真実の世界2d 遼とルディ
第十六話「禁じられたちから」
1.
 胸に手をあて、そのかすかな揺れを確かめることから、椿梢(つばき こずえ)の一日は始まる。
 動いてくれている。この鼓動があるからこそ、生きている。普通の人間には当たり前のことでも、彼女にとってそれは、常に心のどこかに留めておかなければいけない心配事である。
 パジャマのまま洗面所に向かった彼女は顔を洗い、大きな額が洗顔剤によりいつもの艶を取り戻していた。
 激しい運動を医師から禁じられ、体育の授業にも参加できず、ともすれば大人しくなりすぎてしまい、元気というものすら欠けてしまうような、そんな気にもなる。
 だから前髪は下ろしたくなかったし、中学生のころ男子に、「デこずえ」などというありがたくないあだ名を付けられた際も、「せめて、デこずえちゃんにして欲しいなぁ」と明るく切り返し、結局、「椿さん」で通ったこともあった。
 昨年の六月から短くした髪は、我ながらよく似合っていると思う。もうすぐ高校二年になるが、今でもよく中学一年生に間違えられるほどの童顔であり、それを際立たせているような気もするが、転入生の花枝幹弥(はなえだ みきや)などは、「なんかこう、梢ちゃんは妹系って感じだよな」と、おそらく褒めてくれているのだろうし、昼休みに弁当を一緒に食べるリューティガー真錠(しんじょう)は、「椿さんは可愛いと思いますよ」と、こちらは明らかに賛美してくれている。
 まずまずの高校生活だろう。歯を磨き、部屋に戻って制服に着替えた彼女は、姿見の前でくるりと身体を回し、「よし」と頷いた。

 台所までやってきた椿梢は、朝食の用意された食卓につき、まずは茶碗の脇に置かれた七粒の錠剤を水で飲んだ。
 食事の前に、この薬を飲むことが彼女の“きまり”になっている。食後でもかまわず、むしろその方が効果は高いのだが、母の作る美味しい朝食を味わった後、錠剤で喉をくすぐらせるのは不快であり、せめて嫌なことは先に済ませてしまいたいという、それは少女のささやかなる抵抗であった。
「今日はルディ君の分も作っていくんでしょ? 台所空けとくから、ご自由にどーぞ」
 味噌汁を運んできた母が、娘にそう言った。少女は大きな瞳を輝かせ、「ありがとうママ」と返し、箸を手にした。
「そのルディってのはさ、いろいろとこう、うるさく言ってきやしないか? やれ時間厳守だとか、やれ予定通りに行動しろだとか」
 焼き魚を解しながら、ネクタイにワイシャツ姿の父が尋ねた。
「ううん。ルディは細かいこととか言わないよ。どうしてパパ?」
「いやなぁ……ドイツ人ってのは、規律と秩序を重んじるんだ。オルドヌング・ムス・ザインと言ってな、“秩序があらねばならぬ”ってのが、あいつらの決まり文句なんだぞ」
「ハーフだし……ルディは小さい頃から外国で暮らすことが多くって、ドイツでの思い出も少ないって言ってたし」
 娘の説明に、対座する父は何度か頷き、「なるほど」と低い声でつぶやいた。

 朝食の後、二人分の弁当を作った椿梢は玄関からマンションの共同スペースである廊下に出た。ここは自由が丘の賃貸マンションであり、一部上場企業の商社で課長職をしている父ならば、本来は郊外に一軒家を購入していてもおかしくはない。
 エレベーターに向かう途中、椿梢は申し訳ないと思った。自分の難病さえなければ、父や母の選択肢はもっと広がっていたはずである。
 普通高校になど通わず、家で通信教育を受け、大検を目指すという両親の提案に従っていれば、二人の心配もずっと減っていたはずである。
 生まれつきの、どうしようもない問題と、それに起因する自分の我が儘と。
 本当に、身勝手な娘だと思う。だからときどき、ひどく申し訳ないと思える。
 父も母も、今では納得してくれている。普通の子たちと同じように過ごしている自分に、喜んでいるとさえ思えるときがある。

 けど、心配なんだよね。それは間違いないんだ……

 額に真冬の冷たさを感じながら、椿梢は小さな愁いにため息をついた。


「随分……少ないな……」
 微弱に揺れる甲板の上で、リューティガー真錠は足元に置かれたノートPCと黒い仮面を眺め、正直にそう漏らした。
「注文は確かに受けた。けど仕入れを拒否されたんだ、同盟は申請の一部を却下するって……」
 隣に立つ、小型船の船長であり運び屋の李 荷娜(イ ハヌル)が彼の疑問に答えた。
「まぁ……イレギュラーのための申請だから……仕方ないかな……」
 黒い仮面は島守遼(とうもり りょう)にも以前渡したことがある、声紋を変化させ、網膜パターンを隠し、その正体を不明にさせる作戦用のマスクであり、ノートPCも含めて新たに仲間となった、高川典之(たかがわ のりゆき)のための装備である。通信機やナイフ、拳銃、救急キットの申請が却下されたのは辛いが、なんとか代用で間に合わせようとリューティガーは決め、荷娜に現金を手渡した。
「それと……依頼のあった情報だけど……この報告書にまとめておいたから、目を通してくれる?」
 荷娜はA4サイズの書類をリューティガーに手渡した。

 彼女から情報を買うのは、これが初めてである。

「運ぶのはブツだけじゃない。ネットワークは結構あるんでね。ネタだって集めてくるよ」とは出会った際の言葉であるが、敵であるFOTとも取引をしているという荷娜から、まさしくそのFOTに関する情報を購入するのは、命令通りに作戦行動をするという自身の立場からすれば、明らかな越権行為の独自判断である。
「取引相手から聞き出したネタじゃないし、あちらさんだってそんなヘマはやらかさない。外部の人間を使ったから、値は全部で三百万。負けられないけどいいかな?」
 荷娜の言葉に、リューティガーはコートの内ポケットから札束を三つ取り出すことで応えた。
「荷娜さんに危険はないのですか?」
 報酬を受け取った荷娜は、その心配に尖った顎を傾けた。
「いつだって危険よ。もっとも……本来は取引相手のネタは扱わないのが仁義ってやつなんだけどね」
 自分に対しては特別である。言外の意味をリューティガーは理解していたが、彼女の気持ちに応えられるようなゆとりはなく、そうした馴れ合いに応じるには、彼はまだ若すぎた。


 今日は二月の初日であり、現在は朝の十時である。いつもであれば教室にいる時間ではあったが、担任の川島には、従者の陳 師培(チェン・シーペイ)が病欠の連絡を入れているはずである。これからマンションに戻ってゆっくりと情報を検討しよう。リューティガーはアタッシュケースを抱えると、港から倉庫群へと向かい、人気が無いのを確認すると空間へ跳んだ。


 荷娜の報告書は全二十頁であり、読むだけであれば三十分とかからない。しかしそこに記された散文的な情報と、これまでに経験した出来事の繋ぎ方によって、FOTの目的は多様に変化する。
 慎重に、できるだけ希望的観測を含まず。だが、悲観的になりすぎることなく客観的に。幼いころより徹底的に教え込まれた情報に対する検討方法を用いたため、リューティガーは一定の結論を導き出すのに二時間も費やしてしまった。そして、それはあまりにも強烈な内容だった。
「シャワーを浴びます……夕方から遼と高川くんが来ますから、夕飯の準備を……健太郎さんは例の特訓の支度をしておいてください」
 居間からダイニングキッチンへ出てきたリューティガーは、二人の従者に告げ、シャワールームへと向かった。
 彼は青ざめているのではないか。陳は鯰髭をさすり目を眇めて、若き主の背中を見た。

 弾頭だと……そんな物をロシアから買って……どうするつもりだ……!!

 熱いシャワーを頭から浴びながら、リューティガーは達した結論に戦慄していた。
 FOTがここしばらく、与党幹事長と関係を深め、ロシアの南方師団と交渉していた事実は彼自身も把握していた。
 そして荷娜から買った情報を整理してみると、首魁である自称“真実の人(トゥルーマン)”こと、兄のアルフリートが最近、大量のUSドルを動かし、その結果国外で1tもの重量の単弾頭を購入したと結論付けられる。

 FOTは与党の口添えでロシア軍と接触し、大型弾頭を購入した。

 その検討結果に彼は混乱し、意味するものを探ろうと思考を巡らせた。

 まず、この弾頭を日本に向かって使用する可能性が最も高く考えられる。もしそれが核弾頭であれば、脅迫だけでもじゅうぶんな効果を示す。しかし、弾頭だけでは攻撃兵器としての用を成さない。弾頭を着弾させるためにはそれを推進させるロケット部が必要であり、いくら資料を探ってもそれを購入した形跡はない。

 僕なら……弾頭だけで兵器にすることだってできるんだ……

 物質を任意の場所に跳ばすことができる能力は、重量と距離に応じて気力を消耗させる。1tもの単弾頭をどの程度の距離まで跳ばせるかはわからないが、これまでの経験から判断して可能なはずだ。だが、兄にもある同様の力は、“物質を自分の側まで跳ばす、引き寄せる能力”であり、それも見たり知覚できたりする範囲に限られている。
 FOT内に“異なる力”を持った者が別にいる可能性も有り得る。しかし、跳躍の能力者はただでさえ稀少な、いわゆるサイキの中でもごく一部であり、自分と兄を含めて六名しか賢人同盟でも確認されていない。
 そのうち、ただ一名だけが同盟やFOTとは関係外の人間であるが、現在近畿地方で暮らしているはずの彼は、自分と触れているものを同時に跳躍することしかできないと聞いている。
 考慮するべき可能性が急に広がった。情報を得るということは、すなわちそうである。一つの情報を裏づけ、その意味や意図を理解しようと思えば、数倍の別の情報が必要となる。同盟の支援を受けられない越権で、どこまで集めることができるのだろう。荷娜は好意として危険な橋を渡ってくれたが、これからも彼女に任せる続けることは出来ない。
 熱いシャワーが嬉しかった。芯まで熱くなり、かえって心を冷たくすることができる。
 栗色の髪をたっぷり濡らしながら、リューティガーは親指の爪を噛み、次なる手をどう打っていくか、それに意識を集中させていた。

2.
京都北部、鞍馬山の遥か上空に、茶色の翼を広げた彼の姿があった。左右両端の長さは五メートルを超え、この世界に存在する鳥類の中でもこれほど巨大な翼を持つものは存在しなかった。
 しかし、彼は鳥類ではない。生物学上では哺乳類に属し、羽を除いてしまえば、クラシックなゴーグルをつけ、ボマージャケットを着込んだ少年である。
 浅黒い肌、薄く色もくすんだ唇、一見して東南アジア系とわかる彼は、眼下に広がる雪化粧の施された山を、じっと凝視していた。
 翼を植え付けられただけではなく、肺は数倍に、視力は猛禽類並に強化改造が施されていて、地上からではそのシルエットをやっと確認できるほどの高空にいても、彼は山の様子をよく観察することができた。
 少年はジャケットのポケットから携帯電話を取り出した。
「僕です。はばたきです……中丸隊長ですか……? 定期報告を受けに来ました……はい……なるほど……そうですか……ご苦労様です……それではいつもの場所に、今月分を置いていきます……はい……」
 通話を終えた“はばたき”少年は、鞍馬山に向かって滑空を始めた。
 寒気交じりの風が顔に突き刺さり続けたが、彼はかまわず速度を上げ、一際背の高い杉の木を目指した。
 腰ごと両足を前に出し、同時に翼と両手を広げ、空気抵抗を最大にした彼の鼓膜を暴風音が激しく震動させた。
 懐から紐のついた封筒を取り出したはばたきは、それを眼前の杉の枝に結び、巨木であるその幹をブーツで蹴り込み、反動を助けに上空へ舞い上がった。
 あの封筒の中身を、電話の相手はいつものように、ものの数秒で回収してくれるだろう。この鞍馬山一帯を監視する、ある女性の砕けた朗らかな笑みを思い出した彼は顔を綻ばせ、じゅうぶんに上昇すると再び携帯電話を取り出した。
「僕です。はばたきです。真実の人(トゥルーマン)……山はいつも通りの静けさです。以上」
 短い報告を済ませた彼は、腕を組み、全身をロールさせて一度だけ翼をはばたかせ、東の空を目指した。
 早く帰ろう。夜には東京に戻れるはずだ。ライフェ様の制服だって受け取りにいかなければならないし、一緒にカラオケを楽しむ約束もしている。彼女の僕である自分が、組織全体の重要事とは言え、奴隷契約以外の任務に時間を取られるのは納得してはいないだろう。

 ライフェ様は……自由なんだ……僕さえ……側にいれば……自由なんだ……

 急ごう。少年の心は、真っ赤な髪の少女だけに満ちていた。

「そうか……いいぞ……」
 携帯電話が切れたことを確認した白い長髪の青年は、赤い瞳を輝かせてそれを折り畳んだ。
 あぐらというものはどうにも慣れない。床に直接座る経験が少ない彼は、これはこれで面白いかと思いつつ、対面で同じような、だがもっと落ち着いて安定している一人の少年に視線を向けた。
「携帯……電話……?」
 黒い髪、小さい瞳、フード付きの毛皮のコートを着込んだその少年は、モンゴロイド系の、まだ子供の容姿を残したあどけなさだが、見つめてくる目にはしっかりとした力が込められているようであり、青年はこのマンションに来て、初めて信頼のできる存在と対面できたように思えた。
「そうか……マサヨはあまり知らんか……携帯電話は?」
 手にした白い携帯電話をかざした青年は、左目を閉ざした。少年は頷き、その見慣れぬ小さな機械を見上げた。

 畳の居間は、おそらくこのマンションに最初から用意されていたままなのだろう。純白公爵は貴族風に内装を変えていたし、ある程度の要望には応え、家具などは調達させてきたつもりである。しかしこの709号室に限っては、定期的に供給される最低限の衣食住関連の品物以外は運び込まれたという記録はなく、つまりは要望自体がされていないということである。
 こんな生活空間で、外に出ることなくこの少年は七年以上の時をどう過ごしてきたのだろう。自分の命令でそうしておきながら、青年は少々哀れにも感じていた。

「ダーツは何本あるのだ?」
 青年の問いに、少年は「二十五本だ」と答えた。
「マサヨ……不死のダーツは鹿妻の爆発で技術が失われた……補充はできんが、それでも構わんか?」
 青年はゆっくりと、何かを演じるように口調を意識して申し出た。だがマサヨと呼ばれた少年は、無言のまま首を縦に振った。
「期待しているぞマサヨ……作戦が成功した暁には、我々との合流も許可しよう……これからは外で自由に過ごせるのだ」
 しかし、そんな激励にも言葉による返事はしないだろう。このマサヨという少年は警戒心が強く、決して無駄口は叩かない。十分程度のやりとりで青年は確信し、その通りで彼は頷き返すだけだった。
「真実の人(トゥルーマン)……」
 マサヨの背後の襖が開き、そこから小さな少女が姿を現した。少年と同様に毛皮のコートを着込み、フードで頭を覆った彼女は両手で襖の端を握ったまま、真実の人と呼んだ白い長髪の青年に怯えた瞳を揺らし続けていた。
「君が……アジュアか……」
 確か七年前に一瞥した際には、まったくの幼児だったはずである。あの時、彼女を背負っていたマサヨは今日と同じように力強い目で、たった一言だけ自分と藍田長助に向かってこう告げた。「妹のアジュアだけは助けてくれ。僕は、いい」と。
 アジュアはのろのろと怯えながら居間に入り、あぐらをかいている兄の背中へ隠れ、真実の人の様子を窺った。それはまるで警戒する動物のようであり、青年はこの妹も相応の訓練を受けていると感心した。
「アジュアも参加できるのか?」
「わからない。これから考える」
 珍しく言葉で即答したマサヨは、背後から肩を掴む妹の手に、自分のそれをそっと重ねた。
「方法は任せる……目的はただ一つだ。ルディの始末……殺してしまって構わん」
 感情を込めず、平坦な口調で言い切った真実の人は、ようやく閉ざしていた左の瞼を開いた。
 自分の存在を、この兄妹は大きく強く捉えている。七年間、ほとんどたった二人で生活してきた彼らにとって、自分は外界へのきっかけであり、今後頼っていくべき者なのだろう。強い目と、怯えた目。現出した結果こそ違えど、期待と不安の元は同一である。

 同じ目的に対して、これから兄妹は協力していくのだろう。手を重ね、互いに励まし合い、七年間の幽閉から自由に向かって駆けていくのだろう。そんな美しさなら、残党に対するこれまでの冷たさはなくしてもいい。理佳や仙波春樹(せんば はるき)、ライフェやはばたきたちのように、仲間として受け入れてもいい。与えた任務さえ乗り越えられるのであれば、第二次ファクトという危険因子を秘めた烙印を忘れてしまっても構わない。

 ルディを……殺せればな……

 目の前の二人に比べ、自分たち兄弟は取り返しの付かないところまで来ている。互いに命を狙い合う、最低の血縁関係である。

 何度か弟の抹殺を命じてきた。だが、それはあくまでも児戯であり、戦力を考えれば弟の力を試す以上の結果にはならないはずである。それで殺されるようであれば、あれはそこまでの存在だったということであるとも割り切れる。
 しかし、初めて真実の人は思った。もしこの兄妹がリューティガーを殺しても、自分は何か埋め合わせのついたまま、平然としていられるのではないだろうかと。
 醜い兄弟など、美しき兄妹に喰われてしまえばいい。とりとめもない、そんな言葉が青年の口元をむずむずと歪ませ、彼は自分の求めてる結果に軽い困惑を覚えていた。


リューティガー真錠が病欠したと教壇の川島が告げた際、三学期で三度目になる彼の欠席に対し、ほとんどの生徒がなんとも思わず、一部の女子生徒は頻繁なそれに心配し、二人の男子生徒はその事情をなんとなく想像していた。


