真実の世界2d 遼とルディ
第十七話「十六対四」
1.
「たぶんね……わたし……好きなんだと思う……島守のこと!!」

 “たぶん”と、“なんだと思う”この二つがいかにも余計で、心の準備もせずに口走ってしまったのだろうと、すっかり困り果ててしまった自分がいる。
 代々木駅に通じる坂道を行きながら、神崎はるみは一段と厳しさを増す寒さに身を縮こまらせ、マフラーを巻き直した。

 あれから一週間ほどが経ち、週明けの本日は二月十四日である。女子高生であればそれは一年の中でも大切で特別な一日であり、彼女も当然のことながら、手にした学生鞄に、想いを込めたそれを詰め込んではいる。
 しかしあの告白からなにも進展していない。もちろん教室や部室で顔を合わせる機会はある。演劇部で恋人役として稽古も重ねている。だが個人的に意志を疎通させることは皆無であり、言葉を交わすこともない。
 もちろん、これまでも彼の方からコミュニケーションをとってくることは滅多になかったので、このギクシャクとした要因を作り出しているのは、すっかり困惑している自分である。

 だからこそ、このチョコレートも果たして渡せるかどうか怪しいとさえ思えてしまう。

 満員電車に揺られながら少女は思った。つまり、そう、なんて自分はいい加減で出鱈目な人間なのだろうと。不安定な情緒を、彼女はそのように定義づけてみた。

 何者か、おそらくは七年前この国を襲ったテロ集団、“真実の徒”の残党と、島守遼(とうもり りょう)が戦っているのは間違いない。そしてそれは転入生のリューティガー真錠(しんじょう)にきっかけがあり、あの栗色の髪をしたドイツ人との混血児は、科学的に立証されていない、超常的な能力を身につけている。

 荒唐無稽な推論結果であるが、そこに行き着くまでの材料がいくつかあるのも事実である。

 だがその根拠である、幼少期の記憶を巡らせるのはなんとなく怖く感じられ、だからこそ駐輪場であんないい加減で抽象的な告白をしてしまったとも思える。

 まったく、出鱈目にもほどがある。どうして自分は、あんなことを口走ってしまったのだろう。

 入学以来、なんとなく気になっている男子生徒ではあった。
 特に親しい友達もいないようであり、同級生の比留間圭治(ひるま けいじ)に議論を吹っかけられて困り果て、成績はいいようだが授業中によく居眠りをしていて、背が高く、整った顔はしているが美形などではなく、平凡でありふれた同級生である。
 だが、演劇部に入ってからの彼は、急に自分との関わり合いも増え、それにつれ長所というか、褒められる部分も段々と見えてきている。
 未熟ながらも存在感のある芝居で、彼は学園祭公演に多大なる貢献をしたし、意外と芯が強く、トラブルに対しても毅然と対応する一面を見る機会もあった。
 学園祭と言えば、ラーメン仁愛の際も実行委員として確実に責任を果たしているし、意外に頼れるなと、そう思ったこともある。
 ただ、彼の長所をいくら考えてみたところで、“好き”と思えるほどの理由にはならない。
 だが何となく、そばにいると心が躍るのである。これは上手く言葉で定義することができない上に、彼のことが気になってしまう一番の理由なのだろう。

 改札を抜け、私鉄に乗り換えたはるみは、見知った仁愛の生徒たちに挨拶をし、扉付近の手すりを握った。

「はるみちゃん……遼くん……助けてあげて……もう……わたしじゃ無理だから……」

 目を赤くして、蜷河理佳(になかわ りか)はあの晩、そう別れの言葉を告げにきた。
 島守遼の抱えている秘密に、彼女も関わっている。だからこそ、付き合っていた彼女が突然転校しても、彼は平然としていた。いくら普段から泰然とし、ぼんやりした面があるとはいえ、あれはあまりに不自然だったと思える。

 本気で競えば、まず勝ち目がない。それほど美しく、儚げで、男をそそる少女だと、同性だからこそよくわかる。

 けど、今日はもう一度気持ちをぶつけてしまおう。二月十四日はそれが許される特別な一日であるはずだ。

 本末転倒なのだろうか。
 彼に対する自分の心躍る気持ち。
 秘密を知りたいという欲求。
 そして、知りたくない恐れ。
 どれが優先順位が高く大切なことか、それすらもわからない。

 こんなにも、もやっとしているのは自分ではない。電車の扉に額をこつんとつけた彼女は、息でガラスを曇らせた。

 よーし……よーし……そう……すっきりと……順序良く……正しいってことを……順序よく……

 “順序よく”それは少女がごく稀に、岐路に立った際にまじないの如く意識する言葉である。雪谷大塚(ゆきがやおおつか)の駅に付く頃には、彼女はある結論に達しつつあった。

 そう、今日は二月十四日である。うじうじ、ぼやぼやしている場合ではなかった。

 まず、想いを込めたこれを手渡そう。彼がどんな反応をするのか、自分が何を口走ってしまうのか。そんなことは予想するべきではない。なるようになれ、だ。

 そして、いずれ再び彼に秘密を聞く前に、やっておくべきことがある。知っておくべきことがある。姉の姿が脳裏をよぎったが、それは気のせいではなく、少女が意識した上での存在である。
 自分の予想がもし正しければ、七年間もの隠匿に迫らなければならない。一介の女子高生にできるのか。いくら肉親のこととは言え、あの姉のことである。
 那須という捜査官は力になってくれないだろうか。そう、彼はそれこそ重大な事実を知っている可能性が高い。

 駅から出て学校へ向かいながら、神崎はるみの表情に凛とした張りが戻ろうとしていた。


 学校へ続く坂道を上っていた彼女は、目の前を行く二人の小柄な同級生を見つけ、「椿さん、吉見さんおはよう」と、声をかけた。
「椿さん……もう大丈夫なの?」
「う、うん……PTSDの診断も問題なかったし……警察の取り調べも済んだから……」
 大きな額に朝の鈍い陽を反射させ、椿梢(つばき こずえ)がそう返し、並んで歩く吉見英理子が、「真錠くんも事情聴取、受けたんですって」と言った。
「真錠くんが? あのペットショップにいたの?」
 驚くはるみに、英理子は赤い縁の眼鏡を上げ、頷いた。
「ええ。わたしに梢、あと真錠くんと花枝くんも。なのにあの二人、警官が来たらどこかに行っちゃったのよ」
 英理子は不満気にそう言い、椿梢は巻いていたマフラーの端を思わず握り締めた。
「それ、知らない。結局どうしたの?」
 “真錠”その名が事件に絡んでいると再認識したはるみは、興味深そうに英理子に尋ねた。
「うん。真錠くんは、次の日に警察に呼ばれたって。花枝くんは知らない」
「花枝くんも警察の人に話したって……」
 椿梢の小さな言葉に、英理子は軽く驚いた。
「そうなの梢?」
「うん。お見舞いのとき、そう言ってた」
「あ、お見舞いに来たんだ、彼」
「うん……毎日……」
 少々困ったような、そんな苦笑いを少女は浮かべ、英理子とはるみは妙に納得し、顔を見合わせた。

 雪谷大塚駅前商店街のペットショップで、飼育されていたレトリバー犬が店員を襲ったのはつい先週のことである。二人の店員は三歳になる狂犬に頚動脈を噛み千切られ、病院に搬送されたが既に息を引き取っていたという。
 その店にたまたま居合わせた、椿梢と吉見英理子がこうして無事だったのは幸いであり、カウンター内の惨状を直接目の当たりにしなかったのが更なる幸運だった。

 椿梢は拭きつけてくる風の冷たさに表情を強張らせ、ブレザーの上に着たコートの襟を直した。

 事件の翌日、病室のベッドで新聞を見た彼女は、記事に対しある違和感を抱いた。
 あのペットショップで狂ったのは、レトリバー犬だけではない。あの檻の中にいた茶色のトイプードルも、あんなにも可愛かった仔犬も、目を赤く輝かせ自分たちに襲い掛かってきたはずである。
 彼女は見舞いにきた花枝幹弥(はなえだ みきや)にその事実を尋ねてみたが、「トイプードル? なんや、そないなのまで狂犬やったんか?」と逆に聞き返され、友人の英理子も、「あの仔犬? えっと……ど、どうだったっけ……そ、それよりも……真錠くんが子猫に噛み付かれてた方しか見てなかったし……狂猫病ってのもあるのかしら?」とやはり聞き返され、一体あの茶色い襲撃はなんだったのだろうと困り果てる結果となった。

 そう、間違いなく自分はあの赤い目をした子犬に、“戦う”という意志を向けたはずである。しかしその直後に胸に激痛が走り、気がつけば栗色の髪をした同級生がダルメシアンの前に立ち、彼が触れた直後に犬は消滅し、担架に乗せられ再び意識を失ってしまった。
 翌日、事情を聴取にきた刑事はトイプードルのこともダルメシアンのことも、そして白い子猫のことも聞いてこなかったので、椿梢はますます困惑し、今度は逆に自分から聞き返してみた。すると中年の柴田と名乗る刑事は、「ひどい荒れようで、逃げちまったのもいるそうですから……まぁ……あなたが見た“トイプー”もそのうちの一匹でしょう」と面倒くさそうに答えたため、それ以上の質問は諦めた。

 確かに混乱した状況で、皆がばらばらで全体の状況を把握している者などいないのかもしれない。後から来て状況を確認にした警察なら尚のことである。
 それにしても、リューティガーがダルメシアンを消したあれは、一体なんだったのであろう。
 校舎へ向かう椿梢は、学生鞄とは別に用意した鞄に入れた、想いを込めたそれをちらりと覗き込み、だがこれを渡す際、彼に疑問を尋ねてよいものかと思い悩んでしまい足を止めた。

 こんな日だから、思い詰めることもあるだろう。ましてや入院後、ようやくの登校である。正門の前で立ち止まった椿梢の後姿を見て、はるみはそう思った。
 しかし、彼女から醸し出される重苦しさのようなものは、なにかつい先ほどまでの自分と重なり合うような気もする。
 肩の力を落とし、友人と校舎へ向かう同級生の小さな背中を見て、神崎はるみは、「いろいろあるしね……」とつぶやいた。


「知ってるか島守。もう滅んでたと思われる、反米左翼が最近にわかに活気付いてきたという事実を?」
 1年B組の教室で、比留間圭治は頬杖をついて眠そうにしている島守遼に、胸を張ってそう言った。彼は斜め後ろに高橋知恵(たかはし ともえ)の頼りない背中を認めると、彼女に聞こえるように、更に声のトーンを上げた。
「たぶん、例のC−130墜落事故で、あの馬鹿どもは存在感を誇示するチャンスだと思ったんだろうな。六日の集会をニュースで見たか? 横田基地の前でプラカードなんて持って、馬鹿かと思ったよ僕は」
「あ、えっと……なんだ……比留間」
 目をこすり、まるで言葉を聞いていなかったかのように、席に着いていた遼がそう返した。
「島守、お前はどうなんだよ。お前は米軍基地についてどのような考えを持っているんだ?」
「べ、米軍?」
「そうさ。反米左翼の連中は、憲法九条のあるこの国に軍隊はいらない。冷戦は終わったのだから、軍備など必要ない。そんな馬鹿げた平和ボケの主張を掲げているんだ。まったく矛盾しているね。冷戦ってソ連のことだろ、あいつらサヨは、昔はソ連寄りだったんだぜ。論理が破綻してるよ。第一ロシアはともかく、今は北朝鮮や中国の脅威だってあるんだ。米軍は絶対に必要であって、それと上手く協調して、対話なり圧力なり、政治的手法を使っていくべきで、それが現実路線ってものだろ!?」
 あまりに声が高かったため、教室にいた生徒たちの大半が比留間のアジテートに耳を傾けていた。しかし普段気にしているような内容ではなく、第一に彼が早口だったため、気に留める者はごく僅かであり、大半は、「うざい。朝から」と思う程度である。
「ど、どうだ島守……貴様の意見は……?」
 再度尋ねられた遼は、きょとんとし、やがて小さく頷いた。
「い、いや……お前の言うとおりだと思うよ。だって……米軍いなくなったら、あっと言う間に攻め込まれるもんな」
 珍しく全面的に彼が同意したため、比留間は息を詰まらせ、背後にあった椅子の背もたれに肘を思い切り打ち付けてしまった。
「あ、あいたたた……」
「けどさ……比留間……」
「な、なんだ島守……」
「思うんだけどさ。もし守れるだけの軍隊があれば、米軍はいらないよな」
「そ、そりゃ、馬鹿げてる……憲法上、日本は軍隊をもてないんだぞ!!」
「え……けど……あるじゃん、自衛隊」
「僕が言ってるのは戦略的軍事力という意味における軍隊だ。空母も持てない、核も持てない、そんなないない尽くしでまともな国防なんてできんよ」
「なんで……持っちゃいけないんだろうな」そう口に出したい遼だったが、これ以上比留間にヒートアップされては朝から身が持たず、それにしても以前に比べ、自分らしくもなく会話を続けていた事実に軽く驚きもした。

 こいつの……せいだな……

 左隣の席に着く、栗色の髪を見上げて遼は再び頬杖をついた。比留間がまだ何か口にしているようだったが、そもそも知識に乏しい国防論を続けるのは難しいと思え、彼は耳を閉ざした。

 さて、どうだろう。彼女はどう反応するだろう。目を覚ましてくれれば幸いなのだが。比留間は自分の席に戻る途中、高橋知恵をちらりと見た。
 黒く枝毛混じりの髪をした、白い肌の彼女は、落ち窪んだ目を一冊の本に向けていた。タイトルは、「ネット右翼の実像」であり、比留間圭治は堪らずその背表紙を叩きたい衝動にかられたが、それではデモをする暴力的な連中と何ら変わりないと、行動しないことを正当化し、詰襟のホックを直した。

 ふん……いずれ目を覚ましてやる……いまは僕のことを嫌っているだろうが……君は若者特有の政治運動熱に取り憑かれているだけだ……子供が遊びを覚えたように……そう、まさしくいま君が否定しようとしている、本の内容に書かれているような連中と表裏一体、同じ穴の狢なのさ。けど僕は違う。そして目を覚まさせてやる……

 いびつさなど微塵もない。潔癖で高潔で、優しく男らしい理論家である。比留間は自己をそう定義すると席に戻り、なんとか心の安定を取り戻した。

2.
 その日最後のホームルームを終えた、1年B組担任の川島比呂志は、「じゃーな」と右手を挙げ、教壇を降りて廊下へ出た。
 職員室に戻る途中、川島はなんとなく校内の生徒たちが、いつもと異なるリズムで動いているような、そんな気がした。
 ある者はそわそわと待つようであり、ある者はきょろきょろと探すようであり、ある者たちはとうに目的を果たし、これまで見たことのない組み合わせで下校しようとしていた。そしてその反対に、同性から肩を叩かれ慰めてもらっている女生徒も目の端に見える。川島は、「いいねぇ……青春ってのは」とつぶやき、職員室へ入っていった。

 図書室では、戸田義隆(とだ よしたか)と権藤早紀(ごんどう さき)が、並んで長机に座っていた。
「ねぇ早紀さん……これ見た……?」
 戸田は、彼女に開かれた週刊誌を前に差し出した。
「週刊GESEWA? ううん……読まないけど……」
 片目を覆った前髪をかき上げ、権藤早紀は記事に視線を落とした。
 彼女の、こうして面倒くさそうにかき上げる仕草が、なんともクールで色気があると思う。なんとなく付き合うようになって数ヵ月だが、横から見るこれは何度でも興奮することができる。
 自分にもこんな発情があるのかと戸田義隆は意外だったし、そもそも自分に彼女らしきものができるとは予想もしていなかった彼である。
「なにこれ……ウチのこと……?」
「そう……呪われた学級、仁愛高校1年B組……驚いちゃったよぉ……」
 のんびりとした彼の口調に、すっかり緊張感を解された彼女は、より詳しく記事に目を通した。
「教室ジャック事件以来、このクラスの生徒は通り魔事件の目撃、先日の狂犬事件に巻き込まれるなど不運が続き、現在も次は私の番かと怯える日々が続いている……」
 口に出して読み終えた早紀はため息をつき、隣の戸田へ鋭い視線を向けた。
「面白半分もいいところね。偶然を必然に誤読させるほどのフックも弱いし、真面目に検証するつもりも毛頭ないのだろうし」
「だよなぁ……けど笑っちゃったよ。小林くんが取材に応じたんだって」
「ふぅん……」
 小林という男子生徒は確かに同級生だが、疎遠であり“彼が取材に応じた”事実のどこが面白いのか早紀には全くわからなかった。彼女は唇に指を当てると、小さく微笑み、傍らの学生鞄を机の上に載せた。
「帰る?」
 彼の的外れな言葉に、早紀は形のいい唇を少しだけ尖らせた。
「違うでしょ……今日は何日? 義隆」
「あ、えっと……十四日だったっけ」
「はいこれ。駅前のスーパーで買ったやつだけど」
 学生鞄からリボンのついた包みを取り出した早紀は、素早い挙動でそれを戸田へ手渡した。
「な、なんだいこれ?」
「二月十四日でしょ? なら……そうに決まってるじゃない」
 ぷいっと横を向いた早紀は、学生鞄を両手で抱えた。
 彼女が耳まで赤くなっている事実に、戸田は眠そうな目を見開いた。
「あ、あーっ!! そ、そーか。そーでした!!」
 なんという惚けた彼なのだろう。わざとなら後頭部に学生鞄の一撃をお見舞いするところだが、彼の場合真剣にボケているのだから仕方がない。だが、そんな彼だから、ともすれば男子に対しても当たりがきつくなる自分のような者でも、付き合っていけるのだと思える。早紀は席を立ち、包みを開けようとする戸田の手を軽く叩いた。
「や、やめてよ……家帰ってから開けてよ……」
「あ、一緒に食べようと思って……」
「そーゆーのじゃないんだから」
“ありがとう義隆。これからもずっと一緒にね”そんなメッセージを書いたカードが、チョコレートと共に包みには入っている。もし彼がいまここでそれを取り出し、口に出して読み上げようものなら、自分はパニックで何をしでかすかわからない。それだけは勘弁と、彼女は戸田の手首を掴み、彼を立ち上がらせた。
「早紀さん……ありがとう……嬉しいよ」
 時々、彼はこうして不意打ちのように優しい言葉をかけてくる。早紀は戸田を見上げ、「うん」と小さく返した。


 よもや、呼び出されるとは思ってもいなかった。朝、島守遼に熱弁した際には本を読んで無視をしていたはずなのに。全てを聞いた上で、説得でもしようと言うのか。机の中に入っていた、“生徒ホール裏、放課後に待ってます。高橋”というメモを手にした比留間圭治は、途中なんども躓き転びかけながら、寒風の吹きつける暗い生徒ホール裏までやってきた。

 風に流れる髪に手を当て、空いた手を後ろに回し、学生鞄を地面に置いた高橋知恵が、やってきた彼に、小さく口を開いた。
「た、高橋さん……」
 喜んでいるようにも見える。だとすれば一体なんなのだろう。反米デモへの参加を断り、その間違った思想信条を正そうとしている自分に対し、なぜ彼女が微笑みかけるのか。

 これは、これは、これは。まさか、まさか、まさか!?

