1.
右手のこれは、黒く、硬く、そして重い。
朝にも関わらずカーテンも閉め切り、電灯も消したままの薄暗い自室にあって、広く分厚い背中を丸め、椅子に小さく収まっていた彼は、右手の“これ”をじっと見つめたまま、握る力を少しだけ弱めてみた。
教科書よりも、動画用紙よりも小さく、コートのポケットに収まるほどしかない。にも関わらず、手の力を僅かに抜いただけで、ずしりとした重みが肩まで確かに伝わってくる。この重さは、一種の証しのようなものだ。そう思った高川典之(たかがわ のりゆき)は、掌に再び力を込め、鈍器と言っていいほどの重量を手首だけで支えた。右手のこれは、密閉した空間で火薬を燃焼させ、それによって生じるガスの圧力によって、鉛の弾丸の射出を目的とした射出装置の一種、リボルバー式拳銃だ。対象の殺害か、それに類する結果を得るため、賢人同盟で開発・製造された凶器だ。
極めて単純に定義してしまうなら、より多くの火薬を燃焼させ、ガス圧を高めるほど弾丸の殺傷能力は増すのだが、燃焼ガス圧の発生から発砲に至るまでの強い衝撃に耐えるため、拳銃本体も頑強さと反動に対しての安定性を求められる。いま手にしているこの黒い拳銃は、グリップ以外のほとんどが鋼鉄、もしくは金属製であり、重量は一キログラム近くにも達する。か弱い女性や子供、老人であれば、保持するだけでも労苦が伴い、訓練を受けなければ満足な発砲すら望めないだろう。
武の道を進み、それを極めんとする己にとって、“これ”は無用の凶器だ。己の武は、拳銃より、ずっと重い。
高川は、拳銃を勉強机の上に置くと、身体ごと椅子を横に回し、締め切っていたカーテンをほんの少しだけ開いた。窓から空を見上げた彼は、太い眉を片側だけぴくりと痙攣させ、深いため息を漏らした。空は陽も遮られた薄灰色だったが、目覚めてからずっと、彼の心には暗黒のもやが充満していた。
この拳銃だけではない。アサルトライフルやショットガンといった銃器の射撃について、一度だけ経験する機会があった。指揮官であるリューティガー真錠(しんじょう)と、友人の岩倉次郎の三人で、中南米のジャングルに設けられた賢人同盟の射撃練習場を訪れたのは、“鞍馬事変”を経た、十一月下旬のことだった。これから、戦いがより本格的になる。戦場で遭遇する敵は、これまでのように獣人だけではなく、陸戦装備の歩兵も想定される。そんな考えから、敵対する側の武器を知るべきであるというリューティガーの提案に従って参加した、射撃練習だった。銃器の取り扱いは想像していたよりずっと容易で、ライフルなどの長銃身でもコツさえ掴めば取り回しは難しくなく、岩倉は「高川くんは武道で鍛えてるし、そもそもの運動神経が僕なんかよりずっと凄い」と満面の笑みで誉めてくれた。移動標的への発砲も、最初は打ち漏らしに苛立つこともあったが、一時間もすれば命中率も向上し、二時間を過ぎたころにはリューティガーからも「集中力もさすがです。反射神経も新兵のレベルをとっくに超えています」と無邪気な笑みで評価された。そして二人は最後に、「これからは、高川君も銃で武装して戦おう」と、声を揃えて誘ってきた。
しかし、それは断った。二人は、あれこれと理由をつけては何度か勧誘を繰り返してきたが、その都度、同じ言葉で拒絶した。
「俺には完命流がある。鉄砲は無用」
完命流はなんでもありの、殺人をも想定した究極の武術だ。目突き、急所攻め、噛みつきと、なんでもありではあるが、武器や道具の使用や利用は固く禁じられている。その道を進み、極めんとする自分には、銃器などは寄り道以外の何物でもない。だから、頑なに断った。それに、そう、“あの怪物”も身体ひとつで殺戮を繰り広げているのだ。一人のか弱き者と、十五名の強き武人をたちまちに屠った、あの怪物は、おそらくは格闘技者だ。実力は、こちらより遙かに勝るのだろう。そのような存在がいるのだから、遅れを取っている身としては、銃器などにうつつを抜かしている場合ではない。
高川は拳銃を勉強机の一番下の引き出しに収め、鍵をしっかりとかけると、椅子から立ち上がった。
「行って参ります」
台所で洗い物をする母親に挨拶をした高川は、自宅アパート「ファミール池上北」の二階玄関から階段を下り、路地に出た。二月九日の木曜日、そして現時刻の午前十時ともなれば、学校にいるはずの高川だったが、今日これから彼が向かう先は、この池上六丁目と同じ大田区にある仁愛高校ではなく、多摩川を越えた隣県の川崎市にある、見も知らない葬儀場だった。
学校を休むのは、三学期に入ってから四度目になるが、今日のこれは、これまでとは事情が違う。両親も周知であり、葬儀の参列という公言できる用事のための休みだ。他の三回については、鞍馬山への偵察任務参加のためであり、学校には仮病と嘘をついていた。その一方で、両親には登校したフリをして、こちらも無言の嘘でごまかしているのだが、偵察任務が、放課後の夕方から夜にかけての時間割だった場合は、アニメーションスタジオからアルバイトに呼び出されたと、別の嘘で誤魔化している。父も母も、まさか自分の息子が、京都の山奥で獣の化け物と殺し合いなどしているとは、想像もしていないだろう。アニメーターのアルバイトや原付免許取得に際して事前に報告をした際も、励ましてはくれたが、そこに至った理由や、細かな事情を問うてくることは一切なかった。干渉も最低限であり、寛容とも思える両親に対して、嘘を重ねるのは心苦しい。信用に背を向け、代々木のマンションで学生服から迷彩服へ着替え、またその逆を繰り返す奇っ怪な日々は、果たしていつまで続くのだろうか。嘆いたところで、答えがでるはずもない。高川はそれがよくわかっていたので、気持ちをこれから赴く葬儀と、対面する故人に向けて切り替え、駅への歩みを少しだけ速めた。
両親に対する嘘や裏切りなど、生者の贅沢な悩みに過ぎない。棺の中の彼は、そうした憂いを永遠に止められてしまったのだ。完命流最強とも謳われた、甲斐無然風(かい むぜんふう)は、嘘をつくことも誠実であることも、もうなにもできない。平穏だろうが奇っ怪だろうが、日々そのものが過ごせない。棺の中の彼は、これから骨と灰になり、他者の心の中で在り続けるだけだ。白装束に包まれ、開いた棺の中にあった甲斐無然風の遺体を見下ろしていた高川は、両親に感じていた後ろめたさもすっかり忘れ、先輩武道家の死を、現実として受け入れていた。すぐ傍らで両の拳を強く握りしめ、いつまでも悔しそうに泣いている師範の楢井立(ならい りつ)の両肩を掴んだ高川は、「師範、そろそろ」と告げると、二人で棺から離れ、参列者の列に戻っていった。
二月四日土曜日、甲斐は自身が運営する完命流川崎道場で、何者かの襲撃に遭い、殺害された。死から葬儀まで日数が五日間も経過してしまったのは、殺人事件の被害者であったため、警察による司法解剖が行われたからである。同時刻、同所では甲斐の他にも十六名もの男女が殺害された。一名は川崎道場の事務を担当する酒井という中年女性で、残る十五名はいずれも完命流柔術を学び、あるいは指導する立場の武術家たちであり、十名は川崎道場に所属する甲斐の門弟で、残り五名は他道場から出稽古に訪れていた師範代や門下生だった。
司法解剖や鑑識捜査の結果、十七名は、いずれも素手、あるいは鈍器によって殺害され、犯行に費やされた時間は一時間から一時間半ほどで、容疑者は今のところ一名とされ、指紋も検出されているが、指名手配には至らず、現在も捜査が続けられていた。甲斐と、最後の別れを続ける参列者たちを眺めていた高川は、凶行に及んだ犯人に、ある少女の姿を思い浮かべていた。篠崎若木。柔術篠崎流の道を進む、若き武術家であり、祖父の篠崎十四郎と二人で、FOTに殺し屋として雇われた、猫のように鋭い目をした少女である。昨年の十月には高輪道場でも宮川楓(みやがわ かえで)が、十一月には朝茂田小太郎(あさもた こたろう)が路上で何物かの襲撃を受け、惨殺されていた。完命流の関係者が十九名も殺害されているが、もし犯人が同一の者であるなら、篠崎若木も重要な容疑者の一人に数えられるのではないだろうか。
いや、それはあり得ん。
篠崎十四郎は昨年八月、暗殺者として現れ、戦いの末、泡と化した。そののち、若木も祖父の仇討ちとして襲撃を仕掛けてきたが、手を合わせてみたところ、技能も未熟で力も弱く、取るに足らない実力だった。あの程度であれば、小学生の宮川楓や、中学生の朝茂田小太郎ならともかく、甲斐や十五人の猛者たちとなど、勝負になるはずもない。高川は、それでは果たして誰が犯人なのだろうかと考えを巡らせてみたが、その試みは棺から聞こえてきた絶叫によって遮られた。高川が視線を向けると、喪服姿の若い女性が棺に崩れ落ちていた。背中しか見えないが、周囲の者たちは彼女の肩や腰を支え、叫び声が落ち着くと、今度は号泣と嗚咽と悲鳴が繰り返され、これまでになかったほどの感情の爆発が葬儀場を震わせた。
「あの人は……無然風の彼女だ……あの日、無然風と会った最後の人だ」
楢井師範の説明に、高川は小さくうなり声を上げた。社交的で派手好きだった甲斐は、女性に対しては特に積極的で、「女は、ひと月と切らしたことはない」となどと豪語していた。そんな甲斐なら、あそこまで死を悲しむ女性がいたとしても不思議ではない。すると、傍らの楢井師範が再び啜り泣きを始めた。あらためて感情を刺激されたのだろうか。そう思い、高川は喪服の彼女に視線を戻した。嗟嘆に暮れ、棺にのめり込む背中を見ていると、なんともいえない憐れみを覚えてくる。宮川楓や朝茂田小太郎の葬儀でも、それぞれのクラスメイトや道場の仲間や、家族がああして嘆き悲しんでいた。今もすぐ傍で師範が打ちのめされている。
だが、今日の自分はどうだ。
暗鬱とした気分ではあっても涙はちっとも流れてくれない。宮川楓のときは、あんなにまで泣きはらしたのに。それどころか、犯人への怒りさえ湧いてこなかった。朝茂田小太郎のときは、悲憤に打ちのめされ、一睡もできなかったのに。
感情は、どこにいってしまったのだろう。いつもの自分だったら、この嘆きの濁流に従うなり、抗うなりできるのに。まるで宙に浮かび上がり、他人事だと見下ろしているようだ。高川典之は、焼香の臭いとやるせなさの充満する葬儀場の中にあってただ一人、自分に対して戸惑っていた。
火葬場に向かう霊柩車を見送り、葬儀場を後にした高川と楢井は、住宅街の中にある小さな公園に立ち寄った。高川からの提案だったが、楢井は弟子の気持ちをなんとなく察すると、即答で応じた。
まだ日が暮れるには早く、師範と交わしておきたい言葉がある。葬儀場では慎むべきであり、ほとんど会話もなかったが、甲斐たちが素手の、しかも単独の襲撃者に殺害された件について、なにも意見を交換せず、帰宅するのだけはどうしても嫌だった。高川はベンチに腰掛け、考えを整理していた。少し遅れて、楢井が高川の前までやってきた。彼の両手にはそれぞれ缶コーヒーが握られていて、高川は師範の行為に気づきもせず、さっさとベンチに座って考え事をしてしまった自分が恥ずかしくなり、慌てて謝罪をしてから缶コーヒーを受け取った。楢井は何も言わず、高川の隣に腰を下ろした。彼は缶を開け、コーヒーを一口啜ると、喪服姿の愛弟子に視線を向けた。
「楓ちゃんからこっち……互いにずいぶん喪服姿を見慣れてしまったな」
沈んだ声で、楢井はそう言った。確かに、この黒い洋装には、この半年で三度も袖を通している。高川は「はい」と返すと、自分と、同様の姿をしている楢井の姿を見くらべコーヒーをひと口含んだ。
楢井は高川より二回りほど身体は小さいが、姿勢もよく、引き締まった肉体をしていてバランスの良さを活かした寝技を得意とする一流の武術家である。しかし、背を丸めて両手に持った缶コーヒーを啜るその様子からは、強者としての肉体の張りだけではなく、常日頃から感じられる溌剌とした鋭気や、指導者としての強い覇気も感じられず、どこか疲れ果て、くたびれた様な印象を高川に与えていた。
「師範……今回の一件で、ひとつ、疑問があるのですが」
弟子の切り出した話題に、楢井は四角い顔に小さな痙攣を浮かべ、軽く違和感を覚えながら横目を向けた。
「なぜ、甲斐師範は警察なり然るべき機関に通報せず、賊と対決したのでしょうか? 聞くところによると、佐賀の有沢師範代をはじめ、当日組み手に招かれていた十五名は先に殺害されたそうではないですか」
高川の疑念に、楢井は更に違和感を強くしたが、ひとまずそれには拘らず、会話を先に進めることを選んだ。
「そうだ。事務の酒井さんが第一被害者で、それから数十分のうちに十五名がやられ、そしてその後、道場に無然風が帰ってきた。警察の調べでは、そうなっているらしい」
完命流川崎道場での惨劇は、ショッキングな殺害事件として報道されており、当日の状況は警察発表を基に再現フィルムが作られ、テレビのニュースでも何度も流されており、楢井の説明もそれに沿った内容だった。だからこそ、高川の疑問はより強くなった。
「甲斐師範は不意打ち、だったのでしょうか?」
「かも知れん」
楢井はそう答えると、缶の中のコーヒーを一気に飲み干した。
「そして、そうではないかも知れん」
続いた言葉が意外だったので、高川は楢井の角張った横顔に驚きの目を向けた。
「専門家の助言が欲しいという話で、警察から現場検証の概要を聞かされたのだが、無然風は正面から敵と戦い、敗れたとも考えられるのだ。であれば、不意打ちの可能性は極めて低い」
「そ、そうなのですか?」
「その場に居合わせたわけではないから、断言はできんがな。現場検証や検死結果の内容から推察すると、無然風は真っ向勝負の結果、大蛇からの頸旋結(けいせんけつ)によって命を絶たれたとも考えられる」
「有沢師範代たち十五名を倒したほどの相手に、110番もせず真っ向勝負とは……甲斐師範のお考えが、わかりかねます」
「……それでもお前は完命流か? 典之」
諫めるような口調で、楢井は高川の疑念を制した。興奮のためすっかり腰が浮いていた高川はその場で固まり、言葉を失った。
「仮に、幾人もの仲間の死を前にしたとしよう。そのような状況で、お前は戦わんのか?」
警察に通報するという発想が、武術家としてそもそも違和感がある。楢井の言葉にはそういった意味も含まれていた。高川はそこまで気付くと力を落とし、再びベンチに腰を下ろした。
「無然風の無念について語り合いたうため、ここまで誘ったものだと思っていたのだがな、典之よ」
師の言葉には、失望が込められている。そのような、死んだ者の気持ちについて思い至るという発想そのものが、自分には抜け落ちていた。呆然となった高川は、手にしていた缶コーヒーを地面に落としてしまった。
しまった。指導のつもりが、叱責になってしまったか。弟子の受けた衝撃の強さから己の未熟さを自覚した楢井は、小さく咳払いをし、背中を丸めて落ちた缶を垂直に立て、気持ちを落ち着けた。
「すまん、典之。お前の考えの方が普通で自然だった。それに、無然風は私などと違い、あれでいて中々したたかで計算のできる勇者だった。仲間の復讐だけで、頭がいっぱいなるようなこともないだろう。となれば、襲撃者は意外なる人物だったのかもしれんな」
「い、意外なる人物とは?」
「有沢たち十五名を倒すには、見た目からして違和感のある人物。例えば、老人とか妙齢の女性であるとか」
楢井の意外な見解に、高川は困惑し、首を傾げた。
「道場の面子も台無しにするような、そんな意外なる人物が襲撃者であれば、無然風も復讐心だけではなく、退けずに立ち向かうしかなかったとも考えられる」
「し、しかし師範、妙齢の女性などと、あまりにも……」
「警察の調べでは、畳に残された襲撃者の足跡は、小さく、体重も我々よりずっと軽かったらしい。しかもだ、道場からは現金など一切の金品も奪われていないのに、今田くんの衣類一式だけが、どこかへと消え去っている」
今田とは被害者の一人、“舞姫”と異名される華麗なる速攻技術の持ち主、大阪道場の今田美和である。初めて知らされた情報に高川は驚愕して、ひとつの可能性が閃いた。
「ま、まさか……犯人は、今田さんと同じような体型をした……女性?」
今田は二十三歳で、同世代でも比較的華奢な女性であり、犯人が服を奪い去ったのであれば、着替えのためとも考えられる。
「その可能性もある」
楢井の返事に頷きつつも、高川は今田美和の姿をある人物と重ね合わせていた。篠崎若木なら、確かにある程度なら重なる。だが、信じがたい。あんなに弱い少女が、甲斐ら十六名に実力で勝るはずがない。半年ほど前に襲撃してきた彼女は、それこそ朝茂田小太郎よりも未熟者だったのだから。高川は困り果て、二つに割れた顎を太い指でさすり、口元を歪ませた。
「どうした? 典之」
「は、はい師範。師範は犯人が、篠崎流という可能性について、如何お考えでしょうか?」
高川は以前にも一度、篠崎流について尋ねてきた。楢井は唐突に出てきた古びた名前に意外さを覚えながら、「篠崎流?」と返した。
「はい、実戦での実力はどれほどかと?」
「篠崎十四郎であれば、たとえ篠崎流であったとしても、あり得なくはない話だが……」
その老人とは、昨年の夏に若穂保科の清南寺で激突したが、島守遼(とうもり りょう)の異なる力の介入もあり、敗北後に泡と化した。もちろんその件を師に告げられるはずもなく、高川は同意して頷くしかなかった。
「だが典之、手口が異なる」
「そうなのですか?」
「ああ、確かに篠崎流にも大蛇や頸旋結に類した技はあるが、無然風は鮮血で目潰しをされたうえ、十五人の中からいくつもの亡骸を覆い被され、身動きを取れなくされた末、とどめを刺されている。篠崎流はこのような、完命流であれば認められる無制限を、忌むべき邪道と位置づけ、強く否定している。良くも悪くも、篠崎流は正々堂々を夢想する惰弱なる体育。そもそもが我々と比べようもない」
「ではなぜ、十四郎殿ではあり得ると?」
高川が自然に“十四郎殿”と口にしたので、楢井の違和感はますます強くなった。公園に来てから、愛弟子の言動のいちいちが引っかかる。いや、それも仕方がないのか。完命流の関係者が、もう十九名も殺害されているのだ。明日は自分のことかと怯え、平常ならざる情動により言動の変化が生じるのも無理はない。楢井はそう納得すると、「篠崎十四郎の実戦における実力面での評価だけなら、という意味だ」と短い返事をした。
「しかし、女性となると違いますな。では、犯人は我々と同じ、完命流? しかも若い、あるいは老いた女性?」
「まさか。理由が見あたらん。だが、警察からの情報から推察するに、我々以上の実力をもった、武術家であるに違いはないだろうな」
「な、楢井師範以上の実力ですか?」
「ああ、そうだな。敢えて言うなら、東堂かなめくんに匹敵する真の実戦武術家だ」
尊敬する姉弟子、東堂かなめは免許皆伝を果たした完命流史上に名を残す実力者であり、彼女の卓越した反射神経や技の切れを目の当たりにしたこともあったが、楢井師範を超えるかどうかは判断のしようもなかったため、本人からの発言に高川は興味を抱き、息を呑んだ。
「稽古でも、ある時期からは苦戦が続き、体格差でなんとか凌ぐのが精一杯だった。東堂かなめは、我々とは別次元の武術家だった」
苦笑いを浮かべた楢井は、喪服のネクタイを緩めた。確かに、東堂かなめはFOTの前身であるファクト機関と戦い、命を落としたと噂されている。ならば師範を超えた実戦の力を持っているのもわからなくはない。高川は師に倣いネクタイを緩め、ため息を漏らした。
「こんな状況だから、今更隠し事はせん。東堂かなめは、九年前テロリストと戦い、命を落とした。彼女は銃弾の飛び交う中にあって、完命流の武を以てして、凶悪なテロリスト共と戦い抜いたのだ。私や無然風などでは想像もつかん、超実戦とも言うべき修羅の極みで、己が命を燃やし尽くしたのだ。とてもではないが、私にそんな経験はない」
楢井の言葉に、高川は身体をぶるっと震わせた。これまで道場生の間でも噂として囁かれ、師範にしても否定も肯定もしなかった幻想が、遂に事実として裏付けられる瞬間が訪れたのか。だが、感動する弟子とは逆に、師は更なる裏付けが必要だと考えていた。
「かなめくんが、サッカーの視察以来、行方不明になった翌年、東堂家の執事で、林という人物が道場を訪れたのだ。林殿は、私にかなめくんの真実を話してくれた。そして、道場の名札を取り外してもよいと言ってくださった」
道場の名札を外すとは、すなわち東堂かなめが、完命流高輪道場の所属ではなくなったことを意味する。彼女の真実とは、戦いによる死である。高川はそれをあらためて思い知り、両膝の上で拳を強く握りしめた。
「あれだけの殺戮を繰り広げた……東堂と神崎の血統に言わせるものかよ!! 化け物どもが!!」
死に際して、篠崎十四郎はそう言い残した。そして鞍馬山のテントで、神崎まりかはなんの淀みもなく完命流の名を口にした。これでもう間違いはない。あの二人は共に轡を並べ、死闘を戦い抜いたのだろう。そんな結論に至った高川は、神崎まりかと次に会う機会があったら、是非とも東堂かなめの話をしておこうと胸に決めた。
「楢井師範。この俺が東堂かなめの後を継ぎ、実戦の力を身に付け、憎き賊を打ち倒してみせます!」
昨年以来、命の奪い合いを戦い抜いてきた自分なら、その資格があるかもしれない。そう思い宣言した高川だった。秘密の経験を知らない楢井にしてみれば、いささか過ぎた決意表明でもあるが、復讐に燃える弟子の精力的な目の輝きは、いつも目にする高川典之そのものであり、ついさっきまで漂っていた違和感は消え去っていた。それ故に慢心とは諫めず、楢井はベンチから勢いよく立ち上がると、左拳を握り、それをゆっくりと開いた。
「典之。これより道場でひと汗流さんか?」
師の誘いに、高川も立ち上がって応えた。
「はい! 師範!」
「我々とて完命流の道を征く者として、命を狙われておる身かもしれん。実戦の力は容易く習得できるものではないが、稽古を積み重ねるのは決して無駄にはならんはずだ」
「はい!」
上を向いた高川は、曇天を見つめながら、心の暗鬱に光が差すのを僅かに感じていた。実戦は、とうに経験済みだった。しかし高川にとって、楢井の誘いはありがたかった。今は無心に技を磨こう。純粋に武の道だけに没頭できれば、このよくわからない気持ち悪さもなくなってくれるはずだ。縋る様な心境ではあったが、高川はそれを自覚せず、楢井と共に公園を後にした。
同じ曇り空を見上げる姿が、ある街中にあった。赤いスタジアムジャンパーに、チェックのミニスカート姿の彼女は、スポーツバックを肩に提げ、一見すると家出少女のようではあった。だが、彼女は途方に暮れて上空を見つめているわけではなく、吊り上がった目は鋭く、僅かな殺気が宿っていた。
まだ日が暮れるには早い時間だったが、そろそろ今日の安全なねぐらを確保しなければならない。まだ子供に見られてしまうから、金がいくらあっても夜明かしには労苦がつきまとう。身を守る術はあるが、宿願を果たすまで、できるだけ事件は起こしたくない。もう、十九人もの民間人を殺してしまっているのだから。だが、篠崎若木は見上げるのを止めなかった。雲がなくなり陽が差すのを、いつまでも、彼女は待っていた。
2.
FOTの京都拠点制圧の最前線基地となっている鞍馬山小学校から、南西に向けた仮設道路の建設が完了したのは、今日、二月十二日から一週間前のことであった。以来、五百メートル後方に設けた臨時の支援基地との車輌の行き来が始まり、装甲車輌や補給車両が、昼夜を問わず頻繁にすれ違っていた。春に予定されている最終決戦では、全国の部隊より74式戦車も参加する予定にもなっていたため、仮設道路の強度は、その走行に耐えられる設計となっていた。
時刻は午後六時を過ぎ、既に日は沈んでいた。府道のやや古びたアスファルトと、仮設道路の真新しい境目に差し掛かったリューティガー真錠は、ライトに照らされた小学校を見上げ、白い息を漏らした。本日の賢人同盟部隊の偵察任務は、岩倉次郎と健太郎の三名によって午前十時から午後五時まで行われた。司令本部への帰投時刻は、ほぼ予定通りとなるだろう。戦場での緊張をようやく解き、安堵したリューティガーの背後を、兵員輸送車が続けて二台通り過ぎていった。今日の偵察では交戦は一切なく、だからこそ定刻での任務完了を可能とさせていた。地中レーダーでの強行観測を主な目的とした、先月二十九日の“鞍馬一号作戦”以来、敵の出現機会は減り、合同部隊全体として偵察のスケジュールも見直され、従来より緩めのシフトに変更されていた。これに対応して、リューティガーも賢人同盟部隊の偵察シフトを軽減し、特に遼や岩倉、高川といった学生たち“仁愛組”については、できるだけ今日のような日曜日や土曜日のシフトに組み込み、平日でも夕方からの任務参加とする腹づもりでいた。
「サルートはあとにしましょう。戦闘も新しい発見もなかったからね。それより、夕飯にしませんか?」
リューティガーの言葉に、後ろに続く岩倉は満面に笑みを浮かべ、大きな腹をさすった。最近ではかなり絞られてきてはいるが、岩倉の体型は歩兵として見ると、まだまだ肥満型であり、陸上自衛隊や機動隊員と比較すると緊張感というものにかけていた。それとは対照的に、がりがりに痩せた黝(あおぐろ)い体躯の健太郎は、暗灰色のコートを揺らしながらリューティガーの前に出ると、「では、先にテントへ」と告げ、校門に続くコンクリートの階段を駆け上がっていった。
「相変わらず、健太郎さんは食べないんだね」
岩倉のつぶやきに、リューティガーは、健太郎の背中を見上げたまま頷き、「彼は、食べられないんです」と返事をした。
どういった事情でそうなのかは知らないが、生体改造を施され、常人と異なる身体構造をしている健太郎であれば、栄養補給の理(ことわり)も自分たちとは違って当然なのだろう。岩倉は以前からそう納得していたが、今では戦友とも言える彼と、一度も食卓を共にできないのは、なんとなく寂しいとも思っていた。
鞍馬山小学校の体育館は、合同部隊の食堂として利用され、パイプ椅子と折りたたみテーブルがところ狭しと並べられていた。陸上自衛隊が給仕する夕飯は、三日に一度はカレーライスであり、この日も体育館じゅうに香ばしい匂いが充満していた。米とカレーの分量はある程度の自由が認められており、リューティガーは大盛りを、岩倉は米を少なめにしたカレーをそれぞれ受け取り、空いている机を探した。
「いつ見ても大きいしゃもじだよね。あんなだと、ついつい量も多くなりそうだから、いつも気を遣っちゃうよ」
パイプ椅子に座り、テーブルにカレーを載せたトレーを置いた岩倉が、そうぼやいた。
「自衛隊のしゃもじは、確かに特大ですね。ガンちゃんは食事制限してるの?」
リューティガーに問われた岩倉は、坊主頭に左手を当てて、恥ずかしげな笑みを浮かべ、「うん」と頷いた。
「目標体重とか、体型とかはあるんですか?」
「特にはないけど、僕、どうしてもスタミナ不足でさ。すぐに息が上がっちゃうんだ。ルディのおかげで、射撃なんかは自分でも上手くなったとは思うけど、やっぱり兵士として根本的に、体力とか持久力が足りてないかなって」
「確かに。今は局地戦が中心ですけど、今後は戦域が広がったり、追撃戦の可能性もありますね。それに、ガンちゃんの体力が上がれば、僕たち部隊の行軍速度も、比例して上昇する」
「あ、やっぱり僕に合わせてくれてたの?」
「もちろん」
さらりと返事をすると、リューティガーは山盛りのカレーに取りかかった。岩倉は体型にしては少なすぎるカレーを、大事そうにスプーンで掬い、大きな口に運んだ。
「ガンちゃんのような普通の人を、短期間で戦場に送り込むため、僕は徹底して長所ばかりを伸ばす方針で指導をしてきました。けど、これからは短所の克服も重要ですね。嬉しいですよ、ガンちゃんはいつも作戦に対して積極的な心構えでいてくれて」
「うん……けど、その反面、例えば今日みたいに戦闘がなかったりすると、それはそれでホッとしちゃったりもするんだけどね」
岩倉の言葉に、リューティガーはスプーンを止めた。
「ホッと……ですか?」
「うん……やっぱり……人殺しは嫌だし、戦闘があった日の夜なんかは、恐くなってよく眠れないこともあるんだ。今日は、ゆっくり眠れそうだよ」
仁愛組では誰よりも前向きな気持ちで作戦に参加し、常に向上心を忘れず、純粋に勝利を目指す理想的な兵士。岩倉次郎をそう定義していたリューティガーは、彼の弱気な発言に意外さを覚えた。
「その点、島守くんはやっぱり凄いよね。思念破だっけ? 相手を気絶させて、無力化させる新しい必殺技なんだよね? それなら殺さないどころか、ケガだってさせないで済む」
「あれは、僕も大したものだと感激しましたよ。けど、結局はあれだって、蜷河理佳(になかわ りか)を捕まえるために考えたのに決まってます」
不機嫌さを隠さず、むくれた顔でリューティガーはそう言い放った。フルメタルカフェで遼が言いかけていた「戦っても殺さないで済む結果を作り出す」とは、思念破のことだったのだろう。のちに考えをまとめ上げたリューティガーはそんな結論に達し、遼が柳かれんに初めてあの能力を使った際、いたく感激してしまったのを、今となっては後悔していた。
「そ、それは……まぁ確かにそうなんだろうね」
リューディガーの不満も遼の気持ちもよくわかっていた岩倉は、だからといってどちらの味方もできるはずもなく、仕方なく残ったカレーを食べることにした。
「そうしたけりゃ、すればいい。けどね、蜷河理佳を無傷で捕らえたところで、奴の行き先は賢人同盟諜報部情報四課。壮絶な尋問が待っている、別名“地獄”の四課だ。尋問では肉体的にも精神的にも、考えられうるありとあらゆる苦痛が与えられる。ある意味、死んだ方がマシな運命が彼女を待ち受けているんだ。それに、僕はこの前に宣言した通り、奴を特別扱いはしない。遼がその現場にいようがいまいが、躊躇なく射殺するし、マグマの底に跳ばしてやる!」
荒れた言葉遣いでリューティガーは言い切ると、カレーを口に運び、もぐもぐと力強く食べた。
「島守くんもその点については納得してると思うよ。だからルディがテントで、蜷河さんを“FOTのいちメンバー”って宣言したときも、島守くんは反論しなかった」
「ああ。ですけど僕を睨んだ。あの目には、殺気だって込められてた」
短く返すと、リューディガーは素早い手つきでカレーを二口食べ、コップの水をゴクリとひと飲みした。
「にしても何だって遼は、あんな女に拘る。優しくしてくれたのか? 美人だからか? 寝たからか? いずれにしたってこの状況では、どれもくだらないメリットだ。FOTを壊滅させれば、そんなお楽しみだって、平和な中で別の女からいくらでも飽きるほど得られるっていうのに」
リューティガーの粗野な言葉は、しかし岩倉の意識には届いていなかった。彼はカレーを食べながら、遼の理佳に対する恋愛感情ではなく、別のことを考えていた。
FOTのメンバーやエージェントは、捕虜になったら賢人同盟の諜報部に送られ、尋問されるらしいが、どうにもそこがすっきりと頷けない。情報を喋れば泡化するらしい彼らに対して、なにか有効な手段を持っているのかもしれないが、FOTの身柄を確保する権利など、そもそも同盟にはあるのだろうか。あるとして、それはどこのどんな法律によって決められているのか。FOTは同盟から枝分かれした組織らしいが、いまでは日本国内のテロ組織としてアメリカからも認定されている。日本政府はその点については曖昧にしたままだが、個別的自衛権の発動によって、こうして自衛隊や警察のみんなが毎日のように彼らと戦争をしているのだから、FOTを確保するのは日本の然るべき機関のはずではないのだろうか。成り行きでこうなってしまってはいるものの、何か根本的な部分で間違っているのではないだろうか。
考えをまとめた岩倉は、最後のひと口になったカレーを口に含むと、スプーンを空の皿に置いた。ダメだ。疑問点は整理できたものの、怒りにまかせてカレーをやけ食いしている対面の友人にかける、適当な言葉が見あたらない。今はなにを言ったところで、この栗色の髪をした若き指揮官は、頑なな態度を崩してくれないだろう。つまり、タイミングが実に悪い。それにそもそも一介の学生である自分など、同盟と日本政府の力関係をどうこう言える立場にはない。この疑問は、自分の心の中だけにしまっておこう。岩倉は水を飲み、小さく頷いた。
岩倉が間違いに気付き、それを胸の内に閉じ込めてしまおうと決めている間も、リューティガーは苛立ちの中から抜け出してはいなかった。彼は膝を小さく上下させつつ、舌打ちをした。
「遼は、一体なにを考えてるんだ。あんな目で僕を見て。あれじゃ誰がどっちの敵か味方か、わかったもんじゃない」
「島守くんの蜷河さんへの想いは、とても強いからね」
気持ちに余裕が生まれていた岩倉は、ぽつりとそう漏らした。意外な発言に、リューティガーは岩倉の巨体を紺色の瞳でじっと見つめた。
「ガンちゃんは、なにか知ってるんですか?」
「うん、ずっと前のことなんだけど、島守くんに頼まれて、島守くんの小さい頃の記憶を探す手伝いをしたんだ。そのとき、蜷河さんとの記憶も見ちゃったんだ」
東堂家と自身の繋がりを再確認するため、遼は以前、岩倉の卓越した記憶整理技能を介して、過去を“検索”したことがあった。その際、岩倉は遼の様々な記憶を目の当たりにしてしまい、中でも蜷河理佳と過ごした京都での一夜に関しては、強烈な輝きを放ち、遼の大切な思い出として刻まれていたのを知ってしまった。
「ま、まぁ……男女のあれこれだからね、僕も残念ながら未経験だから、とてもびっくりしたんだけど、それ以上に印象的だったのは、島守くんは蜷河さんを、純粋に、とても大切に想っているってことだった。あんなに穏やかで優しい島守くんは、たぶん他にない」
しっかりとした目で見据え、言葉にも熱が込められていた。リューティガーは岩倉の言葉に偽りがないのを認め、だからこそ再び舌打ちをした。
「異性に対してのみ向けられる、純粋な愛とやらか。僕には少々理解しがたい感情だ」
「とても一途だと思ったよ。島守くんから別の女の子の話とか、聞いたことがないし、理由まではわからないけど、島守くんは蜷河さんを真剣に愛している」
「浮気の類はあり得ないってことですね。なら……」
考えを巡らせたリューティガーは、ある発想が浮かび上がり、スプーンの背でコップのふちを軽く叩いた。
「なら、こういうのはどうでしょう?」
「どういうのだい?」
岩倉はリューティガーの言葉を待ったが、彼は視線を泳がせ、スプーンをゆらゆらと揺らし、上の空で考え事を始めてしまった。
「ルディ?」
問いかけてみたものの、リューティガーは視線を合わせず、急に晴れ晴れとした表情になり、くすりとひと笑いすると、残り半分となっていたカレーを勢いよく食べ始めた。
「ルディ……どうしちゃったんだい?」
急に黙り込み、大食い勝負のような勢いでカレーに取りかかるリューティガーに対して、岩倉は「こういうの」の正体が知りたくて声をかけた。しかしリューティガーは対面する戦友に意識を向けることはなかった。おそらく、なにかとてもいいアイディアでも思いつき、それが心を掴んで離さないのだろう。岩倉はそう納得すると、友人の見慣れない興奮状態に呆れた笑みを浮かべた。
「あら、岩倉くんもここのカレー、食べてたんだ」
声をかけられた岩倉が、リューティガーを越えた先に視線を向けると、そこには紺色の官製ブルゾン姿の神崎まりかと、スーツ姿の中年男性が立っていた。初めて見るその男は、髪を短く刈りあげた丸顔で、黒縁の丸眼鏡をかけ、優しげな微笑を向けていた。制服や迷彩服ではない背広姿なのが、この司令本部では若干異質でもあったが、穏やかそうな物腰の男に対して、岩倉はすぐに笑顔を返した。
「この人は、私の先輩の尾方さん」
まりかに紹介された中年男性、尾方哲昭(おがた てつあき)は、ぺこりと頭を下げた。
「尾方です。聞き込みとか、取り調べとか、裏方中心にやってますけど、最近じゃ何でも屋かな?」
岩倉はパイプ椅子から立ち上がると頭を下げ、「岩倉次郎です」と挨拶を返した。
「あちこちで噂は聞いてるよ。高校生だってのに、こんな過酷な戦場で、とてつもない手柄を上げている戦士だって」
出会い頭で賞賛された岩倉は、すっかり恐縮してしまい、しきりに坊主頭を掻いた。
「ぼ、僕なんて大したことないです!」
「謙遜かい?」
「ち、違います! そりゃ、今まで生き残ってきましたし、敵も減らしてきましたけど、みんなのフォローのおかげですし、僕なんて銃器類はそこそこ使えますけど、正規の訓練……例えば自衛隊の一〇〇キロ行軍みたいな凄いのはやってませんし、エミリアちゃんなんかより、根本的な体力が足りてませんし」
慌てて正当な評価を求めた岩倉は、カレー皿を手にとって、「ダイエットしなくちゃいけないぐらい、戦士としては半人前です」と弁解したが、それは既に平らげられた後であり、少量をアピールすることも叶わず、それに気がついた彼は顔を真っ赤にして恥じ入った。尾方は声を上げて笑い、まりかもつられて口元に手を当てた。
「ガイガーさんも死んじゃって、穴を埋めることなんてできませんけど、僕はできることをとにかく無我夢中でしてるだけで……」
絞り出すような声で、岩倉はそう締めくくった。尾方は笑うのを止め、腕を組んで小さく何度も頷き、初対面の岩倉次郎という少年に感心した。
「で、何の用かな? 神崎捜査官」
尾方の前に座っていたリューティガーが、背中を向けたまま、低くくぐもった声で尋ねた。苛立ちを隠さないその態度にまりかは苦笑いを浮かべ、リューティガーの傍らに回った。
「富士五景。陸自が連れてきたサイキが、明日から本格的に作戦に参加するのって、知ってる?」
リューティガーはまりかの問いに、身体をひねって振り返ると、片肘をパイプ椅子の背もたれに置き、視線を上げた。
「ああ、雅戸(まさど)陸佐から聞いている」
「わたしは富士五景なんて、陸自がそういった人材を確保していたなんて、これまで全然知らなかったの。賢人同盟では、事前になにか把握していなかったのかしら?」
「その質問、こちらに答える義務は、ないと思うが」
尾方はやりとりに割り込もうとせず、冷たく言い放つリューティガーを、黒縁の丸眼鏡の奥からじっと観察していた。賢人同盟の若きエージェント。異なる力を有した真実の人(トゥルーマン)の弟。そんな事前情報を得てはいたが、まりかへの態度を見る限り、この少年はまだまだ精神的には未熟である。尾方はまず、そんな評価を下していた。
「ええ、ないわね。けど教えてよ」
「なら教える。雅戸陸佐から聞くまで、同盟でも陸自のサイキについての情報は得られていなかった。僕の報告で、同盟は初めて知り得たということになる」
言葉の抑揚も少なく、棘すら感じるリューティガーの態度に、岩倉はおろおろとして空気を和ませる機会を窺ったが、それに気付いた尾方はわざとらしく首を何度も横に振り、わかりやすく大きな口の動きで、「いいから」という形を作り、気遣いが不必要であると、リューティガーの頭越しに伝えた。
「ありがとう。答えてくれて嬉しいわ」
「警戒しているのか? 神崎捜査官」
「富士五景を? そうね。場合によっては、わたしもお役ご免ってことになるかもしれないし」
「死に神殺しが戯れ言を……こんな時期にまで秘蔵にされていたサイキなど、程度が知れている。あなたが職を失うはずもない」
「高評価、ありがと」
素直な礼の言葉に、リューティガーの苛立ちは増し、三度目となる舌打ちをしたが、それが思わぬ行為だったため、彼は慌ててまりかから視線を逸らした。
「けどまぁ。わたしはそこまで舐めてないかな? だってあの五人、見るからに不気味だったし」
まりかは、岩倉にわざとらしくしかめっ面を向けた。
「僕はまだ見てませんけど、不気味ってどういうことなんです?」
「目出し帽なんてしてるのよ。銀行強盗かと思っちゃった」
「あぁ、スキーとかのアレですね」
「そうそうそう。昔のプロレスみたいなの」
頭の上でまりかと岩倉が軽妙なやりとりをしているのが、リューティガーにとっては不愉快で仕方がなかった。たが、ここで感情的になるのだけは、避けなければならない。「用が済んだのなら、出て行ってくれませんか? こちらは食事の最中なので」そう告げ、丁重になお引き取りを試みようとしたリューティガーだったが、眼前にある自分のカレー皿がすっかりきれいになっているのに気付き、呆気にとられた。半分は残っていたはずの、大盛りのカレーはどこに消えたのか。岩倉がつまみ食いするはずもなく、空間に跳ばしたわけでもない。だとすれば、食べてしまったのか。いつの間に、そうか、あの冴え渡る思いつきに興奮して、無意識のうちに完食してしまったのだ。軽いパニックから立ち直ったリューティガーは、頭上の不愉快なるやりとりを妨げる方法を思いつき、再び振り返ってまりかを見上げた。
「神崎捜査官、いささか突拍子もない質問をさいていただくが、よろしいかな?」
「えっ……ええ……いいけど?」
リューティガーの態度が溌剌と、それでいて胡散臭く急変したため、まりかは戸惑い、岩倉と尾方も驚いて彼に注目しとた。
「女性のあなたの目から見て、島守遼は、複数の女性と同時に交際ができる人物だと思えるかな?」
「はぁ!?」
富士五景からはあまりにもかけ離れた話題に、まりかは声を上げ、腰に手を当てて身を少しだけ屈めた。
「だから、突拍子もないという前置きをさせてもらったはずだが?」
「でもわたし、島守くんのこととかって、よく知らないし。そんなこと聞かれても答えようがないわよ」
「ほう? 内通していたという認識だったが」
「な、なによそれ」
まりかは一歩下がると、リューティガーの座っていたパイプ椅子の背もたれを左手で掴み、それに応じてリューティガーも乗せていた肘の位置をずらした。
「どうなんだ? 乏しい情報量だというのなら、それに基づく判断でも結構だ。どう考える?」
「なら、あくまでもカンってレベルで言わせてもらうけど、島守くんみたいなタイプって、二股とかはできないんじゃないかなぁ?」
「根拠は?」
「カンに根拠がいる?」
いつの間にか、会話の主導権を取られてしまったと感じたリューティガーは、「い、いや……」と躓いた返事で一呼吸を置き、まりかの真っ直ぐな目から視線を外した。
「ま、なんて言うのか、木訥だし不器用っぽいし、上手くやれるタイプには見えないって理由かしら?」
「なるほど、その分析はなぜか頷ける。僕も同意見だ」
まりかのカンに基づかれた意見に納得しつつ、リューティガーは頭の中で、ある作戦を立案していた。
「一途って感じ? 好きになったら一直線とか」
「ふむ、ふむ……」
その論評は、島守遼の信じがたい態度でも裏付けられる。顎に手を当て、何度も頷いたリューティガーは、すっかりまりかの意見に耳を傾けていた。
「でもそれって裏を返せばストーカー気質もあるってことだから、友人としては注意しておいた方がいいかも?」
愛している女性であっても今は命を奪い合う敵だ。それを追い求めるなど、まさしく悪質なつきまとい行為そのものだ。まりかの懸念にリューティガーは苦笑いを浮かべ、両肩を上下させ、足を組んだ。
「ふふふ……注意については、している真っ最中さ」
「へぇ。だったら安心だね」
リューティガーとまりかは視線を交わし、互いに頷いた。この二人は実のところ、意外と気質が合うのではないだろうか。岩倉と尾方は言葉にすることもなく、同時にそんな感想を抱いていた。
3.
