真実の世界2d 遼とルディ
番外編・その二「1997年 アルフリート真錠 16歳 秋」
1.
 あの扉が開いてしまえばそれで終わりだ。敵意がなだれ込んできても防ぎようがない。この密室から逃げ出す方法はないものか。いや、あったとしても、どうせ身体が長く持ちはしない。

 どのみち、もうおしまいだ。

 気がつけばここにいた。頼りない灯りの薄暗い、窓のないひんやりとした地下室。見覚えもなく訪れた記憶もない。
 だが心当たりはあった。置かれている資材や分析用機器に取り付けられたプレートを見れば、ここが「あそこ」であると確かめられるはずだ。

 その男は、背中に壁をつけたままゆっくりと、物音をできるだけ立てないように静かな挙動で、部屋の隅に積み上げられた段ボールに近づいた。

 茨製薬 代々木工場 1980年

 段ボール箱に貼られた古びた伝票から、男はそんなキーワードを見出し確信した。やはりここは「あそこ」に間違いない。小さな体躯をより縮こまらせ、彼は胸に手を当ててネクタイを掴んだ。

 ここが「あそこ」であるならば、なぜ自分はこんな場所で目が覚めたのだろう。いや、そのような疑問に残された僅かな時間を費やすわけにはいかない。その男は、懐からリボルバー式の拳銃を引き抜いた。
 今がいつなのかも定かではない。もともと時計の類は身につけない主義だったし、意識を失ってからどの程度の時間が経過したのかもはっきりとしない。おそらく、瀕死だった自分を最低限回復し、ここへ「跳ばして」くれたのはあの彼女だと思う。
 もしそうなら、なぜ自分はたった独りで、そして彼女はなぜここにいない。いや、そのような疑問に残された僅かな時間を費やすわけにはいかない。すまんオルガ。男は壁に背中を押し付け、顎を強く引いた。
「く、くぅ……もはやこれまでか……」
 もう殺到しきっている。大勢の、敵意を剥き出しにした公僕たちが、遂に捕らえることができると地上で猛っている。戦力において奴らは圧倒的である。こんな拳銃、一人を殺せるかどうかも疑わしいし、そもそも撃ったこともない。だが、こうまで決定的状況となってしまったのにはしかるべき理由がある。それについて奴らはなんの関わり合いもない。ただ尻馬に乗り、棚から落ちてきたボタ餅に群がっているだけだ。それは地上で罵り声を張り上げている愚民たちにしても同じだ。
「真崎実(しんざき みのる)! 君は完全に包囲されている。おとなしく投降せよ!」

 メガフォンで拡声された警官の決まり文句であった。それは地上より響き、天井の通風孔を通じて男の鼓膜をくすぐり、その心を波立たせた。
「真実の人がぶざまに捕まる訳が無かろう……そんな姿、私は認めんぞ!」
 わざわざ声に出すことで、男はある行為に対する勇気を搾り出そうとしていた。後頭部も壁につけた彼は撃鉄を引き、手の震えを懸命に抑えようと身もだえした。
 「こらー! 人で無し!」、「人の皮を被った悪魔!」、「出てきやがれ!」そんな罵詈雑言が、天井から流れてきた。愚民どもまで拡声器を使っているのか。男はありきたりな罵りに心底失望し、天井を見上げた。

 結局、なんのための破壊だったのか。俺は人だ。人でなければあれほどのことはできん。それがわからんのか。ただの人である貴様どもに!?

 男は意を決した。このまま連中が扉から突入してくるまでの僅かな時にしがみついても、失望が続くだけである。なにも壊せなかった。凡庸で、従順で、愚かな奴らはなにも変わらなかった。もういい。これ以上的外れな非難は聞きたくない。ましてやここから出ていき、晒し者になる気などない。ここが終わりの場所だ。そして最後に残された唯一の自由を行使させてもらう。
「真実を解せん黄色いブタ共め……貴様らに私を罵倒する権利は無い! それができるのは!」
 冷たい銃口を、男は自らのこめかみに当てた。
「私と神崎まりかをおいて他にはおらん!」
 叫んだすぐ後、銃口を少しだけ離して引き金に力を込めた男だったが、撃鉄が撃ち下ろされる直前に彼の手から拳銃は消えていた。人差し指の先が掌を強く押す奇妙な結果に、彼は全身のバランスを崩してしまった。
「な、なななんと!?」
 芝居がかった声を上げながら男は倒れこみそうになり、腰と膝に力を込めてそれを防いだ。自決に失敗しただけではない、弾丸を発射することすらできなかったとは。拳銃の手ごたえもすっかりなくなり、背中から首筋にかけて突風が吹きつけている。何事だ、いったいどういうことだ。男は壁に掌をつき振り返った。

 薄暗い地下室の奥に、一人の少年が佇んでいた。薄紫がかった白い髪、鋭い目は赤く、紫の唇と淡い色の瞼は化粧によるものだが、黒い革のスーツに包まれた骨格は若い男性のそれだった。
 対する男はひどくアンバランスな印象に戸惑いながら、その妖しい少年を見据えた。なんだ、あの右手に握られている黒光りしたものは。なぜあのリボルバー式拳銃をこいつが手にしている。あれは俺に残された最後の手段だ。いったいどうやって!?
 困惑が脊髄を駆け巡った。突風とともに出現したこいつは、拳銃をなんらかの方法で奪い取った。決して友好的ではない存在である。男は警戒し、身構えた。
「お、お前は……」
「私は真実の人……」
「あ、え?」
 自分以外の人間がその名を名乗るのに、男はあまりなれていなかった。緊張状態にありながら、彼はひどく間抜けな声を上げてしまい、よりいっそう警戒心を強めた。
「賢人同盟に選ばれた、三代目の真実の人だ……真崎、お前の役目は終わった」
 その言葉だけで理解はじゅうぶんにできる。そうか、遂に解任か。随分と放置されたものだが、そもそも監視者と情交の関係にあった自分である。
 しかし納得などするものか。役目が終わったから、はいそうですかなどと素直に従うものか。このような若造が後継者だと。

 言葉もないまま黒衣の少年を凝視した男は、その瞳にある記憶を刺激された。
 どこかで見た覚えのある赤い瞳だ。これはずっと昔、まだ自分が真崎実だったころ、あの大恩ある人物と共にいた赤い瞳ではなかろうか。
 ならば納得できる。彼が「真実の人」を名乗るのであれば、わからなくもない。

 男は奥歯を噛み締め、頬を引き攣らせ、喉の奥に痛みを感じた。なにかを排出したがっているような、そんな違和感を伴う痛みである。

 そう、頷けるものかよ。たとえこやつが真実の人の名を継ぐにふさわしい者であっても、俺は最後まで降りない。足掻く。無謀と狂気に任せた末、もうどうせ身体はもたんのだ。地上には公僕共が待ち構えているのだ。最後の瞬間まで俺は真実の人だ。それだけは譲れない。
 男は両の拳を握り締め、鋭い眼光を少年に向けた。
「だまらっしゃい! 真実の人は私だ!」
「いいや……今のお前はただの黄色いブタだ。陰謀も実行も……私が引き継いでやる……安心して地獄に落ちるんだな」
 冷然とした宣告だった。男の激しさや熱さをすべて跳ね返すような冷ややかさである。少年は銃口を男の額へ向け、躊躇うことなく引き金に力を込めた。

 弾丸は、真実の人であり続けていた男の眉間を貫き、彼の生命活動を即時に停止させた。
 
 銃声は地上まで届いている。異変に警官隊は反応し、ここへ雪崩れ込んでくるのは時間の問題である。長居は無用だ。少年は銃口を下ろし、人差し指を軸に拳銃を一回転させた。
 それにしてもなんと無念な、理不尽であると訴えている死に顔だろう。凍った表情のまま果てた遺体の横顔を見下ろした彼は、男の意気地を感じ、だがそれに気持ちを任せるつもりはなかった。
「戦いは終わらん……それが真実だ」
 そうつぶやいた少年は、まだ銃口に熱を残したままの拳銃を男の手に握らせ、もう一度その死に顔を見つめた。

 悪いな……真崎よ……絶望のまま粛清せよ……それが本部の決定だ……いずれ俺もそっちに落ちるさ……そんときゃせいぜい、先輩面してかまわねぇからさ……

 彼は右の眉をぴくりと動かした。どうやら自分自身、うまくまとまりがついていないらしい。真実の人(トゥルーマン)の名がちっとも自然ではないようだ。だから言葉では気取ってみたものの、本心まではなりきることなどできない。

 じゃーな……真崎実……真実の人……

 両目を閉ざした少年は、突風と共に地下室から姿を消した。

 銃声からしばらくした後、地上一階の扉は機動隊員によって破壊され、殺到した彼らは地下へ突き進み、遂に地下室の遺体へと辿り着いた。四百五十二人の死者、三千人近くの重軽傷者を出した戦後最大のテロ集団「真実の徒」。その指導者である「真実の人」こと真崎実の変わり果てた姿を公僕たちは取り囲み、ある者は自決の潔さに憎悪を抱き、ある者は法廷に彼を突き出せなかった結果に落胆し、またある者は意外と小柄である事実に戸惑い、それぞれの思いを込め、拳銃を握り締めて額から血を流す「真実の人」を見下ろしていた。
「自殺……っスか……」
 遅れて地下室にやってきた紺色の背広姿の若い男が、遺体を包囲する機動隊員たちの後ろで腕を組んでいた、黒い背広の男に声をかけた。
「おそらく……地上に通じる扉には鍵がかかっていた……この茨製薬工場は完全包囲だったからな……」
 その説明に頷いた若い男は機動隊員たちの肩越しに、横たわる小男の遺体を観察した。
「泡にはならないんですね……森村先輩」
「みたいだな……」
 鑑識班が現場撮影を開始し、廊下には報道陣が詰め掛けてきた。機動隊員たちは遺体から離れ、つい先ほど自分たちが破壊した出入り口へと駆け、彼らマスコミに鑑識の仕事を邪魔させないよう、分厚い壁となって立ちはだかった。
 大物テロリストの末路に対する、強烈な好奇心が正面から押し寄せ、それは少し離れた背広姿の若い男まで届いていた。彼は森村と呼んだ、自分より幾分体格がいい年上の男に「どうします?」と問いかけた。
「仕切れるか那須?」
「な、なんとか……やってみます……」
 森村の要請に那須という若い男は戸惑いながらも応じ、機動隊員たちの壁と、その向こうでマイクやカメラを向けるマスコミに向かって駆け出した。

 自らを裁いたのか。法には従わない男だとは思っていたが、こうも潔いとは少々意外でもある。森村は逞しい顎に手を当て、戦後最大の国内テロ指導者の躯にもう一度視線を向けた。

 乾いた音と同時に閃光が走った。機動隊員たちが食い止めている廊下側からではない。それは天井からの不意打ちだった。森村は「こらぁ!!」と叫び、排気口の向こうにつぶらな瞳とアロハ柄のシャツを見た。よくもあのような場所から隠し撮りをする。まず間違いなく真崎実の遺体は写された。森村は鑑識からビニールシートを借り、段ボール箱を積んでその上に乗り、排気口を塞いだ。

 すると取り付いていた鑑識が声を上げ、警戒していた何名かの機動隊員たちがざわついた。森村は段ボール箱から飛び降りると彼らを押しどけて遺体へ近づき、その動揺の原因を即座に理解した。
 真実の人であった真崎実の小さな全身から、いくつもの泡が生じはじめていた。死後これほど経過した後での現象発生は、森村や鑑識班たちにとっても初めての経験である。
 真実の徒を構成する工作員や獣人、エージェントのいずれもが、死亡、あるいは意識を失うと肉体はおろか身につけていた着衣や装備までもが泡化し、やがて気化して消滅してしまう。おそらくは証拠隠滅のためであり、この現象はたとえ意識のある構成員であっても、取り調べや尋問によって組織の秘密について言及され、それを口にしようと考えただけでも発生すると報告されている。
 そのためテロも終息傾向にある現在ですら、組織の全容はおろか彼らのオーバーテクノロジーに関する情報や、残存する拠点があるのかも判明していない有様だった。
 泡に包まれているこの「真実の人」は宣戦布告後、映像によるアジテートを繰り返していたが、宣言の内容は常に抽象的であり、テロ自体の最終目的はいまだ明らかになっていない。おそらく、今後もわからないままなのだろうと森村は漠然とそう考え、気味が悪くなった。
 泡化する遺体のサンプル回収をするため、鑑識職員が懸命にスプーンで泡を容器に移しはじめた。だがいかなる保存状況にあってもあの泡は気化し、やがて成分そのものが検知できぬほど分解してしまう。それは指導者とて例外ではなかった。
 今日この瞬間において、真実の徒は組織だった動きを見せてはいないものの、まだ都内では夜になると獣人や工作員の目撃が報告されていて、散発的ではありながら爆破テロや銃撃テロが発生し、民間人へ被害が及び続けている。まだまだ自分たちの仕事は山積みであり、指導者の死は通過点である。森村は気持ちを引き締め、滅んでいく肉体をじっと見つめていた。

 マスコミに向かって声を荒らげている後輩の那須は最近、「例の彼女がこちらの説得に応じれば、そりゃだって蕪木(かぶらぎ)さんのお墨付きだったんですから」などと能天気な展望を口にしている。
 奇怪な能力をもってして真実の徒を壊滅させたという「例の彼女」が、結成されたばかりであるこのF資本対策班の協力者になってくれれば、確かに残党の撲滅には役に立つかも知れない。だがあの害虫のごときテロリストどもは、突然外来種として飛来してきたわけではない。なんらかの意図と計画をもってこの国を破壊し、混乱に陥れているために持ち込まれ、培養されたのだ。

「正直に言えば、工作員や獣人などいくら徘徊していてもいいんだ。問題はこれだけの規模のテロ活動を、如何なる資金源と技術供与によって成立させたかだ。その問題を解決せん限り、第二、第三のファクトは必ずでてくる」

 対策班班長の竹原優(たけはら ゆたか)は常日頃からそう言っている。自分の考えとは若干異なるが、正論には違いない。
 組織の目的や背景といった内情が判明するのは、結局のところ戦闘ではなく諜報である。勝利ではなく獲得である。対策班には背景にまつわる様々な情報が入ってきてはいるものの、そのすべてが信憑性に乏しく調査する権限も手立てもなく、実務班の限界がそこには存在していた。

「午後三時二十七分。真崎実の死亡を確認」
 ハンディレコーダに森村は低い声でそうつぶやくと背広の襟を直した。廊下に押し寄せて興奮しているマスコミに対して、機動隊員たちと共に盾となってがんばっている那須誠一郎(なす せいいちろう)の加勢をしなければならない。彼は腕をさすりながら駆け出した。いまできることはあまりにも小さい。だが、誰かがやらなければならないことである。フラッシュに目を細め、怒声に鼓膜を震わせながら、それでも森村肇はひるむことなく盾に加わった。


 騒然となった廃工場の上空には、報道関係のヘリコプターも周回していた。代々木のとある一角は物々しい空気に包まれ、ここ数ヵ月日本を震撼させたテロ事件の終焉に相応しい非日常を現出させていた。
 工場の正門周辺には群衆が押し寄せていた。現在において最も知名度の高い犯罪者である「真実の人」が自殺した。どこからともなく流れてきたその情報に群は一際興奮し、叫び声を上げる者もいた。

 そんな雑多なまとまりのなさに、白い髪の少年は紛れ込んでいた。彼の名は「三代目真実の人」こと、アルフリート真錠(しんじょう)。彼はポケットに突っ込んでいた両手を出し、群のひしめき合いに潰されるのを嫌い、そこから路地へと逃げ出した。
 皆、猛っている。銃声はここまで届いたのだろうか。それとも突入した機動隊が生み出した興奮なのか。どちらにしても、こいつらがあの男の屍を目にすることはない。生体改造手術の副作用が泡化するタイミングに何らかの影響を与えることはあっても、その現象そのものが消えることは決してないとガイスラー博士は言っていた。

 群衆から抜け出し路地へ出た黒衣の少年は、全身を軽く叩いてまとわりつくなにかを払拭しようとした。
 さて、これからどうするべきか。やらなければならないことは山積みである。日本政府はまだ真実の徒についてはなにも把握しておらず、ただひたすら対処に追われているだけであることに間違いはない。真崎に言った、「陰謀も実行も引き継ぐ」ためにはどれから手を付けるべきか。
 彼は懐から小型の端末を取り出し、その液晶画面を見つめた。これには真実の徒の構成人員や拠点の位置がすべて記録されていたが、そもそも真崎が母体組織である賢人同盟に対しても報告義務を怠り、秘密裏に建設していた施設が数多く存在するとの噂も聞く。
 リバイバー技術、反重力稼動機関、洗脳音波といったテクノロジーの数々も独自開発に成功しているらしく、その資料に関しても本部の鹿妻新島基地の爆発により失われたそうだが、断片や成果の回収には大きな意味があるし急務でもある。

 まずは拠点を一通り確認した上で、あの男と接触しよう。それが少年の導き出した結論だった。彼は再びポケットに両手を突っ込み、秋から冬へ移ろうとするひんやりとした空気を吸いながら、路地を歩き始めた。

2.
 バクラー竹田が荒川区南千住にある、潜伏先のマンションで逮捕されたのは秋であった。拘置所の窓から見える風景は朝から雪景色に変わっていて、はるか首都高の高架に視点を合わせた彼は、細い目を線にして顎鬚を撫でた。
 独居房は当然のことながら暖房器具が一切なく、差し入れをしてくれるような存在もいなかった。せめて逮捕時にセーターでも着ていれば、まだマシだったのに。白い息を吐いた男は、両肩をさすって呻き声を上げた。
 弁護士は完全に諦めムードである。無理もない。自分はテロ組織「真実の徒」のメンバーであり、作戦の立案と組織内の実務を取り仕切っていた幹部なのだから、どう考えても死刑は免れないだろう。それだけではない。あれだけの被害者を出しているのだ。その幹部の弁護など、風当たりを考えれば避けたいのは道理である。バクラー竹田は畳に腰を下ろし、再び白い息を吐いた。
 脱走は不可能だ。組織の頭脳部分を担っていた自分は、工作員や獣人のような超人的な力や武器もない。単なる四十六歳の中年男性であり、運動能力は同年代の他者より劣っているといってもいい。ワイシャツの襟を立てた彼は壁に痩せた背中を付け、それにしても自分はなぜこんな三畳しかない狭い独居房に閉じ込められているのかを考えてみた。
 あのマンションは誰にも知られていないはずだった。そもそも自分が作戦経費の一部を着服して購入した3LDKである。
 恋人との密会に、工作員との交渉に、やはり都内に個人のプライベートを維持できる場所が欲しかったからこそ、トンネル会社などを通じてできうる限り足のつかない方法で入手した物件であり、組織の人間でも知る者は僅かだった。
 秋頃に政府内で特別対策班が結成されたということだから、あるいはその連中が突き止めた可能性もある。鹿妻新島本部の爆発により組織は瓦解し、統制を失った本土の実行部隊は次々と鎮圧され、現在でも新たな拘束者を生んでいるらしい。指導者である真崎実の自決によって精神的な支えも失っている以上、いずれは誰かの口からあの隠れ家が見つかるのも時間の問題ということだったのだろう。そう考えれば少しは納得もいく。
 釈然としないのは、なぜ誰もが敗北と認めた数ヵ月前の段階で、上部母体組織である賢人同盟からなんの救援もなかったことである。
 真実の人は確かに独断での活動を決め、同盟が想定していた以上の破壊をこの国で実行し、顧問機関である五星会議からも粛清の対象として睨まれていたという噂も聞くが、だからといって残された数百名にもおよぶ人員や、莫大な費用によって建設された拠点や研究成果を放ったままにするのはあまりにも無策である。例えば洗脳音波のシステムが日本政府に確保された場合、それは同盟にとっても好ましい事態とは言えないはずである。あるいは保護および、救出作戦が既にはじまっているのだろうか。
 バクラー竹田は独居房を出ることが許されていない特別な待遇だったので、この拘置所に自分と同じようなテロリストが拘置されたかどうかもわからない。新聞もテレビもないため、外がどのように変化しているのかも、小さな窓から見える風景からしか判断ができない。とにかく今は冬。そして今日は雪。なんとも情けない。これが真実の徒にあって、様々な作戦を立案してきたアーティストの現状であるとは。彼は上体を畳に投げ出し、いぐさの香りをたっぷり嗅ぎ、「あー」と大きく呻いた。
 みな、どうしているのだろう。本部にいた連中は全滅だったという噂だから、オルガ様やフランソワーズといった美しい方々も無残な躯となったのであろうか。となると、任務や破壊活動のために本土にいた仲間の顛末である。
 獣人だけでも四十部隊は健在だった。工作員部隊はその倍だろうか。これら主力がどれほど残存しているかが第一の問題だ。鞍馬のフランペ部隊は徹底隠蔽任務の継続中であるから大丈夫なはずだ。それと、雇っている最中の暗殺プロフェッショナルが何名かいたはずだ。彼らは本来が治安機関からの追及をかわす専門家でもあるから、無事でいる可能性が高い。もっとも日本にまだいる者となると、限られてしまうだろうが。

 なにを夢想する。

 バクラー竹田は急につまらなくなり、身体を横にして顔を顰めた。もう終わったのだ。なにもかも。誘われるがまま革命へ参加し、世間からはテロリストと呼ばれ、数百人を殺害し、一つの村を壊滅させ、だが敗れたのだ。原因は自分にも、場当たり的な判断しかできない指導者にもあった。戦力と設備をもっと有効に使えば国そのものを人質にとることもできた。そうなれば、あのようなたった三人の小娘にしてやられることもなかったはずである。提案はしなかったものの、草案まではまとめていた第五次神崎まりか暗殺計画さえ実現していれば、今頃この国は破壊の後の再生へと向かっていたはずなのに。男は身体を縮こまらせ、ぶるぶると震えながら呻き声を上げ、後悔することしかできなかった。


 聴覚、嗅覚、触覚。あらゆる感覚に唐突な情報が飛び込んできた。独居房では得られなかった、それはより近い車の騒音であり、川の濁った臭いであり、草むらと雪の冷たさだった。バクラー竹田は堪らず立ち上がり、ここが三畳の暗く狭い空間ではなく、拓けた河原であることに驚愕した。
「バクラー竹田だな……」
 背後から声をかけられた竹田が振り返ると、雪の降る河原に赤い瞳をした白い肌の少年がたたずんでいた。
 髪も肌と同様、舞い落ちる雪のように白い。着ている黒い上下は革製のジャケットであろう。美しく整った顔は化粧をしていて女性のようにも見えるが、しっかりとした骨格は少年と見て間違いない。

 とてもではないが、ありふれた外見ではない。竹田は急変した状況の原因が、異相の彼にあると確信した。

「な、なにが……どうだというのだ……」
 現在の科学では解明されていない、研究途上の超常的な現象や、特殊な人間だけが持っている、「異なる力」についてもある程度は知っている竹田だったため、独居房から数十メートル離れた荒川の河原にいるという事実も少しは受け入れられる。だが、それでも彼は尋ねずにはいられなかった。
 少年は男の狼狽ぶりに不敵な笑みを浮かべ、腰に手を当てた。
「私は新しい真実の人(トゥルーマン)……お初にお目にかかる。真実の徒、作戦担当……バクラー竹田……」
 組織の指導者の名称である「真実の人」。それを名乗っていた真崎実にしても、実は先代の「真実の人」から名前を継いだと耳にしたことがある。なるほど、彼がこの事態を作り出したのであれば、それはそうなのかもしれない。自分の知っている「真実の人」とは容姿も服装もまったく異なるが、この不敵さは共通しているような気もする。竹田は顎鬚を撫で、「こちらこそ……」と返した。
「賢人同盟から派遣されてきた……この一ヵ月、拠点の確認をしてきたのだが、いよいよをもって貴様の力が必要になったものでな」
 しゃべり方もどこか似ている。竹田はますますこの少年を真実の人と認識し、またそうすることで安心を得ようと懸命だった。
「し、しかし遅い救援だな……同盟は……」
 一筋縄ではいかない。助けに対してただ感謝するような人物だと思われては今後に影響する。竹田はそんな計算から、あえて不平を口にしてみることにした。だが少年は薄笑いを浮かべたままであり、男の言葉に反応する様子はなかった。
「この端末に同盟からの情報が入っている。それに基づいて真実の徒の拠点をすべて調べてみたのだが、そのほとんどが政府機関によって制圧されていた。残されているのは小さな倉庫や部隊待機所のような、拠点とは呼びがたいものだった……どういうことなのだ、バクラー君」
 懐から取り出した小型端末を、真実の人は竹田に手渡した。
「ふむ……なるほど……」
 すぐに中の情報を確認した竹田は、首を横に振って端末を少年に返した。
「情報が古すぎますな。ゴモラの開発施設も、不定形実験場も中央基地も記されていない……」
 報告の義務を怠っていたのは竹田とて同罪である。だが彼はまるで他人事のように言ってのけ、自覚はひどく薄かった。
「ほう……そのようなものがあるのか?」
「はい……もしこれらが手付かずのままでしたら……」
 ようやく笑みを浮かべた竹田は、少年に右手を差し出した。
「私の能力をお貸ししましょう……残存兵力を糾合し……新生ファクトを作るのなら……このバクラー竹田、大いに力を揮わせてもらいますぞ!!」
 男の出してきた手を、だが少年は握り返さず、彼は天空より舞い降りる白い雪を見上げた。
 はぐらかすつもりか。まあそれでもいい。独居房より寒いが、ここには自由がある。まだ革命を続行することができる。バクラー竹田は手を引っ込め、少年と同じように顎を上げた。


 バクラー竹田は真実の人を名乗る黒衣の少年に対し、我ながらうまく立ち回っていると自信を深めていた。
 どうにも性格が掴み辛く、奇妙な妖美さを醸し出す相手だから、自分の知っているすべてを一度に教える気にはなれず、あくまでも小出しの報告を心がけた竹田だった。だが少年はそれに対して特に不満を漏らすこともなく、新しく知った拠点へと出向き、そこに篭城していた残党と合流を果たしていた。糾合した者たちをまだ見ることはなかったが、彼の話を聞く限り、事がうまく運んでいると信じていいと思える。
 五星会議からの監視者であり、真実の人の恋人でもあった「異なる力」の持ち主、オルガと同様の空間跳躍能力。それをあの少年は持っているようである。彼の移動は迅速であり、竹田は新たに用意された赤坂のマンションに待機させられる毎日だった。
 新聞やテレビのニュースでは、自分の拘置所からの脱走が連日のように報じられていた。だがそのいずれもが扉も開けずに脱走した事実は巧妙にぼかされ、管理責任の追及に終始していたのがなんとも笑える。異なる力など表向きは存在しないということか。そういえば獣人や泡化現象についても相変わらず一切報じられていない。この国の政府はどこまでも隠蔽し続けるつもりなのか。
 やがて日が経つにつれ、そんな脱走のニュースもすっかり影を潜め、真実の徒関連については、検挙の成果ばかりが取り上げられるようになっていた。
 それにしても退屈である。情報を与えた後は、ずっとこの3LDKのマンションでテレビばかり見る毎日である。竹田はリビングのソファで大あくびをかき、温かいコーヒーを啜った。
 一度、彼は少年真実の人(トゥルーマン)に、「今回の接触は私も同行させていただきたい。つるりん太郎は物騒な改造生体だ。しかし私のことなら判別できるはずだ」と進言してみたのだが、少年は同時に二人の跳躍はできないと断った後、突風と共に目の前から消え、数十分後に戻ってきた途端、「顔がないって恐いな。さすがに驚いた」と軽口を叩いていた。まったく仕事の速い真実の人である。竹田は次第に少年を信用してもいいと思いはじめ、それほど三代目の名を継ぐ黒衣の少年は勤勉であり、行動に淀みがなかった。
 これではじきに、拠点に関する情報はすべて提供してしまうが、彼が本気で真実の徒を再建しようとしているのは確かであり、同性ではあるものの、若くて美しい者と共にいられるのも悪くはない。少年を頂点に据え、革命を再開できればまだ間に合う。混乱が終息しきっていない、人々に恐怖が生々しく残っているこの時期であれば、効率的に政府に要求を突きつけることができる。
 そう、真崎は交渉というものを軽視しすぎていた。あの大臣誘拐事件以後、彼は実行主義者となってしまい、革命を成功させるより、破壊そのものを楽しむ傾向が強くなってしまったような気がする。しかし今回の真実の人は、いくら同盟が派遣したとはいえまだ十六歳の子供だ。自分なりがブレーンとなってその方針を決めていくのは当たり前だし、だからこそ彼は拘置所から救出してくれたはずである。情報を提供し尽くした後は、いよいよ自分の本領を発揮する機会だ。竹田はそうなるのが当然だと思い始めていた。
 まずは準備中となっていたいくつかの作戦を待機段階にまで進行させよう。人員と設備の目処が立ったら早速あの少年に進言し、軍師としての能力をアピールするべきである。竹田はソファに体重を預け、来るべき復活の日に口元を歪ませていた。

 ある晩、竹田はトイレへ行く途中、同居する少年の寝室から微かなうなされ声を耳にした。「ちっぽけだ……それはとてもちっぽけだ……」苦しそうな呻きまじりの声だった。なるほど、まだやはり子供である。真実の人を命じられたものの、彼はその重責に堪えきれず苦しんでいる。同盟からの正式な通達がないのは不気味ではあるが、おそらく自分はこの少年に対してよき大人としての手本も期待されているのだろう。竹田はそう思い込み、翌朝の朝食の際、トーストを食べる真実の人にある忠告をしてみることにした。
「そのアイシャドウと口紅はやめたらどうだ。どうにも中性的というよりは、下品に見えて仕方がない」
「そうか……? この国じゃ、いい男が化粧をするのが流行っていると聞いたのだが……」
「芸能人や街でちゃらちゃらしている連中ではそうだが、真実の人はそうではないだろう。君が美形だということは、審美眼に乏しい私にもよくわかる。だが、かえってそのメイクが不気味さを醸し出して台無しにしているともいえる」
 言い過ぎだったろうか。竹田はコーヒーを啜る少年を見下ろしながらも内心は怯えていたが、カップをテーブルの上に置くとすっと立ち上がり、そのまま洗面所へ向かって素早い挙動で歩いて行った。
「私は外して”たのか……恥ずかしいな、それは……」
 タオルで顔を拭きながら戻ってきた少年からメイクは消えていた。竹田は安堵するのと同時に、彼を上手くコントロールできるという手ごたえをこの一件で掴んだと思った。

