真実の世界2d 遼とルディ
第二話「無邪気な笑み」

1.
 親子二人が食事を摂るのに、六畳のキッチンは狭すぎるほどでもない。しかし、テーブルに椅子のセット、食器棚、小さいながらも冷蔵庫が配置されたここでの夕飯に、島守遼(とうもり りょう)は内心うんざりもしていた。今年で十六歳になる彼は身長も180cmと、大柄と言うほどではないが、決して小柄ではないため、食事の席に着くとヘソからテーブルの縁までは数センチの余裕しかなく、椅子の背もたれはほとんど襖と密着している。
 もし食事の最中に足りない調味料でも取ろうと、席から離れようとするならば、細心の注意を払いつつ右膝の先を椅子とテーブルの隙間から抜け出させ、長い足先をそろりと床におろし、勢いよく、だが衝突に神経をつかい、椅子に肘掛けがなかったことに感謝しながら腰を浮かせ、正面を向いたまま身体を右にスライドさせ、食卓からの脱出をはからなければならない。もし無神経かつ当たり前のように椅子を引いてしまえば、食卓の味噌汁は氾濫を起こし、空の醤油瓶は転倒し、背後の襖は父の部屋へと盛大に倒れてしまうだろう。
 だから遼は、食事中にはなるべく席から立つことのないようにと、直前の準備は入念に行うのが癖となっていた。
 彼が目の前の置かれた焼き魚へ箸を向けると、醤油瓶の中身がほとんど空になっていることにふと気づいてしまった。なんといういうことだろう。今日の準備は入念ではなかったということか。痛恨のミスだ。かったるい事態だ。
 小さくため息をつき、できるだけ慎重に長身を食卓から抜け出させた息子を、対面に座る父親、島守貢(とうもり みつぐ)が穏やかな面持ちで見上げた。
「醤油、足してなかったか……」
「うん」
 調味料の補充については、特に決めていたわけではないが、なんとなく遼の担当になっている。本来、冷蔵庫の近くに座っているのは貢の方なのだが、彼は席を立つことなく黙々と味噌汁を啜り、息子の作業が終わるのを待っていた。
「明日……醤油、買っとかないとな」
 瓶に醤油を移しながら、遼は小さくそうつぶやいた。
「残り少ないか?」
「うん。これ移したら、空になる……」
「明日は行く日だし……帰りのスーパーで買っておくよ」
 父の申し出に無言で頷いた息子は、食卓へ戻り、焼き魚に添えられた大根おろしにたっぷりと醤油をかけた。焼き魚に醤油がないのは苦痛である。どんな味になってしまうのか想像もできない。そう思いながら彼はこれから胃袋に納めることになる魚の顔を見て、ふと疑問に思った。
「これ……何の魚だっけ?」
「ほっけ。あれ、食ったことないか?」
「どうだろう……」
 力なく返事をした遼は焼き魚を口に運び、その味に味覚と記憶を刺激された。
「あぁ……これね。ほっけって魚なんだ」
 父に代わって食事の支度をすることもあるが、作れる料理と言えば炒め物や麺類ぐらいであり、魚料理は挑戦したことがなかった。「まぁ、買ってきた魚を焼くだけだし、いずれやってみよう」そんなつまらないことを考えながら、遼は食事のピッチを上げ、一通りを胃袋に詰め込んだ。
「おいおい、そんなに慌てて食うなよ。骨が咽に刺さるぞ」
「大丈夫だよ……ガキじゃあるまいし……」
 息子のいささかぶっきら棒な返事に父は少しばかりの違和感を覚えたが、まあ遼だって高校生だ。いろいろあるのだろう。即座にそう納得し、大して気に留めることもなかった。
「悪い……洗い物……やっといてくれる? 明日は俺がやるから」
 遼はそう言いながら、自分の食器を流しに運んだ。
「ああいいぞ。どうした? 勉強でもするのか? もう期末だろ?」
 部屋に戻ろうとする息子の背中へ、父はそんな言葉をかけた。襖を開けようとした遼は手を止めると「ちょっと……考えごと」と一言つぶやくと、そのまま部屋に入り、襖をぴしゃりと閉ざした。
 遼は早速勉強机に向かうと、そこに立てかけられていた学生鞄から一冊の分厚い本を取り出した。

 「人体解剖図鑑」全三百六十頁。ハードカバーの書籍であり、サイズは変型A4版。それを机に立てて置くと、遼は椅子に座ってぼんやりと表紙を見た。

 長く美しい黒髪に対照的な色白の肌、常にぼんやりとした表情を覗かせる、おそらく自分に対して好意を抱いているはずであろうクラスメイトの蜷河理佳(になかわ りか)。彼女がこの不気味な書籍の送り主である。
 下校途中、校門に差し掛かった遼を追いかけてきた彼女は、「これ」の言葉と共に分厚いそれを一方的に手渡すと、バス停へ走り去っていった。ラブレターか交換日記の類だろうと思っていた遼は人体骨格と眼球のイラストが描かれた表紙に呆然とし、その後数分間、校門で身体を硬直させてしまった。
 歩いて家に帰る間も遼は、この本を渡した蜷河理佳の意図にずっと考えを巡らせていた。しかし、いくら考えても明確な回答が導き出せるはずもない。これが、巷で流行している小説や旅行のガイドブック、いや参考書でもいい。とにかく人体解剖図鑑でなければある程度の推察もできる。彼女が気に入った本を読んでもらいたい。もしくは仲が進展するかも知れない自分たちの今後のために、何か役立つ情報を得てもらいたい。それはそれで少々突飛な行動かも知れないが、不器用な蜷河理佳らしいとも彼は思っていた。
 だが彼の眼前に佇む書籍は、人体骨格と眼球のイラストが表紙を飾る人体解剖図鑑である。突飛をはるかに飛び越えた、得体の知れない不気味な書籍である。手渡されてからずっと、思考の一部をこれに占有されてしまっている。だから醤油の残りにも気を配れなかったし、父の忠告にも素っ気ない態度をとってしまったのだろう。そう、この事態の謎が解明できなければ、もやもやとした違和感はこれからも居座り続けるかも知れない。
 「いったい蜷河さんは、俺にどうしてほしいんだ。これを読むと、なにかいいことでもあるのか?」などと考えながら、遼はようやく本を手に取り中を開いた。そう、この本自体に意味などないのかも知れない。たとえば本の中に手紙やメモが挟んであるとか、どこかに走り書きがされていてそっちを読んで欲しいとか、考えれば考えるほど有り得ない馬鹿馬鹿しさが頭をよぎったが、そうとでも思わなければ彼女の行為に説明がつかないのも事実である。
 しかし、三百六十頁にも及ぶ分厚いこの本に挟まれていたのは一枚の“しおり”だけだった。それも書店がサービスで入れる、広告付きのありふれたしおりである。遼はため息をつくと、最初からページをめくってみた。
 中身は、かつて島守遼が小学生だった頃、怯えながら図書室で読んだ解剖図鑑と大差のない、グロテスクなイラストが満載のありふれた内容だった。もっともこちらの方がより詳しく専門的で丁寧な解説が付いた大人向けの図鑑であり、それだけにイラストもずっとリアルで、走り書きを探す遼は読み進めていくうちに気分が悪くなっていった。すると、襖の硬い部分が小さくノックされ、父がゆっくりと部屋に入ってきた。
「遼、いいか?」
 椅子に座っていた遼がゆっくり振り返ると、貢はもう彼の背後まできていた。息子の読んでいる本を横から覗き込んだ父は、眉間に皺を寄せて腕を組んだ。
「なに読んでるんだ?」
「見たまんま……人体解剖図鑑だよ」
「なんで?」
「“なんで”って……なんでもいいだろ」
「だって……変だぞ、お前、そんなの好きなのか?」
 父に対してこの不気味なプレゼントを読みふけるのに至る事情を説明するには、精神的にすっかり疲れ果てていた。遼は手で追い払う仕草をして、首を何度か振った。
「なんだよ……医者にでもなるのか?」
 部屋から出て行きながらぽつりと漏れた父の言葉に、遼の知能は激しく刺激された。
「医者……か……」
 そうつぶやいた彼は、机の上に置いた図鑑へ再び視線を戻した。
 父の言う通りである。こんな本を読むのはよほどの変わり者か、さもなければ医療関係者か医者志望の学生ぐらいなものだ。蜷河理佳は、自分に医学の知識を得て欲しいと望んでいるのだろうか。
 
彼女の両親は、果たしてどのような仕事をしているのか。そんな疑問がなんとなく思い浮かんだ。もし医者、それも外科医であればかなりの高確率で自分の予測は成立する。それはますます突飛な発想ではあったが、すっかり考え過ぎてしまい、思考の迷路に迷い込んでいた今の遼にはあまり冷静な判断力もなかった。彼は勢いよく椅子から立ち上がると、学生鞄から手帳を取り出し、台所に向かった。
 島守遼のような高校生であれば、この時代、大抵の者が携帯電話を持っている。しかし彼にとって、その便利な道具を購入する機会は未だ訪れていない。それは父にしても同様であり、この親子にとって外部へ連絡手段は台所に置かれた家庭用固定電話機のみだった。
 遼は受話器を手に取ると、反対の手で学生手帳をめくった。入学の際配られたプリントには、クラスメイトの電話番号が全て記載されていたが、その番号は固定電話機の番号である。ほぼ全員が携帯電話を持っている現在、家の者が介在する可能性が高く、不在の際には役に立たないそちらの番号に、クラスメイトが電話をかけたりすることは希であった。
 遼の学生手帳には、携帯電話の番号が三つだけ書き込まれていた。その一番上の番号に彼は電話をかけてみた。
「あ、島守だけど、沢田? 今いい?」
 友人である沢田の携帯に電話をした遼は、「蜷河さんの親って、何をしてる人なのか知ってる?」と尋ねた。しかし沢田は呆れたような口調で「知ってるわけないだろ。本人に聞けよ。付き合ってるんだろ」と返し、最初の調査はたった数度のやりとりで不発に終わった。

 島守遼が次に電話をしたのは関根という、やはり男子のクラスメイトである。遼と関根は、あまり話したこともない疎遠な関係だったが、入学翌日、なんとなく互いの電話番号を手帳に書き込んだ経緯がある。以来、初めての電話となるのだが、関根の携帯電話は数秒の後、留守番サービスへと切り替わった。
 諦め顔で受話器を置いた遼は、手帳に書かれた最後のアドレスを確認すると、壁に体重を預けた。
 すると、何かが屋根を打つ音がぱらぱらと聞こえてきた。雨が降り出してきたか。そんなごく当たり前の感想を抱いた遼は意を決し、電話のボタンを押した。
「もしもし、誰?」
 受話器越しに彼の鼓膜を振動させた声の主は、クラスメイトの神崎はるみだった。彼女の携帯番号は、演劇部に入部した初日に「お芝居のこととか、部のことで質問があったらこっちにかけてね」と言われ、半ば強引なプロセスを経て手帳に書かれたものだった。
「島守だけど……今、ちょっといい?」
「と、島守?」
 戸惑ったかのような、くぐもった神崎はるみの声を聞いた遼は「そりゃ、そうだろうな」と納得し、ためらった末とは言え唐突な電話をかけてしまった自分の迂闊さにようやく気づいた。
「な、なに? どうしたの?」
「あ、いや……ちょっとさ……蜷河さんのことで……聞きたいことがあるんだけど……」
 遼の言葉に対してのはるみの返事は、小さく長いため息だった。
「…………で……何を聞きたいのよ」
 彼女の声にはわずかながらではあるが、怒気が混じっている。そう気づきながらも彼はここまできたら、目的を完遂するしかないと覚悟を決めた。
「蜷河さんの親ってなにやってる人なんだろう? ちょっと気になってさ……本人に聞いてもいいんだけど、俺、蜷河さんの携帯知らないんだよ」
「蜷河の親?」
「し、知らないかな、やっぱり」
「えっと……前に話したよ……たしか……お父さんが輸入車のディーラーって言ってたかしら」
 期待とは離れた彼女の回答に、遼は力を落とし「うん」と咽を鳴らせた。
「いつも海外が多くて、滅多に家にいないって言ってたわよ」
 言葉を続けるはるみに対して、遼はもう一度「うん」と咽を鳴らせた。
「医者とか……関係ないよな……」
「さぁ? どうだろう……でも……どうして?」
「いや……いいんだ……ありがとう……また明日」
「うん……」
 遼は電話を切ると、再び壁に寄りかかり天井を見上げた。蜷河理佳の親が医者だったら、ひょっとして付き合う条件に医学知識が必要で、それを学んで欲しいとの一心で解剖図鑑を渡した可能性もある。そんな荒唐無稽な仮説は、根底から覆されてしまった。こうなったら明日本人に、なぜ人体解剖図鑑を読んで欲しいのか直接尋ねてみるしかないだろう。なんとなく憂鬱になった彼は、自分を見つめる視線を感じた。
「遼……」
 襖の隙間から、父が息子を見つめていた。父は「医者は……勉強しないとなれないぞ」と強張った笑顔でつぶやいた。息子は「医者……ならないよ」と語気を荒らげて言い捨てると、乱暴な挙動で隣の襖を開け、自分の部屋に戻った。

 輸入車のディーラーと人体解剖図鑑では結びつきようもない。得られない回答に悶々とした遼は、机の上に開かれたままのそれを見つめた。
 すると、彼はある小さな違和感を覚えた。その正体を確かめるべく、遼は椅子に座って図鑑を手に取ってみた。

 なんだ……これ……

 図鑑の百四十一頁、偶然開かれたままになっていたそこには、頭部の解剖図が描かれていた。そして、そこのある部分に不正確な赤い円が記されている。おそらく、ペンか何かで後から書かれたものだ。遼は興奮し、その部分をじっと見つめた。赤い円は頭部の一部を囲んでいた。眼球の奥、視神経が束なる箇所である。先ほど読んだ際に気づかなかったのは、たぶん自分が走り書きの文字などを探すのに夢中で、そちらにばかり注意が向いていたからなのだろう。この「印」は、他の頁にも記されているかも知れない。そう思った彼は、もう一度最初からこの図鑑に目を通してみることにした。
 屋根を打つ雨音は次第に激しさを増し、その規則的な雑音が遼の精神を安定させ、その集中力を高めていた。図鑑を丁寧に一頁ずつめくる彼の心は、もうすっかり穏やかになっていて注意力も鋭敏になっていた。
 その結果、左右両視神経・頚部をはじめとした心臓・手首・太腿などの各動脈など、三百六十頁中、二十八箇所に同様の赤い丸印を発見した。おそらく、この円は蜷河理佳が記したものだろう。遼はため息をつくと、椅子の背もたれに寄りかかり腕を組んだ。
 しかし印の意味など、考えたところでわかるはずもない。そもそもこれは彼女が医学の勉強をする際につけた物かもしれず、自分にとって意味があるかどうかもわからない。彼はそう至ると、もう考えてしまうのはやめることにした。明日学校で、彼女に直接聞けばいい。正式に出題されてもいない謎解きを面白がるほど、島守遼は推理好きではなかった。

