真実の世界2d遼とルディ
第三十三話「伝説継承、少女はそう叫んだ」 後編
1.
 その日、群馬県前橋地方裁判所では、厳重な警戒態勢が敷かれていた。裁判所に通じるあらゆる道路には検問が設置され、通行する車はおろか、歩行者も警察から身分証の提示を義務づけられ、通行や進入が完全に制限されていた。その結果、裁判所の四方に面した車道には民間車輌がどこにも見られず、代わりに青白やカーキグリーンに塗装されたトラックやジープなどの特殊車両が、路肩に何台も停められていた。これらは警察の機動隊や陸上自衛隊から構成された合同部隊の車輌であり、車内にはそれぞれの所属部隊員たちが乗り込んでいた。合同部隊員は車内の他にも正門をはじめとした裁判所内の内外各所や、周辺にあった民間のビルや官公庁舎の建物にも配置され、晴れ渡った上空では哨戒活動のため出動した警察と陸上自衛隊のヘリコプターが旋回飛行を続け、その爆音が裁判所一帯に降り注いでいた。
 陸と空の両面から、監視の目がいくつも光っていた。裁判所に接近するものは一切見落とさない。そんな覚悟をもった隊員たちの形相はいずれも緊張感に溢れ、晴れ渡る寒空にあって熱気さえ放っていた。
 その様子を、テレビ各局の撮影クルーや、新聞社や雑誌社の記者たちがカメラとペンで記録していた。警備を理由とした報道規制によって、裁判所内への立ち入りを禁止されていた彼らは、合同部隊からつかず離れずの距離から裁判所を取り囲み、カメラは最大望遠でできるだけ裁判所に接近した画を収めようと懸命だった。取材陣の中には地上だけではなく、近接するビルに入り込み、俯瞰から裁判所を捉えようと試みている者もいたが、そのことごとくが機動隊によって発見され、警備上の都合を理由に身柄を確保されていた。警戒する者たちにとって、取材陣は自分たちの仕事ぶりを国民に伝えてくれる伝道者などではなく、余計な仕事を増やすだけの邪魔者でしかなかった。
 裁判所正門に面した道路を挟み、反対側の歩道には七十名ほどの人々が集会を開いていた。彼らはプラカードや幟(のぼり)を掲げ、それには「正義決行万歳!」「國賊を斬首せよ!」「FOTよありがとう!」「脱米独立!」「真実の人降臨!」などといった文言が記され、それに類する内容のかけ声を散発的に上げていた。男女比はおよそ半々、年齢は高い者で五十代、下は十代といった内訳だが、そのうち何名かはマスクやサングラスで素顔を隠していた。プラカードや幟、そして身に付けていた名札やゼッケンにはそれぞれ、“真正独立委員会”“憂国国民会議”“正義決行サポーターズ”“トゥルーマンレボリューション”などといった団体名が記され、同じ団体に属する者はなんとなく寄り集まっていたが、全員の目は裁判所に向けられていた。
 正門前には、手を後ろに組んだ機動隊員たちが横並びに立ち塞がり、相対する市民団体たちに決して目を合わせることはなく、それでいてここから先は一歩も進ませないという強固な意志を全身から発していた。
 裁判所の周囲にある商店や飲食店、民間企業のオフィスでも客や従業員たちが、窓から、裁判所とそれを警備する物々しい制服姿の隊員たちを見守っていた。それは法務総合庁舎、労働基準監督署といった官公庁の公務員たちも同様であった。更にここにいる者だけではなく、テレビを通じて数多くの日本国民の関心が、前橋地裁で行われている、ある刑事裁判の行方に向けられ、平日の午前中であるにも関わらず、生中継されているニュースの視聴率は、全局を合計すると三十パーセントを越す驚異的な数字をはじき出していた。
 だが、いま法廷で審理が進められている事件は、国民の注目を集めるような大きなものではなく、市税五百万円の横領という、些末でありふれた罪状であり、被告人も有名人などではなく、一介の市職員に過ぎなかった。

「被告人は、パニック症状を引き起こしているね。まともな状態じゃない」
 リューティガーの言葉に、遼は「そうか」と返事をした。
「ようやく罪状認否まで進んだみたいだけど、検察が起訴状を読み上げている間もあちこちキョロキョロしてて、裁判長に注意されてるね」
 島守遼(とうもり りょう)とリューティガー真錠(しんじょう)は、前橋地裁に隣接した幼稚園の教室で、事が動くのを朝から待ち続けていた。幼稚園は今日一日臨時閉園となっており、教室には二人のほか、陸上自衛隊の野戦観測部隊が二十名ほど地裁の監視任務に就いていた。“鞍馬事変”と前後して、対FOT事案において賢人同盟と日本政府が協力体制をとっている関係上、遼とリューティガーがこの現場に待機していることは警察や自衛隊も了承済みであり、二人は合同部隊の指揮下にこそ組み込まれてはいなかったが、テロの阻止という目的を同じくしていたため、ここにいることを容認されていた。作戦が開始される直前、現場に展開している合同部隊の全員には、「薄い茶色の髪をしたダッフルコートの“少年A”と、その随伴者に限り、作戦圏内での行動の自由を黙認せよ」という奇妙な命令が、リューティガーの写真と共に発布されていた。尉官、警部以上の階級には、リューティガーの本名や彼が所持する賢人同盟の身分証の照会方法なども通達されていて、さらなる上位に当たる佐官、警視以上の階級には、必要に応じてリューティガーとの連携作戦を現場判断にて要請してもよいという権限が与えられていた。
 観測部隊の隊員たちは、幼稚園の窓からスコープで地裁駐車場やその上空を監視していたが、二人の場違いな少年にも時折注意を向けていた。特に命令にあった“ダッフルコートの少年A”ことリューティガーへの注目は高かった。
 隊員の中には、「あれが同盟のエージェントとやらか。まだ子供じゃないか」「あんなのに、なにができるんだ?」と、小柄で一見すると少女にも見えてしまう彼への疑問を抱く者や、「鞍馬の連中は、もっと背が高くてビジュアル系だと言っていた」「太った鯰髭の青竜刀の使い手じゃないのか?」「プラチナブロンドの美少女のはずだ。微妙に違うな」などと間違った情報を元にした疑念を抱く者もいたが、その能力や素性を正確に知らされているのは陸将・警視監以上であるため、リューティガーがその“眼”を用い、建物を透過して周辺状況を把握し、その視覚が裁判所内外の全ての光景を捉え、最も鮮明な情報を得ているとは、誰一人として想像もしていなかった。
「傍聴席は満席だね」
 告げられた状況に、幼児用の小さな椅子に腰掛けていた遼は驚いて身を乗り出し、充血した目のリューティガーに苦笑いを向けた。
「こんだけ厳しく警戒態勢敷いてるのに、見物客入れてるってのが、信じられねぇって感じだな」
「日本の裁判は、公開法廷が原則だろ? なら、それはそうなんじゃないのか?」
「戦闘になったら、どうするつもりなんだよ」
「そうなったとしても法廷まで戦禍を及ばせるつもりはないっていう、彼らの強い意志の現れじゃないのかな?」
 公判はまだ途中だったが、遠透視をやめたリューティガーは、監視任務に励む自衛隊員たちを一瞥し、遼にそう告げた。
「司法側も意地があるんだろうね。テロリストの被告人殺害予告などに屈することなく、規定通りの裁判を粛々と行うって。もっとも今日の裁判はこれひとつだけで、予定していた他の全ては延期されたらしいから、そういった意味ではテロの影響は既に受けているけど」
 一月二十七日。この日、前橋地方裁判所では、ある刑事事件の裁判が行われていた。被告人は群馬県前橋市財政部納税課員、夏目茂幸(なつめ しげきち)。年齢は四十三歳。彼は業務上横領の罪に問われ、今日がその初公判の罪状認否である。FOTの暗殺実行部隊である正義忠犬隊が、初公判後に夏目を斬首刑に処すると予告したのは、昨年十二月三十日のことであった。横田基地への襲撃があったその日の夜、マスコミ各社に電子メールで送られた粛清予告状には、当事者でしか知り得ない横田基地での戦闘に関するいくつかの極秘情報が含まれていたため、それを政府関係者に問い合わせをしたのち、翌日のニュースでも大きく取り扱われた。
 正義忠犬隊の武装テロ、“正義決行”は、これまで幾度も行われていたが、最初に予告した通常国会では当日になってもなにも起こらず、十一月二十七日に予告された国土交通大臣、箕園明正(みぞの あきまさ)の公開処刑についても決行されず、その代わりに突如として現れた真実の人が、横田基地への軍事力行使を予告する、といった結果に終わり、当初の予告内容と実体が伴わないことも二度あった。それだけに、今日の決行もなにが起きるのか予想もつかず、粛清の対象が市税五百万円の横領という、これまでと比較して小規模な犯罪の被告人ということもあり、斬首ではなく別の事件が起きるのではないだろうかと論じる者も数多くいた。
 FOTによる被告人の公開処刑、あるいはもっと別の事件、もしくはその両方。そういった事態の発生が予想されたため、このちっぽけな横領事件の初公判は日本国民の大多数の関心を集め、政府も全力をもってしてテロを封殺し裁判を完了させ、夏目を無事に裁判所から拘置所まで送り届ける必要があった。
 教室の壁に張り出された、乱雑で稚拙で、それでいて素朴な絵をなんとなく眺めていた遼は、背後の自衛隊員の「裁判、終了」という声に腰を浮かせ、すぐ前で膝を着いて身構えていたリューティガーの肩に軽く手を乗せた。遼だけではなく、教室にいた隊員も全員が一斉に動き始め、裁判所の駐車場を見渡せる南側の窓にはこれまで以上の注目が向けられた。
 初公判が終わった。以前、正義決行で殺害予告を受けた連続幼女誘拐暴行殺害事件の被告人、阪上誠は、やはり初公判の途中、法廷内に突如として出現した斧を持った小男に襲撃され、逃走した挙げ句、さいたま地裁の裏手側駐車場で首を刎ね飛ばされた。似たようなケースである今回、最も警戒するべきは公判の最中だったが、それも無事終了した。リューティガーが再び裁判所内を遠透視すると、鼠色のスウェット姿をした被告人の夏目が、機動隊員による分厚い壁に守られ、裁判所の廊下を進んでいる光景が視覚情報として捉えられ、それは彼の肩に触れている遼にも共有された。夏目の表情は強ばり、顔面は蒼白で、絶えず周囲の様子に注意を向け落ち着きがなく、背後を警護する機動隊員に半ば押されるような形で送り出されていた。
 裁判中も夏目は粛清に怯えるあまり、立っているのもやっとの有様で、弁護人に身体を支えられて、かろうじて初公判を乗り切ることができたという体たらくだった。罪状認否では容疑を全面否認したが、それも歯の根が合わず、呂律も回らないたどたどしい言い様であり、裁判長から何度も発言を聞き返され、その度に額からこぼれる大量の汗を袖で拭い取りながら、たっぷりと時間をかけて言い直したため、公判は予定していた二時間を余すところなく費やし、時刻は正午を過ぎようとしていた。

 前橋地裁に面した西側の道路を挟んだあるビルの窓から、少女は厳戒態勢の裁判所を大きな瞳で見つめていた。それにしてもここは寒い。革のコートにマフラーをしてはいたものの、エアコンもストーブも入っていない、筆記用具やノートの棚が並ぶただの事務用品倉庫なのだからそれも仕方がないのだろう。小さく白い息を吐いた柳(やなぎ)かれんは、肩に提げていたバットケースのベルトをぎゅっと握りしめた。
 東京に来たものの、全てのアテは外れてしまった。仲間を集め、チームを率いてFOTとの激闘に身を投じるはずだったのに、そんなテロリストの姿は大都会のどこにもなく、家出同然で実家を飛び出してきたものだから、警察にも届けが出されているはずで、そうなったら目をつけられてしまい、六年前の夏のあの事件が疑われるのに違いない。「メタカフェ」で、アルバイトのアイちゃんに教えてもらった。二十七日、群馬県の裁判所でFOTがテロを予告している、と。現状を打破するには、こうするより他になかった。現地に来て、この目でFOTの出現を見て、それからどうするか考えてみよう。今はとにかく何かが起こるのを待つべきだ。
 それにしても緊張する。我ながらとんでもない場所で待つことを選んでしまった。ひとつ間違えば、最悪の事態を招いてしまう場所だというのに。けど、他は全部だめそうだった。路上にはテレビがたくさん来ているから、もし映ってしまったら両親や地元の知り合いに見られて都合が悪い。役所のビルという手もあったが、カメラを持った男が警察官に連行されているのを見て、それも諦めた。ならいっそのこと、ここで待つのが一番安全だと思った。内側から鍵も掛けたし、もし誰かが入ってきたら、反対側のドアから逃げだそう。すぐ出口があるから、あとはなんとでもなるし、いざというときは、殺さない程度に痺れさせればいい。
「いいところに目をつけたものだな」
 背後から男の声がしたので、かれんは全身で反応し、できるだけ素早く振り返った。しかし、目の前にいる男は彼女が想像していた警察官などではなかった。純白の長髪に鋭く赤い瞳をした彼は、警察官以前に現実感を乏しくさせるほど端正で高い品位を感じさせる容姿をしており、バランスのいい長身を黒い上下のスーツに包み、鮮やかな赤いワイシャツにカーキ色のネクタイをしっかりと締め、革靴も黒くピカピカに輝いていた。一見すると何かのキャラクターの扮装のようにも見えるが、右手には無骨な双眼鏡が握られていて、それだけが奇妙なまでに実用的で異質でもあった。
 青年は片目を閉ざし、かれんに笑みを向けていた。
「警察じゃないのかっ!?」
「そうだよ。君と同じ侵入者だ」
 鍵だけではない、ドアを開ける音すらしなかった。自分以外誰もいないこの密室に、この男は音も立てずに現れた。それがあまりにも不気味だったため、かれんは逃げ出すよりも、ひとまず様子を探ることにした。
「こんなところから見物して、どうするつもりなのかな?」
「どーするのか、これから考える」
「どうやってここに? ここは県警本部だよ。君のような女の子が忍び込める場所じゃない」
「すぐそこの自動販売機がぶっ壊れてるって、通報しにきたんだ。あとはテキトーに歩き回って、鍵の掛かってない部屋を探したらここに着いた」
 通報した際、婦人警官から住所と氏名を聞かれたので、住所は引っ越したばかりで忘れたと言い訳をし、名前は向田愛と書いた。我ながら完璧な偽装工作である。かれんは男にそう自慢しかけたが、慌てて口を真一文字に結んだ。
「なるほど。この県警本部は今日の警備の要だからな。今日は朝から誰もが裁判所に注意を向けてて、内側への警戒はおざなりになっている。つまりはどさくさに紛れて、ここに潜伏したってことか」
「だから、なんなんだ? お前は?」
 尋ねながら、かれんはこの美しい青年になんとなくだが見覚えがあった。どこかで会ったのだろうか、それともテレビかネットで見たのだろうか。どうにも思い出せない。
「さて、それじゃそろそろ始めようか」
 かれんの傍をすり抜け、窓際までやってきた青年は両目を開け、手にしていた双眼鏡で外をしばらく見渡した。
「答えろよっ! 警察じゃねーんなら、お前はなんなんだ!?」
「次に会うことがあったら、答えよう」
 背中を向けたままそう返事をした青年は、突風と共に突如として姿を消した。あまりにも突然の出来事にかれんは口が開いたまま塞がらず、ややあって気を取り直すと辺りを見渡した。しかし、その光景は自分以外誰もいない事務用品倉庫でしかなく、青年の姿は消失していた。目の前で起きた出来事と、記憶を結びつけようとしたかれんだったが、次の瞬間、彼女の背後で大きな爆発音が鳴り響いた。窓の外だ。振り返ったかれんは、前橋地裁から立ち上る黒煙を見て、とうとうその時がやってきたのかと気持ちを切り替え、奥歯を噛みしめた。

2.
 裁判所の裏手側出入口にあたる北口と、夏目を移送するため特別に用意された装甲車の間には三メートルほどの距離があり、そこには臨時で鋼鉄製の屋根が取り付けられていた。しかし夏目が機動隊員に囲まれ北口から屋根の下に一歩踏み出したその時、彼らの頭上には夏の太陽よりも強烈な光が広がり、轟音と震動と共に周囲の視界は激しく上下し、許容範囲を遙かに超えた鼓膜は聴覚機能を奪われ、煙と粉塵が吹き荒れる中、鋼鉄の覆いは粉々に砕け散った。
 爆発現場から五十メートルほど離れた青い空に、八つの影があった。真っ白で隆々とした筋肉に包まれた巨体の背中からはやはり巨大な羽が生え、黒い革のパンツとリストバンド、そしてベルトと首輪以外は着衣もなく、腰には鞘に収められた刀が、肩からはスコープのついたアサルトライフルが提げられていた。足先は鋭く長い、飴色の長い爪が生え、人というよりは猛禽類の一部のようでもあり、なによりも顔は猟犬そのものであり、それらは誰が見ても人外の生き物たちとしか言い様がなかった。八匹のうち三匹は肩に筒状の発射装置を構え、中の一つは発射口から煙りを立ち上らせていた。八匹は羽をゆっくりと上下させ空中にまとまって留まっていたが、すぐに散開して旋回飛行をはじめた。

 正義忠犬隊だ! 対地ミサイルで屋根ごと破壊した!

 リューティガーの言葉が、肩に触れていた手を伝って遼に届いた。今回の予告テロに対して、日本政府の合同部隊は四百名以上を動員し、陸と空から隙間のない監視体制を敷き、敵の侵入に神経を尖らせていた。忠犬隊のような獣人の飛来も過去の経験から想定済みであり、対空戦闘の用意も怠ってはいなかった。忠犬隊が出現した上空五十メートル圏内も上下からの監視領域に入っており、そこに八匹もの獣人が現れるのを見逃すはずもなく、ましてや対地ミサイルの発射などといった余裕を与えることはあり得なかった。そのため、遼たちの周囲にいた自衛隊員は混乱し、事実関係の確認で騒然となった。
「上空はヘリで見張ってたのに、なんで忠犬隊があんな近くにいる!?」
 遼がそう尋ねると、リューティガーは真っ赤になっていた目を彼に向けた。
「監視区域の外に潜伏していたのが、空間跳躍で引き寄せられたんだろう。横田の時と同じだ」
「ってことは、真実の人がこの近くにいるのか?」
「もう、いないかも知れないけどね」
 真実の人、アルフリート真錠は視界内に捉えた物体や生物を、瞬間的にやはり視界の範囲内に移動させる“異なる力”を持っていた。つまり、対地ミサイルの発射準備が完了した忠犬隊が監視区域から外れたどこかに潜んでいて、地裁の近くに跳躍してきた真実の人がそれらを視界内に捉え、あの上空まで瞬間移動させたということになる。リューティガーの言うとおり、これは横田基地の戦でも獣人の大量移送方法として使われた奇襲の一手であり、如何なる警戒をしたところで防ぐのは事実上不可能とも言える無敵のアプローチだ。合同部隊にしてもこの手段は想定していたとは思うが、対策のために警戒範囲を広げるとしても真実の人が望遠鏡などで視力を補強していた場合、潜伏を防ぐのに莫大なコストが費やされることは遼にも想像できた。ましてや、それで守護する対象は政府高官などではなく、被害金額五百万円ぽっちの容疑者なのである。警戒の規模にも限界というものがあった。
 ともかく予告通りテロは起きてしまったので、遼はそれが最悪の結果にならないよう行動することが先決であると気持ちを切り替え、着ていたコートをその場に脱ぎ捨てた。自衛隊の混乱もすぐに収束し、彼らは上官の号令のもと、幼稚園の教室から裁判所北口に向けて出撃を始めた。

 夏目と機動隊員たちは、突然起きた頭上の爆発に全員が転倒し、煙と粉塵のただ中にあった。夏目の身柄を確保するため、自衛隊員が四方から北口に向かって突入を開始したが、彼らが夏目に辿り着くよりも早く二発目の対地ミサイルが着弾し、激震と共にアスファルトは剥がされ、裁判所の壁面に迷彩服を着た腕や足が鮮血と共に激突した。夏目を護送するはずだった装甲車は横転し、その影に直撃を逃れた自衛隊員が避難したが、アサルトライフルの斉射が頭上から降り注ぎ、ライフル弾の雨を容赦なく浴びた彼らの屍に白い羽がひらひらと舞い落ちた。

 銃声が鳴り響き、指示が怒号となって飛び交い、煙の中で火薬が燃焼する閃光が明滅した。迷彩服の男たちは、ある者は頭上の敵を、またある者は遮蔽物を求め、アスファルトやコンクリートの瓦礫を踏み砕き、決意と殺意と恐怖を顔に浮かべ、生と死が一瞬で切り替わる日常ならざる空間のただ中にあった。
 前橋地裁は日本国内において、唯一の戦場になろうとしていた。北口近くでは機動隊員と夏目が孤立し、その上空では八匹の獣人が飛び交っていた。自衛隊員たちは夏目たちに近づくチャンスを窺いつつ、高速で飛行する獣人に対空射撃で反撃したが、縦横無尽に回避行動をとる敵を照準に捉えるのは困難を極め、有効打を与えられないまま三発目と四発目の対地ミサイルによって新たな死傷者が発生した。獣人が携行できる程度に小型ではあったものの、ミサイルを防げるほど強固な遮蔽物は地裁の北口になかったため、部隊は一時後退を余儀なくされ、戦況は奇襲とその対応という最初期から、次の段階に移ろうとしていた。
 瓦礫と遺体が散乱する煙に包まれた戦場に、八つの影が鋭く角度をつけながら急降下してきた。彼らは着地と同時に、夏目の周辺で負傷して倒れていた護衛役の機動隊員たちに向け、アサルトライフルの一斉掃射を浴びせ、その息の根を止めた。瓦礫は血で赤く染まり、辺りに新たな硝煙が立ちこめたその直後、今度は逆に、二匹の忠犬が脳漿を散らしながら機動隊員の遺体の上に、力なく膝から崩れ落ちた。対獣人用のABコーティングを施された特殊ライフル弾によって、後頭部と側頭部をそれぞれ貫かれた二匹は、たちまち泡化を始めた。精悍な筋肉を誇り、身長190センチメートルを超える巨体揃いの忠犬隊たちの中にあって、ただ一匹だけ背が若干低く、だらしなくだぶいつた贅肉を身に纏った隊長、我犬(ガ・ドッグ)は、足下で倒れていた夏目の襟首を左手で掴み、それを身体ごと高々と引き上げ、手にしていた日本刀の切っ先を首筋に当てた。
「そ、そ、狙撃をやめろっ! こ、こ、国賊夏目は我々、正義忠犬隊が確保したー!!」
 たどたどしい片言の日本語で、我犬は周囲に響き渡る大きな声でそう吠えた。残り五匹の忠犬は隊長を背中で取り囲んでライフルを構え、うち二匹が地裁と、それに隣接する幼稚園の建物に向け、何発か発砲した。すると、地裁の屋根から迷彩服を着た陸上自衛隊員が落下し、頭から地面に墜落した。一方の幼稚園では二階の教室で腹ばいの体勢で狙撃銃を手にした陸上自衛隊員が額を撃ち抜かれており、忠犬隊を仕留めた二人の狙撃手はそれ以上の役割を果たせず、反撃によって命を絶たれた。
「わ、わ、我々の強化された嗅覚を、甘くみるなよぉ! 狙撃手の配置など、ま、ま、丸わかりだ! これよりひとつでも発砲すれば、夏目はただちに斬首されるものと覚悟せよ〜!!」
 我犬の言葉は明瞭であり、前線の指揮官たちは予め配置しておいた狙撃部隊に対して、指示のない発砲を禁ずるようあらためて命じた。六匹にまで減じた忠犬隊は、夏目の襟首を掴んだ我犬を先頭に全員が飛び立ち、三十メートルほど上昇して地裁を飛び越えていった。

 正門には、FOTを支持する市民団体が群れをなし、塊となって殺到していた。その人数はおよそ七十名で、彼らはつい先ほどまで道路を挟んだ歩道で大人しくかけ声を上げるだけだったのだが、対地ミサイルによる爆発が起きた途端、それを合図に熱狂の度合いが急激に高まり、道路を越え裁判所の敷地まで迫っていた。彼らは「国賊を殺せ!」「忠犬隊万歳!」「脱米独立!」「トゥルーマンどこ!?」などと奇声にも似た叫び声を上げ、最前列の者たちは正門に貼られた立ち入り禁止のテープを掴み、盾を構えた機動隊員たちと衝突が生じていた。
 市民団体の突破を懸命に阻止する機動隊員たちの背後、前橋地裁の正門広場に六匹の忠犬が降り立った。我犬は夏目を吊り上げたままであり、その姿を見た市民たちは歓喜の叫び声を上げ、機動隊員の大半が振り返り、急変した事態に著しく困惑した。
「こ、こ、ここの国賊に、て、て、天誅を敢行する!! 貴様らはよく見ておけ! 愛欲に公金を貢いだ愚か者の末路を! そ、そ、そして〜この国の公務員は、常に緊張をもって職務に励め! この非常時において、い、い、いかなる少額であっても着服と横領は、万死に値するものと思うのだ〜!!」
 夏目は我犬に襟首を掴まれ、両足は地面からわずかに浮かび上がり、目を閉ざしたままだった。そんな彼に向かって市民たちは相対する機動隊員の頭越しに、「死ね!」「斬首だ!」「断罪せよ!」と罵声を浴びせ、正門のすぐ近くまでやってきた遼とリューティガーは、人々の憎悪の強さに気圧された。
「ひどいものだね。五百万円の横領程度で、ああまでなじられるとは」
 冷たい口調でリューティガーはそう論評し、傍らの遼も頷いて同意した。
「どうかしてんだよ、あいつら」
 立ち入り禁止のテープの内側、地裁の敷地内にいた二人は、誰かに姿を見られては面倒だと判断し、ひとまず塀際に身を隠して、事態の推移を見守ることにした。
「しかし、斬首したら人質はいなくなる。忠犬隊は夏目を殺したら、一斉攻撃を受けるんじゃねぇのか?」
 実際、忠犬隊のすぐ前には背中こそ向けてはいるが、三十名を超える屈強な機動隊員が立ち並び、正門の周辺には陸上自衛隊の主戦力も集結しつつあり、制圧部隊や狙撃部隊の展開もじき完了する。近隣各地からは応援部隊がこの前橋地裁に次々と到着し、北口の戦闘で失われた四十名ほどの兵数は早々に補填されるだけではなく、なおも増加しようとしていた。一年前までならともかく、“鞍馬事変”や横田での戦いを経た現在、陸戦や武装テロ事件への当該組織の対応力や判断力は飛躍的に向上している。夏目は、忠犬たちにとって斬首の対象であるのと同時に、最も有効な人間の盾という矛盾した存在でもあり、彼らが目的を果たしたが最後、万全の準備を果たした防衛組織による制圧の波が押し寄せるか、急所を確実に狙った狙撃弾に貫かれる結果が待ち受けている。いくら超人的な筋力を持ち、対地ミサイルといった武装をしていても、自在に飛び回れる空中ではなく地面に降りきっているこの状況では、たった六匹で、五百名を超えようとしている合同部隊に太刀打ちできるはずがない。
「脱出の手立てがあるんだろうね。けど……周辺に真実の人がいないとしたら、引き寄せを逃走手段にはできない……となると……」
 リューティガーは塀を透視して、忠犬隊に熱狂する市民団体を視界に捉えた。
「あいつらを利用するかな。いい人質になる」
「なるほど。だから、正面広場まで飛んできたのか」
 七十名もの協力的な人質は、合同部隊にとって極めて厄介な存在である。遼もその点を理解し、それと相対する機動隊員たちを気の毒に思った。ならば強制的に排除できないものだろうか、そんな考えに至った直後、機動隊の中から、「これより実力行使に移る! ここより立ち去らない者は、テロリストの協力者とみなし、現行犯逮捕する!」という叫び声が上がった。遼の発想がいま正に実行されようとしたが、機動隊員たちが動き出す前に忠犬隊の中の三匹が我犬の傍から飛び立ち、正門広場から市民たちの群れの中に着地した。
「こ、こ、こ、高貴な魂を持つ真実の子らよ! 我々は君たちと共に在らん! た、た、逮捕などさせるものか〜!」
 我犬のアジテートに、市民たちは拳を突き上げて賛同を意味する絶叫で応えた。市民団体の群れに、三匹の武装した忠犬が紛れ込んでしまった。この事態に機動隊は為す術もなく、宣言された逮捕は実行に移されることもなく、状況は再び膠着状態に陥ってしまった。
 我犬が夏目の生殺与奪を握っているだけなら、最悪の場合でも夏目の救助を放棄して武力行使をするという最後の手段も残されていた。だが、わずかな時間で状況は一転し、現状ではいかなる実力行使を試みたとしても、一般市民へ危害が生じるというリスクが加わってしまった。合同部隊には、二手に分かれた忠犬隊をほぼ同時に無力化するか、市民への被害を度外視して一斉攻撃を仕掛けるかの選択肢しかなく、前者は失敗の危険性が高く、後者はその場凌ぎの愚策であり、どちらも選ぶことはできなかった。我犬たちと市民団体の狭間で隊列を組む機動隊員は、誰しもある光景を想定し始めていた。このまま夏目への粛清が敢行され、市民を新たに人質とし、はるか上空に飛び去っていく獣人の群れという最悪の光景を。
 三匹の忠犬が加わった市民の群れは、機動隊員を前に熱狂の喝采を上げていた。中には感激のあまり泣き崩れてしまう者もいて、興奮は最高潮に達しようとしていた。しかし、この狂乱の中にあって、ただ一人呆然として声も上げず、立ち尽くすばかりの少女がいた。
 予告通り、FOTのテロが発生した。ならばとるべき行動はただひとつ、その現場にできるだけ近づくことだ。あとのことはそこから考える。対地ミサイルの爆発をきっかけに県警本部の用具倉庫から飛び出した柳かれんは、どこに行けばいいのかわからず、とにかく一番目立つ入口である正門の傍までやってきたのだが、そこには既にこの群れが押し寄せていて、気がつけば自分もそのただ中にあった。周辺では「殺せ!」「粛清!」「斬首だ!」と絶叫する人々がいて、立ち入り禁止テープを挟んで盾を構えた機動隊員が横に列を作って相対して、更にその向こうの正面広場では、犬の頭をした白い巨体が男を吊り上げその首先に剣先を突き立てている。かれんにとって、それは理解しがたい奇妙な光景であり、ただただ困惑するしかなかった。狂乱の群れの中にあって、彼女は立っているのもやっとで、周囲の人々に押されては返され、大波の中の小舟のように揺れていた。これではいけない。気を取り直したかれんはしっかりと踏みとどまり、両の拳をしっかりと握りしめ、群れの中で状況を整理した。
 あの羽の生えた犬のような怪物たちが、FOTということはよくわかる。これまでのニュースをネットで復習しておいたから、中央にいる太ったやつが正義忠犬隊の隊長、我犬であり、それに襟首を掴まれている中年が、税金を横領した犯人だということもわかっている。
 どうすればよいのだろう。どうすれば、一番自分の望んでいる結果に近づけるのだろう。白い犬の怪物を片っ端から雷撃で気絶させれば、正義の味方としてデビューできるのだろうか。だとすれば、まずは人質をとっているあの太った奴が最初だ。次にその傍にいる二匹、最後にこの中に紛れ込んだ三匹。倒したあとは、バリアを張り巡らせて颯爽と去っていこう。どこから駅に向かおうか。

 いや。

 退路を確認するため辺りを見渡したかれんは、この状況を遠巻きから取材している報道陣の姿を見つけた。歩道から値段の高そうなカメラを向けている者もいるし、遠巻きにしている野次馬たちの中にもテレビ局のクルーらしき者たちが見える。ひとたび行動に移れば、自分の姿はニュースとして報じられる。そうなったら、すぐに正体も特定されるだろう。いずれは六年前のあの事件も蒸し返される。たかが六匹の怪物を倒して横領犯の命を救ったぐらいで、あれが“ちゃら”になってくれるのだろうか。
 夏目は相変わらず目覚めることもなく、我犬に掲げられてる。上下は鼠色のスウェット姿であり、靴はなく、爆煙のため全身は煤だらけで薄汚れ、生死も定かではないほど全身から力が抜け、風のない日の旗のようにしなだれていた。

 わ、わかんねーよぉぉ!
 あのオッサン、そもそも犯罪者だし、そもそもあれで生きてんのかー!?
 あんなの助けても、そもそもポイントになるのかよぉぉぉぉ!
 つーか、そもそもって、そもそもなんなんだよぉぉぉ!

 ぶらぶらとしなだれた夏目を凝視しつつ、真冬でありながら大量の汗を全身から吹き出し、その場になんとか踏みとどまりながらも柳かれんは深い混乱の中にあった。テロリストを倒す。六年前の過ちが不問になるほどの功績を挙げ、皆から賞賛されるバラ色の人生を送る。ぼんやりとそんな計画を立てていたものの、いざ目の前の現実になってみると、なにをしていいのかさっぱりわからず、なにもできずにパニックに陥るだけであり、遂には視線も定まらなくなり、マフラーで隠した口元は歪みきってよだれまで漏らし、膝ががくがくと震え尿意までもよおしてくる始末であった。

 正門から少し離れた壁際に身を潜めていた遼は、事態を解決するため一つの策を練り、それをリューティガーに説明した。リューティガーは紺色の瞳を輝かせ、何度も頷き、興奮して白い息を漏らした。
「いい作戦だよ、遼」
「上手くいけばな。もししくじったら、そんときはフォローを頼む」
「もちろん! 君の力が足りなかったら、すぐに跳躍させてここから退避する」
「頼んだぜ、ルディ」
 遼は、振り返って前橋地裁を一瞥すると、背負っていたデイパックから黒いマスクを取り出し、それを顔に着けた。これは以前リューティガーから渡された賢人同盟の期間限定現地協力者用の装備品一式の中に含まれていたものである。ホッケーマスクの様な前面を覆う形式のもので、装着者の人相だけではなく、声紋や網膜の情報を一切隠蔽する機能を有しており、ある程度の防弾能力も備えていた。一昨年の十二月にこれを渡された際、遼は不気味さも漂う外観をしたマスクに対して「誰がつけてやるか」と心の中で毒づいたものだったが、日本政府とFOTが全面衝突している現在の状況は、あの頃とは全く異なっている。それをよく理解できている遼は、高川が普段の任務でそうしているように、なんの躊躇もなくマスクを装着し、リューティガーの肩を一度だけ軽く叩いた。リューティガーは再び頷き返すと、右の掌を遼の肘に触れさせた。
 つむじ風と共に、マスク姿の遼はその場から姿を消し、次の瞬間、立ち入り禁止のテープが張られた正門のすぐ近くに出現した。市民団体と機動隊が正面から衝突し、怒号や歓声が飛び交う狂騒と混乱のただ中にあって、遼の出現に気付いたのは、一番近くで市民団体を押し戻そうとしいる機動隊員だった。遼は彼に手で挨拶をすると、立ち入り禁止のテープを握りしめ、意識を集中した。

 てめぇら、いい加減にしやがれ!