 真実の人はバクラー竹田からの情報をもとに、主に関東を中心に点在していた獣人や工作員の待機施設を二週間ほどかけて訪れ、篭城していたり絶望していたり、あるいは仲間割れを起こしていた真実の徒たちを糾合した。それは毎日休まず続けられ、三週間ほどが経った一九九七年十二月二十日の段階において、東京南部は多摩川近くの下丸子地下拠点に、残党の大半を集結させるに至った。その数は二百名を越え、随分と数は減ったものの、地下駐車場に勢ぞろいした彼らのもとに真実の人と共に訪れた竹田は、眼前の光景に感激してしまい、膝もがくがくと震えるばかりだった。
「こ、これだけの獣人と工作員、暗殺プロフェッショナルたちがいれば……いくらでも作戦展開は可能ですぞ!! 真実の人!!」
 興奮する竹田に対して、だが残党たちと向き合う真実の人は冷たい表情を崩さずただ一言、「ここには長居できないな。もって来年の夏だろう」とつぶやいた。
「な、なんですと……この下丸子拠点には、トラックやバンなどの車両も数多く存在し、多少の整備でそれらは動く……それにそもそも補給のために建造されたものだから、食料も豊富でこれだけの人数を維持するのに最も好都合……真実の人……戦略術の両面から見ても、ここ以外の新本拠地は考えられませんぞ!!」
 竹田は声を荒らげて少年を諌めた。すると彼は赤い瞳をちらりと向け、「ご苦労」と短く告げ、勢ぞろいした残党たちの中へと歩いて行った。

 「ご苦労」とはなんのことだ。進言に対しての礼か? それとも別のことか? バクラー竹田は胸の中で急にもやもやとした不快感が広がってきたことに気づき、毛皮のコートの裾をなびかせながら、少年の後を追った。
「トゥ、真実の人(トゥルーマン)……な、なにが“ご苦労”なのですかな!?」
 破壊工作員の一人、白装束の月仮面という小男と握手を交わす少年の背中に、竹田は叫んだ。
「君には感謝しているよ。メイクを止めてから、彼らとの交渉がずっと早く進むようになった。どうやらやはり、私は“外して”いたらしい」
 月仮面から目を離さないまま、真実の人の背中はそう返した。
 ひどく早口で、いつも以上に抑揚のない声だった。バクラー竹田は、“ご苦労”とは単純に感謝の意味であると、そう理解することに決めた。すると胸のもやもやがなんとなく晴れるようで、彼は思考の選択肢を自ら狭めていたのだが、それに気づく聡明さを持ち合わせてはいなかった。
 彼は握手を求めてきた改造生体の一人、地獄蛙(じごくがえる)の手を握り返し、笑顔を作った。ひとまずは足がかりができた。まとまった戦力があるのだ。後はあの少年をどう説得するかにかかっている。なぁに、自分のような年長の後見人が傍にいるものだから、部下たちへ威厳を見せるために、いつも以上に素っ気無いだけだろう。バクラー竹田はぬめりとした感触を掌に受け、引き攣った笑みを浮かべた。

 関東を中心に点在していた残党たちを下丸子の地下拠点に糾合し、自分たちもそこで寝泊まりするようになってから三日が過ぎた。バクラー竹田はその日の午後、地下中央に位置する司令用個室までやってきた。ここは現在、真実の人が使っている部屋であり、少年は入室してきた竹田を執務机から一瞥し、机上の書面に目を戻した。
「真実の人……いったいどうなっている……」
 黄色いワイシャツに黒のスラックス姿の竹田が、黒い戦闘服の真実の人に怒気をはらんだ声で詰め寄った。しかし彼はいつものように動じることなく、机上に広げた書面から目を離そうとしなかった。
「つい先ほど計画書を読ませてもらった……君の立案した今後の予定だ、それほど問題ないと思っていたが……もっと早く目を通しておけばよかった……」
「問題などないさ……」
「いや……これを見過ごすわけにはいかんな……」
「君には、対策班から逃げ延びている者たちを捜索する任務を新たに与えていたはずだが……見過ごせないとはどういうことだ?」
「捜索なんて工作員にでもやらせりゃいい!!」
 竹田は執務机に両手を叩きつけ、冷然とした真実の人へ怒鳴った。
「なぜ準備途上で中断していた作戦のすべてを中止にする!? これだけの戦力が再び揃ったのなら、すぐにでも実行に移せるものはある。なぜそれをやろうとしない!? いったいこの計画書はなんだ!? 移送計画などあまりにもナンセンスだ!! 戦力の凍結など愚の骨頂!! わかっているのか、真実の人!!」
 怒りの波を正面から受けた少年は、ようやく机上の書類から赤い目を上げた。
「そうそう……今朝ね……考えが変わったんだ……」
 “考えが変わった”ということは、すなわち思い直したということか。こちらの剣幕に、さすがの真実の人も反省してくれたのか。竹田はそう理解し、乗り出した身体を引いた。“今朝”などという余計な付け足しが、まるでこの場で急に計画を修正したわけではないと言い訳をしているようで、やはり彼もまだまだ子供ということである。顎鬚を撫でた竹田は、少年がどのような修正を口にするのか目を閉ざして待ったが、その言葉は耳を疑うものだった。
「君が真実の徒……前ファクトで立案した計画……中断しているやつな……あれを全て、F資本対策班に同盟ルートでリークしようかと思う」
 竹田は細い目を見開き、口をぽかんと開けた。悪い冗談でからかうつもりか。地下拠点で落ち着けるようになった途端、児戯で惑わすゆとりでもできたのか。彼は薄い眉をぴくりと動かし、口先を尖らせた。
「そうだ……その任務を君に命じよう。残党探しは確かに工作員でもできる」
「いいかげんにしろ!!」
 竹田は再び机を叩き、掌に激しい痺れを覚えたが、それすらも少年への怒りへ変えて顎を突き上げた。
「私は本気だよ。バクラー君」
 少年の目は机上の書面へ戻っていた。
 ふざけているのかこいつは。真実の人など名乗っているがその実、上部組織から証拠隠滅のためだけに派遣された整理屋ではないのか。竹田はだがそのような可能性については考えたくなかったため、まずはこの少年の説得を試みるべきだと考えた。
「バカが!! あれらの計画にどれだけの下準備がなされたと思う!? 大鱒(だいます)商事本社ビルの工作など、半年以上は費やしているのだぞ!!」
「ならその計画だけはリークするのを止めよう。確かにあの柱に仕掛けた爆弾は使い道がありそうだ」
「なぜそうやってからかう!?」
「だから本気だ」
「真実の人!!」
 思わず竹田は真実の人へ右手を伸ばした。すると少年は視線を動かし、迫ってきた手を軽く払い席から立ち上がった。
「糞作戦でも役に立つっつってんだよ……対策班は今が一番ノッているんだ……検挙に勢いってものがあるのがよくわかる……鞍馬のゴモラや日置から連中の目ぇ逸らさねぇと……真崎の二の舞になっちまうだろーが……」
 口調だけではない。冷たい眼光も、このときばかりは苛烈なる光を発しているようだった。竹田は少年に気圧され、身じろぎした。
「だいたいさ……“ご苦労”って言われたのを忘れたのか……もうあんたは最大の役目を終えたんだよ……あとは適当に末席で雑務をやってりゃいい……!!」
 ポケットに両手を突っ込み、真実の人は壁に背中をつけて怯えていた竹田を見下ろした。
「き、貴様は……真実の徒を……計画を継続するために来たのだろうが……!!」
「ああそうだ……だけど“地下鉄ビリビリ作戦”とか、“アニメーター断食作戦”とか、“不定形アイドルデビュー作戦”とか、“とにかく爆撃作戦”なんて、あまりにもひどすぎ……誰がこんな玩具作戦やれっかよ……ざけんなっての……!!」
「な、名前こそ真崎の提案だったからアレだが……な、内容は……」
 まだ言うのか。この痩せぎすの中年が。少年は壁に掌を叩きつけ、目つきをいっそう鋭くした。
「いいか? もうここは真実の徒でもなけりゃファクトでもねぇ……そんな前のにしがみついてたら、また負けんだよ……!! 生まれ変われねぇんなら死ね!!」
 恫喝された竹田は上下の歯を鳴らせ、恐怖に対して正直だった。どうやら大きな読み違いをしていたようだ。継続じゃない、この真実の人は再生が目的だったようだ。だから集めた残党を前にしても冷静なままだったのだ。
「古い考えにしがみつくってのはな、器があまりにもちっぽけ、どーしよーもねーほどみみっちぃってことだ。変われよ、バクラー竹田。でなけりゃ死ね!!」
 “ちっぽけ”ときたか。あの晩耳にしたうなされ声も、こうなると思い悩んだ悪夢だったかどうかすら怪しい。竹田はついに床へと崩れ落ちてしまい、這うように部屋から出て行った。


 用済みということか。立案した作戦、つまり自分の頭脳は彼にとっては無用の長物ということなのだろう。奴がどのような策を練っているかはわからないが、おそらくは年齢相応の拙く粗雑な荒っぽい手段であることは疑いようがない。でなければ、せっかく糾合した残党たちをどこかに幽閉しようなどという、正気を疑うような計画を書面で伝えてくるはずがない。おまけにその作戦の雑務一切をやれなどという命令には従えない。地下鉄ビリビリ作戦だって、アニメーター断食作戦だってすぐにでも実行可能なのだ。例えば前者であれば、西馬込の拠点を獣人による攻撃で奪還さえすれば、半年で都営地下鉄全線を死の電車にすることができる。あの拠点はすでに政府の管理下に置かれているが、ソロモンが五十人もいれば奪還は可能である。
 バクラー竹田はアタッシュケースを片手に下丸子の施設を駆け抜け、地下駐車場にあった屋根つきのジープに乗り込んだ。
 まずはここから離れる。そして鞍馬の拠点に向かい、フランペ隊と合流した上で自身の戦力を形成する。奴は「生まれ変われ」などとほざいていたが冗談じゃない。四十を越えて人生を変えられるわけがない。いや、いっそ鞍馬で自分が三代目真実の人でも名乗るか。ファクト最高幹部の自分にはその権利があるはずだし、残党たちも十代の若造よりも安心し、喝采をもって迎えてくれることだろう。
 エンジンをかけた竹田は、リモコンでシャッターを開き、勢いよくジープをダッシュさせた。

 多摩川を渡って後はひたすら東海道でいいはずだ。この年になっての長距離ドライブは堪えるが、どうせあのままあそこにいても、手塩にかけた作戦を敵にリークする屈辱を受けるか、獣人や殺し屋に幽閉の説得などという、とてもではないが命がいくつあっても足りない任務を押し付けられるだけである。
 夜の国道を疾走するジープの先に、白い雪が舞い降りてきた。どうりで冷えるはずだ。竹田はヒーターを入れ、ワイシャツの襟を立てた。

 いったいどれだけ走れば京都だろう。そう思ったバクラー竹田の横顔を、突風が吹き付けた。

「てめぇと会ったのも……こんな雪の日だったな……つっても振り返るほど前のことじゃねーけどよ」
 助手席に突如出現した少年は、腕を組んで正面を見据えたままそう言った。運転席の竹田は全身が硬直し、思わずアクセルを踏み込みすぎてしまった。
「俺の能力を忘れたのか……どこまでいっても愚かなプチ策士だな……」
「あ、あ、あ、あ……」
 顎を上げ上ずった声だったが、弁明も謝罪も、咄嗟には竹田の脳は言語を導き出すことができなかった。

「変われないんなら。死んじまえ」

 ジープは急激にコントロールを失い、雪の降り始めたアスファルトを横滑りし、やがて車体は中央分離帯を乗り上げて一回転した。対向車も後続車もなかったため、ジープはそのまま縁石近くで停まったが、その助手席には誰もおらず、運転席には竹田の下半身だけが残され、残りの上半分は、つい先ほどまで走っていた反対側の車線に横たわり、白いものがうっすらと積もろうとしていた。

 愚かだ。どうしようもない。あれが第二次ファクトそのものということか。地下室にいた真崎も、このバクラー竹田も真面目であればあるほど愚かである。
 まだ十六歳の彼は、そうとしか受け止めることができなかった。中央分離帯に出現した真実の人は、さてあのジープをどうやって始末しようかと首を傾げ、泡化のはじまった遺体には一切注意を向けなかった。
 残党の移送に鞍馬や日置などの重要拠点の捜索など、やらなければならないことは山のように残っている。しかもそれらはまだ準備段階であり、その後は体制をあらたにし、この国をどう変えていくかのデザインに取り組まなければならない。まだ若い彼にとって重責ではあったが、覇気と情熱がそれを上回っていたため辛さを感じることはなかった。
 まだ動くな。さすがは軍用車両だ。ジープの運転席に乗り込んだ少年はギアに手を掛け、ふと思い出した。
 弟は今ごろどうしているだろう。軍用車両の頑丈さを自慢げに語っていた弟は、もう怪我も治って退院したはずである。
 状況が落ち着いたら日本に呼ぶのも悪くない。まだ幼い弟だが、バクラー竹田などとは比べ物にならないほどの才気に溢れている。それに彼がいれば、ジープを運転する手間などとは無縁になる。
 国道を走りながら、真実の人は尻に伝わる泡の感触が不気味で仕方なかった。

 拘置所を脱走したバクラー竹田が川崎市内のゴミ処理施設で焼身自殺したと報じられたのは、それから五日後のことである。無論、その遺体が本人であると確認できる者は日本政府において一人も存在せず、情報提供者が誰であるのかも定かではなかった。

3.
「奴は自分の役目をそれほど簡単には考えてはおりませんぞ。イザヤ総理事」
 陽光の差し込む執務室で、賢人同盟参謀、アーロン・シャマスは背筋と胸をぴんと張り、席に座るイザヤ総理事にそう告げた。イザヤは四角い眼鏡を直すと、垂れ下がった目で屈強な肉体の持ち主である参謀を見上げ、ローブの合わせ目を摘んだ。
「たった一人での残務処理を彼は本気だと思っていたのか、大尉」
「はい。自分にそれが成しうると、奴はすっかりその気です。出発前に一度話をしましたが、かえって単独任務は気が楽だと虚勢を張っておりました」
「しかしな……これは理事会の総意であり、五星も賛同している……無論、真錠春途(しんじょう はると)殿もな……」
 今年で五十になる賢人同盟最高責任者であるイザヤ総理事は、白髪に色白ということもあり、実際の年齢よりはずっと老齢な印象を、三十代半ばの「大尉」ことアーロン・シャマスに与えていた。
「はい。私が奴に帰還勧告をすること自体は何ら問題ありません。同盟すべての意志と決定ということであればなおさらです。しかし二つの問題があると思われますが」
 遠まわしな大尉の表現に、イザヤは頭髪と同じく色素の抜けた口ひげを撫で、椅子を横に向けた。
「後任の件なら問題はない。真錠殿が適任者を選定済みだ……もちろん、任務の内容はアルフリートとは異なるがな」
「ではもう一つの問題への対処は?」
「それは問題次第だが……大尉はなにを懸念している?」
「奴が勧告に従わなかった場合の対応です。現に残党の糾合と拠点の隠蔽という点に関して、奴には不審な動きがいくつか見られます。バクラー竹田の粛清も、越権行為として看過できぬと個人的には思っていますが……」
 大尉がそう告げると、窓の外から教会の鐘の音が響いてきた。陽光を横顔に浴びたままイザヤは横目で大尉を見上げ、隠れた側の頬をぴくりと動かした。
「それについては君に一任する。ラングリッジ司令には私から話を通しておこう。アルフリートが勧告に従わん場合は……躯となっても構わん……奴をここなり同盟本部なりに連れ戻せ……」
 言葉の内容とは裏腹に、総理事の様子はどこまでも穏やかであり、大尉はそんな違和感に胸の悪さを覚えながらも敬礼と同時に「了解であります!!」と、軍人らしいはっきりとした言葉を返した。


 総理事の執務場所であるミラベル宮殿近くの賢人同盟理事会より、ザルツアハ川を越えて車でしばらく丘陵地帯を登ったその森に、賢人同盟が本部として使用している「城」があった。それは文字通りの城であり、威容をもってザルツブルクを見下ろすホーエンザルツブルク城をスケールダウンしたレプリカである。車を裏庭側の駐車場に停めた大尉は、城の中へ入りとある大広間に続く扉を開けた。
 外観や廊下とは異なり、その大広間の中には事務机と端末機器が所狭しに設置され、壁のある一面はスクリーンとなっていて、そこには世界地図と様々なデータが表示されていた。
 大尉は中で勤務する者たちに手で挨拶をしながら広間の奥へと進み、端末に向かって煙草を吸っている小太りの男の前で立ち止まった。
「いいかハルプマン……少し話があるのだが……」
 大尉にハルプマンと呼ばれたその白人男性は、煙草を灰皿に押し付けて腰を浮かせ、ずれていたサスペンダーを直した。

 中庭には噴水があったはずだが、組織が本部として使用するようになってからは大型のパラボラアンテナが設置され、それを点検するツナギ姿の作業員たちが忙しなく動き回っていた。やってきた大尉とハルプマン作戦参謀は、作業を遠目で見ながら城の壁に背中をつけた。
「ついに撤収命令が下った……」
「そうか……やはり日本からはいったん手を引くのか……」
「ああ……東アジアは紅西社(こうせいしゃ)に任せるらしい……もっとも……真崎ファクトの開発したテクノロジーの中には無視できんものもある……それについての回収は引き続き行われるそうだ」
 大尉の言葉に、ハルプマンは弛んだ顎をひと撫でし、白い息を吐いた。
「なぜそれをアルフリートにやらせないんだ? 彼は残党をまとめ、報告にない拠点も突き止めたのだろ?」
「ああ。だからその情報だけは同盟としても利用する。だがそもそも奴のような若造を後任に据えたのは、日本に対しての破壊交渉継続を前提としていたからだ」
「なるほど……方針変更というわけか……若い彼には不適当ということだな」
「日本政府は同盟に対して多額の保証金を支払ったらしい……聞いているかハルプマン?」
「噂はな……」
 肘を壁につけたハルプマンは、あまりの寒気に全身をぶるっと震わせた。

 賢人同盟の下部組織であり、日本方面の管理を担っていた「真実の徒」が暴走を開始したのは、いまから一年以上前の一九九六年十一月のことであった。札幌での大臣誘拐事件を皮切りに、本来は監視と報告任務を中心としていた組織の活動は破壊工作や政府への恐喝へと変貌し、独自に開発した様々な技術と同盟も関知していない流入資金によって増強された戦力は、次々と大規模なテロ事件を引き起こす結果となった。
 真実の徒がどう動くのか、当初は静観しやがては日本政府への交渉材料として利用した同盟だったが、結局は指導者である真崎の失敗によって組織は壊滅状態に陥るほどの打撃を受け、ようやく安全保障の条件交渉がまとまった段階で、その後始末へと派遣されたのが三代目真実の人こと、弱冠十六歳のアルフリート真錠だった。
 アルフリートの任務は、日本に残された真実の徒の勢力と技術を管理し、第三次ファクトとして再生させることと、生存が確認された真崎実の抹殺である。
 まだ若いが才気に富み、数百年に一度の天才活動家と証されるアルフリートであれば、激減した真実の徒であっても最低限の下部組織として維持、運営ができるであろう。当初は想定外だったものの、真崎の行った日本への恐喝は政府の同盟への擦り寄りという思わぬ副産物を生じ、ならば今後もその武闘路線を継続していくのは得策である。もちろん同盟の管轄化においてではあるが、あの若きテロリストであれば、その責はじゅうぶんに果たしてくれるであろうという意志に基づく単独派遣だった。
 だが方針は変更された。その理由は第一に日本政府の予想を超えた寄付行為と利権譲渡であり、第二に来日以後、不審を伴うアルフリートの行動にあった。

「帰還勧告は私が今夜にでも行う……同盟内でも知っている者はまだわずかだ……そこでだ、ハルプマン……」
 大尉は隣に佇むハルプマンを見下ろし、丸太のような腕を組んで声を潜めた。
「アルフリートからの技術回収報告書……あれの消去を頼みたい……無論バックアップは残したままだ……」
「ふん……ついにそうきたか大尉殿……」
「おそらくはアルフリートの動きは予想通りの結果となる……そうなればここまで溜め込んできたデータが今後生きてくる……ラングリッジ司令もまだ閲覧はしておらんし……」
「ベラスコ作戦本部長にしてもそれは同様だ……わかった大尉……今夜のうちにやっておこう」
 ハルプマンは背中を壁から浮かせ、中庭から空を見上げた。それにしてもよく降る雪だ。彼は自分がいつになく興奮していることにようやく気づき、両肩を大きく上下させた。

 いくつかの手は先に打っておく必要がある。帰還勧告を夜に控えた大尉は昼食も摂らず、本部内を事後処理のため精力的に奔走していた。
 ハルプマンへの根回しを終えた彼が次に訪れたのは、城の地下四階に位置する射撃訓練場である。硝煙と銃声が気持ちを高揚させる。そもそも軍人である大尉は、賢人同盟の本部において執務室の次に好きな場所がここだった。
「大尉……」
 訓練場の隅に置かれたベンチに腰掛けていた白人男性が、やってきた偉丈夫を見上げた。
「どうだね、カーチス・ガイガー君……カンは取り戻せたかな……?」
「三ヵ月もベッド暮らしでは……カンはともかく、筋力の衰えがひどいものです……」
 迷彩ズボンにグリーンのタンクトップ姿のカーチス・ガイガーは、大尉に負けないほど隆々とした筋肉の持ち主だったが、彼は苦笑いを浮かべて太腿を擦った。大尉はその隣に座り、少しだけ背を丸めた。この時間、射撃ブースで訓練をしているのは三名ほどであり、銃声が密談の妨げにならないと判断した大尉は、ガイガーの分厚い肩を軽く叩いた。
「先日ルディと会ったそうだな」
「ええ……先週の木曜日に……射撃訓練のためにちょうどここに……」
「私はその日は五星会議へ出頭しててな……」
「そうですか……」
 ルディこと、リューティガー真錠と大尉は浅からぬ縁である。ガイガーはそれを知っていたからこそ、彼があの幼い少年の何を聞きたがっているのか判断しかねた。
「ルディはなにか言っていたか? できれば君との会話内容が知りたい」
「会話内容もなにも……久しぶりの再会でしたから、互いの最近の出来事や……日本でのカオスの顛末……ほとんどがその話題に終始しましたが……」
「うむ……それはそうだろうな。ルディは哀しんでいたか?」
「カオスの件は既に知っていたそうですから……もっとも、気丈に振る舞っているのは私のような者にも見てわかりましたので……あまりにもいたいけではありましたが……」
 自ら話題をふっておきながら、大尉はつまらなそうに下唇を突き出し、膝に肘を立てた。
「ど、どうなされましたか大尉殿……?」
 年齢的には大尉より一つ上のガイガーではあったが、もと傭兵部隊の一員で同盟本部の実戦部隊に最近入ったばかりの大尉は、部隊内でラングリッジ司令に継ぐ実力者として扱われ、次期司令の最有力候補と目されている。それを知っていたガイガーは、年下の上位者へできるだけ丁寧な態度を心がけていた。すくなくともこの当時においては裏表なく。
「ルディは……アルフリートのことを……日本にいる兄についてはなにか言ってなかったか?」
 大尉の口調は若干ではあるが苛ついていた。ガイガーは記憶を辿り、何度か小さく頷いた。
「心配しておりましたな……」
 その言葉に、大尉は太い眉をぴくりと動かし、「なにをだ?」と尋ねた。
「は、はぁ……?」
 弟が異国の兄を心配するのは当たり前のことである。大尉はなにを鋭い目でこちらの言葉を待っているのだろう。ガイガーはあまりにもペースを握られすぎていると感じ、傍らのタオルで乾いた額を拭くことで間を空けた。
「日本の水は合うか、寒さは大変ではないか、たった一人で政府の目をかいくぐっての任務が成功するか……そのような心配をしていましたな……」
 どうやら希望通りの回答ではなかったようである。仏頂面のままベンチから立ち上がった大尉を見上げたガイガーはそう思い、太い足を組んで顎を引いた。
「どうかしましたかな。大尉?」
「いや……練習を邪魔した……早くリハビリを終えてくれ、これから実戦部隊は忙しくなる」
 大尉は背中を向けたまま、ガイガーに早口でそう返した。真実の徒も壊滅し、ここ数ヵ月で同盟の威力行使も減っていると聞くが、やはりあの大尉の様子からすると大きな事件が起こるようである。その中心人物に、あの栗色の髪をした少年の兄が関係しているということか。カーチス・ガイガーはそう理解して、首を何度か横に振った。


 根回しや情報収集はどちらかと言えば嫌いではない。本来は諜報が専門分野であり、その能力を買われての同盟入りだったため、この状況は好ましいといってよいだろう。本部中央の螺旋階段を駆け下りながら、大尉は窓からの夕日に踊り場で足を止め、腕時計を確認した。
「中尉君……だったかな……?」
 階段の下に位置するホールから、聞き覚えのある張りのある声が上ってきたので、大尉は視線を向け、「現在は大尉です。春途殿」と返しながら階段を再び駆け下りた。
 紺色の着物に足袋と草履といった姿は、西洋風の城内においてはどうにも奇妙に映る。だががっしりとした体躯は相変わらず分厚く東洋人離れをしていて、その点についてはいつもながら感心してしまう。男の側までやってきた大尉は、対する真錠春途から凛とした気配が漂っているのに緊張した。
 賢人同盟最高顧問であり、かつては初代「真実の人」と呼ばれ、本日現時点において大尉の心の中を最も占めている存在、アルフリート真錠の父親である。CIAの推薦によって同盟に入り、日本方面を監視する下部組織の長として責務を全うし、現在では最も自由な立場で組織に助言する、いわゆる「ご意見番」の彼と、今日このタイミングで偶然出会えたのも何かの縁である。大尉はそれを幸運だと思い、胸を張った。
「既に……お耳に入られましたか?」
「ああ知ってるさ……アルは本日付けをもって解任……真実の人(トゥルーマン)の名も剥奪……そうだろ?」
 砕けた口調だったが春途の眼光は鋭く、大尉の緊張が緩むことはなかった。
「はい……夜にでも勧告するつもりです」
「ふん……」
「まったくもって残念なことです……日本政府がこうも容易に屈服するとは予想外でした……もっとも……帰還後は彼にも相応の任務が待っていることでしょう……」
 この男が気遣いなどに感謝するほど父親的ではないと知っていた大尉ではあったが、あえてそう悔やんでみることで反応を確かめてみたくもあった。すると春途は着物の中で腕を組み、白い歯を見せた。
「“帰還後”な……はっはは……そいつぁ能天気でいいな。ちっとも考えてなかったよ」
「春途殿……?」
 予想とは異なる返事だったため、大尉は首を傾げた。春途は顎を引き、口元を歪ませるとホールから出口へ視線を向けた。
「ま、はじまっちまうな……覚悟ができてんのは俺だけだが……それもまぁ、仕方ねぇよな……」
 耳慣れぬ日本語だったため、大尉は春途がなにを言っているのか理解できなかった。だがどこか辟易とした仕方なさそうな雰囲気は感じ取れたため、どのような発言をしたのかひどく気になり、彼は春途の前へ回った。
「今回の決定な……名前の剥奪に関しては俺のアイデアだ」
 わかる言語のため今度は言葉を理解できたが、その意図は即座に察することができない大尉だった。
「俺は“シンジツノヒト”って名乗ってさ、真崎は“トゥルーマン”ってさ……けど、どっちみち手垢のついた古い名前だ……アルはアルで考えりゃいい……親ばかだと笑ってくれてもいい……実際俺は感激してるのさ。この数ヵ月、奴の手際と仕事は父親の俺の予想を遥かに上回ってた。もちろんどっかがぶっ壊れてるんだろうけどな」
 ますますなにを言っているのか理解できない。それとも独り言なのだろうか。大尉は眉を顰め、偉大なる先駆者に対して怪訝さを隠すことがなかった。
「頼んだぜ、大尉殿……せいぜいきつく勧告してやってくれ……」
 不敵な笑みを浮かべた春途は、袖から手を出して大尉の肩を掴んだ。最後の言葉だけは理解できる。だがそれでいいのだろうか。大尉は己の経験がまだまだ不足していると痛感し、頷き返すことはできなかった。


 その日の深夜、日本にとっては早朝のことである。大尉は本部の通信用個室を訪れ、画像通信の操作をはじめた。本日この時間は日本に派遣したアルフリートとの定期通信である。跳躍の能力を持つ彼に対してこうした接触手段は非効率的ではないかと、普段から異議を唱えていた大尉だったが、今日のような状況に関しては直接目の前にするよりずっとやりやすくありがたい。灰色のモニタの前で彼は深呼吸をし、画面が切り替わるのを待った。
「“今晩は”かな……大尉……」
 モニタには色白で少々険のある目をしたものの、美しい少年が映し出された。大尉は机の上で指を組み、「ああ。早速だが重大な通達がある」と切り出した。
 こちらのただならぬ緊張が映像越しに通じたのか、少年も無言のまま異変の原因を探っているようだった。
「本日一月十六日付けをもって……君に下されていた全ての任務が解除された。つまり中止ということだ。君は直ちにこれまで回収したデータをまとめ、本部へ帰還せよ。これは命令だ」
 低い声でゆっくりと、あくまでも感情を込めずに告げた大尉だった。モニタの中の少年はしばらくして口を小さく開け、三度ほど瞬きをした。
「真実の徒については、これを解散とし日本地区に関しては紅西社が同盟の代理を行う。事後処理においては専門スタッフを後日派遣し、テクノロジーと残党の回収を行う……これは日本政府に対して通達済みであり、速やかに障害なく作業は進められる予定だ。それと……帰還後の君については、Blood & fleshが幹部待遇で迎えたいと申し出ている。無論、“真実の人”という名はここで絶たれるわけだが、これに関しては春途殿も了承している」
 少年が特に意を返してくる様子ではなかったため、淀みなく、そして早口にもならず大尉は告げるべき内容を通達した。

「なにか……勘違いをしていないか……大尉殿……」

 予想していた返事の中でも、それは大尉にとって最悪の部類である。モニタの中では赤い瞳が小さく、だが強い光を放っているようであり、それとは対照的に表情は冷たく凍ったようにも感じられた。

「我々は賢人同盟の下部組織ではあるが、それはあくまでも共通目的における利害関係の統一がなされているに過ぎん。人事、運営に関しては干渉権などそもそも存在しない……技術、人材、交渉における供与や負担が存在する場合は、それぞれ個別に条件協定を行うのが前提であり、その際にある程度の融和と妥協はあるものの、我々は第二次ファクト崩壊後、賢人同盟よりなんら支援は受けていない」

 なんだ、これは。まるでこれでは「きちんとした下部組織」を指導する者の言葉や態度のようではないか。瞳が揺れ、口元が震えているのが年齢を感じさせるが、少年らしからぬ毅然とした態度である。大尉はカメラに身を乗り出し、強く睨み付けた。
「真実の人ごっこは終わりだ……日本政府がベタな手に出てきたのだ……もうこれ以上の威力行使は意味を成さん……貴様の力を使うべき場所は、他にいくらでもある……素直に勧告に従うのだ……それに今ならその暴言も、私の胸のうちだけに留めておこう……」
 あくまでも余裕を持ったままの対応が必要である。少しでも打つ手を間違えれば彼は暴発する。大尉は慎重に、だが決して遜ることなく自らの正しさを疑っていなかった。
「なにを言っているのかまったく理解できない。我々は我々の思うがまま、好きにやらせてもらう」
「いい加減にしろ、アルフリート。この通信も記録されているのだぞ。それ以上の戯言は看過できなくなる。ファクトはもうなくなったのだ。お前も真実の人ではない。同盟のいちエージェントして、任務に復帰するんだ」
「違う。ファクトではない……我々はその名を新たに……いまここでFOTへの新生を宣言する……私は真実の人(トゥルーマン)……真実を追究するただ一人の存在……なんぴとたりとも私の追及を止めることなどできない……」
 その言葉と同時に、モニタは再び灰色に戻った。怒らせてしまったのか。拗ねているのか。どちらにしても対策を考慮する必要がある。ここは腕のいいカウンセラーでも頼ってみるか。大尉がそんなことを考えながら席を立つと、彼の後頭部を突風が吹き付けた。
「なんだと!?」
 “二刀のアーロン”と異名され、戦闘技術においても一流の彼だったからこそ、密室での突風が如何なる非常事態か咄嗟に判断できた。懐の拳銃を引き抜きながら大尉が振り返ると、その眼前には黒い背広を着た少年の姿があった。
「バクラー竹田も殺した……幽閉に従わない何人かも見せしめに粛清した……拠点をカモフラージュするため、民間人も手にかけた……大尉……君が想像しているよりも、私はずっと仕事をしてしまっている……任務ではない。それは私が真実の人だからだ」
 気がつけば、抜いたはずの拳銃が手元から消え、それは少年の手に握られていた。
「き、貴様ぁ……!!」
「取り返しのつかないことをさせてもらう!!」
 少年の手から発射された弾丸は、大尉の肩を掠めて背後の通信モニタに命中した。それと同時に警報が密室に鳴り響き、彼は舌打ちをした。
 確実に狙っていた。射撃訓練を定期的に受けていないためか、緊張して手元がぶれたのか、とにかくこの少年は殺すつもりで発砲した。大尉は頭に血が上り、殺意を堪え切れなかった。
「このガキめ!!」
 しかしその罵倒は少年には届かなかった。再びの突風は跳躍の名残であり、頬にそれを受けた大尉は奥歯を噛み締め、頼るべきはカウンセラーではないと、壁にかけられた通話機を手にとって、「作戦会議を開く!! これより作戦本部室に集合せよ!!」と叫んだ。

 作戦会議の結果、敵対組織として第三次ファクト、別名FOTが賢人同盟内において認知され、その壊滅が正式に決定された。一九九八年一月十六日のことである。暗殺部隊の選定が速やかに行われ、本部より指揮を執るのは大尉の役目となった。ものの数週間でケリをつける。大尉は心の中でそう決めていたが、考えはしだいに変化し、彼の人生は銃口を向けた赤い目の少年に翻弄されることとなる。だが彼がそれに気づくのは、ずっと先のことであった。

4.
 妖美なる幹部候補。最も総理事座に近い十六歳。数百年に一度の天才活動家。様々な異名や賛美の言葉は常々耳にしたことがあるし、いずれはお会いしてその評判を確かめたいと思っていた。なんといっても同い年だ。自分も組織では一目を置かれているが彼ほどではないし、なによりも写真でみた白き美しさに関しては到底かなうはずもなく、もうその時点で完敗である。
 だからもし対面し、知り合う機会があれば女としてではなく、同世代の有能なる若手として友諠を厚くしたいものだ。いや、もちろん男女間の関係があってもいい。けど、それはやはり期待していない。
 ところが裏切ったと聞いた。任務が役不足だったということなのか。それほどの才気と野心に溢れる同い年ということなのか。だとすればますます凄い。自分など生まれたころから組織に従属し、それに逆らうことなど考えたこともない。組織あっての自分なのだ。敬愛と感謝を注ぐ全てである。両親よりも体制と序列が優先される。そう信じてきたからこそ、ますます彼のことが凄いと眩暈がしてしまう。
 それなのに討伐を命じられるとは。しかもわざわざ上部組織の司令が指名してきての厳命であり、全うすれば評価は自分だけでなく、所属する紅西社にまで及ぶ。劉慧娜(リウ・ヒュイナ)は多少の戸惑いもあったものの、裏切り者であり帰還勧告に反逆した「噂の美少年」と意外な形で関わり合いを持ってしまった状況に興奮もしていた。もし返り討ちにあってもそれはそれで仕方がない。たった十六年しか生きられず、恋も知らぬまま死ぬのは無念だが、重要任務で相手があの彼であるなら諦めもつく。

 なのになんでよ!! 任務達成しちゃうじゃないのよ!! まだ、一言も話してないのに!!

