足を止め、顎を引いて花枝を見据えた。さすがに凄まじい殺気だ。彼はライフェの憎悪を正面から受け止め、だが彼女の背後で煙草をふかす長助から注意を逸らさなかった。
「檎堂猛……ビッコの熊髭……あんなカタワで情報収集なんて……どうなんだろ? 同盟も人材不足なのかしら?」
 なぜ彼女が自分の相方の容姿を知っているのか。いや、つまりそういうことなのか。花枝はだるさの中でなんとか保っていた冷静さが溶けていくのを自覚しないまま、口元をわなわなと歪ませてライフェを見つめた。するとその右手首から、鋭く長い一本の「刀」が生えるように出現し、彼女はそれを握り締めた。
「不定形のバケモノって言ったわね……そう……だからこんなこともできる……もう何人もこれで殺してきた……」
 なにを言おうとしているのか、容易に想像はつく。敵ながら年齢も近く、それなりに可愛らしい容姿をしていたから、どこか油断もしていた。だが、あり得るのだ。そう、おかしくはないのだ。
「檎堂って熊髭……最後に聞けたのが、わたしみたいな女の子の声だったのが嬉しいって……そんな強がり言いながら泡になっちゃった……なにそれって感じ……!!」
 言い放ったあと、少女は手にしていた刀を一振りした。それと同時に花枝は獣のような叫びを上げ、天然パーマのもじゃもじゃ頭が煙草を捨てながら独房へ踊りこんだ。
「さぁ!! さぁ!! さぁさぁさぁさぁさぁさぁさぁさぁ!!」
 長助の叫びが花枝の衝撃をより強くさせていた。煽り、持ち上げるようなリズムだった。長助はライフェと花枝の間に割って入り、彼の両肩を掴んだ。
「さぁさぁさぁさぁさぁさぁさぁさぁさぁ!! はじめる!!」
 少女の言葉、男の煽り、閉鎖空間に十日間閉じ込められた疲労、そのすべてが少年の意識を混濁させ、開かれ無防備になった心が曝け出された。
 夢の長助はスラックスのポケットから一枚の写真を取り出した。目の焦点も定まらず、催眠の初期状態にまで達していた花枝の心は、ほとんど長助の手に握られてしまい自意識が薄くなっていた。

 檎堂はん……死んだんやな……それは……そうやろな……俺が……拗ねたばっかりに……死んだんやな……

 なにか導くような、ゆったりと静かな囁きが鼓膜をくすぐり、網膜には一枚の光景が揺れていた。目にしたそれは、囁きとともに花枝の意識の深いところへと入り込んでいった。奥の奥、書き換えのきかない深層である。
 疲労と消耗を待ち、相方の死をその張本人によって知らせ、無防備となった心に暗示をかける。すべては催眠術のスペシャリストである、夢の長助が計画した作戦だった。彼は花枝の眼前に写真を突き出したまま、小さな声で耳元に囁き続けた。
 相も変わらずロクでもない仕事である。普段は真実の人にあれこれ説教をしてはいるが、実のところもっとも残忍で冷酷なのは自分なのかもしれないと自嘲することもある。そう、この嘲りこそがもっともタチが悪い。罪を感じていると奢っている、最低の割り切りというやつなのだろう。長助はだが、そんな矛盾を意識しながらも暗示の囁きを止めることはなかった。

 夕日の差す廊下をライフェはゆっくりと進み、階段を上がった彼女は錆び付いたドアノブに手をかけ、蜩の音がかすかに響く、雑草だらけの中庭にやってきた。
 そこにはリュックサックを背負った、褐色の肌をしたボマージャケット姿の少年が佇んでいた。少女がやってきたことに気づいた彼は嬉しそうに笑みを浮かべたが、彼女の表情があまりにも強張っていたため、合わせなければとそれを消し去った。
「ライフェ……様……」
 はばたき少年は、力なく歩いてきた主に気遣いながら言葉をかけた。
「最っ低……!! そりゃ……最初にこの作戦を提案したのは、確かにわたしだけど……長助の具体案って、ほんと容赦ない……!!」
 言いながらも、彼女が具体案の提案者に対してではなく、あくまでも自分に対して怒っているのは少年にもよく理解できた。しかしこういった際、安易な慰めの言葉をかけられるのを彼女は嫌う。はばたきはライフェの傍らで佇んだまま、その心が動いていくのを待ち続けた。
「だけど……これで成功ね……長助の催眠暗示は凄いから……これで、計画の大半は終わったようなもの……真実の人も喜んでくれるわね、きっと」
 蜩の優しい音が、荒みつつあった気持ちを誤魔化してくれる。少女にとってそれは嬉しい偶然だった。ようやく笑みを取り戻した彼女は、褐色の肌をした僕に人差し指を立てた。
「じゃあ帰ろうか。サイドカー、停めてあるんでしょ?」
「も、もちろんです、ライフェ様!! 帰ったら、すぐにシチューを温めますから!!」
「あっそう。まぁ、なんにしても任務完了のお祝いをしないとね。長助は、どーせ夜通しになるって言ってたから」
 最近では以前までのように皆で集まって食事をしたり、遊んだりする機会がずっと減ってきている。活動が忙しくなっているのもそうだし、指導者の顔が短期間で急速に知れ渡ったという事情もある。だからここ数日は赤い髪の主と二人で過ごす機会が増えたのだが、少年にとってそれは願ってもない幸せだった。サイドカーのキーをボマージャケットのポケットから取り出した彼は、「行きましょう、ライフェ様!!」と元気よく促し、雑草だらけの中庭から歩き出した。
 おそらく今夜、奴への暗示は完了するのだろう。望まない役割を背負い、彼はFOTにとって大きな成果を残してくれることだ。その結果、あの花枝という男がどこまで落ちていくのかはわからない。

 あそこまで驚いて……ショックを受けて……なら……決して……

 仲間にはならないだろう。それならば、自分で滅ぶ道を選ぶかもしれない。だけど仕方ない。これは勝負なのだ。敗者には何も残らない命がけの勝負なのである。ライフェ・カウンテットは束ねた髪を手の甲でなで上げ、少年に続いて草むらを後にした。

8.
 横須賀港への空母キティホーク入港は明日の日曜日である。テレビでは連日に亘ってFOTがいかなるテロに出るかを検証する特番を放送し、島守遼はアルバイト先のボディビルジム「ビッグマン」のカウンターに置かれた小さな液晶ディスプレイでそれを眺めていた。
 評論家、知識人、芸能人といった様々な種類の人々が、FOTと正義忠犬隊、そして真実の人の行動を予測し、多少の相違はあったものの、なんらかの破壊テロを敢行するであろうという点においては大方の一致を果たしていた。

 そりゃ、そーだろうな……再編協議に獣人を山ほど差し向けたんだ……

 ユニフォーム姿の遼は、支配人の呉沢(くれさわ)に注意されない程度にモップがけの手を動かしながらも、明日は自分も関わることになる一大イベントについて報じるニュースに注意を向け続けていた。
 アルバイトなどしている場合ではない。だが、こうでもして気を紛らわさないと、とてもではないが緊張に押しつぶされてしまうような気もする。それに今日は同僚であり同級生である麻生巽(あそう たつみ)が早退していて手が足りないという事情もあった。いわば決戦前日の九月二十四日において、遼が渋谷、宮益坂の雑居ビルにてモップがけをしているのには、そんな複雑でありきたりな理由が混ざり合っていた。
 一通りの片付け作業を終えた遼は、本日の勤務時間である夜七時を過ぎたため、呉沢に挨拶をして更衣室に向かった。少しは気も紛れたし、疲れたから夜も寝付きやすくはなっただろう。明日はいったい何体もの獣人の急所を破壊すればいいのだろう。もとはと言えばあいつらも人間なのだから、結局自分は人殺しをしているということになる。

 だめだ、なにを考えてる。あれはもう人じゃない……!!

 料亭「いなば」での戦いで、何体かの獣人の息の根を止めた遼である。その際、相手の獣人はとても人間の知性が残っているとは思えず、ただの猛獣としか思えなかったが、もし健太郎と同じ技術によって生体改造がなされているのなら、あれは単なる興奮状態であって知性は保ったままなのかもしれない。遼は黒いワイシャツに着替えながらも、自分の手が震えているのに気づいた。

 ジョージさんが……食われた……獣人に……あいつらは……人じゃない……!!

 辛い記憶ではあるが、それを思い出すことで強い気持ちを保てるような気もする。着替え終えた遼は更衣室から廊下に出て、そのまま階段でビルの一階まで降りた。
 幾分涼しくはなっただろうか。夜の都会に吹く風に心地よさを感じた遼は、どこかで夕飯でも食べて行こうかと顎を上げた。
「遼……」
 聞きなれた声だったから、このような場所で耳にするのは違和感があった。声のした宮益坂の歩道に視線を向けた遼は、そこに佇む栗色の髪に首を傾げた。
「なんだよ、ルディ……」
 ガードレールに腰をつけ、両手をジーンズのポケットに突っ込んだ藍色のジャケット姿のリューティガーは、薄い笑みを浮かべたまま、雑踏の中にあって存在感を示していた。
「バイト……ここだって聞いてね……君のお父さんに」
「あぁ……待ってたのか?」
「うん……」
 例えば真実の人が現れて、これから倒しに行かなければならないのなら、こうも穏やかでいるはずもないし、別件であっても急いでいる様子でもない。つまり、これはなんとなくやってきたと考えるべきなのだろうか。代々木から渋谷は二駅しかないし、そもそも彼にとって距離という概念は行動の制約とはならない。遼はなんとなく違和感を覚えながらも、リューティガーの隣に並んだ。
「飯……食ってこうかと思ってるんだけど……付き合うか?」
「飯……? あぁいいね……それは……」
 反応が鈍い。疲れているのか、それとも明日を控えて自分と同様に緊張しているのだろうか。横顔を見ただけでは判断もできず、遼は腰をガードレールから浮かせ、宮益坂を駅に向かって下り始めた。

「メタカフェって……麻生の行き着けの店でさ。よくバイトの帰りに寄るんだよ。ハチ公口よりもっと向こうなんだけど……そこでいいか?」
 並んで坂を下りながら、遼はリューティガーにそう言った。
「どこでもいいよ……そういえば麻生くんは?」
「あいつは今日は早退……ボディビルの大会が近いらしくてさ、別のジムで鍛えていくって」
「別のジム?」
「ああ。知り合いのいないところで、他人に見られながらの方が緊張感があっていいんだとさ。よくわかんねぇけど……」
 朴訥な遼の口調にリューティガーは一応納得し、彼に続いて歩みを早めた。

