真実の世界2d 遼とルディ
第三話「武力衝突地帯」

1.
 代々木の街は、熱気で歪んでいた。
 七月という季節のものだけではない。正午を過ぎた頃になると、駅前から続く歩道や細い路地には昼食を求める予備校生や会社員たちで溢れ返り、車道には新宿、原宿方面に向かう車が絶え間なく交差する。
 人々の体温や吐息、ひしめき合う車の排気ガスやエアコンの室外機から発せられる熱風。それらが七月の熱気に加算され、街の空気はすっかり淀みきっていた。その中をぼんやりと行く人々のはるか二十七メートル頭上で、乾いた火薬の炸裂音が連続した。しかしそれに関心を向ける者は皆無だった。熱と騒音にすっかり神経を消耗していた人々にとって、日中かすかに聞こえる炸裂音など僅かなノイズでしかない。そもそも街じゅうがノイズの塊のような首都だったから、ある程度以下の音量・周波数の音はノイズに入り混じり、誰も気に留めないただの日常として溶け込んでしまう。
 代々木パレロワイヤル。八階建て新築マンションの廊下は全ての窓が閉め切られていて、硝煙が逃げ場もなく立ち込めていた。

 金色の薬莢が、男の足元にいくつも散らばっていた。

 男の身長は二メートルを遥かに超え、身体の厚みや横幅は高さに相応しく、隆々としたその筋肉は黒い革製のジャケットに包まれている。
 
803号室の開け放たれた扉の傍で佇む彼をもし誰かが一見したら、七月なのに季節外れの服装をした巨漢である。まずはそう軽い疑問を抱くことだろう。更にその両手に、黒光りする機関銃が一挺ずつ握り締められているのに気づけば、一体何事が起きているのかと警戒するだろう。そして彼の顔が毛で覆われ、牙を剥き出しにした獣面であることをとうとう認識してしまえば、あまりにも非日常的な状況に困惑し、恐怖に陥るはずである。巨大な体躯・革のジャケット・二挺の機関銃・そして毛むくじゃらの獣面。後者二つが紛い物なら、映画の撮影と鼻で笑っただろう。だが機関銃から発射された弾丸は803号室のリビングをことごとく粉砕し、獣面からは強烈な動物臭を発し、浮き上がった血管は自然に脈打っていた。
 獣面は低く喉を鳴らし、硝煙を掻き分け、廊下から803号室に足を踏み入れようとしていた。
 ダイニングキッチンのテーブルと椅子は無残な木片と化し、毛足の長いマットは黒く煤け、男の身長と同じ高さがある冷蔵庫はあちこちに風穴を開けたまま沈黙し、壁は弾丸によって削られ、高級マンションの面影は既になかった。光彩の殆ど認められない白濁とした瞳を左右に動かした獣面はやがて視線を床に移し、鼻腔を膨らませた。
 彼の目的は血と肉の残照を確認することだったが、広い台所にそうした面影や残り香はなく、ようやく自身の銃撃が失敗したとわかった獣面は腰を低くし、両の人差し指を引き金にかけた。その指先も顔面と同様の黒く硬い毛で覆われ、彼はそれを震わせながら周囲を警戒した。
 訓練された兵士、もしくは狩りをする肉食獣のような神経の集中作業は、獣面の周囲にぴんと張り詰めた気配を形成しつつあった。おそらく今の彼は虫一匹の羽音でもその所在を正確に割り出し、より効果的な方法で命の振動を無に帰すことができるであろう。
 しかし、獣面のすぐ背後に一人の少年の姿があった。
 空気の振動を長く突き出た耳で察知した獣面は、その存在の出現があまりにも唐突で「近すぎた」ため、左手の機関銃を手放しながら、長く伸びた爪を振りかざし背後へと振り返ろうとした。
 それと同時に、火薬の炸裂音がダイニングキッチンに響いた。着弾から数瞬したのち、獣面の左肩が根元から破裂し、続いてもう一発の銃声の後、今度は右肩が吹き飛ばされた。
 両腕を肩から失った獣面は、巨大な体躯を屈しながらその場に崩れ、咆哮を上げた。
 獣の叫びは部屋中を震わせ、開いたままの扉からマンションの廊下へと突き抜けた。顎を床に着いた獣面は牙をがちがちと鳴らし、両肩から吹き出る鮮血を拭うこともできず、身体の中が冷たく軽くなっていく感覚に恐怖していた。
「まだ助かる。君たち獣人なら」
 獣面の顎先には白いスニーカーを履いた少年が佇んでいた。やがて鮮血が床に溢れ、その白い足先を朱に染めようとしていたが、彼は足を上げることなく、眉を顰めたまま獣面を見下ろしていた。その右手にはリボルバー式の拳銃が握られ、銃口は真っ直ぐに獣面の額を向いている。己の置かれた状況を把握した“獣人”と呼ばれた獣面は、歯を鳴らしながら光彩の無い瞳を銃口に向けた。
 獣人は拳銃を向ける者がつい先ほどまで、自分と対峙していた栗色の髪をした少年であることを確認した。身体はますます冷たく軽くなり、やがて無になるのだろうと悟った獣人だったが観念などできるはずもなく、訪れた結果にただ愕然としていた。
「そ、その銃で……俺の腕を……」
 消え入りそうなか細い声で、獣人は栗色の髪のリューティガー真錠(しんじょう)にそう尋ねた。彼は紺色の瞳を曇らせると、小さく頷いた。
「ただの弾丸じゃない。僕たちだって用意はしている……」
「“僕たち?”まさか……同盟なのか?」
「え……?」
 獣人の問いにリューティガーは瞳を見開き、何度か瞬きをした。
「でなければこんな物、日本の高校生が持ってるわけないだろ? 君は……誰の命令で、何の目的でここを襲いに来たんだ?」
「その質問に答えて……延命できるとわかっていても……無理だよなぁ……そいつは……」
 唇の右端を吊り上げ獣人はうんざりとした口調でつぶやくと、腰に力を入れ血の池で仰向けになった。ついさっきまでの愕然は消え、彼の様子はどこか落ち着いているよう感じられた。そして、リューティガーはやがて一つの推論を導いた。
「まさか……そうなのか……? 君は……君たちは……身体が……?」
 腰を屈め、何かを確かめようとしたリューティガーだったが、獣人は彼を見ようともせず、天井を見つめ続けていた。
「死にたく……ない……こんな……ここは……遠すぎる……俺は……指示以上のことは……ここにいる二人を殺せと指示され……他は……知らない……知らされていない……だから……たった……二人で……」 息も絶え絶えに、苦しそうにつぶやく獣人の口からは、赤い血が流れ落ちていた。リューティガーは容態の変化に戸惑いながらも、彼の分厚い胸板に手をかけようとした。
 その瞬間、獣人の巨大な体躯が血の池で跳ね、着地と同時に両腕の無い全身からぶすぶすと白い煙が立ち昇った。
 その場に尻餅をついてしまったリューティガーは、跳ね飛んできた獣人の血を拭のと同時に、煙に包まれた全身から細かく破裂する異音を察知した。破裂音は止むことなく連続し、やがて獣人の身体は身に着けていた衣類ごと所々が朽ち始め、亀裂の生じた革製のジャケットや肉の狭間からは緑色の泡が吹き出していた。
 拳銃を手にしたリューティガーが額の汗を拭いながら立ち上がる頃には、獣人の巨大な体躯はすっかり泡と化し、液体となったそれは大気へ蒸発しようとしていた。化学薬品と腐った屍の混ざり合った強烈な臭いに、たまらず鼻と口を手で塞いだリューティガーは、ようやく拳銃を流しに置き、換気扇のスイッチを入れた。ふと彼が視線を床に戻すと、獣人が手にしていた機関銃も煙を上げながら溶解を始め、床に血の池を形成していた大量の鮮血も蒸発を始めた。
 獣人の絶命からしばらくすると、彼が存在していたという痕跡は一切が煙と泡と化し、銃撃の爪痕だけが803号室に残った。
 床に座り込んだリューティガーは両膝を抱え込むと、ついさっきまで獣人が仰向けになっていた場所をじっと凝視し、時々頭を左右に振った。その表情は苦々しく、噛み締めた下唇にはうっすらと血が滲んでいた。
「リューティガーぼっちゃーん!!」
 どこか間の抜けた、イントネーションにクセのある中年男性の呼び声がリューティガーの鼓膜を振動させた。彼は慌てて立ち上がると、流しに置いた拳銃を再び手に取り呼吸を整えた。呼び声は開いたままになっている扉の外、つまりマンションの廊下から聴こえ、同時にエレベーターの扉が閉まる音と足音を、彼は的確に認識した。
「ぼっちゃーん!! 無事デスカー!?」
 次第にボリュームが大きくなる呼び声にリューティガーは気を引き締め、廊下側へ向き直ると両手で拳銃を構えた。
 真っ赤なTシャツを着込んだずんぐりとした体躯は手足が太く短く、顔も体型同様丸く、顎と首はそのまま一つの肉体を形成するほど弛み、目は吊り上がっていて眉毛は薄い。頭にフィットした丸い帽子からは、長い辮髪がぶらりとしていて、開けられた扉から姿を現した声の主は、どう見てもアジア系の中年男性のようである。リューティガーは一瞬その姿に躊躇したが、険を殺すことなく殺気を正面からぶつけることにした。
 ずんぐりとした男は突然向けられた銃口に身を引き、同時に両手を前に突き出して首を激しく左右に振った。
「あ、あわわわ!! ヤメテ、撃たないでヨぼっちゃん!!」
 マンションの廊下側の壁いっぱいまで退いた男は、額から大量の汗を噴き出しながら、両手で拳銃を構えたリューティガーにそう訴えた。男の挙動は、正に誤解を解こうとしている中年そのものであり、妙に震えた日本語のイントネーションも相まってリューティガーの緊張は急激に弛緩してしまった。しかしそれでも、彼は相変わらず銃口を下げることはなかった。
「馴れ馴れしいんですよあなた!! 坊ちゃんだなんて呼ばれる縁はありません!!」
持ち直したリューティガーの怒気にずんぐりした中年は遂に膝を廊下に着き、両指を組んでそれを前後に振った。
「わ、わたし同盟から来たネ! もうついさっき成田ヨ!! 追加戦力よ!! 中佐から聞いてるヨネ!?」
 中年の釈明にリューティガーは口を小さく開け、首を傾げた。
「中佐から……うん……二日前に……同盟から二人追加戦力を送るとは聞いてる……けど……それこそ二日前ですし……こんなに早く……? それに、あなたが?」
 尋ねながら、この男に一定の信頼を抱いても良いと確信したリューティガーは、ようやく銃口を下げ、同時に小さく身構えた。
「ソ! わたし陳 師培(チェン・シーペイ)同盟コードはC−20307。ぼっちゃんの身の回り世話するし、もう任務も手伝うネ! よろしく!!」
 細い目をより線にし、陳と名乗った中年男性は笑顔をリューティガーに向けた。彼のあまりに淀みがなく、それでいてふらふらした奇妙なイントネーションの日本語にリューティガーは小さく息を吐き、自分も笑顔を浮かべた。
「よろしく……陳(チェン)さん」
 その返事に何度も満足そうに頷いた陳は、壁際から離れると803号室の中を廊下から背伸びして見渡した。
「ひどいネー!! もうボロボロだね!! こりゃ、マシンガンね!? 銃声したし、何事かと思って慌てたけど、さすがぼっちゃん。もうやっつけたのネ? それとも逃げたのかナ?」
「襲撃者はヒラム型の獣人でした……泡化手術が施されていて……跡形もなく消えて……」
「そりゃ、手間省けていいネ! けど部屋は掃除しないとダメね!!」
 自分の脇からダイニングキッチンへ上がろうとする陳を、リューティガーは片手で軽く制した。
「待ってください……掃除はまだです……」
「どうして? 早く片付けないと、もうセールスマンでも来たら事ヨ?」
「まだ……もう一人います……彼は“二人で”と言っていました」
 陳は説明を聞くと肩を上下させ、下唇を突き出した。
「泡になるのに喋ったの? 無謀だネ。賭けてみたのかな?」
「無念だったからでしょう……とにかく、まだ安全ってわけじゃないんです。この建物のどこかに、敵が潜んでいる可能性が高いと思います……」
 笑顔を消し、真剣な表情を陳に向けたリューティガーだったが、丸顔の中年は意に介せず鼻歌交じりにダイニングキッチンへ上がった。緊張感が上手く伝わっていないと思ったリューティガーは視線を宙に泳がせ、状況をどう説明すればよいかと頭を振った。
「いいキッチンね! これなら腕によりをかけて料理作れるよ!! わたし、四川の料理人でもあるからネ! もう、ぼっちゃん一度わたしの食べたら、もう虜よ!!」
 弾痕の残る台所を見渡して、陳は興奮しながらその場で小躍りした。その様子を見ながらリューティガーは、陳のTシャツの背面に大きく丸で囲んだ「陳」という文字を発見し、なぜだか可笑しくなった。
「“もう”の使い方が間違ってますよ……陳(ちん)さん……」
 何とか相手のペースに飲まれないように努めて冷静につぶやくと、陳はくるりと振り返ってリューティガーの腰を何度か叩いた。
「“ちん”じゃなくて“チェン”ね!! ぼっちゃんこそ、もう間違ってるネ!!」
 陳の剣幕に気圧されたリューティガーは、「はぁ」と小さくため息をつき、頭を下げた。
「それにね。安心だよ。もう一人は下で相方がやっつけたから」
 何気ない陳の言葉にリューティガーの心は震え、気がつけば対面した丸い肩に両手を当てていた。陳はニヤリと微笑むと、「ふふん」と鼻を鳴らした。
「相方って……そうか……中佐は追加戦力を二人って言ってた……陳さんともう一人、同盟から派遣されてきたんですね!?」
「そ、わたしの相方。ちょっと気難しいけどなかなか強い奴ヨ。わたしたち成田からここまで来て、一階のロビーで怪しい白人見かけたね。わたしと相方、様子探ったね。男、武器持ってたね。無線機で話してたから、もうぼっちゃんピンチと思って、そいつ相方に任せてわたしこっちに駆けつけたね。エレベーター乗ってたら、相方から連絡きたよ。もうやっつけたってネ」
 陳は胸を張り自分の腰に両手を当て、誇らしげにそう語った。リューティガーは陳の着ているパンパンに張った真っ赤なTシャツの右胸部分にも、小さく丸く囲んだ「陳」という文字を見つけ、思わず噴き出しそうになってしまった。
「は、はぁ……そ、そうですか……あ、ありがとうございます……」
 笑いを堪えながらそうつぶやくリューティガーに、陳は何度も小刻みに頷き返した。
「じき相方も上がってくるね。たぶんいま、こっそり後片付け中よ。こっちもやらないとネ」
 脅威が去った。そう認識したリューティガーは大きく息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出した。
「陳さん……早速で悪いんですけど……事後処理をお任せします……ここは入居者も殆どまだですから……工作はそれほど手間じゃないと思います……」
 そう言って背中を向ける栗色の髪をした彼に、陳は腕を組んで不思議そうな目を向けた。
「もちろんヨ。けど、ぼっちゃんどこかいくのネ?」
「はい……友達を……探して来ます……」
「友達? ぼっちゃんもう友達できたのネ? さすがね!!」
「むこうは……どう思っているかわかりませんけどね……」
 寂しそうな笑顔を浮かべると、リューティガーは陳に向かって小さく左手を振った。その挙動の意味を理解した陳は、戸惑いながらも釣られて手を振り返したが、
「あいー……ぼっちゃん……どこヨ……」
 ダイニングキッチンからその姿は忽然と消え、後ろでまとめた陳の辮髪が、どこからともなく吹きつけた風に揺れた。