 目の前でうつ伏せになって倒れている黒いスーツ姿の少年の右足は、あらぬ方向に折れ曲がっていた。周囲はなにもない一面の雪景色であり、空は曇りあらゆる空間には吹雪が荒れ狂っていた。だが少女も少年も、まだその身体に白いものが積もり始めたばかりであり、そもそも彼女はここがどこなのかもよくわからないでいた。


 来日してから一週間後、ようやく突き止めた地下拠点へ跳躍した眼前に、目的の少年はいた。カップラーメンを食べている最中だった。たぶん、思いっきり寄り目になってしまっただろう。昔からの悪い癖だし。けど彼だって食べてるものがあまりにも侘びしいから、第一印象はおあいこだ。慧娜は気持ちを建て直し、自己紹介をしようとした。
 しかし次の瞬間、少年はカップ麺を残して眼前から消えた。またもやの失敗。そうだ、突然現れたら跳躍者ということがばればれである。部屋の外に出現するべきだった。少女は後悔しながらも、彼がいた食卓へ駆け寄り、目を閉ざして右手を挙げた。あ、我ながらこのポーズは決まってる。せっかくおめかししてきた桃色のチャイナドレスはスリットが際ど過ぎるけど、初印象は大切だと妹も言っていた。いやいやそんなことを考えている場合ではない。彼の「跡」ってどーこだ。
 少女は突き上げた右の人差し指を立て、それを勢いよく水平に下ろした。
「あっちだ!! 感じましたよぉ!!」
 旋風と共に少女は姿を消し、出現した先は高層ビルの屋上だった。
「どういうこったぁ!?」
 屋上のコンクリートに左拳を突き、低い姿勢で身構えて叫ぶ少年に、少女は目を奪われた。黒いスーツが風になびいてかっこいい。赤い瞳なんて漫画みたい。白い髪は小さいころに能力の発現と引き換えに色を失ったそうだけど、なんとも彼の妖美さを引き立ててきまってる。
「アルフリートさん!! 同盟の命によりやってきました劉慧娜です!! 討伐……ううん、交渉に来ましたぁ!!」
 しかし最後まで言い終えないうちに、少年の姿は再び目の前から消えていた。こうなれば徹底的に追い続けるしかない。跳躍の追跡は幼いころから父に教わっているから自信がある。それに、初めて彼の「跡」を感知してみたが、なんともわかりやすくどうやら自分にとっては相性がいいようだ。
 右の人差し指を突き上げた慧娜は、背後に突風を感じ、反射的に前転をして長い右足を軸に振り返りながら、左手で懐から小刀を引き抜いた。
「あ、あれ……!?」
 しかし彼女の眼前にいたのは、消えたはずの少年だった。逃げたはずなのに、どうして同じ場所に出現してきたのだろう。立てたままの右の人差し指を薄い唇に当てた少女は、嫌な予想結果に、「ゲ」と声を漏らした。

 跳躍を追尾されたのが不思議だったのね……だから罠を張った……罠……うぇ……わたしのこと……敵だと思ってる……って……敵だけど……ううん……交渉よ交渉……まずは降伏勧告……

 「こ、こんなもの!!」そう叫びながら慌てて小刀を捨てた慧娜だったが、そんな彼女のすぐ目の前に、ナイフを手にした少年が迫った。

 捌き、絡め、そして打ち極める。少女が物心つく前より父から教わった、それは護身の連なった挙動だった。無意識にその長身が動いた結果、少年のナイフは宙に飛び、肩口と踵は絡め捕られ、膝から下には痛烈なる打撃が炸裂した。


 そして数回の跳躍を経て、この一面の雪原に至った。慧娜は寒さに小声ながらも呆然と少年を見下ろし、まさか人違いではないだろうかと、その後頭部を凝視し続けていた。
「う、嘘だよね……そ、そっかぁ……影武者だぁ!! でなきゃこんな弱いわけ……ないですもの……」
 自分如きが習得してきた護身拳で、このような結果が導き出せるとは思ってもいない慧娜だったため、この状況はどうしても認めたくはなかった。
「く、くそ……殺すんなら……殺せよ……」
 雪の膜が少年をより白く染めようとしていた。少女は顎を引き、さすがに現実としてこの光景を受け止めるしかないかと覚悟した。
「跳躍者相手の戦いは……はじめてだったってことなんですか?」
「いや……弟とはな……だがこうも確実な追尾があるとは……何者だてめぇは……」
 ようやく頭を上げ、真実の人は慧娜を見上げた。
「紅西社……劉慧娜……あなたの……説得に来ました……」
「説得……? 本部で発砲した俺に……? 討伐の間違いだろ?」
「め、命令はそうですけど……あ、あの……もっと暖かいところに跳びません?」
「ふざけやがって……骨が砕かれて意識が飛びそうなんだぞ……」
「あ、なら私が一緒に……同時跳躍ができるんですよ!!」

 少年と少女は南半球に位置する、とある孤島の岸壁の先にいた。はるか眼下では波が打ち付けていたが、いつでも空間に跳べる二人にとっては危険な場所ではなかった。この場所を指定したのは真実の人であり、慧娜は自分が少しは信用されていると感じ、それが嬉しかった。
「わ、私の所属する紅西社は……下部組織の中でも最大級の規模なんです」
「知ってるよ……なんせ中国の監視だからな……」
 岩肌にしゃがむ少女の隣で、少年は仰向けになったまま骨折の苦痛に耐えていた。
「だから……投降してくれるんでしたら、紅西社から助命嘆願もできると思うんです。どうです? いいアイデアでしょぉ!?」
 人差し指を立て、慧娜はにっこりと微笑んだ。目が細く、どうにも野暮ったい印象の少女ではあったが、笑顔はなかなか魅力的だと少年は感じた。
「俺は真実の人になるためにあの国に来たんだ。やることもやらずに帰れねぇし、もう取り返しはつかない……いいか、二度と助命嘆願なんて俺に言うなよ……」
 凄んではみたものの、足を折られ事実上の敗北を喫している現在、それはただの虚勢にしか過ぎないと真実の人にもわかっていた。ばかにするだろうか。それとも怒るだろうか。彼が覚悟をしていると、少女は膝を抱えて背中を丸めた。
「どうしても……ダメなんですか……」
「あ、ああ……俺はいままで好き勝手にやってきて……ようやく自分がなれる何者かが見つかりそうなんだ……そうすりゃ親父だって真崎だって越えることができる……日本を変えてみせるんだよ……いいやそれだけじゃねぇ……この世界の枠組みそのものだって、もっとまともなものにしたい」
 なぜ誰にも話したことがない、いや、自分でも明確にしていなかった本音や野心を口にできてしまうのか。すぐ傍らで色気を放つ、チャイナドレスに包まれた曲線のせいなのか。少年は急に言葉を失い、視線を逸らした。
「けど……そんな弱くて……どうするつもりですかぁ……身体のバランスとかてんでだし……」
 痛いところを突かれた真実の人は、慧娜に背中を向けて眼下の青と白の海原を見つめた。
「き、鍛える……もともとガキのころに格闘技や射撃……武術は全部こなしてたんだ……さ、最近はさぼりがちだったけどよ……」
「たった一人でどうするんですか……それとも残党にいいトレーナーでもいるんですか?」
「いることはいる……武術家に暗殺プロフェッショナルが……そ、そうだな……」
 どうせ掻いてしまった大恥だ。それにこの岸壁なら何を言っても許されるような気がする。すっかり情けなくなってしまった真実の人は、再び少女に身体をごろりと向けた。
「劉慧娜……よかったら俺の仲間にならないか? 跳躍者同士が組めば恐いものがずっと減る……拳法も教えてくれると助かる……」
 さてどのような反応をするだろう。戸惑うか、怒り出すか。はたまた照れてしまうか。どのみちなるようになれと少年が心を構えていると、少女は細い目を向け、「うぇ」と嫌そうに呻いたため、どう反応すればよいのか真実の人はわからず、再び言葉を失った。
「そんなの無理に決まってるじゃないですか……私、前頭目の娘なんですよ……ゆくゆくは紅西社を継がなきゃいけないのに……なーんか幻滅……そんな弱気……見たくなかったぁ……」
 そうぼやきながら、少女が腰のポーチから小さな矢のような武器を取り出し、中央部分にあるリング状の留め金を指にはめ、それを中心軸に本体を時計の針のようにくるくると回した。これは確か、峨嵋刺(がびし)とかいう名の暗器である。少年はこの少女がなんの殺気もないまま、いくらでも敵を叩きのめすことができる「本物」であると知ってしまった。彼は迷わず崖から重心をずらし、はるか眼下の海面へと落下した。
「あー!! そーゆーことぉ!?」
 暗器を両手に装着したまま、少女は崖から立ち上がって叩きつける波を見下ろした。ああまで荒れ狂った海中に逃げ込まれては、集中して跳躍の「跡」を探ることはできない。少女は取り逃がしてしまった悔しさと、噂よりずっと凡庸だった相手に対する失望と、よくわからない、何やらくすぐったいような気持ちが同時に湧き上がってしまったため、海原を見据えてもなんと叫べばよいのかわからなかった。

 真実の人と劉慧娜の、これが出会いである。これから数ヵ月に亘って何度も戦い、やがて認め合い惹かれ合っていく二人の原点だった。それは一九九八年、二月のことであった。

5.
 ジャケットの左肩が落ちてしまっているのは、懐に入れた札束がそれなりに重いからだ。ついさきほど稼いだばかりの百万円だから銀行にも預け入れられないし、いつでも逃げられるようにと手ぶらだったから鞄の類もない。
 男は胸ポケットから煙草を取り出すと、それを咥えてライターで火をつけた。
 高架下の飲食店街は深夜ということもありバーと居酒屋が数軒開いているだけで、人の通りもなく閑散としていた。もう三月も後半だが、まだ夜になると冷える。冬の名残を肌で感じながら、男は今日の成功をどの店で祝おうかと看板を見比べていた。
 あのバーがいいだろう。マスターとも馴染みだし、酔ってしまってついうっかり儲け話を漏らしてしまっても、それを他言するような軽い人物ではない。つい先ほどまで極度の緊張状態を強いられていたため、神経も少々まいっているからリラックスをしたい。男の足は、飲食店街の隅でひっそりと薄暗く看板が灯る、一軒のバーへと向けられた。

 まずは生ビールで喉を潤すか。男がそんなプランに笑みを浮かべていると、彼の鼓膜を妙に生々しく途絶え途絶えのなにかが刺激した。
 これは呻き声だ。男の結論は早く、彼は足を止めて、目的地であるバーとその隣の閉まっている蕎麦屋の間の、幅一メートルばかりの空間を横目で見た。

 誰かがしゃがみ込んでいる。この呻き声の主に間違いない。暗くてよくは見えないが、どうやら若い男のようである。酔っ払いか病気持ちか、ともかく関わっても損をするだけの“厄介者”であることだけは確かだ。男は煙と白い息を同時に吐き出し、惨めな少年の周囲が小さな水溜まりになっていることに気づいた。

 やだねぇ……漏らしてんのかよ……ああはなりたくねぇな……

 暗がりに目が慣れてきたため、男は水溜まりの中でしゃがみ込む少年の姿を、より詳しく認識してしまった。
 髪は白髪で、おそらく染めているのだろう。着ている服は黒い背広で中のワイシャツは紅色、なんだかチンピラかホストのようにも見える。横顔は正直言って美形の部類に入れていい。自分とは大違いである。しかし目が赤いというのはどういうことか。なるほど、カラーコンタクトというやつか。

 結論。ビジュアル系の阿呆。

 男は“厄介者”と認定したにも拘わらず、観察を続けてしまっている事実に苦笑した。今日の自分は余程機嫌がいいということか。確かに百万の大仕事を成し遂げた記念日である。寛容にもなっているし、自信だって相当なものである。それにこれから一人で祝勝会をやろうとしている店のすぐ裏で、こんな奴が醜態を晒しているとわかってしまったのだ。無条件に美味い酒が呑めるはずもない。男は仕方なく天然パーマのもじゃもじゃ頭を掻き、狭く暗い空間へ足を踏み入れた。
「まだ三月だぜ……こんなところにずっといると、風邪ひくぞ。帰りのタクシー代がねぇのか」
 煙草を手にした男は、じっとしゃがみ込む若い男にそう言った。かけられた声に少年は反応し、赤い目で彼を見上げた。
 美しい顔だが生気に乏しい。それにあちこち細かい切り傷があり、口元には血の跡もみえる。なるほど、喧嘩に負けたということか。男は少年の経緯をそう理解し、左手を差し出した。
「立てるか?」
「立てるさ。けどまだ座り足りない」
 淀みなくそう返してきた少年に、男は口をポカンと開けて呆然とした。
「なんだそりゃ。酔っ払ってんのかガキのクセして」
「いいやシラフだよ、オッサン。単にね……疲れてしまったんだ。どうしようもなくね」
「オッサン? ばか野郎。俺はまだ三十四だ。青年の枠組みってやつだぞ」
「へぇ……」
 男の虚勢に少年は柔らかい笑みを浮かべた。
「俺はこれからここで呑む。だけどお前がここで鬱やってんの見ちまったから、酒が不味くなる。それは嫌だからどこかへ消えてくれ。それが言いたくて、こんな隙間に入ってきたんだ。いいか少年?」
 一気に要求を告げた男は貸そうとした手を引っ込め、表情を険しくした。
「面白いね、あんたは……正直で濁りがない」
「機嫌がいいだけだ。普段なら無視して呑んでるって」
「ならさ……奢らせてくれよ。金ならいくらかある」
 奇妙な要求をしてこられたものである。だが、心の奥底で望んでいたような気もする。赤い瞳は人工的ではなく、血の通った色素であることが近くで見ればよくわかるし、水溜まりの正体が小便でないことも匂いで判別できる。こうなると白い髪だって染めているかどうかわからないし、この服装もチンピラやホストではなく、以前に雑誌かテレビで見たような気もしてきた。
 男は少年に興味を抱いてしまっていることを素直に受け入れた。そう、それほど今夜の彼は機嫌がよく、眼前の妖美さを受け入れられるだけ、伊達と酔狂の目盛りに針が振っていた。

「東京タワーの天辺は冗談じゃないぐらい風が強いんだ。アンテナにしがみついてないと吹き飛ばされる。だからさ、そりゃ戦い方だって限られてくるよ」
「あっははは!! タワーの天辺にしがみつくって、そりゃまるでジャイアンじゃねーか?」
「ジャイアン?」
「いいけどよ。なんつーかもうめちゃくちゃだな!!」
 カウンターで肩を並べてグラスを傾ける男と少年は、マスターへ同時におかわりを頼んだ。
 それにしても、この少年の話は突拍子もないことこの上ない。自分も今では裏街道を行く者になってしまったが、中華娘に足をへし折られたり失明させかけられたり、バイクに乗った殺し屋から追い掛け回され、鋳物工場に逃げ込んで外国人労働者と共に撃退したとか、とても酒抜きで聞けるホラ話ではない。
 もう何人も殺してきたというが、とてもではないが凄みは感じられず、ただ美しいだけの妄想少年である。男はどこまで突っ込めば嘘が破綻するのか、楽しんでみようと思った。
「なんでそんなに殺し屋に命を狙われるんだ?」
「そりゃ……俺が真実の人(トゥルーマン)を名乗っているからだろうね」
 その名はもちろん知っている。つい昨年、この東京に太平洋戦争以来の破壊と混乱をもたらしたテロリストである。男は笑いを消し、首を傾げた。
「外すなよ、少年……急に展開をシリアスにして、どーすんだって」
「外すもなにも事実だからね」
「ふん……ファクトネタはアングラ芸人だってやらねーぞ。客の中に被害者やその関係者が混ざってる可能性があるからな」
 そう言って水割りをぐいとあおった男は、おかわりをマスターに注文した。
「オッサンは芸能関係なのかい?」
「あ? まーな。“前”はな」
「コメディアン? それとも意外と歌手とか?」
「ふん……」
 男はグラスを受け取ると、懐から五百円玉を取り出し、それを掌に載せて少年に見せた。
「見てろ」
 手を握り、再び開くと硬貨は忽然と消えていて、少年は目を丸くして腰を浮かせた。
「跳ばしたのか!? まさかオッサンは跳躍能力を!?」
「な、なんだよ、それは!?」
 普通とは異なる反応に、男はすっかりペースを乱されてしまった。
「手品だよ。種も仕掛けもアリアリの……もっとも……一番の専門は催眠術なんだけどさ」
「催眠術? ああ……無意識下に暗示をかけたりするやつ?」
「ああそうだ。アシスタントだけどテレビにだって出たんだぜ」
「今はやってないのか?」
「ん……まぁな……」
 男は背中を丸めて、琥珀色の酒で舌と喉を湿らせた。初対面の少年に話すような事情ではない。こうなってしまったのも劇的ではなく、単に食い詰めただけのあまりにも成り行きであった。男はそれにしても奇妙な夜になってしまったと、ようやく困惑した。
「なぁオッサン」
「だからオッサンじゃねぇって」
「なら名前を教えてくれよ。俺は真実の人。あんたは?」
「藍田(あいだ)だ……ドリーミー藍田」
「ドリーミー藍田!? ハーフなの?」
「芸名だよ」
「本名は? 藍田なんとかなのか!?」
 積極的に尋ねてくる少年真実の人(トゥルーマン)に藍田と名乗った男は、うんざりして背中を向けた。しかし少年はそんな拒絶を解さず、彼の背中を叩いた。
「なんだよ。別にいいけどさ……なら俺はあんたをドリーミー藍田って呼ぶことにするよ」
 はっきりと、凛とした声である。藍田はやがて背中を小さく震わせ、「長助だ……藍田長助」とつぶやいた。
 現在の仕事柄、本名を名乗るのに抵抗もあったが、芸名で呼ばれ続けると奇術師時代を思い出してしまい、それはそれで不愉快だった。少年の声があまりにも通り過ぎていて、だから藍田長助には逃げ場というものがなく、なら向き合ってやろうと振り返った。

 無邪気な笑みだった。屈託なく明るく、まるで子供のように混ざり気のなさを真実の人は向けていた。
「わかったよ。なら長助と呼ぼう」
「お前いくつだ?」
「十六だ」
「なら“さん”ぐらいつけろよ」
「やだよ。慣れてない」
 会話のテンポが軽妙である。頭のいい少年なのだろう。だがとてもではないが「真実の人」などと呼べるはずもなく、その点については長助も不気味さを感じていた。


「俺は仕事がうまくいったら、ここで呑むことにしようと思ってる。また会えるといいな」
 バーから外に出た長助と真実の人の頭上から、始発の発射ベルが鳴り響いてきた。まさか、これほど長い時間話し込んでしまうとは思ってもいなかった。藍田長助は煙草を取り出し、頬を引き攣らせた。
「つっても十六か……あんまり呑むなよ。身体によくないぜ」
 煙草に火をつけた長助がそういうと、白い髪の少年は彼の前に一歩近づき、にんまりと微笑んだ。
「長助。あんたはこの国で、俺を誘ってくれた最初の人間だ」
 どう理解していいかわかりかねる、抽象的な言葉だった。酔っているようには見えないが、やはり朝まで呑むという行為は十六歳に支離滅裂な言動をさせてしまうのか。いや、そもそもこいつの言ってることは全てがむちゃくちゃだ。藍田は横を向いて煙草の煙を吐いた。
「また会おう。そのときは真実の人と呼んでくれ」

 おいおい冗談じゃねぇぜ……ファクトごっこだけは勘弁してくれよな……

 その点だけはどうしても許容することはできない。遠い知人を辿れば長助とて昨年のテロ事件の被害者に当たらないとも言えない。やはりここは注意をしておくべきだ。そう思い彼が横にしていた顔を前に向けると、だが白い髪の少年は忽然と姿を消していた。
 突風が煙草の灰を吹き飛ばし、長助のもじゃもじゃ頭が激しく揺れていた。彼は咥えていた煙草を落とし、「消えた……」とつぶやいた。


 藍田長助がその不思議な少年と再び出会ったのは、一週間後の金曜日である。まさか二週続けて仕事がうまくいくとは思っていなかった彼であり、高架下のバーを意気揚々と訪れながらも白い髪に異相のことなどは、すっかり意識の外へと放り出していた。
 だからカウンターでブランデーグラスを傾ける少年の姿を目にした長助はひどく驚き、「よく来てるのか?」と尋ねるのが精一杯だった。
「いいや。あんたと呑んで以来だ」
「俺が来るってわかってたのか?」
「まさか。たまたま逃げようとイメージした先がここだったんだ。いや、今日も刺客に襲われてね。ほら、前に話した慧娜(ヒュイナ)って子。今日は妹も一緒に出てきやがって、マジで殺されかけた……」
 作り話をぺらぺらとよく喋る。まさかこいつにとっては事実であり、そこまで思い込んでいる気違いということなのだろうか。あの無邪気な笑みは確かに異常だ。ああまでも邪心が感じられない笑顔など、まともな十六歳にできるはずがない。浮かれた気分をすっかり落ち込ませた長助は、少年の隣に座ってバーテンに生ビールを注文した。
「バドワイザー? どうせならハイネッケンにしなよ」
「俺はバドが好きなの」
「イギリスならともかく、アメリカビールなんて冗談じゃないよ。本気か?」
「十六のガキが、人のビールに文句つけるんじゃねぇ。それにドイツのは、濃すぎて嫌なんだよ。喉に絡みつきそうで」
「本場のを一度呑んでみなって!! 絶対考えが変わるって!!」
 少年の言葉には本気の熱が込められていて、長助は置かれたビールグラスを手にしながら眉を顰めた。
「ドイツなんて行かねぇっての。つーか海外なんて興味ないんだよ。俺は、あの空港での手続きってやつが大嫌いなんだ」
「そっか……うーん……ルディなら長助を一瞬でドイツまで連れて行けるけど、俺には無理だしな」
 誰でも無理である。その空想上の人物である「ルディ」なる者を除けば。なるほど、こうして僅かな悪意を含んでいれば、この少年との会話もそれはそれで面白い。長助は険しさを消し、バドワイザーを勢いよく呑んだ。
「まぁいいさ。今日も仕事がうまくいったから俺は機嫌がいい。お前の与太話をいくらだって聞いてやってもいい」
「ひでぇな。与太話ときたか?」
「だってそうだろ。けどまぁ、面白いからいいさ。ゴビ砂漠での十日間に亘る攻防戦でも、旭川での一対二十の対決でも、なんでもいいから続きを話してくれ」
 少々投げやりな口調の長助は、少年がまっすぐにこちらを見つめているのに気づき、戸惑ってグラスを落としそうになってしまった。
「な、なんだよ……その目は……」
「話を聞いてくれるのはありがたい。誰も話す相手がいなくってね。下丸子の残党どもは気が立っている……我犬(ガ・ドッグ)はまだマシだけど、他の獣人共は人である部分を失おうとしている。だから、俺は長助みたいな人間の話し相手が欲しいんだ」
「ふん……その残党とかって中にも、人間がいるって言ってなかったか?」
「ああ。だけどどいつも異常者だし、まともな奴がいても子供だったりする」
 お前も異常者だろ。長助は口元に笑みを浮かべ、バドワイザーを呑み干した。
 残党の話は前回の最後に少しだけ聞いた。どうやらファクトの生き残りたちらしいが、そんなテロリストたちが、下丸子の地下アジトにいるという設定がなんともチープで笑える。おそらくこの少年は下丸子に住んでいるか学校でもあるに違いない。
 水割りを注文した長助は、なおも真っ直ぐに見つめ続ける少年から視線を逸らした。友人もおらず、新しく作る気もない自分にしても、そもそも話し相手がいないという点においてはこの少年と同じである。人生について、仕事について、将来について、そんな当たり前で重要なことを語り合う相手はいない。

 仕方ねぇよな……なら……

 聞くしかない。孤独を紛らわせるには商売女に自慢話を聞かせるのもいいが、気の違った少年の妄言に付き合うのも悪くはない。藍田長助は水割りを口にし、今夜は酔っ払ってしまいそうだと覚悟した。

 だからこその歌舞伎町である。日付が変わる頃、少年の手を引っ張って高架下のバーを飛び出した長助は、タクシーを拾ってこのネオンも眩しい繁華街まで繰り出していた。
 少年の物語はあまりにも飛躍し過ぎていて、それでいて聞き込んでみると設定の辻褄が妙なところで合致し、あまりにも「よくできた話」だった。もちろん、それを事実として受け止めるほど長助はお人よしではなかった。あくまでも空想であることが前提である。ならばこの夢見がちであり、そこに執着していると思われる彼に現実世界というものをもって知ってもらうべきだ。教えるべきだと判断した長助は、高架下の薄暗いバーではあまりにも篭もりすぎていると考え、コマ劇場前の広場で両手を広げ、高笑いを上げた。
「いいか少年!! ここにはいろんな連中がいる。皆、現実を生きている人間たちだ!! わかるか!?」
「もちろんさ。どいつもこいつもつまらない連中だけどな」
「そーゆー考えはよくねぇ!! 人を見下してる!! お前だって大した奴じゃねぇって!!」
 叫びながらも、長助には自分が酔っているという自覚はあまりなかった。とにかくこの美しい少年に、真実の人などと名乗る現実知らずの彼に、大人として正しい道を知ってもらいたい。ひどい稼業に手を染めている藍田長助の、それは屈折した贖罪行為だったのかも知れない。
「いいや。だって俺は真実の人だぜ!!」
 映画の看板を背に、少年は右の人差し指で長助を指した。
「だからそれを止めろよな!! 親はどうしてる? 家はどこだ? 誰か心配してくれる人はいないのか!?」
「親は隠居生活だ!! 家はハーナルにある!! 弟は心配してるだろーな!!」
 即答した少年は、ポケットに両手を突っ込み、ぐいっと胸を張った。道行く人々は彼の日本人離れした容姿と白髪に注目し、対する長助があまりにも凡庸な男だったため、その対比に噴き出す者までいた。
「てめーこの野郎!! 可愛げっつーものがねーな!!」
 僅かな期間ではあったが、芸の世界にいた長助である。注目されれば言葉にも芝居がかるのも当然だった。
「長助!!」
 少年は長助の側まで踏み込み、体勢を低くして頭を振った。
「だめだめだめ……目立ちすぎるのはよくないんだよ。だって俺は真実の人なんだぜ」
「まだ言うのかてめぇ……白けさせやがって」
「いやマジだって……早くどこかで呑もうぜ……」
 路上コントの終焉を悟った人々は、再びその目的に向かってばらばらに歩き始めた。自分もついつい調子に乗ってしまった。その点について反省した長助は少年の言葉に従い、ついてくるように彼を促した。