嫌悪していたはずの相手と、奇妙な話題で心を通い合わせたものの、それを自覚しないまま翌日の夜を迎えたリューディガーは、東京都品川区の埋め立て地、城南島の桟橋を訪れていた。空間跳躍ではなく、従者の陳
師培(チェン・シーペイ)が運転する軽自動車の助手席から降りた、ダッフルコート姿のリューティガーは、停泊していた小型貨物船に向かって早足で歩き始めた。白い船体の随所には細かな傷が浮かび上がっていて、塗装の剥げ落ちもある。これを人間にたとえるなら、勇者の身体に刻まれた歴戦の証のようなものだろうか。リューティガーはそんなことを考えながら、すっかり見慣れていたその船を見上げ、「真錠です!」と叫んだ。
「ルディ!」
操縦席から、声を上げ大きく手を振る女性の姿があった。細身の身体に白いダウンジャケットを着込み、チェック柄のバンダナで茶色がかった黒髪をまとめていたその女、李荷娜(イ・ハヌル)は、軽快にタラップを駆け下り、リューティガーの前で立ち止まると、気さくな笑顔で彼の肩を軽く叩いた。主のあとから続いてやってきた陳は、荷娜のなれなれしい態度に辟易して眉を顰めると、足を止めて腰に手を当てた。
「早速確認してくれる? 今回はリストにない、追加品もあるから」
荷娜にそう言われたリューティガーは、頷き返してから「追加品?」と疑問を付け足した。
「Pa弾ですって。まだ、まとまった数は出せないけど、順次増やしていくって」
疑問への答えに納得したリューティガーは、陳と共に小型貨物船に乗り込み、前方の船倉まで向かった。荷娜は操縦席に戻り、船倉を照らす照明装置の操作を始めた。彼女は公的な許可を得ていない非合法の輸送業を営む個人経営者であり、法律や条約などで正規のルートでは持ち込みのできない貨物を、海路で送り届ける稼業に従事する裏社会の一員だった。賢人同盟をはじめ、彼女に仕事を依頼する組織は多岐に及び、マフィアや暴力団といった各国の反社会組織はもちろん、果てはFOTにまで至る。任務で来日以来、リューティガーはこの女運び屋から、賢人同盟からの補給・補充物資を受領していた。リューティガーには空間跳躍という異なる力があるため、海路に頼る必要などなく、身一つで、しかも僅かな時間しか費やさず、オーストリアの同盟本部まで物資を受け取れる。しかし、同盟は全世界に派遣しているエージェントたちに対しての物資供給手段のルールを、一律なものに徹底しており、リューティガーに対しての例外は認めていなかった。
「仮に同盟がお前の特殊技能に依存して、補給の小間使いまで丸投げしたら、荷娜お嬢さんはさぞかしご立腹、でもって陳殿は上機嫌ってなことになるだろうな」
そんな冗談を口にしていたのは、今はなきカーチス・ガイガーだ。リューティガーは船倉で物資の確認をしながら、かつてこの船で二度の来日を果たした、屈強なる先輩のことを思い出していた。
「追加のPa弾も確認。予定されていた物資も全部揃ってますね」
検品を終えたリューティガーは、操縦席からやってきた荷娜にそう告げた。すると、荷娜は小さな箱を彼に手渡してきた。
「なんです? まだ追加物資があったんですか?」
リューティガーの問いに、荷娜は小さな目を細め、白い歯をニッと見せた。
「これは個人的な贈り物よ。明日は十四日、バレンタインデーでしょ?」
荷娜の意図を理解したリューティガーは、呆れた笑みを浮かべ、大きくため息を漏らした。
「この国の、あの奇妙な習慣ですか」
「ドイツ出身のルディがうんざりするのはわかるけど、挨拶みたいなものだから。受け取って」
差し出されたリボンのついた箱を、リューティガーは手に取った。
「もちろん。好意の証は断れませんよ。ましてや荷娜さんからですし」
「ほんと? 嬉しいなぁ!」
荷娜はリューティガーの腕に抱きつき、肩に頬ずりをした。以前ならこうした、わざとらしく大げさな好意に対して、頬を赤くして、困り果ててしまったリューティガーだったが、今日の彼は視線を落として首を傾げるだけであり、心は惑わされなかった。期待にそぐわぬ反応に、荷娜は抱きつくのにも飽き、少年の腕から離れた。
「そう言えば、去年から現地協力者に加わった高校生、岩倉と高川だっけ? 二人は連れてくる予定とかってあるの?」
「いえ? あの二人は鞍馬の偵察任務で手一杯ですし、現地協力者は関わる範囲をできるだけ狭くするよう、同盟本部からも命じられていますから」
岩倉と高川は、リューティガー個人の依頼により、私兵という形で戦いに加わっていた。二人の存在は賢人同盟でも把握されており、言わば黙認といった形で許容されていたのだが、昨年十一月の“鞍馬事変”以後は正式な現地協力者として認定され、拳銃や身分証にもなる手帳、ノートPCといった装備もあらためて支給され、それを輸送したのも荷娜だった。
「色魔に、もう前途ある少年たちが惑わされるのも面倒だからネ。二人はここには連れてこないヨ」
人の悪い笑みで、陳がそう言った。背後から色情狂呼ばわりされた荷娜は横に振り返ると、不機嫌そうに手で追い払う仕草をした。
物資の詰められた木箱に手を触れたリューティガーは、それを代々木のマンションに跳ばした。物資の受領任務を終えた彼は、白い息をひとつ漏らし、ある思いつきに手をたたき合わせた。突然鳴った乾いた音に、荷娜と陳の注意が向いた。
「そうだ、荷娜さんにも聞いておきましょう」
「なになにルディ? 私の今夜の予定でも知りたいの?」
「いえ、ある状況に対する意見、見解です」
冗談をさらりとかわされた荷娜は、下唇を突き出して鼻を鳴らした。陳は冷静さを崩さない主に頼もしさを覚え、同時に質問の内容に興味を抱いた。
「どんな状況かな? 私の経験が役に立つのかしら?」
「例えばなのですが、ある若い男がいて、とても愛してはいるものの、付き合うためには困難な状況にある女性、Aがいるとします」
そこまでの説明に、荷娜は腕を組み、船倉の壁に背中を僅かに預け、「ええ」と返事をした。
「ところがその男性のことを、別の女性、Bが好きになったとします。その女性Bとは、付き合うのに障害はありません。そういった場合、男性は女性Aを諦め、Bとの恋愛関係を新たに選択するものでしょうか?」
説明はしたものの、いささかわかりづらく、抽象的なたとえ話しかできなかったことに後悔しつつ、リューティガーは荷娜の答えを待った。彼女はシャープな顎に手を当てると、僅かに考え込んだ。
「あたしゃ、恋愛経験が豊富ってわけじゃないけど……」
「肉欲ばかりの色魔だからネ」
陳の憎まれ口も無視したまま、荷娜は言葉を続けた。
「ルディの言うようなケースは、私も何度か見聞きしてきた。敵対する組織をそれぞれ裏切った恋人同士、なんてのが積み荷だったこともあったしね。で、大概の場合は、男も女も関係なく、選択肢があった場合は、安全な方の恋愛に、気持ちってのは傾くものかしら」
上手とは言い難い説明に対して、こちらの意図を丁寧に汲み取り、明快な返答をしてくれた荷娜に、リューティガーは驚きの目を向けた。さすがはこれまでに危険な判断をいくつも積み重ね、修羅場をくぐり抜けてきた裏社会の一匹狼である。荷娜の聡明さに敬意を抱いたリューティガーは、身を乗り出した。
「やっぱり、そういったものですか?」
「ま、結局は打算が働くのよね。けど、それって悪いこととは思えないな」
「なるほど……」
「あ、ただ例外もあった」
「どんな事例です?」
「男が、AとBの両方と付き合うパターンよ。都合に応じて、相手を使い分けるのね」
荷娜の説明に興味を抱いた陳は、鯰髭を撫で、「そのパターンの末路はどうなったネ?」と尋ねた。
「バレて、女たちに殺されたわ。プレイボーイ気取りだったのね。自分は上手いことやれるって過信して、最後にボロが出た」
「なるほどネ。そのパターンは、お前が身を以て経験したわけネ」
陳はそう煽ると、ケタケタと笑った。荷娜は舌打ちし、「断じて違う!」と低い声で呟き、すぐに気を取り直して壁から背中を離した。身を屈め、リューティガーの顔を覗き込んだ荷娜は、首を小さく傾げた。
「もしかして、それってルディのこと?」
寄ってきた荷娜に、リューティガーは身体を引いて、防ぐように左手を前に出した。
「な、なんなんです、それは?」
「好きな人でもできたぁ? で、それが敵だったとか? でもってぇ、今度は別の子にコクられたとかぁ?」
姿勢は屈めたまま一指し指を立て、身体を捩りながら、荷娜はそんな推察を甘えるような口調で述べた。
「ち、違います! あくまでも架空のお話です!」
よかった。いつものルディだ。顔を真っ赤にして慌てて否定するリューティガーを前に、荷娜はすっかり嬉しくなってしまった。陳は、主が荷娜に説明した状況に、ひとつの心当たりがあったが、それは前半部分までであり、さて後半については、それこそ架空なのではないかと思い、不思議そうに視線を泳がせた。
品川区の埋立地、城南島と同じく東京湾に面した、ここ葛西臨海公園の名物のひとつに、大型観覧車があった。「ダイヤと花の大観覧車」と名づけられたそれは、日本でも二番目の大きさを誇り、東京湾と市街地の夜景を一望できる時間帯には、特に人気が集まっていた。この日、二月十三日はバレンタインデーの前日ということもあり、二十時の最終運転となるゴンドラは、翌日の都合がどうしてもつかないカップルたちによって埋め尽くされていた。ゆっくりと上昇するゴンドラの中で、仙波春樹(せんば はるき)は対座する篠崎若木に、雑誌大の封筒を手渡していた。この二人はまだ若かったが、他のゴンドラでチョコレートの受け渡しを行う男女たちとは異なり、恋愛感情は一切介在せず、仕事上の関係しかない。若木は封筒の中に入っている書類を取り出し、それを読み始めた。
「いつもの通り、処分はしておいてくれ。高川典之についての最新資料だ。前回から更新されている点は、ほとんどないけどね」
そう説明すると、青年はゴンドラから夜景を眺めた。東京湾アクアラインの灯りが海上に揺らめいていたが、見たところで何の感情も刺激されそうにない。すぐに飽きた彼は、少女に視線を戻した。
「寝床はどうしてる? まさか、マックで夜明かしとか?」
「いや、今は無人の民家に、風雨を凌ぐために深夜だけ潜んでいる」
「どこの民家だい?」
「高川の自宅付近だ。運が良いと思ったよ」
「そりゃ確かに。食事や洗濯は?」
「食事はファミレスだ。風呂は銭湯に行ってるし、そこのコインランドリーで洗濯もしている。ただ、同じ店は二度と使わないよう、心がけている」
「篠崎十四郎の教えってやつか」
「ああ」
書類に目を通した若木は、封筒にそれを戻すと、この時間がいつ終わってくれるのかと思い、周囲を見渡した。他のゴンドラにいる大半の男女が、この閉ざされた場所で、できるだけ長い時間を過ごしたいと願っているのに、この少女はその逆の欲求しかなく、頭の中はある目的だけがが占めている。仙波春樹は若木の態度からそう推察し、いささか哀れにも感じた。
「まずは、高川典之を始末する。今はそれ以外、なにも考えたくない……そんなところか?」
「うむ」
「即答か」
「うむ」
元日に、十三歳になったらしいが、篠崎若木がこれまでに辿ってきた人生は、この国の同世代たちとはかけ離れている。物心がつくころには、祖父の篠崎十四郎から柔術を仕込まれ、その鍛錬に励むのみの毎日だった。しかも年齢の半分以上の歳月を、川沿いのマンションで、他人とほとんど接触もせず、ずっと二人だけの毎日だった。篠崎若木についての個人情報はよく知っていたし、これまでにも何度か面識があったため、口数の少なさは理解していた。だが、主と交わしたある約束を果たさなくては。無言のままゴンドラが頂点を超え、下限に辿り着くのを避けるため、仙波春樹はひとつの提案を口にした。
「高川典之を殺すんなら、手を貸してもいい。主の藍田長助(あいだ ちょうすけ)の許可も得ている。どうだ?」
「断る。全て自分の仕事として、暗殺を完遂したい」
相変わらずの即答に、仙波春樹は辟易として膝の上で頬杖をついた。
「だが……」
言葉が続いた。それもこれまでになく、弱く、頼りない口調だったので、青年は身体を起こし、細い目をより鋭くした。
「高川を倒したのち、高川以外の、残り四名の殺しについては、手を貸してもらえると助かる……手伝いを頼むかもしれぬ」
「そうかっ!」
単調で事務的だった会話に、少しは展開というものが生じたので、仙波春樹は嬉しくなって膝を叩いた。
「それと、柳かれんはどうした? 春坊のところで修行中と言っていたが」
意外な名前が出てきた。何かのきっかけでも与えたのだろうか。“春坊”こと、仙波春樹はますます興味を抱き、上体を乗り出した。
「あいつはレクチャーを終えて、鞍馬ベースの防衛任務に就いてるよっ」
「……もういないという意味か?」
「ああ、そうなる。伝言でもあったのかい?」
「いや……」
自分でもなぜ、あの三つ編みの少女のことが気になったのか、実のところ若木本人にもその理由はよくわからなかった。“高川を倒したのち”を、初めて考えてみたからだろうか。ただ、もしかするとこれが、他愛のない会話というものなのかもしれない。少女は、初めての経験にわずかな興奮が芽生えたのを感じていた。
「依頼を終えたあとのことも、考えておいた方がいいと思うなっ」
「え……?」
仙波春樹の提案に、若木は困惑して表情を歪めた。
「さすがに、あのマンションには戻れないだろ? そっちの件は、俺の方から藍田さんに頼んでおいてもいい」
“高川を倒したのち”、具体的に何がどうなるのか。これまで全く想定していなかった若木は、頬を引き攣らせ、小さなうなり声を漏らした。
「とにかく、今後のことを考えておきなよ。なにをしたいのか、どんなことをしたいのか。残念ながら、選択肢はそんなに多くはないけど、自分がどうしたいって希望そのものがないと、その少ない選択だってできやしない」
数日前、仙波春樹は主である藍田長助とバーで杯を酌み交わした。その際、情報の取り次ぎ役を担当している若木の話題も出たのだが、長助は彼女の現在と今後に対して、不安を口にしていた。このままでは、たった一人で犬死にになるのではないだろうか。仮に五人を殺して仕事を完了したとしても、武術家として純粋培養され、世間知らずでまだ子供の彼女は、今後の人生においてバックアップが必須だ。主のそんな憂いに対して、仙波春樹は長助こそが後見人になるべきではないかと提案した。長助はバーボンのロックをひと口啜ると、「今ちょうど、そうしようって言おうと思っていた。お前も手伝ってくれ」と枯れた笑みで返事をした。主のくたびれた横顔を思い出した“春坊”は、乗り出した上体を戻し、若木を見つめた。少女は目を見開き、小刻みに震え、軽いパニックに陥っているようである。長助とバーで交わした約束、「篠崎若木へのフォローを手伝う」の初手をひとまず打ったつもりだったが、さて、これは奏功してくれたのだろうか。涼しく細い目で、仙波春樹は若木の様子を観察し続けたが、成否の判断はなんとも難しいとの結論に至るだけで、彼は自分の未熟さをあらためて自覚した。
どうしよう。自分はこれから先、なにをしたいのか。どんなことをしたいのか。考えたこともなかった。これまで、全ては祖父が決め、それに従うだけだった。これからは、なにもわからない。祖父もいない。高川もいない。そんな“これから”を、自分はどうすればいいのだろうか。若木はたまらず、ゴンドラの外に視線を移した。星空もない。月も見えない。うすぼんやりと暗い空が、ただ広がっていた。少女はそこから、何の答えも導き出せなかった。
4.
二〇〇六年のバレンタインデーは、夜明け前から雨雲が広がり、天気予報では、関東地方の雨量はそれほどではないものの、晩まで降り続けるとの見込みとなっていて、夕方になると雨足も更に強まっていた。
放課後前のホームルームの教壇に立つ、2年B組担任、川島比呂志(かわしま ひろし)は、なんとなく窓に視線を向けた。雨というものは、バレンタインデーにおいてどのような影響を与えるのだろうか。人生においてこれまで 一度も義理以上の結果をもらったことのない川島教諭は、愚かしい疑問を頭の隅に追いやり、生徒たちに目を戻した。
「生徒ホールの新築工事だが、今月四週目からは業者の都合で、月曜日と水曜日に限って午後二時以降の工事は行わないことになった」
そう説明している間も窓の外からは、雨音を上書くほどの大きな作業音が、ガラス越しに教室内まで伝わっていた。
「現場には誰もいなくなるが、基礎工事の真っ最中で危ないから、立ち入りは絶対に禁止だ。以上!」
教壇から出席簿を取った川島は、教室から出て行こうとして、もう一度生徒たちを横目で見た。
しっかし、よく揃ってんなぁ。全員遅刻ナシの出席だったとは。さっすがバレンタインだぜ。
それによ、なーんかこう……。
生徒たちの中から、妙に浮ついた空気を川島は感じていた。これからの放課後に向け、期待や不安が泳いだ視線や、無意味に動く指や足先といった所作から窺い知れる。川島は勘の鈍さを普段から自覚していたので、そんな自分でもわかってしまうのは、余程のことだと思っていた。普段は目立たず地味にしている吉見英理子など、今日に限って鮮やかな黄色いリボンをしている。さて、普段は何色だったろうか。思い出せないが、吉見の可愛らしいリボンは、今日がいつもの日ではないという現れだ。よく見れば、たぶんいつもより気合いを入れたメイクだってしているのだろう。吉見だけではない、女子も男子も今日は青春時代の特別な日ってやつだ。職員室にも、小口(こぐち)教諭が持参してきた詰め合わせのチョコレートが朝から置かれている。さて、自分の今日は、どうなんだろう。たぶん、いきつけのスナックに寄れば、義理の一つでも貰えるだろうか。くだらない考えを巡らせながら、川島は教室をあとにした。
浮ついた生徒たちは、目立ちはしたものの全体の四割といったところで、残りの六割の内訳はそれぞれだった。放課後を待たずして、バレンタインデーのイベントを終え、達成感や満足感や敗北感を抱く生徒たち、イベントそのものに参加するつもりがそもそもなく、いつも通りの女生徒や、朝から何の期待もしておらず、ここに至るまで諦めた気分の男子生徒や、他の重要な事情があって、そちらに気持ちを傾けている生徒など、様々である。そして、この六割の中にあって、最も暗鬱とした気分で落ち込み、今日という日を忸怩たる思いで過ごす覚悟をしていたのは、神崎はるみだった。
はるみは目を伏せ、なにも乗っていない机をぼんやりと見つめていた。イベントのため、チョコレートは持ってきたが、これは昨日スーパーで買ってきた、演劇部の男子たちに向けた詰め合わせである。昨年は駅前の洋菓子店、ベルサイユで買った特別なそれを、芝居での恋人同士の役作りの一環、なとどいう名目で、すぐ前の席の島守遼に手渡した。しかし、今年はもうそれも諦めた。彼を好きだという気持ちに変わりはないと思う。だが、彼には蜷河理佳という想い人がいる。はるみは今年に入ってから、リューティガーも公認という形で、岩倉から一通りの話を聞かされていた。FOTの一員として、理佳は人殺しを重ねているのに、遼は彼女を無傷で取り戻そうと懸命らしい。目の前で背中を向けている彼に、直接その件を尋ねる勇気はなかったが、京都での密会やこれまでの状況を考えれば、本当だと思える。そこまでの強い想いに、たかがチョコレートなどで抗せるはずがない。渡そうとしたら最後、理佳への想いを理解していない、無神経な女だと嫌われ、残された少ないチャンスも消滅するだろう。そもそも理佳の件を差し引いても、遼はいま大変なのだ。連日に亘ってテロリストと命がけの戦いを繰り広げ、部活にしても四月の新入生歓迎公演に向け、稽古の密度も上がっている。学年末考査だって迫っている。
深く長いため息を漏らしたはるみは、視線を上げ、立ち上がろうとする遼の背中を見上げた。
最近、こいつと疎遠だ。
部活で用事がある以外、今学期になってからほとんど言葉を交わしていない。たまにお昼の弁当を一緒に食べるリューティガーの方が、話す機会が多いほどだ。最近だと、放課後に遼が大和と喋っているのを見かけたが、あれは一体なんだったのだろう。また、細密な絵の依頼でもしているのだろうか。以前だったら、さりげなく尋ねられたのに、なんで声をかけるのにこんなためらいが生じてしまうのだろう。
人殺しまでした理佳に気持ちを傾ける彼を、まさか自分は恐れてもいるのだろうか。そんなことはない。
もうそれほど、好きではなくなったのだろうか。たぶん、それも違う。
ただ、なんとなく会話が減ってしまっただけだ。そしてこの状況を、彼の方が全く気にも留めていなさそうで、そこまで自分がどうでもよい、その他大勢の存在だと思われているのが恐い。それが判明してしまうのが、とても恐い。だから、ますます声をかけづらくなっているのだろうか。
はるみはとうとう、机に突っ伏してしまった。ひどい気分だ。いま精神科医に診てもらったら、心の病と診断されかねない。今日はいっそ、部活もサボってしまおうか。どの道、こんな最悪の精神状態で芝居の稽古など、できるはずもない。
「はるみちゃん、大丈夫?」
隣の席の合川だ。声だけで、伏せていたはるみにはよくわかった。顔を上げても余計に心配されるだけだと思ったはるみは、左手を挙げ、「ごめん、平気だから」とできるだけ元気な声で答えた。友人があまりにもか細い声だったので、合川はますます不安になったが、彼女がこうやって不調な姿を見せるのは珍しいことではなく、そもそも女性として周期的に重苦しく体調を崩すという話は一年生のころから聞いていたので、おそらく今日のこれもそうなのだろうと結論づけた。
「あんまりだったら、保健室、行ったほうがいいよ」
合川の親切な助言に、はるみは右手を振って答えた。いい友人ではあるが、今は誰からも気を向けられたり、話しかけられたくない。なら、さっさと帰るのが一番だ。はるみはのろのろと身体を起こし、目をこすった。すると、彼女の目の前に、ある男子生徒の姿があった。背はそれほど高くなく、胸をはり、意志の強そうな紺色の瞳でじっと見下ろしている。栗色の髪の彼を見上げたはるみは、不機嫌さを隠さずに「なに?」と声を上げた。
「用件がある。大事な用件だ。僕と一緒に来てくれないか?」
溌剌とした声だった。教室に残っていた生徒たちの何名かが、リューティガーとはるみに注意を向けた。
「用? あんたが、わたしに?」
リューティガーとは対照的に、面倒くさそうに重い口調だった。はるみは拒絶の意図を、視線を大きく逸らすことで表した。
「そうだ。来るんだ」
はるみの手首を、リューティガーは掴んだ。強い握力にはるみは顔を歪め、引っ張られるように立ち上がった。生徒たちの注目がますます集まったが、リューティガーは無邪気な笑みを作ると、「なんでもありません。なんでもありません。掃除当番の件です」と弁明をして、はるみを教室から強引に連れ出した。
校舎脇の駐輪場までやってきたリューティガーは、傘を畳んだ。朝からの雨ということもあり、駐輪場には自転車が一台だけ駐めらているだけだった。雨は予報に反して一層激しくなり、屋根に当たる絶え間ない雨音を、はるみは耳障りに感じ、苛立ちを更に増していた。
「手なんて引っ張って、わけわかんない。みんな、びっくりして見てたよ」
はるみは抗議したが、リューティガーは意に介さず、周囲を見渡した。声の聞こえる範囲に、誰の姿もないのを確認したリューティガーは、はるみの目を真っ直ぐ見据えた。その眼光があまりにも爛々と輝き、威圧感すら宿っていたので、はるみは思わず身体を引いてしまった。
「神崎はるみ。君にぜひとも頼みたいことがある」
なら、教室で言えばいい。なぜわざわざ、こんな人気のない駐輪場まで、警察が逮捕者を連行するように無理矢理引っ張り込む。それはつまり、頼み事が他人に聞かれてはいけない内容だからだ。彼との間には、プライベートな関係はない。となれば、共有している秘密に関わる用件だろうか。はるみはそこまで考え至ると、苛立ちも消え、暗鬱とした気分も薄まり、興味と期待に戸惑いを覚え始めていた。視線を地面に落としたはるみは胸に手を当て、すうっと息を吸い込むと、心を構えてリューティガーに目を向けた。
「頼みって……任務?」
「ああ、適切に分類するなら、これは一種の任務と言ってもいい」
なら、期待と違わない。二人の間で共有されている秘密についてだ。FOTとの戦いに関する任務なのだから、確かに教室では話せない。少々強引な態度だったのも、事の重要性を考えれば仕方がないとも考えられる。そして、そしてだ。遂にこの時がやってきたのか。以前、横田基地での戦いに際して、眼前の彼に、「次はなにか役割が欲しい」と嘆願した際、「わかったよ」と返事をされたが、あれは形式的なものではなかったのか。想定していなかった要請に、はるみは雨音も忘れ、晴れ晴れとした中にあった。遂に、みんなの役に立てる。どんな任務を与えられるのだろうか。リューティガーの表情から、気遣いや気まずさを微塵も感じられない。つまりそれは本気の依頼である証明だ。はるみは胸の高鳴りが激しくなるのを感じ、当てていた手をぎゅっと握りしめた。
「それじゃ、順を追っていこう。まずは現在発生している、ある問題について説明する」
「う、うん」
彼からの作戦説明を、岩倉も高川も、そして遼もこうして受けているのを見て、羨ましいと思っていた。しかし、自分も同じ立場になろうとしている。彼はなぜ、心変わりをしたのだろうか。それともこれまでになかった、新たな問題が発生したのだろうか。はるみの中でいくつかの疑問が浮かんだが、今は初任務の内容に集中するべきだと思い至り、それを頭の隅に蹴り飛ばした。
「島守遼を巡る問題だ」
リューティガーの口から出てきた名前に、はるみは頬をぴくりと引き攣らせ、顎を小さく引いた。
「君も知っての通り、遼は蜷河理佳に恋愛感情を抱いている。しかし、蜷河理佳は我々にとって排除するべき敵であり、最良・最善の排除方法は殺害以外考えられない。これが状況だ」
はるみは胸に当てていた手をすっと下ろし、言葉を待った。
「だが、遼はあろうことか、蜷河理佳を無傷で確保するのに拘泥している。このままでは、彼自身は無論のこと、作戦に参加している我々賢人同盟部隊全員に危険が生じる。認識しておいて欲しい。我々が現在作戦を展開している鞍馬山の戦場は、ひとつ気を抜けば敵の銃弾に命を奪われる激戦地だ。その中で、対象への対処手段が異なる者が混在した場合、作戦行動に乱れが生じ、部隊全体が極めて危険な状況にさらされる。これが問題点だ」
それは、わかる。理佳と遭遇して、リューティガーが射殺しようとしたら、遼は妨害してしまうだろう。最悪の場合、仲間割れを起こして同士討ちもありえる。軍事的な知識は乏しかったが、はるみは常識の範囲内で、いまの遼が他のみんなにとって、いかに危険な存在であるのかを理解した。しかしはるみは頷きも返さず、納得する意志も表さなかった。
「本来なら、遼は鞍馬での作戦に外れてもらわなければならん。しかし、日に日に成長している彼の能力は、我々部隊にとっても大いなる戦力となっており、現に鞍馬事変以後、これまで彼は一度も蜷河理佳と遭遇もしていないので、問題は表面化せず戦果も挙げている。戦力としての遼と、危険因子としての遼、これらを比較した場合、僅かながら前者に天秤は傾く。これが事情だ」
論理的で明快な説明だ。複雑な事情に対して、感情を一切排して、事実だけに基づき冷徹に判断を下している。これが賢人同盟のエージェントとして、幼いころから経験を積んできた彼の、クラスメイトもほとんどが気付いていない意外な一面、いや、本質と言っていいのだろう。はるみは、高揚感がすっかり消え去り、奇妙なまでに気持ちが落ち着いてしまっているのを自覚していたが、その原因はわからなかった。
「僕は指揮官として、そして彼の一人の友人として、遼に関わるこの蜷河理佳問題を、すみやかに解決したいと考えている。そこでだ、解決策を考案した」
はるみは意識して瞬きをし、呼吸を整え、彼の言葉を僅かも聞き漏らさないよう、神経を傾けた。解決策の実行、それが任務だ。その役割が、与えられようとしてる。なりふり構わず強引に連れてきたのは、任務にそれほどの重要性があるからだ。遼が抱えている、理佳についての問題の解決策なら、そうなのだろう。理佳を殺すのが最も適切だ。それも戦場の中ではなく、別の機会、そう、例えば暗殺だ。遼に気付かれず、悟られず、いつの間にか理佳が死んでいれば、問題は速やかに解決する。のちに遼は深く悲しむだろうが、それをどうするかはまた別の問題だ。そして、そのため、何かをして欲しいと頼まれている。自分なら、どうするだろう。神崎はるみという手駒があったとして、それにどのような役割と任務を与えるだろう。
簡単だ。素人を装った、暗殺計画の遂行だ。
賢人同盟に関わる者の中で、唯一立場が定まっていない関わり方をしているのが、神崎はるみだ。神崎まりかの妹という点が、特記事項に該当するものの、異なる力も遺伝しておらず、戦闘能力も皆無であるため、これまでも暗殺の対象になっていない。FOTとして無視をしてもいい、小さな存在だ。しかしそれでいて、暗殺の対象とも面識がある。いや、面識どころか、友人だったのだ。それが接触し、対象を油断させられれば、暗殺の成功確率は上昇する。問題はどうやって接触するかだが、それを考えるのは作戦立案者である指揮官だ。はるみはそこまで考えを組み立てると、二月の冷気を上回る寒気を覚えた。まったく恐ろしい。このリューティガー真錠は、目的のためなら手段を選ばない男だ。これまで役立たずだと認定した者でも、使えそうだと判断したら、途端に恐ろしい役割を割り振る。理佳はFOTの中でも真実の人(トゥルーマン)に近い立場にあり、組織の中でも重要なポジションに位置する存在だろう。その暗殺に参加などすれば、たとえ実行犯でなくとも報復の対象になる。今後はもう、平穏な日常など送れない。それに全てを知れば、遼は二度と心を開いてくれないだろう。大切な恋人を殺した仇として、生涯恨み続けるだろう。
けど、それもいいのかも。
恋心も一向に届かず、こんなにひどいバレンタインデーを迎えるぐらいなら、いっそ恋人の仇と憎悪される方がマシだ。それならこちらも気持ちに区切りをつけ、新たな希望に向け、前に進めばいい。友人の殺害に荷担したという十字架を一生背負うことになってしまうが、役割が欲しいと望んだ以上、覚悟だって、たぶんしていたはずだ。“島守遼を巡る問題”と切り出されたときから、なんとなくこんな流れになると、予想していたような気もしてくる。心が落ち着いてしまった原因も、おそらくそんなところだろう。我ながら、随分と肝が据わっている。目を伏せ、自嘲気味な笑みを浮かべたはるみは、リューティガーに横顔を向け、右の足先で地面をコツンとひと叩きした。
「これだ」
待っていたのとは、いささか異なる言葉が飛び込んできたので、はるみは正面に向き直った。“これ”とはなんだ。解決策、すなわち作戦計画が記された書類かディスクなどだろうか。しかしそんな予想と異なり、少女の目に飛び込んできたのは、リボンが結ばれた、ラッピングされた小さな箱だった。リューティガーは、紳士が淑女をダンスに誘うようなポーズでそれを右手で差し出し、相変わらず鋭気溢れる目ではるみを見つめ、口元は不敵な笑みで吊り上がっていた。よく見ると、それは代々木駅前の洋菓子店「ベルサイユ」の包みだった。場違いだ。あまりにも奇怪だ。暗殺計画には似つかわしくない。はるみは困惑し、身構え、嗚咽を漏らした。
「遼を巡る問題を解決するのには、有効的だと判断した。頼み事とは、すなわちこれだ。愛の証しとして、このチョコレートを遼に渡すのだ。今日は、そういった行動を違和感なく実行できる特別な日だ。告白しろ、神崎はるみ。君の愛で、遼を救うのだ!」
自信に満ち、芝居がかったリズミカルな口調で、リューティガーは一気に命令した。だが、はるみから何の反応もなかったため、彼は鼻を鳴らし軽く舌打ちした。
「さすがに、理解が難しかったようだな。ならば説明しよう。問題の根源は、遼が抱き続ける蜷河理佳への未練だ。これを取り除くため、彼の気質というものを利用する。ここ数日の検証によって、遼は一度に二人の女性を愛せるような人物ではない可能性が極めて高いものと予想される。であれば、新しく恋愛対象となる女性を用意すればいい。それも身近に存在し、無論、味方側であることが前提だ。そして、遼の感情を早急に傾けさせるためにも、できるだけ可憐で、純粋で、聡明なほどいい。検討の結果、神崎はるみ、君はその条件を、ほぼ満たしているとの結論に至った。君は、以前から彼と親しい友人関係であったわけだから、告白もさほど不自然ではない。仮に断られ、撤退という結果に至ったとしても、我々二人で失敗を検証し、方法を修正し、手を緩めず何度でも仕掛ければよい。いずれは遼も受け入れるだろう。さすれば、遼の蜷河理佳に対しての恋愛感情は薄まる。そして尚も作戦を継続すれば、いずれは完全に上書きされる。遼の心の中を占めている蜷河理佳の定位置に、神崎はるみが居座るのだ。それをもってして、本作戦は完了となる!」
できる限りわかりやすく、明快な説明をしたつもりのリューティガーだった。だが、はるみからは相変わらず反応もなく、表情から感情も読み取れず、大雨を背にただ立ち尽くしているようにしか見えなかった。それを漠然な不安と理解したリューティガーは、言葉を続けた。
「そうそう、君は、高川くんから好意を抱かれているそうだが、彼には僕から諦めるよう命じておくから安心してくれたまえ」
指揮官として、細かな人間関係に対する配慮も怠らない。それを裏付ける発言のつもりだった。しかし、まだ気遣いが必要かもしれない。そう判断したリューティガーは、表情を柔らかくして、肩の力を抜いた。
「神崎はるみ……君は以前、できることがあるなら言ってくれと言ってたよな。これがそれなんだ。これが君に、いや、君にしかできない役割だ。よかったな、君でも役に立てる局面がようやく訪れたのだ。成功を祈るよ。実のところ、初手で任務完了という奇跡にも若干だが期待している。報酬もできるだけ用意させてもう」
これまでより、ずっと優しい口調を心がけてみた。内容も彼女の希望に添ったはずだ。これで納得しないはずがない。リューティガーがそんな確信を抱いていると、それまで身動きひとつ、瞬きさえほとんどなかったはるみが、ゆっくりと歩み寄ってきた。彼女は表情を消したまま左手を高々と挙げると、それを勢いよく振り下ろした。ピッチングマシンのような正確な弧を描いた少女の掌が、少年の手にしていた小包を叩き落とし、外形も歪んだそれが駐輪場に叩き落とされた。全く想定していなかったはるみの行動に、リューティガーは呆然とし、彼は次の瞬間、腹部に痛烈な衝撃を覚えた。
「うぐぁ!」
右拳で腹を殴られた。左の打ち下ろしからの、右ボディブローだ。縦の動きですっかり目を地面に奪われ、次の右に意識が間に合わなかった。威力は大したものではない。鍛え上げた腹筋という防壁のおかげで、肉体的な被害は最小限度だ。だが、しかし、なぜここまで痛い? なんでこんなに苦しい。心が全く構えていなかったからか。これが、完全なる不意打ちというものか。以前、吉見英理子に頬を張られたときのように。いや、あんなものじゃない、この痛みは。リューティガーは腹を押さえてその場に崩れ落ち、ぴくぴくと痙攣した。
「ぐ、ぐぅぅぅ! そ、そうか……き、君は遼のことが嫌いだったのか……た、確かに最近、君たちは会話だってすっかり減っているようだったし……し、しかしそれでもまだ、好意を抱いていると……か、勘違いだったのかぁ……ご、ごめん……神崎はるみ……僕が悪かった……別口を当たる……だから許して……」
リューティガーの的外れな謝罪に、はるみは右足で彼の背中を蹴った。なぜこのような暴力が続くのか、リューティガーには何もかもが理解できず、困惑と痛みの濁流の中でもがき苦しむしかなかった。
「うぇぇぇぇぇぇぇぇん!」
背後から、叫び声が上がった。リューティガーは更なる混乱の渦巻きに呑まれそうになり、明晰なる頭脳で分析を試みてそれに抗った。これは、この背中から上がっているのは叫び声ではない。これは、神崎はるみの泣き声だ。彼女は感情の枷を外し、幼児のように泣きわめいている。次にリューティガーは、背中に断続的な痛みを感じた。ボディブローや蹴りと比べて、ずっと小さな痛みだ。どうやら、両の拳で背中を叩かれているようだ。神崎はるみはその場に座り込んでしまい、泣きわめきながら、ポカポカと背中を叩き続けている。状況の判断を終えたリューティガーは、身体を起こし、尻を地面につけたまま振り返った。はるみは動きを止めず、泣きじゃくりながらリューティガーの胸を叩き続けた。
「お、落ち着け! ど、どうしたんだ一体!?」
リューティガーは、ともかく事態を打開するため、はるみの両肩を掴み、手の動きを制した。はるみは呆気なく肩から力を抜くと、両手をだらりと下ろし、顔を上げてより一層激しく泣き声を上げた。駐輪場の天井を打ち付ける雨は勢いを増し、それはまるで、はるみの慟哭に呼応しているようだとリューティガーは思った。
「わ、わけがわからん! 突然どうしたんだ! 以前、僕がお前に泣いたのは、ちゃんとした理由があったからともかくとして、お前のこれはまったく意味がわからない! 僕は困るだけだ!」
途方に暮れたリューティガーだったが、だからといって、彼女をこのままにしてこの場を放棄できるはずもなく、泣きわめくはるみの両肩を掴んだまま、彼はどうすることもできなかった。
「ぶざげるなよぉ! ぶもぉぉぉぉ! いびゃぁぁぁぁぁ!!」
なんだろう。獣のような、意味もわからぬ叫びだ。強い雨音にもかき消されなかったその咆吼に、吉見英理子は足を止めた。どうやら、すぐ向こうの駐輪場の方である。英理子が注意を向けると、そこには座り込むリューティガーと泣きじゃくるはるみの姿があった。そして、その傍らにはラッピングされた、潰れた洋菓子の箱が転がっている。なるほど、そういうことか。英理子は駐輪場でなにが行われているのか、すぐに理解してしまった。
あー、神崎さん、ルディに告白したんだ。
でもって……轟沈……。
極めて単純な解釈である。だが、見たままに対して疑問の入る余地はなかった。英理子はため息を漏らし、傘を持ち直した。実のところ、彼女自身今日は思うところがあった。学生鞄に慎重に忍ばせたそれを、あそこで途方に暮れている彼に渡し、告白とやらを、実に軽めに、とてもさりげなく、けどいつもと違う黄色いリボンという主張を滲ませ、敢行するつもりだったのに。放課後、科学研究会の後輩に呼び出されて、彼を見失ったのがいけなかった。泣きじゃくる彼女より早く、さっさと済ませてしまえばよかったのに。あんな修羅場風味を目の当たりにしたら、経験値の足りない自分など、どうしても気後れしてしまう。
けど、まぁ、まだチャンスってあるのかな?
