真実の世界2d 遼とルディ
第七話「祭り、前夜」
1.
 黒いワイシャツに革のパンツ、最近では黒の革靴も購入し、全身黒尽くめの島守遼(とうもり りょう)は、鋭く細い目つきも影響してか、一見すると十八歳未満とは思えないほど大人びた印象をホールの人々に与えていた。
 ホールに入ってからの彼は、目当てである希少機種の一発台に父、島守貢(とうもり みつぐ)の姿がないかを確認するのが習慣になっていて、クルーンを乱舞する銀玉に注意しつつも、台に近づく人影に対して警戒を怠ることは無かった。

 タイミングよく意識を集中して銀玉の重心をずらし、大当たりのクルーン穴への侵入が成立すれば、後は右方向へ流し打ちするだけで、瞬く間に一万円ほどの稼ぎになる。
 念じて物体を動かす“異なる力”は彼の父も持っている超常的な能力であり、一発台という非デジタル式のパチンコ台においては、一攫千金を成立させる必殺の手段であった。
 こうした古風な台は全国でも減少の一途を辿っているが、都内の大規模店に行けば数台ぐらいは風物として設置されていることがある。メーカーも新製品に着手しない以上、台の入れ替えは皆無であり、もちろん店側が釘の調整を怠ることは無いため、まったくのルーティーンワークとはいかなかったが、自分の能力が店側に気づかれることなく、台や玉に対してなんの「対策」を練られていない事実に安堵していた。
 夏休みの最中ということもあり、一日の大半をこうした違法イカサマギャンブルに費やすことができる彼は、調子のいい日だと五万円以上を稼ぐこともある。
 同じ日に同じ店で勝ち続けることは店側の嫌疑を生み、疑惑の目を向けられることになることぐらいは予想できる事態であり、だからこそ父はあちこちのホールを転々と回っていたのだと彼は今更ながら認識していた。多分、もっと注意して観察すれば、それなりに巧妙な周回ルートというものも存在するのだろう。
 もっとも、このイカサマを科学的に立証する方法などあるはずもないが、面倒を避けるため、一度でも大当たりを出した後はしばらく店を変えるしかなく、それはそれで非効率的ではあったが、山手線沿線を乗っては降り、目をつけた店に入って数十分後には一万円を稼ぐ遼は満面の笑みに溢れていて、このときばかりは年齢相応のあどけなさが浮かんでいた。
 しかし、現金の獲得と共に頭痛も訪れていた。異常なまでの銀玉に対する集中は、念動という結果と引き換えに脳血管の激しい伸縮を発生させ、不安定な血流が遼の意識をぼんやりとさせることもしばしばであった。慣れてきた最近ではずいぶん回数は減ったものの、勝利の直後に気を失いかけることすらあり、ついこのあいだ人間ドックから出てきた父のことも考えると、ほどほどにしておかなければ寿命を縮めてしまうのではないかと、そんな不安が脳裏をよぎることもあった。

 だが、稼ぎは当人の不安を最小限にさせてしまうほど、これまでにない豊かな自由を獲得させていた。

 東京都大田区大森。遼の自宅からはバスで数十分ほど都心へ進んだこの街に、池上ドライビングスクールという、自動車と自動二輪車の教習所が存在する。夏休みも後半、その教習施設内にジェットタイプのヘルメットを手にした彼の姿があった。
 自動二輪コース、全教科税込み価格177,100円を全て前払いの現金で支払うのは清々しく、これから待ち受ける未体験の教習を考えると彼は胸が弾む思いだった。
 ここに通うのは今日で四日目である。もう夏休みは残り数日しかなく、義理で行っているスポーツジムのアルバイトや、蜷川理佳(になかわ りか)と会える数少ない機会である演劇部の練習と、五月の段階ではまったく予想していなかったほど、彼の夏休み後半のスケジュールはぎっしりと埋め尽くされていた。
 教習車であるVT250に跨りながら、遼は免許を取得した後、購入するバイクはどれにしようかと悩んでみたり、後部シートには蜷川理佳を乗せて、夜の湾岸地帯を思い切り飛ばそうかと想像してみたりと、顔と気持ちをしきりに緩ませていた。
 彼の身体能力・運動神経はこの年頃の人並みであり、しかも長身ということもあって、単車の運転という初めての経験に、難しさが伴うことはあまり無かった。
 あの“異なる力”を使って教習を有利にすることはできなかったが、これならば規定の二十九時間で卒業は間違いないだろうと、遼はクラッチを切りながら再び想像の世界へと思考の羽を伸ばしていた。

 合宿帰りのバスで、蜷河理佳は自分の手を握り、腰を下ろしてすがるように悲しげな瞳を揺らしていた。
 彼女に何があったのか、それを聞くことも知ることもできなかった。合宿以来、演劇部の練習で会うこともあったが、ごくあふれた日常的な会話をするだけで、あの行動について蜷河理佳からの言葉は無く、なんとなくだが遼も話題にするのを避けていた。
 あれは「感極まった行動」なのだろうと思える。だが、何に、どうして、となると見当もつかない。何か悩み事でもあるのなら相談して欲しいところだが、それを自分から要求するのも気が引けるし、彼女にしても触れられたくない事なのかも知れない。結局、手を握り返して自分の受け入れを示すしかなく、その程度の器量しかない経験不足に対し、遼は少しだけ歯がゆくもあった。

 それにしても、あんなに触れ合っていたのに、どうして蜷河理佳の心は見えないのだろう。それがうまくできたのなら、より自然に相談のきっかけが得られたのに。

 島守遼のもう一つの“異なる力”、触れた相手の心理や思考をイメージや言語として察知することができる“接触式読心“、これは念動よりずっと不安定で、成功不成功の基準がいまひとつ判明せず、コツや見当もつかない能力なのだが、蜷河理佳の心を感じたことは、接触する機会の多さに反比例して極めて少なく、たぶんその原因は自分が彼女と触れ合う度に、著しく興奮して精神が不安定になることが多いせいだろうと理解していた。事実、比較的冷静だった芝居の練習では、彼女の心の奥底にある、男とも女ともつかない妖艶な人物の姿を知覚したこともある。
 合宿帰りのバスでは、理佳の行為に戸惑いつつもそれだけにかえって自分がしっかりしなければと冷静だったし、手を握り合った時間は数分に亘っていたため、心を覗くことだって試みた。
 しかし、接触式読心は薄く白いモヤのようなイメージに阻まれ、結局、蜷河理佳の心は覗けずじまいであった。
 藍田という偽刑事を相手に、神崎はるみの身体を通じてその心からいくつかのキーワードを引き出した遼は、この接触式読心に対してより自信を深めていたはずである。しかしこんな出来事から、やはりこれは不安定でよくわからない条件が左右する「使いづらい能力」なのだろうと思っていた。
 もちろん、異なる力に精通しているリューティガー真錠(しんじょう)にアドバイスを乞えば、栗色の髪をした彼は無邪気な笑顔で色々と教えてくれるかもしれない。しかしそれが、ガールフレンドの本音を知りたいなどという極めて個人的な動機であることがばれれば、彼は肩を震わせこう説教することだろう。「君はそんなことにこの力を使うつもりなんですか!?」と。
 それに、リューティガーに何かを頼むということは、彼の目的である「ある組織に対抗する」という行動を手伝うという対価を支払う必要もある。藍田という男は、おそらくリューティガーが対抗している組織「FOT」の一員なのだろうが、あんな胡散臭い奴や本物の獣人と戦う度胸も触れた相手をはるかパキスタンはバルチまで飛ばすような大技は持ち合わせておらず、自分が力になれることなどない。
 だからこそ、あのハーフの同級生とは、できるだけ関わり合いなど持ちたくない島守遼であった。
「あっれー……島守君……だよねぇ……」
 教則本を抱え、学科教室から廊下へ出た遼は、背後からの声に振り返った。
「あ……えっと……」
 呼び止めたのは、自分とそれほど年齢も違わない男子生徒であった。
 坊主頭にとろんとした半開きの眼、太い眉毛は温厚そうな印象を与え、声も低く篭もり、口調は穏やかなリズムである。背は遼より若干低いが、丸々と肥えた体躯は計量をすればおそらく三桁近い数字を叩き出すであろう。突き出た腹は不恰好に弛み、白いワイシャツのボタンはいつ空中へ射出されてもおかしくないほどで、しかしそれでいて不思議と威圧感は無かった。
 どこかで見たような、そんなあいまいな記憶を辿った遼は、「あ。岩倉くん……だっけ……C組の……」と自信無さそうにつぶやいた。
「そうそう。岩倉だよ。君はB組の島守君だよね」
 にこにこと笑みを浮かべながら、大きく低い鼻の頭を一掻きし、岩倉少年はそう返した。
「ああ……」
 頷きながら、意外なる人物の登場に遼は記憶層を整理し、関連する情報を次々と思い出した。
 岩倉次郎。仁愛高校1年C組の生徒である。隣のクラスの生徒など、まだ一学期しか経過していない遼にとっては演劇部の部員ぐらいしか認識していなかったが、この岩倉については友人の沢田からある日のこと、下駄箱で話を聞いた覚えがある。
「なぁ島守、あそこで靴履き替えてるデブ、知ってるか?」
「いいや、誰?」
「岩倉ってさ。C組なんだけど、昔テレビに出たことがあるってさ」
「テレビ? 子役?」
「演劇部らしい回答だなぁ……けどハズレ。びっくりちびっ子大集合って感じの番組あるじゃん」
「あぁ……暗算少年とか、ガマの油売りの口上とか、一輪車の名人とか出てくるようなやつ?」
「そうそうそう。岩倉ってさ、小学三年のころ、一度出たんだぜ」
「大食い少年で?」
「お前も見たまんまの発言だね。違うよ。駅名の暗記少年で出たんだよ。すげかったんだってさ。二百ぐらいの駅名を、間違えずに順番通り言ってさ、それでもまだまだ覚えてたのに、放送でカットされちゃったんだって」
「へぇ……記憶力、いいんだ」
「ああ。今もすごいってさ。漢字とか英単語とか数式とか年号とか、とにかく覚え系の問題は外したことがないんだって」
「ふーん」
「けどさ、応用問題や運動は苦手みたいだぜ」
「それじゃ記憶バカってことか?」
「じゃないの?」
 歯を見せて頷く沢田が妙に嬉しそうだったことを思い出しつつ、遼はこの鈍重そうな岩倉が、自分と同じ目的で教習所に来ている事実に意外さを感じていた。
「岩倉君も……バイク、乗るの?」
「うん。もうどれにするかも決めてるんだ」
「なに?」
「Shadow400。すごく欲しくってさ」
「うわ。バリバリ新しいじゃん。バイトとかすんの?」
 遼の問いに、岩倉は坊主頭をゆっくりと左右に振った。
「ううん。買ってもらうんだ。免許取ったら、買ってもいいって」
 その返事を聞きながら、遼は同じ高校に通う同い年の人間でも境遇は平等ではないと思い、苛つき混じりに親指を人差し指でこすった。
「ねぇねぇ。僕のことは“ガンちゃん”でいいよ。友達みんな、そう呼んでるし」

 そのあだ名は遼も学食で耳にしたことがある。

 おそらくC組のクラスメイトであろう生徒が、もりもりと三皿目のカレーを食べる岩倉に「ガーンちゃん。そんなに食べると心臓病になるぞ」とからかい半分で声をかけていた。声色と表情から、遼にはそれが侮蔑の言葉にしか聞き取ることができなかったが、当の岩倉は笑顔で「うん。もう一皿でやめとこーっと」と無邪気に返事をしていたのが意外であり、うまく言葉にはできないがその光景を目にして以来、できればこの巨漢とは関わりたくないと、なんとなく、そう思っていた。
「じゃあな岩倉。俺、バイトあるから」
 素っ気無く、決して自称するあだ名を呼ぶことなく、遼は岩倉から背を向けて廊下を歩き出した。
 さすがに愛想が無さ過ぎたと思い、一瞬、ちらりと取り残した岩倉に視線を向けた彼の目に飛び込んできたのは、それでも笑顔を絶やすことなく、手を振り続ける雪だるまのようなシルエットをした男子生徒の姿であった。
 少しだけ、ほんの少しだけ唇の端を吊り上げ、遼は形容しがたい感情に戸惑っていた。

