1.
「すみませんねぇ……喉……乾いちゃって。十二月ともなると、さすがに乾燥しますよねぇ」
仁愛高校1年B組代理担任、川島比呂志(かわしま ひろし)は小刻みな会釈を重ねると、果物が詰まったバスケットからリンゴを取り上げ、思い切ってそれを一齧りした。
よかった。歯茎から血は出ていない。四十を越えた彼は齧り跡を確認した後、ベッドで横になる初老の男性に照れ笑いを向けた。
四人からの相部屋は、いずれも水色のカーテンで区切られていて、最低限このプライバシーは保てるようになっている。
「ほんと、あの店は絶対手放すなって言ったんですよ。それを武雄さん、すっかり先物に財産つぎ込んじゃって、挙げ句は破産でしょ。だからあれほどあの店は絶対手放すなって言ったんですよぉ」
だがこんな環境では二日と持たないだろう。背後から聞こえてくる中年女性の愚痴に片眉を引きつらせた川島は、今一度、見舞い相手の男性に小さく会釈をした。
「新聞で読みました……生徒たちは……大丈夫でしたか?」
一ヵ月ほど前、仁愛高校で生徒たちに数学を教えていた近持弘治(ちかもち ひろはる)は、全身六ヵ所に銃弾を受け、一週間に亘り意識不明の重態となった。幸いにも弾は全て急所を外れ、手術後の経過も還暦を迎えたばかりにしては順調であり、最近では面会も許可されている。だからこそ、その情報を職員室で得た川島は、まずは前任者へ挨拶をしておくべきだろうと、この日曜日の面会は一週間以上前から計画していた。
しかし、先週は仁愛高校を二度目の事件が襲った。雪が谷大塚(ゆきがやおおつか)駅周辺で突如として発生した通り魔殺人の犯人は、数時間後には警察によって逮捕はされたものの、四人を殺傷した包丁を握り締めたまま校門から校内へと浸入し、一時はパニックに陥る結果を招いた。
「幸い怪我人は誰も……薬物中毒だったみたいで、かなりラッキーでしたよ。ほんと」
花瓶を何となく撫でながら、川島は視線を軽く泳がせた。カーテンで仕切られたプライベートスペースはあまりにも狭く、自分と近持の間はほとんど空いていない。初対面だというのにこの近さは一体なんなのだろう。そんな戸惑いと照れが彼から落ち着きを無くさせていて、それは自覚するところであった。
「ただ……西沢速男(にしざわ はやお)が最後の殺害を、下校途中目撃してしまったそうです」
「西沢くんが……」
入院生活というのはやはり人を痩せさせるのだろうか。それともこの老教諭はもともとこのように手が皺だらけで細く、目も落ち窪んでいるのだろうか。答えなど出るはずもない疑問を抱きながら、川島は言葉を続けた。
「まだ学校に出られる状態じゃないそうです。まぁ、現場を見たんなら、仕方ないとは思いますが」
「ええ……そっとしておくべきでしょう……」
PTSDの診断が下されそうだった生徒たちの家庭を訪問し、彼らを脅し、場合によっては暴力を使い、とにかく出席をさせた川島比呂志だったが、欠席を続けているのが一人で、それも親子連れがメッタ刺しにされた現場を見たのであれば、無理矢理引っ張り出すのはどうにも億劫であり、またどうやって説得していいのか、彼には方法も思い当たらなかった。
「それと……沼垣校長は年明けにも辞任するそうです」
自分もよく知っている校長の去就に、近持は分厚いレンズの奥底にある目を濁らせた。「そう……ですか……」
「ツイてませんよ、校長も。教室ジャックに通り魔の乱入っスから。警備や対策の不備をああまで色んな方面から指摘や糾弾までされたら……なんか警備面を強化するそうっスよ」
赴任したばかりであり、期間も限定である川島は、人事のように素っ気なく感想と結果を告げると、リンゴをもう一齧りした。
意外と甘くて旨い。駅前の果物屋で見繕ってもらったお見舞いセットであり、特にリンゴ好きというわけではなかったが、味覚に満足を覚えながら、川島は再び齧り跡を確認した。
「で……西沢はいずれ登校してくるとして……蜷河理佳(になかわ りか)が転校しました」
黒く長い髪が印象的で、どこか儚げな印象を醸し出していた少女のことを、近持はよく認識していた。彼は起こしていた上体を少しだけ浮かすと、小さく咳払いをした。
「蜷河さんが……転校とは……?」
「いや、急だったんですよ。学校休んだ次の日に家の人が電話かけてきて、家庭の都合でオーストラリアに引っ越しますって……ロッカーとかに荷物そのまんまだったんですよ。最初は悪戯かと思ったら……昨日、土曜日の夜近くにその人が書類の手続きと荷物の引き取りに来ましてね」
「その人は……蜷河さんのご父兄ですか?」
「どうなんでしょうねぇ……なんか小汚い感じの男で、どうにもあの子とは結びつかないんですけどねぇ……髪なんかもパーマでもじゃもじゃで」
苦笑いを浮かべながらそう告げる川島に対して、近持は首を小さく傾げ、天井を仰ぎ見た。
「そうですか……蜷河さんが転校してしまいましたか……」
つぶやいた近持は目を閉じ、二人の間にわずかばかりの沈黙が漂った。
「では……島守君は……彼はどうしています?」
なぜ蜷河の次が、あの背が高く目つきの悪い男子の話題なのだろう。川島は先任者の意図に戸惑いながら、そういえばあの二人は付き合っていた風でもあったと思い出し、「まぁ……」と切り出した。
「元気ですよ。なんか、隣の真錠(しんじょう)……あのハーフの子とも仲良く弁当とか食ってるみたいですし」
後任者の報告に、近持は眼鏡をかけ直し、眉を顰めた。
「島守君が……真錠君と?」
「ええ。隣同士ですしね。仲がいいのはラクでいいですよ。ほんと」
川島の口調は、相変わらず興味の薄い素っ気のないものだった。
生徒たちの人間関係をそれとなく気にしていた近持弘治にとって、島守遼とリューティガー真錠が仲良くしているという事実が意外であり、彼は腕を組んで顎を引き、「なるほど」と小さくつぶやいた。
那須誠一郎が内閣特務調査室、F資本対策班に配属されたのは五年ほど前のことである。警視庁公安一課の捜査官として、七年前にファクト事件を担当していた経歴を買われての転属だったが、これは志願の結果であり、それだけに現在の職務に対して思い入れと愛着の気持ちは誰よりも強いと自負している。
対策班本部は、霞ヶ関の内閣府別館六階、内閣特務調査室内に本部を構え、非常勤が大半で普段は閑散としているフロアも、ここ数ヵ月で活況を取り戻していた。
班員の一人、柴田明宗はよく、那須に対して「ここが忙しいってのは、ほんとロクでもない事態なんだよなぁ」と漏らすことがあり、数少ない常勤者でファクト対策にキャリアを賭けている彼は、そのぼやきに曖昧な笑みで返してきた。
しかし先月、そして四日前に発生した事件は、柴田から口癖を漏らすゆとりすら奪うほどの非常事態であり、この日曜日も休日を返上で報告会議が行われていた。
班長の竹原優(たけはら ゆたか)が、急な来客の対応に追われていたため、会議の議長はNo.2である森村肇が担当していた。
報告書を読み上げる那須に対して、腕を組んだまま何度も頷く森村の仕草は、落ち着きと安定感たっぷりであり、年齢以上の貫禄を醸し出していた。
「通称顔無し。仁愛高校へ乱入したこの改造生体の足取りは、生徒ホール裏手で途絶えました。しかし凶器である出刃包丁が発見された、現場近くの準備室床からは微量の生体反応が検地され、南郷研の報告によれば改造生体の泡化反応と見て間違いないとのことであります」
会議室には班長を除く対策班、総勢十五名が着席し、配られていた資料や、ホワイトボードに貼られた現場の拡大写真に視線を向け、那須の報告に頷いていた。
「だが、顔無しが泡化した原因……つまりなぜ死亡したかは未だ不明……か」
森村の言葉に、那須は力強く頷いた。十月に三十三歳になったばかりの彼は、凛とした押し出しの強い目の輝きを持ち、背筋もぴんと伸ばして胸も張りがちで、挙動もきびきびとメリハリがあるため、実際の年齢より若く見られることが多い。
森村も七年前、二十代中盤だった頃の彼をなんとなく覚えているが、現在と印象のズレは少なく、瑞々しさを保ち続ける彼に対して感心することも多い。
「しかしファクトの残党が二度も同じ学校で泡化ねぇ……こいつぁ怨恨かね?」
資料を斜めに読みながら、柴田はそうつぶやいた。
「その可能性はもちろん高いと思われますし、報告書にも明記した通りであります」
那須は資料の記述箇所を指差し、その挙動に班員の数名が温い笑みを浮かべた。
同校1年B組生徒、神崎はるみはファクト機関を実質壊滅させた神崎まりか(現対策班実戦要員)の実妹であり、彼女に対する理不尽な怨恨の線も考えられる。
これが報告書の記述であり、“神崎はるみ”と自分で打ち込んだ名前を再確認する度、那須は七年前のある晩を思い出し、同時に、既に亡くなった当時の特務室次長代行との合同捜査に懐かしさを覚えていた。
蕪木(かぶらぎ)次長代行は、七年前当時のファクト対策の中心人物であり、改造生体であるファクトの構成員に殺害され、捜査途中で殉職してしまった。公安捜査官として何かと彼の手伝いをしていた那須はそれが無念であり、だからこそ対策班への異動を希望したという経緯もある。
蕪木との最初の出会いは“代々木交番襲撃事件”であり、その捜査の途上で犯行グループが交番の直前に襲撃した、民家への聞き込みを担当したのがきっかけである。
あの頃のおチビちゃんが、もう高校生か。
その後、ある事情でファクト関連の事件と深い係わり合いを持つことになってしまったその民家へ、那須は何度か事情聴取に出向き、夫人にお茶やケーキをもてなされたこともあった。髪を両サイドで束ねた、年齢よりずっと幼く見えたあの少女のこともよく覚えている。名前は神崎はるみ。姉である神崎まりかがその特殊な能力を、国家へ提供するようになってからは聴取の機会もなくなり、もうあれから七年が経っている。
人に言わせれば、「那須はあの頃とちっとも変わんない。老けないよな」と言われるが、九歳の少女が十六歳になっているということは相当の変化なのだろう。久しぶりに会ったら、向こうはこちらのことを思い出し「ナスビのおにーちゃん」と呼んでくれるだろうか。
会議の最中だというのに、那須の口元はすっかり緩み、森村の咳払いまでそれは継続した。
「す、すみません……報告は以上です」
緩みを歪みに変化させ、那須は頭を下げて着席した。
「我々はこれまで通りのシフトで本件の捜査に当たる……それが班長の意向だ」
森村の言葉に班員たちは一斉に頷き、それぞれの職務を胸中で反芻させた。
「那須。お前は調査結果をまとめ次第、仁愛高校へ聞き込み捜査を開始しろ」
望むところである。森村からの命令に那須は力強く頷き返し、右の拳を握り締めた。
「お前たち、いいか!!」
会議室の扉が勢い良く開かれ、班長である竹原の巨体が姿を現した。班員たちは一斉に出入り口へ注目し、班長の目つきがいつもより鋭くなっている事実に皆緊張した。
「今情報が入った。FOTが近々戦力を増強するとのことだ。増員規模は十数名、海路で密入国を果たす可能性が高い」
来客相手はそんな情報をもたらしてきたのだろうか。柴田は資料を丸めながら首を傾げ、下唇を突き出した。
「どのルートからのネタです?」
「防衛庁からだ……」
班長の低い声に、柴田をはじめとした班員たちは皆、眉を顰めた。
「確かめる必要もある。森村。面子を組んでくれ。もし裏が取れれば最重要項目として対応する」
「了解です班長」
「神崎のお嬢さんは使えるのか?」
「設備の正式移転などは一ヵ月近くかかりますが、ドレスそのものは単独運用ができるよう、搬送用車両も既に準備完了しておりますので、神戸での調整が終了する来週中には合流できます」
森村の淀みない報告に、竹原は満足気に頷き、「車両は誰が担当する?」と返した。
「運転担当は品田。オペレーションは杉本、澤井。指揮は私が執ります」
「ならそちらの準備も並行して頼むぞ」
本格的な反撃の宣言である。班長の言葉をそう理解した森村たち対策班は、加速しつつある事態に意を強くし、目つきも鋭くなっていた。
2.
代々木パレロワイヤル803号室。そのダイニングキッチンの食卓に並べられた道具の数々に、島守遼(とうもり
りょう)は息を呑んだ。
「右上から説明する……まずこれが同盟手帳の日本語版。身分証明にも使える大切なものだから、常に携帯してて欲しい。同盟コードのJ−10586Sは暗記しておいてくれ。ちなみに協力者である遼くんの肩書きは期間限定現地協力者。あまり権限は持てないけど、同盟からちゃんと給料も出る」
隣で説明する、青いワイシャツ姿のリューティガー真錠の告げた、特に“給料”という部分に遼はピクリと片眉を上げた。
「期間限定現地協力者は月給十万円ネ」背中を向け、皿洗いをする陳師培(チェン・シーペイ)の付け足しに、遼は意外と少ないな。と思いながら、それでも自分には大金だと鼻を鳴らした。
「だけどもう、任務完了したら完了ボーナス出るネ。今回のクラスだと、一千万円はいくヨ絶対」
現実味の薄い高額である。なにかピンとこない戸惑いを覚えながら、遼は視線を手帳の隣へ移し、黒光りするそれに口元を歪ませた。
「三十八口径。同盟の開発室で作られたオリジナルリボルバーで装填数は六発。ローダーと弾丸はこっちで……白い箱が通常弾丸。黒い箱が対獣人弾だ」
協力する。力を貸す。そう宣言し、握手をして以来、リューティガーは自分に対して一切敬語を使わなくなった。そうなると変声期直後の彼の声はどこか意が強く命令しているようにも感じられ、受け身になりすぎるとストレスが溜まると彼は感じていた。
「あのさ……拳銃なんて、どうやって持ち歩くんだよ」
「鞄に入れとくとか、内ポケットに隠すとか……比較的小型だからどうにでもなると思うよ。ホルスターは希望を言ってもらえば取り寄せるし」
当たり前のことのように、ごく普通の様子でそう返すリューティガーは、やはり自分とは違う世界に生きてきたのだろう。今までは関わり合いなどもちたくない、あちら側の世界であった。しかし今の自分はそれに飛び込まなければならない。
蜷河理佳が姿を消し、四日になる。川島教諭は「家庭の都合で転校した」と生徒たちに告げ、皆の受け止め方は一様に「なぜ突然」であり、それは隣のリューティガーにしても同様である。
たった一人、遼だけが彼女の事情を知っていた。だからこそ、彼女と再び向き合い、全てを許容するためには自分もその世界へ飛び込むしかない。
それが唯一の方法だと思える。だが自分を壊すのは何かが違うような気がする。拳銃など持ち歩くものか。リューティガーの説明を聞き流しながら、彼は次の道具であるノートパソコンに目を輝かせた。
「性能はごく普通。OSは同盟オリジナルだけどWindowsライクだからすぐ覚えられる。遼くんのメールアカウントは取得済みで、設定その他もろもろはデスクトップの「まず読んで」ってHTMLに記載されてるから、後で目を通して。それとネット接続は衛星からの複合指向波を受信するタイプだから、LANとか刺さなくていいよ」
「こ、これってDVDとか付いてる?」
「う、うん……」
的外れな遼の質問に、リューティガーは眉を顰めた。
自分の命が狙われている。だから戦う。力だって貸す。そう彼は言った。なるほど、兄の手の者には第二次ファクトの残党が数多くいて、そいつらが彼を逆恨みする可能性もあるし、そう兄が示唆することも有り得る。しかし、この島守遼という男はどこまで本気で任務に協力してくれるのか。DVDの装備を気にするなど、どうせ娯楽目的でこのノートPCを使おうという腹積もりなのだろうが、やはり緊張感というものに欠けていると思える。
生体改造を受けたエージェントを殺害したにしては、この落ち着きぶりは確かに評価できる。しかしそれが増長になるのなら指導が必要である。リューティガーは気持ちを引き締め、説明を続けた。
「同盟に関する情報はオンラインで引き出せるけど、キャッシュレスだから残しておくことはできない。これはメールにしてもそうだけど、機密保持のために必要な措置だから理解して欲しい」
「ふーん……」
PCやネットにあまり詳しくない遼は、興味なさそうに生返事をした。早くこれを持ち帰って文化祭の芝居を記録したDVDを再生させてみたい。彼はそんなことばかり考えていた。
あれには自分と彼女の、思い出すだけで胸がいっぱいになる共演の模様が収められている。観てしまえば泣いてしまうかも知れない。だが残された学生鞄、人体解剖図鑑と共に、蜷河理佳という存在を濃くすることができる数少ない記録である。
