真実の世界2d遼とルディ
第三十一話「音羽革命軍」
1.
 トラブルはずっと続いている。
 最初から銃弾と鮮血が飛び散り、凄惨ではあったものの、知り得る者は僅かだった。それなのに、今では新聞やテレビで毎日報じられ、輪郭や表層だけなら誰彼となく広まってしまった。
  関わった者、巻き込まれた者がこれまでに何人も死んだ。続けば続くほど、その人数は増えていくだろう。
  そして、このトラブルを終わらせる方法を、島守遼(とうもりりょう)は知っていた。

 台所に立った遼は、窓から差し込む朝陽に目を細め、収納棚からフライパンを取り出した。
  ずっと父と子の二人暮らしだったから、朝食の準備は考え事をしながらでもこなせるほど慣れている。だから、冷蔵庫から卵とハムを取り出し、足の側面でそのドアを閉じる挙止もスムーズそのもので淀みがなく、普通に淡々としながらもこれまでの異様な出来事を整理するのだって難しくない。

 白い長髪のあいつ。その皮膚の内側にある動脈を、視覚に捉える。
  そのとき、右手はこのトラブルに巻き込んだ張本人の掌をしっかりと握り締めているはずだ。そして念じる。“斬る”のではなく動脈の一部を“動かす”いや、“ずらす”。そうイメージする方が簡単だ。念じる時間はほんの一瞬で、疲れはほとんどない、ティッシュを箱から一枚だけ抜き取る程度に慎重であればいい。それができれば終わり。それをするために巻き込まれた。できるから引きずり込まれた。そして、たったそれだけのことに、もう一年半も費やしている。
  愚図の際に、たくさんの人が目の前で死んだ。首を千切られ、内臓を引きずり出され、弾丸に砕かれ、鋭利な切っ先に貫かれ、泡と化し、死んだ。その都度、重さの違いはあっても自分に原因があると遼は考えてしまう。
  ある。ある。そう考える方が楽だ。何度もそこに落ち着いてしまう遼だった。

 憎しみはないから、アルフリート真錠は普通だったら殺せるような相手じゃない。だけどここしばらくの間で、あいつは殺すべき者になった。殺しても罪の意識が芽生えないほどの大物になってしまった。なら、これは必要な時間だったのだろうか。ハムエッグをフライパンの上で踊らせた遼は、油が弾ける音に耳をくすぐられながら、深いため息を漏らしてしまった。

 アルフリート真錠(しんじょう)。三代目真実の人(トゥルーマン)。あいつの動脈を破壊して、つまり殺害すればエンディングを迎える。世間の動きにも大きな影響を与えるだろう。なぜなら奴は、日本に真の独立をしろと煽るアジテーターだからだ。いつでもどこでも妨害されずに使える夢の核兵器で武装して、本物の独立国になれと要求する、押し売りのようなテロリストだ。日本政府を手玉に取り、米国の政府高官を容易く暗殺してしまうほどの怪物だ。奴が死ねば、今の日本を取り巻く状況は激変する。具体的にどうなるかはさっぱりわからないけど、たぶん激変する。それだけは間違いないと、遼は確信していた。

 二枚の皿にそれぞれのハムエッグを載せた遼は、それを食卓に運び、食器棚からコップを出してオレンジジュースを注いだ。

 多額のボーナスが振り込まれるだろう。感謝の言葉だって期待していい。反対に、秘密のミッションに関わったから、組織に入れと命じられる可能性もある。口封じに抹殺される危険だってある。賢人同盟って秘密組織はそれぐらい信用できない連中だ。ともかく、エンディングの後も自分に関しては面倒があると覚悟しておこう。

 小さく一度頷き、オレンジ色のコップを口に当ててみる。喉を上下させて、ごくごくっと一気に冷たさを放り込むと少しは落ち着いた。ちょっとは眉間の皺も減る。それなのに、空のコップを食卓に強く置いてしまった。割れなかったのが幸いだったが、そう思えてしまうほど乱暴な置き方だった。落ち着きは、どうやら本物ではない。俺は事の終わらせ方を知っている。だけどそれがどうした。大切なことはなにもわかっちゃいないのに、落ち着けるわけがないだろ。

 バイト先のテレビにあの光沢のある黒髪が映し出された瞬間、我が目を疑うしかなかった。そのあと鞍馬の森で遭遇した彼女は、こちらへ銃口を向けてきた。あれが今の蜷河理佳(になかわ りか)だ。どこまでも遠くへ行ってしまった、儚げで幽美だった彼女の現在だ。なぜそうしているかはわかる。立場と環境と、事情だってわかっているつもりだ。だけど真実の人の傍らに立ち、密林戦にライフルで参加するその姿を見てしまえば、わかっていたことなど消し飛んでしまう。照れて口ごもったり、優しく囁いたりする彼女からは、あまりにも遠すぎる。あれを再び、制服や浴衣の似合う少女に戻せるのだろうか、エンディングを目指す戦いは、この目的にどう影響するのだろうか、それはまったくわからない。わからないから個別に求めていくしかない。闘争と理佳を求める個人的な欲求が密接に関わっている以上、器用にやらなければ最悪の結果が待ち受けている。気をしっかりと持て、わからないってことは、実はそれほど怖いことじゃない。

 空のコップを再び手にした遼の横顔を、その父、島守貢(みつぐ)が静かに見つめていた。
  音を立てて襖を開け、のっそりと寝室から出てきたのに横目も向けないとは、よほどの考えことをしているのだろう。貢はすっかり用意されていたハムエッグの朝食に顎を傾け、椅子を引いた。
「あ……おはよう、親父」
  ようやく父の起床に気づいた息子は、コップに二杯目のジュースを注いだ。
「おはよう……」
 貢は傍らに置いてあった朝刊を手に取り、一面に目を通した。
「なんだよ、まだ自衛隊は突入しないのか」
  ポストから朝刊を取ったのは遼だったから、彼は父のぼやきが何を意味しているのかすぐにわかった。だが、表向きは無関心を装うため、遼は食卓に着くと味噌汁に手を伸ばした。
「戦車やヘリだって集まってるのに、なんだって包囲したまんまなのかねぇ……」
  ぼやき続ける貢に対して、だが遼は無視を決め込み、黙々と朝食を食べ続けた。

 十一月十六日。FOTの拠点があると見られる鞍馬山に集結した機動隊と自衛隊の合同制圧隊は、突如として出現した巨大な獣人、“怪獣”と形容できるほどの化け物の奇襲に遭い、甚大なる被害を出しながら包囲範囲を広げる敗北を喫した。それから五日が経つが、連日報道される内容は鞍馬山を警戒包囲する制圧隊の様子であり、“戦線”はこう着状態に陥っていた。テレビ各局は空撮を禁じられ、制圧隊に対する撮影も後方部隊や鞍馬寺の司令本部の一部に限られ、これを違反した者には特例法に基づく厳罰に処せられたため、一般市民に伝わる情報はあまりにも少ない。

「ま、とにかく早く終わって欲しいもんだな。また戒厳令なんてゴメンだぜ。こっちゃ給与保証なんてない身分なんだからよ」
  八年前、FOTの前身である真実の徒が繰り広げた全面テロは、都市部において昼夜に亘る戒厳令といった戦時下さながらの事態を生み、それを実体験として知る貢は自嘲気味な笑いを混ぜ、そうつぶやいた。
「親父はさ……」
  箸を置いた遼は、うっかり口をついて出てしまった言葉に息を呑み込んだ。「この一連の事件に、どんなエンディングを迎えて欲しい?」そう尋ねてしまいそうだったからだ。だがそれはダメだ。自分が事態に深く関わっている真相を、唯一の肉親である彼に知られてはならない。パチプロで少々自堕落な面もある父だから、一緒に戦うと言い出すはずはないが、危ないからと止めてくる可能性は大きい。一切、一ミリたりともこの小さくしょぼくれた彼を巻き込みたくはない。たとえ異なる力を持っていても。
「なんだよ、遼。言いかけはよくないぞ」
  最近、なにやら言葉を交わす機会が減ったような気がする。特にテロ事件の話題になると、完全に無視されることだって珍しくない。だから気になってしまう。新聞を脇に置き、身を乗り出した貢は対座する遼に首を傾げた。
「俺がどうしたって?」
  尚も問いながら、父はこの一年半を思い返していた。

 そう、あれは栗色の髪をした外人の友達が、このボロアパートへ遊びに来た頃からだ。あの辺りから少しずつ変わってきたんだ。バイトを始めて、演劇部で女の子とキスをして、その子と付き合ってるって聞いて、バイクの免許を取って、学校で事件が連続して起きて、なんとなく会話が減って……

 しかしあらためて考えみると、高校生なりのありふれた変化とも言える。子供とのコミュニケーションの減少など、スナックでよく聞く話だし、自分と遼の年齢が他と比較して近いからと言って、互いの性格を考えれば“友達のように仲良し親子”になれるはずもないし、そもそもあまりなりたくはない。貢はようやく身体を引くと、父としての威厳を保つため小さく咳払いをした。
「まぁとにかく、遼もテロに巻き込まれるなよ。八年前は、そりゃひどかったんだからさ」
  ありがちな忠告をした貢は席を立ち、洗顔のために流しへ歩いた。
「あ、ああ……気をつけるよ」
  テロ事件どころではなく、その原因にすっかり巻き込まれていた遼は、言葉に詰まりながらそう返事をするしかなかった。
「そう言えばさ、遼。あの演劇部の子とは、まだ付き合ってるのか?」
  父はなんとなく尋ねてみたつもりだったが、遼は予想していなかった内容に戸惑い、その拍子に呑み込んだハムエッグが逆流してきた。彼は苦しさのあまり、むせ返って食卓の端を両手で掴んだ。
「えっと……なんて名前だったっけ……黒い髪が綺麗な子……」
  タオルで顔を拭いた貢は、背中を震わせる遼の様子をちらりと見て、口先を尖らせた。
  迂闊にも遼は答えをまったく想定していなかった。「あ、ああ……うん……」そう言葉を詰まらせるのが精一杯で、まともに返事などできはしない。テロリストに加担する元被害者、蜷河理佳の名前は大々的に報じられ、ワイドショーやWebで話題が集中し、いまや彼女は検索ワードでも上位にランクされるちょっとした時の人である。新聞と写真週刊誌程度の情報収集手段しかない父でもその名と顔は知っているだろう。しかし、このあくまでも自然な問いかけは“黒い髪が綺麗な子”と、“蜷河理佳”がイコールになっていないことを証明している。父が理佳を見たのは二回。しかもそのうち一回は舞台上で、野々宮夫人のメイクをしていた。となると、繋がってない可能性は高い。一度しか会ったことのない顔など、覚えていられるのはそういった特技の持ち主だけなのだから。ここしばらくの経験で、『記憶』といったものをそれなりに理解していた遼は、結論付けるのも早かった。
「あ、あの人……せ、先輩でさ、もう卒業しちゃって、会ってないよ。言わなかったっけ?」
  咄嗟の嘘は、島守遼にとって異なる力とは無縁の才能だ。しかし、今回のこれには少々キレが乏しく、貢はすぐに矛盾点に気づいた。
「そうだったっけ。だってよ、あの子ってお前のクラスのラーメン運んでたじゃん」
「す、助っ人だよ」
「助っ人ねぇ」
  食卓に戻ってきた父は、三杯目のオレンジジュースを慌てて飲み干す息子に冷ややかな目を向けた。なにか隠し事をしている。それはたぶん、アレか。
「振られたのかよ」
「あ!?あぁえっと……」
  父はなにやら口元に小さな笑みを浮かべている。まるで、してやったりといった様子だ。なら、そうさせておくのもラクでいい、遼はそう思った。
「そうそう……卒業したら会える機会もすっかり減っちゃってさ……うん……その……」
  恥じ入って気まずい空気を作るのだって、演技でどうにでもなる。事実、貢はすっかり立ち入りすぎてしまったと自戒し、頬を引き攣らせたまま朝食に取り掛かっている。

 だけどさ……いずれ繋がるって……

 遼にはわかっていた。有名なだけではない。今の蜷河理佳は、鮮烈過ぎる印象を人々に与えている。いずれそれを何かの機会で目にした父が、奥底にあるであろう、教室で一度だけ会い、挨拶をされてデレデレとしてしまった学園祭の思い出と繋げる可能性は有り得る。FOTが今後どのような作戦展開をし、それに伴い彼女がいかなる露出をし、父にまで届くか、不確定要素があまりにも多すぎるものの、用心と覚悟はしておくべきだ。『記憶』の姿を岩倉と共に具体的に触ってきた遼だからこそ、忘却が永遠ではないこともよく知っていた。

 記憶を繋げた父に再び問われれば、これはもう打ち明けるしかない。だけど、それも限られた範囲だ。
  鞍馬山に出現した獣人王エレアザールの咆哮は、これまで耳にしたいかなる声よりも禍々しかった。そのバカげた巨体、蹂躙された人の千切れた身体、つい先週目の当たりした何もかもが嘘のように感じられる。
  岩倉や高川と密林の“戦場”を駆けた経験そのものが、ひどく嘘くさい。そう、灼熱のバルチから始まり、ここまで来たなにもかもが作り事みたいだ。そんな全てを父には明かせない。

 ティッシュを箱から一枚だけ取り出す程度の慎重さと労力で、遼は茶碗に残った米粒のひとつを数ミリほど左から右へと動かしてみた。あれから一年以上で、随分と“動かせる”サイズが増えたと思う。

 六畳しかないダイニングキッチンには古びた家具がひしめき合い、食事もなんとなく身体を縮こまらせるほどの狭さだ。食卓に並ぶ朝食だって、たいしたメニューではない。ご飯にハムエッグに味噌汁に漬け物。ありふれた当たり前だ。
 
  痩せた小さな父、パチンコ玉を自在に操るイカサマ念動力パチプロ、島守貢がてきぱきとした手つきで薄いハムエッグを消費していく。

 ああ、この光景こそが“今”そのものなんだ。

 島守遼は対する父が自分に近い者だと少しだけ感じ、だが首を小さく振った。

 違う。ここにいる親父とここにいる俺は違う。似ているだけだ。

 どこまでも自分は自分でしかない。ジョージ長柄の首、顔なしの化け物、倉庫での惨劇、事故現場の地獄、炎上する料亭、ちっちゃな女の子がぐったりとぼろ布の様になった姿、いずれもが自分だけに通り過ぎた痛さだ。
  そして、リューティガー真錠。無邪気な笑みと、冷酷なトリガーと、無様な醜態がひとかたまりの怪物。あいつに手を握られてから、自分は父親と違いすぎる者になってしまった。
  あいつと手をつないでエンディングを目指す。そうしたら、元に戻ろう。あいつと手を離して、理佳ちゃんと一緒に親父に挨拶して、びっくりさせよう。普通に、ハムエッグを食べてればいい毎日にしよう。理佳ちゃんにそれを頷かせよう。そのとき、名前は蜷河理佳でなくてもいい。長い黒髪がショートになってて茶髪に染めててもいい。彼女だったらそれでいい。

 覚悟と決意はどこまでも不安定で、横槍が入ればすぐにでも破綻されるほどの脆さである。それでも今の彼は思い込むしかなかった。詰襟に袖を通し、学生鞄を手に取り、スニーカーを履き、玄関から出て曇り空を見上げる彼の目は鈍く淀み、口は小さく開き、外付けの階段を駆け下りる足取りは軽やかではなく、これが二〇〇五年、十一月二十一日月曜日、鞍馬山での死闘を終えた島守遼の姿であった。

2.
「エレアザールってのは、恐竜みたいな姿をしてるから、どっちかっつーと怪獣って感じなんだよ」
  都立仁愛高校二年B組の男子生徒、横田良平は、教室ですぐ後ろの席に着いたばかりの同級生、内藤弘(ひろむ)にそう告げると、手帳ほどのサイズのパソコンを机上で開いた。
「ネットで見たのか?」
  内藤の問いに、横田はコンパクトな液晶画面に表示された画像を得意げに指差した。政府の厳しい情報統制によって、獣人王・エレアザールはいかなる報道機関もその姿を視覚情報として伝えることができず、一般市民にとっては巨大な獣人といった文字情報でしか報じられていない。だが、横田の提示に内藤はそれほど興味を示さず、つまらなそうに目を向けるだけで、周囲の生徒たちもわざわざ覗きに来る者はいなかった。横田良平はクラスの中で最もネットに精通していて、一般の報道からは入手できない画像や怪文書を数多く保存していることも同級生たちから知られてはいたが、今回ばかりはそのアンダーグラウンドな威光もあまり効果はない。ネットに散乱しているエレアザールをはじめ、FOTに関連した情報はどれも不正確で、何者かがわざと誤った方向に誘導せんとの意図が含まれた偽物が、多く含まれているという噂を、誰もが知っていたからだ。この二年B組の生徒たちは一般市民より、遥かにこの一連の事件に対して深く関わっていたため、それぞれが自宅でネットを通じた情報収集を多かれ少なかれ行い、その結果、期待と失望をこの数日で繰り返していた。だからこそ、横田のしたり顔に対して誰も期待してはいなかった。
  「ふん……それなら僕も見た画像だよ。全然よくわからない奴」
画面に表示された、ぼやけたシルエット写真に内藤は低い声でつぶやくと、すぐに視線を左隣の空席に移した。
  この空席には、少し前まで京都からの転入生、花枝幹弥(はなえだみきや)がいた。そしてその前は、“あの”蜷河理佳である。横田のぎょろりとした目に抗議の色が浮かんでいるのにも気づかぬまま、内藤は耳まで伸ばした髪を撫で、形のいい顎にまで指を滑らせた。
  花枝ともそうだったが、理佳ともほとんど言葉を交わさなかった内藤少年であった。少々病的かな。そう思うことが多かったものの、一番近くの席だったから、他の同級生よりは彼女の儚げな美しさに気づいてもいた。まさか、あの彼女がFOTに参加していたとは。獣人王の出現より、二年B組にとってはその事実の方があまりにも強烈で、数日経った今でも間が空けばすぐにその話題に傾いてしまうほどだった。
  横田は諦めて正面を向き直した。その背中を軽く睨んだ内藤は、先週の金曜日に横田が教室の皆に、「遼の頼みで蜷河理佳についてネットで情報を収集したことがある」と自慢げに語ったのを思い出した。確か、そのとき島守遼は教室にはいなかったはずだ。いたら横田が喧伝などできるはずがない。それほど最近の遼は静かな怒りを漂わせ、なんとなく腫れ物のような存在になりつつある。ともかく、隣の席だった理佳が家族を皆殺しにされ、施設で育った壮絶な過去を、内藤はそこで初めて知った。予めわかっていたら、彼女に対する自分の気持ちや態度にも微妙な変化があったかもしれない。いや、どうなのだろう。彼は目を閉ざすと、美しい黒髪を思い浮かべてみた。

「校門のところにいたのよ。車でね。中から出てきて、二年B組の生徒かって聞いてきたのよ」
  女子生徒の和家屋瞳は、後ろの席の永井まどかに興奮気味な口調で一気にそう言い、ポニーテールを左右に揺らしながら、彼女の手を握り締めた。
「な、なんだったの、その人たち?」
  気圧されながらもリズミカルな口調でそう返したまどかは、視線を逸らすついでに右斜め後ろの席に注意を向けた。
  今日はまだ来ていない。おそらく今現在、同級生たちから最も注目を集めているはずの彼は、もうじき登校してくるだろう。「遼も大変だよね」心の中でそうつぶやいたまどかは、仕方なく和家屋へ気持ちを向け直した。
  「週刊真実だって。なんかオヤジ向けの雑誌みたい。でねでね、そこのライターって名乗る男が聞いてきたの」
「な、なにを?」
「去年あった、殺人鬼が学校に乱入してきた事件と、蜷河さんがどんな関係があったのかって」
  すぐにわかる質問内容ではない。「FOTに参加している蜷河理佳は、普段はどんな子だった?」「同級生から見て、テロに参加するような前兆はあった?」そんな外郭的な問いならともかく、どう解決したのかもよくわからない通り魔事件と、あの子を結びつける問いかけなど、まったくわけがわからない。まどかは握られている手を自然な所作で引き戻すと、腕を組んで首を傾げた。
「で、瞳はどう答えたのよ?」
「えー?だって、全然わかんないよ。なになにって聞き返しちゃった」
  照れ笑いを浮かべた和家屋は、余ってしまった両手の指を組み合わせた。うん、我ながら可愛い感じの仕草だ。これなら涼しげな目をしたまどかにだって、あまり見劣りはしないと思う。
「他にはどんなこと聞いてきたの?」
  「うん、そしたらね、緒崎(おざき)が出てきて追っ払っちゃったの」
  緒崎とは、行方不明となった新島貴(にいじまたかし)の後任の体育教師、緒崎昌利のことだ。あの厳格な老教師なら、怪しげなマスコミの登場に敢然と抗議へ出てきてもおかしくはないはずだ。ライターとやらはよほど厳しい口調で緒崎に糾弾され、逃げるように去っていったのだろう。その光景を想像したまどかは、頼もしさと同時に鬱陶しさも感じてうんざりしてしまった。独立を促すテロが起こり、京都の鞍馬山では陸戦が繰り広げられた。核兵器を押し付けられ、同盟国である米国との不必要な緊張状態を作られ、この日本はじわじわと混乱し、最近ではFOTに対して諦めたムードが漂うだけではなく、積極的に評価・賛同しようといった動きも多く見られると噂されている。事実、区役所に勤める父も食事の席で、「まともな独立国を目指すんなら、いくら同盟国でも米軍がこれだけいるってのは異常事態だよな。俺は真実の人が言ってることはわかるぞ」などと言い出す始末だ。これからどうなる。報道を目や耳にするだけでも暗い気分になってしまうのに、学校での日常にまで、知りたがるマスコミの手が伸びてきているのか。登下校さえ気が抜けないなんて、あまりにも鬱陶しい。永井まどかは視線を机に落とし、嫌気を隠すことなく頬を引き攣らせて目を細めた。

 クラス委員の音原太一(おとはら たいち)はカンのいい生徒ではなかったが、クラスの空気が重く淀んでいるのに気づかぬほど鈍感ではなかった。彼は痘痕面を軽く顰めると、だが自分にはこの雰囲気をどうにかできる方法など持ち合わせていないと今更ながらに自覚し、両手を握り締めるしかなかった。

 教室の後部扉がゆっくりと開き、長身の彼が姿を現した。目下、このクラスにおいて最も注目を集め、それを跳ね返すだけの殺気を纏った生徒、蜷河理佳と最も深い付き合いをしていた島守遼の登校に、大半のクラスメイトたちはそれぞれ意識を向けた。
  ここのところ毎朝こうだ。興味本位、心配、分析意欲。それぞれが様々な思惑を抱きつつ、聞きたいことは結局どれも同じだ。「蜷河理佳ってどうだったの?」「お前はいろいろと知ってたの?」こんなところだ。けれども答えるつもりはないし、それを言葉にもしたくないから、できるだけ鋭い目つきを保ち、口を固く結び、時折ため息も混ぜ、不快感を漂わせるしかない。遼は学生鞄を背中越しに持ったまま、自分の席へ向かった。その隣の席にはこの教室にあって唯一、興味と関心と心配の気持ちさえ微塵も向けてこない生徒がいた。挨拶どころかなんの意も向けず教科書を読む、栗色の髪をした彼、リューティガー真錠だ。蜷河理佳がFOTに参加したのを知ってからも遼は彼に、その事実をずっと隠し続けていた。教えた途端に「殺す・殺せ・殺そう」そんなことを言い出すだろうと思っていたからだ。ボートでの宣言がテレビで報じられ、事実が白日のもとに晒された後も遼は嘘を重ね、自分もまったく知らなかったと言い切ったが、不思議と罪悪感はなかった。これまでの衝突と理解しがたい理不尽なやりとりの積み重ねが、そんな冷たい関係を構築してしまったのだろうか。遼は挨拶もせぬまま着席すると、鞄から教科書とノートを取り出した。
「やあ島守。相変わらずの仏頂面だな。まるで今日の曇り空そのもののようだね。その不機嫌なオーラの正体は、すなわち拒絶だ。クラスの連中の愚問に対する拒絶だ。そうなんだろ、島守」
  上ずった声はわずかに震え、眼鏡を直す仕草も直線的で神経質に感じられる。いつの間にかやってきて、一方的に指摘してきた比留間圭治(ひるま けいじ)に対して、遼は敵意を込めた目で見上げた。だが比留間は少しも怯むことなく、顎に手を当てた。
「まぁ、どうだっていいことさ。蜷河とお前がどうしてたかなんて、大局には影響しないからな。そもそも蜷河自体が単なるお飾りに過ぎない。実務においては外部団体の方がずっと具体的な成果を上げているし、それはFOTだって認めざるを得ない事実だ」
  何が言いたいのかまったく理解できないし、するつもりもない。ただ、若干の感謝はある。そう、「蜷河」と勝手に言い続けることで、その名のタブー性が少しは和らぐ。「どうだっていいことさ」この部分も中々いい。誰もがそう感じてしまえば、数日に亘る不要なプレッシャーは緩和される。黙っていれば、この壊れたスピーカーがいくらでもくだらないレベルの話題にまで引き下げてくれるのだろうか。遼は視線を比留間から逸らし、わざとらしく気弱な笑みを浮かべてみた。
「ふん、図星か。まぁ、そうだよな。お前のようなノンポリシーの一市民に手の届く話じゃない。これは国家の未来を形作る闘争なんだ。参加できるのは強い意志と行動力を兼ね備えた、一部の選ばれた者だけなんだからな」
  罵倒されながらも遼は笑みのままだった。比留間は自分を見張る、ある“意”を感じながら、どうしても言葉を止めることができなかった。蜷河理佳の正体が判明した事実は音羽会議のアジテート活動に参加している比留間にとっては、とてつもなく大きな事件だったからだ。まさかFOTの本隊に参加しているもと同級生がいたとは。街頭演説の隣でビラを撒き、パネルを設置している裏方の自分と比べ、テレビに映っていた理佳はどうしても格上だと認めざるを得ない。もし遼が薄笑いを消さない理由が付き合っている彼女のグレードに起因しているのなら、許せるものではない。同級生たちが「なんだ、音羽の方か。あっちは学生運動でテロリストじゃないだろ」などと軽視するのも許せない。すっかり被害妄想に捕らわれていた比留間は、「高橋さん。もう少しだけ続ける」と見張る者に心の中で宣言し、遼の机の端を両手で握り締め、大きく身を乗り出した。
「いいか、お前たちもよく聞くんだ。いままでは大人しくしてたが、もうそんな時代じゃない。これからはそれぞれが行動するターンなんだ。僕らのように確かなことができなくてもいい。食卓で家族を説得するレベルからでもいいんだ。アジるんだ。目を覚まさない蒙昧な衆愚へ!!」
  目は遼を見つめながら、比留間の言葉は教室の全員に向けられていた。突然のアジテートに同級生たちはざわつき出し、淀みない言葉に恐れを感じる女生徒もいた。そんな中にあって、少数派に属する“動じぬ者”の一人だった高川典之は、当面の被害者である遼に険しい目を向けた。

 その薄笑いはなんだ……遼……なにが笑えるというのか?

 いまやFOTを市民の側からサポートする最も有名な団体となった、音羽会議の活動に比留間と高橋知恵(ともえ)が加わっていることはこの硬骨漢も既に知っていた。テロリズムを肯定する比留間のミニ演説は聴くに堪えない愚かな内容で、高川にしても憤慨を堪えるのが精一杯だったため、遼が薄笑いを浮かべ続けられるのが理解し難かった。無視ならまだわかる。なんだ、その奇妙な笑いは。遼と理佳の間にある深刻な事態を、表面から浅くしか承知していなかった高川にとって、眉間の皺は深くなるばかりだった。
「なにが可笑しい!?キサマは!!」
  暴発したのは比留間だった。彼は問い糾すため遼の胸倉に掴みかかろうとしたが、あっさりと身を引かれてしまい、バランスを崩して机に倒れこんでしまった。
「大丈夫か?比留間」
  上体を机にぶつけてしまった同級生の顔を、遼は覗き込んだ。その表情が相変わらず柔らかいものだったため、顔を上げた比留間はますますバカにされていると思い込み、耳まで赤くなった。
「キサマは!!バカにしている!!どうせ革命など成功しないと、怠惰な精神で信じきっている!!違うのだ!!その川が低きに流れるといった安穏とした思い込みが、今のこの国を形作ったとなぜ気づかない!? 流れを堰き止め、変えるのは強い意志なのだ!どうせできぬと笑い続けるキサマは、堰の一部にもなれぬクズだ!!キサマのような奴が一番の害悪だ! 死ね、すぐに死ね!死んじまえ阿呆めが!!」
  裏返りきった声だったから言葉通りの罵倒とはならず、首を絞められた鶏の断末魔のようでさえあった。狂った喚きにクラスメイトのほとんどが気持ちを引き、同意する者など誰もいなかった。比留間は咳き込みながらよろよろと自分の座席へ戻り、糸の切れた人形のように椅子へ座り込んだ。
  他の奴はなんとも思っていないのか。自分だけが過敏に反応してしまうのか。島守遼の全てが許せない。なにも考えず、ただぼうっとしているだけの奴が、なぜ真実の人の側近クラスと付き合っていた。自分など、ここまであがいてようやくあの枝毛を撫で、慰めてもらえるようになったというのに。家族から白眼視され、親類からは手紙で諌められながらも活動に励み、やっとのことでもう一度触れてもいい許可が引き出せそうなのに。あいつは国家天下のことなどミリほども考えず、ただへらへらと芝居の真似事をしただけで、あの黒髪の美少女を手に入れた。もう経験した自分だからわかる。そう、あいつだって男というものになってしまったはずで、その相手は彼女に違いない。なにもしてないのに。一言も反論できず、バカにした笑いだけしか浮かべられないクズなのに。島守遼というあいつは。
  結局、異性への下心からはじまった革命への参加だった。比留間圭治にとって日本という国がどう進んでいくか、それはあくまでも「二番目」に大切なことだった。だから、彼は実のところ遼の泰然とした態度の源もわかっていた。余裕の原因は、いまも蜷河理佳との結びつきが途絶えていないことの裏づけだ。いつ、どのタイミングで会っているのか。まさか、あいつはFOTの正規メンバーなのか。いや、ありえない。だとすれば、蜷河理佳の方が、あいつと密会を求めてきているということか。まだまだ未熟な比留間は、遼の理佳に対する根拠のない信用などわかるはずもなかったから、具体的な結びつきが根拠であると思い込むしかなかった。そして、それを慎重に調べていけばFOTに対して大きな“ネタ”を手に入れる結果となるだろう。ネタは武器だ。それを持つだけで、音羽会議での発言権は増し、より要職に就く事ができる。その結果、高橋知恵を“ともっち”と呼び、一度きりに終わっている行為とて、二度目、三度目が期待できるはずだ。股間を僅かに膨らませながら比留間は顔を歪ませ、怒りはすっかりと収まり、心地いい妄想に浸ろうとしていた。

 いくらなんでも気色が悪い。隣の席の椿梢(つばき こずえ)は、涎を漏らす比留間からぷいと窓へ向き、曇り空から降ってきた雨に気づいた。

 まいったなぁ……

 天候の判断を誤ってしまったようだ。広い額を手の甲で軽く撫でた梢は、そこに湿気を感じた。降ってくる雨粒からまったく濡れずに、それでいて心血管障害に負担をかけない力のコントロールは、最近習得したが、下校途中にやったら信号待ちなどで怪しまれてしまうだろう。半信半疑のまま、なんとなく続けてきたトレーニングで、この“不思議な力”は随分と向上している。たぶん、いまなら全力で念じれば、数百キロの鉄骨に新幹線ほどのスピードを乗せることもできるはずだ。比留間の言葉ではないが、時代が変わろうとしているのなら、この力はいずれ役に立つ。自分のためにも誰かのためにも。「そのときは僕を助けてくれ」そう言ってくれた彼へ恩返しだってできる。椿梢は濡れていくグラウンドを見下ろしながら、静かに頬杖をついた。今はまだ、誰かに傘を借りなくっちゃ。そんなことを考えながら。


  この日の四時限目は音楽の授業であり、それを終えた生徒たちは音楽教室から廊下へ出た。弁当組や荷物をいったん置きたい者はそのまま教室へ戻り、そうでない者は直接食堂や購買へ向かう。ほとんど大半がその二種類のコースに別れ、二年生ともなると誰がどちらかも概ね決まりきっていた。
  神崎はるみは弁当を持参しない。自分で作るのも面倒で、母に負担をかけるのもなんとなく嫌だったから、ほとんど毎日を学食か購買のパン類で済ませてしまう。昼食は友人の和家屋瞳や同じクラスの女生徒たちか、もしくは演劇部の仲間たちと一緒に食べるのが大抵である。さて、今日はどうしようか。音楽室から廊下に出た少女はなんとなく視線を左右に振り、やがて栗色の髪に気づいた。

