真実の世界2d 遼とルディ
第十三話「復讐者、ルディ」

1.
低く耳を揺さぶるこれは船の汽笛だろうか。だとすれば大きな船なのだろう。この人たちが乗ってきたアレより、ずっと。

 吐き気に負けてしまい出て行った入り口を、無意識のままくぐってしまったのか。それすらも思い出せない。倉庫の中で、黒い仮面を付けた島守遼(とうもり りょう)は肩を軋ませ、膝を鳴らし、だがそっと、存在感を殺しながら、級友の上体を抱いていた。

 傍らでは、ついさきほどまで自分にワインを注いでくれた白人女性の上半身が、肩口を突き出させるように、ごろりと横たわっていた。この胸の大きな人は、名前をなんといっただろう。彼の許容量は事態に対し小さすぎていたため、嗅いだことのない異臭に唇を揺らしながらも現実感を探っていた。

 目ぇ覚まさないのかよ……こいつ……くそ……!!

 目を閉ざし、意識を失ったままのリューティガー真錠(しんじょう)。彼はこの状況を知った上で気絶したのか。同盟から派遣されてきた腕利きのエージェントが全滅したという事実を。
 もちろん、サーチライトで照らされた一角以外はあくまでも暗がりの倉庫であり、生存者がないとは言い切れない。しかし島守遼は、おそらくこの惨劇を生み出したであろう、建物の中心で鎮座する赤い人型と、その険しくも落ち着いたその横顔から、全てはもう終わってしまったのだろうと感じていた。
 
 そう。終わったのだ。あの強烈な個性と印象の持っていた十人は、終わってしまったのだ。

 機械の作動音を立てながら、人型はその装甲を段々と展開し、中からは女性の華奢な本体が現れつつあった。

 リボン……か……あれ……?

 装甲服であろう人型の中から現れた女性は、白のストライプがあちこちに入った黒いタイツ姿であり、右手には長く黄色のリボンが握り締められていた。
 この凄惨な現場にはおよそ似つかわしくない、日常的なそれである。観察する遼は意外さを禁じえなかったが、それどころではないとリューティガーを引きずり、出口へと向かった。

 激闘だったのだろう。女性はどこか呆けているようで、倉庫の隅にいるこちらの存在には気がついていないようである。ならば逃げる。逃げてみせる。遼は慎重に、物音を立てないように気をつけながらリューティガーを背負うと、入ってきた裏口までたっぷり時間をかけて向かった
 警笛の大音量が幸いだった。これがなければ、移動はままならなかったかも知れない。彼はタイミングの良さに感謝していた。

 すると、穴があけられていたシャッターの向こうから、何人かの人影が見えた。どうやら、外に停車していたトレーラーから降りてきた者たちのようである。
 倉庫内の一角がどこまでも明るいのは、いつの間にかシャッターに開いていた奇妙な大穴と、そこから中を照らし続けるサーチライトのせいである。
 あのライトがトレーラーの屋根に取り付けられている事実を、遼はここに戻る際に確認済みである。なんという大掛かりな襲撃なのだろう。彼はこれから戦うことになる、FOTという敵の周到な作戦行動に恐怖を覚え、その間違った認識を改める情報も知識も不足していた。
 早く逃げなければ。半開きとなっていた出口に辿り着いた遼だったが、彼は咄嗟にそこから離れ、工作機械の陰に隠れた。

 馬鹿かよ……俺は……ここは数少ない出入り口なんだ……くそ……!!

 正面シャッターの穴から、数名の男たちが倉庫内に侵入した。そしてその直後、遼が唯一の脱出口として頼りにしていた扉も乱暴に開かれ、複数の足音が彼の鼓膜を震動させた。

 ほらみろ……危ねえって……

 あのまま外に出れば、この突入部隊と鉢合わせる結果となっていただろう、遼は自分の判断に何度も頷くと、別の出口がどこかにないか辺りを見渡した。

 天井の向こうには、星のない夜空が広がっていた。あれも、嘔吐のために出て行った際にはなかった穴である。
 たぶん、あの赤い装甲服は、天井を破壊して侵入したのだろう。遼はそう確信し、更なる観察を続けた。
 いつの間にか、倉庫の隅に煙が立ち込めていた。何かが燃えているのだろうか。しかし突入してきた敵たちは消火を始める気配はなく、焦げるような臭いが仮面越しに嗅覚を刺激した。

 だめだ……シャッターと天井の穴と、あの扉しか出られそうにない……

 いずれも無事に脱出できる見込みは薄い。いや、扉に関しては、もし突入が済んでいるのなら、なんとかなるかも知れない。遼は判断力と分析力を総動員し、より注意力を増させるために、被っていた黒い仮面を外した。
 そう、つまり全てが終わっているというのであれば、ここに生存者がいるとは敵も思っていない可能性が高い。ならば、ここは思い切って突っ走ってしまおう。なにせ、扉はすぐそこだ。
 最後の一押しは冷静さや正確な分析などではなく、ただの勢いだった。遼は級友を背負ったままがむしゃらに扉を目指し、そこを通過して寒風の埠頭へと飛び出した。

 ラッキー!! やったぜ、こんちくしょう!!

 扉の外に脱出を警戒する敵がいなかった事実に、遼は自分が賭けに勝った事実を確信した。

 よっしゃあ!! いける。いけるって!!

 この運は持続する。そこまでの自信で彼は倉庫から、それも正面シャッターに停められたトレーラーからできるだけ遠くへ駆け出した。


「火災が発生している以上、三十分で撤収だ!! 現況確認が最優先だ。連中は泡化する。那須、お前はドレスの回収を頼む」
 インカムを装着したスーツ姿の森村肇が倉庫の中で声を張り上げた。内閣特務調査室、F資本対策班の捜査官たちは、惨状と化している倉庫内の状況確認を始めた。
「か、神崎くん!!」
 装甲解除が終了した、赤い人型へ向かおうとした那須誠一郎は、それを装着していた女性が地面にぐったりと倒れているのに気付き、彼女へ駆け寄った。
「どうした那須……か、神崎くん!?」
 神崎。そう呼んだ女性を抱きかかえる後輩捜査官の姿を確認した森村は、普段の冷静さを失い、同じように駆け寄った。
「医務班!! 神崎まりかの回収を急げ!! く……最初に接触した例の磁場反応か……それとも……ドレスの負荷か……?」
 膝を着き、彼女の顔を覗き込んだ森村の声は上ずっていた。
「気を失っています……な、なんだ……この右手は……」
 那須は女性の右手を肘から支え、リボンを握り締めたそれに首を傾げた。彼の行動に森村は、一瞬眉間に深い皺を刻んだが、そこから発せられる異臭に口と鼻を手で覆った。
「ど、毒か……これは……」
 この閉鎖空間での激闘が、いかなるものであったのか。トレーラーの中からモニタとセンサによる情報だけを頼りにしていた森村に、その戦闘の細部まで理解できてはいなかった。彼は呼吸を止めつつ女性の手を触り、それが高熱を発していることに戦慄した。


「殺す……根絶やしにするネ……!!」
 真っ赤なミラを埠頭に停めた陳師培(チェン・シーペイ)は、相方の健太郎と共に外へ駆け出した。
「落ち着け……陳……」
 駆けながらそう忠告する青黒き巨人に対し、陳は視線を正面に向けたまま、ほとんど肉で覆われている顎を強く引いた。
「わかってるネ……けど……坊ちゃんに万が一があったら……その場にいる者全て……そしてその一族郎党……死ヨ……!!」
 四川の巨匠と呼ばれ、同盟内でも最高の評価を誇る家事全般の達人。それが陳の表の顔であるならば、今こうして殺気を漲らせ、両手に筆架叉(ひつかさ)を握り締めているのは暗殺プロフェッショナルとしての裏の顔である。健太郎は相方の自制心を信じていたが、それこそ最悪の事態となれば、自分が彼のストッパーとなる覚悟もしていた。

 つい先ほど、マンションにかかってきた電話は無言のままだった。そうした電話に対して、陳は決して言葉で応じることはない。なぜなら、それは声に出せないほど切迫している事態を意味する場合もあるからだ。とにかくの連絡、最大限のSOS。無言電話にはそんな可能性も含まれていることを、彼は経験上よく知っていた。
 通信解析をした健太郎が、これが島守遼の携帯電話からだと告げたとき、陳は思った。なんというセンスのいい判断だろう、と。
 もちろん、彼が誤って電話をかけ、それに気付かないまま携帯電話を放置している可能性もある。先立った部屋割りの連絡で、坊ちゃんはこれから少しだけお酒も呑みます。そうとも言っていた。しかしそれならそれで連絡から一時間を越えたのに、まだ誰もマンションに現れないのは少々おかしい。不審がいくつか重なれば、とるべき行動はただ一つである。間違いでもいい。いや、間違いであって欲しい。
「陳さん。どうしちゃったんですか?」
 リューティガーの無邪気な笑みと、十人のエージェントたち、そして島守遼の酔った顔が自分に向けられ、照れてしまうのが最も好ましい展開である。

 だが、打ち合わせ場所となっている倉庫から、小さな煙が上がっているのを目撃した陳は、全身の血液が沸騰するような、冷静さを失わせる燃焼を体内で感じた。
「ん……?」
 健太郎は赤い瞳で、迫ってくる人影を確認した。
「島守遼!!」
 珍しい健太郎の叫びに、陳は口を開け、駆ける体勢を大きく崩した。
「ぼ、坊ちゃん!?」
 遼の背中から、よく見慣れた栗色の髪が揺れるのを見た陳は、事態の把握より目の前の現実をより確かめようと、駆ける速度を緩めて合流を果たした。
「ち、陳さん……健太郎さん……ルディは……生きてるから……」
 全速力で駆けてきた遼は、呼吸を整えながら、陳と健太郎に歪み切った表情を向けた。
 “ルディは生きてるから”

 つまり、他は生きていないということである。健太郎はより煙の量を増しつつあった倉庫へ視線を向け、陳は遼から敬愛する若き主を引き受け、血に塗れたその身体を抱きかかえた。
 よかった。坊ちゃんの出血ではない。リューティガーのスーツを染める朱が、彼のそれではないことに気付いた陳は安堵し、島守遼の姿を一瞥した上で彼が怪我を負っていない事実を認識すると、果たしてこれが誰の流した命なのだろうと奥歯を噛み締めた。
「島守遼……よくやったネ……」
「え、ええ……」
「これから脱出するネ。バイクで来たのか?」
「そうです……すぐそこのホテルに停めてます」
「なら付いてくるね……いいネ……」
 頼もしい力強さである。陳の甲高い声がこれほど安心感を与えてくれるとは。そして仁王立ちで周囲を警戒するコート姿の巨人。島守遼はあらためてこの二人と合流できた事実に感謝し、無言電話を理解してくれた彼らの聡明さに震えた。

2.
 上空からの落下は直後に床への衝撃を足の裏に伝え、それが落ちた地点に最も近くにいた自分は強烈な打撃を受け、倉庫の壁に叩きつけられ、後のことは何も覚えていない。
 寝室のベッドで意識を回復したリューティガー真錠は、包帯をきつく巻かれたわき腹を擦った。
 肋骨の何本かが折れている。痛打したのは胸と背中だったが、深手はポイントがずれていて、その感覚は彼にとって懐かしい記憶を呼び覚ました。
 あれは幼い頃である。中東のバルチにいた自分はそこで大人たちと戦争に参加し、初めての重傷を負い、テントの下で目を覚ました。あの頃と比較すると今のこれは、埃もなく、騒音もなく、血の臭いもなく、ずっと快適な環境である。

 なにがあったのか。なにが、どうして自分の部屋に僕はいる……

 そんな単純な疑問はリューティガーにとって一瞬であり、彼は感覚と知性の全てを起動させ、状況の確認を開始した。
「大丈夫っぽいな……ルディ」
 部屋に入ってきたのは島守遼である。彼の服装は先ほどまでと同じで窓から見える風景は暗いことから、意識を失ってからそれほどの時間は経過していないだろう。リューティガーは顎に手を当て、ひっかかりの無い感触を確かめると小さく息を吐いた。すると、遼の背後から陳と健太郎が続いて部屋に入ってきた。

 閉めるな……閉めないでくれ……!!

 次第に現状を予測しつつあった彼は、最後に入ってきた青黒き巨人が、後ろ手で扉を閉ざそうとしている挙動を睨みつけた。
 だが、無情にも扉は閉ざされた。

 重傷を負った自分を見舞いに来たのは、遼、陳、健太郎の三人だけである。そうなのだろう。これはきっとそう考えていいのだろう。リューティガーは下唇を噛み締め、ベッドの横に置かれた椅子に、ワイシャツと上着が掛けられているのに気付いた。
 このシャツは先ほどまで自分が着ていたものである。しかしそれは朱に染まり、元の白さは袖から先にしか残っていなかった。
 かつて経験した戦場で、全身の状態把握をする術を彼は知っていた。コンディションとダメージ、両方のチェックを目的とした把握であり、あれほどの出血をする外傷を自分が負っていないことはすぐに確認できたリューティガーである。

 あぁ……もう……そうか……けど……じゃあ遼はなんで……

 額に掌を当て、彼は眼鏡をかけていない裸眼で遼を見つめた。
「実は……俺にも状況はよくわかっていない……ゲロ吐いて……戻ってきたら、倉庫の前にトレーラーが停まってて……中に入ってみると、お前が倒れてて……ど真ん中には赤いロボットみたいなのがいて……中が女で……俺……ここに電話した後、お前を抱えて逃げ出したら……」
「我々と合流を果たした……」
 遼の言葉を健太郎が低く掠れた声でつなげ、その説得力は倍加した。
「他の……みんなは……?」
「あ、ああ……」
 リューティガーの問いに、遼はポケットからあるアクセサリーを取り出し、それを手渡した。
「これは……」
 金のネックレス。三日月の、シンプルなデザインのアクセサリーだった。それを握るリューティガーの手は震え、堪らず呻き声が漏れた。

「喜んでもらえるといいんだけど」
「趣味じゃないなー……」
「え!? お月様が好きだって言ってなかったけ?」
「言ったかなぁ?」
「言ったよ……」
「うん。言った。うん。嬉しいよ、ルディ。とっても」

 噛み合わない、ぎくしゃくとしたやりとりは三年前、オーストリアの同盟本部食堂で交わされた。リューティガーはこのネックレスを遼がなぜ所持しているかという事実を、聞き返すことなく理解した。

