真実の世界2d 遼とルディ
第二十一話「遼とまりか」
1.
 査問。そう言ってもよい報告会であった。そもそも実働部隊の活動報告など普段は書類提出のみで済ませていて、口頭報告にしても下位の出席でよかったのがこれまでだった。
 賢人同盟本部。城を模した建物の中央に位置する執務室に帰ってきた中佐は、上着をソファに放り投げ、漆黒のデスクの縁に腰を当て、体重を少しだけ預けて腕を組んだ。

 あれは、昨日のことである。

「これより定例報告会を行う」
 五星会議議長ブッフボルトの宣言で、その会は開始された。場所は同盟本部より飛行機で八時間ほど離れた、とある湖畔の旧家である。広い食堂には“コ”の字形にテーブルが並べられ、短い一辺にブッフ議長が、左右には二人ずつの計五名の議員が席に着いていて、中佐は机が形成する入り江の内側に立ち、後ろで手を組んで胸を張っていた。
 薄暗い部屋だった。壁の燭台からの灯りがゆらゆらと六人の影を揺らし、テーブルクロスの白さが異質なまでに際立っている。彼らはこうした集会場所を全世界に数百箇所、所有している。ここに呼び出されるのは中佐にとっては初めてだったが、以前訪れたコリャクの民家もやはり電灯は一切なく、蝋燭だけを灯りにしていた記憶があった。
 賢人同盟の顧問機関である五星会議は五人の権力者によって構成され、同盟とほぼ同じ長さの歴史を誇り、顧問と名乗りつつもその実情は最高決定機関である。
 同盟の行動は全てこの五人によって監視され、その当否が判断される。否とされれば補正、修正が求められ、それに応じぬ場合や応じ切れぬ際には粛清が待ち受けている。
 一通り自分の職務である賢人同盟実働部隊の活動報告を終えた中佐は、本題に備えて咳払いをした。
 そんな彼の整える様子に関心を示したのは、右側のテーブルにいた一人の中年男性だった。枯れ草色の髪を短く刈り込み、青い瞳はぎょろりと丸く、やや小太りの体型をベージュのスーツで隠した白人である。彼の名はライア。五星会議でも古参になる、米国出身の議員である。
「はるばる……わざわざ……どれも適当ではないかな。アーロン君」
 響きのよい声で、ライアは眼前の偉丈夫にそう言った。しかし中佐は返事をすることなく、直立不動の姿勢を崩さなかった。
「さて……君の心に直接問うてもよいのだが……アーロン中佐どの……」
 正面に座る、やはり中年の男、ブッフボルトが低い声で告げた。
 議長である彼は今年ちょうど五十歳になった。五人の中では最も高齢であり、様々な経験が額の皺となって刻まれていた。
 群青色の髪を綺麗にオールバックで固め、広い肩幅は中佐と匹敵するほどの肉体的な屈強さを醸し出している。黒いスーツに鳶色のワイシャツ、ネクタイをしていない点も中佐と共通しているが、決定的に異なるのは彼の右目が潰れていて隻眼であるという点にあった。
 なんという威圧感か。間近にこの権力者と対するのは久しぶりのことであり、中佐は気圧されぬよう心を保つのに必死だった。
「い、いえ……質問があれば、それに答えさせていただきます」
 怯えている。しかし、彼は観念した様子でもない。やはり志あっての行動ということか。ライアの隣に座る黒く長い髪をした青年は、細い目で中佐の全てを観察し、そう納得した。五星会議の一人、名は黎(れい)。中国系の青年である。
「わたしから聞きたいなアーロン君。よいかな?」
 ライアにそう言われた中佐は、「はっ」と短く答えた。
「単刀直入に聞こう。アルフリートの核は、どこに向けられる?」
「中国に対してと思われます」
「だから君は、奴を泳がせるどころか、日本政府の対策を鈍らせるため、十名ものエージェントを生贄に差し出したというわけかな?」
「そ、それは……いえ……そうとっていただいても結構です」
「どうするのかなぁ? その読みが外れたら」
 頬杖をつき、人を馬鹿にしたような笑みを浮かべて尋ねてきたのは、左側のテーブルにいた女性議員、ローズマリーである。
 金髪をベリーショートにし、長い首を強調するようにキャミソールを着た彼女は最年少の二十代議員であり、前任者の娘として幼少期よりこうした世界での経験を積んでいると中佐は聞いている。甘ったるい声であり、目つきも眠そうなローズマリーに対して、だが彼は態度を合わせて変えるわけにはいかなかった。
「修正するまでであります。そのためにリューティガー、檎堂の二グループを派遣しております」
「できるのかなぁ……ルディとアルは兄弟だよぉ。それに檎堂はビッコだし、相棒の幹弥は新人でしょぉ?」
「こ、ことと次第によっては、追加兵力を派遣してもよいかと……」
 苦しそうに弁明した中佐に、ローズマリーはいっそう人の悪い笑みで表情を崩した。
「ふざけるな中佐。貴様の権限で追加など認められるわけがなかろう。どうしても修正が効かぬ場合は、五星書の発動を持って我々が命ずる。しかしそうなれば貴様は粛清だ!!」
 席を立ち、人差し指を突きつけたのは、ローズマリーの隣にいたもう一人の女性議員である。名はステファーニア。七年ほど前に五星会議入りした彼女は会議の中で最も武闘派であり、前任者の処遇について五人で会議がなされた際も、「下部組織の長と個人的関係を結び、あまつさえ闘争に破れ行方不明になった恥部など、過去に遡って存在そのものを消し去るべきである」と、毅然として言い放ったこともある。
 茶褐色のセミロングにした髪を揺らし、ステファーニアは五星会議の意志を代弁し、中佐の答えを待った。
 言いたいことはある。跳躍能力者であるアルフリートを抑制する手段などない以上、たとえ奴が同盟に対して反旗を翻したとしても、結局は上手く利用していかなければならない存在なのである。処理を一任された自分はこうするしかなかった。もし本気であの、自由に世界中を瞬時に跳ぶことができる化け物を捕らえようとすれば、損害は一体如何なる規模になるのか。
 しかし、ハルプマンは完全に自分を五星会議に差し出したのだろうか。あまりにもこの糾弾は厳し過ぎる。弁明の余地がまったくない。彼がこれまで根回しをしておいたから自分は計画を遂行できたのに、手を引かれた途端これである。中佐はだが、胸を張り続けることで自分が後ろめたいことをしたわけではないと、五人に主張した。

 結局、アルフリートの動きがどうなるか不明である以上、査問は結論のないまま閉会した。要は、「そろそろまずいぞ。あと何手かで詰むぞ」と、勧告されたようなものである。数時間前の出来事を思い出した中佐はテーブルの上に置かれた水差しを取り、グラスに中身を注いだ。
 精神安定剤を飲むなど一体何年ぶりだろう。錠剤を口にした中佐はグラスの水でそれを流し込み、壁に設置されたインターフォンを手に取った。
「檎堂か……ああ私だ……核の件はどうなっている…………」
 受話器を耳に当てていた中佐は、しばらくして壁を思いっきり蹴った。
「いつまで時間をかける!? 檎堂!? 奴の核が何処に向けられるのか、その程度のことがなぜ調べ上げられん!?」
 そう怒鳴った中佐は、またしばらくすると胸に手を当て、顔から怒りの色を消した。
「すまん……そうだ……いや……追加は出せん……その点は苦しいところだが……君と花枝君の力に期待している……ああ……吉報を待つ……」
 受話器を壁に戻した中佐は天井を仰ぎ、真っ赤な絨毯の上に尻をつけ座り込んでしまった。


 代々木パレロワイヤル803号室。その居間では、リューティガー真錠(しんじょう)が、机上のPCに向かいメールを打っていた。
「同盟本部へメールかネ?」
 ジャスミンティーを持ってきた、陳師培(チェン・シーペイ)が、カップを若き主の側に置き、液晶ディスプレイを覗き込んだ。
「遼の装備申請ですよ」
「こないだやってた紐の件かネ?」
 鯰髭を撫で、陳は数日前ダイニングキッチンで行われていた検証実験を思い出していた。
「ええ。データの解析ができたんで……最適の素材を、本部に申請しようと思いまして」
 メールを打ち終えたリューティガーはそれを送信すると、従者が入れてくれたお茶を啜った。
 ここ数日、栗色の髪をした主は口数も少なく、データの解析やこれまでの記録の検証に没頭している。見た目は平静を装っているようであり、落ち着いた態度を示しているが、彼が真夜中に寝室でうなされ、叫んだ挙げ句目をさましているのを陳は何度か耳にしていた。
 健太郎の構築した監視システムはこのパレロワイヤルとその周辺のあらゆるポイントを監視対象としていて、陳はモニターにより、数日前にロビーで繰り広げられた出来事の全てを把握していた。
 リバイバーとの対決、その後、ルーラーである少女の突入と射殺。そして目撃者である民間人、神崎はるみへの記憶消去の要求。
 精神的な負担は理解できる。特にルーラーの少女、モンゴロイド系のまだあどけなさを残す彼女の殺害が、彼の心を最も痛めているはずだ。陳は主の背中を見つめたまま、どう言葉をかけるべきか迷っていた。
「僕は……遼を信じたい……」
 背中を向けたまま、リューティガーはつぶやいた。
「坊ちゃん……」
「彼が……神崎はるみの記憶を消したと……それを信じたい……」
「け、けど坊ちゃん……私は……遼を疑う気はナイけど、もしかしたら不完全という可能性もある。確かめる必要があると思うね」
 なるほど、陳の言うことにも一理ある。そう思ったリューティガーは座っていた椅子を回転して彼へ向き直り、空いたティーカップを手渡した。
「確認方法は……それこそ遼に心を読んでもらうしかありませんね……」
「そうネ。本当に遼を信じるのなら、定期的に神崎はるみの記憶をチェックさせた方がいいネ」
「ちょうど紐を使った遠隔手段もとれます……いい提案ですね。遼もきっと同意してくれる」
 ようやく笑みを浮かべたリューティガーは、ティーカップを台所へ持っていく陳の後姿を確認すると、背を丸めて眼鏡を直した。
 マサヨのときもそうだった。しばらくは、その姿が脳裏から離れなかった。しかし今回は確実に命を絶ち、彼女の運命を心配する必要もないはずである。だがロビーでごろりと転がった少女の顔をあれから何度も思い出し、大抵が寝ている最中だったため、その度に絶叫して睡眠が中断されていた。

 あの子は……十歳にも満たないだろうあの子は……なんのために生まれてきたんだろう……

 かつて、傭兵部隊に預けられた自分はもっと幼かった。自由に空間を跳躍できる“異なる力”と、あどけない容姿を使い敵を油断させ、数々の戦闘において部隊へ貢献してきた過去がある。だが、毛皮のコートを着た彼女はあまりにも非力だった。武器はナイフ一本で、火器すら携行していない。だから突進するしかなかったのだろう。小さな身体を駆使した潜伏や、民間人を装った接近もしなかったところを考えると、大した訓練を受けていない、ただリバイブさせた生物を操ることしかできない子供である。

「だめなんだよ真錠!! そんなのじゃだめなんだ!!」

 島守遼(とうもり りょう)はロビーでそう叫び、掴みかかろうとしてきた。あれは、こちらに対する完全なる否定だ。だが、その気持ちをリューティガーは多少なりとも理解できた。そう、彼はまだ素人だ。子供を容赦なく殺すなど、決して認められない行為なのだろう。

 でもさ……あのままじゃ……たぶん……腹をナイフで抉られていたよ……だって……あの子の目に……迷いなんてなかった……

 リューティガーは両指を膝の上で組み、肩の力を落として顔を歪ませた。

2.
 同級生、それも女子の自宅を訪ねるという状況は、緊張してしかるべきだ。しかし今日の訪問は、事情がまったく異なる。神崎家の玄関先で島守遼はシャツの襟を直し、咳払いを一つした。
 姉に会って欲しいと彼女は言った。会ってどうなるのだろう。いや、なんとなくわからなくもない。会えばわかるはずだ。それだけの確信があるからこそ、いま自分はここにいる。
 扉が開くとその隙間から、神崎はるみが緊張した面持ちで姿を現した。萌黄色のワイシャツにジーンズ姿が遼にはとても新鮮で、だがなんとなく似合わないとも思えてしまった。

 彼女に上がるように促された遼は、玄関でスニーカーを脱ぎ廊下に上がってスリッパに履き替えた。前回訪れた際と比較すれば、その一連の所作はずっと自然にぎこちなさが薄まっているはずである。しかし別の理由で緊張している彼は、そんなことに気付くゆとりもなかった。
 以前訪れた際には、廊下を真っ直ぐ進んで角を左に曲がった居間へ案内されたが、はるみはそのまま突き当たりの階段を上がっていったので、遼もそれに続くことにした。
「いるの、お姉さん?」
「うん……三十分ぐらい前にこっちに着いたんだ……いつもは北千住の官舎なの」
 階段を上りながら、振り向かずにはるみはそう返した。
「そ、そっか……北千住ねぇ……」
 二階に上がると、廊下の先には左右二つの部屋があり、はるみは右の扉に手を向けた。
 さて、この二人の出会いはどのような結果を生み出すのだろう。なにか大きな変化を招くことだけは間違いない。神崎はるみは姉と遼の対面をそう確信していた。
 遼がテロリストと戦っている。その告白に、だがはるみはあまり驚くことがなかった。秘密にされていた期間のことを思い返すと、彼やその仲間がいかに見えざる苦労をしてきたかが想像でき、その事実に胸が苦しくもなるが、やはり驚くことができない。なんとなく思っていた通りだったからなのだろうか。
 告白によって得られた情報はわずかである。しかし蜷河理佳(になかわ りか)を助けるのを手伝ってくれと頼まれたのだ。今後はもっと多くのことを教えてもらえるだろう。積極的に関わっていけば、いくらでも知ることはできる。全ては自分次第だ。
 そうなると残るは姉、神崎まりかについての秘密である。こちらは厄介だ。政府関係の仕事に就いている彼女の隠し事は、数年間という時間的な厚みも加味して考えると、知るのに相当なハードルを越える必要があるはずだ。
 だからこそ彼を連れてきた。遼と会わせることで、まりか姉を取り巻く秘密の壁にひびぐらいは入る可能性がある。「超能力」そんなフレーズにあそこまで冷静さを失ったのだ。それは間違いないはずである。
 手の震えが止まらない。自分の部屋のドアを開けるのに、これほど鼓動が激しくなったのは初めてである。少女はドアノブに手を掛け、ゆっくりと肘を引いた。
「どうしたの、はるみ? お客さん?」
 部屋に戻ってきた妹に、ベッドに腰掛けたままの姉は当たり前の質問を口にした。
「うん……同級生の島守遼くん。まりか姉にどうしても会わせたくって、来てもらったの」
「わたしに……? え……? なんで?」
 疑問に思ったまりかは、妹に続いて部屋に入ってきた長身の青年を見上げ、口を手で覆った。
「な……んで……?」
 忘れもしない二ヵ月前の三月十五日、料亭「いなば」で三代目真実の人(トゥルーマン)と対峙した際、この彼は現場にいた。獣人たちが暴れ、修羅場と化したあの場所に彼はいた。崩れ落ちる天井の真下にいた彼を突き飛ばし、逃げるように告げたが生き残りのたった四名の中にその顔はなく、おそらくは命を落としてしまったのだろうとばかり思っていた。

 同級生? 島守遼って……那須さんが言ってた子……? なんでこの子が島守遼なのよ!?

 晴海埠頭での殲滅戦現場で回収したノートPCから、一枚のDVDが発見された。それは妹の所属する演劇部の公演模様を収録したディスクであり、まりかが籍を置くF資本対策班の同僚、那須誠一郎(なす せいいちろう)が、それにより仁愛高校への捜査を開始したと聞いていた。妹の学級名簿には目を通し、島守遼の名はよく覚えていた。なぜなら島守遼は、演劇部にも所属していたからである。まりかは困惑し、何度も瞬きを繰り返した。

 セミロングの茶色がかった髪はよく覚えている。これで三度目の対面だ。一度目は晴海埠頭で。強烈な照明の当てられた倉庫の中で、泡と死体と血の倉庫中央で、彼女は赤い人型の中でじっとしていた。おそらく、向こうはこちらに気付いていなかったはずである。そして二度目は料亭「いなば」である。これは互いに瞳を会わせた出会いである。
「民間人が危ないでしょ!! 早く逃げなさい!!」
 そう言って助けてくれた彼女は、自分にとっても一応の敵である真実の人と対決していた。
 同盟から派遣された十名のエージェントを惨殺し、リューティガー真錠に重傷を負わせた彼女。
 獣人を倒し、日本を狙うテロリストの首魁と戦う彼女。
 敵なのか味方なのか。二度の出会いはあまりにも両極端ではあったが、よくよく考えてみれば、一つの立場に限定すればその行動に整合性を求められる。
 しかしそんな論理的な思考が吹き飛んでしまうほど、三度目の出会いは強烈だった。
 やっぱり……そーゆーことだったのかよ……!!

 「いなば」で対面した際、彼女の装着していた人型から「神崎くん」というコールが聞こえていたのは、やはり聞き間違いではなかった。ある程度の覚悟をしていたため遼はまりかほど驚きはしなかったが、やはりそれでも衝撃を受けたことに変わりはなく、彼ははるみの背後で硬直し、初めて見るまりかの首から下をじっと観察した。
 やはりあの赤い人型は、装甲服のような装着式の兵器ということなのか。白いブラウスに黒い革のパンツ姿の神崎まりかを見て、遼はそんなことを考えてみた。それにしてもはるみはどこまで事情を知った上で、自分に姉を紹介するつもりなのだろう。彼は小さく息を吸い込み、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。

 緊張などというレベルではない。これはいわゆる衝撃の出会いというやつだ。背後の遼と、正面の姉の様子を見比べたはるみは予想以上の反応に、自分も呑まれてしまわないよう気を引き締めた。
「わ、わたし……ジュース、買ってくるね……角のお店まで……しばらく待ってて……」
 まずは二人だけで対面させる。自分がいると、口にできない話題ばかりのはずである。はるみは遼と入れ替わるように扉に移り、彼を姉の方に押し出して部屋から出て行った。
 閉ざされてしまった扉に、遼とまりかはほとんど同時に手を伸ばして反応し、「はるみ!!」「神崎!!」と、二人の言葉が狭い部屋に響き渡った。
 このような難局に自分はこれまで何度も遭遇し、切り抜けてきた自負がある。今回のケースはあまりにも特殊であるが、やるべき行動はただ一つだ。神崎まりかは思考力をフル回転させ、一定の結論に達した。
「島守……くん?」
 背後から声をかけられた遼は、慌てて振り返った。
「は、はい!?」
「向かいの部屋に行きましょう……」
 まりかはベッドから腰を上げると部屋から廊下へ出た。慣れた挙動である。一連の所作から彼女がこの家の人間であることを、遼は今更ながら感じていた。
 絨毯が敷かれ、箪笥が一棹置かれただけの、がらんとした六畳間に遼は案内された。
 窓際で腕を組んでいるまりかと対した彼は、おそらくはここがかつて彼女の使っていた部屋なのだろうと判断した。
「こ、こないだは……どうも……助かりました……」
 まずは礼を言わなければならない。「いなば」で彼女に突き飛ばされたおかげで、板の塊から一命を救われたのは事実だったからだ。
「あの事件の生存者は四名……その中に……島守遼という名は含まれていなかった……」
 まりかは低くつぶやくように言った。どう対するべきか。その言葉はあまりにも多くの意味が含まれていたため、遼は答えに窮してしまった。
「君は……どこまで知っているの?」
 しかし彼はその質問にも返事ができず、ただ鼓動が早くなっていく苦しさを感じていた。
「あ、あなたは……政府の人なんですか……」
「F資本対策班所属……その通りよ」
 質問に対して質問で返したのにも拘わらず、彼女は即答した。これはこちらも答えろというプレッシャーなのだろう。まるで取引をしているような錯覚に遼は陥り、だがこのままでは埒が明かないと苛つきはじめもしていた。
「俺は……ある事件に巻き込まれて……それ以来、FOTと戦ってます……」
 できるだけ詳細はぼかすべきである。あくまでも慎重に、彼は言葉を選んだ。
「どうして? 普通の高校生の君が?」
 普通の高校生がテロリストと対決するなど、確かにあり得た話ではない。遼は大きく息を吸い込み、ポケットから凧紐を取り出した。
「えっと……こっちの端を掴んでください……」
 遼はまりかに凧紐の端を掴ませ、意識を集中した。

 わかりますか……お姉さん……俺……こーゆーことができるんです……

 意識に直接響く言語情報。それはまりかが久しぶりに感じる、“異なる力”だった。
 サイキ……ってことなの……君が……?