 校庭の鉄棒でみっともなく子供のように泣いた彼。胸に顔を埋め、いつまでも震えていた彼。リューティガー真錠の慟哭を、その身体と心を、はるみは受け止めてしまった。やがて陽も沈みかけた頃、ようやく涙が止まった彼は、なにも言わずにその場から突風と共に消え去った。ぐじゅぐじゅにされてしまったブラウスをハンカチで拭きながら、取り残されたはるみに怒りはなかった。
  それだけではない、慈しみや蔑み、哀れみさえなかった。あの無様な茶番劇は、これまでの奇怪な屈折を全てリセットしてしまうための儀式だったようにも思える。もちろんそんなに簡単に関係が激変するとは思っていないはるみだったが、ともかく自分の方から踏み出さなければなにかを生み出すことはできない。教科書を持ったまま手を前後にしっかりと振って、足取りも確かに彼女はリューティガーの背後へ迫った。
「僕に何か用か?」
  立ち止まった彼は、背中を向けたまま毅然と言い放った。しかしはるみは踏み出した勢いもそのままに、目の前の肩を教科書でひと叩きし、機敏な動作でその前方へ回り込み、後ろに手を組んだ。
「よかったら、お昼でも一緒にどう?」
  少しだけ屈んだ姿勢で上目遣いをやってみる。彼の方は視線を真っ直ぐに向けたままだが、それほど怒ってはいないようにも見える。はるみは周囲の同級生が意外そうに見ているのも構わず、リューティガーの紺色の瞳を見つめ続けた。
「知らないのか?僕は毎日料理人の弁当を持参している。それを教室で食べるのがいつもだし、今日もそれに変わりはない。君は弁当じゃないだろ」
「陳さんの豪華中華弁当でしょ?ならわたし、購買でパンを買ってくるね。そしたら教室に戻るから、一緒に食べようよ。椿なんかも一緒に」
  ちょうど音楽室から梢がやってきたから、はるみはすらすらとそんな提案ができた。リューティガーは足止めをされたまましだいに苛つき、だが強く拒絶することもできなかった。
  嗚咽を漏らし、抱きつき、全てのどうしようもなさを曝け出してしまった。そのおかげで色々な決意ができたし、あれはあのタイミングで必要不可欠な発露だったと思いたい。だからこそ、リューティガーはこれまでのようにはるみへ強く出られなかった。
「勝手にしろ……だけど、僕は食べるのが早いんだ。ぐずぐずしてると食べ終わるからな」
  ようやく彼は彼女の目を見た。予想の通り、うんざりするほどきらきらと輝く生命力に溢れた大きな目だ。今まではそれを無知ゆえの無邪気と思っていたが、そうでないと知ってしまった以上、これは額面通りの聡明さと受け止めるしかない。
  積み重ねてきた憎悪はあまりにも大きく、一度の慟哭でそれをすべてなくすことはできなかったが、軋轢は心を歪ませ、その結果はかけがえのない仲間の死を招くだけだと学んだリューティガーは、ため息を漏らして視線を泳がせた。
「了解!!じゃあすぐに、パン買って来るね。真錠は、なんかいる?」
「い、いや……」
  どういった関係性に落ち着けばいいのか、リューティガーにはまだよくわからなかった。
  「あのな……神崎」
「なに?」
  頬をひと掻きした彼は、口先を小さく尖らせた。
  「ルディでいい……僕は、弟だから」
「あは……だったら、わたしもはるみでいいよ。妹だから」
  即答だった。
  購買へ向かって駆け出すはるみの後姿を見つめながら、リューティガーはどうしても心地のよさを感じざるを得なかった。認めてしまうべきだろうか。一応の感謝の先に、蔑まないと決めた先に、もしなんとなくの友誼があるのなら、偉大すぎる“うえ”を持った者同士、馴れ合ってもいいのなら、許される範囲で力を抜くのも悪くはない。
「一方的な提案に戸惑ってますけど……梢さん、いいでしょうか?」
  隣までやってきた梢にそう尋ねたリューティガーは、今度は頭を掻いた。「みんなで食べた方が美味しいもの」梢は笑顔でそう返し、彼はようやく表情を柔らかくした。

 そう、ここではこれでいい。

 決意と覚悟を果たすときだけ、冷たい怒りに任せればいい。この“普段”ではいらない。上手にコントロールしてみせる。みっともない幼児のような甘えぶりだったのだから。


  さて、明日からは弁当を持参した方がいいのだろうか。購買へ駆けながら、はるみは料理の腕に不安を覚えていた。しかしまあ、サンドイッチならなんとかなるだろう。
  踏み込んで近づいて、一緒にお昼を食べるのが当たり前なほど普通の関係になれば、もっと繋がりを強くできるはずなのだから。不満足な味に自己嫌悪するぐらい、我慢しなければ。
  みんなのように戦う能力もないし、異なる力などまったくない自分だけど、姉が命をかけて関わっていて、あの島守遼が当たり前のように参加している事態に置いていかれるのは嫌だ。知ってしまったのだから、じっとしていられない。それにそう、リューティガーを抱きしめる“役目”があったと気づいてしまったから、できることがあると信じたい。
  好きとかそういうのじゃない。あいつは同じなんだ。何を考えているのか本当によくわかる。どうしてだろう。いつ目線が降りてくるか、そんな細かいことも予測ができる。そう、これは異なる力とかじゃない。

 わかるもの。ルディのことは。似てるから。ね、まりか姉(ねぇ)。

 階段を一段飛ばし、踊り場に両足をつけたはるみは、左手でひらめいたスカートをなだめた。胸を張り、窓越しに雨空を見上げた彼女の目に、曇りはなかった。

3.
  裏切り者、アルフリート真錠の日本政府に対する正式な要求と、二発の核を保管する鞍馬山のアジトにおける攻防戦と獣人王出現。この一連の動きと結果に、賢人同盟の実働部隊を統括するガイ・ブルースは大規模な戦術が必要であると判断した。すなわち、相応の兵力を用意したうえでの陸上決戦である。アフリカにおいて対ゲリラ戦を生業としていた彼にとって、それはまさしく得意分野ではあったが、それだけに彼は慎重だった。
  ザルツブルク本部の執務室の床一面に資料を展開させ、四つんばいの姿勢で緑色に染めたオールバックの髪を上下左右に揺らせるその姿は、巨大なアメンボのようにも見える。入り口付近で指示を待つ参謀のクルト・ビュッセルは、異相の上官であるガイの能力は認めていたが、生理的には受け付け難い嫌悪感をいまだに抱いていた。
「決戦だよ、決戦。それも一度で確実な勝利を収める必要のある決戦。勝利条件は三つ。優先順で言うと、まず核の奪取。つぎに施設の完全制圧、最後に指揮官の拘束。なかなかに大変なのよね」
  返事は必要とされていない。クルトはガイの言葉に一応は頷いたものの、無言のままメモを取っていた。
「三月。決戦は四ヵ月後の三月を想定する。それまでは散発的な陽動作戦を展開する。偵察のための奇襲もね。作戦の詳細とローテーションは……僕の股間の辺りに置いた書類に記してある。中級指揮官ちゃん達、およびハルプマンちゃんに通達してくれないかな?」
「了解であります。司令」
  今度は返事をしたクルトは、少ない足の踏み場を選びながらガイの背後まで近寄ると、彼の股に手を突っ込み、汚物の処理をするようなうんざりとした顔で作戦指令書を拾い上げた。
「もちろん、ルディちゃん達日本組にもローテに参加してもらうつもりだから、送信よろしくね」
  尻を向けたまま、ガイは従順な参謀にそう告げた。三月とは、我ながら弱気な時期設定だ。これまでの日本政府の弱腰ぶりを考慮すれば、アルフリートの要求に早々と屈する可能性も無視はできないため、本来なら速攻戦でもって鞍馬を落とす必要があった。だが、打ち手があまりにも読めない相手である。一度は拘束したものの、まんまと逃げられてしまった過去もあったため、ガイ・ブルースはどこまでも慎重だった。彼はクルトの退室を耳で確認すると、間近の書類を払い、ごろりと仰向けになった。
  空間跳躍の力を有効に使い、アジトを持たないことがあのふざけたテロリストの特徴であり、最大の長所でもあった。それが転じて、拠点を巡る決戦に成り行こうとしている。まさか、踊らされているのではないだろうか。得意な陸戦をチラつかせられ、それにまんまと食いついているのではないだろうか。奇相にして聡明であるガイは、そんな予想ができるほど冷静だった。そして、一度は食いつくべきと決めたのだから、それはできるだけ確実に遂行しなければと早々に迷いを切り離し、決戦のシミュレーションに考えを移し、紫色の唇をペロリとひと舐めし、目を閉ざした。


「四日に一度、鞍馬山での偵察任務ね……」
  代々木パレロワイヤルの一室で、ソファに腰掛けていたリューティガーはプリントアウトした指示書に目を通しながら、手はリボルバー式拳銃の分解整備に動いていた。
  身体の一部なまでになっていたピストルだから、目を閉じていても完全な分解と組み立てができる。ジャスミンティーを運んできたエミリアは指揮官の淀みのない手つきに目を輝かせ、彼の発した言葉に頷いた。
「仁愛組にも任務を振り分けるのですか、ルディ様」
「うん。こないだの戦いでもわかる通り、高川くんやガンちゃんもかなり慣れてきているからね。偵察程度の任務だったら問題ないだろう。もちろん、学校は休んでもらうことになるけど」
  カーチス・ガイガーが戦死してしまい、補充もない以上、民間人である彼らにも通常任務のローテーションに入ってもらうしかない。関係はずいぶんとギクシャクしてしまってはいるが、この状況を考えれば断るはずもないだろう。リューティガーはそう判断していた。作業を止めティーカップを手にした彼は、ソファに深々と座り直した。
「あと……日本政府の対策組織とも……連携するのですか……」
  聞きづらかったため、エミリアは声を震わせながらそう尋ねてしまった。彼女の気遣いと、どうしても知りたいといった欲求はどちらもわかる。自分が変化したことを知ってもらうにはいい機会だ。リューティガーはエミリアを見上げ、隣に座るように促した。
「うん。神崎まりかとも共同作戦を展開する」
  身体ひとつぶんの間を空け、ソファに腰を下ろしたエミリアは、しっかりとした指揮官の言葉に大きな目を瞬かせた。
「そ、そうなのですか」
「三人掛かりとは言え、アルティメットJを倒した怪物だからね。彼女は獣人王と個人で渡り合える、唯一の日本人だ」
  ガイガーの死が、この言葉を口にさせているのだろう。たぶん無理をしている。無理を重ねれば、やがて破綻する。破綻は戦場での死に直結する。お守りしなければ。エミリアは白いセーターの端をぎゅっと掴み、小さく、だが深く息を吸い込んだ。。
「ただ……それには僕の中で清算しなくちゃならないことがひとつだけある」
  静かなつぶやきだった。ジャスミンティーを啜るリューティガーの横顔を見つめたエミリアは、次の言葉をじっと待つことにした。
「僕が神崎まりかをどうしても許せなかったのは、二つの理由がある。ひとつはコンプレックスだ。彼女の強すぎる力に僕は嫉妬していた。だけど、これは気の持ちようでどうにかできるし、ガイガー先輩の死に様を胸に置いておけば、無理やりにでも押さえ込める」
  ティーカップをテーブルに置いたリューティガーは、自分の気持ちを整理する意味も含めて、極めて明瞭な英語で内情を語った。
「もうひとつは、晴海の倉庫で仲間を殺した一件だ。特にヘイゼルは僕と親しかった。友達だった。惨殺された彼女のことを思い出すと、どうしても許せない気持ちが湧き起こる。これは心の中の先輩に叱られても抑え切れない怒りだ」
「な、なら……」
「うん。こんな気持ちのままじゃ、絶対に共闘は無理だろうね。だけど、これだってどうすればいいのか、僕にはわかってしまったんだ」
  夕暮れの校庭で、神崎はるみに無様を晒したおかげで達した結論だった。あいつの姉はヘイゼルを殺した。しかし、それも策略にはまってしまった結果であり、神崎まりかは任務を遂行した道具に過ぎない。
  だとすれば、恨みの対象はあいつだ。内省を止め、強い男として兄に立ち向かうためにも憂いは取り除く。リューティガーは分解した銃身を手に取り、エミリアに力強い目を向けた。
「エミリア。君に頼みがある」
  なんと嬉しい言葉だろう。少女は背筋を伸ばし、短いプラチナブロンドを前後に揺らせた。
「アーロン・シャマス。もと同盟の作戦司令の現在を知りたい。居場所と、できれば滞在時間まで照会して欲しい」
  拒絶など有り得ない。そして、その照会が意味することもわかる。復讐だ。わずかな笑みと震える紺色の瞳がそれを雄弁に物語っている。エミリア・ベルリップスは勢いよく立ち上がると、顎を引き敬礼を返した。


  もう何日もひとりが続いている。一級品の料理にもありつけず、そうかと言って外食する気も起きず、だからコンビニの弁当ばかりだ。学校からマンションに帰宅した澤村奈美は、玄関で本来の姿であるライフェ・カウンテットに戻ると、居間の姿見でエプロンドレスの丈を間違えていないか確かめてから、学生鞄とコンビニの袋をリビングのテーブルに放った。
  ひとりはつまらない。甲斐甲斐しく世話をしてくれる褐色の肌をした僕は、鞍馬の施設に残ったままだ。空を自在に飛べる彼には防衛の任務が新たに割り振られ、それは自分との主従関係より優先されてしまっている。こちらの任務も最終的には重要ではあったが、鞍馬に敵の目を引き付けておくには仕方がない。なにより、あの天才テロリストが直々に命じてきたのだ。寂しくてつまらないなどといった我が儘は許されないし、なによりもあいつにそこまでこだわっていると思われるのは嫌だ。
  弁当は冷めてしまうが、食欲もない。ピアノでも弾いて気を紛らわせようか。それとも今日ようやく配役が決まった、芝居の台本でも読もうか。予想通りの森蘭丸役だし、出番と台詞も多いからいいところを見せるにはそれなりの準備が必要だ。
  台本を入れた学生鞄に手を伸ばしたライフェは、インターフォンからの呼び出し音に動きを止めた。誰だろう。はばたきなら窓から帰ってくるはずだし、そうなると藍田長助でも訪ねてきたのだろうか。あまり好きな男ではないが、ひとりでいるよりはずっとマシだろう。そんなことを考えながら、ライフェは受話器を手に取った。

「寿司ってやつを買ってみた。どーだいこの色とりどりっぷり。おいら、食ったことないんだ」
  銀色のスカジャンに、もっさりとしたアフロヘアー。それがこの少年、「しびれ・ピッカリー」の外見的な特徴である。机に置かれた大量の寿司と彼を見比べたライフェは、腰に手を当てて口先を尖らせた。
「ジョーディ。それにピッカリー。用件はなんなの?」
  ピッカリーの背後で腕を組む青いスーツ姿の青年、白人のジョーディ・フォアマンは、顎に手を当てると鼻を鳴らせた。
「特に用はない。まぁ、強いて言えば、二人で昨日まで鞍馬に行ってたってぐらいだが……」
「ライフェねぇちゃんは、なに食べる?おいら、このオレンジのつぶつぶ以外ならなんでもいいよ」
  質問の答えとどうでもいい提案の二つに、少女は形のいい顎を左右に振った。
「鞍馬ねぇ……」
「ああ。はばたきが、君のことを心配してたよ。まぁ、だから様子を見に来たってところかな」
「ふん……」
  つまらなそうにぷいと横を向きながら、ライフェは夜になっても晴れない雨空を見上げた。あいつが心配してくれている。そんなこと、とっくにわかっているし、そうでなかったらお仕置きが必要だ。だけど、嬉しくないと言えば嘘になる。けれども他人には知られたくない。だから、横を向くしかない。
「黄色いのは卵かな。三つあるけど、おいらが二つ食っちゃってもいいかな?」
  相変わらず、ピッカリーは目の前のご馳走のことばかり尋ねてくる。戦士としては実績もあり、テロリストとしても一流と言っていい彼だが、常に屈託がなくその心は子供のままである。本気で相手をしても疲れるだけなので、ライフェは素っ気無さを消さなかった。
  まあ、一応気を遣っての来訪と思っていいのだろう。寿司はチェーン系のもので味は期待できないだろうが、ひとりでコンビニ弁当を食べるよりはずっといい。はばたきに対しての喜びも発露させながら、少女は満面に笑みを浮かべ、ピッカリーのアフロヘアーをしっかりと指差した。
「いいこと。あんたが食べていいのは光り物のみ!!赤身はぜんぶ、わたしのものなんですからね!!」
「光り物!?な、なんだいそれ!?」
  意味のわからないピッカリーは、相棒のジョーディーを仰ぎ見た。どうやら元気であると伝えていいのだろう。はばたきの引き攣った戸惑い顔を思い出したジョーディーは、「美味いスシの敬称だ」と返し、少年のもっさり頭をぐしゃぐしゃに撫でた。


  その頃、ライフェの忠実なる僕であるはばたきは、巨大なる王を見上げていた。胡座をかき、両手を膝に置いたその王は、深い藍色の瞳に果てしない静かさを漂わせていた。
「王よ。調子はいかがですか?」
  自分も羽を持つ異形であるからこそ、はばたきはこの怪獣をなんとなく“王”と呼んでいた。初戦で見せた圧倒的な戦闘能力と猛々しさを備えたこの王は、充分に尊敬するに値する存在である。少年はそんな彼にどうしても問いたいことがあり、そのための来訪だった。
  天井までの高さは四メートル。地下施設の中でも動力室や生産工場、倉庫に継ぐ広々とした個室が“王の間”だった。もともとここは、彼が幽閉されていた牢屋だったが、エレアザールは「ここが一番慣れている」と、責任者である中丸に告げて以来、鍵が外されシャッターを扉に付け替えられ、家具や寝具が運び込まれて今日に至る。王は静かに頷き、「悪くない」とはばたきの問いに答えた。
  自衛隊や機動隊が地上の防衛ラインを越え侵入してきた場合、山中に仕掛けた無人砲や、矢やナイフの発射装置がこれに対応し、それでも突破されるようであれば、獣人を中心とした迎撃部隊が出撃する。エレアザールがこの間から地上に出るのは更に防ぎきれないと判断された場合の最終段階であり、いまのところそこまでの戦闘は発生していなかった。初戦の顔見せはあくまでも威圧と戦術的判断を鈍らせるための策略であり、例えば戦車部隊や化け物じみた神崎まりかでも攻め込んでこない限り、彼の出番はなかった。そんな切り札でもある獣人王は、じっと見上げ続けるはばたきにもう一度頷いた。
「なにか、聞きたいことがあるのか?」
「は、はい……」
「なんだ?」
「あ、あの……王は今の状況……戦況でしょうか。それをどう見ているのでしょうか?」
「随分広い質問だな」
「も、申しわけありません」
「いや」
  テンポのいい即答を繰り返していたエレアザールは、だが無言になると目を閉ざした。数秒ほどの沈黙の後、再び目を開けた彼は三度目の頷きを返した。
「様々な人たちからあらゆる情報を聞いた。もちろん、ファイルへのアクセス権も与えられたから、独自に調べたし、分析もした。その結果だが……」
「は、はい」
「核を保有し、それを容易に運用できるゴモラシステムに搭載し、独立を促す。三代目と二代目の違いは明白だな。無論、前者がより成功の確率も高い。問題は促された側の行動だが、これはまだ期待できんな。特に米国への隷属は無意識のレベルにまで刷り込まれているのが、日本という敗戦国の特徴だ。頭のいい一部の者たちも現実論という観点から、反米を得策と思ってはいない。となれば多数の衆愚がこの動きを助長しなければならんのだが、実のところ市民革命の成功経験がない日本人にそれを望むのは少々難しい。三代目の次なる手が気がかりだな」
  難しすぎる。知りたいことから、王の分析は遠すぎるように思えてしまう。はばたきは何度も瞬きをして、戸惑いを隠せなかった。
「他に聞きたいことはあるのかな?」
「い、いえ……もうありません。お邪魔して、申しわけありませんでした」
「いや……」
  本当に聞きたいことをストレートに問いかければ、自分の未熟さを曝け出すだけだ。もっともっとしっかりとした己を目指したいはばたき少年にとって、王から軽蔑されるのは耐えられなかった。彼は仕方なく王の間を後にし、とりあえず腹ごしらえをするため食堂に向かった。

「はばたき……」
  深夜の食堂には数名の警備員と、黒い長髪をした少女の姿があった。名前を呼ばれたはばたきは小さく会釈を返し、セルフサービスのカウンターへ向かった。
  主の頬を痛烈に張った蜷河理佳だったが、はばたきは不思議と怒りを覚えなかった。あのときと同じメニューであるカツ丼を受け取った彼は、空いている席を探すため視線を泳がせた。
  見ている。ラーメンの丼を前にして、革のジャケットを着た蜷河理佳がこちらを見ている。なら、彼女に聞いてみるのもいいかもしれない。はばたきはカツ丼を載せたトレーを手に、彼女の対面に座った。
「中丸隊長から伝言……明日の飛行偵察は忠犬隊から君にシフトチェンジですって……いいかしら?」
「え、ええ…大丈夫です」
  これまであまり話をしたことがなかったが、互いにこの鞍馬基地での防衛任務に就いているのだから、今後はこうした機会も増えていくのだろう。カツ丼を頬張りながら少年はそんな風に考えてみた。蜷河理佳は、真実の人に最も近い存在のひとりである。そんな彼女なら、王に問いたかった質問の答えも持っているかも。それに、主の頬を張ったこの人になら、未熟と思われてもいいような気もする。
「蜷河さん……尋ねたいことが……あ、あるのですが」
「え、なに?」
  思えば、彼に名前を呼ばれたのは初めてだったような気もする。理佳は首を傾げ、丼を置くはばたきを見つめた。
「か、勝てるのでしょうか……僕たちは……敵に……」
  難しい質問だ。勝利条件をどう設定するかで、その答えは微妙に異なってくる。テーブルの上で指を組んだ理佳は少しだけ考えを巡らし、はばたきは答えをじっと待ち続けた。
「勝てるわ。いつでも、いますぐにでも」
「え……」
  理佳を慎重で冷静な女性だと思っていたため、予想していない答えだった。はばたきは戸惑い、丼を手にしたまま固まってしまった。
「そう……あの人がいるのだから、核だってあるのだから、勝つこと自体は簡単。けど、それはあの人も望んでいない形の勝利……だからプロセスが大切なの。どう勝つか。その手段が問われる戦いなの」
「む、難しいっスね」
「ええ、難しい。実のところ、わたしにもそれがわかっていない。わたし自身の勝ち方は心に置いてあるつもりだけど、あの人の勝ちはもっと先にあるの……そう……はばたきにとっての、勝ちってなんなのかしら?」
「僕の……勝ち……」
  わかる。わかるつもりだ。主といつまでもずっと一緒にいられること。それが僕の「勝ち」だ。今は東京と京都で離れ離れだから、「勝ち」から程遠いと思い知るべきだ。なら、再び勝ちを得るため、任務は完璧にこなさなければ。明日の偵察が回ってきたのなら、今日は早く休んで備える必要がある。再びカツ丼に取り掛かったはばたきは、食べることに集中した。やはり、この彼女に聞いてみてよかった。バカなことを質問してくる子供だと思われてしまっただろうが、女性にならいくらでもそう思われてもかまわないと、そんなことがようやくわかってしまった。たぶん、ライフェ様との関係ですっかりそう慣れてしまったのだろう。自覚することで繋がりの強さを確かめられる。悪くはない感覚だ。

 蜷河理佳はスープだけが残るラーメン丼に視線を落とした。わたし自身の勝利。そこに、たぶん彼はいない。あの人はいても彼はいない。二つは同時に得られないのだから仕方ない。できるなら、彼に謝りたい。いまでもずっと好きなままだから、逃げ出して、銃を向けてしまったことにごめんと言いたい。許してはくれないだろうか。ううん、許してくれる。きっと彼なら受け入れてくれる。自惚れなんかじゃない。そこまでの繋がりなのだから、これは少ない確信のひとつだ。
  そして、許されたくはない。いっそ殺して欲しい。これからもっと、許されてはいけないことを積み重ねていくのだから。最後にもう一度向き合えたら、殺して欲しい。うん。わかってる。どうすればそれができるのか。
  褐色のスープに波紋が広がった。はばたきはそれに気づくことなく、ただひたすら夕飯で腹を満たしていた。それが、理佳にとっての小さな救いだった。

4.
  「来ると思います?正義忠犬隊」
  鈍い陽光の下、永田町、参議院議員会館の駐車場を歩きながら、突き出た腹を学生服越しに軽く擦り、“ガンちゃん”こと岩倉次郎は、背後に続く青黒き異形の男、健太郎にそう尋ねた。
「決行スケジュール自体、久し振りだからな。わからん」
  素っ気無い口ぶりだったが、岩倉は幾度にも亘る会議と実戦任務による付き合いのため、健太郎のそれが彼の認めるべき個性であるとよくわかっていた。駐車場の隅に大型のトレーラーが停めてあることに気づいた二人は、歩みを早めて最後には小走りになった。
  FOTの実戦部隊であり、その活動の宣伝的な側面も多分に含まれている正義忠犬隊。悪質な企業や業者、刑の確定していない凶悪犯に対する日本刀による斬首制裁、そして事故被害者の迅速なる救助など、彼らの活動は常に極端であり、それだけにわかりやすい効果を一般市民に及ぼしていた。ある者は喝采を送り、ある者は眉を顰め、前者が後者を数において上回り、現在では圧倒するほどの世論を形成しつつあることは、岩倉と健太郎も知るところであり、二人にしてもそれは仕方がないと承知してもいた。「市民はいつでもスピードを求めています。制裁も救出も。手続きは必要であるとわかりながら、それを無視する速さに憧れます」そんな解説をしていたのは、彼らの指揮官であるリューティガーだった。
  忠犬隊の活躍をもっとも苦々しく思っている者たちが、このトレーラーの中にいる。岩倉はそんなことを考えながら、大きなライフルケースを担ぎ直し、カーゴのドアをノックした。
「岩倉君に、健太郎氏か……どうぞ」
  ドアを開けてカーゴの中から応対したのは、内閣調査室F資本対策班班員、那須誠一郎だった。官製の防弾ジャケット姿の長身を窮屈に屈めていた彼は、訪れた二人を中へと招き入れた。
  カーゴ内は側面に計測ブースが設置され、中央には金属製の台座があり、本来ならそこに置かれているはずの赤い人型がいなかったため、高さはともかく全体的に広々と岩倉には感じられた。
「神崎まりかはいないのか?」
  チューリップ帽を目深に被り直した健太郎が、パイプ椅子を勧める那須にそう尋ねた。
「ああ。彼女は、鞍馬山で待機任務の最中だ」
  短い返事は、信頼関係がまだ不充分である証だ。健太郎はそう理解していたが、自分にしても口数は多くない方なので、それを指摘したり改善したりするつもりもなく、岩倉に任せることにし、要望を察した心優しき巨漢はパイプ椅子に腰を下ろしながら、ほとんど首と一体化していた顎に手を当てた。
「でも忠犬隊、来ちゃいますよ」
「ん?まぁしかし、仕方ないんだよ」
「やっぱり、鞍馬山の方が重要なんですか?」
「そりゃそうだろ。あっちにはおそらく核がある」
「んー……やっぱりそうですよねぇ。怪獣もいますし、こっちは疑惑の大臣だもんなぁ」
  坊主頭を掻いて自分なりの推論を口にする岩倉に、那須は苦い笑みを浮かべて腕を組んだ。
「まぁ正直言って、忠犬隊にまで戦力は裂けないのが現状だ。せいぜい俺がこうして来るのが精一杯。主任もあっちに行ったきりだ」
「ですよねぇ」
  あまり喋るつもりもなかったが、この岩倉に対してはつい口が軽くなってしまう。鞍馬山でのやりとりでも彼のおかげで場の空気がリラックスしたことを思い出した那須は、岩倉の背後で静かに佇む健太郎を一瞥し、緊張感を取り戻した。
「もう二十七日になった。全面突入の時期だって、おたくらの組織から合同でって要請があったから先送りだ。もっともどう対応するべきか頭を痛めていた上層部にとっちゃ、渡りに船のスケジュールなんだがな」
  意識的に、健太郎に対して那須はそう言った。
「古都での陸戦を躊躇しているのだな」
  低く掠れた声で健太郎は返事をした。那須にとって鞍馬での一件以来、この十日ほどで二度ほど対面する機会があった“健太郎”だが、あまりの異相だったから、人種の特定はこれまで困難だった。しかし、この口ぶりは彼を日本人と認識しまってよいのだろう。そう納得した青年捜査官は、天井と床をつなぐポールを握り、深く静かに頷いた。
  そう、前回の突入であまりにも手ひどい反撃を受けてしまった。被害パーセント自体は撤退するほどではなかったが、獣人王エレアザールの暴威は対した者たちに大いなる恐怖を植え付け、被害者の凄惨なる遺体は現場指揮官にまでそれを波及させていた。アレと正面から対決すれば、相応の損害を覚悟しなければならない。神崎まりかという切り札もいたが、彼女自身、「あれほど巨大な敵とは戦ったことがない。絶対に勝てるという保証は、残念ながらありません」と珍しく気弱な発言をしていた以上、全面的に頼るのは無理である。関係者の誰もが、鞍馬山決戦に二の足を踏んでいた。そんな中、賢人同盟からの通達で決戦を三月にしたいとの要請があり、政府は二つ返事でそれを受け入れたという。敵にも準備期間を与えてしまうが、市民を避難させ、十全な作戦を立て、戦力を整え、関係各部署に協力を徹底させるには、やはり時間があるに越したことはない。どこまでも自由なテロリストとは逆に、社会を構成し、その仕組みに組み込まれた軍隊には手続きが付きまとうのだから。那須は眼前に降ってきた右足を失った先輩捜査官、柴田明宗の姿を思い出し、ぶるっと全身をひと震えさせてしまった。
  どうでもよく感じてしまえる。捜査官という職務からすれば、テロリストの犯行予告に対応し、出現時間に警戒をする今日の任務の方が、森の中で軽くなった先輩を抱えて撤退するよりも“らしい”はずなのに、ひどくどうでもよく感じてしまえる。随分とのんびりとした仕事だと、心のどこかでバカにしている自分がいる。
  重傷を負った柴田は当然のことながら入院をしたままであり、一命はとりとめたものの、今後の現場復帰は不可能であると言わざるを得ない。彼の後任はまだ決まっていないが、現場捜査での中心的な役割は今後、同僚である尾方哲昭(おがた てつあき)が引き継ぐ段取りだと那須は聞いていた。尾方は対策班の創設メンバーの一人で、普段は一般市民への聞き込みや、警察に逮捕された容疑者への取り調べを得意とし、本部の持ち椅子を最も長持ちさせている捜査官だった。拳銃を一度も現場で使ったことがないと自嘲気味に語る話術の人である彼に、果たして柴田先輩の後任が務まるのだろうか。そんな疑念をCIAから出向しているハリエット・スペンサー捜査官に漏らしたところ、彼女の返事は、「テールおじさんは意外と度胸もあるのよ」だった。聞き込み任務で行動を共にする機会が多いから、自分の知らぬ面も見ているということだろうか。那須は今後、そんなチャンスが是非訪れて欲しいものだと期待しつつ、考え事に没頭している暇はないと計測ブースに向かった。
  岩倉次郎は足元に置いたライフルケースを少しだけ見つめると、視線を腕時計へ移した。時刻は午後三時、正義忠犬隊が「正義決行」と銘打ち、宣言した予告テロの決行時刻まではまだ三十分ほどある。無法のテロリストが律儀に時間を守るとは思ってもいない岩倉だったが、その内容が場所を参議院会館駐車場と限定した公開処刑であり、対象者の国土交通大臣が現場に姿を見せていない以上、まだ「待ち」の時間帯は続くはずである。余計な脂肪の抵抗をたっぷりと感じながら身を屈めた岩倉は、ゆっくりと落ち着いた動きでライフルをケースから取り出した。
  正義忠犬隊による公開テロ活動、すなわち「正義決行」には、ビラに予め書かれたスケジュールに沿ったものと、今回のように決行数日前に突如として発表されるものの二種類がある。国土交通大臣、箕園明正(みぞの あきまさ)の公開処刑は、二日前の十一月二十五日、場所はあるテレビ局がお台場で開催していた期間限定イベントの会場だった。どこから姿を現したのか、トークショーの舞台上に突如出現した犬面の怪物は、箕園国土交通大臣の抹殺を宣言した。「これら指摘されている公共施設における耐震強度不足は明白であり、受注業者、設計技師、大臣の三者による事前認識は疑いの余地がない。国民が利用することを前提とした公共施設に対してのこれら背信行為は、今後米国との全面対決を控えた日本国の現状を考えれば一片たりとも許すべきではなく、斬首の決行は国民の総意によるものである」犬の口から声高に叫ばれたその疑惑は、もともと野党議員とマスコミが半年ほど前に明るみにした公共体育館の耐震強度偽装を指摘したものであり、箕園大臣の関与への疑念は日本国民にとっても周知だった。岩倉はトレーラーの小窓からライフル用のスコープで駐車場から外の様子を窺ってみた。するとフェンスの向こう側には機動隊が隙間なく並び、背後に詰め掛けていた市民たちの興奮を背中で受け止めている光景が目に入った。なるほど、みんなの関心は集めている。それにしても機動隊の人たちは大変だ、そんなことを思いながら、岩倉はスコープをライフルに装着した。
「来ますね……忠犬隊は」
  彼の声には確信が含まれている。そう感じた健太郎は、赤い目を鈍く光らせ、裂けた口の端を更に吊り上げた。
「そうか」
「たぶん」
  今度は、若干だが迷いがある。それがこの若さゆえのブレというものなのだろう。健太郎は納得して両手をだらりと垂らし、いつでも戦えるよう心を構えた。
  ヘッドフォンを耳にして、監視カメラのモニタ画像を見つめながら、那須誠一郎は岩倉と同様に駐車場を囲むように詰め掛けた市民たちの表情から、ある種の期待感のような浮つきを感じ取り、ため息を漏らした。
  議員は地下の専用駐車場を使うのが決まりになっていて、この地上の外来者用の駐車場は本来ならこのテロとは縁遠い場所で、移動本部でもあるトレーラーをわざわざ待機させる必要もない。だが、「本日の登館にあたっては外来者用を使う。なぜなら私はテロに屈しない。それと同時に疑惑に対しての潔白をも証明してみせる」などと箕園大臣が言い出し、政府もそれを認めたという経緯のため、最重要警戒エリアとなってしまっていた。那須が耳にした噂によると、箕園の発言は却下が前提のスタンドプレーであり、官邸サイドの許可は彼にとって意外な結果だったらしい。「まぁ、箕園大臣はクロってことだな。検察が官邸筋にリークしてたらしい。だから首相もあいつを切ってもいいと判断したそうだ」とは、知人である公安捜査官との茶飲み話である。まったくどうでもいい。金銭の授受があったかどうかは知らないが、国の一大事にスタンドプレーをするような大臣など、どうにでもなってしまえ。今頃専用車の車中で顔面蒼白になり、ギロチン台に上るような恐怖を味わっているのだろうが、まったくどうでもいい。そんな本音を心の底に沈みこませながら、那須は決行時刻まであと十分を切ったことに気づき、唾をゴクリとひとのみした。

