真実の世界2d 遼とルディ
第十四話「白き攻防」

1.
 普通の人間と比べれば、より遠くを見ることができるし、小さな音も聞き逃さない。それに血や火薬の臭いを、微量でも嗅ぎ分けることだってできる。

 しかし、たった一つだけ、もうすっかり退行してしまい、いまでは幼児にも劣ってしまう感覚があることを彼はよく知っていた。
 隣の台所で朝食の準備をする、丸々とした体躯の相方を横目で見た彼は、料理の達人であるあの男と自分の感覚を比較し、それを距離に換算した場合、どれほどになってしまうのだろうかと頬を引き攣らせ、再び視線を正面に移した。
 青黒い肌をした赤い瞳の巨人、健太郎は居間のソファに腰掛け、元日の漫才番組をぼんやりと、内容も頭に入らないまま眺めていた。
「それにしても、テレビばかり飽きずによく見るネ」
 居間へやってきた相方の陳 師培(チェン・シーペイ)が、エプロンで手を拭きながら健太郎にそう言った。
 イントネーションにまだ難があるものの、相方の日本語は大分聞き取りやすくなったと思う。出会った頃などは陳が何を喋っているのかまったく理解できず、それが彼なりの日本語だと知った際には思わず笑いがこみ上げ、自分にまだそのような感情が残っていた事実に驚いてしまったことを今でもよく覚えている。
 薄くかさかさな唇の両端を吊り上げ、健太郎は「お笑いらしい。まったく笑えないが」と返し、目深に被ったチューリップ帽の鍔(つば)越しに、相方へ視線を向けた。
「ルディ殿はまだ寝ているのか?」
 健太郎の問いに、陳は大きく頷き返し、鯰髭を摘んだ。
「もちろん。まだまだ安静にしないといけないネ。本来なら入院ものの怪我だから」
「なら……しばらくは待ちということになるのだな」
「同盟から次の指示が来るのもいつになることやら……よもやとは思うけど、もうこのままずっと待ちになるかも知れないネ」
「ほう……お前が同盟批判とは珍しいな」
「言いたくもなるね。この件に関しては、私もいいかげん疑ってきたヨ」
「この間な……お前が出かけている間に、島守遼が見舞いに来た」
 話題の切り替えに、陳は一度だけ瞬きをして小さく息を吐いた。
「坊ちゃんから聞いたよ。ドリンク剤をもらったそうネ。励まされたと言ってたヨ」
 いつもより低い声で陳は言い、丸々とした腕を組んだ。余計な真似を。そうとでも言いたげな相方の様子に、健太郎は鼻を鳴らせた。
「ルディ殿の弱気を注意した。俺は悪いことではないと思うがな」
「なぜ彼がそうまでするネ。愛国者にはとても見えないヨ」
「ああ……」
「第二次の残党を倒して、血が騒いだのかな? 戦いの毒気に酔ったかナ?」
「それは……陳……どう思う?」
 すっかりテレビから意識を相方へと向けていた健太郎は、被っていたチューリップ帽を脱ぎ、珍しくその髪を外気へ晒した。
「なにを……かね?」
「島守遼だ……あいつ……倒したというか……殺したのかな? 源吾という元工作員や、つるりんなんとかという改造生体を……」
 一流の料理人であり、同時にベテランの暗殺プロフェッショナルである陳に、健太郎はそう意見を求めた。判断にはそれなりの時間を要するだろう。ぼさぼさにのばした前髪をいじりながら彼が答えを待っていると、相方はあっさりと首を横に振った。
 島守遼がこれまでに敵を殺したことがあるのか。そんな重要な疑問に対し数秒で答えを出した陳だが、健太郎は相方の判断を疑うことなく、「なるほど」とつぶやくだけだった。
 だとすれば、源吾とつるりん太郎を殺害したのは誰なのだろうか。そんな新しい疑問も生じるのだが、二人はそれについては現時点で追求するべきではないと思い、なんとなく互いの顔を見合わせた。
 なんにしても島守遼が襲撃された際に敬愛する主を助け出したのは事実である。もちろんそれすらも自作自演の可能性もゼロではないのだが、彼は虚栄心から“人を殺した”という嘘をつくことはできても巧妙な罠を仕掛けられるような若者ではない。言葉にせずとも二人の見解はそれについては一致していて、だからこそ、この話題についてそれ以上の言葉は必要なかった。
「ルディ殿の朝食は?」
「リクエストがあったヨ。雑煮ネ」
「四川に雑煮があるのか?」
「いわゆるこちらでの雑煮はないヨ。だから挑戦してみたネ」
 四川の料理人が作る雑煮とは果たして如何なるものなのだろうか、健太郎が興味で赤い瞳を輝かせると、それにつられて陳も微笑んだ。

 その気があるのなら、相方にもぜひ雑煮を口にして欲しい。

 健太郎が食物を摂取できない理由を陳は知っていた。その上で料理に対して興味を抱いてくれるのなら、どんな小さなきっかけでもいい。彼が食卓へつく第一歩になってくれればと、陳は相方の言葉を待った。
「喜ぶと……いいな……」
 だが健太郎は再びテレビへ視線を戻すと、傍らのチューリップ帽を取り上げ、それを目深に被った。
 拒絶か。陳は大きく突き出た腹をエプロン越しに擦り、異国の新年はなんと騒がしいのかと、大型液晶ディスプレイに映し出されたコントへ向かって、下唇を突き出した。


 神奈川県と東京都を隔てる多摩川を見下ろすそのマンションは、神奈川側の川原から少し離れたゴルフ練習場の裏手にあった。入り口へは路地をしばらく行き、その間も住宅はなく、雑木林が続いている。
 築二十年を越えるこのマンションの所有者は、権利書上では「ケイケイコーポレーション」となっていた。七階建て、全七十三世帯の入居が可能の大型集合住宅ではあるが、外から見てもベランダに洗濯物一つ認められない、全室がカーテンで遮断された生活観の乏しい、いわば“幽霊マンション”であった。
 その廊下に、黒いコート姿の白い長髪を揺らす青年の姿があった。掃除などまったくされていない壁のあちこちには小さなひび割れが生じ、天井には所々黒い染みが広がっていて、いつものことながら荒んだ建物だと彼は呆れていた。
 603号室。煤けた紺色の扉の前で立ち止まった青年は、小さく息を吸って、その場から突如として姿を消した。
 同時に発生した突風は、廊下に溜まっていた埃や砂を舞い上がらせ、それが収まると辺りはこれまで通りの静寂に包まれた。

 眼下に赤い絨毯を足元に認めた青年は、想像していたよりずっと毛足が長く、体重が沈み込んでしまったので、着地の直後、膝に違和感を覚えた。
 彼が出現した603号室は、六畳のキッチンと八畳の居間で構成された2DKである。それほど広くはない居住空間ではあったが、より窮屈さを青年が感じていたのは、台所、居間と関係なく敷き詰められた赤絨毯であり、天井までの高さがある壁一面に置かれた木製の家具類であり、天蓋付きのベッドであり、あまりにも大きすぎる応接セットのせいである。
 流し台と洗面所への扉だけが、いわゆる一般庶民が目にするそれと同一であり、この空間の中では逆に浮き上がっていた。青年こと真実の人(トゥルーマン)は、笑いを堪えながら高級家具がひしめき合う周囲を見渡し、ソファに背を向けた白いスーツ姿の男と、背後で食器を用意する物音に気付いた。
「明けましておめでとう。公爵。ご機嫌はいかがかな?」
 スーツの男の背後から、真実の人はそう挨拶をした。すると男は一瞬だけ全身をびくんと反応させると、ゆっくりと上体を向けた。
「これはこれは、真実の人三世……ようこそおいでいただきました」
 低く、通りのよい声で返した男は短い白髪であり、紫がかっている青年の白髪と比べると、灰色混じりのごく当たり前の頭髪だった。肌の色は白く、逞しい顎に対して全身は華奢であり、肩幅も狭い。ワイシャツもネクタイもスーツ同様の純白であり、全体としては色の薄過ぎるコーディネートではあったが、清潔感は相変わらずだと真実の人は感じた。
 老人。そう言ってしまっていいだろう。自分の白髪は突然変異による少年期からのものだが、公爵と呼んだこの男は年齢を重ねた結果、似たような色に抜けてしまっている。彼はこちらの紫がかった長い髪を、どう思っているのだろう。青年はそんな瑣末なことを考えながら、男に近づいていった。
 吊り上がった眉毛は濃く、眼光には強い意が込められている。老いてこのような場所に幽閉されていても、彼の生きていく上での欲望は少しも衰えていないのだろう。対面のソファにコートを着たまま腰を下ろしながら、真実の人は身を乗り出してきた男の様子をそう理解した。
「三世という呼び方は……まぁいい……どうだ、公爵。仕事を頼みたいのだが、やる気はあるか?」
「もちろんございますとも三世……私はいつでも役目を果たせるよう、鍛錬を怠った日はございませぬ!! 無論噂は耳にしておりますぞ。既に田村には情報収集を命じております。この部屋から決して外に出ぬ範囲で」
 時代がかった男の言葉は流暢な日本語であり、身体的な外見も言語通りであるから、“公爵”という呼び名はお遊びのはずである。しかし、男の目はどこまでも真剣で、そう呼ばれることに何の照れもなさそうだった。
「そうか……それでは……」
 台所から、ティーカップを載せた銀色のトレーを持った燕尾服の中年男性が居間にやってきたので、真実の人は言葉をいったん止めた。
「執事の……田村か」
「はい……」
 田村と呼ばれた男は深々と頭を下げ、真実の人と公爵に挟まれたテーブルにティーカップを置こうとした。
 男の手は小刻みに震えていた。それは恐怖というよりは、単にこうした仕事に慣れていないのか、不向きであるか、どちらかの淀みが原因なのだろうと真実の人は眉を顰めた。
 対座する公爵が顎の裏を人差し指で掻いているのと、ガチャリという音を立てて置かれたティーカップを見比べながら、真実の人はごっこ遊びなら、もっと徹底するべきだろうと呆れていた。
「公爵。執事田村と共に外界へ赴け」
「御意……してお役目は?」
「暗殺だ。ターゲットは島守遼。高校生だが異なる力を持っている」
 真実の人の言葉に、公爵は顎に手を当て、「ええ」とつぶやいた。
「源吾と太郎がやられたそうですな」
「いや。差し向けはしたが、撃退したのは別の人物だ。もっとも……油断はできんがな」
 この公爵を相手にすると、自分もついつい時代がかった言葉遣いになってしまう。口に手を当てた真実の人は、むしろその方が真実の人らしいと、苦い笑みを浮かべた。
「もちろんですとも三世。純白公爵はたとえ幼児でも、全力でその役目を全ういたします!! どうかご安心めされよ」
「わかった……鍵は開けておく……期限は特に定めん……当座の資金は置いていくから後は任せたぞ」
 立ち上がった真実の人は居間に向かうと、懐から厚みのある封筒を取り出し、それを執事の田村へ手渡した。


 マンションの外、路地へ通じる正面入り口前に、一台のワゴンカーが停められていた。その運転席には、ボマージャケット姿の少年がステアリングに両手をかけたまま座っていて、扉を隔てた外側には、エプロンドレスにコートを羽織った赤毛の少女が寄りかかっていた。
「真実の人……今回はどのチームへご指名したのでしょうね。ライフェ様」
「たぶん純白公爵って奴のチームね。はばたき」
「純白公爵……?」
「ええ。だって真実の人、奴隷契約論を最もわかりやすい形で体現したチームのところに行くって……公爵と執事の田村のチーム……たぶんそうよ」
 赤毛の少女、ライフェ・カウンテットの説明に、浅黒い肌の少年、はばたきは何度も小刻みに頷いた。
「元旦なのに、真実の人もマメよねぇ……まぁ、これが終わったら、初詣に行くって言ってるからいいけど……」
 はばたき少年はドア越しに少女の横顔をちらりと見て、今日は特に顎の形が整っているように感じた。
「ね!」
 大きな声で、ライフェはいきなりはばたきの方を向き、人差し指を突きたてた。どきっとしたはばたきはステアリングを強く握り締め、「な、なんです!?」とぎこちないイントネーションで返した。
「高校ってどんななんだろ!? あたし、小学校しか知らないからすごく興味ある!!」
「わ、私も行ったことあるわけ……」
「ないわよね。そーよね。聞いても無駄よね」
 視線を宙に泳がせたライフェは、突き立てた指をくるくると回し、勢いよくはばたきへ背中を向け、車の扉に再び寄りかかった。
「い、行くのですね……仁愛高校に」
「そーよ。蜷川のヘマをあたしがフォローするの。弟と島守遼を見張るのよ。まずは……部活ってのを決めないとね……あとはお弁当にするか、学食にするか……修学旅行ってのも面白そうね」
 はばたきは蜷河理佳(になかわ りか)と面識こそあったが、彼女がスパイとしてどの程度の実力があり、どういった性格をしているのかまでは知らない。だからこそ、“蜷河のヘマ”を自分の主人がしてしまう可能性もある。そうなれば、全力でフォローするしかない。
 経験したことのない高校生活に口元を歪ませる少女のうなじを見つめながら、少年はステアリングを握る力を強めていた。