「で、これが七号探知機……」
ノートPCの横に置かれた四角く大きな弁当箱サイズの機械は、ベージュ色のABS樹脂製のカバーで覆われ、ランプや液晶モニタがパネルとして取り付けられていた。
「なんだ……探知機って」
「僕たちのような、異なる力を持った人間に反応する……バルチのときに渡したバルブがあったでしょ? あれと似たような機械だ。ただし、こっちは能力を引き出すんじゃなくって、範囲内に能力者がいる場合それを知らせてくれる機能が主だ」
「ど、どんな原理で反応するんだ?」
「異なる力を使った場合、特定の脳波パターンが検出される……その電気信号に反応するんだけど、正直言って、あまり信用性は高くない」
「なんで?」
「脳波をケーブルレスでキャッチするから、センサがデリケート過ぎるんだよ。いらない電界を間違って解釈するバグだって残ったままだし……新型がもうすぐ届くから、これは遼くんに渡しておく」
「くれるってならもらうけど……なんかお下がりみたいだな」
軽口を叩く遼を一瞥すると、リューティガーは探知機の横に置かれた、黒く塗られた薄い仮面を指差した。
「これは声紋を変化させ、網膜パターンも完全に隠蔽する作戦用マスクだ。防弾効果もある」
目の部分は透明だがやはり黒く、手にして裏側から覗いてみると、サングラス越しのような色合いのダイニングキッチンが視界に広がり、遼は奇妙な納得をした。
「ホラー映画のキャラみたいだな……お前たちもこんなのつけて、任務ってやってるのかよ?」
「ううん。これは初心者用の装備だ。僕たちは正体が割れるような失敗はしない。けど遼くんは、割とそそっかしい面があるから持っておいた方がいいよ」
誰がつけてやるか。彼は心の中でそう毒づき、次の説明に耳を傾けた。
リューティガーが、協力者となった遼に提供する道具は全部で十種類。内訳は手帳、拳銃、ノートPC、探知機、マスク、ナイフ、通信機、救急キット、発信機、そしてそれら全てを収めるスーツケースである。
購入すれば全部でいくらになるのだろう。食卓の上に並べられた道具を見渡した遼は、ごくりと唾を飲み込み、ケースに拳銃とナイフ以外の道具を収め始めた。
「銃とナイフは身につけておくの?」
リューティガーの質問に、遼は首を横に振った。
「こんなの持ってうろつけるわけないだろ。日本じゃ拳銃は禁止されてるんだ。ナイフだって、こんだけの刃渡りだと七年前に条例で許可制になったはずだし……だから置いてくよ」
「だめだよ。武装はしておかないと、いつ襲われるかわからないんだぞ!?」
「だ、だからそのときは通信機で助けを呼ぶよ。どこでも一瞬で登場だろ? それに血管とか視神経とかやっちまってもいいんだし」
拳銃とナイフはいくらなんでもやりすぎだろう。そこまでこちら側の世界に浸かってしまうと、それこそ彼女を救い出しても自分が元に戻れなくなってしまう。なんとなくそう思えた遼は、二つの武器を押し付けてくるリューティガーを拒絶した。
「坊ちゃん。武器は使いこなせない者が持っても、自分を傷つけかねない結果を生むだけヨ」
ありがたい忠告をしてくれる。遼は目を輝かせ、背中を向けたまま食事の準備を進める陳に頭を下げた。
「そうですか……なるほど……確かにそうかも知れませんね……僕も戦場で、自分の足を打ち抜いてしまった兵士を見たことがありますし……わかりました……」
残念そうに拳銃とナイフを食卓に置いたリューティガーは、椅子に座って遼にもその挙動を促した。
「それでは……道具の受領はこれでいいとして……使い方なんかでわからないことがあったらいつでも聞いてくれ」
「あ、ああ……そうだな……」
「で……どれから話そうか……同盟のこと……僕のこと……敵のこと……」
そう、薄々は事情を知っているものの、実のところ島守遼が正確に把握している事実などなに一つとして存在しなかった。この世界で、自分の知らない何かが戦っている。それに参加する以上知ることができることは全て覚えておく必要があった。しかし一体何から質問すればよいのか、それすらもわからないモヤの中にあった。視線を宙に泳がせる彼に、リューティガーは苦笑いを浮かべて食卓の上で指を組んだ。
「同盟は……正式な名を賢人同盟と言う。結成は千六百年代まで遡るから、四百年の歴史だ」
「関が原の頃かよ……すげぇな」
「うん。そもそもの目的は特定人種や特定宗教の利益保護にある。ところが産業革命以後、急速に全世界の経済システムが面と量の膨張を始めたのに合わせ、同盟の目的に対する手段は多様化していった。調査、保護、監視、管理、政治工作、破壊工作、人道支援。国家単位でできる活動のほとんどを同盟は範囲としている」
スケールの大きな話であり、遼は実感として何一つ理解することができず、しかし聞き直すのも億劫だったので一応頷きはした。
「まぁ……この辺のことはおいおい説明していくし、あくまでも期間限定の現地協力者だから全てを知る必要もないし、教えることもできない」
「だ、だよな……けど……まぁ……悪いことしてるんじゃないだろ?」
「もちろん。同盟の理念は全世界の平和と安定だ」
「OKOK、ならいいよ。ほんと」
平和と安定。耳障りのいい言葉ではあるが、それは多様な顔をもっていて、ある平和と安定の実現のためには、別のそれを侵し、破壊し、消滅させる場合もある。だが遼がそんな理屈を携行しているはずもなく、彼はこれから協力する集団に対して、ぼんやりと無批判に、「いいもの側」というレッテルを貼り付けていた。
「ところがその同盟を裏切った奴がいる。それが僕の兄、アルフリート真錠だ」
「真実の人……だっけ……あのさ、それってファクトの真実の人と、どんな関係があるんだ?」
「関係も何も、兄は七年前にこの国でテロを起こした真崎実の後継者。つまり三代目の真実の人だった」
「ちょ、ちょっと待てよ。なんだ、それ? 同盟ってファクトなのか?」
「ううん違う。同盟の日本での下部組織が真実の徒、つまりファクトってことになる」
「マジかよ……」
半年に渡る、破壊、殺害、強奪、営利誘拐、快楽殺人。真実の徒「ファクト」を名乗る武装集団は住宅街や警察署を次々に無差別に襲撃し、その被害は死者四百五十二名、重軽傷者二千八百六十五名に達し、戦後最悪のテロ事件として生々しい記憶をこの国の人々に残し続けている。
それを支配する賢人同盟。その現地協力者である自分。
なにかとんでもない組織に参加してしまったのではないか。遼は視線を泳がせ、口元を歪ませた。
「安心して。真崎ファクトは同盟のコントロールを離れて暴走した。あれは僕たちが望んだ真実の徒の形ではない」
「あ……そ、そうなの……?」
「うん。真崎実は組織を私物化し、保有する戦力を誤った運用をした……そして……兄に殺された」
ファクトの代表、真実の人こと真崎実は都内の廃工場にて短銃自殺を図り、頭部を貫通した弾丸は永遠に彼の生命を絶った。それが政府の公式発表であり、遺体写真が誤ってニュースで流れたことを、遼も小学生の頃クラスメイトから話で聞いて、週刊誌の切り抜きで「恐ろしい写真」として見た記憶がある。しかし、たぶんこの栗色の髪をした彼の言っていることが真相なのだろう。果たして自分はどこまで関わっていいのか、遼は度胸を萎えさせ、不安そうに両膝をこすり合わせた。
「兄はそのまま真実の人を継承し、ファクトは再編され第三次としての穏やかな下部組織、この国の監視機関としての役割を取り戻す予定だった。ところが……同盟はファクト機関の解体を決定したんだ」
リューティガーの言っている意味は相変わらず理解できない。自分は何か根本的な知識が欠落しているのかもしれない。混乱した情報を整理することができないまま、遼はただ頷き返した。
「理由はいろいろだけど、一番は同盟とこの国の政府との関係が悪化したことにある。真崎はやり過ぎたし、壊して殺しすぎた。獣人だって本来は戦場において真価を発揮する存在で、警官や民間人を食べるための、恐怖の対象にすることは間違っている。だけどこじれた関係は、時間の経過で解決するしか手がない。だから同盟は状況の後始末を終えた兄に帰還を命じた」
「けど……それに乗らなかった……?」
「そう。兄は真実の人を名乗り続けて、ファクトをFOTなんて呼び直して、この国を再び破壊しようと目論んでいる。まるで、真崎実の亡霊が乗り移ったみたいにね」
「FOTか……」
「遼くんは……耳にしたことある?」
「ああ。前に合宿で……学校にも来たな。藍田って怪しいおっさんと会って、心を読んでみたんだ。奴はFOTのエージェントだって……それを知ることができた」
遼のもたらした情報は、食事の準備をする陳の手を止めさせ、リューティガーの口をぽかんと開けさせる結果をもたらした。
「な、なんだって……そんな奴が……い、いつ……学校に?」
「文化祭の直前と……文化祭の当日……初日の午後だったかな」
「直前に!? そうか……じゃあ……」
文化祭で兄と対峙した際、彼は内部構造、それも文化祭によって改変された箇所にまで精通し、その上足元のどこかから拳銃まで取り寄せた。あれは校内に内通者がいなければできない仕掛けであり、今日、従者の一人である健太郎が不在なのはその調査のためである。
意外な結論に、リューティガーは組んでいた指を震えさせた。
「時期的にみて……間違いないな……その藍田って奴がやったんだな……内通者じゃなかったのか……」
「な、なぁ……なにがあったんだよ」
「ああ……学園祭に兄が来たんだ……君たちのお芝居を観て、うちのラーメン食べて……遊びにきたんだ……僕をからかいにね。笑いに来たんだよ。あいつはそういう奴なんだ」
これまでに見たことのない、憎々しげな口調のリューティガーに、遼の心は少しだけ退いた。
「と、とにかく……お前は兄貴を捕まえるのが最終目的なんだよな」
「ああ。捕らえるか殺すか……いや……うん……殺すしかないと思ってるけど……」
「そ、そうか……」
「手段はもう少し詰められたら説明する。最後の一手は遼くんの力が必要だし」
つまり兄殺しのとどめを自分がやらされる。リューティガーの言葉をそう解釈した遼は、どんよりと重い気分になり、そんな事態になる前に、真実の人と接触して蜷河理佳のことを話さなければ、相談しなければと思った。
彼女の心の中に、あの白い長髪はあった。彼と彼女がどのような関係なのかはわからない。しかし、大切な人だと教えてくれた。だとすればあの青年が彼女の現在につながるはずである。ましてやあの顔無しが裏切り者と言っていた以上、蜷河理佳はFOTの一員であることは間違いない。
うまくリューティガーとの関係を構築し、場合によっては自分がコントロールしないと、この無邪気な笑みをたたえた残酷な同級生は、実に呆気なく彼女を殺してしまうかも知れない。
いくらなんでもそれはないだろう。まさかな。
だがこれまでの、どこか理解し難い狂ってずれた意を持ってすれば有り得ぬとは言い切れない。蜷河理佳にまつわる影の事実をこいつにだけは絶対に話してはいけない。額から流れる汗を拭いながら、遼は対座するリューティガーを凝視した。
「ま、まずさ……どうするんだよ。何から始めるんだ?」
「うん……僕たちは基本的に、同盟本部の中佐からの任務指示に従う義務がある」
「なるほど……作戦は用意してくれるんだな?」
「いいや。具体的な作戦は僕が立案する。一応そうした勉強はしてきたつもりだし」
屈託ない笑みを浮かべ、首筋に手を当てるリューティガーは、椿梢(つばき こずえ)や川崎ちはるがちやほやする「愛嬌抜群の少年」にしか見えない。遼はますます混乱し、大きく息を吐いた。
「今現在任務は通達されてない」
「そっか……じゃあ兄さんの行方は、自分たちで調べなくっちゃいけないんだな?」
「ああ……けど、そのゆとりは……ちょっとないかな……いつ次の任務が来るかわからないし」
「え、けどさ、任務って三代目を捕まえろ。とか、それに関連したやつだろ? なんか話が見えないぞ」
「そうなんだけど……あいつの行動はかなり広がってて……拠点の壊滅指示や、取引の妨害、そんな任務が次から次へと入るときもあれば、一ヵ月も音沙汰がないこともあって……中々奴本人へは迫れない状況なんだ」
「なんかさぁ……まだるっこしいな」
しかし、それはそれで好都合かも知れない。FOTを巡る細かいやりとりの中で、彼女と再会する可能性もあるはずだ。遼は前向きに事態を解釈し、とりあえず今すぐの手伝いはないことに、なんとなくだが安堵した。
「まぁしかし……俺とお前が組んだんだから、絶対勝てるって」
意味もなく、会話の間を埋めるために叩いた軽口だったが、リューティガーは紺色の瞳に鈍い光を反射し、睨み返してきた。
なんという現状把握が出来ていない民間人なのだろう。彼は戦いというものをまったく理解していない。いずれ、徹底的に任務遂行についてレクチャーをする必要がある。リューティガーは組んだ指をこすり合わせながら、顎を引いた。
「甘いよ……兄は僕よりずっと早い跳躍ができるし、身の回りの気配を察する訓練だって積んでいるから、安易な不意打ちは出来ない……」
「け、けどさ……お前の透視と、俺のぶち切る力が合わされば、実はこれってすごいんじゃないの?」
「もちろん。だから僕は遼くんに目をつけて、わざわざ転校なんて手間までかけたんだ。だけどね。世の中には僕らや……いや、兄ですら太刀打ちできない怪物がいる」
リューティガーの言葉から脅すような成分を感じた遼は、眉を顰めて首を傾げた。
「怪物って……獣人とかつるりんのことか?」
「いや……揶揄だよ。それほど強力な力をもった異なる能力の持ち主がいる……」
言いながらリューティガーは、神崎はるみの姉の話を遼にするべきか迷った。
いずれ……彼は僕たちの世界から手を引く……そのときに……知らなくっていいことだってある……
眼鏡をかけ直したリューティガーは、流しで作業を続ける陳にジャスミンティーを頼んだ。
「へぇ……そんな凄いのがねぇ……具体的にはどんなことができるんだよ?」
「いや……この話はやめておこう……たぶん……今回の僕たちとは関わってこないだろうし」
「そうなのか?」
「うん……まぁ……」
珍しく歯切れの悪い態度に、遼は彼の苦手というか、触れられたくない何かを見出せたような気がして、それが可笑しかった。
「遼くん……とにかく同盟は君の協力に感謝している……この国を再び混乱させ罪も無い人々に危害を加えようとする連中と戦おう……」
立ち上がったリューティガーは、右手を遼に差し出した。
「あ、ああ……だな」
手を握り返しながら、遼は鮫洲の試験場近くで会った、あの青年がそんな冷酷なテロリストの首領にはとても思えず、むしろ目の前で強い意欲を見せる弟より、ずっと親しみやすく話し易い青年だと、そんな感想をあらためて抱いていた。
だからこそ。この感覚はもう少し大切にしておきたい。台所で陳が用意している中華料理に食欲は刺激され続けていたが、あまりべったりとした関係は望まない。手を離した遼は、「それじゃ……もらってくわ」とつぶやき、アタッシュケースを手にした。
「え……もうちょっといいだろ? まだ話すことはいっぱいあるし。陳さんの料理ももうすぐできるし」
「悪りぃ……また今度にさせてもらうわ。一気に聞いても覚えきれないし……陳さんの料理は食べたいけど……今日は俺が食事当番だから。親父、腹減らしてるだろうし」
残念である。しかし父のためであれば仕方がない。今日は厳しい事情を説明するため、声色も話し方も作り、本来の自分からすれば無理をした対し方を彼にした。だからこそ食事の際はいつもの、学校での普通の接し方をしたかったし、任務や使命を離れたくだらない言葉も交わしてみたかった。
これから、いくらでもその機会はあるだろう。焦るのはよくない。リューティガーは口元を歪ませながらも「そっか……じゃあ仕方ないね」と上ずった声でつぶやき、遼は「ほんと、悪りぃ」と左手を軽く挙げ、玄関へと向かった。
「今度はゆっくりしていくネ。また麻婆豆腐ご馳走するヨ」
陳は玄関の扉を開けながら、細い目をより線にして微笑んだ。
バルチから生還し、最初に食べたあの、熱くて辛くて舌触り最高の麻婆豆腐。遼はその感覚を思い出し、口から出た涎を拭った。
「は、はははは……ぜ、是非……今後ともよろしくっス!!」
魔力のようなものの存在を感じながら、アタッシュケースを手にした島守遼は、逃げるように803号室を後にした。
3.