 島守遼と高川典之が代々木パレロワイヤルの803号室に約束通り訪れると、栗色の髪をした同級生はいつもと変わらぬ凛とした意を発しながら、食卓に着くよう二人を促した。
「椿さんが心配してたぜ。あ、川崎もか」そんな軽口で和やかな空気を作り出すため、先手を打とうとした遼だったが、「ルディ、前もって言っておくが、俺は自分の武を追求するために協力しているのだ。よってナイフやピストルの類は必要ない。いや、島守に支給品のことを聞いてな」と先制されたため、場の雰囲気はいきなり重いものへと変化してしまった。
「そうですか……それなら仕方ありませんね……」
 パーカー姿のリューティガーは眼鏡をかけ直すと、いったん居間へと下がり、再びダイニングキッチンに戻ってから、食卓の上にアタッシュケースを置き、それを高川に向かって押し出した。
「遼から話を聞いているのなら、説明は簡単に済ませますけど、中には作戦用のマスク、ノートPC、通信機、発信機、救急キットが入っています」
「うむ……」
 高川はアタッシュケースを軽く持ち上げ、傍らに置いた。こうした何気ない動作も力強く、おそらく自分であればこうも簡単には持ち上がらないのだろうと、遼は背筋を伸ばし、真っ直ぐにリューティガーを見つめる高川に、頼もしさをと同時に距離を感じていた。
「前回の作戦失敗から十一日が経過した……失敗の要因はいくつかあるし、その対処も考えている。二人は次回の作戦で同じミスを犯さないよう、じゅうぶん気をつけてくれ」
「ルディ。島守はどうか知らんが、俺は作戦において指示通りに動いたぞ」
 胸を張り、そう言いきる高川に、お茶のセットを運んできた陳が、「いいや、お前もミスがあったね」と早口で言い放った。
「陳殿……俺がどういったミスをした……?」
 太い眉を顰め、高川は茶を注ぐ陳に強い意を向けた。しかし丸々とした体躯の従者は意に返さず、平然とした挙動を淀ませることはなかった。
「敵は殺すネ。武術の稽古と任務は違うよ。最初のあいつが銃を持っていたらどうしたネ」
 ホテルの廊下で出会ったボマージャケットの少年はナイフしか持っておらず、だからこそ高川は自身の最も頼りとする“完命流”にて対抗し、勝利は目前だった。しかしその直後に現れた青年は拳銃を手にしていて、もし駆けつけた陳のフォローがなければ、銃弾は額を撃ち抜いていた可能性もある。
 しかし、“敵は殺すネ”と言われても、殺人などそう簡単に覚悟できるはずがない。秘密結社の残党からこの国の平和を守るという使命は重大だが、自分にはそれ以上に完命流の高みを目指すという崇高なる目的がある。陳の言葉は正論ではあったが、高川典之は同意することはできず、注がれたジャスミンティーをとりあえず啜った。
「それじゃ……今日の打ち合わせを始めよう……まずは僕から、収集した情報の検討結果を伝えたいと思う。メモはいらない、頭で覚えてくれ」
 高川に言葉をかけることなく、リューティガーはミーティングを仕切りだした。

 こいつって……ときどきこうだよな……

 遼は息苦しさを感じたまま、ティーカップの持ち手を撫でた。


 リューティガーから告げられた情報の検討結果は、実に簡潔だった。

 FOTはロシア軍からミサイル用と思われる弾頭を購入した。おそらく、日本に対する攻撃手段として用いるつもりであろう。

 高川は暑そうに詰襟のホックを直し、遼は息を呑み、これまでのことを考えれば、それもあり得るだろうと食卓に視線を落とした。
「シャレにならねぇぞ……ミサイル攻撃だって……?」
「いつ、どこから、どこに向かって放つか……それが問題だな……」
 二人の反応がそれぞれらしいものだったので、リューティガーは口元に笑みを浮かべた。
「たった一発しかないミサイルをどう使うか、奴は慎重に判断するだろう……いきなり打ち込むような勿体無い真似はしないと思う……かなりの大金を投じたようだし、たぶん虎の子の一発だと思っていい。まずは日本政府に対して、何らかのアクションがあると思う」
「そうだな……」
 高川と同様、遼もリューティガーの言葉に納得はしていた。しかし顔なしの殺人鬼を放ったり、獣人に教室ジャックをやらせたりするような、そんな予測のつかない敵である。言い切ってしまってよいものかと、彼は腕を組んだ。
「それに、弾頭だけでは意味がない。ロケット部がミサイルには必要だし、発射施設だっている。それらを揃えるまで動きはないはずだし、こちらも対応の余地はあると思っていい」
「相方が民声党幹事長宅に張ってるネ。動きがあったら連絡がいくと思うヨ」
 陳の言葉に、リューティガーは強調するように二人へ頷いた。
 ミサイルで脅迫をしてくるような組織に、蜷河理佳(になかわ りか)は参加している。いや、裏切って逃げている可能性もある。しかし、あの紫がかった白い長髪の青年は、彼女のことを許していそうにも思える。
 根拠はないが、試験場でラーメンを奢ってくれた彼は、そのような精神的な大らかさがあるような気もする。
 この状況は、おそらく停滞なのだろう。昨年末に横田に依頼したネットでの情報集めも未だ成果はなく、リューティガーに協力していても再会できそうな機会は皆無である。しかし、FOTが本当にテロや脅迫を本格化するのであれば、こうした立場にある以上、自分も阻止のために覚悟をしなくてはならない。島守遼は、思い通りにならない状況に苛立ち、ティーカップを置く動作も少しだけ乱暴になっていた。
「しかし……あの東南アジア系の敵は何を考えて、テロリストの一員などになっているのだろうか」
 空になっていたカップに視線を落とし、高川はホテルで対戦したはばたきのことを思い出した。
「孤児で拾われた奴もいるし、真実の徒の構成員だった奴もいる。生き延びるために参加しているのが大半だと思っていい」
「度し難いな……食い詰めてテロリストになるなど……あってはならん話だ」
「思想や信条は、本来は精神や立場を安定させるために持つものだけど、極度な不安定はそれすらも抱かせるのを困難にする……奴はそれを巧みに利用して、配下を増やしているんだ。一度FOTの一員になったら最後、再び不安になるのが怖くて、組織から抜けることなんて考えもしない」
「だから……殺すしか……ないのか……」
「そうだ……それに情報が有効と思われる敵は、僕が同盟本部へ跳ばす」
 言いながらも、その同盟本部への不信感からこの高川典之という同級生を、個人的に仲間へ引き入れてしまったのが現実である。リューティガーはねじ曲がった現状に苦笑し、高川はそれが理解できず目を細めた。
「け、けどさ……説得できる敵は……なにも殺すことはないんじゃないのか?」
 遼の提案に、陳が険しい表情を向けた。
「論外ネ。そんなこと考えていたらこちらが殺されるヨ」
 その発言にリューティガーと高川も頷いた。
 殺られる前に殺るという現実はよくわかる。機会こそ少ないものの、これまで強烈な死に様は何度か見てきた自分である。本当に殺せるかどうかはともかく、説得などという面倒は本来避けてきたこれまでである。
 
 しかし、殺してしまえばそれもう本当に“こちら側”の住人であり、蜷河理佳を助け出しても彼女と闇の中を足掻き続けるような、そんな気がする。

 遼は口元をむずむずと歪ませ、息を吐き、ここには頼れる人間が誰もいないと感じ始めていた。

3.
 ミーティングはやがてフリーディスカッションに変わり、高川は道場で常日頃から「精進が足らん」と叱られていて、正直なところ自分の完命流がどの水準に達しているか不安だったが、二度の実戦を怪我することなく対応できている事実に驚いていて、とにかくそのことばかりを何かと口にしていた。
 俺という人間は案外できるじゃないか。陳に諌められるのを注意しながら、それでもやがて高川の口調からは再び自信がこぼれはじめ、遼はその自慢げな態度に辟易としていた。
「それじゃ次回は、何も動きがなければ来週後半。通信機は常にONにして、バッテリー切れを起こさないように注意してくれ」
 リューティガーの言葉に応じて頷きはしたが、遼は息の詰まるこの部屋から出たい一心で、玄関へ早速向かった。
「待ってくれ遼。高川くんは……帰っていいから」
 呼び止められた遼は、口を尖らせて振り返った。
「言っただろ、失敗の対処を考えてあるって」
 腰に手を当て、リューティガーがそう告げた。遼は高川が玄関から出て行くのを確認すると、ポケットに手を突っ込み、首を突き出した。
「それって……俺がしくじった件か?」
「そうだ。隣の部屋に用意してある……君のために特訓をね」
「特訓?」
「付いてきてくれ」
 前回の作戦での失敗。心当たりがあるとすれば、リューティガーが真実の人を透視したにも拘わらず、結局静動脈の破壊に失敗してしまったことしか思い当たらない。
 透視によって知覚した内臓があまりにも気持ち悪く、だから異なる力を使うことができなかった。リューティガーはそう認識しているのだろうし、それは原因の大半でもある。しかし、本当に倒すべき相手なら、我慢もできただろう。つまりは覚悟の足りなさである。
 リューティガーに続いて玄関から廊下へ出た遼は、隣の802号室へ入った。そこは、803号室と同様に玄関からすぐダイニングキッチンになっている構造で、扉の位置こそ異なるが、おそらくその向こうは寝室か居間になっているのだろう。
 家具の入っていない、ガランとしたダイニングキッチンを見渡した遼は、床に置かれた箱を発見し、奇妙だと感じた。
「“快食ねこぐるめ”? なんだこりゃ。キャットフードか?」
「あぁ……健太郎さん……ちゃんとエサも用意してくれたんだな……」
 リューティガーはそうつぶやき、扉を開けた。
 小さな影が、やはり家具が何もない部屋の中を横切り、それはカーテンレールの上まで跳ねた。
 毛を逆立て、じっとこちらを見つめる吊り上がった目。前足はいつでも攻撃に転じられるように前へ突き出され、後ろ足は離脱のためにじゅうぶんなバネを蓄えている。そう、カーテンレールから見下ろすそれは、黒い猫だった。
「特訓って……アレを捉まえるとか?」
「違うよ。内蔵を見慣れたり、破壊する特訓だ」
「おい……冗談だろ?」
「本気さ。だけど僕は君に猫殺しなんてさせない……その逆で練習してもらう」
「逆?」
 これから何をやらされるのだろう。不安な遼を他所に、リューティガーは部屋の隅に置かれた猫用の砂の入ったトイレを見下ろした。
「やっぱりそうか……さすがは健太郎さん……ちょうどいい猫を拾ってきたな……」
「あいつ、健太郎さんが拾ってきたのかよ?」
「うん。野良猫で、元気がなくって便が特に黒ずんでいる奴って条件を出したんだ。たぶん……これならいいと思うよ」
 トイレから視線を移さぬまま、リューティガーは笑みを浮かべた。
「けどさ……結構元気に見えるぜ?」
 カーテンレールで尚も警戒する黒猫を見上げ、遼は頭を掻いた。なんという可愛げのない、敵意を剥き出しにした獣だろう。彼はそもそも動物好きというわけではなく、特に臆病で人を避ける野良猫に対してはあまりいい感情は持っていなかった。
「精一杯の抵抗だよ。だから早く病気を治してあげないとね」
「何の病気なんだよ」
 遼の問いに、リューティガーは彼の右手を握ることで答えた。

 意識を逸らさないで……気持ち悪いのを……我慢するんだ……!!

 そんな言語情報が、遼の意識に飛び込んできた。次の瞬間、彼の視覚は黒い猫ではなく、ズームアップされた内臓を知覚した。

 肉、血、脂肪、血管。内臓であるから光が当たっていないはずであるのに、それらは明確な色彩を放ち、だからこそグロテスクなビジュアルである。遼は堪らず口を押さえた。
 ライティングは小範囲なら僕の意識で調整が利く……もちろんモノクロにだってすることができる……正確に言うなら、これは僕が感じている透視結果を、君に送信している形になる……それはわかるね……

 あ、ああ……何度かやってるしな……し、しかし……こいつぁ……

 生臭さが漂ってきそうな、そんな映像である。解剖図鑑を見慣れていても、中々実物をここまでじっくりと見る機会はない。遼は一向に見慣れない気持ちの悪さに、頭痛のような感覚を抱きつつあった。

 これ……小腸の中だ……わかるかい……白いのが……

 更にズームアップされた内臓には、色の白い1〜2cmの小さな糸状の物体が認められた。
 ああ……なんだこの糸くずみたいなのは……

 鉤虫(こうちゅう)だ……猫の小腸に腸壁に住みついて、その血を吸う……

 病気の原因か……?

 一匹みたいだし、卵も見当たらないから大事には至らないだろうけど、ちょっとした慢性貧血の原因になる……こいつを……破壊するんだ……

 わ、わかった……

 慎重にね……位置を間違えると、猫の腸壁を壊すことになる……

 こんだけはっきりしてたら……間違えようがないって……

 遼は意識を集中し、糸くず大の寄生虫を千切るように破壊した。

 これで便と共に出てきて……病気も治る……

 リューティガーは遼から手を離し、カーテンレールに近づいていった。
「こんなので特訓になるのかよ?」
「繰り返しやる……もっと複雑な病気……破壊するだけじゃなくって、その後を治癒させたり、そんなこともできるようになれば、そのころには内臓だって見慣れてるはずだし、血管の位置だって簡単に把握できるようになってるはずだ」
 手を伸ばしたリューティガーは、黒猫の前足による反撃に、即座に肩を引いた。
「はは……いい反応……」
 猫の一撃を容易に回避する身のこなし、病気に対する知識、情報を総合的に検証する判断力。つくづくこの栗色の髪をした同級生は、多彩な才能を秘めていると遼は素直に感心した。彼の言葉通り、野良猫の治療を重ねていけば、やがて内血管の破壊も簡単にできるようになるかもしれない。
 だが、本当に自分は殺せるのか。先ほどダイニングキッチンで、高川や陳が「殺す」という単語を何度も口にしていたが、それすらもぞっとしてしまう。島守遼は黒猫から視線を逸らし、壁に寄りかかった。
「これまで四回、この国に来て僕は奴と対決した。最後の一回は顔を合わせなかった、このあいだのことだけどね」
「じゃあ残りの三回は、全部面と向かってのことだったのか?」
「うん。君のような能力者もいなかったし、狙撃は奴には有効な手段じゃない」
「そうなのか?」
「弾丸が到達する以前に、奴は空気の変調を知覚して空間へ逃れる」
「嘘だろ……」
「本当さ。昔から反応が早い方だったけど、異常なまでにレベルアップしている。それに跳躍の“入り”もずっと早くなっているから、知覚と同時に姿はない。僕が背後に跳躍して跳ばそうにも、その前に奴は逃げているんだ」
 だからこそ、離れた場所から対象を破壊できる自分の“異なる力”が必要なのだろう。それは理解できるものの、人殺しに納得などできるはずもない。

 つるりん太郎みたいな奴なら……ともかくな……

 あのような化け物や、民間人を殺すような殺人鬼や獣人であれば、躊躇も少なく能力を奮うことができるはずだ。しかし蜷河理佳の脳裏にいるあの青年を、遼はまだ憎むことができなかった。殺人鬼に命令を下していると知っていてもそれはあくまでも間接的で、彼を殺害できるほどの憎悪や嫌悪はない。
 だが、選択肢は広げておくべきだろう。第一、野良猫の治療という特訓は誰も傷つくことがない。
 黒猫の顎を人差し指で触れることにようやく成功したリューティガーを、遼はぼんやりと眺めた。猫を見つめるその様子はあまりにも嬉しそうだ。それが、せめてもの救いだと思えた。


 802号室を後にした遼は、ヘルメットを手に一階のエレベーターホールから路地へ出た。
 マンションの向かいはビジネスホテルになっていて、それを見上げた彼は、随分真新しいホテルだと、今更ながら気付いた。
「あれ……? 島守!?」
 声をかけられた遼は、ベージュのコートを着た、よく見知っている少女、神崎はるみの登場に、「またかよ……」とつぶやいた。
「買い物かよ?」
 彼女が手にした鞄に気付いた遼は、顎を上げてそう尋ねた。
「うん。夕飯のおかず。まった忘れてるのようちのママ」
「へぇ……」
 その返事に、遼は昨年のクリスマス・イブに出会った、神崎はるみの美しい母のことを思い出した。
「ところであんたはどうしてここから出てきたのよ」
 どう答えていいか、判断に困るシンプルな質問である。慌てた遼は、「真錠んち。ちょっと遊びに寄ってた」と返事をし、あまりにも正直な言葉に思わず舌打ちを付け加えてしまった。
「そっか……真錠くん、角の新しいマンションって前に言ってたけど……そーか、そーか。ここのことだよねぇ!!」
 言いながらはるみは、さて遼とリューティガーは一体何の打ち合わせをしていたのだろうと疑い、遊びに寄っていたなどという言葉をまったく信じる気はなかった。

 突入部隊の放った催涙弾で、確かに視力は心元なかった。あんな騒動の直後である、認識力は著しく低下し、混乱もしていた。
 それに、かつて一度だけあのような現象を目の当たりにした数ヵ月後、家に戻ってきた姉に、不思議な出来事だったと尋ねてみたが、そんなことは有り得ない。手品だ。実際にやってみせると、それは凄まじい勢いで否定され、遂には泣かされてしまった苦い記憶もある。
 だから数日後には、あれは見間違いだったのだろう。そう強引に思い込もうとしていた。
 しかし、違う。絶対に違う。あれは事実である。あの日、教室ジャック事件のすぐ後、島守遼とリューティガー真錠は、自分の目の前で忽然と姿を消し、突風だけが残ったのだ。消えただけならともかく、風を頬で感じたのである。二つの感覚を疑うことなど、最近の二人の怪しさからすればできるはずもない。
 しかし、まともに疑問をぶつけても無意味である。それにまだそこまでの覚悟はない。だから少女はマンション向かいのビジネスホテルを見上げ、「知ってる島守?」と小さな声で言った。
「ビジネスホテルだろ?」
「ちょっと前はね、ここってあやしい系のホテルだったんだよ」
「え、あ? そ、そうなの!?」
 “あやしい系のホテル”がどのような宿泊施設を意味するのか、知識に乏しく勘の鈍い彼にも容易に予想はできた。彼は思わず頭を掻き、背後のマンションへ視線を逸らした。
「そうそう、このマンションも製薬会社の工場だったんだけど、ちょうど去年の頭に、この辺で改築ラッシュがあったんだ」
 はるみの説明に、遼は辺りを見渡し、ホテルの隣にある米屋に視線を止めた。

 ガラス戸の中に、その犬はいた。台車の上に、横たわっていた。
 目は閉ざされ、鼻とその周り以外は白く、だがそれもどこかくたびれてくすんでいるようでもあり、毛はごわごわと立ち、様子そのものはぐったりとしたままだった。
 まさか死んでいるのかと遼は思ったが、かけられた毛布が僅かに上下しているのに気付くと、彼はほっとした。

「な、なんで……台車の上に?」
「あ、あの犬……? あそこのお店で飼ってるんだよ」
「だから……どうして台車?」
 遼の疑問に、はるみは両手を後ろに回し、少しだけ歩いて横顔を向けた。
「チロっていうの。すっごいおじいちゃんなの。もう歩けなくってね。わたし、仔犬のころから知ってるけど、昔はすごく元気だったんだよ」
「じゃあ……あんな硬いのに載せられたら、可哀想なんじゃないのか?」
「ううん。一日に一回、米屋のおばさんが、台車に載せたまま連れ出すの、この辺をぐるっとね。そのときだけは、舌とか出してすっごい嬉しそうなんだよ。だから台車の上でずっと待ってるから、お米屋さん仕方ないって毛布をかけたんだ」
 そう言いながら、はるみはゆっくりと後ろに下がり、遼の隣に並んだ。
「いつもね、お米屋さんの前に行くと、チロがいるか確認するんだ。それで安心するの。あ、台車の上にいるよ、あいつって」
 嬉しそうに、何となく懐かしそうに、そんな穏やかさである。クラスメイトの落ち着いた優しさを初めて知ったような、遼はそんな気がした。