2.
 冷蔵庫の上に置かれた小さな鏡餅と、広告と付録でいつもよりずっと分厚くなっている新聞。コンロに置いたままの鍋に入った雑煮。これが島守遼(とうもり りょう)にとって、正月を感じさせる特別な変化の全てである。元旦の朝、目を覚ました彼は、台所の食卓に腰を寄りかからせ、果たして初夢はどうだったか、まだ覚醒しきっていない意識でそれを思い出そうとしていた。
 駄目だ。まったく思い出せない。昨日の夜は遅くに帰宅し、父は既に寝ていたので自分は部屋で携帯電話をいじりながらぼんやりと過ごした後、布団に入ってしまい、大晦日のイベント感は皆無である。せめて元日の今日ぐらいは、なにか特別なことをするべきではないだろうか。そんなことを考えていていると、襖を開け、父の島守貢(とうもり みつぐ)が目をこすりながらパジャマ姿で出てきた。
「おは……あ、明けましておめでとう親父」
 息子の挨拶に父は足を止め、とろんとした目を向けた。
「はい……本年もよろしくお願いしますです……はい……」
 まだ寝ぼけているな。父の反応をそう理解した遼は、せめて家にテレビでもあれば、少しは正月らしい気分が味わえると舌打ちし、おそらく一通ぐらいは届いているはずであろう年賀状を取るため、玄関へ向かった。
 すると彼の鼓膜を携帯電話の着信メロディーが刺激した。元旦の朝から一体誰だろう。まさか麻生からアルバイトの応援要請か。そんな可能性を考えながら、遼は部屋に戻って机の上で充電中の携帯電話を手にした。
「はい……え……あ……そうですけど……お……?……あ……神崎……?」
 冷蔵庫の扉を開けながら、父は息子が携帯電話を相手にうろたえている様子をぼんやりと眺めていた。
「なんだよ……え? あ、あぁ……高川の? 明日!? いや……別に……特には……ど、どーすんだよ……はぁ……まぁ……そうだけどさ……」
 一体息子は誰を相手に何を話しているのだろう。現実感を知覚しようと、活性化を始めた感覚に背筋を奮わせた島守貢は、注いだオレンジジュースをぐいっとひと飲みし、そう言えば初夢は果たしていかなるものだったのか、少しだけ思い出そうと努力した。
 まったく駄目である。まったく思い出せない。
 考えてみれば初夢など記憶していたことなどこれまでになく、以前、妻に「俺よぉ。初夢って見ないんだよねぇ」と話したところ、「いい貢? 夢はね、見ないなんて事はまずないの。大抵は覚えていないだけなの」と説明され、納得したような、できなかったような、そんな記憶がある。
 台所に再び現れた息子が、椅子に座りため息をついたので、もうすっかり目が覚めていた貢はその対面の椅子に腰掛けた。
「明けましておめでとうな。遼」
「ああ……さっき言っただろ?」
「そうだったっけか?」
「そうだよ……」
 どうにも息子は機嫌が悪そうである。貢はその原因が先ほどの携帯電話にあると思い、遼の手にしていたそれをまじまじと見つめた。
「なんの電話だったんだよ……」
「あ? あぁ……クラスメイト……」
「ええっと……あの……ローマ人か?」
「なんだよ、それ? 全然違う。ローマ人!?」
「あ、あぁ……ほれ……いただろ、お前の友達の外国人……あ、ハーフか!?」
「真錠はドイツ人のハーフだよ。ローマ人って……歴史じゃねぇんだから」
 息子の指摘に、父は頭を掻いて肩を上下させた。
「ははは……でさ、真錠君から初詣の誘いか?」
「違う」
「じゃあ……ニューイヤーパーティーのお誘いとか?」
「違う」
「ええっと……」
 父は視線を宙に泳がせ、両腕を組んだ。
 まったくもって無駄な推理である。そもそも電話の主がリューティガー真錠(しんじょう)ではない段階で、この父が正解に辿り着くことは永遠にないであろう。放っておいてもよかったが、さすがに新年早々から不親切なのもどうかと思い、遼は大きく息を吐き出し、対座する父親と同じように腕を組んだ。
「まずさ、電話してきたのは別のクラスメイト。真錠じゃない」
「そ、そうなの?」
「で、明日そいつと高輪に行くことになったんだ」
「高輪……?」
「古武術の道場があってさ。そいつと二人で道場見学に行くんだ」
「古武術……見学……クラスメイトと……?」
 演劇を始め、アルバイトに通うようになり、ガールフレンドもでき、中型二輪の免許まで取得した。高校に入ってからというもの、息子の行動はあまりにも多彩であり、ここ数年日常に変化のない自分にとって、それは楽しみの一つでもあった。しかし古武術道場の見学とは、どうにもいろいろやり過ぎなのではないだろうか。手を出すだけ出して、結局モノにならないということもあり得るし、移り気なのは決して褒められる性質ではない。オレンジジュースで活性化した意識は、父の思いに加速をつけていた。
「今度は古武術か?」
 気の利いた言い回しで、それとなく忠告するつもりではあったが、これでは理解に乏しい頭の固い親そのものではないか。貢は顔を顰め、その行為がますます自分の望まない父親像を演出している事実に気付き、慌てて大きく口を開けた。
「別のクラスメイトが通ってるから、見学に行きたいって頼んだんだ。最近学校いても物騒だろ? そしたら明日から稽古初日だから、来いよってことになってさ」
「そ、そうか……しかし一月二日からとはすごいな」
「どうかしてるよ」
「そんなに言うなら、他の日に見学に行けばいいじゃないか?」
 その通りである。しかし事を自分一人で決定できない点が、この件を複雑な問題として遼を悩ませている原因である。

 高川の勢いじゃ……神崎も断れなかったんだろーな……

 電話で交わした言葉を思い出した遼は、神崎はるみが自分を頼りにしてきてくれたことが素直に嬉しかったし、彼女が初稽古の見学を強く勧めてきた高川を敬遠している点が、わかるようで実のところは理解できなかった。
 高川典之は神崎はるみに対して好意を抱いている。教室でのやりとりをたまに目にしただけだが、彼は感情表現が不器用で直線的であるため、比較的鈍感な遼にもそれはなんとなく認識はできた。
 授業中、携帯でメールをやりとりしている同級生を目撃しただけで怒りに震えるのは、正直なところ付き合いづらいレベルの正義感ではあるが、教室ジャックの際にはそれ故に獣人へ立ち向かい、はるみの窮地を救っている。背もそれなりに高く、顔の彫りも深く眉毛も太い、言わば“男前”である高川を、なぜ神崎はるみは煙たがっているのだろう。そんな疑問がふと浮かんだ。
「ど、どうした遼?」
 黙りこんでしまったため、貢は息子の顔を覗き込んだ。
「あ、いや……その……つまり、明日俺、高輪に行って来るから。お昼は食べといて」
 断りきれないはるみは、せめて島守も一緒に来て欲しいと、そう頼んできた。そもそも見学は自分から高川に申し出て、彼女はそれに便乗しただけのことである。だから付き合うのは一向に構わなかったが、そうなるとますますわからないのが、なぜ高川を苦手とするはるみが、道場見学などという自分とは無縁なイベントに参加すると言い出したかである。
 どうにもややこしい。誰が、何に対して、いつからどう思っているのか。その全てどころか一部も分かっていない彼は、だからこそ明日に入ってしまった予定を父に対して上手に説明する自信もなく、努力をしようという気すら起きず、まだ見つめ続ける貢に対して首を傾げるしかなかった。


「さすがですね……陳さん……」
 ベッドで上体を起こし、雑煮を啜ったリューティガー真錠は、傍でトレーを持った陳に対して無邪気な笑みを浮かべた。
「あまりにお手軽なんで、味に自信がなかったけど……口に合ってよかったヨ」
 挑戦してみた雑煮の味を褒められたのも嬉しかったが、なによりこの若き主が純粋な笑みを取り戻してくれたことが、従者である陳にはなによりであった。島守遼の励ましがいい方向に向かわせているのか。そう彼が思っていると、リューティガーはお椀をベッド脇のチェストへ置いた。
「健太郎さん……お願いがあります」
 寝室の片隅で体育座りをしていたコート姿の従者に、リューティガーは凛と張った声を上げた。
「うむ……」
 即座に立ち上がった健太郎は、チューリップ帽を被り直し、リューティガーへ赤い瞳を向けた。
「新年ということもあります……健太郎さんは、遼のガードへ向かってください」
「構わんが……敵はあいつを狙うか?」
「僕がこうしている以上、単独の彼へ仕掛ける可能性はじゅうぶんにあります。第二次ファクト残党の中でも……遼の素性を知っている人間は多いでしょうから」
 リューティガーの説明に、お椀をトレーに載せた陳は下唇を突き出した。
「ほとんど逆恨みネ。島守遼は恨まれる筋合いはないネ」
「もちろんです……けど残党たちはまともじゃない……七年分の鬱屈を、血筋へと向けてもおかしくはありません」
「では行ってくる……」
 淀みのない、流れるような挙動で健太郎は寝室から廊下へ出て行き、やがて玄関の扉が開き、閉ざされる音がリューティガーと陳の耳に入った。
「お昼も……雑煮でいいですから」
「ホント?」
「ええ……食べやすいし……ほんと、美味しいですから」
「助かるヨ。年中無休や旧正月以外は休まない業者もあるけど、やはり正月は食材が手に入りづらいからネ」
 だからおせち料理という習慣があり、それは陳も当然知ってはいたが、十二月二十四日の襲撃以来、同盟本部への報告やリューティガーの看護で忙殺され、正月中の準備は雑煮だけで精一杯だったのが現実である。もしやその事情を察しての言葉なのだろうか。陳はそう思い、リューティガーへ会釈をした。
「こんなに美味しいのに……健太郎さんは……食べられないんですよね……」
 リューティガーの問いに、陳はわずかに視線を彼から逸らした。
「そう……精神的に食べ物を受け付けないね」
「精神的……? ということは、場合によっては……」
「相方の内臓は我々と大差ないネ。だから食べることも飲むことも普通にできるヨ。けど彼の過去がそれを許さないね……」
 それが何であるのか、問えばこの従者は答えてくれるであろう。しかしできれば健太郎の口から直接告げて欲しい。そう思っているリューティガーだからこそ、彼はそれ以上この話題について触れるのをやめた。
「さて……と……」
 ベッドから両足を床へと滑らせた彼は、膝や腰が思ったより鈍っていない事実に笑みを浮かべた。
「ぼ、坊ちゃん……まだ寝てなければ……」
 トレーをチェストに置き、肩を抱きにやってきた陳を、リューティガーは右手で制した。
「無理はしません……けど……そろそろ僕もやることをやらなければ……遼が正月を単独で過ごし、その警護に健太郎さんを割いている現実は、そもそも僕が何の指示も出せていないからですし……」
 だがそれは、同盟からの命令が一切ない以上、現場の指揮官である主に責任はない。そう正論を言ってもよかったが、もうそろそろ賢人同盟という存在から独立しつつある彼が納得をするはずもないだろう。
 同盟から粛清の対象になってしまう程の越権になるようなら諌めればいい。自分の器を広げようとする主の行為は静かに見守るか、積極的に手伝うかのどちらかであるべきだと、陳は最近になって覚悟を決めようとしていた。
「いまお茶を入れるね。居間に持っていけばいいか?」
「お願いします」
 パジャマ姿のリューティガーはトレーを再び持ち、寝室から急いで出て行く陳の丸々とした背中を眺めながら、何から手をつけるべきかと、久しぶりにその分析力、判断力、計画力を総動員するため、とりあえず大きく伸びをした。

 民声党だ……まずはそこから探ってみるか……

 最初の綻び、まずはそこに着眼し直すべきだろう。なぜ与党である民声党幹事長の第二秘書が、FOTの武器取引現場を見学に訪れ、その事実を同盟はあえて無視したのか。この謎が全て解ければ、次の段階へ分析を進めることができる。

 2005年元旦。リューティガー真錠は再び動き始めた。肋骨の骨折は完治していなかったが、病床で寝正月を過ごす精神的な余裕など彼にはなかった。これまでは同盟の指示通りに動いていればよかったが、倉庫での一件は、疑う以上の確信と具体的な危機感を若きエージェントに抱かせていた。
 動かなければ。情報を収集し、それを分析しなければ、いつまたあのような謀略に巻き込まれるか知れたものではない。自分の目的はただ一つ、裏切り者である兄を同盟本部へ送還させるか、抹殺することにある。それを果たすまでは生き延びねばならない。
 謀略に加担する者が賢人同盟にも存在する。その可能性は高かったが、それでもリューティガーはまだ有効である最初の任務を果たすことだけに集中しようと懸命だった。
「事実が状況を変えちまうことだってあるんだろ?」
 島守遼はそう言っていた。乱暴な言葉である。だが、不透明な状況を突破するには、勢いに任せる必要もある。
 暖房の効いた寝室から代々木の街を見下ろしたリューティガーは、わき腹にちくりとした痛みを感じ、「もう少しか……」とつぶやいた。

3.
 元日の夜から降り始めた雪は、翌朝になっても止むことはなく、あまりの寒さで目が覚めてしまった遼は、カーテンを開け、裏の駐車場に見えるはずのカラフルさが白一色となっている事実に驚いた。
 どの車もボンネットや屋根に雪が積もっていて、地面も同様である。白い息を吐いた彼は、まともな暖房器具が小型の電気ストーブ一個というこの環境に顔を顰め、バイト代が入ったら電気毛布を買おうと心に決めた。
 そう、昨年までは例年にないほどの暖冬であり、それほど寒さを意識することは無かった。しかし年が明けた途端にこうである。
 今日は高川の通う道場の初稽古日であり、それを神崎はるみと見学に行く予定になっている。しかしこの雪では予定もどうなるだろう。遼は机上で充電が終わった携帯電話を手に取り、時間を確認し、アドレスデータの“か行”を選択した。


