真実の世界2d 遼とルディ
第十話「増長、その末路」
1.
 9日午前10時15分ごろ、東京都大田区南雪谷の都立仁愛高校(沼垣明利校長)から、「外部から侵入した銃を持った男に教室を占拠された」と110番通報があった。
 同校1年B組担任、近持弘治教諭(60)が銃撃にあい、腹部や肩、胸部に傷を負った。教員を銃撃した男はその後、仲間とともに教室を占拠し立てこもったが、三十分後、突入した機動隊員と銃撃戦となり、二名とも射殺された。
 池上署の調べによると男達の身元、犯行の動機は現在のところ不明。

 東京都教委によると、現場となった仁愛高校は事件当時授業中で、大半の生徒は教室にいたという。

 現場は東急池上線雪谷大塚駅から一キロほどの住宅街。

十一月九日 朝日新聞夕刊より抜粋

 9日の都立仁愛高校襲撃事件で、公安本部は10日午後記者会見を行い、犯行グループがファクト機関の残党であるとの見解を示した。同グループの犯行は三年八ヵ月ぶり。また、教員の証言によると、男たちは、現在浦和拘置所にて拘留中の甘利(あまり)洋一被告(51)の釈放を要求していたようであり、これが教室占拠の動機と見て捜査が続けられている。なお、銃撃にあった近持(ちかもち)弘治教諭(60)は依然意識不明の重態。
 仁愛高校は一週間の閉鎖となり、授業再開は16日の予定

 十一月十日 毎日新聞夕刊より抜粋

 9日発生した都立仁愛高校(沼垣明利校長)銃撃事件で、公安本部は11日午後、同事件の犯人が住所不定無職、小笠原源吾(50)と同じく住所不定無職、山本次郎(35)であり、97年の一斉検挙後も日本各地を転々としていた事実を明らかにした。なお、犯人が犯行の際に使用した銃器とラテックス製マスクも公開された。

 十月十一日 読売新聞より抜粋

「納得できないとは言いませんけど、ここはやはりはっきりとしておくべきじゃないでしょうか?」
「何をだ?」
「機動隊が先に動いた経緯です。それに決まってるじゃないですか?」
 那須誠一郎は、上司である竹原 優(たけはら ゆたか)の分厚いデスクに両手を乗せ、少しだけ身を乗り出した。足が長く、しなやかな体型の彼はこの職場の実務担当としては最も若く、しかしそれでも三十代はとうに越えているので、眼前の上司が怒り出さないよう、語調や視線を微調整する技術にも長けていた。
 頭髪が微塵もない禿頭を撫でると、竹原はでっぷりとした腹をたるませながら座り直し、那須を睨みつけた。
「んなこたぁとっくに抗議済みだぜ。那須よ」
 低く粘り気たっぷりの声で竹原は凄んだ。身長180cm、体重110kgを超える彼は体格だけではなく人相にも年齢相応の意強さがあり、その口臭には多分にニコチンが含まれていた。
 たまった臭いではない。那須は眉を顰めながら上司の攻撃的なディフェンスから身を引いた。
「一体どういう事情なのですか、竹原班長」
「あぁ。どうやらな、公安本部が先に情報を得ていたらしい。事前のリークって奴だ」
「しかし、それなら余計、我々対策本部へ先に一報があるのが筋というものでしょう。なんで機動隊が先回りしてたんですか?」
 何か責めるような、そんな成分がやや強く、抗議の言葉は竹原の左眉をピクリと引きつらせた。
「てめぇ何年この仕事してる!? んなこたぁ自分で考えてみろ!? 俺はてめぇの教師じゃねぇし、親父でもねぇ!!」
 椅子から立ち上がりながら机を拳で叩いた竹原は、親子ほど年の離れた部下へそう怒鳴り散らした。豊かな声量は十二畳ほどの広さがある執務室のパーティションをびりびりと震動させ、そんなむず痒さが隔てた外にも伝わってきたため、新聞をぼんやりと眺めていた森村肇は「ふぅ」とため息をついた。
「那須の奴、またとっつぁんに怒鳴られたな」
 森村の対面でノートPCを捜査していた柴田明宗が、無精髭だらけの顎を撫で、にやつきながらそうつぶやいた。
「あれを聞くと、この対策班の仕事が再開されたという実感があるな」
「ん? まぁ、そうだな……」
 固い口調の森村に対し、柴田は首を少しだけ傾げて鼻を鳴らせた。

 F資本対策班は、東京都千代田区永田町の内閣府本庁舎内にその本部が存在する。班員の大半が非常勤ということもあり、普段は閑散としたフロアなのだが、最近数ヵ月で班の活動は完全に再開され、班員たちは従来の職場を離れ、ここでその実力を発揮している。
 しかし、それは遺憾なく、と表現するには程遠いのが現実であり、数ヵ月前から活動を再開したとされているテロ組織「F資本」、もしくは「ファクト機関」に対して何ら具体的な対抗措置や、成果としての捜査、諜報結果は得られていない。
 仁愛高校の1年B組を占拠した二人組がファクトの生き残りであり、その一方が獣人であるならば、まさしくその制圧任務はこの対策班の職務であり、彼らが実動戦力として機動隊に出動を要請し、その指揮を執ることはあっても、公安が独自判断で突入し、逮捕に失敗するだけではなく、証拠となる遺体の回収もできなかったなど、有り得た話ではない。
 若い那須の疑問もよくわかる。しかしそれに対して知恵を巡らせ、ぬかりの無い準備をしておくのが我々の職務であり、疑いをそのままぶつけてしまうなど、選ばれた者のとるべき態度ではなく、班長の逆鱗に触れるだけである。森村は班長室から出てきた後輩の意気消沈ぶりに苦い笑いを浮かべ、彼を手招きした。
「とっつぁんに怒鳴られたのか?」
「え、ええ……まぁ……」
「そうか……ところで調査の方は順調なのか?」
「もちろんです……と言いたいところですけど……あぁも機動隊のバカが現場を荒らしてると……ロクな調査結果も浮かんできやしませんよ」
 首を振りながらそう告げる那須に対して、森村は新聞を畳んで眉を顰めた。
「あの催涙弾についてはどうだ?」
「味方の使った道具を調べるなんてって……南郷さんもぼやいてましたけど、明日にはレポート上げられるって言ってました」
「そうか……」
 顎に手を当てた森村は、岩のようにごつごつとした顔に嫌疑の色を浮かべた。
「催涙弾ってアレか? 機動隊が使った新型って奴?」
 柴田の声に、那須が頷くことで応えた。
「そうですそうです。どう考えても証拠隠蔽のためとしか考えられませんよ。なんせ現場の床はぐしょぐしょで、何の生体も検知できないほど化学反応がかく乱されてるんですから」
「俺たちへの当て付けかね。森村よ」
「まさか……ただの実戦テストだろ……公安が俺たち対策班に隠蔽する情報などあるわけがない」
 正論を柴田へ向けながらも、森村はその可能性だってあることをじゅうぶんに理解していたし、だからこそ公安の中にも秘密裏にコネクションを構築し、あの日の突入班の中にも自分への情報提供をしてくれる機動隊員を確保していた。
 その機動隊員は目くらに暴れる獣人と交戦した様子を全てレポートとして森村に提出し、それだけではなく襲撃犯が泡化した際、小さじ一杯分の体液を回収してくれてもいる。
 レポートと体液組織で二ヵ月分の手取り給料とほぼ同額である。高価であり、本来なら支払う必要が無い情報料であるが、自分たちの職務を全うするにはこうした裏技を使わざるをえず、それについては竹原班長も稟議を通していて、それと同時に全うなルートからの職務遂行を国へ抗議中である。森村という男は対策班のNo.2としての職務を正当ではない手段で果たしていた。

 しかしきな臭いな。七年前とは何かが違う。そもそも、あの頃は同盟などというF資本の上部組織の存在は無かった。噂では政府がこの同盟と交渉し、外務省主導でなにやら取引をしているとも聞く。F資本と自分たちは共に傀儡同士ではないのだろうか。もしそうだと知ったら、この班の最大戦力であるあの娘は、どんな怒りを誰に向けるのだろう。
 それすらも、自分はコントロールしなければならない。班長の期待は大きく、相応の報酬を得ている以上、最善を尽くさなければならない。柴田へぼやく那須の尖った口先を視界に入れながら、森村は腕を組み、深いため息をついた。
「神崎まりかはいつからこっちに入るんですか?」
 那須から自分へと向けられた質問に、森村は視線を上げた。
「まだ神戸でドレスの最終調整中だ。年内には間に合うとは思うが、それまでは我々が実戦に対応する可能性もあるからな」
 脅すように告げる森村に対して、那須は口をきっと結び、柴田はにやりと微笑んで首を傾げた。

 ホーエンザルツブルク城。オーストリア共和国、ザルツブルク市の観光名所である。中央市街を見下ろす小高い丘に建つその城塞は、建築に六百年の歳月を費やし、十七世紀に完成。以来四百年以上に亘ってその荘厳さを市民や観光客に示し続けている。そんな歴史的建造物から北西へ一キロほど隔てた鬱蒼とした森の中に、建築期間も本物の二百分の一ほどしかなく、歴史も僅かで、大きさも半分ほどしかない偽物が隠れるようにひっそりと建っていた。
 半分とは言え、モデルにした歴史的遺産は本来が巨大であり、この偽物も建築物としては決して小型ではない。
 朝靄が石造りの城を塗らす頃、その屋上で市街を見下ろす一人の男の姿があった。
 金髪を短く刈り込み、鍛え抜かれた筋肉と歴戦を潜り抜けた面構えは精悍そのものであり、それだけに包帯で吊り下げられた右手が違和感を発し、口に咥えた葉巻も小刻みに震えていた。
「もう外出してもいいのか? カーチス・ガイガー殿」
 佇む金髪の男にそう声をかけたのは、白いコート姿の、やはりこちらも肩幅が広く分厚い立法を誇る、精悍さを体現とした、だがやや表情に険のある男だった。
 ガイガーと呼ばれた男は葉巻を咥えたまま振り返り、「おはようございます。中佐」と返事をした。
「二度の手術で右腕の神経は全て繋がりました……おそらく一月ほどのリハビリで現場復帰ができると思われます」
 背筋を伸ばしたガイガーは、中佐へそう現状報告をした。右眉をぴくりと動かした中佐は彼の包帯を一瞥すると、城壁の縁に手を掛け、市街を見下ろした。
「それは良かった」
「ルディ殿には感謝しております。彼が私のこれを跳ばしてくれなければ、今頃は……」
「ふん……そのときは別の腕を用意したさ。カオスの生き残りには、まだリタイヤは早いと思えるからな」
 少々早口でそうつぶやいた中佐はスーツの襟を正すと、右手人差し指の関節を口に当てた。その挙動を見て、ガイガーは顎を引き、このタイミングしかない。進言をするにはと判断した。
「中佐殿。正直、申し上げたいのですが……」
「なんだね、カーチス・ガイガー殿」
「は、はい……ルディ殿へのご指示ですが……裏切り者どもの戦力規模と動きを考えますと、もっと迅速かつ効果的な情報提供と作戦指示が必要と思われるのですが……」
「君は嘘が下手だな。カーチス君」
 なんの淀みも無くそう言葉を返した中佐に対し、ガイガーは緊張して全身を強張らせた。
「本音を言いたまえ」
「い、いえ……隠し事などは……」
「いいや。しているな。つまり君はこう言いたいのだろう。任務相応の情報と戦力をルディに与え、あとは奴の独自判断での作戦遂行をバックアップしろと」
 幾分漠然とはしていたが、中佐の指摘は的確である。言葉にならない不満を明確化されてしまったガイガーは思わず葉巻を床に落とし、慌てて腰を屈めた。
「病人なんだ。無理はするな」
 いつもより遥かに緩慢な男の挙動に、中佐は苦笑いを浮かべながら落とした葉巻を拾い上げ、彼に手渡した。
「も、申し訳ございません……」
「かまわんよ、これぐらい……そう、ルディに対しても、年内に相応の追加戦力は派遣する。この膠着のまま、奴に年を越させるつもりはない」
 低い声でそう告げる中佐に対し、ガイガーは“奴”が誰のことを指すのか、それを想像し、馬鹿げた思いに下唇を噛んだ。
 自称真実の人(トゥルーマン)であるアルフリート真錠(しんじょう)に決まっている。そう、奴は我々同盟の裏切り者であり、その確保、もしくは抹殺が弟のリューティガー真錠へ命じられた任務である。そのために自分も一度は訪日し、六本木のホテルで銃撃戦を繰り広げ、重傷を負ったところをルディの“異なる力”によって安全な同盟本部の緊急医療室まで跳ばされたのだ。
 同盟の医師長、グレベンキンはこう言っていた。「この緊急医療室では、いつ何時でも、ルディ君が部下を跳ばしてきてもいいように、七つのベッドを常に開けている」と。
 ガイガーはぼんやりとこちらに視線を向ける中佐に対して、強い意を向けた。
「お願いです中佐殿。その追加戦力に、自分も是非参加させてください」
 しかし真摯な申し出に対して中佐は返事をせず、ぼんやりとした様子を変えることはなかった。
 二人の間に、朝の冷気をたっぷり含んだ風が吹いた。

2.
 この校舎は連日のニュースでよく見た覚えがある。と言いたいところだが、公立高校の外観などどこも似たようなものである。
 灰色の学び舎を見上げた川島比呂志(かわしま ひろし)は、下唇をにゅっと突き出して、肩から提げた鞄をどっこいしょと浮かせた。
 ここが新しい職場か。周囲を見渡すと詰襟とブレザーの暗色が次々と正門を通り過ぎ、校舎へと吸い込まれていく。高校のいつもの朝であり、特別な光景ではない。だが、異質な存在であるせいか、生徒たちの数割がこちらに対してちらちらと、観察するような視線を向け、部外者に対して必要以上に緊張しているのが肌でぴりぴりと感じられる。

 仕方ねぇやな。あんな事件があった後じゃ当たり前って奴だ。

 事実、この正門をくぐる際、見張っていた教師たちに「誰ですか!?」と緊張を向けられ、事情を話して関門をクリアしたばかりである。彼とて一週間前にこの仁愛高校を襲った事件をよく理解していて、だからこそ自分のような男に再就職の口があったのだと自嘲気味に微笑んだ。

 川島は職員用の入り口を見つけると、パチリと指を鳴らそうとし、だが軽快な音が響くことは無く、彼は更に下唇を突き出した。
 今日は調子が悪いのか、それとも湿度が高いのだろうか。そんなことを考えながら彼は来客用のスリッパに履き替え、中央校舎の職員室へ入った。
「おはようさんです……」
 背を丸めながら、愛想笑いで川崎が職員室に入ると、教師たちのほとんどが緊張した視線を向けた。
「あっと……本日からこちらでお世話になる川島という者ですが……」
 その挨拶に教師たちの緊張がほぐれた。川島はわずかに「どうすればいい」と視線を泳がせ、それにある中年女性教師が反応した。
「校長がお待ちしておりますので……まず荷物はこちらに……」
「あ、はい」
 川島を空いているデスクへ促したのは小口雅子(こぐち まさこ)という1年A組の担任教師であり、鞄を机の上に置く彼を見て、ずいぶんとろんとした、眠そうな目つきの男である。と、そんな印象を彼女は抱いていた。