はるみは轟沈した。小さいものの、希望はまだ残されている。性格の明るさや見た目で、はるみに叶うとは思っていないが、そもそもリューティガーの女性に対する価値基準など、わかっていないのだから。しかし、今日はもう無理だ。なら、鞄の中のさりげないこれは、帰宅してから父親にでもあげてしまおう。思い直した英理子は、豪雨の中、思い切り駆け出した。
5.
「神崎さん、見てないの?」
稽古も終わり、本日のスケジュールも概ね消化し終えた演劇部の部室で、島守遼は部長の福岡章江(ふくおか
あきえ)からそう尋ねられ、「登校してたとは思いますよ」と曖昧な返事をした。
「なんだろう。サボるなんて珍しいわよね。もしかして、本命の彼にチョコでも渡しにいってるのかな?」
切りそろえた前髪をひと摘みし、福岡はにんまりと微笑んだ。
「あー、どうなんでしょーね?」
素っ気ない態度で遼は言葉を濁し、手にしていた台本の表紙を軽く叩いた。
「まぁ、今日の稽古じゃ出番はなかったわけですし、いいんじゃないっスか?」
そう付け加えた遼は、激しい雨が降りしきる窓の外を見た。夜まで雨の勢いが変わらないようなら、クラスメイトの大和と約束していた例の件は、後日に先送りするしかない。はるみについてではなく、遼は別のことを考えていた。
「島守、ちょっといいか?」
声をかけられた遼が振り返ると、三年生の男子部員、平田浩二の姿があった。
「稽古の件で、話がある。ちょっとついて来てくれ」
平田はそう告げると、扉に向かって歩き始めた。部室ではなく、別の場所で話をするということか。遼は平田に続きながら、その意図を察した。今日の稽古もあまり誉められた内容とは言えず、後輩の澤村奈美や、この平田先輩からも散々注意されたばかりだった。これは他の部員が畏怖するほど、かなり厳しい小言が待っているのだろう。そんな覚悟をしながら遼が部室から出ようとすると、入れ替わるように、高川典之がやってきた。遼は軽く声をかけ、平田の背中を追って廊下に出た。
高川が部室に入ると、部員たちがそれぞれ挨拶をしてきた。高川はその全てに対し、短いながらも個別に丁寧な返事を繰り返した。最後に、福岡部長が小さく会釈をした。その表情は暗く、憂いが浮かんでいたため、意を察した高川は、沈痛な面持ちで会釈を返した。客演として、新入生歓迎公演に参加していた高川が演劇部を訪れたのは一週間ぶりであり、その間、甲斐無然風の葬儀があった。一度だけではあったが、無然風と面識があった福岡は、このやりとりだけで、ひとまずこの一件についての意思疎通は済んだと思い、普段通りの笑顔を高川に向けた。
「すみません、福岡部長。一週間も間を開けてしまいまして。それに、今日もこんな時間になってしまいまして。柔道部の連中から、どうしても稽古を見て欲しいと頼まれまして……」
「いいのよ高川くん。今のところ、なんの問題も出てないし」
新入生歓迎公演、『本能寺』において、客演の高川には柴田勝家役が当てられていた。芝居に関しては素人ではあるものの、高川は正式部員にも劣らず、真面目に演技に取り組んでいた。そもそも武人の佇まいを感じさせる偉丈夫であり、見た目については文句のつけようもなく、台詞もそれほど多くなかったため、現時点で既に及第点に達していると福岡は評価していた。
「明日の稽古には参加できます」
「助かるわ。で、今日は? それこそなんでこんな終わりかけに?」
「ええ、針越さんに用がありまして。お昼休みに約束をしていたもので」
言いながら、高川は針越里美(はりこし さとみ)の姿を探し、小さな彼女の姿をすぐに見つけた。
教室の隅で椅子に腰掛けて台本のチェックをしていた針越は、高川が部室に入ったときから、チェックの手を止め、彼の様子をそれとなく窺っていた。朗らかな笑顔で近づいてくる高川に対して、だが針越の表情はぎこちなく、小さな目には、ある疑念の色が浮かんでいた。
三学期になってから、高川は正式な客演として、演劇部の稽古に参加していた。福岡部長が認めるように、彼は芝居に対して誠実で、台詞の面では感情表現に難はあるものの、それを補って余りあるほどの存在感を稽古でも放っていた。高川を推薦した針越にとって、それは喜ばしかったのだが、それとは別に、どうしても奇妙に思える一件が横たわっている。針越の手帳には、一月十二日、二十三日、三十一日に赤く×印がつけられていた。これはいずれも高川が学校を休んだ日付けであり、二月九日の無然風の葬儀も含めれば、三学期が始まってわずか一ヶ月程度で、四日もの欠席日数となる。常に剛健で、今日も背筋を伸ばして溌剌とした雰囲気を醸し出す彼が、そう頻繁に病欠するとは思いがたい。高川の在籍するB組のクラスメイトたちの中でも意外に思う声が上がっていて、クラス委員、音原太一(おとはら たいち)は、いずれ事情を尋ねてみたいと考えているらしい。それに、最近では放課後になると、なにやら忙しない様子で駐輪場に向かう彼を目にする。誰よりも規律を重んじるはずの高川典之が、あろうことか廊下を走る姿も目撃してしまった。あれも放課後だった。奇妙だ。疑わざるをえない。そして、その答えはある程度だが絞り込めている。おそらくだが、アルバイトだ。しかもかなり忙しく、大変で、彼にとって何らかの事情を抱えている仕事だ。学校を休むほどのアルバイトとは、一体なんなのだろう。
いやいやいや。
そんな疑念はどうでもいい。どうしても不思議なら、聞いてしまえばいいのだから。それよりも、今日はこれから大切なイベントが控えている。針越は二度瞬きをすると、ふわりとした柔らかい髪をそっと撫で、やってきた高川に笑顔を向けた。
「すまん、針越さん。昼休みに言った件なのだが」
「台詞の解釈で、わからないことがあるのよね」
「そうだ。ここだ」
高川は学生鞄から、使い込まれてよれよれになった台本を取り出し、身を屈め、針越にページを開いて見せた。
「あ、ここね」
昼休み、学食で玉子丼を食べていたところ、高川がやってきて、「台詞の解釈で質問があるから、部室で待っていてくれ」と頼まれ、さて、少ない柴田勝家の台詞の中で、どこが解釈の難しい箇所だろうと考えてみた針越だった。その際、想定してみた台詞と高川の見せてきたページが全く一致したため、針越はすっかり嬉しくなってしまった。
あれ?
台本を見ながら、針越は奇妙な違和感を覚えた。しかし、開いている台本を何度見ても違和感の正体は発見できない。少女は腕を組み、首を傾げた。
「どうしたのだ、針越さん? な、なにかおかしいか?」
原因不明の違和感などより、今は役者の疑問に答えるのを優先するべきだ。針越はそう思い直し、この芝居の脚本家として、台詞のより詳しい解釈を伝えることにした。
遼と平田は、校内を彷徨っていた。最初、平田は部室のある北校舎三階の階段に向かったのだが、屋上階に続く踊り場には既にチョコレートを手渡している最中の男女生徒の姿があり、それならばと中央校舎と南校舎に続けて場所を変えたが、いずれも北校舎と同様の光景が繰り広げられていた。
「あそこ、人気があるみたいですね」
廊下を並んで歩きながら、遼が平田にそう言った。
「面倒だな。人気がなくて空いてる場所があったとしても、男子と女子が連れ立ってやってきたら、それはそれで気まずいしな」
「今日はどうしたって、バレンタイン優先日ですからねぇ」
「ならいい。島守、歩きながら話すぞ」
平田のアクロバティックな提案に、遼は戸惑いつつも同意し、二人の男子生徒は、廊下をゆっくりと進むことになった。
「どうした、島守。最近ちょっと雑だぞ」
「雑……ですか?」
「ああ、役や台詞に対して理解不足な点がある」
「ま、まぁ確かに」
「しかもそれを自覚しているにも関わらず、誰にも相談せず、放置したまま稽古に臨んでいる。だから、雑だと言ったんだ」
「そ、それは……」
稽古で叱られたり注意されるのは、てっきり自分の芝居が素人に毛が生えた程度の未熟なもので、単純に下手だからだと思っていた遼は、平田の指摘に心当たりがあったため、納得して言葉を失った。
「『池田屋事件』のときの、以前のお前なら、わからない点があったら質問してきてただろ。誰かに気でも遣ってるのか? だから部室を出たんだが」
「あ、いや……平田先輩、俺、誰にも気とか遣ってないです。ただ、なんと言いますか……ちょっと、ひどく集中できてなくって」
「学年末考査か? それともプライベートに問題か?」
「両方……かな? けど、大丈夫です。それはそれ、これはこれ、で、いきますから」
「できないから、こういった展開になってるんじゃないのか?」
二人は南校舎から中央校舎に戻ると、そのままスタート地点の北校舎に向かって進んだ。
台本に書かれた登場人物の心情や台詞といったものは、今ひとつすんなりと理解できないものばかりだった。演劇的な感性や、理解力というものが欠けている遼は、だからこそ演劇部に入部して以来、いちいち躓き、その都度、周囲に素朴な疑問をぶつけてきた。しかし、最近ではそれも無意識のうちにどうでもよくなっていて、書いてある台詞をただ喋り、演出で指示された仕草をしたり、立ち位置に移動するだけで、稽古に参加した気になっていた。戦場でたとえるなら、突っ立ってただ銃を撃ってるだけの兵士であり、五秒も持たずにぼろ屑のような屍の出来上がりだ。もう、やめてしまおうか。一瞬そんな考えも浮かんだが、なんとなくそれはダメだと思いとどまり、退部は言葉にしなかった。
「正直、お前には期待だってしている」
北校舎の階段を下りながら、平田は遼にとって意外な言葉を口にした。
「二年の男子は門野や岡本なんかもいるが、お前が一番成長しているし、だからこそ、これからまだ伸びると思ってる」
遼には、自身の成長はよくわからなかった。だが、一年生の文化祭以来、舞台を終えた際に浴びた拍手はよく覚えている。あの中のうちの何割かは、自分に対しての賞賛や労いがあったと思ってもいいのだろう。階段を一歩ずつ下りながら、遼はうなだれ、目を伏せた。
「戻ってこい、島守。なんて言うか、今のお前は俺から見て、お前の姿をした別の奴にさえ思えてしまう。俺や福岡が卒業するまでなんて言わない。新入生たちが、お前の舞台を初めて見るまででいい。戻ってこい。でさ、そいつらに見せつけてやれよ、島守遼って風変わりな演技者がいるっていうのを」
平田の言葉で、遼は自分が蜷河理佳と同じように、ここからすっかり離れてしまったことに気付いた。器は確かにここにある。けど、中身がない。心や気持ちというものを、明瞭に感じられる遼だったから、その奇妙な状況は実によくわかってしまえた。
「ありがとうございます。平田さん」
「礼か? 礼でくるのか?」
「なんか、ごめんなさいじゃないって思って」
「まぁ、そうかもな」
二人は、一階まで階段を下りきると足を止めた。平田は遼の背中を軽く叩き、「ま、そういうことだから」と言い残して踵を返した。遼は頭だけ振り向くと、平田の背中に軽く頭を下げ、一段目の階段に腰を下ろし、頬杖をついた。
「神崎先輩は、登校はしてたのですか?」
一年生の演劇部員、阿久津誠司 (あくつ せいじ)は部室から出ようとする高川にそう尋ねた。
「ああ、神崎さんは、普通に登校していたが」
阿久津の質問の意図がわからなかった高川は、振り返って部室を見渡した。稽古も終わっていたため、残っている部員は僅かだったが、そこにはるみの姿は見あたらなかった。
「来てなかったのか?」
「ええ、サボるって、先輩の場合、ちょっと記憶にないんで。急に体調でも崩したんでしょうか?」
さて、どうだったか。高川は朝からの記憶を辿ってみたが、今日は彼女に注意を向ける機会もなく、教室でも席が離れているため、はるみがどのような様子で一日を過ごしたのか、全くといっていいほど記憶に残っていなかった。そして、その点に気付いた高川は、愕然となって扉に手を掛けた。
「どういたしましたか? 高川先輩?」
口をぽかんと開けた高川の様子を、阿久津は不思議そうに窺った。
愕然となった理由も告げず、「なんでもない」と言い残して高川は部室をあとにした。
好意を抱く。そんなレベルではない。はっきり言って異性として大好きだった。常日頃から彼女のことを想い、崇拝といってもよい感情さえ抱いていた。そんな神崎はるみのことを、今日は完全に意識していなかった。いや、昨日はどうだったか、その前日は。もうかなり前から、神崎はるみという存在が自分の中で段々小さくなり、気がつけば無視するまでに至っていた。自分という人間は、こんなに不誠実だったのか。高川は重い足取りで廊下を歩き、心の中には暗鬱とした何かが広がろうとしていた。
「あ、あの……」
呼び止める声に、高川はのっそりと振り返った。針越は振り向いた高川の様子が先ほどまでとは違い、生気に乏しく憂いに溢れていたので、その変化に動揺した。
「針越さんか」
「ご、ごめん……タイミング悪かったかな?」
「いや、別に構わんが、何か用か?」
「う、うん……」
針越は、後ろに回していた両手を前に出し、目を瞑った。
「こ、これ! 高川くんに!」
少女は、小さな箱を少年に差し出した。
「なんだ、これは?」
綺麗に包装され、リボンが巻かれた箱に、高川は首を傾げた。
「バレンタインデーのチョコレート。い、いわゆる本命の!」
目を瞑ったまま懸命に説明する針越だったが、高川は沈黙し、顎に指を当て、差し出されたそれをまじまじと観察した。
「も、もらって下さい!」
ぷるぷると小刻みに震えながら、針越は嘆願した。箱の中は、苦めのビターチョコレートであり、高川がそういった好みなのを、針越は数日前、岩倉次郎から密かにリサーチ済みであった。あまり甘めではない、そんな情報を更に付け足そうとした針越だったが、高川は「うむ」と短く返事をし、ようやく箱を受け取った。
「これは……そのつまり、バレンタインデーの、アレか?」
「そ、そう。バレンタインデーの、アレ」
「あ、ありがとう……すまん。こういったものを貰うのが、人生で初めての経験なので、どう反応していいのかわからん」
高川のぎこちない返答に、針越はようやく目を開き、クスリと微笑んだ。その笑顔を、高川は可愛らしいと感じ、いつのまにか暗鬱として気分も晴れやかになっていた。
「有難くいただかせてもらう」
針越里美は自分に対して、好意を抱いてくれている。ここまでのやりとりで、高川にもそれぐらいのことは理解できた。文化祭での客演以来、思えばこの少女とは何やら親しい間柄となり、演劇に対してひたむきで、真面目で健気で好印象を抱いている。戦場の中にあって、彼女の姿を思い出し、狂気の淵から正常な精神状態に復帰したことさえある。そう、自分も針越里美に対して、好意を抱いている。初めてそんな自覚に至った高川は、神崎はるみの存在がなぜ自分の中で小さくなっていったのか、ようやくその原因を理解し、困惑してしまった。
う、浮気というやつか……い、いや、待てよ。そもそもはるみんとは、そもそも交際には至っていないのだから、そもそもこれは断じて浮気などではない!
早々に気を取り直した高川は、笑顔の針越をじっと見つめた。
「な、なに?」
あまりにも真剣な眼差しだったので、針越は恥ずかしくなり、慌てて制服の上着を調えたり、短めの髪を撫でたりした。高川はチョコレートを小脇に挟むと、針越の両手を握った。思ってもいなかったその好意に、針越は小さな目を見開き、肩をすぼめ、口元をわなわなと歪めた。
「あらためて礼を言わせてもらう。ありがとう。とても嬉しい!」
感謝の言葉をしっかりと述べた高川は、針越から手を離し、深々と頭を下げた。
高川は、神崎はるみに対して恋心を抱いている。それに気付いていた針越は、受け取って貰えるかそのものが不安だったので、感謝の言葉まで返ってきたのがとても嬉しく、心の中でガッツポーズを作っていた。
「お、お礼とかいいから……もう一度、握手してもいいかな?」
「お、おう!」
高川は頭を上げて、素早く右手を前に突き出した。針越はそれをそっと握り、分厚く熱っぽい感触をあらためて確かめた。
あ……。
奇妙な違和感に、針越は戸惑った。そうだ、これだ。さっき彼が台本を見せてきたときにも感じた、あの感覚と同じだ。高川の中指の爪の脇に、大きなタコがあるのに針越は気付いた。硬そうなそれは、勉強などでできるレベルのものではなく、柔術に明け暮れる彼の素性には、どう考えても似つかわしくない。違和感の正体がようやく解明されはしたものの、新たな、とてつもなく大きな疑問が針越の中で生まれ、それはある疑惑と結びついた。
なんの……アルバイトなんだろ……。
高川と出会ってから、今に至るまでのやりとりの中で、何度か引っかかるものがあったはずだ。まずはそれを整理して、照らし合わせてみるべきだ。バレンタインデーの成功もすっかり吹き飛んでしまった針越は、高川から手を離し、広がっていく疑惑にすっかり心を奪われてしまった。
「ど、どうしたのだ、針越さん」
「う、ううん……なんでもない……じゃあ、さよなら、高川くん」
ぎこちなく返事をした針越は、その場から歩き去っていった。高川は、彼女の態度が様変わりした原因がどこにあるのかわからず、小さく柔らかい感触が残る自分の右掌を見つめた。
まさか……この手が人殺しの手だと……察したのか……?
秘密が見破られた。なら、あの豹変もわからない。女性というものには、男にはわからぬ鋭いカンというものが備えられていると、昔どこかで聞いたような気がする。それにそもそも、これまでに数多くの敵を殺してきた自分に、彼女と好意を交わすような資格など、あるのだろうか。高川の中で暗鬱は再び広がり、小脇に挟んでいたチョコレートの箱が、僅かに歪んだ。
遼と別れたあと、平田は再び三階の部室まで戻ってきた。途中、呆然と手を見つめる高川を見つけ、声を掛けたのだが、彼らしくもなく返事がなかった。奇妙だと違和感も覚えたが、今は何より、今日の稽古で判明した問題点を書き起こす方が先決だ。部室の扉を開けた平田は、そこに一人だけぽつんと佇む女生徒の姿に目を留めた。
「鈴木さんか。どうした、後片付けか?」
「違いますよ、先輩」
鈴木歩(すずき あゆみ)は、いつもより濃いめのメイクをした満面に笑みを浮かべると、平田にハート型の箱を差し出した。
「な、なんだ?」
困惑した平田は、思わずたじろいだ。鈴木はぐいっと一歩前に出ると、平田の胸に箱を押しつけた。
「ハッピーバレンタイン! 特別なチョコを貰ってください!」
ストレートな要求に、平田は怖じ気づきながらもチョコレートを受け取った。鈴木は平田の次の対応に備え、気持ちを引き締めた。彼は、たぶん叱ってくるだろう。稽古で忙しい時期なのに、恋愛などにかまけている余裕はない。そんな叱咤が降り注ぎ、チョコレートを突き返してくる。鋭く、心地の良い怒気がいつ襲いかかってきても、それを余すところなく受け止められるように、鈴木はわくわくしてその瞬間を待った。
「と、特別なチョコか……」
ぽつりと漏れた平田の一言に、鈴木は何度か瞬きして、口をぽかんと開けた。
「う、嬉しいよ……てっきり鈴木さんは、俺のこと、嫌っていると思っていたから」
ハート型のチョコレートを胸に、顔を真っ赤にし、目を逸らす先輩を目の当たりにして、鈴木は背筋に電流のようなものが走るのを覚えた。
なにこいつ! ちょー可愛い!
平田の知られざる一面を垣間見た鈴木は、彼と同じように上気し、頬を赤く染め、胸に手を当てて鼓動の高鳴りを実感した。
築三十年以上が経過した老朽化の著しい二階建てのアパートは、軒先も建て付けの悪いトタン製であり、午後から激しくなっていた雨が、それを小刻みに揺らせていた。アパートの玄関には「山賊プロダクション」という看板が提げられており、数軒先の路地の角から、傘を差した一人の少女が、人の出入りする様子をじっくりと観察していた。
あの建物は、奴がアルバイトをしているアニメーションスタジオだ。奴が現れたら、すぐに決着をつける。人気のない場所に誘い、全力で挑み、絶対に勝利する。それから先のことは、まだ考えていない。仙波春樹からの宿題は難題であり、人殺しのように単純な答えは出せない。篠崎若木は待ち伏せのノウハウを持っておらず、そのため、彼女の姿はアパートから出てきた二人の男たちから丸見えだった。
赤いスタジアムジャンパーに、チェックのミニスカート。黒い長髪で、中学生ぐらいだろうか、少々険しい目つきではあるが、すらりとしてスタイルもよく、美少女、とカテゴライズしてもいい。アニメーション作画スタジオ、「山賊プロダクション」に在籍するアニメーター、石野は若木の第一印象に興奮し、それは傍らの南にしても同様だった。バレンタインデーの夕暮れに、二人は夕飯の買い出しのため、近所のコンビニエンスストアまで出かけるつもりだったが、若木があまりにも熱い視線をスタジオに注いでいたため、当初の目的も優先順位は下がり、どちらが切り出すわけでもなく、傘を差した美少女に向かってふらふらと近づいていった。
二人の男が怪しげな挙動で近づいてきたため、若木は即座にその戦力の分析に取りかかった。二人とも弱者だ。身体能力は著しく低く、バランスもでたらめで、傘もよろよろと震え、足下を見ても雨天歩行の基礎すらできていない。奴がアルバイトしている建物から出てきたが、武術の使い手ではない。僅か十秒ほどでそこまでの査定を終えた若木は、緊張を解き、視線を眼前の男たちから、その向こうのスタジオに戻した。
「君って、もしかして見学希望かい?」
二人のうち、長髪をゴム紐で結び、小太りで目付きの悪い石野が、若木にそう尋ねた。
「貴様らに用はない。去れ」
アパートに目を向けたまま、若木は素っ気なく言い放った。その風変わりな物言いに驚いた二人は、顔を見合わせ、表情を引き攣らせ、次の言葉を失ってしまった。立ち去る様子もなく、だからといって実力行使をするわけにもいかず、若木は立ち尽くす二人のアニメーターが邪魔で仕方がなく、苛立ちを覚えた。
「ね、ねぇ……君って……」
もう一人のアニメーター、南が、質問の内容をまとめきれないまま、なんとなくそう尋ねた。若木は舌打ちし、とうとう二人に視線を戻した。
「なんなのだ、お前たちは?」
単純かつ、根源的かつ、解答に幅がありすぎる質問に、石野と南は困惑し、苦笑いを浮かべるだけだった。武術の道のみに生き、外の世界を知ってからも戦いだけに明け暮れてきた若木にとって、このように反応が鈍く緊張感に欠ける人種と、これほどまでの至近距離で接触する機会はなかった。もう既に、数百回は命を絶つ間合いに入っているにも関わらず、この二人は相変わらず気持ちの悪い笑みで、じろじろとこちらを観察してきている。一体、こいつらはなんなのだ。生理的に嫌悪感が増すばかりで、素性など理解もしたくないが、このままでは埒があかない。
「なら、質問を変える。お前たち、これからなにをしたい?」
真っ直ぐな目で、若木は二人を見つめた。石野と南はすっかり照れてしまい、もじもじと身体をよじらせ、できるだけ個性的な解答で少女の気を引こうと思案した。
「ぼ、僕は……」
南が切り出したが、そもそもコンビニまで買い出しに出かけてきたついでだったので、「これからしたい」のは、食べることに関するものばかりであり、それではあまりにも情けがないので、それ以上の言葉は続かなかった。石野にしても、いい解答が見つからず、彼はそれならいっそ、今この状況に対する欲求をありのままぶつけてしまおうかと思い、拳を握りしめ、口先を尖らせ、「彼女が欲しい」と答えた。同僚の勇気溢れる答えに、南も同調し、やはり口先を尖らせ、「僕も僕も」と続いた。
期待などしていなかったが、やはり、その通りだった。仙波春樹の宿題を、試しにぶつけてみたのに、返ってきたのはくだらない望みだ。高川典之を殺したあと、自分は決して仙波春樹に「彼氏が欲しい」などとは言わぬ。篠崎若木は、夢のひとつを固く封じ、二人の男を完全に意識の外に放り出し、スタジオの監視を再開した。
6.
深深と降りしきる雪の中を、陸上自衛隊の装甲車と機動隊のトラックがすれ違おうとしていた。両車の車幅を合計すると、道幅にはほとんど余裕もなかったが、それぞれの運転手はもうすっかり慣れていたので、アンテナなどの僅かな接触もなく、互いの目的地に向けて走り去っていった。
鞍馬山小学校と後方支援基地の間に設けられた仮設道路は、十八日の今日も数多くの車輌が往来し、テロリストとの戦いに向けての備えが進められていた。
“鞍馬1号作戦”における、地中レーダーによる測定データの解析が、防衛庁で二日前に完了した。測定地点は想定エリア、K・A・Sの三箇所であり、このうちKとAについて、小規模施設の反応が認められ、その翌日には反応ポイントの捜索が行われ、リューティガーの遠透視によって、それぞれが補給施設であることが判明した。残る想定エリア、Sについては、レーダー波が全て吸収され、解析は不可能という結論に達した。これにより、合同部隊指揮官を務める陸上自衛隊の雅戸一等陸佐は、エリアSをFOTの鞍馬山拠点の本命と目した。そしてその裏付けを確たるものにするべく、まずはエリアKとAの補給施設制圧が優先であるとの作戦判断を下し、それが本日早朝、“鞍馬2号作戦”との作戦名にて、具体的な実行内容として発布された。決行は三月十二日となり、司令本部と後方支援基地では、約三週間のタイムスケジュールに則り、粛々とその準備が始められていた。
賢人同盟部隊はこの日、偵察任務のため朝から鞍馬山小学校を訪れていた。リューティガーを指揮官に、遼、高川の三人が参加メンバーであり、リューティガーは事前の打ち合わせのため司令室に出頭し、遼と高川は校庭に設営されていた専用のテントで、準備に取りかかっていた。
スキーウェア姿の遼は、木箱から手榴弾を取り出すと、それを別に用意した袋に詰め、デイパックにしまい込んだ。見慣れぬ光景に、ブーツの紐を確認していた高川は手を止めた。
「島守、それを使うのか?」
「さぁ? 今日の偵察で使うかどうかは、戦闘になるかしだいだし、なったとしてもそこからの状況によりけりだけど」
「あ、いや、そういった意味で問うたわけではなく、俺はお前がそうした武器を準備しているのを、初めて見たわけだが……」
「そうか? こないだから、ガンちゃんに投擲武器の使い方を教わっててさ。一番火力の低いやつだったら、実戦で使っても大丈夫って太鼓判も、真錠に押してもらったから」
「そうだったのか……それは知らなかった」
「こっちに来てから、戦いの内容が随分と複雑になってきたし、超能力だけじゃ手が足りねぇって思ってさ」
以前であれば、手榴弾や催涙弾といった軍事兵器の使用は、迷彩服を着るのと同様、強い抵抗感があった。しかし、蜷河理佳を巡る状況がより苛烈になっている現在、手段を選んでいられる場合ではない。遼は変化に対応し、選択肢は広げるべきだと考えていた。
「欠点の穴埋めってところかな。今度、お前からも柔術を教えてもらうかと思ってる」
「ほう、それはいい心がけだな。楢井師範は、お前を評価していらっしゃったからな。道場はいつでも大歓迎だぞ」
嬉しそうに、高川は遼の努力を評価した。遼は装備品の点検を終えると、屈んでブーツの紐を締め直している迷彩服姿の高川を見下ろした。
「でさ、その時にガンちゃんからも頼まれたんだけど、高川、お前もそろそろ拳銃とかライフルとか、使えるようにしておいた方がいいんじゃないのか? 訓練は受けたんだろ?」
「訓練など……あれは触った程度だ。敵の武器を知るため、試しに使ってみただけのことだ」
「いいスジしてたって話じゃねぇか。なら、もっとちゃんと訓練して、装備しておけよ」
「説得など無用。俺は武術の道を生きる者。飛び道具、ましてや鉄砲などといった邪道に手を染められん」
頑なに反発しながら、高川は二日前の偵察任務を思い出していた。雪山で獣人部隊の奇襲に遭遇した高川は、機関銃の掃射に対して、岩陰に隠れるのが精一杯で反撃の手段もなく、エミリアの銃器による反撃や、陸上自衛隊の救援で、敵の戦線が崩れるのをじっと待つしかなかった。結果的に追撃戦で二匹の獣人を始末できたが、自分一人なら、あの奇襲に抗せず、いずれは無残な屍を晒していただろう。リューティガーも偵察の編成については慎重で、例えば健太郎と高川という間接的な攻撃手段を持たない者のみでチームを組ませることはなく、必ず別のメンバーを含ませるようにしている。高川もその点については理解をしており、言葉にこそ出さないが、編成上の足枷になっていると痛感していた。
健太郎殿はいいのだ……あれは、超人的な速攻戦もさることながら、常人とは違い、多少の被弾にも耐えられる。
しかし、自分はどう頑張ってもただの人間だ。銃弾には無力で、刃物に対しても常に決死の心構えが欠かせない。だが、それでも銃を手に取るのだけは拒絶したい。なぜなら、似たような環境で、あの偉大なる完命流の先人、東堂かなめは己の腕一本で戦い抜いたのだから。
「いくらお前やガンちゃんの頼みと言えども、応じられんな」
あらためて、高川は拒絶の意志を表明した。だが、遼は尚も食い下がった。
「なら、神崎からの頼みならどうだ? 神崎だって、お前がケガするのは望んじゃいねぇ。この状況なら、俺と同じように頼むと思うけどな」
人の恋心を利用するとは卑怯だと思いつつ、高川の脳裏には、針越里美のはにかんだ笑顔が思い浮かんだ。そして次の瞬間、甲斐無然風の葬儀の様子が、鮮明に再現された。彼の棺を前に号泣し、崩れ落ちる女性の姿があった。あの光景は、やがて我が事となって、繰り返されるのだろうか。連想に高川は表情を曇らせ、心の中に暗鬱とした何かが広がろうとしていた。
「考え……させてくれ」
身体を屈めたまま、高川は絞り出すような声で、そう答えるしかなかった。遼も彼の態度があまりにも重苦しかったため、それ以上の要請を諦めるしかなかった。
「遼、ちょっと僕と来てくれないか? 司令室だ」
テントに入ってきたリューティガーの声に、遼は振り返った。高川は己の鬱屈を指揮官に悟られたくなかったため、更に身を屈めた。
雅戸陸佐から話があるらしい。小学校の廊下を歩きながら、呼び出された概要をリューティガーからそう説明された遼は、後頭部をひと掻きし、顔を顰めた。
「なぁルディ、もしかして俺、なにかやらかしたか?」
「さぁ?」
「司令室に呼び出しなんて、ちょっと嫌だよなぁ。だってあそこって、職員室じゃん。なんか、異様に緊張しちまうんだよなぁ」
遼の呑気なコメントに、リューティガーは何の反応も返さず、視線を泳がせ、深く息を吸い込んだ。その様子を横目で見ていた遼は、自分よりなぜかリューティガーの方が緊張していることに気付き、興味を抱いた。
「どうした? ルディ?」
「な、なぁ、遼……そ、その……アレなんだけど」
「どれだよ」
「か、か、神崎はるみから、何か聞いてないかな?」
震えた口調で意外な名前が出てきたため、遼は即答できず、「はぁ?」と疑念の声だけを漏らした。
「どうなんだ、遼」
「いや、別に……確かあいつ、火曜日は部活ばっくれて、水曜日も休んでただろ。でもって、木曜日は来てたし部活も普通にやってたけど……」
「な、なにか話はしていないのか?」
「したけど」
「どんな!?」
リューティガーが強く食いついてきたので、遼は「普通に。演技のこととか。俺とあいつ、夫婦の役だし」と、さらりとした返事をし、反応を待った。するとリューティガーは、ダッフルコートの胸に手を当て、長く息を吐き出し、歩みを早くした。その態度に疑問を感じたものの、追求するのも面倒だったため、遼はそれ以上なにも言わず、彼の後をついていった。
雅戸一等陸佐と対面するのは、これが初めてである。執務机を挟み、椅子に座る彼を見下ろした遼は、頬に一条の切り傷があるのに気付いた。重量級の格闘技選手を思わせる豊かな体格に、丸眼鏡の奥から覗く鋭い目付きといい、雅戸という男はこの作戦に参加する全員のトップに立つのに相応しい風格を備えている。遼は、執務机の上で指を組む雅戸にすっかり気圧され、背筋をぴんと伸ばした。遼のすぐ背後には、すっかり落ち着きを取り戻したリューティガーが、腕を組んで佇んでいた。
「島守くん、よく来てくれた。君の異能については、常々耳にしている」
掠れた声で、耳障りは悪かったが、聞き取り辛くはない。雅戸の挨拶に、遼は会釈で返した。
「我々も現在、君のような異能を戦力として活用しつつあるのだが、異能というものにはそれぞれ明確な個性というものがあり、運用は個人の資質に大きく左右される。わかり易く説明するなら、島守くんは、我々の擁する異能たちにはない個性を持っている。そして、それを欲している」
ゆっくりとした口調で雅戸は説明したが、遼には話の要点が今ひとつ捉えきれず、補足を求めた。
「えっと、要するに、お……私の異なる力に、興味があるってことですか?」
「欲している。君の、情報を読み取る能力を」
具体的な言及があったため、遼は警戒心を強くした。正直なところ、自分の異なる力が政府の各機関にどのような情報として具体的に伝わっているのか、遼自身、これまで把握をせず、尋ねたこともなかった。雅戸の発言に対して、背後のリューティガーがどのような反応をしているのか気になった遼だったが、雅戸の眼光は射抜くように鋭かったため、振り返るのを諦めるしかなかった。
「一月二十七日、前橋地方裁判所での、正義忠犬隊と称する獣人部隊のテロ行為についてだが、君もあの現場では活躍してくれたと聞いている」
「は、はぁ。まぁ」
確かに前橋地裁における正義決行について、阻止活動に参加はしていた遼たちだったが、結局、忠犬隊のターゲットである夏目茂幸(なつめ しげきち)の命は救えず、活躍などと評価されても素直には喜べなかった。
「あの際、君の異能によって、二体の獣人を無傷で捕獲した」
雅戸の言葉に、遼は記憶を巡らせ、リューティガーは紺色の瞳を見開き、雅戸の意図をすぐに察した。
「現在、獣人は然るべき場所にて収監されている。意識を失ったままの状態でな。彼らはFOTについて、何らかの情報を持っていると思われるのだが、それを得るのが至難の業であることについては、我々も九年前から現在までに至る経験によって、理解をしているつもりだ」
賢人同盟やファクト機関、そしてFOTの人員には、泡化手術という機密管理措置が施されており、尋問などによって組織の機密を聞き出そうとした場合、直ちに肉体が泡化し、死に至る。そのメカニズムについては理解できていない遼だったが、重傷を負った敵や味方が、死に瀕して泡になる光景は何度も見てきた。それに昨年の夏、祇園祭を襲撃したエロジャッシュ高知は、警察の取調で自身の過去や、かつて所属していたファクト機関にまつわる情報を自供し、わざと泡化したとリューティガーから聞かされている。確保した忠犬隊の取り扱いに悩んだ末、失神したままの状態を維持するしかないという事情は、遼にも一応は理解できた。
「FOTのメンバーは、ファクトと同様の泡化手術が処置されている。重要な情報を聞き出す、自ら喋る、生命維持の危険域に達した際、連中は泡化し、消滅する。ある専門家の見解によって、我々はそう認識している」
雅戸の認識は、概ねにおいて誤りはない。リューティガーは無言のまま頷き、同意を表した。
「しかし、我々は忠犬たちから、なんとしててでも情報を得たい。そのため、島守くんの異能を欲しているのだ。君は、何らかの方法で対象が持っている情報を引き出せるそうじゃないか。その異能を是非とも我々のために、我が国のために役立てて欲しい」
接触式読心で、忠犬たちからFOTの機密情報を引き出す。遼は、雅戸からの依頼内容をざっくりとまとめてみた。二年前の演劇部の合宿で、遼は接触式読心によって、FOTのエージェントである藍田長助から、その正体についての情報を引き出した。長助は気付いたものの、泡化もしなかった。だが、でたらめな配列の言語情報を頑張って整理し、抽出した結果、得られたのは「FOTのエージェント」「この日本を再生する徒」というたった二つのキーワードのみである。接触式独心で抽出したから、泡化しなかったのか、キーワードが機密に該当しないレベルだったのか、いや、それ以前にそもそも長助が泡化手術が施されているのかどうかすらわからない。あの成功経験は、雅戸の依頼に対してなんの判断材料にもなってくれない。理佳と身体を重ねた夜、意図せず、FOTの作戦について重要な情報を得たこともあったが、あれにしても「仮皇居」と「戦霊祭」というただの単語であり、機密としての価値を示したのは、別の情報と総合して判断できたからである。接触式独心を敵からの情報収集手段として積極的に利用してこなかった遼は、要請に対してなにも答えられなかった。
「島守くんへの協力要請は、責任者である真錠くんの同意が必須とのことだが……」
雅戸は遼の背後に立つ、リューティガーに視線を移した。
「真錠くん、我々と賢人同盟は現在協力関係にある。組織を越えた協力については、我々は問題がないと認識しているが、如何かな?」
「この場での返答はいたしかねます。検討させていただき、後日返答といった形でもよろしいでしょうか?」
すらすらと、リューティガーは淀みなく返答した。
「無論だ。いい返事を期待しているよ」
雅戸の言葉を交渉終了の合図と決めたリューティガーは、遼に声をかけ、司令室から出て行こうとした。
「我々が擁する異能、富士五景だが、本日の偵察任務にも遊軍として参加する。彼らには、来たる鞍馬二号作戦でも重要な役割を担ってもらう。是非一度、彼らの実戦能力を賢人同盟の君にも見て欲しいところだ」
雅戸の言葉に、リューティガーは半身を向け、雅戸には目を合わさず、口の端を吊り上げた。
「是非とも、そんな成り行きになりそうでしたら」
本心は決して見せず、社交辞令だけを告げると、若き同盟指揮官は仲間を連れ、司令室を後にした。
「君の、“記憶の外科医”としての能力を、彼らはどの程度認知していると思う?」
校内の廊下を並んで歩きながら、リューティガーは遼にそう尋ねた。
「え? お前が教えてるんじゃないのか?」
「まさか。こちらの手の内は明かさないよ。彼らは現場からの報告や、独自に情報を収集して、そこから僕たちの能力を査定しているはずだ」
「そっか……けどまぁ、俺にしたって、てめぇの能力をきちんと把握してるわけじゃねーしなぁ」
「奴らの要請に応えるとしたら、ガンちゃんの助けもいるだろうね」
「ああ、それはもう絶対にそうだな。ガンちゃんフィルタがあれば、デタラメな情報もスッキリと整理して引き出せる」
力の入った言葉に、遼の前向きなやる気を察したリューティガーは、手の甲を彼のそれに触れさせた。
遼、雅戸陸佐の要請には応じられない。明日にでも正式に断る。内容を検討した結果、島守遼の能力は、その要件を満たしていない。また、今後についても期待できない。そんな具合に、理由を説明しておくよ。
手の甲から伝わってきたリューティガーの意志に、遼は困惑した。
け、けどさ、試してみる価値はあると思うぜ。確かに成功するかどうかは、俺も何とも言えねぇけど。
ダメだ。君の接触式読心は、今後の訓練や研究開発によって、無限大の可能性が期待できる。しかし、さっきのやりとりから、日本政府はまだ、君の能力を正確に把握できていないことがわかった。なら、今はまだ、内密にしておくべきだ。今後はガンちゃんフィルタについても他言無用だ。これは徹底しよう。
ちょっと待てよ。忠犬隊から情報を引き出せるチャンスなんだぜ? やるだけやってみて、陸自に教える情報を吟味すりゃ、いいんじゃないのか?