 できるだけ大きく、幾重にも貫通できるほどの強さと勢いを念じ、遼は心の叫びを握っていたテープに向けて続けて四度放った。念じる叫びは四本の意志の矢となって一直線に進み、最前列でテープを掴んでいたある中年男性の市民団体員に達し、彼の精神を鋭く射抜き、一瞬で正気を絶った。意志の矢はなおも勢いを失わず、気絶した男の背中に押し寄せていたひとつ後ろの団体員の精神も射抜き、次の獲物を求め突き進んだ。
 四本の意志の矢は、塊になって触れ合っていた市民団体を瞬く間に貫いた。七十名もの群れは、立ち入り禁止のテープに近かった最前列から順番に、波のように次々と倒れていき、僅かな例外を四名残した以外は全員が不意を突かれて意識を失ってしまった。気絶者の中には、二匹の忠犬も含まれていた。一匹は女子中学生の市民団体員の頭を撫で、もう一匹は男子大学生と熱烈な握手をしている最中だった。そして四名の例外は、たまたま誰とも触れ合うことがなかった外郭にいた二名の市民団体員と、アサルトライフルを構えた一匹の忠犬と、柳かれんであった。かれんも別の団体員と身体が触れていたのだが、心の中に強く鋭い衝撃を感じたため、すぐに後ろに飛んで難を逃れていた。
 この感覚は、初めてではない。だから察知して、すぐに離れて気絶を免れた。そう、この感覚はつい最近、あの建設現場で食らったあの攻撃だ。

 奴だ!

 かれんはテープを握る黒いマスクを凝視した。顔は隠しているが、あいつはそう、遼とかいうやつに違いない。全体的な体格がそんな風に見えるし、服装にも見覚えがある。なによりもこんなことができるのは奴だけだ。人類愛をモットーに、「人殺しは殺す」を宣言するあの男、遼だ。なんということだ、危ない奴だとは思っていたが、まさか一瞬でこれだけの人数を気絶させるなんて。かれんは足下で累々と倒れる人たちと遼を見くらべ、仮面の男が狙っているのは自分であるのだと思い至った。

 わたしを殺しに来たのかぁぁぁぁぁぁ!?
 人殺しは殺すのかぁぁぁぁぁぁ!?
 あの仮面はなんだぁぁぁぁぁぁ!?
 あれってもしかして、抹殺スタイルかぁぁぁぁぁ!?

 ケースからバットを取り出したかれんは、今度は別の恐怖に襲われて周囲を見渡した。遠巻きにしていたテレビカメラや歩道にいた報道陣のカメラが、いくつも自分に向けられている。これを避けるために群れの中に紛れていたというのに、これは最悪の状況だ。慌ててコートの襟を立て直したかれんだったが、全身ががたがたと震え、バットで身体を支えるのがやっとなほど心が乱れきってしまった。

 やっべぇぇぇぇ!
 映されたぁぁぁぁ!
 みんな倒れたから、目立っちまったじゃねーかよぉぉぉぉ!
 こんなことなら、気絶しときゃよかったじゃねーかぁぁぁぁ!

 パニックに陥っていたかれんは、再び遼に視線を向けた。だが、テープを掴んでいた黒いマスクはいつの間にか姿を消していた。奴はどこだ。気を引き締めて“敵”の姿を探す少女の目に、奇妙な光景が飛び込んできた。あれは、機動隊員たちの向こう側で横領犯を人質にとっていた我犬という怪物だ。なのに、掲げていたスウェットの姿が見あたらない。もう首を刎ねて始末してしまったのだろうか。いや、我犬の左手は上がったままで、何かを探すように左右に首を振っている。その傍らの二匹の怪物も何かを探しているような素振りをしている。なんなんだ。みんなが気絶させられたあと、一体なにが起きたのだ。ともかく、最低限の対応をするため、かれんはその場で身を低くしてバットをケースに戻した。口を覆っていたマフラーがずり下がると白い息が視界を曇らせ、それとともに混乱の波が小さくなっていくような気がする。少しだけ落ち着きを取り戻した少女は、人質だった夏目が我犬の元からなぜ消えてしまったのか、極めて漠然とはしていたものの推察できてしまった。

 ルディだ!
 あいつもここに来てやがる!
 あいつがやった!?
 そうに決まってるっ!

 その推論は正解だった。正面広場の我犬たちから二十メートルほど背後に位置する前橋地裁の三階の廊下に、夏目は仰向けに倒れていた。そしてその傍らにはダッフルコートを着たリューティガーと、黒い仮面を外した遼の姿があった。リューティガーは廊下の奥で警戒任務に就いていた陸上自衛隊員に向かって、「夏目はここです! 救護班を要請します!」と叫んだ。
 遼が即席で立案し、リューティガーと二人で実行した作戦は実に単純な内容である。まず、リューティガーが遼を市民団体と機動隊員を隔てる立ち入り禁止テープの近くに跳ばし、遼は団子状に寄り集まっている七十名もの市民と紛れ込んでいた三匹の忠犬を、新しく編み出した特殊技能“攻撃的接触式読心”によって失神させ、無力化する。それと同時にリューティガーは我犬の直近に跳躍し、夏目に触れこの廊下まで彼を跳ばす。続いてリューティガーは遼も同様に跳ばし、最後は自分もここまで離脱する。全てのプロセスはほぼ完璧に遂行され、我犬は人質もないまま合同部隊の包囲網の中で孤立する結果となってしまった。
 状況を確認するため、遼が廊下の窓から双眼鏡で正門の外側を覗いてみると、市民に紛れていた三匹の忠犬のうち、一匹だけが気絶を免れ、足下に倒れている人々に戸惑っている様子が目に飛び込んできた。
「あっちの方のを、一匹残しちまったか」
「しかし、我犬たちとの間には機動隊もいる。ああなると連携は困難だから恐くはない。もしデモの連中を人質にとるような動きを見せたら、君が対処してくれ」
 リューティガーの指示に、遼は遠くで狼狽えている忠犬の首筋に注目することで応えた。
「ああ、ここからでも急所は大体わかる。狙えるな」
「もっともその前に、合同部隊の狙撃班が対応するだろうけどね。今回の彼らは、全体的に動きが速いし現場判断も的確だ」
 そう告げたのち、リューティガーは傍らの遼をじっと見上げた。その紺色の瞳が爛々と輝いていることに気付いた遼は軽く戸惑い、頭を掻いた。
「なんだよ?」
「いい作戦だった。僕も気持ちよく動けた。それに、あの心の矢を、よくデモ隊の側だけに当てたね。テープは反対側の機動隊員たちも触れていたから、それだけが心配だったよ」
「ああ、一番最後の到達点を、あのデモの連中の最後尾あたりにしておいたんだ。だから、反対側の機動隊にはダメージは出なかった」
 つい最近、試してみたばかりの技能だったはずである。あの時よりずっと多くの相手を、しかも狙いをしっかりと定め、一気に失神させるだけの威力で貫き通すとは。遼の説明に、リューティガーは興奮を覚えた。柳かれんに対して披露したあの日以来、彼なりに実験と練習を積み重ねてきたのだろう。作戦を説明する遼の口調に自信が感じられたので従ってみたが、彼を信じて正解だった。
「その技能は今後、“思念破”と呼ぼう。同盟本部にもそう報告しておく」
 リューティガーの提案に、遼は頷き返した。すると二人の背後から、迷彩服を着用した自衛隊の救護班が駆けつけてきた。リューティガーは身分証を尉官に提示して、夏目の身柄を彼らに引き渡した。
「これで、天誅阻止だな」
 担架で運ばれていく夏目を目で追いつつ、満足そうにつぶやく遼に、リューティガーは首を横に振り、「夏目は初弾のショックで死んでたよ」と短く答えた。
「なっ!? 死んでた!?」
「触れた瞬間にわかったし、透視もした。おそらくは破片か爆風で心臓を強打した際、心筋梗塞を発症した。即死じゃないけど、我犬がみんなの前で高々と掲げている最中に死亡したと思う」
 リューティガーの口調は冷静だったが、遼はやり場のない憤りを、地裁の壁に拳で叩きつけた。
「まあ、それでも群衆や報道陣の眼前で斬首という扇動行為は防げた。僕たちの作戦は、ムダだったってわけじゃない」
「けどな!」
「遼、それより合同部隊が次の作戦段階に移りそうだ。僕たちの今回の役目は、もう終わったと思っていい」
 あくまでも落ち着いた様子で、そして突き放すほど冷たくなく、リューティガーは憤る遼をなだめ、正門の近くで背中を向けていた我犬たちを見るように目で促した。

 しまりのない身体をした我犬は、他の精悍なる忠犬たちと比べると運動能力に劣るが、その短所を補うため慎重で思慮深く勉強熱心であり、常にあらゆる事態を想定して対応できる長所を備えており、その点が真実の人から二代目の我犬として抜擢された最大の理由でもある。吃音症ではあったが思考は明晰で、指示する内容も常に正確であり、部下からの信頼も厚い、有能なる指揮官であった。しかし、その彼であってもこの事態をすぐには理解できなかった。機動隊員たちの向こう側から声援を送っていた民衆が次々と倒れ、次の瞬間、掲げていたはずの夏目の遺体が消えた。そう、忽然と、まるでそもそもなかったかの如く、手から消えてしまった。臭いはまだ残っているが、それは動いた形跡もなく、この場にだけ漂い続けている。

 と、なれば。

 夏目の遺体は“異なる力”によって何処かに跳ばされた。そんな結論に至った我犬だったが、人質を失った今は危険から身を守ることが最優先だったため、彼はそれ以上の分析をやめ、肩に提げていたアサルトライフルを構え、腰を低くした。複数のポイントから、いくつもの銃口が自分たちに向けられていることは承知している。
 既に死んでいたが、夏目の首を切り落とし正義決行を報道陣にアピールし、市民団体を更なる盾にしてこの現場から撤収する計画だった。その確保要員として群衆に紛れ込ませた三匹の部下も二匹が失神してしまった。正義忠犬隊で戦力としてカウントできるのは、累々と転がる市民の中で孤立したあの一匹、「伊東君」と、こちらのすぐ傍で守りを固めている「リック君」と「ソムチャイ君」、そして自分の合計四匹。ある程度の犠牲は覚悟していたが、八匹が半減するとまでは想定していなかった。
 ここからは遮蔽物も遠く、人質を失った以上、狙撃手にしてみればこちらは格好の的であり、発砲命令を今かと待ちわびていることだろう。いや、狙撃ではなく制圧部隊が一斉に襲いかかってくる可能性も考えられる。ここから離陸して全力飛行で戦線を離脱するという手が最も単純だが、羽を上方に立ち広げ、両膝をじゅうぶんに屈伸させ飛び立つ準備をそれなりに整えるだけの余裕はおそらくなく、しかしそれを怠れば加速も得られずのろのろと飛翔し、低空圏で狙撃される末路が容易に想像できる。迅速に、手際よく、敵が次の行動に移る前に人質をとらなければ。それさえできれば、状況は再び逆転する。時間が制止したかの如く、今のところ誰も次の行動に移らないのは、民衆の集団失神や夏目の消失が合同部隊にとって想定外の事態であることの証明であり、こちらにとっては不幸中の幸いと言える。しかし、日本政府の合同部隊は今回の一件において、これまでで最も素早く、極めて適切な対応力を示している。この微妙に唖然として凪いだ空気は、冷静な判断によってすぐに入れ替わるはずだ。
 誰を、そしてどうやって人質にとるべきか。市民団体の中には予め“夢の長助”こと、藍田長助(あいだ ちょうすけ)が催眠術で自己暗示にかけた者を五名ばかり仕込んでいたから、特定のサインを送ればすぐに自分から人質になる手はずになっていた。しかし、五名とも全員が気を失っていて、仕込みはもう役に立ちそうにない。正門の外側で失神している人々を物色した我犬は、倒れることなく意識を保ったまま立ち尽くす、三名の存在に気付いた。長助の仕込んだメンバーでもなく、気絶の要因が判明しない以上、例外の理由も定かではないため警戒が必要ではあったが、生きた盾にするならこいつらの中から選ぶしかない。倒れている連中の方が確保しやすいが、夏目の遺体が日本政府に回収されていたら、新しい人質も既に死んでいると認定され、それを理由に強硬手段に打って出る可能性もある。敵は、生死をかぎ分ける嗅覚を持っていない。となれば、意識ある生者の人質が必要だ。そんな結論に至った我犬は、三人の中で一番若い、赤いコートを着た青い髪の少女に目を留めた。少々派手な身なりだが、報道陣も揃っているこの場合においては好都合だろう。それに彼女は、気絶を免れ孤立している忠犬隊の部下、「伊東君」のすぐ近くにいる。
 我犬は少女を確保するように指示を出すため、忠犬・伊東に向けて左の人差し指をぴくりと動かした。しかし、それと同時に一発の弾丸が彼の頭上を通過し、それは指先にいた伊東の眉間を貫いた。忠犬はほんの一瞬で生命活動を停止すると、糸の切れた操り人形にように膝からその場に崩れ、倒れきるよりも少しだけ早く、撃ち抜かれた眉間から紫の煙を勢い良く吹き出した。伊東を絶命に至らしめたのは、警視庁から派遣された特殊急襲部隊、「SAT」の狙撃手によって放たれた7.62ミリライフル弾だった。弾丸には、賢人同盟より今年になってから新たに供与された対獣人用の新型化学薬品「Poisoned apple」がコーティングされており、この薬品は獣人の血液に含まれる増強調整成分のひとつと混合されると、猛毒物質を急速に生じさせ、たとえかすり傷であっても対象に致命傷を与える。F資本対策班が研究開発と実証実験を重ね、合同部隊で正式採用となっている従来型の対獣人用ABコーティング弾が獣人の分厚い筋肉組織の貫通破壊を主眼としていることに対して、この「対獣人用Pa弾」は、より効率的な獣人の駆除を目的として開発された一種の化学兵器だった。
「テロリストに告ぐ! ただちに武装解除し、投降せよ!」
 優勢は、圧倒的劣勢にひっくり返った。どこからともなく聞こえてきた合同部隊による降伏勧告に対し、我犬は鼻に乾きを覚え、低く呻った。一発の銃弾を皮切りに、凪いでいた空気は怒濤の竜巻となって戦場を包み込んだ。まず、陸上自衛隊の工作部隊が正門近くまで急行し、失神して倒れていた市民団体員や二匹の忠犬たちに対し、防護ネットをかぶせた。我犬たちの最も近くにいた機動隊員は、横列だった隊列を包囲網に組み替え、全員が盾を構え、三匹の忠犬テロリストを完全に取り囲んだ。かれんを含む、意識のあった三名の市民には警官たちがそれぞれ接触し、その身柄をしっかりと確保して正門から車道のパトカーまで後退させた。この間、わずか一分間の出来事であり、その最中にあって我犬たちはまったく身動きがとれなかった。
「飛び立とうとしても無駄だ! お前たちは完全に包囲されている! ただちに銃を捨て、投降せよ!」
 我犬は、二度目の勧告に小さく頷くと、作戦の失敗と己の敗北を悟った。それでもその闘志は衰えることなく、彼は胸を張り、銃口は下げず、息を思い切り吸い込んだ。
「我々FOTは、この国の外と内の敵を挫く!」
 どもることなく、我犬は天空に向かってそう吠えた。そしてその返答として、数発の銃弾が返ってきた。我犬の傍らにいた忠犬・リックとソムチャイは、頭部と腕部と腹部をそれぞれ狙撃され、傷口から紫色の煙を吹き出しながら息絶えた。
 遂に、正義忠犬隊も自分が最後の一匹になってしまった。隊長であるからこそ、腕のいい狙撃手たちは自分を残したのだろう。確保して、情報を引き出すため、ただそれだけの理由でまだ生かされ続けている。我犬は足下で泡と化していく二匹の部下に僅かな黙祷を捧げると、それでも銃口は頑として下げることなく、包囲する機動隊員を鋭い目で睨み付け、よだれを漏らしながら威嚇のうなり声を上げた。犬死にになろうとも決して敵には投降しない。最後の一発を撃ち尽くすまで、正義忠犬隊隊長の職責を全うする。その決意だけが、絶体絶命の我犬の精神を支えていた。

3.
 パトカーの後部座席にむりやり乗せられたかれんは、銃声を耳にして腰を浮かせた。警官に腕や肩を掴まれ、強引にここまで引っ張ってこられたので状況はよくわからないが、あの銃声は忠犬隊たちに向けられたものだろう。我犬の叫びに応じて、警察や自衛隊が撃ち返したのだ。もう忠犬隊は全滅してしまったのだろうか。本来だったらその役目と手柄は自分が得るはずだったのに、テレビやカメラに怯えて迷っていたら、結局こんなことになってしまった。

 こんなこと?

 かれんは傍らで腕を掴む警官の横顔を見て、ある結論に至った。そうだ、自分は警官に捕まったのだ。逮捕されたのだ。忠犬隊も死んで、テロも終わって、次は自分が取り調べられる番だ。身元を照会され、正体がバレて、六年前のあの夏が掘り返され、人殺しの罪を追求される番なのだ。そして最後は死刑か、死ぬまで刑務所だ。なぜこんなことになった。なぜ腕を警官に掴まれている。まったくわけがわからない。なにがどうなってこうなった。

 あいつらだ。

 遼とルディだ。あいつらが現れて、みんな気絶して夏目も消えて、忠犬隊のテロが失敗したから警官や迷彩服が一斉に動き出したのだ。あいつらさえ出てこなければ、テロは成功していたかもしれない。そうなったら今回はまあ仕方がなかったと諦めてこの場から静かに去り、今度は別の機会に別のやり方でヒーローになるのをやり直せたのに。あいつらがいる限り、この場を切り抜けてもこんなことの繰り返しなのだろうか。だけど、あいつらとは仲間になんてなれない。ルディは、あきらさんと似た力を持っているのに、そのあきらさんを「不適合」だの「凶悪」などと批判的だし、実に偉そうで気に食わない奴だ。それにこっちを「戦力にならない」と決めつけて切り捨てたのにも腹が立つ、もう一方の遼は、ルディと比べたら言葉もわかりやすくて気さくだと思ったのに、人類愛とか訳の分からないことを抜かした挙げ句、「人殺しは殺す」などと、恐ろしいことをはっきりと言っていた。そして、駐輪場に現れた、あいつらのボスとおぼしき女だ。あいつは高校生のクセに小難しいことばかりをすまし顔でペラペラと言って、なんだかとても生意気で決して友達にはなれない嫌いなタイプだ。あんなボスの下には、絶対つきたくない。
 なら、どうする。逡巡して視線を泳がせたかれんは、フロントガラスに二枚の顔写真が貼り付けられていることに気付いた。
 一枚はリューティガーであり、もう一枚は、白い長髪をした赤い髪の青年だった。あれはついさっき、警察の倉庫で出会った“あいつ”だ。なんだか現実離れをした男だった。常識の外側にいるような男だった。物音立てず、どこからともなく現れ、疾風と共に去っていったあの男。そうだ。あいつは「真実の人(トゥルーマン)」だ。見覚えがあると思っていたが、ようやく思い出した。ニュースやネットで見たことがあったのは、あの男だ。あいつがあの、真実の人か。写真を見ていると、妙に気持ちが昂ぶる。なぜだろう。これは一目惚れか? 違う、そういったものではない。なにかをしたくて、なにかをしてもいいという許可が、自分の中ですんなりと降りてしまう。それは居心地のいい感覚を伴って、昂ぶりを与えてくれる。
 そうだ、ともかくこの場を切り抜けなければ。まずは雷撃を使ってこのパトカーから逃げる。それからどうする。周囲には警官や自衛隊がうじゃうじゃいる。近寄らせないことはできると思うが、果たしてどこに逃げればいいのだろう。パトカーから、装甲車から、ヘリから、どうやって逃げればいいのだろう。走ったところで逃げ切れるものではない。いくら雷撃で寄せ付けなくてもいつかは限界がきて捕まる。そんな絶望的な結論に至ろうとしていたその時、かれんの耳にある叫び声が飛び込んできた。
「我犬死すとも真実は死なず〜! 我が魂は真実の刃となって、皆の隷属を断つ!」
 言っている意味はよくわからないが、正門広場の方から聞こえてくるあの大きな叫び声は我犬のものである。とうとう最後の一匹になってしまったが、まだ生きていたのか。

 我犬生きてるーっ!
 まだ戦いは終わっちゃいねぇぇぇぇ!
 羽だっ! 羽だ、羽だ、羽だっ!!

 考える間もなく、感情のほとばしりが稲妻となってかれんの全身に走った。彼女の腕を掴んでいた警官は激痛を感じて手を離し、パトカーから降りようとするかれんに向かって「止まれ」と叫んだ。だが、かれんはその制止に応じることなく車道から地裁の正門目がけて駆け出し、左手を高く上げた。
「どけぇぇぇぇぇぇぇ!」
 左手を下ろすのと同時に、晴天の空から一条の雷が我犬に落ちた。彼を取り囲んでいた機動隊は、その衝撃から逃れるため後退して包囲網を広げたが、中には間に合わず感電する者もいた。生じた隙間を縫って、かれんは包囲の中に飛び込んだ。事態の急激な推移に、狙撃者たちは一斉に引き金を引いた。しかし弾丸は我犬に届くことはなく、その周辺を取り囲む光の壁によって全てが弾かれてしまった。

 落雷ではない、あれは我犬を護るための電磁防護幕だ。地裁三階の廊下から遠透視で事態を見守っていたリューティガーは、正面広場の我犬が、輝く防護幕に包まれている光景に驚愕し、隣にいた遼を見上げた。
「遼、あれは柳かれんの仕業だ! 遠隔から我犬に電磁防護幕を展開したんだ! しかも前とは比較にならないほどの高電磁だ!!」
「なんでそうなる!?」
「さあね! だがああなると、ここの装備では突破できない。僕も迂闊に懐には飛び込めない。君の力が必要だ!」
 遼はその言葉に頷き返すと、リューティガーの肩に手を乗せて視覚を共有した。建築中のカラオケボックスで見たのと全く同じように、我犬は稲妻の檻に取り囲まれていた。そして、その内側には柳かれんの姿もぼんやりとだが見えた。
「あの子、いつの間にあそこに!?」
「展開直後だ。自らも防護幕を纏い、我犬に展開させたそれと融和させて内側に入ったんだ。まったく……どこまで力の制御に長けたサイキなんだ。天才としか言いようがない」

 輝く電気の檻の中で、かれんは我犬の巨体を見上げ、勢いよく人差し指を立てた。
「我犬! 一緒に逃げるぞ!」
「な、な、なんでぇ〜!?」
「知らんっ! これは成り行きというやつなのだ! わたしには、お前の羽が必要だ! 飛んでくれっ! そしてここから逃げて、真実の人に会わせてくれっ!」
 そんなやりとりをしている最中も、狙撃手や制圧部隊は檻に向かって射撃を続け、装甲車からは機関砲が運び出されようとしていた。
「この状態では、飛べないぞ!」
「どーして!?」
「バ、バリアの中では、翼を広げられないし」
「なら大きくする!」
 かれんは両手を交差させ、稲妻の檻を縦横にゆっくりと広げた。それに呼応する様に、機動隊の包囲網も大きく薄くなった。
「どうだ我犬!?」
「縦にもっと! 幅は今より狭くていい。トンネルみたく、天井は空いていた方がいい。で、で、で、できるのか?」
「まっ、まかせろ!」
 片膝を着き、両手をもう一度交差したかれんは、こめかみに力を込めて精神を集中した。すると稲妻の檻はバチバチと音を鳴らしながら再度形を変え、我犬の要望通り、天空へと突き抜ける煙突状になり、その高さは百メートルほどにまで達した。我犬を包囲していた最前線の機動隊員たちは、あまりにも現実離れした光景に大半が唖然としてしまい、指揮官は感電の危険性から全員に一時撤退を命じた。機動隊が安全地帯まで退いてから、外郭からの射撃は一層勢いを増したが、弾丸は電磁幕に阻まれ弾かれるだけであり、跳弾は地面や地裁の外壁を削り取り、窓ガラスを割り、駐車されていた車を次々と傷物にした。
「よし、これならなんとかなる。掴まって」
 我犬はかれんに手を差し伸べ、彼女を両腕で抱きかかえた。翼を垂直に立て、両膝をたっぷりと折り曲げた最後の忠犬は最大加速での離陸準備を完了したが、ぶつぶつとつぶやく声がしたので、聴覚を集中して抱きかかえていた少女の口元に注目した。
「あーちくしょ、とうとうやっちまったよ。あーちくしょ、もー取り返しがつかねー。あーちくしょ、なんでこーなるかな」
 口先を尖らせ早口で、かれんはそうぼやいていた。集中砲火を浴びているこの状況下で、この少女はまるで小遣いの無駄遣いを後悔する子供のように、緊張感のない不満を口にしている。果たして彼女は何者なのだろうか。我犬はますますわけがわからなくなったが、ともかくこれが最後のチャンスだと心に決め、一気に飛び立った。地面を蹴り上げ、羽を力強く打ち下ろした我犬は、光のトンネルを急上昇した。腕の中のかれんはまだなにかをつぶやいている様だが、今は五感の全てを脱出に費やすため、ぼやきに気を留めている余裕はない。それよりもなぜだか左側の視界が急に狭くなったのが気になる。なんだこれは。まるで、左目が急に見えなくなったようだ。しかし確認は後回しだ。今はとにかく最大加速で上昇だ。二度目のはばたきを果たした我犬はトンネルを抜けた途端、急角度をつけ水平に身体を滑らせ、待ち伏せの狙撃や対空砲火がないことを確認すると、三度目のはばたきで高度を一気に上げた。

 光の柱は四散し、我犬とかれんの姿はすっかりなくなっていた。銃撃も止み、機動隊も撤退していたので、前橋地裁の正面広場は寸前までとは一変して、奇妙な静寂に包まれていた。地裁三階の廊下で、リューティガーは目を血走らせ、天井を見つめていた。
「遠透視の範囲外だ……逃げられた」
 悔しそうにつぶやいたリューティガーは頭を下げ、その場に腰を下ろしてしまった。遼は並んで壁に背中をつけ、ため息を漏らした。
「動脈を狙ってみたけど、どうやら外しちまったみたいだ。七、八回は仕掛けたから、どこかにダメージは食らわせたと思いたいが……すまねぇ、ルディ」
 遼は時量操作によって逃げようとする我犬の動脈の破壊を試みたが、結果としてそれは叶わなかった。リューティガーは頭を何度も横に振り苦笑いを浮かべた。
「僕の遠透視がまともに機能していたら、君に忠犬の急所を伝えられたんだ。なのに、あれじゃ……あんなのは初めてだ」
 リューティガーの遠透視は、我犬の首から上の内側を内視鏡のように鮮明に捉えるはずだったが、今回に限っては細部や輪郭がはっきりとしないピントの合っていないぼんやりとした視覚情報しか得られなかった。しかもそれだけではなく、稲妻のようなノイズが頻繁に走る劣悪な透視結果であり、遼に急所を伝える役割を果たせなかった。仕方なく遼は、勘を頼りに時量操作を繰り返してはみたのだが、決定打には繋がらず脱出を許してしまった。こんなことなら、空間跳躍で電気の檻の内側に跳び込み、我犬を殺しておけばよかった。リューティガーは判断の誤りに悔しさを覚え、背後の壁を強く叩いた。
「おそらくは、あの電磁防護幕が原因だ。僕と忠犬の間に展開されていたアレが、遠透視を妨害したんだと思う。実際、防護幕の手前までは、いつも通り鮮明そのものだったんだ」
「なら……ちょっとまずくねぇか」
「ああ……柳かれんは、敵に回すべきではない人物だったということになる」
 リューティガーの遠透視によって対象の急所を確定し、それを遼の時量操作で破壊するという作戦は、真実の人(トゥルーマン)暗殺の基本プランであった。場合によっては、それも軌道修正の必要が生じる。リューティガーと遼は共に失敗を認めたが、しかし遡ってみたところでそれを未然に防ぐ方法があったとも思えなかったため、苛立ちが高まるだけだった。
「どうして、なんでなんだ? なんであの子は我犬の元に走ったんだ? 一体なにがあったんだ?」
「全然、まったくこれっぽっちもわからないよ」
 材料が圧倒的に足りなかったため、リューティガーは考えもせずに即答した。たった一度の僅かな時間しか接する機会はなかったが、彼女は知性に乏しく、感情的で、快楽主義者的な短所がいくつも垣間見えた。ああいった低劣な人間がこの世界の半数以上を占めているらしいが、思慮も浅く集団にならなければ大きな脅威にもならず、特に意識を向ける必要はないと同盟では教わってきた。しかし、柳かれんには無視できないほどの強力な“異なる力”があることを、自分は知っていた。なのに、対応や対処を怠ってしまった。仲間や味方にするという対応を嫌悪してしまい、だからといって敵対する以前に“処理”を下すこともできず、放置してしまった結果がこれだ。リューティガーは背後の壁を何度も叩き、遼は膝を折り、悔しがる彼の肩を軽く叩いた。
「仕方ねぇって、ルディ」
「仲間にするなりして、確保だってできたんだ。なのに僕は……」
「いや、ちょっとそりゃ難しかったと思うぞ。」
「遼……」
「実はあの後、もう一度会ったんだだけど、やっぱわけわかんねぇ子でさ。正直言って、ついていけないっつーか、トラブルの原因にしかならねぇって感じだった」
「そうだったのか。けど、だからといって敵になる可能性を潰すために、始末するわけにもいかない……よね?」
「まぁな。いくらなんでもな。ひどすぎる……だろ?」
 二人とも語尾をはっきりとさせて断言もできないまま、不思議な少女の不可解な行動に、途方もない疲労感を覚えていた。

 どこまで高度が上がったのかわからない。晴天のため雲もなく、上を見ても青い天井が広がるだけである。空気は冷たく、少しだけ息苦しさも感じるが、何よりも開放感と浮遊感がとてつもなく心地よく、柳かれんは我犬に抱きかかえられたまま「おー!」「あー!」「ふぉぉぉぉぉ!」と絶え間なく歓喜の叫びを上げていた。これまで、飛行機に乗ったことのなかったかれんにとって、初めての飛行経験で得られる感覚はなにもかも新鮮であり、沸き上がる興奮は地上にいた時まで感じていたストレスをきれいさっぱり消し去るほど強烈だった。
「狙撃圏外にまで達した。こ、こ、これより合流地点に向かう」
 我犬はそう告げると、ベルトのポーチからあるものを取り出し、それをかれんに見せた。
「合流地点上空で急降下だ。時間にしてわずかだけど、念のためにこれを着けるんだ」
「なんだこれ?」
「酸素マスクだよ。急降下中は呼吸が困難になる。小型だけど十分は酸素が持つ仕組みになっているから、あ、あ、安心だ」
「わかった!」
 かれんは、戦闘機のパイロットが装着するような形状をした、だがそれよりはもっと小振りなマスクを受け取り、それを抱え込んだ。
「我犬ってすげーな! こんな飛べるなんて、ぜってーすげーよっ!」
「そ、そ、そそうかい?」
「だって自由じゃん! 信号も踏み切りもかんけーねーし!」
「レーダーにだって引っかからん。この身体には、そ、そ、そういう処置が施されている」
「なんだかわかんねーけど、すっげー! あきらさん級にすげー!」
 眼下を見下ろすと、山々が広がりその合間を車道が走り、小さい点が動いていた。あれは車なのだろう。振り返って見上げると、猟犬の頭が前を真っ直ぐに見据えていた。今、自分は飛んでいる。犬の頭を持ち、背中に巨大な羽を生やした白い獣人に抱かれ、大空を自由に飛んでいる。全ては己の決断だ。あのままパトカーにいたままなら、この結果は得られなかった。今ごろ警察の取調室で、タバコ臭い刑事から根掘り葉掘り聞かれていたところだった。なにもかも自分で考え、行動し、勝ち取った結果がこれだ。柳かれんは嬉しくなり、思い切り大声で笑った。我犬はここに至って初めて、抱きかかえた少女に感謝の気持ちを抱いた。正義忠犬隊は壊滅し、自分も左目の視力を失ったようだが、こうしてなんとか一命をとりとめられたのは、この青い髪をした少女のおかげだ。我犬も嬉しくなり、上空の太陽に向かってひと吠えした。そして安堵したのち、失った五匹の部下に向けて静かに黙祷を捧げた。

4.
 カーテンが閉め切られた窓際に佇む藍田長助は、天然パーマのもじゃもじゃとした頭をひと掻きし、ソファにぐったりと腰掛ける我犬に、「大体の事情は聞いている」と切り出した。
「そ、そうか」
 相変わらず左側の視界は失われたままだったが、我犬は自分のいる山小屋を、あらためて右目だけで見渡した。十畳ほどのリビングには暖炉もあったが火はくべられておらず、暖房もなく、薄暗い光を灯すランプが一つあるだけで、時刻は午後二時過ぎていたが、吐く息は白かった。リビングは雑然としていて、毛布やタオル、スコップやロープ、封筒やボールペン、カップ麺の容器やマグカップが床やテーブルに散らばっていた。我犬がこの小屋を訪れたのはこれで二度目だが、前回の二ヶ月前と比べて持ち込まれた物品が倍以上に増えているのは一目瞭然だった。“夢の長助”こと藍田長助は、最近ではこの小屋を最も頻繁に合流地点として使っていると言っていたが、確かにその通りなのだろう。我犬は納得すると、長助の隣のいる、すらりとした長身の青年に視線を移した。青年は携帯電話の画面を細い目で追い、満足げな笑みを浮かべて小さく頷いた。
「春坊、どんな案配だ?」
 長助に“春坊”と呼ばれた細い目の青年、仙波春樹(せんば はるき)は、笑顔を崩さぬまま「予定、変わらずっす! 我犬隊長の治療も要請しておきましたっ」と、嬉しそうな声で元気よく応じた。ソファに座る我犬の傍らでは、青い髪の少女がマグカップのコーヒーを飲んでいた。我犬が様子を見たところ、不安げな面持ちではなく平然としている。この小屋に向かって急降下をした際もこの子はしっかりと腕にしがみつき、怖がる様子もなかった。着地して地面に下ろした時はさすがにふらついていたが、酸素マスクを外して最初に見せた顔は、期待に溢れ、興奮した笑顔だった。仙波春樹にコーヒーを勧められた際も嬉しそうに頷き、この秩父山中にある締め切った薄暗い山小屋の中にあって、恐れを抱いているようには見えない。さて、この名前もまだ聞いてない娘を、どうやって組織の重要幹部の一人、夢の長助に紹介すればいいのだろうか。我犬が悩んでいると、長助が先に切り出した。
「おい娘さん。お前さんが、我らが隊長を助けてくれたそうだな。FOTを代表して、礼を言わせてもらう。俺は藍田長助。こっちののっぽは仙波春樹だ。ありがとさんよ」
 長助が軽く会釈をすると、隣の春坊もそれに倣った。かれんは皺だらけのよれよれのスーツ姿をした猫背の中年と、革のライダージャケットの上下にブーツを履いた、長身の青年を見くらべ、何度か頷き返した。
「で、目的はなんだ? どこの組織のモンだ?」
 長助はポケットに両手を突っ込み、猫背を更に折り曲げ、声のトーンを少しだけ低くしてそう尋ねた。
「組織のモン?」
 かれんのオウム返しに、長助は軽く舌打ちをした。
「サイキなんだろ、あんた。どこの組織から派遣されてきたのかって、そう聞いている」
「あ、あ、あ?」
 マグカップをテーブルに置いたかれんは、人差し指を口の前で立て、視線を泳がせ何度も首を傾げた。
「違うのかよ……」
「違うっぽいっすねっ!」
 長助と春坊のやりとりに、かれんは「きゃはは」と声を上げて笑った。実のところ、この薄暗く散らかった山小屋に連れてこられてからは不安も募っていたのだが、それを表に出しては今後“ナメて”かかられる。今のように笑えそうな要素には、できるだけ反応して余裕というものを見せつける必要がある。咳き込みそうな喉を我慢して、かれんは笑いを続けた。長助はため息を漏らし、我犬に視線を移した。
「隊長もそう思ってるのかな?」
「う、う、うん。この子は市民団体の中にいた。わ、わ、我々の支援者だ」
 我犬の言葉に対して、その隣にいたかれんは、ぶるぶるぶるっと首を横に振ったが、それを明確な否定と捉える者はおらず、長助は窓辺から離れ、ソファの近くまでやってきた。
「超能力のお嬢ちゃん、これからどうしたい? 家まで送ってやるのは無理だが、ここで解放してもいい。謝礼が欲しいなら言ってくれ。できうる限りのことはさせてもらう」
「家とか謝礼とかどうでもいい! お前たちの仲間に入れてくれっ!」
「どうでもいいって……お前、家出人か? サイキなのに?」
「家出じゃねー! わたしは伝説継承のため東京に来たのだ! けど成り行きでこうなっちまった!」
「仲間……ね」
 長助はここまでの短いやりとりで、ある一定の結論に至ると、ポケットから両手を出し、背後にいた春坊に合図を送り、「春坊、替わってくれ」と命じてソファから離れた。春坊は大きく頷くと窓際から勢い良く身を乗り出し、ウエーブのかかったふわりとした髪を揺らし、かれんの傍まで躍り出た。急な選手交代に少女は戸惑い、身体を僅かに引き、背中でソファの背もたれを押しこんだ。
「仲間になりたいって? いいよっ。素性は徹底的に調べさせてもらうけど、君は普通の人間じゃないし、ウチは有能な人材をいつだって募集中だからねっ。さっきの前橋地裁の一件が俺たちへの応援ってことなら、隊長救出の結果も含めて第一次審査は合格だよ」
「合格か! やった!」
「まだまだっ。第一次って言ったでしょ? 次に最終審査があるんだよ。面接だ。そいつに合格したら、晴れて仲間入りだ」
「仲間になったらどうなるんだ? 部屋とかもらえるのか?」
「寝床とご飯は保証するよ。だけどその前に、誰の“僕(しもべ)”になるか決めないとね」
「しもべ?」
 かれんは自分を指さし、首を傾げた。
「下僕(げぼく)、従者ってこと。ウチに入りたいんなら、まずは主と契約を結ぶ。そして主の命令には絶対服従。それが真実の人(トゥルーマン)が決めた、FOTの流儀だ」
「下僕? 絶対服従? それって奴隷じゃねーか」
「そうそう正解。奴隷だよ。一対一の奴隷契約だ。例えば、後ろの藍田さんは俺の主だ。藍田さんの命令があったら、俺は火の中にだって飛び込むっ」
 仙波春樹は親指を立て、背後の長助にそれを向けた。長助は苦笑いを浮かべて「んな命令、出すかよ」と、返した。
「奴隷なんて嫌だ。超カッコ悪い」
 かれんはげんなりとした様子で抵抗したが、春坊は表情を変えず僅かに片眉を吊り上げた。
「従わないんなら、仲間入りはなしだ」
 春坊の声は低くなり、口調も静かなトーンに変化していた。かれんは二度頷くと、がっくりと肩の力を落とした。

 奴隷? なんじゃそりゃぁぁぁぁぁぁ!
 誰が奴隷なんかなるかぁぁぁぁぁぁ!
 あんな、パーマオヤジの奴隷になんてありえねぇぇぇぇぇ!
 だいたい、さっきからなんか地味じゃねーかよぉぉぉぉ。
 さっきまでギュンギュン空飛んでたのに、なんでこんなショボい小屋なんだよぉぉぉ。
 これじゃ、悪党の隠れ家じゃんかよぉぉぉ。
 それにわたしゃ、コーヒーは苦くてきれーなんだよぉぉぉぉ!