「坊ちゃん……聞いてもらえるかナ?」
 主の心身に及ぶ苦痛を察した陳は、沈痛な面持ちでそう言った。リューティガーは丸々とした従者の進言に小さく頷き、寄せ返す感情の波をコントロールしようと顎を引いた。
「彼からの電話が無言だったから、私と相方もうすぐに埠頭に車飛ばしたネ。そしたら倉庫から煙が見えて、慌ててたら坊ちゃん背負って走ってきたね。彼が。だから合流して、すぐにここまで戻ってきたヨ」
「島守殿からはできる限りの詳細を聞いた。後ほど本部へ情報を紹介する」
 健太郎の言葉に、遼は小さく咳払いをした。
「正直……俺も相当驚いた……慌ててたし……はっきりとしたことはわからない……けど……奴は女だった……歳は俺たちより上……あれって……FOTなのかな……」
「あの十人をたった一人で壊滅させるとなれば、相当の腕利きネ。もちろん機械の力があってのことだけど、もうそれは相当ネ。けど、ほんと君はよくやってくれたヨ。坊ちゃんが生き延びたのは君のおかげね」
「う、うん……」
 陳がわざとリューティガーの前で褒めてくれるのは助かったが、それがかえって余計に申し訳の無さを遼に生ませていた。彼は頭を下げるとしばらくそのままの姿勢で、両肩を小刻みに震わせた。
「そう……どう感じりゃいいのか……わかんねぇよ……だって……なにがどうなのかだって……実は全然なんだ……戻ったら……全部終わってて……しばらくしたら大勢が突入してきて……」
 苦しそうにそう呻く遼の背中を、陳が軽く触れ、健太郎が小さく頷いた。
 その庇う行為を目にしたリューティガーは、自分が気を失っている間、三人がどれほど懸命であったのかを実感し、ヘイゼルの形見となったネックレスを再度握り締めた。
「遼……ありがとう……本当に……陳さんも……健太郎さんも……」
 主の謝意に、二人の従者はそれぞれ頷き返し、遼は頭を上げ、口元を歪ませた。

 まだ時刻は夜の七時である。あれから一時間程度しか経過していない。枕元の時計でそれを確認したリューティガーは上体をゆっくり起こし、陳が慌ててその背中に手を回した。
「追撃の可能性は低い……そうですね?」
「ああ……このエリアへ侵入してくる敵はいない」
「おそらくFOTは、倉庫で全滅させたと思い込んでいるネ」
 二人の従者が明言する以上、おそらくそうなのだろう。だとすればあの襲撃者は兄本人ではない。手の者だとすればなんという戦力だろう。リューティガーはこれからやるべきことを判断し、遼を見上げた。
「遼……今日は大変だったし……帰っていいから……」
「け、けど……」
「危なくなったら連絡してくれ……すぐに跳んでいく……」
「い、いや……それもそうだけど……反撃するんなら、俺にも……」
 できることがあるならやりたい。たった数時間の出会いではあったが、あの十人の個性に遼は“憧れ”もした。復讐や反撃を行うのなら自分も手伝いたい。
 そう、島守遼は倉庫での激闘を目の当たりにしていなかったからこそ、こんな勇気を持つことができた。
「今の君にやって欲しいのは、休息だ……相当まいっているはずだから……気晴らしするのもいいし、家でゆっくり休むのもいい……とにかく……散らすか冷ますかするんだ……復讐は……僕がやる」
「ルディ……」
 紺色の瞳が鈍い光を反射していた。これは、そう、殺意の色なのだろう。これまでに見たことがない、栗色の髪をした彼の凄みを遼は初めて知り、その感覚が倉庫での惨状に近しい種類であることに戦慄した。俺に、ここまでのこれはない。確かに、散らすか冷ますかとは正解かも知れない。
「わかった……だけど……もし俺の力が反撃に必要ならいつでも言ってくれ……俺だって……みんなのこと……いいと思ってた……仇は討ちたい……」
「ありがとう遼……」
 言葉は素直な気持ちの表れなのだろう。それはよくわかる。けど、今は一人でやる。それが指揮官としての責任の取り方だ。それに彼が疲れていないはずは無い。今は凄惨な現場を見たばかりで緊張しているが、いつ限界が訪れるかわからない。リューティガーは遼から視線を逸らし、彼の退出を態度で促した。
「じゃあな……」
 床に置いていたヘルメットを抱えた遼は、出口へ向かって歩くと、しばらくして立ち止まった。
「ヘイゼルさんは……お前を庇うように死んでた……たぶん……他のみんなもそうだと思う……」
「ああ……」
 部屋から出て行く遼の背中を見つめたリューティガーは、両足をベッドから滑り出した。
「だ、だめネ坊ちゃん……肋骨が……」
 制止しようと両手を広げた陳に、彼は鋭い眼光を向けた。
「僕は現場を確認しに行く……それが……最初にやるべきことだ……敵がまだいても、一瞬の跳躍なら察知はされません……任せてもらいたい……もちろん……冷静ではないけど……無謀にはなれない訓練は積んでいます」
 不敵、不遜。そんなふてぶてしさを陳はリューティガーから感じた。これまでにない自信というやつだろうか。あるいは虚勢か。果たしてこれは、望むべき成長の方向なのだろうか。彼が躊躇していると、リューティガーはベッドから抜け出し、健太郎と向き合った。
「健太郎さん……あなたには遼のガードをお願いします……狙われる可能性がゼロとは言えない」
「そうだな……」
 短く返した健太郎は、すぐに部屋から出て行った。
 たぶん、家に帰ってすぐに寝るなどできるはずがない。遼のごく近い将来をそう予想したリューティガーは、クローゼットから着替えのシャツを取り出した。
 止めるより、手伝うべきだろう。そう判断した陳はリューティガーの傍らまで駆け、ハンガーから彼の上着を取った。
「坊ちゃんは……どう判断するネ……」
「まずは……確認が先決です……その上で同盟本部へ跳びます……」
「本部まで……」
 上着をリューティガーに手渡しながら、陳は唾を呑み込んだ。
「まずはこの非常事態を直接報告した上で、中佐の反応を確かめます……その後……僕は……奴を……」
「坊ちゃん……私は……」
「陳さんは、遼の説明した情報を検討してください……聞いたこと全てを……」
「もちろんいろいろと彼から聞き出したね……けど……相当慌ててたネ……」
「でしょうね……」
 最後にコートを着たリューティガーは、一瞬だけわき腹を撫で、口元に笑みを浮かべるとその場から姿を消した。
 突風が残る寝室で、陳は主が脱いだパジャマのズボンを手にしたまま、やはり止めるべきではなかったかと、自分の判断に曇りを感じていた。


 晴海埠頭に再び姿を現したコート姿のリューティガーは、先ほどまで自分たちが顔合わせをし、何者かに襲撃をされた倉庫の辺りが明るくなっていることに気付き、遼の語った状況が更に進んでいると判断した。
 慎重に、通行人を装って倉庫まで近づいた彼が目にしたのは、炎に包まれる倉庫だった。正面シャッターや天井に大穴が開いているため見間違えようもない。
 襲撃者が火を放ったのか、あるいは来日したエージェントの一人、灼熱マッハが得意とする全てを燃やし、溶かし尽くす灼熱拳の余波が火事を生んだのか。
 炎上する倉庫を見上げるリューティガーの周囲には、港湾作業員と思しき見物人や、消火にあたる消防が慌ただしく動き、闇の世界における暗闘の結果は、実に現実的な事故現場と化していた。その事実に彼はひどい違和感を覚え、平衡感覚を一瞬失った。

 あの襲撃者はもういない。十人のエージェントをたった一人で壊滅させた、装甲を纏った女はもうここにはいない。これは当たり前の火災現場であり、遼の言っていた突入部隊も目的を果たして撤収してしまったのだろう。
 いや、敵はどこからかここを監視している可能性もある。生き残りが火の手に気付き、他の生存者の確認に戻ってくるのを狙っての放火という、初歩的なトラップは彼自信教わったことがある。リューティガーはコートの襟を立てると、その場から走り去り、人気がなくなるのを確認すると、突風と共に空間へと跳んだ。


 ほんの先ほど、十人の人たちが死に、同級生を助け出し、いまは代々木駅方面に向かってバイクを走らせている。
 なんというぼんやりとした現実感の薄さだろう。島守遼は、駅前のコンビニエンスストアの前でバイクを止めた。
 喉が渇いている。埠頭での嘔吐は気管を荒れさせ、なにかで潤す必要があった。店内に入ろうとした彼は、ふと店頭販売のクリスマスケーキに気付き、足を止めた。
 ヘイゼル・クリアリー。目撃したのはただ一人、彼女の屍のみだ。もしかしたら、あの混乱した状況だったのだから。誰かが生きているかも知れない。
 いや、違う。遼は可能性を頭の中から消し去った。倉庫で目撃した襲撃者の落ち着いた様子は、戦いの終わりを確かに伝えていたからだ。しかしそれから一時間あまりが経過して、クリスマス・イブの都心、それもコンビニエンスストアの前で佇んでいると、あの全てが終わったという感覚でさえおぼろげで、なぜそう思え感じてしまったのか、それすら頼りない。

 かけ離れているのだろう。あの場と、この場は。

「島守遼は許せないの。その血統は根絶やしにしないといけないの」

 つるりん太郎は何度かそんな言葉を腰から発していた。奴がFOTの殺し屋であり、先ほどの襲撃者もそうだとすれば、こんな雑踏の中にいても安全ではないかもしれない。
 そもそもなぜ狙われるのだろう。それについてはいつもリューティガーに聞きそびれ、未だに理由が分からない遼である。自分自身もっと色々なことを知らなければならない。踏み込んでいかなければならないのだろうと、彼はケーキの箱をじっと見つめながら呻き声を漏らした。

 ヘイゼルの上半身はごろりとしていた。死に顔がどこか穏やかだったのが救いだったが、人がああまでもごろりと横たわれてしまうとは。
 彼女は身を挺してリューティガーを守ったのだろう。そう、つるりん太郎に立ちはだかった蜷河理佳(になかわ りか)のように。
 蜷河理佳がごろりと横たわるのだけは防ぐ。その決意は脈絡もなく遼の背中を痺れさせた。
「店員さん怖がってるのに……」
 腰の辺りから聞こえた声は、自分に向けられたものなのだろう。一体誰が、そう思い遼が見下ろすと、視線の先には小さな男の子がこちらを見上げていた。
 右手に持ったビニール袋の中身は、おそらくこの店頭販売をしているケーキだ。歳は十歳かそれより下だろうか。とにかく小学生のようであり、大きな目が印象的な、暖かそうなベージュのダッフルコート姿の少年である。
「なんだよ……怖がってるって……」
 ぶっきら棒に遼が言い放つと、少年は店頭でケーキを売る女性店員をちらりと見て、「あの店員さんだよ。怖がってる」と告げた。
「あ、あぁ……そっか……まぁ……そーだな……」
 考え事していたため、しばらくケーキをじっと睨みつけてしまったのだろう。目つきがあまりよくないのは自覚している遼である。少年の忠告に頭を掻いた彼は、「すんません」と店員に頭を下げた。
「ケーキ欲しいの?」
「あ? 欲しくないよ……別に」
「どうして? 今日はクリスマス・イブだよ」
「だからなんだよ……」
 妙に人懐っこく、なれなれしい子供である。見上げたまま質問を繰り返す少年に、遼はうんざりとしながらも適当な気分転換だと思った。
「クリスマスにはケーキを食べるんだよ。だからここも外で売ってるんだし」
「ウチはクリスマスのお祝いなんてやったことないんだ。だから知らないっての」
「変なの」
「べ、別に変じゃねーだろ。そんなのいくらだっているぞ!?」
 ケーキ売りの女性店員が遼と少年のやりとりを、笑いを堪えながら見つめていた。“受けている”そう思った遼は、少々調子に乗ってもいたし、とにかく気分を変えたくて仕方がなかった。
「学(まなぶ)……あんた何やってんの……ケーキは駅前のベルサイユでって……」
 いきなり背後から響いた声に、遼は聞き覚えがあった。まさか。そう思い彼が振り返ると、黒いセーターにジーンズ姿の少女が、傍らの少年に負けないほど大きな瞳を瞬かせていた。
「島守……な、なんで?」
「神崎……」
 同級生、神崎はるみの登場に島守遼は戸惑い、思い出した。

 そっか……こいつも代々木って……前に言ってたな……

「はるみ姉の知り合いなの!?」
 “はるみ姉”聞きなれない呼び方に遼は戸惑い、この少年の正体がそうであることに頭を掻き、「弟かよ!?」と素っ頓狂な声を上げた。

3.
 夜の晴海埠頭から一瞬で、リューティガーは真昼の森に現れた。突風のなか、全身のバランスを崩した彼は木に寄りかかり、まだ新しい城を見上げた。

「不在ということもある。特に今日のような日はな?」
 漆黒の執務机の向こうから、男はそうリューティガーに告げた。部屋には窓一つなく、人工的な柔らかい照明が室内を照らし、だが彼の心はまったく安らげなかった。
「追加戦力……先ほど晴海埠頭に到着しました……作戦本部長の指示通りに」
「それはそうだろう。ハルプマンの指示に狂いはないからな」
 身長は190cmを超え、逞しい肉体は胸板も分厚く、短く刈り込んだ髪と浅黒い肌が男の精悍さを際立たせていた。彼は椅子から立ち上がると机を回り込み、出口付近に佇んでいたリューティガーへ近づいた。
「そして……全員が何者かに襲われ……死亡しました」
「ふむ……」
 敗戦報告に、男は隆起した顎に太い指を当て、鼻を鳴らせた。
「そうか……反応をチェックさせよう……しかし……君は無事だったのか?」
「負傷はしましたが……一緒にいた現地協力者に救助されました。襲撃者の更に詳しい情報は、後ほど陳さんがそちらに送信する手はずです。中佐」
 そう告げるリューティガーの表情には苦さがはっきりと浮かび上がり、それは全身を襲う不調のせいだけではなかった。中佐と呼ばれた男は腕を組むと、顎をくいっと上げた。
「しかし……全滅とはな……あれほどのメンバーが。FOTがそこまでの戦力を持っているとはな」
 中佐の口調は抑揚がなく、どことなく冷淡で他人事のような印象をリューティガーは覚えた。
 まさかではあるが、この男はこうなることを知っていたのではないだろうか。そんな馬鹿な。気分の悪さに眩暈を覚えつつ、リューティガーはついに扉へ寄りかかった。しかし中佐はそんな彼に気を遣うことなく、「あぁ」と漏らし、腕を解き右の人差し指を立てた。
「DNAトレーサの試験版が完成した」
「は、はぁ……」
 戸惑ったような反応に、中佐は唇の両端を吊り上げた。
「衛星から特定のDNAパターンを確認できる共振型で、精度がようやく実用レベルに達しつつある」
 扉に寄りかかり、青ざめた顔を向けているというのに、中佐はどこか楽しげである。リューティガーは予想通りの態度にうんざりしながらも、彼の言葉には興味を示した。
「どの程度進歩したのですか……」
「ああ。固定六十八分でパターン特定が可能になった」
「それでは……とても実用レベルとは言えませんね……一時間も同一地点に人が存在するなど……寝ているのならともかく……映画ですら途中で席を立つことがあるのに」
 わき腹の痛みを堪えながら、それでもリューティガーは言葉を続けた。流れを無視した唐突な話題であるが、中佐がこうした転換をする際には必ず最後に意味を持つ。それはこれまでの付き合いでよく理解していて、だからこそ遥かオーストリアの賢人同盟本部まで跳躍してきたのである。
「試験版には奴のデータも入っている」
 本題が来た。中佐の言葉をそう捉えたリューティガーは、鋭い視線を彼に向けた。怒気や殺気の類まで含まれたそれに、中佐は精悍な顔を少しだけ歪め、壁に掛けられたインターフォンを手にした。
「私だ。そうか……ご苦労。実験は本日中継続してくれ」
 インターフォンを戻した中佐は、口元に手を当て、笑いを堪えた。
「いや……実用レベルというのは確かに間違いかな……しかし……奴を相手にした場合、かえって有効なのだからおかしな話だ」
 遠まわしな表現に付き合うほど体力も残っていない。リューティガーは呼吸を乱したまま、強い意を中佐へ向けた。
「新宿歌舞伎町。中央通りに奴がいる……一時間も屋外で何をしているのか……デートをすっぽかされたとか……」
 意を逸らすため、あえて視線を床に落として中佐はそう告げた。すると、彼の短い黒髪が揺れ、鼓膜に風を切る音が通過した。