「ようこそ川島くん。私が校長の沼垣(ぬまがき)だ」
 椅子から立ち上がり、川島に握手を求めたのは仁愛高校校長、沼垣明利である。沼垣は頭を下げる川島を随分と痩せた男だな、と感じ、対する彼はこの学校の責任者を「あぁ……こいつ……ヅラだな」と直感した。
「君には今日から1年B組と数学を担当してもらう」
 鼻にかかった低い声で、ソファへ促した沼垣はそう告げた。
「ええ。委員会から聞いてますが……前任の方、お怪我の程はいかがなのでしょうか?」
 柔らかそうなそれに腰掛けながら、川島は対座しようとする校長にそう尋ねた。
「うん……何せ何発もの銃弾を受けた重傷だ……もちろんまだ退院はしていないし、このまま回復が見込めなければ退職という事態だって有りえる」
「そうですか……」
 銃弾を受ける機会など、日本の教師生活であるはずがない。校長の言葉に顎を引きながら、川島は現実味の乏しさを奇妙に感じた。
「で……なんでテロリストの残党が……なんです?」
「うん……警察が言うには、あくまでも偶然だったそうだ。連中、拘置中の幹部を解放しろと、そのための教室ジャックだったらしい。本当に生徒たちは恐ろしかっただろうなぁ。マスクとは言え、最近のは出来も良く怖いし、銃で脅されるなど法治国家であり得ん事態なのだからな」
 つまりそれだけ生徒たちには気を遣って欲しい。言外にそういった配慮を校長が望んでいることぐらい川島にも理解できた。しかしそれを告げるのに、ヤスリで爪を研ぎながらはないだろうと、彼は上司の他人事な態度に頬を引きつらせた。
「わかっているだろうね。川島くん」
 ヤスリを動かすのを止め、沼垣は丸い目を細めた。
 それにいても七・三で分けた髪は光沢とセットの両方が整い過ぎていて、やはり人工的な印象を発している。絶対こいつはヅラだと確信を深めつつ、川島は校長の念押しの意味を理解した。
「え、ええ……わかってますよ。久々の復職ですからね。私だって生活がありますから、問題は……」
「起こさんよな!」
 沼垣は身を乗り出して川島の薄い肩を叩いた。なんという分厚い力だろうと、焼きたてのパンのようにふっくらした掌に驚きながら、川島は固いソファに体重を沈み込ませた。

 銃弾の跡などあれば、それはこの仁愛高校の落ち度というものなのだろう。小口教諭の後ろに続いて廊下を歩きながら、川島はちらちらと辺りを観察した。
「一週間で授業再開だなんて……うちのA組、半分ほど今日は休みなんですよ」
 小口は後ろへ振り返り、そうつぶやいた。
「んえっと……PTSDでしたっけ? 心のケア?」
「ええ。都のカウンセラーが一年の全生徒を診断したんですけど、ほとんどの生徒が何らかの不調を訴えてて……ほんと、かわいそうに……」
 立ち止まり、床へ視線を落とす小口に対して、川島は腕を組んだ。
「そりゃ……聞き方にもよるでしょうがね」
 素っ気無く、乱暴な口ぶりの川島に対して、小口は「え?」と視線を上げた。
「いや、まぁ、大変なんでしょうな、生徒も……」
「ええ……そうですよ。だから今日も何人来ているやら……」
 1年B組の前までやってきた川島は小口に「じゃあ、僕一人で……小口先生はA組の教室へ」と細かく意図を告げると、小さく手を振った。そこにどこか拒絶を感じた小口は、眠そうな目付きをしたこの中年教師に対し、「近持先生と違うタイプだわ」と感じながら、自分も担任する教室へ向かった。
「PTSDねぇ……」
 川島は独り言をつぶやいた。最近の子供は心が弱くなっている。その点については経験上、実感として得てはいたが、しかしそれでも既に一週間が経過し、結果として死者もおらず、生徒の中にも軽傷者が数名しか出なかった事件である。いくらまあなんでも半数以上は出席しているだろうと、そんなことを考えながら彼は教室の前の扉を横に開けた。
「おはようございます!!」
 教室の中から凛とした挨拶が向けられた。お、元気でいいねぇ。そう思いながら教壇へ向かった川島は、教室内の空気が妙に寒く、逆の意味で薄いと感じた。
「おい……おいおい……」
 教壇に立った川島が、思わず間抜けな声を上げるのも無理はなかった。

 島守遼(とうもり りょう)とリューティガー真錠。二人は教室の広さに対してまるで狙ったかのように隣り合ってぽつんとしていて、他に誰も登校していない1年B組の現実に、中年教師の膝が震えた。

 これでは授業など成立するはずもない。川島はたった二人の男子生徒のうち、明るく挨拶をしてきた栗色の髪をした彼に、「今日は帰っていいぞ。二人じゃ話にならねぇ」と告げた。
「そうですか……じゃあ遼くん……」
「あ? ああ……」
 “遼くん”と促されたもう一人の男子生徒が席を立った。ひょろっとして背が高いうえ目つきが鋭く、教科書を机から鞄へ移す挙動が妙に素早い。おそらく自分たちしか登校してこなかった事実に対して、こうした状況の変化を望んでいたのだろう、と川島は洞察した。
 あまり真面目なタイプではないな。“遼くん”に対してそんな第一印象を抱いた川島だったが、だとすればなぜ、彼が授業再開初日から登校してきたのか、かえって不思議にも思えた。
「じゃ……さようなら……」
 そう挨拶ながらも全身を凝視してくる鈍い目の動きは言葉にするなら「あんた、誰?」と疑っているようであり、無理もないだろうと川島は理解した。後ろ扉から出て行く遼に対し、一応自己紹介でもしておこうと思った彼だが、声をかけようと決めた頃にはもう廊下へ出て行ってしまった後であり、まあ仕方がないかと思い視線を下げると、すぐ目の前に栗色の髪が広がっていた。
「えっと……先生は……先生……なんですよね?」
 眼鏡をかけ直して尋ねてきた生徒に向き直り、川島はこの可愛らしい男子生徒から人種の違いを感じ、戸惑った。
「リューティガー……真錠と言います。母が……ドイツ人で……染めてるわけじゃないので……」
 照れながらそう告げるリューティガーは、最後に自分の髪を摘んで見せた。
「そ、そうか……俺は川島……その……代理で今日からこのクラスを受け持つことになったんだが……」
「あ、やっぱり……見慣れない人だと思いました。よ、よろしくお願いします!」
 屈託の無い笑みを少年は浮かべた。先ほどの素っ気無い態度で目付きの悪い長身とはえらい違いだ。川島はこんな明るく元気だからこそ、彼が初日から登校してきたのだろうと納得し、こういう生徒は楽でいい。と、安堵して唇の両端を吊り上げた。

 リューティガーが教室から出て行った後、川島は自分ももう、家に帰ってしまいたいと思った。しかし数学の担当でもある彼は、受け持ちクラスの生徒が一人もいなくても授業がある。まあ、授業再開と言っても機関銃や獣のマスクで脅され、目の前で担任を銃撃され、機動隊の突入に巻き込まれた生徒たちが初日から来るはずもない。事態をあまり重く考えず、彼は職員室であらためて生徒名簿に目を通した。
 島守遼と言うのか。座席表と名簿を確認した川島は、あの愛想の無い生徒を再認識した。
 職員室のこの机は、近持(ちかもち)という前任者が使っていたものである。急な入院だったため、荷物などはそのままで、校長は「これに詰めていいですよ」と段ボール箱を一つくれたが、なんとなく、人の机の中身を勝手に入れ替えるのは抵抗があり、初日は何も手をつけることができなかった。
 それにしても自分の斜め前の席、あれは朝から誰も座る気配がないが、教師の中でも精神的ショックなどと甘えた理由で休職する者がいるのだろうか。川島は苦笑いを浮かべながら、自分が使うノートや書類を引き出しの隅に、間借りをするように慎ましく押し込めた。

 その翌日は朝からどんよりとした曇り空で、川島比呂志が1年B組の教室にやってきた頃には遠雷と共に、窓ガラスを無数の雨が打ちつけた。
「えっとだ……そのな……」
 ぽつりぽつりと点在する生徒たちを、彼は名簿で確認した。リューティガーに島守は昨日も来ていた二人である。今日はそれに四名の生徒が加わっている。
「お前……お前はクラス委員だよな」
「はい! 音原(おとはら)です。先生は?」
 指された生徒は痘痕面を緊張させながら、背筋を伸ばして立ち上がった。
「あぁ……俺は代理担任の川島だ……数学も担当している……」
「よろしくお願いします。川島先生!!」
 元気と言うよりは、どうにも押し付けがましいまでの誠実さを音原という生徒は発しているようである。川島はそう感じ、眠そうな目をより細めた。
「それから……あとは……」
 川島が指を前に出し、それを泳がせると残りの三人が教壇へ意を向けた。
「神崎はるみです」
「権藤早紀です……」
「高川典之と申します!!」
 二日目であれば、もう少し多くの生徒が登校してきてもいいはずだ。これでは授業の成立は不可能である。川島はうんざりしつつ、リューティガーへ視線を向けた。
「ダメだなぁ……この人数じゃ……」
「み、みたいですね……」
「帰っていいぞ……せめて過半数は越えねぇとしょうがねぇ……」
 名簿で払う仕草をした川島は、顔を顰めて教壇を降り、前の出口から教室を出て行った。

「あ、あの……高川……こないだは……あ、ありがとう……」
 鞄に教科書を詰める高川に対して、神崎はるみはぺこりと頭を下げた。
 教室を占拠した獣人に詰め寄られそうになったとき、彼は立ち上がってこう叫んだ。「神崎さんに手を出すことは俺が許さん!!」と。そして彼は見事な武の技で相手の巨体を宙に舞わせ、思えばあれこそが機動隊突入のきっかけとなったのだろうと、彼女はこの一週間でそんなことを考えたりもしていた。
 少女の礼に、少年は手を止め、硬直し、眉を上下させた。
 いい男である。眉は太く、顎の形はしっかりして、目も綺麗で造形としても整っている。そう、悪い人相などではない。詰襟の肩だってぱんぱんに張っていて、相当に鍛えていることはよくわかる。

 けど、濃いな。

 神崎はるみは顔を真っ赤にして、口をあうあうと震えさせる高川典之をあらためてそう認識した。
「じゃ、じゃあね……」
 礼に対して帰ってくるものは、誠実で真っ直ぐで、不慣れな何かなのだろう。それに直面する勇気は少女にはなく、彼女は鞄を取ると、素早い挙動で教室から出て行った。
「神崎さん……」
 取り残された高川は、一方的な感謝を未だ処理することができずにいた。すると、彼のすぐ側に長身のクラスメイトが立ち止まった。
「よう高川……凄かったな、あんときは……」
 島守遼とは学園祭で共に徹夜作業をした間柄ではあったが、それほど話し込んだこともなく、彼に対する認識といえば、いつも神崎さんと口喧嘩をしている、彼女と親しげな羨ましい男。それぐらいでしかなかった。彼は詰襟のホックを直すと「ま、まあな……」と返事をした。
「どうだった……あいつの……あのでかいのの手ごたえは……」
 なぜ島守がそんなことを尋ねてくるのだろうか。疑問を抱きながら、高川は一週間前の実戦を思い出していた。
「ああ……なんと言えばよいのか……分厚さ……圧力……そんなものが人間離れしていた……新聞やニュースでは、マスクを被った男と報道していたが、俺はそうではないと思う。奴は間違いなく、見たそのものだ。つまり……熊と言うか……獣人……?」
 硬く、言葉を選びながらゆっくりとしゃべる高川に対して、遼は両手をポケットに突っ込み、顎を引いた。
「お前のアレってさ……柔道みたいなの?」
「いや……俺が学んでいる完命流は柔術の一種だ」
 耳慣れない名詞の連続に、遼は眉を顰めた。
「一般に認知されている柔術とは少々異なる技術体系をしている。打撃、投げなども取り入れた、実戦柔術だ」
 一般の認知と言われても、柔道ならともかく“じゅうじゅつ”など聞いたこともない。やや早口になり、興奮の色を帯びつつある高川の説明に、遼は少しだけうんざりした。
「まぁ、いいけど……さっきの獣人の話さ、警察にはしたのかよ?」
「もちろんだ。自分の感じたことは全て話したつもりだ。だが……そうだな。上手く伝えられたかどうかは怪しい限りだな。今お前にあらためて問われ、俺も言葉にできたという現実もある」
 一体どういうこれまでを送れば、このような言葉遣いになるのだろう。何やら笑いがこみ上げてきたが、それを表に出す遼ではなかった。
「しかしあのような卑劣な輩が、まだこの東京に残っていたとはな。もし俺の武が役に立つのなら……」
 興奮しがちに語気を強める高川の言葉を、遼は右肩を突き出して遮った。
「やめとけよ。警察発表が本当なら、奴らはテロリストの残党なんだぜ。いくらお前の技が凄くても、銃にゃ太刀打ちできない」
「い、いや。そんなことはないぞ。完命流を極めた者の中には、ピストルをも使わせなかった実例もあり、俺も事実そのレベルの姉弟子を知っている」
 兄弟子の間違いだろう。高川の説明をそう受け止めながら、遼は手をポケットに突っ込んだ。
「そりゃ、大したもんだ……だけどやめとけ。俺らが関わることじゃない。まぁ……関わろうにも、もう一度あんな状況になんて、有り得ねぇけどさ」
 わざと乱暴な口調で、遼は高川の慢心を白けさせようと努め、彼に背を向けた。

 どうして島守は、高川に対してあんな忠告をするのだろう。廊下から教室の様子を眺めていたはるみはそれがひどく不思議で、一週間前に遭遇した奇妙な言葉や光景を次々に思い出していた。
 クラスが占拠されたというのに、自分の前に並んで座っていた真錠と島守は互いに手を握り合っていた。
 催涙弾の充満した教室で、島守は獣人と対峙し、脱出を急ぐ様子が無かった。
 占拠犯の片割れは、リューティガー真錠の名前を知り、彼を殺す必要があると言っていた。
 犯人が倒れた後、廊下から階段へ出た二人は、自分の眼前で突如として姿を消した。

 一週間の時間経過は少女の認識を再構築するのにはじゅうぶんであり、特に眼前で消えた事実に関しては見間違えであろうという上塗りが強くなっていた。しかし島守の高川への態度は不自然であり、目撃はそのままの事実として受け止めるべきではないのかと、彼女は困惑していた。

 更に翌日。川島は少しだけ増えた生徒たちを教壇から見渡し、奥歯を軋ませた。
「蜷河……吉見……加納……今日はその三名が追加か……」
 つまらなそうに、吐き捨てるようにつぶやく川島に対して、吉見恵理子という女生徒が手を挙げた。
「先生……えっと……先生は……?」
 低く、唸るように吉見はそう尋ねた。しかし教壇の川島は首を傾げて苦い笑いを浮かべた。
「毎日自己紹介するのは御免だ。この教室から空席がなくなったらあらためてやる。それまで待ってろ」
 教師のくせに、なんて乱暴な言葉を遣うのだろう。吉見英理子は少しばかり驚き、仕方なく手を下げた。

 あの日。テロリストの残党だという二人組が、教室を狂気の実施場所に変えたとき、蜷河理佳(になかわ りか)の姿はそこに無かった。実にいいタイミングで遅刻をしてきたものだと思うし、もし彼女が一緒に巻き込まれていたら、自分は“異なる力”をもっと早く使っていただろうと思う。それがいいことなのかどうかはともかくとして、催涙弾に塗れることなく、美しい黒髪もそのままで彼女が目の前にいることが、島守遼にはたまらなく嬉しく感じられた。
「すごかったんだぜ。機動隊員がぶわぁって乱入してきてさ。まだ催涙弾の臭い、残ってるよ」
 彼女の右隣に位置する、未だ登校してこない内藤の席に座っていた遼は、身振り手振りであの日の出来事を説明した。
「近持先生……可哀想……」
「ああ……重傷だってさ。音原が今度何人かでお見舞いに行こうって」
「そうだよね……うん……」
 瞬きしながら頷く彼女は本当に担任教師の怪我を心配しているようであり、遼は彼女のそんな思いやりが嬉しかった。
 だが、そもそも事件の渦中で不在だった彼女が、なぜ授業再開から二日過ぎてようやく登校してきたのか。それが不思議でもある。
「日付……間違えてたの?」
「う、うん……ちょうど風邪を引いてて……またぶり返しちゃって……」
「え? 電話したときはそんな感じしなかったけど……」
「うん……ちょうどあの後……寝込んだの……」
「そうか……だから携帯に電話したのに出なかったのか……」
「ご、ごめん……着信は確認してたんだけど……なんか……ごめん……」
 視線を下げ、肩の力を抜いた彼女の黒い頭を思わず撫で回したい衝動に駆られたが、遼はそれを懸命に耐えた。
「い、いいよ、いいよ。俺も携帯慣れてないから、操作間違えたかと思っててさ。通じてたんならいいよ」
 そうフォローしつつ、彼は蜷河理佳に、三度目になるデートを申し込もうと決意した。
 今度は映画とかじゃない。夜景だ。夜景しかない。

