真実の世界2d 遼とルディ
第十五話「独立国家、日本」
1.
 池上線蓮沼(はすぬま)駅から、二両編成の池上線に揺られること十分足らず。目的の雪谷大塚(ゆきがやおおつか)まではわずか四駅である。入学以来、常にこの私鉄を通学に使っている高川典之(たかがわ のりゆき)は、ステンレス製の電車からホームへと降りると詰襟のホックを指で直した。
 周囲には自分と同じ制服の男子やブレザー姿の女子生徒たちが、二階にある改札へと向かっていた。高川もその流れに合流し、上着のポケットから定期券入れを出しながら、テンポよく全身を上下させ、階段をのぼった。
 他の学生たちと比較すると、高川典之の体格は恵まれていて、スポーツ刈りで形のいい頭は混雑した中でも一つ抜きん出ている。眉毛も太く、顎も割れた端正な顔は引き締まった表情も相まって、一見すると高校生より上の青年にも見える。しかし彼はまだこの2005年、一月十一日においては仁愛高校1年B組の生徒であり、年齢も十六歳である。
 彼をよく知っている上級生は、背筋をピンと伸ばしたこの後輩と出会った直後に「おはようございます先輩!!」と、腹から搾り出された大音量の挨拶が、学校の内外を問わずに飛んでくることをよく知っている。肌寒く、休みボケがまだ残るこんな始業式の朝から、そんな元気に晒されてはかなわないと、ある三年の男子生徒は自動改札を通過する高川の後頭部を発見した途端、続いていく歩みを重くした。

 しかし、いつもとどこかが違う。

 その三年生は、駅の外へ通じる下り階段へ向かう後輩が、いつになく神妙な重い表情であり、視線も宙に泳がせているのに気付いた。
 考え事でもしているのだろうか。彼はそれならばと思い切って高川を抜かし、階段を駆け下りていった。
 背中から、うんざりしてしまうほど溌剌な挨拶は飛んでこなかった。まあこんな日もあるのだろうと、彼は大して高川の変化を気に留めず学校へ向かって駆けていった。

 悪と戦う……正義の同盟……

 昨晩からずっと、高川典之の頭の中を駆け巡っている言葉である。彼は昨日の昼、同級生であるリューティガー真錠(しんじょう)に電話で呼び出され、自宅近くの公園で実に様々な話を聞かされた。それはたった一晩で理解と納得ができるほど平凡な内容ではなく、予想を上回るスケールに彼は昨晩、ほとんど眠ることもできなかった。

 商店街を抜け、学校へと続く坂道に差し掛かった頃、彼の分厚い背中が軽く叩かれた。
「よっ」
 後ろからやってきたのは自分と同じぐらいの長身であり、だが体格はもっと華奢な、同級生である島守遼(とうもり りょう)だった。高川は仏頂面で振り返ると、「うむ。今日はバイクではないのか?」と返事をした。
「たまには歩きもいいかなって思ってさ……それより真錠から聞いたぜ……昨日話があったんだって?」
 心配するような、気を遣うようなゆっくりとした口調で、遼は白い息を混じらせながらそう言った。
「そうだ……彼から事情を説明してもらった……」
「そ、そうか……」
 FOTのエージェントであり、ファクトの残党である執事田村に高川典之は数日前、襲撃を受けた。何の前触れもなくナイフを手にした田村は彼に襲い掛かり、それはあまりにも突然だった。
 リューティガーの従者であり、その日は遼の護衛についていた青黒き異形の巨人、健太郎に危機を救われたものの高川は困惑し続け、その疑問をぶつけた結果、リューティガーから仲間にならないかと誘われたのは数日前のことである。
 遼にとってそれは意外な展開であり、いくら柔術完命流の猛者である高川であっても、一般人をこの戦いに巻き込むリューティガーを、彼は警戒するべきだと思い直す結果となった。

「FOT……ファクトの再来が、この国を再び悪の手に染めようとしている……真錠……ルディはその悪と戦う、正義の同盟の一員だと言っていた」
 高川の言葉に、隣を歩く遼は片眉をぴくりと動かした。
 彼の解釈だとそういうことになるのか。それとも高川にわかりやすく、リューティガーがそう説明したのだろうか。大筋においては間違ってはいない状況認識ではあるが、遼には違和感があって仕方がなかった。
 ならば、そんな仰々しい戦いに参加しているこちらの事情は、どう説明されているのだろう。遼はそれが気になった。
「なぁ……でさ……俺のことはどう言ってた?」
「うむ……FOTに命を狙われ……奴らの悪を許せんから協力を申し出た……ルディはそう言っていたぞ」
 この解釈にしてもどうなのだろう。遼は二人がどのような言葉を交わしたのか気になり、坂道に視線を落とした。
「しかしな。そうなるとますます道場に通う必要があるな」
「え?」
 高川の意外な言葉に、遼は視線を上げた。
「そうであろう。俺はともかく、貴様は戦いに関してはまったくの素人だ。敵は強力で、正義感だけで勝てる相手ではない。楢井師範はきっと力になってくれるぞ」
 力強くそう言いきった高川の横顔を、遼はちらりと横目で見た。何の疑いもない、凛とした意を発散したいつもの高川である。なるほど、リューティガーは“異なる力”についての説明をしなかったのかと遼は予想をし、ようやく納得した。

 そりゃそうだ……俺とこいつじゃ状況が違う……何もかも説明して……一度に理解はできないだろうしな……

 もし彼が、物体を動かしたり触れた相手の心を読んだりするこの能力を知ったら、それでもこちらに対して強く道場行きを勧めるだろうか。高川の態度に高圧的なものを感じつつあった遼は、そんな人の悪い発想に唇の片端を吊り上げた。
「早く任務とやらが来て欲しいものだな……実戦が……待ち遠しくて仕方がない」
 高川のそんな覇気に、だが遼はあまり同意をすることができず、返事をしないまま、近くなってきた校舎を見上げた。


 二階の1年B組の教室にやってきた遼は、クラスメイトたちと軽い挨拶を交わしながら、自分の机に向かった。
 すぐ後ろ、神崎はるみの座席はまだ空席だった。遼はできるだけ彼女との接近は避けるべきだと思い、教室じゅうを見渡した。

 神崎は……そろそろ感づきはじめている……高川には真錠が口止めをしているだろうけど……まずいよな……

 遼が机までやってくると、隣のリューティガー真錠が笑みを浮かべて、「おはよう」と言葉をかけてきた。
「おはよう……高川と外で一緒になったぜ」
 席につく高川を一瞥し、遼はリューティガーにそう言った。
「そうですか……」
 立ったままの遼はリューティガーの小指に自分のそれを軽く触れさせ、意識を集中した。

 高川さ……神崎に惚れてる……

 そ、そうなの?

 正面を向いたまま、リューティガーは目を見開いた。

 ああ……だから神崎に秘密を漏らす可能性もある……口止めはしてるよな……

 うん……もしこのことを警察や関わりのない民間人に漏らした場合は……懲罰がある……場合によっては命を消されると……そう言っておいたけど……

 お前の能力……高川は知らないんだよな……

 まだ話してない……君の力も……

 じゃあ……こっちを舐めてる可能性もあるかな?

 いや……健太郎さんの存在を示唆しておいたから……それは大丈夫だと思うけど……

 あの静かなる異形の者と、高川は豪雪の日に出会っている。彼の戦闘能力と躊躇のない抹殺は彼も目の当たりにしているので、脅しとしては有効だろう。そう判断した遼は一応安心し、リューティガーから指を離した。

「なー島守。聞いたか、転入生の話」
 すぐ前の席に座る坊主頭の沢田が、椅子の背もたれに抱きついたままそう言ったので、遼は「マジ?」と返して座席についた。
「川島が言ってたらしいぜ、今日からだってさ」
「一年で二人も転入なんて、有り得ないだろ」
 遼の言葉に、転入生であるリューティガーも頷いた。
「けどさ、蜷河さんが転校したから、人数的には辻褄が合うんだよ」
「そっか……」
 沢田の説明に納得した遼は、斜め前の空席に視線を移し、胸の奥に痛みを感じた。
「しっかし、物好きだよな。あんな事件があったのに、ここに来るなんてさ」
 坊主頭をひと撫でした沢田は遼とリューティガーにそう言い、二人はまったくだと頷き返した。
 なにか裏でもあるのか。どこかの機関がスパイを送り込んできたのか。リューティガーは自分もそうだったため、沢田からもたらされた情報に考えを巡らせ、口元に手を当てた。
「女子かな?」
 遼は呑気にそんな疑問を口にし、沢田は「たぶんそーだろーな」と返し、気がつけばクラスの大半に、転入生の噂が蔓延しつつあった。
 そんな散漫な空気の教室に、神崎はるみはやってきた。彼女は遼とリューティガーの黒い背中へ視線を向けると、眉を顰めて自分の席へ向かった。
「はるみ!! おっはよ!!」
 クラスメイトの和家屋(わかや)が手を振ってきたが、はるみは小さく頷き返すだけに止め、遼のすぐ後ろの座席に座った。
 神崎が来た。遼は緊張して背中を向けたまま、彼女がもし話しかけてきたら、すぐに沢田へ言葉をかけようと、そんな逃げの姿勢で対応しようと決めた。
 しかし、背後から声がかけられることはなく、はるみはすぐ隣の合川と言葉を交わしていた。
 今後、どう追及するべきか、少女はまだその具体的な方策を決めあぐねていた。
 あのうろたえようであれば、島守遼とリューティガー真錠が、何かとてつもない事件に関わっているのは明らかである。
 しかしそれについて、はっきりとした情報をどう聞き出すか、手札の存在はわかっていても、手の出し方がわからない。そんな状況に彼女は陥っていた。
 冬休みをどう過ごしたか、隣の合川とたわいない会話をしながら、時々はるみは前に座る二人の同級生の背中を見て、彼らがまったくこちらに対して注意を向けてこないことに、ますます疑いの色を強めていた。


 女生徒に違いないだろう。そしてどうせだったら可愛いか美人がよい。男子生徒の大半がそう望んでいたものの、担任教師、川島比呂志が連れてきたその人物は、詰襟姿の男子だった。茶色に染めた髪は肩まで伸ばし、やや猫背で、身長は遼ほどではないがリューティガーよりは高く、垂れ下がった目で生徒達を見据えていた。
「名前を書いていいですか?」
 黒板に向かいながら転入生がそう言ったので、川島は頷き返し、なかなか古風なことを自分からやる生徒だと思った。
 チョークを手にした彼は、黒板に大きく、“花枝幹弥”と書いた。
「花枝幹弥(はなえだ みきや)いいます……京都から転校してきました……よろしく」
 関西弁まじりの挨拶をし、彼は軽く頭を下げた。
 最前列の田埜彩花(たの あやか)は、間近で見る転入生がどこか不貞腐れて不機嫌そうであると、彼の少しだけ突き出た下唇からそう感じ、自分の口元を手で覆った。
「花枝、君の席は……」
「あれですよね。見ればわかります」
 蜷河理佳(になかわ りか)がかつて座っていた座席へ、花枝は片手をポケットに突っ込んだまま向かった。
 その態度、話し方に反抗的な因子を感じた川島は花枝の背中を睨みつけ、いずれは一度殴る必要があるかも知れないと思い、拳を握り締めた。
「よ、よろしく……花枝君」
 隣の席に座る、内藤弘(ないとう ひろむ)が声をかけたが、花枝は一瞥すらせず足で椅子を引き、乱暴な挙動で腰を下ろした。
 とっつきづらい奴が転入してきたものだ。内藤は無言のまま花枝を横目で見て、はやく二年になって席替えをして欲しいと苛ついた。

 あれは自信なのだろうか、それとも不満なのだろうか。遼は転入生の態度に注目し、彼の人となりに少しだけ興味を抱いた。すると斜め前で背中を向けていた花枝が、小さくこちらへ振り返った。
 垂れ下がった目はまず遼に向けられ、次は隣に座るリューティガーへと移った。そして最後に、彼は不敵とも言える歪んだ笑みを浮かべた。
 そんな転入生の視線に、遼は違和感を覚えた。

 なんだ……こいつ……なんだ……

 思い過ごしの可能性が高い。なぜなら花枝の観察はその後、教室内をぐるりと見渡すことで続き、特に自分たち二人だけに注目し、意を向けてきたわけではないとも言える。しかし直感的な何かが、遼の脳裏に広がりつつあった。

 何者だ……花枝幹弥……こいつは……

 警戒する必要がある。敵である可能性も考慮するべきである。しかし、そこまでの根拠は一体どこにあるのか。遼は花枝を見つめ続けたまま、自分に問いかけてみた。

 まさか……俺たちと同じ……ど、どうなんだ……

 なぜそう感じてしまえるのか、あまりにも脈絡のない発想である。だが、一度浮上した疑惑は次第に質量を増していき、遼の意識を大きく占領しようとしていた。

「あー……すまん……名簿を忘れた……ちょっと待ってろ、お前たち」
 眠そうな半開きの目を何度も瞬かせ、川島はそう言って教室から出て行った。
 今日はホームルームと始業式だけだと言うのに、なんという段取りの悪さだろう。すぐにでも生徒ホールへ向かわなければならないというのに。クラス委員の音原太一(おとはら たいち)は担任のうっかりに怒りを覚え、再び教室の空気が散漫になると予想し、それは現実となった。
 生徒たちのほとんどが、腕を組んで椅子の前足を浮かせて座る、花枝幹弥へと注目していた。

 ルディ……ちょっといいか……

 手首を掴まれ、一体何事かと思ったリューティガーの意識に、そんな言語情報が飛び込んできた。

 な、なんだい……

 返事があったので、島守遼は意識を集中し、掌からそれを伝達させた。

 探知機ってさ……新型はもうあるのか?

 探知機?

 俺にくれただろ。異なる力を持ったやつに反応するって探知機……新型が届くって言ってたじゃないか……

 ああ……受領は済ませてるよ……

 遼は何を考えているのだろう。読心能力のないリューティガーは疑問に抱き、その思いは掌を通じて遼にも伝わった。

 いまどこにある……家か?

 いや……装備品一式は常に携行している……新型は電卓サイズまで小型化されてるから、今は内ポケットに入れてある……

 いつ能力者の襲撃があってもいいようにと、それは修羅場を潜り抜けてきたリューティガーの判断だった。遼は小さく微笑み、小刻みに頷いた。

 いいぞ……じゃあ、いま使ってくれないか……?

 な、なんで?

 すっげぇ予感っていうか、びびっときたんだよ……花枝って転入生……怪しいって……

 異なる力を持ってるとでも?