 早い……な……

 視線を上げても彼は既にいないだろう。本部内での力の行使は禁じているが、この場合は仕方ない。冷静さを失いつつあるのだから。

 さて……どう動く……真錠兄弟……

 執務机に戻った中佐は、一冊のファイルを取り出すと、その表紙に「Completion」の判を押した。
 「Sacrifice」そう書かれたファイルの一ページ目をめくった彼は、無表情のまま鼻を鳴らせ、死んでいった者へ想いを巡らし、頬を引き攣らせた。
 荒野のサルベシカ。一ページ目に貼られた写真は戦術の神様その人であり、表紙を除いた全十ページには、それぞれの写真が貼られていた。
「私だ……檎堂(ごどう)を呼び出してくれ……」
 机上の受話器を手にした中佐はそう言い、ファイルを閉ざした。

「長助は?」
「携帯かかってきたから……あっちいったっス……」
「あいつ、ラーメン食べてる最中も、ずっと携帯で話してたわね。なんなのかしら」
 新宿歌舞伎町、繁華街の中心地区である中央通りのとあるゲームセンター前で、コート姿のライフェとボマージャケット姿のはばたきが、いなくなった同行者の所在を口にしていた。
「にしても……なにやってもすごいのよねぇ……真実の人(トゥルーマン)は……ギャラリーだってねぇ……」
 ライフェの視線の先には、通りに面した屋外にゲーム機が設置されていて、その周囲には何人かの見物人がサークルを形成しつつあった。
「見てろ、長助!! ここが難しいんだ!!」
 両手に少し小さめの、太鼓の撥(ばち)を握り締めているのは、白い長髪に白いコート姿の青年、真実の人(トゥルーマン)であった。彼の眼前に設置されたゲーム機は、タイミングに合わせて太鼓型のデバイスに震動を加え得点を重ねていく音楽ゲームであり、彼は様々なモードをミスすることなく楽しんでいた。
 妖しさすら漂う美しい容姿が、樹脂製のバチを奮う姿は滑稽であり、奇怪であり、屋外設置という状況も手伝って、クリスマス・イブの彩りとして道行く人々を楽しませていた。 やがて、ネオンより遥か夜空から、白い結晶体がゆっくりと街に降ってきた。「へぇ」「いいじゃん」「タイミングだねぇ」と道行く人々は口にし、擬似太鼓を打ち続ける真実の人を見物している者の中には、「あの白尽くめが、雪が降る祈祷をした結果なんだよ。これは」と赤ら顔でつぶやくほど、降ってきたそれと白い青年の色合いは調和されていた。
 ゲームに興じる真実の人からやや離れた、UFOキャッチャーの筐体の前で佇んでいたライフェたちのもとに、藍田長助がげんなりとした顔を浮かべて戻ってきた。
「げ、まだやってるよ」
「凄いのよ、真実人ってば。ノーミスでもう一時間は続けてるの」
 自分のことのように誇らしげに語る赤毛の少女に対し、パーマ頭のくたびれた中年は苦笑いを浮かべつつ、タイミングを合わせて打ち続ける青年へと近づいていった。
「よう長助!! どこ行ってた!?」
 画面から視線を外さず、撥を振り続けながら真実の人はそう尋ねた。
「あぁ。春坊から連絡があってな。ちょっと急展開だ」
 擬似太鼓を打ち続ける真実の人と交互に並んだ長助は、胸ポケットから煙草を取り出した。
「春坊? どこに張らせてた?」
 汗を散らせながら声を弾ませる真実の人とは対照的に、長助は疲れ切った様子で、降ってきた雪に気を遣いながら百円ライターを着火した。
「弟さんだ……そしたら……ドンピシャ……お前さんがさっき言ってた、同盟の追加戦力……今日がその来日だった」
「例のあれね……で?」
「海路で到着後、集会場所の倉庫を何者かが襲撃した……大掛かりな組織戦だったらしい。春坊も危なくなったんで逃げたそうだが、ものの数分で壊滅状態だったらしい」
「ルディもいたんだろ? どうした」
「わからん」
 長助の短い返事に、真実の人が手にしていた撥の先が踊った。

 落胆のため息が、取り巻くギャラリーから漏れた。真実の人、ゲーム開始一時間目にして初めてのミスである。彼は唇の両端を吊り上げ額からの汗を拭うと、気を取り直して打ち込むのを再開した。
「ライフェ!!」
 真実の人に突然名前を呼ばれた少女は、UFOキャッチャーの筐体内にあった縫いぐるみから視線を彼へと向け、それと同時に駆け寄っていった。
「なんです!?」
 相変わらずゲームを続ける青年の傍までやってきたライフェは、白い息を吐きながら呼吸を整えた。

「高校!? 行く!?」

 その言葉の意味を一瞬理解できなかったライフェは、丸い目を何度か瞬かせ、やがて両手を合わせて小さく跳ねた。
 曲数が多いジャンルである「歌謡曲」も残すところあと一曲。集計画面の後、タレントが最近ヒットさせたサンバ曲のタイトルが画面に表示され、それを確認した真実の人は「吉宗評判記は夜のほうが面白かった」と小さくつぶやいた。
「行く!! 行きます!! いつからです!?」
「四月からかな。手続きあるし!!」
 そう叫んだ真実の人は、UFOキャッチャーの前で警戒を続けてくれる浅黒い肌の少年へ感謝のウインクをすると、期待に目を輝かせる少女、つまらなそうに煙草を吸う男がそれぞれ両脇にいるのをあらためて確認し、両手を大きく振りかぶった。

 死んだか……ルディ……死に神殺しにやられたか……!? どーなんだよ!!

4.
 代々木駅から歩いて十分以内に一戸建てとは、一体彼女の家はどのような仕事をしているのだろう。雪が降り始める中、二階建ての住宅を見上げていた遼は、隣で門を開ける神崎はるみと、それに続いて玄関へ駆けて行く弟の神崎学へ視線を落とすと、こうなってしまった展開に、“どうにでもなればいいや”と疲れ気味だった。

「これからお父さんと食事?」
「いや……」
「じゃあ……誰かと会ったりする? 麻生とか?」
「別に……他のパーティーに行ってたんだけど……流れちまってさ……」
「な、ならさ……わたしんち、こない?」
「はぁ」
「今日さ、みんなでケーキとか七面鳥食べたりするの。島守もこない?」
「俺が? なんで?」
「ひ、一人欠員が出ちゃってね……色々と……余りそうなの」
「そりゃ……もったいないよな」
「でっしょー!! ね、ど、どうかな?」
「夕飯まだだし……おごってくれるんならいいぜ……別に……」

 代々木駅前のコンビニエンスストアで、島守遼は神崎はるみとそんなやりとりの末、バイクを置き、坂道を下り住宅街へと入ったこの神崎邸へと招かれていた。

 腹も……減ってるんだよな……

 そもそも今日は遅くなるから食事はそれぞれで、と父に伝えている遼である。本日は稼ぎに行っているはずであり、勝てば回転寿司、負ければ立ち食い蕎麦でも啜っていることだろう。
「ねーねっ……はるみ姉の……友達?」
 ケーキの入った袋をぶら下げた学が、遼を見上げてそう尋ねた。
「ん? まぁ……同級生だ。部活が一緒で……ついこないだまで席が隣同士だった」
「ねー、はるみ姉は、この人パパとママに紹介するってことなのー?」
 靴を脱いでいる姉に、続いて玄関へやってきた弟が尋ねた。
「ちゃう。父さんが食べ過ぎないための処理係としてスカウトしてきたの」
「なんで?」
「言ったでしょ。まりか姉が急に帰ってこれなくなったから、一人分料理が余っちゃうって……けど、どーしてコンビニのケーキなんて買ったのよ。うちはいつもベルサイユでしょー」
 姉に続いて靴を脱ぐ少年を見下ろしながら、遼は玄関から漂ういい香りに気付いた。これは芳香剤だろうか。なんにしてもこの家は自分の住むアパートとは違い、なにかと“行き届いて”いるようだ。
「だってさ、コンビニのお姉ちゃん頑張ってたし、秋太郎(あきたろう)と会いたくないし」
「また原田くんと喧嘩したの!?」
「だってあいつ、インチキだって言うんだ。そんなに勝ちまくるの変だって」
「知らないわよ、そんなの。ねぇ島守」
 いきなり話題を降られた遼は、会話の内容をまったく理解していなかったため、思わず頭を掻いた。
「こいつさ、あっちこっちで揉めてんの。なんとか王のカードが強すぎるんだって」
 靴を脱いだはるみは上目遣いで遼にそう言うと、淀みのない軽やかな挙動で、ウサギの形を模した大きなスリッパに履き変えた。
「そうなのかよ? お前」
 隣に座ったまま、靴を脱ぐのに手間取っている学を見下ろし、遼は馬鹿にしたような口調でからかってみた。
「はるみ姉、友達なんて連れてくるのすげぇ久しぶり」
 頬を膨らませ、少年はぼやいた。なんとも噛み合わないやりとりであり、そもそも島守遼は自分より年下と話す機会が滅多になかった。それだけに学との対話はぎこちなく、それでいて刺激的ではあった。
「ママ!! ケーキと牛肉、買っておいたからね」
 はるみに続いて廊下からダイニングキッチンへと入った遼は、キッチンで食事の準備をする女性の姿に気付いた。
「ごめんはるみ!! 学も……ほんと助かったわ」
 はるみからスーパーの袋を、学からケーキを受け取るこの女性は、まさしく二人の母なのだろう。いや、先ほど“まりか姉”と言っていたから三人の母なのだろう。それにしては若く、落ち着いた感じでありながら疲れたところがない、凛とした気配を漂わせる美人である。遼はエプロン姿の神崎永美(かんざき えいみ)に数瞬見とれ、食卓に五人分の支度がされつつある事実に気付いた。

 ここにいる四人に……あとは……この家のご主人さんかな……

 そんなことをぼんやりと考えている間に、はるみは母に連れてきた同級生を説明した。
「あぁ。あなたが島守くん?」
 神崎永美は胸に手を当て、遼に頭を小さく下げた。
「あ、は、はい……島守です……えっと……神崎さんのお母さん?」
「ええそうよ。ふーん……島守くんって背が高いんだ」
 見上げる永美に遼は頭を掻き、隣で視線を宙に泳がせているはるみをちらりと見た。

 なんだよ……なんで神崎のお母さんが俺のこと知ってる風なんだよ……

 なにやら噂の人物を初めて目の当たりにした。神崎永美の態度をそう解釈した遼は、もう一度頭を掻き、「はぁ」と声と息を漏らした。

 先ほどから降り始めた雪は、自分の肩に白い層を作りつつあった。
 煙草を思いっきり吸い込んだ藍田長助は、隣で反対の方向を向いたまま、サンバのリズムに合わせ、両手で撥を振る青年を横目で見ると、「じゃあな。俺は春坊と合流する」と言い残し、吸い殻を投げ捨てコマ劇場方面に向かって歩きはじめた。
 真実の人は去って行く男に声をかけることなく最後の一曲に集中し、画面の中で横に流れていくタイミング表示から視線を外さず、ミスをすることなくフィニッシュへと向かっていた。

 空気がずれる。そんな感覚を持てるのは、たぶん自分ぐらいなのだろう。少なくとも周囲三メートルの範囲であれば、大気の密度まで体感することができるのは、長い訓練の成果である。だからこそわかる。この最後の連打を打ち終えることは難しい。

 打つ……!!