 比留間の鼓動が高鳴り、疑問は期待へと変態を遂げようとしていた。
「ひ、比留間くん……この間は……授業の前に……呼び出しちゃって……ご、ごめんなさい……」
 小さく、今にも消え入りそうな声だったため、比留間は全神経を集中してその言葉に耳を傾けた。
「い、いや……別に……」
「こ、これ……ひ、比留間君に……お詫びの意味も……込めて……」
 後ろに回していた手が、ゆっくりと弧を描き、比留間はその先にリボンに包まれた箱が握られている事実に絶頂した。

 あー!!!!!!! あっあっあっあっあっー!!!!!!!!!!!!!!

 比留間圭治十六年の人生にして、それは初めての経験であった。小学生の頃から異性にはまったく縁がなく、中学時代は“不気味でキモイ”という噂さえ隠されることなく届いてきた自分である。もっとも回りに自分という存在を見る目がないだけだと信じてもいたが、それにしてもまさか彼女が、高橋知恵とは。
「た、たたた、高橋さん!?」
 裏返ってしまった声に、彼はげほげほと咳き込んだ。
「ひ、比留間くん……?」
 屈んだ彼に、少女はゆっくりと近づき、その背中を擦った。
 なんという優しい気遣いだろう。思想は間違ってはいるが、こうした部分は女性特有のいたわりというものなのか。比留間は顔を真っ青にし、すぐ次の瞬間には真っ赤に興奮し、頬が歪んで引き攣るのを抑えるのに必死だった。
「あ、あああ……う、受け取る……!! 僕は……受け取るっ!!」
 そう叫び、比留間は彼女から箱を受け取った。今日は、これを学生鞄に入れるような真似はせず、よく見えるように勲章として持ち帰ろう。いや、このまま彼女とお茶ぐらい飲んでいってもいい。実のところ興味がある。一体、高橋知恵とは何者なのだろう。もっと知りたい。彼は欲求を吐き出すように、胸を張り、その反動でよろめいた。
「あ、あのね……三月にも……また……やるんだ……うちのグループ……」
「あ、あぁ!?」
 意外なる言葉に、比留間は素っ頓狂な声を上げた。高橋知恵は視線を逸らし、両手の指を胸の前で合わせると、少々引き攣ったような笑みを浮かべた。
「待ってるから……中に……携帯の番号とアドレスも入れておいたから……」
 そう告げると、高橋知恵は身を翻し、学生鞄を抱え上げ、裏門へ向かって駆け出していった。
「三月……だって……?」
 彼女の真意はどこにあるのだろう。まさか、これはいわゆる誘惑というやつなのか。だとすればなんという魔力だろう。あの卑猥な笑みは反則だ。あんな申し訳なさそうな、企んでいるような、それでいて切ない引き攣りは強烈すぎる。

 比留間圭治は恋をした。ただ、その事実に彼はいまだ気付かず、来月のデモに参加して、やはり彼女を説得するべきだろうと、彼はまったく見当違いな決意を胸に秘めようとしていた。


「全然っ……面識ないし、困るよねぇ……やっぱし……」
 校門で、花枝幹弥は困惑し、包装された箱を差し出している見知らぬ女生徒を凝視した。
「な、なんや誰や自分……」
 同学年だろうか。1年B組では見ない顔である。確か今日はバレンタインデーという女の子が好きな男の子にチョコレートをプレゼントする日であり、だが小さい頃に同盟に引き取られ、海外で過ごしてきた彼にとっては今ひとつよくわからないイベントデーだった。
 なかなか可愛い少女である。ブレザーが良く似合っているし、肩まで伸ばした髪はさらさらと冬の陽に輝き、綺麗な目をした、それでいて少々気が強そうにも見えるはっきりとした眉である。
 しかし、まったく見覚えなどない。
「私、A組の伊壁志津華(いかべ しずか)……って言ってもわかんないよね……やっぱし」
 可愛らしい外見とはギャップのある、どうにもいかつい音の名前である。一体彼女は何を渡そうとしているのかと注意深く観察した花枝は、散らばっていた情報がようやくまとまり、全てを理解した。
「俺に!? なんでや?」
「駄目!? もうもらったりしてる? 昼休みって思ってたけど、花枝君ってば教室から出てこないし」
 早口で一気にそう言った伊壁志津華は、手にした箱を花枝の胸に押し当てた。
「あかん、あかん。まだもらってへんけど、それは受け取れません」
 即座に拒絶された上に言葉が丁寧になったため、少女は戸惑った。
「ど、どうして!?」
「俺、好きな子おるから……すまんな。ほんま」
 右手を頭の高さまで上げると、花枝は垂れた目をウインクし、少女の前から立ち去った。
 学校前の坂道を下りながら、花枝は唐突に意思表示をしてきた、A組の女生徒のことを今一度考えてみた。

 あほか……なんで断る……? 遊び相手に最適やないか……どうせ任務も暇やし……梢ちゃんは、ルディに本気みたいやし……なにやっとるんや俺……

 立ち止まった花枝は、顔を横に向けるとちらりと校門に視線を移した。

 そこには、呆然と立ち尽くす少女の姿があり、可愛いと思っていた顔には絶望と悲観の色が浮かんでいた。
 とてもではないが、あんなにも様子を変えてしまったら、今更、「遊んだり、ヤったりする割り切った関係ならええよ。付きあったげるわ」などと言い出すこともできない。彼は慌ててその場から逃げるように駆け出した。


 学生鞄に教科書やノートを入れたリューティガーは、自分の席から教室を見渡し、窓際の吉見英理子のもとへ歩いて行った。
 本日は月曜日であり、科学研究会の集会日である。これまで二回しか出席していないリューティガーではあるが、今日は暇を潰す必要があると感じ、彼女に「行きましょうか、吉見さん」と声をかけた。すると英理子は首を軽く横に振り、「いいわよ今日は。私と江藤くんでスケジュールの打ち合わせするだけだから」と意外な言葉を返した。
「そ、そうなんですか?」
「ええ。だからまた科研は来週ね」
 英理子はそう告げ、鞄を手にすると早足で、まるで逃げるかのように教室から出て行った。
 ならば仕方がない。彼は教室に残っていた高川典之に声をかけようとした。
「ルディ……あ、あの……」
 背後からの言葉に、リューティガーはすぐに振り返った。
「ル。ルディ……ちょ、ちょっと……いいかな……」
 伏し目がちに、言葉に詰まりながら、口元を歪ませ、とにかく彼はこんな椿梢を見るのは初めてだった。

 リューティガーと椿梢が生徒ホールの裏手までやってくると、二人は目を見開いてリボンのついた箱を大事そうに抱えた比留間とすれ違った。
「あ、へぇ……ふ、ふぅん……」
 立ち止まった椿梢は珍しいものを目撃したかのように驚き、あらためて栗色の髪をした彼と向き合った。
「ご、ごめんなさい椿さん……その……お見舞いとか……いけなくって……」
 リューティガーの謝罪に、少女は「あはっ……」と声に出して微笑んだ。

 ペットショップでリバイバー化した犬や猫に襲われた際、椿梢は彼女が生まれつき持っている異なる力を使い、襲撃してきた仔犬の命を奪った。しかしそれと同時に心血管が閉塞し彼女は意識を失い、彼と会うのはそれ以来のことである。今日の昼もリューティガーは弁当ではなく教室から出て行ったので、言葉を交わすこと自体が一週間振りで、だからこそ彼から話題を切り出してきたのが少女にはとても嬉しかった。

「いろいろあって……警察が来てから現場から離れたんですけど……後で事情聴取に呼び出されて……きょ、狂犬だったそうですね、あれ……」
「ルディ……」
 落ち着いた口調である。リューティガーは瞬時に、いくつかの可能性を導き出し、どれに対しても冷静でいられるように心構えをした。
「あのね……お弁当作っておいて……いまさらだけどこれ……」
 椿梢は袋から小さな箱を取り出し、それを差し出した。
「あ、えっと……な、なんだろう……?」
 良く見ると、綺麗な包み紙である。リボンも可愛らしく、これは一体如何なる贈り物だろう。自分の誕生日は十二月二十五日だから関係ないはずであり、お礼だとすればなんであろう。
 リバイバー騒ぎで自分がとった行動は、彼女からは見えていなかったはずである。すぐに壁に彼女を押し付け、身を挺した事実が評価されたのか。
 花枝同様、日本という国の風習をあまりよく知らない彼は、困惑したまま少女から贈り物を受け取った。

「英理子がね……凄く怖かったって……犬に店員さんが襲われたのは……わたしたちからは良く見えなかったけど……声とか……音とか凄かったし……今でもはっきり覚えてる……でも英理子は凄いよね。休まずに、学校来たんでしょ?」
「え、ええ……僕も……花枝くんも……なんかどたばたはしてましたけど……で、でも……そうですよね……店員さんが二人も亡くなって……い、犬って……凄いんですね……」
「ねぇ……ルディ……」
 椿梢はすぐそばの桜の木に手を当て、彼から目を逸らした。
「わたしに飛び掛かってきた仔犬……どうしたんだろう……」
 自身の異なる力で息の根を止めた、あのトイプードルのことを言っているのだろうか。リューティガーは視線を地面に落とし、暑苦しさを感じた。
「あの子……信じられないほど目が真っ赤で……牙も長くって……狂犬病って……違うと思う……」
「椿さん……それは……警察には……?」
「ううん……黙ってた……仔犬のことは尋ねたけど……」
 なぜ、異常なまでの凶暴化については口を閉ざしたのだろう。そう、その命を奪った自分の行為を自覚していたからだ。彼はそう見抜き、彼女の次の言葉を待った。
「わたし……ね……英理子を守らないとって……そうしたら……なんだか自然に……背中が……じんとして……胸の中でもわっとしていたのが……指先から……出るって……うん……一瞬だけど見えたの……何かが……走ったの……あの子目掛けて……それが口の中へ入っていって……急に……心臓が苦しくなって……」
「パニックですよ。椿さんは病持ちだし。ストレスがそう感じさせたんです」などと突き放してしまってもよかった。しかし、信じるはずもない。かつて自分もそうであった。ましてや彼女は十六歳の少女である。幼児だった自分より、身体を通じて発された異なる力については、かなりの自覚を持って確信しているはずである。ただ、直後の気絶が感覚を曖昧にさせているのだろう。リューティガーはどう対応するか、いくつかのパターンを想定してみた。
 すると彼女が再び視線を向け、「ダルメシアン……どうやって消したの……?」と彼女にしては低い声で尋ねてきたため、彼は思わず顎を引いた。
「ダ、ダルメシアン……?」
「一瞬だけ目が覚めたら……わたし……英理子に抱きかかえられてて……英理子泣いてて……ルディが立ってて……その後ろが花枝くんで、向き合っていたのが……唸ってるダルメシアンだった……」
 なるほど、あの跳躍を見られてしまっていたとは。迂闊だったとリューティガーは下唇を噛み、しかし島守遼ならここで機転を利かすだろうと、自分なりに真似をしてみようと決めた。
「そうなんだ……あれって……ダルメシアンか……」
 リューティガーは手にしていた小さな贈り物をコートのポケットに入れると、桜の木の下で佇む椿梢に近づいた。
「僕もびっくりしたんだ……あの犬……急に消えちゃったでしょ……!!」
「え……?」
 かすかな意識の中で、リューティガーは毅然としていた。そして冷たい表情で犬に触れ、その直後突風と共にそれは忽然と姿を消した。しかし彼のこの口調は、まるで犬が消えてしまった事実に驚いているようでもある。椿梢は拍子抜けし、桜の幹に体重を預けてしまった。
「狂犬病とは違うって言ってたけど……確かにそうですよ……だっていきなり消えたりして……でもいい加減なこと言ってるって思われるのいやだから、警察の人には言わなかったんですよ。そしたらね、警察の人も、狂犬の姿が全然見つからないって……」
「う、うん……わたしの事情聴取のときも……刑事さん、そう言ってた……」
「でしょ……なんですよ!! これって吉見さんに教えたら喜ぶかな?」
「ど、どうだろう……」
 転校してきた頃から、少し不思議だと思える彼だった。何か隠し事をしているという認識は日増しに膨れ上がり、だが彼が伝えたいことだけを受け止めようと覚悟をしたこともある。

 うまく……はぐらかしてる……つもりだ……

 あの犬の存在も狂犬病の一言で片付けるには異常だ。しかしそれ以上に、花枝を従えたリューティガーの冷たく、だが凛々しいあの時の姿はもっと奇妙だった。

 少女は胸に左手を当て、大きく息を吸い込み、心臓への血液が順調に流れている事実を再確認した。
「ねぇルディ……」
「は、はい?」
「わたし……もっと上手く……もっと役に立てるように……もちろん無理はしないけど……ゆっくりと……ちょっとずつ練習してみようと思う……」
 その言葉に、リューティガーは自分の誤魔化しがまったく通じていない事実を痛感し、思わず後ろに一歩下がった。
「いつか……追いつけたら……今度はわたしがルディを助けるから……」
「つ、椿……梢さん……」
 “椿さん”と呼ぶのは随分と失礼なのではないだろうか。もう、“梢さん”と呼ぼう。彼女の両親に対してそうしたように。彼がパニックを抑えるためあえてそんなことを思っていると、少女は右肩を少しだけ下げ、体重を小さく沈み込ませ、膝のバネで跳ねるように距離を詰めた。
 敵意のない挙動に、鍛え抜かれた運動神経は反応することなく、逆になれない経験にリューティガーは硬直した。
 柔らかい唇が頬を撫でた直後、「ありがとう」というつぶやきが彼の鼓膜をくすぐった。
 梢はリューティガーの隣に両足を着けたが、慣れぬ運動でバランスを大きく崩してしまい、彼は学生鞄をその場に放り、彼女の手首を掴んだ。
「さ、さっそく……助けられてるし……」
 口元をわなわなと震えさせ、今にも泣きそうな顔の少女が、少年に体重を支えられながらそう言った。彼は彼女を上手に抱き寄せると、ようやく余裕を取り戻し、笑みを浮かべた。
「いつでも……助けるよ……だけど……」
「うん……」
「追いつきたいのなら……自分のペースで……間に合ったら……そのときは僕を助けてくれ……待つことはできないけど……」
 彼の笑みが出会った頃の無邪気さに溢れていたため、梢は思わず両手で口を押さえ、大きく頷いた。


 北校舎三階の空き教室は、放課後になると部活以外の同好会や研究会、有志会が日替わりのローティーションで集会場所に使っていた。月曜日の角部屋は科学研究会こと科研の使用日であり、広々とした教室に、ぽつんと二人の男女が向き合っていた。
「さてと……じゃあスケジュールはこれでいいわね会長」
 席を立った吉見英理子は、対座する色が白く小柄な奥目の男子生徒にそう言うと、鞄を手にした。
 本来ならリューティガーにも出席してもらいたかったが、友人の恋路に協力するのも立派な学生の勤めであり、またその見返りも多少は期待していた。
 容姿は人に自慢できるほどではない。第一趣味が特殊であり、それを理解してもらえなければ付き合うのは難しいだろう。そのうちいい人物が現れれば、その時は、これについては自信のある分析力を駆使して相手を満足させ、きっと幸せになってみせる。
 もちろん、その執念をリューティガーに向けてもよいのだが、友人が思いを寄せている同級生であるという以前に、彼は眩しすぎる美少年であるし、ペットショップの一件以来、どこか違和感も抱いている。
 なぜ彼は梢の見舞いに行かなかったのだろう。なぜ彼は、警察が来た直後に現場から出て行ってしまったのだろう。

 なぜ彼は、あんな事件の後もごく普通なのだろう。
 
 肉を貪る獣の蠢く音が、いまも耳にこびりついている。
 教室ジャック事件の後は、どうせ皆も休むのだろうし、読みたい本も溜まっていたのでその処理のためPTSDを気どったが、今回は視覚では認識しなかったものの、嗅覚は動物臭で馬鹿になっていたからよかったものの、とにかく聴覚に堪えた。今思い出すだけでも震えがおきる。
 頭をぶるっと振ると、彼女の結んだ後ろ髪が勢い良くそれに追随した。
「もうっ!!」
 そう叫ぶと吉見英理子は教室を出て、つかつかと廊下を歩き出した。

 寒々とした教室に一人残された、科学研究会会長、江藤明輝(えとう あきてる)は、小一時間ほど経ったのち、座っていた椅子を小さく、ほんのわずかに引き、つぶやいた。「チョコ……」と。