 可能性はあるって……そう思える……

 遼……いくらなんでもそれはないだろう……

 異なる力を持った者は、そうそういるものではない。事実、そうした人材を積極的に集めている同盟ですら、その人数はリューティガーの知るところ、三十六名である。もっとも、彼自身同盟の全容は知らされていないため、実際にはもっといるかも知れないが、大きく変動するということはないだろう。あの組織ですらそうなのだから、人口に対しての割合はたかが知れている。しかし、否定的なリューティガーに対して、遼はあくまでも積極的だった。

 駄目もと!! 駄目もとでいいじゃん。だって電卓サイズなら、周りにもバレないだろ?

 そ、そこまで言うんなら……試してみるけど……

 異なる能力を持った者同士は、ある一定の確率で相手をそうだと感じることができる。以前、同盟本部の科学主任、ジェラルド・ブリュックからそんな説を聞いたことがあったが、これまでに一度もそのような体験はないリューティガーだった。彼はその説に対して懐疑的であり、しかし完全に否定はできないと、掴まれていない方の左手で学生服の第一ボタンを外した。

 なんなのよ……こいつらって……

 すぐ真後ろに座る神崎はるみは、眼前でリューティガーの手首を掴む遼に、なにか得体の知れない不気味さを感じていた。

2.
 新型の七号探知機は遼に渡した旧型と比較すると、ずっと小型で高性能化していて、クリスマス・イブに兄を襲撃した際にも最大限の効力を発揮している。もし花枝という転入生が、今現在異なる力を使っているのなら、その察知は確実にできるはずである。
 だが、そんな可能性は1%にも満たないだろう。教室に戻ってきた川島教諭には目もくれず、リューティガーは内ポケットから取り出した探知機に集中し、上体で覆うようにそれを操作した。

 ビーッビビッビー

 強烈な電子音が教室じゅうに響き渡り、リューティガーはその発生源である探知機の電源を切り、内ポケットにしまおうとした。
 しかしボタンを外さなければ学生服の隙間はじゅうぶんではなく、結果として探知機は彼の手からこぼれ、床へと落下した。
「な、なんだぁ?」
 突然の異音に教室がざわめき、リューティガーの失態に気付いた生徒たちは彼へ注目し、素っ頓狂な声を上げた川島が教壇から小走りでやってきた。
「なんだ、これは?」
 転がってきた探知機を拾い上げた川島は、電卓サイズのそれが何であるのか一見しただけではわからず、しきりに首を傾げた。
「返してください!!」
 リューティガーは素早い挙動で川島へ駆け寄り、彼の手にしていた探知機を奪い取った。
「こ、こら真錠!!」
「ごめんなさい!! 妙な音を立てて、けどなんでもありませんから!!」
 背中を向け、探知機をスラックスのポケットに入れたリューティガーは、急いで自分の席に戻った。
「見せてみろ。なんだ、その機械は? なんの道具だ?」
 いつもはぼんやりとして、やる気の感じられない川島だったが、今日に限りなにをそんなに熱心なのだろう。リューティガーは近づいてきた彼を見上げ、奥歯を噛み締めた。
 反応があっただって……じゃあ……花枝って……そうなのか……いや……誰なんだ……しかし……サウンドをONにしていたなんて……一昨日調整したとき……切り替え忘れてたか……

 痛恨のミスである。もし花枝が異なる力の持ち主でこちらの敵だとすれば、今の光景をどう解釈するだろう。リューティガーは混乱し、パニックに陥りかけていた。
「こら真錠!!」
 身を縮こまらせ、両肩を抱くリューティガーの挙動は尋常ではなく、教室の誰もが何事かと注目していた。

 真錠……ばかやろう……これじゃますますやばいって……!!

 隣の遼は、いつもは毅然と落ち着いている彼が、栗色の髪を揺らし、怯えるように震えているのが意外でもあり、自分が状況を打開する必要があると思った。
「か、川島先生!!」
 遼は手を挙げ、リューティガーと川島の間に割って入った。
「なんだ、島守……」
 お前には用はない。そう言わんばかりのあからさまな怪訝さを川島は口調に込め、腰に手を当てた。
「こ、この機械ね、ルディの私物なんスけど」
「だからなんの機械かって聞いてるんだよ!!」
「ど、怒鳴らないでください……そ、そのね……こいつ……ほら、科学研究会ってあるっしょ?」
「んあ? あっと……あぁ、あったな……それがどうした」
「ルディ、それに入るって……あれって入会に自作の機械を一個持ち込まないといけないんでしたよ」
 うろ覚えの知識を思い出しながら遼はそう川島に説明し、教室の窓際へ視線を向けた。
「そんなルールは知らねぇけど……だからさ、何の機械なんだよ?」
 中々自分の知りたい答えに辿り着かないので、川島はいつも眠そうにしている目を見開き、遼越しにリューティガーを覗き込んだ。
「し、湿度計……湿気計り機……です……」
 か細い声で、リューティガーはようやくそう説明した。
「湿度計? それが?」
「はい……間違って動かしちゃって……ご、ごめんなさい……」
「なんであんなすげぇ音が出るんだ?」
「つ、作り間違えです……ボリューム間違えちゃいました……は、ははは……」
 栗色の髪を掻き、リューティガーはようやく自分のついた嘘を信じられるような気がしてきた。その確信は川島にも伝わり、彼はようやく得られた回答に満足し、湿度計なら没収しても使い道がないとつまらなくなった。
「以後気をつけるように……それじゃ出席とるぞ……」
 不機嫌そうに川島は教壇に戻り、リューティガーは席に戻る遼に、申し訳なさそうに会釈をした。

 そんな彼を、窓際の座席に座る、ある女生徒がじっと見つめていた。

 吉見英理子。科学研究会に所属する、普段は口数も少なく、小柄で制服のブレザーがタブついた、おとなしく存在感の希薄な少女である。度の強い、太く赤いフレームの眼鏡に軽く指を当てた彼女は、教壇から自分の名前が呼ばれると視線を正面に向け、低い声で返事をした。


 始業式とその後のホームルームも終わり、生徒たちはそれぞれ言葉を交わす者もあり、教室から出て行く者もありと様々である。
 今日はひどく疲れた。そう感じたリューティガーが学生鞄を手に立ち上がると、彼の前に一人の少女が腕を組んで待ち構えていた。
「真錠くん」
 名前を呼ばれたリューティガーは、赤いフレームの眼鏡をかけ、髪を後ろに結んだ小柄なこの女生徒が、果たして誰だったか一瞬思い出せなかった。
「えっと吉見……英理子……さん?」
 眼鏡の占める面積が大きく、顔の特徴が見出しづらい吉見を見つめたリューティガーは、一体何の用かと彼女の言葉を待った。
「来なさいよ。江藤くんに会わせるから」
「は、はぁ?」
 江藤くんとは何者だろう。唐突で意味のわからない吉見の言葉に、リューティガーは視線を泳がせた。
「科学研究会に入りたいんでしょ?」
「え? あ? あっと……えっと……」
 煮え切らないリューティガーの態度に、吉見は彼を睨み上げ、傍らの机を人差し指の間接で叩いた。
「会長の江藤くん……C組の江藤くん帰っちゃうわよ。急がないとだめでしょ」
「あ、は、はい……ええ……」
 ようやく彼が首を小さく縦に振ったので、吉見は踵を返し、先導するようにつかつかと出口へ向かい、リューティガーは状況をよく理解できないまま、彼女についていった。

 あほや……ほんまにあれがうちらと同じエージェントかいな……信じられへんわ……

 椅子に寄りかかって座っていた花枝は、吉見に連れられて教室を出て行くリューティガーへ冷ややかな視線を送っていた。

 せやけど……さっきのあん音……なんやろか……あの機械……まさか湿度計ゆうことはあらへんやろし……檎堂(ごどう)はんに聞いてみるか……

 転校初日から慌ただしい展開であると、花枝はうんざりして席を立とうとした。すると彼の前に、痘痕面の生真面目そうな顔をした男子生徒がやってきた。
「なんだ……お前……」
「僕はクラス委員の音原太一……よろしく花枝君」
「おう……」
 こいつは監視対象ではない。そう思った花枝は興味を示さず、彼から視線を逸らし学生鞄を手にした。
「川島先生に、君にこの仁愛を案内するよう言われてきた」
 事実は少々異なる。この提案は川島に対して音原から行われたものであり、川島は面倒くさそうに、勝手にやればと言わんばかりの態度だった。
 それにしても近持先生はいつ退院してくるのだろう。始業式後の職員室で音原太一はそう思い、せめて自分がしっかりとしなければと決意をあらたにし、転入生と向き合っていた。
「面倒くせぇな……今からか?」
 視線を合わせないまま、花枝はそう返した。
「そうだ。今からだ。僕についてきてくれ……」
「ふん……そうだな……」
 教室内をぐるりと見渡した花枝は、窓際の席で帰り支度をする、ある少女へ視線を留めた。
「あの子が一緒なら、ついていってもいいぜ」
 そう言われた音原は、花枝の視線を追った。
「椿さんか……なぜ?」
「別にいいだろ。男二人で校内デートなんて……嫌だと思っただけだ」
 花枝の鼻にかかった声で回答し、音原はまるで不良のような口をきく奴だと不快感を抱いた。
「椿さん!! ちょっと付き合ってもらえるか!?」
 音原の呼びかけに、小さな椿梢(つばき こずえ)は全身をびくんとさせ、不思議そうに首を傾げた。
「花枝君に仁愛を案内する。悪いけど椿さんも一緒に来て説明を手伝ってくれ」
 やってきた椿梢は花枝と音原を見上げ、小さく口を開けた。
「う、うん……いい……けど……」
「それと島守君!! 君も来てくれ!!」
 やりとりは目の端に入れていたものの、まさか声をかけられると思っていなかった遼は思わず自分を指差し、「俺!?」と返した。
「音原……か……? なんで島守を誘う?」
「君の要望を聞き入れた以上、僕の我が儘も加味させてもらう。これがバランスってものだ」
 絶妙の言い回しである。今日の自分は冴えていると音原は思った。
 小さく可愛らしく、大きなおでこがすべすべしてそうな、そんな椿梢は今の切り返しをどう見てくれただろうか。あくまでも未熟者である音原が彼女を見下ろすと、だが彼女は胸に手を当て、花枝をじっと見つめていた。

 なんだろ……変だ……

 音原に対しては名前を呼ぶのにつっかえたのに、なぜ遼のそれは淀みなく言えたのだろう。あまり一般的でない音の苗字であり、まだ言葉も交わしていないはずなのに、まるで彼は既に島守遼のことを知っているような、そんな違和感を椿梢は覚えていた。

 教室から廊下に出た一行はそこで立ち止まり、音原が両手を軽く広げて説明を始めた。
「この仁愛高校は1年が3クラス、2年が5クラス、3年が4クラスの構成になっている。今日転入してきた花枝君くんを合わせると……」
 リューティガーのときとまったく同じ説明だな。まるでマニュアルがあるみたいだと遼が感心していると、花枝は左手で言葉を制した。
「花枝君……?」
 口調が早すぎたのだろうか。花枝の突き出された掌に音原は戸惑った。
「うぜぇ……聞きたくねぇ……全部知ってる」
「な、なに……?」
「それよか……そっちのちっこいの……なんて名前なんだ?」
 椿梢を見下ろした花枝は不敵な笑みを浮かべ、両手をスラックスのポケットに突っ込んだ。
「つ、椿……梢です……」
「梢ちゃんね。わかった……じゃー一緒に行こうぜ。お前らもテキトーにな」
 椿梢の肩を何度か叩いた花枝は、上機嫌で廊下を軽快な挙動で歩き始めた。
「んだよ……あいつ……」
「ああ……」
 遼は花枝のわかりやすい態度に下唇を突き出し、音原はその背中を睨みつけ、しかし二人だけにしては問題だろうと、仕方なくついて行くことにした。
「梢ちゃんはどの部に入ってるんだよ」
「と、特に……部活は……やってないけど……」
 早足で廊下を歩きながら、積極的に話しかけてくる花枝に対して、椿梢は正面を向いたまま、肩をすぼめて困惑していた。
 これからの高校生活で、任務とは別に暇になる局面も多くなるだろう。であれば彼女の一人でも作っておけば、毎日に潤いというものが生じる。そんな程度の軽い気持ちの花枝だった。偶然目に留まった彼女があまりにも小さく、可愛らしく見えたから、それ以上の意図は彼になかった。
「じゃー俺も帰宅部ってことで」
「う、うん……」
「昼はどーしてんの? 弁当? 学食?」
「お、お弁当……ルディ……真錠くんと、いつも一緒に食べてるんだ……」
 少しは防御の必要がある。椿梢はそう思い、あえて自分が好意を寄せている男子の名を口にした。
「じゃー俺も弁当作ってこようかなぁ……しっかし、リューティガーと一緒に? やめとけってあんな奴。さっきだってすげぇ間抜けだったし」
 よりによって監視対象であるあいつと仲がいいのか。花枝は少しだけ不愉快になり、しかしそれならそれで、一定の関係は築きやすいとも思った。ならば悪く言うのはよそう。そう思い、椿梢にフォローの一言を付け加えようとしたが、隣にいたはずの彼女は既にそこにはいなかった。
「あ、あれ……」
 花枝が振り返ると、音原と遼に肩を支えられた彼女が、胸を押さえて息を整えていた。
「ど、どーした!?」
 何事かと彼が駆け寄ると、椿梢は苦しそうに見上げてきた。
「ご、ごめん……息が……上がっちゃって……いつもは……歩くぐらいなら、平気なのに……」
「椿さんは生まれつき心臓が悪いんだ……体育だって休んでるし、だから部活にも入っていない……花枝君が歩くのが早過ぎたんだ」
 音原の説明に、花枝は驚き、彼女の顔を覗き込んだ。
「ほ、ほんまに?」
 思わず出てしまった関西弁に、椿梢は苦しさを伴いながらもにっこりと微笑んだ。なんという健気な笑みなのだろう。花枝は汗が滲んだ少女の額にみとれ、すぐに我に返った。
「知らなかったとはいえ……ごめんな……俺、ついつい速く歩くクセがあってさ……」
「う、ううん……い、いいの……」
「だ、大丈夫? 保健室行く?」
「こ、こうしていれば……大丈夫だから……すぐに治まるから……」
「そ、そうか」
 一応安心した花枝は、彼女の背中に回り、遼と音原の手を払ってその肩を支えた。
 乱暴ではあるが、それほどひどい奴というわけではない。払われたのには少し腹も立ったが、こんなごく普通の軽い奴がまさか敵のエージェントだったり、ましてや異なる力の持ち主であったりはしないだろうと、遼は第一印象を改めようと思った。
 それにしても、椿梢が心臓病だとはまったく知らなかった。音原の言葉を頭の中で反芻した遼は、あらためて花枝に支えられる小さな少女を見つめた。確かに体育の授業を見学している姿は何度か目撃したし、何の部活にも所属していないこともそれとなくは知っていた。しかし、日常生活をごく普通に過ごしている彼女がそんな病を抱えていた事実に、遼は小さな衝撃を受けていた。


