真実の世界2d 遼とルディ
第一話「島守遼の散文的日常」

1.
 島守遼(とうもり りょう)が東京都立仁愛高校に入学したのは、二〇〇四年の四月である。よく晴れた、それでも肌寒さが残る、そんな入学の朝だった。

「仁愛とは、もちろんこの学校の名前でありますが、これはすなわち、誰に対しても思いやりをもって愛するということです。当たり前のことです。しかしここ最近、当たり前のことを忘れかけられています。皆さん、この三年間で思いやりというものを、あらためて認識してください」

 入学式での校長の挨拶は、そう切り出されてから二十五分間にも及んだ。島守遼は、マイク越しに聞こえてくる「この学校で一番偉い人」の言葉に何の感銘も受けることができなかった。彼は座ったまま長身を縮こまらせ、しだいにその意識を夢の中に埋没しかけてしまったので、後半部分に至っては断片的な内容さえ覚えていなかった。

 自宅から徒歩で通えるほど近く、努力もなく試験を通過できるレベル。それが、島守遼にとっての仁愛高校に対する進学動機だった。
 中学時代に底なしの倦怠感を味わっていた彼は、高校生活というものに何の期待も抱いておらず、入学から一ヵ月を経てもその予想は外れていなかった。このまま三年間をぼんやりと過ごし、たぶん大学へは進学せず、父のように生きていくのだろう。そんな人生ならば、今のうちから何かに打ち込む努力をしたり、将来に向けての準備をしたりする必要もない。はみ出さず、適度に羽目を外し、時間を消費していけばいい。少々つまらない日常ではあるが、軋轢もなくのんびりとした毎日は、どちらかと言えば快適である。島守遼は悲観もせず、そしてときめきもせず、春の中を漂う学生だった。

 高校生活は極めて淡々と過ぎ去っていった。なにかに期待するわけでもなく、なにかに挑むわけでもなく、万事がそのような調子だったから、彩りが薄いのも当然の結果だ。
 入学からの短い春も過ぎ、季節は初夏をむかえ、制服の詰襟を箪笥にしまう頃になると、島守遼は高校生活、というよりは中学四年生、
というものにもうすっかり飽きはじめていた。 自業自得でもあり望んでいたにもかかわらず、ひどく飽きる。確かに軋轢はない。大きなトラブルとも無縁だ。しかしまさか、ここまで退屈な毎日だったとは。それは、未熟な値踏みゆえの誤算だった。

 同級生たちは中学時代よりもっと与えられた権利の行使や、己の向上に対し遼と比較して貪欲だった。長い夏を前にアルバイトを探す者、小規模ながら旅行の計画を立てる者、様々である。それとは逆に、期末試験勉強に打ち込む者もいる。労働や娯楽、そして習熟課程には軋轢が生じることもある。事実、予定が合わず口論をしたり、思うように成績が上がらず落ち込んだりしているクラスメイトを見ることもある。だがその反面、仲直りし、喜びはしゃぐ姿も見られる。
 自分も何かを付加させよう。当たり障りのない予想が付く範囲の娯楽では、退屈は解消できない。この欲求はおそらく、中学四年生ではなく高校一年生としての自然な感覚というやつなのだろう。そう、自分は普通なのだから。この決意は当たり前で、他人より少しばかり遅かっただけだ。
 遼はそんな理由から、クラスメイトの女子生徒に誘われるがまま、ある部活動へ参加することにした。

「島守はぼんやりしてて、それこそ何の思い出も残さず卒業しちゃいそうだから、わたしとおんなじ部に入るのよ」

 論評というおまけが付いたクラスメイトの勧誘は、遼にとって少々お節介とも思えたが、断るのもなにやら億劫でもあるし、「まぁ、何かしようとは思っていたわけだし」などといった消極的な理由から、気がつくと彼は演劇部の部室に足を踏み入れていた。
 部長は乃口という名の三年生の女子であり、入部希望の遼に若干戸惑いながらもしだいに柔和な笑顔を浮かべ、彼を歓迎した。
 戸惑いの原因を、遼はすぐに理解した。仁愛高校の演劇部は総勢十七名。部長の乃口をはじめ、以下十五名が女生徒だったからだ。彼女たちは部室に入ってきた長身の彼を一斉に見上げ、異性の登場に驚き、戸惑い、なにやら期待をし、どこか怪訝な雰囲気でもあった。
 この演劇部で既存の男子部員と言えば、二年生の平田という生徒がたった一人いるだけなのだが、彼は部室の隅から入部希望者をちらりと一瞥しただけで、同性の登場にもさしたる関心はない様子だった。
 入部したその日に、遼は乃口部長からA5版の冊子を渡された。白い表紙に『金田一子の冒険(仮題)』と記されたそれは、この秋の文化祭で演劇部が発表公演する、芝居の台本だった。早速、遼にあてられた役は初老になる大富豪の家長役で、乃口部長は「威厳ある強者」と、独特の言い回しでその人物像を告げた。もう一人の男子生徒、平田の担当する役は殺人事件の犯人となる精神異常者であり、そのほかにも刑事や召し使いといった、男性登場人物が何名か存在するのだが、いずれも女性部員が演じることになっているらしい。
 なるほど、芝居が上手にできるかどうかはともかくとして、自分の入部は彼女たちにとって「悪くない展開」というやつなのだろう。部員たちの中に混じる期待の目を、遼はそう理解した。いくら客が遠目で見る舞台とは言え、初老の「威厳ある強者」たる男を女生徒がやるには無理があるはずだ。芝居についてはまったくの素人の彼だが、そのような具合に納得し、文化祭の発表公園まで自分はこの部で少しは歓迎されるべき存在なのだろうと安堵した。もちろん、演劇という未知なる世界への挑戦には不安もあったが、そのぶん覚えなければならないことも多くありそうで、少なくともしばらくは退屈をせずに済みそうではある。

「つまり、お前のあれは勧誘だったんだな? 男手不足で困っていたんだろ? なにせ主人公の名前は金田一子(いちこ)なんて、女探偵にアレンジしちゃってるんだもんな。あれはつまり、金田一の女版なんだよな、神崎」
 島守遼は入部の翌朝、校舎階段の踊り場で演劇部への入部を勧めたクラスメイト、神崎はるみにそう尋ねた。すると彼女は、「乃口部長に頼まれたのよ。誰か、一年生に適当な男子はいないかって。島守って暇そうだったから。まぁ、けどよかったでしょ。部長はわたしが本当に連れてきたから驚いてたけど、みんな歓迎してるし」と、悪怯れることもなく大きな目を輝かせて返事をした。
「けど、金田一子はないよな。いくらなんでもそのままだ」
「あのホン、乃口部長が書いたのよ」
「あの人、劇、うまいの?」
「“劇”なんて言い方やだな。島守も演劇部なんだから。これからは“芝居”とか“演劇”とか言いなさいよ」
「そうなの?」
「そうよ。それが普通よ」

 階段の踊り場で交わされる二人のそんなやりとりを、階上の廊下から別の女生徒が見つめていた。

「蜷河だ……」
 神崎はるみは、階上から見下ろす女生徒の視線と、その主がクラスメイトであることをほとんど同時に気付き、顔を上げ、微笑んで小さく手を振った。遼もはるみが蜷河と呼んだ女生徒を同じように見上げた。

 蜷河理佳(になかわ りか)は、虚ろな目で二人を見つめていた。長い黒髪が廊下の窓から差し込む陽を反射し、きらきらと輝いたため、遼は一瞬だが惚けて見とれてしまった。
「そっか、私たちの1年B組って、演劇部が三人もいることになったのよね」
 蜷河理佳を見上げながら、神崎はるみがそんなことをつぶやいた。
「蜷河さんも演劇部なの?」
「だって、昨日部室にいたでしょ?」
「そうだっけ……?」
 彼女が部室にいたかどうか、遼は覚えていなかった。いや、それだけではない。入学してから二ヵ月以上同じ教室で過ごしているものの、彼は長い黒髪をしたあの少女の存在を特に意識しないことが大半だった。
「あ……う……」
 手を振られた蜷河理佳は、顎を引き手すりに左手をかけると、膝を曲げ姿勢を少し落とし、ゆっくりと右手を小さく振り、唇の両端を引きつらせ、細かく瞬きをしてからぎこちない笑顔を浮かべた。
「蜷河さんって、笑顔が似合わないな」遼はそう感じたが言葉にせず、なんとなくその様子を観察してみることにした。
「あんな綺麗で長い髪で、睫毛だって長くて、目も涼しげで色白なんだから、もっと落ち着いてた方がイメージいいのにな」それが、不似合いな愛想笑いを浮かべる少女に対する、彼の正直な観察結果である。
「蜷河ってさ、ずっと島守のこと見てるのよ」
 遼の傍らにいた神崎はるみは、蜷河理佳にちらちらと視線を向けながら、小さな声でそうつぶやいた。
「なんだよ、それ」
「ほんとだよ。それに島守を演劇部に誘うのだって、蜷河、結構賛成してたし」
「神崎……お前たち、相談までしてたのか?」
 驚いた遼がはるみに丸くなった目を向けると、彼女は視線を合わせて人差し指を立て、白い歯をニッと見せた。
「あいつ、島守のこと好きなんだよ。きっと」
「……」
 遼は階上の二階から踊り場の様子を窺うクラスメイトを再び見上げた。彼の視線を感じた蜷河理佳はぎこちない笑顔のまま、手と足を同時にばたつかせながら数歩後ろに下がり、それと同時に黒髪がふわりと穏やかな波を描いた。

 だとしたら、あれって可愛いのかもな……

 ちぐはぐな彼女の挙動を、遼は素直にそう感じた。
「話、してきちゃいなさいよ」
 はるみは低い声でそう言うと、遼の背中に手を回し、強く前に押し出した。

 するとその瞬間、彼の脳裏にある光景が唐突に浮かんだ。それははっきりとしたものではなく、具体的な場所や形も特定が困難な、漠然とした“冷たく寒々しい”イメージだった。

 雪か……これって……そう……かな……?