 機動隊員の分厚い壁に阻まれながら、市民たちは車もほとんど停められていない駐車場と、その上空に熱い視線を注いでいた。この日は日曜日ということも手伝い、参議院議員会館周辺には千人を超える観衆が狭い歩道を取り囲むように詰めかけ、車道にまで人々が溢れてしまった結果、一部の道路が通行止めになるまでの異常事態になっていた。機動隊員の中には辟易とした表情で、また戒厳令でも敷けばいいのに、と言い出す者もいて、それほど群衆は彼らにとって危険な存在であると思えるほどの熱を帯びていた。
  あのトレーラーは政府のものなのだろうか。忠犬隊が飛んでくるとしたら、それはどちらの方角からなのだろうか。箕園大臣は宣言したとおり、この外来者用駐車場にやってくるのか。興味と疑問、そして期待は膨れ上がる一方であり、粛清をする者とそれを阻む者との闘争を誰もが待ち望んでいた。だが、血みどろの争いは自分と無縁ではない。この永田町だけに収まる闘いではないと、人々はわかっていた。近いうちに影響がある。八年前、戒厳令まで敷かれたあのテロを忘れるはずもなく、だからこそ表情に浮かれた軽さはなく、誰もが緊張し、怯えてもいた。
  群衆のひとり、田所徹三というある中年男性は、両手を握り締め、国会議事堂の裏側を背にし、議員会館外来者用駐車場を睨み続けていた。彼の姉は八年前、渋谷で起きた騒乱で機動隊の誤射で撃ち殺された。あの温厚で静かだった姉が、なぜ銃弾を浴びて死ななければならない。真実の徒による音波撹乱により、平常心を失っていたという警察からの説明だったが、田所は当時、それを荒唐無稽な言い訳としか思えなかった。しかし、忠犬隊の異形を見るたびになんとなく納得しつつある自分がいる。あんな犬のような怪物が飛べるのなら、姉だって撃ち殺されてしまう。恨みをどこにぶつければいいのかわからないまま、その男は起こるはずの事態を確かめたくて仕方がなかった。
  午後三時三十分。機動隊の運転する四台の装甲トラックに囲まれた漆黒のセダンが、参議院議員会館外来者用地上駐車場に姿を現した。がらがらの駐車場に入ってく車列を見て、市民たちの多くが物々しさと同時にある種の“恐れ”を感じていた。箕園大臣は、あの車中で来るべき斬首に震えている。装甲トラックはセダンの姿を四方からほとんど覆い隠してはいたが、飛来してくる忠犬隊は“上”から攻めてくる。いくら怯えても大臣の視界は天井を越えることはできないのだから、不安は募るばかりだろう。心境をそこまで豊かに想像する市民もいた。
  車列が停車するのと同時に、会館側で待機していた自衛隊の特殊部隊の面々が一斉に飛び出し、彼らは素早い動きでアサルトライフルを構え、セダンから降りてきた大臣を誘導した。彼らのよく訓練された乱れぬ挙動とは対照的に、初老の大臣は何度も汗をハンカチで拭きながら足取りもたどたどしく、SPに肩を掴まれて歩いていく様は、まるで連行される犯罪者のようにさえ岩倉には見えてしまった。ハンドルで小窓を開けた岩倉はライフルをしっかりと構え、健太郎はいつでも飛び出せるよう、カーゴの出口で身を低く折っていた。
  わずか十五メートルほどの距離を二分もかけ、大臣は公用車から議員会館の中へと入っていった。見守る市民たちの緊張は同時に秋空へ立ち昇るように消え去り、それにつられまいと機動隊員の表情は更に険しくなった。だが、それも継続したのは五分ほどであり、駐車場に展開していた自衛隊員が会館の中へ撤収したころになると、誰もが高めすぎてしまった緊張のやり場に困惑してしまい、それはまるで短距離走の合図を待ちながらも中止になってしまったランナーのように、ただ戸惑うばかりだった。
「肩透かし……なの……」
  ライフルを構えたまま、巨体には似合わぬか細い声で岩倉はつぶやいた。拳銃を手にした那須は静かに頷き、カーゴルームの壁に三つ並んだモニタを注視した。そのいずれにも、犬面は映し出されていない。箕園大臣は今頃、会館の厳重な警戒の中で安堵している頃だろう。今回、対策班としての判断を一任されていた那須は、部下たちにいつ撤収の指示を出すべきか考えを巡らせ始めていた。これまでにも忠犬隊は決行予告をそれこそ“肩透かし”したことが数度あり、今日のこれもその記録に一行が加わったと結論づけてもいいのだろうか。それとも、決行場所は会館の中なのだろうか。いや、予告の時刻はもう五分を過ぎようとしている。那須誠一郎は顎に手を当て、事態の分析に頭脳をフル回転させていた。
  緊張の波が引いていく。だがそれは静寂を呼ぶものではなく、緩みという名の新たな波が訪れる前兆でしかない。小窓から外の空気を感じながら、岩倉はそれを実感していた。フェンスの外の機動隊員はなんとなく浮ついた様子で互いに視線を送り、その向こうの市民も戸惑い、目を泳がせ、笑ったり怒ったりと表情も様々であるのが狙撃用スコープのおかげでよくわかる。今日はこのまま撤収し、代々木でリューティガーに何事も起きなかったと報告し、陳さんの食事に舌鼓を打ち満足して帰宅し、誰も撃ち殺さずに済んだ幸運に感謝し、妹の受験勉強の様子でも見てみようか。思いは次々と和やかな光景を浮かび上がらせ、岩倉次郎はようやく引き金にかけていた人差し指を真っ直ぐにした。

 その直後である。

 突風が銀杏の枝を揺らし、セダンの四方に停まっていた装甲トラックのうち、先頭車の荷台が少しだけ沈み込み、白い長髪が舞った。会館の廊下で待機していた自衛隊のうち何人かがその出現に気づき、アサルトライフルを構えながら窓を蹴り開けた。しかし、銃口と荷台の上の黒いスーツの青年との間に、突如として数匹の犬面が出現した。

 真実の人、出現。その直後、忠犬隊、出現。衛兵に守られた王のように、凛とした威厳を青年は全身から放っていた。手にはメガフォンを握り、それがなんともアンバランスではあったが、独立催促の宣言をして以来となる彼の登場に、周囲にいた者たちの誰もが再び緊張の波に襲われた。それもさきほどとは違い突然の高波だったため、群衆は大蛇のようにうねり、その端々が壁なっていた機動隊員とぶつかり合い、悲鳴と怒号が秋空を震えさせた。
「健太郎さん!!」
  カーゴルームに岩倉の声が響き、健太郎はその脇へほとんど瞬間的に達していた。
「真実の人か……!!」
  掠れた声には焦りと怒りが滲み、オペレーターたちに緊急事態の度合いが最大級であることを伝えていた。那須はマイクを手にし、「真実の人だ!!」と叫んだ。
  茶色い羽が、真実の人の頬を時折くすぐり、彼はその度に左手の甲で不快感をごまかした。装甲トラックの荷台の上で胸を張る青年の周囲では四匹の忠犬が宙に舞い、狙撃の壁となっていた。もちろん、それがなくとも凶弾に後れをとるような彼ではなかったが、今日に限っては必要な措置であった。
「箕園大臣には、まだ少しばかり猶予というものを与えよう。随分と肝を冷やしただろう」
  メガフォンを通した真実の人の声に怒号と悲鳴は少しだけ収まり、それとは対照的に困惑する機動隊員の判断を求める声が走り、彼らと駐車場を隔てているフェンスが大きく軋んだ。
「前副大臣の後を追いたくなければ、辞任するなり自決するなり、勝手に選ぶことだな」
  隙間はわずかだがある。宣言を耳にしながら、岩倉は銃口を真実の人のこめかみに向け続けていた。引き金に力さえ入れれば、ライフル弾はあの美しい頭部を貫通する。獣人以外を狙撃した経験は彼になかったが、真実の人はそれ以上に人間離れをした怪物であるのだから、あまり躊躇はない。「健太郎さん!!」判断を求める言葉を、彼は低くしっかりと口にした。
「ダメだ……狙撃は通じない。それより、何を宣言するのか聞く」
  記録手段を持ち合わせていなかったため、いまは岩倉次郎の能力は狙撃ではなく卓越した記憶力の方を活用するべきだ。健太郎はそう判断し、彼の分厚い肩を掴んだ。
「は、はい……」
「忠犬隊を“取り寄せた”のは、おそらく宣言の邪魔をさせないための保険だ。なら、相応の内容がある」
  健太郎の推論は同じくカーゴルームにいた那須にとっても価値が高く、彼は同意しながらモニタを凝視した。
「それより、本日皆さんに集まってもらったのには別のわけがある」
  続いたその言葉で、健太郎の予想は早速裏付けられた。会館の中に設置された警視庁の対策本部でも狙撃と検挙は軽率であるとの結論に達し、その指令は機動隊員たちへ無線で伝えられた。彼らは群衆の圧力に対して遂には背中をフェンスに密着させ、もし攻撃命令が出ても即応などできないと全員が凌ぐのに精一杯だった。
「来る十二月三十日。我々FOTは、米軍横田基地に対して大規模な軍事行動に移る。一ヵ月以上の猶予がある以上、米国および日本政府には賢明なる判断を期待したい。他国の首都に爆撃機が発着可能な空軍基地があることなど、歪の極みであるとしか言いようがなく、兵站基地とは言え、横田のような存在は日米関係の異常さを象徴するひとつであると、FOTは憂慮するものである。日本国民が真実の独立を獲得するために、このような歪みは直ちに直さねばならない!!」
  これまでに広報手段としてきた関東テレビが放送免許を剥奪された以上、FOTにテロを予告できる手段は限られているのが現状である。なるほど、だから正義決行という餌を撒いてまで、注目を集める必要があり、それ故に予告している大規模なテロは必ず実行に移される。那須はモニタで真実の人の姿を見、背中でその言葉を浴びながら歯軋りした。
  宣言を一通り終えると、メガフォンを放り投げた真実の人は姿を消し、やがて忠犬隊も忽然とその場からいなくなり、装甲トラックの荷台にはいくつもの羽が残された。

5.
  空母ニミッツでの独立要求と直結した、真実の人の演説だった。群衆はアジテーターが消失した直後に再びボルテージを上げ、わけもわからず叫びだす者までいた。中にはテロに屈するなと現行政府へ叱咤激励をする声もあったが、そこまで具体的な内容は数少なく、ほとんどは獣のようなうなりでしかなかった。とてつもなく大変な内容を演説したことだけはわかる。「賢明なる判断に期待したい」とはどういった示唆なのかよくわからないが、ともかくとんでもないテロが起こる。八年前の騒ぎだけは嫌だ。いや、そうなって欲しい。混沌とした熱の要因には、当事者がいなくなったせいで戦闘が起こらないといった打算が、無意識のうちに働いていたのかもしれない。体格の良いある中年男性が興奮の末、機動隊員をフェンスの向こうに押し倒し、堤防と化していた青い制服の壁が激しく揺らいだ。機動隊の指揮官は直ちに自衛隊へ応援を要請し、議員会館から飛び出してきた隊員の一人がライフルを垂直に発砲した。
  群衆の荒ぶる波は、よく訓練された整然とした壁によってしだいに押し返され、興奮はまるで真実の人が消えていったのと同じように、冬空へと散っていった。これ以上騒いだところで何も起こらない。そう悟った群衆は一時間ほどするとばらばらに動き出し、群れではなくなっていった。
  大事には至らなかったものの、国会議事堂周辺にこれほどの市民が集まったのは何年ぶりだろうか。時代は動こうとしている、それもあまり好ましくない方向に。井崎の辞任を受け、就任したばかりであった防衛長官の中今金四郎(なかいま きんしろう)は、国会議事堂の廊下から解散する人々を見下ろし、眉間に深い皺を刻ませた。八年前の悪夢が繰り返されようとしている。しかも今回は単純な破壊テロではなく、政治的な要求を含み、市民へのアジテートを繰り返し、手口はより大胆かつ巧妙になっている。政変など有り得ず、自分が生きているうちにこの国の在り様が変わらないと信じていた、今年六十四歳になる中今は防衛長官のポストが巡ってきたタイミングに幾分の恨みを抱きつつ、だが職務を全うするため職場へと向かわなければならず、その足取りはどこまでも重かった。


「わかるかね!!そう、真実の人は我々に要求をした。日本国民は真実の独立を果たすべきだと。横田基地への攻撃は、我々にある判断を求めているのだ!! それは毅然として断固たる態度を示せということだ!!」
  議員会館の正門前で、音羽会議議長の関名嘉篤(せきなかあつし)はマイクを通じてそう絶叫した。臙脂色の詰襟の両肩にはタスキを巻き、スポーツ刈りの隙間からは汗が噴き出し、彼の周囲には白い詰襟を着込んだ仲間たちが後ろに手を組んで並び、その背後にはいくつものパネルが設置され、いずれにも写真が貼られていた。機動隊ともみ合いになっていた群衆のうち、仕方なく解散した数十名がそのアジ演説に気づき、関名嘉や音羽会議の面々に注意を向けようとしていた。
「米軍が横田より即時撤退をすれば、FOTの軍事行動は起こらないだろう。しかし、その可能性は極めて低いとしか言いようがない。これより一ヵ月の間、政府は無策と愚図を繰り返し、米国はテロに屈しないと虚勢を張り、十二月三十日は訪れてしまう!! 無為無策のまま、関東で大規模な陸戦が行われるのだ!!神々しき獣軍と対するのは、海兵隊か?いやいや、おそらくは我らが同胞である、自衛隊員になるだろう。これは簡単な予測だ!! そしてあまりにも不幸な結果だ!!」
  目を血走らせ、口角泡を飛ばし、身を乗り出して絶叫する関名嘉の前には、やがて百名を越える市民たちが集まろうとしていた。発砲により強制的な解散をさせられてしまい、興奮のやり場が失われてしまった人々にとって、真実の人の演説と直結した内容である関名嘉の解釈は、実にわかりやすく興味を惹くものであり、背後のパネルに貼られた写真も刺激的なものであった。
  その写真には、いくつもの地獄絵図が写されていた。
  倒壊した老人ホームから逃げようと、下半身を引きずる老婆がいた。C−130の翼の一部が、車椅子の男性を引き裂き、介護犬がその亡骸を見下ろしていた。料亭「いなば」が炎上し、胸を掻き毟った女性の窒息死体が瓦礫に転がっていた。ビルと高速道路の倒壊現場にて、いくつもの幼き手足が血塗れのオブジェと化していた。全裸の遺体を踏みつけ、白い歯を見せる黒人の姿があった。天皇の写真を口に含み、射精しようと股間に手を当てた白人も写し出されていた。
  それは、FOTによって引き起こされた、「事件」を巡る光景の数々を示していたが、真実を知らない人々にとって、一部を除けば米軍とその関係者によって生み出された“痛み”を現出させる写真だった。食い入るように見る者がいた。祈る者もいた。吐き出す者もいた。
「なぜ我らの自衛隊が、占領軍を守るために爪と牙に晒されねばならない!?自衛隊の敵は、日本人の敵ではないのか!?獣軍と米軍、我々にとってどちらが敵なのか!? 考えるまでもない!!」
  写真の中には、事故現場から人々を助け出す忠犬隊を写した物も数多く含まれていた。惨劇も救助の現場もましてやカラー暗黒を雇った暴行殺害や薬漬けにしたジャレッドの姿など、当事者であるFOTにしか撮れないものだったが、それに気づく市民はおらず、そのショッキングな内容に心は震え、関名嘉の熱の込められた言葉に頷く者さえ、少数だがいた。

 あの写真パネルは、最近だとネットでも話題になっている。それにより音羽会議と関名嘉篤の知名度は以前に比べて高くなり、早くからFOTを絶賛した集団だと評価する意見さえ出てきている。横田良平は暗灰色をしたダウンコートのポケットに両手を突っ込み、市民たちからやや離れた路地から関名嘉の演説を眺めていた。さて、どの程度の写真なのだろう。確かめるにはもう少し近づく必要がある。それにしてもいまどき写真をじかに見に行かなければならないなど、時代錯誤もはなはだしい。音羽はサイトもやっているのだから、そこで少しは写真を公開してもいいはずなのに。そんなことを考えながらも横田は、同時に音羽会議の意図もなんとなく理解していた。そう、ネット全盛のいまだからこそ、“わざわざ”という行為に、より価値があることを。
  よく観察してみると、忠犬隊目的の野次馬流れだったのとは別の、もっと若い自分と同じぐらいの観衆もいて、彼らは関名嘉の演説よりも写真に注意を向けている。あれは自分と同じ目的、つまり、ネットで評判のグロ写真をじかに見に来たやつらだ。横田はそう思い、本来の意図とは逆に数歩後ろに下がって辺りを見渡してみた。すると、あのアジ演説全体を見渡せるほどの距離である地下鉄駅の入り口階段付近に、三人の男たちの姿があった。いずれも黒いスーツ姿で、国籍は白人に黒人、アラブ系と三者三様であり、一様にして鋭い目をしている。あれが噂の、「監視者」か。横田は緊張し、ポケットの中のデジカメを手放した。
  音羽会議が衝撃的な現場写真を集客の道具に使いはじめたのは、今から一週間ほど前からである。あるブログでその事実を知った横田は、さてどのような写真なのだろうと興味を抱き、持ち前のネット知識を駆使して情報を集めてみた。最大の目的はパネル写真そのものがデータとして流出していないかどうかだったが、さすがにそれは見つからず、望遠撮影された小さな物が数点拾えるだけだった。音羽のアジ演説を目撃したブロガーは、誰もが写真の衝撃性を訴えていた。それにも拘わらず、遠くからの隠し撮り写真しか見つからないのはおかしい。いかなるシークレットライブや展示会でもデジカメによる撮影写真は出回るのが現代のネット事情であるはずなのに。横田の疑問は深まる一方だった。やがて彼は、今から三日前に、ある掲示板の書き込みに気づいた。それによると、どうやら演説現場を監視している集団がいて、もし近くで盗撮でもしようものならたちまち彼らが飛んできて、たっぷりと脅した末データを消去してしまうらしい。あいつらは黒服の外国人で、日本語も上手い。たぶんあれはFOTの関係者だ。おそらく政府の監視者だ。獣人に変身できるらしい。CIAの捜査官で、最後には記憶を消される。噂には様々な尾ひれがデコレートされていたが、ともかく監視する者がいると見て間違いはない。横田は教室での、あるやりとりを思い出した。
「俺は妹と買い物……渋谷でさ、そんとき偶然通りかかったんだよ。まぁなんていうか、すっげぇ写真だったわ。さすがに妹には見せないように注意したし。だけどあいつ、夕飯ほとんど食えなかったから、たぶん見ちゃったんだな」
  同級生の沢田喜三郎の言葉である。彼は六日前に渋谷で音羽会議のアジ演説に出くわし、そこでパネル写真を見てしまったらしい。額から汗を滲ませながら頬を引き攣らせ、彼の言葉はチャイムと同時にこう締めくくられた。「望遠の隠し撮り? ネットのだろ?そんなの全然敵わないって」と。
  横田は写真を見るため、群衆に踏み込んでいくしかなかった。人ごみは白い息を絶えず漏らし、ときどき肘や膝がぶつかる不愉快な場ではある。しかし好奇心を満足させるためには入っていかなければならない。「目覚めよ、日本人!!」関名嘉というやつの声は随分と響く。そう感じながら、彼は群衆の中に入っていった。

 あれは横田良平だ。落ちてきた袖を強く引っ張った比留間圭治は、写真を食い入るように見つめるひとりに知った顔が混じっていたため、声をかけようかと迷った。いや、いいだろう、自分がこの活動に参加しているのはとっくに知られているのだし、今更“こちら側”にいる事実を誇示したところで奴の劣等感を煽るだけのことだ。それより、どうしてこの白い詰襟はこうもだぶつくのだろう。サイズはちゃんと伝えたのに。足元の段ボール箱を抱え上げた比留間は、散りじりに解散しようとしている群衆を軽く見渡し、のろのろと亀のように歩き始めた。十五分におよぶアジ演説は終了し、最後はそれなりの拍手喝采も浴びた。今までで一番の盛り上がりだったのは、聴衆のほとんどが直前に真実の人を見たり、現れたと知ったりしたことが大きく影響している。マイクロバスに向かって段ボール箱を運びながら、比留間は今日のイベントを自分なりに分析していた。
「あ、高橋……さん」
  マイクロバスに乗り込んだ比留間は、一番奥の座席でビラを封筒に戻していた少女の姿に気づき、段ボール箱を適当な座席に放り出して駆け寄っていった。
「余ったビラ?しまうの手伝いましょうか?」
「ええ。頼むわ」
  いつの間にか、敬語を使ってしまっている。身体の深いところまで触れ合ったのに、言葉は出会った頃より遠ざかってしまったようだ。けど、こうした節度を示すことで、再びあの快楽に身をゆだねられるのなら、いくらでも傅(かしず)いた態度を見せてもいい。まったく摺り合わせもできていない一歩的な思い込みで、少年は少女に隷属を誓っていた。
「きょ、今日は盛り上がりましたねっ!!」
  バスには誰もいない。これは幸運だ。知恵の隣に座り、ビラの収納を手伝いながら、比留間はそう思って彼女の横顔を見つめた。少し、目の落ち窪みが増したようにも見える。以前の彼なら不気味に感じ、嫌悪するべき青白さだったのに、今ではそれが少しだけ紅くなると知ってしまったから、ただそそられてしまう。
「そのぶん、公安の目も厳しくなってたけどね」
「そ、そうか!?そうですよね。って意味じゃ、真実の人が出てきた直後なのに、よく演説を中止させられませんでしたね」
「バカ?お前」
  短い罵倒は、鼻にかかった声だった。知恵は視線を前に向けたまま封筒にビラを収める作業を続けたままで、呆気にとられる比留間に気持ちを向けようともしなかった。
「は、はぁ…ええっと……」
「真実の人に興奮した民衆に、適度なガス抜きをさせるにはアジ演説はちょうどいい具合のシフトダウンなのよ。もちろん、関名嘉さんだってそれは計算づくし。公安が大目にみるって目論み。呉越同舟のトラベリングバスってやつよ」
  前半はともかく、後半に関しては理解し難い言葉だったため、困惑した比留間はビラの束を床に落としてしまい、それを慌てて拾い上げた。
「床に着いてしまったぶんは捨てなさい」
「あ、ですけどすぐ拾いましたし」
「いいから捨てなさい」
  強い口調だったため、比留間は仕方なくビラの何枚かをクシャクシャに丸めて、それを詰襟のポケットに突っ込んだ。知恵はベージュのセーターにカーディガンを羽織り、ジーンズ、スニーカーといった派手さに欠けた服装であり、自分の白い詰襟が滑稽のようにも思える。比留間はなんとなくだがそう思ってしまった。
「関名嘉さんみたいに、ビシっとは着られませんね。サイズ、大きく作り過ぎてるみたいで」
  だぶついた袖をおどけた表情で引っ張り、比留間はせめて彼女がこちらを見てくれないものかと願った。しかし、知恵の視線は正面のままだった。
「関名嘉さんは、鍛えてるからね」
「……前と比べると、体つきとか変わりましたよね」
「そうね……」
「だから、声なんかもよく通るようになったんですかね?」
「でしょうね。けど……」
「けど……なんです?」
「身体も声も大きくなったけど、言ってることも変わってしまった」
「言ってることって……主義とか?」
「私には、彼がなにを言っているのかわからない」
  視線は、床に落ちていた。下唇を噛み締め、両の拳はジーンズの上で震え、枝毛がぷるぷると上下していた。
「出会った頃とは逆のことを言っているような気もする。だから、最近ではわからないと思うようにしている」
「高橋さん……」
「わからないのなら、それでいい。わかってしまったら。もう終わりのような気がする」
  元気なく、気力に乏しく、暗く憂鬱な高橋知恵なら知っていた。苛烈で挑発的で、氷のような冷たさを持った高橋知恵だって知っている。けれどもこんなに切ない悔しさに震えている彼女は初めてだ。比留間は可哀想だと達する以前に、これはチャンスだと思った。よくはわからないが、“ともっち”は不安の中にいる。こんなとき、逆転劇というものは起こるはずだ。
「せ、関名嘉さんって反米左翼だったんだよね。それが今じゃ、どっちかっていうと徹底的な民族右派って感じがするものな。なんかこう、アメリカだろうが中国だろうが、なんでも敵だって感じだな!! 音羽会議ってそもそもハト派のリベラルが信条なんだよな。それについてきたメンバーは、確かに今の在り方に疑問をもってもおかしくない。いや、ちょっとおかしいと俺も思うぜ」
  意図的に口調を作りながら、比留間圭治という存在を強く濃くしてみる。さて、どんな反応が返ってくるだろう。もし泣きついてきたら、バスなんて降りて二人でどこかへ行く。どこがいいだろう。そう、二人で慰めあえるほど静かな何処かでいい。彼は両手を広げ、いつ飛び込まれてもいいように腰を低くした。
  目の前で閃光が放たれた。そう、閃光である。フラッシュを眼前でたかれたような、そんな一瞬の閃きだった。同時に眉間に激痛が走った。固い石のような何かが打ちつけてきた痛みだ。痛い。痛くて仕方がない。不意打ちの奇襲はあまりにも痛烈で、比留間は立っていられることもできずバスの床へ転がってしまった。その背中に、今度は鈍い痛みが走った。蹴られた。覚えがある。小学校五年生の頃、クラスメイトのひとりに廊下で蹴られたあの衝撃に似ている。次々と襲いかかる暴力の渦に、小さくなった比留間は意識を保つだけで精一杯だった。
「言うか!!貴様のようなゴミが言うか!!今更ブレるな、愚か者め!!ノンポリか?今の関名嘉篤に同調するのなら、それを貫け!!」
  罵声もはっきりとは聞き取れない。ただ、激しい反応があったことだけは確からしい。喜んでいいのだろうか。たぶん、いいのだろう。泣きつかれるのが百点、無視が零点だったら、この結果は六十点ぐらいだ。比留間圭治は口の内側の肉を噛み締め、舌で血の味を確かめながら、気を失ってはだめだと微笑んでいた。


  関名嘉篤はその夜、吉祥寺のマンションにいた。カウンターでキッチンと隔てられたリビングは十二畳と広く、ソファに腰掛けていた彼はブランデーのグラスを傾け、これまでなら到底手の届かなかった机上の高価なボトルを見つめていた。
  入居は先月のことであり、家具から衣類に至る一切がFOTによって用意されたものである。「お前の好きに使え」藍田と名乗る男にそう言われ、二つ返事で応じたのも東中野の安アパートにうんざりしていたからだった。十五階建ての最上階。間取りは2LDKだが面積は充分以上であり、家具も高級なものばかりだ。巨大な冷蔵庫の中には生鮮はなく、代わりに酒棚と床下収納には一本あたり五桁はする高級酒ばかりが収められ、電話一本でいくらでも追加できる。いつかテレビで見た、青年実業家のような暮らしじゃないか。今をときめく音羽会議の議長に相応しい生活空間だ。関名嘉はにやにやとしてブランデーを飲み干すと携帯電話を開き、アドレス帳を表示させた。
  さて、今夜は誰を呼び出そう。これまでのように金づるにする必要もないから、今では相性や好みを優先して付き合うことが出来る。いやいやしかしここは考えどころだ。今後はテレビ出演なども増えていくらしいから、それからもっとグレードの高い女を引っ掛けた方がいいのかも。女子アナはどうだろう。スポーツ選手ってのも珍味でいいかな。いや、ここはやはりアイドルか。風景の広がりに比例して、あらゆる選択肢は増えていくのだから、後腐れそうな相手は今のうちから疎遠にしておいた方がいい。関名嘉は携帯をテーブルに置き、声を出して息を長く漏らした。
「いいアジテートだったな」
  うなじを突風にくすぐられるのには、もう慣れていた。二杯目のブランデーを注いだ関名嘉は、「呑むのでしたら、グラスをご用意いたしましょうか? 真実の人」と、来訪者に背中を向けたまま告げた。
「いや。俺はいい」
「ここも公安にマークされてますよ」
「だから長居はせん……」
  まだ若いはずなのに、相変わらず老成した口調だ。関名嘉は真実の人の言葉に口の端を吊り上げると、二杯目のブランデーに口をつけた。
「音羽はよくやってくれている。出会った頃からは想像もつかんよ」
「私だけじゃなく、下の連中も甲斐甲斐しくやってくれてますから」
「ああ。これからは若い力が衆愚たちの目を覚ましていく……君には期待しているぞ、関名嘉篤」
「ありがとうございます」
  褒めているのは言葉だけだ。この真実の人という奴は、あくまでもこちらを使える駒としか見ていない。関名嘉はそう見抜いていたから、特に心も動かされることなくブランデーを啜り続けていた。
「真実の人。私はこれからもっと上を目指しますよ。なんなら、新しい国土交通大臣に推してくれたっていいのですよ」
「どういう意味だ?」
「違うんですか?辞任を示唆したってことは、後釜を国勢に送り込むつもりだったと思ったのですが」
「俺はそこまで、この国に具体的な介入をするつもりはないよ。それともやってみたいのか、関名嘉」
「さて……どうでしょうか」
  真実の人はリビングを軽く見渡すと、ポケットに両手を突っ込み、左目を閉ざした。
「三十日の横田では、君たちにもがんばってもらうつもりだ。何が出来るか考えておいてくれ。それと……」
「ええ」
「音羽会議という名前は、そろそろ変えたほうがいいかも知れんな。強い思い入れがあるのなら別だが」
  意外な提案だったため、関名嘉はグラスを置き、注意を軽く背後に向けた。
「いえ……特に拘りはありませんよ。“会議”って……弱いですかね?」
「さてね」
  腹の探り合いは望むところだが、あまりにもヒントが少ない。関名嘉は首を傾げ、アルコールで鈍ってきた頭脳を活性化させるべく、大きなあくびをした。
「そうだ真実の人……蜷河理佳って、あのテレビにも映ってた子……秘書なんですか?」
「なんだ、急に」
「いえね、私のとこにも“ともっち”と呼んでる若い子がいるんですけど、これがせめてあの蜷河女史ぐらい美人だったら、いろいろと使い道も増えるかなって思いましてね」
  ヒントを得たいための軽口だったが、言いながら関名嘉はあの黒髪の美少女が自分の脇に立っていたら、音羽会議の注目もより集まるだろうと想像してみた。
「関名嘉篤」
  声が近い。どきりとした関名嘉は腰を浮かそうとしたが、その両肩が背後から掴まれた。なんて強い圧力だ。これが背後に立っていた優男によるものだとしたら、人は見かけによらない。ぼんやりとした気分から急速にアルコールを散らした彼は、少しだけ恐怖を感じていた。
「理佳は、俺の家族だ」
  口調もなんとなく乱暴であり、リズムも軽やかだ。これが本来の彼なのか。関名嘉はそう思った。
「革命は、君の手によって。がんばってくれたまえ、音羽の関名嘉」
  今度は堅い、いつものそれだ。困惑した関名嘉はせめて背後に視線を向けようと頭を動かしたが、再び襲った突風と、肩を押さえていた力が消えたため、バランスを崩してソファに上体を倒れこませてしまった。
「革命は。俺の手によって……」
  悪くない言葉だが、怖い覚悟も伴う。すっかり酔いも醒めた関名嘉は、やはり今夜は誰かを呼び出そうと思い直し、テーブルに置いた携帯へ手を伸ばした。


「関名嘉って阿呆は、あのマンションに女をかわるがわる連れ込んでる。まったくダメなやつだ。大体、俺は最初にあったころから、あいつはロクでなしだと睨んでいた」
  草むらにしゃがみ込んでいたその男は、一気にそう言うとすっかり短くなった煙草を目の前で流れる江戸川に向かって投げ捨てた。十一月も後半になり、夜はすっかり冷え込むようになっていた。その男、藍田長助はコートの襟を立て、三本目の煙草に火をつけた。
「最低の駒でも使い道はあるさ。それにしかできない仕事ってのもある」
  長助の隣で、やはり身体を小さくしてしゃがみ込んでいた真実の人は、真っ黒な川が時折きらめくのを目で追いながら、缶コーヒーに口をつけた。
「なにをさせるつもりだ。あの革命ごっこの坊ちゃんたちに」
「悲劇の登場人物さ。愚者にはふさわしい仕事だろ」
「悲劇?誰が泣くんだ?」
「日本人さ」
「じゃあ、俺もか?」
「俺も半分はね」
「俺とお前の半分が泣くなんて、よほどの悲劇なんだろうな」
  言いながら、長助はすっかりうんざりしていた。テンポのいい会話は洒落てて好みではあったが、こうまで淀みがないのは不気味ですらある。上辺にも度が過ぎ、気持ちに欠けすぎているからだ。
「どーすんだよ……犠牲にでもするのか、真実の人」
  もじゃもじゃのパーマ頭をひと掻きした長助は、しゃがんだまま地面を軽く蹴った。
「ああ。当事者さ。革命に殉じて若く短い人生を犠牲にする、主人公たちだ」
「なぁ、真実の人」
「なんだい、長助」
  途切れた雲から漏れてきた月明かりが、江戸川の闇を明るく照らした。藍田長助は三本目の煙草を投げ捨てようとしたが、それを地面に擦り付け踏み潰すことにした。
「それじゃ、俺は泣けないな。臭い脚本だと笑っちまう」
「笑ってもいいさ。内幕を知ってる関係者はそれでもな」
  真実の人は、飲みかけの缶コーヒーを長助に差し出した。僅かな間を空けて、彼はそれを受け取った。
「俺は何に関わればいい?」
  長助の問いに、真実の人は静かに首を振った。
「夢の長助が出るほどのことじゃない。ああ。喜劇どころか茶番劇さ。なにせ、脚本はあいつらが書くんだからな」
  吐き捨てるような、苦味の混じった言葉だった。
「じゃあ、場合によっちゃ犠牲者はゼロかよ」
「彼ら……いや、彼が賢明ならね」
  ひどい堂々巡りだ。夢の長助は真実の人が苛立っていることに気づくと、半分の重さの缶コーヒーを一気に飲み干した。