「あれ? マスター一人っスか?」
 薄暗い照明の「Full metal Cafe」店内に入った遼は、酔客で賑わうテーブル席を避けながらカウンターまで辿り着いた。頭にバンダナを巻き、立派な口ひげのマスターは初めて目にした栗色の髪をした少年に一瞬だけ注意を向け、「愛ちゃんは休みだよ」と告げた。
 遼に続いてカウンター席についたリューティガーは、それにしても看板に電飾で記されていた「Full metal Cafe」という店名になんとなく見覚えがあると思いつつ、名刺大のカードを取り出し、右下のボタンを押した。
「なんだ、それ?」
 身を乗り出してきた遼に、リューティガーは呆れ笑いを浮かべた。
「コールサイン……所在地を代々木に発信したんだ……」
「今までそんなことしてたっけ?」
「いいや……やつらに傍受される恐れもあるし……嫌なんだけど、エミリアが絶対やれってうるさいんだ」
「エミリアって……あの外人の可愛い子?」
 ストレートな遼の表現に、リューティガーの笑みがやわらかく変化した。
「彼女は普段、別働についてるから……今日みたいに、いるときだけに発信させてもらってるけどね……ところで“愛ちゃん”って?」
 リューティガーの素朴な疑問に、遼は眉と肩を吊り上げた。
「あのな、向田愛っているだろ。うちのクラスに」
「あ、ああ……あの丸っこい子?」
 交流はまったくといっていいほどなかったが、リューティガーは丸々太った、従者の一人によく似た体型の同級生を思い出した。
「バイトしてんだよ」
「え!? 彼女が!?」
 店内もカウンター内も狭いこの店で、あの丸くて大柄な彼女が働いている姿を想像したリューティガーは、まるで一年前の遼がそうであったかのように上ずった声で驚いてしまった。
「いや、それが実にきびきびと働いてるんだよ。客相手も上手でさ、ちょっと無愛想系なんだけど、酔っ払いとかうまくあしらうんだよ」
「へぇ……それはなんか……意外というか……」
「だろ?」
 同級生の意外なる側面にひとしきり驚いたリューティガーは、遼の薦めもあってボンゴレを注文した。
 用件を聞くべきなのだろうか。遼は隣で美味しそうにパスタをすするリューティガーを横目で見て、まあなんとなくこうした交流があってもいいかと、自分もフォークを手にした。
「こないだはありがとう……慌ただしくって礼が言えなかったから……ほんとに……」
 手を止めたリューティガーは、正面を見たまま小さくそうつぶやいた。タイミングの良さに遼は驚き、何に対して礼を言っているかもよくわかっていたため、「いいって」と短く返した。

 ちょうど一週間前の十七日、家で休んでいた遼のもとに、リューティガーが訪れたのは昼過ぎの午後二時のことである。
「忠犬隊が東北に現れた!! 一緒に来てくれ!!」
 玄関でそう告げられた遼は、すぐに着替えて支度をした。忠犬隊が現れたということは、すなわち真実の人もセットである可能性が高い。言葉も少ないやりとりではあったが、遼にはリューティガーの意図がよくわかっていたし、躊躇することなく現場へ跳んだ二人だった。
 そこはトンネル内での玉突き衝突の事故現場だった。忠犬隊は既に中に入って救助活動を開始していて、だがそこにはアジテートする真実の人の姿はなかった。ならば忠犬隊に戦いを挑み、全滅とまではいかなくても今のうちに数を減らすという手段もある。林の中から遠透視を続けるリューティガーを、だが遼は諌めた。


「確かにあのときの君の判断は間違ってない……忠犬どもは人命救助をしていたんだからね……兄がいない以上、あれ以上僕たちがあそこにいる理由なんてない……」
 水を一口飲んだリューティガーは、カウンター内で皿を洗うマスターに聞かれてもいいように、言葉を選んであらためて自分の非を認めた。
「い、いや……あいつらといずれ決着をつけなくっちゃいけないってのは……そうなんだよな……だろ?」
 気持ちの悪い馴れ合いのようであり、なによりも判断の正しさを一方的に評価されるのはなんとも居心地が悪かったため、あるバランス感覚が遼に働いていた。
「ああ……人気取りの理由はわからないけど……やつらは明らかに戦うための調整を受けている……人道支援が本来の目的じゃない……」
「や、やっぱさ……政府の対策の人たちも……その辺で意見が一致してるのかな?」
 遼の一言に、リューティガーは思わず乱暴にコップをカウンターに置いてしまった。鈍い音は店内にかかるロックのリズムにかき消されたが、その手の震えはどうしても遼の目に留まってしまい、不用意な発言だったかと彼は視線を逸らした。
「あいつは……明日もおそらくしゃしゃり出てくる……」
 “あいつ”が誰であるのか、遼にはよくわかっていた。すっかり隠し事が減った二人の間柄ではあったが、心のタブーといった問題はまだいくつか存在する。リューティガーの神崎まりかに対する憎悪がまさしくそれであり、その根深さを遼は今ひとつ皮膚感覚として得てはいなかった。だからこうもぎくしゃくしてしまう。だが、それに気を遣い続けるのはなんとも不便であり、そもそも敵を同一とする味方同士なのだから、もう少し何とかならないかと彼は心を強く持ち直した。
「あ、あのさ……結局お前はどうしたいんだよ?」
「さぁね……自分にもよくわからないよ」
「そ、それじゃまるで……」
「ガキって? ならそうだね。僕はガキだ」
 そう言い放ったリューティガーは、黙々と残りのボンゴレに取り掛かった。堪らず視線を泳がせた遼はマスターと目が合い、苦笑いで誤魔化してしまった。
「あいつがいると、僕は八年前のガキに戻るんだろうな。だから明日だって顔を合わせたくない……やるべきことは迅速にだ……いいね、遼……」
 ボンゴレを平らげたリューティガーは、口をナプキンで拭いてそう告げた。遼は納得するしかなく、「わかった……」と小さな声で返した。
「なぁルディ……明日のこととも関係してるんだけど……」
 遼はポケットから光学繊維を取り出し、その端をリューティガーの膝に載せた。

 面倒だからこれでいいか……?

 ああ……

 高川のことだ……合宿で武術家と対決してから……ずっと元気がないっつーか……こないだのミーティングでも、ネガティブ全開だったろ?

 あぁ……あれはそうだったね……

 戦いたがってるあいつの言葉じゃねぇだろ……それに明日だって、このままいけば不参加だ……あいつ、刺客に敵わなかったのと、俺が手助けしたのと、孫娘が止めを刺したって三連チャンで落ち込んでる……

 なるほど……

 正面を向いたまま、リューティガーはあくまでも冷淡な横顔を遼に見せ続けていた。

 ど、どうすんだよ……

 知らないよ……

 な、なんだよ、それ……

 だってそうだろ……スランプは他人がどうかできる悩みじゃない……彼が戦い方や、理由、意義なんかで壁にぶつかってるんなら、それは結局自分で解決するしかない……違うか遼?

 そ、そうかも知れないけど……い、いくらなんでもそれじゃあ……

 彼は武術の道に生きてきた……武術は戦う方法であるけど、戦いそのものじゃない。そこに彼が自分で気づいた上で、まだ戦いに参加する意志があるのなら、また僕たちと一緒にやれる……けどね、悩んでいるようじゃ危険なだけだ……命を落とすことにもなる。戦いは厳しくなる一方なんだ……

 正論である。落ち込んでいる高川典之をどうにかできないかと、周囲から救済することが正しいと思い込んでいた遼は、鮮明に流れ込んできた解答に納得するしかなかった。このような聡明さを持っているのに、なぜ彼は子供じみた憎悪をあの人に向けてしまうのか。同時にそれが残念でもあったが、自分も人のことを偉そうに心配などしていられない。矛盾の象徴である黒く美しい髪を思い出した遼は、光学繊維から咄嗟に手を離した。

「いや……正しい……そうだな……真錠……」
「僕たちだけで……陳さんやガンちゃんたちと、明日は頑張るしかない……」
 ようやく遼に顔を向けたリューティガーは、仕方なさそうに微笑んだ。


「美味しかったよ、なかなか……あのマスターって、料理上手いんだね」
 リューティガーは店を出ると、振り返って看板を見上げた。
「ボンゴレが特にな。気さくでいい人だしな」
 やはり店名に見覚えがある。確か、なにかの資料で目にしたような気もするが。遼の言葉に耳を傾けながら、リューティガーは栗色の前髪を梳き上げ、紺色の瞳で看板を見つめ続けた。
「ルディ様!!」
 高く澄んだ声にリューティガーと遼が振り返ると、水色のブラウスに白いプリーツスカート姿の少女が目を輝かせて人ごみの中から姿を現した。チラシや紙くずがあちこちに転がり、酒や油の匂いが立ち込める渋谷の路地裏には、なんとも似つかわしくないリューティガーとその部下である。栗色とプラチナブロンドを見比べながら、遼は美しい二人が風景とは逆にとてもお似合いだと、なんとなくそう感じた。
「僕に迎えはいらないよ……コールさえあれば、いつでも跳んでいく……」
「は、はい……な、なんとなく外出したかったもので……ご迷惑だったでしょうか?」
 エミリアは遼に視線を向け、軽く頭を下げた。
「いや……もう帰ろうと思ってたからいいさ……一緒に行こうか?」
「は、はい、ルディ様!!」
 満点の結果とは言えなかったが、これはこれでよかったのだろう。エミリアは敬礼しそうになった手を押さえて満面に笑みを浮かべた。「TOKYO SHIBUYA Guide」という飲食店紹介サイトを入念に調査した結果は、また次回に生かせばいい。彼女はもう一度遼に頭を下げ、若き上官を促した。
 英語でのやりとりのため、なにを喋っているのか聞き取れなかったが、少女はなんとも幸せそうな様子であり、背中を向けたまま右手を挙げて別れの挨拶をするリューティガーを、わくわくしながら見上げていた。遼はなにやら自分まで嬉しくなってしまい、あいつはあいつで照れているのだろうと、らしくない素っ気なさをそう理解して、淀んだ街には不似合いな二人の背中を見つめ続けていた。

9.
 横須賀港は三浦半島の北東面に位置し、北から順番に長浦地区、新港地区、平成地区、久里浜地区の四地区から構成されている港の総称でもある。三浦半島の付け根、長浦湾の西から南西にかけては海上自衛隊の総監部、および司令部と米海軍基地があり、軍港としての側面も強く持っている。九月二十五日の今日は、米海軍所属の空母、キティホークの帰港日であり、FOTの正義決行スケジュールの実行日でもあった。米軍基地周辺には昨晩より陸海の自衛隊と警官隊が警備につき、物々しい警戒態勢が敷かれていた。