4.
 数日後の週末、遼はバイクで学校までやってくると、校舎側の駐輪場にそれを停車させた。
「あぁ島守くん。おはよう」
 既にバイクから降り、ヘルメットを抱えていた、C組の岩倉次郎が、人懐っこい笑顔を遼に向けた。
「よぉガンちゃん」
「今日はB組とC組で合同だね」
「そうだっけ?」
「うん。そうだよ」
「新しい体育の緒崎(おざき)って、なんかヤな感じしない?」
「そっかなぁ……ちょっと厳しいけどねー」
 ここ最近では登校してから駐輪場で、この岩倉次郎と挨拶をする機会が増えている。話してみると彼はさすがに小さいころ、「駅名を覚える少年」としてテレビに出たほど記憶力が高く、遼は驚かされることが度々ある。
「新島先生は可哀想なことになっちゃったけど……僕……あの先生苦手だったんだよね」
 大きな腹を擦りながら、岩倉は申し訳なさそうにそう言い、遼は首を傾げ、「可哀想って?」と尋ねた。
「だ、だって……こないだの獣人に食べられちゃったって話でしょ……」
 教室ジャックをした工作員源吾と獣人683号は、体育教師、新島貴(にいじま たかし)を殺害し、遺体を食べた。
 しかしその事実は混乱を恐れた内閣ファクト対策班により隠匿され、血痕の処理をした用務員たちの噂話程度にしかその死は認識されていない。あくまでも行方不明が学校側の発表した公式な見解である。
 教師や生徒たちの中にも、新島教諭が獣人に食われたという噂は広がっていた。しかし獣人という存在そのものが、マスクを被った変質者であるというのが公の発表であり、警察は事件直後、683号にそっくりのラテックス製のマスクを遺留品としてマスコミに公開した。
 それを見た当事者である1年B組の大半は、「いや、あれはマスクじゃない。本物だって」と、信じることはなかったが、どの距離で683号と直面したか、視覚だけではなく、嗅覚や聴覚で認識できたか否か、当日の体調、機動隊が突入し、催涙弾によって生じた混乱に対応する能力。様々な要素が1年B組の生徒たちへ、信じるべき道、思い込むべき道に影響を与え、記憶の補正が行われていた。
 その結果、最も記憶を誤った方向へと導く、時間の経過という現象によって、「なんか、マスクってのも有り得るよな。機関銃持ってたし、服着てたし、人間っぽい動きだったし」と思う生徒もやがて現れ、生徒たちの中でも認識はずれようとしていた。

 だからこそ新島教諭の話題が表面化することはなく、例えばネットの匿名掲示板やブログなどで、「ファクト活動再開。獣人や怪物は実在し、再び首都を襲う」と噂はされているものの、それを知る者は全体からすれば一部であるし、信じる者は更にその一部である。
 もちろん、ここまでそちらの世界へ足を踏み入れた遼であれば、新島が食べられたという話も少しは信じられる。だがこれまでに友人関係でその話題が出たことはなく、まったく知らない情報に、彼は口をぽかんと開けた。
「あ、あのさガンちゃん……ガンちゃんって……そーゆーのって信じる方なの?」
「獣人とか? もちろん。だって僕、七年前にテレビのニュースで見たもの」
「ま、まさかそれって……早朝にやってた……食ってるぞ!! ってやつ!?」
 遼の言葉に、岩倉は大きく頷き返した。
 八年前のある日、早朝にやっていたニュース。放送事故ともいえる、獣人が街中で人を食べていた衝撃映像。島守遼はそれを見たため、思わず使った“異なる力”でテレビを壊してしまった苦い過去を持つ。あのニュースを見たという者が知り合いに現れたのはこれが初めてであり、遼は慎重に言葉を選ぼうと思った。
「け、けどさ……あれだって……変質者って報道だったろ?」
「うん。だけどね、戒厳令のとき、うちの近所で獣人が出たんだよ。よく覚えてるけど、本物だよ。だってタコみたいな触手があったし、空を飛ぶ羽の生えた奴だっていたんだよ」
 バルチや教室で目撃したような、いわゆる人型で熊や獅子のような獣人であれば、服も着用していて人間による変装と判断もできる。しかし触手や飛行可能な羽ならば、これはもう間違いなく非現実的な化け物である。だがこれまでにそのような目撃情報がまともなマスコミを賑わせたことはなく、遼にしてもそこまで現世離れした怪物の存在は信じられなかった。
 だが、岩倉次郎の記憶に誤りはないはずである。八年前、彼も遼も九歳であり、よほどのことや断片的にしか当時のことなど覚えてはいない。小学生のころならまだしも、中学、高校を経て、小学校中学年の記憶など、急激に風化が始まっている。しかし、この巨漢で坊主頭の、どこか緩んだ緊張感のない彼に限ってはそれも当てはまらないのだろう。
「島守くんも見てたんだ……六時二十八分のCM明けからなのに、よく起きてたね」
「よ、よく時間まで覚えてるな……」
「だって……朝だから左上とかに時間、出てるよ」
 それはそうだが、表示されているからと言って覚えられるものではない。量的なものだけではなく、時間においても彼の記憶力は高く鮮明なようである。果たしてこの岩倉次郎の意識や記憶、心はどのような構造になっているのか。今度こっそり覗いてみようと遼は心に決めていた。

 教室に着いた遼は、既に着席していたリューティガーの肩に手を乗せ、そのまま自分も席に着いた。

 なぁルディ……例の探知機……また使ってみないか?

 遼の積極的な提案にリューティガーは驚き、だが顔は黒板へ向けたまま、意を返した。
 そうだね……故障していない以上、この教室の誰かが能力者であることには間違いがないんだろうし……ちょうどいいタイミングだよ……

 ちょうどいい……? どうして?

 僕と君の反応を無効にする調整をしておいた。それに警告音モードもカットしたし……

 敵が大掛かりな作戦を計画している以上、戦力増強は急務であり、だからこそ仁愛高校にも通い続けている。リューティガーは上着のポケットに入れておいた、電卓大の探知機をそのまま操作した。

 いいよ遼……接触読心には反応していない……

 そうか……で……反応は……

 遼に促され、リューティガーはポケットの中を再度確認した。

 ESPSW......○
 Range......LV.6
 CI.........Unknown

 表示を確認したリューティガーは、より正確な意思を伝えるため、肩に乗せられた遼の手に、自分のそれを重ねた。

 座標までは特定できないけど……いる……この教室に……!! 異なる力を使っている人が……!!

 その言葉に、遼は周囲を見渡し、現在教室にいる者を確かめた。しかし授業開始前ということもあり、ほとんどのクラスメイトが教室に来ていて、これではまだいない方をリストアップする方が早いと彼は判断した。

 川島はまだ来てない……後は……花枝、比留間、浜口、寺西、高橋、麻生、大和、河井、戸田、木村がいない……

 なんとなくだが、そうではないかと疑っていた花枝の不在が少々意外であり、遼はリューティガーに意を戻した。

 どうする……真錠……

 “真錠”であったり“ルディ”であったりと、島守遼という仲間はこちらの呼び方が度々ふらつく。そして、どちらかと言えば、本音や咄嗟の際に苗字を呼ぶことが多く、それがリューティガーには少々不満だった。しかし今現在、教室にいるものの行っている行為は任務の延長線上である。彼は気を引き締め、遼の掌に意識を伝えた。

 二時間目は体育だ……男子と女子は別になるから……そこでもう一度使ってみよう。絞り込めるはずだ……

 付けっぱなしにはできないのかよ?

 バッテリーが持たない。小型化した分、連続稼動は一時間が限度なんだ……

 なかなか都合よくはいかないものである。遼はそれでも男子か女子かを確定できるだけマシだと思い、口元に力を込めた。

「ねぇねぇねぇ!! はるみちゃん!! 前から思ってたけどぉぉ!!」
 遼たちのすぐ後ろの席に座っていた神崎はるみは、となりの合川聡美に強く肩を揺さぶられた。
「な、なによ聡美」
 同級生の強い割には小さな声に、はるみも合わせてボリュームを抑えた。
「二人って……なんなのよ。ねぇ」
 合川の視線の先には遼とリューティガーがいて、肩に手を乗せ、更にそれに手を重ねる二人の姿は、友人関係と見るにはあまりにも親し過ぎた。「あの二人」や「この二人」とあえて言わないあたりが、この合川という少女の慎重さであり、それに気付いたはるみはうんざりと眉を顰めた。
「そーゆー関係なんじゃないのぉ?」
「うっそうそ!!」
 面倒くさそうに答えたはるみに、合川は声を抑えたまま口に手を当てた。
「知らないけどさ……」
「ま、まさかBL系なの? 二人が?」
「なによそのBLって……」
 聞きながらも、どうせ知ったところでうんざりするだけだろうと、はるみは頬杖をついて同級生の説明を左の耳から右へ通過させていた。

 んなのじゃないって……だけど……だとすれば……どういうのなんだろう……

 男同士だというのに手をつないでいる光景をよく見る。そう、忽然と姿を消す直前も、リューティガーは遼の肩に手を乗せていたような気もする。

 言葉を使わない……やりとり……意思の……伝達……

 荒唐無稽な妄想である。しかし、ここ最近になって、それはあまり現実味の薄い話ではないような気がしてきた。記憶を一度よく整理してみよう。幼稚園のころ、いやもっと昔である。

 姉が小学生のころだったと思う。そう、大きなランドセルが自分も欲しかった。

 なぜ姉のことなど思い出したのだろう。一連の奇妙さに想いを向けると、決まって最後にはあの口うるさい七歳も年上の彼女が現れる。わからない、なにか記憶にこびりついているのか。
 少女は前髪を掴み、奥歯を軋ませ、気持ちの悪い漠然とした何かに少しだけ苛立っていた。

 そのころ、中央校舎一階の階段踊り場で、比留間圭治(ひるま けいじ)と高橋知恵(たかはし ともえ)は向き合っていた。比留間はひどく緊張し、なぜ自分がこの同級生に登校中呼び止められ、いわゆる軽い内緒話で使われるこの階段まで連れられたのか、それが疑問だった。彼は眼鏡に手を当て、手すりを掴み、「高橋さん?」とひどく甲高い声を出してしまった。
「ご、ごめんなさい……授業前に……」
 長い髪から別れた枝毛が陽で浮かび上がり、肌の白さを際立たせ、病的な印象を比留間に与え続けていた。言葉を交わしたことなどこれまでに皆無である。いや、そもそも彼にとって、母や学校職員、コンビニの店員以外の女性と会話する経験自体が極めて稀である。ここは、比留間圭治という人間を印象づけなければと、彼は落ち着こうと懸命だった。
「な、何の用かな? 君が僕に?」
 声のトーンがまだ定まらない。比留間は小さく咳払いをした。
「う、うん……」
 高橋知恵は両手を前に重ね、細すぎる肩を左右に小さく揺らし、同時に冬服のリボンも弧を描いた。
 まさか、「付き合ってください」などと言われるのだろうか。いや、違う。そんなゲームや漫画のような展開になるはずがない。
 しかしだとすればこの子の、こうまでもじもじとしたいじましさは何なのだろう。これではまるで、告白をためらう少女のようであり、色が白くていわゆる病弱系の引っ込み思案で、高橋知恵は意外とそうしたキャラクターなのでないかと、比留間圭治の鼓動は高鳴った。
「こ、今度の日曜日って……ひ、暇かしら……?」

 キキキ、キターーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!
 うそ、マジ? ほんとか? はっはははははははははーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!

 口元を歪ませ、比留間は両手で手すりを掴んだ。なんという強烈な言葉だろう。かつてここまで心に響いたフレーズなど、現実世界で経験したことはない。
 彼は小柄で痩せた全身に痺れを感じ、十六年間の人生で初めて経験するその焼けるような熱さに戸惑い、興奮し、やがて喜んだ。
 孤高に耐え、常に価値観を磨き、新しい時代を担うために日夜努力をしてきたこれまでが遂に報われたのか。夢ではない、この寒さは二月のリアルだし、目の前の彼女から漂うかすかな甘さは、嗅覚で感じられる。
 さて、どう返す。ここで飢えを露呈させてしまったらイメージが崩れる。高橋知恵にとって、この比留間圭治は理知的で、毒舌だが正論家で、なにより冷静沈着だと思われているはずだ。彼はセルフイメージを彼女の幻想と勝手に置き換え、詰襟のホックを直した。
「空いてるけど……六日の日曜だよね?」
「う、うん……そう……朝からなんだけど……付き合って……くれると嬉しいな……」
「な、何にだろう?」
「そ、その……福生の方なんだけど……」
 場所ではなく、デートに誘っているのかどうか、それを尋ねたつもりだった。しかしその問いは既に通過してもよい項目なのだろうか。だとすれば自分はなんというずれた聞き方をしてしまったのかと、比留間は視線を宙に泳がせた。
「め、珍しいね……福生でなんて……」
「そ、そうかな……横田だし……」
「え?」
 “横田”一体なんのことだろう。ネットの匿名掲示板にはまっている横田良平のことだろうか? いや、福生で横田と言えば一つしかない。米軍横田基地のことである。比留間はそう確信した。
「横田基地に……何で行くの?」
「で、電車……中央線で……」
「い、いや……その“何で”じゃなくって……何を見に行くの? C−130? F−16?」
 何気なく軍事知識を散りばめながら、彼は彼女にそう尋ねた。
「見に……行くんじゃないの……抗議のデモに……一緒に……来てくれないかな……たった十人だから格好がつかないの。中心的なグループだし、テレビだって来るって……だから、人数がいないと駄目なのよ……」
 急に言葉を増やしたため、高橋知恵は薄い胸に手を当てて呼吸を整えた。一気に呈示された情報の量に比留間は困惑し、「あ、あぐぁぁぁぁ……」と奇妙な呻き声を上げた。

 な、なんだって……横田基地に抗議デモ……例のC−130墜落のか……? テレビも来るだって……冗談じゃない……なんで僕が……!?

「なんで僕が!?」
 思ったままの言葉を、比留間はついつい口にしてしまった。
「だ、駄目……?」
「い、嫌だよ反米デモなんて、そんなの参加できるわけないだろ?」
 すっかり甲高くなった声で、比留間はそう叫んだ。心の片隅に魚を逃がしたような後悔はあったが、信条と彼女を瞬時に秤にかけた彼は、傾いた方に素直になるべきだと、泣きたいのを堪えながら拳を握り締めた。
「“そんなの”……か……」
 少し怒っているようにも見える。しかしそれは逆切れというものである。授業前に呼び出され、付き合っているのはこちらである。比留間は彼女が身勝手だと感じ、ならばいっそそのような活動が、どうくだらなく愚かであると説明をしようと思ったが、予鈴がフロア中に鳴り響いたため、それを諦めた。
「嫌だからね。他を誘ってよね」
 思わずオカマ言葉になってしまった。なんという失態だろう。
 比留間圭治は心の中で大いに泣きながら、階段を駆け上がっていった。
 一人残された高橋知恵は、駆け去って行く彼の背中をぼんやりと見上げ、「他なんて……」と、つぶやき、教室へ向かって階段を上り始めた。

5.
 体育教師、緒崎昌利は行方不明となった新島貴の後任として、昨年末から仁愛高校に赴任してきた定年間近の老教諭である。小柄な体躯を包む青いジャージの上からでも、彼がいかに痩せているかはよく認識でき、禿げ上がった頭に皺だらけでシミの浮き出た顔は長く生きてきた証しを年齢以上に感じさせ、への字に結んだ口が意志の強さと融通の利かない頑固さを証明していた。
 老人が体育教師というのは、指導上珍しいケースではあったが、重傷で現在も入院中の近持(ちかもち)教諭の代理の件もあり、同時期に二人の赴任という混乱がその原因の大半を占めている。
 事実、緒崎も自分に現場復帰の話が舞い込んでくるとは思ってもおらず、町谷の実家で自宅待機をしたまま来年の定年を待つばかりだと思っていた彼は、夫人に愛用のジャージをクリーニングに出すように命じ、その日の晩からランニングを始め、十年ぶりの現場であるグラウンドにやってきた際には感涙しかけ、教頭の長瀬希美子が「新島先生は風紀担当でもいらしたの。緒崎先生、引き受けてくださいます?」との申し出に、「もちろんですとも教頭」と威勢よく引き受け、久しぶりの充足感で赴任以来、毎日夕飯をおかわりするほどであった。
 本日二時間目の授業は長距離走であり、B組とC組の男子生徒たちが校庭のトラックを走る姿を、緒崎はその内側で腕を組んで見守っていた。
「こら島守!! 勝手にグラウンドコースから外れるなぁ!!」
 長身の生徒がコースを外れて水のみ場へ向かったのを、緒崎は見逃さず駆け出した。
「あ、あぁ……先生……すんません、喉渇いちゃって……」
 頭を掻いて照れ笑いを浮かべる島守遼に対して、緒崎はなんというへらへらとした、無駄に背の高い生徒だろうと苛つき、教室ジャック事件の休み明けに、彼が一番に登校してきた一人であるという話が信じられないと思った。
「勝手は許さんぞ島守!! 大体ビリ集団でもたついとるお前が水を飲みたいほど疲れているようには見えんぞ。この怠け者め!!」
 なんという高圧的な口調だろう。だが遼は反論したい気持ちを堪え、もう少しだけこの老人の注意を自分に向けさせておくべきだと判断した。

 その頃、トラック上では異変が起こっていた。

 周回遅れの集団でゆっくり揺れていたはずの栗色の髪が、急にそのグループを脱した。「ル、ルディ……?」
 最後尾にいた岩倉次郎は、リューティガーの背中が小さくなり、その足の動きが“走る”から“駆ける”へと変化し、右手は激しく上下しているものの、左手がまったく動かない奇妙な体勢だったので、ひどく驚いた。
 より先へ、中盤を追い抜き、ついには先頭集団まで到達するほど加速を増したリューティガーに、生徒たちは何を馬鹿な真似をするのだろうと呆れ果てた。
 あのような全力疾走など、長距離走においてまったく意味がない。新島よりずっと口うるさい緒崎に見つかれば、絶対に注意される。しかし緒崎は背中を向けたまま水飲み場で島守遼を叱り続け、リューティガーの全力疾走には気付かずにいた。
「な、なんだ!? ルディ!?」
 先頭である自分の隣にまでやってきた栗色の髪に、西沢速男(にしざわ はやお)は驚愕し、その左手に握られていた電卓大の機器に気付いた。
「なんだよルディ、それってもしかして、湿度計か!?」
 呼吸を整えながら尋ねてきた西沢に対し、リューティガーは、「ええ!! そうです!! 雨降るかなって!!」と無邪気な笑みで答え、急にスピードを緩めた。

 なんだよ……今の……どういうことだよ……

 リューティガーは最後尾にいたはずであり、その彼がここまで到達したということは全力での、相当の無理をした疾走だったはずである。問いに対して言葉で返事などできるはずはない。
 なのに彼は今、何の苦もなくいつもの人懐っこい笑みで答えた。まるで平然と、当たり前のように。
 もうすっかり先頭集団から外れ、中盤、そして最後尾へと再びペースダウンしてしまった同級生の信じがたい身体能力に、困惑した西沢は視線を宙に泳がせ、気がついたら自分も中盤集団まで後退してしまった。
「す、すごいよルディ!!」
 戻ってきたリューティガーに、岩倉が息を乱しながら賛辞した。
「や、やっぱキツい!! 全然無理!! ちょっとしかもたないや!!」
 わざとらしく、ぜいぜいと呼吸を荒くしてそう答えた。
 顔は笑顔だったものの、期待した結果を得られなかった彼は、コースに復帰した島守遼に、首を横に振りつつ「男子には……いない……」と、小さくつぶやいた。

 那須誠一郎は、校門で終業のベルが鳴るのに気付くと、なにやら懐かしい気持ちが去来し、コートのポケットに両手を突っ込んだ。

「刑事さんも大変だな。こんな寒いのに聞き込みなんてさ」
 自習室に案内された那須は、1年B組の担任教師である川島比呂志にそう言われた。彼は、「寒いのには慣れてます……実家は新潟ですから」と返し、かつて尊敬した先輩捜査官と同じように、「あぁ……それから……私は刑事じゃないんで……」と付け足したが、担任教師の姿は言い終わる前に廊下へ姿を消していた。