 不安と焦りがあふれ出してしまった内面を、だが顔には極力出さないようにするため、かれんは笑みを作った。それは外から見れば、引き攣った不自然な表情でしかなかったが、これで弱気を悟られないと思い込んだ少女は、春坊に向け人差し指を立てた。
「そんなら、主ってのはどうだ?」
 傍らにいた白い巨体を、かれんは見上げた。我ながら、いいアドリブだ。なんだか停滞したこのムードを打破するには、逆転の発想しかない。
「主だ、主。わたしが我犬の主になるっ!」
「立場をわきまえてくれないかな。いくら強力なサイキでもいきなり正義忠犬隊隊長の主になれるわけないだろ。逆ならともかく」
 即座に否定されたため、かれんの口元は歪んだ。逆転の提案に少しは驚くかと思っていたのに、あわよくば「なんてユニークな発想だ。見込みがある」などと評価されることまで期待していたのに、この春坊とやらは涼しげな様子を少しも崩さず、淡々と現実のようなものを突きつけてきやがる。
 窓際に戻った長助は、春坊と謎の少女のやりとりを黙って観察していた。なるほど、のちの身辺調査は必要だが、こいつはレアケースもいいところの、“馬鹿げた戦力を有した、ただのバカ”だ。大きく範囲を広げてしまえば、島守遼と同種と言ってもいいだろう。普通なら使い道に困って捨てるか始末するところだが、我らが指導者は、さてどんな判断をするのだろうか。長助は胸ポケットから煙草を取り出し、それに火を付けるのが先か、二人のやりとりに口を挟むのが先か考えあぐねた。すると、かれんに下僕を指名された我犬が目を伏せ、静かに鼻を鳴らせて微笑んだ。
「この子が私の新しい主? 面白いね。そ、それもいいかも」
 意外と思える同意に、春坊は目を丸くして驚き、長助は煙草に火を付け、かれんは我犬の白く太い腕に抱きついて「きゃはは」と、素直に笑った。
「先代の我犬隊長を神崎まりかに殺されてから、主を失ったままだし。忠犬隊も今日の作戦に失敗し……ぜ、ぜ、全滅してしまった。また、僕(しもべ)としてやり直すのもいいかも。そ、それに……この子はいい子だ。う、上手く説明はできないけれど、いい子だと思う」
 我犬の言葉に、かれんはソファから立ち上がって喜びを爆発させた。
「我犬、よく言ったぁぁぁぁ! 今からこの柳かれんが、新しい主だぁぁぁ!」
「ああ、正式に仲間になったら、そ、そういうことにしていいぞ。柳かれんという名前だったのか」
「そうだ! 柳かれんだ! ドジョウが二匹いる方の“やなぎ”で、かれんは平仮名だっ! それでは最初の命令だ! お前は休め! 今日はメチャクチャ疲れたしな!」
「嬉しい命令だ。けど、それも面接に受かってからだね」
「よーし、期待して待っててくれっ!」
 すっかり意気投合した二人に対して、春坊は腕組みをしてため息を漏らした。
「我犬隊長。勝手に決められても困るんですけど」
 忠告する春坊に、煙草をひとふかしした長助が割り込んだ。
「かまわねぇよ、春坊。奴隷契約は、本人同士の同意が最優先だ。これも大将が決めたルールだ。ところで、柳かれん」
 長助に名前を呼ばれたかれんは、我犬の腕から離れ、コートの襟を直し、「なんだ?」と応えた。
「カッコ悪い奴隷の方が、何かとラクだぞ。命令にさえ従えばいいんだからな。けど、主人は色々と面倒だ」
「なんでだ?」
「命令に、責任がのしかかるからだよ。特に絶対服従の命令って奴は、やり方一つで取り返しの付かない結果が出ることだってある。だから慎重に、よ〜く考えて命令を下さなきゃなんねぇ。それって、いちいち疲れんだぞ」
「なんだかわからんが、わたしは責任感ならあるぞ。二年生のころ、浜田先生が通知表にそう書いてくれた」
 平然と言ってのけたかれんに対し、長助はそれ以上なにも言わず、視線を外して煙草を味わうことにした。春坊はそろそろ次の命令を遂行する時間が近づいてきたので、ジャケットのポケットからバイクのキーを取り出した。我犬はソファに座ったまま嬉しそうなかれんを見上げることで、作戦の失敗や部下を失った悔しさを紛らわせようとしていた。かれんは我犬の視線に気付かぬまま、右の拳で左の掌を何度も叩き、ひとまず長助の奴隷という最悪の事態が避けられただけではなく、我犬という心強い仲間が得られたことに満足していた。

 柳かれんは、夜の河原を一人で歩いていた。さきほどから川より吹きつけてくる風が、冷たくて仕方がない。コートの前はしっかりと閉じ、鼻から下はマフラーで覆い、ポケットに両手を突っ込んでみたものの、じっとしていると凍えそうなので、置き去りにされた五分ほど前から、五メートルの間を行ったり来たりしている。
 どうやら、ここは東京らしい。けど、これまで東京と言っても上野に渋谷、新宿や池袋といった都心がほとんどだったし、少し離れても西馬込とやらにしか行ったことがなく、こんなに鬱蒼と草が生い茂った河原に来たのは初めてである。もうすっかり夜だから、川縁まで続く草の他は点々とした灯りや、車や電車が通過した際の光しか見えない。川は、それなりの幅がありそうだ。地元の天王川などよりずっと広いと思う。しかし確かめようにも暗すぎて、川と向こう岸の色合いが混ざり合ってまっ黒に見えるため、正確な川幅はよくわからない。ただ、ここまで車で連れてきたジョーディーという外国人の男は、「ここは東京の一番端の川」だと言っていた。
 暖房もないあの薄暗い山小屋で、日が沈むまで待たされた。あのあと、春坊はバイクでどこかに行ってしまったし、それからしばらくしてからスーツ姿の男が二人現れ、そいつらは名乗らないまま我犬を連れて出て行ってしまった。それから日没までの二時間は、あのもじゃもじゃ頭と二人きりで、これまでのことをあれこれ聞かれた。六年前の例の件だけはしっかりと秘密にし、それ以外はなにもかも話してしまった。怪しげな男に住所や両親の個人情報を教えるのはどうなんだろうかと躊躇もしたが、隠したりデタラメを言ったところでバレたりすれば、敵のスパイだと疑われるだけである。なによりもパトカーから飛び出した瞬間、自分はこれまでの全てを捨てるほどの決断をしてしまったのだから、後戻りができない覚悟をより確かにする意味でもできるだけ嘘はつきたくなかった。六年前の夏については、聞かれなかったから話さなかっただけのことだ。そして、日も沈んでから小屋にやってきたのが、外国人のジョーディー・フォアマンだ。東京に来てから外国人、それも白人は何度も見る機会があったが、会話をするのは初めてであり、さて自分の英語が通じるのだろうかと、かれんは不安だったが、青い目をして体格もがっちりとしたアスリートのようなジョーディーは、やや怪しげなイントネーションではあったが、日本語で挨拶をしてきた。長助が言うには、彼が車で面接の場所まで運んでくれるということらしい。青いランドクルーザーの助手席に乗せられ、三時間ほどのドライブのあいだ、ジョーディーは終始無言で、かれんは一度だけ「ジョーディーの主とか僕(しもべ)は、どうなってるんだ?」と尋ねたが、「しびれ・ピッカリーという従者がいる」と返事があっただけで、それ以上のやりとりには発展しなかった。長距離ではあったが都心を通過する際にも高速道路は一度も使わず、比較的狭い路地を走り続けたような気もしたが、ジョーディーの運転はとにかく丁寧で正確で、かれんは長時間の疲れもほとんどなく、ゴール地点であるこの河原まで到着できた。そして、ジョーディーのランドクルーザーは何処かへと走り去っていき、ここに取り残されてもう五分が過ぎている。一体、いつになったら面接場所に連れて行ってもらえるのだろうか。もしかすると騙されて、放置でもされたのだろうか。段々と心細くなり、不安になってきたかれんは周囲を見渡した。すると、彼女の背後で突風が吹き、「また会えたな」というつぶやきが少女の鼓膜をくすぐった。
「またこれか!?」
 振り返りながら、かれんはそう叫んだ。すぐ正面には、片目を閉ざした白い長髪の青年が静かに佇んでいた。この男は、県警本部の倉庫で見た“あいつ”だ。パトカーの窓に貼ってあった写真の男に間違いない。風と共に消えたり現れたりする、FOTの指導者だ。かれんは口元からマフラーをほどき、バットケースの肩掛けベルトを強く握りしめた。
「真実の人(トゥルーマン)か!?」
「そうだ、私は真実の人(トゥルーマン)だ」
「面接するのは、お前なのかっ!?」
「そうだ、私だ」
「だったらすぐに、会場に連れて行ってくれ! ここは寒すぎる!」
「いいや、この矢切の渡しで君を検める」
「だから、寒いって!」
「すぐに終わるから、心配はない。私が関わる実務は、屋外で迅速にて行うことを是としている。これは不測の事態があった際、私以外の人間の安全を確保するためでもある。それに、一種の流儀でもあるから慣れて欲しい。我々は、どの組織よりも屋外というものを効果的に使っている。なぜなら、私は時間と距離に対して圧倒的に自由だからだ。この優位性を最大限に活用するのに、公共、共有の空間はうってつけだ。本拠地を持たないというFOT最大の長所も、そもそもはこの優位性を苗床にして生まれた発想だ。それに私は、追われている身でもあるからな」
 かれんは、黒いスーツの青年がなにを言っているのか、最初と最後の部分以外は毛の先ほども理解できなかったが、既に面接がスタートしているということは勘で何となく読み取れたため、「だから、わけわかんねーよ!」という言葉を口の中でかみ砕き、背中を丸めて面接官を睨み付けた。
「我犬隊長を救ってくれてありがとう。島守遼に左目の視力を奪われたのは残念だったが、時間をかければ治療できるだろう」
 一転して、理佳できる内容の言葉だったため、かれんは拍子抜けして「あっはい」と何とも間抜けな声を上げ、述べられた礼に対して会釈をした。
「横田の一件でもしてやられたが、島守遼は我々にとって危険な存在感を日に日に強めている」
「あいつは、確かになかなかやる奴だ。わたしも一度、気絶させられたほどだしな」
「ほう、交戦経験もあるのか」
「ああ、渋谷でルディって、これまたすげぇ奴と一緒だった。あと外人の女と一対三だった! な、なんとか引き分けにしたぞっ! ぜってービビらなかった!」
 「ルディ」のアクセントが平たく、初めて耳にするものだったので、青年は眉をぴくりと動かし、「ほう」と返事をした。
「わ、わたしは度胸がすげーのだ。朝の裁判所のだって、正直言って最初はビビった。うん、正直に言ってな。しかし途中から、段々と落ち着いてきたぞ。なんと言うか、どんどん気付くのが広がっていく感じがした」
 引き分けの件はともかく、前橋地裁の一件で冷静になっていったことについては本当だった。最後のパトカーでの決断こそ勢いにまかせての半ばやけくその末ではあったが、我犬と合流した手際は我ながら鮮やかだったし、バリアの外でいくら銃弾が飛んできても恐くはなかったし、確か我犬の足下で、撃たれた忠犬が泡を立てながらぼろぼろのぐずぐずになっていたはずだが、それも正気であり続けるため、意識せずにやり過ごせたのだから。かれんは言葉に根拠が欲しかったため、自分の胸を力強く叩いた。
「合格だ」
 不意打ちのように、自然に耳に入り込む絶妙の間合いで、真実の人は呟いた。かれんは胸に拳を当てたまま、言葉の意味が理解できず戸惑った。
「あ?」
「だから合格だ。柳かれん、君さえよければ、俺たちFOTの一員だ。俺の仲間だ」
 あまりにも呆気ない合格通知に、かれんはただ唖然とするばかりで言葉が出てこなかった。真実の人は閉ざしていた片目を開け、小さく微笑むと、かれんの隣に並び、真っ暗な江戸川の流れに視線を向けた。
「俺は君の能力を高く評価してる。現在、我々の戦力はジリジリと減少傾向にある。今日にしても正義忠犬隊は壊滅してしまった。忠犬は、獣人の中でも簡単に数を揃えられない特別な存在だ。それに対して日本政府の実働部隊は、日に日に練度を上げている。島守遼やルディ、そして神崎まりかやB&Fのサイキだけではなく、脅威は常に底上げされている。君のように高い能力を持ち、我々の考えに賛同する人材は大歓迎だ」
「そ、そうか……」
 所々わからない部分もあったが、かれんは真実の人の言葉に納得して頷いた。長助や春坊などと違い、この指導者は随分と自分のことを誉めてくれてる。いや、よく考えてみればそれも当然なのだ。地裁の前であれだけ派手な脱出劇を演出したのは、誰でもなくこのわたしだ。あんなことができる人間は、そうそういないだろう。この真実の人もどうやらただ者ではない。だから、正当な評価を下してくれてるのか。よかった。ようやく信じてもいい人物が現れた。やはりあのパトカーでの決断に間違いはなかった。あれはつまり、ゲームでいうところの二択だったのだ。あのままビビって大人しく「パトカーに残る」を選択していたら、警察の取り調べで六年前のアレがバレて、刑務所に行って死刑か無期懲役のバッドエンドだった。あきらさんのように度胸一発で、「思い切って我犬を助ける」を選択したおかげで、こんな美形の青年から大歓迎のグッドエンドになった。いやいや、エンディングはまだ先、これは途中だ。まだまだなにかがしたい、そしてなにかをしていいという許可が、自分の中ですんなりと降りてくる。これは、パトカーの中で真実の人の写真を見たときと同じだ。同じ昂ぶりがまたやってきた。かれんは興奮によって寒さもすっかり忘れ、にんまりと微笑んだ。
「我犬をわたしの、えっと……“僕(しもべ)”にしたいのだが、いいだろうか?」
「我犬隊長が同意するなら、構わないぞ」
「よし! では、わたしは我犬の主だっ! いつでも空が飛べるぞっ!」
 感激して拳を握りしめるかれんを他所に、真実の人は微笑みを消して川の流れに目を戻した。会話が途絶えてしまったので、かれんは真実の人の横顔を何気なく見上げた。

 なんか、すげーぞ。

 ただの美形ではない。間近にいるこの黒いスーツの青年は、これまでに見たことがないほど際だった容姿の持ち主である。その極めて単純な事実に、かれんは今更ながら気付いた。まず印象的なのが色が白くきめの細かい肌で、薄暗い河原にあって存在感を浮かび上がらせている。額も鼻も顎もシャープでバランスがよく、男であるにも関わらず、パーツ単位では自分でもこうなりたいと思えるほど整っていた。白い髪は老人のそれとは異なり、僅かな光を反射して時折だが煌めきを発していた。きっと手触りもごわごわとせず、さらさらして心地いいのだろう。
 姿形の良さだけではない。真っ赤な瞳には力強く凛として、それでいてどこか静かな光が宿り、心の奥底に秘めたる大きな夢を抱いているように感じられるのは、気のせいなのだろうか? テレビのタレントにもこれだけ綺麗で凛々しい男はなかなかいないと思う。東京に来てから、地元ではあり得ないほどお洒落で見かけのいい男は何度か見てきたが、こいつは別格だ。ともかく、テロリストの指導者には見えない。髭もないしオッサン臭くないし、目付きもギラギラしてないしマシンガンだってぶら下げていない。
 我犬も身体は少したるんでいるけど飛べるから凄いし、春坊も黙っていればスマートでいい見てくれだし、ジョーディーはなによりも白人だ。こいつの率いるFOTとは、実のところなかなかイケてる集団ではないのだろうか。唯一、長助とかいうオッサンだけは、なんとも胡散臭いしタバコ臭いが、あれはきっと汚れ仕事の担当で、組織というものにはそういった必要悪が必要だと何かのアニメで言っていた。
 勢いで仲間にしてもらったが、もしかするとこれは正解だったような気がしてきた。FOTの目的が、比留間が語っていたように「世の中を変えて、日本を一人前にする手助けをする」ことなら、新潟の村を焼き尽くしたり渋谷で暴動騒ぎを起こしたファクトとは全く違う。世間ではテロリストとレッテルを貼っているが、今日だって五百万円を横領した悪い奴を成敗しようとしたわけだし、そのせいで忠犬隊が壊滅したということなら、彼らは本気で世直しをしていることになる。よし、決めた。FOTでちゃんとして、世の中を変えてみせよう。そうなったら六年前のアレだってちゃらになるはずだ。世直しで手柄を上げれば、あんな成田といかいう人間のクズを黒こげにしたことだって、実績の一つにでもなる。そうそう、全ての辻褄が合うじゃないか。わたしは小学生のころから悪い奴をやっつけて世直ししてたんだ。FOTに入るのは必然としか言いようがない。

 うぉぉぉぉぉぉぉぉ!

 かれんは、心の中で雄叫びを上げた。心の中で、巨大な雷鳴が轟いている。もう寒さも感じない。川からの寒風だって、今のわたしには全く通じない。そんなことより、今すぐにでも悪い奴をやっつけたい。鮮烈な衝動にかれんは全身を震わせ、周辺をきょろきょろと見渡し、鼻息も荒くなって拳で大きな胸を何度も叩いた。
「最後に、もう一度確認したい」
 落ち着いた声が隣から聞こえてきたので、かれんは慌てて背筋を伸ばして真実の人に向き直った。彼の顔に表情はなく、赤い瞳も宝石のように冷たくなんの光も感じられなかった。真実の人は、言葉を続けた。
「我々の仲間になる。それはすなわち、戦いに身を投じることだ。我犬隊長を助けたような、守りだけではなく、敵対者や妨害者を排除する攻めにも参加してもらうことになる。君はよく見ていなかったと思うが、朝の地裁の戦いで忠犬隊は壊滅した反面、彼らは自衛隊や機動隊を三十名以上殺害した。瓦礫に紛れ、千切れた遺体が十分足らずの戦闘で生産されたんだ。戦いは、無残でおぞましい。綺麗で格好のいいものじゃない。君の能力で、他人を惨たらしく死に至らしめることにもなる。それでも仲間になるか? 人殺しの一味になるか? 今ならまだ引き返せるぞ」
 感情は込められておらず、淡々とした問いかけだった。かれんは最後の提案にほとんど被せるようなタイミングで、「仲間になる」と答えた。
「やる。世直しだ。わたしの力で日本を変える手助けだ。攻める方だって参加する」
 かれんは、早口でそう続けた。真実の人はなにも返事をせず、二人の間に冷たい風が吹き、背の高い雑草を揺らした。
「ただし、人殺しは悪い奴限定だ。どうしてもこいつは生かしておいちゃなんねーって奴だけ、きっちりと殺してやる。自衛隊とか警察みたいに、悪くないのは決して殺さねー。安心しろ、わたしは電撃で敵を殺さずに蹴散らしたり気絶させたりできるからな。朝の戦いだって、わたしに任せてもらったら、夏目以外は誰も殺さず、美しい世直しができたっ!」
 言い切ったかれんは、胸を拳で叩いた。しかし真実の人は無言のまま、赤い瞳で少女を見つめていた。
「喜べ真実の人! FOTは今後、好感度アップ間違いなしだ! だってムダな殺しは減るんだからな! 恨まれるのも減る減るっ! これからは、どんどんわたしを使ってくれ! 馬車馬のように活躍して、世直しに貢献してやるぞっ!」
 最後に、かれんは真実の人を人差し指で指した。それでも真実の人は表情も変えず、返事もしてこないので、かれんは指を唇の前に移して首を傾げた。
「なんで固まってるのだ?」
「わかった。確認はもう必要ないな。いいだろう。馬車馬はともかく、君には期待している。共に戦おう」
「任せとけ!」
 胸をどんと叩いたかれんは、真実の人を頭の天辺から足の先まで見て、再び首を傾げた。
「ところで真実の人は、どんな戦いをするんだ? やはり銃とか使うのか?」
「俺か?」
 返事をした真実の人は、突風と共にかれんの前から姿を消した。そして次の瞬間、彼女の青く長い後ろ髪が強くなびいた。
「空間跳躍。これが俺の戦い方だ」
 背後から聞こえてきた声に、かれんは何度も頷いて振り返った。
「やはり! あきらさんと似た能力なんだなっ! テレポれるんだなっ!」
「金本あきらか? ああ、及ばない部分もあるけど、テレポれるぞ」
「あきらさんを知ってるんだな!」
 かれんの強い口調の問いかけに、真実の人は静かに頷き返した。
「もちろん。ファクトの切り札、アルティメットJを打ち破った伝説のサイキだからね。尊敬しているよ」
「不適合で凶悪でもか!?」
「異能にして苛烈、そんな前向きな評価もできる」
 かれんは自分の内側に、雷が落ちるのを確かに感じた。雷鳴は止み、晴れ渡る青空が気持ちいっぱいに広がった。いた。伝説の継承者がここに。金本あきらの自由と勇気は、この男に受け継がれていた。そんな結論に至ってしまえば、かれんはもう疑いなど微塵も抱くことはできなかった。
「伝説継承!!」
 頬を紅潮させ、大きな目を潤ませ、少女は、そう叫んだ。真実の人は、顔から冷たさを消し、穏やかに目を細め、柔らかく口の両端を僅かに吊り上げた。

5.
 面接を終えたかれんは、再び現れたジョーディーのランドクルーザーに乗せられ、退屈のあまり寝てしまうほどの時間を助手席で過ごした末、都会を経て辺鄙な山奥まで送り届けられた。ジョーディーは相変わらず自分からはなにも語らず、仏頂面で丁寧かつ慎重な運転に徹していた。かれんは「面接受かった」と一応の報告をしてみたのだが、「そうだな」と、短い返事があっただけで、道中で交わした両者の会話はそのたった一度きりだった。
 到着地は、古びたなにかの倉庫だった。屋根は降り積もった雪で白く染められ、外壁は剥き出しになった建材が散見できるほど老朽化し、中は灯りもなく真っ暗で、集積された荷物も見あたらず、外見と同様にもう何年も使われていない有様だった。懐中電灯を手にしたジョーディーに続いたかれんは、肝試しでもするつもりなのかと及び腰になってすっかり怯えてしまい、いつでも雷撃で身を守れるように両の手首を交差していた。足を止めたジョーディーが床板を取り外すと、その先には地下に続く階段があり、明るい光が漏れていた。
 倉庫の地下は、最新鋭の医療設備が完備された治療施設となっていた。廃墟同然に朽ち果て、誰もいなかった地上と、清潔な青白い壁や天井に囲まれ、白衣の医師や看護師たちが忙しなく行き交う地下との落差に、かれんはただ目を丸くして戸惑うばかりであり、ジョーディーからこの施設の責任者である、白衣姿のドクター・フライシャーという初老の白人男性に身柄を引き渡される際にも、落ち着きなく周囲を見渡し続けていた。かれんのまごつきは、フライシャーに案内された病室のひとつで我犬と再会するまで続いた。左目に黒い眼帯をした白い忠犬は、かれんに、ここは奥多摩という東京の外れの山間部であり、この産業廃棄物倉庫に偽装した施設は、主に獣人の製造や治療を目的とする、メディカルラボと呼ばれるFOTの重要拠点のひとつである事を説明した。獣人でもないし、怪我や病気もしていないので、かれんは自分がここに送られた理由がわからなかったのだが、僕(しもべ)となった我犬はこの施設での治療を必要としていて、主としてはその行く末を見守る必要があるのだろうと、ひとまずそう納得し、怪我の具合を尋ねることにした。
 我犬の左目は、網膜にいくつもの穴が空き、視神経がズタズタに切断された失明状態にあって、完治するためには眼球の交換など大がかりな手術が必要であり、ここよりも設備とスタッフが充実した大きな施設での治療が必要だった。銃弾は電磁防護幕で防いだのに、なぜそんな大ケガを負ったのか、かれんは不思議だったが、我犬の話によると、これは島守遼の仕業に間違いがなく、これまでにも何匹もの忠犬や獣人たちが、彼の異なる力によって内側から急所を破壊され、命を落としている。FOTの実戦部隊の中では、視線を向けるだけで命を奪う遼のことを「結びの目」「冥府の目」などと呼び、最近ではリューティガーと並んで警戒と恐怖の対象となっているらしい。なるほど、以前、高校の駐輪場で聞いた“動脈ごろし”とかいう必殺技か。かれんは納得し、我犬に、「いずれ、部下の仇を討ってやる」と宣言した。

 それから少しして、かれんはフライシャーに別の個室まで案内された。そこに運ばれてきた夕飯は、栄養価だけは抜群らしい特製の黄色いカロリースティックと、透明なスポーツドリンクといった味気ないものだった。しかし朝からなにも食べていなかったかれんは、それをあっという間に平らげてしまい、それでも空腹が収まらなかったため、施設のスタッフにおかわりも要求した。腹が膨れた途端、かれんはそもそも自分がとてつもなく疲れていることに気づき、糸の切れた操り人形のようにベッドに倒れ込んで、コートを着たまま深い眠りに落ちてしまった。
 一夜が明け、白衣のスタッフが運んできた朝食は、昨晩と同じカロリースティックだった。かれんもさすがにこれにはうんざりしたが、我犬がデザートのリンゴをもってきてくれたおかげで、それなりに彩りが増したので、文句を言わず食べることにした。
 囓りきったリンゴの芯をゴミ箱に放り込むと、かれんは我犬から「これより鞍馬ベースに移動します。一緒に来てください」と、促された。食べたばかりで忙しないと思ったものの、今後の予定も全く不明であり、特に断る理由もなかったので、“鞍馬ベース”という言葉の意味も分からぬままかれんは了解し、身支度を調えて出発した。
 我犬に続いて、かれんは地下のラボから朝靄の立ちこめる地上の倉庫に出た。
「長旅になりますので」
 恭しくそう告げた我犬は、かれんからバットケースを預かり、彼女にフード付きの防寒マントをすっぽりと被せると、白く太い腕で彼女をしっかりと抱きかかえ、産業廃棄物倉庫から大空へ舞い上がった。

 二度目の飛行は曇天ということもあり、地裁の時より感動は少なかったが、追われているという緊張感もなく、なによりも日没を過ぎて夜間飛行になるほどの長時間だったので、かれんは飽きるほど空の旅を満喫した。二度に及ぶ休憩を挟んだ旅の仕上げは、雲を飛び越すほどの急上昇と、それに続く急降下だった。十二箇所あるという鞍馬ベースの入口の一つに突入する際、日本政府の厳重な警戒網から目視での探知を避けるため、落下速度は秩父の時とは比較にならないほど高速だった。ただでさえ闇夜であり、雪山に向かって真っ逆さまになってからは風圧で目を開けていられなかったので、かれんはより深い闇の中をただ墜落していく感覚しか得られず、胃や腸が段々と下半身に向かって上がっていく気味の悪さに恐怖を覚え、自分を包む我犬の腕に無我夢中でしがみつくしかなかった。鋭い風と共に、雪の飛沫や枯れ葉が頬や腕を繰り返しかすめ、それがなくなってからは、どこか遠くで滝の流れ落ちる音が聞こえた様な気もしたが、確かめることもできず、若き主人は、異形の従者にただひたすらその身を任せるしかなかった。そしてはばたきによる制動が全身の骨を強く軋ませた直後、風圧も消え、いつからか低く呻るような機械の作動音に包まれていたので、かれんはようやくこの壮絶なアトラクションも終わったのかと安堵して目を開けた。
「ようこそ、鞍馬ベースへ!」
 そんな大きな声が、長旅を締めくくる出迎えの挨拶だった。