 神崎はるみが横須賀駅に到着したのは、午前八時であった。夜明け前に起床し、両親にも内緒の横須賀行である。島守遼には止められていたものの、どうしても無視などはできない。報道規制でテレビもどうせ、再編協議のときと同じく現場も確認できぬ遠景を映し続けるのは明らかであり、どうしても現場を訪れ、彼や姉がなにと戦っているのか、それを確認したいはるみだった。
 黄色のワンピースにベージュのカーディガンを羽織った彼女は、改札を出ると米軍基地のある海岸を目指して歩き始めた。周囲には迷彩服の自衛官や警察官がいて、歩道の曲がり角には白いロープが張られている箇所もあり、市民の通行はあらゆる場所で制限されていた。人の流れになんとなく従いながらはるみが辿り着いた先は、米軍基地を海岸から望める海浜公園だった。今日起きるであろうはずの事件を見学するべく、そこには何十人もの見物人がそわそわと身体を揺らし、機動隊が取り囲むように警戒していた。
 この公園からでは基地の様子はともかく、入り江の奥まった地点に位置する空母の入港先は目視できない。はるみは周囲の見物客からそのような情報を耳にし、だがどこに移動したところで制服姿の者たちが行く手を阻み、自分のような一般市民がテロの現場を目撃するのは難しいだろうと諦め始めていた。それほど、横須賀には警戒する者が溢れていた。
 どうやら無駄骨に終わる公算が強い。それが現在の自分の立場というやつなのだろう。はるみはため息をつき、見物人に紛れてしまっているこの状況に悔しさを覚えた。
 遼はどうなのだろう。彼やリューティガーは、いったいどこで事が起きるのを待っているのだろう。彼らも隠れているのなら、どこか秘密の監視場所でもあるのだろうか。それとも、もう政府とも結びついていて、公認で警戒に当たっているのだろうか。そういえば、何度か学校を訪れていた内閣特務調査室の那須誠一郎も、最近ではすっかり姿を現さない。潮風に頬をくすぐられたはるみは人込みにうんざりしながらも、ここにいなければ事の動きは把握できないと、仕方なく我慢することにした。
「イージスだよ、イージス!! 超かっちょええ!!」
 頭の悪そうな叫び声に、はるみが視線を遥か海上へと向けると、そこには一隻の軍艦がゆっくりと進んでいた。あれがイージス艦かどうか、女子高生のはるみにわかるはずもなかったが、おそらく自衛隊か米軍の艦船であろうことは予想できる。すると、もっと小型の巡視艇が二隻、軍艦に続いて湾内に入ってきた。警備の規模が大きくなっていることを知った見物人たちは、驚きの声を上げた。まるでこれから海戦でも目撃できるような、そんな期待にある者は目を輝かせていた。

 空母なんて……どうやってテロを仕掛けるんだろう……

 青空を見上げ、はるみは手で額を覆った。犬頭をした翼のある化け物が、爆弾でも投下するのだろうか。ここは海に面しているが、空母が入港する場所はもっと突き出た米軍基地であり、危険が及ぶことはないだろう。そう、安全な場所だから関われない。少女はそれを思い知り、口先を尖らせ地面を軽く蹴った。


 半島からせり出した米海軍基地より南東およそ一キロメートルの地点に、猿島という最長が五百メートルほどの小さな孤島があった。海水浴場などがあることで知られる自然の無人島であり、その沿岸には何隻もの古ぼけた漁船が停泊し、陸地側には数十名の男女が険しい表情で緊張を続けていた。
 いずれも左翼系反戦平和市民団体に所属する活動家たちだった。彼らの視線は漁船の群れに中にあって、一隻だけ異彩を放つ大型の白いクルーザーと、それに乗り込もうとしている二十名ほどの集団に向けられていた。
 今日のキティホーク入港反対デモの音頭をとったのは、彼ら音羽会議である。最近急激にマスコミの注目を浴びるようになった反米団体であるが、どうにも資金源や後援者に不審な点も多く、主張も左翼系というよりは新右翼というか、民族主義者的とも言える。“反米”この一点にのみ主義が共通するため、合同でのデモとなったが、払い下げの漁船に乗り込みをはじめた彼ら市民団体たちにとって、あの二十名のグループとその指導者である関名嘉篤は警戒すべき対象でもあった。
 クルーザーに乗り込んだ音羽会議の一員、比留間圭治は興奮がちに運転席に向かった。そこには金髪の白人男性が、出発の準備に追われていた。彼はつい先日、数寄屋橋で右翼団体を追い払ってくれた、あの外人である。彼はやはり音羽会議の協力者だったのか。英語に自信のない比留間は白人の背中に愛想笑いを向けると、身体のバランスを両手で取りながら前部デッキへと戻った。
「諸君!! それでは海原へと出発しようではないか!! 」
 デッキでは関名嘉が拳を振り上げ、拡声器で漁船に向かって声を張り上げていた。いつもの銀縁眼鏡はコンタクトレンズに変え、ほどほどの長さだった髪はすっかり短く刈り込み、なによりも服装が臙脂色の詰襟だったため、今朝の集合段階では比留間も彼が関名嘉議長であるとは中々気づかなかった。しかし見慣れてくると、なんとも凛々しく頼もしい指導者であると思える。これまでの議長はどこか優男然としたモラトリアムな雰囲気だったが、背筋をピンと伸ばして拳を振るその姿は自分がついていく存在としては誇らしいとさえ思える。拍手をしながら比留間はちらりと、隣にいた高橋知恵に視線を移した。
 目を細め、口元はだらしなく歪み、頬が紅潮している。言うなれば“うっとりとした顔”というやつだろうか。もちろん、その対象は出発を告げる関名嘉議長に向けられていて、比留間はなにやら度が過ぎた敬意を彼女は抱いてしまっているのではないかと、そんな不安を覚えた。これは弱みを握られているなどといった表情ではない。冷静に分析すればそれは明白なのだが、彼はクルーザーの揺れに気分の悪さを感じることでその確信に分厚い膜を張った。

 白人の操船で、大型のクルーザーは先頭を切って猿島から北西を目指した。それに後れて数隻の漁船が続き、船団はキティホークの入港進路を遮るべく海原を進んだ。やがて数十分の後、船首付近で双眼鏡を覗く比留間の目に、小さな艦影が浮かび上がった。

 キティホーク級航空母艦。横須賀港を母港としている、アメリカ海軍では最後の通常機関空母である。満載時の排水量は81.780t。全長は318.5m。五千二百名の乗員と七十二機の艦載機を載せた、巨大なる移動拠点は米国の威信を背負い、テロの脅しに屈することなくその威容を三浦半島北西沖に現した。双眼鏡に映るそれはまだまだ小さかったが、あれに急接近などすれば、波でクルーザーなどひっくり返されてしまうのではないか。初めて目にする軍艦に比留間は唾を飲み込み、「我、敵艦を目視セリ!!」と叫んだ。
 操縦席にいた白人の男は、電子双眼鏡を手にとってそれを覗き込んだ。しかし彼が探したのは空母の艦影ではなく、もっと小型の船だった。

 さーてと……忙しくなるぞ……

 ジョーディ・フォアマンは舵をしっかりと握り、双眼鏡に映った巡視船に緊張した。

 反米船団と空母キティホークの間に、一隻の巡視船が割って入った。そのブリッジからF資本対策班捜査官、柴田と那須はクルーザーを睨みつけ、舌打ちをした。
「あまのバカ共……ぞろぞろと出てきやがって……」
「一発威嚇でもできりゃいいんスけどね……」
 後輩の物騒な発言に柴田は肩を上下させ、だがそれも悪くない提案だと同意した。

「行く手を遮るか!! 海上保安庁の諸君!! 我々同胞の日本人同士で対立している事態ではないのだぞ!! 諸君の向こうで侵略米軍が堂々と入港しようとしているのだぞ!! このような屈辱をなぜ甘んじなければならないのか!! 我々日本人は、断固としてこれを阻止しなければならん!! 侵略米軍は本国へ帰れ!! 日本は独立国家である!! 市民生活を壊し、安全の保障ができない悪魔どもめ!! この横須賀でなにをするつもりだ!!」
 比留間の鼓膜は、すぐ背後で拡声された関名嘉の声に破られんばかりだった。彼は堪らず耳を押さえてしゃがみ込み、だが「そうだー!! 出て行けー!!」と叫んだ。
 船団から一斉に怒号が上がり、巡視船のクルーはみなうんざりとした様子でそれを見守るしかなかった。彼らは自由気ままに叫ぶ市民グループを、だが守る立場にあり、今日に限っては背後の空母もその防衛対象に含まれていた。洋上を俯瞰で眺めれば、まさしく巡視船の存在は市民と米軍の板ばさみであり、そのような立場を進んで望む乗員は皆無だった。


 音羽会議を始めとする反米グループが沖合でアジテートを開始したという情報は、キティホークの入港場所である米軍港に停められていた大型トレーラーにもすぐに飛んできた。カーゴルームにいた神崎まりかは頬を引き攣らせ、中央部に鎮座する真っ赤な人型装甲服、“ドレス”を見上げた。
「神崎くん!!」
 オペレーションブースから聞こえてきた森村主任の叫びに、まりかはドレスを囲むように設置された装着機器を操作することで応えた。念動力を主動力にする、決して公にはできない秘密装備であるドレスは、個対多という現状をフォローする、彼女にとって心強い一張羅である。足に腰に、次々と赤き鎧を身につけるまりかは、その度に戦いの時間帯が迫ってきていると覚悟を強くしていった。

 あの子は……来る……今回も……

 栗色の髪が、まりかの中でふわりと揺れた。FOTという共通の敵を持った、賢人同盟の若きエージェント。自分に対し深い憎悪を抱く狂気を秘めた存在。その彼はこの横須賀のどこかに潜み、事が起こるのを見守っているはずである。黒い頭部をすっぽりと被った彼女は、全身に起動の震えを感じながら眼前のディスプレイを外部モニタに切り替えた。
 まだ空母の姿は見えてこない。洋上にはイージス艦と巡視艇の艦影が見え、米軍港には本来いるはずのない陸上自衛隊の装甲車が何台も待機していた。
 物々しいのは空にしても同様だった。陸上自衛隊のヘリコプターが二機、飛来してくるはずであろう犬頭を監視するべく、基地上空を旋回していた。


 だめさ……米軍も自衛隊も、忠犬隊の発見は難しい……

 そうなのかよ……

 ああ……レーダーに映るサイズじゃない……目視発見をするしかないけど……いつも連中は超高空からの急降下で現場に現れる……

 ね、ねぇ……帰っていく忠犬隊を追いかけるのは……無理なのかい?