2.
 翌朝、布団の中で目を覚ました遼は、いつもそうしているように、鳴り響く目覚まし時計を半ば無意識のうちに止め、布団から出てランニング姿のまま台所に向かった。
 襖を開けると、流しで父が朝食の準備をしていた。見慣れぬその光景に、遼は何事かと目を見開き、眠気はどこかへと散ってしまった。息子の起床に気づいた父は背中を向けたまま、一言「おう」とつぶやいた。
「あれ……今日は行く日だろ……どうして朝から起きてるの?」
「うん……たまには……俺が弁当でもと思ってなぁ。パンも焼いてるぞぉ」
 背中を向けたまま食事の支度をしながら、貢はあくびをかみ殺してそうつぶやいた。珍しい事もあるものだと、すっかり意識も覚醒した遼は苦笑いを浮かべ、父の横に並んでコップに差してあった歯ブラシを手に取った。
 島守親子の間には、二十センチほどの身長の開きがある。すっかり成長した息子を横目で見上げた父は、準備の手を止めてうっすらと微笑んだ。
「背……伸びたなぁ……」
「ん……」
 歯を磨きながら、遼はなぜ父が今更そんなことをつぶやくのか理解できなかった。そもそも稼ぎに行く日は昼までぐっすりと寝ていて、夕方には一週間分の生活費を息も絶え絶えに持ち帰ってくる彼が、早起きして弁当や朝食の準備をしてくれている点からして妙だった。まあ全ては何かの気まぐれだろう。たいした意味や意図なんてない。そういった計算が働く父ではない。遼は深く考えるのを止め、歯磨きに専念した。
 事実、貢にしてもこのいつも通りではない行動や、唐突である発言に特別な理由などなかった。息子がうがいをする様子を、彼は手を止めたままぼんやりと眺めていた。
「ほんと……でかくなったよなぁ……昔は、おんぶしたり抱っこしたり、肩車までしてやったのに……今やったら潰されちまうよなぁ……」
 遼は水を流しに吐き、手ぬぐいで口の周りを拭くと、苦笑いを浮かべた。
「当たり前だろ。十六歳の息子を肩車する父親なんて、プロレスラーじゃあるまいし」
 息子の冗談に父は細い目をより細め、年齢にしては深すぎる皺を額に浮かばせた。
「そうだけどさー」
 貢は右手を少し前に出すと、親指と人差し指で何かを摘むような動作をし、口の両端を吊り上げた。
「こんなだったら、いくらだって抱っこできるんだけどなー」
「ばっかみてぇ」
 苦笑いを浮かべたままそうつぶやくと、遼は自分の部屋に戻り、通学の準備を始めることにした。
 貢は肩を何度も上下にさせ、時々思い出し笑いをしながら、弁当に入れるソーセージを炒めていた。あれだけでかくなったのだから、中身にも変化があって当たり前だろう。解剖図鑑を読まなくてはならない事情というやつだって、あるのかも知れない。高校生になったのだから、これからも変化は続いていくはずだ。なら、自分はできるだけのことをしてやろう。でないと寂しい。変わっていく息子の中に、存在感をできるだけ残しておきたい。自分の行動と発言の原因がどこにあったのか、ようやくそこに考え至った島守貢は、「あー、そういうことね」と独り言を漏らし、冷蔵庫から梅干しのパックを取り出した。

 父の焼いてくれたトーストを平らげ、弁当と鞄を手にした遼は、玄関からアパートの外へと飛び出した。昨晩までの雨はすっかり止み、青空が広がる快晴である。大きく伸びをした彼は、外付けの階段を勢いよく駆け下りた。
 アパートの敷地から離れ、しばらく行ったある路地に出た途端、遼は鼻をつく生臭さに顔を顰め、学生鞄で顔の下半分を覆った。
「こ、こりゃあ……」
 下りの坂道までおよそ150メートルほどあるこの路地は、彼が仁愛高校に入学してから毎日使っている通学路だった。それだけに、何気なく当たり前のように無意識に通っている道だったため、眼前に広がる惨状を全く予期していなかった遼はすっかりまいってしまい、吐き気をもよおして立ち止まってしまった。
 湿ったアスファルトの上に数メートル毎の間隔で、ひしゃげた土色の生物が哀れな姿を晒していた。惨状の主役は、内蔵を露わにした蛙だった。この路地は突き抜けた末が幹線道路であるため、朝などは抜け道として交通量もそれなりに多い。遼は幼い頃の梅雨時の朝、こうして轢死した蛙の死骸を何度も見た経験がある。そうか、ここは自分が幼い頃、友達と「地雷原」と名づけたあの忌まわしい路地だったのか。高校に入るまでの間、しばらく通る必要のない路地だったから、すっかり忘れていた。覚悟なきままこの惨状を目の当たりにしてしまったのは痛恨の失敗だ。そんな後悔をしながら、遼は高校生になって初めて迎える梅雨の晴れ間を、陰鬱とした気分で駆け抜けていた。

 坂を下って幹線道路に出て、そこから歩道橋を渡り、再び坂道を上る。これがいつもの通学コースなのだが、季節によってはそれを変更するもいいかも知れない。仁愛高校へとつながる坂道を上りながら、遼はそんな結論に至った。ようやく吐き気も納まったようだ。彼は気持ちを落ち着かせると、校門に向かう夏服の生徒たちへ視線を泳がせた。さて、どんなタイミングで蜷河理佳に例の質問をしたらいいのだろう。やはり下校が一番だ。即座にそう判断した遼は、校門を抜けて下駄箱に向かった。
 下駄箱では何人かの生徒たちが靴を履き替えていて、その中には遼の姿もあった。すると、彼に気づいたある男子生徒が、顔にわざとらしい笑みを貼り付けたまま近づいてきた。何やら挙動を観察されている。視線をそう感じた遼が「なに?」と警戒した声と同時に顔を上げると、その男子生徒は一層にやつきを増し、遼の手首を掴んだ。
「な、なんだよ、西沢!?」
 クラスメイトの唐突で意外な行為に、遼は戸惑って手を払った。にやついたクラスメイトは西沢といい、背丈は遼よりも低いが、足の長さは同じで、胸板はより厚く、茶色の髪はあちこちに跳ね上がっていた。サッカー部に在籍し、気配りが利く性格で要領の良さから同学年からだけではなく上級生の受けもよく、特に女子生徒に人気があるらしい、そんな風評を遼は人づてに聞いていた。
 見覚えのない、おそらくは先輩の女生徒と下校している西沢の姿を、遼は入学以来何度か目撃したことがあった。同じクラスの友人である沢田などは、「明るくて、サッカー上手いし、羨ましいよな」などと素直な感想を口にするほどで、西沢の人気を妬んでいる男子生徒はほとんどいない様である。遼も西沢に対しては、「毎日、楽しそうにうまくやってるな」という良くも悪くもない印象を抱いていた。しかし、これまでにあまり話をする機会や接点自体がなかったため、にやつき顔で手首を掴まれたことに、遼は普段の印象も消し飛ばし、奇妙な奴だとひどく戸惑ってしまった。
「あはは、ちょっといい?」
 西沢は、笑顔で遼の肩を軽く掴んだ。どこかでちょっと話をしよう。挙動からそう察した遼は、壁に掛けられたアナログ時計を見上げた。授業までは、まだ少しばかり時間があるようだ。父が朝食の準備をしてくれたおかげで、いつもより早い登校になっていたようだ。返事の確認もしないまま、西沢は独りで歩き始めた。仕方ない。彼に付き合うか。遼も西沢に続くことにした。

 遼が西沢に連れてこられたのは、職員室西側近くの階段だった。この辺りは教室もほとんどなく、朝に生徒たちが通ることも少ない。教師たちも職員室により近い東側階段を使う者が多く、それほど真剣ではない内緒話をするには格好の場所であった。
「島守って、蜷河と付き合ってるってほんと?」
 何の遠慮も屈託もなく、身体を小刻みに揺らしてそう尋ねる西沢に、遼はしばらくの沈黙の後、「どうかなぁ……」と曖昧につぶやき、ゆっくりと目を伏せた。
「ち、違うの?」
「違うかなぁ……」
「そ、そうなんだ? いやさ、噂聞いて。俺、結構驚いてさ、どーしても確かめたかったんだよ」
 相変わらず身体を左右に揺らし続ける西沢に、遼は軽く不快感を覚えた。
「噂って誰がだよ。それに、どうして驚くような話なんだよ」
「誰って……みんな、みんなだよ。でね、驚いたのは蜷河って、うちのキャプテンをさ……」
 言葉を止めた西沢は、辺りをきょろきょろと見渡し、軽やかな身のこなしで階段の手すりに座り、背中を丸めて俯いた。
「お、おい西沢……は、話続けろよ……」
 遼は手すりに座った西沢を見上げ、彼の膝に手を当てた。これはコミュニケーションの継続を意図した何気ない行為だったのだが、同時に脳裏へあるイメージを浮かばせる結果となった。

 これ……なんだ……

 浮かんだイメージを具体的な情景に変換してみた遼の心に、わかりやすい象徴が浮かび上がった、。それは、大量の「足」だった。

 大量の、白いシューズを履いた足が振り子のように迫っては遠ざかる光景。

「蹴られる……か……」
 情景から想起した言葉を、遼はふと口にした。すると西沢は目を大きく見開き、手すりから階段に、これもまた素早くブレの少ない挙動で降りた。
「そ、そうそう、下手に話すと、俺、先輩たちに蹴り飛ばされるし」
 西沢の口ぶりからすると、今見えた足のイメージは彼の抱いていた恐怖を象徴したものだったのだろうか。なんてことだ。遼は、そう至った結論が不気味で仕方なかった。しかし、意外と正体に近づけたのかも知れない。そう、頭の中で突発的にイメージが浮かぶ、幼い頃からずっと続く怪現象の正体に。それは相手の考えや気分を察知する、できてしまう異常な現象なのではないだろうか。普通の人には体験できない、自分だけ患っている病気のような何かが原因なのだろうか。遼はすっかり不安になってしまい、胸に手を当てて視線を階段へ落とした。
「く、詳しくは話せないけど、キャプテン、蜷河に一目ぼれしてさ。けど一撃でふられたんだよ。それも蜷河、好きな人がいるって言ってたらしい。キャプテン女子からすげぇ人気だし、まさかそれがお前だなんて、悪いけど、ちょっと思えなくってさ」
 自分を巡る怪現象の正体にも関心があったが、西沢が口にした蜷河理佳を巡る「詳しい」事情の方に、遼はすっかり意識を奪われてしまった。
「蜷河さんが……サッカー部のキャプテンを振った? 二人は付き合ってたのか?」
「だから、一撃だって、付き合う以前の……コクったとき……も、もうこれ以上は勘弁な!」
 西沢は引きつった苦笑いを浮かべると、遼の背中を叩いて階段を駆け上っていった。一人取り残された遼は追いかけることもなく、壁にもたれ掛かり口元をむずむずと歪ませた。
 蜷河理佳、そして具体的なイメージが脳裏に浮かぶ突発的な怪現象。このまったく関係のない二つの事象が意識の中でぐるぐると巡り、遼をひたすら混乱させていた。そんな困惑する彼の姿をたまたま見かけた担任教師の近持(ちかもち)は、穏やかに微笑むとゆっくりと近づき、遼がもたれ掛かっている壁を手の甲で軽く叩いた。
「近持先生……」
 初老の担任教師の登場にようやく気づいた遼は、軽く会釈をして彼の顔をちらりと見た。
 ふさふさの眉は垂れ下がり、鼻の下は広く伸び、分厚い黒縁眼鏡をかけた近持教諭の印象を、島守遼は動物の“山羊”に例えていた。一見して穏やかで温和そうな印象を与え、入学以来の高校生活で、その内面が外見と合致していると大半のクラスメイトが認知していた。たぶん、現実の山羊よりずっとおとなしい人なのだろう。動物についてそれほど詳しくない遼だったが、担任教師の高い知性と安定した人格はよくわかっていたため、その納得に疑いはなかった。
「す、すみません……」
 近持の意図を、「早く教室に行きなさい」と察した遼は、もう一度頭を下げ階段をゆっくりと上り始めた。

3.
 この日の授業中、ほとんどすべての時間を島守遼は、右斜め前に座る蜷河理佳の後姿を眺めることに費やしていた。解剖図鑑について尋ねるのは放課後。そう決めていたため、つい先ほどの休み時間も声をかけられなかった。すると目が合った途端、彼女はうっすらと微笑み小さく頷き返してきた。さて、この仕草にはどんな意味があるのか。解剖図鑑を渡したことと、何かつながっているのだろうか。そんな事をぼんやりと考えていたため、遼は全く授業に集中できず、早く放課後にならないものかと壁にかけられたアナログ時計を何度も確認していた。