 政府機関も三が日においては休みである。だがそれは、いわゆる危機対処に携わる内閣特務調査室、F資本対策班においては当てはまらない。班員である那須誠一郎は、自分のデスクでノートPCを操作しながら、眠そうに目をこすった。
「早いな、那須」
 隣のデスクに、同僚の先輩捜査官、柴田明宗がやってきた。彼は左手にコンビニエンスストアの袋をぶら下げていて、那須はその中身がカップうどんか蕎麦のいずれかであるだろうと、予想した。
「泊まりです。さっき目を覚ましました」
 なるほど、だからネクタイも緩んでいるし、顎に無精髭もあるのか。柴田は後輩に何度か納得したように頷き返し、席に着いた。
「正月からご苦労さんな……お……それってあのDVDか?」
 那須のノートPCの画面に、舞台の様子が映っているのに気付いた柴田は、口元に笑みを浮かべて顎に手を当てた。
「ええ……唯一の遺留品……仁愛高校学園祭……演劇部の発表風景です」
「神崎嬢の妹さんも出てるんだろ?」
「チョイ役ですけどね……それよりもっと驚いたのが……」
 那須はネクタイを締め直すと、画面に映る、野々宮夫人役の少女を指差した。
「綺麗な子だな……あぁ……この子か? お前が班長に報告した……」
「ええ……蜷河理佳……七年前の一家殺害事件の生き残りです」
「とんでもない偶然だな……それが神崎嬢の妹さんと同じクラスだなんてな……」
「蜷河一家殺害事件は、僕も担当だったんですよ……」
「そうらしいな」
「F資本の犯行でしたから……解決はいわゆる騒乱鎮圧とセットのどさくさで……実際の犯人が検挙できたかは怪しいんですけど……ほんと……スタッフロールを見たときはひっくり返りましたよ」
「だけどよ、1年B組ってことは……こないだの教室ジャック事件だってそうじゃないか……なんでそのときには気付かなかったんだ?」
「僕は生徒名簿を見てませんし……取り調べた生徒のリストに名前はありませんでしたから……どうやらその日は休んでいたようです」
「なるほど」
 画面を凝視したままの柴田に対し、那須は整った顔を少しだけ顰めた。
「基本を怠ったのが敗因です。蜷河理佳がいるのなら、もう少し別のアプローチもあったはずですし……」
「まぁな……F資本に家族を惨殺された孤児に……それを壊滅させた神崎嬢の妹……その二人が出演している舞台のDVDが、FOTの集結現場に残されてた……胡散臭いどころじゃねぇよな」
 リューティガーへの追加戦力。賢人同盟の十名を、対策班はいまだにFOTと誤認したままであり、それを疑う者はいなかった。
「で……調べてみたんですよ色々と……」
「泊まり込みでか?」
「そうです」
「それだけの価値はあったのかい?」
「大有りです」
 自信有り気に、力強く頷いた那須に対して、柴田は鼻を鳴らせて腕を組んだ。
「蜷河理佳は……事件の後、孤児院に入り……高校入学を機に、そこを出たそうなのですが……十二月の初旬に自主退学をしたそうです」
「十二月初旬っていやぁ……」
「そうです。顔なしの、仁愛高校突入事件のすぐ後です」
「なるほどね……教室ジャックは休んで……顔なし事件の直後に退学……」
 何かがある。那須が捜査官の勘として、そこに着目する気持ちも少しはわかる。それだけに、柴田は後輩に告げておくべきだろうと判断した。
「明日からでも蜷河理佳の足取りを追います……その上で、仁愛高校生徒への聞き込みも新学期からはじめます。顔なし事件の後は期末試験で学校側からブロックがかかってましたから」
「まぁ……あのな……やる気満々に水を差すようで悪いんだがな……」
 言いづらそうな柴田に、那須は何度も瞬きした。
「黒幕であろうサルベシカが死亡した以上、FOTは壊滅したと見る向きが上にはある……捜査規模の縮小だってあり得るし、もっと話が進めばこの班の解散だってあり得るんだ……動くのはいいが、衝突は覚悟しとけよ」
「柴田さんは……それについてどうお考えですか?」
「ん……さーてな……」
 はぐらかした柴田は両手を頭の後ろに当て、椅子の背もたれに体重を預けた。
 中東戦争で戦術の神様とまで呼ばれた、「荒野のサルベシカ」それがFOTの黒幕であるという見解は、実のところ公安本部や外務省からもたらされた見方である。説得力はあったが、どうにも意図を含んでいるようでもあり、柴田自身その説を全面的には支持したくはなかった。だが否定するだけの材料がないのも事実である。どちらとも言えない。そんな意思表示を、彼は口元を歪ませることで後輩に示していた。

 霞ヶ関、内閣府別館の正門側の塀に、その少年は佇んでいた。勢いを衰えることのない雪は彼の両肩や頭に白い層を形成していたが、それに意を向けることなく、彼は両目を瞑り、なにか意識を集中しているようだった。
 紺色のダウンパーカーに、黒いジーンズ姿の少年は、やや長めの首に真っ赤なマフラーを巻き、耳には小型のヘッドフォンをつけていた。背はあまり高くなく、茶色に染めた髪は少しだけ長髪で、そんなありふれた外見の若者だけに、古ぼけた、いかにも公共機関然とした内閣府別館の塀は不似合いであり、例えばそれにポップアートでもペイントされていれば相応であろう。
 花枝幹弥(はなえだ みきや)はそんな少年である。繁華街にいればその風景に溶け込んでしまうような、普通以上の印象を他人に与えることはない。
 しかし、彼が耳にしているのは流行歌などではなく、塀と建物を隔ているはずの、柴田と那須の会話であった。
 ヘッドフォンから会話が流れているわけではない。もし彼がつけているそれを外し、他人が耳に当てたところで何も聞こえはしない。なぜなら、コードの先端であるプラグ部分には何の機器も接続されておらず、彼にとってヘッドフォンはむしろ防音効果を高めるためだけに存在していたからだ。
 聞こえるはずのない会話を、だが花枝ははっきりと、咳払いや唸りの強弱まで聞き分けていた。もうこれ以上は必要ないだろう。そう判断した彼は、ようやく垂れ下がった目を開け、小さく口を開けた。

 かなわんなぁ……雪ゆうてたけど、こない降るとは思わへんかった……

 降り続ける白いものを凝視した彼は、肩と頭に降り積もったそれを払うと、再び両目を閉ざした。

 檎堂(ごどう)さん……聞こえるか……俺だ……花枝だ……

 花枝が意識を集中してそう思った直後、彼の腰から携帯電話の着信音が鳴った。その結果に満足した彼は、唇の両端を吊り上げるとジーンズのポケットに手を突っ込み、着信音を止めた。

 じゃあいくぜ……いまだにこいつらは気付いていない……全ては予定通りに進んでいる。ただ、一人の捜査官が、“ニナカワリカ”という人物に注目しはじめている。すぐにでもその足取りを追うそうだ。繰り返す。仁愛高校1年B組“ニナカワリカ”だ……

 今度は、先ほどとは異なる着信音が鳴った。花枝はポケットから携帯電話を取り出し、画面に注目すると、そこには“了解。直ちに調査を依頼する。後ほど合流しよう”というメールの文面が表示されていた。

 はい……だったら俺……今日は寿司でも食いたいけど……いいですか、檎堂さん……

 そう意識を集中した後、彼は首を傾げて苦い笑いを浮かべた。すると再び携帯にメールが着信された。

“回るほうでよけりゃ奢る”

 画面に表示された文面に花枝は噴き出した。さて、今度は時間と場所をこちらから伝えなければならない。少々迂遠な連絡手段だが、自分たちは特に用心が必要であり、記録に残る盗聴法穂や、傍受の危険が高い通信手段はとることが出来ない。
 だからこそ、自分のような“異なる力”の持ち主がこの任務に選ばれたのだろう。花枝幹弥は背中に力を入れ、その反動で寄りかかった塀から離れた。

 さーて……何皿食えるやろ……檎堂はん……覚悟しといてな……

 花枝幹弥は舌で唇を湿らし、雪の中、背を丸めて歩き始めた。


 連絡の後はいつも眩暈がする。とあるホテルの一室で、ノートPCに向かっていたその男は軽く頭を降った。
 小柄だが頑丈そうな締まった身体を黒いハイネックのセーターに包み、短い髪と顔の下半分を覆った髭は黒く、丸い鼻と太い眉毛が力強さと愛嬌を同時に醸し出していた。
 雄々しさと親しみ易さを外見に内包したこの男は檎堂猛(ごどう たけし)、彼は先ほど花枝から伝えられた情報を日本語で打ち込み、太い両腕を組んだ。
 “ニナカワリカ”その名は照会すればすぐに結果が出るだろう。それだけの仕事であれば、なにも自分がいったん判断する必要などない。やりとりの最後に“そのまんまのネタをカールに飛ばしておけ”と指示しておけば、花枝は正確にその役目を果たすだろう。
 しかし、F資本対策班が何も気付いていないという情報は、それなりに今後の対応を考えた上で報告を考え、再びそれを花枝に伝えなければならない。

 [指示を仰ぐこと]
 民声党幹事長、幸村加智男の動向調査
 F資本対策班の動向調査
 ロシア南部方面師団の動向調査
 ケイケイコーポレーション、および山容社の実態調査
 長野県赤沢方面の実態調査
 仁愛高校1年B組への潜入調査

 [要求]
 追加戦力 特に実戦対応ができるエージェント
 仁愛高校1年B組“ニナカワリカ”についての調査
 島守遼の能力についての調査結果
 獣人王エレアザールのマトリクスデータ

 [報告]
 現在のところ目立った動きは無し 引き続き任務を遂行
 李 荷娜との接触に成功。受領ルートを確立

 これだけの内容を打ち込んだ男は、すぐにそれを小型のプリンターで出力し、文書データを保存することなくソフトを終了させた。
 窓の外では止むことのない雪が相変わらず東京の街へ降り続いている。檎堂はぎこちない挙動で椅子から立ち上がると、机の脇に置いた杖を手にし、窓際まで歩いた。
 何年ぶりだろう。この国で雪を見るのは。丸い目を細め、遠近感が目まぐるしく変わる降雪を楽しんでいた。


 チューリップ帽とコートを身に着けているため、彼の青黒い肌を他人が気付くことはあまりない。もちろん数秒の観察と、それなりの距離まで接近すれば異常な顔色は歴然であるが、彼はそもそも人気のある場所を往くことが滅多になく、人々が彼を目にするのは常に一瞬のことである。
 だが、今日の健太郎は雪谷の路地の中央を歩いていた。黒い傘を差していた彼は、雪で固められつつあった道路を慎重に、ゆっくりと進んでいた。
 立ち止まった健太郎は、赤い瞳をとあるアパートの二階へと向けた。すると、外に面した廊下中央の扉が開き、よく見知った長身が姿を現した。
 出かけるのか。傘を手に外付け階段へと向かう島守遼の姿を凝視しながら、健太郎は電柱の陰に隠れた。
 もちろん隠れる必要などない。だが自分のような者がボディーガードで付きまとう事実を、わざわざ教える必要はないだろう。そう思った健太郎は、遼がバイクではなく徒歩で路地まで出てきたので、なるほどまだ初心者なのかと納得をした。


 JRの品川駅で電車を降りた島守遼は西口へ向かい、改札口の向こうで手を振る白いコートにブーツ姿の神崎はるみを発見し、小さく右手を挙げた。

 なんだよ、あいつ……結構嬉しそうじゃないかよ……

 あまりにもはるみが大きく両手を振るので、恥ずかしくなった彼は慌てて自動改札を通過し、彼女と合流した。

「すっごい雪だよねー!!」
「ああ……まだ降るって……一日雪らしいぜ」
 遼がそう言うと、はるみは頷いたあと、驚いたように手袋をした手を口元にあて、彼から数歩離れて頭を下げた。
「あけましておめでとうございます。本年もよろしくです」
 唐突な彼女の挙動に、遼は面くらい口元を歪ませた。
「あ? あ、ああ……おめでと……よろしくな」
「特に、春の公演はよろしくお願いしまーす!!」
「も、もういいって……」
 改札へ向かう人々が、はるみのオーバーな挙動にそれとなく注目していたので、遼は恥ずかしくなって彼女の背中を軽く叩いた。

 すると暖かい、なにか弾けるような、膨らむような、そんなイメージが彼の掌に広がった。

 春の……桜か……これ……?

 イメージをそう解釈した彼は、雪の日だというのに、なんと季節はずれな気持ちで彼女はいるのだろうと呆れた。

「高川ってほんと強引なんだよ。とにかく初日に来いって、そればっかりなの」
 傘を差し、並んで歩道を歩く遼とはるみは不案内な土地をきょろきょろと見渡し、同時に雪道に滑らないよう慎重だったため、とにかくその歩みはのろのろとしたものだった。
「すぐに来て欲しかったんだろ……? やっぱあいつ、お前に気があるんだよ」
「うー……」
 唸ったはるみは隣の遼を見上げ、彼の手首を掴んだ。
「っだ!! なんだよ!?」
「滑り止め。島守ってば安定してそうだから……だって道がぬめぬめでひどいんだよ」
「やめろよ……歩きづらいだろ」
「いいでしょ。男子なんだから、少しは助けてよね」
 ここまで強気で言われると反論するのも億劫であり、それよりは完命流という古武術の道場を発見する方が心地の悪さを解消する近道である。遼はすっかり観念し、手首から伝わってくる桜のイメージに頭を悩ませながら、予め集めておいた情報と風景を結びつけようとした。

 寺だ……泉岳寺っての裏手にあるはずだ……あ!!

「あった!!」

 遼は大きな声を上げ、空いていた手で木製の高い門を指差した。

 門の近くまでやってきた遼とはるみは、やはり木製で大きめの表札に彫られた“柔術完命流”という文字を上から下へと見つめた。それにしても古風な門構えであり、塀瓦に積もった雪が風情に溢れている。これまであまり関わることのなかった荘厳な情景に、二人は思わず息を呑んでしまった。

4.
「ここが稽古場だ。もう年頭挨拶も終わり、稽古が始まっている」
 張りのある太い声で、白い胴衣に身を包んだ高川則之が、遼とはるみの背後からそう説明をした。
 随分と広い稽古場である。畳が敷かれたそこをそう認識してしまったのは、たぶん向かい合って稽古をする胴衣姿の人数が少ないからなのだろう。遼は人差し指で、「一組……二組……」とはじめ、それは四組で終わった。
「正月で帰省している者もいる。毎年このようなものだ」
「そ、そうなの?」
「そうであります!!」
 はるみに対しては、より強く硬い語調になるのが高川という男子である。遼は苦笑いを浮かべ、はるみは辟易として手の甲を自分の額に軽く当てた。
「高川……くん……軍人じゃないんだから……もっと普通に喋ってよ」
「あ? あ、ああ……そうか……わ、わかった……」
「ねぇ、じゃあさ、いつもはもっと多いってことなの」
「うむ。この道場は柔術完命流の本部。あれを見たまえ」
 太い指で、高川は壁の一面を差した。遼とはるみがそちらへ視線を向けると、木製の表札が何枚も壁に提げられ、その大半が文字の書かれていない裏面が晒されていた。
「そっか……来たら表に向けるんだな」
 遼の推理に、高川が力強く首を縦に振った。
「その通りだ、島守。ここで完命流を学ぶ者は全てで五十名。そして本日集まった九名は、決して修練を怠らぬ者ばかりだ」
 確かに一月二日から、このような場所で修練に励むのは、よほどの暇人が親戚付き合いに縁のない者なのだろう。遼は腕を組んで、ぼんやりと組手を観察した。
「あ……」
「あ……」
 投げが決まる度、打撃が寸止めされる度、締め、関節技が決まる度、遼とはるみは感嘆した。間近で見る格闘技の組手はスピードと力強さに溢れ、気合いを入れる声が高い天井に響き渡り、演劇の練習とは異なる空気に二人はすっかり圧倒されてしまった。
 こんな強い意の中にいれば、胆力というやつもつくのだろう。ボディビルのジムとは全然違う。あちらは機械の音や笑い声が常であり、このような緊張感は皆無である。
 もちろん、機械相手のトレーニングでも、一つ間違えれば大怪我を負うこともあるため、ジムにおいて不真面目さは微塵もない。だが相手を倒す、勝利するという具体的な戦意は見学しているこちらにも、ぴりぴりとした感覚と共に伝わり、見ているだけなのに、遼は疲労感のため壁に寄りかかってしまった。
 いつの間にか、高川も組手に加わり、中年の男と間合いを取り始めていた。その表情はいつもより険しく、意だけで相手を圧しようとしているのがよくわかる。はるみはいつの間にか胸に拳を当て、とてもではないが自分にこんな修練はできるわけがないと思った。
「すごいね……島守……」
「なんかな……すごいな」
 語彙もすっかり少なくなり、ただ圧倒されていた二人に、一人の男が稽古場の奥からやってきた。
「高川君の言っていた見学者だね」
 四角い顔の、えらの張った大きな口の男である。自分たちよりずっと年上であり、他の道場生たちと違い、彼だけが袴を穿いているところを見ると、彼がいわゆる「師範」や「道場主」というものなのだろうか。遼は壁から背中を離し、「そ、そうです……こんにちは……」と挨拶した。
「えっと……あの……」
 はるみが首を傾げて何者かと思っていると、四角い顔の男は短い髪を撫で、「うん」と大きく頷いた。
「私が完命流六代師範。楢井 立(ならい りつ)だ」
 挨拶と同時に差し出された右手を、遼はやや躊躇しながらも握り返した。すると楢井と名乗った男の手から漠然とした、それでいて清々しい何かを彼は感じた。

