真実の世界2d 遼とルディ
番外編・その一「1995年 タバサ・エディソン 30歳 春」
1.
 舞台の上で行われているそれを頭に入れるつもりはない。だからもし、今夜の歌劇「メフィストフェレ」の内容を後に尋ねられたとしても、「独唱が耳障りだった」などと的外れな感想を口にしてしまうのだろう。
 白いイブニングドレスは胸元を強調したデザインで、隣に座る彼の視線がそこに集中していることがよく感じられる。たぶん、この男もボックス席の下で繰り広げられているオペラの内容など、まったく頭に入っていないのだろう。
 彼女は既に計画の半分以上がうまく運んでいることを確信すると、ブロンドをそっと手で梳き上げ、最後の詰めに取りかかることにした。

 薄い膜が、もう何時間も前からまとわり付いている。

 誰にも見えない、感じることが出来ない、彼女だけが知る、そんな膜である。
 だから全てに対して膜越しである。鈍く、曖昧でいられる。

「喉が……乾きませんこと?」
 正統派の王室英語で、彼女が隣の男、劉済棠(リウ・ジタン)にそう尋ねると、だが彼は胸へ向けた視線を動かすことなく小さく頷き、ボックス席の後ろに控えていたスーツ姿の男に右の人差し指で合図をした。

 あと十分もしないうちに、自分とこの男との関係も終わる。

 最初の出会いはローマのサンピエトロ広場で、でっぷりとした醜い身体を赤いスーツに包んだ彼を見た瞬間、彼女はこの仕事がいつも通りのロクでも無さだと辟易とし、だが表情には貴婦人の微笑みを絶やすことなく、だからこそあの接触は成功したと思える。
 この男は自分の美しさに魅了され、会う度にその野卑な欲求を高めていくだろうと予想し、ドレス選びもそれに合わせて工夫したつもりである。だから三度目の今晩は、特に刺激的な一着を仕立てさせた。

 ふん……ようやく本懐だ……今夜こそって……こいつぁそう思ってるんだろうね……ったくさ……
 体躯同様の、肉付きが良すぎる彼の顔を一瞥した彼女は、口の中で“ブタかよ”とつぶやき、長い睫を強調するように何度も瞬きをした。

 スーツの男がワインとグラスを手に、ボックス席へと戻ってきた。この男が次にとる行動は明白である。栓を開け、グラスに透明の白ワインを注ぎ、それをまずはこちら、次に劉済棠の順で手渡し、後ろに下がる。
 もしこの男がただのボーイであれば、仕事はずっと簡単であり、少しはオペラに関心を向けられるのかも知れない。だが、ワインの栓を抜く彼は紛れもなく劉済棠のボディーガードであり、ここ数日の観察でその実力と装備はよく理解できている。だから、慎重に詰めていく必要がある。彼女は遂にやってきた瞬間に緊張し、小さく息を吸い込んだ。

 最初に彼女を目にしたとき、劉済棠はまず諦めることから始めていた。
 今回のローマ、イタリア滞在は二週間程度のゆとりしかなく、そのような短期間でこれほどの貴婦人を手中にすることは難しいと観念していた。
 財産はある。だが、自分のような醜男ならば、やはり交渉には時間がかかるというものだ。いきなり札束を運んでも、相手は悪い冗談だと笑うか軽蔑するかのどちらかである。
 だが、サンピエトロ広場で彼女は自分から声をかけてきた。最初の食事はその晩であり、話を聞くと、彼女が外見から想像できるような財力を持っていたのは昨年までのことであり、亭主の事業失敗と自殺をきっかけに、現在ではその日の金利にも難儀しているという。更に身の上に踏み込んでみると、亡き夫との結婚以前はロンドンの豊かとは言えない家で育ち、人に金を無心する両親の様をよく見ていたと涙ながらに語り始めた。
 ボディーガードのリカルドは当然のことながら警戒を促した。だからこそ商会本部へ調査も依頼したし、翌日には彼女の話が全て本当であることも判明した。

「法王のお膝もとでスポンサー探しなど。神をも恐れぬ所行ですな?」
 冗談まじりにその日の晩、彼女にそう尋ねてみると、「見放した神に今更なんの恐れがございましょう。それより私は生きるために、神に近い方々の力をお借りしたい、そう思ったまでのことです」と、蝋燭の揺らめく食卓で指を組み、ゆっくりと落ち着いた口調で返事をした。

 唇の赤さが、卑猥だ。この女は、強い。

 劉済棠はそう直感し、単なる肉体を目当てにした接近を、もう少しだけ複雑に楽しもうと心に決めていた。
 だが、まずは身体である。今年で三十になると言うが、冗談ではないほどのスタイルである。注がれたワイングラスをボディーガードのリカルドから受け取った彼は、彼女の胸元から腰へと視線を下ろし、これから先の夜をたっぷり楽しもうと唇の両端を吊り上げた。

 案の定……誰も……見ちゃいない……

 中指の先から、白い粉がグラスに落ちるのを知る者は彼女だけであった。

 指の爪に仕込んだそれが、もし劉済棠のグラスの中へこぼれ落ちようものなら、彼はともかくそのガードが気付かぬはずはない。だが自分が手にしたグラスを注目する者は皆無であり、ほとんどの仕事を終えたと確信した彼女は、「劉様……」と鼻にかかった声でつぶやいた。
「な、なんですかなミセス……」
 粉がアルコールと融合し、完全なる化学変化を完了させた。グラスの中の僅かな泡の動きで彼女はそれを察知し、意を決した。
「あ、あ、あぁ……」
 手元を滑らせ、グラスを彼女は劉済棠に向かって放った。中の白ワインは彼の胸元に広がり、グラスは床の絨毯へ落下した。
「ご、ごめんなさい!!」
 彼女は慌てて傍らのハンドバッグを手に立ち上がり、劉済棠へ近づこうとした。しかし二人の間へボディーガードのリカルドが割って入り、懐から取り出したハンカチで、主の塗れたワイシャツを拭った。
「だ、大丈夫ですか劉様!?」
「あ、ああ……驚いただけだ……」
 リカルドに胸を拭かれながら、劉済棠は彼女へ笑顔を向けた。彼が少年の頃ならば、ここの醜悪な笑みも子豚のように可愛らしいと感じることができたのだろうか。そんな奇妙な思いを抱きながら、彼女は席に座らないまま、「換えのグラスをフロントに申してきますね」と告げ、ボックス席の扉を開けて廊下へ駆け出た。
 あまりに淀みのない挙動である。リカルドは彼女の鮮やかなる退席に違和感を抱き、それは数瞬で疑惑へと進化を遂げた。

 追跡するべきか。彼がその思いに腰を浮かせた直後、主の巨体が一度、大きく跳ねた。
「劉済棠!!」
 座席で背中をバウンドさせた後、劉済棠は口から大量の鮮血を吐き出し、それはボックス席から天井桟敷へと飛び散った。
 死に直結する出血。そう直感したリカルドは主の両肩を掴み、もう一度その名を叫んだ。

 通路を行く彼女は、扉越しに大量の拍手を耳にした。アリアでも終わったのだろう。まるで、自分の仕事を褒め称えてくれるような、そんなタイミングである。もう、終わっただろう。そう確信した彼女は、止まない拍手に送られるように、正面ロビーから外へ出た。
 あの毒は、特に効きが早い。だから苦しむのも短かっただろう。ブロンドを春の風になびかせながら彼女はそう思い、だが仕事は逃走を完了してはじめて終了であると、そんな師の言葉をふと思い出し、小さく舌を出した。

 けどね……あたしゃミラノから動かない……それがあたし流のやりかたってね……

「メフィストフェレ」とはどのような歌劇だったのだろう。けど、二度と見る機会はないだろうな。出した舌で唇をぺろりとひと舐めした彼女は、ハンドバッグを回して肩に引っ掛けた。

 最初にふっくらと広がり、やがてまとわり付いてきたあの膜は、いつの間にかまったく感じられなくなっていた。
 広場から吹いてくるのは冷たい風である。そう思える感覚が戻ってきたのだろう。仕事は成功だ。彼女は目を細めると、正面入り口から夜のスカラ広場へ向かって駆け出した。

 ミラノ市中央、メルカンティ広場は今朝も市民や観光客で賑わい、その一角にあるオープンテラスの円形テーブルで、彼女は一人頬杖をつきつまらなそうに新聞を眺め、エスプレッソを啜り、体内に残っているアルコールをできるだけ中和しようと努めていた。
 二日酔いにはコーヒーよりグレープフルーツジュースである。アルコールを分解した結果生じるアセトアルデヒドを更に分解するにはビタミンCが効果的であり、それにはグレープフルーツが効率よい。知識として、経験として彼女は熟知していたが、柑橘系はとても口にする気になれず、苦味がぼんやりとした意識を少しだけ刺激した。

 スカラ座で突然死。死因は急性胃炎か?

 新聞の片隅にひっそりと掲載されていた、昨晩起きたスカラ座での事件記事に目を通した彼女は、もう一度琥珀色の液体で口の中を潤わせ、中々すっきりしてくれない意識の回復に励んでいた。

 赤毛をお下げにし、度の強そうな黒縁眼鏡をかけた彼女は、服装もベージュのワイシャツに洗いざらしのジーンズ、少しよれた鼠色のジャケットといった野暮ったさであり、不機嫌が張り付いたかのような仏頂面は、他人を寄せ付けない険しいムードを醸し出していた。
 昨晩、スカラ座のボックス席にいたブロンドの美女と、この男のような服装をした赤毛の彼女は、物理的にもその精神世界においてもまったく同一の個人である。
 しかし他者からは別人としか認識できないであろう。ブロンドの貴婦人と時を過ごした劉済棠が生きていたとしても、おそらくはこの赤毛で不機嫌さを醸し出すこの女性を彼女と見抜くことは不可能である。
 「見抜かれるはずはない」彼女も自分の変装技術に絶対の自信を持っていた。だからこそ、事件現場からそれほど離れていないこのテラスでぼんやりすることもできる。

 色気を目的に彼女へ声をかけるイタリア男は稀であろう。もしそのような物好きがいたとしても、この黒縁眼鏡は無視を決め込むだけであり、男がしつこければ強烈なる反撃が待っているだけである。

「あたしゃ朝が弱いんだ!! いいかげんにしとくれ!!」

 エスプレッソをひっかけてやろう。あまりにもうざったい猫なで声に、左手首が返された。しかしカップの中にはもうなにも残っておらず、あぁ、それにしてもまだ寝ぼけている、と彼女は仕方なく、先ほどからずっと声をかけてきている男を睨み上げた。

 身長は190cm以上あろうか。紫色のスーツに身を包んだその長身はどこかひょろりとして、だが頼りないというほどではなくい。ピンクのワイシャツは第三ボタンまでが外され、胸毛のはみ出たそこからは、オーデコロンの香りが漂っていた。
 イタリア男か。しまりのない彼の顔を、女は眉を顰めて睨み上げた。なるほど、しつこいだけではない。この男は只者ない。少なくとも“まとも”な世界に生きる者ではなく、自分と同じ側の人間だ。男の佇まいから、奇妙な親近感を即座に覚えた女は、テーブルにカップを置き、視線を前に戻した。
「確認? それとも残金の支払い報告か?」
 彼女の英語に、男はややぎこちない同国語で、「怖いな……まだ気持ちが昂ぶっているのかな? まさかな」と答えた。
「それが返事?」
 彼女は頬杖を止め、背もたれに体重を預けて腕を組んだ。すると男は、「失礼。エヴァンス夫人」と言い、対面の椅子に腰掛けた。
「誰が座っていいって言ったかな?」
 エヴァンス夫人。そう呼ばれた女が男に対し、不機嫌そうに言った。
「ふむ……」
 だが男は腰を浮かすことなく、彼女の仏頂面をまじまじと眺め、顎に手を当てた。
「なんなの……?」
 どうにも調子が狂う。この手の男は苦手である。彼女はさてどうしたものかとティーカップに手をやり、二度目になる空のカップへの依存に、自分らしくもない失敗だと大きなため息をついた。
「エヴァンス夫人とこうして出会えた幸運に震えている……といったらキザになるかな?」