 ようやく午後の授業も終わり、放課後になった。遼は自分の席で学生鞄を抱え、せわしなく右足を揺さぶらせながら、蜷河理佳が教室から出て行くのをじっと待っていた。
「明後日の部活、通し稽古だから休まないでよね」
 席を立ち、すぐ隣の遼を見下ろした神崎はるみはそう言った。しかし彼の耳には、その通達も雑音としか知覚できず、視線と意識は学生鞄に教科書やノートをしまう蜷河理佳の後姿に相変わらず向けられていた。
「もう……」
 はるみは何度か首を横に振ると、遼の脛を軽く蹴っ飛ばした。痛みが、彼の知覚を彼女に向けるきっかけとなった。
「な、なに? なにすんだよ?」
「人の話はちゃんと聞いてよね」
 遼がようやくはるみを見上げると、彼女は腰に手を当てて眉を顰めていた。随分芝居がかったポーズだと思いながらも彼は視線を泳がせ小さく頷いた。
「ごめん……で、なに? あ……きのうはごめん」
「いいわよ、別に……それより、明後日の部活は通し稽古だから、ちゃんと出てきてね」
「あ……うん……いいよ。俺、一度も休んでないだろ?」
 なぜそのような忠告をするのか? そんな不満の意図を込め、彼はそう返した。
「今まで皆勤でも、大切なときに休んだら意味ないでしょ。それに通し稽古はさっきの昼休みに部長から聞いたの。だからよ」
「あ……そう、わかった……うん……」
 気持ちが全く込められていない浮ついた返事をした遼に、はるみはくるりと背を向け、気持ちを完全に切り替えた。何に注意を向けているのかは知らないが、これ以上何を言ってもこいつは上の空だ。もう、相手にするのはやめよう。彼女はクラスメイトの一人、和家屋(わかや)のもとへつかつかと歩き、「一緒に帰ろう」と誘った。
 和家屋は小柄な女生徒であり、落ち着きがなく授業中も教師からよく注意をされている。遼はクラスメイトのことをそう認識していた。長い髪をリボンでポニーテールにまとめているが、顔の側面が比較的大きく見えるせいで、「似合わないな」と、彼は常にそんな感想を抱いていた。
 はるみと和家屋が教室から出て行くのを目で追った遼は、右斜め前に今一度注意を傾けた。しかしそこにあの美しい黒髪の後ろ姿はなかった。彼は慌てて席を立ち、廊下へ駆け出した。
「島守くーん」
 廊下に出ると、左手をポケットに突っ込み、右手で手招きをするクラスメイトの戸田の姿があったが、「ごめん、急いでる!」と叫んだ遼は、下駄箱に続く階段を駆け下りて行った。
 下駄箱にたどり着いた遼が素早い動作で靴を履き替えていると、その視線の先、校門近くで蜷河理佳の長い黒髪が揺れていた。
「に、蜷河さーん!」
 あまり大きな声にならないように気をつけながら、遼は校門まで追いかけ、振り返ろうとした彼女を追い越し、その前に回りこんだ。蜷河理佳は何度か瞬きをすると長身の彼を見上げ、口に手を当てた。
「島守くん……」
 そうつぶやく蜷河理佳に、遼はすぐにでも解剖図鑑について尋ねてみようかと考えたが、本題を切り出す前にひとまず会話を暖めておこうと方針を切り替えた。何せ、声をかけるシチュエーションが急すぎた。はるみの下校に気をとられていたせいで、こんな唐突な展開になってしまったのだから、いきなりの本題は避けるべきだ。彼はそう判断していた。
「あ、えっと……そ、そうそう……神崎が言ってたんだ。明後日の部活、通し稽古だって……聞いてた?」
「ええ……お昼休みに……聞いたよ……うん……」
 既に聞いていたのなら、これ以上話題にはできない。相変わらず不思議そうな眼差しで見上げている蜷河理佳に対し、遼は頭を一度掻き視線を宙に泳がせた。「行こうか」そうつぶやいた遼は、彼女の横に並んで一歩足を進めた。それを合図に、二人は歩き始めた。
「もうすぐ期末試験だね」
 何気ないその一言に、遼は軽く笑みを返した。
「蜷河さんは、頭いいから……試験勉強なんて、してないんでしょ?」
「えー……そんなことないよぉ……ちゃんとやってるよぉ……島守くんは?」
「お、俺? いやぁ……全然……」
「だめだよぉ……頑張らなきゃ……」
 そんなたわいない言葉を交わしながら、二人は校門を出てすぐのバス停までやってきた。蜷河理佳はこの仁愛高校前から五駅ほど離れた奥沢二丁目まで、毎日バスで通学している。遼はちらりとバス停に括り付けられた時刻表を見て、次のバスまで定刻で十分程度の時間があることを確認した。
「あ、あのさぁ……蜷河さん……」
「はい?」
 遼は学生鞄を開けると、中から解剖図鑑を取り出し、それを彼女に見せた。
「あ……う、うん……」
 図鑑を見た少女は、口に手を当て、一瞬だが視線を逸らし、少々深刻そうな目で再び図鑑を見つめた。
「よ、読んでみたんだ。昨日……」
「う、うん……」
「な、なんなの?」
「うん……」
 言い辛そうに、たどたどしく返事をするだけの彼女に遼は若干苛立ちもしたが、あまりに要領を得ないその対応に、奇妙な違和感も覚えた。
「に、蜷河さんが読んでって言ったから、俺、読んだんだよ」
「う、うん……」
 蜷河理佳の白い額から汗が滲み、それが彼女の頬を伝わって首筋へと流れていった。
 彼女は小さく咳払いをすると遼を見上げ、唇の両端を小さく吊り上げた。
「赤い印は……見た……?」
「あ、うん……見た。二十八個……赤い丸印がついてて……」
「島守くん……」
「な、なに?」
 遼は、自分を見上げる蜷河理佳の眼差しが、これまでになく真剣であることに気づいた。彼はすぐさま背筋を伸ばして顎を引き、わずかに心を構えた。
「その印の場所を、何度も見て覚えて。そう……例えば……人を外から見ても、赤い印の部分がどこなのか……一応わかるぐらいに……」
「え……? なに……それ……?」
「ご、ごめん……わけわかんないよね。そんなこと言われても……」
「わからないよ。なんで……蜷河さん……な、なんなの?」
 解剖図鑑に赤く記された箇所を暗記する。遼にはその行為が持つ意味と、彼女が望んでいる意図の両方がまったくわからず、二人の間にはしばらく沈黙が漂ってしまった。
 次に言葉を口にしたのは、彼女だった。
「き、期末試験が終わったら……」
「え……?」
「ふ、二人で……どこかに遊びに……行きたいな……」
 それがデートの誘いであることぐらい彼にも理解できたが、やはり先ほどの発言と同じく、彼女の意図はまったくわからなかった。むしろ話題を逸らすためにごまかしている様にも思える。
「い、いいね。一緒に……遊びに行こうか」
 しかし、つい口をついたのは、平凡かつ安易な同意の言葉である。疑念こそあったものの、遼はその提案により強い魅力を感じていた。この機会を逃して解剖図鑑にこだわったら最後、デートの誘いなど二度とないかもしれない。意図はわからないが、行為そのものは二人きりで遊ぶということなのだから、楽しくないはずがない。思わぬ展開だって待っているかも知れない。とりあえずはこちらを最優先しよう。打算を働かせた彼は、奇怪な図鑑のことを頭の片隅においやってしまった。
「あは……あはは!」
 同意を得た蜷河理佳の笑顔は口元が歪んでいてぎこちなく、だが彼にとってそこが可愛らしいとも思えた。小さく手を振りながらバスに乗り込む彼女を見送りながら、遼は「まぁ、わけわかんないけど、悪くはないのだろう」と曖昧な気持ちのまま、ぼんやりとバス停で佇んでいた。

4.
「解剖図鑑?」
 翌朝、島守遼はクラスメイトの西沢を職員室西側の階段まで誘い、解剖図鑑の件を相談してみた。これは西沢が女生徒との付き合いも豊富で、もしかすると蜷河理佳の意図に近づくヒントが得られるかも知れないといった希望に基づいていた。しかし、ひたすら戸惑い、視線を宙に泳がせて口をすぼめるクラスメイトの姿に、遼は力なく苦笑いを浮かべた。なるほど、さすがの西沢と言えどもこのテーマは不可解すぎると言うわけか。りれはそうだろう。何せ、解剖図鑑だ。遼はあらためて、西沢に要点を尋ねてみることにした。
「お、女の子がさ、そういうの読んでって渡すのって……ど、どういう意味なんだろうね?」
「島守……それって、蜷河がお前に渡したのか?」
「い、いや……そうじゃなくって……例えばの話だよ。お、俺とか蜷河さんのこととかじゃなくって……」
 疑惑を慌てて否定する遼に、西沢は困惑の表情を浮かべ、舌で自分の口元をペロリと舐め、最後にため息を漏らした。
「わけわかんねぇよ。女の子が解剖図鑑? なんだよ、それ?」
「だよなぁ……西沢でも……わかんないよなぁ……」
「そんな経験、あるわけねぇだろ?」
「じゃ、じゃあさ。その女の子が、デートに誘ってきたとしたら……お前ならどうする? 西沢なら?」
「断るよ。決まってんだろ」
「え……?」
 自分とは異なる選択を即答した西沢に、遼は戸惑い、身を乗り出してしまった。
「解剖図鑑渡して、デートに誘う? 気味悪いよ。俺、そんな女は嫌だよ」
「その子が……可愛くっても?」
「逆に怪しいって、そのパターンは……そうそう、なんかセミ女臭いもんな」
「なんだ……その……セミ女って?」
「セミナー女ってことだよ」
 略称を正式名称にされても意味がわからないため、遼はしきりに首を傾げた。西沢は軽やかな身のこなしで手すりに腰掛けると、腕を組んで背を曲げ、階段に座る遼の顔を覗き込んだ。
「自己啓発セミナーとかってさ、可愛い子使って勧誘してきたりするんだよ。中学時代の名簿で片っ端から電話をかけて、会いたいのって……で、のこのこ会いに行くと、セミナーの入会を迫られてさ。本とかも渡してくるんだぜ」
「か、解剖図鑑とか?」
「そ、それは違うと思うけど……なんか似たものを感じる……そのパターンはやば目だって」
 自己啓発セミナーの詳しい実態など遼は知らなかったが、それが自分の関わるべき団体ではないことぐらい、なんとなくだが理解できていた。新興宗教か、はたまたマルチ商法か。いずれにしても蜷河理佳の不自然な態度には、何らかの“事情”が漂っているようにも思える。授業開始時刻を気にしながらも遼は、もう少しだけ西沢から情報を得ておくべきだと思った。
「そのセミ女ってさ……例えば勧誘する相手のこととか……よく調べたりするのかな……?」
「ああ、そりゃあもちろん」
「恋人になりたいとか、そんな感じで迫ってくるのかな?」
「どうしても入会させたきゃ、そうすることもあるだろうな。いや、結構ありがちなパターンみたいだぜ」
「お、おい……西沢は、何でそんなにセミ女に詳しいんだ?」
「中学時代の奴が今そうなんだよ。俺の昔の友達が最近ひっかかったって言っててよ。そいつから聞いたんだ」
「そ、そうか……」
 西沢の言葉に頷いた遼はがっくり力を落とし、壁に寄りかかってため息をついた。解剖図鑑の一点を除いてしまえば、いわゆるセミ女と蜷河理佳の共通点は多い。いや、解剖図鑑という突飛なアイテムこそが、実像をぼやかすためのカモフラージュなのかも知れない。このまま彼女と付き合ったら、自分はいったいどのような目に遭うのだろうか。いや、決めつけてしまうのは早い。いいや、どうなのか。

 遼にとって解剖図鑑を渡してきてからこの二日間、蜷河理佳の自分に対する行動は違和感に満ちていた。深く考えるのをやめてしまったのは、彼女がデートに誘ってきて、それにすっかり流されてしまったためだ。疑問の追求より、ぶら下げられた餌に意識を奪われたのだ。今ならよくよく自己分析ができる。壁に何度か後頭部を軽くぶつけた遼は、階段を駆け上がっていく西沢の後姿を視線の端で認めながら、途方に暮れていた。

 遼が教室にやってくると、もうほとんどのクラスメイトが席についていた。彼は早足で自分の席に向かった。
 途中、蜷河理佳の席の前で立ち止まった遼は、教科書を読んでいた彼女の姿にちらりと視線を向けた。彼の存在に気づいた理佳は、「あは」と声を上げ、切り揃えた前髪を掻き上げながら、ゆっくりと見上げてきた。
 この笑顔の裏に、自己啓発セミナーの勧誘という魔の手が潜んでいるのだろうか。しかしそもそも、自己啓発セミナーとは一体なにをどうする団体なのだろうか。壷やら洗剤を高価な値段で押し付けられるのだろうか。彼女の好意を得る代償に、自分は果たしてなにを失うことになるのだろうか。いいや、決めつけてはいけない。この子はただ不器用なだけかも。
 混乱の極みにあった島守遼は、いつのまにか身体が硬直し、額からは大量の汗が噴出し、頬は上下に痙攣していた。蜷河理佳が不思議そうに首を傾げると、彼は反射的に笑顔を作り、「おはよう」と一声かけ、ようやく自分の席にたどり着いた。
 隣の席では、神崎はるみが背を丸め、いつになく真剣な面持ちでノートに書き込みをしていた。
「試験勉強?」
 遼がそう尋ねると、はるみは視線をノートと傍らに置いた教科書から離さないまま、何度も素早く頷いた。コミュニケーションの拒絶を感じた彼が前の席に注意を向けると、沢田もなにやら熱心に、坊主頭を揺らしながら教科書を読み込んでいた。
 気分転換がてら、島守遼は教室をぐるりと見渡してみた。するとクラスメイトの三分の一にあたる十数名の生徒が程度の差こそあれ、神崎はるみや沢田と同じ様子だった。なるほど、もう来週には期末試験だった。こんな光景は、五月の連休明けにも目にした覚えがある。遼はそう納得すると、妙に静かなホームルーム前の教室に馴染もうと、自分も学生鞄から教科書とノートを取り出した。
 昨日は鞄に入れ、学校まで持ってきた解剖図鑑は現在、自室の机の上に鎮座している。

「赤い丸印の部分を、外から人を見てもどこかわかるぐらいに暗記して欲しい」

 蜷河理佳から島守遼への頼み事である。昨晩も何度も眺め、その結果十数か所ぐらいであれば、なんとなくだが外側からでもその器官の位置は予想できるようになっていた。

 浅側頭動脈が一番簡単だ。だってこめかみから見える。つまり血管が浮き上がってるんだもんな……

 鏡を見ながら、遼がそんなことに気づいたのは昨日の深夜のことだった。二十八箇所全てをできるだけ早く暗記するためには、期末試験の勉強も多少は犠牲にする必要があると思っていたが、西沢の「セミ女」発言以来、蜷河理佳に対する気持ちは揺らぎ、今夜も図鑑を開くべきかどうか迷っていた。

5.
 教室前方の扉がゆっくりと開いたが、生徒の中でそれに関心を向ける者はわずかだった。
 いつもの朝、いつもの時刻、このタイミングで開かれる教室前方の扉から姿を現すのは、担任の近持に決まっているからだ。それは毎朝全く同じフォーマットで訪れる、ホームルーム開始の合図だ。
 しかし、今日のそれはいつもとは違った。教室の黒板側、すなわち前列に座る生徒たちが、まずその異変に気づいた。緊張した空気は瞬く間に後列へと広まり、いつの間にか全生徒が教壇へ注目していた。
 教壇には、いつものベージュのスーツを着た近持教諭と、一人の少年の姿があった。
「誰?」「知らない」「転入生?」「外人?」生徒たちは見知らぬ少年に注目したまま、疑問や予想をつぶやいていた。身につけている黒いスラックスに白いワイシャツは、仁愛高校の男子生徒夏服であり、「このクラスで今日から皆と一緒に学ぶ転入生を紹介します」という担任の説明が、生徒たちの耳にとてもすんなりと入った。
 転入生の身長は近持よりは高かったが、クラスの中でも一際と言うほどではなく、男子の中では小柄な部類である。栗色の髪は全体がカールしていてそれなりのボリュームがあり、朝の陽を乱反射し、色合いの素朴さもあって上品で質素な印象を遼たちに与えていた。あれは天然の色なのだろう。最前列に座る崎寺(さきてら)という女子生徒は、この色合いは染めて出るものではないと気づいた。
 縁のない丸い眼鏡越しに、大きく紺色の瞳が右から左へゆっくりと動くと、少年は唇の両端を吊り上げ、目を閉じて白い歯を見せ微笑んだ。「まるで子供みたいな奴だな」頬杖をついた遼はそう感じ、すぐに視線を机へ落とした。
 転入生に興味がないと言えば嘘になるが、今の自分は蜷河理佳の事、脳裏に浮かぶイメージ現象の正体、一向に上達しない芝居など、いくつか問題事を抱えている。愛嬌もたっぷりに無邪気な笑みを見せる栗色の髪をした彼に関心を向ける余裕など、今の彼にはなかった。
 それでも遼が、意識の端で転入生の様子に必要最低限の注意を向けていると、彼は背中を向け、黒板に自分の名前を大きく書き始めた。
「リューティガー真錠(しんじょう)です。みなさん、よろしくお願いします」
 耳慣れない固有名詞に遼は頬杖を止め、栗色の髪をした転入生に再び注意を向けた。