 これが仁愛高校での五回目の聞き込みであり、神崎はるみを呼び出すのは二度目である。彼女の姿も端役ではあるが映っていた演劇部学園祭公演を収録したDVDが、FOT集合現場で発見されたのは、まさか偶然などではないだろう。神崎はるみは心当たりがない。と前回の再会で証言したが、教室ジャック事件に、顔無し改造生体侵入事件と二件ものFOTがらみの事件がここで発生し、その上彼女は真実の徒を七年ほど前に壊滅させた張本人、神崎まりかの妹である。
 そしてもう一人、やはりファクトのテロによる混乱期に発生した、一家殺害事件の生き残りである蜷河理佳も、DVDで夫人役を演じていた。

 埠頭倉庫のFOT集合現場への強行突入は成功し、集まった“荒野のサルベシカ”をはじめとする十二名のエージェントは全て死に絶え、FOTは事実上壊滅したと考えて間違いがない。
 しかし、那須の先輩である柴田捜査官などは、「神崎嬢が全滅させたってのはなぁ……駄目すぎなんだよな……情報が取れねェじゃないかよ……遺留品はほとんど残ってねぇんだ……」と、表情を強張らせ、E夫人の検死済みの遺体を見下ろし、「美人がさ……こうなっちゃよ」と苦々しくつぶやいていた。
 そう、FOTが壊滅したというのはあくまでも外務省ルートが率先して煽る、頼りない根拠の風評であり、そんなものでこちらの調査が制限されてはたまったものではない。
 もう一人の先輩であり、対策班のナンバー2的存在である森村捜査官は、近頃FOTがらみの情報を集めようにも、なにぶん“終わった事件にいつまで全力なんだ?”と冷やかされることが増え、少し前までの緊張感が不気味なほど緩んでいると言っていた。

 だから、わずかな光明であっても、女子高生への二度目の聞き込みなどという、あまりにも頼りない希望であっても、妨害が入りづらいのならそれに拘ってみたい、そう思う那須誠一郎だった。

 それにさ……はるみちゃん……けっこう可愛くなったよなぁ……

 七年ほど前に初めて会った彼女は、九歳と言うにはあまりにも幼すぎていたため、最初は幼稚園かと思うほどだった。成長不全ではないのか、そんな失礼な疑問すら抱くほど、何を聞いても幼児のような言葉しか返さなかった彼女が、聞けば生徒会選挙に立候補して一年生最高得票を獲得し、演劇部でも裏方としてかなり頼られていると言う。
 こんな仕事だから彼女も出来ない。それは言い訳だと故郷の妹に馬鹿にされたこともある。「お兄ちゃんはけっこうイケメンだって。韓流スターっぽいよ。背も高いし、ガタイもいいし、顎も尖ってるし」とはその妹のコメントだが、どうにも決まった彼女を作らずに、仕事に明け暮れている自分がここにいる。

「こ、こんにちは……」
 自習室の扉をゆっくりと開け、神崎はるみが小さく頭を下げ、戸惑った様子で中へ入ってきた。
「すみません……何度も……」
「あ、いいえ……今日は部活もありませんし……その……また事件のことですか?」
 先月の再会では驚くばかりで、何を喋っていいのか戸惑っていたはるみだったが、この人間関係はひょっとしたら、自分がこれから向かいたい方向性にとって意味を持っているのではないのだろうかと、彼女は右手首を左手で掴み、長身の彼を見上げた。
「ええ……先日……蜷河さんの育った所へ伺ったんですよ」
「理……蜷河さんの育った?」
 なんとも奇妙な那須の言い回しに、はるみは顎を引き、上目遣いになった。
「そうです。と言っても……彼女のご両親は亡くなっていますし、祖父母もすでに……ですから施設に行ってきたのです」

 なによ……それ……

 これまで、少女はもと同級生の、同じ部に所属する彼女のそのような事情はまったく知らなかった。
 もちろん、そもそもが疎遠であまり言葉を交わすことが少なかったが、輸入車のディーラーで外国に行くことが多いと、自分の父親をそう語った彼女は実に平然と静かな口調で、とても嘘や見栄は感じられなかった。孤児で、施設で育ったなど、そのような生い立ちはまったく知らない。はるみは右手で机の角を掴み、大きく息を吸い込んだ。
 そんな彼女の反応を間近で見て、那須誠一郎はこれまでの経験で磨いてきた分析力である結論に達した。
「残念なことに、蜷河理佳はそこにはおらず、数日前に引っ越したそうです。面白いのが、そもそも彼女はその施設からここに通っていたわけではなく、入学前に施設から一人暮らしをはじめて、つい最近、再び施設に戻ってきたそうです……十二月十二日ごろ……」
 さて、この事実に対して彼女はどのような反応を示すのだろうか。もし何かを知っていて、それを隠しているのなら、打ち明けてもらわなければならない。これは自分の捜査官としての意地だけではない。

「もしね……はるみが何かを知ってるんだったら……聞き出して……なんとしてでも……」

 彼女は対策班本部でそう言った。自分で聞けばいい。そう、普通の姉妹であればそうするのが一番早い。だが、それが出来ない事情を彼は熟知していた。だからこの聞き込みは、彼の意地だけではない。

 十二日って……理佳がうちに来たのが九日だから……一人暮らし……そんなの嘘……けど……殺人鬼が来たのって……わたしが先に部室から帰った……わりとすぐ後で……そうなの……やっぱり……理佳も……!?

 神崎はるみは、那須があまりにも静かに情報を与えたため、必要以上に警戒し、それは彼に伝わっていた。

 これは、おそらく……どうだ……?

 経験豊富であり、観察と分析に長けた柴田先輩であれば、もっと容易に結論に達しているかもしれない。遂には両手で机の縁を掴み、全身を小刻みに奮わせ始めた彼女に、彼は次なる言葉を用意した。

 だが、黒い壁が、大きな壁が那須の視界を遮った。身長187cmの彼は腰を少しだけ落とし、ほとんど同じ長身の乱入者に強い意をぶつけた。
「な、なんだ……君は……?」
 短く刈り込んだ髪に浅黒く端正な顔立ち。眉は太く顎は割れ、首をはじめとする肉付きは、自分よりも隆々としたものである。着衣から察するにこの学校の生徒に間違いはないが、それにしても凄みがあると那須は警戒した。
「は、は、はるみさんは怯えている!! なんだ貴様はぁっ!!」
低くよく通る声だが、どうにも吃って緊張しているようである。大柄な男子生徒は頭を小さくぶるっと振ると、神崎はるみへ振り返った。
「へ、平気か!? はるみさんっ!?」
「た、高川くん……」
「なぁ……なんだ君は……高川って……B組の高川典之君か? ジャック犯を投げ飛ばしたっていう……」
 背中から不用意に近づいてきた那須に、高川は左踵を机の脚に絡ませ、それを頑固な軸とし、高速で振り返り、彼の胴に低い体勢で抱きつき、踵のフックを緩め、そのまま馬乗りになるべく押し倒そうとした。

 冗談じゃねぇって!!

 那須は自分と一回りは違うであろう年齢の少年に、よもや胴タックルを仕掛けられるとは予想もしておらず、思わず懐に右手を突っ込み、右足で後ろの椅子を払い、左膝をぐにゃりと沈み込ませ、ようやく密着に生じた彼との隙間に左肘を滑り込ませ、もつれるように床へ倒れた。

「おいおい!! な、なんだっつーんだ!!」
 自習室に、川島教諭が入ってきた。彼ははるみを後ろ手で出口まで下がらせると、倒れた机や椅子を挟み、同じように片膝を立てて対峙する高川と那須に戸惑った。

 なんだよおいおい……ざけんなよな……俺に迷惑かけんなよ……刑事も……高川も……!!

 川島はとりあえず高川の前に立ちふさがり、「こら!! てめぇ高川ぁ!!」と叫んだ。
「せ、先生……」
「なんでお前がここにいるんだ。呼ばれたのは神崎だろ?」
「し、しかし……こいつは……はるみさんを……」
「バカやろう、警察の人なんだぞ、事情聴取の一環で来てるんだ」
 警察ではなく、内閣特務調査室F資本対策班であり、その命令系統は異なる。しかしそのようなややこしいことを言っても、この類の人物には通じないだろう。那須は訂正をせず、コートの襟を左手で整え、懐に突っ込んでいた右手を出した。
「那須だ……一連の……ここで起こった事件の担当をさせてもらっている……」
「そ、そうか……それであの柔か……講道館か……」
「まぁね……最初はそれでならした……高川君か? 君は……確か柔術完命流か?」
「よく……俺のことを調べているな……」
 なんとういう口調であろう。こちらが公僕と知った後だというのに、これではまるで時代劇の登場人物のようではないか。那須は高川の一向に崩れない態度に呆れ、「調書は目を通したからな」と返し、扉の側で事態を見守るはるみに小さく頭を下げた。
「神崎さん……また日を改めて伺わせていただきます……学校で……」
「え、ええ……」

 廊下へ出た那須を、川島が追った。
「すまんなぁ刑事さん……あの高川って……あの子のことになるとイカれちまってな」
「いえ……」
 あのおちびちゃんにも、そんな取り巻きが出来たのかと、那須は目を細め、自習室を見た。

「た、高川くん……今日のは……お礼……言わないからね……」
「う、うむ……」
 大きな身体を縮こまらせ、高川は小さなはるみに頭を下げた。
「聞き込みで……緊張してただけだから……なんともないんだよ……ほんと……」
「し、しかし……はるみんは……怯えてたようで……」
「“はるみん”!?」
 ついつい出てしまった言葉に、高川はますます混乱し、あうあうと口を上下させた。
「な、なによその“はるみん”って……」
 同級生の木村や浜口や寺西が口にしている様な、そんな嫌らしい呼び名である。高川にはまったく似合わない、もし彼が普段から自分をそう呼んでいるのなら、たまったものではない。不気味すぎると彼女は悪寒を感じた。
「い、いや……その……な、なんであろうか……」
 言い訳を考えながらも、高川は“はるみん”とは、神崎はるみに実に合う愛称だと感じ、たまらなくなって、心の中で何度も叫んだ。

 はるみん!! はるみん!! はるみん!!

 何か、硬いだけの自分をほぐしてくれるような、そんな響きのある、甘くて柔らかい“はるみん”であった。


「女子の中にいるのか……」
「うん……三時間目にもう一度試したけど、反応があった」
 生徒もまばらな放課後の教室で、遼とリューティガーは声を潜めて言葉を交わしていた。
「誰なんだ……」
 遼は腕を組み、教室を見渡した。残念ながら自分たちの他には横田、西沢、麻生、木村といった男子生徒しかおらず、彼は自分の机に座った。
 体育の授業は周囲に男子のみであり、そこで反応がなかったとなると、これはもう女子にしか可能性が残されていないことになる。
 探知機は“異なる力”を使った際に生じる特殊な脳波を電気として検知する原理だとリューティガーは言っていた。だとすれば、一体どのような能力なのだろう。
「後は絞っていくしかないよな」
 もちろん、男子生徒の中にいないとは結論づけられない。たまたま能力を使っていないだけの可能性も高い。しかし、少々乱暴であっても何らかの絞り方をしていかなければ、当たり外れの判断すらつかない。リューティガーは遼の提案に頷き、対象の女生徒をどう絞っていくか、それに考えを巡らせた。

 二人の会話が途切れたのに気付いた横田良平が、遼の背中を軽く叩いた。
「お、おう横田……」
「例の件……もう少し待っててくれよな……まとまりかけてるから」
「そ、そうか……」
 遼の返事に、横田はぎょろりとした目を輝かせ、いやらしい笑みを浮かべ、もう一度背中を叩き、教室から出て行った。
 彼にはネットで偶然知った、蜷河一家惨殺事件についての調査を頼んでいる。しかしそれにしても、なぜ横田はあんなにも嬉しそうに中間報告をしに来たのか。遼は彼に提示した成功報酬をすっかり忘れ、リューティガーの、「なに?」という問いに対して、「いや……特に……」と素っ気なく返事をした。


 冬の陽は短く、時計の針が四時を指すころには辺りも夕暮れに包まれ始め、新宿駅南口前の雑踏に一人佇む白い長髪の青年は、サングラスを外し赤い瞳を左から右へ動かした。
「よぉ」
 マンションでの芝居じみた権力者としての表情はどこにもなく、二十代の青年として、友人と出会ったかのような自然で穏やかな笑みを浮かべた。
「人、人、人だな」
 並ぶように駅ビルの壁に寄りかかった、スーツ姿で天然パーマのもじゃもじゃ頭の中年が、目の前を交差する人々にうんざりとしながらつぶやいた。
「長助……マサヨ兄妹に例の任務を与えた」
 青年の言葉に、煙草に火をつけようとした藍田長助は、それを誤って地面に落としてしまった。
「お、おい……」
「ちゃんと会ったのは初めてだったけど、いい目をした兄妹だ。成功の暁には俺たちと行動を共にしていいと約束してきた」
 平然と言い放つ青年を、長助は睨みあげた
「実戦経験がないんだぞ!? 弟さんは完命流を仲間に加えたって話じゃないか、マサヨ兄妹では勝ち目が……」
「ダーツは二十五本あると言っていた……となると、二十七対五という計算だって成立する。戦力的にはマサヨたちの方が有利だぞ」
「し、しかし……戒厳令下で野良犬が増えた当時と状況は違う……カラスや野良猫じゃ、戦力としては貧弱だぞ」
「だから言っただろ。二人はいい目をしていた。考えるさ、あいつらなら。聡明で、思慮深く、警戒心が強い」
 力強く言い切る青年は長助に反論の余地を与えず、コートのポケットに両手を突っ込み、右足の裏を壁につけた。
「本題だ……例のものを見に旅に出る……」
「ヴォルゴグラードに跳ぶのか?」
「ああ……長旅になると思う……ロシア語は苦手なんだけどなぁ……一人で行くしかないし、移送の宿題、誰も解いてないしなぁ……」
 そう言った後、青年は眉を顰め、まいったなと首を傾げた。
「それについてだが、ライフェが面白いアイデアを出してたぞ」
「へぇ?」
「でもって、俺がそれにアレンジを加えてみた」
 長助は二本目の煙草を胸ポケットから取り出すと、それに火をつけた。
「こないだライフェが戦った同盟のエージェント……例の送信専門のテレパシストな……あいつと弟さんを使って弾頭を鞍馬まで空間跳躍させる……どうだい?」
 抽象的な説明ではあったものの、それだけで青年は作戦の全容を理解し、満足気に頷いた。
「なるほどね……サイキの複合利用か……」
「いい解答だろ?」
「けど……ルディはマサヨにやられるかもしれないぞ……そうなったら再提出だな……」
 平然とそう言い放ち、彼は壁に付けた右足へ力を込め、勢い良く雑踏へ紛れ込んだ。
「馬鹿野郎が……」
 人ごみでも一際目立つ白い長髪を見送りながら、長助は煙草を思い切り吸い込み、背後の壁を思い切り叩いた。


 東京も相当ではあったが、ここはそれ以上の寒さである。突き刺さる寒風に顔を背けた青年は、長い跳躍に息一つ乱すことなく、眼前にぽつりと建つ、古びた倉庫を見上げた。

 鉄道で運んで来たと少尉は言っていたが……なるほどね……

 倉庫のすぐ脇に軍用トラックを見つけた青年はコートの襟を立て、背後からやってきた軍服姿の男たちに振り返った。
「ズドラスツヴイチェ」
 青年のぎこちない挨拶に男たちは微笑み、その中の一人が手袋をした分厚い手を差し出した。

6.
 リューティガー真錠の抹殺。それが十三歳のマサヨに命じられた任務である。
 住居や通う学校についての情報、顔写真、当座の資金。これがマサヨに与えられた全てである。
 任務を遂行するとしたら、場所は二箇所に絞られる。雪谷大塚(ゆきがやおおつか)の学校か、代々木のマンションである。マサヨは考えた結果、私鉄駅の改札を出て、商店街へやってきた。
 七年ぶりの外界である。妹と過ごしたあのマンションが、自分にとって世界の全てだった。思えば、それ以前も任務でこの東京へ派遣される前はアジトである地下基地の訓練施設でずっと過ごし、外に出たこともない。さらにその前は集落で家族と暮らしていたが、村が炎に包まれたあの朝以来、思えば十三年間の人生のほとんどを閉じ込められてきた自分である。
 だから、人もまばらな小さな商店街ではあったが、珍しいものばかりであり、少年は靴店の前で足を止めた。
 軽くて丈夫そうな、女物のパンプスである。まだ九歳のアジュアには早いだろうか。そもそも妹は靴などほとんど履いたことがない。土産として買ったところで喜んでくれるかどうか怪しいものである。

 妹は結局、マンションに残してきた。
「僕一人で行ってくる。もし、僕が帰ってこなければ、死んだと思ってくれ」
 そう玄関で告げた途端、アジュアはマサヨの胸に飛び込み、「いやだ!!」と叫んだ。
「アジュアも一緒に行く!! 任務を手伝う!!」
「駄目だ……お前は外の世界を知らな過ぎる。はっきり言って足手まといだ」
 コートのフードを外し、マサヨが妹の頭を撫でると、彼女は瞳を潤ませて見上げた。
「大丈夫……任務は僕一人で果たせる……ダーツは二十本持っていくし……これだけあればじゅうぶんだ」
「マサヨ……きっと帰って来て……マサヨが死んだら、アジュア一人では生きていけないよ」
「もちろん……ごめん……そうだね……死にはしない……けど、殺して帰って来る僕を嫌いにならないでおくれ。アジュア」
「当たり前だよ!! アジュアがマサヨを嫌いになるわけがない!!」
 より強い力で、アジュアはマサヨに抱きついた。

 アジュアは、一人では、死ぬ。

 それがマサヨの認識であり、そう思うことで苛酷な任務に向かう勇気が湧き出てくるようにも思える。
 しかし、それにしてもどうやるべきか。マサヨは商店街から仁愛高校へ向かう道を歩きながら、周囲を注意深く観察した。

 飼い犬は駄目だ……主と別れさせるのは辛すぎる……けど……野良なんていやしない……どうする……カラスか……けど……

 彼はコートの内側に入れた、一本のダーツを摘んだ。
 ダーツの先端部分には、七年前真実の徒が開発した特殊な薬品が塗られていて、これが刺さった対象は、薬品によって数秒で凶暴化し、動物としての本能を攻撃性が上回る。
 銃声はおろか、被弾しても戦うことを止めない凶戦士と化した彼らの主食は、それまでのものから人肉へと変化し、攻撃性を向ける対象は捕食目的を兼ねた結果、必然的に人間ということとなり、だからこそテロの戦力となりえた。
 そんな貴重なダーツだからこそ、カラスを相手に投げ、外してしまうことなどあってはならない。五本をアジュアのために残してきたので、全部で二十本。これが彼の全戦力である。
 ダーツは生きている動物だけではなく、死後約二時間以内であれば、死体に対しても用いることができ、その場合生命活動を再開し、凶暴化させることができる。しかし、戦力にできそうな動物の死体が街中に転がっているはずもなく、マサヨはまず、仕掛けるための状況作りから任務を始める必要があると痛感した。
 仁愛高校正門へと続く坂道を歩マサヨは、途中何度も下校途中の生徒とすれ違い、それが男子生徒である度、ターゲットではないかと髪の色を確かめた。
 正門までやってきた彼は、道路を挟んだ向こうに総合病院があることに気付いた。

 かつて蜷河理佳が、工作員源吾を狙撃した病院の屋上、人の入ってこない給水タンクのすぐ側にマサヨはやってきた。ここからであれば対面の仁愛高校の様子がよく観察できる。双眼鏡を取り出した彼はそれを覗き込み、ある地点で目を留めた。

 いた……あいつか……!!