その晩、リューティガー真錠の姿は品川区の埋め立て地、城南島の桟橋にあった。
「はい、これが今回の注文物よ」
小型船の運転席近くの床に置かれた機材の数々を、船長であり運び屋である李 荷娜(イ
ハヌル)が取引相手であるリューティガーに確認を促した。
ついこの間までは薄いシャツ姿だった彼女も、十二月ともなると温かそうな革製のコートを身にまとい、吐く息も白く彩られている。この国に来てからの時間的な長さを実感しながら、リューティガーは検品を始めた。
「へぇ……新型の七号探知機……ここまで小型化したのか……」
掌サイズの薄い機材を手にした彼は、早速電源を入れて液晶パネルに「反応ナシ」の表示を確認し、少しだけ意識を集中した。
「反応レベルF」
表示の切り替わりを言葉にしたリューティガーは、遼に先ほど渡した旧型より、この新型がずっと探査性能が向上している事実に満足げな笑みを浮かべた。
いつもの検品と違い、今日の彼はなにやら機嫌がよさそうである。荷娜は愛すべき栗色の髪が今夜は特に輝いて見えるような気がして、なんとかこの少年と、もう少しだけ親密な関係になれないものかと腕を組んだ。
「ありがとうございます。代金はこちらです」
スーツケースを受け取った荷娜は、これで今日の出会いも終わりか、と物足りなさを覚えながら、一つ忘れていたことを思い出した。
「そうそう、同盟から密書を預かってたんだ」
「密書?」
同盟からの作戦命令であれば電子メールが殆どである。コートのポケットから荷娜が封筒を出すのを凝視しながら、彼はなにか余程重要な知らせなのだろうと予想した。
「ハルプマンって同盟の人が、出港直前に持ってきたのよ」
「ハルプマン? 同盟の作戦本部長です……わざわざどうして……」
デビッド・ハルプマンと言えば、同盟本部の実務部隊の中でも、中佐に次ぐポジションに位置する。封筒を受け取りながらリューティガーは内容を想像して緊張し、額から流れる汗に苦笑いを浮かべた。
「い、いい知らせだといいわね」
「で、ですね……」
冷静沈着、大胆にして繊細。リューティガー真錠という少年は、十五歳という年齢にしては場数を踏んできた勇者であり、だからこそ裏稼業で生きてきた自分も好意を抱き、もっと近づきたいとさえ思っている。こんな情けなさを露呈し、緊張した様子を隠そうともしない、そんな面もあったのか。口元を歪ませる彼に対して荷娜は意外な一面を見たような気がし、それが今夜の最大の収穫だと思えた。
荷娜の小型船を後にしたリューティガーは、緊張をほぐしたい一心から、城南島のコンテナ群を歩いていた。
ハルプマンの密書はマンションに戻ってから開けてみよう。コートのポケットに入れたそれを握り締めた彼は、立ち止まって夜空を見上げた。
星など見えはしない。この街の空はいつだってそうだ。故郷のシュツットガルトとは違う。
父と母、最後に会ったのは去年の誕生日である。もうすぐ一年が経とうとしているが、あの頃と状況は殆ど変わっていない。島守遼はようやく協力者になってくれたが、相変わらずの頼りなさであり教育が必要である。兄はまだ自分を馬鹿にして、いつまでも「ちっちゃなルディ」扱いである。
全てを終わらせ、再び父と母に出会うとき、少しは大人になっているのだろうか。兄殺しは大罪であるが、兄が大罪者である以上全てはプラスマイナスゼロとなるはずだ。だとすれば乗り越えた山の高さだけ、自分は鍛えられるのか。
馬鹿馬鹿しい。こんなことを考える自分は相当落ちてしまっている。リューティガーがそう思っていると、彼の背中をライトとクラクションが同時に触れた。
誰だ? 懐に入れた拳銃に右手を突っ込みながら彼が振り返ると、一つのライトが強くこちらを照らし、耳にはVツインエンジンの鈍いアイドリング音が鳴り響いていた。
「誰です?」
「や、やぁ真錠君……だよねぇ!!」
ライトとエンジンを切り、ヘルメットを脱いだのはリューティガーにとって見覚えのない少年だった。茶色の革スーツ姿の彼は、跨っていたバイクから降りると、でっぷりとした巨体を揺らしながら後頭部を掻いた。
「えっと……だ、誰です……?」
坊主頭に眠そうなとろんとした半開きの目、太い眉毛に丸い鼻は緊張を解いてしまうほど平和な人相であり、それだけにはち切れんばかりの革スーツがどうにも不似合いである。しかし何度見てもこの少年の顔に覚えはなく、リューティガーは首を傾げた。
「ぼ、僕C組の岩倉次郎。し、知らない?」
「岩倉くん? ご、ごめん……ちょっと知らないです……」
リューティガーの返事に岩倉は眉を下げ、残念そうに下唇を突き出した。
「そ、そ、そっかぁ……う、うん……隣のクラスだもんねぇ……知らなくって当然だよねぇ」
「い、岩倉くんはどうして僕のことを?」
「そ、そりゃあ転入生だもの。C組の皆が真錠君のこと知ってるよ。カッコイイし、明るいし……た、たまたま後姿見かけてさ……髪の色から絶対そうだって……ごめんね。驚かせちゃった?」
「い、いいえ……そ、そうですか……後姿で……」
しかしこの夜の暗がりで、よく隣のクラスの転入生だと後姿だけで認識し、クラクションを鳴らす気になったものである。余程自分の認識力と記憶力に自信があるのだろうか。温厚そうな見かけの割に、中々大胆な男子学生である。リューティガーは岩倉次郎のことをそう認識した。
「真錠君……あっルディか……ルディ君はこの辺に住んでるの?」
「あ、いいえ……僕は代々木です岩倉……」
「ガンちゃんって呼んでおくれよ」
「あ、はい……ガンちゃんくん……」
「いやだなぁ……“ちゃん”に“くん”はつけなくっていいんだよ。ルディ君」
「そ、そう……なら……ルディにも“君”はいらないから」
「そ、そっか……そーゆーもんなんだね」
人懐っこい。よく自分もそう言われることがあるが、ガンちゃんこと岩倉次郎はその数段上をいっている。なんとも不思議なペースに巻き込まれながら、その心地よさにリューティガーの心は解されていた。
まさか川島の家庭訪問に付き合わされた経験が、ここで生きるとは思わなかった。
西沢速男の部屋に入りながら、島守遼はここに来るのが二度目で、だからこそ武蔵小山の路地を迷うことなく辿り着けたのだろうと実感した。
リューティガーのマンションを後にしてから、なんとなく寄ってみることにした。携帯越しの西沢の声は思ったより元気であり、目の前でベッドに座っている彼も見たところ病んでいる様でもない。
「心配すんなよ。ちょっとさぼってるだけだからよ」
そんな言葉を鵜呑みにしていいのだろうか。つるりん太郎が親子連れを惨殺した現場を目撃したのであれば、それはもうバルチで自分が出くわした事態とそっくりである。あの過酷な経験の後、自分は蜷河理佳に映画館で許されるまで、ずっと心にひどく重い何かを抱え込んでしまっていた。いや、今でも重さは残ったままである。それに耐えられる強さが身についただけのことだ。
西沢はどうなのだろう。
サッカー部で一年生ながらレギュラーポジションを獲得し、特に上級生の女子からよくデートに誘われるモテる奴。しかしそれをひけらかすこともなく、腰が低く態度が素直であるから男子の受けもよく、つまりは世渡りが上手で身の程をわきまえた同級生。それが島守遼の認識する西沢速男である。
「いらっしゃい……」
トレーにジュースを載せ、部屋に入ってきたのは妙齢の女性だった。前回、川島とここを訪れた際にも玄関で出会った西沢の母である。見た目が若く、車に戻った後、川島などは下品に興奮し、「うちのよりずっと美人だ。どーなってるんだまったく。あれが高校生の母親かよ?」などととぼやくほどであった。
落ち着いた所作でジュースを置く若い母を横目で見ながら、だから西沢は年上にもてるのだろうと、そんな脈絡のない結論に達した遼は「ありがとうございます」と頭を下げた。
出て行く母親をちらりと見た西沢は「飲めよ」と促し壁に背中を付けた。
「恐ろしかったぜ……目の前でよ……母親と小さな子が……いまでもよく覚えてるし……一生忘れないだろうな……」
「つ、捕まったみたいだし……お前も怪我とかなくってよかったよな」
「ああ……」
目の焦点が定まっていない。同級生の異変を遼はようやく気づき、ストローから口を離し、彼を凝視した。
「ボールがありゃ……邪魔できたかも……な……」
茶色の髪が小刻みに震え、瞳は赤く充血しようとしていた。遼は、なぜだかそんな西沢の後悔が嬉しく思え、小さく、だが力強く頷いた。
「できることと無理なことがあるって。お前は立派だったよ。たぶん」
「島守……」
「学校、早く来いよ。お前がいないとつまんねぇしよ」
そう言うと、遼はジュースを飲み干して立ち上がり、扉へ向かった。
「立派か……な……」
「たぶん……な……」
「取り調べの刑事がさ、言いやがったんだ。そうか、見殺しにして逃げたんだなって」
西沢の声は震えていた。
「刑事だって、銃がなかったり柔道の心得がなけりゃ見殺しにしてたさ」
「そ、そうなのかな……」
目の焦点は相変わらず定まっていない。ベッドの上で震えだした西沢を見下ろしながら、遼はこれ以上彼を許すのは、どう考えても自分の役目ではないと思い、「絶対そうさ」と言い残し、部屋を後にした。
4.
岩倉次郎と不思議な出会いをはたしたリューティガーは、代々木のマンションまで跳躍で戻ってきた。
「お帰りね。もうあの色魔にちょっかい出されなかったかネ?」
台所で洗い物をする陳にそう冷やかされた彼は「されませんよ」と返すと居間へ向かい、ソファに腰掛けて封筒を取り出した。
洗い物を終えた陳は、風呂場近くの押し入れから掃除機を引っ張り出し、廊下とダイニングキッチンの掃除を始めた。この八階には自分たち以外の居住者はなく、下の階も角部屋に老夫婦が住んでいるだけであり、だからこそ夜中になっても掃除機を気兼ねなく使えるのは好都合だった。
この代々木パレロワイヤルに入居者が少ないのは、長く続いている景気の低迷が最大の理由だが、同盟の工作も多少は作用している。もっともそれは八階を希望した入居者を七階に促すような小さな影響力であり、このマンションそのものを買い取ってしまうような、そんな派手で費用のかかる方法を採ることはない。
つまりその程度の任務なのだろうか。陳は掃除機を駆使しながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。指令がこなければ自分たちから積極的な行動に移ることも制限され、たまにくる指令も拠点襲撃や取引の妨害など、瑣末で核心に迫るものではない。夏に行った六本木でのアルフリート襲撃作戦がこれまでの中では最も重要な任務だったが、既に情報は漏れていて、何一つとして成果は上げられなかった。
島守遼という能力者が、ようやくこちらに協力をしてくれるというのはよい展開である。だが、食事の準備をしながら背中で感じた彼の態度はどこかよそよそしく、緊張しているということは理解できるがあまりにも積極性に欠け、何か協力するという申し出も別の目的が潜んでいるような気がする。だとすれば坊ちゃんに対して自分はますます防護壁となって、怪しげな企みがあるのなら阻止しなければならない。
「ルディは様々な淵にはまり込むだろう。そのときは引き上げてやって欲しい」
これが本部を出発する直前、主の父から託された使命である。もちろん全力でその言葉は守る。もし島守遼が既に敵と内通していて、情報をリークするために接触してきたのであれば、自分の暗器は迷わずあの少年の命を絶つ。
だが、できればそんなことは避けたい。麻婆豆腐をおいしそうに平らげた彼は、素直で可能性に満ちた若者である。早々に任務を完了し、戻るべき日常へ帰してあげるのが一番だ。
陳師培は、何度も同じ箇所へ掃除機をかけてしまった事実にようやく気付き、自分らしくもないと電源を切った。
「陳さん!! 健太郎さん!!」
居間から凛とした声が響くと、陳は背筋を真っ直ぐに伸ばし、寝室からは暗灰色のコートを着込んだ青黒い肌の巨人が駆け出してきた。
「任務です」
ダイニングキッチンまでやってきた若き主は溌剌さを全身から発し、二人の従者は「いい知らせ」もしくは「やりがいのある任務」が飛び込んできたと確信した。
「陳さんはこのマンションの賃貸契約をお願いします。十名が住める部屋を……できれば六部屋、この八階が望ましいです。明日にもすぐ」
「了解ネ!!」
「健太郎さんは、品川の晴海埠頭の貸し倉庫を一つ確保してください。日付は十二月二十三日から二十五日まで。できるだけ海に近いのが望みです」
「わかった……」
この二人が自分の指示に質問をしてくるようなことは滅多にない。そしてこの程度の雑務であれば、何の苦労もなく果たすことができるだろう。だからこそ、リューティガーは密書の内容を二人に伝える必要があると思い、眼鏡をかけ直し、「吉報です」と興奮気味に告げた。
西沢の家を後にした遼は、自宅まで戻ってきた。
「おう……夕飯できてるから……適当にな……」
父、島守貢(とうもり みつぐ)は顔色も青白く、いつもよりずっと元気がないように息子には見えた。台所から自分の部屋に戻ろうとするしょぼくれた父の背中に、彼は「大丈夫かよ……」と低い声をかけた。
「ん……あぁ……ちょっと根詰め過ぎてな……けどよ……おかげで今日は十万買ったぞ」
力なく振り返ったものの、貢の表情は柔和な笑顔であり、それだけが遼にとって救いとも言えた。しかし夏に倒れて入院した経緯もあり、同盟から毎月十万円も出るのなら、こんなにも父がくたびれてしまうことはないだろうと、彼は痩せたその肩を背後から掴んだ。
「親父さ……俺のバイト代、またまた大幅アップなんだ。だからあんまり無理すんなよな。集中しすぎると、また夏みたいにぶっ倒れるよ」
「あ……? あ、ああ……」
貢は息子の気遣いに喜びながらも、だがその言葉が何かを知っているような、そんな確信のようなものが感じられ、戸惑いの方がずっと大きかった。
掴んだ肩から父の戸惑いを察した遼は、咄嗟に手を離し、自分がついつい父の異なる力を前提に心配してしまった事実に気付き、「と、とにかく寝ろよ」とぶっきら棒に言い放った。
父にも触れた相手の心を読む、接触式読心と呼ばれる異なる力は持っているのか。いずれそれを確かめる必要がある。そう思いながらもそんなのはずっと先でいい。今はとにかく夕飯を食べようと、遼はテーブルに視線を移した。
店屋物のカツ丼である。確かに大勝した上で疲れ切ったのだろう。父の労苦に眉を上下させ、遼はまだ温かいそれを温め直すことなく胃袋へ放り込み始めた。
襖越しに、父の寝息が聞こえてきた。余程疲れていたのだろう。そんなことを考えながら食べるカツ丼は冷めかけということもあってか、あまり美味しく感じられず、なんとももったいない気がして、落ち着かない遼であった。
扉をノックする音に、彼は壁に掛けられた時計へ視線を移し、十時過ぎの訪問者が何者であるのか緊張した。
「は、はい……どちら様でしょうか?」
幼い頃から一人で留守番をすることが多かった遼は、こうした応対にも慣れてはいたが、やはり命を狙われていると知ってからは警戒心もずっと増している。ドアのチェーンを確認しながら、彼はそう言えばリューティガーに自分がなぜつるりん太郎に狙われていたのか聞いておくべきだったと思い出し、首を傾げながら扉を開いた。
赤い目が、長身の遼を見下ろしていた。
「えっと……健太郎……さんでしたっけ……」
「こんな時間にすまん……」
暗灰色のコートのポケットに両手を突っ込んだ健太郎は、チューリップ帽を目深に被っているので遠目にはひょろりとした背の高い男にしか見えないだろう。しかしチェーン越しの接近したこの状況では、青黒いかさかさの肌と真っ赤な瞳が異常な風貌であり、見慣れつつあったとは言え、遼にとって威圧感はじゅうぶん過ぎていた。
「な、なんの……御用で……?」
スーツケースに通信機を入れっぱなしにしていたから、連絡がつかずここまで尋ねてきたのだろうか。だとすれば急用なのだろうと様々に覚悟をしていると、健太郎は「前は……外から見ただけだったからな」とつぶやき、遼の頭越しに台所を見渡した。
「は、はぁ……」
遼が戸惑っていると、背後で襖が開く音がし、「誰だぁ?」と寝ぼけた父の声がした。
「島守遼の知人だ」
巨人が極度に緊張しているのを、遼は口元の歪みを見上げることで確認した。
「そうですか……あ……私は遼の父です……よろしく……」
そんな挨拶の後、襖が閉じる音を遼は背中で聞いた。
「面白い父親だな……」
「は、はぁ……」
「俺を怪しまんとは……」
「い、いえ……たぶん……寝ぼけてるんですよ……いっつもそうなんです……覚えてないだろうなぁ」
その説明に健太郎は赤い瞳を丸くさせ、少しだけ口の端を吊り上げた。
健太郎は土間から上がろうとすることがなく、いくら遼が促しても「ここでいい」を繰り返し、台所を見渡し続けていた。
どこか懐かしそうにも見える。巨人の様子をそう解釈した遼は「そんなまさか」と首を傾げた。
「島守遼……二十四日は空けておいてくれ」
「え……?」
「同盟から増援が派遣される。彼らとお前を引き合わせたい。場所は晴海だ。二十四日の夕方から。パーティーみたいなものだと思っておいてくれ」
低く掠れた声ではあったが、発声がしっかりしているため、健太郎の言葉が聞き取りづらいということはなかった。それだけに内容の奇妙さが遼には可笑しく、すぐに状況など飲み込めなかった。
「ク、クリスマス・イブっスか?」
「デートでも入っているのか?」
「い、いえ……そんな相手……」
今はいない。虚しさと寂しさが胸にこみ上げてくるのを感じた遼は、小さくため息を漏らした。
「じゃあな」
短くつぶやいた健太郎は扉を開け、外へ出た。よくはわからないが、学校でリューティガーに聞けばいいだろう。しかしそんな用事なら、わざわざここまで訪ねてこなくてもいいのに。遼は巨人の後姿を見つめながら、まだ混乱し続けていた。
鉄製の階段を下りながら、健太郎は赤い目を細め、その想いは過去へと向かっていた。
5.