 連打へ向け、左手の撥を振り下ろした真実の人だったが、それは鼓を打ちつけることなく、もっと柔らかく押し込んでくるものによって制止させられた。

「よう……ルディ……」

 一本の撥を二人の兄弟が握り締めていた。降ってきた雪は突風で弾け、水滴となったそれがUFOキャッチャーのガラスを打ち、ライフェとはばたきは、青年の至近距離に出現した栗色の髪をした黒いコート姿の襲撃者に敵意を向けた。

「遊びすぎだ……お前は……」

 紺色の瞳に反射する、鈍い光を認めた青年は、赤い瞳に何も宿すことなく、表情を殺した。
「いいじゃん。イブの晩だぜ」
「児戯にも……ほどがある……サルベシカさんが……死んだ……」
「そうか……」
 島守遼に経験というものがあれば、倉庫に突入してきた者たちが日本政府のF資本対策班であることは目撃した段階で知り得たはずである。だが赤い人型も、その中の女性も、サーチライトを搭載したトレーラーも、彼にとっては全てが“得体の知れない敵”であり、だからこそ陳や健太郎にもその存在を“敵”という抽象的な表現でしか伝えることができず、二人にしても詳細な情報を聞いたところで即座にはFOTの仕業ではないなどという結論には達せなかったのは無理もない。
 リューティガー自身、十人が死んだことに対する中佐の無反応さには疑惑の余地こそあったが、それにしても壊滅の実行者は直接敵対するFOT以外にあり得るはずが無く、だからこそこの青年に対し、彼は復讐を果たすしかなかった。
 最後の連打を期待していたギャラリーたちは、突如として現れた少年にわが目を疑ったが、それが確実に信じられない現象である。とまで確信できたのは僅かであり、大半は自分の感覚が狂ったのではないかと目をこすっていた。
 赤毛の少女は、右手の先を鋭利な刃へと変化させ、リュックを背負った少年はいつでもそれを解除できるよう、肩にある止め具に手を掛け、二人とも全身は敵対者に向かっていた。
「リューティガーか!!」
 ライフェは刃を水平に、青年ごと真っ二つにする勢いで振り抜いた。しかし切断されたのは青年でも襲撃者でもなく、落下してきた樹脂製の撥のみだった。彼女にとって青年の跳躍は折り込み済みではあったが、この素早い一撃を襲撃者が容易に回避するのは意外だった。ライフェがその場に踏みとどまると、両に結んだ左右の赤い束が雪の中で波打って踊り、その口元から白い息がこぼれた。
 喧嘩か、トラブルか。その判別を即座につけられる者は皆無だった。赤毛のコートの袖先から刃物を目視したあるOLは口元に手を当て、青年たちが眼前から忽然と姿を消した事実にある会社員は眼鏡をかけ直し我が目を疑い、リュックを背負っていた少年がその場で跳ねた直後、茶色の巨大な影が広がり、強風と共に彼が鳥の如く舞い上がっていく信じがたい光景にある老人は倒れそうになり壁に背中を打ち付けてしまった。

 コマ劇場傍の、とある雑居ビルの踊り場に白い青年は出現した。
 それにしてもただならぬ殺気である。今の彼なら躊躇はないだろう。長助の報告とあの様子から総合すると、襲撃は余程苛烈だったのだろう。同盟の増援については取引相手である某少尉から話は聞いていたが、詳しい戦力も内訳も知りえない彼である。だからこそ、戦いの程というものがこれまで今ひとつ理解できないでいた。

 荒野のがねぇ……

 ならば増援に来たメンバーも察しがつく。ここしばらくの同盟の動き、日本政府の動き、全てとは言えないが要所は把握している真実の人であり、彼は安全地帯と言えるこの場所で、二人のボディガードがこちらを発見してくれるまでの間、しばらく起こった出来事を自分なりに解析してみようと試みた。

 だが、彼は空気の振動を背中に感じ、その場から跳躍した。

 入れ替わるように、青年のいた場所に現れたのはリューティガーだった。彼の手には、先日荷娜(ハヌル)より運び込まれた小型の新探知機が握り締められていた。
 復讐するべき者がいないことを認識した彼は、探知機を操作した。

 遠くに……跳ぶなよ……

 咄嗟の跳躍であれば、行き先のイメージを念じる余裕も少なく、視界の範囲内への転移が最も容易である。あのゲームセンター前の通りからこのビルの踊り場は視認することができ、その範囲内であればこの探知機は確実に異なる力の反応を捉えることが出来る。
 偶然じゃない……中佐は……仕込んだんだ……この事態を……

 本部へ自分が来ることは計算済みだったのか。いや、遼が言うとおりの全滅であれば攻撃は無差別だったはずであり、だとすれば単に運が良かったのか、十人のエージェントたちに守られたということになる。

 消費者金融の看板が取り付けられた、ビルの屋上に真実の人は出現した。先ほどの踊り場からは数十メートルであり、咄嗟に目に入ったここではあるが、すぐに特定するのは難しいだろう。僅かなタイミングがあれば、もっと遠くの場所をイメージすることができる。そう、例えば赤坂のホテルなどは……
 スイートルームをイメージしようとした青年だったが、彼は再び正面に空気のぶれを感じ、目に付いた場所へ跳躍した。

 逃がすものか……!!

 看板の下、屋上に出現したリューティガーは、空から降ってくるものが雨に変化したことに気付いた。もってあと数分。わき腹の激痛と、オーストリアと日本の往復による精神的な疲れは彼の全てを消耗させていた。

5.
 JR三鷹駅から歩いて十五分ほどの住宅街に、その平屋建てはあった。赤い屋根は雨に濡れ、窓から灯りが漏れるその建物の門には「三鷹ハウス」と手書きされていて、この文字を見る度に、仙波春樹(せんば はるき)は穏やかな、それでいてどこかくすぐったい気持ちになれた。
 すらりとした長身は贅肉のカケラもなく、肌のキメも細かく、まだ少年の瑞々しさを残す青年。それが仙波春樹である。白いオフロードタイプのオートバイから降りた彼はジェットタイプのヘルメットを脱ぐと、柔らかくウエーブがかった髪を雪で濡らさないよう、門から玄関まで急いで駆けた。
 オルガンの伴奏と子供たちの歌声が、扉越しに彼の薄い耳を刺激した。

 なっつかしいの……明日の練習!? 院長先生が弾いてるのかなっ!?

 細く穏やかな目に喜びの色を浮かべた仙波春樹が青いビニールコートを脱ぎながら建物の中へ入ると、オルガンと歌声はより直接的な音量となり、壁に貼られた拙い絵や習字がすきま風に揺れていた。

「あら……春坊?」
小さく開かれた扉からそんな少々嗄れた、女性の声が聞こえた。青年はオルガンの奏者が予想とは異なっていたため、右眉をピクリと上げたが、すぐに笑顔を戻した。
「殿田先生!! ご無沙汰ですっ!!」
 仙波春樹はヘルメットを廊下の棚に置くと、扉を開けて部屋の中へ滑り込んだ。
 六畳ほどの部屋は事務机と応接セットが所狭しと置かれ、殿田先生と呼ばれた中年女性が、入ってきた青年に笑みを向けた。
 パソコンのキーボードから手を離した彼女は、椅子から立ち上がると青年に応接ソファへ腰掛けるように促した。
 真っ赤なワンピースにピンクのカーディガンを羽織った彼女の頭髪に、白いものを認めた彼は、相応の時間が経過したのだと納得し、小さく頷いた。
 背筋も少し曲がっただろうか。だが安物の化粧品の臭いは相変わらずであり、怒ると声が裏返るあたりは昔のままかも知れない。
 春坊。そう呼ばれた仙波春樹は照れ笑いを浮かべると、「ほんと……ご沙汰ですっ!!」と言いながらソファに腰掛けた。
「ほんと何年ぶりかしら……」
 対座した殿田は、膝の上に手を載せて首を傾げた。
「えっとぉ……ここを出て以来ですっから……もう四年ですよ。四年っ」
 親指以外の四本の指を広げ、春坊は破顔一笑した。
「じゃあ春坊も二十二? 早いのねぇ……」
「ほんと……その節はお世話になりましたっ……」
「十五の頃だったかしらね……ここに来たのは」
「そうです……」
「元気みたいでなにより……今も真錠さんのところで?」
「ええ。藍田さんの仕事を手伝ってますっ」
 その固有名詞を耳にした殿田は、もじゃもじゃの天然パーマを思い浮かべ、「きゃっ」と手を合わせた。
「藍田さん、良くしてくれてる?」
「それが今日も晴海で一仕事して、こっちでしょ? 正直言って、人使いはきつめ辛めのビター味ですっ!」
 愚痴とも取れる内容を、春坊はあくまでも本音としてさらりと口にし、最後に殿田へ向かって右目を閉じた。
「けどほんと……ちゃんと働いてるみたいで、先生嬉しいわ……ビターは辛いとは言わないけど……そうそう、藍田さん、こないだも来たのよ」
「知ってます……そのことで……蜷河の様子を見に……」
「まぁ……そうだったの……理佳も喜ぶわ……あなたが来てくれたら……」
「い、いえ……いいんですっ……ちょっと遠目で見させてもらえれば……」
 遠慮がちな春坊に、殿田は下唇を突き出した。
「そうなの? どうして?」
「子供たちに見つかったら……ほら……せがまれるでしょっ」
「せがまれる……?」
 殿田は春坊の悩みが分からず、人差し指を立て、視線を宙に泳がせた。
「あー……手品ね」
「敏とか美里とかまだ覚えてそうですし……」
「なんで駄目なの? 面倒臭いから?」
「い、いえ……喜んでもらえるのは嬉しいんですけど……俺、まだ修行中の身ですからっ!」
「あは……そっかぁ……そうよねぇ……春坊……昔から……いわゆるそう……完璧主義者?」
「そうそうそうっ!!」
 満面に笑みを浮かべた春坊は、何度も頷いて懐かしい恩師との再会に心を和ませていた。

「へぇ……あのオルガン……蜷河だったんですね」
 廊下から扉の中を覗きこんだ春坊は、先ほどからの演奏が蜷河理佳によるものであることを確認すると、細い顎に手を当てた。
「みんなの面倒もよく見てくれるし……ほんと助かってるわ」
 殿田の声に春坊は振り返ると、「様子は……どうなんですっ?」と尋ねた。
「ええ……昔に比べると、ずっと明るくなって……経験かしらね……けど、理佳が実際どんなお仕事をしてきたか……私わからないし……」
「え、ええ……まぁ……」
「だから本当のことはわからないの。辛かったのでしょうけど……あの子……見せてくれないから……」
「そ、そうですね……うん……そうか……」
 春坊は様々な納得と確認をすると、一度だけ大きく頷き、殿田に笑みを向けた。
「まだしばらく蜷河をお願いしまっす。先生っ!!」
「ええもちろん。理佳はハウスの子ですもの。あの子がいたいだけ、ここにいていいんだし」
 殿田の善良なる言葉に春坊は癒やされ、つい先ほど晴海で目撃した惨状を彼はようやく記憶として整理することができつつあった。確かに晴海と三鷹を雨の中移動するのはきつかったが、この順序を決めた藍田長助にも彼は心の中で感謝し、再びビニールコートに袖を通した。
「あら……もういっちゃうの?」
「ええ……まだ仕事があるんで……けど……また俺か藍田さんが来ると思いますから……」
 最後に敬礼をした春坊は、廊下を颯爽と歩き、雨の降る外へ出た。
 閉ざした扉の向こうから、「きよしこの夜」の伴奏が聞こえてきた。少々たどたどしいのは練習中だからだろう。春坊は苦笑いを浮かべ、冷静な判断力を取り戻した。

 そうか……あれは……F資本対策班か……なら装備にも納得がいく……しかし……なぜそれが賢人同盟の追加戦力を襲う……誰が……誰をハメた……この件で……誰が一番得をする……

 仙波春樹、二十二歳。夢の長助直下の、FOTエージェントである。主に情報収集を担当する彼にとって、晴海埠頭での出来事は、普段から彼のボスが言っている、「いいなぁ春坊……世の中ってのは混ぜこぜ色で、原色まんまなんてありゃしねぇ……だからお前みたいな役割が、色を分解できりゃFOTはもっと強くなる……分解力を身につけろ……情報の分解力をな……」を実践するいい機会である。

 けどなぁ……こいつぁ……無理ですよ、藍田さん……俺には難しすぎるっ……

 ヘルメットを手にした春坊は、いっそう激しくなる雨に口元を歪めた。

 この跳躍で五度目である。距離こそ近いため疲れはないが、なぜこうも正確に跳躍先を追撃されるのか、雨で人のいなくなった小田急デパートの屋上に出現した真実の人は、風が強くなってきた現状に舌打ちをした。

 ずれた!? ようやく!?

 二メートルほど先に、栗色の髪がなびいたのを真実の人は認め、この距離なら直接触れられないと両の拳を握り締め、身構えた。
「だめか!!」
 右の掌を突き出したままの姿勢で出現したリューティガーは、眼前になびく白い長髪に奥歯を噛み締めた。
「正確な追尾じゃないか、ルディ!!」
「同盟の技術は日々進歩している……電界さえ乱れなければ今ので……」
 その言葉で真実の人こと、アルフリート真錠は全てを理解した。なるほど、空気の振動を知覚できない暴風域に跳躍したのは迂闊だったが、そのおかげで弟はこちらの位置を正確に検出できなかった。電界と言っている以上、何らかの電気信号を捕捉するのだろう。
 もちろん、根本的な疑問も二つある。

 一つは、なぜ彼が太鼓ゲームに興じるこちらの居場所を察知したのか。電気探知であればロングレンジは不可能であり、何か別の手段か情報でそれを知ったことになる。もっとも、あそこまで派手に太鼓を叩けば、見つかるのも多少は仕方がないとも言える。

 もう一つは、なぜ弟はこうも躊躇なく、自分を触れて跳ばせる至近距離に出現を試みているのか、である。もちろん本気で任務に取り組んでいると考えれば自然であるが、正体不明の何者かに追加戦力を壊滅させられたにしては、このしつこさと本気は半ば八つ当たりのようにも思える。

 そうか……こいつ……そうか……

 弟の心情を察した兄は右目を瞑り、一歩だけ近づいてきた彼に人の悪い笑みを向けた。
「なるほど……だからそんなに怒ってたのかよ……」

 単純な一言である。しかし、だからこそリューティガーには理解できた。

 こいつらじゃ……ないのかよ……やっぱり……

 彼はわき腹に、何かが突き刺さるような痛みを感じた。折れた肋骨が内臓のどこかに突き刺さったのだろか。場所によってはもたないどころか命を落としかねない。みんなの仇も討てず、いや、仇を見つけることすらできず、こんなデパートの屋上で死ぬ。いや、兄に殺される。
 リューティガーを支えていた気力は、彼の聡明な判断力によって、皮肉にも奪われてしまった。
 全身のコントロールを失った彼は、遂にその場に崩れ落ち、そんな弟の姿を共に雨に打たれながら、兄は静かに見下ろした。
「いつでも相手をしてやる……いつでもな……」
 兄の声は風と雨で聞き取りづらかったが、とても穏やかなようにリューティガーには感じられた。

 そう……兄さんじゃない……僕たちを壊滅させたのは……じゃあ……誰なんだ……よ……

 彼は意識が途切れてしまう前に、いつも自分が使っている弾力たっぷりのベッドを思い出した。そしてその姿は突風と共に屋上から消えた。

 ごめん……へイゼル……みんな……

6.
 内閣特務調査室は、内閣特務調査室が正式の名称である。最も多く使われている略称は“内特”であるが、そもそも表立った機関ではないため、一般的にその名が知られることはない。その中に属するF資本対策班ともなると、職務の内容から機密性は更に高まる。例えばここ、霞ヶ関の内閣府別館六階にその本部があることは、関係者の間において周知であるが、一階ロビーや六階本部エリアにも組織名の表示はない。
 午後九時過ぎ、F資本対策班本部は慌ただしく人が行き交い、それは六階だけではなく地下二階のガレージ、八階のオペレーションセンターにも及んでいた。