2.
 港区六本木交差点のホテル「アービース」で発生した銃撃事件は死者一名、軽傷者三名という被害を出し、発生直後から緊急ニュースでマスコミを賑わせた。
 警察は直ちに非常線を張り、犯人の確保と負傷者の救出を試みたが、救助はともかく、一階ロビーで銃撃と戦闘を繰り広げた当事者たちは忽然と姿を消し、目撃証言と現場証拠を総合的に判断した結果、この事件は発生二時間後には内閣特務調査室「F資本対策班」の担当となった。
 F資本対策班とは、七年前この首都を席巻した武装テロ事件、いわゆる「ファクト騒乱」対策のため設立された組織であり、創設時の班長は特務室次長代行である蕪木という人物が兼任をしていた。しかしその蕪木がファクト騒乱の最中殺害されるという非常事態が発生した後、責任者は竹原という捜査官が引き継ぎ、現在に至る。
 アジトである鹿妻新島における爆発事件により、半ば自滅という形で壊滅したファクトであったが、その後の残党捜査と殲滅にはおよそ一年を要し、現在でも事後処理のため対策班自体は特務室内に存在する。兼任者が大半であり、普段はパーティションで仕切られた人気の無い職務室は、久しぶりに発生したテロ事件にあってはならない活気と賑わいを取り戻していた。
 この四日間の捜査で、犯行がファクトの母体組織である「賢人同盟」と関わりがあることは関係省庁からの情報で明らかになり、外務省に属する担当部署は同盟との交渉を進めているとの情報も非公式ながら班員たちの耳に入っている。銃撃事件の目的や犯人の正体は役人たちの手腕により判明する可能性も高いが、捜査実務を担当する者たちとしてはそれにばかり頼れるはずもなく、足を使った聞き込みやコネクションを駆使した情報収集に日々を費やしていた。
 森村 肇(もりむら はじめ)、今年三十八歳になる中堅捜査官であるこの男もまた、本日の聞き込みを終え、霞ヶ関の対策班本部食堂でそれほど美味しくないカツカレーを胃袋へ放り込んでいた。
「森村。そのカレーって、ボンっぽくない?」
 同僚である柴田捜査官にそう冷やかされた森村は、彼を一瞥すると空腹を満たす作業を止めることは無かった。返事など期待していなかった柴田は目を伏せると、天ぷら蕎麦を載せたトレーを森村の対面に置き、席に着いた。
「中国人の身元はわかったのか?」
 カレーを全て胃袋に収めた森村は水を一気に飲み干すと、蕎麦をすする柴田にそう尋ねた。
「いいや……見た目が特徴的なわりにゃさっぱりだ……」
「唯一の死者は、その中国人の持っていた凶器が突き刺さり死亡した……外務のムジナたちに先を越されたら、それこそウチの面子が丸つぶれだぞ」
 言われなくとも、柴田とて森村の言葉は肝に銘じている。しかし同僚ほど実直でもなく律儀さに欠ける柴田は、うんざりとした目を森村に向け、言葉なく天ぷらの衣をもぐもぐと舌で砕いた。
「そっちはどうなんだよ。弾は9パラだったんだろ?」
「ああ。科捜研の調べで、銃撃に使われたサブマシンガンはMP5Kだったことが判明した……」
 森村の言葉に、柴田の箸は止まり、その口元が歪んだ。
「そうだ。ファクトが七年前、三ノ輪、渋谷、味方村などで使った物と一致する。もっともMP5Kの流通量を考えれば、断定などはできないがな」
「カオスっだったっけ……その時のファクトの実行部隊は……」
「ああ……銃撃班は白人男性……証言から総合するとおそらくプロだな。現在米軍にも問い合わせをしているが……ますます我々の領域ということだ」
 低く、堅い森村の言葉に柴田は頷き、蕎麦をすする作業を再開した。
「竹原班長がな……この事件がファクト残党だと断定された場合、我々は非常事態シフトになると言ってたぞ」
「そりゃそうだろうな……ってことは……」
「ああ……神崎嬢の出番ということだ。内示は出された」
「彼女……普段は……?」
 柴田の問いに、森村はテーブルの上で指を組んで初めて笑みを浮かべた。
「会計室でエクセルを仕事相手にしている。それは手堅い仕事ぶりらしい」
「はは……彼女にそんな地味な特技があったとは……しかしそうなると、一年ぶりの出動ってことになるのか?」
 蕎麦を食べ終えた柴田は、水を飲むと同僚の仏頂面をちらりと見た。
「ああ。運がよければ、あの力をまた拝見できるというわけだ」
 嬉しそうに、どこか満足げにそうつぶやく森村とは対照的に、柴田は軽口もすっかり止み、頬を引きつらせていた。

 居間に置かれたパソコンに英語の報告文を打ち込みつつ、リューティガー真錠は顔を顰め、ひっきりなしに眼鏡を直していた。
 最後のピリオドを打ち込んだ彼は、文章を保存すると大きく背筋を伸ばしながら
あくびをし、椅子から立ち上がった。
「始末書、書き終わったのかネ?」
 ジャスミンティーをテーブルに置いた陳 師培(チェン・シーペイ)が、ソファへ腰掛ける主にそう尋ねた。ティーカップを手にしながらリューティガーは「はい」と少々困ったような表情で答えると、熱いお茶に口をつけた。
「まぁ、しかし始末書で済んで、もうそれだけが唯一良かった点ネ」
「一人死んでますからね……場合によっては本部送還……厳罰だってあり得る話ですし……」
 部屋の隅で体育座りをしたまま、静かに佇む青黒い肌をした巨人をちらりと見たリューティガーは、彼が頷くのを確認すると再び喉に熱い液体を注いだ。
「中佐もこの任務に人を割けないから……僕たちを更迭することができないんでしょうね」
「適役という事実もあるネ。あまり卑下するのはよくないヨ」
 自分の茶を注ぎながら陳は主をそう諌め、言われた少年は苦い笑いを浮かべた。
「坊ちゃん、失礼してテレビ見させてもらうネ」
 テーブルの上のリモコンを手にした陳は、薄型のプラズマディスプレイの電源を入れた。
「テレビ……か……」
 健太郎は低く掠れた声でつぶやくと、テレビに向かって座り直した。
「何か見たい番組でもあるんですか?」
「私この国のこと、もうよく知らないからワイドショーで勉強中ネ」
 画面に映し出された芸能人の離婚会見を見ながら、陳は笑顔で茶をすすった。
「伊藤賢治……離婚したのか……」
 ぼそりとつぶやく健太郎の言葉に、リューティガーはぎょっとして振り返った。
「少し前……人気のあったタレントだ……」
「そ、そうなんですか……」
「芸能人がくっついたり離れたりするのに注目するのは、どこの国でも一緒ネ。日本も変わらないということが学べるヨ」
 妙なイントネーションの日本語で、そう満足げにつぶやいた陳はテレビから視線を外すことがなかった。
「始末書を受けて……中佐から指示がくるかも知れませんね……まいったなぁ……二学期になったら学園祭の準備やら始まるのに……」
「学園祭? 坊ちゃんは何ヤルのかネ?」
 テレビを見たまま、陳の背中がそう尋ねた。
「僕のクラスはお店を出します。ラーメンだったかな?」
「は!?」
 肩を躍らせた陳は、勢いよく振り返ると鯰髭を撫でた。
「ど、どうしたんです……陳さん?」
「誰が作るのかネ? その麺料理は!?」
 丸々とした従者がなぜこうも強い意を向けるのか、“麺料理”というキーワードで若い主はようやく理解することができた。
「み、みんなで作ります……けど……調理の方法とかは関根って男子がプランを立てて……なんだったかなぁ……博多ラーメンってやつ……?」
「はん!! 博多ラーメンネ」
 妙に興奮した陳の口調に、リューティガーは疑問の色を浮かべた。
「知ってるんですか? 僕、ラーメンって食べたことがなくって……あれ……ラーメンって中国の料理でしたっけ?」
 主の問いに、陳は激しく首を左右に振った。
「ラーメンは日本料理ネ。もちろんこっちの麺料理が基礎にはなってるけど、もうまったく別物ネ。四川ラーメンなんてのもあるらしいけど、まるでマカロニウエスタンネ!!」
 強い口調に押され、リューティガーはティーカップを手にしたままふかふかのソファへいっそう体重を預けた。
「あ、けど勘違いはもうナシね。私この国のラーメンもう結構好きヨ。けど博多ラーメンとは、クセがあるもの作ることになったネ。多分坊ちゃんたち苦労することになるネ」
「く、苦労って?」
「それは、今言ったらつまらないネ」
「まぁ……ですけど関根って子、すごくしっかりした計画、立ててきてますから……僕たち実行委員がちゃんとしてれば、そんなに大変なことにはならないと思いますとけど……」
「ふふふ……しっかりした計画ネ……私学園祭楽しみになってきたヨ。絶対遊びに行くからネ!!」
 怒っているかと思えば、一転して喜び出す。この従者の感情は起伏に富み、激しい波を打っているようでもある。出会ってから数ヵ月の最近にしてようやく、若き主はその性格を少しずつ理解し、対応にも慣れようとしていた。しかしここまで嬉しそうに、わくわくと期待する陳は初めてであり、学園祭に対する漠然とした不安がリューティガーの中で次第に強くなろうとしていた。

3.
 父の入退院に初めてのアルバイト、教習所通いに合宿での蜷河理佳との淡い交流。十六年間の人生で最も充実した夏休みだったと、八月三十一日の夜、島守遼は部屋でぼんやりと人体解剖図鑑を眺めながらそう実感していた。
 開けて九月一日。白いワイシャツを着て黒いスラックスを穿いた彼は、学生鞄を小脇に、抱え蒸し返るアスファルトを駈けていた。演劇部の練習は合宿後も続き、登校自体は四日ぶりでしかない。それでも学校へと続く坂道を登りながら、自分と同じ格好をした同学年や上級生たちの姿が目立つようになってくると、学校での生活が再開するのだろうと興奮もしたし、ついつい同級生の姿を探したりもした。
「よう島守!」
 やや甲高い声で背後から声をかけてきたのは、友人の沢田である。
「沢田、おはよう」
 夏休みの間、八月も後半にこの坊主頭のクラスメイトとは新宿まで買い物にいった遼であり、あまり久しぶりに会ったという印象はない。だから互いの夏休みの経験を語り合うことはなく、校門までの会話はもっぱら他の生徒たちが夏休みどうして過ごしたかの噂話に終始していた。
 特に、同級生たちの動向に沢田は通じているフシがあり、「鈴木歩と杉本香奈が同じ予備校に通っていて、二人ともナンパされてやることをやったらしい」だの「関根が何度も学校に来てラーメン店の図面を完成させた」だのと言った遼にとっても少しは裏づけがとれそうな情報から、「真錠が椿梢とデートをした」だの「戸田が漫画喫茶に連続四十時間ねばっていた」だの「浜口と寺西と木村の三人がビッグサイトで行われた同人誌即売会の帰り、中坊にカツアゲされた」だのといった眉唾もののネタまであり、教室までの道のりは退屈とは無縁だった。
 ちなみに、遼の側から出した情報は「麻生は酒呑みである」のたった一つであり、沢田の反応は「ふーん」とまるで当然だと言わんばかりの素っ気なさだった。
「皆さん……けがや病気もなく、こうして向き合えたことが一番の喜びです」
 教壇に立つ担任の近持弘治(ちかもち ひろはる)が、度の強い眼鏡の奥から柔和で穏やかな目つきで生徒たちを見渡しても、それに反応するのは僅かであり、四十日ぶりになる日常の再会に興奮した大半の者たちは、初老の担任教師を無視して携帯電話を操作したり、周囲と言葉を交わし合ったりと勝手なものだった。
 少数派に属するリューティガーは、携帯を操作する女生徒を見つけた後、高川という偉丈夫に視線を移したが、怒りの矛先があまりにも多人数だったためか、この正義感の塊のような男子生徒は両の拳を握り締めたまま辺りを見渡すばかりだった。
 近持は温厚かつ紳士的で、数学教師としても高い能力を持っている。リューティガーは自分の担任を客観的に分析していたが、その物静かすぎる佇まいは結果として生徒たちの身勝手さを増長もしている。学園祭の出し物にしても、この1年B組の生徒たちでアイデアを出したのは関根一人だったし、一見前向きな優等生に見える生徒にしても、能動的に参加しているわけではなく、単におとなしいだけのことである。隣のクラスや他の学校でもこれと似たような状況なのだろうか。彼は異国の学生事情に対して、他人事のように興味を向けていた。
「あれはファクトだよ。ああ間違いないね」
 “ファクト”という固有名詞にリューティガーの知覚が刺激され、彼の注意が教室の右前方に流れた。
 それはラーメン企画の提案者、関根茂のすぐ後ろに座る横田という生徒の言葉だった。
「そうなのかなぁ……だけど犯行声明は出てないんだろ?」
 横田に話しかけられた、そのすぐ後ろに座る内藤という男子生徒が小さな声で答えた。横田は背が低く、太い眉毛にぎょろりとした目が特徴的な男子生徒だが、転入して以来、リューティガーが彼の声を聞いたのはこれが初めてである。
 島守遼も、意外そうな目を横田へ向けていた。彼と横田の間にはちょうど蜷河理佳の後ろ姿が位置し、真面目に近持先生へ視線を向ける彼女についつい注意が流れがちではあったが、今の遼にとって“ファクト”とは少々気になるキーワードでもあった。
「俺が調べた情報じゃ、銃撃犯はカオスって叫んでたってよ。カオスと言えば、三ノ輪銃撃事件の犯行グループ。まぁ、間違いないって」
「な、なんか横田……嬉しそうだな……」
 蜷河理佳のちょうど右横に座る内藤 弘(ないとう ひろむ)は比較的優等生の部類に属する穏やかな性格の男子生徒であり、物騒な話題を大声で嬉々として語る横田に対して、明らかに“引いた”態度を見せていた。
「だってさ、ファクトが復活なんて嬉しいじゃん。前のテロは俺たち小学生だったし、なんかこう実感が湧かなかったけど、リアルタイムじゃん」
「ぼ、僕はそんなに興味ないけど……」
「もしファクトが前みたいに活動再開したら、ネットで盛り上がるぞ。なんせ今回の事件だってスレが大増殖したし、ファクト本スレなんて祭りだったんだぜ」
 横田の声量は次第にボリュームを増し、周囲の生徒たちの注目を浴びつつあった。巻き添えは御免だと内藤は身を低くし、「ネットの話かよ」とうんざりとつぶやき、隣に座る美少女へ視線を反らした。
 心なしか、頬が引きつっている。そんな違和感を内藤は蜷河理佳の横顔から受けた。
「無視すんなよ、内藤。俺だってファクトスレ、立てたんだぜ。もちろん擁護で」
 内藤の肩を掴もうとした横田だったが、まったく同じ挙動を自分がされたため、誰だよ、と振り返った。
 眼鏡の奥の目は潤み、いつもは垂れ下がった眉がこの日に限り吊り上がり、紅潮した顔からは今にも湯気が立ちそうな勢いである。そんな近持先生を、横田たち1年B組の生徒はこれまで見た事がなかった。
 横田の肩を掴んでいた近持は、右手を大きく振り上げると彼の頬を力強く張った。
 乾いた衝撃音が教室に響き渡り、それを誰もが認識できるほど生徒たちは大人しく静かになっていた。
 頬を押さえた横田は椅子から転げ落ち、がたがたと震えた。掌から殺意すら感じた彼の心根には恐怖が植えつけられ、今はただ怒りが通り過ぎるのを待つしかないと、乏しい人生経験の中からそう判断するしかなかった。
「じょ、冗談でも……君は……そういう……それは……いかん……!!」
 普段は理路整然とした口ぶりであり、こうした支離滅裂な素の心情など言葉にしない近持である。暴力は彼自身を混乱させていたようであり、そのか弱さを間近で見た関根は顎を引き、机の両端を握り締めた。
「す、すみません……本当に……」
 張った右手首を左手で押さえ、肩を震わせながら初老の教師はか細い声でそうつぶやくと、頼りない足取りで廊下へ出て行った。
 島守遼は近持の後ろ姿を見つめながら、なぜ先生は急に暴力を振るったのだろう、なぜああまでも哀しげな様子なのだろうと、一連の行動に奇妙な違和感を覚えていた。しかし、すぐにある結論が訪れた。