 実体も定かではないイメージが脳裏に突然浮かぶ。物心がついてからここまで、島守遼はそんな奇妙な現象を幾度も体験していた。その都度、彼は抽象的な“それ”を具体的な“何か”に変換して考える癖がついていた。

 背中を押された勢いそのままに、遼は「雪」の降る光景を抱き、踊り場から階段をよろめきながら駆け上がり、蜷河理佳の前で立ち止まった。
「あ……」
 少女は右手を口に当て、自分よりずっと背の高い長身の遼を見上げた。
「き、昨日、部室にいたよね。いたんだよね……」
 彼は頭を掻きながらそう言った。
「え、ええ……いた……いた……島守くん……お芝居……」
「芝居……できるのかなぁ。神崎が誘うから、なんとなく入部したけど……」
 照れた笑みを浮かべる遼に蜷河理佳は息を呑み、手を口から胸に移した。
「頑張れば……できるよ……島守くんなら……だって、カンがいいもの……」
 “カンがいい”そんなことを言われたのは初めてだ。しかし、いったいどこが? 遼には評価の根拠がわからなかったが、誉められて悪い気はしないので、小さく咳払いをし、「そう?」と短く返した。
「蜷河理佳は、自分に好意を抱いている」なんとなく、なんとなくそんな気がする。たぶんこれは、それほど外れていない予測だ。遼はそんな確信を強めながらも同時に「焦るもんじゃない」と、気を引き締めていた。
「わかんない事とかいっぱいだしさ……蜷河さんも……教えてくれると嬉しいな」
「う、うん……」
 視線を廊下に落とし、はにかんだ笑みを浮かべながら、少女はコクリと頷いた。

 これは……いい傾向だよ!

 たかが入部ひとつで、こうも学校生活が変わるものか。遼の心は躍り、鼓動の高鳴りに驚きもした。「雪」のイメージもすっかり忘れた彼は、自分がつい先ほどまでいた階段の踊り場に、感謝の気持ちを抱きながら視線を向けた。

 だがそこに、幸福を運んでくれたクラスメイト、神崎はるみの姿は既になかった。

2.
 島守遼には、おそらく“友人”と呼んでしまっても差し支えないクラスメイトがいた。
「さっき、蜷河と話してたよな」
 授業前のざわついた教室で、遼の前の席に座る沢田という生徒が、椅子の背もたれに抱きついたままそう尋ねた。
「ああ」
 頷いた後、遼は自分の席から斜め右に座る、蜷河理佳の後姿をちらりと見た。
「演劇部に入るのって、お前、本気なの?」
 沢田は遼と比較してもあどけなさが顔に残る、ずんぐりとした体型の坊主頭が特徴的な少年である。入学以来、島守遼と沢田は席が近いということもあり、何かとコミュニケーションを取る機会が多い友人だった。
「もう入ったよ……俺、他に部活もやってないし、バイトするつもりないし。まぁ、とにかくヒマだったんだよ。だからだよ」
 遼の返事に、沢田は幼い顔を顰めた。
「女ばっかりじゃん。面白いのか?」
「たぶん、頼られるだろうな。俺の他には平田さんって先輩しか男がいないし。それって嬉しいじゃん」
「平田……?」
 遼の口から出た固有名詞に、沢田は顎に手を当て視線を宙に泳がせた。
「知ってる人? 俺は昨日、初めて会ったんだけど」
 もう一人の演劇部男子部員、平田先輩は入部してきた遼に声をかけることなく、頭を下げて挨拶をする際にも反応は素っ気なかった。それからすぐに平田の役柄を知った遼は、「異常殺人者の役作りでもしてるのかな?」と、その態度や人物像に対して大きな関心を向けなかった。
「あぁ……思い出した。平田さんは、生徒会の書記だよ」
 思い出した沢田に、遼は切れ長の目をより細めた。
「生徒会……書記……そうだっけ?」
「入学式のとき、いただろ。覚えてないのかよ」
「会長の佐々木さんなら覚えてるよ。挨拶もしたし。けど、書記の人まではなぁ……」
 沢田にそう答えながらも遼の意識はしだいに、斜め前に座る蜷河理佳の後姿へ向かっていた。
 長い黒髪と夏服の白いブラウスのコンテラストが、遼の気持ちを少しばかり高揚させた。さっさと授業が始まり、そして終わり、一秒でも早く部活の時間がきてくれないかと願い、彼の膝は興奮で小刻みに震えはじめた。
「蜷河と……島守がねぇ……」
 沢田はつまらなそうにそうつぶやくと、背もたれを抱えていた両手をだらりと下げ、身体を正面に向けて教科書をぱらぱらとめくった。
「こっちまで揺れてるわよ」
 左隣の席からそんな注意の声がしたため、遼はそちらを向いた。そこには、腰に左手を当てる神崎はるみの姿があった。
 茶色がかった短い髪。大きな瞳。やや丸顔の神崎はるみは、クラスの誰に対しても思ったことをすぐに口にし、そのため衝突も度々ありはしたが、裏表の少ない性格は周囲からそれなりの信望を集めていると言っていい。
 しかし、少々行動が突飛なのがはるみという少女である。彼女は入学したばかりの五月、生徒会選挙に会長として立候補した。通常、年度の前期の会長を務めるのは三年生がほとんどであり、一年生が立候補して当選する可能性はゼロに等しい。周囲の人間関係がまだまだ希薄だったため、彼女は誰の反対もなく立候補した。
 はるみはその日以来毎朝校門に立ち、手製のDVDを通学する生徒に配っていた。それには、やはり手製のプロモーション映像が五分ほど収録されていた。

「1年B組神崎はるみです! この度、生徒会会長に立候補しました! 公約はなんにもありません! ただ当たって砕けるばかりです!」

学校のパソコンでそのプロモ映像を再生した遼は、勢いだけの内容に言葉を失いながら、この無謀なるクラスメイトに対し「神崎さんはヒマをつぶすのが上手なんだなぁ」と、感心してしまった。
 選挙の結果、はるみは当然のように落選した。しかし一年生の前期立候補としては異例の高得票であり、それは彼女の無茶を学校の皆が好意的に楽しんだ証拠でもあった。
 当選結果を前に神崎はるみは人目もはばからず泣き出し、周囲に自分の不幸を喧伝した。
「また、お姉ちゃんに馬鹿にされる!」
「父さんは、はるみならトップ当選って言ってたのに!」
「佐々木さんに再選を許すなんて、なんて不甲斐ないの!」
 突飛で無謀な神崎はるみのチャレンジは、こうして幕を閉じた。泣きじゃくる彼女の傍らで肩を抱いて慰めていたのは、クラスメイトの蜷河理佳である。そして、そんな神崎はるみの前に演劇部部長、乃口が姿を現し演劇部入部を強く勧めたという。

「ご、ごめん」
 貧乏揺すりを幾分きつめの口調で指摘された遼は、蜷河理佳への興奮を意識の奥に押さえ込んだ。そんな彼の挙動をはるみは横目にしつつ、呆れたため息を漏らして勢いよく着席した。
「蜷河と、どんな話したの?」
 教科書を机から出しながら、彼女は視線は向けずにそう尋ねた。
「普通の話。部活、頑張ろうとか」
「ふーん」
「俺、カンがいいから、すぐ芝居もうまくなるって」
「ふーん」
 尋ねておきながら目も向けず気のない返事をするはるみに、遼は少しだけ不快感を抱いた。そして同時に、このまま黙ってしまうのは、なにやら悔しい気もした。
「い、いい奴だよな。蜷河って」
「美人だし、性格も優しいし、先輩の中でも狙ってるの多いから、まぁせいぜいがんばりなさい」
 小さな声と早口でそうつぶやいた彼女の言葉を、遼は正確に聞き取ることができなかった。
「え?」
 首を傾げ、大きく目を見開いた遼だったが、はるみは正面を向いたまま黒板を見つめ続けていた。
「美人の先輩がなにをがんばってるって?」
 聞き取り違えのため的が外た隣席からの問いに、だがはるみは無言のまま筆記用具を取り出し、授業に備えていた。

3.
「そう、わしがこの家の当主。野々宮儀兵衛じゃ」
 その日の放課後、演劇部の部室で島守遼は、台本に書かれた台詞をまったく抑揚もなく文字の集合としてただ読み上げた。
「あは……あはは……」
 演劇部部長、乃口は眼鏡をかけ直し、苦笑いを浮かべながら後輩が初めて挑戦した“芝居”を受け止めていた。
「下手ねぇ……」
 遼の傍らの床に座っていたはるみは、ひどく呆れた口調で率直な感想をそうつぶやいた。
「だ、だめかな?」
 あまりにも厳しくも単純なはるみの評価に、台本を手にした遼は照れ笑いを浮かべた。
「ちっとも感情がこもってない……役のことを考えて、もっと抑揚をつけてね。でないと、舞台の上のあんたを、皆はただの島守だとしか思わないわ」
 はるみは遼を見上げ、早口で具体的なアドバイスをした。
「お、俺なりに考えてみたんだよ。ほら……オーバー過ぎるのも不自然だろ?」
「舞台はオーバーなぐらいで、ちょうどいいのよ」
「そ、そうか……」
 クラスメイトであり、演劇においては先輩である彼女の言葉に頷きつつ、遼は部室をちらりと見渡してある姿を探した。

 蜷河さんは……来てないのか……

 下手と評されてしまう演技を見られず済んだ。自分に対して好意を抱いていると思われるあの黒髪の美少女が不在であることに、遼はひとまず安堵した。さて、だとすれば彼女は今、学校のどこでなにをしているのだろうか。いつになったら部室に訪れるのだろう。さて。不在を意識してみると、かえって蜷河理佳のことが気になる。なるほど、これが「意識してしまう」ということなのか。彼は自分の変化に気付きながらも扉をじっと見つめ、それが開くのを心待ちにしていた。