 なるほどハーフか、だからあの色だって、ずいぶん素朴に思えたんだ……

 遼がそんな納得をしていると、リューティガー真錠と名乗った転入生は、無邪気な笑みを再び生徒たちに向けた。
 リューティガーときて、真錠。どちらにしても鋭いというか、かっこつけというか、童顔に最大限の笑みを浮かべるこの彼にはマッチしない名前だ。それが遼の第一印象だった。リューティガー真錠なんて名前なら、もっと長身で目つきは鋭く、殺し屋のような風貌をした人物の方がよく似合っている。
「真錠くんは、お父さんは日本人、お母さんはドイツ人のハーフです。日本のことはよくわからないと思うから、みんな彼によく教えてください」
 近持はそう告げ、転入生の背中に軽く手を当てた。
「あ、リューティガーって名前、たぶん皆さん馴染まないと思うんで……僕のことはルディって呼んでください。今までそうでしたから」
 違和感のないイントネーションの日本語でそう宣言すると、リューティガー真錠はにっこりとした笑みをまたまた浮かべ、小さく胸を張った。「ルディなんてあだ名で呼べるかよ。真錠だよ、真錠」と遼がリューティガーの気恥ずかしくなるほどの自己主張に辟易とした感想を抱いていると、教室の隅から、「ルディくーん」という女生徒の黄色い声が響き渡った。
 窓側の列の後ろに座る、川崎という生徒が頭を揺らしながら、リューティガーにへらへらとした笑みを向けていた。島守遼にとって、この川崎という女生徒は交流がまったくないクラスメイトの一人であり、よく和家屋などとつるんではしゃぎ、教師の叱責を受けているという印象しかなかった。
 ルディと呼ぶからこっちに注意を向けて。という彼女の安っぽい自己表現に遼はますます辟易したが、これはこれで自分とは無関係な出来事なので、腹が立つほどではなかった。
「あぁありがとう、そうです。そう呼んでくださいね」
 両手をオーバーに広げたリューティガーは、脇を締めて胸の前で指を組み、川崎に向かって笑顔で頷いた。彼女は「きゃっ」と声をあげて喜び、椅子ごと仰け反ってリューティガーの感謝を無条件に受け入れた。
「ええっと……じゃあ真錠くん、君の席はあそこだから」
 そう言って近持が指した先は、島守遼のすぐ後ろに位置する空席だった。リューティガーは無邪気な笑みを自然な微笑みにまで変化させると、静かな所作でその席に向かった。
 右斜め前から近づいてくる転入生を見上げた島守遼は、その陰に蜷河理佳の後姿を認め、それがなにやら小さく丸まり机に伏しているのに気づいた。
「蜷河さん……?」
 蜷河理佳のすぐ右隣に座る内藤という男子生徒が、彼女の様子を心配して声をかけた。理佳はゆっくりと上体を起こすと苦笑いを浮かべ「大丈夫……だから」と小さくつぶやいた。身体の調子でも悪いのか。遼がそんな心配をしていると、彼の視線はすっかり遮られてしまった。
「よろしく」
 遼が遮蔽の主を見上げると、栗色の髪をした転入生があの無邪気な笑顔を向け、右手を差し出していた。
「あ、ああ……こちらこそ……」
 半ば反射的に遼は右手を出し、リューティガーと何気なく握手をした。すると、掌の感触と全く同時に、彼の脳裏にあるイメージが浮かびかけた。

 どんよりとした闇のような何かがゆっくりと広がっている。遼は、それがなにを意味するのか思考を巡らせてみた。しかし闇のイメージはいつまでも不定形で、具体的な何かを特定することはできなかった。しかし別の確信は抱けた。そう、イメージが脳裏に浮かぶこの現象に対してのある一定の確信というやつだ。

 誰かと触れる、もしくは触れられることで、イメージは浮かび上がるようだ。しかし触れれば確実に発生するとは言い切れず、例えば昨日下駄箱で西沢に手を掴まれた際には特に何も浮かばなかった。しかし職員室西側階段で、やはり西沢の膝に触れた際には“足”が浮かぶなど、まちまちではある。だが、イメージが発生する直前に誰かと接触していることだけは間違いがない。

 これが、リューティガーとの握手で得た結論である。幼い頃からの全てがこれに当てはまるかどうかは、これからゆっくり記憶と相談してみなければわからないが、昨日から今日にかけて、どうやら正体へと近づこうとしているようだ。そのきっかけを与えてくれた転入生に、遼は感謝しながら手を離した。
「どんよりとした闇。ごめんなさい。まだ、見せられなくって」
 小さく、か細いつぶやきが遼の意識を刺激した。
「え?」
 この転入生はなにを言っているのだろう、意味なんて即座にはわからない。だが、つぶやいた際の彼は、その時だけ無邪気な笑みを消し、どことなく申し訳なさそうだった。それがとても不気味で、遼は表情を凍りつかせ、歩き去るリューティガーに合わせて背後を振り返った。
「よろしくですー」
 栗色の髪をした転入生は、左隣に座る合川という女生徒に笑みを向けていた。「おい、なに言ったんだよ。お前?」遼がそう尋ねると、リューティガーは「よろしくって言いました。言葉……間違ってます?」と不思議そうに答えた。

 何かの聞き間違えだったのだろうか、イメージが浮かびかけた直後ということもあり、彼に問い直すだけの確信はなかった。

6.
 昼休みになると女子生徒たちが三人ほどリューティガーの傍に寄り集まり、彼を昼食に誘おうとしていた。
「学食って、ドイツ生まれの真錠くんの口に合うかなぁ?」
 そうつぶやいたのは、杉本という女生徒だった。リューティガーは笑顔のまま学生鞄を机の上に置くと、中から弁当箱を取り出した。
「僕、ここでこれを食べますから」
「それ、お母さんが作ったの?」
 杉本の問いに、リューティガーは首を横に振った。
「いいえ、僕は両親とは別れて暮らしているんです。父も母も日本にはいません。こっちは物価が高いと聞いたので、自分で作ってきました」
「へぇ……って……学食は割安なのよ。弁当の方が高くつくかも」
「そうなんですかぁ? じゃあそのうち、学食にも行きますよ」
 リューティガーと杉本のやりとりを背後で聞きながら、遼は自分の弁当を取り出していた。この1年B組は弁当持参の割合が低く、昼休みに教室に残る生徒はわずかだった。遼が米を箸で口に運ぶ頃には、椿という女生徒以外の全員が教室から姿を消していた。いや、背後に座る自称ルディという奴もいるのだろう。そう思い遼は振り返ったのだが、栗色の髪をした転入生は既にそこにはいなかった。
「隣で食べてもいいですか?」
 左から聞こえた声に遼が身体ごと振り返ると、左隣の神崎はるみの席に、リューティガーが弁当箱を手にして笑顔で佇んでいた。
「い、いいけど……汚したら……神崎、怒るよ」
「神崎……この席の人、神崎って名前なんですか?」
 リューティガーの問いに、遼は苦笑いを浮かべた。
「うん、いろいろうるさいんだよ。あいつ」
「気をつけますね」
 はるみの席に着いたリューティガーは弁当箱を置き、それを開けた。
 弁当箱の中身は、ご飯とロールキャベツにウインナー・果物などで、それなりに彩りがあると遼は感じた。
「米なんだ?」
「家では一週間の半分はそうでしたから」
「にしても……ロールキャベツ弁当なんて、変わってるなぁ」
「そうなんですか? これぐらいしか作れなくって」
 下唇を少しだけ突き出したリューティガーは目を閉じ、仕方なさそうに肩をすくめた。その横顔を見て、遼は転入生の顎が随分シャープで、やはり自分たちとは違う人種の血が流れているのだとあらためて納得した。
「ほんとはナイフとフォークの方が食べやすいんですけど、それだとご飯が面倒なんですよね」
 小さなロールキャベツを器用に箸で摘みながら、リューティガーはそうつぶやいた。遼が「フォークでも飯は食えるだろ?」と尋ねると、「この弁当箱はアルミニウム製でしょ。フォークで隅の米を掬おうとすると、うっかり金属が擦れあってしまいそうで、それってすごく嫌なんですよ」などと返事をし、随分面白い感覚をもった奴だと感心した。
 遼は段々とリューティガーに対して興味を抱こうとしていたが、まずは腹ごしらえをするべきだと思い直し、自分の弁当に視線を移した。レトルトのハンバーグが唯一のおかずであるこの弁当を作ったのは遼自身である。粗末な内容に照れを感じた彼は右に身体を傾け、隣から覗かれないように米と梅干しとハンバーグを慌てて胃袋へ詰め込んだ。
「えっと……君は……?」
 背中から聞こえてくる転入生の質問に、遼は名札を外し後ろ手に見せた。
「しまもり……しまもりくんですね?」
 ようやく弁当を詰め込み終わった遼は、水筒に入れたお茶をごくごくと飲むと、口を拭って首を横に振った。
「違うよ。これはとうもりって読むんだ」
「はぁ……ごめんなさい」
 箸でウインナーを摘むと、リューティガーは申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや、いいんだよ。よくそう間違われるし」
「漢字って、色んな読み方があるんですよね」
「そうそう」
「勉強しなくっちゃ」
「すぐ覚えるよ」
 穏やかな会話をしながら、遼はもう一度だけ、先ほど浮かんだ疑念について尋ねてみようと思った。
「なぁ……さっきの握手の後……真錠くん、ほんとに何も言わなかった?」
 しかしその問いに返事をすることもなく、転入生は薄笑いを浮かべたまま、食べ終わった弁当箱を学生鞄にしまおうとしていた。
「し、真錠くん……?」
 自分の言葉が上手く伝わっていないのかと思った遼は、更にもう一度尋ねようとした。するとリューティガーは急に視線を向け、「ルディの方が……慣れてるんです……だめですか?」とつぶやいた。

 ルディと呼べば、質問にも答えてくれるのだろうか。そう思い、慣れぬ横文字のあだ名を遼が口にしようとしたその時、転入生の背後に一人の男子生徒が姿を現した。
「真錠くん」
 甲高く、それでいて掠れた声で話しかけられたリューティガーは、ゆっくりと振り返った。すると彼の視界に、四角い痘痕面が飛び込んできた。
「あ、えっと……」
 躊躇するリューティガーに、男子生徒はうっすらと微笑んだ。
「僕は音原太一(おとはら たいち)。1年B組のクラス委員をしている」
 胸を張り、背筋をぴんと伸ばしたその彼は、一瞬だけ隣の遼に視線を向けると少しだけ前に屈み、神崎はるみの机に両掌をつけた。
「近持先生から、真錠くんに仁愛の校内などを案内するよう頼まれてきたんだ」
「あ、ああ……そうですか……今から?」
「そう、今から」
 淀みと隙のない音原の態度は、クラス委員としては確かな決断力を裏付け、頼りになる証だったが、遼はその少々一方的とも思える物腰を苦手としていた。「まぁ、今度尋ねればいいか」と、リューティガーに対する先ほどの質問を諦めた彼は、自分も弁当箱を学生鞄にしまい、さてどうしたものかと視線を宙に泳がせた。
 するとクラスの前方窓際の席で、まだ弁当を食べている一人の女子生徒の後姿が目に入った。
 椿梢(つばき こずえ)。島守遼と同様に、常に教室で弁当を食べている女生徒である。遼は彼女と話したことはないが、背が低く、まだ中学生のように見える童顔の彼女を入学式で見た瞬間、彼は「あ、可愛い子がクラスにいる」と思った。
 入学当初は少々長かった髪も、衣替えの時期にはばっさりとショートにしていて、幼い印象がより強くなっていた。遼も一度は話をしてみたいと思っていたが、未だそのチャンスは訪れず、そもそも彼女が他の女子生徒と事務的な内容以外の会話をしている姿を見たこともなかったので、どうアプローチをしてよいのか見当もつかなかった。
 そんな、地味で幼い彼女と常に同じ教室で、互いにコミュニケーションをとることもなく、全くばらばらに昼食を摂る毎日だった。これからは、それに真錠という転入生も加わるのだろう。彼は社交的で明るいようだから、ひょっとすると椿梢とも何らかの人間関係が結べるかも知れない。今後、少しは楽しい昼食時間が過ごせるかも。そのような愚にもつかないことを遼が考えていると、彼は左手首を急に引っ張られ、身体のバランスを崩した。
「はい?」
 体勢を整えた遼は、手首を引いてきたリューティガーの紺色の瞳を凝視した。
「島守くん、音原くんが校内を案内してくれるって、あと十五分しかないけど、島守くんも一緒に案内してくれませんか?」
 相変わらず手首を掴まれたままだったが、遼はこの時点で何のイメージも脳裏に浮かばないことを確認し、朝の確信は若干だが揺らいでいた。
「お、俺も? 案内するの?」
 遼がそう返事をすると、転入生はにっこりと微笑んで、何度も頷いた。しかしそれとは対照的に音原は鋭い眼光で遼を睨みつけていた。この場合、邪魔者ということなんだろう。視線の鋭さをそう理解した遼は、幾分弱気になってしまった。
「時間がないから、早く行くぞ」
 そう告げると、音原は早足に廊下へ出て行った。リューティガーは遼の手を引くと音原の後に続き、三人は廊下で合流した。すると、休み時間を廊下でぼんやりと過ごしていた戸田が、三人の姿を見つけた。
「あれ、転入生に音原くん、島守くん、三人揃ってどうしたん?」
 戸田はゆるい笑顔を浮かべると、のっそりとした挙動で三人に近づいてきた。
「真錠くんに仁愛を案内する」
 音原は長身の戸田を鋭い目付きで見上げると、短い言葉でそう返した。
「島守くんは?」
「お、俺は付き合い」
「ふぅん……じゃ、俺も付き合う」
 島守遼とリューティガー真錠、クラス委員の音原と戸田は、なんとなく固まって廊下を歩き始めた。
「この仁愛高校は1年が3クラス、2年が5クラス、3年が4クラスの構成になっている。今日転入してきた真錠くんを合わせると全校生徒四百七十二名だ。校舎は見ての通りの三階建てで、片仮名“エ”の字型をしていて、北校舎と南校舎、中央校舎の三ブロックで構成されている。今僕たちは南校舎から中央校舎を渡って、北校舎へ向かおうとしている。まずトイレはここ、南と中央の接続部だ」
 音原はそう説明すると、トイレの前で立ち止まった。リューティガーは笑顔で無言のまま、トイレを外から観察していた。
「はい次。これからは中央校舎へ向かう」
 再び歩き始めた一行は南校舎を抜け、中央校舎の廊下へと向かった。
「ルディくーん!」
 廊下の突き当たりから、一人の女子生徒が一行目指して駆けて寄って来た。薄く茶色に染めた髪、しまりのない笑顔、太すぎる太股を前後に動かしながら手を振る彼女は、リューティガーが自己紹介をした際、早速反応をした川崎という女生徒である。彼女はリューティガーの前で立ち止まると、前に立つクラス委員の痘痕面をちらりと見た。
「なにしてんの?」
「近持先生に頼まれて、真錠くんに校舎を案内している」
「島守くんと戸田くんは?」
「こいつらは、ただの付き合いだ」
「だったら、あたしも付き合っていい?」
「ふん……」
 音原は鼻を鳴らすと、ぷいっと前を向いてつかつかと中央校舎の廊下を歩き出した。リューティガーや島守たちもそれに続くと、川崎がリューティガーのすぐ隣に並び、にやにやしながら彼を横目で眺めた。
「ど、どうも……」
 照れ笑いを浮かべる転入生に、川崎は小さく頷き、両手を後ろで組んで胸を張った。
「さっきまで僕たちがいた南校舎には、一年から三年までのクラス教室がある。三年が一階、二年が三階、僕たち一年は二階だ。中央校舎は一階が職員室や事務室、進路指導室、保健室、校長室など、二階が図書室、生物化学教室、物理地学教室、音楽室、上の三階は調理教室、生徒会室、多目的教室、被服室、美術室だ」
 歩きながらそう説明した音原は、廊下の窓へ注意を促し、歩みを少しだけ遅めた。
「あそこに見えるのが生徒ホール、その脇には柔剣道場、プールがある」
 音原の説明をリューティガーは笑顔で聞き、特に質問をする様子もなかった。中央校舎を抜けた一行は、北側校舎へと足を踏み入れた。
「最後はこの北側校舎。二年前に改築されたばかりだ。一階は情報処理室、会議室、食堂と購買で、二階は国学室、自習室。それと一階から三階までの各フロアに、特別部室が割り当てられているが、これは真錠くんがどの部に入るかによるから、今は説明する必要がないだろう。校舎の説明は以上だ」
 音原は小さく咳払いをし、「ふん」と鼻を鳴らせた。
「ありがとう! すごいんですね音原くんは。一年のまだ一学期なのに、全部暗記したんですか?」
 リューティガーは両手を叩き、満面の笑みを音原に向けた。
「ま、まぁね」
 あまりにも転入生が屈託なく感激してくれているので、音原は少々面食らい、視線を宙に泳がせて、その真っ直ぐな気持ちをやり過ごそうとした。
「はぁ……俺もなるほどって……よくわかってなかったなぁ」
「僕もだよ」
 遼と戸田は口々に感心し、音原はますます照れてしまい、とうとう窓際に背を向けてしまった。
「それぞれの教室については今後説明する……戻るぞ」
 一行は南側校舎に戻るため、来た道を引き返した。戸田はリューティガーに歩みを合わせポケットに両手を突っ込むと、長身を少しだけ折り曲げた。
「ねぇねぇ、真錠くんは、マンガとかって読むの?」
「マンガ?」
 きょとんとするリューティガーに、戸田は「そうそう」と頷き返した。
「戸田くん、ルディはドイツにいたのよ。マンガなんて読むわけないじゃん」
 川崎は呆れながらそう言い、戸田も「なるほど」と肩を上下させた。
「マンガならドイツにもありますよ。日本のが、たくさん入ってきてますから」
 リューティガーの言葉に戸田と川崎は口を半開きにし、「へぇ」と同時にうめいた。日本の漫画がアジアや欧米に輸出され、人気を博している。そんな事実を、なんとなくだが遼は知っていた。しかし外国での生の事情など知る由もなく、戸田と川崎と同様に、彼にとってもリューティガーの発言は興味深かった。
 一人、音原だけは四人に背中を向けたまま早足で南側校舎を目指していたため、彼と四者の間にはたっぷりとした空間が広がっていた。
「やっぱりなぁ、浜口くんが言ってた通りだよ。でさ、真錠くんはどんなマンガ、読んでたの?」
 戸田の問いに、転入生は首を軽く横に振って栗色の髪を揺らした。
「僕は……あんまり読ませてもらえなくって……けど、テレビでドラゴンボールとかは見てましたよ」
「ほんとぉ? ドラゴンボールかぁ……テレビの方は見たことないなぁ」
「そうなんですか? 日本じゃ、すごい人気があったアニメだったんでしょ?」
「あたし、あたし、小さい頃毎週見てたよ」
 川崎の割り込みがちな自己主張に、戸田はつまらなそうに頷き、リューティガーは笑みを浮かべて応えた。そういえば、戸田は漫画好きなのにこれまで彼とアニメの話をしたことがない。廊下を歩きながら、遼はそんなことを思い出した。それは戸田との数少ないコミュニケーションで、漠然と抱き続けていた違和感だったのだが、リューティガーという新たな存在で浮き彫りとなった事実である。遼はこのまま聞いていれば、まだ新発見や再認識があるのではないかと考え、会話に参加することなくやや遅れて、三人のやりとりを後ろから観察することにした。
「僕ねぇ、ドラゴンボールは最近になって全巻読んだばかりなんだけど、あれは不思議なことが多いマンガなんだよねぇ」
「そうですか? 僕にはよくわかりませんけど」
「ねぇねぇ、ルディは他に、どんなテレビとか見てたの?」
「ニュースとか好きなんですよ。変かな?」
「ニュース? 変じゃないけど……」
「僕もニュース好き。毎日夜見てるよ」
「日本のニュースって、芸能人のことばっかりやってますよね」
「え? そりゃ、ワイドショーだよ?」
「あのお昼にやってるのって、ニュースじゃないんですか?」
「うーん、一応ニュースみたいなものだけど、主婦向けニュースかな?」
「うちのママもしょっちゅう見てるのよ。特に皇室のが好きなの」
「皇室で思い出しましたけど……皇居って一度行ってみたいんですよね。中央区にあるんですよね」
「ううん、ルディは外国にいたから知らないでしょうけど、皇居は去年、京都御所に引っ越したのよ。今は平成記念公園になってるの」
「え? じゃあ、遷都したってことなんですか?」
「いんや。遷都はしてないよ。ファクト事件で皇室もテロの標的になって、それで引っ越したんだ」
「知りませんでしたぁ……」
「五年がけで、こっちじゃ毎日そのニュースだったんだけどねぇ」
 廊下を談笑しながら行く三人を、少し離れた後ろから眺ていた遼は、「この転入生はすぐに友達を作れそうだな」と思い、さらに先を進んでいるはずの音原の後ろ姿を追った。しかしもう、クラス委員の背中はすっかり見えなくなっていた。