3.
 霞ヶ関、内閣府別館六階、F資本対策班班長、竹原優(たけはら ゆたか)は、部下である柴田明宗と那須誠一郎の報告に耳を傾けていた。
「目撃証言が余りにも不足してますな……状況証拠と泡化した事実、遺体に付着していた唾液の分析結果を考え合わせても、七年前の事件と共通点は多く見られますが……」
 ゆっくりとした口調で柴田はそう言い、やれやれといった表情で頭を掻いた。
「店員を殺害した犬が泡化したんだよな」
 竹原は引き出しを開けるとパイプを取り出し、それに葉を詰め始めた。
「そうです……ところが店内に居合わせた女子高生の話を総合すると、別の狂犬が数匹存在したようで……ただ泡化の痕跡がない以上、信憑性は低いと思えますな」
「わからねぇな……どうしてそいつは泡化したんだ?」
 班長の疑問に、だが柴田と那須も明確な答えを返すことができず、二人は困り顔を傾けた。
 七年前、おそらくはファクト機関の一連の犯行と思われるある事件があった。
 都内で発生した、犬や烏による市民への襲撃事件。二週間で死者七名、重軽傷者二十六名という被害を発生させたそれは、結局未解決のままであり、通常の動物では考えられないほどの速度と強靭さを持っていたという被害証言と照らし合わせても、今回のいわゆる“ペットショップ狂犬事件”と共通点がいくつか存在する。
 だが当時においても、そして今回においてもこれらの事件は明確な物証がなく、死を免れた被害者もパニック状態に陥っていることが多く、検証が進んでいないのが現実である。

「どうだったんですか? 真錠と花枝の聴取は?」
 班長室での報告を終え、自動販売機の前までやってきた那須は、コーヒーの注がれた紙コップを手にした柴田にそう尋ねた。
「ああ……両方とも落ち着いたもんだったよ。証言も一致しているし……そうだな……落ち着き過ぎてるってこと以外は、特に怪しい点はないが……」
 柴田が言いかけた事実を、那須も同じように認識していた。
 なぜ、ここ最近発生している一連のファクト残党の仕業と思われる事件に、仁愛高校1年B組の生徒が関わっているのだろう。犯人は常に死亡し泡化を果たし、その目的を証拠として残すことは未だ実現していない。ここまでくると偶然という言葉では片付けることができず、二人の捜査官はどこに必然があるのか、それに関心を傾けようとしていた。
「しかし……晴海の件で片付いたと思ってる外務の狢どもは……面食らってるだろうな」
「まだまだ残党は活動を続けてますよ。絶対」
 晴海で自分たちが起こした作戦行動で、ファクトの残党はその中枢を失い、外務省をはじめとする省庁や、果ては一部の与党議員からも事態の収束を示唆するような発言がこの班にも連日投げかけられている。しかしここ一週間ほどはそうした横槍もなく、思慮深く経験豊富な柴田などは、まるである一定期間、残党であるFOTの動きを野放しにするための工作のようにしか思えない。といった感想を抱いていたが、これは自身の胸中におさめるだけで、決して口にすることはなかった。
「那須……ちょっといいか」
 自動販売機前にやってきた森村肇(もりむら はじめ)は、受け取り口からカルピスを取り出す那須に声をかけ、同僚の柴田へ眉をぴくりと動かし、それを挨拶代わりにした。
「先……森村主任……」
 わざとらしく、那須は笑みを浮かべてそう言った。昨年末に行われた晴海の作戦は、敵の壊滅という成功に終わり、作戦の指揮を執った森村は先月から主任に昇格していた。彼は後輩のおどけに眉を顰め、生真面目さを更に増した。
「いつも通りでいい……正直、主任は呼ばれ慣れん……」
 それに、敵を壊滅させたのは後々のことを考えると失敗であり、せめて一人は捕獲して、作戦計画などを聞き出す必要があった。E夫人とカラー暗黒が遺体のまま泡化しなかった事実と併せれば、余計に失策だったと森村自身が後悔している。だからこそ、それで昇進した結果にいくらか抵抗もあった。
「先月から、仁愛に聞き込みに行っているそうだが……」
「ええ……これまでに教師や生徒たちから、いくつかの情報を聞き出しています」
「神崎はるみにも……聴取しているそうだな」
「はい。頼まれもしましたし……どの程度事態を把握しているのか……でも……どうやら彼女は他の生徒と同様、特別に知りすぎているということはないと思います」
「そうか……くれぐれも神崎君のことを漏らすなよ……」
 森村は那須という後輩の手際を信用していたが、念を押すため、特に強い口調でそう言った。
「けどよ……ご両親は知ってるんだろ。娘が、ウチに所属してるってこと」
 柴田の言葉に、森村は太い首の血管を浮かせ、静かに頷き返した。
「もちろんだ……了承は必要だったからな。しかし、妹さんには隠したいと神崎君は言っていた」
「どうしてだ?」
「無論、妹さんを心配してのことだろう。好奇心も人並みに強く、またもしもFOTのターゲットが那須の読み通り、1年B組の何かにあるのなら、余計な首を突っ込む危険性もある」
 三人の捜査官たちは、すでに神崎はるみが事態の中心へ入り込もうとしている事実も知らず、自動販売機の前でほとんど同時にため息をついた。
 


 その日の稽古を終えた遼は、隣の更衣室から部室に戻った。すると、二年の平田と、徳永と桑井という昨年の文化祭の後に入部した、やはり二年の男子が針越深弥(はりこし みや)という1年A組の女子部員と向き合い、彼らのいずれもが曖昧な笑みを浮かべていた。
「あ、島守くんも、はいこれ」
 部室に戻ってきた遼に、針越は小さな包みを手渡した。平田たち先輩男子たちも同じ物を手にしているところを見ると、おそらく義理チョコというやつだろう。遼は頭を掻き、「おう。あんがと」と礼を言った。
 すると、学生服のポケットから流行の歌謡曲が奏でられた。誰からのメールだろうと携帯電話を取り出すと、その画面には、「食堂前にいるから来て。神崎」とメールの文面が表示されていた。
「あー……もしかして本命さん?」
 針越は鋭い洞察で、悪戯っぽい笑みを浮かべた。遼は、「ま、まぁ……義理の連鎖かなぁ……」と訳のわからない言葉を口走ると、ヘルメットを手に部室から出て行った。

 部室から廊下に出た遼は、同級生の女子が廊下の奥からこちらに向かって走ってきたことに気がついた。
 ほとんど金色に染めた、硬そうな髪を振り乱し、野暮で派手な化粧は素顔の存在を限りなく隠蔽し、まるでその形相は襲撃者のようである。思わず立ち止まった遼は、駆けてきた鈴木歩(すすぎ あゆみ)に驚いた。
「島守!! ハッピーバレンタインね!!」
 すれ違い様に、鈴木は遼のヘルメットに何かを放り込んでそのまま駆け去っていった。
 帰宅組の彼女がこんな夕方まで学校に残り、つまりはそういうことなのか。それとも別口に断られ、処理係を任じられたのだろうか。ヘルメットの中に放り込まれたれリボンで結ばれた包みを見下ろし、遼はただ困惑していた。


 北校舎一階の食堂までやってきた遼は、その角で佇む神崎はるみを発見し、小さく息を吐いた。
「よ、よう神崎……」
「よ、よう……」
 左手を小さく挙げたはるみは、近づいてきた遼を見上げ、恥ずかしそうに目を逸らした。
 彼女にも、こうして照れることがあるとは。先週の告白めいた言葉は、妙に唐突で、それでいて自信に満ちていたというのに。遼は少女の意外な一面に頭を掻いた。
「な、なぁ……神崎……あのさ……」
「こ、これね……受け取って……くれる?」
「う、うん……」
 差し出された平らな、包装の施された箱を遼は受け取り、ヘルメットの中に入れた。
「平田先輩たちには……あげたの?」
「う、うん……けどあっちはコンビニの……島守にあげたそっちのは、駅前のベルサイユって洋菓子屋さんの……お、おいしいんだよ」
「甘いもの好きだから嬉しいけど……あのさ……」
 続いて来る言葉は容易に予想できる。だが、少女はそれを決して聞きたくはなかった。彼女は掌を前に突き出し、真っ赤になった顔を何度も横に振った。
「い、いいからいいから……あんたと理佳のことはわかってるつもりだから……こ、これは役作りの一環だから……」
 意外な言葉に、遼は妙に納得し、「そ、そっか……なるほど……そーゆーこと!?」と、嬉しそうに返した。
「い、一応……恋人同士の役だし……四月の発表会は、新入部員確保のために外せないでしょ……だから……ちょっとでも……普段からそれっぽくね……」
「はいはい。戸田も言ってたよ。なんだっけ……ガラス仮面って漫画で、やっぱりそういうのがあったって。私生活から役柄になりきるってやつ? あぁ了解、了解。それならわかるわ」
「ガ、ガラス“の”仮面ね……」
 はるみの言葉に、遼は満面に笑みを浮かべた。もちろん、嘘ということはわかっている。これは彼女の側からアプローチをそう捉えても構わないという虚言であることは、鈍い遼にもよく理解できる。
 だが、そう対してよいのなら、せめて自分の側は芝居のためと割り切って受け入れることができる。神崎はるみにとっては残酷な対応かもしれないが、彼女の方からの提案である。
 もちろん、蜷河理佳を吹っ切り、忘れることなど彼にはできなかった。
 バルチでジョージ長柄(ながら)を見殺しにし、デート資金を稼ぐためダービーをぶち壊した自分を、彼女は、「でも……わたしは好きだから」の一言で許してくれた。救ってくれた。長く黒い髪、美しく整った顔、儚げで細い両肩。意外と柔らかい唇。その全てを裏面に追いやることなどでききない。こうして思い出すだけでも鼓動が高鳴り、はっきりとその存在を記憶から呼び覚ますこともできる。

 遼は嬉しさと困惑が入り交じった曖昧な笑みを浮かべ、はるみはそれが彼の返事であると理解し、頬を引き攣らせた。

 負けない……待ってて……すぐに追いつく……わたしは……わたしなりのやり方で追いついてみせる……

 そのためには強い意志を持ち続けることが必要である。だからこそ、彼女は自分から体重を前に傾かせ、「それじゃーね!!」と彼の高い肩を軽く叩き、廊下を走り去って行った。


 なんかなぁ……いままでもらった事なかったのに……大収穫じゃん……今年は……

 本命中の本命からもらえない現実は寂しく、だからこそ心の底から喜ぶことはできないが、行き着けのスナックのママからしか貰えない父に、自慢ぐらいはできるだろう。詰襟のポケットに一つ、ヘルメットに二つのチョコレートを入れた遼は、そんなことを考えながら駐輪場までやってきた。
「遼……ちょっといいか……?」
 小柄で、コートを着たリューティガーと、大柄で胸を張り、腕を組んだ高川が、MVXの側で待っていた。アンバランスな体格の両者の登場に、遼は、「ああ」と短く返事をし、バイクのキーをポケットから取り出した。


 学校の側の公園に、三人の男子生徒たちが佇んでいた。夕方を過ぎ気温も低下し、ポケットに両手を突っ込んだ遼は、フェンスに寄りかかってリューティガーの言葉を待った。
「このあいだ話した……僕がペットショップでリバイバーに襲撃された件だけど、同盟本部の見解も一致した。予想通りだと思っていい」
 先週、リューティガーがペットショップで襲撃された後、遼と高川は彼の呼び出しを受け、事件の概要は概ね耳にしている。高川は割れた顎に手を当て、首を傾げた。
「随分と結果報告に時間がかかるのだな。同盟という組織は」
「言ったでしょ……本部は、あまり協力的ではないって」
「そこが納得いかん。なぜ正義の遂行を、全面的に支援する気がないのだ? その賢人同盟とやらは?」
「遂行する正義の数が、世界中に多すぎるんです……本部は、もっと重大な案件も抱えている」
 その説明に、だが高川は納得せず、遼は早く本題に移って欲しいと身体を揺すった。
「僕だけじゃない……遼も前例があるし、高川くんだって狙われる危険性がある。今後、ルーラーを倒すまで、動物の存在にはじゅうぶん気をつけてくれ」
「目が赤いのが、見分ける手立てなのだな」
「ええ……けどその判別方法に、頼りすぎないでください。リバイバーに関しては技術が失われ、同盟本部でも詳細が不明なのが現実です。ただしルーラーによって操られている事実は揺るぎようがないと思われるので、次に対する際は、笛などを所持した者を発見し、処理する必要があります」
 “処理”とは抹殺のことである。そう理解している遼は、平然と言ってのけるリューティガーにぞっとした。
「な、なぁルディ……場合によっちゃ、発見したルーラーってのを、お前が跳ばしてもいいんだよな」
「うん。できれば、それがベストだ。敵の情報は欲しいし」
 遼の提案に、リューティガーは嬉しそうに答えた。
「跳ばすか……未だに信じられん……そのような力……」
 腕を組み直した高川は顔を顰め、奥歯を強く噛んだ。
「本部に跳ばしてるんだよな?」
「え、ええ……」
歯切れの悪い返答に、遼は目を細め、口先を尖らせた。
「違うのかよ?」
「咄嗟の場合……そうでないこともあるんだ……本部をイメージして力を使えば確実だけど、一瞬でそこまで判断することはできない状況だってある」
「その場合は……どこに跳ばしているのだ?」
 高川の質問に、リューティガーは目を伏せ、黙り込んだ。
 幼い頃からの戦闘訓練で、緊急時にも敵の殲滅を刷り込まれているリューティガーである。これまで本部以外に跳ばした敵が再反撃をしてきたケースは一度もなく、であればやはり自分はあの地獄に敵を放り込んでいるのだろうと、だがそれは二人に、特に遼には話しづらい事実であり、だからこそ言葉に出来なかった。

 あそこで……生きられる者などいない……あそこは……この世の果てだ……

 暗く、赤く、灼熱の記憶は彼にとって幼少時の原体験の一つである。母と訪れた、完全なる防備により深く潜った地の果て。母は息子にこう言った。「ルディ……これから二十四時間、私たちはここで固定されます……よく記憶に焼き付けておくのです。本部に送れぬ敵は……ここに跳ばしなさい……二度と反撃などできぬよう……マグマで溶かしきり……気化させ……存在そのものを消滅させるのです」
 通信機から聞こえてくる隣の母の声は、少し震えているようにも思えた。防護スーツのバイザーは漆黒で、その表情はわからなかったが、おそらくためらいがあったのだろう。それだけが救いにも思える。地の底で彼女と過ごした一日は彼に強烈なる印象と、“敵を放り込む地の底”というイメージをじゅうぶん過ぎるほど刷り込んだ。

 あれから、十二年。もし自分を滅ぼしたくなったら、あそこに跳ぶのだろう。リューティガーは親指の爪を噛み、その仕草に高川は質問を続けるのを諦めた。

「ふん……しかし、犬や猫の相手も必要か……島守、そちらは貴様に任せるぞ」
「な、なんだよそれ」
「馬鹿者。完命流を畜生共になど使えるか。それに貴様は猫相手に特訓を重ねているのだろう? ちょうどよいではないか」
 今月からはじめた、猫の体内に存在する病因を異なる力で破壊する特訓は、もう七回、延べ十数匹を超えるほど続いている。ついこの間の日曜日も三毛猫の腫瘍を破壊し、その後を接合するという高レベルな外科手術を四時間もかけて成功させたばかりである。最近では猫という生き物に好意を抱くようにもなりつつある遼であり、とてもではないが動物を殺す行為は避けたかった。
「けどね。リバイバー化された動物は、能力の強化と引き換えに数日しか生命活動を継続できないって聞いてる。だから躊躇う必要はないよ遼」
「そ、そうなのか?」
「うん……不自然な力はその代償を要求する」
 リューティガーの言葉に頷いた遼は、だがそれが摂理だとすれば、自分たちのような異能は、それに対してどのような代償を支払わなければならないかと連想し、昨年倒れた父の事件を思い出し、全身を小さく震わせた。
 
4.
 翌日、いつものようにMVXで登校した遼は、駐輪場でバイクを停めている、巨漢の友人を見つけた。
 岩倉次郎。1年C組の生徒であり、かつてはTVの天才少年特番に出演したほどの、高度な記憶力の持ち主である。つい先日、遼は接触式読心で、彼の記憶構造を覗いてみた。するとそれは常人が持つ海のような漠然とした風景ではなく、まるでWindowsのエクスプローラー画面のように、フォルダごとに記憶がデータとして整理され、「整理」「検索」「消去」といったコマンドが付随する、非常に高度な光景である。
 もしその「記憶をエクスプローラーのように把握する技術」が他人にも適用できるのであれば、これは相手の心から重要な情報を大量に素早く抜き出すだけではなく、消去してしまうことすら可能である。情報の消去、それはすなわち相手の記憶操作であり、もし彼が仲間になってくれれば、何かと隠し事が多くなりつつある現状を、もっと楽にすることができる。
 リューティガーは、岩倉次郎こと、通称“ガンちゃん”の勧誘に積極的ではないものの否定はせず、授業前の慌ただしいタイミングではあるが、かえってその混乱が事実の重さを緩和してくれるような期待もあり、とにかく一度話してみようと意を決した。
「ガ、ガンちゃんさ……あのさ……」
「なんだい島守くん?」
 坊主頭に太い眉、丸い鼻に純朴な目、大きな太鼓腹は詰襟のボタンを今にも飛ばしてしまいそうなほどはち切らせ、このように穏やかで、どこか懐かしさまで感じさせる彼を巻き込んでよいものか、遼は躊躇した。
 しかし、妙に人懐っこいリューティガーの無邪気な笑みと、腕を組んだ高川の見下した目つきを思い出した彼は、やはり自分にはこうした味方が必要なんだろうと、心を決め直した。
「俺さ……なんていうか……ちょっといろいろとやっててさ……」
「う、うん……」
「そ、そうだ……付き合ってくれないか? 割とすぐに済むと思うから……」
「な、なにを付き合うんだい?」
「実験だ……もし上手くいくんなら、ガンちゃんに手伝って欲しいことがある」
 演劇部の勧誘だろうか。確かに台本を暗記することならできるが、演技などやったこともなく、裏方としてはあまりにも自分は不器用である。太く短い指をじっとみた岩倉は、それでも高校生活でやっとできた友達を失いたくないと、ヘルメットを抱えて遼の後ろへついて行った。
 下駄箱までやってきた遼は、岩倉の存在を背後に確認すると、さて誰を実験相手にしようかと辺りを見渡した。