「柳かれん、貴様の部屋は第十六区画間の五号室だ! 本来なら四人部屋だが、貴様が最初の利用者になる。喜べ、当面は個室だ!」
 かれんは、中丸邑子(なかまる おうこ)の言葉に大きな瞳をぱちくりと瞬かせ、「喜ぶ」と、誰にも聞こえないほど小さなつぶやきを漏らした。こうやって机を前に、椅子に座って人の話を聞くのは、二学期の終業式以来になる。制服を着て、毎日学校に通っていたのは一ヶ月半ほど前のことだったが、かれんにとってはなにやら懐かしく、何年も前のように感じられた。たぶん、あのころからあまりにもかけ離れてしまったからだろう。これから先、新しい場所で、新しい仲間と、新しい経験を通じることで、あのころはもっと遠ざかり、何年も前どころではなく、遙か昔になっていくのだろう。そんな確かな自信を胸に、かれんは最前列の中央に位置する座席で目を爛々と輝かせ、既に一時間を超えようとしていた説明に耳を傾けていた。
 このブリーフィングルームという名の部屋は、広さこそ学校の教室と似ているが、それ以外はなにもかもが違っていた。床も壁も灰色のコンクリートが剥き出しで、スーパーの屋内駐車場のように殺風景であり、いくつもの細いパイプが複雑に交差して這い回り、その接合部からは水滴や蒸気が少しずつあふれ出ている。座席は五十ほどあり、こちらも数だけは教室よりもやや多い程度ではあったが、薄い天板の机には引き出しもなく、椅子もパイプ製だった。天井は低く、正面の壁は巨大な液晶スクリーンになっていて、それには地図が映し出されていた。
「鞍馬ベース最大の目的は、新型機動兵器ゴモラの開発、及び運用にある。それを肝に銘じておけ!」
 “肝に銘じる”という言葉の意味もわからないまま、かれんは中丸の命令に笑顔で大きく頷いた。
 この殺伐としたブリーフィングルームには、かれんと中丸の二人だけしかいなかった。スクリーンの前に立ち、かれんの目の前で説明を続けている中丸は、迷彩服を着込んだ大柄な中年女性であり、鞍馬ベースに到着した際、最初に挨拶の言葉をかけてきた守備責任者だった。淡い紫色のサングラスをかけ、目は丸く小さい。髪を後ろにきっちりと束ね、やや肥満気味の体型であるため、どこか素朴さを感じる風貌をしている。そのうえ迷彩服姿だったので、かれんは第一印象で、小学生のころに見た野性保護観察官のドキュメンタリー映像を思い出してしまった。
 二メートルと離れていないのに、この逞しいおばさんはずっと大声で、自分ひとりのために、鞍馬山ベースと呼ばれている地下施設についてのあれこれを話してくれる。真面目な人だと思う。ちゃんとした人だと思う。やっぱり、FOTにはテロリストっぽい人は誰もいない。かれんは、確信をより強めていた。
「本施設の説明は以上だ。これより、装備品を与える!」
 中丸はその言葉で説明を終えた。背後のスクリーンは使わず、全て口頭だったため、かれんは予め手渡された紙資料と説明内容を照らし合わせるのが面倒で、耳慣れない単語の頻発もあり、早々に学習活動を放棄してしまった。結局、説明の最初に中丸がアドバイスしてくれた通り、自分の部屋と食堂と、このブリーフィングルームの位置や、食事や洗濯のルールといった最低限度必要だと思われる内容だけを把握し、それ以外のことはあまり覚えられなかった。確か小学校も中学校も高校も、学校のどこになにがあって、それらがどういったルールで用いられるのか、卒業まで全ては覚えきれなかった。都度都度尋ねればいいし、もしもルール違反をしても謝れば問題はなかった。今回もそれでいいだろう。かれんはその程度の認識で、FOTで初めてとなるレクチャーを受けていた。
「これがIDカード、お前はこの拠点で、レベル1の権限が与えられている。閉まっているゲートやフロアを通過する際、それをセンサに照らせ。権限レベルが適合すれば、開く仕組みになっている。それからこれが通信機と携帯端末だ。使い方は明日からのレクチャーで教える。下手にいじって壊すなよ」
 机の上に中丸が置いた、カードと通信機と携帯端末を、かれんは座ったまま、まじまじと観察した。カードは電車のICカードの様で、これはありふれているからどうでもいい。通信機と言われたものはスティック型の古い携帯電話のような形状で、小さな液晶画面がついている以外は、カメラもネット接続のボタンも見あたらない。これもしょぼくてどうでもいい。携帯端末とやらは学習ノートぐらいのサイズをした、液晶画面とキーボードが平面に一体となった小型のパソコンのようなもので、これが一番高価で高機能なんだろう。かれんは端末を手にとって、電源ボタンを探してみた。すると中丸が机の上にナイフと自動拳銃を置いたので、かれんは驚いて端末を手から離した。
「コンバットナイフと拳銃だ。弾丸は、泡化手術後に支給する」
 黒いケースには収められてはいたものの、コンバットナイフは一見してそれと分かる外観をしていて、かれんは緊張して思わず背筋を伸ばし、膝の上に手を置いてしまった。視線を軽く動かすと、こちらも黒光りする自動拳銃が置かれている。モデルガンさえ見る機会もなく、本物にしても警官のホルスターに収まっているものや、我犬たちが持っていたアサルトライフルぐらいしか目にしたことはない。目を丸くしたかれんは、自分のために用意された二つの凶器を何度も見くらべた。
「どちらもお前が取り扱い易いよう、小型のものを用意した」
 中丸の言葉に、かれんは壊れた人形のように何度も頷き返した。中丸はくすりと微笑むと、手にしていたナップザックをかれんの眼前に置き、彼女の視界から二つの武器を遮断した。
「IDカード以外はこれに入れて、部屋のロッカーに入れておけ。明日から十四日間、貴様には我々の基本的なルールや、緊急事態や危機対処方法の研修を受けてもらう。そこから適正を判断し、組織の中でどのような働きをしてもらうか決めさせてもらう。無論、貴様の異なる力については極めて重要な判断材料とさせてもらうつもりだ。それと、泡化手術については来月以降行う」
 許容量を超える情報が飛び込んできたため、かれんはあたふたして口をぱくぱくとさせ、手はろくろを回すように宙を泳いだ。その様子を見た中丸は、彼女にしては珍しく人の悪い笑みを浮かべ、背中を丸めて身を乗り出した。
「つ・ま・り、荷物をまとめて部屋に戻れ。明日の朝からお勉強だ。ロッカーには、着替えの下着も用意してある。長旅でくたくただろ? 今日は、食堂で晩飯でも食って、風呂入ってクソして寝ろ」
 意味の分かる言葉がするすると入ってきた。かれんは猛然と頷くと、ナップザックにIDカードも含めた机上の荷物を全て詰め込み、席から勢い良く立つと中丸に敬礼をして、「了解でありますっ!」と叫んだ。

 ブリーフィングルームから廊下に出たかれんは、これから何をしようかと考えるよりも早く、気だるい空腹を覚えた。時刻はすでに二十時を過ぎ、本日は東京からここ京都まで昼飯を抜いての強行軍であり、中丸の話が興味深いので興奮してすっかり忘れていたが、確かに「今日は、晩飯でも食って」いい頃合いである。かれんは説明された記憶を頼りに、食堂まで向かうことにした。すると、廊下の角から二つの影が現れた。それは犬の頭に眼帯をした白い獣人と、中丸と同じ柄の迷彩服姿の男だった。
「おぉ! 我犬!」
 かれんは忠犬の傍まで駆け寄ると、右手をしゅっと挙げてそう叫んだ。我犬は「はい」と返事をすると頭を下げた。隣の迷彩服の男は我犬と同じぐらいの背丈をしていたが、身体の厚みはずっと薄く、髪はくすんだ飴色で、深く青い眼をした若い白人だった。男はかれんを興味深そうに見つめたが、かれんには見覚えのない相手であるため、「我犬、誰?」と尋ねた。
「彼はステファン・ゴールドマンです。な、中丸隊長の部下で、鞍馬拠点の守備部隊、分隊長の一人です」
「お前は誰の僕(しもべ)だ? それとも主か?」
 単刀直入なかれんの問いに、ステファンは戸惑い、細い眉を片方だけ吊り上げ、「なんなんだ?」と、英語でつぶやいた。
「そうか、自己紹介がまだだったなっ! わたしは柳かれん! ドジョウが二匹いる方の“やなぎ”に、かれんは平仮名だっ! 新入りだが、我犬の主だ!」
 更なる追撃に、ステファンはすっかり困り果て、少しばかりの抗議の意味を含め、我犬の肩を自分の肩で小突いた。
「こ、こういうお方なのだ。わかってくれて欲しいぞ」
 申し訳なさそうな我犬の返事にステファンはため息を漏らし、すぐに気持ちを切り替えてかれんに向かって身を屈めた。
「俺は同じ分隊の部下、ラウル・松田の主だった。しかしラウルは月頭の作戦で戦死した。従って現在、俺は誰の主人でも従者でもないってことだ」
「そ、そうか。それは大変だな」
 かれんは生死の話題を受け止めきれず、動揺しながらもステファンという白人が流暢な日本語を喋るのにも驚いていた。
「そうだ、ちょうどいい。お前が我犬の主なら、許可が欲しい。この書類にサインをしてくれ」
 ステファンはそう言うと、手にしていたファイルから一枚の書類を取り出し、それをサインペンと一緒にかれんに差し出した。
「なんの許可だ?」
「我犬を俺の分隊に配属し、ここの警戒任務に就いてもらう。中丸隊長のご命令だ。我犬の目の手術は来週の金曜日だが、それまでの期間に限った一時的な配属だ。その許可とサインが欲しい」
 FOTという組織の上下関係や命令系統など、全くわかっていないどころか、そもそも誰かに許可というものを下した経験が一切なかったかれんは、どう判断していいのか分からず、従者である我犬を困った目で見上げ、「が、我犬はいいのか?」とか細い声で尋ねた。
「はい。片目でも任務はこなせますです。ひ、人手不足は深刻ですから。それに、かれん様は明日からレクチャーが始まりますから、わ、私がお役に立てること、あんまりないかと」
 我犬の言うとおり、かれんのスケジュールはこれから二週間、全て研修で埋まっていた。
「わかった。それなら許可だ。ゴールドマン、我犬をしっかりと使ってくれい」
「ああ、わかった」
 かれんは書類とサインペンを受け取ると、それに「柳かれん」と記し、ステファンに返した。
「だけど我犬、もしわたしに万が一のピンチがあったら、呼んだらすぐに駆け付けるんだぞ」
 我犬をしっかりと見つめ、かれんは忠犬にそう命じた。ステファンは赤いコートの少女と白い忠犬を見くらべ、そのコントラストを可笑しく思った。
「もちろんです、かれん様」
 静かに頭を下げた我犬は、ステファンに促され、かれんの前から歩き去っていった。二人の後ろ姿を見ていたかれんは、空腹感が更に増したのを覚え、足早に食堂へと向かった。

 食堂はセルフサービス制で、量の制限さえ守れば好きなメニューを注文していい。ついさきほど中丸から説明された内容を、かれんはしっかりと覚えていた。
「ここ、いいか?」
 カツカレー、サラダ、オレンジジュース、そしてプリン。それらを載せたトレーを持ったかれんは、テーブルを越して対面に座る褐色の肌をした少年、はばたきにそう尋ねた。四人掛けのテーブルで相席となるための挨拶だったが、はばたきは周囲を軽く見渡した上で、「どうぞ」と、上目遣いに低く返事をした。
「他にも席は空いてるが、一人で飯はつまらん」
 かれんはテーブルにトレーを置き、コートを脱いで隣の椅子にそれを掛け、座ろうと腰を落とした。はばたきは、少女の着ている身体のシルエットが強調されたボンテージファッションにすっかり動揺し、目の前にある食べかけのカツ丼と彼女の間で視線を泳がせていた。
「わたしは柳かれん。ドジョウが二匹いる方の“やなぎ”に、かれんは平仮名だ」
「僕は、はばたき」
 はばたきは、カツ丼に視線を落としたまま名乗った。
「変な名前だな」
 率直な感想を口にしたかれんは、カレーを一口食べた。彼女の目がカツカレーに向いたのを見計らって、はばたきは息を一つ漏らした。
「コードネームだよ。僕は飛べるから、それにちなんでね」
 かれんが尚もカレーを食べ続けていたので、はばたきは言葉を続けた。
「それと、君のことは中丸隊長から聞いてるよ。我犬隊長を助けてくれたんだって?」
 食事の手を止めたかれんは、対座するはばたきに何度も大きく頷き返した。
「みんな、とても感謝しているよ。かなり危険な状況だったらしいね」
 そう告げたはばたきは、周囲に視線を走らせ、かれんを促した。五百名収容できる食堂は席が二割も埋まっておらず、食事をする姿もまばらではあったが、いくつもの目がかれんを見つめており、中には親指を立てて笑顔を向けている男や、手を振る女性の姿もあった。自分は高く評価され、歓迎されている。それを自覚したかれんは、カツカレーの味が舌から抜けるほど興奮し、左手で胸をどんと叩いた。
「まーなっ! 大迫力の脱出劇だったぞ! 映画化決定だっ!」
 かれんの大きな声に、周囲から笑い声が漏れた。はばたきも表情を柔らかくし、小さく頷いた。
「はばたき、ところでお前は誰の主か僕(しもべ)なのだ?」
「僕は、東京で任務に就いているライフェ様という方に仕えている」
 興味を抱いたかれんは、スプーンを手にしたまま腰を浮かせた。
「強いのか、そいつは?」
 はばたきは、東京にいる赤い髪の溌剌とした主の姿を思い出し、目を細めた。
「強いし……頼もしいし、だけど繊細で、わがままで、それでいてお優しいところもあるし……」
 変幻自在の戦闘技術と、何者にも怯まぬ勇敢な精神力。少女としての苛立ちや傷心も抱えるが故、幾たびも無茶な要求をしてくるが、何よりも自分を大切に思ってくれている心優しき敬愛するべき主。語る言葉と共に去来する想いがはばたきの心を満たし、無意識のうちに彼は頬を緩めた。その様子を間近で見たかれんは、のぼせ上がったはばたきを通じて、彼にとってライフェという存在がいかに大きく敬愛するべき対象であるのかを理解した。
「な、なんか、そのライフェっつーのはすげーな」
 そう感心しながらもかれんは、はばたきの左手の甲に、包帯が巻かれていることに気付いた。
「左腕はなんだ? ケガ?」
 指摘されたはばたきは、かれんに左手の甲を向けた。
「一昨日の偵察任務でやられたんだ。飛んでいたところを狙撃された。けど、見た目より軽い傷だし、すぐに治るよ」
「飛べるのか!? はばたきも? あっ、だから“はばたき”って名前だったのか!?」
 かれんが興奮して身を乗り出してきたので、はばたきはカツ丼の丼を手で覆い、身体を引いて不満げに顔を顰めた。
「それは……さっきも言ったはずだけど……」
 はばたきの小さな抗議も気に留めず、かれんはこの少年と大空を飛ぶ光景を夢想し、小さな全身から歓喜をあふれ出させた。
「はばたき! 飯を食ったら、わたしと一緒に行かないか!? 食後の運動だ。ひとっ飛びして、夜空まで連れて行ってくれ!」
 突拍子もない提案に、はばたきはすっかり面食らい、思わず椅子から立ち上がってしまった。
「な、なんなんだよそれは。何がどうなったらそうなるんだよ?」
「だって我犬や忠犬隊よりずっと小さいのに、飛べるなんてすげーもん。どんぐらい飛べるのか興味あるから!」
「そんな理由で、この空域を飛行できるわけないだろ? 敵の監視網の、まっただ中なんだぞ!」
「そーなのか?」
 口の前に人差し指を立て、きょとんとした表情を浮かべたかれんを見て、はばたきはますます困惑したが、ひと呼吸して落ち着きを取り戻すと再び席に着き、カツ丼に視線を落とした。
「ここ鞍馬ベースの出入りについては、もっと重く面倒なことだって考えておいて欲しい。敵は血眼になって、ここに通じる出入口を探しているんだ」
 はばたきの口調が静かで重々しかったため、かれんはひとまず話を聞くべきだと思い、乗り出していた身体を座席に戻した。
「なにやら、ヤバい状況というやつなのか?」
 かれんの問いに、はばたきは頷くとカツ丼を何口か頬張り、コップの水を飲んだ。
「ヤバいどころじゃない。ここは戦場だ。君が昨日いた裁判所と同じか、それ以上だ。僕の飛行に興味を持ってくれるのは嬉しいけど、ここではそうおいそれと見せることはできない」
「わ、わかった」
 昨日の前橋地裁を例に出されては、かれんも納得するしかなかった。彼女は再びカツカレーに取りかかり、それを半分ほど食べたころ、カツ丼を食べ終えたはばたきが丼から視線を上げた。
「それと、もうひとつ言っておくけど、僕は任務じゃない限り、ライフェ様としか飛ばない。さっきみたいな理由じゃ、ここでなくても僕は君を空には連れて行かないから」
 我ながらもったいぶった、回りくどい言い回しだとはばたきは自覚していた。しかしこれだけ念を押しておけば、もう唐突で無茶な要求をこの新入りはしてこないだろう。自分にあんな無理難題を、それも不意打ちに放り投げていいのは、あの方だけなのだから。再びライフェの姿を思い描いたはばたきが小刻みに頷いていると、対面からいじけた声で「ケチ」という抗議のつぶやきが飛び込んできた。
「ケチはないだろ。だって、僕はライフェ様の下僕なんだから。なにをするにもあのお方のお許しが必要なんだ。それに、君は我犬隊長の主なんだろ? 飛びたいのなら隊長に命じればいい」
「そりゃそーなんだけど、我犬は片目だし、ゴールドマンと忙しそうだし」
「僕だって忙しいよ。明日はヨンマルマル時から偵察任務だから、今日は早く寝ないといけない」
 かれんは、それ以上はばたきに交渉するのを諦め、ため息を漏らすと、カツカレーをのろのろと食べた。
「しばらく空はお預けかー。つまんねー」
 夕飯を口に運ぶ合間にそのようなことをぼやいていると、かれんの後頭部を、「こんにちは、柳さん。ここ、いいかな?」と、澄んだ声の挨拶がくすぐった。
 かれんが振り返ると、そこには丼を載せたトレーを手にした一人の少女の姿があった。黒いTシャツにブルージーンズ、ショートブーツといった地味でありふれた軽装ではあったが、それに包まれた少女そのものは、決して見逃せない、特別な輝きを放っていた。細い肩と腰は、何かの不用意があれば折れてしまいそうなほど華奢だが、それとは対照的に、女性としての膨らみは豊かで、儚げな脆さと逞しい生命力がシルエットそのものに混在していた。艶のある黒く長い髪と、粉雪のような白い肌は表層のコントラストを際立たせ、整った顔立ちは化粧気も少なく、気品よりも素朴な可憐さを、気高さよりも孤独な寂しさを、かれんに強く印象づけた。一目見ただけで、これほどまで感受性を鋭敏にさせ、印象に焼き付かせてくる人物を、柳かれんはこれまでにただ一人、真実の人(トゥルーマン)しか知らなかった。
「びじーん」
 抱いた印象に対して、言葉としてはあまりにも陳腐な表現しかできなかったが、かれんは自分の対面、はばたきの隣の座席に黒髪の少女を促した。さて、この美少女はどんな夕飯を食べるのだろうか。着席した彼女の前に置かれた丼に注目してみると、そこには牛肉を具としたうどんが湯気を立てていたので、かれんは堪らず「肉うどんっ!」と叫び声を上げてしまった。
「ええ、牛肉の補充があったって、聞いたから」
 勢いで出た言葉に返事があったので、かれんは少女の反応の良さに嬉しくなり、「肉、肉」と上機嫌でつぶやきながらカレーの豚カツを頬張った。
「で、お前だれ?」
 かれんにスプーンで指され、そう尋ねられた少女は、うどんのつゆをひと啜りすると丼を置いて「蜷河理佳(になかわ りか)よ」と返事をした。
「理佳でいいか? わたしは柳でもかれんでも構わん」
「ええ。かれん」
「理佳は、誰と主と僕(しもべ)だ?」
「わたしの主人は、真実の人(トゥルーマン)よ」
「あいつにも僕がいたのか……」
 白い長髪の指導者と、この黒髪の美少女なら、主従関係でなくても例えば恋人同士でも佇まいがサマになる。かれんはお似合いの二人だと思ってすんなりと納得してしまい、再びカツカレーに取りかかり、理佳も肉うどんを黙々と啜り始めた。理佳の隣で既に食事を終えていたはばたきは、かれんの唐突なアプローチや質問に対して、理佳が戸惑うこともなくごく自然に流れるように受け答えをしていたのに驚き、目を丸くして二人を何度も見くらべていた。
 先にカツカレーを平らげたかれんは、プリンを一口含むと、ひとつ頷いて「うまい」と呟き、対面の理佳を見つめた。
「ところで理佳、お前はどんな戦いが得意なんだ? サイキッカーだったりするのか? それともお前も飛べるのか?」
 弾むような声でそう尋ねてきたかれん対して、理佳は静かに首を振った。
「ううん、わたしには普通の力しかない。ただの人間よ。作戦では、ライフルで狙撃を担当する機会が多いわ」
「蜷河さんの狙撃技術は、普通じゃないっスよ。達人だって、みんなも評価してますから」
 理佳の隣で、緑茶の入った湯飲みを手にしたはばたきが嬉しそうに言った。理佳は軽く会釈をして「ありがとう」と返した。
「戦いで、人を殺したこともあるのか?」
「あるわ。たくさん」
「殺したのは悪い奴か?」
「それはわからない」
 即答し続ける理佳に、かれんは目を険しくし、人差し指を立てた。
「これからは、殺すのは本当に悪い奴だけだ」
 かれんはそう告げたが、理佳は返事をせず、丼を持ってうどんのつゆを啜った。代わりに、はばたきがかれんに応えた。
「そうもいかないよ。戦闘なんだ。その結果、敵を殺すのは仕方がない」
「いいや。わたしが仲間になった以上、ムダな人殺しはなしだ。敵は倒すが殺さねー」
 丼をテーブルに置いた理佳は目を伏せ、「それができら、理想だね」と寂しげに呟いた。
「わたしがFOTをもっとよくする。誰からも恨まれず、みんなから愛される人気者になるんだ」
 鼻息も荒く、拳を握りしめてかれんは宣言した。テロリストになるため、前橋地裁であんな選択肢を選んだのではない。伝説継承のため、世直しのため、この組織に参加したのだ。ここにいる理佳やはばたきも、その志には賛同して欲しい。そんな期待を込め、かれんは二人に熱い気持ちを込めた視線を送った。褐色の肌をした少年は、少々戸惑いはしたものの、すぐに柔らかい笑顔で頷き返した。黒髪の美少女は、丼に目を伏せたまま、顔から憂いを消すことはなかった。

6.
 一陣の風を伴い、ダッフルコート姿のリューティガーが姿を現した。その部屋には木の香りが充満し、まだ役割も記されていない五角形の駒が机の上にいくつも放置されていた。昨年の十一月まで、ここはある老人の住居であり仕事場だった。しかし、“鞍馬事変”が発生し、その現場から一キロメートルと離れていないここも完全封鎖地域に入っていたため、老人はここから隣の宇治市に住む息子夫婦の家まで避難を余儀なくされた。昨年に米寿を迎えていた老人は将棋の駒職人を生業としていたが、この予定していなかった転居をきっかけに引退を決意し、鞍馬の工房も売却することになった。いつ解除されるかわからない完全封鎖地域の物件など、買い手がつかないだろうと不動産業者も諦めていたが、売り出し早々に東アジア基督融和会というNPOが即金で、しかも現状での買い取りを申し込み、売買は即座に完了した。
 部屋には既に、遼・岩倉次郎、高川典之の三名が待機していた。彼らはみな、リューティガーの空間跳躍能力によって、直線距離にして三百六十キロメートルも離れた東京の代々木から、ここまで瞬時に運ばれ、到着した指揮官に注目した。
「まず、鞍馬小学校の司令本部に向かいます。そこで陽動ポイントの指示を受け、ヒトマルマルマルから作戦開始です」
 “ヒトマルマルマル”とは、午前十時ちょうどを意味していた。遼たちはこの読み方にもすっかり慣れていたので、誰一人聞き返すこともなく工房から出発していった。
 空は晴れ渡り、朝の寒気が四人の少年たちの息を白くさせていた。工房から目的地の鞍馬小学校までは、三百メートルほどの距離がある。リューティガーの能力なら小学校まで直接転移することもできたのだが、あの異なる力を衆人の前で使うのはできるだけ避けるべきであり、そのため、賢人同盟の下部組織が工房を買い取り、リューティガーたちの鞍馬における起点として利用されることになっていた。
 黙々と、無駄口を叩くことなく四人が府道三八号線を北上すると、ほどなくして目的地である鞍馬小学校の小さな校舎が姿を現した。
「そうだ。前もって言っておくよ」
 そう告げると、リューティガーは足を止めた。遼たちもそれに倣うと、彼らの背後を陸上自衛隊のトラックが通過した。
「一昨日の前橋地裁の件だけど、日本政府から抗議があった」
 リューティガーの発言に、遼は口先を尖らせ、不満を顕わにした。
「なんでだよ。夏目は助けられなかったけど、連中の好き勝手にはさせなかったんだ。どうして抗議なんてされる?」
「事前の打ち合わせもなく、勝手に行動するなと釘をさされた。確かに遼の言うとおり、僕たちは夏目の遺体も回収したし、市民団体から人質をとられることも防いだ。けど、それは日本政府にしてみれば、不測の事態のひとつに過ぎないってことさ」
「おいおい、だったらどうして地裁の近くで待機するのを許可されたんだ?」
「だからさ、日本政府は僕たちの能力を低く見積もっていたってことだよ。あの現場でもどうせ大した働きもできないだろうって、高をくくられてたってことさ」
 どこか投げやりな口調のリューティガーに、腕を組んでいた高川が鋭い目を向けた。
「我々、特にルディの能力を見くびるとは、度し難いな」
「この鞍馬の人たちには、僕たちの実力は周知されてるけど、中央はそうじゃないってことなのかな?」
 岩倉の推察に、リューティガーは笑顔で頷いた。
「逆に言うと、地裁の件で僕たちの力は中央にも浸透した。これから先、ちょっと面倒なこともあるかもしれませんね」
「面倒とは、どういうことだ?」
 高川はそう問いかけ、遼も頷いた。
「例えば要請です。僕を通さず、遼たちに日本政府から作戦参加の依頼があるかもしれません。けど、これは絶対に断ってください。僕は君たちの戦力を常にアテにしてます。僕たちは状況に応じて彼らの作戦に組み込まれ、場合によっては命令や意図通りの任務を遂行することはあっても指揮下に収まるつもりはありません。同盟と日本政府は、あくまでも対等な関係であることを忘れないでください。だから、今後もしも何かあったら、全て僕に報告して欲しい」
「な、ならだけど、僕、割としょっちゅう自衛隊に入らないかって言われるんだ」
 困り顔で岩倉は訴えた。リューティガーは「勝手な勧誘は、止めてくれって言っておきますよ」と返すと、再び歩き始めた。

 小学校の校庭にはいくつものテントが設営され、その中の一つがリューティガーたちの休憩場所になっていたが、四人はそこには立ち寄らず、司令本部がある校舎一階の職員室に向かった。遼は白いスキーウェアの上下にグローブとトレッキングシューズを着用し、高川は学生服ではなく、岩倉と同じ迷彩服で今回の作戦に望んでいた。廊下を通り過ぎる自衛官たちは皆、ダッフルコートのリューティガーを先頭にした、このいわゆる“仁愛組”の少年たちに注目し、中には敬礼する若い隊員もいた。
 本日はいつもの偵察任務ではなく、三月の決戦を前にした重要な作戦が行われる。遼は廊下の窓から、校庭に停められている一台の装甲車に注目した。白い迷彩色に塗装された無骨なシルエットの八輪車輌は、陸上自衛隊で一般的に使われている、96式装輪装甲車だったが、車輌上面には機関銃は装備されておらず、後部ハッチには艶のない黒い布が貼られていた。本日の作戦の主役とも言えるこの車輌には、兵員や弾薬ではなく、地中探査用の物理探査レーダーと、そのバッテリーが積み込まれていた。レーダーは高周波の電磁波を地中に放射し、地中からの反射波を計測する機能がある。計測データの分析によって、FOTの地下拠点の位置を特定することが、この作戦の目的となっていた。これまでも同様の装置での計測は幾度か試みられてはいたのだが、地中は電磁波の減衰が著しく、国内に存在するレーダーでは満足な計測結果が得られなかった。稀にそれらしい痕跡をソナーが示すこともあったが、いずれもが意図的に設置された囮のコンテナブロックであり、リューティガーの遠透視でも地中から拠点らしい視覚情報を得られることができなかった。そのため、日本政府は米国に協力を要請し、半月ほど前にその返答として、開発されたばかりの軍用の新型レーダーが極秘裏に貸与されることになった。米国の、この異例とも言える協力的な対応の決定には、賢人同盟の口添えも影響していた。新型レーダーによる計測は、鞍馬山を中心とした「想定エリア・K」、北西の桟敷ケ岳方面の「想定エリア・S」そして北東の天ケ岳の「想定エリア・A」の順番で行われる。三箇所の計測ポイントは、連日に亘る地道な偵察作戦によって収集された敵兵力の発見・遭遇・交戦記録と、その際に設置された光学センサからの観測データなどで絞り込まれており、レーダーを搭載した装甲車と、それに随伴する護衛部隊が、午前十時の開始から八時間をかけ、強行計測を行う作戦になっていた。また、陽動部隊も各地に展開し、リューティガーたち四人もその一翼を担うことになっている。観測用のヘリコプターも参加し、動員される人員の合計は九百名以上にも及び、“鞍馬事変”以来、最大規模の作戦が開始されようとしていた。

 職員室は、司令本部としての機能を果たすべく全面的な改装が施されており、天井や壁面、床の全てが防音素材に取り替えられ、教員用の机や従来まであった備品はその全てが、陸上自衛隊やF資本対策班が運び込んだ設備と機材に入れ替えられていた。壁には封鎖地域である鞍馬山一帯の地図が貼られ、陸上自衛隊の将官や機動隊幹部、そして対策班の捜査員たちが、これから始まる作戦について最終確認を行っていた。
「賢人同盟の真錠だ」
 鉄製の扉を開け、リューティガーはそう告げると胸を張って堂々と司令本部に入室した。遼と高川がそれに続き、最後に岩倉が、注目する大人たちに小刻みな会釈をしながら扉を閉ざした。
「我々の陽動ポイントとコースを確かめにきた。展開マップをもらおう」
 自衛官の一人が、一冊のファイルをリューティガーに手渡した。それは今回の作戦計画書であり、パラパラとページをめくったリューティガーは、すぐに自分たちが担当する陽動任務の詳細を把握した。
「それと、岩倉次郎に対して陸上自衛隊員が入隊勧誘を繰り返しているそうだが、冗談でもそういった行為は慎んで欲しい。また今後、我々賢人同盟部隊に何らかの要請がある際は、必ず私を通すよう、徹底していただきたい」
リューティガーの要求が厳しい口調で、これまでとは違い敬語も使わなくなっていたため、遼はそれが「ちょっと面倒なこと」への対応策なのだと理解した。
「徹底させよう、真錠君」
 低い声でそう返したのは、自衛隊第三師団の田中三等陸佐だった。彼はこの司令本部で任務に就く陸上自衛官では現時点において最高位であり、満足行く立場からの回答に、リューティガーは感謝の意を込めて頭を下げた。

 校庭に設営されたテントのひとつ「賢人同盟部隊」と記された標識のあるテントまでやってきたリューティガーたちは、一時間後には開始される作戦に向けての準備に取りかかっていた。四人の任務は陽動であり、それは彼らが目立った存在で、偵察任務において敵との遭遇率が一際高いことに起因している。リューティガーはリボルバー拳銃のメンテナンスに取りかかり、岩倉はロッカーから取り出した装備を確認し、高川は着慣れていない迷彩服の襟や裾を何度も引っ張り、遼は屈んで靴紐を締め直していた。
「ごめんなさい」
 挨拶をしてテントに入ってきたのは、カーキ色のスノーコートを纏った神崎まりかだった。リューティガーは一瞥しただけでメンテナンスを続行し、遼は身体を起こして会釈をし、岩倉と高川は面識のない彼女を不思議そうに見つめた。遼は、リューティガーが彼女に対して、複雑で屈折した感情を抱いているのがわかっていた。だからこそ気を遣い、自ら率先してまりかを招き入れ、用件を尋ねた。
「うん、そちらのお二人と、挨拶とかまだたったなって」
「あなたのことなら、既に二人には通達済みだ。F資本対策班のサイキが、同級生の姉だという点まで含めてね」
 リボルバーに弾丸を装填しながら、リューティガーは視線もそのままに早口でそう告げた。岩倉と高川はその言葉で、来訪者が誰であるのか理解した。
「初めまして! 岩倉次郎です」
「ど、ど、どーもであります! 高川典之と申します!」
 岩倉は柔和な笑顔で、高川は緊張した面持ちに直立不動で挨拶をした。まりかは「うん」と小さく頷くと、笑顔で「対策班の神崎まりかです」と名乗り、二人に頭を下げた。
「そちらはAエリアの陽動、我々はKエリア。今回の作戦で持ち場は異なるはずだが、何をしに来た?」
 拳銃を腰のホルスターに収め、椅子に掛けていたコートを手にしたリューティガーは、睨み付けるような目をまりかに向け、冷淡な口調でそう尋ねた。
「二人とも今月から偵察に参加してくれているのに、一度もちゃんとした挨拶をしてなかったから、いい機会かなって思って」
 リューティガーの強ばった態度にも動じることなく、まりかは岩倉と高川にもう一度にっこりと微笑み、テントの奥まで進んできた。
「実は、偵察任務が始まってから、ちょくちょくまりかさんの姿は見かけてました。ほとんどは、ドレス姿でしたけど」
 岩倉の言う“ドレス”とは、まりかの戦闘作戦用装備の通称である。それを身に付けたまりかは、最新の光学機器と強力な武装を満載した紅い複合装甲を纏う、二メートルを超える無骨で物々しい姿をしており、頭部は真っ黒なバイザーに覆われていたため、外からだと素顔は全くわからなかった。ブラウンがかった髪を肩まで延ばし、化粧気の薄い顔は二十代中盤でありながら、高校生と見劣りすることなく瑞々しい生気に溢れ、何よりも目に生命力と気力の強さが漲っていた。近づいてきた女性捜査官の溌剌とした佇まいに岩倉は目を奪われ、やはりドレス姿を幾度か目撃した程度である高川も、思わずじっと観察してしまった。
「えっと、はるみがお世話になってます」
 岩倉と高川の前で立ち止まったまりかは、改めて会釈をした。岩倉は「こちらこそです!」と明るく応じ、高川は緊張のあまり言葉が出ず、痙攣したように何度も胸を張り直した。
「ど、どうしたの? 高川くん?」
「い、い、いえっ! な、な、なんでもありませんことです!」
 まりかから視線を逸らし、気を付けの姿勢で、高川は高まる緊張と戦っていた。ファクト騒乱の英雄。リューティガーにとっては仇にあたる超能力者。全備重量720kgを超える機動兵装“ドレス”を操る、日本政府の切り札。以前、はるみから聞かされた事実と、今月から参加している偵察任務の中で更新された情報によって、高川はまりかをそう認知していた。しかし、緊張の原因は、そこにはなかった。

 こ、この人が……はるみんの、お、お姉さん。

 最近では薄れてきたものの、かつては強い恋心を抱いていた“はるみん”こと、神崎はるみの姉がこんなに近くにいる。確かに、はるみんに近い淀みのない元気というものが、この人からは感じられるような気がする。二人の外見がどれほど似ているのか気になる。近くまで来てくれたのだから、もっとよく観察したいところなのだが、強すぎる好奇心にこれ以上負けてしまえば、それは礼節を欠いた態度として現れてしまうだろう。それがわかっていたから、高川はまりかの顔を見ることを躊躇っていた。
「は、はるみん……ではなく、はるみ様とは、学舎を共にし、と、共に勉学に勤しみ! な、なんと申しましょうか! なんと申しましょうかぁ!」
 高川は言葉に詰まってしまい、混乱のまま敬礼した。まりかは、目の前の屈強な少年が、過度な緊張状態に陥っている理由を推理した。教室ジャック事件を契機に作られた、高川典之の経歴データには、習得技能欄に柔術完命流の文字が記されていた。あの冷静沈着で、いかなる戦いでも常に勇敢だった東堂かなめが極めた完命流を、彼は学んでいる。この戦いに加わっているのもおそらくは東堂かなめの遺志を継ぐためであり、偉大なる先人と共に戦った自分に対して敬意が空ぶってしまい、このようなぎくしゃくした態度になっているのだろうか。まりかの高川に対する推察は、戦う動機という点においては概ね正しかったものの、緊張した態度の理由については全くの誤りだった。高川は、まりかとかなめが共にファクト騒乱を戦った過去を知らず、それぞれの存在はあくまでも点であり、線としては結びついていなかった。そしてなによりも、高川が妹に対して強い好意を抱いていたことを、まりかは想像もしていなかった。
「轡(くつわ)を並べ、このように同じ戦場で共に戦えることを光栄に思うしだいであります!」
 目を伏せ、頬を赤らめ、それでもなんとか落ち着きを取り戻した高川は、力強くそう言った。
「こちらこそ。柔術完命流、アテにしてるわ」
 優しく弾んだ口調だったが、高川はまりかの言葉に疑問を抱き、彼女に視線を向けた。確かに“鞍馬事変”からこれまで数多くの獣人を屠り、自衛官にも劣らない戦果を挙げてきたと自負している。そういった意味から対策班にも柔術完命流の名が知れ渡っていることも考えられるが、それにしても今の彼女の言葉はあまりにも淀みがなく自然で、完命流という単語を言い慣れているようにも思える。