 バカかこいつ……俳優気取りかね……

 彼女は真顔でそのようなこと言うこの男に呆れ、だが間違いは訂正するべきだと思った。
「男……エヴァンスは結婚前の旧姓だ。今の私はタバサ・エディソン。だからエヴァンス夫人というのは間違いだ」
 タバサ・エディソンの指摘に、男は大きく瞬きを返した。
「えっと……エディソン……エアヴァンス……? え、えっと……」
「面倒ならE夫人で結構。物覚えの悪い輩の間……失礼、同盟などではそれで通っている」
 どこか投げやりなタバサ・エディソンこと“E夫人”の言葉に、男はしまらぬ顔をいっそうニヤ付かせた。
「その通り名は知ってるけどさ……なーんか……実物を見たら失礼かと思ってね」
 あくまでもキザな態度を崩さない男は、じっとE夫人を見つめた。

 やっぱり……同盟の使いか……

 自分の直感が正しかったと判断したE夫人は、人の悪そうな笑みを男へ向けた。
「素顔の私に……失望したかな?」
 E夫人は自嘲気味にそう言った。しかし男は見つめることを止めず、テーブルの上に両手を乗せた。
「お袋にそっくりなんで幸運だと思うよ……悪くない」

 なんだこいつ……朝から……どーゆーの……

 暗殺の現場に近い、このミラノに滞在し続けるのは自分のなりの危機対処方法であり、依頼主がまだこちらに用があるのなら、もっと間を置いた、例えばイタリア国外に出た後でもよく、更に言うなら呼び出しても構わないはずである。
 危険地帯であるはずのミラノに現れた、今回の依頼主である賢人同盟のエージェントであろうこの男は、まさか仕事の件ではなく本気で口説くために現れたのか。だがE夫人はそんなたちの悪い想像はすぐに止め、男から視線を逸らした。
「イタリア男の口説き文句はいっつもそれね」
「僕なりの……アレンジをしたつもりなんだけどな」
 残念そうに言う男の声が震えがちになっていたので、E夫人はようやくこのやりとりが冗談であると決めつけてしまい、視線を再び彼へ向けた。
「名前は?」
 なるほど。そういうことか。男は夫人の真っ直ぐで冴えた目に、馴れ合いへの拒絶を感じ、そろそろ真面目に仕事をするべきだと諦めた。
「プラティニ・カッシネリだ。あらためて初めまして。E夫人」
「用件を聞こうか」
「まず依頼の達成に関して礼を言いに来た。残金は口座に振り込まれている」
「そうか……しかしそれだけのことで、わざわざ?」
「次の仕事を頼みたい」
 先ほどまでとは変わり、男の表情はわずかに引き締まっていた。案外ハンサムかもしれない。そう感じながら、E夫人は意外なプラティニの申し出に戸惑った。
「珍しいのね……連続なんて」
「急を要する仕事だ……あなたにしかできない」
「殺し?」
「無論」
「どこで誰をいつまでに?」
「日本国。茨製薬もと部長、広瀬俊明……できるだけ早急に、報酬額は現地にて決定」
 質問より一つだけ多く情報を付けたし、プラティニは険しい表情でテーブルの上で指を組んだ。
 自分もこの仕草をやることがある。大抵は仕事相手に自分の本音を悟られないためのごまかしなのだが、この男はおそらく嘘をついてはいないだろう。
 だとすれば腑に落ちないことが一つある。E夫人は背もたれに肘をかけ、長い脚を組んだ。
「報酬額が現地とは……どういうこと?」
「日本には同盟の下部組織が存在する。まずはそこと接触し、連携の上で仕事をしていただきたい。今回のクライアントは我々同盟ではなく、その組織ということになる」
「組織名と場所は?」
 夫人の問いに、プラティニは声のトーンを一段下げた。
「真実の徒……鹿妻新島にあるアジトまで、釜山から李建宇(イ・ゴンウ)の船で向かってくれ」
 また一つ情報を追加した。このプラティニという男のクセなのだろうか。E夫人は小さく微笑み、「わかった……引き受けよう」と返した。
「ありがとう夫人……」
 プラティニは席から立つと右手を差し出し、夫人も腰を浮かし、それに応じた。
「タバサ……さっきのさ……挨拶がてらの冗談ってわけじゃないんだぜ」
 握手を交わしたのと同時に、プラティニは囁くようにそう言った。
「ファーストネームは、死んだ亭主にしか呼ばせない……それが承知できるのなら、仕事の後、会ってあげてもいいわよ」
 すっかり朝の眠気も醒めたのか、E夫人は凛とした声でプラティニに言った。彼は一瞬だけ片眉を吊り上げると視線を泳がせ、彼女をじっと見直し、「Si」と短く返した。
2.
 劉済棠暗殺の報酬は、前金と後金で総額約200万ドル。準備期間を含め費やした期間は一ヵ月であるから、労働の報酬としては決して悪くない。しかも今回のクライアントである賢人同盟は組織力も高く、こちらが要求した情報操作や記録の改竄なども格安で、確実に行ってくれる。
 事業に失敗した夫を持つ未亡人。このような設定を現実にし、劉済棠と彼の後ろ盾である商会の情報網を見事に出し抜いた同盟は、今後も大切にしたい依頼主である。
 だからこそ、連続暗殺という精神的にも肉体的にも無理が生じそうな依頼も受けなければならない。E夫人は後しばらくはヨーロッパ各地をのんびりと観光でもしようと思っていたが、数日後釜山港に到着し、同盟の指定する小型船と接触、翌日には鹿妻新島の港まで移動を完了させていた。

 小型船の乗り心地は最悪だった。大抵のことでは船酔いなどしない自信があったが、日本の領海内に入る頃には、船長である李建宇という男に背中を擦られ、大量の胃液を吐き出してしまった彼女である。鹿妻新島の他に一隻も停泊していない港で、彼女はその大地を踏みしめ、安定していることはなんと素晴らしいかと感謝していた。

 鹿妻新島。伊豆南端より200km、八丈島の西80kmに位置するこの島は、十三年前の地殻変動によって海面に浮上した離島である。三年前、観光開発を名目に外資系企業複数社が資本を投下し、大規模な工事が進められたものの、経営母体の業績悪化を理由に昨年初頭に開発は中断、作業者も引き上げ、現在は無人島となっているはずの小さな孤島である。
「にしても……開発途中とは聞いていたけど……放置されっぱなしもいいところだね」
 黒縁眼鏡をかけ直し、E夫人は港周辺を見渡した。骨組みがむき出しになったビル、中身もなく、シャッターが開けられたままになっている倉庫、ビニールのカバーが付けられたままになっている信号機など、港から見ただけでもこの島の惨状はよく理解できる夫人だった。
「あんたらが、だから買い上げたんだろ。アジトにゃ好都合だもんな!!」
 小型船の甲板から、船長の李建宇が大声を張り上げた。なんという聞きづらい英語だろう。出港してからずっとそう思っていたE夫人は、顰め面で振り返った。
「あたしは外注。同盟とは違う」
「そっか。そりゃ、悪かったな。まーとにかく、終わったらまた迎えに来るからよ!!」
 李建宇は五十代の大男であり、手足、首、胴体と全ての周りが太く、いかにも海の男といった頼もしさをE夫人は感じていた。
 しかし、それにしてもこんな廃墟のような島に、賢人同盟の下部組織がアジトを構えているのだろう。背後で出港の準備を始めた李に注意を向けながら、彼女はあらためて辺りを見渡し、ドクターバッグの持ち手を強く握り締めた。
 すると、倉庫の陰から人の姿が現れ、それはこちらに向かって真っ直ぐに歩いてきた。
「お待ちしておりましたE夫人……ようこそ真実の徒へ……」

 短いスカートだな。こんな潮風でそれは余りにも無防備じゃないのか。やってきた少女の服装に、夫人はふざけた印象を受けた。
 青いスーツにネクタイ、パッドの入った両肩は大きく膨らみ、スカートはミニと言ってもいいほどである。長く暗い紺の髪は自分の赤毛などよりずっと丁寧に手入れをしているようで、さらさらのそれが潮風で揺れる度、その少女は白い手で髪を抑えていた。
 十代半ば、国籍は北欧、いや、東欧か。E夫人が少女を観察していると、彼女は胸に手を当て、ゆっくりと頭を下げた。
「どうぞこちらへ……ご案内いたします」
「わかった……お前は?」
 E夫人に問われた少女は頭を上げ、大きな瞳を向けた。
「ガリーナと申します……以後、よろしくお願いします」

 ロシア系か、それにしても聞き取りやすい英語だ。悪くない……

 廃墟の中から現れた案内役に、E夫人はようやくこれで落ち着けると思い、小さく微笑み返した。

 四車線の車道には車の姿が一台もなかったため、E夫人とガリーナは片側車線を並んで島の中央へ向かって歩いていた。
 こうして歩いている最中に、間を埋めるためにこの少女が話しかけてきたら、それはそれで面倒だと夫人は考えていた。無駄口など叩きたくない。仕事に関係のない話は意味がなく、天気の話題など振られても彼女は無視をしようと決めていた。
 しかし、並んで歩くこのロシア人の少女はずっと黙ったままであり、この十分ほどの道中で彼女が発した言葉は、最後に立ち止まった際の、「あちらです」の一言だけだった。
 車道がY字に別れ、その右側はトンネルとなっていて、さらに上を見ると建設途中で放棄されたビルが無骨な姿を晒している。少女が指差したのはトンネルだったので、E夫人はそこがアジトの入り口であると理解した。
 トンネルを入りしばらく歩いた後、立ち止まったガリーナは何もない壁に向かい右手を当てた。するとコンクリートの壁が微動し、鈍い音とともに彼女の対面の長方形部分が奥に下がり、左にスライドした。

 なんとまぁ……映画だね……こりゃ……

 隠し扉の向こうに階段を発見したE夫人は、賢人同盟の下部組織であるこの「真実の徒」が、なにやら絵空事の世界に存在する集団のような気がし、そんな想像に彼女は苦い笑みを浮かべた。

 階段はかなりの距離があり、五分もかかって下りきった先は、灰色の廊下が続いていた。照明は暗すぎず明るすぎず、空調の効いた無臭のアジトはどこまでも人工的な冷たさが漂っていた。
「さて……どうするのかな?」
「はい……今回の仕事について……真実の人(トゥルーマン)よりお話がございます」
 真実の人(トゥルーマン)。その名前を耳にしたE夫人は首を小さく傾げ、ガリーナはそんな彼女の挙動を見逃さなかった。
「二代目です。おそらく……あなたの知る真実の人とは異なります」
「でしょうね。あの人はドイツにいるはずだし……」
 E夫人はガリーナの説明に納得し、彼女の促しに応じて廊下を歩き始めた。すると、角を曲がったその先に、小さな影がぽつりと佇んでいた。

 子供……か……?

 組織のアジトで見かけるにはあまりにも場違いな、それはまだ幼い少年の姿であった。分厚い毛皮のコートは身体に対して大きく、両手は後ろに回し、よく見ると赤ん坊を背負っているようである。兄弟か、それとも兄妹か。いずれにしてもモンゴロイド系の、大人しそうな印象の子供である。ますます妙だ。そう思ったE夫人は足を止め、少年を見下ろした。
「なんだ……これは」
 傍らのガリーナに尋ねるように、E夫人は少年を指差して言った。すると彼は大人しい表情に険しさを浮かべ、口を真一文字に結んだ。
「訓練中のはずでしょ……なんでここにお前たちがいるの?」
 ガリーナの問いに、だが少年は答えることなく彼女を見上げ続けていた。
「そう……もう終わったのね。なら次のプログラムを始めていいから……ベックはまだ疲れてないんでしょ?」
「ベックは疲れることはない。そう言ったのはガリーナ様だ」
 ぶっきら棒に、言い放つように。少年の英語はたどたどしく、E夫人は少女と少年の関係を何となく理解し、半歩だけ後ろに下がった。
「次のプログラムを消化なさい……いいわね」
 言い聞かせるような、そんなガリーナの言葉に、少年はゆっくりと頷き、すれ違って歩いて行った。
 詮索は面倒な結果を生む。E夫人はガリーナが案内を再開するのを静かに待ち、少年に気を留めることはなかった。


「よく来てくれたE夫人。噂はかねがね聞いておるぞ!! 私が真実の徒を率いる真実の人(トゥルーマン)だ!!」
 小柄な体躯は日本人男性にしても標準体型以下であり、黒いスーツ、臙脂(えんじ)のワイシャツ、ピンクのネクタイといったコーディネートは色彩感覚を疑うセンスである。オールバックにした髪もどこか胡散臭く、E夫人にとって彼の第一印象はあまりよいものとは言えなかった。
この部屋にしても、赤い絨毯に赤い天井と、圧迫感に満ちた配色であり、彼の背後には壁一面にディスプレイが埋め込まれていて、全ての画面が別々の番組を映し出していた。

 なにか……狂ってる……これは……遊んでいる……?