 教室に戻ると、リューティガーは真っ先に神崎はるみのもとへ駆け寄り、小さく頭を下げた。
「神崎さんごめんなさい。鞄、置きっぱなしだったでしょ?」
 リューティガーの謝罪にはるみは一瞬だけきょとんとし、やがて呆れた笑みを浮かべた。
「びっくりしたわよ。どーしてあなたのがわたしの机の上にって、戻しといたから」
 はるみが右斜め後ろに注意を促すと、リューティガーの席には彼の学生鞄が置かれていた。
「ごめんなさい。僕、お昼は島守くんの隣で弁当食べて、机まで借りちゃって鞄も置きっぱなしで」
「いいわよ、別に。この机だって学校の物だし。転校初日だもんね。そりゃ、うっかりもするわよ」
「これから気をつけますね。ほんと」
 申し訳なさそうに頭を下げるリューティガーに神崎はるみは眉を下げ、困った様に口元を歪ませて首を傾げた。その隣に座った遼は、普段は気の強い彼女もこんな表情をするのかと少しばかり驚き、ひたすら頭を掻くリューティガーに苦笑いを向けた。
「真錠くん。あんまり謝り過ぎると神崎が逆に困るよ」
 遼のその言葉に、はるみも同じように苦笑いを浮かべた。
「は、はい……」
 リューティガーは自分の席に戻ると、隣の席の合川という女生徒に会釈をし、午後の授業に使う教科書を鞄から取り出した。その様子を一瞥した神崎はるみは、浮かべたままの苦笑いを今度は遼に向け、二人は似たような表情を見合わせた。
 転入生の存在で、島守遼と神崎はるみは、緩い気持ちをわずかばかり共有できたが、苦笑いのままの彼女と異なり、彼の意識はすぐさま右斜め前の座席に移された。
「あれ……?」
 午後の予鈴がなっているというのに、いつも右斜め前にいるはずの綺麗で長い黒髪はそこになかった。思わず声を上げてしまった遼に、前の席に座る沢田が振り返った。
「蜷河さん、気分が悪いから早退するって」
 そう言えば、担任が転入生を紹介している朝のホームルームから、蜷河理佳は机に突っ伏して調子が悪そうだった。女の子だからいろいろとあるのだろうが、あんな状態の彼女を見るのは思えば初めてだった。沢田の坊主頭を視界に入れたまま、遼は漠然とした不安を抱こうとしていた。

7.
「ドイツという国は東西に分かれていた。すなわち、民主主義の西ドイツ、社会主義の東ドイツだ。これらは東西ベルリンの壁に阻まれ、両国の行き来は阻まれていた」
 リューティガー真錠の転校翌日、ホームルーム前の教室で沢田から借りた漫画雑誌を読んでいた島守遼の耳に、そんな説明の言葉が飛び込んできた。声の方向からするとどうやら、自分の背後で行われているやりとりのようである。なんだろうと彼が振り返ると、笑顔を浮かべたリューティガーと、同級生の男子生徒、比留間の姿がそこにあった。
 比留間は後姿のため、遼から表情は窺えなかったが、おそらくまたいつもの偉そうな、プライドに満ち溢れた威張り顔なのだろう。転入生も早速奴にからまれたか。彼はそう同情しながらも助け船を出すつもりもなく、事の成り行きを観察しようと思った。
 遼の余裕は、昨日早退した蜷河理佳がつい先ほど元気に登校してきたことにも起因する。大した病気ではなく、女性特有のアレなのだろうと彼は勝手に納得し、心配事が減ったため気持ちは若干軽やかだった。
「そうです。僕の祖国は二つに分裂していました」
 リューティガーの声には、これまでに感じられなかった険が幾分込められていて、表情から笑みも消えていた。
「君はドイツから来たと言ったけど、どちらのドイツで生まれたんだい?」
 質問するにしてももう少し穏やかな聞き方があるだろう。遼は、比留間のいつもの口調にうんざりした。クラス委員の音原も随分高圧的な態度ではあるが、彼の場合責任感が優先された結果である。しかし比留間のそれは、自身を矮小な人物に見せたくないための示威行為だった。遼はそこまではっきりと理解していなかったが、比留間という同級生の態度には度し難いと思える不快感を覚えることもあった。さて、そうなると絡まれている転入生もさぞご立腹のことだろう。声も低く、笑顔も消えているのだから間違いない。言い合い、はたまた怒鳴り合いにまで発展するのか。遼は不快感だけではなく、状況が荒れるのを少しだけ期待し始めていた。
「ドイツ連邦の方、あなたたち風に言うと、西ドイツの出身です」
「ほう。アデナウアーのドイツ連邦共和国か」
 そんなことを聞いて、比留間は一体何を得ようとしているのか。遼にはそれがまったく理解できなかった。そう、知識や情報を得たいだけではないのだろう。おそらく、自分の持っているドイツの知識を転入生に誇示したいだけだ。
 それにしてもドイツの人間にドイツの知識を披露するとは比留間も無謀だ。どうせすぐに、本場者からの反撃でボロが出る。遼が呆れていると、リューティガーは席を立ち、すかさず比留間の両手を握った。
「うわぁ。アデナウアー首相のことですね。初代首相の。あなたはドイツに詳しいのですね」
「あ、い、いや……」
 リューティガーの満面には、彼の代名詞にもなりつつある無邪気な笑みが広がっていた。強い感激の握手は比留間をすっかりとたじろがせ、彼は後ずさり、遼の椅子の背に尻を打ち、「あぅ」と呻いた。
「今度、僕の家に遊びに来てください。ドイツの話、いっぱいしましょう!」
「そ、そうだね……それもいいかもね」
 意外といえば意外な展開だが、実にリューティガーらしい反撃方法とも言える。遼はすっかり感心し、おろおろと自分の席へと戻っていく狼狽した比留間を少しだけ哀れだと思った。うまいやり方もあるものだ。そう思って遼がリューティガーを見上げると、彼はまだ比留間に満面の笑みを向け続けていた。
 遼は、驚きの度合いをさらに強めた。撃退という目的を達したにも関わらず、なぜ彼は好意的な笑みを続けているのか。せめて、してやったりの嬉しそうな笑みならわかるのに。となると、この転入生は比留間に対して純粋な好意を抱いただけなのだろうか。そう、リューティガー真錠とは、うまいやり方といった策や、人付き合いの賢しい方法論とは無縁の存在なのかも知れない。あまりにも穏やかな結果に、遼は呆気にとられながらも転入生に対しての理解を深めていた。

 その日の一時間目は古文であり、担当は名網(なもう)という五十代の女性教師だった。最初のうちこそ授業は順調に進んでいたが、やがて名網教諭は表情に困惑の色を滲ませるようになり、教壇から教室後部をチョークで差した。
「真錠くん? どうしました?」
 遼が小さく振り返ると、リューティガーが困った笑みを浮かべ、しきりに頭を掻いていた。
「すみません。黒板がよく見えなくって」
「あぁ……そわそわしてるから何かと思えば……見えはするのよね」
「はい、眼鏡の度は合ってますから」
「じゃあ……そうね……真錠くん、ちょっと立ってみて」
 名網に促されたリューティガーは、席を立って直立不動の姿勢になった。しばらくその姿を観察した名網は、顎に手を当てると眉間に皺を寄せた。
「そうか……そんなに背が高いってわけじゃないのね。島守くんが邪魔で、よく見えないかしら?」
「ま、まぁ、そうです……」
 リューティガーは遠慮がちにそうつぶやいた。自分のことを言われた遼は困惑し、頭の上で掌の身長計を作ってみたり、腰を浮かせたり反対に沈み込ませたりしてこの状況を飲み込もうとした。
「俺、座高高いからなぁ」
 島守遼のぼやきに、教室からゆるい笑いが起こった。名網もそれにつられそうになったため、コホンと咳払いをして笑いを消した。そして彼女は左手を挙げ、ゆっくりと下ろした。
 名網のとった挙動の意図を、リューティガーはすぐに察した。彼が再び席に着くと、彼女は嬉しそうに頷き、「なんとかしましょう。近持先生には私から言っておきます」と告げ、授業は再開された。


「島守くんって、どこに住んでるんですか?」
 その日の昼休み、ロールキャベツを頬張り、水をひとのみしたリューティガーは、隣の席で弁当を食べている遼にそんな質問をした。
 昨日とは違い、今日の弁当は父、貢が作った物である。おかずこそ冷凍食品のフライの盛り付けだが、米の上には海苔が敷き詰められていて、自作のそれよりずっと見栄えがよい。遼は転入生の視線に恥ずかしがることなく、安心して弁当に向かうことができた。
「ここの近所だよ。歩いて十五分ぐらい」
「へぇ、だったら通学も楽ですね」
「気分転換できなくって、ちょっと嫌なこともあるけどね」
「どんな家なんです?」
「ボロアパート。風呂もないし。築ン十年の。そこで親父と二人で住んでる」
 ドイツからわざわざ日本まで転校してきたリューティガーのことである、おそらくこちらの住まいもあのボロ屋とは比べ物にならないほど高級なマンションか、一軒家なのだろう。そう思うと、遼はあまりあのアパートの話をしたくなくなった。
「一度……遊びに行ってもいいですか?」
「いいけど……いや……やめといた方がいいよ。ほんとボロなんだ。気が滅入るよ」
「そんなぁ。島守くんが暮らしている家でしょ? そんなこと」
 そんなことないとでも言いたいのか。何の確信があって、この転入生はあのアパートを気が滅入らないと言い切れるのだろうか。人懐っこいのはいいが、少々無神経なところもありそうだ。遼は、リューティガーに対して苛立ちを覚えた。
「だめ……です?」
 リューティガーは、首を傾げて遼の顔を覗き込んだ。遼はそれを無視して弁当を片付けながら、この転入生に日本流の悪意というものを見せてもいいのではないかと思い、人の悪い笑みを浮かべた。
「どうしてもっていうんならいいよ」
 内蔵の臭気漂う蛙の轢死体が並ぶ地雷原を通り、狭くて安普請のボロアパートを披露し、日本の居住環境の悪さを嫌というほど見せつける。そうすればこいつとて辟易として、他人の私生活に首を突っ込むのも慎重になるはずだ。遼の一転した了解には、そんな魂胆が隠されていた。
 小学生の頃、遼は友人を何度かあのアパートに招いた機会があった。そして再び遊ぶことになると、相手から必ず、「今度はこっちの家にきなよ」と言われてしまうのが常だった。おそらく、自分とリューティガーの関係もそうなるだろう。彼はそう予測し、返事を待った。
「やったぁ! じゃあ、今日早速行ってもいいですか?」
 リューティガーの笑みは消えることなく、その喜びの度合いは爆発寸前にまで高まっていた。遼は気圧され、窓際の席で弁当を食べていた椿梢は何事かと振り返った。
「今日って……今日は部活なんだよ」
「何部なんです?」
「演劇部。通し稽古があるんだ」
「お芝居やるんですかぁ! へぇ!!」
「だ、だから……また……」
 “いずれ”続けて遼がそう言おうとすると、リューティガーは「じゃあ、部活が終わるまで待ちます」と元気よく遮った。