「あれだけの殺戮を繰り広げた……東堂と神崎の血統に言わせるものかよ!! 化け物どもが!!」

 昨年の夏休み、演劇部の合宿に襲撃を敢行した篠崎十四郎は、死の直前、そう叫んだ。偉大なる先人、東堂かなめと目の前にいる神崎まりかは、かつてファクト機関との戦いに身を投じていたという共通した過去を持っている。あるいは、共闘していたのだろうか。それなら今の淀みのない「完命流」という発言はわからなくもない。
「挨拶が済んだのなら、出て行ってもらえないか? こちらはまだ準備が完了していないんだ」
 高川の疑問をかき消したのは、リューティガーの刺々しい言葉だった。まりかは苦笑いを浮かべて振り返ると、小さく首を傾げた。
「ごめん、ルディくん」
 両手を合わせて少しだけ屈んだまりかに、リューティガーはぷいっと横を向いたが、視線は彼女に戻した。
「“くん”は余分だ。ルディでいい」
「そうだったね。オッケー、ルディ」
 二人のやりとりに、遼は軽い驚きを覚えていた。度重なる共闘により、少しは関係性も改善されているだろうとは思っていたが、まさかここまでスムーズなやりとりがなされるとは想像していなかった。特に、リューティガーの変化が著しい。口調こそ相変わらず素っ気なく、言葉にもトゲがあったが、憎悪はなく、嫌味の域は超えていない。いつかの様に口論や罵り合いに発展するのなら、仲裁役を務めるつもりだった遼は、想定外の落ち着いた空気に戸惑ってしまった。以前、まりかからリューティガーのことを「なんとかならないかな」と頼まれたが、なんとかする機会もなかった。あるいはあのとき一緒にいたはるみが、何かよい手でも打ってくれたのだろうか。なんにせよ、これはいい傾向だ。戸惑いを喜びに切り替え、遼は頬を緩ませた。

 挨拶を済ませたまりかは、テントから出ると、校庭から駐車場に向かった。ドレスを搭載したトレーラーまでやってきたまりかは、ステップを上って後部ハッチからカーゴルームに入り、内壁に背中を預けると、顔を顰め、うめき声を漏らした。頭の中を、鈍い痛みが蠢いている。ゆっくりと、ずるずると、後頭部から額にかけ、蛇のような何かが往復を繰り返している。十五分ほど前からずっと、リューティガーたちに挨拶をして笑顔を向けた際にもそれは続いていた。吐き気を覚えたまりかは、背中を内壁にずるずると引きずり、その場にへたり込んでしまった。すると、カーゴルームの扉が開き、外から迷彩服を着用したハリエット・スペンサー捜査官が入ってきた。空色の瞳を曇らせた彼女は、まりかに駆け寄り、腰を下ろしてその肩を優しく掴んだ。
「どうしたのまりか? 例の頭痛?」
「うん……」
 いつもの元気はなく、苦痛に耐えるまりかの額には、汗がうっすらと滲んでいた。ハリエットはポケットからハンカチを取り出すと、それでまりかの額を軽く拭いた。
「作戦には参加できそう?」
「これが治まれば……いつもなら、あと十分もすれば痛みはなくなるはず」
 昨年の十一月から、まりかはこのひどい頭痛に苛まれていた。最初は週に一度程度の発症だったが、今年になってからは二日おきに苦しめられることもある。頭痛薬では決して治まらず、自然に消えるの待つしかない、厄介な障害であった。周囲に心配をかけたくないため、この件はハリエットと二人だけの秘密にしていたが、それを隠して受けた精密検査でも異常は認められず、原因は判明していなかった。強すぎる能力の代償なのだろうか。日本でも米国でも超能力についての研究や理論的解明はほとんど進んでおらず、もしこれが“異なる力”を要因とした痛みなら、有効な対処方法は今のところ皆無である。得体の知れぬ不調に、まりかは恐れと苛立ちを覚えていた。
「ごめん、ハリエット。痛みが治まるまで、一緒にいてくれる?」
「ええ、もちろんよまりか」
 ハリエットは、腰のポーチからピルケースを取り出すと、それから錠剤を五つ掌に移し、水筒と一緒にまりかへ手渡した。
「頭痛薬よ。市販品じゃなくって、Blood and Fleshから取り寄せた強めのもの。副作用もある……」
 説明の途中で頷いたまりかは、聞き終えるのを待たずに錠剤と水を口に含んだ。なんの躊躇もなく、渡された“強め”で“副作用もある”薬を飲んでくれた相棒に、ハリエットは感謝と呆れの気持ちを同時に抱き、彼女の頭をそっと抱き寄せた。
「この薬って、ハリエットも使ってるの?」
「いいえ、これはまりかのために取り寄せたの。日本でもステイツでも薬事法では認められてない、強力で副作用もある薬。一種の覚醒剤よ」
「使いすぎに注意ってことね」
 苦痛に耐えながら、まりかは不敵な笑みを浮かべた。ファクトとの戦いでも茨博士から非合法な鎮痛剤や興奮剤を購入し、それで激闘を乗り越えた経験もあったまりかにとって、非合法な覚醒剤の服用には躊躇いこそあったものの、非常時における危機回避手段としては、それなりに有効であると理解していた。
「まりか、あなたの戦力を考えたら、アドバイスとしては不的確になるかもしれない……」
 ハリエットの忠告を、まりかは途中で遮った。
「戦いを休むことなんてできない。敵は巨大獣人まで動員しているから、わたしの力は必要不可欠だし」
 リタイアというアドバイスを予測され、それをきっぱりと否定されたハリエットは反論の言葉を失っていた。頭痛があっても、それが日常の中なら、治まるまで休めば何事もない。しかし、これが戦いの最中なら、命を落とす結果にもなりかねない。途中退場を勧める相棒の気持ちは嬉しかったが、まりかはそれを決して受け入れられなかった。

7.
 一月二十九日、午前十時ちょうど、陸上自衛隊と機動隊、F資本対策班、そして賢人同盟による共同軍事作戦、「鞍馬1号作戦」が開始された。作戦の主役となる地中レーダーを搭載した96式装輪装甲車と、それを運用する施設科隊員、護衛を担当する第七普通科連隊から構成される強行測定小隊が、鞍馬山を中心とした「想定エリア・K」の測定ポイントに向けて鞍馬小学校から出発した。同時に、二十五に区分された陽動部隊も封鎖地域の各所より進軍を開始し、中部方面航空隊に所属する三機のヘリコプターが、観測支援のため八尾駐屯地から鞍馬山上空に到着した。
 作戦開始から十六分後、陽動部隊の一つが芹生峠近くで自動射撃装置と遭遇し、「鞍馬1号作戦」の戦端が開かれ、それを機に、雪山を中心とした作戦全域で武力衝突が散発した。銃声と爆発音が鳴り響き、煙と炎が巻き起こり、血しぶきと肉片が白い大地を朱に染めた。陽動部隊は強行測定小隊の任務が円滑に遂行されるべく、それぞれの担当エリアにおいて、できるだけ長期に亘って敵の注意を惹きつける必要があった。このため、戦闘継続が最優先事項とされ、通常なら撤退にいたる損害が生じてもその判断は先送りされ、各部隊は持ち場の戦線を堅持するべく、随所で死闘が繰り広げられた。
 貴船山では、陸上自衛隊第三十六普通科連隊所属の歩兵部隊と、獣人を中心としたFOTの三十九戦隊との陸戦が行われ、劣勢に追い込まれた歩兵部隊は貴船神社まで後退したが、そこで徹底抗戦を行い、三十名の自衛官は二十四名が戦死し、五名が四肢を欠損するなどの重傷を負い、残された一名の隊員によって撤退を余儀なくされた。
 南部の竜王岳では、京都府警所属の機動隊が飛行型獣人部隊の襲撃を受け、戦闘開始わずか十五分で全体の八十五パーセントを超える二十四名が死亡したものの、残った四名が奮戦し、最後には全員が囮となって、大破した特型警備車至近まで獣人部隊を引き込み、自爆を敢行した。甚大なる損害を受けた獣人部隊は撤退を余儀なくされ、その途上で陸上自衛隊の歩兵部隊と遭遇戦となり、飛行能力を損失していた彼らは雪積もる森の中で壊滅した。
 北東部の百井峠では、陸上自衛隊第三特科隊が一五五ミリ榴弾砲によって、天ケ岳への支援砲撃を開始したが、ステファン・ゴールドマン率いるFOTの陸戦部隊がそれを奇襲した。砲撃任務を主としているため、白兵戦力に劣る特科隊だったが、近接戦闘下において甚大なる損害を被りながらも撤退はせず、壊滅するまで支援砲撃は続けられた。ステファンの部隊は第三特科隊との戦闘後、ただちに次の戦闘へ向けて移動を開始した。ステファンは戦死した従者であるラウル・松田の仇討ちを、この戦いで望んでいた。ラウルは今月三日、賢人同盟部隊との遭遇戦で命を落とした。戦場で航空支援をしていたはばたきによると、ラウルを殺害した同盟のエージェントはまだ高校生であり、“異なる力”を持っていない、日本人の市民らしい。もし交戦の機会があったなら、必ず息の根を止めてやる。ステファンはラウルの人懐っこい笑顔を思い出しながら、硝煙の立ちこめる白い大地に仇敵を求めていた。そして、ステファンの憎悪に満ちた戦いは、第三特科隊の失われた命を惜しむ者たちに、新たな怨恨を生み出していた。
 そう、敵もその敵も、死闘を支える士気と狂気の源には、復讐に塗れた憎しみが多分に含まれていた。鞍馬での戦いは、“鞍馬事変”を境に、この日に至るまで二ヶ月以上に亘って続いている。その間、共同部隊とFOTの間では日夜殺し合いが続けられ、日が経つに従って、怨嗟の声は増すばかりだった。
 全体としては劣勢である陽動部隊だったが、局地によっては優勢を保ち、勝利を獲得することもあった。
 戦端となった北西部の芹生峠では、陸上自衛隊第三十七普通科連隊所属の機械化歩兵部隊が、FOTの陸戦部隊と交戦した。自動射撃装置を殲滅し、士気も上がっていた機械化歩兵部隊は効率的な包囲戦を展開し、三名の戦死者を出しつつも作戦終了まで優勢を維持した。
 南東部の阿弥陀寺では、施設科の特殊部隊が自動射撃装置の敵味方識別プログラムにアクセスし、コードを書き換え、装置を自軍の戦力と化し、来援の普通科部隊と連携して敵陸戦部隊を殲滅した。
 北東部の天ケ岳では、F資本対策班の神崎まりかが機動兵装「ドレス」を用いて敵獣人集団を圧倒した。陸上自衛隊第三特科隊による百井峠からの決死の砲撃支援も奏功し、地域一帯における地上での優勢権を確保した。

 陽動部隊が各地で懸命の戦いを繰り広げる中、作戦が開始してから一時間後、強行測定小隊の護衛任務を担当する四十二名の歩兵部隊が、エリア・Kの測定ポイントに到着した。「鞍馬1号作戦」の目的は、三つの想定エリアにおける地中測定であり、エリア・Kがその皮切りとされていた。地中レーダーを搭載した96式装輪装甲車に先行して、雪が深く積もる木の根道の緩い斜面までやってきた第七連隊所属の歩兵たちは、自動射撃装置の激しい迎撃を退け、木々を切り分けスコップで除雪を行って96式の進入進路を確保し、防御陣形の配置を完了した。96式も現地入りし、一時間に亘る計測任務が始まった直後、測定ポイントに獣人の戦闘部隊が出現した。これは貴船山で歩兵部隊を撃破した、マット・ファーガソン隊長が率いる三十九戦隊であり、勝利によって士気も高まっていた獣人の群れは、杉林に第七連隊を発見し、歓喜の咆吼を上げ襲いかかった。
 第七連隊の水谷一等陸士は小銃を腰に構え、迫り来る熊のような顔をした獣人に向け弾丸を放った。着弾したそれは獣の勢いを削ぐことはできなかったものの、被弾箇所からは紫の煙が盛大に噴出し、前のめりに転倒させた。水谷は獣人の背中に更なる弾丸を撃ち込むと、岩陰に退避した。獣人は背中から紫煙を上げ、戦闘能力を完全に失い泡化を始めた。本作戦より支給された、新型化学薬品、「Poisoned apple」をコーティングした「対獣人用Pa弾」の威力は絶大であり、これまでは分厚い筋肉組織によって獣人への殺傷能力を減殺されていた火器類が、着弾イコール猛毒物質による致命傷という、必殺の兵器に再生された。弾薬の製造数には限りがあり、まだ一部部隊にしか支給されておらず、対人戦闘では弾薬を切り替えなければならないという不便さもあったが、その弱点を補って余りある利点がPa弾にはあった。水谷は続いて現れた獣人の群れに威嚇の手榴弾を投擲し、友軍の塹壕に向かって駆けた。今日はコンディションが特によく、つい先ほど遭遇した自動射撃装置にも冷静に対応ができた。これまでになかった上下方向への掃射には驚きはしたものの、決してパニックに陥ることなく、退避と反撃を適切に行い、装置の沈黙にも成功した。今日の作戦にはあの岩倉次郎も参加している。高校生である彼に軍功を譲ることは、職業軍人として許されるものではない。そんな対抗心も水谷の判断力や対応力を最適化させる助けとなっていた。
 Pa弾を装備した第七連隊は、ファーガソンの三十九戦隊を圧倒した。かすり傷ひとつ負うだけでも戦闘不能に陥いる獣人たちは、第七連隊の斉射に為す術もなく、反撃もそこそこに測定ポイントから撤退するしかなかった。自身も獣人である、隊長のマット・ファーガソンも左腕に被弾したが、肘から先の下腕部を自ら引きちぎることで猛毒物質の侵入を阻止し、最後まで撤退戦の指揮を執り続けた。
 96式の地中測定作業は、妨害されることもなく順調に進み、観測支援のヘリコプターも上空に到着し、警戒力も増加した。水谷一等陸曹は塹壕から這い出ると、あちこちで泡化する獣人の屍に興奮し、不揃いで太い眉を上下させ、「ざまーみろ! 伊藤、坂本、苗原、仇は討ったぞ!」と叫んだ。すると、彼の背後から口髭をたくわえた中年の自衛官が声をかけてきた。
「水谷! 来い!」
 呼んでいるのは上官である島原一等陸曹だった。水谷が急いで駆け寄ると、島原は事態に変化が起きていることを告げた。どうやら、観測ヘリがこちらに向けて接近してくる新たな人影を発見したらしい。
 水谷は二名の一等陸士と共に、指示された座標まで偵察に向かった。雪の乗った枝をかき分け、腿を大きく上下させ森の中を進むと、水谷の視界に人影が浮かんだ。スコープで確認してみたところ、髪を青く染め、赤いコートを着た、戦場にあっておよそ似つかわしくない民間人の少女のようである。紛れ込んだのだろうか、まさかこんな山奥に。いや、FOTには獣人と歩兵の他にも一般市民と見分けのつかない「暗殺プロフェッショナル」という雇われの殺し屋もいて、何名もの仲間がその毒牙にかかり、命を落としている。見かけだけで判断するのは危険だ。水谷は迅速な判断の結果、人影に向かって、「止まれ! ここは完全封鎖地域である!」と叫んだ。だが、人影は止まることなく、鈍い音を立てながら全身を左右に揺らし、積雪の中を進んできた。
「止まらんと、撃つぞ! 遭難者か!?」
 水谷と同行して偵察に来ていた一等陸士の一人が、そう叫んだ。しかし返答はなく、その代わり「伝説継承!」という少女の叫び声と共に、隊員の頭上から細い一条の雷が落ちた。脳天から落雷を浴びた隊員はその場に崩れ落ち、水谷は直ちに、倒れた隊員を抱きかかえた。ガタガタと震え、口から泡を吹き出し、手にしていた小銃は落としてしまい、握力も失ったように掌を小刻みに揺らせている。自衛隊の普通科隊員が学ぶ緊急救急判断に、「感電」という項目はなかったが、目の前で起きた現象を何の偏見もなく定義すれば、そうとしか言いようがない。水谷はもう一人の一等陸士に援護を要請すると、戦闘不能に陥った同僚を引きずるように抱えて、北山杉の木陰へと退避した。そして次の瞬間、二つ目の稲光が、援護のため小銃を構えていた隊員の頭上に落ちた。
 上手くいった。これは手柄だ。中丸とかいう隊長も誉めてくれるだろう。二人目の迷彩服ががっくりと崩れ落ちるのを視認した柳かれんは、ぺろりと舌なめずりをした。
 気がつけば、銀世界のただ中にいた。二段ベッドで起床して、食堂で朝食の月見うどんを食べ、本日から始まるレクチャーのため、ブリーフィングルームに向かったものの、教官もおらず、なにやら鞍馬ベース全体の雰囲気が緊張感に溢れ、慌ただしく忙しないと感じるようになり、掛けてきた男にどうしたのかと尋ねてみると、「敵の大規模な攻勢が始まった。緊急事態だ」と説明され、さてどうしたものかとベース内をうろついていたら、廊下を進む獣人の集団と遭遇し、我犬の姿はないかと集団の中に入ってみたらその勢いに呑まれてしまい、いつの間にか大きなエレベーターに同乗し、満員電車から無理矢理はき出されるようにそこから降りると、細い通路をひたすら早足の行進に巻き込まれ、最後は階段を四階分ほど上り、扉の外に出てみると今度は洞窟で、しばらく獣人たちとそこを進むと、急に風景が雪景色に切り替わった。視界の端、森の木々の狭間に白い長髪の青年が見えたような気もしたが、それを確かめることもできず、かれんは、ゴリラの様な顔をしたファーガソンと名乗る獣人のリーダーから、「なんだ、お前は?」と尋ねられた。ファーガソンの話によると、これからこの獣人の群れ、三十九戦隊は日本政府の共同部隊と戦闘になるらしい。「サイキらしいが、お前は素人だからここで隠れて見ていろ」と指示を出され、一度は一緒に戦うと反論したものの、直後に始まった銃撃戦に、かれんはすっかり驚いてしまい、自覚も薄いまま、雪の積もった茂みに姿を隠してしまった。遠くから、銃声と、絶叫と、雪が鈍く押しつぶされる音が、三十分ほど続いた。茂みの中からでは外の様子はよくわからなかったが、再びにゅっと現れたゴリラ顔が、「敵は殲滅した。移動するからついて来い」と言ってきたので茂みから出て後をついていくと、煙に包まれた神社の境内に、迷彩服姿がいくつも倒れていた。恐かったので直視は避けたが、手足や頭部を失っている遺体もあり、どうやらファーガソンの三十九戦隊は自衛隊を殺したのだろう、かれんはそう理解して、獣人たちと次の戦場に向けて移動した。そして、森の斜面で二度目の戦闘が開始されることになったので、かれんは今度は岩陰から成り行きを見守ることにした。再び、銃声と咆吼が轟いた。だが、勝利が繰り返されることはなく、かれんは獣人たちが自衛隊の斉射に紫煙を噴き出しながら次々と倒れ、壊走し撤退する様を目の当たりにしてしまった。ファーガソンは何度かかれんの名を叫んでいたが、彼女は返事をせず、逃げて行くレザージャケット姿の猿人を岩陰から見送った。
 とうとう自分の出番が回ってきた。獣人の凄惨な人殺しではなく、伝説継承者の華麗で颯爽とした世直しの時間だ。柳かれんは三十九戦隊が敗れ去るのを待つと、バットケースを手に岩陰から踊り出た。そして、二人の自衛官に正義の稲妻を撃ち下ろし、次の敵を求め視線を鋭く走らせた。

 安心しろー。命までは取らねー。
 ビリビリ痺れて気絶するだけだー。
 柳かれんは悪しか殺さねー。
 敵は倒すのみっ!

 不殺を、少女はあらためて誓った。それを貫くことで、六年前の夏休みの出来事は、正義の行いだと納得もできると考えていた。
 何かが蠢く雑音が、周囲に走った。あまりにも迅速で、乱れがなかったので、かれんはそれが野生動物の仕業ではないかと思った。なんにしても用心をするべきだと判断した彼女は、自身の周辺に電磁の檻を張り巡らせた。その途端、あらゆる方位から、一斉に光が放たれ、乾いた銃声が鳴り響いた。動物ではない。包囲してきたのは自衛隊だった。用心が正解だったため、かれんは今日の自分は冴えていると心の中で自画自賛した。数百発もの弾丸は、電磁の檻を突破することができず、木々や雪原に弾かれた。銃口の光を頼りに、かれんは二十本もの雷を同時に放った。快晴の落雷は自衛官の意識を次々と奪い、中には心臓が停止した隊員もいた。それでも第七連隊の歩兵たちは96式の測定作業を守るべく、射撃を止めることはなかった。弾薬を撃ち尽くした隊員の一人が、手榴弾を投擲した。電磁の檻に跳ね返された筒状のそれは、かれんの背後で爆裂し、一本の大木をなぎ倒した。爆煙で視界を遮られたかれんは、突然頭上から別の煙が巻き起こったのに混乱し、思わず片膝を着いた。大木からこぼれた大量の雪が、電磁の檻に落下し、それが瞬時に気化したために起きた現象だったが、かれんにそれが理解できるはずもなく、ただただ彼女は慌てふためき、相変わらず止まない銃声に聴覚も麻痺してきてしまい、しだいに動悸も激しくなってきた。

 なんなんだよこいつら!
 なんで撃ちっぱなしなんだ!?
 そんでもって今のはなんだ、熱湯が降ってきた?
 なんでだっ!?

 再びの爆発が、今度は足下で起きた。迫撃砲による81ミリ砲弾の炸裂だったが、衝撃は電磁バリアで防げたものの、大地を砕く震動まではどうにもできず、かれんは上下する揺れにバランスを失い、その場に転げた。そして、休む間もなく三度目と四度目の爆発が頭上を揺さぶり、無傷のままだったかれんは、その正気だけがごっそりと吹き飛ばされてしまった。少女は叫び、わめき、じたばたと電磁の中でのたうちまわった。恐ろしい。無事だけど、恐い。この無事は長持ちしない。敵はただひたすらに、何の情緒もなく工場の機械のように破壊を続けてくる。電磁の檻を、強引に叩き壊そうと無表情な爆発が繰り返される。「伝説継承」と啖呵を切り、華麗で颯爽とした世直しなど、場合ではない。ただ亀のように、この殺害を目的とした破壊が止むのを待つだけだ。意識を奪うための雷も、視界が煙と蒸気で塞がれている以上、目くら撃ちにしかならない。それでは威力の調整もままならず、不殺の誓いから外れることになりかねない。実のところ、かれんはこの交戦で、既に一人の自衛官の心肺を停止させていたのだが、その認識はできておらず、開き直るまでには至れなかった。何度目になるかわからない爆裂の末、ついに電磁の防護幕は消え去り、かれんは胎児のように身を縮ませ、煙に咳き込みぶるぶると震え続けていた。二本目の大木が倒れ、銃声は止み、第七連隊の苛烈な暴力は制止した。
「おとなしく投降せよ!」
 それまでの雪崩のような攻勢に続く言葉としては、あまりにものどかな内容だった。雪を踏みつぶす足音が、しだいに近づいてくる。どうすればいい。もう一度身を守る電磁の檻を出さなければ。けど、どうやって。そう、あれは一体どうやって出したんだっけ。打ちのめされたかれんは、“異なる力”の使い方もすっかり消し飛んでいて、げほごほと咳を繰り返すだけだった。
 すると、雪に塗れた全身が、ふっと軽くなった。どうやら誰かに抱えられた様である。自衛隊だろうか、それにしては早すぎるような気もする。恐る恐るかれんが目を開くと、そこには彼女がよく知っている白い犬の顔があった。
「我犬っ!」
「助けにきました、か、かれん様」
 我犬はかれんを抱きかかえ、包囲網を狭めてくる歩兵たちを睨み付けた。頼もしい従者の救援にかれんは歓喜し、大きな目から涙を零した。
「我犬! よく来た! なにがなんでも護ってくれっ!」
 主の命令に、犬面の従者は力強く頷いた。
「もちろんです。かれん様!」
 我犬は身を屈ませ、羽を広げてその場から飛び立った。それは彼にとって、これまでで最も素早く、身体能力に優れた先代に匹敵するほど鋭い飛翔だった。しかし包囲の中にいた水谷一等陸士は、その白き翼を小銃で撃ち抜いた。毒林檎弾の直撃は、我犬に大空の自由を獲得させる最も大切な部位に、猛毒を巡らせた。紫煙と共に羽根が次々と抜け落ち、揚力を失い、空中でバランスを大きく崩した我犬は、若き主を大切に抱えたまま真っ逆さまに墜落してしまった。白い巨体が雪原に激突し、大きな雪飛沫が上がった。我犬は命令を遂行するため、かれんに覆い被さり、その背中を何発かの銃弾が掠めた。
 青い髪の少女は捕獲する。獣人のみを射殺せよ。そう発せられた上官からの命令を、歩兵たちは忠実に遂行した。Pa弾をもってすれば、守護する対象を傷つけることなく、あの巨体を無力化するのはあまりにも容易である。貫通さえ、直撃さえ避ければよいのだ。ほんの少し弾頭が肉体を抉り取るだけでよい。我犬の背中や肩、尻や羽に十発ほどの弾丸を撃ち込んだ第七連隊の隊員たちは、全身から立ち上る紫煙を確認すると射撃を止め、銃口を僅かに上げた。
 再び、白い森に静寂が訪れた。我犬の体温を全身で感じながら、かれんはしだいにその体重が強くのしかかってきたことに戦慄した。銃声のあと、こうなるのなら、解答はたった一つである。
「我犬! どーした! 撃たれたのか!」
 叫んだかれんの耳元に、生暖かく、べっとりとした何かが吐きかけられた。我犬に覆い被さられ、身動きのとれないかれんだったが、直感で吐血の結果であることぐらいはすぐにわかった。
「我犬! 我犬っ!」
 事態は最悪の結末に向け、急加速で進行している。だが、少女は叫ぶしかできなかった。
「す、す、すみません……かれん様……」
 覆っている従者の謝罪に、かれんはうめき声を上げた。
「命令、果たせそうにありません……す、す、すみません……」
 このままでは二人とも死ぬ。命令の選択肢を間違っていた。「なにがなにんでも護ってくれっ!」ではなく、「わたしはいいから、逃げろ!」にするべきだった。かれんは苦しそうな我犬の息づかいを間近で感じ、「絶対に生きろ!」と命じ直した。
「すみ……ません……」
 了解の返事ではなく、謝罪だった。のしかかる重みが、崩れるように所々から軽くなっていった。何かが破れるような音がする。全身を、何かが流れ落ちていく。一体、何が起きているのか。覆い被さっていたそのものが、どんどん薄くちっぽけで得体の知れぬ泡と液体に変質していく。そしてそれも見る見るうちに煙となり、消えていく。あんなに太って大きな身体だったのに、煙になって、お伽噺のように空に帰っていく。雪原にうつぶせになったかれんは、痙攣しながら朝食の月見うどんをゆっくりと吐き戻した。

「奴隷の方がラクだぞ。命令に従えばいいんだから。けど、主人は面倒だ」

 天然パーマのもじゃもじゃ頭は、小屋でそんなことを言っていた。

「命令に、責任がのしかかる。絶対服従の命令は、やり方一つで取り返しの付かない結果にもなる。だから、よ〜く考えて命令を下さなきゃなんねぇ。それって疲れんだぞ」

 取り返しがつかない。それはよくわかる。いま、「我犬」と呼びかけたところで、返事は永遠に返ってこないのだろう。間違えた命令のせいで、最後の忠犬は空に戻ってしまった。付き合いが浅いから、それほど悲しくはない。ただ、それが残念だった。悔しかった。申し訳がなかった。そして、なによりも心細くて仕方がなかった。ここは敵のただ中だ。もう護ってくれる者はいない。このままでは、殺される。動かなければ。かれんは呻き、足掻いたが、身体に力は伝わってくれなかった。
 島原一等陸曹にかれんの確保を命じられた水谷一等陸士は、小銃を手に少女への接近を試みた。既にこのエリアでの測定を終えた96式は、次の目的地である北西の桟敷ケ岳方面の「想定エリア・S」に向け、最低限の護衛部隊と共に出発していた。いち早く確保を完了し、96式と合流しなければならない。だが、再びあの光のバリアを張られたり、落雷攻撃をされては打つ手がない。あの少女がうつぶせになっている間に不意を突き、拘束して無力化を果たす。重大な任務を帯びた青年自衛官は、できるだけ慎重な挙動を念頭に九十秒もの時間をかけ、かれんのすぐ傍までやってきた。
 無骨で乱暴な腕力が、かれんの右手首を捉えた。背中まで手首をひねり上げ、左膝でそれを押さえつけた水谷は、今度は左手首を掴むと肩が脱臼してしまうほどの勢いでそれを引っ張り上げた。
 そのとき、蝉の轟音が、少女の頭の中を埋め尽くした。六年前の夏休み、こうやって自由を奪われたあの日、抗う力を渇望したあの瞬間が襲いかかった。かれんは叫んだ。獣のように。
 少女の背中の上で、水谷が踊った。分厚い体躯は前後に打ち震え、広く平たい顎は上下に弧を描き、両の丸い目は押し出され、顔面から勢いよく放たれた。水谷は十秒もかからず、黒こげの塊になった。かれんはゆっくりと立ち上がると、バットケースから金属バットを取り出した。第七連隊は小銃に通常弾を装填し直し、それを斉射したが、かれんを中心に立ち上った電磁の壁がその全てを弾いた。壁は急速な勢いで直径を広げ、遂には包囲していた歩兵たちまで達し、彼らを感電の渦で呑み込んだ。
 不殺なんて、戯れ言だった。この戦いは殺し合いだ。“倒す”ではない、“殺す”だ。もっとそれに早く気付いていれば、あの忠犬も死ぬことはなかった。柳かれんは蒸気となった雪の中にあって、次々と倒れていく迷彩服の塊を憤怒の目で見つめていた。空気を切り割く爆音が鳴り、周囲の杉林が大きく揺れた。上空を見上げたかれんは頭上のヘリコプターに鋭い目を向けると、雄叫びと共に左手を突き出し、そこから何条もの雷を放った。強烈な電流を浴びたヘリコプターは、操縦士も観測隊員も即死し、コントロールを失って木の根道に墜落した。背後で起きた爆風を、かれんは電磁の壁で防いだ。全身がだるく、疲れも感じ始めていたが、少女は次の敵を求め視線を走らせた。第七連隊の生き残りたちが、壊走していく後ろ姿が見えたがそれ以上の深追いはせず、かれんは深呼吸した。背後に、気配が走った。聴覚なのか、嗅覚なのか、それとも皮膚の感覚か、それはわからない。あるいはその全てなのかもしれない。異変を察したかれんは、右手に持った金属バットを振りながら背後に向き直った。すると、バットを通じて右手に鈍い感触が伝わった。ヘルメットを被った男の顔がそこにあった。迷彩服の腹部に、バットがめり込んでいた。右手にはナイフを持ち、腹部を襲った激痛に苦悶の表情を浮かべている。多分、後ろからそっと近づいて奇襲を仕掛けてきたのだろう。かれんは振り向き様の反撃となったこの結果に驚き、戸惑いながらもすぐに気持ちを切り替え、バットを通じて男に電気を流し込んだ。男は電熱によって全身から炎と煙を上げ、瞬く間に炭化して崩れ落ちた。
「これが、電(でん)バットだっ!」
 偶然の一撃に、技の名前を付ける余裕も生じ始めていた。敵と間接的に接触するというリスクはあるものの、掌から雷を放つよりはずっと疲れも少なく、確実で効率的な殺害方法だと思える。かれんは戦場で編み出したこの新しい技法を、状況に応じては利用するべきとの結論に至った。気配を敏感に察し、戦闘技術を実戦で習得する。我犬の代償は大きかったが、その犠牲によって、柳かれんの戦士としての適正は磨かれ、才能は開花しようとしていた。

8.
 十二匹いた最後の一匹は、遼が念じることで仕留めた。上半身がタコ型の、頭部が今ひとつ判然としない外見だったので、機関銃を撃つような勢いでそれと思しき箇所の破壊を十秒ほど念じた末、桃色の巨体は膝から崩れ、雪飛沫を上げて倒れた。こんな怪異な姿はしているが、本来は人間だったのだろう。泡化する遺体を見下ろした遼は、顔を歪め唾を吐き捨てた。やはり、これは殺人だ。タコを始末したのではない。人だった誰かを殺したのだ。いくら誤魔化したところで、事実は変わらない。だからせめて、それが当たり前だと思ってしまわないように、やはりとんでもない事をしてしまっているのだと、そんな意識だけは保っていたい。岩陰に身を隠しながら、心の中で遼はあらためてそう思った。しかしその忸怩たる決意は、爆音によって遮られた。ずっと遠くだが、規模が大きい。何かの機械が爆発した音だ。確認のため、遼が立ち上がろうとすると、そのすぐ傍にリューティガーが現れた。
「自衛隊のヘリが落ちた。それに、その周辺に自衛官が何人も倒れている。ほとんどが死んでいるけど、まだ生きている人もいる」
 遠透視によって確かめた状況を、リューティガーは説明した。
「この戦域の戦闘は完了した。遼、高川くんとガンちゃんを連れて、爆発のあった現場に向かってくれ。生き残りの救助をするんだ。全部隊の中で僕たちが位置的に一番近い。」
 淀みのない的確な命令に、遼は大きく頷き返した。“生き残りの救助”という任務が、今の彼には特にありがたいものだった。
「ルディはどうするんだ?」
「僕は、あの爆発の原因と戦う」
 力強い口調だったため、遼はリューティガーが如何なる敵とこれから戦うのか、既に遠透視で把握済みなのかと理解し、「誰なんだ?」と尋ねた。リューティガーは眼鏡をかけ直し、爆煙の立ち上る方角を、険しい表情で見つめた。
「柳かれん。あの電気使いのサイキだ」
 そう告げたリューティガーは、疾風と共に姿を消した。遼はその名に戸惑ったが、二日前の出来事を考えればわからなくない話だと納得し、戦いを終え、木陰で休息をとっていた高川と岩倉に向かって駆け出した。