 小林……か……

 記憶の消去という、手際を間違えれば何が起こるかわからない危険な実験である。その対象者を誰にするかは、結論の出ていない懸案事項だった。そしてすぐ傍ではボブヘアーの小柄な同級生が、地味な外見からはおよそ不釣り合いであるカラフルなスニーカーと、下穿きを履き替えている。遼は、唇の左端を吊り上げた。
 彼とは一学期に、一度だけ買い物に付き合ったことがある。確かスニーカーを、やはり同級生である沢田と三人で買いに行き、彼は足のサイズが小さすぎたため、希望の靴が手に入らなかったはずだ。
 そんなどうしようもなく情けない思い出が唯一の印象であるほど、小林という同級生と彼は、普段において疎遠な間柄だった。

 やつなら……いいか……

 すっかり同級生の人権を無視した遼は、ヘルメットと学生鞄を棚の上に置くと、下穿きに履き替えた小林の背中を一瞥し、岩倉に、「ガンちゃん……ちょっと手……かしてくれ」と言い、彼の手首を掴んだ。
「おはよう小林」
 背後から声をかけられた小林は、びくりと反応してゆっくりと振り返った。
「や、やぁ、島守君か……お、おはよう……」
 一緒にいる、大柄な男子生徒は誰だろう。確かC組の岩倉だったような。小林がそんな記憶を辿っていると、遼は彼の手首を空いた手で掴んだ。
「な、なに!?」
「ちょっとだけ……ちょっとだけ待っててくれ……」
 遼は驚く小林にそう告げ、意識を集中した。まずは右手から伝わる小林の記憶層である。それは大きく暗い海であり、これまでに何度か経験した風景と同一である。
 そして、遼はそのイメージを保持したまま、左手から岩倉の意識へ侵入してみた。

 きた……やっぱり……そうか……

 海原であった小林の記憶は、岩倉のフィルタを通すことによりエクスプローラー画面のようなフォルダ構造に変化した。
 最上段に位置するのが「大切なもの」というフォルダであり、それを開いた遼は、更に中にある一番優先順位が高いフォルダが、「シューズ」であることを確認すると、それが岩倉のではなく、小林の記憶であることに興奮した。

 さて……どれを消す……一番……どうでもよさそうな項目だ……

 遼は、「どうでもいいこと」と書かれたフォルダを発見し、その中をアクセスしてみた。

 【昨日見た“のろ〜ん兄弟の深夜でイっちゃいました”】か……これにするか……

 それは、昨夜放送していた深夜番組に対する感想のようである。ファイル化してある記憶には、一言、“最低につまらなかった”と記されていて、ならば消してしまってもいいだろうと遼は判断し、「消去」コマンドを意識してみた。
 すると、【昨日見た“のろ〜ん兄弟の深夜でイっちゃいました”】がフォルダ内から忽然と消え、あまりにスムーズに作業が進むので、遼は激しく興奮し、二人から手を離した。
 突然手首を掴まれた小林は困惑し、思わず遼の背後できょとんとしている岩倉を見上げた。
「な、なぁ小林……のろ〜ん兄弟ってつまんないよな?」
 遼は口をぽかんと開けている小林にそう尋ねた。すると彼は、「島守くんは……テレビ持ってないのに知ってるの?」と聞き返してきた。
「ま、まぁな……バイト先のテレビで見たことあるし……あ、あのさ、昨日の深夜でイッちゃいましたは最低だったよな」
 なぜバイト先でしかテレビを見られない彼が、深夜番組の感想を言えるのだろう。小林はそんな素朴な疑問を抱きながらも、質問に対して答えを中々用意できない事実に戸惑った。
「うん……えっと……」
「見てないの? 小林」
「おっかしい……あれ……見てないかなぁ……気もちわりぃなぁ……」
 しきりに首を傾げる小林に、遼は実験の成功を確信した。
「ガ、ガンちゃん……ちょっと来てくれ……!! 悪かったな小林!!」
 遼はぼんやりと佇む岩倉の手を引き、中央校舎一階の、職員室前の階段まで彼を連れてきた。
「ね、ねぇ島守くん……ど、どうしたんだよ……なんか今日は変だよ」
「そ、そっか……小林にやったの……ガンちゃんは認識できずってやつか……」
「なんの話だい? なにをしたんだ島守くん?」
「ガンちゃん……!!」
 遼は頭を垂れ、両手を岩倉の肩に乗せた。
「と、島守くん……」
「こないだも、駅前のペットショップで店員さんが噛み殺されただろ……」
「う、うん……びっくりしたよ……」
「あの事件もそうだし……通り魔が学校に来たのもそうだし、教室ジャック事件もそうなんだ……」
 あまりにも真剣な遼の口調に、岩倉は唾液を飲み込んだ。
「全てが共通している……七年前のファクト騒乱な……あの残党、いまはFOTって名乗っているけど……そいつらの仕業なんだ」
「え、え……?」
「でだ。俺は……仲間と一緒にそれと対抗してる……もちろん人助けのためだ。皆の安全を守るため、立ち上がったんだ」
「な、何を言ってるんだ島守くん……わ、訳がわかんないよ……!!」
 岩倉は手で肩に乗せられていた遼のそれを払った。あまりにも強い力に遼は全身のバランスを崩し、階段の手すりに掴まった。
「ご、ごめん島守くん……大丈夫?」
「あ、ああ……さっき小林相手にやったのはさ……俺が持ってる異なる力ってやつ……要は超能力で相手の心を覗けるってやつなんだけど、それとガンちゃんのすげぇ記憶整理術をプラスして……どうでもいいテレビ番組の記憶を消してみたんだ」
「のろ〜ん兄弟のこと?」
「ああ。あいつは昨日の晩に見たのにも拘わらず、その記憶がすっかり消えている……これは俺とガンちゃんが協力してやった、すごいことなんだよ」
「ぼ、僕は……」
 尚も戸惑う岩倉に、遼はリューティガーならどうするだろうと考え、それを実践に移した。
「確かに君にやったという意識はない。俺が君の能力を勝手に借りただけだから……だけど秘密に敵と戦ってる俺たちにとって、君のような力はどうしても必要なんだ。皆に知られずに、守るためには……なっ!!」
 これほど必死に誰かを勧誘したことなど、遼にとってそれは初めての経験である。きっとリューティガーも自分に対して同じ気持ちだったのだろうと、彼は栗色の髪をした仲間のことをはじめて深く理解できたような気がした。
「と、島守くんは……僕にどうして欲しいんだい?」
「仲間と……会ってくれ……そして力を貸して欲しい」
「う、うん……島守くんとは友達だから……手伝えることならやるよ……けど僕はバンドもあるし……」
「俺だってバイトや部活をやってる……たまにまとまった時間さえとれればいい。まずは……今日の放課後はどうだ? 仲間と会って欲しい」
 強引な遼の要求を、岩倉は彼らしくないと思い、それだけ切迫しているのかと気の毒に思い始めていた。
「い、いいよ……会ってから……考えるで……いいのなら……」
 そうはいいながらも、もう岩倉次郎はすっかり島守遼に協力するつもりでいた。こんなにも必死な彼を見捨てることなど出来ない。それによくは理解できないが、“皆を守る”ため、であればそれは絶対に正しいことなのだから、拒否する理由はない。
 どこまでも素直で、疑うことのない彼は大きな太鼓腹を擦り、予鈴を耳にすると、対面する友人に、「メットと鞄……下駄箱に取りに行かないと」と、笑顔で忠告し、彼を驚かせた。

5.
 その日の放課後、島守遼と岩倉次郎の姿が、代々木パレロワイヤル803号室のダイニングキッチンにあった。
「ど、どうも……」
 お茶の支度をする陳 師培(チェン・シーペイ)に、岩倉は頭を下げ、しかし丸々と太ったこの男は返事もせず、無愛想にティーカップを食卓に置いた。
「と、島守くん……僕……この人……見覚えあるよ……」
「ほ、ほんと?」
「うん……確か学園祭だよ……B組の教室から出てきたのを見た覚えがある……」
 岩倉のその言葉に、陳は笑みを向けた。
「なるほど、確かに大した記憶力ネ。よろしく、私、陳 師培。ここで坊ちゃんの身の回りの世話をさせてもらっているヨ」
「ぼ、坊ちゃん?」
 一体このマンションの一室で、自分は誰と引き合わされるのだろう。岩倉が不安になって傍らの遼を見下ろすと、居間の扉が開き、そこからリューティガー真錠が姿を現した。
「ガンちゃん……よく来てくれました」
「ル、ルディ……島守くんの言ってた仲間って……リーダーってルディのことだったの?」
「あ、ああ……」
 一度港で会っているとは聞いたが、どの程度の人間関係なのかわからず、遼は頭を掻いて間を埋めようとした。
「そ、そっか……ルディが……」
 妙に納得したような、そんな頷きを何度か見せたあと、岩倉は陳の促しに従い、椅子へ腰を下ろした。
「遼、ガンちゃんには、どこまで話したの?」
「まだまだ。具体的なことは、話していない」
「FOTって……七年前のテロリストの残党と戦ってるんでしょ? ぼ、僕になにができるかわからないけど、やってみるよ」
 岩倉の言葉にリューティガーは、「結構、話してるじゃないですか」とつぶやき、陳の注いでくれたジャスミンティーを啜った。
「ね、ねぇルディ……僕は一体、何をすればいいんだ?」
「ええ……君の持つ力を、存分に生かして欲しい……」
「ほ、本当に……島守くんの超能力と、僕の力が合わさると……人の記憶を自由に消したりできるの?」
 岩倉にはまったく自覚がなかったため、朝の説明だけでは到底納得することなどできなかった。
「遼……僕もそこが気になる、一度この目で確かめたいんだけど」
「ああ……つっても……記憶を消すのを誰にするかだけど……」
「なら……今度高川くんが来たときにでも……全員で顔合わせしたときにでも、彼の記憶で実験してみてくれ」
 自分にしてみても小林に対する人権意識は薄かったが、リューティガーにとっての高川もその程度の存在だったとは。遼は彼の言葉に驚き、「ああ」と短く返事をした。
「ガンちゃん……」
 リューティガーはテーブルの上で指を組み、顎を小さく引いた。
「僕は賢人同盟という、全世界の平和のために活動する、ある組織のエージェントなんだ。この国にやってきたのも、FOTの代表である、自称真実の人(しんじつのひと)を確保、もしくは抹殺するのが目的だ。そして僕は現地の協力者として遼と高川くんに力を貸してもらっている。そして従者の陳さんに……」
 奥の廊下に紺色の目が向けられると、そこにひょろ長い影がゆっくりと揺らめいた。
「お前が三人目か……」
 背後からの低く掠れた声に、岩倉は緊張して振り返った。
 2メートルを超える体躯。暗灰色のコートにチューリップ帽。その中に見える青黒き肌と真っ赤な瞳。異形の登場に、岩倉は息を呑んだが、すぐに笑みを作った。
「よ、よろしくどーもです」
 愛想を込めた挨拶に、健太郎は拍子抜けをし、リューティガーに視線を向けた。
「もう一人の従者……健太郎さんです」
「ぼ、僕は岩倉次郎……ガンちゃんって呼んでおくれ」
「ふん……」
 恐怖を抑えているのは、両手が太ももを掴んでいる事実からもよくわかる。だがこうした頑張りは悪くない。健太郎はようやく口の両端を吊り上げ、「よろしくな……岩倉殿」と挨拶した。
「このキッチンにいる四人と、今日は来ていないけど高川くんを入れた五人で全員だ……これでFOTと戦っている」
 リューティガーの説明に岩倉は頷き返し、ようやく彼は目の前のジャスミンティーに口を付けた。
「なぁルディ……C組と合同だったよな、こないだの体育」
「うん……探知機を使った……長距離走の授業のこと?」
「そうそう。なんでガンちゃんは反応しなかったんだ?」
 自分のことを話しているのだろうが、岩倉には内容は理解できなかった。しかしこれからはたぶんそうしたことの連続なのだろうと、彼は声をかけられるまで大人しくしようと決めた。
「彼の記憶能力は……異なる力とは違うってことだよ。いわゆる常人の限界は超えてる……天才的な記憶法かもしれないけど、サバン症候群……いや、それともちょっと違うな……とにかく探知機に反応がなかった以上、彼の能力は、西沢くんの足が速かったり、倉橋くんの成績がとても良かったり、永井さんの歌が上手いように……もちろんそれらのどれをも圧倒する凄さなんだろうけど……延長線上の力と言っていい……」
 延長線上と言い切るには、あまりにも超越的な記憶力である。しかし反論するだけの材料もないため、遼は頷くことで一応納得し、岩倉の背中を軽く叩いた。
「ま、まぁ……俺とガンちゃんが組めば……ほんといろいろと可能性が広がるんだ。その点は自信をもっててくれ……もちろん戦いとかになったら皆が守ってくれる……高川もいるしな」
 岩倉が身体を使った能力に劣っていることは、合同の体育などでよく知っている遼とリューティガーである。足は遅く、反射神経は鈍く、持久力もない。それを自覚している岩倉は肩をすぼめ、申し訳なさそうに茶を啜った。
「ガンちゃん……それとこれだけは言っておく……僕たちの戦いは過酷だし、誰に対しても秘密にしていなければならない。もし家族や警察に漏らすようなことがあれば……そのときは容赦しない。僕たちは、君を殺す」
 低く重いトーンで、リューティガーは岩倉にそう告げた。
 高川のときもそうだったが、仲間に入れる際、この栗色の髪をした彼は、まるで自分に言い聞かせるように、そんな無理をして普段の丁寧な言葉遣いをやめる。遼はそう感じ、やり場なく視線を泳がせた。
「な、仲間なんて……これまでもいなかったんだ……バンドの皆も僕を認めてないし……僕の腕がその程度だってことはよくわかってるし……だから……と、島守くんやルディとは……ずっと仲間でいたいよ……だから……秘密は守るし……僕は皆を信じる……」
 高川とは異なる、それは頼りなく、情けない理由からくる決意表明であった。リューティガーは自分が脅しすぎてしまったのではないかと戸惑い、右の眉をピクリと動かした。 それにしても、よくもこうスムーズに岩倉の加入を認めてくれたものである。島守遼は紹介してからの展開に驚き、その理由を分析すると気が重くなった。
 そう、岩倉次郎はこの戦いに参加する資格、人より抜きん出た力を誰にも見せていないのだ。全ては自分の言葉だけである。なのにリューティガーはそれを全面的に認め、何の疑いもない。信用されるのは嬉しいが、その根拠が今ひとつ理解できない遼は、だから憂鬱で、気味が悪くも感じていた。

 これなら……木村や浜口……寺西だって俺が推薦したら仲間にできちまいそうだな……

 初めて出会った頃、リューティガーは自分に対し、まるで仔犬のように懐き、それは違和感すら覚えさせるほどだった。あれは仲間入りの勧誘の一環、つまりは行き過ぎた愛想のようなものだと思っていた時期もあったが、高川に対する冷淡さを最近では見るようになり、これは自分個人に対する、彼の好意のようなものなのだろうと気付くようにもなった。だとすればそれはどこからくる気持ちなのだろう。
「ガンちゃん。今日はここまでです……今後、僕たちの同盟や敵のこと……順番に教えていきます」
「う、うん……よろしく……」
 自分はバルチに跳ばされ、高川は純白公爵との戦いに巻き込まれ、いずれも必然があってこの戦いに参加している。しかし岩倉はそうした事情は皆無であり、自分の一方的な事情に端を発している。緊張しながら席を立つ彼を見上げた遼は、ここにきてようやく自分の判断が正しかったのか迷った。
「ガ、ガンちゃんさ……俺も……できるだけフォローすっからさ……」
「と、島守くん……」
「そ、そんなに長い期間のことじゃないし……頑張ろうな」
「う、うん!! 頑張ろう!!」
 こんな表面的な励ましにも、岩倉という人物は感激してくれる。遼はますます罪悪感を抱き、803号室から出て行く彼を申し訳なさそうに見送った。
「度胸のある少年だな……」
「そうネ。記憶力があるのがよい方向に作用しているネ」
 健太郎と陳は口々に新たな戦力となった岩倉をそう評し、食卓の上で指を組んでいたリューティガーは椅子から立ち上がった。
「遼……それじゃ今日もやろうか……例のやつ……」
「あ、ああ……そうだな……」
 岩倉の加入も彼にとっては興味の薄い事実なのか。遼は出口を見つめ続けるリューティガーを見上げ、その表情があまりにも冷たかったのが気になった。

 隣の802号室に入った途端、遼は獣臭に眉を顰めた。
 今月からはじまった、病気の猫の体内をリューティガーが透視し、それを異なる力で治療するという特訓は、治療した猫をそのまま部屋に置いているせいもあり、八回目である今回に至る頃には十五匹を超える猫が隅やカーテンレール、出窓や押し入れとそれぞれが勝手に居心地のいい場所でくつろぎ、さながら猫屋敷と化していた。
「えっと……健太郎さんがつれてきた新顔は……」
 リューティガーは、ダイニングキッチンや居間を見回り、この中で唯一病気の治療が済んでいない新顔を探した。
「なぁルディ……この治療済みの連中はどーすんだよ?」
「捨てるわけにもいかないよ。この八階の全部が契約済みだから、手狭になったら別の部屋に移すよ」
「けどさ、敵を倒した後は? お前たちは本部に帰るんだろ?」
「連れて帰るよ。オペレーターの子たちにでも配る。それでも余るんなら、健太郎さんが面倒見るって言ってたし」
 この野良猫たちを収集してきたのは、青黒き異形の者、健太郎である。役目ということ以上に彼は猫好きなのかと、そんな想像をした遼は思わず笑みを浮かべた。
「お、記念すべき第一号だな」
 カーテンレールの上でこちらを見下ろす黒猫を発見した遼は、用心しながらそれに近づいた。
 この黒猫は、最初に鉤虫(こうちゅう)の治療を施した、言わば遼にとっての患者第一号である。治療以来、この雌猫はすっかり元気を取り戻し、現在ではこのカーテンレールの上を一番のお気に入りの場所として暮らしている。

 殺すよりゃ……治すほうがずっといい……お前も元気になってよかったな……

 そう思い、遼は黒猫の顎を撫でようとしたが、相手が鋭い爪を引き出し、前足を払うように防御してきたため、笑みを苦いものに変え、その行為を諦めた。


 初戦は失敗に終わった。二名の店員の殺害という結果は相手を警戒させてしまうだけであり、おそらくは次の襲撃が二度目にして最後の機会だろうと、十三歳のマサヨは雑居ビルの屋上で、双眼鏡を手に己の後のなさを感じていた。
 この代々木という街に訪れてから、今日で一週間である。以来ずっとこの屋上から代々木パレロワイヤル803号室を見張っていたが、烏以外にリバイブさせる対象が発見できず、彼は襲撃手段がないという事実に何もできないままだった。
 マンションの対面に建つホテルの隣、ある米店に一匹の老犬を発見したが、台車の上で休んでいるそれはおそらくは飼い犬であり、主のいる存在を自分の配下にすることは、彼の信条が決して許さなかった。
 しかし、烏となると、リバイバー化させるダーツを命中させることが困難であり、数に限りがある残り十五本のそれを一本でも無駄にすることはできない。

 マサヨは双眼鏡の中の、これまで見たことがない光景に全身を震えさせた。

 隣の……部屋……? リューティガーと……もう一人は誰だ……? そ、それに……あれは……!?