 平原……どこまでも……平原……それも青空で……

 なんという明るく、広々としたイメージなのだろうと遼は震え、その歪んだ口元を見た楢井は、一瞬だけ鋭い眼光を向けた。
「と、島守遼って言います……」
「私は……神崎はるみです」
 手を離した遼は、一度だけ自分の掌を見つめ直し、その挙動へ楢井は再び注目した。
「な、なん……?」
 あまりにも楢井という男の目つきが鋭かったため、遼は眉間に皺を寄せた。
「い、いや……なんでもない……それより君たち……どうだね、稽古場は?」
「あ、はい……なんか凄い迫力で……なんか……言葉が出てこないっていうか」
「うん。いつもはもっと多いから、今日はそれでも少ない方なんだけどね」
 手を背後で合わせた楢井は、穏やかな笑みではるみにそう説明した。
 先ほどの鋭さは一体なんだったのだろう。すっかり親切な中年然となってしまった楢井に遼は違和感を覚えた。
「ふむ……そうだな……お嬢さんに、いきなりってわけにはいかないからね……どうだ、島守君? ちょっとやってみないか?」
 笑顔を向けられた遼は、思わず「やる? なに?」と素っ頓狂な声で返した。
「組手だよ……」
「お、俺が?」
「そう……興味があってきたんだよね?」
「そりゃ……そうっスけど……い、いきなり?」
 なにやら面白い展開になってきたと、はるみは表情を崩して遼の背中を軽く押した。
「か、神崎……」
「やってみなさいよ。怪我したら手当てしてあげる」
「あ、あのな……俺……武術なんて、やったこと……」
「誰もが最初はそうだ……うむ……私が相手をしよう。それなら怪我の心配はない」
 押し出されてきた遼の肩を楢井が強い力で掴んだ。
 背中からは桜。肩からはどこまでも続く平原。なんとも華やかでさわやかなイメージの現出に、遼は頬を引き攣らせるしかなかった。


 四角い顔から、猛々しい声が遼を襲った。初めて着た胴衣は、サイズが合っていないのか肘が突っ張る。そして、気がつけばしゃがみ込んだ神崎はるみの、人の悪い笑みが遼の視界に飛び込んできた。
「いててて……な、なんだぁ……」
「綺麗に投げられたよー……ふわって!!」
 背中に痛みを感じながら、遼は上体を起こし、一体何が起こったのか理解できずにいた。投げられたのか。ともかく子ども扱いどころではなく、これでは物扱いである。早く立ち上がり、ギブアップの意思を伝えよう。遼がそう判断して立ち上がろうとすると、再び楢井の四角い顔が迫った。
 受け身を取り損ねたこちらを心配しに来たわけではない。戦意たっぷりの顔をそう理解した遼は、次に何をされるのか予想もできなかった。

 倒れたんだぞ……なんでまだやるんだよ!?

 自分は何か理不尽な暴力に晒されているのではないのか。しかしそれから逃れるには、時間の経過か有効な反撃しか手はない。上体を押し倒され、密着してきた楢井は、手足を忙しなく動かし、遼の身体をコントロールしようとした。

 首かよ!?

 密着した相手の全身から、その目論見を察知した遼は、仰向けのまま両肩を上げ、喉元を押し付けようとしてきた楢井の右腕を左手で掴んだ。

 次は……手をとる!?

 肘の間接をとる。その意図は明確に伝わり、彼は両手を背中に回し、楢井の目的を阻んだ。

「ばかな!?」
 耳元で楢井はそう叫び、身体を離して畳の上で片膝を立てた。これはつまり中断なのだろうか。突然の行動を理解できないまま、遼は上体を再び起こした。
 片膝立ちのまま、楢井は何か信じられない、といった面持ちで畳の一点を見つめ続けていた。口元は歪み、額からは汗が滲み出している。暖房設備のない道場は、ある程度の運動をすれば汗もかくが、組手を始めてまだ二分も経過していない。
「楢井さん……」
 立ち上がった遼は楢井に声をかけ、彼は一度だけ頭を振ると、笑みを上げた。
「うむ……なるほど……そうか……」
 顔は向けながらも、楢井の意思はこちらに向けられていないようである。困った遼は、壁際で首を傾げているはるみに視線を向けた。
「師範!!」
 組手を終えた高川が、師範のもとへ近づいてきた。何度か瞬きをした楢井は、小さく息を吐き、やってきた弟子に頷き返した。
「なぜ師範が初心者の相手を……? 島守と神崎さんの相手でしたら、俺が……」
「いや……少し確認したいことがあってね……」
「師範……?」
 言葉の意味を理解できない高川を他所に、立ち上がった楢井は遼へと意を向けた。
「島守君……きみは入門するつもりはあるのかな?」
「い、いや……なんとも……まだ決めてないですけど……」
「うむ……もしその気があるのなら、完命流は君を歓迎する……」
「は、はぁ……」
 やはり高川の師匠である。随分芝居がかった言葉を口にするものだと遼は困惑し、楢井は笑みを浮かべたまま、稽古場の出口に向かって歩き始めた。
「俺……才能あるってことなの?」
 遼がそう言うと、はるみは「さぁ?」と掌を返し、高川は大きく首を横に振った。
「まったくもってダメだな。遠目で見ていたが、お前は無抵抗に投げられ、寝技で手も足でなかった……いくら師範相手とはいえ、俺が初めて手合わせした際は、もう少し対応できたものだぞ」
 高川の指摘は、おそらく客観的に正しい見解というやつなのだろう。しかしはっきり言われるとあまり気持ちのいいものではなく、遼は堪らず視線を彼から逸らし、宙に泳がせた。

 あれ……?

 なんとなく泳がせた視線の先に、その写真はあった。

 何枚もの、額に入れられた写真が梁のすぐ側に飾られていた。モノクロも混ざっているそれらのほとんどが胴衣姿と思しき男を映したものであり、それだけなら彼にとってもどうでもよかった。

 なんだ……女の……人か……?

 その写真はカラーであり、やや険のある表情であるが、どことなく醸し出された柔らかさと、茶色がかった長髪は、女性、それも少女を被写体としている。なんとも場違いな容姿の少女であり、遼はぼうっと見とれてしまった。
「ん……そうか……気がついたのだな……」
 遼の視線の先を高川は確認し、大きく頷いた。あいつは何に目を奪われているのだろう。そう思ったはるみは彼の隣に並び、その少女の写真を見上げた。
「女の人? ねぇ高川くん。あの写真の人たちって?」
「完命流の歴代有段者です!! いずれも伝説とまで言える、完命流の体現者たちと言え……る……よ!!」
 最後は呂律も回らなくなり、グダグダの説明に高川は脂汗を流した。
「いいわよ……そんなに言い辛かったら……敬語でも……けどさ、ならあの女の人は?」
「はい!! あの方は東堂かなめ。もっとも最近の、完命流免許皆伝者であります!!」
「免許皆伝って……マジ?」
 遼の砕けた言葉に、高川は太い眉毛を上下させた。
「以前言ったであろう。拳銃にも対応できる姉弟子がいたと……それがあのお方だ」
 そんな話をしただろうか。遼は思い出せないまま、相変わらず視線は少女の写真に釘付けになっていた。
「きつそうだけど……綺麗な人よねぇ」
 はるみはそう呟いた。見とれ続ける遼に対しての嫌味だったが、それに反応したのは高川だった。
「かなめさんは綺麗なだけではありません。強く、それでいて意外とお優しく……もう……それはそれは……」
 拳を握り締めて眉間に皺を寄せる高川に対して、はるみはそれならばあの写真の人を追いかけてればいいのにと、少しだけ下唇を突き出し、まだ見上げ続ける遼の背中を肘で小突いた。
「どうしたのよ、島守……」
「あ、いや……うん……」
「綺麗だけど、そこまで見とれる? 蜷河のほうが美人じゃない?」
「あ、や、うん……」
美しさや、女性ということで見入ったわけではない。

 なにか、どこか、かすかに、あの少女を自分は知っているような気がする。

 一体、いつどこで見たのか、それとも会ったのか、写真からできるだけ情報を得て、そのもやもやとした記憶を思い出したい。だからこそ見つめ続けていたのだが、何一つ気付くことなどない。
 ようやく視線を落とした遼は、むずむずとした頭を掻いた。

5.
 胴衣の袖に手を通した以上、ただ見ているだけというわけにはいかなかったのだろう。
 今日は特に熱心な道場生が集まっているからなのだろうか、それともいつもこうなのか。やる気や熱気といった溌剌さが広い稽古場に漂っていた。
 彼らと同じ格好をしているということも手伝い、遼は自分もなにか、似たような行為に参加しなければならいような、とにかくそのような気分になってしまい、道場生に誘われるがまま組手へ参加した。
 ずっと小さい、自分の胸ぐらいまでの背丈しかないその少年は、聞けば小学校四年生だと言う。体格でも、腕力でも負けるはずのない、そんな小さな存在に、遼は懐に飛び込まれ、姿勢を崩され、背中をしたたかに打ち、天井が見えた次の瞬間には、右肘の関節を極められ、何度も畳を叩いていた。

 手順とか……知ってるんだ……こんなガキだっつーのに……!!

 ある程度の覚悟はしていたが、こうも手玉にとられてしまうとは。遼は痛めつけられた肘を擦りながら立ち上がり、壁際で見学を続けるはるみをちらりと見た。

 んだよ……あいつ……

 脱いだコートを手にした、セーター姿のはるみがじっとこちらを見つめていたため、遼は慌てて胴衣の襟を直し、顎を逸らした。

 手合わせをはじめて一時間は経過しただろうか。もちろん勝利や優勢になることなど一瞬もなく、島守遼は道場生から次々と指導を受け、胴衣を着替えた身体のあちこちには痣ができていた。

「いつでも来るといい……その気があるのならな」
 門の前で腕を組んだ楢井が、すっかり憔悴しきった遼にそう言った。しかし彼は「え、ええ……」と返事をするのがやっとで、とても再訪を約束する元気はなかった。
「どうなの高川くん。彼、見込みとか才能とかありそうなの?」
 傘を差したはるみが、隣の高川にそう尋ねた。
「今の段階ではなんとも言えませんな……とにかく、身体的な硬さが動作の妨げになっている。まずは運動の基礎から行わないことには……それに……格闘という行為自体、彼に向いているか否か……どうにも音をあげるタイミングが早いというか……」
 胴衣を詰めた袋を肩に提げた高川は、二つに割れた顎を撫で、彼にしては珍しい笑みを浮かべて答えた。
「典之……人のことを偉そうに論評できる立場か?」
 楢井は片眉をピクリと動かし、言い聞かせるように、自分よりもずっと長身の弟子に低い声で注意した。
「し、師範……」
「また無駄な筋肉をつけやがって……筋トレはもう必要ないと言っただろうに」
 高川の隆々とした筋肉は、ジーンズ生地のジャケットの上からでもはっきりと認識でき、それと比較すると楢井の身体は普通の人と大差のない肉付きである。なるほど、完命流には必要以上の筋肉を必要としないのかと、一時間ほどの稽古ではあったものの、小学生に極められてしまった事実もあり、遼にはなんとなく納得ができた。
「め、面目ございません……ついつい一人になると、鍛えてしまって……」
 長身を崩し、後頭部に手を当てた高川はひたすら恐縮していた。その姿はどこか滑稽であり、はるみはたまらず口に手を当てた。
「か、神崎さん……」
 よもやこのようなやぶ蛇になるとは。耳まで真っ赤になった高川は、もうぐだぐだになっていたが、肉体的な疲労と、経験したことのない肉弾戦のせいか、遼は笑うこともできず、ただ頬を引き攣らせていた。


「どーするのよ、島守。入門するの?」
 雪の降る中、遼とはるみ、そして高川の三人は、品川駅に向かって路地を歩いていた。
 それにしてもなんという雪だろう。足場は確保できてはいるが、少し見渡すと、屋根や塀、車の上は相当の積雪である。このような大雪はいつ以来だろう。滑らないように用心しながら遼が足を進めていると、高川の整った顔が背後から突き出された。
「島守……神崎さんが尋ねているのだぞ……」
「え? な? なにを?」
「いーのよ、高川くん。こいつたまーにこうなんだから」
「え? だ、だからなに?」
「別にいーわよ。聞いてなかったんでしょ? それよりも……高川くん、いつもあの道場で鍛えてるの?」
「う、うん……幼稚園の頃からずっと……」
 珍しく自分のことを尋ねられた高川は遼から顔を離し、雪で足を滑らせることなく素早い挙動ではるみの横へ並んだ。
「へぇ……だからあんなに強いんだ」
 感心した言葉ではあったが、はるみは隣を歩く同級生を見上げることなく、その視線は前を行くもう一人の彼へ向けられていた。
「い、いや……俺……僕など……まだまだですよ……楢井師範や兄姉弟子に比べれば……」
 自尊心をくすぐられた高川は、端正な顔を柔らかく崩し、会話に入れない遼はひたすら首を傾げ、ついに振り返った。
「ご、ごめん……俺……何を聞き逃したんだ?」
「さー……なにかしらねぇ」
 不貞腐れはるみがぷいと横を向くと、いっそうの雪と風が三人を取り巻いた。
「くっ……し、しかしこれは……!?」
 吹雪というやつではないか。高川は視界もままならぬ白い嵐に傘を前傾にし、できるだけ彼女に負担がかからないよう、その前へ立ちはだかるようにした。
「ば、馬鹿みたいに降ってきやがった……み、見えねーっつーの!!」
 叫びつつ、遼も傘を前倒しにして高川の横に並び、すぐ後ろのはるみは、強い横風にたまらず遼の肘を掴んだ。
「か、神崎さん……」
 支えとしては、島守遼より自分の方がずっと地面に太い根を生やせるというのに、なぜこのような結果になってしまうのか、高川は下唇を噛み、吹雪に耐えた。
「ね、ねぇ!! 先、進めないよ!! どこかでやり過ごそうよ!!」
「だ、だな……あ、あの陰に行こう!!」
 遼は、かろうじて見えた曲がり角を指差した。

 風向きのおかげだろうか。この路地の角、塀沿いでじっとしていれば、とりあえず会話を交わす程度の安定した状況は確保できる。寄り添うように寺の塀を背に固まった三人だったが、考えることはそれぞれだった。

 MVX……カバー買っときゃよかった……予備メットなんか後にして……あぁ……今頃積もってんだろうなぁ……

 島守……手の甲思いっきり擦りむいてるの……さっきの畳かな? 痛くないのかなぁ?