 空陸を自在に移動できる対象を捕捉するのは、考えているよりずっと難しい……部隊連携だってかつてないパターンで行わないといけないし……まだそれだけの体制は整っていないのが現状かな……

 それにしてもキティホークはノロノロ運転ネ……

 平常通りの入港……それが彼らの威信ってやつなんでしょう……テロに屈しない米国……堂々とし続けることで、煩いを排除する……建国以来の習性みたいなものですね……

 透明な繊維をそれぞれ握り、四人は林の中で身を潜めていた。入港する軍港とはちょうど反対側の南東部に位置する三笠公園が、リューティガーが遠透視による監視に選んだ場所だった。この公園も警戒地域の範囲にあり、周囲には機動隊が監視を続けていたが、空間転移によって跳んできたリューティガーたちに気づく者はなく、かえって中の警戒は人員不足もあって薄いのが現状である。目視できるはずのない空母を、まるで間近で見るような視覚情報を共有しながら、事態の変化を四人はじっと待ち続けていた。

 リューティガー、遼、岩倉、陳。これが今回の対FOT人員である。ガイガーたち別働隊は、作戦行動によって隙が生じるであろう、FOTの獣人製造拠点の探索任務にあたり、この関東にはいない。だからこの四人で立ち向かうしかないのだが、遼にとっては高川典之の不在がなんとも心細かった。

「電話はしてみたんだ……けど……行っても無駄だから、断るって……」

 集合場所である横須賀駅で、岩倉次郎は遼たちにそう告げた。高川の意志は固く、それならどう説得しても難しいであろうから諦めるしかなかったが、戦いや作戦において常に前向きで覇気に溢れる彼の存在は意外なまでに大きかった。遼は緊張に不安が多く含まれていることを自覚していたし、そのような弱気は繊維を通じて他の三人にも伝わっていた。

 遼……今更どうしようもない……

 あ、ああ……そりゃ、わかってるけどさ……

 今日は特に暑い。遼は額の汗を拭い、草の香りにくしゃみを堪えた。

 来た……!!

 リューティガーの遠透視が、空母から二百メートルほど離れた洋上に集中した。そこに浮かぶ七体の異様に、遼たちは息を呑んだ。
 海面に出ているのは、おそらくはイルカかシャチの背中である。黒くぬめりと美しい光沢を発し、それだけであれば珍しいと驚くだけのことである。だが、背中の中央に人間の上半身が背筋を伸ばしているその姿は、珍しいを通り越して怪異とさえ言えた。

 FOTの……獣人かよ……!?

 遼の予想にリューティガーは強く頷いた。人型の上半身は深緑色をした革のジャケットを身にまとい、両手には筒状の発射管を抱えていた。顔は包帯を幾重にも巻いていたため人相はわからず、革の帽子を目深に被った陰からは鋭い眼光が窺える。どう見ても敵対する存在である。彼らは空母を追尾する形で高速に進み、空母はもちろんのこと、周囲にいた巡視船も警報を鳴らした。

 遼!! 透視をするからあいつらを殺せ!! ガンちゃんと陳さんは周囲を警戒してください……僕たちがこうしていることは、敵も予想しているはずです!!

 前回の戦いも踏まえた指示である。海からの敵であれば、接近しての戦いは困難となる。リューティガーは対抗手段をすべて遼に委ね、託された彼は心臓の鼓動が急激に高鳴るのを感じた。なにも“殺せ!!”はないだろう。せめて“倒せ!!”と指示してくれれば、まだ怖い思いをしなくてもよいのに。遼は情けない思いを抱いたまま、リューティガーから伝わってきたグロテスクな人体内の様子に吐き気をもよおした。

 七体しかいなかった半人、半海獣の姿は、やがて三十を越す大群となった。いずれもが海中からの出現であり、空母は速力を早め、巡視船の機関砲が火を噴いた。ブリッジからデッキへ出た柴田と那須もライフルを構え、迫り来る化け物に向かって特殊弾丸を放った。
 不審船への銃撃などという規模ではない、日本領海での海戦が遂に開始された。事実、それは“戦”であった。化け物たちは一方的に射撃されるだけではなく、抱えていた発射管から魚雷を空母目掛けて発射した。ちょうど僅かな操船で巡視船が盾になれるほどの、それは絶妙な角度からの発射であり、巡視船はその役目を果たすべく後進するしかなかった。
 水柱が、巡視船の後部で高く登った。小型であり火薬量も少なく、なによりも低速だったのが幸いして大破は免れたが、激しい衝撃が船体を揺さぶり、柴田と那須も手すりにしがみついて飛沫を浴びた。
 散開した化け物たちは次々と魚雷を放ったが、一発として空母に命中することはなく、そのことごとくは迎撃されるか、途中で力尽き沈没を始めるか、巡視船の船体を揺らす結果となっていた。いくつもの水柱を見上げたクルーザーの関名嘉はすっかり興奮し、拡声器に向かって叫んだが、内容を聞き取れる者は皆無だった。


 もう八体目か。心臓に続く血管を破壊し、獣人の命を絶った遼は、吐き気を堪えながら次に飛び込んでくる体内のビジョンを待った。
 リューティガーは標的を洋上に求めながら、機関砲で四散する獣人や一向に効果を示さない魚雷を遠透視して、それにしてもなんという愚作なのだろうと呆れていた。自分自身、海戦に関しては精通していないが、ああまでも速力の遅い魚雷は兵器として問題外であり、とてもではないが空母を撃沈させることはおろか、護衛の巡視船すら大破させることもできない。海中から発見されずに近づく手段があるのならば、なぜそこから空母艦底部目掛けて魚雷戦を仕掛けないのだろうか。同時に六十もの魚雷を放てば、防御策など講じようもなく易々と大きな戦果が得られるはずなのに。
 前回の地下での戦いもそうだった。再編協議をしている場所に、力押しで殺到したところで戦力の無駄使いであり、日本政府に決戦であれば、物量戦であれば負けぬという自信を持たせるばかりである。

 まてよ……

 獣人の体内を遠透視しながら、リューティガーの脳裏に漠然とした不安がよぎった。だが、それを明確な予想に構築する間もなく、彼の腕を分厚い手が握り締めた。
「ルディ!! 忠犬隊だ!!」
 岩倉の叫びに、リューティガーは遠透視を止め紺色の瞳で上空を見上げた。四つの影が刀を抜きながら降下し、得物を狩らんとする群れの叫びが三笠公園に響いた。「散れ!!」若き指揮官の指示に従い、遼たち三人は林の中でばらばらになった。

 忠犬隊の出現は、海戦だけで済むと思っていた森村に衝撃を与えた。インカムをコンソールに置いた彼は、カーゴルームのまりかに向かって駆け出し、それと同時に赤い人型の黒い顔面に三つの光が浮かび上がった。
「基地内から三笠公園に抜けられるルートを使います!!」
「いや、公園の裏手までトレーラーをまわす!! そこから出撃してくれ!!」
 森村の意図はわからなかったが、思慮深い彼のことだからなにかを懸念してのことに違いない。一度は腰を浮かせたまりかだったが、再び待機姿勢の中腰に戻し、次の指示を待つことにした。
 同盟関係にある米軍に対しても、できればまりかのドレスは長時間見せるべきではない。竹原班長からの通達であった。森村はトレーラーを出すように運転席に指示を出すと、インカムを再び装着して機動隊へ連絡をした。
「F対の森村だ!! 三笠公園の機動隊は、公園内に市民が入らないように警戒してくれ!! 忠犬隊の対応はF対が引き受ける!!」
 乱戦は避けなければならない。忠犬隊が何の目的で三笠公園に突入したのかはわからないが、洋上での海戦が勝利に終わりそうな現在において、犬の群れを撃退することが急務であると森村は判断した。


「僕が狙いか!?」
 四体の化け物は、いずれも噴水へと逃れたリューティガーを目指して降下した。彼らは少年を取り囲むように着地し、同時に乾いた銃声が鳴った。
 リューティガーの放った弾丸は、確実に忠犬隊隊長、我犬(ガ・ドッグ)の心臓に命中したはずだった。しかし対獣人用弾丸は分厚い胸板を貫くことはできず、地面に転がった。
 躊躇や驚きは後でいつでもすればいい。身体に染みこんだ戦いの作法が、リューティガーに噴水の陰への急速なる跳躍と、連続した射撃を行わせた。四人の忠犬は弾丸を隆々とした肉体で弾き返し、その群れの中に丸々とした暗殺プロフェッショナルが飛び込んだ。
 小刀を両手に持った陳は、斬撃が犬の手に握られた日本刀によって阻まれた事実に歯軋りした。一対四の不利は彼も覚悟の上であり、だからこそ素早い離脱は織り込み済みの行動である。陳は左肩に切っ先の走る痛みを感じながら、林の中へ逃れた。
 訓練を受けたはずである。もう何度も獣人には立ち向かってきたはずである。だが木陰で機関銃を抱えた岩倉は、忠犬たちに向かってその殺傷技術を行使することができず、ただ震えていた。あまりにも早く、あまりにも激しい。猟犬の戦闘力に彼はすっかり怯えてしまい、反撃を恐れて愕然とするしかなかった。
「リューティガー真錠……来ると思っていたぞ!! 今日は貴様の首を跳ね飛ばしに参上した!!」
 陳の突撃により、標的を見失った我犬が人の言葉で叫んだ。通じない攻撃手段であれば、それは敵にこちらの位置を知らせる愚行でしかない。噴水の陰で弾丸を装填したリューティガーは次の手を考え、それを如何に実行するか思考を巡らせた。

 ガンちゃんの火力はアテにならない……無理もないさ……さて……どうやって懐に飛び込む……四体同時の跳躍は不可能だ……できて二体が限度……だとすれば、残り二体の攻撃に晒される……陳さんと合流するか……いや……策を伝える暇なんてない……奴等は……恐ろしく速い……

 膠着状態が続けば、連中は上空へ舞い上がってしまい、こちらにとって圧倒的に不利な状況に陥る。ならばこの噴水から姿を現し、斬撃が迫るたびに跳躍を繰り返すのも手ではある。一定の結論に達したリューティガーは、拳銃をホルスターに納めて腰を浮かせた。
「我犬隊長!! なんでルディを殺しに来る!! それのどこが正義なんだよ!!」
 意外な叫びだった。声の方向にリューティガーが注意を向けると、木陰から遼の長身が姿を現していた。緊張し表情も強張っているが、真っ直ぐに忠犬隊たちを見据える目には強い輝きが宿っている。だが、無謀だ。
「島守遼か……」
 四人のうち、もっとも逞しい隊長が一歩前に出て刀を構えた。これまでの速攻が嘘のような、それは予想外の対応だった。
「できれば……戦いたくはないがな!!」
我犬の叫びと同時に、止まっていた時が進みだした。四人の忠犬は一斉に林に向かって駆け出し、リューティガーは噴水の陰から跳躍し、遼は意識を集中した。