2.
 いくら七月になったとは言え、この日差しはないだろうと島守遼(とうもり りょう)はうんざりしていた。 頭上から容赦なしに照りつける太陽は、いつも見上げているそれよりずっと大きく感じ、降り注ぐ陽光は全身を強烈に熱していた。
 一体自分の身に何が起こったのだろう。目を覚ましてから数分が経過したものの、島守遼は考えをまとめることもできず、その原因が強すぎる日差しと、絶え間もなく揺れ続けるこの場所そのものにあると感じた。
 触ると火傷をしそうなほどに熱い鉄の床、背中に面した高さ一メートルほどの、やはり鉄製の塔、そこから伸びる長い棒、後ろへ流れていく風景、不規則に、小刻みに全身を震わせる振動とエンジン音、そして高音の入り混じった金属の摩擦音。たぶん、自分が今乗っているここは、戦車の上なのだろう。そんな結論に達することはできたものの、なぜ自衛隊の演習地に自分がいるのかと問われれば説明などできはしない。
 まず、自分の現在の状況を正確に把握するのが最優先だと島守遼は判断した。気を失うまでの出来事も強烈ではあったが、それを分析するのは後でもできる。そう思った彼はポケットに手を突っ込み、ハンカチを探そうとした。
 すると、硬く違和感のある手ごたえがポケットの中にあった。何が入っているのだろうと取り出してみると、それは野球のボールほどの大きさをした灰色の球体だった。これはリューティガー真錠が、「これを!!」との言葉と共に自分に押し付けてきた物体である。この球体を認識するということは、すなわち気を失う直前に遭遇したあの出来事に思考を向けてしまうことになる。見たこともない不思議な球体ではあったが、今はこれに気持ちを向けている場合ではないと思った遼は、再びポケットにしまい込み、ようやくハンカチを取り出した。
 右手にハンカチを巻き、背中に面する砲塔部分に肩を当てながら、ワイシャツ越しに焼けるほどの熱を遼は感じた。目を覚ました直後よりずっとこの砲塔は熱されている。車上の気温も上昇を続け、このままでは身体がもたないだろうと彼は少しだけ恐ろしくなった。激しい揺れの中、ずるずると腰を上げながら、一番布地の分厚いお尻を砲塔に押し付け、ハンカチを巻いた右手で縁を掴み、島守遼は「立ち上がる」というごく単純な動作をようやく完了した。なにせ座ったままの姿勢では砂埃で視界を遮られてしまい、今自分がどこにいるのかも把握できない。呼吸を整えながら、視界が上昇したことで集められる情報量が飛躍的に向上するだろうと期待し、遼は腰を砲塔に押し付けたまま辺りをぐるりと見渡した。
 砂埃越しに見える風景は、ただひたすらの荒地だった。振動に耐えながら目を凝らすと遥か彼方に斜面を見つけたが、それとて岩肌が露出し、視覚の範囲には草木一本見つけることはできなかった。直感的に、島守遼はここが日本ではないような気がした。そんなばかばかしい思いに首を振り、表情を歪ませた彼は天を仰ぎ、大きすぎる太陽に向かって大きく口を開いた。
 現状を把握するべきではあるが、どうにも頼りがない。見渡す限りの荒地は何の情報も島守遼に与えず、寒々とした気持ちのまま砲塔に寄りかかるしかなかった。
 自分の乗せられているこれを、もう少し観察しよう。そう思った遼は、舞い散る砂埃に口を押さえながら戦車後部へと視線を移した。すると、彼は最後尾部分で風に靡く旗を発見した。自衛隊の戦車だから、あれはたぶん日の丸なのだろう。それはごく当たり前の推理だったが、砂埃越しに見えるそれはどうやら違うようである。もっと注意して見ると、その旗は緑地に三日月と星が描かれていて、国連旗とも異なる単純な図柄だった。
 こんな国旗は見覚えがない。島守遼は口元をわなわなと歪ませなら視線を落とした。すると、彼は砲塔上面のハッチに白い手書きの文字を発見した。
 見覚えこそあるが、まったく理解できないミミズのうねった様な筆記体である。英語でもなければ無論、日本語でもない。
 考えるのを止めたくなった遼は、うんざりしながらぼんやりと辺りを眺めた。すると彼は、荒地の彼方に白く四角い小さな建物を発見した。壁のあちこちは崩れ、人が住んでいる気配もない。しかしあの真四角な建築物を、遼はかつてテレビのニュースや地理の教科書で見た覚えがある。
 ここはたぶん中東なのだろう。アラブ圏なのだろう。僅かな知識と直接目にした情報から、島守遼は一つの結論に達した。
 大きな振動が全身を揺さぶった。砲塔の縁から手を離してしまった遼は、無我夢中で側面に取り付けられた金属製の梯子を掴んだ。全体重が両肩に集中し、梯子の発する熱がハンカチを通して掌を焼いたが、振り落とされ地面に叩きつけられるよりはましだろうと彼は両目を瞑って我慢をした。一度の揺れの後、戦車は完全に停車したようであり、エンジンの規則的なアイドリング音だけが鼓膜を刺激していた。梯子にぶら下がり下半身を空間に投げ出してしまった遼は、足場を確認しながら戦車の「背中」に着地し、梯子から手を離して静かに座った。走行を止めた戦車の周囲には砂埃もなく、静止した荒涼なる大地が視界に広がった。
 遼はこの戦車が停車した理由を考えてみた。この戦車の乗員は、恐らく自分の存在に気づいていないのだろう。目が覚めてから十数分の出来事でその認識を強く持っていた。だとすれば、戦車は戦車なりの本来の事情で停車したはずである。何かの補給かともう一度辺りを見渡したが、施設など影も形もなく、何度見てもここはただの「荒地」である。何か嫌な予感を抱きつつ、島守遼はこの戦車から降りるべきかと考えた。
 すると、三十メートルほど離れた両側に、黄土色の戦車が一台ずつ停車した。遼は咄嗟に身体を低くしたが、たぶんこれは同じ軍隊の戦車なのだろうと、車間距離から推察していた。
 右側に停車した戦車の砲塔部分のハッチが開き、中から人影が姿を見せた。人影は何やらこちらの方を指差し、大きなアクションで足元、つまり戦車内に向かって叫んでいる。距離があるため、叫んでいる者の表情までは確認できなかったが、遼は異変を自分にとっていい方向には向かっていないのだろうと直感した。
 思考よりも先に、全身の細胞が反応した。慌てて戦車の「背中」から駆け下りた島守遼は、尻餅をつきながら荒れ果てた大地に転がった。すぐに頭を上げた彼は「自分が乗ってきたこれって、意外と大きいんだな」と思いながら両手を地面につき、立ち上がろうとした。
 金属音と同時に乗っていた戦車のハッチが開き、そこから髭面の男が顔を出した。恐らく、右側の戦車が通信でもしたのだろう。男は彫りが深く、青い目をした色黒の外国人だった。たぶんアラブ系なのだろうと、遼は自分のこれまでの予想が間違っていないと確信した。
 男はこちらに向かって何やら叫んでいるようだったが、早口の上、聞き取ることはできなかった。遼はようやく立ち上がると、戦車後部に向かって駆け出した。背中から男の叫び声が聴こえ、一瞬躊躇したが次の瞬間彼が知覚したのは、甲高いロケット花火のような軌道音と、炸裂音、そして背後からの熱と衝撃だった。
 空気の塊が島守遼の背中を勢い良く押し、彼は地面に転んでしまった。口の中に入った砂を吐きながら全身を震わせながら仰向けに転がると、鼓膜の許容量を超えた炸裂音のため耳は遠くなり、転んだ際に強く両膝を打ったせいか、蛙のように股が開いたまま閉じることができず、無防備な体勢は彼の不安を増大させる一方だった。
 ようやく頭を上げた遼は、自分が乗っていた戦車が煙を上げているのを目撃した。先ほどまで体重を預けていたはずの砲塔部分は存在せず、平らな車体の中央は炎上している。おそらく、攻撃を受けて砲塔が吹き飛ばされたのだろう。目で見た光景をそう理解するのは単純な行為ではあったが、なぜ自分がそんな状況に立ち会っているのかは推察のしようもなかった。とにかくここは危険である。ここにいれば自分は死ぬ。そう判断した遼は身体をなんとかうつ伏せにし、激痛を堪えながら両膝を立て四つん這いになった。
 断末魔の悲鳴が背後から浴びせかけられた。振り向くべきなのだろうか、そう迷いながらも結局は頭を後ろへ向ける遼の目に飛び込んできたのは、戦車の中からもがき苦しみながら外へ出ようとする、炎に包まれた兵士の姿だった。
 人が炎に包まれる光景は、島守遼もパニック映画等で見たことがある。しかしあれはスタントマンの覚悟による仕事であり、炎を消すため地面に転がる現実のそれは、動きももっと素早く必死である。叫び声は絶え間なく虚空に響き渡り、それとは無関係に、あちこちから連続した銃声と鉛弾が金属に跳ね返る音、戦車のキャタピラ音が砂煙に混じり交錯した。
 車が移動する目的は二つである。行くか、帰るかだ。戦車が帰るべきは自陣営であり、行くべきは敵陣営である。自分が乗っていた戦車は正にその敵陣営、すなわち戦場へと向かっていたのだろう。ここは戦場の只中である。島守遼は鼻を鳴らし、涙を流しながら、赤子のようなたどたどしい挙動でこの砂埃の中から生きようと懸命だった。
 金属と火薬、そして絶叫の中に、獣の咆哮のような声を遼は耳にした。音の混ざり合った末の偶然なのか。それはこの現場において、何か違和感のある美しい響きだった。
 気がつけば、彼の学生ズボンは体液で濡れ、雫が地面を濡らしていた。
 失禁など、記憶も定かではない幼少期以来のことであろう。だが、恥ずかしさを遥かに上回る死の恐怖が、遼の意識と肉体を支配していた。

3.
 オーストリア共和国、ザルツブルク市。人口二十万人ほどの小さな都市であり、ザルツァッハ川を境に新市街と旧市街の二つのエリアに大別されている。旧市街はかつて司教区として栄え、二十一世紀の現在も中世の街並みを残したままであり、大聖堂や古城が観光名所として知られていた。
 まだ陽も昇りきらない薄暗く誰もいない石畳の路地に、リューティガー真錠は姿を現した。その周囲には突風が吹き、彼は焦燥しきった青白い顔で息を切らしていた。
 壁に片手をつき、リューティガーは眼鏡をかけ直した。何度も頭を振りながら瞬きをする彼の表情にはやがて生気が戻り、ゆっくりとした足取りで路地から大通りへと出た。
 大通りは教会に面していて、朝になると青空市が開かれるのだが、街はまだ眠ったままであり、街路にも老人の姿が幾人か見えるだけである。リューティガーは歩道を進みながら、やがて駆け足になり、最後は全力疾走で街外れへ向かった。
 市街から出たリューティガーは、坂道を駆け上りながらその先を見上げた。小高い丘の頂上付近には低い木々で構成された林があり、その奥に明灰色をした石造りの巨大な建物が姿を現した。
 ザルツブルクにはホーエンザルツブルク城という観光名所があり、彼の目の前に広がろうとしていたその建物は、十一世紀後半に建築された古城とそっくりの外観をもつ、だが半分ほどの大きさにスケールダウンされた“城”である。
 1970年代中期、外資系企業がザルツブルク市の余剰地を有効活用しようとレジャーランドの建設を開始したのだが、その計画は資金不足と古い街並みを維持しようとする市民運動によって中断してしまう。この城はその計画の残照であり、市民は企業開発の失敗の見本として、ミニサイズのできの悪い子供とも言うべきこの城を嘲笑の対象としている。現在は建設した企業の資材置き場としてひっそりと使用されていて、あと数年もすれば植樹された防風林に全体が覆われ、市民の目から完全に姿を隠すことになるであろう。
 スケールダウンとは言え正門の高さは三メートルを超え、それを見上げるリューティガーの姿はちっぽけである。彼は開いたままになっている門をくぐり抜けると、真っ先に城の南側へと向かい、城へ面したある扉の前で立ち止まった。
 ワイシャツの第一ボタンをとめると、リューティガーは深呼吸して朝露の混じった冷たい空気で肺を満たした。眼鏡をかけ直した彼は、ポケットから一枚のカードを取り出すと、それを扉の脇に設置されたインターフォンの裏側、つまり壁とインターフォンの間に突き刺した。
 しばらくして、鍵の外れる音が小さく鳴った。リューティガーは大きなドアノブに手をかけると、全身に力を込め重い木製の扉を開き、城の中へと入っていった。