 は、はるみさん……こ、こんなに近くて……息が……白くって……はるみさん……俺……はるみさん……

 甲高い笛の音のような、そんな音と共にこれまでで最も強い風が路地を吹き抜けた。
 痛さと、冷たさと、鼓膜への不愉快な震動と。何もかもが過ぎ去ると辺りは静寂に包まれ、白いものが降るのは相変わらずだったが、それは勢いもなく穏やかになっていた。
 ひどい吹雪も収まったのか。遼は顔を覆っていた腕を下げ、はるみは肘を掴んでいた力を弱め、高川はそんな彼女を虚ろに見下ろしていた。
 この静けさのあいだに駅まで到達するべきだろう。豪雪で電車が止まっている可能性もあるが、駅に行けば悪天候を凌げる場所はいくらでもある。遼は角から通りへ身を乗り出した。
 すると、ひたすらに真っ白な路地の向こうに、ある人影があった。
 白い外套はマントのようであり、その老人の髪は同じように白く、風景に溶け込みそうなほどだった。
 ただ、右手に握られていたものが光を反射し、その輝きは刃物のそれでありよく見ると長いサーベル状だったため、島守遼は顎を引き、続こうとするはるみと高川を腕で制した。

 来たのか……俺を……殺しに……

 FOTのエージェントであろう。つるりん太郎との遭遇で、遼の理解力、対応力は短期間で飛躍的に向上していた。距離は十五メートル。見たところ獣人や化け物の類ではなく、サーベルさえなければ紳士風の老人である。この間隔を一瞬で詰めることはできないだろう。彼はどこに逃げるべきか思案し、特に高川のやる気を引き起こさないように注意するべきだと思った。

 神崎がいるしな……高川……下手に戦う気になったら……

 道場で、この同級生がいかに腕の立つ格闘家であるかはよく理解できた。彼はかつて教室ジャックにきた獣人を転倒させた実績もある。しかし、あの路地で佇む老人はこちらをじっと見つめ、どことなくだが“殺す”ような気配を漂わせている。危険な雰囲気を察知した遼は振り返って「逃げよう」と、告げようとした。

 足の裏から接地感が消え、わき腹に強い力を感じる。白い風景は、随分視点が高くなり、つまりこれは誰かに抱きかかえられ、塀の上にでも運ばれたのだろう。一体誰が突然。遼が自分を抱えている人物を見上げると、それは暗灰色のコートを着た、青黒き異形の者だった。
「け、健太郎さん……」
「逃げるぞ……狙われてる……」
 小脇に、まるで荷物のように軽々と長身の遼を抱えたその人物は、雪の積もった寺の塀の上に立っていた。はるみと高川は突如変化した事態に息を呑み、その巨人を見上げた。だが健太郎はそんな二つの視線を無視したまま、膝を折り曲げ、塀の上から跳躍した。
 なんとう筋力とバネだろう。巨体が重力を無視するかのように、素早く宙に舞ったので、高川は我が目を疑った。
「僕(しもべ)か……つまらんな……」
 白いマントの老人。純白公爵は逃げた健太郎と抱えられた遼を目で追った。すると彼の背後に、黒い燕尾服姿の執事田村がやってきた。
「初期型の獣人実験用改造生体です……」
「そうか……」
 命じられた初日から襲撃ができるのも、全ては執事役である田村の情報収集能力のおかげである。全幅の信頼を寄せている彼からの報告に公爵は納得し、呆然と立ち尽くすはるみと高川へ視線を向けた。
「男子の方はわかりかねますが……あの少女は神崎はるみ……神崎まりかの実妹でございます」
「なるほど……仕留めておいて損はないな……田村、お前はあの二人をやれ。私は標的を追う」
「かしこまりました公爵……」
 田村は深々と頭を下げ、小さな目を少年と少女へ向けた。


「健太郎さん……どうして……?」
 遼と健太郎は、道場と寺から数十メートル離れたあるマンションの屋上にいた。雪の降り積もるそこで二人はしゃがみ込み、特に健太郎は険しい表情で周囲へ注意を張り巡らせていた。
「ルディ殿の命令だ……お前が通信機で呼び出しても……彼は怪我が完治していない」
「それで……健太郎さんがボディーガードに?」
「そうだ……しかし、いきなり暗殺プロフェッショナルが現れるとはな……」
「あれって……やっぱりそうなんですか?」
「サーベルがな。あんなものを手にした社会人はいない……」
 あの白い老人は、ここを突き止めて襲撃に来るのだろうか。もしそうなら、いよいよ立ち向かわなければならない。健太郎とあの殺し屋を比較してみた遼は、今回は圧倒的に有利な状況であると判断し、拳を握り締めた。
「お、俺も戦います……手伝います……」
「ふん……できるのか?」
「え……い、いや……だって……俺が狙われてるんだろうから……」
「殺し合いだぞ。殺せるのか?」
 赤い瞳を白い空に向けたまま、健太郎は少し上ずった声でそう言った。
 試されている。いや、疑われている。そう直感した遼は、片膝を立てたままの姿勢で身を縮こまらせ、「たぶん……」とつぶやいた。
「最初に襲われたのは……代々木のマンションだったのか?」
「そ、そうです……獣人がマシンガン持ってきて……で……真錠に跳ばされて……バルチって中東で……」
 ジョージ長柄(ながら)というジャーナリストに助けられた。そして彼は獣人に頭部をもがれ、自分はゲリラに捕らえられ、やってきたリューティガーに助けられた。
 思えば、助けられっぱなしである。その自覚を促すため、彼はそんな話題を切り出したのか。遼は警戒する巨人を見上げ、口の中で舌を転がした。

 助けられるようだから……長柄さんを救えなかったんだ……俺は……震えるだけで……

 もし今回もそうであり、白い老人が予想以上の戦力だったら。この頼もしき人も首を切断され、取り返しのつかない後悔を自分はしてしまうのだろう。
「戦うって」
 遼は自分に言い聞かせるようにつぶやくと立ち上がり、青黒き者は応えるように小さく頷いた。


 一体、島守はどこへ連れ去られたのだろう。そして、あそこでじっとこちらを見つめる燕尾服の中年は何者なのだろう。高川は状況の整理をすることができず、混乱していた。
「ね、ねぇ高川くん……」
「は、はい……」
 彼に質問したところで、明確な答えなど返ってこないだろう。それはわかっているはるみだった。しかし言葉を発しなければ、パニックにまいってしまいそうであり、だから彼女は彼の背中を見上げ、ぼんやりとした疑問を口にすることで落ち着こうとした。

 繋がり……なんだ……これって……きっと……そうだ……

 教室ジャック犯はリューティガー真錠を殺すことが目的だといい、事件が解決したあと、島守とリューティガーの二人は目の前から忽然と姿を消した。
 蜷河理佳はある晩家を訪れ、遼を頼むと言い残し去っていった。彼女は転校してしまい、付き合っていた彼はそれに動じる様子もない。
 なにか、自分の知らないところで起き、それは進行している。関係がないのなら勝手にやってくれ。それは少女の本音だが、この流れは自分が関わらなければならない類のようにも思える。根拠などない。ただ、姉の冷たい目だけがひどく自分を苛つかせ、それに抗するためにも、一歩踏み出すべきだろうと彼女は下唇を噛み、執事田村をにらみつけた。
「おっかしいよね……なんでタキシードの人が、あんなところに突っ立ってるのよ……」
「あ、ああ……確かに妙です……それに……」
 小柄で大人しく、一見すれば従順な執事といった印象である。しかし数歩だけこちらに近づいてきた挙動と、彼の足が不似合いなブーツであることに気付いた高川は、あの中年男性が“只者ではない”と判断した。
 交互に片足を前に突き出すその動きに淀みはなく、加速をはじめ、間合いを詰めてきた執事田村は懐に手をやり、次の瞬間彼はナイフを取り出した。
「はるみさん!! 下がって!!」
 思わず下の名前を叫んだ高川は、はるみの肩を後ろ手で突き飛ばした。乱暴ではあったが、近くにいられては戦いの自由度が減る。そう咄嗟に判断しての行動だった。バランスを崩したはるみは寺の塀に寄りかかると、高川に迫ってきた男の手に、光る刃物をようやく認めた。

 とてもじゃないが、現実じゃない。少女は両手を口に当て、成り行きに怯えた。

6.
「檎堂さん。はまち、えらい乾いてるなぁ、これ」
 目の前でゆっくりと回転するベルトから、はまちにぎりの皿を取り上げた花枝幹弥は、隣で背中を丸めている檎堂にそう言った。
「我慢しろ……全てが終わったら……回らないやつを奢る」
 くぐもった、低い声で檎堂は返し、いくらの軍艦巻きを髭だらけの口元に運んだ。
「まぁ……寿司にありつけるだけでも、ありがたいこってす」
「これな……これを本部へ送ってくれ……」
 懐からくしゃくしゃにしたメモ用紙を取り出した檎堂は、周囲に警戒しながら隣に座る花枝少年にそれを手渡した。
「なるほど……了解……」
「メモは廃棄しとけ……」
「わかってる。いつものことだし……つーか……」
「ん……?」
 トロのにぎりが載った絵皿を取り上げながら、檎堂はパートナーの口ごもりに首を傾げた。
「この、追加ってのがひっかかるな。俺は実戦でもじゅうぶんやれるぜ?」
「あぁ……お前さんの実力は作戦本部長から再三聞いてる……だがな、俺の判断に口を出すな……お前はそのメモの内容を、本部へ念じ送りゃいいんだ」
「へぇ……」
 顎を少しだけ突き出した花枝は、自分も絵皿に乗ったウニの軍艦巻きを取り上げ、それをぱくついた。
「あんまり絵皿の食べるなよ……」
「へいへい……で……俺……次はどこへ行けばいいんだ?」
「あぁ……次は代々木だ……RSの動向を探って来い」
「はぁ……味方のを? 普通に合流して聞けばいいじゃないか」
 花枝の言葉に、檎堂は丸い目を細めた。
「判断は俺がする……お前は命令にしたがってろ……」
「しかしなぁ……」
「死にたくなけりゃ、そうするんだ……」
 そう告げると檎堂はタコ、イカ、鯵など安い皿をレーンから次々と取り上げ、それを黙々と食べ始めた。一切の質問は受け付けない。相棒である中年の態度をそう理解した花枝は、仕方なく豆乳が乗った皿に手を伸ばした。


 雪が止んだ。視界に遠近感を発生させていたそれが、降ってこなくなったことに気付いた遼は、そろそろ敵がここに来る。そんな直感に背筋を震わせた。
「いい勘だ……島守殿……」
 背中合わせに警戒を続けていた健太郎がそうつぶやき、次の瞬間、遼は彼に突き飛ばされ、フェンスに身体を打ちつけた。
「なんだよ!?」
 足を滑らせ、尻餅をついた遼は、突き飛ばした健太郎に抗議をしようとしたが、彼はある一点に向かって駆け出していて、コートのなびくその先には、サーベルを構えた白いマントの老人がいた。
 戦いは合図もなく、名乗りもなく、認識をした途端に開始される。
 これまでにテレビや漫画で見た対決場面は、眼前で繰り広げられる現実と比べ、なんと段取りのできたのんびりした世界なのだろう。長い爪を両手から引き出し、斬撃を老人へ仕掛ける健太郎の姿を見て、遼はそう思った。
 身を低くし、同時にサーベルを突き出した老人だったが、切っ先がコートを切り裂いただけで、青黒い身体を貫くことはなかった。
 足の踏み場を変えることなく、両者は息を止めたまま、次の抹殺行動に移った。健太郎は反対の手である左手の爪を頭上から振り下ろし、純白公爵は突き出したままのサーベルはそのままで、左足を軸に全身を回転させた。
 爪は公爵の鼻先をかすり、身体ごと回転してきたサーベルは、健太郎の胸を刻んだ。
 煙と共に、赤い血が宙に舞い、それが積もった雪へ落ちる頃には、健太郎は後方への跳躍を成功させ、フェンスを背に切られた胸を左手で押さえた。
 戦前の予想は覆された。マントの老人は外見からは想像できないほど俊敏であり、攻撃になんの淀みもない。それと比較すると健太郎は荒々しいものの技術的には未熟であり、遼は道場での出来事を思い出し、これは危機なのだろうと意識を集中した。
 純白公爵は、健太郎との間に出来た空間を詰めるため、全身でその場から駆け出した。
 ぶち壊れろっての!!

 遼は老人の足元へ意識を集中した。

 腱か……くそ……田村め……!!

 執事田村の報告では、ターゲットである島守遼は能力者ではあるが、それは触れた相手の心を読んだり、自分の考えを流し込んだりする“接触テレパス”であると聞いていた。しかしこの足首の腱が切れた感覚と、こちらを凝視しつづけるあの若者の強い殺気は関連しているのだろう。やられた。調査が足りなかった。その場に転倒しながら、純白公爵は雪と悔しさにまみれた。

 せめて……白い雪の中でか……それもまた……私らしい……

 喉元に五本の鋭利な感触を得た純白公爵は、口から血を吐きながら、この白い世界で果てる自分が、やはり焦っていたのだと最後に反省した。

 仰向けに倒れた白いマントの老人と、その喉元に爪を突き立てる異形の者。両者を見比べた遼は息を呑み、己が試みた結果に震えた。
「礼を言う……島守殿……アキレス腱か?」
 赤い瞳を向けてきた健太郎に、遼は背筋を伸ばした。
「た、たぶん……」
「あるいは危なかった……」
 全身から泡を吹き出した純白公爵を見下ろした健太郎は、チューリップ帽を床に放り、コートを脱ぎ出した。
 なんと痩せた身体なのだろう。ほとんど骨と皮だけと言っていい、そんな健太郎の上半身を目の当たりにした遼は、思わず視線をそらし、またすぐに戻した。
「まだだ……主か下僕か……いずれかが……あれか……ふん……やるな……あの少年……」
 フェンス越しに、下界のある一点を見つめた健太郎は、やってきた遼に脱いだコートを手渡した。
「健太郎さん……」
 眉間に皺を寄せ、口元を歪ませている遼に、青黒き者は口の端を吊り上げた。
「食ってはならない……だからこうも削がれた身体になる……」
 そうつぶやくように言った後、健太郎はフェンスを越え、六階の屋上から地面へと飛び降りた。

 まだ……いたのか……!?