 一人の忠犬が耳から鮮血を漏らし、その場に崩れ落ちた。急変した事態に残りの三人は立ち止まって身構え、突風と共に遼の眼前で栗色の髪が揺れた。
「遼……!?」
 背後をちらりと見上げたリューティガーは、遼が肩で息をしている事実と、忠犬の突然死を結びつけ、思わず笑みを漏らした。
「因幡君!! 因幡君!!」
 我犬は冷たくなった仲間を抱きかかえ、遠吠えした。目は真っ赤に充血し、口からは涎も流れ落ちている。身構え続ける残りの二人も全身を震わせ、遼は自分のやってしまった行為に恐怖を覚えた。
「許せん……許せんぞ、島守!! 水原君、市川君!! やつを殺せ!! 復讐だ!! 正義を殺すものに天誅を!!」
 安物の時代劇を見ているかのような光景に、リューティガーはなぜこのタイミングで仕掛けなかったのかと後悔した。三人の忠犬は戦闘行動を再開し、三方へと散った。そのスピードは目で追えるものではなく、堪らず彼は遼を木陰に突き飛ばした。
「本気で仕掛けてくる!! 陳さん!!」
 最低限の示唆をしたのち、リューティガーは空間へ跳んだ。そして公園の林の中でも、比較的拓けた見通しのよい場所に彼が出現したのと同時に、頭上から猛犬の影が迫った。
 熱い感情に心を燃やしていたものの、我犬の戦闘者としての冷静さは失われていなかった。戦場経験のあるリューティガーはおそらく公園のこの場所で態勢を立て直す。その予想は見事的中し、手にした刃はいま正に標的の首筋を捉えんとしていた。

 射撃の腕に自信などないが、発射した弾丸を気づいていない標的へ加速させながら軌道修正をすることは、神崎まりかには難しくない芸当である。
 ドレスの腕部に装着された機関砲が乾いた音と共に上下左右と小刻みに震動し、大量の弾丸が我犬の全身を貫いた。
 肉片と鮮血が栗色の髪に頭上から浴びせられ、すっかり汚れたリューティガーは状況の激変に瞬きを繰り返した。

 なんだ……やつが……なんで……?

 銃口をこちらに向けた、あの赤い人型が何者であるかはわかる。だが自分のすぐ左斜め後ろの地面に、ボロクズのような屍がどさりと落ちたのは何なのだ。よれて折れた翼は羽を周囲に散らし、身動きしない穴だらけの頭部は犬そのものである。右手になおも握り締められた刀身には、“我犬”と彫られていた。

「神崎……まりか……?」
 間の抜けた甲高い声でリューティガーはつぶやいた。地下道での戦いに引き続き、これで命を助けられたのは二度目ということになるのか。しかも今回は、襲撃されそうになった事実すら気づいていなかった。完全な失策である。彼は全身の力が抜けるのを覚え、その場に両膝を着いた。
「まりかさん!!」
 人型に駆け寄ったのは遼である。その向こうには、二人にまで減ってしまった忠犬が刀を構えている。
「島守くん!?」
「まだ二体!! あっちです!!」
 遼の指示で、まりかは迫り来る忠犬たちの方を向いた。再び機関砲が唸りを上げ、それと同時に遼も意識を集中した。瞬く間に一人は蜂の巣にされ、もう一人は耳から血を噴き出して倒れこむのを、リューティガーは頬に生暖かいものが流れ落ちるのを感じながら見つめていた。

 あっという間に……終わりかよ……やつが……来た途端に……終わり……かよ……

 思えば、たった三人で第二次ファクトを壊滅させた化け物である。いくら従来の獣人よりも能力的に優れているとはいえ、忠犬隊程度で立ち向かえるはずもない存在だ。そのようなことは熟知しているリューティガー真錠ではあったが、まざまざと圧倒的な能力を見せ付けられると、ただ呆然とするしかなかった。
 なんという醜態だ。あいつはこちらに振り向き、「大丈夫?」などと尋ねてくるのだろう。遼の見てる前で。それに反抗的な態度でも見せれば、ますます自分という人間の小ささを晒すようなものである。

 もういやだ。誰も意を向けるな。

 岩倉の手が、リューティガーの両肩を支えるように抱いた。その瞬間、彼は感情を暴発させ、辺り構わず泣き喚いた。バカ野郎!! 最低だ!! ちくしょう!! いいかげんにしろよ!! だが英語でも日本語でもないその言葉は誰にも通じず、まるで獣のように彼は吼え続けた。

「と、島守くん……?」
 ドレスの頭部バイザーを上げ、素顔を見せたまりかが傍らの遼に疑問を向けた。しかしああまでもリューティガーが感情を曝け出した姿は彼も見たことがなく、とてもではないが説明はできなかった。
「ここにいて……海での戦いも終わったみたいだから……この装備を戻してくる……このままじっとしててね……」
「は、はい……」
 遼が頷くのを受け、まりかは公園裏手に停められているトレーラーへと向かって駆け出した。ドレスの駆動音を耳にしながら、遼は泣き喚くリューティガーに向かって歩きながら、そのすぐ傍らで我犬の亡骸が泡化していくのを見て、思わず呻き声を漏らした。

10.
 空母キティホークは、なんの損害もなく横須賀港に入港した。海上では機関部に深刻な損傷を負った海上保安庁の巡視船が残され、そこからゴムボートが吊り下ろされた。
「万歳三唱か……まぁ、あいつらの仕事はここまでだからな……気持ちもわからなくはねぇが……」
 ゴムボートから巡視船を見上げた柴田はそうぼやき、隣の那須は苦笑いを浮かべた。戦闘の勝利は巡視艇の乗員たちを熱狂させ、船のいたる場所から歓声が沸き起こっていた。
「不審船を撃退するのとは、比べ物になりませんからね……」
 那須はボートのエンジンを始動させ、あらためて戦場だった海を見渡した。
 三十体はいた海戦用獣人は、巡視艇と遼の「異なる力」によって殲滅され、洋上では無残な屍が泡化をはじめていた。どうやらこの複合獣人は、上半身の人間体が死亡するのと同時に、水面以下の海獣体も死亡するようである。ゴムボートから身を乗り出して現場検証する柴田と那須は、血と火薬の臭気が立ち込める中、マスクをしているにも拘わらず嗅覚を刺激する不快感にこの世の地獄を連想していた。
「巡視艇の諸君!! 勝利おめでとう!! 君たちは恐怖を乗り越え、実戦に勝った!! しかし! 無駄な戦であったとしか言いようがない!! 諸君は命がけでなにを護った!? 奴等は決して諸君らに感謝などしてはいないぞ!! 黄色い猿が当然の義務を果たしたとしか思っていない!! はっははははははははは!! ご苦労様だっ!!」
 大型クルーザーの船首付近に立った関名嘉は、巡視艇に向かって拡声器で叫び続けた。泡と化していく化け物たちをゴムボートから観察しながら、二人の捜査官はそのあまりにも能天気なアジテートに辟易とするしかなかった。あんなバカでも、それこそ“護るべき”市民なのである。しかし乗員が高揚しているあの巡視艇を刺激し続けると、なにやら取り返しのつかない事態に発展するのではないだろうか。柴田がそんな不安を抱いた直後、クルーザーと漁船は次々と猿島へと引き返していった。中々いい去り際である。関名嘉が拡声器で怒鳴り続けているところを見ると、撤退の指示は誰か別の者が出しているのだろう。那須は双眼鏡でなんとなくクルーザーを見て、「そうだ!! そうだ!!」の合唱をデッキで上げる音羽会議の面々に、どうみても高校生としか思えない若い者たちが混ざっているのに気づき、堪らずマスクを上げて唾を吐き捨てた。


「なにを言ってる!! 待ってる必要なんてないネ!! もう撤収ヨ!!」
 泣き続けるリューティガーの肩を抱いた陳が食ってかかってきたので、遼は長身を引いて困るしかなかった。
「け、けど……まりかさんが……」
「こんな状況で、話し合いなんてできるはずもないネ!」
 声を荒らげた陳は、「さぁさ坊ちゃん……気をしっかりして……この公園は相変わらず、もう機動隊で囲まれてるね。作戦は終了したのだから、予定通り車まで我々を跳ばすネ」と主を促し、リューティガーはすっかり泣きつかれたのか口元をわなわなと震わせたまま、小さく何度も頷いた。
 確かに、こうまで壊れてしまったリューティガーは、帰ってゆっくりと心を静めるしかない。もう一度神崎まりかと顔を合わせれば、彼がどのような行動に出るかは予想もつかない。
 どうやらリューティガーは、我犬の不意打からまりかに助けられてしまったようである。彼女が去ったあと状況をよく検証してみて、それを理解することはできた。仲間の仇である神崎まりかに命を助けられるなど、そのような屈辱に彼の自尊心はぼろぼろになってしまっても、決しておかしくはないのだろう。

 高川といい……真錠といい……

 自尊心というものを二人ほど重要視していない、あくまでも現実主義者である遼にとっては、その気持ちを完全に理解することなどできない。

 三笠公園のすぐ近くにある、警戒区域からは外れた屋外パーキングで、陳の運転する小型自動車の発進を見届けた遼は、後部座席でぐったりしている栗色の髪に目を細め、ヘルメットを被った。全員をここまで跳ばし、自分も跳躍できるほどの落ち着きを取り戻したものの、リューティガーは抜け殻のように正気を失っているようでもあった。

「島守くん……ごめん……僕……なにもできなくって……」
 バイクに跨ったままうな垂れる岩倉に、遼は仕方なさそうに首を何度も振った。
「しょうがないよ……相手が相手だ……忠犬隊相手は俺も怖かったし……」
 二体の知性ある獣人を殺してしまった。その事実は遼の胸に苦しいまでの重さを与え、手を汚さずに済んだ岩倉の弱気をとても責める気にはなれなかった。
 岩倉がバイクでパーキングから出て行くのを見届けた遼は、ひどく疲れを感じ、ヘルメットを脱いでしまった。
 撤収していく機動隊員たちが、屋外パーキングの前を通り過ぎていった。いずれも険しい表情であり、職務に忠実そうな信頼感を漂わせている。
 だが、彼らは今日、なにもしてはいない。いや、なにもできなかった。自分は二体、二人も殺した。なんだ、この気持ちの悪さは。俺は何者だ。
 島守遼はバイクのシートにヘルメットを置き、リューティガーとはまったく違う理由で消耗していた。

 我犬隊長が……死んだ……呆気なく……死んだ……忠犬隊は……どうするんだ……

 そのようなことを心配したところで、無意味だ。だが、何か考えないと不気味なまでに疲れてしまい、やがて立てなくなってしまうのではないかと、そんな支離滅裂な不安が胸の重さに加わった。