 “異なる力”って……言ってます……事件に巻き込まれて目覚めて……他にもものすごく小さいですけど、念じたものを動かしたりできて……それで獣人の血管や神経を壊して、戦ってます……

 君……一人で戦ってるの……?

 は、はい……そうです……

 「いなば」のことは……どうやって知ったの?

 ぐ、偶然です……たまたま通りかかって……

 はるみは……知ってるの?

 お、俺のことは……知ってます……

 まりかに尋問されながら、遼はこの凧紐を使った有線式読心で、彼女が実に的確で明確な意思を投じてくると驚いていた。岩倉を相手に行った実験では、相手の意識は途切れがちだったため、彼は一つの確信を抱いた。

 お姉さんも……俺と……一緒なんですか……?

 遼はまだ、まりかが明確に“異なる力”を用いるのを目撃していない。彼女の装甲服である「ドレス」が念動力を主動力にしている仕組みも知らない彼は、ここで初めて核心に触れ、まりかの即答は止んだ。

 ええ……そう……そうよ……

 しばらくした後、ゆっくり小さく彼女は頷き、紐を手から離した。
「島守くん……この国には連中と戦う政府機関があるの。君みたいな民間人が踏み込んじゃいけない……それだけは理解して……」
「お、お姉さんは……そこの所属なんですか?」
「ええ……わたしはもう八年ぐらい奴らと戦ってる……昔は君みたいに民間人としてね……それよりも……」
 まりかは窓際から遼のすぐ正面まで歩くと、長身の彼を見上げた。
「はるみは……どこまで知ってるの……?」
 まりかの目があまりにも真剣だったため、遼は息を呑んだ。
「お、俺のことは……教えました……見られてしまったので……け、けど……まだ詳しくは……」
「わたしのことは……?」
「さ、さあ……たぶん……知らないと思いますけど……」
「本当?」
「え、ええ……具体的なことは何も聞かされないで……今日だって唐突だったし……」
 その言葉にまりかは両手を胸に当て、数歩ばかり後ろに下がった。
「そっか……」
「け、けど……たぶん薄々は気付いてると思います……それなりにカンはいいやつですし、いろいろ調べてるみたいですから……」
「約束してくれる……?」
「は、はい?」
「はるみには……わたし……神崎まりかはあくまでも内閣府財務室に勤務しているって……ごく普通の政府職員だって……内緒にしてくれる?」
「そ、それは構いませんけど……でも……」
 いずれはバレる。そう遠くない段階で。遼はそう言葉を続けたかったが、対するまりかがあまりにも強い意を向けてくるため、口篭もってしまった。
「できるだけ……妹を危険な目に合わせたくないの……はるみには、普通の生活をして欲しい……だから島守くんも、戦いはわたしたちに任せて……妹を守ってあげて……その代わり、君のことは政府にも内緒にしておくから」
 階段を上る足音が聞こえてきたため、まりかはそれ以上なにも言わず、部屋から出て行った。

 口止めされただけじゃないか……俺は……!!

 なぜ晴海埠頭で自分たちを襲撃したのか、それを尋ねる前にタイムリミットが訪れてしまった。遼は自分の交渉力のなさに情けなくなり、舌打ちをした。

 缶ジュースを抱えて二階の廊下まで戻ってきたはるみは、姉にそのうちの一本を手渡した。
「まりか姉の部屋に行ってたの?」
「う、うん……ちょっとね……」
「わたしの部屋、狭いもんね」
「家具……押し込め過ぎちゃったかな?」
「いいよ。もう慣れたし」
 はるみの淡々とした様子が、かえって不気味だとまりかは思った。
「島守はオレンジジュースがいいんだよね」
 姉の部屋から元気なく出てきた遼に、はるみは缶を投げた。
「あ、あんがと……」
 受け取った彼は、異常なまでに喉の渇きを覚え、すぐに缶を開けて口をつけた。
 まだ二人の緊張は持続している。観察することではるみはそう判断し、自分部屋の扉を開け、姉と遼を招いた。

「演劇部に入ったばっかりのころは、ほんと下手だったんだよ」
「合宿でも先輩に怒られっぱなしなの」
「付き合ってた子が転校しちゃったの。それ以来、なんとなく話す機会は増えたかな? あ、けど友達同士だよわたしと遼は」
「成績、すごくよかったのに、バイトとか色々初めて、もうすっかりいまじゃ落ちこぼれなんだよこいつ」

「すっごいモテるんだよ、まりか姉って。いつも男友達がいるし」
「猛勉強して、志望校は落ちちゃったけど、一流私立に入れたんだから尊敬してる。けど、わたしにいっつも勉強しろってうるさいの」
「エジプト旅行に行けなかったの、いまだに恨むんだよ。自分から行かないって言い出したのに」
「高校の制服、凄かったんだよ。ほら、新宿南高校。あのしめ縄みたいなリボン!!」

 遼とまりかは頷いたり、「こらこら」と短く反論したりする程度であり、ほとんどはるみが一人で喋り続けていた。核心には一切触れない、あくまでもたわいない話題である。二人が安心していると、椅子に座って背もたれを抱えていたはるみが、目を細めた。

「ま、でも人にない力があるのって、それだけで羨ましいと思うな。二人にはわからないだろうけど」

 妹の唐突な言葉に、姉は手にしていた緑茶の缶を強く握り、遼は口に含んでいたオレンジジュースを噴き出しそうになってしまった。

 なるほど……まりか姉……遼に口止めしたな……

 具体的にはどのような内容を口止めしたかはわからない。しかしこの様子を見る限り、遼はそれに応じたようである。ならばいまは彼を信じよう。はるみはそう思い、再び話題を学校の出来事に切り替えた。

 一時間ほどの滞在だった。適当なタイミングで遼は帰宅を切り出し、外に出た彼は愛車のエンジンをかけ、ヘルメットを被ろうとした。
「遼!! 島守!!」
 玄関を開け、はるみが中から飛び出してきた。彼女は遼の手首を掴み、意識を集中した。

 聞こえてる……?

 あ、ああ……なんだ?

 まりか姉……なんて?

 く、口止めされた……お前に……自分の正体は明かすなって……

 正体……?

 互いに明かした……と思う……ごめん……俺緊張しっぱなしで……混乱してて……

 超能力のことは……?

 言った……それに……喋らないでこうすることだってやってみせた……

 もし姉がごく普通の人間であれば、彼の異なる力を目の当たりにした上で、あの落ち着きようはどうにも考えられない。やはりそうだったのか。はるみは小さく顎を引き、予想が正しかったと確信した。

 ありがとう遼……もう……じゅうぶんわかったから……

 お、教えなくてもいいのか?

 うん……まりか姉との約束は守ってて……わたし……馬鹿じゃないし……

 姉と同様、力のある強い意である。手首をぎゅっと掴んでいるはるみの目を見た遼はそう感じ、彼女にとってこの引き合わせにどうした目的があったのか、ようやく理解することができたような気がした。

 妹の部屋に一人残されたまりかは、窓から塀際での二人のやり取りを見下ろしていた。
 接触テレパス……? かなめさんと同じような……そっか……だから紐で対話できたのね……

 自分の持つ念動力以外の異なる力についてはあまり知識もなく、知る機会すらないのがまりかの立場だった。島守遼は約束を守ってくれるだろうか。いや、やはりどう考えても時間の問題なのだろうとまりかは諦め、再びベッドに腰を下ろした。
 自分の正体が知られてしまうのは最悪仕方がない。だが妹を戦いに巻き込むことだけは避けなければならない。無力な一般人である彼女は、あの血みどろの戦いで身を守ることすらできない。かつて肉体をばらばらにされ、貪り食われ無残な死を遂げた友人の末路を思い出した彼女は、両手で頭を押さえた。
「まりか姉。島守がさ、まりか姉のこと美人だって」
 部屋に戻ってきたはるみは、相変わらず焦点をぼやかした言葉を口にした。
「は、はるみ……」
 顔を上げた姉の、なんと元気のないことか。妹はそう感じた途端、背中を扉に付け、「うん」と、返した。
「島守くんって……約束……守るタイプかな?」
「守ると思う……けどついつい約束そのものを忘れるタイプ……かな……」
「そうなんだ……」
「いいやつなんだけど。そこが欠点かな」
「できるだけ……」
 視線を落とし、まりかは絞りだすような声で言った。
「できるだけ……彼と一緒にいた方が……お姉ちゃん、いいと思うな……」
 せめてサイキである彼と行動を共にしていれば、危険から身を守れる可能性は高くなる。そう思っての言葉である。今の自分はより多くの人間を防衛しなければならない。そんな立場になってしまった彼女の、それは嘆願だった。
「もちろん……わたし……あいつのこと……大好きだから……」
 妹の言葉に、姉は驚いて顔を上げた。そうか、そういった方面からの見方もあったのか。呆けた彼女の目に飛び込んできたのは、今にも泣き出しそうな、かつて何度も目にした妹の堪える表情だった。

3.
 昼休みに教室で弁当を食べるのは、リューティガー真錠、椿梢(つばき こずえ)、花枝幹弥(はなえだ みきや)の三人のみであり、この構成は一年生の末期から変化がなかった。
 中華弁当、手作り弁当、不細工なサンドイッチのそれぞれ食べる三人の会話は、授業のこと、昨日見たテレビのこと、世間で起きた事件のことなど雑多である。しかし今日、五月十七日においてはそれも少々異なっていた。
「え? 今日が誕生日なの?」
 箸を手にしたまま、梢が大きな瞳を茶髪の同級生に向けた。
「まぁな。これで十七や」
 ついつい口にしてしまった誕生日の話題に、彼女がこうも興味を向けてくるとは思っていなかった花枝は、すっかり照れてしまい視線を逸らした。
「プ、プレゼントはいらへんで。もろたことないし」
「えー……そーゆーわけにはいかないよぉ……ねぇルディ」
 話題を振られたリューティガーは、右目を閉ざして微笑んだ。
「そうですね……いつもこうしてお昼を一緒にしているわけですし……それにしても……高川くんと同じ日か……そうだ……」
 彼は箸を前後逆さまにするとエビチリを二つ摘み、それを花枝に突き出した。
「冷めてますけど絶品です。お誕生日おめでとう花枝くん」
「な、なんやルディ……人をおちょくっとおんか」
「いらないんですか?」
「お、おう、いただくわ」
 食べかけのサンドイッチを上下に開いた花枝は、エビチリを挟み込むとそれを頬張った。
「どうです?」
「う、旨いことは旨い。確かに絶品やな」
「でしょー!!」
 満面の笑みを向けてきたリューティガーに対して、花枝はますます照れてしまい、さっさとサンドイッチを平らげてしまった。
「わたしは……どーしよーかなぁ……」
「え、ええよほんまに。俺は梢ちゃんと毎日、飯食えるだけで幸せやし。それが最高のプレゼントや」
 言ってしまった後、花枝は更に照れを感じ、机に突っ伏した。

 あかんわ……なにやってる……こないな学園ごっこしてる場合あらへん……目の前に仲間がおるのに……なんで力を合わせることがでけへんのや……

 一体自分はこんな場所で何をしているのだろう。花枝幹弥はそれを考えると照れなど吹き飛んでしまい、苛つくばかりだった。
「そーだ!! お弁当、作ってきてあげる!! どうかな花枝くん!?」
 少女の提案も耳に入らず、少年は胸の中を腐らせてしまいそうな最悪の気分に落ち込んでいた。


 2年B組クラス委員の音原太一(おとはら たいち)にとって、憂鬱な時間が訪れようとしていた。教壇に立った彼の眼前には同級生たちが座っていて、だが自分に注意を向けてくれるのは僅かな人数だった。
 携帯でメールを打つ者。雑誌を読む者。携帯機でゲームをする者。勉強をしている者。なにか食べたり呑んだりしている者。寝ている者。友達と喋っている者。どいつもこいつもである。
 しかしここまではいい。ホームルームに集中する生徒など、逆に気持ちが悪いとさえ思える。問題はここからだ。彼の背後の黒板には、「議案・2005年度学園祭出しもの」と書かれていた。
「えーっと……これについて、誰か提案はありませんか……」
 昨年もこれと同じ台詞を皆に向かって言ったはずだ。そして、それに対するクラスメイトの反応も同様である。挙手をする生徒は皆無であり、雑音だけが教室を荒らしていた。
 この一年。なにも変化などない。ことクラスの気風という点においては間違いなくそう言える。無気力、無関心。行事など決まってしまえばそれなりに楽しむが、誰も提案者などという責任を負うのは億劫であり、自分からそのような立場を望む者は皆無である。
 それでも、昨年は数回の要求で関根という男子生徒がようやく勇気を出して、素晴らしいラーメン店の企画を提案してくれた。音原は最前列に座る彼の姿をちらりと見て、申し訳なさそうに垂れ下がった眉の彼に、諦めの吐息を漏らした。

「ごめんね音原君……僕は……今年はやめておこうと思うんだ」
 関根が音原にそう謝罪をしてきたのは昨日、五月十六日の昼休みだった。彼と昼食を共にしようと切り出したのは音原であり、それに本日のホームルームの根回しが含まれていることぐらい、関根にも予想ができた。
「な、なんでだ……? ラーメン仁愛は大成功だったじゃないか。今年はその強化版で行こうよ。どうせ提案してくるやつなんていないし」
「う、うん……けど……あれから一年経ってみて……まだあれ以上のコンセプトが思い浮かばないんだ……」
「コンセプト?」
「うん。ほら、お客さんで、白い長髪の、ビジュアル系の人がいたじゃない」
「あ、ああ、あの赤い目の外人さんか?」
「凄い理解してくれて、嬉しくって……けどね、なんか最近になって……逆にプレッシャーになってきたって感じで……納得の一杯をプロデュースしたいんだよ。でも今はまだ何も思い浮かばない。だから明日の提案はできないよ」
 いつになく多弁である事実に音原は関根の本気を感じ、それ以上の要請を諦めるしかなかった。

 ホームルームはただ時間だけが経過し、終了のチャイムと同時に、入り口付近のパイプ椅子に座っていた担任の川島が、「はいはい時間切れ〜」と、手を叩きながら気だるい声で告げた。いつもながらこの担任には腹が立つ。期限までになんの提案がなければ、職員室で恥をかくのは自分なのに。半開きの眼をこする中年教師に音原は激しく苛立ったが、そんな悪意すら彼は気付いていないのだろうと思うと、今度はひどい疲労感を覚えてしまった。


「篤……これで足りるかなぁ……」
 薄暗い照明の一室。大きなダブルベッドの上で、全裸の中年女性が青年に分厚い財布をちらつかせた。
「ああ……それだけ貸してもらえばじゅうぶんだよ……助かるよほんと……」
 青年は十数枚の一万円札を財布から抜き取ると、ベッドのヘッドボードに置いてあった銀縁眼鏡を手に取り、それをかけようとした。
「度、入ってるの?」
 女が眼鏡を横から奪い、それをかけ、顔を顰めて青年に返した。
「伊達じゃないよ。これをつけてないとほとんど見えない」
 だから中年太りの醜い彼女の顔を知覚せずに済む。言葉の裏にはそう含まれていたが、女は気付かずベッドから抜け出し、冷蔵庫を開けた。
「じゃあ……僕はそろそろ行くよ……集会の時間とかを決めないといけないから」
 青年もベッドから出て、床に散乱していたランニングとトランクスを拾い上げた。
「ねぇ……わたしも参加しなくっていいの? 集会」
 その言葉と同時に、青年は背中に弛んだ感触と生暖かさを感じ、眉を顰めた。
「あ、ああ……君には政治的な活動は似合わないよ」
「そうよねぇ……反米とか愛国とかって、よくわかんないもの」
「わかる必要はないさ……」
「よねー……あたしが知ってるのは……」
 女の手が股間に伸びてきたため、青年は急いでトランクスを穿いた。

 部屋を出て地下の駐車場へ向かった青年はセダンカーの運転席に乗り込むと、煙草に火をつけてエンジンキーを回した。
「昼間から資金集めも大変だな……関名嘉篤(せきなか あつし)」
 後部座席からの、あり得ざる方向からの声に、関名嘉と呼ばれた眼鏡の青年は驚いてミラーを見上げた。
 暗い車内の後部座席に、その男は佇んでいた。紫がかった白い長髪、黒いスーツ、赤いワイシャツ。カーキ色のネクタイ。色彩感覚を少々疑いたくなるどぎつさではあったが、端正に整った顔はかなりの美形であり、真っ赤な瞳があまりにも印象的だった。
「い、いつからいた……誰だあんた……?」
「俺はいつでもいる。そして貴様の活動に感銘を受けている一市民だ。反米左翼団体、音羽会議議長殿……」
 一体何者なのだろうか。言葉を額面通りに受け取らない関名嘉は、ミラーに反射する僅かな視覚情報だけを頼りに、男の正体を探ろうと努めた。
「なにが目的だ……激励に来たってわけじゃないんだろ……」
「いいや。激励に来させてもらった。俺は君の活動を支援したい。醜女に身体を与えたり、逆に女に身体で稼がせたり、そんな矮小な資金集めはこれから必要なくなる」
「ス、スポンサー希望だと……だ、誰が信じる……」
「そうだな。信じるのは現金を見てからだな……」
 突風が関名嘉の頬を撫で、次の瞬間、彼の正面に位置するコンソールパネルの上に、札束が突如として出現した。
「どうだ?」
「な、ななな……なんだよ……これ……?」
「円だ。金だ。偽札などではない。百五十万円はある」
「なんなんだよ、あんたは!?」
「支援者だと言ったろ。もちろん、今後は金と同時に口も出させてもらうが……」
 その言葉の直後、今度は関名嘉の首筋に突風が吹きつけた。堪らず彼が振り返ると、だがそこにいたはずの青年は忽然と姿を消し、へこんだシートに奇妙な生々しさを感じた青年は呻き声を上げた。

 ラブホテルというのは、なぜこうも珍妙な外観をしているのだろう。国道沿いの小さな城の前に出現した長髪の男、真実の人は太陽を背にした建物を見上げ、満足そうに頷いた。

4.
 ホームルームも終わった放課後、比留間圭治(ひるま けいじ)は全力疾走で下駄箱まで駆け、靴を履いていた少女の姿に足を止めた。
「た、高橋さん……!!」
 名前を呼ばれた黒い長髪の少女、高橋知恵(たかはし ともえ)は首を傾げ、不思議そうに比留間を見つめた。

 ここは二月十四日に彼女に呼び出され、チョコレートを手渡された記念すべき場所である。生徒ホールの裏まで高橋知恵を連れてきた比留間は、我ながら大胆な行動に出てしまったと興奮していた。
「どうしたの……比留間くん?」
 白目の割合が多く、恐いとさえ思える少女の瞳だった。威圧されてしまいそうになることもある。しかし今日こそは、はっきりと自分の意思を伝え、それに彼女がどう反応するのか確かめる必要がある。比留間は勇気を持続し、咳払いをした。
「こ、今度の集会……横須賀のデモなんだけど……」
「うん……」
 それにしても相変わらずの枝毛だ。陽を背負っている分、いつもよりそれがはっきりと認識できる。比留間は声が裏返らないようにもう一度咳払いをした。
「僕は……行けない……行くつもりは……ない……」
 変化をもたらしてみよう。その程度の思いつきである。もしこれで彼女が呆気なく了解してしまえば、もうこれはこちらの一方的な思い込みであり、そのような疲れる心情は捨ててしまったほうがよい。できることなら止めて欲しい。白い肌の彼女をちらりと見た比留間は、再び地面に視線を落とした。

 痛……いたたた……な、なに?