「部長。まずは発声練習とか、基礎から教えないとだめですよ」
 そう提案したのはもう一人の男子部員、二年生の平田だった。
「そ、それはそうだけど……もう公演まで、あまり時間もないし……」
 乃口部長は仏頂面で正論を述べる平田に対して、同意しながらも別の打開策はないものか考えた。
「わかりますけどね。このままじゃ恥です。野々宮役は台詞が少ないのが幸いですけれど、それだけに一言の重みがある。つまり説得力ですよ」
「そうね……」
 顎に手を当てた乃口部長は、しばらく遼を見つめた。
「は、はは……」
 遼は自分の晒されている状況を理解してはいたが、それでも責任など感じることができず、近づいてくる乃口の視線を感じながら、ただ頭を掻くだけだった。
「そうねぇ……やっぱり最初は基礎よねぇ……腹式発声とかって……知ってる?」
 乃口の問いに、遼は何度も首を横に振った。
「そっかぁ……ん……じゃあ、私たちは抜き稽古するから……神崎さん、島守くんに教えてあげて?」
「はーい」
 はるみは立ち上がると、遼の腕を引き部室から廊下へ彼を連れ出した。
「ど、どこに行くんだよ」
「発声練習は屋上でやるの。部室で大声出したら、先輩たちの稽古の邪魔でしょ?」
「神崎は、稽古に出なくていいのか?」
「わたし、出番ちょっとだからいいのよ」
 はるみに手を引かれるまま、遼は階段まで連れてこられた。彼が足を重くすると、はるみもそれに合わせて足取りを緩やかにし、手を離した。
「平田先輩あんなこと言ってるけど、大丈夫だからね」
「あんなことって?」
「部の恥とか、一言の重みがとかって……けど、あの人真面目過ぎるの。ほんとはもっと、気楽にしてていいんだからね」
 そう言われたものの、遼は平田の言葉をあまり重くは受け取っていなかった。「まぁ、自分も素人だから、最初にあれこれ言われるのは仕方ないだろう」「最悪、誰かが役を変わってくれるだろう。だって、女子が男の役だってやれるんだから」などと、彼は気楽に事態を受け止めていた。しかし、それでもはるみの気遣いは嬉しかった。
「ちゃ、ちゃんと教われば……俺だってそこそこモノになるだろ?」
「さぁ……それはどうか、わからないけど……」
「と、ところでさ……蜷河はどうしていないんだ?」
 階段を上りながら、彼は遠慮がちにはるみへ尋ねた。
「今日練習に出ないのは……もうだいぶ前から予定に入ってたの。大事な用があるんだって」
「ふぅん……」
 先を進む神崎はるみは、歩みを更に緩めて遼と並び、ちらりと彼を横目で見た。
「寂しいんでしょ」
「そんなことはないけど……」
「知ってる? 蜷河の役」
「いや」
「野々宮婦人役」
「じゃあ……」
「そ、島守の奥さん役」
 島守遼は足を止め、右手を後頭部に回した。
「まいったねぇ」
 そうつぶやく彼の声は空気をたっぷりと含み、豊かに弾んでいた。
「あ……」
 立ち止まったはるみは大きな目を更に見開き、遼を指差した。
「な、なに? 俺がどうかした?」
「いまのそれ……腹式発声だよ」
 はるみはそう指摘したが、遼はきょとんとしたまま、何度も瞬きをするだけだった。

4.
 東京都大田区雪谷(ゆきがや)。都の中心部から少々離れたその住宅街に、島守遼の住む集合住宅があった。
 合計十世帯が暮らし、鉄筋製ではあるものの風雨によってくたびれた外観をしたこの築十五年、二階建てアパートは、地区の平均からしても家賃の安い物件にあたる。
 さび止めだけで、塗装の施されていない外付けの階段をこつこつと上がりながら、遼はスラックスのポケットから一本の鍵を取り出した。それはキーホルダーにも付けられず、黒い錆が斑点状に浮き上がった鍵だった。

 赤ん坊の頃、両親がここに転居して以来、遼はずっとこのアパートに住み続け、十三年前に病気で母を亡くしてからは、父親の島守貢(とうもり みつぐ)と二人暮らしをしている。
 2DKの安アパートは、親子二人で暮らすには広すぎることもなかったし、そもそも遼はこれまでにこれ以上の暮らしをした経験がないので、「まあ、こんなものだろう」と強い不満は抱いていなかった。

 親父……帰ってきてるな……

 扉の鍵が開いたままになっていたのに気付くと、遼は眉を顰めて鍵をポケットにしまった。
 彼は無言のまま扉を開けると玄関で靴を脱ぎ、夕方の陽が差し込む薄暗い台所へ上がった。

 台所のテーブルにはスーパーの袋が三つほど置かれていた。

 冷蔵庫に入れろよな……

 遼は袋から生鮮食料品を漁り出すと、それを手際よく小さな冷蔵庫へと移した。
「おう……遼か……お帰り……」
 台所の右側に位置する襖から、一人の中年男性が姿を現した。ベージュのシャツ、ねずみ色のスラックスといった身に付けた衣類の全てが皺だらけのよれよれであり、小柄で痩せた体躯のうえ背は少しだけ折れ曲がり、短く刈り込んだ頭髪にはいくつか白い物も混ざっていた。住み処と同様に少々くたびれた外見をしたこの男こそ、島守遼の父親、島守貢である。

 貢は今年で三十五歳。十六歳の長男を持つ父親として、戸籍上の年齢はかなり若い。しかしどこかどんよりとした、生活に疲れ果てたような容姿の結果、高校生の子を持つ父親相当の印象を近隣住民や知人達に与えていた。
「俺はこの親父が十九歳の時の子供だ。親父が今の俺と三歳しか違わない頃、俺は生まれたんだ」これまでにそう認識することも幾度かあった。しかし古い写真、つまり父の若き日の姿を見たことがない遼にとって、その事実はあまりにも漠然とし過ぎていて実感を伴わずにいたし、貢からは同級生達の父親と比較しても“若さ”が感じられなかった。

「駄目だろ……生ものとかは、すぐに冷蔵庫に入れないと……」
「ははは……ごめんごめん……すぐ夕飯、作るからな……」
 息子に注意された父、貢は照れ笑いを浮かべながら流し台に向かった。
「飯……俺が作ろうか?」
 少々疲れた様子の父を見て、遼はそう提案した。しかし貢は無言のままのろのろと冷蔵庫を開け、肉と野菜を取り出した。
「米、炊けてるし……味噌汁も朝のが残ってる。野菜炒めでいいよな」
 父の言葉に、息子は学生鞄を床に置きながら小さく頷いた。
「今日は勝ったぞ……」
 肉のパックを開けながら、嬉しそうに貢はつぶやいた。なんとなく台所の椅子に腰掛けた遼は一度頷くと、再び腰を浮かせてすぐ側の冷蔵庫からパック入りのオレンジジュースを取り出し、それをコップに移して一気に飲み干した。
「いくら勝ったの?」
「五万だ。始めて一時間で、ドカンよ」
「なら……そんなに疲れてないんだね」
「ああ……スーパーでな、ついついステーキ肉に手が伸びそうになったけど、我慢したよぉ」
 ニコニコと笑い嬉しそうな貢は、味噌汁の入った鍋に火をかけ、足元の収納からフライパンを取り出した。
「贅沢は駄目だもんなぁ。いつ疲れて動けなくなるか、わからねぇもんなぁ……」
「うん……」
 中腰のままコップに二杯目のオレンジジュースを注ごうとした遼は、なんとなくそれを諦めジュースのパックを冷蔵庫に戻した。
 肉と野菜が炒められる耳慣れた音が、六畳の薄暗い台所に響いた。遼は完全に立ち上がると電灯をつけ、食卓に置かれていた夕刊を手に取った。その一面には、こんなことが書かれていた。

 ファクト 甘利被告に死刑判決

 連続銃撃事件、洗脳セミナー事件、味方村消失事件、渋谷騒乱事件など、52件に及ぶ一連の、いわゆる「ファクト事件」で、殺人罪などに問われたファクトの甘利(あまり)洋一被告(51)の判決公判は、13日午後も東京地裁で続けられ、寺田智成裁判長は、甘利被告を一連の事件の準首謀者と認定し、求刑通り死刑を言い渡した。寺田裁判長は、「ファクトの犯罪の大半を立案し実行を提案した被告は、独善的に日本国を支配することを妄想したもので、犯行の動機・目的は愚かしい限りというほかなく、極刑に値する」と断罪した。なお、ファクト代表の真崎実は97年、渋谷区代々木にて短銃自殺を図っており、他の幹部も鹿妻島爆発事故の際に死亡した者が多く、甘利被告は同組織の生存者としては最高位に属していた。

 父の手で食卓に置かれた肉野菜炒めの匂いをひと嗅ぎした遼は、新聞を冷蔵庫の上に置き、その隣の食器棚から茶碗を取り出した。
「ファクトの代表が、死刑だってさ」
 炊飯器からご飯をよそいながら、遼は味噌汁の味見をする父にそうつぶやいた。その唐突な話題の原因であろう冷蔵庫の上に畳まれた新聞へ目を向けた貢は首を一度だけ小さく横に振った。
「違うよ。代表は真崎って奴だ。今裁判中なのは生き残りの幹部だ」
「よくわかんないけど……えっと……真崎って……真実の人って名乗ってたんだっけ?」
「ああ、覆面被ってな。あちこちに映像とかで出てきて……あん時は、大騒ぎだったなぁ」
 食卓に対座した親子は、一瞬だけ目を閉じると夕飯に手をつけた。
「俺が……九歳の頃だっけ? ファクト事件があったのって」
「うん、外出禁止令とか出てな。渋谷や新宿では、銃撃戦にもなったんだ」
「銃撃戦ねぇ……」
 肉野菜炒めを頬張りながら、遼はほとんど覚えていない過去の事件に想いを向けてみた。