 いやだ……こんな……知らない横須賀なんかで……帰れなくなるのは……

 パーキングからふらふらと路地に出た遼は、なぜ岩倉と一緒にバイクで帰らなかったのかと後悔し、だがあのようにきまずい状況ではそれも無理だったと頬を引き攣らせた。
 せめて落ち着こう。そう思った彼はブロック塀に背中を付け、路地にしゃがみ込んだ。
「島守……」
 大通りに面した歩道から、聞き覚えのある声が届いてきた。
「なんだよ……来るなっつったろ……」
 正面を向いたまま、遼は吐き捨てるように言った。はるみは胸に手を当て、ゆっくりと蹲る彼に近づいていった。
「どうしても……来たくて……そしたら……三笠公園で忠犬隊が出たって騒ぎになって……でも……警官がいて立ち入り禁止で……」
「なんで来たんだよ」
 視線を逸らしたままである。ああそうか。だからリューティガーは泣いてしまったのかと、相変わらず理由は異なるものの、結果についてはよく理解してしまえる遼だった。
「だ、だって……う、ううん……わたし……遼のこと……好きだもん」
 言ってしまえた。二度目だろうか。いや、あのときは“たぶん”がついていた。はるみは自分の胸をこつんと叩き、告白の相手を見下ろした。
「けどさ……俺は別に……好きとかってのじゃねーぜ」
 わざと乱暴な言葉を選んでみる。泣きたくはない。「人、殺しちまったよ」そんな情けない言葉を漏らし、最後に喚くのだけは嫌だ。自分にとって自尊心とは向ける理由と相手が異なるだけであり、リューティガーと高川にも負けないだけの分量が確かにあった。それに気づいた遼は、思わずはるみを見上げた。
「いいじゃん……こっちは……す……好きなんだから」
 少女は今にも泣き出しそうな顔である。なぜ彼女は、自分に対して好意を抱いてくれるのだろう。そんな疑問が浮かぶほど落ち着きを取り戻した遼は、やがて明確な理由などなく、好きだから仕方がないのだろう。自分にも心当たりがあるという結論に達した。
「怪我とか……しなかった?」
「あ? いや……疲れただけだし……誰も怪我はしなかった……」
「よかった……空母も無事に入港できたみたいだし……島守たちが、がんばったからなんだよね」
 喋り続けることで、はるみも気持ちを静めていた。彼女は遼の隣に腰を下ろすと、膝を抱えて視線を落とした。
「なんかさ……わかんねぇんだよな……どうして真錠の兄貴は……こんな無駄なことを続けてるのか……今日だって全然勝ち目のある作戦じゃなかった……海に獣人が出てきたんだけど、全然弱くてさ……こっちは結構危なかったけど……本筋の作戦は、ほんと無意味っつーか……」
「でも……島守が変だって思うのは……FOTのもっと頭のいいところを見てるからなんだよね」
「あ、そうそうそう。そうなんだよ……なんか組織が全然違うって感じなんだよ」
 こうした場合において、はるみの助言はいつも的確であり、遼は感心するしかなかった。あの狡猾で知恵者であり愉快犯的な側面を強く持つアルフリート真錠が、こと大規模な作戦においてはことごとく力押しで無様な敗北を喫しているのがどうにも腑に落ちない。そんな疑問の原因がはっきりとわかった遼は、路地にやってきた人影を見上げ、口を覆ってしまった。
「ま、まりかさん……」
 姉の名を口にした遼にはるみは驚いて意を向け、その向こうで腰に手を当てているTシャツにジーンズ姿の当人を見上げた。
「ま、まりか姉……」
「ど、どういうことなの……島守君……」
 三笠公園の側であるこの路地に、自分たちを探しに来るのは当然のことである。迂闊さを遼は後悔し、腰を上げてどう説明するべきか戸惑った。

 ちょ、ちょっと待てよ……なにビビってるんだよ……別に俺と神崎が一緒にいたって……悪いことはないんだ……

 冷静に考えれば、はるみは公表されている正義決行スケジュールにしたがって見物に来ただけである。それに自分たちがFOTと戦っていることは既に政府にとっても暗黙の了解なのだから、その点についても咎められる筋合いはない。せいぜい、「待ってて」と言われたのに撤収してしまったことを詫びる程度の問題であり、それすら義務でもない。
 だが、後悔と戸惑いは素直に表面に出てしまい、はるみにとってもそれは同様だった。まるで密会現場を目撃されてしまった恋人同士のように二人は視線を泳がせ、まりかの態度はますます硬くなっていった。
「う、ううん……違う……そうじゃない……!! まりか姉!!」
 はるみは遼を押しどけ、姉に向かって右の人差し指を突き出した。意外なる妹の反撃に姉は驚き、自分がこれまで彼女にしてきた膨大な“隠し事”の存在を急に思い出してしまった。
「こないだ……FOTの殺し屋が合宿に来て、島守たちを襲ったの……そしたらそいつ……“あれだけの殺戮をした東堂と神崎の血統に言わせるものか”って……そう言って死んだの……」
「な、なによ、それ……殺し屋って……な、なに……はるみ……あんた、なにしてるのよ……」
「神崎の血統って……なんなの……? ううん……大体の見当はもうついてる……まりか姉に島守みたいな不思議な力があって……エジプト旅行だってテロリストと戦うから行かなくって……ずっと……秘密にしてるってことも……!! 内閣の財務関係なんかじゃなくって……もっと別の……ナスビのお兄ちゃんと同じところで働いてるんでしょ!?」
 一言の度、姉が弱々しくうろたえていくのが明らかだったため、指摘が支離滅裂になっていくのも構わず、はるみは言葉を続けた。
「いまここで、そんな格好しているのだって、まりか姉はまだ戦い続けてるってことなんでしょ!?」
 調子付いていくはるみではあったが、まりかは口元を手で覆い、次第に落ち着きを取り戻していった。反撃もこの程度にするべきである。彼女の経てきたこれまでを想像した遼はそう判断して、彼女の肩を掴んだ。
「もういいだろ、神崎……な、なぁ、まりかさん……こいつ、いろいろともう知ってるんだ……成り行きで……俺も……しゃべっちゃったんですけど……」
「け、けど島守は……今日は来ちゃだめだって……反対してくれたんだよね……!!」
 どうやら来るべきときが来てしまったようである。これまでの戦いで、幾度もの修羅場を経験してきたまりかは大きく息を吐き、ブロック塀を拳で軽く叩いた。
「もういいわ……そう……はるみの思ってる通り……ごめんね……八年も隠し事してて……けど……全部はあんたを巻き込みたくなかったから……あんた……お調子者だし……最近はそうでもないけど、昔はほんと……幼すぎたから……お姉ちゃんね……八年前のテロで、友達が一人殺されちゃったんだ……元気で、幼くって……はるみに似た感じの子だったの……」
 言いながら、まりかは自分の声が震えてしまっていることに気づき、哀しみをいっそう強くして目を潤ませた。
「でも……そうだね……はるみも……もう大人だもんね……好きな人だってちゃんといるし……お芝居もしっかりやってるし……けどね……普通の人間は……決して関わっちゃだめなんだよ……でないと……」
 深い哀しみは妹にも伝わっていた。こうまで情けなく心根を曝け出す姉を、はるみはこれまでに見たことがなかった。
「今日だって勝てたけど……今度の真実の人(トゥルーマン)は、戦力に欠けてる分、前よりずっと慎重な策士なの……少なくとも対策班の人たちは、全然有利になったなんて思ってない……すっごく不安に感じてる……だから……ね……」
 “うん”“はい”そんな返事だけはしたくなかった。嘘になるからである。妹は視線を落とし、せめて反論をしないようにと自分に言い聞かせた。
「島守君……リューティガー君は……?」
 トレーラーでドレスをパージし、ここまで駆けつけた本来の理由はそこにあった。まりかは妹がすべてを知ってしまっているのなら、彼女もまた同級生であるのだから話してしまってもいいだろうと判断し、遼と彼女を見比べた。
「あいつ……だめです……すっかり泣いちまって……お付きの人が……連れて帰りました……」
「そう……なんだ……」
 リューティガーが泣いた。遼の言葉がひどく意外に感じたはるみは、姉に疑問の目を向けた。
 言わなければならない。すっかり大人になったはるみに隠し通せるはずもない。それどころか下手な隠蔽は、彼女をより危険な方向に進ませかねない。姉を大きく息を吸い込み、妹にそっと近づいた。
「まりか……姉?」
 あまりにも落ち着いた挙動だった。なにかの覚悟が秘められている。そう気づいたはるみは、姉が両手を広げて抱き締めてきたため、言葉を詰まらせた。
「お姉ちゃんね……ルディ君の……恩人を……お友達を……たくさん殺しちゃったんだ……」
「う、嘘……」
「ほんとだよ……皆を守るために……だから……ルディ君はお姉ちゃんのこと、殺してやりたいってほど憎んでるの……」
 一年前の学園祭の最中、帰りの電車にのった後、駅のホームで「それから……僕はあなたにはルディと呼ばれたくない。これまで通り真錠にしておいてください」と冷たく言われてから、なぜあの栗色の髪の転入生に自分が嫌われてしまっているのか、釈然としない疑問を抱え続けていたはるみだったが、いま遂にその疑問に明確な回答が与えられた。姉にぎゅっと抱き締められたまま、妹は息が詰まり、言葉を完全に失ってしまった。
「なんとか……ならないかな……はるみ……島守くん……なんとか……」
 隠してくれていた方が、知らない方がいいことも世の中には存在する。そんなことはないとはるみはずっと思っていた。内緒はよくないことだ。真実はすべて白日のことに晒されるべきである。だが、伝わってくる姉の震えはその信念を揺さぶり続けていた。
 照りつける陽射しの中、姉は妹を抱き締め続け、遼はそれをただ見ているしかなかった。

 猿島を目指す大型クルーザーの前部デッキでは、音羽会議の面々がすっかり興奮した様子で目の当たりにした海戦について語り合っていた。
「獣人とはいっても、あれでは一方的な虐殺だよ!!」
「空母から一発も反撃がなかったのは、最終的な問題を日本人同士でつけさせようって腹か、被弾してそれを口実に再占領をかけるつもりだったんだよ!!」
 数ヵ月前までの比留間圭治であれば、都合のいい解釈を口々にする主義者たちを、「どうしようもなくおめでたい阿呆」と心の中で罵っていたはずである。だが彼はただひたすら頷き、関われた非日常に対して独自のスタンスをとりたくはなかった。皆と行動していれば、関名嘉に従えばまだまだ先がある。同級生たちが体験できないような、この世の中の裏側に触れることもできる。だから首をいくら上下させても疲れは感じなかったし、意見を求められれば、「売国奴なんて、いくらでも来いってやつですよ!」と虚勢を張るしかなかった。
 なんという痛快な気分だろう。ネットで世の中のすべてを知ったような気でいる連中は、リアルな現場を見てきた自分の足元にも及ばない。あの水柱、CGやSFXではない本物の銃殺現場、火薬と血の臭い。どれもが本物であり、行動した者だけが得られる真実である。礼を言おう。まずはこんな晴れやかで興奮の世界に導いてくれた恩人、高橋知恵に素直に感謝をしよう。そして告白しよう。君の白い肌が好きだ。君の手入れが行き届いていない黒髪が好きだ。君のいつも地味な服装が好きだ。君の抗議する際の突き出したお尻は本当に好きだ。君の人を蔑む冷淡さが大好きだ。
 しかし興奮するメンバーたちの中に、大好きな少女の姿はなかった。身体が弱そうな子だから、あるいは船に酔ったのかも知れない。だとしたら介抱してあげなければ。比留間は使命感に燃え、前部デッキから運転席の脇を通り過ぎ、そのまま後部デッキへ向かった。
 人が倒れている。二人の人が。ではない。もつれ合っているのだ。喧嘩をしている。取っ組み合いをしている。ではない。愛し合い、求め合っているのだ。比留間圭治はあり得ない光景を後部デッキに目撃し、手すりによろめいた。