 ヘリコプターの炎上する音が背後から聞こえていたものの、敵の姿はまったくない。少しばかりの疲れは覚えていたが、まだまだ戦えるだけの体力は残っている。さて、次はどうすればいい。我犬を失った怒りは、まだまだ収まってくれない。敵をもっと殺さなければ、この憎悪と後悔は消えてくれないだろう。柳かれんは味方と連絡が取れない現状に落胆し、森の中で途方に暮れていた。
「完全に、FOTのメンバーになったんだな」
 いつの間に。いや、こいつなら“いつ”だって現れる。木の根道に姿を現した、栗色の髪の少年に、かれんは濃い化粧顔を歪ませ、嫌悪の目を向けた。
「そうだっ! 世直しをやって、わたしは英雄になるっ!」
「なら、ここで始末する!」
 リューティガーとかれんは、ほとんど同時に身構えた。先手を打ったのはかれんだった。どの距離の戦いになっても対応できるように、かれんは右手でバットを短く持ち、左手から稲妻を放った。だが、直撃するはずの雷撃は、右手を前に突き出しているリューティガーまで達したのと同時に、雲散霧消してしまった。かれんは我が目を疑った。雷撃に対して、敵対する彼そのものが消えてしまうという予想はしていたが、まさか放った攻撃手段の方が消滅してしまうとは。しかし、「始末する」と宣言された以上、攻撃の手は休めない。かれんは、左手から稲妻を連発した。しかし、その全てが初弾と同じように消失し、リューティガーは依然健在のままだったが、肩を激しく上下させ、口元は絶えず白い息に包まれている。疲労の色が浮かんでいるということは、雷撃を消す何かを彼が行っている証だ。なら、もっと手数を増やせばいい。いずれは疲れの果て、対応が間に合わなくなるはずだ。かれんも全身にだるさを感じ始めていたが、更に稲妻を放った。
 リューティガーは構えている右手に全神経を集中させていた。皮の分厚い手袋の上に、更に高圧作業用のゴム手袋を装着したその手には、長さ一メートルほどの細い針金が握られていた。かれんの放った雷撃は、全てがこの針金という避雷針を通じてゴム手袋まで到達するのと同時に、ある空間に跳ばされていた。
 電気という物理現象を、空間跳躍させる。かれんの前橋地裁での行動を受け、この二日間、リューティガーはその特訓に打ち込んでいた。落雷の速度を考慮すれば、視覚や聴覚といった感覚で対応するのは不可能であり、かれんが起電の挙動に入るのと同時に、常に触れたものを別の空間に跳ばす能力を発動していなければならない。特訓を初めてすぐ、そこに至ったリューティガーは、能力の常態発動という困難な課題に挑む必要があった。遼が対象の無力化という新たな力を得たこともリューティガーには大いなる刺激となっていた。知恵と工夫を凝らし、努力を惜しまなければ、“異なる力”はもっと進化する。その先には、あの兄をも凌駕できる技能が身につくはずだ。結局、クラスメイトの椿梢(つばき こずえ)のような、自身の心血管を常に拡げる、といった完全な常態発動は、たったの二日間では習得できず、どうしても間隙が生じてしまった。だが、それにつけ込むほど速い雷撃をかれんは放つことができなかったため、防御技術としてはほぼ完璧に機能できることが実戦で証明された。リューティガーは眼前で消えていく雷という結果に満足していたが、同時に激しい疲労も感じていた。こうなると根比べだ。そう覚悟したリューティガーは、右手に能力を発動させたまま、左手で興奮作用ある錠剤をポケットから取り出し、それをひと飲みした。
 雷鳴の轟くじりじりとした消耗戦だったが、かれんは遂に力尽きた。二十六発目になる稲妻を放った彼女は、左手を下ろして、額から滝のような汗を垂らした。このままでは、気を失う。そうなったら“始末”される。変化をつけての雷撃戦であれば、リューティガーの未完成な跳躍の常態発動の間隙を縫って、彼を黒こげにする可能性もあったのだが、才能が開花したとはいえ、訓練もまだ受けておらず、戦闘経験があまりにも乏しいかれんは、単調な攻撃しか繰り返せず、連発の速度も現状ではこれが精一杯だった。しかし、まだ打つ手はある。右手に持ったバットに左手も添えたかれんは、残った体力をふりしぼってリューティガー目がけて突進した。
 遠透視で電バットも視認済みだったリューティガーは、スパークを纏いながら迫ってきた金属のバットに、「愚かだ」と呟きながら左手の親指を突き出した。ちくりとした痺れを感じた刹那、かれんの得物は消失した。スウィングの勢いのまま、少女はその場に転倒し、体力をふりしぼった渾身の一撃は空振りに終わってしまった。
「……ガレラス火山だ」
 眼前で蹲るかれんに、リューティガーは顔の汗を拭い、呼吸を整えながらそう告げた。
「雷撃もそこに跳ばした。正確には、その火口深くにな。お前のバットは、今頃そこで炭化しているだろう」
 もう動けない。完全にからっぽだ。かれんはリューティガーを見上げることもなく、目の前にあった地面に露出している杉の根をじっと見つめていた。
「今から、お前もそこに跳ばす。安心しろ。一瞬でなにもかもなくなる。地獄の四課に跳ばすよりは、ずっとマシな終わり方だ」
 なにを言っているのかよくわからないが、要約すれば、おそらく「殺す」と言っているのだろう。だが、死の恐怖よりもかれんは絶望的な疲労感に支配されていた。何よりも今はゆっくりと休みたい。暖かく柔らかいベッドで寝たい。ぐっすりと、すやすやと。こんな、木の根だらけのごつごつとした寒い森ではなく、のんびりとできるどこかがいい。
 リューティガーは、かれんの赤いコートに手を伸ばした。これに僅かでも触れれば、この少女の全ては終わる。今頃、遼はこの近辺で自衛隊員の救助をしているのだろう。彼がここにいたら、この行為をきっと非難するはずだ。だから、この判断と結果には間違いがなかった。
 しかし、伸ばした手の先は空を切り、あるはずだった少女の身体も消え、硬い木の根だけが眼前に広がっていた。やられた。そうか、そういうことか。何が起きたのか瞬時に理解したリューティガーは、視線を上げ、白い長髪を探した。
「ルディ! 女の子なんだから、優しく扱えよ!」
 リューティガーから十五メートルほど離れた背後に、片目を閉ざした青年と、ボマージャケットを着た褐色の肌をした少年の姿があった。そのすぐ後ろには、へたり込んだかれんがいた。彼女はぜぇぜぇと呼吸を荒くしながら、驚いた様子で若き指導者を見上げていた。
「トゥ、トゥルーマン。それに、はばたき?」
 名前を呼んだかれんに、真実の人(トゥルーマン)は柔らかい笑みで振り返った。
「初陣にして、絶大な戦果だ」
「けど……我犬が……死んだ」
「悲しいな」
 笑みを消し、両目を閉ざした青年のその短い言葉に、かれんは大きく頷き返した。正義忠犬隊隊長の死を惜しむでもなく、その主を叱責するわけでもなく、加害者に憎悪を抱くこともなく、最も優先的に出た感想が、寂しさと辛さだったのが、かれんには堪らなく嬉しく、有難いものだった。
「はばたき。彼女をベースまで帰してやってくれ」
 真実の人の命令に、はばたきは「はい!」と答え、背中から翼を広げた。リューティガーは拳銃を懐から引き抜いたが、それは手元から消滅し、真実の人の足下に落下した。
「かれんさん、脱出する! 僕に抱きついてくれ!」
 言われるがまま、かれんは最後の力を振り絞って、はばたきに正面から抱きついた。豊かで柔らかい膨らみを胸に感じながら、それでも気持ちを引き締め、はばたきはベルトでかれんの身体を自分に固定させると、彼女の腰に手を回し、バックステップで重心を整えながら離陸を果たした。逃してなるものか。空中で捕捉して、あの翼の少年ごとかれんを地の底に跳ばす。リューティガーは追撃のため空間に跳躍し、先回りを想定した五十メートル上空に出現した。だが、上昇の最中であるはずの、翼の少年と青い髪の少女は、その空中には存在せず、自由落下の支配が起きるのと同時に、リューティガーは再び跳躍し、木の根道の広がる大地に出現した。晴れ渡る空を見上げると、大きく羽ばたく翼が彼方に小さく見えた。視線を下げると、双眼鏡を手にした兄が不敵な笑みを浮かべている。なるほど、取り寄せの応用か。自分のように対象に触れる必要がない兄の能力は、味方を離脱させるには実に適している。感心しつつ、弟は、兄を捕捉できる範囲内にある、最も大きくしっかりとした岩陰に跳躍した。旋風と共に出現したリューティガーの栗色の前髪が、通過する一条の何かによって散った。眼鏡のレンズにもヒビが入り、それを捨てながら、リューティガーは岩陰から跳躍した。これは狙撃だ。運良く狙いは逸れたが、出現位置を正確に予測した、実に高度な戦況判断による狙撃だ。あともう数センチ前方に出現していたら、自分の脳漿は岩をべっとりと濡らしていただろう。大木の枝の上に出現したリューティガーは、弾道から割り出した狙撃ポイントを遠透視した。
 岩陰から斜面を登った四百メートルほど離れた雪に覆われた茂みの中に、少女の姿があった。腹ばいになり、両手には狙撃銃を構え、濃緑色の防寒コートに身を包み、ベージュの低いキャスケットからは、黒髪が覗かせていた。あの初弾に続き、銃口の向きや角度を変え、射撃を続けている。おそらくは跳躍先を想定し、そこに予め銃弾を撃ち込んでいるのだろう。今のところこの樹上を狙う様子はないが、あの銃口がこちらを向くのは時間の問題だろう。かれんとの消耗戦で著しく疲労していたリューティガーは、あれほど正確無比な狙撃手に援護された兄と現在のコンディションで戦っても勝ち目がないと判断し、せめて遼たちの救助作業の安全を確保するべく、狙撃手をこの戦域から引き離すため、より遠方に跳んだ。

 あれは……蜷川……理佳だ!

 見間違うはずがない。かつてのクラスメイトであり、彼女の美しさはリューティガーも認識していた。外見や当時の雰囲気だけなら好みの部類に入る、落ち着いた静かな女性であり、それだけに機械的に狙撃を繰り返す彼女の姿は、わかってはいたものの衝撃を感じる。リューティガーは、理佳の潜む茂みより高所に位置する、雪の積もる府道に出現した。
「蜷川理佳! 僕はこっ……!」
 茂みの中の理佳がこちらを向こうとするのを遠透視したリューティガーは、叫び終える前に跳んだ。今度の出現場所も府道だったが、彼女の構えていた狙撃銃の有効射程からは僅かに離れている地点である。どうやら、狙撃ポイントを変えるらしい。腹ばいの姿勢から立ち上がる少女の姿を視覚に捉えていたリューティガーは、顎を引き、奥歯を噛みしめた。

 兄さんが、ああさせている。

 彼女の素性は同盟の調査と、現実の光景によってわかっている。八歳のころ、家族を獣人に食い殺され、絶望の底にいたところを兄に拾われ孤児院で育ち、一流の狙撃手としての訓練を受けた、FOTのエージェント。学校で見せたあの儚げな存在感は、狙撃手として適した人格のひとつだ。ようやく、そう解釈できるまでに至った。衝撃はもうない。臨機応変に、あらゆる戦局に即時対応するため、強固な自意識や精神的な芯というものは、かえって邪魔になる。敵の動きや風向きに素直に従い、ふらりと、そして迷いなく狙撃を完遂するのに、あの人格は向いている。それは、いつ身に付けたのだろうか。考えたところでわかりはしないが、維持する根拠に、兄の存在がきっと不可欠なはずだ。だから、あの洋上での宣言の際、彼女は兄の脇に付き従うように佇んでいたのだ。そして、何の疑問もなく、兄の目的を果たすため、風に身を任せるように、こちらに向けて抹殺の引き金を引いた。自己がない。いや、自己を捨てている。そんな兵士は脅威だ。かつて所属していた傭兵部隊にもあそこまで疑いのない兵士はいなかった。おそらく、命も惜しくはないのだろう。今でも次の瞬間、こちらが眼前に出現して、マグマの底に跳ばされても仕方がないと諦めてしまえるのだろう。そして、遼は必ずその結末に憤怒するだろう。嗟嘆に暮れるだろう。

 ふざけるな。

 そんな存在など、決して認めたくない。死を覚悟するのは構わない。勝手にすればいい。だが、機械の女などに殺されてたまるか。リューティガーは、この瞬間、初めて蜷河理佳に対して明確なる憎悪を抱いた。カーチス・ガイガーを殺された恨みもあるが、それ以上に自覚こそしていなかったが、彼は彼女にとてつもなく嫉妬していた。アルフリート・真錠が正式な形で真実の人であり続けていたなら、彼に付き従い、心を捨てて非情に徹するのはリューティガーの役割のはずだったし、そのために幼少期から過酷な訓練や実戦にも耐えてきた。間違った真実の人の元で、自身のポジションを完璧にこなしている蜷河理佳。同じ“異なる力”を有する良き友人として、心を交わしたいと願っている島守遼に、強い未練を残しているであろう蜷河理佳。己を捨てることで悪に徹し、美しい女であるということで男を翻弄する。いずれもリューティガーにはできない所行である。経験を経ても得られないものばかりである。だから、どうしようもないほど憎く、そして妬ましかった。今は陽動に徹するしかないが、いずれはこの手で決着をつける。跳躍の心構えをしながら、リューティガーは新たな決意を胸に抱いた。

 作戦開始から七時間後、午後十七時の段階で、「鞍馬一号作戦」は最終局面に移ろうとしていた。96式装輪装甲車とその護衛部隊は、第二の目的地である桟敷ケ岳方面の「想定エリア・S」での測定作業も無事完了し、最後となる天ケ岳の「想定エリア・A」の測定ポイントに到着していた。このエリアはF資本対策班によって、地域一帯の優勢権が確保されていた。対策班の主な戦力は機動兵装、通称「ドレス」を装着した神崎まりかと、CIAの捜査官、ハリエット・スペンサーのたった二人であり、日米のサイキが、FOTの陸戦部隊や殺人プロフェッショナルと交戦し、全くの損害を受けることなくこれを殲滅していた。予定よりも三十八分遅れてしまっていたが、この測定が終了すれば、「鞍馬一号作戦」は日本政府の勝利に終わる。所々鮮血に染められた雪原で、まりかはドレスの真っ黒なバイザーに映し出されたレーダー画像に注目し、アサルトライフルを持ったハリエットは、双眼鏡で周囲を警戒していた。
「スペンサー捜査官! 測定作業完了しました!」
 報告に来た若い自衛官に、ハリエットは空色の瞳を向けて頷き返した。彼女は96式の六メートル前方にいたまりかの元まで駆け寄ると、「鞍馬一号作戦は成功よ」と告げた。96式に搭載された地中レーダーによって測定された三つのデータは、全て通信で鞍馬小学校の本部に送信されている。各地で甚大な被害を出しつつも作戦は終了した。まりかは安堵したが、レーダーに反応があったため、咄嗟に上空を見上げた。空中から、何かが高速でこちらに向かって降下してくる。まりかは念動力によって、物理障壁であるPKバリアを展開したが、物体は背後の96式の上面装甲を貫通し、轟音を上げて爆発した。バリアによって、自身とすぐ傍にいたハリエットは無傷だったが、96式は煙を上げて大破し、カーゴルームに搭載されていた地中レーダーも完全に破壊されていた。まりかはハリエットを後方に下げ、左腕を上空に上げた。そこに装着されていた機関砲の先には、肩に抱えていた対地ミサイルの発射管を投げ捨てる、翼を広げたボマージャケット姿の少年の姿があった。
 機関砲が呻りを上げ、砲弾が連続して放たれた。はばたきは、それを軽やかな飛行で回避したが、通過した一発の砲弾が空中で軌道を変え、少年の肩を通過した。Paコーティングもされておらず、掠めることもなかったが、十五ミリ砲弾が通過する際に生じる衝撃波によって、はばたきの左肩に深い裂傷を負わせた。こんな場所では死ねない。生き延びてもう一度、あの可憐で溌剌とした主と再会してみせる。強固な意志で痛みに耐えたはばたきは、急降下し、杉林の合間に姿を隠し、低空を飛び去っていった。
「落としたの!?」
 背後からのハリエットの問いに、まりかは「ううん。逃げられた」と答えた。追撃という選択肢もあったが、この状況下で優先するべきは、破壊された96式の生存者の確認である。二人のサイキは意見を交わすことなく、火と煙を上げる装甲車に振り返った。

9.
 96式式装輪装甲車と、米軍から貸与された最新型の地中レーダーは失ったが、三つのポイントでの測定データは受信も済んでおり、はばたきの奇襲によって乗員と測定を担当する施設科隊員の命が全て失われたものの、共同部隊として、被害は許容できる範囲の内側にあった。日も沈み、時刻は十八時を回ろうとしていた。鞍馬小学校の司令本部では、指揮官である田中三等陸佐がデスクで部下からの報告を受けていた。あと三十分もすれば、全戦域での撤退は完了する。散発的に続いていた戦闘も全てが止み、強行測定小隊と陽動部隊に動員した九百名の参加者の損害も算出できつつある。いずれも概算だが、死者二百名、重軽傷者四百名が「鞍馬一号作戦」の被害者数である。九百名の動員に対して合計六百名の被害者だったので、損害率は約66.6パーセントとなる。昨年末の横田基地での損害は動員八百名に対して五百名だったため、62.6パーセントであり、数字だけ比較すれば、今回の方が損害の割合は大きい。しかし、一方的な防衛戦の末、実戦経験以外に得るものがなかった横田基地での戦いと比較して、「鞍馬一号作戦」では経験だけではなく、今後の勝利に繋がる可能性が得られた。地中の測定データは、既に東京の市ヶ谷に送信され、そこで分析が行われる。分析結果によっては、この封鎖地域一帯のどこにFOTの拠点が存在するかが判明するかもしれない。分析には最大で三週間が費やされるらしいが、その間、より大規模な作戦展開に備え、準備も着々と進められることになっている。
 田中三等陸佐は報告を終えた部下が去ったあと、一冊のファイルに目を通し、満足気に頷いた。書類には、ある工事の進捗状況が記されていた。現在、この鞍馬小学校の南西五百メートル地点に位置する民間の砕石工場を、対FOT特措法の適用により臨時の後方支援基地として運用しているが、そこから戦力を北部の戦場に移動させる際、道路の関係で一度は更に南下をし、遠回りをしてから北上するルートしかななく、迅速な戦力集結を困難にさせていた。しかしあと一週間もすれば、工兵部隊による仮設道路の建設が完了し、後方支援基地とこの本部には直通のルートが出来上がる。そうなれば支援基地の戦力は展開速度が増すだけではなく、直通路から枝分かれさせる形で小規模な拠点を設けることも可能となり、より有機的な部隊運用も期待できる。絶大な戦果を挙げたPa弾の生産ラインも今後の拡張が決定されており、より多くの部隊に行き渡るようになる。FOTの拠点位置が判明し、これまで以上に大規模かつ、充実した装備の戦力が速やかに投入できるとなれば、いよいよ決戦に持ち込めるだろう。
 田中は、“鞍馬事変”当時こそ戦いそのものに疑問を抱いていたが、獣人王エレアザールという圧倒的な暴力と直面し、三ヶ月にも亘ってこの雪山で攻防を繰り広げてきた現在では、FOTを暴力で同胞を蹂躙するテロリストと断じ、最優先で排除するべき敵であるとの結論に至っていた。四日後には、最高司令官として、東京から雅戸(まさど)一等陸佐もこの作戦司令本部に着任する。決戦に備え、彼は新兵器を帯同するらしい。二日前、機密回線で雅戸はこう言っていた。「もう、F対や同盟に頼らなくても決戦に望める。我々だけで、全ての遂行が可能になる」と。「F対や同盟に頼る」とは、この場合「彼らの“異なる力”に頼る」ということを意味しているのだろう。さて、雅戸の持ち込む新兵器とは、果たして如何なるものなのだろうか。田中は鼻を鳴らし、不敵な笑みを浮かべてブラックコーヒーの注がれたカップを手にした。

 午後十八時三十三分、鞍馬小学校の校庭に、リューティガーたち賢人同盟部隊が帰投した。誰もが疲労の極みにあったが、大きなケガもなく、重要な任務をじゅうぶんに果たしての凱旋であった。テントの中から、岩倉に向けて親指を立てる自衛官の姿があった。包帯で左腕を吊っていたある機動隊員は、すれ違い様に高川の背中を軽く叩き、「ご苦労様」と声を掛けてきた。ここに五体満足で帰ってこられた者は半数にも満たず、被害は絶大だったが、無事に生還した者たちは作戦が成功した報せを受け、高い士気を保っていた。そして、失った仲間を悲しむ者の姿もあった。遼はテントの中で、遺品を胸に啜り泣く青年の背中を目の当たりにした。無傷でありながら、すっかり生気もなく、呆然と座り込む中年男性の目を、リューティガーは一瞥した。彼らは次の戦いでの復讐を誓うのだろうか。それともすっかり疲れ果て、戦いそのものから離脱してしまうのだろうか。並んで歩きながら、遼とリューティガーは視線を合わせ、同時に重苦しいため息を漏らした。
 少年たちは、「賢人同盟部隊」と記されたテントに戻ってきた。遼はパイプイスに腰掛け、岩倉は地面に胡座をかいて銃器の整備をはじめ、高川は着用していた迷彩コートを脱ぎ、リューティガーは机上のポットの蓋を開けると、戸棚から粉末コーヒーの瓶を取り出した。
「いささか抵抗はあったが、さすがは戦うために作られた装備ということか」
 高川の独り言に、岩倉が笑みを浮かべ、「学生服や胴着だと、寒いし耐久性も高くないからね」と返事をした。
「うむ。コートを脱げば、格闘戦もじゅうぶんにこなせる。次からもこれを着させてもらおう」
 岩倉から軍用装備の着用を提案されたのは、三日前の下校の際だった。これまでは学生服で偵察任務に挑んでいた高川だったが、激しい戦いによって汚れと破損がひどくなり、なによりも真冬の雪山では防寒も心許なかったため、かねてから装備については懸案事項のひとつとなっていた。あくまでも武道家を自認していたため、軍用装備には抵抗もあったが、激しさの増す戦いの中で、己の戦力を最大限に発揮し戦果を挙げるためにも、岩倉の提案を受け入れるしかなかった。
「島守、貴様もガンちゃんにお願いしたらどうだ? それではまるで、スキーに来た旅行客だぞ」
 遼は自分の着ていた白いスキーウエェアを見下ろし、「これだってすげぇ暖かいんだぜ。ブーツだって登山用だし」と言い返した。
 ポットを熱する固形燃料に火をつけたリューティガーは、パイプイスに腰を下ろし、がっくりとうなだれた。
「どうした? ルディ」
 心配した遼の言葉に、リューティガーは首を振り、栗色の髪が揺れた。
「柳かれんを味方に引き入れなかったのは、僕の判断ミスだった。あらためて、それを思い知ったよ」
 かれんがFOTの一員として、あの戦場で多大な戦果を挙げた事実を遼から知らされていた高川と岩倉は、共に学校の駐輪場で遭遇した、厚めの化粧をした胸の大きい小柄な少女を思い出し、表情を曇らせた。リューティガーは机を拳で叩き、悔しさを顕わにした。
「まさか、あれほどまでに戦える、殺せる奴だとは思っていなかった。地裁の件でもまだまだ素人だと思っていたのに、一体この二日間で、奴になにがあったっていうんだ」
 自衛隊の容赦のない暴力が、我犬の死が、水谷一等陸士による不意の拘束によって蘇った六年前の悪夢が、かれんを開き直らせ、戦士としての覚醒を促進させたあの状況を、リューティガーたちは知らなかった。だが、なにかのきっかけで性根が据わり、あるいは狂気に取り憑かれ、戦いというものに順応してしまうことがあるという点については、このテントにいる誰もが理解していた。リューティガーの疑問に明確な答えを出せる者はいなかったが、柳かれんが彼と互角の戦いを繰り広げたという結果については、一様に受け入れるしかなかった。
「あの電磁防護幕は、実に厄介だ。兄さんの、数少ない弱点を埋め合わせる防壁にもなり得る。僕は億劫がって、彼女の存在を軽視するべきではなかったんだ。飼い殺しにするという選択肢もあったというのに」
 言葉からは悔しさが滲んでいたが、分析の内容は的確だったため、遼はリューティガーの言葉を遮るべきではないと考え、フォローや励ましは後回しにするべきだと判断し、高川や岩倉に小さく頷き目配せした。
「あの、雷撃使いの女の子の話ね」
 そう告げながら、テントに入ってきたのは迷彩ポンチョ姿のまりかだった。高川は背筋を伸ばして気を付けの姿勢になり、岩倉は笑顔で「お疲れ様です!」と声をかけ、遼は軽く会釈をし、リューティガーは座ったまま、じっと彼女を見上げた。
「そうだ。柳かれん。僕たちが第一次接触をしたサイキだ。前橋地裁で忠犬隊を援護し、今回の作戦でも雷撃で我々に多大なる損害を与えた」
 リューティガーの冷静な報告に、まりかは重々しく頷き返した。
「ルディがその子の件について、一番詳しいってことなのね?」
「ああ。後で正式な報告書としてまとめて、おたくらのボスに提出する。それでいいかな?」
「ええ」
 まりかは、想定していたよりもずっとスムーズに用事が済んだことに喜び、リューティガーに背を向けてテントを後にしようとした。
「柳かれんは、金本あきらのシンパだ」
 背中からぶつけられてきた言葉に、まりかの足は止まった。
「報告書にも記すが、あなたには前もって伝えておく。柳かれんは、親類から金本あきらの武勇伝を教えられ、崇拝者となった。柳がどういった解釈をしたのかまではわからない。当初はFOTと戦うと息巻いていたのに、気がつけば敵になった。わけが……」
 “わからない”リューティガーがそう続けようとしたのを遮るように、まりかは背中を向けたまま「わかるわ」と続けた。リューティガーは紺色の瞳に興味の色を浮かべ、顎を引いた。テントの中で、ランプの灯りが揺れ、影が大きく動いた。高川と岩倉は、リューティガーとまりかの間に漂う緊張した空気が不可解だったため、息を呑んだ。“金本あきら”の存在を一応は知っていた遼は、なによりもリューティガーがまりかと冷静なやりとりを続け、“あなた”とまで呼んでいる現実が嬉しかった。
「あきらさんなら……今、あきらさんがいたなら……そういった選択肢を選ぶ可能性もあるってこと」
 まりかにはわかっていた。あの人は、自分とは違う。金本あきらにとって、ファクト機関との戦いのきっかけは復讐であり、最初の関わり方しだいでは、反社会的な勢力に組みする可能性があったことを、よくわかっていた。
「僕は、僕たちは、柳かれんをFOTのいちメンバーとみなし、今後も対応する」
 念を押すようなリューティガーの宣言だった。その言葉が意味することを、わからない者は一人としていない。まりかは少年たちに横顔を向けた。それは険しく、美しい横顔だった。
「当然ね。わたしも同じよ」
 立場が違えば、状況が異なるのならば、自分は仲間にもなるし、殺し合う敵同士にもなる。まりかは目に憂いの色を浮かべると、テントを後にした。
 照明で照らされた校庭を進みながら、まりかは足取りが重くなっていくのを自覚していた。薬で無理矢理抑えていたあの頭痛が、再び鎌首をもたげてきた。蠢くたびに、ぎりぎりと頭全体を締め付けていくこの蛇は、強すぎる力の代償なのだろうか。あの二人が生きていて、戦いに身を投じていたら、やはり自分と同じような苦しみに苛まれるのだろうか。「どうなのかしら。信長くん」もう一人の仲間だった者の名を呟いたまりかは、全身のバランスを大きく崩した。倒れようとする彼女は、肩を引き上げられ、耳元でブロンドが揺れたのが目に入り、苦悶の中で小さく微笑んだ。
「ごめん、ハリエット」
「休みましょう、まりか。今日は、もうそうしていいはずだから」
 相棒の言葉に頷き返したまりかは、肩を預けたまま駐車場のトレーラーに向かってゆっくりと歩き始めた。その様子を、見送るためにテントの入口まで出てきていた遼と岩倉は見つめていた。
「はるみちゃんのお姉さん、疲れてるのかな?」
 岩倉の疑問に、遼は即答できなかった。今回の作戦でも合流することがないため、戦場での彼女を見ることはなかったが、まりかは動員された全員の中でも最も戦果を挙げているはずであり、その運動量と消耗された精神力は計り知れないだろう。それならば、ふらりとよろめいてしまうのもわからなくはない。だが、本当はどうなのだろうか。足がもつれて、転倒しそうにも見えた。妹は、姉のこのような姿を知っているのだろうか。言葉にできない不安に、遼は寒気を覚えていた。テントの中に戻った遼は、パイプ椅子に座ってこちらを見つめていたリューティガーの眼光から、ただならぬ強い意志を感じたため、心を構えた。
「なんだ? 真錠」
「遼、君に言っておきたいことがある。高川くんとガンちゃんも聞いておいてください」
 岩倉は遼の傍らで立ち止まり、リューティガーの背後にいた高川も話を聞くため遼の隣まで進んだ。
「僕は今日、柳かれんを取り逃してしまった。戦場に現れた、ある二人の援護があったからだ」
 細かな戦況であれば、後でリポートを読めばいい。高川は、なぜリューティガーがわざわざこんなことを言い出したのかわからず、太い顎に手を当て、鼻を鳴らした。遼は、強い意志を向け続けているリューティガーに、ある小さな違和感を覚え、それが何であるのか気付き、言葉にした。
「ルディ、お前、眼鏡はどうしたんだ?」
「狙撃によって破壊された」
 その即答に、遼の鼓動は高鳴り、それに反して胸の回りに冷たい何かが拡がった。
「もちろん、狙撃手の狙いは眼鏡じゃない。柳の救援に現れた兄、真実の人(トゥルーマン)の援護をするため、僕を殺害するための狙撃だった」
「危なかったんだね」
 岩倉は心配そうに呟き、歩み寄ろうとした。それを左手で制したリューティガーは、遼を睨み上げた。
「狙撃手は、蜷河理佳だった」
 その名を既に予想していた遼は、その場に腰を下ろし、あぐらをかいてリューティガーを見上げた。
「ガイガー先輩に続き、僕も彼女の銃弾に命を落としていたかもしれなかった。威嚇や、相手もわからぬままの援護ではない。あれは、そこに僕が出現すると予測した上で、抹殺するための狙撃だった」
 遼はリューティガーから目を外さず、その言葉に疑いも抱かなかった。
「さっき、神崎捜査官にも告げたように、相手が何者であろうと僕たちの対応は変わらない。蜷河理佳もFOTのいちメンバーであることを、僕は敢えて、いま、ここで宣言しておきたい」
 その言葉に、岩倉は視線を地面に落とした。高川は小さく、「うむ」とだけ返答した。遼は、ランプの灯りに揺れる紺色の瞳から、一瞬たりとも目を離さず、じっと無言のままだった。

 硬い床で目を覚ましたかれんは、上体をのっそりと起こし、すぐ後ろの壁にもたもたと背中をつけた。どうやら、気を失っていたらしい。最後に思い出せるのは、はばたきの「ここで休むんだ。僕は再出撃する」という言葉だ。どこも大した痛みはない。ただ、ひどく疲れ果てている。どうやら「ここで休む」だけでは足りないらしい。治療を受けるなり、ベッドで休むなり、とにかくこの硬い床のままでは、これ以上の回復は見込めない。かれんは周囲を見渡した。薄暗く、コンクリートが剥き出しになったこの壁、天井、そして床。どうやら、ここは廊下のようだ。見覚えがある。鞍馬ベースだ。リューティガーに殺されかけ、真実の人に助けられ、はばたきに連れて行ってもらい、空から逃げ延びた先がここだ。意識が鮮明になるにつれ、記憶もはっきりとしてきた。我犬を失った。自由を奪われ、恐ろしくなり、蝉の音が降り注ぎ、手当たり次第、消し炭にしてやった。肉の焼ける臭いが、まだ嗅覚に残っている。

 あー、吐く。ゲロる。

 廊下で嘔吐することもできなかったため、かれんは僅かに回復した体力を振り絞り、立ち上がって廊下を進んだ。途中、トイレがあったので取りあえず洗面所に頭を突っ込んだが、いくら喉を震わせても指を突っ込んでも、胃からは何も逆流してこなかった。どうやら、もう吐き戻すものも残っていないらしい。仕方がなく、かれんは頭を上げた。

 誰だ、こいつ?