 右腕に、強烈な痛みを彼は感じた。一体何事だろう。彼が視線を移すと、少女の黒髪が風に揺れ、その細く長い指が自分の上腕部を強く握り締めていた。爪が制服越しに、皮膚や肉に食い込んでいるのだろうか。あまりの苦痛に比留間は表情を歪め、それ以上に少女の形相が恐ろしく変化していることに戦慄した。

 これは……鬼の顔だ……!!

 小さいころ本で見た般若の顔である。知っている高橋知恵ではないし、予想の延長線上にも存在し得なかった、それは彼女の「怒り」の面だった。
「だめ……いや……ごめん……きて……!!」
 嘆願の言葉である。なのになぜ、彼女の形相はこうも恐ろしいのだろう。まったく想定外の展開に比留間はすっかり困惑し、だが腕の痛みに対しては特別な価値があるように思え、そんな快感ともつかぬ奇妙な感覚が、彼の器をすっかり溢れかえらせていた。

 やりたい……やりたい……僕は……

 痛みと引き換えにやってしまおう。そう決心した比留間は、左手で彼女の黒髪を思いっきり撫で回した。指に伝わってきたのは、今度は迷うことのない確かな快感である。
「い、いやだなぁ……知恵ちゃん……ジョークだよジョーク……いやだなぁ……」
 黒髪を思う存分梳き、撫で、枝毛を指に絡ませながら、比留間圭治は口元から涎を垂らし眼鏡がずれるのにも構わず、このままの時がずっと続いて欲しいと願っていた。


 普段と違い、今日の部室には人数分のパイプ椅子が用意され、部員たちはそれぞれ席に着き一冊の台本を手にしていた。向き合うように座っているのは福岡部長と平田であり、黒板には「2005年度 学園祭公演 池田屋事件」と書かれていた。
「見ての通り、新撰組ものだ。キャストなんかは後日発表する」
 平田は部員たちにそう告げたが、皆の意識は彼の言葉に対してではなく、台本へと向けられていた。遼は最初の数ページをパラパラとめくり、空白であるキャスト欄に戻して目を留めた。
 新撰組物であるから登場人物の大半は男である。男子部員の割合も以前に比べて高くなったものの、演劇部の大半は女生徒である。少女の演じる同性というものに対していまだに違和感のある遼は、今回は特にその思いが強くなるのだろうと予測した。
 おそらく、近藤局長が平田先輩で、自分は隊士の誰かを演じることになるだろう。更に予測を進めた遼は、スタッフ欄に意外な名前を発見し、自分の斜め前に座るその彼女の背中を見た。
 脚本・針越(はりこし)、平田。遼が意外に思った連名者である2年A組の少女は、普段より若干緊張した様子で周囲に注意を向けていた。
「脚本なんて書けたんだ?」
 隣に座るはるみが声をかけると、針越は口元をわなわなと歪め、後頭部を手で押さえた。
「平田さんに思いっきり直してもらったけど……一応ね」
「そろそろ後任が必要だしな。今後オリジナル以外をやるにしても、脚本の心得があった方がなにかと都合がいい」
 針越の言葉に続き、平田は部員たちにそう言った。
「あと、今日はいないけど、2年C組の岩倉……ガンちゃんね。彼にもいろいろと手伝ってもらうから」
 福岡部長の言葉に、部員たちは坊主頭の笑顔を思い出し、一様に表情を和ませた。

 クラスでのホームルームに続き、部でも学園祭に向けて動き出そうとしている。島守遼はまだ暑くなる前だというのに秋のことを考えなければならない現実に、台本を丸めて視線を泳がせた。

 結局……どうすりゃいいのかわからないままだ……なのに時間だけは過ぎてく……いいのかよこれで……

 神崎まりかとの出会いは、一方的な口止めという望まざる結果に終わってしまった。しかも口止めの対象である彼女の妹は、その秘密をほとんどわかってしまっている。
 どこか、赤い人型に対する恐怖心も働いていて、それが交渉に影響したのだろうとも思える。晴海埠頭、料亭「いなば」、二度の遭遇はいずれも凄惨な修羅場であり、ヘイゼルたちエージェントを惨殺した理由がわからない以上、その協力者である自分にあの力が向けられるのを恐れていたとしても仕方がない。
 しかし、それにしても情けない。もう少しなんとかできたはずだ。民間人が踏み込むな、しかし異なる力で妹は守って欲しい。思えばむちゃくちゃで矛盾した要求である。だが自分はそれに反論することさえできなかった。
 強い目だった。八年間戦っていると言っていたが、リューティガーやその兄、真実の人にも共通した、あれは強烈なる体験を経た目であると思える。自分にはあれほどの厚みはまだない。まさか、それに気圧されたのだろうか。
「芹沢鴨って出てこないの?」
「鴨はもう粛清された後だし。当然新見も出てこないわ」
 はるみと針越がそんな言葉を交わしている間も、遼は一人、季節はずれの汗を額に滲ませ奥歯を噛み締めていた。


 結局、冗談と納得してくれたのだろう。いつの間にか走り去っていた高橋知恵の黒髪が、比留間の指に数本まとわりついていた。彼はそれを大事に学生鞄にしまうと、詰襟のホックを直し下駄箱へ向かった。
 たまにはああして、変化をつけた刺激を彼女に与えるべきだ。そうしなければ自分の存在はどんどん小さくなってしまう。腕の痛みと引き換えに得た結論に、比留間はすっかり満足していた。彼女にとって、自分はデモの参加者として欠かせない存在なのだろう。やはり高橋知恵はこちらに気がある。二月十四日のあれは、気まぐれなどではなかった。浮ついた気持ちが彼の足取りを軽やかにさせ、だからこそ背後から肩を掴まれてもさして頭にはこなかった。
「な、なんだい?」
 裏返った声を上げ、彼は振り返った。
「横田……? なんで……あれ……部活って入ってた?」
 ぎょろりとした目、ニヤついた口元。肩を掴んできたのは同級生の横田良平である。彼と自分とは、ほとんど口も利いたことのない疎遠な関係である。もっとも、そうした関係性の薄さは横田に限ったことではなく、比留間にとって友人と呼べる存在は中学高校を通じて皆無だった。
「図書館で調べごとだよ……それよりさぁ……実際AAになった感覚ってどうよ?」
「はぁ?」
 なにを言っているのだろう。AAとは一体なにを意味するのだろうか。比留間は下唇を突き出し、何も答えることができなかった。
「あれ? ニュー速とか議論板とか見てないの?」
「な、なにを言ってるんだ? なんなんだよ」
「え、え? 比留間ってあんまネットとかしない?」
「やるけど、うちはまだISDNなんだ。親がうるさいからあんまりできないし……携帯だってパケ代が馬鹿にならないし……」
「そっかぁ……残念だなぁ……いや、なら検索してみるといいよ。ワードはそうだなぁ……“キモオタサヨくん”でやってみ。びっくりするぜ、お前」
「はぁ?」
「まぁいいや……んなことは二の次……いやな、お前に忠告しとこうと思ってさ」
「何をだ?」
「お前の参加してる音羽会議さ……結構ヤバめだって……ネット見ないんじゃ、知らないかなぁ?」
 良平の言葉に、比留間は愕然とした。
「な、なな、なんでお前がそれを……!?」
「え、だって、ニュースに出てたじゃん。こないだのデモ」
「う、映ってたのか!?」
「だめだよ確認しとかないと。クラスの連中でも気付いたの何人かいたぜ。俺はリアルタイムで見てなかったけど、浜口からメールで教えてもらったんだ」
「そ、そうか……で、なにがヤバめなんだよ?」
 甲高い声に鼓膜をくすぐられた良平は肩を上下させ、「それこそ……検索してみ。“関名嘉”“売春”ってワードでググればいい」と、忠告した。
「わ、わかった……近所に漫画喫茶があるから……そこからやってみる……」
 そう返事をした比留間は下駄箱で靴を履き替え、足早に正門へ向かって行った。

「だめだよなぁ……政治活動すんなら、ネットもちゃんとチェックしないと」
 そう独り言をつぶやいた良平は、薄笑いを消し、壁を軽く蹴った。
 蜷河理佳に関する重大で膨大な資料を提示したというのに、あいつは一体いつになったら約束を果たしてくれるのだろう。彼は言った、「マジマジ。ぜってー紹介すっから。可愛い子」と。
 どうせここまで待ったのだ、それならばいっそ、演劇部に入部したという澤村奈美を紹介して欲しい。なんでも聞くところによると口が悪く、言いたいこと三昧のお嬢様らしいが、そこがかなりストライクゾーンである。何度か学食で目にしたが、常に一人で定食を食べている孤高の彼女は一年生の中でもかなり上位の容姿だと記憶している。
 赤みがかった髪をした、目の吊り上がった美少女の姿を思い浮かべた良平は、両肩を二度前後させ、「いいじゃん」と、口にした。


「新撰組かぁ……なんか楽しみだよね。キャスト発表。島守はなにやりたい?」
「ん……まぁなんでもいいや……俺、幕末ってあんまり詳しくないし」
 はるみと遼は、下駄箱から正門に向かってゆっくりと歩いていた。
「あ、そうだ……神崎……ちょっといいかな?」
 遼は駐輪場の前で立ち止まると、上着のポケットから携帯電話を取り出した。
「アドレス、変えたの?」
「いや……ちょっとな……」
 振り返ったはるみに、遼は携帯電話の背面に取り付けられたレンズを向けた。彼の意図を察したはるみは両肩を上げ、目を大きく見開いた。
「な、な、な!?」
「そ、そのまま……そうそう……笑って……笑ってな……」
 液晶に映った彼女の驚いた様子を注視しながら、彼は表情が変わるのを待った。
「ちょ、ちょっとなんなのよ。どーして写真なんて撮るの!?」
「頼むから笑ってくれよ。な」
 あまりに淡々と頼まれるので、はるみは仕方なくレンズに向かって微笑んでみた。すると、電子的なシャッター音が駐輪場に響いた。
「OK……ありがとうな……助かったよ」
 いい写真が撮れた。そう思った遼は携帯電話を折りたたみ、それを再びポケットにしまった。
「いや……今日さ、高川の誕生日なんだよ。で、一番喜びそうなプレゼントって考えて……」 彼の説明に、彼女は「あぁ」と、声を上げて納得した。
「でも……高川くんって……携帯って……?」
「あ、出力してくよ。意外と綺麗に出るんだぜ」
「ふ、ふーん……」
 両手で学生鞄を持ったはるみは、肩をすぼめて右足の踵で地面を叩いた。
「データ……どーすんのよ」
「え?」
「出力したあとの……データはどーすんのよ」
「あ、容量はまだいっぱいあるからさ、心配しなくっていいよ。俺、あんまり撮らない方だし」
 期待とは若干異なる解答に、少女はもう一度踵で地面を叩いた。
「ね、ねぇ……」
「ん?」
「遼さ……」
 下の名前で度々呼ばれることがある。それを果たして許容してしまってよいのだろうか。遼ははるみの言葉に躊躇し、手にしていたヘルメットを停めてあったバイクのシートに置いた。
「なんだい?」
 夕日を背にした長身の彼が、いつになく頼もしく思える。なぜそう感じるのだろうか。はるみは不思議な気持ちに首を傾げ、視線を地面に落とした。
「こないだね……あの……お米屋さんにお使いに行ったんだ……」
 “あのお米屋さん”とは、白い老犬「チロ」のいた店のことである。それを即座に理解した遼は、はるみと同様に視線を落とした。
「お婆さん……チロが逃げたと思ってるみたい……いつの間にかいなくなったんだって言ってた……急に歩けるようになったのが不思議だって……警察にも連絡したんだって……」
 か細く、消え入るような声だった。赤い目の狂犬と化し、代々木パレロワイヤルを訪れたはるみに魔獣の狂気を向けたチロ。その生命活動を切断し、泡化させた遼はMVXの車体に腰を当て、大きく息を吐いた。
「わたしにも……見なかったって……聞いてきたんだ……わたし……見てないって……嘘ついちゃった……」
「し、仕方ないだろ……ほんとの……あの婆さんに言えるわけない……」
「わ、わたしね……あんまり隠し事とかってしないんだ……小さいのなら何度かあったけど……それでも割と早く言っちゃう方だったの……けど……重くて……大きいと……隠しちゃうんだって……初めてわかった……」
 彼女がなにを言いたいのか、遼は直感的に理解し、視線を上げた。
 全身が小さく震えている。両膝は内側につけられ、立つのさえ懸命である。たぶん支えが欲しいのだろう。だがそれを自分が担うことはできない。するべきではない。遼はバイクから腰を離し、咳払いをした。
「隠していた方がいい事だってある……俺も……最近それがわかった……神……はるみもそうなんだろ?」
 今欲しいのは言葉ではない。なぜ彼はこの僅かな距離を詰めてはくれないのか。少女は泣きたくなってしまいそうな気持ちを押し止め、小さく頷き返した。

5.
遼の誕生日を祝った際に予告はされたものの、いざ食卓に並べられた四川料理の数々に、仲間たちの笑顔を見ると感慨も新たである。高川典之(たかがわ のりゆき)はしきりに頭を下げ、リューティガーや岩倉、陳に恐縮した。
「悪りぃ!! すっかり遅くなっちまって!!」
 そう叫びながら駆け込んで来たのは遼だった。高川は、彼にしては珍しい笑みを向け、「かまわんさ」と、小さく返した。
「プレゼントとかって、もう渡したのか?」
 席についた遼は小皿に麻婆豆腐を移しながら、リューティガーたちに尋ねた。
「ええ、僕からはスポーツバッグを……」
「僕は柔術用のグローブ。なんか高川くんのやつ、傷んでたから」
 リューティガーと岩倉はそう返事をし、遼が視線を向けてみると高川の足元には真新しいスポーツバッグとリボンがついた紙袋が置かれていた。
「そっか……俺のは帰り際にな」
「どうして? いま渡せばいいのに」
 リューティガーは当然の疑問を口にしたが、遼は、「まぁ……ちょっといろいろな」と、はぐらかした。
 神崎はるみの出力写真など、リューティガーのいる前で進呈できるものではない。リバイブしたチロと、そのルーラーである少女を殺害した現場を目撃した彼女に対し、彼はすぐに記憶を消去するように命じた。そう、あれは命令だったと思える。結局は誤魔化してしまったが、リューティガーははるみに対して個人的に負の感情を抱いている。遼はこれまでの細かな出来事も含めて、総合的にそう判断していた。
 おそらくは彼女の姉、神崎まりかが関係していることなのだろう。いずれ知る必要があると思えたが、とにかくこのような祝いの席で主催者の気分を害するものではない。遼は陳の料理を食べながら、用意したプレゼントのことをいったん忘れることにした。
「ん……島守……お前リストバンドはつけておらんのか?」
 遼の手首に注目した高川は、烏龍茶を一口飲んだあと、疑問を口にした。
「あのなぁ? あの後バイト先で量ったけど、9.2kgもあったんだぞ!! そんなものつけられるわきゃねぇだろ!! アンクルだって滅多にない重さだぜ」
 高川からの誕生日プレゼントである、金属入りのリストバンドを思い出した遼は、箸で彼を指しながら抗議した。
「なるほどな……」
「“なるほど”って……お前はつけてなかったのかよ」
「あれは重すぎるな。それに師範から禁じられている」
「お前が重すぎるってのを、俺がつけられるはずないだろ? マジでバイクはふらつくし、床に置きっぱなしにしてたら躓いて親父は転ぶし、なんかすげぇプレゼントだぞ」
 文句を言っているものの、遼の表情が穏やかだったため、高川も微笑したまま強い意は返そうとは思わなかった。
「そうか……しかし受け取ったときも、ここから出て行くときも平然としていたから、俺はてっきりお前に腕力があると思ってしまったのだがな……」
「ぼ、僕もそう思ったよ。島守くん、パンパンの鞄をひょいって持ち上げてたでしょ」
 岩倉も高川に続いて素直な驚きを遼に伝えた。
「バイト先でバーベルとかダンベル持ちなれてるから、コツは身体が覚えてるんだよ。けど実際は掌は痺れるし、肩と肘は軋むしで大変だったんだぜ」
 遼がそう言うと、高川と岩倉は表情を崩して笑った。そんな一堂を眺めながら、リューティガーは老酒を口に含み、視線をテーブルに落とした。

 信じる……しかないんだ……僕は……彼を……

 仲間と楽しそうに語らう遼を、リューティガーは疑う気持ちにはなれなかった。しかし、はるみの記憶を完全に消去できているのか、その確認だけはやってもらわなければならない。言い辛い話題をいつ切り出すか、彼がそう悩み続けている間にも、大皿の料理は次々と消費されていった。

「父も母も健在だ……兄弟はおらん……それが俺の家族構成だ」
 しばらくしてデザートの杏仁豆腐が運ばれてくるころになると、話題は高川典之のプライベートに移っていた。遼をはじめ、ここにいる者のいずれもが彼の個人的な事情を知らない。リューティガーだけは仲間にした際、同盟に背後関係の調査を依頼し、書類上では家族構成などに目を通したが、彼の祖父が時代劇好きで、よく一緒に見ていたなどという細かなエピソードまでは知らず、すっかり耳を傾けることに集中していた。
「でな、大河ドラマなどをよく膝の上で見ていたのだが、戦国物が祖父も俺もお気に入りでな、太平の世などがテーマだと、三話ほどで見るのを止めてしまったほどだ」
「ふーん……だから高川くんって、そういう言葉遣いなんだね」
 岩倉に指摘された高川は制服のホックを直し、「まぁな」と、照れくさそうに返事をした。
「完命流(かんめいりゅう)は、その祖父がたまたま道場の前を通りかかって、興味を抱いてパンフレットを貰ってきたことがきっかけだった。結局祖父も父も入門はしなかったのだが、そのときに色々と親切にしてくださったのが、リストバンドの持ち主である苗塚居三郎(なえづか いさぶろう)という伝説の達人……楢井師範の前の師範だったというわけだ」
「で……お前が入門してから世話になったのが……東堂(とうどう)さんだっけ?」
「あ、ああ……そうだ……」
 遼の言葉に高川は頬を紅潮させ、リューティガーは“東堂”という固有名詞に硬直した。その名は、彼にとってかつての上官を殺害した、仇の一人でもあったからだ。
 ある程度は予想していた。完命流という習得者が僅かである古武術の名を耳にしてから、東堂かなめという名が出てくることは覚悟していた。しかし“東堂さん”と他人事のように言う遼は、果たしてどこまで無知であるのかとリューティガーは困り果ててしまい、そうした思考の切り替えにより、暗く深い恨みは幾分和らいでいた。

 遼が……“東堂さん”……か……事実は……知らないほうがいいんだろうな……

 リューティガーはこの日五杯目になる老酒を呑み干し、自分が少し酔ってしまっていると自覚した。神崎はるみの件は、また今度相談しよう。そう考えると気持ちが少しだけ軽くなり、彼は六杯目の酒を陳に頼んだ。

 二時間にも亘る祝いの席は、リューティガーが急に眠くなり、陳が彼を寝室に連れて行ったことからお開きとなった。エレベーターホールまでやってきた三人の男子高校生は、そのまま路地に出て春の外気を吸い込んだ。
「そうそう。高川……これな」
 遼は学生鞄から教科書を取り出し、それに挟んだ一枚の写真を高川に差し出した。
「こ、これは……!!」
 写真を受け取った高川の手が震えた。
「あ、はるみちゃんだ」
 覗き込んだ岩倉は、写真の中で笑顔を見せている少女に、表情を綻ばせた。
「特別限定生写真。こんなのしか用意できなくってごめんな」
「い、いや……宝物……家宝にさせてもらう……」
 本来なら彼女から貰いたかった。しかし現在の疎遠さを考えれば、入手ルートがこうなってしまうのも仕方がない。高川は定期入れを取り出し、写真をそれに入れた。

 こ、これで……常にはるみんと一緒にいられる……いつでもはるみんを見ることができる……勉強……修行……家の手伝い……法事……あらゆる難局で、はるみんの笑顔が苦しさを和らげてくれるというものだ……!! 感謝だ島守!! お前がこれをどういった経緯で撮影したか、そのような野暮なことを問いただすつもりはない……俺は……俺は……俺は今学期中には……俺は……はるみんに……感謝だ島守!! 俺はこれを入手したことで、ようやく勇気というものを得られたような気がするぞ……!!