 そうそう……二学期が始まっても……十月までは学校行かなくてよかったんだよなぁ……

 島守遼にとって記憶にあるのは事件に付帯した、そんな瑣末事ぐらいである。

 今から七年前、この日本では政府と武装テロリスト集団による、国家の主導権を巡る闘争があった。

 闘争は半年間に及んだ。真実の徒「ファクト」を名乗る武装テロリスト集団は住宅街や警察署を無差別に襲撃し、その被害は死者四百五十二名、重軽傷者二千八百六十五名に達し、戦後最悪のテロ事件にまで発展してしまった。
 決着は呆気なく訪れる。真実の徒がアジトとして潜伏していた鹿妻新島で発生した大規模な爆発事故によりテロ組織は中枢を失い、半ば自滅という形でこの事件は幕を閉じた。テロ事件の発生回数が最も多かった首都東京では夜間外出禁止令が、そして末期には戒厳令が敷かれる結果となり、日本の行政機構は対応と事後処理のため随所で長期間の混乱、麻痺が生じた。それは市民生活に多大な影響を及ぼしたため、七年経った今でも人々の記憶にはあの非日常が強く印象付けられている。
 しかし、大規模な天災ならばともかく、闘争とテロの現場を目撃した者は少数であり、徹底的な報道規制の結果、影響を受けた者と反比例してその実像を知る者は限られていた。
 当時、島守遼は九歳の小学生であり、事件の目撃者でも被害者でもない。夏休みが過ぎても二学期が始まらず、やがて夜の外出を制限されたが、ごく稀に武装した陸上自衛隊員を窓から見かけるぐらいで日常に大きな変化はなかった。テレビでは連日に亘って政府発表や報道特集、討論特番などといった関連番組が特別編成で長時間放送されていたが、そこで流されるのは事件後の映像ばかりで、いわゆるテロリストの姿は宣戦布告をした覆面の指導者が何度か登場しただけであり、闘争そのものを記録した内容はほとんど報じられていない。そのため、このいわゆる“ファクト騒乱”は遼にとって今ひとつ焦点を定めようもない、過去の大事件に過ぎなかった。

「ファクトは国外から資金や武器を援助されてたんだ。政府はそいつらに金を渡して事態を収拾した。真崎やら甘利なんてのは、傀儡なんだよ」
 貢は味噌汁を飲み干すと、つまらなそうにつぶやいた。遼は訳知り顔でそんなことを語る父を上目遣いで見た。
「詳しいんだね」
「そりゃあ……テレビとかでもよく言ってることだからな。なんでも……ユダヤ資本が絡んでるって噂だよ」
「ユダヤ資本って……なに?」
「アメリカを牛耳る資本だよ。だからファクト事件でも米軍の動きは鈍かったんだ」
「ふーん……」
 父の話を聞きながら、息子は味噌汁の味が少々辛すぎると感じ、舌で軽く口内を舐めた。

 煮詰まってるのかな……

 所詮は解決済みの、自分が幼い頃のテロ事件である。父との対話を重ねている最中でも味噌汁の味で興味が損なわれるほど、ファクト事件は遼にとって“どうでもよい”ことだった。

 食事と後片付けを終えた遼は、四畳半の自室に入った。本棚と勉強机が置かれ、壁には車のポスターが張られたありふれた男子の部屋である。
 襖を挟んだ向こう側にはやはり四畳半の部屋があるのだが、そちらは父親が使っている。台所も含めたこの三つのエリアが、島守親子にとっての全居住空間である。
 他には和式の便所もあるが風呂はない。二日に一度、近所の銭湯に行くのが習慣になっていたが、昨日汗を流したばかりなので今日は寝るまで暇である。遼は椅子に腰掛けると、勉強机に頬杖をついた。

 明日は……部活ないんだよなぁ……次は来週か……蜷河さん……来るといいけど……

 蜷河理佳と夫婦役を演じるということは、うまくやることができれば、これはもう両者の仲は接近するしかない。そうなれば退屈だった高校生活は鮮やかに彩られるだろう。

 引き出しから手鏡を取り出すと、遼は小さな四角に写った自分の顔をまじまじと見つめた。
 目は少々細く神経質な印象を与えるかも知れないが、顎は細く鼻筋も通り、まあ自分で見ても結構な細工の顔である。色白で長い黒髪、上品さすら醸し出す美少女の蜷河理佳と比べると釣り合いに不安もあったが、彼女はどうにも気が弱い。強く頼り甲斐のある心意気を持てれば、それなりに相応しい相手になれるはずである。

 島守遼は勝手な判断を重ね、四畳半で一人浮かれていた。

5.
「演劇を始めたそうだけど、芝居というものを君は理解しているのかな?」
 翌日の朝、登校した島守遼は教室の扉近くでそんな言葉を一方的にぶつけられ、すぐ傍までやってきた声の主に眠そうな目を向けた。やはりそうか。比留間か。面倒で厄介な同級生に声をかけられてしまった。遼はすぐに視線を前に戻すと、いつもの様に、適当にやり過ごしてしまおうと決めた。
「い、いやぁ……理解もなにも……まだ始めたばかりだし……」
 視線を外し、頭を掻きながら照れ笑いを浮かべる遼に、比留間は四角い眼鏡を人差し指で直すと薄い唇の両端を吊り上げた。
「芝居というものはね、脚本に書かれた台詞を喋ればよいというものではない。人間を演じるということは、そんな浅い事ではないのだよ」
 甲高い声で、比留間は一気にそう告げた。彼は遼よりずっと小柄な男子生徒だったが、態度はそれと反比例していた。比留間は長身の遼がいつ怒って反撃をしてきても醜態を晒してしまわない様、相手との距離には細心の注意を払っていた。胸でも突き出され、こちらがバランスでも崩そうものなら、こんな態度はしばらくとれなくなる。それではつまらない。島守遼は自分にとって、実にいい“お相手”なのだから。眼鏡の彼は、ありふれた芝居論を口にしながらもしっかりと間合いの計算をしていた。

 あのなあ……そんなに劇のこと詳しいんなら……どうしてお前が演劇部に入らないんだよ……

 そう思ってしまった遼だったが、もし言葉にしようものなら数十倍の反論が早口で返ってくるのはわかっている。比留間とは入学以来の短い付き合いではあったが、反応の予測は幾度にも及ぶ経験ですっかり身についていた。
 うんざりとした遼は返事をせず、無視を決めて自分の席に着席した。比留間は背丈の差がなくなったのを目ざとく察知すると遼のすぐ近くまで駈け寄り、ぐんと胸を張って後ろに腕を組んだ。
「どんな役をやるのかな? 何ならアドバイスしよう。僕は名優たちのことだって、それは詳しいんだ」

 “何なら”って……なんなんだよ……

 常に軽い拒絶の態度をとっているのにも関わらず、比留間は度々“親切”な忠告をしてくる。彼が他の生徒と言葉を交わしているのを遼は見たことがなく、なぜ自分に対してだけこうしてお節介をしてくるのかわからなかった。その上、忠告の内容は常に的外れであり、参考になることなど一度もなかった。

 入学してしばらくしたある日の下校途中、遼はこの的外れな同級生が校門で上級生たちに囲まれていたのを目撃したことがあった。その時の彼は直立不動ですっかり怯えきっていて、それと反対に上級生たちの形相は険しく憤然としていた。今にして思えば、あれはおそらく比留間がいらぬ忠告でもしてしまい、上級生たちの反感を買ってしまった結果なのだろう。しかしその頃の遼は比留間の事をよく知らなかったため、翌朝彼に、「昨日、何があったの?」と、つい話し掛けてしまったのがそもそもの失敗であり、この関係がスタートしたきっかけだった。
 比留間は上級生たちの横暴を遼にまくし立て、遼は勢い負けて支離滅裂で論旨が破綻したその意見に仕方なく同調してしまった。以来、比留間は遼を理解者として認定してしまった。いや、この口の悪い同級生は自分をストレスの発散材料にしているだけかも知れない。そう考えると腹も立つが、校門での泣きそうだった彼の顔を思い出すと、自分の方が体格も恵まれているという事実もあり、怒りに任せて粗暴な態度には出られなかった。

 じき担任が教室にやってくれば、この不愉快なお喋りも止むだろう。遼はそう判断すると、しばらく無視を決め込むことにした。すると、比留間は彼の肩に手を当てた。
「感じ悪いな。返事しろよ」
 そんな言葉を耳にしながら、遼の脳裏にはあるイメージが浮かんだ。それも突然に、極めて唐突に。

 崖だ……断崖……落ちたらそれっきりの……

 真っ白な空間に、崖っぷちがぽつりと在った。底は果てしがなく、落ちれば無事ではいられない高さである。そんな、奇妙なイメージを頭に思い浮かべながら、遼は比留間の顔をまじまじと見つめた。
「な、なんだよ……島守……」
 比留間は戸惑い、遼の肩から手を離した。
「不安……? なの……?」
「な、なんなんだよ……どうして……僕が不安なんだよ……」
「あ……いや……」
 思わず口にしてしまった“不安”という言葉に遼も軽く混乱し、比留間から視線を逸らした。するとその先、教室の前方出入り口に蜷河理佳の姿があった。

 少女は比留間の背中越しから、遼を真っ直ぐに見つめていた。微笑みもせず、怒っている風でもなく、ただひたすらじっと見つめていた。その視線に、遼はますます混乱の度を強めてしまい、息苦しさを感じて視線を宙に泳がせた。
「お芝居のことなら、わたしや部のみんなで教えるから、比留間は引っ込んでてよ」
 ぶっきら棒な口調だった。いつの間にか登校してきた神崎はるみは正面を向いたまま着席したが、その忠告が遼を越した比留間に向けられたのは誰の目にも明らかだった。
「う、おお……ん、んん……」
 予想していなかった介入に比留間は奇妙な呻き声を上げると、青ざめた顔で教室の前方にある自分の座席へじりじりと後退した。
「あ、ありがとう神崎……助かったよ」
 隣に座ったはるみに礼を告げると、遼は鞄から一時間目に使う教科書とノートを取り出した。礼を言われたはるみは正面の黒板を見つめたまま、彼に視線を向けることはなかった。
「島守って、いっつも比留間に言われっぱなし。情けないのよね」
「あ、う、うん……」
「あんなの口だけなんだから。今だってすっかりうろたえて、島守の方がずっとちゃんとしてるんだからさ」
「あ、ああ……」
 淡々とした口調で言いながら、はるみは教科書や筆記用具の準備を始めていた。遼は彼女がなんとなく不機嫌そうに見えたので、視線を右斜め前の席に向けた。
 そこに着席する蜷河理佳の後姿は、いつもの様に落ち着いて静かである。腰までのばした彼女の黒髪を、遼は頬杖をつきぼんやりと眺めていた。 