6.
  正義決行を予告したにも拘わらず、その現場に現れたのは真実の人だった。彼が十二月三十日の大規模テロを予告してから三日後の十一月三十日、FOTの横田基地へ軍事行動を一ヵ月後に控えたよく晴れたその日、神崎まりかとハリエット・スペンサーの姿が、内閣府別館の九階屋上にあった。高いフェンスを隔てて南西側の赤坂市街を見下ろしながら、襟が高く分厚い紺色の官製ジャケットを着込んでいたまりかは、吹き込んできた寒風に目を細めた。
「結局、横田に海兵隊は移されないのね?」
  ハリエットに対するまりかの問いは、真実の人の予告に対する在日米軍の反応を意味したものだった。まりかと同様のジャケット姿のハリエットは、ボリュームのあるブロンドを軽く撫でると、申しわけなさそうな笑みを浮かべてフェンスを掴んだ。
「座間や沖縄にしてもFOTの襲撃は在り得る。それが本国の判断よ。だから陸軍兵力を持たない横田の防備は陸上自衛隊に任せる。なぜなら、FOTはあくまでも日本国内の武装テロ組織であり、それによる米軍基地へのテロ行為に、同盟国である日本国は最大限の対処をしなければならない。付け加えるとしたら、そんなところかしら」
  ハリエットの個人的な見解は別であるとわかりながらもまりかにとって、その言葉はどうしようもなく冷たく感じられた。彼女は手にしていたカレーパンの袋を開け、深く静かに顎を引き、「陸戦か」とつぶやいた。
「日本政府がそう決断するなら、横田の米国軍人を護るため、日本の自衛隊員が獣人と戦う。そんな図式になるわね」
「決断か。そんな格好いいものじゃないよ。いつだってうちの政府ときたら、なし崩しにやるしかないって感じで、こう、ビシっと決めてからやるんじゃないもの。結局、来月の半ばぐらいまで会議で揉めて、いつの間にか各部署に通達があって、慌てて編成して、前日ぐらいに現場に到着して……」
  そんなとこかしら。最後にそう付け加えた最強のサイキは、カレーパンに喰らいつき、一口めを食いちぎるように首を振った。その仕草があまりにわざとらしく感じたため、ハリエットは下唇を噛み、苦々しく頬を引き攣らせた。
「軍事行動の目的はどこにあるとみる?まりか的には」
  その問いに、今度は静かにカレーパンを齧ったまりかは、もぐもぐと顎を上下させ、辛味が足りないと半分になったパンを見つめた。
「わからない。今度の真実の人が何を考えてるのかなんて。いっときはわかったつもりにもなったけど、またすぐにわからなくなる。前のとは違って、今度のあいつは長い連載を続けてる漫画家って感じかな。まだ連載は全然途中で、伏線はいくつも張られてるけど、その全てに意味があるわけでもなく、罠だって潜んでる。最終的なオチがニミッツで宣言したみたいに、日本への独立要求かどうかだって怪しい」
  言いながら、まりかは軽い疲れを感じていた。八年前の戦いは、もっとシンプルだった。八巻信長が集めた情報を基にしたり、遭遇したりといった事件に対処していればよかったし、なによりも敵の注目が自分に対して向けられていたから、いくらでも応じてその結果、情報を引き出すこともできた。それなのにこの戦いで、自分はすっかり無視され、結局のところひどく狭い視野での対処要員としてしか動けていない。だが、八年前のように個人として立ち向かおうにもおそらくは打つ手もないはずだ。それがわかってしまえるから、あまりにも苛立ち、頭の奥底では鈍い痛みが起きようとしている。さて、自分と同じく異なる力を身につけているハリエットにもこんな痛みはあるのだろうか。ここしばらくの間に深刻化しつつあった体内の異変について、まりかは尋ねてみることにした。ハリエット、あなたは頭痛を感じることってある?  ひどく鈍く、蛇がうねるような痛みと淀みを。
「まぁ、Mirageを使った後、とても疲れてしまって、頭痛だってあるわ。一度だけ、二人ぶんのMirageを出してカルテルと戦ったときは三日も寝込んでしまったし、そのときも頭痛はあったと思う」
「普段は?その、なにもないときなんかは?」
「え……?」
  質問の意図はわからなかったものの、そこに至る事情を察せられないCIA捜査官ではなかった。ハリエットはカレーパンを食べるまりかを凝視すると、再び吹き込んできた寒風にブロンドを押さえた。
「このところ、ひどいんだ。週に一度ぐらい、すごい頭痛に襲われるの。力を使った場合もそう。しばらくすれば痛みは消えるんだけど」
  視線を正面に向けたまま、まりかはそう言った。カレーパンのビニール袋をジャケットのポケットにいれた彼女は、フェンスに背中を沈み込ませ、肩をすぼめた。
「日本にサイキに関する調査機関はない。つまり、専門家がいないってこと。この組織に入って、最初のころはいろいろな学者の研究に参加させられたけど、結局、能力を活かす装備品の開発へ流れが傾いていったの。いくら調べても解明の糸口さえ掴めなかったから。茨博士も行方がわからなくなって、実際のところ、わけもわからないまま、だましだましでやってきたのが現実……アメリカとか、賢人同盟とかって、その辺の研究ってどうなんだろう」
  寂しそうな口調だった。頼りなく、元気なく、消え入りそうでさえあった。ハリエットはまりかに歩み寄ると、その右手をそっと握った。
「ごめん……アメリカでもたいして研究は進んでいない。実際、CIAで私の力を知る者はほとんどいないわ。BloodandFleshには能力者が三人いて、特に跳躍者に対しての対策は進んでいるけど、能力そのものの解明や、サイキの体調変化についてはバックアップもない」
  ゆっくりと、丁寧なハリエットの日本語に、まりかはようやく表情に明るさを取り戻した。「そうなんだ」短く返したまりかは相棒の瞳をしっかりと見つめ、微かに鼓膜を震わせた足音に険しさを呼び戻した。なんとなく、親しくない者が来たという根拠のない感覚が先立ったからだ。
「誰?」
  まりかが屋上の掃除用具用ロッカーに視線を移すと、ハリエットもそれに倣った。サイキたちの視線の先では栗色の髪が揺れ、黒い詰襟の学生服が風景から際立っていた。
「神崎まりかと、ハリエット・スペンサーか。こんにちは」
  ありきたりな挨拶をしたのはリューティガー真錠だった。彼は小さく一礼をすると、屋内へ続く階段への扉を確認し、まりか達へ歩いていった。意外なる人物の登場にまりかは驚き、その隣のハリエットは険のある表情を浮かべた。
「あなた達のボスはいるかな?」
  両手をスラックスのポケットに突っ込んだリューティガーは、静かな口調でそう尋ねた。「班長なら、執務室ブースか食堂にいるはずよ」まりかがそう返事をすると、彼は小さく頷き「ありがとう」と返した。なぜこうまで自然な態度をとる。マンションを訪れ、協力要請をしたにも拘わらず、あそこまで頑なな拒絶をしたはずなのに。ハリエットは困惑し、両腕を組んだ。
「なにをしに来たの?リューティガー真錠」
「兄、アルフリートが大規模なテロをするのなら、情報の交換をしておく必要があると判断した。当日、君たち対策班は現場で防衛の任に就くんだろ?」
  しっかりと目を見据え、胸を張り、紺色の瞳には自信の色さえ浮かんでいる。リューティガーからすがすがしさすら感じてしまったハリエットは、すっかり困り果ててしまいまりかに視線を移した。
「でしょうね。まだわからないけど。うん。情報の交換はしておく必要があるわね、ルディくん」
  どのような心境の変化があったのかはわからない。いや、信用していいかも怪しい。一度は異国の溶岩地帯まで“跳ばされた”まりかだったが、彼女は言葉を口にしながら段々と心が穏やかになっていくのを感じていた。そう、なんとなくわかるから。
「ルディでいい。“くん”が付くと、表現が重複するからね」
  階段への扉に身体を向けたリューティガーだったから、どのような表情でその言葉を発したのかまりかにはわからなかった。口調には険がなく、それでいて穏やかでもない。強いて言うなら、目線の高さぐらいで固定化している一定の音波のような、そんなはっきりとして乱れのない単一で、冷たさまで達しない涼しげな感じか。「横田では、一緒に戦いましょう。ルディ」歩き出した少年の背中に、八年前の激闘を制した歴戦の勇士はそんな言葉を投げかけた。栗色の髪がわずかに揺れ、歩みが一瞬だけ遅くなると、「ああ」という短い返事と共に右手が軽く挙げられた。
  和解などではない。目的達成のため、一番有効なルートを辿るための方便にすぎない。階段を下りながら、リューティガーは握り締めていた金のネックレスを見つめていた。

 神崎まりかとは適度な距離を保ちつつ、互いの力を利用すればいい。
  失った先輩の魂に報いろ。
  兄の背中を掴むため、駆け上がれ。
  神崎まりかを憎悪したところで、子供じみた自尊心を満足させるだけで被害は広がる一方だ。心を殺せばそれはできるし、そのためになにをすればいいのかわかっている。エミリアからの報告はじきに来るだろう。清算さえ済ませれば、先に進む助けになる。

 リューティガー真錠は、ネックレスを懐にしまった。責任者との情報交換は二十分で終わらせ、その後は高川と陳の二人と合流し、横田基地の下見に行かなければならない。忙しくしていれば、心の揺れは感じづらい。もし感じてしまえば、また放ってしまえばいい。あの少女へ。


  ゲストとしてテレビに招かれるのは、これで七度目のことである。いまではもうすっかり、FOTの思想を日本人として代弁する者として一目を置かれ、一席を用意されるほどの存在まで達している。ある民放局の、討論番組のセットの中にあって、関名嘉篤は手にした模造刀を今日はどのタイミングで引き抜こうかと、そんなことばかり考えていて、隣に座る女性野党議員、岡島靖江の平和的解決論などまったく意識に届いていなかった。
「わたしはですね、在日米軍には早々に一時撤兵をしてもらい、その上でFOTとの交渉をするべきだと思うのですよ。攻撃対象がなくなれば、彼らだってテロをしなくなるわけですし」
  イントネーションに微かな訛りを滲ませ、その議員はどこか嬉しそうに発言した。彼女の属する野党は社会民主主義を標榜し、一切の軍事力に対して否定的な立場をとっていて、かねてから非現実的とまで言える無遠慮な在日米軍撤兵を主張していた。満足げに細かな頷きを繰り返した彼女は司会者である局のアナウンサーに視線を移し、テーブルの上で指を組んだ。ロッジ風の別荘をイメージしたそのセットの中央には長いU字型のテーブルが置かれ、左端から政治評論家・与党代議士が二名・作家・司会者・漫画家・野党代議士がやはり二名・そして関名嘉、といった順番で座っていた。中でも頭髪を短く刈り込み、臙脂色の詰襟姿に鞘へ収めた模造刀を手にした音羽会議議長は一際異彩を放っていて、向けられたカメラのランプが点灯する機会が最も多かった。
「でもね、岡島さん。FOTはどうしたって核を備えた軍事力を前提として独立を望んでるんだよ。交渉ったってどうするんだい。まさか、米軍は撤退しました、あんた達も核ごと帰ってくださいなんて、そんなの通じないよ?」
  そう反論したのは、岡島の向かい側の席にいた政治評論家である。
「ですけど、このままじゃ横田で戦争になるんですよ?米軍や自衛隊はともかく、あの福生という街には市民だって多く住んでるんですし、いくら避難させても家とかだって壊されて、大変なことになっちゃうじゃないですか。その前に戦いをやめさせるには、撤兵しかないですし」
  岡島は間断なく反撃し、別の与党議員が、「あと一ヵ月足らずでできるわけがない。お花畑発言も大概にしろ」と毒づいた。その嫌味に端を発し、興奮した岡島の再反論が飛び出し、場の空気は瞬く間に加熱していった。
「FOTの要求は検討の余地がある」
「核武装は時代の要請。開発の時間が省けたぶん、運用に専念できる」
「中国や近隣諸国への説明ができない。交渉を重ねるべきだ」
「テロに屈するという前提論がそもそも気に食わない。なにもかも敵だ。けしからん」
「国連へ議論の場を移すべきだ。正直、手に余っている」
  様々な言葉がテーブル間を飛び交う中、関名嘉だけが黙して語らず、刀の柄に両手を重ねたまま、苛々と右膝を上下させ、タイミングを見計らっていた。その背後には見学者用のひな壇が設置されていて、二十代を中心にした観客たちのほとんどが、結論の見えない発言合戦に辟易としていた。ひな壇のさらに奥、スタジオの壁にはパネルが貼られ、それは真実の人や獣人の写真を引き伸ばしたものであり、時折だが空気を緩和させるためにカメラが向けられることがあった。
  高橋知恵は、スタジオの出入り口からあるパネルをじっと見つめていた。彼女の手には白いコートが抱えられ、それは関名嘉のための防寒着だった。高橋の隣には比留間をはじめ、音羽会議のメンバーが四人ほど待機し、自分たちの代表がいつ“はじける”か、期待の眼差しを向けていた。彼らはテレビ局の許可を得て、関名嘉のアシスタントとしてスタジオ入りしていて、その点においてもひな壇の者たちとは異なる立場にあり、自分が事態のより中央にいると自覚するたび、比留間は言いようのない高揚感に踵を浮かせていた。それにしても、“ともっち”はさっきからいったいどこを見ているのだろう。関名嘉議長ではなく、客席へと向いた視線を追ってみた彼は、あるパネルに気づいた。それは、真実の人と蜷河理佳の写真だった。確か週刊誌の表紙にもなった、ボートで宣言をした際の一枚である。FOTが関東テレビを通じて撮影させ、フィルムの押収後、いつの間にかマスコミへ再流出したものであると噂されているものだ。なぜあのようにポピュラーな一枚を、彼女は見つめているのだろう。比留間は不思議で仕方なく、視線の先と知恵の白くやつれて薄い横顔を何度も見比べた。
「高橋……さん……?」
  よく見ると、知恵は下唇を強く噛み締めていた。瞳は揺れているように見えるし、歯軋りも聞こえる。つまりこれは、悔しそうというやつだろうか。だとすればなぜだろう。比留間は目を凝らして遠くのパネルをあらためて見た。
  パネルの中の男女は、屋外にあって際立った美しさを見せ付けていた。真実の人は浮き世離れをした白い長髪に赤い瞳といった彩りだけではなく、身体全体のバランスが整い、顔も芸術品のように繊細な造形をし、それでいてアンバランスな逞しさが表情から滲んでいるようである。その傍らにいる、タイトスカートのスーツを着ていた蜷河理佳は、長い黒髪に筆先で描かれたような光沢が細かく何本も引かれているようであり、やはり整った顔と確かな意思を宿した目が凛とした強さを醸し出していて、それについては教室でみた蜷河理佳からは感じられない側面であった。島守の奴は、あんな子と付き合っていたのか。なぜかそう思った比留間はわけもわからず悔しくなり、腿を掌で叩いた。
  悔しさは、高橋知恵も抱いていた感情だった。パネルの二人は若き青年指導者とそれに付き従う少女だ。なのに、自分と関名嘉篤とはまったく違う。もう一ヵ月以上個人的な言葉は交わしていないし、日に日に逞しくなっているのであろう彼の身体にも当然のことながら触れてはいない。真実の人と蜷河理佳はどうなのだろうか。二人は男女の仲なのか、それとも。わからない。写真だけでは判断できない。

 けど、そう。わたしたちだと、ああは写らない……

 それだけはよくわかる。真実の人と蜷河理佳には曇りが感じられない。革命を象徴する一組の男女の姿として、二人はスタジオの壁に飾られている。テレビを見ている者たちには何度となく、象徴として目にうつることだろう。自分と関名嘉に、そのような役割は果たせない。なにより、ひと月以上触れられていないのだから、身体だけではなく心の奥底まで凍っているようだ。いま写真に写されたら、ファインダーから向けられた撮影者の気持ちに砕かれてしまうだろう。それぐらい、もうすっかり冷たくて固い。高橋知恵は震えを感じ、その場にしゃがみ込んでしまった。それに気づいた比留間が動こうとしたが、なによりも早く関名嘉が席を立ち、模造刀を抜き、スタジオの空気がさらに暑さを増してしまったため、そちらに注目するしかなかった。
「いいか貴様らぁ!!よく聞け、衆愚の徒よぉ!!我々民族が選べる道はただひとつぅ!!真実の人の言葉を民族として遂行するだけであるぅ!! すなわち!!米帝の即時撤退を断固として要求しぃ!!それが受け入れられぬ場合は、持てる兵力の全てを用い、排除のため決起するぅ!! 我々市民の命ひとつひとつが火の玉となり、憎き占領軍を本国まで押し戻すのだぁ!!そしてぇ!!弱腰なる現行政権を打ち滅ぼしぃ!! 軍人と市民による本来の日本国を打ち立てるのだぁ!!もう腐った政治家も官僚もいらぬ!!これからは行動と団結の時代であるぅ!! 真崎実は八年前、志も半ばで滅んだぁ!!なぜだと思うかぁ!?」
  興奮を絶頂の寸前で抑えながら、関名嘉は切っ先を隣で震える岡島女史へ向けた。椅子からころりと転げ落ち、パニックでただひたすら震え続ける岡島は答えることができず、垂れてきた涎を袖で拭った関名嘉は、やってきたハンディカメラをぎろりと睨みつけ、充血した目を見開いた。
「孤独な革命者だったからだぁ!!あの愚かな先代は、自らたちのみの手によって革命を遂行せんとしたぁ!!それでは真実の革命など達成できるはずがない!! 数世紀にわたり、この日本では常に軍事力が政変を遂げてきたが、今回は初めての市民革命なのである!!軍民革命なのである!!私がそう定義するから、そうなるしかないのだ!! そして、それこそが今度の真実の人が望むところであるっ!!」
  支離滅裂な内容であり、それを上塗りするほどの絶叫だった。大音量のアジテートは獣の咆哮のようでもあり、ハンディカメラをレンズごと抱え込んだ関名嘉は、遂にはそれをカメラマンごと床へ払い、模造刀を振り回しながらスタジオの中を飛び跳ねた。そう、文字通り飛び跳ねた。着地するたびに切っ先が床に衝突し、ただでさえ貧弱な刃を欠けさせた。待機していた音羽の面々は議長に向かって駆け出し、狂気を制御するため彼の背中を叩き、「すごいです!!」「大勝利です!!」と耳元で叫んだ。ひとり、知恵だけが出入り口近くでしゃがみ込んだまま、なだめられる関名嘉を見ていた。
  道化だ。あれは。悪目立ちでしかない。そしてなによりも言っている内容がひどすぎる。あんなのは、わたしの知っている関名嘉さんじゃない。共産主義の素晴らしさを寝物語で語った、眼鏡をかけた穏やかで冷静で理知的な彼ではない。じゃあ、誰なんだろう。あのなだめられている子供は。あの涎を垂らしている獣は。あの、「俺は今日暴走する。そうしたらお前たちがうまく制してくれ、その、なんていうか、たぶんそれを異質な光景と大衆は見る。一筋縄ではないと認識する。これはいい伏線になる」などとわけのわからないことを控え室で指示した小策士は。

 なんなのだろう。そんな奴のコートをずっと持っている、このわたしは。


  討論番組における関名嘉の模造刀抜刀アジ演説は、生放送ということもありカットされず、その日の夜には動画サイトにもデータがアップロードされ、様々な人々の目に触れられた。表立った好評はなかったが、悪評、それを遥かに上回る面白がった期待評がネット掲示板を駆け巡り、翌日のニュース番組のインタビューでも同様のパフォーマンスをしたため、彼の行動は個性として周知された。その二日後のテレビ討論番組でも、狂気の抜刀は期待通りの熱を番組にもたらし、反響の大きさを無視できなくなったため、報道各局から音羽会議に対して出演依頼が相次ぐといった結果をもたらした。中にはFOT関連とは無縁であるバラエティーやトーク番組の依頼もあったが、関名嘉はこれらを断り、そのかわりに雑誌社の取材は週刊誌、青年誌などジャンルを問わずに積極的に受け入れた。関名嘉はこれら紙媒体において、テレビでの“キレる”キャラクターを一切封印し、あくまでも論理的にFOTの理念の正しさを説き、在日米軍の撤退と日米安保条約の破棄、不均等な貿易条項の撤廃と憲法改正を訴え、核武装と防衛軍設立による日本国の未来像とアジアにおける役割を熱く語った。十二月に入ってから、関名嘉篤という男は連日に渡って何らかのメディアに露出した。FOTへの取材活動を政府が一切禁じた結果、代弁者として彼の存在と言葉が求められたからだ。それに伴い、音羽会議は事務的な仕事やテレビスタジオでの暴走の制止役といった露出が増し、比留間圭治と高橋知恵は十二月の出席日程の大半を欠席した。学校でも二人が音羽会議に参加しているのは周知であり、だからといって校則には政治活動を禁じる項目もなかったので、特に処分をするわけでもなかった。生徒たちの間ではいつの間にか、「音羽会議が演説だけではなく、破壊活動をしたら二人は即退学という筋書きになっている」という噂が広まり、教師もそれを否定はしなかった。関名嘉のテレビでの奇行もあり、音羽会議は危険な集団だと認知されはじめ、PTAからも懸念の声が囁かれはじめたからだ。
  やがて十二月も半ばが過ぎ、二学期も最後の終業式となったが、比留間と高橋の座席は空席であり、二年B組の教室で空いていた三席全ての生徒がFOT絡みだったため、担任でニヒリストの川島比呂志はホームルームの終始を苦笑いで乗り切るしかなかった。

 そして冬休みになった。

 音羽会議はこの日も銀座は数寄屋橋にてアジ演説を行い、すっかり時の人となった関名嘉や、テレビやネットでは決して見られない凄惨な事件現場を写した写真を目にするため、三百名を越える観衆が歩道から溢れ返ろうとしていた。観衆の中には以前、正義忠犬隊に家族を助けられたという主婦もいて、関名嘉は直ちに比留間へ指示を出し、彼女へ友好の印として白い詰襟を進呈させた。その主婦は気恥ずかしさもわずかに感激で万歳し、その日の演説に熱を加える結果となった。音羽はともかく、正義忠犬隊は正しい。そんな支持層も見学者の中にはいて、音羽会議のメンバーは関名嘉の演説中にも彼らと論議をし、最後には握手を交わしていた。またごく少数ではあったが、マスコミを通じて真実の人のファンになった者たちも混ざっていた。茨城のある女子中学生のグループは、いずれもタイトスカートの黒いスーツといった姿で胸には白い長髪の指導者の額入り写真を両手に持ち、遠くの路地から関名嘉たちのライブにも似た熱狂を見守っていた。あそこには自分たちの望む直接的な何かはない。しかしネット上では「音羽のアジ演説に真実の人が飛び入り参加することもあり得る」などといった怪情報も飛び交っていたため、一縷の望みをかけての上京だった。
「十二月三十日は独立革命への偉大なる第一歩となる!!我々音羽会議もこれに参加する!!説くだけではない、当日諸君らは、一歩進んだ我々の姿を目にすることだろう!! そして倣え!!照れることなく共に行こう!!なにもかもが変わろうとしている!!いま動いたものだけが、明日の日本で笑えるのだから!!」
  そう締めくくった関名嘉はマイクを投げ、模造刀を抜刀した。「あれ、実は最近刃を入れたんですよ。いざ公安が止めにきたとき、いつでも戦えるようにってね」ビラを配りながら比留間は聴衆のひとりにそんな軽い嘘をつき、にやりと笑ってウインクをした。

 結局、今日のイベントには参加しなかった。高橋知恵は撤収作業をする仲間たちの姿をファーストフード店のガラス越しに眺めながら、ホットドッグをひと齧りした。ボリュームに欠ける。やはりホットドッグは横田基地ゲート近くの『バーティカル・ロール』が一番で、それ以外は認められない。米兵は嫌いだが、米兵崩れのマスターが作るホットドッグはソーセージの太さもたっぷりで、マスタードの辛さが存分に楽しめる。なのにチェーン系の国産品の、これの不味さといったらない。知恵は途中で食べるのを止め、気持ち悪さをアイスティーで紛らわせた。捨てられたビラをせっせと拾い集める比留間の姿がなんとも滑稽だ。あいつ、最初はどちらかというと現実主義を気取り、平和主義をとことん嫌悪していたはずなのに、すっかり先輩たちにぺこぺこと頭を下げ、だぶついた白い詰襟に振り回されながら、なんとなく風景に馴染んでいる。ああいう頭でっかちの奴に限って、いざ現実として関わってみると、流れに身を任せて手足になってしまう。だけどわたしは違う。わたしは主義や思想がなによりも優先される。経験や状況より、それらが前提として常にある。知恵はそう思っていた。

 なのに、なんでわたしはここに来てしまったのだろう。数寄屋橋のホットドッグ店で心を強くしてから四時間ほど経った午後八時、知恵はとある地下駐車場を訪れていた。なんでここに来てしまったのだろう。あらためてそう思う。携帯電話で聞いた彼の声に、すっかり舞い上がってしまったからか。「大事な話があるんだ。二人だけで会いたい。場所は……」そんな言葉に、胸の律動が久し振りに激しくなり、気が付けば口元から涎が垂れていた。ああ認める。自分は全然強くなんかない。「いいよね、ともっち」久し振りにそう呼ばれた。いまや時の人、関名嘉篤に呼び出されてしまったのだから、こんな人気のない薄暗い駐車場でもまったく怖くない。
「やぁ、ともっち」
  全身で言葉が感じられる。皮膚を男の言葉が撫で、毛穴から体内に生気が染み込んでくるような感覚に、知恵は震えながら頷いた。こんなことなら、もっと薄着をしてきてもよかった。ジャケットにセーターにマフラーにジーンズやスニーカーなんて、急いでいたからといっても色気がなさすぎるだけではなく、関名嘉篤のオスを感じるのに分厚く邪魔な鎧だ。階段を下りてきた彼は、臙脂色の詰襟ではなくブレザー姿であり、コンタクトレンズではなく銀縁の眼鏡だった。頭髪が短く、体格が若干よくなった以外は、数ヵ月前の彼のようである。下手糞に額を胸に当てるのが大好きで、「ともっちの胸は薄くて萌える」と言ってくれた頃の彼に近い。両手で口を押さえた知恵は、こみ上げてきた激しい気持ちを堪えるため内股で震えた。
「せ、関名嘉さん……」
「どうしたんだい今日は、姿が見えなかったけど」
  やってきた関名嘉は、知恵の肩に手を回すと小さな声でそうつぶやいた。どこまでも穏やかで、横田基地でシュプレヒコールをしていた頃の頼りなさすら感じられる。知恵はすっかり関名嘉に体重を預け、ひんやりとした駐車場の空気を吸い込んだ。
「あ、う、うん……ちょっと……調子、悪くって」
「あれ、ともっちって……そろそろだったっけ?」
「う、ううん。違う。風邪気味で」
「そっか。寒くなってきたし、気をつけないと」
「あ、ありがとう」
  この回帰をどう受け止めよう。まさか、からかっているのか。いや、いまの彼の多忙さを考えれば、それはおかしい。そもそも最近の変化が異常だったのか、マスコミへの露出も増え、妙な個性を発揮しているうちに、本来の自分を取り戻したくなったのかもしれない。そのために会いたいと言われたのなら、これほど嬉しいことはない。知恵は困惑しながら肩にまわされた関名嘉の手を握った。指が太い。見栄えのため、身体を鍛えた成果はやはり消えてはいない。だけど声は戻っている。指と声、心に近いのはどちらだろう。
「すっかり忙しくなってしまったよ。どいつもよほど退屈してたのか、僕は色物扱いだ。けど、ともっちは違うよね」
「う、うん……わたしは……」
  頼りにきている。自ら変えてしまったあれこれに、彼自身が怯えている。だから少しでも以前の自分を知っているわたしを求めてきた。そう知恵は思った。ならやはり、音羽はやめよう。取り返しが付かないと覚悟して、それでも彼が抗うのなら、わたしはいつでも彼が戻れる原点になってもいい。原典でもどちらでもいい。組織ではなく、高橋知恵個人として、共産主義を共に愛した女として。
「僕は疲れている……」
  肩から手を離した関名嘉は、その場に腰を下ろすと膝を抱え込んだ。知恵もその隣に座り、なんとなく体重を預けてみた。
「ああ、心地のいい軽さだ。疲れている僕にはちょうどいい。さすが、ともっちは俺のことをよくわかってる。やっぱり、頼んでみていいって感じだ」
  一人称が変わっただけではない、声のトーンも若干だが低くなったような気がする、知恵はどきりとして身体を離そうとしたが、再び肩を抱かれてしまい、密着を解くことはできなかった。
「た、頼むって……な、なにを?」
  恐る恐る、尋ねてみる。
「音羽がただアジるだけじゃダメなんだよ。真実の人は、革命は俺らの手でやるべきだと言ってくれた。俺もそれはそうだと思う。結局、この国のことはこの国の人間がやらなければならないのだし」
  返事をしようにも知恵は声がでなかった。咳払いをしてもよかったのだが、地下の駐車場では響きすぎるような気がしたため、彼女はじっとしているしかなかった。
「あれを見てごらん」
  関名嘉は座ったまま真っ直ぐ前を見据え、知恵もその視線を追った。駐車場の片隅に、白いトラックが止められている。荷台は布製の幌で囲われた、ありふれた中古車だ。
「十二月三十日、FOTの横田基地への軍事行動と同時に、俺はゲート付近でいつものように演説を行う。戦争をバックに、FOTからガードも増員されるから公安に阻まれることもないし、第一そんな余裕は連中にない。そしてそれから間を空け、このトラックが出発する。荷台には追加戦力となる、新型の獣人が満載されている。トラックは陸戦の混乱に乗じて基地内に侵入、米軍と自衛隊の応戦エリアより離れたポイントで停車し、直ちに獣人を下ろす。そして基地外へ脱出する。わかるね、これは具体的な行動に出るための道具なんだ。下ろした時点で、写真を撮影する。ポラロイドカメラも用意した。運転手は獣人と記念撮影して、彼らを運んだのが音羽だと主張する。そして仕上げは脱出だ。これもそれほど難しくない。敵の配置は予想の範囲を超えん。だから速やかなる離脱が可能だ。国道に出て、別働のアジテートを開始するんだ。もちろん、ポラを見せて証拠として、自分が追加の獣人を投入した当事者であると主張し、初々しく訴える。そう。この白いトラックは、音羽会議が具体的な行動に出たと証する道具なんだ」
  ゴキブリが這うような、狡猾と逞しさが入り混じった、児戯めいた幼性と計算高い拙さが綱となったかのような歪さだ。「あれを見てごらん」「ごらん」の部分が嘘っぽい。これは嘘だ。「頼みたい」これは本当だ。「頼む」「お願い」「依頼する」どれも本当だ。知恵は横に倒した左膝を左手で押さえつけ、二度と見るかと心に決め、白い車体を心の遠くへ放り出した。
「もちろん、ステアリングを握るのはともっちだ」
  肩を掴む力が僅かに強まり、爪の先が食い込んだ。知恵は左膝を立てようと思ったが、どうでもよくなりそのまま目を閉ざした。
「運転は乗用車と変わらん。俺のエボIXかレクサスを貸すから、それで練習してくれ。いやほんと、ゲームのドライブなんかと同じだから。特別にオートマだし、ともっちならすぐできる。だって、ともっちはなんでもできるし」
  バカな期待をしたまま、バカげた期待をかけられる。自分もバカなら、わらって「ラジャー」と叫べる。でも無理だ。
「ともっちを、憂国婦女子として売り出したい。俺の、僕のパートナーとして。今度の大規模テロは、デビューにうってつけの舞台だと思うんだ!!」
  ひどい絵図だ。ありっこない。素人の自分がなんでトラックの運転をする。売り出したいのなら、もっと別の方法があるはずだ。誰か別の奴が運転して、わたしは助手席にでもいればいい。狙いは別にある。どんな罠にはめようとしている。知恵はようやく目を開け、「あの……」とつぶやいた。だが、関名嘉は有名になり活躍する“ともっち”のことを熱っぽく語り続けて、知恵の言葉に耳を貸す様子ではなかったため、それ以上尋ねる気は失せてしまった。
「音羽会議という名前も三十日限りで脱する。今後は音羽革命軍を名乗る。昭和・平成を通じて初の市民革命軍の創設だ。その宣言を、ともっちの単独演説の締めとして欲しい!!」
  肩に刺さる爪が鈍い痛みをジャケット越しに伝えていた。知恵はゆっくりと両膝を立て、それを抱え込んだ。
「この作戦は、僕が立案してFOTの人たちと煮詰めたんだ」
  なら、FOTにも見放されたということか。知恵の心はどこまでも静かだった。
「いいねともっち、引き受けてくれるね」
  念押しに対して、知恵は小さく顎を落とした。それは第三者から見れば何気ない仕草であり、当事者の男からすれば同意の頷きであり、当人にとっては諦めと憂鬱の発露だった。たぶん、憂鬱の後にくるのは怒りだ。死にたいほどの怒りだ。気持ちを弾けさせ、「ありがとう」を連呼する醜悪なる指導者の隣で、少女は膝を抱え込んだまま絶望していた。