 定期入れを手にしたまま、高川は目を閉ざして口を真っ直ぐに結び、太い眉を小刻みに震えさせていた。


 夕食を食べ、風呂から上がった比留間圭治は両親に、「コンビニ行ってくる。一時間ぐらい」と告げ、駅前の漫画喫茶までやってきた。
 気兼ねなく自由にネットをやろうと思ったら、ここしか適当な場所はない。比留間は受付を済ますと指定されたPCのある個室へ向かい、検索サイトへ早速アクセスした。
 いきなり核心を目にするにはどうにも心の準備が間に合っていない。そう思った彼は、“キモオタサヨくん”というキーワードを打ち込んでみた。
 なにやら絶叫している男を描いた気持ちの悪い絵である。検索結果にある掲示板に投稿された、文字と記号の組み合わせで表現されたそれを目にした比留間は、まさかそれこそがニュースで映された自分をモデルにした似顔絵であるとは気付かず、良平の言葉がますます理解できなくなってしまった。
 掲示板には文字と記号によるグラフィックだけではなく、いくつか意見も書き込まれていた。その大半は反米デモの組織活動を誹謗中傷する、どこからから見ても程度の低い便所の落書きのような意見ばかりであり、比留間は持ち込んだジュースを何度も口にしながら、これだからネットには馬鹿が多いと呆れかえった。
 意見の中には、反米活動の矛盾点や問題点を正確に突いたものも存在したが、彼にとってそのように都合の悪い正論は頭から無視の対象であり、どうせどこかの新聞のコラムでも引用してきたのだろうと決め込んでいた。
 それにしても気になるのは、誹謗中傷の中に時折現れる、「だって音羽はエロ名嘉だし」というフレーズである。“名嘉”とは“関名嘉”のことだろうか。核心にきてしまったかと比留間は緊張し、ついに彼は“関名嘉 売春”というキーワード打ち込み、検索ボタンをクリックした。


 窓から見える夜景が白々しい。そもそも、食事を待つ間に風景を見てしまうなど、これまでにない経験である。一体いつになったら、鰻重・竹は自分たちのデーブルに運ばれてくるのだろうか。花枝幹弥は仕方なく、窓の下に広がるJRのホームから正面に座る髭面の男へ視線を移した。
「デパートで飯なんて、滅多にないだろ。池袋一帯を一望できるんだぜ」
 黒いハイネックセーターを着た、短い髪の檎堂猛が、相方の花枝に表情を殺したまま話しかけた。
「いつもより高級店やな。どない風の吹き回しや檎堂はん」
「いや……たまにはなと思ってな……」
「調査スケジュールは守ってるから小言を言われる覚えはあらへんし、その逆に予想以上の成果も上げとらへん。いつも通り、平々凡々つつがなく任務は遂行してるし、こないなイレギュラーは不気味なだけやで」
 花枝の言葉には多分の毒が含まれていた。人生経験の豊富な檎堂は丸い目を瞬かせたが動じることなく、山椒の粉末が入った瓶の蓋を摘んだ。
「鰻は嫌いか?」
「別に。食ったことあらへんし」
「脂がな。旨いぞ」
「せやけど、いつになったら運ばれてくるんや? もうかれこれ三十分は待たされてるし」
「いい鰻屋ほど、時間をかけて火を通すんだ……こうして待ってるのだって、味のうちなんだぜ」
「はん……俺は待つのは苦手や。さっさとちゃっちゃと済ますんが、性におうとる」
 言外の意図がじゅうぶん過ぎるほど檎堂に伝わった。彼らが来日して半年近くが経過している。乱世を迎えつつあるこの国に潜入しているのにも拘わらず、任務と言えば盗聴ばかりである。「待て」そんな言葉を何度も繰り返していたがこのパートナーの我慢は限界に達しようとしている。檎堂は山椒の蓋をいじるのを止め、丸い目で花枝の垂れ下がったそれを見つめた。
「時間の問題になりそうだ……花枝……調査範囲は近々大幅に狭まる。この意味がわかるか?」
 簡単な問いだ。調査範囲の縮小は、取得情報の単純化を意味する。諜報戦においてそれは基礎的知識である。しかし彼は、もういい加減この熊髭男の保護者然とした謎かけにはうんざりとしていた。彼は視線を再び窓に向け、ホームに入る電車を見下ろした。
「ふん……拗ねたか……花枝よ……」
 その一言で、花枝の気持ちが弾けた。彼は立ち上がり、鞄を肩にかけた。
「いらんわ鰻重。もう待ってられへん。帰らせてもらうわ!!」
「待たねぇか花枝!!」
 檎堂は歩き去ろうとする花枝の手首を掴もうとしたが、彼の頭の中を、瞬時にして大量の言語情報が浴びせかけられた。檎堂は呻き声を上げ、テーブルに突っ伏してしまった。
 檎堂はん……人を舐めはるのも大概にしとき……俺にはこうした力があるんやし……!!

 最後に単純で明確な言葉を投げかけた花枝は、力強い足取りで店から出て行ってしまった。

 若いな……せっかく誕生日でも祝ってやろうと思ったのによ……やはり……俺ではもう……抑えきれねぇか……

 後頭部につんとした痛みを感じながら、檎堂はようやく運ばれてきた二つの鰻重に苦笑いを浮かべた。

6.
 あまりにも細く、狭間に埋まるっているようなビルだった。繁華街の外れ、四階建ての二階にそのバーはあった。
 外はまだ真昼だというのに、薄暗く狭い店内はカウンター以外の座席が存在せず、七人も座ってしまえば満員となってしまう。そんな少ない定員の二人分の体積を、横幅だけはたっぷりした陳師培が占有してしまっていた。彼は紹興酒の注がれたグラスを傾けると、隣に座る男を横目で見た。
 襟のない白いシャツを着たその男は陳とは対照的に痩せていて、丸めた背中から肩甲骨のシルエットが浮き上がっていた。バーボンを一舐めした彼は、久しぶりの美酒に鼻を鳴らせ、会話を再開した。
「紅西社の実権が劉慧娜(リウ・ヒュイナ)に移るのは……こりゃあもう時間の問題だな」
 男の言葉を聞いた陳は、細い目を線にして鼻を鳴らせた。
「随分と速い動きネ……FOTが支援したからかナ?」
「当初はな。しかし上海で俺が依頼された段階では、慧娜はほとんどの重鎮を味方につけていた」
「となると……もうこれは確実に連携をとると考えていいのかネ。古柴(ふるしば)」
 古柴と呼ばれた痩せた男は、白髪交じりの髪を苦笑いで揺らした。
「まず間違いない。詰めの段階で支援がないってのが裏付けている。つまり慧娜は紅西社に本気ってことさ。一時的とか、傀儡になるつもりがない……こりゃ、同盟がどう動くか見ものだぜ……いや……失礼……いまのお前さんの立場をすっかり忘れていた……」
「構わないね古柴。同盟のエージェントである前に、私はプロフェッショナルだからね」
 陳の言葉に古柴は頷き、グラスを人差し指で叩いた。
「けどまぁ……一番は坊ちゃんとかいう少年なんだろ? いまのお前さんは」
「まぁね。ルディ坊ちゃんが一人前になること。これが私の一番の望み。大前提というやつね」
「そうか……でな……悪いんだが……」
 視線をグラスに向けたままの古柴に、陳は首を横に三度振った。
「仕方ないネ……場合によっては同盟を敵に回すことにもなる……フリーの立場じゃ引き受けられないのもわかるヨ」
「そ、そうか……しかし……お前さんには借りが山ほどあるってのに……ほんとに済まねぇ……」
 古柴は頭を下げ、陳は、「すぐに謝るのよくないネ。日本人の悪い癖ヨ」と、彼を諌めた。

 店の入ったビルの裏手側、凸凹して濡れた路地に花枝幹弥はポケットに両手を突っ込んで佇んでいた。ヘッドフォンを耳にした彼は、両目を閉ざして意識を集中した。

 檎堂はん……イレギュラー任務の結果や……陳師培がフルシバいう男と合流した……話題は紅西社の動向についてや……それについては新ネタはあらへん。フルシバいうのはネタ屋か殺プロやな。酒のせいで雑な所作になっとるから、これ以上の詳細はわからへん……

 五日前、ついに感情を爆発させてしまい、檎堂に反抗した花枝だったが、決められたスケジュールを放棄することなく、この日も更に追加されたこの盗聴もこなしていた。後ろ指を指されるような無責任な真似だけはしたくはないという、それは彼の律儀さの顕れである。
 しかし、それとて限界というものがある。花枝は檎堂から送られてきたメールも確認せず、駅に向かって歩いて行った。

 もうええやろ……今日は三件もイレギュラーやったし……これ以上はオーバーワークや……

 朝からずっと、盗聴に次ぐ盗聴の連続である。すっかり疲弊した花枝は、それでも日曜日の今日はまだ陽も高いと感じ、ならば溜め込んだストレスをなんとかして発散させたいと欲求が沸いた。

 せやな……梢ちゃん……日曜は必ず家にいよるはずやし……梢ちゃん……会いたいな……

 広い額に大きな瞳。いつもはにかんだような笑みを絶やさない、ある同級生のことを彼は想い、ダウンジャケットのポケットからメモ帳を取り出した。


 テニスボールを買ってきた娘に対して、母はひどく心配をしてしまった。普通の家族でもあれば、「梢、テニスなんてはじめたの?」などとさらりとした会話になるだけであるが、生まれつき重度の障害を抱えた娘に対し彼女は、「どうするの?」と、尋ねてしまった。そらく、怪訝な表情だったと思うしそれが情けない。
「うん。握力つけようと思って……大丈夫だよ。運動するってわけじゃないから」
 あくまでも明るく、娘の梢は気を悪くせずにそう言ってくれた。それだけが嬉しい。母は昼食の食器を片付けながら、自室に戻った梢のことを想った。

 自分に“異なる力”がある。手を触れず、物体を自由に動かすことが出来る。医者が奇跡だと言っていた、奇形の心血管を無意識に広げ続けていたのも、きっとこの力のおかげなのだろう。椿梢がそう自覚したのは三ヵ月前の二月、ペットショップでリバイバードッグに襲われ、友人を守る一心でその力をはじめて外部に向けたのが原因だった。

「追いつきたいのなら……自分のペースで……間に合ったら……そのときは僕を助けてくれ……待つことはできないけど……」

 リューティガーはそう言ってくれた。彼も自分と同じような力の持ち主であり、なにかと戦うために転入してきたのだろう。ベッドの上に座っていた彼女が勉強机の上に置いたテニスボールに意識を集中すると、それはゆっくりと空中へ舞い上がった。
 心血管の奇形を補正したまま、つまりリスクを伴わないまま、現在ではこの大きさの物体をかなりのスピードで動かすことができる。自室の中だけの練習なので、範囲など詳しく能力の測定をできないのが残念だが、日に日により重い物体をより早く動かすことができているという自覚はある。
 どこまで質量を増やし、どれほど早くそれを動かせれば、彼の力になれるのだろうか。修練の終着点を決めていなかったため、梢は焦りを感じ始めていた。

 もし……ルディがファクトみたいなテロリストと戦っているんなら……この程度じゃだめだ……ピストルとか……そのレベルまで……

 少女はベッドから立ち上がり、学生鞄の中から一冊の本を取り出し、ページをめくった。
 それは図書館で借りた、拳銃に関する書籍である。

 Five−SeveNっていう拳銃の場合……初速が秒あたり650m……弾丸の大きさが5.7×28mm……このレベルまでいけば絶対問題ないんだろうけど……時速にすると2340km……マ、マッハ2近く……か……

 とてもではないが、それほどのスピードは今のところは無理である。あまり物理や数学は得意ではない梢だったが、とりあえず決めてみたハードルに呆然としてしまった。
 すると、彼女は扉をノックする音に意識を奪われた。
「どうしたの?」
 本をベッドの下に隠した梢は扉を開け、母に向かって首を傾げた。
「花枝さん……ほら、前にお見舞いに来てくれた……近所まで来たからって……どうする?」
「花枝くんが? ここまで?」
 娘があまりにも意外そうに驚くので、母はやはり取り次ぐべき相手ではないのかと思い、しかしそれならこのような正攻法で尋ねてくるのもおかしいと不思議に感じた。
「わかった……上がってもらって」
 少し考えたあと、娘がそう返事をしたので母はますます混乱し、用心するべきだとわけもわからないまま心に決めていた。

「え、なんで……どーして?」
 腰に手を当て、部屋を見渡すダウンジャケット姿の花枝幹弥に、椿梢は何度も疑問をぶつけ、やがて椅子に腰掛けた。
「自由が丘に用事とかってあったの?」
「ない」
 こうなった状況をひっくり返してしまう彼の言葉に、少女は大きな目を更に見開いた。
「会いたいから来た。実はさっきまで歌舞伎町でバイトやったんや。朝からきつい仕事でもうクタクタになってな。そないなとき、梢ちゃんのおでこが光ったんや。俺の頭の中でな。これはもう会わなあかん。どうかなってまいそうや思ってな。ところが俺、梢ちゃんの携帯の番号知りよらへん。せやから住所思い出して突撃してきたわけや」
 一気に言い切った花枝は梢に背中を向け、ぺたりとその場に胡座をかいた。関西弁のイントネーション、唐突な行動。そのどれもが梢にとって可笑しく、彼女は堪らず口を押さえて笑い出してしまった。
「おっかしい……!! なんなの花枝くん……なんか漫才とかコントみたい!!」
「笑われるのは覚悟の上や、せやけどせめて一時間はここにいさせてや。気分が落ち着いたら帰るし」
「う、うん。お昼ぐらいしか話す機会ないものね。別にかまわないよ」
 その言葉に、花枝は胡座の姿勢のままくるりと振り返り、彼女を見上げた。
「ほんまか? 助かるわ。なんやノイローゼ寸前なんや。決して変なマネはせぇへんから。楽しくお話しような!!」
 先ほどから、腰のポケットに突っ込んだ携帯電話のアンテナの先が何度も点滅していた。花枝は梢に気付かれないように手を入れ、電源スイッチを切った。

 悪いな檎堂はん……せやけど限界なんはほんまや……俺は機械やあらへん……たまにはサボタージュさせてもらう……

 少女のどこかぎこちない笑顔に少年は癒やされ、何かが一歩前進したような、そんな満足に心を落ち着けていた。


 携帯電話がついに不通となった。液晶画面でそれを確認した檎堂は、ホテルの壁を思いっきり左足で蹴り、自分にしては迂闊な行為に顔を顰めた。

 あの馬鹿野郎……今日はまだ二件追加があるんだぞ……なに考えてやがる……!!

 檎堂は右手で杖を持ち、左手で旅行用の大型鞄を開いた。
 盗聴器、拳銃、発信機。愛用品の数々を檎堂は次々と点検し、それを小さな鞄に移し変えた。ある程度の覚悟はしていた。数年前右足に傷を負うまでは、この国での諜報活動に失敗するまでは、「地獄耳の檎堂」と言えば、裏の世界で知らぬ者がいないほどの腕利きエージェントだった。しかし相方の彼が仕事を拒絶するのであれば、自分が復帰する以外に道はない。彼は洗面所まで向かうと、髭だらけの丸顔を何度も掌で叩いた。

 そうだ……花枝がやられたって可能性もゼロじゃねぇ……落ち着け……落ち着けよ……冷やせ……神経を平らに……

 水道の蛇口をひねった彼は頭から水を浴び、低く雄叫びを上げた。

7.
 休み明けの月曜日はいつだってくたくたで、特に午後の授業が体育というのが疲労感を倍化させているような気がする。その上、放課後になれば部活も待っている。ホームルームのあと、遼は机に側頭部を付け、気力の回復に努めていた。無論、こうしていても同じ部の神崎はるみか鈴木歩(すずき あゆみ)に部室への移動を促されるのは目に見えている。しかし数秒でもいい、とにかく今はなにも考えたくなかったし、動きたくもなかった。

 遼……疲れているところ悪いんだけど……ちょっといいかな……

 肩から、そんな意識が彼に滑り込んできた。突っ伏したまま視線を動かすと、紺色の瞳が見下ろしていて、意外な呼びかけに遼は少しだけ戸惑った。

 ああ……いいけど……

 屋上に行こう……ここだと騒々しい……

 机に伏している遼と、その肩に触れているリューティガー。無言のままの二人を一瞥したはるみは、何をしているのかすぐに理解し、気付かないふりをするため教室から出て行った。
 高川典之は、席に着いたままそんな彼女を目で追っていた。

 部活に行くのだな……はるみん……学園祭の演目が決まったと聞くが……また……姫の役であろうな……はるみん姫……拙者は再び助太刀に参りますぞ……

 彼女の感謝する笑顔を思い浮かべた高川は、机の表面を人差し指で“はるみん”と、なぞり、逞しい上体を左右に振った。
「キショ……」
 いつの間にか正面に来ていた金色交じりの長髪に、高川は背筋をピンと伸ばし、慌てて指を引っ込めた。
「す、鈴木か……お前も演劇部であろう……神崎さんについていくべきではないのか?」
「つーか平田センパイから頼まれてさ……あんた今日の部活、出席してくんないかな?」
 鈴木があまりにも早口だったため、高川は耳に手を当てて、「なんだぁ!?」と、間抜けな声を上げた。
「キショ……つーか面倒だからさ、とにかく演劇部まできてよね。悪いようにはしないって、平田センパイ言ってたし」
 野暮ったい化粧顔で睨みつけると、鈴木はくるりと背を向け、教室から駆け出て行った。
 教室内は走るな。そう注意しようとした高川だったが、鈴木の姿は廊下へと消えてしまったため、彼はもう一度言われた内容を頭の中で反芻してみた。

 演劇部に来いだと……平田先輩が……? よもや果たし合い……ま、まさか……平田先輩もはるみんのことを……!!

「いかーん!!」そう叫び、高川は椅子をひっくり返す勢いで立ち上がった。


「これを使おう……手ばっか握ってると、変に思われるし」
 屋上までやってきた遼は、凧紐の先をリューティガーに手渡した。

 遼……君に頼みがある……

 なんだ……?