忠犬隊は実働部隊だ。隊長の我犬ならまだしも、末端の隊員に兄が与えてる情報など、たかがしれているよ。それに、あれから半月近く失神状態が維持されているのなら、記憶に障害が生じている可能性もある。しかも場合によっては無抵抗な忠犬が、目の前で泡化する可能性だってある。そんなのは君も嫌だろ?
そりゃ、まぁ……安全なまま成功するって確証はないけどさ。
仮に上手くいったとして、連中に提供する情報を吟味したところで、君やガンちゃんの、記憶の外科医としての利便性の一端が日本政府に認定される。そうなったら、君たちはこの戦いが終わったあともずっと、一生尋問官や取調官として利用される。そんなのはゴメンだろ?
遼は、考えを巡らせた。成功の事実を隠し、失敗と嘘をつくという手もあるが、あの威圧感溢れる雅戸の目をごまかせるのだろうか。自分などでは所詮、ぼろが出てしまうのではないだろうか。よほど上手に立ち回らなければ、あの思慮深そうな男を出し抜けはしない。せめて、リューティガーが手伝ってくれるのなら、なんとかなりそうな気もするが、いや、そもそもだ、そもそも成功するかどうかも現時点では怪しい。なら確かに、ここは能力不足を理由に辞退し、もっと接触式読心について、自分で確信や確証を持てるような経験を積むべきだ。思念破からの接触式読心の連携、これをもっと意識的に試みて、確かな技能として身に付けよう。それに、リューティガーが言うように、FOTの件が終わってから、例えば犯罪者や政府に都合の悪い人間の尋問を依頼されるのは望んでいない。ゆっくりと時間をかけ、考えをまとめた遼は、リューティガーから手の甲を離し、握った拳を彼に見せた。
「よし、お前の指示に従おう。確かにそいつが一番賢い選択だ」
遼の同意に、リューティガーは無邪気な笑みを向けた。
「ありがとう、遼」
久しぶりに見た、友人の屈託のない笑みに、遼は記憶のある一部を刺激され、足を止めた。リューティガーは振り返り、首を傾げて眼鏡を直した。
「どうしたんだ、遼?」
「いま、急に思い出した! 真錠!」
「なにをだ?」
「真錠、お前、昨日も任務で学校休んだろ」
「ああ。金曜日は遠透視を使った確認要請があってね。エリアKとAの観測に参加した。それも“ドレスを着た神崎捜査官”の護衛付きだ。もちろん、任務は成功したけどね」
「神崎さ、あっちのはるみの方だけど、お前さっき、あいつのこと聞いてきたよな」
「ま、まぁ」
「あいつ昨日、自転車置き場で壁に向かって蹴り入れてたぞ」
「自転車……置き場?」
「そう、なんかすげー怒ってた」
四日前、土砂降りの駐輪場で、リューティガーは、意図しなかったものの、はるみをひどく傷つけてしまった。激昂して暴力を振るった彼女は、一転して号泣し、それから五分ほど嗟嘆(さたん)に暮れたのち、一言も発さず傘も差さず、駐輪場を去っていった。リューティガーには、なぜはるみの感情が爆発したのか微塵もわからなかったため、声をかけることも、傘を差し出すこともできなかった。三日が経過した昨日になっても、彼女の感情は荒んだままだったのか。リューティガーは床に目を落とし、額から脂汗をたらたらと流し、口元をわなわなと歪ませ、想定外の罪の重さを思い知った。
「なんかここんとこ、あいつってイライラしたりブルー入ってたり、ここんとこアレとかなのかね?」
わざとらしく卑猥な笑みを作り、遼は口元を手で隠してそう言った。だが、その言葉もリューティガーには届かず、彼は腹と背中と胸に鈍い痛みを覚え、その場に蹲ってしまった。
7.
四日前の惨劇を思い出し、リューティガーはしばらく苦悶した。さすがの遼も様子の変化に戸惑ったが、なんとか感情を制御して精神的な復帰を果たしたリューティガーは、それから三十分後には遼と高川を引き連れて偵察任務に出発し、六時間後の午後三時には予定されていた確認地点まで到達した。途中、一度だけ敵陸戦部隊と遭遇したが、対応はリューティガーが担当し、遼と高川は光学センサの設置のため先行した。遭遇から十分間ほど戦闘状態に突入したが、小競り合い程度に終始し、敵陸戦部隊が撤退した結果、双方に損害は出なかった。
朝からの雪は午後になっても降り止まず、頭や肩をうっすらと白くさせた三人の少年たちは、鞍馬山小学校に戻るための山道を進んでいた。リューティガーの異なる力があれば、こうした行軍の必要はなかったが、復路も偵察任務の一部という考えに基づき、緊急の場合を除いて移動は二本の足で行われていた。通信機を耳に当てていたリューティガーは、最後に「了解」と締めくくると、それを携帯ポーチに収めた。
「これより、ポイントE−130に移動する。府道三六一号沿いの料亭、源太郎だ」
リューティガーの指示に、遼と高川は頷き返した。府道三六一号は、現在進んでいる復路とも合流する帰り道でもあった。二人は指揮官に指示の理由を求めることなく、黙々と行進を続けた。
「敵獣人部隊が料亭に籠城して、陸自部隊と膠着戦になっている。この状況を、富士五景の投入によって解決するそうだ」
指示の理由がリューティガーから告げられたため、高川は納得するのと同時に、富士五景という固有名詞に反応した。
「富士五景とは、先日島守が言っていた陸上自衛隊のサイキックか?」
「そうです。能力の実態を確認するのに、いい機会になるかもしれません」
リューティガーの説明に、遼が疑問を抱いた。
「今の通信って、お披露目のお誘いだったのか?」
「ええ、前線に出ている田中陸佐から直々に。大方、雅戸陸佐からの指示なんだろうけど、連中は見せびらかしたくて仕方がないらしい」
「それに、なんの意味があるのだ?」
高川の素朴な疑問に、リューティガーは苦笑いを浮かべた。
「異なる力を擁するのは、今や賢人同盟やFOTだけではない。それを誇示したいんでしょう」
「だが、政府には、すでに神崎まりかさんという、強力なサイキックがいるではないか」
「けど、陸自にはいません。うんざりしてしまいますが、同じ国旗の元で戦っているのにも関わらず、組織の見栄というものは、どこまでも愚かだ」
高川と遼は、互いに顔を見合わせた。まだ高校生に過ぎない二人にとって、リューティガーの分析はなんとも難解で、容易には納得できなかった。
料亭「源太郎」近くの杉林までやってきたリューティガーたち一行は、府道のすぐ近くで足を止め、現状を確認した。林から府道を挟んだ対面側に位置する、雪も深く積もった休業中の老舗料亭の周辺には、四十名ほどの武装した迷彩服姿の陸上自衛官が、包囲陣を敷いていた。府道には機動隊のトラックが駐められ、その中には簡易的な司令本部が設けられていた。さて、この現場の責任者は誰だろう。リューティガーはトラックを遠透視していたが、その背後で雪を踏み抜く複数の鈍い音がした。
「あなた達も呼ばれたのね。田中陸佐からかしら?」
林の奥から、声をかけながらやってきたのは、神崎まりかとハリエット・スペンサーだった。二人は冬季迷彩が施された白いポンチョ姿で、ハリエットは肩からアサルトライフルを提げていた。リューティガーは振り返り、人の悪い笑みを浮かべた。
「ああ、陸自自慢のサイキをお披露目してくれるそうだ。そちらも招待されたんだな」
リューティガーのすぐ後ろで足を止めたハリエットは、腰に手を当て空色の目を細めて料亭を眺めた。
「そういうこと。こんな包囲戦、まりかがいれば、一人で解決できるのにね」
「それはどうかわからないけど、富士五景は先週から、なかなかの戦果を挙げてるそうよ。わたしもそのうち、お払い箱になっちゃうかも」
まりかは苦笑いでハリエットにそう言うと、懐からピルケースを取り出し、頭痛止めの錠剤を口に含んだ。
「報告は見たけど、威張れるほどじゃない。三度の実戦でも遭遇戦が一度もないし、全部お膳立てされた戦場への投入よ。陸自のサイキは過保護なベイベね。上げ底の通知表で、裏口入学でもさせようって腹づもりなのかしら」
ハリエットの嫌味によって、遼と高川はようやく先ほどのリューティガーの分析を理解した。なるほど、陸自はサイキを絶大な戦力と目していて、それを擁する賢人同盟やF資本対策班に対してコンプレックスを抱いていたが、富士五景という新たな力でそれが解消できると見込んでいるのだ。二人はそう解釈した。
「戦力を見せつけて、こっちの動きを牽制しようって意図もあるらしい。これまで、重要局面ではどうしても神崎くんたちが頼りにされてて、陸自も忸怩たる思いをしている、なんて噂話も耳にしている」
遅れてやってきた那須誠一郎が、皆にそう告げた。足を止め、トレンチコートの襟を立てた彼は、料亭に目を向け、細い顎に手を当てた。
「ここで一気に巻き返して、この戦いで一番の功績を挙げたのは陸自だって認めさせたいのよね。ほんと、こんな招待は愚かね。さっさと戻って、コーヒーでも飲みたいわ」
なおも毒づくハリエットに、まりかは険しい目を向けた。
「富士五景は六日も前から実戦に投入されてるのに、ルディたちまで招いて、今日が初めてお披露目なのよ。よっぽど今の仕上がりに自信があるんでしょう。なら、見ておいて損はないと思うな」
重い頭痛を押し、この戦いを続けているまりかの言葉だったため、ハリエットは毒舌を止め、静かに頷き返した。富士五景が強力な戦力なら、この世界最強の念動力使いの負担も減る。彼女を尊敬し、身を案じているハリエットは、合理的な判断に気持ちを切り替え、これから始まるお披露目を静かに待つこととした。
リューティガーやまりかたちが府道周辺で待機していると、一台の装甲車が北上してきた。六輪の装甲車は、鞍馬の戦いでもよく見られる96式装輪装甲車であり、リューティガーたちのすぐ傍で停車したのと同時に、後部ハッチが勢いよく開いた。装甲車から飛び出した五つの人影を、リューティガーたちは目で追った。暗灰色の野戦服を着た五人は、サブマシンガンやアサルトライフルで武装しており、頭にはバラクラバという目出し帽を被り、誰一人として人相はわからず、その上からヘッドセットタイプのインターカムを装着していた。中肉中背の一人を先頭に、五人は包囲陣が敷かれた料亭に向かって駆けていった。遼と高川は富士五景を見るのは初めてだったが、異様な風体については既に聞いていたので、あの五人がそうであることはすぐにわかった。顔を隠すのは、素性を知られないためだろうか、それとも彼らの持つ異なる力に関係があるのだろうか。そんなことを遼が考えていると、装甲車の後部ハッチから、白いスニーカーがにゅっと突き出され、中から一人の中年女性が現れた。傘を広げ、防寒コートのボタンをいそいそと留めた女は、続いて現れた白衣の男にあれこれと指示を出し、最後にまとめ上げた髪を撫でつけた。
「松原さん」
見覚えのある人物だったので、まりかは声をかけた。すると松原と呼ばれた女は目を輝かせ、大きく手を振った。
「こっちよ! みなさん集まって! いま、モニタを用意しているから」
松原の背後では、白衣の男が、机と折り畳み椅子を設置し、ビニールで防水処理を施したモニタや計測機器といった機材をその周辺に置き、配線を始めていた。
「陸自が予定してる、超能力研究機関の主任研究員よ」
リューティガーにそう説明したまりかは、林から府道に出て、松原に会釈をした。
「五景の指揮官、宝永(ほうえい)くんに、カメラを取り付けてあるのよ。それで、現場の様子や五景たちの能力の一環はお見せできると思うわ。もちろん、細部の結果は報告書を見てもらう必要があるけどね」
松原は早口で説明し、料亭を包囲する自衛官たちの背中を映し出すモニタを指さした。続いてやってきたリューティガーたちは、まりかとはやや距離を置いて松原を注視した。
「富士五景とやらは、銃器で武装していたが、サイキックでもああいった武器が必要なのか?」
高川の疑問に、ハリエットがブロンドを揺らして振り返り、提げているアサルトライフルの銃身を撫でた。
「私も使ってるわよ。それにまりかだって、ドレスの主砲は機関銃や機関砲よ。おたくの指揮官だってそうでしょ?」
言われてみるとその通りなので、高川は呻った。遼は何も持っていない両手を高川に見せ、鼻を鳴らせた。
「俺は少数派なんだよ。その俺にしたって、手榴弾は使って行くつもりだし」
その言葉の裏に、銃器による武装を再び求められているような気がした高川は、この話題を続けるとやぶ蛇になると判断し、口を固く結んだ。
「五景の中でも宝永くんとトリカブトくんは、火器を使わなくても敵を排除する術を持っているけど、残りの三人はそっちの能力は持っていないの。けど、みんなそれぞれ素晴らしい異能の持ち主よ。楽しみにして!」
昂ぶった口調で、松原は府道に集まった一同に向けて五景を称えた。
「五人は、どんな能力を持ってるんですか?」
そろりと挙手して、遼が尋ねた。松原は目を潤ませ、人差し指を立てた。
「それは、これから作戦が始まったら、順を追って解説するわ」
指揮官に装備させたライブカメラで、果たしてどこまで正確に能力の確認などできるのだろうか。結局は、この妙にテンションの高い超心理学者の説明を聞くだけで終わってしまう気がしてならない。那須は、今はまだ整然とした包囲陣を映し出す机上のモニタを見つめながら白い息を漏らし、これから見られる映像に大した期待を抱いていなかった。
「料亭の中には、十五匹ほどの獣人が立てこもっているそうよ。しかも半数近くがプロテクターを装備していて、Pa弾対策を施しているみたい。けど、五景なら十分とかからず駆逐してくれるでしょうね」
掠めるだけでも致死を招くPa弾は、前回の“鞍馬一号作戦”で、獣人に対して必殺の一打となっていたが、敵はその対策を進め、被害をできるだけ最小限度に食い止める手段を講じていた。だが、それでも富士五景は圧勝が保証されていると、この女は豪語する。少しばかり苛立ちを覚えたリューティガーは、一歩前に出て、眼鏡を直した。
「閉鎖された空間で、ひとまとめに派手な戦果を見せつけるつもりか。この膠着状態、包囲戦自体が、五景のための演出ってことか」
皮肉を込めた口調で、リューティガーは指摘した。松原はいきなりの発言に驚き、立てていた指を口に当てた。
「これまでの三度も、すべてお膳立てができた上での戦果なんじゃないのか?」
松原からの反論がなかったため、リューティガーは指摘を続けた。
「そ、それってもしかして、真錠くんの異能で察知したの? それとも島守くん?」
震えながら指を差し、上気した頬で、松原は期待感を隠さずそう尋ねた。意外な反応に、リューティガーは呆れ、遼は挨拶も済んでいない相手から、唐突に名前を呼ばれたので困惑した。
「違う。経験に基づく推察だ」
「あら、そうなの」
怒気も混じったリューティガーの返答に、松原は残念そうに肩の力を落とし、モニタに振り返った。
「あ、そろそろ始まるみたいよ」
松原の言葉通り、会議机の上に設置されたモニタの中の映像に、動きが生じていた。画面は細かく上下に揺れ、スピーカーからはくぐもった低い声で、「こちら宝永。これより、突入を開始する」と聞こえてきた。一同は画面に注目し、リューティガーだけは料亭に身体を向けた。
「遼、こっちの方が、鮮明でわかりやすいよ」
リューティガーに誘われた遼は、モニタから離れ、彼の傍らまで近寄ると、手の甲を触れ合わせた。雪が降り続ける中、富士五景が包囲陣に割り込み、料亭に突入していく様を、まるで背後から同行取材をしている、テレビカメラクルーからの映像を見ているような感覚で、遼は繰り広げられている光景を認識した。
リューティガーは反対側の掌に、柔らかく暖かい感触を覚えた。想定していなかった事態に、彼は慌てて手を引っ込め、異変に気付いた遼も振り返った。
「あ、ケチ」
ムッと口を尖らせたまりかが、リューティガーに抗議した。リューティガーは手を握ってきた者の正体に戸惑い、だがすぐにその意図を察した。彼は顔を赤くして、左肘をまりかに突き出した。
「い、いくら握っても、そ、そちらには、僕の視覚情報は伝わらない! こ、これは遼だからこそできるんだ!」
たどたどしい抗議に、まりかは片足を軸にくるりと背を向けた。
「そーだったんだ。しょぼーん。せっかく特等席で見られると思ったのにぃ」
軽口でぼやきながら、まりかはモニタに戻っていった。リューティガーは咳払いをひとつすると、再び料亭に身体と意識を向けた。遼はくすりと笑い、二人の関係が日を追うにつれ、親しくなっているのを嬉しく思った。
五つの姿が、老舗料亭の廊下を進んでいた。先頭の宝永は、五人の中でも最も均整の取れた体型で、筋肉に覆われた身体は逞しく、いかにも陸上自衛隊員であると思わせる屈強な肉体の持ち主だった。宝永のすぐ後には、対照的に小柄で華奢な隊員が、手にした図面と周辺を繰り返し確認していた。
「こちら剣ヶ峰(けんがみね)。白糸(しらいと)とトリカブトは左の角を曲がれ。左の客室に敵の一部が伏兵として潜伏している。雪代(ゆきしろ)はここに待機して退路を塞げ。宝永と自分は前進を継続し、調理場に立てこもる主戦力に対応する」
インカムから指示を出したのは、小柄な隊員だった。スピーカーから音声を聞いた松原は、注目する一同の背後から解説を始めた。
「今、音声だけ聞こえてきたのは、宝永くんの後にいる剣ヶ峰くん。一番小柄なメンバーね。彼の異能は、超越的な空間認識能力。例えば鞍馬山の複雑な地形も、彼は俯瞰図として認識できるの。たとえ目隠しをしていても、彼ならあの料亭のどこにもぶつからず、迷わず玄関から裏口まで出られるわ」
説明を受けたものの、那須は今ひとつ理解できず、下唇を突き出した。
「地図や図面で、予め情報を入れておくのですか? それとも遠隔視のような力で、実際に俯瞰で見ているとか?」
那須の質問に、ハリエットは頷いた。松原は目を細めて笑みを浮かべ、人差し指を立てた。
「ううん、彼は、そこにいるだけで、その先の地形や構造を予想してしまえるの。メカニズムについては、秘密だけどね。彼は五景でも司令塔的な存在よ。今度テロリストの拠点を制圧するときだって、彼がいれば道に迷わず、核の在処に辿りつけるんだから」
料亭を遠透視しながら、リューティガーと遼は背後にいる松原の説明を聞いていた。
すげぇな。五景って。敵の位置まで言ってたけど、どんな力で、そんなマネができるんだ?
疑問を伝えてきた遼に、リューティガーは考えを巡らし、ある結論に至った。
わからないけど、例えば聴覚が異常に優れているって推察もできる。あとは、イルカみたいに音波を飛ばせるとか。
リューティガーの推察に、遼は今ひとつわからないまま納得をし、料亭の光景に意識を戻した。
指示に従い、白糸とトリカブトと呼ばれた隊員が、廊下の左角を曲がった。先を行く白糸は宝永と同じ程の背丈だが、身体は全体的にやや細身で、続くトリカブトはずっと背が低く、なによりもひどく痩せていて、野戦服もだぶついていた。二人が客室の前で立ち止まると、白糸の正面にあった障子が客室の内側に吹き飛んだ。それはまさしく一瞬の出来事であり、リューティガーと遼には、何が起きたのか結果だけしかわからなった。二人の五景は、客室である座敷に突入した。十六畳ほどの広さに五匹の獣人が潜んでいて、そのうち三匹は、強化樹脂製の黒いプロテクターを身体の随所に身に付けていた。白糸は両手にそれぞれ銃身の短いショットガンを持ち、トリカブトは素手のまま獣人たちに接近した。そして、それから三十秒も経たず、五匹の獣人は畳に崩れ落ち、そのうち四匹が直ちに泡化を始めた。
な、なんなんだよ、真錠。
わ、わからない……。
三十秒足らずの間に何が起きたのか、二人のサイキにはほとんどわからなかった。五景たちは何らかの攻撃手段を用いて、四匹の獣人を絶命に至らせた。獣人たちの周辺で、なにかの影が動き続けたようであり、トリカブトと呼ばれる痩せぎすの姿も時折目に入ったが、具体的な挙動については追えなかった。白糸が手にしている二丁のショットガンの銃口からは、硝煙による小さな狼煙が上がっていた。背後のスピーカーからも銃声が聞こえたので、銃撃があったのは確かである。畳の随所には、新しい擦り痕が浮かんでいるので、僅かな間に激しい戦闘があったのは間違いない。リューティガーが、現時点で手に入れられる情報を整理し始めると、最後に残っていた一匹の獣人が、倒れたまま泡化を始めた。
白糸の動きが、まるでわからなかった。ただ、トリカブトの方だけを注目していたら、あるいは追えた可能性もあったかも……。
俺、少しだけ見えたぞ。痩せてる方が、獣人の手首を掴んでいた。
手首を? 最後に泡化した一匹か?
すまねぇ。さっぱりだ。そこまではわからねぇ。
遼から新しい情報を得たリューティガーは、松原の解説を待った。だが、モニタでは、宝永から離れた白糸たちの動きは追っていなかったようであり、背後では息を呑む緊張した空気が続いたままだったので、彼は視覚を宝永と剣ヶ峰に向けた。
宝永と剣ヶ峰の二人は、料亭の長い廊下を真っ直ぐ進み、突き当たりとなる調理場の扉まで到達した。途中から歩みを緩めた剣ヶ峰は、宝永からしだいに距離を取り、その場に待機させていた雪代まで、三人は長い廊下に、ほぼ等距離の配置となった。サブマシンガンを構えた宝永は、引き戸の傍に潜んだ。
「こちら剣ヶ峰。客室の伏兵は殲滅した。主力は伏兵との連絡ができず、混乱している。宝永、突入しろ」
指示を受けた宝永が引き戸を蹴破り、厨房に突入した。何匹もの獣人が身構え、咆吼を上げ、戦意を鼓舞させた。奇襲でもないただの突入であったのにも関わらず、即応して冷静な反撃をする獣人は皆無だった。宝永はサブマシンガンを構えたまま、しかし引き金はぴくりとも動かさず、大きく開いた左掌を右から左に振り抜いた。
「雪代ぉ! 真上だぁ! 二階だぁ! 逃がすなぁ!」
指揮官の宝永が突入したにも関わらず、そして五メートル後方の廊下で待機する雪代に背中を向けたまま、剣ヶ峰は裏返った叫び声で指示を出した。雪代は太鼓腹をした、極度の肥満体型の隊員で、痩せぎすのトリカブトとは逆に、野戦服がパンパンに膨れあがっていた。雪代はその場にかがみ込むと、肩から提げていたアサルトライフルを廊下に置いた。
離れた地点で、同時に見逃せない事態が発生したため、リューティガーは遠透視の視点をどちらに合わせるか悩み、即時に雪代を選んだ。かがみ込んでいた雪代だったが、着用していた野戦服の背中が破れ、そこからボディビルターのように隆々とした背筋が浮かび上がった。腕や足も、先ほどまでよりずっと太く膨張していた。
雪代は、両の拳を突き上げ、その場から跳ねた。体重百キロをゆうに超えていると思われる巨漢だったが、その跳躍は猫のようにしなやかで距離も高く、丸太のような両腕は天井を貫き、途中の配線や配管を巻き込みながら二階の床を突き抜けた。雪代は、階段や梯子といった手段を使わず、一階から二階への移動を、たったひと跳ねで済ませてしまった。もし料亭「源太郎」の経営者がこの光景を目の当たりにしたら、人質でも取られていない限り、いくらテロリストが立て籠もろうが、一階と二階の天井と床を破壊しての事態解決など、決して望まないだろう。
ロケットのように打ち上がり、隔てるすべてのものを突破した雪代は、粉塵が舞い散る二階の廊下で、一匹の獣人の足首を背後から掴み上げていた。熊の頭をし、プロテクターを装備していた獣人は力任せの抵抗を試みたが、雪代はもう片方の足首も易々と掴み、高々と真っ逆さまに吊るし上げた。獣人は雪代よりずっと巨体で、肩口から頭部までは廊下に着いていたため、両腕も自由だった。背面から足首を掴む敵に、反撃を加えようと獣人は両手から十本の長く鋭い爪を出したが、雪代の攻め手は速かった。力任せに両手を広げた彼は、猛獣の股を裂き、尚も腰から胴にかけ、真っ二つにするべく両手を乱暴に振り回した。獣人が身に付けていたプロテクターが裂け目だらけの廊下に転がり、血だまりが広がった。
これ以上グロテスクな場面を見る必要がないと判断したリューティガーは、途中から焦点をぼかし、無駄だとわかりつつ視覚を一階の宝永に戻した。雪代以外の三名と合流していた宝永は、廊下を進んでいた。
「こちら宝永。任務完了。これより帰投する」
背後のスピーカーから、インカムを通じた宝永の声が聞こえてきた。リューティガーがそこから更に厨房まで見通してみると、開き戸が蹴破られたそこには、いくつかの泡化の痕が残されていた。どうやら宝永という指揮官は、何らかの手段で九匹はいた獣人を無傷で仕留めたようである。宝永に取り付けられたカメラの映像は、高川が見ているはずなので、そちらについてはあとで確認すればいい。遠透視を止めたリューティガーは、冷たい手で熱くなった目を瞼ごしで冷やし、背後に振り返った。
「ほんと、ごめんなさい。せっかくお招きしておいて、結局宝永くんと剣ヶ峰くんの能力しかお見せできなくって……」
松原は、傘を持っていない左手で片手掌を作り、まりかたちにペコペコと頭を下げた。
「仕方がないですよ。屋内での集団戦でカメラが一つでは、こうなるのは想定の範囲内ですし。まだ、カメラを取り付けた彼が戦闘に参加しただけ、マシといったところです」
仕方なさそうな口調で那須がそう言うと、松原はウインクして舌を出した。那須はうんざりして目を逸らした。
「こちらは、宝永という者の戦いは見られなかった。どういった能力だったんだ?」
リューティガーは遼を連れ、松原たちの輪の中に入っていった。
「手をかざしただけで、獣人たちを一瞬で殲滅したわ。詳しくは、わたしたちもこれから松原さんの解説を聞くところよ」
まりかの説明に、リューティガーは小さく頷き返した。素直な反応にまりかは笑顔を浮かべ、「そっちは、どこを見てたの?」と素朴な疑問を言葉にした。
「それ以外の全員だ」
「どうだったの? 教えてくれない?」
「あとで、遼に説明に行かせる」
食いついてきたまりかを、リューティガーは嫌気を隠さずそうあしらった。いきなり仕事を振られた遼は戸惑い、まりかに困り顔を向けた。
「なら、島守くん。よろしく!」
「わ、わかりました。のちほど……」
見てきた光景については、まだリューティガーの見解も聞いておらず、自分だけでは分析など到底無理だったので、了解こそしたものの、遼は後でリューティガーに意見を求める必要があると思った。
「ただ、一つだけ先に言っておくが、火器が必要ないのは、宝永とトリカブトだけじゃない。雪代もだ」
リューティガーの指摘は松原に対するものだったが、彼女は遠回しな言い方を即座には理解できず、数瞬瞬きを繰り返し、ようやく言葉の意味を理解した。
「あ、あ、そーだったわね! そ、そんな戦いをしたのね、雪代くんは」
松原の反応がぎくしゃくしていると感じたリューティガーは、この研究者は戦場における能力の応用性というものを理解しておらず、戦闘については素人であると認定した。
「とにかく、突入から七分十三秒で任務は完了されたわけだし、富士五景の実力の一端はわかってもらえたでしょ? 柳かれん対策は、五景にお任せして欲しいわね」
取り繕うような松原の締めくくりに対して、リューティガーは首を横に振った。
「包囲状況で、ただ固まって敵を待っているような知能しかない獣人をいくら倒したところで、実力など認められない。柳への対応優先順位に、今更異論は差し挟まないが、評価については保留とさせてもらう」
毅然としたリューティガーの物言いに、松原はすっかり萎縮して肩の力を落としてしまった。
「なんだ。これって」
ずっとモニタに注目していた那須が、疑問の声を上げた。一同が画面に注目すると、宝永からの映像と思われるそこには、うつ伏せや仰向けになって倒れている複数の野戦服姿があった。数は四つで、いずれも目出し帽で人相はわからないが、苦しそうに蠢くその正体は歴然としていた。
「戦後対応、HD4(エイチデーヨン)をお願いします!」
宝永と思しき男の声が、スピーカーから鳴り響いた。松原は傘を放り投げると、机上からマイクを掴み、スイッチを入れた。
「宝永くん! カメラとマイクを切りなさい! そして待ちなさい!」
金切り声にも近い松原の叫びが終わる前に、画面は真っ暗になり、音も途切れた。画面の状況だけで判断するなら、倒れていたのは宝永を除く五景の四人である。戦闘は僅かな時間しか経っておらず、五景は無傷の圧勝だった。疲労があるにせよ、倒れ込むのはあまりにも異常である。考えられるとすれば、彼らの異なる力の副作用だろうか。リューティガーはほんの数秒の映像からそこまでの分析をすると、白衣の男と共に駆け去っていく松原の背中に向け、「お披露目が早すぎたみたいだな!」と毒のある言葉を投げかけた。
「さてと、ここにいても無意味だし、戻りましょうか」
ハリエットが切り出したのをきっかけに、まりかは肩の雪を払い、那須もトレンチコートを叩いて雪を落とし、それぞれが帰り支度を始めた。
「なんか、色々とワケありって感じだな」
遼は、傍らの高川に声をかけたが、彼は松原たちの背中をじっと見つめ、青ざめた顔で放心しているようだった。
「どうした、高川」
「あ、い、いいや……」
高川は遼の問いかけに、曖昧な返事しかできなかった。どうにも頭の中が重苦しく、気分が晴れない。いつからか、暗鬱とした気分が続いている。結局、映像は見たものの、宝永という男がどのような能力を使ったのか、よくわからなかったからだろうか。いや、違う。この重苦しさは、それより以前からだ。おそらく、富士五景を目の当たりにしてからだ。高川は、針越里美の小さな姿を思い浮かべてみた。だが、心の中の彼女は暗く沈んだ様子で、どうしても笑顔にはなってくれず、気持ちを切り替えるきっかけにはなってくれなかった。白い息を吐き出すと、高川は会議机に右手を乗せ、左手を遼に差し出した。
「どうしたんだ、高川?」
「俺の心を見てくれ。ここのところどうにも、自分でもよくわからん不調に苛まれている。見えたものを率直に教えて欲しい」
高川の意外な申し出に、遼は躊躇した。高川といえば強固なメンタリティの持ち主で、迷いや疑いなどとは無縁であると周囲から目されているが、実のところテロリストとの戦いに対して真っ先に疑問を抱き、作戦参加を断ったこともあった。あの頃の精神状態がぶり返しているのだろうか。遼はそこまで考えたのち、自分も左手を差し出した。
「わかった。撤収だから、手早くやるぞ」
「頼む」
遼は手袋をはずし、高川の分厚く硬い手を握った。すると突然、冷たさを覚えた。雪も降り続き、確かに気温は低い。しかしこの冷たさは、そういった現実的なものではない。これは、高川典之の心の温度だ。凍てつき、息苦しい。遼はその正体を探るため、自分の意識を冷たさの中へ放り込んだ。見通しも悪い。観察を続けていくうちに、遼は高川の心を重苦しく、冷たくしているものが何であるのか、段々とわかり初めていた。似たようなそれは、これまでに幾度か感じたことがある。ただ、これはそれらと比べると、かなり濃度が高く、病であるなら重病だ。下手をすると、自分もこれに取り憑かれてしまい、同じ症状を発する危険性がある。遼は意識を引き戻そうとしたが、高川の中があまりにも濁り、淀み、溺れてしまいそうな息苦しさを感じたため、握っていた手を咄嗟に離した。
「りょ、遼!」
突然手が離れただけではない、遼がすっかり青ざめ、額から汗を垂らしていたため、高川は心配になって声をかけた。遼は何度か頭を振ると、下ろしていたデイパックを背負い、高川に撤収を示唆するため顎で弧を描いた。高川は移動を始めた遼を小走りで追いかけ、その隣に並んだ。
「どうだったのだ?」
「ひどいもんだ」
「どう、ひどいのだ?」
「憂いだ。それが具体的には、霧みたいになってる。ありゃ、心の毒ガスだ」
正面を見たまま、遼は感じたままの結果を高川に告げた。その表現があまりにもストレートだったため、高川は動揺し、呻き声を漏らした。
「憂いの霧ってところか? できれば、専門の病院に行った方がいいと思うけどな」
遼のアドバイスは、あまりにも言葉に飾り気がなく、容赦がなかった。しかし高川は、かえってそれが嬉しかった。
「ありがとう島守。実に有益な助言だ。しかし、この件は……」
「わかってる。内緒にする。誰にも言わねぇから、安心してくれ」
そう告げると、遼はデイパックのベルトをしっかり握り、府道の先を進むリューティガーの背中を追った。高川も憂いの霧を抱えたまま、それに続いた。
8.