 午後の授業は数学であり、担当は1年B組担任の近持である。彼は温厚な性格で生徒を叱るということがないため、普段ならおとなしく授業を聞く生徒は少なかった。だが、今日は違った。授業内容に耳を傾ける者・別教科の試験勉強をする者・近くのクラスメイトとひそひそ話をする者・寝ている者。生徒たちの生態は様々だが誰もが静かだった。なぜなら、「試験前だから大人しくしていよう」といった空気が皆を支配していたからである。教室の空気は概ね穏やかであり、島守遼も心地よく机に突っ伏し、眠りの世界へと誘われようとしていた。
 すると突然、遼の左から勢いよく席を立つ音がした。神崎はるみだろうかと彼が目を開けると、彼女もやはり左側に注意を向けている。担任の近持は黒板から振り返ると、ただひ一人起立した男子生徒に目を細めた。
「どうしました、高川くん?」
 遼から左に四つほど離れた席の高川典之という生徒が、肩を怒らせ眉間に皺を寄せ、教室のある一点に視線をぶつけていた。高川は遼と同じほどの長身だが、体格はずっとがっしりしてて肉付きもよく、短く刈り込んだ髪に浅黒い肌がよく似合う、きりりとした男前だった。
 何か古武道をやっているという噂を耳にしたこともあるが、詳しいことは遼も知らない。
「どうしたんです?」
 リューティガーが、怒りの形相で拳を握り締める高川を見ながら、前の席の遼に小声でそう尋ねた。
「高川っていうんだ。時々、ああやって立ち上がる」
「トイレに行きたいんですか?」
「違うよ。あいつは怒ってるんだ」
「怒ってる? 何にです?」
「ケータイ」
「は?」
 きょとんとするリューティガーに、遼は視線を促した。それは高川が睨み付ける点と一致し、リューティガーが注意を向けると、そこには顔を顰めて携帯電話を学生鞄にしまう和家屋の姿があった。
「高川くん? 一体どうしたのですか?」
「いえ……もう、いいのです」
 低くうなるような声で近持に返事をした高川は、拳を握りしめたまま着席した。
「島守くん。なにがなんだかさっぱりなんですけれど……」
 事情を飲み込めていないリューティガーに、隣に座る合川という女子生徒が小さく微笑んだ。彼女は女子の中でも最も長身であり、運動神経もいいことからバレーボール部やバスケットボール部から度々勧誘されては「運動……好きじゃないんです」と断り続けている経歴を持つ。温厚で人当たりがよく、決して美人ではないが、男子からも女子からも好かれる人望を得ていた。
「あのね。高川くんは、全員が真面目に授業を受けないのが嫌なのよ」
「はぁ?」
「和家屋さんはね、携帯でメール打ってたの。校則では授業中のメールや通話は禁じられてるの。真錠くんも気をつけてね」
「僕は携帯って持ってませんけど……校則違反なら島守くんだって、居眠りしそうでしたよ」
「ええ。けど高川くんは、特に携帯嫌いなの。もちろん、度の過ぎたおしゃべりとか早弁だって、彼はああして授業中に怒って立ち上がるのよ。だけど、大抵はそこまでで、彼が誰に何で怒ってるのか言うことはないのよ。だって、言う前に先生の方が視線に気づいて真面目じゃない子を注意するから。彼は先生にとって警報機みたいなものね。」
「高川くんは、真面目なんですね」
「そうよ。けどちょっと硬すぎるの。だから結構かっこいいのに、女子だって誰も近寄らないんだから」
「へぇ……」
 リューティガーは頬杖をつくと、教科書を垂直に立て近持の授業を熱心に受ける高川を眩しそうに見つめた。

 放課後、島守遼は北側校舎三階にある演劇部の部室で通し稽古の準備をしていた。ここ数日ばかり、彼は芝居のことをまったく意識していなかった。そのため今日の稽古も不安があり過ぎたが、だからといってサボることもできずにいる。
 この日、裁縫部から仕上がってきた羽織袴に袖を通した彼は、姿見の前に立って照れくさそうに頭を掻いた。
「いいね。結構サマになってるわよ」
 眼鏡を直しながら、部長の乃口は腰を折り曲げて遼の羽織姿を覗き込んだ。
「み、見てくれはまぁ……問題は演技力の方ですけど」
 頼りなさそうに不安を口にする新入部員に、部長は柔らかく微笑み返した。
「秋の学園祭まで間がないしね。けど夏休みは強化合宿する予定だから、そこでみっちり鍛えてあげるわよ」
 お下げ髪に黒縁眼鏡の乃口は三年生の演劇部部長で、創設メンバーの一人でもある。仁愛高校には二年前まで演劇部が存在せず、当時の三年生や一年の乃口たちの尽力で部を設立できた経緯がある。それだけに彼女は部活動に対して人一倍熱心であり、芝居の成功を誰よりも強く望んでいた。
「合宿って……どこ行くんです?」
「長野。二年の福岡さんのご実家がお寺さんなの。そこを借りて二週間の予定よ」
「えっと……」
 遼は視線を床に落とし、ため息をついた。
「どうしたの? 島守くん」
「それって……参加費とかって……」
「一応、福岡さんのご実家の好意で、寝泊まりはできるけど……お布団が足りないでしょうから寝袋はもってきて。だから交通費と食費が……そうねぇ……三万円もあればじゅうぶんかしら」
 寝袋は、クラスの誰かから借りればよいだろう。しかし三万円という金額は、父に頼むにしては少々高額である。合宿に参加する必然性が一番高いのは未熟者の自分だが、どうやって資金を工面しよう。遼は通し稽古より先立ち、別の問題に不安を強くした。
「俺は、お前と一緒に寝るからな」
 工場労働者のつなぎ姿の衣装を着たもう一人の男子生徒、平田が遼の肩を叩いた。相変わらずの仏頂面ではあるが、入部してこれまでの期間で遼はこの先輩ともそれなりに人間関係を築いているつもりだった。
「ですよねぇ。他、女子ばっかですもんね」
「そうよ。こんな美人たちと二週間も寝泊まりするんですから、気は確かに保ちなさいよぉ」
 そうおどける乃口に遼は「ははは」と笑い、平田は無表情のまま部室を出て行った。乃口という先輩は愛嬌があり、どちらかと言えば遼にとって好みのタイプではあったが、演劇部の美人と言えば彼にとって一人しかいない。
 どこだろう。と、彼はそれほど広くない部室をぐるりと見渡した。すると隣の部屋から、舞台衣装姿の蜷河理佳が姿を現した。その衣装は、紺を基調としたクラシックドレスであり、華やかではないが、それがかえって上品な彼女に似合っていると遼には思えた。彼の鼓動は高鳴り、これからの稽古はできるだけ衣装をつけた状態でやって欲しいとさえ願い、件の「セミ女疑惑」は一時的にしろ、その脳裏から消え去っていた。
「うわぁ……蜷河さん……いいなぁ……いいよぉ……」
 衣装を着た蜷河理佳を、乃口部長はうっとりと見つめた。両手を前に合わせた理佳は口をすぼめ、視線を宙に泳がせて照れを隠していた。
「ま、まだ……髪形がまだですけど……サイズ……ぴったりでした……部長……」
「そりゃあ、仁愛の裁縫部は都内イチですから。理佳ちゃん、文化祭の後、きっとファンができるわよー!」
「え、えー……」
 部長のあおり立てに困り果てて真っ赤になる蜷河理佳を、遼は目を細めて満足そうに見つめていた。あの照れが彼女の魅力であり、疑惑を抱えながらも惹かれてしまう原因なのだろう。そう彼は思った。衣装を身に着けていたせいもあってか、理佳のリアクションはよりわかりやすく芝居がかったものになっているようでもあり、照れる仕草は遼を魅了していた。

 衣装合わせを兼ねた通し稽古はそれからしばらくして開始され、遼は一向に上達しない自分の芝居と、それと比較すればまるでプロの役者のような他の部員たちとの差に、不安よりも焦りを感じていた。しかしそんな焦燥とは無関係に稽古は進み、一応形だけは芝居をしている自分に、彼は奇妙な違和感を覚えていた。
「お、おお……なんということじゃ……悦子……悦子や……」
 倒れている蜷河理佳を前に、島守遼は狼狽し、その場で膝を折った。この場面は理佳が演じる悦子夫人が服毒自殺を図り、その遺体を島守遼こと夫の野々宮儀兵衛が発見するというシチュエーションである。これまでの稽古で、遼が最も安心して演じられたのがこの場面であり、今回の通し稽古では自分なりの演技プランを盛り込もうとしていた。膝を折るのもその一環である。
「できてきたじゃない」
 眼鏡を直しながら、部室の隅から乃口が遼の芝居に頷いていた。
「あそこだけは……まぁ、サマになってますね」
 乃口の隣で稽古を眺める平田も無表情のまま、そうつぶやいた。
「死ぬな……死ぬな、悦子……お前がいなくなっては、ワシは……うう……ううううう……」
 遼は蜷河理佳を抱え上げ、苦悶の表情を浮かべた。自分の腕の中で眠った芝居をする彼女はどこか儚げで、彼はその脆さがとても大切に感じられた。もし彼女がセミナーの勧誘が目的で、自分に近づいてきたとしても別にいいじゃないか。そう割り切れてしまえるほど、彼は彼女への想いを強くしていた。
「うう、うううううう、うぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 演技ではない、生の感情の昂ぶりが最高潮に達し、遼は蜷河理佳を抱きしめようと全身に力を込め、彼女の美しい死に顔を見つめた。
 なんだ。なんで。どういうことだ。遼は我が目を疑った。
 腕の中に抱かれた蜷河理佳は、醒めた目である一点を見つめていた。つい先ほどまでは、閉ざされていたのに。両手はだらりと落ちたままであり全身の力は抜けきったままだから、死の演技を止める突発事態が発生したわけではなさそうだ。死んでいるはずなのに、なぜ見開く。困惑した遼は我に返り彼女に意を向けたが、理佳はそれに応えず、見つめるのをやめなかった。
 この場面で彼女が目を開けるはずがない。演劇部の中でも特に芝居が上手い彼女が、死んでいるはずの役で瞑っていた目を開けることなど、遼には考えられなかった。
 それにしても醒めた目だ。これまでに見たこともない、どこまでも冷たく、まるで何かを射殺すかのような目だ。一体、彼女は何を見つめているのだろう。幾らかの恐怖を感じながらそう思った遼は、理佳の見つめる先に自分も視線を合わせた。
「ご、ごめんなさい……見学者、連れてきちゃいました……」
 そこには部室に入ろうとする神崎はるみと、彼女に連れてこられたリューティガー真錠の姿があった。なぜ蜷河理佳は、二人にあのような怖い目を向けるのだろう。そう思い遼が理佳を見つめ直すと、彼女の目は再び閉ざされていた。表情も穏やかで儚げで、先ほど見たあの冷たい目が幻のようである。
 島守遼は悪くなりそうな気分を堪えながら、蜷河理佳の体温を両腕で感じていた。

8.
 乃口部長や他の部員たちから演技上の問題点をたっぷりと指摘された後、遼は部室の隣にある準備室で学生服に着替え、廊下へと出た。
「島守くんってお芝居上手なんですね! 僕びっくりしちゃいましたよ!!」
 両の拳を握り締め、嬉しそうなリューティガー真錠に、遼はあからさまに顔を顰めた。
「始めて一ヵ月も経ってないんだ。さっきだって部長たちからさんざん注意されたし。俺は下手糞だよ」
「そんなことないよ。ほんと、迫真の演技でしたよ!」
「やめてくれよ」
 リューティガーから視線を逸らし、遼がぶっきら棒にそう言い放つと、栗色の髪をした転入生はうな垂れ、「ごめんなさい」と小さくつぶやいた。あまりにも素直な謝罪に遼は戸惑い、頭を掻いた。
「えっと……どうして見学なんかに来たんだ?」
「ええ、教室で島守くんが演劇部を終わるのを待ってたんです。そうしたら神崎さんがやってきて、事情を話したら一緒に部室に行こうって誘ってくれて……彼女って親切ですよね」
「おせっかいなだけだよ。じゃあ行こうか。ウチに寄りたいんだろ?」
「は、はい!!」
 廊下を歩く島守遼に、リューティガーは嬉しそうに学生鞄を抱え込みながら付き従い、二人はやがて下駄箱に到着した。あまりにもリューティガーがにこにこしてついて来るので、遼は彼を「犬みたいな奴。それも仔犬」などと思い、その連想があまりにも失礼すぎたため、気がつけば自分もごまかしの笑みを浮かべていた。
 校門から歩道に出た二人の男子高校生は坂道を下り、歩道橋を渡った。
「さっきは心配してしまいました。島守くん、怒ってたみたいだから家に呼んでもらえないかと思って……」
「怒ってないよ」
「は、はぁ」
 たぶん、自分は誉められて照れてしまったのだろう。しかしそれを言葉に出すのはもっと恥ずかしいため、遼は今ひとつ納得していないリューティガーに説明をすることなく、歩道橋を降りると坂道を指差した。
「これ上って路地を抜けたら、そこが俺のアパートだから」
「うわぁ! ほんとに近所なんですね! これなら、遅刻なんて有り得ませんね!!」
「まぁね」
 坂を上りながら、リューティガーは辺りを物珍しそうにきょろきょろと見渡した。おそらく、異国の風景に彼は興奮しているのだろう。これならしばらくは退屈とも無縁なのだろう。そう思うと遼は、少しだけ羨ましくもなった。
 長い坂道を上りきった二人は、路地に足を踏み入れた。今は晴れ間も見えているが、昨晩は長い雨が降っていた。もう夕方のため、ここに暮らす主婦たちが片付けてしまっているだろうが、蛙の轢死体の一つぐらいは期待できる。そう期待した遼は鼻をつく生臭さを感じ、予想が現実になったことを察知した。
「真錠くん、あれ」
 遼は路地の脇を指差し、後ろに続くリューティガーはそれに視線を向けた。
「うわぁ……」
 蛙の轢死体を数体発見したリューティガーは、怪訝そうな声を漏らした。もっと驚くだろうと予想していた遼は、拍子抜けして振り返った。するとリューティガーは遼の脇をすり抜けて路地の片隅へ駆け、蛙の死骸の前で立ち止まりそれをじっと見下ろした。
「真錠……」
 追いかけてきた遼がリューティガーを見ると、彼は口を真一文字に結び、内臓を破裂させた蛙をただひたすらに見つめていた。
「車に轢かれたのですね」
 ややあって、彼はそうつぶやいた。
「あ、ああ……この路地は梅雨になると多いんだよ。今日は夕方だし、まだ少ない方だけど雨のあがった朝なんて、道いっぱいに潰れたこいつらがさ」
 こんな死骸をよく直視できる。転入生の様子に疑念を抱きながら、遼はそう説明した。
「きっと、何が起きたのかわからないまま……即死なのでしょうね」
「だ、だろうな」
 あまりにも淡々としたつぶやきだった。リューティガーが予想外の反応を示したため遼は戸惑い、無意識のまま轢死体を見つめた。
「可哀想に……せっかく陸に出る自由を得たのに、食われるのならまだ意味があるというのに。これでは無駄死にだ」
 リューティガーの日本語は本当に淀みがない。彼の言葉を耳にしながら、そんな感想しか遼には抱けなかった。