 この前、神崎はるみの記憶を消したよね……

 ああ……

 疑うわけじゃない……ただ不安なんだ……完全に消えていなかったり、復活したり……ガンちゃんフィルタは同盟でもまったく検証されていない不確定な応用読心だ……

 “疑うわけじゃない”その気持ちが、遼の心に突き刺さった。しかし今更後には引けない。彼は自分の感情が漏れないよう、太ももを軽くつねって気持ちを引き締めた。

 確かにな……けど神崎の様子を見る限り、覚えてないみたいだけど……

 彼女は演劇部だ……僕たちに悟られないように芝居を打っている可能性もある……

 なるほど……

 疑うべき視点にさすがは誤りがない。ただ一点、リューティガーがミスを犯しているとすれば、自分を信じてしまっているということである。遼はますます心が締め付けられるような辛さを感じた。それは彼の表情を歪めさせ、リューティガーから見てもわかるほどだった。

 どうした……遼……

 い、いや……長時間……紐でやるのは慣れてなくって……だ、大丈夫……で……なら神崎の記憶が消えてるかどうか、俺とガンちゃんで確認すればいいんだな……

 そう……その通りだ……一度だけじゃない……今後度々やってくれると助かる……

 ああ……ガンちゃんも演劇部の手伝いが増えるし……機会はいくらでもある……直接触らなくてもいけるかも知れないし……わかった……

 ありがとう遼……

 曇りのない、純粋な感謝である。リューティガーが離した凧紐を手繰り寄せた遼は、フェンスに背中を付け、苦い笑みを浮かべた。


 高川は北側校舎の階段を上り、演劇部部室の前まで早い歩みでやってきた。この扉の向こうに果たし合うべき先輩がいるのか。部長ではないが、演劇部の陰の実力者と部員たちが一目置いている平田浩二先輩が待ち構えているのか。立ち止まった高川は大きく息を吸い込んだ。

 し、しかし……平田殿に武の心得があるとは思えん……どうする……手加減などできるのか俺に……感情を制御せねば……いくら向こうから申し込んできた決闘とは言え、怪我などさせたらそれこそはるみんに……

 叱られるどころではない。完命流の実力は彼女も見ているのだ。ここはうまく立ち回らなければますます粗暴な男と勘違いされてしまう。いつぞやの刑事のような誤解は避けなければ。わざと笑顔を作り、彼は意を決して扉を横に開けた。
「高川典之!! 参ったぞ!!」
 颯爽と現れた偉丈夫を、パイプ椅子に座っていた部員たちが一斉に注目した。
「おぉ、すっかりその気だな、高川」
 皆と向き合うように座っていた平田が、眼鏡を上げて嬉しそうに言った。なんなのだろう、この全員集合は。決闘の観衆にしては弛んだ雰囲気であるし、台本らしきものを手にしている。高川はすっかり困惑し、「なにが……どうなっておるのだ……」と、低く呻くようにつぶやいた。
「“どう”って……聞いてないのか高川? 鈴木からは」
 更に平田に言われた高川は首を大きく傾げ、先輩のすぐ側に座っていた化粧顔を見た。
「つーかさ……なんか恐くてね……とにかく部室に来てっていっただけだったりして……」
 鈴木は最後にぺロリと舌を出し、正面にいた平田をちらりと見た。
「だめじゃないか鈴木……ちゃんと事情は話しておけって言っただろ?」
 鋭い視線をぶつけてくる先輩に、少女は頬を引き攣らせ右手で椅子の縁を強く掴み、身体の芯が少しだけ痺れるのに興奮した。
「ねぇねぇ……高川くんも座りなよ」
 一同の後方に座っていた、坊主頭の巨漢がそう促した。
「ガンちゃん……? な、なるほど……そ、そういった事情での呼び出しか……助っ人の要請か……」
 演劇部に対しては自分とほぼ同じ立場にある岩倉の存在により、高川はこの奇妙な状況をようやく呑みこみ、空いている椅子に向かった。それにしてもあらためて部室を見渡すと、なんと女生徒の比率が高いことだろう。なにやら慣れない匂いが漂っているようでもある。彼は岩倉の隣に座ると、まずは心落ち着けるために目を閉ざし腕を組んだ。
「じゃあ、そろそろキャストの発表にいこうかな……ハリー、これを黒板に書き写して」
 福岡部長は一枚の紙を針越に手渡そうと腰を上げた。
「あっ……けど……まだ島守くんが……」
 針越は受け取りながらも、唯一不在である部員の名を口にした。するとその直後、部室の扉が勢いよく開かれ、その当人が姿を現した。
「申し訳ないっス!! ちょっと用事で」
 右手を前に出して謝罪する遼を、平田は後ろに座るよう促した。
「あれ……高川にガンちゃん……どうしたんだ?」
 少々意外な二人の存在に、遼は不思議そうに目を大きく見開き、彼らの傍のパイプ椅子に座った。
「僕は部長に呼ばれたんだ……」
「俺は平田殿だ……」
 二人の説明に遼は納得し、キャストを黒板に書き写す針越に視線を向けた。
「だよなぁ……前回は裏方の手配が間に合ってなかったし……ガンちゃんたち……手伝ってくれるんだよな?」
「も、もちろんだよ。僕でよければ……学園祭のだと、バンドと掛け持ちになっちゃうけど、できるだけのことはさせておくれよ」
 岩倉があまりにもはっきりとした言葉で嘆願にも近い宣言をしてしまったため、高川は何度か小刻みに頷くことで返事に代えた。
 針越がチョークで書き写したキャスト一覧は部室の後方からでも読みやすく丁寧であり、書き写されたそれを遼は上から読んでみた。

沖田総司……澤村(1−A)
近藤勇……平田(3−A)
土方歳三……島守(2−B)
山南敬助……福岡(3−C)
永倉新八……徳永(3−B)
原田左之助……阿久津(1−B)
井上源三郎……桑井(3−B)
山崎烝……春里(1−A)
藤堂平助……桜井(3−E)
斎藤一……高川(2−B)・特別出演
松平容保……須賀野(1−B)
島田魁……庚槇(3−D)
古高俊太郎……芦野(3−C)
奥沢栄助……針越(2−A)
孝明天皇……門野(2−A)
おとわ……神崎(2−B)
おりく……鈴木(2−B)
宮部鼎三&藩士A……本沢(2−C)
藩士B……外川(1−A)
藩士C……火物(1−B)

「へぇ……あの子が一番上かぁ……思い切ったキャスティングだなぁ……」
 筆頭に書かれていたのは、新入部員はおろか、現在の演劇部でもっとも演技が達者と目されている期待の新人、澤村奈美(さわむら なみ)の名前である。遼はわざとらしくつぶやくと、端の方に座る彼女に視線を向けてみた。
「ね、ねぇ繭花。この沖田ってどんなやつなの?」
「台本、もう読んだんじゃないの?」
「もちろん。けど沖田ってのがどんな容姿なのか、そこまではわからなかったもの」
 奈美は隣に座る同級生の春里繭花(はるさと まゆか)と台本を付き合わせていた。その様子になんとなく懐かしさを覚えた遼は、自分の横に書かれた「土方歳三」という名前に顎を突き出し目を細めた。

 副長だよな……土方って……俺も下調べ、しとかねぇとな……

 中学時代の歴史勉強でも、幕末は急ぎ足で流してしまい、覚えているのは各藩の動きや朝廷と将軍家の大雑把な関係が中心ぐらいである。新撰組についてはほとんど知らない彼だった。そしてなんとなく視線を下げた遼は、意外な名前に仰天した。
「お、おいおい!!」
 遼は隣で目を閉ざし腕を組んでいた高川の肩を掴み、彼の分厚い身体を前後に揺らした。
「どうした……島守」
「アレ見ろってアレ!!」
 あまりにも遼がうるさいため、高川は目を開けた。すると部員の大半が自分に注目していたため、大量の意に彼は気圧された。
「な、なんなのだ……なんなのだ一体……!?」
 うろたえるその背中を、岩倉が分厚い掌で叩いた。
「み、見てよ高川くん!! アレだよアレ」
 遼も岩倉も、二人とも黒板を見るように指差していた。
「悪いな高川。鈴木には伝えてあったんだが、唐突な結果になってしまって」
「けど安心して。台詞は三つ、それも一言ずつしかないし!!」
 黒板のすぐ前に座る平田と福岡部長が、事態を認識する前の後輩に声をかけた。

 あ……斉藤……? 特別……出演……? 俺が……?

 自分の名前を黒板に見出した高川典之は、太い眉毛を上下させ、瞬きを繰り返して我が目を疑っていた。

「今回は全員出演じゃない。どうしたって受験で忙しい者もいるし、前回の反省で、ある程度裏方面も強化したい」
 席を立った平田は部員たちにそう説明したが、放心したままの高川には聞こえていなかった。
「高川くん……高川くん!!」
 彼の前に座っていたC組の本沢(もとさわ)という女子部員が、真新しい台本を突きつけ、意識を向けるように何度も名前を小声で呼んだ。ようやく我に返った高川は彼女から台本を受け取り、それを膝の上に載せた。
「す、凄いね高川くん……特別出演なんてさすがだよ。高川くん時代劇とかってきっと似合うと思うよ」
 岩倉の賞賛に、高川は苦笑いを浮かべてぎこちなく頷き返した。自分に芝居などできるのだろうか。福岡部長は台詞も少ないと言っているし、確かに斉藤一役ならそうかもしれない。しかし無武の戦いを主眼とした完命流において剣法は邪道であり、もし武道経験を期待しての特別出演であれば、それについてはあまり望ましくない結果になると告げておく必要があるのではないか。硬骨漢の彼は、愚直にそう思った。
「心配するなって高川……俺だって一年前までは、芝居なんて全然出来ない素人だったんだ」
「し、しかしな……斉藤一は実戦派であったという点こそ俺と共通するが、小野派一刀流の動きなど皆目見当もつかぬぞ……」
 いつにも増して堅苦しい言葉遣いの高川に、遼はもうじゅうぶん演技ができていると肩を上下させた。
「硬いことは後で考えりゃいい。なーに、辻褄なんてどうにかなるもんさ。お前はガタイがいいから、きっと舞台栄えする。そんだけでもすごく得なんだぜ」
「そ、そうなのか?」
「そうよ高川くん。高川くんの隊士姿、きっと似合うと思うけどなぁ」
 黒板から座席へ戻ってきた針越が、後押しするようにそう言い、人差し指を立ててウインクをした。

 それによ……夏休みは合宿だぜ……

 突然の言語情報に驚いた高川は、自分の手の甲に凧紐の先が置かれているのに気付き、それを軽く握った。

 が、合宿……だと……?

 ああ……こないだ聞いたんだけど、今年も福岡部長の長野の実家……お寺なんだけど、そこで何日か合宿をやるらしい……もちろん泊まり込み、共同生活ってやつだ……

 遼の与えてくれた言語情報に、高川の純情は急激に沸騰した。

 は、ははははははは、はるみんと泊まりがけだと!?

 彼は凧紐から手を離すと椅子に座り直し、前の席で他の部員と話をしている神崎はるみの横顔に注目した。

 こ、このような機会が到来しようとは思わなんだぞ!! せ、接近の好機ではないか……!!

 一人興奮する高川の分厚い背中を、再び岩倉が叩いた。
「高川くんなら、大丈夫だよ。きっとお芝居もカッコよくこなせると思うな」
 心強いその言葉に高川は振り返り、「もちろんだとも!!」と、拳を握り締めて応えた。

 キャスト発表と当面の練習スケジュールが三年生たちから発表されると、部員たちはパイプ椅子を片付け、台本を手になんとなく小さなグループに分かれた。
「美形剣士ねぇ……」
「ヒラメ顔だったって証言もあるけど……パブリックイメージは女と見まがうような美形……でもって病弱で、それなのに剣の腕は斉藤と並ぶ超一流……まぁ……天才ってやつかな?」
 同級生である春里の説明を聞いた澤村奈美は、「やってみる……」と、小さくつぶやいてから彼女に背を向け、胸に手を当てた。

 美形って言ったら……もう……これかな……けど……薄く……像を被せる程度に……上手くやってみせる……

 少女は身体じゅうの細胞に意識を傾け、その並びをごく僅かに変化させた。

「この馬鹿野郎!! 俺の三段突きが長州の芋侍などにかわされるものかよ!!」

 振り向き、台詞の一つを口にした奈美を間近で見た春里は、一瞬だけ我が目を疑った。
 眉がいつもより少しだけ太いような気もするし、肩幅も若干だが広く感じられる。演じる人物が確定するということは、こうも受ける印象を異ならせてしまうのだろうか。だとすれば同級生の澤村奈美は、メイクもなく演技力だけでそれを観客に感じさせるとてつもない才能の持ち主ということになる。春里は息を呑み、丸眼鏡をかけ直した。

 美少年剣士の凛とした輝きに、平田や福岡部長、はるみたちも目を奪われてしまった。
 特に心を動かされたはるみは手にしていた台本を落としてしまい、彼女は慌てて腰を屈めた。
 やりすぎてはいけない。あくまでも、ベースは澤村奈美だ。医学上の変化を疑われるレベルまで肉体を「変化」させていいのは、メイクや衣装を着た後でなければならない。少女は最後に刀を突き出す仕草を三回繰り返した後、再び皆に背を向けた。

 なにか、どこかで見たような美しさである。部室の隅で沖田を演ずる奈美を見ていた遼は、彼女が見せた少年の面影に既視感を覚えた。

 誰だっけ……あの……やたらと溌剌としてて……誰だっけな……

 少し考えてみただけでは思い出すこともできず、特定の要素がそもそも少なすぎるため、彼はそれ以上記憶を辿るのを諦めた。


 注目を浴びるのは悪い気はしない。長助などは目立たないようにしろとうるさいが、要は上手くやればいいのだ。澤村奈美の姿をした少女は校門から歩道へ出ると、早い歩みで夕暮れの中を進んでいった。

 幹線道路まで歩いてきた彼女に、路肩に停められた側車付きの大型バイクに跨った、ボマージャケット姿の少年が大きく手を振った。
「ライフェさま!!」
「へぇ!! なによそれぇ。はっばたきの分際でぇ!!」
 “ライフェさま”そう呼ばれた澤村奈美は目を輝かせ、少年とサイドカーに向かって軽やかに駆け出した。
「車だと、いちいち警察に止められて面倒なんで……こっちなら、僕の外見でも……そんなには……」
 ここしばらくで彼の日本語もかなり流暢になり、その少し甘い声もより長く聴くことができる。ライフェは両目を閉ざして顎で弧を描くと、両手で学生鞄を抱え、側車の椅子に腰を沈み込ませ、長い両足を揃えて上げた。
「ヘルメットは……」
「いいわよ。形は知ってるから」
 いつもながら頼もしいご主人様だ。ライフェのつんと澄ました態度にはばたき少年はすっかり嬉しくなってしまい、満足してセルスイッチを入れた。
 いつの間にか奈美の長い髪は両サイドにまとめられ、頭にお椀型のヘルメットとゴーグルが乗せられていた。数秒の間に髪の色も完全なる赤になり、瞳もエメラルドグリーンに戻り、その服装はエプロンドレスに変化していた。
 ライフェ・カウンテット。自身の形態をアメーバのように自在に変化させることができる不定形エージェントである彼女は、この四月より新入生として仁愛高校に潜入していた。
 走り出したサイドカーの側車に乗っていたライフェは、過ぎ去っていく電柱や電線、看板や夕暮れで斑模様となった空を低いアングルから存分に楽しんでいた。
 彼女の任務はリューティガー真錠、および島守遼の監視である。具体的な活動の指示は一切出されておらず、独自判断による裁量権も与えられている。これまでの経験からすればあまりにも簡単な仕事ではあるが、気を抜いてしまうようなライフェではなく、奈美からセンターフォームであるこの姿に戻るに際しても、周囲にはじゅうぶん過ぎるほど気を配っていた。その上で、せいぜい楽しむべきだ。十五歳の彼女は経験豊富なエージェントとして分別もわきまえていたし、同時に一人の少女として高校生活を満喫していた。

 サイドカーは2kmほど国道を走ると、尾山台という世田谷区の閑静な住宅街までやってきて、七階建てのマンションの駐車場へと入っていった。
 その505号室、「澤村」と書かれた表札の部屋に、少女と少年は帰ってきた。
「よぉ、お二人さん……」
 扉の前でもじゃもじゃのパーマ頭が揺れていた。二人は表情を険しくし、軽く目で返事をするだけで特に言葉は返さなかった。
「冷やかしに来たわけじゃねぇ……任務だ……」
 胸ポケットから煙草を取り出した「夢の長助」こと藍田長助(あいだ ちょうすけ)は二人を睨みつけ、低い声で言った。少女は視線を彼から逸らし、人差し指を鍵穴に挿入した。
 2LDKのマンションは一部屋あたりの間取りも広く、二人が生活するには快適と言っていいだろう。東京も外れに位置する住宅街ではあるが、家事全般を取り仕切るはばたきによれば、「商店街が近くて便利」であり、主人のライフェ曰く、「河原が近いのが面白い」そうだ。長助は綺麗に片付けられた、まだ入居してそれほど時間の経っていないリビングを見渡し、さすがに灰皿はないかと上着のポケットから携帯式のそれを取り出した。
「もうね。三十人以上の形を覚えたのよ」
 ソファに腰を下ろしたライフェは、両手を前に突き出して指を組み合わせ、自慢げに言った。
「趣味に走るのはいいが、バレねぇようにしろよ……」
「趣味なんかじゃないわ。陽動と撹乱には形態のストックがあるに越したことはないもの。島守遼のだって習得したんだから」
 口数ではさすがに敵わない。長助は忠告を諦め、ライフェの対面に座った。
「ど、どうぞ……」
 はばたきがガラス製の大きな灰皿を持ってきたため、長助は「すまん」と、頭を下げ携帯灰皿をポケットに戻した。
「まぁな……澤村奈美としては、本来なら高校に通う歳だ……楽しいのも仕方ねぇけどな」
 長助は煙を吐き出し灰を皿に落とした。ライフェは組んでいた指を左右に大きく離し、彼の言葉に唇を突き出した。
「楽しいわよ。それだけは認める」
 言い切った少女は上体をソファに投げ出し、両手を肘掛けまで伸ばし、腰をひねった。
「そうなるとますます言い辛いんだが……」
「構わないわ。わたしは蜷河とは違うもの。潜入監視なんてお手軽任務だけで自分の役割が果たせるなんて思ってないもの。ねぇはばたき」
 エプロンを着け、トレーでコーヒーを運んで来たはばたきに、寝転んでいたライフェは指を立てて同意を促した。
「え、ええまぁ……で……長助さん……?」
「ああ……古川橋の作戦な……六月三日午後五時決行に決まった……真実の人(トゥルーマン)も陣頭指揮の準備に入ったし、我犬(ガ・ドッグ)の正義忠犬隊も数が間に合ったらしい……」
 長助の言葉に、ライフェはゆっくりと上体を起こし、テーブルにコーヒーを置いたはばたきも彼に鋭い視線を向けた。
「ついに……やるのね……」
「ああ……大一番だ……これと夏の理佳たちの作戦……絶対外せねぇ……頼んだぜ二人とも……」

 “理佳”という名前が余計にやる気を引き出させる。ライフェはコーヒーカップを手に取り、思いっきり顎を引き、カップを高く掲げて唇の両端を吊り上げた。


 在京ローカル局である関東テレビは、文字通り関東一円をカバーするテレビ放送局である。三十年ほど前、理化学教育と地域報道を主軸に開局されたこの局にとって、現在もっとも高視視聴率を稼ぎ出しているのは木曜深夜一時十五分より開始の、『チン平のハミ出しすぎNight』というちょっとアダルトなバラエティー番組である。
 開局当初は教育放送部と並んで局の中心的存在だった報道局も、三十年の月日で規模縮小の一途を辿り、現在は埼玉県の三郷市内にある支局三階に僅かなスペースを与えられているのが現状である。
 この春の改変で、平日午前十一時四十五分より放送していた、『関東ニュース』も料理番組、『お昼へスクランブルキッチン!!』に取って代わられ、おまけにその番組は他のローカル局からの買い取りであり、一日遅れの放送というおまけ付きである。報道局員たちの表情に明るさはなく、いつ自分がリストラの対象となるのか、そんな不安に憂鬱になる者ばかりだった。

 そんな関東テレビ報道局局員、北川洋輔のもとに奇妙なEメールが送られてきたのは、一ヵ月ほど前の四月中ごろだった。
 何も記入されていないメールにjpegの画像ファイルが添付されていた。
 それは、火事の様子を写した写真だった。どこの火事だろう。北川は自分の個人用アドレスに届いた奇妙な写真に興味を抱き、黒い壁や床、朱色の炎だけが写されたそれが、木造建築の廊下であることに気付いた。火事の最中に撮影されたものなのだろうか。それにしてもメールになにも書かれておらず、アドレスも見覚えのない独自ドメインだったため、間違いか悪戯かと思い、それ以上の興味を抱くことはできなかった。

 二度目のメールはそれから一週間後に送信されてきた。やはり個人用アドレスであるため、北川はそれを自宅のノートPCで閲覧した。写真が添付されていた点は同じだったが、今回は文面に「北川局員。これは、誰も見たことのない写真だ。」と、短い一文が添えられていた。
 今回の添付写真には、板前と思しき白い服を着た男が木の床に倒れ、腹からは大量の血を流している姿が写し出されていた。あまりにもリアルな写真である。本物の死体を見たことのない北川ではあったが、これはおそらくデジタル加工などではなく本物である。根拠は薄いがなんとなくそう確信した。
 それにしても悪趣味だ。一体この死んでいる男はどこの誰で、そもそもなぜ死んでいるのだろう。手に包丁を握り締めているがそれには血が付着しておらず、たぶん他殺であると思える。犯罪のリーク写真なのだろうか、一枚目の火事と関係あるのだろうか。
 写真をよく観察していた北川は、板前の服に「いなば」と小さく刺繍されているのに気付き、マウスを握る掌が一気に熱くなったのを感じた。
 拡大してよく見る必要がある。とりあえず写真を保存して、適当なビュワーを起動したが、いざファイルを開こうにも保存したはずのそれは、HDのどこにも存在していなかった。慌てて手順を間違えたと思った北川は、再度メーラーでメールを閲覧してみたが、添付されているはずの死体写真は同ピクセル数の真っ黒な画像ファイルに差し変わっていて、まさかと思った彼が一週間前の一通目をクリックしたところ、火事の添付写真も同様に漆黒と化していた。
 タチの悪い悪戯だ。少し気になるだけ、そう思ってしまったほうが精神衛生上好ましい。アパートの一室でノートPCの電源を切った北川は、我ながらいさぎのよい判断だと小刻みに頷き、薄い色のついた眼鏡をかけ直した。