 わかる。先生のあれは……俺にも……

 訪れたそれは、直感的で論理性に乏しい情念の様な感覚である。だがそれを自覚した途端、遼は全身に熱を感じ、気がつけばその両膝はがたがたと震えていた。

 誰も尻餅をついたまま震える横田に手を差し伸べる生徒はいなかった。ばかな不始末は自分で清算しろ。そう言わんばかりの冷淡な視線を内藤から感じた彼は、「へ、へ、へ」とごまかし笑いを浮かべながら席に戻った。

「体罰とか言い出したらそれこそ最低よ。わかってるんでしょうね?」
 休み時間、横田にそう忠告した神崎はるみの瞳には軽蔑の色が滲み、それに気づかないほど横田は鈍感ではなかった。
「わ、わかったよ……」
「それにファクトスレとかって、ばかみたい。横田ってそういう趣味あったの?」
「い、いいだろ別に……神崎には関係ないだろ」
「関係って……あんたねぇ……!」
 間抜けなクラスメイトに忠告する少女の姿をちらちらと見ながら、クラス委員である音原太一(おとはら たいち)は彼女の行為が嬉しく、体調さえよければ最も頼りになる存在であるとあらためて実感していた。

 音原がはるみに対してささやかな敬愛を抱いていた頃、島守遼はトイレの手洗いで両手をさっさと振っていた。
 次の授業まではまだ間がある。トイレに掛けられたアナログ時計を見てそう判断した彼は、教室へ戻ることなく中央校舎へ向かい、階段を一階へと駆け下りて行った。
 遼が降りた先は職員室だった。入学してから一度も足を踏み入れたことが無く、校舎の中でも自分とは無関係に属する部屋である。できればこのままずっと縁遠くあって欲しいとすら思っている。
 彼の脳裏に、右手首を押さえて肩を震わせた初老の担任教師の姿が思い浮かんだ。
 先生の怒りと、悲しみともとれる悔しさの発露がなんであったのか、できれば確認しておきたい。遼は自分がそんな理由でここまで来てしまったことに戸惑いを覚え、「なにをしているのだろう」と口に出して軽く混乱していた。
「なんだぁ? 島守?」
 職員室から出てきたのは、緑色のジャージを着た、スポーツ刈りの小柄でがっしりとした体格の体育教師、新島 貴(にいじま たかし)だった。
 彼は職員室の扉の前で佇む、自分より長身で干支が一回りほど違う生徒を見上げ、首をしきりに傾げた。
「あ、えっと……新島先生……あのですね……」
「お前のクラス、ラーメン作るんだってな? 今度俺に試食させてくれよ。俺、ラーメン党なんだよ」
 予想していなかった提案を持ち出され、遼はいっそう混乱した。頭を掻き慌てふためく彼は、顎の無精髭をしきりに撫でる新島にどう言葉を返していいかわからず、その背後に見慣れた担任教師の姿を見つけると、たまらず「近持センセーイ!」と声を張り上げてしまった。
「島守……君……?」
 席から立ち上がった近持は、眼鏡をかけ直しながらゆっくりと立ち上がり、新島の肩を軽く叩いて会釈をした。
「なんだ。近持先生に用があったのか。早くそう言えよな」
 ガラガラ声でそうからかった新島は、ニヤニヤと崩れた表情で廊下へと出て行った。
「さっきの……ことかな?」
 すっかりいつもの穏やかさを取り戻していた近持は、遼を見上げてそうつぶやいた。
「え、ええ……ちょっと……いや……いいんですけど……たまにはああした方がいいって思うし……ウチのクラスみんな、身勝手でしょ……」
 自分のことは棚に上げ、頭を掻きながら遼はまるで弁解のようにつぶやいた。
「いや……」
 眼鏡に手を掛けた近持は、度の強いレンズの奥で瞳を震わせた。
「あれは駄目です……いかなるときも……暴力はよくない……横田君には後で謝っておかないと……」
 目を伏せ、口の両端を少しだけ吊り上げ、近持の様子は少しだけ悔しそうに少年には感じられた。
「よ、横田は一度ガーンってやられた方がいいんですよ。別に謝る必要なんて……」
「教師としての指導なら、厳しいのも当然でしょう……」
 そうつぶやいた近持は廊下まで出てくると、後ろ手で職員室の扉を閉じた。
「けどさっきのあれは……私の個人的な怒りでやってしまったことで……まったく教師としては最低な行為なのですよ」
 抱いていた違和感の正体に少しだけ近づいたような、近持の言葉から遼はそこにたどり着きそうな気がした。そう、あの怒りと哀しさはどこか私的な事のようであり、公的な使命からくるものではない。それだけに、どこか自分にも理解できる。そんな辛さの正体を、バルチの灼熱とともに思い出してしまえる。

 先生……ごめんな……

 頭の中で謝りながら、遼は教師の皺だらけの手を握り締めた。
「と、島守君?」
 生徒に突然手を握り締められた近持は戸惑い、教え子の長身を見上げた。
 目を瞑り意識を集中させた遼は、近持の意識に自分のそれを滑り込ませ、広大なる言語の海原へ突入した。
 近持先生の記憶領域であろうこの言語の海原は、藍田と名乗った偽刑事のそれよりずっと広大で深いものだった。

 ファクト……についてだ……

 キーワードを投げかけ、海原がどう反応するか遼は試してみた。すると、海面はさざなみ、やがて渦を発した。
「と、島守……くん……?」
 手をぎゅっと握られながら、近持は重く苦しい、暗い記憶が自分の脳裏から沸きあがってくることに気づき、戸惑っていた。

 渦から赤黒い霧が立ちのぼり、瞬く間に入り込んだ遼の意識を包んだ。霧はびりびりとした痺れと血の臭いを充満させていて、その後から膨大な量の水柱が空へ伸び、やがて折れ曲がり洪水のごとく意識へ降り注いできた。

 三ノ輪 銃撃事件 佐奈子、かけがえのない妻 孝一、大切なわが子 即死なのが幸いでした近持さん 今のお気持ちは? 示談金の提示が不服ですか? ほら、納得してくれると思ってた テレビはこの位置でいいんですか? チッ、遺品の入った段ボールなら、先に言ってくれりゃいいのによ

 言語の洪水が血の臭いと共に島守遼の意識に叩きつけられ、彼はたまらず滑り込ませた感覚を引き戻し、同時に握っていた手を離した。
 憎悪と悲しみ、意味のつながらない、誰が言ったのかもわからない言語情報の羅列。しかし、遼はその全てを感覚的につなぎ合わせることができた。
「だ、大丈夫ですか島守君?」
 いつのまにか膝をついてしまった遼の肩を、近持が慌てて抱きかかえた。
「あ、その……ご、ごめんなさい……た、立ちくらみして……たまらず……手握っちゃって……俺……」
 抱きかかえてきた近持から混ざり気のない純粋な心配を察知すると、遼は頭を掻きながら立ち上がり、会釈をした。
 担任教師の怒りと悲しみの原因を理解し、なぜ自分もそれを共感できるのか、やっとわかった気がする。アロハシャツにパジェロのステアリングを握った命の恩人の姿を思い出しながら、遼は頭を掻く手をゆっくりと下ろした。
「保健室……すぐそこだし……一緒に行くか?」
 心配そうに声をかける近持に、遼は「いえ……大丈夫です。本当に」と穏やかな口調で返し、階段へと駈けて行った。

4.
 二学期が始まり数日が経過した雨の日の午後、生徒たちの大半が引き上げた1年B組の教室で、「第一回文化祭実行委員会」なる会合が開かれた。音頭をとったのは「初回だけは参加させてもらう」と断言した音原であり、一学期の終わりにクラス全体で引いたクジの結果、島守遼、神崎はるみ、田埜綾花(たの あやか)そしてリューティガー真錠の四人が委員として選出され、それに今回の出し物である「ラーメン仁愛」の企画者である関根を加えた計六名の生徒たちが、教室中央になんとなく固まって座っていた。
「い、いちおう……図面は引いてきた……」
 発案者である関根は他の五人の顔色をちらちらと窺いながら、B4サイズのコピー用紙を机に広げた。それは模擬店の店舗図面であり、専門の知識がない遼にとっても、コンロの位置、看板のサイズやデザイン、テーブルレイアウトなどが丁寧に記されたそれを一瞥しただけで、関根という普段は地味なクラスメイトが、いかなる情熱をもってこの企画に望んでいるのか窺い知れる内容だった。
「寸法とかもちゃんと出てるんだぁ……へぇ……ちゃんと測ったの?」
 頬杖をついて図面を見下ろすはるみに、関根は鼻の頭を撫でてはにかんだ。
「う、うん……」
 返事をしながら関根は遼の横顔をちらりと見た。演劇部の練習で夏休みに登校した折、関根が寸法を測りに来ていたのを彼も目撃し、言葉を交わしたこともある。向けられた視線の意図を察すると、遼は下唇を突き出して頷いた。
「関根君の計画はなかなかだね。うん。これ通りに実現すれば立派なお店が作れるというものだ」
 腕を組んでいた音原が満足げにつぶやくと、その隣に座っていた田埜という女生徒が口元を手で覆いながら小さく頷いた。
「さて、それじゃあ委員分担を決めよう」
 第一回会合のもっとも重要な議題を音原は言葉にし、委員である四人の生徒は彼に小さな意を向けた。音原が机に置いたノートには、「材料調達責任者」「店舗設営責任者」「店舗運営責任者」「調理責任者」と人数分のポストが書かれていた。
「俺、当日演劇部の発表だし、できりゃ事前の仕事がいいから……店舗設営でいいかな?」
 遼のそんな一言を皮切りに、四人の事情と興味に基づかれた役割分担は、重複することなくスムーズに決められた。
 アイデアが出るまでは長い道のりだったが、いざやることさえ決まってしまえば実に淀み無くすんなりと物事が進む。音原にはそれが意外な発見だった。

「材料調達責任者を引け受けたのはいいんだけど……ラーメンって実際はどんな材料が必要なんですか?」
 関根と田埜と三人で校門を出たリューティガーは、学校前の坂道を下りながらそんな素朴な質問を口にしてみた。
「も、もしかして……真錠君は……ラーメンって……」
 口元を歪ませながらそう尋ねる関根に、リューティガーは屈託のない無邪気な笑みを向けた。
「全然……カップヌードルなら見たことあるけど……」
「だ、だめだよそれじゃ……それで材料調達なんて無理だよ……」
「そ、そうですよね……やっぱり……」
 “調達”という文字を見て、自分の能力を駆使できるのではないかと思い、引き受けたリューティガーである。しかし関根の狼狽振りを見ると、自分の判断が少々迂闊だったと知り、笑いは苦いものへと変化した。
「じゃあ……関根くんが真錠くんに……美味しいラーメン屋さんに連れて行くってのは……どうかなぁ?」
 両手で鞄を抱えながら、小さくやや小太りの田埜がゆっくりとした口調でそう提案した。
「あ、ああ。そりゃそうだ。付き合ってもらうよ真錠君」
「わ、わかりました」
 真剣な関根の瞳に気圧されながら、リューティガーはそれはそれで面白そうだと内心思い、田埜の提案に感謝した。
「田埜さんも調理責任者なんですし……時間が合えば三人で食べに行きましょうよ」
 栗色の髪をしたクラスメイトの逆提案に、少女は一瞬頬を膨らませ小さく息を吐いた。
「あ、う、うん……もちろん……いいよ」
「そうなると……島守君と神崎さんもなぁ……」
 だんだんと言葉もすんなりと、口調も滑らかになってきた関根は、腕を組んでそうつぶやいた。
「遼くんはいいよ。どうせ演劇部で忙しいだろうから」
 素っ気無く言い放ったリューティガーに、関根と田埜、二人の似た体型をした少年少女は奇妙な違和感を覚え、思わず視線を交わした。