「ここが島守くんの家?」
 路地からアパートまでやってきたリューティガーは、灰色のくたびれた二階建てのアパートを見上げ、そうつぶやいた。
「生まれたのは別の家だったんだけど、ガキの頃引っ越してずっとここに住んでる。ボロだろ?」
「どの部屋に住んでるんですか?」
「二階の真ん中」
 少し前、リューティガーはしばらく蛙を見つめた後、大きく息を吸い込んで再び笑顔を遼に向けた。もうすでに冷淡さはなく、すっかりいつもの彼に戻っていた。転入生の意外なる一面を見た遼は、あんな路地を作為的に選んだのは実にバカバカしい行為だと思ったが、同時にリューティガーに対する興味が増しているのには気づいていなかった。
「お父さんと二人暮らしなんですよね」
「そう。今日は稼ぎに行ってるから……今はいないかも知れないな」
「それは残念だなぁ……島守くんのお父さんってどんな人なのか、すごく知りたかったのに」
「普通の親父だよ。結構若いけどさ」
 遼とリューティガーは外付けの階段を上がり、五つある扉の真ん中で立ち止まった。
「島守くんのお父さんは、なにをしてる人なんですか?」
「ん……まぁ……」
 口ごもりながら、遼はポケットから鍵を取り出して扉を開けた。
「真錠くん、覚悟しとけよ。マジで狭いし、クーラーもないから蒸し暑いぞ」
「は、はい……」
 遼はリューティガーを部屋に案内し、靴を脱ぐように促した。リューティガーは目を輝かせ、辺りを見渡しながら靴を脱ぐと、笑顔で彼を見上げた。
「確かに狭いですね!!」
「だろ? そっちが親父の部屋、こっちが俺の部屋。二部屋とも四畳半。真錠くんはどんな間取りなの?」
「僕の住んでるマンションは……もっと広いですよ」
「へぇ……クーラーは?」
「ありますよ」
「そっか……いいなぁ……今度遊びに行っていい?」
「ええ、ぜひぜひ!!」
 大きな声で返事をすると、リューティガーはハンカチを取り出し、額から噴き出る汗を拭った。遼は冷蔵庫に向かうと、中からオレンジジュースを取り出し、コップに注いで食卓に置いた。
「せめて、これでも」
「ありがとう!!」
 リューティガーは、嬉しそうにオレンジジュースに口をつけた。
「で……俺の部屋な」
 襖を開けた遼は、自分の部屋にリューティガーを招き入れた。
「なんにもないだろ」
「え、ええ……」
 家具も少ない室内を見渡したリューティガーは、コップのオレンジジュースを飲み干し、再び汗を拭った。
「テレビとかは……お父さんの部屋にあるんですか?」
「テレビか……テレビはないよ」
「へぇ? 日本の人って、一家に必ずテレビが一台はあるって聞きましたけど」
「座れよ……」
 遼に促されたリューティガーは、畳の床に正座をし、空になったコップを脇に置いた。
「テレビはあったんだよ。俺が小学校三年の頃までは……けど壊れちゃってさ」
「壊れた?」
「うん。なんか見てるときに、急に画面が映らなくなってさ。親父は怒って、俺が壊したなんて言い出したけど、ほんとに突然真っ黒になったんだぜ。画面が。壊してなんか、いないっつーの」
 不満そうにつぶやく遼に、リューティガーは小さく頷いて笑顔を向けた。
「また壊すからって、それ以来テレビは買ってないんだよ。パソコンもないからネットもできないし。ほんと俺、流行とかドラマとか全然わかんなくって」
「はぁ……だから島守くんは、休み時間になってもあんまり友達と話さないんですね?」
「話題が合わないんだよな」
「でもそれじゃ……家に帰ってから暇なんじゃないですか?」
「中学の頃はガリ勉やってた。おかげで、仁愛に入るのに苦労しなかったけど……」
「じゃあ……あれも?」
 リューティガーは立ち上がると、机の上に置かれた解剖図鑑に視線を落とした。
「あ? こ、これ!?」
 遼はあわてて机上の解剖図鑑を手に取り、それを背中に回した。
「すごいじゃないですか。医学を学んでるんですね!!」
「い、いやまぁ……その……」
「外科を目指してるんですか?」
 視界から解剖図鑑が消えてしまったため、リューティガーは遼の身体を覗き込むように身を屈めた。
「ち、ちがうよ……医者は目指してない」
「へぇ……でも勉強してるんですね」
「あ、ああ……結構読み込んでるんだぜ。そう……」
 遼は左手の親指でリューティガーのこめかみを指した。
「浅側頭動脈!」
「あは!!」
 リューティガーは、にこにこしながら自分のこめかみを押さえた。いきなりの奇行に笑顔で返された遼は、混乱しながら解剖図鑑を後ろ手で引き出しにしまった。図鑑を発端に、蜷河理佳との関係を詮索されるのがなんとなく面倒だった。せめて自分の意思で、この図鑑を勉強していると思わせたいためにとった突発的行動である。まさか、それに笑って応じられるとは。ドイツにはこういった類のジョークが存在するのだろうか。遼が警戒してリューティガーを注視すると、彼は何度か瞬きをして、一度大きく頷いた。
「浅側頭動脈は、最も攻撃しやすい人体の急所の一つ……なるほど、医学じゃなくって護身術を学んでるんですね?」
 リューティガーの突拍子もない指摘に、遼は首を突き出して口をぽかんと開けた。
「違うんですか?」
「ここって……急所なの?」
 自分のこめかみを指差し、遼はそう尋ねた。
「ええ。だって動脈ですよ。特に脳に近いから、ここを傷つけられるとあっと言う間です」
「ふ、ふぅん。じゃあ……ここは……?」
 今度は首筋を抑え、遼はリューティガーに目で促した。
「外形動脈……もちろん急所です」
「こ、ここと……ここに……ここは?」
「血管でいいんですよね……総頸動脈、下尺側側副動脈、総肝動脈かな? 全部急所になりますね」
 遼はリューティガーの返事に何度も首を傾げ、最後に自分の内太股を指差した。
「ここの血管は……? 足だけど」
「そこはちょうど……大腿動脈の辺りです……島守さん……なんで致命傷になる血管なんて勉強してるんです? やっぱり護身術なんでしょ?」
 動脈が人の命を左右する重大な血管であることは、拙い知識ながら遼もなんとなくは知っていた。解剖図鑑に印されていた二十八箇所の、大半が致命傷となる急所だったとは。そんな場所を、なぜ蜷河理佳は暗記させようとしているのだろう。彼は恐ろしい気持ちになり、それを紛らわしたいため別の疑問を口にした。
「護身術なんて知らないけど……真錠くんはやけに詳しいんだね」
「ええ……医学は……興味分野ですから……」
 だから蛙の死骸にも興味を示したのか。遼は返事をそう理解し、この転入生のことをできるだけ考えることで混乱から逃避を図ろうとした。すると襖がゆっくりと開かれ、父、島守貢が姿を現した。いきなりの登場に遼はうろたえてしまい、思わず机に寄りかかってしまった。
「なんだぁ? 遼、友達か?」
「お、親父……いつの間に帰ってきたんだよ?」
「いまさっき。今日は三万稼いできたぞぉ」
 貢は遼の部屋に入ると、リューティガーを興味深そうに観察した。
「はじめまして。リューティガー真錠です! 転入生です! おじゃましてます!!」
 元気のいいリューティガーの挨拶に貢は気圧され、唾をごくりと飲み込んだ。
「が、外人?」
「半分そうです。父は日本人で、母はドイツ人です」
「ひゃ、ひゃあ……」
 貢は激しく動揺し、遼と並ぶように机へ体重を預けた。
「遼は……ハーフの友達か? や、やるなぁ……」
「な、なにが“やるなぁ”だよ……」
「だってさ……ド、ドイツ? へぁ……会うのは初めてだよぉ……びっくりしたなぁ……」
「み、みっともないだろ……」
 父の激しい動揺に息子は情けなくなり、その薄い肩を掴んで机から引き剥がした。貢はぎこちない笑みを作ると、栗色の髪に何度も頭を下げた。
「こ、こいつ友達、少ないから。よろしくお願いします」
 なんてことを言い出すのか。遼は顔を顰め、父の背中を小突いた。
「あは! 僕の方こそ。島守くんに親切にしてもらって……嬉しくって……こちらこそよろしくお願いします!!」
「は、ははぁ……!!」
 差し伸べられた手を両手で握り締めると、貢はお辞儀を繰り返し、あまりにも情けない父の姿に遼は視線を逸らしてしまった。

9.
 期末試験前日になっても大して試験勉強をしてこなかったが、実際に答案用紙を目にした瞬間、自分の判断はそれほど間違っていないと遼は確信した。「この程度なら、それほど悲惨な結果にはならないだろう」と、そんな余裕を持ってシャープペンをいじる彼とは対照的に、左隣に座る神崎はるみは額から大量の汗を噴出し、小刻みに頭を震わせていた。

 試験は三日に亘り、最後の答案用紙が回収される際にも島守遼は両手を頭の後ろで組み、椅子に深々と腰掛けて右前の蜷河理佳の後姿を見つめる余裕があった。「期末試験が終わったら、どこか二人で遊びに行きたい」その言葉を頭の中で繰り返しながら、さて一体どこに遊びに行こうかと考えてみたが、気の利いたデート先など彼が知るはずもなく、「まぁ、渋谷でいいか」とぼんやり都会の街並みを想像し、彼は小さく顎を引いた。
 デート先はともかく、蜷河理佳に確かめなければいけないことがいくつかある。まず、彼女が自分に対してどのような感情を抱いているのか、そして、人体解剖図鑑を渡した意図、そこに書き込まれた二十八箇所の赤い印の大半が動脈という生命を左右する血管であることの意味。
 最後に、通し稽古の際、なぜ急に怖い目つきで神崎はるみとリューティガー真錠を睨み付けていたのか。
 全ては、自分と彼女との関係が曖昧で、気軽にコミュニケーションできないために生じた疑問である。もっと親密な関係であれば、疑問はざっくばらんに言葉にでき、納得のいく答えも得られるだろう。
「だめ……全然……うぇ……」
 左隣でそう漏らした神崎はるみは、憂鬱な表情で頬杖をつき、筆記道具を片付けていた。
 おそらく試験のヤマでも外したのだろう。彼女はあまり成績が良い方ではなく、仁愛にもギリギリの試験結果で入学できたと本人も言っていた。下手をすれば追試ということになるのだろうが、まあ自分には関係ない。せいぜい苦労してくれ。遼はちらりと横目で一瞥するだけだった。
「合川、あんたどうだった?」
 はるみは背後を振り返り、長身のクラスメイトにそう尋ねた。合川が「まぁまぁかな」と返事をすると、はるみは表情をさらに曇らせ、ため息をついた。

 ホームルームの後、遼は席を立ち教室から廊下に出た。明日から四日間の試験休みである。デートに行くならこのタイミングしかないだろう。そう判断した彼は下駄箱へ向かい、靴を履き替えている蜷河理佳へ向かって駆けた。
「蜷河さーん」
 遼の登場に蜷河理佳はうっすらと微笑み、切り揃えた前髪を掻き上げた。
「こないだ言ってた……遊びに行こうって……明日から試験休みだし……どうかな?」
「あ、うん……そうだね……じゃあ……」
 蜷河理佳は人差し指を下唇に当て、視線を天井に向けた。下駄箱にはグラウンドからの蝉の音が響き渡り、島守遼は左手で汗を拭った。
「明日……どうかな……?」
「う、うん」
 彼は何度も頷き、ポケットから生徒手帳とシャープペンを取り出した。
「時間は十時とかでいい? 場所は……渋谷なんてどうだろう?」
「渋谷、うんそうだね。いいよ」
 一方的な提案ではあったが、彼女は嫌な顔をすることなく快諾した。遼は鼓動が高鳴るのを自覚し、この段階までは事が上手く運んでいると確信し、すっかり舞い上がった。
「ハチ公前でいいかな。待ち合わせるの」
「うん。あ……そうだ……」
 蜷河理佳は学生鞄から白い携帯電話を取り出した。ストラップなどは何もついておらず、新品同様であるそれに遼は視線を向け、彼女の意図をそれとなく察知した。
「島守くんの番号、教えてくれる? そうしたら今すぐかけるから、私へはリダイヤルで……」
「あ、いや……ごめん……俺、携帯って持ってないんだよ」
「え? そうなの?」
「うん……そのうち買おうとは思ってるんだけど。だから、蜷河さんの番号だけ教えてくれる? なんかあったらこっちからかけるから……」
 蜷河理佳は携帯電話の液晶パネルを遼に向けた。そこに表示された番号を学生手帳に書き写した遼は、手に入れたささやかな個人情報に確かな充足感を得た。

 バス停で蜷河理佳と別れた島守遼は、蝉の音と照りつける陽光にうんざりしながらも足取りも軽やかに坂道を下っていた。
「島守くーん!!」
 呼び止められた声に聞き覚えがあったため、遼はすぐに足を止めて振り返った。栗毛色のカールした髪に縁なし眼鏡の少年、リューティガー真錠が手を振りながら駆けてくるのを認めると、少々うざったいと思いながらも彼は近くの電信柱に寄りかかった。
「はぁはぁはぁはぁ……と、島守くん」
 右手を膝に当て呼吸を整え、リューティガーは遼を見上げた。
「なんだ?」
「きょ、今日……僕の家に来ません?」
「え……今日か……?」
 リューティガーを家に招いた際、遼はそちらの家に遊びに行ってもいいか、なんとなくそうは言ったが、明日は蜷河理佳との初デートである。具体的にどうするか決めていないため、色々と準備もあるはずだ。誘われたタイミングの悪さに、彼は下唇を突き出した。
「今日は、ちょっとなぁ……」
「そうなんですか?」
 リューティガーは眉を上げ、目を細めてあからさまに残念そうな表情になった。どうやらこの転入生は、考えていることが素直に出てしまうタイプのようである。そう思った遼は、「準備と言っても結局はやることもないし、寄ったところで泊まりになることもないだろうから別にいいか」と、考えを軌道修正し、空を仰いだ。