会談場所は決して固定しない。同じ相手とは常に違う場所での会談を心がけるのが、真実の人(トゥルーマン)の流儀である。
上野の駅近く、三十階建ての高級ホテルの一室で、真実の人は数名のスタッフと共に、白人の中年男性と対座していた。男はスーツ姿で体格に厚みがあり、精悍さを伴った顔立ちは幾分緊張しているようでもあった。
「大佐からの伝言は以上です。無論交渉の余地は残っておりますが、いかんせんあなた方の戦力を疑問視しているようでもあり、それは私も同意見です」
しっかりとした英語でそう告げた男は、向かいに座る青白い長髪の青年へゆっくりと頷いた。
「戦力ですか……少尉殿」
「はい。聞くところによると、あなた方は二つの敵を抱えておられる。一つは日本政府、一つは賢人同盟。この両者を相手にあなた方の戦力はあまりに乏しい。例のアレを購入したところで、実のところはご自身の武装として用いるのではないかと、そういった声も部隊では囁かれております」
男のはっきりとした物言いに、青年の側近たちが色めきたった。ある者は威嚇の意を発しながら身を乗り出し、真実の人はその行為を右手で制した。
「こちらにはエレアザールがいる。それでも戦力不足と?」
「獣人王の存在は確かに強力ですが、所詮は個人。同盟が追加兵力を差し向けるという噂もあるのですよ?」
「ほう……それは初耳だ……」
真実の人は膝の上で両指を組み、右目だけを閉ざした。
「もしアレをFOTで運用するというのなら、今後の交渉には応じかねますな」
「少尉殿、あなたは二つほど勘違いをされている」
青年の不敵な言葉に、少尉と呼ばれている白人の男性は奥歯を噛み締めた。
「なん……ですかな?」
「まず、日本政府は既に我々の敵ではない。内閣の一部に対策班は存在していますが、あれは政府内の守旧派に対する方便であって、実質的な権限も情報も与えられてはいない。そしてもう一つは、我々はあくまでも少数精鋭であって、例のアレは日本政府を安心させ、国際的な宣伝に使える道具としか考えていないということです。そう、我々がその気になれば、あらゆる国家のあらゆる軍隊と互角に戦うことすらできる」
不遜も甚だしい。少尉は青年を睨みつけ、一言も発することなく顎を引いた。
「地上に存在するあらゆる兵器から、私は常に自由です。例えばあなたの国の攻撃衛星がこの部屋を狙っていても、攻撃が到達する頃には私はここに存在しない」
「確かに……あなたの特殊能力に関しては、我々もシベリアでお相手をした以上、よく理解しているつもりです。しかし一人では戦争などはできませんぞ」
「戦争は国家がやることで、私にそんな気はありませんよ。それに……」
真実の人は右目を開け、赤い瞳を輝かせた。
「同盟が我々への戦力を追加するのであれば、叩き潰せばいい。簡単なことです」
「精鋭……と、耳にしていますが?」
「ならばこちらも腕利きを……」
この軍人に少しでも弱さを感じられてはいけない。青年はそのことだけに注意しながら、唇の両端を吊り上げた。
もう何日も食べてはいない。けど、それは訓練中に経験したことがあるし、第一食欲というものがまったく沸かない。
倒れこんだ瞬間、年月がこうも絨毯をかび臭くさせるものかと胸が苦しくなったが、そんな臭気にもすっかり慣れてしまった。うつ伏せになった姿勢は何時間続けているか、継続した時間の感覚すら段々と薄れてきている。
たぶん。もう。死ぬのだろう。
ここで死ぬのなら、七年という歳月はまったく無かったことになる。それもいいかも知れない。任務をしくじった自分に生き続ける価値など微塵もない。
目の前でナイフを使い、ファクトの残党を惨殺した自分。彼はどう思っただろう。「裏切り者」という言葉をどう解釈しただろう。とにかくもう、あのような普通の日々を過ごすことはできない。
仁愛高校で当たり前に振る舞えないのであれば、任務は失敗である。そもそも、あの残党を差し向けたのも、この任務を与えてくれたのも同一の青年であるが、矛盾の塊のようなあの人の下にいれば、こんなことも覚悟しなければならない。
それを考えるのがひどく億劫で、だからここに戻ってきた。戻れば少しは落ち着いて、穏やかさを取り戻せるはずだと思っていた。
けど、あまりにも生々しいままであった。まさかこうまでそのままであるとは思ってはいなかったし、自分がこうも覚えているものだとは。
やはり、忘れることなどできない辛さだったのだろうか。
だから、うつ伏せになった途端身動きがとれず、これではまるで七年前の再現のようだが、いまはそうするべきだと全身の細胞が留めようとしているようでもあった。そう、次にやるべきことの結論が出ないのなら、このまま死んでしまってもいい。絨毯に吸い込まれ、溶けてしまってもいい。
蜷川理佳は、ぼんやりとしていた。
「理佳ぁ……おめぇなぁ……これじゃまるで、見つけたときそのまんまみたいじゃねぇかよ」
七年前に聞いた声と同じである。あの日も彼が最初の発見者だった。
「理佳よ。またネズミに足齧られるぞ」
「ネズミは……いないもの……餌がないから」
うつ伏せのまま返事をするコート姿の少女に、藍田長助は顎を突き出し、ため息をついた。
「真実の人(トゥルーマン)はお前の任務失敗をな、残念がってはいたが怒っちゃいない。とりあえず転校の手続きとか荷物の回収はやっておいたから、お前は次の任務があるまで三鷹のハウスで待機してるんだ」
長助の言葉に、少女は右手をぴくりと動かし、やがてごろんと仰向けになった。
やつれている。男は少女の生気の無さに眉を顰め、あらためてこのマンションの一室を見渡した。
「お前が行方をくらませて、真っ先にここへ来てみたんだが……どうやら入れ違いだったみたいだな。まぁ、なんにしても良かったぜ。生きててくれてよ」
「どうして……?」
ゆっくりと上体を起こした理佳は、気だるい様子のまま背中を壁につけた。幽美、とでも形容すればいいのだろうか。やつれながらも彼女の美しさはそれをも演出の一部として取り込んでいるようである。
長助は七年前、まだ子供だったこの少女がやはり生気無く、それでいて惹かれてしまう程の美しさを醸し出していたあの日の記憶を蘇らせていた。
「せっかく助けて、ここまできたんだ。死なれちゃ悲しいだろ」
「悲しい……か……」
「真実の人だってそうだ。たまたま今日は俺が空いてたから来たが、最初は奴が自分から探すって言ってたんだぜ」
「そう……嬉しい……な」
「嘘付け。それよか島守遼と会えなくなって、そっちが辛いんだろ」
男の問いかけに、少女は無言のまま、こくりと頷いた。素直である。これならまだ心は壊れていない。長助はようやく安心し、胸ポケットから煙草を取り出した。
「ハウス……帰る……送ってくれる?」
「ああ……車で来たから……その前に飯でも食ってこうぜ。ファミレスとかでいいだろ?」
「うん……ファミレスとかでいい」
「しばらく休むといいさ。これまでずっと任務だったんだしさ」
「けど……次の任務……早目にして欲しいな」
「あ、ああ……真実の人に頼めばいい」
「ねぇ……」
壁に背を付けたまま、理佳は気だるそうに立ち上がり、右手で自分の左上腕を掴んだ。
「遼くん……どうしてるかな?」
「ん……? あ、ああ……どうしてるんだろうな……」
煙草に火をつけながら、長助は理佳から視線を外した。
島守遼がリューティガー真錠と共闘することになった。
この事実は“はばたき”から既に聞いている長助であった。つまり現在の奴は自分たちの敵ということである。しかし今、この生と死のフェンス上をふらふらとしている少女に対して、それを教えることなど決して出来なかった。そんな突風、今の彼女に耐え切れるはずがない。
理佳はただぼんやり、視線を宙に泳がせ思った。
結局、こうなるのか。七年の時は相変わらず意味を持ち続け、自分を生かしてしまうのだろう、と。
6.
週明けの月曜日、島守遼は教室で西沢速男の姿を見つけ、それがとても嬉しい事実だと思えた。
「昨日はアレな。ありがとうな」
笑みを浮かべながらそう言ってきた同級生に対して、遼は「おう」と短く返事をし、満足そうに席へ着いた。
「遼くん、あの後西沢くんの家に行ったの?」
すぐ左隣に座るリューティガーが、眼鏡をかけ直しながらそう尋ねてきた。
「あ? ちょっとな……それよか……昨日の夜、いきなり健太郎さんが来たからびっくりしたぜ」
「ご、ごめん……パーティーの件は、今日僕から伝えるつもりだったんですけど……健太郎さんがついでに行ってくるって……なんか、遼くんのアパートの中、見てみたかったって」
「そうそう、ずっと台所見てたけど、なんなんだあれ?」
「な、なんか昔ああいったアパートに住んでたから、ちょっと懐かしいって言ってたけど」
「へぇ? 健太郎さんがねぇ」
あの青黒い肌の巨人が自分と同じようなボロアパートに住んでいた。それは遼の好奇心を強く刺激させた。
「ほんと……あんた達って余裕よねぇ……」
背後から浴びせかけられたぼやきに、遼とリューティガーは同時に振り返った。
「なんだよ、神崎。余裕って」
「あのねぇ……期末試験当日に、よくまぁそんな和やかにしてられるなって、そう言ったのよ」
神崎はるみの指摘通り、周囲の生徒たちは皆それなりに緊張した様子であり、教科書やノートに目を通す者、そわそわと周囲に出題範囲の予想を語る者、ただじっとつまらなそうにしている者と様々である。すっかり試験のことなど忘れていた遼は、口元を歪ませながら、はるみの机に両手を置いた。
「嘘……だろ……」
「ほんとでーす……忘れてたのあんた?」
嬉しそうに顔を覗き込んきたはるみに、遼は苦笑いを向けた。
「すっかり……川島……言ってたっけ……」
「そーゆー問題じゃあないでしょ? 普通忘れないわよ。ねぇ真錠くん」
話題を振られたリューティガーは、「僕は準備してきましたよ」と素っ気なく返すと、すぐに背中を向け筆記用具の準備を始めた。
「やっべぇ……ぜってーやべぇって……マジなんにも対策立ててねぇぞ……俺……」
「しーらない。ほんとバカねぇ」
人差し指を立て、その先ではるみは遼の額を小さく押した。すると彼は「あう」と小さく漏らし、身体を返しながら自分の机に突っ伏した。
その右斜め前の空席に視線を移したはるみは、重心を少しだけ左へ傾け、右手を腰に当てた。
「はるみちゃん……遼くん……助けてあげて……もう……わたしじゃ無理だから……」
あの晩、蜷河理佳はそう告げ、自分の前から姿を消し、やがて転校していった。ただ事ではない何かが彼女の身に降りかかったのだろう。まるで逃げるように、なんの伏線も脈絡もなく彼女は1年B組から去って行った。
それはたぶん。そう、なにもかも繋がっているのかも知れない。なんとなく、はるみにはそう思えていた。
理佳の来訪が決定的だった。あれが全てを確信させる、最後の後押しだった。
だから背中を向けて試験に怯えるこの彼も、あんなに好き合っていた彼女がいなくなってもそのことにまったく触れず、何事も無かったかのように振る舞っているのだろう。額を押してからかうほどに、理佳と付き合う前ぐらいまでには関係が復活したものの、やはり自分は蚊帳の外のままなのだろうか。
なにもかも繋がっている。この認識は深く。相当根深く少女の胸に確信めいた何かを抱かせようとしていた。
ふと、はるみの中で姉の姿が走った。
惨敗だろう。試験初日を終えた遼は、自分が答案用紙にろくな解答を書き込めなかった現実に、ひどく落胆していた。
しかし仕方ない。本当にここのところ色々とありすぎて、勉強どころではなかった。それに大学へ進学することはおそらくないだろうから、それほど成績に対して熱心になることもない。などと都合のいい方向へ自分の将来を設定した彼は、ホームルームが終わる頃になると少しは気持ちが晴れやかに回復していた。
「遼くん。一緒に帰ろうよ。パーティーのこととか話したいし」
「ああいいぜ。健太郎さんの説明じゃちょっとシンプル過ぎだったしな」
二人で連れ立って教室を出て行く。
そんなことは一ヵ月前ではあり得なかった光景である。後ろの出口から出て行く二人の同級生を注視しながら、神崎はるみはこの変化も「なにもかも繋がっている」一部であると思った。
「か、神崎さんっ!!」
いきなり声をかけられたはるみは全身をビクンっと反応させ、声の主へ振り返った。
がっちりとした体躯は鍛え抜かれた精悍さであり、太い眉毛と縦に割れた顎は逞しく、浅黒い肌は健康を通り越し、強そうですらある。
高川典之の頭は小刻みに震えていて、自分に対して緊張しているのがはるみにもよく伝わっていた。
「な、なに……高川くん……?」
「か、神崎さんを呼んでおられる方がそこにっ!!」
なんて硬い言葉遣いなのだろう。困りながら、はるみが高川の促す廊下へ注意を向けると、そこには演劇部部長、三年生の乃口文が引きつった笑みを浮かべ、右手で手招きをしていた。
なんだろう。期末試験中は部活動もお休みで、なぜ部長が自分を訪ねてきたのか。はるみは首を傾げながら、「ありがと。高川くん」とつぶやき、廊下へと向かった。
「ありがと。高川くん」
二度目のお礼である。高川はその言葉を何度も心の中で反芻させ、拳を握り締めた。
「十人ほど、海路で追加部隊がこの国にやってくるんだ」
「十人って……多いのか?」
学校前の坂道を下りながら、遼とリューティガーは並んで言葉を交わしていた。
「今までが三……四人ですから大幅増員ですね。Dクラスでもじゅうぶんですし」
「Dクラスって?」
「同盟内でのエージェントの格付けだよ。SS、S、AからFまでのクラスが付けられるんだ」
「へぇ……お前は?」
「僕はA、陳さんと健太郎さんがB」
「俺は……臨時強力だからクラス外か」
「そうなるね」
「にしても二十四日に来日なんて、まるでクリスマスパーティーだな」
「二十五日は僕の誕生日だから……ついでにそっちのお祝いもしてもらおうかな。新しく来る皆に」
「あ? ルディってキリストと同じ日なのか?」
「うん。だからいつもお祝いはセットでさ。なんか、ついでって感じ」
「そりゃ、キリストと一緒じゃなぁ……存在感で太刀打ちするのは難しいだろ」
「まぁね。遼くんは確か……四月だったっけ?」
「ああ。二十七日。なんかどーでもいい日だよ」
「僕たちでもお祝いしますよ。パーティーしましょう」
リューティガーの提案に、遼は思わず足を止めた。
「い、いや……そこまで長引かせたくないぞ」
数歩先まで歩いたリューティガーは、目を細めて振り返った。
「確かに……そんな頃までこの国にいちゃ……だめだね……」
「だ、だろ……」
妙な凄みのような、落ち着いた意をリューティガーから感じた遼は、緊張したまま小さく息を吐いた。
「それに……そうだな……」
リューティガーは眼鏡に指を当て、遠くなった校舎を見つめた。
「どうした……?」
「うん……仁愛高校とも……この学期でお別れだなって……」
「そ、そうなのか?」
「うん……もともと君と接触するための転入だったし……いろいろ確認もできたから、協力してくれる以上、もう通う理由もないし」
「そっか……本来の任務が忙しいもんな」
そう言えば、ここ数ヵ月で何度か学校を休んでいるリューティガーである。それが任務のためならば、なるほど、理佳が学校を休みがちだった理由も何となくだが理解できる。
リューティガーに力を貸し、FOTとの距離を詰め、蜷河理佳と再び出会い、彼女に戻ってきてもらい、真実の人を捕らえて全てを終わらせる。その過程でできれば誰も死なないに越したことはない。
これが島守遼にとっての「最善の結末」である。しかしリューティガーがもう学校にこなくなるという展開は、この最善の結末へプラスかマイナスなのか、その判断ができないほど頼りなく具体性に乏しい希望であり、要所要所気をつけるにしても、どこが要所なのかそれすら分からない始末である。
ただ、椿梢や川崎ちはるは寂しがるだろうな。それだけはよくわかる島守遼だった。
部室には二年の平田先輩もいて、はるみはなぜ自分が呼び出されたのか未だ知らされずにいた。
「試験中なのに悪いね」
平田の手には「久虎と三人の子」の台本が握られていて、部活動のことで用事があることだけは間違いないようである。はるみは「あ、はい」と返事をし、平田と乃口を見比べた。
「神崎さんは……蜷河さんがどうして突然転校しちゃったか……何か知らない?」
乃口の問いにはるみは息を詰まらせた。
お別れにきてくれた理佳だったが、その原因など知るはずもない。あの来訪はちょっと普通ではなく、クラスの誰にも話していない事実であり、それは先輩たちに対しても同様であると思えた。
「わ、わかりません……クラスの皆も驚いてて……島守も何も知らされてなかったみたいですし……」
「そっか……しかし困ったもんだよな。主役みたいなものだからな、愛姫役は」
平田のぼやきに、はるみは人差し指を顎に当て、口を小さく開けた。
「神崎さん……台本の内容ってきちんと把握してるわよね」
なにか申し訳なさそうな、そんな困り顔である部長の様子に、少女はある確信を抱いた。
「ええ……雑務が多いですから……セットとか衣装のこともあって、たぶん……わたし、平田先輩の次にこの台本読み込んでると思います……要は……そういうことなんですか?」
「うん……最近神崎さん、お芝居上達してるし、どうだろう?」
「け、けど……腰元Bは……」
「あれはAと統合する。特に問題はないと思うが」
「は、はぁ……」
そんなどうでもいい役だったのか。自分が本来演じるはずだった腰元Bに対し、はるみはそれなりに愛着もあったため、平田の呆気ない返事に少しだけ苛立った。
「急な頼みだし……断ってもいいんだけど……最悪、演目を変更することだってできるし……」
「いいえ……やります。ただし雑務は手分けしないといけませんけど」
あくまでも弱気な部長に対し、らしくないと思っていたはるみは、ついつい胸を張って元気よくそう言い放った。
「そうだな。その辺は三年生の人たちにも手伝ってもらう。ほんとにいいのかい神崎さん?」
「ええ……だって……」
そう、頼まれたんだ。託されたんだ。あいつのこと、理佳から助けてやってくれって……
相手役なら助けることができる。それに、もっと近くに行くことだってできるもの……
なにもかもの繋がりに、ひょっとしたら近づけるかも知れない。そんな期待を胸に、少女は先輩達に凛とした意を向けた。
7.