 翌週の水曜日、放課後の教室に文化祭実行委員会の四名とプロデューサーという肩書きを得た関根、野元、比留間、権藤、我妻というくじ引きで選ばれた試食担当の四人を足した計九名の生徒たちの姿があった。
 黒板には「第一回ラーメン仁愛試食会」と記されており、教壇脇に置かれた長机には大鍋が二つ並べられ、そのすぐ横にはチャーシューやネギをはじめとした薬味が置かれていた。
「ねぇねぇ、田埜さんが作ったの? 調理責任者なんでしょ?」
 割り箸を手にした野元がそう軽口を叩くと、鍋のスープをかき混ぜていた田埜が首を横に振った。
「今回のは、全部関根君が味付けしたんだ」
 どんぶりを用意しながらそう答えた遼に、野元が首を傾げた。
「正直、企画書見てもどんなラーメンなのか、具体的にさっぱりでさ。なら、最初の試食会は関根君に全部作ってもらおうと思ってさ……俺たちは、今日に関しては道具とかをセッティングしただけなんだ」
「おいおい、それじゃ君たちの誰もが一度も食べたことのないまま、僕たちに試食をさせるつもりなのか?」
 野元の隣で腕を組んで座っていた比留間が、眼鏡を直しながらそう毒づいた。
「嫌なら帰ってもいいのよ。あんたなんかいなくっても権藤さんや我妻がいるんだし。それにね、すっごく本格的な作り方なのよ。スープと麺だけじゃなくって、スープとタレだって別々なんですからね」
 エプロン姿のはるみが腰に手を当てて比留間を見下ろすと、彼は「お、うお、お……」とうめき声を上げて視線を机に落とした。
「加納さん、お昼少な目にしといたー?」
 比留間の隣に座る我妻という女生徒が、ウインクをしながら更に隣に座る権藤という女生徒に声をかけた。
「あ……? もちろん」
 鋭い目つきで我妻を一瞥した権藤は、湯気を立てている鍋に視線を向けると、つまらなそうに腕を組んだ。
「博多風のラーメンなんてぇ、食べたことないからどんななんだろーねぇ」
 舌足らずの呂律で割り箸を握る我妻は、田埜が眼前まで運んできた白濁としたスープでいっぱいの赤いラーメンどんぶりに瞳を輝かせた。
「なんか、なんかすげぇ匂い!!」
 箸を割った野元が、どんぶりを手に細い麺をすすり始めた。
 遼たち四人の実行委員は横一列に並んだ野元たちの挙動に注意を向け、菜箸を手にした割烹着姿の関根だけが、一人緊張した面持ちで小さな目を見開いていた。
 どんな味かはわからないが、関根が考案した博多ラーメンは神崎はるみが比留間に言ったように本格的であり、文化祭の出し物としてはなかなかに凝った料理である。おかわりなど要求されたら手間と時間が増えて面倒だと、遼は想像力を逞しくしていた。
 黙々と、整然と四人の生徒は博多風とんこつラーメンを啜っていた。すると、一番右端の権藤が半分も食べ終えないうちから箸を置いてしまった。
 権藤は腕を組むと、窓の外へ視線を向け長い茶色がかった髪を掻きあげ、普段は隠れがちにしている左目を晒した。その様子はどこか乱暴であり、関根は大きな鼻を撫で、肩をいからせた。
「うーん……」
 権藤に続き、我妻も途中で食べるのを止め、箸を置くと手を合わせた。
「ごちそーさまだわぁ……」
 申し訳無さそうに首を傾げ、カールした髪を揺らした我妻に、遼たち四人の委員はそれぞれ小さく動じ、意外さを禁じえない様子を隠さなかった。
「俺も、もういいわ……」
 左端に座る野元も、麺こそはほとんど平らげたものの、薬味とスープの大半を残したまま箸を置き、ポケットからガムを取り出して、うんざりとした表情でそれを噛み始めた。
 分厚いフルカラーの企画書、完璧な店舗計画。関根のラーメンにかける情熱は音原だけではなく、すでに委員たち四人も理解するところであり、なんとなくではあるが彼が今日用意した試作第一号ラーメンも、それなりの味であるだろうと勝手に予想していた。しかし四人の試食者たちのうち三人が途中で食べるのを止め、いずれもがそれぞれの表現で味に対しての不満を表に出しているようであり、その結果が意外だった。
「うん……まぁ……うん……」
 スープを残らず平らげた比留間は、眼鏡をかけ直すとハンカチで口を拭き、ちらちらと左右に残ったままのラーメンに視線を移した。
「じゃ、じゃあ……感想を……」
 音原が恐る恐る促すと、野元が即座に「いまいち」と声を上げ、続いて我妻が「ごめーん……途中で飽きちゃった……」と謝り、権藤は無言で腕を組んだままであり、最後に比留間が「今……一歩だな」とつぶやいた。
「おいおい。比留間は全部旨そうに食ったじゃん」
 遼は空いたどんぶりを指差しながら、鍋の前で佇む関根の肩を叩き、彼の全身が小刻みに震えているのに気づいた。
「せ、関根……」
 小さな目は充血して真っ赤になり、普段は下がっている眉はすっかりつり上がっていた。関根は怒っている。遼は様子からそう判断したがどうしていいかわからず、とりあえず自分もどんな味か確かめようと、一番分量が多く残っている権藤のどんぶりを取り上げた。
「そうね……島守も確かめてみるべきね」
 鋭い目で見上げられた遼は、権藤というクラスメイトの睫が意外に長く、澄んだ瞳をした少女であることに初めて気づいた。
「我妻が言ってるの、当たってる。そうそう。なんかさ、味が薄いわりには臭みがあって……すぐに飽きちゃうんだよなぁ……」
 野元はガムを噛みながら、すぐ側で呆然とするエプロン姿の田埜に向かって素直に感想を漏らした。
 箸を割りながら、遼は権藤から取り上げたどんぶりに残っていたラーメンを啜ってみた。

 あ……確かに……

 父との二人暮らしのため、インスタントとは言えラーメンは主食になっている遼であり、関根が用意した本格派博多風とんこつラーメンがいつも食べているそれらに比べ、あまりにもスープが濃厚で臭みがあるのにも拘わらず、あっさりとした単調な味であることに気づいた。しかし最初の味覚印象というものは、継続して口にすることで変化していくこともある。そう信じて二口、三口と食べ続けてみたものの、味は一向に変化を見せる兆しがなく、仕方なく彼は鍋の横にどんぶりを置き、小さくため息をついた。
「こ、これはな……僕が……!!」
 関根は野元の前まで歩み寄ると、右手を机に叩き付けた。
「な、なんだよ関根……」
「昔、天神の屋台で食べたのをモデルに作った……伝統の味なんだ……ほ、本格的な……博多の……東京のラーメンし、しか……食べたことのない……き、君たちには……!!」
 口ごもりながら、全身を震わせて訴えかける関根に対して、野元は不満げに睨み上げ、我妻は何度も首を傾げ、権藤は再び窓の外に視線を向け、比留間は空にしたどんぶりを凝視していた。
「なぁ、俺はラーメンのことは詳しくないけどさ。いくら本格的とか言っても、これじゃ売れないよ。なんか紅生姜とか変な具も入ってて気持ち悪いし。もっと改良した方がいいって。そのための試作だろ?」
 関根の怒りを解することなく、ガムを噛みながら野元は軽い口調でそう言い放った。
「紅生姜は!!」
 激発し、菜箸を握り直した関根の両肩をリューティガーが背後から抱き止めた。そのあまりに素早い挙動に神崎はるみは目を見張り、「え……?」と意外そうに声を漏らした。
「お、落ち着いてよ関根くん……!!」
「け、けど真錠君!!」
「四人中三人が駄目って……改良の余地があるって言ってるんだ……!! 誰も示し合わせているわけじゃない……受け止めなくっちゃ!!」
 リューティガーの正論と必死なる制止に、はるみだけではなく遼も注意を向けた。
「そ、そうだ関根……真錠の言う通りだぜ……それにさ……このラーメンを絶賛してる奴だっている」
 遼はそう言いながら、視線を落としたままでいる比留間を見下ろした。
「改良して平均を狙えばもっと万人向けになるって。だからさ……神崎」
 促されたはるみは頷き返すと、手帳大の紙とペンを試食した四人に配った。
「く、くぅ……」
 リューティガーに抱き止められたままの関根は、歯軋りをしながらも身体を引き、二つの鍋を置いた長机に戻っていった。
「じゃあみんな……あらためて感想を書いていって……項目にチェックをつけるだけじゃなくって、気がついた点は詳しくね」
 はるみにそう言われた四人は、それぞれペンを手に取り用紙に記入を始めた。
 遼は口の中に未だ残る臭みに少々辟易としつつも、決定的な亀裂を未然に防いだリューティガーを横目で見て、感心するべき点は素直に認めるべきだろうと少しだけ顎を引いた。

5.
 東急池上線、雪が谷大塚駅は仁愛高校に通う生徒たちの大半が利用する私鉄駅であり、駅を出てすぐの通りはセンターラインも引かれていない、やっと二車線分という狭さで、左右に広がる商店街の規模もさほどではなく、雑然とした庶民的な風景を現出させていた。
 駅から歩いて二分ほどのドラッグストアのレジ前に、くたびれた白いワイシャツ姿の中年男性、藍田長助の姿があった。
「僕ね、ちょっと風邪気味で。今日は風邪薬を探しにきたんですよ」
 蓄膿気味の声でそう語る長助に対し、レジの若い女性店員は笑顔で、とある風邪薬を手にした。
「これなどはいかがでしょうか? 最近良く売れてるんですよ」
「へぇ……総合感冒薬ですか。僕ね。熱っぽいんですけど、それって熱、冷めます?」
 天然パーマの頭を掻きながら、長助は照れ笑いを浮かべた。
「はい。それはもちろん。ただ……熱だけ優先して冷ましたいのであれば……こちらの方がお勧めですね」
 レジ下のガラスケースから別の解熱剤を取り出した店員は、薄化粧の笑顔を長助に再び向けた。
「効きます。それ?」
「ええ。最近良く売れてますよ」
 同じようなフレーズを繰り返す店員に対し、長助は顎に手を当て、ふふんと鼻を鳴らせた。
「店員さんは使ったことあるの? その薬」
「はい。とてもよく効いて、眠くもなりませんし」
「あっそう。じゃあそれ、もらいますわ」
「ありがとうございます」
 頭を下げる店員に向かって顎を上げた長助は、人の悪い笑みを浮かべた。
「こちらこそ。親切な店員さん……それとさ」
「はい?」
「もう一つどれにしようか悩んでる物があるんですけど……セレクトしてくれます?」
「ええ、なんでございましょうか?」
 相変わらず笑顔を向けたままである女性店員に、長助はレジ前のある棚を指差した。
「これって風邪薬並みにすっごく種類あるよね。値段も千円から四千円まで。薄型とかフィット型とかさ。どれがお勧めだろう?」
 棚を何度も指差す長助に対し、店員の笑顔は強張り、解熱剤を袋に入れる手が止まった。
「さ、さ、さぁ……ど、どれでも……お客様のお好きな……もので……よろしいかと」
「だから悩んでるんだよ。だってどれも似たような見た目だよ? ねぇねぇ。店員さん、選んでくれないかなぁ?」
「で、でしたら……」
 顔を赤くしながら、女性店員は二千円の避妊製品を指差し「これが最近一番売れています」と無難に言葉を続けた。
「ふーん……これねぇ……薄型って書いてあるけど。ほんと?」
「え、ええ……まぁ……」
「ジャストフィットだって? ほんと」
「ま、まぁ……はい……」
「へぇ……店員さんも使われたことあるの? これ?」
 最後の言葉に、店員は口元を歪ませながら長助を見返した。
「あっははは!! じゃあ、解熱剤とそれもらってくわ。ごめんな」
 紙幣を置いて商品を手にした長助は、呆然とする店員の視線を背中に受けながら、幸せそうな笑顔で釣りも受け取らず薬局を後にした。
「しっかし、しけた商店街だねぇ……」
 独り言をつぶやいた長助は、薬局から二軒ほど離れたパン屋に立ち寄ると、焼きたてのメロンパンとコーヒー牛乳を購入し、残暑の厳しい日差しが降り注ぐ商店街を歩き始めた。
「意外と、んまい……いや、最近風に言うと、まいうってやつ?」
 メロンパンを頬張った長助は笑顔を浮かべ、仁愛高校の正門をくぐり抜けて行った。時刻は午後三時過ぎだったため、彼は下校途中の生徒たちと何度もすれ違い、その度に生徒は見知らぬ来訪者に視線を向け、何者かと注意してみた。
「はは、どもども……」
 会釈をし、笑顔のまま少年少女たちの不審げな視線を捌きながら、長助は校舎入り口までたどり着くと、来客用スリッパを探してそれに履き替え、コーヒー牛乳をストローですすりながら胸ポケットから手帳を取り出した。

 照明がこれほどまぶしく、肌を焼くものだとは思っていなかった。野々宮儀兵衛役の衣装である黒の紋付き袴姿の島守遼は、右斜め上からの強い光に辟易とし、思わず額の汗を拭った。
「何やってんだ、島守!!」
 舞台の“袖”から、台本を手にした労務者風のツナギ姿である、平田先輩が大声を張り上げた。
「す、すんません!!」
 稽古の最中に思わず素の表情を見せてしまった遼は頭を下げ、相手役であるドレス姿の蜷河理佳に向き直った。
「悦子や……今日はお前の誕生日だったな?」
「ええ旦那様……よく覚えておいでで……」
「忘れるわけがなかろう。うむ。待っておれ、今素晴らしい物を持ってきてやるぞ」
「素晴らしい物?」
「お前の誕生日プレゼントじゃ」
「まぁ、旦那様……!!」
「おとなしく待っておれよ……」
 舞台下手に野々宮儀兵衛役の遼が姿を隠すと、照明が調節され、体育館のステージは真っ暗となった。
「悦子、悦子や……前からお前が欲しがっていた真珠のネックレスじゃ……」
 真っ暗な舞台に遼の声が響き、再び照明が照らされた先には、野々宮悦子役である蜷河理佳が倒れている姿があった。
「悦子……? お、おお……なんということじゃ……悦子……悦子や……」
 袴姿の遼が、倒れているドレス姿の蜷河理佳にふらふらと近寄り、そっと腰を下ろした。
「一体どうしたのだ!? 悦子!! 悦子や!?」
 手にしていたネックレスを舞台に放り投げた遼は、両手をついて夫人役である彼女の顔を覗き込んだ。
「死ぬな……死ぬな悦子……お前がいなくなっては、ワシは……うう、うう……」
 細く儚げな少女の肩を抱きかかえた彼は慟哭し、天を仰いだ。
 前半のクライマックスである、野々宮悦子服毒自殺の稽古を袖から見守っていた部長の乃口文は、ついこのあいだまで素人であり、演技のイロハすら理解していなかった島守遼がなんとか文化祭の発表に間に合ってくれたことに興奮し、思わず手にしていた台本を強く握り締めた。
「平田くん。彼、いい感じじゃない」
「とりあえず形にはなってますね……ゲネプロだからですかね? 案外本番に強い奴なのかも……」
 直接本人を前にして褒めることなどない平田ではあったが、一番口うるさく後輩の指導をしてきたのは彼であり、遼の成長はよく理解していた。慟哭を続ける芝居を見上げながら平田の横顔は満足げであり、乃口もほっとして眼鏡をかけ直した。