「ルディ。君が本部に来る用事、私には解りかねるのだが」
 城の一角、朝の日差しも入ることがない密室にその男はいた。男は190センチを超える長身であり、分厚い体躯から静かなる威圧を入室したリューティガーへ発していた。黒いスーツの下には浅黄色のワイシャツを着込んでいるがネクタイは着用していない。短く刈り込んだ黒髪に浅黒い肌、鋭い眼光。美丈夫と形容していい中年男性ではあったが、意の強さが強烈過ぎ、初対面の者は美よりも先に恐れを抱くことであろう。
 執務用の重厚な机の前で佇む男に、だがリューティガーは一歩も怯むことなく、険を込めた視線を向け続けていた。
「何も……起きてはいないのですね。ここはいつも通りということなのですね」
 できるだけ低い声で対面する男にそう尋ねると、男は背後の執務机に右手を乗せ、横目でリューティガーを睨み付けた。
「いつもの夜明けだよ。ああ。変わりなどない」
 男の返事に小さく頷いたリューティガーは、両の拳を握りつめた。
「地下の情報センターを使わせていただきます。よろしいですね」
「構わないが……」
 小さくつぶやくと、男は唇の両端を吊り上げた。
「事情ぐらいは説明して欲しいものだな。任務中の者が本部に来るなど、あってはならないはずだが」
 男の言葉はゆっくりとした英国式の英語だが、声色には嘲笑の色が含まれていた。リューティガーは顎を引くと、より強い意を男へと向けた。
「瞬移は規定通り市内で果たしています。つけられた形跡もありません。本部への迷惑はかけていないつもりです。それに、これは作戦遂行上の非常事態です。説明が遅くなって、その点はお詫びします中佐」
 中佐、と呼ばれた浅黒い肌の持ち主はようやく全身をリューティガーに向け、白い歯を見せて微笑んだ。
「ああ、そういう建前が欲しかったのだよ。後で報告書は送ってくれよ。センターの機材は好きに使うといい。ただし、人員は貸せんぞ」
「ありがとうございます。中佐」
 謝意を言葉にしたリューティガーだが、その表情は相変わらず険しく、中佐の様子は対照的なまでにすっかり柔らかく変化していた。
「陳と健太郎とは合流したのか? 二人とも、そろそろそちらに到着した頃合いだが」
 リューティガーは、マンションで出会った陳の丸々とした体躯を思い出した。
「陳という人とは会いました。健太郎という人はまだです……この前連絡にあった追加戦力ですよね?」
「そうだ。もうこれ以上はこの作戦に人員を割くことはできん。三人で任務を遂行しろよ。そして、場合によっては例の調査結果をもとに現地採用しても構わん」
「この非常事態も……その現地採用の結果です……」
 苦々しくつぶやくと、リューティガーは中佐に背を向け、彼の執務室を後にした。中佐は扉の閉ざされる重い音を耳にしながら、顎に右手を当てて口を小さく開けた。

4.
 砂埃にまみれ、汗を吸い込みきったワイシャツを脱ぐと、島守遼はそれを肩に掛け、ランニング姿で灼熱の荒野を歩いていた。
  既に一時間以上は歩いただろうか、遼はただひたすらに、戦車のキャタピラ跡を頼りに炎天下を進むしかなかった。
 先ほどまで鼓膜を振動させ、彼に恐怖を与え続けていた爆発や銃声、そして断末魔の叫び声もすっかり消え、周囲はまったくの静寂に包まれていた。
「俺は、リューティガー真錠のマンションに行って……そこであいつ……変なこと言い出して……帰ろうとした……そしたら……化け物が銃を持って入ってきて……あいつ……俺にボールを渡して……迎えに来るって言って……泣いてて……気がつけば戦車の上にいた……」
 他にすることもないので、あえて言葉に出して気がつくまでの状況を口にしてみたが、あまりの脈絡のなさに気は滅入るばかりで、痛打した両膝の痛みも相まってか、足取りは急激に重くなっていた。
 それにしても、なんという暑さと日差しだろう。容赦なしに照りつける太陽が体内の水分を蒸発させ、このままあと数時間もすれば自分は干からびてしまうのではないのかと、遼はそんな悲惨な結果に思いをめぐらせた。最後に摂った水分は、リューティガーの部屋で飲んだトマトジュースであり、粘性の高いそれは余計に液体への渇望をもたらす。口の中にはあの生々しい酸っぱさが残っていて、そこで初めて、島守遼は転入生の部屋で起きた出来事から、まだそれほど時間が経ってはいないかも知れないとの考えに至った。
 しかし、ここは恐らくアラブ圏のどこかである。気を失った後、例えばあの化け物に拉致されたとして、それからいろいろあってここに運ばれたと仮定しても、かなりの時間が経過しているはずである。そう思った遼は、自分の顎に手を当ててみた。今朝髭を剃ったばかりの顎はまだすべすべとした触感があり、有り得るはずもないがやはり時間はそれほど経っていないと、矛盾した結論に達していた。
 時計でもあれば、せめて時間を確認することができる。しかし島守遼はここ数年、腕時計を身に着けたことがなかった。
 彼は小学生高学年の頃、父に腕時計をプレゼントしてもらった。時計を身につけるのは何やら大人になったような気分がし、数千円の安物ではあったが、息子はその贈り物を気に入っていた。しかしある遠足の日、寝坊をしてしまい小学校まで時間を確認しながら、焦りに焦って通学路を駆けている最中、そのデジタル式の腕時計は突然動くことを止め、液晶部分は暗灰色のままとなってしまった。安物だけに故障でもしたのだろうと思った遼だったが、彼の父島守貢(とうもり みつぐ)は「壊しちまったのか!?」と驚き、それ以来彼が腕時計を手に入れる機会は訪れなかった。
 その父とも、果たして再び出会える日がくるのか。額から流れ落ちる汗はやがて眉を通過し、涙と合流して顎から滴り落ちた。
 まだ、あの戦場での轟音が耳に残っている。直視こそしていないが、たぶんあそこで何人もの兵士が死んだのだろう。もし逃げ出す方角を間違っていれば、自分も銃弾に貫かれたか、業火に焼かれ命を落としていただろう。無我夢中での本能的な判断だったが、幸運にも彼は命をつないでいる。
 だが、それもあと数時間のことである。島守遼は気力も体力も使い果たし、遂にその場へうつ伏せに倒れこんだ。
 地面までもが熱を発していて、ランニングから露出した肌を焼こうとしている。誰もいないこんな場所で死んでしまうのは悲しかったが、このまま目を閉じて意識を失えば苦しみも少ないだろう。せめて最後は楽にいきたいと、島守遼はできるだけあがくことなく、穏やかな精神を取り戻そうとした。
 沈み込む意識の底で、遼はある人影と遭遇した。
 白い肌、どこまでも漆黒の腰まで伸びた長い髪。涼やかでいて儚げで、うっすらと微笑むその少女に、彼の意識は強く揺さぶられた。

 蜷河理佳(になかわ りか)が明日十時、渋谷のハチ公前で待っている。いかなきゃ。

 そんな単純で明確な想いが意識を覚醒させ、活動を再開した聴覚が異音を拾った。あれは車の走行音なのだろう。そう思った遼は全身の力を振り絞り、上体をゆっくりと起こすと右手に握り締めたワイシャツを大きく振った。
 汗の飛沫が乾いた背中を少しだけ湿らせた。

「日本人かよ? 嘘だろ?」
 運転席の男はサングラス越しに助手席の遼をまじまじと眺め、そう毒づいた。カラフルな極彩色のアロハシャツの胸元からは剛毛が姿を覗かせ、禿げ上がった頭とは対照的だなと、朦朧とした意識の中で遼は感じた。
「脱水気味だな。とりあえず飲めよ」
 車を運転しながら、男は脇からペットボトルを取り出すと、それを遼に手渡した。
「足りなかったら後部座席にあるから。とにかく早く水分補給をしないとな」
「うう、ああ……」
 遼はうめき声を漏らしながら、両手でペットボトルを掴むとその中身を一気に飲み干した。その様子を横目で見ながらアロハシャツの男はニヤリと微笑み、胸ポケットから日本産の煙草を取り出して咥えた。
 生温い混ざり気のない水が、全身に染み渡った。身体の活性を感じながら、冷房の効いている揺れた車内で遼は自らの“生”を実感していた。
「た、助かりましたぁ……あなたの四駆が来てくれて……ほんと……俺……」
 助手席のシートに身体を沈み込ませながら、遼は運転する男に礼を言った。男は薄い眉毛を上下させると、少しだけ出っ張った腹を摩り、最後に半ズボンからはみ出た体毛だらけの脛を掻いた。
「俺はジョージ長柄(ながら)職業はジャーナリストだ。もう一年ほど、ここで取材を続けている。今日もな、正規軍の戦車がゲリラ狩りに出るって聞いたから、グワダルからこいつをすっ飛ばしてきたんだ」
 詳しい名乗りは、たぶんこちらにも同等の返答を期待するという意味があるのだろう。ようやく意識が明確になろうとしていた遼は、長柄と名乗った男の言葉をそう受け止めた。
「俺は島守遼……仁愛高校の一年B組で……東京に住んでて……」
「なんでこんなところに一人でいたんだ?」
 正直に自分のわかっていることを話したところで、とてもではないが信じてもらえるわけがない。長柄の問いは極めてシンプルではあったが、それだけに遼としては答えようもなかった。
「劣化ウラン弾の実態でも調べに来たのか? 高校生。だけどこの辺りはそんじょそこらの戦地とは違う、毎朝毎晩ドンパチやってる武力衝突地帯なんだぜ」
 劣化ウラン弾という単語を遼は初めて聞いたが、その後に続いたこの土地の状況については数時間前身をもって実感しているのでよく理解できた。彼は小さく頷くと、窓の外を流れる景色へ視線を移した。
「ごめんなさい。僕にもうまく説明できない……気がついたら戦車の上にいて……」
「戦車? 正規軍のか? 大人をばかにするもんじゃあない」
「本当なんです。その前まで、俺は東京にいたんだ」
 視線をこちらに向けず、じっと車窓の外を見つめる遼の後頭部を横目で見ながら、長柄は咥えていた煙草に火をつけた。
「戦車の砲塔って言うんですか? それが吹っ飛ばされて……人が……燃えてて……まだ悲鳴が耳に残ってて……」
 遼がぐったりとした声色でそうつぶやくと、長柄は煙を吐き出しながら、深いため息を漏らした。なるほど、初めて遭遇した戦場にこの若造はショック症状でも引き起こしたのだろう。どうやって現場までたどり着いたのか、それだけが強烈な疑問ではあったが彼は遼の事情をひとまずそう理解した。
「ジョージさん? ここは、どこなんですか? たぶんアラブ圏だと思うんだけど」
 ようやく長柄へ顔を向けた遼は、涙ぐみながらそう尋ねた。一瞬からかわれているのかと思った長柄だったが、やがて苦笑いを浮かべると右手で火のついた煙草を摘んだ。
「ここはバルチスタン。パキスタンの高原地帯だ」
「パキスタン? そうか……そんなに遠くに……」
「おいおい、いいかげんにしてくれよな。商売柄嘘や冗談にゃ慣れてるが、度が過ぎると俺だって怒るぞ」
 口元の笑みこそ消えてはいなかったが、長柄の声には険が込められていた。遼はびくりとすると、再び視線を窓の外へと向けた。周囲はまったくの荒地であり、車がどこへ向かっているのかも判断できないことに気付くと、ふと不安になった。
「ジョージさんは……どこに何をしに?」
「俺か? ゲリラ狩りの現場を撮りに行くんだよ。通信支局がいい値で買ってくれるんだ」
 この車はあの戦場へ向かっている。長柄の言葉に、遼は戦慄を覚え震えながら振り返った。
「じゃ、じゃあ……あの現場に行くのか……?」
「おうよ。もちろんドンパチに巻き込まれないようにはするさ。まぁ……それも運次第だけどな」
「や、やめましょうよ……あ、あんなとこ……冗談じゃない……」
「そうはいかねぇよ。これが俺の目下のシノギなんだ。取材には何かと金がかかってな。俺みたいなフリーは少々危険でも、こうして稼がないといけねぇんだよ」
 言葉こそ強気だったが長柄の声はどこか震えていて、遼の不安は増すばかりである。しかし、ここで車を降りたところでどうしようもない。この灼熱の大地を歩き続けるなどそれこそ不可能であると思い、彼は両手で頭を抱えた。
「写真撮ったら、グワダルに戻る。そうしたら宿に戻れるだろ? どこに泊まってるんだ?」
 そう問われた遼は返事をすることもできず、ただ頭を抱えて震えていた。戦闘が既に終わっていれば危険は少なく、事実あれから数時間が経過しているためその可能性は高い。しかし轟音と炎の記憶は遼を恐怖で震えさせ、彼はまともな判断ができる状態ではなかった。
 不安と恐怖の中、遼の耳に高い電子音が聞こえてきた。
「なんのアラームだ?」
 運転していた長柄はブレーキを踏んで車を停めると、うずくまる同行者の背中を凝視した。音の発生源が自分のズボンのポケットにあることに気がついた遼は、眉を顰めたまま金属製の球体を取り出した。
「なんだそれ? 目覚まし時計か?」
 遼の手にした金属球を長柄は不思議そうに覗き込んだ。金属球からは相変わらず小さな電子音が狭い車内に鳴り響いていた。
「と、友達からもらったんだ……俺にも……何やらさっぱりで……」
 遼は金属球をよく眺めてみた。灰色のそれは中央部に継ぎ目があり、側面には小さな文字で「茨10号型」と印刷されていた。耳障りな音を消そうにも、どこにもスイッチと思しき部品は見当たらず、彼が途方に暮れているとやがて音はぴたりと鳴り止んだ。
「茨……ねぇ……」
 まるで心当たりでもあるかのように、長柄は分厚い下唇を突き出してそうつぶやいた。遼は長柄に顔を向けると首を傾げて瞬きをした。
「まさかなぁ……いや……どうなんだ……少年、それをちょっと貸してくれないか?」
 このジョージ長柄というジャーナリストは何かを知っているのだろうか、だとすればまったく不明瞭なこの事態に何らかの光明が差し込むかも知れない。そう判断した遼は、すがるような思いで長柄に金属球を手渡した。
 金属球を手にした長柄は様々な角度からそれを観察し、時々指でつついたりもした。
「中から作動音はしているけど……わからねぇな……なんの機械だか……説明はされたのか?」
「いや……どさくさで渡されて……」
「誰からもらったんだ?」
「リューティガー真錠っていう、ドイツからの転入生です」
「ふーん……」
 長柄は生返事をすると、遼に金属球を返した。
「茨ってな、そんな名前は珍しいだろ」
「名前……? 名前なんですか? 人の?」
「ああ、科学者でな。知ってる奴ぁ少ないが……俺もちょっとだけ聞いたことがある。その博士と関係あるのかなぁ……それ」
「どんな科学者なんです?」
 遼はこの金属球にまつわる情報であれば、少しでもいいから知っておきたかった。長柄は唾をごくりと飲み込むとサングラスをはずし、それを胸ポケットに差し込んだ。
「薬品関係だ。経営者だった時代もある。代々木に茨製薬っての……少年の歳じゃ、もう知らねぇか……」
 代々木、という地名に遼の好奇心は強く刺激された。しかしその強い意をかわすように、意外とつぶらな瞳の長柄は後部座席へ振り返った。
「長い付き合いになりそうだな、少年……もしそれが例のバルブだったら、俺の仕事とも縁がないわけじゃあない」
 後部座席に上半身を滑り込ませた長柄は、そうつぶやきながらごそごそと何かを探し始めた。
「ジョージさん……あなたは……何を調べてるんだ……? 取材って……」
 疑念と関心が入り混じりながら、遼は背中を向けたままの長柄にそう尋ねた。しかし返事もなく、彼はひたすら後部座席で何かを探していた。
「くそ! 俺としたことが!! 慌ててた!!」
「ど、どうしたんだ……? ジョージさん?」
「てめぇ!! さっきの水、全部飲んじまったか?」
 運転席に上半身を戻しながら、長柄は怒鳴りつけた。遼は空になったペットボトルを座席の脇から取り出すと、それを振って見せた。
「ぐぁ……空っぽかよ……」
「ご、ごめん……ついつい……」
「予備を積み忘れた……くそ……!!」
 舌打ちをしながら、長柄は短くなった煙草を灰皿にこすり付け、ステアリングとギアに手をかけた。
「お、俺なら……大丈夫……さっきので平気ですから……」
「だめだ……どうやったって、写真撮ってグワダルに戻るにゃ夕方までかかる……水無しじゃもたねぇよ……」
 自分のミスを呪いつつ、長柄は車を発進させ、ステアリングを大きく右に切った。
「街に戻るの!?」
 期待を込めながら遼はそう叫んだ。しかし長柄は首を大きく横に振りながら、サングラスを再びかけた。
「民家に水を買いに行く、飛ばせばここから三十分の距離だ」
 長柄の言葉に遼はうな垂れ、視線を股間へと落とした。
 濡れていたズボンはいつの間にか乾いていたが、鼻をつく悪臭が彼の気分を落ち込ませていた。

