真実の世界2d 遼とルディ
第十一話「暖かな握手」
1.
 定刻はとうに過ぎていた。けれども背の高い車は見えてこない。どうせいつもの渋滞だろう。けど、それが嬉しい。きっと彼女もそうなのだろう。そうだといい。

 仁愛高校前。その名が示すように、都立仁愛高校の校門前に置かれた私営バスの停留所である。
 島守遼(とうもり りょう)は下校の際、この停留所で蜷河理佳(になかわ りか)を見送るのが習慣となりつつある。十二月に入ったばかりの今日も、屋根の下で雨を凌ぎながら、少年と少女はバスを待ち、ぼんやりとした時を過ごしていた。
 この交通手段を利用する生徒は数多く、初めのころは周囲の目を気にして、あまり彼女と親しげに見られるのを避けていた遼である。しかし初舞台でのアクシデントにより、二人の仲は半ば全校に公認された気配もあり、今日なども同級生の鈴木歩(すずき あゆみ)が同じようにバスを待っていたものの、彼はお構いなしに少女の手を握り、全身は友達の距離をすっかり越え寄り添っていた。
「日曜さ……また買い物とか……飯食ったり……い、いいかな?」
 掌に、ぶれた淡い、波紋のようなイメージを遼は知覚した。これは彼女の心が震えたということなのだろう。そう認識した彼は、次の言葉を待たずに唇の両端を吊り上げた。
「う、うん……大丈夫……空いてるから……」
「じゃ、じゃあ……十時にハチ公前で……」
「うん……」
 雨音がいっそう激しくなり、バスのヘッドライトが二人を照らした。今日はここまでである。明日には演劇部で台本の読み合わせがあり、今日よりは長く二人で時を過ごすことができる。毎日部活があればいいのに。そう思いながら、彼は彼女から手を離した。
 バス停の屋根からバスまでの距離は僅かだったが、雨足は強く、遼は自分の傘を彼女の頭上で開いた。
「あ、ありがとう……」
「風邪ひくといけないから……」
 名残惜しく、来てしまったバスに対してちょっとした恨めしさもある。彼女もそう感じているのだろうか。蜷河理佳の長い黒髪を見つめながら、遼はこの冬も本格的になってきたと雨の冷たさを感じた。

 発車したバスの車中で、蜷河理佳は停留所からずっとこちらを見つめ続ける彼へ、穏やかな笑みを向け続けていた。あと数秒で坂を下りきったバスは左折をして、そうなるともう互いの姿は見えなくなる。下校した後も、たまに携帯電話で言葉を交わすこともあるが、それはたまたまタイミングが合うときであり、遼はアルバイトで忙しく、彼女とて帰宅後には報告書を作成したり、それを連絡要員に手渡したりとスケジュールは埋まっている。もっと近くに、もっと長い時を共に過ごしたい。少女もそんな希望を胸に秘めていたが、それは叶わぬ願いであることもよく理解していて、だからこそ切なく、吊革を掴む手も小刻みに震えていた。
「きっかけって、どーなのよ」
 隣で同じように吊革に掴まっていた鈴木歩が、そう尋ねてきた。
「あ、えっと……鈴木さん……?」
 こちらの存在を、微塵も気付いていなかったのか。同級生の言葉をそう理解した鈴木は、下唇を少しだけ突き出し、濃い目に描かれた眉を顰めた。
「あ……で……きっかけって……?」
「ん……島守と付き合いだしたきっかけよ」
「あ……ん……あっと……」
 どうなのだろう。きっかけは一体なんだったのか。自分は真実の人(トゥルーマン)に「この少年をマークしておけ」と命じられたから、彼に接近し、気がつけば深い間柄になっただけである。
「演劇部……かなぁ……」
「ふーん。やっぱ部活か」
「い、一緒にいる時間も増えたし……」
「それなら神崎もそうじゃん。あいつはどーなんだろ? あいつ、前は島守としょっちゅうくっちゃべってたじゃん」
「そ、そうだっけ……?」
「そうだよ。あたし付き合うんなら島守と神崎だと思ってたもん。正直、あんたとって、意外って感じ」
「ふ、ふぅん……」
 鈴木の一方的なコミュニケーションに、それでも蜷河理佳は辟易とすることなく、そういう見方や予想もあるのか、と単純に興味を示していた。
 こいつ、意外と話しやすいな。鈴木はそんな感想を抱きながら、バスの窓を打ち付ける雨にうんざりし、無意味な笑みを同級生に向けた。
「あ、あたしも……島守は意外といいかなーなんて……あはは……」
 なにを喋っているのだろう。どさくさもいいところであり、こんなのは友人の杉本香奈にだって話しちゃいない。
「い、いいよね。遼くん」
「あ? あ? あ……うん……」
 まるで我が事のように瞳を輝かせ同調する蜷河理佳に、鈴木歩はすっかり気圧されてしまった。
 奥沢二丁目にバスが到着した頃になると雨の勢いはより激しくなり、二人の少女はそれぞれ傘を開きながら、これだけの降雨はいつ以来だろうと、そんなありふれた感想を共に抱いた。
「じゃーね!!」
「うん、また明日!!」
 雨音に負けないように声を張り上げた二人は、それぞれバス停から別々の方角へ向かって早足で分かれた。

 雨漏りは大丈夫だろうか。二階建ての老朽化したアパートを見上げながら、蜷川理佳は自分の暮らす場所の心配をし、金属製の外付け階段へ急いだ。
 1DK。キッチン、居間共に四畳半であり、古いタイプではあったが風呂とトイレは完備されている。暖房装置は電気ストーブが一つだけであるが、今年の冬は寒さも本格的になる前なので、今のところ困るというほどではない。立て付けの悪い玄関を何とか開けながら、少女は学生鞄を食卓に置き、ブレザーを脱いでそれを衣装ケースにしまった。
 14インチのカラーテレビはリモコンもなく、だが部屋自体が狭い上にそもそもあまり熱心に見る方ではないのであまり不便は感じていない。雨音にいいかげん辟易としつつあった彼女は、そのスイッチを入れ、しばらくするとぼんやりと画面に時代劇の再放送が映し出された。
 よかった。雨漏りはしていない。天井を見上げた彼女は、リボンを緩めながら心配事が一つ減ったことに喜んだ。

 今日はこれから十一月分の報告書を作成しなければならない。

 源吾とムヤミの襲撃により、学校も一週間の休校になったため、この月の報告書は楽に済む。島守遼がリューティガー真錠(しんじょう)と接近した気配は無く、真実の人が見抜いたというもう一人の“異なる力”の持ち主も特に動きを示す様子もない。安定した状況である。教室ジャックを経て、なおもそう思える彼女の感覚は正常な世界に生きる者のそれとはずれきっていたが、少女のこれまでにしてみれば比較にならないほどの穏やかさである。セーターとジーンズに着替えながら、今日の夕飯は何を作ろうか。あたり前の悩み事に彼女は微笑んだ。
 左隣の部屋には定年をとっくに越えた老人が一人で暮らし、質素で静かな生活ぶりが雑音の少なさから窺い知れた。右隣は空き部屋であり、たまに老人に挨拶をする以外はまったくの孤独だが、そんなことにはもう慣れているし、どちらかと言うと人付き合いは苦手である。気軽で気楽で、管理人も不在であるこのアパートの生活は少女にとって、適度に不便で適度に快適だった。
 真実の人は、今回の任務にあたっていくつかの物件をリストアップしてくれた。
「理佳。仁愛の通学圏内でFOTとして用意できるのはこの物件だ。まさにピンキリ。どれでも好きなのを選んでいいぞ」
 カラオケボックスで手渡されたファイルには四件の集合住宅情報が記載されていて、家賃がもっとも安く、住む者が少ないこのアパートを選んだのは彼女の意思である。夢の長助などは「おいおい、こんなボロはどうかと思うぜ。こっちのオートロックの十階建ての方がセキュリティだって万全だぞ」といらぬ口を挟んできたが、彼女は「いいえ。無駄な支出は極力抑えないと」とキッパリ断り、対座してマイクを握る真実の人が満足そうにうっすらと笑みを浮かべているのを確認すると、自分の決断は間違っていないと確信できた。
 ノックの音はちょっと気を抜くと雨音にかき消されてしまいそうだったが、来訪者に対しては常に神経を研ぎ澄ませている彼女であり、ドアノブに手をかける挙動にも淀みがなかった。
「俺だ。いるか?」
 聞き覚えのあるやや鼻のつまった声に少女の緊張は緩み、そのかわりに嫌悪が彼女の表情を曇らせた。
「長助……定例報告は明日のはずだけど……」
 扉を少しだけ開けた彼女は、ズボンを雨でびっしょり濡らした長助を、少しだけ気の毒だと思った。
「あぁ……真実の人がまた弟さんの暗殺を命じた……今度はつるりん太郎と月仮面のチームだ」
 その固有名詞に、少女は顎を引いた。
「また……源吾のときみたいにって……こと?」
「あぁ……細かい作戦指示は今回も出さずじまいらしい。太郎も第二次の残党組だからな……かなりいろいろ溜まってる……おそらくは、仁愛襲撃に出るだろう……」
「どうすればいいの? また狙撃して防ぐ……?」
「あぁ……しかし源吾たちと違ってあいつは何を考えているのかわからねぇ……真実の人ですら命じた後の足取りを把握できていないようだし……そうなると遅刻して狙撃ポイントで待機つっても、いつからいつまでって区切れねぇ……だから、武器は持っておけ」
 長助にいつもの賑やかさや人を食ったような愉快さは微塵も無く、これは自分に対する忠告なのだと少女は理解した。
「け、けど……普段から持ち運べる武器なんて……太郎は生体改造を受けた工作員なんでしょ?」
「そりゃあそうだが……どうやら失敗作らしい。だからナイフでも小型のピストルでもいいから、身を守れる武器を確保しておくんだ」
「ど、どういうこと?」
「奴はお前のことを詳しくは知らない……島守遼と一緒にいると、巻き込まれる可能性だってあるってことだ」
「でも狙いはリューティガーでしょ? 遼くんは……」
「そうも言ってられねぇんだ……どうにも最近、残党組の中に島守の存在が知れ渡りつつあるんだ……」
 長助の言っている意味がよくわからず、蜷河理佳は何度も瞬きをした。
「奴らの潜伏先で噂になってるってのを、ドクターから聞いた……」
「潜伏先? 残党組はそこにいるの?」
「そうだ。場所はドクターも真実の人も教えちゃくれねぇ……俺も調査中なんだが……」
 FOTという同じ組織に属しながらも、その長である真実の人は、長助や蜷河理佳のような、第二次ファクトが壊滅した後に参加した者と、それ以前の残党組に対し、区別して任務を与えている。両者の接点はあまりないが、互いに新参者と古参ということで反目することが多く、特に長助の残党組に対する信頼の低さは少女も常日頃から聞かされてきた。
 なぜ真実の人は、あの聡明なる自分たちの長は、残党組のような恨みつらみで理性を失いがちな、制御しがたい者たちを戦力として登用するのだろう。それは蜷川理佳にとっても不思議な現実だったが、今の彼女にはより大きな疑問が生まれていた。
「わからないな……なんで旧ファクト勢が遼くんを……」
「もちろん、弟さんと手を組まれれば脅威になる。それを排除しておくってのが連中の建前だ……だがな、本音は別のところにある」
 もったいぶった長助の言い回しに、少女は強い意を向けた。
「おそらくサイキって点だな……連中は異なる力を持った者たちに組織を滅ぼされた。その恨みが、まだまだレベルが低く倒しやすい島守に向けられてもおかしくはない。ある者はサイキ狩りだの抜かしているらしい。自分たちの雇い主のことは棚上げしてな」
 納得できない話ではないが、どうにも腑に落ちない点が多い。長助の説明に彼女は頷くことなく、まだ彼も全ての事情を把握してはいないのだろうと、小さく首を傾げた。
「真実の人は……いったい……」
 蜷河理佳は人差し指の関節を唇に当てた。
「わからねぇ……真意のほどは俺にもさっぱりだ。だがな、あいつはこの抹殺任務とお前さんの潜入任務は同等のプライオリティだと言っていた。つまり……」
 言わずともわかる。少女は男の言葉を手で制した。
「仁愛に潜入して、遼くんをマークし続ける……そのための障害は、残党組であろうと排除してもかまわない」
「そうだ……味方同士で衝突するような馬鹿げた展開だ。実に奴らしくない。俺はな、最初に源吾や太郎に弟さんの暗殺を命じるって聞いたとき、作戦指示は細かくやるもんだと思って、だから安心していたんだ。なのに……まるで暴走を促しているみたいで……奴の考えはさっぱりわからねぇ」
 組織内での地位は高くはないが、状況によっては真実の人に苦言を呈することができる唯一の存在が、この夢の長助こと藍田長助である。その彼だからこその発言なのだが、賛同を拒んだ彼女は無言のまま首を横に降った。
「理佳……」
「勝ち負けが……必要なの……わたしも……リューティガーも……遼くんだって……真実の人はそれを望んでいる……わたしは……あの人らしいと思う……」
「そ、そうか……」
 彼女が真実の人をどう理解しているのか。それは長助にもわからなかった。しかし確信にも似た蜷河理佳の澄んだ口調は、彼に反論や疑問を口にさせるのは野暮と思えるほどまっすぐだった。
「情報をありがとう長助。うん……そうね……遼くんの目の前で戦いさえしなければ……任務は継続できる……わたし……頑張ってみる。それに……残党とだったら……いくらでも戦える。殺すことだって全然構わないもの」
 強い決意が瞳の輝きに現れていた。それほどの任務なのだろう。殺すことが平気と気丈に振る舞っているが、いくら怨恨ある対象とは言え、ついこないだも源吾を狙撃した際、胃液を吐いてしまうのが蜷河理佳という少女である。
 彼女にとって島守遼の存在はずっと大きくなっている。それを感じた長助は、もじゃもじゃ頭を掻きながら、少しだけ寂しさも感じた。

 港区神谷町。とある高級ホテルの一室に、スタッフたちと共に来客を待つ真実の人の姿があった。
「ロシア語はどうにもな……いくら私とて、そうそう言語に精通できるはずもない」
 普段とは異なる、芝居がかった語調で彼はそうつぶやき、周囲のスタッフたちは苦笑いを浮かべた。
「ご安心を真実の人。大佐は英語も堪能な方。我々の交渉も全て英語で進められておりますので」
「そうか……それならいいのだが……」
 重いノックが、部屋の中にいた真実の人をはじめとする五名の男たちに緊張を走らせた。長である青年が扉の近くにいた男に目で合図をすると、鍵が解除され扉が開かれた。
「お前たちが反同盟のFOTか……」
 部屋に入ってきたスーツ姿の、大柄な白人男性が見渡しながらそう英語で言った。
「ようこそ大佐……わざわざご足労いただき、誠にありがとうございます」
 笑顔を貼りつかせたまま挨拶をした真実の人に対し、大佐と呼ばれた白人は太い眉毛を吊り上げた。
「お前が……三人目の真実の人か……?」
「はい……三代目でございます……ロシアンティーなどはいかがです。大佐?」
「単刀直入でなければ取り込まれかねんな。お前が……なるほど……」
 大佐は嘗め回すような目で白い髪の青年を観察すると、顎に手を当て、促されたソファに腰掛けた。
「ならば用件を……師団レベルで唯一自由になる例の物……それを買わせていただきたい」
 本題をあっさりと切り出した真実の人を大佐は睨み上げ、歯軋りした。
「売れるはずがなかろう。貴様……アレをこの国に持ち込むつもりか?」
「ええ……なんとしてでも……父の祖国であるこの国はあまりにも情けない奴隷国家で……私はそれが許せないのですよ。独立した国家を宣言するためには必要な装備というものがあります。軍事の専門家である大佐ならお分かりいただけるでしょう?」
 余裕と不遜。青年の態度からそれを嗅ぎとった大佐は、薄くなりかけた頭髪を一撫ですると、ここは迂闊に言葉を漂わせるべきではないと判断し、口を手で覆った。
「長いお付き合いになるといいですね大佐。最重要事項です。もちろん今すぐの決断など、我々も求めてはおりません……」
 交渉ごとに来てしまった時点で、もう間違いだったのではないだろうか。大佐は自分の判断が誤っていた事実にようやく気付き、滴り落ちる汗が冷ややかであると感じた。