 南校舎二階、夕暮れの教室に栗色の髪を少年は発見した。

 どうする……何を……リバイブさせる……犬……犬はどこにいるんだ……!?

 ここで見張り続ければ、やがてチャンスは巡ってくるだろう。そうなるとますます凶暴化させる動物をどう調達するか、双眼鏡から目を離したマサヨは、病院の前の通りを飼い主と散歩している、一匹の黒い犬に気付いた。

 だから……飼い犬は……駄目なんだよ……!!

 甘いこだわりであることは重々承知している。かつて、自分に様々な技術を教えてくれたあの女性にも、それを咎められたことが何度もあった。

 ガリーナ様……だけど……僕は僕を通す……!!

 七年間我慢したのだ。今更主義は変えられない。マサヨは下唇を噛み、この病院の屋上にしばらく滞在する決意を固めた。


 教室を出た島守遼は、ヘルメットを片手に駐輪場までやってきた。

 しっかし女子の中にいる可能性が高いか……誰だろうなぁ……

 自分とリューティガー、そして父親である貢(みつぐ)の他に、“異なる力”をもった者がいる。それも同級生に。遼はそれが嬉しく、もし仲間になってくれるのなら、誰がいいだろうとそんな勝手な想像までしていた。

「やぁ島守くん」
 遼に続いて駐輪場にやってきたのは岩倉次郎である。
「ガンちゃん、バンドの練習?」
「うん……僕……演奏下手だから、居残ってやってかないと……」
「三階の空き教室、使ってるんだっけ?」
「そうだよ。特別に、二週間に一回だけどね」
 記憶力にかけては抜群の岩倉ではあるが、演奏技術となると別の問題なのだろう。楽器などほとんど扱えない遼は、岩倉の言葉をそう理解した。
「ガンちゃんさ、バンドとかじゃなくって、記憶力を生かせる趣味に変えた方がいいんじゃないか?」
「えー……そ、そんなのないよぉ……」
 坊主頭を掻き、岩倉はその巨体を前後させた。
「そうだなぁ……例えば英語以外の外国語とか……暗記しまくったら尊敬されるぞ」
「い、いいよそんなの……覚えたってうまく喋れないし……それに僕、バンド好きだから……」
 目を伏せてそう言う岩倉を、遼はヘルメットをMVXのシートに乗せ、横目で見つめた。
 決して人に攻撃的な面を見せず、温厚で穏やかで、大らかな岩倉次郎に、島守遼は友情に近い好意を抱こうとしていた。駐輪場だけの付き合いではあるが、彼の人格は何か癒やしてくれるような、そんな温かみがあり、だからこそ朝に彼が口にした獣人の話は意外であり、それを受け止めている事実に驚きもした。

 遼はふと思った。もし、岩倉が自分たちの仲間になってくれたら、どうだろうかと。

 リューティガー、陳、高川。健太郎はともかく、この三人は何かにつけ、「殺す」「駄目ネ!!」「貴様はともかく」と、物騒であり、唯一無口な例外者にしても、その根本は殺人を厭わない異形の者である。
 蜷河理佳を救い出すという目的に対し、今の面子はあまりにも主戦的であり、もし事実を打ち明けようものなら、こちらの甘さを糾弾するのは目に見えている。
 岩倉のような温厚な人物なら、自分の考えに賛同してくれるのではないか。遼はそんな淡い幻想を抱きつつあった。
「なぁ……ガンちゃんってさ……自分の記憶力って……どう思ってるんだ?」
 だから、こんな尋ね方もしてみる。
「え……えぇ……どうだろう……ひ、人よりは……いいのかな……」
「なぁ……どのくらいの分量を、どのくらい覚え続けられる? その辺って……試したこととかあるのか?」
「い、いや……特には……島守くん……ど、どうしたんだい?」
「あ、うん……」
 異常なまでの記憶力というものが、これからの行動にどう役立つかはわからない。しかし、“考え”の範疇であればその能力が如何なるものか、それを自分は覗くことができるはずである。
「俺、あらためて言うけど、岩倉って友達だと思う」
 思わぬ言葉に、岩倉は満面に笑みを浮かべた。
「う、うん……僕もそう思ってるよ」
「今更だけど……握手な……ドイツじゃとにかくやたらと握手するんだって。真錠ってのがそう言ってた」
「ふ、ふーん……」
 差し出された遼の手に、岩倉は自分の分厚いそれを同じように前へ出した。

 掌が握り合わされたの同時に、遼は自分の意識を岩倉へ滑り込ませた。

 んだよ……これは……!?

 いつもなら、人の心を覗くのと同時に認識できるのは“闇”か“海”である。闇は何も感知できなかった場合であり、海は無防備に開示された膨大なる量の情報を意味している。海の場合であれば、そこから更に引き出したい情報を引っ張り上げる作業が必要であるのだが、岩倉次郎の無防備なる意識はまったく異なる形態で遼の前に現れた。

 それはまるで、そう、情報処理の授業で教わったWindowsのエクスプローラ画面のようであった。
 数百にも及ぶ黄色いフォルダが縦に連なり、それらには「特に大事なこと」「学校」「両親」「友達」「バンド」「一時置き場」「テレビ」「女の子」など分類名が右に表示されていた。そして左上のバーには、「整理」「検索」「消去」といったコマンドが書かれ、感じたことのない意識構造に遼は戸惑った。

 なんてはっきりとしてるんだ……これなら……

 岩倉の中の、「記憶」と書かれたコマンドボタンに意識を向けた遼は、“島守遼”というキーワードを投げてみた。すると別のウインドーが開き、そこに自分に関する様々な情報が表示され、それは最後に「二月七日十六時ごろ。僕を友達だと言ってくれた。握手をした」と、最新情報で結ばれていた。

 すげぇ……こんなに整理された記憶なら……忘れることなんて絶対にない……簡単に思い出せるってわけだ……

 手を離した遼は、自分より背の高い岩倉を見上げ、小さく息を吐いた。
「ガンちゃん……エクスプローラみたいだな……お前の記憶って……」
「え? な、なんのことだろ……」
 遼の言葉に、岩倉はなぜ彼がそのようなことを言うのか理解できず戸惑った。
「ガンちゃん!! 家帰っても指動かせよな!!」
「頼むぜほんとによ!!」
 背後からの声に、岩倉は振り返った。遼も声の主へ背を伸ばすと、そこには見覚えに乏しい男子生徒たちの姿があった。おそらく、岩倉のバンド仲間なのであろう。そう判断した遼は、彼らの口調から高圧的な態度を感じ、それに岩倉がどう対応するのか注意を向けてみた。

 岩倉次郎は、その巨体を折り曲げ、坊主頭を掻き、ただひたすら低い姿勢で申し訳の無さを彼らに向けていた。


 アパートに帰ってきた遼は、自分の部屋に戻ると学生服を着たまま、床に座り込んだ。
 岩倉は、自分の意識や記憶構造があそこまで整理されてるのに気付いていない。身体能力に恵まれた者が、自分の骨格や筋肉構造を正確に把握できないのと同じで、それは当たり前に存在しているアドバンテージだからだ。いや、肉体であれば解剖でもレントゲンでも視覚的に知ることはできる。しかし心の中はそうもいかず、彼は自分の長所がどこから発生しているのか気付いてもいないだろう。

 そもそも……長所かどうかもわかっちゃいないんだよな……

 心の中を知覚できる遼であるからこそ、岩倉次郎の意識を客観的に観察することができた。しかし、あのエクスプローラばりの混沌とは無縁な世界は、もって生まれた才能なのだろうか。それとも鍛えた結果なのか。
 自分が誰かの意識を覗き、それを岩倉にリレーして伝えた場合、彼には他人の意識がどう見えるのか。もし、あの整理能力が意識や記憶全般に対する変換能力のようなものであればどうだろうか。

 あ……いや……だとしたら……す、すごいぞ……それって……

 自分がモニタであり、彼がOSである。オペレーターがどちらになるのかはともかく、もしそう定義することができたら、たった三つしかないコマンドではあるが、「消去」はかなりの意味を持つことになる。

 戦力どころじゃねぇ……なんでも……アリだぜ……こりゃ……

 壁に背を付けた遼は両膝を抱え、急に広がった可能性に天井を見上げ、大きく息を吸い込んだ。

7.
 男子生徒に能力者がいる可能性はゼロではない。だが、まずは女子から可能性を絞り込んでみる。その前提を実践するにあたって、面倒だが最も確実な方法は一人ずつ二人っきりとなって間近でレンジを狭めきった探知機を使うことである。
 その朝、学校の近くに出現したリューティガーは、二人だけになっても不自然に見えない女生徒を正門で発見し、彼女に向かって駆けていった。
「吉見さーん!!」
 声をかけられた吉見英理子は、赤いフレームの眼鏡を人差し指で上げ、駆けて来たリューティガーに怪訝な表情を浮かべた。
「真錠くん」
「おはよう、吉見さん」
 リューティガーは吉見に並び、二人は下駄箱まで歩いた。
「駄目じゃない、真錠くん。毎週月曜日は科研なんだから」
「あ、う、うん……そうだね……」
「けど意外。真錠くんが電波計測器なんて本格的なもの作ってくるとは、さすがに私も予想してなかったもの」
 異なる力の探知機。それを消音モードにせず使ってしまったため、島守遼が咄嗟についた嘘でリューティガーは、科学研究会に入会する羽目になってしまった。電波計測器は同盟からの支給品を真似て作ったレプリカだったが、それを組み立てながら彼は、なぜこんなことになってしまったのかと嘆き、成り行きに呆れていた。
 ダブついた制服の上に冬用のコートを着ていたため、ただでさえ小柄な彼女が余計にそう見える。そんなどうでもよいことに気を紛らわせつつ、リューティガーは本来の目的を果たすため、上着のポケットから探知機を取り出した。
 電卓大のそれを見た吉見英理子は、「あー、それって湿度計」と指差し、リューティガーは無邪気な笑みを返した。

 綺麗な少年だと思う。自分のような地味な超常現象オタクが、こうも近くに並んで登校するには、少々眩しい存在である。吉見英理子は隣の彼から視線を逸らし、口を少しだけ尖らせた。

 よし……いまだ……

 リューティガーは、靴を履こうとする彼女の背後に回ると、探知機のスイッチを入れた。
「な、なに? どうして湿度なんて計ってるの? っていうか……それって直ったの?」
「あ、え、ええ……屋内湿度はどうかなって……」
 言いながら、リューティガーは探知機をポケットに戻した。

 だけど……そうなんだよな……気の遠くなる話だよ……これは……!!

 探知機の反応はなかったものの、だからと言って彼女である可能性がまったくなくなったかと言えばそうではない。あまりにも手間取るアプローチに、彼は舌打ちした。
 そう、もっと効率のいい方法がある。異なる力は非常事態において用いられることがほとんどである。自分でもいい、健太郎でもいい。教室を襲撃し、パニックに陥らせ、そこで探知機をじっくりと使えば事は簡単に解決する。
 しかし、そのようなことができるはずもない。リューティガーは一瞬だけ敵の襲撃を望み、そんな考えに頭を激しく振った。


 結局午前中に探知機を再び使うような機会はなく、昼休みとなってしまった。リューティガーは自分の右隣で弁当を食べる椿梢をちらりと見て、最近では常に同席する三人目の同級生が今日は不在である事実に気付いた。
「花枝くんは……どうしたんでしょう?」
 その問いに、椿梢は咥えていた箸を弁当に戻し、いつもは花枝がいるはずの対面を一瞥した。
「お弁当作れなかったんだって。購買でパン買ってくるって」
 納得したリューティガーはとりあえずのチャンスだと思い、ポケットの探知機を取り出した。
「あ、それって授業中に落とした機械?」
「う、うん……湿度計……修理してきたんだ」
「科学研究会に入ったんでしょ? 英理子から聞いたよ」
「あ、そ、そう?」
「席、近いからよく話すんだ。英理子、会員が増えたって喜んでたよ」
 屈託ない笑顔でそう話す彼女に対し、リューティガーは何か後ろめたさのような気まずさを感じ、それでも花枝が戻ってくる前に探査をするべきだとスイッチを入れた。

 ESPSW......○
 Range......Lv.1
 CI.........X=18,Y=0,Z=0

 表示内容にリューティガーは息を呑み、笑顔の少女に呆然とした。

 彼女だって……!? じゃあ……いま……なにしてるんだよ……!?

 いざ反応があると、かえって警戒し慎重になる。リューティガーは弁当をぱくつくこの女生徒に探知機が果たして何を検知したのか、言葉にならない怒りを覚えた。


「故障だ……全然だめだねこれは……」
 放課後、階段の踊り場で強くそう言い放つリューティガーに、遼はこれまでにない彼の苛つきを感じた。
「ど、どうしたんだよルディ……」
「どうもこうも……お昼に探知機を使ったんだ」
「昼……ってことは……椿さんと花枝くんか?」
「花枝くんはパンを買いに行ってた……探知機は、おいしそうに弁当を食べてる彼女に反応したよ」
 リューティガーの意外なる言葉に、遼は思わず頭を掻いた。
「故障してる。どこがどう壊れてるのかは帰ってから調べるよ」
「け、けどさ……椿さんが能力者って可能性は……」
「これの機能は説明しただろ? 能力者に反応するんじゃなくって、能力に反応するんだ。どうして弁当食べるのに異なる力がいる? 味覚でも強化してるのか?」
 あまりにも強い彼の語調に、確かに苛つく気持ちもわかると遼は察し、腕を組んだ。
「壊れてるんじゃ……しょうがないな……」
「振り出しだよ……こうも当てにならない機械だとは思わなかった……別のを本部に申請してみる」
 ここまでの機嫌の悪さを相手に見せることは滅多にない。自分はついついこの長身の友人に甘えているのではないか。リューティガーは下唇を少しだけ突き出し、壁に寄りかかった。
「な、なぁルディ……ちょっとさ……相談があるんだけど……」
「な、なんだい?」
 彼から相談事など珍しい。リューティガーは鬱憤を向けてしまった償いに、今度は自分の番だと背中を浮かせた。
「C組の岩倉って奴がいるんだけどさ……岩倉次郎……」
「え、ええっと……ガンちゃん?」
 愛称を口にしたリューティガーに、遼は驚きの目を向けた。
「一度……港で会って……話したことがあるよ……あの太ってて大きい人でしょ?」
「そうそう……じゃあ……記憶力がいいってのは……?」
「あれは……記憶力がいいっていうのかなぁ……暗がりで……遠くから僕だと見つけて……すごい確信だなって思ったけど」
「すごいんだよ。昔テレビに天才少年で出たこともあるんだぜ。記憶力で」
「へぇ……そうなんだ」
「でだ……相談なんだけどさ……岩倉次郎を……仲間に引き入れたいんだ……」
 遼の提案に、今度はリューティガーが紺色の瞳に驚きの色を浮かべた。
「高川みたいに戦うことはできないと思う……けどさ……もし俺の予想が正しければ、これから凄く役に立つと思う……」
「そりゃ……仲間は多いにこしたことはないけど……ガンちゃんを……?」
 温厚で人懐っこく、争いとは無縁な男子生徒。リューティガーにとっての、それが岩倉次郎に対する乏しいながらの印象である。
「最終的な判断はお前に任せる……俺は近いうちにある実験をしようと思う……もちろんある程度の事情は話すことになるけど……いいよな」
 積極的に仲間を増やそうという遼の気持ちは嬉しく、そのやる気を萎えさせるのは避けたい。リューティガーは眼鏡を直し、「ガンちゃんにだったら……いいよ……ただし口止めはしておいてくれ」と、念を押した。

 実験には自分と岩倉の他に、もう一人適当な対象が必要である。それを一体誰にするのか、リューティガーと別れ、下駄箱に向かっていた遼は、すれ違う生徒たちをちらちらと見ながら思案していた。

 俺がガンちゃんにタッチしたまま……誰かの頭の中を覗く……でもってそいつの記憶がガンちゃんのみたく見えて、消去とか自在にできりゃ実験は成功だ……俺とあいつが協力すりゃ、人の記憶をどうにでもいじることができる……

 それは悪魔的な思いつきだった。記憶の消去が自在に出来れば、行動の選択肢はずっと広がる。リューティガーたちを誤魔化しながら、蜷河理佳と再会することも容易になるはずである。
 後ろめたさは若干ではあるが手元を狂わせ、遼は履き替えようとした靴を床に落としてしまった。

 なーに躊躇ってんだよ俺……慎重にやればいいんだ……

 リューティガーがあまりにあっさりと了解してしまったのも、躊躇の原因かもしれない。
 最近、特に高川が仲間に加わってからの彼は、これまでにない側面を見せることがある。妙に冷淡と言うか、感情のスイッチが断線しているかのような、そんな一面である。
 しかし、FOTを壊滅させれば同盟という組織の本部へ帰ってしまう、つまりは期間限定の仲である。彼のことを深く理解する時間はないだろうし、そもそも大して興味はない。遼は気を取り直して靴を拾うと、履き替えて駐輪場へと向かった。

「まだ懲りんのか貴様は!!」

 良く通った低音である。口調も合わせて判断すると、あれは高川の声だろう。遼はヘルメットを抱えたまま、声がした方角へ向かって駆けた。

 用具室の裏手では、高川典之とトレンチコート姿の見たことのない青年が向き合っていた。
 青年は高川に負けないほどの長身で、体格もしっかりとして足が長く、尖った顎をした整った顔立ちである。よく観察しても、やはり見覚えのない彼に、高川は何を怒っているのだろう。そう思った遼は自分の存在を示すべく、わざとらしく地面を蹴った。
「島守か……」
「どうしたんだよ高川。誰です?」
 遼に問われた青年は小さく一礼し、「那須と言います……内閣特務室捜査官です」と自己紹介をした。
 内閣捜査官。耳慣れぬ言葉に遼は乏しい心当たりを探ってみた。
「えっと……刑事……っスか?」
「正確に言えば違いますが……まぁ、似たようなものだと思ってください」
「なんの……捜査……ですか?」
 那須と高川の背後にある用具室は、蜷河理佳がつるりん太郎を殺害した因縁のある場所である。刑事と似たような存在が捜査をする理由は、本来いくつかあり、自分はそのいずれにも中心人物として関わっている。遼は警戒心を強め、ヘルメットを強く抱え込んだ。
「ええ……まぁ、色々と……」
「はるみさんは何も知らんのだぞ!! しつこく聞き込みなど、貴様の個人的な事情ではないのか!?」
 食い下がる高川を手で払った那須は、遼に近づいていった。
「君、名前は? どこのクラス?」
「島守遼……1年B組ですけど……」
「B組……島守……?」
 教室ジャックの調書は一通り読んだ那須ではあったが、島守という名前に覚えはない。名簿ではどうだったろうと彼が記憶を辿っていると、背後から強い意が向けられることに気付いた。
「高川君だったか……いい加減にしないと公務執行妨害で警察に突き出すぞ……」
 肩を掴みに伸びてきた手を避け、那須は毅然と高川にそう告げた。
「き、貴様……!!」
「別に私は神崎はるみさんでなくても、情報が集められるのなら君に対して聞き込みをしてもいいんだ。どういう勘違いかは知らないけど、言いがかりは勘弁してくれないか?」
 怒れる高川に対して取り乱すことなく、冷静さを保ち続ける那須という捜査官に、遼はさすがに相応の経験を積んでいるのだろうと感心した。