「彼が科学研究会……科研の現会長、江藤くんよ」
 1年C組の教室前の廊下で、リューティガーは一人の男子生徒と引き合わされた。
 色が白く、背丈は自分とほとんど変わりがない小柄で、ひどく痩せた体躯である。髪はいわゆる坊ちゃん刈りで、目は奥まり気味で、黒目の割合が多いつぶらな瞳だった。口元には薄く笑いを浮かべ、対したリューティガーは、彼の佇まいをどう解釈すればいいのかわからなかった。
「知らなかったの、真錠くん。入会希望だったのに」
 入会希望という吉見の言葉に、江藤の薄い眉がぴくりと動いた。
「う、うん……ごめんなさい……えっと……江藤くん?」
 名前を呼ばれた江藤はこくりと頷き、隣にいた吉見をつぶらな瞳を向けた。
「あーはいはい……」
 仕方無さそうに、吉見は江藤の口元に耳を寄せた。
「真錠くん。入会希望なら、何か制作物を見せてくれ。それが条件って会長は言ってるけど……さっきのアレ、湿度計出してくれる?」
 なぜ直接自分の口から言わないのだろう。リューティガーは江藤のコミュニケーション方法に疑問を抱き、腕を組んだ。
「えっと……あれは故障してますから……来週までに新しいのを作ってきますよ」
「新しいの? 修理すればいいじゃない」
「も、もっと凄いの作ってきますから……」
 まさか異なる能力の探知機を提出するわけにはいかない。リューティガーは勝手に動き始めた事態に対処するのがやっとであり、こうなってしまった要因である咄嗟の嘘をついた、今ここにいない長身の同級生を恨んだ。
「と、とにかく……よろしく……」
 場をまとめるためにリューティガーが右手を差し出すと、江藤は吉見の手首をだぶついたブレザーの袖ごと掴み、それを前に突き出させた。
「え? 私? そ、そうなの?」
 困惑する吉見に、江藤は無言のまま微笑み、頬を赤くした。
「あっとー……なーんでこーなるのか……よろしくね真錠くん」
 吉見は仕方なく会長の代理としてリューティガーと握手をし、彼の掌が案外ざらざらとした感触で、硬くしっかりとしているのが意外だった。

 なぜこのような事態になってしまったのだろう。吉見と並んでB組の教室へ向かって歩いていたリューティガーは、江藤会長の黒い瞳を思い出し、なにやら不気味であったとぞっとした。
「ねぇ真錠くん」
「は、はい?」
「あなた……ウチの研究会のこと……ちゃんと知ってるわよね」
「あ、え……は、はぁ……科学の……研究会でしょ?」
 リューティガーの返事に、吉見は太めの眉を顰めて小さく唸った。
「そっかぁ……じゃあ言っとくけど……」
「は、はい……」
「科学は科学でも……うちが研究してるのは、超科学だから」
「超科学?」
 廊下を並んで歩いていたリューティガーと吉見は、どちらからともなく立ち止まった。
「未実証理論とか……未確認現象とか……最近じゃそっちの研究の方が中心なのよ」
「未実証理論って……なんです?」
 縁なしの眼鏡を直して、リューティガーはそう尋ねた。
「超能力とかよ。だから普通の科学を期待してたらごめんね。それにうちの研究会、人数少ないから、入会希望を会長に言った以上、もう今から止めましたはなしよ。そんなこと言い出したら会長、あなたのこと怨み殺すわよ」
 吉見は脅すような口調でそう告げ、リューティガーはあの江藤という男子生徒であれば、結果はともかくとして怪しげな怨法の一つでも知っていそうだと、そんな想像をして気味が悪くなってしまった。

 なんでこんなことに……遼……どうすればいいんだ……

 巻き込まれてしまった。面倒で厄介な事態に。それほど深刻な事態にはならないだろうが、煩わしいことにはなるだろう。リューティガーは腕を組んでじっとこちらを見つめる吉見英理子に、決して無邪気とは言えない、淀んだ愛想笑いを浮かべた。

3.
 マンションの廊下に出現したリューティガーは803号室の扉を開け、中へ入った。
 帰って来ると大抵は、従者である陳 師培(チェン・シーペイ)が洗い物や食事の準備、あるいは掃除をしている場面に出くわすのだが、今日に限って彼はもう一人の従者、青黒き肌の異形の巨人、健太郎と食卓で向き合っていた。
 挨拶をしながらリューティガーへ向いた二人の表情は険しく、彼は何かあったのかと学生鞄を床に置き、空いている食卓の一角に着いた。
「坊ちゃん……頼まれていた件……今日相方が成果を持ち帰ってきたよ」
 いつもよりずっと低く、ゆっくりとした口調で陳がそう告げると、相方の健太郎が小さく頷いた。
 数日前より健太郎に与えていた指示は、与党民声党幹事長、幸村加智男(こうむら かちお)の尾行、および盗聴である。これは同盟からの指示ではなく、リューティガーの単独判断であり越権行為である。しかし年が明けても同盟から次の指示はなく、早期決着を果たすため、悩んだ末の命令だった。
 FOTの武器取引現場に、幸村の第二秘書が同席していた。これは数ヵ月前、この目で確認し、その身柄を同盟本部へ跳ばしたものの本部からは特に反応はなく、思えばその一件こそ、リューティガーが不信感を抱いた最初の出来事である。
 FOTはこの国の破壊と混乱を企てている。しかしその国の与党サイドの人間がなぜ。事が複雑なのであれば、その調査が必要である。そう判断して指示した盗聴と尾行であり、リューティガーは目配せで健太郎に報告を促した。
「三日間の盗聴結果は後ほど聞いてもらおう……」
「ええ……」
「俺と陳の判断結果だけをまず伝える……今月二十一日の金曜……最終ターゲットが品川、エグゼクティブポートホテルに現れる。時刻は午後六時から八時、滞在時間はおそらく三時間」
 最終ターゲットとはすなわち、兄、アルフリート真錠である。彼を送還、もしくは抹殺すれば今回の来日目的は果たせ、そうなればおそらく、現段階レベルでの越権行為は帳消しにできるはずである。
 盗聴結果を確認する必要もあるが、若き主は従者二人の判断力を信用していたし、これまで中々足取りが掴めないでいたターゲットの居所も、越権を覚悟で本腰を入れて調べれば、なんとか判明するだろうとの読みもあった。彼は食卓の上で両指を組み、顎を引いて口元に笑みを浮かべた。
「大きい成果です……ありがとうございます……健太郎さん……陳さん……」
 静かに礼を言うリューティガーに対して、二人の従者は頷き返し、この情報に基づいた作戦が展開されると覚悟した。


 あの日の教科書にノート、「久虎と三人の子」台本。筆記用具を入れた筆入れ。その他、いくつかの雑多な紙類。蜷河理佳が用具室に残していき、遼が家に持ち帰った彼女の学生鞄の、これがすべての中身である。
 ノートには丁寧な字で修学の成果が書き記され、教科書のあちこちにも蛍光ペンでのチェックがされ、彼女がFOTのエージェントだった事実を匂わせるような証拠はどこにも記されていない。
 どのような任務で、目的があって彼女は1年B組にいたのだろう。もし彼女が自分を守ってくれるためにいたのであれば、いくつか辻褄の合わないこともある。なにかを探りに来ていたのか。例えば敵対するリューティガー辺りを。それなら納得がいく。芝居の稽古で見せた、彼女のぞっとするような冷たい目も、リューティガーとほとんど言葉を交わさなかった日常も。
 机の上に置いた学生鞄をぼんやりと見つめながら、島守遼はこれからどうするべきかを考えていた。
 もう時刻は夜の九時を回り、父は隣の部屋で新聞を読み、自分も銭湯に行ってくるぐらいしか今日の用事はない。だからこそ、そんな何もない夜だからこそ、彼は考えていた。
 理佳の脳裏にいたあの白い長髪の男、試験場近くでラーメンを奢ってくれたあの青年が、おそらくリューティガーの兄、真実の人(トゥルーマン)なのだろう。彼を倒すのが目的であるということだが、おそらく、彼女にとって大切な存在なのだろう。
 遼は理佳が真実の人を大切に思っていたとしても、自分に対する想いに影響はないだろうと、その点についてはまったく疑いがなかった。だからこそ、真実の人を倒すという目的に関しては慎重に対応するべきだろうと思っていたし、その前に一度、彼女と再会するべきだと感じていた。
 そこが難しい。蜷河理佳へ近づくために、打倒真実の人に協力することになったが、もしその作戦がいま急に発動し、成功した場合、おそらくは彼女へ接近するルートも絶たれることになる。
 できれば追いつ追われつの泥仕合になることが好ましい。敵との接触も多く、馴れ合うような戦いであれば、彼女との再会ができるような気がする。
 しかしあの豪雪の日に繰り広げられた健太郎と白いマントの刺客との戦いは、いつ始まったのかもわからず、気がつけば決着していた。再会に繋がる何らかの情報をマントの男が持っていた可能性もある。しかし現実の戦いはあまりにも早すぎ、こちらの意図など入る余地もない。
 遼は頭の後ろに両手を当て、視線を天井に移した。

 俺に……もっと強い力があれば……いいんだけどな……

 たった5mm3程度の物体しか破壊できない今の力では、行動の選択肢が狭すぎる。遼がそんなことを考えていると、窓がカタカタと揺れ、やがてその音は明確なノックと判別できるように変化した。
「だ、誰だよ……っつーか二階だぞ、ここ……」
 有り得ない外からの接触に、遼はわざと疑問を声に出して窓際に注意を向けた。すると、カーテンの隙間に、栗色の髪が揺れ動くのを彼は発見し、息を呑んで窓を開けた。
「や、やぁ……遼……今晩は……」
 アパートの壁面に取り付けられた排水パイプを掴み、両足を壁にしっかりと固定した姿勢で、黒いコート姿のリューティガー真錠が無邪気な笑みを向けた。窓から頭を出した遼はその姿に眉を顰め「なんで」とつぶやいた。
「玄関から普通に来いよ。なんでそんなややこしい登場の仕方すんだよ」
「しゅ、出現場所がずれちゃって……何度来ても、この辺の住宅街って覚えられないんだよね……」
 パイプを掴んだ手は震え、額には汗が滲んでいた。山岳部でも困難な姿勢だろうと遼は呆れ、しかたなく右手を差し出すと、リューティガーは左手でそれに触れた。その次の瞬間、遼の姿は部屋から消え、更に次の瞬間には誰の姿もなくなって、カーテンが突風に舞っていた。

「あのな!!」
 突然空間へ跳ばされてしまったことを抗議しようと遼が声を荒らげると、彼の視界には陳、健太郎、そして高川の姿があった。
 ここは、リューティガーのマンションのダイニングキッチンだろうか。辺りを見渡した遼が腰に手を当てると、彼の正面で栗色の髪がなびいた。
「ごめん遼。とても急いでいた……」
「あ、ああ……」
 作戦会議かなにかだろう。面子から想像した彼は、食卓についている高川がこちらをじっと凝視し、額から汗を流しているのに気付いた。
 どうしたのだろう。なにを驚いているのか。そう声をかける前に、遼は彼のいつにない様子の正体に気付いた。
 高川は時々、隣に座る健太郎を横目で見上げて、その度に視線を逸らし、唇を舐めたり眉間に皺を寄せたりと落ち着かず、つまりそういうことかと遼は納得した。

 高川も……家にいるところを真錠に跳ばされてきたな……でもって健太郎さんか……こりゃ……相当混乱してるぞ……

 遼は強引とも思えるリューティガーの手口を不愉快だと感じ、彼を睨み付けた。
「なんかはじまるのかよ?」
「ああ……二十一日の金曜、午後に奴が品川のホテルに現れる。絶好のチャンスだ。そこで撃滅作戦を計画した。高川くんもいいね?」
「あ、ああ……」
 淀みのない早い口調だった。まるで反論の余地を許さないような、そんな態度である。コートを脱ぎ、食卓の上に置かれた書類の束を手の甲で叩くリューティガーに、遼は警戒する必要があると直感した。
「場所は品川、エグゼクティブポートホテル。到着予定時刻は午後六時から八時、滞在時間は三時間。目的は、ロシア人との会談。おそらくはどこかの部屋で行われるものと思われる」
「ロシア人……て、敵はロシアと通じているのか?」
 高川の問いに、隣の健太郎が「黙っていろ」と赤い瞳を輝かせてつぶやいた。
「役割を言う。僕と遼はこのホテルの正面向こう、世界ハム本社ビル屋上にて待機……ターゲットの居場所を特定次第、遠透視と時量操作による暗殺を敢行する。健太郎さんはキングホテルにて、無線傍受と生体反応、および各種反応のチェックをお願いします。陳さんと高川くんは、ホテル内にてターゲットの居場所を捜索。発見次第無線にてこちらへ知らせてください」
 リューティガーの指示に陳と健太郎は頷き、高川は困惑したまま視線を泳がせていた。
 彼にはもっと先に知りたいことがあった。なぜ気がついたらこの部屋にいたのか、なぜその後、島守遼が突然現れたのか、なぜこの青黒い化け物が自分の隣に座っているのか。できるだけわかりやすく、納得のいく説明が欲しかったが、そんなことを口にすれば、また赤い瞳が睨みつけてくるだろう。理不尽な暴力には徹底して立ち向かうのが完命流の精神だが、この状況はどうにも中途半端であり、高川はどう対応すればいいのかわからなかった。

「では次に当日のスケジュールについて説明します。当日は午後五時現地にて集合。ただし陳さんと健太郎さんは前日より待機、万が一動きがあった場合は連絡の上、授業中でも抜け出すつもりだ。そして当日までに関してだけど、陳さんと高川くんは、ホテルの下見を頼みます。これは回数にして二回。日程は二人にお任せします」
 そう命じられた陳は、対座する高川に「後で詰めるネ。下見のやり方は任せるネ」と言い、高川は「よ、よろしく頼みます」と緊張した面持ちで返した。

 んだよ……あれこれ進めやがって……どーゆーことだ……なんでこんな急展開なんだよ……

 遼は突然の事態に戸惑いを隠せず、リューティガーが手渡してきた資料のファイルを床に落としてしまった。
「驚いてるね……同盟からの指示を待つのは止めたんだ……このままじゃ巻き込まれる人が増える一方だし、きな臭い動きもあって僕たちも安全じゃない……だから全力で行く……いいね……」
 ファイルを拾い上げたリューティガーは、毅然とした態度で遼に告げた。
「あ、ああ……ああ……」
 遼はファイルを受け取り、中身に目を通した。
「正直言って、計画実行までの間が少ない……人手も足りないから穴だらけの計画だ……」
 リューティガーはそう言ったが、ファイルの内容を読んだ遼は、単純なだけに成功の可能性は高く、これは相当まずいと思った。

 以上……どうする……今すぐ打てる手があるのなら……手助けでもするか……?