2.
 どうせ呼び出すのなら、授業中とか昼休みとか、とにかくもっと早くにしてもらいたい。であれば蜷河理佳と一緒にバスに乗り、わずかではあるが彼女が降りるまでの間、もっと一緒にいられたというのに。
 雑居ビルのエレベーターに揺られながら、島守遼はタイミングの悪すぎる支配人のヘルプ要請に、文句の一つでも言ってやろうかと言葉を思案していた。
「悪いねぇ遼ちゃん!! 南田君が急用で来られなくなっちゃってさ!! 今日の時給は残業給上乗せしとくから……ね!!」
 年齢にしては薄い頭髪だといつも感じる。手を合わせてぺこぺこと頭を下げるジャージ姿の支配人、呉沢(くれさわ)の謝罪を受け、遼は嫌味を言うのもなにやら可哀想だと思い、提案された好条件に「マジっすか!?」と喜びの声を上げた。
「学校からバスだったのか?」
 更衣室から出てきた同僚であり、同級生でもある麻生巽(あそう たつみ)が、そう尋ねた。
「いんや。ちょうど家に着いた頃でさ。バッドタイミングもいいとこでさ」
「メンゴ!! 遼ちゃんメンゴ〜!!」
 いつのどこの言葉だ。そう思いながらも遼は、「い、いいスよ。俺、稼ぎたいですから」とフォローで返し、ユニフォームに着替えるため更衣室へ駆け込んだ。
 本日急用のためシフトに穴を開けてしまった南田とは、都内の大学に通う学生であり、ゆくゆくは体育教師になるのが夢だと聞いた覚えがある。そういえば仁愛の体育教師、新島貴(にいじま たかし)は十一月前半から行方不明だそうであり、今月からは代理教員がやってくるらしい。一体行方不明とはどういうことなのだろう。どこか抜けたところのある、ちょっと柄の悪い先生だったから、借金でも踏み倒して怖い人たちから追いかけられているのだろうか。そんな愚にもつかない想像に微笑みながら、遼はユニフォームに着替え職場へと戻った。
 器具のメンテナンス、初心者へのアドバイス、清掃、ジムの仕事は探せばいくらでも見つかるため退屈はしないが、こんな土砂降りの中、よくこれだけ鍛えたがる人がいるものだと、熱気に包まれたジムを見渡し、遼は感心するやら呆れるやらの思いに首を小さく傾げた。
 肉体労働だけならこうも疲れはしないだろう。やはり気持ちをすり減らし、疲労度を倍加させるのは接客面だ。傘を差し、ジムの入った雑居ビルから出てきた遼は、まいっている原因をそう分析し、それでもコンビニのレジなどに比べればまだましなのだろうと、妙なところで落ちをつけていた。
 今月はできるだけバイトを入れてるし、今度の日曜のデート代は大丈夫だろう。キープしてある十五万円で免許は取れるとして、問題はその後、冬休みの宿泊費とバイク代をどう捻出するかである。宮益坂を下っていた遼は、パチンコ店の前でふと足を止めた。

 ここも稼がせてもらったよなぁ……

 異なる力を用いたイカサマパチンコは、やくざ者たちに脅迫されて以来まったく手を出していない。もっと地方へ、例えば東京を抜け、千葉や埼玉まで遠征すれば、あるいは安全に稼げる可能性も残っていたが、やはり道から外れた犯罪行為であり、そんなことを続けていたら、蜷河理佳の澄んだ瞳を直視することなどできない。それは金を失うことよりもっと辛く、だからこそ一向に慣れないアルバイトを続けているのだ。ホール内で盤面に向かう男たちを外から眺めながら、遼は思った。

 なんなんだろうな……この……力って……

 触れた相手の思っていることを、イメージや言語として捉えることができる“接触式読心”。そして触れることなく、わずか5mm3程度ではあるが、ある程度自由に物体を動かすことが出来る能力。この二つの“異なる力”は、分析不可能な、現実離れした結果を自分にもたらしてくれる。しかしなぜそんな能力があるのだろう。父、島守貢(とうもり みつぐ)も同じような能力者であり、転入生のリューティガー真錠も、空間跳躍と物質転送という異なる力の持ち主である。
 遺伝でもするのだろうか。だとすればリューティガーが戦ってると言っていた兄も、何か超常的な力を持っているのか。だから、そんな者と戦うために自分の協力を欲している。
 冗談じゃない。なぜ人殺しに加担などしなければならないのか。教室ジャック犯がリューティガーの兄と関わっていたとしても、それなら襲われたときに守ったり、逃げたりするために力は使えばいい。そう、武道の心得がある高川だって、自分の持てる力で状況に対応した。あれでいいじゃないか。やはりあの栗色の髪をした転入生の考えていることは理解できない。奴は平然と、こちらに敵の血管を切れと言ってくる。まともじゃない。獣人や機関銃を持った犯罪者だって、人格というものがある。それを簡単に“殺せ”とは、やはりあいつは自分とはまったく違う“これまで”を送ってきた、できるだけ関わるべきではない相手なのだろう。
 第一、戦うとか力を貸すとか、なにやら遠まわしな言い方であいつは何も具体的なことは話そうとしない。だからこちらも、合宿や練習を見に来た藍田長助という“FOT”の一員のことも特に教える気にはなれない。もしあの天然パーマがリューティガーの戦っている組織の一員だったとしても、その存在を伝えるだけで妙な関わり合いをもってしまいそうで、それは嫌だった。

 土砂降りの渋谷を駅へ向かいながら、島守遼は次のデートをどんなコースにしようか、そんな考えごとに切り替え、心を軽くしていた。

 翌日は一転の晴天であり、詰襟に饐えた臭いが残っていないことを確認した遼は、アパートの扉を開けこの冬一番の冷気を感じた。
 今日は演劇部で来年春上演の舞台「久虎と三人の子」、初の本読みである。昨晩もじっくり台本は読み込み、自分なりに前原直治という侍の役を理解し、掴んだつもりである。それが正しいのか、面白いのか興味もあったし、座ったままの読み合わせではあるが、蜷河理佳との掛け合いも楽しみであった。
 放課後の演劇部部室にはパイプ椅子が置かれ、今回の舞台の出演者たちと、やや離れた後ろの方に乃口部長たち三年生たちが座っていた。二十名以上の演劇部で出演は十六名。残りは卒業する三年生なので、今回は部員総出である。照明や音効は今回も有志にお願いするとしても、裏方不足は明白であり、端役である神崎はるみは役柄とは反比例したそんな負担を一身に背負っていた。だから、本読みの最中も彼女の意識は大道具や衣装の製作、発注プランや有志集めの方法に割かれていて、部室の空気が変質しつつあることにも気付かなかった。

「いいか姫、お前と結ばれるは嵯川義康であって前原ではない。いい加減気持ちをあらためぬか?」
 父親役である二年生の平田の台詞に、だが愛姫役の蜷河理佳は反応しなかった。
 今日はこれで六度目である。部の中でも突出した名演技で勘もよく、前回芝居の本読みでもまったく問題のなかった彼女がこうも集中力を欠くとは意外であり、部員たちは一様に戸惑っていた。
「理佳ちゃん……台詞……」
 遼に小声で促された彼女は、全身をぴくりと震わせ、慌てて自分の台詞に対応した。
「あらためることなどできませぬ父上。もはや前原様と私は夫婦の身。いくら父上でもそれを引き裂くことなどは……」
 抑揚のバランスにリズム感もよく、やはり彼女は演技が上手い。平田はそう感じながらも、だから技術で処理をしてしまっている“流した”事実も察知し、思わず首を横に振った。
 一通りの本読みが終わった後は三年生による、気になった点の指摘である。
「なんて言うのか……たしかに古い時代のお話なんだけど、島守君のは見得を切り過ぎっていうのか……ギャグ、一歩手前って言うか……」
 乃口は眼鏡をかけ直しながらそう忠告した。続く他の三年生たちも遼のオーバーすぎる芝居の指摘に終始し、蜷川理佳の心ここにない点を注意する声は皆無だった。だからこそ、本来は発言するべきではない立場の平田が手を挙げた。
「本読みだからって気を抜いてるのが何人かいた。立ち稽古で本気を出せばいいって気持ちもわからなくはないが、呆けは他の役者にも伝染して全体の緊張とレベルを落とす原因になる。心当たりのあった者は以後気をつけるように」
 自分のことを言っているのだろう。蜷河理佳は平田の注意をそう理解しながら、だがそれでもいつアルフリートこと真実の人が刺客を放ってくるのかが気がかりであり、脇に置いた学生鞄の中に入れた、コンバットナイフから意識を離すことはなかった。

 真実の人は二重、三重の顔をもち、それぞれ使い分け、あらゆる同志たちと事を進めている。
 一つ目はこの国を変えようとする、FOTの長として、駆け引きに長けたスタッフたちと交渉ごとを進めている顔。
 二つ目は自分を処分しに同盟から派遣されてきた弟に対し、“児戯”と割り切ってストレスを発散させる子供じみた顔。
 そして三つ目は旧ファクトの残党たちを操り、彼らの活用方法としてテロや事件を誘発させようとする残忍で冷淡な顔。
 一つ目と二つ目は自分もよく知っているし、そんな彼に対して敬意を抱いている。だが三つ目に関してはよく知らず、長助づてで最近知った側面である。この仁愛高校で二つ目と三つ目が衝突し、それぞれが戦い合うことになっても構わないと真実の人は思っているのか。それなら勝たなければならない。彼に三つ目の顔を捨てさせるには勝ち続けなければならない。

 遼くんにだけは、知られちゃいけない……

 隣で心配そうに見つめている彼に意を向けながらも、少女は任務継続の第一条件をあらためて心に刻み込んだ。
 そう、あらゆる武器を使いこなし、対象を一撃の下に葬り去る殺技を身に着けたFOTのエージェント。そんな正体を知られれば、この学校にいられなくなり、仁愛に潜入して島守遼をマークするという任務は不可能となる。
 しかしそれだけなのだろうか。バスに乗り込み、最後尾座席に腰掛けた彼女は、真実の人と島守遼、二人の男性を思い浮かべた。

 尊敬できる真実の人。決断力と実行力があり、信念を持った正義の人。彼に従うことで自分はあらゆるものを取り戻すことができた。だからこそ命すら預けているし、彼のためになんでもやることができる。

 島守遼とは任務のために接触した。異なる力の持ち主である彼をマークするということは、すなわち後に転入してくるリューティガーとの連携を阻むという意図があってのことだろう。真実の人の命令は時に抽象的であり、それに対応できない者は登用される機会が減る。それぞれが考え、意図を汲み取り、あるいは判断する。それが奴隷を操るマスターの条件であり、彼が率いる集団の中核をなす人材の理想像である。
 だから徹底的に調べ上げた。島守遼のことも、仁愛高校のことも。その結果、彼が物体の時間を操る能力者、いわゆるサイキであることも判明したし、やがて同盟からの抹殺者が遼を目当てに転入してくることも突き止められた。
 同盟のエージェントは、おそらく島守遼に危険なハードルを課すだろう。そんな連中のやり方は真実の人からよく聞かされていたし、であれば彼が自分の身を守れるようにと、解剖図鑑を手渡した。
 そんな行為が実にボケた、突拍子も無いことであることに気付いたのはずっと後のことである。だがそれがきっかけで彼との仲は急速に縮まり、いつしか一緒に映画を観たり食事をしたり、舞台で共演だってしていた。
 彼の好意はよくわかっている。嬉しくないと言えば嘘になるし、正直で、照れ屋で、懸命で、だから自分も好きだと思える。もし仲間に引き入れるよう命じられればこれまでで一番嬉しい任務だし、また真実の人がそう思うように仕向けたいとも考えつつある。
 バスから降りた蜷河理佳は、アパートまで二十分ほどある道のりに気を重くし、間合いが妙に近くなってきた、背後からのある気配へ咄嗟に振り返った。
「りょ……遼くん……」
 なぜ彼が奥沢二丁目にいるのだろう。有り得ない人物の登場に少女は胸に手を当て、腰を引きながら何度も瞬きした。
「ご、ごめん……なんか……理佳ちゃん部活の間ずっとなんか……だったし……ついつい一緒のバス乗っちゃってさ」
「う、うそ……全然気付かなかった……」
「うん……考え事してるみたいだったから……俺も話しかけそびれちゃってさ……」
 よりによって、彼のことを考えていたのにその存在を気づかなかったとは、自分も相当呆けていたようであり、こんなことでは任務が務まるはずもない。そう思った彼女はゆっくりと首を傾げ「うん」と小さく口を結んだ。
「あ、うん……平気だよ……全然……なんともないから……」
 見上げてそう返しながらも、彼はまったく納得してくれていないだろうと少女は思った。
「こ、ここから理佳ちゃんの家って近いの?」
「い、家?」
「うん。ここが地元なんでしょ?」
「あ、う、うん……住んでるけど……」
「鈴木もこの近所なんだよな」
「そうそう。たまに一緒のバスになるよ」
「こないださ、川島先生の車で来たからさ」
「あ、あぁ……」
 高いトーンで返事をしながらも、蜷河理佳は遼の意図をそれとなく察し、予防をしておくべきだと判断した。
「す、すごく遠いの。わたしの家……そ、それに……家族が風邪引いてて……わたしのがうつったみたいなんだけど……」
「そ、そっかぁ……風邪かぁ」
 “家族”その言葉に違和感を覚えながらも遼は、彼女が寒そうに身体を震わせていることに気付いた。
「ご、ごめんね……いつか……そのうち……家に来てね……そ、そうだ……遼くんの家にも……行ってみたいな」
「お、俺の!? い、いいよ……狭いボロアパートだし、親父が冷やかすに決まってるし……理佳ちゃんには似合わないよ。あんなしみったれた小屋みたいなの」
「で、でも……遼くんがどんなとこ住んでるか……わたしすごく興味ある」
「そ、そっか? じゃあ……それこそそのうちな……親父が確実にいない日を前もって調べておくから」
「え……いいよ……お父さんいらっしゃっても。わたし、遼くんのお父さんも好きだよ」
 目を輝かせながらわくわくする彼女に対し、彼は心配が杞憂だったと安堵した。
「親父喜ぶよ……そっか……なんか理佳ちゃん調子悪そうだったけど、家族が風邪だったのか……」
「う、うん……ありがとう……心配してくれて」
 人通りがそれなりにある夕方だが、別に構いはしないだろう。少女はそう思い、彼の胸に額をこつんとぶつけた。
「あ、あは……あはは……」
 どうリアクションしていいのか困惑し、遼はただ笑うしかなかった。しかし甲斐性だって少しはあるつもりだ。そう奮い立たせた彼は、彼女の後頭部をそっと抱き寄せ、肌触りのよい黒髪を撫でた。