 そんな奇妙な違和感を抱きながら、E夫人は軽く会釈をし、ビジネスを進めるべきだと気を取り直した。
「はじめまして……真実の人(トゥルーマン)」
 日本語はあまり得意ではないが、クライアントが使う言語にはできるだけ合わせておきたい。そんな主義から、彼女はぎこちない日本語でそう返した。
「本来ならば我々の手で解決するべき問題なのだが、より安全で確実な結果を得たいのもまた事実……そこでそなたに依頼と相成った。同盟からの強い推薦もあったのでな……作戦の詳細に関してはこちらのフランソワーズくんに聞いてくれ」
 真実の人は、傍らでじっと佇む一人の白人女性をE夫人に紹介した。灰色のスーツ姿の彼女は小さく一礼し、表情を崩すことなく言葉も発しなかった。
「真実の人……同盟からは報酬額に関して、現地で決定するとのことだったが……」
 E夫人は最も先にしておかなければならない質問を、ストレートにぶつけてみた。すると彼は顎に手を当て、満足そうな笑みを浮かべた。
「おぉそうだな……金ずくで人を殺めるのが暗殺プロフェッショナル。報酬額を決めなければ何も始まらんな!!」
 芝居がかった遠まわしな言葉を、実に楽しそうに大声で部屋じゅうに聞こえるように叫ぶこの中年男性が、本当に「真実の人」の名を継いだ者なのか。夫人は彼を凝視し、だが傍らのフランソワーズと呼ばれた白人女性も、自分の隣で目を伏せるガリーナも、この部屋にいる彼以外の誰もが無表情のままであり、それが不気味だった。
「どうだね夫人。指二本といったところで」
 真実の人は右手でVサインを作り、それを夫人に突きつけた。

 指二本って……一体いくらなんだよ……単位がわからないじゃないか……

 E夫人は苛つき、疑問は率直に口にするべきだろうと意を強くした。
「二億……円と言うこと?」
「う、うむ……そうだ……二億円だ……」
 ケレンを拒む夫人の硬い態度に、真実の人は興を削がれるような気がして言葉を詰まらせた。

「資料はこのファイルに全て収められている。まずは目を通して欲しい」
 真実の人が部屋から出て行った後、E夫人はフランソワーズからファイルを手渡された。
「わかった……読んだ上で質問があれば、あなたにすればよろしくて?」
「ああそうだ。私は真実の人から一切の作戦を任されている」
 抑揚のない、まるで機械の発するような日本語である。表情も硬い、というよりは無表情が張り付いた面のようであり、先ほどの男とは対照的であるとE夫人は感じた。
「それと……貴様には今回の作戦で二名の工作員を付ける。雑務、実務と自由に使ってくれ」
「それは助かる……日本での殺しは一度しか経験がない……」
「以上だ。ガリーナ、彼女を部屋に案内してあげて」
 その指示に、ガリーナはうやうやしく頭を下げた。フランソワーズは一度だけ頷くと、夫人を一瞥することなく、真っ直ぐな視線を逸らさずに部屋から出て行った。
「あたしの部屋があるのか?」
「はい……このアジトには空き部屋が多いので……」
 あらためて夫人は思った。このように近代的で広大なスペースのアジトを構え、この組織は何を目的としているのだろう、と。上部組織である賢人同盟は、そもそもある特定の人種の利益を追求するために結成された組織だと聞く。もっとも現在ではそれも形骸化し、自由主義圏の繁栄を守り、発展に協力する組織に変容していると、彼女の生きる裏の世界ではそう定義されていた。日本国は自由主義圏の一員であるわけだから、その監視機関であるはずのここが大規模なのはどうにも納得がいかない。もちろん、ここが極東方面一帯をカバーしているのなら話も少しは理解できるが、中国にも同様の組織が存在し、その推論は前提として当てはまらない。
 ガリーナに続いて廊下を歩きながら、夫人は少し警戒しておく必要があるだろうと、まずは単純に結論づけていた。


 夫人が案内された部屋は十二畳ほどの広さがある客室で、ベッドやテーブルのほかに、端末などの事務機器も一通り揃っていた。
「あちらの扉がバスルーム……食事はそちらのコールフォンで申し付けていただければ、三十分以内にお持ちします」
「ありがとうガリーナ」
「いいえ……」
 悪くない環境である。先ほど生じた不信感はともかくとして、これでようやく落ち着けると思った婦人はドクターバッグを床に置き、ベッドの縁に腰を落とした。
 やっと生じた精神的なゆとりからか、彼女は少しだけ無駄な言葉を交わしてみたい。そんな欲求を機器のチェックをしていたガリーナに抱いた。
「あなたはこの組織にいつから?」
「幼い頃からです」
「そう。今はどんな仕事をしてるの?」
「それは言えません……私の任されている部署は、この組織でもシークレットな技術を用いています。ですので申し訳ございません……」
 バスルームの扉を閉ざし、ガリーナは困った笑みを夫人へ向けた。
「謝ることはない……あたしは外様なんだし。それにしても……若そうに見えるけど、大きな仕事を任されてるのね」
「相性が……いいみたいです……」
 仕事の、という意味だろうか。E夫人はガリーナの言葉を完全には理解することができず、だが彼女が点検を一通り終え、部屋から出て行こうとしていたので引き止めることなく、疑問は胸の中に留めておくことにした。

3.
 ベッドに横になったE夫人は、器用にジャケットを脱ぎ捨てると先ほど受け取ったファイルを手に取り、寝たままの体勢でそれに目を通し始めた。

 茨製薬もと部長、広瀬俊明。四十八歳、男。大学卒業後のプロフィールが書かれたその横にはカラーの顔写真が貼られていて、それはどうという特徴もない、ありふれた中年男性そのものだった。
 しかし茨製薬と言えば、無名の二流製薬メーカーであるが、その創設者は前回のクライアントである賢人同盟で研究業務に携わっているドクター・イバラだったはずであり、真実の徒とも決して無縁ではない。そう思ってプロフィールを読み進んだ彼女は、広瀬の最終的な肩書きが“真実の徒・生化学研究室室長”となっている点に目を留め、大きくため息をついた。

 なるほど……要は脱走者の始末か……こいつぁ……そういうわけかい……

 ファイルに書かれている以上、隠すべき事実ではない。しかしこれまで誰も、この一番重要である情報をこちらに告げてこなかった。
 かつての仲間を抹殺する。さすがに抵抗があるのだろう。だからこそ自分のような外様に依頼がきた。そんなところに決まっている。
 だが詮索は厄介ごとに巻き込まれるだけである。夫人は想像を止め、ターゲットの現況が記された次のページを読んだ。

 代々木ねぇ……場所までわかってるんだ……

 広瀬俊明は代々木の茨製薬旧工場に潜伏し、真実の徒はその存在を常に監視し、現在も二時間毎の報告が継続している。そう資料には記されていて、目を通した夫人は暗殺する相手の現在に思いを巡らせてみた。

 潜伏じゃあないねこれは……篭城か……助けを待っている可能性もある……強力な救援を……なるほど……代々木と言えば東京のど真ん中……こりゃ、確かに暗殺だね……建物の外から……こっそりとやる必要がある……

 製薬工場の扉や窓は固く閉ざされ、その地下倉庫にターゲットは一週間以上立て篭もっている。おそらく、身を守るための武装をしていることだろう。正面からの突入は渋谷区代々木で展開するには、一般市民に対して余りにも目立ちすぎる。
 仲間殺しのやり辛さだけではなく、自分のように人知れず殺すことができる特殊技能者を求めていた事情が真実の徒にあったのだろう。どういった経緯かは知らないが、だから自分が賢人同盟から推薦されたのだと、そう思える。
 ベッドの上で仰向けになった夫人は、勢いよく上体を上げ、大きく息を吸い込んだ。

 ガス……かな……まずはなんにしても現地視察か……

 おそらく簡単な仕事である。すぐにでも終わらせ、予定していたヨーロッパ観光を再開しよう。そう思った彼女の脳裏に、ふとミラノのカフェで知り合った、プラティニのにやけ顔が思い浮かんだ。
 素顔の自分に興味があるのなら、一度付き合ってみるのも面白いかもしれない。それが気の迷いだとしても、たまにはいいものだと夫人は一人微笑んだ。


 翌朝、鹿妻新島の港から一隻の小型船が出港し、夕方には東京湾へ到達しようとしていた。漁船にカモフラージュされたその操縦席には、操船をする男とE夫人の姿があった。

 その男は灰色のつなぎ服を着た猫背で、ブーツを履いた一見すると作業員風の中年男性だった。
「あと三時間で大井埠頭……そこからはライトバンで現地まで移動です……」
 低い声で聞き取りづらく、おまけに日本語だったためE夫人は首を傾げて再度の発言を促した。舵を握っていた男は、だが夫人の挙動に気付かず無言のままであり、彼女は仕方ないと思い、腕を組んで座席の背もたれに体重を預けた。
 このつなぎ服の男、名前を源吾と言い、真実の徒が今回の依頼で連絡係としてつけてくれた二名の一人であり、組織の工作員である。もう一人は既に篭城場所の近辺に潜伏しているということであり、まずはなんにしても現地視察が最優先である。そう判断した夫人は源吾に出港を命じ、船上の人となった。

 コールフォンで要求した朝食を運んできたのも彼である。口数が少なく、必要最低限のことしか喋らない彼は、夫人にとって本来は煩わしくない種類の男だったが、どうにもその必要最低限が聞き取りづらく、前後の言葉で判断ができないため、せめてもう少し社交的であればと、そんな少々我が儘な気持ちを抱いていた。
「いつもこの食事なの?」
四十分後に食器を回収に来た源吾にそう尋ねた彼女だったが、その返事は「はい」の一言であり、せめていつもこうした米にミソスープ、海苔に腐った豆という欧米人に厳しい日本食なのかどうか、それだけでも確認したかったのだが、あまりに機敏な動作で彼が食器を下げ、出て行ってしまうものだからそれも叶わなかった。
 組織のアジトにいる以上、設備の整った個室を与えられた以上、部屋から出てうろうろするわけにもいかず、出港までの数時間を室内で過ごした彼女は、いつしか牢屋に閉じ込められているような、そんな錯覚を覚えつつあった。
 潮風はあまり好きではない。空は曇っていて今にもぽつりと来そうであり、だがあの地下アジトよりはずっと快適で心地いい。ますますE夫人は、この仕事を早く終わらせるべきだとあらためて思っていた。


 四月の東京はまだ肌寒く、ライトバンから降りたE夫人は、たまらずジャケットのボタンをつけ、肩を軽く擦った。
 代々木という街は初めてである。かつて一度だけこの国で行った仕事は長崎であり、それだけに新宿にほど近いこの都会の雑踏は、彼女の気持ちを若干だが高揚させていた。
「あちらのホテルに……監視者がいます」
「わかった……」
 源吾に促され、E夫人は代々木駅から徒歩三分ほどの、とあるラブホテルまでやってきた。ここからターゲットが篭城している茨製薬旧工場までは路地を挟んで目と鼻の先であり、監視をするのには最適の宿である。
「朝に鍵を預けた308号室の今西という者だ」
 源吾の言葉に、フロントにいたホテルの従業員は鍵の預かり証を出し、記名を求めた。
 猫背で眉が薄く、いかにも貧相な中年然とした源吾の姿を、この従業員は朝に見た覚えがあり、記入された名前と宿帳を照らし合わせても筆跡は同一だったため、預かっていた鍵を彼に返した。
 それにしても、出て行く際にはいなかった、この赤毛の白人女性は何者なのだろう。外人娼婦にしては黒縁の眼鏡によれたジャケット、洗いざらしのジーンズという服装と、手にしたドクターバッグは有り得たものではなく、しかしだからと言って、この今西源吾という男の彼女だとはとても思えない。
 男女でこうしたホテルに来るのだから、やはり目的はそうなのだろう。思えばあの男は十日前からの長期宿泊であり、その間に女性が303号室を訪れた形跡も、少なくとも自分のシフト中では確認していない。想像するだけでいくつもの物語が浮かんできた彼は何度も首を傾げ、頬を引き攣らせていた。