 せやけどなぁ……F対が単独で、どない目的で聞き込みしてるんやろな……

 教室の窓から用具室の方を見下ろす花枝幹弥は、ヘッドフォンによって遮断された聴覚で、三人の言葉を感知していた。

 檎堂(ごどう)はんは……F対はしばらく勢力勘定に入れへんでいいゆうてたけど……修正の余地ありやな……

 これ以上の盗聴は無意味だろう。そう判断した花枝は、今度は自分の聞いた内容を情報として整理し、それを遥か離れたある男へ跳ばすべく、意識を集中した。

 檎堂はん……きっちり受け取ってな……

8.
「どこも壊れてはおらん……」
 居間にやってきた健太郎は、ソファに座るリューティガーに探知機を手渡した。
「そんな……馬鹿な……」
 信じられない。彼はそんな目を、青黒き異形の者へ向けた。
「データの詳細を分析してみたが……」
 健太郎は若き主の横に腰を下ろすと、右肘を背もたれに乗せた。
「反応があったケースについて、共通した点がある。全て、一定の微弱な脳波を捉えている」
「微弱?」
 リューティガーは隣に座る健太郎を横目で見上げた。
「種別はおそらく念動系。俺も専門ではないからこれ以上は同盟に依頼した方がいいと思うが……」
 微弱な念動力を継続して使う。健太郎の分析から導き出される、最も単純な結論はそれである。しかし、弁当を食べたり授業を受けたりしている間中、ずっと使っている念動力とはいったい何であろうか。その目的を推理しようにも、どこからアプローチしてよいのかリューティガーは悩み、膝の上で指を組んだ。
「椿梢とは、もうどんな娘ネ」
 お茶のセットを運んで来た陳が、考えを巡らせているリューティガーにそう尋ねた。
「普通の子です……ただ……体育はいつも休んでて……心臓が悪いって前に言ってました……」
「病気かネ……」
 異なる力の持ち主であれば、ましてや念動力の使い手だとすれば、持病など克服することができるのではないか。陳も健太郎の報告に首を傾げた。
「あ……いや……待てよ……」
 少女の健気な笑顔と同時に、強烈な閃きがリューティガーの脳裏を照らした。そうか、その可能性ならあり得る。思わずティーカップを手にした彼だったが、それはまだ注がれる前の空だったため、勢いで高く掲げてしまった。
「坊ちゃん……」
 心配して手を見上げた陳に、リューティガーは紺色の目を大きく見開いたまま、「そう……無意識です……おそらく……」とつぶやいた。


 翌日、教室にやってきた花枝幹弥は、窓際の席で椿梢と吉見英理子が言葉を交わしているのに気付き、声をかけようとしたがそれを諦め、自分の席についた。
「おはよう。花枝くん」
 隣の席の内藤弘(ないとう ひろむ)がそう挨拶したものの、彼は「ああ」と短く返しただけで、ヘッドフォンを耳に当て、窓際の席へ意識を集中した。
 花枝幹弥は二つの異なる力を使いこなせる。そのうちの一つが盗聴であり、彼は遠く離れていても、どれほど分厚い壁があっても、対象に意識さえ向けられれば、その音情報を正確に感知することができる。

 裏切り者、アルフリート真錠の送還、もしくは抹殺のため派遣された先発隊のリーダー、リューティガー真錠に叛意の兆し有り。檎堂、花枝の両名は直ちに日本国に赴き、その監視を行え。なお、それと同時に同国における各勢力の情報収集も行うこと。

 ハルプマン作戦本部長の指令は簡潔であり、だからこそ範囲も広く、現場での活動には限界もあり、全ての要求を満たすことは不可能である。仁愛への転入は相方で上位者である檎堂猛のアイデアであり、貴重な時間を学校生活で消費してもいいのかと、花枝は当初は反対したが、那須の登場や、連日に亘るリューティガーに島守、そして高川も交えた密談は盗聴する価値があり、最近では椿梢に対し遊び以上の好意が芽生えつつあるので、これはこれで重要なポジションで任務を遂行しているようにも思える。
 賢人同盟の利害を考えれば、監視する対象はあくまでもFOTである。案の定、会談を
盗聴した際に、幼女の外見をした赤毛の化け物に襲撃もされ、彼らの本気度合いがよく理解できた。しかし、檎堂の判断では優先順位はリューティガーの方が高く認定されていて、その点については腑に落ちない部分もある。
 ハルプマンにこの作戦を立てさせたのは、本部の「中佐」と呼ばれる人物であるとは耳にしている。そして、その「中佐」が最近、FOT討伐を目的に組織内での権限を強化しているというよからぬ噂を、オペレーターの女性陣から聞きもした花枝である。

 FOTは、彼らの知らぬうちに、様々な者の思惑で存続を黙認されている。

 突拍子もない思いつきであり、檎堂に話せば怒鳴られるのは目に見えているが、花枝は自分の考えに一定の自信を持っていた。
 しかし、いまそんなことはどうでもよい。いまは二人の少女が自分の話題でもしていないか、そちらの方が気になって仕方がなかった。

「でさ、今日ぐらいからケージに出すってお店の人が言ってたのよ」
 吉見英理子の言葉に、椿梢は両手を合わせ、口元を綻ばせた。
「じゃ、じゃあ帰りに見に行こうよ!!」
「いいよ。けどほどほどにしとかないと。あんまり興奮しちゃだめよ」
 前の席で交わされる言葉に、更に後ろの席に座る河井という女生徒が反応した。
「なになに? なんの店?」
「商店街のペットショップ。こないだ生まれたトイプードルが、今日から見られるんだって」
「ふーん……」
 吉見英理子にそう説明されたものの、河井はあまり興味を示さずに授業の準備を始めた。

 ナイス突っ込みや河井はん……おかげで何の店かわかったし……ペットショップか……梢ちゃん、自分が心臓弱いから、元気な動物がきっと好きなんやな……

 今ひとつ自分に対して好意を向けてくれない彼女に、プレゼントの一つでもすれば高感度がアップするかもしれない。そう思っていた花枝である。彼は仔犬を抱えた少女の笑顔を想像し、人差し指の第一関節を口に当て、嬉しそうに微笑んだ。


 昼休みの教室はがらんとして、リューティガー真錠と椿梢、そして最近では花枝幹弥の三人だけが、ここを食事場所として利用している。この日も三人は、リューティガーを中心に固まり、弁当を食べていた。
「このアスパラガス、美味しいですね」
 料理の技術においては、陳とは比較のしようがないものの、リューティガーは椿梢の弁当をたまにこうして食べる度、言い知れぬ充足感を得ていた。
「そ、それママにも褒められたんだよ」
「ですよね。味がよく出てますもの」
 いちゃついているようにしか見えない二人を、トマトサンドを齧りながら花枝は不満そうに見つめていた。
「最近……朝がつらくってさ……弁当作るのって面倒だもんなぁ……」
 花枝がそうぼやくと、椿梢は目を閉じ、「学食も美味しいよ」と素っ気なく返した。

 どうする……いつ……切り出す……

 椿梢の作ってくれた弁当を食べながら、リューティガーはどのタイミングで彼女に話をしようか、それを考えていた。
 健太郎が言うように、探知機の故障でないとすれば、自分の予想が正しいとすれば、椿梢は間違いなく“異なる力”を使う能力者である。その事実を彼女自身が隠しているのか、それとも気付いていないのか、彼は確かめる必要があると思っていた。以前のように二人きりの昼食ならいつでも探れるものの、最近では花枝がべったりと引っ付いているせいで、それもままならない。リューティガーはあらためて、髪を茶色に染めたタレ目の転入生に注意を向けた。
「きっつい一言だなー梢ちゃーん」
「だって、花枝くんの分まで作れないもの」
「わ、わかってるんなら余計つれないぞ、ほんと」
「花枝くんってさ、どうして無理して標準語使ってるの?」
「え? そ、そうかい?」
「なーんか、言葉の順序っていうか……お笑いの人みたいなんだもん。京都って言ってたけど、関西弁なんでしょ? 本当は」
「ま、まぁ、そうだけど……東京に来たからには、こっちの言葉使わないといけないと思ってさ」
「ふーん……あ、そうそう、修学旅行って京都らしいね」
 話題を振られたリューティガーは、「そ、そう?」と甲高い声で返した。
「ほんと?」
 牛乳をひと飲みした花枝が、身を乗り出した。
「うん、今年の七月だって川島先生が言ってたもの」
「かー!! 祇園に合わせるんか!? 人、多過ぎだぞ!!」
 関西弁と標準語を混ぜ、花枝は面食らって椅子の前足を上げた。
「祇園って?」
 リューティガーがそう聞いてきたので、花枝は面倒くさそうに、「祭りや。京都で一番のな」と答えた。彼が初めて自分に返事をしてくれたので、リューティガーは何だか嬉しくなり、「祭りですか」と明るく返した。


 七年前に食べたアンパンは、これと違う味だったろうか。
 同じだったような気もする。いや、もう覚えてはいない。

 病院の給水タンクの側で、双眼鏡を覗きながらパンを齧ったマサヨは、教室で弁当を食べる三人が、自分と比べてとても楽しそうに見えた。
 リューティガー真錠に恨みなどない。第一、あの栗色の髪をした男が何者なのか、自分はまったく知らないし、興味もない。
 二日前からここで1年B組の教室を窺っているが、自分より若干年上である生徒たちは実にのんびりとした高校生活を送っている。これまでずっと暗所に生きてきたせいか、そう感じられて仕方がない。
 あんなにも無邪気に笑い、つまらないことで小競り合いをし、毎日決まった時間に授業が開始される安定したのんびりとした世界。いっそ学校ごと襲撃するのも面白い。近くに動物園があれば、最強の軍団を率いてあの正門を突破するのに。
 張り込みによる緊張は、マサヨの精神に変調をきたし始めていた。ただでさえ久しぶりの外界である。年齢的に自己制御に長けているはずもなく、孤独な監視は彼を荒ませつつあった。


 近持教諭のホームルームも短い方ではあったが、後任の川島比呂志はもっと素早く、用件を早口で告げ、他に報告がなければ、「じゃーなー」と挨拶も半ばに教室から出て行くのが常である。
 今日も川島が教壇から降りるのと同時に、生徒たちの大半が椅子を引き、散漫とした空気が教室じゅうに広がった。

「前もそう……私は年明けでいいって言ったのに、そっちの都合に合わせて大晦日にしたのに」
「ご、ごめん……どうしてもその日は都合つかなくってさ……」
 雑然とした教室の出口付近で、戸田義隆が権藤早紀に申し訳なさそうに頭を下げていた。何事だろう。そもそもあの二人は最近よく言葉を交わしているが、付き合っているのだろうか。そんな関心を抱いた遼は、学生鞄を手に席から立ち上がった。
 椿梢の能力に対する自覚を調べるのには、島守遼の触れた相手の心を読む能力が最も都合がいい。昼食の後、そう思いついたリューティガーは、出口へ向かおうとする彼へ声をかけようとしたが、その前を神崎はるみの背中が遮った。
「島守!! 今日は通し稽古あるんだから、急がないと平田さんに怒られるわよ」
「あーそうだった……通しだったよな……」
「しっかりしてよねほんと。行きましょう」
 はるみは遼の手首を掴み、つかつかと教室から廊下へと出て行った。
 声をかけるタイミングを逸してしまったリューティガーは、それではなんとか自分で聞き出すべきだと方針を変更し、窓際へ意を向けた。
 そこにいるはずである椿梢の姿は、吉見英理子と並んで、廊下へと出ようとしていた。
 いちいち……タイミングがずれる……!!

 苛ついた彼は慌てて学生鞄を手にすると、二人の少女の後を追い、教室前部の出口へと向かった。すると、茶色い髪が右から左に揺れ、垂れ下がった目がリューティガーを見下ろした。
「花枝くん……」
 立ち塞がった転入生に、リューティガーは眉を顰めた。
「わかってるはずやし、俺もわかってるつもりや……なぁ真錠」
 本来の関西弁で、花枝は低い声で凄んだ。
「な、なにをですか……」
「実際自分は梢ちゃんのこと、大して想うとらへんやろ。せやけど、俺は違う」
 “わかっている”とは彼女の異なる力ではなく、そんなくだらない感情についてのことか。リューティガーは小さく息を吐き、追跡の妨害をする花枝に対し、実につまらない人間だと冷淡な感情を抱いた。
「なんやその態度は……!?」
 馬鹿にされている。そう感じ取った花枝は、自分の肩をリューティガーの胸板にぶつけようとした。
 無意識である。こうした身体を使った暴力への対応は、運動神経レベルで刷り込まれている。彼は身体を横流して、ぶつかってくる相手を受け流した。
 なにやら転入生同士がもめている。物音と挙動でそう察した同級生達が、出口近くでバランスを崩す花枝と、「ごめんなさい、花枝くん!!」と叫び、廊下へ駆け出していくリューティガーの姿へ注目した。

 廊下へ出たリューティガーは、二人の少女の後姿を探したが、すでにそれはなく、仕方なく彼は階段へ向かった。
 下駄箱の辺りで追いつくだろうか。しかし追いついたとしても、吉見英理子と一緒であれば、話はできない。二人が電車に乗り、どの時点で別れることになるのだろう。椿梢の家は自由が丘だと以前聞いたが、吉見英理子の方はそこまで知るほどの親密さはない。とりあえず駅まで先回りしよう。そう結論に達した彼は、階段を駆け上がり、屋上へと向かった。

 それを目で追った花枝は、やはりリューティガーは彼女のことを何も知らない。それにしてもドン臭い奴だと鼻で笑い、駅前商店街のペットショップを思い浮かべた。


「この小刀は……一文字家に代々伝わる宝刀……これをあなたへ……私の愛の形として、受け取ってくださいまし……」
 膝を付き、瞳を潤ませ遼を見上げたはるみは、声を震わせテンポよく、その台詞を口にした。
 上手くなっている。芝居に関してはまだまだ素人の遼ではあったが、神崎はるみの感情表現に、ますます磨きがかかっているのはよく感じられる。彼は顎を引き、気圧されないよう胸を張り、身を屈めて彼女が差し出した極太マジックペンを受け取った。
「このような物を拙者に……愛姫……そなたの愛……しかと受け取りましたぞ……」
 ペンを手にしたまま、遼ははるみの肩を抱き起こし、その瞳を見つめた。
「直治さま……」
「愛姫……」
 彼女の役名を口にした遼は、本来ここで見つめ合うはずだった、黒く長い髪の少女をふと思い出した。
 蜷河理佳。彼女はいま、どこでどうしているのだろう。顔無しの化け物から自分を守ってくれて、血に塗れた彼女。

「ごめん。もう、いられないや」

 その言葉を残し、走り去っていった彼女。曖昧な状況判断と真実の人の人柄に対する思い込みで、現在は安定していると、そんな気がするが、最悪の予想をしたくないだけの、それは誤魔化しなのかもしれない。

 裏切り者は……苛酷な処罰だってあり得る……俺は……その可能性から……逃げてるのか……?

 そちらの方向へ意識を向けるのなら、こうして芝居の稽古などしている場合ではない。今すぐ外に出て、手がかりを集めるため走り回るべきである。
 声を嗄らし、泣き叫び、儚げな彼女を求める自分。そんな姿が容易に想像できる遼である。

 違う……全然っ……違う……それじゃ……迫れない……一歩も近づけねぇ……

 賢いのだろうか。いや、それとも冷淡なのだろうか。リューティガーと同様に、自分にも妙に醒めた、そんな一面があるのか。いや、確実にある。少なくとも演劇部に入る前の自分はいまよりずっと、人との関わり合いを避けてきたし、退屈ではあったが気楽な毎日だったはずである。

 でだ……こうしてぼうっとしてると……やばいんだって……

 次の芝居はよくわかっている。しばしの見つめ合い。そして抱擁。平田先輩にどやされる前に、遼ははるみを抱きしめた。

 理佳ちゃんよか……しっかりしてる……肩なんか特に……

 それが神崎はるみの感触である。遼は感慨もなく少女を抱きしめている自分にうんざりし、奥歯を噛み締めた。

 すると、両腕を通じ、彼の意識へある言語情報が流れてきた。

 島守に……今日こそ……聞き出す……DVDのこととか……負けない……怖くない……真錠と触れ合って……消えたのは見間違いなんかじゃない……どうせ……こいつは……こうしてても……理佳のことでも考えてるんだ……

 散らかった、雑然とした意識だった。それだけに、内側に大切にされている混ざり気のない本音なのだろう。はるみが確信し、決意した事実に遼は驚き、堪らず彼女から身体を離した。

9.
 雪谷大塚駅前の商店街は、夕方になるとそれなりの活況を見せる。買い物に来る老人、仁愛高校の生徒たち、小さく狭い通りを皆はそれぞれの目的で訪れていた。
「うっわぁ……」
 ショーウインドーの前で身を屈めていた椿梢は、目の前で舌を出すチョコレート色をした毛の固まりに、頬を引き攣らせ、口元をむずむずと歪ませ、どうしていいかわからず、隣にいた吉見英理子の肩を掴んだ。
「ねぇねぇねぇ。ちょうどいい頃だよ。この子って!!」
 生後数ヵ月だろうか。犬種は確か、トイプードルである。眼鏡とウインドー越しに動き回る仔犬を見下ろしていた吉見英理子は、「元気だよねぇ……」と分析とは異なる感想を漏らした。
「鳴き声とか聞きたいな。店の中に入ろうよ」
「ん」
 二人の少女はペットショップの店内に入り、椿梢は真っ先に店外から見ていたのと同じケージへ向かい、吉見英理子は友人が喜びそうな、心臓の心配などまったくしていない元気な動物は他にいないかと店内を見渡した。
 少女の視線が、ちょうどぐるりと見渡した真後ろで止まった。
「ふーん……花枝くんってねぇ……」
 入り口のガラス戸越しに、友人の背中へ手を振るこの転入生は、まるで自分の存在など眼中にないようである。ため息を漏らした吉見英理子は、トイプードルの仔犬に熱中する椿梢の肩を人差し指でつついた。
「な、なぁに英理子?」
「ストーカー……どうする?」
 しかし椿梢は仔犬から視線を離さず、英理子の理解し難い言葉に、「えー……」と何もかも保留にするような声を漏らした。すると、花枝が店内に入った。有線放送から流れている歌謡曲に合わせて鼻歌を奏でながら、彼は彼女の隣に首を突き出した。
「へぇ……格子のケージとは古風やな。いじましいなこいつ。懸命や。チンチラか?」
 関西弁でそう言った茶髪の同級生に、椿梢は眉を顰め、その友人は腕を組み、首を小さく横に振った。
「むっちゃくちゃ……チンチラは猫でしょ……これ、どう見たって犬じゃない」
「やかましいわ。友人Aは黙っとき。俺は梢ちゃんに用があるし」
 いつの間に関西弁の比率を増やしたのだろう。その言葉は彼の心理的変化を分析するのに適当な材料ではあったものの、これ以上関わるのはデメリットも多いだろうと、英理子は、「はいはい友人Aは黙りはります」と返して亀の水槽に視線を移した。
 亀もあくびをするのか。眼前のミドリガメが大口を開けたのに興味を抱きながら、英理子は背後の二人からは注意を逸らさないようにしていた。
「用って……なんだろう?」
 ケージの格子に指を当て、仔犬をじっと見つめたまま、椿梢の横顔がそう言った。なんて広くて綺麗な額なのだろう。動物臭がどうにも辛かったが、花枝幹弥はそれを堪えて、仔犬よりずっと愛らしく思える彼女に見とれていた。
「花枝……くん?」
 少女の大きな瞳が、彼の垂れ下がった目をようやく見上げた。
「あ、い、いや……なんでもあらへん……用って程でも……ないし……」
「変なの……まぁ……いつものことか……」
 最近では随分と言うようになったものである。それほどこちらを馬鹿にしているのだろうか。いや、これは親しさの顕れと言ってよいはずである。花枝は、「犬、すきか?」と少女に尋ね、「うん。元気だし。ほら……胸とか……すっごい動いてて……」との返事に大きく頷いた。
「こうたろうか? なんぼやろ?」
「い、いいよ……」
「遠慮せぇへんでもええ。金ならごっつあるし。心配せぇへんといてや」
 生々しい関西弁に椿梢はうんざりし、しかし悪意など微塵もないこの同級生を、決して傷つけてはいけないと思った。
「だーめ。だってうちのマンション、ペット禁止だもの」
「な、ならあっちのはどうやろ? ネズミやったらええやろ。鳴き声小さいし」
「ハムスターっしょ……」
 ハムスターのケージを指差す花枝に、英理子はからかい半分でそうつぶやいた。
「きっついし……梢ちゃんの友人Aは……」
 英理子は、そう言いながら笑顔を向ける彼を、少しだけ面白い人物だと感じ、店内の他の客も彼の悪怯れない屈託のなさに好意的な様子だった。

 雪谷大塚の駅に出現し、それから二十分ほど改札へ続く階段の前で待っていたリューティガー真錠ではあったが、椿梢と吉見英理子の姿は一向に現れず、彼女たちの足を考えれば絶対に先回りができていると確信していた彼は、商店街へ向かって歩き始めた。

 喫茶店とかかなぁ……どうだろう……

 普段は瞬間移動により、学校とマンションを直接行き来しているリューティガーである。雪谷大塚の駅前商店街は見慣れず、彼は不案内な商店街をきょろきょろとしながら目的である少女の姿を探した。

 いた……!! 花枝くんもか……!!