二日後、期末試験は何のトラブルもなく無事に終了したが、その結果は無残なものだろうと、家路を辿る島守遼の足取りはどことなく重かった。
試験休みの後、少しだけ登校すれば冬休みである。本来は彼女との旅行が待っていたはずで、だからこそ試験最終日の今日からクリスマス・イブまでは毎日アルバイトを予定していた遼である。
同盟から十万円の月給が出るのであれば、あのジムでのアルバイトも減らしてしまっていいだろう。競馬場での大惨事の後、これからは真面目に働いて稼ごうと決心した彼だったが、固定収入が確約されているのであれば、無理に働く必要もないだろうと打算しつつあった。
アパートまで帰って来た遼は、一階の駐車スペースに父の背中を見た。
日常の光景である。父は近所に稼ぎに行ったり買い物に行ったりした際、自転車を愛用している。アパートの駐車スペースにその自転車を停めているため、階段近くのこの場所で彼を見かけることは珍しいことでもない。
しかしその日の父は、自転車ではなく、もっと大きな二輪車のヘッドライトを手ぬぐいで拭いていた。
「親父!!」
なぜ父がバイクの手入れなどしているのだろう。息子はそんな疑問でいっぱいのまま、貢へ駆け寄った。
「おお、遼か……」
数日前から父は体調を崩しているようであり、この日も顔色は青白かった。どうやら根を詰めて念動力を使ったパチンコに勤しんでいたようだが、より以上の苦労の結果がなんであったのか、息子は目の前の自動二輪を凝視することで確信した。
「親父……これ買うために、最近稼ぎまくってたのかよ?」
「ああ……中古でもそれなりの金額だし、保険とかナンバー取得とか、結構いろいろ経費がかかるのな」
顔色こそ悪いものの、貢の表情は柔らかく、これならそれほどの心配はしなくてもいいと遼は判断した。そうなるとますますこの不思議な買い物に対しての疑問が膨らみ、彼はハンドルに軽く触れてみた。
「免許なんてあるのかよ?」
「車のがあるけど」
「おいおい、これ中型だろ? 車のなら原チャリまでだし。知らないで買ったのかよ?」
赤と白のツートンカラーにトップだけのカウリングは教習所でも見かけないほどの古臭さであり、エンジン近くのプレートには、MVX−250Fと書かれていた。見たこともないバイクである。近々の購入予定を機に、最近では本屋で中古バイクの雑誌を立ち読みしていた遼ではあったが、このホンダ製の旧型は意識したことがなかった。
「知ってるよ。だから届けてもらったんだし、俺が乗るわけじゃないから」
「え……?」
「プレゼントだよ。ほら、都立に合格したら、その年の年末になんか買ってやるって約束だったろ」
その約束はよく覚えていた。私立ではなく都立に進学できたらプレゼントをやる。父はそんなことを去年口にしていた。あれは本気だったのかと、遼は頭を掻きながら頬を引き攣らせた。
「マ、マジ!?」
「おう。ちょうど中免取ったみたいだからよ、登録手続きとかは全部済ませてるから」
まるで自分のことのように嬉しそうな笑みを浮かべた貢は、ポケットからキーを取り出し、それを息子へ投げた。
「メットは自分で買えよ。ノーヘルはダメだからな」
キーを受け取った遼は、興奮を抑えきれず、シートに跨った。
「わかるって。で、でも……マジでマジ?」
「馬鹿野郎。いい加減感謝しろって。たまにはいいだろ。お前最近機械とか壊さないみたいだし」
そもそも島守家にテレビも無く、遼が腕時計の一つも買ってもらえなかったのは、彼が幼少期に知らずのうち発揮してしまった異なる力に原因がある。恐ろしいものを見たり、大事なイベントに遅刻しそうになったりした際、いずれも能力を出してしまったことで機械は壊れ、無自覚だったからこそ原因不明の故障として、当時の自分の中では処理してしまっていた。
だが、父はその頃からテレビも時計も遼が壊した、と叱り、二度も損をしたくないため修理をせず、代替品の購入も拒んでいた。
父はたぶん、自分が幼少期に発現した力が、大人になって失われたか忘れたかされたものだと判断してくれたのだろう。息子はそんな都合のいい解釈をすると、深々と頭を下げ、「ありがとう親父」と礼を言った。
息子に礼を言われるなどいつ以来だろう。自尊心を満たされた貢は、無理をしてこれを購入してよかったとようやく満足した。
念じてパチンコ玉を動かせるような、そんな不可解な力を遼も持っているのだろう。こいつは昔から、無意識のうちに機械を壊したり、触れもせずに障子に穴を空けたりすることがあった。だけど最近じゃ携帯電話で友達とよく話をしているのを見かけるし、大人になったのだから興奮しすぎて制御が利かないことも無いだろう。もちろん、こいつは自分にそんな力があるとは想像もしていないだろうが、わざわざ教える必要もない。俺だって、本当にろくでもない理由で目覚めてしまったのだから。
父と子は互いに向かい合い、寒空の下で満足げだった。
フルフェイスのヘルメットはバイクに合わせて白と赤にしてみた。それを近所の量販店で購入した遼は、すぐにアパートへ戻るとMVXに跨り、キーを差しエンジンをかけた。
2ストロークの下品で忙しない排気音と震動が、彼を興奮させた。なんとなく玩具のような安っぽさではあったが、間違いなくこれは自分の物である。自賠責保険だけの加入が初走行を慎重にさせ、渋谷へ向かうその運転は、興奮とは裏腹に穏やかなものだった。
時々、エンジンから異音が聞こえるし、信号待ちで並んだ別のライダーが奇異な目で車体を眺めてくることもある。教習車のVTと比べると、同じホンダ製だというのにひどく乗り心地が異なり、制動の全てが唐突で「いきなり」である。初体験の2ストロークに戸惑いながらも、宮益坂に到着する頃には、彼の感覚はなんとなく、このバイクのクセというものを把握しようとしていた。
アルバイトはいつもの日常であり、仕事に失敗することも、イレギュラーな事態もそれほどない。
「お疲れっス」
支配人の呉沢(くれさわ)に挨拶をした遼は、同僚の麻生巽(あそうたつみ)にも声をかけるとジムの入ったビルの裏手にある、バイクを停めた駐車場へと向かった。
呉沢さんは、MVXを「懐かしい」と言い、麻生や南田たち下の世代は「聞いたことも無い」と首を傾げた。ともかくも、ようやく手に入れた移動手段であり、自分はより広い自由を手に入れた。ヘルメットを被った遼は、エンジンをかけ車道へバイクで滑り出した。
このガード下で、自分と理佳は抱き合い、あの時の彼女はいつになく崩れ、辛そうで、壊れかけていたように思える。
JRの高架下でバイクを停めた彼は、バイザー越しについこのあいだ二人が過ごした場所を見つめた。
せっかく移動手段が手に入ったんだ。これからは独自で彼女の足取りを調べる事だってできる。
ヘルメットを脱ぎ、バイクから降りた遼は、なんとなく高架を見上げ、通過する列車の轟音に顔を渋くさせた。
だからこそ、背後からの声に気付くこともなく、彼が真っ先に知覚したのは安っぽい化粧臭さである。
「なーにやってんのよ、島守」
野暮ったく、厚い塗りをした化粧面が遼の目に飛び込んできた。
「す、鈴木に……杉本か……」
鈴木歩と杉本香奈、二人の同級生と彼が渋谷で出会うのはこれで二度目であり、彼女たちにとっては一方的なさらに一度が加算されるため三度目である。
「また……予備校?」
「試験最終日から? キショ……」
「遊びに来ただけだよ」
鈴木と杉本は共に制服のブレザー姿だが、首から上と爪に様々な色を乗せた鈴木と、対照的に質素な杉本は見比べてみると対照的だ。いや、今日の杉本香奈は少しだけ化粧をしているのだろうか。街灯りの極彩色のため把握の付きづらい視覚情報に、遼は目を細めた。
「な、なに……島守君……」
じろじろと観察する目に対して、香奈はぎこちなく顎を引き、視線を逸らせた。
「まぁいいけど……お前らよくつるんでるよな」
「いーでしょ別に……それよかさ、蜷河ってどーしたのよ」
鈴木の唐突な問いに、遼は「どーしたって何がさ」と咄嗟に切り替えした。
「だって……いきなり転校なんて変でしょ? 」
香奈の疑問はもっともではあったが、あの日用具室で起きた出来事を二人に説明できるはずもなく、遼は何も言葉を返さなかった。
「せっかくさ、最近蜷河とも喋るようになったのに」
「あゆも? 香奈もそーだよ」
別れの直前、理佳は周囲との人間関係を新たな段階へと移そうとしていた。今にしてみればそんな気もする。教室で沢田と自分との話題に入ってきたり、部室で神崎はるみと仲良さそうにしていたりと彼女は、きっとここしばらくの間に何か思うところがあったのだろう。二人の同級生が理佳の名前を口にしたことにより、それは確信となって遼の胸中をざわつかせた。
「でさ、あんたと蜷河って別れたの?」
「あ、あゆ……」
口を尖らせ、なにかわざとぶっきら棒に鈴木は遼に尋ねた。香奈は友人がどことなく怒っているような、そんな気がして思わず彼女の化粧面を凝視した。
「どう……なんだろうな」
低く、搾り出すようなつぶやきだった。彼はヘルメットを被ると、無言のまま止めてあったMVXに跨り、エンジンを始動させた。
拒絶ではない。これは保留というやつなのだろう。狭い感受性ながらも鈴木はそう理解し、隣の香奈に視線を向けた。
「島守、バイクなんだ」
「うん。ヘルメット持ってたし」
パンパンと忙しないエンジン音に鼓膜を刺激されながら、鈴木歩は走り去る少年の背中を見つめ、学生鞄の持ち手を強く握り締めた。
「島守遼はびびるネ。きっと」
夕飯の回鍋肉(ホイコーロー)を食卓に置くと、陳は鯰髭を撫でた。
「ですかねぇ……」
「それにしても中佐も思い切った増員するネ。十名とは大幅も大幅ヨ」
「ええ。遼くんも加わったし……これで一気に大詰められるといいんですけど」
戦力が増加しても、それを用いるための任務が必要である。リューティガーは回鍋肉に手をつけながら、同盟本部の意図を考えてみた。
「そうなんですよね……うん……同時に任務の指示があるのならともかく……大幅増員だけというのが……実は腑に落ちない……」
食べながら考えを口にすると、その事実はますます重く確信されていった。そう、戦力だけを派遣し、作戦はない。これは戦略的な常識の逆である。本来なら、目的を遂行するために手段を整えるのがセオリーである。
食事の手を止め、リューティガーは両指を食卓の上で組んだ。
「坊ちゃん……」
「いえ……うん……手続き上の流れということもあります……そう……まず戦力を派遣できるタイミングが先に来たから、それを先に遂行し、作戦は後からとか……例えば任務はまだ立案中で、受け入れに準備のかかる増員だけを先に通知したとか……そう……事は単純じゃない……」
懐疑的になるのにも程と言うものがある。対FOTについては同盟もどこか歯切れの悪い対応が多く、事態の引き伸ばしにかかっているふしもあるが、それは日本政府との取引や交渉のタイミングという意味では許容範囲であり、自分たち実働部隊にそこまでの事情が知らされないということはままある。リューティガーは食事を再開し、停滞した時が動き出した事実に、陳は安堵の笑みを浮かべた。
「二十四日は、私と相方はこちらで受け入れの準備してるネ。坊ちゃんは……」
「ええ、増員と合流した段階で部屋割りを決めますから、その後そちらに連絡します」
「そうしたら家具とか、もう振り分けたり、いろいろやるネ。たぶん一時間はかかるから、坊ちゃんはその間ゆっくり顔合わせしてるといいネ」
「ええ……そっか……遼くんはびびるか……そうかもな……」
まずはその増員と合流し、その戦力把握をすることが先決である。人数からして、おそらく工作員レベルのエージェントだろうが、数が揃うということは、計画できる作戦の選択肢も飛躍的に増えるというものである。
そう、本部の指令など待っている必要はない。自分は幼い頃から企てる訓練と実戦を積んできている。それを全力で発揮し、全ての決着をつけてしまえば多少の越権であっても結果が勝るはずである。
これまでに蓄えてきた、様々な戦術が若き指揮官の中を駆け巡り、彼はたまらず身震いした。
8.
休みも明け、期末試験の結果も明らかになり、今日は二学期の終業式である。久しぶりの登校に、遼は初のバイク登校を選択した。
バイク通学を認めている仁愛高校は公立高校としては全国でも稀なケースであり、もっとMVXに慣れたい彼にとって、たとえわずか数分の距離であってもこの好条件を利用しない手はなかった。
甲高いエンジン音を鳴らせながら、自転車置き場へ車体を滑り込ませた遼は、ちょうど真ん中の方に駐車するスペースが空いている事実に感謝した。
「うっわぁ……島守君……ついにバイク買ったんだぁ……」
ヘルメットを脱ぎながらMVXから降りた遼は、同じように銀色のヘルメットを抱えて近づいてきた巨漢に注意を向けた。
「えっと……岩倉……だっけ」
「うん。教習所ではどーも」
人懐っこく微笑む岩倉次郎とは教習所で何度か顔を合わせたことがある。夏休みを全て教習に充てた彼は自分より早く卒業し、試験も一発で合格したと後に聞いた遼であり、登校途中何度か彼が自転車置き場にバイクを停めているのを目撃したこともある。
「カッコいいよなぁ……Shadow400かぁ」
岩倉の背後に停まっている、真新しいシルバーのアメリカンタイプの車体を、遼は羨ましそうに観察した。
「えへへ……いいでしょ……買ってもらっちゃったんだ」
でっぷりとした腹を擦りながら、岩倉は屈託無くそう言った。
「岩倉に、なんかよく似合ってるよこのShadowって」
「デブだし、やっぱりアメリカンかなぁって。だけどMVX−250Fなんて、よく買えたね」
「あ、ああ……俺も買ってもらっちゃったりして……はは……ボンボン決定だな」
「うんうん。これだけ整備されてる中古のMVXは珍しいよ。2ストは乗り潰しが多いみたいだし」
岩倉は大きな体躯を折り曲げ、遼のバイクを観察した。
「そうなの? けどエンジンとか、みょーな音すんだよな」
以前はあまり関わり合いを持ちたくないと思っていた、ちょっと愚鈍な岩倉だったが、なぜか同じ二輪仲間だと思うと中々話し易い奴である。自覚しないまま、遼は岩倉次郎に好意を抱きつつあった。
「同じホンダでも、二十年以上年式が離れてるし、やっぱそっちは新型だしいいよなぁ」 遼の言葉に、岩倉は立ち上がって腕を組んだ。
「えっと……MVX−250F……水冷2サイクル90度型3気筒ピストンリードバルブ、最高出力が40PSの9,000rpmで、最高トルクが3.2kgmの8,500rpm。車両重量が138kg……僕のShadowが最高出力33PSの7,500rpm。最高トルクが3.5kgmの5,500rpmで車両重量242kgだから……遼くんのだって、整備さえしっかりしてたら僕のよか全然早いよ」
岩倉次郎は昔、駅名を覚える天才記憶力少年としてテレビに出たことがある。そう言っていたのは確か沢田だったろうか。こんな今年になってからの会話の相手を忘れそうになっている自分と比べ、カタログスペックを淀みなくすらすらと口にするこの彼は、いったいどのような頭の構造をしているのだろう。遼は異なる力でその中身を覗いてみたい衝動に駆られたが、それ以上に古いバイクを褒めてくれる彼の心遣いが嬉しく感じられた。
辞任した校長の代役として朝礼の壇上に上がった教頭、長瀬希美子の言葉は長く、二度も事件があった今学期であればそれも仕方がないだろうと生徒たちも諦め、わずかであるがマスコミのカメラが生徒ホール内に入ってきている事実に緊張していた。
体育教師の新島貴(にいじま たかし)は、源吾とムヤミによる教室ジャックの日以降、姿をくらまし行方不明となっていた。この日も学校に姿を見せることがなく、仁愛高校の体育はすでに代理教員に引き継がれ、彼の話題を口にする者も少なくなっていた。
だからこそ、朝礼の後、廊下で「新島先生はあの化け物に食べられたらしい」という言葉を耳にした横田良平は、ぎょろりとした目をいっそう目開き、野元一樹の顔を凝視した。
「なんだよそれ」
「だからさ、お前なら調べられると思ってさ」
「知らないよ。だからなに?」
興奮しながら瞬きをする横田に、野元は手で口を覆う仕草を見せた。
「あいつの口の周り……血が付いてただろ」
教室を占拠して、奴隷契約論という理屈を授業形式で伝えようとした、獣面の化け物ムヤミ。彼の口の周りには赤いものがべったりとこびりつき、最も間近でそれを見上げた野元は、あれは絶対に血であると、その認識だけには自信があった。
「田中と市橋が話しているの聞いたんだ……二人とも警察で聴取されたっていうから本当の話だぜ」
野元が口にした、田中と市橋とは仁愛高校の学校職員の名前である。その二人が一体どのような言葉を交わしていたのか、横田は促すために大きく頷いた。
「市橋がさ、俺たちの教室が占領されてるとき、知らないで下駄箱の掃除に行ったんだってよ……そうしたら、床が血塗れで、新島先生の着てたジャージの切れ端と、スリッパが落ちてたって……」
「う、嘘だろ……じゃあ、なんで行方不明なんて……」
否定しながら、あの日の下駄箱が血まみれであった事実を、横田は食堂で別クラスの生徒たちの噂話で耳にしたことがあった。彼は戦慄し、野元の言葉に注意を向け続けた。
「遺体が見つからないのと……食べられたってことは、要はあいつが本物の化け物ってことじゃないか……ファクトの獣人は実在したんだよ。だけど警察はそれを隠すために、新島先生を行方不明ってことにして、市橋に念を押したらしいぜ」
どこまで本当のことなのか。自分も相当のネット依存症であり、実名報道されぬ未成年殺人犯の顔写真や当時の住所、ファクト事件に関するパソコン通信当時のログも収集するほどの秘密好きではある。もちろん仁愛高校を舞台にした二件の犯罪についてもあらゆる手段でWebをチェックしたが、体育教師が獣人に食われたなどという噂は一切目にしたことがない。
「知らないよ……俺は知らない……」
横田の強い否定に、野元は少し突き出た前歯を上唇越しに指で押し、「そうか」と短く言葉を返した。
「食われたの……かな……」
「さぁ……どうかな……」
食われたと話題を持ちかけたものの、あらためて横田に聞き返された野元は頼りなくそう返し、天井を見上げた。
「完命流道場だと?」
1年B組の教室で、高川典之は話しかけてきた島守遼を睨みあげた。
「あ、ああ……お前のやってるの……すげえなって思ってさ……その……一度さ、練習とか見学させてもらえないかなって」
遼の申し出に、高川は縦に割れた顎に指を当て、眉を顰めた。
「あ、いや……門外不出、一子相伝とか……そんなのだったらいいんだぜ……」
「なぜ見学などしたいのだ?」
本当にこの高川は同い年の同級生なのか。硬すぎる物言いに、遼は噴き出しそうになってしまった。
「そ、そのな……なんていうか……強さが欲しいって言うか……」
行動範囲がバイクにより広がり、次に必要なのは身を守るための術ではないか。試験休みの期間中、遼はずっとそんなことを考えていた。もちろん戦いに高川のような一般人を巻き込むことはできないが、教室ジャック事件で目の当たりにした獣人を投げ飛ばした技は見事の一語であり、もしあのような技を習得できれば、銃やナイフを使うことなく、身を守ることができる。「異なる力」で視神経を切断する手段もあったが、それはそれであり、選択肢を広げることこそが今の自分にとって重要であると彼は判断していた。
「ふん……しかしな……完命流は最高の護身なれども最強ではない……そもそも最強という概念は……もっとも……君などにそのようなことを……」
ぶつぶつと口ごもる内容の大半が、遼には聞き取ることが出来なかったため、彼は「え?」と聞き返した。
「島守、武術習うの?」
二人の会話に入ってきたのは神崎はるみであり、その登場に高川は背筋をより伸ばした。
「い、いや……高川次第なんだけど……最近物騒だろ? 俺もやってみたいなぁって思って」
「ふーん……それなら……」
はるみは唇に人差し指を当て、視線を宙に泳がせた。
「わったしもやってみたいかなぁ」
何でもいい、とにかく日常から離れた事を、それも島守遼の近くで経験することができるなら、繋がりに自分も加わることができるかも知れない。そんな軽い気持ちの発言だった。
「よ、よしやろう!!」
席を立ち、拳を握り締め、頬を引き攣らせながら耳まで真っ赤にした高川が、はるみにこれまでにない熱烈なる意を向けたため、彼女は思わず数歩退き、「はは」と小さく苦笑いを浮かべた。
「じゃーなお前たち。トラブル起こすんじゃねーぞ」
川島の挨拶は素っ気無く、しかし生徒たちも濃厚な人間関係を担任教師には求めていなかったため、誰も不満に思う者はいなかった。
「あ、そうそう……こないだ近持先生のお見舞いにいったんだけど……」
その言葉に、生徒の半分以上が注意を向けた。
「まぁ、回復には向かってるから……後遺症とかまだわかんねぇけど……たぶん、二年の二、三学期ぐらいにゃ復帰できそうだって。じゃーな」
そう言い残し、川島は眠そうな目をこすりながら教室から出て行った。
「面会時間は九時から夕方の六時までだから、冬休み中に行きたい者はそこを忘れないでくれ」
クラス委員の音原太一(おとはら たいち)の言葉に、崎寺(さきてら)という女生徒が小さく頷き、最後尾の戸田が「早紀さぁん、どーする」と小さく声をかけ、隣の権藤早紀は「年明けでいいんじゃない?」と答えた。
「ルディ……今日はどうすればいい?」
遼にそう尋ねられたリューティガーは、顎を小さく引いた。そう、今日は二学期の最終日であるのと同時に、十二月二十四日であった。
「五時に晴海埠頭の……ホテルマリナーズコートの前で待ち合わせでいい?」
「ホテルマリナーズコート?」
「埠頭にあるホテルなんだけど、パーティー場所がそこからすぐの倉庫なんだよ。地図……書こうか? それとも代々木まで一度来て、一緒に行く?」
「あ、いや……俺バイクに慣れたいから、オリエンテーリングするわ……時間にゃ遅れないようにするから」
「わかった……へぇ……バイクに乗り始めたの?」
「おう。MVX−250Fってな。整備さえちゃんとしてりゃ、今の新型にだって負けないんだぜ。お前はバイクとかは?」
「免許もあるし、乗りこなすこともできるけど……」
「そっか、必要ねーもんな」
「うん」
互いに笑みを交わした二人は下駄箱から校門まで向かうと、なんとなく視線を交わしてそこで別れた。遼はそのまま自転車置き場に向かい、白と赤の車体を見た瞬間、少しだけ愛着が増しているような、そんな気がした。
「あんた近所なのにバイクなの?」
やってきた神崎はるみはヘルメットを手にした遼に、そんな言葉をかけた。
「慣れたいしさ。ここも空いてるみたいだし」
「まーね。ここの坂道じゃ、自転車じゃ大変だものね」
「そうそう。平田先輩とか木村とか根性入ってるよな」
「ねぇ……島守」
ゆっくりと、はるみは遼に近づき、その長身を見上げた。
「なんだよ?」
「あ、あのね……わたしさ……その……」
途端に視線を逸らし、胸に手を当てるはるみに対して、遼は妙な仕草だな。と、少しだけ呆れた。
「あ、そうだ。いいのかよ、高川の道場に行くなんて言ってさ……お前本気かよ?」
「え!? あ、あぁ……うん……見学してから決める……だって……ほんとに物騒は物騒だもの」
「まぁ、そうだけどさ……高川って……」
はるみの前になると、緊張しておかしな言葉遣いに拍車がかかる現場は、遼も最近何度か目の端に入れていた。しかし余計なお節介だろうと、彼はそれ以上の言葉を止めた。
「わたしね……部長と平田先輩に頼まれたんだ」
「なにを?」
「う、うん……理佳の……代役……」
神崎はるみが蜷河理佳を“理佳”と呼んだ事実に、島守遼はなぜだか強く戸惑い、数瞬でそこから回復した途端、今度ははるみが愛姫役を頼まれたという内容に面食らった。
「な、なんだ、それは……引き受けたのかよ?」
「う、うん……」
彼女がいなくなった以上、代役は当然の措置であり、そのことをまったく想像していなかった自分が、いかに最近部活動から気持ちが遠のいていたかを思い知らされたようでもあり、少年は軽い眩暈を覚えた。
「そ、そっか……神崎が愛姫役か……じゃあ……腰元Bは?」
「と、統合されちゃった。あは、あはは……」
なぜ自分はこんな空虚な照れ笑いを浮かべてしまうのだろう。そんな疑問を抱きながら見上げてみると、彼も自分と似たように頬をひくつかせているのが、妙に心地よく思えるはるみだった。
9.