 鼓動……すごい……鼓動……

 額にぶれを感じながら、蜷河理佳はうっすらと微笑んだ。

3.
「今日は麻婆豆腐ネ」
 丸々とした体躯にエプロン姿の従者、陳 師培(チェン・シーペイ)の言葉にリューティガー真錠は笑顔で頷き、食卓についた。
「最初に作ってくれたのも麻婆豆腐でしたね」
「そうヨ。もう私の一番の得意料理ネ」
 あれから半年近くが経過したのか。その間、何度か獣人の襲撃を受け、それを撃退し、逆に敵の拠点や取引現場を襲撃し、壊滅させはした。

 しかし何一つとして事が進展していない。そう思える。

 戦力不足は現地に協力者を求めろ。作戦立案者である中佐の投げやりとも思える指示に、彼は本部のデータベースから都内に存在する異なる力を持った人物をピックアップし、誰がもっとも適任であるかを吟味した。その結果、血筋としてはもっとも優れていて、立場的にもどこにも属しておらず、自分とも年齢が近いどころか同年代である島守遼との接触を決定した。
 彼が自分の力に気付いていないという事実には正直言って困惑したが、説得すればきっと応じてくれるだろう。特に東京の人間ならファクトの脅威は肌で知っているだろうし、それが再び策謀を巡らせているのなら、壊滅への協力は二つ返事で引き受けてくれる。そう思っていた。
 現実を突きつけられた思いである。目の前で獣人が咆哮を上げ、命の危険に曝されたのが自分以外の友人たちにまで及んでいるというのに、あの長身で細い目をした“あいつ”は「勝手にやってくれ」と関わりを拒絶している。ここまでこの国の人間は臆病者だったのだろうか。自分にも半分流れている血だが、少々信じがたい。
 兄である真実の人を捕らえる。もしくは殺害し彼の組織を壊滅させる。その任務は停滞したままであり、小さな戦果は重ねているが本質にはまったく近づいていない。FOTはこの国になにをもたらそうとしているのか、恐怖、混沌、暗黒、抽象的な言葉は具体性を伴わず、同盟本部も調査には消極的である。

 軌道修正が必要だ。陳の運んできた麻婆豆腐を食べながら、リューティガーはそう決意した。
 まず、島守遼に力を貸してもらうのは諦めよう。
 しかし戦力不足は明白であり、現地登用は行わなければならない。本部から持ってきたサイキのリストを再検討するか、以前、李 荷娜(イ ハヌル)に運んでもらった七号探知機を使い、新たな能力者を探し出すべきか。それに完命流という武術を駆使して獣人に対した高川というクラスメイトは、正義感も人一倍強く、事情を説明すればきっと力になってくれる。なにも能力者だけに限定する必要は無い。
 彼はふと、自室に置いてある探知機へ振り返った。ソファにはもう一人の従者、健太郎が座り、テレビを見ている。
 どんな事情があるのかは知らない。だが出会って以来、リューティガーは健太郎と陳の四川料理を一緒に食べたことがない。彼は一日一度、機器で首筋に投薬することでその生命と二メートルを超す長身を維持し、じゅうぶんな戦力となっている。だから無理に食べろとは命じられなかった。
 青黒い肌に赤い目、鋭く長い爪は人外のそれであり、生体改造の結果であることはよく知っている。後に彼から聞いた話によると、第二次ファクト、別名「真崎ファクト」時代に獣人の実験段階として手術を施されたらしく、だからソロモン種や他の改造生体と比較しても彼は人間に近い外見をしている。
 そんな彼が、ゆっくりと視線をこちらに向けてきた。
「健太郎……さん?」
「誰か……来ている……」
 そうつぶやくと、健太郎はソファから立ち上がり、ダイニングキッチンを抜けて玄関口へ向かった。相方の様子に食器を洗っていた陳の手も止まり、鋭い視線を相方の背中へ向けた。
 国営放送の集金や、セールス、近隣住人が訪れたことで彼は反応するはずがない。四度目の襲撃か。そう判断した同盟の若きエージェントは椅子から立ち、居間へ戻って学生鞄からリボルバー式の拳銃を取り出し、再びダイニングキッチンへ駆けた。
「誰だ!!」
 叫びながら、健太郎は勢いよく扉を開けるのと同時に左手から長い爪を引き出した。しかし扉の向こうは無人の廊下であり、陳はその意を居間の奥、ベランダへと向けた。
「こっちネ!!」
 でっぷりとした巨体に似合わぬ俊敏さで、陳は食卓を跳び越し居間へ駆けた。主であるリューティガーが加勢して振り返ると、銃声と共に窓ベランダを隔てるガラスが割れ、同時に短刀を放つ陳の後姿が飛び込んだ。
 跳弾が居間の中で暴れ、硝煙の臭いが辺りに立ち込めた。陳は左手に弾丸が貫通したのに口元を歪ませ、ベランダへ飛び出した。
「正確な射撃ネ!!」
 だからこそ予測もしやすい。ベランダの右端で二丁拳銃を構える小柄な男へ、陳は殺気を向けた。
 薄いベージュの上下はだぶついていて、肩から背中へかけては内側が赤いマントをつけている。口と頭は布で覆われ、目にはサングラス、額には半月のようなプレートが取り付けられていて、その風変わりな服装に陳は少しだけ意を外された。
「誰だ!! 貴様は!?」
 甲高い、子供のような声である。命のやり取りをしている最中に言葉を交わすなど正気ではない。そう訓練を受けてきた陳のとる行動は、短刀を相手に投げる。ただそれだけが返事である。
 飛来した短刀を右手で弾いた覆面の小男は、なおも突進してくる陳を跳躍してひらりとかわし、ベランダの手すりに着地した。
「うぬぬ!! また会おう!! 私は正義の使者。月仮面!!」
 まるで口上のように、頭の天辺から抜けるような叫びを男は上げた。
 ふざけるのもたいがいにしろ。からかわれることに慣れていない従者は短刀を振り上げた。だが言い終わるのと同時に自称、月仮面は手すりから闇夜へ飛び降りた。
 自殺行為に等しい敵の行動に、しかし陳はそうではないだろうと判断し、その姿を目で追った。
 電線にフックを引っ掛け、器用に滑走する男の姿を見下ろしていると、隣に栗色の髪をした主と相方がやってきた。
「あいつ……ですよね」
「そう。あいつが襲撃者ネ。月仮面と名乗ったヨ」
 空間跳躍を使えば彼の進路上に現れ、同盟本部へ跳ばしてしまうこともできたが、眼下に広がる代々木駅への通りは人も多く、拠点近所での目撃はできるだけ避けたい。それに重要人物でもない逃げる敵を追撃するのは無駄な行為である。いずれ、奴は再び襲ってくる。そのときに対応すればいい。
 フックから手を離し、電柱から歩道へと降りた月仮面は、道行く人々の好奇の視線に晒されながら、真っ白なスクーターに跨った。
「馬鹿な……ああまでも堂々と……」
 ベランダの手すりを両手で掴みながら、リューティガーは八階下より遥かな街灯の下から発進しようとするスクーターを、異なる力で隅々まで観察した。
「あれは……昔のヒーロー番組の服装だな」
 健太郎は赤い目を大きく見開き、二人にそう語った。
「ふざけた奴ネ。腕はまぁまぁだったけど、暗殺プロフェッショナルとしてはツメが甘すぎネ」
 陳の論評にリューティガーは苦い笑いを浮かべ、彼が左腕に怪我を負っている事実にようやく気付いた。

 国道を走る白いスクーターは周囲の注目を浴びていた。年配者にその傾向は強く、「あぁ、なんかビラとか駅前で撒いてる月光仮面がいたけど、あれがそうだよ」と妻に説明する初老のドライバーなどもいて、一様に笑みを浮かべていた。
 スクーターは数時間をかけ多摩川近くまでやってくると、既に店じまいをし、テナント募集中という手書きの貼り紙がされたゲームショップの前で停まった。
「つるりん太郎様にご報告!! リューティガー真錠には二人の手下がいる模様!!」
 裏口から店内に入った月仮面は、相変わらず甲高い声で叫び、倉庫から店舗へ向かった。
「一人は殺人プロの中国人。もう一人は改造人間!! 情報通り、代々木のマンションに潜伏中!!」
 薄暗く、電気も点けられていない店舗にはソフトやハードの類は一切無く、がらんとした棚と、ゲームの広告用ポスターが壁一面に貼られていた。
 レジの置いてあるカウンターに、身長170cmほどの人影が左右にゆっくりと揺れていた。頭は中年女性によく見られる不恰好なパーマであり、茶色い花柄の薄汚れたワンピースにベルトを巻き、それには小さなポーチが取り付けられていた。月仮面はその者の前で立ち止まると、片膝を床に着き、うやうやしく頭を下げた。
「ご苦労。月仮面」
 モーター音とノイズが乗ったそれは抑揚が無く、男とも女ともとれる鼻づまりの声であった。
「作戦は継続なの。月仮面はリューティガーをお願い」
「つるりん太郎様はいかがなされるのでございますか!!」
「私は学校の方に行ってみる。月仮面、久しぶりの東京はどうだったの?」
「興奮です!! 皆、私に注目していました!! 久しぶりに吉野家で牛丼も食べましたし!! つゆだく特盛りでした!! 任務完了の暁には歌舞伎町の性風俗店に行くつもりです!!」
 月仮面は常に大声を張り上げ、それに対しつるりん太郎は嫌がるようでも好ましく思っているようでもなく、ただ無機質に頷くばかりである。
「牛丼……私は食べられないの。そうね。性風俗はキてるわね。最高ね」
 女言葉を使いながらも、汚れたワンピースからの手足は体毛が濃く、股間部分は興奮で膨れ上がっていた。
「仁愛も、若い子いっぱいいそうなの」
「はい!! 学校は若い子がいっぱいです!! きっと!!」
「島守ってサイキはどんな子なのか、気になるの」
「誰ですか!?」
 両者の会話は微妙に噛み合わずにいたが、それを気にする様子は互いに皆無である。
「リューティガーの協力者なの。同級生のサイキで島守って奴がいるって聞いたの」
「初耳です!!」
「いるの。教えてもらったの。こいつは、私たちファクトの人間とはそれなりにゆかりがあるサイキなの。絶対殺しておかなくっちゃならない業を背負っているから」
「なるほど!! だから学校に行くのですね!!」
「そうなの。それにしても……失敗ね……月仮面……」
 つるりん太郎はそう言うと、がらんとした店内に顎を突き出した。
「何が失敗なのですか!?」
「暇が潰せそうだからファミコン屋にしたのに」
「店じまい直前とは思いもよりませんでしたね!!」
「まったくなの……」
 そうぼやくつるりん太郎の足元には、腹に包丁が突き刺さった中年男性の屍が横たわっていた。死者の形相には恐怖が貼りついていて、その断末魔がいかに凄惨なものであったかを物語っていた。

4.
 日曜日の朝、ハチ公前に現れた蜷河理佳に手を振る島守遼は、ひたすら笑顔だった。
 遼と同じように待ち合わせをしていた人々は、彼の発露が現れた少女の可憐さにあることを理解し、皆一様に納得した。
 赤いチェックのコートはどこかクリスマスを思い出させ、長いブーツが良く似合っている。帽子がこの場合少々アンバランスかな。そう思えたが自分のプレゼントをちゃんと身に着けてくる彼女の気持ちが、ただ嬉しかった。

 はっはー……まるでモデルとかみたいだ……なんか……最近ますますだよ……

 遼は目の前で立ち止まった彼女の佇まいに心震わせ、今日一日を一緒に過ごせる幸福を噛み締めていた。あいにくの曇り空ではあったものの、降ったらそれはそれでまた別の展開だって待っている。帰りづらくなるという状況はむしろ好ましい。
「え、えっと……どうしようか?」
 そう尋ねられたものの、本日のデートをどうしたコースにするべきか、遼の考えは結局まとまらなかった。最後は夕飯にすることだけは決めていたが、今からの時間を考えると間がありすぎる。
「映画? 行く?」
 彼女からそう切り出されたものの、今日はなんとなく映画を一緒に観るのは嫌だった。
「うーん……いつも映画じゃなぁ……な、なんかさぁ……できれば今日は……一日一緒にいたいっていうか……だ、だめかな。そんなの」
 なんともふにゃけた提案である。デートコースぐらいしっかり決めて来いと叱られても仕方がないだろう。そう思いながらも、この蜷河理佳という少女は決して拒絶などせず、受け入れてくれるだろう。そんな甘えが彼に芽生えようとしていた。
「じゃあ……どこか……公園に行こうか……」
「あ、うんうん。それいい。それがいいよ」
 渋谷の駅前から一番近い公園。そもそも都心の地理に暗い遼は、その情報源を周囲に求めた。なにかガイドマップか、もしくは交番か警官でもいないだろうか。それがだめなら本屋に行って地図でも開いてみるか。携帯電話のGPS機能など触ったこともない彼は、視線を泳がせ、つま先で体重を支えた。
「この辺の公園だとぉ……あそこぐらいしか……思いつかないなぁ……」
 蜷河理佳は、そうつぶやくとJRの高架を指差した。
「え? あんなとこに公園があるの?」
「う、うん……宮下公園……」
「あっと……でもさ、あっちの方って、確か公園通りって名前じゃなかったけ」
 線路近くの公園ではあまりに落ち着けないだろう。遼はそう判断して逆方向であるセンター街へ顎を向けた。
「う、うん……けど……公園通りの公園って……代々木公園って意味だし……かなり歩くけど……」
「そ、そうなの? へぇ……理佳ちゃんって詳しいんだね」
「し、渋谷は……昔良く来てたから……」
 途中自動販売機で缶ジュースを買い、二人は線路近くの公園まで階段で上がってきた。
 階段の塀には、スプレーの落書きが隙間無く埋め尽くされていて、地元の雪谷大塚(ゆきがやおおつか)のガード下にも同じようなものはあるが、書いてある内容に差があると遼は感じた。

 うちの方のは……族の落書きだけど、ここのはアートっぽいよな……

 落書きには一定の水準を超えたデザインセンスがある、これがいわゆるストリートアートという奴かと、彼は奇妙な納得をした。
「はいはいはい。これってよく電車から見えたけど……そっか、公園だったんだ」
 空いているベンチを見つけた遼は、それを彼女に促すと公園をぐるりと見渡した。反対側の出口付近には、ダブついたシャツ姿の少年たちが、ミニデッキから流れるヒップホップに合わせて踊りの練習をしていた。うるさいな、そう感じながら遼が他のベンチへ視線を移すと、自分たちと同じような数組の若いカップルが身体を寄せ合っていてる。朝の公園は、それなりの人口密度であり、時折通過する電車の轟音も手伝い、とてもではないが落ち着けるような場所ではなかった。
「し、渋谷って……騒々しいよな……」
「そ、そうだね……」
 今まで全てのデートはこの街だったが、初めて二人はマイナス点を再確認し、ほとんど同時に缶ジュースへ口をつけた。
 すると、出口付近で踊っていた少年の一人がその場にしゃがみ込み、蜷河理佳へ熱い眼差しを向けてきた。
 遼には少年の気持ちがよくわかった。隣の彼女はつい見とれてしまうほど、見事な赤いコートだし、そもそも彼女はとても美しいのだから。

 羨ましいか、野良ラッパー……どーでもいーけど、妙な気、起こすんじゃねぇぞ……

 やくざや獣人でなければ、例えば暴走族ぐらいだったら今の自分であれば臆することなく対することができる。異なる力による、それはどこか不平等な自信だったが、あるものは仕方がないと遼は割り切っていた。