 802号室で何かを捕まえようと慌てるリューティガー。その対象は猫である。このような光景をマサヨは一週間の張り込みで見たことがなく、それはたまたまではあったのだが、彼は瞬時にあらゆる確信を抱き、双眼鏡を握る両手に力を込めた。

 やつが……飼っている猫……だと……?

 敵に飼われている猫ならば、躊躇する理由もない。猫という動物は犬と比較して戦力に不安があるが、あれほど身近な存在であれば、こうも襲撃に好都合な存在はいない。
 ようやく自分にもチャンスが巡ってきた。任務を果たした暁には、アジュアと、あの小さく内気で一人では生きられない妹と、外の世界で一緒に暮らすことができる。マサヨは遂に、最後の襲撃を決意した。


 代々木パレロワイヤルを後にした岩倉次郎は、愛車のShadowで国道を走っていた。

 そのときは容赦しない。僕たちは、君を殺す……

 無理をしているような、そんなリューティガーだった。そう思える。
 だが、とにかく自分にも秘密を共有する仲間が、友人というものができた。これまで馬鹿にされるか気味悪がられるかのどちらかしかなく、疎外が続いた十六年間である。島守遼という存在が、たとえ苛酷ではあっても異常な世界であっても自分を仲間として導いてくれる。

 皆が殺せと言えば……僕にはできる……認めてくれるんなら……僕はなんだってやってみせる……

 言い聞かせるように、勇気を奮い起こすように岩倉は決意を新たにし、同時に彼は、なぜ栗色の髪をしたあの彼が、無理をしているように感じたのか、その原因がわかったような気がした。

6.
 毎週水、土、日に、高川典之は柔術完命流の道場に通い、この日曜日も朝から彼の足の裏は、畳の感触を得ていた。そして、それが不満だった。
 すると、いつもは考えとは別に身体が自然に反応するはずでなのに、高川は年少の中学生からの“崩し”を呆気なく受けてしまい、両膝を畳みにつけ、堪らず呻き声を上げた。
「典之!! それはぁ!?」
 完命流六代師範、楢井 立(ならい りつ)の檄が、高川の鼓膜を破らんばかりに震動させた。
「も、申し訳ありません!!」
 体勢を立て直し、すぐに立ち上がった高川の眼前に、年少の相手ではなく、四角く厳つい顔が飛び込んできた。
「し、師範!?」
「ぬるい!!」
 肘と膝を同時に極められ、高川は再び呻き声を上げた。彼よりずっと小柄な楢井は、だが身体のバランスコントロールが絶妙であり、高川はすぐにバランスを崩され仰向けにされてしまった。楢井は馬乗りの体勢となり、胴衣の襟を思い切り強く掴んだ。
「わかっとらんな……典之……!!」
 自分の着ている胴衣で、高川は頚動脈を締め上げられる結果となった。このままでは落ちる。そう判断した彼は、左手で畳を何度も叩いたが、楢井の力は弱まることがなかった。

 失われた意識が回復するのに、一体どれだけの時間が経過したのだろう。高川が気がついた頃には稽古場には誰の姿もなく、夕方の鈍い陽が畳を朱に照らしていた。
「落ちたか……くそ……!!」
 突然の乱入だった。中学生に姿勢を崩されたと思った途端、師範の楢井が突如として仕掛けてきた。完命流の組手ではよくある光景であり、高川も兄弟子がそうした襲撃を受ける様を何度も目にしたことがある。

 全然……手も足も出なかった……俺は……なんという弱者なのだ……これでは……ギャングや殺し屋から人々を……はるみんを守ることなど……叶わんではないか……!!

 いや、自分は少なくとも二度の実戦を切り抜けている。決して弱者などではない。しかし道場では常に師範にまさしく“ぐしゃぐしゃ”にされ、高川典之は自分の戦力というものをどう把握してよいのか最近では混乱していた。

 だからこそ、あまりにも馬鹿げた思いつきであるが、そこが高校一年生相応の愚かさというものである。彼はある実験を試みるべく、スポーツバッグを手に稽古場から路地へ飛び出した。

 片付けを終え、二月分の月謝の清算事務を終えた楢井は、夜になりすっかり暗くなった路地を品川駅に向かって歩いていた。アスファルトに鳴る下駄の音は闇夜にこだまし、この地区に住む人々は、それを耳にする度に、あの道場主が稽古を終えて帰るのかと意識をする。
 それにしても高川典之はここ最近、稽古に身が入っていない。思えばそれは、新年の初稽古で島守という同級生を連れてきて以来のことである。
 才能こそあるが考え方が直線的で、実戦に必要なしなやかさより剛直さばかりを鍛える愚かな、だが可愛い弟子。それが楢井にとっての高川典之という存在である。

 しかしな……あの……島守遼という少年……あれから来ないが……彼は……

 まったく初めての手合わせで、遼は楢井の寝技の先を読み、技術こそ未熟だったため防ぐことこそできなかったが、あり得ない速度での対応を見せていた。あのような的確な先読みは、かつて完命流において最大の天才と呼ばれた少女、東堂(とうどう)かなめのそれ以来である。
 そう、まったく似ている。あの読みは同一と言っていい。かつて彼女が五歳の頃、初めて手合わせをした際、触れた直後に彼女は自分の肘を絡め、こうつぶやいた、「わかるよ。お兄ちゃんの考えてること……」と。無邪気で屈託のない笑みだったが、心の底から恐ろしい子供だと感じた記憶がある。

「誰だ……!!」
 背後からの殺気に、楢井は足を止めた。
「辻から……御免!!」
 荒れた殺気である。曲がり角、おそらくは電柱の陰からであろう。雑で迷いのある襲撃者に、楢井はあくまでも冷静に両肘に力を込め、それとは正反対に下半身の力を抜き、素早く振り返った。

 黒い仮面。赤いTシャツに青いジーンズ。それが襲撃者の姿であり、大きな体躯と襲い掛かる挙動から、楢井はその意外なる正体に気付いた。

 典之……!? だと……!?

 わけもわからず、楢井は突進をあしらうため右半身を開き、左半身に攻撃の支度をさせた。しかし直前で立ち止まった襲撃者は左の踵をアスファルトに打ちつけ、それを軸に楢井へ足払いを仕掛けた。
「ぬるいわ!!」
 開いた右半身は、足払いの範囲を超えていて、一撃は空振りに終わるはずだった。しかし全身を回転させた黒い仮面の男は、右膝を沈み込ませるのと同時に、楢井の懐に胴タックルを成功させた。
 バランスを崩した楢井は、圧し掛かってくる襲撃者の重さに辟易としながらも、次なる対応のため、倒れながらも腰だけは引こうとした。

 だが、襲撃者は掴んだ楢井の胴体を、倒すことなくそのまま抱え上げ、一気に全身を仰け反らせた。

 正面反り投げ……この体勢から……あり得ん……!!

 よほど強靭な膝と腰がなければ、もつれて倒れかけた体勢からの正面反り投げはあり得ない。楢井は襲撃者の正体がわからなくなり、困惑したまま受け身を取り、背中に痛烈なる衝撃を感じた。
「貴様は!?」
 片膝を立て、まだ仕掛けてくるであろう“敵”の正体を確かめようとした楢井だが、人気のない路地に黒い仮面の姿はなくなっていた。曲がり角にでも逃げたのか。しかし、あれほどの達人であれば、戦闘の継続は可能であるはずだし、なぜそうしないのか彼には不思議で仕方なかった。

 品川駅へ駆けながら、彼は黒い仮面を外し、スポーツバッグからGジャンを取り出しそれを着込んだ。

 や、やはり……外だと……感覚が研がれている……俺は……路上なら……負ける気が……せん……!! そ、それに……この仮面……!!

 駆け続ける高川典之は、リューティガーから以前受け取った、黒い仮面をあらためて見つめた。
 度胸の問題なのだろうか。正体を隠せたという自信、何者でもない、萎縮から解放されたことによる確かな自由。彼は自分という人間がわからなくなり、だが決して勝てるはずがないと思っていた師範を圧倒した事実に興奮し、早くこの力を使いたいと気持ちばかりを走らせていた。


「やったことあるか……花枝……」
「い、いや……どうするんだそれ……」
 花枝幹弥は、対座する檎堂猛(ごどう たけし)が手にした緑色の根菜と下ろし金を凝視した。
「こうやって摺るんだよ。これが効くんだ」
 熊のような髭面を綻ばせ、檎堂はわさびを下ろし金で摺り始め、花枝も見よう見まねで自分もやってみることにした。
 本日の打ち合わせ場所は、青山通りに面したこの蕎麦屋である。檎堂との食事は常に安い大衆店ばかりだったので、このように個室に案内される料理店は花枝にとっても初めてであり、ならばこのざる蕎麦も余程旨いのだろうと期待した。
「なぁ檎堂さん……俺たちはいつまで見張り続ければいい?」
 不器用な手つきでわさびを摺る花枝は、なんとなく檎堂にそう尋ねてみた。しかし彼は返事をすることなく、太い指でわさびを摺り終えると、割り箸で蕎麦を上げた。
「まただんまりか……なぁ檎堂さん……一体いつまでFOTを野放しにする……巻き込まれたとはいえ、俺も襲われたんだ……あいつらは無差別で、市民を巻き込むことをなんとも思っちゃいない……」
 ペットショップでの出来事、彼が想いを寄せる少女に危害が加えられそうになった事実は、花枝の心を動揺させていた。しかし相方であり、彼よりずっと経験豊富であろう中年のエージェントは、ただ黙々と蕎麦を啜り、返事をする気配すら見せなかった。
「中佐は……真実の人を利用して、何か企んでるんじゃないのか? 奴を野放しにしてどんなメリットがある? 他の下部組織も絡んどるんか? せやったら……」
 ついには関西弁を混ざらせ、花枝はどうせ返事がないのならと言葉を続けた。すると檎堂の箸が止まり、ぎょろりとした丸い目で、彼は睨みつけてきた。
「早く食わねぇんなら……俺が二枚目としていただいちまうぜ……いいのか……!?」
「冗談。おごりは食わせてもらう」
 花枝は声に怒気を込め、急いで蕎麦を啜った。先ほど摺って、つゆに入れたわさびが彼の器官を刺激し、それは眉を顰めさせる結果となった。
「いいからテメェは言われた通りにしてろ。そしてだ……予測や判断も怠るこたぁねぇ……ただ未熟なそれを、迂闊にぶつけてくるもんじゃねぇ……もっと考えるんだな」
 そう告げると、檎堂は再び蕎麦へ取り掛かった。


 進展と言っていいのだろう。あれから毎日、お昼は普通に弁当を一緒に食べ、花枝は相変わらずうざったい存在だったが、それにさえ我慢すれば、彼と過ごせる平日は幸せだといえる。
 だが、休日の外出は両親を心配させてしまうので、これまでも日曜日は常に家でじっとしてきた自分である。梢は友達と遊びに出かけたことのないこれまでを、残念ではあるが仕方ないと思い、月曜日が早く来ないかと待ち遠しく感じていた。

 こう……だった……かな……

 トイプードルへ向けた、死にたくないという気持ち。それを再び思い出せれば、自分の世界は一気に広がるのではないだろうか。リューティガーは待ってくれると言ったが、努力をしなければ近づくことなど出来ない。
 少女は朝から晩までベッドの上にしゃがみ込み、両膝を抱えたまま、あの日の感覚を呼び覚まそうと意識を集中していた。

 右から左へ流すように、同時に胸の重さを軽く放つように、すると右の肩がピクリと動き、同時に勉強机の上に置いてあったペン立てが左へと倒れた。

 こ、この……感覚……かな……

 二月に窓を開けているはずもなく、風で倒れたわけではない。なにより、一瞬だが倒れた直後に胸が急激に苦しくなった。
 つまり、そうなのだろう。医師が医学の奇跡と言っていた正体は、この不思議な力であることに間違いがない。奇形の心血管を常に広げてくれる力、それを外に向ければ、このような結果を生み出すことができる。

 もっと、もっと慣れる必要がある。外に向かって力を使うということは、内側に代償を支払うということである。
 なぜこうも素直に受け入れられるのだろう。いや、自分は物心着く前から、身体がこうした能力を感じ続けていた。だからこそわかる。理屈ではない。常に無意識に知っていたからこそ、“だから、なに”と平然としていられる自分がいる。
 いずれは心血管を開きながら、余剰な力を外に向けることができるはずである。そうなれば、狂ったダルメシアンに凛として立ち向かった彼の、おそらくは“戦い”というものに自分も参加できるはずである。
 梢は広い額を軽く撫で、決して無理をして両親を悲しませるような結果だけは避けなければと、そんな想いも同時に意識し、これ以上の試みを今日は諦めた。

7.
 高川が、花枝が、梢がそれぞれの可能性に想いを巡らせていた日曜日の夜、島守遼は自分の部屋でぼんやりとオートバイ雑誌を読みふけっていた。
 父に買ってもらったMVXは排気音がうるさく、ブレーキングに癖があるという点を除けばまずまず満足の行く単車だったが、今後のことを考えるとパーツの交換や、性能の向上に繋がる改造を施す必要がある。そう判断しての読書である。
 アルバイト代だけではなく、最近では賢人同盟から月十万円の給料も振り込まれている。経済的にはゆとりがあったため、いっそ新車を買ってしまうのも手かと、彼は中古車紹介のページに目を輝かせていた。

 いきなりの歌謡曲が部屋に鳴り響いた。これはメールではなく、電話の呼び出しを意味する着信合図である。遼は机上の携帯電話を手に取った。
「よう島守……俺だ……横田だけど」
 電話で聞くクラスメイトの声は随分低いものだと、遼はそんな違和感を覚えながら、相手が相手であるため緊張した。
「ああ……どうした?」
「例の件、資料にまとめてみた……今からこっちに来られるか?」
「わかった……一時間はかからないと思う」
 遼は電話を切ると外出着に着替え、ヘルメットを抱えて台所に出た。
「お……風呂行くのか?」
 流しで洗い物をしていた父、貢(みつぐ)は、背中を向けたまま一人息子に声をかけた。
「友達のとこ……帰り遅くなるから」
 遼はそう言い残し、乱暴な挙動で扉を開け閉めした。

 横田良平の家は国分寺のマンションにある。雪谷大塚のここからはそれなりの距離があり、二月の寒気は夜になるとその厳しさを増していたが、彼に依頼してある“例の件”とは、蜷河理佳が巻き込まれた殺害事件に関する、ネットを使った調査である。日曜の晩だったが、遼は一刻も早く情報を得る必要があると思い、MVXを飛ばした。

「分厚いけど、それでも関係ないログは省いてある……それが俺がネットで集めた蜷河さん一家殺害事件の全てだ」
 横田の自室で、遼はファイリングされたずっしりと重い書類を受け取った。
「要約がいるか?」
「あ、ああ……頼む……」
 この分量を全て読むには一晩かかるだろう。横田の申し出は遼にとって嬉しく、彼はベッドに腰を下ろし、パラパラとファイルをめくった。
 掲示板のログ、新聞社の記事データ、そしてインターネットではなく、パソコン通信時代の会議室データと、横田が収集した情報は多岐に亘っていた。“蜷河さん一家”その文字が遼の目にいちいち引っかかり、気がつけば、彼は口の中を血が滲むほど噛み締めてしまっていた。
「1997年、九月十日……戒厳令下の東京都墨田区……蜷河和樹という会社員宅に、ファクトと思われる数名のテロリストが襲撃をした。その結果、主の蜷河和樹をはじめ、その妻、長男が殺害……金庫や宝石類、現金などが持ち去られた。そして……遺体はいわゆるファクト式……表向きはほとんど骨片しか残らない粉砕処理……裏では獣人が食っちまったっていう……つまりはそんな、床に体液反応しか残らない殺され方だったらしい……」
 いつもは少し高めの声を、横田良平はできるだけ低くし、遼の震える指先に注意しながら慎重な口調にしていた。
「でな……蜷河理佳……彼女は間違いなく、この蜷河和樹氏の長女で、家族の中で唯一の生き残りだ。年末にこの記事をはじめて見たときは、偶然の一致とか言っちゃったけど、生年月日も一致するし……100%ビンゴだ」
 この部屋で、机上のモニタで一度は目にし、覚悟はしていた結果である。しかし手にした分厚い資料と横田の重い声が事実をより裏づけ、遼はうなだれ、「どうして……理佳ちゃんだけが?」と小さな声で尋ねた。
「習い事に行ってたらしい……」
「じゃあ……帰ってみたら……家族は跡形もなく……?」
「公式発表じゃそこまでの詳細はわからん。なんせ犯人らしきフィリピン人工作員は、対策班に射殺されてるんだ」
「対策班……?」
「ああ。内閣特務調査室のな。F資本対策班って通称らしい。これもアングラ情報だけどさ」
 “内閣特務調査室”その耳慣れぬ固有名詞に、遼はつい最近出会った、長身の青年を思い出した。
「一説にゃ……ファクトが慌ててたのか、死体の処理がいい加減だったって話もある」
 何気ない一言ではあったが、既に非日常に片足をはまらせようとしていた島守遼にとって、それは無視できない情報だった。
「な、なんだよそれ……」
「いやだからさ……損傷のひでぇ遺体を……彼女が見た可能性もあるって……実際……警察が発見した際……彼女は気を失って倒れてたらしいし……」
 横田の、ところどころニュース用語を交えたその言葉に、遼はファイルを床に落とし、反動で頭を上げた。