 代々木パレロワイヤルの裏手、駅前通りへと続く路地に花枝幹弥は佇んでいた。携帯電話の震動を感じた彼は、それを開いてメールの文面を確かめた。

 そのままか……は……なんのために来たのかわからへんな……

 裏切り者、アルフリート真錠の送還、もしくは抹殺のため派遣された先発隊のリーダー、リューティガー真錠に叛意の兆し有り。檎堂、花枝の両名は直ちに日本国に赴き、その監視を行え。なお、それと同時に同国における各勢力の情報収集も行うこと。
 これが作戦本部長、デビッド・ハルプマンより下された命令である。
 確かに勝手な情報収集に基づく作戦展開は越権行為であり、叛意と言ってしまってもいいが、その目的はアルフリート撃滅にある以上、協力ぐらいしてはいいのではないだろうか。花枝はそう思っていたが、檎堂からの指示はあくまでも「待て」だった。
 あの熊のようにむさ苦しい男は、自分とまったく同じ指示を本部長から受けているのか。それともキャリア相当の裏情報や、秘密の指令でも与えられているのだろうか。
 信用などできないな。花枝はそう思い、頭につけていたヘッドフォンを人差し指で後頭部へ押し外した。

4.
 始業式の翌日からは通常の授業スケジュールであり、そのあとは新学期最初の部活動である。部室のパイプ椅子には決まった席順というものは存在せず、一年生に関しては部室に来た順に適当に座っていたが、最近ではある程度配置も固定化され、島守遼は同じクラスということもあって、神崎はるみの近くに座るようにしていた。
 しかしこの日、部室にやってきた遼は、いつもの座席位置にはるみの姿を認めると、避けるように窓際のぽつりと残った椅子へ向かった。
 なるほど。避けるつもりか。腰掛ける遼を横目でみたはるみはその意図を理解し、しかしそうそう無視などさせはしないと決意を強くした。

「と、ゆーわけで、新部長になっちゃいました……前部長の意志を引き継いで、しっかりした舞台ができるよう頑張りますので、みなさんよろしゅう!!」
 黒板を背に、二年生の福岡章江が部員たちに挨拶をした。今日は新学期初日ということもあり、最近では顔を出していなかった三年生たちも全員出席し、福岡の部長就任挨拶を拍手で歓迎した。
「平田先輩の、強い推薦だって」
 A組の針越という女生徒が、背後から遼に小声でそう言った。
「そっか……」
 次の部長は、その平田先輩だろう。勝手にそう予測していた遼は、笑顔で皆に頭を下げる福岡が新部長だという結果を、正直なところ意外に感じていた。しかし、オブザーバーとしての役割を好むということもあるのだろう。平田先輩なら、それもあり得る。ともかく、彼女であればなんとなく明るく楽な部活動になるだろう。窓際から差し込む冬の遠い陽を浴びながら、遼にはそんな予感がしていた。

「永遠です……永遠に変わることはありませぬ……山が動き……海が割れようとも……あなたを夫と思う私の気持ちは……永遠なのですから……」
「愛姫……も、もったいなきお言葉……この前原……」
 立ち稽古で台詞を詰まらせた遼は、目の前でこちらをじっと見つめるはるみの大きな瞳から視線を逸らし、大きく咳払いした。
「こらー!! なーにやってんのよ!!」
 部長に就任したばかりの福岡が、彼に檄を飛ばした。
「す、すんません……も、もう一度……」
 台詞はほとんど覚えているし、そもそも台詞に詰まってしまうような事は、これまでにもほとんどなかった。なんという失態だろう。遼ははるみに対してぎくしゃくするのも大概にしろと、そう自分に言い聞かせた。

「正月ぼけですかね……」
 稽古の様子を眺めていた平田は、隣で同じようにしている乃口前部長にそう言った。
「神崎さんに……驚いてるんじゃない?」
 乃口の見解に、平田は「あぁ」と納得の言葉を返した。
 今日の立ち稽古を見る限り、神崎はるみは蜷河理佳の代役を立派に務めようとしている。身体の動き、台詞の緩急などはまだ及ばない点があるものの、なにより真剣に芝居に取り組み、反応も機転も良く、抜擢は成功だったと言える。これまで端役でしかなかったクラスメイトの意外なる能力に、島守遼は戸惑っているのだろう。乃口と平田は共にそう思い、稽古の続きを注目した。

「この小刀は……一文字家に代々伝わる宝刀……これをあなたへ……私の愛の形として、受け取ってくださいまし……」
「このような物を拙者に……愛姫……そなたの愛……しかと受け取りましたぞ……」
 台詞を、感情を交わらせながら、遼は次第に芝居へ集中し始めていた。戸惑いが消えつつある。その感触を得たはるみは、もっと手繰り寄せるには、とにかく真面目に芝居をするしかないと、より集中した。

 避けるんなら……避けてればいい……けど……ここでは……逃さない……注目させてみせる……全部……打ち明ける気になるまで……

「私の思いは前原様と添い遂げること……それ以外にはなにもありませぬ……」
「おぉ愛姫……そなたの愛があれば、拙者はいかなる軍勢をも打ち勝ち、その功をもってそなたを迎えられることであろう!!」

 遼は、はるみを抱き締め、彼女の髪から柔らかい香りを感じたが、掌には何のイメージも伝わってこなかった。

 ぎこちないな……島守……まぁ……そうだろうけどね……

 疑惑は中身こそ明確ではなかったが、器の存在はもう明白である。すでにそう確信していたはるみは、愛姫という彼の相手役を務めようと懸命で、その真剣さは周囲の部員たちにも緊張した空気となって伝わっていた。

 いい感じで、皆が神崎はるみの頑張りに引っ張られている。この芝居はいける。稽古を見ていた平田は手ごたえを感じ、丸めた台本に込められた力を強めた。


「そこまで一緒に行こうよ」
 立ち稽古の後、部室から出ようとした遼は、はるみに呼び止められ立ち止まった。無視してもよかったが、昨日今日と意図的に避けすぎていたせいもあり、稽古で彼女との距離も縮まっていたということも手伝い、遼は駐輪場ぐらいまでならいいと判断し、「うん」と短く答え、二人で廊下に出た。

「福岡部長ってさ……まだ言いづらいよね」
「ま、まーな……乃口部長って今日も三回ぐらい言っちゃったし……」
「あ、それわたしもよ!!」
 駐輪場まで並んで歩きながら、遼とはるみはそんな言葉を交わしていた。
「な、なんか照れちゃうシーンが多いよね。今度のお芝居」
「ま、まーな……愛だの運命だの、大げさだもんないちいち」
「昔のだもんね。それに、もとのシンベリンはシェークスピアの中でも初期作品だし」
「詳しいんだな」
「結構研究してるんだよ。テレビの舞台中継とか欠かさないで見てるし、シェークスピアで映画になったのも借りまくったし」
 両手を後ろに回し、学生鞄を持ったはるみは、階段を下りながらにんまりと微笑んで、遼を見上げた。

 話題……逸らしてんな……なに考えてるのか知らねぇけど……

 遼はそう理解し、ならば付き合ってみるか、短い距離だしと思った。
「シンベリンは……映画になってるんだっけ?」
「さぁ……どうだろう。近所のレンタル屋にはなかったなぁ」
「近所にあるのか? レンタル屋」
「うん。駅前にできたの。いっつも混んでるよ」
 下駄箱までやってきた二人は、靴を履き替えた。
「どんなのよく見るんだよ」
「お芝居の参考以外だと……それでもやっぱり映画かな」
「ジャンルとかは?」
「普通にロマコメとか好きだし……あ、アクション物とかも」
「何が一番面白かった?」
「最近では……トム・クルーズのコラテラルが良かったかな」
「コ、コラテ……?」
「最近の洋画って、原題そのまんまなのよねー。わっかり辛いったらないわよ」
 はるみは口を尖らせると、左手を前に出して人差し指をくるりと回した。

 こーして普通に話してるぶんには……まぁ……いいのかもな……

 仕草のいちいちが可愛らしいとも思える。これまで彼女に対してそんな気持ちになったことなどない遼は、そうした感じ方に逃げ場が欲しくなり、視線を近づいてきた駐輪場へ向けた。
「あ、ガンちゃーん!!」
 駐輪場で帰り支度をする巨漢の男子生徒を見つけた遼は、彼へ向かって駆けていった。
 逃げられたか……

 はるみは遼の姿を見ながら、いい感じで会話が進んでいたのに。と顔を顰め、バイクの側から手を振るもう一人の男子に注意を向けた。

「あ、ああ、島守くん……部活?」
「ああ。今終わったとこ……ガンちゃんもバンド?」
「うんそうだよ」
 坊主頭に丸い鼻。太い眉毛にとろんとした半開きの眼はおっとりした印象を醸し出し、遅れてやってきたはるみは、遼と親しげに言葉を交わす、丸々とした彼が誰だろうと記憶を辿った。
「あー岩倉次郎!! わたしたちの後にロックやってた」
「あれー? 神崎さん?」
 岩倉次郎ははるみに屈託の無い笑みを向けた。
「し、知ってるの? わたしのこと」
「もちろん!! だって僕、生徒会選挙で神崎さんに入れたもん」
「そ、そーいえばそんなこともあったわね……」
 苦い敗北を思い出したはるみは口元をむずむずと歪め、遼と岩倉を見上げ比べた。
「あ、いやさ、ガンちゃんもバイクだから。俺たちよく話すんだよ。ここで」
「そうなんだ……バイクねぇ……」
 はるみは岩倉の背後に、まだ新車の輝きを保つ二輪車の存在にあらためて気付き、遼の説明に頷き返した。
「すごいんだぜ、ガンちゃんって。昔記憶力日本一でテレビにも出たんだぜ」
「や、やめてよ、島守くん……神崎さんの前でそんな……照れちゃうよー」
 岩倉は大きな腹を揺らし、遼の肩を強く掴んだ。
「いた、いてて……ガンちゃんセーブセーブ!! パワーセーブ!!」
「ご、ごめん……けど困るよぉ……そんなにヨイショしちゃあ……」
 隣のクラスなのでどのような人物かよくは知らなかったが、はるみはひたすら照れる岩倉次郎に悪い印象は抱かなかった。ただ遼がこうした友人を自分の知らない場所で作っていたことが少し意外で、それが妙に悔しくも思えた。
「あっいいこと思いついた……ガンちゃん……これ読んでみてよ」
 遼は学生鞄から台本を取り出し、それを岩倉へ手渡した。
「いいけど……」
 岩倉は台本を受け取り、台本をぱらぱらと読み始めた。
「神崎……驚くことになるぜ、たぶん……」
「そ、そうなの?」
「だってさ、バイクのスペックとか丸暗記なんだぜ……」
「けど……台本を一度見ただけじゃ……」
 岩倉が数ページ台本をめくったことを確認すると、遼は「ストップガンちゃん」と合図し、手を叩いた。
「さて……」
 台本を岩倉から返してもらった遼は、それを開いた。
「ガンちゃん……一ページ目から……覚えてること言ってみてよ」
「う、うん……えっと……2005年度新入生歓迎公園……久虎と三人の子……シンベリンより……脚色……平田浩二……次のページは白紙で……次のページは一文字久虎(シンベリン)平田、愛姫(イモージェン)神崎、前原直治(ポステュマス)……島守」
 岩倉の言葉はその後も続き、その丸まる暗記された内容にはるみは凝視したまま立ち尽くし、思いつきで試してみた遼もさすがに驚いていた。

 ど、どうなってんだ……こいつの頭の中は……

 暗記と言っても、大雑把な概要的な言葉が出てくると思っていた遼は、記録装置のような正確さで台本の内容を棒読みする巨漢の彼に、今までよりずっと興味を抱こうとしていた。

5.
「コウムラ氏の推薦ともなれば、まぁ、それには驚いたが、こちらとしても信用せざるを得ないな」
 広いホテルの一室、黒いソファに座る大柄な初老の白人男性は、対座する白い長髪の青年に、照れを隠すように頭を撫でながら英語でそう言った。
「自由民声党を動かすのに、かなりの時間とカネを使いましたよ……」
 白い長髪の青年、真実の人(トゥルーマン)はそう返し、テーブルに置かれたティーカップを手にした。
「しかしだからこそ、我々の信頼も得られたというもの……」
「少尉殿は以前、我々の戦力不足を懸念しているとおっしゃられてましたが……心変わりは民声党の後ろ盾だけではないでしょう。大佐」
 大佐と呼ばれた初老の白人男性は、青年と同じようにティーカップを手にし、中身を口に運んだ。

 腹のうちは全てみせないってことか……まぁ、そうだろうな……

 真実の人は無言のまま紅茶を飲む大佐を一瞥し、背後で待機していた三名のスーツ姿の男たちへ振り返った。
「例のものを……」
 青年にそう言われたスタッフの一人は、出口付近に置かれたジュラルミンケースを抱え上げ、それを大佐の傍らまで運んだ。
 大佐はケースを持ってきた男を見上げると、意外と年齢が高いな。と思い、他の二人も中年域を超えつつある、自分とそれほど年代が変わらない者であるという事実に気付き、青年に対する格付けを少しだけ高めた。
「お確かめください……USドルで用意した前金です」
 真実の人はティーカップを置き、その手で大佐を促した。
「いや……それには及ばんよ……信用関係は構築されたのだからな。それより私はとても安心しているのだよ。あの厄介者をこれで処分できるのだからね」
 そう言うと、大佐は紅茶を飲み干し、ソファから立ち上がってジュラルミンケースの取っ手を握った。
 重み相応の現金がこれには詰められている。大佐は確信し、卑しさを青年から隠すため、顎をゆっくりと回すように傾け、「Хорошо」とつぶやいた。

 港区虎ノ門。外国人宿泊客が多いことで知られる、とある高級ホテルの裏手と、銀行に挟まれた路地に、ヘッドフォンを頭につけたダウンジャケット姿の花枝幹弥の姿があった。夜になると寒さも増す。彼は肩をすぼめて身を低くし、ビルの谷間風からできるだけ当たる面積を小さくしようと努めていた。

 しかしどいつもこいつも無用心やな……まぁ、この力は防ぎようがあらへんし、聞こえ放題やけどな……

 花枝は意識を集中し、はるか離れたビジネスホテルの一室にいるはずの、ある男の姿をイメージした。
 それはずんぐりむっくりした体躯で黒いハイネックのセーター姿の、手に杖を持った髭面の男のイメージである。

 檎堂はん……いいか……いまからいいか……

 そう意識した直後、腰のポケットに入れた携帯電話が震動したため、花枝はその行為を継続した。

 大当たりだったぜ……真実の人はここにいた……会談相手は例の大佐……一人だ……しかし何の取引かまでは判明しない……コウムラ氏の推薦があったから、大佐はFOTを信用するといっているが、その原因は他にもあるらしい……FOTもそれを知りたがっているようだ……で、何らかの交渉が成立したらしい……前金をFOTが支払った模様……音からするに……なにか大きな金属製の箱だ。そして次回会談は二十一日……品川のホテルで、名前は……

 自分が知覚した情報を全て念じた花枝は小さく息を吐き、頭を軽く振った。すると、携帯が再び震動したため二つ折りのそれを開いた。

 判断を待て……か……

 携帯メールの文面を目にした彼は再び息を吐き、それは先ほどよりずっと長かった。
「なに聞いてるの?」
 いつの間に、このような子供が近くまで来ていたのだろう。赤い髪を両サイドで結んだその少女は自分の腰ぐらいまでの背丈しかなく、幼女というほどの年齢に見える。背伸びをしながら見上げてくる目は興味いっぱいで、白い外套がよく似合っていた。
「なんだ?」
「なに聞いてるの?」
 繰り返し尋ねてくる少女に対する疑惑の目盛りは危険域を超え、花枝はいつでも全力が出せるように警戒した。
「お嬢ちゃん、親はどこにいるんだ? 迷子か?」
「ねぇ……なに聞いてるの? そこからは……何が流れているの?」

 空気が裂かれ、斬撃は下から上へ弧を描いた。上体を反らした花枝はそのまま左足を上げ、右ひざを折りながら、正面からの攻撃の正体が、対面する少女の赤い髪の束であることに気付いた。

 報告にあった……不定形かいな……!?