富士五景のお披露目は、うやむやのうちに切り上げられ、まりかたちF資本対策班の面々は、参考になる情報もほとんど得られないまま、鞍馬山小学校のグラウンドに用意されたテントまで戻って来た。雪はようやく止んだが、たっぷりとした黒い雲は夕暮れの陽を通してくれず、グラウンドには照明が点けられていた。
「残念だが、五景の存在は、神崎くんの負担を減らすほどではないかもな」
報告書のファイルを手にした那須が、コーヒーの入ったマグカップを手にしたハリエットにそう告げた。
「そーゆーこと。どうやって五人もひっかき集めてきたのかわからないけど、あれじゃまだまだ実戦には使えないわね」
すっかり堪能になった日本語で、呆れ果てた気持ちを素直に述べたハリエットは、傍らでポンチョを脱ぐまりかにウィンクした。
「なんだろうね。戦後対応、HD4って、トラブルを想定したルールまで作っておいて、なんで松原さんはあんなに焦っちゃったのかしら」
まりかの疑問に、那須は頷き返した。
「今日の、四度目の実戦ではあんな失態にならない。そんな裏付けや自信が、陸自にはあったんだろうね。ともかく、今後も神崎くんやスペンサー捜査官には、より一層がんばってもらわないと」
まりかの頭痛を知らない那須の軽い言葉に、ハリエットは苦笑いを浮かべた。
「あ、もちろんフォローはしっかりとさせてもらう。足りないことがあったら、俺になんでも言ってくれ」
「なら、今度スシでも驕ってもらおうかしら。ローリングズシじゃなくって、木の上に乗ってるスシでも」
笑顔を人懐っこく柔らかいものに変え、ハリエットは那須に向けて寿司をつまむ仕草を見せた。那須は小さく笑うと、表情を硬くし、ハリエットに頭を下げた。
「今更だけど、スペンサー捜査官には本当に感謝している」
「な、なによ急に! エッグプラント」
快く思っていない愛称で呼ばれたが、那須はそれでも頭を下げたままであった。
「この鞍馬での一連の協力は、本来の連係捜査の範囲を大きく逸脱している。命の危険を常に晒して、俺たちと一緒に戦ってくれている件について、竹原班長に代わって礼を言わせてもらう」
那須の誠実な感謝に、ハリエットは穏やかな笑みを浮かべ、マグカップを大切そうに両手で持った。
「と言うわけで、銀座の寿司は勘弁な。俺だって、そんな大したサラリーもらってないし」
頭を上げ、最後に照れ隠しの言葉でハリエットの要求をうやむやにした那須は、報告書を手にテントから出て行った。まりかは二人のやりとりに気持ちを暖かくし、冷え切った身体にも熱を取り戻すため、棚からマグカップを取り出し、ポッドからコーヒーを注いだ。ハリエットは折り畳み椅子に腰を下ろすと、迷彩服のボタンを二つ外し、カップに残る琥珀色の表面に視線を落とした。
感謝など、される筋合いではない。だからこそ、那須の態度に対して、申し訳ないと感じてしまう。まりかや那須、それだけではない。共同部隊の最高司令官である雅戸陸佐も含めて、ここにいる日本人全員が、アメリカ合衆国の真意をわかっていない。それを知ってしまえば、感謝の気持ちにも翳りが生じてしまうだろう。
合衆国はFOTと日本の戦いにおいて、情報及び技術供与以上の協力はせず、日本の個別的自衛権を理由に事態を静観する。この基本方針については、報道などで国民にも周知されていたが、それを記した一冊のファイルの存在は、日米両国を通じて、ごく一部の者にしか認知されていない。「ニューマン・ノート」と俗称されているそのファイルは、昨年十月、来日の際、FOTに暗殺された合衆国前国防長官のグレン・ニューマンがとりまとめた、FOT問題に関する日本への対応ガイドラインの報告書であり、六つのステージによって段階的に区切られ、先の基本方針はステージ・2までに記されていた。
日本国内で、FOTとの大規模な軍事衝突が生じたのちについては、基本方針に則り、日本国内に軍事活動に対する当事者意識を強く持たせる世論を形成させる。これが、次の段階となるステージ・3の概要である。“鞍馬事変”以後、まさしくこの状勢に突入したため、合衆国は世論を扇動する、いくつかの計画を準備した。しかし、古都、京都での陸戦は、山奥ではあったものの、国民に強烈な危機感を抱かせた。マスコミによって、九年前に発生したファクト機関による大量殺戮テロの特集報道も連日にわたって繰り返され、それによって民衆の恐怖も煽られた結果、合衆国の扇動を待たずして、日本国内での主戦論は自発的に高まろうとしていた。今年に入ってから、陸上自衛隊の志願者は増加傾向を続け、報道各社の世論調査でも軍事費の増額に対して、やむを得ないという意見が大勢を占めたため、合衆国は半分以上の計画を中止し、日本の国内世論を見守る形となった。現時点において、ステージ・3は、ほぼ達成されたと言ってもよい。これが、合衆国当局の見解である。
このまま軍拡が進み、兵士が実戦経験を積めば、日本は量と質を兼ね備えた軍事力を手に入れる。合衆国は、「ニューマン・ノート」に記された基準に基づき、日本の陸戦軍事能力の採点を行っており、これが合格点に達した場合、つまり日本政府の共同部隊がFOTの鞍馬拠点を制圧した段階で、ステージ・4の完遂となる。
FOTとの戦いを通じて豊富な実戦経験を積んだ結果、ステージ・4を満了した日本は、合衆国にとって有力な軍事同盟のパートナーとしての資格を得ることになる。条件が整ったのち、日本には合衆国の要請により、中東、アジア、東スラブなどにも積極的に派兵を行わせ、合衆国の利益を守る戦いに参加させる。最終段階である、ステージ・6の概要は以上だが、これを実現するためには、日本の集団的自衛権の行使を可能にしなければならず、それには現行憲法の改正が必須であり、「ニューマン・ノート」の最終項目にもその具体的なプロセスが記されていた。
遡るステージ・5は、ステージ・6の目的の一つである、日本国憲法改正に対する国内世論形成に関する内容が記されている。軍事活動への当事者意識が芽生えたばかりの日本においても、憲法の改正には依然根強い反発が予想され、それを賛成の世論が上回るためには、合衆国の同盟国としての必要性と重要性をあらためて日本国民に認識させる必要がある。合衆国への恩義を、よりわかりやすく日本国民に感じさせるには、FOTの壊滅という最終局面の成否は合衆国が握っていなければならず、ステージ・5の大半が、合衆国による参戦理由の考察や、参戦時期の策定、そして実際に交戦する際の諸問題点の洗い出しなどで占められていた。事実、合衆国内では、対FOTの軍事訓練が特殊部隊を中心に秘密裏に進められており、対獣人用化学兵器Pa弾も賢人同盟からの技術供与によって量産が始まり、これを装備した米国陸軍特殊部隊が、中東のバルチスタンに出没する、獣人を擁するヒンドゥーゲリラの掃討戦にも派兵され、来るべき日に向けた実戦経験を積ませているらしい。「ニューマン・ノート」は、日本政府とFOTの動向に応じて、日々細かな修正が加えられている。そして、その内容については、日米合同委員会の特別委員会を通じて、官僚機構の一部にも共有されていたが、一般市民や報道機関、それに現場で戦う者たちには決して明かされることのない、最高機密に属する筋書きだった。
ステージ・5で展開されるであろう、FOT壊滅戦では、自分はCIAのスタッフとしてではなく、秘密結社「Blood & flesh」のエージェントとして、祖国の軍隊に帯同して作戦に参加する。その際、目の前でコーヒーを飲んでいる彼女とは、共に手を取り合えないだろう。ハリエットは空色の瞳を曇らせ、ため息を漏らした。「ニューマン・ノート」の存在を昨年の暮れに知ったハリエットだったが、FOTの台頭に便乗して、軍事負担を増加させるための憲法改正を目論むなどという、日本を対等の同盟国と見なしていない祖国の方針には、心底辟易とさせられてしまった。これではまるで、日本は合衆国の属国扱いであり、自衛隊は無料で雇える傭兵部隊だ。日本という国に対して、それほどの思い入れはないハリエットだったが、米国人としての誇りが高く、正義感の強い彼女にとって、「ニューマン・ノート」は唾棄すべき祖国の恥だった。だからこそ、ステージ・4の途上である現在において、「Blood
& flesh」から、鞍馬での作戦参加を咎められたのにも関わらず、今日も幾人ものテロリストを葬ってきた。警告があってから一ヶ月が経過したが、下手をすればこの先、更迭され強制送還という事態にもなりかねない。だが、それでも苦痛にもがき、合衆国の野心も知らぬまま戦い続けるまりかたちを放って、戦場から逃げ出せるわけがない。真実を知る者として、そんな卑劣な行為は決して認められない。那須たちが感謝してくれているこの雪山での戦いは、茶番劇に対しての罪滅ぼしのようなものだ。だから、ここでの戦果は誇れるものではない。失われた誇りを埋め合わせるものだ。
「どうしたの? ハリエット」
カップを見つめ、押し黙っていたハリエットから異変を感じたまりかは、傍まで寄って声をかけた。ハリエットは座ったまま顔を上げると、笑顔を作った。
「ちょっと、疲れちゃったかな?」
嘘だが、仕方がない。
「今日は、大活躍だったものね。分身さんの動きも超、高速だったし」
「その、“分身さん”ってカンベンしてよ。なんで“さん”付けなの?」
「あー、なんとなく」
けど、祖国の恥を、この聡明で勇敢なる親友には打ち明けられない。ハリエットは心に薄い膜を作り、明日の任務では今日より更に、まりかの負担を減らせるように頑張ろうと心に決めた。
「あのぅ……」
頼りない声と共に、テントの入口がそろりとめくれ、そこから遼が顔を見せた。
「あ、島守くん」
来訪に、まりかは振り返り、ハリエットはマグカップを机の上に置いた。
「あの……今ですけど、よろしいでしょうか?」
恐る恐る、緊張した様子で遼が尋ねると、まりかは笑って手招きをした。遼は会釈をしながらテントに入り、それに高川がしっかりとした足取りで続いた。
「ルディは?」
「彼は、司令室に報告に行ってます」
まりかの問いに、高川は胸を張り、足を肩幅まで広げ、手を後ろに回して答えた。
「そうだ、島守くん」
座っていたハリエットが声をかけてきたので、遼はしゃがんで目線を合わせようと考えたが、それも奇妙な状態だと感じたので、ふらふらと手を泳がせた挙げ句、彼は立ったまま頷いた。
「去年の十二月、横田基地の件だけど、ステイツからあなたとルディに謝礼金が出ることになったわ」
昨年の十二月三十日、FOTの横田基地襲撃に際して、遼はリューティガーたちと戦いに参加した。しかし、謝礼金など貰える心当たりは特になかったので、彼は再び手を泳がせ、その様をあまりにも情けなく感じた高川に背中を小突かれた。
「な、なんスか? 謝礼金って。あの戦いなら、この高川だって手柄を立ててますけど」
遼の疑問に、ハリエットはクスリと笑い、膝の上で指を組んだ。
「キミとルディは、爆弾を満載したトラックの特攻を阻止したでしょ? あのトラックの行き先は、管制塔よ。もしアレが爆破されて倒壊でもしたら、物的損害だけじゃなくって、ステイツの威信も大きく傷つけられていたわ」
あれか。比留間が運転させられていた、ブレーキとステアリングに細工が施されていた、あのトラックか。時量操作でタイヤをパンクさせ、電気系統の大半を切断し、スリップを引き起こして特攻を阻止したことを思い出した遼は、それでも今ひとつ報奨金には納得できず、疑問は消えないままだった。
「戦場なら、勲章を貰ってもおかしくないほどの功績なんだけど、軍人じゃないから、わからないのも無理はないわね。形としては、合衆国政府から賢人同盟に対して、キミとルディ名義で日本円にして二百万円ほどが支払われるわ。おそらく、キミには同盟から、何らかのボーナスとして、報酬の一部が分配されるはずよ」
「二百万ですか……」
半額としても百万円で、高校生にとっては大金である。だが、昨年の一月より、同盟から毎月十万円の給料が振り込まれ、最近では偵察任務につき、四万円の特別手当も追加されている。その上、少ないときでも月に六度はボディビルジムでのアルバイトもあり、その給料も含めて、現在の貯金額は百万円を超えている。金遣いが派手になると、父親に疑われるといった事情もあり、収入に対して支出をできるだけ抑えていた遼にとって、報奨金に対しての感動は薄く、反応も乏しかった。それを失礼な態度だと感じた高川は、再び遼の背中を肘で小突いた。ハリエットは、指を組んだまま折り畳み椅子から立ち上がると、表情に憂いを浮かべた。
「事実関係の整理に手間取って、この決定に二ヶ月以上の時間を要してしまったこと、それに賢人同盟は公にできない組織だから、感謝状も出せないことについて、私から謝罪させてもらうわ」
声のトーンを低くして、申し訳なさそうに事情を語ったハリエットは、最後に頭を下げた。そもそも報奨など想像もしていなかった遼は、目の前でブロンドが大きく揺れたのに戸惑い、及び腰で両手をわなわなと震わせた。
「ぜ、全然気にしてませんから! そんな、謝罪とかいいですよ! お金は有難くいただかせてもらいます!」
来日以来、この、事を穏便に片付ける日本式の作法を、一体どれほど目にしてきただろうか。頭を上げたハリエットは、困り果てている遼に「Got
it」と返して笑みを戻した。
「それより、俺、まりかさんたちに報告があって来たんですが」
そう切り出した遼は、リューティガーから頼まれていた報告を始めた。それは、先ほどのお披露目で遼とリューティガーだけが視覚した、富士五景についての情報だった。しかし、最初に獣人と交戦した白糸とトリカブトについては、挙動がまったく目で追えなかったため、まさしくそのままの報告しかできず、まりかとハリエットも疑問を抱くだけであった。最後の一人となる雪代についても、まずは見たままの状況を、遼は説明した。
「雪代については……」
遼はリューティガーから手渡されたメモを取り出し、それを読み上げた。
「骨格全般の構成組織、および筋肉組織の増加・硬化が予想される。異なる力を用いて、自分の身体そのものを強化しているものと思われる。いわゆる超人化であり、同盟でも同種のサイキは二度発見している……です」
役目を終えた遼は、メモをまりかに手渡すと、深く息を吸い込んだ。
「ありがとう。参考になったわ」
「ほんとですか? たったこれっぽっちで?」
「ええ。五景については、同じ政府機関のはずなのに、こっちには全然情報が入ってこないから。どんな僅かなことでも知っておきたいから」
「今後も、こっちで掴んだこととかあったら、お知らせしますから」
「助かるわ」
まりかと遼のやりとりを後から見ていた高川は、そろそろ頃合いだと判断して、一歩前に踏み出した。
「あの、神崎さん」
「なぁに?」
柔らかい物腰のまりかとは対照的に、高川は再び手を後ろに回し、応援団員のように胸を張り、顎を強く引いた。
「お疲れのところ、ひとつ質問などしてもよろしいでしょうか?」
堅苦しい言い回しに、ハリエットは高川典之の人物情報を頭の中で捜索し、やはり男子高校生であり、自衛官ではないと再確認し、だったらなぜこんなにも軍人風なのかと不思議に思った。
「ええ、どうぞ。なにかしら?」
こういった人物に、「もっと気楽にして」と忠告しても逆効果である。まりかはこれまでの経験によってそんな結論に達していたため、高川の硬すぎる態度もそのまま受け入れた。遼はそもそもこの報告に、なぜ高川が同行してきたのかわかっていなかったので、質問の内容に興味を抱いた。
「東堂かなめさんを、ご存じですか?」
高川の明瞭な問いに、まりかは数瞬の沈黙を経て、「もちろん」と返答した。柔術完命流を学んでいたという先輩、東堂かなめは、遼にとって叔母にあたる血縁であり、以前、高川と東堂邸の前を訪れた際、「いずれ話す」と約束をしたこともあった。遼は会話に割り込もうとしたが、それより先にまりかが言葉を続けた。
「かなめさんと、あきらさんはわたしにとって九年前、ファクトと戦った仲間。一緒に過ごした時間は短かったけど、今でもかけがえのない人たちだと思ってる」
小さく微笑み、だが僅かな哀しみを目に浮かべながら、かつての仲間を語るまりかの傍らで、ハリエットは幾ばくかの寂しさを感じていた。
「やはり、そうだったのですね。これでスッキリしました。自分はかなめさんと同じ、完命流の道を進んでいるのですが、こうしてテロリストと戦う現状に、何か運命的なものを感じずにはおられません」
「かなめさん、強かったよ。完命流で、自分よりもずっと大きい獣人たちを倒して、急所を確実に仕留めて。わたしなんて、武術とかやってなかったし、戦闘訓練も当時は受けてなかったから、ただ闇雲に超能力で戦うしかなくって。あきらさんもケンカなれしてて、頼もしかったけど、かなめさんはもっとこう、完成された戦い方だった」
この国において、個人としては最大の戦果を挙げている偉大なる伝説の人物から、姉弟子が「完成された戦い」と評価された。高川は内側からわき上がる覇気に、身体中を震わせた。
「自分も! 東堂かなめの偉大なる戦いに一歩でも近づけるよう、日々精進していく所存であります!!」
憂いの霧など、消散した。完命流という武術の道を、日光が降りそそぐ正しき道を、ひたすら邁進するのみ。高川はすっかり高揚し、まりかも少々気圧されながらも、熱く燃えたぎる少年の覇気が嬉しかった。
「最近、いささか迷いがありましたが、これでようやく吹っ切れました」
「迷い? キミみたいなタイプが、どんな悩み?」
興味を示したハリエットに、高川は拳を握りしめ、それを彼女に向けて突き出した。
「この戦いで、完命流だけでどこまで貢献できるか、つい先ほどまで迷いが生じていたのです。しかし今、神崎さんのお言葉を得て、確信に至ったのです! 我が道、完命流に憂いなし! 凶弾・凶刃、その全てを上回ってみせましょうぞ!」
興奮も最高潮に達した高川だったが、まりかとハリエットは怪訝そうに顔を見合わせた。言葉を交わさぬまま二人は意図を通じ合わせ、まりかの方がこくりと頷いた。
「高川くん」
「はい! なんでありましょうか神崎さん!」
「迷彩服を着ているから、そうだって思い込んでたんだけど、どうやら違ってたみたいね」
まりかの険しい表情に、高川は困惑した。
「な、なにが違うのでありますか?」
「もしかして、高川くんは柔術だけで戦っているの? 武器も身に付けず、素手だけでFOTを相手にしてるとか?」
「はい! 自分のこれまでの戦果は、全てこの身体ひとつで積み重ねてきました! そして、それは今後においても同様であります!」
「いくら高川くんが武術の達人だとしても、危険過ぎると思うな。それに、武器がなければ味方の危機を救えない。手の届かない敵に、なにも対応できないのは戦士として欠陥がある。君も銃やナイフを手に取るべき」
毅然とした態度で、まりかは言い切った。高川は、その忠告にひどく混乱し、狼狽え、姿勢もすっかり崩れて遼に頼りない視線を向けた。しかし遼は腕を組み、僅かに目を逸らした。その態度をまりかへの同意と見なした高川は、身体から熱さが消えていくのを感じ、うめき声を漏らした。
「私もまりかに同意ね。丸腰で戦場に参加するなんて、あまりにもナンセンスよ」
金髪の白人女性から、「丸腰」などという単語が出てきたので、高川はますます動揺し、その救いをここにはいない先人に求めた。
「し、しかしですぞ! かなめさんは完命流で戦い抜いたではないですか! ま、まさかあの方が、鉄砲や刃物の類を使っていたとは思えませぬ!!」
高川の懸命な主張に、まりかは険しさを崩さず二度頷き、あらためて彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「そうね。確かにかなめさんは、武器を使わなかった」
「で、では自分もかなめさんの領域に達すれば! それが険しい道であるのは承知の上! 命がけの実戦修行も納得ずくです!」
熱が込められた訴えにも全く動じず、逆にその表情は曇り、まりかは目を伏せ、ふっと息を漏らした。その途端、机の上に置かれていたサングラスが宙に浮き、高川の眼前で静止した。
「ねぇ、高川くんは、こんなことできないよね」
高川には、まりかの意図がさっぱり理解できず、普段の礼儀正しさを忘れ、ただ頭をぶるぶると横に振るしかなかった。目の前のサングラスは、ゆっくりとまりかの元まで浮遊し、彼女はそれを手に取った。
「いまみたいな念動力。それを応用した吹雪による凍結損壊、触れた相手の心を読む、接触式読心。それを応用した情報逆入による精神破壊、または失神や混乱状態に陥っている対象のサルベージ。なんだと思う、高川くん」
高川は、再び短く刈った頭を何度も振った。
「かなめさんの異なる力よ。他にも、念動力で傷を治したり、先の出来事を予知する能力ももっていたわ」
許容量を遙かに超える新事実は、激流の最中にあった高川の心を滝底にまで叩き落とした。彼は全身のバランスを崩し、その場に尻餅をついてしまった。
「戦いにおいて、かなめさんは完命流を主力に戦っていた。それはそうなんだけど、あの柔術にしても接触式読心で敵の考えや行動が読めたから、有効な手段になってたって、かなめさん本人が言ってたもの」
すっかり呆然となり、力なく尻餅をついたままの高川を横目で見ながら、遼はまりかの告げた、東堂かなめの持っていた予知能力について考えを巡らせていた。以前、修学旅行の祇園祭で、FOTの本命が戦霊祭だと指摘し、その根拠が予感だと言った際、リューティガーは実に呆気なく、「遼の予感は、あり得なくない」と納得した。あれは、前夜に蜷河理佳と身体を重ねたことで得た情報であり、予感というのはあくまでもその場凌ぎの嘘だったのだが、なぜリューティガーがそれを信じたのか、遼はかねてから疑問に思っていた。しかしこれでよくわかった。リューティガーは、東堂かなめの予知能力を事前に知っていたのだ。その血縁なら、予感が当たる可能性も高いと判断したからなのだろう。そんな結論に至った遼は、高川の肩を叩き、立つように促した。
「戻るぞ。あとは自分で考えるんだ」
「あ、ああ……」
心は滝壺で溺れるまま、高川は立ち上がり、遼に続いてテントの入口までふらふらと向かった。
「異なる力もないのに、ここまで生き延びて、実績を残しているのは凄いことだと思う」
背中から届いたまりかの言葉に、高川は足を止めた。
「実戦での純粋な完命流の実力って意味なら、高川くんはかなめさん以上なのかもしれない。武術の道を純粋に進みたいって希望は素敵だと思う。けど、それを貫き通すんなら、この戦いからは降りた方がいいし、そうなっても高川くんを侮辱する人なんていないから」
評価と勧告が、セットとなって高川の鼓膜を震わせた。お礼も、そして反論もできぬまま、迷彩服の偉丈夫はテントを後にした。
「言っておくけど、俺はまりかさんと同じ意見だからな」
テントが並ぶグラウンドを先に進みながら、遼の背中がそう告げた。高川は無言のまま、自身の中で憂いの霧が立ちこめていくのを感じていた。富士五景を目の当たりにした際、この霧が生じたのもおそらくは彼らが銃器で武装していたからだろう。ハリエットが指摘していたように、サイキックの殆どが武器を併用して戦いに臨んでいる。尊敬して止まない姉弟子も武術一本でテロリストの群れと戦っていたわけではなかった。高川は、掌を見つめた。この手では、仲間を護れない。それに、戦いが激化すればするほど、駒としては使いづらい性能である自分の使い道は、徐々に狭まっていくだろう。近代戦において、素手の武術家が活躍できる領域など、ほんの僅かだ。深く暗い霧の中で、高川の心は窒息し、もがく気力も失われつつあった。
9.
鏡の前で髪を三つ編みにしていると、中学生を思い出す。けど、もちろんあのころの自分とはまったく違う。生まれ変わった、と言ってもいいほどだ。椅子から立ち上がった柳かれんは、淡い桃色の病衣からジーンズと青いデニムのブラウスに着替え、病室から廊下に出た。ここ、鞍馬ベースは地下にあるため、廊下には窓が一切ない。病室の時計では午後八時となっていたが、ここにいると午前と午後の区別が判然としない。ただでさえ二日半も意識を失っていたのだから、今は土曜日の夜なのだと無理にでも頭の中だけで納得するしかない。身体の調子はいつも通りだ。二日に亘る長い手術だったそうだが、FOTの医療技術のおかげで術後の後遺症も特に感じず、むしろ身体が軽くなったようだ。ただ、腹が減った。いち早く食堂で空腹を満たしたいが、起床後には最優先で済ませておかなければならない用事が二つほどある。かれんはその後なにを食べようか、あれこれと想像を巡らせながら医務室に入った。
「君に施した手術の説明を行う」
対面で丸椅子に座る白衣の男は椚(くぬぎ)教授というFOTの化学者で、獣人に関する研究開発の責任者である。椚は六十代半ばの壮年だが、黒い長髪に美しく整った顔立ちは三十代でも通用する若々しさであり、獣人の技術を応用して、肉体に何らかの施術をしているのではないかと、そんな噂が鞍馬ベースの中でも囁かれていた。
「泡化手術だろ? 負けたら泡んなっちゃうやつ」
「そうだ。生命活動の停止と同時に、血液が強度な気化腐食性ガスに変質し、柳君のすべてを泡化させる」
椚とは手術の前に初めて会ったばかりだが、第一印象は「イケメン」であり、声を聞いた次の印象は、「嫌味っぽくて、神経質そう」である。かれんは小さく鼻歌を奏で、生理的に苦手な椚の抑揚に乏しい声を紛らわした。しかし、椚はかれんのそんな態度も意に介さず、説明を続けた。
「特定の塩基配列のパターン、生まれつき遺伝子により判別できる固有情報、つまり君だけが持っているIDのようなものだ。それに応じてガスは腐食反応を示す。だから、我犬隊長の泡化にも、柳君は巻き込まれなかった」
「つーまーりー、わたしが誰かに抱きかかえられて、泡になっても、そいつは平気ってこーとーかー」
リズムに合わせて、かれんは頭を小刻みに振りながら答えた。このふざけた態度にも、椚は何の反応も示さなかった。
「正解だ。そして証拠隠滅のため、衣類や携行品も死の際に処分が必要だ。それにはこれを用いる」
椚は背後の机の引き出しから、殺虫剤のような大きさのスプレー缶を取り出し、それをかれんに渡した。
「身に付けるもの全てに、それを塗布しろ。最低でも半年に一度は欠かさずにな。洗濯などでは落ちんから安心しろ。これは泡化剤で、これが塗布された物品は柳君の遺伝子に反応し、気化現象と呼応して連鎖泡化を発生させる」
「すまん。恥ずかしいことだが意味がわからん」
手を挙げて、真顔になったかれんに対して、椚は即座に頷いた。
「つまり、これを塗って身に付けたものは、柳君が泡化するのとほぼ同時に泡化する。我犬隊長のブーツやズボン、ベルトやライフルのようにね」
「わかった。しかし我犬を例にするのは、もう止めてくれ。辛くなる」
抗議に、椚は三秒だけ無言になり、説明を再開した。
「一つだけ注意点がある。このスプレーだが、底が蓋になっている」
「詰め替えのお徳用というやつかっ!」
「違う。使用前にこの底蓋を開け、君の身体の一部を中の泡化剤に投入しろ」
「か、身体の一部だって?」
かれんは身を乗り出し、自分を指さした。
「微量でいい。爪・唾液・尿、なんでもいい。そしてよく振って、五分ほど待てば、準備完了だ。それから塗布を始めろ。新しい缶を使う際、この行程は欠かさず行え。行わなければ、泡化剤は柳君の塩基配列パターンに反応できず、装備品の泡化は起こらない」
「ええっと……よーするに、わたしの身体をなんでもいいからこの缶の中に混ぜてから使わないと、意味ナシってことか?」
「そうだ。そして柳君には、ある暗示をかけた。重要施設の位置座標やパスワード、作戦の決行日時などといったFOTの秘密事項を有益な情報として敵に発言した場合、肉体の泡化現象は生きたままでも起きる」
「知ってる。組織の秘密をバラしたら、泡になって死んじまうって仕組みなんだよな?」
「そうだ。そしてこれが、暗示内容が記されたファイルだ。必ず暗記するように」
椚は、ケースに入った一枚の光学ディスクをかれんに手渡した。
「ど、どのくらいの分量を、覚えなきゃならないのだ?」
記憶力に自信がなかったかれんは、恐る恐る椚の鋭い目を見た。
「柳君の場合、大した量じゃない」
観念して暗記に励むしかなかったかれんだったが、彼女はある疑問を抱き、腕を組んで首を傾げた。
「なぁ、さっきあんたは、敵に秘密を喋ったら泡になるっつったけど、敵ってどうやって区別してるんだ?」
「自意識だ。秘密を漏洩させてはいけないと認識した相手に、暗示内容を発言しようとした場合、血中成分に変化が生じ、それが心臓の痛みとなって現れる。それでも尚、発言をすれば、気化腐食性ガスへの変質が始まる」
「自意識とか、認識とか、随分テキトーじゃないのか? だって、それって、わたしの思い込み一つで、敵に秘密を喋ってもオッケーってことになるだろ?」
「そうだな。騙されたケースでも同様の危険性が生じる。だから、お調子者の柳君には特にだが、それ相応の僅かな機密しか公開していない。例えば柳君は、この鞍馬ベースのどこにゴモラがあるか、知らないだろ?」
「ああ。この基地についちゃ、一部しかしらねー」
「だが、判断力も認識力も高く、精神力の強さを真実の人に評価された、つまり責任あるポジションを任されている幹部については、機密の公開範囲も柳君とは比べものにならんほど広い」
「だけどさ、例えば幹部でも酔っぱらったりして、メロメロになってるときとか、うっかり敵と味方を間違えてゲロったら……」
想定論に対して、椚は少しだけ身を乗り出し、少女の唇に人差し指を当てた。かれんは突然の行為に仰天し、全身を固まらせた。
「FOTは、そんな間抜けを幹部にはしない。真実の人の、人を見る目というものは完璧だ」
完全に納得はできない。この機密保持手段には、絶対に抜け穴がある。かれんは相変わらずそう考えていたが、そもそもそれこそ文句なしの機密保持手段など存在するはずもなく、これはまだマシなのだろうと、そう思うことで了解し、椚の失礼な指を舌打ちして払った。
それから三十分ほど、泡化手術についてのレクチャーを一通り受けたかれんは、椚の単調で不愉快な声を頭の中からかき消すため、鼻歌でお気に入りのアニメソングを歌いながら、次の目的地に向けて廊下を歩いていた。
かれんは十四日間に亘る、FOTエージェントとしての基本レクチャーを完了し、守備要員として、一週間前からこの鞍馬ベースに東京から戻っていた。守備任務については明日からシフトが組まれているらしく、かれんはその確認のため、守備の総責任者である中丸隊長の姿を探した。中丸は、本日の戦闘のアフターミーティングをブリーフィングルームで行っている。そんな情報を、廊下で出くわしたある通信員から得たかれんは、携帯端末で地図を確認し、ブリーフィングルームに向かった。
攻防自在の雷撃という異なる力を、明日から再び存分に発揮できる。レクチャーも、尾行や尋問、情報収集や交渉術、銃器や刃物の取り扱いや、逃走ルートの確保など、新しい知識や方法論などが学べて面白かったが、やはり実戦で手柄を立てて、ここのみんなに評価されたい。ふと、かれんは東京で出会った篠崎若木の姿を思い出した。仕事の催促のため、ファミリーレストランで一度会ったきりだったが、彼女は静かでおとなしく、なにやら悩んでいた風でもあった。意味のよくわからない質問に対して、「知らん」と素っ気なく返してしまったが、もう少し親身になって相手をするべきだったのかもしれない。ともかく、若木が受けている仕事は大きい。リューティガーたち一味の抹殺が成功すれば、若木はひょっとすると幹部にまで出世してしまうかも。かれんは、処世術を失敗したかもと思いつつ、ブリーフィングルームに入った。教室ほどの広さの部屋には、四十名を超える戦闘要員の幹部や、遊撃を担当するメンバーなどが集まっていた。一段高い壇上で、壁一面のスクリーンを背にした中丸邑子(なかまる おうこ)隊長がなにやら説明をしているようであり、全員が静かに耳を傾けている。スクリーンはいくつもの画面に区切られていて、獣人の死体や何かの図面、目出し帽を被った敵の姿、一見しただけでは理解できない表などが表示されていた。かれんは出席者の中から蜷河理佳とはばたきの姿を見つけると、小走りで駆け寄り二人の近くの椅子に腰を下ろし、にっこりと微笑んだ。理佳とはばたきも小さく会釈し、中丸に再び注意を向けた。空腹はあいからわずだったので、それを紛らわすために、かれんは持っていた水筒の蓋を開け、スポーツドリンクをごくごくと飲んだ。
「以上の被害状況から導き出せる結論だが、この五人組は明らかにサイキである。装備から、陸上自衛隊の所属と判断していいだろう」
よく通る声と、はっきりした頼もしい口調でそう説明した中丸は、画面に映る目出し帽の写真を後手で叩いた。
「これまで四度の戦闘が確認されているが、包囲戦や迎撃戦など、戦闘条件が明確なケースでの出現しか確認できておらず、しかも一方的に有利な状況に限られているため、異なる力の特徴や特性については、データが圧倒的に不足しているのが現状だ。本日も料亭、源太郎での包囲戦に出現したが、戦場が密室だったため、戦死時刻以外のデータは無いに等しい。だが、作戦時間がいずれも短期であり、全て初戦のみで撤退していることから、おそらくだが、このサイキについては現在までのところ、実戦での実証実験を重ねている段階であると思われる。早期に対応し、殲滅の方針については、以後も継続する」
そこまでの説明を受けたのち、ステファン・ゴールドマンが挙手し、中丸から発言を許された。
「真実の人の手を煩わせる形にはなりますが、今後、この五人の出撃が確認された際に、追加部隊を戦地に急送するってわけにはいかないのですか?」
「ああ、それについて真実の人の同意は得ている。問題は、その際の対応部隊だが……」
中丸が言い終える前に、かれんは右手を勢いよくしゅっと挙げた。
「なんだ、柳」
「わたしにやらせろっ!」
かれんは、五人の陸上自衛隊のサイキ、つまり富士五景についての噂を、数日前から耳にしていた。ある者は、体内から燃やされた。またある者は、感知よりも早く、ショットガンで蜂の巣にされた。かろうじて生き残った者たちは、五人の新たな敵によって仲間がどう殺害されたのか、極めて不明瞭な表現で語り合っていた。かれんも手口からして、サイキには間違いないだろうと考えていた。ストレートな意思表明に、ブリーフィングに出席していたゴリラ型の獣人、マット・ファーガソン隊長が笑いを堪えて肩を上下させた。
「ああ、柳は候補者の一人だな」
柳かれんという特異な個性を、これまでですっかり理解していた中丸は、まったく動じずあっさりと同意した。
「ちがーうっ! わたし一人に任せて欲しいと言ってる! その五人組はサイキだ。ウチには真実の人とわたししか、サイキはいない。なら、それがつまり、なんとゆーかだ……」
難しそうで、頭の良さそうに思われる言葉を探してみたかれんだったが、引き出しの中は空っぽであり、主張は尻すぼみになり、言い淀んだ末、あえなく途絶えてしまった。
「サイキへの対応を、必ずしもサイキが担当するという、戦術上の理由は存在せん。有力候補として志願は受け付けたが、任務が下されるまでは、くれぐれも勝手なマネはするなよ」
釘を刺されたかれんは、大きな胸をどんと叩いて頷いた。かれんのこうした単純さを好ましく思っていた中丸は、小さく微笑み「よし」と締めくくった。
「もし、かれんに対サイキの任務が下されたら、わたし、援護を志願するわ」
かれんの隣に座っていた理佳が、静かにそう告げた。
「いらん。わたし一人でじゅうぶんだ」
「けど……」
「理佳の志願は嬉しいが、たぶん、あいつら五人はわたしの敵だ。それと、F対とCIAの二人のサイキにしてもそうだ。特にF対の方、神崎だったか、あいつは日本人なのに政府なんぞについて、実にムカつく。と言うか愚かでバカだ。だから、わたしが必ず仕留める。雷撃で黒こげだっ!」
声は大きくなかったが、かれんの表情は険しく、理佳は彼女の覚悟の強さを感じた。サイキという常識外の能力に対抗するには、やはり同じサイキが適任である。かれんの覚悟の根拠は、おそらくそこにあるのだろうと思った理佳だったが、同時に彼女の頭の中に、一人の少年の姿が浮かび上がった。
かれんはいずれ、遼とも命がけの戦いをする。
それでも自分は、戦場で援護の弾丸を放てるのだろうか。いや、わかっていたはずであり、疑いを抱くことそのものが間違っている。戦いが激化している以上、いままでが単に幸運だっただけであり、いつ命がけの場で遭遇するかなど、わかりはしない。かれんへの援護とは無関係に、そのときがいつ訪れるかなど、予想すらできない。ならせめて、失いたくない味方のため、自分にできることに集中しよう。理佳は黒い髪をそっと撫でると、かれんの大きな目を食い入るように見つめた。
「手伝わせて。お願い。多数を相手にするのに、別の目は絶対に必要だから」
尚も食い下がった理佳は、かれんの手に自分のそれを重ねた。美しい少女の強い意志の宿った揺れる瞳に、かれんはたまらず息をゴクリと呑み、素早く三度、小刻みに頷いてしまった。それを許可と受け止めた理佳は、柔らかく微笑み、かれんの手の甲に少しだけ強く握った。そんな二人の様子を横目で見ながら、はばたきはなぜか鼓動の高鳴りを感じ、目を中丸に戻した。
「最後に、今後の展開についてだが、敵がサイキの実証実験を繰り返している以上、近々大規模な攻勢に打って出ることは疑いの余地がない。先の第一次大規模攻勢の際、敵は米軍より供与された最新型地中レーダーによって、地中観測を決行した。本ベースは電磁波の吸収素材によって守られているため、施設の構造自体が露見することはまずないが、施設の概ねの場所については特定されたと考えるべきである。これも第二次大規模攻勢が予想される根拠として、各自留意して欲しい。以上だ!」
踵を合わせ、背筋をより一層伸ばした中丸は、最後に敬礼をした。ブリーフィングルームにいた出席者たちは、起立して敬礼したり、ただ頷いたり、静かなままだったり、声に出して同意を示したりと、それぞれの出自や個性に応じてバラバラであった。その中で、かれんは腕を組み、頭を傾けて口先を尖らせていた。その様子に気がついた陸戦部隊員のステファンが、「どうした?」と日本語で尋ねてきた。
「なんで、ここの大体の場所がわかったのだ?」
「観測のために、レーダーから放った電磁波が吸収されて消えたからだ」
「だから、なんでそれが場所がバレるのに繋がるっ?」
「敵のレーダーの性能が、ここの最上層の深度を上回ってると思われるからだ。自然減退じゃ説明できない現象って、敵が計測結果を分析すれば、概ねここにFOTのベースがあるって予測をするのは明白だ」
ステファンの説明はかれんにとって難解であり、彼女は頭の傾きをより深くし、強く呻ってしまった。
「むむむむむむむむー……なんだかわけがわからんが、バレたのなら、大問題ではないのか?」
「最初から、こうなるのは折り込み済みさね」
うなり声混じりのかれんの素朴な疑問に、壇上からやってきた中丸が応じた。かれんは慌てて頭を垂直に戻し、組んでいた手を膝に乗せて行儀良くした。
「折り込み済みとは?」
「陸(おか)でドンパチやっといて、いつまでもここの位置が特定されないなんて、こっちもさすがに思っちゃいない。想定していたより、時間は稼げたけどね」
「な、なにやら余裕だが、逆転の秘策でもあるのかっ?」
興奮するかれんに、中丸はさてどんな返答で納得させるか、その言葉を選んだ。
「逆転じゃないわ」
中丸に代わって、かれんにそう告げたのは理佳だった。席から立った彼女は、黒い長髪を揺らし、かれんを穏やかな目で見下ろした。
「想定通りってこと。わたし達のここでの目的は、いつまでも隠れて交戦を続けることじゃない。ある目的に向けて、着実に作戦を継続しているのよ」
「目的? 作戦? なんなのだ?」
立ち上がったかれんは、理佳が自分より長身であることにあらためて気付き、少しだけ踵を浮かせた。理佳はかれんの問いに答えられず、中丸に困った目を向けた。
「まだ、柳には教えられんな。組織の機密の中でもレベルが高すぎる」
中丸はきっぱりと言い切り、かれんは力を落として踵をぺたりと着けた。以前であれば相手も構わずに、反論するなり食い下がるなり、何らかの抵抗を試みるのが柳かれんという少女であった。しかし、幾度かの座学や戦闘訓練といったレクチャーを通じて、この中丸隊長という人物が「NO」という言葉を決して覆さない、頑固で剛直な精神の持ち主なのはかれんの中でも浸透しつつあった。先ほどの志願のような形であれば、中丸は柔軟に検討をしてくれるが、「教えられんな」と言われれば、引き下がって諦めるしかない。
「功績を挙げて、もっとみんなから認められれば、権限レベルに応じて情報は通達する。まぁ、頑張ってレベルアップしろ、といったところさね」
中丸は期待の気持ちを込め、かれんの左肩を叩いた。女性にしては、とても大柄である隊長からのずしりとした重さに、かれんは顔を歪ませたが、痛みは感じず、むしろ心地がよかった。そう、今の自分の権限レベルは1で、ゲームなら始めたての状態だ。手柄を立ててレベルアップすれば、目的や作戦だってもっと教えてもらえるし、うっかりだったり、記憶力の足りなさだったりといった、今の弱点もそのころには克服できているだろう。つまり、秘密にふさわしい自分に成長すればいいだけのことだ。要所要所でこの大きな彼女は、とてもわかりやすく、わくわくすることを言ってくれる。かれんはにんまりと笑顔を浮かべ、胸を叩いて「がんばるっ!」と応えた。
「で、貴様はなぜここに来た? 遊撃部隊という自覚か?」
「いや、明日からの守備シフトを、隊長に教えてもらうために来た」
「そうか。晩飯は食ったか?」
生理的に敏感なキーワードが登場したので、かれんは両手をぷるぷると震わせ、猫背になった。
「まだだっ! さっきから腹が減ってぐったりだ!」
「私もまだだ。なら、一緒に食いながら説明しよう」
「おう!」
中丸とは一度、昼食を共にしたが、そのときに聞いた、「妻子ある先輩に恋をして、不倫覚悟で告白したら、同性愛者であることが、偶然にもそのタイミングで判明し、失恋した」という、ある女性自衛官の話はとても愉快で面白かった。その、恋愛運のない女性自衛官の失恋話は、まだいくつかのエピソードがあるそうで、機会があれば、ぜひ続きを聞きたかった。かれんはすっかり上機嫌になり、出て行こうとする理佳を呼び止めた。
「理佳もどーだ! 女同士で晩飯でもどーだ?」
足を止めて振り返った理佳は、大きく元気に頷いた。
「ええ。中学のころ見たアニメの話とか、また聞かせてくれるかな?」
「いいぞっ! 邑子中丸の滑らない話の後でよかったらな!」
中丸はかれんと理佳の背中を叩き、「雑談より先に、守備シフトの説明が先だよ!」と叱りつけ、二人を出口に促した。かれんは、目配せをしてから理佳の手をそっと握り、理佳はそれに戸惑い、ぴくりと痙攣しながらも笑顔で応じ、少女たちは連れだって食堂に向かった。
10.