「あの朝に、あなたはそっと、わたしの心に触れてくれた。優しい吐息、吹くよなくすぐったさで」

 一度も歌ったことがない、だけど何度も耳にした、それはあるスローバラードの歌謡曲だった。なんとなく口ずさんでみると、絶望は幾分薄くなってごまかされるような気がしてくる。くだらない「ありがとう」を聞かずに済む。

「わたしは全然、できちゃいない。しくじったまんまの踊り場で、ただくぐもって、ただうずくまって、たけどあらがって」

 好きでもない歌なのに、なんでこんなに歌詞とメロディーを覚えているのか、知恵は不思議な気分のまま口ずさみ続けた。
「ともっち、なんだ、その歌は。そんなくだらんのはよくないぞ。憂国婦女子に似合わん陳腐な歌だ!!」
  突然立ち上がった関名嘉は、太くなった人差し指を向け、強く糾弾した。顎を膝の間まで沈み込ませていた知恵は口ずさむのを止め、「うん」と掠れた声で返した。
「わかった。もう、歌わない」
  それでこそともっちだ。興奮した男の声が地下駐車場に響いた。関名嘉は停めてあったトラックに向かうと、溌剌とした笑顔でヘッドライトを叩き、なにかを叫んでいた。知恵は聞き取る気にもなれず、額を膝に付けた。わかりたくないことがわかってしまった夜だった。自分がなんなのか、それもわかってしまった。こんなにどん底なのに、まだ夜は長いとどこかで期待している醜悪な女がいる。愚かになり、転落し、くだらない俗物になってしまった関名嘉篤の、だけど身体は別だと欲している女が内側にいる。足の裏がしびれて、立ち上がって身体へすがれと命じているのは、たぶん自分の雌の部分なのだろう。歌わないと従ったのもその部分だ。「関名嘉さん」裏返った声で、ともっちは叫んだ。男が振り返ると、少女は腰を上げた。
「憂国婦女子に、指導をください」
  なにを言ってるのか。
  演じてみる気なんてないのに。

7.
  呼び出しは連鎖した。高橋知恵が関名嘉篤から秘密の策を打ち明けられてから二日が経った、十二月二十四日、クリスマスイブの夜、比留間圭治はその地下駐車場を訪れていた。
「高橋さーん」
  ひんやりとした駐車場に人の気配はなく、父のお下がりのトレンチコートを着込んでいた比留間は、手袋をした手を擦り合わせ白い息を吐き漏らした。
  会いたいです。お話があるので、ここまで来てください。知恵からの、そんな短い内容のメールを携帯に受信したのは夕方の六時過ぎで、慌てて着替えて家を出たのはその二十分後であった。時刻は午後七時半。街ではクリスマスイブで賑わっているはずだが、工場が立ち並ぶこの都内の外れはひっそりと静まり返り、単なる冬の土曜日でしかなく、地下の駐車場ともなれば、まるで時が止まっているかのような静寂である。もちろんこの場所に心当たりはない。だけど密会にはうってつけだな。そんなことを考えながら、比留間はなんとなくうろつき、一台のトラックの前で足を止めた。白い車体にはあちこちに細かい傷が浮かび、タイヤは随分と擦り減っている。運転席は若干だが高い位置にあったため、ここからは覗き込むことができないが、たぶんなにかの輸送に使われてるものだろう。荷台の幌には「藤原ハム」と大きくプリントされているが、聞き覚えのないメーカーだったため、彼の興味はやがてなくなっていた。
「ありがとう、来てくれて」
  関心もなくなったトラックの向こう側から、よく知ったか細い声が聞こえてきたため、比留間は慌てて振り返り、トレンチコートの金具が幌に触れた。いたのか。人の気配もなかったのに。いや、彼女なら気づけないのも当然か。それより、待っててくれた。呼び出しは本当だったんだ。彼は次々と考え、声に向かって踵を浮かせて身を乗り出した。黒いワンピースにやはり黒のベレー帽、灰色の手袋をした白い肌の少女が、トラックの陰に佇んでいる。駐車場の風景に溶け込んでしまいそうなほどモノトーンな出で立ちで、そのぶん赤い唇が妙に浮いているようにも思える。そう、あそこだけが生々しく際立っている。比留間はトレンチコートを急いで脱ぎ、震える手で眼鏡を直した。
「あ、あの、最近……演説とかにも来てないみたいですし……ど、どうしたの!?」
  “どうしたの”には彼女の珍しい服装にもかかっていたのだが、知恵は「風邪気味だったの」と短く返し、トラックを指差した。ワンピースの正面には大きなリボンがあしらわれていて、それが僅かに揺れ、比留間は興奮しているのを自覚した。
「それより、このトラックなの」
「え?」
  いつものことだが、目に生気が薄い。激情に駆られているとき以外は、生きているのか死んでいるのかわからないほど薄いのが、比留間にとっての高橋知恵だったが、今日は特にそれがひどいと感じられる。病み上がりだからか。そんなことを考えながら、彼はトラックを見た。
「関名嘉さんから特別な任務を頼まれたの。だけど、たぶんわたしには無理。きっと比留間くんの方が上手にできるから、お願いしたくて呼んだのよ」
  明瞭な内容が、聞き取りづらいほど小さく抑揚のない声で伝わってきた。比留間は「特別な任務?」とオウム返しすると、トラックをよく観察してみた。やはり何の変哲もない、ハムの輸送トラックでしかない。
「三十日の大規模テロ、そこで音羽は演説だけじゃなくって、行動に出るの。切り札になる獣人を載せて、それを横田の滑走路まで運ぶのよ」
  聞いたことのない任務だが、関名嘉と知恵が個人的な付き合いにあるのなら、彼女しか知りえない秘密というものも有り得る。どこでそれを教えられたのか。想像してみた比留間は苛立ちを覚え、片頬を引き攣らせた。
「FOTの直接支援をするんですね。け、けど、それを高橋さんが?」
「ええ。わたしならできるって、関名嘉さんはそう言ってくれたの。でも関名嘉さん、ちょっと冷静じゃないみたい。だから比留間くんにバトンタッチしようかなって思ったの」
「そ、それを関名嘉さんは?」
「知らない。わたしが勝手に考えたことだから」
  比留間が「いいんですか、そんなことをして」と知恵と尋ねると、彼女は「当日まで内緒にしてれば問題ない」と相変わらず抑揚に乏しい声で答えた。どう判断していいのか。比留間は顎に手を当て、凡庸なトラックを凝視した。
「運転か……やったことないし……できるかなぁ……」
  独り言をつぶやきながら、比留間は検討を始めていた。レースゲームは得意と言えるが、本物の運転は経験がない。大型ではないが、トラックとなれば特殊な技能も必要なはずで、お膳立てができているとしても基地の中を走ることなどできるのだろうか。やはり無理だ。そう天秤が傾き、同時に、だけど引き受けたい、と強く願ってしまう。
「あなたしか、頼れる人がいないの」
  いつの間にか、少女は彼の背中に薄い胸を押し付けていた。手袋をした手が腰へ伸び、それは正面の比留間自身をまさぐった。「高橋さん」そう小さく呻くようにつぶやいた比留間に、知恵は「ともっちでいいから」と甘い吐息混じりに答えた。革の指が複雑な軌跡を描き、彼の天秤は跡形もなく砕け散ってしまった。


「三十日のシフトはA班が僕、遼、健太郎さん、B班が陳さん、エミリア、高川くん、ガンちゃん。メッセマー先生は後方で待機となります」
  代々木パレロワイヤル803号室のダイニングキッチンで、リューティガーは集まっていた一同にそう説明した。今回のミーティングに、カーチス・ガイガーの姿はなかったが、人数に変化がなかったのは、神崎はるみが正式に招かれていたからだ。テーブルから少し離れた椅子に座らされ、所在無さ気に辺りを見渡したはるみは、健太郎の青黒き異相にあらためて息を呑んだ。
「B班は、F対の人たちと行動を共にする。F対は遊軍として今回の作戦に参加し、指揮は森村という公安官が執るので、基本的にはそれに従って欲しい。当日は神崎まりか、ハリエット・スペンサーという二人のサイキの参戦が確実なようだから、援護に徹してくれ」
  若き主の言葉に、陳が代表して頷いた。今回は忠告も心配も無用のようだ。「神崎まりか」という名前がなんの淀みもなく出てきたことと、その妹であるはるみが招かれていることに陳は安心し、鯰髭をぴんと伸ばした。
「僕たちA班は、さらに遊軍となる」
「どういう意味だ?」
  遼のタイミングのいい質問に、リューティガーは屈託のない笑みを向けた。
「兄のことだ、獣人の正面攻撃を陽動に、何らかの奇策を打って出ることが予想される。だから僕たちは基地の外で待機し、それに備える」
「なるほど、お前の眼で見張るってことだな」
「ああ、もちろん、展開しだいでB班の増援をやる可能性だってあるし、その辺は臨機応変に対応するけどね」
  遼とリューティガーのやりとりに二度頷いた高川は、あらためて太い腕を組んで右目を細めた。
「しかし、結局米軍は動かんのか」
  そのシンプルな問いに、岩倉は困った表情を浮かべ、医師のゼルギウス・メッセマーは苦笑いで首を振り、健太郎は赤い目を閉ざした。
「無理みたいだね。彼らの意図は、あくまでも対FOTを国内の問題として、日本政府に処理させることにあるようだ」
  それは数日前、ガイ・ブルースとの通信で知った情報だった。リューティガーの答えに高川は険しさを増した。
「バカな。自軍がテロに晒されるのに、なぜそのような狡猾さを見せる」
「ファクトのときもアメリカはそうだった。理由はいくつかある。まず、彼らに敗北は許されない。特に正面衝突での敗北は、帝国としての威信を失墜させてしまうからね。得たいのしれない兵種との戦いは、できるだけ避けるのが彼らだ。それと、FOTは脱アメリカを唱えてはいるけど、日本政府がそれに対してはっきりとした返事をしていない。もし拒絶するなら、同盟国として海兵隊を派遣もするだろうけど、知っての通り、与党内にもFOTの要求を検討しようなんて意見もあるぐらいだからね、もうちょっと痛い目を見て、泣きついてこいって意味もある」
  辛らつなるリューティガーの私見に、高川は組んでいた腕を解き、食卓を拳で軽く叩いた。だが事実、真実の人の要求に対して、日本政府はなんの回答も見せてはおらず、与党民声党の核武装を前提とした憲法改正を目論むごく一部の議員からは、評価してもいいという声がマスコミを通じて漏れ伝わっている。「まったく」そう言いかけ、それ以上は無駄口であると気づいた偉丈夫は口を閉ざして拳を戻した。
「あ、あの……」
  おそるおそる、はるみが手を挙げた。
「A班とB班は……まぁ、わかるんだけど……わたしって……どうすればいいの?メッセマー先生と一緒に後方待機?」
  自分になにができ、なにを期待されているのかわからなかったはるみは、子供のようにそう尋ねてみるしかない自分が恥ずかしかった。すると一斉に一同が彼女に注目し、視線を遮る机もなかった少女は、手を下ろしておろおろと小刻みに震えてしまった。
「なにを言っている。君は自宅で待機だ」
  冷たいリューティガーの口調に、エミリアは思わずクスリと微笑んでしまい、あわてて表情を険しくした。あの新参者が神崎まりかの妹であることは知っているが、異なる力も遺伝していない単なる女学生など、本来なら対ゲリラ戦のミーティングに相応しくない珍客である。まさしく「なにを言っている」を口にしたかったエミリアだったから、敬愛する指揮官のぴしゃりとした物言いはとにかく嬉しかった。
「自宅……待機……」
  反芻しながら、はるみは自分を注目する全員を見渡した。皆、リューティガーに同意するように厳しい表情を浮かべている。あの岩倉までもが頷いているではないか。はるみはすっかり落ち込み、がっくりとうな垂れるしかなかった。どうやら、ここに同席を許されたのは、勝手な真似をするなと釘を刺すためだけだったようである。秘密を知ってしまったから、記憶を消すのが哀れだと情けをかけてもらったから、責任者の醜態をたったひとりで受け止めてしまったから、そんな能力とは無関係の招待だったというわけか。それはそうだろう。超能力もなく、銃の扱いや戦術に長けているわけではなく、体育も人並みよりちょっといいぐらいの自分に、獣人との戦いで役に立てることなど微塵もない。しかしそれでも応急手当の助手ぐらいはアテにされていると、心の奥底でどこか期待もしていたはるみだったから、落ち込みは一層だった。
  じゅうぶんに堪え、すっかりわきまえている。床に視線を落とした少女の様子を一通り観察したリューティガーは、小さく舌打ちをした。しかしなぜああまでも元気を失う。よもやわずかな期待でもしていたというのか。姉のように戦場で活躍する自分をイメージしていたのか。だとすればあまりにも夢見がちだし、想像力が欠乏している。心の中でたっぷりとそう糾弾した彼の脳裏に、夕方の校庭が浮かんだ。もう一度舌打ちをしたリューティガーは、ゆっくり席を立つと、はるみに歩み寄っていった。
「あ、あの……な……お前が想像している以上の過酷な戦場なんだ」
  ぎこちなく、リューティガーはそんな言葉をかけた。同意していた一同は予想もしていなかった彼のフォローに驚き、特に遼などは手にしていたティーカップを落としそうになってしまった。
「ルディ……」
  顔を上げたはるみは、横を向いて眼鏡を上げている彼が、ひどく照れていることに気づいた。
「そんなに落ち込むと、まるで僕が悪い仕打ちをしているようじゃないか……正直、それは心外だ」
  謝罪や撤回をするつもりはない。できれば平然と自然に受け止めて欲しかった。でないと、あんな恥を晒してしまった自分がもっと矮小な存在になってしまう。祈るような気持ちでリューティガーは前を向き、一度だけ頷いた。
「う、うん……わかった……だ、だけど……」
「だけど?」
「できれば、なんでもいいから役割が欲しい。ちょっとしたことでもいい。次からでもいいから」
  はるみの嘆願に、リューティガーは「わかったよ」と返し、微笑もうとしたがそれを止めた。たぶん、ひどく歪んだ笑みになってしまうとわかっていたからだ。


  ミーティングを終え、パレロワイヤルから出た岩倉は、路地に停めておいた自分のバイクの前に、見慣れない黒の原付スクーターがあることに気づき、不思議そうに坊主頭を撫でた。
「なんだろう、これ……ヤマハのジョグかな?」
  何度もこの路地にバイクを停めてきた岩倉だったが、このスクーターはやはり見覚えがない。遼なら知っているだろうか、そう思い振り返った岩倉は、はるみの左右で戸惑った顔をしている遼と高川に気づき、首を傾げた。
「な、なぁ、神崎」
「なによ」
  口元を歪めた遼がなにを聞きたいのか、隣でおろおろとしている高川がどのような疑問を抱いているのか、はるみにはよくわかっていたが、二人に気を利かせるつもりはなかった。白いパーカーの裾を少しだけ引っ張った少女は、バイクの前で佇んでいた岩倉へ駆けていった。
「ガンちゃん、このスクーター、なんだろ?」
  立ち止まったはるみは車体を覗き込み、スニーカーのつま先で軽くアスファルトを蹴った。
「し、知らない。いつの間にか停まってた」
「こんな裏路地に、近所の人とかかな?」
  自分でもはぐらかしていることはよくわかっている。だが追いかけてきた遼と高川には気持ちを向けず、はるみはじっとスクーターを観察していた。
「そ、それは、俺の物だ」
  短くそう言ったのは高川であり、岩倉は丸い目を見開き、はるみもようやく振り返った。
「高川くん、免許とったのかい?」
  岩倉がそう聞くと、高川はジェットタイプのヘルメットをシートから取り出し、それを抱えると免許証を懐から出した。
「う、うむ……バイト代とここの手当てでな。中古で安くしてもらった。足がないと、なにかと不便でな」
  自分の体格に対して、スクーターは少々小さく、遼のMVXや岩倉のSHADOWと比較するとなんともちっぽけなジョグだったため、高川は恥じ入るように照れ、免許を懐に戻した。
「ふーん。いいなぁ。わたしも免許とろうかな」
  後ろに手を組み、はるみは面白そうに黒いスクーターを見下ろした。
「そ、それより、神崎」
「なによ」
  即答と同時にはるみがくるりと振り返ったため、遼は慌てて身体を引き、咳払いをした。
「な、なんかさ……真錠となんかあったわけ?」
  我ながら、ひどい質問の仕方だ。それになぜ戸惑ってしまうのか。遼は混乱したまま、もう一度咳払いをして視線を逸らした。
「別に、なんにも」
「し、しかし」
  更に疑問をぶつけてきたのは高川だった。
「別にいいじゃない。ルディはルディでこだわりを捨てようとしているのだし、わたしにとってもそれは歓迎するべきことだもの。前みたいに病室で糾弾なんて展開、誰も望んじゃいないでしょ。ねぇガンちゃん」
「も、もちろんだよ。それに、記憶とか消すのも嫌だし」
  はるみとリューティガーの人間関係の改善と進展らしきものに対して、岩倉は好事としか捉えていなかったため、あくまでも素直な気持ちからくる返事だった。はるみは満足気に頷くと、遼と高川に悪戯っぽい笑みを向けた。
「いっそのこと、付き合ってもいいかなって思ってたりしてー」
  冗談を二人は真に受け、高川は抱えていたヘルメットを落とし、遼は下顎を突き出した。なんて間抜けなリアクションなのだろう。高川はちょっと可哀想だが、遼に対してはざまあみろである。はるみは尚も笑い、最後にようやく表情を固くした。
「まぁ……冗談はいいとして、ほんと……三人とも怪我とかしないでね」
  心からの心配だった。高校二年生の彼らが獣人と戦う。その光景を想像しただけで恐ろしい。これまで切り抜けてきたからと言って、今後の保証などあるはずもない。負ければ死ぬ。獣人が相手なのだから、食われてしまうことだってある。怖さを堪えながら、はるみは三人を見上げ、胸に手を当てた。
「心配するなって……俺には倒せる力がある、高川は実戦だと鬼のように強いし、ガンちゃんは自衛隊並に射撃がうまい。それに俺たちは、いざとなりゃ逃げ出してもいいって思ってるんだ」
  力強い言葉は、遼からだった。はるみがその顔を見ると、細い目に確かな自信が浮かんでいるようだった。岩倉は照れて頭を掻き、ヘルメットを拾い上げていた高川も、無言で頷いている。信じてもいい、そう思ったはるみは、もう一度遼を見上げた。
「な、安心しろって」
  微笑んでいる。やっぱりわたし、こいつのこと好きなんだ。胸に当てた手をぎゅっと握り締めた少女は、自分の気持ちをあらためて確認すると、その拳で彼の胸を軽く叩いた。


  リューティガーとはるみの間に何があったのかわからずじまいだったが、ともかく険悪で気持ちの沈む人間関係は改善されたようだ。確かにそれは歓迎してもいいし、心配事が減ったと言ってもいい。自宅に帰ってきた遼は、冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取り出すと、中身をコップに注いだ。時計を見ると、もう夜も九時を過ぎていて夕飯をすっかり食いそびれていたことに彼は気づいた。さてどうしたものか。父は出かけているようであり、今日の晩飯は外で食ってくると互いに約束していたから、残りものがあるはずもない。流しに目をやった遼は、調理も面倒だと感じ、どこかに出かけようかと考えを巡らせた。するとキッチンの電話が鳴り、いまどき家の電話に誰がかけてきているのだろうかと、疑問を抱きながら遼は受話器を手にした。
「島守か!!」
  早口で甲高い声が誰のものなのか、遼にはわからず、「誰だ」とぶっきら棒に聞き返すしかなかった。
「ははははは、お前はやったんだろ!!」
  興奮した口調だ。しかし誰のものか。なんとなく心当たりがある感じだ。
「蜷河と、セックスしたんだろー!!」
  ひどく下品だ。自分もそれほど上品ではないが、ここまで野卑ではないと言い切れる。
「どうだった? 意外とおっぱいとかありそうだもんな、蜷河って!!」
  ひどすぎる。遼は奥歯を歯軋りさせ、「比留間かよ?」と尋ねた。
「けどな、お前だけじゃありませーん!!B組でセックスしたのは。ひひ、蜷河とって意味じゃないからな!!」
「なんなんだよ、テメーは。比留間だろ、テメー」
  語彙を意図的に減らしたのは、電話越しの恫喝をシンプルにするためだった。
「比留間圭治もやりまくってんだよ、どーだ驚いたか!!」
「そりゃおめでとう。だからどうした。こっちはテメーが童貞じゃなくなったかなんて、どうだっていい」
「うるせぇ!!島守、貴様、僕のことバカにしてただろう!!だけどな、僕はもう違うんだ。三十日を楽しみにしてろ!!」
  その日付は、遼にとって重要だったため、彼は「三十日?」と堪らず聞き返した。すると受話器からは、「革命の英雄が誕生する、その名は比留間圭治だ!!」と聞こえ、電話はそこで切れた。

 その翌日、クリスマスはリューティガーの十七歳の誕生日だったが、「三十日を控えてお祝いもないよ。プレゼントもいらない。みんなががんばってくれるのが、一番のプレゼントだし」と昨日のミーティング前に先手を打たれていたため、高川はそれならばこうするのが一番だと判断し、朝から高輪の柔術完命流道場で汗を流していた。胴衣姿の偉丈夫は畳で受け身を繰り返し、その様子を六代目師範、楢井立(ならい りつ)は満足げに見つめ、愛弟子の勤勉さがどこまでも嬉しかった。
  「ごめんくださーい!!」
  柔術の完命流だったから、女性の道場生もそれなりに多かったが、ここまで良く通る少女の声を楢井はこの道場で耳にしたことはなかった。四角い顔を思わず伸ばしてしまった彼は、慌てて腕を組み直し、声のしてきた出口へ視線を向けた。ますます似合わない、二人の少女が物珍しそうに道場を見渡している。
「なんだね、君たち。入門希望か?」
  ひとりは丸みを帯びた輪郭に、切り揃えた前髪が特徴的な黄色いコート姿の少女で、もうひとりは背が低く、ふわりとしたショートカットに小さな目をした濃緑色のブレザー姿で、こちらには見覚えがあったため、楢井は「針越(はりこし)さんか」と明るい声を上げた。
「ど、ども……」
  一礼した針越は、一緒にやって来た少女のことを、先輩の福岡さんですと楢井に紹介した。福岡章江は三年生で、演劇部の部長を務めていると名乗った。なるほど、最近では芝居に興味を持ち、客演で斉藤一を演じたと言っていたから、そういった関係からくる来訪か。楢井はようやく納得すると、気づかぬまま受け身をとり続ける愛弟子に声をかけた。
「ごめんなさい、突然来ちゃって」
  タオルで汗を拭く高川に、針越がそう謝った。福岡はまだ道場をきょろきょろと見渡し、偶然目が合った楢井に手を小さく振った。
「いや……ここはいつでも見学は自由だ。気にしなくてもよい」
「そうなんだ。えっと……」
  道場を見渡した針越は、高川以外の道場生が誰もいないことにあらためて気づくと、思い切ってそれを尋ねてみた。
「あの事件、通り魔事件以来、道場生が減ってな。まだ何人かはいるのだが、クリスマスともなると、よほどの者でないとここには顔を出さん」
「なーるほどねぇ。じゃあ高川くんは、よほどの者ってことになるんだ?」
  福岡の言葉に、高川はすっかり照れてしまい、端正な顔を赤らめてしまった。
「し、しかしなぜお二人が見学を?」
「う、うん、これから部長と池袋まで買い物に行くんだけど、なんとなく行ってみようかって話になっちゃって」
「なんかさ、道場って面白そうだと思ってね。参考とかになりゃいいかなぁって」
  針越と福岡はそう説明し、高川はそんなものかと簡単に納得した。
「今日は朝からお稽古なの?」
  そう尋ねた針越は、ハンドバッグからハンカチを取り出し、それを高川に渡した。スポーツタオルでも汗は拭いきれてはおらず、また新しい一条が額から流れたからだった。高川は一瞬躊躇したが、隣の福岡部長があまりにもにやにやしていたため、なんとなく面倒は嫌だと感じて受け取ることにした。
「う、うむ……組み手の相手が遅刻をしておってな。仕方なく受け身を続けてはいるのだが……」
「遅刻?」
「甲斐という先輩なのだが、この方が時間に少々ルーズな方でな、うむ……その、実力者ではあるのだが、いつものことなのだ」
  いつものことなら、自分も遅れてくればいいのに。そう言おうとして、針越は口に手を当てた。そう、この硬骨漢に、そのような器用さはない。最近ではその剛直で生真面目な性格もわかりつつあったから、失礼を口にするのはよそう。
「あ、そ、そうだ、高川くん」
  ある用件を思い出した針越は、話題を変えるのにちょうどいいと切り出してみることにした。ハンカチで汗を拭った高川は、「なにか?」と返し、彼女のハンカチをどうしたらいいものか、その処置に軽く困惑してしまった。
「に、二十九日とかって……道場なの?」
「い、いや……自宅だが……」
「そ、そうなんだ」
  ぎこちない二人のやりとりを見ていた福岡は、なんとなく自分が邪魔であると感じ、ひんやりとした木の道場を歩き始めた。今度の新入生歓迎公演を自分は見ることはできないが、針越のような子が部員としている限り、大きな失敗はしないだろう。そう思いながら福岡は腕を組む楢井とすれ違い、壁に掲げられていた額入りの写真を見上げた。
「あ、女の人だ」
  六枚のうち一枚だけ、自分とあまり変わらない年齢の少女の写真が混ざっていたため、福岡はそうつぶやいた。「あれは東堂と言って、完命流免許皆伝を果たした優秀なる女柔術使いだ」楢井はそう説明した。なるほど、自分よりずっと美人だが、少々きつく鋭い目付きをしていたので一応は納得できる。福岡はコートのポケットに手を突っ込み、なんとなく見たことのあるような目つきだと、東堂という少女の写真を見上げてそう思った。

「二十九日にね、東京ビッグサイトであるイベントがあるんだけど……その……高川くん、一緒にどうかなぁって……」
  針越の申し出に、高川は口元をむずむずと歪ませ即答を避けた。
「コミケって、知ってる?」
「い、いや……コミケ?」
  どこかの方言だろうか。高川はハンカチのやり場に困ったまま、仕方なくもう一度額を拭った。
「コミックマーケットって、マンガの同人誌の販売イベントがあるんだ。でね、もし興味があったらどうかなぁって……」
  高川と並んで道場の壁に背をつけていた針越は、思い切って彼の顔を覗き込んでみた。ひっきりなしに汗を拭う高川は、「マンガ?」と困った口調で返し、あまり興味はないと付け加えた。
「そっか……オラムン……オーラムーンの同人誌とか、コスプレとかもあるから、面白いかなぁって思ったんだけど」
  残念そうにそう言った針越は、再び道場の壁に背中を付けた。
「オーラムーンとな?」
  アニメーションスタジオの動画のアルバイトで、何百枚も描いた作品のタイトルである。高川は興味を示し、針越に身体を向けた。
「そ、そうだよ。オーラムーン」
「し、しかしアレはマンガになどなっていないぞ。あれはテレビアニメーションというものだ。断じてマンガなどではない。その昔、テレビアニメーションをテレビマンガと呼称する慣習があったそうだが、今ではもう廃れている」
  あまりにも生真面目で的外れな抗議に針越は思わず吹き出し、そのままの勢いで高川の胸を人差し指で軽くつついてしまった。
「同人誌だよ。同人誌。オラムンのファンが、好きが高じてそれを題材にしたマンガを描いちゃったの。で、そういうのってわりとポピュラーで、よくある話なんだよ」
  わかりやすく説明したつもりだったが、高川は首を傾げるばかりであり、それこそアニメやマンガだったら、『?』マークが彼の周りで踊っている場面だろう。笑いを堪えながらハンカチを彼から取り返した針越は、我ながら大胆な行動だと驚いてしまった。
「むむー」
  うなり声を上げた高川は、コミケというものに強い興味を抱いてしまった。ファンがアニメを題材としたマンガを描くということは、なんとなくわかったのだが、それを販売するというのはどういったことなのだろう。著作権料は、どういったシステムで権利者に支払われているのか。内容についてのチェックはどうしているのか。疑問はそれこそ無数であり、探求のしがいというものがある。だが、二十九日はいくらなんでも無理だ。
「すまんな……大きな興味が湧いてきたが、あいにく三十日に重要な用件があってな、前日はその準備というか、待機をしておく必要があるのだ。申しわけないのだが」
「あ、ううん。いいのよ。急な誘いだし、興味があるのなら、また別の機会だってあるし。池袋とか、そういう本を売ってる店とかあるし」
「うむ。いずれ、連れて行ってくれ」
  もしこの長身の偉丈夫を同人誌ショップに連れて行ったら、周りの腐女子たちはどんな目で彼を見上げるのだろうか。人差し指を口に当て、想像してみた針越里美はなにやら楽しくなり、「はわぁ」と堪らず奇妙な声をもらした。

「あっと……入門希望者とか?」
  その青年は、高川より若干背が高く、髪はぼさぼさで、真冬だというのに派手なアロハシャツを着た奇妙な姿だった。黒いジーンズの下は素足で、腕が丸太のように太く、顔はアンバランスな童顔だが、ハンサムと言えなくもない。「いいえー、違いますよー」と答えながら、福岡はその男をしっかりと観察していた。
「ふぅん……君、女子高生とか?」
  鼻にかかった、なんとなく甘い感じの声で、声優のような明確な輪郭をした声質だと思えるが、スポーツバッグを持っているし、見かけからして格闘技の関係者だろう。プロレスラーかな、そんなことを考えながら、福岡は「そうです」と答えた。
「甲斐師範代!!」
  男の来訪に気づいた高川が、凛とした声で叫んだ。甲斐と呼ばれたぼさぼさ頭の男は、「よう」と軽妙なリズムで返すと、道場の隅にいた楢井に深々と頭を下げた。
「わりぃな、ノリ。すっかり遅れちまって」
  ぼさぼさ頭を何度も掻きながら、甲斐は面目無さそうに謝り、すっかり恐縮した高川は首をぶるぶると振った。
「い、いえ、お願いしたのは自分ですから、お気になさらずに!!」
「はっははは!!相変わらずかったいしゃべり方だねー!!まぁ、そこがノリのいいところなんだが……」
  甲斐は高川の傍らに針越の姿を見つけると、顎に手を当てて下唇をむっと突き出した。
「へはぁ……ノリの彼女?」
  その指摘に、高川はしどろもどりになり、針越は「ふぇぇぇぇ」と声を漏らし、福岡は腹を抱えて笑った。
「なんかウケること言っちまったかね……まぁいいや、師範、着替えてきますんで!!」
  最後に崩した敬礼をした甲斐は、福岡にウインクをして軽い足取りで道場から出て行った。
「あれがさっきの甲斐って人?」
  高川のもとまでやってきた福岡がそう尋ねると、ようやく平静を取り戻した彼は、大きく頷き返した。
「甲斐無然風(かいむぜんふう)完命流の師範代で、二十八歳。いまでは川崎でご自分の道場を持っていらっしゃる、自分の兄弟子にあたる方です」
「面白い名前ねー。無然風って、本名なわけ?」
「ええ。親の気まぐれでつけられた。今じゃ気に入っているとおっしゃられています」
「へぇ……で、彼って強いの?」
  すっかり興味を抱いた福岡は、姿が見えなくなったのにも拘わらず、出口から視線を動かさなかった。
「無論。自分の尊敬する姉弟子、東堂かなめさんとも引き分けたほどの天才です!!」
  まるで我が事のように興奮気味に高川は語った。東堂という名を聞いたばかりの福岡は、「東堂ねぇ」と生返事をし、いつ彼が着替えから戻ってくるのか期待していた。
「た、高川くんと、どっちが強いの?」
  背中から針越に尋ねられた高川は、横顔を向け、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「天と地だな。俺は甲斐師範代の足元にも及ばん。数回手合わせをしたが、一本たりともとったことはない。大抵がぐしゃぐしゃにされてしまう」
「け、けど、えっと……例えば実戦とかならどうなんだろう。ほ、ほら、マンガとかでよくあるでしょ。稽古と実戦は違うってやつ。よくわからないけど……」
「いや。甲斐師範代と実戦をしたことはないが、おそらく稽古相応の差があると見て、間違いない」
  一点の曇りもない、明確な断言だったため、針越はかえって疑問を抱いた。高川典之はかなり強い。戦っている場面を見たことはないが、なんとなくそう思えてしまう。記憶の奥底のどこかに、そう確信できる欠片があるような気がしてならなかったから、少女は食い下がることにした。
「な、なんで……そう言い切れるんだろ」
「最近、わかってきたのだ。実戦でも強いというのが、どのような性質によって決定されるかを。それは勢いだ。平時を瞬時に消し去り、身体をコントロールできる心の踏み込みというやつだ。実戦者とは、これが早くて強い」
「す、すごいんだ」
  なにがだ。そう尋ねようとした高川だったが、胴衣姿の甲斐が道場に戻ってきたため、自分も襟を直して気持ちを引き締めた。やはり、甲斐無然風という男は強い。実戦ならおそらく、見守っている楢井師範よりも実力は上だろう。この稽古は今後の戦いで必ずや役に立つ。高川典之は針越もオーラムーンも全て心の奥に追いやり、不敵な笑みを向けてくる偉大なる先人へ静かに歩を進めた。