 健太郎の飛び降りた先へ視線を移した遼は、高川と激突する燕尾服の男を路地に認めた。その片手にはナイフが握り締められ、よくは見えないが、高川はそれを捌いたようでもある。

 事実、手首を掴まれた執事田村は呻き声を上げ、なぜターゲットでもないこの若者がこんなにも慣れた挙動で自分の行為を制したのか、軽いパニックに陥っていた。

 楢井師範にはいつも叱られる。無駄な筋肉が多い、判断が固い、詰めが甘い。道場へ通う度に注意を受ける。兄姉弟子との組手にも勝ったことがなく、自分は流派の中でも末席であるのだろう。そう思っていた高川典之だったため、今こうして男の手首を掴んでいる事実をどう受け止めていいか混乱していた。
 しかし幼い頃より身につけた修練は、無意識のうちに執事田村の足元を払う挙動へと移させていた。
 雪での転倒は、次の瞬間の絶命を意味する。この端正な顔立ちの少年は格闘技者である。二つの判断を同時に下した執事田村は、踵に体重をかけると、地面の滑りを利用して高川の懐に滑り込もうとした。
 このような動作は見たことがない。畳の上での格闘しか経験を積んでいない高川は驚き、堪らず掴んでいた手首を離し、その結果田村はスライディングをする形で少年の脇をすり抜け、寺の塀を背にした神崎はるみへ接近しようとした。
 しまった、抜けられた。自分の行為に舌打ちしつつ、高川は振り返った。

 まずはこの少女から仕留めるか。主である公爵がいまだ引き返してこない事実は不安ではあったが、自分の職務は忠実に果たそうと、体勢を立て直しながら田村はただひたすら怯える少女に向かって鋭利なものを振りかざした。
 だが、それは振り下ろされることなく、執事田村の全身は横からの圧力で塀に叩きつけられた。
 はるみは迫ってきたナイフの男が突如として衝撃にさらされ、白い地面へ崩れ落ちるのに怯えた。
 長い足である。燕尾服を横から蹴り飛ばした者のそれは真っ直ぐに伸びきり、上半身は骨と皮だけの醜さであり、なにより肌は青黒く、腕には鬣(たてがみ)のような体毛が生え、両手の爪は鋭利で長く、その瞳は赤かった。
 人間じゃない。少女がそう判断するのも当然であり、当の健太郎にしても己の容姿がまともではないと自覚している。口を手で押さえ、震え続ける彼女を一瞥した健太郎は、鼻を鳴らすと倒れていた田村の喉元に、爪を突き立てた。
 鮮血が寺の塀と地面を染めた。肉食生物が獲物を仕留めるかのような、そんな躊躇のない一撃である。少女はその場にへたり込み、噴き出る赤い糸を凝視した。

 死んだ……殺した……私を……殺しに来たのを……殺した……

 あまりにも彼女の大きな瞳が潤み、口元が歪んでいたため、健太郎は舌打ちをして周囲に積もっていた雪を足で払い、執事田村の身体を覆うようにそれを被せた。
 泡化を始めていた執事田村の全身は雪に混ざり、その躯はグロテスクさを現出させることなく溶けていった。
 戦わなければならないのだろうか。しかし勝てるのか。身構えた高川は、青黒い痩せこけた巨人の注意を、いつ彼女から自分へ向けるべきだろうと躊躇していた。すると赤い瞳がこちらを向き、低く掠れた声で異形の者は言った。「警察に知らせても無駄だ……なにせ……死体は溶け……この有様だ……」と。
「き、貴様は……」
「彼女をよく守ったな……最後のはミスだったが……大した腕前だ」
 なぜこのような化け物が自分を褒めるのだろう。高川がそう混乱していると、眼前の化け物は寺の塀の上に跳躍し、次の瞬間には隣の民家の屋根へ跳んでいた。

 喋りすぎたか……

 マンションの屋上まで戻ってきた健太郎は、苦い笑いを浮かべた。
「た、助かりました……神崎たちまで……助けてもらって……」
 健太郎が戻ってきたことに気付いた遼は、ぼろぼろになったコートと、拾っておいたチューリップ帽を彼に手渡した。
「ついでだ……これでしばらくは安心だろう……なにかあれば、通信コード6269を呼び出せ。俺のコールナンバーになっている」
「は、はい……」
 袖を通さず、コートを羽織った健太郎は帽子を目深に被ると、右手を軽く挙げ、再びフェンスを越え、白い下界へと舞い降りていった。

 ああまでも完璧にはなれない。だが、戦いとは、たぶんそういうことなのだろう。健太郎は姿を消したが、遼は思わず何もない空間に向かって一礼した。

7.
 状況の説明を求められる可能性もある。そうでなくても口を滑らせるかも知れない。危機を脱した島守遼は、はるみたちと合流せずマンション屋上から都営線の駅まで歩き、往路とは異なるルートでアパートまで戻ってきた。
「電車大丈夫だったか?」
 どてら姿の父が食卓から声をかけてきたので、遼は「地下鉄だったから……」と答え、自分の部屋へ入った。

 首から噴き出した鮮血は小さな噴水のようで、マントの男は絶命の間際、皺だらけの指をぴくぴくと痙攣させ、全身で生への執着を見せていた。誰かは知らない。自分かリューティガーの命を狙っている、FOTのエージェントだったのだろう。何の前触れもなく、ああまでも唐突に襲撃されるのでは、もう学校に通うことなどできないのではないだろうか。結果としてクラスメイトを巻き込んでしまった。あの状況をそう解釈した遼はその場にしゃがみ込むと壁に寄りかかり、寒い室内で膝を抱えた。
 もっと判断を速く、例えば敵と認識できる確たる何かを知り、その上で致命傷を負わせることさえできれば、危機を回避することもできる。だがそのような度胸を持つことができるのか。健太郎のような、あんな躊躇のなさを得るためには、やはり失うものも多いのではないだろうか。がりがりに痩せた、肋骨の浮き出たその身体を思い出した遼は、「食ってはならない」という言葉を口の中でつぶやいた。
「遼……お客さんだぞ」
 襖を開け、父がそう告げたので、遼は険しい表情で立ち上がり、無言のまま部屋を出て玄関へと向かった。
「高川……神崎……」
 玄関で待っていたのは、つい先ほどまで共に行動していた二人のクラスメイトだった。
「無事だったか島守……」
 遼の様子を観察した高川は、彼が怪我を負っていない事実を確認し、太い腕を組んだ。
「あ、ああ……なんか……マンションの屋上まで連れて行かれたけど……その後は……」
「あの者は何者だ……」
「し、知らないよ……俺だっていきなり抱きかかえられたんだ」
「我々はあの者に助けられた……少なくとも俺はそう解釈している」
「へ、へぇ……な、何者なんだろうねぇ……顔色悪そうだったけど……病気なのかな?」
「病気……? 俺には人外のそれとしか思えなかったぞ……間近で見たのだろ?」
 責めるような口調で高川はそう言い、彼の背後にいたはるみは、じっと遼を凝視していた。
「し、知らないっての……」
 視線を逸らした遼は、腕を組んでつま先で床を軽く蹴った。
「行きましょう……高川くん……島守も疲れてるみたいだし……」
「か、神崎……はるみさん……」
 はるみは高川の肘を掴み、玄関口から彼を外の廊下へと促し、自分も背中を向けた。
「怪我なくってよかったな、神崎……」
 遼の何気ない一言に、はるみは小さく振り向いた。その眼は疑いに満ち、いびつな光を反射しているようで、思わず遼は食卓に手を掛けた。
「なんで……すぐに戻ってこなかったの……一人で帰ったの?」
「そ、それは……」
「まるで私たちがあの背の高くて青い人に助けられたの……知ってたみたい……それに……ちらっとしか見えなかったけど……白いマントの人……いたよね……」
「あ、ああ……うん……」
「どこ行ったんだろう……その後、黒いタキシードの男の人が襲ってきたの。わけわかんないよね、白とか黒とか」
「ほ、ほんとだな……わかんねぇよな……」
 遼は堪らず頭を掻き、はるみの雑然とした言葉に困惑した。彼女は腰に手を当て、いっそう目の輝きを増した。
「真錠くんなら……わかるのかな……」

 息がつまり、腹の中から何かが逆流するような感覚。心臓が縮み上がったかのような、苦しい感覚。二つを同時に受けた島守遼は呻き、神崎はるみの核心を突いた言葉に動揺した。

 青ざめた彼の顔を確認できたので、今日のところはじゅうぶんな収穫だとはるみは思った。やはり思っていた通り、全ては繋がっている。遼は、そのかなり中心に近い場所に位置している。
 もっとも上等な展開は、最終的に彼が全てを自ら打ち明けてくることである。そんな具体的な目標を、少女はこの瞬間初めて得たような気がした。
「じゃあね……新学期……学校で……」
 返事を待たず、はるみは先に廊下へ出た高川の後を追い、後ろ手で薄く軽い玄関の扉を閉ざした。
 乾いた音が、台所に残された遼の全身に響いた。

 時間の問題だ……このままじゃ……高川はともかく……神崎は妙にカンがいい……

 力の抜けた遼が椅子に座ると、父が「金メダリストみたいなクラスメイトだな……ハンマー投げ部か?」と尋ねたが、息子に応える気力は残っていなかった。

 うまくやらなければならない。その思いはよりいっそう強くなっていた。だからこそ、最初から状況を整理して、片付けていかなければ綻びが生じる。けれど、まずは何に手をつければよいのだろうか。
 遼は混乱したまま部屋に戻った。机の上には人体解剖図鑑が置かれていて、まずはここから読むべきだと思ったが、数ページめくっただけでどこに何が書いてあるのか思い出した彼は、読み込みすぎていたそれを引き出しの中へしまい、次に押し入れの戸を開けた。

 これは……

 押し入れの下の段に、金属製の肩掛けケースを遼は発見した。これはジョージ長柄の遺品、カメラ機材を入れるためのバッグである。両手でゆっくりとそれを抱えた彼は、震えながら「だよ……長柄さんだ……まずは……」とつぶやいた。

 調べごとや検討の後、陳に促され、再びベッドで横になっていた若き主は、玄関が開き、再び閉ざされる音を耳にした。時刻は午後四時を回り、陳は食事の準備を台所でしている以上、帰ってきたのは彼だろう。そう判断して上体を起こすと、寝室にチューリップ帽を被った二メートルを超す、ひょろりとした従者が入ってきた。
「健太郎さん……」
「FOTのエージェントチームと遭遇した……島守殿が標的だったようだ……二人とも……倒した……」
 いつものコートはどうしたのだろう。青黒い上半身を晒したまま、寝室の隅で体育座りをする健太郎にリューティガーはそんな疑問を抱いたが、激闘のせいだろうとすぐに納得した。
「ありがとうございます……」
「彼も……手助けをしてくれた……一緒に戦った」
「そ、そうですか……」
「あと……彼と一緒にいた同級生に姿を見られた。この身体をな」
 背中を向け、座ったままの報告内容に、リューティガーは呻いた。
「長引けば……巻き込むことも増えるな……敵は無差別だ……」
「ええ……」
 短期決戦であれば、やはりその急所であり、頂点であり、中心を狙うしかない。リューティガーは白く長い髪の兄を思い出し、自分の栗色であるそれをいじった。
「坊ちゃん。電話が入ってるヨ」
 寝室にやってきた陳の言葉に、リューティガーは大きな目をより見開いた。自分に通常の電話連絡など珍しい。そう思いながら、陳の手から子機を受け取り、「もしもし?」と日本流の挨拶をすると、よく聞きなれた声が返ってきた。
「遼? どうした? こっちは健太郎さんが、今帰ってきたけど」
「ああ……俺がすっげぇ感謝してたって言っといてくれ……マジ助かったわ」
「誰と一緒だっんだ?」
「神崎と高川……やべぇぞ、特に神崎が俺やお前のことを疑い出している」
「そ、そうなのか?」
「ああ……カンってレベルだけどな……」
 遼には教えていないが、神崎はるみの姉、まりかは日本政府に所属する特務公安官である。彼女のルートから秘密が漏れたのではないかと一瞬疑ったリューティガーは、その報告に胸を撫で下ろした。
「でな……こーゆーのが続くのもやばいってのもあるし……俺も自分で覚悟を決めておきたいんだ……」
「う、うん……」
「そこでな、お前に調べて欲しいことがある。簡単なことだと思うんだけど……」
「な、なんだい?」
「名前はジョージ長柄。俺がバルチで知り合って、獣人に殺されたフリーのジャーナリストなんだけど、この人の遺族……奥さんでいいや。住所を調べて欲しい」
 名前が判明しているのなら、そのような調査は一晩もかけずに終わる。民間人の所在調査であれば、同盟に照会しても問題ないだろう。だが、なんのためにとリューティガーは受話器越しに咳払いをした。
「じゃあ頼んだぜ……わかったら携帯に連絡くれ」
 一方的に用件を告げ、電話は切られてしまった。リューティガーは栗色の前髪を再びいじり、大きくため息をついた。

 蒲田へと向かう池上線の車内で、吊革に掴まった高川典之は、雪で白くなった街並みをぼんやりと眺めていた。
 駅までの道で、はるみはこう言っていた、「島守は何か知ってると思う……けど、こっちからいくら聞いても教えてくれないと思うんだ……だからもっと調べてみようと思うの」と。それとなく、調査の協力まで頼まれもした。好意を寄せている少女からである、嬉しくないはずがない。しかしそれ以上に、二つの大きな気持ちが彼を占領しつつあった。

 はるみさんが……調べるなど危険だ……島守が知っているのなら、腕ずくでも聞き出せばよい……正義はこちらにあるのだ……躊躇など必要ない……あのへらへらとした弱腰など……