 右手を地面につき、そのまま転がるように少女から離れた花枝は、片膝をついた姿勢で鼻の下の汗を手の甲で拭った。
「なんや自分……FOTのエージェントか……?」
 問われた少女は、異常なまでに伸びた右サイドの赤毛を地面すれすれに漂わせた。
「ライフェ・カウンテット……さて……あんたはどこのスパイかしら……」
 そう言うと、白い外套姿の少女は顎をくいっと上げ、両サイドの長すぎる赤毛が渦を巻くように彼女の周囲を取り巻いた。
「聞いといてそれかい!!」
 攻撃を察知した花枝は、背後にあった銀行ATMの自動ドアへ駆け、中に転がり込んだ。彼は、閉まろうとする自動ドアのガラスに赤毛の束が打ち付けられるのを目の当たりにし、驚愕した。

 まさに化け物やな……せやったら……

 意識を集中し、少女を睨み付けた花枝だったが、彼の正面にあった自動ドアは開かれ、大量の赤が視界に飛び込んできた。
「しまった!!」
 自動ドアは防壁としては、あまりにも何もかもを招き入れる。自分のキャリアのなさを悔やんだ花枝は、侵入してきた赤毛が監視カメラを捻り潰し、両肩を締め上げ、首に巻きついてきたので、いよいよ必殺の一手を打つべきだと奥歯を噛み締めた。
「くらえ!! DEAD OR ALIVE!!」
 両サイドの赤毛をATMスペースへ伸ばしていた少女は、さてこれからどうやってあの敵を尋問しようかと不敵に微笑んでいた。すると、彼女の意識に巨大な塊のような何かが、ひどく雑然とした騒音と共に突然現れた。その質量と音量は後頭部に激痛を走らせ、やがて痛みは頭全体を襲った。

 呻き声と共に、両耳から鮮血を噴き出し、小さなライフェはその場に倒れ、彼女の全身は大きく震えた。

 な、なに……この重さ……頭の中に直接……うるさいのが……まだぁ……

 震えはやがて痙攣に変わり、彼女の全身は子供の大きさから十代の少女のそれまで伸び膨らみ、ATMスペースから喉を押さえて出てきた花枝は、黒いウエットスーツのような服装に変わっている彼女を遠くから見下ろし、自分の予想が正しかったことを確認した。
「やはり不定形か……それが本来の……センターフォームってことだな……」
「な、なにをした……お前……私の頭の中に……」
「へへ……必殺のDEAD OR ALIVE……テレパシーにはこんな使い方もあるってことだ……どうだい、意識ん中にゴミを一方的に投げ捨てられた感覚は……」
「な、なんですって……じゃあ……異なる力……」
「少し喋りすぎたな……まぁいいや……死ぬんだからな……お前はここで」
 少女のそばまでやってきた花枝は、彼女を見下ろして口の片端を吊り上げた。
「はばたき!!」
 星のない夜空に向かって、少女は叫んだ。
 突風が路地に吹きすさび、堪らず両手で頭を覆った花枝の背中を、上空からの蹴りが襲った。
 ありえない方向からの一撃に彼は地面に叩きつけられ、肘と頬骨を痛打した。やられる。その殺気を感じた彼は転んだ体勢のまま前転し、ホテル裏口の屋根下へ飛び込んだ。
 兆弾と、翼のような何かが羽ばたく音が花枝の鼓膜を刺激し、体勢を立て直した頃には、路地に倒れていたはずである赤毛の少女の姿はなく、代わりに茶色い鳥の羽が何枚か落ちていた。

 改造……生体……飛行型の……か……

 花枝は屋根の陰から上空を見上げ、羽の生えた巨大なシルエットを一瞬だけ見た。ここに居続けるのは危険である。そう認識した彼は、背中に痛みを覚えながら、ビル街を駆け出した。


 昨日作戦の打ち合わせがあったばかりだというのに、この高川という若者はここを訪れ、ありったけの疑問を若き主へぶつけている。自分に対して正直なのは、この場合我々にとって有益なのだろうか。食器を洗いながら、陳は背後で交わされる会話に注意を向け続けていた。
「超能力とでも言うのか? 昨日のアレは?」
「ええそうです……我々は異なる力と呼んでいます。僕と……敵である真実の人……共にこうした能力の持ち主です」
「て、敵にもいるのか……し、しかし……」
 高川は割れた顎を太い親指でこすり、納得のいかない様子で視線を左から右へ滑らせた。
「信じられないでしょう……最初はなかなか……」
「触れただけで相手を跳ばせるのなら……果たして……俺の武は……いかなる使い道があるというのだ……」
「安心してください高川くん。異なる力を持っている者はごく稀で、敵も真実の人以外は確認されていません。同盟のエージェントの中にも、格闘技だけで任務を果たしている人は大勢いますから……」
 リューティガーの言葉に高川はそうかと頷き、嬉しそうに口を小さく開けた。
「私も武を使うネ」
「ち、陳(ちん)さんもそうなのですか?」
 丸々と太った体躯、あまりにも似合いすぎているエプロン。ユーモラスな鯰髭。高川にとって陳は、とても武の道を進む者には見えなかった。
「私、料理人であるのと同時に暗殺プロフェッショナルネ」
 そう言われて見ると、陳の全身にはしっかりとした筋肉が乗っていて、身のこなしも淀みがなく所作に切れがある。高川は自分も見る目が足りないと「すまぬ」と頭を下げ、それにしても「暗殺プロフェッショナル」とは、なんという残忍な稼業かと、少しだけ怯えた。
「それから……私の名前はチェンね。“ちん”じゃない。あなた間違ってるネ」
 注意をされた高川は、「す、すまぬ」と再び頭を下げた。
「この国の人……もうみんな謝るの早すぎるね……」
 エプロン越しに腹を擦った陳は主に微笑みかけ、リューティガーもそれに笑い返した。
 和やかさがベースにあるものの、高川典之にとってこの状況はやはり異常であり、自分は果たして対応していけるのか、不安なままだった。

6.
 “在日米軍は規模縮小を!!”
 “ファクト騒乱で何もやらなかったあなた達は必要ありません!!”
 “誤射事件の究明は済んでいない!!”
 “子供達が安心して暮らせる日本を!!”
 “将来的な撤退を視野に入れろ!!”
 赤いマジックでそう書かれた白地のプラカードや看板を手にしたその一団は、朝から東京福生市にある米軍横田基地のゲート前に集合し、フェンス越しにざわめいていた。
 人数はたった十名。ゲートでトラックの出入りを監視する兵士も、彼らをこれまでに何度も見ているため、全員の顔までよく覚えてしまっていた。
 だからこそ、昨年秋ごろから一人の少女が彼らに加わっている事実もよくわかっていて、警備兵はあんな少女が珍しいと口々に噂していた。
 高橋知恵(たかはし ともえ)。仁愛高校1年B組の生徒である。オーバーコートにマフラー、手袋といった防寒装備でこのささやかなるイベントに参加していた彼女は、メガフォンで叫ぶ青年の声に合わせて時には復唱し、時には右手を挙げ、小さな存在感を周囲に示していた。
 長い髪は手入れが行き届いていないのか、細々とした枝毛を生じさせ、目は大きいが、その周りの筋肉が脆弱すぎるせいか、ぎょろりとしているようでもあり、白すぎる肌は美しいというよりは、ただ不健康そうでもあり、“病的で放っておけない”と“ちょっとやばいのでは”の間を行ったり来たり浮遊している、そんな印象を周囲に与えていた。

「今回は警備の人たちにも届いたのでは!?」
 基地近くのファミリーレストランで、デモに参加していた一人がそう大声で言った。
「あぁ、間違いないね。パレスチナ派兵で兵士たちの心は揺れている。その上我々の、あの抗議だ。絶対気になってる人もたぶんいるって」
「そうよねー!! きっとそうよねー!!」
アルコールのない、料理とジュースが並んだテーブルを囲み、十人の男女は本日のデモの成果を、どこか上ずった声で自己採点していた。
 一人、高橋知恵だけがジュースを手に持ちストローを咥え、隅の席で大人しくしていたが、彼女に明確な注意を向ける者は皆無だった。
「関名嘉(せきなか)さん。次回はどのタイミングでやりますか?」
 中年女性にそう尋ねられた、トレーナー姿の銀縁眼鏡をかけた青年は、小さく咳払いをしたあと、残りの九名を見渡した。
「次は来月六日。パレスチナ派兵当日だ。その日はテレビもくるし、他のグループも集まる……一番効果的だといえる」
 落ち着いた口調で青年はそう言った。理知的な佇まいをもった、物腰の柔らかそうな彼を、高橋はじっと見つめていた。
「連続婦女暴行殺害犯は、やっぱり黒人米兵だったって噂ですね。関名嘉さん」
「うん増田君。僕もその情報は集めている……これが事実なら、相当な打撃を与えられるだろうな。米軍撤退の気運も高まる」
 理知的な銀縁眼鏡の青年、関名嘉は隣に座っていた男にそう言うと、再び全員を見渡し、席が分かれてしまった隣席のメンバーにも小さく頷きかけた。
「許せませんよねほんと!! あいつらはまだ終戦直後と勘違いしてるのかしら!?」
 興奮した中年女性が、テーブルをどんと叩いた。
「ストレスのはけ口を暴行に求めるのは、兵士のモラルが低下しているからだ。彼らだって家族の待つ故郷に帰れば、よき夫であり、よき息子であり、よき市民の一人なんだ。だから我々は、そんな彼らに帰ってもらうよう、これからも運動していかなければならないんだ」
 関名嘉が言葉を終えると、八名は誰からともなく拍手をはじめ、それはやがて周囲にいた別の客の頬を引き攣らせるほどの音量になった。
 一人、高橋知恵だけが拍手に参加せず、じっと青年の横顔を見つめ続けていた。

「こまるよ。はっきり言って」
 薄暗い一室の中央に設置されたダブルベッドの上で、関名嘉はそう言い、上着を脱ぎ捨てた。
「は、はい……」
 オーバーコートを椅子に掛けた高橋知恵はベッドに上がると、煙草に火をつける関名嘉の隣に座り、彼を見上げた。
「あそこは“ともっち”も拍手してくれなきゃ……特別扱いがばれたら、みんなが嫉妬するだろ」
 煙草のフィルターを噛みながら、ニコチンを吸い込んだ関名嘉は両手を広げ、左肘が少女の上腕を痛打した。
「ご、ごめん、痛かった?」
「い、いいえ……ご、ごめんなさい……わたし……ついつい関名嘉さんを見るばかりで……」
「う、嬉しいけどさ……僕は議長だし……」
「気をつけます……今後は……」
 口元に手を当て、高橋知恵は全身を小刻みに振るわせ、大きな瞳を潤ませながら、消え入るような声で言った。
「ああ頼むよ……」
 関名嘉は少ししか吸っていない煙草を腰のすぐそばに置いた金属製の灰皿に押し付け、ベッドから立ち上がった。
「あ……」
 高橋は関名嘉の手首を咄嗟に掴んだが、非力な彼女の手は彼の挙動を制することができず、ベッドの上に倒れこんでしまった。
 うつ伏せになった少女を、ベッドから降りた青年は冷ややかな目で見下ろした。
「なに……それ……」
「シャワーは……一緒……」
 顔をシーツにつけたまま、少女は唸るようにつぶやいた。
「わかったよ……早くしろよ」
 青年の言葉に、高橋知恵をゆっくりと身体を起こし、口元をわなわなと歪めた。
「それよかさ……ともっち……」
「う、うん……」
 関名嘉は“ともっち”と呼んだ少女の手を取り、ベッドから降りる彼女の肩を抱いた。
「六日のデモは、いろんな団体が合同だ……呼びかけの俺たちが十人しかいないってのはサマにならないだろ……」
「う、うん……」
 肩にまわされた手が胸に伸びてきたので、少女は背筋をぞくりとさせ、青年を見上げた。
「学校で……参加者なんか集めてくれると嬉しいな……」
「う、うん……誘ってみる……」
 期待をするような、それでいて不安なような、それらが混ざったいびつな表情だ。関名嘉は身体を寄せる少女にそう思い、だが表情は殺したまま薄笑いを浮かべ続けていた。