5.
 ザルツブルク市郊外にひっそりと建つ、歴史無き城。その地下二階にリューティガー真錠の姿があった。情報収集センターと英語で書かれたプレートの中の施設は小さなホールほどの広さがあり、傾斜のついた床と最も離れた最下部の床から天井までの高さは四メートルを超える。だが薄暗く、所狭しと設置された各種端末により、彼がその広さを実感することはこれまでなかった。
 センター内には十名ほどの職員が各々の端末と向き合い、皆落ち着いた様子でモニタを見つめていた。入室してきたリューティガーへちらりと視線を向ける者も数名いたが、それも数瞬のことであり、彼が会釈をしながら部屋の奥へ歩いていく頃には、再びモニタへと注意を戻していた。
 傾斜の最高位置、つまり天井まで最も近い部屋の奥までやってきたリューティガーは、ある机の前で立ち止まった。
「ご無沙汰しています。リューティガー真錠です。空いている端末を使わせていただきたくお願いに参りました」
 机の主である紺色のスーツを着た初老の男性に向かい、彼は深々と頭を下げた。
「ああ。中佐から連絡は受けている。右前の空いている奴を使ってくれ」
 モニタへ向かい、右手にマウスを握っているその男は、リューティガーへ視線を向けることなく淡々とした口調でそうつぶやいた。
「ありがとうございます」
 もう一度頭を下げたリューティガーは、小走りにセンターのゆるやかな斜面を下り、部屋の前方隅に設置された端末へ向かった。
「ひさしぶり」
 端末の左隣の席で仕事をしていた金髪の若い女性が、モニタから視線を逸らさぬまま、椅子へ腰掛けるリューティガーに小さな声で話しかけた。
「ヘイゼル? まだこのセンターだったの?」
 ヘイゼル、と呼ばれた女性は、正面を向いたままこくりと頷いた。
「異動願いは却下されたの。私もあなたみたいに外の任務がしてみたいわ」
 低い声でヘイゼルはつぶやくと、横目でリューティガーを見た。
「ここは安全だよ。外は危険が多すぎる。さっきだって死にかけた……」
 リューティガーは素早く端末を操作しながらヘイゼルにそう返し、小さくため息をついた。
「どうして戻ってきたの? 非常事態?」
「ああ。現地で協力者……って言っても、まだ協力を要請する前だったけど、その彼と接触中に襲撃を受けた」
 互いに視線を交わさぬまま小声で話し続けるリューティガーとヘイゼルであり、二人の指はキーボードを高速で叩き、視線はモニタの表示を追い続けていた。薄暗いセンター内では二人の会話に触発されたのか、あちこちで同様の話し声がキーボードを叩く音と混ざり合い、散漫な空気が作られようとしていた。
「いきなりだった……だから……僕は……彼を跳ばしてしまった」
 悔しそうにつぶやくその言葉にヘイゼルは細い眉を上げ、名前と同じ色をした小さな目を何度も瞬かせた。
「ど、どこに飛ばしたの?」
「わからない。安全な場所って想いを込めたから……てっきりここに跳ばしたと思ってきたんだ……けど……彼はいなかった……だからこれを借りに来たんだ」
「衛星追尾をやるのね? 何か持ってるの、その彼?」
ヘイゼルは端末に向かったままのリューティガーにすっかり向き直っていて、彼の操作を興味深そうに観察していた。その背後で仕事をしていた女性も、腰を浮かせて様子を窺っていて、散漫としていたセンターの者たちの注目は、最前列に座る若き彼に向けられようとしていた。
 そんな中、一番奥で端末に向かう紺色のスーツを着た男だけは、リューティガーや手を止めているオペレーターたちに気を留めることなく、ただひたすら自分の仕事を処理し続けていた。
 リューティガーの前に設置された15インチの液晶モニタには地図が表示されていたが、彼の素早く手慣れたキーボード操作によって、目まぐるしくその内容が切り替わった。やがて画面にはインダス川周辺の地図と「目標確認」という英字が表示され、激しい切り替わりは終息した。リューティガーは小さく、だが力強く「あった」とつぶやき、マウスをのカーソルをある高原地帯に合わせた。
「バルチスタン高原? あのバルチ?」
 モニタを覗き込んでいたヘイゼルがそう尋ねたが、リューティガーは返事をすることなく眉間に皺を寄せたまま席を立ち、出口へと向かった。
 ヘイゼルは視線を一瞬だけセンターの奥へと向けると、主を失ったモニタを眺めた。
「なに……茨10号型の追尾結果……? うそ……まさか……?」
 モニタに表示された文字をヘイゼルは言葉にしたが、その声はわずかに震えていた。
6.
 三菱パジェロのメタリックシルバーの車体はその輝きを留めることなく、砂埃にまみれざらついていた。この四輪駆動車はジョージ長柄が十年のローンで購入した仕事用の足であり、もう四年は乗っていて走行距離も十万キロを超えているという。彼の妻は茨城で二人の娘と主人の帰りを今でも待っているというが、長柄は目的としている取材があり、その目処が立つまでは帰国するつもりがないらしい。
 そんなジャーナリストの極めて個人的な事情を、島守遼は助手席でぼんやりと聞いていた。彼が現在最も知りたいことはパジェロを運転する長柄の個人情報ではなく、自分がこんな状況に置かれてしまった、という根本的な疑問のヒントとなる、ポケットに入れた金属球の正体であった。しかしその話題を度々ふってみても長柄ははぐらかした笑みを浮かべ、すぐに自分のことをしゃべり始めた。
「つまりなぁ、南とみゆきって二人の娘は、この俺とまだ百時間以上一緒に過ごしたことがないってわけさ。だからなぁ今度帰ったら不安なんだよ。俺の顔、ちゃんと覚えてるかなって。まぁ写真は送ってるよ。今はそりゃ、いろいろ便利な道具も多いしな。けどよ、気配とか匂いってやつぁそうもいかないだろ?」
 「はいはい」とつぶやきながら、遼は何度も頷き両腕を組んだ。
「ジョージさん……さっきこのボールのことをバルブって言ってたけど……なんなんだ?」
 遼の問いに、長柄は五本目になる煙草を咥え、それに火をつけると煙を吐いた。
「喋りながらよ、バラバラになってたネタを再構築してたんだ」
 長柄の言葉の意味を、遼はすぐに理解することができなかった。
「これは推測だが……たぶんそいつは、茨博士が開発した増幅バルブだと思う……」
「増幅バルブ? 何を増幅するための?」
「ん? んー……」
 下顎をわずかに突き出し眉間に皺を寄せ、長柄は困った表情で肩をすくめた。その推測はこのジャーナリストにとって、相当値打ちのある情報を統合した結果なのだろう。中東の高原で行き倒れになっていた日本人の高校生という、それこそ得体の知れない自分にそうそう教えられる類のネタではないのだろう。島守遼はそう判断し、だが自分があくまでも一介の高校生に過ぎず、怪しい者ではない事実を上手く説明できない現状に苛立ちもした。
「お、あそこだ! あそこのじいさんが水を売ってくれる!」
 身を乗り出してステアリングを握り締めた長柄に倣い、遼もフロントガラス越しの風景に目を凝らした。すると何もない荒地にぽつりと、白く真四角な家が一軒だけ見えてきた。
「あんなところで暮らしてて……不便じゃないのかな?」
「よく見ろ、井戸があるだろ」
 長柄の指摘した通りで、家のすぐ脇に石を円筒形に積み上げた何かを遼は発見した。
「水さえありゃ、この辺じゃ暮らしに困ることはない。俺みたいに現金を持った客がいくらでもいるからな」
 だったらこの辺りは街になっていてもよさそうなものなのに、周辺には家が一軒もない。停車の振動に身体を固定しながら奇妙な違和感を覚えた遼は、日本と文化圏がまったく異なる石の小屋に興味を示した。
 その白い小屋は、壁のあちこちが崩れかけていて、井戸の周りには細かい羽虫が無数に旋回を続けていた。この車内はエアコンが効いてひんやりとしているが、外気は恐らく焼けるような暑さなのだろう。異国の小屋に興味を抱きながらも、遼はあまり車からは降りたくないと思った。
「待ってろよ。いま水を買ってくるから」
 運転席の扉を開けた長柄は後部座席にまわってポリタンクを取り出すと、それを両手で抱えて民家まで小走りに近づいていった。たちまち入ってきた熱気に遼は顔を顰めると、すぐに運転席の扉を閉めた。
 一体、これから自分はどうなるのか。止めたところで、あのジャーナリストは戦場へ写真を撮りに行くのだろう。時間と会話がもう随分と恐怖を薄めてくれてはいたものの、できればどこかで落ち着いて、シャワーでも浴びて砂埃と失禁の痕を流してしまいたい。雑然と、遼はちらかった望みを整理しようとしていた。
 できればどこかで落ち着いて。はて、落ち着いたところでどうなるのだろう。現金の持ち合わせはわずかであり、日本まで帰るあてなどまったくない。
 遼はほんの一瞬だが、長柄の助手をするアロハシャツ姿で髭を蓄えた自分の姿を想像してみた。中東を駆け巡るジャーナリスト。悪くはない。少なくとも父などよりはずっとエキサイティングな毎日が送れるだろう。いつか帰国したら本など出して、テレビのコメンテータに呼ばれて、頷きながら「日本人は平和ボケをしているのですよ。ファクト事件の教訓が生かされていない」などとわかったような発言をすれば、クラスメイトたちにも自慢できる。
 我ながらばかげた想像をするものだと遼は苦笑いを浮かべ、首をゆっくりと傾げた。すると、重そうにポリタンクを抱えた長柄が早歩きで車まで戻ってきて、彼は後部座席にポリタンクを運び込むと、すぐに運転席へ飛び込んだ。随分と慌てた様子である。隣の座席で忙しなく地図を広げる長柄の姿を、遼はぼんやりと見つめていた。
「急ぐぞ少年!! 戦闘が終わったってじいさんが言ってた!!」
「え!?」
 ギアをバックに入れ、長柄はアクセルを踏み込んだ。強い衝撃に遼の全身は前後し、肘がダッシュボードに叩きつけられた。
「正規軍が全滅だってよ……嘘だろ……マジ、信じられねぇぜ……」
 煙草を咥えながら長柄は眉を吊り上げ、その様子はどこか興奮しているように遼には感じた。
「そ、そんなに驚くことなの?」
「ああ、米軍の介入以来、ゲリラは押されっぱなしでよ。大抵は正規軍の到着前に本隊は逃げて、おとり部隊と正規軍がなぁなぁの撃ち合いをやるってのが地上戦のパターンだったんだ。とてもじゃねぇが、正規軍の戦車隊を全滅させられる火力はゲリラにはねぇ」
 早口でそう語る長柄の言葉を、だが遼は半分も理解できずにいた。しかし、その戦場を生で体験したのも自分である。ジャーナリストの助手になるのなら、せめて自分の知っていることを話しておこうと彼は思った。
「戦車は少なくとも六台はいた……一列に停車して、すぐにロケット花火みたいな音がして、俺が乗ってたやつの砲塔が吹き飛ばされたんだ」
「ふん……マジで見てきたんだな……少年」
「嘘はついてないさ」
「ふん……」
 長柄は鼻を鳴らすと、煙草を灰皿に押し付け、すぐに新しい六本目を咥えた。
「待ち伏せは火力に劣るゲリラの常套手段だ。だが問題は、すぐその反撃で陣地ごと圧倒的火力に吹き飛ばされるって点だ。少年、その後の展開は?」
「いや……怖くなって……逃げ出したから……すごい音しか覚えて……いや……」
 最初の爆発の直後、失禁する直前に聞いた獣の咆哮のような美しい音を、遼は思い出した。
「獣の声だった……あれは……」
「あ? 獣?」
 せわしなくハンドリングをしながら、長柄はぽつりとつぶやいた助手席の遼を横目で見た。
「聞き違いだと思う……うん……」
「獣……ねぇ……」
 静かに顎を引き、長柄は運転に集中しようと気を引き締めた。
「少年! 窓、開けてくれ!!」
「え? けど外は暑くって……」
「戦場の空気を肌で感じねぇと。ゲリラが大勝ちしたんなら、まだあちこちに潜んでるかも知れねぇ……感覚を研ぎ澄ませよ!! 少しでも妙だと思ったら教えてくれ!!」
「は、はい!!」
 遼は長柄の芝居がかった叫び声に圧倒され、助手席の窓を開けた。再び入り込む熱気に彼は一瞬目を閉じた。
「へ、へへ……すげぇ写真……撮れるかもなぁ……」
 そうつぶやいて唇をペロリと舐める長柄を見て、島守遼は自分がとんでもなく遠い世界に来ていることをあらためて実感した。