「意外とやるじゃない」
 実際の舞台を使った稽古が終了した後、メイド姿の神崎はるみは、大道具を片付けていた遼にそう話しかけ、彼も照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。
「なーんかさ。衣装着たり、照明とかセット、音楽なんかがあると、気合い、入るよな」
「ちょっと早めのゲネプロだけどね」
「ゲネプロ?」
 初めて耳にする言葉に遼の手が止まり、彼は首を傾げた。
「ゲネラルプローベ……お客さんがいない以外は、もうまるっきり本番通りの稽古って意味よ」
「へぇ……まぁ、だけど早めなのは仕方ないよな。なんせバンドに演奏会に映画とかダンス発表だろ、なんか有志でコントやるのもいるって話だし……ここの練習スケジュール、かなりぎっちりだって平田さんも言ってたし」
「そーね……二回もゲネプロで使わせてもらえるだけありがたいか……」
 腰に手を当てるはるみをちらりと見た遼は、普段は口うるさいく鬱陶しい存在である彼女も、案外とメイド服が可愛らしく似合っていると思い、口元を歪めた。
「島守くん……」
 聞きなれた、澄んだ声で話しかけられた遼は、はるみから視線を逸らして振り返った。
「あれ、蜷河さんはもう着替えちゃったの?」
 制服姿の彼女を見つめた遼は、自分もさっさとこの重苦しい衣装を着替えてしまおうと襟に手をかけた。
「一緒に帰ろうぜ……ってバス停までだけど……そーだ、どっかでなんか喰ってかない?」
「ご、こめんね……島守くん……わたし……今日ちょっと用事があって……先……帰ってるね……」
 申し訳無さそうに目を伏せた蜷河理佳は、一瞬だけ彼の背後にいたはるみに視線を向けると、小さく手を振って背中を向けた。
「そっか……」
 手を振り返しながら、遼は仕方がないと羽織を脱いだ。
 体育館から立ち去っていく、蜷河理佳の長い黒髪を舞台から見下ろしながら、神崎はるみは少しだけ下唇を噛み、「んー」と短く喉を鳴らし、エプロンドレスのフリルを摘んでみた。
「はっはー! 本格的な衣装ですなぁ」
 背後からそう冷やかされたはるみが咄嗟に振り返ると、先日の合宿先で一度だけ見たことがある、天然パーマの中年男性の姿が飛び込んできた。
「あれ、えっと……おじさんってば……」
「どもども、その節はお世話になりまして」
 意外なる人物の登場に島守遼の全神経は緊張し、震えた声で「てめぇ……一体……?」と低く漏らした。
 合宿先で出会ったこの男は刑事だと名乗り、リューティガー真錠が詐欺一味であると告げ、その情報を聞き出そうと接近してきた。しかし刑事であるという第一段階からして、この男の言葉は全て虚言であり、最後には“異なる力”である接触式読心で正体の一端を引き出し、おそらくそれに気づいたのであろう、狼狽し立ち去って行ったきりである。再び緩んだ笑みを浮かべ、よりによって仁愛高校体育館に姿を見せるとは遼も予想しておらず、ただでさえはっきりしない正体がますます不鮮明になろうとしていた。
「あ、思い出した! 演劇雑誌の記者さん!」
 両手を合わせ、はしゃぎがちに叫んだはるみに対し、藍田は「いや、はは……そうです」と照れてもじゃもじゃの頭髪を掻いた。

 なにが“そうです”だ!! その肩書きは、俺がハッタリでてめぇにつけたモノじゃねーか!!

 肩をいからせ、遼は羽織をセットにかけ、藍田の肩を背後から掴もうとした。しかし彼はその挙動を察知すると一歩前に踏み込み、はるみに近づきながら万年筆をポケットから取り出した。
 つっかかられるのをかわしたというよりは、自分との“接触”を防ぐための行為である。藍田の所作をそう判断した遼は気を引き締め、はるみと彼の間に割って入った。
「学校や部長さんの許可ももらってね。今度は正式取材なんですけど」
「刑事じゃ……なかったのかよ……」
「あ? あっはは……なに言ってるんですか島守君。僕は雑誌・演劇論評の記者、藍田長助ですよぉ……」
 そう嘯きながら、藍田は名刺を二枚取り出し、遼とはるみに一枚ずつ手渡した。
 意識から言語情報を引き出した際、わずかな時間ではあるがこの中年男性の個人的な情報は引き出すことができた。つまり「日本を再生する徒 FOTのエージェント」であり、「敵か味方かはわからない」存在である。「日本を再生する徒」というフレーズは、七年前、首都を戒厳令下までに追い込んだテロ組織「真実の徒」またの名を「ファクト」が当時マスコミに標榜していた「我々は日本を破滅に導く徒である」というフレーズに微妙に被り、まさにそこが警戒してしまう点であった。おそらく、この天然パーマはリューティガー真錠が敵対している「組織」に属する人物であり、自分の“異なる力”に対して何らかの意図を持ち、こうして偽の名刺まで作って接近を図っているのだろうと、その作為はなんとなくだが予想できた。
 頭をぺこぺこ下げながら、はるみや平田、福岡先輩たちにメモを取りながら取材を続ける藍田長助を凝視しながら、島守遼はなにやら薄ら寒さを感じはじめていた。
 偽装工作で接近するのは理解できる。だが、その虚像は既に瓦解し、正体を知ってしまった上でこうした疑惑の目を向けているというのに、あの男は一向にそれを気にする気配すら見せない。

 からかって……いやがるのか……

 奴にはある自信がある。
 つまりこちらが「みんな! こいつは雑誌記者なんかじゃない! 怪しい組織の一員で警察手帳まで偽造するような犯罪者だ!! 早く通報を!!」などと言い出すことが決して無く、仮にそうしたとしても、どうにでも対処する方法を知っているのだろう。事実遼は藍田を排除する決定的な理由が足りておらず、FOTなどという組織名にしてもさっぱりである。そして、そちら方面の知識を仕入れようと最も手っ取り早い方法を用いるとすれば、あの栗色の髪をした同級生に頭を下げ、機嫌を損ねないように彼好みの芝居を打たなければならない。

 わかんねぇんだよ……実際真錠がなに考えてるかなんてよ……あいついきなりキレるし。

 まさかリューティガーとの人間関係まで知った上で、藍田という男がこうした行動に出ているとは思えないが、得体の知れぬ不気味さに耐え切れなくなった彼は、羽織を手にすると取材を続けるパーマ頭に気づかれないよう、こっそりと舞台の袖から階段を下り、逃げるように部室へと駈けて行った。
 興奮しながら取材に答える乃口部長に頷きつつ、藍田は掛けて行く遼の姿を目の端で認め、小さく鼻を鳴らした。

6.
「僕も美味しいとは思う。うん」
 放課後の中央校舎三階、調理教室にラーメンどんぶりを手に席についているリューティガー真錠と、その姿を見守る椿梢(つばき こずえ)、川崎ちはるの二人の女生徒に割烹着の関根茂たちの姿があった。
 机には、前日の試食会で野元たち四人の試食者が答えたアンケート用紙が置かれ、関根の作ったラーメンを残らず平らげたリューティガーは、椿梢の持ってきてくれた水をいっぱい飲むと、「ありがとうございます」と無邪気な笑みで礼を告げ、アンケートに視線を落とした。
「け、けど、比留間君以外の三人は駄目だって……い、一体どういうことなんだよ……」
 不満げにそうつぶやいた関根はリューティガーの対面に座り、アンケート用紙を一枚手に取った。
「うぐ……ひ、比留間君……残さず食べたのに……な、なんだよこのアンケート……」
 震える手でアンケートを見る関根に、川崎が身を乗り出した。高校一年生にしては少々グラマラスで、胸も大きい川崎の接近に関根は息を詰まらせ、アンケート用紙を慌てて手渡した。
「ほんとだっ。麺は硬すぎ、スープはしょっぱすぎ、チャーシューは柔らかすぎってさー……ボロボロ書いてあるよー!!」
「だ、だけど比留間君は美味しそうに食べてたんだよ?」
「なんか他の三人とアンケート結果、合わせてんじゃないのかなー。比留間って卑怯系って感じじゃない」
 しまりの無い笑顔でそうちゃかす川崎に、隣に座る椿梢は「さぁ?」と首を傾げて大きな瞳を曇らせた。
「絶対そうだよ。で、他の三枚も見せてよルディ」
 川崎にそう促されたリューティガーは、残りのアンケート用紙を彼女に手渡した。
「野元に……我妻に……権藤さんか……わっちゃ……みんな厳しいなぁ」
「だけど真錠くんは美味しかったんだよね?」
 椿梢にそう尋ねられたリューティガーは力強く頷き、空になったラーメンどんぶりに視線を落とした。
「比留間君以外のアンケートに書かれてる、スープが薄くて単調とか、臭いとか、薬味がきついとか、ある程度は当たってるかも知れません……けど僕はそれも長所じゃないかなって思いますが……ラーメンって、割と嗜好品的な食べ物なんですよね?」
「そうそう、うちのアニキとかも毎日食っててさ、ネットとかでレビュー書いたりしてんだけど、地方によっても全然傾向が違うし、好き嫌いがはっきり出るって言ってたよ」
 川崎の言葉に関根の垂れ下がった眉がぴくりと動き、やがて彼は大きなため息をついた。
「ど、どうしたの?」
 椿梢が心配そうに関根に声をかけ、彼は頬を引きつらせながら首を傾げた。
「わかる人なら、絶対喜ぶはずなんだ……この兆龍の味は……」
「兆龍?」
 椿梢の反芻に関根は答えることなく、アンケート用紙を睨み続けていた。
「関根くん」
 リューティガーはよく通った声でクラスメイトの名を呼び、それに反応した関根は眼鏡の奥で強く輝く紺色の瞳に戸惑った。
「真錠……君……」
 栗色の髪をしたクラスメイトの正確なる意図はわからない。しかしその強い意を感じた関根は、自分の気持ちが荒んでいることにようやく気づき、小さく咳払いをした。
「は、博多風を……こっち風にアレンジするしかないんだろうな……あの天神の屋台風味で勝負できないのは悔しいけど……このままじゃ……」
「思い出の味……とかなんですか?」
 リューティガーにそう尋ねられた関根はテーブルの上で指を組み、大きく一度だけ頷いた。
「死んだお爺ちゃんが……博多の人で、いつも夏休みはそっちに遊びに行ってて……屋台にもよく連れて行ってもらったんだ……こんな美味いラーメンは他にないって……ずっと思ってたのにさ……」
「それが兆龍か……」
 椿梢はそうつぶやきながら川崎に目配せし、彼女も「じゃないの?」と他人事のように素っ気無く続けた。
「全部オリジナルじゃなくっても、その……考え方とか主義が曲がってないのなら、それはそれで関根くんの流儀が違ってしまうってことにはなりませんよ」
 軌道修正し、頑なさを軟化させようと努力している関根を救うべく、リューティガーはゆっくりと語った。
「それより、これをチャンスと考えてアレンジに挑んで、もっと大きな収穫を得ることができれば大成功じゃないですか」
 淀みなく、力強くそう言い切ったリューティガーは眼鏡に手を当て、離すのと同時に屈託の無い笑みを関根に向けた。
 こだわりや意地、悔しさをまだ抱えていた関根だったが、あまりにも前向きで明るいクラスメイトの発言に返す言葉が無く、小さく呻いた。
 今は彼の発言に乗っかってしまおう。真っ当で正しい努力をするべきだ。それはとても心地がいい。そんな気にもなってきた関根は、ついつい慣れぬ笑みをリューティガーに向けた。
 二人の男子が健全な意思疎通をするのを見て、椿梢はラーメンどんぶりを下げながらうっすらと微笑み、川崎ちはるは転入してきた瞬間から目をつけた可愛らしい彼に思わぬカリスマ性があることを知り、下校を遅らせて付き合ってみて大正解だと内心喜んでいた。

7.
 遼がゲネプロで予想外の好演技を見せ、リューティガーが荒ぶる関根の気持ちを前向きに変化させてから一週間が経過した。学園祭二週間前となった仁愛高校は設営の準備などは未だ本格的にはスタートしておらず、外見こそ、いつもの日常を現出させていたが、放課後は出し物の準備やミーティングなどに追われ始め、初秋が近づくにつれ短くなりつつあった日照時間も手伝い、暗くなってから正門を出る生徒たちの姿も目立ち出していた。
 夕暮れの鈍い日差しが長い影を作る1年B組の教壇横には、前回と同じように長机と二つの鍋が設置され、そこから勢いよく湯気が立ちのぼり、教室の空気を湿らせていた。
 一回目の試食会は実行委員と試食者に関根という少人数で行われたが、味に駄目出しという少々ショッキングな結果と、その後プロデューサーの関根が、かなり味を改良してこの第二回に挑んできたという噂が広まり、1年B組の生徒たちの大半が日も沈んだこの時間まで教室に残り、イベントを見届けようとしていた。
 リューティガーの提案で、二回目の試食者は一回目とその半数を入れ替えることになった。これに対して関根は当初「まったく同じ面子に美味いと言わせないとだめじゃないか?」と異議を唱えたが、「いや、前回の味を覚えている者ばかりじゃ、正当な評価は下せない」というリューティガーの正論に論破され、再抽選が先ほど行われた。
 その結果、野元と権藤は前回から残り、新たに偉丈夫の硬骨漢、高川と普段は関根の隣に座り、落ち着いた性格で安定した情緒の持ち主である崎寺という女生徒が選出された。そして、特別試食員として、噂を聞きつけ教室に駆け込んできた体育教師、新島の姿があった。
「新島先生、ラーメン好きだったんですか?」
 サッカー部の顧問でもある新島は、一年生のエースでもある西沢にそう問われ、無精髭だらけの顎を撫で回した。
「おうよ。北は北海道、南は鹿児島まで、俺は今まで何百ってラーメンを食べてきたんだ」
「マジっスか?」
「夏休みなんてバイトしながら、日本一周したんだぜ。電車でよ。あんときゃ三十日三食ラーメンで、四食のときもあったから軽く百杯は喰ったぞ」
 自慢気に胸板を叩く新島をちらりと一瞥した関根は、隣の田埜にチャーシューを切る指示を与え、自分は右側の鍋でぐつぐつと煮立つスープをかき混ぜた。
 教壇で調理の様子を眺めていた遼は、鍋の側に置かれた薬味が前回と微妙に異なる点に気づいた。設営責任者である彼は、関根の図面を実現するために、ここ数日は麻生や戸田といった他の男子たちと大工仕事で居残ることが多く、二回目の試食に向けて関根がどのような改良を施したのかは知る暇もなかった。
 調達と調理の責任者であるリューティガーと田埜は既に何が出来上がるのかを認識しているはずであり、関根の調理を手伝う二人の所作に淀みがなく、表情にも自信が見えると、遼は安心して腕を組み、教室に視線を泳がせた。
 ラーメンの出来上がりに期待する生徒たちの中に、蜷河理佳の姿はなかった。最近の彼女は文化祭の準備も演劇部の練習も、自分の分担が終われば必要以上居残ることもなく素早く帰宅してしまう傾向があり、一応は彼氏であるはずの島守遼も、あまり多くの言葉を交わす機会に恵まれてはいなかった。