8.
  十二月三十日の関東地方は朝から分厚い雲に覆われていた。横田基地は正式には横田飛行場と呼称される在日米空軍の拠点であり、福生市をはじめとする東京五市にまたがる本州最大の航空基地である。戦闘機や攻撃機、爆撃機といったいわゆる戦闘部隊に属する航空機はなく、現在では大型輸送機や補給機が拠点としている輸送中継基地となっていた。旧帝国陸軍、多摩飛行場がその前身で、終戦後に接収され、ベトナム戦争当時はB29などの大型爆撃機が出撃拠点として活用していた歴史も持つ。当然のことながら陸上戦力は警備用に軽装のわずかな人数しか駐留しておらず、本日決行が予告されているFOTの大規模テロに対しては、警察と自衛隊が防衛に当たることが四日前に決定され、昨日の未明には第一陣となる陸上自衛隊第一普通科連隊が練馬駐屯所から到着、その後、銃器対策部隊をはじめとする機動隊が合流、F資本対策班も含めると約八百名の合同防衛部隊が米軍基地に展開された。普通科連隊連隊長、雅戸清三(まさど せいぞう)一等陸佐は、滑走路脇にテントで仮設された合同司令部から配置につく兵員、機動隊員、各種軍事車両を眺め、深い感慨と憂鬱の中にあった。よもやこのような形で、日本の軍事力が米軍基地において戦術展開をすることになるとは。おそらく襲撃してくるであろう荒唐無稽な獣人軍に対して、米兵からひとりの被害者も出すことは許されず、施設の破損も最低限度に抑えなければならない。誰のための戦いか、それを考えれば矛盾の大蛇が鎌首をもたげてくる。雅戸一等陸佐は踵でパイプ椅子を軽く蹴り、部下からの展開状況報告に小さく頷き返し、もう一度大きく顎を引き、「わかった」としっかりとした声で答えた。
  銃を構え、通信機を手にし、周辺を警戒する合同部隊の兵員、隊員たちも早朝の滑走路にあって、奇妙な感慨と憂鬱を味わっていた。もうすぐ陸戦が始まる。広大な基地で存分に訓練の成果を発揮し、最大の同盟国である米国軍兵士に日本の軍事能力を見せ付ける格好の機会であることには興奮もする。だが、基地の周辺は道路だけではなく下水までもが完全な監視下に置かれ、大規模な陸戦部隊の接近は不可能なはずで、そもそも活躍する機会そのものが訪れるかどうかが怪しい限りだ。羽が生えた飛行型にしても高空からのヘリコプターによる監視によって、接近は事前に察知されるはずである。兵士の中には、「敵は手品のような手段で獣人を出現させる」と噂話をする者もいたが、頭から信じない現実主義者は多く、午前九時をまわる頃になると、「またブラフじゃないのか」との声も漏れ始めた。
  鞍馬山では手痛い撤退を余儀なくされたが、横須賀港近海での海戦と外苑東通りでの陸戦と、続けて正面決戦を制してきた実績を忘れるな。所詮は獣の群れであり、組織的な作戦展開は苦手とする烏合の衆である。開けた航空拠点の防衛は圧倒的に我が方に有利であり、必勝が義務づけられている。展開直前に雅戸一等陸佐は全部隊にメガフォンでそう告げたが、言葉による緊張もしだいに緩みが生じつつあり、実のところその原因を分析できている者はほとんどいなかった。なぜだろう、なんとなく浮つく。なぜだろう、なんとなく戦いはないような気がする。滑走路と同じ色をした空を見上げながら、隊員たちの中にはこのまま解散になるのもいいと感じ始める者も出てきた。

「鞍馬に出た怪獣は、口から人の足がはみ出していた」
「踏み潰されたらしい。象なんてものじゃない。ほんとに怪獣だったそうだ」
「人の言葉を話せるという噂だ。知性があるから無駄がない。だから簡単に追い詰められ、殺されて食われる」
「人間の恐怖を知り尽くしているんだよ。獣人王エレアザールってのが、あちらさんの名前だ。王だなんて、本当かよって感じだぜ」
  いつの間にか、部隊員たちの間でエレアザールの話題がのぼるようになっていた。最初は退屈を凌ぐためだったが、小声で口にする者と耳にする両者の頬は引き攣り、なんとなく抱いていた厭戦気分がどこにあるのか、緊張の緩みが実のところ逃避に基づく怯えからくるものであると自覚しつつあった。そう、怖いのだ。鞍馬に出現した獣人王の情報は陸上自衛官と機動隊の全員に通達されていて、中には写真を目にした隊員もいた。中には実際に対した者も混ざっている。獣人だけでも冗談ではないのに、怪獣とも言うべきエレアザールをどんな常識で処理すればいい。FOTが予告しての陸戦なのだから、今回のテロでその怪物が出現する可能性もゼロではない。食われる。鷲づかみにされ、踏み潰され、狡猾に先回りをされ、銃器の敵わぬ暴力に蹂躙され、食われる。戦闘による死ではなく、捕食の結果食い滅ぼされる。漠然とした恐怖は時間とともに蔓延していき、それをごまかすための薄笑いが随所から漏れていた。
  そんな歪な気分が支配する滑走路を、島守遼は視覚に捉えていた。横田基地のゲートから三百メートルほどはなれた住宅街の中にある雑居ビルの外付け階段から、遼は目を見開いたまま、だが眼球から入る情報ではなく、脳に直接伝えられる光景として、兵士たちの薄笑いを間近にあるように“見て”いた。彼の左手は、しっかりともうひとりの異なる能力者の右手を握り締めていた。

 時間指定がないってのがイラつくな……見てみろ、あの兵隊たちの浮つきっぷり……

 脳に響く遼の言葉が、リューティガーの意識をくすぐった。

 たった八百人程度で、あの広い基地を守備するのだから、意識は散漫になるだろうね……

 リューティガーの返事に、黒い革のジャケットを着た遼は、同意の返事を伝えた。
  あまりにも広すぎる横田基地であり、遠透視をして奇策の警戒をするリューティガーも一箇所に視線を留めておくわけにはいかなかった。黒いコートの襟を左手で立てた彼は、滑走路から格納庫へ意識を向けてみた。中には大型輸送機のC−130があり、その操縦席にはいつでも発進ができるように米国人のパイロットたちが乗り込んでいた。いざという事態に陥れば、虎の子の補給物資と燃料とともに上空へ脱するのだろう。米軍からの防衛要請には滑走路の死守が最優先事項として盛り込まれ、そのために合同部隊の九割が防衛のため配置されている。「補給任務下にない補給部隊が襲撃時に最も望むのは、物資の防衛だ。彼らは戦闘能力を与えられていないが、物資を敵の手に渡さないという意識は徹底されている。銃を持つ同盟軍が目の前にいれば、なりふり構わずその護りの元に滑り込むし、またその判断はどこまでも正しい。もちろん、補給任務を遂行中の際は、その限りではないが」そう言っていたのは、リューティガーもかつては所属していた傭兵部隊「カオス」の隊長、ロナルドである。今日の米軍は自衛隊を徹底的に護りのために使うつもりだ。その結果、どのような光景があの空軍基地で繰り広げられるのだろうか。リューティガーはその背後を健太郎に見守られながら、突き刺さるような寒風に目を細めた。たぶん、雪になる。遼が冷たさにそんな予想を立てた直後、空からは白く軽いそれが舞い降りてきた。

 横田基地は一本の巨大な滑走路を中心として、西側に格納庫、司令部、燃料施設といった基地機能の大半が集中していた。敵が破壊をするなら、滑走路と西側に集中するだろう。そんな想定を基に警戒網は設定され、上空からはヘリから、地上からは合同部隊による目が向けられていた。それだけに、滑走路の東側はどうしても監視が薄く、だからこそイーストゲート近くの軍属用住宅の屋根に出現した、白い長髪の彼に気づく者は誰もいなかった。弟のように遥か彼方を見通す目はもっていない彼、真実の人だったが、なにをどうするべきかはその頭脳に全て入っていて、知覚を傾ける方角にも躊躇いがなかった。雪空を見上げた彼は口元に笑みを浮かべたが、すぐにそれを消して意識を深く静かに集中した。
  その銀色の塊がどこから現れたのか、その経路を辿れる者は護る者たちの中にはいなかった。一番長い辺が四十メートル、高さ三メートルほどの、長方形をした大きすぎる弁当箱とでも言うべきコンテナが、横田基地の中枢部である東側エリア上空に突如として出現したのは、午前十時三十分のことである。数は七つ。うち四つは司令部と燃料施設の上空に、二つは滑走路の北側に、最後の一つは西側第二ゲートの上空に、まるで最初からそこにあったかのような“当然”さで、だが上面には一ミリの雪も積もらず、空中に静止していた。
  ヘリと隊員たちだけではなく、米軍も出現したコンテナを同時に認識した。噴射もなく、吊されているわけでもなく、見えない力によって百メートル上空に“在る”七つの長方形へ、瞬時の対応など無理だった。ただ呆然とするしかなく、ただ困惑するしかなく、あれが空中にある違和感が、ニミッツの甲板に現れたプロトタイプのゴモラと同一であると感じるには最短でも時計の秒針が一周する程度の間は必要で、真実の人にとってその空白はあまりにも長くじゅうぶん過ぎた。指導者である自分が肉体労働をさせられている現実に苦笑いを浮かべた彼は、冬だというのに額から大量の汗を噴き出し、その呼吸は荒々しくなっていた。あとは任せた。そう心の中でつぶやいた真実の人は、突風と共に屋根から姿を消した。
  七つのコンテナは、まったくの同時に全ての辺から煙を吹き出し、バラバラになった。つい先ほどまで立方体だった、合計四十二にも及ぶ三種類の大きさをした鉄の板が地面へと落下し、それは着地の寸前に粉々となって四散した。破片は鋭利な弾丸と化し、地上にいた自衛隊員や機動隊員を切り裂き、管制塔のシャッターを凹ませ、給油車を炎上させ、装甲車をパンクさせた。ある破片が機動隊員の膝から下を切り離した。ある破片は自衛隊員の首と胴を上下に分断させた。もっと細かい破片がぽかんと開いた米軍整備兵の体内に飛び込み、延髄に小指ほどの直径の穴を開けた。弾丸を迎撃する手段はなく、またその破裂はあまりにも唐突だったため、誰もが滑走してくるそれに対応することができなかった。基地のあちこちで惨劇が繰り広げられ、死ぬことも出来ず散弾に深手を負った隊員の呻き声がサイレンのように立ち昇った。

 初手と呼ぶには痛烈過ぎる先制攻撃だった。接近する敵を探知し、その規模を測り対応を立てる。そんな当たり前の戦術さえ、護る者たちには許されず、唐突で無慈悲な暴力によって戦いは一方的に始まってしまった。

 仮設本部のテントは散弾の直撃を免れていたが、激変した戦況に仕官の誰もが冷静さを失い、固唾を呑んでいた。突然の出現といった奇策はこれまでの経験で想定をしていたが、それが最悪の形で実現してしまったようである。コンテナがあった上空には、背中に翼を備えた者たちが散開を始め、雪の空を埋め尽くそうとしていた。いつもの犬面ではなく、数百にもおよぶそれら怪物たちの両眼は左右に離れ、頭髪は一切なく、口は耳まで裂け、皮膚は枯れ葉色で疣のような凹凸に富み、まるで蛙のような頭部をもっていた。上半身は太いベルトをタスキ掛けにしている以外に衣類は着けず、下半身も薄い素材の煤けた水色のズボンを穿いているだけで、素足の指の裏には桃色の吸盤が備わっていた。忠犬隊などと比べると醜く、粗末な身なりをした獣人たちである。
  奴らはおそらくコンテナの中にいたのだろう。手には刀や突撃銃を握り締め、腰に爆弾を装着し、既に急降下を始めている者もいる。雅戸一等陸佐は長机を一度叩くと、対空挺戦の指示を副官に出したが、おそらく演習や訓練の成果を存分に果たせる戦いにはなるまいと覚悟していた。

「滑走散弾だと言うのか!?獣人も出てきたか。神崎くん!!」

 テントの脇に停められたF資本対策班のトレーラーのカーゴルームでは、指揮官である森村肇の指示と同時に、赤い人型が滑走路に飛び出していた。そのすぐ後ろにはモトクロスバイクに跨ったハリエットが続き、やはりカーゴルームの中にいた陳もエミリアや高川、岩倉に外へ出て迎撃するよう命じた。

 戦いは唐突に始まった。蛙顔の新型獣人「ランカン・ジャクシ」は百メートルの高さをわずか十秒足らずで急降下しながら、突撃銃を一斉射撃した。数にして六百。戦力は合同部隊に勝ったが、コンテナの外装を利用した滑走散弾によって二十名が即死し、六十名が重軽傷を負い、戦線は早くも崩壊しようとしていた。ランカン・ジャクシの中には火炎放射器を背負った個体もいて、その数匹が燃料施設に飛び込んだ直後、爆音と共に黒煙の柱が舞い散る雪を蒸発させた。警報と叫び声と炎が燃料施設を包み、泣き顔のまま神に惨状を訴えていたある白人整備兵の腹に、蛙の日本刀が突き刺さった。
  司令部ほど突然の交戦を予想していなかった末端の隊員たちは、殺戮を繰り広げる怪物に戦慄し、わけもわからず機関銃を乱射する者や、撤退してきた味方に誤射する機動隊員などもいて、およそ防衛部隊とは呼べない醜態を随所で晒していた。彼らはこれまでに充分な訓練を重ね、相応の技能と度胸を身につけていたはずである。奇襲に応じる術も反射レベルで叩き込まれていたはずである。しかし襲い掛かる半人半蛙は反射の領域での射撃も舞い上がることで難なくかわし、次の瞬間には背後まで回り込み、的確な抹殺に移行している。反射が通じないとわかってしまえば、それ以上はどうしてもないのだから、なす術もない。限界ぎりぎりの緊張はとうとう切れてしまい、そんな結果の醜態だった。
  混戦の中、過って転倒した小田という自衛隊員は、最初の滑走散弾で絶命した仲間の横顔を間近で見てしまった。右目が顔面からこぼれ、唇は爛れて歯茎が剥き出され、左側頭部は破片でごっそりと削ぎ落とされ、断面から赤黒い体液が泡を立てて細かにはじけていた。いつか戦場か被災地で屍と向き合うと覚悟していた小田は、その際に怯えないようにと入隊してからこれまで、ネットなどで死体の画像をできるだけ収集し、それを直視する自己鍛錬を積んできたのだが、現実は予想の外にあった。そう、本物の死体はもっとグロテスクで惨たらしく、胸を引き裂かれるような痛ましさを伴うと思っていたのに、眼前で横たわるそれは写真とあまり変わらない。小田はそうだとわかってしまった途端、声にならない叫びを上げた。それと同時に、心の中にあった潤いのようなものが、瞬く間に蒸発していくような渇きに彼は襲われた。それはこれまでにない経験だった。そう、仲間の屍は縁のない者の死体画像とあまり変わらない。それがとてつもなく恐ろしかった。「俺もこうなる」渇ききった心にそんな言葉が響き、転倒していた小田は爪を立て、這いながら上体を起こして息を止めたまま胃液まじりの唾を吐いた。それは心を立て直し、兵士として男が再生した瞬間だった。だが、転倒していた時間があまりにも長すぎた。立ち上がろうとしたその瞬間、小田は背中から突撃銃の弾丸を喰らい、同僚の隣に再び倒れた。
  混迷と波乱の中にあって、根本的な疑問を浮かべる愚者もいた。なぜ自分はここにいる。なぜ大晦日も控えたこの日、自分はこんなところでカエルの化け物に機関銃を撃っている。だめだ、何か目の前で破裂しやがった。爆風で木の葉のように散っている自分は、たぶん死ぬ。地面に叩きつけられたのに、なぜだかどこも痛まない。一矢報いるためにも手榴弾を投擲したいが、掌の皮にへばりついたピンの抜けたそれは、どこまでもこちらを嘲笑う道化師の様でもある。もうだめだ。その愚者は訓練の成果も活かせぬまま、己の爆弾の破裂に浮いていた右半身を吹き飛ばされ、残った左半身が別の機動隊員の背中に張り付いた。
  ランカンは決して単独行動をせず、常に三匹がひとつのチームを作って殲滅戦を繰り広げていた。だが、チーム同士で連携を見せるようなことはせず、一チームあたりの担当戦場は見えない区切りによって厳密に分けられているようでもあり、その行動は整然として冷静だった。乱れず、感情を見せず、蛙たちは黙々と殺戮を繰り広げていく。スクラップになった装甲車の陰でライフルによる狙撃を繰り返しながら、岩倉次郎はなんとなくランカンに自分と似た落ち着きを感じていた。たぶん、僕は死んだら地獄に落ちる。特定の宗教を信じる彼ではなかったが、死んだら天国か地獄に行くものだ。そう漠然と思っていたから、どう考えても自分は地獄行きだと感じながら、引き金を引き続けていた。もしあの世の裁判というやつがあるのなら、僕は弁護士にこう言うだろう。「人だった獣人を何人も殺した僕に、弁護はいりません。ここで一番重い罪でいいです」それでも後悔はない。僕が撃ち殺さなければ、死ぬ人がもっといる。隣で同じようにライフルを撃つエミリアという子は、どんな想いで戦っているのだろうか。たぶん、やっぱり、僕とは違うのだろう。爆音と銃声にすっかり聴力を奪われていた岩倉は、「エミリアちゃん!! 突撃して高川君の援護に向かう、支援よろしくね!!」と叫んだ。そう、銃器を拒否し、なんとしてでも素手での戦いにこだわるあの戦友は、陳と共に更に戦線の奥にいる。きっと正確な援護を必要としているはずだ。狙撃用ライフルをアサルトライフルに持ち替えた岩倉は、叫び声を上げて車両の陰から飛び出した。地獄行きなんて怖くない。心の中で繰り返しそう唱えながら。
  戦闘開始から十五分ほどが経過した頃になると、米軍兵士たちはその全てが基地の施設内へ逃げ込み、発進準備をしていた格納庫のC−130も戦況を見越して脱出を諦め、そのかわり仮設の合同司令部には米軍からの救援と各所の拠点防衛要請が絶え間なく飛び込んできた。そのいちいちに対応していた参謀もついにはキャパシティーを越え、彼は聞こえてもいいという覚悟で「うるせぇヤンキー!! 手前らも軍人なら自分の身は自分で護れ!!」などと軍人にあるまじき暴言を吐き出したが、それを咎める高官はいなかった。爆音と叫び声で誰の耳にも届かなかったからだ。
  広大な敷地には司令部、格納庫や通信施設などが点在し、たった八百名の兵員でその全てを守備することはできなかった。これまで数度の交戦で正面衝突を想定していた合同部隊はすっかり浮き足立ち、軍人としてなによりも大切である任務の優先順位は上へ下へと混乱し、命令系統などあるだけ邪魔というほど各々が目の前の対処に追われていた。三匹のランカン・ジャクシを空気圧縮爆弾(エアプレッシャーボム)と念動電磁熱線(PKレーザー)とカタール型ブレードで同時に葬ったまりかは、装着しているドレスの胸に衝突してきた蛙の生首にも躊躇わず、、傍らで尻餅をつく自衛隊員を見下ろした。
「敵は分断による各個撃破を目論んでる!!できるだけ孤立しないで!!必要とあれば戦線の縮小も判断していいから!!」
  黒い頭部からスピーカーによって聞こえてきた声が女性のものだったため、その自衛隊員は一瞬驚いた。だが、これがあのF資本対策班の切り札、赤い人型を駆る噂の「彼女」ということか。兵士たちの間で囁かれていた噂話を思い出した彼は、小さな敬礼をして仲間の姿を探した。
  充分な訓練を積んでいるのだし、冷静になれば火力をそろえているぶん、対抗はできるはずだ。まりかは蛙の化け物を何匹も退治しながら、敵の戦闘能力がそれほど高くないことに気づき始めていた。それは背後で二つの姿で小銃を奮うハリエットにしても同様であり、二人のサイキは背中を合わせ、互いの認識に大きく頷いた。
「まりか、結局は量産タイプってことね!!」
  迷彩服に光学ゴーグルを装着した二人のハリエットが同時に叫び、それはすぐにひとつの姿に重なった。
「ええ、ソロモンや忠犬隊と比べればたいしたことない。見てくれがグロいのだって、こけおどしね」
  頭痛はいまのところない。だが一度に大量の殺戮ができず、どうしても見えた敵と対決していくしかないまりかにとって、どこまでも連なる戦いの連続は不安でもあった。個体レベルでは弱いが、ともかく数が多い。こけおどしと言いながらも気を緩めることなく、まりかは次の蛙を探した。

 まりかとハリエットが感じたとおり、ランカン・ジャクシは冷静に対すれば自衛隊員が圧倒されるほどの兵士ではなかった。空中に留まり高度の有利さを確保はしていたが、時間の経過と共にスタミナ切れを起こし始め、鋭敏な動きは錘をつけたかのように鈍り、射撃や格闘の精度は目に見えて落ちていった。もっぱら爆弾や火炎放射、突撃銃の乱射といった“雑”な制圧方法しかとれなくなってきた彼らは、結局のところ急襲用の雑兵でしかない。だが、その急襲があまりにも鮮やかだったため、能力の低さは露呈することなく、横田基地の各防衛拠点に到着した隊員たちは次々と任務遂行能力を奪われ、命を落としていった。トレーラーのカーゴルームから司令本部に移動していた森村主任は、机上のモニタに映し出された戦況を食い入るように見つめていた。ある格納庫のシャッターの前で、機動隊員が串刺しにされた。仲間のひとりは戦意をすっかり失い、股間を濡らしながらシャッターを叩いたが、それは開くことなく、彼は背後から突撃銃の銃剣に腹部を突き刺されていた。シャッターが開くはずもないとわかっていた森村だったが、機動隊員たちの死が犬死にに見えて仕方がない。せめて彼らの隣に、海兵隊員や米国陸軍兵士の姿でもあれば、同盟国としての共同戦線だと納得することもできるのに。自分が混乱しているのを自覚した森村は、あえてモニタから目を離した。見える光景は、あまりにも感情を刺激してしまうからだった。

 遼は視覚に飛び込んできた蛙の動脈を“ずらす”ことにひたすら専念していた。ときどき敵のまったくいない滑走路に景色が移り変わることがあったが、本来奇策を見張るための遠隔待機だったため、常に獣人を追い続けるわけにもいかず、そのタイミングでは緊張を敢えて解き、深呼吸をするよう努めていた。

 どうなるんだ、真錠……!!

 五匹目になるランカンの息の根を止めた遼は、リューティガーの意識に飛び込んだ。

 まだわからない……滑走路東側の弾薬庫に仕掛けないのも気になるが……

 戦況を客観的に見られれば、リューティガーにも気づける点があった。しかし断続的にカメラを切り替えるようにしか状況の把握ができない彼にそれは叶わず、ヘッドフォンから飛び込んでくるエミリアの報告からも今後の展開は読みきれなかった。


  その頃、都内のある喫茶店で遼の父、島守貢はモーニングセットのトーストを齧りながら、カウンターにあったテレビを見つめていた。番組は緊急ニュースであり、横田基地で始まった戦闘の様子を伝えていた。だが画面はスタジオと基地の見取り図を映すばかりで現場の映像はほとんどなく、たまにカメラが切り替わっても遠景過ぎて煙ぐらいしか変化は見えなかった。「報道規制なんだよね」店の女主人はそう言い、貢は無言で頷き、スタジオにいる戦場評論家の意見に耳を傾けた。
「空軍司令塔は一番守りも堅いはずですが、現場は相当混乱しているようですから、なんとも言えません。ただ、ここに敵が突入するのは至難の業かと判断します」
  評論家の言葉に、スーツ姿の中年アナウンサーが何度も頷いた。
「一部の情報によると、燃料施設が炎上しているとのことですが」
「あの黒煙はそうでしょうね」
  なんとも他人事のような口ぶりだ。評論家がジュースを飲む様を見ながらそう感じた貢だったが、彼の手もモーニングコーヒーに伸びていた。


「なんだってあいつらがいる!?なんだって民間人が国道まで来てる!?どうにもならんのか!?」
  仮設司令部で雅戸連隊長はそう叫んだ。モニタには第二ゲート付近の様子が映し出されていて、そこには詰襟を着込んだ数名の男や女たちと、それを取り巻く大勢の民間人たちの姿があった。すぐ傍では銃弾が飛び交う陸戦になっているというのに、詰襟のひとりはビラを撒き、ある一人は朝礼で使うような壇を準備している。民間人の多くの顔には緊張と恐れが張り付いていたが、それを上回る興奮と楽しさが浮かんでいるようにも見える。まるで花火見物にでも訪れたかのような浮つきだ。雅戸はそう思った。参謀からの報告によると、第二ゲートの上空にも蛙面の獣人が出現し、ゲートを守備していた米兵の全ては排除され、現在あのエリアは敵も味方もいない無風地帯と化しているとのことである。解散や検挙のため機動隊員を向かわせるべきかと考えた雅戸だったが、一兵たりとも戦力を割けられないと思い直し、地元の警察に出動を要請するよう参謀に命じた。だが、しばらくして戻ってきた参謀は、青ざめた顔を何度も横に振った。
  基地から近い、拝島駅にて熊のような獣人が数匹出現。それらは特になにかをする気配もないが、警官隊が包囲中である。熊面は人の言葉でこう叫んでいるらしい。「日本国民よ、横田へ集え」と。

「すぐ後ろだ!!我々のすぐ背後で戦争が起きている!!いつまでも居座り続ける占領軍を排除するための革命戦争が起きているのだ!! この日本が真実の独立を果たすためにも占領軍は排除するべき患部である!!使える核を目の前に躊躇うことなど一切ない!!昼も夜も共に出来ない米国の、なにが最大の同盟国か!? なぜ我らの自衛隊が、占領者の盾となって命を失う必要がある!?日本の独立を支援するFOTと自衛隊が、なぜ矛を交える必要がある!? 敵は誰だ!?我々の首もとにナイフを持つ怪物は誰だ!?政府の軟弱な隷属意識が現在の不幸を現出させているなら、我々民衆がはっきりとした力を行使するべきではないのか!? かつてない、民衆の手による独立を果たすべく、戦いの時は遂に来たのだ!!本日より我々は会議の名を捨て、音羽革命軍として生まれ変わった!! こうして叫び続けるだけではない!!諸君らは我々の行動の結果というものを、じき目の当たりにすることだろう!!それは破壊だ!! 隷属の破壊だ!!恥の破壊だ!!占領者の破壊だ!!安穏の破壊だ!!」
  関名嘉の絶叫はマイクを通じて民衆に伝わり、最初は基地から見える爆煙や銃声にだけ興奮していた人々の中にもやがて、「破壊」のフレーズに同調する者が現れ、その人数は繰り返されるたびに少しずつ増えていった。関名嘉の左右には大型のスピーカーが設置され、そこからは音楽とは決して呼べない雑然とした音の羅列が鳴り響いていた。どこまでも不規則で禍々しい音の配列は、普段耳にすればノイズとしか受け止められないクズのような無意味で邪魔なものでしかないはずだが、それなりに効果はあるらしい。関名嘉と共に叫び声を上げる民衆を、藍田長助はスピーカーの裏からぼんやりと見つめていた。その耳はヘッドフォンによってすっぽりと覆われ、そこからは雑音を遮るための、ある映画音楽が流れていた。昔、初日に女を誘って観にいった、戦争映画のテーマ曲である。スピーカーから垂れ流される、人の心を歪ませる奏でから身を守るための手段だった。『真実の世界』という曲名が一応はついているが、こんなものは音楽じゃない。同時に流れている、洗脳と暗示のための聴覚では察知できない特殊な高周波があくまでも本命だ。催眠術は夢の長助にとってプライドの拠り所でもある生きる糧だったから、この『真実の世界』も一通りの情報は得ていたし、その効力も理屈ではわかっていたつもりだった。ただ、品がない。職人芸の芸術品とも言うべき自分のそれと比べて、一度に大量に、それも薄く暗示にかけることを目的としたこの音は、大量生産の工業製品のような代物である。腕を上下させる関名嘉を背中から見つめながら、長助はもうそろそろ次のフェイズに作戦が移行する頃合いだと気づいた。あの勝どきを上げるような仕草は、トラックの出発の合図だ。打ち合わせ通りなら、高橋知恵という少女はこれから死ぬ。そしてこれからたっぷりとした時間をかけ、この詰襟の集団はひとりずつ犠牲になっていく。最後には、自分も安全だと思っているこの臙脂色の大将も死ぬ。つまり全滅というやつだ。こいつは自分で絵図を描いたつもりだろうが、その細部にはあらゆるアレンジが施され、実のところそれが最終的な結果を映し出すことに気づいてはいない。全てこちらの意図通りにことが運べば、こいつらの死はそれなりの共感を民衆に与えることだろう。爆死・拷問死・銃殺・轢死・あらゆる残酷な死が音羽たちを襲い、そのラストは磔の処刑だ。ロクでもない最低の手口ってやつだ。ついこないだまで綺麗事で真実の人を諌める役だったのに、いつの間にこんなひどい罠に自分は加担しているのか。長助は胸ポケットから煙草を取り出し、それに火をつけた。
  なんのことはない。今日だって自分から言い出した。音羽たちの見張りにスピーカーのセッティング、その他雑事をもろもろ。もう綺麗事の世界にはいられないと覚悟を、いや、それこそ綺麗事で、もう諦めてしまったということだ。きっかけは、残酷な夢をあの少年に見せたことからだろう。花枝幹弥の命を使い、二発の核はこの国に運び込めたのだから。目的のために手段を選ばないありふれた行為に、自分はもう踏み込んでしまったのだから。長助はニコチンで肺を満たし、無残なまでにやつれた花枝の顔を思い出し、目を閉ざした。


  左足のない負傷兵が仮設司令部本裏の救護スペースに担架で運び込まれ、首のない遺体が無造作に積み上げられていた。負傷者の治療には陸上自衛隊の救急医や衛生士が当たっていたが、その中にあって賢人同盟の軍医、ゼルギウス・メッセマーは言葉もロクに通じない状況にありながら、存分にその救急医療の腕を発揮していた。負傷の度合いをすぐに見極め、患者にランク付けをして最低限の処置だけを優先し、患者をあくまでも修理品として扱う。ときどき耳にしたこともない言語で怒鳴られながらも自衛隊所属の医療スタッフは、熟練軍医の仕事に段々と対応していった。
  ここは戦場だ。米軍基地である前に、日本国である前に戦場だ。救護スペースを訪れていた雅戸一等陸佐は、メッセマー医師に怒鳴られる衛生士を見ながら、先の大戦に参加した祖父の言葉を思い出した。「戦場では、単純な判断が最も正しい」そう、それは真実だ。雅戸はテントに戻ると、森村主任と機動隊隊長を呼んだ。
  「もはや拠点防衛は不可能と判断した。これより合同部隊は滑走路南側まで撤退し、そこに陣を敷く。司令本部も直ちに移動を開始する」
  雅戸は机上の地図の、滑走路南側を指示棒で指した。合同軍は米軍の拠点防衛を放棄し、自らの安全を最優先に撤退戦に移行する。雅戸の命令はそれを意味するものだった。森村はこの状況において雅戸の判断が正しいと認めざるを得なかった。急襲に戦線が崩壊しているだけではない、米軍は施設に隠れ、弾丸の一発たりとも支援をするつもりもなく、点在する拠点をただ防衛しろと命じるだけで、士気の面からもこのままでは壊滅するのは時間の問題だったからだ。おそらく、神崎まりかとハリエット・スペンサー、そして賢人同盟の彼らは最後まで奮戦するだろうが、合同部隊はそのほとんどが“カタワ”になってしまうだろう。戦闘開始三十分足らずで、戦える人員は五百名を切っているとも聞くし、今回のFOTは本気で日本人を殺そうとしているのがよくわかる。森村は通信用マイクを手にした。「神崎君、これより全軍がポイントS034へ撤退を開始する。二人はその支援と、できるだけ獣人の殲滅に努めてもらいたい。米軍施設の防衛は意識しないでいい」その指示の後、彼は更に「CIAのスペンサー君の判断は任せる」と付け加えた。

「ごめんまりか。わたしはいったん空軍司令部に向かう……いいかな?」
  七匹目の蛙面を小銃の連射で薙ぎ倒したハリエットは、十一匹目の頭蓋骨をアームで握りつぶしたまりかにそう叫んだ。
「ええ、ここからは別行動で行きましょう!!それにしても……」
  空軍司令部の近くまできていたまりかだったが、視界は煙によって遮られ、爆音と銃声で細かな音も拾えず、頼りになるのはドレスのセンサー類だけだった。しかしレーダーにも敵の影は出たり消えたりと安定せず、妨害なり遮蔽が行われているのは明白だった。いくら強力な念動力を持っていても敵の姿を捉えられなければ戦えない。頭痛がないだけ個人的な戦況はマシだったが、決して楽観もできず、苛立ちのなかにまりかはあった。彼女の視界に一匹のランカンが飛び込んできた。咄嗟に身を引き、念動の意識を集中したまりかだったが、蛙面は突然白目を剥き、その場に崩れ落ちた。
「まりか……これは?」
  ハリエットはドレスの黒い頭部を見上げ、まりかはその中で静かに頷いた。そう、これをやったのは“彼ら”だ。おそらく、これまでにもそうしていたように、相方と二人で遠くから戦況を見つめているのだろう。ともかく援護には感謝だが、どちらにその意を向けていいのかもわからず、結局まりかはそこでハリエットと別れ、撤退戦の援護に移ることにした。

 まりかさんも移動したか……

 雑居ビルの外付け階段では、遼とリューティガーが遠距離からの暗殺と警戒を繰り返していた。まりかに迫ったランカン・ジャクシを排除する際もリューティガーに淀みは感じられず、遼は彼がある程度は気持ちを切り替えられたのだとわかり、それが嬉しかった。だが同時に、忸怩たる思いが心を曇らせてもいた。一体こうすることにどんな意味があるのだろうか。高川や岩倉もあの煙と轟音の中で奮戦し、化け物たちと戦っているはずだが、今回のこれは特に意味がない。FOTが民間人を殺すというのなら、例えば祇園祭のような事態なら、いくらでも立ち向かう気力は湧いてくるが、基地に隠れたままの米軍を守るのは、思想的な偏りのない遼にとっても納得し難い茶番であると感じられる。こうしている間にも自衛隊や機動隊は次々と命を落とし、不幸が絶え間なく積み重ねられていく。遂に撤退を決したらしいが、無駄死にというやつではないだろうか。ついそう考えてしまった遼に、「無駄死にの兵なんていないよ」とリューティガーの声が聞こえた。そう、心に直接ではなく、鼓膜を震わせる声だった。
「真錠……」
「いや、だけどそれは兵士としての覚悟をしている場合の、自覚ってやつだ。あの自衛隊たちに、それはないかもしれないね」
  じっと正面を見据えたまま、二人は遠く戦場に集中しつづけていた。人が爆発で吹き飛び、下顎を失った頭部が樹木に齧りつくように叩き付けられる光景が、仲間の機動隊員の上半身を抱えたとたん、下半身が千切れてしまい、その場で叫ぶ機動隊員が、蛙の首をナイフで切り裂き、返り血を舌なめずりする狂気が、次々と視覚を犯していく。犯されてしまった感覚は、何日も後遺症を残すだろう。遼にはよくわかっていた。食事はロクに喉を通らなくなり、何度も悪夢にうなされ、高川や岩倉とディティールを語り合うことで、なんとなくごまかして薄める努力だってしてしまう。無駄死にというものはないのだろう。だけどやっぱりあれはいらない死だ。ひとりでも多くを救うため、遼は次の動脈を見極める。

 アル兄さんは……なにを狙っている……!?