7.
「ファクト騒動を期に導入された復興税も、実態はご覧の通りです。被災者への救済に使われず、皇族の引っ越し費用に化けてしまったのが現実です。自由民声、新価、邦国の連立政権をこのまま放置していてはいけません! 改悪第九条、改悪少年法、治安法の撤回。税の公正な運用、子供たちが安心して暮らせる社会を合い言葉に、私、労産党の馬島公康が代々木の街にやってまいりました!!」
 ベージュのワゴンは代々木駅の交差点から少し坂を下った路肩に停車していて、後部座席の窓からは、度の強い眼鏡をかけた初老の男性が身を乗り出し、マイクを片手に熱弁を振るっていた。
 しかし、そんな演説に立ち止まる人々は誰もおらず、空虚な叫びは街路の雑音にかき消されていた。時刻は午後五時を過ぎていたが、夏の陽は地平線に沈むことなく、西側から街全体を炙っていた。
「馬島さん、ぼちぼち戻りましょうか?」
 ワゴンの隣の座席に座っていた、やはり初老の女性が苦笑いを浮かべながらそうつぶやいた。しかし馬島は頭をぷるぷるっと振ると、マイクを歩道のある一角に向けた。
「なんです?」
 女性がマイクの方に視線を向けると、そこには日傘をさしたジーンズにTシャツ姿の少女が、背を向けたまま佇んでいた。
「あの子がどうしたんです? 馬島センセ?」
「気に食わないじゃないか。あの少女は私がここでずっと喋っているのに、ずっと後ろを向いたままで振り向きもしないのだよ。私は悔しいよ。情けないよ」
「最近の若い子は、政治に関心がありませんからねぇ……」
 女性のため息交じりのつぶやきに馬島は頷いて応えると、腕を組んで座席に腰を下ろした。
 その少女は、既に三十分以上も歩道の同じ場所から動かずじっと頭を上に向け、ある一点を見つめていた。長い黒髪が夏の熱風になびくこともしばしばで、その揺らめきは通行する予備校生たちを振り向かせるほど艶やかである。白いTシャツにスリムのジーンズという行動的な服装だが、肌は透き通るように白く、細い肩からは儚げな雰囲気を漂わせているのがアンバランスで、この日たまたま彼女を見かけた馬島公康も数日間は、その後ろ姿を忘れなかったという。
 少女の視線は、代々木パレロワイヤルの最上階に向けられていた。
「あれ? もしかして蜷河?」
 路地から車道へ駆け出してきた神崎はるみは、歩道によく見た覚えのあるクラスメイトの姿を認め、彼女の前へ素早い挙動で回り込んだ。
「か、神崎さん……」
 蜷河理佳は意外そうに目を見開くと、涼しそうな萌黄色のワンピースを着た神崎はるみが、笑みを浮かべて日傘の中へと入ってきた。
「どーして蜷河が? え? なんで?」
 蜷河理佳が自分に気づいたことを確認すると、はるみは笑みを消して彼女の顔を不思議そうに覗き込み、その服装に視線を上下させた。
「あ、うん。予備校。そこの予備校の資料をもらいに来たの」
「へぇ? 蜷河が予備校? 成績、いいのに。試験終わって早々と?」
 思った疑問をストレートに表すはるみに、蜷河理佳は口元をもごもごさせ、日傘を一度だけくるりと手元で回した。
「ま、だから成績、いいんだよね。うん、そうなんだろうな」
 納得すると、はるみは見かけた際、蜷河理佳が見上げていた白いマンションへ自分も視線を上げた。
「これこれ、つい最近建ったばっかりなの。けどね、まだほとんど住んでないのよ。きっと高いのよね」
「ふ、ふぅん……そうなんだ」
「にしても意外。蜷河って普段はそんな格好なんだ」
 Tシャツとジーンズという蜷河理佳の私服は神崎はるみにとって意外であり、しかしよく見ると中々似合うようにも思えた。
「きょ、今日はたまたまだけど……わたしも、神崎さんみたいなの持ってるよ」
「そう?」
 はるみは自分が着ているワンピースの胸元を見て小さく頷いた。
「この傘……やっぱりヘンかな?」
 恥ずかしそうに、肩を狭めながら蜷河理佳はそう尋ねた。はるみは太陽の光から自分たちを遮断してくれているそれをちらりと見上げると、ゆっくりと首を振った。
「蜷河って肌弱そうだもの。仕方ないよ」
「そうなの……すぐ日焼けしちゃうから……なんかおばさんっぽくて嫌なんだけどね……」
「わたしだってママの借りることあるよ」
「あ、えっと……」
 蜷河理佳は何度か瞬きをすると、はるみに不思議そうな表情を向けた。
「あ? わたし? うん、この近所に住んでるって……言わなかったっけ?」
「あ、そっか……うんうん。神崎さんって代々木だったね」
「ね、暑いからどっかでお茶でも飲もうよ。時間、いいんでしょ?」
「え、ええ」
 戸惑いがちにそう返した蜷河理佳へ神崎はるみは再び笑みを浮かべると、彼女から日傘を受け取って機嫌よさそうに何度か回してみた。蜷河理佳も釣られて微笑み、二人は仲よさそうに一本の傘に入り、緩やかな坂道を駅前に向かって上っていった。

 駅前からほど近いファーストフード店に、神崎はるみと蜷河理佳の姿があった。二人は互いに向き合うように座り、交わされる話題は最近の出来事や今日の期末試験のことである。
 ふと蜷河理佳は、はるみの座った硬そうな椅子の隣に、白いビニール袋が置かれていることに気を留めた。
「神崎さん、お買い物だったの?」
「そ。ママが晩御飯のおかず買い忘れちゃって。学(まなぶ)って……弟のことなんだけど、学は友達と遊びにいっちゃったし、ほんとカッコ悪いったら」
 ストローから口を離すと、はるみは口を尖らせながらそんな事情を語った。テーブルの上で指を組んだ蜷河理佳は、興味深そうに瞬きをすると少しだけ身を乗り出した。
「神崎さんって弟さんがいるんだ?」
「うん。小一のね。昔はかわいかったんだけど、最近憎ったらしくなってさ。何とか王とかっていうカードばっかり集めてんの」
「いいなぁ。わたし、一人っ子だからなぁ」
「うちってお姉ちゃんもいるからさ、ほんと親が作りすぎなのよ。少子化なんて嘘みたい。有り得ないよね」
「神崎さんのお姉さんって……どんな人なの?」
そう尋ねると、蜷河理佳は視線を飲み物に移し、穏やかな笑みを浮かべた。それとは対照的に、姉の話題を振られたはるみの表情は少しだけ曇り、小さくため息をついた。
「普通のだよ。うん。全然普通」
 短く、低いトーンの声ではるみはつぶやいた。
「いくつぐらいの人? 働いてるの?」
「わたしより結構年上。政府の仕事してるんだって」
「政府?」
 蜷河理佳は視線を飲み物からはるみに移し、不思議そうに小さく首を傾げた。
「よくわかんないんだ。お姉ちゃんが何の仕事してるのか。ちゃんと話してくれないし。官舎暮らしで家にはあんまり帰ってこないし」
「へぇ……」
 姉のことを語るはるみにいつもの元気はなく、どこか話しづらそうでもあった。気持ちが落ち込んでいくのを自覚しつつあったはるみは、わざとらしく何度か瞬きをすると、ジュースを一気に飲み干し蜷河理佳へ微笑んだ。
「あはは……まぁいいや。それより蜷河はさ、合宿行くんでしょ?」
「うん。福岡さんのご実家のお寺でしょ? 面白そうだよね」
「島守は来れるのかなぁ?」
「え? 来るでしょ? だって島守くん……はっきり言って……」
 蜷河理佳は口篭もると、ジュースの入った容器を両手で握った。
「下手だもんね」
 はるみの言葉に蜷河理佳は目を伏せ、一度だけ頷いた。すると、ファーストフード店に三人の予備校生と思しき男性客が入店してきた。彼らは一瞬蜷河理佳に視線を向けると、一様に機嫌のよさそうな表情を浮かべた。
「ねぇ蜷河……正直、どうなの? あんたと島守って……」
 入店してきた客がレジまで向かうのを確認すると、はるみは低い声でそう尋ねた。蜷河理佳は「う、うん……」と唸り、照れ笑いを浮かべた。
 質問をしたものの、はるみは言葉での返答にあまり期待はしておらず、その注意は相手の挙動に向けられていた。
「ど、どうなんだろう……なぁ……」
 蜷河理佳は両手をテーブルに広げると、肩に力を入れ口元を歪ませていた。
「島守から……何かあった?」
「うん……今日もね……帰りに……遊びに行こうって……」
「そうなんだ……」
「明日……渋谷で待ち合わせなの……」
 神崎はるみは息を吸い込むと、硬い椅子に座り直そうと腰を浮かせた。しかし少々挙動が乱暴だったためか、その肘は背もたれを痛打し、彼女は顔を顰めた。
 成績も優秀で性格もおとなしく演技も上手い。長い黒髪と白い肌、整った顔立ちは美形の範疇に余裕で入り、だからこそTシャツにジーンズといったラフな格好でも異性の注目を惹く。そんな蜷河理佳というクラスメイトに対して神崎はるみは軽い羨望を抱き、できればこの感情が暗い負の斜面に傾かないようにと気持ちを締めていた。