だるい。ベッドで仰向けになっているのに、Tシャツにホットパンツという軽装なのに、しかしなぜこんなにまで全てが鈍く、重いのだろう。神崎はるみは、「ぶー」と呻ると、額に手の甲を当て、ぼんやりと天井を見た。日曜日は朝から曇り空で、気がつけば窓の外もすっかり暗くなり、日差しをほとんど感じない一日になろうとしている。しかし、どうでもいい。別にどこに出かけるわけでもなかったし、昼食のあとは、二階の自室に籠もって試験勉強をしたり、携帯電話をいじったり、こうして横になったりして過ごしていたのだから。友達でもいたらメールや電話で連絡を取り合い、どこかに遊びにでも出かけるのだろうか。そう、そう言えば、友達がいない。中学卒業までは、互いの家を行き来したり、放課後や休日を一緒に過ごせる友達が幾人もいたのに。クラスや部活で仲良しは大勢いるが、プライベートで交流する相手は、高校になってからほとんどいなくなった。クラスメイトの和家屋瞳(わかや ひとみ)とは、何度か遊びに出かけたこともあったが、最近ではそれもなく、学校の外で連絡を取り合う機会もあまりない。
「あー」
声に出して、鬱屈を外に吐き出してみる。勉強や、部活や、恋の悩みなら、和家屋や部活の友達に相談してもいい。だが、“あっち”についてはダメだ。口止めされているし、巻き込めるわけがない。なのにだ、あっちに深く立ち入るのは禁止されている。あいつから、禁じられている。
心の壊れた“あいつ”に、無神経なマネをされたぐらいで、カッとなって殴りかかってしまい、幼児のように泣き出して。あれは恥だ。はるみは顔を両手で覆い、ベッドの上をごろごろと転がった。あの、豪雨の中の喜劇を思い出すと、身体がもっと重くなる。物理的にそんなはずはないのだから、おそらくこれは心が重みを増しているのだろう。うつ伏せになって、シーツに顔を埋めて、呼吸を止めてみる。どこまで我慢できるか、試してみる。すると、玄関チャイムが鳴った。はるみは息を吸い込みながら真っ赤になった顔を上げ、「来たの?」と呟いた。
「はるみ姉! お客さん! 男子!」
一階から、弟の学(まなぶ)の声が響いた。はるみは困惑しながらも大慌てでホットパンツをジャージに穿き替え、深呼吸をして落ち着きを取り戻し、気持ちを引き締めてから部屋を出た。
はるみが階段を降りて玄関までやってくると、そこには“あいつ”がいた。
「なん……なの」
よりによって、なぜこいつがここにいる。白いワイシャツにジーンズなどという軽装だから、空間跳躍とやらで来たのだろうか。視線は土間に落とされ、口はきつく結ばれ、眉間には皺が寄っている。栗色の髪が、肩が、握られた拳が小刻みに震えている。はるみは何をしに来たのか確かめるため、リューティガーに近づこうとした。しかしその途端、はるみの視界から、彼の姿が落ちた。膝を屈し、両手はおろか、額まで土間に擦りつけ四つん這いになったその姿は、まさしく土下座である。はるみは困惑するでもなく、驚くでもなく、ただ、ひどく疲れてしまった。上体を屈めるほど深いため息を漏らしたはるみは、眼下で震えている栗色を見て、「ばか」と呟いた。
姉の同級生を名乗る、外国人っぽいの男の人が玄関で小さくなってる。あのカッコいいけどカッコ悪い人は、姉になにをやらかしてしまったのだろう。学は、柱の陰から様子を窺っていた。高校生になってから、姉のもとには目付きの悪く背の高い島守に、バカでかくて強そうな高川、そしてあの真錠と、三人の男子同級生がここを訪れている。どれもまったくタイプの違う人たちであり、高校生になってからの姉は、どうやら様々な男子からモテるようだ。この春、小学校三年生になる学は、三人の中で兄にするなら誰がいいだろうかと想像し、とりあえず、あそこで四つん這いになっているあの人については、真っ先に候補から外すことにした。
神崎邸から、新宿方面に徒歩で五分足らずのマンション、代々木パレロワイヤルの八階は、フロアの全てが賢人同盟によって借り上げられ、803号室はリューティガーたちの居住エリアになっていた。山椒や八角などの香辛料の香りに満たされた、そのダイニングキッチンで、はるみとリューティガーはテーブルを挟んで対座していた。机上には麻婆豆腐や回鍋肉、棒々鶏といった定番から、老媽蹄花(ラオ・マァ・ティ・ホア)や、毛血旺(マオ・シュエ・ワン)といった、専門店でしかお目にかかれそうにない四川料理がところ狭しと並び、はるみの食欲を山火事のような勢いで刺激していた。
「何度でも謝る。この料理は、その誠意の表れだと思って欲しい。もちろん、調理は陳さんだが、食材は僕が用意した。全て、本場中国や物によっては日本国内でも調達した、新鮮な最高級品だ。特に、老媽蹄花の豚足は苦労した。沖縄まで跳んだものの、業者が暴力団の抗争に……」
土下座以来、七度目になる謝罪の言葉を、はるみは右の掌を突き出して制した。二度目の謝罪のあと、自宅からここまでの道のりを、リューティガーは跳躍しようと提案してきたが、はるみは近所だし、少々気味が悪いという理由で拒絶した。はるみは外出着に着替え、薄着のリューティガーと五分足らずの道のりを共に歩き、道中、謝罪の言葉を一方的に四度も聞かされた。しかし、そのいずれもが単なる「ごめん」「申し訳ない」「間違いを犯してしまった」「とにかくすまない」と、あのバレンタインデーの無神経極まりない行為を理解したうえでの謝罪ではなく、ともかく相手が激怒し、号泣したのだから、ただひたすら謝るしかないという誠意の方向性も定まっていないものであり、このまま八度、九度と重なっても無意味である。はるみは制した手を戻し、「ちょっと言わせて」と厳しい口調で弁論を始めた。
神崎はるみに、なぜディナーを振る舞うのか。敬愛する我が指揮官は、あのようなただの娘に、なぜあそこまで低姿勢なのだろうか。隣の居間の、少しだけ開けた扉の隙間から二人の様子を窺っていたエミリアは、人間関係の変化に困惑し、心中をざわつかせていた。とにかく、あれが異常事態、もしくは非常事態であるなら、有事の際はすぐに介入しよう。いつでも飛び込めるように、エミリアの左手はドアノブをしっかりと握っていた。
「ルディ、なんでわたしがあの日、怒って泣いたのか、キチンと説明させてくれるかな。なんかあんた、その理由っていうものをちっともわかってないっぽい」
尖り声ではあるものの、はるみは明快な言葉で先制した。リューティガーは視線を麻婆豆腐に落とし、豚足を巡って暴力団と小競り合いになった話を諦めた。
「あ、ああ……そうだな、確かに僕は、君がなぜあのような乱れ方をしたのか、それを全く理解できていない」
「まずね、気付いていないみたいだけど、わたしは遼のことが前から好きなの。大好きなの。いわゆる恋愛感情。けど、あいつは理佳しか眼中にないでしょ。しかも今はFOTと戦ってる大切な時期だし、だから、わたしはこの恋心を我慢してるの。去年のバレンタインは、あいつにチョコだって、本命を渡したのよ。けど、今年は我慢して諦めたの。そしたらとてもひどい気分になっちゃって。外も土砂降りで、もう最悪だったから、部活もサボって帰っちゃおうって思ってたの。そしたらあんたが、強引に、しかも得意げにあんな作戦を押しつけてきて」
はるみはできるだけ平易な言葉を選び、自分の気持ちを丁寧に説明した。リューティガーはそのことごとくをディフォルメし、キャラクター化した登場人物の行動として想像し、最後に、顎に手を当てて、「それは、怒って当然だな」そうぽつりと漏らした。はるみはリューティガーの理解の早さに驚き、重く鈍くなっていた気分が少しだけ軽やかになったのを感じた。
「でしょ、でしょ!」
「あー、そりゃそうだ! 僕はなんて鈍くてひどいマネをしちまったんだ!」
指を差してダメ押しをするはるみに、リューティガーはすっかり降参してだらりと全身の力を抜いた。
「あー、スッキリした。これでわだかまりはなしね」
「ああ、これであいこというやつだな」
リューティガーの何気ない一言に、はるみは疑問を抱きテーブルから身を乗り出した。
「なによその、あいこって」
「いや、以前僕は、君に泣きついて醜態を晒しただろ。駐輪場で君も僕にそうしたから、だからこれであいこだ」
「違うでしょ! わたしは、あんたのせいで泣きわめいたの! けど、あんたのは、わたしのせいじゃないでしょ!」
「そ、そりゃ、まぁ……そーだけどさ」
はるみの暴風雨のような剣幕に、リューティガーはすっかり気圧されてしまい、椅子の背もたれに逃げ場を求めた。
「だから、ぜんっぜん引き分けとか、あいこじゃないのよ! だから、この美味しそうなのは、賠償としていただかせてもらうから!」
椅子に腰掛け直したはるみは、「いただきまーす!」と叫ぶと、大皿に盛られた回鍋肉を小皿に移し、それを口に運んだ。なんだこれは。母が作るものとは全く違う。ずっと辛口で、それでいて刺激は後に残らず、材料もキャベツは入っておらず、別の何かを使っている。豚肉も皮がついたままのためか、食感がこれまでにないほど複雑であり、豆板醤もよく絡んで、噛む度に肉汁も混ざった濃厚な味わいが広がっていく。はるみは目を丸くし、椅子にもたれかかるリューティガーを凝視した。
「なによこれ。なんでこんなに、とてつもなく美味しいのよ」
「陳さんは殺しや諜報と並んで、四川料理の腕も超一流だ」
「ルディは、こんな美味しいもの、いつも食べてるの?」
「今日のは食材のこともあるから、特に美味しいと思うけどね。ああ、学校に持ってきてる弁当も陳さんが作ってくれる。もっとも最近じゃ、偵察シフトの関係なんかで、食べる機会も減ってるけど。神崎はるみは、気に入ってくれたみたいだね」
「ええ、神崎はるみは気に入りましたよ。けど、なんでフルネームなの? 気持ち悪い」
「だって、神崎さんだと、君の姉とも被るだろ。だけど、“お前”や“神崎妹”ってのも謝罪の場だと失礼だし」
「だったら、“はるみ”でいいわよ。前にも言ったでしょ。今後はそれで統一して」
「わかった。君がそう望むなら、これからは、はるみと呼ぶ」
はるみに対してやらかしてしまった、あの痛恨の失敗をこの程度で取り返せるかはわからなかったが、ともかく今は許容できる要望にはできるだけ応えようと、リューティガーは考えていた。リューティガーがあっさり提案を受け入れたので、はるみは少々拍子抜けしてしまった。ともかく、今はこの豪華四川料理が冷めてしまったらもったいない。気を取り直したはるみは、豚足の煮込み料理である老媽蹄花を、鍋から小鉢に移した。
「俺もごちそうになってかまわんかな?」
そんな申し出を英語でしながら、玄関からダイニングキッチンにやってきたのは、ゼルギウス・メッセマー医師だった。白衣のまま、空いていた椅子に腰を下ろしたゼルギウスは、左手のリューティガーと右手のはるみを見くらべ、大きくたっぷりとした顎を撫でた。これまでほとんど面識のない白人男性の登場に、はるみは緊張して背筋を伸ばした。
「確か、まだ紹介してなかったと思うけど、この人はゼルギウス・メッセマー先生。賢人同盟に雇われている医師で、僕たちのサポートをしている」
リューティガーの説明を受け、はるみはゼルギウスに会釈した。ゼルギウスは笑顔でそれを返して、テーブルの上の四川料理に視線を移した。
「で、先生は一緒に食べてもいいかなって言ってる」
「あ、もちろん。こんなに一人じゃ食べきれないし、ルディもだよ。食べて、食べて」
「先生、彼女はどうぞって言ってます」
英語でそう言いながら、リューティガーは席を立ち、棚から二枚の小皿とスプーンとフォークを取り出し、それをゼルギウスの前に置いた。
「お気遣い、感謝だ。それと、俺には一切構わず、ディナーを続けてくれ」
「先生は、お礼を言ったうえで、食事を続けてくれと言ってる」
「もう、サンキューぐらい聞き取れるわよ。高校生なんだし」
親切すぎるリューティガーの通訳に、はるみは口先を尖らせて、だが笑い声混じりに抗議をし、レンゲで豚足を取り上げ、それをスープと一緒に啜り込んだ。
「ところで、はるみ」
要求したものの、呼ばれ慣れない相手からの一言だったため、はるみは豚足の味もわからなくほど戸惑い、正面のリューティガーを凝視した。
「君はさっき、遼のことを大好きだと言ってたよね」
「うん。そうだよ」
「僕もあいつに、友人として好意を抱いているが、それは彼の能力に対する取り組みや、豊かな発想力を高く評価しているからだ。正直言って、人間性については、難があるとさえ思っている」
リューティガーはそう言うと、レンゲで麻婆豆腐を掬った。はるみは、遼の人物像を整理すると、リューティガーの論評に納得して頷き返した。
「まーね、あいつ思い込みが激しいし、すぐに人を決めつけるし、面倒くさがり屋だし、ぶっきら棒だし」
「どうして、はるみは遼に片思いしてるんだ? あいつのどこを評価してる? それとも単純に見かけが気に入ってるとか?」
「うーん」
レンゲを小鉢に置き、はるみはテーブルに視線を落とし、眉間に皺を寄せた。
「どうした、はるみ?」
「うーん」
答えに窮したはるみは、空腹も忘れ、とうとう腕を組んで考え込んでしまった。興味深い解答を期待していたリューティガーは、意外な反応に困惑した。
「か、考え込むほどのことなのか?」
「そーなのよねぇ。なんでわたし、あいつのことが好きで仕方がないんだろう。ていうか、最初は大嫌いだったんだよ」
「入学当時のことかな?」
「そう、なんかカッコつけてて、孤高を気取るって感じ? 暗いし、愛想ないし」
「はは……散々だな」
容赦のない評価に、リューティガーは同意しながらも苦い笑みを浮かべた。思い当たるマイナス要素はまだまだあったが、はるみはひとまず気持ちを切り替え、腕を解いて箸を手にした。
「けどね、演劇部に入ってからかな? 割とけっこうマジメに稽古とかしててね。あ、意外とこいつ、ちゃんとしてるかなって思って。そりゃ、今にして考えてみれば、あれって理佳に好かれたいって一心だったんだろーけど」
途中から、わざと憎々しげな口調に切り替えたはるみは、箸で棒々鶏を取り、それを口に運んだ。リューティガーも、鴨の血を固めた血豆腐(シュエ・ドウ・フー)を煮込んだ毛血旺をレンゲで啜り、真っ赤なスープの辛さと、具材のうま味を味わった。
「それ以来かな? なんか、一緒にいると、ほわっとするっていうか……わくわくしてくるって感じ? なんだろう、楽しいんだよね。ぜんぜん気とか遣わなくっていいし、本音をさらっと言えちゃうし、考えてることとかすぐにわかっちゃうし。だからかな? あ、多分きっと、わたしって遼のこと、好きなんだなって」
原因に対して、恋愛感情を抱くといった結果がどうやっても論理的に結びつかない。はるみの説明に、リューティガーは疑問をますます強くしてしまったが、これ以上考えても自分には無駄だろうと結論づけ、皮肉混じりに微笑んだ。
「そういった感情は、ちょっと僕には理解できないな」
「あ、そーなの? ルディって、誰かに恋したりって?」
「ないよ。今まで一度も」
「そーなんだ。わたしはけっこう多いかも。幼稚園のころとか、小学校でも三度ぐらいあったし。もちろん中学でも……あれはフラれたけど」
「凄いな。恋の古参兵だな」
「これぐらい、普通の範疇だよ」
「普通……ね」
「そう、普通」
尊敬・崇拝・共感・信頼。相手に友情を抱く原因とは、そんなところだろうと思う。そしてこれは、誰もが大差なく概ね共有できる分析のはずだ。しかし、この目の前で四川料理に舌鼓を打つこの少女は、それとは違う何かに基づき、島守遼に対して異性としての好意を抱いている。そこまで分析したリューティガーは、香辛料がたっぷり含まれたスープをレンゲで啜った。この味が好きだ。けど、誰かにそれを説明しようにも、料理評論家でもないから、「美味いから」なんて陳腐な言葉しか出てこないだろう。最後には、「いいから一度食べてみて」などと、理屈ではなく相手の舌に訴えかけるしかない。さて、恋愛対象を見極める心の舌は、果たしてどこにあるのだろうか。
バカらしい。そんなの、どうだっていい。
兄の野望を打ち砕く。ただそれだけのために、いまの自分は在る。恋愛についての研究など、どこまでも意味がない。迷宮の入口で踵を返したリューティガーは、この話題をそろそろまとめ上げる必要性を感じた。
「わかった。今後は、君の普通の恋とやらを応援させてもらうよ。もちろん不自然にならないよう、適度にね」
「ほ、ほんと?」
“適度”という言葉に、はるみは強く反応した。遼と行動を共にする機会が最も多い、彼の助力があるのは有難い。しかもそれが、単純な親切心を根拠としているのなら、拒む理由もない。レンゲを手にしたまま、少女はこの異常な感性の持ち主にも、共有できる感覚があるのだとしたら、それはそれで嬉しいと期待した。
「ああ、その成就は僕にしても非常に有益な結果をもたらす。遼と君が恋人同士になってくれれば、僕が蜷河理佳を殺しても遼は殺意を抱かないだろう」
たった一度の返答で、はるみの期待は脆くも崩れ去った。相変わらず、淡々とした口調で危うい内容をぺらぺらと喋る奴だ。はるみはマナー違反を承知で食卓に頬杖をつき、横目でリューティガーに白い目を向けた。
「やっぱり、理佳は殺すんだ」
「ん? 想定していたのか、僕の行動を」
「まーね」
まずまずの分析力を持っている。訓練を受けていない民間人としては、優れた才覚だ。リューティガーは、はるみへの評価を上げたが、補足する説明が必要だと感じた。
「蜷河理佳、あいつは危険なんだ。最悪の存在と化しているが、おそらく本人は無自覚だろう。あいつは、公人としても私人としても許されざるべき魔女だ。遼は魅入られたままだが、二人で協力して彼を現実に連れ戻そう」
このままでは、共犯にされてしまう。そんな危険を察したはるみは、頬杖を崩して食卓の端を両手で掴んだ。
「ちょ、ちょっと待って。なんだかすっごく一方的。ブレーキ必要」
「いいだろ? 理由はともかく、僕たちはある一つの共通した目的に向かっている。勝利条件は実に単純だ。お互い、手を取り合うべきだと思うが」
理佳が、許されざる存在になっているのはよくわかる。しかしその問題と、自分の恋心は別にしておきたい。もし、リューティガーに理佳の件をなんとしてくれと頼まれたら、それこれあの土砂降りの散々な駐輪場で覚悟したように、引き受けてもいい。だが、効率ばかりを優先して、人の心をまったく無視した考え方には与したくない。そんなのは、まともな女子高校生のすることじゃない。頬を引き攣らせたはるみは、リューティガーを睨み付け、首を小さく三度振った。
「あのさぁ……お手伝いとかやっぱりいらないや。なんか、歪だってこと、段々とだけどわかってきた」
「そうか、けど僕が応援しているってことだけは、認めてほしいな」
殺伐とした効率主義などではなく、単純に他人の幸せを願って応援してくれる。そんな変化は、彼に訪れるのだろうか。
「いいよ。もちろんそれぐらいなら」
静かにそう返事をしながら、はるみはリューティガーを変えるには、どうしたらいいのか、漠然と考えてみた。だが、すぐに名案が浮かぶはずもなく、ならばせめて目の前のご馳走を楽しむべきだと結論付け、小鉢を手に取った。
一見すると中性的な印象もあり、大食漢という肩書きとは無縁だと思っていたが、どうやらそれは違うようだ。会話が途絶えてから、四川料理を早いペースで消化していくリューティガーを目の当たりにしたはるみは、その勢いから食事よりも補給という単語が脳裏に浮んだものの、驚きを言葉にするタイミングを逸していた。気がつけば、大皿や鍋はほとんど空になり、ゼルギウスという白衣の男の前の残された、僅かな麻婆豆腐が残るだけである。自分もそれなりに食べ、ゼルギウスにしてもそうだったが、七割以上の料理をリューティガーは一人で平らげてしまった。ここを訪れた四十分前、料理が並べられた食卓を見て、果たして二人だけで食べきれるか少々心配もしたが、それは杞憂だった。悠然とした様子でお茶を飲むリューティガーは、まだ満腹まで余裕があるようにも見え、もしかすると彼一人であの分量も完食できたのではないかとも思えてしまう。はるみは、陳が持ってきた杏仁豆腐を味わいながら、掛け時計の時刻が夜の七時であることに気付いた。
「ねぇルディ。今も京都の雪山で、偵察作戦ってやってるの?」
「もちろん。ウチからは、今日は健太郎さんとガンちゃんが任務遂行中だ」
これまでなら、こんな質問をしたところで、「君が知る必要はない」と、冷たい態度で断られる可能性もあった。散々なバレンタインデーではあったが、それとは引き替えに、いくらかは深入りを許されたようである。しかし、ここで不用意な前進などすれば、「調子に乗るな」と拒絶されるだろう。はるみは、小さく頷くだけで、それ以上は何も尋ねなかった。
「そうだ。もう一つ、お詫びの気持ちを表しておきたい」
そう告げると、リューティガーは席を立ち、ダイニングキッチンから廊下に出て行った。残されたはるみは、ゼルギウスをちらりと見たが、彼は英字新聞を片手に黙々と麻婆豆腐を食べており、食卓は共にしてはいるものの、意識は繋がっていなかった。さて、お詫びの気持ちとは一体なんだろう。プレゼントだろうか。装身具か衣類の類か、それとも食べ物か。何でもいいが、謝意はこの豪華な四川料理でもう充分過ぎる。場合によっては断ろう。はるみがあれこれと考えを巡らせていると、リューティガーが戻って来た。彼は、はるみの傍らで立ち止まると、手にしていた軍用ポーチを差し出した。
「これを君に」
深いオリーブ色をした、教科書ほどの大きさをした布製のポーチを受け取ったはるみは、ずしりとした手応えを感じた。まさか、拳銃でも入っているのではないだろうか。リューティガーの常識をすっかり疑っていたはるみが恐る恐るポーチを開けると、そこには黒い樹脂製の機器と電源アダプタ、何かが印字された何枚ものコピー用紙、そして小さなバッジが入っていた。
「なに、これ?」
「通信機と発信器、それらの操作マニュアルだよ」
はるみは黒い機器とバッジをよく観察し、それぞれの役割を推察した。
「こっちの黒くてゴッツいのが通信機で、こっちのバッジが発信器?」
「その通りだ。発信器は自分の位置を知らせるものだ。同盟の衛星通信網と連動しているから、君の居場所を座標から割り出せる。通信機は携帯電話のようなものだが、より強力な電波で、詳しい状況を直接知らせられるし、発信器の座標を検知してモニタに表示もできる」
「ルディや、遼もこれを?」
「ああ、僕と任務を共にする全員が装備している」
「なんで、わたしに?」
「君が、FOTとの戦いに巻き込まれる可能性がないとは言い切れないからだ。これまでにも奴らは、暗殺プロフェッショナルや獣人を僕や遼たちの暗殺に差し向けている。神崎まりかの親族であり、ある程度秘密を知っている君は、一般人より巻き込まれる危険性が高い。何かあったら、発信器から最大レベルのコールサインを出してくれ。可能なかぎり、僕が助けに行く」
「ルディが?」
はるみの驚き顔に嫌気を覚えたリューティガーは、目を逸らし、自分の席に戻った。
「お詫びの気持ちと言っただろ。君への借りを、少しでも返したいからね。手順や操作方法は、その紙に記されている。一通り習得したら、紙は燃やすなり千切るなりして処分してくれ」
はるみは、バッチ状の発信器をまじまじと見た。掌にもすっぽりと収まるコイン大のこれなら、どこにでも忍ばせられるだろう。賢人同盟の技術水準の高さを初めて意識したはるみは、日常ならざる世界に何歩か踏み込んだことを自覚し、静かに興奮した。
「つまり……逆に、遼とかの危機も察知できるのね」
発信器を見つめるはるみが何を意図して発言したのか、リューティガーはすぐに察知した。席に着いた彼は首を横に振り、鋭い眼光をはるみに放った。
「ダメだ。それは、自分の危機を知らせるためだけに使うんだ。通信機に他の誰かからのコールサインを受信しても、絶対に無視するんだ。座標を確認する必要はない」
「け、けど……」
「戦いに関わるんじゃない。命や身が危険なだけじゃない。君のように普通の人生を送ってきた者は、心が耐えられなくなる。今年に入ってから戦いは恒常化しつつあって、遼や高川くんたちも精神的にかなり疲弊している。命が呆気なく消耗されていく異常事態は、彼らの心の中にじわじわと暗黒を生じさせ、やがてそれは日常生活を蝕んでいくだろう。君にはそうなって欲しくない」
反論、異論はいくらでも頭の中に浮かんだ。しかし、対面のリューティガーから、尋常ならざる強い意志を察したはるみは何も言えないまま、発信器と通信機をポーチに収め直した。
「陳さん、おいしい料理、本当にありがとうございます」
玄関の扉を背に、はるみはリューティガーの後にいた陳に深々と頭を下げた。
「またご馳走するネ。ねぇ坊ちゃん」
「ああ、必要と判断したら、今後もミーティングに招集することもある。そのときに機会があったらね」
戦いへの関与こそ拒絶されたものの、リューティガーは今後の鞍馬山での偵察任務シフトやそれ以外の作戦について、追って通達すると約束してくれた。通信機器を渡した以上、概ねの居場所については予め知らせておくべきである。リューティガーは、通達の理由をそう説明してくれた。取りあえず、末席ではあるものの、成り行き上、仕方なく認められた補欠ではあるものの、一員としては認めてもらっている。そう認識しておいてもいいのだろう。リューティガーが訪問してくるまで抱えていた鬱屈もすっかり消え、はるみはいつもの溌剌とした明るさを取り戻していた。
「それじゃ、また学校で」
別れの挨拶をしてから、扉に振り返ろうとするはるみに、陳は中華饅頭のお土産を手渡した。おそらく、これもかなりの絶品で、弟や父などは大喜びするだろう。家族が満足する姿を思い浮かべながら、はるみがエレベーターのボタンを押すと、背後から呼びかける声が届いた。
「えっと……」
目の前で足を止めるベリーショートのプラチナブロンドの少女に、はるみは首を傾げて名前を思いだそうとした。
「はるみ!」
少女ははるみの空いていた左手を両手で掴み、懸命な笑顔で何度も頷いた。唐突な行動にはるみは戸惑い、軽いパニックに陥ってしまった。
「わたし、エミリア! はるみと遼のコト、わたし、応援してるから!!」
伝えるだけ伝えると、エミリアは手を振りながら803号室に戻って行った。わけもわからぬまま、呆然としたはるみは「ありがと」と小声で呟き、彼女の背後でエレベーターの扉が開いた。
そのころ、ダイニングキッチンではゼルギウスが麻婆豆腐をようやく食べ終え、食後のお茶を楽しんでいた。来日以来、日本語は挨拶と軍事、医療用語こそ覚えたが、それ以上はさっぱりだったため、若い二人がここで何を語り合っていたのかは、ほとんどわからない。だがともかく、あの様子なら、今日の彼に精神安定剤や睡眠薬は不要だろう。胸を張り、目に確かな輝きを宿し、居間に向かうリューティガーを横目で見たゼルギウスは、台所で洗い物をしている陳に、ジャスミンティーのおかわりを頼んだ。
時刻はまだ午後八時だったが、日曜日の路地は人通りもなく、二月の冷え込みのため、野良猫の姿も見あたらなかった。
今日も、仕掛けるタイミングが見つからなかった。路地の角から三階建てのアパート、「ファミール池上北」の二階を監視していた若木は、目を伏せ、白い息を漏らした。できるだけ邪魔が入らない状況で、襲撃を敢行しなければならない。あのアパートは、一階ごとに一世帯ずつが入居している。高川家は二階で、彼が外出中に、家族を皆殺しにして待ち伏せするという手もあるが、一階と三階の住民に気付かれずに成功するかは、どうにも怪しくもあり、それに、高川が両親に電話連絡など入れようものなら、警戒される恐れもある。前回の完命流師範ゎはの抹殺は、幸運も手伝って無事に為し得ただけであり、本命については徹底して慎重に臨む必要がある。これまでの観察の結果、標的の高川が夜中に一人で出歩く可能性は低い。そうなると日中に仕掛けることになるが、登校時刻はこの路地も人通りがそれなりにあり、高輪の完命流道場は、付近に監視カメラが取り付けられているため、その行き帰りを狙うのも現実的ではない。アルバイト先も監視はしたものの、出没確率があまりにも低く、一度だけ姿を確認したがスクーターでの移動だったため、決闘の候補地からは外してしまった。こうなると残された場所は、通学している高校ぐらいである。決闘状での呼び出しや、尾行してからの暗所、閉所での決闘も考えたが、前者は仲間の妨害の可能性があり得、後者は尾行技術に自信がないため採用はできなかった。
そろそろ、ねぐらにしている近所の空き屋に戻ろう。その前に、夕飯をどこかで食べなければ。風呂にも行かないと。踵を返そうとした若木は、目の端に人影を認め、再び身を潜めてそれをよく確かめた。電柱の陰に佇むあれは、若い女だ。ベージュのハーフコートに、マフラーと手袋で防寒をした髪の短い女は、アパートの二階、しかも電灯のついた高川典之の部屋をじっと見つめている。
奴も……刺客か……。
若木は、電柱の少女をそう認めた。優れた戦術・戦略家だと祖父が語っていた真実の人(トゥルーマン)が、別口で新たな刺客を差し向ける可能性は極めて高い。なら、釘を刺しておく必要がある。若木は足音を立てないよう、壁沿いを極めて慎重に進み、気付かれぬまま少女の傍まで達した。
「高川典之は、この若木に優先権がある。それを、努々(ゆめゆめ)忘れるなよ!」
声量は小さく、だが強い口調で若木は忠告すると、今度は素早い身のこなしでその場から駆け去っていった。
「え……たかがわ……くん?」
一人取り残された針越里美は呆然としたまま、若木を目で追った。しかし、スタジアムジャンパーの少女は影も形もなく、姿を消してしまった。宙に浮いてしまった視線を、里美は再び高川の部屋に戻した。僅かな瞬間だった。顔はほとんど覚えていないが、目付きがとても鋭く、殺気に溢れていたような気がする。「この“わかぎ”に優先権がある」とは、いったいどういった意味なのだろうか。言葉にできない新たな不安が、ぎりぎりと心を苛んでいく。里美は縋る様な想いで、灯りの中にいるであろう偉丈夫の姿を求めた。だが、カーテンが閉め切られた窓に人影は判然とせず、少女は足下に目を落とし、低く、小さくうなり声を漏らした。
11.
紙袋には、七カット分のカット袋が詰め込まれ、そのような荷物もあるから今日はスクーターではなく、電車と徒歩での納品だった。下校後、一度自宅に戻り、学生鞄とこの荷物を持ち替えて、池上線で五反田までやってきた高川は、曇天の元、胸を張って堂々とした足取りで「山賊スタジオ」を目指していた。水曜日までの締め切りだったが、今日は火曜日であり、制作進行の中上(なかがみ)も喜んでくれるだろう。さて、今日はどのようなカットを手土産に持ち帰れるのだろうか。昨年十一月、FOT関連の報道によって、放送免許剥奪という極めて厳しい処分を下された関東テレビも、経営と制作陣を刷新して、春からは放送再開の目処が立ったらしい。そうなると、深夜放送枠アニメの本数も増加して忙しくなる。中上はぼやき混じりに、そう言っていた。FOTとの戦いも苛烈さを増しているが、アニメーション界もまさしく戦国時代に突入しようとしている。その戦に、自分も末席ながら加わる。高川は昂ぶる気持ちが抑えきれず、紙袋の紐を握る手にも力が込められた。
アニメのことを考えている間は、あの厄介な憂いの霧も晴れる……。
同じ戦いでもテロリストとのそれの方が、邁進している武術と近しいはずなのに、なぜアニメーションの活況の方が、鋭気が増し、清々しい気持ちになれるのだろう。高川は疑問に対して、それは精神的な逃避行動であると即断し、足を止めて頭を強く振った。その途端、彼は背後に視線を感じ、咄嗟に振り返った。
いない……気のせいか……。
賢人同盟の一員となって、FOTと戦う自分は、尾行をされてもおかしくない立場だ。ましてや、完命流道場を巡る襲撃事件が連続している現状なら尚更である。前を向いた高川は、念のためもう一度振り返った。アニメに浮かれてはいたが、三日前も雪山での偵察任務に参加した高川であり、戦場での緊張感はすぐに取り戻せる。しかし、見る限り怪しい人影もない。以前、若木の尾行と勘違いし、学校で気味の悪い男子下級生を捕らえたこともあった。仮に視線があったとしても、敵ではなく単なる通行人という可能性もある。高川は、疑念を抑えると、スタジオに向かって歩き始めた。
いったい、自分はどうしてしまったのだろう。針越里美は、慌てて駆け込んだコンビニエンスストアの雑誌置き場でぜぇぜぇと呼吸を乱しつつも、ガラス張りの店内から小さくなっていく高川の背中から目は離していなかった。おとといは自宅アパートまで訪れ、今日に至っては完全に尾行である。私鉄電車も車輌をわざわざ変え、学校・自宅・五反田駅の三箇所を追い続けた。振り返られはしたが、おそらくこの尾行はバレていないだろう。里美はマフラーで口元を隠し、毛糸の帽子を目深に被り、変装用の伊達眼鏡をかけ直し、コンビニエンスストアを出た。
あのバレンタインデーに感じた違和感が、この珍妙で奇っ怪なる行動のきっかけとなっていた。中指の爪の脇にあった、大きなタコが気になってしかたがない。あの箇所の場合、真っ先に思いつくのが文筆業や漫画家などにできるペンダコである。完命流は素手らしいが、武術であんな痕が残るのだろうか。武術と言えば、それ一筋であるはずの彼が、昨年の演劇部合宿の夜、漆黒のオーラムーンという、女性向けのテレビアニメーションを見ようとしていたのがなんとも奇妙に思えた。そう、合宿と言えば、どうにも気持ちの悪い思い出がある。いや、正確には思い出にもならない、あれは気分だ。合宿で稽古場に使わせてもらった、清南寺のお堂を思い出すと、なにかとても恐ろしい気持ちになることがある。具体的な記憶はなにもないのだが、あそこでなにか、とてつもない出来事が起きたような気がしてならない。一度、福岡部長にこの気分を打ち明けたことがあったが、そもそも清南寺は部長の実家であり、「小さいころから、お堂ってどこか恐いってイメージはあった」と昔話に逸れてしまい、以来、この件については誰とも共有していない。
ひとまず、お堂の件は置いておこう。あれは、高川典之に関連しているとは限らない。ペンダコと、“オラムン”と、そして三学期に入ってから病欠が目立ち、妙に慌てて下校する姿も目する件に、疑惑を絞り込もう。
直接、尋ねてみればいい。疑問をぶつければいい。その指、どうしたの? オラムンに、なんで興味があるの? 最近休みがちだけど、アルバイトとかしてるの?