 ここ数年では最大規模の作戦であった。

 FOTの増強戦力が海路を使って来日、時期は年内。場所は晴海埠頭が有力。

 これが対策班班長、竹原優(たけはら ゆたか)に持ち込まれた作戦への第一報である。情報をもたらしたのは外務省であり、当初は真意を疑われていたが、連日にわたる裏付け調査の結果、それが有力であると判断され、十二月十五日からは本部内に非常警戒シフトが敷かれていた。
「一番の決め手は……そうそう、E夫人とカラー・暗黒って奴の動向だ。来日準備を進めてるってネタが、カタールの五味さんから飛んできた。E夫人といえば、かつてのファクト騒乱で連中に雇われていた殺し屋だし、カラー・暗黒はついこないだの連続婦女暴行殺害犯の容疑者だ。この事件はFOTが絡んでるって噂もある」
 捜査官、柴田明宗が一週間前、後輩の那須誠一郎にそう説明した際、彼は「FOTって最近みんな言いますけど……なんです?」と呑気な返事をし、偶然食堂に居合わせた森村肇に睨みつけられてしまっている。
 別館地下のガレージへ、雨で濡れたシーマを滑り込ませた那須は、急いで車から降りると、既に停められていた巨大なトレーラーの前で立ち止まった。
 トレーラーの周囲にはツナギ姿の作業員たちが整備と点検に取り掛かっていて、その奥にはつい先月完成したばかりの搬送用エレベーターが窺えた。
 作戦を終え、回収した“ドレス”は既にあのエレベーターに載せられ、地下三階の、同時に新設されたハンガー兼ラボに運び込まれたのだろう。間近であの装備をじっくりと観察したい那須だったが、上司への報告がなによりも優先されるため、彼は人間用のエレベーターに乗り込み、六階のボタンを押した。

「神崎さんは現在南郷研で治療中です」
 那須の長身を見上げながら、柴田はカップうどんのスープを啜った。
「そうか、命に別状はなかったんだな?」
「はい。化学薬品系の毒物による攻撃だったそうですが、幸いにもすぐに察知した彼女は、例の能力で毒の進行と細胞の活動率を限界まで遅くしたそうです」
 カップうどんの容器を机の上に置いた柴田は、口元を歪め「ふぇ」と呻いた。
「毒物の分析は進められていますが、どうやら十年前の大臣連続殺害事件で使われたものと同一の模様です。つまり……あの現場にE夫人がいたことは間違いないようです」
「それだがな、E夫人ともう一人、白人の女と黒人の男の遺体はこちらでも確認した。現在検死中だが、黒人はカラー・暗黒だな。例の連続婦女暴行殺害犯の」
 柴田の言葉に、那須は腰に手を当てて口を間抜けに開けた。
「い、遺体が残っていたのですか……!?」
「ああ……残りの九名に関しては全て泡化しちまったようだが……この二人ともう一人に限ってはな。夫人と暗黒は、いわゆる組織に雇われた殺し屋だから、泡化手術は受けていなかったんだろう」
 突入作戦を決定付けたE夫人とカラー・暗黒の両者の遺体が確認できたのは大きい。那須は左拳を握り締め、力強く頷いた。青年の強い意を中年の柴田は苦笑いではぐらかし、少しだけ残っていたスープを啜った。
「作戦は大成功……そう言ってもいいだろう。三十分での検証の割には、回収できた情報は多い」
 本部へ入ってきた森村肇が、ネクタイを緩めながら柴田と那須のもとまでやってきて、そう告げた。
「神崎くんは?」
「命に別状は……今は南郷研です」
「そうか……」
 森村は体毛の濃く、太い腕に付けた腕時計を見た。
「どうしたんです森村さん」
「いや……彼女な、今日は家族でクリスマスパーティーだったらしいが……」
「あ、断りの電話入れてましたよ」
 那須の報告に、森村は岩のようにごつごつした顔を撫で、「そうか……」と小さくつぶやいた。
「家族は会計室勤務ってことしか知らないんだろ?」
「ああ……」
 柴田と森村の会話に、那須が「会計室じゃなくって、財務室です」と間違いを訂正すると、二人の中堅捜査官は「そうだったか?」などと、きょとんとした。
「ところであの現場からどの程度の情報が拾えたんです?」
 那須の質問に、森村は逞しい顎に手を当てた。
「泡化しかけていた者の中に、あのサルベシカがいた。それと何者かの遺留品であるバッグも発見された」
「サルベシカって……あの中東戦争のか?」
「そうだ柴田。大物中の大物だ。班長はおそらく今回のFOT……つまり第二次ファクトの黒幕がこのサルベシカだと踏んでいるようだし、俺もそうだと思う」
「そうか……あのサルベシカがねぇ……」
 森村と柴田の納得に、だが那須は固有名詞を理解することができず視線を泳がせた。
「だ、誰なんですかそのサルベシカって?」
「荒野のサルベシカってな……もとイスラエル軍の作戦参謀だ。中東戦争での軍歴は華々しく、用兵家としちゃ戦術の神様とまで呼ばれた奴でな……戦争終結後は軍を辞め、ゲリラ狩りのアドバイザーとしてあちこちを転々としていたらしい……しっかしそんなのがあの十二人の中にいたとはなぁ」
 柴田の説明に那須は何度か首を傾げ、最後に「へぇ」と感情の込められていない納得の声を漏らした。
「ああ……突入前に検知したサーモの十二人も全てが死亡し……その中に黒幕がいたわけだから、今回の作戦は大成功だ」
「交通封鎖の要請も却下されて……孤立無援でしたからね、これは胸を張って三階の連中にも大きな顔ができますね!!」
 わかりやすい喜びの表現に、森村と柴田は視線を交わし、苦笑いを浮かべた。確かに若い那須が言うように、今回の作戦は規模の大きさに対し、警察や他の保安部署の協力がまったく受けられず、この対策班のみが秘密裏に行わなければならなかった。だからこそ、倉庫内で起きた火災を消火する手立てもなく、その後に来る消防から逃げるように、三十分での回収作業を強いられもした。孤立無援の状況ではあったものの、成果は限りなく大きい。
 車両部門や捜査部門、検査部門などを飛び回り、現場のNo.2として精力的な仕事をする森村肇は、なんとなく今回の作戦で、自分達が敵対する組織の真の意味での壊滅ができた。そんな手ごたえを確認しつつあった。
「あと……バッグとは?」
 那須の質問に森村は「現在検査中なんだが……」と返し、携帯電話が鳴ったためそれを取り出して耳に当て、しばらく言葉をやりとりしていた。
「那須……柴田……いいタイミングだ。バッグの中身について報告があった……」
「何が入ってたんですか?」
「火災現場にあったからな、ほとんど焼け焦げていたんだが……ノートPCが一台回収できた」
「ほう……そいつぁ大きいな」
 PCであれば中に何らかの情報が残されている。柴田はそれに期待して頬を引き攣らせた。
「いや……ハードディスクは破損していて、そこから固有の情報を引き出すのは難しいらしいが……中にな……DVDが一枚入っていた」
「DVD……?」
 柴田と那須は同時にそう言い、そのハーモニーに森村は苦笑した。
「検査部へ行こう……再生できるそうだ……」

 八階のオペレーションセンター隣の検査部、その隅に置かれた14インチのテレビモニタに、手の空いていた対策班員たち十名の視線が注がれ、その中に森村たちの姿があった。
 リモコンの再生スイッチを那須が押すと、一同はどのような映像が映し出されるか息を呑んで見守った。
 真っ黒の画面に、映像編集ソフトで入れられたと思しき丸ゴシック体のスーパーが表示され、それを森村は口にした。
「仁愛高校2004年度学園祭、演劇部発表作品……金田一子の冒険……?」
 呆けと弛緩、なにか生暖かい空気が、人数に対して狭すぎる検査部を支配しつつあった。


 他人の家で食事をするのは久しぶりである。思えば夏にリューティガーの部屋で陳さんの料理を食べて以来だ。ダイニングキッチンのテーブルは大きく、子供が三人もいるこの家には当然の家具なのだろうと、島守遼はその上に並べられたケーキや七面鳥、サラダやスープなどを見渡し、どうにも奇妙なことになってしまったと口元を歪めた。
「それにしてもはるみが男の子を連れてくるとはなぁ」
 つい先ほど返ってきたこの中年男性は、名を神崎博人(かんざき ひろと)。はるみの父親であり、不動産事務所に勤めるサラリーマンであると自己紹介を遼にした。対座する彼をちらちらと見ながら、遼は父親も母親同様、なにか溌剌とした元気があると感じ、これほど大きな家に住める経済的な自信のおかげなのだろうか。それともこうも元気だから、金回りもいいのかと勝手に混乱した。
「なーによ、それ。結構もてるのよ。ねぇ島守」
 隣に座った神崎はるみにそう話を振られ、遼は「そ、そうだね……高川とか……」と返した。
 はるみの更に隣には、つまらなそうに足をぶらぶらとさせる弟の学がいて、遼はこれから家族の団欒というやつが始まるのかと、なにやら居心地の悪さを感じようとしていた。

「え!? じゃあ報一ビルのジムなの?」
「え、ええ……ビッグマンって」
「そのすぐ隣だよ、僕が勤めてる事務所」
「マ、マジっスか?」
「えー、僕もあそこは入会したいと思ってたんだよぉ!! そろそろ腹も出てきたし、なーんだぁ……あそこでバイトしてたのかい!?」
 食事が始まってから三十分後、緊張で硬くなったままだった遼の懐に飛び込んできたのは、家長の博人である。彼は屈託なく、妻が心配して軽く諌めるのも適当にかわし、とにかくよく喋り続けた。隣のはるみは黙々と料理を食べ、あまり父の話題に付き合おうとはしなかったが、両者の職場がすぐ隣であるという事実はさすがに無視できなかった。
「島守って、まだボディビルのジムで働いてたの?」
「ああ。麻生と一緒にね」
「へぇ……よりによって、父さんの隣のビルでねぇ……」
「なぁはるみ、びっくりちゃんだよな!! なんたる偶然だろう!!」
 興奮した博人は四杯目になるワインを飲み干し、妻、永美に酌を頼んだ。
「まぁ……そうね……」
 少々呑むペースが速いと思えたが、はるみの連れてきた島守遼という同級生は、無口だが険というものが少なく、夫にとっては話し易い相手のようである。
 神崎永美はクリスマスプレゼントである新型の携帯ゲーム機で遊びだした学に「駄目でしょ食事中なんだから」と叱り、仕方がないと思いながら夫に酌をした。
 その淀みのない妻の挙動に遼は感心し、更に「ゲームより食べて話す。だってゲームはいつでもできるでしょ?」と続けて弟を諌めるはるみに、学校では見ることのない姉の面を感じた。

 いや……そうか……こいつ……弟がいるから……いつもああなんだな……

 ケーキを食べながら遼は神崎はるみという個性に納得し、視線を感じたはるみは「え?」と首を傾げ、いいタイミングだと思った永美は「はるみ、よく島守くんのこと私に言うんですよ。合宿の後とか、学園祭の後とか」と言った。
「そ、そうなのかよ?」
 遼がはるみにそう尋ねると、彼女は「だってママってメールとかあんまり使えないんだもん」とズレた返事をした。
 ようやく、そうようやく、遼はこの状況がどうしたものなのか理解した。父、博人の目つきはいつの間にか鋭くこちらを見据えている。一見温厚で鈍そうな中年ではあるが、彼なりに“値踏み”でもしているのか。遼は永美の一言で緊張してしまった場の空気に耐え切れず、咳払いをした。

 二度目の対話はあるのだろうか。一時間後、ヘルメットを抱えて玄関まで向かった島守遼は、見送りに来た夫妻と幼い長男に頭を下げ、自分の隣で靴を履くはるみに瞬きした。
「な、なんだよ、神崎……」
「父さん、ママ。島守、駅前まで送ってくね。バイク停めっぱなしだから」
「い、いいよ……別に……」
「いいの。いいからいいの」
 視線を落としたまま、どこか怒ったようにつぶやく娘を父と母は面白そうに見守り、弟は手にしたゲーム機に電源を入れたくてそわそわしていた。
「またね。島守くん」
「ジムに行ったらよろしく頼むよ」
 永美と博人の言葉に遼は「はぁ」と曖昧に返し、はるみの開けた扉の外から冷たい空気が入り込んできたことで、家の中の温かみをあらためて実感した。


「ごめんね。父さんずっと喋ってたでしょ」
「あ? ああ……」
 はるみと並んで代々木駅へ向かう路地を歩きながら、遼は雪がすっかり止んでいることに気付いた。

 真錠は……散らして……冷ませって言ってたけど……そうだな……

「なぁ神崎……あの……ありがとうな。今日」
「え? あ、あっと……そ、そう?」
「うん……なんかさ……気分転換できた」
 あんな家族の団欒で気晴らしでもできたのか。ならそれまで彼はどのような“気分”だったのだろう。もしかして何もかもがつながっていると最近気になってきた“あの方面”に関係してるのだろうか。はるみは遼の心に興味があったが、それをどうやって知ればいいのかわからなかった。
「まりかって……お前のお姉さん?」
 家族の会話で度々登場した名前を、遼は口にした。
「うん……今日帰って来るはずだったんだけど……急な用事ができてね」
「忙しいんだ?」
「全然官舎から帰ってこれないの。ずっと仕事で」
「官舎?」
「財務室……国のね。そこに勤めてるんだ」
「へー政府の仕事って奴? すげぇじゃん」
「どーなんだろう」
 姉の話はあまりしたくない。そんな拒絶が彼女の歩みを遅くさせ、彼は合わせるのに戸惑った。
「あのさ……わたしこそ……ありがとうね」
「な、なんだよ、それ……」
「だってさ、高校生にもなって、クリスマス・イブを家族とって、なーんか負け組みっぽいじゃん」
 自分がいたから、自分とこうして歩いているから負けではないのか。遼ははるみの言葉があまりにも漠然としているため、どう返事をしていいのか言葉に詰まった。

 勝ち負けか……

 つい先ほど、それは酷い負けようだった。それだけはわかる。壊滅。そう言ってしまっていい惨状だったろう。しかしその結果のみを目の当たりにした自分は、正直なところ現実感や喪失感が希薄であり、ヘイゼルの遺体だけがひどく生々しく、はっきりとした印象として浮かび上がってしまう。