 カーテンの締め切られた303号室の窓際には、およそホテルの内装には似つかわしくない分析機器が、いくつも設置されていた
「あなたがE夫人ですか……私は“影踏み”……以後よろしく……」
 野球帽を目深に被り、スタジャンにジーンズ姿のその男は、手と顔に包帯を巻き、素肌を一切露出していなかった。しかし怪我人というわけではなく、握手をする力もしっかりとしたもので、佇まいも落ち着き、源吾よりはずっと凛とした意を全身から発していて、E夫人はまずまずの好感触に、「よろしく」と日本語で返した。
「広瀬室長……もと室長はあそこ……あの旧工場に十日前から潜伏しています」
 影踏みと名乗った男は、よく通る声でそう告げながら、閉ざされていたカーテンを小さく開けた。
 窓の外に、古く小さな工場が見えた。新宿のすぐ近く、住宅街と予備校が大半を占めるこの街にしては不似合いな建物だが、そもそも住人ではないE夫人にとって、それはターゲットが篭城する対象でしかなかった。
「根拠は?」
「これです」
 夫人の問いに、影踏みは設置された小さなモニタを促した。

 モノクロの画面には、部屋の片隅でじっと蹲る白いワイシャツにスラックスを着用した男の姿があった。画像が荒いため表情までは確認できないが、標的である広瀬とは資料に記された特徴が一致する。夫人はあまりにも固まった彼の姿を、怯えていると判断した。
「監視カメラの映像?」
「はい。奴が工場の機能を回復させたのと同時に、監視カメラも作動を再開したのです。回線のバイパスをワイヤレスにして……あれをご覧ください」
 カーテンの外を、包帯の指が示した。そこは工場の門付近であり、E夫人は小型のパラボラアンテナを発見し、影踏みという男の仕事に感心した。

 なぜあそこに居続けるか、興味がないと言えば嘘になる。やはり救援が来るのを待っているのだろうか。彼の肩に機関銃が提げられていることに気付いた夫人は、製薬会社の元部長にはおよそ似つかわしくないその武器を、果たして彼は使いこなせるのかと、考えても結論の出るはずもない疑問に首を傾げた。
「食事とトイレ以外はずっとあの場所でああしています」
「食事は……どうしているの?」
「小型の固形物を一日二回食べています。それと水を……」
 おそらく工場に残されていた保存食なのだろうが、よくそれを十日も食べ続けられると夫人は感心し、だがいくら意志が強くても、軍人でもない彼がそうそう持つはずもなく、いつ精神の均衡が壊れ、外界へと飛び出してもおかしくないと判断した。
 つまり、時間はそれほどない。現地視察がてらだったが、道具は持ってきているのだし、もう仕事に取り掛かってしまおう。彼女は唇をぺろりとひと舐めし、意を決した。
「決行は明日の晩……影踏みさん? あなたのことだから、工場の見取り図は……」
「はい。既にご用意しております」
 力強い影踏みの返事にE夫人は満足し、そんな二人を他所に、源吾はダブルベッドのヘッド部分に取り付けられた、有線放送のスイッチを興味深げに観察していた。

4.
「ベックと言っていたのですか?」
「そう……ベックは疲れないって」
「それは……まぁ、そうですが……」
「違うの?」
「いえ……」
 テーブルの上にはコンビニ弁当やサンドイッチ、飲み物のペットボトルが置かれ、E夫人と影踏み、そして源吾はラブホテルの一室で夕食を共にしていた。
 ストローを包帯の隙間から咥えたまま、影踏みは時々設置された機器をチェックし、特に監視カメラの映像からはできるだけ目を離さないようにしていた。
 調達者である源吾は握り飯を頬張りながら、中綴じの漫画雑誌をベッドの上で読みふけっていた。あまりにも対照的な両者だが、鹿妻新島からこの現場までの移動を担当した際、源吾はあくまでも職務に忠実であり、これはこれで役割分担というやつなのだろうと夫人は判断していた。
 しかし、それにしても付き合い易さという面もあり、彼女はこの夜、影踏みと言葉を交わす機会が多かった。
「ベックとは研究中の生物兵器です。ガリーナ様はその運用担当者で……マサヨは彼女の部下になります」
 本来ならば知る必要もなく、当のガリーナは機密として口を閉ざしていた内容である。聞いてしまってよいものかと夫人は少し躊躇ったが、核心部分には触れていないだろうと思い、サンドイッチを食べながら影踏みの言葉に耳を傾けていた。
「マサヨは頑張ってるよな。まだ四歳なのにな」
 ベッドの上から、源吾がそう言った。“マサヨ”とはアジトの廊下で出会った少年のことであり、影踏みは、「日本ですと、マサヨは女の名なのですが」とも教えてくれた。
「ガリーナ様の仕事は私もよくお手伝いさせていただいてます」
「影踏みは動物の扱いがうまいからな」
 ぼそりと源吾がつぶやき、影踏みは「まぁ」包帯の唇部分を震わせた。
 研究中の生物兵器とは穏やかではない。真実の徒はそれをどの国家相手に使用するのか。同盟にとって日本は敵対国家ではないのだから、あるいは防衛用の手段を政府に供与するつもりなのだろうか。影踏みという男とのコミュニケーションは、中々面白い興味を抱かせてくれる。夫人は缶のアイスティーを口にし、あまりにも硬く工業的なその味に「うえ……」と声を漏らした。
 真実の徒の目的など、知ったところで面倒が増えるだけである。価値のある情報ほど、知るだけでリスクを負う。これまでの暗殺稼業でそれを嫌というほど知っていたE夫人は、そろそろこの男との暇つぶしを止めようと思い、シャワールームに視線を向けた。


 広い浴室は、いわゆるジャパニーズスタイルというやつなのだろう。それにしても紅色のタイルにピンク色の浴槽は悪趣味を通り越し壮観であり、夫人は呆れながらもたっぷりと時間をかけ、船旅の疲れと塩の臭いを洗い落とした。

 着替えを持ってこなかったのは失敗だった。服を着た夫人がそう思って部屋に戻ると、ベッドの上には源吾が寝転んだまま、通信機を耳に当てた影踏みがチューブ式の栄養ドリンクを片手に、それぞれ彼女に注目していた。
「広くていい風呂ね。二人も入ったら?」
 そんな彼女の言葉に、影踏みは椅子から立ち上がると、野球帽のつばに手を当て、ゆっくりと頷いた。
「E夫人……ただいま、真実の人(トゥルーマン)より連絡がございました」
「真実の人? 通信って?」
 進捗でも聞いてきたのだろうか。夫人がバスタオルで髪を拭きながらそう考えた。
「真実の人は先ほど新宿での会談を終え、現在こちらに向かっているそうです」
「ふぅん……新宿でねぇ」
「夫人に、近くまで出られるかと……そう伝言を頼まれたのですが」
 意外なる言葉に、赤毛を指に絡めたまま、E夫人は何度も瞬きをした。
「激励でもしに? 彼って陣中見舞いとかするタイプなの?」
 オールバックの小柄な、妙に精力的な目をした男の姿をふと思い出した夫人は笑みを浮かべ、髪の水分を抜く作業を中断した。
「珍しいことです……そもそも真実の人が、内地に来ること自体が異例です」
「なるほど……」
「我々はここで監視を続けます。真実の人は夕飯を共にしたいとのことですが……よろしいですかな、夫人?」
「しゃーないわね。クライアントの誘いだもの。いいわよ」
 夫人はそう言って、タオルをベッドに投げ、髪を結ぼうと鏡を探した。
「しかし、タイミング最悪だな。コンビニ飯食ったばっかってのがよ」
 源吾の砕けた日本語を、夫人はしばらく意味を理解することができず、ようやく、「あぁ、こいつは哀れんでくれているのだな」と理解すると、髪を結ぶのが急に面倒になり、撫で付けただけで鼠色のジャケットを手に取った。


 張り込み中のラブホテルを出た頃には、陽もすっかり沈んでいた。街灯や車のヘッドライト、店舗の灯りで照らされた代々木の街を、夫人はジーンズのポケットに両手を突っ込み、指定された店へと歩いて行った。夜になると肌寒さも増していたため、さっさと店内に入ってしまおうとその足の動きは速く、たっぷりとした赤毛が夜風になびいていた。
 十分ほど歩いた夫人は目的のレストランを見つけ、更に歩きを早めた。

 駅前の交差点から、千駄ヶ谷方面に坂を下りきったその店の入り口には、一人の少女が佇んでいた。

 萌黄色をした麻ジャケットに膝までのツイードのスカート、白いエナメルブーツを履いたその少女は、ギターケースを肩から提げていた。
 赤いベレー帽の隙間からは鮮やかな緑色の髪を覗かせていて、夫人は最初、このレストランで演奏するミュージシャンかと思ったが、彼女はゆっくりと視線を上げ、「E夫人ですか? 真実の人がお待ちです」と告げた。
 壁に限りなく近く、だが接触することなく僅かな隙間を維持させ続ける少女に、夫人は只者ではない、そんな凄みを感じていた。

 薄暗い店の奥、間接照明とテーブルの上に置かれた燭台の蝋燭に照らされた真実の人が、入ってきた婦人に目を向け、うっすらと微笑んだ。
「よく来てくれた夫人……」
「失礼します……」
 そう返したE夫人は、真実の人と対座し、やってきたウエイターにビールを注文した。
「なんでも好きなものを食べてくれ」
「あいにく……夕飯は済ませたばかりだ……」
「そうか……それは残念だ。ここは子羊がとても美味なのだがね」
「表のは……ボディーガード?」
「うむ……」
 ようやく会話の噛みあいを真実の人の頷きから感じた夫人は、運ばれてきたビールグラスに口をつけた。
「サイキ……という存在を知っているかな?」
「さぁ……なんです?」
「異なる力の持ち主だ……わかりやすく言えば超能力者だ」
 日本語の単語が示す意味を夫人は今ひとつ理解できず、だがそれが自分がこれまでに関わったことのない領域だということは何となく察することができた。
「超能力……ね……」
 信じがたい。そんな距離感を言葉に含ませた彼女は、少しだけ意識を背後の入り口へ向けた。
 賢人同盟が超能力の研究をしているという噂を耳にしたことはある。だが、その成果は知るよしもなく、あまり興味もない。「やれやれ」それ以上の感想を当時は抱かなかったが、真顔をこちらに向ける真実の人の様子を察する限り、少なくとも彼らは冗談ではないのだろうとは理解できる。
 さて、どうしたものかと彼女はグラスを傾けてみた。