 ペットショップの中に椿梢と花枝幹弥の姿を見つけたリューティガーは、どうしたものかと考えつつ、とりあえず店へと向かった。


 どこへ……向かうつもりだ……!?

 栗色の髪がある店へ入っていくのを確認したマサヨは、毛皮のコートのフードを上げ、靴屋の角に身を潜めた。
 仁愛高校の対面にある病院屋上から、彼は1年B組の教室をはじめとする、いくつかの場所を双眼鏡で監視していた。
 教室からリューティガーの姿もなくなり、今日の監視も終了だ。さてどうやって襲撃するか、そろそろ決めなければ。そう思っていた彼は、なんとなく双眼鏡を駅前へと向け、そこで再び栗色の髪を発見し狼狽した。なぜ、こんなにも早く、700mは離れた駅前に彼は存在しているのだろう。たまらずマサヨは屋上を後にし、駅前へと向かい、今は通行人に訝しがられながらも尾行を続けている。

 なんだ……あれは……犬を……売っているのか……!?

 リューティガーの入っていった店に、何本もの毛だらけの尻尾が左右に振られているのに気付いたマサヨは、ようやく巡ってきた幸運に全身を震えさせた。

 売ってるやつなら……まだ飼われちゃいない……主がいないのなら……使ってやる……僕が主だ……!!

 懐に手を突っ込み、硬い笛を握り締めた少年は、店の裏手へ向かって駆け出した。

「なんでここがわかったんや」
「この商店街……狭いですから……」
「ねぇねぇルディ、この子可愛いよね!!」
 椿梢に腕を掴まれたリューティガーは、トイプードルのケージまで引っ張られ、彼と対峙していた花枝は厳しさを伴った眼光でそれを追った。
「は、花枝くんと一緒に来たの?」
「ううん。英理子と一緒に」
 少女が向けた顎を目で追うと、そこには赤い縁の眼鏡をかけた、だぶだぶな吉見英理子が白い歯を見せ、人の悪い笑みを花枝に向けていた。
「よ、吉見さん……」
「真錠くんも動物好きなの?」
 そう尋ねてきた英理子に、リューティガーは、「まぁ……犬とか……昔飼ってましたし……」と答えた。
「猫とかはどうなの?」
「猫は……個人的には好きですけど、飼ったことはありません。っていうか……ドイツじゃ猫を飼うのは変わり者ですから」
「そうなの!?」
 リューティガーの生真面目な言葉に、椿梢は興味を示し、大きな瞳をより開いた。
「さ、最近では増えてきましたけど……気まぐれな猫は嫌われてるんです。従順な犬はみんな大好きですけど」
「へぇ……ドイツ人って、わがままなんだねぇ……」
 英理子の毒舌に、リューティガーは困った笑みを向け、二人の少女と和やかにやりとりをしている彼に、花枝は嫌味の一つでも言ってやろうかと、背後から近づいていった。

 すると、彼の目の端に、違和感が走った。

 なんや……あれ……

 カウンターの向こう、ペットショップのバックオフィスの扉がゆっくりと開かれ、そこからエプロン姿の女性店員が姿を現していた。それだけであればごく当たり前の光景であり、特に注意を向ける必要はない。

 しかし、その店員は首を両手で押さえ、そこからは赤いものが大量に漏れ、カウンター内で会計をしていたもう一人の店員が、「うぁ」と低く漏らし驚き、財布をハンドバッグにしまった主婦も、異常事態に全身を硬直させていた。

 バックオフィスから現れた女性店員がもう一人の店員に倒れ掛かったのと同時に、主婦は驚きの叫び声を上げ、出口へと駆け出した。
 しかし、ガラス戸は押しても引いても開くことがなく、閉じ込められてしまった事実に主婦はパニックを引き起こし、ペットショップ内に彼女の、「なんでよ!! なんなのよ!!」という叫び声が響いた。
 リューティガーは椿梢を壁際にそっと押し付け、背中を向け懐に右手を突っ込み、周囲を警戒した。
 花枝は両手を泳がせ、開かれたままのバックオフィスへの扉と、カウンター内で蹲る二人の店員に注意を向けていた。
 英理子は急変した事態に怯えながら、友人の傍までゆっくりと、だが無駄のない所作で近づき、彼女の手を握った。
「な、なんなの……英理子……」
「う、うん……どうしたんだろ……店員さん……」
 首から血を流しているのが見えた。首を切られた。もしくは噛まれた。狩猟型の哺乳類は、まず確実に獲物を仕留めるため、柔らかく致命傷になりやすい首筋を狙うと子供の頃、本で読んだことがある。吉見英理子はそんな予想に歯を鳴らせたが、手を握っている椿梢に不安を悟られたくなかったため、目をつぶり、恐怖を押し止めようと頑張った。

 事故ではない。客を招き入れるはずの商店で、唯一通りに面した扉が閉ざされることなど、営業時間中にあり得た話ではない。仕掛けられた。これがリューティガーと花枝に共通した認識であり、彼らは経験と知識から、その襲撃手段への予想も一致していた。

 喉を低く鳴らし、目を赤く輝かせ、口元から垂らした涎には血を混じらせ、それはカウンター内に姿を現した。血まみれの同僚の両肩を抱いていた店員は、彼女が絶命しかけている事実に恐怖し、その原因が、眼前に迫ったあの可愛かった“クロちゃん”であることに気付き、だがその事実を到底受け入れることができずに、ただ震えていた。
 
 花枝の構える場所から、カウンターを隔てた中の様子は詳しく認識することはできなかった。しかし現れた黒いラプラドール犬は大型だったため、自分の予想が的中した事実を確認することはできた。

 リバイバードッグかいな……せやったら……ルーラーはどこや……外から扉を閉ざした奴は……どこや……

 赤い目、人間を襲い、その肉を食らうのが、不死のダーツによってリバイバー化された動物の特徴である。悲鳴と絶叫がカウンターの中から発せられ、もう一人の店員は黒き狂犬に喉元を噛み付かれた。リューティガーはその惨状から目を背けることなく、だが二人の少女には見えないように気を遣いながら、花枝という“素人”が比較的冷静である事実に違和感を覚えた。

 不死のダーツは……第二次ファクト崩壊と同時にロストテクノロジーと化しているはず……残党以外に用いるのは不可能……奴め……僕が狙いか……!!

 花枝への違和感より、今はこの状況をどう乗り切るかが先決である。リバイバーはその存在だけでは戦力としては自由気まま過ぎ、必ずそれを音波などで操る“ルーラー”と呼ばれる人間が存在するはずである。カウンターの中で二つの遺体を貪るあの黒い犬は本命ではない。震える椿梢たちを安心させるため、リューティガーはその背中をより近づけ、「大丈夫……大したこと……ないですから……」と優しくつぶやき、閉ざされた扉に生存の拠り所を求め、足掻き続ける主婦が一番厄介でイレギュラーな要素であると嫌気した。

 いっそリューティガーに正体を打ち明け、結託でもしてしまおうか。花枝は眼前で繰り広げられる凄惨な光景に手で口を押さえ、背後にいるはずである彼との共闘を考えてみた。
 いや……あかん……こないな程度で……種明かしはでけへん……

 だが自分の得意とする異なる力、脳内に大量のデタラメな無駄情報を送り込み、情報過多(インフォ・オーバー)状態にし、行動力を奪う必殺技の“DEAD OR ALIVE”は人間以外に通じるのか。初めての敵に花枝は不安になり、だが最も優先するべきことは自分が慕うあの少女の身を守ることであろうと、狂犬に背を向け安全を確認しようと決意した。
 その挙動が察知されたのか、はたまたどこからか操るルーラーが気付いたのか、二人の店員を噛み千切っていた黒い化け物が、花枝に向かって飛び掛かった。
 右手を前に出し、花枝は襲撃してきた犬に対し、意識を集中した。

 動いた。そう認識したリューティガーは、懐に握り締めていた拳銃から手を放し、両手を広げた。
「し、真錠くん……ど、どうなってるの……!?」
 彼に遮られているため、店内の様子を窺えない英理子がそう尋ねた。
 大丈夫ですから。繰り返し告げようとしたリューティガーだったが、右側から接近する素早い影に、彼は腰を低くした。

 猫……!?

 白い固まりが、彼の突き出した右肘に喰らい付いた。まだ小さく、生後数ヵ月と思しき幼さだが、その白猫の目は赤く輝き、顎の力は小型のアリゲーター並である。
 学生服の上着とコートを着用していなかったら、生腕なら一撃で食い千切られていたかもしれない。かろうじて左手で上あごを押さえたリューティガーは、その場に仰向けに倒れ、子猫が人を襲うという異常事態に、二人の少女は驚愕した。

 二人の視線があるうちは、これを空間に跳ばすことも頭部を握りつぶすことも出来ない。混戦状態を冷静に分析しながらも、リューティガーは事態の不都合さに奥歯を噛み締め、尚も右肘を食い千切らんとする真っ白な悪魔に苦戦していた。

 ペットショップの小窓から、マサヨは中の様子を注意深く観察していた。口に当てた銀色の笛は、だが人間に感知できる周波数を発することはなく、彼の意思を二匹のリバイバーへ伝えていた。この笛があれば、自在に戦力として操ることができる。七年ほど前、彼にこの技術を指導してくれた、あの黒髪の少女は異なる能力を持った民間人に倒されたと聞く。反撃のタイミングを得られてはいけないと、彼は三本目になるダーツを小窓から店内目掛けて放った。

 数は多いが、どれも幼いのが戦力として心元ない。であれば量に頼るしかなく、果たして三本目のダーツは二人の少女のすぐ側にあったケージの格子を通過し、中にいた茶色い固まりに命中した。

 混乱である。花枝は襲い掛かる黒犬に壁際まで追い詰められ、リューティガーは床に仰向けになったまま白い子猫に苦戦し、たまたま店内に居合わせた主婦は扉を何度も前後に押し引き、絶叫を上げていた。そして三匹目の化け物が、二人の少女にその狂った獣性を向け、自由を奪っていたケージの柵を、急成長を果たした頼もしい牙で食い破り、外界へと飛び出した。

 顎を撫で、黒い目をその度に輝かせ、その場で跳ねていた。これは間違いなくあのトイプードルである。側面から飛び掛かってきた茶色の毛をした、すっかり目を赤くさせた凶暴なそれが、自分の喉元を目指しているのを察知した椿梢は、困惑するより先に、ごく近い未来の生存を疑った。

 い、や、だ……

 だましだまし、ここまでなんとか生きてきた。十六年間、父と母を心配させながら、小さな自由を満喫してきた。トイプードルは可愛いし、その元気さは羨ましくも思える。けど、それに命を閉ざされることなど受け入れられるはずもない。
 立ち向かうのに、逃れるのに、少女の全細胞が選択を開始した。傍らの友人は両手で頭を抱えてしゃがみ込み、もし自分が逃げ出せば、この小さな悪魔は彼女をターゲットに切り替えるだろう。

 戦わなければ。

 けど、武器がない。
 意識が椿梢の全てを駆け巡り、生き延びるため、常に無意識に胸を常に取り巻いていたそれが、遂に外へ向かって放たれた。

 このサイレンの音は、警察と救急である。七年間マンションの一室で暮らしてきたマサヨは、カーテンの隙間から外を観察していたのでよくそれを知っていた。タイムリミットは案外早く訪れてしまった。彼は笛から口を離すと、二本のダーツを店内目掛けて放り、路地へと駆け出して行った。初戦は、おそらく目的を果たせず騒ぎを生み出してしまっただけだろう。二戦目はいつにする。少年は商店街を駆けながら、懐に収めた残り十五本のダーツに不安を乗せていた。

 目眩に放った二本のうち、一本は偶然にもカウンター脇に鎖でつながれていた、成犬のダルメシアンに命中した。三度目の“DEAD OR ALIVE”にしてようやく黒いラプラドールの意識を壊滅させた花枝は、次なる赤き目をした斑の化け物に、口を手で拭って対峙した。
 あ、あかん……こいつら頭ん中空っぽや……いくら無駄情報送っても、なかなかパンクしよらへん……!!

 なんと相性の悪い敵であろう。花枝は辟易としつつも、店内の状況を素早く再確認した。
「梢ちゃん……!?」
 椿梢の小さな身体が、その友人に抱きかかえられていた。さて、自分は愛しい彼女の元へ参上するため、どうやってこの斑柄の化け物を倒せばよいのだろう。冬だというのに彼は額から汗を流し、苦し紛れに苦笑いを浮かべた。
 花枝は右側面から突然の圧力を感じ、その場に倒れた。押し倒されたような、そんな力の加減である。一体何事だろう。反撃の意志を沸き起こらせながら、彼は右肘を床に着けた。
 目の前に学生服の後姿が見える。その上で揺れる栗色の髪に、花枝はなぜだか頼もしさを覚えてしまった。
「花枝くん……大丈夫ですか?」
「つ、突き飛ばしといて……よう言いはるわ……」
 彼の向こうにいるはずの、狂ったダルメシアンは一体どうしたのだろう。椿梢に向かってリューティガーが駆け出したので、遮る存在がいなくなった彼は状況を今一度確認した。
 しかし、そこにいたはずの化け物となった犬は、まるで初めからいなかったかのように、忽然と姿を消していた。

 跳ばさはった……? これが……奴の力か……

 鮮やかな手際である。よくは認識していないが、彼を襲撃してきた白猫も、おそらく同じ方法で消滅させたのだろう。あらためて花枝はリューティガーの能力を知り、再び額の汗を拭った。

 ガラス戸を叩く主婦は、ようやく到着した警官隊に大声を上げた。彼らは扉のノブからチェーンを外し、彼女はようやく閉ざされていた要因がなんであるのか理解した。
 店内に殺到した二人の警官は、店内の、特にカウンターの惨状に息を呑んだが、やってきた花枝幹弥が、「アホ!! 気絶した子がおるんや!! 救急隊をさっさと誘導しいへんか!!」との要求に気を取り直した。

 椿梢に駆け寄ったリューティガーは、その両肩を抱く吉見英理子の様子から、最悪の事態を免れていると認識し、彼女たちの前に蹲る一匹の仔犬の遺体に気付いた。
 外傷もなく、口から血と泡を吹いて倒れている。リューティガーは胸ポケットから学生手帳を取り出すと、ペンで“死因を調べて”と素早く書き込み、その部分を破って遺体と一緒に空間へ跳ばした。

「よ、吉見さん……」
「真錠くん……梢が……梢がぁ……!!」
 泣きながら、救いを求める英理子の肩を、リューティガーは腰を落として軽く叩いた。
「大丈夫です……気を……失ってるだけみたいですから……」
 かつて幼い頃、倒れている者や介護する者の様子から、その状態を把握する術を叩き込まれていた。呼吸も脈も、乱れてはいるがこれなら救急隊員に任せても大丈夫だろう。少女の手首を掴んだ彼はそう再確認すると、花枝の姿を店内に探した。
 白衣の者たちが担架を運び込むのと入れ替わるように、茶色の髪が店外へと逃れていった。なぜ彼は逃げ出すのだろう。そう言えば、彼も黒い犬に襲われていたはずである。どうやってあの、能力が強化され、とても普通の人間では抗することが難しいリバイバードッグを撃退したのだろう。もし遺体があれば、それも陳に調べてもらう必要がある。リューティガーは更に様子を探ろうと立ち上がったが、野次馬が店外に殺到しているのと、二人の警官がそろそろこちらへ注意を向けてくる可能性があったので、そろそろ退散する時期だろう判断した。彼はケージと段ボールの影まで素早く移動し、誰の視線も感じないか確認を済ませ、しゃがみ込んで意識を集中した。

 身体が軽くなった気がする。小さくかかっていた歌謡曲も、もう聞こえない。自分は助かったのか。切れ切れとした意識で、椿梢は担架に乗せられた状況を知覚した。
 ついさっきのことである。意識が途切れる直前、あの栗色の髪をした同級生は、花枝とダルメシアンの間に割って入り、唸り続ける凶暴なその頭を軽く撫でた。
 彼の表情はこれまでに見たことがないほど冷たく、だが颯爽とした凛々しさも同時に感じられた。
 そして、ダルメシアンは次の瞬間、突風と共にその場から消え去った。

 不思議なことがあるものだ。救急車の天井と、心配そうにこちらを覗き込む英理子の泣き顔をぼんやりと認識しながら、椿梢はだが、トイプードルの襲撃が突然停止し、目を剥きながら床へ落下するのも相当不思議な出来事であり、それを自分の意思で引き起こした事実に、再び意識を失おうとした。