 過去の報道資料の整理と貸し出しVTRの管理など、ビデオジャーナリストのやる仕事ではない。しかし北川洋輔が関東テレビから給料をもらえる理由は現在のところそれしかなく、もう二ヵ月も取材に出ていないため、フロアの隅に置かれたビデオカメラにはうっすらと埃が被さろうとしていた。
 一日の仕事は午前中、それも出社して一時間もあればカタがついてしまう。そうなると後の時間はビデオの貸し出し要請があるまでは机でぼんやりとした時間を過ごすばかりであり、北川は持ち込んだノートPCでネットを閲覧するのを日課にしていた。
 本社であればセキュリティの関係で外部のメールサーバにアクセスなどできないが、この支局は警戒感が希薄であるため、個人用のメールをチェックするのも日常的な行為だった。

 三通目が来た。北川は腰を浮かし、添付された写真に戦慄した。

 「やくざの末路。嫌だねぇ、こうなったらさ。」そんな一文と共に液晶画面に表示されたのは、こちらに向かって手を伸ばしている、ある男の死に際だった。
 額から、指先から、頬から、あちこちから血を流し、表情は懸命を通り越していた。殺される。助けてくれ。そんな叫びが今にも聞こえてきそうな悲痛さである。だが哀れみを抱くよりも先に、北川はこの男に見覚えがあったため、驚きがずっと上回ってしまった。
 
葦里会(よしざとかい)の葦田有冶(よしだ ありはる)。泣く子も黙る広域暴力団の会長が、まるで子供のように今にも泣き出しそうなほど顔を顰め、生への執着を隠すことなくレンズへ向けていた。
 いくつかの符号が北川の中で一致したため、彼はメーラーを閉じずにプリンターを探した。
 しかし出力されたメールの添付画像は真っ黒だった。なのに画面にはまだ、葦田の歪んだ顔が表示されている。北川はならばと画面をショートカットキーでキャプチャし、生成された画像ファイルをダブルクリックした。
 だが、ビュワーで表示されたデスクトップ画像は、写真の部分だけが黒く変化していて、まるで彼個人以外の閲覧を拒むんでいるかのようでもある。ならばこの画面を局長に見てもらい、これまでの経緯を話して相談してみよう。しばらく考えた後、北川はノートPCを持ち上げ局長の座る席まで駆け寄った。

「きょ、局長!! 面白いタレコミです。ちょっとしたリーク写真が飛び込んできました!!」
 興奮するまだ若い北川に、初老の局長は横を向いたまま健康ドリンクをぐいぐい飲み続けていた。
「局長!!」
 机の上にノートPCを置かれたため、局長は仕方なく画面を覗き込んだ。
「“やくざの末路。嫌だねぇこうなったらさ”……で肝心の写真はどこだよ」
 ぶっきら棒に局長が言ったため、北川はよもやと思いPCを自分の方へ向けた。

 やられた。画像は真っ黒に変化して、やくざ者の歪み顔は跡形もなくなっていた。

 手の込んだ悪戯である。一方的に二次利用のできないリーク写真を送りつけるだけで取材要求をしてくる気配もなく、送信者は何を考えているのだろうかと疑問である。唯一の手がかりは相手のメールアドレスだけである。北川は本社のITセキュリティ部門に電話をかけ、IPから身元を割り出すことはできないかと相談してみた。
 まったく相手にされなかった。なんでも現在関東テレビには、『よっきりぽっきりあなたの運命!!』なるバラエティ番組宛てに大量のウイルスメールが送られていて、セキュリティ部門は対応に追われ、もう二日も帰宅していないらしい。電話越しの殺気だった声を耳にした北川は、一瞬だけ懐かしさに目を細め、しかしそれにしてもインチキ占い師などを番組に使うから、ウイルスメールなどに悩まされるのだと、鼻息も荒く受話器を叩きつけた。

 ゴールデンウイークも明け、画像の衝撃が日に日に薄まっていくと、北川はやはりアレはデジタル加工された悪戯写真だったのではないだろうかと思い始めていた。なにせ、自分もビデオカメラを駆使するビデオジャーナリストである。映像の手品は専門ではないものの、いくつかは知識として備えていた。

 五月二十三日。今日も退屈な日常を過ごしアパートに帰ってきた北川洋輔は、先日落札したネットオークション発送状況が気になり、ノートPCの電源を入れてメーラーを開いた。

 四通目が来た。それはいつもの短文ではなく、写真も添付されていなかった。

「六月三日夕方。都内古川橋にて大事件が起きる。しかしそれはすぐに膠着状態となるだろう。だがしばらくした後、大きな異変が起こる。生放送可能な撮影機材を用意し、仲市ビル六階まで来い。幸村議員惨殺現場級の、素晴らしい映像を提供できるはずだ。」

 一方的な文面である。信用などできるはずのない、取るに足らない戯言と片付けてしまっていい。
 しかし画面を見つめる北川はあくまでも真剣な表情のままであり、翌日彼は局長にある申請をした。
「生放送用の機材だと? だめだ、だめだ」
 健康ドリンクの瓶を片手に、局長は思い切り眉間に皺を寄せた。
「僕一人で扱いますから。たのんますよ局長」
「馬鹿言え、調整に送信、電源の管理だっているし、レフ板やライトはどうするんだよ。最低でも四人はいるじゃねぇか」
「ですが、機材も人もどうせ埃を被ってるだけですし……三日は金曜日ですから、ビデオ貸し出しだってほとんどないでしょ?」
「俺が言いたいのはな、そんないい加減なネタでホイホイ乗っちまうってのがだめだって……わかるだろ北川よ」
「い、いやですけど情報元は確実なネタを持ってますって。僕も最初はネットで裏情報でも仕入れたマニアかと思ってましたけど、相手は“幸村議員惨殺現場”なんて断言してくるんですよ」
 最後は声のトーンを落とし、北川は対する局長に苦笑いを向けた。
「んだと……? そ、それだってネットの裏情報とかだろ?」
「ですけどね、“いなば”の板前の死体に葦田会長の瀕死の写真……たとえコラだとしても、根拠と確信があり過ぎますよ。局長だって耳にしてるんでしょ、“いなば”事件の一端ぐらいは」
「ま、まぁな……赤坂界隈じゃ……みんな噂してるさ……」
 腕を組んで視線を逸らした局長を見下ろし、北川はこの申請が通るものと確信した。やはり、このとっつぁんもまだまだ意地が残っているようだ。報道マンとしてのプライドが疼き出したようだ。あともう一押し、彼は身を乗り出し鼻息を荒くした。

8.
 二〇〇五年六月三日はいつもと変わらない、そんなありふれた金曜日だった。学校からアパートに帰ってきた島守遼は、自分の部屋の机上に置かれたリストバンドを抱え込んだ。
 それにしても重い。バイト仲間の麻生がもう一度見たいと頼み込んでこなければ、とてもではないが持っていくような代物ではない。遼はうんざりしながらもそれを袋に入れ、学生服から私服へと着替えた。
 ヘルメットと袋を手にした彼は、部屋から台所へ出た。
「バイトか?」
 父、貢(みつぐ)が声をかけてきたため、遼は言葉とも吐息ともつかない短い返事をし、扉へと向かった。
「夕飯はどーすんだよ?」
「あ、友達と食ってくからいいや」
 素っ気なく返した息子が出て行く姿を、父はぼんやりとしたまま眺めた後、ならば今日は駅前で牛丼でも食べてからスナックに寄って、のんびりするかと表情を緩ませた。


「ちょっとだけわくわくです。だって日本の寺院にちゃんと行くのははじめてですから」
 車から降りたハリエット・スペンサーは興奮気味にそう言って、本日の聞き込み場所である正昌寺へ駆けていった。
 高円寺駅から数分ほど南下した、アパートや雑居ビルが建ち並ぶ都会の狭間のような場所に、その古寺はあった。サングラスを少しだけずらした神崎まりかは相棒であるCIA捜査官の彼女に続き、その境内へ入っていった。
 この寺に、七年ほど前三代目真実の人が滞在していた。「いなば」での惨殺事件でその風貌が割れ、あれをきっかけに対策班にも各所から堰を切ったかのように情報が寄せられたが、その全てが断片的で時系列も定かではなく、整理と足取りの調査が現在のまりかたちの任務だった。
 官から支給されたジャケット、革のパンツにスニーカー。色の濃いサングラス。いつもの捜査スタイルであるまりかは、腰に両手を当てて境内を見渡した。

 あの少年……島守遼は……はるみに……ちゃんと黙っててくれるのかしら……

 それがここ最近、彼女が繰り返し思い悩んでいる事柄である。

 いや……黙ってても時間の問題……か……はるみは……勘付きはじめてる……少年が黙ってても……いずれは……

 境内の木漏れ日の中でいつもと同じ結論に達してしまった彼女に、金髪を揺らして相棒が駆け寄ってきた。
「まりか!! 住職さんいるよ!! 早く来るね!!」
「わかったわハリエット!!」
 バレてしまっても仕方がない。そのときのためにも陰謀の芽を摘むだけだ。まりかはゆっくりと歩き出し、次第に歩みを速めていった。


 まずは真実の人のこれまでを調査する。方法論としては悪くない。しかし、すでに動いている事態に対しては少々迂遠な手段だとも思える。イヤフォンを耳に、オペラグラスを片手にした檎堂猛は、正昌寺に面した路地からまりかたちの様子を窺っていた。
 花枝はあれからも定期的な諜報活動は続けてくれる。結果も異なる力で伝えてくるし、その点は問題ない。だがこうしたイレギュラーの任務に関しては自分がびっこを引きずってこなさなければならない。なぜなら若い相方とはこちらからまったく連絡が取れないからだ。
 これまでなら所定の場所で待機している限り、携帯電話にメールをすればすぐに向こうからの思考が返事として飛んできた。頭に直接響く声は不愉快さも伴っていたが、不通になってしまうよりは遥かにマシである。
 花枝の住むアパートはわかっている。怒鳴り込んでもいい。だが、彼の反発も理解できてしまうから、こうして自分も負担を引き受けている。

 大体よ……揉めてる場合じゃねぇんだ……いずれ事態は動く……そんときのために、情報はより多く集めとかねぇと、とんでもねぇ貧乏クジを引かされちまう……

 しかし、花枝はそんな処世術を理解してはいないだろう。それも仕方がない。久しぶりの祖国なのだ。学校生活で骨抜きにされるのも理解できる。自分たちの立場が長続きするのなら先輩として説教もするが、危うさは日に日に増している。檎堂は熊のように茂った髭だらけの顎を撫で、イヤフォンから聞こえてくる盗聴内容に集中することで危険を少しでも回避しようと努めた。


 あれから姉は連絡をしてこない。もう二週間が経過したが、次に帰宅する時期も告げず、姉は自分たち家族と夕飯を共にした後、官舎へと帰っていった。
 これからどうすればいいのだろう。遼の秘密を知り、姉への疑惑が強まり、だがどうすればいいのだろう。知ってしまった事実に対して、よもやなにもできずに時を過ごすだけになってしまうとは。学校から帰宅した神崎はるみは、自室のベッドの上で膝を抱えてじっとしていた。

 わたしが……どうしたいかだ……わたしは……どうしたい……どうなって欲しい……

 望むべき展開、望むべき結果。思えばそれもなく、疑惑に対して追求するだけだったような気もする。彼も姉も、自分にはない力で問題に立ち向かっている。その輪に参加などできるのだろうか。岩倉はどうしたいきさつで関わっているのだろう。
 淀んでいる。気持ちが沈み込んでいる。そう感じたはるみはベッドから降り、部屋を出た。
「はるみ。演劇部の次のお芝居って決まったの?」
 一階のリビングまで下りると、母、永美(えいみ)がキッチンのカウンター越しに夕飯の支度をしながら声をかけてきた。娘はソファに座ってテレビをぼんやりと眺め、「うん。新撰組もの」と、返した。
「新撰組? 男ばっかりじゃない。はるみはなんの役、やるの?」
「オリジナルの町娘……土方と恋仲になる、実は長州の密偵役……」
 つまらなそうに返事をする娘に、母は話題がある一定の方向へ行ってしまわないように注意を払っていた。
 長女が超能力者あることを彼女がはっきりと知ったのは、七年半ほど前のことである。内閣特務調査室の森村と名乗る捜査官の聴取によりそれは告げられ、永美は過去の記憶に遡り、心当たりがあると得心した。
 しかし、次女のはるみには知る必要はない。事件に巻き込まれ、テロリストを殺害してきた長女の秘密を、平穏無事な高校生活を送るはるみが知るべきではない。
 平穏無事。教室ジャックに遭い担任が重傷を負い、通り魔が学校内に侵入するような状況をそう断言するのには抵抗がある。しかしまりかの七年半前と比較すれば、はるみのそれは遥かに穏やかであると言える。なぜなら娘はなにも知らないのだ。能動的関わり、命の危険に晒される必要などないのである。
 キャベツを千切りにする永美の手が早くなった。ぼんやりとテレビを見る娘。あれでいい。あれがまりかにも望んでいた姿だ。母は二人の娘のことを思い、ただひたすらにトンカツの添え物を切り刻んでいた。


 「うむ」「退くぞ」「新撰組、斉藤一だ」三つと福岡部長が言っていた、これが高川典之に与えられた全台詞である。あれから台本は何度も読み、練習にもできるだけ参加した。当初は台詞が少ないので楽かとも思っていたが、喋らずとも出番は多く、なにもなく佇んでいるといった場面がいくつかあり、その間はどう演技をしていいかもわからず、先輩からの注意も度々である。
 自分に勤まるのだろうか。かつて祖父が使っていて、現在は自室となっている四畳半に彼は寝転び、台本を広げた。
 芝居中、神崎はるみとの絡みは二度だけ存在する。しかし台詞のやりとりはなく、遼が演じる土方の同行者として二人の交流を見守るといった、どうにも我慢しなければならないシチュエーションである。全力で取り組むだけだ。少しでも彼女との距離を縮め、疎ましく思われているであろう現状を改革せねばならない。三つの台詞を特訓するべく、高川は起き上がり、腹を大きく膨らませた。


 水色のパーカーを着た栗色の髪が揺れていた。彼は額から汗を噴き出し、草木一本生えていない乾いた大地にしゃがみ込み、しきりに呼吸を整えていた。長距離の跳躍は疲れる。そうは聞いていたが、ここまで疲労の色を見せるとは少々心配である。岩倉次郎はリューティガーの後ろに回り、彼の背中をさすった。
「あ、ありがとうガンちゃん……」
「ね、ねぇ……大丈夫かい?」
「ええ……人を跳ばすのは平気なんですけど……自分が跳ぶのは距離に比例して疲れてしまって……気が張ってればなんとかなるんですけど……」
「こ、ここはどこなんだい……?」
 なおも背中を擦り続けながら、岩倉は周囲を見渡した。青い空、地平線は蜃気楼で歪み、あたり一面はまったくの荒野である。どうにも国内の風景ではない。家族での海外旅行経験が豊富である岩倉は、あまりにも大雑把な光景をそう認識した。
「バルチスタン高原……パキスタン西部です……」
「中東の? どうしてこんなところまで……?」
「さすがに……あれの特訓となると……マンションでは無理がありますから……交戦中の現在なら、いくら撃っても怪しまれることはありませんし、万が一政府軍やゲリラが来ても、すぐに跳べば済みますから……」
 そう言ったリューティガーは、傍に置かれた大型のバッグを見つめた。中身はアサルトライフルとサブマシンガンといった火器である。
 これから岩倉にはより銃器に精通してもらい、激化する戦いでの活躍の幅を広げて欲しい。
 このままじゃだめだ。もっと自分が戦力にならないと。白いリバイバーを殺した遼はどこか悲しそうな様子でもあった。できるだけ負担を軽くしてあげたい。
 要求と希望が一致した結果の荒野であった。ようやく立ち上がったリューティガーは眼鏡をサングラスと取り替え、バッグのファスナーを開けた。

 「いなば」の事件から二ヵ月以上が経ってるのに……兄さんはなにもしない……どういうつもりだ……次はなにを企んでいる……

 白い長髪を思い浮かべたリューティガーはライフルのバレルを握り締め、表情を険しくさせた。


 弟がバルチの荒野で兄を想っているころ、当の本人は港区三田の、とある雑居ビルの一室に佇んでいた。この部屋は入居者もおらず、ガランとした室内には机と椅子がワンセットと、モニタや通信機材が設置されているだけである。
 真実の人はカーテンのない窓辺まで近づくと、そこから見える首都高を眺めた。
 渋滞とまではいかないが、車が絶えることなく続いている。青年は笑みを浮かべ、携帯電話が鳴っているのに気付いてそれをポケットから取り出した。
「長助か……そうか……関東テレビが現れたか……わかった……こちらはもうすぐだ……予定より交通量があるようだ……ああ……」
 電話を切った真実の人は、登録された番号を選択すると、再びそれを耳に当てた。
「俺だ……ああ……予定通り決行だ……頼んだぞライフェ……」
 視線の先には首都高が夕焼けで朱に染まり、真実の人は笑みを消し、一瞬だけ両目を閉ざした。


 六月三日。午後五時三十分。首都高速目黒線を一台の大型トレーラー走っていた。トレーラーは来週から開催されるクラシックモーターショーに出品されるスポーツカーを六台積んだ二階式であり、その巨大さと搭載されている懐かしい名車は、対向車線のドライバーたちの注目を浴びていた。
 平均時速80kmで走るこのトレーラーの背後にいたタクシーの運転手は、眼前のそれが急激に遠ざかるのに首を傾げた。なんという加速だろう。あれではとうに100kmは越えているし、まだまだスピードを上げるようである。ただでさえ重量のあるトレーラーだというのに、この先は古川橋のカーブが待ち受けているというのに、一体なにをそこまで焦っているのだろうか。運転者はすっかり小さくなっていったトレーラーが不思議でならなかった。
 運転席でハンドルを握っていたトレーラーの運転手は、いくらブレーキを踏み込んでも減速されず、アクセルから足を離しているにも拘わらず、加速を続けている現実に恐怖していた。冗談ではない、このままでは古川橋のカーブを曲がり切れるかどうか怪しい。
 考えている途中に、そのカーブは訪れた。確実に障壁に激突する。その後はスピンして対向車や後続車を巻き込んだ大惨事となるだろう。トレーラーの運転手は右手でハンドルを精一杯回しながら、次の瞬間の出来事に対して冷静に分析してしまう自分に引き攣った笑みを浮かべた。
 六台ものスポーツカーを満載したトレーラーは、古川橋のカーブを曲がりきることができず、障壁に激突してしまった。ここまでは運転手の予想通りだった。
 だが障壁は車体が接触するほんの直前、左右に割れた。まるで門があったかのように、ごく自然に進路は開かれた。もっとも、そこに道はなかった。

 なんの物理的衝突もないまま、トレーラーは頭から空中へと突き進んだ。

 おかしい。この浮遊感はおかしい。障壁があったはずなのに、なぜ車体は空中に飛び出してしまったのだろう。運転手の意識はここで永遠に途絶えた。トレーラーがカーブ出口の先に建っていたビルに、まさしく突き刺さったからだ。
 そのビルの一階部分は駐車場となっていて、四本の柱だけで支えられている、いわゆる「ピロティー構造」となっていた。トレーラーがビルの中腹部分に突き刺さるほんの僅か前、この柱のうち、高速道路側に面する二つが大爆発を起こし、跡形もなく消え去った。
 衝撃はビル全体を駆け巡り、中で勤務していた者は何が起きたのかと驚愕したが、その直後に起きたあり得ない事態によって、爆発の事実は上書きされてしまった。
 膝を爆破され、ボディーブローを受けた形となってしまった「大鱒(だいます)商事」本社ビルは、K.O級のダメージを受けてしまったボクサーのように、前のめりに倒れる形で崩落した。