 リューティガーの遠透視の風景が、戦場からいったん離れた。廃車寸前の先頭車両も四散した遺体もなく、なんとなくのんびりとした二車線の車道だ。横田基地のどこかであり、さすがにこれだけ広大な敷地だと、戦場をまったく感じさせないエリアもあるものだと遼は戦意を少しだけ和らげ、リューティガーはこの光景は滑走路の東側で、戦場とはちょうど反対側だと思考で伝えた。

 車……? いや……なんだ……あれ……?

 一台のトラックが、道路を走っていた。速度はそれほどでもないため、この緊急事態にあってそれはどこか違和感のあるトラックだった。遼はリューティガーに車体を追ってくれるように頼み、ちっぽけだったトラックは迫るように視覚へ広がってきた。トラックである以上、積み荷を確かめるべきだ。そう判断したリューティガーは、布製の幌の向こう側に透視の意識を向けてみた。荷台には木箱が隙間なく詰まれ、更にその中を透視してみると、それは黒い塊にデジタル発信機が取り付けられたもので、視覚を共有する遼がなんだろうと不思議に思っていると、リューティガーがあれは起爆装置付きのプラスチック爆弾だと僅かに心を震えさせながら伝えた。つまり、あのトラックは荷台に爆薬を満載し、基地のどこかへ向けて走っている。軍用のものではなく、幌には藤原ハムとプリントされているから、どう考えても奇妙だ。一瞬だけ道路の先へ視界を移してみると、そこは管制塔だった。なんとなく、トラックが走る目的もわかるというものである。遼はリューティガーに、トラックの運転席を透視してくれと頼んだ。もし無人なら、電気系統を“ずらす”しかない、人が運転しているのなら、さてどうしたものか。ズームされた運転席に、白くだぶついた詰襟姿が在った。

 比留間だ!!

 遼の心の声に、リューティガーも小さく頷いた。

9.
  ゲート前での演説をひとまず終え、壇上から降り、パネルの裏まで引き上げてきた関名嘉は、奇怪な旋律がスピーカーから絶え間なく吐き出される中、携帯電話に送られてきた写真画像を眺めていた。それには、破壊されたフェンスと走り去っていくトラックが写し出されていた。予定通りに事は運んでいる。どうやら知恵は南側に隣接した自動車教習所から基地内へと無事にトラックで侵入できたようである。獣人は北と西に集中して出現したため、南と東の守りは完全に手薄になっていたから可能だった突入であり、普段ならフェンスを破壊する工作中に警備に捕らえられるだろう。かつてはデモのために幾度も訪れた横田基地だったから、こうも呆気ない侵入はかえって拍子抜けをしてしまいそうだが、これも全て自分の立場が大きく変わり、見渡せる風景に変化が生じているためだと思う。『真実の世界』の狂った大波の中にあって、関名嘉は血が沸騰してくるような興奮を感じ、雑音の渦の中にあって目は血走り、口の端からは泡がはみ出ていた。

 ははは。もうすっかり俺の掌じゃねーか。死ねよともっち、華々しく。
  今頃運転席で俺を呪っている頃か?それともとうに覚悟を決めちまったか?
  どちらにせよ、お前の殉死は無駄にしねぇ。
  いずれは真実の人だって、俺は使えるようになってみせる。
  誰にでもわからせてやる。
  この関名嘉篤がゴモラを使わせてもらう。日本人の代表として。
  政治家はダメだ。軍人だってグズばかりだ。それを今回から知らしめていく。
  ともっちの死はその始まりだ。民衆が命を投げ出し真実の独立に向かって偉大な一歩を記す。もうちょっとでそのはじまりだ。
  わかれよ、どいつもこいつも。
  さーて、もういっちょ、叫んでくるかい。

 携帯電話を折り畳み、タオルで汗を拭った関名嘉は、再びパネルの裏から壇上へと駆け上った。足を止め、スタンドマイクを握り締め、顎を上げながらも視線は眼下の民衆に合わせる。「わかれよ!! 諸君!!」演説はそんな言葉から再開され、人々の吠えるような叫びが歪な奏でに加わった。


  なぜこんなことになってしまった。さっきから底が抜けるほど強い力でブレーキを踏んでいるのに、サイドブレーキもびくともしないし、アクセルから足を離してもスピードは時速七十キロを保ったままだ。どんどん管制塔が大きくなってくる。このままいけば激突するし、そうなれば怪我だけでは済まないはずだ。トラックの運転席の中で、比留間圭治はハンドルにしがみついたが、それは左右いずれにも微動だにせず、早すぎず遅すぎずの直進がひたすら続いていた。
  比留間が横田基地から南に下った食肉倉庫に到着したのは、午前八時のことだった。そこにはこのトラックと黒いスーツを着たFOTのエージェントが二人に、熊のような頭をした獣人が七匹ほど待っていた。獣人は次々にトラックの荷台に乗り込み、エージェントは片言の日本語で、「ダレダオマエハ」と聞いてきた。高橋知恵に頼まれた、この詰襟が音羽の証しだと比留間が告げると、二人の外国人は少しだけ言葉を交わし、「ノレ」と短く命じてきた。そして運転席に乗り込み、発進の合図を待つこと二時間以上、最初は荷台から聞こえてきた獣人の低い咽鳴りもやがて止み、携帯電話に「GO」と、予定通りのメールが知恵から届いてからはあっという間のことだった。トラックの運転は不安もあったが、エンジンをかけて発進してみればそれほど難しいこともなく、基地の南の自動車教習所に侵入し、エージェントが予め壊しておいてくれたフェンスを越え、目の前に広すぎる滑走路と飛来する獣人と、燃料施設から立ち昇る黒煙が目に入り、第一の目的地である滑走路東側の降車ポイントまで比留間は無我夢中だった。

 ところが。

 降車ポイント近くでブレーキを踏んだにも拘わらず、アクセルを緩めたにも拘わらず、トラックは停まることなく走行を続けていた。このままでは獣人たちを下ろせず、作戦は失敗する。そんな不安はすぐになくなり、圧倒的な死の恐怖が上書きされた。幸いにも扉に鍵はかかっておらず、その気になれば飛び降りることもできたが、僅かに開いた扉の隙間からはこれまでに見たことがないほどの勢いで地面が流れ、とてもではないが「その気」になる勇気は湧いてきてくれない。気が付けば泣いていた。室内のミラーに一瞬見えた自分の顔は、革命家のそれではなくただの子供だった。なにが起きたのか。車が故障してしまったのか。それなら荷台の獣人たちになんとかしてもらうか。あいつらが、以前教室をジャックした化け物と同じような怪物なら、暴走トラックから飛び降りて押すなり引くなりトラックをなんとか制動させることができるかも知れない。比留間は恐怖と戦いながら、荷台に続く小窓に振り返った。

 なんてことだ。いない。

 荷台にすし詰めになっていた獣人たちの姿はなく、いつの間に詰まれたのか、木箱の山だけが不気味に揺れていた。これはなんだ。一体なにが入っている。獣人たちはどこに行った。比留間の恐怖に混乱が上乗せされ、彼はシートに縮こまってしまった。

 旋風が背中をくすぐり、詰襟の裾が翻った。

「比留間!!お前なにやってんだよ!!」

 知ってる声だ。だけどなんで。そう、さっきからわからないことばかりの連続で、遂にここまでわけのわからないことになってしまったのか。比留間は泣き顔を上げ、助手席からハンドルに手を伸ばしている遼に「なんなんだよ!!」と叫んだ。
「いいから!!どーしてカーブしねぇ!!アクセルだって踏んでねぇのに!!」
  この事態をどうにかするため、こいつはここにいる。それはわかる。ハンドルを何度も引っ張り、ATレバーとサイドブレーキを膝で蹴り、ダッシュボードを叩くこいつはなにやら“慣れて”いるようにも見える。比留間は涙を拭って、遼と座席を入れ替わった。
「停まらん、曲がらん、真っ直ぐいくだけなんだ!!このままじゃぶつかる!!」
  吐き捨てるような比留間の言葉に、遼は奥歯を噛み締めた。
「爆弾も満載だしな……こりゃ、特攻だぜ!!」
「ば、爆弾!?」
  積み替えられたとしたら、二時間の待機時点だ。比留間は荷台を振り返り、両手で頭を抱えた。
「時限装置がついてるから、爆発は衝突と同時だろう……比留間、ちょっと荒っぽい手を使う、放り出されても受け身ぐらいはとれよ!!」
  ここまで“跳ばして”くれたリューティガーは、今頃健太郎と共に戦場へ現れているだろう。遼はちらりと窓の外の戦場に視線を移すと、フロントパネルに意識を集中した。「比留間くんの危機はわかる。だけど二人で救出はできない、運転席まで跳ばすから、後は頼む」リューティガーは険しい声でそう言っていたが、それを冷たい判断とは受け取らず、正しい指示だと納得できた遼だったから、この程度の事態は自分ひとりでなんとかしてみせると、そんな気概も沸き起こっていた。タイヤをパンクさせ、ほとんど同時に電気系統の大半を切断し、スリップするであろうトラックから脱出する。こりゃ、成功したらスタントマンのアルバイトができるな。そんな冗談で気を楽にした遼は異なる力、時量操作を連続して使うために大きく息を吸い込んだ。


  雅戸一等陸佐の命令により、分散する拠点の防衛は放棄された。一時は崩壊していた合同部隊だったが、撤退戦に徹するのであれば迷うことは少なく済むため、しだいに軍団としての機能を取り戻しつつあった。数に勝っていたランカン・ジャクシの部隊は大半が追撃戦に移り、合同部隊はなんとか互角の攻防にまで持ち込むことができ、撤退開始から三十分の段階で、損害も軽微なまま全部隊が合流ポイントとなる滑走路の南側に到着しようとしていた。戦闘が長引けば、不利なのは急襲した側にある。自衛隊と共に撤退をしながら、エミリアは英語で黒い仮面を被った高川にそう説明をした。五匹目の獣人を懐まで引き込み、裏膝を崩してその眉間に体重をたっぷり乗せた膝を叩き込んだ高川は、返り血を仮面に浴びながら、自身の英語力のなさに首を傾げるしかなかった。だが、彼はやがてエミリアの言葉を実感した。一匹の蛙面が小銃を向けてきたが、弾が発射されることがなく投げ捨ててしまったからだ。通常、戦場にて戦闘部隊展開する際、弾薬と燃料の補給部隊が後方に控えるものである。だが、真実の人の異なる力によって基地に出現した獣人たちは、戦いが長期化するにつれ弾薬不足におちいり、次々と自衛隊の射撃の前に内臓をこぼし、羽をばら撒き、泡と化して滑走路を汚していった。それでも日本刀や槍を持ち、白兵戦を仕掛けてくる蛙には、恐怖という感情がないように思える。高川は六匹目の首をへし折りながら、まだまだ修羅は続くと覚悟し、仮面を染めていた血を拭った。

 追撃に参加していなかった僅かな数の獣人たちは、基地施設の破壊活動のため低空を飛んでいた。しかし、その更に上空から、赤い人型が飛び降りてきた。一度は撤退の援護に向かうつもりのまりかだったが、合同部隊の意外な善戦や、陳やエミリアたちの手馴れた戦いぶりを見て、遊撃が必要だと判断したからだった。そして、この転進は正しかった。三匹のチームをガトリング砲で一掃したまりかは、着地と同時に次の敵を探した。
「二十匹ほどが追撃に参加せず、施設への攻撃に散開している!!」
  前方の視界に突如として栗色の後頭部が飛び込み、それが静かに振り返った。まりかはドレスのバイザーを開き、紺色の瞳を直接見つめた。
「ルディ……戦況が把握できてるの?」
「僕にはこの入り組んだ基地施設も爆煙も関係ないからね。そう、僕にとってこの戦場は、ただひたすらの平野に等しい」
  黒いコートを寒風になびかせ、片手にリボルバーを握り締めたリューティガーは、まりかに視線を合わさず、力強くそう言い放った。
「だったら……ナビゲーションを頼める?妨害電波も出てるみたいだから、ドレスのセンサーもバカになっちゃてるのよ」
「わかった……僕の指示通りに動いてくれるのなら……」
「了解よ」
  リューティガーは一瞬だけ頬をぴくりと動かすと、蛙面を探すために目を血走らせた。遼に危険な仕事を任せた以上、高川や岩倉を凄惨な戦場に送り込んだ以上、巻き込んだきっかけの自分は今回の戦いでもっとも戦果を上げなければならない。そのためには、手段を選んでいる余裕などない。神崎まりかとペアを組むのにまだ抵抗はあったが、効率を優先するため、感情を押し殺すリューティガーだった。
  了解と納得の上で連携した二人のサイキは、次々と蛙面の化け物を殺戮していった。この赤い腕が、この鉛弾が、この念動の力が、今から一年前に仲間たちを蹂躙した。傍らでリボルバーを撃ちながら、リューティガーはまりかの戦いから目を離さなかった。彼女は何のゆがみもない。組織を信じ、任務に疑いを持たず、間違いがあったらいつでも責任を取る覚悟で、そしてなによりもあらゆる価値や存在を“守る”ため、純粋な戦いをしている。ヘイゼル・クリアリーはその延長で命を落とした。不幸な事実の原因は神崎まりかにはない。ローダーで銃弾を補給したリューティガーは、まりかに次の指示を出した。「軍ショッピングセンターに三匹向かってる!! 跳ばすからよろしく!!」バイザーを上げたままのまりかは、「いつでもどーぞ!!」と勢いよく返した。


  トラックは直進力を損なわれ、エンジンはストップし、だが勢いは半減もしてくれず管制塔からのコースを滑走路側に大きく逸れたままスリップし続けていた。遼と比留間は上下左右に激しく揺れる運転席の中にいた。もうこうなると脱出するしかない。そう判断した遼は、比留間の腕を掴み、扉から滑走路へ向かって運転席を蹴り出た。まるで、アクション映画のクライマックのようである。比留間を胸に引き寄せながら空中に飛んだ遼は、背後でトラックが横転するのを流れていく景色の中に認めた。背中がうっすらと積もっていた雪を払い、全身に強い痛みが走る。堪らず比留間の身体を放り出してしまった遼は、丸まって滑走路を転がり、接触によって慣性が死んでくれるのに任せるしかなかった。
  薄白くなっていた滑走路をごろごろと転がった遼は、仰向けになったタイミングで両手を広げ、ようやく景色が静止したことに安堵した。視線を流してみると、比留間がうつ伏せに倒れていて、背中が小刻みに震えていた。遥か遠くでトラックは完全に横になっていて、遼が骨折をしておらず、打ち身だけに済んだと気づいた頃に、荷台から大きな爆発が起こった。爆風から身を守るために丸まった遼は、あともう少し脱出のタイミングが遅れていたら、完全に爆死していただろうと戦慄し、自分の判断が正しく賭けにも勝ったと拳を握り締めた。
「比留間!!生きてるか!?」
  冗談交じりにそう叫びながら、耳では比留間の呻き声を聞きながら、遼は身体を起こした。すると、いつの間にか周辺を機動隊員たちに取り囲まれていて、さてどうしたものかと遼は困り果ててしまった。誰か知り合いはいないだろうか、そう思って視線を泳がせていると、包囲の中から迷彩服を着たブロンドの白人女性が現れ、「島守くんね、さっきルディから通信を受けたわ」と流暢な日本語で話しかけてきた。どうやら、根回しは済んでいるようだ。更なる安堵に再び全身の痛みを覚えた遼は、ともかく比留間の様子を診てくれ、事情は自分から説明する。と近づいてきたハリエットに頼んだ。


  午後一時四十分、長い陸戦の勝敗は決した。

 弾薬の切れたランカン・ジャクシたちは最後に突撃を開始し、そのほとんどが射撃によって接近を阻まれたが、潜り抜けた少数は刀を振り、槍を突き立て、蛙面には不似合いな牙で首筋や腹に喰らい付き、血しぶきが雪に交じり、それは近代戦と言うよりは合戦の様相を呈していたが、その最終局面は三十分と続かず、怪物たちは次々と泡と化していった。

 雪は、破壊された車両や瀕死の獣人、合同部隊の死体に降り積もっていった。特に激しい炎と黒煙が二箇所、それは爆発した燃料施設と遼が阻止した爆載トラックの残骸から上がっている。比留間はハリエットに保護され、遼は滑走路でようやく陳たちと合流した。岩倉が右膝を打撲し、高川が脇腹に裂傷を負った以外は大きな怪我もなく、滑走路に打ち付けた際の全身の痛みも段々と引こうとしている。遼は周辺を見渡し、自衛隊員や機動隊員たちが顔色を失い、呆然と疲れ果てていることに気づいた。
「最後の最後で損害が大きかったネ。結局、八百人のうち五体満足に残ったのは三百人ヨ。信じられない損害率ネ」
  血まみれの丸顔を地面からかき集めた雪で拭った陳が、遼たちにそう説明した。二百人近くが戦死し、三百名が救護エリアで呻いているらしい。やってきた健太郎がそう付け加え、滑走路にへたり込んでいた岩倉は大きく息を吐いた。リューティガーと通信機で連絡をとり終えたエミリアは岩倉の隣にしゃがみ、合同部隊が撤収に向けて戦場の後片付けを始めている様を眺めてみた。最初は死体も二人がかりで丁寧にトラックの荷台に積み込まれていたが、しだいに扱いが雑になり、最後の方になると無造作に投げ込まれるようになっていった。ブルドーザーで隅や穴へまとめて片付けられるよりはずっとマシなのだろうが、生気なく淡々と死体を処理していく自衛隊員の横顔は、平時の日本人のそれではないとエミリアは感じた。また、ごく一部だが若い隊員たちが興奮気味に先ほどまでの戦闘の様子を口々にしていた。「俺は二匹やった」「俺は誰それが危機だったのを助けた」「獣人と言っても対抗できない相手じゃない」「次はもっとうまくやる」少数派である元気な者たちは、どうかするとまだ戦い足りないようにも見える。仮面を外した高川は、それは違いますぞと異議を唱えたい気持ちに駆られたが、自分も人のことは言えないと舌打ちをして雪が積もりはじめた滑走路を蹴った。あれは以前の自分だ。実戦というものを経験し、生き延び、かけがえのない経験に興奮してしまった以前の自分だ。彼らもいつか、物事の全てに優先順位をつけ、矜持と誇りで狂気をねじ伏せ、グロテスクな戦場の空気を吸い込んでも咳ひとつせず、そのように慣れていくのだろう。皮肉なことだがFOTのおかげで、自分たちは鍛えられている。気持ちをそこまで明確な事柄として組んでみた途端、高川は軽い眩暈を感じた。

 皮肉なのか?これは。
  幾度にも及ぶ、決着も曖昧な陸戦や海戦が兵士を鍛えている事実が、皮肉なのか?
  数十年も戦いがなく、経験に乏しい我々日本人が獣人と殺し合い、鋼の心を持つことが。
  常に戦いへと気構えられるほど、戦場が身近に感じられるのは、それほど不幸だとは思えない。
  危機は、いつでも襲ってくるのだから。
  我々は、まだまだずっと愚かなのだから。

 高川典之は心の奥に、扉のような存在を感じた。たぶん、近づいて開けば結論が待っているのだろう。だが、それはとりあえず今覗くべきではない。針越里美の小さな瞳がなんとなく浮かんでくる。瞬きするたび、扉は薄く消えていくようだ。悪くない。安心してもいいと思い、彼は両目を閉ざした。

 勝利者は誰なのだろう。遼は岩倉の肩に手を乗せ、担架で運ばれる自衛隊員に目を細めた。獣人たちは全滅した。跡形もなく泡から気化し、この広い飛行場にあって、それは最初からいなかったようにさえ思えてしまうほどだ。それなのに、担架には包帯を巻かれ、身体の一部を失った大人が載せられている。これではまるで、道化が見えない敵と戦い、自ら怪我を負ってしまったかのようだ。
  勝利者であるはずの自分たちはすっかり疲れ果て、それなのにこの場でやることはいくらでも残っている。敵の亡骸もなく、成し遂げた喜びもない、この雪の飛行場で。
  そう、誰も勝っちゃいない。だけど傍観する人々が傷ついた自分たちを見てしまえば、こう思うことだろう。

 いつまで負け続ける。状況という見えない敵に。早く誰かが勝ってくれ。

 そして、人々は最初に見えた勝利者に乗ってしまうのだろう。いや、どうなのか。
  まとまらない考えに、遼は辟易として頭を振った。

 俺は管制塔の崩壊を阻止できた。だけど、これだって勝ちではない。地味でわかり辛い防衛だ。いつまでこんなのろまを重ねていく、今日は理佳の影すら見えないじゃないか。くそったれ!


  10.
「獣人たちは全滅した!!なぜ彼らが我らの自衛隊の手によって殺されなければならない!?独立を支援する素晴らしき獣人を討つのはなんという愚行か!! 本来であれば、自衛隊と獣人は向き合うのではなく、並んで対するべきなのだ!!米軍という占領者たちにぃ!!何度でも言う。この国は民衆の手によって生まれ変わらなければならん!! 新たな代表機関を設立しぃ、それが国論をひとつにしぃ、統制された意思を共有しぃ、占領者たちへ立ち向かうのだぁ!!代表機関は核の運用権を得る!! かつてない市民軍の創設だ!!音羽革命軍はその中心となる!!」
  演説の内容を客観的に見てしまえば、それはあまりにも稚拙でお粗末な妄言でしかなかった。だが、それに対した民衆は熱狂し、うわ言のように「核」だ「市民軍」だとつぶやき、叫び出す者までいた。関名嘉の背後ではつい先ほどまで爆音と銃声が響き、それに怯えて逃げ出してしまう聴衆もいたが、数としてはささやかであり、熱狂する人数が遥かに上回っていた。興奮の要因はスピーカーから流れる暗示を意図した『真実の世界』という奇怪な戦慄の音楽にあったのだが、それを知っていた関係者はヘッドフォンをした藍田長助だけだった。高橋知恵という少女の運転するトラックは、管制塔を破壊できたのだろうか。ゲートからでは中の様子を知ることもできないため、長助は事の顛末をまだわかってはいなかった。
  音羽革命軍として具体的にこの日のテロに関わりたい、多少の損害を被るのは覚悟の上だし、それは仲間の全員が承知している。関名嘉が演説を常に監視しているFOTのエージェントにそう申し出たのは十二月も半ばのことだった。その結果、FOTから提案された作戦は、爆弾を積んだトラックによる自爆特攻テロだった。関名嘉はその計画書を目にしたバーで、「凄すぎて難しい」と早速弱音を吐いてしまった。音羽は車両に爆薬を積み込むのを手伝うだけでいい。トラックは自走させる。エージェントはそう告げたが、関名嘉は首を激しく左右に振り、是が非でも運転は音羽の者がやると訴えたので、エージェントは関名嘉篤という男が分裂症気味であると後に長助に語った。それから数日のうちに、関名嘉はエージェントに次々と要求してきた。それは最初の頼みが次には覆されるといった迷走ぶりで、いかにもテロの素人が懸命に喰らい付こうとする無様な醜態だった。

「運転は二人でやらせる。犠牲者は多い方が大衆の同情を買うし、我々の本気を知らしめられる」「いや、昨日の提案は撤回だ。やはりこのことを仲間に打ち明けるのは難しい。騙す結果になるが、できれば別の任務として仲間には説明し、その結果自爆特攻テロという展開がいい」「二人は無理そうだ。だけど女の子にする。高校生だから大衆へのアッピールは充分過ぎる」
「別の任務の件だが、毒ガス散布というカムフラージュはどうだろう。同志高橋にはガスマスクを付けさせて安心させる」「だめだぁ。ガスマスクなんて疑われる。やはりここは獣人の輸送って事にしたい。獣人を何匹か手配したまえ」「同志高橋はまんまと同意したよ。いや、あいつとのセックスは他より倍疲れなんだが、これも革命のためだからね。私の貴い性を分けてやったということだ」

 要求だけではなく、愚痴と自慢もたっぷりと聞かされてしまった。関名嘉篤を分裂症と言ったのは撤回する。ある機会でエージェントは長助にそう語り、あいつはただの気違いだと言い捨てた。
  まあ、せいぜいうまくやれよ。結果はともかく。心の中でそうつぶやいた長助は、スピーカーの陰から立ち上がると、壇上で熱弁を続ける関名嘉を見上げることなく、聴衆の中に紛れ込んでいった。その様子を目の端に捉えた関名嘉は、FOTからの助っ人である長助があまりにも無愛想な立ち去りぶりだったので、感情を波立たせた。だからつい、まだ確認も出来ていない刺激的で甘美な陰謀を、彼はつい口にしてしまった。
「音羽革命軍の最初の一歩は、本日の軍事行動への参加である!!我は現在こうして皆に熱弁を揮っているが、同志が秘かにトラックで基地に突撃し、特攻を仕掛けたことをここに宣言しよう!! 同志、高橋知恵は自ら殉死を望み、我々の制止を振り切って戦場へと向かったのだ!!そして、彼女は革命の天使となった!!後にそれを証明する映像も公開する!!」
  知恵の特攻は成功したはずだ。そう祈りながら、関名嘉はスタンドマイクから手を離した。案の定、殉死者の事実に聴衆は驚いている。詰襟の仲間たちも驚いている。それはそうだろう、この計画は自分とFOTの者しか知らず、特攻という核心部分については彼女にも内密に進めてきたからだ。まさか批判する者はいないだろう。関名嘉は鋭い眼光で仲間たちを見下ろし、その目には狂気の濁りが浮かんでいた。

 しかし……比留間が朝からおらんな……あいつめ……

 驚き、怯え、緊張する詰襟たちの中に、小柄で痩せた、モヤシのように頼りない少年の姿はなかった。高橋知恵の殉死に一番のショックを受けるとすればおそらく彼であり、その心を支配してしまえば動揺を手早く収拾すると見込んでいた関名嘉は、大きく舌打ちをした。


  やっぱり、『バーティカル・ロール』のホットドッグが一番美味しい。こんな日だから休んでいたかと思っていたのに、まさか営業していたなんて。コンテナの上に腰掛けていたその少女はホットドッグを頬張り、火薬と血の混じった悪臭に顔を顰めた。
「トラックで基地に突撃。特攻。高橋知恵は自ら殉死を望み、戦場へ赴いた」
  聞こえてきたアジテートの内容を、知恵は二度繰り返してつぶやき、ホットドッグを包んでいた紙を丸めて放り投げた。関名嘉篤の背中が壇上で踊っている。ずっと前、横田のフェンスで彼は叫んでいた。「米軍はいらない。出て行ってくれと」今でもそれについてはそうなのだろうけど、そんなことはどうでもいい。やはり、彼は私を犠牲にするつもりでセックスをした。あんな下手糞で乱暴なのが、褒美だと勘違いしている下衆野郎だ。少女はサイズも大きすぎる白いコートの袖を軽く引っ張り、MPの死体が眼下に転がっているのに気づいた。この第二ゲートでも戦いはあった。獣人たちは警備兵を次々と殺し、だからあの下衆は呑気に踊っていられるし、自分とてゲートの内側でこうしてホットドッグを楽しんでいられる。勝利したはずの獣人も結局は全滅し、MPの死体から少し離れた用水溝に、蛙面の化け物がうつ伏せになって倒れていた。背中が激しく上下しているところを見ると、まだ死んではいないらしい。傍らには日本刀と突撃銃が落ちている。
「トラックで基地に突撃。特攻。高橋知恵は自ら殉死を望み、戦場へ赴いた」
  もう一度そうつぶやいた知恵は、ブーツを履いた足でコンテナから地面へ飛び降りた。高さはそれなりだったため、雪はあまりクッションになってくれない。膝が軋むし足の裏も激痛が走る。なんとかよじ登って特等席を確保したのに、なんとなくもったいない。そう思いながらも尻を払った少女は、ゆっくりと用水溝へ向かった。

 口の中のホットドッグは、ソーセージが最後の欠片となっていた。この欠片はなんだろう。うん、これは仏のようなものだ。挟んでいたパンよりもっと前、この豚は肉になって仏になっちゃったんだ。それを奥歯ですり潰してみる。やかな。やな応えかな。仏はやかな。やだよね。うん。

 マシンガンなんて無理。それにあんまりかっこよくない。やっぱりここは刀かな。

 知恵は落ちていたそれを拾い上げてみた。ずしりとした手応えが肘と手首だけでなく、肩と首にまで届いてくる。

 なんて重たいの。
  人を斬るためだもの。
  だから重いのね。
  人を仏にしてしまうのだから。重いのね。これでも命よりは軽いのかな。

 小さな目を思い切り見開いた知恵は、思い切って刀を一振りした。切っ先が雪を裂き、地面に触れるのと同時に金属とアスファルトのぶつかり合う甲高さが煌めいた。

 いーや、あの下衆野郎の命は軽いね。あいつは仏なんかになれねーっス。もうあいつはエンゲルスの『反デューリング論』なんて、一文たりとも憶えちゃいねぇっス。


「この戦いは始まりに過ぎない!!音羽革命軍は、いつでも諸君らの参加を受け付けている!!市民軍の一員として、核と銃を手に戦おうではないか!!」
  関名嘉は演説をそうしめくくると、仲間に音楽のボリュームアップを指で合図した。不快な奏ではより強い波で聴衆を熱狂させ、参加の受け付け業務をするために名簿を手にしていたスタッフの周りには、人だかりができようとしていた。まずは成功だ。そう確信した関名嘉は壇の下から伸びてきたタオルを受け取り、汗を拭った。

 起てうえたる者よ 今ぞ日は近し
  さめよ我がはらから 暁は来ぬ
  暴虐の鎖たつ日 旗は血に燃えて
  海をへだてつ我等 かいな結びゆく

 勇壮で、勢いがあり、奮い立たせるような歌声が、臙脂色の背中を撫でた。その歌声がなぜ聞こえたのだろう。これほど大音量の『真実の世界』が流れ、聴衆の叫び声が響き、基地の中からはサイレンも漏れてきているのに。確かによく通る女性の大きな声だが、なぜこうもはっきりと聞き取れてしまう。関名嘉は不思議で仕方がなかった。

 いざ戦わんいざ ふるい起ていざ
  あゝインターナショナル 我等がもの
  いざ戦わんいざ ふるい起ていざ
  あゝインターナショナル 我等がもの

 そうか、これは“アレ”だ。何度も歌ったことのあるそれだから、耳なじみのあるそれだから、聴覚が無意識のうちに拾ってしまうのだ。しかし、どんな女が歌っている。いま最も不似合いなこの歌を。関名嘉は思わずタオルを壇上に落としてしまったが、それを拾うことなく背を曲げたまま振り返った。
  雪の中を、白いコートの少女がゆっくりと歩いてくる。黒いベレー帽を被り、ブーツを履き、中は黒いワンピースで、正面に大きなリボンが揺れていた。髪は黒く長く、白い顔は頬もこけ、目は落ち窪んでいたが、確かな光を宿していた。歌声はその少女からだった。あんなに痩せて、肩のラインだってまったく力というものを感じさせないのに、まるでオペラ歌手のようなしっかりとした“歌唱”だ。関名嘉は「なんで」と裏返った声でつぶやき、かつてのソビエト国歌を高らかに歌う高橋知恵の右手に、日本刀が握り締められているとようやく気づいた。