 具体的なスポットまでは決めていなかったが、とにかく彼女と二人で素敵な夜景を見る。そんな希望が最近の彼にはあった。
「おう……えっと……とーもり?」
 聞きなれぬ声を掛けられた遼は、ぎょっとして教室の前の扉に意を向けた。すると、そこには頬のこけた痩せぎすの、瞼が重そうな代理担任が、上半身を覘かせていた。
「川島先生……?」
「ああ……あのさ……ちょっと聞いていいか?」
「な、なんですか……?」
「なんで、誰も来ないんだよ」
 その単純な問いに、隣の蜷河理佳が申し訳なさそうに会釈をした。
「い、いや……来た奴のことを責めるつもりはねぇ……だけどよ、異常だぜ。十人ぐらいしかいないなんてよ」
 報道通り、獣人を獣マスクの男と認識すれば、川島の不思議さも理解できる。いや、それを差し引いたとしても、この出席率のひどさは遼も納得のいくものではなかった。事実来ている生徒だっているのだ。自分とリューティガーは、どちらかと言えば当事者なのでまだしも、吉見などは決して肝の据わった女子ではない。戸田も、西沢も、沢田も、麻生も、崎寺(さきてら)さんや椿梢(つばき こずえ)さんも、なんで誰も登校してこないのかと不思議に思え、彼はそれを「さぁ……?」と曖昧な言葉で表現した。
「まぁいいや……とっとと帰れよ。これじゃまだ授業はできねぇから」
 川島はそう告げた後、小さく舌を打った。

 授業再開から四日目の朝になった。

 初日に二名、二日目に六名、そして昨日の三日目が九名であり、伸びが等しければ本日は十二名から十三名の出席である。

 十八か……ちったぁ……改善か……

 1年B組の教室には未だ半数以上の空席があり、川島は教壇からそれを見渡すと、黒板のレールに腰を付け、腕を組んだ。
「大変だったんだな。お前たち……帰っていいぞ。過半数に達してねぇからよ」
 言いながら、川島は右足の先で教壇を小さく蹴った。
 そろそろ何か行動を起こさなければ、ここが学級として機能するのに年越しだってしかねない。まだ十一月だというのにそんな想像をしてしまうほど、彼は焦っていたし、せっかくの職場を追われてしまうと不安でもあった。

 甘ったれやがって。

 川島はつま先に痺れを感じながら、視線を泳がせ、目つきの鋭いある生徒に目標を定めた。
 あいつだ。初日から出席してる、クラス一の美少女と楽しそうにくっちゃべってたあいつにしよう。彼はそう決めると、乾いた唇を舌で湿らせた。

3.
 授業再開日より初めての日曜日となったが、思えば初日から代理担任である川島の「帰っていいぞ」のフレーズが定番となっていて、そのおかげでここ数日はデートや免許取得の軍資金稼ぎに集中することができた。もちろん、学校閉鎖中の一週間に関してもそれは同様であり、途中一度だけ同級生の麻生巽(あそう たつみ)にアルバイトのヘルプを頼まれた以外は、都内のパチンコ店を転々と稼ぎ続けた遼である。
 おかげで教習所に残りの教習料金を全額前払いすることもできたし、蜷河理佳との夜景デートの資金だって貯まった。まだ彼女を誘っていないのは、やはり夜景を見るには免許の取得とバイクの購入が先だろうかと思い悩んでいたためだった。
 だとすれば、もう少し稼いでおく必要がある。ローンなどと手間はかけたくない。保証人候補の父、島守貢(とうもり みつぐ)は社会的には無職であり、場合によっては審査から落ちてしまう危険性もある。
 ざっと見積もって、あと四、五十万は稼げばいいだろう。遼は今日も稼ぎに行くことを決意し、黒い革のパンツに黒いジャケットを着込み、アパートの扉を勢い良く開けた。「よっ!」
 視線の先で眠そうな顔を突き出しているのは、確かこいつは代理担任の川島である。あまりにも唐突で意外なる人物の登場に彼は思わず身構え、その挙動に男は驚き、目を見開いた。
「お、おいおい……そんなに強張るなよ。探したぜ、このアパート」
「な、なんなんですか先生?」
 日曜日に生徒の家を担任が訪問するなど有り得た話ではない。遼はドアノブに手を掛けたまま緊張した。
「どうした……なんだ?」
 遼の背後の襖が開き、中からジャージ姿の父、貢が姿を現した。
「あ、お父様ですか? 私仁愛の代理担任をしております。川島と申します」
 息子の背中越しにその説明を聞いた貢は、頭を掻きながら記憶を辿った。
「川島? あぁ……なんか父兄連絡に、そーゆーんが書いてたなぁ……何の用?」
 あくびを噛み殺しながらそう尋ねる父の言葉を聞きながら、息子はイントネーションや声色から、父がまだ寝起きたばかりで意識がはっきりと覚醒していない事実に気付いた。
「はい。息子さんに家庭訪問を手伝っていただきたいと思いまして……」
 何の提案かと遼は川島の骸骨のような人相を凝視し、貢は「どうぞ……行ってこい、遼。先生の手伝い、ちゃんとやれよ」と勝手な承諾をした。

「家庭訪問って、先生が一人で行くものでしょ?」
 アパートの前の路地を並んで歩きながら、遼はスーツ姿の川島を見下ろした。
 少々猫背で、身体の厚みが恐ろしく貧弱で、体重はおそらく50kgを切っているだろう。ぼさぼさの髪はあちこちが寝癖だらけで白髪も交じり、それが年齢の不詳さを際立たせている。生徒の視線に気付いた川島は、小さく舌打ちをした。
「ばーか。俺が一人で行っても疑われるだろ」
「け、けど親……父だって、すぐに信じたじゃないですか」
 “バカ”ときたか。なんという口の悪さだろう。近持とはまったく異なる川島の気だるい悪意に、遼は少しずつ苛つきはじめていた。
「人によりけりだ。考えてもみろ、テロリストの残党に教室ジャックされて、それでPTSDだかで篭もっててよ、そんなの認める過保護さだ。できりゃもっと大人数で押しかけたいぐらいだよ」
「なんで俺なんですか?」
「家が学校から一番近いからだ。まずはこの、比留間って奴だ」
「どこなんですか、比留間の家は?」
「蒲田だ」
 言いながら、川島は路肩に停めてある軽自動車を顎で促した。意図を察した遼は助手席側にまわりながら、なぜだか懐かしい感覚に襲われた。
「PTSDって……なんです?」
「しらねぇ。多分ノイローゼとかの親戚だろ。とにかくよ、俺は昨日の夜に休んでる二十軒以上の家に電話したんだ。ったく電話代だって馬鹿にならねぇ」
 車の扉を開けながら、川島は吐き捨てるようにそう言った。遼は助手席に乗り込み、車内の芳香剤に意外さを覚えた。
「でよ、車借りるのだって、女房に頭下げてよ。いやになっちゃうぜ」
 なるほど、だから車内ミラーに小さなぬいぐるみがぶら下げてあるのかと、遼は車の本来の持ち主にようやく納得した。
「でだ。判明したんだよ。病気の奴なんざ、ほとんどいやしねぇ。どいつもこいつもズルっこしていやがる」
 車を発進させると、川島は意外と丁寧な運転で国道まで出た。
 色々な教師がいる。小学校、中学校とこれまでに何人も見てきた。こいつのように乱暴な言葉遣いの奴もいたわけで、今更戸惑うことなどない。
 しかし近持の後任にしてはあまりである。温厚な女性教師、とまでは言わないが、もう少し暴力に曝されたこちらの気持ちに立った人選はできなかったのかと、遼は左頭上の手すりに掴まりながら、自分がようやくシートベルトを着けていない事実に気付いた。

「な、なんなんだよ!?」
 突然の来訪にスウェット姿の比留間圭治はすっかり慌てふためき、男の傍らに同級生の姿を認めると、彼は抗議の顔色を向けた。
「島守!? どういうことなんだよ、これは!?」
「し、知らないよ……」
「大した元気じゃねぇか。これなら月曜日から学校には来られるな」
 腰に手を当てると、川島は比留間の部屋をぐるりと見渡した。
「おーおー、今時の高校生は部屋にテレビやDVDプレイヤーまであるのか。羨ましいねぇ……」
「だから誰なんだよ!?」
「あ? 俺か? テメェがズルっこやめて、教室に来たら自己紹介してやるよ」
「ち、近持先生の代わりか?」
 眼鏡を直してそう指摘した比留間に対して、遼は小さく頷き返した。
「あのな? 僕はPTSDって診断されたんだ。まだ学校には行かなくていいって言われてるんだ。だからそれが治るまで、教室になんか……あんな……」
 獣人を間近で目撃し、その食欲の対象にまでされてしまった比留間である。恐怖の記憶は未だ払拭されることなく生々しく残っているのだろうが、彼のいつも通りの不遜な口調を耳にしていると、あの体験は一時的に奥底へ封印したのではないだろうか。ベッドに散乱した漫画雑誌を見つめながら、遼はそんな感想を抱いた。
「バカたれ。もう二週間も経ってるんだ。てめぇ以外は殆ど登校してるんだぞ。いい加減にしやがれ」
「ほ、本当にあんた……先生か?」
「ああ」
「ひどい言葉遣いだな……ふん……もっともあんな事件の後じゃ……まともな教師が引き受けるはずもないか……」
 比留間の解釈は的確で、遼は妙に納得して口をぽかんと開けた。すると傍らの川島はその距離を大きな一歩で詰め、彼の胸ぐらを掴んだ。
「な、なにするんだ!?」
 暴力に対する恐怖が比留間の脳裏に蘇った。この世界で最も安全なはずの自室であるのに、なぜこんな中年の乱入が現実になったのだろう。彼は激しく動揺してしまい、激変した状況を飲み込めないままだった。
 比留間圭治が混乱していると、肉厚の薄い男の甲が彼の頬を殴打し、再び返ってきたその平が同じ箇所を痛打した。
 教師の往復ビンタに、遼は唖然として呻いた。

 なんだよ、こいつ……キレやがったのか……?

「ざけんじゃねぇよガキが!! まともな教師じゃねぇだと!? ああ、確かに生徒ぶん殴ってクビになったよ、俺は!! だけどな、まだズルっこすんなら、毎日引っ叩きに寄るからな。教室きやがれよ!!」
 比留間をベッドに突き放すと、川島は「次行くぞ!!」と叫んだ。
 どうして自分がこんな状況に付き合わなければならないのだろう。島守遼は頬を押さえてベッドの上から恨みがましくこちらを睨む同級生の怒気を感じながら、それでも一緒に退室しなければならない現実に、「俺はグルじゃねぇ!!」と吐き捨てることしか出来なかった。

 たまたま家が学校の近所だからだって!? あんなボロアパート……とっとと引っ越してえよ!!

 川島の後に続いて路上駐車された軽自動車に向かいながら、遼は自分の置かれている環境を呪った。

「PTSDとかやめて欲しいよな。精神科医が薬代、稼ぎたいだけだろっつーの」
 ステアリングを切りながら、川島はそうつぶやいた。
「け、けど殴らなくても……」
「拳じゃねぇだけマシだろ」
「比留間の親……後で抗議してくるかも知れませんよ」
 遼の冷静な分析に、川島の視線が一瞬宙に浮き、彼は大きくため息をついた。
「あぁ……確かに……だよな……ついカーっとなるとよ、手が出ちまうんだよなぁ……一応医者に行っても診断書、書かれないように手加減はしてるけどさ」
 暴力が原因で心を病んでいる生徒にビンタなど、とてもではないが許容できる教育ではない。一般論としてはそうなのだが、遼としては比留間のような悪い口数の多い奴は、暴力で脅した方が手っ取り早いとも思えた。しかし、この代理担任はそれなりに後悔しているようでもあり、これからはバイオレンスに立ち会わずに済みそうな展開に、彼は正直なところ安堵していた。

「いいかげんにしやがれ!!」
 乾いた衝撃音が、四軒目の訪問先、杉本香奈の自室に響いた。
「い、いやぁぁぁ!!」
 川島を思い切り突き飛ばし、床にしゃがみ込んだ少女は、両肩を抱いてがたがたと震え始めた。
 拒絶。恐怖というよりは理解不能の事態に対する遮断なのだろうと、そうクラスメイトの挙動を冷静に観察してしまえる自分に島守遼はうんざりし、そんな状況を引き起こした担任教師の背中を睨み付けた。
 突き飛ばされた衝撃を片足で制御しながら、「よっとと……」と漏らすこの男はどこまでも品が無く不遜で、生徒に対する配慮というものに欠けている。しかし彼の存在を強く否定をするのも億劫であり、遼は同級生の部屋を見渡すことで、そんな嫌悪を薄めようとしていた。すると、彼の背後で階段を駆け上がる、ひどく慌てた足音がした。
「だよな……」
 遼は小さくつぶやき、現れた中年女性に入り口を譲った。
「か、香奈!? どうしたの!?」
 部屋に飛び込んできた香奈の母親が、恐怖に震える娘へ駆け寄ると、腰に手を当てたまま首を傾げる川島を睨みあげた。母の怒りを顎先で受け流し、男は頭を抱える少女の耳元へ身を屈めた。
「いいな!? 学校に来い。杉本香奈。昔は戦争の後、東京だって死体がごろごろしてて、けど食うために必死だからPTSDなんて言ってるヒマなかったんだ。甘ったれるんじゃねぇ……」
「な、なによ、あんた……まるで……」
 搾り出すように言葉を出す少女は、尊大さを隠すことのない代理担任へ明確な敵意を向けつつあった。
「あぁ。もちろん俺が生まれる前の話だ。どんな状況だったかは知らねぇよ。けど月曜日にズルっこしたら、また来るからな……それが嫌なら登校しろ」
 川島は杉本香奈に背中を向け、最後に「おじゃましました……」と言い捨てて部屋から出て行った。川島の荒んだ意に母は何も言い返すことができず、ただ娘の肩を抱いたまま退室していく彼の背中を凝視するしか無かった。そして、少女は母の痩せた肩を掴むと、鬱陶しいとばかりに身体を離した。
「島守くん……あんたはなんなのよ……」
「お、俺だって無理やり付き合わされてるんだ……日曜日だっつーのによ……」
 言い訳などみっともない。そう思いながらも弁解の言葉しか出ない自分が情けなくなり、遼は階段を下りて行く担任に続くように、同級生の部屋を後にした。

「あー……またやっちまった……」
 エンジンをかけながら、川島は口元を歪ませた。
 今日はこの調子であと十軒以上、暴力行脚に付き合わされることになるのだろうか。遼は憂鬱さに息苦しくなり、助手席に座りながら視線を落とした。
「なぁ島守よ……」
「な、なんです?」
「新島って教師、知ってるか?」
「体育の新島先生ですか?」
「体育か……そうか……」
 頷いた川島は、表情に疑問の色を浮かべた。一体どのようなつもりなのだろう。なぜこのタイミングで新島先生のことなど聞いてくるのだろう。遼は川島の思考の流れがまったく理解できず、だが触れてみるつもりはなかった。
「新島先生がどうしたんです?」
「いやな、赴任してから席がずっと空いててさ、まだ挨拶もしてねぇんだよ。ちょっと気になってきてさ……」
「あの人、学校中を見回ってますから……たまたまなんじゃ?」
 遼の説明に川島は一応の納得をすると、次なる訪問先へ向けて車を発進させた。