もしかして、漫画家のアシスタントをしてるの? それも、女性向け作家の。
違う、これは質問ではない。推論の追求だ。それなら、もっと証拠を集めないと。きっと彼にとって、それはバレてはいけない秘密なのだから。高川の大きな背中から目を離さず、里美は尾行を続けた。そして、それは十分ほどで終着点に到達した。五反田駅から徒歩二十分の住宅街の一角に、その二階建てアパートはあった。引き戸を開けた高川は、午後五時を過ぎているのにも関わらず、「おはようございます!」と、大きく張りのある声で挨拶をし、建物の中に入っていった。郵便ポストの陰に、身を縮こまらせて隠れていた里美は、視線を上げてアパートに取り付けられていた看板を見た。
山賊……プロ……。
どこか、記憶を刺激される名前である。里美は学生鞄から携帯電話を取りだし、検索サイトで“山賊プロダクション”と入力した。検索結果として最も上位に表示されたのは、アニメーションのデータベースサイトだった。少女はしゃがみ込むと深く息を吸い込み、戸惑いをはき出してから再び調べ事に取りかかった。
概ねの構造は、仙波春樹よりもたらされた図面によって予め頭に入っていた。外から見る限り図面は正確だが、ひとつだけ大きな相違点として、校舎裏のプールの更に西側に広大な建設現場があった。情報によると、あれは新設中の生徒ホールで、月曜日と水曜日の午後二時以降は無人のうえ立ち入りが禁止となる。高さ三メートルほどまでが工事シートで囲まれているため、中の様子は全くわからないが、四百坪近い空間は雑然としているはずで、あそこなら、誰にも邪魔されずに高川と雌雄を決せそうだ。忙しなく作業員たちが行き来する建設現場をフェンス越しに眺めていた若木は、いつまでも同じ地点でじっとしていると怪しまれると考え、なんとなく当てもなく歩き出した。
建設現場に高川を連れてくる方法は後で考えるとして、対峙してからはどういった戦いをしよう。昨年の九月、アルバイトの帰りの高川を襲撃した際には、あっという間に間合いを奪われ引き込まれ、腹に膝蹴りを食らって倒されてしまった。あれ以来、約半年間に亘って様々な相手と勝負を重ね、間合いの取り方についてもそれなりに技術が向上しているはずである。それに、完命流としては格上のはずの、道場師範にも勝利したのだ。甲斐という師範は、体格面でも若干だが高川に勝っていた。甲斐が九月の高川より強かったかどうか、それはわからない。自分も九月の若木ではないのだから。こうなったら手を合わせ、確かめるしかない。甲斐に勝利した、あの手を高川にも用いよう。背後からの“鳴門独楽(なるとごま)”で脊髄を強打し下半身を麻痺させ、三連打で転倒、最後はとどめの“医王(いおう)”で首をへし折る。背後を取るためには目つぶしを、医王の前には、上体の自由を奪う錘を用いる。これで、完全なる勝利を得られた。無人の建設現場での決闘となれば、血の目つぶしは用意できない。ならば、予め手足を濡らす術を用意しておかなければ。それに、錘に使った屍の代わりも必要だ。あの建設現場なら、いずれもが豊富にあるはずだ。一度、忍び込んで視察をしておかなければ。正々堂々とした実戦武術という理念こそが、何でもありの完命流から、若木の生きる篠崎流が袂を分かった立脚点である。血の目つぶしなど、祖父の篠崎十四郎が知れば、激憤し破門を言い渡しかねない外道である。だが、半年間命がけの修練を重ねてきた若木は、祖父から仕込まれた信念や誇りといった抽象的な理(ことわり)自体は忘れていなかったが、具体的にどういった手段が禁忌とされているのかまでは、わからなくなっていた。世界や社会に放り出され、たった独りで生きてきた彼女にとって、具体的な勝利だけがより所であり、その目的に向けて最短距離を駆け抜けるしかなかった。
若木は、右手に広がるフェンス越しの光景を目の端で捉えると、足を止めた。グラウンドでは、サッカー部が放課後の練習に励んでいた。若木にサッカーの知識はほとんどなかったが、部員たちの技術が概ね拙く、身体能力も取るに足らないものであることが、僅かな時間でわかってしまった。
それにしても信じられない。連中は練習中に何度も失敗を犯している。それも大半は実力不足ではなく、集中力に欠けているからだ。なのに、それを誰も指摘しない。指導者は不在のようだが、仲間同士で論評や批評をし合い、しくじりを減らす努力をするべきではないのだろうか。しかも連中は、鍛錬の間も奇妙な薄ら笑いを浮かべる始末であり、競技というものに取り組む姿勢そのものが問題だと思える。軽く憤った若木が再び歩き始めると、今度はテニスコートでの練習に出くわした。こちらは大人の指導者がいるようで、失敗に対して厳しい指導も行われているようだが、それを受ける部員に活気は乏しく、指導者に叱られてすっかり意気消沈しているように見える。落ち込んでベンチで肩を落とすヒマがあるなら、基礎体力や技術の向上に努めるべきではないのだろうか。学校における競技の練習というものは、強くなるためや勝つための修練ではなく、儀式か何かを目的にしているのだろうか。
学生の経験がなく、世間と一切隔絶された環境で、祖父と厳しい修練を積み重ねて来た若木にとって、学生の運動部活動はあまりにも牧歌的で緊張感に欠けていた。だが、若木がこの日見た光景はあくまでも断片であり、これをもってして高校生全体の運動部を論ずるのは愚かである。だが、いまの彼女にそれを指摘する者はおらず、偏りの激しい経験則を疑うという客観的視点も持ち合わせてはいなかった。
あきれ果て、観察を止めた若木に、ある姿が思い浮かんだ。それはへらへらとふ抜けた笑いを浮かべながら、サッカーボールでドリブルをする高川だった。
まさか、奴に限ってそれはないだろう……。
いや……あれほどまでの強者であれば、余裕をもって学生のくだらぬ儀式に付き合う可能性も考えられる。
いやいや、どうでもいい。どちらでもいい。
なんであろうと、若木は奴を仕留めることだけを考えていればよい。
さて、仮にあの戦法で高川典之の息の根を止めたとして、標的はまだ四人残っている。ただの民間人の神崎はるみはともかくとして、岩倉次郎は銃器さえ気を付ければ何とかなる。問題は、島守遼とリューティガー真錠だが、二人の異なる力については今後、更に詳しい情報を仕入れておく必要がある。いずれにせよ、三人の男については寝込みを襲う。侵入手段に仙波春樹の助力を借りてもいい。完命流であり、祖父の仇でもある高川典之以外は、ただ単に命を奪うだけの仕事で、篠崎流としての勝利とは無関係なのだから。
気がつけば、校門まで歩いてきてしまった。さて、これからどうしよう。これからとは、今日これからだ。五人を始末してからの“これから”は、まだ宿題になっている。若木は足を止め、ぼんやりと曇り空を見上げた。のろのろとした寒風に晒され、黒い長髪をそっと手で梳いた若木は、自分はこの先いったい何をしたいのか、そんなことを考えてみた。
最強の高みを目指す。
武術家として、それが最も単純な人生の目標だ。では、具体的にはどうすればいいのだろう。今のところ、自分にとっての最強は高川なのだから、奴から自分より強い奴が誰なのか、訊けばよいのだろうか。しかしその答えが、「甲斐」であったら、これはつまらぬ喜劇だ。高川を始末してもその先はないわけで、できればそうであって欲しくはない。若木は見上げていた頭を下げ、校門を真っ直ぐ見た。下校してくる生徒の姿は、到着したときよりずっと少なくなっている。校門から出てきたある女生徒に、若木は目を留めた。誰だろう。標的の神崎はるみではないし、資料にあった標的に近しく関連した生徒でもない。髪は短く、身だしなみもきちんと整え、涼しげな目をした賢そうな女だ。見るからに、普通の女子学生だ。普通の女子学生というものがどのような暮らしをしているのか、それそのものが今ひとつわからないままだが、外の世界で見た雑誌や新聞、テレビといった情報源から、断片ぐらいなら推察できる。普段は学校で、勉強や先ほど見たような運動をして、休日になると買い物や遊びに出かける。ただそれだけだと思う。命がけの戦いなど、するはずもない。この若木とは、まったく異なる事情のもとに生きている別種の存在だ。いったい、奴らはなにを人生の目標にしているのだろう。そのために、なにをしているのだろう。
知らない子だ。吊り上がった目で、睨み付けている。スタジャンは薄汚れてて、黒髪も伸ばし放題でぼさっとしているし、見た目を気にしない子なんだろう。整った顔立ちをしているし、細すぎるもののスタイルもいいのに、ちょっともったいない。見たところ中学生のようだし、受験生だろうか。入試の結果発表は、来週の木曜日だったはず。となると、いわゆる待ち伏せだろうか。うちの誰かとトラブルを起こして、その仕返しにでもやってきたのだろうか。だとしたら、関わらないほうがいい。校門の前で鋭い視線を向けていた若木と目が合ってしまった永井まどかは、視線を外して歩みを早めた。だが、若木はまどかの通過を許さず、鮮やかな挙止で前を塞いだ。
「な、なに?」
まさか、自分に用があるのか。知らない子なのに。まどかは足を止めてたじろぎ、見上げてくる若木を凝視した。
「貴様は、これからなにがしたい?」
答えれば、この奇妙な遭遇から解放されるのだろうか。相手にせず、無視をして通り過ぎるには、先ほどの阻止はあまりにも素早く見事であり、なにより瞳からは異様なまでの意志の強さが感じられ、それが恐ろしくもある。まどかは即座に判断し、まずは質問に答えることにした。
「ええっと……うちに帰って、録画したドラマの再放送を見たいかな? 第一話なの」
返答こそあったものの、内容の半分も理解できなかった若木は、眉間に皺を寄せ、低くうなり声を上げた。
「あっと……そーゆーことじゃないのね? したいこと……いますぐってのじゃなくって、いま一番したいことって意味?」
それが今のとは異なる返答内容になるのなら、意図などはどうでもいい。若木は「それで、構わん」と、早口で促した。
「えっとね、そうだなぁ……」
考えを巡らせながら、まどかは空を見上げた。
「ここのところずっと曇りか雨だし、晴れの日に公園なんかでぼうっとしたいかな?」
曇りか雨。それは確かにそうだ。もう何日も天候はずっとそのいずれかだ。日中に晴れ間があってもそれは短く、空は概ね鈍さで彩られている。マンションに潜伏していた際、カーテンの隙間から入ってくる陽の光だけが、昼夜を別ける頼りだった。それが厚い雲に阻まれた日は、なんとなく一日の始まりも鈍かったようにも思える。祖父と共に暮らしていた幼いころは、特にそう感じていた。
「晴れは、好きだな」
何気なく、まったくの無意識のうちに、若木は少しだけ表情を柔らかくしてそう呟いた。
「わたしも好きだよ」
何気なく、当たり前のように、まどかもそう返した。しかし、目の前の少女はいきなり小刻みに震えだし、口元はわなわなと震え、視線は宙をさまよっていた。明らかに、何らかのショックを受けているようにしか見えないが、こんなごく当たり前のやりとりが原因ではないだろう。急に体調でも崩したのだろうか。心配したまどかは若木の肩に触れようとしたが、その行為は震えたままの手の甲で弾かれてしまった。
「い、いいんなら、もう行くね。さよなら」
拒絶されたまどかは、若木の脇をすり抜け、小走りで去っていった。若木は振り返ることもなく、尚も愕然としたまま、払った掌を見つめていた。
晴れが……どうしただと……若木には……。
晴れが好きだと言った。心も軽やかに、朗らかな気持ちでそう言ってしまった。それ自体が、ひどく気味が悪い。なぜだろう。そう、浮かれるのにはまだ早いからだ。晴れが好きなのは別に構わないし仕方がない。だが、晴れが好きだと認めてしまうのは、邪魔で余分で必要がない。戦いも知らぬ涼しげな目をしたあの女生徒の、安穏とした毎日のような何かが自分の中に這入り込み、武人の覇気を濁らせてしまうような気がしてならない。あのとてつもなく巨大で、目眩がするほど高くそびえ立つ障壁を越えるのに、空の好き嫌いは無関係だ。いま必要なのは、研ぎ澄まされ、無駄を一切そぎ落とした武の精神だ。青空など、奴を殺し、篠崎流の強さを証明できたあと、思い切り味わえばいい。好き嫌いというわからないものについて、生まれて初めて考えてみるのも一興だ。
落ち着きを取り戻し、震えも止んだ若木は、校門から歩き出すと、再び天を仰いだ。鈍く、暗く、今にも落ちてきそうな空が目に広がっている。これでいい。高川典之という壁に陽を遮られているいまの自分に、晴天は相応しくない。今後のことを考えておけ。なにをしたいか、どんなことをしたいのか、考えておけ。仙波春樹から出題されたそんな宿題も、勝利という晴れ間のもと、時間をかけてゆっくりと考えればいい。
今後のことだと? いまはまだ、今後ではない。
なにをしたいだと? いまは、高川典之と勝負するのみ。
どんなことをしたいだと? いまは、勝つために最善を尽くすのみ。
高川典之は確かに強敵だ。だが、あんな連中とこんな場所に通っている奴に、武への純粋さで負けるはずがない。ここに至って若木は遙かに強くなった。技も力も。そして心もだ。僅かな迷いにも負けない、強靱な精神力を磨き上げてきた。
将来への不安は、当面の課題に集中することによって、意識の外へと先送りされてしまった。手は前後に大きく弧を描き、足は坂道をしっかりと下り、背筋は天から吊されたようにぴんと張り、若すぎる暗殺者は、下校する学生たちを次々と追い抜き、自信と不安の天秤は、前者へと傾こうとしていた。
12.
快晴である。雲一つなく、青く澄み渡った空がどこまでも広がっていた。仁愛高校では今日も朝から生徒ホール新築工事が進められ、ここ二週間以上に亘る悪天候による遅れを取り戻すべく、今日はとくに忙しなく、運搬・切断・工作・溶接といった作業の音が鳴り響いていた。
天気予報によると、この晴れ空は夜まで続く見込みらしい。窓際の座席で頬杖をついた吉見英理子は、ぼんやりと雲のない空を見上げ、始業前の気だるい時間を教室で過ごしていた。明日の火曜日で二月も終わり、来週からは学年末考査が始まる。試験に不安はなく、準備も万端だ。二年生の二学期以来、成績は上昇の一途を辿り、うまくいけば今回はトップ十五位圏内に入れる可能性もある。春休みも安心して迎えられそうだが、さて、どうしたものか。今のところ何の予定も入っていない。来年には大学受験を控えているのだから、受験勉強に励んでいれば二週間の春休みなどあっという間に過ぎ去ってしまうが、それではなんとも面白くない。頬杖を解いた英理子は、斜め後ろに振り返った。真ん中の後ろの方に、二つの空席がある。ひとつは島守遼、もうひとつはリューティガー真錠だ。二人とも今日は病欠らしい。そう言えば、三月後半から四月後半にかけて、上野の博物館で「明治・大正時代の超常現象研究者とその成果」というテーマの展覧会が催される。空席の主、栗色の髪をした我らが科学研究会会員を誘うのはどうだろう。二人きりだと気後れしてしまうから、後輩の誰かも一緒に連れて行けばいい。名案に英理子は嬉しくなり、両足を浮かせてぶらぶらと前後させた。
「内藤、昨日のニュース見たか? FOTは、正義決行の断念を正式に表明しただろ」
着席するや否や、すぐ前の席の横田良平からぶしつけに声をかけられた内藤弘(ないとう ひろむ)は、机に置いた学生鞄を開け、中身を取り出した。
「報道関係者にFAX流したってアレだろ? 忠犬隊が壊滅したから、もう正義決行はできないっていう。少しは知ってるよ」
視線は鞄に落としたまま、内藤はつまらなそうな口調でそう返した。FOTを巡る事態に対して、横田は常にアンテナを張り巡らせ、主にインターネットで集めた情報を毎日のように報告してくれるが、そもそもFOTへの興味も薄く、それよりも来週からの学年末考査に意識が傾いていたため、こうやってあしらうように処理するのが限度だった。
「昨日の日曜日だって、そもそも正義決行スケジュールが組まれてたんだぞ。確定死刑囚の一斉粛清ってド派手なやつ。全国の刑務所に忠犬隊が現れて、大暴れする予定だったんだ。なのに、こないだの地裁で忠犬隊は全滅しちまったから、それもお流れになっちまった。だからFOTは、FAXを流したんだよ。今後については、国民による自発的な正義決行に期待するって締めくくりでさ」
「死刑囚は、普通は刑務所じゃなくって拘置所な」
内藤は、返事をするつもりなどなかったが、誤りだけはどうしても放置できず、つい指摘をしてしまった。
「忠犬隊は古川橋の件もあるし、何度か人命救助活動だってしてたんだ。それを政府が潰したってのは、批判的な声だって多い。FAXへの対応も見物だぜ」
だが、横田は指摘などなかったかの様に、ギョロリとした目を輝かせて持論を推し進めた。すっかりあきれ果てた内藤は、「知らないよ。僕は」と言い捨て、クラスメイトとの会話を一方的に打ち切った。内藤の拒絶を雰囲気で察した横田は、つまらなくなって鼻を鳴らした。
「横田は、どんな対応するって予想してるの?」
隣から飛び込んできた女生徒の質問に、横田は驚いて椅子を軋ませ身を引いてしまった。声に視線を向けると、隣の席の杉本香奈が首を傾げている。入学以来、彼女とはずっと隣席同士だが、言葉を交わした機会は両手で数えるほどしかなく、それも事務的なやりとりばかりだった。会話の流れに加わってきたようだが、すっかり頭が真っ白になった横田は返答もできず、細切れに声を漏らすだけだった。
「ニュース、ネットでも見たもの。忠犬隊が警察や自衛隊に全滅させられたなんて、知らなかった。裁判所だと、隊長の我犬(ガ・ドッグ)は逃げれたんでしょ?」
「あ、ああ、そうだよ。けど、FOTの声明だと、隊長もあのあと戦死したんだ。鞍馬の戦いで」
焦りを拭い落としながら、横田は杉本の疑問に答えた。内藤と比べて、彼女は一連の事態に対してそれなりの興味を抱いているようだ。横田は何やら気持ちが軽くなり、小さく肩を上下させて笑った。杉本は横田の薄笑いがなんとも不気味に思えたので、これ以上の質問をやめ、前を向き直した。どうやら嫌われた。理由はわからないが、この態度はやりとりの中止宣言だ。幼稚園のころから何度か同じ経験を重ねてきた横田は、杉本の反応をそう分析すると、口をつぐんで彼女と同じように姿勢を正した。
この日の授業は五時間目までで、ホームルームも含めた時間割の全てが終わる午後二時半過ぎの廊下には、下校や部活動に向かう生徒たちで溢れかえっていた。その中に、じっと佇む針越里美の姿があった。
先週の火曜日、五反田で見た光景は確かな現実だ。高川典之は紙袋を提げ、山賊プロダクションに入っていった。山賊プロはアニメーションの作画下請けスタジオであり、『漆黒のオーラムーン』の作画も何話か担当していた。彼の右中指には大きく硬いペンダコがあり、“オラムン”にも興味があり、最近では学校を欠席がちである。三つのバラバラな情報は、あの日の目撃情報だけですべてが結びつく。
“高川典之は、アニメーターのアルバイトをしている”
仁愛高校は、アルバイトを禁止していない。しかし、彼はこの事実を公言していない。もちろん、する必要はないが、武術の道を愚直に進む彼が従事する仕事としては、アニメーターはあまりにもイメージとかけ離れている。尾行までして知ってしまった衝撃的な事実だから、もう自分の内心だけで抱え込むのは難しい。このままでは、せっかくバレンタインデーを経て近しくなった彼との関係もぎくしゃくしてしまうだろう。なら、直接聞いてみるしかない。もし秘密にしたいのなら、それを共有したい。里美は問題の解決のため、2年B組の教室から出てくる生徒たちから目を離さなかった。
「それがヘンなのよ。校門で、じいっとこっちを睨み付けてるの。中学生ぐらいの子かな? 髪はぼさぼさで、スタジャン着て、とにかく目付きが凄いんだ」
すぐ近くから聞こえてきた話題に、里美の注意が傾いた。スタジャンで、目付きが凄い。髪がどうだったかまでは記憶にないが、覚えがある。先週の日曜日、彼の自宅の前で、「高川典之は、この若木に優先権がある」と忠告してきた女の子だ。一瞬のことだったが、唐突だったため強い印象として残っている。話をしているのはB組の女生徒だが、詳細を尋ねておくべきだろうか。あの謎の少女と同一人物なのか、確認しておくべきではないだろうか。里美が逡巡していると、教室から高川が姿を現した。優先順位は明確であり、里美はふわりとしたショートカットを揺らし、彼の元へと駆け寄っていった。
「ごめん……なんか、呼び出しちゃって」
普段は騒音も激しく、今朝からは特にそうだったが、月曜日と水曜日の午後二時以降は工事が行われないことになっていたため、工事シートで囲まれた生徒ホールの建設現場は人気もなく静まりかえっていた。陽光を背にした高川は、謝罪してきた針越に、「いや、構わんが」と静かに返事をした。
「高川くんって、最近……忙しいよね」
感想とも質問ともとれる曖昧な里美の言葉に、高川は即答できず小さく呻った。「忙しい」とはなにを指しているのだろう。彼女が知り得ている情報として、まず二年生全体としては来週から学年末考査があり、そのあとは三年生の卒業式を控えていて、忙しいのは誰でも当たり前だ。そして、演劇部の新入生歓迎公演に客演として名を連ねている以上、稽古も佳境に入り、こちらは自分個人として忙しい。ここまでが、針越里美が把握しているはずの、高川典之のスケジュールだ。しかし、現実はさらに過酷だ。アニメーターのアルバイトも仕事量が増す一方で、最近だと内容によっては謝って断る事態にも陥っている。そして鞍馬での戦いは激化し、リューティガーにシフトを工夫はしてもらってはいるものの、学校を欠席したり、慌てて下校する日も増えている。アルバイトはともかく、鞍馬での件は重大な秘匿事項だ。両親にすら打ち明けず、楢井師範にも悟られてはいない。まさか、彼女が言う「忙しい」とは、それを意味しているのだろうか。だとすれば、非常に憂慮する事態だ。遼と岩倉に頼み、記憶の削除が必要だ。しかし、まだそうと決まったわけではない。里美の僅かな言葉に、偉丈夫はすっかり困惑し、冷静さを失おうとしていた。
高川の異変を、里美は目と耳で察知していた。顔は青ざめ、学生鞄を握る手は震え、うなり声やスニーカーが地面をする音が鼓膜をくすぐる。これは怯えだ。こんな彼は、これまでに見たことがない。こんな少しの探りを入れただけで、ここまで恐れを抱くとは。アニメーターのアルバイトとは、それほどバレては困る秘密なのだろうか。例えば彼が学んでいる柔術完命流には、常人では理解できない掟があり、文系の一切が禁忌とされているとか。もしくは親がアルバイトを禁じているなど、実に単純な事情があるとか。いずれにしても今日はきちんと問い質さないといけない。彼と健全な付き合いをするためにも、疑念や疑惑は取り除いておきたい。里美は一歩だけ高川に迫り、高川は同じだけ後ずさりをした。
FOT壊滅という役目だけは、墓場まで持っていく機密だが、まだ彼女はそこまで知り得ていない可能性もある。もっとぼんやりとした、不確かな疑いなのかもしれない。ここは平常心を取り戻し、いち早く普段らしさを見せつけなければ。そのためには、一時的な奇行であってもやむを得ない。高川は、道場でもそうしているように、頭を冷やすために拳を適当などこかに打ち付けた。それはすぐ背後に積まれていた建築資材の鉄骨であり、拳に痛みは走り、彼女の表情も驚きで歪みはしたが、ともかく震えだけは止んでくれた。高川は息を吐き出し、胸に手を当てた。
高川の精神安定行為によって、揺れる鉄骨の山から影が動いた。里美は咄嗟にそれを指差し、高川も物音を察して振り返った。二人の目に、へたり込むある男子生徒の姿が映った。
「誰だ!?」
問いながらも、高川には男子生徒に見覚えがあった。小柄で華奢で、どちらかと言えば女子のような体格でありながら、睫毛が長く、太い眉がなんとも不釣り合いかつ印象的なこいつは、昨年の十月、学園祭の最中にも自分をつけ回してきた1年B組の“不気味なあいつ”だ。前回と同じように、今回も両膝が内側に付けられ、恐怖を顔に貼り付かせ、泣きそうな目で見上げている。“男らしくない”そんな一言で定義が付けられる下級生だ。
「な、な、なんでもありませぇぇん!」
甲高く、掠れ声を上げたその下級生は、腰を浮かせ、這うようにその場から去っていった。高川は捕まえて名前を聞き出そうとしたが、今はそれよりも重大な問題が発生していたので、それを解決するため里美に向き直った。
「奇っ怪な邪魔が入ったが、放っておいてもよいだろう。それで、俺が忙しいとは?」
「う、うん……」
鉄骨の陰から下級生が出現したのには驚いたが、里美にとってもそれは、すぐにでも忘れてしまっていい瑣末事だった。
「高川くんには、とても感謝してる。客演とか、道場の稽古とか見せてくれたり、他にもいろいろと……」
目を伏せ、手を前に重ね、呼吸を随所に挟み込み、里美は丁寧に言葉を選んだ。
「い、いや。感謝など、俺には過ぎている。先日のチョコレートといい、むしろこちらが感謝している」
「けど、高川くん……最近、なんだかヘンだと……思う……よく学校休むし……」
彼の感謝には応えたかったが、最短距離を走り抜けるため、里美は疑念の投げかけに集中した。
「あ、や、そ、それは……最近、体調を崩し気味なのだ」
「まるで、逃げるみたいに下校する姿も、よく見てるよ」
「あ、う、ど、道場での稽古がな……」
嘘を吐き慣れていない高川は、取り戻した平常心を早々と失い、再びパニックに陥ろうとしていた。
「し、心配なの……高川くんのことが」
狼狽える姿は、剛胆な彼らしくもなく、それが心配で仕方がない。里美は、正直な気持ちを吐露した。
今の自分にとって、心配されることなどたったひとつしかない。死と隣り合わせの、FOTとの戦いだけだ。これで疑う余地もなくなった。もう、バレている。高川は、里美の気持ちを核心への疑念と捉え、ますます追い詰められてしまった。午後になっても朝からの晴天は続いていたが、彼の心の中には憂いの霧が立ちこめ、問題を解決するための進路はどこにも見あたらない。誰かに助けて欲しい。だが、突然このような状況に呼び出され、適切な手助けなど望めるはずもない。あまりにも唐突な窮地だ。よもや、よりによってこの子に最大の秘密を見破られてしまうとは。命を奪う戦いの中にあって、彼女の小さな姿を救いとして何度も求めていたのに。もしくはその依存こそが、看破される原因になっていたのだろうか。視線を落とし、表情を曇らせる里美に対して、高川は何歩も後退した。鉄骨の山が腰を鈍く打ちつけ、その衝撃は高川にとって、“これ以上の後退は逃走の始まり”という合図に感じられた。霧はどこまでも深くなり、歴戦の勇士は迷子の子犬のようにその中を頼り気なく彷徨うしかなかった。
決戦を前にしての晴天は、気勢をそがれるようでなんとも気に入らなかったが、それを理由に準備を怠れるはずもない。篠崎若木はこの日も仁愛高校まで足を運び、決戦場に決めた生徒ホールの建築現場の下見にきた。まず、誰にも気付かれず、裏門から学校の敷地内への侵入は成功した。植え込みの茂みに身を隠して時折現れる生徒や教職員の目を盗み、機を見て校舎の西側のプールを越え、建設現場の近くに設置された資材置き場のテントまでは何事もなく辿りつけた。フェンス越しに外観の観察は済んでいたが、すぐ傍で見るといくつかの発見がある。現場を取り囲む鉄パイプに張られた、高さ三メートルほどにも及ぶ工事シートは思いの外分厚く、シートのない出入口周辺以外なら、叫び声さえ上げなければ外からは気付かれないだろう。天井部分も一部はシートで塞がれているので、校舎や近隣の民家から見下ろされる事態を想定して、遮蔽も考慮した上で戦場を設定する必要がある。見張りを立てられない以上、できうる限り迅速な決着を試みるべきであるが、奴との勝負は、おそらく二分とかからず勝敗が着くはずなので、これについては心配はない。
なんだ、あやつは……。
コンクリートの袋やワイヤー、タイル、ガラス板などが積まれた資材置き場から建設現場の観察を続けていた若木は、奇妙な人影に目を留めた。数メートルほど離れた鉄骨の山に、誰かが身を潜めて向こう側の様子を窺っている。後ろ姿からして、ここの男子生徒のようだが、制服はだぶつき背中は薄く、貧相な体躯は見るからにひ弱で、武術者にはとても思えない。すると、なにかがぶつかったのか、鉄骨が揺れ、山が震えた。男子はそれに仰天して転がり、同時に「誰だ!?」と、野太い叫び声が上がった。男子は謝りながら慌てて逃げ出してしまい、あれがもし尾行をしていたのなら、なんとも情けない結果である。どうやら、あの間抜けは野太い声の主の様子を窺っていたようだが、誰が鉄骨の向こう側にいるのだろうか。このままでは下見の邪魔になるので、その動向を把握しておかなければ。若木は慎重な身のこなしで、たっぷりと時間をかけて資材置き場から鉄骨の山まで行き着いた。肩膝を立て、耳を澄まして様子を窺ってみたところ、どうやら、この山の向こうで男と女が話をしているようだ。「体調を崩す」「逃げるみたいに下校」女のそんな言葉に対して、男は「道場での稽古」などと言っている。女はともかく、男の言葉は聞き捨てならない。若木が気持ちをぐらつかせていると、女が「し、心配なの……高川くんのことが」と呟いた。男の方は高川か。いや、奴の話題をしているだけかもしれない。こうなったら、もうこの目で確かめるしかない。周囲に注意を配りつつ、悟られぬように山の陰から頭を出し、男女の姿を検めなければ。意を決した若木が鉄骨からひょこりと頭を出してみると、目の前で想定外の光景が繰り広げられていた。
「高川くん! わたしにだけは、本当のことを教えて!」
里美は、鉄骨の山に追い詰められた高川に、そう嘆願しながら迫り、胸に当てられていた彼の左手を両手で掴んだ。高川の背中越しに、若木はそれを見てしまった。あいつは、あの小さな女は、先週の日曜日の夜、電柱の陰から奴の自宅を見張っていた、刺客と思われるベージュのコートだ。学生服を着ているところから、どうやらこの学校に潜入を果たしているようだが、よもや忠告も無視して、対戦を迫るとは。里美の言葉を耳に入れる余裕もなく、若木は視覚から得た情報だけで状況を断じ、考えるよりも早く脳が身体に命令を伝達した。少女は鉄骨に手を掛けると、軽々とそれを飛び越え、高い跳躍によって全身で弧を描き、里美の背後に着地した。
「女! なぜ順番を守らん! 貴様から先に始末してくれようか!」
決して声は張り上げず、だが低く強い口調で、若木は怒りを言葉にした。里美の背後に降ってきた少女が何者なのか、高川にはわからなかった。だが、禍々しさと殺気を察した彼もまた、思考よりも感覚と行動を最優先した。高川は里美の手を掴み返し、その小さな身体をたぐり寄せ、スタジアムジャンパーの少女に向け、身構えた。
「貴様……篠崎若木か?」
昨年の九月に襲撃されて以来、半年ぶりになる。服装もまったく異なり、風貌にも若干の変化がある。しかし、この鋭い目に覚えはある。口調や構え、そして状況を冷静に分析すれば、そんな結論にしか至らない。静かに問うた高川は手に震えを感じた。これは、里美の肩から伝わる恐怖だ。守るべき存在に愛おしさを覚えた彼は、彼女の背中を軽く叩き、「任せろ。さとみん」と、優しく囁いた。
13.
「そうだ。篠崎流、篠崎若木だ。貴様の命を頂戴しにきた」
まだ、外からしか下見ができていない。シートの中を確かめるのが、最大の目的だったのに。それに、できれば勝負を有利に運ばせる仕込みもしておきたかった。資材置き場で見つけたコンクリートの袋など、動きを封じるのに都合がよく、予めいくつか忍ばせておこうと企てていたのに。なぜ、こんななし崩しでの対峙となってしまったのか。もう、余裕などなかったのだ。つい先ほど逃げ出した、あのか細い男子にしても、この小さな女と同様、刺客である可能性が極めて高い。高川典之を狙う者は、いつのまにか溢れかえっていたのだ。しかも誰もが依頼の順番というものを無視して、実に無秩序だ。なら、もう準備をしている猶予などない。若木は飛び出してしまったことを悔やみながらも、戦端を切るタイミングを窺っていた。
「高川典之は、この若木に優先権がある。それを、努々(ゆめゆめ)忘れるなよ!」
先週の日曜日に、この子はそう言っていた。目の前の彼女は、間違いなく同一人物だ。なにが起きている。篠崎流とはなんだ。武術の流派だろうか。
篠崎流? って言うか……なんだろう……これ……。
高川の傍らで怯えながらも、里美は奇妙な感覚に襲われていた。“篠崎流”という単語に聞き覚えがある。そして、このシチュエーションは、前にも一度経験したような気がする。あのときも彼は、何者かの殺気と向き合っていた。とても恐ろしく、直視できない結果だったような気がする。あれはそう、昨年の合宿だ。清南寺のお堂の、厳かな光景が同時に蘇る。あそこで何かがあったのか。だとしたら、なぜはっきりと思い出せない。まだ一年も経っていないのに。消されきれない記憶の断片に惑わされた里美は、恐怖から逃れるため高川の太い腕にしがみつこうとした。しかし、これから起きるであろう事態を想うと、その行為はためらわれた。「足手まとい」そんな言葉が少女の脳裏をかすめ、それを拒絶するため、里美は背後の鉄骨に背中を預け、高川から少しだけ離れた。
里美の挙動を気にしながらも、高川はスラックスのポケットに左手を突っ込み、発信器を操作して緊急事態コールを発信した。これから死闘が始まるのは必至であり、それに備えて傍らで怯えている彼女の安全を、誰かに確保してもらわなければ。リューティガーと遼は、朝から鞍馬山の偵察任務に就いている。受信圏内ではあるものの、偵察任務中の呼び出しには応じられないという基本原則があり、二人の助けは望めない。そうなると、残りは岩倉ということになる。彼は今日の放課後、所属する学内バンドの練習で、まだ校内にいるはずだ。この発信に気付けば、通信機で座標を確かめ、十分とかからずここに駆け付けてくれるはずだ。高川は、祈る様な気持ちで岩倉の坊主頭を思う浮かべたが、一気に眼前まで迫ってきた鋭い眼光に対応するべく、右手で里美を突き飛ばし、左手を握らぬまま、すっと水平に振り上げた。有無を言わさずの速攻は、高川の知る篠崎流とはいささか異なった初手ではあったが、彼は難なくそれに対応した。このままでは右肩を絡め取られ、体勢を崩されると予見した若木は左膝を折り、左手を軸に側転して奇襲を中断した。突進の勢いがあったため、急な制動は左膝に負担を生じさせたが、鍛錬を重ねた若木の身体は、それを柔軟に吸収し、痛みの欠片もなかった。鮮やかな回避行動に高川は息を呑み、力みのない理にかなった迎撃に若木は嘆息し、二人の柔術家は半年前の初戦から、互いに相手の戦力を一気に上方へと修正した。
正面からの突進を、予想していたかのような対応だった。あまりにも自然で、淀みがなく、ごく当たり前に、扉の前でドアノブに手を掛けるかの如き挙動だった。はっきりとわかる。高川典之は、完命流川崎道場師範、甲斐無然風より強い。血の目つぶしという奇手でかろうじて勝てた、あの大男より強い。なんということだ。もう、打つ手などない。たった一度の、それも毛の先ほども触れ合わぬやりとりで、若木は絶望の底に叩き落とされてしまった。側転から体勢を持ち直し、なんとか身構えて一定の距離を保ち、対峙を保ってはいるものの、こうなっては逃げるしかない。どうする。命乞いでもするか。だが、仮に逃げおおせてどうする。今の命をなんとかとりとめたところで、この男に勝てる見込みが立つまで、あと何人殺せばいい。あと何年、殺し続ければいい。万に一つの勝機にすべてを賭け、玉砕覚悟で仕掛けてみるべきか。だが決断など下せるはずもなく、篠崎若木は焦燥の極みに達していた。
速度も増し、動きも洗練され、何よりも全身から感じられる殺気が、半年前と比べてもケタ外れに鋭い。これで間違いない。可愛い後輩たちや、敬愛する先輩たちを殺したのは、この女だ。甲斐師範に勝てるほどの実力までは認められないが、今のような奇襲や、あるいは不意打ちであれば可能性はある。この身体能力をもってすれば、遠心力によって相当な威力の「大蛇」か、それに類する打撃技も可能だ。短期間で、余程の修練を積んできたのだろう。相当数の実戦も勝ち抜いてきたはずだ。制服のホックを外した高川は、若木の動きを警戒しつつ、突き飛ばしてしまった里美の行方も目で追っていた。里美はバランスを崩しながら、よろよろとふらついていた。そんな彼女の背後で、ブーツの底で、砂を噛む音が鳴った。これは、聞こえるようにわざとそうしているのだろう。頼れる仲間の登場に、高川は口の端を僅かに吊り上げ、対峙する篠崎流の使い手に全ての意識を傾けた。
背後から、硬く分厚い手で両肩を掴まれ、ふらつく身体がしっかりと支えられた。里美が背後を見ると、そこには演劇部の裏方の手伝いでよく見知った坊主頭があった。彼にしては珍しく険しい表情ではあったものの、丸い目には愛嬌の残照がかすかに残されている。岩倉次郎は里美を背後に回らせると、懐から自動拳銃を取り出し、その銃口に消音器を取り付けた。
「い、岩倉くん……それって」
意外すぎる岩倉の行動に、里美は声を震わせた。だが、岩倉は返事をせず、対峙する高川と若木の一挙手一投足に集中していた。初めて間近で見る拳銃は、黒く冷たい光を放っていて、おそらくは本物なのだろう。里美はこの時点で、篠崎若木という少女がただの喧嘩や武術対決を挑みに現れたわけではないと思い至った。
「ガンちゃん!」
里美ではない、別の少女に愛称を呼ばれた岩倉は、最小限度の注意を背後に向けた。
「神崎さん……」
岩倉に続いて駆け付けてきた演劇部の仲間に、里美は驚きの目を向け、その名をつぶやいた。高川も神崎はるみの登場に心が動いたが、それも岩倉と同様にほんの僅かであり、若木が最高の優先順位であることに変わりはなかった。
放課後、はるみは下駄箱で、リューティガーから渡されていた通信機から警告音が鳴ったのに気付いた。どうやら誰かが緊急事態に陥ったことだけはわかったのだが、それが誰で、どこにいるのかまでは、まだ操作に慣れていなかったためわからず、すっかり途方に暮れてしまった。ところが裏校庭に向かって駆けていく岩倉の姿が見えたので、おそらくはこの緊急事態に関係しているのだろうと判断して追いかけ、ここまで辿り着けた。はるみは、ひとまず状況を見定めてみた。岩倉次郎と、針越新部長と、高川典之と、そしてよくわからない女の子がいる。高川と女の子は身構え、これから戦おうとしている。岩倉の手には拳銃が握られ、現在が“それ”を使う可能性もあるほど、緊迫した状況下であり、高川と女の子の勝負はスポーツや喧嘩を超えた殺し合いなのだと結論づけられる。冷静に分析できてしまえる自分に、はるみは驚くより喜びを感じていた。自分はここにいてもいい。いられる者だ。しかし、そうなると目の前で震えている演劇部新部長には、どういった対応をとればいいのだろう。彼女はなぜここにいるのか。おそらくは巻き込まれたはずだ。なら、慎重に、そして疑念を覚えさせる間もない速さが大切だ。
「夏の合宿のときの子だ」
背中を向けたまま岩倉は、はるみに向かってそうつぶやいた。情報としては僅かだった。しかし、はるみは若干の時間を要するだけで、謎の女の子が何者なのか概ね理解した。高川と関連した「夏の合宿のときの子」、岩倉が拳銃を用意するほどの子、そうなったらただ一人しかいない。
合宿所である清南寺のお堂に現れたあの老人は、FOTから雇われた武道家であり、高川と対決し、遼の協力もあって敗れた。そして、最後にそのとどめを刺した、身のこなしの見事な袴姿の少女がいた。いま高川と向き合っているあの子は、あのときの、涙を流して去っていった“あの子”だ。いつもは親切で丁寧な岩倉が言葉を絞るのは、里美の存在を意識しているからだ。そこまでわかってしまったはるみは、力強く頷いた。
「神崎さん、先生を呼んでこないと」
はるみの二の腕を掴み、里美は嘆願するように言った。しかし、はるみは落ち着いたまま首を左右に振った。
「先生じゃ、この問題は解決できない。ここは、高川くんとガンちゃんに任せるしかない」
即座に返ってきた、しっかりとした口調の明言に、里美は反論の言葉を失った。これでいい。この速さが今は重要だ。はるみは肩を軽く振って里美の手を解き、彼女の手を握った。
「高川くん! 場所を変えるべきだよ! ここだと人目につくかも!」
はるみの助言に、高川は同意して頷いた。
「篠崎流! そういうことだ。決着は……」
高川は若木の背後にそびえる、生徒ホールの建設現場に気付いた。この時間なら、作業者は誰もおらず生徒の立ち入りは禁止されていて、実に都合がいい。「その工事現場で着けよう」身構える若木にそう提案した高川は、移動を示唆するため構えを解いた。
戦端を開いてから五分足らずで、状況は激変してしまった。逃げるべきか、玉砕覚悟で仕掛けるか。それを決めかねていた若木にとって、岩倉次郎と神崎はるみの登場と対決の仕切り直しの提案は、前者においては不安要素の増加であり、後者においては好機が生まれるきっかけでもあった。最新の情報によると、岩倉次郎は半年前とは比較にならないほど銃器の取り扱いに精通しているらしいが、確かにその通りだと思われる。消音器を取り付ける所作など、実に手慣れていた。おそらくだが、射撃の腕前も確かなものだろう。しかし、であれば逃亡はより困難であり、こうなったら建設現場の中で、逆転の奇策を即席で編み出すより他にない。若木は構えていた手を下げ、「うむ」と返事をした。高川と若木、二人の柔術家はほぼ同時に踵を浮かせ、工事シートが唯一外されていた出入口に向かった。あの中でなにが行われるのか、それを見届けたい。恐怖は感じていたものの、里美は欲求に従い、駆け出そうとした。だが、その手首を背後から岩倉が掴んだ。
「ダメだよ。針越さんは早く逃げるんだ。き、危なんだよ」
情報の漏洩を最小限度に抑えながら、この状況を説明するのはあまりにも困難であり、岩倉の言葉も濁っていた。
「でも! 高川くんが!」
“高川くんが”なんであるのか、どうなるのか、里美にはわからなかった。ただ、想像は容易だ。舞台の脚本を考えるより、ずっと単純な結論が導き出せる。二人はあの中で、殺し合いをする。自分にできることなどない。だが、このまま逃げるのは嫌だ。里美は懸命に岩倉の手を振りほどこうとしたが、彼の太い腕はびくともしなかった。
「心配なの! 高川くんが!」
言いながら、里美は高川が隠していた秘密がアルバイトなどではなく、このような過酷な現状なのだと気付いていた。だからあそこまで狼狽え、慣れない言い訳などしたのだ。岩倉は、里美に対する効果的な説得の言葉を探したが、常人離れしたページ数を誇る記憶の辞書に記されているどれを選べばよいのか、定められなかった。
「ガンちゃん、針越さんも連れて行こう」
はるみの意外な提案に、岩倉はぎょっとなって丸い目を大きく見開いた。
「針越さんには、結果を見届けてもらった方がいい。外への見張りはわたしがやるから、中に入りましょう」
はるみは里美の高川への想いを、いま初めて明確に知ったが、これはそれを思いやっての判断ではなかった。このまま里美が去ったと想定した場合、教職員か警察を連れて戻ってくる可能性が高い。そうなれば、高川や岩倉が極秘としている賢人同盟への協力が白日の下に晒される。しかも、あの少女がFOTの刺客だとすれば、教職員や警察がやってきても被害者が増えるだけで、それは里美にとっても余分な罪悪感を生むことになる。はるみにとって、この判断はあくまでも合理的な計算に基づいた結果だった。
「わ、わかったよ神崎さん。い、行こう、針越さん」
掴んでいた手首を離し、今度は背中を軽く叩き、岩倉は里美を促した。
「けど、くれぐれも気を付けて。もう戦い……殺し合いは始まっていると思うから」
「うん。わかってる」
はるみの忠告に、岩倉は振り返って笑顔で頷いた。そこから醸し出された安定した頼もしさに、はるみは彼が自分の知らない経験を相当積んでいるのだと納得し、余計な忠告をしてしまったと恥じ入ってしまった。
三人は、高川のあとを追った。先頭の岩倉は、工事シートの張られていない建設現場の出入口から中の様子を窺い、はるみと里美を招き入れた。その所作が、穏やかな性格で肥満体型の岩倉からは連想できないほど流れるように迅速だったので、里美はただただ驚き、はるみは感心してしまった。生徒ホールということもあり、中の建設現場は広々としていたが、まだ基礎工事の最中であり、杭打ちとコンクリートの土台部分は完成していたが、並行作業で柱の一部を立て始めたばかりであり、鉄板を天面に鉄パイプで足を組んだ高所作業用の足場が随所に設置されていた。土台から伸びるいくつもの鉄骨や、雑然と置かれた機材や資材に気を付けながら岩倉たちが中を進むと、二つの人影が目に入った。高川と若木がここに入ってから、時間にしてすでに五分ほどが経過していたが、激突はまだ始まっておらず、二人はほぼ中央の地点で対峙していた。岩倉ははるみと里美に足を止めるように指示を出し、肩膝を着き、自動拳銃の照準を若木の後頭部に定めた。この距離なら、愛用の“ベビーイーグル”でもじゅうぶんな援護射撃が可能だ。清南寺で遼が異なる力でそうしたように、必要とあらば今度はこの9ミリパラベラム弾で、仲間を助けなければ。少女の殺害には躊躇いもあったが、岩倉はいつでも覚悟を決められる自信があった。
はるみは里美の肩を軽く叩くと、出入口に向かって駆けていった。勝負の行方は気になるが、見張りという役割を果たすため、はるみは振り返ることなく高川の勝利を願った。
喉が渇く。目の奥が痺れる。脇腹がきりきりと痛む。高川に向かって身構える若木は、極度のストレスに襲われていた。競い合うように駆け込み、ここに至るまで仕掛けに使える何かを目で追いはしたが、逆転の奇策など、欠片も用意できなかった。完命流の達人は、すぐ隣で併走しながらもこちらの挙動からまったく目を離さず、目つぶし用の液体や、土嚢やブロックが集められている場所も特定できず、結局この真新しいコンクリートが敷き詰められた建設現場の中央という、何の工夫もできない、ただ開けたありふれた場所での対峙となってしまった。せめてもの救いと言えば、五メートルほど背後に設置されている足場ぐらいか。しかし、眼前で身構える敵からの威圧感は大きく、振り返って構造を確認する余裕もない。しかも斜め後方には岩倉までもが現れ、奴の銃口にも晒されてしまった。これでは、先ほどまでと状況はなにも変わらない。好転など愚かな希望だった。事態は、相変わらず最悪だ。どれほどの時が経ったのだろう。緊張で、時間の感覚も怪しくなってきている。初手はどうする。遠間は保ってはいるものの、体格差を考えれば、正面からの組合いや首相撲は潰されるだけなので絶対に避けるべきだが、背後を取る方法が思いつかない。片足へのタックルという手はどうだろう。速攻なら自信がある。片足を取り、膝を極めるなり、そこからマウントに移行するなり、肘を取るなりと、成功さえすればそこからの選択肢は一気に広がる。外での一撃は呆気なく予想されてしまったが、祖父との暮らしで何万回と繰り返してきた“法皇崩シ”には絶対の自信がある。
やるのみ!