 聞け我らが雄叫び 天地轟きて
  屍越ゆる我が旗 行く手を守る
  圧制の壁破りて 固き我が腕
  今ぞ高く掲げん わが勝利の旗

 いざ戦わんいざ ふるい起ていざ
  あゝインターナショナル 我等がもの
  いざ戦わんいざ ふるい起ていざ
  あゝインターナショナル 我等がもの

 第二ゲートからやってきた知恵は、革命歌を歌い終える頃には狼狽する壇上の関名嘉まであと三メートルの距離まで達していた。音羽の仲間たちは参加希望の人々に囲まれ、彼女の来訪に気づく者はおらず、関名嘉は知恵との間になにか凍てついたものが渦巻いているように感じてしまった。この冷たさは、彼女の鋭い目から生まれ、右手に握られたあの刀に伝わり、ドライアイスのように発せられている。あれは抑えきれない殺気というやつだ、もちろんそれを向けてくる理由はよくわかってる。どの段階かはわからないが、あいつは計画を知ってトラックから降りたんだ。白いコートは汚れていないし、怪我をしている様子もない。エージェントは、トラックは基地に入るのと同時に遠隔操作になり、時速七十キロで管制塔まで突っ走ると言っていたのだから、無傷でいられるわけがないんだ。
  どうする。説得するか。ああ、やってみせる。
  関名嘉篤は前屈みで両手の指に力を入れ、やってくる知恵を見据えた。猛獣と接する狩人のように、彼は自身の慎重さを総動員して殺意と立ち向かった。その勇気の根源は、彼女との肉体的な結びつきの記憶だった。幾度も繰り返されたあの行為は、常に自分がイニシアチブをとり、するがままの絶対的な支配の象徴だったのだから。手なずけてみせる。この程度のトラブルは凌いでみせる。真実の人だって、こんな修羅場は何度も潜り抜けているはずだ。俺にできないわけがない。「知恵、計画に不備があったようだ。無事でなによりだ」まず、そう言ってみる。ところが関名嘉の口からは嗄れきっていて、間近でも聞き取れないほど僅かな空気の振動しか生み出せなかった。初手の計算外に彼は狼狽し、より強烈な凍てつきを感じた。
「共産主義は人類の理想だ。人間が愚かであるうちはまだ実現できぬ夢だが、だからこそその芽を残し、未来へと託していかなければならない!! あなたはそう言った!! その手段は暴力であってはならない、暴力は憎悪を生み、説得し難い敵を作り出すからだ。抗議の声は強く!!しかし拳は空を突け!!怒りは論理として言葉へ託せ!! 激情の末の暴力は、結局自分自身を滅ぼす!!関名嘉篤、あなたはベッドでそう言った!!この、変節細胞め!!」
  歌と同様の、どこまでも突き抜けるほどの大きく力強い知恵の叫びだった。見えないが確かな圧力に関名嘉は両膝から力を失い、体勢を立て直すために踵へ力を入れたが、その加減が両足ともちぐはぐで、足首の間接は体重を支えきれず、彼は遂に壇上から落ちてしまった。まず肘が地面に激突し、その次に尻を打った。衝撃に舌を噛んでしまい、目の前に火花が散り、激痛で上体を仰け反る。なんという無様な転落か。聴衆はまだほとんど帰らず、入隊志願者が殺到しているというのに。関名嘉は混乱しながら周囲へ視線を泳がせた。何人も注目している。驚いている顔は少なく、金目の物かご馳走が降ってきたかのような、そんなもの欲しそうな目をしているのが大半だった。こいつら、なにを喜んでいる。暗示の音波によって、自分が弁舌の英雄となったことをすっかり忘れていた関名嘉は、近づいてくる知恵に誰も注意を向けないのが不思議であるのと同時に、悔しくて憎くて仕方がなかった。
「死ね!!」
  なんという単純でいて、恐ろしい言葉だろう。そう思った次の瞬間、関名嘉は腹に鋭さと激しい痛みと刃の冷たさを感じた。
「死ね!!」
  二度目の叫びの次に、ブーツで肩を踏みつけられた。腹に刺さっていた刀が抜け、倒れこむように少女の顔が迫り、今度は左胸を突き刺され、腹から噴き出した血が彼女の白いコートを染めているのがスローモーションのように見える。そして三度目は右胸、四度目はまた腹。五度目は腰、六度目を迎える頃、関名嘉の意識はいったん途絶えた。

 いくら刺しても再び起き上がってくるような気がしてならない。だから高橋知恵は「死ね」の叫びを繰り返し、メッタ刺しにするしかなかった。色白の顔はすっかり返り血で紅くなり、抜く際の刀の重さで肘はガタガタに笑っている。生臭さが嗅覚を刺激し、繰り返していくうちにタイミングや要領を掴めてきているのが恐ろしい。けれども知恵は何度も殺した。二度と生き返って偉そうなことが言えないように、甘い嘘をつけないように、肉体の結びつきで誘惑してこないように。そして、なによりも楽しかった心の触れ合いを許さないため、知恵は関名嘉という男を繰り返し殺した。気が付けば引き離され、冷たい地面に顎を押さえつけられていた。この手際のよさは、たぶん、やってきた警察だろう。両手を背中に回され、強い力で固定されているから、ほとんど身動きが取れない。知恵は目の前で仰向けになって倒れている彼が、ピクリとも動かないので安堵した。よかった、目的が達せられて。

 笑っている。焦点が定まらないが、近くだからそれぐらいはわかる。朦朧とした意識にあって、関名嘉は警官たちに組み伏せられる知恵を見た。

 寒い。身体から熱が抜けていくのがよくわかる。十二月だからとか、雪が降っているからとかじゃない。中から寒い。もう俺は死ぬというのに、彼女は嬉しそうに、満足げに笑っている。そんなに殺したかったのか、この俺を。
  そう、彼女が最初にデモに参加したのもここ、横田基地前だった。上気して頬を赤らめ、「米軍に出て行ってくれとか、そんな強く言えるなんて、なんか、なんか凄いことだと思います!!」やっぱり笑顔で言っていた。その夜だ、枝毛がひどいと思ったのは。手触りがイマイチだけど、女子高生とヤレるんだから、まあいいかと、俺も嬉しかった。やばい、もう一度あの手触りが欲しい。やばい、なんて未練だ。やばい、ものすごく悔しい。死にたくねぇ。これからだってのに、死にたくねぇ。まだやりたいことはいくらでもあるのに、死にたく。

 再び、関名嘉篤は意識を失った。今度は永久に。

 なんだろうアレは。なんで彼女が警官たちに捕まってる?あそこで倒れている臙脂色の詰襟姿は、関名嘉さんだ。その傍には刀が落ちてて、つまり。
  比留間圭治は「停めてくれ!!」と叫びながら、ジープから飛び降りた。躓き、転び、二度目になる痛みを感じたが、いまはそれよりも確かめる方が大切で、額の絆創膏が剥がれたのも構わず、彼は起き上がってゲート付近の騒動を凝視した。
「高橋さん!!」
  そう叫んだが、群衆の怒号や悲鳴にかき消され、届きようもなかった。近づくしかない、急停車したジープからハリエットが追いかけてきたのも無視して、比留間は殺害現場へ向かって駆け出した。その姿は高川や岩倉と撤収のため、滑走路から第五ゲートへ向かっていた遼の目にも触れた。
  何度も彼女の名を叫びながら、比留間は駆けた。だが、立ち塞がった警官が正面から掴みかかり、その接近はあえなく阻止されてしまった。非力な比留間は、それならせめて声だけでもと、懸命に「高橋さん!!」と叫び続け、最後にそれは「ともっち」に変わっていた。僕がいる。どうしてそんなことをしてしまったか唯一わかる、僕がいる。僕がいるからどうした? いや、だけど君のことが好きでしょうがない僕が近くまで来ているのを知って欲しい。知ってどうなる?たぶん、気持ちが沈んでいるだろうから、励ますために知ってもらうんだ。だから叫ぶ、「ともっち」と。
  だが、警官越しに見えた少女の横顔には、かすかな笑みが浮かんでいた。それに気づいた途端、比留間は叫ぶのを止め、警官から離れ、その場に尻餅をついてしまった。
「比留間……あれって……」
  駆けてきた遼が、比留間の隣に立ち止まった。彼には一見しただけで状況が把握できず、呆然としている比留間にその説明を求めたが、彼は口をぽかんと開けたまま何も語らず、しばらくすると眉間に皺を寄せ、口を真一文字に閉ざした。
「なにが起きてるんだ……?」
  遼は答えに期待せずそうつぶやき、やってきたハリエットが立ち塞がっていた警官へ職務に戻るよう要請しているのを横目で見た。高校生がゲートの内側からやってきたのだから、警官の彼が根本的な疑問を抱き、問いかけてくるのは時間の問題だったので、ハリエットの機転は遼にとって有り難かったのだが、比留間は知恵を見つめたまま、やりとりを無視し続けていた。

 あんなに嬉しそうなともっちは、知らない。僕は暗くて、ぼうっとしてて、元気がなくって、激しくて、乱暴で、そんなともっちならいくらでも知ってるのに。ついこないだ、切ない悔しさに震えているのを初めて見たばかりなのに。なんでこの後に及んで、彼女は全然知らない横顔を見せるんだ。うん、やっぱりわからない。僕は最初から彼女のことがわからなかった。そして最後まで、わからなかった。うん、最後なんだろう。こうして彼女のことを見て、考えてしまうのは。困ってしまうのは。

 それは楽しくないな。比留間はそう感じていたから、ずっと無言のまま、腹を立てるしかなかった。

 シートをかけられ、担架に乗せられた関名嘉の遺体は、警官たちによって基地の中へ運び込まれていった。救急車が足りず、合同部隊の戦死者と同じ処置をするしかないと判断されたからだった。
  殺害現場には、鞘に入ったままの模造刀が残されていた。増援に到着した警官隊と聴衆が激しくぶつかり合う中、模造刀は踏まれ、折れ曲がり、いくつもの踵やつま先で邪魔にされ、用水路へ落ちていった。

11.
  二〇〇五年もあと六時間で終わろうとしていた。横田基地での陸戦から一夜明けた大晦日の夜、あるマンションの廊下を、一人の少女が歩いていた。肩まで伸ばしたさらさらとした黒髪に、吊り上がった目、手足はすらりと長く、紺色のジャージ姿だったから、一見すると体育の授業を抜け出してきた学生のようにも見える。篠崎若木(しのざき わかぎ)、あと六時間で十三歳を迎える少女には、やっておくべきことがあった。
  祖父の死後、仇の高川典之を倒すため、これまでに何名かの武道家を倒してきた若木だった。つい最近だと四日前に、空手の黒帯だという大学生を二名同時に倒した。アスファルトに側頭部を打ちつけ、更に反対側から全体重を膝に乗せたのだから、おそらくあの二人は死んだだろう。自分でも目に見えて実力が上がっていくのがよくわかる。祖父は生前、「天性を持った者とは、人生において何度か急速に育つ時期がある。それは個人や環境によって大きく異なり、だからこそ幼児期から老いても実戦からは遠ざかれんのだ」と言っていた。自分の成長期は今に違いない。これは環境や状況がそうさせているのだろうか。考えてみたところで難しいことはわからないが、一戦ごとに倍は強い敵と戦えるだけの自信は確かだった。二人の黒帯の倍となると、これはもう世間にそうそういるものではない。だから帰ってきた。八年間を過ごしたこの多摩川沿いのマンションに。これからしばらくは、ここで修行を積むことにしよう。風雨は凌げるし、食糧の備蓄もある。慣れた部屋は落ち着くし、風呂もあるし、警察の目も届かないはずだ。そして、なによりも適度な修行相手が山ほどここには住んでいる。暗殺プロフェッショナル・工作員・異常者・そして獣人。祖父から油断ならぬ住人に囲まれている、用心は怠るなと教え込まれ、天井から禍々しい呻き声を聞いたこともある。絶好だ。思わずこぼれそうになった笑みを堪え、若木は自分が住んでいる部屋の、隣の扉の前で立ち止まった。
「篠崎若木が帰ってきた。誰かおらぬか」
  古風な言い回しに、鉄製の扉が微かに揺れた。殺気と疑心の混ざった鋭い気配が扉越しでもよくわかる。若木は息を吸い込み、握っていた拳を開いた。
「何の用だ……?」
  男の声と同時に、扉が少しだけ開いた。チェーンがかけられていないことを瞬時に確認した若木は、長い足を隙間に滑らせ、肩をねじ込み、反対の足で前方の壁を蹴り、強引に部屋の中へ入った。電灯もつけられていない真っ暗な部屋で、男と少女の息遣いが交錯した。男は腕に直接装着していた長い刃を突き出し、それを左の手の甲で弾いた若木は、右の人差し指と中指で包帯が巻かれていた男の鼻筋を下から撫で、爪で眼球を掬い出した。背後からもうひとつの気配が迫っていたが、とうに気づいていた若木は瞬きひとつせず、視力を失った男の右腕を掴んで壁まで押し込み、「違う」とつぶやき振り返った。迫ってきた者の両腕には、やはり長い刃物が装着されていた。もう一度「違う」と口にした若木に二つの刃が交差しながら迫ってきたが、少女は上体を僅かに反らしただけで凶刃から逃れ、掴んだままだっだ背後の男の腕を引き、身体の軌跡が延びきっていた前方の男の腕を残った右手で掴み、自分の懐に引き寄せた。後方と前方から、二つの刃が迫る結果となったが、鮮やかで柔らかな挙止で身体を沈み込ませた若木は、頭上で刃を前後にすれ違わせ、双方の切っ先は相手の心臓を的確に貫かされてしまった。予期せぬ同士討ちに眼球を失った方は呻き声を漏らし、もう片方は「うそだろ」とつぶやき、ほどなく両者は絶命した。
「違う」
  瞬く間に二人の元工作員を倒した若木だったが、口にしたのは三度目のそれだった。
  予定では、正面から挨拶し、戦いの意図を伝え、相手が納得したうえで実戦を開始するはずだったのに、扉が開いた途端、やってしまえと全身が命じ、結果的に奇襲となってしまった。これでは鍛錬にはならないではないか。不利になるほどのハンデを負って、ギリギリの攻防をしてこそ、次のレベルに上がれるはずなのに。敵が強いと感じたから、恐怖に負けてしまったから、最善を尽くしてしまったのか。まだまだ弱い。工作員程度でこの体たらくでは、高川典之には勝てない。
  年越し蕎麦は諦めよう。次の敵を探さなければ。頭上からすっかり返り血を浴びてしまった篠崎若木は、泡と化していく二人を一瞥すると、隣の部屋に向かうべく廊下へと戻って行った。


「な、なんでルディがいるわけ?」
  コンビニエンスストアの冷凍商品ケースの前で、ジャケットコート姿の神崎はるみは栗色の髪を指してそう言った。
「なんでって、買い物だ」
  素っ気無くそう返したリューティガーは、冷凍ケースから徳用のアイスクリームを取り出し、カゴに入れた。
「だって、わたしここをよく使うのに、見たことなかったのに」
  尚も驚きが消えないはるみに、リューティガーは事情を小声で説明した。今日、陳とエミリアは鞍馬山に偵察任務のため不在で、食事は自分が作ることになっている。健太郎に買い出しは望めるはずもなく、医師のメッセマーはなにかと理由をつけ、お使いを引き受けてくれない。だから仕方なく自分が珍しくやってきたと。最後に、「だいたい近所なんだから、そんなに驚かなくてもいいだろ」と彼は口先を尖らせて付け加えた。
「まー、そーだけど……そーだよね、ご近所さんだもんね」
  はるみは棚から蕎麦つゆのパックを手に取り、リューティガーが何を買うのか観察してみた。カップラーメンにカロリースティック、牛乳におにぎりに栄養ドリンク剤にから揚げ、最後に経済誌をカゴに放り込んだのを確認したはるみは「わびしい大晦日だね」と忠告した。
「いいだろ。晦日蕎麦には興味がないし、今日はあまり食欲がないんだ」
「やっぱり……昨日は大変だったんだよね。まだ疲れてる?」
  覗き込んできたはるみが心配そうに表情を暗くしていたため、リューティガーはそれに応じてため息を漏らした。
「この調子じゃ、自衛隊と機動隊の全員が実戦経験を積んでしまうだろうな。人を殺したことのない兵がいないってぐらいに」
「うん……テレビでも自衛隊の増強をするって官房長官が言ってたらしいし、志願者も増えてるって」
「憲法もなにもあったもんじゃないな」
「事実とか現実が迫ってるから、仕方がないって感じかな」
「アル兄さんは、案外本気で独立を要求して、そのお膳立てをしてるのかもな」
  苦笑いでそう言ったリューティガーに、はるみ「え、本気なんでしょ?」と意外そうに返した。二人はレジで会計を済ませて外に出ると、なんとなく車道に視線を移した。
「本気……か……お前にはそう感じられるのか?」
  「お前」という呼び方に戸惑ったものの、はるみは小さく頷き返した。
「そう考えれば辻褄が合うような気がするんだ。今度の真実の人って、なんかわたし達日本人にとんでもないおせっかいをしてるって感じ」
  はるみのその言葉に、リューティガーは紺色の目を思い切り見開き、彼女の横顔を見つめた。口元はむずむずと歪んでしまい、自分でもわからない感情の波が押し寄せているのを感じた彼は、「そうかもな」と震えた声でつぶやいた。
「あれ、二人で買い物? そう言えばルディってこの近所だったものね」
  そんな言葉をかけられたリューティガーとはるみが振り返ると、そこには官製の防寒ジャケットを着込み、黄色のマフラーを巻いたまりかの姿があった。
「まりか姉……」
「なんとか紅白には間に合ったかな?もうすっかり暗くなっちゃったけど」
  夜空を見上げて明るくそう言ったまりかは、はるみの肩をなんとなく叩いた。
「昨日は……どうも」
  低くくぐもった声でリューティガーは挨拶し、まりかは笑みで答えた。
「目と足が足りないって痛感してたから、君との連携はすっごく嬉しい。これからもよろしくね」
  肩から手を離したまりかは、リューティガーに握手を求めた。彼は少しだけ躊躇ったが、コンビニ袋を左に持ち替え、それに応じた。
「妹さんは、鋭いな。いまちょうど真実の人の目論みについて話したんだけど、少ない情報でよく判断してると思ったよ」
「そ、そうなの?」
  まりかはリューティガーの論評に驚くと、はるみに首を傾げた。
「ど、どーなんだろ」
  少し困った様子ではるみは曖昧な返事をした。なぜ妹は照れているのだろう。姉がそんな疑問を抱いた直後、握っていた手の感覚が失われ、疾風が神崎姉妹に吹きつけた。なにもこんなに唐突に帰らなくてもいいのに。はるみは跳んでいった彼に呆れ、つまらなそうな顔のまま、「お母さん、大晦日に伝説だよ。年越し蕎麦のおつゆ買い忘れてたって」とまりかに言った。


  代々木よりもっと深い夜、真っ暗な湖はどこまでも静かだった。ここではまだ新年まで二十三時間もあり、十二月三十一日になったばかりだった。カリフォルニア州パームスプリングス市はアメリカでも古くからあるリゾート地で、成功した裕福な高齢者やハリウッドスターがバケーションのために建てた別荘が点在していたが、その別荘は湖畔にありながら高く分厚い塀に囲まれていた。塀の向こう側の庭で、古く使い込まれたロッキングチェアが小さく揺れ、座っていた男からは余裕の笑みが浮かんでいた。
  アーロン・シャマス。賢人同盟のもと実戦部隊指揮官であり、イスラエル陸軍の将校だったかれは、まずは前者に解任され、その後、後者を退役し、この湖畔の別荘を買い、塀をはじめてとした警備システムを用意し、一ヵ月前から移り住んでいた。イスラエル本国に残してきた家族も年明けには呼び寄せる予定で、待望のグリーンカードも独自の裏ルートでじきに入手できる。もちろん、このリゾート地で余りある余生を無為に過ごすつもりはない。戦略に戦術の才を買ってくれる組織をいずれは見つけ、何万という人間の上に立ち、世界地図にあらゆるメモを書き込む日々を取り戻すつもりだ。
  あの男、この俺の人生を滅茶苦茶にしてくれた三代目は、日本に対して壮大な要求をした。そう、それでいい。要求のスケールが大きいほど、様々な国や組織が才能を欲する。再び対決した暁には今度こそ遅れはとらん。聞くところによると、この米国を拠点とする組織、「Blood andFlesh」では空間跳躍を防ぐ装置が開発され、CIAのエージェントが日本で稼動実験をしているらしい。残念ながら成果は出ていないらしいが、かなり面白そうなおもちゃじゃないか。あの白髪とやりあうにはうってつけだ。もっともあとしばらくは休もう。英気を養い、策を練り、雌伏の時を過ごし、“次”に備える。
「そうとも備えてみせるさ」
  ロッキングチェアを大きく揺らしたアーロンもと中佐は、引き戻されるのと同時にふてぶてしく笑みを浮かべた。そんな彼の浅黒い額を、疾風が吹き付けた。
「なんだと!?」
  二刀のアーロンとまで呼ばれた彼だったから、突発事項に対する反応は瞬時だった。アーロンは腰から拳銃を引き抜こうと右手を肘掛けから離した。だが、銃口を向ける直前に彼の手から拳銃は消え去っていた。
「な、なんとぉ!?」
  こんなことができるのはそれほどいない。目の前で揺れる栗色の髪に歯軋りしたアーロンだったが、反対に突きつけられたリボルバーの銃口にその挙動は停まり、右手を再び肘掛けに戻すしかなかった。
「な、なぜお前がここに……リューティガー真錠」
「罪に報いろ。アーロン・シャマス。荒野のサルベシカをはじめ十名。お前の愚策の犠牲になったことは明らかだ」
  抑揚もなく、淡々とした口調が不気味だった。幼い頃からこの異能者とは接してきたが、これほどの冷たさを感じたことがない中佐は、「なぜ今更。そしてお前が」と返した。
「うやむやの不問は同盟のパターンだが、僕には個人的な憎悪がある。その清算をしなければ、この先が望めないのでね」
「し、しかし俺を殺しても無意味だぞ」
「いいや。昨日もひどい殺戮の中に僕はいた。僕が大嫌いで認めたくもないアイツと共闘して、もうすっかりプライドも傷つけられてしまっているその頃、お前は揺り椅子でのうのうと過ごしているのだから、度し難いと腹も立つ。これじゃ明日の偵察だって、満足にできない」
「ならどうして、もっと早くにこうしない!?」
「うやむやにしておくのが大人だと思っていたからだ。自分の至らなさと戒めにし、そうすることが死んでいった住人への供養になると本気で信じていた」
「なぜそう思い続けられない!?」
「まだ僕はガキで、しばらく大人にはなれないと気づいたからだ。僕はこないだ悔しくてある女の胸で泣いてしまった。さっきもそいつとかりそめの馴れ合いをしてきたばかりだ。そして、それもまぁいいかと開き直れてしまうほど、僕はまだみっともない子供なんだ」
  アーロンには、リューティガーの淡々とした宣言の意味がとうとう理解できなくなってしまった。だがはっきりとわかる。もうじき自分は殺される。死なないための戦略を練らなければ。
  銃声が湖畔に響いた。その直前、十八通りの対処法を思いついたアーロン・シャマスだったが、それを発揮する機会が訪れることはなく、全体重をロッキングチェアにだらしなく預けた遺体に、女物のネックレスが置かれていた。


  家に帰れば、母は猛犬に接するように怯え、父は無視を決め込み、そんなどうしようもないほど冷たい両親が待っている。「もう帰っていい」自業自得とわかっていても大人の言葉がなんと辛く感じられることか。取調室から、比留間圭治は元気なく廊下へと出た。昨日は結局あの金髪の外人に再びジープに乗せられ、基地の一番近所になるこの福生警察署に移送され、あまり美人ではない婦警に応急手当をされ、「また応急ですか? ちゃんとした病院で手当したいんですけど」と毒づいたら初老の刑事に「運動家のクセに贅沢を言うな」と怒鳴られ、一枚の毛布を渡され、泥酔者保護用のいわゆる“トラ箱”と俗称される雑居房に入れられ、デモの検挙で押し込められていた野次馬たちの愚痴にロクに眠れず、朝からこの十八時まで取り調べを受ける羽目になってしまった。爆載したトラックで管制塔に突っ込もうとしたのだから、もう何泊かここで過ごすのだろう、少年院は免れないだろうと覚悟していた比留間だったが、取り調べの担当である若い刑事は「お前はデモを煽動した音羽の一員だな」とわからない事を切り出し、そちらは心当たりがないと反論したところ、「そういうことになってるんだ。お前をここに突き出したアメちゃんがそういうことにしとけって。頼むから真実とやらは口にするなよ。こっちは昨日の処理で正直忙しいんだ」とまくし立てられ、何時間も相槌を打つ退屈なやりとりに終始してしまった。
  なんとなくわかる。たぶん島守があの白人の美人に根回したんだ。あいつはそれができる立場なんだ。だから蜷河理佳とも付き合ってたんだ。比留間は事情を彼なりに理解していた。
「迎えが来てるぞ。一階に」
  階段からやってきた警官の言葉に、比留間は頷かず「う」と漏らすばかりだった。迎えにくるような両親ではない。いくらお咎めなしの結果だったにしろ、警察署で一泊したような自分に会いに来る二人じゃない。比留間は誰が来ているか、確かな予測を立てると重い足取りで階段へ向かった。途中、ある扉から歌声が聞こえてきた。歌詞はよくわからないが、女の小さな声だ。ひどく頼りなく、陰気な声だと比留間は思った。誰だろう。少し気にもなったがすぐにどうでもよくなり、足を速めて階段を下った。
「よう」
  一階の出口で待っていたのは、予測通りの同級生だった。ヘルメットを小脇に抱え、黒いジャケット姿をした彼の挨拶に返事もせず、比留間は横を向き、カウンターに載っていた自分の荷物である白い詰襟を受け取った。これを着る気にはなれないが、もう夜だからそうも言ってられないだろう。比留間はなにやら悔しくなってしまい、詰襟を強く抱え込んだ。
「なぜ来た。お前がなぜ」
  尋ねたのが、比留間は自分でも不思議だった。たぶん嗚咽が漏れそうになるのをごまかすためだろう。そう気づいた頃、島守遼から「俺には確かめる必要があるからだ」と返事がきた。
「確かめる?なにを?」
「いや……」
  比留間が真っ直ぐ見つめてきたため、遼は口ごもった。出来事に打ちのめされ、すっかりパニックに陥ったままだったら、やるべきことはある。岩倉に連絡し、すぐに“ガンちゃんフィルタ”を使って記憶を消しておく必要があった。しかし、目に力がある。パニックどころか、以前の比留間からは感じられなかった、静かな怒りが秘められた力の色だ。これなら触れて確かめる必要もないだろう。遼にはわかった。かつて比留間と同様に、日常の一線を強引に越えさせられた彼だから、よくわかった。この色は同じだ。高川や岩倉、そしてはるみにも感じたことのある色だ。
「これから、どうするんだ? 音羽の連中は、みんな捕まったらしいぞ」
「取り調べの刑事から聞いたよ。幹部はみんな、テロの煽動罪で逮捕だろ?下っ端も僕のように取り調べられて……ああ、そうだ」
  比留間は思い出したかのように顎を上げた。一応、礼を言っておく必要があった。入学したときから気に食わない奴だと嫌っていたが、命の恩人なのは事実だ。どうやって助手席に現れたのかは気になるが、まずは礼を言うか謝るかしないと。
  だが、遼の目を見た比留間は、なにやら悔しさを覚えた。ちゃんとしたことをすればもっと立派になれるとわかっているのに、どうしてもそうできない。演劇部に入って芝居を齧りだしてから、気に食わなさが倍増したのをよく憶えている。ぐうたらでしょうもない奴だったはずなのに、なんとなく自分の道を進んでいるように見えて、悔しくて仕方なかったのも記憶に新しい。大嫌いだ、島守遼という奴が。比留間は小さく舌打ちをし、扉から外に出て行き、遼もその後を追った。
  やはり寒い。だけどこのだぶついた詰襟は着たくない。仕方なく、比留間は肩にそれを羽織ることにした。
「僕の青春は終わった」
  歩道に出た比留間は遼に背中を向けたまま、なんとなくそうつぶやいた。
「そんなこと言うなよ」
  遼はすぐにそう返した。返事があまりにも早かったため、比留間の悔しさが再び燃え上がった。歩行者用の信号が二度変わるほどの間、彼の悔しさは全身にまで行き渡り、あちこちがしびれて目に見えない痙攣を繰り返していた。そして、比留間圭治はわかってしまった。なぜ島守遼が、「そんなこと言うなよ」などと意見したのかを。なぜ次の言葉を背後で待ち続けているのかを。痙攣は止み、悔しさが諦めに癒やされる。

「そうだな」

 比留間は正面を向いたまま静かに力強く、そう応えた。遼は二度細かく頷き、抱えていたヘルメットを手に持った。二人は背中を向け合い、大晦日の夜をそれぞれの方角へと別れていった。

「関名嘉篤は死んだ!?なぜだ!?彼は革命の父になるはずだった。しかし敢えて言おう、異性にだらしがなかったと。音羽会議は壊滅し、若人のエナジーは行き場をなくそうとしている。だが、工藤覚がここに宣言する。革命の意思は我こそが引き継ぐ。そして大願成就の暁には、偉大なる真崎実のもとに召されるだろう!!」

 スポーツ狩りの青年が、数名ほどの仲間と共に、警察署の塀の前でマイクを手にそう叫んでいた。足を止め、聴いているのは買い物帰りの老婆がひとりと男子小学生が二人。寂しい限りの人数だが、青年は構わず熱弁を続け、比留間はその前を通りすぎた。
  どこかで聞いたような、引用ばかりのひどい演説だ。冷静に対していれば、関名嘉のもそう感じたことだろう。音羽会議はもう終わってしまったが、これからこいつのような模倣者は次々と出てくる。女に刺された点はみっともないが、志半ばで倒れた先人というものは、模倣者にとってどうとでも解釈ができ、それぞれの理想像をでっち上げるのに好都合だからだ。いや、もうどうだっていい。少なくとも僕は継がない。

 背中を丸め、比留間圭治は雪が残る道を進んでいった。羽織っていた白い詰襟が風に煽られ、泥濘に落ちた。たった一瞥しただけで拾い上げることもなく、比留間は家路を急ぐため、駆け出した。


「つまりだなぁ。動機はこうかな?関名嘉篤は君を騙し、殺し、その死を利用しようとした。それがどうしても許せなかった」
  六畳ほどの取調室で、鼠色のスーツ姿に丸い顔の男がよく通る声でそう言い、彼は黒縁の丸めがねをくいっと上げた。机を挟んだ向かい側には、黒のワンピースを着た白い肌の少女が静かに佇み、彼女は何も応えぬまま、じっと机上に視線を落としていた。
「それともイデオロギー上の対立か?つまりまぁ、内ゲバってやつ?もともと非武装反戦をスローガンにしていたのに、市民軍だの革命だの言い出した関名嘉篤が度し難く思い、粛清を実行した? はは、まぁ、いったいいつの時代だよって感じだがね」
  右肘を机に付けた男は、目の前の少女、高橋知恵の変化をじっと観察した。彼、尾方哲昭はこうした取り調べや聞き込みを得意としたF資本対策班の捜査官であり、大晦日の今日も朝から本庁で音羽会議の幹部たちの取り調べに立ち会い、二時間ほど前からはここ、福生警察署にて関名嘉篤殺害犯、高橋知恵の聴取に参加していた。役職上、当初は見ているだけの尾方だったが、知恵が黙秘を重ねるばかりで、担当刑事が「年越しかよ」とぼやき出したため、つい実務を買って出てしまった。しかし、これは手ごわい。十数年に亘る民間人への聴取歴から、尾方は知恵がここで動機を口にすることはないだろうと確信しつつあり、同時にやりがいも感じていた。
「黙ってるとな、イエス・ノーで答えてもらうことになるぞ。それも嫌なら、俺だって怒鳴るしかない。それでも意思を表さないんなら、君の勝ちってやつだ。まぁ、勝ちって言ってもここだけ今だけの話で、家に帰れるわけじゃあない。送致になって少年院行きは確実だ。中等になるか特少になるかは微妙だが……間違いなく成人式は院で迎えることになる。まぁだから、ぶっちゃけ好きにしてくれって感じだけどな」
  砕けた口調は相手が女子高生だったからではなく、尾方の個性だった。彼は相変わらず返事をしてくれない知恵を上目遣いで見て、それにしてもピクリとも動かない、まるで彫像のようだと頬を引き攣らせた。
「音羽会議は全員が検挙されたんだが……少年Aな、君がトラックの運転を頼んだ比留間って子……ついさっき取り調べが終わって、家に帰ったらしいぞ」
  知恵と比留間が同級生なのは調書で知っていた尾方だったが、二人がどこまで親密な関係なのかまではわからず、なんとなく探るための一言だった。
  パイプ椅子が僅かに引かれ、床と擦れ合う微かな音が取調室に鳴った。知恵の反応はどこまでも小さかったが、これまでの無と比べれば大きすぎた。尾方は身を乗り出し、膝に手を乗せ、肩を奮わせる知恵を凝視した。

「あの朝に、あなたはそっと、わたしの心に触れてくれた。優しい吐息、吹くよなくすぐったさで」

 それはスローバラードの歌謡曲だった。尾方は思わず指先でリズムをとりながら、知恵の急激な変化に口元を歪ませた。

「わたしは全然、できちゃいない。しくじったまんまの踊り場で、ただくぐもって、ただうずくまって、たけどあらがって」

 なぜ唐突に歌い出す。壁際で腕を組んでいる、既に立会人と化していた取り調べ担当の刑事は、俯いて歌い続ける知恵に、苦笑いを浮かべて何度も首を傾げた。尾方は耳を傾けながら、この奇行は証言へ繋がる糸口にならないだろうと悟り、この部屋に来てからはじめて知恵から視線を外した。歌はしばらく続き、一番の全てが終わったところで途絶えた。

 二番の出だしがわからない。CDやデータを持っていたわけじゃなく、テレビの歌番組やラジオで耳にして、なぜか覚えていた歌だったから。知恵は肩を震わせながら口ごもり、瞬きを繰り返した。
「二番か?二番の出だしはえっと……」
  尾方は天井を見上げ、歌詞を思い出そうとした。特に歌謡曲好きではなかったが、知恵の口ずさむそれは聞き込みが立て込んだ時期にちょうど流行したバラードで、なにかと耳にする機会が多かった尾方はほとんどの歌詞を暗記していた。だが、知恵は「やだ」とつぶやき、俯いたまま右の掌を突き出した。
「別に……いい……思い出さなくても」
  初めての言葉に、尾方は視線を正面に戻した。
「いいのか、だってこれから退屈だぞ。それに思い出せないと気持ち悪いもんだろ」
  そんな尾方の意見に、知恵は右手を下ろし、顎をわからないほど僅かに右へ流した。

 わからなくてもいい。思い出せなくとも構わない。もう、これを歌い終わってしまったらなにもなくなってしまうから。歌い終わったら、わたしも終わってしまいそうだから。構わない。このままずっと、止めてしまおう。もう、なにもないのだし。

 高橋知恵は、それでも下唇を軽く噛んでいたのに気づいてしまった。痛いと感じてしまうのが、何故だか嬉しく、寂しく、なにもないわけではないことだけがわかってしまった。

第三十一話「音羽革命軍」おわり

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