 強い日差しが二人を焦がすように照りつけ、夕方になれば自分の部屋には強烈な西日が差し込む。夏の間、それを避け台所へ避難することも多いが、古い扇風機が一つだけの環境は劣悪である。初夏の気候は、遼の判断を更に後押ししていた。
「クーラー……あるんだっけ……」
 その問いに、リューティガーは力強く頷いた。やはりこいつは仔犬のようだ。遼は苦笑いを浮かべ、寄りかかっていた電柱から背中を離した。
「行くわ……真錠くんの家。このまま帰っても暑いだけだし」
 試験も午前中に終わっていて、まだまだ時間もある。夕方過ぎに帰宅できればいいだろう。遼は、軽い気持ちでそんな予定を立てていた。
 並んで歩く二人は坂を下りきり、別れ道を左に進んだ。
「真錠くんって池上線、使ってるの?」
「ええ。家が代々木って駅の近くなんです。だから……五反田で乗り換えるんですよ」
 “代々木”という地名を遼は最近耳にしたような気がしたが、それがいつどこでだったかまでは思い出せず、「こいつは渋谷区に住んでるのか。やっぱり金持ちなんだな」と、ありふれた結論に落ち着いていた。

 やはり都会だ。代々木駅に降りた島守遼は駅前の交差点と、林立する高層ビルを見上げてそんな感想を抱いた。交差点には人が溢れ、車の交通量も多く、交番も真新しい。自分の住む雪ヶ谷は同じ東京だというのにどこか寂れていて、こことは大違いである。
「この交差点超えて、坂を下って行くんです。そして電気屋さんの角を曲がってすぐのマンションですから……歩いて五分ぐらいです」
 リューティガーの説明に頷いた遼は交差点を二人で渡り、予備校のビルを見上げた。
「予備校みたいですね。街のあちこちにあるんですよ」
「知ってる。代々木ってそれで有名だから」
「あとあと、なんか、アニメーションの専門学校もあるんですよ」
「それは知らないなぁ……」
 坂道を下る最中、遼は自分よりやや年上の予備校生たちとすれ違った。自分は大学に進むことはなく、ましてやアニメーションの世界へ就職するはずもないため、この街とは今後も縁がないのだろう。彼はなんとなく、そんなことを考えていた。

 八階建ての、真新しそうな白い壁は日差しを反射して輝きを放っていた。その新築マンションの前で、リューティガーは立ち止まり無邪気な笑みを遼に向けた。
「新築? 家賃高そうだなぁ……」
 蔦の絡まった入り口の屋根を見上げ、遼は小さくため息をついた。自分のアパートの外壁にも同様に蔦が絡まっているが、あれは蔦が勝手に侵食し、大家も放っておいているだけである。しかしここのそれは、たぶんおしゃれな意図でわざとなんだろう。そう思うと、遼は蔦の緑が心なしか自分のアパートのものより、瑞々しい色をしているような気がしてきた。
「新築です。まだ入居者がほとんどいないんですよ」
 エレベーターに乗り込んだリューティガーは、最上階である“8”のボタンを押した。
「一番上の部屋なの?」
「はい。島守くんと同じです!」
「おいおい……うちは二階建ての二階だぞ」
「だから最上階でしょ?」
「そりゃまぁ……そういうことになるけど……」
 屈託のない笑みを向けるリューティガーに、遼は少しだけ辟易としてしまった。
 八階に到着しエレベーターから降りると、803と書かれたプレートのついた扉の前でリューティガーは鍵を取り出した。遼は扉の側に視線を向けたが、そこに「真錠」という表札はなく、これはアドバイスするべきだろうと思った。
「どうぞ! 僕の家へ!!」
 リューティガーに招かれ、遼は部屋に入った。先導する世帯主が靴を脱がずそのままダイニングキッチンに上がったため、遼は脱ごうとした挙動をあわてて止めた。
 そこは十畳ほどの広さがあり、アパートのそれよりずっと広く、調理道具も真新しいものばかりである。冷蔵庫も巨大な外国製で、その威容に遼は圧倒された。
「真錠くんって一人暮らしだっけ?」
「ええそうですよ」
「冷蔵庫……デカ過ぎじゃない?」
「ええ……中は空いてますよ。でも仕方ないんです。送られてきたのがこれだったんで……」
「そっか……まぁ、突っ返すのもなぁ……台所も広いし、邪魔にはならないもんな」
「こっちがトイレ、あっちがバスルーム、それで向こうが寝室で、ここが居間に使っている部屋です」
 てきぱきとした説明に頷きながら、遼は同じ高校生でも自分とリューティガーは住む世界が違うと強く実感し、「居間と寝室が別かぁ……」とつぶやいた。
「あ、そうだそうだ……」
 リューティガーは冷蔵庫を開けると缶入りのトマトジュースを二本取り出し、一本を遼に手渡した。
「トマトジュースしかないんで……」
「あ、ああ……」
 缶を受け取った遼は、それが輸入物であることに気づいた。
「じゃあこっちに」
 広い台所をゆっくり歩くと、リューティガーは扉を開け、遼を招いた。
「すぐ涼しくなりますから」
 エアコンのリモコンを手にしたリューティガーは、にっこりと微笑んだ。遼は開いた扉から部屋の中を見渡した。大きいソファが一つに、巨大な薄型テレビ、隅には黒い机とパソコンが設置されている。この十二畳ほどの広さの部屋が、リューティガーの言う居間なのだろう。遼はそう納得すると、このスペースだけで自分たち親子が暮らす二部屋の底面積を上回っていることに愕然とし、苦笑いを浮かべてトマトジュースの缶を開けた。
「座って下さい」
 リューティガーに促され、遼がソファに腰を下ろすと腰から身体がずるずると沈み込んでしまった。このままでは、ソファに全身が飲み込まれてしまうのではないか。遼は一瞬だけそんな愚にもつかない想像をしたが、適当なところで飲み込まれるのも止んだため、安心してエアコンの冷気に身を晒した。
「島守くんは、この部屋に来た最初の友達です」
 遼の隣に座ったリューティガーは、静かにそうつぶやいた。妙に感傷的な言葉である。そう思いながら、遼はなんとなく視線を逸らしてトマトジュースを飲み干した。
「これからいっぱい呼べばいいじゃん。川崎とか来たがるぜ」
 視線を戻した遼の軽口に、だがリューティガーは返事をせず、黙ったまま缶に口をつけていた。時々、この転入生はこうして返事をしないことがある。自分の日本語が上手く伝わっていないのか。遼は不思議そうに片眉をつり上げた。
「実は……今日は島守くんにお話がしたかったのです」
「話? 何の? 日本のこととか……質問?」
「いいえ。この国のことは父からよく聞かされていましたし、基本的なことは調査済みです」
 “調査済み”という言い方に、遼はひどく違和感を覚え、同時に不安にもなりつつあった。よく思い出せば、この部屋に入ってからリューティガーはいつもの無邪気な笑みを消している。相手の意図を図りかねている遼は、軽く腰を浮かせた。
「じゃ、じゃあ……悩み事? お、俺で相談に乗れるかなぁ?」
 リューティガーはトマトジュースの缶を両手で握り締め、隣に座る遼の目を見つめた。
「島守くんは、自分のことに気づいていますか?」
 単純な問いかけだったが、その言葉に含まれる意味はあまりに範囲が広い。唐突な質問に遼は眉を顰め、リューティガーへ向き直った。
「何言ってるんだよ。訳わかんないよ」
「やっぱり、気づいてはいないのですね」
 何かを確かめるような、そんなしっかりとした口調で、リューティガーはそうつぶやいた。
「だから、何をだよ? なんかお前、日本語の使い方、間違ってないか?」
 遼は語気を荒らげ、リューティガーに突っかかった。しかし彼は返事をせず、ソファから立ち上がると辺りを見渡した。その挙動も遼にとっては意味不明であり、彼の苛立ちは一層強くなろうとしていた。
「危ねぇよ。なんかお前、セミナーとか宗教とかやってんの? まさか薬?」
 その全てが外れであって欲しいと思いながら、彼はわざと崩した口調で問いかけた。
「確かに……危ない……こんなに……早いとは……予想外だ……」
 独り言のようなリューティガーのつぶやきに、遼の不快感は加速した。
「おいおい……頼むよ、マジで……なんなんだよ……」
 さっさとここから出て行った方がいいだろう。リューティガーの宙に浮いた視線を見た遼はそう思い、自分もソファから立ち上がった。
「島守くん……ごめんなさい。タイミングが最悪でした。本当に……」
 目を合わせず、リューティガーは生気のない表情でつぶやいた。
「みたいだな。なんかお前、病気っぽいもんな。俺、帰るわ」
 それなりに人間関係を積み重ねた友人であれば、異変に対して心配をすることもできる。しかし遼にとってリューティガーは、つい最近知り合ったばかりの転入生である。この奇異な発言や態度の原因がわからない以上、今日のところはさっさと家に帰るべきだ。そう判断した遼は部屋を出てダイニングキッチンに向かった。
「ちょっと待って!! 島守くん!!」
 リューティガーが遼を追いかけ、後ろからその肩を掴んだ。同時に、島守遼の脳裏にあるイメージが煌めいた。

 激しく揺れる巨大な顔面。それはドス黒く、獣のような牙からは赤い鮮血が滴り、光彩の無い瞳は白濁として、人の顔面ではなかった。

 あまりにも強烈なイメージに遼は恐怖に震え、獣のイメージを消してしまおうと頭を激しく振った。
 かつて、こんな獣の顔を一度だけ見たことがあるような気がする。脳裏に浮かんだイメージに奇妙な懐かしさを抱きながら、やはりそんなはずはないと恐怖で歯をがちがちと鳴らせ、遼は背後からの手を振り解き、何もかもから逃れるため扉を開けた。
「だめだ!! 遼!!」
 下の名前で呼ぶな、不愉快に感じた遼はリューティガーにそんな言葉をぶつけようとしたが、振り返ろうとする目の端に巨大な影が残った。
 扉を開けた先はマンションの廊下である。いったい何の影だろう。別の入居者だろうか。遼は確かめるため、そちらに向き直った。
 黒い影の正体は、人影であった。身長は二メートルを超え、隆々とした筋肉を黒いレザージャケットで覆っている。一見するとアメリカのプロレスラーの様な身体である。そう、“身体”だけなら。
「あ、うぁ……あ、あうあう……」
 来訪者の顔面を見上げた瞬間、遼は言葉にならないうめき声を上げ、無意識のうちに退いた。ドス黒く、毛で覆われた顔面。それは先ほどイメージで浮かんだものとまったく同様の、人ならざる獣そのものだった。マスクではない。この質感・存在感は本物の獣だ。獣面は咽を低く鳴らし、その音が遼の鼓膜を振動させ、猛獣の恐怖を想起させた。彼は退く途中キッチンの段差に躓き、尻餅をついてしまった。喉からの音にしても人間が出せる類のものではない。かつて動物園で見たライオンや虎と似すぎている。
 すると、遼の背後からリューティガーがゆっくりと姿を現した。彼は遼の傍で立ち止まると、ワイシャツの第一ボタンを外し、獣面を睨み付けた。尻餅をついたままの遼は、毅然とした態度で獣面と対峙する転入生を見上げ、思わず息を呑んだ。
「ごめんなさい島守くん。こんなことになってまって。もっと急ぐべきだった。全ては僕の判断ミスだ」
 謝罪の言葉を、リューティガーは獣面から視線を逸らさずにつぶやいた。意図はわかるが意味をまったく理解できない遼は、起こっている異常事態に混乱し、ただ震えるばかりであった。
 獣面が口を大きく開き、叫び声を上げた。あまりの音量に遼は耳を塞いだが、鼓膜の激震はあまり軽減されなかった。それはこれまでに聞いたことがないほど恐ろしい、獣の咆吼だった。
「真実は怒っている!! 真実は阻む者を許さない!!」
 その叫びが、リューティガーによるものか、獣面によるものか、思わず目を瞑ってしまった遼にはわからなかった。続いて彼の耳に聞こえてきたのは鈍い金属音であり、瞼を開くと眼前に栗色の髪がいっぱいに広がっていた。どうやらリューティガーは自分と獣面の間に割って入り、中腰の姿勢でいるらしい。状況を確認するためリューティガーの後頭部から視線を外した遼は、扉付近に相変わらず立つ獣面の両腕に、それぞれ黒く巨大な機関銃が握られていることに気づいた。しかし、その光景を論理的に理解できるはずもなかった彼はすっかり観念してしまい、自らの“最後”がこれではあまりにも情けないと悲しくなってしまった。そのようにすっかり諦めてしまえるほど、唐突に差し迫った死の危険はあまりにも現実的で、機関銃をモデルガンと疑う余裕も遼にはなかった。
「島守くん……これを……!!」
 背中を向けたまま、リューティガーは後ろ手で遼の腹に何かを押し付けた。遼はわけもわからずその物体を受け取り、スラックスのポケットにしまった。
「し、真錠……ど、どうなるんだよ……」
「危なくなったら浅側頭動脈を狙ってください!! 君にならできるはずです!! 強く破壊をイメージして、集中して、バルブがサポートしてくれます!! そして……」
 振り返ったリューティガーは、島守遼の両肩を強く掴んだ。彼は引きつりながらも微笑み、眼鏡越しに見える紺色の両目には涙が溢れていた。
「必ず迎えにきます!!」
 その言葉の直後、連続する乾いた銃声を遼は耳にした。しかし同時に意識は急激に深い闇へと昇り、彼が何かを認識することはできなくなってしまった。

10.
 ひどい揺れの中に島守遼はいた。全身は上下に揺さぶられ、側頭部は時折硬いものに打ち付けられ、身体中は熱く、胃液が逆流するような嘔吐感に見舞われ、つまりは最悪の気分である。ゆっくりと目を開けた彼は、眼前に黄土色をした壁のような何かが塞がっているのを認めた。揺れは相変わらず続いたが、頭を上げると打ち付けられる衝撃はなくなった。自分は何かの上で横になって寝ていて、その何かが揺れるために頭が痛めつけられたのだろう。状況をいったんそうまとめた彼は、身体をごろりと仰向けにしてみた。
 そこに見えたのは、青い空と白い雲だった。たぶん、ここは外なのだろう。ぼんやりと認識した遼はようやく上体を起こし、最初に見えた黄土色の何かを再確認するため右に向いた。どうやらこれは、金属に黄土色の着色を施した物体のようである。大きさは幅が身長よりも長く、高さは立った状態での腹まで程度で、奥行きはわからない。所々が黒く煤けていて、触れてみると焼けるように熱い。耳には、高音と低音が入り混じった走行音と、エンジンの作動音が同時に入ってくる。
 あぁ、つまり、俺は乗り物の上に乗っているんだ。少年はようやく事態を飲み込もうとしていた。そして、その認識は結果として彼をひどく困惑させた。
 ついさっきまで、自分はリューティガーのマンションにいたはずである。それがなぜ、こんな屋外で乗り物に揺られているのだろう。気を失った後、自分の身に一体何が起こったのか。遼は積極的に現状を確かめる必要があると思い、立ち上がろうとした。しかし揺れがひどく、結局腰を下ろそうとした彼は、黄土色の正体にようやく気づいた。

 巨大な黄土色のそれは、先に何メートルもある長い棒状の物が取り付けられていて、よく見ると自分の立つ床も同じ色で、あちこちが煤け、金属面が露出してる。

 ああ、これは戦車だ。俺は戦車の上にいる。この音はキャタピラだ。戦車なんてはじめてだ。

 苦笑いを浮かべた遼は、砲塔に寄りかかると頭を掻いてこう思った。

「でも、何故」と。

第二話「無邪気な笑み」おわり

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