 その先には、マットではなく首都高速目黒線が広がっていた。


 ボディビルジム「ビッグマン」で器具整備作業をしていた遼は、カウンターに置かれたテレビの緊急ニュースに目を奪われた。それは同僚であり、同級生の麻生巽(あそう たつみ)や、支配人の呉沢(くれさわ)、受付のアルバイトやジムで汗を流す会員たちにしても同様である。

 「首都高がビルの下敷きに!! 十三台が巻き込まれる!!」
 瓦礫と煙に包まれた現場を映す空撮映像の右上には、そんな衝撃的な見出しが躍っていた。
「島守……すげぇな……」
「あ、ああ……古川橋か……誰も……住んでないよな」
「たぶん……」
 住民の心配をしてしまうほどの惨状である。夕暮れの現場はサーチライトが当てられ、それはまるでニュースで見た中東の空爆後のような光景であり、遼にとってはとても現実であるとは受け入れ難かった。

9.
 事故発生から二時間が経過するころになると情報もある程度は整理され、事態の深刻さは浮き彫りになろうとしていた。
 大鱒商事本社ビルは首都高目黒線を寸断するような形で覆いかぶさり、三台の車がビルの下敷きとなり、後続車が十台ほど玉突き衝突をして炎上、ビルの破片は周囲十数メートルまで飛び散り、窓ガラスを割り通行人を負傷させ、現場に到着した救急隊が大掛かりな救助作業を進めていた。
 問題なのは、下敷きとなった三台の車である。ビルの巨大な瓦礫は一向に撤去されることがなく、安否の確認すらままならない。その上救急はビルの中にいた社員たちの救助を優先し、それすらまだ終了してはいなかった。
 不幸中の幸いは、真下に古川という河川があったため火災の被害が最小限度に食い止められたことと、その対岸に臨時の看護、治療エリアが、近所の総合病院の協力によって比較的早い段階で設置されたことである。

 なかなか進行しない救助作業は、変化に乏しい退屈な瓦礫をテレビに映し出すだけだった。ニュースでは倒壊の様子が推測され、各チャンネルにはそれぞれ専門家が出演し、事故説からテロ説まで憶測が飛び交っていた。
 それも全て、この曇り空のせいである。日没後、現場を照らしているのは数台の大型サーチライトだけであり、街灯の類は全て配線が断線してしまい、テレビの画面では状況がまったく掴めなかった。唯一の頼りである月明かりは時々雲の隙間から差し込むだけであり、事故現場があまりにも広範囲であることも含め、メディアはこの大惨事をどう伝えればよいのか途方に暮れているのが現実だった。

「ビルの下敷きになった三台のうち一台は中型バスであり、それには社会科見学帰りの小学二年生の児童六十人余りが乗っている」事故発生直後から推測されていたこの情報は、関係者たちの総合的な状況判断により、遂に確定となってメディアによって報じられた。悲劇的事態ではあるが、言葉だけでも相当のインパクトをもたらせる、マスコミにとってそれは朗報だった。
 子供たちの家族、学校、社会科見学事情に精通した専門家のコメント。この大惨事を絵的に彩る要素はいくらでも追加である。不謹慎であるため、誰も本音を口にしなかったが、報道関係者たちは解禁された悲劇に誰しもが興奮していた。


 ジムのテレビで一部始終を見ていた遼は、堪らずに更衣室へ駆け出した。
「どうした島守!?」
 遼の様子がただならぬものだと感じた麻生が、後を追いかけてきた。
「勤務時間も終わったから……上がる……そんだけ!!」
 急いで私服に着替えた遼は、更衣室から駆け出していった。
 まさか事故現場に行くなど、麻生に言えるはずがない。遼はビルの駐車場に停めてあったMVXに跨ると逸る気持ちを抑え、ヘルメットを被った。

 大惨事である。たった5mm3しか動かすことの出来ない自分にできることなどない。しかし膠着した救助活動をテレビで見ているうちに、衝動が沸き起こっていた。とにかく行くだけ行ってみる。現場で警察に止められるのはわかっているが、黙って家に帰ることだけはできない。
 古川橋を目指す遼は胸騒ぎを覚えた。なんだろう、なんとかしたいという思いだけではない。この胸騒ぎはもっと別の、なにか予感めいたそんな感覚である。彼はアクセルを全開にし、明治通りをバイクで疾走した。


 最も大量の死者となったのは、大鱒商事本社ビルにいた者たちである。夕方の五時半と言えば勤務時間こそ過ぎてはいたが、多くの営業マンが帰社しているタイミングでもあった。事故発生当時、九階建ての本社ビル内にいたのは社員以外の人間も含めると六百二十七名。そのうち現在判明しているだけでも死者八十二名、重軽傷者二百三十二名、不明者三百十三名である。倒壊したビルからの救助活動は暗さによる状況判断の困難さから捗らず、現場周辺に集まった家族たち関係者の中には、警察に接近をはばまれながら、瓦礫に向かって嗚咽を漏らす者も少なくなかった。

 最初にその者たちを発見したのは、そんな家族の中の一人、小沢翔太十三歳だった。翔太は最初我が目を疑い、次の瞬間には携帯電話のカメラレンズを上空へと向けていた。
 注目するべきは正面である。息子はなんて不謹慎なことをしているのか。翔太の母はその行為を諌めようとしたが、とりあえず何があるのか視線を上げてみたところ、彼女は信じられない光景に口を両手で覆った。
 衝撃は人々の間を駆け巡り、ついにそれは警備の警官や、救助活動中の隊員、報道関係者たちにまで伝播し、彼らは一様に上空を見上げ、言葉を失い息を呑んだ。

 それは純白の羽をもった、横幅と厚みのバランスがよくとれた、身長190cmはある彫刻のような白い肉体の持ち主だった。ただ、それは人ではない。手の指こそ五本あったが、足先は飴色で鋭く長い爪が生えた猛禽類のようであり、なによりも顔面が猟犬そのものだった。
 長い耳、長い鼻面、精悍とも言える顔つきである。着衣は黒い革のパンツとリストバンド、首輪のみであり、腰にはホルスターらしきものと、刀と思しきものが鞘に収められていた。
 そんな人あらざる異形の怪物が、どこから飛来したのか数にして二十、いままさに倒壊の事故現場へ舞い降りようと翼を羽ばたかせていた。
 本来は救助作業を手助けするはずのサーチライトは、二十体の獣人たちへ向けられた。だが彼らはそれを気にする様子もなく、表情を殺したまま、瓦礫の中へと押し入っていった。
 腕力も相当なものであり、重機を使わなければとてもではないが持ち上がらない瓦礫を、彼らは全身の筋肉を膨らませ、歯を食いしばって撤去していった。そのころになると呆然として圧倒されていた警官たちもようやく我に返り、突如として現れた侵入者を排除するべく、彼らは拳銃を手にして白き獣人たちへ近づいていった。
「立ち入り禁止だ!! 直ちにここを去りたまえ!!」
 かつて獣人とも交戦したことのある能見(のみ)巡査部長が空砲を放ち、真っ先に近づいて行った。
「我らは正義忠犬隊……大義によって、救助に来た」
 犬の顔が人の言葉を喋ったので能見は驚き、思わず拳銃を水平に構えた。
「状況を考えていただきたい。我々には常人を凌駕した腕力と闇を見通す視力、訓練を受けてきた判断力がある。救急隊と連動すれば、より多くの命を救えるのだ」
 犬面は能見に毅然と言い放ち、腰のポーチから通信機を取り出した。
「はっ……了解しました……六階部分の瓦礫の下に、小学生のバスですね……直ちに救助を開始します!!」
 通信機を切った犬面は、胸を張って能見を威圧した。
「な、なんだ今の通信は……誰からだ……!?」
「我々には瓦礫の下にも潜り込める仲間がいる。そしてそれをまとめる指導者がいる。超越!! 団結!! 突破!! 全ては正義を果たすための力だ!!」
 人差し指を向けられた能見は、ついにその場に尻餅をついてしまった。発砲などできない。こうも毅然とし、真っ直ぐに見据える者をテレビに映っているこの状況で射殺することなど不可能だ。第一やつの後ろでは、同じ姿をした十九名が次々と負傷者や遺体を瓦礫の下から運び出し、救急の待つ看護エリアへと抱きかかえ飛翔している。見た目も化け物というよりは、人のために尽くす忠犬のようにさえ見える。能見は拳銃をホルスターにしまい、本部からの指示をひとまず待つことにした。


 異形の白き獣人たちが瓦礫を撤去し、その下から負傷者を救助する様子は、衝撃をもってテレビで報じられていた。生放送の実況を両親とテレビで見ていた高川は、これは自分たちにも関係するジャンルだと判断し、食べかけの一膳を食卓に置いて立ち上がった。
「典ちゃん。どうしたの急に?」
 驚いた母親が偉丈夫の息子を見上げた。
「少し出かけてきます……御免!!」
 壁にかけてあった上着を手に取り、高川はアパートから急いで外に出た。


 現場に一番乗りをしていたため、今回の報道を真っ先に電波に乗せたのは関東ローカルの関東テレビだった。現場で報道の指揮を執る北川洋輔は、ようやく本社から増援が到着したため、彼らにこの異常事態の取材を任せ、自分は少数のクルーを率いて移動を開始した。

「六月三日夕方。都内古川橋にて大事件が起きる。しかしそれはすぐに膠着状態となるだろう。だがしばらくした後、大きな異変が起こる。生放送可能な撮影機材を用意し、仲市ビル六階まで来い。幸村議員惨殺現場級の、素晴らしい映像を提供できるはずだ。」

 大きな異変。そこまでは四通目のメール通りの展開になっている。もう疑う必要はない。仲市ビルはこの現場から歩いて五分もかからない。熱狂する群衆と報道するマスコミに背を向けた北川たちは、小走りに目的地へ急いだ。
 仲市ビルの六階まで到着した北川は、閉じてある四つの扉を端から開けようと試みた。すると最後の一つ、右端の扉には鍵がかかっておらず、彼とクルーは蛍光灯のついた室内へと入っていった。
 そこにいたのは、白い長髪に黒いスーツを着た、赤い瞳をした美しい一人の青年である。
「ようこそ、関東テレビの諸君……」
 男の声は外見よりも意外と男性的であり、北川はすぐにクルーへ指示を出し、自分はマイクを取り出した。
「いいのかな……これで……」
「もちろん……そのつもりで報道局員である君にメールを送らせていた」
 青年の佇まいには余裕があり、相当の経験を積んできた者であると北川は緊張した。
「ひどい事故だな。もっとも私が派遣した正義忠犬隊がよく働いているから、小学生たちも少しは助かるかも知れんが……」
 いつもと異なる、それは青年がある立場を自覚したときだけ現れる、芝居がかった口調だった。聞き捨てならない言葉をマイクに収めた北川は、心臓の鼓動が急激に高鳴るのを感じた。
「じゃ、じゃあ……あの白い犬のやつに通信してたのは……?」
 彼は部屋の中央に置かれた机と、設置されたモニタと機材に注目した。
「ああ。この部屋から俺が指示を出している」
「な、何者なんですか……あなたは……?」
 その根本的な問いに、青年は窓辺まで歩き、北川とカメラクルーもそれについて行った。
「私は真実の人(トゥルーマン)……真実を追究し、遂には真実そのものとなった男だ」

 不敵に微笑む彼の白い顔が、関東一円に報道された。


 岩倉次郎は突風に目を閉ざした。火器の射撃訓練を終えマンションまで跳ばしてもらい、陳の用意してくれた夕飯に舌鼓を打ち、戻ってきたリューティガーがテレビをつけた直後の出来事だった。もうこのリビングに栗色の髪はない。あの白い長髪の青年を目撃した直後、彼は空間へと跳んでしまったからだ。
「な、なにを考えてるネ……アルフリートは……!!」
 テレビに釘付けになっていた陳はそう呻いたが、日本語ではなかったので岩倉には意味がわからなかった。すると携帯電話が鳴り、誰からだろうと彼はそれを鞄から取り出した。


「はい……ええ……わかりました……待機ですね……」
 通信機を切ったまりかは、ハリエットに険しい表情を向けた。正昌寺での聞き込みを終えた二人は、今日三箇所目の現場である、阿佐ヶ谷のビル地下にあるライブハウスから地上へ出てきたばかりであり、それと同時の対策班からの通信であった。
「なにが起こったの?」
 ハリエットの空色の瞳が、まりかに疑問を投げかけていた。
「森村主任から連絡よ……古川橋でビルの崩落事故ですって……もう二時間前に……」
 まりかの言葉に、ハリエットは眉を顰めた。
「ホウラク!? 大惨事なの!?」
「ええ……ビルが倒れて……首都高を分断したって……救助活動も進んでいないみたい……」
 だが“事故”であるのなら自分たちの守備範囲ではない。その点について二人の気持ちは似通っていた。
「どうしても手が足りないってことになったら……わたしにも出動要請があると思うけど……それまでは待機ね……どこかで夕飯を食べていきましょう」
「そ、そうね……テレビとかでやってるかしら?」
 あまりにもまりかが落ち着いた様子だったので、ハリエットは少しだけ戸惑ってしまった。
「注目現場での大規模な能力の使用は制約があるのよ……わたしの力は誰にでも見せられるわけじゃないから」
 視線を逸らしてそう言ったまりかは、コール音に反応して通信機を再び手に取った。
「はい……え!? えっ!? わかりました!! 映像は転送してください!! わたしは直ちに現場へ向かいます!! ドレスは結構です!!」
 通信機をバッグに戻したまりかは、阿佐ヶ谷の駅に向かって駆け出した。なにが起きたのか、ハリエットは追いかけようとしたが、スニーカーとローヒールでは距離の詰めようもなく、彼女は数歩だけ前に進むとすっかり諦めて腕を組んだ。
「さーて……なにが起きたのやら……」
 余裕の笑みを浮かべたハリエットは、あえて日本語でそうつぶやいてみた。

 神崎まりかが動いた。その動向を監視し、尾行を続けていた檎堂は、駅へ向かって駆け出す彼女を、あえて追いかけることなく地下鉄の駅へ向かうためタクシーを拾った。


 現場までバイクで到着したものの、黄色いロープと警官たちに行く手を阻まれ、遼は群衆の中の一人でしかなかった。青いシートの先には瓦礫と煙が立ち昇り、なにかが焼ける匂いが漂っていた。どうしようもない。こうした結果になるのは予測していたが、いざ現実になると何もできない状況に苛立つばかりである。遼はどこかガードの甘い箇所はないかと、人ごみを掻き分けて移動を開始した。
 異変が起きたのは、白い羽の獣人たちが飛来してからだった。遼にとっても驚愕の事実ではあったが、群衆や関係者たちよりは若干非日常に慣れている彼である。この事態を彼は好機と見て、注意が上空に向かっている隙にロープを潜り抜け、サーチライトのあたっていない、真っ暗な廃墟を瓦礫の一辺まで走り身を潜めた。
 廃墟となっている事故現場は思ったより広く、こうなるとまだ手の付けられていない捜索エリアもあるのだろうと遼は思い、再度上空から舞い降りようとしている白い化け物を見上げた。

 戦いになるのかよ……あれだけの数の獣人……どうする……まりかさん……来るのか……?

 呼吸を整えた遼は背後に呻き声を聞き、仰天して背中を瓦礫から離した。

 人の手が、天に向かって伸びていた。倒壊現場から離れること十五メートル。こんなところにもまだ発見されていない被害者がいたのか。遼は血まみれの手から胴体を目指し、それを阻む瓦礫を押しどけようと両手に力を込めた。
「待ってろよ……いま助けてやる……死ぬなよ!!」
 人々が舞い降りる獣人たちに目と心を奪われている最中、遼は少し外れた真っ暗な現場で命を救うため懸命だった。
 バルチのような思いはこりごりだ。見捨てるような、陰で隠れているような、あのように後味の悪い思いはしたくない。その一心だった。しかし瓦礫はその手に余り、それならばと彼は意識を集中した。

 でけぇなら……でけぇなりにやりようもある……!!

 次々と、連続した意識が瓦礫に無数の穴を開けた。ひどく気持ちが疲れ、頭に痺れを感じるが遼はその破壊行為をやめず、数十秒後には軽石のように体積を減少させていた。これならなんとかなる。遼は瓦礫を押しどけ、細かく呼吸を繰り返す制服姿のOLをその下にも見出した。
「だ、大丈夫ですか!?」
 しかし相手の彼女は呻くだけで返事ができず、額からの大量の出血で目も開けられない状態だった。遼は女の手を握り、意識を集中した。

 た、立てます……?

 無理……足……折れてる……

 普段なら、直接頭に響く声に驚くばかりだっただろう。しかし彼女はトレーラーが飛び込んできて、ビルが倒れるという正気では受け止めきれない事態に遭遇していた。それによって意識も混濁していたため、心の声に素直な返事が出来た。
 骨折を異なる力で治せるほどの技術はまだない。それに瓦礫に無数の穴を開けたため、精神的に相当疲れてしまっている。遼はならば体力勝負かと彼女の両肩を抱き、抱きかかえるなり背負うなりするべきだと判断した。
 苦しそうな呻き声が背中に響いた。背負った瞬間、怪我をしている箇所でもぶつけてしまったのだろうか。OLをおんぶする形となった遼は、首筋が生暖かい血で濡れるのに頬を引き攣らせ、勢いをつけて立ち上がった。
 不思議な光景だった。サーチライトが当てられた事故現場に、先ほど飛来した獣人たちが忙しなく動いている。瓦礫を撤去する者、怪我人を抱きかかえて飛び上がる者、救急隊員に指で合図をしている者、様々である。あれが獣人のいる光景なのだろうか。修羅場を予想していた遼は呆然とし、だがすぐに怪我人を運ぶべき場所がどこであるのか、獣人の動きを目で追うことでそれを知ることが出来た。

 痛い……痛い……痛い痛い痛い!!