 翌日の月曜日、教壇に立った川島は、黒板に「川島比呂志」と大きく書いた。
「四十人全員がそろって嬉しいぞ。俺は代理担任の川島。近持先生が復帰するまでよろしく頼む」
 比留間や杉本をはじめとした数名の生徒たちが川島に対して敵意を向けていたが、彼は気にすることなく生徒名簿を手に出席を取り始めた。

 いったん職員室に戻った川島は、今日の五時間目に行われる体育の授業は自習とする旨を、教頭より通達された。
 「担任クラスが授業再開できる状況になったので、伝えておきます」教頭はそう付け足し、川島は「なぜです?」と聞き返した。

 体育教師、新島 貴(にいじま たかし)が行方不明であることを、川島比呂志は赴任一週間目にして初めて知った。なるほど、だから俺の斜め前は常に空席なのかと納得し、同時に違和感を覚えた。行方不明ってなんなんだよ。と。

4.
 部室には、後ろの方にいくつか作業用の机があるだけで、スペースを確保するためパイプ椅子が人数分用意されているだけである。それも稽古が進む頃になると隣の準備室に撤去されることが多く、こうして全員が椅子に座って部長と対することなど入部以来である。何やら懐かしさが伴う光景に、島守遼は背中にむず痒さを感じた。
 もちろん、左隣に座る黒髪の少女、蜷河理佳との関係はあの頃よりずっと進展しているし、他の部員からも一定の信頼は獲得しているはずである。ただ、右隣の神崎はるみとの間柄は入部以前に比べると幾分疎遠になっていて、だがその事実に彼は気付かずにいた。
 部員たちの手には、出来上がって間もない新品の台本が渡されていた。表紙のタイトルは「久虎と三人の子」と書かれ、更に「シンベリンより」と小さく添えられていた。
「これが来年の四月、新入生歓迎公演で上演予定の作品よ。台本を書いたのは平田君。配役は彼と私たち三年生で話し合って決めるから、それまでにざっと目は通しておいてね」
 ブレザーの裾を少しだけまくっている、部長の乃口がそう部員たちに説明をした。
「新入生歓迎公演ってなんですか?」
 隣のクラスである針越という女生徒が手を挙げて尋ねた。遼もそうしたイベントは耳にしたことがなく、彼女の疑問はもっともだと思った。
「今年は生徒ホールの改築と重なってできなかったんだけど、本来仁愛では入学後の四月後半に文科系の部活動説明の一環でこうしたイベントをやるの。うちらの他には、吹奏楽部と音楽部でしょ……あと……確かプロレス同好会が参加するわ」
 確かに生徒ホールは五月まで工事中で、入学式も半分ビニールシートが被せられた状況で居眠りをしていた記憶がある。遼は部長の説明に納得し、更なる疑問を抱いた。
「このさ……シンベリンよりってなんだろ」
 左隣の蜷河理佳に小声で尋ねると、彼女は「さぁ……」と返し、首を傾げた。
「シンベリンはシェイクスピアの初期作品だ。シェイクスピアぐらいは知ってるだろ?」
 先月の文化祭の後より新しく入部した2年B組の徳永という男子部員が、遼の後ろからそう説明した。
「シェイクスピアって……大昔の脚本家だっけ?」
 およそ演劇部とは思えないような素人丸出しである後輩の返事に、徳永は腕を組んだまま鼻を鳴らせた。
「そうだ。だがシンベリンはブリテンとローマを跨った物語で、正直、人名などが馴染みづらい。だから戦国時代の物語として翻案した。あらすじを説明すると、久虎という君主と三人の子供の物語だ。特にメインになるのは娘である愛姫と、武士直治の恋愛話だ」
 台本を担当した平田の説明に、部員たちはそれぞれ頷いた。

 表現の練習は島守遼にとって苦手分野である。部長や先輩に「さぁ怒って」「さぁ笑って」といわれても即座に対応することができず、ぎくしゃくとした表現しかできないのがもどかしく、新しく入部した先輩、徳永と桑井という二人の男子生徒の器用な悲しみの表現を目の当たりにしてしまうと、やはり上手い人はいるのだなと、体育座りで観察しながらそう感じることしきりである。
「君主役ってさ……多分俺に回ってくるんだろうな……」
 隣で台本を読んでいた蜷河理佳に、遼はそうつぶやいた。
「ん……ど、どうだろう……三年生の人たちで決めるって言ってたけど……」
「だってさ、俺もさっきパラ読みしたけど、久虎って野々宮と被ってるよ。年齢とか立場とか」
「だけどさ、タイトルになってるけど出番は意外と少ないよ」
 神崎はるみの言葉に、遼はそうだったかと、再度台本をめくった。
「そっか……だとしたら楽できそうだなぁ……」
「か、神崎さんはどんな役、やってみたい?」
 蜷河理佳にそう尋ねられたはるみは、台本の最初の頁を開いた。
「そうだなぁ……ヒロインは愛姫でしょ? これはもう蜷河がやるに決まってるし……」
「ど、どうだろう……」
「きっとそうよ。あぁ……たぶん、たぶんわたしはこの腰元AかBよ。それよか裏方仕事がもっと増えるんだろうなぁ……」
 呆れ顔でぼやくはるみに対し、遼は「理佳ちゃんはやりたい役って聞いてるのに……」と心の中でつぶやいた。
「次!! 一年生の番!!」
 平田に促され、遼たちは部室隅から中央へ向かい、「泣く!!」「笑う!!」といった唐突な、だがすでに慣れつつある指示に従い即座に対応した。
「ふーん……島守くん、ずっと上手くなってるじゃない」
 様子を窺う平田の隣で、乃口がそうつぶやいた。
「ちょっと慣れつつあって……良さが薄れがちにはなってますけどね……」
「うわ……厳しいんだ」
 眼鏡をかけ直し、笑みを浮かべる部長に対して、平田はより険しく眉を顰めた。
「奴の持ち味は素人臭さです。妙に上手くなっても、少しだけ芝居のできる平凡な役者にしかならないでしょう……指導が難しいですね……これは」
「これからは頼むわよ」
 次回上演は四月であり、その頃には三年生である乃口はこの仁愛にはいない。任される重圧を覚悟した平田は後輩たちの表現を観察し、「ほう……」と小さく漏らした。
「へぇ……」
 隣の乃口も吐息交じりに首を傾げ、共にある後輩の表現に注目した。
 器用さこそあったが、直線的な上どこか「お芝居をしています一応」という空気が濃厚で、舞台のりが悪いと思っていた彼女にしては、いい捻り具合の「怒り」の表現である。
 攻撃的で投げやりで、荒削りだが妙に心に響く表現を観察しながら、乃口と平田はほとんど同時に頷き、神崎はるみという個性を再評価していた。

 二時間ほどの基本練習を終え、遼は蜷河理佳をバス停まで見送った。そろそろ、彼女の家にも行ってみたい。ご両親にもお会いしたい。などと妄想を膨らませながら、彼は決して彼女を自分のアパートには招きたくないと思った。
「遼くん……」
 自分をこう呼ぶのは二人しかいない。その一人は既に車中の人であり、そもそもこれは変声期直後の少年の声である。嫌な奴に捉まったと彼はうんざりしながら振り返った。
「なんだよ……お前も部活か?」
 栗色の髪を凝視しながら、少年は頭を掻いた。
「いえ……この間の件で話がある……そこの公園まで付き合ってもらえますか?」
「話……ねぇ……」
 ロクなものではない。しかし拒絶するともっと億劫な事態になるだろうと思いながら、遼はリューティガーの後をついて行くことにした。
 あの二人がまた一緒に歩いている。校門までやってきたはるみは同級生たちの後姿を見て、思わず門の陰に隠れてしまった。

 消えてしまったのは見間違い。だって、白い煙で涙だってひどかったし。

 これが二週間を経過した彼女の納得である。しかしそれは随分無理矢理な強引さであり、獣人と対した遼、源吾という男がつぶやいていた言葉、あらゆる断片が不穏さもって少女の憂鬱さを生み出していた。
 断片から全体像までは予想できない。しかし、

 テロの残党と二人は戦っている。

 馬鹿馬鹿しい想像である。
 リューティガーという転入生はどこか謎めいていて、その可能性とてゼロではないが、遼は入学の頃からずっとぶっきら棒でつんけんしてて、どこか頼りない同級生である。あいつは戦うとか、そんな疲れることはしないはずだ。これは少女の確信であり、現在も自信を持って誰にでも宣言することができる。

 しかし、あり得ないことが起きたのは事実であり、テレビで言ってた情報は、あきらかに体験したものとは違う。クラスのみんなだってそれは知ってるはずで、横田良平などはネットの掲示板に匿名で真実を書き込んだと豪語している。そう。獣人は本物で、彼らは拘留中の幹部の釈放などは求めていない。なにか怪しげな理論を伝道しようとしていて、あれはひどく恐ろしく、それでいて滑稽な状況だった。ただ、機動隊員たちはマスクで顔も見えず、不気味で機械的な挙動で教室に殺到し、脅威を速やかに排除し、自分たちの身柄を確保した。
 担当の刑事は早口で事情を尋ね、体験したことは全て話した。たぶん、みんなの中でも自分はかなり的確に、客観的に伝えることができたと思う。だけど、その晩見たニュースの内容からは奇妙さと滑稽さ、そして獣人の事実が一切排除され、まるでひどくリアリズムに満ちた教室ジャック事件のような体裁になっていた。何を隠したいのだろう。いや、なぜ隠したいのだろう。はるみは次々と去来するこの二週間の疑問に頭が一杯になり、気がつけばその視界から二人の同級生の姿は消えていた。

 あの事件の直後も、この公園で話をした。だから今回もここを選んだのだろうし、どんな内容かも想像はできる。だが、敢えてこの誘いの意図を遼は尋ねてみることにした。
「話ってなんだよ。力を貸してくれってのは断るぞ。理由は今までにも話した通りだ。俺は関わりたくない」
 最初の言葉以外は自分でも用意していなかった。しかしすんなりと、こうも容易に拒絶を告げることができる事実に遼は我ながら感心し、いい形で出鼻をくじけたと、口元をゆがめる同級生の様子からそう判断した。
「け、けど……こないだは獣人相手に立ち向かったじゃないか……」
「あ? まぁな……」
「それに、源吾って奴を倒したのも遼くんなんでしょ? 血管を切って……」
「い、いや……あれは俺じゃねぇ……」
「え……?」
 十一月も後半に入ろうとしていたが、気候は晩秋とは思えないほど暖かで、遼は上着のボタンを外して身体を外気に晒した。
「やってみたんだよ。獣人と同じように視力を奪おうとさ。けどはずれちまって、奴は機関銃を撃とうとした……だけどいきなり倒れてさ。あれって……お前がやったんだと思ったけど……」
「い、いいえ……心当たりはありません……」
 リューティガーは口元に手を当て、それならばあの工作員を倒したのは誰なのだろうと思考を巡らせた。
 なぜ能動的に戦ったか。それは遼自身よくわかってはいなかった。あのタイミングでは既に教室へ機動隊員たちが突入を果たした後であり、被害はどうであれ任せてしまっても良かった。しかし偶然目の端に怯える比留間が入り、それに対する獣人がいた。後は無我夢中である。確かに勇気というか、やる気があるじゃないかと彼は再認識し、口元に手を当てた。
 同じようなポーズで公園の金網に寄りかかった二人の男子高校生は、しばらく無言のままでいた。
「あ……で……遼くん……」
「だからやらねぇ……俺は関わるつもりはねぇ……戦ったのだって、向こうから来たからだ……」
 用意してきたかのような淀みの無い回答に、リューティガーはひどく戸惑った。
「で、でも……連中はこの国を混乱させようと、これからもあらゆる手段を用いてきます……き、君の力が必要なんだ……奴らからこの国を守るために……」
「知らないね。こないだだって機動隊がすぐに来たし、もしテロリストが活動再開ってことなら、それに対するのは警察とか自衛隊の仕事だろ? 大体お前がそーゆーのと戦ってるってのが嘘くせぇんだよな」
 遼の言葉に、リューティガーは身体を向けて反論をしようとしたが、掌を突き出されてそれは制されてしまった。
「何も説明するな。聞きたくないから。悪かったな。嘘くせぇなんつって」
「遼くん……だけどね……警察じゃ限界がある……奴らはまた学校を襲ってくるかも知れないんだ……その前に叩かないと……」
 必死な訴えも、だが遼の琴線に触れることは無かった。それにしても、これを言っては決定的決裂になるだろう。そう思いながらも彼はあえて口にするべきだと判断した。
「学校ってさ……お前がいるから奴らは来るんじゃないのか? マンションのときだってそうだし……テロリストはお前みたいな敵対勢力を潰しに殺し屋や獣人を差し向けてるんじゃないのか? だから出て行け……とは言わないけどさ」
 遼の決裂覚悟の指摘は、リューティガーにとっても自覚していたことであり、彼は反論もできず両の拳を握り締めた。
「ち、力を持っているのに……君は……」
「大したもんじゃないよ。せいぜいパチンコ玉を大当たりに誘導するぐらいだ」
「ま、まだ続けているのか……!?」
「当たり前だろ。親父は時々空振りの日もあるけど、俺はちゃんと練習だってしてるし、行けば絶対勝つしよ。今後も色々金がいるからさ」
 全身をバウンドさせ、遼は金網から背中を離した。これ以上は話すことが無い。彼の挙動をそう理解したリューティガーは、眼鏡に手を掛け、顎を引いた。
「真実の人は……僕がいなくなっても仁愛を狙うかも知れない……」
「知れないってさ……なんだよ、それ。第一その名前出したら俺たち日本人がみんな真剣になるって思ってるのか? 良平も言ってたけど、自称二代目真実の人なんて、インターネットにごろごろいるって話なんだぜ。知らないだろ?」
「つ、作り話だって……言うのか……兄のことも……!!」
「いいや。そう思いたいだけ。つまり俺には関係無いってこと。悪いな。バイトに行くからここで失礼するわ」
 遼は右手を小さく挙げ、振り向くことなく公園を後にした。
 リューティガーは説得の言葉を探したが、あのぶっきら棒を懐柔させる妙案は見当たらず、もし心に響くことが言えたとしても、それは彼を怒らせるだけだろうと虚しくなり、夕焼けを見上げてため息をついた。