 高川は眼前の座る初老のサラリーマンが新聞を大きく広げる過ぎていることに気付くとそれを睨みつけ、奥歯を噛み締めた。だが、彼は憤りを表情に浮かべる以上の抗議はせず、全く別種の興奮に意識を傾けた。

 実戦で……やれる……俺は……むしろ実戦の方が向いているのではないだろうか……

 だが、ナイフを持った燕尾服の男は強敵だった。自分がもっと強ければ、そう例えば突如として現れた青黒い異形の者のように、あれほどまでに敵を圧倒することができれば、はるみの危機を速やかに救うこともできる。しかし、道場でああした戦いに対応できる技術など身につけられるのだろうか。
 噂である。確たる証拠などないが、敬愛する姉弟子、東堂かなめはファクト騒乱の折、完命流のより高みを目指すべく実戦にその修行の場を求め、拳銃に抗するまでの技を身につけたと聞く。

 かなめさん……俺……俺も……やってみようと思います……世の中には、ギャングや殺し屋、テロリストがまだまだいるのです……かなめさん……俺……好きな人を守れる力を手に入れたいと思います……かなめさん……俺……かなめさんに続きます……

 高川の整った形をした顎から汗が滴り落ち、それが新聞紙を濡らしたためサラリーマンは堪らず新聞を畳み、期せずして彼の目的は達成されてしまった。

8.
三が日も過ぎた一月四日、日の出頃に目の覚めた陳が台所に向かうと、すぐ隣の居間へ通じる戸の隙間から、ぼんやりとした灯りが伸びているのに気付いた。
「坊ちゃん……こんなに早くから……」
 居間へ入った陳は、パジャマの上にカーディガンを着た若き主が、机上のPCに向かっているのを目撃し、慌てて駆け寄った。
「ちょうど……衛星回線で本部からの情報が届く頃だったんで……」
 振り返ったリューティガーは申し訳なさそうな笑みを浮かべ、液晶ディスプレイを指差した。
「ジョージ……? 誰の情報かネ?」
 モニタに表示されているデータベースソフトの内容を見た陳は、鯰髭を摘んで首を傾げた。
「バルチで遼を助けてくれたジャーナリストです……調べるように頼まれていたんですけど……七年前のファクト騒乱以来、そちらの方面で活躍された人みたいですね」
 そう言ったリューティガーは、椅子から立ち上がって軽く背筋を伸ばした。
 わき腹の痛みもほとんどなく、全身に違和感はない。あれから十日が経過しているが、怪我の度合いからすれば、我ながらまずまずの回復力だと思える。リューティガーは反対されるのを覚悟で、丸々とした従者に意を向けた。
「朝食の後……この資料を遼に届けてきます……ついでに新年の挨拶も」
「坊ちゃん……」
 あからさまに眉を顰め、陳は腰に手を当てた。
「バルチではもっとひどい怪我でも……一週間後には戦っていました……それと比較すれば、なんてことはありませんよ」
「うーん……しかし資料を渡すぐらいなら、もう別に私や相方でも……」
 言いながら、陳はリューティガーの目が輝きつつあるのを感じ、言葉を止めた。外に出たくてたまらない。級友でもあるあの若者に会いたくて仕方がない。そのどちらか、または両方なのだろう。こうなると止めるのは難しく、ならばせめて準備を手伝おうと、陳は無言のままPC脇のプリンターにA4用紙を補充した。
「あは……」
 リューティガーは無邪気な笑みを、陳の豊か過ぎる背中へ向けた。


「もち足りるかな」
「明日は稼ぎに行くから、買いに行ってもいいぞ。ところで初詣には行かないのか?」
「今のところ考えてないなぁ……それよか親父、テレビとかってさ、どうにかしようと思わない?」
 食卓で対座する親子は、雑煮を啜りながら新年の寒さを感じていた。
「テレビかぁ……まぁ、買ってもいいんだけどなぁ……こんだけ見てないと、別になくってもいいやってなぁ……」
「けどさ……俺、正月になる度に思うんだけど、じっと家にいること多いだろ? そうなるとさ、なんかこう、正月って実感が薄いじゃん」
「テレビじゃ正月番組やってるもんなぁ……行く年来る年も見れなかったし……そうそう、あれって民放は、まだ同じ内容のやつやってるのかな?」
「だから知らないって。なんだよその、行く年来る年って」
「ほら、年末にやってただろ。NHKと民放で、除夜の鐘とか、コタツに入った田舎の一家映したり」
「覚えてないなぁ……」
 島守遼は、小学生時代の年末を思い出してみたが、父、貢の言う番組がいかなるものだったのか、その輪郭すら現れてはこなかった。
「まぁ……正月も終わりだし、次のときまでに考えてみるか」
「俺のバイト代、足してもいいぜ」
「プロレスジムだっけ? 順調なのか?」
 父の間違った言葉に、息子はお椀を置き、大きく首を横に振った。
「なんだよ、それ!? プロレス?」
「ち、ちがったっけ?」
 あまりにも遼が強く否定してきたので、貢は上体を引き、白い歯を見せた。
「俺が働いてるのはボディビルジムだっつーの」
「ボディビル? に、似たようなもんじゃーん!!」
「違うって」
「そうかー!?」
 おどける父に対して、息子は首を傾げた後、残った雑煮を啜った。

 昨年の正月は、同級生と一緒に近所の神社まで初詣に行ったが、特に今年はそのような予定もない。数日後には三学期がスタートするが、それまでにスケジュールと言えば、明日から始まる演劇部の練習ぐらいである。自分の部屋に戻った遼は、今日はどうすごそうか、ぼんやりとそんなことを考えていた。
 新入生歓迎公演、「久虎と三人の子」その台本を学生鞄から取り出した遼は、自分の演じる武将、前原直治の台詞をぶつぶつと読み始めた。

 台本が突風に煽られ、埃が部屋じゅうを舞った。暖房設備に乏しい島守家において、この季節に窓を開けるのは起床時だけであり、外から風などが入り込むとしても微量である。何事か、彼は口元を歪め、椅子から立ち上がった。
「ご、ごめん……出現場所を……間違えた……」
 布団を畳んだ後の、何もないぽっかりとしているはずの空間を埋めるように、栗色の髪がなびいていた。
「真……ルディ……な、なんだ……?」
 隣の部屋の父に、大声を聞かれては厄介だと思った遼は、突然の来訪に驚きながらも、できるだけ声を潜めた。その意図を察知したコート姿のリューティガーは、何度も頭を下げた後、背伸びをして遼の耳元に囁いた。
「明けましておめでとう……ジョージ長柄氏の調査結果が出たよ」
「そ、そっか……ありがとう……」
 リューティガーの差し出した資料を受け取った遼は、今日のスケジュールがこれで埋めることができると感謝し、早速目を通してみた。
「鷺宮(さぎのみや)か……遠いけど……雪も降ってないし……なんとかなるな……」
 スエットの上下を着ていた遼は、その上から革のジャケットを羽織り、防寒用のウォーマーを穿いた。
「い、今から行くの!? なら跳ばそうか?」
 クラスメイトの申し出に、遼は鼻を鳴らした。
「バイクで行く……っつーか……そうしたい」
「そ、そうか……」
 何か期することでもあるのだろう。遼の言葉をそう理解したリューティガーは仕方なく頷いた。すると、白いお椀型のヘルメットを棚から取り出した遼が、それを差し出してきた。
「え……?」
「一緒に行くんならいいぜ。けど能力は無しだ。ケツに乗ってくんなら、構わないぜ」
「こ、このヘルメットは?」
「安物だけどJISSは通ってるから……もっとも、ニケツはやばいんだけどさ」
 どういった意図で、彼はこのサブヘルメットを購入したのだろう。これを被るべき者の髪は、自分のような栗色ではなく、きっと美しく長い黒髪なのだろう。ヘルメットを受け取ったリューティガーは予想外の展開に、これはこれで成り行きまかせであり面白い。そう思い微笑んだ。

 まだ雪の残る道はどこに危険が潜んでいるかわからず、初めて後ろに人を乗せた遼は、できるだけ慎重に車体をコントロールするように努めた。
「これを届けるんだね!?」
 背後からの声に、遼は「そうだ」と短く答えた。リューティガーは肩に提げた金属製のバッグを一撫でし、その作りがしっかりとしている事を確認した。
「ところでさ……怪我はもういいのかよ?」
 信号待ちの際、そう尋ねてきた遼に対して、リューティガーは「完治は先だけど、それまで待った試しはないから」と、笑いながら答えた。

 つい十日前のことである。二人は埠頭の倉庫で生命の危険に晒され、生還に成功した。本来ならかけがえのない絆ができてもおかしくはなかったが、バイクを運転する方は、後ろに乗せた少年の身体をあまり心配しておらず、その彼は運転者がこれから何をしに行くのか、さして興味はなかった。
 ただ、二人はなんとなく間違いはないのだろうと、そんな漠然とした意識を共有していたし、その感覚は大切であるという点においても一致していた。

 2ストローク、それも旧型で中古のMVXは走行中のエンジン音や排気音も大きく、二人乗りをしている最中も互いの声をヘルメット越しに通すのは至難の業である。しかし、腰を掴むリューティガーの両手から、ある言語情報が流れてきた。

 遼……僕は三学期になっても……仁愛に通い続ける……

 そっか……まぁ……みんな……その方が喜ぶと思うぜ……

 巻き込む可能性は確かにある……けど、それは僕がこの国にいる以上、逃れることはできない……

 少々納得しかねる考え方ではあったが、自分も敵から命を狙われている以上、リューティガーに真っ向から反論することは、結果として自身の日常をも壊すことになる。突き詰めればそこまで覚悟するべきなのだろうが、彼にはまだ勇気が足りず、同意することで気持ちが楽になるのも事実であった。

 ぼちぼちかな……

 ロードマップをタンク上のケースから取り出した遼は、バイクを停め現在位置を確認し、再びギアを入れた。

 閑静な住宅街は、まだ二日前の大雪の光景そのままであり、路地の雪は端に積み上げられていたが、庭や車の上にはたっぷりとした白さが陽を反射し、遼とリューティガーは眩しがりながらその中を進み、やがてあるアパートの前までやってきた。
 自分が住んでいる二階建てのアパートと、さして変わらない外観である。いや、少し家賃が高そうにも見える。赤い屋根を見上げた遼は、リューティガーからカメラバッグを受け取ると、それを肩に提げ、様子を窺った。
「先に電話してからの方が、よかったんじゃ?」
「いや……遺族に会うつもりはない……だってそうだろ、なんて説明すりゃいいんだよ」
「た、確かに……」
「このバッグをずっと俺が持ってるのが、そもそもおかしいんだ……これは家族に返さないと……長柄さんだって浮かばれないし、俺だってケジメがつかない」
 自分に言い聞かせるように、遼は力強くそう言った。
 なんとなくである。バルチから持ち帰ったこれを、カメラの入っていない、備品が詰められたカメラバッグを押し入れにしまい込み、どこか自分はあの事件を忘れていないふりをして、まったく向き合ってはいなかった。
 一階の端の部屋、“106 長柄”と書かれた表札を確認した遼は身体を折り、その扉の前にバッグを下ろした。
 ふと、中に誰かがいるのだろうかと気持ちが揺らいだ。確か彼には娘が二人いたはずである。遼は上体を起こし、眼前の扉に注意を向けた。

 だからさ……もしこれが開いたら……なんて説明すんだよ……バカか俺は!?

 咄嗟に後ろへ跳ね、扉に背を向けた遼は、ぶるぶるっと頭を振った。これを遺族のもとに返却したからといって、終わったわけではない。はじまりを覚悟し直しただけのことである。自分は随分それに時間がかかってしまったと思う。だから取り戻すべきだと、彼はMVXの前で待つ、栗色の髪をした同級生へ向かって駆け出した。
「い、いいのか……あれで……」
 106号室の前に置かれた金属製のそれを眺め、リューティガーはそう言った。
「わからねぇ……けど……あれでいいんだと思う……」
 二人の全身に寒風が吹いた。痛みを感じるほどの冷たさであるため、リューティガーはコートの襟を立て、遼は自分の両肩を抱いた。
「どーするルディ……今日はこれから?」
「と、特に決めてないけど……」
「ならさ、うちで飯でも食ってく? 雑煮なら少しだけあるけど」
 遼としては、情報提供のお礼として軽く提案したつもりではあったが、見上げるリューティガーは口元を歪ませ、目を輝かせて反応した。
「う、うん……食べてく……!!」
「お、親父が作ったのだから……味は期待するなよ」
「うん!! けど、どんなのでもかまわないよ!!」
 なにがこうも嬉しいのだろう。尻尾でもあったら振ってしまいそうな彼の反応に、遼は戸惑い、ヘルメットを被った。
「初詣とかどうしたんだよ」
「え? 遼は?」
「俺は行かないよ」
「どーして? 蜷河さんと行かないの?」
「そーゆーお前は、椿さんとかと行くんじゃねーの?」
「ど、どうしてここで椿さんの名前が出てくるかな」
「違うのかよ」
「ど、どうだろう……」
 ごちゃごちゃと散らかった言葉を交わしながら、二人の能力者は一台のバイクに跨った。

 また父親が興奮するのだろう。この栗色の髪を見たら。
 雪谷大塚のアパートまで帰って来た遼は、ヘルメットを脱ぐリューティガーを一瞥し、二階を見上げようとした。
「遼……」
 いつもより低い声に聞こえたため、何事かと遼はリューティガーに意を向けた。すると彼は、路地のある一点に視線を向けていた。
「高川……かよ……」
 電柱の陰から姿を現した、ジーンズ地のジャケットを着た逞しい同級生に、遼は顔を顰めた。