「さ、寒く……なってきたね……」
「あ? ん……もう十二月だしなぁ……」
 そう言いながら、遼は腰を浮かせて彼女との間を詰め、ベンチの背もたれに肘をかけた。
「あ、あのさ……ど、どうなんだろうね……今度のお芝居って」
「え? うん……前のより……衣装とか大変そうだね」
「その辺は神崎がちゃんと手配してくれるだろうな。あいつそーゆーの得意だし」
「お、お芝居も最近上手くなってきたと思うよ」
「そっか? まぁ……俺よか上手だろうけどなぁ……」
「りょ、遼くんのは味があるって……そんなタイプだから」
「なんだ、それ? 平田先輩にもよく言われるけど……なんかよくわかんないんだよなぁ」
「な、なんか自然な感じが……いいんだと思うよ……」
「そっか……みんなみたいにビデオとかDVDとかないから、再確認のしようがないんだよなぁ」
 学園祭での舞台発表は、放送部の協力によりビデオ撮影され、遼も「ビデオとDVD、どっちがいい?」と神崎はるみに尋ねられ、いずれも持っていなかったので、かさばらないディスクの方をもらった経緯がある。イカサマパチンコで稼いでいた時代に再生用の家電やパソコンを購入する手段もあったのだが、免許とデート費用が優先され、なおかつあまり部屋に機材が増えると父に収入の多さを怪しまれる可能性もあり、結局彼の部屋には衣類以外に増えたものはなかった。

 学校でのこと、部活のこと。そんな共通の話題が中心であるたわいない会話は、時々電車の通過音によって阻まれることがあったが、気がつけば踊りの練習をしていた少年たちがいなくなっているほどの時間を経過させ、その後二人はファーストフードで昼食を済ませ、街のあちこちを散策し、ウインドーショッピングを楽しみ、時刻も夕暮れが高層ビルを朱に染める頃となっていた。
 曇り空はいつの間にか晴れていた。少しばかりそれが恨めしい。そう感じながら遼は蜷河理佳をリードし、道玄坂脇の飲食店街までやってきた。
「あ、もしかして……こないだのお店?」
「うん……ちょっと……確認しておきたいことあるから、ここで待っててくれる?」
 店から二十メートルほどはなれた路地で遼は彼女を待たせ、“Full metal Cafe”と看板に電飾された店のドアを開けた。
「やぁいらっしゃい……おう」
 カウンターの中から、髭を蓄えた長身のマスターが意を向けてきたので、遼は「今日って……向田さん、来ます?」と、この店でアルバイトをしているクラスメイトの名を尋ねた。
「いや。今日は僕一人だよ」
 想像していたシフト通りである。これで会話を邪魔されず、気兼ねすることなく食事が出来る。遼は小さく安堵の息を吐いた。

「このお店って、いつ頃からここに?」
 なんとなく会話の間を埋めよう。ボンゴレを平らげた遼は、アイスティーを飲みながら、マスターにそんなことを尋ねてみた。
「そうだねぇ。もうかれこれ十一年だよ」
 長いようで短い。そんな微妙な年月だと思った彼は、マスターの背後に置いてあった写真立てに気がついた。
「その写真……なんです?」
「あぁこれ? うん……七年ぐらい前の僕と……常連だった……お客さんだよ」
 グラスを磨きながらゆっくりとマスターはそう返し、写真立てをカウンターに置いた。
 蜷河理佳は写真をちらりと見ると、首を傾げてマスターを見上げた。
「これって……マスター? 随分髪が長かったんですね」
 彼女の指摘の通り、写真の中のマスターは今よりずっと髪が長く、どこかうらぶれた印象を与え、そのせいか時間の流れと逆行し、今のほうが若い印象もある。そしてその隣には詰襟姿の少年が写っていた。
 つんつんに立てた髪は、所々が黄色や赤で染められていたが、目つきはおっとりとして、どこか間の抜けたようなムードを醸し出していて、それがとてもアンバランスに見える。自分と同い年ぐらいの少年だろうか。遼は蜷河理佳に軽く目配せをし、マスターへ視線を向けた。
「この直後に今の長さまで切ったんだよ。もう僕も若くないなぁって……思ってねぇ……」
「けど……今のほうが若く見えますよ」
 遼の指摘にマスターは後頭部を押さえ、カウンターに置いた写真を懐かしそうに見つめた。
「こ、この男の子は……?」
「うん蜷河さん。彼は八巻くんって子で……よくこのお店に来てたんだ。だけどこれが最後の写真でね」
「最後の?」
「いろいろとあってねぇ……最後にここに寄ってくれて……嬉しかったなぁ……旅に出るから預け物をしたいってね。今でも地下室に置いてあるけど……いつ取りに来てくれるか……」
 「どこに行ったんです?」「な、何を預かったんです?」ほぼ同時に少年と少女はそうマスターへ尋ね、互いに顔を見合わせた。
「ははは……どこか外国に行くって……どこに行ったのやら。それと……預かり物はショルダーバッグでね。中に何が入ってるのかは確かめてないけど、ものすごく重くってね」
 二人の質問にそう答えたマスターは、写真立てを手に取ると、それをもとの棚に戻した。

 店を出た二人は腕を組んだまま、ゆるやかな坂道を下っていた。
「今日は……いろいろ……面白かった……」
「そ、そう? なんか……グダグダになっちゃった感じじゃない?」
「ううん……楽しかった……」

 演劇部の稽古で見せた呆けも無く、どこか元気のなかった彼女はもうすっかり調子を取り戻したようである。肘に彼女の重みを感じながら、遼はそれが嬉しかった。

 少女はこうしているときも警戒は怠らなかった。第一ターゲットであるリューティガーがここにいない以上、つるりん太郎襲撃の可能性は極めて低いと思われたが、それでも油断はできない。コートの下に忍ばせたナイフはいつでも展開が可能であり、殺気や異変を察知すれば即座に暗殺者としての自分を取り戻せる自信はある。
 だから、その領域を確保しておくために、今日のデートに集中できない蜷河理佳だった。
「あ、あのさ……」
 ガード下で遼は歩くのを止め、組んでいた腕を放した。数歩だけ前にいった少女は反動を制御しながら降り返ると、彼がいつになく真剣で、緊張した様子であることを感じた。
「遼くん……」
「あ、ありがとう……前も……こないだも……俺さ……ずっと理佳ちゃんに……泣きついてさ……みっともないし……情けないし……けど……好きだって言ってくれて……」
 なぜこんなタイミングで言い出すのだろう。その気持ちを理解できなかった彼女は、自分がいかに集中していなかったのかを自覚し、口元を歪ませた。
「お、俺も……理佳ちゃんのことすごく好きだし……感謝もしてる……し、芝居も頑張るしさ……今度免許も取るし……そ、その……」

 礼を言ってくれてるのだろう。たぶん。
 この長身の彼は、時々こうして気持ちを噴き出させる。だから、自分もそれに対して甘えることができる。
「わ、わたしも……合宿の帰りのバスで……あのとき……嬉しかったし……」

 そんなこともあった。遼は彼女が弱さをさらけ出したあの夏を思い出し、まるであれは自分と同じような、そんな行為だったと今更ながらに認識した。
 だとすれば、彼女にも人に言えない、重い何かを抱えているのだろうか。
「理佳ちゃん」
 遼は蜷河理佳を抱き寄せ、できるだけガードの壁側に身を狭くした。通り過ぎる人々がこちらに好奇の目を向けたが構いはしない。こんなこと、この辺じゃ当たり前の光景だ。
「わたし……ずっと……見てたの……入学以来……」
 接触式読心という異なる力を彼が持っていることは、彼女も既に知っていた。だからこそそうした触れ合いの際にはできるだけ覗かれないよう、心にガードを張りぼんやりとする手段を催眠術の天才、夢の長助から教わっている。
 だが、それを持続するのにも限度がある。なら、言葉にしてしまおう。抱き寄せる彼の身体は温かく、離れてしまうには切なかったから、いっそ言葉にしてしまおう。少女は意を決し、わずかな隙間から彼を見上げた。
「入学……以来って……?」
「うん……それで……ずっと……あの図鑑……渡そうと思って……どうしようか考えてて……そうしたら、部員が足りないって話があって……わたし……神崎さんと相談して遼くんを誘おうって決めたの。同じ部活なら、手渡すきっかけも増えると思って……」
「ど、どうして……そうまでして……あの……図鑑を……」
「守るため……危険から……敵から……守れるように……」

 確かに、彼女が図鑑で指定した箇所は視神経や急所など、破壊をすれば相手の戦闘力はおろか生命すら奪うことができる急所であり、それを暗記するほど読み込んだから、何度か命を救われたこともある。
 しかし、なぜ彼女がそのようなことを。普通に生活していれば生命の危険などあるはずもなく、もし心配過剰だとしても、護身術の本の方がもっと手っ取り早い。解剖図鑑で急所など、凶器を使いこなせる人間でなければ読んで知ったところで利用する術がない。

 俺の……力……知ってた……リューティガーみたいに……

 少年は少女と身体を重ねていたが、意識は言葉に傾けられ、とても彼女からイメージや言語情報を感じ取れるゆとりはなかった。

「ここまで……来てくれて……ありがとう……ここまで……来て……くれたんだ……」

 何を言っているのだろう。遼は彼女の間近に迫った顔をあらためて見下ろした。

 嬉しいような。けど涙を両目いっぱいに溢れさせ、口元は歪みきり、整ったいつもの美しさはそこになかった。ぐずぐずの、子供のような、だからこそこれが彼女の本当の顔なのだろうと遼は感じた。

 だから……いいんだ……どうだって……

 今はこの、蜷河理佳の本当を大切にしなければならない。疑問など後でいくらでも解き明かす機会はある。遼は少しだけ腰を落とした。
「あは……あはは……なんだろう……急にわたし……わけわかんないや……もう……それこそぐだぐだだよ……」
 涙を指で拭いながら、少女はいつもの冷静さを取り戻そうとした。そう、こんなところで感情を噴き出すなどもっての他である。襲撃者は今だって狙っているかも知れない。しっかりしなくてはいけない。そもそも心を読まれぬため、わざと刺激的な言葉を口にしたことである。それなのに、言いながら自分が壊れていくのがなぜだか分からず、彼女の心に「限界」という文字が段々と大きくなろうとしていた。

 こんなの……嫌だ……でも……どうして……

 混乱の最中にいた少女の唇に、少年のそれがそっと重ねられた。

 あぁ。壊したくないんだ。

 限界に達し、壊れる自分はたぶん本当の、忘れたかった頃と変わりがない。けど、彼はそれが大切だと思ってくれている。こんな経験は、あの人以来二度目である。

 彼は。だから。そうなんだ。

 少女は少年の首に手を回し、混乱を制御するのを止めた。

5.
 週が開けた火曜日、島守遼の姿が品川区鮫洲の自動車試験場にあった。入学以来、初めて学校を休んだ彼は、中型自動二輪の筆記試験を受け、ロビーで結果を待っていた。
 天井から吊り下げられた電光掲示板には合格者の受験番号が次々と表示され、自分の番号をそこに発見した遼は、今年の初頭以来の試験合格に拳を握り締めた。
 夏休みから始めた教習所は、結局全ての課程を終了するのに四ヵ月近くを要した。これは演劇部の発表と学園祭、その後のアルバイトなどスケジュールが立て込んだ結果であり、例えばほぼ同時期に教習所へ入所した1年A組の岩倉などは、夏休み中に免許を取得し、希望のバイクを現金で購入したらしい。

 紆余曲折はあったものの、こうしてライセンスが交付された。自分の写真写りは相変わらず人相が悪い。免許証を新品のケースに入れながら、遼はたまらずそれにキスをして、二日前の晩をふと思い出した。

 あの後、蜷河理佳とはバスで一緒に帰り、その間彼女はずっと涙を目に浮かべたままだった。さすがに別れ際に心配になった彼は「大丈夫……だよね?」と尋ねてみたが、その返事は、
「嬉しい……だけだから。平気」
 である。なら平気なのだろうと安心したものの、月曜日に彼女の姿は学校になかった。携帯にかけてみたところ、どうやら風邪をぶり返してしまったと彼女は言い、確かに日曜日の晩は寒かったと遼は思い出した。
 電話の最中、震動音のような雑音が混ざっているのを気になりはしたが、それよりも彼女の体調の方が心配で、今日も後でかけてみようと決めていた。なにせ、免許が取れたのだ。こっちの喜びで元気が伝われば風邪の治りだって早まるかも知れない。
 試験場を出た遼は両手を大きく広げ、さてこれからどうしたものかと考えた。

 これからなら、午後の授業に間に合う。しかし病欠です。と嘘をついた以上それも不自然であり、ならば今から上野あたりに繰り出して、バイクを吟味するのも悪くない。
 けれども、それはそれで憂鬱である。貯金は教習所の残金で消え、わずかなアルバイト代で買えるバイクは中古のボロもいいところである。おまけに冬休みには彼女との旅行も待っている。人生最大級のビッグイベントである以上、金はきちんとかけたい。となるとバイク購入との両立が難しい。

 ぼんやりと歩いていた遼は、試験場の向こうにスタジアムを見つけ、それが大井競馬場であることに気付くと全身を硬直させた。

 なんなんだよ……どーして競馬場があるんだよ……!?

 金がない。そんな悩みの矢先に出現した賭博場に、彼は馬体が雪崩を起こしたあの悪夢のような光景を思い出し、たまらずその場から駆け出そうとした。
 すると、振り返り際に、遼は肩口に重い衝撃を感じた。
 誰かとぶつかってしまったのか。衝撃の弾性から咄嗟にそう判断しながら、遼は眼前でバランスを崩しつつある人物に気付いた。
「ご、ごめんなさい……」
 白いコートを着たその人物は、驚くべきことに髪も白い長髪であり、光線の加減でうっすらとした紫色を反射していた。コートの下は黒の上下で、腰の位置が高く、つまりは足が長い。頭を掻きながらも遼は観察を続け、やがてどこかで見たような、そんな既視感にとらわれはじめた。

 目が……赤い……カラコン? 外タレ?

 整いすぎた顔立ちは性別不詳の妖美さを醸し出し、その点においても遼はこの人物に出会ったことがある、もしくは見たことがある、そんな気がしてならなかった。
「だ、大丈夫でしたか?」
「ん? あぁ……驚いたけど」
 声からすると男だろう。それにしても女のような、いや、だからこそ男なのか。遼は突然現れた青年に、なぜだか緊張し、理由もなく両手を小さく泳がせた。
「あ……君か……そうか……!!」
 整った顔立ち思いっきり崩し、青年は人懐っこい笑みを浮かべた。遼は予想外の反応に戸惑い、これはいわゆる知人との再会なのでは、と更なる困惑に硬直した。
「免許でも更新に来たの? まぁいいや。こんなとこで会うのも奇遇だし、ちょっと飯でも食っていかない? ちょうどお昼時だし」
 青年は遼の隣に並ぶとその背中を力強く叩いた。見かけの妖美さとは正反対の、柄の悪い体育会系だと思いながら、遼はこれまでの人生の心当たりを総動員し、この青年に関する記憶を辿ってみた。
「あ、えっと……その……どうして……僕のことを……」
「だって君、島守遼くんだろ? 見間違えるわけないって」
 自分の名を知っているということは、やはり知人には間違いがない。やくざや警察の類ではないだろう。そう思いながら、遼は背中を押されながら青年と並んで歩いた。
「鮫洲の駅前に、うまいラーメン屋があるんだぜ。島守遼くんは辛いの平気?」
「え、ええ……まぁ……」
 こちらにも彼に対して見覚えがある以上、あるいは幼少期の知人だったのか。しかしこれだけ特徴的な容姿であれば、決して忘れるはずもないはずである。青年が「だってさ、四川ラーメンが激ウマなんだよ、そこは」と興奮しながら言っても遼は生返事をするだけで、記憶の検索作業は相変わらず継続中である。
「おごるよ。誘ったのは俺だし」
 カウンターに並んで座った遼は、青年の横顔を見て、なんとなく見覚えがないような気もしてきた。
「四川ラーメンでいいよね」
「は、はぁ」
「おやっさん。四川二つ」
 指でVサインを作りながらそう注文をした青年は、隣の遼へ屈託の無い笑みを向けた。

 この笑いっぷり……これは見覚えあるんだよなぁ……ジムのお客さんかなぁ……

 運ばれたラーメンに手をつけながら、遼はあらためて店内を見渡し、出口のガラスに映り込んだ青年姿を見て、ようやくある一つの答えを導き出した。

 この人……学園祭で親父の隣に座ってたんだ……ってことは……親父の知り合い……?