 人ごみの中を歩き、信号を渡って辿り着いた先は、路地の角にある一軒の居酒屋である。真っ赤な看板には「串焼き とりせい」と書かれ、換気扇からは大量の煙が吐き出され、ガラス戸は客の声でびりびりと震動していた。少年は店の前であからさまに顔を顰め、本当にここで呑むのかと首を傾げた。
「いわゆる焼き鳥屋だ。お前のビジュアルじゃ不似合いだが、こんな現実をもっとしらなくっちゃだめなんだ」
「なんだかよくわかんない理屈だけど……席は空いてるのか? なんかいっぱいって感じだけど」
「行き着けだったんだ。俺が言えば大将がなんとかしてくれるって」
 長助の説明に少年は一応納得し、背伸びしてガラス戸の向こうを窺ってみた。
「ちょっと待ってろよ……いま交渉してくっから」
 白い息を吐いた長助はガラス戸を勢いよく開け、「ちゃーっす!!」と大声を張り上げた。少年はポケットに両手を突っ込むと、すぐ側にあったポストに手を掛け、繁華街の喧騒から少し離れたこの路地をぼんやりと観察した。

 まさか奴が来ていたとは。いや、考えてみればそれもそうか。少年に社会見学をさせるため、どうにも浮かれて判断を誤ってしまったようだ。藍田長助は、「とりせい」の店の裏で、口から血を流して蹲っていた。
「おいおい、“夢の長助”よ……なーにへばってんだおら……?」
 禿頭の大男が、丸太のような太い腕で長助の胸倉を掴んで引っ張り上げた。目つきも鋭く、首筋には一条の切り傷があり、とてもではないが普通の市民ではない。そんな彼の怒気に当てられた長助は、すっかりぐったりして言葉も出なかった。
「どーなってんだ、おら? 借用書はどこいったんだ、おら!?」
 つま先がかろうじて地面に付くほどであり、何度も身体を前後に揺らされた長助は、さすがにこれではどうしようもないと諦めていた。まさか命までは取られないだろう。実際の被害者である彼や、彼の所属する組はこちらの利用価値をわかっているはずだ。おそらく何日もアパートから出られないほど痛めつけられるだけだ。ならばせめて時が過ぎ去るのを待とう。覚悟はできていないが、抗う度胸も技術もない長助は、「すまん。捨ててしまった」と一言だけ返した。
「捨てただと!? 冗談じゃねぇ!! あれがねぇと俺は組に戻れねぇんだ!! 冗談じゃねぇぞおら!!」
 語彙の少なさはこの禿頭の知性を象徴していたが、それだけに単純である言葉から聞き捨てならない情報を長助は得た。

 組に……戻れない……つーことは……こいつはいま……組員じゃねぇってことかよ……

 ならば恨みから殺される。低能チンピラは底なしのバカであり、だからこそ術にも簡単にかかったし、借用書をせしめるのも楽勝で、借り主からの謝礼でいい酒も呑めたしいい女も抱けた。だが殺される。ついうっかりこの店に入ってしまったのが運のつきだった。そう、あれは一年前のことだった。一千万の取り立てを任され、それをこのハゲが自慢していたのも「とりせい・新宿東店」だった。
 一流の詐欺師は、一度仕事で関わった店は二度と訪れないという。二流でもそうするだろう。だとすれば、自分は三流ということなのか。そうだろう。夢を見させたり暗示にかけたりする催眠術に関しては、協会や師匠が天才と賞賛するほどの腕前ではあったが、知能犯罪者としては誰の師事も受けず、我流で通した四年間だった。こうもいきり立っている相手に夢を見させることはできないから、つまりはここで終わりということか。
「儲け話がある……それでチャラってことにしねーか?」
 観念した心とは裏腹に、出任せを口にする自分のなんと浅ましいことか。長助はスラックスがすっかり濡れている事実に今更ながら気づき、これではあの晩の少年以下であると情けなくなった。
「うるせぇ!! ちょーしこいて、また騙すつもりだろ、おら!? ぶっ殺してやる!!」
 膝が腹部を突き刺した。水割りが喉元まで逆流する。殺されるのなら思いっきり吐いてやるか。それにしても背中を吹き付ける突風の激しさはなんだ。春一番にしちゃ、まだ早いだろうに。
「長助……なにされてんだ」
 凛とした声である。いつの間にやってきたのだろう。いや、前にもこいつはいつの間にか消えた。空間跳躍ってやつだったっけ。大したもんだ。長助は嘔吐しながらその場に崩れ落ち、口の中に広がる酸っぱさと腹部の痛みに顔を歪めた。
「なんだてっめぇ!? こいつの仲間か!?」
 禿頭は突如として現れた少年に声を荒らげた。この見かけにドスの利いた恫喝である。男はその迫力を自負していたが、対する少年はポケットに手を突っ込んだまま動じる様子もなく、むしろ薄笑いを浮かべて楽しんでいるようでもあった。
「俺は真実の人……藍田長助とは友達だ」
「真実の人だぁ……ざぁけやがって……夢の長助ともなると、友達もロクなもんじゃーねーな。ヤクでもキメてんのかおらぁ!?」
「ばかにされんのはなれてねーな……」
 顎を引き、凄む少年を長助は見上げた。街路灯に照らされる彼はどこまでも美しく、自信というものに満ち溢れていた。
「っ加減にしろっての!!」
 一向に意を弱めない少年に、禿頭は蹲る長助を足蹴にして突っ込んだ。

 しかしその次の瞬間、男は少年のすぐ右手にある塀から頭だけを出していた。

 何が起こったというのだ。禿頭は突如として視界が移った事実にまずは驚き、首を圧迫するなにかに怒りを覚えた。
「ど、どーゆーこった……少年……」
 口元を袖で拭きながら立ち上がった長助は、奇術的ともいえる光景に我が目を疑った。
 禿頭は頭だけを塀から出し、こちらを睨みつけている。おそらくは塀の向こうに首から先が存在しているのだろうが、これはブロック塀などではなく、一枚板のいわゆる壁である。どこにも首を突っ込むようなスペースはないし、仮に禿頭で頭突きをしたところでこうも漫画のような結果にはならないはずである。
「取り寄せ……跳躍応用の一種さ……この男と塀の一部を言葉通り“取り寄せ”た」
 そう告げた少年は視線を落とした。長助が促しに応じると、そこにはちょうど禿頭の首ぐらいの大きさにくり貫かれた、塀の一部が落ちていた。
 奇術を生業としていた彼だからこそよくわかる。これは人間の力ではない。トリックや仕掛けをして同様の結果を得ることはできるが、あまりにも速すぎる。

 ようやく、藍田長助はバーで語られた少年の妄言の数々を、事実として受け止めていいと思い始めた。

「こ、こらてめぇ!! なにしやがる!!」
 禿頭の元気は相変わらずではあったものの、その声は若干だが震えていた。無理もない。壁から首だけを出すなどという、あり得ない事態が身の上に降りかかっているのだ。長助は男をちらりと一瞥し、少年がどうするつもりなのか息を呑んだ。
「どうする長助……こいつ……」
「ど、どうするもなにも……」
「俺の取り寄せはなんでもアリだぜ……なんならこの禿頭だけを、そこの厨房に跳ばすのだってわけない……ひっでぇ大将だよな。店の裏でリンチがあっても見逃してんだからよ」
「お、おい……」
 長助は人差し指の第一関節を口にあて、もがき苦しむ禿頭を見た。確かにこいつをこのままにすれば、自分は安心して新宿を歩くことはできない。これほどの屈辱を受けたのだ、恨みはより強まったことだろう。どうせ社会のクズ、やくざ者のチンピラだ。むしろここでこいつを殺すのは、世間のためだと言ってしまってもいい。
「なぁ……やっちまおうぜ。こいつは役に立ちそうもない……生きててもしょうがないゴミにしか見えないぜ、長助……」
 少年の言葉に、禿頭は聞き取れないほど激しい罵声を返してきた。鼓膜が震える。うるさい。どうにも邪魔で仕方がない。なんだ、こいつは人間か? まるで猛獣みたいじゃないか。うんざりするばかりだ。長助は視線を落とし、頬を引き攣らせた。この少年は本物だ。言ってたことも嘘や妄想ではない。別の世界の本物なのだろう。どうする。言うとおりにしてみるか。ケチでつまらない人生に見切りをつける、いいきっかけかも知れない。

 友達ねぇ……こんなガキがねぇ……

 美しい少年に友達と呼ばれ、悪い気はしない。なら、友人として付き合うべきなんだろう。長助は少年の側まで近寄ると、自分がどうしたいのかを静かに告げた。

 禿頭は首筋を圧迫していた力が消えたため全身のバランスを崩し、その場で四つんばいになってしまった。彼は見た、赤い目をした白い髪の少年と、天然パーマのもじゃもじゃ頭がこちらを見下ろしているのを。ぶっ殺してやる!! 決めるや否や立ち上がろうとしたが、少年は男に手を引っ張られながらこう叫んだ。「バカだ!! お前バカだ!!」と。それは手を引くもじゃもじゃ頭に言っていたのだろう。なぜなら少年の顔は、どこまでも無邪気な笑みだったからだ。
 男はふらつく足取りで二人を追いかけながらも、その笑みが頭の隅からどうしても離れなかった。自分があんな笑いをしたのはいつが最後だったろう。そんなことを考えてしまうと、ついつい怒気も醒めていく。
 真実の人と長助は車道を横断し、走ってきた車に男は行く手を阻まれてしまった。

 追いついてどうなる。また、わけのわからない目に遭わされる。それに、なんだよあの笑いは。幸せそうじゃねぇか。

 禿頭の大男はばかばかしさを感じていた。彼は頭髪のない頭部をひと掻きし、呆けた気持ちのまま人混みへと紛れていった。


「俺は走んなくっても、いーんだけどさ!!」
 国道沿いの歩道を長助に手を引かれて走る少年は、満面の笑みのままそう叫んだ。
「も、もういいな……ここなら開けてるし……」
 長助は少年から手を離して立ち止まり、呼吸を整えながら電柱に寄りかかった。
「ほんとばかだよ、お前は。あんな火種を残してどうする?」
 少年の手元には、どこから取り寄せたのか缶コーヒーが握られていた。長助はようやく落ち着いてきた呼吸と鼓動を確かめ、まだ残る冬の冷気に肩をすぼめた。
「殺すなんて御免だね……俺の器量を上回ってる……」
「なるほど……なるほどね……」
「まぁ助かったよ……二度とあの店にはいかねーし、この街に来るときは気をつけるさ……」
「ふん……ところでさ……」
 少年は高層ビルを見上げ、赤い目を細めた。
「俺と来る気はないか?」
 短い言葉ではあったが、長助にとってその意味は大きく、重かった。こいつについて行くということは、その世界に参加するということである。チンピラの暴力などに一切怯えず、だが殺し屋の脅威に晒される非日常に足を踏み入れるということである。
「な、なんだよ……それは……」
 しかし返す言葉は、あくまでも戸惑いを装った、気づいていない者としてだった。
「いや……俺には多分……お前が必要なんだと思う……これからの俺は……あそこで殺さないって判断する長助があった方がいいと思う……だから……これはお願いだと思う……」
 少年は言葉を考えて選びながらのようであり、それが長助にとっては新鮮だった。ガードレールに座り、片膝を胸に抱いた少年は白い髪を撫で、目を細めた。
「どうだ、長助……来てくれるか?」
「行ったとして……なにをするんだ……」
「この国を……変える。それが新しいファクト……FOTの目的だ」
 重要な、一番大切な目的なのだと思う。それを即答する彼の意思と気持ちに嘘はない。だが長助はもじゃもじゃ頭を掻き、頭を横に振った。
「大それ過ぎだって、俺には……はは……この国を変えるなんて、とてもじゃねぇけど俺にゃ荷が勝ちすぎるって……」
 照れ笑いを浮かべた長助に、少年は手にしていた缶コーヒーを投げた。かろうじて受け取ったそれは熱く、手で持て余してしまいそうであり、まるで少年の心のようだと長助は感じた。
「また会えるよな。藍田長助!!」
「そりゃまぁ……また高円寺のあの店でな……」
「常に考えろ!! 今夜の誘いを!! いいな、長助!!」
 腰を浮かせ、胸を張った少年の瞳から長助は強い意を感じ、苦笑いを返した。
「はは……あんま気張りなさんなって……真実の人……」
 背中を向けて歩き出した男を、少年はいつまでも見つめていた。頬を撫でる風に暖かさが感じられる。そうか、いよいよ春かと彼は星のない夜空を見上げ、足をぶらぶらと前後させた。
 
 高架下のバーで二人が再び肩を並べて酒を呑むのは、それから二ヵ月後の一九九八年、五月のことであった。

6.
 その薄暗い研究室の中で、いくつもの命が羊水に揺れていた。
 朱色の塊である。水槽の中に浮かぶこれを見て命と思う者は少ない。だが彼、彼女らは確実に鼓動し、呼吸し、生存し続けることにだけ命を費やしていた。
「ナッフリー、泰介、ベルアゴア、それに奈美……」
 ゆっくりと開いた扉の向こうから現れた白衣の中年男性が、水槽に浮かぶ四つの塊を見つめ、歩み寄り、やがて膝を床について肩を震わせた。男の頬はこけ、目は落ち窪み、口元は歪みきり、他人がひと目見ただけでは正気であるかも定かではない。彼は水槽を擦り、頬を引き攣らせた。
「ごめんなぁ……もう限界だ……今日もパトカーが外をうろついていた……これ以上……もう無理なんだ……もっとひっそりしてないと見つかる……捕まれば……絞首刑だ……昨日な……刑が執行されたらしい……名前見てもわかんなかったけど……幹部だったそうだ……たぶん鹿妻の生き残りなんだろうな……ごめんなぁ……ナッフリー、泰介、ベルアゴア、奈美……もう……お前たちを生かしてはいられないんだ……」
 男の掠れ声に、四つの塊が僅かに震えた。
「ごめんなぁ……」
 水槽に寄りかかりながら立ち上がった男は、ランプやモニタの灯る壁面のコントロールパネルへ向かい、いくつかのスイッチを操作した。
 ずん。そんな重い、落ちるような音と共に、薄暗い研究室は真っ暗闇と化した。男は呻き声を漏らしながら、壁を伝って頼りない挙動で部屋から出て行った。

 四つの塊は暗闇の中で震動を強め、間近に迫った生存への断絶に怯えた。なんとかしなければ。だがこの塊のままでは羊水からでることすらままならない。まずは手だ。関節をもった自由に水槽の縁を掴むことができる、手がなければだめだ。四つの塊のうち、もっとも大きな一つから朱色の「指」が形作られ、それが蠢いた。


 下丸子の地下拠点に残党を集め、潜伏するようになってから十ヵ月が経過しようとしていた。十七歳になった真実の人はこの間、これまでの人生でもっとも濃密な時期を過ごしたと自覚していたが、その実感は来年の今頃には塗り替えられるのではないかと、そんな今後の不透明さも予見していた。
 執務室でPCを操作する彼の頬を、旋風が撫でた。
「慧娜(ヒュイナ)か……」
 真実の人はどこか呆れたような口調で、CRTディスプレイからは目を離さずに素っ気ない態度だった。カーキグリーンの人民服姿の少女は、口を尖らせて後ろに手を組むと、壁に背中をつけて胸を張った。
「まさか本当に来るとはね……」
「だって、いつでも遊びに来ていいって言ったのはあなたでしょ?」
「そりゃそーだけど、社交辞令ってやつだよ。真に受ける君は本当に素直なんだな」
「なによその言い方……」
「忙しいんだよ。遂に幽閉先が決まったんだ」
 ようやく真実の人は赤い瞳を慧娜に向け、自信に満ちた笑みを向けた。
「新しい拠点にしたの?」
 慧娜は真実の人の側まで寄ると、ディスプレイを覗き込んだ。
「いや……ダミー会社を設立して、取り壊し直前だった物件を購入した。マンション丸ごと一棟……格安でね」
 ディスプレイには、古びたマンションの写真が表示されていた。慧娜は首を傾げ、執務机に手をついた。
「目立たない? いいの?」
「周りには雑木林もあるからそれほど目立たない。第一多摩川近くだから、ここからの移送にすごく都合がいいんだ。あと、ダミー会社の実績作りにはちょうどいい」
「ダミー会社ねぇ……」
 呆れられている。どこかノリの悪さを感じた真実の人は、数週間前まで命の奪い合いを繰り広げていたその少女を見上げ、親指を突きたてた。
「こーゆー地味な手が必要なんだよ。実際ケーケーコーポを登記してから、いろいろと表の工作がやりやすくなってる。ただでさえ対策班が嗅ぎまわってるからね。真崎のときみたいにはいけないさ」
「その登記手続きとかって……例の手品師がやったの?」
「ああ。長助っていってな。彼の昔の知り合いが眠らせてた会社があったんだ。それを買い取らせてもらった」
 暗殺と諜報の世界に生きている少女にとって、少年の語る手段は迂遠であるとしか思えなかった。しかし彼は楽しそうであり、懸命であろうとしているように見える。だから争うのを止めてしまったし、人生最大の決断をしてしまったのだ。慧娜は細い目に優しい色を浮かべ、少年の肩に手を掛けた。
「で……そっちはどうなんだい?」
「まだまだ何年もかかると思う……紅西社は歴史が古いから……でも……全力で駆け上がってみせる……」
 優しく、それでいて頼もしい言葉だと少年は感じた。最初の出会いこそ最悪だったが、もしかすると自分はこの少女が好きなのかもしれない。まだよくはわからないが、彼女と過ごす時間は緩やかで心地いい。真実の人がふっと目を閉ざすと、執務室の扉が勢いよく開かれた。
「真実の人!! 獣人683号が面談を申し入れてきました!!」
 入室してきたそれは、猟犬の頭に逞しい人間の身体をした異形の化け物だった。首輪以外は上半身に着衣はなく、隆々とした筋肉は白く、黒い革のパンツもはち切れんばかりである。無粋な報告者に慧娜は眉を顰め、真実の人はディスプレイに視線を戻した。
「683号が? なんだ?」
「は……この度の奴隷契約……チーム編成について、希望があると述べております」
 犬そのものの顔から発音もはっきりとした日本語が聞こえてきたので、慧娜はますます気味が悪くなり、化け物から目を逸らした。
「いいだろう……すぐに行く……ご苦労、我犬(ガ・ドッグ)……」
 椅子から立ち上がった真実の人は両手をポケットに突っ込み、何度か頭をぐるりと回転させた。
「慧娜……これからちょっと忙しくなる……またあらためて会おうよ」
「了解……ちゃんと、ご飯食べるのよ。カップラーメンじゃなくって」
「ああ……」
 執務室から出口に向かう真実の人の背中を、旋風が舞った。相変わらず早い跳躍だ。少女の異なる力に感心した彼は、我犬と呼んだ怪物に続いて部屋を出た。


 我犬は糾合した残党たちの中ではもっとも命令に対して従順であり、自分が真実の人を名乗ってもすぐに受け入れる思考の柔軟性も兼ね備えていた。ひとまずは彼にこの拠点での運営実務面を任せてもよい。その判断に間違いなく、我犬は実に勤勉に、まさしく忠犬として地味な仕事をこなしてくれた。
 しかしどうやら状況の激変を受け入れるのに、彼の柔軟さは全て消費されてしまったようであり、ここ最近では愚直さと生真面目さばかりが突出する面もあり、収容した別の残党たちとの衝突もいくつか表面化しつつあった。
 いずれは別同部隊の長として、あくまでも組織の本道からは外して起用するべきだろう。少年は二本足の忠犬の使い道はあまり広くないと判断していた。

 一週間後、下丸子アジトにいる二百名以上の残党を、多摩川を越えたマンションへ移送する一大作戦が行われた。中心となったのは真実の人自らであり、実務面においては我犬がその勤勉さを発揮した。だが途中トラブルもいくつかあり、最終的には七名の被害者を出し、そのいずれもが我犬の腰から提げた日本刀の犠牲だった。
 ああするより他になかった。そう報告した我犬の目は血走り、忠犬というよりは狂犬であると真実の人は感じた。もちろん彼が的確な判断を下したのは言うまでもなく、七名はいずれもが部屋割りに反抗して移動を拒絶したり、移動中に脱走しようとしたり、マンションに到着後、興奮して別の部屋へ行こうとしたりと、いずれもが隠蔽作戦に綻びを生じさせる致命的な反乱行為に及んでいた。
 しかしそれでも血走っているのはよい傾向ではない。最大の懸案事項だった下丸子拠点の撤収が済み次第、一度この狂犬を研究施設に預けてみるべきだと少年は考えた。ラオスの獣人研究所は現在も健在であり、主任研究員は一度我犬を診てみたいと言っていた。移送作戦の翌日、高架下のとあるバーカウンターで、真実の人は隣に座る藍田長助にそのアイデアを語ってみた。
「いいんじゃねぇの……我犬は物騒だからな……ついでに強化手術でもしてもらったらどうだ?」
「そりゃいいな。主任は飛行獣人の研究をしていた。羽をつけてもらうってのも面白いかもな」
「悪趣味だな……」
 きっかけを提案しておきながら長助の態度は素っ気なく、彼はピーナッツを口に放り込み、正面を見たままだった。
「なんだよ、長助……まだ怒ってるのか?」
「ふん……」
「けどさ、長助の催眠暗示があったからこそ、移送作戦は成功したんだぜ。あんな荒くれどもが素直だったのは、お前が皆に術をかけてくれたからだ」
「だけど七人にはきかなかったんだろ……」
「ま、まぁね……」
 長助は水割りのグラスを握り、背中をいっそう丸めた。
「ファクトの残党……使い道がねぇんなら……どうして苦労してまで移送する……」
 声をできるだけ潜めた長助に、真実の人は肩を寄せた。
「いずれ使い道があるんだよ」
「どーせロクなことじゃねーだろ」
「なんでそう言いきる」
「なぜ俺にマンションの場所を教えない」
「お前が行っても面白くないところだからだよ。だって普通のマンションだぜ。それに重要な情報はあまり広げたくない」
 戯言と正論を同時に言われたため長助は返事に困り、水割りに口を付けるしかなかった。
「それよりさ……我犬を研究施設に預けるので思い出したんだけど……和歌山旅行に付き合ってくれないか?」
「わ、和歌山!? このクソ暑い八月に和歌山だって? ビーチか!?」
「残念……ちょっと離れた日置ってところで、砂浜からは遠い山間の研究施設だ。だけど川が近いから涼しいはずだぜ」
「研究施設……ラオスと上松尾以外にもあったのかよ」
「ああ。ただ誰もいないし、何も残ってない可能性もある」
「そうなったら美味いもんでも食ってくか……」
 できればそうなってもらいたい。誘いに応じてこの少年の協力者になったものの、藍田長助にとっては毎日が信じられない出来事の連続であり、“研究施設”という言葉も常識外の研究をしている施設としか思えなかった。ここ一ヵ月休みなく、隠蔽工作や事務処理、会社登記の手続きなどに追われて疲れも溜まっている。困った笑みを見せた天然パーマのもじゃもじゃ頭に、白い髪の少年は「研究施設を確保できたとしても、美味いものは食おうぜ」と気の利いた返事をした。


 河原には誰もおらず、強い日差しが少年と男だけを照り付けていた。二人はどこか日陰はないかと河原を走り、結局は目的地である山道へと入っていくしかなかった。
「蝉のみ!! あとは俺たちしかいねぇって感じだな!!」
 蝉時雨の中、長助は手ぬぐいで額の汗を拭いた。サングラスをかけていた真実の人は、木々を見上げ、手元の書類を確認した。
「もし研究施設が健在なら……二十人ぐらいはいるはずなんだけどな」
「なんの研究施設なんだ?」
「生体研究……改造実験施設だ」
 真実の人が告げた事実に長助はげんなりとし、手にしていたペットボトルの水を飲んだ。
「また化け物かぁ……どーにも慣れねぇ……未だに信じることができねぇ……あんなのがうじゃうじゃいるのかよ……」
「いや……情報が正しければ……案外化け物を見ずに済むかもしれないぞ」
「あ? どーゆーこった?」
「長助、あれだ……あの先の地下にあるはずだ……」
 緩やかな坂道の先を、少年は指差した。そこは細くなった獣道であり、長助はスニーカーのつま先で山道をこつこつと叩き、うんざりとため息を漏らした。


 これまでにも何度か、あの少年とはこうして拠点捜索をしたことがあった。一介の奇術師である自分には専門外の任務であると最初は思ったが、役割というのは意外な局面において回ってくるものである。長助は真っ暗な廊下をしのび足で歩き、ひんやりとした壁の感触を掌に抱いていた。
 この地下施設には誰もいない。静寂の限りであり、動力音もまったくしない死んだ拠点だ。長助の慎重さは次第に大胆さへと変化し、彼は廊下を歩きながら周囲を見渡し、暗闇に目が慣れてきたため何度か頷いた。

 あいつの言ったとおり……そんなに広い施設じゃねぇな……つーか……もう完全に撤収済みって感じだぜ……

 和歌山の名物料理はなんだったろう。そんなことを考えるゆとりすら生じていた。長助は扉が開いたままになっている突き当たりの部屋までやってくると、もじゃもじゃ頭を揺らして中の様子を窺った。
「おーい……誰か残ってねぇのか……?」
 そう言った直後、部屋の隅でなにかが光り、長助は耳鳴りと同時に高速で通り過ぎる小さな物体に仰天し、その場に突っ伏した。
 突風が狭い室内を吹き荒れ、突然の非常事態は急激に収拾した。慌てふためき尻餅をついている白衣の男に、拳銃を手にした真実の人。数週間前と同じパターンである。囮役はなんとも肝が冷えるが、いつもこの少年はこちらに危害が加わる前に現れ、一瞬で事を解決する。長助は立ち上がり、白衣の男に近づいた。
「ばか野郎!! 敵じゃねぇ!! 俺たちゃ仲間だ!!」
「な、ななな、う、ううう、なななな!! う、うぁぁぁぁ!!」
 言葉にならない動揺だけではない。白衣の痩せこけた男は、手にしていたはずの拳銃がない事実に納得がいかない様子であり、真実の人と長助に殺気も向けていた。
「頼んだぞ、長助……」
「あいよ……」
 ライターをポケットから取り出した長助は男の前にしゃがみ込み、小さな灯火をかざした。
「あい・らい・はい。そう。すう・ひむ。なーんてこたぁない……なーんてこたぁない……」
 リズミカルに呪文のような言葉を口にした長助は、手元を僅かばかり左右にぶらし、男はそれに合わせて灯火を目で追った。
 恐慌状態に陥っている人間は、それだけで既に暗示にかかっているようなものである。それに別の道筋をつけるのは難しいことではなく、これこそが拠点巡りで長助が担う最大の役割だった。
 おそらく、この中年一歩手前の奇術師が仲間になっていなければ、自分は抵抗する残党をもっと殺していたことだろう。真崎の元手下など何人始末しても心は痛まないが、使い道のある人材となると惜しさが伴う。それだけに「夢の長助」の参加は真実の人にとって有り難かった。
「そいつがいるとなると……研究素材もまだ廃棄されていないかもな……長助……俺はまだこの施設を調べる……」
「ああ……すぐに追いつく……もうすぐ夢ん中だ……そして覚めたら正気に戻る……こーゆー気の小さいのは特にな……」
 頼もしい仲間が増えたものである。少年は力強く頷き返すと、部屋から廊下へと駆け出した。

 バクラー竹田の提供してくれた資料が正しければ、ここが中央研究室である。小規模の施設であり、研究員の大半が逃げ出したとすれば、研究成果の全てが保管されている部屋であるはずだ。非電源の自動警戒システムがある可能性も考え、少年は閉ざされた扉の前で意識を集中し、それを越えて中へと跳躍した。

 後のことを考え、わずかながらの光を入れる為、室内に出現した少年はすぐに後ろ手で扉を開いた。
「ここか!?」
 ちょうどよいタイミングで長助が室内に合流してきたので、真実の人は頷き返し、ペンライトで真っ暗な研究室を照らした。
「う、うぇ……」
 油断大敵である。今回は簡単な仕事だと思っていた長助だったが、ペンライトに照らされた“それ”を目撃した瞬間、彼は吐き気をもよおした。

 男である。白人の、逞しい体躯の若い男である。それは目を見開き、裸で仰向けに倒れていたが、あるはずの腰から下はなにもなく、赤い液体が水溜まりを作っていた。
「し、死んでるのか……真実の人……」
「ああ……だけどあの赤いのは血じゃない……」
「そ、そうなのか……?」
 何者かに身体を切断されたことによる死体。一見してそう認識していた長助は、少年の意外な言葉に戸惑った。
「不定形生体……ファクトのテクノロジーの一つだ……賢人同盟でも確認されていない新技術……質量さえ許せばありとあらゆる物体に変化可能の……化け物の一種だ……あの下半身は……おそらく形成に失敗して……組織崩壊をしてしまったんだろうな……ほら……あっちにも……」
 ペンライトの灯りが動き、そこに朱色の塊が浮かび上がった。まるでゼリーのような、そんな液体と固体の狭間にいるような塊である。長助は口元を手で押さえ、あまりここには長くいたくないと一歩下がった。
「あれもだ……長助……」
 見たくはないが、名前を呼ばれて反射的に視線を動かしてしまった長助は、そこにおぞましい屍を認めた。彼は呻き、壁に設置されたコンソールパネルに背中を打った。
 女性の顔が、床に半分だけ埋まるように横たわっていた。美しい半顔だったが、目はこちらを見つめ、首から下は朱色のゼリー状になっていて、ところどころに手足や胸らしき形が中途半端に形作られている。それは人になろうとして止まった、怪物の末路だった。長助は上下の歯をがちがちと鳴らし、たまらず真実の人の背中に視線を移した。
「あのばか……これの電源を落としたな……」
 やはりこの少年は自分と住む世界が異なる。このような場所で、声色一つ変えずによく平然としていられるものである。すっかり怯えきった天然パーマの中年男は、コンソールの凸凹を掌で感じながら、膝の震えを堪えるので精一杯だった。
「この三体は……羊水槽に保管されていた実験体だ……だがなんらかの理由であの白衣の男が生命維持装置の電源を切りやがった……三……人は、生き延びるために、懸命に外気に対応できる形態に姿を変えようとしたんだな……」
「そ、それが……だからどうしたんだよ……み、皆死んでるんだろ……」
「あ、ああ……い、いや……」
 なにかに気づいたのか、少年は研究室中央付近ペンライトを向けた。

 巨大な水槽があった。中の液体は濁りきり、ところどころに朱色の破片が浮いていた。
 いた。確かに。まだいた。少年は肩をいからせ、息を呑んだ。
「ど、どうした真実の人……も、もう出ようぜ……」
「長助……」
 背中を向けたままの真実の人は、珍しく声を震わせていた。
「な、なんだ……水槽……? なんかいたのか!?」
「あの白衣をすぐに呼んできてくれ……」
「な、なんでだ……?」
「いいから早く!! 時間がないんだ!!」
 少年があまりにも声を荒らげたため、長助はペンライトの先の水槽を注意深く観察し、何度目かになる呻き声を漏らしてしまった。
「な、なんだ……こ、こりゃ……子供……!?」
 水槽の中に、幼い少女の顔が浮いていた。苦悶に満ちた、すべての辛さに苛まれているような、そんな痛々しい顔だった。先ほどの女性と同じく、この子供も形作ろうとした途中に果てたのだろうか。水槽のあちこちに朱色の塊を見つけた長助は、だがその少女の目が瞬きしたのを見逃さなかった。彼は声を上げ驚いた。
「そーゆーことだ長助!! こいつはまだ生きてる!! ここの機能を再起動させる!! 男を連れてくるんだ!!」
「わ、わかった!!」
 長助は部屋から駆け出し、残された真実の人は水槽から目を背けた。