 蜷河理佳が……奥さんの役かぁ……

 演劇部入りを提案したのは左隣の神崎はるみだが、同じ部の蜷河理佳も自分の入部に対して、「結構賛成」していたらしい。野々宮儀兵衛役のため勧誘がなされたとなれば、蜷河理佳は相手役としてわかった上で賛成したのだろう。黒髪に魅入りながら、彼はそんな都合のいい想像の中にいた。

 しばらくすると、教室にベージュ色の背広姿の男がやってきた。痩せた体躯をした初老の彼は、この1年B組の担任教師であり、名を近持弘治(ちかもち ひろはる)という。近持は教壇に立つと細い目を更にまぶしそうにし、生徒たちを見渡した。
「岩峯先生から連絡事項です。国学の補習授業は土曜日の午前から行います。補習範囲は、大和ことばと衣装、調理のはじまりです」
 穏やかな口調でそう告げた近持は、深々と頭を下げると教室から出て行った。
 その間も島守遼の意識は、ずうっと右斜め前に座る蜷河理佳へと向けられていた。

 その日の授業も終わり、明日の土曜日は月に二回の休校日である。席を立つ生徒たちの多くは表情も明るく、膨らんだ空気が教室に満ちていた。
「なぁ島守、明日付き合ってくれるか」
 学生鞄を手にして立ち上がり、そう誘ってきたのは沢田である。遼は素っ気ない表情のまま何度か瞬きし、小さく頷き返した。
「付き合うって……どこに?」
「買い物だよ。渋谷。いいだろ?」
「まぁ……別にいいけど……」
 これまでにもこの沢田と、何度か休日に遊びに出たことのある遼だったが、この週末を彼と過ごすのはなんとも惨めで無様な気がしてきた。
「用事とか……ないんだろ?」
 口先を尖らせ、視線を泳がせていた遼の顔を覗き込みながら、沢田は首を傾げた。
「ないよ……ああ……用事なんて……」
 返事をしながら遼は斜め右前方にちらりと視線を移したが、蜷河理佳の姿は既に教室になかった。
 間違いない。彼女のことが気になりはじめている。しかるべき順序を踏まえていれば、この週末にしても二人で過ごすチャンスがあったはずだ。遼は椅子の前脚を軽く浮かせ、深いため息を漏らした。

 まぁ……今のこれじゃ……沢田と遊びに行くのも仕方ないよな……

 頭を掻きながら、遼は情けない笑みを坊主頭のクラスメイトへ向けた。



 教室から廊下に出た遼は、蜷河理佳の姿をなんとなく探してみた。

 もう……帰っちゃったか……

 彼女がどこに住んでいるのか、どのような通学手段を用いているのか、彼は全く知らなかった。
 廊下を行き交ったり、たむろしてたりする生徒たちを遼は見渡してみたが、彼女の姿をそこに見つけられなかった。彼はその場で強くため息を漏らし、舌打ちしてしまった。
それにしてもなぜここまで、彼女が気になってしまうのだろう。少し考えてみたところでその理由はよくわからない。ただ、不満だ。ただ、つまらない。それだけはよくわかる。苛々としてくるのだけはよくわかる。
蜷河理佳とのぎくしゃくとして緊張感のあるやりとりを、遼は強く求めるようになっていた。苛ついてしまうほど他者の存在を欲するするのは、彼の人生において初めての経験だった。
 ふと、遼は廊下に佇むある同級生に目を留めた。190cmを超えるひょろりとした長身を猫背に屈ませ、馬面の顎先に無精髭を生やした彼の名は戸田義隆。温厚そうで少々だらしない面構えではあるが、目つきは意外と鋭く、特に仲よくしている友人はクラスにおらず、彼がこうしてぽつんと佇む光景は日常茶飯事である。戸田はクラスの中でも独りきりの存在で、本人もそれを自覚していたが特に問題視はしていないらしい。
 戸田は廊下の窓際に寄りかかり、ぼうっと天井を眺めていた。島守遼にとって戸田は出席番号順でちょうどひとつ後ろに位置し、そのため身体測定や行事の際、何度か言葉を交わしたことがある。
 視線に気づいた戸田がゆるい笑みを浮かべて、長い手で力なく「おいでおいで」をしたので、遼は彼のすぐ傍までやってきた。
「戸田、誰か待ってるのか?」
「いんや、考え事をしてただけ」
 遼は戸田を見上げ、生徒が行き交うこの雑踏の中で考え事をするとは、なんとも変わった奴だと思った。
「なぁ、島守くん。ちょっと話に乗って欲しいんだけど……いいかな?」
「また、漫画のこととか考えてたのかよ?」
「うん。そうそう。漫画の話。島守くんの意見が、聞きたくってさぁ」
 ゆっくりとした口調で、笑顔のまま戸田はそうつぶやいた。
 これまでに遼と戸田が言葉を交わした回数は、正確にカウントすると六度である。そしてその六度のいずれもが彼の読んでいる漫画の話題だったため、遼はこうなる展開を手招きされた段階から予想していた。
「けどさぁ……漫画とかって、俺はあんまり詳しくないんだけど」
「いいのいいの。島守くんは、真面目に相談に乗ってくれるから。僕、それだけでOKだから」
「今は……何の漫画、読んでるんだ?」
「浜口くんから勧められて、寄生獣って漫画を読んだんだけど、島守くんは?」
 知らない漫画のタイトルを耳にした遼は、手と首を何度か横に振った。
「だよねぇ。SFで、ちょっとマニアックな漫画だもんなぁ」
「どの雑誌に載ってる漫画なの?」
「えっと……あぁっと……」
 戸田は天井を見上げ、虚ろな目付きで記憶を辿ったが、やがて諦め、苦笑いを浮かべた。
「昔の漫画だからよくわからないけど……たぶん、モーニングかなんかだったかな……でね、その漫画、主人公の右手にね、化け物が合体する話なんだけど」
「うん……」
「右手に合体したから、名前がミギーっていうんだよ」
「はぁ」
「これがね、もし左手に合体してたら、どんな名前になってたのかなぁって。ずっと考えてたんだよ」
「右手でミギーだったら、左手なら、ヒダー……? いや、ヒデーじゃないのか?」
 遼の答えに、戸田は細い目を見開いた。
「あぁ……それじゃ、左手にはできなかったわけだ。ヒデーじゃ……なぁ……いっくらなんでもなぁ……くく、くくくくく……」
 戸田は堪えきれず、長身を“く”の字に折り曲げ、腹を抱えて笑い出した。
「ヒデーか……そうか、そうだよなぁ……くくくく、あーははははは!!」
 一体なにがそんなにおかしいのだろうか。自分が仮にその漫画の読者だとしてもこんな答えで笑えるとは思えない。目の前で爆笑を続ける戸田を、遼は呆れ顔で見つめた。
 それにしてもだ。これまであまり人前で爆笑したことはないが、戸田はなにやら楽しそうだし、活き活きとしている様にも見える。遼は観察しているうちになんとなく羨ましいような気がしてきて、とうとう釣られて笑ってしまった。しかしいつまで経っても戸田は笑い止みそうになかったので、遼は首を何度も傾げながら彼の広い背中を叩き、帰宅のため廊下を駆け出した。
 戸田はその後五分ほど、奇異な目で見つめる生徒や教師たちに構わず、ずっと笑い続けていた。