「関名嘉さぁん……ちょ、ちょっと……こ、こんな……となりの船から……」
「見えたところでなんだ……僕と君の仲は公認にしちまえばいいのだ!!」
 高橋知恵の上になった関名嘉は詰襟の上着を脱ぎ、並走する漁船から驚きの目を向ける他の団体メンバーに向かってそれを振った。
「ともっち!! 愛しているぞともっち!! 貴様のすべてを愛しているぞ!!」
 芝居がかった大声で叫び、関名嘉は“ともっち”こと、高橋知恵のブラウスを脱がせた。
 どこまでも白い肌が、覗き見ていた比留間の目に飛び込んできた。彼はその場にへたり込み、下唇を突き出して喉の渇きを覚えた。なんだ、この光景は。唐突すぎる。まったくと言っていいほどの急展開であり、まるで悪夢のようである。可能性に目を閉ざし、浮かんでいた事実から耳を塞ぎ続けていた比留間に、苛酷な現実が突きつけられた。男の手が少女のスカートの中を弄り、かつて見たことのないほどの、満たされた淫猥なる微笑を彼女は浮かべている。屋根も壁もない後部デッキで、他の団体メンバーが見ているのも気兼ねなく、このまま行けばどこまでも進んでしまう。恋した少女の肢体はあまりに華奢であり、愛していると公言した男のされるがままであった。

 叫び声を上げようとしたが、からからに渇いた喉はなにも鳴らせず、比留間は前部デッキへと駆け出した。途中、音羽会議の面々が顔を顰めて後部デッキの様子を窺っているのに何度も出くわしたが、誰とも話せぬまま、第一発見者である比留間は船首まで辿り着いた。

 嘘だ。本当だ。愛してるって!? なんて嬉しそうな高橋さん!! 盗られた!? いつの間にか盗られた!? 議長に!!

 船など、そもそも強いはずもない。比留間圭治の狂ってしまった感覚は本来のひ弱さをごっそりと抱え戻し、とうとう彼は海面に向かって嘔吐した。


11.
 キティホーク襲撃事件は、まったく映像素材のないままテレビで報じられた。自衛隊、海上保安庁がFOTによるテロを完全阻止。それが当局の発表であり、回収された魚雷が公開され、さらに正義忠犬隊の我犬隊長が激しい抵抗の末、警官隊によって射殺されたと付け加えられた。
 台風の被害に遭い、忠犬隊の救助によって難を逃れたある市民がテレビのインタビューで怒りを顕わにしたものの、概ねの市民は法を守らぬ者の死を仕方ないと捉えてはいた。日本政府の連勝を称える意見も数多く、一切の阻止行動をとらなかった米軍に対する非難も若干数だが存在し、米軍に対する不信感は不祥事とはまったく別の方向から、少数意見として沸きあがろうとしていた。しかし、いずれにしても真実の人がなにを目論んで今回の作戦を実行したのかは依然不明であり、賢人同盟作戦本部、日本政府はそれぞれの観点から様々な予測を立てていた。

 リューティガー真錠と比留間圭治は、二十六日の月曜に揃って学校を休み、それは三日目の水曜日になっても続いていた。
「皆……よく聞いてくれ……」
 青ざめた痘痕面の音原太一が、放課後のホームルームで教壇に立ち、重い口調で同級生たちを見渡した。
「皆も知ってのとおり……月曜日からの三日間、比留間君が学校を休んでいる……」
 二年B組の生徒たちは誰も興味がないといった様子で、早くホームルームが終わらないかと落ち着かなかった。ただ、高橋知恵は静かに本を読み耽り、神崎はるみは辛そうに斜め前の空席を見つめ続け、島守遼はすぐ後ろの落ち込んだ気配が辛かったのが例外である。
「僕は……昨日の放課後……比留間君の家を訪ねたんだ……なぜなら……彼は材料調達班の責任者だしね……学園祭まであと十日……状況がどうなっているか、尋ねに行ったんだよ」
 ゆっくりとした口調で、告白するかのように深刻な面持ちのクラス委員だったが、生徒たちにその重さは伝わらず、そもそも今年の学園祭の出し物である鉄道喫茶にしても、誰からもアイデアが出なかったため、音原が仕方なく提案したものであり、一応の準備は進められているものの、積極的に関わる者はいなかった。教室じゅうに蔓延している弛んだ空気を音原も感じてはいたが、彼は怒り出すこともなく咳払いをした。
「結局、比留間君は会ってくれなかった……お母さんの話によると、出された食事は食べるものの、部屋に篭もって出てこないらしい。何があったのかはわからないけど……」
 生徒たちの中で、高橋知恵以外にも何人かは比留間が音羽会議の一員であり、日曜日のデモに参加していると知っている者もいた。横田良平もネット経由でその情報を得ている一人なのだが、そもそも比留間とはあまり仲がよいわけでもなかったため、彼はしきりにあくびを噛み殺していた。
「設営、調理、運営各班の進捗は今朝確認したように、来週末の文化祭には間に合う段取りにはなってるけど……調達に関してはまったくわからない。なにせ僕たちは比留間君にすべてをまかせていたからね」
 “僕たち”と言われても。まるで連帯責任を持ち出されたかのように、生徒たちは教壇の音原に不満の目を向け、ようやく事態がよくない方向へ転がっているということに気づいた。
「調達班は寺西君、浜口君、小林君、向田さん、鈴木さん、我妻さん、和家屋(わかや)さんだったね」
 音原に名前を呼ばれた生徒たちが、視線を宙に泳がせ、口元をむずむずと歪ませ、瞬きを繰り返し戸惑った。
「調達準備はどうなってる? 飲食店舗の要が食材調達にあるっていうことは、去年のラーメンでチャーシューがトラブったことからもよく理解しているはずだ……どうだい、向田さん」
 名指しで促された向田愛は、大きく丸々とした身体を左右に揺すり、「し、し、知らんよ」と、どもりながら答えた。
「誰か、調達についてどうなってるか、報告できる人はいないのかい?」
 早口で、焦る気持ちを隠さずに音原は尋ねた。しかしその問いに答えられる生徒は誰もおらず、隅に置いたパイプ椅子に座って半分寝ていた担任教師の川島も、ようやく事態の異変に気づいて組んでいた腕をぶらつかせた。
「コーヒー、紅茶、パン、その他もろもろ……どれもが手付かずになってるってことか!? 皆で比留間にまかせっきりで、どうなってんだよ、このクラスは!?」
 一年半に亘ってクラス委員を歴任してきた音原は、ついに感情を爆発させた。甲高く裏返った声がざわついていた教室に響き渡り、それはなんとも稚拙でいたたまれない空気を形成しようとしていた。
「な、なんとかなんないの? 十日もあるんなら、なんとかなるんじゃない?」
 軽い口調でそう言ったのは、教壇の最も近くの席に座る野元一樹である。
「なんとかするしかないさ!! だけど誰がどうやって段どる? 誰か引き受けてくれよ」
 音原の要請に、生徒たちは比留間と同じ調達班に所属する面々に注目した。しかし先ほど名前を挙げられた七名は誰も名乗りを上げず、我妻という女子に至っては、ここにきてまだ状況を理解していないようであり、にこにこと愛想笑いを向け、巻き毛を指でいじっていた。
「どーすんだよ!?」
 もっとも単純な言葉で、音原はこの二年B組の状況を叫んだ。彼の訴えは教室最後列のはるみに向けられたものであり、彼女の責任感や聡明さに期待しての、それは半ば嘆願のようでもあった。
 だが、少女の心は学園祭に向いてはおらず、クラス委員の叫びも耳に入らないまま、彼女は斜め前の空席をじっと見つめていた。