生まれた頃より都内だったものの、晴海埠頭に来るのは初めてであり、黎明橋を越えて埠頭に到着した遼は、すっかり広がった自分の行動範囲に感動していた。
ホテルマリナーズコートを見上げた彼は、曇り空をバックに聳え立つ外観に口をぽかんと開け、あの最上階付近の部屋なら、さぞかし東京の夜景が綺麗に眺められるだろうと思った。
あのような顔無しの化け物さえ襲ってこなければ、経済状態にもよるが、こんなホテルでクリスマス・イブを理佳と過ごせたかも知れない。もちろんそれは、彼女にとって重要な何かを隠したままの、偽りで塗り固められたデートではあったのだろうが、去り際に見せたあの寂しさは、絶対に自分との別離に対してだったと思う。だとすれば、気持ちは偽りではないはずである。
「遼くん。時間通りだね」
倉庫群から、白いコート姿のリューティガーが駆けてきた。よく見るとコートの下は明灰色のスーツであり、なるほどパーティーだけに正装なのかと、遼は自分の黒い革ジャケット姿に首を傾げながらバイクから降りた。
「停めといても平気だよな」
「たぶん……」
自分に聞かれても、この地区の交通取り締まりなどよくは理解していない。リューティガーが困った笑みを浮かべると、遼は仕方なそうにヘルメットを車体に取り付けた。
「その背負ってる荷物は……?」
リューティガーは、遼の背負っているデイパックに注目した。
「ああ……こないだお前が貸してくれたPCとか、マスクとか……もしかしたらと思って持ってきた」
「重かったんじゃ? 通信機と同盟手帳だけでよかったのに」
「そうか? まぁ、だけど置いてくのもなんだから持ってくわ」
二人は、埠頭を桟橋方面に向かって歩き始めた。
そろそろ日も沈み辺りが暗くなりつつある。今日は特に冷えるな。遼がそんなことを感じていると、リューティガーがある倉庫を指差した。
「あそこで会合だから」
「何人ぐらいくるんだっけ?」
「十名だよ。陳さんと健太郎さんが代々木のマンションで部屋のセッティングをするから、それが終わるまで、あそこで自己紹介とか部屋割りを決めたりするんだ。その席で皆に君を紹介するよ」
「そっか……陳さんたちはいないのか」
知った顔が少しでもいれば気楽である。二人の従者は必ずくると思っていた遼は、当てが外れてすこしだけ不安になった。
「そうそう、荷娜さんにも紹介しないと、ちょうどいいから桟橋まで向かおう」
「誰だ、それ?」
「僕たちと取引している運び屋だ。同盟からの物資はさすがに郵送ってわけにはいかないから、非合法だけど荷娜って人が海路で運んできてくれる。今日の十名も彼女の船でやってくるんだ」
もし今後、遼が荷娜との取引も手伝ってくれれば好都合である。突然の思いつきにリューティガーは顎に手を当て、歩きながら目を細めた。
桟橋には一隻の小型船が停泊していた。
「早いな……荷娜さん……もう到着してたのか……」
リューティガーのつぶやきはドイツ語であり、一緒に立ち止まった遼には意味が聞き取れなかった。仕方なく彼に合わせて視線を桟橋に戻すと、そこで手を振る一人の女性の姿があった。
「ルディ!! やっほー!!」
日本語である。あれが荷娜という人物であれば一体何人なのだろう。遼は防寒コート姿のシャープな顔立ちの女性を観察しながら、とりあえずの応対をリューティガーに任せることにした。
「荷娜さん!! 早いですね」
「ええ、ちょっとスケジュールがずれてね。皆は船の中よ」
「ご苦労様です……」
頭を小さく下げるリューティガーの隣で、「どうも」とつぶやきながら後頭部に手を当てた長身の若者に、荷娜は吊り上がった目から鋭い視線を向けた。
それなりの美人であるが、なんという目つきでこちらを睨むのだろう。遼は息を呑み、続けて「あ、ど、どうも」と繰り返した。
「彼は遼くん、僕の現地協力者です」
「ふーん……そうなんだ。よろしくね、遼。私は李荷娜」
少し掠れがちな声で自己紹介をした荷娜に対して、遼は「よろしく」とできるだけ低い声で返したため、彼女は「気に食わないな」と心の中でつぶやいた。
「もうとにかく定員いっぱいよ。上海で最後の二人を乗せたときは、ここまで辿り着けるか不安だったもの」
強い口調で難儀を語るこのバンダナを巻いた女性は、おそらくかなりの修羅場を潜り抜けてきた「あちら側の世界」に属する人間なのだろう。そんな彼女と対等にやりとりをするリューティガーに、遼は苦々しさを感じて奥歯を噛み締めた。
負けるかよ……こんなので……ざけんじゃねーよってな……
まったく的外れな気合い入れであり、その緊張は二人にも伝わり、荷娜は首を傾げた。
「はは……大丈夫? まぁ、いいけど……じゃあ十人、呼んでくるわね」
馬鹿にしたような笑いである。船に戻っていく彼女の背中を見上げ、遼は自分が子ども扱いされているのではないかと地面を軽く蹴った。
「あの人……口は悪いけど、仕事は確かだから……」
「怒っちゃいないよ。そんな……まるでさ……」
落ち着く必要がある。潮風を吸い込んだ遼は、今夜は驚きと緊張の連続になるだろうと思い、どうしたら嘗められずにこのイベントをクリアできるか、その方法に考えを巡らせていた。
「う、うぁ……」
このうめき声は、まさか隣のリューティガーからのものであろうか。だとすればなんと冷静に欠いた、彼らしくもない驚嘆だろう。遼がちらりと隣に視線を向けると、栗色の髪が風になびき、船の操縦席を見上げる彼の横顔は硬直していた。
船でやってきた十人が姿を現したのだろうか。同じように操縦席を見上げた遼は、サーチライトの逆光を浴びる十体のシルエットに息を呑んだ。
「まさか……これだけのメンバーが派遣されてくるなんて……」
リューティガーのつぶやきは日本語であり、だからこそ自分にも教えたい事実なのだろうと遼は理解した。なるほど、予想外にクラスが高いエージェントが揃ったということなのだろう。彼はどう気持ちを引き締めてよいのかわからず、とりあえずデイパックを背負い直し、深呼吸をした。
倉庫の中は思いのほか明るく、クレーンやハンガーが設置されていることから、遼はここが何かの整備用施設であると判断した。
それにしても、こんな殺風景な場所で顔合わせとは、まるで映画に出てくるマフィアの取引現場のようである。リューティガーの隣についた遼は、対する十名の姿をあらためて認識し、そのばらばらな個性に圧倒された。
「本当によく来てくださいました……」
リューティガーが日本語で切り出したのが、遼にとっては意外でもあり救いでもあった。なるほど、どういった事情かは分からないが、その国にいる間はその国の言語を使うという決まりなのだろう。だとすれば同盟のエージェントは、皆語学が堪能ということである。
「我ら十名、ハルプマン作戦本部長の命令により、本日付をもってリューティガー真錠殿の配下として作戦参加をさせていただく。久しぶりだな。ルディ」
そう返したのは十人の中央に立ち、もっとも高齢と思しき白い髭を蓄えた老人だった。
「まさか……戦術の神様が派遣されてくるとは……夢にも思いませんでした……」
少しはにかんだ様な、憧れに目を輝かせているような、そんなリューティガーである。彼がそこまで敬愛する人物なのかと、遼は再度、老人を観察した。
なんの毛皮だろう。黒く厚手のコートを着込んでいる老人はパイプを手にし、禿げ上がった頭部の両サイドにわずかばかりの白いものが残っている。同じ色の髭は耳から顎にかけ、頭髪とは対照的にボリュームがあり、目は青く、肌が白いものの日本語は淀みがなかった。
「遼くん、この人はサルベシカ……別名を荒野のサルベシカという。もう引退した方だけど、かつては戦術の神様とまで言われた、歩兵戦の達人なんだ」
「えっと……つ、つまり……もと軍人さん?」
ピントの外れた彼の返事に、リューティガーは困った笑みを浮かべた。
「違うよ。軍人じゃなくって戦術家。凄いんだよ。中東戦争の同盟加担作戦において、二十戦無敗なんていう、とてつもない記録が残っているんだから」
「ふん……それぐらいにしてくれないかリューティガー殿。全ては兵力に恵まれていたおかげだ」
険しく、硬い表情のまま、老戦術家はそう謙遜した。
「よ、よくおっしゃいます……ヨム・キプールの大撤退なんて、十対一の戦力差だったのに、損害をゼロに抑えたじゃないですか」
リューティガーとサルベシカのやりとりをぼんやりと眺めながら、遼は「やっぱり軍人じゃねぇか」と呆れてしまい、自分にはとてもついていけない会話に腕を組んだ。
しばらく戦術の神様と言葉を交わした後、リューティガーは次なる人物を遼に紹介した。
「隣の彼は三トラ(さんとら)……」
老人の左隣にいた男は、身長を二メートル以上で高さに見合う、厚みをもった巨体であり、虎縞模様のマントに全身を包んだ姿と浅黒く精悍な顔、オールバックの長髪は黒く、遼は圧倒されながら見上げた。
「か、変わった名前だな……」
「破壊工作のプロ。生体改造を受けた特殊能力の持ち主だ」
興奮を抑えながらリューティガーが紹介すると、虎縞の巨体が小さく頷き、唇の両端を少しだけ吊り上げた。それにしても整った顔立ちであり、これも改造の結果なのだろうか。遼は三トラの能力に興味を抱き、「へぇ」と漏らした。
「それで、こちらはE夫人……」
サルベシカの右隣に佇んでいたのは紺色のジャケットに白いシャツ、洗いざらしのジーンズ姿の、少々野暮ったい服装の白人であり、赤みがかったおさげ髪に度の強そうな黒縁眼鏡をかけた、“夫人”という呼称があまり似合わない仏頂面の白人である。
「キミが時量使いのサイキか?」
微妙なイントネーションで彼女はそう尋ねた。“ジリョウツカイ”という耳慣れない言葉に遼は戸惑い、思わず頭を掻いてしまった。
「そうです夫人……遼くん。彼女は同盟と契約を結んでいる暗殺プロフェッショナルで、殺し屋の世界では五指に入る達人だ」
夫人で暗殺プロフェッショナルでラフな服装の仏頂面。遼は許容範囲をとっくに超えた彼女の人物像を凝視することしかできず、紹介の言葉にもただ頷くしかなかった。
「そしてこの二人……」
夫人の隣には、同じ金髪、同じ顔をした二人の青年が鋭い視線を向けていた。背は自分より高く、足も長くモデルのようなスタイルである。白人と思しき青い目は鮮やかで、虎縞の三トラほどではないが中々の美形で、それがセットで並んでいる様は奇妙ですらあった。
だが、二人の服装は黒革のジャケット、白いスーツとそれぞれ異なり、微妙だが左の彼はうっすらと微笑んでいるようでもあり、右の彼はどこか冷徹そうな硬さを遼は感じていた。
「灼熱マッハと凍結ストップ……僕たちと同じように、異なる力をもった能力者の双子だ。これまでにも数々の作戦に参加して、いくつもの成果を上げている、”Aクラスのエージェントだ」
異なる力を持った能力者。遼はその言葉に驚き、何度も瞬きをして二人を見比べたが、彼らは一言も返すことはなかった。
「隣の彼はプラティニ。同盟のエージェントで狙撃の達人……コイン・リングの異名を持つ」
双子の異なる力にも興味があったが、その隣でニヤニヤと薄笑いを浮かべる紫色のスーツを着込んだ白人男性に、遼は次なる関心を向けた。
「ヨロシク!! 火器火薬はナンでもござれの四十三歳ね。ニッポンのオンナノコを激しく知りたい年頃さ!!」
聞き取るのが困難なほど、上へ下へとうねったイントネーションの自己紹介に、遼はたまらず首を上下左右に動かし、そのリアクションにプラティニは手を叩いて笑い出した。
「Foolish……」
仏頂面のE夫人がそうつぶやき、鋭い視線でプラティニの横顔を睨みつけた。すると彼は夫人へウインクをし、彼女の眉がピクリと動いた。
「な、なに……二人はお知り合い?」
遼の問いに、プラティニはピンクのシャツの襟を摘んで首を傾げた。
「お知り合いだヨ!! だって僕たち昔は恋人同士だったですモノ!!」
洒落者の軽口に、夫人は即座に「気の迷いよ、少年。一度もセックスはしなかったし」とつまらなそうに言い放った。
「あ、は、はい……」
遼は戸惑うばかりであり、本当にこれからこの人たちと行動を共にできるのかと、それが不安で仕方がなかった。
「まさか……あなたが来てくれるとは……」
傍らで圧倒されていた遼を他所に、リューティガーは最も右端で迷彩ズボンのポケットに両手を突っ込んだ黒人に、強い意を向けた。
「契約は結んだのですか?」
「ああ……二重だが仕方がない……地獄の四課に責め殺されるよりはな……」
「そ、そうですか……なんにしても……助かります……」
黒人とリューティガーのやりとりは英語であり、英語にそれなりの自信がある遼ではあったが意味を聞き取ることができなかった。
「遼くん……彼は……カラー・暗黒……E夫人と並ぶ暗殺プロフェッショナルだ……」
やや震え、緊張したリューティガーの言葉から、遼はあの黒き男は畏怖するべき存在なのだろうと判断し、小さく会釈をした。
なるほど、全員が日本語を喋ることができるわけではないということか。遼は三トラや双子が無口である理由をそう理解し、当初の考えを改めた。
「ようこそ……希望がついに叶ったんだね」
リューティガーに英語で声をかけられたのは、ブロンドをポニーテールにし、細い眉と緑色の大きな瞳をした若い白人女性だった。
「ええルディ……やっと外勤希望が通ったのよ」
「しかし……過酷な任務になると思う……奴は第二次ファクトの残党まで戦力として使い始めている」
「だからこれだけのメンバーが揃えられたのよ。もちろん私の仕事は後方支援の情報処理だから、しっかりと守って欲しいわね」
首を傾げて悪戯っぽく微笑んだ彼女に対し、リューティガーは力強く頷いた。
「彼女は……ヘイゼル・クリアリー。同盟では情報処理第七課に所属する、オペレーターだ」
「ヨロシク。トーモリくん」
ぎこちない日本語でヘイゼルは挨拶をした。なんという大きな胸だろう。おそらく同盟の制服と思しき、硬いデザインのワイシャツが質量たっぷりと揺れる様に、遼は「こ、こちらこそ。My
best regards.」と支離滅裂な返事をし、彼女はにっこりと微笑んだ。
「ルディ。この人、面白いのね」
「う、うん……ちょっと……変わってるんだ……」
こいつ、あからさまにヘイゼルにデレっとしていやがる。リューティガーは隣で頭を掻く遼を横目で一瞥し、残りの二人へ視線を移した。
「えっと……で……お二人は?」
十人中最後の二人に、リューティガーは見覚えが無かった。共に同盟の制服であるスーツを着ていることから課員かエージェントには違いないはずである。一人は小さな老人であり、奥まった目と白い頭髪の硬そうな質は同郷の人種に近く、穏やかな佇まいは安定した人柄を想像させる。そしてその隣にいるのは彫りの深い眉毛の太い、中肉中背の青年であり、おそらくユダヤ人であろうと彼は予想した。
「私はヘロルド・ホルガー……諜報四課で本部長から派遣された……こっちの若いのはモッシュ・キドロン。作戦三課所属だ。よろしく、リューティガー殿に島守殿」
しっかりとした日本語で、老白人のヘロルドがそう言った。戦術の神様、サルベシカと比較するとずっと親しみやすさがあると遼には感じられ、彼は「よろしくです」と頭を下げた。
「にしても……あの小型船にこんな十人がなぁ……」
誰に言うわけでもなく遼はそうつぶやき、荷娜の小型船に彼らが乗ってきた事実を、まるで宝船のようであると連想して苦笑した。
未知数な二人がいるものの、この作戦において申し分ない追加戦力である。リューティガーは、これだけのメンバーが自分の配下になった事実に全身を震わせた。
「彼は島守遼。噂を耳にしている人もいるとは思いますが、能力者として恵まれた血筋で、既にFOTの暗殺者を撃退した経験もある、この作戦の現地協力者です」