 あまりにも距離が近すぎるため、記憶の中の印象と異なっているのだと気付けた。そう、あの薄暗い生徒ホールの中で舞台へ視線を注いでいた彼に間違いない。写り込みのぼんやりとした像でようやく記憶を直結された彼だったが、そうなるとますます正体不明であり、よもや「あなたは誰です」と問いただすのも既に失礼な段階まで来ていると思えた。何せ、ラーメンをおごってもらっているのである。赤いスープを蓮華で掬った遼は、再び記憶を辿ってみた。
「ひき肉もきちんと調理されているし、手間がかかってるよなぁ」
「そ、そうですね……確かに……」
「なぁ島守遼くん……」
「は、はい……」
 スープを飲み干しながら遼がちらりと横へ視線を向けると、青年はカウンターの上で指を組み、うっすらと微笑んでいた。
「君は。どこに行く」
「はぁ……とりあえず……上野のバイク屋にでも……」
「そうか。それから? 一週間後にはどこへ行く?」
「来週の火曜……学校……かなぁ」
「つまり……これまで通りってことなんだな」
「はぁ……」
 この青年は一体何を尋ねたいのだろう。“どこへ行く”とは揶揄的表現だったのだろうか。だとすれば、そんな問いへの答えなど今の自分には無い。少しだけ苛立ちを覚えながら、遼は立ち上がった青年に続いて店を出た。
「ごちそう様です……」
「いい食いっぷりだなぁ。奢り甲斐があったよ」
「あ、あの……すみません……本当に申し訳ないんですけど……俺……あなたが誰なのか思い出せないんです……たぶん……父の知り合いなんでしょうけど……」
 店の前で恐縮する遼に対して、青年は背中を向けた。
「そりゃあそうだろう」
「は、はぁ」
「君は俺を見たことがあっても、こうして会うのは初めてなんだから」
「は、はい?」
「だけど俺は君の事を知っている。あるいは……君よりもずっとな」
 謎かけだろうか。煙に巻くような言葉は好きになれない。少年は青年の前に回りこみ、今一度その顔を見上げた。

「君はどこへ行く?」

 再度の問いに、だが遼は答えることができず、青年はゆっくりと歩き始めた。

 なんなんだっつーの……あいつ……馬鹿にしてるのか……あんな……あいつが……

 遠ざかっていく青年の後姿を凝視しながら、遼は彼の姿が小さくなったことでようやく、ある光景を思い出した。

 あ……

 そう、あのイメージを忘れていた。距離がより離れることで導き出された記憶は、彼の全身を震えさせた。

 間違いない……あれは……稽古のとき……理佳ちゃんから来たイメージ……あいつだ……!! だから……ラーメンだったのかよ!!

 頭の天辺から背中にかけて、「確信」という名の電流が彼の天地を駆け巡った。

「待て!! お前は……理佳ちゃんの……!!」
 角を曲がった青年のコートを目で追いながら、島守遼は全力で駆け、電柱を掴んで制動をかけた。
 だが、角の先にいるはずである青年は忽然と姿を消し、突風が遼の頬を強く撫でた。

6.
「うわっ本物かよ」
 すぐ前の席に座る沢田が、遼の見せた免許証をまじまじと観察し、そうつぶやいた。
「お前さ、そーゆーリアクションなのかよ?」
「はは……けどなんか信じられなくってさ。バイクとかどうすんだよ」
「まだこれからだよ。貯金もなくなったし」
「けどいいなぁ……バイク」
 坊主頭を撫でながら、沢田は人懐っこい笑みを遼に向けた。
 朝のホームルーム前、教室には大半の生徒が着席していた。しかし斜め右前の席、すなわち蜷河理佳の座席は空席であり、それに気付いた遼は免許証をぷらぷらさせながら、つまらなそうに下唇を突き出した。
 昨日、鮫洲で出会った青年は、間違いなく彼女の心の中から感じたイメージと同一であり、学園祭で観劇し、仁愛ラーメンを食べたというあの男のはずである。
 彼は自分をフルネームで知っている。あの青年と蜷河理佳にはいかなる関係があるのか、以前のデートの際にも気になった点であり、より明確な疑問となってそれは再燃した。だから昨日も見失った後、何度か彼女に電話をかけたのだが不在であり、向こうからの着信もメールも来てはいない。
 そんなに重い風邪なのか。彼が心配をしていると、教室の前の扉から、長い黒髪を揺らしながら、愛おしい少女の姿が現れた。
「あっ! 免許取れたんだ!!」
 いつになく明るい声で彼女が話しかけてきたため、遼は拍子抜けをしてしまった。
「き、昨日ね……一発で受かったよ」
「す、すごいんだぁ……」
「こいつ、試験勉強は得意だしな」
 沢田がそう突っ込んでくると、蜷河理佳は「あ……いえてるかも」と彼女にしては珍しく、第三者の介入にあっさりと応じた。
 大抵こうしたケースの場合、彼女は無口になるか、自分の席などに戻ってしまい会話への参加を断念する。だからこそ最近では遼と蜷河理佳の会話に口を挟む者が減ってきて、今の沢田にしても若干の博打的な発言だった。だからこそ彼も坊主頭を再度撫で「へへへ」と彼女に笑いかけた。
「これで、オートバイ乗れるんだよね。遼くん」
「う、うん……その前に金、貯めないといけないけどな」
「おう。その点ならバイトしまくりゃいいじゃん。支配人、ぼちぼち時給検討するって言ってたぜ」
 後ろの扉から入ってきた麻生がそう声をかけ、蜷河理佳は「おはよう」と返した。
「お、おう……お早うさん……」
 珍しく明るい彼女の返しに戸惑った麻生は、ボディビルで鍛えたその身体を縮こまらせ、席についた。
「よかったね、遼くん。収入……アップかもね?」
「だといいんだけど……その分仕事がきつくなるかもなぁ」
「蜷河さん、風邪ってもういいの?」
 更に遅れて教室に入ってきた合川という女生徒がそう尋ねると、蜷河理佳は「う、うん。たっぷり休んだし。もう平気」と笑顔で答えた。遼は、もう風邪の心配をそれほどしなくてもいいのだろうと結論づけ、それよりも今日の彼女はなぜこんなに明るいのだろうかと、素朴な不思議を感じた。

 しばらくして、最後に教室に入ってきた代理担任の川島が、リューティガー真錠の病欠を皆に告げた。
 全日本杯の翌日も彼は欠席し、ここ最近はいわゆる「作戦」とか「任務」に忙しいのだろう。遼は勝手にそんなことを想像しながら、今日は隣の席までノートを広げられて楽だと、それ以上栗色の髪をした同級生のことを考えるのは止めにした。

「それがね。三年が主力なのよ。うちの裁縫部って」
「じゃあ……大変ね……今回の衣装頼むのも……」
「そうなの。二年一年の人たちがどこまでやってもらえるか……頭いたいなぁ……」
 演劇部の部室の隅で、神崎はるみと蜷河理佳がそんな言葉を交わしていた。
「場合によっちゃ有志を募るさ。それで駄目ならうちらで頑張るしかない」
 やってきた平田は二人の後輩にそう告げ、丸めた台本を掌で叩いた。
「絶対わたしの負担だー……間違いなーい……」
 口元を歪ませ、不満を漏らすはるみに、蜷河理佳は「わ、わたしも手伝うよー……裁縫苦手だけど」とフォローをし、二人の少女はおどけるように互いの手を取り合った。
 まあ、いいムードって奴なのだろう。平田はそう納得して鼻を鳴らすと、学生鞄を手に取り、「鍵、かけといてくれよ」と言い残して部室から出て行った。
「なんか……裏方のウエイトばっか増えて……あんまり練習できてないんだよなぁ」
 はるみはそうぼやき、蜷河理佳は首を傾げた。
「ねぇ蜷河は、島守との掛け合いとかってどうなの? 上手くいってる?」
「う、うん……普通に……やれてるかなぁ……」
「そりゃそうだよねぇ……実際に付き合ってるんだし。普通に素でやればいいんですものね」
「え、えー……そ、それはどうだろう……」
「違うかな……まぁいいけど……なんか……上手く行ってるんなら……それはそれでいいや」
 さっぱりとした口調でつぶやくようなはるみに対して、蜷河理佳は部室の壁に背中を付け、肩を上下させた。
「それでいいって……神崎さん……?」
「ん……? あーごめん……嫌味っぽかった?」
「そ、そうじゃないけど……」
 はるみは学生鞄を抱え上げ、蜷河理佳と並んで壁に寄りかかった。
 妬ましさが消えたと言えば嘘になる。しかしこの彼女は自分に対して何の悪意も抱いていない。ならもしかして、友達にだってなれるかも知れない。演技も上手で、意外な度胸の持ち主であるこの少女のことをもっと知れば、自分も何かを気付けるかも知れない。はるみは小さく息を吐き、口元を歪めた。
「いいじゃん。島守。芝居だっていい意味で技術ついてきたし、素のよさだって残ってるし……あんたのために免許までとってさ。いいじゃん」
 嫌味ではない。これは本音なのだろう。だとすれば、恐縮したり誤魔化したりするのはかえって悪い。蜷河理佳は同級生の言葉をそう理解し、「いいよね。遼くんって」とつぶやいた。
「あ、あんたねぇ……」
 はるみは困惑し、素直すぎるのろけに対して怒れず、呆れてしまった。すると、部室に話題の主が入ってきたので、少女は小さく咳払いをし、軽く腕を組んだ。
「あ、島守……片付け終わったの?」
 部室に戻ってきた遼は、同級生の二人しか残っていない事実に細い目を大きく開き、辺りを見渡した。
「あれ。平田先輩は?」
「帰ったわよ。ついさっき」
「んだよ……仕分けでわからないことがあったのに……」
「明日聞けばいいじゃない。それじゃあ後は二人で鍵かけといてね。わたしは先、帰るから」
 背中を壁から離したはるみは、鞄を抱えたまま出口の遼とすれ違った。
「い、一緒に帰ろうよ」
 そんな蜷河理佳の提案に対しても、はるみは「わたしはそんな野暮じゃないもの」と返し、そのまま部室から出て行き、後ろ手で扉を閉めた。
「な、なんだ? 神崎の奴……」
「う、うん……」
 夕暮れが教室に差し込み、少女の白い肌に陰影を与えていた。あらためて彼女へ視線を移した遼は思わず息を呑み、その隣にしゃがみ込んだ。
 誰もいないし、これなら切り出すのに最適な状況である。遼はそう判断し、あの白い長髪の青年のことを尋ねようと口を開いた。
「ね、ねぇ遼くん……」
「え、え……?」
 出鼻をくじかれた彼は戸惑い、思わず隣に立つ彼女を見上げた。
「冬休み……どこに旅行する……?」
「え……あぁ……そうだなぁ……」
「遼くんって……旅行とかしたことって?」
「それがさ……ないんだよ……中学の頃、修学旅行で京都と奈良行った以外は、東京から出たこともない」
「そ、そうなんだ……」
「理佳ちゃんは?」
「わたしも……ずっと東京だったなぁ……ちゃんと旅行とかって……どうだろう」
「なんだよそれ」
「あは……」
 普段は見下ろすばかりなので、こうして彼女を見上げることは珍しい。新鮮なアングルに遼の鼓動は高鳴り、本来質問するべき事柄も頭の片隅へと追いやられてしまった。

 カラスの鳴き声はいかにも夕方という風情であり、学校前の坂道を下りながら、1年B組の西沢速夫(にしざわ はやお)はこの週末、三年生の女子グループからカラオケに誘われた自分の幸運さに浮かれ、足取りも軽やかだった。
 サッカー部の練習は今日も遅くまで身体を酷使する結果となったが、レギュラーである以上仕方がない。数メートル前方に若い母親と、幼稚園ぐらいの男児の親子づれが歩いているのを確認した彼は、どのタイミングで追い抜いてしまおうかと、そんなことを考えていた。
 すると、角から人影がゆっくりと姿を現した。もう辺りは暗くなろうとしていたが、西沢の視力は良く、夜目も利く方である。だからこそ、その人物の姿に違和感を覚えた彼は、歩くのを止めて目を凝らした。
 茶色の花柄のワンピースはえらく皺だらけで、まるで浮浪者のようでもある。頭はいわゆるおばさんパーマという奴であり、その二点だけなら中年女性、それも身なりの悪いで認識は終了だが、女性にしてはしっかりと太い両足が裸足で、右手に出刃包丁を握り締めているのに気付くと、西沢は呻いてしまった。

 なんだよ……あれ……ありえねぇよ……狂女……? いや……そもそも女か……?

 近づいてはならない、そんな狂った気配を感じた西沢は足がすくんだ。と、同時に自分の前を行く母子はいったいどうしたのだろう。彼は電柱の陰に隠れながら、そっと曲がり角へ視線を向けた。

 母は子を庇うように、震えながらワンピースの出刃包丁と顔だけ向き合っていた。

 や、やばいんじゃねーの……あれ……

 不穏な空気を西沢少年が感じ取った次の瞬間、出刃が母親の背中を一突き、二突き、三突き、四突きした。
 淀みや躊躇の無い、まるで機械のような挙動である。突き刺す音がこちらまで聞こえてきそうであり、噴水のように赤い液体が母親のあちこちから放たれた。

 血袋だ。まるで血袋だ!!

 西沢はおかしくなりそうな自分の正気をなんとかして保とうと、電柱に額をぶつけた。
「母無し子は不幸なの」

 鼻づまりの、男のような女のような、そんな声が西沢の鼓膜を震動させた。この距離であいつの声が届くとすれば、それは相当の大音量のはずである。しかし、囁くような、つぶやくような、そんな静かさがノイズまじりに伝わってきて、彼はますます有り得ないと恐怖した。

 もう嫌だ。逃げる!!