 グロいっつーんだよな……真崎はなにもかもが醜い……

 不定形生体の情報は、賢人同盟で耳にしている真実の人である。それがもともと基盤となる人間を必要とし、生体組織を薬品と手術によって変換させる生体改造の結果であることもよく知っていた。つまり三人の遺体と羊水の中で死にかけている少女は、いずれもが志願したか誘拐された者の成れの果てである。

 唯一の生き残りであるこの少女は、たった一人で羊水の中からすべてを見たのだろう。
 独り……か……やだよな……独りは……

 少年は現実を受け入れるべく、歯を食いしばって水槽に視線を戻した。

「その中で……絶望したか……お前は……仲間が次々とそこから抜け出し……取り残されるかと不安だったか……それとも怒ったか……人の形に戻りきれないのをそこからみて……ざまぁみろと思ったか……お前は……!!」
 水槽に向かって叫んだ真実の人は見た。少女がなおも人の形を取り戻そうと、朱色の塊が震えて蠢くのを。相変わらず気持ちの悪い光景である。だが、これを受け入れられなければ自分にとってのこれからもない。真実の人は端正な顔を歪め、水槽に近づいていった。
「生きろ!! あと少しの辛抱だ!! それまでがんばれ!!」
 “がんばれ”などという言葉を口にしたのはいつ以来だろうか。少年の脳裏に小さな弟の笑顔がよぎった直後、彼は背後に足音を感じた。
「早く電源を入れろ!! まだ一人生きている!!」
 唐突な命令ではあったが、長助に連れられてきた白衣の男はすぐに壁面のコンソールへ駆け出し、パネルを操作した。
 重い音と共に研究室の電灯は点き、機械の作動音が静かに響いた。
「ご苦労……」
 振り返った白い髪の少年があまりにも美しかったので、男は呆然とし、「だ、誰です?」と間抜けな声で尋ねた。
「真実の人だ……」
 そう告げた少年は再び背中を向け、水槽へさらに近づいていった。羊水の中には泡が発生し、濁りは排水溝へと吸引され、少女が人の姿を形作る早さにも加速がかかっていた。
「がんばれ!! がんばれ!!」
 水槽の側までやってきた少年は、分厚いガラスを叩いてそう叫んだ。
「真実の人……奈美はまだ形成実験をしておりません……む、無茶です!!」
 背後からやってきた白衣の男を真実の人は払いどけ、よろけた彼を長助が受け止めた。
「人になれ!! 塊から人になるんだ!! がんばれ!! 一気に変われ!!」

 羊水の中で分散していた朱色の塊は、真実の人の励ましに応じるかのように結合をはじめ、それは幼い少女の肢体を形成していった。
「よくやった!!」
 少年は身を乗り出し、水槽の中に手を差し伸べた。少女は彼の手を握り返し水槽から這い出ると、彼の胸に飛び込んできた。
「あーはははははは!!」
 研究室に少年の高笑いが響き、彼は尻餅をついた。
「よくやった!! えらいぞ、お前!!」
 抱きかかえた裸の少女の両肩を持ち、真実の人は喜びを爆発させた。もう独りじゃない。これからは俺たちがいる。少年は懸命なる努力によってここまで辿り着いた彼女に、かけがえのなさを感じていた。
「あ、あ、あ……」
 茶色い髪の少女は少年から身体を少しだけ離し、灯りのついた研究室を見渡し、視線を止めた。その先にあるものは、三対の屍だった。

 真実の人はようやく理解した。我先に水槽を抜け出したわけじゃない、少女は取り残されたわけじゃない。
 三人はいずれも、白衣の男が操作した電源パネルを目指していた。そして彼らを見る少女の目からは涙が零れ落ちていた。

「そうか……お前は……護られてたんだな……あの三人に……」
 少年の言葉に、だが少女は返事をすることなく再び抱きついた。
「ありがとう……真実の人……」
「あ、ああ……」
「おかけで……涙……作れた……ありがとう……真実の人……」
 少女はそうつぶやくと再び上体を浮かせ、少年の顔を見上げ両手を伸ばしてきた。
「ありがとう……」
 小さな指先が、真実の人の頬をまさぐった。それは彼女がはじめて覚えた、自分とは異なる人のかたちだった。

 泣き顔は笑顔に変わった。それはごく自然な、無意識の変化だった。

7.
 フランペ隊長の最後の言葉は、「もう私には耐え切れん」だった。中丸邑子(なかまる おうこ)はその言葉を遺言とは思えず、だから食堂で銃声を耳にした瞬間、全身は震え上がり気がつけば感情に負け、廊下を走っている最中に泣き出してしまった。
 異性として憧れていたと言ってもいい。ゴモラ守備隊隊長として、フランペ隊長は優れた軍人としてだけではなく、男として凛々しく、こんな人の子なら産んでみたいとさえ思うことすらあった。
 口の中に突っ込まれた拳銃は、愛用のデトニクスではなく、普段はアタッシュケースに入れているチーフスペシャルだった。故障を懸念してのことだろう。実に彼らしい堅実な自決方法だ。遺体を片付けながら、涙の止まらぬ中丸はこれを形見にしようと迷彩服のポケットにそれをしまった。
 この一九九八年十一月で三十三歳である。女性の歩兵としては高齢に入るだろう。もし格闘戦にでもなれば、いくら恵まれた体躯ではあっても若い新兵に遅れをとってもおかしくはない。もちろん訓練を積んでいればそんな心配も少なかったが、昨年の秋以来、鹿妻新島本部からの連絡が途絶えてからは緊張状態が続いているためそれも怠りがちである。
 浅い眠りから目を覚ました彼女は洗面所で身支度をし、最後にブーツを履いて廊下へ出た。
 後ろにまとめた髪はこの一年の待機生活でのびてしまった結果であり、事態が好転すれば切ろうと決めていた。我ながら似合っていないと思うし、部下たちからの評判が芳しくないことも知っている。
「中丸隊長代理はみんなにとっちゃ“姐さん”なんですよ。こう、ビシっとしてて凛々しくって」
 三田という若い通信兵がいつかそんなことを言っていた。“姐さん”と呼んでくれるだけまだましだが、要はこちらに女性的な面を期待していないということである。もっとも、小学生のころから「大女」と笑われ、容姿には自信など持てず、どちらかと言えば農家のおばちゃんのような自分だから、凛々しくと表現されるのに悪い気はしない。
 食堂にやってきた中丸は、給仕当番からすでに湯の入ったカップうどんと固形食、栄養ドリンクの入った瓶をカウンターで受け取り、いつも決めている出口付近の長机に向かった。
 午前六時。規則を重んじるフランペ守備隊は、かつてこの時間に全員が集合し、朝食を摂る決まりになっていた。しかし組織が壊滅し、隊長が自決して自分が代理を務めるようになってからは隊規も段々と緩み、今日この時点において、食堂には半数以下の十五名しかいない。残りはまだベッドの中で眠りこけているはずだ。守備隊以外の研究職員や技術者になるとその怠惰さはより顕著であり、遅れている新兵器開発が再開する目処もまったく立っておらず、こうなると自分たちはいったいなにを守備しているのかよくわからなくなってしまう。
 鹿妻新島の本部で爆発事故があったと知ったのは、通信ではなくテレビのニュースによってだった。中丸はすぐに通信を入れたが応答はまったくなく、東京や大阪に展開していた現地破壊部隊からの連絡も一切なく、この鞍馬山地下の開発施設はまったく孤立してしまい、フランペ隊長は救援が来るまでここを死守するという、当然の決定を下した。
 それから一年。ここの時間は淀んだまま動かず、そのかわりテレビの中の世間だけは動き続けていた。真崎実の自決、展開部隊の掃討と検挙、次々下される死刑、無期懲役判決。自分たちの拠り所を次々と剥がされるようであり、隊員たちの不安が日に日に増しているのは、隊長である中丸が一番よく知っていた。
 だからいざこざも起きる。若い女性兵同士が入り口付近でつかみ合いになっていたため、中丸はカップうどんを机上に置き、椅子から立ち上がった。
「なにをしておる貴様ら!!」
 大きく手を振りながら、中丸はよく通る声でそう叫び、二人の間に割って入った。
 つまらない揉め事である。片方が不安を口にし、片方がそれに反論し、その応酬のなかで不安はより肥大化し、それを払拭するための暴力である。気持ちはわかるが、これを認めたら隊規はますます緩んでしまうし、護られる職員たちにまで波及してしまう。だから中丸はくどくどと説教をし、二人を諌めるしかなかった。
 この二人は納得などしていない。不安は事実であり、これから先いくらここを守備していても事態は好転するわけがない。中丸は「上部組織というものがある。ここのゴモラは秘中の秘である新兵器だ。この技術を守備し続けていれば、必ずや救援は来る!! その日まで持ちこたえるんだ!! 外に出ても無駄死にするだけだぞ!!」そう叫んでみたところで、一年も音沙汰がないのであれば妄言であると自分でも認めざるを得ない。
 二人ともうな垂れ、反省してくれたかのようなポーズをとってはいるが、これはこちらに気を遣ってくれてのことだろう。中丸は自分の席に戻り、ぴりぴりと緊張した空気を肌で感じた。それは遅れて食堂にやってきた隊員たちにも伝わるほどで、このままでは淀みが増すばかりだと、彼女は朝食の継続を諦め息を吸い込んだ。

 この国壊す、そうと誓った仲間たち
 決して怖けずひるまずに、目指すは真の再生だ
 我らが敗れ、倒れても、後に続く者がある
 いまその勇気、示そうぞ
 真実追究、真実達成、そして民の目が覚める
 あぁ真実、あぁ真実、我ら真実追究者

 右の拳を左右に振り中丸が大きな声で歌うと、二番になるころには食堂全体に歌声が響いた。誰が作詞作曲をしたのかわからない、陳腐な軍歌調の歌である。フランペ隊長が死んだ直後、中丸はうろたえ怯える隊員たちにこれを歌い、最後は合唱となって一時的にではあるが皆の不安を払拭したことがあった。それから何十回と歌い、いまでは独唱を始めることが、「落ち着け。お前たち」という励ましの代わりとなってる。施設にいる全員が不安だった。後からやってきた研究員も合唱に参加した。だがこんな薬がいつまでも効きつづけるはずもない。中丸がそれを一番よくわかっていた。

 長めの朝食の後、中丸は中級士官たちとブリーフィングを行い、毎週の恒例行事となっている開発室の視察に向かった。駐車場と練兵場、そしてあの獣人王が眠る部屋を除けば、この開発室は地下施設で最も広いエリアである。ドアロックをカードキーと網膜認証で解除した中丸は、ひんやりとして天井の高い区画に入った。
「まだ再開というわけにはいかんな……」
 毎週、この里原という名の主任研究員はそう切り出す。中丸は頭を掻き、腰に手を当てて顔を顰めた。
「資材が圧倒的に不足しているのだ。今開発を再開しても、三ヵ月程度しか続行はできんし、それで開発完了とはいかん。現在は組み立て工程を終えた直後だから、このまま保持しておくのが一番安全なのだよ、隊長」
 不精髭で覆われた顎を撫で、つなぎ服姿の里原は上ずった口調だった。もう何度となく聞いている事情である。だが、軍人である中丸にとってそれは怠惰で横着な言い訳にしか聞こえなかった。
「ならば基礎データの検証なり……な、なんだ……そのなんというか……とにかくいろいろと仕事はあるはずでしょう?」
「無理をいうな。最終作戦に間に合わせるために、相当な負担が我々にはかかっていたんだ。潜伏期間ということであれば、多少の休みはいただけんとな」
「だからといって、部下をたぶらかすような真似は謹んでいただきたい」
 毅然と言い放った中丸に、里原は銀縁眼鏡を直して区画の奥に鎮座する、二つの物体へ視線を移した。
「ほう? そんなことがあったのか?」
「閉鎖空間にこれだけの期間待機させられれば……そうなるのもわからない話ではありませんが、護る者と護られる者との情交は作戦、開発行動に支障を生みます」
「なーるほど。確かに一理はあるが、一方的にこちらばかり非難されてもな……」
「わ、わかります……部下にも逆がないよう、徹底させますので」
「頼んだぞ。中丸隊長代理……しかしその上部組織とやらは、一体いつになったら使者をよこすなり、連絡してくるなりしてくるんだ?」
「そ、それは……」
 聞かれてもわかるはずがない。自衛隊を除隊し、職を失っていたところをスカウトされ、しばらく鹿妻新島の本拠地で警備を担当してからあとは、ずっとこの地下施設での守備任務である。真実の徒のことならともかく、その上位組織についてなど一兵士である自分が知っているはずもなかった。中丸は「わかりません……」と正直に里原へ告げると、彼の視線の先にある、開発途中の新兵器に向かって歩き始めた。
 台座のように一段高い場所に置かれたそれは円筒型であり、直径は五メートル、高さは十三メートルほどの巨大な物体だった。二つはまったくの同型で、銀色に輝く表面は塗装が施されておらず、無数のコード類が検査機や天井に接続されていた。
 これが完成し、設計通りの性能を発揮すれば、事態は一気に好転する。問題は運用方法であるが、完成してデモンストレーションの一つでもすれば、協力を申し出てくる組織が必ず現れるはずだ。中丸は二つの巨大な筒を見上げ、だが里原の言葉を額面通り受け取れば、自分たちだけでの任務達成は不可能であると不安を募らせていた。

 ゴモラ……ソドムは一発残らず失ったと聞くが……これも……完成しないまま地下の底か……

 食料はあと半年ほど備蓄があり、電力の確保もじゅうぶんだったが、精神がいつまで持つのか、中丸は視線を落として薄い下唇を噛んだ。

 すると、胸ポケットに入れていた通信機が警報を鳴らした。これは侵入警報である。中丸は肩から提げていたサブマシンガンを握り、怯える里原に「ここが一番安全です!!」と告げ、廊下へ駆け出した。

「どうした!!」
 通信室へやってきた中丸は、監視モニターを食い入るように見る三田という通信兵に駆け寄った。
「ちょうど真上です!! 森の中に二人!!」
 鞍馬山の地下であるから、山菜狩りや地図調査員や、はたまた自殺志願者が地上をうろつくことはたまにあり、その都度侵入警報を鳴らすようなことはしない。いったい何者かと中丸も丸眼鏡をかけつつモニターを覗き込むと、そこには一人の少年と、幼い少女の姿があった。
 少年は黒い上下に赤いシャツを着込み、肩まで伸ばした白髪に美しい顔立ちである。年齢は十代後半だろうか、どうやら外国人のようである。少女の方は真っ赤な髪を左右に束ね、服はエプロンドレスであり、まだ十代には達していないほど幼い。
 なるほど、侵入警報を鳴らすに足る怪しい二人である。中丸は腰に手をあて首を傾げた。
「どうします隊長代理……」
「様子見だね……どう見たってハイキングにきた堅気じゃない……」
 通信室に入ってきた部下たちや研究職員たちも、一様に緊張した面持ちで侵入者の姿が映るモニターを凝視した。
 あの服装はそう、鹿妻の本拠地にいた真実の徒の指導者である、真実の人にどこか似ているような気もする。だとすればどうなのだ。情報があまりにも不足していた中丸は判断に困っていた。
 そんな中丸邑子の首筋に、突風が吹き付けた。サブマシンガンを構えたまま振り返った彼女の眼前に、モニターの中にいたはずの少年が佇んでいた。
「な、なに……!?」
「私は三代目真実の人!! 真崎の後を継いだ者だ!! フランペ隊の諸君。これまでご苦労だった!! 真実の徒はFOTとして私が再建中だ!! 君たちはこれに編入され、今まで通りゴモラ開発に励んで欲しい!!」
「散開!!」
 号令と共に、少年の背後で狼狽していた兵士たちが、研究職員の手を引いてその場から離れ、中丸は数十発の弾丸を発射した。
 硝煙を嗅ぐのはいつ以来か。中丸は椅子の陰に隠れ、マガジンを交換して様子を窺った。

 しかしそこに、いるべきはずの少年の姿はなかった。


 謎の侵入者。真実の人の後継者を名乗る少年の登場は、閉塞しきっていた地下施設の空気を一変させた。それは部隊を束ねる中丸にとってはあまり快いものではなく、だからこそ彼女はすぐに隊員たちをブリーフィングルームに招集し、自分の考えを説明する必要があった。
「迂闊に受け入れはできん。奴はなんらかの手段で地上とここを自由に出入りできるようだ。警戒はより厳重に行え!! 虫一匹入れんように、念入りに警備せよ!!」
 だが、そう命じたところで隊員の戸惑いは制御しきれない。一年ぶりの変化なのだ。それも味方を名乗る者が突如として現れたのだ。中丸はそれを理解していたが、だからといって流されてしまうような指揮官ではなかった。
 接触の方法というものがある。あのように唐突に、まったく当たり前に現れるのはどうにも納得できない。事前に連絡なりをして、手続きを踏まえたうえでなら信用してもいいが、あのように若いエージェントを簡単に信じてしまうほどお人よしではない。聞くところによると本拠地は三人の少女に壊滅させられたと聞くし、その仲間が騙しに来た可能性もある。なにせ突如として出現したのだ。例の“サイキ”であるとしたら尚更だ。
 自室に戻った中丸は、すぐに対策を練るべきだと考えつつ、ひどい疲労を感じてベッドに身体を投げ出した。

 いや……手続きなど……どう踏まえるというのだ……

 地下に立て篭もる我々は頑なであり、ああして単刀直入に丸腰でやってくるというのは手段として、実は正解ではないのかと彼女は考えを巡らせた。
 美しい少年だった。前の真実の人とは違う、妖しい魅力をもった少年だった。
 軍事というものを軽視した指導者だった。バルチで勇名を轟かせた傭兵部隊カオスを無駄遣いし、アフガンで最も恐れられていたムハマドとその部下たちに不安定な新兵器を押し付ける彼は、戦力というものをただの駒だとしか思っていなかったのだろう。軍人である中丸にとって真崎実の評価は決して高くなく、彼女の忠誠心は隊長であるフランペに向けられていた。しかしその両者がこの世にいない現在、自分は誰に従えばいい。隊長代理などしているが、そもそも指揮官としての経験は浅く、人数をまとめたり指導したりするよりは、仕える方がずっとラクである。中丸は額に手の甲を当て、自分は相当まいっていると苦笑した。


「まー当然の結果だな」
「ふーん」
 切り株に背中を付け、草むらに座り込んでいた真実の人は、ビニールシートの上に座ってサンドイッチを差し出す、赤い髪の少女に首を傾げた。
「どうしたんだ、これ?」
「麓のコンビニで買ってきたの。玉子サンド。好き?」
「ジャムサンドよりは好きだな」
 サンドイッチを少女から受け取った少年は、それを頬張ってペットボトルのソーダを飲んだ。
「さて……じゃあ次はお前の出番だ……ライフェ・カウンテット……できるな?」
「ほんとにやるの? あんな子供だましを」
 トマトサンドを齧ったライフェと呼ばれた少女は、視線を逸らして生い茂った森を見渡した。
「藁にも縋りたい彼らだ。理由ときっかけを与えれば後はコロリさ。いや……ばかにするつもりはない、実際彼らは一年もよくがんばってきたと思うよ。その点については尊敬してる」
「これ食べたら、行ってくるね……それでいいでしょ、真実の人」
「ああ……なぁライフェ……」
「なによ」
「一応さ……俺とお前は指導者と部下って立場だし……歳だってこっちが全然上だ……もうちょっと態度っつーか、言葉遣いとかなんとかならないのか?」
「ふん……そうね……」
 トマトサンドを小さい口に放り込んだライフェは、真実の人を見つめて人の悪い笑みを浮かべた。
「尊敬できるようになったら考えてもいいかもね。そりゃ、あんたには感謝してるけど、こっちは死にかけてたんですからね。少しは拗ねさせてもらうわよ。大体こんな田舎まで付き合っててあげてんのよ。それだけでも大サービスなんですからね!!」
 最後の方になると怒気をはらんだ声と表情になっていたため、真実の人は両の掌を前に出し、「わかった、わかった」と困り声を上げた。

「な、なんか……喧嘩してますね……この二人……」
 監視モニターの映像を見た三田は、背後にいる中丸に感想を述べた。
「なんだろうね……ったく……」
 楽しそうにも見える。まるで兄妹のような、そんな関係にも見えてしまう。遊びに来たかのような気楽さでサンドイッチを食べていて、これでは本当にハイキングである。こうなると会話の内容も知りたいが、三ヵ月前に故障した集音マイクはノイズしか拾わず、だから三田もインカムは首から提げたままだった。
 そう、この映像からくるギャップは真実の人と言えなくもない。中丸はもやもやとした気持ちを抱えたまま、通信室を後にした。

 三田は「彼の言ったことが全部本当だったらいいですよね」と言っていた。それは隊員の総意であるとみて間違いない。だが、やはりまだ不安は残る。部隊と研究員たちの生存は自分の判断にかかっているのだ。容易な信用で全滅などすれば、フランペ隊長に面目が立たない。だとすればどうする。彼が本当に三代目の真実の人で、こちらの味方であるという信用の条件を設けてみるべきか。だとすれば交渉の場を用意するしかないが、一兵士である自分にそのような立場が務まるのか。いや、やってみるしかない。廊下を歩きながら中丸は決意をした。
 だがそのような決断を無視して進むのが事態の流れというものである。中丸は侵入警報を胸から耳にし、すぐに踵を返して通信室へ戻った。
「隊長!! 施設内に侵入者です!!」
 入ってきた隊長代理に、インカムをつけたままの三田が報告した。
「場所は!?」
「開発室!! 里原主任のチームが現在実験中です!!」
 職員が珍しく仕事をしたと思えばこれか。中丸は下唇を噛み、ようやく映し出されたモニターの映像を食い入るように見た。
 見事なまでに赤い髪の、黒い作業着を着た背の低い男である。両手には巨大な斧を持ち、火器は携行していないようであり、どう見ても日本政府の者ではない。その先では里原たちが壁に追い詰められ怯えきっていた。中丸はサブマシンガンを握り締め、「三田!! ステファンの部隊を向かわせて!! 私も現場に向かう!!」と指示を出して自分も通信室から出て行った。

 分隊長であるステファン・ゴールドマンは、二人の部下を連れて開発室までやってきた。「ゴモラがある。火器の使用は厳禁だ」その指示に部下たちはナイフを取り出し、ステファンは長い足で扉を蹴破って中へ突入した。
 打撃が最初の一人を襲い、続いて足を払われた一人が転倒し、最後にステファンの眼前に、真っ赤な鞭のようにしなる何かが迫った。
 おかしい、扉の外で確認した際、敵は部屋の中央にいたはずである。これほど早く扉まで近づけるはずがない。痛烈な一撃を両目に受けたステファンは、ナイフを一度も使うことがないまま仰向けになって倒れた。
 赤毛の小男の尻からは、鞭状の尻尾が出入り口まで伸びていた。これは不定形生体というやつか。主任研究員である里原は斧を持った男の正体をそう推測し、あっという間に守備隊が三人も倒されてしまった以上、もうこの施設も終わりだと観念した。
「ステファン!!」
 到着した中丸は、入り口で倒れている白人の部下を見下ろし、身構えた。目の前で振り返ろうとしている小男がやったのか。怪我の様子からして刃物ではない。二人の部下も気を失っていて、中丸は見かけによらない敵の戦力に戦慄し、鞭状の尻尾にようやく気づいた。

 獣人……改造生体か……ならば……味方のはず……!!

 これまではそうだったが、これからは違うということか。隊長代理はナイフを構え、部下たちを乗り越えて開発室に入った。
 一発目の打撃は左手でブロックした。なんという衝撃だ。骨の軋みを感じながら中丸は横に飛び、物陰に隠れた。鞭があれほどの速さで伸びてくるということは、飛び道具を携行した相手と戦うのと違いはない。そうなるとナイフ一本が心細く、まずどうやって距離を詰めるか考えなければならなかった。

 三田に……煙幕弾を持ってこさせるか……しかし……いや……どうする……

 一年に及ぶブランクが、彼女の思考を鈍くさせていた。
「やらせん!!」
 まるで漫画かアニメの登場人物のような、そんな啖呵である。この声は例のあいつか。中丸が物陰から顔を出すと、小男の背後に白い髪の少年が出現していた。
「必殺!! 真実チョップ!!」
 少年の逆水平チョップが小男の首筋に命中し、呻き声を上げた彼は出口まで吹っ飛ばされ、廊下へと転げ落ちた。
「ははははははは!! これが真実の人の実力だ!! どーかな、研究員の諸君!! それにそちらはフランペ隊の方か!?」
 意識を取り戻して立ち上がったステファンを、真実の人は真っ直ぐに見つめた。なんというわざとらしさだろう。中丸はすっかり呆れ、通信機で三田に「侵入者は!?」と尋ねた。
 廊下に追い出された小男は施設のどこにもいないと三田は報告した。立ち上がってステファンに肩を貸す中丸に、少年は胸を張って「賊は逃げたみたいだな!! 裏切り者の暗殺プロフェッショナルめ!!」と、憎々しげに叫んだ。
「三代目……そう呼べばいいのか?」
 すっかり気持ちが醒め、冷淡な口調で中丸が尋ねると、少年は満面に笑みを浮かべて握手を求めてきた。
「ああ!! けどできれば真実の人(トゥルーマン)と呼んで欲しいな!!」
「了解真実の人……そちらがよろしければ交渉をしたいのですが……いかがですかな?」
「もちろんだ!! これまでのことや、これからのことを話し合わんといけないからな。ところで里原主任はいるようだが……フランペ隊長は?」
 屈託ない笑みでそう尋ねてきた真実の人の手を、中丸は払った。
「いまは……自分……中丸邑子が隊長代理だ……」
 静かに、重いつぶやきだった。少年は笑みを消し、視線を床に落とし、「そうか」と短く返した。

 会議室での交渉がスムーズに進んだのは、互いの要求が完全とはいかないまでも一致したからだった。「休暇については保証できん……それだけはわかってくれ」隊員や職員たちが地上に出ることを禁ずる一言が恨めしかったが、食料に物資の調達はもちろん、周辺の警備力強化や近隣への隠蔽工作を完璧なプランで説明されれば納得せざるを得ない。
 不安なく任務に集中できるとあって、里村主任は「ゴモラは必ずや完成させます!!」と鼻息を荒くした。
「頼んだぞ……ゴモラの使い道はいくらでもある……」
 その真実の人の言葉に、中丸は顎を引き、広い額を撫でた。
「真実の人……どのようなプランをお考えで……」
「うむ……いろいろだ……そのうち現実的になったら話そう」
 無理をしている。わざと前の真実の人と似たような言葉遣いを、この少年は心がけている。そう考えると親近感が妙に湧いてくる。なるほど、彼も不相応な立場を必死に演じているのか。中丸はようやく緊張を解き、肩に提げていたサブマシンガンを床に下ろしてポケットから丸眼鏡を取り出した。

 期待するなと言われたものの、なんとも味気ない固形栄養食である。中丸に食堂まで案内された真実の人は、味の薄いそれを齧り、コップの水を口にした。
「食糧事情の改善が急務だな……ビフテキとはいかないまでも、もっとマシなものを食べなければ閉鎖空間では心がもたんだろう」
「ありがとうございます真実の人……是非よろしくお願いします」
「ほんとゲロマズね……カロリーメイトの方がよっぽど食べられるわ」
 真実の人の隣でスティック状のそれを齧ったライフェは、両足をぶらぶらさせ頬を膨らませた。
 「地上に待たせている部下がいる。まだ幼いが、私のボディーガードをさせている者だ」そう説明した際、この隊長代理はライフェの見事なまでに赤い髪を見て一瞬口元を歪ませ、「かしこまりました。すぐに連絡ハッチをオープンします」と答えた。あの複雑な表情はどう理解すればよいのだ。真実の人は水を飲み干し、眼前に座る大柄な隊長代理を一瞥した。
「そろそろいいかな……」
 席を立った中丸は辺りを見渡し、何度か手を叩いた。
「集まったようだね!! いいかみんな!! もう知ってると思うけど正式に通達する! 鞍馬開発室とフランペ隊は、本日をもって真実の徒、後継機関であるFOTに編入されることとなった!! ここにおられるのが新しい指導者、三代目真実の人であられる!!」
 食堂にはこの地下施設の全員が揃っていた。皆は一様に紹介された美しい少年に注目し、誰からとなく拍手が起きた。
「っるさいなぁ……」
 ライフェは足をばたつかせたまま固形食を頬張り、周囲の熱狂に自分は影響されないよう平静を心がけた。
「我々の任務は継続される!! ゴモラの一日も早い完成を目指すため、これまで以上の努力が必要だ!! 道を険しいが、結束して乗り切ろう!!」
 最後に中丸は左拳を上げ、全員がそれに呼応した。大したカリスマである。真実の人は素直に感心し、席を立った。
「ここで研究開発されているゴモラは、FOTにとって大いなる力となる!! 諸君の働きに期待したい!!」
 食堂の奥まで届く大きく凛とした声で、少年は激励した。彼は辺りを見渡し、中丸に向かって右手を広げた。
「なお、この中丸邑子女史にはゴモラ守備隊隊長を正式に命ずるのと同時に、鞍馬開発室の総責任者として皆をまとめてもらいたい。よろしいかな、中丸女史」
「あ、え、はい……」
 唐突な申し出だったため彼女は戸惑ったが、周囲はこの人事をすぐに受け入れ、より一層大きな拍手が沸きあがり、その中には里原主任の姿もあった。


「感動の演説ってやつね……涙が出そうだったわ、ほんと」
 帰りの新幹線で、隣の席のライフェは素っ気なくそう言った。真実の人は口元を歪め、「お前なぁ……」と返した。
「まぁ、けどあの中丸ってのはいいわね。まだ自信がなさそうだったけど、きっと立場が器を拡げてくれるわね」
「ライフェは賢いな……いつそんな言い方を覚えた?」
「ついこないだ。だって暇だったから本ばかり読んでるのよ」
「なにを読んでるんだ?」
「最近じゃ『五体不満足』っやつ……長助さんが薦めてくれたの。ベストセラーだからって」
「へぇ……どうだった?」
「泣けたわ」
「よく言うよ……」
 呆れかえった真実の人は、最後に中丸“隊長”から渡された、細かい要望書の入ったA4サイズの封筒を傍らから取り出し、中身に目を通した。
 食料、衣料医薬品、研究開発資材など、詳細にまで及ぶ要求の最後に、手書きでの一文が添えられているのを少年は気づいた。

 今後のことを考え、格闘技術を磨いたほうがよろしいかと。
 それと、マッチポンプはもっと巧妙に行ったほうがよろしいかと。
 僭越ながら 中丸邑子

 真実の人は「ばれてたか!!」と声を上げ、上体を仰け反らせた。ますます彼女は信用できる。そう認めた彼は、真っ暗な窓を横目で見て、開発途上の新兵器の使い道に思いを馳せた。