「まぁよい……オルガは私にとってはかけがえのない存在だ。あれ以上は、ない」

 なんという沈んだ声だろう。初対面の印象で、随分と昂ぶった男だと思っていたため、夫人は驚いて真実の人を見た。
 見落としてしまいそうなほど、薄い笑みだった。赤みの強い彼の顔を蝋燭の揺らめきが波立たせ、それが止むのと同時に、真実の人は目を見開き、白い歯を見せた。
「食べさせてもらうぞ!!」
「ど、どうぞ……」
 どう受ければいいのだろう。夫人はサラダへ向かって「いただく!!」と宣言する真実の人に気圧され、口の中を小さく噛んだ。
「私は先代に拾われるまでは、こうした生野菜を一番食べることができなかったのだよ」
「は、はぁ……」
 レタスを頬張り、トマトを口の中へ放り込んだ真実の人は、目を閉ざし、ゆっくりと顎で弧を描きながらもぐもぐと満足そうに味を確かめた。
「腐ってることが多いからな。必然的にパン類が増える。あれは多少硬くなっても食えるからな」
「は、はぁ……」
「そしてスープ。暖かいのも滅多にだったぞ。水分などは公園の蛇口がメインだった。うむ。東京でよかったと思うぞ。近畿のは随分酷い水道水だと村上君が言っていたからな」
 一気にそう言うと、彼は音を立ててスープを啜りだした。
 マナーのなっていない輩とテーブルを囲んだ経験は多い。そう、自分の亭主も決して作法のなった男ではなかった。しかしそれを上回る、まるで貪るかのような真実の人の食事に、夫人は彼の生い立ちを想像し、現在の地位をいかにして得たのか興味を抱いた。
「魚料理は長いことフィレオフィッーシュ!! それも冷えたやつしか食えなかった。順番や取り合いがあってな。私は腕力に乏しいので、一週間に一度ぐらいしか食えなかったのだよ。信じられるか? この国に、まだそのような原始的な食料の調達手段があるという事実を」
 運ばれてきた魚のムニエルに、真実の人はナイフを突き立て、尻尾から齧りだした。
「ふむふむ……同じ白身なのにすごい違いだ。なんにしても暖かいというのが喜ばしい」
 ただでさえ日本語に不慣れな夫人は、彼が食べながら何を言っているのかさっぱりわからなかった。しかし不思議とこの男の食事を見ていると、こちらまで空腹になる。そんな感覚に、彼女はウエイターへビールのおかわりを頼んだ。
「本当に感謝している。先代には……」
 食べながらではなくなっていたため、彼の言葉を夫人はようやく聞き取ることが出来た。
「先代とは……一度だけお会いした……あれは……ベルリンだったかしら?」
 夫人の言葉に、ムニエルを平らげた真実の人が身を乗り出し、眉間に皺を寄せた。
「い、いつだ!?」
 恐れているのか。あの男を。夫人は豹変した彼の様子をそう分析し、運ばれてきたビールをひと舐めした。
「二年前だ……会食に誘われてな……同盟から初めて仕事を受けたときだった」
「そ、そうか……な、なにか私のことは言っていたか?」
「いいえ……特には……」
「そ、そうか……」
 上体を引いた真実の人は、やれやれといった面持ちで椅子に座り直し、ナプキンで口を拭った。
 同盟ルートを通じて仕事を請け、来日した自分を視察者とでも思っているのか。E夫人は彼の態度をそう分析し、ならば怯えるような後ろ暗さがあるのかと疑いもした。
「広瀬君の件はどうかね? やれそうか?」
 話題を変えてきた、いや、本題を切り出してきたと言うべきだろうか。ハンカチで額の汗を拭う真実の人の声は低く、E夫人はビールを飲もうと一度上げたグラスを下ろした。
「無論だ……」
「身内の不始末を外部のそなたに頼むのは実に心苦しい。しかし現在のファクトには暗殺のプロはおらん。特に今の時期、手の内をな……明かせんのだよ……」
 時期がどう影響するのだろう。何か、大規模な計画でも控えているのか。もう何度目になるかわからない、知りたいという欲求に、夫人は自分もまだまだ修行が足りないと苦い笑みを浮かべた。
「相手が閉所に立て篭もるというのは……あたしにとっては最も好都合だな……」
「ふむ……毒薬だったかな?」
「ええ……今回は指定がないから、一番簡単な方法を使わせてもらう」
「広瀬君は我が組織で研究グループの中核となって働いてくれた男だ。実に惜しい才能だが、度胸がないのでは仕方がない。できれば苦しまぬ方法でお願いしたい」
 本心か、偽善か。蝋燭に照らされる彼の表情からそれを判断することはできない。運ばれてきた子羊のソテーに微笑む真実の人を、E夫人はつまらなそうに一瞥すると、ビールを一口飲んだ。
「簡単な方法は……この場合手早いということ。つまり苦痛を感じる時間もそれだけ少ない」
 正確なイントネーションの英語で彼女がそうつぶやくと、真実の人は、「しかし、奴は馬鹿な奴だな」と、たどたどしい同国語で返した。

5.
 翌朝、ホテルのソファで目を覚ましたE夫人は、窓際に置かれたモニタを監視する影踏みと、ベッドの上で大の字になって寝ている源吾の姿をぼんやりと眺めていた。
 結局、あの後もう一杯飲んだので合計三杯のビールだった。彼女であれば、その程度のアルコール摂取は行動を妨げる範囲ではないはずである。しかし、この朝の目覚めは特に最悪で、歯を磨いてうがいをしたはずなのに、喉の奥にまだ麦の苦味が残っているような、そんな感覚にうんざりしながら毛布を払いどけた。
「お目覚めですか夫人」
 スタジャン姿の影踏みが、背中を向けたままそう言った。そんな挨拶をしてくる以上、五時間ほどの睡眠中で変わったことは一切なかったのだろう。夫人は判断すると、「準備に取り掛かる……変化があったら報告を頼む」と告げ、足元のドクターバッグを手に洗面室へと向かった。

「起きろ源吾……交代だ……」
 包帯で覆われた人差し指で、影踏みは源吾の背中を一押しした。すると彼はシーツを巻き込みながらベッドの下まで転がり、その見慣れた素早い挙動に影踏みは鼻を鳴らせた。
「広瀬は?」
 眠い目を何度も瞬かせ、全身に巻いてしまったシーツを床に放り、源吾はモニタへ注意を向けた。
「お前がいびきをかく前から変化はない。ずっと倉庫で蹲ったままだ」
 モノクロモニタ内の、地下の倉庫隅で体育座りのままじっとする男の姿を見て、源吾は顎に手を当てた。
「死んでんじゃねぇのか?」
「まさか。時々動いてるよ。さっきも飯を食べてた」
「なんかよ、ひどい画面だよな。覗きなのに全然わくわくしねぇよ」
 源吾の卑猥な言葉に、だが影踏みは反応せず、洗面所へ入った夫人が中々戻ってこない事実に、「女の朝は長いな」と平凡な感想を抱いた。

「下見に行く……二人は待っていてくれ」
 洗面所から出てきた女の声は、そろそろ聞きなれつつあったE夫人のぎこちない日本語だったが、その赤毛はブロンドに染め変えられ、眼鏡もなく濃く書かれた眉と、血色のよい顔色はこれまでに感じなかった生命力を発散しているようでもあり、二人の工作員は我が目を疑った。
 ベージュのワイシャツとジーンズといった姿は相変わらずである。しかしメイクだけでここまで人物の印象が変わってしまうものとは。影踏みは椅子から立ち上がると腰に手を当て、窓際の源吾は首を傾げて凝視を続けていた。
「裏口から出る。通信機のバンドルは調整済みだ。何かあれば報告を」
 そう告げたものの、あまりにも二人がじっと見続けているので、夫人は額に指を当て、小さく唸った。
「用心の変装だから……まぁ……そういうことで」
 なにが“そういうことなのだろう”工作員たちが理解できないまま戸惑っていると、彼女は扉を開け、素早い挙動で外付け階段へ向かった。

「白人の女だったんだな」
 残された源吾がそうつぶやき、ベッドに腰を下ろした。
「そうだな」
 影踏みは返事をすると、監視モニタへ視線を移し、源吾に仕事を交替するように顎で促した。
 逆に目立つのではないだろうか。地味な仏頂面の夫人がああいった変身をすると、この国では注目を浴びる可能性が高い。しかし彼女もプロである以上、計算は働いているのだろうし、ホテルから工場までの距離は路地を挟んで僅かである。無駄になるはずである忠告のために、通信機を使う気にはなれない影踏みだった。

 彼の判断は正解であり、ホテルの外付け階段から路地へ出たワイシャツ姿のE夫人は、誰に見られることなく旧工場への塀へ辿り着き、慣れた躊躇のない挙動でワイヤーをフェンスへ引っ掛け、鮮やかにそれを乗り越え敷地内への潜入を成功させた。
 万が一誰かに見られたとしても、なびいたブロンドしか目撃者の印象には残らないはずである。半ば保険に近い用心であり、論理的に詰めた上での変装行為ではなかったが、日常的ではない行為において、常に姿や顔を装うのはE夫人にとって当たり前の儀式となっていた。

 影踏みの用意した見取り図は、外部から推測する限り正確である。敷地内の庭から工場を観察した夫人はそう認識し、植え込みの中に身を潜ませた。
 工場の窓や排気口の位置、周囲の遮蔽物などを確認した彼女は見取り図と赤鉛筆をハンドバッグから取り出し、ノート大のそれを立てた膝の上に広げ、丸印を随所に付け始めた。

 やっぱり……中で仕掛けるしかないかな……外からの注入だと……住宅街への拡散も有り得る……

 郊外にぽつりと建つ工場であれば、吸気口へ気体性の毒物を注入するという手が最も容易なのだが、都心近くであり、住宅街のど真ん中であるここでは、万が一建物の外に毒物が漏れれば騒ぎとなるためその手段は使えない。夫人は思い切って植え込みから飛び出し、工場の裏口まで駆けた。
 中を見て確かめる必要がある。篭城先の空気を肌で感じ、標的の怯えを知ることができれば、その生命活動を絶つ手段も自然に絞られるというものである。彼女は裏口が閉ざされている事実を確認すると、やや離れた場所に小さな別棟を発見した。

 それは、地下施設室の排気、廃液を処理し土中へ送り込む処理システムの入った棟である。鍵のかけられていない中は、むき出しのパイプ類や巨大なシリンダーのついた機械がすぐに見え、だがそのいずれもが停止していて、中は冷たく暗く、静かだった。
 見取り図を手に、夫人は地下倉庫へ繋がる排気ダクトを十秒足らずで見つけることができた。隠す必要などなく、メンテナンスを考えればむしろわかりやすい位置にあるべきものだから発見が容易なのは当然であり、彼女は壁面から伸びるそれを見上げ、ナイフで途中部分を切り裂いた。
 ダクトの太さは直径1mほどであり、夫人は小さく頷き、見取り図を再確認した。

 途中で狭くなってることは……まずないかな……

 篭城先の地下倉庫まで、ダクトの中を進むことで辿り着くことができるだろう。夫人はそう判断し、ワイシャツのボタンに指をかけ、着ていたそれとジーンズ、スニーカーを脱ぎ、下着姿となった。


「また何か食ってるな……カロリーメイトか? よく持つよな」
 ラブホテルの一室で、モニタを監視する源吾はわざと大きな声でそう言った。ベッドの上で仮眠をしていた影踏みはぼんやりと目を輝かせ、相棒の意地の悪さに舌打ちした。
「あの夫人さ、意外とやってきたりしてな。もう殺しちまうの」
「そりゃ……ねぇだろうよ……」
 背後から返事がきたので、源吾は嬉しくなり、椅子の前足を浮かせた。
「なんでそう言いきれるんだよ。標的の近くまで行ってだ、もし殺せるんならやっちまうだろーが」
「あのな……殺すってのは相当の集中力と覚悟が必要らしい……一流ほど、殺しには心構えをするんだとさ。だから調査や仕込みで標的の側まで近づけても、決して手は出さないらしい」
「影踏み、詳しいじゃねーか」
「ついこないだ、似たような任務があったからな。そのときの暗殺プロフェッショナルがそう教えてくれた」
 仰向けになったままゆっとりと喋った影踏みは、ごろりと横になり源吾へ背を向けた。
「殺人プロねぇ……獣人あたりに食わせりゃいーのによ」
「バカ言うなよ……獣人は誰にも知られず、この国を防衛する英雄になるべき存在なんだ。もし殺しの現場など目撃されてみろ、単なる恐怖の対象になってしまう」
 影踏みの言葉に、源吾は返事をしなかった。彼の言っていることは、真実の徒でも末端にまで浸透している理念である。

 曰く、真実の徒は自由主義圏の代理人(エージェント)として、日本国防衛の端を担わなければならない。
 曰く、真実の徒は決して表に出ることなく、人知れずその国防任務を果たすべきである。
 曰く、真実の徒は以上の目的を遂行するに当たり、賢人同盟の利益を損ねることは許されない。