 そう思い背中を向けたものの、子供の“あっ”といううめき声が西沢の背中を震動させた。

「母無し子は不幸なの 母無し子は不幸なの」

 何度も、イントネーションから波形までもまったく同一の声が、逃げる西沢に恐怖を与え続けていた。
 サッカーで鍛えた脚力は、ものの数分で坂道を登りきることを成功させ、安全地帯に到着したと確信した彼は、校門近くで振り返った。

 膝を地面に着き、出刃包丁を振りかぶる、おばさんパーマの姿は相変わらずの地点にとどまっていた。その足元には折り重なるような肉体があったが、よくは認識できない。それほど赤く、塊のようであった。

 代々木パレロワイヤル。リューティガー真錠が最上階で暮らすこのマンションは、未だ入居者が全室の四分の一以下であり、ロビーの郵便受けも名前が書かれていないものが大半で、そこにチラシが溢れかえっていた。大半がいわゆる風俗産業によるピンクチラシだったが、そのうちの一枚を、白装束の小男が拾い上げた。
「六十分一万三千円!! これは価格破壊だ!!」
 マンションのエレベーターホールでそう叫んだ白装束に覆面の男、月仮面はチラシを懐にしまい込むと、腰にぶら下げた二丁拳銃を引き抜き、撃鉄を同時に上げ、銃口でエレベーターのボタンを押した。
 しばらくして到着したそれに乗り込んだ男は、拳銃をクロスに構え、腰を低くした。
 一階エレベーターの扉が閉まった直後、その扉には「点検中」というプレートが下げられた。極めて簡単な対処ではあるが、これでいいだろう。一仕事を終えた健太郎は、昇っていく鉄の箱を見上げ、赤い瞳を輝かせた。

 最上階の八階に、ターゲットであるリューティガーがいる。月仮面は駅前の雑居ビルの屋上から、現在の在宅をスコープで確認済みだった。
 前回はワイヤーを駆使し、ベランダからの襲撃を試みたが、あの行為自体がそもそも罠だったのだ。そう、今回の作戦である、玄関からの奇襲のための罠である。よもや連中も正面玄関からとは予想すらしていないだろう。前回の襲撃以来、奴らは徹底的な警戒をし、それはベランダの方向へ向けられているはずである。まさか正面からの奇襲など、全くの予想外であるはずだ。
 この程度である。月仮面の暗殺者としての作戦計画レベルは、巷の犯罪者とおよそ大差がなかった。兵士としての能力は水準以上であるため、隷属するべき主から適切な命令があれば、当然のことながら戦果を上げることもできるのだが、現在の彼は、あくまでも自分で計画を練り、それを行動に移す単独暗殺者でしかない。
 突入口に変化を持たせ、敵の意表を突くという月仮面にとって自慢の作戦は、対するリューティガーにしてみれば幼児期に兄から教わった悪戯レベルのものでしかなく、対応と対処はとっくに済んでいた。
 代々木パレロワイヤルを中心とした街の各所には、陳によって小型の監視カメラが密かに設置されていた。これは月仮面に対する特別な対策ではなく、獣人にマンションを襲撃されて以来数ヶ月間かけて用意された防御対処策である。
 近々、月仮面は再戦を挑んでくるはずである。そんなリューティガーの予測に基づき開始された警戒対応任務は、一週間程度なら眠らずとも平気の健太郎が不休で務めていた。監視対象はあまりにわかりやすい珍奇なる外見だから、発見は容易だ。月仮面とやらがあの服装や白いスクーターを変えないであろうことは、前回のやりとりでリューティガー達にも容易に想像がついたし、目立つ外見が逆に罠だとしても対処方法はいくらでもある。そして実に呆気なく、つい十分程前に、健太郎は駅前を爆走するスクーターと彼の白装束をモニターに捉えた。
 エレベーターの中で全身を小刻みに震わせる月仮面の姿が、監視カメラを通じて居間のパソコンの画面に映し出されていた。リューティガーにはすぐわかった。奴はこれからの大仕事に緊張し、大手柄を立てた後のことでも想像し、興奮していることを。
 あの身震いは、敵味方問わず戦場で何度も見てきた。やがて死をもたらす、間抜けで愚かな昂ぶりの顕れだ。なら対する者がやるべきことなど、シャワーを浴びるより手間が少なく簡単だ。つまらなそうに首を横に降ったリューティガーは、居間から空間へと跳躍した。

 さて、どんな店に行こう。外の世界はやはり刺激的で、また昔のようにいくらでも遊ぶことができる。もちろん、長丁場の遊びには、この服装は似つかわしくない。月仮面は正義の人だから、普段はおっさん扱いでも一向にかまわない。だから気取らぬスタイルで、正体を隠して女の子といちゃつくのが粋というものである。
 思わず涎が口元からこぼれた。たまらねぇな。正義の味方だって遊ぶんだ。もちろん、悪の同盟を倒した後に。
 エレベーターが八階まで直行できた幸運に感謝しつつ、月仮面は扉が開くのを緊張して待っていた。
 そして次の瞬間、正義の人、月仮面の姿は忽然と消滅した。そのかわり扉が開いたエレベーターの中に姿を現したのは、パーカー姿の栗色の髪をしたターゲットだった。彼は右手を突き出したままの姿勢で顔を顰め、廊下で立ち止まった。

 逐次投入、無駄な作戦、人材の浪費、児戯なんかじゃない。これは無意味なだけだ。

 今頃月仮面は、オーストリアの同盟本部で尋問を受けているだろう。もし口が身分不相応に堅ければ、費用対効果を重視する四課は取り調べを諦め、彼を始末するだけである。一発の銃弾も使わずに。

「お見事ね……坊ちゃん」
「後の処理は任せます……」
 803号室から出てきた陳の肩を軽く叩くと、リューティガーは窓の外を見た。
「どこに行くね、坊ちゃん」
「奴はいつも二人1セットで作戦を実行させる……であればもう一人の襲撃者がいると考えた方がいい……この時間……あるいは可能性がゼロではありません」
 苛つきを隠すことなく、リューティガーは右の拳で廊下の壁を思い切り打ちつけ、そのまま空間へ姿を消した。

7.
 部室の鍵を職員室の顧問教師に届けた遼は、蜷河理佳と二人で下駄箱へと続く廊下を歩いていた。
 昨日出会った白い長髪の青年。あの男のイメージをなぜ彼女が内包していたのか、つまり蜷河理佳にとって彼は何者なのだろう。妖美とも言えるあの存在が、果たして自分にとって好不都合のいずれであるのか。今日はそれを確かめるつもりだった。しかし切り出された冬休みの旅行話はあまりにも魅力的であり、結局話題はそれに終始してしまっている。
「暖かいところよりも、寒い方が冬らしくていいと思うの」
 学生鞄を前に持ち、目を輝かせながら隣でそう言う彼女に笑顔を向け、遼はこうまでも楽しみにしてくれている以上、あの青年は知り合い程度の誰かなのだろう。そう思おうと決め、何者なのかを尋ねるのは旅行の後でもいいとさえ、優先順位はすっかり下がっていた。
 それよりも旅行である。泊まりがけなのである。こうなると、もうただならぬ間柄なのである。興奮し続ける遼はどこに行っても構わない。泊まるというシチュエーションがもっとも大切であり、ムードのある宿を探すべきだとその方法を考えていた。
「なぁ理佳ちゃん、最近ネットとかで旅館とかの情報って引き出せるのかな?」
「え……? う、うん……予約とかもできるらしいよ」
「そっかぁ……そのうちパソコンとか買わないとなぁ……」
「な、なんにもないんだよね。遼くんの家って」
「そうなんだよ。親父がケチでさ。テレビもビデオもないでやんの。おかげで沢田とかの会話に入っていけないんだよなぁ」
「わ、わたしもあんまりテレビとかって……静か過ぎるのが嫌だから付けっぱなしにしてるけど、ちゃんと見てないなぁ」
「あー……理佳ちゃんのイメージ通りだと思う」
「そ、そっかな?」
「うん。どっちかって言うと、文学少女ってイメージだもん」
「え……そ、そうなんだ……」
「あれ? 自覚なかった? ホラ、神崎とか和家屋とかってテレビばっか見てるってイメージあるけど、理佳ちゃんはもっとこう、クラスが上っつーか、なんか知的って言うか」
「も、もう……引き合いに誰か出して、比較とかするのってよくないと思うよ」
「あ? ああ……確かに」
 珍しく意見をする彼女に対し、遼はただ賛同ばかりでは手ごたえに乏しく、ずっといい傾向であると嬉しくなった。

 職員室前の廊下を左に曲がった先が下駄箱であり、その直前は三年生の教室になっている。クラスの皆は、帰り際に先輩に挨拶するのがかったるい。そう言う者が多く、遼にしても演劇部の女生徒たちによく頭を下げたりしている。しかし部活のある日は教室に居残る生徒たちもずっと少なく、角を曲がった遼は知り合いがいないかどうか、ちらりと目を泳がせようとした。

 廊下の先からの悲鳴が、遼と蜷河理佳の全身を震えさせた。

 複数の悲鳴である。恐怖と困惑と、そんな悲鳴である。そう、これは先月教室で聞いた種類の叫びだ。瞬時にそう感じた遼は、彼女の手首を掴み、「だめだ!!」と叫んだ。
 彼女はあの日学校を休んでいた。だからわからないかも知れない。立ち止まって少女の横顔を見た遼だったが、蜷河理佳は思いのほか落ち着いた様子であり、「うん」と頷くその仕草には力強さすら感じられた。
 廊下の先、下駄箱の辺りから三人の生徒が走ってきた。いずれも知らぬ顔だが、皆引きつった強張りが貼り付き、こっちへ駆けてくる足はもつれ、ただ必死で懸命で、時々壁に身体をぶつけながらも、彼らは二人とすれ違い、職員室方向へと去っていった。
 つまり、これは下駄箱に何かがいて、そっちに行っては危険ということなのだろう。だとすれば自分も彼女の手を引いて、来た廊下を戻った方がいい。逃げるとすれば階段脇の連絡通路を抜け、生徒ホールからプールを抜け、校舎の裏側から正門を目指すのが一番だろう。
 我ながら随分と冷静なものである。徐々にだが度胸というものがつこうとしているのか。彼はそう感じながらも、だから駄目だと、より客観的に状況を把握しようとしていた。
 そう、駄目だ。恐怖の対象を見極めなければ、逃げるにしても反撃をするにしても情報不足も甚だしい。今すれ違った生徒たちは一体何から逃げ出したのか、それを知らなければならない。場合によっては彼女を危険から守らなければならないのだ。いい加減な判断は出来ない。
 バルチで、地元で、そして教室で幾度かの死地を潜り抜けてきた遼は、確実に成長しようとしていた。すると、下駄箱からゆっくりのっそりと、花柄のワンピースが姿を現した。

 つるりん太郎!?

 そんな言語情報が遼の意識を刺激した。初めての固有名詞に彼は混乱し、その出所がよもや隣の蜷河理佳からではないかと疑った。

 それよりも見極めである。遼は気を取り直し、出現した者をしっかりと見据えた。
 ワンピースはあちこちが赤黒く染められ、染料などではなく血であることは明白である。髪はおばさんパーマであるが太い手足からの体毛は女性ではないだろう。そして手に握り締められた出刃包丁には衣類と同種の赤がこびりついていて、つまりはそういうことなのだろうと理解できた。

 リューティガーを殺しに来た……? いや……テロリストって感じじゃねぇな……テレビとかニュースで刺激された殺人鬼か……?

 あまりにも日常的な服装と凶器である。遼がつるりん太郎をありふれた殺人犯と判断するのも無理はなかった。

「逃げるよ、理佳ちゃん!!」
「う、うん!!」
 遼に手首を掴まれたまま、蜷河理佳は彼に連れられるように来た廊下を駆け戻った。
 間違いない。顔は知らないが、あれはつるりん太郎だろう。少女はそう判断し、抱えた学生鞄をじっと見つめた。この中に隠したナイフをどのタイミングで使うべきか。彼に手を引かれているうちは無理であり、どこかで別れる必要がある。あの武器からして戦って負けることは有り得ないが、七年間訓練された殺しの技術を誰かに見られるのは避けなければならない。もし自分が異能者であることがばれれば、この仁愛高校に居続けることはできない。それでは任務は失敗であり、なによりも、
「こっちから正門に出る!!」
 勇敢さで自分を引っ張ってくれる彼ともお別れになってしまう。ようやく芽生えつつある恋心をあんなふざけた残党に邪魔されたくはない。速やかに、淀みなく、仕損じなく始末する必要がある。下履きのまま校舎裏に出た少女は、愛する彼氏にリードされながらもいつでも暖かい感情を冷たくする覚悟はできていた。
 校門は、居残った生徒たちでごったがえし、まさしくパニックとなっていた。皆、下駄箱であの殺人鬼と遭遇した生徒たちなのだろう。出口は生存を求める少年少女たちを吐き出させるには狭すぎ、それを咎め別の出口へ誘導しようとする教師の声は悲鳴と喧騒でかき消されていた。
 駐輪場の前で立ち止まった遼は、どこから脱出するべきか躊躇した。すると、握っていた少女の手首から鮮烈な閃きのイメージを感じ取った。
 彼女は校門とは逆、つまり背後を向いていて、彼もそれに倣って振り返ると、プールの脇で出刃包丁を持ったワンピースが佇んでいた。

「島守遼は許せないの。その血統は根絶やしにしないといけないの」

 ノイズ交じりの言葉がつるりん太郎から発せられた。

 んだよ……なんで……俺目あてなんだよ……

 こちらを見据える殺人鬼が、なぜ自分の名前を口にしたのか遼は理解できなかった。しかし、ターゲットが自分であるということは、立ち向かって倒すことができれば他の生徒たちを巻き込まなくて済むということである。万が一彼女に知られても構わない。できるだけ隠し事は減らしたいし、殺人鬼と対決する姿を彼女に見て欲しい。
 思えば初デートの頃から、自分は彼女に情けない醜態をさらけ出しすぎた。その全てを受け入れてもらったはずであるが、いい加減プラスの自分だって見てもらいたい。今がそのときだ。

「理佳ちゃん……あいつ……なんかわけわかんないこと言ってるけど……俺に心当たりはない……」
「りょ、遼くん……」
「けど戦う。絶対勝てる自信があるし、俺は君を守ってみせる」
 まるで、アクション映画の主人公のような台詞だ。そう照れながら、彼は少女の手首を離し、掌を握り締めた。
「こっちだ!! 殺人鬼め!!」
 遼はそう叫ぶと、すぐ側の用具室の扉を足で開き、蜷河理佳をそこへ押し込めようと肩を抱いた。すると彼女は空いている方の手で彼の手首を掴み返し、二人はもつれ合うように用具室へ倒れこんだ。
 この用具室は校舎から少しだけ離れた場所に建てられた小さなプレハブであり、中は体育で使う用具がしまわれている。倒れこんだ先は運よく体操用のマットが敷かれていて、衝撃は拡散された。
「り、理佳ちゃん……!?」
「た、戦うなんて無茶だよ!! そんなの……!!」
「だから勝つ自信があるんだ!! 刃物なら届く前になんとかできるって!!」
 上体を起こした遼は、学生鞄を抱えてマットに仰向けになったままの蜷河理佳に向かって顎を引き、開けられたままの出入り口を見据えた。
「島守遼は許せないの。その血統は根絶やしにしないといけないの」
 リピートされた声は先ほどよりずっと近くに感じられ、対決のときが迫っている事実を遼は悟った。

 視神経をやるか……いや……いっそのこと浅側頭動脈をブチ切るか……殺したって……構いはしねぇ!!