「島守……?」
 立ち止まってしまった遼の背中を、はるみは見上げた。肩が震えているように見え、黒い革のジャケットを着た背中はどこか寂しげであった。
「なぁ、神崎……」
 背中を向けたまま、彼は白い息を吐いた。
「もし俺が今……急にお前に抱きついて、許してくれって泣き出したら……どうする?」
 何かの謎かけなのだろうか。突然の問いに少女は戸惑い、また、そうした抽象的な言葉はどこか試されているように感じ、それはとてもではないが許容できない神崎はるみだった。
「なにそれ……わけわかんない」
 そう言った後、彼女はひどく後悔し、胸に手を当てて視線を落とした。雪の解けたアスファルトはまだらで醜く、街灯を反射した薄ぼんやりとした頼りない白さが、彼の足元の黒さを際立たせているようでもある。
「だよな……あぁ……わけわかんねぇよな」
 ぶっきら棒にそう告げると、遼は駅前に向かって再び歩きはじめた。

 駅前の坂道の途中、銀行の前に停めておいたMVXを見つけた遼は、歩きを早めてポケットから鍵を取り出した。
「忘れ物とかないよね」
 はるみの言葉に遼は小刻みに頷きながら、“忘れ物”というキーワードから妙に背中が寂しい感覚が導き出され、思い切り口元を歪めた。

 忘れ物……っだ……あ、うぁぁ……デイパック……俺の……う、うぁぁぁぁ……

 使い道があると思い、晴海埠頭に行く際、デイパックにノートPCとマスクを入れていったのを彼は思い出した。マスクは脱出の際に外し、リューティガーのマンションに置きっ放しだったが、デイパックと中のノートPCは倉庫に置いたままである。まだ殆ど操作をしておらず、テキストファイルの一つも保存してはいないが、アカウントや同盟コードなどの情報が入っていて、なによりも部でもらった学園祭の上演を収録したDVDを再生し、そのままトレーに入れたままである。
 なんというヘマをやらかしたのだろう。遼は額を手で押さえた。はるみが心配そうにこちらを見つめているが、それに構う余裕もないまま、彼はあのPCが敵の手に渡ってしまうという事実を考えた。

 その結果、大したことはないだろうと彼は結論した。同盟の情報といっても、現地協力者である自分のPCに予め登録されているレベルなどたかが知れているし、敵がこちらを島守遼と認識しての襲撃があった以上、仁愛高校の人間だということがDVDで判明したからといって、「なにを今更」である。あくまでも敵をFOTと思っていた遼は、安堵するとはるみに笑みを向けた。
「と、島守……?」
「ごめんごめん……なんでもないって。それよりさ、お前学園祭のDVDとか持ってる?」
「もちろんあるけど……」
「じゃあ今度コピーしてくれよ」
「あれ……島守ももらったでしょ?」
「あ、ちょっとさ……バイト先の人が見たいって言ってて……俺、ハードもってないし」
 遼の説明にはるみは納得し、会話が流れる勢いで気になっていたことを聞いてしまおうと踏み込んだ。
「OK……でさ……島守ってさ……最近……蜷河と連絡とかって……」
「特にとってないよ」
 随分とあっさりした返事である。あの晩、尋ねてきた蜷河理佳は深刻そのものといった面持ちで、なのに相手の彼がこうも平然としているのは奇妙である。はるみは顎を引き、彼を上目遣いで見つめた。


 朦朧とした意識は転移先をずらす結果となった。このような経験はあまりないが、ベッドを目指してこれ以上跳ぶことはもう無理だろう。若き主は通信機で従者を呼ぶべきだと判断し、出現したここがどこであるのかを確認しようと、泥だらけのアスファルトにへたり込んだまま、辺りを見渡した。

 銀行の看板……あぁ……駅前か……意外と近くまで跳べたんだ……そうか……

 ずれた眼鏡をかけ直したリューティガー真錠は、背中を銀行の壁に付け、視界に飛び込んできたある光景に眉を顰めた。

 遼と……神崎はるみ……?

 バイクに跨った島守遼と、それを見つめる神崎はるみ。二人の姿にリューティガー真錠は下唇を噛み締めた。

 蜷河さんがいなくなった途端……こーゆーのかよ……気分転換しろとは言ったけど……よりによって……どーゆーことだよ……遼……!!

 蜷河理佳失踪の真相も知らず、彼はその事実を他のクラスメイトたちと同様、ただの転校であると認識していた。だからこそまだ二人は付き合っているのだろうと思っていた。
 しかし、ただ単に話しているだけならば、彼自身ここまで気持ちは荒まない。
 相手があの神崎はるみだからである。彼女の姉、神崎まりかは空前の能力を持った化け物であり、敬愛していたかつての部隊長を殺害し、現在は日本政府にその力を預けていると聞く。
 姉妹は当然ながら別の存在であり、妹はおそらく姉の真実を知らされていないはずである。転入当初はそう割り切り、彼女に対してできるだけ平然とした対応をしてきたつもりだったが、かつて同じ部隊の隊員だったカーチス・ガイガーが懐かしさと共に来日し、兄に敗れ去っていってからは、やはりそんな器用な立ち振る舞いなどできず、できるだけ距離を置き、心を通わせるのを避けてきた。
 同盟のエージェントとしては未熟すぎる。荒む気持ちを抑えようとした彼は、あらためて神崎はるみの姉を再定義しようとし、同時に全身を震わせた。

 ま……さ……か……な……の……か……

 リューティガーは今夜の元凶である敵が何者なのか、心当たりに浮かんだある女性に戦慄した。もし襲撃者が彼女であったなら。いや、そんなはずはない。あり得た話ではない。自分自身は個人的な恨みもあるが、同盟と日本政府が戦う理由など微塵もない。

 通信機を取り出した彼は、スイッチを入れると背後の壁により体重を預けた。

 今日はもう限界である。それだけはよくわかる。ならばもう落ちるしかない。自分にできることは、今日に限ってはここまでだ。

 たまったもんじゃない!!

 反対の手にネックレスを握り締めたリューティガーは、走り去る遼のバイクを見送る少女の目が、どこか切なそうである事実に嫌悪し、地面に唾を吐いた。

7.
「坊ちゃん丸一日寝てたよ。時々苦しそうだったから、心配したヨほんと」
 陳の持ってきたフカヒレスープを口に運びながら、ベッドで上体だけを起こしていたパジャマ姿のリューティガーは、二人の従者を見上げた。
「ってことは……今朝は……十二月二十六日なんですね」
「あぁそうだ……治療に来た医者は、全治二週間と言っていた……」
 健太郎の言葉に、リューティガーはスープのボールをベッド脇の低い棚に置き、換わりに眼鏡を手にした。
「いい冬休みネ。同盟からも新しい指示が来たけど、もうこれだから」
 陳から書類を受け取ったリューティガーは、眼鏡をかけてそれを読んでみた。
「FOTは日本政府との接触をとりつつあることが判明……現在調査中であり、派遣チームは情報の解析が終了するまで現状待機」
 あえて内容を口にした彼は、大きく息を吐くとわき腹に痛みを覚えた。

 FOTと日本政府が接触しつつある事実は、すでに与党幹事長、幸村加智男(こうむら かちお)の第二秘書がFOTの取引現場に見学へ現れていたことで判明していた。しかしあの秘書を同盟本部へ跳ばした直後、通達された結論は「偶然居合わせただけ」というふざけたものであり、一体なぜ今更見解を改めたのかは定かではない。
 更にふざけているのは、現在も事実関係を調査中で、自分たち実働部隊は待機していろという一文である。冗談じゃない、何のために現地にいる。それを調査することこそ、僕たちの任務じゃないか。リューティガーは怒りで書類を握り締めた。
「ま、まぁ、坊ちゃん……本部も……考えがあってのことだと思うネ」
 フォローをしながらも、陳には主の怒りがよく理解できた。確かにひどい命令であり、これはもう同盟も遂に開き直ったとしか思えない。
 自分たちは何らかの勢力に対して、「同盟はFOT対策としてちゃんとエージェントを派遣しました」という体裁作りのためだけに、任務を与えられたのではないだろうか。主と従者の考えは言葉にせずとも同一だった。
 もし、それが事実であれば、同盟本部は自分たちが動きすぎることを嫌っている。しかし尚もわからないのは、そうする理由と、体裁を見せるべき相手が何者かである。

 一体どうすりゃいいんだよ……

 せめて書類に二十四日の晩について、一言でも触れられていれば幸いだった。しかし腕利きのエージェントが壊滅させられたあの事件については一切記述もなく、その調査も復讐も、何も動くことは許されないということである。本部まで跳び、抗議をするという手段もあったが、長すぎる跳躍をする気力は今のところない。
 ベッドのシーツへ視線を落としたリューティガーは、意識を回復させ、栄養いっぱいのスープを飲んだばかりだというのに、ひどく疲れていて、ただ哀しかった。


 冬休みをどう過ごすか。同盟から給料が出ると聞いていたので、アルバイトをそれほど入れるつもりもなかったが、あの襲撃でそれもどうなるかわからない。一体あの後リューティガーはどうしたのだろう。まだマンションで休養をとっているのか。歌舞伎町での出来事を知らない遼は、二日が経過しても連絡がない事実に焦りを感じはじめていた。
 自分の部屋から台所へ出た彼は、父がはじめていた朝食の支度を手伝い、食器をテーブルの上に置いた。
「あれ……スポーツ新聞なんか取ってたっけ」
 カラフルな紙面に遼は注目し、食卓に置かれたそれを手にした。
「なんか年末年始のサービスキャンペーンだってよ。最近色んなとこの勧誘きてるから、必死なんだよ」
 焼き魚を載せた皿を持ってきた父がそう説明すると、息子は「ふーん」と納得して、椅子に腰掛けて中身をぼんやりと見た。
 今日の味噌汁はちょうどいい塩辛さである。スポーツ新聞を読みながら、味覚を暖かいもので満たしていた彼は、とある記事に目を留めた。

 怪!? 人が消える!?
 二十四日夜、新宿歌舞伎町中央通りにて、突如として人間が目の前から消える瞬間を目撃した。という情報が本紙に寄せられた。目撃したのは数名で、人によっては突然ゲームセンターの前にコート姿の少年が出現し、そこにいた青年と姿を消した。という証言もあって聖夜の怪奇現象、もしくは奇跡としてインターネット上などでも盛り上がっている。しかし警察は「その晩はクリスマス・イブということもあり、酔客も多くそうした怪現象の情報は寄せられているものの、今のところ捜査の予定はない」と非公式ながらもコメントしている。

 いつも読んでいる新聞なら、まず掲載されない記事だろう。スポーツ新聞だからこその飛ばし記事であり、あくまでも紙面埋めの与太話である。だが島守遼にとって、この情報は極めて現実的な出来事として受け止められ、彼は慌てて朝食を胃袋に詰め込んだ。
「おいおい、朝っぱらから騒々しいな……」
 父の嫌気も無視し、遼は高スピードで食事を終え、食器を流しに運んだ。
「悪りぃ……洗っといて……俺……ちょっと出かけてくるから」
 外出着に着替え、ヘルメットを手にした遼は、アパートから駆け出すと下に停めてあるMVXへ向かった。

8.
「まさか兄貴とやりあったのかよ!?」
 寝室のベッドで上体を起こした姿勢のリューティガーに、遼は問い詰めるようにそう言った。
「ああ……あの後同盟本部へ行って、事態の報告をした……そこで奴の現在位置を聞いたんだ」
 パジャマ姿のリューティガーは、遼の強い意を逸らすように、眼鏡をかけ直した。
「そうか……ならどうして呼んでくれなかったんだよ」
「惨状だったんだろ? 僕は気を失っていてわからなかったけど……君はそういうのに慣れてない……だからあの日は帰ってもらったんだ。呼び出すことなんてできない」
 そんな精神的なゆとりがなかったのが本当のところである。冬の遠い日差しを背に受けながら、リューティガーはだがその事実を、現地協力者である彼には伝えたくなかった。
「だ、だけどさ……奴を倒すのには俺の力がいるんだろ?」
「もちろん。遠透視による情報を君に伝え、致命傷となる箇所へ攻撃を加える……このもっとも確実な暗殺手段には、きみの力がどうしても必要だ」
 具体的な作戦を初めて耳にした遼は息を呑み、抱えていたヘルメットへの力をより強くした。
「けどね……もう……いいんだ……」
 視線を落とし、そうつぶやいたリューティガーの顔には、自嘲気味な笑みが浮かんでいた。こんな彼を見るのは初めてである。遼は何があの後に起こったのか、それが気になって仕方がなかった。
「なんだよ、それ……お前……怪我して疲れてるんだろ? 弱気になるのもわかんなかねぇけど……しっかりしろよな」
「違うんだ……こんな怪我は昔しょっちゅうしていたし……肉体の痛みはある程度までならコントロールする訓練は積んでいる……違うんだよ……」
「何がどう違うんだよ」
「襲撃者は……奴らじゃなかった……」
「な……んだと……嘘だろ……」
「確証はないけど、まず間違いない……奴と直接会って確認した……あいつは……そういう嘘はつけないし、嘘をつくメリットがまったくない」
「じゃあ、誰なんだよ? みんなをやったのは……」
「わからない……」
 日本政府。F資本対策班である可能性がもっとも高い。あの組織に死に神殺しの化け物が所属しているのなら、圧倒も手際も全て納得がいく。しかしだとすれば遼のような素人が自分を連れ脱出できたのは信じられない。トレーラーからの投光があった以上、作戦は大掛かりで、包囲も完璧だったはずである。
 この段階でリューティガーには二つの情報が欠落していた。まず、対策班が突入直前に熱源反応によって倉庫内の人数を特定し、その後突入した神崎まりかの殺傷人数をカウントすることで戦力低減を計算していた事実。これにより、三トラ(さんとら)の三人分離も一体一人とカウントされてしまい、遼とリューティガーの生存をそもそも念頭に置かず作戦を継続していたということ。リューティガーに対する最初の打撃こそあったものの、倉庫内にいた十二人の個人レベルでの選別はできず、混戦が予想されたため、あくまでも作戦終了は十二人の殲滅で終了していた。分離する改造生体のデータなど日本政府にはなく、そうした作戦の組み立て方そのものが硬直した発想ではあったものの、リューティガーがそれを知る由もない。
 そしてもう一つは、対策班が他の政府機関との連携をとれず、少人数での遂行を余儀なくされていた現実。包囲などが完璧に行えるはずもなく、消防による消火で現況の確保が難しい以上、泡化する遺体の組織回収と、突如として倒れた神崎まりかの搬送が優先され、島守遼の度胸に誰もが気付かなかったという事実。
 だからこそ彼は現段階での襲撃者の特定ができず、ましてやその国の高校生である遼に憶測を伝えることはできなかった。
「どーすんだよ……謎の敵って奴か……? どうやって仇を討つ?」
「いや……それも本部からの指令がない以上……できない……」
「なんだよ、それ……」
「仕方ないだろ。同盟本部は十人の死を無視しているんだ」
「だって腕利きの精鋭だったんだろ? そんなのがあっという間にやられて、なんか手は打たないのかよ!?」
「怒鳴るなよ。そう……だな……」
 この憶測は伝えてもいいだろう。そう判断したリューティガーは、指を組んで遼を見上げた。
「同盟は……十人を殺すために派遣した……僕はそう考えている」
 その言葉に、遼は耳を疑った。彼は言葉を返すことが出来ず、顎を引いた。
「裏切り者である奴に対して、同盟は確かに対応策をとっている……まずこの体裁を整えるため、僕たちや十名が派遣された」
 リューティガーは真っ直ぐに遼を見上げ続けていたが、彼は許容を超えた言葉にただ呆然とし、その思考を総動員して解析に努力しているようでもあった。
「つまり同盟にとって、今回の作戦は本気ではないってことだ……そして……次にあの襲撃だが、あの意味は、同盟がしかるべき勢力に対し、襲撃を促した可能性が高い」
「ちょ、ちょっと待ってくれ……な、何がなんだかさっぱりだぞ……それじゃお前や俺も、同盟からの指示通りに動いたら殺されるってことなのかよ」
「ああ……君が酔っ払って吐きに行くまでは、計算外だったのだろうけど……」
「なら同盟も敵ってことか? 襲ってきたのも同盟ってことか?」
「ことはそんなに単純じゃない。事実、最初の任務はまだ生きたままだ……同盟はこれまでも様々な政府や組織と協調体制をとって、稀に生贄を差し出すことだってある。わからないだろうけど言わせてもらう……つまりあの十名を襲撃した奴だって、僕たちが賢人同盟だと思っていない可能性がある。僕たちも襲撃者も、あくまでもその上部同士の思惑の上で踊らされ、そのパーティーに奴は一枚も噛んでいないって状況もあり得るんだ」
 まったく意味不明である。リューティガーの言う権謀術数など、一介の高校生である島守遼に理解できるはずもない。しかし、これだけはわかる。