 二回目のデート……いつになったら行けるんだろうな……

 演劇部の発表と、文化祭実行委員の二重の忙しさは遼の個人的な時間をほとんど消費させ、ここ最近は軍資金稼ぎのパチンコも、義理立てのためのアルバイトにも通っていない。とにかくあと二週間もすれば全ての煩わしさから解放され、中途になっていた彼女との付き合いも再開できるはずである。自分にそうに言い聞かせながら、しかし彼はこの文化祭前という非日常的な興奮を、なぜ蜷河理佳と共有できないのか不満でもあった。
 教壇に手を置き、小さく舌打ちをした遼の嗅覚に、湯気と共にスープの香ばしさが感じられた。
 前回より匂いが柔らかくなった気がする。神崎はるみが試食者たちにラーメンを運ぶ様子を眺めながら、遼はぼんやりとそんなことを考え、空腹を思い出していた。
 野元、権藤、高川、崎寺、そして体育教師新島がそれぞれ箸を割り、蓮華を手に眼前の赤いどんぶりに取り組み始めた。
 生徒たちの小声でざわつく教室内に麺を啜る音が加わり、それは前回の試食よりずっと勢い良く、慌ただしかった。
 小さく拳を握り締めた関根は、傍らで笑みを浮かべているリューティガーに力強く頷き、興奮気味に「はは」と声を漏らした。
「全然うめぇ。前のよかいいよこれ」
 野元はスープを全て飲み干すと、どんぶりを置いて関根に親指を突きたてた。
「臭みも減ったし、味もずっと複雑になった感じね。それに紅生姜をやめて木耳に絞ったのも正解だと思う」
 左目を隠していた前髪をかき上げながら、権藤が低い声でそうつぶやいた。彼女のどんぶりにはスープがわずかばかりしか残っておらず、ハンカチで口を拭くとほんの少しだけの笑みを対面する実行委員たちに向け、静かに席を立った。
「うまいな。うん」
 高川は険しい表情のままつぶやき、箸を置いて一度だけ両手を合わせた。
「関根くんとか田埜さんって、料理、上手いのね。羨ましいな」
 首を傾げながら崎寺は微笑み、それに対して田埜は「さ、さぁ……」と口元を手で覆った。
「いわゆるこれはとんこつだけど醤油が利いてて、とんこつ醤油ってことなんだな? 関根」
 ジャージ姿の新島が口を拭きながらそう尋ねた。
「え、ええ……その……前回のは、まんま本場の博多風……でしたが……今回は麺も少し太めにして……あ、味に変化をもたせるために、タレをちょっとだけ強めにして……権藤さんが言う通り、薬味も弱めに……し、しました……」
 つっかえながらそう説明する関根に、新島は何度も頷き返し、箸を二度三度上下させた。
「チャーシューがまた格別だよな。これ、その辺のスーパーで売ってるやつとは違うだろ?」
「そうそう。前回もチャーシューだけはよかったんだよな」
 新島の指摘に野元も賛同し、そのやりとりを眺めながら遼は本格的に感じつつある空腹に苦い笑いを浮かべた。
「島守も食べる? 関根、私たちの分の麺も用意してあるって言ってたわよ」
 小声でそう話しかけてきたはるみに対して、遼はぎょっとなり「よく俺が腹減ってるのわかったな?」と返した。
「だってあんなに物欲しそうに見てて……そりゃ、気づくわよ」
 右の眉を上げ、頭を掻いて困った笑みを浮かべる遼に対して、はるみは首を傾げて「わたしが作ったげる」と小さくつぶやき、エプロンの紐を直しながら教壇横の長机へ向かった。
「そのチャーシューですが、博多は天神の屋台、兆龍で使っているものと同じで、豚の頬肉を使っています」
 材料調達責任者であるリューティガーの説明に、新島は無精髭だらけの顎に指を当てた。
「頬肉って高いだろ? そんな高級品使って元がとれんのか?」
「その点は他の材料費を圧縮することで実現しています。それに人件費がタダですから。この仁愛ラーメンは、一杯五百円で出すつもりです」
「は!? そりゃ、本格的な値段だなぁ。まぁ、だけどこれだけ旨けりゃ当然だな」
 教師ではなく、ただのラーメン好きの青年として素の発言をする新島に、リューティガーはにっこりと微笑んだ。そのすぐ傍らではるみはラーメンを茹で上げ、てきぱきとした挙動で盛り付けをし、盆に載せたラーメンどんぶりを空いている窓側の席に置いた。
「わ、わりぃ……」
 遼は頭を掻きながら、はるみの用意してくれたラーメンを啜り始めた。
「ほんとだ。こないだのやつよりずっと旨くなってるよ。クセも大分減ったし、食いやすいよな」
 満足げにラーメンを食べる遼のすぐ対面で、はるみは膝を床につき、机に頬杖をついてその様子をぼんやりと眺めていた。
「な、なんだよ……じろじろ見るなよ」
「あんたってば……ほんと美味しそうにたべるのねぇ」
「腹、減ってんだから。しょーがねーだろ」
 言い訳をする遼に、はるみは笑い声交じりの吐息を漏らし、目を細めた。

「誰も文句言う奴はいなかったし、新島先生も値段に納得してた。俺もすげぇ美味いと思ったし……出すラーメンはこれで決定ってことでいいんじゃないのか?」
 試食会も好評のうち終了し、外はすっかり暗闇に包まれようとしていたが、電灯の点けられたがらんとした教室に五人の生徒たちが居残り続けていた。
 遼の言葉に他の四人も頷き、思わず座の進行をした自分に彼は照れてしまい、「いいよな」と小さくつぶやいた。
「なら僕の班は材料の調達準備にとりかかりますね」
 遼の提案にリューティガーは実務的な答えを返すことで賛同し、はるみと田埜、関根も小さく頷いた。
「う、うん……リスト通りのものを頼む……け、けど……チャーシューだけは……ぼ、僕が手配するから……」
 関根の申し出に、眼鏡をかけ直したリューティガーは首を傾げた。
「チャーシューだけは、ちょ、兆龍の親父さんに、無理を言わないと手に入れられないんだ……僕は知り合いで常連だったから……」
「そうですか……なら、お願いしますね」
「配達してもらうの?」
 はるみの質問に対し、関根は頷き返した。それは何気ないやりとりであり、連絡事項の確認以上の何者でもない。しかし遼はなぜか奇妙な違和感を覚え、下唇を少しだけ突き出した。
「他は真錠が直接買いに行くんだろ? な、なんかチャーシューだけ配達って……どうなんだ?」
 言葉にならない違和感をなんとかまとめながら、遼は隣に座る関根にそう尋ねた。
「け、けど……博多まで直接買いに行っても……交通費がかかりすぎるし……そ、それに……このスケジュールだと、まとまった量のチャーシューを用意してもらうのに……正直、ぎりぎりなんだ……下手したら……前日の夜までかかるかも知れない……」
「なら……まぁ、仕方ないよな……」
 自分には理解できない、細かく面倒な事情というものが色々とあるのだろう。遼はそう理解し、それ以上の疑問を浮かべるのを諦め、関根のさらに向こうに座る田埜をちらりと見た。

 ほっとんどしゃべんねぇよな……田埜って。

 口元を手で覆った田埜の表情は遼からは見えず、同じ実行委員だというのにあまり言葉を交わしたことがないこの小太りの少女に対して、最近では不気味さすら感じつつある。
 他のクラスメイトとも話している姿を見たことはほとんどなく、田埜綾花という人物のパーソナリティをまったく知らない島守遼は、まあそれでもラーメンの味が決定した以上、彼女も調理班の生徒たちとこれからコミュニケーションをとる機会が増えるだろうと思い、調理班の中に蜷河理佳の名前があったことを同時に思い出した。

 後で蜷河さんから、田埜がどう説明したのか聞いてみようっと。

 たわいない話題ではあったが、蜷河理佳はきっと真剣に答えてくれるだろう。彼女はそういうパーソナリティの持ち主である。人をそう定義づけられる自信は彼にとって心地よく、愉快な感覚だった。

8.
 黒い詰襟に白いプラスチック製のカラーを取り付けた島守遼は、壁に掛けてあったカレンダーをめくり、古い九月のそれを破ると、畳んでゴミ箱へ放り投げた。
「おっガクランか?」
 部屋に入ってきた父、島守貢が嬉しそうに声をかけ、袖を通しながら息子は肩の位置を調整した。
「親父、今日は稼ぎに行くのか?」
「ああ……渋谷で新装開店があってな。ちょっと偵察がてら行ってこようと思ってな」
 彼の生活費捻出手段はパチンコである。それも昔ながらの一発台と呼ばれる非、デジタルタイプのパチンコ台が対象であり、それは少々特殊な攻略方法に起因する。
 自分の父も、同じような“異なる力”を持っている。病院を抜け出した彼を捜索した結果、偶然目撃してしまった事実に最初は面食らった息子ではあったが、それを父に告げることはなんとなく面倒で、自分も同様に一発台で小遣い稼ぎをしていることもずっと隠したままである。最近では接触式読心能力を持っている可能性もあると疑い始め、できるだけ親子間の触れ合いを避けようとしている遼は、学生服のボタンをとめながら慎重に小柄な父の脇をすり抜け、台所へと移動した。
「パン焼いたから。食ってけよ」
「ああ。サンキュー」
「来週には学園祭なんだろ?」
 オレンジジュースを飲む息子の対面に腰を下ろした父は、興味深そうに尋ねた。
「ん。ラーメン屋、出すから」
「おいおい。それよか、劇やるんだろ? 部活の」
「まぁ……やるけど」
 嫌な予感を湧き出させながら、息子はわざと父から視線を逸らし、トーストを頬張った。
「どの時間、やるんだよ?」
「嫌だ。教えない。観に来んなよな」
「まぁいいや。朝から行けば、パンフかなんかに書いてあるだろうし」
 人の悪い笑みを浮かべる父に対して、息子は顔を顰めた。
「勘弁してくれよな……」
「大人しく観てるから安心しろって……あ、あの……リューティガーくんも出てるのか?」
「真錠は演劇部じゃないよ」
「そ、そうなのか?」
「あいつは帰宅部。どこにも所属してないよ」
 そう言いつつ、「同盟って怪しげな団体には所属しているらしいけど」と心の中で遼はつぶやいた。
「しっかし楽しみだよなぁ。学園祭なんて久しぶりだしさ。なんか俺わくわくしてきたぞ」
「なに悟空みたいなこと言ってんだよ」
 うんざりしながらも、遼は本番の舞台では決して客席を注視しないよう、心に強く誓った。

 ブレザーの紺がずいぶん濃いと思え、絞めたリボンの朱色が少々安っぽい気がする。そんな素朴な感想も数ヵ月ぶりであり、スカートの裾をつまんで右足の先でこつんと地面を叩いた蜷河理佳は、まだずいぶんと強い十月の日差しに手で顔を覆い、バス停に向かって歩き始めた。
「最高ですなぁ……理佳たんの冬服姿。いやぁ、早朝からいいもの拝ませてもらいやした」
 下衆な軽口に少女の歩みが止まり、酒屋のシャッターの前で天然パーマを揺らす不愉快な存在に、彼女は横目で睨みつけた。
「ひ、暇なようね……夢の長助さんは……」
 片眉を吊り上げた蜷河理佳はそう毒づき、慣れぬ手つきでリボンの形を整えた。
「いやぁ……これでもぼかぁ結構多忙なんですよ。こないだだってあんたと出くわさないように、演劇部を訪ねたし」
 その言葉に、少女は形のいい顎を藍田長助へ向け、強い意を放った。
「学校にまでしゃしゃり出てきたの!?」
「そ、そう怖い顔、しなさんなって……俺だって好き好んで敵地へ乗り込んだわけじゃねぇ……真実の人(トゥルーマン)の命令だったんだ」
「真実の人が? な、なぜ?」
「おいおい、俺はあんたの下僕じゃないんだ。任務の内容を話せるわけねぇだろ……」
 長助の反論に少女は言葉を詰まらせ、唇に折った人差し指を当てた。
「仁愛での仕事なら……わたしに命じてくれればよいものを……そのための入学だったのだし……どういうこと?」
「さぁなぁ……あの方も気まぐれだからねぇ……でもまぁ、あんたの信用が落ちたってわけじゃあないと思うから。だって言ってたぜ、理佳という布石が面白いように効いてるって」
 そんな気休めを告げるため、わざわざ彼女の登校時間を見計らって酒屋の前で待機していた長助である。我ながら愚かだなと思いつつ、ふと彼が少女に視線を向けると、彼女は胸に手を当て、口元を歪ませながらはにかんでいた。
「ありゃま……こりゃ、面白い反応だわ……」
「ほんとうなの長助? ほんとうに真実の人はそうおっしゃられてたの?」
「あ、ああ……嘘ついたって、しょーがねぇだろ」
 頬を赤く染めながら、蜷河理佳はぼんやりとした目を長助に向け、左の拳を胸の前まで上げ、大きく一度だけ頷いた
「がんばらなくっちゃ」
 その決意は自分に向けられたものではなく、あくまでも自身に言い聞かせるためである。少女の強い意に男は少々呆れてしまい、もじゃもじゃの頭を掻いた。
「それとな……こっちがまぁ、本題なんだが……真実の人からの通達事項だ」
 一段低いトーンでそうつぶやいた長助に、少女は舞い上がりかけていた心を押さえ込んだ。
「な、なにかしら?」
「六本木の件があった以上、弟さん対策に人員を割くつもりらしい。ただ、それは全部児戯、つまり弟さんをからかうためであって、本筋の計画に対策が組み込まれることはない。あくまでも傍流であるとのことだ」
「誰が……人員として?」
「第一次としては……ライフェのチームだろ……獣人第七、十二、十五部隊がそれぞれ、あとは源吾のチームとつるりん太郎のチームがまわされる」
 “つるりん太郎”の部分は声を震わせつつ、笑いを堪えながら長助はできるだけ真剣な表情で連絡事項を伝えた。
「源吾が……?」
「あ、ああ……穏やかじゃねぇ……あの二人の使い道にゃ、ちょうどいいが……」
 煙草を取り出しそれに火をつけた長助は、もう少しだけこの美しい少女と早朝のひと時を共有したいと思った。しかし蜷川理佳は「遅刻したくないから」と素っ気無く言い放つと、学生やサラリーマンたちが並ぶバス停へと足早に歩き去って行った。
「あせんなよ……理佳ぁ……迷うんじゃねぇぞ……」
 肺をニコチンで満たしながら、長い黒髪の後ろ姿をじっと見つめ、藍田長助はそんな言葉をゆっくりと、重くつぶやいていた。