6.
 遼は校門から歩道に出た。学校から自宅アパートまでは、徒歩で二十分程の距離がある。さて、真っ直ぐ帰るか寄り道でもしていくか。なんとなく決めあぐねていた彼の目の端に、ある人影が入った。
「蜷河理佳……」
 校門から出てすぐ側のバス停で、学生鞄を両手で持った蜷河理佳が静かに佇んでいた。初夏の陽に目を細める彼女の姿に遼の視線は完全に固定され、気がつけばふらふらとバス停へと向かっていた。
「あ……島守くん……」
「バ、バスで帰るの?」
 少女は左手を鞄から離すと、細い指を口に当て、やってきた遼を見上げた。
「ええ……わたし……家が奥沢の方だから……」
「ふぅん……」
 蜷河理佳と向かい合った島守遼は、自分の鼓動が高鳴っているのに気付いた。すると、渋谷駅行きのバスが停留所の前で停車した。
「あ、えっと……じゃあ……」
 彼女は鞄からパスケースを出しながら、バスの前部入り口へと上がった。
「あ……」
 遼も彼女の挙動に釣られ、バスに乗り込んでしまった。慌てて財布から小銭を出す彼を、先にバスの中央まで進んだ蜷河理佳は不思議そうに見つめていた。
「と、島守くん……近所に住んでるんじゃ……?」
 隣の吊革に掴まった遼に、彼女はそう尋ねた。
「あ、うん……ちょっと……渋谷まで用事があってさ」
「バ、バスだと……結構かかるよ……」
「あ、ああ……いいんだよ……うん……」
 どさくさ紛れの浅はかな行動は恥ずかしいが、ともかくあと数駅は蜷河理佳と同じ時を過ごせる。遼にとって、その幸せが恥を遙かに上回っていた。隣でバスに揺られる彼女の横顔を見つめながら、彼はその白い額にうっすらと浮かんだ汗を認めた。
「暑いよね、最近」
「う、うん……日差しが強くって……わ、わたし……肌、弱いんだ……」
「かと言って、日傘で登校するのもなぁ」
「変だものね。バス停が近いからいいけど……で、でも、買い物に行くときとか、使ったりするのよ」
「へぇ……」
 たわいない会話ではあるが、遼にとってはじゅうぶんである。日傘を差す蜷河理佳の姿を思い浮かべながら、彼の表情は綻んでいた。しかし、同時にある違和感を覚えた。
「えっと……蜷河さん」
「あ……はい?」
「な、なんで……俺が学校の近所に住んでるって……知ってたの? さっき、そう言ったよね」
「あ、ん……そ、その……」
 蜷河理佳は視線を床に落とすと、右手で吊革を強く握り締めた。
「き、聞いたの……神崎さんから……」
「そ、そう……」
 頷きながらも遼は、これまでに神崎はるみへその事実を話したことがあったかどうかの記憶を辿ってみた。しかしその結論は「言ったような、言っていないような」である。
 都心部へ向かうバスに揺られながら、島守遼と蜷河理佳はやがて会話も途絶えてしまい、互いに押し黙ったまま吊革を握り締めていた。ようやく、蜷河理佳が顔を上げて何かを言おうとしたが、それと同時にバスは奥沢二丁目に停車した。
「じゃ、じゃあ……来週……」
 顔を赤くした少女は目を伏せ、バスの中央出口からステップを降りた。
「う、うん……じゃあね」
 遼は小さく手を振り、歩道に降りた蜷河理佳もくるりと振り返ってそれに応じた。彼女のスカートが揺らめきを終える頃にはバスの扉も閉ざされ、車内に残った彼の足元は振動を再開した。一番後ろの席なら最後まで彼女の姿を見続けられる。そう判断した遼は後部に移動しようと身体を向けたが、既に座席は埋まっていて、さてどうしようかと決めかねているうちにバスは大きくカーブしたため、彼は小さくバランスを崩した。
「あ、島守……」
 奥沢二丁目からバスに乗り込んできた乗客の一人が、つり革に掴まって体勢を保とうとしていた遼に声をかけてきた。
「鈴木さん……」
 声をかけてきたのは、遼と同じクラスに在籍する鈴木歩という女生徒である。いつも見る制服姿ではなく、Tシャツにジーンズの彼女に、彼は戸惑って何度も瞬きをした。
「どっか行くの?」
「あ、ああ……渋谷まで……」
 遼の隣で立ち止まった鈴木は、蜷河理佳が先ほどまで掴んでいた吊革を握った。
「鈴木さんは? この辺住んでるの?」
「うん。これから予備校。ひどいんだ。学校終わってから、全然ゆとりないの。速攻で家に帰って、着替えてさ、もうギリギリよ」
 鈴木の低い声を聞きながら、遼は横目で彼女の姿を眺めた。このクラスメイトとはこれまで一度ぐらいしか言葉を交わしたことがなく、その存在を意識したこともない。目線を合わせるのに注意する必要がないほど女性にしてはかなりの長身だが、胴が少々長く、手足は全体的に太く、背中も肉厚にボリュームがある。薄茶色に染めた髪は両端で大きく巻き上げていて、長い睫毛をびっしりと付けた目は大昔の少女漫画を思い出させるが、その反面、顔の造形そのものは顎が太く鼻が丸いうえ、目自体は小さく口が大きい、といったどこか野暮ったく大雑把だ。つい先ほどまで同じ場所にいた同級生とは何もかも違う鈴木から、遼は視線を正面に向け直した。
「島守さ、朝、比留間に絡まれてたでしょ」
「ああ……」
「あいつ、キショイよね」
「ん、うん……」
「なのに、神崎に言われたら、びびってんの。ほんとキショ……」
 自分のペースでぺらぺらと喋る鈴木に内心うんざりしながら、遼は愛想笑いを浮かべ、心のこもらぬ同意を示した。
「島守、演劇部に入ったんだって?」
「ああ、神崎さんに誘われてさ。俺、芝居なんて全然なのにさ」
「キショ……」
 鈴木は吐き捨てるように小さくつぶやくと、空いていた左手でも吊革を掴んだ。
「劇とかやってる奴ってさ、なんかキショイよね」
「そ、そうかな?」
「ほんとキショイよ。大げさでさ、キショ……」
 渋谷駅に着くまでの一時間近く、遼は鈴木の口から合計にして三十八回「キショイ」という言葉を聞かされた。その結果、これは、「気持ちが悪い」「不気味」「不快である」などといった類似するいくつかの感情を指している事が判明した。言語表現に節約を心がけているのか、単にボキャブラリーが貧困なのか、おそらくは後者なのだろう。目的もなく成り行きで訪れてしまった渋谷の繁華街をぶらつきながら、島守遼の脳裏に「キショイ」という言葉と、鈴木の派手で野暮ったい顔がもぞもぞと蠢いていた。

7.
 東急池上線、雪が谷大塚駅。土曜日の曇り空の朝、島守遼の姿がこの小さな私鉄駅にあった。
 今日は休日であり、クラスメイトの沢田と渋谷で待ち合わせ、買い物に付き合う予定になっている。池上線で五反田まで、そこから山手線に乗り換えて渋谷に到着するまでの電車内を、遼はほとんど目を瞑り半分ばかり眠った状態で過ごしていた。渋谷駅の改札を出てからも彼はあくびを小さく繰り返し、高層ビルを見上げる目もどこか虚ろだった。
 東京二十三区内の大田区ではあるものの、遼が住む雪谷は都境の多摩川まで1kmほどの最果てに位置する閑静な住宅地である。渋谷という繁華街を訪れることは普段ならそれなりに高揚感を伴うイベントになるはずだが、今日に限ってはそれもない。連日に亘ってこの街に来るとは思ってもいなかった遼は、ハチ公像周辺に設置された休憩用のバーに座り、ペットボトル入りのアイスティーを時折飲みながら、友人の到着をぼんやりと待っていた。
「おーう! 島守ー!」
 地下鉄の出口から沢田が現れ、遼のもとまで嬉しそうに駆けてきた。遼が沢田を見上げると、その隣にはもう一人の姿があった。それが見覚えのある同級生だったため、遼は立ち上がって軽く指さした。
「あれ……小林も一緒なの?」
 沢田の傍に大人しく佇む、背が低く小柄なボブヘアーの同級生を見つめたまま、遼はそう尋ねた。
「ああ、言わなかったっけ?」
 屈託ない笑顔を沢田は向けた。遼が首を小さく傾げると、小林と呼ばれた少年は視線を宙に泳がせ、搾り出すようにつぶやいた。
「し、渋谷の本店しか……手に入らないんだ……」
「はぁ」
 そう言えば、今日は一体何の買い物に付き合わされるのか、それさえも遼は把握していなかった。
 島守遼と沢田、小林の三人はハチ公前から道玄坂のスポーツ用品店までやってきた。店が近づくにつれ小林の歩みは速まっていたが、足の長さというリーチにより、遼が追いつくのに苦労は少なかった。
「さ、沢田くん、あれあれ」
「あったあった」
 小林と沢田は店内に置かれたスニーカーに手を伸ばすと、それを抱え込んでうっとりとした表情で眺めた。遅れて店内に入った遼は、その光景をつまらなそうに眺めていた。沢田はともかく、小林が運動靴に魅入る姿は遼にとってなにやら意外でもあった。だが小林の足元にひとたび視線を落としてみれば、彼の履いている“それ”が、やはり手にしたスニーカーと同様、一流ブランドの派手なデザインの物であることわかる。小林の趣向に納得した遼は、「あぁ」と間抜けな声を漏らし、一度だけ頷いた。
 沢田が店員を呼ぶと大学生ぐらいと思しき、体格のがっちりとしたエプロンを着けた男がやってきて交渉が始まった。しばらくしたのち、成立したのか沢田はポケットから財布を取り出しながらレジへ向かったが、小林の方と言えば床に視線を落とし、今にも泣き出しそうなほど悔しそうに顔を歪ませていた。
「小林……どうしたんだ?」
 遼が声をかけると、小林は俯いたまま身体だけ彼の方へと向いた。
「サイズが……ないって……僕……足……小さいから……ちょうど……ないって……」
 つまり、わざわざ渋谷まで来て目当てのスニーカーを手にしたのにもかかわらず、自分のサイズが在庫切れだった。遼は小林のつぶやきをそう理解したが、何か解決策や妥協案はないものかと思い、適当な思いつきを口にしてみた。
「ちょっとくらい、大きくてもいいんじゃない? せっかくなんだし。それってレアなやつとかなんだろ?」
「駄目だよ島守君。それじゃ意味がないんだ……悪い……僕……新宿まで行くから……」
 小林はか細い声でそう言うと手にしたスニーカーを棚に戻し、悔しそうな表情のまま足早に店外へ立ち去っていった。
「あれ……小林は……?」
 会計を済ませてレジから戻ってきた沢田が、遼を不思議そうな目で見上げた。
「新宿行くって……悪いって言ってたよ」
「あぁ……あいつの足、小さいからなぁ……」
「やっぱり……小さ過ぎると、在庫とかも少ないの?」
 その問いに、沢田は二回ほど頷いた。
「大きすぎても小さ過ぎても在庫のレンジは狭くなるんだよ。だからあいつも苦労が多いんだよね」
 小さ過ぎる足にもかかわらず、スニーカーに対して執着を持つ小林。装飾品や衣類にこだわりはおろか頓着も少ない遼は、小林の日常はその趣味のせいか、はたまたそのおかげで起伏に富んでいるのだろうと思った。

 二人になってしまった遼と沢田はファーストフードで昼食を済ませると、道玄坂をなんとなくうろつくことにした。
 雲の合間からたまに陽光が差し込んではくるが、渋谷の街はどんよりとした鉛色の空気に包まれていて、遼にしてみれば気分と同調した色合いだった。どうせ今日は何も起こらないだろう。小林の急な離脱が今日最大のサプライズというやつで、それ以上はないのだろう。誰に話したところで、いや、そもそもそれに出くわした沢田とも一分以上“持たなかった”話題が本日の最大事件とは。情けなくなった遼は、映画でも観て少しはマシな土曜日にしようかと思ったが、この坊主頭の同級生と一緒にかと思うと余計に惨めに思え、すれ違う若いカップルに羨ましそうなため息を漏らした。
「島守。もうすぐ、期末試験だよなぁ……」
「あ、ああ……そうだったな、沢田」
「まずいよなぁ。俺、全然だよ。島守はどうなんだ?」
「俺も……まぁ、勉強はしてないけど……」
 そもそも遼は、現在通っている仁愛高校より数段上のレベルの高校を受験できる成績だった。受験勉強の苦労もないうえに自宅アパートから徒歩圏内の近所にあり、経済的負担が比較的少ない公立高校。彼に仁愛への進学を迷う理由はどこにもなかった。一年生一学期目の試験なら、特に勉強をせずとも悲惨な結果にはならないだろう。遼はそう踏んでいたため、沢田ほど危機感はなかった。
 二人の男子高校生は特に理由もなく道玄坂から路地へと入り込み、飲食店や風俗店が軒を連ねる裏通りを歩いていた。