 鏡に映った、化粧のくずれた泥だらけのひどい顔の女がいる。髑髏のネックレスを提げ、赤く派手なコートを纏い、びちびちのボンテージで縛り付けた女がいる。青く染めた髪はごわごわとして、誰のものかわからない。

 そう、誰だかわからない。得体の知れぬ、この鏡の女は何者だ。かれんは恐ろしくなってしまった。すると、鏡の中のそいつも恐怖に顔面を引き攣らせた。

 けど、こいつは、わたしじゃねー。

 なら、誰だ。それより、自分はどこだ? どこまでも恐ろしくなり、かれんはまずコートを脱いだ。そしてネックレスを引きちぎった。白いマフラーも床に投げ捨てた。寝よう。とにかく寝てしまおう。そう思い、トイレからフラフラと廊下まで出てきた少女は、乏しい記憶を頼りにして、自分にあてがわれた部屋に向かって廊下を進んだ。途中、外人や、獣の頭をした者や、迷彩服ともすれ違った。他人の様子に気を向けている余裕はなかったが、誰もこちらに声もかけてこないところからすると、どうやら戦いはまだ続いているのだろうか。それともとっくに終わって後片付けに追われているのだろうか。かれんは進んだ。両手を壁に貼り付け、頼りない足取りで、コンクリートの廊下をずるずると。ところが、足先に何者かが触れたので、かれんは足を止めてしまった。どうやら、誰かが進路上に座り込んでいるようである。避けて通ろうと思ったが、それが壁に背中をつけ、つまりはつい先ほどまでの自分と同様に疲れ切ってへたり込んでしまっていたので、避けるのにはいったん壁から手を離して反対側の壁まで辿り着かなければならず、それも何やら億劫であり、なによりも眼下に見えた、きらきらとした黒髪に見覚えがあったため、かれんは何もかもが面倒になってしまい、自分も腰を落として並んで座り込むことにした。
「かれん、よ、よかった……無事だったのね」
 かれんの隣で壁に背中をべったりと着けた迷彩服姿の少女は、荒れた呼吸を整えながら、声をかけてきた。汗に濡れた白い肌が、自分と同じように泥だらけに汚れている。かれんは辛そうな笑みを向けてきた理佳に、顔を顰めた。
「無事ではない」
「け、けど……生きてる」
「疲れた……」
「わたしもだよ」
 噛み合わない言葉をすり合わせながら、へたり込む二人の少女は、並んで天井を仰ぎ、ぜぇぜぇと息を乱れさせた。
「理佳は……どうして……そんなに疲れている?」
「午後の出撃から……終わりまで……連戦だったから。医務室に行く途中だったけど、少しだけ休んでいこうと思って」
 脱出の際、理佳が援護をしてくれたことについては、はばたきから聞いていた。かれんは、今日この生存がファーガソンや我犬をはじめ、様々な人たちの判断や犠牲、行動によって成り立っている事実をあらためて認識し、悔しさで壁を叩き、理佳を横目で見た。
「理佳は殺したのか? 敵を」
「ええ……」
 天井を仰いだまま、理佳は静かに返事をした。かれんは再び天井に視線を上げ、小刻みに全身を震わせた。
「わたしは……ウソつきになってしまった」
 かれんは頭を下げ、膝を抱え込んだ。
「皆殺しにするしかなかった。でないと殺されてた」
 悔しそうに漏らすかれんの隣で、理佳は同じように膝を抱え込んだ。
「まだ、続ける?」
 短い理佳の問いに、かれんは驚いて顔を上げ、その横顔を見つめた。続けなくてもいい、そんな選択肢はなかった。ここでやめてしまう。どうなるのかはわからない。ただ、こんな惨めな気分にはなりたくないから、やめてしまうのも確かに手だ。
「理佳は、続けるのか?」
「ええ」
「なぜ?」
「わたしは……負けたくないから。小さいころ、負けちゃったの。けど、もう二度とあんなのは嫌だ。わたしは勝つために続ける。欲しい勝利だから、そのためには、人の命も奪う」
 なんとなくだが、わかる。自分にとっての勝ちは、憧れのあの人になることだ。あの人もこんな惨めで辛い思いを経てきたのだろうか。かれんは両手を床にべったりと着け、ぶるっと小さく痙攣した。理佳の言葉が、少女から逃げ場を奪っていた。
「もっと、もっと、すげぇ伝説継承になるんだったよぅ! けど、今は辛くて仕方がねぇよぅ!」
 口をすっかり歪ませ、大きな目からはボロボロと涙を流し、ひっくひっくとくしゃくしゃに泣きながら、かれんは青い空を飛ぶ忠犬を想った。木の根のうねる大地で黒こげになった屍を思った。
 隣で震える肩に、理佳はそっと手を伸ばすと、静かに抱き寄せ、青い髪を優しく撫でた。かれんはすっかり小さくなり、慰めに心と身体を預けた。
 今日、わたしは負けた。大切な命を失い、誓いも違えた。なにが「FOTを人気者にする」だ。敵は、ただ押し寄せる暴力だ。甘い認識に浮かれ、雷撃の力を過信し、それ以前に自分というものがちっとも屈強ではなかった。しょうもない負けだ。今、こうして抱いてくれるこの子は、どんな負けだったのだろう。たぶん、ひどい目に遭ったんだと思う。だから、こんなに優しくしてくれる。よかった。ここにわたしと同じ子がいる。かれんは理佳に甘え、その慈しみと情けを求め、彼女の身体になにもかも預けた。
「続ける……!」
 泣きながら、少女はそうつぶやいた。
「わたしも、もう負けたくないから。敵は、殺す」
 伝説継承は、もう止めだ。憧れはなくならないけど、話でしか聞いたことのない、会ったことも見たこともない人より、今ここにいる仲間たちから学ぶべきだ。でなければ、また負ける。「ありがとう、理佳」消え入りそうな声で、かれんは感謝を言葉にした。理佳は、ちいさなかれんをより強い力で抱きしめた。
「中丸隊長」
 戦いを終え、鞍馬ベースに帰還したはばたきは、廊下の角に佇む大柄な彼女の後ろ姿に声をかけた。中丸は顔だけ横を向くと、目ではばたきを促した。意を汲んだはばたきは、中丸のすぐ近くまで歩み寄り、角から廊下の先に視線を向けた。
 壁を背にして座り込む黒髪の少女が、縋る様に泣きじゃくる青い髪の少女を抱きしめていた。あれは、なんだろう。わからない。たぶん、悪いことじゃないとは思う。人が人に優しくしている。何かを許しているようにも見える。僕には経験がないから、何が起きているのかわからない。けど、中丸隊長はあれを見ろと促した。きっと、意味のある出来事なんだろう。そう、たぶん、悪い出来事じゃない。ドラマとかだと感動する場面のようにも思える。涙もろいこの人は、感激しているのかも。はばたきは傍らの中丸を見上げた。だが、彼女は眉間に皺を寄せ、厳しい目で二人の少女を見つめていた。その険しさが理解できないはばたきは、回答を言葉に求めた。
「中丸隊長?」
「恐いね。あれは」
「恐い?」
「私にゃ、あんな真似はできない。しちゃいけないと、叩き込まれている」
「ど、どういうことなんですか?」
「負けちまった新兵に、あそこまでべったりとした慈しみや癒しはいらない。結局、てめぇで立ち直るしかない。依存は薬みたいなものさね。そんなのじゃ、いつまでたっても強い兵にはなれない」
 中丸は静かに、そして力強くそう告げた。
「もちろん、あいつらは兵隊じゃない。我々も軍隊ではない」
 だから、自分の主義と異なる光景であっても介入することなく、あのやりとりを放置しているのだろう。はばたきは、そう理解した。
「でも……戦争をしてるんですよね。少なくともこの鞍馬で、僕たちは」
 はばたきの言葉に、中丸は表情を柔らかくした。
「そうだよ。少なくとも、今はね」
 中丸は、はばたきの背中を軽く小突くと、その場から立ち去ることにした。はばたきもそれに続いた。
 僕は、あの方に、あのような出来事を求めてはいない。元気と笑顔と、尊さと従属でこの戦いを駆け抜けていきたい。だから、あんなやりとりを起こさないためにも、負けは許されない。中丸の後に続きながら、はばたきは手当の済んでいる肩の傷を押さえ、目に強い輝きを宿した。

10.
 黒く穏やかなそこは、生身の人類の活動域を超えた世界だった。だが、彼女はそこに、確かに在った。赤く長い髪を優雅になびかせ、つり上がった目で岩肌を観察し、凹凸に乏しい少女の身体には一糸も纏わず、この黒い世界にあって、生者としてはあり得ない溌剌とした存在だった。流れが、少女の背中を優しく撫でた。驚いて振り返ると、彼女の視線の先で、銀色の魚群が進路を一斉に変えていた。あれはなんという魚なんだろう。触れて、その形を覚えてみたい衝動に駆られた少女だったが、役目を遂げるため、彼女は正面に向き直った。夕日の届かぬ深く青暗い闇の中にあって、物の形を捉えられるだけの視力は確保されている。さて、“アレ”はどこだろう。春坊の指示が正しければ、確かこの先の洞窟に収まっているはずだ。少女は、左の手首に巻いていた腕時計大の端末の盤面に、細い人差し指を当ててみた。盤面は液晶画面になっていて、そこには「PROTOTYPE GOMORRAH」と表示されており、その下部にはワイヤーフレームの球体と、点滅する矢のグラフィックが記されていた。少女は、矢の方向に身体を向けた。

 あっちね。

 端末の表示に従い、少女は闇の中をゆっくりと進んだ。両手は空間をかき分けるように、内から外へと繰り返し弧を描き、腰から下は大きく左右にうねり、推進力を生み出していた。
 やはり、失敗だった。少女は、思ったよりも速力が出てくれない主たる原因である下半身に視線を向け、ため息を漏らし、それはあぶくとなって彼女の口先から上方へ消えていった。少女の腰から下は、その大きさに見合った魚類そのものであり、鱗で覆われ、先には大きなヒレが生えていた。海中の任務だから選んだ姿である。以前に一度、リビングのテレビで観た、人魚姫という映画のキャラクターだ。はばたきは給仕をしながら、ブラウン管の中で海中を自在に泳ぐ女性の姿に驚き、こちらがそれを気にすると慌ててカウンターキッチンの中に戻ってしまう狼狽えぶりで、からかい半分に「この形、やってみようかしら?」などと聞こえるようにつぶやいたら、コップの割れる愉快な音がソファの背後から聞こえた。しかし、これは失敗だ。下半身だけ魚になったところで、動かし方がわかるはずもなく、見よう見まねでやっているだけでしかない。とは言え、今更人間のそれに戻したところで早く泳げるはずもなく、ライフェ・カウンテットはしかめっ面で、深い海の中を進むしかなかった。
 旧ファクトのオーバーテクノロジーの一つに、質量さえ同一であれば、如何なる姿にも形態を変化させられる不定形改造生体があった。神崎まりかたちもかつて戦ったこれらの生き残りが、ライフェである。僕(しもべ)であり、鞍馬ベースで空の守りに就いているはばたきとは、別の任務を与えられていた彼女は、“鞍馬一号作戦”から四日が経った二月三日のこの日、ある重要な作戦の下準備のため、人の在らざる闇の中に在った。
 十五分ほど進むと、手首の端末に表示されていた矢の点滅が急に早くなった。ライフェは泳ぎを止め、目を凝らした。岩肌に、黒く大きな凹みが窺える。あれが海底洞窟か。端末で座標を確認したライフェは、さらにそれを操作した。さて、どうなる。緊張して操作の結果を待っていると、洞窟の入口から“アレ”が姿を現し、それはゆっくりとこちらに近づいてきた。直径二メートル、高さ五十センチほどの、銀色をした円盤形の物体の登場に、ライフェは口の両端をつり上がらせて、端末を操作しながら再び泳ぎ始めた。円盤形は彼女に付き従うように追随し、海獣の親子のように、人魚と銀色の円盤は、海面を目指して進んだ。

 千葉県外房、最東端の犬吠埼から南東およそ十キロメートル離れた海上に、一隻のプレジャーボートが停泊していた。薄く曇った空は、海面との境界があかね色に染まり、あと少しで日没という時刻である。夕日を浴びた白いクルーザーの船尾部には、ハンチング帽を被り、細い眼をより鋭くした仙波春樹が海面をじっと見つめていた。
「春坊! 反応ありだ!」
 ボートの操縦席から響いた声に、仙波春樹は「わかった!」と返事をし、ワイヤーロープを手にした。すると、穏やかだった海面にあぶくがいくつも弾け、銀色の円盤がぼんやりと浮かび上がってきた。全体の半分ほどが浮上したのを見計らうと、青年は手にしていたワイヤーロープを円盤目がけて放った。先端のフックが、円盤の端にあったリングに引っかかり、器用な手つきでロープをしならせた仙波春樹は、カチャリという金属音と、確かな手応えから、ボートと円盤がワイヤーで繋がれたことを認識し、左手で小さくガッツポーズを作った。ロープのもう片方は、船底部の留め具に取り付けられているため、ボートと円盤との繋がりは、海中からしか確認ができない状態になっていた。あとは、彼の操船技術の見せ所だ。仙波春樹は背後の操縦席をちらりと見た。
「器用なものね、春坊」
 海面からの声に、“春坊”は振り返って笑顔を向けた。円盤の傍らに、赤毛を濡らしたライフェが、肩口まで姿を現していた。
「そりゃ、夢の長助仕込みだからね。フックぐらいはちょちょいって、お手のもんだよっ。それよりご苦労様。大成功じゃないか」
 労いの言葉を船上からかけられたライフェは、すまし顔で円盤に寄り添った。
「まぁけど、驚いてもいるのよ。よく計画通り、あのポイントに“この子”が潜んでいたものだなって」
 円盤をすっかりペット扱いしたライフェは、銀色の表面を軽く撫でた。
「里原は真実の人に、オートパイロットは絶対確実って豪語してたらしいぞ」
 操縦席から船尾デッキまでやってきたジョーディー・フォアマンは、傍らの仙波春樹と洋上のライフェに、よく通る声でそう告げた。
「よし、次のフェイズに移るぞ。こいつを曳航して、ポイントDでトラックに載せ替える」
 ジョーディーの指示に、仙波春樹とライフェは頷き返した。
 ペットの大型犬にそうする様に、ライフェが寄り添う直径二メートルの銀色の円盤は、昨年十一月六日、真実の人の独立要求の際、三浦半島沖に現れた反重力推進システムを搭載した自由侵入ユニット、ゴモラのプロトタイプであった。横須賀への入港のため、三浦半島沖を航行中だった米国海軍の原子力空母ニミッツの上空に、デモンストレーションとして現れたプロトタイプゴモラは、ニミッツの艦載機であるF−18戦闘機のキャノピーに落下し、甲板に転がり落ちた。そののち、このオーバーテクノロジーの塊は甲板から洋上に滑落し、太平洋上に水没したのだが、大小様々な転落防止措置が施されている軍用空母の甲板を、たかがローソファーほどの大きさしかないゴモラがこぼれ落ちるはずもなく、それは明らかに海中へ逃れるための離脱行動だった。事件後、ニミッツを中心とした米国海軍と海上自衛隊、そして海上保安庁が共同で敵の新兵器の捜索に当たったが、三ヶ月近くが経過した現在も発見どころか手がかりを掴むことすらできないままだった。プロトタイプゴモラは、予めプログラムされた離脱航路を高速に正確に潜行し、三浦半島沖の水没地点から、直線距離にして遙か百三十キロメートルも離れた目的地である海底深くの洞窟に到着し、機能を一時的に停止した。ライフェの操作した端末により、稼働を再開したファクトの遺産は、再びFOTの手によって回収された。出港時にも、この目立たない平凡なプレジャーボートは特にマークされず、洋上を監視する敵対勢力の目もすり抜け、ここまでは計画通りに事は運んでいる。だが、ゴールにはまだ遠かった。この先、長い道のりを経て、作戦は完了する。まずはこの小さな切り札を、一時保管場所まで無事に送り届けなければならない。
 ジョーディーは操縦席に戻り、仙波春樹は笑みを消し、周辺への警戒をするため双眼鏡と通信用のヘッドセットを拾い上げ、ライフェは勢いよく海中に潜り、手首の端末を操作した。再びあぶくを上げ、銀色の円盤は海中に没した。これで、ジョーディーが操船をミスしない限り、プロトタイプゴモラは誰からの目にも見えない。すれ違う船があっても不審船として通報される恐れもない。唯一の不安要素はダイバーだが、それについても海中の監視は完璧にやってみせる。ライフェはプロトゴモラの更に下まで泳ぎ、手首の端末を操作し、盤面にボートのレーダーとリンクされた索敵情報を表示させた。今日は、この任務のため学校を休んだ。『島守先輩しくじる。平田先輩、激怒。』演劇部では稽古があり、友人である春里繭花(はるさと まゆか)からのメールには、そう簡潔に記されていた。あの大根役者が叱られる様子が目に浮かぶが、最近では面白可笑しくもない光景だ。なぜなら島守遼は、あの心の澄んだ、忠誠を誓ってくれる最も大切な彼を、いつ抹殺するかわからない存在だからだ。最近では、鞍馬ベースの実戦部隊の中でも、奴は「結びの目」などとあだ名され、恐れられているらしい。それはそうだろう、見ただけで、急所を破壊できる能力者など、内外の形態を変えられない普通の者にとっては、死に神も同然だ。命令があれば、いつでもあの男を亡き者にしてやる。しかし、今はこの子を目的地まで移送する任務が最優先だ。人魚の姿も段々と慣れてきた。ライフェは銀色の“この子”と並んで泳ぎながら、“プロトタイプゴモラ”では長すぎて呼びづらい、なにかよい名称はないものだろうかと、そんなことを考えていた。

11.
 その日の夜、鞍馬に駐屯する共同部隊の作戦司令本部に、陸上自衛隊、雅戸清三(まさど せいぞう)一等陸佐と五人の部下が到着した。雅戸は、先月まで第一普通科連隊の連隊長を務め、昨年暮れの横田基地での防衛戦でも総司令官として勝利に貢献した指揮官だったが、現在では連隊を統括する第一師団幕僚長に抜擢され、この鞍馬の戦いでも共同部隊の最高司令官として、任命されることになった。今年四十八歳になる雅戸は、激しく雪が降る鞍馬小学校の校庭を校舎に向かって進みながら、さて自分が小学校の敷地内に足を踏み入れたのは、一体いつ以来のことだったかと記憶を巡らせ、二秒でそれを止めた。今考えるべきは、そんなことではない。横田基地での戦いでは勝利こそしたものの、六割以上の損害を出してしまった自分に、より大きな権限が与えられたのは、未知のテクノロジーを擁するFOTとの戦いに対し、実戦経験者をより積極的に起用し、事態への対処を期待する陸上幕僚監部の判断によるものである。
 すれ違う自衛官は皆立ち止まり、長身で分厚い身体の高等武官に背筋を伸ばして敬礼した。雅戸の右頬には一条の切り傷があったが、これは任務によるものではなく、幼いころに兄弟喧嘩の末、弟に転ばされ鉄骨に衝突した未熟な事故の証である。彼はそれをひと撫ですると、丸いフレームの眼鏡をかけ直し、五人の部下を連れ、校舎の中に入っていった。
 司令本部が設けられている職員室に到着した雅戸は、全員からの敬礼に小さく頷いてから、自分も敬礼を返した。雅戸と比べ背も低く、身体も薄い田中三等陸佐が、奥に設置された執務机まで最高司令官を案内しようとした。だが、雅戸はそれを手で制し、「皆、私に気にせず続けてくれ。着任の挨拶は、明朝の朝礼で行う」と、自分の到着のため制止してしまった時を動かす、着任最初となる命令を下した。それと同時に緊張の糸は解け、司令室は別種の張り詰めた空気を帯び、自衛官や警察官たちはそれぞれの仕事を再開し、ざわつきが蘇った。雅戸は、そこでようやく執務机に向かって歩き始め、彼の後ろに五人の姿が続いた。任務を再開しつつもこの部屋にいた大半が、雅戸が連れてきたその五人に注目していた。五人は全員がバラクラバという、目と口だけが露出している暗灰色をしたケプラー繊維製の目だし帽をすっぽりと被り、同じ色をした野戦服を着用していた。装備は統一されていたが、シルエットはバラバラであり、二人は中肉中背、一人は肥満体型、一人はやせぎすで、最後の一人に至っては小柄で小学校高学年か、中学生にしか見えず、最初の二人を除けば、一等陸佐付けの陸上自衛官にはおよそ相応しくない印象を周囲に与えていた。着席した雅戸の背後に五人は整列し、手を後ろに組んだ。
「田中三佐、鞍馬一号作戦の測定データだが、市ヶ谷での分析は順調に進んでいる。結果しだいでは、予定の前倒しもあり得ると考えておいて欲しい」
 重く、かすれて、ノコギリのような声だ。雅戸の言葉に、デスクを挟んで相対した田中三等陸佐は目を鋭くし、「はっ」と答えた。田中は、雅戸と直接対面するのはこれが六度目であったが、過去の五度は公式行事の席であり、言葉を交わすのは機密回線以外では、これが初めてであった。雅戸の声は受話器より実際の方が聞き取り辛く、それは田中にとって珍しい体験でもあった。
「対策班のスタッフは、誰かいないか? 作戦判断ができる者を希望するが」
 司令室にいた野戦服姿の二人のサイキは、雅戸の要請に応じて彼の前までやってきた。
「捜査官の神崎です。責任者の森村は、エリアKの視察で不在です。私でよろしければ、ご用件を承りますが」
 雅戸は眼前のまりかを見上げ、視線をその隣にいるハリエットに移した。
「テロリスト、柳かれんの報告書は、移動中に目を通させてもらった。彼女の家族は公安が確保したそうだな?」
 報告書に記す以上、仕方のないことであったが、十六歳の少女に“テロリスト”という言葉を用いることに、雅戸もまりかも嫌悪感を抱いていた。
「はい、それが最善であるとの判断により、現在では当局の管理下にあります。後ほど、これも報告書として提出します」
 まりかの報告に、雅戸は深く頷き返した。まだ二十代半ばだと聞いているが、司令室において、最高司令官の前にして、この落ち着いた態度はさすがとしか言いようがない。外見からはまだ娘の初々しさが残されているが、彼女はこの共同部隊において最も多くの命を損耗させた最強の個人である。雅戸は、自分がひどく緊張していることを、膝が机の裏側に触れたことで察した。
 雅戸の強ばりを、まりかは気付くこともなかった。彼女は昨日夜にあった、尾方哲昭(おがた てつあき)捜査官からの電話連絡を思い出していた。前橋地裁で執行妨害をし、“鞍馬一号作戦”において二十一名もの自衛官を殺害したテロリスト、柳かれんの身元はリューティガーからの情報提供によってすぐに判明し、尾方は宮城県警の捜査官と共に、南三陸町の自宅を訪れ、かれんの両親の身柄を確保した。尾方の話によると、両親はかれんの家出に捜索願いを出し、前橋地裁の一件については事件を知っていたものの、娘の犯行であるという点には気付いておらず、容疑を告げられ錯乱しているとのことである。確かに、地裁の事件はテレビのニュースだと電磁波の影響によって映像も不鮮明であり、親でも判別はできないだろう。だから、その驚きと戸惑いは途方もないものであるはずだ。全く逆のケースではあったが、自分の両親も竹原班長の訪問の際、ひどく狼狽えていたことをよく覚えている。柳かれんの場合、FOTによる人質の可能性もあるため、身柄の確保という結果になったが、金本あきらに憧れているという当人がこの結果を知れば、どのような気持ちを抱くのだろう。まりかは視線を落とし、嘆息を漏らした。
「柳かれんへの対応は、これまで君たちF資本対策班……要するに神崎捜査官とスペンサー捜査官に一任することになっていたが、本日付けをもって、その優先順位を変更させてもらう。これがそれを証明する書類だ」
 言葉を崩すことで、雅戸は緊張を和らげた。まりかは雅戸が差し出したファイルを受け取り、それに目を通した。ハリエットも横から内容を確認し、姿勢を崩して腕を組むと、雅戸に険しい表情を向けた。
「陸自に優先権が移る? どうしてかしら? 柳はサイキなのだから、我々以上のプライオリティーはあり得ないはずだけど。むろん、遭遇戦などといった状況の場合、当該部隊が最優先で対応するのは当然だけど、これは納得しかねる命令書ね」
 ハリエットの怒気を含んだ抗議に、雅戸は眼鏡を外して視線をそらせた。
「私もスペンサー捜査官に同意します。書類には、陸自の特戦が撃破及び確保の最優先権を有するってありますけど……」
 まりかの言葉を、雅戸は鋭い眼光で制した。
「それは、内閣総理大臣からの命令書だ。内閣府に属する対策班への命令権もあるのだ。従えないのであるなら、然るべき手順を踏まえた上で、国原総理に抗議をしていただきたい」
 書類には、国原中道の自署捺印があった。もちろん、国原総理が独自の断でこの命令を発したわけではなく、防衛庁から上げられた書類を許可した結果である。まりかは少しだけうんざりとして、頑なな態度の最高指揮官に困った笑顔で首を傾げた。まさか、そんなリアクションがあるとは思っていなかった雅戸は、戸惑って咳を漏らし、気を取り直して鼻を鳴らした。
「対抗しうる手段を帯同してきたんだ。私の後ろにいる五人がそうだ」
 再び言葉を崩し、雅戸は背後の五人を一瞥した。ハリエットの傍らで成り行きを見守っていた田中は、息を呑んだ。あれが以前、雅戸が機密回線で言っていた、「もう、F対や同盟に頼らなくても決戦に望める。我々だけで、全ての遂行が可能になる」新兵器ということなのか。紹介された五人は、相変わらず瞬きと呼吸以外は特に目立った反応もなく、視線も正面に固定されたままだった。
「千葉の特戦から連れてきた五人だ。コードネームは“富士五景”。本日付けをもって、共同部隊に私の直属として参加することになった」
 雅戸は丸眼鏡をかけ、机上で指を組んだ。まりかとハリエットは、雅戸の背後に並ぶ五人を注意深く観察したが、彼らは誰も視線を合わそうとはせず、生気も薄く、彫像のように固まったままだった。
「左から、宝永(ほうえい)・白糸(しらいと)・雪代(ゆきしろ)・トリカブト・剣ヶ峰(けんがみね)だ」
 個別の名を紹介されても、中肉中背たちと、肥満に痩身、そして小柄な五人の目出し帽は、ぴくりとも動かず無言を貫いていた。
「あぁぁぁ! 神崎さん!」
 背中から突然浴びせられた歓喜の叫びに、まりかは身構えつつ振り返った。名前を呼んできたのは、鼠色のスーツを着た化粧気のない髪をまとめ上げた中年女性で、白いスニーカーが何かの記憶を刺激したが、第一印象でまりかは誰なのかわからなかった。司令室に現れた彼女に、富士五景たちは僅かに心を乱し、それは目線や体重の置き方、唇や顎の動きに現れた。その結果をハリエットは見逃さず、彼女はまりか同様振り返った。
「はい?」
 首を傾げたまりかの肩と腕を、中年女性は嬉しそうに掴んだ。
「松原冬子(まつばら ふゆこ)よ。あなたのサイキックを生体検査した。筑波中央大学の教授の。五年ぶりよねぇ! 喜ばしい再会ね!」
 今から五年前と言えば、大学生のころだったが、確かに日本政府によって二年間に亘り週に一度、“異なる力”を検査されていた時期に該当する。しかし、この人懐っこい笑顔で迫ってくる白いスニーカーの彼女が、そのスタッフの中にいただろうか。まりかは自然な所作で松原の手を解き、顎に指を当てて考えてみた。いたような、いないような。検査が開始された時期は、大学入学の時期とも重なり、二年間で幾人もの研究者と出会ったまりかにとって、松原は今ひとつ思い出せない一人だった。司令室には、ダンボールに梱包された荷物が自衛官によって次々と運び込まれ、松原は「荷解きは全部こちらでやりますから、あなたたちは置くだけでいいから」と指示を出すと、まりかに困った笑みを向けた。
「まぁ、そのうち思い出してくれればいいんだけど」
 松原はハリエットにも会釈をすると、デスクの松戸に深々と頭を下げた。
「彼女は松原教授。我々陸自が今後予定している超心理研究所の主任研究員を務めてもらう、サイキック研究の専門家だ。鞍馬での決戦に備え、富士五景のバックアップのため、本日付けで本司令部に民間協力者として参加していただくことになった」
 雅戸の言葉は簡潔だったが、そこに含まれる意味は膨大だった。日本政府がサイキックの研究をしているとは、まりかにとっても与り知らぬことであり、寝耳に水と言ってもいい。しかもこの松原という女性がその分野の専門家で、雅戸の背後に佇む五人のバックアップを務めるのなら、つまりこの五人こそが、柳かれんへの対応優先順位を総理大臣の権限まで用いて変更させるに至った根拠ということである。まりかの眼光は、即座に鋭いものへと変化した。さて、この五人の覆面は、いかなる“異なる力”を有しているのだろうか。見たところで判別などつくはずもなかったが、まりかは彼らから決して目を離さなかった。

 スキーウェアの島守遼は、深い杉林の中にいた。演劇部の稽古を終え、雪が降るこの鞍馬の偵察にやってきてから二時間が経過しようとしているが、自動射撃装置も含め、FOTとの遭遇もなく、当面の敵は、先ほどから勢いが全く衰えない、この豪雪だ。夜の偵察はこれで二度目であり、灯りもない闇の中を進むのもまだ慣れてはいなかったが、今回は更に風と雪が強く、前進するだけでも著しく体力と精神力を消耗してしまう。遼の右手には、モップ型の探知機が握られていた。左手首にはめた腕時計型のモニタには何の反応もなく、膝まで雪が積もった行き先を見た遼は、大きくため息を漏らした。ここまで雪が深いと、探知機を押しながらの移動は不可能であり、その場合は二メートルおきに探知機を地面まで刺し込み、モニタの反応を確認する手はずになっている。作戦開始から現在までの時点で、予定の半分も探索活動ができておらず、残り時間はあと二時間ほどだが、そろそろ司令本部まで引き返す判断をするか、最寄りの車輌に通信連絡をとって帰投手段を確保しなければ、豪雪の杉林で遭難などという、笑えない事態に陥ってしまうだろう。だが、遼はここから帰りたくはなかった。彼は探知機を畳んでそれをデイパックに収めると、吹雪の中を猛然と進み出した。
 この深い闇のどこかに、蜷河理佳がいるかもしれない。
 リューティガーは彼女をFOTのいちメンバーであり、然るべき対応をすると宣言した。その言葉に、一文字も誤りはない。彼の立場上、当然の判断だ。いや、立場だけではない。殺そうとする者を殺す。これは、極めて原始的に正しい理である。だからテントの中で、揺れるランプの灯りに照らされる中、一切の反論をしなかった。だが、同意もしていない。リューティガーや、他のみんなや自衛隊や、あるいは神崎まりかが同様の判断をしたとしても仕方がない。むしろ当然だと思っている。だが、自分だけは、たった一人だけであってもその決断は下さない。そのために、無傷で相手を確保する方法も習得した。今回の芝居では特に台詞覚えが悪いと、今日も平田先輩に叱られたが、それも時間が足りていないからだ。少しでも空いている時間があったら、今では身体を鍛えるように心がけている。いつ彼女と遭遇しても全力が出せるように、毎朝の走り込みや、バイト先でも勤務時間のあとマシンを借り、筋力の増強に努めている。時期を見計らって、高川に頼んで武術を学ぶことも考えている。殺さないため、岩倉から銃器の扱いを習う必要もあるだろう。蜷河理佳は殺さない。そして、彼女には誰も殺させない。リューティガーの宣言によって、遼の意志はより明確に固まろうとしていた。しかし、彼女を、もし無傷で取り戻せたとしても、その後はどうすればいいのか。幾人もの命を奪い、憎悪と怨念を背負った理佳は、刑法に当てはめれば死刑を免れない。そんな当たり前のことも遼にはわかっていたが、今は考えたくなかった。とにかく、殺される前に捕まえる。それが最優先だ。だから、この場から引き下がりたくはなく、深い雪を大股で踏みしめ、のろのろと頼りない前進であってもそれを続けるしかなかった。
「どうした島守。突出が過ぎるぞ!」
 低く掠れた声が、遼の鼓膜を震わせた。背後から強い力で手首を掴まれ、猛然とした前進を強制的に阻まれた遼は、振り返ることもなく呆然と立ち尽くした。
「ご、ごめんなさい……健太郎さん」
 いつの間にか、本日の同行者である彼の存在を忘れていた。戦場にあって最も危険な油断をしてしまった遼は、がっくりとうなだれ、口元をわなわなと歪ませた。手首を離した健太郎は、遼の前に回った。2メートルを超える痩せた体躯は、人ではあり得ぬ黝(あおぐろ)い肌をし、暗灰色のコートとチューリップ帽がそれをほとんど覆い隠してはいたが、白目のない赤い瞳と尖った耳は露出しており、健太郎の異相は賢人同盟部隊の中で際立っていた。だが、そんな彼に視線を向けることなく、遼は下手をすれば暗闇の雪山で仲間とはぐれ、独りぼっちで凍え死ぬ己を想像してしまい、このままでは、目論みなどとてもではないが実現できないと考え至り、絶望の底に叩き落とされてしまった。
「健太郎さん。健太郎……さん」
 名を呼んでいるが、それが現実的な意識の中から出た言葉ではないことを、健太郎は遼のうわずった声と、虚ろで焦点の定まらない目を見て判断した。吹雪に錯乱しているのか、あるいは戦場の緊張感に心が折れてしまったのだろうか。少年の心がどう彷徨っているのか、健太郎は考えあぐねていた。
「島守、しっかりしろ。そろそろ引き返す。ここが限界だ」
「三歳のころ……」
 何を言い出すのか、幼少期の話などしていい状況ではない。健太郎は遼の頬をいつでも張れるよう、殺傷能力を有する鋭利な指の爪を短く収納した。
「お袋が死んだんです。真錠に……親しい人を失ったことがないって言われて……それがすっげー悲しくって」
 健太郎は、更に遼を観察した。ビンタでは、正気は取り戻せないだろう。これは、そういった深さまで達している恐怖だ。自分もかつて経験がある。
「だけどわかんなくって……俺は、誰も恨めなくって……だからわかんなくって……長柄さんは、俺が……理佳は、そんな俺を……」
 恐怖が、全く無縁な負の記憶を、論理性の欠片もなく無理矢理ひとくくりにしようとしている。それを容認し、考えることを止めてしまっては、この少年は自分と同じになる。それは、あまりにも哀れだ。健太郎は跪き、遼の右の掌を自らの頬にたぐり寄せた。
「俺もだ。苦しんだ」
 健太郎の呟きに、遼は閉ざした何かが叩かれたような感覚を刺激され、瞳を震わせた。
「俺は朝美(あさみ)と朝太郎(ちょうたろう)、ミンミを失った。そして、恨むべき相手は自分自身だった。喩えではなく、具体的な加害者としてな。だが、俺は俺を生かしたままでいる。ひどい中に、俺はまだいる。遼、お前は間違ってない。だが、今この時点で、お前は正しくはない」
 普段であれば、何を言っているのか理解し難いタイミングと情報量である。にも関わらず、今の遼にはよくわかってしまった。そして掌に伝わる暖かく、かさかさとした感触に胸が詰まり、彼は手を引き戻した。
「け、健太郎さん……あなたは……」
 目の輝きが戻った。遼から正気を感じた健太郎は、彼の肩を力強く叩き、立ち上がった。
「戻るぞ、島守。それが今、最も正しい選択だ」
 その言葉に、遼ははっきりと頷き返し、端末を取り出して現在位置の確認をした。まずは生きなければ。油断どころではなく、少し気を抜くだけでも死に直結する。今、ここはそういった場所なのだ。遼は帰路を特定すると、愛する少女への想いはそのままに、生きるための後退を始めた。