 奮い立たせるように意を強くし、腰を落とした彼は、ついに出入り口の空間に姿を現した殺人鬼に我が目を疑った。
 どの箇所を異なる力で破壊しよう。そう思いつるりん太郎の顔を確認してみたが、彼の顔面はただ肌色が広がるだけの輪郭であり、その個人を判断できるような部品は何も存在しなかった。
「島守遼は許せないの。その血統は根絶やしにしないといけないの」
 用具室に響いたその声は、腰のベルトに付いているポーチの中が音源であるように感じられた。たぶん、機械的な手段で再生されていて、声として口から発せられたものではないのだろう。なにせ、口は無い。

 数年前、中学の英語の授業で狢(ムジナ)の怪談をヒヤリングし、遼はこう思った。のっぽらぼうなんて怖かねーよ。だってさ、なんにも怖いパーツがないんだぜ。かえってすっきりして綺麗かもよ。と。
 しかし相対した本物ののっぺらぼうは、何か理解しがたい不気味さを醸し出し、その正体が相手の個を理解できない、つまりはひっかかりの無さである点に気付いた頃には、少年の膝はがくがくと震え始めていた。
 これでは、どこを破壊してよいのやらさっぱりわからない。顔面には細かな肌荒れも認められ、つまりは仮面ではないということである。生々しさに吐き気を覚えつつ、源吾というテロリストに異なる力を試した際、狙いが外れてしまうとこの力は殆どダメージを与えられないことを思い出し、それでも血管はどこかと観察を続けたが、浅側頭動脈の辺りは運悪くパーマ髪で覆われていて、正確な狙いはつけられそうにもなかった。
 こんなのってありかよ。よりによって戦おうと決意したとたんにこんな敵だ。見れば見るほどのおぞましさであり、包丁を振り上げ、こちらへ向かってくる歩みも徐々にスピードを上げてきている。きっと、躊躇など微塵もないのであろう。殺される。逃げなきゃ。
 だが恐怖は遼の挙動をすっかり緩慢にさせ、ぐだぐだに全身をくねらせながら、彼はマットの角に躓いて倒れてしまった。
 恐怖で全身のコントロールを失い倒れてしまうなど、これではバルチの頃からまったく進歩などしていない。下駄箱で敵を見極めたはずなのに、遠くから見た段階で女装のおっさんかと思い込んだのがそもそもの敗因である。のっぺらぼうなど御伽噺の登場人物であり、それが現実にいるとすれば、獣人と同じテロリストの一員なのだろう。それがなぜ自分の命を狙うのか、あるいはリューティガーが巻き込むために何か仕掛けたのだろうか。

 倒れこんだマットに別の重さが加わり、その震動の正体は顔無しの殺人鬼なのだろうか、うつぶせの姿勢から上体をなんとか起こした遼は、ブレザー姿の後ろ姿を認め、再び我が目を疑った。
 殺人鬼と自分の間に、なぜ蜷河理佳が立ち塞がるようにしているのだろう。誰か違う女生徒か。しかし長く瑞々しい黒髪はまさしく彼女のそれであり、見間違うはずがない。
「どかないと刺す……どかないと刺す……」
 蜷河理佳と対峙したつるりん太郎は相変わらず出刃包丁を振り上げたままであり、奴を倒せないにしても切っ先を曲げるぐらいならできるはずだ。彼女にこんな庇われ方をされるのはいくらなんでも情けなさ過ぎる。
 遼は立ち上がると「だめだ、理佳ちゃん!!」と叫びながら彼女の両肩を掴んだ。

 なんだ……これ……は……

 ひどく鮮明なイメージが、掌から意識へと流れ込んできた。

 誰だろう。これは彼女の両親なのか。楽しそうな、そんな中年の夫妻である。

 そう。わたしのパパとママ。死んじゃったけど。

 言語情報は彼女から流れてきたものである。小さく振り返った彼女の口元が歪んでいるのに気付いた遼はそう確信した。

 続いて伝わったイメージは、遼にも見覚えがある、あの白い長髪の青年だった。

 この人は……真実の人……わたしが尊敬している人……大切な……人……

 泣きそうな目でこちらを見上げる彼女は、いったい何を伝えようとしているのか、遼は困惑したまま理解できなかった。

「やるしか……ないから……」

 そうつぶやいた彼女は、彼を軽く突き押し、背後で包丁を振り下ろそうとする殺意へ振り返りながら、学生鞄からコンバットナイフを引き抜いた。

「お前は誰なの? そのナイフは、我々が使っていたのと同じ物。裏切り者なの?」

 感情の込められていない無機質な言葉だったが、裏切り者という言葉は遼にあらゆる事実を示唆させていた。

 返事をすることなく蜷河理佳は学生鞄を投げ捨て、体勢を低くしながら、つるりん太郎との間合いを縮めた。
「裏切り者か? 裏切り者なの? 潜入している蜷河理佳ってあなたのこと?」
「黙れ!!」
 振り下ろされた出刃包丁を、少女はナイフの刃で弾いた。甲高い金属音と同時に出刃はマットへ落下し突き刺さり、痺れた手を堪らず押さえたのっぺらぼうの顎先を、蜷河理佳は右足で蹴り上げた。
 先端に痛烈な打撃を受けたつるりん太郎は、そのまま尻から床に崩れ落ち、全身を痙攣させた。
「裏切り者か? 裏切り者なの? 潜入している蜷河理佳ってあなたのこと?」
 故障したCDプレイヤーのように、同じ言葉が何度も遼の鼓膜を刺激した。眼前の光景は現実感が乏しかったが、これまでの引っかかっていた点を総合すると納得すらできる。そんなぼんやりとした冷静さが恐ろしく、蜷河理佳は間違いなく奴を殺す。そんな確信が彼を支配しようとしていた。
 上体を起こし、少女の足元に突き刺さっていた自分の愛用を取り戻そうと、つるりん太郎はふらふらとした挙動で手を伸ばした。しかしその試みは首筋に冷たい感触を得た直後、永遠に絶たれた。
 噴き出した血は少女のブレザーと白いワイシャツを染め、支える箇所を切断された頭部はその重さで、ごろりと背中へ捻れながら反転し、中年女性のような頭髪が床に落ちた。

「裏切り者か? 裏切り者なの? 潜入している蜷河理佳ってあなたのこと?」

 言葉はなおも止まることがなかった。背中を向け、ナイフを握り締めた少女の向こう側では、ぐったりと倒れ、血を噴き出し続けている殺人鬼の躯から無数の泡が浮かび上がり、それが破裂する度に彼の肉体は身に着けていたものごと削られていき、ようやくの静寂が用具室を包んだ。

 声をかけるべきだ。だけど何を。命を救ってくれた礼なのか。鮮やかで淀みの無い抹殺に対する賛辞なのか、はたまた疑念をぶつけるのか。それに、空いたままの用具室の扉を閉めなくっちゃいけない。こんな光景、他の誰かに見られたらどうなることか。
 遼が混乱し、躊躇し、マットの上でへたり込んだまま決めあぐねていると、少女は背中を向けたまま、すぐ隣の跳び箱を拳で殴った。

 鈍い音が遼の心臓を鷲づかみにし、彼は呼吸を詰まらせた。蜷河理佳は拳をゆっくりと下ろすと俯き、肩を震わせ、やがて小さく振り返った。

 血で前髪と頬を朱に染めた蜷河理佳の横顔は物憂げだったが、それでもなお美しいと思える。遼はそんな気持ちでいられることに安心し、ようやく落ち着きを取り戻そうとしていた。

「ごめん。もう、いられないや」

 短く、聞き取るのがやっとの小さなつぶやきであった。しかし遼はそれを別れの言葉と理解し、慌てて立ち上がろうとした。

 素早い挙動は彼女らしくない。だが、もう遼には蜷河理佳らしさという定義は崩れようとしていた。彼は用具室から駆け出て行く彼女を追いかけようとしたが、後ろ手で閉ざされてしまった扉はなぜか開かず、力任せに引き戸をこじ開けようとするその背後では、顔なしの怪物がすっかり泡と化し、それすらも消滅しようとしていた。
 ようやく用具室の扉を開け、外に出た遼だったが、右往左往する生徒たちや教師たちの中に、求める少女の姿は見当たらなかった。周囲を見渡した遼は、用具室の入り口付近に出刃包丁が落ちているのを発見し、足元に刺さっていたこれをいつ拾い上げ、扉を閉ざしておく道具に利用したのだろうと、蜷河理佳の行動を想像して顔を顰めた。

 辺りを駆け、集中力より注意力を引き出し、島守遼は蜷河理佳の姿を求めた。パトカーのサイレンが聞こえてくる頃になると、彼は自分が事件の重要人物であることに気付き、別の方法が何かないかと用具室へ再び戻ってきた。

 つるりん太郎の遺体はすっかり消滅し、床に染みと化していた。その向こうに学生鞄を見つけた遼は、それを抱え上げ、意を決した。

 数分後、喧騒とパトカーのサイレン音に包まれた仁愛高校の校舎裏に、栗色の髪をした男子生徒が出現した。この騒ぎは、やはりそうなのだろう。月仮面の相方が仁愛を襲撃したのは間違いない。扉が開いたままの用具室前までやってきたリューティガーは、床の染みを認め、顎を引き眼鏡をかけ直した。
 この染みは泡化の名残である。最近見慣れようとしてといたその痕跡に彼は「誰が……」とつぶやき、背後から駆けて来る複数の足音に気付き、用具室の裏手へと隠れた。
 暗殺者は何者かによって倒された。陳と健太郎が代々木にいる以上、奴らエージェントに対することができる人物など一人しかいない。
 島守遼がやってくれた。それがリューティガーには嬉しく、彼は満足げな笑みを浮かべたまま空間へ跳躍した。

8.
 校内にも、バス停にも、周辺にも蜷河理佳の姿はいない。用具室の扉にてこずっているうちに、彼女はタクシーでも拾って去っていったのか。あんな血まみれのままで。
 できることなど僅かしかない。残された学生鞄を抱えたまま、彼は職員室へ飛び込んだ。
 職員室は教師たちが電話対応に追われていて、受話器を耳にしていない者も警官に事情を説明したり、テレビカメラの前で慌てていたりと様々で、その騒ぎの中、ぽつりと隅で呆けている川島の痩せた姿を見つけた遼は、ついていると思いながら彼へ駆け寄った。
「島守……なんだ、お前?」
 眠そうな淀んだ目を向け、川島は腕を組み直した。
「住所録を見せてくれ!! 1年B組の!!」
「お前さ……今がどーゆー状況か知らないのか? 親子連れにOL、会社員やら四人が殺されたって言うじゃないかよ。そんなのがまだ校内にいるかも知れねぇんだぞ」
 首を傾げながら呆れ笑いを浮かべた川島だったが、この長身の教え子はひるむことなく振り返り、かつて近持教諭が使っていた席を確認すると、そこへ急いで行った。
「おいおい。なんなんだよ、お前」
 勝手に机の上の書類やファイルを探し始めた遼の肩を、川島は背後から掴んだ。
「先生には貸しがあるだろ。これで差し引きゼロにしておく!!」
 手を止めることなく早口で言い切った遼は、ようやく求めていた住所録を見つけ、ある住所を生徒手帳に書き込んだ。
 付き合っている彼女の住所を、彼はこれまでに知る機会がなかった。無論自宅に戻れば入学の際にもらった住所録が引き出しの奥にあるはずである。だが今は時間が惜しい。彼は川島に「ありがとう」とぶっきら棒に言い放つと、返事を待たずに教室から出て行った。
 職員室から出た彼は、待ち構えていた報道陣からマイクを突き出された。
「どけ!!」
 そう叫んだ遼は力任せにマイクを引っ張り、リポーターの姿勢が崩れた機を見計らって廊下を駆け出した。

 所持金は三千円ばかり。これならタクシーを拾える。裏門から歩道に出た彼は、すぐに空車を捉まえ、「奥沢二丁目まで!!」と叫んだ。

 住所録に書かれていたそれと彼女が常に降りるバス停とは地理的にも一致する。あまりにも謎めいた蜷河理佳という不透明な存在に、遼は今度こそ自分が彼女を受け入れる番だと、そんな想いを車中でより強くしていた。

 奥沢二丁目のバス停から徒歩で約五分。七階建てのマンションの203号室が彼女の住んでいる部屋である。

 “泉原”そう書かれた表札の前で彼は途方にくれ、顔を顰めたままインターフォンを押した。
「なんですかな。あなたは?」
 チェーンを外し、扉を開けて顔を出してきたのは二十代か三十代前半の青年だった。髪を七・三に分け、色白のどこか不健康そうな面持ちのその男に、遼は「蜷河さんって……いませんか?」と尋ねた。
「あぁ……蜷河さん? その名前で訪ねてくる人がたまにいるんですけど、近所の誰かと間違えてるんじゃないでしょうか?」
 少々うんざりした様子で、泉原という名前であろう青年は応えた。
「そ、そうなんですか……」
「変わった名前だからよく覚えてますよ。誰なんです? その人」
 しかし遼は青年の質問に答えることなく、頭を下げその場から立ち去った。

 エレベーターに乗り込んだ彼は、最上階までのボタンを押し、壁に背中をつけた。

 嘘の住所だ……いない……ここには……たぶん……

 一度落ち着いて状況を整理したい欲求もあったが、別れを告げた彼女と再び顔を合わせるのが最優先である。部屋番号の間違いなどではない。片っ端からこのマンション全室の表札を確認するつもりだったが、そう判断した彼はエレベーターが停止しても最上階で降りることなく、一階へのボタンを押した。

 夕暮れの商店街を、闇に包まれつつあった住宅街を、島守遼は当てもなく駆けずり回った。手がかりはゼロである。もともと友達も少なかった彼女の自宅を知る誰かがいるのだろうか。心当たりも乏しく、タクシーの車中を皮切りに度々リダイヤルした携帯電話は常に留守番メッセージである。電池の残量も心もとなく、もしかかってきても長い通話はできないと判断した彼は、三十八回目のリダイヤルを諦め、星の無い夜空を見上げた。

 無駄だ。これは……どうやっても無駄だ……

 手がかりも無く、行動の予測もつかない相手を探し出すことは困難である。家の電話番号が分かっている以上、電話会社に尋ねれば正確な住所がわかる可能性もあったが、疲労がピークに達しようとしていた今の遼に、そんな冴えた思いつきはなかった。

 くたくたのまま、もしやと思いながら、彼はバスに揺られて渋谷までやってきた。

 何度もデートを重ねた場所である。彼女と過ごしたあらゆる場所を巡ってみたが、手がかりなど掴めるはずもなく、目が回るような思いをして得られたのは絶望感だけである。こんなときは叫ぶといいのだろうか。センター街で上空を見上げた遼だったが、声など出るはずもなく、呻くのが精一杯だった。
 見つかりっこない。それだけはよくわかる。彼女は本気で逃げたのだ。あの淀みの無い抹殺ができる蜷河理佳であれば、自分などがいくら追ったところで見つけられるはずもない。
 たぶん、生きてきた世界が違うのだろう。これまでがあまりにも違うのだろう。そう、あの栗色の髪をした転入生のように。
 白い長髪の青年を、彼女は真実の人(トゥルーマン)と呼んでいた。こちらに知っておいて欲しい。そんな想いだけはよくわかった。だからこそイメージも言葉も鮮明であり、試験場の側で出会った青年と姿は見事なまでに一致する。
 だとすれば、あの日本人離れした妖美さは混血の結果なのだろう。そう、あの栗色の髪をした転入生のように。彼の兄のように。

 歩いても近づけそうに無い。走っても追いつけることなどできるはずが無い。山手線の車中で、少年は人目をはばからず涙を流し続け、流れる景色を見つめていた。

9.
 アパートに帰ってきた遼は、父、貢の慌てふためいた強い態度に圧倒された。
「携帯の番号ちゃんと教えとけ!! どれだけ心配したと思ってるんだ!!」
 自分よりずっと背の低く、厚みのない父ではあったが、心配してくれる気持ちは彼をずっと大きく感じさせ、息子は口元を歪めて頭を掻いた。
「悪りぃ……いろいろごたごたしてて……」
 携帯電話を充電ユニットにつなげ、彼女の学生鞄を部屋に置いた遼は、冷蔵庫からオレンジジュースを出し、それをコップに移した。
「電話とかあったの? 学校から?」
「いや、ホールの帰り、立ち食い蕎麦屋のテレビで見たんだよ。緊急ニュースでよ。結局どうだったんだよ?」
「よくわかんない……みんな慌ててたし、俺も見たわけじゃないから……ニュースじゃなんて?」
「最後まで見れなかったからわかんねぇよ。やっぱテレビいるかな……」
 顎に手を当てた父に微笑みを向けると、遼はオレンジジュースを飲み干し、部屋に戻ろうとした。
「おい、夕飯どうする? チャーハン作るけど」
「後で食う……ごめん……いろいろ疲れてて……ちょっと寝るわ……」
 背中を向けたままそうつぶやくと、遼はゆっくりと部屋に入り、襖を閉ざした。