 背中から、女の悲痛な感情が言語となって入り込んできた。呆けている場合ではない。そう思い遼が臨時の看護エリアに向かおうとすると、彼の前に白い影が舞い降りた。
 犬面を見上げた遼は、一体どう対応していいのか戸惑い、取りあえず腰を低くした。すると白い獣人は彼の背後に回り、背負っていた女をゆっくりと抱きかかえた。
「あ、あっと……えっと……」
 急激に背中が軽くなった遼は、困惑したまま獣人に振り返った。
「勇気ある少年よ……後は任せてもらおう」
 地の底から響くような、そんな低く通った声である。まさか獣人に褒められるなど思っていなかった遼が口元をむずむずさせていると、羽を広げた彼は上空へ舞い上がった。
 注目の獣人がやってきたこの場所に居続けるのはよくない。驚きながらも冷静に判断した遼は、テレビカメラやサーチライトが向くより早く、別の瓦礫を目指してその場を離れた。

10.
 事故現場近くのマンション屋上に突風が吹いた。それと同時に栗色の髪がなびき、賢人同盟の若きエージェントはすぐに周囲を見渡した。
 テレビに出ていた兄の背後は窓であり、そこにこのマンションが映っていた。リューティガーは角度と位置を思い出し、該当する雑居ビルを特定し意識を集中すると、両手を広げ、マイクとカメラに向かって嘯く兄の姿が知覚された。
 なにやらすぐ直前の首都高は大惨事になっているようだが、これと兄のテレビ出演は関係があるのだろうか。遺体や傷を負った人々の姿をあくまでも“ついでに”遠透視した彼はすぐに兄へ意識を向け直し、その意図に困惑したまま、だが好機であると再び空間へ跳躍した。


「ファクトの真崎から名を継いだ。そう、私が真実の人だ……」
 救急車のサイレンが窓の外から鳴り響く中、白い長髪の青年は北川の向けたマイクに向かってそう言った。
「真実の人こと真崎実と言えば……七年ほど前……日本の国家転覆を目論み、ファクト騒乱とまで呼ばれたテロリストのリーダーだったわけですが……あ、あなたも……?」
「奴はこの国を壊し、やり直すきっかけを与えようとした。しかし私は違う。まず私は治療を施す。患部を取り除き、毒素を抜き、国家に健康体を取り戻させる」
 この男が何者であるのか、北川にはまだ見当もつかなかった。この妖しい容姿に理想家めいた口ぶりは、その部分だけを抜き出してしまえば、ただのアジテーターにしか見えない。だが現在倒壊現場で繰り広げられている、異形の者たちの迅速で的確な救助活動の源が彼であるなら、その姿や言葉にも重さというものが加わるはずである。マイクを向け、スタッフに細かい指示をメモで出しながら、北川はこの生中継がどう市民に受け止められているか気になっていた。画面の分割、スタジオトークの挿入タイミング、情報の順序、報道部門がすっかり縮小された現在の関東テレビに、どこまでこのソースを効果的に伝えることができているのだろうか。しかしいまは男の言葉を引き出すしかない。それが自分の使命であると彼は気を取り直した。
「あ、あの……現在外で行われている救助活動……犬のような頭に鳥の翼……あれらの救助活動も、あなたの活動の一環と受け止めればよいのでしょうか……?」
「真崎は獣人の使い方を誤った……君たちの政府が必死に隠蔽をしていた怪物たちのことだ……あれを前の真実の人は恐怖の尖兵として使い、その結果は事実の抹消だ……人の力を超えた存在である彼らの、本来の役割を私が命じているのだ……」
「そ、それではあなたは今後……どのように……今後……?」
 自分も現場から遠ざかっていたため、言葉が上手く出てこない。北川は緊張のあまり膝が笑い出していることに気付き、青年に引き攣った笑みを向けた。
「やらせてもらう。いろいろとね。この国が正しく進むために……礎になってもいいとさえ思っている」
「ぐ、具体的には……どのような活動を……もしあなたがファクトの関係者であるなら……公安が……」
「現行政府が私を排除したいのならそれでもいい。勝負をすればいいだけの話なのだから……しかし今後、諸君は目の当たりにするだろう。なにが正義か、どちらが正しいかをな……」
 青年が言い終えた直後、乾いた発砲音が外から轟いた。その次の瞬間、白い長髪の彼は突風と共に姿を消し、入れ替わるように栗色の髪が揺らめき、カメラはその背中をフレームに収めた。北川たちクルーは何事が起きたのかと戸惑い、出現したリューティガーは一足遅かったタイミングに拳を振ると、その場から空間へ跳躍した。
 消えて、現れて、再び消えた。北川をはじめテレビクルーだけが部屋に残され、何度か吹いた突風は天井から吊り下げてあった蛍光灯を揺らしていた。

 再び病院の屋上に出現したリューティガーは、必殺のチャンスを逃したことに悔しさを覚えていたが、同時にこの手段で兄を仕留められる確率が低いこともよく理解していた。
 さてどうするべきか。こうなるとあの慎重で用心深い兄は、もうこの付近にはいないはずである。彼の目に、サーチライトの灯りと群衆が見えた。そういえば、何か事故らしきものが発生しているはずである。ようやくその事実に対する優先順位が頭の中で上がり、リューティガーは意識を集中し、遠くの光景を間近に知覚した。

 なんだ……あれは……一体……なんのつもりだ……

 見たことのないタイプの獣人、犬の頭に白い羽を備えたそれが、救急隊員たちと共同で瓦礫の中から負傷者や遺体を運び出している。最初はそのまま食べてしまうのかと思っていたリューティガーだったが、あくまでも救助活動に従事し続けるその異様な光景に、彼は腹の中に奇妙な違和感を覚えた。この気持ち悪さはなんだろう。不自然で、かき回すようなおぞましさである。

 なにを……考えている……兄さんは……

 あれがFOTの獣人であることはほぼ間違いない。だが、生体改造の産物である彼ら本来の目的は戦闘行為であり、そのために獣性と強靭な肉体が与えられている。人食の特性も敵兵の遺体を調理せずにそのまま迅速に吸収するためであるが、あの犬の顔をした白き異形の者は、とてもそのような目的だけで開発されたようには感じられなかった。
 人命救助をしているのであれば、手出しをする必要はない。もしあれが何らかの作戦で、もし急に獣人の本性を現したとしても、日本政府にはそれに対応できるだけの戦力があるはずで、基本的には自分にとって眼下で繰り広げられているこの事態は、直接的には関係していないと思えた。

 テレビに……映されたな……この服は……

 後姿が一瞬とは言え、これを着続けるのは危険である。そう判断したリューティガーは水色のパーカーを脱いでそれを空間へ跳ばし、Tシャツ姿になった。


 群衆を抑え切れるのか。自分の背後で起きている出来事は、あまりにも現実離れをした絵空事のようでもある。黄色いロープの内側で両手を広げ、眼前の野次馬が入ってこられないように気を張っていた田所巡査は、自分もできることなら振り返り、羽の生えた獣の人助けを目撃したかった。
「なんだお前は!!」
 群衆を掻き分け、さも当然のようにロープをくぐろうとした女性に対し、田所巡査は声を荒らげた。
「内調の者よ……ご苦労様」
 官製の野暮ったいジャケットを着たその女性は、胸ポケットからIDカードを取り出して巡査に提示すると、サングラスを中指で下げた。

 ひどい有様である。七年半前のファクトとの抗争でも、これほどの倒壊事件はなかった。瓦礫だらけの廃墟に足を踏み入れた神崎まりかは、サーチライトの当たっていない地帯が真っ暗で、これでは作業も捗らないだろうと懸念した。
 しかしいまの彼女が最も優先するべきは、テレビに出ていたという真実の人がどこにいるかである。まりかは通信機をバッグから取り出しそれを操作したが、ノイズがあまりにもひどく、彼女は任務用の衛星回線通信機を持ってきていないことに奥歯を噛み締めた
 通信機をバッグに戻したまりかは粉塵の舞う廃墟の中で、周囲をぐるりと見渡した。瓦礫には赤い体液がこびりついているものもあり、地面には肉片が付着し、いまもなお人の呻き声があちこちから聞こえてくる、ここはまさしく地獄の底と言える。しかしまりかはそれに怯えることなく、あの白い長髪の青年がどこにいるのか、それを考え推理することだけに集中していた。
 そんな彼女を遠くから発見した島守遼は、なにかひどく喉の渇きを覚え、気がつけば目つきも鋭くなっていた。

 なに……やってんだよ……まりかさんは……なに突っ立ってるんだよ……

 彼女の周辺にも、まだ助けを求めて苦しんでいる人々はいるはずである。負傷者の中年男性を背負い、サーチライトを避け、警察に見つからないように注意しながら救助を続けていた遼は、自分よりもっと強い力の持ち主であるはずのまりかが、この緊急事態になにもしていないように見え、それがどうにも許容できなかった。

「彼も負傷者か?」
 背後に舞い降りてきた翼の獣人は、もう何度か言葉を交わした「彼」である。同じ外見をした二十名の者たちではあるが、遼にはなんとなく、「彼」の区別が感覚でできるようになっていた。
「え、ええ……川向こうの看護エリアまで……連れて行こうって……頭を打って気を失ってますけど軽傷です……」
「わかった……では私が運ぼう。橋までは距離があるからな……」
「あ、ありがとうございます……」
 獣人である。異形の化け物である。だが遼は、この礼儀正しい白き怪物にすっかり慣れてしまい、恐れや敵対する気持ちはなくなっていた。
「しかし……なぜ君のような民間人が救助活動を? 公僕が立ち入り禁止にしているはずだが?」
「あ、いや……たまたま入れてしまって……な、なんか……できることはないかなって……」
「ふむ……いい心がけだな。もっとも、全ての群衆が君のような勇気を持ってしまうと、スムーズな救助活動というのは、それはそれで難しくなるのだがな」
 中年男性を抱え上げた犬面は翼を広げた。それを見上げた遼は、この非常事態に自分が随分落ち着いていると感じ、胸に手を当てた。
 度胸があるとは思えない。単に他人より若干慣れているだけである。それでもこの廃墟の中でたったの四人とはいえ怪我人を救えたのは嬉しかったし、敵であるはずの獣人たちとも気持ちを通わせられたのも決して悪くないことだと思う。上空を見上げた遼は、取材用のヘリコプターが先ほどからずっと旋回しているのをあらためて認識し、そのローターによって舞い上がる粉塵に咳き込んだ。

 邪魔なんだよ……あいつら……映したってなんにもならないじゃないか……ふざけやがって……!!

 あいつらと比べれば、同じ飛べるという意味では犬面の者たちの方がよほど立派である。遼は自分の心の中にこれまでにない種類の怒りが芽生えたことに気付き、更に咳き込んでしまった。


 まりかは瓦礫の中から適当な破片を見つけ、その上に腰を下ろしてサングラスを外し、顎に指を当てた。
 三代目真実の人のテレビインタビューはまだ続いているのだろうか。森村との通信で得ている情報は余りにも少なく、飛び出して動いてしまった自分も迂闊だったとは思う。だが、「真実の人」の名を耳にした瞬間、心のどこかで歯止めがなくなっていた。冷静さを失うとは情けない。
 どこかで情報をまとめておく必要がある。しかし通信環境は最悪で、無線機もだめなら携帯電話もまったくつながらない。周りにいるのは警察や消防、救急といった対策班の存在すらほとんど知らないような現場の者たちであり、スムーズな協力はあまり望めそうにもない。ただ、この現場近くにいることだけは間違いない。いや、「いなば」で対した彼は空間跳躍を行っていた。もしインタビューが終わったのなら、もう何処かへ跳んでいる可能性もある。
 あるいはこの廃墟の中にまぎれているのだろうか。まりかは緊張し、周囲を警戒した。
 ヘリのローターによる突風ではない、もっと近くに感じるそれにまりかは身構えると、眼前に白き怪物が舞い降りてきた。
 彼女はこれまでにそうして生き延びてきたように、怪物に対して精神を集中した。

 異変は、離れた瓦礫の陰にいた遼にもよく見えた。背中を向けた神崎まりかと、その向こうで蹲る異形の獣人。雲の隙間から差し込んだ月明かりが彼女の両の拳が握り締められている事実と、犬の口から血が漏れている現実の両方を遼に提示し、彼はなにが起きているのか理解した。

 なにやってんだよまりかさんは!! 勘違いしてんのかよ!?

「ファクトの獣人ね……!! なにを企んでいるの……!!」
「我々正義忠犬隊に企みなどない……あるのは正義のみ……」
 言いながら、犬面は腰から日本刀を引き抜いた。まりかは身構え、手首から黄色いリボンを引き抜いた。
「布……? 面白い……」
 白き獣人は両手で刀を構え、不敵に微笑んだ。ようやく獣人らしい態度に出てくれた。まりかはこうなってくれた展開に安堵し、リボンへ意識を集中してそれを硬く変化させた。
「そーゆーんじゃねーだろ!!」
 堪らず叫んだ遼は瓦礫の陰から姿を現した。背後からの声にまりかはぴくりと反応したが、犬面はその隙を突くようなことはせず、じっと刀を構えたままである。
 無駄な戦いは止めさせなければならない。その一心が、遼の周囲の瓦礫片を空中へ浮かび上がられた。最も大きいもので野球のボールサイズだったが、十数個のそれはこれまでの限界を遥かに超えた質量である。

 やめるんだ!!

 心の叫びと同時に、遼は両者の間に瓦礫片を打ち込んだ。十数個のうち大半は意図通り高速に飛んで地面に突き刺さったが、いくつかは途中で急停止して落下するものもあった。
 突然の介入に、まりかと獣人の緊張の糸が切れた。
「と、島守くん……?」
 振り返ったまりかは、瓦礫の上に立って強い意を向ける少年を見上げた。サーチライトが当たっておらず姿ははっきりとは見えないが、確かにあの背の高い妹の同級生である。
「邪魔をしないで島守くん!! 真実の人がいて、獣人がいる……それは消してしまわなければならない景色……あってはならない光景……!!」
 まりかは獣人に向き直り、硬くしたリボンを打ち込もうしたが、「彼」はすでに翼を羽ばたかせ、彼女の頭上を通過しようとしていた。
 逃がすものか、まりかが白い翼を破壊するべく意識を集中しようとした途端、小さな破片が眼前まで迫り、彼女はリボンを振ってそれを防いだ。
「島守くん!?」
「だからそうじゃないんですよ!!」
 遼はまりかへ向かって駆け、着地した獣人は血だらけの老人を抱きかかえ、それを見たまりかは顎を引き両肩を上げ、奇怪な状況に歯軋りした。
「悪い奴じゃない!! あれだって食うんじゃない、対岸の看護エリアまで運ぶだけなんです!!」
 両手を広げて両者の間に立ちはだかった遼は、強い意をまりかに向けた。
「な、なんですって……」
「本当です!! もう俺……何度か一緒に助けてますし、救急隊の人たちも連携してます……」
 遼の言葉に硬くなったリボンはしなり、まりかは何度も瞬いた。すると獣人が腰を屈めてその場から跳び、翼を広げた。
「すまん少年……君が島守だったとはな……」
 両手で老人を抱えた犬面は、白くとがった歯を見せて羽ばたいた。
「私の名は我犬(ガ・ドッグ)。我の犬でガ・ドッグ。正義忠犬隊隊長、我犬だ!!」
 飛び去っていった我犬が、やがて看護エリアに降りていくのをまりかは確かにその目で見た。
「どういう……ことなの……島守くん……なんで……ファクトの獣人が……救助なんて……するのよ……それに……なんで君は……」
 低く掠れた声であり、見据える目には殺気すら宿っていた。遼はだが、ここで気圧されるわけには行かないと目を逸らさず、顎を強く引いた。

 倒壊した瓦礫の撤去が完了し、その下から小学生を乗せたバスをはじめ三台の残骸が発見されたのは、二人の異なる力の持ち主が睨みあった直後のことだった。救急隊と正義を守る犬たちは、まずは肩を抱き合って喜び、どうみても生き残りなどいそうにないほど拉げ、血と肉の臭いが一斉に広がったため、全員が表情を強張らせた。
「あとは人の手に任せる……我々はここで失礼する……再び正義が危うくなったそのとき……我々は現れるであろう」
 そのような芝居がかった言葉を残し、我犬率いる正義忠犬隊の二十名は曇った夜空へ飛び立っていった。その飛翔は鳥のように自由で、公安の派遣した追跡用のヘリは瞬く間にその編隊を見失ってしまった。

 五反田駅に到着したものの、JRのホームは人が溢れかえるほど行き場を失っていて、高川典之はもう三十分以上も人ごみの中で右往左往していた。
 古川橋の倒壊事故により、政府は第一級の警戒令を発したらしい。なんでも現場に化け物が飛来してきてから十五分後の発令らしく、テロとの関わりを懸念しての判断だという噂だ。都営・国営に準じる東京メトロ・JR全線は運行を停止し、再開の目処も立たないらしい。そんな不確かな情報が高川の耳に飛び込み、ほとんど全ての者が携帯電話で連絡を取ったり、ニュースへアクセスしたりしていた。
 正確な情報も得られず、現場までの足もない高川典之は、五反田という中途半端な場所からなかなか身動きがとれず、彼が駅から脱出して走って現場を目指しはじめたのは、それから更に一時間が経過してのことである。

11.
 ピークは過ぎた。それはヘリコプターの数が減ったことや、呻き声がほとんど聞こえなくなった周囲の状況で感じ取れる。だが遼とまりかは睨み合ったまま、もう十五分も廃墟で対峙したままだった。
「事実は受け止めてください。我犬さんたちのおかげで……大勢助かったんだ……」
「事実はね……けど……あなたはまだわかってない。その向こうには……真実があるのよ」
「真実……? 言葉遊びはやめてくれ。大体……なんであんたは……」
 遼は、この惨状で一人考え事をする先ほどの姿と、晴海埠頭の倉庫で初めて見た赤い人型で佇んでいた姿と、二つのまりかを重ね合わせ、もうこの人に丁寧な言葉は遣いたくないと思った。
「なんで力があるのに、誰も助けないんだ!!」
 あまりにも遼の言葉が強く真っ直ぐだったため、まりかは言葉に詰まり、口元を歪ませた。
「そ、それは……わたしの力は……そのためには……」
「使えないってのかよ? おかしいよ、それは!! ここでやることは戦うことより助けることだよ!!」
 彼の言うことは正論である。当然のように決めていた事態に対する優先順位と、いかなる惨状に慣れきっててしまっている鈍った感性が、島守遼の怒りを生み出しているのだとまりかはようやく理解した。
 それはどこか、妹が自分に向けている負の感情に似ているのかも知れない。そこに至ったまりかは視線を地面に落とし、足元にこびりついていた肉片に口を両手で覆った。
「でもね……これがいまのわたしなの。いまのわたしも……必要なの……ううん……目も……耳も……足もなくしたわたしは……こうしてやっていくしかなかった」
 涙ぐみ、搾り出すようにそう言ったまりかは、両肩を手で抱き締め、ゆっくりと歩き始めた。
 反発し、説得させられるだけの言葉をどこか期待していた遼は、歩いてきたまりかを直視することができず、すれ違う際に、「すみ……ません……」と、謝罪するのが精一杯だった。

 総合病院の一階入り口では、古川橋の被害者が次々と運び込まれ、ロビーにまで患者は溢れ返り、野戦病院のごとき騒然とした状況になっていた。
 だが、その屋上にはリューティガーが一人佇んでいるだけである。彼の紺色の瞳は血走り、全てを見通した知覚は疲労の頂点に達しようとしていた。

 遼……なぜお前が死に神殺しと対する……なにを話した……遼……信じるにも限度というものがあるぞ……遼……遼……

 意識を遮断したリューティガーは、全身の力が抜けていくのを感じ、フェンスに両手を付け体重を支えた。

 激情が、いつの間にか彼の口から友人の名を叫ばせていた。

 入るものを禁じる厳しさと比較し、出て行く者を見張る目は少なかった。遼は看護エリアまで辿り着いた後、病院の搬送作業に紛れて事故現場を後にし、MVXを止めておいた神社の近くまで歩いてきた。
 ひどい疲れである。これまでの限界を遥かに超えた質量を動かすことができたが、おそらく帰宅次第、倒れこんで寝てしまいたいほどである。人もまばらになった路地までやってきた彼は遂に電柱に体重を預け、その場に座り込んでしまった。
「島守くーん!!」
 神社から丸々とした巨体が駆けてくるのを、遼は認識した。
「ガ、ガンちゃん……?」
「島守くん、やっぱり来てたんだね」
「どうしたの、遼!?」
 岩倉の陰から現れた少女に、遼は腰を浮かせた。
「な、なんだよ……なんでガンちゃんと神崎が?」
「いくら電話しても出ないから……ガンちゃんに連絡したの。そしたらすぐ近くっていうから……バイクでここまで連れてきてもらったの……」
「そしたらMVX見かけてね。珍しいなって、ナンバー見たら島守くんのだったから、どうせ野次馬で現場までは近づけないし……ここで待とうってはるみちゃんと決めたんだ。
 岩倉の説明のあと、心配そうにしゃがみ込んできたはるみを、遼はじっと見つめた。
「な、なによ、遼……」
「い、いや……あのさ……なんでここに来ようと……思ったんだ……」
 遼の質問に、はるみは両膝に手を当て、首を傾げた。
「さ、さぁ……どうしてだろう……」
 困惑する彼女の揺れる瞳を感じた遼は、小さく首を横に振った。
「だよな……同じなわけねぇもんな……悪りぃ、はるみ……変なこと聞いちまって……あと……携帯OFFしてて……」
 妙に穏やかである。はるみは彼の様子をじっくりと見つめ、唇に指を当てた。
「ね、ねぇ……どう……したの……? どうなった……の?」
 少女の視線が遠くを見つめたため、少年はその問いを理解し、電柱を支えに立ち上がった。
「一応……終わったんだと思う。今日のところはね……で……色々……はじまったんだろうな。たぶん……」
 自分でも気がつかないうちに、遼は彼女の肩に手を乗せていた。はるみは支えが欲しいのならと、彼の手に自分のそれをそっと重ね合わせた。
 報道のヘリが路地上空を通過し、惨事はとその報道はこの国を大きく揺らがせようとしていた。

第二十一話「遼とまりか」おわり

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