 歪み切った口元、泣きそうに潤んだ目。いつもは飄々として落ち着いた彼が、こうも曝け出すのかと横田は戸惑い、だが自分の知っていることは全て話してしまおうと、彼は自分のワイシャツの襟を引いた。
「しばらくマスコミは、蜷河さんのことを悲劇の少女って感じで報じてたらしい……けど、あの頃はそんなニュースが連日だったろ。注目も長くなくってさ。その後、蜷河さんは孤児施設に預けられたってとこまではわかった……それがどこかまでは不明なんだけどな……」
「良平……」
 裏返った声である。しかも親や中学生時代の友人以外に下の名前を呼ばれることなど、クラスに親しい友人のいない横田良平にとって、それは珍しい事態だった。
「な、なんだよ島守……」
「な、内緒にしててくれ……頼む……」
「あ、ああ……けど……俺程度で調べられたんだ、知ってる人は知ってるって情報だぞ。たぶん、これはカンだけど、近持先生とかは知ってたような気もする……」
 涙ぐみ、鼻水をたらしながら、遼はベッドから立ち上がり、小柄な同級生に視線を合わせるため膝を折った。
「だけど……これ以上……すくなくともお前から広がるようなことにはならないように……頼む……お願いだ……」
「う、うん……けどさ……調査は継続していいか……? 俺なりに……興味もある……」
 偶然の一致と片付けたのは、たぶん許容量を超えた現実性のなさに怯えてしまったからだろう。この調査に没頭し、デマや憶測の海に迷いながらも追体験を重ねてきた今ならそう言える。島守遼は、何か確信があって彼女の人生を追い続けている。それは横田良平から見れば羨ましいほどにロマンを感じさせ、だからこそもう少し関わってみたいという欲求もあった。
「あ、ああ……それは構わない……」
 横田良平は同級生から了解を得ると、視線を机上のモニタに移した。
「わ、悪りぃな……良平……ここに来るたびに……俺……なんか迷惑かけてるみたいで……」
「い、いや……いいよ……どうせ暇だし……最近ネットもつまんなくなってきたしさ……」
 話題を変えてみるべきだろう。そうだ、最近のネット事情というやつを、遼に教えてみるのも面白い。
 事件と蜷河理佳の人生に興味があるだけではない。とにかく彼とは友好的な関係を維持しておけば、この調査の報酬もそれなりのものが見込めるはずである。そのような打算も働くのが良平という少年であった。

「マジマジ。ぜってー紹介すっから。可愛い子」

 遼はそう言っていた。誰だろう。やはり演劇部の女子であろうか。だとすれば、A組の針越という子がいい。遠くから何度か見ただけで何やら地味な印象しかないが、どうせなら彼女を紹介して欲しい。
 さて、どのサイトを見せてやろうか。やはりあの某・匿名巨大掲示板でカルチャーショックでも受けてもらおうか。良平がブラウザを操作して、「なぁ島守……」と振り返ると、だが長身のクラスメイトの姿は既にそこにはなく、床に落ちてたはずのファイルもなくなっていた。

 自分が針越の地味な姿を妄想しているうちに、奴はさっさと出て行ったのだろう。仕方なく、良平はベッドに腰を下ろした。

 けどなぁ……遼よ……ファイルはきついぞ……俺は……かなりマイルドに要約したからなぁ……

 今晩、自分の収集した成果を彼は読むのだろうか。それを想像した良平は、上体をベッドに倒れこませ、「可哀想だよな。蜷河さんは……」とつぶやいた。

 国道まで車体を押し、住宅街を抜けたのを確認した遼は、MVXのエンジンをかけ、タンク上に取り付けてあるバッグに、ファイルを収納した。

 これに……今のところわかっていることが書かれている……

 雑然とした情報、重複する内容も数多く、中には事件を嘲笑するかのような無責任で汚い言葉もあるだろう。しかし、自分はその全てを見るべきである。それに耐えられるだけの男でなければ彼女の苛酷さに近づくことなどできはしない。島守遼は夜の国道にMVXを滑り込ませ、どうにも言うことを聞いてくれない低速域からすぐに脱するべく、アクセルを調節した。

 四月の発表会まで二ヵ月を切ったというのに、衣装の一着も裁縫部から仕上がってきていない。その事実は福岡部長をはじめ、平田や他の部員たちも現実として認識している裏方面での遅れではあったものの、そもそもそれは前回の「金田一子の冒険」と比較しての遅れであり、まだスケジュール的には取り返せる。日程の上でそう油断するのも、そのときの裏方全般を取り仕切っていた三年生の、葦塚(あしづか)という女生徒が受験のため不在であり、更に彼女をよくサポートし、裁縫部や美術部、写真部や放送部といった協力部との関係を円滑に運ばせていた神崎はるみが、蜷河理佳の代役で急遽ヒロインに抜擢されてしまったからに他ならない。つまりは、折り込み済みの仕方のないことである。

「そのような婚礼。誰が納得できようか!! 我は前原殿と結ばれた身。無礼ではないかっ!!」
 気迫に満ちた表情。切れのある動き。そしてなによりも、存在感そのものが日に日に増してきている。
 神崎はるみは確実にこの舞台を通じて実力をつけ、演劇部の看板女優として恥ずかしくない域に達しつつある。かつてその将来を嘱望された蜷河理佳が、正確でしなやかなる“静の芝居”だったのに対し、
「下がらんか下衆共!! お前らの命を奪うことに、何のためらいもないのだぞ!!」
 床を踏みしめ、躍動感たっぷりに相手役の襟首に掴みかかる彼女の気迫は、正に“動の芝居”である。もちろん、プロの女優ともなればそのどちらも兼ね備えているのが前提ではあるが、演劇経験が高校に入ってからであり、メインの役をはじめて演じる彼女の成長は、抜擢した平田も驚くばかりであり、ここ最近、彼は稽古を見ている最中、眼鏡を何度も上げ直すのが癖になろうとしていた。
 もちろん、部活動のない日もここを訪れ、一人で演技の練習を重ねているという事実は前部長の乃口文から聞いている。そもそも努力家であり、地味な苦労を決して惜しまないからこそ、ここまでの飛躍があったことは間違いない。ただ、誰にでもできることではない。
 同じように演劇経験のなかった理佳が、ほとんど努力なく名女優の才能を見せていただけに、はるみの努力とその結果は、余計に際立って平田浩二に印象づけられていた。

「この小刀は……一文字家に代々伝わる宝刀……これをあなたへ……私の愛の形として、受け取ってくださいまし……」
 場面が変わり、今度は相手役の島守遼へ、その想いを打ち明ける序盤のクライマックスとなった。ここはいち早く彼女が間合いと台詞のコツを掴み、他の部員にその演技力を認めさせた場面である。
 切なさと力強さを同居させたはるみの芝居に、平田は数日前一年生の針越が、「本命だったみたいですよ。神崎さん。島守君に」とわざわざ言いに来た事実を、今更ながらに納得した。
 だが、だとすれば役と実を混同されるのは困ったものである。それに島守は蜷河と付き合っていたはずで、これはどう考えても納得のいく話ではない。

 あいつは……共演キラーなのか……!?

 どちらかと言えば深刻な領域には達していない、半ば冗談めいた怒りではあったが、なんにしても遼にとっては身に覚えのない結論である。

 だが、島守遼が台本を丸めた平田先輩の怒気に気付くことはなかった。
 いや、彼は目の前のはるみの姿もよく意識できず、彼女の台詞も鼓膜を震動させるだけで、それ以上の知覚を刺激させることはなかった。

 この部室で、共に稽古を重ねていた彼女に、あんな過去があるとは気付きもしなかった。知らなかったとは言え、自分はなんと能天気だったのだろう。前作、「金田一子の冒険」で、彼女は殺害される妻を演じていた。上手い芝居であると、美しい少女であると、その程度の浮ついた感想しか抱けなかったのがあまりにも情けない。

 両親と、同じ年の兄を殺害され、おそらくは食い残されたであろう遺体を目撃し、意識を失い、警察に保護され、それから一年は施設でも口を利くことができなかったという。
 八歳の彼女にとって、それはどれほどの経験だったのだろう。そして、現在の彼女になるまで、どれほどの克服があったのだろう。

 昨晩、横田から受け取った資料を全て読んだ遼は、電子会議室での事件を茶化すやり取りに最初は腹を立てもしたが、やがて明らかになっていく事件の詳細に震え、読み終えた後も眠ることができず、どう感情を処理すればよいのかもわからず、ただ途方に暮れていた。
「島守……ねぇ遼……!!」
 小さな、だが強い声ではるみは遼に芝居を促した。しかし目の焦点の定まらない彼は、実にか細い声で、「ごめん……無理だ……」と返し、皆に頭を下げた。
「どうした島守……!!」
 仏頂面を険しくさせ、平田が様子のおかしい遼を咎めたが、彼は「今日は無理みたいです……ごめんなさい」と繰り返し、隣の更衣室へと下がってしまった。


 下駄箱までやってきた遼は、堪らずそれに背中を付け、体重を預けた。

 ファクトの獣人に食べられたんなら……どうして理佳ちゃんはFOTに参加してるんだ……ファクトとFOTは違うのか……?

 ようやく、彼女の身の上が可哀想であるという感情から、現在への疑問に思考を進められることができつつあった。自分はひどく冷たい人間なのではないだろうか。遼はそう思いもしたが、過去は過去であり、これからをどうするかを考えるべきだという前向きな発想が上回ろうとしていたし、資料をもとに想像しすぎるのも正直なところ疲れていた。

 なにはともあれだ……理佳ちゃんが笑ったり……しゃべれるようになったのは事実なんだ……また……駄目にならないように、そばにいられればそれでいい……

 いつになれば、どうすれば、あのか細く儚げな肩を再び抱くことができるのだろう。しかし、いまの島守遼は悩むことしかできないでいた。


「たっだいまー」
 玄関で靴を脱いだはるみは、台所に母がいるのを確認すると、食卓に着いて学生鞄とコートを隣の椅子に置いた。そして三十秒ほどぼんやりしていると、ようやく彼女は今日の母が買い物で忘れ物をしていないのだろうと判断した。
「ねぇ……まりか姉って、内閣財務室ってところで働いてるのよね」
 娘にそう尋ねられた母は、夕飯の支度を進めながら、「ええそうよ」と答えた。
「次に帰って来るのいつなんだろ」
「珍しいのね。はるみがまりかが帰って来るの待つなんて」
「うん……ちょっといろいろ聞きたいことがあるんだ」
 何気ない娘の言葉に、母、永美(えいみ)は手を止め、カウンター越しに彼女を凝視した。
「な、なに……?」
 母の視線があまりにも厳しく感じられたため、はるみは戸惑った。
「まりかに聞くって……? 電話やメールじゃなくって?」
「うん……直接聞いた方がいいかなって。まりか姉、メール嫌いって言ってたし」
「な、なにを聞くの?」
「昔のこととか……いまどんな仕事してるのかとか……」
「い、いつもはまりかが帰ってきても、ほとんど話なんかしないのに……なんで?」
 なぜ母はこうも尋ねてくるのだろう。はるみは違和感を覚え、それが何か核心に近づくまでの弊害のようにも思えた。カウンターの中から食卓までやってきた永美は、エプロンで手を拭きながら、娘の向かいに座った。
「昔のことなら私にも答えられるかしら?」
「え……? ど、どうして? ほんと、まりか姉の昔のことだよ。ママが知ってるはずないと思うよ」
「そうかしら……? い、言ってみてよ? なにが知りたいの?」
 自分が姉に対して質問したい事柄を、母はどうしても知りたいようである。まるで予め検閲するようにである。はるみはそんな彼女の態度が不気味に感じられた。
「変だよ……ママは……」
 はるみは席を立ち、母から逃げるように階段へ向かって行った。

 母が検閲するということは、姉に聞いてはいけないなにかがあるということであろう。その程度のことは容易に想像がつく。おそらく、簡単には姉を切り崩すことはできないだろう。あの那須という捜査官を利用することはできないだろうか。少女は自分の部屋に戻るとストーブを付け、ブレザーをベッドに放り、壁に寄りかかった。

 あいつ……泣きそうな顔してた……理佳のことかな……あれって……

 今日の部活は、全然稽古にならなかった。遼が早退したあと、平田などは呆れかえり、福岡部長も前途多難だと漏らしていた。
 なんとかしなければ。これはとてもまとも状況ではない。
 神崎はるみは小さく息を吐き、机上に置いた写真を見た。昨年の夏、長野の寺で行った合宿の、最終日に撮った集合写真である。
 島守遼はつまらなそうな顔だが、少なくとも泣き出しそうな悲しさはない。
 蜷河理佳は、はにかんだような、少し困ったような、そんな微妙な表情であり、この頃から何かを抱え込んでいたようにも思える。
 そして自分は、なんという明るい元気な笑顔なのだろう。これではまるで無知な馬鹿のようである。
 少女は写真立を手にし、右の頬を引き攣らせた。嫌な表情なのだろう。しかし、何も知らずに能天気なのよりはマシである。少なくとも、いまはそう思えた。

8.
 二月末の月曜日、高川典之はその日の昼、島守遼からの伝言を受け、学校のあと代々木駅までやってきていた。

 そ、そうか……よくよく考えてみれば……ここには……はるみんも住んでいたではないか……そのような重要情報をなぜ失念していた……ルディとのミーティングのあと……家を訪ねてみるか……

 マンションに向かう途中、高川は学生手帳を取り出し、メモ欄に書かれた神崎家の住所を確認した。

 うむ……近いな……しかしルディの家に行っていた事が知られてはまずいな……どうする……新聞配達の真似でもするか……? いや……新聞などないぞ……大量に買うにも金が……それよりもどうだ……率直に……遊びに来ましたというのは……だめだだめだ。それでは付きまといの変質者ではないか。ごく自然に……ど、どうやって訪ねる……?

 そんなことをあれこれ考えているうちに、高川は代々木パレロワイヤルの前まで到着していた。

 それにしても……新しい仲間を紹介すると言っていたが……また健太郎殿のような化け物でなければよいのだが……

 インターフォンを鳴らした高川は短いやりとりの後、目の前のガラス戸の鍵が外れたのを確認し、それを開けてエレベーターホールまで向かった。

 できれば……陳殿の知り合いの武道家であれば面白いな……中国拳法というやつも一度手合わせしてみたいし……殺し屋などではなく、武道家であれば……

 エレベーターから降りると、すぐ正面が人が二人分ほどすれ違えるほどの幅の廊下となっていて、片側が扉、反対側が壁と窓であり、締め切られたこの空間に寒気が入り込むことはない。
 右端が非常階段へ通じる扉、左端が行き止まりになっていて、通常階段はエレベーターのすぐ隣に位置する、それぞれがゆったりとしたスペースを持った、高級マンションである。高川は左手へ進み、803号室へ向かった。途中、彼は隣の802号室から奇妙な鳴き声を耳にし、何度か話に聞いた遼の特訓を思い出すと、「あぁ」と妙に納得したような声を上げた。


「お前はC組の……? 岩倉とか言ったか……?」
 ダイニングキッチンで、先に来ていた遼や岩倉を見比べた高川は、嫌悪を隠すことなくそう言った。
「高川典之くんだね。よ、よろしく。僕のことはガンちゃんって呼んでおくれよ」
 人懐っこい笑みを浮かべた岩倉は、席から立って高川に握手を求めた。しかし彼はそれに応じず、鼻を鳴らすと空いていてる椅子に座った。
「何を考えている……このような男が仲間だと? 何の役に立つ? 体育の時間の奴を知っているだろう? 足手まといだ。こいつは守る対象であっても、守る者ではない!!」
 腕を組み、厳しい口調で高川は断言した。岩倉は差し出した分厚い手を下げ、同時に肩の力を落とした。
「なぁ高川……明日の一時間目……何の授業か覚えているか?」
 唐突な遼の質問に、だが高川は咄嗟に、「体育だ」と答えた。
「ああ。変更になったって。現国に」
「そ、それはどういった脈絡だ?」
 食って掛かる高川を無視し、遼は傍らにいる岩倉の手首を右手で掴んだ。
「脈絡なんてねぇ。こういうこった。手を借りるぞ」
 遼は左手で高川の手首を掴み、高川の記憶層に岩倉のフィルタをかけてみた。その様子をリューティガーは頬杖をついて興味深そうに観察し、高川は視線に気付き、「なんだ?」と問いただした。
 手を離した遼は、口の右端を吊り上げた。
「さーて高川……ガンちゃんがいかに俺たちの役に立つか、今証明しよう」
 芝居がかった口調で、だが決して高くはないテンションで、遼はそう言った。
「明日の一時間目……何の授業に変更になった?」
「な、なんだそれは……変更だと……何の話だ。俺は聞いておらんぞ」
 高川の返事に、遼は口に手を当て肩を上下させ、岩倉は驚き目を見張り、リューティガーは両手をパチンと叩き合わせた。
「な、なんだ貴様ら……ど、どうしたというのだ」
「これがガンちゃんのおかげで、俺が使えるようになった異なる力だ……」
「異なる力? 島守、お前がか?」
「面倒だから黙ってたけど、俺は触った相手の心を読める。高川、俺と握手したときは気をつけろよ」
 乱暴な口調でそう言った遼は、目でリューティガーを促した。
「い、いい加減なことを……それと今のでたらめな質問が、一体何の関係があるというのだ」
「これです……」
 リューティガーは胸ポケットからスティック状のボイスメモを取り出すと、それを再生した。
 内容は、先ほど遼と高川が交わした一時間目の授業が体育から現国に変わったという会話である。しかし高川に、このような言葉を交わした記憶は皆無である。覚えのない、だがおそらくは自分の声であろう不気味な会話に、彼は困惑し冷や汗を流した。
「お前の、この会話に関する記憶だけを消した。ガンちゃんの記憶整理フィルタを利用してね……」
 あり得ないことをさらりと言う遼に対し、だからこそ信じるしかないのかと、高川は視線をテーブルに落とした。
 それにしても、島守遼という能力者はなんという柔軟な発想を持って、自分の異なる力を応用するのだろう。リューティガーは下唇を突き出して人の悪い笑みを浮かべる彼を見て、あらためてそう感心した。
 他人の内的な特徴や長所を、接触テレパスのフィルタとして用いるなど、これまでに例のない応用であり、同盟に報告すれば研究者たちは興味を示すことだろう。“異なる力”と、言わば“延長線上の力”をこうも融合させるとは、自分が特別な人間であるという自覚が薄いからこそできる発想である。
 やはり、彼に目をつけた自分の判断に間違いはなかった。これまでにも何度か対立をし、中々仲間になってくれなかったことを恨みもした。しかし現在では積極的に仲間を連れてくるし、高川という扱いづらい人間に対しても一定の距離を持って上手く付き合っている。