 都内港区、有栖川公園。正式には有栖川記念宮公園といい、元は御用地だったのだが、地元の人間でもそれを知らぬ者は多い。その中にある池のほとりに、黒いスーツ姿の真実の人が佇んでいた。
 夜の公園は犬の散歩にくる中年男性や、カップルなどが行き交い、青年はできるだけ人気のない場所を選び、街灯の下に現れたパーマ頭へ笑みを浮かべた。
「悪いな、長助」
「はばたきから聞いたぜ……ライフェがやられたって?」
 トレンチコートのポケットから煙草を取り出した藍田長助は、それを咥えて火を点けた。
「いま治療中だ……インフォオーバー……テレパシーによる情報過多で脳に衝撃を受けたが……大事には至らなかったみたいだ」
「ってことは……ライフェはサイキとやったのか?」
 長助の言葉に、真実の人は池の柵を両手で持って頷いた。
「俺と大佐の会談を張っていたらしい……サイキである以上……盗聴された可能性は高いな」
「そうか……じゃあどうする真実の人(トゥルーマン)。計画は変更か?」
「いや……大佐は怯えてもいる……早めにこの件にケリをつけたがっているから……次回の本交渉は予定通りにやる」
 真実の人の考えは変わらない。ここまで落ち着いて述べたことを、彼はこれまでに変えたことはほとんどない。長助は煙を吐き、池をぼんやりと眺めた。
「じゃー……春坊も呼んどくか……ガードの足しにゃなるだろう」
「そうしてくれ……にしてもさ……」
 柵に背を向けた真実の人は、それに寄りかかって両肩を上げた。
「うまくいっちまったぜ、おい」
「だなぁ……」
「長助が代議士どもにいい夢見させたおかげだよ」
「よく言うぜ……」
 長助は再び煙を吐き、煙草を手にしていない方の手を小さく左右に振った。
「でだ……問題がある……」
 真実の人は上空を見上げ、月をじっと見つめた。この季節は虫の音もなく静かである。静か過ぎる晩は、内緒話には向かない。青年は正面に頭を下げ、声を細めた。
「輸送方法だ……俺の力だと、そこにあるって認識している範囲だから……見通しのいい場所で一キロが限度……森や山なんかが入ると、せいぜい百メートルぐらいが限界で、取り寄せるのは不可能……回数が増えすぎる」
「となると……空路か海路か……しかしあれだけのものだしな……確実な運搬方法となると……」
 問いかけられた厄介ごとに、長助は腕を組んで首をゆっくり傾げた。
「今すぐ解答は出ないだろ……俺にだって無理なんだ。だから宿題にしとく……米倉たちにも出しておくから……お前も考えてくれ」
「わかった……」
 難題である。そう思った長助だったが、同時に意外と単純で、とても近くに答えが転がっているような気もなぜかして、それが少々気持ち悪くもあった。
「で、次なんだけど……理佳はどうだ?」
「あ……うん……失敗のショックから大分立ち直ってる……最近じゃ春坊に冗談まで言うようになったらしいし……」
「そうか……元気になったか……」
 真実の人は柔和な笑みを浮かべ、長助の報告に喜んだ。

 よく言うぜ……つるりん太郎を仕向けたのはてめぇのくせに……

 青年のいくつもある顔を長助は理解していたが、決して賛同などするつもりはなかった。
「理佳に次の指令を出す……」
「そ、そうか……」
 真実の人の言葉に、長助は緊張し、煙草を地面に投げ捨てた。
「暗殺だ……ターゲットと場所は追って伝える……出張仕事になるだろう……理佳には、そのこととハウスを出る準備をしておくよう言っておいてくれ」
「なぁ真実の人……」
 長助が何を言いたいのか、真実の人にはよくわかっていた。だから彼は、
「理佳でないと駄目だし……理佳はやらないと駄目なんだ……」
 と静かに語り、両目をゆっくりと閉ざした。
 彼女はずっと苛酷な中にいなければならないのか。長助は、だがそれを理佳が望んでいることをよく知っていたし、止めることはできないとも知っていた。なぜなら、この世界にあの黒髪の少女を招き入れたのは、誰でもない自分だからだ。
 吸い殻を踏みしめた藍田長助こと“夢の長助”は、「了解……」と低く返し、再び真っ黒な池を見つめた。

7.
 いつ呼び出しが来るかもしれない。一月二十一日の金曜日は、そんな緊張感が朝から張り付いたままであり、遼と高川は授業に集中することが出来なかった。
 午前の授業も終わり、学生食堂までやって来た遼は、食事中の呼び出しが最悪であると思いつつ、先に座席についていた高川の対面に、うどんを載せたトレーを置いた。
「すげぇな高川……」
 彼がカツ丼とカレーの二つの皿に取り掛かってたので、遼は驚いて自分の月見うどんと見比べた。
「カツカレーにも出来るので一石二鳥だ」
 そう言うと高川は背筋をぴんと伸ばした姿勢で食事を再開し、素早い挙動でカレーとカツ丼を交互に口へ運んだ。

 蜷河理佳の失踪以来、食事は学生食堂で済ませることが多い遼だった。ただ一緒に食べる面子は、沢田だったり西沢だったり、麻生だったり関根だったり、ごく稀に上級生の平田などと様々であり、高川と同席するのは今日が初めてである。
 なるほど、作戦当日だからパワーを蓄えているのだろう。遼はそう納得し、自分も後でパンでも追加しようと思った。
「いい? とーもり」
 だみ声が彼の耳をくすぐり、何事かと思うと、隣に玉子丼を載せたトレーが置かれ、ほとんど金色の茶髪が揺れ、粉っぽい化粧品の刺激臭が遼の嗅覚をついた。
「鈴木かよ……」
 隣に座ったクラスメイトの鈴木歩(すずき あゆみ)を、遼は横目でつまらなそうに見て、高川はその存在を無視して食事を続行した。
「杉本は?」
「別にいーでしょ。なにそれ、うどん?」
 鈴木は遼の器を覗き込んだ後、野暮ったい化粧顔を彼に向けた。
「月見うどん」
 遼は答えた後、それにしても酷い化粧の臭いだと感じ、臭気を相殺できるカレーなどを頼んでおけばよかったと後悔した。
「ぐーぜんじゃん」
「どこが偶然だよ。お前の玉子丼だろ」
「だって玉子」
 その指摘に、遼は思わず「あっ」と声をあげ、鈴木はしてやったりと微笑み、化粧顔を崩した。

 うわ……キモ……こいつ化粧落としたら、どんな顔なんだ……

 遼は隣で微笑む少女に対して素直にそう思い、高川は相変わらず無視をしたまま、胃袋にパワーの源を放り込み続けていた。


 なぜ彼が沢田の席に座り、机ごとこちらを向けて弁当を食べているのだろう。リューティガーはにこにことサンドイッチを頬張る花枝幹弥を一瞥し、隣で弁当を食べる椿梢に視線を向けた。
「サンドイッチってさ、これが案外奥が深いんだよね。俺、今朝なんかトマトサンドにするか、ハムチーズサンドにするか、一時間ぐらい悩んだし」
「なら両方作ってくればいいのに……」
「だよな。うん。明日からそうするわ」
 切り口も雑なサンドイッチをちらりと見た椿梢は、バリエーションを増やす前に、まずは包丁の使い方を練習するべきだと思い直したが、下手に口にすると、この垂れ目で茶髪の転入生は倍以上の言葉で返してくると予想し、仕方なく弁当を食べ続けた。
「花枝くんは……どこに住んでるの?」
 リューティガーは彼女に助け舟を出すつもりでそう尋ねたが、花枝は無視したまま、椿梢に笑顔を向けていた。

 なんなんだ……こいつ……

 意図的に無視しているのか、それとも椿梢から注意を逸らしたくないからだろうか。リューティガーはどうにもこの転入生に対し、関わるきっかけというものを見つけ出せないでいた。

 午後の授業も終了し、遼が学生鞄を手に立ち上がると、リューティガーは正面を向いたまま小さく頷き、高川は振り向いて大きく首を縦に振った。
 本日は現地集合である。遼は教室から出て行き、高川がそれに続いた。
 後ろからその様子を見ていたはるみは、高川の反応にひどく戸惑った。

 なに……高川……今の……わかったって感じで……どういうこと……?

 高川と疑惑を共有していると思っていたはるみは、まるで遼たちと示し合わせたかのような彼の態度に疑念を抱いたため、思わず席を立った。
 だが、もう一人の疑惑の主であるリューティガー真錠は、帰り支度をしてはいるものの、遼と高川に続いて教室から出て行く様子はなかった。
「真錠くん……ちょっといいかな……」
 声をかけようとしたはるみだったが、それは彼の前からやってきた、小柄で制服をダブつかせたクラスメイト、吉見英理子によって先手を越されてしまった。
「吉見さん……」
「こないだ提出してくれた入会試験の機械だけど……結果が出たから会長と会ってくれるかな?」
「い、今からですか?」
「うん……会長、すぐにでも会いたいって」
「わ、わかりました……」
 吉見に連れられ、リューティガーは教室から出て行った。ということは、今の遼と高川のやりとりに、彼は絡んでいないということなのか。だとすれば、やはり遼を追う必要がある。そう判断した彼女は鞄を手に、慌てて教室を飛び出した。
「よかった神崎……まだ帰ってなかったな」
 廊下に出たはるみは、担任の川島教諭と出くわし、右肘を前に突き出し、全身の勢いを殺した。
「な、なんです川島先生」
「あのな……お前に用があるって……」
「だ、誰がです?」
 急がないと、遼も高川も校舎の外へ出てしまう。少女は焦っていたが、川島はのんびりとした口調で、いつも通りの眠そうな目つきだった。
「えっとな……あー……内閣……内閣なんだっけな……なんか背広の男だ……北校舎の自習室で待ってもらってる……一緒に来てくれないか」
 川島はそう告げると、猫背を向け廊下を歩き始めた。
 内閣の人間ということは政府関係者か。だとすれば財務室に勤める姉に関連したことだろうか。とにかく行ってみなければわからないと、はるみはとりあえず川島の後をついていった。

「どうも……」
 自習室の窓際に立っていた青年は、背が高く紺色のスーツ姿で、真ん中で分けた髪は長すぎず短すぎず、尖った顎が特徴的で、きりっと締まった表情である。真面目そうな人だな。はるみの第一印象はそんなありふれたものだった。
「えっと……」
 コートを手にかけていた青年に、はるみは人差し指を立て、思い出せることはないかと考えた。
「神崎……はるみさんですね」
「は、はい……」
 はるみが答えると、青年は小さく微笑んだ。

 なんだろう……この人……

 青年の態度が妙になれなれしいとはるみは感じた。そしてこの笑みは、かつてどこかで見たような、そんなかすかな感覚が少女の記憶を刺激しようとしていた。
「覚えてませんか……那須と言います……内閣特務調査室……特務調査室の者です……当時は蕪木(かぶらぎ)さんと最初にお伺いして……その後も何度か……一人でおじゃまして……」
 ゆっくりと、早口にならないように気をつけながら青年は少女に言った後、眉を上げて首を傾けた。
「あ……蕪木って……なんだろう……えっと……」
 薄ぼんやりとした記憶が、次第に鮮明な形となりつつあった。はるみは頬を引き攣らせ、何度も首を傾げ、思い出すことに集中した。
「あ……ナス……ナスビの……」
 少女の言葉に、青年は両膝を少し曲げ人差し指を突き出し、「そう!!」と叫んだ。
「あー!! ナスビのおにーちゃん!?」
「そうそうそう。そのナスビです!!」
 全身から喜びを発した見知らぬ青年と、驚き、両手で口を覆った教え子。一体この光景はなんであろうかと、入り口の扉に寄りかかっていた川島は不思議に思った。
「先生」
 青年が声をかけてきたので、川島は「はい?」と答えた。
「申し訳ないのですが……神崎はるみさんと二人にしていただけませんか? プライベートにも関わる質問をさせていただきたいので」
 自分は担任だから、別に同席してもいいだろう。川島はそう反論しようとしたが、聞いた内容がもし重要事項で、その責任を自分も負ってしまうことになったら、それはそれで厄介だと思い、「はいはい」と返事をして教室を出て行った。

 バイクでいったんアパートまで帰った遼は、まだ集合時間まで間があると安心し、自分の部屋で学生服を脱ぎ、革のジャケットに着替えた。

 真錠の立てた計画が……全部うまくいったら……理佳ちゃんには会えなくなる……

 できれば失敗に終わり、双方無傷のまま終わって欲しい。そう願いながら遼はヘルメットを拾い上げ、部屋を出た。
「なんだ、遼。出かけるのか?」
 台所にはスーパーの袋を提げた父、島守貢(とうもり みつぐ)の姿があった。
「バイトか?」
「いや……友達のところ……」
「夕飯はどーする?」
「食ってくわ……」
「そっか」
 貢は小刻みに頷き、袋の中の食材を戸棚や冷蔵庫に移した。

 玄関から出た遼は、後ろ手で扉を閉ざし、大きく息を吐いた。

 殺しに行く。これから品川まで、テロリストの首領を殺しに行く。殺害、抹殺、撃滅。血管をブチ切る。急所を壊す……
 
 彼は後頭部を扉に軽くぶつけ、再び息を吐いた。

 この国の平和を守る。悪と戦う。テロリストの野望を阻止する。正義、防衛、救う……

 どうにも言葉が思いつかない。だが、今はもう行くしかない。島守遼はポケットからバイクのキーを取り出し、それをじっと見つめた後、意を決した。


「七年ぶりなのに、ちっとも変わらないんですね」
「そ、そうですか? これでも経験を積んだつもりなんですけどね」
 はるみの指摘に那須は自分を見渡し、後頭部に手を当てた。
「神崎さんは、やっぱりもう女子高生なんですね」
「ええ。一年生ですけど……」
 かれこれ十分近くは昔話をしていたため、はるみはこの青年が、一体何の用があって自分を訪ねてきたのか、いい加減それが気になろうとしていた。
「もしかして……教室ジャックのことですか?」
「あ、は、はぁ……そうですね……そろそろ本題に入らないといけませんでした……」
 はるみの切り出しに、那須は表情を少しだけ硬くした。
「あの事件のことなら、警察の人に見たことは全部話しましたけど……」
「ええ……調書は読ませていただきました……今日は別件です。以前、神崎さんのクラスにいて演劇部でも一緒だった、蜷河理佳という人物について、二、三お伺いしたいのですが……」
 内閣特務調査室の彼が、なぜ蜷河理佳について尋ねてくるのか。はるみは思わぬ方向から、何か核心に近づく方法がやってきたような気がして、胸に手を当てた。
「理佳の……こと……?」
「そうです……転校の際……何か気になったことはあったでしょうか?」
 ないと言えば嘘になる。転校の直前、通り魔が学校に侵入したその日、彼女は自宅を訪ね、遼を助けてあげてと頼んできた。その様子は悲しげで儚げで、決意の末の訪問といった様子であり、“気になること”どころではない。

「別に……特にありません……私と理佳……蜷河さんは、そんなに親しくありませんでしたから」
 なぜこんな嘘をついてしまうのか、それは彼女にもわからなかった。
「そうですか……部活も一緒だったのに?」
「ええ……彼女は主演格、私は雑用がメインでしたから……あんまり……」
 ならばむしろ交流がありそうだと思えたが、那須は質問を止めると床に置いていた鞄を開け、中からDVDケースを取り出し、それを開いた。
「このディスクに見覚えは?」
 ケースの中に入っていたのは、ありふれた、どこにでも売っているDVDである。しかしはるみは、このディスク自体によく見覚えがあった。