 冗談じゃねぇ……真錠……すっかりやる気ゼロって感じだけど……困るんだよな……それは……!!
 アルフリートこと真実の人へ接近することで、FOTに所属しているはずであろう蜷河理佳と再会する。このプランが早くも崩れ去ろうとしている事態を、遼はどうしても回避しなければならなかった。
「わかんねぇよ。けどさ、真実の人を倒して日本の平和を守るって目的は……変わらないんだろ」
「も、もちろんさ……命令は生きているんだし」
「命令なんてどうでもいい。悪い奴と戦うのは当たり前のことだ。すぐにでもなんかやろうぜ。協力するって言ったけど、まだ俺は何もしちゃないんだぜ」
「いや……君は僕を助けてくれた……じゅうぶんに働いてくれている」
「あれはトラブルだろ? そーゆーのじゃなくってさ、もっとこっちからグイっと攻めるような……情報収集とかなんでもいい。なんかやろうぜ!!」
 拳を握り締めて詰め寄ってきた遼に対し、リューティガーは圧倒されてしまった。
「だ、だめだよ……同盟からの命令が……ないのに……」
 一度は独自行動をとろうとしたリューティガーだったが、ヘイゼルをはじめとする十名の死は、彼を弱気にもさせていた。
「そんなのは真実の人をやっつけちまえば、どーにでもなるだろ。事実が状況を変えちまうことだってあるんだろ?」
「そうだな……」
 遼に同調する声は、寝室の入り口付近から聞こえた。誰だろうと振り返ると、遼の視線の先には、体育座りをしたコート姿の健太郎がいて、赤い目をこちらへ向けていた。
 存在感を消し、あの巨人は最初からここに佇んでいたのだろう。扉の開け閉めがなかった事実をあらためて確認した遼は、ぎこちなく頷き返した。
「けど……情報も戦力も無さ過ぎる……本部でのトレース機能だって、まだ完璧じゃない……」
「どっちも集めりゃいいだろ?」
 情報と戦力を集めればいい。遼の乱暴な提案は、だが作戦行動における初歩であるとリューティガーは顎に手を当て、感心した。
「ま、まぁ……そうだけど……情報はともかく……戦力は……」
「新型の探知機があるんだろ? 俺のもらった旧型とあわせて……俺たちみたいな能力をもった奴を見つけて、そいつを仲間にすればいいんだ。国の一大事だ、説明すれば絶対仲間になるって」
 言いながらも、自分は彼女と再会したいという理由で協力している事情を遼はすっかり心の棚に上げていた。そう、国の一大事で絶対仲間になるのなら、彼自身、もっと早くからリューティガーに力を貸していたはずである。
「能力者を……集める……か……」
 確かに新型の探知機は、兄の居場所をかなり正確に突き止めた。跳躍の出現時の脳波信号を電気変換して探査するあの新型七号探知機であれば、より正確な能力者の特定ができるはずである。
 なんてことだ。至った発想にリューティガーは自嘲し、苦笑いと共にため息を漏らした。なぜなら、能力者と思しき候補者のファイルは賢人同盟に存在し、それを再チェックすれば接触する候補の確定はある程度できるはずだからだ。砂漠の中から宝石を探し出すような、そのような民間人の提案に一瞬でも乗ってしまうこと自体、以前の自分ならあり得ない。つまり、それほど同盟本部への不信感が強まっているということだ。
「考えといてくれよな……それと早く怪我治して元気になれよ……あ、健太郎さん、これ、お見舞いっス」
 遼は、駅前で購入した五百円の滋養強壮ドリンクの瓶を、健太郎に手渡した。
「悪いな。島守殿」
 ドリンクを受け取った健太郎は、それをベッドの主へとかざした。
「じゃーな。また来るから」
 遼は拳でパンチを打つ仕草を見せた後、寝室から早々とした挙動で出て行った。
「前はあんなに頑なだったのに……なんなんでしょう……島守遼って……」
 主のつぶやきに、青黒き巨人は立ち上がって腕を組んだ。
「もちろん、自分の命が狙われたっていうこともあってだろうけど……信じて……いいのだろうか……僕は彼を……」
「島守遼は……」
 低く、掠れた声で健太郎はリューティガーに応えた。
「確かに奴は女にだらしなく……打算的な考えをもっている……しかし……決して悪人ではない……」
 それは信じていいという意味なのだろうか。差し出されたドリンク剤を受け取ったリューティガーは、ラベルに書かれた成分を見て、少なくともこの成分程度には、島守遼の心根を頼ってみてもいいのだろうと、そんな考えに至り、蓋を開けた。

9.
 2004年も最後の一日である。あれから五日後、アルバイトには二回行き、隣のビルに不動産事務所が入っていることも確認したが、神崎博人と偶然出会うようなこともなく、代々木のマンションにもその帰りに訪ね、リューティガーが回復しつつある状況を確認したものの、具体的な復讐や行動のプランは話せずにいる。
 なんとなく日にちだけが経過して、気がつけば新聞のTV欄に格闘技特番や紅白歌合戦が見つけられる今日になってしまっている。
 あいつの弱気は深刻で、下手をすると立ち直れないかも知れない。つい先日尋ねたときも、ぼんやりとヘイゼルのネックレスを見つめるだけで、陳さんは睡眠薬を飲んだばかりだからと言っていたが、あれではまるで病人のようである。
 いや、確かに奴は病人ではないが怪我人だ。肋骨を折り、内臓にその先端が突き刺さっていたというのだから、本来は面会謝絶の入院状態でいてもおかしくはない。
 しかし、じっとしていられるほど島守遼は泰然としてはいられなかった。蜷河理佳と再会する手立てが弱気の底に沈んでいるのなら、自分の力でどうにかするしかない。

 川島教諭に無理矢理同行させられた例の体験が再び生きるとは。島守遼は、横田良平が住む、国分寺の住宅街にあるマンションを見上げ、もう夕方を過ぎ夜になろうとしている冷気に白い息を吐いた。

 突然だから驚いてたけど……まぁ、いいよな。良平だし……

 クラスメイトの人権を差別した考えを抱きつつ、遼は横田良平が随分と遠くから通学している事実にあらためて驚いていた。国分寺から仁愛まで電車で通おうとすると、中央線で新宿まで行き、そこから山手線で五反田、更に池上線に乗り換えて雪谷大塚(ゆきがやおおつか)までである。
「いや。通勤快速だと新宿まで一駅なんだよ。満員だけどそれさえ我慢すりゃなんとかなる」
 部屋まで案内してくれた横田良平はそう説明し、クッションへ座るよう促し、自分は椅子に腰掛けた。
「悪いな。こんな日に押しかけて」
「驚いたよ。なーんで島守が俺のところなんてってさ。これから年越し蕎麦だぜ」
 ぎょろりとした目を瞬きさせながら、良平はそう言った。彼と遼はクラスでもあまり話したことがなく、学園祭で前日に教室に泊まり込んで作業をした際も、人間関係は構築できないでいた。接点があまりない両者であり、良平からすれば、遼は蜷河理佳と付き合ってる羨ましい奴。であり、遼からすれば、良平は昔習字を習ってて、今はネットに詳しく、珍しく激怒した近持先生にビンタされた要領の悪い奴。程度の認識しかない。
 白いトレーナーにジーンズという室内着は、どこまでも地味で良平に合っている。遼はそう思いながらもこの同級生が、内向性が強すぎる、いわゆる内に篭もったおたくではないと予想していた。
「お前さ、よく内藤とかにネットの話してるじゃん。詳しいんだろ……ほら……検索とかって」
「小学生の頃からやってるからね……まあまあ詳しいと思うよ」
 警戒心を抱き、良平は言葉を選んで遼に対していた。
「な、なんだっけ、ヤフーとかゴーグルとかいろいろあるんだろ?」
「YAHOOとGoogleな。まぁ……使ってるほうだと思うよ。B組の中じゃ」
「じゃ、じゃーさ……調べ方とか……教えてくれないかな……」
「簡単だよ。知りたい言葉を検索窓に打ち込んで……検索ってボタンを押すだけだ」
 良平は机上のPCを操作し、ブラウザを立ち上げた。遼はクッションから立ち上がり、良平の座っている椅子の背もたれに手を掛けた。
「例えばさ……そうだな……俺の名前とか入れてくれる?」
「いいけど……」
 良平は淀みのない所作で検索サイトの窓にキーワードを打ち込み、検索ボタンをクリックした。
「な、な。ゼロ件だよな。島守遼って」
「まぁね……」
「ここまではわかるんだよ。バイト先のパソコンとかでやってみたし」
「で?」
 遼が一体検索の何を知りたいのか、それを理解できない良平は次第に苛つきはじめていた。

 お前さ……大晦日なんだし蜷河とかと会わなくっていいのかよ……まだどうせ付き合ってるんだろ……

 自分のすぐ傍の席に座っていた黒髪の美少女へ、良平は少なからずの好意を抱いていた。
「わかんないのがさ、島守遼だから結果がゼロなんであってだ、つまり……その……なんだ……島守ってのと、遼ってのと、このどっちかがそれぞれひっかかればいいって……あの……その……えっとさ……なんつっていいのか……島守って人と、遼って人がそれぞれ当てはまった奴っていうの? そんな調べ方が……」
 何を言っているのかさっぱりである。良平の苛つきは増し、右ひざは小刻みに震動していた。
「俺には島守が何いってるのか全然わからない……けどさ、二つの言葉を同時に調べたいんなら、アンド検索を使えばいい」
「アンド? なんだ、それ」
「こうするんだ」
 良平は検索窓に、島守 遼とスペースを一文字ずつ入れ、検索ボタンをクリックした。すると今度は五十件以上の検索結果がブラウザに表示された。
「あ、間にスペース入れるだけなのかよ!? そんな簡単だったの!?」
「Webの操作は簡単だ。だから全世界で爆発的に普及したんだ。けどさ、ヒットはしたけど、どれもあんまり役に立つ情報じゃないと思うけど……」
 そもそも島守という苗字は変わっていて、この文字があるからといって人の名前を差す場合とは限らない。事実検索結果には、“レイテ島守備隊”などまで混ざっていて、なぜ遼がここまで興奮しているのか、良平には相変わらずさっぱりだった。
 だが、遼にとっては大きな一歩である。バイト先でなれないWeb検索を使い、“賢人同盟”や“FOT”ひいては“蜷河理佳”なるキーワードを入れ、情報の収集を軽く試みたがいずれも満足のいく結果は得られなかった。しかし言葉を分解して検索すれば、それはそれで変わった情報を入手することができるかも知れない。
 これからは、自分でも色々とできるようにならなければならない。年明けには高川に電話して、彼の通う道場も見学させてもらおう。そんな予定を立てていると、良平は検索窓に蜷河理佳と打ち込んだ。
「な、なんだよぉ……なにすんだよ、横田……」
 口元を歪ませながら、遼は横田の行動を咎めた。
「いや……転校先でお芝居とか出てたら……それを見た奴がブログに書いたりしてるかなって……」
 横田としては、遼に対して嫌味の一つでも言ってやりたいがためにとった行動である。しかし数日前にそれを試し済みの彼は、検索ボタンをにやついてクリックする良平に対しても余裕があった。
「ほら……ゼロ件だ。な。実は俺も試してみたんだよ」
「なんだ……自分の彼女の名前を検索するなんて、島守も案外悪趣味なんだな」
「お前だってそうじゃん……人の彼女のこと、勝手に調べるなよな」
 “人の彼女”そのフレーズに遼が恍惚としていると、良平は蜷河 理佳と打ち込み、再び検索ボタンをクリックした。
「お、おいよせよ……」
 知ったばかりのアンド検索は試したことがない。バイト先でこっそりとやろうと思っていたその行為を眼前でやられてしまった事態に、遼はなぜだか激しい焦りを覚え、良平の右手を背後から払った。
「なにすんだよ……」
 下唇を突き出し、乱暴な行為に良平は嫌気を見せた。しかし背後にいる遼は手を机の上に置いたまま、それを震えさせていた。
「と、島守……?」
「なんだよ……これ……」
 検索結果は三十件ほどで、その全てが新聞記事である。