9.
 十月八日の放課後になると、仁愛高校の校門には「平成16年度 仁愛高校学園祭」という看板が立てかけられ、校舎内は台車を押す生徒、段ボール箱を抱える生徒、なんとなくぶらぶらしている生徒やそれを注意する教師など、祭りの前日という雑然とした喧騒に包まれていた。
「麻生、そっちの釘、抜きとってくれ」
 廊下に設置された脚立に跨り、トンカチを握り締めていた島守遼は、すぐ下で鋸を挽いていたランニング姿の麻生巽(あそう たつみ)にそう声をかけた。
 麻生は手を止めると無言のまま遼に釘抜きを手渡し、再び看板の製作に取り掛かった。 1年B組の教室は外も内も徐々にラーメン店としての体裁を整えつつあり、中の壁にはお品書きやラーメンのうんちくが書かれた紙が貼られ、ベニヤ製の調理ブースは教壇を中心にぐるりと囲うように設置され、調理担当の生徒たちが動きやすさや器具の位置などを点検していた。
 大工仕事は中学時代の技術家庭の授業で習得した技能であり、当時の担当教師に「島守は手際がいいし才能がある」と太鼓判を押された経緯もある、彼の得意分野の一つだった。
「よし、みんなできたぞ!!」
 勢い良く脚立から飛び降りた遼は教室の扉を開いてそう叫んだ。手の空いている生徒たちの数名が廊下へと出てくると、遼の促す方向である教室廊下側側面の壁に注意を向け、「ラーメン仁愛」と筆で書かれた大きな看板にため息を漏らした。
「はは。なんか本格的じゃないか」
 そう喜びの声を上げたのはクラス委員の音原であり、彼の隣に佇む崎寺も笑顔で頷いた。
「なぁ、このロゴって誰が書いたの?」
 顎に手を当てながら看板を見上げた沢田はそんな素朴な疑問を遼に向けた。
「横田だよ」
「え? 良平が? あいつ、字、上手かったっけ?」
「小学校の頃から書道教室、通ってたんだって」
 遼の説明に沢田は坊主頭を撫でて首を傾げた。すると、廊下の奥から栗色の髪を揺らしながらリューティガー真錠がやってきて、後ろから続いてやってきたプラスチックケースを抱える宅配便の運転手に「そう、こっちです。この教室の中まで運んでください」と指示を出していた。
「あ!? あれって麺!?」
 興奮した沢田は宅配便の運転手が抱えたケースを指差し、それに対してリューティガーは「うん」と無邪気な笑みを向けた。
「なぁなぁ島守。関根の考えたラーメンって美味いんだろ?」
「ああ」
「はは……俺も明日一杯食わせてもらおうかな」
「大丈夫だろ沢田。お前運営班だから、休憩のときに調理班に頼んで賄ってもらえるはずだよ」
「だよなぁ……」
 にこにことした沢田の坊主頭を見下ろし、遼は「あぁ興奮してんだな」と感じ、それが少しだけ羨ましかった。

 中央校舎一階、職員室の前にはブレザー姿の神崎はるみと、詰襟姿の関根茂の姿があった。
「わたしが説明しようか?」
 緊張して身体を左右に揺らす関根を横目で見ながら、はるみはそう素っ気無くつぶやいた。
「そーしよ。うん……近持先生」
 大きな声を張り上げ、はるみは職員室の扉を開いた。中には教師たちが数名点在し、その中に初老の担任教師の姿を発見したはるみは、小走りに側まで近づいていった。
「か、神崎さん……」
 クラスメイトの淀みの無い凛とした挙動に、関根はすっかり気圧され、それでもわずかばかりの勇気を振り絞って彼女の後に続いて行った。
「どうしました神崎さん……関根くん?」
 ワイシャツの上からベージュのカーディガンを着込んだ近持が、分厚い眼鏡を直しながら席から立った。
「ええ。これ、今日の進捗報告書です。ちょっと遅れがちですけど、夜遅くまでかかればなんとかなると思います……それで……」
 書類を受け取りながら、近持は上目遣いに少女を見た。
「宿泊……許可ですか?」
「ええ。設営班の何人かと……あと……」
 はるみは背後で気弱に佇む関根を促した。
「関根くんも泊まり込むって言ってます」
「は、はい……その……チャーシューが……当日早朝配達に……なっちゃって……はい……」
「遅れたのも依頼した自分の責任だから、チャーシューの配達が早く来すぎても対応できるようにって、いいですよね近持先生?」
 関根の事情をそう説明したはるみは、人差し指を立てて少々媚びた笑みを浮かべた。
「音原くんは?」
「もちろんクラス委員の責務があるので一緒に泊まるって言ってます」
「ふむ……なら許可しましょう」
 近持の答えにはるみは「あは……」と吐息を漏らし、関根もようやく緊張を崩して微笑んだ。
 その頃、設営班である遼と戸田義隆の二人は、調理ブースのベニヤに並んでペンキを塗っていた。
「しかし仕事がいくらやっても終わんねぇ……こりゃ、完全に泊まりだな」
「でもさぁ……島守くんは近所なんでしょ? 帰った方がいいよ。家も高円寺だし、僕が泊まって監督していくよ」
「そーゆーわけには行かないだろ。俺が店舗設営責任者なんだから」
 ペンキを塗りながらそう反論する遼に、戸田は馬面を左右に振りながら眠そうな目を見開いた。
「けど島守くんは明日初日も重なってるんだし。ちゃんと家でぐっすり休まないとだめだよぉ」
「ははは……そうそうそれ……明日が本番だと思うとさ、絶対眠れるわけないって……だからこっちでクタクタになるまで仕事した方がいいって」
 初日の朝を迎えるには、あの狭苦しいアパートでは緊張に耐え切れず一睡もできるはずがない。それよりもこの喧騒に身を委ねてしまい、いっそ混乱したまま気がつけば舞台に立っているという展開が望ましい。素人役者なりの拙い判断ではあったが、今頃神崎はるみも近持先生に宿泊許可をとりつけてくれているはずだし、両隣のA組やC組も噂では今日は泊まり込みになるらしい。その流れに上手く乗ってしまおうという打算が彼の中で働いていた。
「こないだ読んださ……」
「漫画?」
「そ、そうそう」
「沢田が言ってたけど……夏休み中何日も漫画喫茶で泊まり込んでたって……マジ?」
「う、うん……二日ほど……ついつい読みふけっちゃってさぁ……」
 照れながら笑みを向ける戸田に対し、遼はハケにペンキを付けながら信じられないといった面持ちで頬を引き攣らせた。
「何、読んだんだよ」
「横山光輝の三国志と水滸伝。あと……ドカベンに大甲子園と……それに出てくる野球漫画全部……」
「すげぇ量っぽいけど……二日で読めたのかよ?」
「いんや。今言ったのは夏休み中で読んだの全部だから」
「ああ……」
 妙な納得をした遼は、再びペンキをたっぷりとつけたハケを眼前のベニヤに当てた。
「しっかし、戸田はさ……なんか、古い漫画ばっか読んでるよな。なんで?」
 戸田という朴訥としたのっぽの同級生には、どこか昭和の香りがする古ぼけた漫画がよく似合う。そんなイメージを持ちながら、ついついそんなことを尋ねてしまう遼は、よほどこのペンキ塗りという作業に退屈しているのだなと、今更ながら自覚した。
「新しいのも読むよ……浜口くんとか寺西くんとか木村くんから借りて」
「一番最近だと、どんなの読んでるんだ?」
「えっと……こちら葛飾区……えっと亀有……だったっけ……百巻以上出てるやつ」
「こち亀かよ。古ぅ……」
「えー……だって、まだ連載してる奴だよ……」
「嘘? マジ?」
「マジマジ。なんか途中から変な絵になっちゃってるから、本人はもう書いてないかも知れないけど……ジャンプにまだ載ってるよ」
「あれって、俺らが生まれる前からやってねぇ?」
「あぁそうかも……最初の頃とかインベーダーゲームとか出てくるし」
 たわいない会話を続けつつ、教室でペンキを塗り続ける遼と戸田の背中を眺めながら、職員室から戻ってきたはるみは小さく息を吐き、腰に手を当てて首を大きく傾げた。

 外は日も沈み、校舎のほとんどの窓から外へ向かって灯りが伸びていた。普段であればあり得ない事態である。学園祭前日という非日常は生徒たちが発する緊張感と喧騒を校舎の内外で充満させ、それ自体がどこか嘘くさく浮ついていた。

10.
 国道一号線、東京も最果ての多摩川近くにあるファミリーレストランは、深夜であるにも拘わらず、食事と休息を求める人々で賑わっていた。その一番奥に、一人だけぽつんと座る青年の姿があった。
 少々だぶついた黒いスーツで身を包み、鮮やかな朱色のワイシャツが白い肌とのコンテラストを際立たせ、おかわりのコーヒーを注ぎにきた女性店員も、薄紫がかった彼の長髪に思わず見とれてしまい、カップから琥珀色の液体がこぼれだしてしまった。
「す、すみません!!」
 仕事のミスを詫びる店員に対し、その青年は赤い瞳を向け「気にしなくっていいよ」と優しくつぶやいた。
 取り替えられカップに注がれたコーヒーを啜りながら、青年はゆっくりと天井を見上げ、安っぽいベージュ色の店内装飾を眺めた。
 そう、この大衆相手のファミリーレストランにおいて、この妖美と言える容姿をした青年は明らかに場違いで浮いた存在だった。緊張した店員は厨房に戻ると、「カラコンかしら? 目が赤くってちょっと不気味!!」と興奮しがちに同僚に話し、「うそぉ?」とその同僚も陰から青年を観察し、そうした注目は段々とだが店内の客たちにも伝わろうとしていた。
 自分に向けられた意識に対し、薄笑いを浮かべながら受け止めていた青年だったが、やがてそれが店の入り口付近へ拡散されたことに気づくと、つまらなそうにカップを置いた。
 ファミリーレストランの入り口には、一人の少女と少年が佇んでいた。
 少女は見事なまでの赤毛で、左右に結んだその先端は地面付近で重力を無視するかのごとく天に向かって反り返り、大きな緑の瞳と丸い輪郭は愛らしさと同時に、意の強さを醸し出していた。髪だけでもじゅうぶん異質ではあったのだが、赤いエプロンドレスは、まるで児童向けの文学に登場するクラシックな少女のような出で立ちであり、彼女に注意を向けたある客は「ゴスロリってやつ?」「ちがくねぇ?」などと浮ついた論評をし、それを耳にした少女は冷ややかな視線を彼らに向け、顎を突き上げた。
 その後ろに続く少年は黒い髪に褐色の肌をした東南アジア系で、薄い唇は色もくすんでいるようであり、暗いオリーブ色の空軍ジャケットが妙にだぶついていて、明灰色のジーンズに黒いブーツと相まってモノトーンな印象を見る者に与えていた。造形的には彼も美少年の部類に入るほど整っていて、手足などもスラリと長かったが、あまりにも鋭く、殺気を含んだ目つきが強烈であり近寄りがたいムードを醸し出していた。
「知ってた? ファミレスっていうのよ。ここ」
「初めてです……つまりは深夜営業のレストランというわけですか?」
 背中に軍用リュックを背負っていた少年は、その紐を握ると店内を見渡した。
「その通り。中産階級の人間が、そうね。主に車を使ってやってくるの。味はそりゃ、大したことなくって、どれも冷凍食品みたいなものよ」
「食えりゃ……贅沢は言いません……」
 少女と少年はそんな言葉を交わし、案内に来た店員も無視して店内を歩き始めた。
「お、お客様……ご案内いたしますので……」
「いいわよ。安時給で仕事、増やしたくないでしょ?」
 素っ気無くそう言われた女性店員は、面くらって戸惑い、その場で固まっていまった。そのリアクションを内心で楽しみながら、赤毛の少女は褐色の少年と共に、店の奥に座る青年のもとまで歩いて行った。
「ライフェ。安時給と言われて、喜ぶ奴ぁいないぞ」
 青年にそう諭されたライフェと呼ばれた少女は、小さく舌を出すと店員に「ごめんね。アイスミルクティーを頂戴」と言い、その横にリュックを背負ったまま腰掛けた少年は「ちょっと待ってろ……吟味する……」と手で店員を払うしぐさを見せた。
「“はばたき”夕飯はまだだったのか?」
 立ち去る店員を目の端で捉えながら、青年はメニューを熱心に見る少年にそう尋ねた。
「はい。ついさっきまで、ライフェ様と活動中でしたから……あの……」
 上目遣いに視線を向ける“はばたき”少年に対して、青年は片目を閉じて口の両端を吊り上げた。
「何頼んでも……いいでしょうか? 腹……減ってて」
「あっははは!! いいよいいよ。何でもじゃかじゃか頼んでくれよ。俺がおごるから」
「よかったわねーはばたきぃ!!」
 ライフェは“はばたき”の背中を叩き、彼の背負っていたリュックが大きく揺れた。
「か、勘弁してくださいライフェ様……そ、そこは叩かないで……」
「感じた!? いっちょ前に? こいつぅ!!」
 興奮したライフェは拳をぐりぐりとはばたきのリュックに押し付け、彼はその度に苦悶に顔を歪めて、それでもメニューからは目を離さなかった。
「ライフェ……それにはばたき。俺の明日のスケジュールなんだが……」
 青年の言葉にライフェの悪乗りは止み、彼女はこほんと咳払いをして首を傾げた。
「お前たちにも関連する。明日、二人はある場所で待機して欲しい」
「ある……場所?」
 不思議そうに尋ねるライフェに対し、青年は閉じていた片目をゆっくりと開けた。
「ああ。俺は明日一日ある場所に遊びに行く。二人は外から俺を守ってくれ」
「直衛に……つかなくてもよろしいのですか?」
「護衛は源吾に頼むつもりだ。お前たちは万が一の際、俺が脱出する場合の援護と逃走経路の確保を頼みたい」
「そ、そんな危険な場所に遊びに行くのですか? 真実の人」
「ああ……弟の学校だ……明日から学園祭らしい」
 真実の人、ライフェにそう呼ばれた青年は、薄笑いを浮かべて彼女のエプロンドレス姿を楽しんだ。
「あいつさ……ラーメン屋出すんだと。ばっかじゃねぇのかってところだよ。俺たちは着実に計画を進めているのに、博多ラーメンだとさ。あまりにものんきすぎるから、ちょっとからかってやろうと思ってね」
 ラーメンという単語にはばたき少年はぴくりと反応し、メニューの吟味を再開した。
「学園祭……か……」
 注文をとりに来た男性店員を無視したまま、ライフェはぽつりとそうつぶやき、真実の人から視線を逸らした。