 まさか……これって……

 学園祭での演劇部の上演は、放送部の協力によりビデオに撮影され、それはDVDに記録された。後日、部員や関係者に配布するため、自分と針越の二人でコピー作業を行い、その際にこのブランドのDVDを使用した覚えがある。

「なんです……このDVD……」
「先月二十四日に発生した、ある事件現場に落ちていたものなのですが……お宅の……演劇部の劇が入ってましてね」
 配布したDVDの全てはケースの紙に印刷を施し、このように売ったままの白紙状態ではない。それにディスク表面にも、字の上手い針越が全てにマジックで“仁愛高校2004年度学園祭演劇部発表・金田一子の冒険”と書いたはずであり、無地である目の前のDVDはその二点において、自分たちが作ったものとは異なる。

「あ……」

 はるみは思わず呻き声を上げ、そのあと咄嗟に、「違うか……」と嘘の付け足しをした。

 これ……ケースとディスクのブランドが違う……ってことは……ナスビさんは中身をどこかで見つけて……適当なケースに入れた……? それに……無地のディスク……一枚だけ……あった……うん……あったよ……

 コピーミスだろう。あの日、そう判断して廃棄したディスクを、後になって枚数が足りないためゴミ箱から拾い上げ、それを再生してみたところ特に問題なく見ることができたので、じゃあこれはあいつのでいいやとケースに名前を書いて、それだけ別にしておいた覚えがある。あれはそんなどさくさだったから、ディスクに何も書いていない、無地のままのはずである

 島守の……ディスクだ……

 彼はクリスマス・イブの晩、芝居のDVDはないかと尋ねてきた。それを思い出した少女の背筋に、電流のような痺れが走った。

 島守……あんたなにやってんのよ……この人……警察よりすごいところの人なんだよ……

 引き攣った笑みを浮かべたはるみは、那須を見上げて、「やっぱり……心当たりありません」と、彼女にしては小さな声で言った。


 神崎はるみに……この声は那須って役人か……なんの聞き込みや……まったく空振りやあらへんか……

 北校舎の裏で、花枝幹弥が腕を組み、頭にはヘッドフォンを付け佇んでいた。

 まぁ……一応、檎堂はんには報告やな……

 彼はヘッドフォンを外すと、今度は聞くのではなく、考えを飛ばすことに意識を集中した。

8.
 品川駅前、地上十五階のエグゼクティブポートホテルのロビーは、金曜日の夕方ということもあり、訪れる人や宿泊客で賑わっていた。その中に、萌黄色のチャイニーズスーツに身を包んだ陳師培の丸々とした体躯も混ざっていた。
「高川……一部屋ずつ丁寧にヨ……それと、外からの通信にも、注意を傾けるように……」
 ロビーの隅、トイレの近くで、陳は手元に隠した通信機に向かってそう指示を出した。
 黒い上下は昨年、母方の祖父の葬式に新調した喪服である。高級ホテルで違和感のない正装といえば、これぐらいしか高川典之には用意できなかった。彼はホテル二階の廊下を、小型イヤフォンから聞こえてくる陳の指示に耳を傾けながら歩いていた。

 まずは……この203号室か……

 扉の前で立ち止まった高川は、上着のポケットからリモコン大の探知機器を取り出し、ぎこちない手つきでそれを操作した。
 これは、一定のDNAパターンに反応する探知機であり、ここ数日、ホテルの下見を陳とした際、高川は使い方のレクチャーを何度も受けていた。上部の液晶に“reaction”の文字が出ればターゲット確認。直ちに全員へ連絡をする手はずになっている。探査範囲は七メートル、扉程度の障壁であれば通過探知は可能であり、連続稼働時間は三時間である。
 敵との接触における最前線を、作戦初参加の彼が務めるのも頼りない現実だが、朝からこのホテルに入っている陳と、外からの監視を続けている健太郎はターゲットの到着をまだ未確認であり、だからこそ陳がロビーで人物の出入りを監視し続ける必要があった。もちろん、空間転移などでターゲットが突如ホテル内に出現してくる可能性もじゅうぶん高く、予め宿泊名簿で調べておいた十五部屋に及ぶ“怪しい部屋”を調査する必要も同時にあった。
 203号室には反応がなく、高川は肩を落とすのと同時に、引き攣った笑みを浮かべてしまった。


 高川が調査を行っているその頃、遼とリューティガーの姿は、ホテルの対面に位置する、世界ハム本社ビル八階屋上にあった。本来立ち入り禁止であるここにはフェンスもなく、一段低くなった溝に身体を押し込め、二人は並んで体育座りの姿勢をとり、眼前のホテルを注視していた。
 夜風が痛い。遼はそう感じ、革ジャケットの襟を立て、隣のリューティガーに視線を移した。
 落ち着いたものである。少なくとも、外から見ている分にはそう感じる。彼には空間転移の能力があるから、こんな危ない場所でも平気なのだろうし、それ以上にこうした作戦に慣れているようにも見える。
 一体、こいつはどのようなこれまでを送ってきたのだろうか。遼はふとそんなことを考え、その視線を感じたリューティガーは「ん?」と注意を向け、小さく微笑んだ。
「健太郎さんに、花枝幹弥くんの尾行を頼んでみた」
 唐突に何を言い出すのだろう。作戦が始まっているのに。遼はそう思ったが、抱えていた自分の両膝が震えているのに気付き、なるほど、紛らわしてくれるのかと理解した。
「ど、どうだった?」
「本格的にじゃないけど……たぶん……彼はなんでもないと思う」
「やっぱそうか……なんか……感じ悪いけど、普通の奴だもんな」
「時々学校に残ってぼうっとしてることもあるみたいだけど……ヘッドフォンで音楽聴いてるだけみたいだし……特にどうって感じじゃない」
「なるほどね……」
 花枝を見た瞬間、自分は直感的に何かを感じたが、それも思い過ごしということだったのだろうか。ふと遼は、それと関連してリューティガーに頼み、どたばたした結果を生んだ、ある出来事を思い出した。
「なぁ……探知機が音出したの……結局あれってなんだったんだよ」
「反応は……有りということだった」
「じゃあ……」
 花枝はやはり、自分と同じ種類の人間だったということなのか。遼は驚き、膝を抱える両手に力を込めた。
「ああ、けど花枝くんが、異なる力の持ち主ということにはならないよ」
「ど、どうして?」
「そこまで範囲は絞り込めていない……教室の……誰か別の人が使っていた可能性もある」
 リューティガーのその言葉に、遼は息を呑んだ。
「誰か……別にいるってことか?」
「七号探知機は、異なる力を使った際に生じる、特殊な脳波信号を電気的に受け、反応するんだ……つまりあの日、あのタイミングで、教室で異なる力が使われていたということになる」
「け、けっこう大雑把な感じなんだな」
「それでも精度は上がってるよ。ただ……条件が広すぎる……もっと人数とか状況を絞り込まないと……誰がどんな力を使ったかわからない」
 実際は、探知機が蓄積したデータを本部へ解析依頼を出せば、もっと限定した結果を導き出すことができる。しかしこの“異なる力の持ち主探し”はあくまでも越権行為であり、そんな手助けをしてもらうことは出来なかった。
 それに、今日の作戦が成功すれば、もうそのような解析は無意味である。だからこそ、リューティガーは新たな能力者探しにそれほど興味はなかった。
「ところでさ……遼、探知機の件なんだけど……科研って嘘……なんで出てきたんだ?」
「科研?」
「科学研究会だよ。吉見さんに聞いたんだけど、君の言ってた入会課題って……」
 遼はようやく何の話か理解し、声を上げて何度も頷いた。
「あれね。前、沢田から聞いたんだよ。科学研究会って、何か検査機器とか作ってもってかないと、入会できないって。あ、やっぱ吉見さんだった?」
「ああ、彼女は科研のメンバーだよ」
 だからこそ、咄嗟に嘘をついた際、そのフォローを頼もうと思い、遼は窓際へ視線を向けたのだが、小さな吉見はまったくこちらの意図に気付かず、じっとリューティガーを見つめていた。
「でさ、ルディ……入るのか?」
「もう課題は提出して……ついさっき、入会が認められたよ」
「へぇ……よかったじゃん」
 無神経な遼の言葉に、リューティガーは眼鏡をかけ直し睨み上げた。
「どうして僕が科研になんて、入らないといけないんだ?」
「なら断ればいいじゃん」
「探知機のことが怪しまれるだろ? 僕は君のついた嘘で、これから週一回は怪しげな会合に出席しなくっちゃならないんだぞ……」
 それはそれで、面白い息抜きになるのではないだろうか。遼はそう思ったが、リューティガーはどうやら本気で怒っているようなので、それ以上の軽口はやめた。

 まぁ……吉見さんじゃなぁ……

 あまり会話をした記憶もないが、傍から見ている限りは、無愛想で言葉も少なく、友達も少なそうな少女である。彼女が一緒では、あまり華やかで楽しい気分にはなれないだろうと遼は思い、その点については当事者のリューティガーと認識がずれていた。
 リューティガーにとって吉見英理子は、はっきりと物を言う、腹を探る必要のない付き合いやすいクラスメイトであり、科研に関して言えば、彼女の存在は唯一の救いである。
 それにしてもこんな状況で科学研究会のことで本気になって怒るこいつは、なんと肝が据わり場慣れしているのだろう。フェンスもない八階で身を縮こまらせながら、いつ来るかも知れない合図に緊張しながら、遼は隣で座るリューティガーを少しだけ尊敬した。
「お前さ……これまでに、どれくらいの任務をこなしてきたんだよ」
 遼のそんな問いに、リューティガーは両膝の上に顎をのせた。
「これまで……ミッションを四つクリアした……アフガン……ロス……香港……ベルリン……」
「四つも……」
 その度に、今回のように学校に転入し、普段の生活をカモフラージュしながら任務をこなしてきたのか。遼はリューティガーのこれまでを現在と照らし合わせてみた。
「一日で終わったのもあったから……ただ……僕の原点は、その任務にはない」
「原点?」
「うん。僕が訓練を受けた後、最初に経験した実戦……バルチでの一ヵ月が僕の原点だ」
 そう告げたリューティガーの紺色の瞳に、遼は強い意を感じた。
「同盟が雇った傭兵部隊に僕は配属された。出向って形だったけど、実際は兵士の一員だった」
「戦争……したのか……あの……バルチで」
 どこまでも灼熱で、この国よりずっと太陽を大きく感じたあの大地を、遼はまだ鮮明に記憶していた。
「そう……銃を手にして……荒野を駆け、砂に隠れ……敵はゲリラだけじゃない……日光……飢え……医薬品の不足……仲間の不安……苛酷な一ヵ月だったよ」
 そんな言葉の割には、どこか懐かしむような、そんな穏やかさを遼は彼から感じた。
 原点。自分にとっては何がそれにあたるのだろう。あるいは、今が原点になろうとしているのかも知れない。遼は激しさを増す夜の風に目を細め、正面のホテルを見つめた。

9.
 遼がじっと見つめるエグゼクティブポートホテルのある一室に、真実の人とそのスタッフが三名、そして「大佐」と呼ばれる初老の男と、もう一人中年の白人男性がいた。真実の人と大佐はいつものようにソファに向き合って互いに薄笑いを向け合い、スタッフと中年の男はそれぞれの代表の背後で立ち、表情は険しかった。
「全て現金で用意させてもらった……」
 真実の人は英語でそう言うと、背後に立っていたスタッフに指で合図をした。
 六個のジュラルミンケースをそれぞれ両手に持ったスタッフたちは、大佐の背後にいた男の前に、それを置いた。
「確認はいいぞ、少尉……」
 背中を向けたまま、大佐は背後の男に命じ、真実の人に笑みを向けた。
「これでこの取引もあと一手で終わり……そういうことだな、三代目」
「ええそうです……後は我々が弾頭を受領すれば、取引は完了です……」
「しかし……どう持ち込むつもりだ? アレを」
「ご心配なさらず……優秀なスタッフが、最良の策を用意いたしますので」
 片目を閉ざし、自信有り気に真実の人がそう返し、二人の間にわずかばかりの沈黙が流れた。
「弾頭だけでは……アレの運用はままならんぞ……」
 大佐の言葉に、真実の人は大佐の欲を感じ、これならこの人物は制御できると感じた。
「その点においても考えています……ですからむしろ、最小限の弾頭部分の購入にこだわったわけですし……」
「しかし三原則を順守するべき与党が口添えをするとは……この国もどうなるのかな?」
 お前が、ロシア軍のお前が言うか。真実の人の背後に戻った三人のスタッフは、大佐の言葉に失笑してしまいそうだった。
「隷属をよしとしない……真実の独立国家に生まれ変わることを望む……そんな人々が、行動を起こしつつあるということですよ」
「だが……勝てるのか?」
「勝とうとは思っていません。いや……これはいささか言葉が踊り過ぎですな……」
 苦笑する真実の人に対し、大佐は身を乗り出した。
「いやいや……私としても深く詮索はせんよ……今後ともよろしく。三代目真実の人」
「ええ……」
 閉ざしていた目を開けた真実の人は、果たしてこれだけの現金のうち、何パーセントを彼個人の懐に収めるのかと想像し、この大佐も初対面の頃と比べると、ずいぶん立っている場所を下げたものだと呆れていた。

 醜い奴との取引だろうが……これで一歩前進だ……

 大佐の背後に置かれた、現金の詰められたジュラルミンケースへ視線を移し、真実の人は、あの大金をこれまでいかにして集めてきたかを思い出し、静かに両目を閉ざした。


 エグゼクティブポートホテル七階の廊下、718号室前の扉付近で、探知機の液晶に“reaction”の表示を認めた高川は、入れ替えるように通信機を取り出し、“発見”の短縮ボタンを押した。同時に彼のイヤフォンに、低く掠れた健太郎の声が飛び込んできた。
「こちら03。通信コード検出されずだ。いけるぞ」
「こちら01。05は02と合流。106、107時対応を」
 続いて入ってきたリューティガーの指示に、高川は“了解”の短縮ボタンを押し、足音を立てないように、慎重な挙動で廊下を駆け出そうとした。

 来た!?

 ほとんど直感であった。高川は背後からの気配に右肘を後ろに下げ、そこを中心として円を描くように摺り足で反転した。
 肘に、鋭利な切っ先が到達したが、装着していた分厚いゴム製の肘当てのおかげでその感覚は伝わらず、高川は自分でも無意識のうちに、短刀を突き立ててきた者の手首を掴み、自身の体重を腰の下へ落とし、両膝を柔らかくした。
 短刀は床に落ち、手首からずしりと重い衝撃が伝わってきた。先制攻撃に失敗した刺客は身体のバランスを崩し、両膝を柔らかい絨毯につけた。

 外国人……それも……少年……!?