 奴を倒したあとのことなど、これまで考えたこともないリューティガーだった。

 遼がいいのなら……同盟のエージェントにだって推薦できる……彼なら……

 そんなことを考えた彼は、だがいまはこの場の責任者である己の立場を全うするため、将来ではなく現在のことに心を向き直した。

「さて……ガンちゃんがいかに役に立つかは僕もこれでよくわかりました……あらためてよろしく」
 リューティガーは立ち上がると岩倉と握手をし、彼の人のよさそうな顔に笑顔が再び戻った。
「高川くんのときと同じで……装備は不充分ですけど、現時点で渡しておきますね……」
 そう言ったリューティガーは、床に置いたアタッシュケースを持ち上げ、食卓の上に載せ、それを開いた。
「拳銃です……こっちが通常弾、こっちが対獣人弾。そしてこのケースがナイフ。こっちの黒いのが作戦用のマスク。そして通信機と発信機……操作方法のマニュアル」
 アタッシュケースの中身をリューティガーは紹介し、岩倉は興味深そうにそれを観察した。

 真錠……また拳銃とナイフかよ……

 温厚な岩倉には最も似合わない物騒な道具である。自分と高川でさえも拒絶したそれらを彼が受け入れるはずがない。遼がそう思っていると、岩倉は、「あ、ありがとうルディ。ありがたくちょうだいするよ」と言い、アタッシュケースを閉め、それを抱え込んだ。
「ガ、ガンちゃん……拳銃とナイフはいらないだろ!?」
「ど、どうして?」
 遼の問いに、岩倉次郎はきょとんとした無垢な瞳を向けた。
「だ、だってさ……ナイフはともかく……拳銃だぞ?」
「でも……テロリストと戦うんでしょ……護身用に武器はいるよ……僕は島守くんたちと違って弱いから……」
 その言葉に、高川は大きく頷いた。
「ふん……一理あるな。確かに弱者は武装の必要がある」
「お、おい高川……」
「ねぇルディ。撃ったことないから、どこかで練習とかできないかな?」
 岩倉の申し出に、リューティガーは無邪気な笑みを浮かべ、両手を広げた。
「ええ。804号室と805号室も借りてるんですけど、そこは壁を取り払ってトレーニング用に改造してあります。射撃もできるから僕が教えるよ」
「ル、ルディは拳銃撃てるんだ!?」
「ええ。三歳のころから射撃はやってます。サッカーボールより先に、親に与えられましたから」
「すごい、すごーい!!」
 岩倉はすっかり興奮し、リューティガーは照れて頬を赤くした。一人予想の外れた遼は呆れかえり、ふとある事実に気付いた。
「あれ……そう言えば陳さんは?」
「うむ……いつものティーがないと思えば……買い物か?」
 遼と高川の疑問に、リューティガーが首を傾げ、腰に手を当てた。
「陳さんは昔からのお知り合いに会いに行ってます……健太郎さんは、民声党議員宅への張り込みです」
 二人とも不在なのは珍しい。なんとなく遼はそう思い、アタッシュケースを抱えている岩倉を見上げた。
「民声党だってガンちゃん」
「う、うん……自由民声党……与党第一党だよね。有名な議員がいっぱいいる」
「ところがどっこい。保守政党のくせに、FOTとつるんでるやつがいるらしい」
「テ、テロと民声党? なんか信じられないや……」
 しかし遼とて岩倉の疑問に正確な解答など出せるはずもなく、彼はもっと事情を知っているであろうリューティガーに鋭い視線を向けた。
 だが栗色の髪をした彼はすっかり笑みを消し、つまらなそうな表情で椅子に腰掛けていた。
 なんという冷淡な素っ気無さだろう。遼がそう思って岩倉を再度見上げると、彼もそんなリューティガーに、細くした冷たい視線を向けていた。
 彼なりに、リューティガーという中心人物を見定めているのだろう。意外と彼はそうした観察をする。それは最近になって遼が気付いた岩倉の一面であり、そんな慎重さも持っていそうだから、いっそ彼にだけは蜷河理佳のことを話してしまってもいいのではないかと思えた。


 802号室のベランダに、一本のロープが泳いでいた。それは屋上から掛けられた侵入用のロープであり、ガラス戸越しに十匹を超える猫の姿を確認したマサヨは、毛皮のコートの内側に忍ばせた、十五本のダーツに意識を向けた。

 奴の飼い猫か……奴のなら……迷うことはない……今から僕がお前たちの新しい主だ……

 アジュアを。あの妹をいつまでも待たせておくわけにはいかない。ここを決戦の場とすることを兄は選択し、それは彼にとって命がけの決意であった。


 これは、ハンマーで窓ガラスを粉砕した音である。
 遠くから聞こえたそれを、そう認識したリューティガーは立ち上がった。
「802号室……!? なぜ隣を……?」
「どうしたのだルディ?」
「敵です……802号室に……敵が侵入しました……!! 待っててください!!」
 高川たちにそう言ったリューティガーは、意識を集中してその場から忽然と姿を消した。
 初めて見る空間跳躍に、岩倉は我が目を疑い、許容量をはるかに超えた衝撃に思わず口を開いた。
「高川……」
「ああ!!」
 遼と高川は席を立ち、出口へ掛けて行った。

 み、みんな……慣れてる……遼くんまで……別人みたいだ……

 敵が侵入してきたということは戦いである。敵はテロリストなのだから、それは殺し合いと言ってよい戦いなのだろう。岩倉は膝に震えを感じながらアタッシュケースを食卓に置き、その中から拳銃と通信機を取り出した。

 役に……立たないと……

 リボルバー式の拳銃は、確かこうだったろうか。箱から弾丸を取り出した岩倉は、回転式の弾層に、震える指で一発ずつ装填した。

「島守くん……高川くん……」
 ようやく続いて廊下に出た岩倉は、802号室の扉の前で身構える二人と合流した。
 扉を前に、左手に高川が、右手に遼が、決して正面には立たないように警戒しているのが岩倉にもよく伝わり、彼は手にした拳銃を強く握り締めた。
 この中に、“敵”がいるのだろうか。人間なのか、それとも獣人なのか、いずれにしても生まれてから喧嘩すら経験したことない彼は、ひどく緊張し咳き込んでしまった。
「静かにガンちゃん……」
「う、うん……ルディは……!?」
 その質問と同時に、遼と岩倉の背後に突風が吹いた。
「皆離れるんだ!! リバイバーだ!!」
 リューティガーの声に、高川は扉の前から行き止まりである801号室側へと後ろへ跳び、遼は岩倉の肩を掴んで、廊下に出現した803号室側のリューティガーまで駆けた。

 802号室の扉が、ゆっくりと開いた。開閉金具と反対側に位置していた高川は、部屋の中から頭を出した、赤い瞳を輝かせる小さな魔獣の存在にいち早く気付き息を呑んだ。
 そう、魔獣である。口元からは涎を垂らし、牙は下顎からはみ出るほど長く、前足の指は奇形とも言えるサイズにまで肥大化し、それに相応する巨大化した爪も想像ができる。
 このような猫を、高川典之はこれまでに見たことがなかった。彼は呻き声を上げ、腰を低くし、廊下に出てきた一匹目と視線を合わせた。

 殺気である。この小さな化け物は、自分の戦闘力を瞬時に計算し、いかにしてそれを奪うかを考えている。馬鹿にしたものではない。こいつは立派な“敵”だ。ならば完命流を持って抗しなければ、殺気に呑まれ、それは死を意味する。
 息を呑んだ高川は、獣相手に武を用いることを覚悟した。

9.
開いた扉に視界を遮られたため、中から何が出現したのかも、その向こう側にいるはずの高川がどうなっているのかも確認できない遼だったが、出現したリューティガーの言葉と、802号室の特異性を考え合わせると敵がいかなる存在なのか、ある程度は予想できる。

 リバイバー? まさか……あいつらが……!? せっかく……治したのに……!!

 802号室といえば、遼の特訓用に健太郎が集めてきた野良猫たちを閉じ込めている部屋である。遼は早く状況を確かめたい一心で、幅にゆとりのある廊下の窓側に身体を寄せ、開いた扉の向こう側を背伸びして窺った。
 と、同時に、空気を切り裂くような鋭い鳴き声が締め切られた廊下に響き、行き止まりの壁に背中を打ち付ける高川の姿が見えた。
「く、くぅぅぅぅ……!!」
 飛び掛かってきた茶色い魔獣の頭部を右の逆手で掴み、背中が801号室側の壁に付いた瞬間、高川は手にしたそれをスチール製の扉に叩き付けた。
 この一撃で、頭部を粉砕し絶命する可能性もあるはずである。しかし右手でホールドしたそれは四肢を尚も激しく泳がせ、高川はあまりにも「元気」すぎるその戦意に恐怖し、頬を引き攣らせ口元から涎を垂らした。
「ば、化け物がぁぁぁぁぁ!!」
 右手で頭を扉に押さえつけたまま、高川は恐怖に任せて左の肘を魔獣の胴体部へ突きたてた。
 廊下という閉鎖空間を、高く分厚い断末魔の鳴き声が切り裂き、岩倉は堪らず左手で耳を押さえ、801号室の扉を真っ赤に染めた鮮血と、だらりと力をなくしてしまった四肢に、遼は腕で口を覆った。

「数がいるのを確認している!! まだ来るぞ!!」
 リューティガーの指示は、だが三人の意識には届いていなかった。

 右手の中の頭部は、もう生命活動を停止しているだろう。左肘に通じる生暖かさも、やがては冷たく変化する。猫を殺した高川は、「ひ、ひ」と息を呑みこみながら呻くと、両手を小さく万歳するように挙げ、彼の足元に血を引きずりながら、茶色い固まりがぼとりと落ちた。

 高川典之は幼い頃より修練した武により、初めて生物の命を絶った。いくら薬品の力によって猛獣と化しているとは言え、蹲ってボロ雑巾のようになっているそれは、あくまでも“猫”である。彼は自分のやってしまった行為にどう辻褄をつけてよいのかわからず、もう一度、「ひ、ひ」と喉を鳴らした。

 あれは確か七匹目。左後ろ足の骨にヒビが入っていて、三時間をかけ、その組織を補填し、治療を施したやつである。
 ぐしゃりとなってしまったそれを、遼は眉を顰めて直視した。せっかく元気になったのに。決して懐きはしないが、調子に乗って部屋を走り回っていたのに。
「た、高川……」
 遼は視線を高川へ上げ、少しだけ強い語調でそう言い、彼に近づこうとした。
 すると、二人の間でひしゃげていた茶色い固まりがピクリと動き、それは次の瞬間、鮮血を噴き出し奇声を発しながら、遼目掛けて跳ね上がった。

 赤い目である。歪んだ頭部の上あごからは鋭く長い牙が輝き、小型ではあったが、襲い掛かる化け物に、遼はバルチで遭遇した獣人の恐怖を思い出した。
「遼!!」
 背後から襟を掴まれ、遼は全身を引き戻された。それと入れ替わるように802号室の扉へリューティガーが身を乗り出し、迫り来る茶色い魔獣に意識を集中した左拳を突き出した。
 突風と共に、再び襲い掛かってきたそれは空間に消失した。尻餅をついてしまった遼は揺れる栗色の髪とその後姿を見上げ、奥歯をかたかたと鳴らせた。
 リューティガーは態勢を整える必要性を感じていた。狂気に目覚めつつある高川はなんとかなるものの、遼はこれでは戦力にならず、それだけではなく足手まといになる可能性もある。敵は治療した猫ではない。薬品により既に別の存在へと変化してしまっている。その事実を論理的に理解してもらわないといけない。
 さて、どうするべきか。突き出した拳を開き、掌に空気の流れを感じながらも、だがリューティガーは始まってしまった戦いは乱戦になるだろうと諦め、事実、扉を挟んで対面していた高川のぎょろりとした目が802号室の中へと向けられた。

 いくつもの影が室内から廊下へ飛び出した。行き止まりの801号室側にいた高川は、自分目掛けて飛んで来た多くの殺意に口を真っ直ぐに結び、両腕をクロスさせ、背後の壁の位置を気圧の密度で確認した。
 来るならこい。全て血祭りにあげてやる。普段の武人然とした高川典之の仮面は僅かにズレ、そこには生存を死守せんとする狂気の素顔が剥き出しになろうとしていた。

 飛び出した殺意のいくつかは正面である廊下の壁に衝突し、803号室側のリューティガーたちへも反射してきた。
 接触したものは全て空間に跳ばしてみせる。リューティガーはそう覚悟して身構えたが、迫り来る影のスピードと数は彼の予想を超え、二匹の魔獣を同時に空間へ消失させたが、何匹かは彼の脇を通過し、背後の遼と岩倉へと抜けていった。
 あの二人では対処できない。リューティガーは意識を後方へと流そうとしたが、次なる影を目の端で捉えた彼は、それへの対処に神経が反応してしまった。

 リューティガーを突破した三匹のリバイバーは、より弱者であり自分たちの捕食対象になりそうな二人に殺意を向けた。
 二匹目と、五匹目と、十五匹目である。いずれもが病気や怪我を抱え、警戒し、荒み、弱っていた猫たちである。もちろん、既に別種の化け物と化しているのは赤い目や肥大化した前足を見ればよくわかる。だがそれと、立ち向かう覚悟はなかなか同居してくれない。僅か一瞬のことではあったが、島守遼は悲鳴を上げながら己の躊躇と度胸のなさに、そんな自分なら別に死んでしまっても構わないかと諦めてもいた。
「だめだ島守くん!!」
 岩倉の巨体が、遼を包み込んだ。太い腕は背中まで回され、太鼓腹の弾力が正面を圧迫する。庇う。というやつなのだろう。尻餅をついたままの体勢だった遼は突如真っ黒になった視界に恐怖し、次の瞬間、覆いかぶさるそれが苦痛の呻き声を上げたのに気がついた。
「ガンちゃん!!」
 全身に力を込め、遼は岩倉を払いどけた。彼の表情は苦悶に満ち、背中が押し付けられた壁には赤い体液が付着していた。
「ガンちゃん!!」
 背中に怪我を負ったのか、遼はもう一度友人の名を叫んだ。
「危ない!!」
 右手に拳銃を握り締めていた岩倉は、近づいてきた遼を手で払い、腰を落としたまま引き金に力を込めた。
 乾いた音と、呻き声は一瞬だけである。銃口から流れる硝煙に岩倉は鼻腔を刺激され、天井付近から床へ落下する白い化け物が、自分の射撃が成功であることの証明であると感じられ、だからこそ彼は興奮に震えた。

 いや……まだだよ……これぐらいじゃ……

 岩倉次郎は床に蹲った白い固まり目掛け、二回連続で引き金を引いた。着弾と同時にそれは小さく跳ね、振り返った遼は友人の意外な冷静さに驚いていた。
 しかし乱戦は継続中であり、島守遼は壁に反射した影が、いつのまにか自分の懐に飛び込んできた現実に全身の細胞を沸きたてた。

 油断!? んだよ……この力は!?