5.
「なんであいつと一緒だったんだよ」
「誰から聞いたんだ?」
「小林と野元が話してるの、聞いたんだ」
 渋谷宮益坂の途中にある雑居ビルの五階。「スーパージム・ビッグマン」でトレーニング機材を並んで手入れをしながら、島守遼と麻生巽はそんな言葉を交わしていた。
「いきなりでさ、びっくりしたよ。俺のアパートに来るんだもんな」
「なんでだ?」
 ちりちりの長髪に凸凹のある顔、眠そうな目つきの麻生は、ジムに来る客から「バルボア」というあだ名で呼ばれることがある。それが何の由来からくるのか遼にはよくわからなかったが、妙にぴったりのあだ名である。そのうち自分も使ってみようかと思いながら、彼は隣でバーベルを磨く同級生の疑問に答えた。
「目をつけられたんだ。俺、授業再開の初日から来ちまったから」
「じゃあ比留間や小林が引っ叩かれるのも見たのか?」
「杉本もね。すげぇバツ、悪かった。ドン引きしちまったよ」
「よかった……俺、金曜日から登校してて……」
「いや……多分麻生は叩かれなかったと思うよ」
「なんでだ?」
「川島って奴……微妙に叩く相手や状況、選んでるように見えた……強そうだったり、親が一緒にいると、わりかし普通だったし」
「それって……卑怯じゃん」
「卑怯? あぁそうだな。教師ってよりはやくざだよ、あいつ」
「最低の野郎だな……大和が一度シメるかってぼやいてたぜ」
「あぁ……あいつ、すげぇ睨んでたな……けど家だとあいつ、ジャージなのな。何か笑った」
「大和が? へぇ」
 口を動かしながらも、手は的確に作業を続行していたため、支配人の呉沢(くれさわ)は何も注意することなく、逆に従業員たちの言葉に耳を傾けていた。
 夕方にリューティガーと交わした言葉も、麻生とのそれも、くくってしまえば同級生との会話であるが、こちらの与太話の方が遼にとってずっと気楽だった。
「蜷河とはいつの間に付き合いだしたんだよ」
 そう、こんなのろけ話はリューティガーとできる気がしない。
「いつって……そうだなぁ……演劇部、入ってからかなぁ……夏休み前にはデートしたし」
「意外だなぁ……お前、そんなにアグレッシブ系だったのか?」
「な、なんとなくだよ……ま、まぁ……前から可愛いって思ってたけど……」
 これは事実ではない。自分に対して好意を抱いていると認識するまでは、蜷河理佳に対して「美人だけど暗いし捉えどころがない」といった印象しか抱いていなかった。しかし過去の記憶を上塗りするほど今の遼は彼女に対する好印象に溢れていて、麻生に話すだけでも撫でまわしたくなる黒髪が思い出され、表情は緩みきっていた。
「ど、どこまでいったんだよ」
「どこって……渋谷だけど」
「ナイスボケ!! って違うだろ、場所じゃねぇよ」
「ま、まだ手をつないで歩くぐらいだよ。それ以上はなぁ……文化祭とか……その後とか……ぐらいかなぁ……」
「そ、そうか……」
 麻生は落ち着きを取り戻し、バーベルの手入れを再開した。
「多分……そうだなぁ……冬休みには……いい線、いけると思うよ」
「へ、へぇ……」
 自身ありげに言う遼に対して、麻生は何度も頷き、彼の順調さを羨ましく思った。

 単純作業の連続は集中力を必要とし、出入りする客に対する気遣いは思考力を磨耗させる。夕方からの三時間ばかりの労働ではあったが、雑居ビルを出た遼は疲労感でいっぱいだった。
 そうか、ここもパチンコ店だったか。ビルの一階に入ったテナントを再確認し、彼の金銭に対する欲求が高まった。よし、いつもの道玄坂にあるあの店で一稼ぎするか。そう思い立つと足取りは軽くなり、坂を下るスピードも増していた。

 だが、行き着けのパチンコ店に、彼が目指す一発台の姿はなかった。
「CR……サイバーブルーなんだ、これ……」
 場所が変わったのだろうか。劇画のキャラクターが描かれたその最新式デジタル台を一瞥した彼は、いつも莫大なる収益を与えてくれる、クルーンのついた一発台を捜し求めた。
 しかし、全ての列を探ってみてもそれは見つからず、ホールの全ての台がデジタル式に切り替わっていた。
 いつかこういう事態がくる。心の片隅でそれを予想していた遼ではあった。一発台は型式も古く、もう置いていない店の方がはるかに多い。だがデジタル式では異なる力の奮いようもなく、こうなると別の店をあたるしかない。
 十八歳未満の上、あまり同じ店で勝ちすぎてもあらぬ疑いをかけられる可能性もある。そんな判断からか、彼はこれまでに連続で同じ店を利用することなく、間隔を必ず一週間以上は空けるよう心がけていた。しかし、こんな事態が他の店でも起こる可能性がある。
 焦りが遼の心から余裕を奪い、気がつけば数日前に大勝した、センター街のとあるパチンコ店に彼は足を踏み入れていた。
 クルーンの傷跡もそのままで、釘は微妙に調整されていたが、まさしくこれは求めていた一発台である。再会の感動をかみ締めながら、遼は盤面と対座した。
 三時間の労働で彼が得られるバイト代は三千円にも満たない。しかし打ち始めてものの十分で銀玉は大当たりの穴へ落下し、後は右方向に打ち込むだけである。いとも簡単に、アルバイトと比べて数分の一の時間と労力で、数倍の稼ぎである。なんと馬鹿馬鹿しく安易で、そして自分にしかできない勝利だろう。換金を済ませた遼は紙幣を財布に入れ、今日はどこで夕飯を食べようかとネオンを見上げた。
「ちょっといいか? 兄ちゃん」
 低く、それでいて通りのいい声。視線を下ろすと眉毛の薄い、パンチパーマの男たちが遼を取り囲んでいた。「あ……?」彼は異変に対してそんなうめき声を上げることしかできなかった。
 やくざだ。本物のちんぴらだ。自分とは縁など無いはずのアウトローたちの荒んだ意に、少年は硬直した。

「こっちはな、カメラで見てるんだよ。兄ちゃんが先週も、その前の週もボロ勝ちしたのをさ。おかしいんだよなぁ……あの台はそうなってねぇんだよなぁ……」
 パチンコ店の入ったビルの三階事務所まで連れてこられた遼は、椅子に座らされると五人の男に囲まれ、そのいずれもが視線で彼を威圧し続けていた。
「は、はぁ……」
「なーにやったんだ? 磁石か?」
「身体検査やっかぁ?」
「ひひ……」
 なんという下衆で粗野で歪んだ男たちだろう。決して上品だとは言えない自分であるが、こいつらよりはずっと品格では自信を持てる。脅迫されてはいたが遼はいたって冷静であり、意外と自分は肝が据わっていると感心した。
「こらぁぁぁ!!」
 机を叩く衝撃音と、椅子の足が蹴られたのはほぼ同時であり、その瞬間、彼の全ゆとりが消滅した。
「あ、あぅぅぅぅぅ!!」
 獣人に脅された比留間もこんな心境だったのか。暴力に曝されるこの事態はただ怖いだけであり、複雑な感想を抱ける余裕などない。だがイカサマの正体を明かしたところでこのやくざたちが信じるはずもないだろう。
 暴力、恐怖、血管切っちまうか? ばらばらなキーワードが彼の思考を駆け巡り、やがてこう結論した。「獣人の方がずっと怖かった。やくざは人間だ。そんなでもないだろう。落ち着け俺」と。
 遼は落としたままの視線を上げ、対座する男をちらりと見た。いつの間にか迫っていたそれはヤニ臭く、目つきが鋭く、殺意に溢れていた。彼は続けてこう思った。「やっぱこぇぇ……やくざこぇぇ」と。
 背後から乱暴に肩を掴まれるのと同時に、遼の思考に言語情報が飛び込んできた。

 へぇ……細っこいからビデオにも出せるな……売れるぞこいつ……

 なんだよ、ビデオって。
 わけのわからぬ恐怖で震え上った遼は、口元を歪ませて耐えるのが精一杯であった。

「やめねぇか……」

 部屋の奥で腕を組んで壁に寄りかかっていたスーツ姿の男が、取り囲む者たちをそう恫喝した。肩を掴んでいた手も、迫っていた顔もそれと同時に退き、遼はこの男がこいつらのリーダーなのだろうと判断した。
「磁石じゃねぇよ……そんなゴト、すぐに反応するようになってるんだ……」
 男の言葉は救いの手のようであり、遼は何度も頷いた。
「もっとも、何らかのゴトをしてるのには違いない……だけどいいじゃねぇか……無駄な乱暴しても、こっちのシノギになるわけじゃねぇし……」
 どうやら話の分かる男である。やはり人の上に立つ者は聡明なのだな。遼はオールバックのこの男がいてくれてありがたいと、心の中で手を合わせた。すると、男はゆっくりと彼の側まで近寄り、顔を覗き込んできた。
「渋谷のホールにゃ二度とくるんじゃねぇ……もしもう一度見かけたら、そんときゃビデオデビューだ。ケツん穴覚悟しとけよ、てめぇ」
 一番怖いのもこの男である。一段レベルの高い脅しに遼は震えながら頷くしかなかった。

 事務所を出た遼は、夜になると随分寒くなったと全身をぶるっと震わせた。遂にやくざに脅されてしまった。もう渋谷のパチンコ店を利用することはできないだろう。いや、他の駅の店でも似たような状況になるはずだ。考えは次第に悲観的になり、渋谷駅へ向かう足取りもすっかり重くなっていた。
 父はこれまでにこんなトラブルはなかったのだろうか。彼はふと、そんな思いに駆られた。そうか、父は負ける日もある。だから怪しまれないのだろう。自分は父よりずっと完璧に能力をコントロールしていて連戦連勝である。だからこんな結果になってしまったのだ。

 電車の扉に寄りかかった遼は、乗換駅である五反田につくまで、ずっと右足を忙しなく揺すり続けていた。

6.
 火曜日の午後、昼食で生徒の大半が食堂や購買へ出かけ、1年B組の教室にはリューティガー真錠と椿梢の二人が残されていた。椿梢はいつもそうしているように、リューティガーの隣、つまり島守遼の座席に座り、お手製の弁当を机の上に置いた。
「椿さんって、お弁当いつも自分で作ってるんですか?」
 陳の容易してくれた中華弁当を開けながら、リューティガーは少女の弁当を覗き込んだ。
「うん。お料理好きだから……」
 それにしても広い額だな。椿梢の髪は短く、年齢よりずっと幼く見える。ただでさえ日本人は童顔で、彼女などは自分の故郷では小学生に見られるだろう。そんなどうでもよい感想を抱きながら、彼は春巻きをかじった。
「陳さんだっけ……ルディの弁当作ってくれる人」
「ええ。こないだの学園祭に来た人です」
「本格的だなぁ……これじゃ作ってこようか、なんて言えないよなぁ」
 リューティガーの弁当に感心しながら、椿梢は口先を尖らせて大きな瞳を輝かせた。
「言ってるじゃないですか」
「あは……」
 ごまかし笑いを浮かべる椿梢を「可愛いな。案外」と思い、彼はもう少しだけ彼女と関わってもいいかと判断した。
「あ……た、頼んじゃっていいですか?」
「お弁当?」
「ええ」
「けど……そんな立派なの、毎日食べられるのに?」
「家に帰っても四川なんで……」
 言いづらそうに視線を落とす同級生に、少女は納得して笑みを向けた。
「そっかぁ……うんいいよ。今度作ってくるね。明後日とかでいい?」
「あ、ありがとうございます……えっと……お礼は……」
「いいのいいの。趣味みたいなものだから。川崎さんに黙っててくれれば……」
「川崎さん?」
 川崎ちはるは、椿梢と共に何かとリューティガーへ関わりを持とうとする同級生である。なぜ彼女に内緒としなければならないのだろうと、彼はそれが不思議だった。
「抜け駆けするなー!! とか言い出すもの。だって、こうして一緒にお弁当食べるのだって、すごく羨ましがってたし」
「な、なら……川崎さんも弁当作るか、購買で買ってきて教室で食べればいいのに」
「でしょ。わたしもそれって言ってみたの。そうしたらね、川崎さん、お昼ぐらいしか先輩に会えないからって。わたしそれ聞いて呆れちゃった」
 たぶん、こんなことを言っても彼は意味を理解してくれないだろう。弁当に箸を運びながら小さく首を捻るリューティガーを見つめながら、椿梢はそう思った。
 なんて見事な栗色の髪なんだろう。紺色の瞳だって大きくて綺麗だし、日本人とドイツ人のハーフは、こうまで愛嬌というものを形成してくれるのか。少女は胸に苦しさを覚え、深呼吸をした。

 いけない……落ち着かないと……もたなくなる……

 少女との生暖かい会話も彼の日常ではあったが、もう一つの現実と向き合う必要もある。帰宅したリューティガーは、料理人であり、暗殺プロフェッショナルでもある陳 師培(チェン・シーペイ)に「健太郎さんは?」と険しい表情で尋ねた。
「定時報告は予定通りネ。連中は情報通り取引をするみたいネ」
「わかりました……では行きましょう……」
 若き主は従者がすっかり戦闘準備を終えているのを確認すると、学生鞄を置いてゆっくりと右手を前に出し、丸々とした体躯に触れた。
 突風と共に陳の姿はダイニングキッチンから消え、その直後リューティガーも空間へ跳躍した。

 寒風がコンテナの間で加速し、冷え切ったそれが倉庫の扉に吹きつけた。
 晴海埠頭の倉庫群に出現したリューティガーは、暗器の入った袋を確認している陳と、二メートルを超す長身の持ち主、健太郎の姿を確認して力強く頷いた。
「中で取引は始まっている……潰すには好機だろう」
 しわがれた声で健太郎はつぶやき、チューリップ帽を深々と被り直した。暗灰色のコートの下には戦うために改造された青黒い身体が、これからの襲撃に備え細かく震動していた。
「105事対応と289事対応のミックスでいく……それぞれ、全力を出してください」
 その指示に二人の従者は頷き、倉庫の扉を見上げた。
「作戦開始」
 号令と共に陳が倉庫の裏手へと駆け出し、健太郎が重い金属製の扉に手を掛け、リューティガーはその場から姿を消した。
 倉庫の中では二人の白人と一人の日本人が、やはり二人の東洋系の男と対面していた。全員がスーツ姿であり、交わされる言葉は英語である。
 東洋系の男が、自分の背後にあるコンテナを指し、自慢げな笑みを浮かべた。白人の手にはジュラルミンケースが握られていて、東洋系の視線がそこから離れることは無かった。
 二人の白人がコンテナに近づき、その中の一つを開放した。中はいくつもの木箱がぎっしり詰まっていて、東洋系の一人が懐からハンマーを取り出すと、蓋を打撃で破壊した。
 拳大の凸凹した表面はカーキ色で塗られていて、先端部分には金属製のピンが取り付けられている。木箱の中身は軍隊で使われている手榴弾であった。東洋系の男はその中の一つを取り出すと、取引相手である白人へ確認するようにと手渡した。
「正規品か……よくこれだけの量が仕入れられたな」
「我々商会は注文には誠心誠意の対応がモットーなもので……しかるべき金額さえご用意いただければ、車両やヘリでも……」
 交わされる交渉の様子を、一人の日本人男性がじっと注目し、時々手帳にメモを書き込んでいた。
「彼は……?」
 相手の問いに、白人が口元に笑みを浮かべた。
「我々のスポンサー候補だ。今日は見学させている」
「熱心ですな。皆さん……」
「まぁな」
 白人の一人が手榴弾を確認し、それを相手に返そうとしたその瞬間、轟音とともに倉庫の扉が開かれ、閉ざしていたはずの鍵が床へ落下した。
 東洋系の二人はコンテナの陰に隠れ、白人たちは拳銃を取り出し、日本人だけが狼狽して轟音の方向へ意を向けた。
 大きく、それでいて細めのシルエットは人外の如き不自然さを醸し出し、拳銃を構えた二人は躊躇することなく発砲した。
 正確なる着弾は、だが巨人を倒すことなく、傷口からは白い煙がゆっくりと噴出していた。
 であれば第二撃を速やかに。訓練された挙動で男たちが戦意を継続させると、だが片方の胸から鋭利な先端が突き出された。
 呻きと共に、白人の一人がその場に崩れ落ち、口から大量の血液を吐き出した。その背中から十手状の暗器、筆架叉(ひつかさ)を引き抜いた陳は、振り返るもう一人の標的に素早く足払いを仕掛けた。
 男は、バランスを崩しながらも銃口を陳の突き出した腹へ向けたが、肩に軽い接触を感じた直後、倉庫から突風と共に姿を消してしまった。
「一名確保……!!」
 栗色の髪を突風でなびかせながら、出現した主はそうつぶやき、従者の陳は次のターゲットを求め倉庫を見渡した。すると、コンテナの陰から動こうとする人影が見え、彼は即座に駆け出した。
「商会か!?」
 陳は腰からロープを取り出し、逃げ出そうとするアジア系の一人目掛けてそれを投げた。
 一方の健太郎は周囲を警戒しながら倉庫へと入り、傷一つ負っていない主の姿を確認して口元に笑みを浮かべた。
 それにしても見事な襲撃の手際である。同盟本部はもっとこうした具体的な作戦指示を、早く多く出してもらいたい。青黒き巨人は少年の指揮能力の高さを認めながら、漂ってきた人ではない獣の臭いに反応し、長い爪を引き出した。
 背後からの一撃を、健太郎は脇で挟み込むようにホールドした。腕力は相当なものであり、おそらく平均値は自分以上なのだろう。健太郎は襲ってきた獣人の戦力を冷静に分析しつつ、振り返りながら空いた左手の爪を突き出した。
 毛むくじゃらの顔面に、健太郎の五本の爪が突き刺さり、咆哮と鮮血が倉庫の空気を荒ませた。生命力も高い。しぶとい奴めと彼は爪を引き抜き、倒れた相手の背中に馬乗りになった。
 背中から心臓目掛けて両手を交互に突き刺すこと七度。ようやく獣人の息の根は止まり、長い耳が地面へと力なく折れた。
 淀みなどまったくない、素晴らしい戦技である。従者の圧勝に心を奮わせながら、リューティガーは絶命した獣人の耳が長すぎると思い、ふと数ヵ月前の出来事を思い出した。