 まりか姉が……ルディの友達を……殺した……

 それが如何なる理由かはわからない。だが、あの姉の様子を見た限りでは、決して間違った行動の結果ではなかったと思えるし、その点についてはるみはまりかを信じていた。
「あ、あの……さ……」
 ゆっくりと、俯き加減に手を挙げたのは、廊下側最前列に座る関根茂だった。その隣の崎寺恵(さきてら めぐみ)は、「関根くん!! ファイトォ!!」と小さな声で、同級生に励ましの声を送り、右斜め後ろの横田は少しだけ関根のことを羨ましいと感じた。
 このシチュエーションは、まるで昨年の再現のようである。頼りなく挙げられた関根の手に、音原は神々しさを感じたほどであり、彼は「な、なんだね、関根君!!」と彼を指差した。
「ね、ねぇ……戸田君……鉄道喫茶の店舗作成は……来週からだよ……ね……」
 関根に尋ねられた廊下側最後列の戸田義隆は、無精髭を撫でて「そうそう。倉庫がいっぱいだから、最後の追い込みで作ってしまおうって段取りだもんね」とのんびりとした口調で返した。
「田埜さん……調理の練習って……たしか……」
 調理責任者である田埜綾花(たの あやか)は口元を手で覆い、「ざ、材料が揃ってないから……こ、こっちも来週ぐらいから……どうせサンドイッチとパスタぐらいだし……」と聞き取りにくい小さな声で関根に告げた。
「と……いうわけで……つ、つまり……鉄道喫茶に関しては……まだそれほど具体的には……進んでない……」
 この救世主はいったいなにが言いたいのだろう。音原はのんびりと弛んでしまった空気に痘痕面を顰め、しきりに首を傾げた。
「そ、そう……つまり……現時点においては……昨年の経験と実績が、新事業を上回っているってことになる……わ、わかるかな……どういうことか……」
 まったくわからない。音原はなにやら煙に巻かれているような不快感を覚え、「はぁ?」と、わざとらしく声に出した。
「わ、わかった……要するに、ラーメン仁愛のセットとかは倉庫に残ってるし……調理班も作り方を覚えてるしって……そうだよね」
 崎寺の説明に、関根は丸い顔を何度も上下させた。
「ちょ、ちょいまて……じゃあいまからラーメン屋に……変更するってことか!?」
 唐突な提案に音原は戸惑ったが、対する関根は彼にしては自信に満ちた笑みで頷き返した。
「実は……夏休みに、新しいラーメンのいいアイデアが閃いたんだ……旅行先の札幌で……けど……それは来年の学園祭でいいやって思ってた……」
 昨年のラーメン仁愛は味の評判がよく、二日目には噂も広がり上級生や教員も数多く食べに来た、大成功企画である。その中心人物である関根茂が新作のアイデアがあるというのは心強く、鉄道喫茶の提案者である音原にしても、その企画に特に思い入れがあるわけではないから急遽変更することは構わなかったが、あと十日で果たして間に合うのかと、それだけが不安だった。
「で、できるのか……関根君……?」
「やりたい……できることなら……」
 関根は席を立ち、机に視線を落として拳を握り締めた。強い意志を秘めた決意の態度である。音原はそう理解をし、息を呑んだ。
「実は……日曜日の夜……僕の部屋に……来たんだ……」
「来た……? 誰が?」
 音原の問いに、関根は顔を上げ、教室じゅうを見渡した。
「真実の人……あの白い長髪の人が……訪ねてきたんだ……夜……寝てたら……」
 真実の人(トゥルーマン)。現在この国を最も騒がせているテロリスト、もしくは世直し集団の指導者であり、昨年の学園祭でラーメンを食べに来た客である。関根の言葉は教室に衝撃を走らせ、遼に至っては椅子から転げ落ちそうになるほどであり、高川は思わず立ち上がろうとしてしまった。
「真実の人は僕にこう言ったんだ……学園祭に、必ず食べに来る……僕のプロデュースしたラーメンを……って……けど……僕は、今年はラーメンやりませんって言い返したんだ……そしたら、残念……って一言……」
 どうにも現実味に乏しい与太話である。野元は素直に「寝ぼけてたんじゃねーのか?」と感想を口にした。
「う、うん……寝てたから……その可能性は大きいよ……だけど……お、お告げみたいなものだと思うんだ……」
 それで救世主、関根のやる気に火がついてくれたのであれば、お告げも結構。大歓迎である。音原はリーダーシップの見せ所だと手を叩き、「反対の者はいないな!! 今年もラーメン仁愛でいくぞー!!」と宣言した。勢いに乗せられた生徒の半数は手を叩き、残りの半数も反対する様子もなく、嬉しそうな関根に対して温かい気持ちを向けていた。
「ねぇ、大和くん。去年と同じ看板じゃつまらないから、今年は絵を入れましょうよ。描いてくれるよね」
 いきなり名前を呼ばれた大和大介という男子生徒は、後頭部を抱えるようにしていた両手を解き、「んだとぉ……!?」と、誰が発言したのか辺りを見渡した。
 呼びかけたのは、彼の右斜め前に座る藤原未来(ふじわら みき)という女生徒だった。大和は小さく咳払いをし、「適当にしろよ……」と低い声でつぶやき、両目を閉ざした。
「またあの人が来るんだって」
「えー、誰、誰ぇ?」
「あのモデルみたいな人」
「あー!! あの目の真っ赤な人ぉ!?」
「そうそうそう!!」
「あー……あーははは……楽しみだねぇ!!」
 和家屋と我妻は店員として真実の人を間近で目撃していたため、その美しい姿を思い出し、すっかり興奮していた。
「おい、関根。新しいラーメンなんて、それこそ間に合うのかよ?」
 浮ついたムードにあえて釘を刺したのは、関根のすぐ後ろに座る横田良平である。関根は上体を捻り、大きな鼻をひと掻きした。
「う、うん……調理法とかは去年とほとんど一緒になるけど……材料の調達が一番心配かな……」
 関根は不安を正直に言い、斜め後ろの空席に視線を移した。
 昨年の文化祭において、チャーシューの入荷事故のパニックを見事回避した、あの栗色の髪をした調達の達人がいれば。その思いが伝わったかのように、関根のすぐ側にあった扉が横に開き、夏服姿のリューティガーが無邪気な笑みを現した。
「関根くん……任せてくれ……今年も僕がなんとかしてみせる」
 三日ぶりに登校してきた彼に、教室の生徒たちは全員注目した。
「こら真錠、よりによってケツのホームルームから姿を見せるとは、どういう了見だ?」
 川島教諭は口でこそ毒づいていたが、あくまでもそれは義務であり、口元には苦笑いを浮かべていた。
「す、すみません……ちょっといろいろあって……けど、もう平気ですから……」
 教室に入ったリューティガーは、教壇の音原を見上げた。
「僕は今回調理班だったけど……比留間くんの代役ってことでいいよね」
「あ、ああもちろん……君さえよければ、調達班の班長をやってくれ」
 音原の要請に彼は笑みで応え、自分の席へしっかりした足取りで向かった。
「真錠……」
 遼はやってきたリューティガーを不安げに見上げたが、彼は何の反応も示さず、笑顔のまま隣の席に着いた。

 醜態を晒した……情けないことだ……

 リューティガーは人差し指を遼の腰に押し付け、そんな言葉を投げた。

 大丈夫なのか……?

 全然ダメさ……ロクでもない気持ちは相変わらずだ……

 そ、そうか……

 けど……やつが学園祭に来るのなら、話は別だ……

 し、信じるのか……関根の夢みたいな話を……

 ああ……兄さんはそういうやつさ……あいつは絶対、関根くんのラーメンを食べに来る……

 無邪気な笑みを不敵なそれに変え、リューティガーは遼の腰から指を離した。その様子を後ろの席から見ていたはるみは、頬杖をつき、ため息を漏らし、腹部に鈍い痛みを感じていた。


「正直ね、鉄道喫茶って、どうなるんだろうとかって思ってたんだ」
「うーん……確かに……」
「まぁけど、忙しくなるなぁ……」
「なんか去年を思い出しちゃうね」
「そうそうそう」
 生徒もまばらになった放課後の教室で帰り支度をしながら、吉見英理子と椿梢は来週末に迫った学園祭の話題を口にしていた。これまではどうにも実感に乏しく、鉄道喫茶という得体の知れなさに戸惑っていた二人だったが、「仁愛ラーメン2005」と新しい屋号も決まり、いよいよあの騒がしく慌ただしく、そして楽しい祭りがくるのかと胸を弾ませていた。
 扉も開いたままであるB組の前を通りかかった伊壁志津華は、ふと立ち止まって廊下から教室の中を見た。

 椿……梢か……

 志津華は学生鞄の中から携帯電話を取り出した。それは自分の使っているものではなく、あの残暑の夕暮れに残されていた、花枝幹弥の愛用品である。

「まぁ俺なら、暗号の類は忘れへんように身近な番号にするな」
 ある日の夜、レトルトのカレーライスを食べ、テレビのミステリードラマを見ながら、彼はそんなことを言っていた。
「身近な番号って? 生年月日とか?」
「アホ。んなもん、すぐばれてしまうやろ」
「じゃあ、なによ?」
「自分しか知りよらへん番号で、絶対忘れへんやつや」
「例えばどんなの?」
「せやなぁ……好っきな子の出席番号とか。まぁ、これは確実に忘れへんな。おまけに恋の秘密さえ守ってれば、敵にばれる心配も少ない」
 “敵”という言葉が自然に出てくる彼は、やはりどこか変わった男だったと思う。携帯電話の電源を入れた志津華は、もう一度B組の教室を見て、友人と談笑する額の広い少女を見た。

 二年……B組……

 四桁の暗証番号を入れるよう、携帯電話の液晶画面には表示されていた。志津華は慣れた手つきで“2”“B”と立て続けに入力し、小さく息を吐いた。
「あ、ねぇ、藤原さん……」
 教室から出てきた長身の女生徒に、志津華は声をかけた。
「な、なぁに……えっと……伊壁さん?」
「う、うん……こないだはありがと……あ、あのね……あそこにいる……ちっちゃな……えっと……椿さん?」
 志津華はできるだけ小さな仕草で、藤原の肩越しに見える椿梢を指差した。
「あ、うん……梢ちゃん? な、なに?」
「うん……あの子の……出席番号って……な、なん番だろ……」
「え、えっとね……確か……二十二……は……田埜さんでしょ……だから……二十三番だと思うけど」
「あ、ありがと……」
 携帯電話を手にしたまま、志津華は藤原に会釈をし、小走りに階段へ向かった。
 自分の出席番号を試しに入れてみたこともあったが、入力画面は先に進むことはなかった。果たして“2”と“3”はどうであろうか。できれば違ってて欲しい。けど中のデータも見たい。そんな矛盾した想いが少女の中で渦を巻き、彼女は大きく息を吸い、踊り場の壁に背中をつけた。

 落ち着け……落ち着け志津華……い、入れるぞ……“2”と“3”を……

 意を決し、伊壁志津華は残り二つの番号を入力した。すると画面は待ちうけ用に切り替わり、暗号が正しかったことが証明された。

 そっか……そうなんだ……

 待ち受け画面は、ある少女の写真だった。つい先ほども見つめた広いおでこの少女である。カメラ目線ではないところを見ると、どうやら隠し撮りのようである。志津華は情けなくなる気持ちを堪え、携帯電話を操作した。
 メールボックスにアクセスした志津華は、受信トレイが空である事実に違和感を覚え、送信トレイに“3”という数字を認めた。これは三通のメールが未送信であるという意味である。見てしまっていいのか。躊躇もあったが、ベッドを共にした彼のわがままさや、なによりも部屋から唐突に消えてしまった理不尽さも手伝い、“わたしなら、いいはずだ”と自信を抱いて頷いた。しかしこの生徒が行き交う踊り場では、秘密を守れる自信がない。少女は階段を降り、女子トイレを目指した。


 ベッドが湿っているのは、汗のせいだろうか。それとも“漏らして”しまったからだろうか。不快感に全身を苛まれながら、彼は頭の天辺から首筋にかけて痛みを感じていた。
 どこや……ここは……なんや……頭……ガンガンする……あかん……最悪や……

 もう何日も頭痛が治まらない。あの天然パーマが近づいてきてから意識を失って、目を覚ましても感覚がはっきりとせず、まるで夢の中にいるようである。

 ぼんやりとした闇の中で、二人の少女が見えた。

 梢ちゃん……しづちゃん……あぁ……会いたいなぁ……すぐに……梢ちゃんの声が聞きたい……しづちゃんの肌を触りたい……

 そんな刺激があれば、この薄ぼんやりとしたまどろみも、締め付けるような頭部の痛みも晴れるかもしれない。

 花枝幹弥は夢の中にあった。それはまだ、醒めることはなかった。

第二十七話「三通のメール」おわり

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