 だが、それはこの組織の断面しか象徴していない。以上の理念の下に行動しているのはごく一部の構成員であり、日本国の将来を憂い、政府の脆弱なる危機管理姿勢に義憤をもって参画した影踏みのような者が信じるのみの、いわば建前であった。
 現実は、もう十年近く前から真実の徒は公にはしていない裏の理念で、様々な国籍の人間や、日本という国家に対して恨みを持つ存在を構成員として勧誘し補充している。

 曰く、真実の徒は賢人同盟の利益を損ねる日本国内の勢力、個人に対し、これを排除しなければならない。
 曰く、真実の徒は決して表に出ることなく、人知れずその破壊工作を遂行するべきである。
 曰く、真実の徒は以上の目的を遂行するに当たり、常に賢人同盟の判断を仰がなければならない。

 これに賢人同盟が現在標榜する理念、「自由主義の完全なる勝利への貢献」が覆い被さり、真実の徒はそれを本音として具体的な活動を続けている。

 てめぇの手伝った暗殺だってよ……どーせ上にとって都合の悪い奴だったんだろーよ……別にこんな国を守るためなんかじゃねぇ……全部は利益だ……それありきってな……

 しかし、このようなラブホテルで論争をする気にはとてもなれず、源吾は別のことを考えていた。

 それにしても、獣人という殺人に適した生物兵器を今回使わず、なぜ上層部は同盟ルートを通じて暗殺プロフェッショナルなど雇ったのか。あるいは、今回の件を知った同盟が、強く推挙してきたのだろうか。
 最近の真実の徒は、本音を更に越え、真実の人(トゥルーマン)の個人的な作戦計画がいくつか動いているという噂も聞く。早ければ来年あたりからその動きは明確化するとも言われている。これはそうした真実の人に対する牽制行為とも思える。

 わかんねぇや……

 モニタをぼんやりと眺めた源吾は、どうせ考えたところでややこし過ぎるこの状況に対して自分はそれほど頭がよい方ではなく、そもそも情報が圧倒的に不足していると諦めた。


 排気口のバイパスから天井裏へのルートを発見したE夫人は、真っ暗な狭い隙間にその下着姿をうつ伏せに忍ばせていた。
 身体の前面にたっぷりと埃を付着させるそれは自分にとっては床であり、眼下の標的にすれば天井である。ナイフでタイル構造となっているそれに隙間を作った夫人は、真下で蹲って震える広瀬俊明の姿を確認した。
 天井の隙間から、殺し屋に様子を窺われているとは思っていないのだろうか。その予想も含め、ああまでも震えているのだろうか。夫人は地下倉庫内の様子を、目と耳と、そして鼻で感じ、標的がどう自分の身を守っているのか、十五分ほどの時間をかけ、理解した。

 なるほど……

 そう、“なるほど”である。彼女は全てがわかってしまったし、排気ダクトへ向かって匍匐前進を再開した頃には、広瀬俊明の断末魔まで予見できた。あとは、見えた光景を現実にするだけである。これから数時間をかけ、その覚悟を育てよう。E夫人は別棟までダクトを伝って戻ると、真っ黒に汚れた首、胸元、掌をハンカチで素早く拭き、結んでいたブロンドをほどき、機器類にかけておいたシャツとジーンズを着込んだ。

 イエローガスでいいかな……

 使用する毒物を決めた夫人は、別棟から工場の庭へ駆け出した。

 右から、勢いの良い影が迫った。それはあまりに唐突で、乱暴な直進だった。E夫人は右手を挙げ、衝突を回避するため体重を後ろに下げたが、そこにもう一つの小さな影が、やはり同じ方向から飛び込んだ。
 ぶつかった。右足を軸にバランスを保とうと夫人は思ったが、その判断はコンマ五秒で覆され、ならばせめて怪我をしないよう、彼女は受け身を取りながら仰向けになった。
 柔らかい感触が背中に触れた。つまり、地面と自分の間に、小さな何かが挟まったということであり、要は下敷きにしてしまったということである。
 冗談じゃない。殺しの仕込み帰りだと言うのに、なんてヘマなんだ。夫人は下敷きにしてしまった物が「きゃぁん!!」と甲高い悲鳴を上げる者であることを認識しつつ、正面で転倒する、最初に衝突しかけたもう一つの影が少女であることを認識し、左肘を地面に付き、その反動で立ち上がった。
「Who?」
 思わず英語が出てしまった夫人は、口を押さえて何が起こったのか、その理解に全神経を傾けた。
 倒れている二人の少女。一人は下敷きにしてしまった、幼女と言ってしまっていいほど小さな子であり、短い髪にピンク色のスモッグのような服を着、身体に対して大き過ぎる真っ赤なランドセルが印象的であった。
 もう一人は尻餅をついていて、セーラー服姿であった。E夫人にとって、それは軍服として、もしくは子供服として見慣れたデザインだったが、これが日本においては女学生の制服であるという事実も一応は知っている。こちらの少女は髪が長く、だがどことなく二人は似たような雰囲気を醸し出しているように夫人には感じられた。

 時間的に……登校……けど……なんで製薬工場の敷地内を……!?

 E夫人が戸惑っていると、年長の少女が腰を上げ、年下の彼女の肩を抱いた。
「はるみ!! 平気!?」
 はるみ。そう呼ばれたスモッグ姿の少女は、大きな瞳を潤ませ、肩を一度上下させ、擦りむいてしまった両膝を確認すると、今度は三度肩を上下させ、遂には口を大きく開け、泣き声を上げた。
「も、もう……泣いたって……」
 セーラー服の少女は落ちていた学生鞄からハンカチを取り出し、それで幼女の膝を拭いた。
「すまない……大丈夫か……」
 夫人は思わず二人の少女に声をかけ、手はハンドバッグの中を探っていた。
「ご、ごめんなさい……抜け道してて……ほんと……」
 そう返事をした少女は、声をかけてきたE夫人に驚きの目を向け、戸惑った様子で見上げた。金髪の白人が日本語で、この反応はごく普通の市民のそれである。危険性は少ないと判断した夫人は、二人へ近づいた。
「遅刻かしらね……」
 自分も昔はよくやった覚えがある。秘密の抜け道、学校までの隠されたショートカット。しかし、だとすればなぜ年の離れた二人が一緒にと夫人は不思議に思った。
「ですね……まぁ……仕方ないけど……」
 少女はつぶやき、幼女の膝を拭き続けた。夫人はハンドバッグから消毒液を取り出すと、それをハンカチに付け、手当てを手伝った。相変わらず両目から大粒の涙をこぼしていた幼女は、消毒液の沁みに対しては、だが逆に口をへの字に結び、じっと辛さに堪えた。
「す、すみません……」
 年長の彼女の礼に、夫人は笑みを浮かべ、なるほどと納得した。
 たぶん、そう、二人は姉妹なのだろう。兄弟のいない夫人は、呆れながらもあくまでも優しい姉の手当てと、それに頑張って耐える妹を見比べ、少しだけ羨ましいと思った。
「こ、ここの人ですか? あっ……けどここってもうずっと前から閉鎖されてるんですよね」
 セーラー服の少女の言葉に夫人は首を傾げ、「私も……近道みたいなものかしら?」と答え、ウインクをした。

6.
 結局、名前もわからず、二人が姉妹であろうことは予想の域を出ることはなかった。ただ遅刻してしまったという事実だけは確実らしく、工場の塀に開いていた穴から出て行く彼女たちは共に緊張と不安が入り混じった複雑な表情であり、なにか叱られに行くような、そんな顔色の悪さだった。

 標的の緊張と、その警戒を感じ取ることができたE夫人は、誰にも気付かれぬ素早い身のこなしでラブホテルまで戻り、テーブルにメモを投げ、「それを揃えておいて。三時間以内に」と、監視を続ける源吾に告げ、シャワールームへ向かった。

 ハンカチで拭ったものの、下着姿での潜入は全身に汚れを生じさていたし、なによりもこれから数時間後には行う殺害に、彼女は緊張していた。
 二十歳に最初の一人を殺し、その後は年に二人ほどのペースが四年ほど続いた。夫と死に別れ、独り立ちしてからはペースはアップし、今年など四月だというのに二件目である。
 いろいろな人がいるらしい。殺しを重ねるうち、無感動になる者。その度に快楽を覚える者。自分や夫のように、すっかり怖くなり、何日も何もしたくない状態が続くもの。
 ミラノでの殺しから十日も経過していない。いつもなら、ホテルでぐったりしているか、やけくそになって遊んでいるかのいずれかである。そういう意味なら、いろいろな人の中にもいろいろとあるのだろうと思える。
 浴槽に身を沈めた夫人は、熱い湯が全身の細胞を活性化させるような、そんな気分に浸っていた。

 あー……この風呂があれば……連続で仕事できっかも……いくらでも……

 いや、それにはもう一つ条件がある。扉を隔てた向こうには二人の男がいるが、あのようなのでは役に立たない。もっと自由で、もっと馬鹿げた気分にさせてくれる男がいい。
 プラティニ・カッシネリと名乗っていた。イタリア男とは、夫が他界してから三度ほど付き合ったことがある。だが、それは全て擬似的であり、三人はいずれもこの世にはいない。
 なるほど、それもそうなのだろう。広瀬俊明は写真の男であり、モニタに映る男であり、天井裏から見える後頭部である。そんな生身の付き合いがまったくない標的だからこそ、連続でできるのだろうか。夫人はなにやらおかしくなり、右手を水面からゆっくり上げた。
「ばらばら過ぎ……雑然と散らかって……今回は……特にだ……」
 仕事の前、E夫人はいつもこれと似たような言葉を口にする。だが、彼女はその繰り返しに気付いてはいなかった。

 たっぷりと時間をかけた入浴の後、赤毛に戻した髪をお下げに結んだE夫人は、下着姿で部屋へと戻った。
「源吾が注文の品を買いに行っています……おそらくあと一時間ほどで戻るかと」
 振り返ることなく、モニタの監視を続ける影踏みの言葉に夫人は頷き、冷蔵庫からミネラルウオーターの入った瓶を取り出した。
「いかがなされるおつもりで?」
「標的の確認ができているのが前提だけど、今日の19:00に決行する……十分前にはここを出たいところね」
「わかりました……チェックアウトの手続きは源吾がいたしますので、夫人は私と共に先に非常階段から出ましょう……遺体は……残るのですか?」
「ええ。外傷はできないから」
 ベッドに腰掛けた夫人は、影踏みの背中にそう言った。
「それでは前もって伝えておきますが、標的には泡化(ほうか)手術が施されています」
「泡化?」
 聞きなれない言葉である。知らない日本語かと、ミネラルウオーターを一口飲んだ夫人は関心を抱いた。
「機密保持のため、組織の人間の大半に施されている手術です。情報の漏洩、行動不能のダメージ、生命活動の停止により、肉体と装備の一切が泡となり、その後気化します」
 人体はおろか、身につけている物まで溶解させるとは、果たしてどのような化学反応を利用しているのだろう。毒物暗殺という分野柄、E夫人はその秘密に好奇心を刺激されたが、機密を外部の自分に漏らすはずもなく、それこそ彼にとっては情報の漏洩にあたるだろうと思い、唇に指を当てた。
「わかったわ……じゃあ……ホテルを出た後、二人は車で駅前に待機して……」
「駅前……工場からだと距離がありますが……」
「安全距離よ。お互いのためにね」
 失敗やトラブルがいずれかに発生した際、連鎖被害を防ぐための策である。影踏みは夫人の言葉をそう理解した。
「なるほど……確かに……」
「21:00までにあたしが現れなかったら……そのときは緊急事態と思っていいから」
「はい……」
 ずっと背中を向けたまま、影踏みという男は監視モニタから目を離すことがなかった。下着姿の夫人は、ようやく彼を「いい男」だと認識し、包帯が巻かれたうなじをちらりと見た。
 以前の作戦で火傷でも負ったのだろうか。しかし、ここまで全身であれば日常生活にも支障をきたしているはずだが、とてもそうには感じられない。
 夫人の視線を感じた影踏みは、大きく頷いた。
「我々工作員の中には、生体改造を受けたものも数多くいます。この包帯はその傷を隠すためでもあります」
「生体改造……ね……広瀬室長の担当なんでしょ?」
「彼のアイデアは私の中にも反映されています」
 影踏みは静かにそう言った。生体改造というものが具体的にどのような結果を目指しているのか、それすらも想像の範疇にないE夫人は、あまり立ち入りたくはない世界だと思い、言葉を返す気分になれなかった。
 これから殺害する標的が研究していた分野である。知っておけば仕事を楽に進ませるヒントになるかも知れない。だが、鹿妻新島地下の広大すぎる最新設備のアジトに足を踏み入れてから、夫人は無意識のうちに、彼らのどこか飛躍した世界に深入りするべきではないと感じていた。