 ヒラム型じゃない……こいつは……遼くんを襲おうとしてた……バルチの……反政府ゲリラに供給されていた種だ……

 なるほど。そういうことか。そこまで兄は、手を広げていたのか。弟はそう納得し、奥歯を噛み締めた。
 健太郎のコートは返り血ですっかり黒く染まり、馬乗りにした屍からは泡が吹き出していたが、彼の様子に恐れや消沈は無く、あくまでも落ち着いた所作で、ゆっくりと立ち上がりコートの襟を正した。
 もう敵はいないだろう。縄で縛られた東洋系の二人組に「これに懲りてFOTとの取引はやめることネ!! 賢人同盟に歯向かうほどおバカじゃないネ!!」と説教する陳の姿を目の端で捉えながら、リューティガーは獣人の遺体の一部を回収するため、健太郎と合流しようとした。
 そんな彼の目の前を、ひどく慌てた挙動の人影がよぎった。
「健太郎さん!!」
「ああ!!」
 指示を受けた巨人が、出口に向かって駈ける人影を捕捉し、素早い挙動でその前に立ちふさがった。
「ひ、ひぃぃぃ!!」
 悲鳴と共に男はその場に転倒し、血なまぐささでいっぱいの化け物を見上げた。
「誰だ……貴様……日本人か……」
「あ、あう、あわわ……」
 武器取引の現場にはおよそ似つかわしくない、眼鏡にスーツ、体格も華奢で頭脳労働タイプの、そんな中年男性である。彼は健太郎のひょろ長く青黒い巨体、赤い瞳とあらゆる異常さに耐え切れず、瞳孔が何度か伸縮した挙げ句、気を失ってしまった。
「健太郎さん……」
 リューティガーと、商会の二人組を開放した陳が健太郎のもとまでやってくると、三人は一様に気を失った男を見下ろした。
「なんだ……この人は……」
「わからん……FOTのエージェントにしては……妙だな」
「坊ちゃん……」
 陳の促しに、リューティガーは口元に手を当てた。同盟での規約であれば、こうした不審者はただちに本部へ送り、後の処置は任せることになっている。現場の人間に調査権があれば身元の確認をしてもよいのだが、その権限を彼は得ていなかった。
 ここでの行動はただ一つ、異なる力を用いてこの男を本部へ跳ばすのみである。だが、あまりにも場違いなる男の正体が気になるのが正直な感覚であり、リューティガーは腰を下ろして更に観察を続けた。
「坊ちゃん……」
 陳の促しは諌めへと変化しつつあった。彼は「それよりも坊ちゃん。もうあの獣人の生体サンプルを回収しないとネ! あれは見たことないタイプよ!!」と、今度は主題を変えようと努めたが、口に手を当てたままのリューティガーは、気を失った中年男性に対する凝視を止めることは無かった。
 もしこの場に島守遼がいれば、男の精神から身元を簡単に調査することができる。それも同盟本部に悟られることなく。
 あんな、非協力的な奴のことを思うなど情けない。リューティガーはそう自嘲し、意を決した。
「二人とも……僕は同盟のルールを少しだけ破る。本部を……全面的には……信頼できないから……」
「そうだな……」
 ためらいがちな主に対して、短く、力強く健太郎は同調した。
 それはお前の役目ではない。陳は殺気にも近い反発を相方へ向け、今一度の踏みとどまりを主に期待した。
「もう駄目ね坊ちゃん!! 越権行為はすぐばれるネ!!」
「我々が報告しなければどうということは無い……ふん……そうだな……俺なら指紋も残らん……」
 健太郎はそうつぶやくと、仰向けに倒れていた男の内ポケットから、小さな金属製のケースを取り出した。
「名刺入れか……案外早いゴールだったな」
 珍しく冗談を口にする巨人に、陳は思い切り顔を顰めて背中を向けた。
「幸村加智男(こうむら かちお)、第二秘書……田中慎三……」
 同じ名刺が何枚も入っているのを確認したリューティガーは、その名をつぶやき腰に手を当てた。
「幸村って……まさか……」
「誰だ……? 俺は知らんが……」
 健太郎の疑問に、背中を向けたままの陳が答えた。
「自由民声党、たしか今の幹事長ネ……」
 おぼろげな記憶を補足されたリューティガーは、狼狽し陳へ振り返った。
「ど、どうして……この国の与党の……幹事長の秘書がFOTの取引現場に……いるんです……!?」
「さぁね……さっぱりわからないヨ……」
 リューティガーは再び男を見下ろすと、落ち着きを取り戻し、明晰なる頭脳をフル回転させ、あらゆる可能性を考えてみた。
 どんな選択肢もいい結果は導き出せない。血の臭いが立ち込める倉庫で彼は全身を震えさせ、やがて男と押収したコンテナを本部へと跳ばし、健太郎に指示を出した。「幸村加智男の事務所を見張ってください」と。

7.
 今日はリューティガーに声を掛けられることもなく、無事に家に戻ることができた。やはり部活の無い日は捉まる可能性だって少ないのだろう。だけど、それでは彼女と過ごす時間が少ない。
 いや、付き合っているのに、なんで会う場所を学校だけに限定する必要があるのだろう。これもそもそも徒歩とバスという通学手段の違いが原因であり、自分も遠方からの登校であれば、毎日彼女とどこかに寄ったり遊んだりすることができる。
 島守遼はアパートの階段を上りながらふと考えた。
 そう、このボロアパートも問題だ。こんな汚くて、いつパチプロの父が冷やかすか知れないようなゴミ溜めに、あんな儚げさは似合わない。下手をすれば息苦しさで彼女は身体を壊してしまうかも知れない。金を貯めればさっさと引っ越しが出来る。そうだ、彼女の近所に引っ越してしまおう。
 自室に戻った彼は、学生鞄を投げ出し畳に腰を下ろすと、壁に背中を付け、大きく息を吐いた。
 金がいる。けれども初めて連れられたやくざの事務所は煙草の臭いに満ち、あんな狭い台所にどうして、というほどの人数の男たちが犇き、自分などは囲まれてか細い声を出すしかなかった。
 一線を越えてしまったのだろう。どうにも勝ちすぎだった。怪しまれても仕方がない。ちょっと頑張り過ぎた。
 自戒は、だがどこか投げやりであり、遼は肘で壁を小突くと、「じゃねぇんなら、いいんじゃねぇか」と乱暴に言い放って立ち上がった。
「よう。お帰り」
 トイレから出てきたどてら姿の父、貢が手を拭きながら息子につぶやいた。遼は返事をすることなく冷蔵庫を開け、オレンジジュースのパックを取り出し、軽さを確認して直接口をつけ、一気に飲み干した。
「あー……俺も飲もうと思ってたのに……」
「なんだよ……今日は稼ぎに行ってたんだろ?」
「いやぁ……」  苦笑いを浮かべて頭を掻いた父は、のそのそとした挙動で台所の椅子に腰掛けた。彼がこうした反応を示すときは、大抵が稼ぎに失敗、つまり一発台に銀玉を飲み込まれたということである。
 パチンコ玉そのものをコントロールしていた。それが夏休みに認識した、父の異なる力のレベルというものである。
 自分ではそこまでの制御は無理であり、重心部分の密度を変化させることでかろうじて転がる方向を好きにしているのが実情である。
 だが、父の行った玉の挙動はもっと物理法則に反した、まさしく念動力であり、そこはさすがに年の功なのだろうと息子は思った。そして、ならばなぜ負ける日があるのかと、麦茶を飲む貧相な背中を見つめながら、彼は視線の端にスポーツ新聞を認めた。
「珍しいな。スポーツ新聞なんて……」
「うん。開店まで暇でさ」

 並びまでしたのに負けたのかよ……親父!!

 口元を歪ませて、怒りを抑えようと息子はカラフルな紙面に視線を落とした。

「全日本杯はドウジマ・アパッチで決まり」
 派手な見出しと、毛並みのいい競走馬の写真が遼の目に飛び込んできた。

 競馬か……

 心の中でそうつぶやいた彼は、片眉を吊り上げ、首を捻りながらスポーツ新聞を手に取った。

「全日本杯? あぁ、たぶん一着ってことならドウジマ・アパッチは手堅い選択だろうな」
 翌日の昼休み、遼は食堂で焼きソバを食べていた井ノ関拓哉(いのぜき たくや)を捉まえ、昨日のスポーツ新聞の切り抜きを突きつけていた。
「で、でだ……こいつに賭けるといくらぐらい儲かるんだ?」
「な、なんだよ、島守……お前、馬やるのかよ……」
 やや突き出た歯とつんつんに立てた髪こそ特徴的ではあったが、井ノ関拓哉という同級生はクラスの中でも自己主張に乏しい目立たない存在であり、遼もこれまで殆ど言葉を交わすことが無かった。しかし彼がギャンブル、ことさら競馬と競輪に精通していて、父に馬券を買うアドバイスをし、配当の一部を小遣いにしているという噂はアルバイト先で麻生から耳にしていた。競馬というギャンブルに対しておぼろげながらの知識しかない彼にとって、井ノ関は最も身近な情報源だった。
「い、いいじゃんか……それよりどうなんだよ」
「うーん……単勝狙いか?」
「た、単勝……? そう、そうそうそれ。つまりドウジマ・アパッチだけに賭けた場合、どのぐらいの儲けになるんだよ」
「そうだなぁ……なんせドウジマ・アパッチだからなぁ……京都大賞典もぶっちぎりだったしなぁ……せいぜい七百円ってところだろうな」
 次第に楽しそうに表情を綻ばせてきた井ノ関とは対照的に、遼は言葉の意味を理解しようと余裕なく眉を顰めた。
「たった七百円……? なのか?」
「ああ」
 難しい表情で唸る同級生。彼は一体何をこんなに困っているのだろうと、井ノ関は不思議に思いながら食べかけの焼きソバを平らげ、ようやくある結論に達した。
「七倍ってことだから」
「え……?」
 しれっと言い放った井ノ関は、爪楊枝で歯の手入れを始めた。
「そ、そうか……馬券って、百円から売ってたんだ……」
「ああ。だから七百円ってのは、つまり七倍ってこと……」
「そ、そうか……じゃあ……ドウジマ・アパッチって……お前一等になると思う?」
「俺がもし単勝狙いでっていうなら、間違いなくヤマダ・メイクーンにするな」
「そ、それも速いのか?」
「ああ。だけどまぁ……初心者が、まずは分かり易い勝ちを味わいたいのなら、アパッチはお勧めだ」
 自信有り気に言い切る井ノ関をどことなく頼もしく感じた遼は、その肩を何度か叩くと、「ははは」と声を上げて笑った。
「買うのか? けど絶対勝つとは限らないぞ。そんな馬がいたらギャンブルにならないし」
 なーに……一位にしてみせるさ……

 もっとも一等賞になり易い馬がいるのなら、どうにでも打つ手はある。井ノ関のテーブルから離れた彼は、購買の突き当たりまで行くとポケットから銀行の通帳を取り出した。

 残金十五万……七倍で……ひゃ……百五万かよ……引っ越しできるじゃん!!

 額を壁に付け、少年は不敵に微笑んだ。

8.
 初めてきた競馬場のゲートはなにか饐えたような臭いがいっぱいで、島守遼は口と鼻を手で覆ってむせそうになるのを堪えた。

 すっげぇ人出……全日本杯って……大きいレースなんだな……

 そんなありきたりな感想を抱きながら、遼は投票所へと向かった。
 
 馬券を販売している投票所の、天井から設置してあるテレビモニタを見上げた遼は、今日の目的であるドウジマ・アパッチの現在のオッズが7.9倍であることを確認し、あらためて井ノ関の予想能力に愕然とした。

 あいつ……能力者なんじゃねぇのか……!?

 そう興奮した遼は、いよいよ目的の馬券を購入しようと、懐の紙袋に手を当てた。
 無論、こうしたギャンブルを未成年の高校生が楽しむのは法律で禁じられている。だが目も細く、背が高く黒いジャケット姿の彼をあからさまに未成年だと決め付けられる者は知人以外にいるはずもなく、最近では馬券購入も自動券売機ということもあり、障害はまったく無かった。
 数日前、井ノ関からレクチャーを受け、その手順を書き込んだメモを片手に、遼はマークシートに記入し、貯金の全額である十五万円を、ゼッケン六番、ドウジマ・アパッチにつぎ込んだ。

 買った……買ったぞ……十五万円の馬券……俺の……自由への切符だ……!!

 詩的な表現を胸に、彼は馬券を大切そうに懐へしまい込み、大きく息を吸い込んだ。
 通常の競馬であれば、馬券を購入した後は祈るか観るか、はたまた時が過ぎるのをじっと待つか、できることなど何もないに等しい。しかし遼の企てた超能力競馬はここからが本番であり、彼は人気の少ない自動販売機の側まで駈けて行った。

 赤い携帯電話は夏休みに購入したそこそこの新型で、テレビこそ見られないが短い動画ぐらいなら撮れる。もっともその機能を試しに使おうとした際、岩風呂に落としてしまい生活防水以上の水浸しですっかり機能は停止し、サービスセンターに修理に出す羽目になってしまった。似たようなトラブルが多かったのか、センターから修理完了の連絡があったのは夏休み後で、その後は芝居の練習や学園祭の準備で通話以外の機能をじっくり試す機会は無かった。
「あぁ理佳ちゃん……俺……今いい?」
「遼くん……? あ、あれ……どうしたの?」
「い、いやさ……ちょっと用事があってさ、府中まで来てるんだけど」
「ふ、府中? ど、どうしてそんなところに……?」
 電話の向こうで驚く彼女の様子を想像しただけで、遼は楽しくなってしまい肩を上下させた。
「バイトみたいなもん。今からすごい稼ぎになりそうなんだけど、全部俺が頑張れるかどうかなんだ……」
「え……?」
「これで稼げたらさ。俺、今のボロアパートも出てくし、理佳ちゃんの近所にだって引っ越せる。大勝負なんだ……」
「遼……くん……」
 蜷河理佳の声は少しだけ低く落ち、喧騒の投票所では聞き取りづらいと感じ、彼は携帯を耳にしたまま廊下へ出た。
「マジでさ。今日稼げたら百万とかそういう世界なんだよ。そうしたらさ……その……なんていうのかさ……」
 そもそも彼は口の達者な方ではない。一世一代の大博打に、彼女の励ましが欲しい一心での電話だったが、そもそもどうやって稼ぐのかを説明できるはずもなく、うかつなことを言えばボロが出てしまいそうで、言葉は次第に淀み出した。
「ど、どうしたの……遼? 遼くん……?」
「あ、あぁ……い、いや……ごめん……理佳ちゃん……いま勉強中とかだった?」
 しかしその問いに返事はなく、遼はなぜそんなことを尋ねてしまったのか混乱しつつあった。
「あ、あは……あはは……そ、その……ご、ごめんな……俺……いきなりかけてさ……わけわかんないなっ!」
「遼くん……」
 静かで、低く、それでいてどこか力強くもあり、常ではない少女の声に、遼は足を止め、意識を集中した。
「理佳ちゃん……」

「あなたなら……勝てる……きっと……だから……勝ちなさい」

 一体自分は、誰と通話しているのだろう。
 いや、そもそも自分は蜷河理佳という少女の何を知っているのだろう。島守遼は口をぽかんと開け、腰を屈めたまま、何も聞こえなくなった携帯電話を耳から離した。

 あ……いや……あぁ……そうだ……

 “勝ちなさい”そう言われれば負けるはずもない。なぜなら、彼女と楽しくなるために勝ちたいのだから。こんなにわかりやすい励ましの言葉もない。

 遼は空いた拳を握り締め、投票所突き当たりの階段へと駈けて行った。

 負けるわけがない。

 はじめて彼女に命じられた。どちらかと言えば大人しく、デートだってこちらが決めたコースに文句一つ言わない彼女が命じた。いくらだって命じられてやる。

 だって、彼女は俺を許してくれた最初の人間なんだ……!