 東京都墨田区 蜷河さん一家殺害 生き残った 長女、理佳

 どの結果にも、そんな言葉が共通して載っていた。何か見てはいけないような情報が表示されているような、焦りの原因はこうなることを恐れていてのことだったのか。遼は鼓動を高鳴らせ、横田の手を握った。
「と、島守……これって……」
「い、いいか良平……脅す……俺はお前を脅す……これを……今から見るこれを……誰にも言うんじゃないぞ……もし言ったり、ネットに書き込んだりしたら……殺す……ぜってー殺すからな……」
 手を握る力は尋常ではなく、それ以上に肩から突き出された顔には殺気が込められていて、気圧された良平は「あ、ああ……わかった……」とか細い声を上げるのが精一杯だった。
 良平の手から、怯えや恐怖、そしてわずかばかりの好奇心を読み取った遼は、小さく息を吐き、手の力を緩めた。
「悪りぃ……じゃあ……一番上の、アサヒコムってのをクリックしてくれ」
「ああ……」
 良平が結果をクリックすると、別ウインドーでブラウザが表示され、遼はそんな機能もあるのかと小さく驚き、画面を食い入るように見つめた。

 東京墨田区の蜷河さん一家3人が殺傷された事件で、公安当局対策班は1日、実行犯と思われるファクト−真実の徒構成員である二名のフィリピン人男性を、銃撃戦の末射殺したと発表した。
 調べによると容疑者たちは、九月十日未明、蜷河さん一家の住むマンションに金品目当てで押し入り、蜷河和輝さん(43歳)妻、佳織さん(35歳)長男和明くん(8歳)を殺害、遺体をいわゆるファクト式に処分し、財布や金庫、宝石類などを強奪したと見られる。
 同事件では、唯一生き残った理佳さん(8歳)が現在も入院中。

「ファクト事件の一つか……よくデータが残ってたなぁ……1997年の事件だぜ……」
「ああ……他は……」
「どれも似たり寄ったりだな……あの頃はこんな事件が多すぎて……深く検証しているサイトもない……メーリングリストからとか……そっちから調べる方法もあるけど……どうかな……」
「た、頼めるか……良平……」
「お、おい……どうしたんだよ……蜷河って苗字は珍しいけど、偶然の一致だろ?」
「それでもいい……できる限り調べてくれるか?」
 良平の現実感と、遼のそれとは隔たりがあった。ファクトに家族を殺害されたという過去。理佳という少女であれば、じゅうぶんあり得る。それほどの重さは想像できる。
 しかし、FOTがファクトの残党であれば、話の辻褄は今ひとつ合わない。だからこそ調べる必要がある。もちろん偶然の一致という可能性も残っている。それならそれでいい。
 だが、豊富な情報収集能力を持つという、リューティガーにこの事実の調査は頼めず、それどころか知られてもいけない。あの当時ありふれた事件の一つだというなら、彼はこれにも気付いていないはずである。それだけに、良平には更に念を押しておく必要があると思った。
「りょ、良平……もしいい情報が拾えたらさ……」
「お? なんか礼でもしてくれるか?」
「あ、ああ……彼女紹介してやるよ……」
「マ、マジ?」
「マジマジ。ぜってー紹介すっから。可愛い子」
「お、おう……」
 何度も頷いた後、モニタに向き直した良平の背中を叩いた遼は、この時点では大した約束をしたという思いは皆無だった。

 夜の街をMVXで駆けた遼は、信号待ちで鼓膜を震えさせる低いそれを知覚した。

 除夜の……鐘……か……

 もし理佳が殺害事件の被害者だとすれば、例えば近持先生などはそれを知っていたのだろうか。なんとなく遼はそんなことを考え、悴んだ両手をグローブ越しに合わせた。

 理佳……近づいてみせる……俺なりのやり方で……

10.
どこから聞こえてくるのだろう。この低く重い音は。リューティガーは寝室のベッドで、初めて耳にする除夜の鐘に驚き、傍らで食器を片付ける陳を見上げた。
「もう今年も最後ネ」
「あぁ……その合図なんですか。この音は」
「そう。百八回鳴らすネ。昔からの習慣よ」
 2004年も残すところあと数時間である。同盟本部で今回の作成を命じられたのが春であり、下準備と調査に数ヵ月を費やし、夏前に来日してから半年が経過しようとしている。この期間に自分は一体どれだけの成果を上げ、この国、父の祖国を守れたのか。

 なにも……できちゃいない……

 同盟の思惑、日本政府の動向。そのいずれもが自分のやるべきことの妨げになりつつある。
 事実が状況を変える。島守遼の言葉がここ数日、リューティガーの中で何度も繰り返されていた。そう、兄である真実の人を倒す。実にシンプルでわかりやすい発想である。そのためだけに全力を費やす。まずそれをクリアしてから、次の陰謀や策謀に立ち向かえばいい。
「陳さん……年明けから……動きます……同盟の指示を待ってられませんし」
「坊ちゃん……」
 越権行為を決意したリューティガーを、だが陳は止めることはできなかった。ベッドの傍らに置かれたネックレスを見つめ続ける主に対し、従者である彼はその助力を精一杯果たすだけである。そう覚悟を決める時期だろうと思い、食器のトレーを持つ手に力が入った。
 同盟からの支援はこれまで以上に受けづらくなる。ならば暗殺プロフェッショナルである自分の、同盟入りする以前からの人間関係を利用する必要がある。日本に点在する何人かの顔を思い浮かべた陳は、彼らへの連絡方法を考え、すぐに実行する必要があると判断した。
 繰り返される鐘の音は、主と従者の鼓膜を刺激し続けていたが、彼らはすでにそれを意識することなく、この先繰り広げられるはずであろう戦いへと思いを馳せていた。
 ただ一人、居間で紅白歌合戦を鑑賞していた青黒き巨人だけが、かつての記憶を鐘の音に重ね合わせ、赤い瞳をわずかながらに潤ませていた。


「早紀さん。近持先生、思いのほか元気そうでよかったよね」
「そうね……けど先生、漫画なんて読むのかしら?」
「入院は退屈だから、きっとすぐに読んじゃうと思うよ」
「どうだか……」
 ファーストフード店を出た権藤早紀と戸田義隆は、上野駅のガード下を通過し、雑然と賑わうアメ横を並んで歩いた。“早紀さん”そう呼んでくれるから、自分より背が高いから、この温厚で年齢以上に落ち着いた彼と付き合える。権藤早紀は左目を覆った前髪をかき上げ、隣の戸田を見上げた。
「戸田くん。これから初詣行こうか?」
「いいねぇ。おみくじひかないと」
「今年のはどうだったの?」
「小吉。なんか中途半端でさ。まぁいいんだけどね」
 三学期などあっという間で、すぐに二年生になる。彼との関係はもっと親密になるのだろうか。勧めてくれた漫画「スケ番刑事」を読破すればその人となりをもっと理解できるのだろうか。早紀はそんなことを思いながら、手をつなぐのはまだ早いと苦笑し、唇に指を当てた。


 香奈からのメールはこない。鈴木歩は携帯電話を折りたたみ、どうせ彼女は彼氏にあっているのだろうと口元を歪ませ、参考書をベッドに放った。
 青学の二年生などと言っていたが、あんな地味で華のない香奈が、まさか自分より先に彼氏を作るとは思ってもいなかった。しかし、まあこんなものなのだろうな。化粧で荒れた素顔を机上の鏡に映した彼女は、なんてひどくみっともないのだろうと嫌気し、拳でそれを軽く小突いた。

 島守……蜷河と別れたのかなぁ……

 最近妙に、あのぶっきら棒なクラスメイトのことが気になる。鈴木歩は2005年こそ、友人に負けない恋をしようと心に決めていた。


 蒲田駅前に出来たばかりのこの店に来るのは初めてである。関根茂は「北海道ラーメン・にんしき」の黄色い看板の前で、今年最後を飾る一杯が当たりになるか、外れになるかと緊張し、除夜の鐘も耳に入らずにいた。
 思えば今年は飛躍の一年であった。中学時代はいじめに遭ったこともあり、おそらく高校生活も暗黒になろうと覚悟していたが、学園祭で認められて以来、友達もそれなりに増え、隣の崎寺(さきてら)さんと言葉を交わす機会も増えた。2005年の学園祭は、より高みを追求したラーメン仁愛を出店したい。店内に入った彼は、湯気に口元を吊り上げ、「当たり……だな……」とつぶやき、大きな鼻を鳴らした。


 麻生巽(あそう たつみ)はあと三十分で今年も終わりである事実を、渋谷駅ハチ公前の時計を見上げることで認識した。つい先ほどまで、バイト先であるジムの人たちと忘年会で呑まされ、いまだに意識はふらついている。
 それにしても島守遼は愛想のない奴である。せっかくのイベントも、「悪い。今日は用事があって行けない」の一言で断る彼は、人付き合いというものをまったく大切にしていない。自分も相当の無愛想で通っているが、あいつはそれ以上である。ちりちりの長髪を寒風で揺らしながら、そういえば今夜に限っては山手線も二十四時間運行であると思い出した彼は、年越しを行きつけのあの店で過ごそうと思い、駅へ入るのを止め、飲食街へと足を向けた。


「聞いてるの、西沢くん?」
 そう突っ込まれてしまうほど、自分はぼんやりとしていたのか。除夜の鐘の前で佇んでいた西沢速男は、傍らで頬を膨らませている三年生の彼女に対し、「ご、ごめんなさい……鐘でよく聞こえませんでした」と返し、染めた髪を掻いた。
 まだはっきりと、そうよく覚えている。

 母無し子は不幸なの

 惨殺の現場はつい先程のことのように鮮明である。除夜の鐘は煩悩を打ち払う意味があると言っていたのは父だったか。しかし、忘れられない嫌な思い出はある。それだけがはっきりとわかった彼は、鐘に向かって思い切り吼えてみた。
 この行為を、隣の彼女はどう思っているだろう。身体の中にたまっていた、もやっとした何かを吐き出した彼は、ちらりと横目で様子を窺ってみた。
 腕を組み、呆れているようである。こりゃ、ドン引きってやつか。西沢は彼女との付き合いもあとわずか、いや、今日で終わりだろうと首を傾げた。

 高川典之は道場にいた。畳の上で正座していた学生服姿の彼は、梁の側に飾られた歴代有段者の写真を見上げ、来るべき年はもっとあの人たちに近づきたいと願った。
 額縁に入れられた写真の大半は男性だったが、その中の一枚だけ女性、それも少女の顔が混じっていた。

 かなめ先輩……俺……先輩に頭を撫でられたあの感触……まだ忘れていません……かなめ先輩……自分、教室に来たギャングをやっつけました……完命流は最高です……かなめ先輩……自分……同じクラスの女子に恋をしたようです……かなめ先輩……

 紅潮した端正すぎる顔を歪ませた高川典之は、「はい!!」と叫び、気合いを入れ直した。

「圭治、箸はちゃんと持たないと」
 母にそう注意され、比留間圭治は無言のまま無視を続け、テレビに映し出されている格闘技番組を見つめていた。
 年越し蕎麦を家族で食べるなど、なんと無様なことだろう。今頃島守遼は、蜷河理佳と神社にでも繰り出しているのだろう。入学当初は“同格”であると認識していた奴も、演劇部に入部してからは上昇の一途を辿っている。
「圭治、2005年は二年生だな」
 なんて当たり前のことを言う父だろう。あまりにも普通。あまりにも平凡。彼は無視を続行し、日本人格闘家がタップアウトをする様を見て、小さく噴き出した。


 ただ一人、居間の炬燵で沢田喜三郎はうつ伏せになって寝入っていた。父も母も、妹も揃って初詣に出ていて、「面倒臭いから俺、いいや」と断った彼は大食い特番をテレビで見ているうちに、いつの間にか睡魔に負けてしまったようである。昨年も寝たまま年を越していたし、それが特にもったいないとは思わないのが彼の長所でもあった。
 ただ、小学生の頃から変わらない坊主頭だけは、来年にはイメージチェンジをしてみようと、そんな地味で小さく時間のかかる野望だけは抱いていたし、何か部活にでも入ってみるかと、ぼんやりとした望みも抱いてはいる彼である。しかし今の沢田は炬燵と一体化した、寝ているだけの存在だった。


 胸を押さえる度、掌に跳ね返ってくる鼓動に安心することができる。浴槽でじっとしていた椿梢(つばき こずえ)は、よく今年も持ってくれたと自分の身体に感謝をし、大きな瞳を輝かせた。
 医者からは奇跡と言われ、両親は通う必要はない、ずっと家か病院で静かにしているべきだと普通高校への進学を反対した。だが確信が彼女にはあった。そう、自分さえしっかりとしていれば、身体は、心臓はまだ動いてくれるはずである。医学的な根拠など皆無ではあったが、幼い頃から、そんな想いだけで乗り越えてこられたと信じている。
 栗色の髪をした彼は、なにか隠し事をしている。最近になってそう確信しつつある椿梢は、だが隠したいのなら知る必要はない。彼が伝えたいことだけを自分は受け止めようと、短い髪を塗れた手で撫で、それに耐えられることができるかと不安でもあった。

 随分大きくなったものだ。それは自分もそうなのだろう。寝室で寝ている子供たちを見下ろした蜷河理佳は、エプロンの紐をほどき、小さく息を吐いた。
 この三鷹ハウスに戻ってからというもの、子供たちの面倒を見る穏やかな日々が続いている。皆、自分と同じように身寄りのない孤児たちであり、知らない幼い顔が多く混じっている事実に当初は困惑もした。
 心を開いてくれない子たちも多く、昔の自分を知っている後輩とも言える未卒院の子たちと小さな溝も出来つつある。上手くやれないことも多いため、院長である殿田から注意されることもしばしばである。だが、少なくとも狙撃をしたり、ナイフで首を切り落としたり、マークするべき相手に本気で心を寄せてしまうような、そんな危険はここでの暮らしには存在しない。
 廊下を歩きながら、理佳はふと、細い目をした長身の彼氏を思い出した。

 会いたい。彼ならきっと、自分の正体を知ってしまった上でそれを認めてくれるし、許してもくれるだろう。ひょっとすると、組織にも参加してくれるかも知れない。
 足を止めた理佳は、窓際に寄りかかり、夜の街をぼんやりと眺めた。

 けど……遼くんには……穏やかでいて欲しい……

 だとすれば彼との接点は保てない。人を欺き、場合によっては殺害をする苛酷さを背負わせることなどできるはずがない。なぜなら、彼のおおらかさは、そうした闇を抱えていないからであり、そんな平凡さに自分は惹きつけられたのだから。
 吐いた息が窓を白くさせた。寒い。資金にゆとりのないハウスは暖房も節約している。だが、あの小さなアパートに比べれば子供たちがいる分、温度には反映されない暖かみがここにはある。

 似合わない……ね……

 新しい任務を早く命じて欲しい。少女は来るべき年に、いっそ自分は滅んでしまってもいい。そんな覚悟をし、唇を噛み締めた。

第十三話「復讐者、ルディ」おわり

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