現状を打破するため、若木は高川との間合いを遠間から近間へと一気に詰めた。顎先は地面に着くほど低く、両手は後方に流していたため、高川には若木の初手が打撃なのか組み付きなのか判別できず、ひとまず間合いを離すため後退した。しかし、そこから若木の身体が伸びた。追い足の速さは高川の予想を超え、突進の限界と見極めた地点は若木にとって、通過点に過ぎなかった。若木は、後ろに回していた右手を前に回し、体勢が若干崩れた高川の右足に抱きついた。そして右肩を掴もうと左手を伸ばしたが、高川は左腕で若木の頭を抱き込み、頸動脈に拳を押しつけようと試みた。落とされる。即断した若木は高川の足を押し返すように離し、抱き込まれていた左腕から逃れ、後方に宙返りをして再び間合いを遠間まで離した。著しくバランスを崩してしまった高川だったが、膂力と卓越した平衡感覚でその場に踏ん張り、今度は自分から間合いを詰めた。息が触れ合うほど接近した両者は、優勢を確保するため細かくステップを踏み、両手は打撃や掴みかかりやフェイントと、相手のそれらを防ぎ、断るための挙止でめまぐるしく前後した。
戦いを見守る里美にも、そして岩倉にも二人のやりとりを目で追うのは困難を極めた。どちらが優勢か、まったく判断ができない。それほど、柔術を極めんとする者たちの動きは速かった。
均衡を崩すべく、高川はタイミングを見計らって若木の左膝に自分の右膝を重ねようと踵を離陸させた。ここから、強引に相手の体勢を下げ、首相撲に持ち込んで制圧を果たす。体格差があるほど有効性が増す、“洛葉(らくよう)”を試みた高川だったが、危険を察知した若木はそれより早く膝を曲げ体勢を落とし、水面蹴りを放った。向こう脛に衝撃を受けた高川は、端正な顔を歪めたものの、なんとか踏みとどまった。攻勢の機が訪れたと判断した若木は、守りの体勢をとった高川の二の腕や脇腹を蹴った。完命流と篠崎流は、柔術ではあったが打撃技も充実しており、空手やキックボクシングといった他流格闘技からも、どん欲に技術を取り入れ進化し続けている。若木の攻め手は、ムエタイのミドルキックに酷似した、しなやかで伸びのある蹴りであり、分厚い筋肉の鎧を纏ってはいるものの、高川に着実なダメージを与えていた。
以前の対戦とは別人であると認識したが、ここまで技を高めていたとは。猛攻に晒されながら、高川は興奮していた。もう、憂いの霧など微塵も感じられない。これこそが求めていた戦いだ。やはり、武術こそ己が進む至高の道だ。雪山で銃弾が飛び交う中、人ではない化け物と戦争など、あんなものなど戦いとは言えない。あんな邪道、金輪際お断りだ。高川は、自覚していなかった。若木と技術を競い合いつつ、自分が無意識のうちに攻め手を緩めていた事実を。高川と若木の実力差は、若木が外での対戦で認識した通り、歴然とした差があった。道場での稽古ではなく、命の危険がある戦いにおいて、高川は本能と狂気を解放し、ポテンシャルのすべてを発揮することができる。彼自身、自覚してはいなかったが、本能と狂気に任せた高川とは、師範の楢井や無然風を凌駕する人間凶器であり、若木の積み重ねて来た経験など瞬く間に水泡に帰すほどの達人であった。だが、若木とは高川にとって、命の危険を感じるまでの脅威もなく、興味を失うほどの弱者でもない、程よい好敵手だった。戦いが続くにつれ、高川は気付かぬまま手を抜いていた。若木が目潰しや遺体を用いた体固めといった邪道を用いれば、高川も狂者の片鱗を見せる可能性もあったが、なし崩しで始まってしまった戦いにおいては、そうした展開は生じようもなかった。
なんという堅い守りだ。これではまるで丸太だ。損害は与えているはずだが、効果が出る前に、こちらの疲労が上回る。若木は守りを固める高川への連続蹴りを諦め、後に跳ねて間合いを開けた。打撃では突破口は開けない。そうなると、寝技に持ち込むしかない。だが、信頼のおける“法皇崩シ”は見事にかわされ、他になにか体勢を崩すきっかけが必要だ。篠崎流には、テイクダウンを目的とした技がまだいくつもあるが、ここまで体格が違う相手だと、ごく僅かに絞られる。しかももしそれが成功したところで、膂力の差はいかんともしがたく、寝技自体に不安がある。若木は高川の動きを見定めつつ、勝利への戦術を練った。間合いを後ろに開けても追撃がこないのは、打撃のダメージが少なからずあるというわけで、それなら寝技での選択肢も若干だが増える。いまの連蹴りにおいて、会心の“三日月羽根(みかづきばね)”がガードをかいくぐり肝臓に二発入ったと思われるので、反応の遅れが期待できるかもしれない。若木は、高川の陰りに期待していた。
もう少し打撃の雨が続くと思われたが、どうやら消耗戦を嫌い、間合いを開けたようだ。悪い判断ではない。むしろ、懸命と評するべきか。なら、ここはあえて追撃はせず、次の出方を待とう。高川は、両腕を前に構える防御の態勢を少しだけ緩め、下がった若木の動きを観察した。猛攻ではあったものの有効打は一発もなく、下腕と上腕、腿に腫れと痺れを感じるだけだ。途中、二度だけガードが突き上げられ、鋭い回し蹴りを胴に当てられたが、いずれも僅かに打点をずらしたので、大きなダメージは受けていない。さて、次はどのような手に出る。まだまだ勝負はこれからだ。それなりに冴えのある打撃を見させてもらったから、この先も楽しみだ。高川は、若木の可能性に期待していた。
戦術を練り終えた若木の細身が跳ねた。弾丸のような勢いでスタートを切った若木は、左手を伸ばし高川の右手首を掴んで引き込んだ。やはり、動きが若干だが鈍くなっている。最初のプロセスの成功に意を強くした若木は、高川の右腰、足の付け根からやや側面よりのポイントを右足で押し出すように水平に踏みつけ、残った左足で高川の右足首を刈り取った。一連の挙動は淀みが絶無で、四肢の中で唯一自由だった右腕は、いつでも右方向からの反撃に備えていたが、全身のバランスを崩してしまった高川は、右半身からコンクリートの地面に倒れるしかなく、実戦で初めて試みた“轟府(ごうふ)”は、寝技の主導権の突破口を若木に与えた。ここから右手首を掴んだまま両足で肩口をフックし、己の膝を梃子の軸として、肘を可動域の逆方向にへし折る“独鈷(とっこう)”に持っていけば、右腕の破壊は完了する。人間離れした獣人でもない限り、絡め取られた右腕の腕力では、脱出は不可能である。若木は、できるだけ速く、想定を実行に移そうとした。
油断が過ぎたか。可能性に期待などしていたら、この体たらくだ。まさか、“心中輪(しんちゅうりん)”から、腕関節の体勢にまで持って行かれるとは。惜しいが、様子見はこれで終わりだ。高川は、勝負を決する覚悟に至った。
仰向けになった高川の左手首を掴んだまま、同じように仰向けの体勢になっていた若木は、両足を高川の肩口に乗せようとした。だが、若木が想定してたよりずっと早く、高川は肘を支点に左半身を起こした。まさか、これほど速く、力強い反応だとは。陰りなど皆無。“三日月羽根”など効いてはいない。右手首を容易に取られ、“轟府”によって倒されたのは、よもや誘い込むための罠だったのか。若木は戦慄したが、同時に選択も迫られていた。高川の反応より速く、“独鈷”を極めてしまうか、それとも別の技に移行するか、やむを得ずいったん距離を取って体勢を整えるか。若木は掴んでいた手首を離し、肩口を押さえようとしていた足を開き、いちはやく完命流の猛者から逃れようとした。最も消極的な行動を選んだのは、陰りへの期待を裏切られた焦燥感が心を犯していたからだった。だが、その決断が、彼女の可能性を潰してしまった。若木が離れるより速く、高川は自由になった右手で若木の着ていたスタジアムジャンパーの裾を掴み、腕力でそれをたぐり寄せるのと同時に彼女の全身をうつ伏せに転がし、左膝を背中に押しつけ、右手首を鷲掴みにして後手に押さえつけ、右肩に右膝を被せ、左腕で後頭部を押さえつけた。
「完命流奥義、奉命砕(ほうめいさい)……右肩と肘、そして首は完全に制した。勝負あったな」
脱出するはずが、いつの間にかうつ伏せにされ、上半身を制圧されてしまった若木は、なにがどうあってこの状況に陥ったのか理解できず、コンクリートに顔を押しつけられ悶絶するだけだった。いったいどうした。なんでこうなる。あの体勢からこの結果に至るまでには、二桁以上の行程が必要なはずで、それに要する時間は想定できるが、ここまで速いはずがない。それに、行程のどこかで反撃の機会もあって然るべきだが、そんなものはどこにもなかった。まるで自分の時間だけが止まり、その間に行程が費やされたとしか思えない。
いや、そうではない。
行程そのものが、違うのだ。省き、纏めたのだ。省いたのは確認だ。反撃や想定外の行動に対応するためには、確認という行程が随所に差し挟まる。おそらく、そのすべてを省いたのだろう。そして纏めた。手首を掴む。左膝で背中を、右膝で肩を、左腕で首を押さえる。この四つの行程を同時に行えば、時間は圧倒的に短縮される。省いて纏めたのなら、速さの辻褄も合う。だが、省くのも纏めるのも、途方もない博打だ。省けば思わぬ反撃に弱く、纏めればひとつひとつの行程は雑になり、失敗を生む可能性も高まる。恐くないのか、生死がかかっているのに。
恐くないのか……生死など、かかっておらぬから。
絶体絶命の窮地にあって、若木はわかってしまった。省いたのは、反撃がないと踏んだからだ。纏めたのは、小さなしくじりはいくらでも補填できるからだ。そして最も恐ろしいのは、この完命流はその二つに対して無自覚なまま、勘だけで動いたことだ。完命流の奥義でいく。それだけしか考えなかったのだろう。いや、それすら動いている途中に思いついたのかもしれない。核心に至った若木は、コンクリートの粉を吸い込み、激しくむせた。どうやら、掃除かなにかで集められた粉の山が、すぐ近くにあるようだ。
「奉命砕からは抜け出せん。おとなしく降伏しろ」
背中を押さえつけている高川からの勧告に、若木は咳き込みながら「断る」と答えた。
「であれば、肘と肩を同時に壊す。それでこの戦いは終わりだ」
片腕を破壊されれば、逆転の勝機は絶無となる。それは若木にもよくわかっていたが、目の先にコンクリートの粉の山を捉えた彼女は、不敵な笑みを浮かべた。
「首をへし折って殺さんのか? 若木は高輪道場の二人、川崎道場の十七人を手に掛けたのだぞ」
十歳の宮川楓、そして十四歳の朝茂田小太郎は、高輪道場の可愛い後輩たちであり、何者かに路上で惨殺された。そして甲斐無然風をはじめ、各道場の猛者たちは、川崎道場の襲撃で命を落とした。声色に嘲りを乗せた犯罪の告白だったが、高川は心を乱さず「降伏しろ」と、再び勧告した。
「若木は完命流の天敵なり! 邪道に跪くは正道の恥! この若木は、降伏より死を望む!」
胸を押さえつけられ、粉塵に苦しみ、それでも若木は渾身の力で拒絶の声を張り上げた。高川は意を決し、右膝に体重をかけ、同時に若木の右肘を抱え込み、可動域を越える圧力を与えた。肩が外れ、肘が砕ける鈍い音が建設現場に響いた。高川は痛みにのたうち回る若木から離れ、近寄ってきた岩倉と里美に辛そうな目を向けた。肩を脱臼し、肘を骨折したにも関わらず、若木は呻くだけで叫び声は上げなかった。しかし苦悶に表情は歪みきり、よだれと涙をだらだらと流し転げ回るその様はあまりにも凄惨で、高川の陰で里美は目を背けてしまった。
「高川くん、ど、どうするんだい?」
岩倉に処遇を尋ねられた高川は、割れた顎に手を当て、小さく息を漏らした。
「う、うむ……」
どうすればいいのか、高川は考えあぐねていた。同門たちの無念を思えば、この手で命を断ち切り、すべてを終わらせてしまうべきである。目の前で打ち上げられた魚のようにもがき苦しむこの少女は、最低でも十九人をあやめた殺人犯だ。だが、あまりにも若い。どのような環境で生まれ育ったかはわからないが、どうにも情操が常人離れしていて、殺人に対しての罪悪感などないのかもしれない。ここで殺したところで、この少女はなんの反省もなく、ただ完命流に敗れ去ったという屈辱感だけを胸に、短い生涯を閉ざすだけなのではないだろうか。それでは、死んでいった宮川楓たちは浮かばれない。いっそ、ここは社会というものに委ねてみるのも手段のひとつか。裁判を通して殺人の罪を裁き、その過程で犯した罪の重さを知らしめるのはどうだろうか。結論も出せぬまま、高川はともかく若木の身柄を確保するため、のたうちまわる彼女に歩み寄っていった。五歩まで進むと、若木のもがきは背を向けたままピタリと止み、高川はまさか絶命したのかと驚き、足を止めた。次の瞬間、高川は目を閉ざした。命がけの戦いはまだ続いており、自ら視覚を塞ぐという行為は考えられないのだが、彼の生存本能は判断するよりも先にそれを選んでいた。眼球に、僅かな違和感がある。なにか、異物が入り込んだようだ。もし数瞬でも長く目を開けていれば、より多くの異物が侵入し、視覚は奪われていただろう。瞼をこすり目を開けた高川は、制服の袖が粉だらけになっているのに気付いた。これはコンクリートの粉だ。どうやら目潰しのために若木が放ったようだが、これほどまとまった量の粉を、いつのまに仕込んでいたのか。それよりも、若木はどうした。高川は目で追ったが、赤いスタジアムジャンパーは、のたうち回っていた地点にはなく、そこからやや離れた足場の上にあった。
「さらばだ完命流! 次こそは、この若木が勝利者だ!」
うまくいった。激痛に耐え、もがき苦しみながらも気付かれぬようにコンクリートの粉の山まで左手を伸ばし、まんまと目潰しは成功した。右腕は使い物にならないが、左手だけでも梯子は登れるし、両足は健在だ。脱出できるかどうか、それはわからない。だが、再戦に備え生き延びなければ。もっと鍛え、もっと経験を積み、三度目の正直で勝利を掴み取る。今日の戦いで得たものは多大だ。己の弱点、短所、敵の優れた点、長所、そして意外な欠点がわかった。どれだけの時間がかかるかわからないが、いずれ差は埋められる。篠崎流こそ最強である。それを証明するのは“次”だ。再戦の宣言をした若木は、腕の激痛を堪えながら隣の足場に跳んだ。
機敏さはすっかり失われ、のろのろとした頼りない逃走だが、あと二つほど壁よりに足場を渡れば、シートのない天面から外に出られてしまう。このまま放っておけば、あの篠崎流の少女はこの建設現場から脱して、校外に出てしまうだろう。いまから追いかければ、おそらくは確保できる。警察に突き出せば、彼女が告げる“次こそは”は永遠に訪れないだろう。これからがちょうど、武術家としての成長期を迎える年頃であり、数年あれば女でありながら、こちらを凌駕する達人になるやもしれない。そんな天才を、果たして獄につないでよいのだろうか。考える余地は、まだあるのではないだろうか。
俺は、なにを考えている。
若木の背中に向けて、拳銃を構える岩倉の傍らで、高川は呆然としていた。棺で見た、宮川楓や朝茂田小太郎の死に顔が忘れられない。楓は、顔面が陥没し、あの愛らしさは見る影もなくなっていた。連打で惨殺された小太郎も、人相がわからないほどだった。豪放磊落、快活だった甲斐師範も棺の中で永遠の沈黙者になっていた。霧が、立ちこめてきた。攻防の中ですっかり晴れ渡っていた憂いの霧が、死んでいった者たちの無残な屍を覆い隠していく。
獄につなぐ? 俺は、思い上がっている。
裁判で捌かれればいい? 俺は、何様のつもりだ?
半年前、襲撃を受けたものの放置した結果がこれだ。霧の中で、少女がひとり怯えている。あれは、さとみんだ。篠崎流に「貴様から先に始末してくれようか!」と恫喝され、わけもわからず恐怖に苛まれる可哀想な子だ。次は、彼女が棺に入る番なのか。そんなのは嫌だ。拒絶は、霧をより濃くさせた。それにつれ、彼女の姿も意識から消えていく。この霧は、どこまでも心を濁らせ、曇らせ、心の彩りを失わせていく。高川典之は、目を閉ざし、両手で耳を塞いだ。
苦悩の極みに陥った高川の傍らで、岩倉は若木の背中に自動拳銃の照準を合わせていた。あそこまで弱り果てた標的なら、絶対に外さない自信はある。だが、それは着弾を胴体に限った場合であり、足や腕では外れる可能性が高い。つまり、射殺という結果が待ち受けている。どうする。ふらふらと逃げようとしているあの少女は、殺してしまっていい相手なのだろうか。彼女は清南寺で祖父にとどめを刺したが、それ以外になにをしてきたのかよくは知らない。完命流の門下が次々と殺害された事件の犯人かもしれない。背中を押さえつけられた際、高川に向けて何かを喋っていたようだが、距離が遠くてよく聞こえなかった。どうする。いくらふらふらでも、彼女はもうすぐここから脱出してしまう。
岩倉が射撃をためらっていると、構えていた拳銃のスライドに、横から分厚い手が被せられた。邪魔するのは誰だろう。岩倉は、ほんの僅かだけ視線を横に流した。そこには、両目を閉ざしたままの偉丈夫の姿が在った。
もう一度だけ、あの隣の足場で最後だ。シートが張られていないあの向こう側は、植え込みになっているはずだ。そこから裏門までの距離を走り抜け、街路に出る。これほどの深手を負って、逃げ切れるのだろうか。いや、その弱気が敗北の苗床だと、さきほどの戦いで思い知ったはずだ。どこまでも気持ちは前に、常に成功を思い描け。脱出の暁には、更なる修練と向上の日々が待っている。気が遠くなりそうな激痛に顔を歪めたまま、三つ目の足場の端までようやく辿り着いた若木は、霞む目で跳び先をしっかりと見据えた。
どすん。背中を、なにかが打った。回し蹴りの“鳴門独楽(なるとごま)”を越える強さだ。身体中が痺れる。右腕の痛みを上書きするほどだ。
どすん。今度も後からだ。腰の辺りに、同じ強さが打ち付けた。身体の自由が効かない。思い通りに動けず、打ち付けた強さにただ晒され、左足の踵を軸に、くるりと後に向いてしまう。ダメだ。こっちは反対方向だ。けど、動かない。動けない。
ちゅいん。すぐ傍の手すりに、なにかが光って跳ねた。
あれは、なんだ。地上にいる学生服の男が、両手で拳銃を構えている。どっしりと腰を落とし、銃口はしっかりとこちらに向けられている。あれに、背中から撃たれたのか。岩倉次郎に、この若木が。違う、あれは、違う。岩倉は、あの太った岩倉は、拳銃を構えた男の隣で、女生徒の頭を抱きかかえている。
あれは、完命流、高川典之だ。違う、奴がピストルを使うはずがない。それに、目潰しで狙いも付けられないはずだ。だけど、あれは、高川典之だ。見間違えるはずがない。
「針越さん! 見ちゃだめだ! 高川くんのためにも、君のためにも!」
岩倉は里美の頭を抱きかかえ、高川の決断を見守った。高川は足場の上で正面を向いた若木の胸に照準を合わせ、人差し指に力を込めた。
どすん。胸を銃弾が殴りつけた。これは、心臓、だ。
若木の細い身体が崩れ、足場から地面に落下した。背中を打ち付け、仰向けになった若木の視界に青空が広がった。そうか、終わるのか。最後は、完命流ではなくピストルの弾で。なにもかもがしぼんでいくのを、若木は全身で感じていた。自分は、なにがしたかったのだろう。最後に考えてみたが、そんなものは、なにもないことだけがよくわかる。なぜだろう、それがひどく悔しい。青空が潤む。頬が湿る。自分は、泣いているようだ。泣くほど悔しいのか。負けたことより、なにもなかったことが。
どこまでも青い空のもと、篠崎若木の身体は煙を噴き上げ、あちこちがばちばちと弾け、泡となって滅んでいった。
深く、暗く、淀みきった霧の中に高川はいた。彼は決めてしまった。これからもこの憂いの霧と共に進むしかない。それはこれまでとは違う道だ。武術ではない、名前もわからない道だ。狂気ではなく、果てしもない正気の中での決断だった。岩倉から拳銃を借りず、若木を捕まえ、命を絶つという選択肢もあった。だが、より確実な解決方法を選んだ。若木の殺めた命に対する責任は、己にもある。甘く、こだわりが強く、愚直な自分が若木という怪物を育て上げてしまったのかもしれない。だから、撃鉄を下ろし、断ち切るのを選んだ。これは罰だ。心に霧を纏ったまま、高川は上空に広がる青い空を見上げた。
見張りから建設現場の中に戻って来たはるみは、高川の手に拳銃が握られていることと、小さな骸が泡化していく様を見くらべ、その因果を結びつけた。足音に振り返った高川は、ぎこちない笑みをはるみに向け、視線を岩倉と里美に向けた。
「すまん、ガンちゃん」
拳銃を岩倉に返した高川は、里美の肩に右手を乗せた。
「針越さん、いまは、なにも聞かないでくれ。そして、できれば誰にも言わないでくれ」
高川の頼みに、里美はこくりと頷いた。無茶とも言える要求に対して、里美は即決で応えてくれた。高川は礼を返そうと思ったが、それより早く、安心した彼の心に高波が襲いかかった。低いうめき声を上げ、端正な顔をくしゃくしゃに歪め、目と鼻からは止めどなく体液を垂れ流し、高川典之は里美の肩に手を乗せたまま、両膝を屈し、号泣した。自分と若木に下した罰に対しての、怯えと悔しさに耐えきれず、彼の心は決壊するしかなかった。
事情はわからないままだ。けど、彼は泣いている。子供のように、感情を顕わにして。それはそうだ。その瞬間は見ていないが、彼は人を殺してしまったのだ。けど、きっとそうするしかなかったからだ。そう信じよう。「だいじょうぶだよ。わたしもいるから。ずっと」そうつぶやき、里美は高川を抱き寄せた。
はるみは岩倉の肘を掴み、高川と里美から少しだけ離れるように促した。泣きじゃくる彼と、それを支える彼女を見ていると、もの哀しさと、いとおしさが溢れてくる。はるみは小さく息を吐き出すと気持ちを切り替え、おそらくこの現場に向かっているであろう陳や健太郎への連絡をどうするべきか、そして最終的にこの件をリューティガーにどう知らせるべきか、それを考え始めた。
ひときわ高い足場の上で、一人の少女がすべてを見下ろしていた。ある任務を遂行するため、この建設現場を訪れていた澤村奈美ことライフェ・カウンテットは、今日の任務を諦めることにした。高川たちから泡の溜まりへ視線を移したライフェは、なんの感情も動かないのを自覚すると、足場の鉄板に身体を溶け合わせていった。
14.
路地裏のポリバケツの前に、スキーウェアを身に付けた島守遼が佇んでいた。五反田駅の東口側の繁華街には何度か来たこともあるが、こんなうらぶれた路地で夜中に人と待ち合わせをするのは初めてである。ポケットに入れた携帯電話からの震動を感じた遼は、それを取り出して着信を確認した。違う。待ち合わせの相手ではなく、はるみからのメールだ。今日は夕方に岩倉から一通、そしてはるみからはこれで二通目のメールとなる。内容はいずれも放課後に発生したFOTによる襲撃についてであり、はるみからの二通目には、目撃者である針越里美への対応をどうするべきか、その方針について記されていた。はるみは、記憶の消去はせず、このまま秘密を共有し、リューティガーにも報告するべきであると提案している。その賛否についての意見を求めているが、いまは返信をしている余裕はない。遼は携帯を再びポケットに戻し、背後で輝くネオンを確認した。「パチンコ・五反田ワールド」確かにここで間違いない。朝から鞍馬の雪山で偵察任務に就き、獣人との戦いもあったため、疲労はピークを越えている。時刻は夜十時。本来なら、とっくに帰宅し、泥のように寝てしまってもおかしくはない。だが、そうしている場合ではなかった。
「早いな、島守」
背後からの聞き覚えがある低い声に、遼は振り返った。
「五分過ぎてるぞ、大和」
「んだよ、なんつー格好だよ」
遅刻に対する謝罪もせず、クラスメイトの大和大介(やまと だいすけ)は、遼の都会では暑苦しく見える服装に苦笑いを浮かべた。
「どうだっていいだろ。それより、どこなんだよ」
これで三度目だ。最初になる先週の月曜日は歌舞伎町で、二度目の金曜日は渋谷のセンター街で、こうして大和と待ち合わせを続けている。それにしても、髪を三分まで短く刈り込み、眉もほとんどなく、極めて目付きの鋭い強面の大和は、こういった猥雑な繁華街に似つかわしい。ハイネックの真っ白なジャケットもヤクザ映画に出てくる下っ端のようで、まるで狙ってきたかのようなコーディネートだ。遼は奇妙な感想を抱きつつ、周囲に視線を移し、足先で何度も地面を叩き、苛立ちをアピールした。
「あの店にいる。今日は五人で来ているって情報だ」
ジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、大和は細い顎先で路地の突き当たりにある店に注意を促した。遼が目を向けると、その先には小さな雑居ビルがあり、二階にはキャバクラが入っていた。
「ちょうど出てきたぞ。あいつらだ」
ビルの階段口から、男たちが次々と姿を現した。数は大和の言った通り五人で、ひげ面も混じっているため年齢はわからないが、いずれもだらしのないラフな軽装で目付きも悪く、夜だというのにサングラスを着用する者もいて、一見して堅気ではないその筋といった容貌であり、先週紹介されたのと似たような連中だ。
「いわゆる半グレ。チャイナの元暴走族で、そのころからオドシもツッコミもやり放題。なんとか孤児の……死背獣(シセイジュウ)っつーグループの傘下で、メインのシノギはクラブ経営とオレオレ詐欺。あんな場末の店で幅利かせてるしょっぼい連中だ」
大和からの早口な解説に、遼は無言で頷いた。言葉の中にはいくつか意味のわからないものも混じっていたが、要するにあいつらはヤクザ未満のチンピラグループということだ。オレオレ詐欺にまで手を染めているのなら、泣きを見た被害者もいるはずだし、あれなら罪悪感など抱かずに済む。やはり、大和に依頼して正解だった。比較的優等生が多いクラスメイトの中でも彼は特殊な存在であり、独自の情報網を持っている。ああいった輩と接触するには、ちょうどいい紹介者だ。遼はポケットから一万円札を三枚取り出すと、それを大和に手渡し、「また頼む」と告げた。大和は事前に取り決めていた通り、遼がこれからなにをするのか見届けず、紹介料を受け取ると小走りに路地へと消えていった。
さて、ここからが本番だ。眼前を歩き過ぎていく五人の背中を見届けると、遼はそのあとをついていった。男たちの歩みはのろのろとしていて、遼は一定の距離を保つのに神経を使った。十メートルほど進むと五人組の足が急に速まり、細い路地に曲がり姿が見えなくなってしまったので、遼は慌てて角を曲がった。
「んだよ、オラ」
角を曲がった途端、遼は五人のうち最も大柄な、禿頭にサングラスの男に凄まれた。残りの四人は禿頭のうしろに控え、つまらなそうに不機嫌な様子で遼を睨み付けていた。どうやら、尾行は呆気なく気付かれてしまったようである。もっともそれほど慎重に行動していたわけでもなかったので、遼はたいして慌てず、冷静さを崩さぬまま大男を見上げた。
「別に。ただ、ついてきただけ」
一年前だったら、こんなガラの悪そうな巨漢に凄まれたら、恐怖に襲われ謝りながら走って逃げ出していただろう。もし追いかけられて捕まったら、財布は確実に失うはずだ。だが、今は怖くない。こんなのよりもっと恐ろしく、命の危険がある相手と戦っているのだから。平然と言い返した遼は、わざとらしく微笑んだ。それを、挑発の意図を含んだふざけた態度だと判断した男は遼の胸ぐらを掴み、「んだと、オラァ!」と、ほとんど同じ恫喝の言葉をより強い口調で放った。音量に、遼は目を閉ざして顔を背け、男の手を右手で軽く触れた。その途端、男はぶるぶると震え、遼のスキーウェアから手を離し、その場にどすんと崩れ落ちた。
「はやっ!」
想定していたよりも早く出た結果に、遼は驚いた。残りの四人は、理解しがたい成り行きに戸惑ったが、誰ひとりとして倒れた仲間の元には駆け寄ろうとしなかった。そんな反応を冷静に観察していた遼は、ますますもって遠慮をしなくていいと考え、不敵な笑みを浮かべた。
「できんだよね。俺って、こーゆーの。次は誰だよ?」
親指で自分を指した遼は、倒れている巨漢を乗り越え、四人に近づいた。五人の中でもリーダー格であり、非常事態に遭遇した経験が最も豊富だった長髪の男、“タケジン”は、遼を尾行者ではなく襲撃者だと認定し直した。余裕のある表情、躊躇いのない接近、そしてどこまでも穏やかな態度。こいつは見かけによらず、それなりの修羅場をくぐり抜けてきた危険人物だ。巨漢こと“ヤッシー”の背中越しだったので、この“スキーウェアくん”がどうやってあんな一瞬でヤッシーを倒したのかはわからない。拳銃やスタンガンなどの武器は持っておらず、どう見ても素手だが、ともかく最優先なのは、五人の中でも最強のヤッシーが口から泡を吹いて倒されたという現実を受け入れることだ。こいつは、なんだかヤバい感じだ。長髪のタケジンは残りの三人をかき分け、脱兎の如くその場から逃げ出した。タケジンが逃げた。状況の変化に、残された三人はわけもわからないまま即応し、彼らは狭い路地を我先に駆け出していった。逃げられては困る。せっかく三万円もの紹介料を払った、三度目の機会だと言うのに。遼は、全速力でタケジンたち四人を追いかけた。ここ最近、真面目に鍛えているので体力にはそれなりに自信があるし、なによりも手の内がわからぬ襲撃者に怯えている連中は、逃走も速やかではなくドタバタと無様であり、距離を開けられることなく追跡は成立した。先頭のタケジンは、長髪と両腕を振り乱して路地を抜け、一軒の中華料理店まで辿り着いた。ここはこのエリアで遊ぶ際、腹ごなしだけではなく駐車場としても利用している店である。タケジンは店内には入らず裏手の路地に回り、そこに駐められていた紫のワゴン車の運転席に乗り込み、続いた三人も後部座席に次々と滑り込んだ。普段はステアリングを握らず、最も運転の腕が確かな“ディーゼル”にキーを渡すタケジンだったが、そんな段取りを踏んでいる余裕もなく、半年前にこのワゴン車を手に入れて以来、彼がエンジンを始動させるのはこれが六度目だった。二列目の後部座席に収まった、五人の中では十七歳と最も若い、タトゥーだらけの“ヒロ”は、なぜこれほどまでに慌てて逃げなければならないのか、全く理解できていなかった。タケジンはいつもこうだ。勝手に突っ走って、わけわかんなくする。こないだだって、みんなで姦(まわ)そうって話だったのに、こっちの順番が来る前に潰しちまいやがった。ヒロは不満を膨らませ、舌打ちをしたが、いつまで経ってもワゴン車が発進しないことに気付き、「はぁ?」と声を漏らした。
「出ねっスか?」
そう尋ねてみたものの、返事はない。異変を察したヒロが身を乗り出すと、運転席のタケジンはステアリングを枕に突っ伏しており、振り返ってみてたところ、後の座席にいたディーゼルと“ゾロ”の二人も並んでぐったりしている。なにがどうなった。なんでみんなが急に寝る。パニックに陥りかけたヒロは、車から降りようとした。だが、スライドドアは開かず、よく見ると外から腕を組んだ誰かがドアを踏み込んでいた。こいつは、あいつだ。あのスキーウェアだ。追いつかれたのはわかるが、こいつとみんなが寝ているのは、何か関係しているのだろうか。もともと知性に乏しく、そのうえ混乱していたヒロは、状況を冷静に分析などできるはずもなく、ヤッシーを皮切りに四人がそうなったように、自分も気を失うのかと思い込み、恐怖に震えた。
上手くいった。遼は試みた結果に満足すると、車内の男に、窓を下ろすように指で合図した。男は身を翻して反対側の扉を開こうとしたので、遼は慌ててそちらに回り込み、半開きになったスライドドアを手で押さえた。
「いいか! お前も今から失神する! けど防いでみろ!」
意味のわからない宣告と要求に答えるはずもなく、ヒロはわめきながら遼の脇をすり抜け、車外にするりと抜け出そうとした。遼は背後から掴みかかり、背中から馬乗りになる形で最後の一人の身柄を制した。
「行くぞ。どうしていいのかはわかんねぇけど、とにかく防げ。心を閉ざしてみろ」
もう一度そんな命令をすると、遼は男のタトゥーにまみれた首筋を小指で撫でた。その直後、ヒロはぴくりと痙攣し、ぐったりとなった。遼はしばらく小指を当てたままにすると、男の尻のポケットから携帯電話を取りだし、二つ折りのそれを開いた。画面はロックされていて、暗証番号の入力が促されたが、遼はなんの迷いもなく四桁の数字を打ち込み、携帯電話へのアクセス権を得た。
これでいい。あと少ししたら、気を失った連中の元に救急車が到着するだろう。携帯電話を自動販売機のゴミ箱に投げ捨てた遼は、フルフェイスのヘルメットを被り、愛車、MVX−250Fのアクセルをゆっくりと開き、夜の国道を走り始めた。
禿頭の大男には、これまでで最も強い勢いの思念破を至近距離で打ち込み、その即効性が確認できた。同じ車に乗った四人に対して、一人だけを外して思念破を打ち込むという、精度が要求される課題も足でクリアできた。そして締めくくりは、思念破で気を失わせた相手から、任意の情報を読み取る接触式読心である。携帯電話の暗証番号は正しく、これも可能であると証明された。三度目になる今夜の実験では、満足できる結果をいくつも得られた。ひとつ心残りがあるとすれば、心を閉ざせという要求に対して、あの入れ墨男がどの程度対応したかだが、こればかりは確かめようもない。第二京浜を南下しながら、遼は次の四度目ではどのような実験を行おうかと、考えを巡らせていた。
“異なる力”をもっとよく理解しておく必要がある。接触式読心とその応用の思念破については経験不足で、威力・射程・範囲・効果など、はっきりしないことが多すぎる。だからこそ、実証実験を重ねて性能や特性を把握しておかなければ。これはできる、これはできないと、明言できるほどの確かな武器にしておきたい。遼にとって思念破や接触式読心の検証は、鞍馬での任務と同様に、重要な課題になっていた。最初は、父を実験台にしようと企んでいたが、くたびれた小さい父を見ていると、それを実行に移すのはあまりにも不憫に思え、一度きりしか試せなかった。実験対象は、もっと罪悪感の湧かない相手がいい。できれば犯罪者がいいのだが、一見して誰が悪党かわかるはずもなく、調査するにも手間取りそうだったので、そちら側に人脈があると思われるクラスメイトの大和に有料で紹介を依頼した。「できるだけ悪いやつがいい」そんな大ざっぱな要請に対して、大和は心当たりの暴走族や半グレの中でも特に凶悪だと思われる連中を選び、取り次いでくれた。大和には、今後もお願いしよう。彼は手数料さえ支払えば、取り次ぎ後の行動や目的など一切詮索せず、ビジネスライクなやりとりができる都合のいい相手だ。今後もこの、“紹介”という名の一方的な襲撃によって、能力の実像を明確にしていこう。バイクを加速させた遼は、次は思念破の限界距離について実験することにした。あとで大和に電話しよう。早ければ、明日にでも四度目をやる。最終的には、思念破による無傷での無力化と、接触式読心を使った苦痛を伴わない情報収集手段を確立する。すべては理佳を救い、助け出すためだ。そしてその目的への努力と研鑽は、FOTとの戦いにおいて、それ以外にも有益な結果をもたらすはずだ。
だが、弱気にもなる。あるいはもう、手遅れなのかもしれない。死ねば泡になってしまう理佳なのだから、自衛隊や機動隊との交戦で散ったとしてもそれは誰にもわからない。信号待ちをしていた遼は、背後からのクラクションに戸惑い、信号が青になっているのを確かめてから再び走り出した。
生き延びてくれ。俺がなんとかしてみせる。できれば誰も殺さず、傷つけず。とにかく生きていてくれ。矛盾はとうに自覚している。それでも、遼は願うしかなかった。
第三十四話「いつまでも青い空に」おわり
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