8.
 昨晩までの豪雪は、森の様相を一変させていた。枝葉は白く染まり、草むらには足首以上の雪が積もり、ありとあらゆる屑が純白に覆い隠されていた。
 その中を、一人の少年が進んでいた。雪が朝陽を照り返す中、トレーニングウエアを着込んだ彼は両肘を大きく振って、じりじりと白い森を進んでいた。
 周囲と同じ色の髪は背中まで伸び、美しい顔には幾分かの精悍さが加わり、体躯も昨年よりずっと逞しく鍛え上げられている。その少年はしばらくして立ち止まると、周囲の雪を足で払い、着込んでいた黒いジャージを脱ぎ捨てて上体を寒気に晒した。
 長い足が弧を描き、巨木の枝まで到達したのと同時に積もっていた白いものが、どさりと落ちた。少年は軸足を固定したまま右肘を太い幹に突き立て、震動は大量の落下物を生じさせたが、地面にそれが達するころには彼の姿はなかった。
 突風と同時に巨木から少しだけ離れた地点に出現した彼は、間髪入れずに次の獲物を決め、その針葉樹に向かって駆け出した。
 人の忠告を受け入れたわけではない。日本に来てから二年が経ち、少年は自分がまだ死ぬわけにはいかないと自覚したからこそ、怠りを鍛え直す必要があると判断しての山篭もりだった。
 幼いころ、戦闘技術に関しては一流の教官たちからレクチャーを受けたことがあった。学習スピードは驚異的と言われ、一度見た技はすぐに見様見真似ができる器用さと、自分なりに応用を加えられる臨機応変さが高く評価された。
 だが、どうにも飽きるのが早く、一つの技術を極める前に、習熟を拒絶するのがこの少年の短所であり、今まではそれでなんとかなってきたのだから、特に問題があるとは自覚していなかった。
 二年間で何度も生死の境を駆け抜けた。敗北を両手では数え切れぬほど味わったし、屈辱はその倍以上だった。基礎的な護身を見につけ、自分の持つ「異なる力」をより効果的に使えるようになる必要がある。それに万が一敵に捕らえられた場合、いかなる拷問にも耐えうる強靭さを得なければならない。少年はこれまでサボってしまっていた時間を取り戻すため、この数ヵ月を特訓の期間に充てていた。
 上着を脱ぎ捨ててから二十分後、少年は三十五回目の跳躍を終え、白い息を吐きながら肩を上下させた。
 もっと早く。弾丸が迫ってきても避けられるほど早く。少年の望みは高く、呼吸が整い次第鍛錬を再開するつもりでいた。
 師走の寒気は厳しい。この東北地方ともなると尚更である。しかし肌で大気を感じていたい彼は、雪の上に落ちている上着を拾うつもりはなかった。

「精が出るな……」

 山篭もりをしてから一ヵ月、その間にこの鍛錬場所を訪れる者は誰もいなかった。少年は突然の声に正面を見据え、上着の側に一人の男の姿を認めた。

 巨漢であった。身長は自分よりずっと高く、二メートルはゆうに超えているだろう。四角く黒い帽子を被り、白い着物に金色の袈裟を被り、その上には首から提げられたクロスのペンダントが揺れていた。足元は雪で隠れていたが手首には数珠が巻かれ、実に出鱈目で俗っぽい格好だと少年は呆れた。
 しかしその評価は、彼の目を見て変わった。なんという強い眼光だろう。左目こそ閉ざされているが、両目を開けられれば気圧されてもおかしくはない。口元と顎を覆い隠した黒髭にも威厳が感じられ、二つに分かれた眉毛は激しさを象徴しているようでもあった。
 只者ではない。食わせ物である可能性も捨て切れなかったが、少なくともこの村の者ではなく、おそらくは「こちら側」の世界に属する者だろう。
「鍛えないとな……一人じゃ死ねない身なんでね……」
「ほーう……ふむぅ……」
 大きな口元に不敵な笑みを浮かべた男はゆっくりと首を傾げ、相変わらず左目は閉ざしたままだった。
「だからゆとりがない……腹の探りあいをしている状況じゃないんだ。単刀直入をやらせてもらう。お前はなんだ?」
 少年の問いに、男は傾けていた顔を真っ直ぐにし、分厚い両手を少しだけ前に出した。
「我名は……天啓・ゴッドストリーム……アルフリート真錠に十六の質問があって、はるばる訪ねてきた……」
 どこから誰に命じられてきたのか、その点については尋ねても答えるつもりはないのだろう。どうやらこれまでの刺客たちとは種類の違うエージェントのようである。少年は腰を低くして天啓と名乗った大男を睨みつけた。
「俺に十六の質問ね……暇つぶしでも兼ねてきたのか……ふざけやがって……」
「第一の質問!!」
 天啓は左手を高々と突き上げ、地響きのような大声で叫び、拳を少年に向かって振り下ろした。
「ゴッドクエスチョンNo.1!! お主はなに故真実の人を名乗る!?」
 この“ゴッドクエスチョン”は、なにかの攻撃手段なのか。少年真実の人(トゥルーマン)は警戒し、いつでも跳躍ができるようにと心構えたが、数十秒が経っても沈黙のみが続いたため、気持ちの悪さを彼は感じようとしていた。
「さぁ!!」
 右目だけをかっと見開き、天啓は答えを促した。真実の人はその瞬間理解した。なるほど、ペースを取りに来たか。させるかよ、クソ坊主め!!

「俺は真実の人だからだ!! 真実の人がその名を名乗るのは当然のこと!!」
「ゴッドクエスチョンNo.1補足!! 禁じられた名は、そもそも組織が所有するもの也!! お主の主張は不当にして傲慢!!」
「違うな!! 俺はもう既に組織の人間ではない。従って組織の法を順守する必要がなく、名を奪われたと抗議するなら、取り返す手立てを勝手に立てやがれってんだ!!」
 少年は凛とした意を天啓に向けた。「うむ」そう唸った天啓は顔を斜めに向け、拳を下ろした。
「また訪れる」
 そう言い残し、袈裟を着た大男は雪の森を歩き始めた。どうにも厄介な敵があらわれたものだ。真実の人は両手を腰にあて、ひとまずは追い払うことができたので鍛錬を再開するべく頷いた。


「あ、あれだな……いよいよもう二十一世紀っちゅーやっちゃな」
 囲炉裏を挟んで対座する皺だらけの老人が鍋をかき混ぜながらそう言ったので、トレーニングウエア姿の真実の人は思わず仰け反ってしまった。
「ち、ちがうよ、巳代治(みよはる)爺さん……来年はまだ二〇〇〇年だって!!」
「けどよ。八月になっても世界は滅びんかったよ……桁が一から二に変わるんだから、新しい世紀に違いあるめ?」
 お椀に鍋の中身を移しながら、巳代治は掠れ声で嬉しそうだった。だから真実の人はそれ以上反論することなく、お椀を受け取った。

 師走ともなると、雪に閉ざされた農家の仕事は降雪対策がほとんどになる。それを手伝うのと引き換えに食事をいくらでも食べていいという条件で、この巳代治爺さんの家を少年が訪れたのはちょうどひと月前のことだった。そもそも、昨年一時的に世話になった高円寺のとある寺の住職からの紹介であり、その点においては信用もあったため、この飄々とした老人はなんの疑いもなく、真錠と名乗る彼を寝泊まりさせ、食事を与えていた。
 少年の仕事は巻き割に雪かき、遠く離れた街までの買い出しである。
「真錠ちゃん。街まで車で一時間はかかるぞ」
 買い出し初日、巳代治はそう言って真実の人を脅かしたが、その数十分後には頼んでおいた魚と牛乳を買って帰ってきた上、少年に貸した軽トラックを動かした形跡もなかったため、いったいどのような移動手段を用いたのか不思議で仕方がなかった。
 しかし結果として頼んだものが手に入ったので巳代治は満足であり、少年は巻き割に雪かきも勤勉に行っていたため、疑問は次第にどうでもよくなっていた。

「鍛錬ってのはうまくいってるのか?」
「ああ。ばっちり……とはいかないけど、一応なんとかなってるよ」
「そーか。そりゃよかった」
 けんちん汁を啜った巳代治は、この少年との会話が楽しくて仕方がなかった。長年連れ添ってきた妻と息子夫婦に先立たれたのは二年前の夏であり、親類から畑を譲り受けこの村へ移り住んだが、話し相手が誰もいない孤独はどうにも気持ちを滅入らせてしまい、白い長髪に赤い目というなんとも風変わりな相手ではあったが、いまの巳代治にとって少年は唯一の家族だった。それだけに、来年の三月には出て行ってしまうというのがなんとも切ない。
「すまぬ!!」
土間の方から大きな声が飛んできた。真実の人は口に含んだ汁を噴きそうになりむせ返った。こんな夜中にここを訪ねてくるとは珍しい。巳代治は疑問を抱きながら囲炉裏端から立ち上がって玄関へ向かい、少年もそれに続いた。
「火を借りたい!! よろしいかな!?」
 右手にぐったりとしたウサギを握り締めた巨漢は、戸を開けた老人と少年を右目だけで見下ろした。
「囲炉裏はいま使ってるからよ。そこでいいんならプロパンだけどよ」
 巳代治は台所を指差し、黒い帽子を被った巨漢は頭をにゅっと突き出して何度も頷いた。

「爺さん受け入れすぎ……泥棒かもしれないんだぜ」
 囲炉裏端に戻った少年と老人は、けんちん汁で身体を温め直していた。少年の注意に老人は顔をくしゃくしゃにして微笑み、「けどよ。お坊さんには親切にしねぇとバチ当たるからよ」と返した。
 どうにも食えない男である。天啓・ゴッドストリームは、台所を借りてウサギの調理を終えると、鍋を手にしたまま外へ出て行ってしまった。真実の人はなんとも理解し難い刺客の来訪に戸惑っていたが、警戒心だけは緩めないように心がけていた。
「御免!!」
 戸が開く音に続き、豊かな声が響いた。
「鍋まで借りてしまいすまなかった。おかげで満腹だ」
 鍋を流しに置いた天啓は巳代治に向かって手を合わせ、大きく息を吸い込んだ。
「第二の質問!!」
 左拳を突き上げた天啓は、巳代治の後ろで腕を組んでいた真実の人に向かって、それを振り下ろした。
「あ、あわわわ……!!」
 巳代治は天啓のあまりの気迫に腰を抜かし、土間に座り込んでしまった。
「ゴッドクエスチョンNo.2!! 空腹のための殺生は許されるのか!!」
「許されるに決まってるだろ……あんただって今ウサギを食い殺したばっかりじゃねーか……」
 苛つきが、少年の口調を荒くしていた。天啓は左目を閉ざしたまま、不敵な笑みを口元に浮かべた。
「ゴッドクエスチョンNo.2補足!! 人が相手でも許されるか!?」
「許されるね。生き残るためには誰だってな」
 できうる限り即答をしなければ。この陳腐な問答もどきは、おそらく仕掛ける前の下準備のようなものだろう。躊躇していたら攻撃が開始されることは間違いない。真実の人は怯えている巳代治を越え、巨漢に近寄った。
「ゴッドクエスチョンNo.2補足その二!! それがそこの老人であっても!! お主は食えるのか!!」
「そーゆー過程論を持ちだすんなら、俺はてめーを間違いなく食い殺すね!!」
「うむ!!」
 天啓は拳を下ろし、ゆっくりと顔を斜めに傾けながら背中を向けた。
「また訪れる」
「もう来んな!!」
 戸をぴしゃりと閉ざし、袈裟姿の男が出て行ったため、少年は老人に肩を貸した。
「な、なんなんだよ、あのお坊さん……おめぇの知り合いか?」
「いや……朝に会ったばかりだけど……まぁ……知り合いみたいなもの……かな」
 質問は十六あると言っていた。こんな茶番があと十四回も続くのか、それともそのうち戦いになるのか、いっそこちらから仕掛けてみてもよいかと考えた真実の人だったが、向こうから訪ねてくるのであれば、放っておいても返り討ちにする機会はいくらでもある。そう思い、彼は巳代治と共に囲炉裏端へと戻った。


 単純な上下運動ではあったが、捻りを加えれば腕だけではなく背面の筋肉を鍛えられる。かつてそのような鍛錬方法を教官の誰かから教わった覚えがある。真実の人は、右の片手で斧を振り下ろしながら、少しだけ肩を捻ってみた。
 確かな手ごたえと共に、薪が真っ二つに割れた。これで十八本目。今日のノルマまではまだ三倍以上がある。
 農家の庭で巻き割りを続ける少年の肩を、冷たさが撫でた。
 四日ぶりの雪か。真実の人は空を見上げ、降ってきたそれに少しだけ心を許した。
 巳代治は雑煮の買い出しに出ると言って軽トラックで街まで行ってしまった。あの高齢でこの降雪だから、おそらく戻ってくるのは昼過ぎだろう。少年は額の汗を拭い、薪の山を見せてあの老人をまた驚かせてやろうとニヤつき、右手を振り上げた。
「第三の質問!!」
 突然の声に驚き、振り下ろした斧は薪を外して切り株に突き刺さった。真実の人は振り返り、形のいい眉を顰めた。
「四日ぶりかよ……こっちは仕事中なんだぜ!!」
「ゴッドクエスチョンNo.3!! 三人の男があった。崖を渡す橋は二人分しか渡れぬほど脆い!! いかがする!?」
「もちろん二人だけが渡る!! まず三人でA−B、A−C、B−Cの三通りのペアを組ませ、それぞれのペアが二人三脚をやってタイムを出す。これは他のでも構わないが、とにかくペアで数字の出る種目をやらせる。同じ数字が出た場合はやり直す。そしていいタイムの二人が橋を渡り、残った一人はそのままだ!!」
「うむ!! また訪れる!!」
 天啓は振り返り、その場を立ち去ろうとした。しかしそんな彼の背中を少年の「待て!!」という叫びが震わせた。彼は左目を閉ざしたままゆっくりと踵を返し、「なにかな?」
と返した。
「いい加減にしてもらおうか……賢人同盟からのエージェントなら……ここで勝負をつけないか……くだらん問答ごっこに付き合うつもりはない!!」
「ふん……心を乱したか……未熟者が……まだまだ修行が足らんようだな……」
 眉一つ動かさず、天啓は冷然と少年に言い放った。
「なんだと……てめぇ……!!」
「我は主の父上より頼まれて来た!! 同盟の刺客とは違う!!」
「父上……親父が……お前を……!?」
 初代真実の人、現在は賢人同盟の最高顧問を務める父、真錠春途の豪胆な笑みが、少年の心をざわつかせた。彼は腕に力を込め、斧を引き抜いた。
「質問はまだ十三ある……また訪れる!!」
 袈裟をはためかせ、天啓・ゴッドストリームは力強い歩みで雪の積もる庭を立ち去っていった。少年はその背中を凝視し続けることしかできず、斧を握る手にはびっしょりと汗を掻いていた。


 それからも、風呂に入っている際、街に買い出しに行った際、就寝前、鍛錬中、仲間と連絡を取り合った直後、あらゆる局面において天啓は真実の人の前に姿を現し、珍問奇問を彼にぶつけていった。ペースを奪われるのを嫌った少年はすべてに対して即答で答えたため、これまでのところやりとりは数分で終わり、「また訪れる!!」と言い残し去っていくのが常だった。
 少年がはじめて天啓と出会ってから、二十日が経っていた。一九九九年も今日が最後である。質問の数は十五に達し、当初の宣言通りであれば、残るはあと一つ。その朝目を覚ました真実の人は、眠い目をこすりながら巳代治の用意してくれた朝食を囲炉裏端で食べ、いつものように鍛錬のため家を出た。
 よく晴れていて、南に見える山も見事な雪景色である。娯楽とは縁遠い現在の鍛錬生活において、この景色は楽しめる数少ないものの一つである。少年は鈍い音を立てながら雪の積もった農道を行き、森の中を目指した。


 飛んできた雪球を避ける程度のことなら平然とやってのけるほど、感覚が研がれてきた。かつて学んだことを少しずつだが思い出せるようになってきたと思う。
 森の中で真実の人は、小さな子供たちが投げてくる雪球を上体の挙動だけで避け、「もっと本気で投げてきやがれ!!」と煽った。
 最初にこの鍛錬場所でこの子たちの姿を見つけたとき、少年は危ないから出て行けと追い払った。だが子供たちは何度もここに現れ、仕方なく話を聞いてみると、どうやらここは昔から彼らの遊び場であり、侵入者は自分の方であることが判明した。しかしちょうどいい広く平らな足場は鍛錬にはもってこいの立地であり、ならばそこからは交渉であると彼は子供たちと協議し、共同で使用することで解決した。
 もちろん異なる力はこの子たちの前では使えない。だがしばらくは基礎体力と格闘術を鍛えようと予定していた彼にとっては好都合であり、興が乗るとこのように雪球を投げさせ、それを避けるプログラムも鍛錬メニューに加えていた。
「こらぁ真錠!! 覚悟せい!!」
 幼女が、掌からこぼれそうなほどの雪球を全身の力で投げ放った。中々いい球筋だ。ステップも軽やかに少年が上体を逸らせて避けると、それは巨大な壁にぶつかって粉々となった。
 壁の正体は黒い帽子を被った巨漢の袈裟男である。はじめてみる異相に子供たちは怯え、いつのまにか少年の背後に集合していた。
「てめぇ……」
「童と戯れるか……それもまたよかろう……」
「ふん……」
 顔についた雪を払った天啓は、真実の人と子供たちを右目で見下ろし、左の拳を天に上げた。
「最後の質問!! ゴッド ラスト クエスチョン!! お主はこの国をどうする!?」
 あまりの声量に、子供たちは耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込む子もいた。真実の人は身構えたまま、突き出された拳越しに天啓の右目を睨み返した。
 最後の質問も即答でいきたかったが、背後で怯える子供たちの存在が彼にはじめてのためらいを生じさせていた。そしてさらに質問の内容も悪かった。
「ゴッド ラスト クエスチョン!! お主はこの国をどうする!?」
 二度目の叫びに、真実の人は苛立ちを覚えた。冗談もたいがいにしろ。ガキ共がいるのになにを考えてやがる。その一方的な態度に、こちらはもう十五回も付き合ってやってるんだ、そのふざけた片目もむかつく。いや、そうか。それが狙いか。
 少年は足元にしがみついてた幼女の手を握った。
「大丈夫……恐くないって」
 優しくそうつぶやいた真実の人は、右目を閉ざして再び天啓を見た。口元には笑みを浮かべ首を小さく傾け、腰に当てた指を細かく動かした彼は、「バーカ。答えねぇよ。そんな重要なこと」と答えた。

 巨体が白い大地を舞った。迫ってきた膝を少年は左の腕でブロックし、幼女を抱きかかえて横に跳んだ。
 着地点に、丸太のような足が迫ってきた。巨体に似合わずなんというスピードだ。少年は瞬時に防ぎきれないと判断し、女の子をその場に残し、逆に間合いを詰めて男の頭に手を伸ばした。中断蹴りの途中だったが、天啓はぴたりと足を止め、重心をずっと後ろに落とし左手を雪の積もった地面へ付けた。
 まだ足技にこだわるのか。手が届かないと諦めた真実の人は、前のめりになった体勢のまま前転し、天啓の脇をすり抜けると振り向き様に片膝を立てた。やはりそうか。自分が間合いを詰めた地点の雪は円形に払われ、天啓のブーツの先がコンパスのように伸びきっていた。
 膝のバネはじゅうぶん。この格闘、いただく。勝機を見出した真実の人は、身体の伸びきった低く仰向けの体勢の天啓めがけて再び接近した。右手は拳を握り、左手は鷲のように開き、巨体のちょうど後頭部の付近に着地したのと同時に、少年は腰を落とし、左手で帽子を被った敵の頭を掴んだ。雪片が周囲に飛び散り、白い飛沫が小さな吹雪を作っていた。
 力の逃げ場をすべてなくし、こめかみへ右の短距離正拳を一撃。真実の人の挙動は正確だったが、天啓の早抜きも素早かった。
 袈裟の内側から黒光りするそれが姿を見せ、巨漢の両目がついに見開かれた直後、銃声が白い森に轟いた。

 バランスを崩した天啓は後頭部を地面に打ち、遥か後ろに抜いたはずの拳銃が落ちている事実に息を呑んだ。なるほど、あれが奴の能力か。納得した彼は素早い挙動で立ち上がり、少年の姿を探した。
「なーるほど……拳銃が奥の手とはね……」
「ふん……我よりあれを引き出すとは……大したものと褒めようぞ……」
 そう威厳をこめて言いながらも、天啓は横目で落ちている拳銃を捉えたままだった。少年と自分と拳銃の位置関係は三角形であり、どちらかと言えば自分の方が若干だが近い。
いや、愚かだ。唯一の機会は失敗に終わったのだ。「異なる力」を使う彼が本気になれば、こうした真っ向勝負で自分に勝機はない。彼は両目を閉ざし大きくため息を漏らすと、髭についた雪を小さく払った。
「おいお前たち!! そろそろ家に帰らねぇと、父ちゃんや母ちゃんが心配するぞ!!」
 ようやく両目を開けた少年は拳銃からより離れるように、大木の陰で怯える少年たちへ歩いていった。

 春途より命じられた十六の質問は、最後の一つを除いてどれも正解に近い答えだった。格闘技術に関しても申し分ない。この二年間で鈍っているはずだとあのお方は言っていたが、自分と互角以上に渡り合えるのだから、今後もその身は護れるだろう。天啓は帽子を取り、それを胸に当てて刈り込んだ頭を下げた。

 よくもここまでの格闘ができたと、真実の人は今になってみるとそれが信じられなかった。子供たちも怪我がなく、あるいはそんな気持ちが緊張感を生み出していたのかもしれない。天啓に振り返った彼は、腰に手を当てて顎を引いた。

 雪が再び降り始め、二人だけが残った森に強い風が吹き抜けた。

「さてどうするゴッドストリーム。まだやりあうのなら構わないが……誰も見ていないとなると……俺はなんでもありだぜ……」
「いや……我の敗北は自明……」
「そうか……ならこの場で殺してもいいってことか?」
「それが運命なら、この天啓・ゴッドストリームは受け入れる……」
 両目を閉ざしたまま、天啓は口を真一文字に結んだ。その潔さに少年は怒りを覚え、落ちていた拳銃を手元に取り寄せ、銃口を男に向けた。
「ばかな謎かけなんて、気に入らないんだよな!! 親父はいつもそうだ。人を掌に載せて試していやがる!! 賢人同盟の最高顧問なら、もっとシンプルに大群を派遣して俺を抹殺しにくるぐらいの単純さをみせりゃいーんだ!!」
「むう……」
 少年の怒りを正面から受けた天啓は両膝を地面につけた。すると彼の眼前に、愛用の拳銃が投げ込まれた。
「と、俺が怒ってたと伝えてくれ……」
「わかった……お主の怒り……確かに伝えようぞ……」
 天啓は拳銃を拾い上げ、真実の人に広い背中を向けた。あまりにも負けを受け入れすぎている。拳銃の名手で一風変わった性格。その程度のエージェントが異なる力を持った自分に対抗できるなど、策士である父が考えるはずもない。だとすれば捨て駒か。この巨漢に自分がどう対するかで計ろうとしたということか。真実の人はすっかりつまらなくなり、離れていく天啓に強い意を向けた。
「なぁ!! あんたは死ぬ気でここにきたのか!?」
 その問いかけに巨体の歩みが止まり、小さな横顔に苦々しい笑みが浮かんだ。
「我……俺は既に死んだ身……その命は春途様に拾われ……もうすでに己がものではない……!!」
「ふん……また親父の気まぐれってやつか……なぁ天啓!! せいぜい長生きしろよ!! あの真錠春途って野郎は、人材を実に粗末に扱う!! 恩なんて感じた方が損なんだからな!!」
 寒風がいっそう強く二人を吹きつけた。天啓は首を何度か横に振り、最後に叫んだ。
「俺は、神流(じんりゅう)……短い間だったが、中々楽しませてもらったぞ!!」
「はは!! “また訪れる”のかい!?」
「いや!! 二度と顔は見せん!!」
 一歩一歩力強く、吹雪の中を巨漢が進んでいった。小さくなっていくその姿を見つめていた真実の人は白い息を吐き出し、巳代治爺さんが“トシコシソバ”というものを食べさせてくれると言っていたのを思い出した。どんなご馳走なのだろうか。年に一度しか出さないというから、よほど豪勢か貴重な素材を使った逸品なのだろう。少年は両肩を寒そうに擦り、その場から跳躍をした。


 翌年早々、ドイツに帰国した神流は真錠春途と空港近くのビアホールで再会した。彼の両目がいつもと違って開いている事実に着物姿の春途は唖然とし、やがてすべてを理解しジョッキを掲げた。
「生きて戻って……両目を開かされたかよ天啓の!!」
「面目ございませぬ……春途様」
「こいつは喜んでいいのか困っていいのか、それ自体が謎かけだな!!」
「はは、はは……」
 笑うしかなかった。生きて戻ってという言葉が重くのしかかる。そう、どうやっても自分が十六の質問をした上でアルフリートを殺してくるなど、この最高顧問は信じていなかったということか。「恩なんて感じた方が損」なるほど、確かにあの息子が言うことに一理はある。
 だが目の前でビールを美味しそうに呑むこの男を見ていると、どうしても彼のために何かをしたくなっている自分がいる。天啓は実に三十年ぶりとなる酒をウエイトレスに注文した。
「やっと呑む気になったか!? はじめてだな!!」
「今日だけです……この一杯だけです……」
「そうか。とにかく任務ご苦労だった。次はアフリカに行ってもらうぞ。ある男と接触して欲しい。傭兵の指揮をしている男でな。実に面白い人間と見た」
 運ばれてきた大ジョッキを天啓は軽々と持ち、胃袋にアルコールを流し込んだ。あの少年なら、もしかすると手に入れることができるのかもしれない。まだ十八である。このまま成長を果たしていけば、父である春途も完全には得られていないそれをあるいは。
 だが、それをこの男は許すのだろうか。“何者にも束縛されない自由”など、息子が得ることを彼は認めるのだろうか。いずれ尋ねてみよう。まずは目の前に呈示された新しい任務を果たすだけだ。天啓は泡で白くなった髭をナプキンで拭き、ジョッキをテーブルに置いた。
「今回のゴッドクエスチョンは十七。内訳はこれでいってくれ」
 春途の差し出した紙を受け取った天啓は、その内容を頭に叩き込んだ。アルコールは、それを邪魔することなく彼の胃袋を熱くさせていた。

9.
 船体には無数の傷が浮かび、塗装はあちこちが剥げ、漁船のような野暮ったい外観も相まって、その船はどこかくたびれた印象を見る者に与えていた。
 しかしディーゼルエンジンの作動音は軽快そのものであり、激しく揺れる客室でじっと停泊を待つ四人は、窓の外で流れていく風景が思っていたより安定した速度を保っていたので不安はなかった。
「港が見えてきたな……」
 四人の中でもっとも年齢の高い、サバイバルウエア姿のカイゼル髭を蓄えた白人の中年男性が、窓から小さく見える埠頭を見て、三人に聞こえるように告げた。
「しかしさすがに丸三日だと堪えますな、リーダー」
「まったくだ……いくら改造船で足が速いとはいえ、こうも揺れるとは思わなかったぜ……」
 カイゼル髭の左右に座る男たちは、いずれも暗灰色のツナギ姿であり、片方はラテン系でやや小太りで目が丸く、片方もまたラテン系だったが対照的に痩せぎすで、目つきも鋭かった。
「秘密裏に入国するには海路も一つの有効な手段だ……それに日本に着いたからといって、柔らかいベッドで眠れる時間は少ないと思え。奴がアジトに訪れない以上、到着後は調査活動の連続になると覚悟しておけよ」
 二人は眉を上げて、リーダーと呼ぶ髭の男の言葉に頷いた。
「しかし……まだジョーディーは戻らんのか?」
 四人目の、体格のいい角刈り頭のアジア系青年が船室を見渡してぼやいた。
「奴はまだ操縦席だろう。動かし方を覚えておきたいと言ってたしな」
 小太りの男は甲高い声であり、口調はすっかり呆れていた。髭の男は苦笑いを浮かべると、操縦席に続く奥の扉へ視線を移した。


「コツなんて特にないよ。漁船やボートと一緒。ディーゼルはちょっとクセがあるけど、たまに緩ませてやれば安定してくれる」
 海を職場にする者としては白い肌だ。なかなかのグラマーであり、ペーズリー柄のシャツにスリムのジーンズがよく似合っている。歳はまだ二十代といったところだろうか、運転を教えてもらうつもりが、ついつい舵を握る彼女に視線がいってしまう。ジョーディー・フォアマンは気が抜けていると感じて金色の髪を撫で、咳払いをして計器類に注目した。
「モーターボートなら何度か扱ったことがあるけど……この大きさともなると、まだ経験はないからなぁ……」
「大した違いはないって。まぁ……積み荷の量によっちゃ、舵がきき辛いこともある……どうでもいいけど……」
 女は顎に手をあて、ジョーディーの顔を覗きこんだ。
「な、なんだ? 李荷娜(イ・ハヌル)?」
「どーみても白人なのに、あんた日本語上手だねぇ」
「あ? あぁ……昔、三年ほど暮らした時期があってな。沖縄って……知ってる?」
「もちろん。仕事でよく行くよ。東南アジアルートになると、どうしたって沖縄が出入り口になるしね」
「だよな。ベースにいたんだ」
「ふぅん」
 荷娜と呼ばれた女性は再び正面に視線を戻し、近づいてきた埠頭に小さく頷いた。
「あんたこそ若いのに運び屋なんて、大したもんだな」
「親父の信用があるからね。同盟とも昔からの取引だし。それに、若いっていっても三十三だよ」
 最後の一言にジョーディーは鋭い目を丸くさせた。まさか自分より彼女の方が年上だったとは。やはりアジア系の年齢は見かけでは判断できないと思い、彼は首を傾げた。

 東京、大井埠頭のとある桟橋に停泊した船から、五人の男が姿を現した。カイゼル髭の白人を中心に、いずれもしっかりとした足取りで全身からは緊張感が漂っていた。その背中を操縦席から眺めていた荷娜は舵に寄りかかり、頭に巻いていたバンダナを外した。