 そうだ、期末試験が終わったら蜷河理佳を誘ってこの街に来よう。その時は、決してこんなうらぶれた路地を歩いちゃいけない。

 島守遼は曇り空の元、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「なぁ、島守……」
 前を歩いていた沢田がゆっくりと足を止めたので、遼もそれに倣った。
「あれさ……」
 沢田は路地に建ち並ぶ飲食店のうち、ある一軒を指差した。
「バーか、なんかか……?」
 その店は、赤いレンガの外壁をした小さな二階建ての一階部分に入っていた。漆黒の扉のすぐ隣に位置する出窓には、洋楽アーティストのくたびれたポスターが並べて貼られ、すぐ下にはビールやバーボンといった洋酒の瓶がずらりと置かれ、いずれも往来の人々に店の傾向を示していた。入り口に当たる漆黒の扉は一見客を寄せ付けない重厚な雰囲気を醸しだし、その上に設置された看板には、「Full metal Cafe」と読める電飾が施されていた。
「フルメタル……カフェ……何の店?」
「いや……俺も知らないんだけど……たぶん、飲み屋とかだよ」
 沢田の頼りない返事が不可解に思えた遼は、彼の坊主頭を凝視して、「だから」と強い口調で促した。
「知ってるか? ここで、ウチのクラスの奴がバイトしてるの?」
「いや……え? こんな店で?」
 高校生がアルバイトをするにしては、この「Full metal Cafe」は、いささかアダルトなムードがする店構えに見える。再び店先を観察した遼は、いったいクラスメイトの誰がここでバイトしているのか興味を抱きはじめた。
「誰がバイトしてるんだ?」
「向田愛」
 その意外なる名前に遼はショックを受け、耳を疑った。
 向田愛。1年B組の女子生徒であり、遼はまだ一度も話したことがない。しかし彼女のふっくらとしすぎた達磨のような容姿に、膨れ上がったボリュームのありすぎる重戦車の如き巨体は、会話をせずとも知る者の全てに強烈な外見的印象を抱かせていた。“あの”向田愛がもしも飲食店でアルバイトするなら、中華料理店、それも本格的ではなく下町の駅前にある小汚いが大いに繁盛している大衆店の方がイメージに当てはまる。この路地からだと店内の様子は窺えないが、たぶんあの薄暗く狭いであろう店内で仕事をする向田愛は、汗を噴出し客の顰蹙を浴びながら地響きを立てて仕事をしているのだろう、そんな勝手な想像をした遼は低い声で笑い出した。
「向田さんには悪いけど……くく……沢田……俺……今日一番笑ったかも」
「だろ、だろ」
「その情報、どこから仕入れたんだよ?」
「麻生の奴が見かけたって言ってた。あいつもここの近くでバイトしてるらしいんだよ」
「そ、そうか……」
 こみ上げてくる笑いを押さえ込むのに努めながら、遼はしばらく沢田と並んで赤いレンガの、「Full metal Cafe」を眺めていた。

8.
「ワシの遺産は誰にも分配せん! すべて戦災孤児基金に寄付する! なぜだと!? ワシの生い立ちを知れば、わかるであろうが!!」
 月曜日の放課後、演劇部の部室に島守遼の大きな声が響いた。椅子に座り、丸めた台本を手にした乃口部長は、苦笑いを浮かべて眼鏡をかけ直す仕草をした。
「あー……島守くん。そのね、ここは……怒ってるの」
「は、はぁ……」
 遼は頭を掻き、乃口部長の指摘に耳を傾けた。
「わかんない?」
「はぁ……怒ってる……ですか……」
 素人故、遼には台本に書かれた台詞の内容なら理解できたものの、それを喋る心情までは読み取れなかった。遺産の寄付を宣言している台詞である以上、単に勇ましく元気よく演ずればいいと思っていた彼は、野々宮儀兵衛という老人が誰に対して怒ってこの台詞を喋っているのか、まったく想像ができなかった。
「野々宮は、自分の娘たちに対して怒っているのよ」
「はぁ……でもどうしてです、部長?」
「野々宮の娘たちは遺産欲しさに、父親に早く死んで欲しいと思って、そのいろいろな仕掛けを彼はもう見抜いているの」
「はぁ……なるほど……そりゃ、怒りますね……」
「でしょ。だから今の台詞は、娘たちに対しての怒りが込められていないと、全然お客には伝わらないわ」
「はぁ……」
 芝居というものの難しさを、遼は入部三日目にして強く感じようとしていた。果たして自分にこのような大役が務まるのだろうか。しかしいったん引き受けてしまった以上、途中で投げ出すこともできない。ともかくここは、娘達への怒りを込めればいいのだろう。怒っているのだから、乱暴に早口に、がなり立てればいいのだろうか。
 先ほどと同じ台詞を今度は乃口部長に言われるがまま、怒りを込めてわめき散らしてみた遼だったが、周囲の反応は相変わらず鈍く、先輩達の表情も曇ったままで、空振りな結果に彼はがっくりと肩の力を落としてしまった。落胆する新入部員を乃口の背後、部室の壁際に立っていた二年生の男子部員、平田は冷ややかな視線で見つめ、ふん、と鼻を鳴らせた。
「部長、島守は間に合いますかね?」
「うん……けど……もう彼に頑張ってもらうしかないし……」
 乃口は頼りなくそうつぶやいた。遼は三度目になる「ワシの遺産は誰にも分配せん!」を自棄気味に絶叫し、平田は向上の兆しが見えない後輩の単調な芝居に再び鼻を鳴らせた。
「声は通ってるわね。う、うん、それが救い」
 あの新入部員の長所を少しでも見つけよう。遼に野々宮儀兵衛役をあてた乃口部長は焦っていた。彼女はおさげにした髪を指で引っ張るようにいじり、紛れない不安に小さくため息を漏らした。
 
 その日の稽古は、遼に対しての初歩的な演技指導を随所に挟みながらのろのろと進み、ようやく前半のクライマックスまでたどり着いた。それは服毒自殺を図った蜷河理佳演じる後妻の野々宮夫人の姿を、島守遼演じる野々宮儀兵衛が発見する場面だった。
「お、おお……なんということじゃ……悦子……悦子や……」
 床に倒れている蜷河理佳へ、遼はよろよろと近づいた。その表情は苦悶に満ち、声は震え、全身から絶望が漂ってくる様でもあり、稽古を見守る乃口部長や平田も前置きもなくいきなりレベルが数段ほど上がったその芝居に我が目を疑った。
「死ぬな……死ぬな、悦子……お前がいなくなっては、ワシは……うう、うう……」
 遼は「悦子」と呼びながらもその固有名詞を心の中では“蜷河理佳”に変換していた。蜷河理佳が自殺してしまう。そんな荒唐無稽なアプローチは、だが芝居ずれしていない彼にリアルな感情を呼び起こさせていた。
 部員たちは遼の熱演を注視したり、驚いたり疑問に思ったりしていたが、レベルアップした演技の源を唯一それとなく理解していた神崎はるみだけは、つまらなそうな顔をして静かに稽古を眺めていた。
「う、ううう……うぇぇぇ……」
 倒れている蜷河理佳の細い肩を、遼は呻きながら抱えあげた。
「あなた……」
 うっすらと目を開けた彼女の芝居は演劇部の中でも水準以上のレベルに達していて、間近な死を予感させるその儚げな視線が遼を緊張させ、鼓動を高鳴らせた。
 初めて触れる蜷河理佳の感触は外見と同様頼りなく、強く抱き締め過ぎると壊れてしまいそうだった。
 すると、激しい頭痛と同時に脳裏に、あるひとつのイメージが遼の頭の中に浮かんだ。

 果てしない白い空間の中に、一人の人物が佇んでいた。

 白い空間は軋みながら流れ、摩擦を生じ、その度に細い稲妻の様な光が走る。だがその人物は、周辺とは無縁に静かである。まるで、そこにいるのにいないかのような、そんな静かで落ち着いた様子だ。黒いスーツに身を包んだ、男とも女ともつかないすらりとした体躯に整った顔立ちの人物。髪は空間同様真っ白であり、その目は赤く輝いていた。これは、普通の髪や目の色ではない。なのに、自然に感じられる。この美しい人物にとって真っ白や輝く赤は、果てしなく自然だ。

 彫像のように、美しく、妖しく、それでいてどこか禍々しい者。そう、禍々しい。これは近づいてはならない者だ。このままでは、いけない。近づいてしまう。

 遼は恐ろしくなって叫び声を上げ、少女から離れた。イメージは四散し全身が痺れ上がり、彼はその場に倒れ込んだ。
「島守くん!」
 椅子から立ち上がった乃口と壁際にいた平田が、倒れ込んでしまった遼に駆け寄った。上体だけ起き上がった蜷河理佳は右手を床に着き、大きく目を見開き、遼を恐ろしげに凝視していた。
 神崎はるみは先輩達に続いて非常事態に駆け寄りながら、凝視を続ける蜷河理佳の態度を冷淡だと感じた。

 白髪の美しく妖しい容姿の人物が、遼の脳裏にはっきりとしたイメージを持って現れ、四散した。この、頭の中に度々何かのイメージが浮かぶ体験を、彼は幼い頃から何度となく繰り返している。
 誰にでもこういったことがあるのだろうと、かつては友人にもこの現象を語った遼だったが、年齢を重ねるに連れそれが自分固有のものであると気づき、不気味がられたり、いじめられたりされるのは嫌なので、最近では誰にも話したことがなく、軽い秘密になっていた。