 漠然としていた彼女への想いが、彼の中で明確な色合いを帯び始めていた。それは鮮烈さをもってその心や挙動を鋭く変化させ、パドックに到着するやいなや、遼は手すりを握り締め出てきた競走馬たちへ強い意を向けた。

 あれがゼッケン六番……ドウジマ・アパッチ……頼むぜ……今日は……!!

 彼は全財産を賭けたサラブレットをじっと見つめ、かなりの記憶容量を使い、色、形、雰囲気などあらゆる情報を自分の頭に刻み込んだ。見間違いは許されない。父から借りた携帯ラジオも戦況把握の大切な武器だが、この計画は勝たせる馬を正確に把握できなければ全て水の泡である。
 よく見ると、馬って綺麗だな。そんな余裕が出来るほど彼は見つめ続け、その懸命さは他の競馬愛好家たちと同様であった。

 競馬場によく似合うよれよれのスーツにスラックス。首の部分が黒く汚れたワイシャツは、本来白かったのだろうが、ヤニでベージュがかっていて近づけば相応のニコチンを嗅ぐことが出来るだろう。
「いやいやいや。さすがは重賞レース。すごい賑わいだねぇ!!」
 すっかり浮かれ気分で祭りの場にやってきた藍田長助(あいだ ちょうすけ)は、競馬新聞を片手にパドックまでやってきた。
「今日が東中野の焼き鳥になるか、銀座のスナックになるかはお前ちゃん次第なんだからなー!!」
 出てきた馬に向かってそう叫んだ長助は、周囲の競馬愛好家たちからの生暖かい視線を感じ、「いやぁ」と天然パーマをぐしゃぐしゃに掻き乱した。
「僕ね。今年の重賞って全部ニアピンだったんですよ。お父さん、わかる?」
 隣の見知らぬ中年に、長助はそう言った。
「ワイドだ三連複だなんて言ってた僕が馬鹿だったんですよねぇ。やっぱり馬の基本は単勝!! やっぱこれですよね」
 にこにことそう告げる長助に対して、中年男性は「ま、まぁね」と返した。
「けど!! ついつい買っちゃいましたよ、三連単!! 僕って馬鹿な奴ですねー!!」
 このもじゃもじゃ頭は今年最後の重賞に興奮して、浮かれすぎているのだろう。男は長助のことをそう判断し、苦笑いを浮かべたまま馬の観察を再開した。
「受けねぇか……最近……ちょっとダーク入ってたから、ギャグも低調だな……」
 そうぼやきながら長助はパドックをぐるっと見渡し、見覚えのある見事な赤毛の少女に視線を向けた。

「触ったら怒られるかな。はばたき」
「だ、駄目ですよ、ライフェ様……レース前の馬に近づいたら……」
 パドック席の最前列にいた、エプロンドレス姿のライフェ・カウンテットが柵から場内の馬へ身を乗り出そうとすると、空軍ジャケットを着込んだ褐色の肌をした少年“はばたき”が背後から腰に抱きついて制止した。
「ちょっとぐらい、いいじゃない」
「だ、第一この距離じゃムリっスよ! と、届きっこない!」
「伸ばしゃいいのよ!」
「ひ、人前でやめてください!」
「どうでもいいけど腰を掴むのやめてよね!!」
「も、申し訳ございません……!!」
 怯んだはばたきが両腕のホールドを緩めたのと同時に、ライフェの下半身が少しだけ狭まり、するっと抜け出すことに成功した。
「ライフェ様!! いけません!!」
 すり抜けた赤毛の少女を再度止めようと、少年は手を伸ばした。しかしライフェの挙動は軽やかで素早く、ひらりと避けると鉄柵に手を掛けた。
「いい加減目立ち過ぎだぞ。ライフェ」
 柵を乗り越えようとしたライフェは、左手を掴んできた青年を見下ろした。
「トゥ、真実の人(トゥルーマン)……」
 現れた白い長髪の青年に少女の瞳は揺らぎ、視線をしばらく宙に泳がせた後、彼女は柵からパドック席へ降り、顛末を注目していたわずかばかりの客たちは、ほっとしたりトラブルが消滅し悔しがったりと様々であった。
「そうか……ライフェは馬って初めてだったな」
「ええ……一度でいいから触ってみたくって……」
 胸に両手を当てたライフェは、首を傾けながら青年に対し、ゆっくりと彼を見上げた。
 芝居がかった少女の仕草に青年は表情を崩し、懐かしそうに微笑んだ。
「今度牧場へ遊びに行こう。はばたきもな」
「は、はい」
 青年、真実の人(トゥルーマン)に声をかけられたはばたきは背筋を伸ばし、ライフェの隣に並んだ。
「さて……サラブレットたちの全力疾走を楽しもうぜ……今年は国産馬が勝つといいんだけどな」
 真実の人はそうつぶやくと、少女と少年を促し、パドックを後にした。

 レース直前のメインスタンドは、期待と恐れ、夢と不安に満ち溢れ、そんな混沌の中を長助は黒いスーツの後姿を追いかけ、階段を駆け上っていった。
「うぉーい!」
 呼び止められたスーツの青年は長助を横目で捉えると、くいっと顎を上げて右目を閉ざした。
「こないだはご苦労だったな」
「言うかよ!?」
「いや……またあったら頼むよ」
「どういう意味だ、そりゃ!?」
「第二次時代の残党が、ヒマしすぎててさ……さすがに俺も制御しきれないんだよ。って……その話は今度にしようぜ」
 真実の人の少し前を歩いていたライフェとはばたきも振り返り、階段を上りきった長助に澄まし顔を向けた。
「ま、まぁな……せっかくの全日本杯だしな……」
 そう言いつつも、長助は青年の淀んだ言葉が気になっていた。第二次時代の残党。それは彼も認識している、自分たちの組織でも末端の戦力として持て余し気味にしている者たちであり、事実これまでにも任務の障害になると判断して真実の人自身が処分をしたことも何度かある。しかし戦力に欠けるこれまではそうした精神異常者も使わなければならなかったのも現実であり、その負い目があるからこそ、ライフェやはばたき、そして蜷河理佳のような若い力が育ってきた現在でも始末することなく、最低限の仕事は与え続けている。
 まさかこの男は、そうした余剰というか、使い道に困る古い力を全て弟に片付けさせるつもりなのではないのか。だとすれば、これは自分のよく知る気さくで悪戯者で、遊ぶことと仕事が大好きな、見かけによらず体育会系なアルフリート・真錠ではない。

 真実の人って……だけどそーゆーことを意味するんじゃねぇだろ……

 胸中にそんな思いを抱きながら、長助はスタンドから馬場へと視線を向けようとし、メインスタンド最前列でオペラグラスを握り締める少年の姿を発見した。
「あ!? あいつ、高校生のクセに!!」
 学生服姿ではなかったが、見間違えるはずがない。長助は島守遼の存在に眉を顰め、だが何やら嬉しくなって真実の人を見上げた。
「さーて……何をするつもりなのか……パチンコじゃ飽き足らなくなったのかな?」
 長助の幸せをよく理解しながら、真実の人も赤い瞳を少年へ向けていた。

 レーススタートと同時に競馬場はこれまで以上の歓声に包まれ、メインスタンド最前列で身構えていた島守遼は、これでラジオの音が拾えるかとイヤフォンに神経を集中し、思いのほか移動速度が速い馬群へオペラグラスを合わせるのに苦労していた。

 彼の全財産を背負ったゼッケン六番、ドウジマ・アパッチは幸先よくスタートし、第一コーナーを過ぎる頃には先頭集団を形成する一頭に残っていた。

 前に……二頭か……どうなる……それで済むか……!?

 全神経を視覚と聴覚に振り分けた遼は、先頭集団の最後尾にゼッケン六番を認め、奥歯を噛み締めた。

 それにしても計画など遂行できるのか。スタート直後に遼はそれを悟り、焦り、せめてできるだけゴールの近くへと移動しようと思ったが、一体どこがゴールなのかと馬場を見渡す始末であり、轟音と喧騒、そしてあまりに群れの進軍速度が速すぎるため、天才的だと思った作戦は遂行そのものが怪しい雲行きとなっていた。

 なんなんだよ……テレビじゃあんなにわかりやすいのに!!

 カメラの切り替えにより、テレビ中継では戦況の把握は誰にでもできる。いや、大衆が見るテレビだからこそ、わかり易さにかけては細心の注意と長きに亘るノウハウがあり、現場で初めて観戦する遼が、賭けた馬より先を行く馬の歯神経を切断するなど、とてもではないが不可能に近い神業であった。

 もっとも勝てそうな、確実な馬の単勝に金をつぎ込み、レースが開始されてそれが抜かれようものなら、手当たり次第に歯の神経を切断し競争力を削ぐ。これが彼の考えた“とてもよい思いつき”である。

 彼は小学三年生の頃、徒競走の途中虫歯が急に痛み出し、トップだったのがビリになってしまった苦い思い出があった。
 馬も同じ哺乳類であり、もし歯の神経を突如切断されようものなら、激痛でまともに走ることなどできないはずである。もちろん、草食動物である馬は歯の構造上、一生虫歯になることはないが、それでも歯髄や歯神経は存在するはずである。そこを破壊すれば激痛は生じる。

 くそっ!! 真錠がいれば……!!

 透視と遠視能力。栗色の髪を一瞬思い出した遼は、今はそれどころではないと雑然とした意識を立て直そうとした。

 最終コーナーを回った段階で、ドウジマ・アパッチは先頭に踊り出ていた。彼がこの事実を知ったのは最終直線前のことであった。

 ひゃははははは!! きたきたきたきたきた!!! 百万円きたぁぁぁぁぁぁぁぁ!!

 異なる力など使わなくても、あと数十秒もすれば、あの汚いアパートは遠くへ、彼女との仲は近くすることができる。

 しかし、二位以下の二頭が猛然と追走を開始し、気がつけばコール直前でドウジマ・アパッチを含めた三頭は、どれが先頭かも判然としない“先頭集団”と化してしまった。

 なんなんだよ……どうしてあんなに追いつくんだよ!! 嘘くせぇ!!!!

 意を決する。そんな整然とした覚悟ではない。得るため。獲得のため。遼は勝利を強奪しようと精神を集中した。

 強すぎる思いは限界を突破し、同時に複数の切断を可能にした。だが、それにはゼッケン六番も含まれていて、そもそも切断に成功したのは歯神経などではなく、ある馬は視力を奪われ、ある馬は踵の筋を切断され、ドウジマ・アパッチは動脈を破壊された。

 ゴールを目指す先頭集団は、突如として馬体の雪崩と化し、土煙の中、カラフルな勝負服が舞った。

 彼氏が何の勝負をしようとしているのか、聡明な彼女は“府中”というキーワードである程度の予想をしていた。

「近年稀に見る惨事!! ゴール直前でまさかの大転倒!! 一体どうなってしまったのでしょうか!?」
 14インチの古いカラーテレビは画像も乱れがちで、音声もモノラルで聞き取りづらいノイズが乗せられていた。
 それでも、蜷河理佳はブラウン管の中の惨劇をよく理解し、顎に手をあて、畳に視線を落とした。

 遼くん……何をしたの……これって……勝ちじゃ……ないよね……

 少女は小さく息を漏らし、壁紙もないむき出しの壁に背中をつけた。

9.
 全日本杯は、ゴール直前に先頭集団の三頭が同時にアクシデントに見舞われ転倒、後続集団もそれに巻き込まれ、レースは無効となった。掛け金は全て払い戻しとなったが、返金の間も島守遼は呆けたままであり、彼の意識は「あんなことになっちまったのに、ちゃっかり金は戻してる」といった負の感情でいっぱいだった。
 週明け、十一月最後の月曜日になっても、彼は教室でじっと黙ったまま膝に手を当てて固まるばかりだったが、授業前の雑然とした会話で昨日の惨事について語る者は誰もいなかった。
 そう、所詮は競馬での事故であり、大地震や凶悪殺人犯、そしてテロの残党の教室ジャックに比べれば瑣末なニュースである。高校生である彼らにとってはさほど興味深い話題ではなく、そのため現場で悲鳴と怒号を耳にし、競馬場全体の震動を足の裏で感じた彼は、自分は犯罪者だと思いながらも、だがそれほど悪いことはしていないのではないかと思いつつあった。
「島守、なに反省のポーズなんてとってるのよ」
 教室に入ってきた神崎はるみは、硬直したままの遼にそんな言葉を投げた。
「い、いや……なんか……寒くってさ……」
「えー? もうすぐ十二月にしちゃあったかい方だと思うけどなぁ」
 鞄を机の上に置きながら、はるみはそう言って隣の合川に首を傾げた。
「か、風邪気味なんだろうなぁ……はは……」
 頭を掻くことで硬直から抜け出した彼は、気持ちも幾分楽になり、笑みを浮かべる余裕を取り戻した。
「そうそう、真錠君って今日はお休みだって」
「へぇ、あいつが。珍しいわね」
「転入以来、無欠席無遅刻ですものね」
 合川とはるみの会話を耳にしながら、遼は左隣の空席を見つめ、なぜだかほっとした。
 午前の授業も終わり、昼休みが始まると彼は蜷河理佳と共に購買でパンを買い、屋上へ上った。
 十五万円あれば教習所の残金は足りるが、バイクを買ったり引っ越ししたりと画策していた全ては水の泡と化した。定期的な高収入を可能にしていたパチンコも、やくざに目をつけられた以上しばらくは再開できないだろう。果たしてこれからどうやって稼げばいいのか。サンドイッチをかじる蜷河理佳の端正な横顔をぼうっと見つめながら、彼は決して明るくない今後に憂鬱だった。
 彼氏の元気の無さとその原因を、少女はなんとなくだが気がついていた。しかしかける言葉も見当たらず、彼女は自分を見つめる視線を意識しながら、できるだけ自分は明るく振る舞おうと思った。
「あ、新しい担任の川島先生って、おっかなそうだけど、どうなんだろうね?」
「さぁ……」
 自分の言葉に対しては最大限のリアクションをするはずであり、たまに考え事をしているときはそれに集中して生返事しかしないのが島守遼である。しかしいまの返事はあからさまに生気がなく、蜷河理佳は顎を軽く引き、彼を見つめ返した。
「遼くん……」
 返事をせず彼は彼女から視線を逸らし、曇り空を見上げた。