 布団も敷かず、彼は畳みの上に疲れ切った全身を投げ出した。

 彼女が尊敬し、大切な人だと教えてくれた、あの白い長髪の青年はリューティガー真錠の兄である。彼の名は真実の人(トゥルーマン)。七年前、日本政府に革命を挑んだテロ組織、真実の徒のリーダーと同じ名前であり、リューティガー曰く三代目だと言う。奴は彼を殺すつもりでいる。

 リューティガー真錠が転入したばかりの頃、神崎はるみに連れられ、演劇部に見学に来た彼を彼女は殺意の目で睨み付けた。

 あの顔なしはつるりん太郎と言うのだろう。奴は彼女のことを潜入した仲間だと、裏切り者だと繰り返していた。

 散文的な情報はあまりにも膨大ではあったが、一つ一つを検証するまでもなく、島守遼はこれからどうするべきかよくわかっていた。

 遠い。あまりにも自分と彼女は離れている。物理的ではなく、生きてきたこれまでが遠すぎる。
 だけど近い。それどころか内側まで彼女は自分を受け入れてくれた。ジョージ長柄を見殺しにして、自堕落なギャンブルを続け、挙げ句の果てには重賞レースを破壊した自分を。彼女は許容し、慰め、近くにいてくれた。別の目的だってあったかも知れない。けど、あれはその範疇を越えたものだと信じたい。

「ごめん。もう、いられないや」

 それが、別れの言葉であった。

 ごめん。謝罪の言葉である。

 もう、いられないや。どこか投げやりで諦めた、悔しそうな言葉である。

 謝らずに、後悔だってしなくていい。詳しいことはわからない。だけど彼女はあの化け物から助けてくれた。だから謝ることも悔やむこともない。少なくとも自分に対しては。

 遠さを近づけるためには、逃げるように離れていった彼女へ達するには自分が動くしかない。蜷河理佳が属する世界へ足を踏み入れるには、もうこの手しか残っていない。
 栗色の髪を思い出した遼は、携帯電話の着信音を察知し、勢いよく飛び起きた。
「島守!! テレビで見たよ!! あんた大丈夫だったの!?」
 期待した声ではなく、それは神崎はるみからの電話だった。
「駄目ならこれに出られるわけないだろ……俺も蜷河さんも殺人犯は見てないし……」
「そ、そっか……」
「学校はパニックって奴? だからかえって何がどうなったのかさっぱりでさ……テレビじゃなんて?」
「うん。まだ逃げてるって言うのよ、連続殺人犯。学校の周り、まだ警察とかが調べてるみたいだよ」
「へぇ……俺近所だから気をつけないとな」
「蜷河は家に帰ったの?」
「じゃないの? バス停で別れたし……」
 ぼんやりと嘘を重ねながら、遼は少女の興奮した声に苦笑いを浮かべ、頭を掻き、壁に背中を付けた。

 ベッドの上であぐらをかいていたはるみは携帯電話を切り、息を小さく吐いた。

 何の根拠もないが、学校に乱入した殺人犯と島守遼は何らかの接点がある。そんな気がしてならなかった。
 リューティガー真錠を殺す。先月教室ジャックをした男は自分の目の前でそうつぶやいていた。真実の人に顔向けできないと。そしてリューティガーと島守、二人の同級生は混迷の事態に毅然とし続け、全てが終わった後、忽然と姿を消した。

 携帯電話から聞こえる彼の声は妙に落ち着いていた。パニックの学校にいたのなら、先に帰った自分にもう少しは興奮して現場だったことを説明してもいいはずであり、あいつはそんな浮ついた面を持った男である。
 あの安定した声は、まるで全てを知っていて、その上でこちらを拒絶しているようである。まるで、お前は関係ないんだよ。そう言われているような気さえする。

 知らないところで何かが起きている。それを蜷河理佳は知っているのか。

 インターフォンが鳴っている。けど、二階の自分が応対する必要はないだろう。それにしても、もう九時過ぎだというのに誰だろう。宅配便でも来たのだろうか。少女がそんなことを考えていると、階段を駆け上がってくる足音が聞こえてきた。
「はるみ姉!! 友達きてるよ!!」
 慌ただしく部屋の扉を開けた、弟の学(まなぶ)の言葉に、はるみは瞬きし、口をぽかんと開けた。

「え? なになに、どーしたのよ」
 玄関に下りてきたはるみは、赤いコートに帽子姿の蜷河理佳と相対し、何度も首を傾げた。
「ご、ごめんね……こんな時間に……」
「い、いいけどさ……」
 返事をしながらも、はるみは玄関口に佇む蜷河理佳のコートが、彼女によく似合っていると感じた。
 元気が無いようにも見える。口元に手を当てる彼女は俯き気味で、顔色もいつもよりずっと青白く感じられる。けど、それを気にかけ心配するべき今ではないのだろう。はるみは何となくそう思った。
 時間にして八秒ほどの沈黙が二人の間に流れた。本来なら、「上がりなさいよ」などと促すのが神崎はるみという少女だが、なぜかそうする気も起きず、彼女は訪問してきた同級生の言葉を待ち続けた。
「遼くん……」
「うん……」
「遼くんは……隠し事が苦手なんだ」
「あ……うん……そうだね。なんかそんな感じする」
 少々異常な状況ではある。わざわざ訪れ、用件も無く交わす言葉ではない。しかし蜷河理佳はただならぬ事情でいまこうしているのだろう。なら、それに付き合うべきだとはるみは考えた。
「遼くん……腕を組んでると肩を少しだけ押し付けてくるの……それがちょっと痛くって、甘えられてるような感じがするの……」
「そ、それは知らないな……それは……あんたとあいつだけのことだね」
「遼くん、メタカフェだといつもボンゴレなの。ビールを飲みたがってるんだけど、いつもガマンしてるみたいなの」
 目を伏せたまま、蜷河理佳の両肩は小刻みに震え始めた。
「遼くん……照れるとすぐに頭を掻くの……むっとすると地面を見るの……」
「蜷河……あんた……」
 距離を詰めよう、はるみがそう思い、土間まで降りようとすると、蜷河理佳は身体を引き、視線をようやく上げた。
「はるみちゃん……遼くん……助けてあげて……もう……わたしじゃ無理だから……」
 充血した目で、蜷河理佳は神崎はるみにそう託した。
「理佳……あんた……」
 蜷河理佳、理佳の身に一体何があったのか、はるみは眉を顰め、サンダルを履いて彼女の肩に手を当てようとした。
「ごめんね。はるみちゃん」
 後ろ手で扉を開けた理佳は、踵を返して路地へと駆けて行った。追いかけるべきか。はるみがそう躊躇していると彼女の姿はどんどん小さくなっていき、引き止めなど望んでいないことがよくわかった。だから、近づくことなどできないと思った。
「はるみ姉。今の人、学校の人?」
 玄関にやってきた学が、はるみ背中にそう声をかけた。
「う、うん……クラスメイト……理佳っていうの」
「ふーん……すっげぇ綺麗な人だね」
「そうだよ。学はああいうのって好き?」
「えー!? なんでそーなんだよ。わっかんねーなー」
 唇を尖らせ、学は顎を上げて目を細めた。
 玄関の扉を閉めながら、神崎はるみはしばらく理佳とは会えない。そんな予感を胸に、託された言葉を何度も反芻しこう思った。彼女とはようやく友達になれそう。と。

10.
 8日午後4時20分ごろ、東京都大田区雪谷大塚駅近くで、出刃包丁を持った男が道行く人々を次々に襲った。うち、千葉県習志野市、会社員、牧田享さん(41)、東京都世田谷区、会社員、岡崎麻美さん(24)、東京都大田区、主婦、永田恭子さん(38)、長男、拓海ちゃん(3)が首や胸などを刺され病院に運ばれたが、発生から約30分後に死亡した。
 男はその後、都立仁愛高校に乱入、包丁を振るなど暴れた後、住宅街へ逃げたが、約1時間半後、池上署員が路上で発見。4名を刺したことを認めたため、殺人容疑で緊急逮捕された。
 調べでは、男は、神奈川県出身で住所不定、無職、佐々木浩二容疑者(39)。十年前にも殺人未遂で逮捕されたことがあり、平成十二年出所、その後は職を転々とし、最近では公園などで寝泊まりしていた模様。警察では余罪があるものと見て追求するとのこと。
なお容疑者が乱入した仁愛高校では11月9日にもテロリストによる教室ジャックがあったばかり。ただし今回は生徒に怪我も無く、本日も休校せずに授業は通常通り行われる見込み。
十二月九日 毎日新聞朝刊より抜粋

「結局逮捕されたんだろ!?」
「いやいや、それが怪しい限りなのさ。ネットでもデッチ上げ説とか凄いんだぜ」
 翌朝の教室で、野元と横田良平の二人は興奮しながら新聞やプリントアウトされた紙を机に広げ、昨日の事件を振り返っていた。
「島守、俺よ、さっき校門でインタビューに答えたんだぜ」
 すぐ前に座る沢田の上ずった声に、遼は「へぇ」と素っ気無く答えた。
「事件が続いてますけど、どうですかって聞かれたんだ」
「なんて答えたんだよ」
「いやぁ。昨日はすぐに帰ったんで、実はよくわからないんですよって。ありゃ絶対カットされたな」
 坊主頭を撫で、苦笑いを浮かべる同級生に対し、島守遼は緩い笑みで返した。

 しばらくして教室に入ってきた代理担任の川島は、生徒の大半が登校している事実に小さく二度頷いた。
「えっとな……西沢は休みだ。昨日は警察でずっと証言したらしくって、家で寝てるらしい。仲がいい奴は携帯とかで励ましとけよ」
 川島の発言に、生徒たちはざわめいた。
「西沢君、親子連れが殺されるの見ちゃったんだって」
 和家屋瞳がそうつぶやくと、隣の倉橋伸吾が「うぇ……」と呻いた。
「見たのかよ……西沢君……」
 最後尾の席で腕を組み、顎を引きながら戸田義隆が眉を顰めた。
「最悪ね……まったく……」
 続けるように権藤早紀が、言い捨て、二人は一瞬だけ横目で視線を交わした。
「先生。蜷河さんは?」
 内藤弘(ないとう ひろむ)が左隣の空席を見ながらそう質問すると、川島は「知らん……聞いてないぞ」とつまらなそうに返事をした。
 そう。右斜め前の席は空いている。あそこに彼女の後姿を取り戻すために、自分にはやらなければならないことがある。島守遼は机の上で指を組み、背を丸めた。

「島守……一緒に部室行こうか?」
 放課後、神崎はるみに誘われた遼だったが、彼は「ごめんな……今日は出られない……部長や平田先輩に謝っといてくれ」と、低い声で返した。
 ただならぬ決意である。彼の目つきに強い意を感じた彼女は、「りょ、了解」と短く返して教室から出ようとした。
「真……ルディ……」
 愛称を呼ばれたリューティガーは声の主に驚き見上げ、眼鏡をかけ直した。
「な、なんだい……遼くん……」
「ちょっと話がある……付き合ってくれないか?」
「あ、ああ……いいよ……」
 このタイミングで向こうから声をかけてくるとは予想もしていなかった。学生鞄を手にしながら、リューティガーはすっかり緊張し、何度も瞬いた。
 何を考え、どうしようというのだろう。教室後ろの扉から廊下に出ながら、はるみは二人の同級生に注意を向け、「別に……だから」とつぶやき、部室へと急いだ。

 学校近くの公園は、もう何度も秘密の会話を交わすのに使っている場所である。十二月にしては妙に生暖かい今日も、ベンチに座るのは犬の散歩に来ている老人が一人だけであり、遼は金網に寄りかかり、声を潜める必要はないと判断した。
「な、なんですか……話って……」
「知ってるだろ。昨日殺人犯が学校に来たって……」
「ええ……もちろん……」
「逮捕されたってさ……ありゃ間違いだよ。本当の犯人は俺が学校で倒した」
 遼の言葉にリューティガーは顎を引き、紺色の瞳を輝かせた。
「倒した……とは……?」
「殺した。動脈ぶった切ったら泡になっちまった……だってあいつ、島守遼を殺すって……俺を目当てにきたんだぜ。仕方ないよな」
「そ、そんなことを言ってたんですか……?」
「ああ……奴の名前はたぶん、つるりん太郎……テロリストなんだろうな。顔の無い化け物だった」
「そ、そうですか……」
 やはりあの泡の跡はこの彼の仕業だったのか。リューティガーは金網に体重を預けている遼を見上げ、唇の両端を少しだけ吊り上げた。
「本題はこれからだ。連中が俺を狙っている以上、戦わなきゃならない。だから俺はお前に力を貸す……いや、むしろ俺に力を貸して欲しい」
 細い目の奥の眼光は鋭く、決意の程がよく理解できる。こうした目をした者は強い。かつて自分を鍛えてくれた人、仲間、敵。何度か見てきた目である。
「もちろん……喜んで……」
 そう言うに決まっている。昨晩から予想していた通りである。遼は事が上手く運んでいると確信し、ようやく笑みを浮かべた。
「よろしくな……ルディ」
「ええ……遼くん」
 遼の差し出した手を、リューティガーは握り返した。

 暖かい、喜びと充実。そんな広がりが掌から遼の意識に広がった。

 真錠……嬉しいんだな……俺だってそうだ……お前と一緒に動けば……真実の人へ行きつける……そこには……きっと理佳ちゃんがいるはずだ……

 ふと、遼は数日前に問われた言葉を思い出した。

「君はどこへ行く?」

 どこへ行く? 決まってるだろ……近づいてやる……お前たちの世界に……

 触れ合うことで知れるのは自分の側だけである。暖かな握手をしながらも、遼とリューティガーの気持ちは決して一つとは言えなかった。


 夜の渋谷はネオンの灯りで暗くなることは無い。だから寂しくは無い。ただ、行くあても無い。
 理佳はガード下の薄汚い壁に背中を付け、「うぁ」と呻いた。

 どこに行けばいいのだろう。七年前もそうだった。両親を失い、血みどろの中で倒れていた自分は、導かれるまでぐずついて、鉛のように重かった。
 コートのポケットに重みが残っている。それは何かと取り出すと、白い携帯電話だった。電池も切れかけたそれを取り出した少女は、百件近い着信の殆どが恋する彼氏からであることを知り、未だ繋がり続けているそれを、足元の通気口に落とした。

 帰る場所なんて……そもそもないから……行くだけしか……ないのがわたしだから……

 だけど、どこに行けばいいのかわからない。情けなさに涙がこみ上げ、理佳はその場にしゃがみ込んだ。

 ごめんなさい……真実の人……遼くん……

 こうして身体を丸めていると、少しは落ち着ける。なら、もっと穏やかに戻れる場所が自分にはあった。少女はおぼろげな光景を思い出し、唇を噛み締めた。

第十一話「暖かな握手」おわり

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