 だから……苦しかったんだ……また……動き出してくれた……わたしの……心臓……

10.
 通し稽古も終了し、島守遼は二年生の平田に、自分の台本を見せていた。
「先輩、ここで抱きしめるの、しつこくないですか?」
「追加のハグシーンか?」
「そ、そうです。この後の場面でも抱き締めちゃってますし……」
「間を持たせるのにいい伏線なんだよ。だから言ったろ? 最初のはぎこちなく、次のはもっと自然にやれって」
 赤いボールぺンで台本を叩いた平田は、険しい表情で叱るようにそう言った。
「は、はぁ……」
「神崎さんにも言っとけよ。ってまぁ……彼女の方は、演出プランをよく理解してるみたいだけどさ」
「は、はぁ……」
 論理的に、演出として用意されているのなら抗議のしようもない。すっかり諦めた遼は台本を丸め、とぼとぼと部室の後ろまで向かい、学生鞄とヘルメットを手にした。

 抱き締める度にアレじゃ……やってられないんだよな……

 駐輪場までやってきた遼は、頭を掻こうとしたが手が塞がってることに気付いた。
「島守……ちょっといいかな……」
 背後からの声に、遼はうんざりしながら振り返った。
「神崎……なんだよ……」
「いろいろと聞きたいこと……あるんだけど……な……」
 遼とはるみは、ほぼ同時にMVXの隣に視線を向けた。そこにはいつもなら、岩倉のShadowが停められているはずである。しかしこの日、そのスペースはぽっかりと空いていて、少年は助けが、少女は邪魔が、それぞれ訪れないと確信した。
「舞台のことか?」
「ううん……別のこと……」
 シートの上にヘルメットを置いた遼は、鼓動が早くなっている事実に気付き、深呼吸をしようとしたが、なかなか息を吸い込むことが出来ず、まったくコントロールできない自分の心と身体に苛ついた。
「島守は……たぶんこっちがいくら聞いても、答えてくれないと思うんだ……けど……もう駄目……もう限界……」
 少女は胸に手を当て、側に停められてた自転車のハンドルを握った。
「こないだね……内閣の捜査官って人が……学校に来たんだ」
「那須って……名前の人か?」
 なぜ彼がそれを知っているのだろう。はるみは驚いたが、話題を逸らされては堪らないと言葉を続けた。
「那須さんってね、昔何度かウチに来たことあるんだよ。テロリストにね、家を襲われたり……お姉ちゃんが帰って来る前後とかに……聞き込みに来た刑事さんだったんだ」
「なんだよ……それ……」
 一体彼女は何を話しているのだろう。なぜ那須という捜査官と、神崎はるみに接点があるのだろう。乏しい情報が彼の頭の中を駆け巡り、それは混乱を生みつつあった。
「那須さん……DVDを持ってきたの。私に心当たりないかって」
 いつの話だろう。昔のことなのか、最近のことなのか。一方的な質問責めを覚悟していた遼は、少女の意外な告白めいた言葉に戸惑った。
「こないだの……学園祭のDVDだよ……島守に渡した……ノーラベルのやつ……島守言ってたよね……クリスマスに……芝居のDVD欲しいって……」
 賢人同盟から派遣された追加戦力である十人と合流した晴海埠頭の倉庫。謎の赤い、ロボットのような者に襲撃をされ、壊滅状態となったあの現場に忘れてきたデイパックに、そのDVDは支給品のノートPCごと入っていたはずである。それをなぜ、政府の捜査官である那須が持っているのか。あるいはあの後現場にやってきて押収したのだろうか。
 昨日初めて出会った那須は、自分のことを認識していなかったようである。だとすればあの倉庫に残した物から自分の身元は判明していないということである。判断力を総動員し、遼はとにかく分析に努めた。

 だからこそ、油断も生じる。

 気がつけば洗髪剤の香りまで感じられる、そんなすぐ傍まで彼女は迫っていた。胸に手を当て、懐に飛び込まん勢いで、その瞳には強い意が込められている。

「島守……なにをしてるの……真錠と……二人はなにをしているの……?」
「か、神崎……」
「私、那須さんに嘘をついたの。心当たりないって……だって島守は、なんか大切なことをしてると思えたし……私……小さいころ……見たことあるもの……」
「な、なにをだ……」
「人が突然現れたり……消えたり……あのころのわたしは……ひどくぼんやりしてて……後でお姉ちゃんにすごく否定されたから、勘違いかなって思ってて……けどね……あれは見間違いじゃない……島守たちが消えた後……風が吹いて……それを感じたもの……ううん……知ってたし……怖かっただけだと思う……けど……もう……追いついたってわかったから……」
 抱き締めたときに感じたのと同様の、散らかった言葉だった。遼はバイクのシートに腰を付け、押し出されたヘルメットが地面に落下し、乾いた音が二人の鼓膜を刺激した。
「話さないと……駄目なのか……」
 否定ではない。遼の言葉をそう捉えたはるみは、足の裏まで痺れる感覚に震えた。口元を歪ませた彼女は、彼を見上げ直し、一歩だけ後ろに下がった。
「わからない……どう……なんだろう……」
「ひどいぜ……実際……得になることじゃないし……正しいことかどうかもあやふやだ……お前みたいに正義感の強いのだと……高川みたいに押しつぶされちまうかも……」
「高川君も……そうなんだやっぱり……」
「あ、ああ……」
「そっか……」
 はるみは自分に好意を抱いているはずの同級生が、一言も告げずに先を行っていた事実を知り、遼が寄りかかるMVXの反対側へと回った。
「奴は……戦うことができる……自分の身を守ることだって……俺もそうだ……真錠も……わかるか……神崎……」
 しゃがみ込むと、落ちてしまったヘルメットに付いた土を、はるみはハンカチで丁寧に拭った。
「でもね……わたし……関係してるって……思えるんだ……」
 ヘルメットを抱え込んだはるみは、しゃがんだまま遼に背を向けた。
「い、いや……お前には関係ない……今なら、まだ無関係で済むはずだ……」
 どう説明してよいのか、それは互いにとって同様の問題だった。

 昔っからのこと……これでいろいろわかると思う……けど……なんて言おう……どう伝えたら……理解してくれるんだろう……

彼女の背中から、言葉を受け入れるような、そんな素直さを遼は感じ取ることができなかった。

 なに……ごねてんだよこいつ……興味本位で付いてける話じゃねぇんだぞ……

 いっそのこと、背中から抱きついて気の利いた言葉でもかけてしまおうか。驚かせてしまえば、この場は乗り切れるかもしれない。浅はかな思いつきに、遼は腰を浮かせてバイクに跨ると、はるみのしゃがんだ側へ身を翻した。

 同時に、ヘルメットを両手に持った彼女が、振り返りながら立ち上がった。
 なんという間の悪さであろう。遼は慌ててその場に踏ん張り、バランスを保ち彼女と向き合った。
「島守……さ……」
 声が震えている。人差し指が、ヘルメットのバイザーを丁寧に撫でている。冷たい風が、右から左へ茶色がかった髪に吹き抜けている。

 甘い感覚は、だが島守遼にとっては同時に、恐れるべき誘惑でもあった。

「あのな……!! ごねてんじゃねーよ!! これは俺や真錠、それに理佳ちゃんの問題なんだ!! 本来は、高川だって邪魔なんだ!!」
 はねつけたい一心で面と向かってそう言い切った彼は、彼女の抱えていたそれを奪い取るように引き戻した。
 乱暴なその行為に、はるみは奪われた質量に寒さが入り込むのを感じた。彼女は顔を横に向け、「理佳……!!」とため息交じりにつぶやいた。
 その声があまりにも低く、重かったため遼は腰を引き、気を取り直し、「そーだよ。理佳ちゃんだよ」と突っぱねた。

 彼女の肩が、震えているのがよくわかる。先ほどから吹き付ける、寒さのせいだけではないだろう。
 ぽっかりと、虚しいのだろう。母もなく、小さい頃から一人でいることの多かった遼である。それは、見ただけででもなんとなく理解できた。

「わりぃ……いや……理佳ちゃんとか……この際いいや……理佳ちゃんにも……悪いし……」

 いつもは腹式の豊かな声量であるのに、なんというか細い、喉だけで出している声なのだろう。はるみはゆっくりと彼に向き直った。
「マジで……冗談じゃないんだ……もう、命のやり取りも見た……七年前の事件はまだ終わってない……俺たちの知らない世界で続いてたんだ……それに……いま……関わってる……神崎まで……巻き込みたくない……お前……最近芝居だって頑張ってるし……」

 しかられた子供が謝るような、そんな口の重さである。はるみは入り込んだ寒さがようやく暖まったことを嬉しく思い、両手を後ろに組んだ。

「わかった……今のところは……いいや……」

 “今のところは”少々引っかかるが、とりあえずの窮地は脱したのだろう。遼は息を吐き、頭を掻いた。
「ねぇ島守……」
「あ……?」
「あのね……!! このタイミングで言ったら……怒るかな!?」
 かすかに震えた声で、はるみは胸を張って遼を見上げた。
「な、なにをだよ……?」
「たぶんね……わたし……好きなんだと思う……島守のこと!!」
「はぁ!?」
 自分でも間抜けなほどに裏返った声だと思う。彼は再びヘルメットを地面に落とし、乾いた音が響いたのと同時に、少女は右から左へ全身を流し、追い風に乗ってその場から駆け出して行った。

 取り残された遼は、しばらくヘルメットを拾うこともできず呆然としていた。駐輪場に、それから誰も訪れないのが幸いであった。カラスの鳴き声が頭上を通過し、辺りが暗くなった頃に彼はようやく身を屈ませ、「そっか……」と声に出した。

11.
 救急病院の数と場所は、来日以前に知識として得ていたリューティガーである。椿梢がどこに収容されたか、その病院を割り出すことは大した苦労ではなかった。
 夜の病院はひっそりと静まり返り、学生服の上にコートを着たリューティガーは、中に入ってからだと難しいだろうと判断し、正門近くで小型の通信機を取り出した。
「陳さんですか……仔犬……どうでしたか……」
 そう尋ねたリューティガーの耳に、聞きなれた微妙なイントネーションの日本語が飛び込んできた。
「心血管が内部から破裂してるね。外傷は一切なし。見事すぎる手際よ。間違いなく、サイキのもう仕事ネ」
「そうですか……心血管が……わかりました。始末はお任せします。もうすぐ僕も戻りますので」
 通信機をコートのポケットに入れた彼は、ぼんやりと灯りのついた救急病院のロビーへと向かった。

 リバイバードッグだ……七年前、ガリーナってのが使ってたのとまったく同じ……おそらく、リューティガー襲撃が目的と思われる……檎堂さん……判断を頼む……

 はるか離れたホテルで待機しているであろう、熊のような容姿の中年男性に向かって、花枝幹弥は意識を飛ばしていた。
 五反田の繁華街は、新宿や渋谷に比べると、どうにも貧乏臭いと思える。ネオンの色が、どうにも元気がないようにも感じられるためだろうか。
 居酒屋の汚れた壁に背中をつけ、彼は携帯電話にメールが届くのを待っていた。

 しばらく待って到着したメールには、“襲撃があった場合は速やかに退散せよ”と打たれていた。
 それは当初から示し合わせていた約束事である。リューティガーが敵に襲われていても、一切手助けをしてはならない。巻き込まれないよう直ちにその場から逃れ、あくまでも戦況確認に徹する。
 しかし、あの閉鎖空間では自分の身も危険であり、ましてや無関係な椿梢にその友人もいた。しかし、そんな事情を話しても、あのむさ苦しい相方は容赦なく自分を叱りつけるだろう。ならば正確な報告などする必要はない。

 戦い……なれてる……リューティガー……ルディは場数を相当踏んどる……躊躇いうのが少ないし……

 立場が明確だから、彼はああまでも行動と判断が素早いのだろう。それと比べると、なんと自分は中途半端なのだろう。ただの傍観者。あらゆる勢力を監視し、しかも本部の中佐や作戦本部長に判断結果を報告するのは相方である。
 裏切りなど、考えたこともないし、同盟という組織に逆らうことなどあり得ない。だとすれば、もっと自己判断ができるような立場が欲しい。とにかく、このままでは道化である。警察の取り調べを避けるために、あの場からも速やかに逃れたが、本来なら彼女の手を握り病院まで一緒に行くのは友人であるあの眼鏡の少女ではなく、自分のはずである。
 ヘッドフォンを耳から外した花枝幹弥は、下品で元気のないネオンの空を見上げ、「あー」と小さくも大きくもない、気の抜けた声を上げた。

「き、君は……ルディくんだね!!」
 背広姿の生真面目そうな父であり、その後ろで会釈をするのは、娘同様瞳の大きい、どちらかといえば可愛らしい小さな母である。
 彼女は幸せなのだろうな。挨拶を返しながら、病院の廊下でリューティガーは椿梢の両親を観察し、なんとなくそう感じた。
「梢さんは……?」
「うん……もうすっかり落ち着いてね……君は……梢から……身体のことは……?」
「ええ……ちょっとだけ……心臓が悪いって……」
「そうなんだよ……心血管の奇形でね……生まれつきなんだが……」
 娘の身体について、あまりにも口が軽くないかと妻は夫の手首を掴んだが、「いいんだ。彼になら」と彼は落ち着いた声で返した。
「心臓へ血液を送るべき血管が極端に狭いんだ……いや……圧迫している器官の構造から言うと、本来なら閉ざされたままになってもおかしくない症状だと先生は言ってたんだ……それが奇跡的に、本当に奇跡的にだよ。かろうじて、なんとか心臓が動くギリギリの分だけ確保されていて……だけど激しい運動をしたり、恐ろしい目にあったり……逆に喜びすぎてもだ……とにかく梢は興奮して、鼓動が早くなる度に危険になる……血管の狭さを越える血液が……逆流してしまうからね」
 言いたくて仕方がない。自分たち親子が抱えている問題を共有して欲しい。彼女の父親はそうした気持ちで、だから早口で伝えてきているのだろう。リューティガーはゆっくりと頷き、「そうだったんですか……」と返した。
「梢……いつもルディさんのこと話してて……いろいろ……難しいとは思うけど……これからも仲良くしてやってくださいな……」
 母はそう言うと、娘が休んでいる病室の扉へ視線を移した。
「もちろんです……友達……ですから……」
 リューティガーも病室の扉へ向き、中にいるであろう、小さな、そして強力すぎる能力者である椿梢のことを想った。

 間違いない。彼女は、本来なら心血管異常で生き延びられる身体ではない。
 しかし、異なる力は血管を開かせ、かろうじて彼女の生命を維持し続けている。
 常にである。寝ている間も、楽しそうに友達と話している間も、おそらく無意識に。
 だからこそ、探知機は反応し続けた。事実、ポケットの中のそれは現在も能力の波動を捉え続けている。
 微弱な念動力ではあるが、二十四時間それを使い続けるとなると、余程の集中力と才能が必要である。もしそれを凝縮し、外部へ放つことができれば、強力なる破壊力を生み出すことができる。
 だが、それはすなわち、その間だけ彼女の心血管を本来の形状に圧迫させることを意味する。つまり、外へ能力を向けることは、生命の危険を常に伴うという諸刃の剣、禁じられた力である。
 あるいは訓練すれば、内と外の上手い折り合いが付けられる可能性もある。そうすれば彼女は念動力という一点において、あの死に神殺しに匹敵する魔女になる才能すら秘めている。
 椿梢はこちらに好意を抱いている。事情を打ち明け、訓練し、将来の一つでも約束すれば、島守遼などとは比べ物にならないほど、アテになる戦力だと断言できる。

 馬鹿か……僕は……いいかげんにしろよ……冗談だろ……

 栗色の髪を彼は振り乱した。何も知らず、暖かな両親のもとで生きてきた、そんな少女を修羅の世界へ巻き込ませることなどできるわけがない。奴を倒すために手段など選ぶ必要はなかったが、越えてしまってはいけない一線というものがある。
 いや、違う。自分はとっくに一線を越えている。島守遼、高川典之、近いうちに岩倉次郎もそうなるだろう。彼らを巻き込んでおいて、今更なにを躊躇する必要があるだろう。それにもし訓練の途上、彼女に異変が生じて死んでしまっても、いずれは奴のミサイルでこの首都は壊滅させられてしまう。ならば生き延びるためにも、そう、これは一種の親切である。

 ルディが病室の扉を開こうと踵を浮かした瞬間、背後から呻き声が漏れた。

「ルディくん……一体……なんだというのだろうね……教室ジャックに……通り魔に……今度は狂犬騒ぎ……どうして……梢は……何も悪いことなどしていないのに……なぜあの子が恐ろしい目にあわないといけないのだろうか……」
「あなた……」

 ごく当たり前の、庶民的な感覚というやつである。敵は無差別で、だからこそ関係がない彼女にも危害が加わる可能性も高い。
 だけど、そう、全ては自分のせいである。自分がいるからこそ敵は襲撃を続け、その結果このか弱き夫婦は嘆き、口にしても仕方のない不幸に打ちひしがれている。

 島守遼は、もう顔無しの敵を殺してしまった。なし崩しではあるが、彼はもう事件の中心に位置しているし、敵は彼に対しても狙いを付け始めている。
 高川典之は、戦いたい、自分の技術を高めたいという野蛮な目的から、積極的に事態に参加しようとしている。彼は男だ。それが戦いたいというのなら、止める必要などない。
 岩倉次郎。彼はまだよくわからない。きっと遼がうまくやってくれるのだろう。よくわからない。

 椿さんは……普通の女の子なんだ……僕は……そう……

 最も基本的なことを、リューティガーは見失いかけていた。しかし、手遅れにならずにすんだ。彼は振り返ると感謝の気持ちを込め、夫であり父である男の手を握った。
「いずれ……終わると思います……終わらせられると……思います……」
 リューティガーの力強い言葉に、夫妻は顔を見合わせ、励ましと理解し、ようやく笑みを浮かべた。

 病院から出たリューティガーは、コートのポケットに両手を突っ込み、椿梢がいるはずの病室を見上げた。

 彼女のような存在を、憎むべき敵の手から守るために自分はこの国にやってきた。それが正義というものである。戦うのは男の役目だ。父は昔からそう教えてくれた。兄を倒すため、父の正義に反するなどあってはならない。
 少なくとも、そう決意することは清々しい。二月の寒風は気持ちを凛とさせるには好都合で、この国の冬も悪くはないと少年は感じ、その場から姿を消した。

 自分が敗れた場合、マンションに残したアジュアは一人で生きていかなければならない。
 私鉄のガード下でマサヨはしゃがみ込み、コートの内側に仕込んだ十五本のダーツを確認した。
 自分を含めれば、十六体が彼の全戦力である。ペットショップは駄目だ。閉鎖空間ではあるが、固体が幼すぎるのと、通報される可能性が高すぎる。であればターゲットの住む、代々木という街へ移動するべきだろう。
 少年は立ち上がり、駅を目指した。
 しかしそれにしても街には動物が少ない。七年前の戒厳令下であれば、捨てられたペットが野犬化していて戦力にはそれほど困らなかったという。
 平和な街ではあるが、自由な獣はいない。だからこそ、知恵を絞る必要がある。任務に対する疑いなど、彼には微塵もなかった。妹と二人、社会に出て生き抜いていく。あの狭く暗いマンションで一生を閉ざすのは嫌だ。それだけが、少年の望みであった。

第十六話「禁じられたちから」おわり

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