8.
 ジョージ長柄の運転する四輪駆動車は、煙の立ち込める戦場近くで停車した。
「こりゃあ……」
 フロントガラス越しに、長柄と島守遼は数十メートル先で煙をぶすぶすと立ち昇らせる戦車に注目していた。
「俺が乗ってた戦車だ……うん……そうだ……」
 黄土色の車体は黒く濁り、被弾のため破損していたが、島守遼にとってよく見覚えのある戦車だった。彼が車内から辺りを見渡すと、同じような戦車が何輌もやはり煙を噴いていて、ある一輌は砲塔部分が丸ごと吹き飛ばされていた。あれが正に、自分が乗っていたそれだとはっきりと確認すると、遼は長柄の横顔に強い意を向けた。
「どうするんです?」
「救援部隊やクズ鉄集めが群がる前に……写真を撮っておかねぇとな」
「ほ、本気なのかよ!?」
 人の姿は見えなかったが、この戦車隊をここまで痛めつけた敵がどこに潜んでいるかわからない。その状況で写真撮影をするなど、遼には長柄の言葉が信じられなかった。
「ツイてるぜ……こんな現場に一番乗りできるなんてよ。ちょうど戦闘も終わってるみたいだし、少年。お前が水を飲んでくれたおかげで、いい時間稼ぎができたみたいだぜ」
 長柄自身緊張しているのか、わざと強い語調で彼は遼にそうつぶやいた。
「お、俺は反対だ」
 遼は自分の意思をそうはっきりと表明したが、長柄は鼻を鳴らすと、後部座席から真四角のケースを引っ張り出した。それがカメラ機材の入ったケースであることぐらい、なんとなくわかる。自分の意見が微塵も採用されない現実に遼は不快感を覚え、腕を組んで助手席に座り直した。
「いいよ、手伝わなくても。俺が勝手に連れてきちまったんだし」
 長柄はそんなことを喋りながら、ケースからカメラを取り出した。
「車の運転、少年はできるのか?」
「い、いいえ……免許はまだとれないし……」
 オートバイであれば、中学生の頃知り合いの大人に少しだけ運転させてもらった経験があったが、車となると遼にも自信はなかった。
「じゃあ。車に一人で残る方が危険じゃないのか? それこそゲリラが潜んでたら、このパジェロは目立つぞぉ」
 人の悪い笑みを浮かべ、長柄はそんな脅しを遼にかけた。大人の悪戯めいた言葉に乗せられるのは嫌だったが、指摘された危険もよくわかる。「あ」と声を漏らした遼は、長柄が運転席からカメラバッグを提げて出て行くのに気づくと、助手席から慌てて荒地へ出た。
「そうそう。経験者の助言は聞くもんだぜ。少年、どうせだからこのバッグ、持っててくれ」
 長柄は肩から提げていたカメラバッグを放り投げた。遼はそれを両手で受け止めると、鞄持ちをするのも仕方がないと観念した。
「大切に扱えよ。予備の望遠が入ってるんだ」
 遼の覚悟に長柄は満足そうにつぶやくと、彼の背中を軽く叩いて前進を促した。
 二人は車からゆっくりとした足取りで戦車の残骸に向かって進み始めた。時々、長柄はその場で立ち止まり、煙を噴く車体へ向けてシャッターを切った。
 遼は戦場へ足を踏み入れるにつれ、ある違和感を覚えようとしていた。
「妙だな」
 長柄は小さくつぶやきサングラスを外した。
「ですよ……ね……」
「少年も気づいてたか?」
「具体的には……よくわからないけど……なんか……変だよ……これは……」
「遺体の姿がないんだよな」
 違和感の正体を、長柄は短い言葉にした。辺りを見渡しても壊れた戦車しか見つけることができず、戦場に付き物の戦死した兵士の姿はまったくない。島守遼も同意して頷き、数時間前に見た炎に包まれる戦車兵の断末魔を思い出した。
 できれば黒こげになった遺体など見たくはない。遼はそう思いながら、落ち着くように努めながら砲塔の吹き飛ばされた戦車の周辺に視線を向けた。だが、その地面には何か黒い墨のような痕が残っていたものの、火種である「彼」の姿はなかった。
 感覚というものがどれほどあてになるものか、そんなことは島守遼にもわからない。だが、誰もいない戦場の静けさは得体の知れない不安を投げかけてくるようで、それがとてつももなく不気味だった。
「普通は……生き残った人とか……それこそ死体が……あるんだよな……」
 自分の隣でシャッターを切る長柄に遼はそう尋ねた。長柄は「ああ」と答えると、小走りに戦車に向かって駆けて行った。
「ジョージさん!!」
「風に乗って音がした! 来いよ!!」
 遼は長柄の後を追って駆け出した。音がしたと言っているが、何も聴こえた覚えがなく、なるほどあのジャーナリストはこうした現場に慣れているのだなと遼は納得し、とりあえず指示には従おうと判断した。
 長柄は戦車の脇をすり抜けると急に立ち止まって地面へ伏せた。その挙動には淀みがなく、遼も真似してみたものの、膝を地面に痛打してしまう結果となってしまった。
「いてて……」
「静かにしろ……」
 カメラを構えた長柄は望遠レンズを手で押さえ、ファインダーを覗き込んでじっと伏せたままだった。遼は肘を使って長柄の隣まで這うと、自分たちがいるすぐ先から地形が急激な下り坂になっていることに気づき、伏せた行動の理由がようやく理解できた。
「誰かいるんですか?」
 小さな声で遼は尋ねた。しかし長柄は返事をすることなく、坂の下へ向かってシャッターを切り続けていた。
「ジョージさん?」
「だ、黙ってろ……」
 あまりに一心不乱で長柄が写真を撮り続けているため、遼は一体この坂の先にどんな被写体があるのだろうと思い、正面を向いた。
 斜面を下った五十メートルほど先は平らな荒地になっていて、そこに人影が二つあった。距離が遠いためよく見えなかったが、かなり大柄な二人組が背中を丸めてしゃがみ込んでいるのだと遼は認識し、その周辺にごみのような何かが散らばっている事実に気づいた。
 大きな二つの背中は忙しなく揺れ、何かの作業に没頭しているのだけはよくわかる。しかしそれがどのような行為なのかまでは確認することができず、目を細める遼は好奇心に駆り立てられた。
「何やってるんだ……あいつら……」
「う、うう……」
 うめきながらシャッターを切り続ける長柄は、望遠レンズ越しに二人組の挙動がよく見えるのだろう。額から汗を垂らし、無我夢中で右の人差し指を上下させる彼に、遼は一体何を目撃しているのかを教えて欲しかった。
「ジョージさん……!!」
「くそったれ……これじゃフィルムがいくらあっても足りねぇ……」
 ようやくカメラから顔を離した長柄は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「少年。パジェロまで行って、予備のフィルムを取ってきてくれ。ダッシュボードの中にある」
 車のキーをポケットから取り出した長柄は、それを遼に手渡した。
「ジョージさん、なんなんだよ。なにがどうなんだ?」
「落ち着いて覗くんだ……叫んだりするなよ……」
 長柄は望遠レンズのついたカメラを遼に渡すと、斜面の下を見るように促した。説明するより見てしまった方が早いのだろう。彼の意図をそう理解した遼は、ぎこちない手つきでカメラを下に向け、ファインダーを覗き込んだ。
 二つの背中は両肩を上下させ、はみ出した肘の挙動からすると、どうやら食事の最中であるように見えた。
「何……食べてるんだ……あんなにがっついて……まるで飢えた……」
 “獣”と言おうとして遼の口は止まった。
 二人組のうち、右の一人の背中から赤く長い何かがはみ出してちらついた。それが動物の腸であることに気づいた遼は言葉を飲み込み、震える手でカメラを強く握り締めた。赤い腸らしき物体はするすると、まるで掃除機の電源コードのように背中を向けた者の頭部辺りまで上り、それを食べているのは容易に想像ができた。
「動物を……食べてるのか……あいつら……」
「よく見ろ……連中の側……少し引き気味にして……」
 長柄が横から手を出し、望遠の拡大率を下げた。するとファインダーに二人組がすっぽりと収まり、その周囲に散らばっていた何かをよく観察することができた。
 島守遼は息が詰まり、小さく呻き声を漏らしながらじりじりと身体を下げた。しかしそうしている間にも彼はファインダーから目を離すことはなく、最後にちらりと左側の一人の横顔が見えた。
「まさかな……しかしあれなら、正規軍の戦車隊が全滅したのもわかる……」
 長柄の声は震えていて、煙草を取り出そうとした指も同様である。しかしすぐ隣に伏せている遼には音声は届かず、見てしまった光景に対する検証作業で脳の大半を奪われ、知覚機能は著しく低下していた。
 二人組の周囲に散らかっていたのは、五本の指を持った肘から下の腕や、ヘルメットを被ったまま胴体から分離した頭部、腰から下だけの下半身といった、ばらばらになった血まみれの人体であり、その量は合計すると、おそらく数人分はあるだろう。二人が何を食べているのか、考えるまでもなかった。
「獣人だ……あいつら……東京で目撃されたのと似たような奴だ……遺体を一箇所に集めて……食ってやがる……!!」
 ようやく長柄の声を知覚した遼は、カメラを返しながら上下の歯をがちがちと鳴らせた。その通りである。最後に少しだけ見えた横顔は、人間というにはあまりにも耳が大きく、鼻面が長い「獣人」のそれだった。
「獣人は実在したってことだ……日本政府も上手くごまかしたつもりだが……」
「な、なんなんだよ……あれ……」
「だ、だから獣人だって……少年、フィルムを取ってきてくれ」
 写真など撮っている場合ではない。そう言おうと思った遼だったが、彼の身体は想いに逆らい、ふらふらと立ち上がって車を停めてある場所へと向かおうとしていた。
「急いでくれよ。こっちのフィルムはすぐに切れる……!」
 背中から聴こえた長柄の声に頷きながら、遼は咳き込みながら歩き始めた。

 獣人。獣のような異相に巨大な体躯を持ったそれは、ファクト事件発生と前後し、東京を初め各地で目撃されたという。戒厳令下の首都に獣人は昼夜を問わず出没し、警察や自衛隊、民間人を襲撃した。獣人は火器を所持し、主に治安側を攻撃したところからファクトの戦力であると予想され、当時のマスコミはこぞって目撃証言を追った。しかし日本政府からこれらの存在に関するコメントは、ファクト事件が終結して七年経った現在もまだなく、その後ファクトのアジトから大量の獣面を模したラテックス製マスクが発見されると、人々は獣人をテロリストの偽装と理解し、ファクトの児戯めいた側面が結果として強調されることとなった。
 だが、実際に目撃した人間の中には、あれはマスクの偽装などではなく、本物の獣人だった主張をする者もいて、それらの証言は超常現象系の商業誌で取り扱われ、Web上では本格的に検証をしているサイトも存在する。島守遼はそうしたアングラな世界にこれまで興味を持ったこともなく、獣人の定義も一般と同様、マスクのテロリストという認識だったが、車へと戻る途中、これまで頭の隅に追いやっていたいくつかの記憶が彼を襲っていた。

 戦車隊が戦闘を始めた直後聴こえた獣の咆哮のようなあの音は、恐らくあいつらのものだったのだろう。

 リューティガー真錠の家で出くわした「あれ」は獣の顔をした者であり、光彩の無い瞳や体毛はあまりにもリアルで、獣の頭部を持った人間としか思えなかった。事実、そうした特殊メイクもあるのだろうが、叫び声は腹の底に響き渡るほどであり、よく思い出してみると、“あれ”からは肉食動物特有の強烈な体臭が発せられていた。その直前、リューティガー真錠に肩を掴まれた際に浮かんだイメージもやはり獣人である。
 遼は歩きながら、すっかり忘れ去っていたある記憶をはっきりと思い出してしまった。

 それは小学三年生の頃だった。珍しく早朝に目を覚ました遼は、キッチンにあるテレビを見ていた。父はまだ起きる気配がなく、陽も昇りきらない薄暗い場所で見るテレビは、それなりの興奮を幼い彼に与えていた。
 当時、ファクト事件の真っ只中にあった1997年。テレビ番組の大半は事件後の様子を伝える報道番組であり、彼が見たいと思う子供向き番組は早朝しか放送していなかった。
 しかし、その朝はテレビはファクトの引き起こしたテロ事件のため、予定されていた子供番組は実況中継によって中止となり、どこも同じ光景をブラウン管に映し出していた。つまらなくなりリモコンでチャンネルを変えていた遼は、ある番組に目を留めた。それは他局と同様の実況番組だったのだが、東京ローカル局の放送だったためか現場は他の局と異なり、薄暗い新宿の路地だった。
 ハンディカメラが激しく揺れる中、「な、なんだあれ!?」「食ってる! 食ってるぞ!!」と、明らかに放送対応をしていない“素”のアナウンサーの声がテレビのスピーカーから鳴り響いた。遼は膝を抱え、これまでのつまらないテロ報道番組では見られなかった、切迫した状況を理解しようと懸命だった。
 画面が一瞬真っ暗になり、次の瞬間映し出された光景は、血にまみれた路地の行き止まりだった。
 そこに蠢くそれは、照明も当てられず姿ははっきりと見えなかった。しかし巨体の誰かであることには違いない。人影は血だらけのアスファルトをゆっくりと動き、照明が当てられるのと同時に、その全貌が遼の目に飛び込んだ。
 光彩の無い目、長い耳、毛で覆われた顔。獣面の口元は真っ赤であり、牙の隙間からは人間の指と神経から垂れた眼球がぶら下がってた。あまりにおぞましい光景だったため、おそらくは無意識のうちに封印していた記憶だ。遼は思い出した途端、衝撃の強さに背筋が冷たくなった。
 “あれ”を目撃したのと同時に、島守家のテレビは二度とブラウン管に何かを映し出すことはなくなった。沈黙を続け現在では洗濯機の横に鎮座している。まさか、映像の衝撃度にテレビが耐えきれなくなったというわけでもないのに。