 賢人同盟特殊戦闘部隊「デッド・5」。たった五人ではあるが、破壊、暗殺、諜報とあらゆる任務に対応できる精鋭たちである。彼らを運ぶのは初めてだが、三日間の劣悪なる船旅に耐え、ああして力強く歩き去っていくとはなかなかの面子である。
 カイゼル髭の白人がリーダーのジル・ドーファン。冷静沈着な指揮官との評判であり、礼儀の正しさはこの三日間でよくわかった。
 小太りと痩せぎす。対照的な二人のラテン系はロドリコとランダルといい、あまり話をする機会はなかったが、リーダーのジルに対して信頼を寄せていることはなんとなく感じられた。
 一際背が高く、体格もいいアジア系のあいつは柱永(チョヨン)。自分とは母国を同じくするが、どうにも無口で無愛想な男である。重火器の担当らしく、船室でも常にその手入れをしていた。そもそも自分は日本で生まれ育ったため、母国に対しての感情は単純ではない。それを察しての拒絶であれば、それはそれでいい判断である。
 そして最後の一人は、つい先ほどまで操縦を尋ねにきていたジョーディー・フォアマンである。背はそれほど高くはないが、骨格のしっかりとしたいい体格の持ち主である。本人は、「車の腕はラリーレーサー並」と嘯いていたがどんなものか。もと軍人らしいが、どうにも腰が軽い男のように思える。
 果たして、あの五人は再びこの桟橋に戻ってくることができるのか。荷娜は曇り空を見上げ、そんなことを考えてみた。この四年で、同盟から数十名のエージェントや殺し屋、刺客をこの国に運び込んでいるが、一人として任務を終え帰ってきたものはいない。
 白い髪の青年が女の脳裏を駆け抜けた。彼は強い。彼の仲間たちも強い。数年前まではどこか頼りなさも感じられる少年だったが、十九歳になった現在においてはひ弱さも抜け、本人曰く鍛え上げた成果らしいが、とにかくいっぱしのテロリストに成長したと思える。

 ま、同盟はいくらでも派遣するんだろうけどね……

 三日間の航海で船の整備が必要である。いつもの業者に頼もう。そう決めた荷娜は舵から離れ、携帯電話を手に操縦席から出ていった。


 「デッド・5」が来日してから一週間が経ち、梅雨入りした首都は今日も雨だった。ジョーディーと柱永の二人は共に傘を差して大井埠頭のコンテナ群の中を歩き、とある倉庫を目指していた。
「今日はぜひ焼き肉を食べよう。柱永はいい店を知ってるか?」
 大柄な柱永を見上げ、ジョーディーはそう尋ねた。柱永は一度だけ首を横に振ると、「日本の焼き肉は知らん」と仏頂面で返し、やはりこいつとペアだと、ただでさえ苛酷な任務がより億劫でつまらないものになるとため息をついた。
 小型で屋根の低い倉庫までやってきた二人は、鍵を開け中へ入った。段ボール箱が積み上げられた狭く薄暗い倉庫の中には、ジルたち三人が既に集結していた。
「成果のない定例報告ほど気の重いものはありませんな」
 ジョーディーは頭を掻き、柱永も頷いた。ジルはカイゼル髭を撫で、「こちらもだ」と返した。
 任務はいたってシンプルで、「真実の人を名乗るアルフリート・真錠を抹殺せよ」との内容だった。しかし標的は跳躍能力の持ち主であり、特定の拠点を見張っていれば姿を現すというものでもない。日本でも東京での活動が最も多いという報告から、まずはその捜索を開始してみたが、最初の一週間ではなんの手がかりも掴めず、またそれも仕方がないと諦めていた。長期戦になる。そんな覚悟がデッド・5の全員にはあったから、ジョーディーの言葉に納得はしたものの、落胆までする者は皆無だった。

 雨音がいっそう激しくなってきた。安い作りの倉庫だから天井で跳ねる音も激しく、蒸し暑さにジョーディーはワイシャツの第一ボタンを外した。
 皆、半袖ワイシャツにスラックスという服装だったが、これは諜報活動を自然に行うための変装であり、いつでも非常事態に対応できるよう、手持ちの鞄にはしかるべき道具も詰め込まれている。だが、しばらくはそれを使う事態も発生することはないだろう。

 しかし、そんな緩い空気は一方的に壊された。唐突に破壊された扉に全員の注意は向けられ、五人の暗殺者は鞄からそれぞれの得物を取り出した。

 扉のあった出口から入ってきたのが、真っ赤な髪をしたエプロンドレス姿の子供だったため、一瞬の躊躇が生まれた。そして、その僅かな間だけで、襲撃者にとってはじゅうぶんだった。
 窓が割られ、降り込んできた豪雨と共に、羽ばたく一つの影があった。手には日本刀が握り締められ、猟犬の頭をもった怪物はたった一振りで痩せぎすのランダルの首を刎ねた。
 銃声が倉庫に鳴り響いた。だが怪物はすぐに物陰へ逃れ、別の影がロドリコの足首を切断した。機関銃を発砲しながらバランスを崩した彼は絶叫し、背中が床に着いたのと同時に、背中から腹部を杭のような銀色の何かに突き刺された。
 二人の部下を一瞬にして失ったジルは赤い髪の少女の姿が消えているのに気づくと、柱永とジョーディーを両手で突き飛ばし、「逃げろ!!」と叫んだ。このままでは全滅である。遅れて到着し、最も出口に近い彼らだけでも逃げ延びさせなければならない。得物を持たぬ彼に、犬頭の怪物と両手にパイルを装着した覆面の殺し屋が飛び掛かった。
 左右からの攻撃を同時に凌ぐことは不可能である。経験豊富なジルの判断は速かった。彼は肩から提げていた鞄の中に手を突っ込み、一本の紐を引っ張った。

 倉庫の中央で爆発が起きた。衝撃がジョーディーと柱永の背中を震わせ、二人はわけのわからぬまま出口へ跳び、豪雨の中を転がった。
「リーダー!!」
 身体を起こして振り返るジョーディーの肩を柱永が掴んだ。
「言われた通りにするんだ!!」
「だ、だけど!!」
「それが命令というものだ!!」
 強引にジョーディーの手を引き、柱永は停めてある車高の高い4WD車に向かって駆けた。
 走り去る一台の車を、煙の上がる倉庫から出てきた我犬はじっと見つめていた。
「いかがなさる……真実の人!!」
 我犬の後ろには、黒い背広を着た青年の姿があった。薄く紫がかった白く長い髪、モデルのように整った体型は、だが華奢ではなく、口元には自信に満ちた笑みが浮かんでいた。真実の人、十九歳。彼は背後からの煙に一瞬咳き込み、傍らにいる赤毛の少女の頭を撫でた。
「もう十歳なんだから、そーゆーのってやめてくれないかなぁ……」
「ごめんごめん……」
「真実の人!!」
 翼を濡らし、再び問いかけてきた我犬に、倉庫の中にいた青年はようやく意を向けた。
「行かせてやれ。リーダーが託した最後の矢ってやつなんだ。せいぜい足掻かせてやろうじゃないか我犬」
「しかし真実の人!!」
「私を殺しに……復讐に来るのならそれもいい……こっちも経験が積めるというものだ……」
 剛直で融通の利かぬ忠犬に対して、この青年は自分や長助に対してとは違う口調を使い分ける。真っ赤な髪のライフェは彼を見上げ、真実の人をやりつづけるのも大変なのかと思い、爆発の跡を振り返った。
 煙も晴れつつあるそこは床下の基礎部分が露出し、ふたつ分の屍がばらばらに転がっていて、それも泡に包まれようとしていた。少女は口元を歪ませ、同じく振り返った青年を見上げた。
「億枚通し……お前の死は無駄にはしない……これまでご苦労だったな……」
 二本の杭を持つ男、如何なる障壁をも貫く怪人、「億枚通し」の無残な最期だった。真実の人は両目を閉ざし、しばらく黙祷を捧げた。


 豪雨の襲撃から二日後の夕方、逃げ延びたジョーディーと柱永は大崎駅近くにあるホテルの、カーテンを締め切った部屋で銃器の手入れをしていた。

 雨はずっと降り続けていたが、今日は雨足も穏やかでありエアコンのよく効いた室内は快適である。だが二人は暗い顔色であり、動かす手も鈍く重かった。
 突然の襲撃、すなわち奇襲だった。赤い髪の少女が現れた途端、二人の異形が倉庫に突入し、ランダルとロドリコは瞬く間にやられ、リーダーも自爆した。真実の人を暗殺する以前の問題であり、白い髪の青年をジョーディーと柱永は目撃することすら叶わなかった。
 あの倉庫は知られていた。同盟本部の「少佐」が指定した集合場所だった。敵の情報収集能力を、どうやら見くびっていたようである。だとすればこのホテルとて、連中は察知している可能性がある。
 しかしどうしようもなかった。敵中にあって、完全に隠匿された場所での潜伏などはあり得ない。反対勢力でもあれば話は別だが、日本政府に対する接触は現時点においては厳禁であり、そうなると我々だけで標的まで辿り着くしかない。
「柱永……まずはこの、獣人製造施設を襲撃しようと思うんだが……」
 ジョーディーは拳銃をテーブルの上に置くと、たった一人になってしまった仲間に地図を差し出した。
「調布か……しかしそんなことをして奴は現れるかな?」
「さあな……だけど俺たちが本部からもたらされた、これが唯一確実な拠点情報だ……」
 その言葉に柱永は顎を引き、薄い下唇をぺろりとひと舐めした。これは彼が疑念を抱いた際に行う仕草である。ジョーディーはそれを知っていたからこそ、意外に感じた。
「なんだよ、柱永……お前まさか……」
「いや……ただな……逐次投入にしても腑に落ちん……おまけにあれほど見事な奇襲……どうにもな……」
「おいおい……デッド・5を囮に使うってことはないだろ?」
「囮か……それならまだマシなのだが……」
 あってはならない疑念である。柱永の考えぐらいは理解できる。要するに、少佐はなんらかの理由で精鋭部隊を生贄にしようとしていると考えているのだろう。ジョーディーはだが、もし仮にそうだとしても自分たちは任務を遂行する身でしかないと考えていたし、組織に対しては忠誠を尽くしたいと願っていた。
 でなければ、軍を追われた自分を拾ってくれた恩に報いることなどできない。賢人同盟が手を差し伸べなければ、今頃はスラムで用心棒でもしていたことだろう。そう、そんな程度の自分だからこそ、生贄に使われる可能性も高い。ジョーディーはそんな埒の明かない淀んだ考えに嫌気が差し、「とにかくやるしかねぇだろ!!」と、自棄になって叫んだ。
 そんな彼の背中に突風が吹きつけ、対する柱永の乏しい表情が凍りついた。

「メンテナンスか? ごくろ……」
 突如として現れた白い長髪の青年は、挨拶も言い終えぬうちに姿を消した。硝煙が部屋を満たし、割れたガラスとボロ布になったカーテンの穴から雨が入り込んできた。
 サイレンサーなどつけている暇はなかった。二人の暗殺者は躊躇うことなく発砲の限りを尽くしたが、再び消失した標的を仕留められず、リスクだけを残す結果となってしまった。ジョーディーと柱永は急いで荷物をまとめ、扉を蹴り開けて廊下へ駆け出した。


 4WDは雨の国道を疾走していた。運転しているジョーディーに、助手席の柱永が一枚のメモを見せた。
「なんだ、これは?」
「奴が残していった……」
 メモには、「例の倉庫にて待つ」とだけ書かれてあった。ジョーディーは頭に血が上り、思わずアクセルを踏み込んでしまった。
 真実の人が常に人を食ったような奴であるとは聞いていたが、まさかここまでとは。柱永の「どうする?」という問いにジョーディーはステアリングを切り、「行くしかないだろ!!」と答えた。


 雨に濡れた倉庫は爆発の跡もそのままであり、「夢の長助」こと藍田長助は、積み上げられた段ボール箱に寄りかかり、煙草をふかして舌打ちをした。
「いい加減にしたらどうだ、真実の人……自分から誘うってのはどういう了見だ?」
 そう問われた白い長髪の青年は爆心地点にしゃがみ込み、両目を閉ざしていた。
「悪かったな……億枚通し……」
 二日ぶりの黙祷を終えた真実の人は立ち上がり、煙草の煙を払った。
「デッド・5が堅実な仕事をできたのは、すべてジルという男の指揮があってこそだ……それを失った彼らはただの兵士……それも不案内な東京で襲撃に怯える敗残兵だ……」
「だったら尚のこと放っておいてもいいだろ?」
「いや……そうもいかないさ。自棄になってるってことがよくわかった。無差別に発砲なんだぜ? 早いうちにケリを付けとかなきゃ」
 一理はある。だが最近、どうにもこの青年は何かに焦っているようにも見える。長助は煙草を床に落としそれを踏みつけると、立てかけてあった傘を手にした。
「それにさ……生き残りのうち、白人の方は完全に迷っていたな……射撃の際に目が泳いでいた……」
「いっそのこと引き入れちまうか? 実務能力が高い人材なら、FOTはいつだって募集中だぜ」
 長助の冗談めいた提案に、真実の人は指をぱちりと鳴らせた。好きにすればいい。だが児戯と称して人を翻弄するような真似だけはやめろよ。長助は心の中でそうつぶやき、傘を手に倉庫から出て行った。


 あまりにも容易に手に入った情報だったため当初は疑っていたし、長助もこれはガセかもと言っていた。しかし現にあの日、あの時間に五人の暗殺部隊はこの倉庫に集結し、宿泊場所のホテルも正解だった。部下たちの情報収集能力に過剰な期待をせず、現実問題として同盟側の作戦行動など知れるはずはないと思っていた真実の人だったため、デッド・5を巡る一連の事実についてはリークであるとしか考えられない。彼は腕を組み、割れてる窓の外から雨空を見上げた。

 生き残った二人の気持ちはわかる。自分も三年ほど前、似たような不安を抱えたことがある。バクラー・竹田を殺害し、本部より解任命令を受けたとき、まったく組織から守られていないと孤独を感じた覚えがあった。
 しかし、引き入れることは無理だろうな。人間はそう簡単に変わることはできない。そう結論付けた真実の人は、速く迫る強い殺気を感じた。
 無人の4WDが倉庫のシャッターを突き破り、スリップしながらなおも突進するそれは、中央に佇む真実の人を轢く直前、大爆発を起こした。
 奇襲とは言えないが、肝を冷やすぐらいの効果はあったと信じたい。精神的な動揺があれば勝機も生じる。コンテナの陰でスコープを覗き込んでいたジョーディーは、背後で警戒する相方に親指を立てた。
 いくら無愛想で口数が少ないとはいえ、いつもなら「ああ」や「うむ」の一言ぐらいは返ってきそうなものを。ジョーディーは小突こうと肘を後ろに突き出したが、それは何にも当たることはなかった。おかしい。背中を向け合った全方位警戒において、言葉を発せられない場合の合図は肘か踵で行われるのがデッド・5の「きまり」である。彼が不安になって振り返ると、そこに大柄な仲間の姿はなかった。いや、正確に言うなら、下半身は確かに残っていた。
「柱永……う、うぁ……」
 口を半分開けたまま、柱永の上半身が地面に横たわっていた。手には重機関銃を持ったままであり、絶命の原因もおそらくは理解していないだろう。スコープを地面に落としたジョーディーは、その躯のすぐ近くに佇む、濡れた白い長髪を睨んだ。
「あと……お前一人か……」
 片目を閉ざし、不敵な笑みの青年はポケットに両手を突っ込んだままだったが、その殺気は強烈であり、ジョーディーは膝の震えを抑えることができなかった。
 もうだめだ。情報が漏れていた、いないなどといったレベルではない。このような化け物と戦う訓練を自分は受けていない。ロナルド・ハートレイも同じような気持ちで死んでいったのだろうか。あまりにも悔しい。苦楽を共にしてきた五人だったのに。リーダーは来週にも父親になる予定だったのに。せめて一矢報いねば。彼は両手を挙げ、膝を地面に着いた。
「負けた……降伏する……捕虜ということだ……わかるかアルフリート真錠……」
「そうか……」
 青年は雨の中、ゆっくりとジョーディーに向かって近づいてきた。そう、もっと近くにきやがれ……こっちには最後の手がある。男は肩から提げている鞄に気持ちを向け、いつでも自爆する覚悟を決めていた。

 だが、そんな彼から肩の重さが急激に消えた。

 提げていた鞄がない。爆薬でいっぱいの、外部スイッチを叩くだけで起爆する、このコンテナ群を吹き飛ばすほどの高性能爆弾を仕込んだ鞄は、だが目の前までやってきた青年の背後に転がっていた。
 絶望に、男は力が抜けていくのを知った。もうだめだ。暗殺はおろか、怪我をさせることも、驚かすことすら無理だった。これではただの餌だ。あまりにも実力差がありすぎる。跳躍と取り寄せの能力があることは無論知っていたが、まさか弾丸の到達前に消え、車に満載した爆薬による奇襲にも驚き一つ見せず、こちらの自爆までも見抜く慧眼があるとは思ってもいなかった。ジョーディーは無残に死んでいった四人の仲間に申し訳がなく、そして死の恐怖に全身の細胞は正直に反応していた。歯の根も合わず、関節という関節は大きく震え、目の焦点もぼやけ、スラックスも内側から濡れていた。間近に迫った最後を彼は受け入れることができずにいた。
「情けないやつだな……デッド・5もこうなると哀れだな」
 屈辱に対しても反論ができない。なんという赤い目だ。凛とした雰囲気は指導者としての相応しいとさえ思える。ジョーディーは縋るような気持ちに陥ってしまっていることに気づかないままだった。
 そもそも、車両やヘリコプター、ボートの運転や暗殺、破壊ポイントの下調べが自分の担当である。殺しや壊しはあとの四人の担当だったし、とてもではないが一人では抗うことなどできるわけがない。
「お前は今から捕虜だ。FOTの捕虜第一号だ。いいな」
 ようやく、受け入れてもいい提案がもたらされた。ともかく生き延びることはできそうだ。彼の全身からは力という力が抜けきり、やがて意識までもが遠のいていった。
 こうして雨の日に、精鋭部隊であるデッド・5は全滅した。


「いつも美人だねぇ、荷娜さんは」
「いつもヤニ臭いわね、長助さんは」
「おめーだって吸うだろーが!?」
「あたしゃ、メンソールを一日二本。あんたみたいなヘビーさんと、一緒にして欲しくはないね!!」
 甲板で毒を吐きあう二人に、真実の人は声を上げて笑った。
「さぁ真実の人……今日のブツはこれで全部……また例の倉庫に運ばせておく?」
 李荷娜の提案に、青年は首を横に振った。
「いや……アレを見ての通り。今後は、運び込みも自前でできるようになった」
 青年は親指で背後を指した。荷娜が視線を向けると、桟橋の向こうに一台の中型トラックが停められていて、運転席には白人男性の姿があった。

 それは、ついひと月前に運んで来た五人のうちの、一人であった。

「あ? え? な?」
 事態が飲み込めない荷娜は、素っ頓狂な声をあげ、人差し指でトラックを差したまま固まった。
 彼は、この青年を殺しに来日したはずである。それがなぜ、FOTのトラックのステアリングを握っている。後の四人はいったいどうしたのか。ともかく、運んで来た同盟の人間を再び見るのは初めてのことだし、これはかつてない結末だ。荷娜はいずれ事情を探ってみようと決め、「これからはラクになっていいわね」そうさらりと言った。

 桟橋に停泊する荷娜の船は夏の強い日差しに照らされ、船体の傷がジョーディーにもよく見ることができた。トラックの運転席でじっとしている彼は、甲板の上で取引を続ける真実の人たちに視線を移し、奥歯を噛み締めた。

 とても敵わないと判断しただけだ。寝返ったつもりなどない。捕虜として強制的にトラックやベンツの運転手をさせられているだけだ。

 呪文のように彼は心の中で何度もそう唱えた。天然パーマのもじゃもじゃ頭や、赤い髪の少女と食事を共にすることも最近では増えた。だが、すべては油断させ、いずれは任務を遂行して四人の仇を討つための芝居である。
「いい腕してるよ、ジョーディーは。俺じゃこうはいかない」
 奴にそう運転を褒められ、一瞬応じてしまった笑顔も、あれとて作り笑いだ。そうに決まっている。
 敬服などするものか。あの真実の人を名乗るテロリストを。抹殺対象だった奴を。彼がそう決意を新たにしていると、突風と共に助手席で白い髪が揺れた。
「真実の人……」
「暑い中アレだけど……運び込みを手伝ってくれ。もっと桟橋まで寄せて欲しい」
「わ、わかりました……」
「なぁ……終わったら、ビアガーデンにいこーぜ!! ライフェや青龍も誘ってさ……長助も……誘ってやるかな。いじけるし」
「は、はぁ……しかし酒は……」
「いいっていいって!! 電車でいこーぜ!!」
 青年は笑顔でジョーディーの背中を叩いた。また楽しい席に……いや、弱点を探るいい機会になりそうだ。彼は「いいですね。生ビール」と答え、なぜ単に「わかりました」と返さなかったのか少しばかり後悔した。

10.
「ここにおられます幸村先生は、まだ弱冠五十五歳であります!! この政邦会は最大会派を目指すべく、ますますの発展を遂げることでしょう!! 幸村先生万歳!! 木田先生万歳!! 仲辺先生万歳!! 政邦会万歳!!」
 その後援会長は紋付き袴姿といった正装だったが、皺だらけの顔は野卑な笑いが張り付き、両手を挙げてつま先立ちしたものの、腰と背中を背広姿の若い男に支えられるという体たらくだった。だが挨拶として、合図としての役割はじゅうぶんだったようであり、ホテルの宴会場に集まった三百名もの参加者は、皆ばらばらにだが手を挙げ、万歳の大合唱で壇上の男を称えた。
 与党民声党議員、外務大臣である幸村加智男(こうむら かちお)にとって、それは正に至福の時だった。彼の背後には「幸村加智男君を激励する会、改め政邦会会長就任を祝う会」と書かれた横断幕が掲げられ、万歳の後の拍手はなかなか鳴り止むことがなかった。
 ついにここまで来た。長い道のりだったが、木田と仲辺に奴隷のように扱われ、汚い仕事を一手に引き受け、遂に後継者として認められる日が到来した。橋谷には悪いが、そもそもあいつが俺を怒らせたのが悪いのだ。だから冷たい拘置所で反省をするがいい。ほとぼりがさめたら出てこられるようにしてやる。鼠色の背広姿の幸村は何度も拳を前後に振り、拍手に応えていた。
 この三十分後には、所信表明である。原稿はすべて暗記したし、それまでは功労者たちや木田、仲辺の両長老に挨拶をすませておけばいい。舞台裏の狭い控え室で幸村は鏡に向かってネクタイを直し、口臭防止剤のタブレットを口に放り込んだ。
「せ、先生……」
 声だけでわかる。この頼りなく震えたその主は、秘書の磯原孝泰だ。なにをうろたえているのか、このような大事な席では秘書といえども、平素において泰然とした態度で臨まねばならんというのに。幸村は説教の必要があると思い、険しい顔を作って振り返った。
「せ、先生……ある男が……話があると……」
 磯原は裏返しの写真を差し出して、消え入るような声で言ったが、幸村の目には情けない秘書の怯えた表情しか見えなかった。
「ばか者が。今日の私は“ある男”などに時間を費やすつもりはないのだぞ。どうした磯原!! 緊張しておるか!! 舞い上がりを抑えるために弱気の虫を総動員か!? もっとシャキっとせんか!!」
 日焼けした顔面を、幸村は突き出した。だが磯原は退くことなく、写真を表にして顔の位置まで上げた。

 その写真には、黒い下着姿の中年女性と、全裸の自分が写されていた。幸村は視界いっぱいに飛び込んできたそれを最初はよく認識できず、顔を離してからようやく、口を開け、指差し、狼狽した。
 写真の中の女も自分も、蝶の形をあしらったマスクをしていた。女の手には鞭が握り締められ、自分は後ろ手に縛られている。忘れもしない、これは二ヵ月前のあの晩、伊勢崎市のホテルで繰り広げられた、甘く刺激的なプレイの様子を写したものだった。もちろん撮影などした覚えは一切ない。しかしこの正面からのアングルは、おそらくは盗撮用に仕掛けられたカメラによるものだろう。木田議員から何度も注意され、いずれはアキレス腱となるとまで言われた性癖ではあったが、隠すことにかけては細心の注意を払っている。このように鮮明な盗撮写真が存在するなど、あり得た話ではない。幸村は顔を真っ赤にして写真を奪い取り、磯原以外がここにいないのを確認した後、それを背広の内ポケットにしまいこんだ。
「お、男は……まだ写真はあると……言ってます……」
「どこに来ておる!?」
「このホテルの……地下駐車場です……」
「一人で行く……車の特徴は?」
「く、黒のベンツです……い、いいのですか、三十分後には……」
「急病ということにしておけ、ばか者が!! すぐに戻る!!」
 ハンカチを取り出した幸村は額の汗を拭い、足早に舞台裏からパーティー会場を抜け、広間の出口へ向かった。途中何人もの来賓や党の仲間が主役の血相を変えた様子に気づいたが、政治家にとって緊急事態は日常茶飯事であり、この大切な宴席を乱すようなことになるのならともかく、今はまだ大したことではないだろうと、彼らは一様にそれほど心配はしていなかった。

 ホテルの地下駐車場までやってきた幸村は、黒塗りのベンツを探した。しかしそのような車はいくらでも停まっていて、彼がその一台に気づいたのは、あからさまなパッシングによるおかげだった。
 運転席には金髪の白人男性の姿があった。用心棒でも兼ねているのか、随分と目つきが鋭く体格もいい。だがこいつではない。幸村は後部座席へ目を移し、そこに揺れる天然パーマのもじゃもじゃ頭に違和感を覚えた。
 よれよれのトレンチコートは薄汚れていて、咥えている煙草も国産の安物である。どうにもこの車には不似合いな主である。幸村がそう感じていると、スモークのかかった窓が下へスライドし、煙が漂ってきた。
「どうも……幸村センセ……どうぞ隣に……」
 その男は片手に何枚もの写真をちらつかせ、そのいずれにも仮面をつけた自分の恍惚とした顔が写っていたため、幸村は慌てて車の反対側に回り込み、扉を開けて中へ滑り込んだ。
「なにが欲しい? 金か?」
「いえいえ……外務大臣様にお金など……そんな筋道の違う要求じゃあ、ありませんな」
 視線を向けず、その中年男性は人の悪い笑みを浮かべたまま、写真のうち一枚を幸村の膝へ落とした。
「しかしいけませんなぁ……ポルノ規制条例の最先鋒……変態性愛者の犯罪への罰則強化を公約に衆院選を勝ち抜いた幸村センセともあろうお方が……いけませんなぁこのような趣味は……」
 どこまでばかにした態度を取り続けるつもりだ。要求をさっさと言え。それがもしも過大であれば、いつでも毅然とした態度で突っぱねてみせる。そんな写真、例えマスコミにばら撒いたところでどこも相手にはせん。地元で怪文書に添えるか? それにしても同様だ。いくらでも揉み消すことはできる。幸村は男の態度があまりにも逆撫でするものだったので、かえって頑なになり、自尊心を強くしていた。
「まぁ、いいでしょう……別にあたしらだって、次期総裁候補と目される希望の星を地に落としたくはないし……私個人としちゃあ、こうした趣味にも多少は理解があるつもりで……まぁこれは要するにきっかけってやつなわけで……雲の上のセンセにちょこっと降りてきてもらうための……まぁそういうことです」
「なんなんだね、君は……金もいらんとは……ならなにが望みだ?」
「ロシア通の幸村加智男先生におきましては……ある人物とお会いしていただきたい……その男は先生のパイプを必要としている……もちろん……お会いして力を貸していただけるのであれば、相応の対価も支払わせていただきます……」
 奇妙だ。こちらの政治力を利用したいのなら、もっと正攻法で交渉に来ればいい。いつでも献金は受け付けているし、希望が非合法なものであっても、リスクと献金のバランスがとれれば応じることはいくらでもできる。ということは、こうして脅迫まがいのアプローチをかけてくるということは、余程の危ない橋ということなのだろう。
 幸村は大きく息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出した。まだ十五分しか経っていない。今からならまだ予定通りに所信表明の段取りを踏める。「会うだけでいいのなら」そうつぶやいた彼は、横目で天然パーマを見た。
「ありがとうございます……私はその男の代理人を務めさせていただいている藍田長助……以後、お見知りおきを」
 藍田と名乗った男はようやく幸村の顔に目を向け、手にしていた写真のすべてを彼の手に握らせた。


 幸村が降りた後、地下駐車場を出たベンツは大通りから高速道路に乗り、渋滞に速度を緩めていた。
「三鷹まで……これでは随分とかかりますね……失敗したかな……」
 運転席のジョーディー・フォアマンがそうぼやき、ラジオのチャンネルを交通情報に合わせた。
「師走の五、十日(ごとうび)だしな……さすがのジョーディーも、まだ日本の道路事情には精通していないか?」
 後部座席の長助は煙草に火を点け、窓から見える“2002 Xマスセール開催中”と書かれたデパートの横断幕をぼんやりと眺めた。
「幸村という議員……信用できますかね?」
「まぁ、無理だろうな。もっとも……金で縛ることはできるし、利害が一致している間は裏切るような真似はしないだろ……ついでにいい夢でも見させれば、しばらくは駒として使えなくもない」
 長助の説明にステアリングを握るジョーディーは頷き返した。
 もうあれから二年と半年が経ったのか。彼はラジオから流れる年末コンサートの宣伝に気づき、流れてしまった時の重さと、変わってしまった自分の人生をふと考えた。
 真実の人への恨みが消えたということはない。四人の仲間は無残に殺され、その悔しさを忘れた日はない。だがそれと同等に、あの白い長髪の青年の活躍を目の当たりにしてしまっている。彼の目的が完遂されるのを期待するようにまでなってしまっている。いや、よそう。運転席に座っている以上、自分の任務は後部座席の男を無事に三鷹まで送り届けることである。ジョーディーは何度も瞬きし、この現状だけを受け入れるように努めた。

 国道から外れた路地にベンツが到着したのは、それから二時間後の夕方であった。長助は車から降り、洋菓子屋の包みに包装された箱を手に、足取りも軽やかに路地を進んでいた。
 すると、そんな揺れる天然パーマの先に、二人の男が立ちはだかった。崩したスーツ姿であり、見るからに自分がその昔カモにしていたような、そんな堅気ではない人相の悪い連中である。このパターンはアレか。長助は足を止めて後ろに注意を向けると、そこにもやはり二人のやくざ者が佇んでいた。
 幸村加智男を舐めるな。一筋縄でいく男ではないと、こいつらの暴力で肝に銘じておけ。そんな意図なのだろう。それにしても手回しがいい。よほど昵懇な組があるということか。長助は前後から向けられてきた殺気にうんざりし、肩の力を落とした。
「あのさ……俺はビジネスライクに事を進めてるんだよ……どーして君たちみたいな物騒なのが来るわけ?」
「ビジネスライクなら写真はいらねーだろ? ネガを出しな」
 正面の男の一人が、低く掠れた声でそう告げた。長助は堪らず噴き出してしまい、男たちの殺気はいっそう強くなった。
「失礼……しかし今時ネガだって? デジカメに、んなもんあるわきゃねぇっしょ。二十一世紀も、もう二年が経とうとしてるんだよ? あんたらもデジタルの波に遅れちゃだめっしょ」
 コケにさける。小ばかにされる。舐められる。いずれもやくざ者にとっては許し難い事態である。四人は長助に向かって歩き出した。