9.
 十五歳の誕生日を迎えたのは、やはりここだった。十六歳の誕生日を迎えられるかどうか、それすらもぼんやりと薄暗い未来であったから、いまこうしてハウスで一番広いこの部屋で、子供たちや院長先生、それに懐かしい先輩に囲まれているのが信じられない気もする。
「お誕生日おめでとう理佳ちゃん」
 老婦人、殿田の言葉に、周囲の子供たちも続いた。なにがおめでたいのかよくわからないが、ともかくここまで生きてこられたことに感謝はするべきなのだろう。エプロン姿の蜷河理佳は、両肩をすぼめて頭を下げた。
 テーブルの上にはケーキやから揚げ、皿に移した袋菓子が並び、その向こうにはかつてここで共に過ごした先輩、仙波春樹(せんば はるき)が青年となって座っている。
「蜷河、早くローソクの火を吹き消せよ」
 細く涼しい眼をした仙波春樹にそう促された理佳は小さく頷き、眼前で揺らめく十六本のローソクへ息を吹きかけた。
 任務に失敗していなければ、この日は彼と過ごせていたのだろう。思っても仕方のないことと、最近では割り切れるほど落ち着いてきたが、それでも後悔が消えることはない。
 ささやかな拍手の中、理佳は虚ろな目で皆を見渡し、「ありがとう」と礼を言った。
「あっれれーここかなぁパーティー会場ってぇ?」
 扉を開け、もじゃもじゃとしたパーマ頭が部屋に入ってきた。理佳は少しだけ険を込めた視線を来訪者である藍田長助へ向けた。
「どもども……」
「藍田さん。いらっしゃい」
 殿田は長助に笑顔で会釈をし、彼も同じように返した。ハウスの孤児たちはいきなり現れた見知らぬ中年に緊張し、年長者の少年少女たちはあからさまに怪訝な顔つきとなった。
「ちわー!! 夢の長助でございまーす!! よっ、春坊」
 仙波春樹の背中を叩いた長助は子供たちに大げさな笑顔を向け、右手を大きく振ると、そこには突然花束が握られていた。それは夢の長助にとって、容易な手品だった。しかし効果は絶大であり、年少者は呆気にとられ、年長者も怪訝さを驚きに変えていた。
「理佳ぁ……プレゼントもって来たぞ」
 花束を理佳に渡した長助は、包装されリボンをかけられた小さな箱を懐から取り出した。
「あ、ありがとう……長助」
 戸惑い、視線を泳がせた理佳を、パーマ頭の中年エージェントは素直に可愛らしいと思った。
「もっと喜べ。これは真実の人(トゥルーマン)からだ」
 長助の言葉に、少女は目を見開き、小さく口を開け、少しだけ背筋を伸ばした。長助から箱を受け取った彼女は、震える手でリボンをはずし、包装紙を丁寧に剥がした。
 それは、パールがかった白いイヤリングであり、箱の底には小さなカードが添えられていた。

 お誕生日おめでとう理佳

 短く、素っ気無い言葉だった。しかし少女は箱ごとそれを抱きしめ、両目を閉じて白い長髪の青年を思い浮かべた。
 そんな理佳の喜びを、長助は少しだけ羨ましく思え、ため息をついた。すると彼の肘を、傍らにいた仙波春樹がつついた。
「なんだよ、春坊」
「藍田さん……ここで手品は……まずいですっ!!」
「な、なんで?」
 戸惑う長助を、仙波春樹は周囲に注意を向けるよう、形のいい顎先で促した。
 子供たちが、特に幼い子たちが羨望の眼差しで見上げていた。なるほど、そういうことかと長助は理解し、すぐに帰るつもりだったが、ここで臨時のマジックショーをやらなければと観念し、「いやー」と声を上げ、もじゃもじゃの頭を掻いた。


「納得がいかんのだ……島守……貴様のとった行動は不自然すぎる……思えば教室ジャックのあと、貴様は俺に関わるなと忠告したな……あの時も妙だと思っていた」
 路地で対峙した高川は、リューティガーがいるのにも拘わらず、正直にそう告げた。
「べ、別に変じゃないだろ……」
 遼は隣のリューティガーをちらりと見た。彼はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、真っ直ぐに紺色の瞳を高川に向け続けていた。
「それに一昨日の出来事もそうだ……はるみさんは段々と調べればよいと言っていたが、俺は待ってられん……白いマントの男は、貴様が目的で現れた。で、貴様を抱え、俺たちを救ったあの者は、貴様と何らかの関係がある!! 違うか!?」
 神崎はるみならともかく、高川がこうまで具体的な疑問と推理をぶつけてくるのが、遼にとっては意外すぎた。人差し指でこちらを差す同級生にうろたえた彼は、思わず頭を掻いた。
「た、高川……ルディもいるんだぜ……へ、変なこと言うなよな……」
 はるみの考える、リューティガーもグルで怪しい。という情報は高川も聞いてはいなかった。一昨日、彼女がその可能性を示唆した際、彼はもう廊下に出ていてやり取りは聞こえなかったし、帰り道でも話はしていない。
 だが、寒風に栗色の髪をなびかせる、無邪気な笑みがいつも印象的な転入生が今日このとき、こうして向き合っていると別人のような気がしてならない高川だった。それほど、コート姿のリューティガーは鋭い眼光をこちらに輝かせていて、だからこそ島守遼に躊躇なく疑問をぶつけられたようにも思える。
 高川は静かに佇むリューティガーに視線を向け、ある考えに思い至った。
「真錠君……君も何か知っているのではないか? この島守が抱えている秘密を!?」
 なにを言い出すのか、思いつきだろうが、高川があまりもダイレクトに核心を突いてきたので、遼は言葉以上のコミュニケーションを行使しようと一歩前に出た。しかし、その行為を隣のリューティガーが左手で制した。
「君は……」
 リューティガーの目は、相変わらず対面する高川へ向けられていた。
「戦うことができるのか……この国に、再び混乱をもたらす集団と……」
「ル、ルディ……な、なに言い出すんだよ……」
 うろたえる遼に、だがリューティガーは視線を向けることはなかった。
「一度絞られた的と同じだ……狙いから逃げ切れるものじゃない……だから……僕は問う……高川典之……君は戦えるのか!?」
 強い意を向けられた高川は一瞬たじろぎ、だがすぐに咳払いをすると、その分厚い胸板を力強く叩いた。
「ああ。そのための武だ。俺は姉弟子のように、完命流の高みを目指し、悪と立ち向かう!!」
 なんという時代がかった、まるで安手のドラマのような台詞だろう。数ヵ月前までの自分であれば、「学芸会の練習はあちらで」などと茶化すようなやりとりである。しかし遼はちっとも笑えず、逆にリューティガーは口に手を当て、両肩を上下させた。
「そ、そうか……高川くんは完命流だったっけ……」
 強い意を急に消し、砕けた態度となったリューティガーに、高川は眉を顰めた。
「そうだ……柔術完命流……それが俺の学ぶ流派だ」
「それが遼に巻き込まれ……なるほど……偶然だか必然だか……そうか……」
 これまでにない、どこか突き放したかのような、冷淡な佇まいを遼はリューティガーから感じた。
「ならば共に戦ってくれ。高川くん」
「ど、どういうことなのだ……真錠君……」
「僕は全てを知っている。君の疑問、君の目的を果たせる場所……そしてたぶん……僕は君の力を借りたいのだと思う……」
 あまりにも大胆な言葉に、遼は何度も瞬きをした。
「お、おいルディ……マ、マジか!?」
「戦力を集める……そう言ったのは遼だろ?」
「そ、そりゃそうだけど……」
 クラスメイトを戦いに加えるなど、そんな発想はほとんどなかった。もちろん、疑念を抱いた者を味方に取り込んでしまった方が、なにかと便利であるという理屈はわかる。だが、よりによって高川とは。遼は震える膝をなんとかコントロールして、高川へ歩み寄った。
「高川……そういうことなんだ……俺も……こいつに力を貸している……」
「貴様がか……ふむ……理由はともあれだ……俺の完命流があれば、これまで以上の戦力になることは間違いない。よろしく頼むぞ、真錠君」
 高川は、分厚い掌をリューティガーに差し出した。
「ああ……事情その他は追って説明する……現地協力者ではなく、僕の個人雇いという形になるけど……こちらこそよろしく」
 言葉の意味はよくわからないが、とにもかくにも何かの戦いの輪に加わることができたのだろう。漠然とした思いで高川はリューティガーと握手をし、割れた顎を引いた。
 寒風が、栗色の髪を背後からなびかせ、高川の分厚い身体に吹き付けた。その瞬間、意識できるかどうか微妙なほど、ほんのわずかではあったが、高川典之は迂闊だったと悔やんだ。何に対して、なぜ、いずれもわからないほどのわずかさである。
 リューティガーの目はじっと見上げ続けたままであり、口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。早く離さなければ、高川が理由もなく握手の手を慌てて引っ込めると、右手を差し出したままの彼は片目だけを閉ざし小さく頷いた。

 合格……かな……意外と……

 掌に込めていた“跳ばすための力”を解除したリューティガーは、コートの襟を強く引っ張った。
10.
 結局、リューティガーの醸し出す異常な空気に支配されたまま、緊張の場は解散となった。三人はそれぞれ別の方向へ歩き始め、最初に目的地へ着いたのは金属製の外付け階段を上る遼である。
「ただいま……」
「おう……どこ行ってた? 初詣か?」
 どてら姿の父にそう尋ねられた遼は、ひどく疲れた様子で椅子に腰を下ろした。
「ん……まぁ……」
「そーか。えっと……クロアチアだっけ?」
「はぁ?」
 なにを突拍子もないことを。息子は疲れも吹き飛ぶほどの疑問を父にぶつけた。
「あ、いや、違ったっけ? チェ、チェチェン?」
「な、なんなんだよ、親父」
「ヘ、ヘルツゴビナだっけ?」
 うろたえる父を遼は睨みつけ、ようやく質問の意図がなんであるのか気付いた。
「ルディのこと!? 言ったろ、あいつはドイツだよ」
「そーそーそー、ルディくん。彼と行ってたのか?」
「まーね……」
 頬杖をついた遼は、これから先高川と一緒に行動できるのかと、急にそれが不安になり、遂には食卓に突っ伏した。

 あんな……融通の利かない奴じゃ……理佳ちゃんの件だって邪魔されかねねぇ……それに……神崎にもばれるぞ……

 そのときは、リューティガーは彼女まで協力者に組み入れてしまうのか。しかしそれはなんとなく無さそうだと、根拠もなく彼はそう思った。
「親父さ……ちょっと聞きたいんだけど……」
 気を紛らわしたい、そんな一心で遼は夕飯の支度を始めた父の背中に声をかけた。彼は無言ではあったが、両肩が小さく上下したので、それを了解の返事と受け取った息子は、言葉を続けた。
「“とうどう”って苗字さ……知ってる?」
「“とうどう”? それがどうした?」
「いや……昔の知り合いとかでさ……いるのかなって思って」
 それは、柔術完命流の道場で見た、どこか記憶の片隅に心当たりのある、写真の中の少女の苗字だった。
「“とうどう”っていや……お前、そりゃ、母さんの父方の苗字だよ」
「あれ……お袋の旧姓って……確か天津(あまつ)じゃなかったっけ?」
「だから父方の苗字だよ」
 父の説明に、だが遼は何がなんだか理解できず、食卓に突っ伏したまま唸った。
「ややこしいんだよ。母さんの両親は結婚してなかったし、だから旧姓も母方の天津なんだ」
「ふーん……」
「なんだよ。どうしたんだ? “とうどう”って……なんかあったのか?」
 背中を向けたままフライパンの用意をする父の言葉が、妙に早口である事実に、息子は奇妙な違和感を覚えた。
「いや……最近その苗字を聞いたんだ……そんだけ」
「じゃー違うよ。だって母さんの父方は、東西南北の東、お堂の堂で、東堂だぞ」
「変わってるなぁ」
 返事をしながらも、遼は父の口調が強くなっている事実を無意識のうちに感じていた。
「だろ。普通は藤にお堂とかで藤堂だろ? だから関係ないだろ」
「そっか……まぁ、そうだよな……」
 実際は耳にした、聞いた話であるのだから漢字の断定などできるわけはない。しかし父が珍しくきっばりと断定したものなので、遼はとりあえず納得した。
 結局大した気分転換にはならなかったが、少しだけ記憶に残る母のことを、彼はぼんやりと思い出した。
 いつも苦笑いを浮かべ、困ったような母であった。なんとなく、そうだったと思える。
 油が温まる臭いを嗅ぎながら、島守遼はぐったりと眠りに落ち、その意識の際に、黒髪の少女の姿があった。

 代々木のマンション、その廊下に出現したリューティガーは、勢いよく803号室の扉を開け、燐とした意を発散しながら中へと入った。
「お帰りネ坊ちゃん」
「ただいま。陳さん、協力者を一人確保してきたよ」
 主の言葉に、ボールの中の玉子をかき混ぜていた陳の手が止まった。
「そ、そうなのか!?」
 現地協力者の登用は同盟本部への許可が前提であり、その手続きは当然踏んでいないはずである。いよいよ越権がはじまったのかと、彼は額から流れ落ちる汗を拭った。
「高川典之。このあいだFOTのエージェントに巻き込まれたクラスメイトで、なんと完命流柔術の使い手です。同盟へは報告できませんから、あくまでも僕の個人的な協力者ってことになります。明日か明後日には、ここに説明に呼びますから」
 怪我から復帰したばかりとは思えない、そんな元気のよさをリューティガーは全身から発していて、その原因が高川という新たな現地協力者にあるのなら、これは悪い展開ではないのだろう。陳はそう思い込もうと努力した。
 コートを着たまま、居間へ入った主と入れ替わるように、寝室から健太郎がダイニングキッチンにやってきた。
「聞いたか相方ヨ」
「ああ……あの少年か……」
「使えるのか?」
 相方の問いに、健太郎は椅子に腰掛け、食卓の上で両指を組んだ。
「それなりにな……弾除け程度には……」
「そ、そうか……」
「面白い目をした少年だった……そう……育て方次第では、こちらの世界でやれんこともない」
 青黒き巨人は、コンロに置かれた鍋に視線を移し、牙を見せた。
 武術を学ぶ、あの少年の背中を押したのは自分だったのだろうか。だとすれば多少なりとも彼に対して責任というものもある。
 こんな感じ方をしたのは一体いつ以来だろう。健太郎は肩を小さく震わせ、嗅覚を刺激する豆板醤の香りに、ほんのわずかだが食欲を刺激されるのに戸惑った。



 タカガワノリユキ……臨時雇いの現地協力者をスカウトした以外、作戦行動などの計画はない模様……以上……

 代々木パレロワイヤルの裏手、まだ積雪の残る路地裏に、ダウンジャケット姿の少年、花枝幹弥が佇んでいた。携帯電話の震動を感じた彼は、それを取り出してメール文面を確認した。

 せやけど……なんで味方の動向さぐらなあかんのや……この任務……なんか怪しい……檎堂はんは全部しってはるんやろか……

 茶色に染めた髪をなびかせ、花枝幹弥は次なる盗聴場所へと歩き始め、彼の両肩に白いものがそっと触れた。
 また雪か。少年はビルの谷間から夜空を見上げ、白い息を吐いた。

第十四話「白き攻防」おわり

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