 車に戻った遼は、助手席に座ると大きく深呼吸をした。
 かつてテレビで見たあれも、リューティガー真錠の家で出くわしたあれも、そしてついさっき目撃した二人組も、どれもこれも同じなのだろう。あれは人を襲いその肉を食べ、命乞いなど通用しない獣である。
 ダッシュボードを開き、ジョージ長柄に頼まれたスペアのフィルムを緩慢な動作で探しながら、島守遼はひどく現実感の希薄な自分を取り巻く状況に息苦しさを感じていた。彼は舌を出しながら荒く呼吸をすると、ついにダッシュボードに額を擦り付け、床に涎を垂らした。
 戦場に辿りつき撮影をする長柄はこうした事に馴れた様子であり、それだけが遼にとって心強く感じられていた。しかし食事をする獣人を発見してからの長柄は、どこか声が甲高く口調も上滑りをし、つまり彼にしてもああした存在と遭遇したのは初めての経験だということがよくわかる。
 その結論は先行きの見えない心細さを突きつけ、できればこのまま車の中でじっとしていたいと、そんな思いを抱きつつあった。
 フィルムが切れれば長柄は焦ってここまで戻ってくるだろう。そうなれば、土下座してでも泣き喚いてでもここからの撤退を嘆願することができる。子供のように狡賢く、意気地のない発想ではあったが、その思いつきは遼の気持ちを少しだけ前向きにさせ、唇の両端が吊り上がろうとしていた。
 その直後である。
 乾ききった空気を切り裂く、悲鳴のような叫び声が島守遼の鼓膜を振動させた。頭を上げた彼は呻き声を漏らし、フロントガラスに視線を向けた。
 蜃気楼が揺らめく戦場の、破壊された戦車の陰から小さな人影が現れた。左右にふらつきながら、それは戦車の側面へと寄りかかり、遂にその場へ崩れ落ちた。遼は座席に置いたカメラバッグを開けると中から予備の望遠レンズを発見し、それを崩れ落ちた人影に向けた。
 望遠の扱いなど初めてだったが、崩れ落ちたそれが派手な色をしたアロハシャツを着込んでいるのは容易に確認できた。
「ジョージ……さん……」
 遼は小さく震えた声でつぶやき、車から飛び降りようとし、だが意を決して再び望遠レンズを覗き込んだ。
 長柄の首筋は真っ赤な鮮血で染められ、致命傷であることは遼にも理解できた。もう死んでいるのだろうか、崩れ落ちた長柄は動くことなく、寄りかかった戦車同様に朽ちつつあるように思えた。
 あの傷は人間の仕業ではない。ジョージ長柄は盗撮が見つかり、二人組の獣人にやられた。拙い推理で結論づけると、島守遼はパジェロの前後部座席の隙間に飛び込み、身体を小さくして震えだした。
 本来はゆったりとした後部座席前の空間なのだが、水の入ったポリタンクと長身である遼のため隙間はなくなり、窮屈さを感じながら、彼は自分がもっと小柄だったら上手に隠れられるのにと混乱していた。
 こんなところで震えていたところで、あの二匹はじきこの車に気付く。一か八かで運転しようにも舗装されていない荒地を走破できる自信もない。ここから駆け出し、安全な場所を求めて逃走するのが一番マシだったが、そこまで冷静な判断力を今の島守遼は持ち合わせていなかった。彼は両手で頭を抱えて目を瞑り、涎を垂らしがちがちと上下の歯を鳴らしながら、つまりはただ怯えるばかりだった。

 必ず迎えに来る。

 転入生の言葉が遼の記憶を刺激した。あれは別れ際の言葉だった。獣人と向き合った栗色の髪をしたあの彼は、思っていたよりも遥かに頼もしい印象だった。しかし、あの圧倒的な力と凶暴性を兼ね備えた怪物に、おそらくは殺されたはずだ。迎えになどくるはずがない。あれは気休めの言葉だ。いや、それでも。そう、堂々と対峙していたリューティガーの姿を思い出すと、ほんの少しだけ恐怖が和らぐような気もする。そのおかげか、今になって更に直前の言葉を思い出すことができた。

 危なくなったら浅側頭動脈を狙って。

 君にならできるはずだ。

 強く破壊をイメージして、集中して。

 バルブがサポートしてくれる。

 言葉遣いはもっと丁寧だったが、確かこんな内容である。浅側頭動脈とは、蜷河理佳からもらった解剖図鑑で飽きるほど見た人間の急所の一つである。そこの破壊を強くイメージする。それも集中して。
 散文的な言葉をそうまとめた遼はシートの狭間で仰向けになり、目を見開き頭を少しだけ上げた。
 パジェロの後部窓から、ヘルメットを被り口に布を巻いたアラブ系の外国人男性の姿が見えた。獣人でないのが遼にとって意外であり、あいつもすぐに殺されて食べられてしまうのだろうと思っていると、その男の側に獣の頭をした巨体が立ち止まった。
 男と獣人はこの車から五メートルほど離れた地点で佇んでいて、その視線からしてパジェロの存在にも気付いているようである。外国人の男は、何やら激しい口調で獣人を叱っているようであり、上半身を黒い毛で覆われた巨体の獣人は頷き、白濁した目を瞬きさせ口に付いた血を拭っていた。
 近くで見ると、あの獣人はリューティガーのマンションで見たそれより少々小柄であり、上半身に着衣がない点と男に頭を下げている様子から、もっと愚鈍な存在だと遼には思えた。しかし獣人は二匹いたはずである。後部座席のシートで身を潜めながら外の様子を窺い、遼がそう思っているとやはり同じような姿をしたもう一匹が、ゆっくりと男に向かって歩いてきた。
 歩いてきた獣人の口から赤い血が滴り落ち、それが地面を点々と湿らせていた。獣人が右手にサッカーボール大の黒い塊をぶら下げているのに気付いた島守遼は、それが後ろを向いた人間の頭部だと気付き、たまらず口を押さえた。
 ぶら下がって見えたのは獣人が髪の毛を掴んだまま持ち歩いているためであり、塊の下部からは今でも鮮血が流れ出ていた。頭部は時々揺れ、目を凝らせばそれが誰であるのか確認できるはずだったがそんな勇気はなく、遼はパジェロの天井を仰いだまま全身から汗を噴き出していた。
 冷房の切れた車内は四十度を遥かに超え、体内の水分をじわじわ奪おうとしていた。しかし窓を開けることもできない彼は、狂いそうになる、あるいは既に狂っている自分の思考がよりひどくなるのを防ぐのに必死であり、脱水症状を意識することはなかった。
 複数の足音が近づいてきた。男と二匹の獣人がこちらに向かっているのだろう。

 危なくなったら浅側頭動脈を狙って。

 強く破壊をイメージして、集中して。

 転入生が残した言葉を、遼は意識で反芻した。すると腰骨に僅かな振動が走った。

 バルブがサポートしてくれる。

 その言葉が本当なら、この震えはポケットに入れたあの金属球から発せられているのだろう。ジョージ長柄はこれを「バルブ」と呼んでいた。

 次第に近づいてくる足音に、遼は口を押さえたまま目を見開き、全身の細胞は極度のストレスで沸騰しつつあった。
 皿のように見開いた遼の目に、ヘルメットを被った男の即頭部が飛び込んできた。男は車の側面から運転席へ向かって機関銃を構えている。仰向けになっているため、頭上に位置する後部座席の窓から状況を確認した遼は、ヘルメットの男のこめかみを睨み付けた。

 破れろ……浅側頭動脈……ちぎれろよ……!!

男の即頭部には、誰もが持っている青白い血管が見える。時々、ヘルメットのベルトがちらちらと遮りもしたが、その位置を見失うことはなかった。
 手の届かない距離に位置する男の即頭部を睨み付け、破壊を強く念じる遼だったが、自分の行為がばかばかしいとは思わなかった。腰に伝わる振動はますます大きくなり、その波動が脊髄に達する頃、遼は確信した。「できる」と。
 運転席を警戒していた男は、ようやく後部座席のシート下で仰向けになっていた遼の存在に気付いた。彼は驚きながら叫び声を上げるとドア越しに機関銃を向け、両者は視線を交わした。
 その瞬間、島守遼の足の裏側、つまり機関銃を向けた男と反対側の扉が破壊され、毛で覆われた太い指が車内に侵入した。彼は叫び声を上げ身体を縮めたが、獣人は素早い挙動でその両足を掴み、軽々と車外へ放り出した。
 地面に強く腰を打った遼は、そのまま転がってうつ伏せになった。逃げ出そうと膝に力を入れようとしたが、全身が痺れ急激な頭痛が彼を襲い、挙動を制御することはできなかった。
 獣のうめき声が島守遼の背中を震わせ、それと同時に茶色のブーツを履いた足が眼前に現れた。
 ゆっくりと頭を上げた遼は、ブーツの主であるヘルメットの男を凝視した。口元を布で覆っているため表情はわからないが、力強くこちらを睨み付けている。荒唐無稽な試みが失敗に終わったことを彼は悟り、全身から力が抜けていくのを感じた。
 念じてみたところで、この男の浅側頭動脈が破れることはなかった。やはり現実とはこんなものなのだろう。遼はそう落胆し、あの確信はなんだったのだろうと虚しくもなった。気がつくと腰骨からの振動も既に止んでいて、砂混じりの熱風が彼の背中を吹きつけた。
 男は遼にとってよくわからない言葉を早口で浴びせかけ、その顎をブーツで押し上げた。手には相変わらず機関銃が握られていて、遼はもう終わりなのだろうと確信した。
 獣人の太い指が遼の足首に触れた。「食われる」そう思った遼の全身はびくんと一震えし、心臓の鼓動が急激にリズムを早めた。すると、眼前の男が遼の足元にいるであろう獣人たちに向かって何かを怒鳴った。足首の圧迫感は急になくなり、つまりこの男は自分を食べようとする獣人を制したのだろうと、島守遼は口をぽかんと開けながら状況をそう判断した。

 遼はランニングを背中から掴まれ、半ば無理やり上体を引き起こされた。背後には獣の激しい息遣いが聴こえ、眼前には機関銃の男が銃口を突きつけ、ある方角を強い意で促していた。そちらに向かって歩けという意図なのだろう。男の挙動をそう理解した捕らわれの彼は、ランニングを獣人に掴まれたまま、のろのろと歩き始めた。
 どこに連れて行かれるのだろう。自分はこれからどうなるのだろう。あまりいい展開は待っていないだろうと、遼の心は暗く沈みきっていた。自分の横をやや先導して歩くこのヘルメットと機関銃の男はゲリラか何かなのか、だとすればどうして獣人を連れているのだろう。少しでも気分を変えようと、彼は推理を巡らせてみた。
「あ」
 小さく、島守遼は声を漏らした。
 男のヘルメットの、ちょうどこめかみにあたるベルト部分が少しだけ欠けていた。それもまるでカッターで切ったかのように正確に、15mm3大に四角く。
 その欠けを、連行されながら遼はじっと見つめ続け、あの試みがまったく失敗したわけではないと、そんな想いを抱こうとしていた。

10.
 ファーストフード店で蜷河理佳と別れた神崎はるみは、夕暮れの路地を歩いていた。
「明日……渋谷で待ち合わせなの……」
 蜷河理佳はそう言っていた。なんだ、二人でデートするまでの仲になっているのか。島守も蜷河もやることはやってるんだな。はるみは苦笑いを浮かべると、手にしたスーパーの袋を大きく振った。
 代々木駅前の交差点を千駄ヶ谷方向へ五分ほど進み、路地を少し進んだ住宅街に神崎はるみの住む家があった。二階建ての一軒家は築十五年を超えていたが、玄関や屋根には何度もリフォームした跡があり、家主がこの家に愛着を持っている事実を反映していた。
 はるみは玄関をくぐると靴を脱ぎ捨て、台所へ向かった。
「なに? どこか寄ってたの?」
 エプロン姿の中年女性が、はるみの差し出したスーパーの袋を受け取りながらそう尋ねた。
「ん、友達と偶然会ったの。駅前のマックで話してた。ごめんね」
 ぶっきら棒に言い放つと、はるみは椅子に腰掛り、上体をテーブルに投げ出した。
「こっちこそ。忘れ物が多くてすみませんね」
 中年女性は笑顔をはるみに向けると、袋から肉のパックを取り出した。おっとりとした様子の落ち着いた雰囲気を醸し出すその女性の名は神崎永美(えいみ)。はるみの母である。
「今日はすき焼きよ」
 言われなくとも、自分がスーパーで購入したのは母の言いつけ通り、すき焼き用の牛肉である。はるみは母の無意味な言葉に呆れながらも、エアコンの冷たい空気が入り込む台所に居心地のよさを感じていた。
「さっき、まりかから電話があったのよ。今日はこっちに帰れるって」
 何気ない母の言葉に、はるみは上体を起こし瞬きした。
「まりか姉が? えっと……一ヵ月振り?」
「ええ。まりか、はるみの期末試験の調子、気にしてたわよ」
「そう……」
 返事をしたはるみはため息を漏らし、あまり姉には会いたくないと思った。
 神崎はるみの姉、まりかは妹よりずっと成績が優秀であり、数ランク上の高校を卒業後、都内の私立大学に進学している。現在は公務員であり、五年前に創設された内閣財務室に勤務し多忙の日々を送っている。就職してからの姉は官舎暮らしを続けていて、代々木の実家に帰ってくるのは月に数度もなかった。
 自分は姉に見下され、ばかにされている。そうはるみが思うようになったのは、彼女が中学校に進学し姉が現在の職場に配属され、家を出て行った頃からである。たまに帰ってくる姉は仕事の話など殆どせず、はるみの中学での成績を常に気にしている。何かと言えば「勉強はちゃんとしてる? 遊んでたら後悔するわよ」と忠告する姉に妹は距離を置きはじめ、思春期に差し掛かる頃には姉が帰宅しても、できるだけ顔を合わせないよう努めていた。
「はるみ姉!! はるみ姉!!」
 台所に、半ズボン姿の少年が駆け込んできた。彼は椅子に腰掛けたはるみの肘を強く引き、満面の笑みを向けた。
「なによ学」
 学、とはるみに呼ばれた少年は、お尻のポケットからトランプ大のカードを何枚か取り出し、それを嬉しそうに見せた。
「またカードで勝ったの?」
「うん!! すごいだろ」
「うん、すごいすごい」
 呆れた表情を浮かべると、はるみは学少年の頭を撫でた。
「学、あんまり遅くまで遊びに行ってたら駄目でしょ」
 永美にそう忠告された学は、だが悪怯れる様子もなく、冷蔵庫から麦茶のポットを引き抜くと、それを直接口につけ、何度も喉を上下させた。
「あー!! 学!! ばっちいでしょー!!」
 はるみは椅子から立ち上がり、学の手からポットを奪った。しかしそれでも彼は笑顔のままであり、彼女の怒気は通じていない様子だった。
「パパもよくこうしてるよ」
 学の言葉にはるみと永美は顔を合わせ、同時に首を傾げた。
「ママ。父さんをちゃんと教育しないと駄目じゃない。学が悪いとこばっか真似しちゃう」
「ほんと……後できつく言っておくわ」
 うんざりした様子の永美を学は見上げ、一体誰が叱られるのかと目を輝かせていた。
 神崎学。今年小学校に進学したばかりの彼は神崎家の長男であり、はるみにとっては弟にあたる。屈託もなく無邪気な学を見る度に、はるみは自分にもこんな時代があったとぼんやりとした懐かしさを抱き、弟にはできるだけ口うるさくない姉でいたいと心がけていた。