遼の背中に手を回し、リューティガーは対する十人に英語でそう紹介した。
「ど、どうも……島守遼っス」
シチュエーションを即座に理解した彼は、頭を掻きながら挨拶をした。
睨み続ける者。笑みを向ける者。関心がなさそうな者。「よっ」と右手を挙げる者。温厚そうな穏やかさを向ける者。倉庫をただ見渡す者。それぞれである。それぞれが遼の強張った挨拶にばらばらな個性で対していた。
「では……代々木のマンションに部屋を借りてあります……全部で六部屋……ここで部屋割りを話し合いたいのですが……」
リューティガーの提案に、最年長であるサルベシカがゆっくりと頷いた。
「さっさと決めて、これで盛り上がろうよ!!」
プラティニはそう言うと、足元にあった数本のボトルから二本を選んでそれをかざした。
「酒……ですか? プラティニさん」
どこで調達したのだろう。リューティガーはプラティニのかざしたボトルを見上げ眉を顰めた。
「おうよ。船長のチャイニーズが餞別にクレたんだよ!! まずは互いによく知り合おうぜ。ちょうどここは広いしよ」
プラティニの日本語を遼はかろうじて聞き取り、「ワインか?」と彼の足元に置かれたボトルを確認した。
「どうでもいいけど……あの船長はコリアンよ……愚か者……」
夫人は英語でそうつぶやき、プラティニは「あっそう?」と首を傾げ、ウインクをした。
「この国が変わった後、自分たちにどんなメリットがあるか、それしか考えてない……度し難いっていうか、正直っていうか……野党ですらそんな有様だから、重症もいいところでさ。まったく」
真実の人(トゥルーマン)のぼやきに、はばたきは小さく何度か頷いたものの、言葉を返したり感想を言ったりすることはなかった。
新宿のホテルで会談を終えた真実の人は、交渉部門のスタッフたちと現場で解散した後、東口のアルタ前でライフェ、はばたきの二人と合流し、ぼんやりと新宿駅を見上げていた。
「真実の人、今日はこれからいかがなされます?」
エプロンドレスの上にベージュ色のコートを着たライフェが、白い長髪の青年にそう尋ねた。
「うーん……そうだなぁ……」
新宿で遊ぶのもいいし、多摩川のファクト残党を訪ね、新たに指名をするのも悪くない。さて、今日このクリスマス・イブをどう過ごしたものか。すっかり日が沈み、ネオンライトに照らされた通りを眩しそうに眺めながら、青年は小さく息を吐いた。
「ベタな場所で待ち合わせだな。真実の人」
もじゃもじゃのパーマ頭を寒風に揺らしながら、藍田長助が真実の人の視界に飛び込んできた。
「よう長助。二週間ぶりか?」
現れた男に青年は小さく微笑み、傍らのライフェは丸い目を細め、眉を顰めた。
「ああ。報告に来た。理佳を確保した」
長助の報告に真実の人は片眉をピクリと動かし、尖った顎を小さく引いた。
「十日以上前になるが、中村橋のマンションで倒れていた……任務の失敗もそうだが……そこに至るまで、精神的に相当参っていたらしい」
「そうか……そこまで思いつめてたのか……」
「ああ。殺しの技は相当だが、まだスパイとしちゃ二流だな。心が弱すぎる」
胸ポケットから煙草を一本取り出した長助は、それを咥えて百円ライターで火をつけた。流れる煙を目で追ったライフェは、夜空がいつもより明るく感じるのは、雨雲がネオンを反射しているためだと気付き、コートの襟を立てた。
「そーよ。蜷河は心が弱いのよ。根性無しなんだから」
そう漏らしたライフェは、同意を求めるように褐色の肌をした少年の瞳を見上げた。
「そ、そうなんスかね?」
「そーよ。だって普通の人間ですもの。弱いわよ」
強弱の意味をすり替え、ライフェは自信満々に微笑んだ。
「理佳は三鷹のハウスへ預けてきた。さっき様子を見に行ったけど、クリスマスイベントの準備で忙しそうだったから……とりあえずは一安心だな。エプロン姿が似合ってたぜ」
「そ、そうか……そいつぁよかった……うん……落ち着いたんだな……理佳は……」
真実の人は頬を引き攣らせ、自分がこの世界へ引き込んでしまった少女の、儚げな横顔を思い出した。
「一応報告するが、理佳は次の任務を欲しがっていた……できるだけキツイのがいいって」
どうするのだ? そんな言外の意を込めながら、長助は煙草の煙を吐いた。
「しばらくハウスに待機させよう……あそこは理佳にとっては第二の我が家だ……殿田も了解しているのだろ?」
「ああもちろん。彼女も理佳を心配していたからな」
自分が仕える青年が期待通りの回答をしたため、長助は安堵した。しかし同時に余計な質問をしたい欲求がこみ上げ、彼は自分に対して正直だった。
「だが……第二次の残党はまだ使う……それも最小限度の命令で……そうなんだろ?」
「ああそうさ。ルディや島守遼って彼には、もっと努力してもらわなくっちゃね。奴らが俺を狙うんなら、もっと勝ちを重ねてからでないとイカサマだ。だから派遣は続けるさ。第一次がライフェのチームだけになった以上、第二次を近々編成する」
自分の名前を口にされたライフェは真実の人へ振り返り、彼女の両で束ねた豊かな赤毛がしなった。
「チッ……懲りちゃいねぇ……もう理佳はいねぇ……学校の生徒たちだって巻き添えになるんだぜ?」
「同盟も戦力を増強しているらしいぜ。ならこちらも対応しないと」
はぐらかすなよ。そーゆーことじゃねーだろうが……
長助は吸い殻を吐き捨て、真実の人を睨み付けた。
「さぁ……今夜はみんなで遊ぼうぜ。夜通し騒ごうぜ。なんせクリスマス・イブだしな!! まずは山頭火で腹ごしらえして、その後はゲーセンに行こうぜ!!
やってみたいのがあるんだ!!」
真実の人は両手を広げ、不満そうな長助に笑みを向けた。ライフェはその提案に両手を叩き、なにかうまそうな料理にありつける、そう思ったはばたきは大きく頷いた。
10.
十二人の酒席となると、五本目のワインが空くのに三十分とはかからなかった。しかしそれぞれが任務や仕事に対して厳しい覚悟を胸に秘めたエージェントやプロフェッショナルである。ペースは速いものの呑み方はよく心得たもので、やがて彼らの興味は、ワインを生まれて初めて口にするという、島守遼の酔い具合へと向けられていた。
「い、いやぁ……ヘイゼルさんは日本語うまいなぁ!!」
「一応同盟のオペレーターは、人口比率に基づいた多言語を振り分けて喋れるように教育されてるから……私が偶然日本語でヨカッタわ」
緑色の瞳を輝かせながら、ヘイゼルは四杯目になる赤い酒を遼のグラスに注いだ。彼女の何気ない呑ませ方に、虎縞の三トラは感心して鼻を鳴らし、酒席の提案者であるプラティニはこのサイキの少年がどのような崩れ方をしてしまうのか楽しみで、「なぁ」とかつて付き合ったことのある夫人に関心を促した。
「ほ、ほんと……すごいお歴々の中に、うぉれなんかがまざっちゃったりしちゃって……い、いいのかなぁ……」
目の前にいる十人たちはいずれもワイングラスを手にしていて、倉庫の殺風景さとは対照的に個性豊かな面子である。自分のような平凡な高校生が酒を共にしてよいものか、ふらつきつつあった思考を遼が巡らせていると、彼の肩をリューティガーが強く掴んだ。
「だめだ。遼くん」
「や、やっぱだめっかなぁ?」
「ああ。もうワインはだめだ。これ以上呑んだりしちゃいけない」
「そ、そっちのだめかぁ……」
納得した遼は、赤ら顔を歪めて「やなこったい」とつぶやくとグラスに注がれていた液体を一気に呑み干した。
「ば、馬鹿!! 一気に呑むなんて!!」
リューティガーは遼の持ってた空のグラスを取り上げ、空いた手で彼の肩を掴み直した。
「いい呑みっぷりデスネ!!」
トラブルを煽るようなプラティニの叫びに、遼はピースサインで応え、さすがにこの能天気な反応に仏頂面だったE夫人の口元が歪み、彼女は思わず「くっくっくっ」と笑い声を漏らした。
「あやや? あのお方も笑うとなかなかの……」
すっかり受けたと思い、気持ちも大きくなった遼は夫人の笑みを興味深く覗き込もうとし、リューティガーにそれを阻まれた。
「はしゃぐなよ、遼!!」
「い、いいだろルディ。なんかみんな微妙に硬いし、誰かが道化をやんなきゃ和まないだろ」
「い、いいんじゃなくってルディ?」
ヘイゼルの支援に、遼は今一度彼女の薄いブルーのワイシャツが豊かに膨らんでいるのを確認し、それにしても外人のボリュームたるや凄い。と顎に手を当てた。
「言ってることは正論でも、今の遼じゃ説得力に欠ける……」
「な、なんだとぉ……」
ふざけついでに、遼は抗議のポーズでもとろうとした。しかし胃の中が洗濯機のように回転する感覚が急に襲い、それが口元へ逆流してくるのに気付いた頃には「うぇ」と声を漏らす結果となってしまった。
「言わんこっちゃない……トイレは外だ……ここを出た角にあるから……」
目の前で吐かれたりでもしたら席はぶち壊しである。リューティガーは遼が置いたデイパックから黒い防護マスクを発見すると、口を押さえたまま出口へふらふら向かう彼へ駆け寄り、それを手渡した。
「う、うぐぅ……」
「万が一がある……これを被っていくんだ」
こんな気味の悪い面など被りたくはない。そう拒絶したい遼だったが、吐き気でまともな返事ができるはずも無く、なんでこんなものまで持ってきてしまったのだろうと後悔していると、彼はリューティガーに半ば強引な形で面を装着された。
意外と視界も良好で、圧迫感もない。そんな感想を抱きながら、遼は頼りなく倉庫から出て行った。
「まったく……あぁも酒癖が悪いなんてなぁ……」
両手に腰を当てたリューティガーは、呆れてそうつぶやいた。
「警戒の必要があるのか? あれは任務用のマスクではないか?」
やってきた三トラが、英語でリューティガーにそう尋ねた。
「たぶん大丈夫でしょうけど……酔った人間は何をしでかすかわかりませんから……」
「それはそうだが……」
あのマスクだとかえって怪しまれるのではないのだろうか。三トラはそう思いながらも、だからと言ってリューティガーの判断が間違っているとも言い切れず、仕方なくマントの下に隠されていた六本の腕を組んだ。
「なるほど……確かに現地協力者なのだな。訓練を受けていない……」
「そうみたいだね、兄さん……」
「足手まといにならなければいいんだが……」
「任務はシンプルなんだ。彼が関わる前に我々で果たしてしまえばいいじゃないか」
「それもそうだな」
双子の青年はハンガーに寄りかかったまま杯を鳴らし、不敵に微笑んだ。
「みなさん……そろそろ陳さんたちが部屋の準備を終えているでしょうから、移動しましょう。僕がこれから一人ずつ跳ばしますから」
場を仕切る今回の任務の責任者に、十人は殆ど同時に頷き返した。
「さぁてと……四川の巨匠に再会か……いいねいいね……」
プラティニは手を揉みながら、工作機器の上に置いたワインがもう残っていない事実に気付いた。ちょうど酒も切れたし、移動にはいい頃合いである。タイミングの良さに彼は口笛を吹いた。
「いやぁ……まさか陳大人の料理が毎日食べられるとは……任務の大きさを感じますな、モッシュ君」
ヘロルド老人にそう言われたモッシュ青年は「そんなに美味しいのですか?」と返し、同じく老人のサルベシカがワイングラスを置いてパイプを手にし、「絶品だぞ」と補足した。
それぞればらばらである個性を、どう作戦として機能させていけばいいのか、グラスを置いた十人たちを見渡し、若き責任者は腕を組んだ。もっとも、戦術の神様がいる以上、作戦の心配をする必要はなく、今後はある程度の越権も本部は黙認してくれるだろう。
だとすれば早期決着である。遅くとも年明けには必殺の一手を仕掛けるべく、この十人と、今は代々木で部屋の準備をしている二人、そして角の便所で酒と胃液を吐き出している彼、十三人には全力で働いてもらうことになる。
リューティガーは両手を握り締めることで決意を固め、ゆっくり、力強く頷いた。
倉庫の扉は機材搬出用の正面シャッターと、先ほど遼が出て行った作業員用の出口の二つのみである。この宴では正面シャッターを開く機会がなかったため、リューティガーは背中から吹き付けてきた寒風に激しく戸惑った。そう、こんな強くて激しい風、方角からして正面シャッターが開かなければ吹いてくるはずがない。けど、そんな音など聞こえてはいない。
正面に対していた十人は、皆一様に緊張し、プラティニは懐から拳銃を既に引き抜き、E夫人は眼鏡を捨て、マッハとストップの双子は整備用ハンガーから背中を離し、ヘイゼルは眉を顰めて小さく口を開けていた。
皆、一体どうしたのだろう。リューティガーは全員の緊張が集中している自分の背後へ振り返った。
正面シャッターに、マンホール大の穴が開いていた。見事な真円で、厚みのある鋼鉄のシャッターをこうまで綺麗に切り抜くには相当の精度をもったレーザーが必要である。なるほど、突風の正体はこの穴なのだろう。ホルスターから拳銃を引き抜きながら、リューティガーは異常事態の発生をじゅうぶん自覚し、両手でそれをがっちりと構えた。
音も無く、一回り大きな穴がシャッターに開いた。まるで手品のように、隔てていたはずの分厚いシャッターは最初からそうであったかの如く、強烈なライトの明かりを遮らずに、十一人を裸のように曝していた。
これだけの光量で考えられうる可能性は僅かである。
「映画の撮影?」
「ぶー……」
「野球のナイター?」
「ぶー……」
「逃げないように……漏らさないように……刑務所のサーチライト?」
「半分正解……」
「では残りの半分は?」
「目くらまし」
マッハとストップの二人は口々にそうつぶやきながら、右手と左手にそれぞれ意を込め、光の照射方向であるシャッターへ向かってダッシュした。
「外れだ、兄弟!! 上だ!!」
神様の叫びで二人は同時にその場に立ち止まり、天井を見上げた。すると轟音と共に頭上のそれが破片を落としながら震動し、次の瞬間、十一人は足の裏に衝撃を感じた。
何かが天井を突き破って、この倉庫内に落ちてきた。状況をそう理解したリューティガーは、落下物の一番近所に自分がいた事実を把握し、その場から後ろへ跳躍しようと身構えた。
だが、あまりにも速く、硬い衝撃がリューティガーの胸を打ち付け、彼は倉庫の壁まで吹っ飛ばされ、今度は背中を痛打した。
「敵襲!? FOTだな!?」
叫びつつ、三トラは虎縞のマントを脱ぎ捨て、中から二人の、目に生気のないそっくりな裸体が飛び出した。
三人に分身した。この光景をもし島守遼が目の当たりにすればそう驚愕するであろうし、さらに落ち着いて観察すれば、三人の三トラはいずれもマント姿のときより背も低く、身体も痩せていて、それが分身ではなく、あくまでも分裂であることはよく理解できるはずである。
三人の三トラは、リューティガーを吹き飛ばした、倉庫の中央に落下してきた何者か目掛けて中央、左右と三つの方向から接近した。
だが、落下してきた侵入者は何の躊躇もなく、本体である右から近づいてきた三トラにターゲットを絞り、次の瞬間彼の頭部は首の高さまで減り込み、コントロールを失った残りの二人はその場で転倒した。
「装甲服……いや……ロボットか……!?」
E夫人は工作機器の陰から、真っ赤な人型である侵入者の情報を自分なりに分析し、しかし相手が機械であれば、自分が得意とする毒の数々は通用しないと、薄い下唇を噛んだ。
頭部は丸く、後頭部から全面にかけては黒いバイザー状になっていて、おそらくそこにセンサが集中しているのだろう。全長は190cmあたり、金属と思われる全身は倉庫の灯りと外からのライトで鈍く輝き、臀部と両の後ろ肩が大きく膨らんでいて、そこにも武器が収納されているようである。FOTはなんという化け物を作ったのだろう。いや、あれは軍用品で、それをアルフリートが買った可能性もある。