 保健室のベッドで、遼の意識は現時世界へと復帰した。
「あ……」
 遼が最初に目にしたのは、心配そうに顔を覗き込む神崎はるみの大きな瞳だった。
「神崎さん……」
「大丈夫……?」
 完全に意識が回復したことを認めると、はるみは小さく微笑み首を傾げた。遼はこびりついた頭痛を振り払う仕草をして、覗き込んでいたはるみを払いながら上体を起こした。これまでも頭の中にイメージらしきものが浮かぶことは何度もあったが、気を失うほど強烈な頭痛を伴うことはない。これはいよいよ、医者に診てもらうべきなのか。消毒液の臭いを感じながら、彼はげんなりして口元を下げた。
「あ……えっと……」
 ベッドから辺りを見渡した遼は、夕陽の差し込むここが学校の保健室で、自分とはるみしかいない事に気づいた。
「先生が大丈夫だって。だから……部長たちは、もう帰ったよ」
「そ、そうか……」
 ようやく頭痛も治まりかけていた遼は、はるみが座る反対側のカーテン越しに、ある人物のシルエットが浮かんでいることに気づいた。
「先生! 島守が目を覚ましましたぁ!」
 はるみが元気よくそう告げるとカーテンがゆっくりと開かれ、そこから白衣姿の中年男性が姿を現した。
 仁愛高校保険医、桑重源蔵(くわしげ げんぞう)。今年でちょうど五十歳になる、元小児科医という経歴の校医である。背格好は遼と大して違わないが、頭髪はおろか眉毛も全くなく、切り出された深い岩のような彫りの深い顔をしている。一見すると気難しそうに見える男だが、その外見からは想像もつかないほど甲高い声で、桑重は症状を告げた。
「貧血だね。うん。貧血。だめだよぉ、弁当は適量を胃袋に収めないとぉ」
「は、はぁ……」
 昼の弁当はじゅうぶんすぎる量を食べたが、遼はそれを桑重に伝える気になれなかった。あの頭痛と失神は空腹が原因などではなく、どう考えても脳裏に浮かんだイメージの副産物だ。しかし、頭の中にイメージが浮かぶというこの特殊な現象を打ち明けられるほど、この禿頭の保険医とは親しくない。第一、今はすぐ傍に神崎はるみもいて、彼女にイメージ現象を知られ、不気味がられるのも面倒だ。遼は頭を掻くと、これ以上ここにいても仕方がないと結論づけ、ベッドから抜け出した。
「すみません先生……体調管理には気をつけます」
「うん。頼むよぉ」
 桑重は何度も頷くと、遼とはるみを夕暮れの保健室から外に促した。

「貧血……ねぇ……」
 遼とはるみは一緒に校門から出ると、坂道を並んで下りていった。
「面目ない……」
 苦笑いを浮かべる彼に、だが彼女は納得のいかない疑問を抱いたまま、首をひねっていた。
「なんか……そんな感じに見えなかった。島守、蜷河の肩を抱いたとたん……まるで電気でしびれたみたいになって……」
「お、女の子の肩なんて触るの初めてだから、のぼせ上がっちゃったのかな?」
「ふーん……」
 はるみは坂道が終わりに差し掛かっているのを確認すると、少しだけ歩みを速めた。そして遼の前に回り込んだ彼女は、いたずらっぽい笑みを浮かべると白い歯を見せ、立ち止まって人差し指を立てた。
「蜷河、さっさと帰っちゃったんだよ」
「なんだよ、それ……」
 その言葉の意味を遼は理解できず、また、特にしたいとも思わなかった。彼が歩き出すと、はるみも向き合ったまま後ろ歩きを始めた。
「ま……いっか……それはどうでも……」
 はるみは坂を下りきると足を止め、右の掌をぱっと広げると、わかるかわからないかほどの微妙な苦笑いを彼に向けた。
「あー……じゃあ、わたしはこっち……池上線だから」
 二手に分かれた道の左側に向かって数歩進むと、はるみは振り返って小さく手を振った。
「神崎の家って、どこなんだ?」
「代々木。だから五反田乗り換え」
「代々木……すごいじゃん」
「昔っからだよ。家は二階建て、広くて綺麗なんだ」
 にこにこと微笑んでそう語る神崎はるみを、遼はなにやら子供っぽいやつだと思い、つられて微笑んだ。
「じゃーね、島守!」
「ああ! また明日! ……っと……神崎……」
 駅に向かって駆け出そうとした同級生を、遼が呼び止めた。はるみは急停止するとよろめき、制服のスカートをなびかせながら振り返った。すると、その表情には予測していなかった強い驚きが浮かんでいた。

 二人の間を初夏の生ぬるい風が吹き、少女は右手で流れた髪を押さえた。

「神崎さ……蜷河に……俺がこの近所に住んでるって、教えた?」
 その問いにはるみは、「なに?」とつぶやき怪訝そうに顎を引き、ややあって大きく首を横に振った。
「ううん、島守って、ここの近所に住んでたんだ? 初耳だよ!」

 一段と強く、生暖かい風が島守遼を吹き付けていた。

9.
 残念なことだが、自分には演技の才能というものがカケラほどにもない。ここ数日に亘る稽古で遼はそれを痛感していた。腹式発声は自然に備わっているため声量に関しては文句なしだったが、いざ台詞となると暗記した内容を間違えずに喋るのに精一杯で、感情を込めるなどとても無理である。
 そして何よりも問題なのが、台詞を喋る前と後にあった。前者は緊張が、後者は安堵、あるいは反省が大挙して押し寄せるため、演じることをすっかり忘れてしまい、大富豪、野々宮儀兵衛としてではなく、ただの演劇部員として舞台上に在ってしまう、すなわち棒立ちの癖が抜けきらないことにあった。
「目線が泳いでるわよ」
「ほら、自分のこと言われてる場面なんだぞ、相手の演技に対応する!」
 先輩の女生徒たちに叱られながら遼は混乱を続け、一体自分が何をどうすればよいのかさっぱりわからなくなってしまうこともあった。
 そんな彼も相手が野々宮悦子、つまり蜷河理佳になれば演技も幾分マシになる。夫人を愛する芝居は台詞の有無とは関係なく自然に演じられ、それに照れを感じる繊細さは幸いにも皆無だった。だが、稽古を重ねてシチュエーションに慣れてしまううちに、その唯一の長所についても当初の鮮烈さはしだいに薄れ、その他の場面と同様になろうとしていた。
「一応……恥を掻かないレベルまではしないとね……」
 乃口部長はそう言ったものの、彼女にしてもこの新入部員に対してどう指導をしてよいものか、途方に暮れていた。
 芝居は日を追うにつれ長所と短所が近づこうとしてはいたが、その平均値は低いと言わざるを得ない。このままコツコツと底上げを図るべきか、蜷河理佳に対する迫真の演技を思い出させ、それをすべての状況において適用できるように、徹底した演技指導をするべきなのか。
「一応、才能らしきものはあるんだけどねぇ」これが、乃口部長の最近の口癖となっていた。

 その日も遼は、先輩たちや同学年である別のクラスの部員から、合計三十にも及ぶ演技についての注意を受け、精神的にも肉体的にも疲弊し尽くしていた。
「うぅ……あぁ……」
 重い足取りで部室から出た遼は、呻き声を上げながら下駄箱へと向かった。なぜこれほど疲弊してまで苦手に敢えて挑む。それは、“彼女”がいるからだ。そんな自問自答を彼は繰り返していた。本格化していく稽古のおかげで、これまで以上に蜷河理佳とコミュニケーションをとる機会は増えてはいた。だから厳しい注意や指導にもなんとか耐えられる。しかしあの気絶の一件以来、彼女はどこか自分に対して距離を置いているような気もしていた。事実、話し掛けても返事がこれまで以上に少なく、逃げるように立ち去ってしまうことも幾度かあった。たぶんそれは、自分の芝居が絶望的に下手だからなのだろう。呆れて萎えて、見当違いだったと冷ややかな気持ちになっているはずだ。
 芝居の経験を積めば積むほど、自分の演技がいかに低いレベルなのか、彼自身がよく理解していた。その理解力の向上は、ひいては共演者たちの能力を知ることでもある。特に蜷河理佳の芝居は部員の中でも飛び抜けていて、出番が重なることの多い彼にとって、彼女との競演は苦痛を伴いはじめていた。部活に出るおかげで接点は増える。しかしその反面、より直接的に短所を見せる結果になる。喜びと憂いは表裏一体だが、最近では裏面の露出が多いような気もする。だとすれば、どうしたらいいのか。退屈を克服するための入部であり、それにはひとまず成功したが、想定通りの悩みも訪れた。もちろん、解決策など用意してはいない。
「島守くん」
 校門に出た遼は背後から声をかけられたため、無意識のうちに振り返った。
「蜷河さん……」
 両手で鞄を持った蜷河理佳が踵をぴったりと合わせ、遼の眼前に佇んでいた。彼は言い知れぬ歯がゆさを感じ、頭を掻いた。
「な、なんかさ……俺……最近……足、引っ張ってるって……感じ……」
 その情けない真情の吐露に、だが少女は数度首を横に振った。
「と、島守くん……頑張ってるから……大丈夫……発表まで間があるし……一緒に練習すれば……」
 それは島守遼にとって、なによりもの救いの言葉であった。蜷河理佳は共演者としての自分を見放してはいない。それどころか、落ち込んでいる自分にこんな優しい言葉をかけてくれる。解決策に思い悩んでいた彼は、下唇を歪ませると小さくため息をついた。
「うん……だね……夏休みもあるし……練習……たくさんできるもんな……」
 遼の言葉に少女はうっすら微笑むと、持っていた学生鞄を抱えた。中から何かを取り出すのだろうか、彼が注視していると、彼女は鞄を開けた。
「島守くんに……あ、あのね……読んで……欲しいんだ……」
「え……?」
 蜷河理佳の申し出は遼にとって意外であり、彼の想像力を逞しくさせていた。
 読んで欲しいものとはなんであろうか? たぶんきっと、そう。手紙だろう。だとすれば何と古風なことか。しかし、彼女には似合っている。悪くはない。それに付き合う、そう、徹底的に付き合いたいとさえ、遼は思った。
 むずむずとした痒みと共に鼓動は高鳴り、彼の額には汗が滲んでいた。
「こ、これ……!!」
 蜷河理佳は俯いたまま、遼に分厚い何かを手渡した。それを彼が受け取り確認する間もなく、彼女は一目散にバス停まで駆け出し、ちょうど停車していたバスに駆け込んだ。
 呆気にとられた遼は何度か瞬きをして、バスが発車した頃、手渡された分厚いものにようやく視線を下ろした。
 
 それは一冊の、たっぷりとした重みのある書籍だった。

「人体……解剖図鑑……?」

 書籍のタイトルを読み上げた島守遼は口を半分開け、校門の前で何度も瞬きをしたまま、しばらく立ち尽くしてしまった。

第一話「島守遼の散文的日常」おわり

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