11.
 あれから何時間が経過したのだろうか。薄暗い石造りの一室に閉じ込められた島守遼は、時間の感覚がすっかり麻痺しているのが恐ろしかった。あまり広くない部屋の出口付近には、迷彩服を身にまとったアラブ系の外国人が見張りに立っていたが、数時間が経過しても互いに言葉を交わすことは一切なかった。
 戦場でヘルメットを被った男と二匹の獣人に拉致された後、島守遼は目隠しをされ後ろ手に縛られ、トラックに乗せられた。その際、体中を何度かはたかれ、ポケットに入っていた金属球は取り上げられてしまった。しばらくのドライブの後、数名のわからぬ言語を耳にし、彼はトラックから降ろされこの部屋に押し込まれた。その直後目隠しは外されたが、部屋は薄暗く唯一の窓からは星空が見え、もうすっかり夜になってしまったことだけはよくわかった。
 ここは、恐らくゲリラたちの隠れ家なのだろう。自分は人質として連行され、ゲリラたちは処遇について話し合っているのだろう。後ろに回された両手首はロープで拘束され、指先には痺れを感じ始めていたが、何をどう要求しようともあの見張りは応じてはくれないだろう。感覚がなくならないように指を細かく動かしながら、遼はこれからのことを考えてみた。
 いずれ、ゲリラは自分が何者でどういった理由でここに来たのかを尋問しに来るはずだ。身体検査の結果見つかり、没収された金属球に関しても疑惑を持つかもしれない。
 しかし通じない言葉に何を答えればよいのだろう。いや、言葉が通じても、答えられることなど何もない。結局、殺されて獣人の餌になってしまうのか、それとも生きたまま食べられてしまうのか。バルチ高原で目を覚ましてから、何一つ自分に決定権のない現実が遼は悔しく、噛みしめた唇からは血が滲んでいた。
 ゆっくりと扉が開き、部屋の外から遼を拉致したヘルメットの男と、同じくアラブ系の武装した男が二名姿を現した。見張っていた男は部屋から出て行き、遼は三人の外国人に見下ろされた。中央の男が口に巻いていた布を取り去り、髭だらけの口元を見せた。右の男は手にサーベルを持っていて、左は遼から奪った金属球を手にしていた。
 中央の髭面が、左の男から金属球を受け取るとそれを遼に突き出した。男は早口で何かを問いただしているようだったが、もちろん言葉の意味などわからず、どう返事をしてよいものか考えを巡らせた末、彼は一つの結論に辿り着いた。
「I am a Japanese.」
 ゆっくりと遼は男たちに語りかけた。三人は少々の間を空けた後、「Japanese?」とひどくなまった英語で返してきた。たぶん、こいつらも英語圏の人間ではないのだろう。しかし公用語としての片言程度であれば、最低限のコミュニケーションは保てるかも知れない。そうすれば生き延びる可能性も出てくると、彼は覚えている英語を必死になって思い出した。
「I am not an enemy.」
 俺は敵じゃない。そう語りかけた。しかしこの言葉はかえって三人組を混乱させたのか、遼はブーツで腹を小突かれ、背中を壁に打ち付けてしまった。
 「事情がわからない。なにがなんだかわからない」これを英語でどう伝えればよいものかと遼は頭を回転させた。背中を壁につけ、ゆっくりとした挙動で立ち上がりながら、彼の頭の中で英単語がざわざわと蠢いていた。
 業を煮やしたのか、男の一人が遼の肩を掴み金属球を眼前に突きつけた。その瞬間、遼の意識にあるイメージが浮かび上がった。
 イメージを形として具体的な何かへと変換しようと、いつもの癖で思考を巡らせようとしたが、それと同時に男が手にしていた金属球が振動を始め、その震えは掌を通じて遼の肩へと伝わった。
 振動と共に、遼の頭の中を巡っていたイメージは、ある言葉へと変化した。

 なんで震えてるんだ……このボールは!?

 その言葉が金属球を持った男の考えであることはよく理解できた。気味の悪さを感じながらも、この金属球があれば言葉の異なる彼らの考えが理解できるかも知れない。遼はそう光明を見出した。
 しかし、彼らの考えがわかったところで、こちらのそれを伝える手段などない。それにこいつらはジョージ長柄を殺害し、その身体を食べた獣人たちの一味である。仇とも言える連中に、なぜ自分がコミュニケーションの腐心をしなければならないのか。
 急にばかばかしくなった遼は、肩を掴む男の手を全身で振り解くと、ふくれっ面で横を向いた。男はしつこく金属球を突きつけ早口で何かをまくし立てたが、もう心を開きたくなかった。心因的なストレスは限界をとっくに超え、彼を自暴自棄にしていたが、男たちの要求はしつこく、ふて腐れた若い虜囚に大量の言葉を浴びせかけていた。

 知るかよ……勝手にわめいてろよ

 黙ってふくれているのが、島守遼にとってのせめてもの抵抗だった。こんな手段しか残されていない現実がなんとも情けなかったが、最後は命乞いなどせずプライドを保ったまま殺されよう。彼はそう決意したが、低いうめき声を耳にした瞬間、心臓の鼓動はスピードを上げ、恐怖が襲い掛かってきた。
 二匹の獣人が部屋に入ってくるのを、遼は横目で見た。口からは涎を垂らし、毛で覆われた上半身からは獣特有の生々しい臭いを発している。遼と獣人の間に立つ三人組は、引きつった笑みを浮かべ、そのうちの一人が獣人に向かって何やら叫び、指示を与えているようだった。
 指示を出す男の指は自分に向けられている。脅せと命じているのか、食えと命じているのかはわからなかったが、近づいてくる獣人の威圧感に遼の膝はがくがくと震え、壁にもたれつつも立っているのは困難になろうとしていた。
 二匹の怪物が、横を向いた遼の前で立ち止まった。唸り声はすぐ近くで聞こえ、息からは血の臭いが感じられ、鋭くとがった五本の爪は、一本一本がよく研がれた包丁のようでもある。こんなものに引き裂かれれば、自分の肉など簡単に削げ落ちるだろう。獣人たちの背後からは、三人組の叫び声が聞こえる。意味はわからないが、何かを煽っているようである。手を縛られたままの遼は背中を壁に付け、獣人たちに身体を向けた。
 両手の自由がない以上、自分にできることはそれほど多くはない。
 もう一度、試してみるしかない。そう決めた島守遼は、眼前の獣人を正視した。白濁とした瞳には知性が感じられず、身体こそ大柄の人間型だが、こいつらはまさしく獣である。側頭部に視線を移してみると、だがそこには血管は見当たらず暗い色の毛しか確認することができなかった。これでは致命傷を与えられない。そう思った彼は右側の獣人の目を睨み返した。
 三人組の誰かが、獣人の背後で叫び声を上げていた。それは何かに驚いたようでもあったが、確認するゆとりは遼にはなかった。彼がいまできることはただ一つ、獣人の瞳に向け、破壊を念じることだけである。
 獣人の手が、大きく上に上がった。五本の鋭利な爪はがちゃりと接触音を生じさせ、あれが振り下ろされた瞬間、自分の身体は真っ二つにされるだろうと思い、遼の念じる集中力は急激に淀みを消した。
 白濁とした瞳の中心から、鮮血が迸った。針で突かれたかのような小さな穴から吹き出たそれは遼の頬に飛び散り、獣人は目を押さえ咆哮を上げた。三人組はそれぞれ機関銃やサーベルを構え事態に対応しようとしたが、激痛にのたうつ獣人は当たり構わず巨体をぶつけ、もう一匹の獣人も相方の突然のパニックにうろたえていた。
 いつの間にか床に落ちていた金属球は激しく振動をし、アラーム音が鳴り響いている。獣人の咆哮と男たちのどよめき、そして電子音が狭い室内に響き渡っていたが、そんな中、島守遼は自分の心がひどく落ち着いているのが奇妙だった。
 偶然などではない。自分は獣人の目を破壊しようと念じ、それは実現した。理屈のほどは後で考えればいい。今は実現したという事実の方が大切である。金属球の振動は床を通じて遼の足の裏を刺激し、それはやがて脊髄を駆け巡り彼の思考を明敏にさせていた。
 次に遼が睨み付けたのは、もう一方の獣人の後頭部だった。
 小さな破裂音と同時に、獣人の首筋から赤い液体が勢い良く噴き出した。自分でも馴れてきていると遼は確信し、目や後頭部を押さえて悶絶する獣人たちの陰に隠れ、三人組の反撃を凌ごうとした。
 しかし、それよりも早く、男の一人が遼の前に回りこんでいた。彼の手にはサーベルが握られていて、刃は顔面を捉えようとしていた。集中するには時間が足りない。そう思った遼は身体を引き、斬撃を避けようとした。こんな行為はサーベルの勢いに対して意味がないかもしれない。数瞬の間に遼はそう判断したが、咄嗟の挙動を制御することはできなかった。
 前方に刃、すぐ右手には悶絶する獣人、背後には機関銃を構えた二人の男。両手を縛られた島守遼に逃げ場はなく、時計の秒針が動くよりも早く、彼の生命は永遠に絶たれたであろう。
 突風が、遼の髪を撫でた。
 右手にいた獣人と迫り来る刃は影もなく消え去り、最初からこの部屋にいなかったかの如く存在が認められず、遼は拍子抜けをし、思わず身体のバランスを崩しそうになった。背後では残った一匹の獣人が相変わらず叫び続け、二人の男が罵り声を上げていた。
 遼は素早く背後を振り返り、二人の武装した男たちと自分の間に立つ存在に気付き、うめき声を上げた。
「真錠……」
 栗毛色のカールした髪、白いワイシャツ、黒のスラックス。仁愛高校の男子夏服を着込んだその小柄な後姿は、見慣れた転入生そのものである。
「ごめん……遅くなってしまって……」
 リューティガーはそう小さな声でつぶやくと、全身を低く構え二人組に向かって突進し、直前で立ち止まると両手を広げ、彼らに触れた。
「ごめん!!」
 変声期直後のかすれた声を上げたのと同時に、二人組の姿が突風と共に部屋から消え去った。その光景を目撃した島守遼は、これまでのことをなんとなく理解し、身体全体に震えを感じた。
 部屋にはまだ、目を押さえてのたうつ獣人が一匹だけ残っていた。リューティガーは蹲る獣人の背後まで歩くと、その背中を軽く触れた。

 喧騒は余韻もなく止み、狭い石造りの部屋には二人の少年の姿しかなかった。
 リューティガーは壁に肩を付けると激しく呼吸をし、遼にはその姿がとても苦しそうに見えた。両手の自由を拘束していた忌々しいロープは、切断され床に転がっていた。遼はそれを一瞥すると、リューティガーに一歩だけ歩み寄った。

「真錠……だよ……な……」
「うん……」
 歩み寄る遼にリューティガーは紺色の瞳を向け、うっすらと微笑んだ。
「ごめんなさい……安全な場所に飛ばすつもりだったのに……こんな戦場で……このバルチは……僕が昔訓練を受けた場所だったんです……辛いとばかり思っていたのに……本心なんて……自分でもわからないものなんですね……」
 苦しそうにつぶやくリューティガーの言葉の意味を、だが島守遼は理解することができなかった。しかし、とりあえず安全になったのだろうと思い、彼はすっかり振動もアラームも止んだ金属球を一瞥し、リューティガーの隣に背中を着けた。
「何がなんだか……でしょ?」
「ああ……何がなんだか……だよ……」
 壁に寄りかかる二人は互いに顔を見合わせることなく、心と身体の回復に放心していた。
「ウルドゥ語……しゃべれなかったんですよね」
「なんだよ、それ」
「ここの言語……」
「ただの雑音にしか聞こえなかったよ。あいつら……どこに消えたんだ?」
「遠く……です……」
 リューティガーは「必ず迎えにきます!!」と言い、その約束は果たされた。わからないことだらけだが、既に危険は去り、この転入生と一緒にいれば安全であることだけは確かである。窓から見える星空をぼんやりと見上げながら島守遼はようやく、自分がひどく空腹であることに気付いた。

第三話「武力衝突地帯」おわり

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