 こいつらは何かが違う。あたしのように、現実に生きている連中じゃない……

 水分を補給しながら夫人が源吾の帰りを待っていると、影踏みがゆっくりとスタジャンを脱ぎ、包帯だらけの背中を夫人に見せた。
 左腕を、影踏みは水平に上げた。鍛えているシルエットだな。夫人がそう思っていると、その下腕部が小刻みに震え始め、布の破れる鈍い音と共に白い包帯が散り、鋭利な灰色の刃が弧を描いて展開された。
 下腕部の仕込み刃であろうか。それにしては巨大であり、付け根は腕と継ぎ目なく、まるで生えているかのようである。夫人にとっては初めて見る、不思議な凶器だった。

「ブレードを両腕に埋め込んでいます。普段は骨に随帯しているのですが、いざという一手になります」
「これだけ大きいと、できることも多そうね」
「はい。隠し武器としては強力です」
「けど……いいの? 腕の包帯が千切れたけど……」
 夫人は床に散乱した布切れに苦笑いを浮かべた。
「今回……おそらく使うことはないでしょうから……それに、収納も自在です」
 右手で刃の先を持った影踏みは、それを押し込むように、下腕部へ無理矢理格納した。
 本人としてはサービスのつもりなのだろうが、拒絶したい荒唐無稽さを今更ながら見せ付けられたようで、夫人はひどく不愉快になっていた。彼女はシーツを手にすると、全身にそれを巻きつけ、残りのミネラルウオーターを一気に飲み干した。


 源吾が調達してきた黒い作業ズボンと、袖なしの作業用ジャケットをE夫人が着替え終わった頃には、窓際に設置されていたモニタや分析機器一式は姿を消していた。
「重くないの?」
 夫人の言葉に、全ての機材を背負っていた影踏みが、「こうしたことができるのも、改造のおかげです」と返し、退出にあたっての点検作業をしていた源吾はその言葉に辟易と鼻を鳴らせた。

 気持ちは、いい感じだ。殺せる……奪える……終わりに出来る……

 慌ただしい室内にいながらも、夫人の心は落ち着き、自分の周辺に薄い膜のようなものが、ふっくらと形成されつつあるのを彼女は自覚していた。
 質量もなければ、他人が知覚することもできない、E夫人だけが認識できる“膜”である。これを感じることができれば、殺しは半分は成功であると、これまでの経験で断言することができる。

 間に合ってくれた……はは……こんなバタバタした中でさ……情けないね……これでもキャリア十年かね……

 いい具合に自嘲めいてもきた。このぐじっとした気持ちを転じさせるには、人の命が必要である。もっといじけてしまえと夫人は薄笑いを浮かべ、部屋を出て行く重装備の影踏みに続いて廊下へと向かった。

 南からの風は生暖かく、昨日この街に訪れた際と比較しても過ごしやすく感じる。日の沈んだ真っ暗な工場の庭で、E夫人は黒縁眼鏡をかけ直し、けど仕事の前でなければもっと心地よく感じるのだろうな。と、肌にまとわりつつある膜に目を細めた。

 鈍くなりきる前に……終える……

 工作員、源吾の調達してきたノースリーブの作業ジャケットに身を包んだ暗殺プロフェッショナルは、猫科の捕食動物が獲物を追うような、そんな淀みのない挙動で別棟へと向かい、壁に背を付けると後ろ手で扉を開け、中へ侵入した。
 別棟にある廃棄物処理施設は灯りもなく真っ暗だった。しかし朝に一度ここを訪れた彼女の頭には、目的である排気ダクト入り口までのコースが完全に記憶されていて、足の運びも確かめる手の動きも一切無駄がなく、少しも迷わずに直径1mの穴へ身体を滑り込ませた。

 二手に分かれたダクトは、左側に進むとすぐに終点となる。そこは地下倉庫の天井裏であり、夫人はそのスペースを、下から小さく灯りの漏れる地点まで匍匐前進した。
 ここは、今朝彼女がナイフの切っ先で作った隙間である。それを覗き込んだE夫人は、中年男性の禿かかった頭頂部と、床に下ろされた両手、だらしなく左右に広がった膝と、投げ出された両足を確認した。
 すっかり憔悴しきっている。壁に背を付け、大きく肩で呼吸をし、指先は小刻みに震え、足の先はばらばらな方角を指し、朝に目撃したときよりずっと消耗している。篭城も十日を越え、食事もロクに摂れず、心の安らぐ暇もなく、ただひたすらに削られ続けている。普通の人間であれば我慢できず外の、そう、代々木という賑やかな都市へ駆け出してしまっているだろう。
 だが、彼は秘密結社の専属化学者であり、非合法な研究を重ね、もう二度と普通の生活には戻れないほど、そちらの世界に浸かってしまっている自身をよく知っている。その自覚が、そしてその思い込みこそがこの篭城を現出させている。夫人は腰のポーチに手をかけ、中から筆入れ大の金属製のケースを取り出した。

 暗殺の標的、広瀬俊明の断末魔は想定済みである。彼はこれから数分のうちに、毒物によって生命活動を停止する。

 ケースの中にはマニキュア瓶が三本入っていて、そのうちの二本は黄色、一本は紫色の液体が詰まっていた。夫人は黄色の入った一本を手に取り、キャップ部分に髪の毛ほどの太さの、極細のワイヤーを巻きつけた。

 E夫人ことタバサ・エディソンの生業とする暗殺業。銃殺、刺殺、絞殺、撲殺、爆殺、様々な手段が存在する中、夫人の最も得意とするのは薬物を使った毒殺である。
 劉済棠を相手に使用したような、衣類や皮膚を通して劇物を侵入させる方法、食物や飲料に毒物を混ぜ、体内へ侵入させる方法、そして気化性の毒物を呼吸器から侵入させる方法と、標的の命を絶つ手段はいくつかある。今回彼女は、小瓶に入ったイエローガスを使い、用心を重ねている彼でも結局はとらなければならない生命活動、すなわち呼吸によっての絶命手段を選択した。
 ワイヤーでつないだ瓶を標的の顔面まで落下させ、停止と同時にキャップをずらし、中の黄色い液体が酸素によって同じ色の気体へと変化し、鼻、口といった器官へ吸い込まれていく。
 相当な訓練を積んだ者しか、咄嗟の呼吸停止といった判断は不可能であり、特別に調合したこの化学薬品が気化するスピードは高速である。ワイヤーの操作でキャップをずらすのにコツがいるが、それは十年ものキャリアで体得していて、失敗することは有り得ない。
 ガードのいない相手なら、この手段が比較的成功の確率が高い。E夫人は右手から小瓶を放ち、数瞬後ワイヤーを持った親指と人差し指をくいっと捻った。

 おしまい……

 眼前に現れた落下物に広瀬は驚き、彼の眼前に黄色いガスが広がった。ごく少量、そして致死量を遥かに上回る毒物である。
 これでようやく、まとわり付いた膜も晴れるだろう。この後眼下に広がるであろう、広瀬の喉を掻き毟る仕草、口から出る大量の泡、充血した両眼を想像しながら、夫人は小さく息を吐き、瓶を投げ入れた天井裏の隙間へ、手にしていたワイヤーを放り込んだ。

 なんだい……ありゃ……

 のたうちまわっているはずである。それはもう、何度見ても慣れることのない無残な足掻きのはずである。だが、標的である広瀬俊明は背中に床を付けたまま、まるで何事もなかったかのように、しゃがみ続けていた。
 ただ、彼の眼前では黄色い死の煙が小さく広がっていて、それだけが先ほどとは異なる光景である。しかし、その黄色も呼吸によって消えた。

 男の視線が、天井の隙間へと向けられた。

 標的に毒物を使用した後、生気のある目で見つめられたことなど、E夫人にとってそれは初めての経験であり、彼女は戦慄し息を呑んだ。

7.
 シアン化水素。いわゆる青酸ガスの一種であり、これを吸引した者は粘膜を通じ呼吸中枢や頚動脈小体に障害が発生し、短時間で細胞の呼吸活動が停止する。夫人が使ったイエローガスは、この青酸ガスに彼女が即効性を高めるためにいくつかの化学薬品を添加したオリジナルの毒ガスである。これを吸って生き延びられる人間など存在するはずがない。
 生物兵器。そんなキーワードが彼女の脳裏に閃いた。広瀬俊明は真実の徒・生化学研究室室長であり、影踏みとの会話で生物兵器を担当していたことは判明している。彼自身、脱走を想定して自身に何らかの手術を施していた可能性はじゅうぶん考えられる。
 実物の生物兵器を目にしていなかった自分は、どこかそうした現実性の薄い研究ジャンルを嘘くさいと思え、その点についてはまったく考慮をしていなかったのだろう。いや、そもそもどう考慮するべきだったのか。ファイルにも注意事項として記されておらず、影踏みも可能性を示唆していなかった。はめられる可能性は極めて低いと考えられるため、おそらく、依頼主もこの件に関しては予想していなかったのだろう。
 ナイフをジャケットのポケットから取り出した夫人は、柄の部分で天井の隙間を破壊し、そこへ身体を滑り込ませて、倉庫の床に着地した。広瀬は機関銃を持っていたはずであり、彼と目が合った以上、次の行動は容易に想像できる。しかし彼は肩から提げたそれを戸惑ったまま何度も操作し、なるほど、安全装置をかけたままであり、耐ガスなどという信じられない防備策をとっているにせよ、所詮戦いにおいては素人の科学者なのだろう。夫人は瞬時にそう確信し、腰のポーチから、紫色の液体が入った小瓶を取り出し、親指をキャップに当てた。

 まさかね……こいつを使う羽目になるとは……!!