「なんであんたたちまで泊まるのよ」
 教室前の廊下で腰に手をあて、顎をくいっとあげたはるみの眼前で、野元と内藤、沢田の三人が誤魔化し気味の笑みを浮かべた。
「野元と沢田は運営班、内藤くんは調理班でしょ?」
「い、いやさ。運営の段取りとか、俺まだ頭によく入ってないし、リハーサルとか入念に……なぁ」
 野元に促された沢田は「そうそうそう」と何度も頷いた。
「運営なんて結局は店員ってことなんだから大した段取りじゃないわよ……で、内藤くんは?」
「いやぁ……僕はなんていうか……野元君が泊まり組がいて楽しそうだって言ってたから……なんとなく……」
「あっきれた……遊びで泊まるんじゃないのよ? それにこっちは近持先生にそんなに大勢は泊まらないって言ったのよ。今回は火を使うから消防署への申請だってあったし……先生に世話、かけっぱなしなんですからね、わたしたち」
「ち、近持先生には、俺たちからも頼んでおくからさ……いいだろ、年に一度っきゃないイベントだし。なぁはるみちゃん」
「なーにが“はるみちゃん”よ。気持ち悪いわね」
 頼み込む野元に対して、はるみはあからさまに眉を顰めた。

「やべ……限界……シンナーが回ってきた……」
 調理ブース外装のペンキ塗りを一通り終えた遼は、ハケを缶に戻すと口元を手で覆ってその場から下がった。
「こっちはもうちょっと塗ってくから……島守くんは外の空気、吸ってきなよ」
「ああ……わりぃ……そうさせてもらう……」
 ペンキ塗りを続ける戸田に礼を言いながら、遼は廊下へ出て、中央校舎まで歩いて行き、窓を開けて外の空気を吸い込んだ。
「あれ? まだ居残り?」
 北側校舎の方からやってきた乃口部長に声をかけられた遼は、少しだけ驚きながら視線を彼女に向けた。
「泊まり込みっスよ」
「え? 大丈夫?」
 眼鏡を直しながら、乃口は後輩の肩に手を当てた。
「どーせ、家帰っても眠れないだけですから。忙しい方がいいんですよ。安心してください。明日はばっちりキメますよ、俺」
 軽口を叩く遼に対し、乃口は苦笑いを浮かべて窓際に寄りかかった。
「部長のクラスはなにやるんですか?」
「えっと……確か……化学実験の発表だったかしら……? プラズマの放出実演?」
 唇に指をあて、思い出しながらそうつぶやく部長を横目で見ながら、蛍光灯のついた廊下でこうしたやりとりをする不思議な状況に、遼は軽い興奮を覚えていた。
「演劇部ばっかりで……クラスが何やってるのか、よく知らないのよねぇ」
「うちはラーメン屋、やりますから。食べにきてくださいよ」
「えー? ラーメン? あたし最近、太り気味だからなぁ」
「え? そうなんスか?」
 遼は隣で反対側を向いたまま、体重を窓側に預けている先輩のボディラインをなんとなく眺めた。
「中学の頃なんて、ほんとデブだったのよ。ちょっとでも気を抜いたら、またあの暗黒時代が到来しちゃうんだから」
 笑いながらそう道化づく部長に対し、遼もつられて笑みを浮かべた。

 なんだかんだで本番なんだよな……明日

 その感慨を部長に打ち明けてもよかったのだが、それだともっと緊張してしまい、余計なプレッシャーを互いに感じるだけだと思い、島守遼は気持ちを胸にしまったまま真っ暗な夜空を見上げた。

「つまりね。私とあんたが帰らないと、泊まる奴がますます増えるってこと。それじゃ近持先生に、迷惑かかっちゃうわ」
 階段の踊り場で神崎はるみからそう忠告されたリューティガー真錠は、「なるほど」と大きく頷いた。そして彼女がさらに言葉を続けようとすると、彼は手でそれを制した。
「早速教室に戻って、居残っている人たちに言っておきましょう」
 どこか素っ気無く、事務的な態度をリューティガーから感じたはるみは、何か奇妙な違和感を覚え下唇を軽く噛んだ。

「じゃあ調達班と運営班、調理班で帰れる人は順次下校してください。僕と神崎さんもぼちぼち上がりますんで」
 リューティガーの促し声が教室に響き渡り、それに乗じた音原が教壇へ上がった。
「いいか? ここからは僕と設営班の男子、それにプロデューサーの関根君だけが居残る。あとは帰れ〜終電、でちゃうぞ!!」
 詰襟を脇に抱えてねじり鉢巻きをした音原が、少々呂律の回りきらない疲れた声で、居残る生徒たちにそう指示を出した。
「しゃーないか……」「寝る場所も少ないしな……」生徒たちは諦めの気持ちを口にしながら、教室から出て行くリューティガーとはるみ、そしてそれに続く田埜の姿に続いた。
 帰っていくクラスメイトをぼんやりと眺めながら、設営班の男子である遼、戸田、麻生、高川、横田の五名と音原、関根だけが自分たちだけが教室に残ったことを確認すると、誰が号令をかけるわけでもなく、それぞれ作業を再開した。
 実際に文化祭がスタートすれば、設営班の仕事は修繕ぐらいであり、この忙しさも今夜がピークである。最初は興奮しながら泊まり込みの楽しさを口にしていた彼らも、日付が変わる頃になると無口になり、黙々と店舗のセッティングに勤しんでいた。
「ファミマ行って来るから……これに欲しいもの書いて、金はこっちな」
 遼が封筒とメモを他の六名に回し、一巡して戻ってきた頃には封筒は膨れ上がり、メモは裏側まで荒れた文字がびっしりと書き込まれていた。
「あ、ファミマのあんまんってつぶだっけ? こしあんだっけ?」
 戸田の問いに答える気力をもったクラスメイトは誰もおらず、彼は小さく「こしあんだったらキャンセルしといて」とつぶやいた。
「こしあんだって捨てたもんじゃないぜ……」
 そうつぶやきながら遼は階段を駆け下り、一階の三年生たちが未だに作業を続けているのに心を浮かせていた。
「ごくろーさまっス!!」
 上級生たちに挨拶をした遼は、中央校舎から北側校舎へ向かい、購買すぐ横の非常扉から校舎の外に下穿きのまま出た。
 買い物に行くコンビニエンスストアは、ちょうど校門とは反対側に店舗があり、下駄箱からの正規ルートだと学校周辺をぐるりと遠回りする羽目となる。この校則違反のショートカットコースは先輩から後輩たちに自然と伝わり、遼も最近福岡先輩から教えられたばかりである。コンビニの店内には「下穿き姿の生徒を見つけた場合、学校まで連絡を」という威嚇の張り紙があったが、今まで店員が通報したことなど一度もなかった。
 肉体労働中の高校男子生徒の食欲というものは際限がなく、しかしそれを満たすだけの在庫はこのコンビニには無かった。オーダーの半分も購入できず、それらしい代替商品を抱えてレジに向かった遼は、妙に空いていた棚の正体がレジ前でうねる長蛇の列にあることを知り、同学年や先輩たちに混じって会計を待った。

 このファミマ……今日の売り上げってすごいんじゃないのかな?

 泊まり込み生徒たちの夜食供給基地と化していたコンビニは、深夜だというのに店員が三人もいて、なるほど経営者も需要と供給をよく把握しているものだと彼は感心した。
「つぶあんだったよ。よかったなぁ戸田……」
 独り言をぶつぶつと唱えながら、遼は灯りが煌々つくコンビニから、柵を乗り越えて校舎へと戻った。
 北側校舎の階段を駆け上がった彼は、いるはずのない、長く黒い髪に目を奪われ立ち止まった。

 あれ……どう……して?

 蜷河理佳は遼の存在に気づくと、一瞬だけ目を大きく見開き、すぐにいつもの儚げな笑みを浮かべた。
「な、なんで蜷河さんがまだ学校にいるの? 調理班だしとっくに帰ったんじゃ……」
「う、うん……明日の……しょ……初日の……立ち位置とか……衣装とか……いろいろ……確認してたら……お、遅くなっちゃって……なんか……みんないるから……まだ大丈夫なのかなぁって……」
「と、時計とか見たらわかるじゃん……もう二時だし……バスなんかとっくだぞ……」
「う、うん……どうしようかな……」
 戸惑って折った人差し指の間接を軽く噛んだ少女に対し、少年はなんて惚けた子なのだろうと意外なる一面を見た気がした。
「う、うん……そんなに遠くないから……タクシー……乗ってくね……」
「拾えるまで付き合うよ。ちょっと待ってて、この食料、あいつらに渡してくるから」
 そう言いながら、遼は少女の右手に小さな何かが握られていることに気づいた。
「あれ……それって……デジカメ?」
 指摘された蜷河理佳は、目を寄せて慌ててそれを胸元まで上げた。
「う、うん……衣装の汚れとかチェックするのに……も、持ってきたの……」
「へぇ……熱心だなぁ……」
「け、けど……ラーメンの方ってみんなに任せっきりで……」
 申し訳なさそうにつぶやく少女をちらりと見ながら、少年は彼女のブレザー姿がとてもよく似合っていると思い、心を弾ませていた。
「い、いいんじゃない……の、乃口部長も自分のクラスがなにやってるのか、よく知らないみたいだし……」
「へ、へぇ……そうなんだぁ……」
「じゃ、ちょっと待ってて……すぐ戻ってくるから……」
 遼は蜷河理佳に小さく手を挙げると、コンビニの袋を抱えたまま廊下を駈けて行った。
「遅!!」
 教室に戻った遼は、早速麻生にそう毒づかれ頭を掻いた。
「ねぇねぇ……」
 人差し指を泳がせながら近づいてきた長身の戸田に、遼はあんまんの入った袋を差し出した。
「よかったな戸田!! つぶあんだったぞ!!」
「うー!! やったね」
 とろんとした目をこすりながら、戸田はぎこちなく微笑んだ。
「じゃーな、俺ちょっと行って来るから」
「こら島守遼!! 脱走は銃殺だぞ!!」
 教室から出ようとする遼に対して、音原がそうからかった。
「親父に夕飯、ださないといけないんだ。近所だからすぐ戻ってくるって!! 俺の分の仕事は溜めといていいから!!」
 自分でもよく咄嗟にこのような嘘が出ると感心しながら、遼は中央校舎まで急いで駈けて行った。

 あ……れ……?

 しかしそこには蜷河理佳の姿はなく、窓に一枚のメモがはさまれていた。

 ごめんなさい島守くん。急ぎの用事を思い出したので先に行ってます。
 お仕事がんばってね。また明日。
 理佳

 先に帰られたのは残念ではあったが、メモに記された“理佳”という名前に彼の心は震えた。

 そっか……これからは……理佳って呼んでいいってことなんだな……

 少々飛躍した発想ではあったが、メモをじっと見つめる今の島守遼に、疑問など生まれる余地すら無かった。

 仁愛高校からほど近い小さな公園のベンチに、蜷河理佳がたった一人で静かに佇んでいた。
 少女が手にしたデジタルカメラの液晶窓には、撮影された文化祭直前の校内の様子が表示されていた。その一枚一枚を確認すると、彼女はゆっくりと立ち上がってカメラを空に掲げた。
「データを真実の人に……」
 そのつぶやきの直後、彼女の上空に一つの黒い影が急降下し、空中で制止すると褐色の指がカメラを受け取った。蜷河理佳の周囲には砂埃が舞い上がり、彼女は思わず風圧から美しい黒髪を庇った。
 風圧の主、褐色肌をした空軍ジャケット姿の少年“はばたき”は、背中から巨大な鳥のごとき翼を生やし、それが上下する度薄い砂埃が少女を包んだ。
「確かに……」
 静かにそうつぶやいた彼の言葉は、だが風の音にかき消され少女の鼓膜に届くことは無かった。いっそう強い風圧に晒された直後、彼女の上空で待機していた翼を持った少年の姿も、ベンチを覆っていた影も消え、蜷河理佳は何度もその場で咳き込んだ。

 せっかく……島守くんも見とれてくれた冬服なのに……

 スペアがあるから明日はそれを着ていけばよい。だが少年の乱暴な登場に少女は不満であり、地面を這い続けなければならない自分に、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「真実の人……これで……いいのよね……これで」
 そう静かにつぶやく彼女の瞳は儚げに揺れ、星の無い都会の夜空をじっと仰ぎ続けていた。

第七話「祭り、前夜」おわり

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