 手首を掴んだまま、高川は両膝をついた襲撃者が、東南アジア系の少年であることに気付いた。空軍ジャケットにリュックを背負った彼は、高川に強い意を向け、掴まれていた手を引き寄せた。
 みかけによらず、なんという腕力だろう。引く力は予想以上に強く、高川は手首を離し、右拳を軽く握る形で構え、左手を腰の高さで泳がせた。

 稽古場より身体が動く……!?

 着慣れないスーツである。踏みなれない絨毯である。なにより、短刀を持った者との組手など、初めての経験である。しかし高川は、稽古のときよりずっと判断力が冴え、身体が自然に対応している事実に気付きつつあった。


 霞命砕(ふめいさい)……いけるか……

 高川はまだ自分には伝授されておらず、師範や兄姉弟子たちがごく稀にしか披露したことがない、ある奥義を試してみようかと思った。
 しかし、その目論見は、廊下の角から現れた人影によって諦めざるをえなかった。そう、その人物の手には拳銃が握られていて、立ち止まって両手で構える挙動に淀みはなく、涼しげな細い目には殺気が宿っていた。

 言わず、聞かず、無心で撃て。それが、仙波春樹(せんば はるき)が十代の頃より教わった、攻撃の極意である。彼はプログラムされたかのように何の躊躇もなく、高川に向かって引き金を引いた。
 それより僅かに早く、高川の背中は強い力で押され、彼は前のめりに転倒した。

 廊下に伏した後頭部すれすれに、空気を切り裂く音を彼は耳にした。これは通過する弾丸のせいなのだろう。一体誰が自分を押したのかと高川が意識を向けようとすると、その眼前で倒れていた東南アジア人の少年が、起き上がって718号室の扉に向かって駆け出していた。
「まて!!」
 高川の傍らで、左腕を振り抜いた姿勢で、陳がそう叫んだ。彼の腕が伸びる先では廊下の陰に隠れる仙波春樹の姿がちらりと見え、もっと手前のリュックを背負った少年は今まさに718号室へ飛び込もうとし、高川は状況を瞬時に呑みこんだ。

 知らされてなるものか。しかし、この騒ぎは中に届いているだろう。

 陳と高川の判断は同一であり、二人はともに後退しながら、リューティガーが必殺の一手を既に成功させていることを祈った。

 闘争が廊下で繰り広げられている頃、向かいの世界ハム屋上では、リューティガーと遼が、ともに額から大量の汗を噴き出し突風の吹く中、フェンスもない縁を掴み、エグゼクティブポートホテルを凝視していた。

 二人は手をしっかりとつなぎ合い、そのイメージと思考を共有していた。

 いた……奴だ……遼……!!

 リューティガーの異なる力、遠い場所を透視することのできる遠透視により、ホテルの718号室はこちら側にも面していないのにも拘わらず、その室内の光景が遼の脳裏にはっきりとしたイメージとなって浮かび上がっていた。

 あれが……真実の人……

 ソファに座り、対座する大佐と会話をしている白い長髪の青年。理佳の心に存在し、文化祭に観劇に来て、運転免許の試験場でラーメンを奢ってくれたあの青年。彼を倒せば全ては終わる。リューティガーや陳、健太郎は帰国し、当たり前の日常が帰って来るはずである。
 身を乗り出した遼の上体を突風が吹きつけたが、視覚情報はホテルの室内だったため、彼は恐怖を感じず、冷静になろうと心がけた。

 けど……奴を倒したら……理佳ちゃんには……

 残党ということになるのだろうか。リーダーを失った彼女は、追われ、探され、捕らえられるのだろうか。その頃には自分の関知できない、闇の世界で。

 ルディ……どうする……

 動脈破壊でも……なんでもいい……遼の知っている急所を……破壊してくれ……

 あ、ああ……うん……け、けどさ……この角度からじゃ……俺の知ってる急所は……どうだろう……
 遠透視と言っても、カメラアングルはあくまでもリューティガーの現在位置を基準としている。真実の人はやや斜め後ろを向いて、その手前には三人の背広姿の男が控えていて、どうにも見えづらいと遼は思った。

 わかった……もっと寄る……

 リューティガーは意識を集中し、背広の男たちを透かし、真実の人の後頭部まで知覚範囲を接近させた。

 どうだ……遼……

 い、いや……総頸動脈を破壊したい……一番確実だ……けど……この角度だと……解剖図鑑と違うし……よく……わからない……

 なら……奴の体内を透視する……総頸動脈の位置はわかってるから……

 リューティガーは、ここにきてあれこれ注文をつける遼に苛立ちつつあった。時間などないのだ。高川が居場所を知らせてきたということは、奴のガードが動き出す可能性もある。健太郎が電波工作をしているものの、通信内容はともかく、高川が調べているという目に見える事実までは隠蔽できない。
 確実に、一撃で仕留める必要がある。もし少しでもずれ、奴が体内にちくりとでも痛みを感じれば、この仕掛けは水泡に帰す。

 どうだ、遼!!

 リューティガーの遠透視は、遂に真実の人の体内まで達し、血管の束と筋肉のイメージが二人の脳裏に広がった。

 う、うぇぇぇぇぇぇ!!! キモォォォォォ!!

 あまりにもグロテスクなイメージが全体を覆ったため、遼は堪らず口の中で叫び、その感情の爆発は手を握るリューティガーにまで流れた。

 な、なんだって!? 遼!!

 だ、だってこれ、う、うええ!!

 人体内部について、解剖図鑑で見慣れていた遼だが実物はあまりにも生々し過ぎ、そもそも破壊に関して腰が引けていた彼は、“気持ち悪い”という感覚に耐えることなく無防備に受け止めていた。

 な、ならモノクロにする……これなら……

 リューティガーは遠透視情報から色の要素を抜いた。しかし次の瞬間移ったのは、真実の人の体内ではなく、真っ黒なイメージだった。

 な、な……!?

 遠透視の望遠を、部屋が見渡せる位置まで下げたリューティガーは、下唇を強く噛み、そこから出血した。

 開かれた扉。うろたえる白人二人と、スーツ姿の三人、そして転がり込んできた東南アジア系の少年。突風になびく観葉植物。

 その部屋に、白い長髪の彼はもういなかった。

10.
 陳は高川を守りながらホテルより脱出し、やってきた健太郎と合流し、路地に停めておいた赤い軽自動車へ乗り込んだ。
「陳さん!! 成功したのですか!?」
 助手席で安全ベルトに手間どう高川に、陳はエンジンをかけ、猛スピードで車体をバックさせながら、「たぶん駄目ネ!!」と叫び、後部座席の健太郎も力強く頷いて同意した。
「ルディ……島守がしくじったのか……」
 高川は安全ベルトの装着を諦め、路地から出た正面ガラスに広がったホテルを見上げた。
「一瞬のタイミングが全ての作戦だったね……けどお前が気付かれるのが早すぎたし、坊ちゃんたちが仕掛けるのも遅すぎた……連携の失敗と言いたいところだけど……」


 なんという高さだろう。リューティガーの遠透視から開放された遼は、身を乗り出したそのはるか下に渋滞の車列を認め、あわてて身体を引いた。
 その隣では、溝に身体を戻し、すっかり落胆したリューティガーのしゃがみ込む姿があった。
「ご、ごめん……ルディ」
 隣へ同じようにしゃがみ込み、頭を下げる遼に対して、リューティガーは首を横に振った。
「いや……僕が計算違いをしてたし……もっとリハーサルをやっておくべきだった……」
 過大評価だったのだろうか。バルチの難局を切り抜け、教室ジャック犯と顔無しの改造生体を殺害したというこの現地協力者に、自分は頼りすぎていたのか。リューティガーは両膝に顎を乗せ、視線を靴に落とした。

 たぶん……やってないな……遼は……やって……ない……

 従者たちが感じていた疑惑に彼もようやく至り、しかしそれにしても情けない結末になったと落胆した。

 我慢はできたと思う。確かに気持ち悪かったが、気合いでなんとかならないレベルではなかった。しかし現実問題として、透視されたイメージは情報量が多すぎて、どれが総頸動脈か判別できなかったと思える。
 もし角度さえ合えば体内のイメージの必要もなく、浅側頭動脈を狙えたが、それでも即死を狙うのは無理だろう。奴があんなに早く空間へ跳べるということは、治療もすぐにされてしまうということである。殺すのなら、もっと奥の動脈にするべきだ。

 なに……殺すとか……真剣に考えてんだよ……俺……

 遼も肩の力を落とし、二人はビルの屋上で元気なく、ただ疲れていた。


「檎堂さん……弾頭って、なんだと思う?」
 五反田駅前の焼き肉店で、花枝幹弥はパートナーである檎堂猛と合流し、最初のカルビを焼き始めていた。
「通常か……特殊か……まぁ……拳銃のことじゃねぇだろうから……この場合は……」
 肉の焼ける音が大きく、くぐもった低い檎堂の声は届かなかった。しかし大声を促そうものなら叱られるのはこちらである。花枝は仕方なく、次の肉を金網に載せた。
「しっかし……しくじるとは思わんかったわ……あいつらアホかと思ったぜ」
「交渉内容は知らないのだろうな……どうせ」
 檎堂はなんと返事をしたのだろう。熊の様な彼の髭面をちらりと見た花枝は、唇の動きで言ってることを予想するのも、髭と煙で難しいと思った。
「所詮は……目があっても有効には使えねぇ……手だけの連中ってことだ……」
 またもや檎堂の声は聞き取れず、花枝は肉をひっくり返そうとし、金網に引っ付いたため舌打ちした。

 あー……この安肉め……!!

 檎堂はケチだと思う。打ち合わせに焼き肉とメールで見た際に、すでに不安になっていた花枝だったが、まさかここまでランクを下げるとは思っていなかった。

「なぁ花枝……」
 若い相棒を煙越しに見た男は、傍らの玉ネギや椎茸を網に乗せた。
「なんだ……檎堂さん……」
 はっきりと、ようやく声が聞き取れたので、花枝は返事をし、焼けた肉を小皿に移した。
「最後に物を言うのは情報だ……目と耳で集めた情報が重要なんだ」
「あ、ああ……わかってるぜ」
「そしてそれを判断する頭脳……いいな、花枝よ……手なんてのは、いくらだって出せちまうもんだ。そっちに偏るのじゃねーぞ……目くらにつんぼじゃ、パンチも届かねぇ……」
 なにをこのおっさんは教育してくるつもりだ。少年は男の隣に置かれた杖を一瞥し、肉を頬張った。
「しかし……核とはね……中佐は知っているのか……」
 檎堂のつぶやきは、だが肉の焼ける音に包まれ、誰の耳に届くこともなかった。


「かんぱーい!!」
 歌舞伎町の雑居ビル地下、チェーン系の居酒屋の大きなテーブルで真実の人がビールジョッキを揚げた。
「おめでとう!!」
 藍田長助、はばたき、仙波春樹、そして先ほどまでホテルで同席していた三人のスーツ姿のスタッフたちが、真実の人に続いてジョッキを揚げた。
「はは……ついに買ったぞ……あとは取りにいくだけだ」
 真実の人は満足げにつぶやき、ジョッキの中の酒をがぶ飲みし、口についた泡を拭ったあと、三人の男たちを見た。
「米倉、金(キム)、広田……本当に今日はご苦労だった」
 青年に礼を言われた三人はいずれもが五十代後半の男性であり、他のメンバーと比較し、年齢層はずっと高かった。
「まずは第一段階ですな。真実の人、次はロシアへ……」
 三人の中で眼鏡をかけた、白髪の多い男にそう言われた真実の人は、頷いた後ジョッキの中身を飲み干した。
「ああ米倉、そのときはまた頼んだぞ……」
 真実の人はあらためて座席を見渡し、自分の手足となってくれる男たちに満足げであった。

 目の前に並んでいる料理のどれから手をつけてよいものか、はばたきは箸を手にしたまま躊躇していた。
「好きなものから食べちゃえよっ」
 そう促したのは、隣に座る仙波春樹である。青年の言葉にはばたきは頷き、から揚げを小皿に移した。

「なぁ広田さん……さっきの襲撃は幸村ルートからですかね?」
 藍田長助に尋ねられた、三人でもっとも痩せ、頭も禿げ上がった男が、焼き鳥を串から掻き毟った後、「有り得るねぇ。調べとくよ」と返した。

「はばたき、ライフェが気になるっ?」
 ソーセージをもぐもぐと食べるはばたきに、仙波春樹がそう尋ねた。
「は、はい……けどもうすぐラボを出られるっス……」
「そっか……そりゃよかった……」
 細い目を線にして、仙波春樹は口元に笑みを浮かべた。

 なんとなく、喋る面子が固定化されてる。真実の人がそう感じ、ぼんやりと狭い店内に視線を泳がせると、他の客がコーナー上部に設置されたテレビに注目しているのに気付いた。

「炎上しております!! この老人ホームに先ほど、着陸予定だったC−130が墜落したのです!!」
 テレビの中では炎が広がり、消防活動の模様が移されていた。真実の人の隣に座っていた眼鏡の米倉もそれに気付き、「三日前倒しですな」とつぶやいた。

「ひでぇな……ありゃ……」
 ジョッキを手にした長助は、テレビに見入る真実の人に冷たい視線を送った。

 老人ホームかよ……何人死んだか……アルフリート……てめぇは清算できるのかよ……この結果を……

 ビールを一気に飲み干した長助は「おかわり!!」と叫び、仙波春樹が店員を呼んだ。

「しっかし米軍はここんとこ不祥事続きだな」
「ああ……こないだの誤射だって、まだわかってねぇんだもんな」
 テレビの近くのカウンターで、中年のサラリーマンの二人組がそんな言葉を交わしていた。すると彼らの背後で、紫がかった白い髪が揺れた。
「そんなに最近の米軍はひどいの?」
 気さくに声をかけてきた青年に、酒も回りつつあった男たちは、「ひどいよぉほんと!!」「事故続きでロクに謝罪しねぇ!!」と口々に愚痴をこぼした。
「けどさぁ……なーんで他所の国の軍隊が、こんなにいっぱいいるんだろうね」
 青年の言葉に、男たちは顔を見合わせて笑った。
「他所って……米軍のことか?」
「そりゃ……まぁなぁ」
 曖昧な言葉は呂律もはっきりせず、それにしてもこの青年は何者だろうと男たちは思った。
「攻めてくる敵もいないのに……ここは独立国のはずなのに、なんで他所の軍隊が、いつまでもいるんだろうね……」
 青年のつぶやきは、だが男たちには向けられず、輸送機墜落による火災の模様を報じるテレビと、その向こうの何かへと向けられていた。そして、そんな彼の姿を、彼のスタッフたちや部下、友人が見守っていた。

第十五話「独立国家、日本」おわり

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