12.
 本来なら、マンションの共同部分に該当するこの廊下にも晴天の陽が差す時間帯ではある。しかし、壁面の窓は全てパーティションで塞がれ、ガス灯は所々明滅し、この場所に時を感じさせる要素はどこにもない。全ては、外界からの目を一切遮断するためだった。中から外の様子を窺い知ることは、かろうじてだができるが、外からこの多摩川を見下ろす七階建てのマンション、“ラ・リヴィエール川崎”の内側を垣間見ることは困難である。そもそも誰も立ち寄る用事もなく、住宅地も途絶えた雑木林の先に建つ老朽化したマンションに飛び込む営業マンもおらず、仮にいたとしても、玄関や裏口の全てが封鎖されているため、エントランスへの侵入もままならない。全ての窓はカーテンで塞がれ、夜になってもその内側に電気が灯ることもなく、ベランダにも洗濯物は皆無である。多摩川からこのマンションを眺めれば、廃棄され、取り壊されるのを待っている無人の建物だと誰もが認識する。唯一、このビルの管理を担当している業者が週に一度、メンテナンスや補充品の配達を目的に訪れるのだが、その業者もビルの権利を有する「ケイケイコーポレーション」の子会社であり、彼らはある程度の“事情”に通じた内部の者たちだった。
 そんな、営みを全く感じさせない古ぼけた“ラ・リヴェール川崎”に興味を向ける者は、ごく少数である。義務として最低限の管理を担当する業者と、このマンションで息を潜めて静かに、ひっそりと暮らす者たちに用のある、たった二人だけしかいない。二人のうちの一人、月に一度、食料や医薬品などを配達に来る仙波春樹は、先月末に訪れたばかりであり、次の訪問は月末になっている。もう一人、ここに棲む旧ファクトの残党たちに“仕事”を依頼に来る、真実の人(トゥルーマン)は、昨年の真夏以来、もう半年近く姿を現していなかった。なぜなら、彼が一度に一つ以上の仕事を依頼することは稀であり、夏から始められたある仕事は、今なお継続中だったからである。その受注者である篠崎若木(しのざき わかぎ)は、マンションの最上階である七階の廊下を歩いていた。紺色のジャージはあちこちが破れ、上半身の大半が返り血でどす黒く変色していた。肩胛骨まで届いた黒い長髪はさらさらとしなやかで、手足もすらりと長く、整った顔は美少女の分類に含めても良いのだが、なによりも吊り上がった目には殺意の情念が宿り、見る者たちを威圧していた。廊下を進む十三歳の少女を、マンションの住人たちは扉の覗き窓からじっと観察していた。“ラ・リヴェール川崎”に居住が許されているのは、工作員・獣人・暗殺プロフェッショナルといった旧ファクトの残党であり、九年前には日本を騒乱と狂気で追い詰めた、常人ならざる非日常の住人たちだったが、彼らのほとんどは若木の姿に怯え、理不尽な状況に困惑していた。
 次は誰だ。昨年の暮れ、あのちっぽけで華奢な彼女は任務に失敗して戻って来たが、まさかこんなことをするなどとは、住人たちも誰一人として想像していなかった。なぜ、篠崎若木は、仲間であるはずの我々を無言のまま殺害する。一階と二階の住民は、すでに全滅したらしい。工作員87号と16号の二人はかなり善戦し、少女を拉致監禁するまでに至ったが、最後の詰めを性欲によって誤り、隙が生じたところを逆襲され、泡と化した。住人たちは掟によって束縛され、部屋から出ることは厳禁であり、それを破る者は、あの白い長髪の指導者に容赦なく粛清されるが、部屋の中にいながら住人同士が連絡を取り合う手段はいくらでもあり、マンション全域において、若き惨殺者、篠崎若木の噂は広まっていた。
 もう、ここで経験を積むのも限界だ。食料や居住の確保はできるが、ついこないだも二階で二人の工作員に不意を突かれ、ジャージを剥がされ、手を縛られ、危うく何もかも失うところだった。結果として足技のいい実地訓練にはなったものの、あの失態は住人全体に知れ渡り、今後は先制攻撃を企てる輩も出てくるだろう。そうなれば、自分の部屋で満足な休息もとれなくなる。若木は住人たちが自分のことを恐れ、掟に強く縛られている現実をあまりよくは理解していなかった。とにかく、守勢に回る展開だけは避けなければならない。状況が変化したと思い込んでいた若木は、居住する703号室を出て、修行の相手を外に求めることにした。昨年の暮れから、工作員や獣人とも手を合わせ、その全てに勝利し、柔術篠崎流の高みを登り続けてきた。今の自分は、高川典之に不様な敗北を喫したあのころとは比べものにならないほど、爆発的に成長し、祖父の仇を討てる頂上にまで達しようとしているのではないか。いや、違う。工作員に不覚を取るような腑抜けが、頂上などとおこがましい。あれから一つ歳を重ねたが、まだまだ自分は地を這い回る、か弱き子供だ。
 自信と不安、相反する二つの気持ちが、若木の心を引き裂いていた。経験を外に求めるのは、この傾かない天秤に対する苛立ちもあった。自分が高川に勝てるか否か、その判断は、やはりテロリストや改造人間が相手ではなく、武術家との戦いをもってして下さなければならない。幸い、先月の末に仙波春樹から、よい情報がもたらされた。判断を下すに、あまりにも的確な相手は、意外とここから遠くない地にいる。
 若木が階段に向かって歩いていく様を、708号室の覗き窓から、ある老人がじっと見つめていた。老人は、腰に巻いた黄土色の薄い布を除き、一切の衣類を身に着けてはいなかった。がりがりに痩せ、あばら骨がシルエットを浮かび上がらせ、禿げ上がった頭頂部には光沢が浮かび、白い長髪は腰まで伸ばされていた。朽ちかけた枯れ木のような男だったが、他の残党たちとは異なり、若木に威圧されることもなく、彼は極めて冷静に彼女を観察していた。いつもとは違う。殺気を纏ってはいるが、今すぐそれを放つ様子ではない。殺意を醸造し、練り上げ、熟成している段階だ。ならば、ここを出て仕事に赴くということか。老人は扉越しに通り過ぎようとする若木の横顔に向かって叫んだ。
「後がつかえてる! 今度こそ仕事を果たしてこい! 勝つまで戻るんじゃあない!」
 扉を隔て響いてきた、その矍鑠(かくしゃく)とした男の声に若木は僅かに歩みを緩め、小さく「無論」と呟いた。老人に、若木の決意は聞こえなかったが、覗き窓を通りすぎる彼女の目からは、殺気だけではなく、覇気が宿らんとしているのがよくわかった。
 覗き窓から顔を離し、扉に背中をつけた老人は、大きく深呼吸をしようとしたが、息が詰まりむせ込んでしまった。死地に赴かんとする少女の祖父、篠崎十四郎も倒れ、残党の中では八十歳という最高齢となった自分に、残された時間はそれほどない。このまま、こんな狭く薄暗いマンションの一室で一生を終えるのは嫌だ。十年前、契約金に釣られ、交渉役の反対を押し切ってファクションオブトゥルーと無期限契約を結んでしまった己の不始末は、嫌と言うほど思い知っている。自由を捨て、あの小男に忠誠を誓ったのは、気の迷いとしか言いようがない。そして今なお、その契約は生き続け、それを受け継いだあの妖美な青年に生殺与奪を握られ続けてここに至っているのは、なにもかも殺しのテクニック以外は無知蒙昧だった、自身の不明が原因だ。鹿妻新島の末期に、食堂の料理の味があからさまに薄くなり、メニューも量も少なくなっていったのは、今でもよく覚えている。あの細い眼をしたさわやかな青年が月末に配達してくる物資には、豊富な調味料も含まれていて、こちらの要求もある程度なら受け入れられる。豊かな物資は、FOTが好調である証だ。なら、その波が止む前に、外に出たい。依頼を請け、思う存分暗殺プロフェッショナルとしての余命を全うしたい。もう、待つのは終わりだ。行動に出るべきだと決断した老人は、「中村!」と、リビングにいる従者の名を叫び、よろよろと前に進んだ。

 すっかり遅刻してしまった。路地を走りながら腕時計を確認した、甲斐無然風(かい むぜんぷう)は、時刻が十七時三十六分であることを確認すると、ネクタイを緩め、スーツを脱いでそれを肩に掛け、速力を更に増した。十五人組み手を自ら申し入れたにも関わらず、三十分以上の遅刻はなんと言って詫びればよいのだろうか。これで気後れでもして、加減というものが生じたら、せっかくの稽古も台無しになってしまう。ここは一切の謝罪もせず、傲慢な態度を見せ、十五人を怒らせることで、緊張感を保つのが得策なのではないだろうか。雑居ビルの一階にある、「柔術完命流 川崎支部」の看板の前で立ち止まった無然風は、すうっと息を吸い込み、乱れてしまった呼吸を整えた。それにしてもひどいデートだった。せっかく用意した婚約指輪もポケットに入ったままだ。
「結婚してくれ」
 極めてストレートなプロポーズの言葉だったのに、「無理」の一言で断るとは。どうしても納得がいかず、強引に理由を聞いてみたが、「さっさと先に歩いて行くのがムカつく」「巨乳と遭遇すると視線が固定される」「全てにおいて自己中」「食べ方が汚い」「寝言がひどく乱暴」「そもそもその強引さに腹が立つ」などと、聞きたくもない欠点を次々と挙げられ、何の反論もできないまま撃沈してしまった。もうきっぱりと諦めよう。二十八歳にもなって独身というのも想定していた人生とはいささか異なるが、相性が悪い相手と寝食を共にしたところで、荒んだ家庭になるのは自明の理だ。それより、次の恋を探そう。そうだ、今日の十五人組み手を完遂したら、高輪道場の後輩、ノリに女子高校生でも紹介してもらうというのはどうだろう。ノリは何やら演劇部に出入りしているというから、可愛い子の一人ぐらい知り合いにいるだろう。何なら、こないだ高輪道場に見学に来ていた、あの前髪を切りそろえた福岡とか言う子でも構わない。と言うか、むしろいい。思考をポジティブに切り替えた甲斐は、道場の裏口に回ると、良く通る鼻にかかった甘い声で、「たっだいまー!」と叫んで扉を開けた。
 廊下からは、何の反応も返ってこなかった。いつもなら、事務の酒井さんが、「お帰りなさい、師範!」と明るく返事をしてくるのに。買い物に出かけているのか、電話にでも出ているのだろうか。甲斐はスーツの上着をハンガーに掛けると、ぼさぼさの頭をひと掻きして、道場に続く廊下を進んだ。なにやら、鉄のような臭いが鼻をつく。事務室の扉が開きかけであることに気付いた甲斐は童顔を険しくし、扉の前で立ち止まると、慎重な挙動でそれを開けた。そこには、仰向けに倒れている中年女性の姿があった。甲斐はそれに駆け寄ると、抱き起こして身体を揺すった。だが、首や肩には力が入っておらず、だらりと垂れ、目は開いたままで、口からは大量の出血の跡があり、既に事切れているのは明らかだった。
「酒井……さん……」
 完命流川崎道場の事務と庶務の一切を担当する、明るく朗らかで、師範の欠点も遠慮なく指摘する、道場で誰よりも容赦のない彼女は、何者かに殺害された。頸骨と肋骨がバラバラにされているのを掌で確かめた甲斐は、震える手で彼女の目を閉ざし、身体をそっと床に戻すと立ち上がり、ネクタイを外した。犯人は逃げたのか。待たせている十五人の道場生は、一体どうしているのか。昨年から高輪道場でも襲撃によって二人の被害者が出ているが、それとこれは関係しているのだろうか。甲斐の頭脳はフル回転し、疑問が次々と整理されていき、それとは無関係に、身体は事務室から道場へと向かっていた。廊下を過ぎ、道場まで着いた甲斐が目にしたのは、胴着を着た十五名の男女が、畳の隅に積み重ねられている光景だった。吸いきれない鮮血は畳に大きな溜まりを作り、うめき声ひとつ聞こえぬ静寂とした空気が、十五名の絶命を甲斐に想起させていた。道場の中央に、細身な後ろ姿があった。甲斐は革靴を脱ぐと畳の上に上がり、小さく咳払いをした。振り返った少女は、額に汗を滲ませ、返り血で頬が赤く染められていた。鋭い眼光を向けた彼女は、「甲斐師範か?」と尋ねてきた。
「そうだ。甲斐無然風だ。高輪もここも……全てはお前の仕業か?」
「うむ。完命流は我が宿敵。高川典之という仇を討つため、これまで研鑽を重ねてきた。今日はその仕上げだ。確信を抱けるか、この一戦で答えを導き出す」
 古風な言い回しは、普段であれば失笑ものだったが、甲斐の表情は強ばったままだった。事務の酒井女史や高輪の二人もともかく、あの積み重ねられた十五人は、いずれもが完命流の達人クラスであり、自分ほどではないが、高川などと比べても遜色がないどころか、何名かはそれを凌駕する実力の持ち主である。それをこの華奢な、子供とも言っていい彼女が、たった一人で倒したのか。十五名が時間通りにこの道場に到着したとして、僅か四十分足らずで全てを殺害したというのか。となれば、刃物か何かを用いたとしか考えられないが、一見したところ武器を所持している様子もなく、手足には血がたっぷりと滴っている。常人であるなら、この場から逃れ、警察に通報する場面ではあったが、完命流最強とも謳われている甲斐無然風は、襲撃者に背中を向けることなく、静かに身構えた。
「場合によっては……」
 貴様を殺す。そう言い切る前に、紺色のジャージ姿が眼前に迫った。なんという速攻だ。打撃が来ると予想した甲斐は、全神経を少女の動きを捉えることに傾けた。後手に回った以上、防御、回避、カウンターといった戦術を一瞬で決定しなければならない。その選択と実行の速さが、甲斐の武道家として優れていた点の一つだった。だが、突如として視界が真っ赤に塞り、少女の姿が消えてしまった。目に何かが入ったのか。知覚の中でも最も頼りにしていたそれを奪われた甲斐は、ともかく守りを固め、身を退いた。しかしその分厚い背中の中央に、突き刺さるような痛みが走った。脊椎をやられた。これは膝による打撃だ。まさか、襲撃者はこちらの後退を予測し、先回りしていたのか。脊椎は総合格闘技でも攻撃が反則となっている急所のひとつだが、常に実戦を想定している完命流では、防御の術もある。しかし、これは想定外の速攻だ。両足の麻痺を感じた甲斐は、脊椎を損傷してしまったことを自覚した。いくら守りが薄い箇所とは言え、鍛え抜いた背筋で、ある程度の打撃力を軽減できるはずの脊椎が、たった一撃で破壊されるとは。武器を用いていないとして、華奢な少女がこれほどまで強烈な打撃を打ち込むとすれば、片足の親指一本のみを地に接し、じゅうぶんな回転によって発生させた遠心力に全体重を乗せ、膝を急所に叩き込む「大蛇(おろち)」が考えられる。これが使えるのは、完命流では自分と高輪の師範、楢井立(ならい りつ)ぐらいである。そもそも襲撃者が、いかなる攻撃技能を持っているのかわからなかったが、神経の損傷によって下半身のコントロールを失い、その場に尻餅をついてしまった甲斐は、技の鮮やかさと的確さから、少女が完命流に類する武道家であると推察した。続いて、みぞおちと喉と顎に三連打を受け、甲斐は仰向けに倒れた。

 目つぶしは……そっか……血か。手足についてたあいつらの血を、目つぶしに使いやがったのか。
 まったく、何でもありのお嬢さんだぜ。
 さて、どうする。
 まだ、始まったばかりだぜ。

 短時間で視力や下半身の復活は望めないだろうが、まだ両手に頭、武器になる箇所は三つも健在である。敵は、必ずとどめを刺すために接近してくる。打撃であればカウンターを、極めにくるのならこちらも寝技を、いずれにしてもこれが最後の反撃のチャンスとなるだろう。これにしくじれば、おそらくは十五人と同じ運命が待っている。にも関わらず、甲斐に恐怖はなかった。彼は圧倒的不利な状況でありながら、確固たる実績と経験により、自身の勝利を完全に確信していた。最初の大蛇と続いた三連打で、敵の打撃力の分析は完了し、そこから関節技や極め技の力もある程度は導き出している。なによりも動きのクセが手に取るようにわかった。この認識にさほどのズレはないだろう。仰向けのまま甲斐は、少女の攻め手を二十三通りほど想定し、その対応は、これまでの修練によって、既に身体に染み込んでいた。何が起きても反射と反応をするのみである。
 ところが次の瞬間、彼を襲ったのは、予想の範囲に含まれない感覚だった。息が詰まり、胸と腹に鈍い重みを感じる。打撃ではない、これは何かを乱暴に置かれた感覚だ。手で探ってみると柔らかさがあり、どうやら十五名の一人、大阪道場の「舞姫」今田美和のようだ。動きを封じるため、遺体を使ったのか。軽いパニックに陥った甲斐は、積まれた今田を取り除こうとした。だが、更なる遺体が積み重ねられ、彼は肘から先の自由を奪われた。今度も柔らかい。おそらく、今日十五人組み手を頼んだもう一人の女性道場生、この道場でも屈指の瞬発力を誇る石本か。それからも次々と、甲斐の上に同じ流派を極めんとしていた、仲間たちの亡骸が積み上げられていった。ただでさえ下半身が麻痺したままで、上半身の力のみで跳ね返せる重さではなく、とうとう甲斐は動かせる箇所が首から上だけになっていた。
 甲斐は思い出していた。あれは中学生のころだ。楢井師範たちと行った海での合宿だ。砂浜でついうとうとしていたら、いつの間にかこうして埋められた。十五人のうち、今田と有沢もその悪戯に参加していた覚えがある。あの仕返しは、まだできていない。もうできない。

 あー、ダメだこりゃ。死んだわ。

 頭以外の自由がない。とどめを刺す方法はいくつもあり、対処方法はひとつもない。畳の上を進む足音が、頭上で止まった。視力を奪われた闇の中で、亡骸の下敷きになっていた甲斐は死を覚悟した。なら、せめて最後の瞬間ぐらいは、好きな記憶で頭の中を満たしておきたい。それなのに、彼の脳裏に浮かんだのは、今日プロポーズに失敗したOLのことや、丸い輪郭をした演劇部の部長ではなく、顎の割れた言葉遣いの硬い、要領の悪い後輩の姿だった。

 ノリ、やべーぞ、こいつ。モロ、本物の完命流だわ。

 左右から細い指に頭を掴まれ、少しだけ左に捻られ、最後は右に、頚椎の可動域を超える回転が一気に加えられた。完命流師範、甲斐無然風は浅い闇と激痛の中で意識を失い、それが戻ることは二度となかった。

 そろそろ腹も減ってきた。このタイミングで、目的の相手がここにいるというのは幸運なのだろうか。歩道にロードスポーツタイプの青い自転車を停めた少女は、二階建てのファミリーレストランを見上げ、嬉しそうに階段を駆け上った。黒い髪は三つ編みに結び、深緑色のマウンテンパーカーにジーンズ、スニーカーを身に付けた彼女は、年頃でありながら化粧もせず、地味でおとなしめの姿をしていたが、目は大きく爛々と輝き、身体の凹凸も豊かであり、それらが余計に際立っていた。店内に入った少女は座席の案内をしようと現れた店員に、「いいからっ!」と一声かけると、手帳大の端末に目を移し、その画面が示す地点に急いだ。
「お前、篠崎か?」
 少女は窓際のボックス席の一つまでやってくると、一人で食事をする、ある人物に向かってそんな言葉をかけた。赤いスタジアムジャンパーに、チェックのミニスカートを身に付けた黒髪の少女は、吊り上がった目で来訪者を一瞥すると、小さく頷き返し、再び視線を机上の焼き魚定食に戻した。
「春坊のくれた資料とは、見た目が違うな」
「お前は、誰だ?」
 若木にそう尋ねられた少女は、対面のシートに滑り込んだ。
「わたしは、柳かれんだっ! かれんでいい」
 陽気で明るいかれんの態度に、若木は眉を少しだけ顰め、「貴様も聞いていた服装とは違うな」と呟いた。
「ああ、わたしは自分探しの真っ最中なのだ。お前が聞いていた格好は、憧れの人をただパクっただけの、古いバージョンのものだ。今わたしは、どんな格好が自分らしいか、模索中というやつだっ!」
 勢いよく早口で、かれんは以前と現在の外見の違いを一気に説明した。若木はそれの説明が進むにつれ、食事を止め、箸を置き、俯き、ため息を漏らした。
「篠崎もイメチェンしたのは、自分探しか?」
 他者から名字で、それも平板のアクセントで呼ばれるのに慣れていない若木は、ひと呼吸置いて、虚ろな目を瞬かせた。
「違う。完命流川口道場を襲撃したのち、ロッカーから頂戴した。ジャージは血まみれで、目立つからな」
 あっさりとした返事があったため、かれんはペースを乱されてしまい、取りあえず周囲を見渡した。
「あのなー篠崎、お前、襲撃とか、おおっぴらに言うもんじゃねー。この店ガラガラだからいいけど、もっとTPOをわきまえろや。わたしは今、レクチャーの真っ最中で、東京の春坊のところで諜報活動というやつの勉強中だ。そこでわたしは学んだ。我々は、常に慎重に行動しなくちゃいけねーんだ」
 かれんの早口をほとんど聴覚で捉えず、若木は食事を再開した。
「よし、わたしも晩ご飯だ」
 机上の呼び出しボタンを押したかれんは、やってきた店員にメニューを頼むと、若木が焼き魚定食に取り組む様子をぼんやりと見た。
「殺(や)ったのか?」
 重々しい口調でそう尋ねてきたかれんに、若木は「十七人」と答えた。かれんは息を呑み、店員が持ってきたメニューを若木から視線を外さないまま受け取った。店員が去っていくのを確認してから、若木は虚ろな目で言葉を続けた。
「うち一人は素人。十六人は、完命流の実力者。十五人までは労苦もなかった。だが、最後の一人が強者(つわもの)だった」
「けど、勝ったんだろ?」
「恐怖には負けた。相対した折、“若木”は圧倒された。恐怖を払うため、“若木”は飛び際に、足についていた血を、血をだ、血を空振りと共に放った。それで奴の目を潰した」
 若木の声は、しだいに震えていった。表情も強ばり、手にしていた箸もカタカタと小刻みに震えている。かれんは少しだけ身を乗り出し、「続けて」と促した。
「おかげで、背後からの“鳴門独楽(なるとごま)”が完璧に決まった。そして三連打で、奴を倒した。だが、そこからだ。とどめの“医王(いおう)”を仕掛けようとした“若木”は、畳の上で仰向けになっていた奴から、更なる恐怖を感じた。あれは、物の怪と言っていい。このまま眉山で絡めようなら、逆に首をへし折られるのは“若木”だ。恐ろしくて、恐ろしくて、“若木”はどうしたと思う?」
 問われたかれんは、「知らん」と素っ気なく答えた。
「既に屠っていた十五名のうち、軽い順からその屍を怪物に覆い被せたのだ。身動きをとれんようにするためにな。七人ほど運んだ時点で、“若木”の腕は限界で、だが、奴も完全に屍の底に埋まってな、そこから“医王”で仕留めた。血の目つぶしに、屍の肉布団など、“若木”はお爺様から教わってはおらん。アレは、一体なんであったのだろう……」
 告白を終えた若木は、呼吸も荒く、顔にはびっしょりと汗を掻いていた。かれんはメニューをちらりと見たが、とうに食欲は減退していたため、頬杖をついて視線を泳がせた。
「あのな、わたしは若木にメッセージを伝えに来た。真実の人(トゥルーマン)からだ。いいか、一度しか言わねーから、よく聞けよ」
 念を押したかれんは、若木に視線を定めた。箸を手にしたまま、少女はじっと言葉を待っていた。かれんはパーカーのポケットからメモを取り出すと、それを読み上げた。
「依頼した仕事はどうなっている。期限は定めていなかったが、こうまで時間がかかると、キャンセルもある」
「依頼は……わたしが高川典之を超えたと判断できるまで、決行できなかった」
 若木はそう言うと、食べかけの焼き魚に視線を落とした。
 今日初めて出会ってから、この奇妙な言葉遣いをする少女のことを、何一つ理解できていなかったかれんは、ともかく用件を済ますのを優先するため、言葉の表層だけを拾い上げ、「で、超えたのか? 今日のアレで」と尋ねた。若木はうなだれ、うめき声を漏らした。
「いーけどさ。わたしも借金取りじゃねーし、これ以上催促しねーけど、メッセージはちゃんと伝えたからな」
 かれんは次の任務を果たすため、腰を浮かせた。
「やる。やる。わからぬが、もうやるしかない。帰る場所もないのだ。おそらく、“若木”は高川を超えた。再び手を合わせれば、不様な屍を晒すのは奴だ!」
 “帰る場所もない”問題が、“やる”ことでどう解決できるかもわからぬまま、若木はかれんをじっと見つめ、そう訴えた。両の拳は握りしめられ、瞳は潤んでいる。かれんは、その様子から何か頼まれ事をされていると感じてしまい、だがそんな筋合いはなく、自分にはなにもしてあげられないと思っていたので、立ち上がり、その場から去ろうとした。
「なぁ、かれんとやら。“若木”は、篠崎流なのか?」
 背中に、そんな問いかけがぶつけられた。かれんは低い声で、「知らん。わたしは」と呟き、ファミリーレストランをあとにした。

13.
 若木にメッセージを伝えたかれんは、青い自転車で橋を渡り、夜の多摩川を越えた。このロードバイクはFOTから支給されたもので、かれんの“異なる力”を利用して電気駆動する特別製だったが、彼女はその機能をほとんど使わず、脚力を頼りにペダルを漕いでいた。電動アシストとは異なり、手首から電気を送り、ひと漕ぎすれば、あとは小型で強力なモーターの力でオートバイのように使うことができたのだが、現在、諜報活動の指南役としてかれんの指導に当たっている仙波春樹は、「怪しいマネは避けるべきっ」と事ある度にアドバイスし、かれんもそれを遵守していたため、緊急時や非常時以外に特別機能は使わず、あくまでも「奥の手」として温存していた。普通に漕いでいるだけなら、珍しいロードスポーツタイプの電動アシスト自転車にしか見えず、怪しくないうえに心肺能力を鍛える手助けにもなる。一日も早く一人前のメンバーになりたいかれんにとって、この青い愛車は移動手段とトレーニングマシンの両方の役割を担っていた。
 都内に入ったかれんは、それから十分ほどかけて、大井町線尾山台駅から商店街を抜け、とある住宅街までやってきた。目的地である七階建てのマンションを見上げたかれんは、駐車所の隅に自転車を停め、再び訪れてきた空腹に目を細めた。

「これが、はばたきからのお土産ってわけ?」
 ダイニングテーブルに置かれた紙袋を指さし、エプロンドレス姿の少女、ライフェ・カウンテットは来訪者であるかれんにそう尋ねた。ここ、505号室の表札には“澤村”と記されていた。仙波春樹が言うには、この小さな赤毛の少女、ライフェ・カウンテットは、普段は澤村奈美という偽名で遼やリューティガーたちの通う仁愛高校に潜入しているらしく、組織の実行部隊でも上位にランクされる実績を残しているらしい。確かに、なんとなく偉そうな態度だ。かれんは初対面のライフェから、つんと澄ました気位の高さを感じていた。
「そうだ。ようかんだ。はばたきが、麓の商人から買ってきたらしい。わたしも一口いただいたが、美味いぞ」
 言いながら、かれんは紙袋の中のようかんが気になった。テーブルを挟んで腰に両手を当てているこの少女は、いつ「一緒に食べましょう」と誘ってくれるのだろうか。それともいっそのこと、こちらから提案すればいいのだろうか。彼女ははばたきの主で、「頼もしいし、繊細で、わがままで、それでいてお優しい」らしいが、あの若木ほどではないにしろ、目付きは鋭く、なにやら人当たりがきつそうにも感じられる。なんにしろ、腹が減ってきた。キッチンに視線を向けると、カップ麺やレトルトカレーのパッケージも見える。朝から名古屋に行ってる仙波春樹は、飯は適当にやっておけと言われたので、お昼はハンバーガーを食べたのだが、さて夕飯はどうしたものか。さっきのファミリーレストランで食欲を失ってしまい、食べそびれたのは誤算だった。かれんは、空腹を紛らわすため、本来の任務に意識を傾けた。
「それと、これは真実の人からだ」
 親指大のメモリスティックを、かれんはテーブルの上に置いた。
「ポイントDってところにお前たちが運んだ、プロトタイプゴモラとやらについて、なんか色々と決まったから、これに入れたって」
「そう、あとで確認しておくわ」
 ライフェはメモリスティックを手に取り、かれんに目を向けた。
「はばたきは、ケガとかしてない?」
 ややくぐもった声で、ライフェはそう尋ねた。
「してる」
 かれんからの何気ない返事に、ライフェは細い眉をぴくりと動かし、腰をテーブルに強くぶつけた。
「肩と手と、足だ。刃物で切りつけられたり、銃の弾が擦ったりで、あいつは細かいケガだらけだ」
「そりゃあそうでしょうね。あっちは戦場なわけだし……け、けど、細かいケガばかりなのね」
 ライフェの声はわずかに震えていたが、かれんにはその理由がわからず、「大きなケガはないぞ」と付け足した。
「ところで、わたしの外見が聞いていたものと違う点については、なにかツッコミはないのか?」
 かれんは、深緑色のマウンテンパーカーを着た自分の姿に視線を下ろし、両手を広げてそう尋ねた。
「別に。服装や髪型や化粧なんて、いくらでも変化するものだし」
 素っ気なく返事をしたライフェは、かれんの傍まで近づくと、両手で彼女の頬をそっと撫でた。かれんは突然の行動に驚き、咄嗟に身を退いた。
「なっ、なっ、なんなんだ!?」
「形なんて、個人を特定する手立てじゃないもの。わたしにとってはね」
「そ、そーゆーことじゃねー! いきなり触ってくるとか、ヘンだぞっ!」
「お前も普通の人間じゃないんだよね。雷撃使いなんでしょ? それもピッカリーとは違って、道具いらずの超能力。仲良くしましょ。わたし、普通じゃない人、興味あるから」
 かれんは、ライフェの態度が理解できず、ただ戸惑うしかなかった。さきほどの若木といい、この組織の若い女性はなにやら妙な性格の持ち主ばかりであり、どうにも理解に苦しむ。図抜けた個性でリューティガーたちや味方のステファンを困惑させたかれんだったが、そんな自覚は微塵もなかったため、彼女は鞍馬ベースにいるはずの蜷河理佳を思い出し、落ち着いて優しいと感じた彼女のことが、少々恋しくなってしまった。
「仙波のところで世話になってるのよね。お前はこのまま、東京のチームに残るの?」
 関心を言葉にしたライフェは、ようかんの袋を手に取ると、それを冷蔵庫に入れた。
「いや、レクチャーが終わったら、鞍馬ベースに戻る。中丸隊長が、わたしの力がいるって言ってる」
「へぇ、なら、はばたきに伝えておいてくれないかな?」
「なんだ?」
「次のお土産は、自分で直接持ってきなさい、ってね」
 人差し指を一本突き出し、ライフェは不敵な笑みを浮かべてそう告げた。「それは、主としての命令か?」そう尋ねようと思ったかれんだったが、そろそろ空腹も限界に達しつつあり、腹に痛みも覚えていたので、「わかった。伝える」と短く返事をして、立てかけておいたバットケースを手に取った。

 本日最後の任務を終え、ライフェのマンションをあとにしたかれんは、とりあえずの腹ごしらえのため、コンビニエンスストアであんパンを買い、ガードレールに腰掛けてそれを食べた。腹の痛みも治まったかれんは、本格的な夕飯のため、自転車を走らせることにした。ハンドル中央に取り付けた端末機器に映し出されている、ナビゲーション機能付きの地図を頼りに、目黒通りまで出たかれんは、都心方面に向かって前傾姿勢でペダルを漕いだ。前橋地裁で我犬と脱出したのは、たったの八日前である。八日前まで、自分は憧れのあの人の格好をして、自動販売機で小銭を盗み、ネットカフェでアニメや漫画を見たり読んだりする毎日だった。いもしないテロリストを求め、うろうろぶらぶらして、警察の目に怯え、東京を彷徨う野良猫のような自分だった。しかし、今は違う。まだレクチャーを受けている最中の見習いではあるが、FOTのメンバーとなり、鞍馬の雪山で自衛隊と戦い、仲間たちと食堂で語らい、トレーニングや勉強に励んでいる。服装も地味で動きやすいものに替え、目立たぬために、髪の色も戻して化粧も最低限度だ。今日もジョーディーと篠崎とライフェに通達任務を行い、そのおかげで仙波春樹は名古屋で諜報任務に集中できると喜んでくれた。活動するための手当も現金で支払われ、財布の中には一万円札が五枚も入っている。自らを鍛え、仲間の役に立ち、日本がもっとよい国に変わるため、任務に励んでいる自分は、もう野良猫ではない。八日前と同じなのは、警察の目に用心をするということぐらいだ。あとは、全てが違う。
 環七との交差点で、かれんは自転車をいったん停めた。さて、野良猫ではないとしたら、なんなのだろう。少女の脳裏に、白く太った犬の顔が思い浮かんだ。「忠犬……犬か」そう呟いたかれんは、頭をぶるぶるっと振った。
 今は満ち足りている。全ては自分で決めたことだ。犬のように飼われているのではない。進んで、望んだ結果、今が在るのだ。それより飯だ。何を食べるのかだって、自分で決める。かれんは再びペダルに足を乗せ、環七通りにハンドルを向けた。

 閉店時間から五分が過ぎた、深夜のミュージックパブ「フルメタルカフェ」の店内は、普段の薄暗い白熱灯の照明ではなく、蛍光灯で明るく照らされていた。その中で、モップを手にしたマスターが、床を黙々と拭いていた。
「まだ、ボンゴレ食べられるかなー?」
 開きっぱなしの入口から聞こえてきた声に、マスターは手を止めて振り返った。見覚えのない顔である。「見ての通り、今日はもう看板だよ」そう返そうとしたマスターだったが、言葉にするより速く、彼の記憶にある少女の姿が浮かび上がった。
「かれん……ちゃん?」
 驚いた表情で首を突き出したマスターに、かれんは大きな胸をどんっと叩き、「そうだっ!」と答えた。

 カウンターの一席に着いたかれんは、厨房で調理の支度を始めたマスターに「あんがとね」と礼を告げると、視線をある写真に移した。ボトル棚の中にあるスタンドに飾られていたその写真には、三人の少女と一人の少年の姿が映されていた。マスターの古い知り合いなのだろうか。笑顔の四人は、なんというか、この店の常連客という風情ではない。服装もバラバラで、少女の一人と少年は学生服だ。
 いや、これは、そうだ。これは、“あきらさん”だ。
 かれんは思わず席を立ち、震える指で写真を差した。もう何度も来店し、この席にも着いたことがあったのに、なぜ気がつかなかったのだろう。四人の中の一人、ボンテージファッションに褐色の肌をしたこの人は、つよしさんから譲り受けた写真に写る、金本あきらとうり二つだ。もちろん、伝説の地であるここに、あの人の写真があってもおかしくはない。しかしそうなると、この残りの三人は何者だ。一人として、チーム加藤というアウトローグループに所属していたようには見えない。制服の少女はどうあってもただの学生だし、エプロンドレスの少女は顔つきこそきつめだが、なんとなく育ちが良いように見える。立てた髪を所々に染めた詰め襟姿の少年は、明るくてやる気に満ちた様子だが、なんとも小物感が漂い、そういった意味ではかろうじて子分にも見えなくはないが、さてどうなのだろう。
「ああ、その写真か。見ての通り、あきらちゃんだよ」
 パスタを茹でている合間に、マスターが厨房から声をかけてきた。かれんは、より厨房寄りのカウンター席に移動すると、「残りの三人は誰だ?」と尋ねた。
「あきらちゃんの仲間だよ。九年前、四人は力を合わせていた」
「そ、そうなのか……」
「あのさ」
 マスターは、いつもの温厚な物腰を消し、鋭い目でかれんを見つめた。
「これ食べたら、二度とここには来ないほうがいい。こないだ、警察が君のことを聞きに来た」
「マスター」
 具体的に何を聞いてきたのか、それを確かめたいかれんだったが、こちらのせいで警察の聞き込みなどという不愉快な思いをしたマスターに申し訳がないと思い、言葉を詰まらせてしまった。
「僕は、君がどんな決断をして、どんな道を進んでいるのか、敢えて聞くつもりはない。九年前もそうだったから」
「わたしは……」
 上京して、最初の足がかりはここだった。マスターも、アルバイトのアイちゃんたちも親切で、それについては恩義も感じている。しかし、変わってしまった以上、もうここに来てはいけない。道理は、よく理解できる。ただ、それでも寂しさはこみ上げてきてしまう。かれんはぐすりと鼻を鳴らし、こくりと頷いた。
「アイちゃんに、よろしく言っといてくれ」
「ああ」
 スタンドの写真に視線を移したかれんは、カウンターで頬杖をついた。
「あきらちゃん、ああやって笑っているけど、あの三人の女の子たちは、写真で見るようにいつも笑顔ってわけじゃなかったんだ」
 あんな溌剌と笑っていて、仲も良さそうに見えるのに、マスターの言葉が、かれんには意外だった。
「むしろ、三人はそれまでの境遇がまるで違っていて、相性も悪くてばらばらだった。だけど、目的のために協力するしかなくって、最後には男の子も含めて、かけがえのない四人になっていったんだ」
 マスターは皿に盛ったボンゴレを、かれんの前に置いた。
「今の仲間を、かれんちゃんも大切にね」
 優しい言葉に、かれんは再び頷いて答えた。そのうち、自分もあんな写真を残そう。理佳やはばたきや、ライフェや若木も入ってて構わない。今の仲間と記念を残そう。その時、あんな輝いた笑顔に、みんなでなれるのだろうか。寂しさと不安が、少女の中で広がった。頬を引き攣らせ、眉を上下させ、大きな瞳を潤ませ、小さく肩を震わせ、柳かれんは最後になるマスターのボンゴレを、時間をかけてしっかりと味わうことにした。

第三十三話「伝説継承、少女はそう叫んだ」後編 おわり

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