 突風と共に、正面の二人の間を一つの影がすり抜けていった。まさしく一瞬の出来事である。よれよれのコートを着た男は確かについ先ほどまで目の前にいたはずである。それなのにどうして、前後に分かれた組の仲間同士がお見合いをしなくちゃならない。四人のやくざは消えてしまった長助が路地のずっと先に着地したのにようやく気づき、事態をどう理解していいかわからずうろたえた。
 長助の傍らに、ボマージャケット姿の少年の姿があった。肌は褐色であり、短く黒い髪はあちこちが跳ね返り、なによりも目を疑ってしまうのは、その背中に二つの巨大な鳥のような翼が伸びていることにあった。いや、それよりもっとわかりやすい、身近な脅威が少年の両手に握られていた。あれは確か米軍が使用しているアサルトライフルである。組にもあれほどの“兵器”は存在しない。もし掃射でもされようものなら、短刀しかない自分たちはたちまち蜂の巣である。
 もちろん模造品だと疑ってもよかったし、普段ならまず間違いなくそうしていただろう。だが翼という理解できない存在が理路整然とした思考を彼らから奪っていた。

「悪いこたぁ言わねぇ……幸村センセがこっちと付き合ってくれている以上、写真を撒くような真似は決してしない……戻ってそう伝えといてくれ……」
 長助がそう言った直後、翼の少年がアサルトライフルをしっかりと構えた。実によく訓練された、いかにも正確に「当てそう」な挙動である。四人はよく聞き取れない声を漏らし、その場から早足に退散した。
「助かったぜ“はばたき”……もう帰国してたのか?」
 少年は翼をたたみ、ライフルを下ろして長助を見上げ、力強く頷いた。
「早く帰る……ライフェ様……怒る……」
 たどたどしい日本語で、はばたきは事情を説明した。長助は何度も小さく頷き、菓子の包みが無事であるのを確かめ、最後に一度大きく頷いた。


「葦里(あしざと)会が言ってる羽の生えた男というのはなんともですが、奴らは間違いなくファクト関係者でしょうな。ザルツの同盟へは現在照会中ですが……ええもちろん、詳細は伏せておりますのでご安心を」
 藍田長助と名乗るパーマ男と出会ってから二日後の週末、幸村加智男は地元の群馬県前橋市の自宅にて、後見人である民声党の長老、政邦会の前会長の木田清造もと外務大臣と電話で言葉を交わしていた。内容は雑談や政局動向などが主だったが、当然のことながら接触をしてきたFOTについても話題に上り、その結論は幸村の裁量で済ませられそうなら任せる。といったものだった。
 ファクトの残党が今更活動を再開したところで、どうせ個人レベルでの復讐戦でしかない。五年前のテロ事件の収拾を金ずくで賢人同盟と結んだのだから、組織だった行動など、そもそも資金源がない以上無理である。それが木田の下した判断だった。
 幸村が次に電話したのは仲辺元哉(なかべ もとや)議員だった。もと官房長官で木田の盟友とされる長老であり、幸村にしてみれば重要な後見人の一人である。
 仲辺の判断も木田と同様で、これによって幸村はお墨付きを得た形となり、彼はすぐに秘書の磯原を呼び出した。
 居間にしている和室で、幸村と磯原は机を挟んで対座していた。
「これが集められた資料です……藍田長助……もと奇術師ですね……」
 磯原の差し出した書類に目を通した幸村は、堪らず噴き出してしまった。
「これはどう評価してよいか……わからん連中だな……」
「はい……まだまだ陰になっている部分も多いかと思われます……全容が判明するには、もうしばらくの時間と費用がかかるかと……」
「もういい……どうせ直接会談するのだ……これ以上の調査はせんでいいだろう」
 幸村の決定は絶対である。秘書の磯原はその日の午後に、興信所への調査依頼を打ち切り、一切の証拠を残さぬよう所長へ念を押した。
 どうやら、おぼろげながらではあるが、一応の組織としてファクトの残党は存在するらしい。政府が国民に対して隠蔽を決めた生体改造技術なども多少は引き継いでいるようであり、資金源については海外企業名や、証券取引の記録もいくつか見られる。だが、鹿妻新島に本拠地を構えるような、国内独立を果たしていたような五年前のファクトとは比べようにならないほどの小規模で、これなら中核派などの左派テロリストの方がまだ脅威である。この時点において、幸村加智男のFOTに対する評価はその程度だった。

 数日後のクリスマスイブ、赤坂の料亭「たかひら」に、幸村加智男は秘書の磯原と共に訪れた。指定された間へ赴くと、そこには例の天然パーマが煙草をふかしてあぐらをかき、ベンツに続いて高級さの似合わないやつだと幸村は蔑んだ。
「時間があまりない……明日の朝には地元のチャリティーイベントがあるのだ……手短にしてもらおうか?」
 磯原の言葉に、徳利を手にした長助は睨み返した。
「うるせぇ……てめえみたいな腰巾着はすっこんでろ……」
 初対面の飄々とした様子はない。なるほど、それなりの場数を踏んでいるということか。幸村は眉を吊り上げた磯原を手で制し、空いた手でネクタイを締めなおした。
「藍田君……会わせたいという男はどこにいる? まさか君ではないのだろうな?」
「ええ……私ではありませんよ、センセ……」
 長助の背後の襖が勢いよく開かれ、一人の青年が姿を現した。
 腰まで伸ばした白い長髪は紫がかっていて、黒の上下を着た体躯はモデルのような整いようで、顔も女性と見まがうばかりの美形である。赤い瞳には強烈なまでの強い意が込められているようであり、人間を外見で値踏みする機会が多い幸村や磯原も、現れた彼が只者ではないとすぐに感じた。
「真実の人(トゥルーマン)と申します。はじめまして幸村先生……」
 すぐに正座をした青年は、深々と頭を下げた。真実の人とは真実の徒、通称ファクトの指導者名である。それを名乗る彼はいったい何者なのか。幸村は興味を抱き、「こちらこそ……」と短く返した。

 交渉の内容はいたってシンプルだった。真実の人を名乗る青年は幸村に対して、彼がもっとも得意としている外交相手である、ロシア政府への便宜をはかって欲しいと要求し、その見返りとしてジュラルミンケースを一つ用意してきた。
 藍田長助の開いたその中身は大量の現金だった。なんというわかりやすい相手なのか。一度は断って自分の値打ちを吊り上げるつもりの幸村だったが、こうまで速攻で大金を用意されては次の言葉にも困るばかりだった。
「これは手付金です……名前はまだ明かせませんが、我々FOTには多数の企業が援助をしていますし、その力を幸村先生の政治活動に使っていただくことも将来的には可能です……」
 青年はそう言うと片目を閉ざした。なんの合図か、それとも癖か。交渉はわかりやすいが態度は掴みどころがないと幸村は感じた。

 しかしそれにしても大金だ……あれで手付けとは信じがたいな……ロシアとパイプを作ってどうする……?

 幸村はちらちらとケースの中身に視線を移し、返答は慎重にするべきだと気持ちを引き締めた。
 先生はペースを握られている。傍らにいた磯原は、落ち着きを失いつつある幸村を情けないと感じたが、しかしあれだけの現金をちらつかせられれば、それも仕方がないとも思えてしまった。それほど、政治というものには金がかかる。少なくとも民声党の選挙対策とはそういったものだ。たかだか交渉ルートを紹介し、お墨付きをつけるだけで転がり込んでくるのなら断る理由はどこにもないはずである。
 だが秘書の予想を裏切り、幸村が出した返答は「まだ君を信用することはできない。もう少し段階を経る必要がある」だった。

 どうにも閉ざされた片目の意味が気になる幸村だった。危険な匂いがする。この妖美な青年は自分と棲む世界の違う雰囲気を漂わせ、最終的には陥れられてしまうような、それは直感だった。これまでの議員生活で数々の困難を乗り越えてきた幸村加智男の“勘”だった。


 初会談は単なる顔合わせに終わってしまったが、それも仕方ないだろう。ああいった種類の人間は何かにつけ時間と金がかかると、幼いころ親父も言っていた。青年はロッククラブの大音量の中、ボックス席で一人グラスを傾けていた。
「おい!! なんだってこんな騒々しい店にいる!?」
やってきた長助が、激しいギターフレーズに負けないような大きな声で叫んだ。彼はテーブルに着き、水割りのグラスと灰皿を置くと、身を乗り出して眉を吊り上げた。
「いまさっき秘書の磯原……料亭にも来てた奴だけど、そいつから連絡があった!!」
「そうか!!」
「明後日の夜、赤坂で勉強会とやらをやるらしい。それに参加してみないかって!?」
「勉強会!? なんの!?」
「ただの歓談会だよ!! 勉強会なんてのは名目だけだ!!」
 演奏がいったん終わったので、長助は身体を引いて煙草を取り出した。
「へぇ……そんなのに俺をねぇ……」
「すっげぇ下衆な席だぜ……女の子はべらして、幸村に取り入りたい企業の連中がおべっか使いまくって……お前もその一員になれるかって……こりゃ、踏み絵みたいな席だと思ってくれ」
 長助の言葉に真実の人はテーブルの上で指を組み、口元を歪ませた。
「最悪じゃんそれ……まぁ……予想はしてたけどさ……」
「ああ……だけどそーゆーときんために俺がいる。この長助様が臭い仕事は引き受けてやろうじゃないか。美形キャラのお前さんが、政治家や企業の醜悪下衆宴席なんかにゃ出る必要はねぇってことだ」
 必要以上に憎々しげな口調の長助だった。真実の人は小さく息を漏らすと、視線を一瞬だけ宙に浮かし、やがて笑みを浮かべた。
「いいさ……出るしかねぇだろ。俺があいつらの側に入れるかどうか……そう値踏みしてるんなら、今は付き合うしかない……お前が代役したって、結局は俺が舐められるだけだ……明後日の夜だろ? 行くって返事をしておいてくれ」
「そ、そっか……まぁ……ならそうしとくけどよ……」
「なんだよ長助……妙に残念そうじゃないか……」
「い、いや……別によ……俺はただ……」
 真実の人が断るのなら、是非その代役としてただ酒にありつきたい長助だった。綺麗どころなどもたくさん同席するのだろうし、幸村をヨイショすることで自分の自尊心はまったく傷つかない自信もある。それだけに長助は残念であり、仕方なく水割りを口にするしかなかった。
 演奏が再開された。真実の人はステージに視線を移し、大音量に再び神経を浸すことにした。


「うわぁ!! 見かけに……なーんてごめんなさい!! でもお酒強いんですねぇ!!」
 胸元を強調した真っ赤なブラウスの女が、真実の人からグラスを受け取った。アルコールに関してはそもそもそれほど強くはなかったのだが、いずれこのような機会もあるかと思い、数年前より仲間たちとできるだけ呑むようにして鍛えてきた彼である。ソファに座り直した青年は、あらためて薄暗いこの一角を見渡した。
 だが、周囲にいる女たちと、それの肩に手を回す中年男たちの野卑な顔を見て、真実の人は心底うんざりしてしまい、まだまだ自分も修行が足りないと思った。
「まぁね!! アルフリート君。例の件はいずれゆっくり対応していくから。これからも長い付き合いになるといいねぇ!!」
「はい幸村先生!! しっかり勉強させていただきます!!」
「そうかそうか!!」
「しかし先ほどから幸村先生のおっしゃる亡国論は、本当にためになる。ねぇ美咲ちゃん!!」
 真実の人は、赤いブラウスの女にそう促し、だが彼女は「えー!! むっずかしいお話は全然わかんなーい!! けど幸村センセは偉いですー!!」とおどけ返した。
 幸村加智男はすっかり上機嫌だった。この“勉強会”への誘いに乗るとは思っていたが、彼がこうまで謙って自分を立ててくれるとは思ってもいなかった。おかげで周囲の女たちに対し、これほどの美形に尊敬されている自分、という今までにない価値を付加させることができた。これは予想外の特典であり、今後はもっとこの美しい青年を連れ歩いてもいいだろうとさえ考えていた。
「まぁ、だがね。木田先生や仲辺先生たちは正直言ってもう古いんだよ。これまでの対米、対中協調路線はもう通じん。中国の急成長だって予想できなかったんだから。これからはより親米だよ。中国の経済に対抗するには、もっとアメリカの投資を促さねばならん」
「その通り!!」
 一際高い声で幸村に賛同したのは、この席で最も高齢のとある企業の重役、棚西(たなにし)である。
 この日、赤坂の高級クラブを貸し切り、幸村加智男の勉強会における店の手配から接客女性の選別、二次会のしゃぶしゃぶまですべてを取り仕切っていたのは、総合商社を中心に全国へ多角事業を展開する柏崎グループだった。その代表として出席しているのが棚西であり、新参者の若造に太鼓を叩かせすぎてはなるまいと、そう判断しての強い賛同だった。
 どういった経歴の青年なのか。勉強会に出席した三名の企業人は、いずれもその点に興味を抱き、警戒をしていた。幸村は新しい支援者で、名前はアルフリート、日独のハーフと説明してくれたが、知りたいのはそんなことではない。予定されている数億にも及ぶ寄付を、いったいどこから調達してきたかである。幸村と接触することで、なんの利益を得ようとしているかである。彼らは今夜、白い髪の青年から決して目を離してはならないと心に決めながらも、幸村への愛想笑いは忘れなかった。
 しょうもない連中ではあるが、自分にしても大差はない。だが、立場を同じくするからといって、その野卑さまでも真似をする必要はない。真実の人はグラスを女から受け取り、その中身を口に含んだあと、座っているソファの中へ跳ばした。アルコールに対して鍛えているものの、この女が酒を作るペースに合わせれば酔いが回るのは時間の問題であるし、呑みっぷりが悪ければ最悪の場合警戒されてしまう。だからこそ、「異なる力」を使う彼だった。
 そんな真実の人を、赤いブラウスの美咲はまじまじと見つめ、それにしても異質な存在であると感じていた。黙っていればビジュアル系ロックスターやモデルのようであり、なるほどハーフと聞けば多少は納得するが、この目はカラーコンタクトなどでは出せない赤である。これほど美形然としているのに、腐った刺身のような肌の色をした、口臭も生ゴミ級の幸村に対して諂い、宴席を盛り上げるために大声を出して褒め称えているのはなんとも奇妙である。美咲の視線を感じた真実の人は、こんな状況で女性の熱い眼差しに晒されるのはなにかとマイナスであると思い、ソファから立ち上がった。
「幸村先生!! ほんとさっきから大感激の連続っスよ!! まさにおっしゃる通り!! 来年の衆院選はうんと協力させてもらいますから!!」と、注目をこの席の中心人物へと促した。

 クラブを出た一行は、ハイヤーで新宿まで向かい、繁華街から離れた一軒のしゃぶしゃぶ店までやってきた。
「こ、これは棚西君……ち、ちとまずいのではないかね?」
 ハイヤーの中で躊躇する幸村に、助手席に座る棚西は何度も首を横に振った。
「ここは絶対安心ですから!!」
「し、しかし……今更こういったのは……」
「なかなかオツな物ですから!! 席はもうとっておりますし!!」
 なぜしゃぶしゃぶ店に幸村は躊躇うのだろう。彼の隣に座る真実の人はそれが不思議だったが、疑問は十数分後、テーブルで鍋が煮え立ったころに判明した。
「お、おほぅ……」
 嬉しそうな声を上げ、幸村は肉を運んで来た女性店員の尻に首を伸ばした。異常なまでのミニスカートであり、真実の人もなるほどそういったコスチュームサービスかと納得したが、対座する棚西の視線が妙に床へ落ちているのに気づき、何事かと自分も合わせてみると座席周辺の床はすべて鏡張りとなっていて、店員の下着を着けていないそれが目に飛び込んできた。

 ノーパンしゃぶしゃぶかよ……おいおいおいおいおい……

 なんて情けない局面だ。真実の人はすっかり哀しくなった。富や権力にボケた連中は、得てしてこのような回りくどい性欲に走ると聞くが、これほどレベルが低いとは思ってもいなかった。棚西はすぐに別の店員を呼び、「こまめにアクを取りに来なさいねアクを」と念を押し、幸村はそんな駆け引きにニヤニヤしながらも、視線は店員の尻に集中し、遂には頭がテーブルより下へ降りていった。
「気に入った子がいれば……いつでもご指名を……一時閉店ですから……なんなら複数でも……」
 棚西の言葉に、頭を上げた幸村は親指を立てた。真実の人は箸を手にして、せめて自分は料理を楽しもうと心に決めた。


「ひどいんだよ肉が。ありゃアメリカ産だよ。近江牛なんて真っ赤な嘘だ」
 イズミールから見るエーゲ海は絶景である。少し緑がかった青を見ていると、醜い中年の下衆さも次第に薄まっていく。浜辺に寝転んで海を見つめる真実の人は、傍らに座る赤いドレス姿の劉慧娜(リウ・ヒュイナ)の膝に、そっと手を伸ばした。
「やだ……」
 彼女が口に手を当てたので、青年はなにかと不思議そうに見上げた。
「アル……なんか香水臭い……」
「あー……そうかも……一軒目のクラブでさ、やたらと接客の女が身体くっつけてきたんだよ」
 あの美咲という女も赤い服だった。しかし慧娜の赤は血を連想させる物騒さと緊張感があるが、あの女のそれは造花やネオンの赤しか感じられない。真実の人は慧娜の膝を擦り、「なんとかしたいな……」とつぶやいた。

 次の瞬間、旋風と共に二人が現れたのはビニールハウスの中だった。横になったままの青年は、やはり座ったままの彼女にここがどこであるのかを尋ねた。
「うーん……匂いを紛らわすのにオランダのチューリップ畑が絶対いいって思ったの。けど十二月じゃ咲いてないと思って……」
 確かに周囲にはチューリップが咲き乱れ、いい香りが辺りに漂っている。しかしそれにしても、ビニールハウスとはムードのない場所である。真実の人は上体を起こし、掌についた土を払った。
「これから……我慢……できそうかな?」
「してみせるさ……ロシアから弾頭を手に入れるまではせいぜい猫を被る……ノーパンしゃぶしゃぶだろうが、女体盛りだって美味そうに食ってやるし、下衆共を招くことだってな……」
 言いながら、真実の人は慧娜の膝に頭を下ろした。柔らかい感触を得られるのは嬉しい。出会ったころには想像もできなかった関係である。青年は両目を閉ざし、「ありがとう慧娜」とつぶやいた。

 ついにここまで来た。真崎実を始末し、糾合した残党を多摩川のマンションに幽閉し、ほとんどゼロからのスタートだった。藍田長助と出会い、青龍を発見し、慧娜とは戦いの中で互いを理解することができ、仲間も徐々に増え、ゴモラを手に入れることで企業から金を引き出すことにも成功した。
 またまだこれから先が長い。弾頭を手に入れた後は、我犬に最高の舞台を用意して、最終的にはこの国へ迫らなければならない。準備は未だ不充分であり、今後乗り越えていかなければならない壁はいくつも高く存在している。

 ノーパンごときで……いちいち悩んでられっかよ……

 決意は固かったが、それでも慧娜を求めて跳んでしまった自分がいる。まだ弱い。経験も鍛錬も不足している。真実の人は身体を縮こまらせ、細く長い指が頭を撫でてくれている感触に浸っていた。今は考えなくていい。そんな彼女からの合図なのだろう。なら、それに従おう。悪くない提案だ。

 ビニールハウスの雑然とした茂みの中で、真実の人は安らかな眠りに落ちようとしていた。


11.
「なぁ長助。どーして学校ってのは、大抵が桜なんだ?」
 塀の向こうにある桜の木を見上げた青年が、隣で煙草をふかしている天然パーマのもじゃもじゃ頭に尋ねた。満開まではまだ一ヵ月近く待たなければならず、桜の木には膨らんだ蕾が無数に見える。藍田長助は青年の問いに「しらね」と答え、今年の花見はどの面子になるかと連想した。
 春と言うには肌寒い三月のある日、真実の人と藍田長助は、学校を囲む塀の前で静かに佇んでいた。
「しかしもう卒業か……あっという間の三年だったなぁ……」
「ああ……成績も優秀だったらしいし、その点は春坊とは大違いだな」
「春坊? そういやどうしてる?」
「柏崎グループに張り付かせてる……弱味の一つでも握れりゃ大手柄だ」
「そっか……あの春坊もついに大仕事かぁ……そりゃ卒業にもなるよなぁ」
「な、なんか最近じゃさ……あいつも妙に色気が出てきたっつーか……なんかな……」
 長助は煙草を摘み、にやにやと笑みを浮かべてそれを小さく回した。
「変な気起こすなよ、長助……」
「わぁーてる!! そこんとこは自制するって!! 大体、俺たちゃ兄貴みたいなもんだしよ」
「けどさ……はじめて見つけたときも、綺麗だって思ったんだろ」
「ま、まーな……」
 忘れもしない六年前。夏も終わりかけの九月十日夜、昔なじみの奇術師の部屋を訪ね、しこたま焼酎の水割りを呑んだ後、マンションの廊下に出た藍田長助は半開きになっていたその扉になぜか注目してしまった。それはまだ、彼が真実の人と出会う前のことだった。
 恐る恐る扉を開けてみたものの、あまりにも中が静か過ぎていたため、余計に気になってしまった長助だった。アルコールに気分が浮かれていたせいもあったかも知れない。だが、床に横たわる彼女を見つけた瞬間、酔いはすっかり抜け、全身が硬直してしまったのを今でもよく覚えている。

 吸い殻を地面に落とした長助は、それをしっかりと踏みつけた。
「一人住まい用のアパートは借りてある……荷物も全部ジョーディーが運び込んだ……後はハウスにある私物を持って、入居するだけだが……」
 長助の言葉に、桜の蕾を見上げていた真実の人は視線を落とし、背中を塀に向けた。
「仁愛高校だろ? ほとんどトップの成績だったそうじゃないか」
「あ? 確か四番だったかな? まーとにかくこれからが大変たぜ……お前さんの指示はいつも通り抽象的だしよ……“仁愛に行って島守遼(とうもり りょう)をマークしろ”って……なんだよそれ」
「そのまんまだよ」
「島守遼ってのは誰なんだ? 同盟からの刺客か? それともどこぞの御曹司か?」
「どちらも外れ。いまはただの高校生だよ。まぁ……近々そうでもなくなるはずだが……もう少ししたらちゃんと説明する。お前にも任務で彼に接触してもらう可能性があるからな」
 “ちゃんと説明する”その約束をこれまで一度も破ったことのない真実の人であるから、長助はそれ以上の質問ができなかった。彼は五本目になる煙草を胸ポケットから取り出して、それを咥えて火を点けた。

 幽美とでも形容すればいいのか、うつ伏せになって目を閉ざしているその少女を見つけたあの晩、酔いもすっかり抜けた長助は彼女の足にまとわりつく一匹の鼠に気づいた。
 鼠は彼女の足を齧っていた。既に死んでいるのか、少女はぴくりともしなかったが、顔の近くの絨毯が僅かに揺れたため、彼はすぐに鼠を追い払い叫んだ。
 何度かの呼びかけで、ようやく少女は目を開け、たっぷりと時間をかけて身体を起こした。だが目の焦点も定まらず、なにも喋ろうとする気配もない。長助が次に感じたのは血の臭いだった。
 リビングは惨状と化していた。いや、惨状の片付け途中と言ったほうが正確である。家具や床、壁のあちこちが生々しい赤で染まり、破れた衣類が散乱し、中には小さな肉の塊らしきものも混ざっていたような気もする。正視できなかった長助が引き返そうとすると、背後で少女が呆然と立ち尽くし、その両目からは涙がぼろぼろと零れ落ちていた。
 事態をなんとなく理解した長助だったが、当時すでに詐欺師の道を歩んでいた彼は、警察に通報してその場から逃げ出すことしかできなかった。自分の名も告げられず、地獄に彼女を残すのは心が痛んだが、裏街道を行く自分には仕方のない決断だった。

 翌日の新聞報道で、長助は事件の全容も少女の名前を知ることになった。彼はそれから彼女がどうなったのか度々調べ、時には探偵に金を払って依頼することもあった。

 再び会ったのは半年後、三鷹の孤児院に預けられたと知り、尋ねていった冬のある日だった。
 喋ろうとしないらしい。窓際で静かに佇む彼女が誰の交流をも拒んでいると、殿田と名乗った責任者の中年女性が説明してくれた。
 ゆっくりと近づき声をかけ、振り返って見上げた彼女は凍っていた表情を驚きに変化してくれた。どうやらこちらのことは覚えててくれたようである。
 その日以来、長助は何度も三鷹の孤児院へ足を運び、やがてその事情をこの白い長髪の青年に説明し、紆余曲折を経てFOTのエージェントとして引き入れ育て、ついにこの日、中学の卒業式である。セーラー服がよく似合う美しい少女に成長した。高校はブレザーらしいが、それもまたよく似合うだろう。男は塀の内側が騒がしくなったのに気づき、煙を吐き出した。
「そろそろかな……長助」
「あぁそろそろだ……」
 この青年は、彼女に苛酷な任務を負わせると言っていた。これから勝ち負けをたくさん経験して強い子になって欲しいと言っていた。どうにも納得がいかない話ではあるが、当の彼女がそれを望んでいるとあっては説得のしようもない。それに昔は「藍田さん」と呼んでくれたのが、最近では「長助」である。鬱陶しがられているし、ついつい調子にのって下品な態度を見せてしまっているのが原因だが、「真実の人」と呼ぶ際の彼女は目も潤みがちであり、どうやら正直者に育ってしまったようである。まあいいか。俺たちに嘘をつかないってのは有り難いことだ。
 正門から卒業証書を持った生徒たちが出てきた。その中で、一際美しい少女を見つけた真実の人は、大きく手を振った。
「理佳!!」
 青年の叫びに続き、長助も煙草を咥えたまま同じように手を振った。また出遅れた。いつもこうである。この青年は出し抜くし、本人にその自覚はないときている。
 セーラー服姿の少女が真っ直ぐに駆けて来た。満面に笑みを浮かべている。あれは青年に向けているのだろうか、それともまさか自分に対してか、いや、両方に決まってる。長助はそう思い込み、真実の人に続いて蜷河理佳(になかわ りか)へ向かって駆け出した。

12.
 少年が路地を歩いていると、何度も血相を変えた人々とすれ違った。いまこの状況において、代々木駅前を目指して歩く者、つまり自分と同じ向きで歩く者など皆無である。少年は自分だけが特別な存在のような気がするため、少しだけ心地がよかった。
 みんな向かってる。そう、死んでしまったのに、遺体すら泡と化してなにも残っていないのに、殺到している。確かめようとしている。渦の中心に向かって飲み込まれている。
 安心したいのだろう。もう恐怖は去った。これからは平和が訪れると信じたいのだろう。そう、いまはそれでいい。しばらく混乱は続くが、やがてまた穏やかな日常に戻る。そしてその後、なにが待っているのかは自分にもまだよくわからない。破壊か、再生か、進歩か、永遠の停滞か。これからゆっくり考えよう。
 まずは拠点の確認を急がなければならない。少年は歩きながら懐よりサングラスと小型端末を取り出した。これには同盟本部に報告されている、この国のすべての拠点位置が記録されている。だがどうせあの男はロクに報告もしていないだろうから、虎の子となるとそれなりの手段で探し出さなければならない。それは後回しにするとして、まずはわかっている場所だ。どこに跳ぶ。この市ヶ谷がいいか。それともこんな都心のはとっくに政府の手に落ちているか。まあいい。移動に一切の制約はない。自由にどこだって跳べる。彼はサングラスをつけ、地図が表示されている液晶画面に注目した。

 強い衝撃が黒衣の少年の裏膝を打った。バランスを崩した彼は、予測していなかった自分と同じ向きの突撃に意表を突かれ、端末を落とさないように懸命だった。
「あー!!」
 目の前で、振り向きながら小さな少女が声を上げた。髪を両サイドで結んだ、まだあどけない子供である。スモッグのようなデザインをした桃色の服が幼さを気際立たせているようでもあり、抱えている買い物袋がアンバランスなまでに大きかった。
「ご、ごめんね!! だいじょーぶ!?」
 駆け寄ってきた子供を、少年は手で制した。
「あ、ああ……驚いただけさ……なんてことはない」
「よ、よかったぁ……」
 その少女は嬉しそうに安心して、胸に手を当てていた。そう、いまはそうしてほっとしているがいい。このころは平和で自分も幼かったと振り返ればいい。少年は崩していた体勢を元に戻すと、紫色の唇に笑いを浮かべた。
「なんで君はみんなと同じに廃工場に行かない?」
 なんとなく少年がそう尋ねると、少女は買い物袋を何度も叩いた。
「おつかいなの!! ママってば忘れっぽいから、卵を買いに行かなくっちゃならないの!!」
「へぇ……けど、向こうじゃ大騒ぎだぜ……いいのか?」
 少年は背後に親指を立てて促し、少女は背伸びをして自分が駆けて来た方角を見た。
「なにがあったの?」
「真実の人が自殺したんだ。みんなひと目見ようと廃工場に集合さ」
「知らない!! わかんないから、玉子買いに行かなくっちゃ!!」
 少女はそう告げると、その場から駆け去っていった。なるほど。あそこまで幼いと、真実の人も“知らない”“わからない”で一蹴か。少年は可笑しくなってしまい、その場でしばらく笑った。
 それにしても気をつけなければ。今の少女が敵であれば、自分は殺されていてもおかしくない。彼は気を引き締め、じっと少女の背中を見つめ続けていた。

 戦いは終わらない……それが真実だ……

 真崎の躯に投げた言葉を、少年はもう一度心の中でつぶやいた。まだ、彼はそう信じていた。
 正面から駆けて来た人々は、期待と恐ろしさの入り混じる、そんな単純ならざる気持ちを隠すこともなく、混沌としたまま通り過ぎていく。だから少年は、サングラスを外して赤い目を細めた。

 一九九七年。それは秋の出来事だった。

番外編・その二「1997年 アルフリート真錠 16歳 秋」おわり




あとがき
 番外編・その二はお読みいただいたように、十本の小編を真崎実殺害のエピソードで挟むという、これまでの『遼とルディ』にはない構成となりました。これは三代目を番外編の主題にしようと決めた際に思いついたもので、細切れのエピソード集だから簡単にいくだろうと高をくくっていたのですが、実際打ってみるとそれぞれに頭とオチをそれなりにつけなければしっくりとせず、(オチのついてないエピソードもありますが)ボリューム的に当初の予定を大幅に上回る結果となってしまいました。まだまだ三代目に関しては語られていないエピソードが多々あるのですが、それはいずれ本編などでも明らかになると思います。
 ご存知の方も多いように、三代目は「MARICA」のラストに出てきたあの妖美な少年です。分岐によっては見ていない方もいるとは存じますが、オープニングに登場するあの彼と言えばおわかりになるかと思います。
 真実の世界2ndの構想は当初、島守遼とこの三代目を軸に作り上げる予定でした。しかし七年の歳月を経て、様々な考えの変化もあって、現在の内容となっています。
 エキセントリックで中性的な少年を想定していたのですが、今ではすっかりラーメンと冷酒を愛する青年に変わってしまいました。そのおかげで、彼のことを打つのが楽しくなりました。いまでは出番を意図的に減らしたりして、主人公たちを食いすぎないように調整する有様です。

 本編はようやく折り返し地点まで到達し、残り半分の物語で遼とルディ、そして三代目の物語は完結する予定です。おそらく今後は更新ペースも前のように月イチかそれ以下になってしまいそうなので、いつまでにと期間を明示できませんが、気長に付き合っていただければ幸いです。

2005年11月26日 遠藤正二朗