拳銃のスコープで侵入者を観察したプラティニは、それがいとも簡単に三トラを仕留めた事実にあらためて驚愕し、引き金に力を込めた。
弾丸は頭部の黒い部分に着弾した。9mmではあの装甲らしき全身を貫通できないだろう。そう判断しての、バイザー部分への全弾連続射撃であった。移動しながらでも、十四発の全てを誤差2mm以内の衝撃エリアにまとめることが出来る、「コイン・リング」の異名を持つ彼にしか出来ない高等戦技である。しかし、二発目の弾丸がバイザーにヒビを入れた直後に、赤く巨大な人型はその場から突進を開始し、プラティニの眼前で立ち止まった。
P226の改造拳銃を用いた全弾連続射撃に要する時間は計五秒である。プラティニと人型の間は七メートルほどの距離があり、どう考えても移動速度と距離の辻褄が合うはずがなかった。
これが素人であれば、赤い人型が真錠兄弟のような空間跳躍をしたのだと判断してしまっただろう。しかし、物陰に逃れ潜んでいた暗殺プロフェッショナル、カラー・暗黒はその優れた動体視力により、赤い残像を目に焼き付けていた。既に発射されていた三発目から十四発目までの全弾が向こう側の壁に着弾したのと同時に、プラティニの頭部は反対方向に捻れ、伊達男は愛銃を握り締めたままその場に崩れ落ちた。
大きさには似つかわしくないが、あれはあくまでも超高速の“移動”によって三発目以後の弾丸を前進して回避した。そして、次の瞬間には完璧なる仕事を果たしていた。カラー・暗黒は、見てしまった事実をどう理解し、どう解釈してよいのかわからず、恐怖に心臓を凍りつかせた。
撲殺である。かつてミラノのカフェで、「素顔の私に失望したかな?」「お袋にそっくりなんで幸運だと思うよ」「イタリア男の口説き文句はいっつもそれね」「僕なりのアレンジをしたつもりなんだけどな」などと赤面ものの言葉を交わしたあの彼は、信じられない、といった恐怖を顔に貼り付けたままこちらを見つめ続けている。
たぶん、叫んでいるのだろう。まったく。プロらしくもないね。あたしゃ。
やってみるしかない。もし人間が中に入っているのなら、通じるはずである。この毒は鉛すら貫通する。E夫人は内ポケットから紫色の液体が入った特殊素材の小瓶を取り出しながら、テグス糸を巻きつけたそれを赤い人型目掛けて放った。
人型の左手には、機関銃が取り付けられていたようである。投擲に成功したものの、機械の陰から姿を現してしまった夫人は、何十発もの弾丸を全身に浴び、その火力の凄まじさは彼女のおさげ髪を切断するほどであった。
最後の一工夫。絶命の間際、E夫人はテグスを巻いた右の人差し指をくいっと動かし、毒液の入った小瓶の軌道を変化させた。
人型は咄嗟の変化に、右手をかざすことで対応した。瓶が割れ、紫色の液体が赤い腕をどす黒く変色させたのと同時に、衝撃が後頭部を揺らせた。
カラー・暗黒の射撃はプラティニほど正確ではない。しかし人型が振り返った頃には襲撃者である暗黒の姿はおらず、彼のゲリラ戦法は始まったばかりである。ハンガーの陰に身を潜めた彼は、次の一手にナイフを選択した。できるだけ気配を殺し、ヒビの入った頭部を完全に粉砕する。上空から体重を乗せた一撃で仕留めるしかないだろう。暗黒は天井を見上げ、星のない曇り空に奥歯を噛んだ。
三トラが、プラティニが、E夫人が、ものの数十秒で惨殺された。いずれも同盟では数多くの作戦に参加し、自分も彼らを駒として動かした経験がある。そう、彼らは強力な駒であり、サルベシカは戦力比計算もできないまま、倉庫の陰で戦況を見守ることしかできなかった。
個人、もしくは単独兵器による圧倒的破壊など、戦術が介在する余地は皆無である。
この十人にしかるべき策を与える猶予が欲しい。数十秒でいい。そうすればあの化け物から誰一人として損害を出さずに逃れることができる。サルベシカ老人は自分の傍らで気を失っているリューティガーを見下ろし、何も出来ない老いぼれでも、せめてこの若い可能性だけは脱出させなければならない。そう思い、数歩歩いた後、目に入ったヘイゼルへ声をかけた。
「ヘイゼル!! ルディを守れ!! 逃げ!!」
言い終えぬうちに、サルベシカの全身に機関銃弾が打ち込まれた。
荒野のサルベシカ。中東戦争において幾多の戦いに戦術家として参加し、敗北を知ることがなかった戦術の神様。しかし彼は七十二歳のクリスマス・イブに、神の知略を揮うことも適わない、小さな倉庫でその生涯を閉ざそうとした。
絶命の間際、彼は思った。そう、これは戦術レベルの出来事ではない。戦略レベルで我々十人は罠にはめられたのだと。
サルベシカの老体に赤い人型が機関銃を打ち込んでいる隙に、カラー・暗黒は天井隅のクレーンチェーンにぶら下がり、その頭上でナイフを構える段階まで達していた。
助かったぜ、サルベシカの爺さん……おかげで絶好のポイントだ……
暗黒は白い歯を見せ、眼下に佇む人型に舌なめずりをした。しかし、獲物を仕留める快感を味わう直前、その左腕の銃口が真上に向けられた現実に硬直した。
レーダーか……センサか……だよな……ったく……だからダブルブッキングは鬼門なんだ……すまねぇなキンバリー……毛皮……買ってやれなくってよ……
チェーンに掴まったまま、カラー・暗黒のしなやかな肉体が弾丸に踊った。
サルベシカの言葉は重く受け止めなければならない、戦闘技術において一歩も二歩も劣る自分にできることは、この栗色の髪をした彼の盾となって、赤い悪魔から守ることである。ヘイゼルは拳銃を手にしたまま、倒れているリューティガーに駆け寄った。
この移動が危険であることぐらいよく理解している。単騎で突入してきた敵には高度なセンサが搭載されているのか、もしくは外からサーチライトを照らしている何かが倉庫内の分析をし、その情報が人型へ送信されているのかも知れない。あるいは遠隔操作か。そんなことを分析しつつ、ヘイゼルはただ懸命に、愚かな接近を試みた。
気を失っているリューティガーまで接近できた事実に、ヘイゼルは自分の幸運を確信した。だがその直後、そんな思い込みこそが愚かであり、二つの命が時間稼ぎのために失われた現実を認識した。
迫り来る赤い人型の左手には、諜報四課のヘロルドが、右足には作戦三課のモッシュが、それぞれ血塗れになりながらもまとわり付き、その進行スピードを少しでも緩めようとの執念であった。
もう、二人とも絶命している。彼らも自分と同様、来日した他のエージェントに比べると実戦経験が乏しく、本部での職務を担当する内勤者である。
船の中で……ヘロルドさん……みんなに気を遣って……嫌だな、この人って……最低だな……私……
流れる涙は、空中へ弾き飛ばされ壁に叩きつけられたヘロルドへの哀悼であり、絶叫は、踏み潰され肉塊と化したモッシュへの弔いであり、発射した弾丸は、少年を守る想いそのものである。
ヘイゼル・クリアリーは、どす黒くなっていた人型の右腕で、弾丸が弾かれた結果に落胆し、その直後に左手の機関銃口が自分に向けられた現実を受け止め、両手を広げた。
「撃ちなさいよ……覚悟してた……外の仕事は危険だって……だけどね……これがたぶん、生きてるってことなんだから!!」
早口の英語でそう叫んだヘイゼルだったが、銃弾は一向に自分を貫くことなく、だが人型の左腕は機械音を発しながら震動しているのに気付いた。
「なーんだ……弾切れ?……タイミング最悪……なんて情けないのよ……ったくぅ……」
そんなぼやきが、ヘイゼル・クリアリーが発した最後の言葉だった。急接近を果たした人型は背中からブレードを引き抜き、刃が彼女の上半身と下半身を分離させた。
せっかく……プレゼントつけてきたのに……気付かないんだもんなぁ……こいつ……
後方へ回転した視界の端に、気を失っている栗色の髪を感じられたことが、ヘイゼルにとって唯一の救いであった。
「凍結!!」
物陰から飛び出した双子の白いスーツ姿が、赤い人型のブレードを両掌で挟んだ。
「あらゆる分子の動きを停止させる、この俺の凍結能力!! もう武器はあるまい!!」
ブレードは鈍い輝きすら失い、砂のように凍結ストップの掌の中で崩れ去った。
さき程から右腕を使っていないところを見ると、E夫人の毒は効果があったということであり、つまりこれは何らかの強化装甲兵器である。そう判断したストップは、バイザーのひび割れから自分の能力を流し込もうと、両手をクロスさせた。
んだよ……これは……!?
黒い頭部が歪んだ。丸いはずのそれは左右に広がり、縮んだ。ストップが視線を逸らしてみると、倉庫内の風景に異変は無く、こうなると考えられる事態は人型の頭部が実際に歪んだのか、自分と人型の間に光を屈折させる何かが生じたかの二種類しかなく、感覚としてそれは後者だろうと彼は判断した。
息苦しさは、自分の周囲の大気状況が激変したことを意味するのだろう。そして次に来る圧迫感は全身を軋ませ、ストップはかつて本部で耳にしたことがある、念動力の極みを思い出した。
「空気圧縮爆弾か!?」
ストップの叫びは、だが攻撃機会を窺う双子の兄に届くことが無く、空気の歪みは声の波動をも圧縮し、彼は小さく、果てしなく凝縮され、最後に弾けた。
体内を構成する色は赤い。灼熱マッハはいつでも敵を炭化させるので、その認識が薄かった。ハンガーの陰から同じ顔をした弟が弾ける様を目撃した彼は、右手から高熱を発し、赤い人型目掛けて突撃した。
「よくも弟を!! 五星入りの我らの野心を、お前は!!」
黒くなった右腕に灼熱拳を叩き込んだ瞬間、人型とマッハの周囲はサークル状に砂埃が舞った。
いける……燃え尽きろ……化け物が……!!
十人目の犠牲者になるか、最後の生き残りになるか。マッハは己の灼熱拳にその命運をかけるべく、最高熱の一撃を右手に込めた。すると、回避行動を取りながら人型は右手をだらんと流し、パチリという作動音とともに、黒く変色した装甲が解除された。
「パージだと!? お前、やはり人間!?」
人型のばらばらになった右腕の中に、思いの外華奢な人間のそれがあらわれた事実に、マッハは戸惑いを覚えた。
「妹の……学校を襲わなければ……わたしだってここまではしない……」
黒いバイザー越しに、そんな声が聞こえた。女性だろうか。まさか。マッハの戸惑いは増すばかりであり、彼が躊躇していると、生身の右腕には、殺戮現場にはおよそ似合わない黄色いリボンが握り締められていた。
「お前なんかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
叫び声と共に、リボンの先端がマッハの整った顔面を打ちつけた。布や合成繊維の一撃ではない。なんという重い打撃なのだろう。痛感がそれを伝えた直後、彼は右頬に異常な膨らみを感じ、顎が外れるのと同時に体内を駆け巡る波動を知った。
黄色いリボンは返り血で染められた。双子のサイキは散々な跡形を残して倉庫内で肉片を曝した。
11.
ワインという酒はひどい酔い方をさせる。もっとも渋谷のバーでビールしか呑んだ事のない島守遼はアルコールにおいては初心者であり、埠頭から海に向かって嘔吐する彼は、実感に対してもどこか疑いを抱き続けていた。
夜の海に吐く。なんと豪快で荒んだ行為なのだろう。遼は黒マスクを右手に持ったまま、ありったけの気持ち悪さを海にぶちまけていた。
ひっでぇ……あったまくらくらだぜ……最悪……
陽気さはすっかり打ち消され、喉がひりひりする違和感を覚えながら、遼は口を拭った。
この黒い面をつけて酒席に戻ろう。吐いている最中に涙まで流してしまったため、目が赤く充血し、達人たちにそれを認識されたり指摘されたりするのはたまらなく情けない。彼は黒いマスクを装着し、寒風吹きすさぶ埠頭から倉庫へ戻ろうとした。
んだ……なんだよ、あれ……
倉庫の前に、大型のトレーラーが停車し、その積載部の天井に取り付けられた大型ライトがシャッターを照らしているようである。何の趣向だろう。変化している光景に戸惑いながら、胃のむかつきをこらえながら、遼は歩速を上げた。
鉄のような、腐ったような、とにかく酷い臭いがマスクを通じて嗅覚を刺激した。裏口から倉庫に入った彼は、天井と正面シャッターに穴が開き、瓦礫だらけになっている床と、硝煙に淀んだ空気を認識し、一変している状況に鼓動を早めた。
「機能停止……これ以上の戦闘続行は不可能……けど……最初にサーモした十二人の生体反応は全て抹殺できたはず……」
トレーラーの積載スペースは通信、分析機器が設置された指揮スペースになっていて、車内は計器類の表示光でぼんやりと薄暗かった。報告をヘッドフォンで聴いた森村肇は大きく頷き、マイクを手にした。
「よくやった……FOTの来日戦力の全滅確認……これにて作戦完了……直ちにドレスを開放、フェーズ5へ移行する」
森村の指令に、機器を操作する男たちの挙動が早まった。
おい……おいおい……なんだよ……これ……
惨状を行く遼は、足元にごろりと佇む、ヘイゼル・クリアリーの上半身を視認し、思わず口元を押さえた。
ヘイゼル……さん……なのかよ……なんでだよ……
生きていない。それだけは間違いがない。遼は大きな胸の下に栗色の髪を認め、「あぁ……庇ったんだ……ルディを……彼女は……みんなは……」と全てをそう把握した。
だとすれば襲撃者がこの倉庫にまだいるはずである。
自分という者はかなり肝が据わっている。いや、そもそも鈍く、後でその反動がくるのだろう。これからは理佳もいない。自分はこの衝撃を後でどう受け止めるのだろう。遼は混乱しながらも、状況を把握しようと懸命だった。
カチャリ。カチリ。ブワン。フォン。
機械音が倉庫の中央から聞こえ、彼は注意を向けた。
赤い人型が佇んでいる。あれはなんだろう。ロボットとか、とにかくそんなものだろうか。確か、浜口がその辺りに詳しい。木村と寺西と三人はいつもつるんで地味で、ありゃいわゆるオタクって奴なんだろうな。遼は異常事態に抵抗しながら、狂ってしまわないようにバランスを保ち続けた。
赤い人型の黒い頭部が煙と共に前後に割れた。
女……の人……!?
茶色かがった髪は肩までの長さで、険しい形相はこの惨状を作った主である重さが伴っている。綺麗な人だな。島守遼はそう思うのと同時に、なにか取り付きようのない、そんな拒絶も同時に感じた。
「う、うぐ……」
小さなうめき声は、足元で倒れているリューティガーから発せられたものである。遼は同級生がなおも生存している事実に驚き、それなら取るべき行動は一つであると意を決した。
ヘイゼルの上半身は思ったより軽い。両眼から熱いものを流しながら、遼は彼女の胸元にネックレスを発見し、形見にとそれを外した。
「に、逃げるぞ……真錠……みんな……死んじまった……よ……」
あの赤い人型、装甲服を着用した女性が、全ての装甲を解除するのにはまだ時間がかかるだろう。向こうはこちらに気付いていない。その好都合を生き延びるチャンスに広げるべく、少年は生き残った彼の肩を抱き、同時に携帯電話を操作した。
早く来てくれ。陳さん、健太郎さん。肝心のこいつが気を失っているんじゃ、逃げるのがままならない……俺は……まだ殺されたくない。
倉庫中は肉片と血に塗れ、いい加減その臭気に嗅覚も麻痺しつつあった。皆、死んでしまった。圧倒する十人の個性はもうない。より圧倒したのだろう。あの中央に陣取るあいつが。あの素顔を忘れるものか。しっかりと記憶してやる。島守遼はリューティガーの両肩を抱きながら、仮面の上から垂れた髪をかき上げ、赤い装甲を解除する憎き敵を睨みつけていた。
なんて、俺は強いのだろう。いや、鈍いだけだ。助けてくれ、理佳。
第十二話「壊滅」おわり
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