 ドッジボールで食らった一番の衝撃よりもずっと大きい。衝突したそれを両手でホールドしたものの、遼は踵を浮かせてしまい、廊下の奥、非常階段へと続く扉に背中を叩きつけられた。
 前後に激しい痛みを感じた彼は、手の中から赤い目でこちらを見上げているそれが、五匹目に治療した耳の垂れ下がった灰色の雌であることを確認し、恐怖と悲しさで瞳を濁らせた。

 こいつだけは……おとなしくってさ……俺や……真錠にも甘えてきてたっけ……

 牙を剥き、涎を垂らし、引き出した爪は学生服の上着を既に切り裂いている。両手の力を緩めれば、確実に首筋に食らいついてくることだろう。遼は腰を少しだけ浮かし、その反動で非常階段への扉が開いた。
 冷たい風が、首筋に絡んだ。正面では高川の叫びと、五回目になる銃声と、「遼!!」との呼び声が聞こえてくる。乱戦なのだろう。802号室には合計十六匹の野良猫がいた。その全てがこうなっているのなら、ルーラーという操者を含めて十七対四。中々の集団戦闘であると言える。
 唸り声と殺意はまだ手の中にあった。そろそろ、制御も限界だろう。両肩の軋みを感じながら、非常階段へ下がりながら、遼は自分の落ち着いた心が少々意外でもあった。

 あぁ……そうか……こいつが生きてるのも……俺か……

 そう気付いた彼は、両手の中の元気に対し、意識を集中させた。ここ数週間の修練で、どこをどうすれば生き、死ぬかはよくわかっている。薬によって筋力が増加しているとしても、脳に通じるこの血管を破壊されれば、それは速やかなる絶命以外の結果はもたらさない。
 前足での最後の一撃が、ワイシャツを通過して遼の胸板を軽く撫でると、それは力をなくした。
 非常階段の手すりに背中を付けた彼は、冷たく、だらりとしたそれを、ゆっくりと足元に置いた。
 生かしたり、殺したり。こいつはあまりにもちっぽけである。鼻をぐずっと鳴らし、遼は頭を上げた。

「んだよ……てめぇ……!?」

 屋上へと繋がる踊り場。すっかり夜空になった闇の中に、その毛皮のコートは在った。
 フードを被り、手には銀色の笛を握り締め、年齢は自分より若いぐらいに見える。モンゴロイド系の人種だろうか。人種の近しさを遼は感じた。
 敵なのだろう。これがリューティガーの言っていた“ルーラー”なのであろう。高所が苦手なのだろうか、自分より年少である彼はこちらを見下ろし警戒しながらも、八階である現在の足場に不安があるのか、ちらちらと周囲へ視線を動かしている。
「FOTか……お前は……!?」
 だが下からの問いにマサヨは返事をすることなく、この状況をどう切り抜けるか、それだけで頭がいっぱいだった。

 獣人や殺し屋とは違う。怪しい存在ではあるものの、毛皮のコートを着た少年は、これまでの襲撃者とは少々異なる存在だ。島守遼は判断力を総動員し、冷静になろうと努めた。

 根拠や脈絡はない。だが、もし彼がFOTならば、蜷河理佳などと同じ種類の存在ではないのだろうか。急に遼はそう感じた。こいつを通じれば、彼女へ近づくことができるのではないか。純白公爵や獣人相手ではおよそ想像もつかない、見えることのなかった糸のような光が、彼の意識へ鋭く差し込もうとしていた。

「お、おい……お前……日本人だろ? ち、違うのか……? 言葉……わかるだろ……?」

 問いかけるかのような言葉に、マサヨはようやく落ち着きを取り戻した。この背の高い敵は、そう、おそらくはリューティガーの関係者と思しきこいつは、とてもではないが戦闘者には見えない。だからこの事態でこうも呑気な言葉が出てくるのだろう。こいつは病院の屋上からずっと見ていた奴らと同類である。好きなものを食べ、安全な場所で学び、小競り合いでストレスを発散させる、自分とは違う種類の幸せな奴らである。

 負けられない……アジュアと……暮らすんだ……この世界で……

 あのマンションは、自分たち兄妹が一生を終える世界ではない。眼下に広がる代々木と新宿の夜景を目の端で確認したマサヨは、廊下にいるはずの戦力を呼び戻そうと、笛を唇に当てた。

 真横からの突風は、ビル風などではない。ありえない角度からの、信じられない風圧である。マサヨは堪らず踊り場の手すりを掴み、それと同時に彼の手から銀色の笛が地上へと落ちていった。

「真錠……!!」
 毛皮のコートの隣に出現した栗色の髪に、遼はそう叫んだ。
「お前が……ルーラーか……せっかく……治した子たちなのに……」
 険しい目で、リューティガーは自分よりも背の低いマサヨを見下ろした。しかし負けずに彼も殺意を込めた目で、ターゲットである栗色の髪を見上げ、両者の間で殺意が生成されていた。

 なんという強い目だろう。リューティガーは右手を突き出しつつ、マサヨがひどく気負っている事実に気付いた。

「ごめん……」

 つぶやきと同時に、リューティガーは掌で相対するフードを撫でた。つむじ風と共に毛皮のコートは消失し、その光景を目の当たりにした遼は、泡化をはじめた足元の小さな固まりに視線を落とし、言葉を選んだ。
「た、助かったよルディ……あ、危ないところだった……」
 交渉しようとした現場は、おそらくは見られていなかっただろう。そんな思いを込めての言葉だった。しかし掌を突き出したままの彼は遼へ視線を向けることなく、虚空をじっと見つめ続けていた。
 咄嗟ではなく、跳躍させるのにじゅうぶんなタイミングがあった。あの毛皮の少年は、おそらく同盟本部へ跳ばされたのだろう。似たような人種の、それも年下の男の子である。それを殺さずに済んだのはともかくよかったと言えるだろう。遼は階段を上がり、リューティガーの肩を軽く叩いた。
「ルーラーを跳ばしたんなら……終わりだよな。ルディ」
 その問いに若き指揮官は、「終わったよ」と裏返った声で返した。

 一瞬で死んだほうがマシである。そんな結果がこの世の中にはいくらでもある。FOTのエージェントである以上、本部にとって有益な情報を持っている可能性がある。だから機械的に、訓練でそうしているように彼をあの城へ跳ばした。
 しかし、彼の目は強かった。あの目をした者は、いかなる尋問にも決して屈しない。それに気付いたのは、つむじ風が頬を撫でた直後のことであった。

 一瞬で殺してもらえるなら、苦痛はずっと少ない。あの強い目をした少年は、これから数時間、いかなる地獄を這うのだろう。四課の責めは何度も見学をしたことがある。あらゆる苦痛。肉体にも精神にも及ぶ破壊。
 いや、屈したとしても、知っていることなどない可能性もある。兄ならばそこまでの巧妙さをもった仕掛けをしてくる可能性もある。

 やはり、あの地の底に跳ばすべきだった。一瞬で全てを焼き、溶かしつくすあの地の底に跳ばすべきだった。それが慈悲というものである。リューティガーは肩から力を抜き、ようやく突き出していた掌を下げた。
「ガンちゃんは大したものだよ……初陣で二匹のリバイバーを射殺した」
「そ、そうなのか……?」
「射撃がうまいはずないのにね……非常時の判断力に才能を見たよ……さすがは遼の推薦だ」
 なぜ彼は急に饒舌になったのだろう。遼はそんな疑問を抱きながら、非常階段から廊下へと戻った。
 血と泡と硝煙と。廊下にはそんな新しい要素と、疲れきった男子学生たちの姿があった。
「と、島守くん……!! 無事だったんだね!!」
 拳銃を手にしたまま、803号室の扉に寄りかかっていた岩倉が、青ざめた笑みを向けてきた。
「あ、ああ……ルーラーは倒した……戦いは……勝った……終わった……」
「そ、そうだよね……勝ったんだよね僕たち……!! は、ははは……!!」
 不似合いな、弾の切れたそれを岩倉は手からこぼした。

 801号室の扉の前で、返り血で全身のあちこちを赤黒く染めた高川典之はしゃがみ込んでいた。
「高川……大丈夫か?」
 彼の周囲、壁、床、扉のあちこちには血と泡が付着し、激戦のほどを物語っていた。
「き、貴様……俺にばかり負担をかけおって……」
 目の焦点が定まらないものの、毒づく意識があるということは、狂気の底から現実へ復帰している証拠である。遼は頭を掻き、「マジ……ごめん……助かったよ……」と低い声で返した。

 開かれたままの802号室には、もう一匹もいないのだろう。十六匹の猫は全てが化け物にされ、その狂った獣性を廊下へと放射し、銃弾と武術と、異なる力によって葬り去られたはずである。遼はリューティガーと、なんとなく部屋の中へ入ってみた。
 ドライフードの箱や餌皿、トイレの砂袋を見下ろした二人は、こうなってしまった結果に小さく息を吐いた。
 爪とぎをされた壁や柱の跡が、生前の小さな元気を物語っているようで、妙にそれが懐かしい。
「後で……掃除しておかないと……」
 リューティガーはそう言い残し、先に廊下へと戻っていった。その割り切った態度に遼は寂しさを感じたが、確かに感傷的になったところで結果は同じであると、彼も気持ちを切り替えようと、ふと視線を上げた。

「あ……」

 リューティガーは堪らず声を漏らした。カーテンレールの上で、警戒して見下ろす黄色い目。真っ黒な毛をした小さなそれは、確か初めて治療した、あの寄生虫に苦しんでいた一匹目である。

「な、なんだよお前……無事だったのかよ……!?」
 リバイバーではない。愛想もなく敵意を向けてはいるが、こいつはあの黒猫である。
 十七対四ではなく、十六対四だったのか。少年は人差し指を上げ、ごわごわの顎を軽く撫でてやり、口元に笑みを取り戻した。

10.
 スチール製の扉が開くことはない。もう何日こうしているだろう。兄は、「殺して帰って来る僕を嫌いにならないでおくれ」そう言ってこの扉から外界へと出て行った。

 たぶん、もう戻ってこないだろう。

 暗殺任務は時間がかかる。兄はいつもそう言っていた。しかしターゲットの顔写真と所在地がわかっているのなら、それもないはずである。任務に費やされる時間の大半が、それらの確定であるということぐらい、九歳の自分にもよくわかる。

 兄は死んだ。たぶん、もう戻ってこないだろう。

 小さなアジュアは向き合っていた扉から離れ、食卓においてあった五本のダーツを見つめた。

 継ぐ。任務を。五本しかないけど、やってみる。

 じんわりとした熱さが、両目を揺らしている。ずっと、兄と二人だった。他は知らない。そんな自分が扉を開け、殺す旅になど出られるのか。

 ダーツをコートのポケットにばらばらと入れた彼女は、再び扉へ向かった。
 ドアノブに手を掛けよう。そう思い右手に力を入れてみたが、それはなぜか鉛のように重く、動いてくれはしない。そのかわり、全身に小刻みな震えが走った。

 勇気の出し方は教わっていない。いや、いま必要なのが勇気であることすら、小さなアジュアにはわからない。

 兄の手引きがなく、この扉を挟んだ外側など、出られるはずがないのだ。それをようやく知った彼女は、両膝を土間に着き、「えっえっえっ」と呻き声を上げ、肩を大きく上下させた。

 何十分が経過しただろう。随分長く途方に暮れていたような気がする。
 まずは、兄がいなくなったという事実。存在しないという現実から受け止めてみよう。 少女は台所に向かい、冷蔵庫を開け、兄がいずれ食べるつもりで取っておいた、自分たちの民族名と同じメーカーのアイスキャンディーを取り出した。


 全ての後始末は僕がやる。そのリューティガーの言葉に遼たち三人は納得するしかなかった。
 国道を岩倉と並んでバイクで走る遼は、彼に手で合図をした。

 よく知らない場所であるが、高速道路に近いここなら、適度な騒音があって怖さを紛らわせることができる。バイクを路肩に止めて、それから降りた遼は、ヘルメットを脱ぐ岩倉に、「ラーメンでも食っていこうぜ」と声をかけた。
「う、うん……ね、ねぇ島守くん……」
「戦いは……あんな感じだよ……混乱して、わけわかんないまま始まって……気がついたら終わって……」
「ルーラーって……どんな人だったの?」
「ガキ……俺らより年下の……」
「う、うそ……」
「真錠が跳ばした……殺さずに済んだのがよかったけどな……」
 現実を知らない遼は、吐き捨てるようにそう言い、三軒ほど見える道路沿いの、どのラーメン屋に入ろうか視線を泳がせた。

 生まれて初めて撃った拳銃の感覚は、岩倉の掌にまだ痺れを残していた。

 初弾の命中が全てだった。天井近くまで跳び、自分と友人に襲い掛かろうとした白い影に弾丸を命中させた瞬間、岩倉次郎は自分も戦いに参加してよい存在だと自覚することができた。
 もちろん、あくまでも冷静だったリューティガーや、次々と猫の殺戮を重ねていきながら、最後には笑みを浮かべ出し、肘や膝で小さな悪魔を潰し返り血を浴びてもひるむことなく、心のどこかを壊して戦いに望んでいた高川のようになれるはずもない。
 できれば生き物を殺すことなどやりたくはなかったが、初弾が命中してしまったのが全てである。
 爪で切り裂かれた背中の傷は浅かったが、剃刀に失敗したような、そんなじくじくした痛みを尚も与え続けている。そう、撃たなければ丸々と太った自分などは、まさしく餌と化していたのだろう。「食べないで」などといった交渉の余地がある相手ではなかった。
 これまでで、今夜ほどいろいろと考えることはなかった。岩倉は遼の後ろに続いて歩きながら、その密度が負担なのか、充実なのか、そのどちらなのだろうと考えてみた。

「実はさ……ガンちゃん……」
 とあるラーメン店の前で足を止めた遼は、同じように立ち止まった岩倉に背中を向けたまま声をかけた。
「う、うん……」
「俺……あーゆーのと戦うのってさ……別にこの国の平和を守るとか……二の次なんだよね」
 これ以上、今夜の考え事を増やすつもりなのだろうか。しかし既にキャパシティは超えているので、いっそかまわないかと岩倉は無言のまま、友人の言葉を待つことにした。
「蜷河理佳ちゃんって……いたよな」
「う、うん……演劇部の……あの可愛い子だよね……転校しちゃった」
「俺と彼女は付き合ってた……でさ……彼女は……俺がFOTの化け物に襲われたところを……助けてくれた……」
「え……?」
「理佳ちゃんはFOTのエージェントだったんだよ……何の目的で仁愛にいたのかはわからないけど……その彼女が、俺を助けるために組織を裏切って……姿を消した……転校とかじゃないんだ」
「ど、どういうことだい……蜷河さんが……? な、なら……助けないと……」
 “助けないと”その一言を耳にした遼は、やはり岩倉次郎という人間を仲間にしてよかったと心底感じた。この何もかも受け入れてくれる彼は貴重である。遼は振り返り、右手を差し出した。
「そうなんだよガンちゃん。そうなんだ。嬉しい」
「と、島守くん……」
 差し出された手を握り返した岩倉は、友人の目が潤んでいるのに気付いた。彼はこれまで、余程寂しかったのだろう。理解することは容易ではないが、そう素直に感じることに抵抗はない。岩倉は遼の気持ちを受け入れ、小さく頷いた。
「内緒……なんだね……僕以外には」
「そうだ……特に……」
「ルディ……彼には……言えないね……」
「わかるかガンちゃん?」
「うん……たぶん……彼は……僕たちとは違う……」
 いつになくはっきりした口調の岩倉であり、その感じ方はごく当たり前で平凡ではあったが、それだけに遼にとっては心地よく共感できた。


「俺のバイク。ちゃんと送っといてくださいよねっ!!」
 涼しい眼を向けた仙波春樹(せんば はるき)は、見送りに来ていた藍田長助(あいだ ちょうすけ)にそう言い、被っていたハンチング帽のつばを直した。
「わかってる……手配は済ませてるから何度も言うな」
 天然パーマのもじゃもじゃ頭を撫でた長助は、対する青年の横に佇み、背後の新幹線の車体へ顎を向ける、チェック柄のコートを着た長い黒髪の美少女をぼんやりと見た。
「理佳……くれぐれも頼んだぞ……お前にとっては久しぶりの活動だ……」
「ええ……任せて……」
「安心して下さいよ藍田さん!! 今回は、俺がコンビ組むんですからっ!!」
 頼もしく胸を叩く長身の青年に、だが長助は返事をすることなく鼻を鳴らせた。
「あの人は……どこかしら……?」
 少女の問いは発車合図のベルにかき消され、ため息をついた彼女は長助に視線を合わせないまま、仙波春樹と共に新幹線に乗り込もうとした。
「春坊!! 外せねぇ作戦だ……夏までのロング任務だが、理佳を頼んだぞ!!」
 もう何度目だろう。このシフトが決まってから何度も言われた言葉である。しかし春坊こと仙波春樹は嫌な顔一つせず、「うーすっ!!」と背中から気合いを発し、車内へと乗り込んで行った。

 理佳……お前の銃弾で……この国は確実に動く……外すなよ……

 窓際の席に少女の横顔を見つけた長助は、小さな幸せを感じつつ、その向こうに座る青年に険しい目を向けた。

 何度でも頼む……春坊……理佳を助けてやってくれ……兄貴分のお前にしか……ハウス出身のお前じゃなきゃできねぇ仕事だ……

 その強い意をじゅうぶん過ぎるほど理解していた仙波春樹は、隣の理佳に、ホームで見送る長助に注意を向けるよう、「おい、蜷河」と促した。

 見慣れた天然パーマである。もじゃもじゃの、でたらめなボリュームの、揺れるちぢれた頭髪。少女は柔和な笑みを浮かべ、彼の背後にある「東京」と書かれた駅のプレートに視線を移した。
 次にこの表示を見るのはいつのことになるのだろう。任務が終わって、生き延びることができたらだろうか。そのとき、ここで迎えてくれるのがあの人や彼であれば、どれほど幸せだろうか。
 だけど、考えるのは疲れる。いまは列車に揺られていればいい。少女は椅子に後頭部をつけ、両目を閉ざし、意識を闇の底に沈めた。


 小競り合いだ。猫を十五匹倒し、何の情報も得られないであろう少年を跳ばしただけの、なんというスケールの小さな戦いだろう。廊下をモップで拭きながら、リューティガー真錠は情けなくなり、壁に肩を付けた。

 こうしている間にも、奴は計画を進めている。動いている。笑っている。

 僕がモップがけをしているのを……奴は笑っているんだ……あいつは……!!

 リューティガーは壁を蹴飛ばし、反対側のそれを拳で殴りつけた。
 あんな年端のいかぬ上に自分では戦えぬ者まで襲撃者として差し向ける兄は、やはり度し難い存在である。毛皮のコートを着ていた彼は、もう泡化してしまったのか。それとも、四課の巧みな尋問は、より深く鋭い苦痛を中枢へと与えているのだろうか。

 口の中に、べとっとした気持ちの悪さをリューティガーは感じた。

 もう嫌だ。こんな思いをするのはこりごりだ。いっそ殺してしまえばよかったのだ。どこに跳ばしてしまうか悩むぐらいだったら、目の前で、遼が見上げる前でも構わず殺してしまえば、こうも口の中に生暖かい辛さを感じずに済んだはずなのに。

 気がつけば額から汗が滴り落ちていた。幼い頃から苛酷さには慣れていたはずなのに、まだまだ自分の心は弱い。
 この弱さを理解してくれるのは、奴ぐらいだろう。奴はこの情けなさをよく知っているただ一人の兄である。

 非常階段の扉を開けた彼は、寒気を頬で感じながら夜の都会を見下ろし、カタカナと漢字の、下品に輝くネオンを遠視した。

 ずいぶん遠くに、長い滞在になっている。僕は、帰れるのだろうか。

 明日からは三月である。四季は無情に訪れ、この詰襟も暑く感じる春がやってくる。リューティガーは非常階段の手すりに背中をつけ、両肘をそれに引っ掛けると、開いたままの扉から綺麗になった薄暗い廊下をじっと見つめ、小さく吐いた息がまだ白いという事実を嬉しく感じた。

第十七話「十六対四」おわり

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