 教室に戻った遼に、ポケットに両手を突っ込んだ井ノ関が、小さな目を思いっきり見開いて近づいてきた。
「驚いたよなぁ」
 何に対して彼が驚愕しているかは聞くまでもない。クラスの誰もが話題にしない競馬場の事故ではあったものの、あの公営ギャンブルを趣味にしている彼が知らないはずがない。まずい奴に話しかけられたと遼は曖昧な笑みを浮かべた。
「は、払い戻しだったから損しなかっけどさ」
「俺、お前探したんだけどさ。島守って携帯、持ってないだろ?」
「あ? あぁ……こないだ買ったけど……井ノ関も府中に来てたのか?」
「ああ。都内の重賞は全部行ってるよ。しっかし面白いレースだったのに、残念だよな」
「ん、まぁね……」
「名前言ってもわかんないだろうけど、騎手が七人も怪我だってさ」
「え……?」
 あれだけの転倒事故である。怪我人がいても不思議ではない。七名のうち一人は重傷であり、転倒した三頭の馬も死亡、もしくは薬殺の運命らしい。井ノ関から詳しく聞いたあの事件の顛末は、一攫千金を逃したという無念さ以上に、しでかしてしまった失敗の重さを遼に与えようとしていた。

 同盟からの報告書をパソコンのモニタで確認したリューティガーは、小さく舌打ちした。
「本部に送った議員秘書の調査結果が出たのネ?」
 ジャスミンティーを机に置いた陳が、モニタを覗き込んでそう言った。
「ええ……田中慎三……おそらく現場に偶然居合わせた人物と思われる。これ以上の調査は必要ないと判断。よって直ちに日本へ移送……」
 主がつぶやいた調査結果に、陳の右手がぴくりと震えた。
「同盟は……何を考えてるのかネ……!?」
「懐の名刺に気付かなかったみたいですよ。CIAやモサド、MI6にKGBの腕利きを揃えた四課が……」
 苦笑いを浮かべると、リューティガーはそう吐き捨てティーカップに口をつけた。すると、モニタに「新規メッセージが到着しています」という警告が表示され、彼は手早くデータ受信ソフトを操作した。
「健太郎さんからだ……幸村加智男の盗聴データか……」
「う、動きがあったのかネ?」
「でしょうね……結構な容量です……いま再生しますね」
 添付された音声ファイルを再生したリューティガーは腕を組んだ。

 叱責する声は、おそらく自由民声党幹事長、幸村加智男その人であろう。そしてただひたすらに謝っているのは田中慎三である。あまりにも早い帰国にリューティガーたちは驚き、さらに続いた言葉に息を呑んだ。
「真実の人(トゥルーマン)の取引は妨害されたというのか!?」
「は、はい……突然……その……コートの男が乱入してきまして……視察は失敗でした」
「ふん……」
「しかし先生、彼らの資金調達能力は本物ですし、戦力増強は現実として行われています。今回の取引こそ失敗しましたが、同日に同じような武器購入は数箇所で行われていたとの話ですから……」
「信用はできる……か?」
「私見ですが……」
 与党幹事長がテロリストの取引に秘書を派遣し、彼らの基盤を観察する。それは信用を量るのが目的であり、その目的は達成された。あまりにも辻褄の合わない事態にリューティガーは混乱した。
 同盟はおそらくこの事実を把握しているだろう。だとすればなぜしかるべき情報が自分に提供されないのだろう。越権行為によって得たそれを慎重に分析する必要があるとリューティガーは判断し、同時に同盟組織からの命令に対しても用心が必要だと認識していた。

 弟が代々木のマンションで腕を組んで思考を巡らせている月曜日の午後、真実の人を名乗る兄は、赤坂のホテルの一室である男と対面していた。
 真実の人の左右にはスーツ姿の中年男性の姿があり、彼らはそれぞれ資料を広げ、対座する者へ説明をしていた。
 初老の対面相手は顎に手を当てて説明を聞き、時々感心したように頷いていた。
「最終的には核武装を考えている……いかがかな、防衛次官どの」
 いつもとは違う、上ずった声で青年はそう言った。防衛次官と呼ばれた初老の男は「おいおい」と口では躊躇していたが、その目は爛々と輝いていた。

10.
 演劇部の部室では、椅子に腰掛けた部員たちが黒板に注目していた。彼らと対して黒板を背にした乃口部長と平田がそこに書かれた内容を説明した。
「これが三年生と平田君で考えたキャストよ。括弧の中は原案のシンベリンでの役名。自分の名前が書かれてる人はちゃんとチェックしてね。何気で発表まで間がないから」
 黒板に書かれた自分の名前と配役に、遼はわが目を疑い、隣に座る蜷河理佳をちらりと見た。

一文字久虎(シンベリン)……平田(2−A)
愛姫(イモージェン)……蜷河(1−B)
前原直治(ポステュマス)……島守(1−B)
赤井条之進(ヤーキモー)……福岡(2−C)
黒鐘雷衛門(ベレーリアス)……貝塚(2−B)
一文字慶司(グィディーリアス)……桜井(2−E)
一文字長秀(アーヴィラガス)……門野(1−A)
仲の方(王妃)……中根(2−A)
嵯川義康(クロートン)……針越(1−A)
河内屋宗次(フィラーリオ)……芦野(2−C)
弥兵(ピザーニオ)……庚槇(2−D)
真田信高(リューシャス)……秋山(1−C)
足軽A(兵士A)……徳永(2−B)
足軽B(兵士B)……桑井(2−B)
腰元A(侍従A)……本沢(1−C)
腰元B(侍従B)……神崎(1−B)

 これが四月の新入生歓迎公演、「久虎と三人の子〜シンベリンより」の全キャストである。
 この中で、徳永と桑井は二年生の男子であり、本沢は一年生の女子で、いずれもが文化祭の上演後に新たに入部した生徒たちである。だからこそ端役なのだが、その四役の残り一つが自分であることを確認したはるみは、下唇を噛み、斜め前に座る蜷河理佳を睨んだ。

 いやだ……こんなの……まるで嫉妬じゃない……

 そう思い、彼女は視線を膝に落とした。なんということか。無意識のうちに両のそれは小刻みに震え、いくら心で制御しようとしても、身体は素直に怒りを表している。
 こんなの、自分じゃない。そんな認めたくない辛さが神崎はるみを動揺させていた。

 島守遼が演じることになった前原直治は、一文字家に仕える文武に秀でた武士であり、愛姫と恋仲になり、それがこの物語の主軸の一つになる重要な役である。おそらく数少ない男子であり、前の芝居で老人役が好評だったため、自分には久虎役が回ってると思い込んでいた彼である。なるほど平田先輩でも適役ではあるが、まさかの配役に彼の憂鬱さは少しだけ隅にずれ込んだ。

 理佳ちゃんが相手役……か……

 「金田一子の冒険」でも彼と彼女は夫婦役であり、今回も恋仲である。絡む場面こそ意外と少ないが、それだけに殆どがラブシーンで、遼は台本をパラパラとめくりながらも先輩たちの配役意図がいまひとつ理解できなかった。

 蜷河理佳は自分にこの役が回ってくることを、ある程度は予想していた。愛姫は恋する前原直治に会いに行くため男装し、彼女を巡る物語は比率も高く、いわば隠れた主役である。しかし台本担当の平田先輩は前回上演でのアクシデントをひどく嫌っていて、自分と遼のカップル役はまずないだろうと同時に覚悟していたため、両者揃っての配役には戸惑っていた。

 驚く二人を見比べながら、平田は顎に手を当てた。
 そもそもシェイクスピアの脚本は、男性が主体で演劇をやっている構成を想定しての内容であり、女性比率が極端に高い仁愛演劇部には適していない。今回も腰元を除けば登場する女性役はたったの二名である。
 蜷河理佳を裏の主役である愛姫に推したのは他ならぬ平田であり、部長や他の三年生は躊躇もしていた。しかし彼女の実力を考えれば当然であり、だからこそ相手の前原役を女生徒が演じるのでは興ざめであり、監督する立場の自分が演じるには労力が多すぎる。そして新しく入部してきた二人の二年生男子は、そこそこの演技力はあるがどこか器用過ぎて物足りない。
 アドリブでキスをするような二人に、恋仲を演じさせるのは正直言って博打である。しかし洒落にならない生の感情が舞台に出れば、それはきっと新入生たちに相応のインパクトを与え、これまでにない入部希望と年間予算を獲得できるだろう。生徒会で書記も務めている彼はそこまでの計算でこの配役を三年生たちに通した経緯がある。

 二人次第なんだ……壊すなよ……

 見比べつつ、平田は心の中でそうつぶやいた。

 演劇部のミーティングと基礎練習を終えた遼は、蜷河理佳に声をかけることなく、部室を後にした。
 いつもなら気軽に「駅まで一緒に行こうよ」と誘う彼なのだが、さすがにそんな気にもなれず、隅へ追いやったものの、そもそもの巨大さからか府中での惨劇は相変わらず彼に暗く重い存在感を残していた。
 動物が特別好きなわけでも無く、ましてや馬など実物を見たのも初めてだった。しかし薬殺されたのは可哀想だし、あのような失敗さえしなければ失われることのない命である。
 パチンコ程度で済ませておけばよかったのだ。いや、あれだってインチキで、有り得ない勝ちに店側だってそれなりの損が出ているはずだろう。本当にロクでもない。調子に乗りすぎた。銀玉をちょっと動かせるぐらいですっかり増長していた。

 怪我って……重傷って……どの程度なんだよ……

 テレビや新聞の報道で“重傷”と書かれていても、実際にどこをどう怪我したのか詳細まではわからない。腕を骨折したのも重傷だし、馬の蹄で内臓を潰されても重傷である。
 もちろん誰にもバレてはいない。この異なる力を唯一知るリューティガーにしても、まさか昨日の府中に自分がいたことなど知る由も無いだろう。
 もし、あの栗色の髪にこれがバレれば、果たしてどんな叱責が待っているのだろうか。いっそ叱られてすっきりしてしまいたい。誰にも話せぬ罪が遼の足取りを重くさせ、だからこそ駆けてきた少女にも呆気なく追いつかれてしまった。
「遼くん!!」
「理佳ちゃん……」
 立ち止まり、胸に手を当てて呼吸を整える蜷河理佳の仕草はどこか新鮮で、自分のために駆けて来てくれた彼女に遼は「なに?」と首を傾げた。
「な、なんか……今日の遼くん……どうしちゃったんだろうって……」
「う、うん……」

 数日前はここでリューティガーに説得され、それを断ったこともある。あの時は金網に並んでいたが、今日はベンチである。
 学校から少し離れた公園で、遼と蜷河理佳は黙ったままだった。
 先に口を開いたのは、少女の方からだった。
「き、昨日……ひ、ひまだったんだ……わたし……」
「理佳ちゃん……」
「で、電話かかってきたとき……ちょっと……うん。ちょっとだけ……期待しちゃったかなぁって……」
 夕暮れを見上げる少女の横顔を見つめながら、遼は胸がつまり、呼吸が苦しくなった。
 理佳ちゃん……珍しい……こんな理佳ちゃん……そっか……

「ね、ねぇ……今度また、映画見に行こうよ。犬が主人公のやつ、またやるんだよ」
「あ、ああ……うん……」
「そ、それともアクション映画とかの方がいい?」

 ごめん……理佳ちゃん……

 無理をさせている。彼女がこうも積極的なのはおかしい。無理をさせてしまった。
 遼は自分が情けなくなり、ベンチの背もたれに体重を預け、ゆっくりとそれを左にずらした。

 川島の車乗ったとき……そっか……ジョージさんのこと思い出したんだ……だから俺、あんなのでも平気で手伝っちまったんだ……

 脈絡も無い思い出しである。だが、哀しかった。右にずらした体重は結果として少女への依存となり、それは意識のどこかでわかっていることだった。ここまで情けないのなら、それはそれなのだろう。自棄を隠すことなく、少年は嗚咽を漏らして肩を揺らせた。

「俺さ……ひどいんだよ……俺……もう嫌でさ……」

 気がつけば両目からは涙が溢れていた。まるで子供のようである。嫌悪されても構わない。彼女と対等でいられる資格など、エゴで人や馬の運命を狂わせたり、ジャーナリストの命を救えず、車内でただ震えていたりした自分にあるわけではない。
 比留間の命は救えたし、機関銃を持ったテロリストにも立ち向かえた。それで清算できたと思っていた負債は、だが自分自身が根本的に負い目を生産していく以上、完全に無くすことなどできるはずがない。
 蜷河理佳に体重を預けつつ、泣くことを止めることなく、島守遼は拒絶されるのを覚悟で、いや、断絶と失いきることを望んでいた。

 しかし、少女は少年の肩を抱き、その頭を自分の膝へと誘った。

「理佳……ちゃん……」

 細く長い指が涙に触れ、同時に何か温かいイメージが彼の脳裏に広がった。

「でも……わたしは好きだから」

 短い言葉だった。だから救われた。また今度も。

 冬休みには旅行に行こう。もちろん二人っきりで。少年と少女は夕暮れの公園でそんな約束を交わした。
「もしもし……麻生? いまいい? あぁそう……いや逆……支配人に頼んでくれる? 時間、できるだけ増やしたいんだバイトの」

 すこしだけ全うになろう。遼はそう誓い、携帯電話を折り畳んだ。




 多摩川を望む高層マンションは、築年数二十年以上のくたびれた外観であり、あちこちにヒビが入った煤けた壁が不気味さを醸し出し、ベランダに洗濯物も皆無であり、生活の気配も感じられなかった。

 エレベーターが停止していることに気付くと、青年はその場から姿を消し、突風がエレベーターホールのゴミ屑を散らせた。

 真っ暗な台所からは腐敗と放棄の悪臭が立ちこめ、出現した青年は口と鼻を手で覆った。
 この405号室にいるのは奴である。青年はこのマンションの、決して生活感を醸し出すことのない住人達の居場所を全て記憶していた。

「隣の部屋が空き部屋になったの。つかってもいいかな?」
 その声はノイズとモーター音が被さり、聞き取れなかった青年は居間へ向かって「ごめん。もう一度」と返事をした。
「隣の部屋が空き部屋になったの。つかってもいいかな?」
 イントネーションもスピードも、測定すれば波形すらもまったく同一の言葉に、青年、真実の人はゆっくり頷いた。
「しかしその前に一仕事頼みたい」
「弟さんの抹殺?」
「なぜそれを?」
「だってここの住人中の噂になってるもの。弟さんを殺せたら引っ越しができるって。源吾とムヤミは学園祭にまで行けたんでしょ? ものすごく、それって羨ましい」
 真実の人は、埃を払うと台所の椅子に腰掛け、居間へ向き直った。
「鍵は開けておく……お前たち……つるりん太郎のチームへ正式に依頼する。リューティガー真錠を抹殺しろ」
「かしこまりました三代目……」
 真実の人の目の前で、頭を深々と下げる者の姿があった。花柄でありながら地味な茶色系のワンピース、腰にはアンバランスなベルトとポーチをぶら下げていて、細い足からは若干ではあったがすね毛が漏れていた。女装にしてはあまりにも開き直りすぎである。

 七年前の行き遅れたちがこのマンションには犇いている。

 いずれも再起を伺いながら、開けることの出来ない、開けたとしても行き場所のない現在に対して深く、暗く、重い情念を抱き続ける者たちの営みは、だが生活と呼べるものではなく、あくまでも生存である。
 下げられたつるりん太郎の頭から、中年女性のような、くるっとしたパーマが髪型ごとすとんと床に落ちた。
「失礼……」
 ノイズまじりの声は相変わらずであり、カツラを拾い直した彼の口元は微塵も動かず、そもそも口といった部品はその顔には存在しなかった。

 405号室を後にした真実の人は、夜の川原を一人歩いていた。

 化け物は……いくらでもいる……ルディ……戦い続けろ……強くなれないのならお前に生きる価値などない……それが俺たちの……真実の人の意思だ……それにしばられちまえルディ!!

 星空は無い。雲で覆われた闇を見上げた真実の人の横顔は、憂いに溢れ、それでいてどこかつまらなそうでもあった。

第十話「増長、その末路」おわり

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