 これまで十年の経験で、たった二回しか使ったことがない、夫人にとってそれは必殺の毒液だった。黄色の液体と違い、これは大気成分に触れても気化することなく、鉛をも通過する極めて浸透性の高い液体であり、キャップの内側にいたるまでコーティングしたこの瓶でなければ携帯することも困難な化学薬品である。人体に接触した場合、細胞を腐食させ、体内のヘモグロビンと結合した瞬間より、シアン化水素を大量に発生させる。結果はイエローガスとよく似ているが、効果は遥かに早く高い。
「ま、待て……待ってくれ!! こ、殺さないでくれ!!」
 機関銃の操作がよくわからなかったのか、広瀬はそれを床に投げ捨て、両の掌を夫人に向けた。
「あいつの企みが判明したんだ!! 真実の徒はその目的を変容させつつある。茨博士が懸念していたことは正しかったのだ!!」
 早口の日本語は聞き取り辛く、夫人には彼が何を叫んでいるのかよくは理解できなかった。命乞いでもしているのだろう。目を細め、仏頂面を崩さぬまま、彼女の赤いお下げ髪が後ろへなびき、二人の距離は限りなく近くなっていた。
 親指でキャップを回転させた彼女は、逃げようと全身を返そうとする広瀬の肩を空いた手で掴み、彼の首筋へ紫色の液体を垂らした。
 呻き声が薄暗い倉庫に響いた。広瀬は床に崩れ落ち、喉を掻き毟り、のた打ち回り、踵が壁を何度も叩いた。
 随分と過程は異なるものの、取りあえずは最初に想定していた結果となった。夫人は額の汗を拭き、痙攣する男の足掻きをじっと凝視していた。
 咳と呻きと、着衣が床に摺り合わされる、そんなもがき苦しむ様々な音もやがて音量を下げ、遂に広瀬俊明はその生命活動を完全に停止した。

 一人の男が死んだ。殺したのは自分であり、それは金ずくで、これからは数ヵ月に亘るバカンスが待っている。もう何度も経験した感覚であり、黒縁眼鏡に手を当てたE夫人は、だが現場から離れることなく、遺体を観察し続けていた。

 やがて、硬くなった広瀬の背中から、小さな白い煙と共に、着衣の上から泡が発生した。夫人が興味深く注意を向けると泡は数を増し、背中一面を細かなそれが覆い、弾ける度に煙が発生し、その分彼の体積は減少していった。

 五分ほど経過した頃には、広瀬俊明は完全に気化し、それは肉体だけではなく、着ていた衣類や靴にまで至り、驚くべきことに、彼が投げ捨てた機関銃にしても同様だった。
 毒物や化学薬品の専門家であるE夫人にとって、目の当たりにした人が泡となって消える光景は、彼女がこれまでに知り、研究を重ねてきた知識の範疇にはない現象である。

 ようやく、夫人は広瀬の言葉を再構成し、記憶の中でその意味を判読することができた。

 真実の徒はその目的を変容させつつある。

 しかし、そもそも賢人同盟がどういった目的で、極東のここに下部組織を設立したのかがわからない。

 一階まで階段で上がり、工場の敷地内に出た夫人は、朝のような失敗をしないようにじゅうぶん用心して辺りを見渡した。
 ホテルで発生し、つい先ほどまでまとわり付いていた膜は、すっかり消えているようである。春の夜の、まだ冷たい空気を頬で感じた彼女はそう確信し、駅前へと向かった。

「お疲れ様ですE夫人」
「仕事は完了よ……ほんと……泡になって消えるなんてね」
 駅前に停められていたライトバンの助手席に乗り込んだ夫人は、後部座席から声をかけてきた影踏みに返事をすると、車の行き交う交差点をぼんやりと眺めた。
「広瀬もと室長は……何か言っておられましたか?」
 影踏みのその質問に、夫人は顎に手を当て、さてどう答えるべきだろうかと思案した。
「命乞いをされた……一撃目に失敗してね……ガスが通じなかった」
 夫人は微妙に話題を逸らした。組織の末端である彼らに対し、脱走者の戯言をそのまま伝えるのは外部業者としてはいささか慎重さに欠ける。そう判断しての返事だったが、ライトバンのエンジンをかけた運転席の源吾は、驚きの視線を彼女に向けてきた。
「ガスって……毒ガスですかい?」
「ええ……吸引すると呼吸活動が停止するやつ。けど標的は薬か……改造かわからないけど、何らかの毒物対策をしていたようね。もっと強力なやつを持っていたから、そっちで対処させてもらった」
 夫人の説明に、二人の工作員は何度も頷いた。
「なぁ影踏みよ。当然予想してなきゃいけなかった事態って奴だな」
「ああ……フランソワーズ様の指示にその可能性は示唆されていなかったが、現場の我々が予測するべきたったな……申し訳ございません夫人……」
「いいよ……やれたのだから。それにそんな示唆……されたらされたで、どう対処していいか困るだけだったかもね。毒物が効かないかもなんて……かえって迷うだけだったわ」
 なんという穏やかさなのだろう。前回その仕事を手伝った、ゼロという名の殺し屋とはまったく違う。夫人の白い首筋を見つめながら、影踏みは彼女の言葉に耳を傾け、そう感じた。

 ネオンの量はさすがこの国最大級の繁華街というべきであり、歩道を行く人々の数も無数といって過言ではない。代々木から新宿南口へ向かうライトバンの助手席で、夫人は外を眺め、このような賑やかさのすぐ近くで、薄暗い地下の倉庫で泡と化すのはあまりにも寂しいと思った。
 殺人を生業としてから、彼女は常に考えていた。
 人は、どう生きるのかではなく、どう死ぬかで価値が決まる。そう考えていた。
 劉済棠は、死の間際まで豊満な胸を眺めながらであり、広瀬俊明よりずっと幸せで、彼にとって価値のある死だっただろう。
 こんな稼業である。自分は決していい死に方などできないだろう。ただ、寂しいのは嫌だ。殺されるにしても、なにか満足して死にたい。我が儘であることは承知している。けど、普通の人々よりずっと死を感じて生きている自分である。それぐらいの得はあってもいいはずである。

 あたしゃ……馬鹿だ……仕事がうまくいったのに……なに……落ちてんだよ……

 いつもはもっと晴れやかである。そして深酒をし、翌朝はいつも頭痛に苛まれる。しかし、今回の殺しは随分と後味が悪い。彼女は左扉の窓を開け、排ガスで淀んだ都会の空気を車中に入れ、ちっとも清々しくなれない結果にうんざりした。

8.
「君ならきっとよい結果を持ち帰ると信じていたよ。E夫人」
 地下アジト、赤い絨毯と天井の、圧迫感たっぷりの部屋で、E夫人は真実の人の感謝を受けていた。
「現場視察のつもりが……まぁ、そのままやってしまう結果になったけど、早く仕事が済んでよかったと思ってるわ」
 夫人はそう返し、男は満足そうに大きく頷いた。
「もしな、同盟になにか報告を頼まれた際はよろしく頼む。我々真実の徒は、滞りなく活動しているとな」
 それは自分の仕事ではない。なるほど、やはりこの小男は、同盟が推薦してきた自分を視察者だと睨んでいるのだろうし、プラティニという男もそれを期待しているのかも知れない。だが、あくまでもフリーの立場であり、どちらにも肩入れなどするつもりは毛頭ない。夫人は仏頂面のまま、言葉を返さなかった。
「夫人のスケジュールは今後どうなっている?」
 男の側にいた、スーツ姿のフランソワーズが夫人に尋ねた。
「さぁてね……何ヵ月かは旅行にでも行こうと思っているが……」
「今回の手際、実に見事だった。そちらがよければ、今後も仕事を依頼したいのだが」
 それにしても自分も相当の愛想なしだが、このフランソワーズという側近は、人を褒めるのにも表情一つ崩さず、本当に面をつけているような錯覚を生じさせる。夫人は黒縁眼鏡に右手を、腰に左手をそれぞれ当てた。
「構わない。工作員たちの働きも見事だった。あなたたちとの仕事はストレスが少なそうだし、いつでも依頼してくれ」
 生体改造、不透明な組織の目的、暗殺現場に訪れ、食事を誘う首魁。どれもが不愉快で、あまり関わりたくない類だったが、仕事の継続を拒絶するほどの要因ではない。そもそも、人の命を奪う依頼者が健全であるわけがなく、ここはまだマシだろうと、E夫人はそう思えるようにもなっていた。
「今後は同盟からではなく、我々が直接依頼する形となる。後で連絡方法を教えてくれ」
 真実の人はそう告げると、最後に夫人の右手を取って固く両手で握り締めた。


「忘れ物はございませんね?」
 用意された個室は、結局一泊しただけであり、滞在時間は代々木のラブホテルの方がずっと長かった。夫人はガリーナの言葉に笑みを向け、ゆっくりと首を横に振った。
「あの少年……廊下で会った子に、がんばってと伝えておいて」
 なぜそんなことを言い出してしまうのだろう。どうにも、この紺色の髪をした少女と対すると心が緩んでしまうような気がする。夫人はだが、そんな自分の甘さにも今日は寛容でいていいと思ったし、仕事を今後も請けていいと答えた理由の一因が、彼女に対する好意にあるとも感じていた。
「マサヨにそんなことを言ったら……もっと頑張るのかって……怒られます」
 苦い笑みを浮かべたガリーナは、そう言った直後に、「ご、ごめんなさい」と恐縮した。
 つくづく可愛い少女だと思う。秘密結社に所属しながら、この反応の素直さは例外的であろう。夫人は、「そうね」と返すと、ジャケットに袖を通し、ドクターバッグを手にした。


 ガリーナのガイドで港までやってきたE夫人は、停泊していた小型船が、この島に自分を運んできたものと同一であることを認識し、体格のよい韓国人男性の姿を思い出した。
 揺れるし……操縦が荒いんだよなぁ……

 操船という意味では源吾という工作員の方がずっと丁寧だった。釜山までの船旅を想像した彼女は一瞬視線を青空へ上げ、すぐにガリーナへ振り返った。
「ここでいいわ……」
「フランソワーズ様が、明日の朝には口座に全額を振り込むとの伝言がありました……」
「そりゃ、助かる……」
「では……また会える日まで」
「ええ……」
 ガリーナは一礼すると、誰もいない開発途中の島中央へ向かって歩き去っていった。その背中を見つめていた夫人は、背後から、「短いスカートだねぇ。たまんねーな」という男の日本語を耳にした。
「よぉご夫人。お早いご帰還だな」
 小型船の操縦席から、李建宇が太い腕を振り、屈託の無い笑みを向けていた。

「前もって言っておくけど……操縦は丁寧にお願いね。行きは吐くかと思ったわ」
 操縦席に乗り込んだ夫人は、計器類のチェックをする彼に、そう忠告した。
「無理言うなよ。保安庁にコネがあるって言っても、あからさまに巡視船の前を通過するわけにゃいかねぇんだ。ってことはつまり、荒れた海を行くしかねぇ」
 納得せざるを得ない話であるが。だとすれば日本の領海内、それも東京湾を堂々と航行した源吾の操縦する船は、どう海上保安庁との折り合いをつけているのだろう。次に仕事をする際に、源吾にそれを尋ねてみようかと夫人は思った。
「荷娜(ハヌル)そっちゃどーだ?」
「OKよ父さん」
 船首甲板から、一人の女性が操縦席までやってきた。夫人が見上げると、アジア系であろう彼女は小さく会釈をし、李建宇の側まで近づき、計器の点検を手伝い始めた。
 カラフルなペーズリー柄のシャツに、細いジーンズを穿いた、スリムな体型である。荷娜と呼ばれた女性のシャープな横顔を見ながら、夫人は父娘で運び屋とは珍しいと感じていた。

 まだ、海は穏やかである。しかし日本海に出てしまえば、壊れた遊具のようなひどい揺れが始まる。それまでは、せいぜいこの船旅を楽しもう。E夫人は操縦席から後部デッキへと移動し、生暖かい潮風に全身を晒した。

 船尾から白い泡が海面に生み出されていた。それを見た彼女は、釜山からフィレンツェにでも行ってみるか。プラティニという男と過ごすのも悪くない。そう思い、手を髪に当て、ようやく気持ちが上がってきたことを喜んでいた。

番外編・その一「1995年 タバサ・エディソン 30歳 春」おわり


あとがき
 あとがきというものを試しにつけてみました。私自身、作品内容を言い訳るタイプのあとがきはあまり好きではないので、あくまでも経緯説明に終始したいと思います。
 番外編の構想は、「遼とルディ」立ち上げ当初からありました。現在のサブタイトルリストにも載っている真崎実のエピソードがそれで、タイミングをみて発表しようと睨んでいたものです。ところが、真崎番外編は本編と重要にリンクする部分があり、発表はかなり後にした方がいいと判断しました。
 十二話を打ち終えた時点で、十五話あたりで相当消耗するという予想をしていました。そこで、一度番外編を挟んでいろいろと調整できないかと思い、適当なテーマを探してみました。ちょうど十二話で惨殺される登場人物が何人かいて、このうちの一人を主題に、MARICA以前の物語を打つことで、作品世界の再定義をできれば思い、今回のエピソードを発表しました。
 殺し屋の物語は好きです。それと、メタモルV以降、女性を主人公にした物語を打っていなかったので、今回はいい気分転換になったと思います。弱気で神経質で、女であるタバサ・エディソンの物語は、今後の番外編でも主題にする可能性があります。
 番外編は、本編十回に一本ぐらいの割合で今後発表していくつもりです。真崎編は最後になると思います。本編がおそらく全四十〜五十話ぐらいで収まる構成なので、それまでに三、四本、どの時代の、どんな人物を描いていくか、私自身、今から楽しみにしています。
 最後に、常に一番の段階で原稿のチェックをし、的確なアドバイスをくれる妻、信子にこの場を借りて感謝したいと思います。

2005年5月29日 遠藤正二朗